## この世界は諸君青年達の世界である

健全なる精神をもち、健康なる<ruby><rb>体躯</rb><rt>たいく</rt></ruby>を有する青年であって、それで成功が出来ないということがあるものか。世の中には<ruby><rb>往々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>泣き言を述べる青年達がある。彼等はちょうど誰かがその前途を<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えているために自分が成功出来ないように言っているが、それは誤った考えである。ことさらに敵意でも持っていない限りどこに他人の成功を妨げるものがあろう。この世界は決してある少数の人の世界ではないのである。即ちお互いそれ自身の世界である。しかも今日既に成功している人々よりは、むしろこれから為すところあらんとしつつある諸君青年達の世界ではないか。

既に自分自身の世界である。天は常に公平であって決して<ruby><rb>偏頗</rb><rt>へんぱ</rt></ruby>なことはしない。実力のある者には誰にでも成功の鍵を与えて、天下に覇を成さしめる。それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かか</rt></ruby>わらず泣き言を並べたり悲観したりして、成功の出来ないのを他人の罪のように思っているものの<ruby><rb>迂愚</rb><rt>うぐ</rt></ruby>は憐れむべしと言わねばならぬ。かかる<ruby><rb>徒輩</rb><rt>とはい</rt></ruby>はいわゆる人生の劣敗者、もしくはその候補者である。速やかに志を改め意気を練るに非ずんば、ついに一生を暗黒の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に終るような不幸を見るであろう。

人生は七転び八起きという。七たび転んでなお起き返ろうとするほどの勇気のあるものでなければ大事を為すに足らない。つまり<ruby><rb>反撥力</rb><rt>はんぱつりょく</rt></ruby>の強い、ゴムのように弾力ある意志をもっている人間が勝利者となる。かかる人間は困難に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>えば遭うほど、その困難を打破せんとする意気が全身に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>ってくる。そしてあくまで自分の所信をやり通す。こんな人間でなければ駄目だ。温室の草花が嵐に会ったように、一度の失敗で<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ<ruby><rb>閉口垂</rb><rt>へこた</rt></ruby>れてしまう人間の成功の出来ないのは当然である。人生は決して平原ではない。山もあれば谷もあり、川もあり、坂もあり、峠もある。<ruby><rb>不撓不屈</rb><rt>ふとうふくつ</rt></ruby>とはこれらの<ruby><rb>険難</rb><rt>けんなん</rt></ruby>にうち勝つ精神を言ったものである。

元来人間は人に頼って生きるはずのものではない。自分の道は自分で開いて行かねばならぬ。他人に頼ろうと思えばこそ、不運に遭う<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>に恨み言が述べたくなるのだ。<ruby><rb>閉口垂</rb><rt>へこた</rt></ruby>れるのは自分の罪である。劣敗者となるのは自分が弱いからである。少しも他人や社会の罪ではない。勇気を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>い反撥力を強め、堂々と活動せよ。成功の<ruby><rb>要諦</rb><rt>ようてい</rt></ruby>は<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>にある。我輩は泣いたり恨んだり、<ruby><rb>慷慨悲歌</rb><rt>こうがいひか</rt></ruby>の声をあげるような人間は嫌いだ。彼等はいずれも意気地のない口先ばかりの人間だ。勝利者は黙って実行して行くものである。

## 我輩とてこれでまだ日本の青年である

我輩もまた日本の青年である。年齢をいくつ取ったって青年の意気に変りはない。我輩は知っての通り佐賀藩に人と為った。そして維新の風雲の間に<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>の地位を占めて来た。けれども今日の我輩をもって功成り名を遂げた者としてしまうのはいけない。我輩は諸君の友達だ。この隆々たる国運に乗じて、やがて日本が世界第一の強国になるまでは決して<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>はしない。

佐賀藩には<ruby><rb>弘道館</rb><rt>こうどうかん</rt></ruby>というものがあって、ちょうど今の小学校、中学校のような役目を遂げつつあった。即ち藩の子弟で六、七歳になると、<ruby><rb>外生</rb><rt>がいせい</rt></ruby>となって入館する。十五、六歳になると<ruby><rb>内生</rb><rt>ないせい</rt></ruby>になって、二十五、六歳には卒業するということになっていた。つまり外生が小学、内生が中学のようなものだ。そして二十五、六歳になって卒業の出来ないようなやくざ者は<ruby><rb>家禄</rb><rt>かろく</rt></ruby>の十分の八を除いて、生涯藩の役人が勤まらないことにしてあった。学業としてもっぱら朱子学を教えていたのである。

