## 新智識を要する時に旧思想の人

<ruby><rb>小野梓</rb><rt>おのあずさ</rt></ruby>君は、我輩の最も大切な友人の一人であって、年齢よりいえば我輩の後輩であった。小野君は勇気<ruby><rb>勃々</rb><rt>ぼつぼつ</rt></ruby>たる青年であって欧米の新智識を有し、我輩の如きも学問の上に於て君の教えを受けたことも<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なくなかった。当時政治の局に当りし人々は皆旧思想を有するもののみで、<ruby><rb>爾</rb><rt>し</rt></ruby>かもその企つるところの事業はことごとく皆新智識を要する事業のみであった。小野君はこの間にありて<ruby><rb>吾人</rb><rt>ごじん</rt></ruby>に偉大なる助力を与えたのである。

## 秘書となり参謀となって働いた

<ruby><rb>抑々</rb><rt>そもそも</rt></ruby>我輩が小野君と相識ったのは、同君の義兄たる<ruby><rb>小野義真</rb><rt>おのぎしん</rt></ruby>君の紹介によったので、小野義真君は当時大蔵省に勤め我輩の配下であった。当時の大蔵省は今の大蔵省とその組織を異にして、内務、逓信、大蔵の三省が合併していたのである。その時分義真君が我輩に向って言うよう、私の義弟に<ruby><rb>小野梓</rb><rt>おのあずさ</rt></ruby>という者がありまして、今は英国に留学しております。年は若いがなかなか使える人物と思いますから、一度逢ってみて下さいとのことであった。それから間もなく小野梓君が帰朝したから、早速逢ってみると、義兄の肥満にして豪放なるに反し体格も小さく肉も痩せて、むしろ豪傑肌の人間とは外見は違っているが、俊傑たることは一見その面容に表れている。当時の官省は旧思想の人物を以て充たされていたから、新智識を有するものを欲することは<ruby><rb>大旱</rb><rt>たいかん</rt></ruby>に<ruby><rb>雲霓</rb><rt>うんげい</rt></ruby>もただならずである。そこで早速我輩の部下に任用したが、果して学問の造詣深きのみならず<ruby><rb>経綸</rb><rt>けいりん</rt></ruby>の才があって、種々の方面に我輩の参謀となり秘書となって輔佐してくれた。もし何事か為す場合に、我輩一策を建つれば<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちにこれに骨を接ぎ足し肉を付け、そしてちゃんと形を整えて提供し、その案は<ruby><rb>往々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>我輩の考うる以上のものがあった。

## 国憲統一の理想

小野君は常に我輩に向って、この日本の藩閥政治、武断政治は永く我が国を隆盛ならしむる道に非ず、<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しくこれらの権力を打破して分離せる国権を統一するには、欧州文明諸国の如く憲法政治を布くに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはなしという意見を漏らしておった。我輩もこれと全く同じ意見を有しておったので、まずその手段の一として会計検査院なるものに大なる権力を<ruby><rb>賦与</rb><rt>ふよ</rt></ruby>して、政治機関運転の原動力たる会計の検査を厳密にせば、これによりて従来乱用せられつつある国権を制し<ruby><rb>国帑</rb><rt>こくど</rt></ruby>の<ruby><rb>濫費</rb><rt>らんぴ</rt></ruby>を防ぐが故にこれを実行し、<ruby><rb>梓</rb><rt>あずさ</rt></ruby>君は今日の会計検査官の地位を占めたのである。そしてその<ruby><rb>蘊蓄</rb><rt>うんちく</rt></ruby>せるところの智識、ことに財政上に於ける意見を吐露するの機会を得たのである。

