Soranoha

始業式に臨みて

しぎょうしきにのぞみて

大隈 重信

〔早稲田は大講堂がない〕

漸次ぜんじ増加する所の早稲田学園の学生諸君、もはやかくの如く群衆する所の多数の学生を容いるる家のないということは諸君に対して甚はなはだ申訳もうしわけのないことである。しかしながら物は必要から生ずるのである。学生の数が増すと、余儀なくされて家が出来て来るのである。私は実際学校の事務には与あずかっていない。そこで能よくは存ぜぬが、今や学長が述べられた種々な事柄の中に一つ大切なるものが落ちておったではないかと思う。それは何であるかというと即ち家のことである。人を容るる家がないということは頗すこぶる遺憾である。この学校は来年を以て創立第四十年の祝典を挙げるのであって、既に一万四、五千の卒業生を出している。今一万以上の学生が集っているのに大なる講堂をもたぬというは実に遺憾である。寺には必ず堂がある。堂がなければ御経おきょうが読めぬという訳ではないが、少しく物足らぬように思う。学校の講堂もそうである。この事については学長はじめ必ず苦心惨憺くしんさんたんたるものがあるであろうが、ここにこれを明言するだけの成算が未だ立っておらないのであろうかと思うのである。学長その他当事者に於て今一層の奮発を以て家を造って御貰おもらいしたいと思う。

近来世上の事業が漸次膨張するに従って、国家も社会も金が足らぬ足らぬといっている。ところがよくしたもので、これを救うために借款ということが近来流行する。社会は何万という学生を見殺しにはせぬと思うからして、家を造るために借款を起すことは出来得るであろう。諸君はこの学校を出た後には相当の地位を占められるに相違ない。多数の力は実に大なるものである。この学校を維持するものはこの学校から出たところの多数の卒業生であって、この人々は疑いもなく学校を維持することが出来るのである。そこで諸君を引当てに借款を起されたら宜よくはないかと、先刻学長に勧告したのである。これは決して冗談ではない。この学校は天幕をもっておって何か事のあるときには、校庭にこれを張って集会の場処を作るのであるけれども、天幕では十分の役をしない。どうしても講堂を建つることが必要である。しかしてこれが実に学校経営の基礎をなすものである。

〔物にはセンターがなくてはならぬ〕

冒頭に私がかく論ずるのは何のためであるか。家を造るといったのは決して無意味ではない。家がなくても御堂おどうがなくても御経は読めぬことはない。大道に於てでも御経は読める。野外に於ても研究は出来る。しかしながら多数の人はどうしても集合しなければならぬ。この集合の力が実は恐るべく偉大なものである。この集合がないと人の力は散漫に流れるのである。どうしても力は集合しなくてはならぬ。人類は社会的に生存をなすべきものである。人類は国家的の動物である。これは集合ということを意味している。国家が成立すればその国家を統一する所の機関がなければならぬ。そういう訳で人類は何としても共同しなければならぬ。しかして共同するには共同の機関が必要である。組織が必要である。また人類は共同の性質をもっておる。規律的に活動する知能をもっておる。しかしこれを共同させて、規律的に活動をする中心の機関がなければならぬ。学校という共同体の中心は講堂である。

そういうような訳ですべて物には中心がなくてはならぬ。センターがなくてはならぬ。このセンターがあってそれからして科を分って行かねばならぬ。実を言うと近来は分科が過ぎているようである。専門が分れ過ぎているようである。しかしてこれを総合しこれを統一するところの力を失っているように思うのである。生理学上からいうと人間の神経は実に鋭敏なものであって、これが各方面に触れて働いている。直覚的に外部から受くるところのあらゆる感覚を総合統一するところの神経がなければ、人は馬鹿になってしまう。どうかすると気狂いになる。現に国際平和を破って戦争をするものがある。これは気がふれているのである。畢竟ひっきょうするにこれは中心がないからのことである。

こういう訳で多数の学生も共同して研究しなければならぬ。共同して知識を発達させて行かねばならぬ。ところが共同して集る場所がないとそれが行われない。漸次学問は複雑になって専門が分れて来ているが、如何いかに専門が分れようとも国民としては各人同一である。また人間活動の根本は強健なる身体にあるが、これを統一するところのものは道徳である。これが人間の基礎である。この基礎を失うと如何なる学者もその身を誤る。社会に害をなすに至る。