時はこれやがて明治維新の来らんとして、世の中は次第に<ruby><rb>物騒</rb><rt>ものさわ</rt></ruby>がしくなった時である。徳川幕府の<ruby><rb>威望</rb><rt>いぼう</rt></ruby>日に衰えて、勤王論者の諸方に蜂起するあり、その上久しい鎖国のために<ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>たる雄心を揮っていた国民の目の前に、西洋の文明が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くその威力を見せようとしていたときである。そこで我輩等は、この際一藩の子弟を育てるという重大任務を有する弘道館が、旧式な支那学たる朱子学なぞを教えているようでは仕方がない。これは何としても改革しなければならぬ。そうして世界の大勢に<ruby><rb>鑑</rb><rt>かんが</rt></ruby>みて、直接時勢に交渉のある活学を教えるようにしたいものだと言い出した。

<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>保守的な有力者はこれに反対した。当時あたかもアメリカの<ruby><rb>水師提督</rb><rt>すいしていとく</rt></ruby>ペルリが来朝した時で、新と旧との一大衝突は国内の上下を通じて一般に喚起された。そして未だ旧式の方の勢力の強い頃であったために、弘道館の現制に反抗した我輩等はその主張の<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れられないのは<ruby><rb>無論</rb><rt>むろん</rt></ruby>のこと、おまけに我輩はこの学制改革の首謀者の一人として、年十七にして<ruby><rb>放逐</rb><rt>ほうちく</rt></ruby>されたのである。

しかしこれくらいのことには<ruby><rb>閉口垂</rb><rt>へこた</rt></ruby>れない。自分達の主張の正しいのは充分信じている。近い内に自分達の勝利者たるべき信念は確固としている。だから更に悲観はしなかった。そしてまた後に至って考えてみると、この放逐のために支那流の学問を脱したればこそ、真の幸福が我輩に来たのである。

## 七たび転んでも八たび目に起きればよい

七たび転んでも八たび目に起きればよい。我輩はそれから藩の先輩たる<ruby><rb>枝吉杢助</rb><rt>えだよしもくのすけ</rt></ruby>について国典を習った。この人は<ruby><rb>副島種臣</rb><rt>そえじまたねおみ</rt></ruby>の兄であって、藩中では最も目のあいていた人である。その言うところ、尊王論、国体論は生気<ruby><rb>溌溂</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>たるものであった。然るに藩主<ruby><rb>鍋島閑叟</rb><rt>なべしまかんそう</rt></ruby>は英主であったから、時勢を観て、藩学だけでは足りないと早くも気付いた。そこで長崎に<ruby><rb>致遠館</rb><rt>ちえんかん</rt></ruby>というものを設けて、藩の秀才三十人ばかりを送ることになったのである。我輩もその<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に加わって長崎へ行った。

長崎へ行って新しい文化に目が開くと、更に日本の現状が<ruby><rb>嫌</rb><rt>あきたらな</rt></ruby>くなってくる。世界の大勢を知らずに同胞<ruby><rb>墻</rb><rt>かき</rt></ruby>に<ruby><rb>鬩</rb><rt>せめ</rt></ruby>いでいる京阪の中心地に於ける闘争が、どうしても黙って見ておれない。そこで血気盛んなこととて、<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに副島と二人で脱藩して大阪へ上陸した。が、残念なことには京阪の間を<ruby><rb>奔走</rb><rt>ほんそう</rt></ruby>すること三ヵ月、未だ<ruby><rb>慶喜</rb><rt>よしのぶ</rt></ruby>公に<ruby><rb>見</rb><rt>まみ</rt></ruby>えざるに、藩の有力者の手に<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>えられてそのまま国元へ送り返されてしまったのだ。

そして謹慎ということになった。けれどもそんなことに驚きはしない。主張はどうしても立てる。一体我輩は家族関係や金銭上には比較的自由で、幼い頃父は失ったけれど、母はしっかりしていられたから、自由に行動することが出来たのである。謹慎中も同志うち寄って盛んに<ruby><rb>宇内</rb><rt>うだい</rt></ruby>の形勢を論じて、酒を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んで時には夜を徹したものであるけれども、母は少しも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>われなかった。