## 第二維新の創設に志す

その後<ruby><rb>幾</rb><rt>いく</rt></ruby>ばくならずして我輩は反対党のために敗北し、同志と共に袖を列ねて冠を<ruby><rb>挂</rb><rt>か</rt></ruby>けたのである。そこで野に下りたる我輩はまず政治の方面、即ち改進党の組織に力を用ゆることとなった。当時政治は薩長土の武力によりて<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>せられ、国民の思想は統一を欠き、国家の危機を<ruby><rb>胚胎</rb><rt>はいたい</rt></ruby>するの<ruby><rb>虞</rb><rt>おそれ</rt></ruby>があり、<ruby><rb>旁々</rb><rt>かたがた</rt></ruby>小野君との<ruby><rb>黙契</rb><rt>もっけい</rt></ruby>もあり、ここに一大政党を樹立して第二の王政維新を実現せんと志したのである。

## 御蔭で改進党も振った

この時我輩の<ruby><rb>帷幕</rb><rt>いばく</rt></ruby>には小野君をはじめとして、ややその先輩たる<ruby><rb>矢野文雄</rb><rt>やのふみお</rt></ruby>君、その他<ruby><rb>犬養毅</rb><rt>いぬかいつよし</rt></ruby>君、<ruby><rb>尾崎行雄</rb><rt>おざきゆきお</rt></ruby>君等がおった。この人々は皆少壮気鋭の青年であって、矢野君が三十歳位で、尾崎君の如きはなお二十歳時代、小野君は悠揚迫らざる勤直の君子であって、如何なる事でも臨機の策を以てこれに処しておった。我輩も策に於てはあまり人に劣らぬという自信をもっておるが、<ruby><rb>梓</rb><rt>あずさ</rt></ruby>君が事に処し物に当って、その策の<ruby><rb>滾々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>として<ruby><rb>尽</rb><rt>つき</rt></ruby>ざる奇才には我輩も<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る驚いた。まずこういう風で当時の改進党も梓君の<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>で円満に発達した。<ruby><rb>河野敏鎌</rb><rt>こうのとがま</rt></ruby>君の如き初めは我輩等に反対の行動を採っておったものであるが、この時から同主義の下に交わりを結ぶこととなった。また<ruby><rb>島田三郎</rb><rt>しまださぶろう</rt></ruby>君の如きも同様である。

## 第二の国民を作る理想

また小野君は自分が中心となって我輩等と学校を設立することとなった。これは政治法律の新智識を有し、自由独立の精神に富むところの第二の国民を作るためである。これよりさき帝国大学に在学しておった高田、天野諸氏は、当時<ruby><rb>橋場</rb><rt>はしば</rt></ruby>に<ruby><rb>住</rb><rt>すま</rt></ruby>った<ruby><rb>梓</rb><rt>あずさ</rt></ruby>君を休日に訪問し、我が国の時事を談論することを常としていた。この頃から小野君はこの連中を我輩に紹介して、彼等は年少なる書生であるが、将来必ず事を為すところの人物であり、また将来我輩のためにもなるから見知りおかれる様にとのことであった。その後梓君はこれらの連中と我輩とを結び付けて、ついに一の学校を経営することとなった。これが即ち早稲田大学の前身たる東京専門学校を起した動機の一つである。

## 東洋館を設けて出版事業に熱中す

さて学校も出来人間も大概<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>ったが金がない。軍隊は戦争しようとするけれども、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の<ruby><rb>兵站</rb><rt>へいたん</rt></ruby>部がない様な<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>で、学校も財政のために非常に困ったのである。小野君はこの間に書籍及び新聞出版等の事を主張し、東洋館と称する書店を神田に開いて、英米独仏諸国の書籍を輸入し、また有益なる書籍を多く出版した。新聞事業の方では我が党は京阪地方に五、六の新聞を興し、矢野文雄、島田三郎の諸氏がこれを経営された。書籍といい新聞といい、これはいずれも自己の主義主張を天下に<ruby><rb>鼓吹</rb><rt>こすい</rt></ruby>し、同志を集めてこれを覆い、同時に多くの収入を得て、即ち一挙両得の利を占めんとしたのであるが、これらの書籍や新聞の議論は、当時の豪傑連が読む様な高尚なものばかりで、世人の多くは全く没交渉、それらに付きて盲目同然であったから、予想したほどの結果は挙がらなかったのである。