社会共同の力というものは大切なもので、これを失ったのが近来の社会問題労働問題の根源であるのだ。世界に卓越した英国も今やこれがために非常に苦しんでいる。一歩誤らばアングロ・サクソン人は滅亡に垂なんなんとして来るかも知れぬ。一歩を誤れば羅馬ローマの末路のようになるかも知れぬと思われるのである。これは何故に然しかるかというと、即ち共同の精神が薄弱になったためである。中心を失っているからである。分業は漸次盛んになるが、如何に分業が盛んに行われようともその中心を失うと大変だ。センターを失うとついに蹉跌さてつする。実に注意しなければならぬことである。

〔文明文化は人殺しをやった〕

今回の大戦以後世界の動揺はある点からいえば、現代文明の弊へいが与あずかって力ありとも言えるであろうと思う。是ここに於て吾人ごじんは四十年前来学問の独立を高唱して、優等の国民即ち模範国民の養成に努力した。これがすべての人類の標準となって複雑なる社会を統一し指導して行くべきものであるが、この力を失ったのが即ち今日の禍いを招いたゆえんである。今日欧羅巴ヨーロッパには天才が欠けている。少なくとも天才が少ない。英国も仏蘭西フランスも独逸ドイツも亜米利加アメリカも天才が少ないようである。天才が少ないということは統一の首脳を失ったということに帰着する。首脳が失せると思想が混沌たる状態に陥って来るのである。それがために人が思想の独立を失う。陳腐な学説に拘束されずして真理に依って働くという思想が薄弱になって来るのである。

今日どうかすると己は文学者である、己は医者である、己は工学者であると言って、人類共同の動作の上には力を尽さぬというが如き弱点が少なくないように思う。すべて人類の基礎は共同生活共同生存に在る。これが人間生存の根柢こんていである。この偉大なる思想は儒教に依って現されたところの仁義である。人のために働くということである。社会のために働くということである。これを基督キリストは愛といって、愛を以て人類のあらゆる弱点を調和して行こうということに努めたのである。仁義も愛も要するに同じことになるのだ。

ところが現在の卑近なる文明は絶対の利己主義に陥った。それも従来ある場合までは社会の制裁を加えていたがどうも十分ではない。国際間に於ては、獣類となんら択えらぶところのないような喧嘩けんかをしている。始終相搏噬あいはくぜいしている。陽には文明を誇っているが、どうです、このたびの戦争の状態を見なさい。実に驚くべきものである。野蛮時代と異るところはない。祖先以来辛苦経営して蓄積したところの富を僅々きんきん四年の間に失ってしまった。二千万人の血を流し屍を積んだのである。しかして文明文化を誇るというのは何事ぞ。その文明文化は人殺しをやった。祖先以来蓄積したところの富を破壊した。その跡に何物が残っているか。ただ禍いの波が漂っているのである。人心は非常に危惧を感じて、思想界は混沌として帰着するところを知らざるに至ったのである。政治上にも、経済上にも、何事もすべて行詰って人類は今や苦悶くもんしているではないか。

およそ現代の文明は学芸復興以来約四百年を費やして成就したものである。その淵源は希臘ギリシャに在るか羅馬ローマに在るか知らぬが、とにかく近いところから論ずれば四百年を経過したものであって、その間には非常な辛苦艱難しんくかんなんを甞なめて屡々しばしば革命までも起して、そうして僅わずかに今日の程度まで達したのである。此所ここまで登るには随分長い年月を費やしたのである。富士山へ登るよりも困難であった。しかして此所まで登ったものを一朝にして破壊した。僅々四年の間に山を下ってしまったのである。

軽薄なる世人は一時独逸ドイツの文化を非常に崇拝した。然しかるに近来は独逸ドイツの文化を非常に罵詈ばりする。いかにも軽薄に見える。独逸ドイツの文化は善であるか悪であるか、それはもう少し時日を経過しなければ解らぬ。今は人心が興奮している。まだこれが鎮静しない以上は善悪を判断することは困難である。とにかく独逸ドイツの文化を罵ののしるものが多くなって来た。早稲田大学で四十年来学問の独立を唱えているのはそういう軽薄な風潮に眩惑げんわくされないようにしたいというのが本旨である。今日に至って愈々いよいよ学問独立の必要を切実に感ずるのである。およそ一国の文化文明というものは個人の力を以てしては到底とうてい成就し能あたわぬものである。国民共同の力に依るに非ずんば為し能わぬのである。ところが多数の人を悉皆しっかい賢者にする、悉皆物識りにするということは不可能である。ここに指導者が必要になる。指導をするものが即ち模範的国民である。諸君の如きがこの指導の任に当るものにならなければならぬ。これはごく平凡なことではあるが、吾人が四十年来高唱し来ったものである。これは決して誤っていない。私は愈々その信念を固くする訳である。