その内に謹慎を許されて再び長崎へ行くことになった。ところが出発せんとして<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>に犯されて非常に悪寒を催した。しかしなにこれくらいのことに、と船に乗ったが船の中でますます悪寒が<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしくなって目が廻るようになり、とても頭が上がったものでない。船からおりると、八、九里の間は<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に乗るのであるが、駕籠の中で<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>となく卒倒しながら、九死一生の内にも無理に長崎へ着いた。そのために一週間ばかりも<ruby><rb>人事不省</rb><rt>じんじふせい</rt></ruby>に陥ったままであった。そしてほとんどこの世のものでなかったのが、幸いにして命を取りとめた。

<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も不幸はそればかりではない。更に病気をしてあまり長く休んだために在校生としての資格を失って退校せられんとまでしたが、それがどうにか切り抜けた。

これらの不幸は我輩の意気を強めこそすれ<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>きはしなかった。何かあるたびに、これしきのことにとさえ思って行けばなんでもない。<ruby><rb>鍛錬</rb><rt>たんれん</rt></ruby>は成功の母である。従って成功せんとすれば自ら進んで苦労の中へ突き進んでゆく勇気がなければならない。

## <ruby><rb>行</rb><rt>おこな</rt></ruby>いは男子らしく堂々たらねばならぬ

苦労することを恐れて<ruby><rb>安逸</rb><rt>あんいつ</rt></ruby>をむさぼりたいと思うからこそ、少しのことに泣き言がいいたくなるのである。苦労を楽しいものと思ってみると、苦痛さえ増せば<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って働き<ruby><rb>甲斐</rb><rt>がい</rt></ruby>があって嬉しいわけではないか。我輩のやり方を心配した親類の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>には、フランスへ留学させることにしたら心配が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らなくなると思ったものがあって、人を介して藩主を説きつけた。けれども先には外国人のために五港を開港し、その開国の勇者<ruby><rb>井伊</rb><rt>いい</rt></ruby>〔<ruby><rb>直弼</rb><rt>なおすけ</rt></ruby>〕大老は桜田門外に殺されてしまう。加うるに長州征伐があり、幕府の威信<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>衰え、ほとんど混乱の底止するところを知らざらんとするこの日本の国を捨てて、どうしてヨーロッパへ行けるものか。我輩はフランスへ行くかわりに再び京都へ行こうと思ったのである。

またもや脱藩して船に乗る。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るにこの船は大阪へ着かずして横浜へ行ってしまった。しかたなしに江戸へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ることに決心をし直したが、なにぶん脱藩人のことだからもし見つかったら捕まってまた送り返される心配がある。幸いにして江戸へ這入ったが、ちょうどその時であった。<ruby><rb>徳川慶喜</rb><rt>とくがわよしのぶ</rt></ruby>は大政を返上して、江戸には<ruby><rb>鼎</rb><rt>かなえ</rt></ruby>の湧くような騒ぎが起った。我輩はすわこそと思ったから藩へ帰って輿論を喚起し、わが佐賀藩をして他の諸藩に後れは取らせまいと、<ruby><rb>急遽</rb><rt>きゅうきょ</rt></ruby>船に乗って帰途に着いた。

帰藩すれば脱藩人としての処分は<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れまい。けれども何事も覚悟の前である。どんな目に会ったってこの<ruby><rb>不撓不屈</rb><rt>ふとうふくつ</rt></ruby>の精神が<ruby><rb>鈍</rb><rt>にぶ</rt></ruby>るものか、そう思って帰るが否や、<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに藩の有力者に会ってつぶさに時勢の将来を説いた。その人々はいずれもすっかり我輩の説に感服してくれて、やがて藩主の面前へも出ることになった。一書生の身をもって藩主に<ruby><rb>見</rb><rt>まみ</rt></ruby>えたるのは破格のことであるが、その上脱藩した我輩ではないか、最初から行けるところまで行ってみようと覚悟した我輩は、こうして所期の通り堂々とやってのけた。藩主に対しても、<ruby><rb>宇内</rb><rt>うだい</rt></ruby>の大勢を論じて一挙中原の覇を<ruby><rb>樹</rb><rt>た</rt></ruby>てんことを建言した。

身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ、という<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>がある。成算さえあれば身を捨てなくとも、行うことは成就する。ただその行い方は男子らしく堂々たらねばならぬ。覚悟した上に遂行する所信で遂げられぬものはない。

