Soranoha

美の影響力

びのえいきょうりょく

高村 光太郎

非目前的なのが美の持つ影響力の特質である。人は毎日の生活に惱む。毎日の生活とは即ち目前處理の生活である。人はその累積の中に埋もれてその生活そのものに内在する非目前的の一面を忘却する。そしてやりきれない鬱積を打ち拂ふために、手取早く、低い娯樂や、演藝物などの爆笑とか危險感とかいふものを漁つて一時をごまかす。實は何にも滿足が得られたのではない。結局さういふものに馬鹿にされたやうな氣持をいつでも持つてゐるのである。心の底では、馬鹿にするな、と思ひながら又つい見るのである。見ざるを得ないほど毎日が澁く、にがく、乾いた目前處理の生活ばかりなのである。

人は一度美にはぐれてしまふと、自己に内在する美意識の活動、即ち藝術精神そのものの存在をまるで棄てて顧みず、ただ自己以外に存在するものばかり追ひ求める。藝術は物品となり、商品となり、さういふ人達の所有慾に應ずるやうに作成せしめられる。書畫骨董の鑑賞が必ず價格の興味を伴ふのはその故である。十萬兩ときいて尚更一幅の書畫がよくなるのである。値段を豫想しない鑑賞に氣乘薄なのが書畫骨董の特性である。純粹な藝術意識と骨董意識との差はさういふ際どいところによくあらはれる。

自己に内在する美意識が活動しないから、美に關する限り此世は人まかせになる。服飾の意匠は商人の手に左右され、街上の建築は便利と思ひつきとで勝手放題な形をとり、廣告はますますあくどくなる。現世の眼にうつるもの、耳にきこえるものが皆眞の美とは性質を異にするもので埋められ、しかもそれを美と同質のものであるかのやうに欺瞞される。それを何だか變だとすら思はなくなる。むしろ、どうだつていい無關心のままに、あてがひ扶持で平氣でゐる。

かういふ状態が長くつづけば一種の庶民的虚無主義が瀰漫し、迷信が力をふるひ、人心は荒れすさぶ。

國民各自の中に埋沒してゐる美意識の自主的活動、即ち藝術精神の覺醒が、今日の場合藝術界に於けるどのやうな問題よりも緊要なのは、それが國民生活の最も根本的な救世的意味を持つてゐるからである。藝術精神とは、國民各自の外界に存在するものでなくて、國民各自の中に在つて、毎日の目前的生活處理そのものを即刻即座に非目前的に自己みづから立ち上つて觀じ味ふことの出來るやうにさせる精神力なのである。生活に苦しみ、病に惱みながら、その苦しみ、なやむ自己をもう一歩非目前的な世界から觀じ味はふことの出來る境地が藝術の心である。それはまつたく生活と同一體であつて、しかも生活に振りまはされず、却て生活を豐かにし、ゆとりあらしめる。非常の場合に驚き慌てない心を得させる。藝術精神は宗教のやうに現世から解脱させるのでなく、あくまで現世のままに味到せしめる。味ひ、愛し、到るところを美に化してしまふのである。

世人一般を此の藝術精神覺醒に導き、國民的美意識をまづ日本國土の中に遍漫させようと努力することが今日大切である。あらゆる施設も方策も此の方向をとらねばならぬ。日本人は古來わりに他國人に比すれば藝術精神を多分に持つてゐる民族のやうに思はれるから、撓まずにその方向をたどつてゐれば案外不可能でないのではないかと思はれる。あらゆる意味で藝術作品、建築物その他を國民自身のものであると思はせる親近感に導く必要がある。展覽會なども此の建前から開催せらるべきことは言ふまでもない。藝術作品と國民とを結びつける氣運を作り出す方策などは尚今後の緻密な研究と、思ひきつた實行とを要する。

底本 / Source edition

底本:「高村光太郎全集第五卷」筑摩書房
1957(昭和32)年12月10日初版第1刷発行
1995(平成7)年2月20日増補版第1刷発行
初出:「文芸 第九巻第二号」改造社
1941(昭和16)年2月1日発行
※初出時の表題は「国民的美意識」です。
入力:岡村和彦
校正:植松健伍
2020年3月28日作成
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書誌 / Bibliography
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高村 光太郎「美の影響力」(旧字旧仮名)、底本『高村光太郎全集第五卷』筑摩書房、1957年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058216_001168, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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