〔勉強と身体の健康〕

いま学長の健康論があった。あれには大いに敬服した。我輩は比較的健康な方である。どうも西洋人は健康だが日本人は意気地がないようである。しかし我輩個人としては西洋人には負けぬ。西洋から種々なお爺さんが訪ねて来るが、その人々はなかなか強い。身体が強い。脳力も強い。想像力も思考力も記憶力も強いが、我輩はこれらのお爺さんたちに較べてみてさまで遜色そんしょくがない。

抑々そもそも日本人は弱いのであるかというとそうではない。これはみずから怠って弱くなるのである。気象が乏しい、競争心が少ない。世人はある意味からして、かくの如き人を善良なる人という。善良なる人というと大いに宜よろしいようでもあるが、実はその人々は競争心を失っているのである。かくの如き善良人ならば、それは国家に有害なものである。ところが競争心が強いと時々競争が極点に達して、心得違いにも喧嘩けんかをしたり殴り合いをする。これは褒ほめたことではないが、しかしながらそれぐらいの気象がなければならぬ。国際間の道徳の如きはなお甚だ幼稚である。向うから喧嘩を吹掛けて来れば止むを得ずこれに応じなければならぬ。ところがどうかするといわゆる善良なる人は更に抵抗しない。抵抗力を貯えておって、そうして抵抗しないと言うならばとにかくであるが、実はそれは嘘であって、抵抗力がなくなっているからしてそんなことを言うのだ。宗教家などにはそういう嘘を吐つく人が往々おうおうある。これは空念仏からねんぶつといって我輩の取らざるところのものである。

何としても競争は必要だ。敵が圧迫して来れば何時いつでも相手になる。こっちから喧嘩を吹掛ふっかけるのは宜よろしくないが、吹掛けて来れば相手になる。偉大漢いだいかんでも相手にする。意を決すれば偉大漢にでも飛掛って咽喉口のどくちへでも喰い付く。決して負けることはない。こういう気象が国を盛んにする。こういう気象があって学問も本当に出来る。諸君の勉強するゆえんは何だ。畢竟ひっきょう競争だ。人に負けぬようにやろうというに在るのだ。我輩も今日まで競争を継続して来た。競争が盛んだと俗人は野心があるとか、覇気があるとかいう。何のことだ。我輩は死ぬまで覇気を失わない。野心がなくなった時は死ぬのだ。そこで一生自己の力のあらん限り勉強を続けて行かなければならぬ。勉強を続けて行くと初めは一向出来ないものも大器晩成で進んで行くのである。我輩はなんだか段々進むようだ。昨年の大隈より今年の大隈の方が物識りになっている。然しからば来年はまた一層物識りになるであろう。全体学問というものは一生涯の事業である。

そこでそれをなすには学長の御話の如く、身体が弱くてはいかぬ。弱い身体は自己の独立を保つことが出来ぬのみならず、家族の厄介になる。国の厄介になる。そういう者の多い社会は発達しない。そういう社会は必ず衰える。そういう国家はあるいは亡びる。それで何でも自然に備えた本能的の力を強壮にする。この力を鍛え上げるのが体育である。体育は知識を得るより難かたい。先生の講義を聴いて書物を読むと、ある程度まで知識は得られる。然るに体育はそうはいかぬ、田中〔穂積〕先生のご議論はまだ拝聴しないが議論はそう六ヶむつかしくはない。ないが実際完全に人間の身体を鍛えるということはよほど六ヶむつかしい。これは知識を得るよりよほど難い。その難きを忍んで常に鍛錬たんれんしなければならぬ。鍛錬をしない人間は駄目だ。人間は元来動物で、野性を具そなえているものである。家の内にいることを少なくして外を駆ける、野外に出て勉強をする、始終大気に触れる。そうすると非常に健康を増進する。皮膚が強壮になると風邪を引くとかその他外部の圧迫に冒されることが少なくなる。そこでなるべく野外の生活をやる。野外の運動をやらなければならぬ。