## 乱世でなくとも大なる人物にはなれる

そうして明治維新になった。明治新政府の外交官として伊藤〔<ruby><rb>博文</rb><rt>ひろぶみ</rt></ruby>〕、井上〔<ruby><rb>馨</rb><rt>かおる</rt></ruby>〕、後藤（<ruby><rb>象二郎</rb><rt>しょうじろう</rt></ruby>）、寺島〔<ruby><rb>宗則</rb><rt>むねのり</rt></ruby>〕、小松（<ruby><rb>帯刀</rb><rt>たてわき</rt></ruby>）や我輩が任命せられた。

政府の当面に立ちかけてからの進退は、即ち国家とその運命を共にする。国家が発達すれば我輩も偉くなる。明治四年の鉄道敷設問題に際して我輩は刺されようとしたことが、なにしろ維新前後には<ruby><rb>殺伐</rb><rt>さつばつ</rt></ruby>の気が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っていて、<ruby><rb>刺客縦横</rb><rt>しかくじゅうおう</rt></ruby>の有様であったから、<ruby><rb>白刃</rb><rt>はくじん</rt></ruby>の<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>くくらいは覚悟の前で平気であった。自己の主張であって、そして国家のため国民のために幸福なことである限り、<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かされたって中途でやめるような意気地ないことが出来るものか。時々あわて者が現われて、一<ruby><rb>時</rb><rt>じ</rt></ruby>の<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>から要路の大官を狙ったりなどするのは、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby><ruby><rb>大鵬</rb><rt>たいほう</rt></ruby>の<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>を知らざる<ruby><rb>燕雀</rb><rt>えんじゃく</rt></ruby>の行いである。

木の芽はいくら<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>んでも摘んでも生える。正義はどんなことがあってもやり通す。爆弾事件なぞが<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>あったって志士の決心は<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>かれない。真の憂国者は国に<ruby><rb>殉</rb><rt>じゅん</rt></ruby>ずるのは覚悟の前であるから、忠君愛国のためならば、火の中へでも水の中へでも<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>る。進歩の途上にある国家の政治を行うものは、並み大抵の苦労ではない。何かに会って<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐまいってしまうような薄弱な覚悟では、とても国士にはなれない。

なにも乱世でなければ大人物になれぬということはない。人間の真の価値は社会的の地位や名声よりは、その人個々の実力の問題である。人間の実力さえ偉大であったら、即ちそれが大人物である。いかなる<ruby><rb>茅屋</rb><rt>あばらや</rt></ruby>に住んでいても、いかなる<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>をしていても、偉人は必ず偉人である。いかなる地位にあろうとも、父祖の地位財宝を擁しているだけでは、凡人以下の凡人である。で、乱世でなくとも大人物になれるのは同じいことである。

世の中には戦争があり、平和がある。<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も<ruby><rb>爛漫</rb><rt>らんまん</rt></ruby>たる平和を望まぬものはないが、その平和を維持せんとしては、時に戦争をしなければならない。大戦争さえすればその後に大平和が来る。世の中はこういうものである。実力のない国は戦争には負けるし、平和もいつ破壊せられるか知れない。一個人にしてもそうである。大いに奮闘した人でなければ大きな安楽は得られない、少ししか働かないものは、いつ一日休息ということなしに、こせこせ働きつづけている。青年の血気盛んな時代にやれるだけやって、いかなる圧迫にも苦痛にも<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えて行くだけの<ruby><rb>反撥的</rb><rt>はんぱつてき</rt></ruby>勇気を養うに限る。

今日の世界は立身の道も、昔とは違って自由公平である。昔は大名でなければ<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>れなかった国家の政権をも、その人の実力次第で諸君の手に委ねられるのである。国家の富力も昔とは比較にならないほど進んでいるのだから、今日の貧書生が他日王侯の富を擁することもわけはないのである。

国は日の出の勢いに乗じつつある日本である。諸君はこれからという青年である。実に愉快な世の中ではないか。これほど働き<ruby><rb>甲斐</rb><rt>がい</rt></ruby>のあることはあるまい。こんな時代に際して少しのことに悲観して、直ぐにも目的を捨てようとするのは太平の逸民たる<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>である。死んだ<ruby><rb>伊藤博文</rb><rt>いとうひろぶみ</rt></ruby>なぞは我輩と一緒に初めて明治政府の外交官になったころ、今の築地のある小さい汚ない家に独りで住んでいたものである。少しの地位を得るともうすっかりその光栄に酔うてしまって<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>をしようとするような亡国的人士は、諸君の力で<ruby><rb>鞭韃</rb><rt>べんたつ</rt></ruby>して行くべきであるのに、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってそういう者の境遇を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>んで泣き言を述べるなぞは、心なきことではないか。