## 双手を取られたより惜しく思った

それから小野君は銀行の利を説き、銀行事業は人の金で人を利し、また自己も利益を得る方法であるといってその設立を主唱し、ついに我輩等が賛成して、<ruby><rb>壬午銀行</rb><rt>じんごぎんこう</rt></ruby>というものを設立した。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るにこれも間もなく失敗して終った。また小野君が主となって、石炭は文明の原動力であるから石炭を供給して文明を助け、反面に巨利を得るという趣旨から、炭鉱事業にも手を出してみたが、これも着々失敗に終ったのである。

なにぶん一発の弾丸で二羽の鳥を撃とうとしたのであるから、一羽も取れずに終ったのである。かくの如く小野君は、その<ruby><rb>涵養</rb><rt>かんよう</rt></ruby>せる新智識と独得の才気を以て各種の事業を企て、大部分失敗に終ったが、この新たなる経験を利用して将来大いに為すべき望みを持ちながら、不幸にも<ruby><rb>夭折</rb><rt>ようせつ</rt></ruby>してしまった。我輩は人才<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なき時代の事とて、ことに国家のために非常に惜しく思った。また大切な友人として、<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ学校の恩人として、我輩は両腕を取られたよりも惜しく思ったのである。

## 理想の実現を楽んで慰めり

しかし我輩は<ruby><rb>梓</rb><rt>あずさ</rt></ruby>君の精神は千古不滅であって、政治上、教育上、必ずや早晩その理想が実現さるるに相違ないという自信を以て、<ruby><rb>強</rb><rt>しい</rt></ruby>て自ら慰めておった。即ち政治上に於ては、梓君が我輩等と共に力を尽したる国会は開設せられ、その著<ruby><rb>国憲汎論</rb><rt>こっけんはんろん</rt></ruby>は世に<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でて、その精神を伝え、以て帰向に迷った人心の<ruby><rb>蒙</rb><rt>もう</rt></ruby>を啓き、教育上に於ては梓君の心血を注いだ東京専門学校が今や大いに発展して早稲田大学となり、早稲田大学は更に進んで第二期の発展をなさんとしている。創立の当時は財政に<ruby><rb>窮乏</rb><rt>きゅうぼう</rt></ruby>してその発達は<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る困難であったが、またそれを救治せんとて企てた梓君の事業計画はあたかも<ruby><rb>二兎</rb><rt>にと</rt></ruby>を追うの観があったが、近来社会一般の人心は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く教育を重んじ且つその事業に心を傾くる様になって来たから、今後は梓君の精神の宿っておるところの早稲田大学も、世人の同情に依って完全なるユニバーシチーとなるのは指を屈して待つべきであろうと思う。

また梓君が書籍屋の番頭となって経営されたる東洋館は、今その一は<ruby><rb>冨山房</rb><rt>ふざんぼう</rt></ruby>となり、その一は早稲田大学出版部となって現存している。未だ大なる成功とはいえないが、いずれも相当に発展して<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なからず社会に貢献している。

## 憲政の花実期して味わうべし

我が国の立憲政治は<ruby><rb>梓</rb><rt>あずさ</rt></ruby>君等の力、大いに<ruby><rb>与</rb><rt>あずか</rt></ruby>って今日あるに至ったのであるが、しかし我が憲政の現状は決して完全なりとはどうしても思われない。しかし梓君等が他日の大成を期して創立された学校より出たところの第二の国民は、梓君の素志を継いで社会に活動し、真に憲政の花と実とを<ruby><rb>完</rb><rt>まっと</rt></ruby>うするのは、決して遠き将来で無いと我輩深く信じて疑わないのである。昨今商工業者が政府や政党に対して政治的の運動を始めたのは、従来国民に忘られておった、憲法上賦与せられたる権利を自覚した証拠である。かくの如く今日までは政治圏外に起っておったところの実業家が、真に国民の権利を自覚して選挙<ruby><rb>場裡</rb><rt>じょうり</rt></ruby>に活躍したということは、大いに注目に値する現象である、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>かかる現象を見るに至ったのも、小野君等が憲政のために尽した努力に負うところ<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なからずというても<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ち過言ではあるまいと信ずるのである。