国民兵などと力瘤ちからこぶを入れるけれども、必ずしも兵営生活をするものが国民兵という訳ではない。国民が身体を丈夫にして、どういう困難にも勝つ、どういう寒暑にも堪たえるように身体を鍛錬してさえいるならば、何時でも事変が起れば皆兵になれる。これが真の国民兵である。その証拠には英人をご覧なさい。英国は今度の大戦の始まる時には三十万の兵をもっておったが、四年の後には八百五十万の兵を戦場へ出すまでになった。これは国民が平生身体を鍛錬しているからである。英国では老人でも子供でも皆野外の運動を盛んにやる。これは世界に冠たるものである。この点になると亜米利加アメリカは英国に及ばない。況いわんや大陸になるとずっと落ちる。独逸ドイツ人は全国兵などと言って威張っておったが、事実は自ら進んで兵になるものは甚だ乏しく、皆強制して兵にするより外なかった。要するに身体が悪いからである。あまり野外の生活を好まない。ところが英人は皆野外の生活を喜ぶ。それがほとんど国風をなしている。そこで健康を保つ。これほど大なる社会の力はない。

また個人としても健康ほど必要なものはない。健康さえ宜よければまずい物を食べてもうまい。しかしまずい物ばかり沢山たくさん食うのは宜よろしくない。まずい物ばかり食っていると、好い智慧ちえも出ぬようになる。皮膚の光沢も悪くなる。なんだか機械に油が欠けたようになる。少しは脂肪分も摂取しなければならぬ。そう年中牛肉ばかり食わぬでも宜よい。豚でも構わぬ。時々油を注ぎさえすれば宜い。それも多く食う必要はない。大抵は水でも飲んで裸足になって外を駆廻るのが一番だ。我輩は実は長寿法の研究者である。その研究の開山である。非常に欲張った爺さんで百二十までも三十までも生きようとしているのである。この欲望は個人的の欲望から出ているのではない。国家を益々ますます盛んにし、世界の競争場裡じょうりに優等の地位を占めようという大なる欲望から出ているのである。かくの如き大なる欲望は健康な身体でなければ到底とうてい遂げられない。

この健康を保つということについては種々な方法がある。近来はこれが頗すこぶる進歩した。すべての筋肉を動かすところの体操の如きも大いに進歩している。大いに研究されている。ところが少し本を読む人は体操を軽蔑する。あれは甚だ宜よろしくない。なんでも一日の中うちに一時間か二時間は無邪気に盛んに運動するが宜い。その方が勉強しても早く理解する。矢鱈やたらに本を見てもどうかすると理解が出来ぬ。これは懶惰らんだな勉強をしない人の口実にするところであるが、しかしその中にも一分の真理はある。身体さえ強くなっておれば読んだものを直すぐ消化する、直ぐ理解する。そうして記憶力が盛んになる。かくの如き勉強法は何時までも継続する。弱い身体の付け元気は永持ながもちがしない。この学校に於て体育を奨励するその方法は今研究中で、早晩これを発表されるということを聞いて大いに我が意を得たるものであると喜びに堪えぬ。

ここに私は反復して御話しをする。どうしても数が多いと合理的に規律的に組織的に事を行わなければならぬ。家などはどうでも宜よかりそうなものだが、実際家も要る。大きな講堂も要るのである。我輩でも大きな講堂で五千人六千人集った所で時々御話ししてみたいと思う。これは諸君の力に俟まつこと大なりと思う。英気勃々ぼつぼつたる諸君の顔色に触れてみると、そういう勇気を持って居るのに相違ないと確かたく信ずる。今日は諸君が勉強をするところの始めの日である。言換えれば勇者が剣を提げて敵に向って出陣する日である。どうぞ中途にして挫折することなく、十分健康を保って勉強せんことを希望する。

底本 / Source edition

底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「早稻田學報 第三百十五號」早稻田大學校友會
1921(大正10)年5月10日発行
初出:始業式に際しての演説
1921(大正10)年4月16日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※中見出しの〔〕は、底本編集時に与えられたものです。
※〔 〕内の補足・注記は、編者による加筆です。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2018年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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書誌 / Bibliography
/works/058118_001879/

大隈 重信「始業式に臨みて」(新字新仮名)、底本『大隈重信演説談話集』岩波文庫、岩波書店、2016年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058118_001879, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite