Soranoha

現代の婦人に告ぐ

げんだいのふじんにつぐ

大隈 重信

一 進化の大法則を無視する勿なかれ

吾人ごじんはその天上より落下する隕石の如く、独り忽然こつぜんとしてこの地上に現出したものではない。吾人の前にも無限の連絡あれば、吾人の後ろにも無限の連絡がある。吾人の吐く息、吸う息は、直ただちにこの渾円球こんえんきゅうを包む大気と連絡して、それと一体を為すものであるが如く、吾人の渺びょうたるこの五尺の身体はまた上かみ億万世の生物に連絡し、下しも億万代の人類に連絡するもの、即ち吾人は窅冥ようめいにして窮きわむべからざる無限のタイムを一貫する長き長き連鎖の中の一体を成すものであって、それには動かすべからざる進化の大法が厳重にこれを支配しているのである。即ち吾人の身体にはこれを電気といわんか、はた磁気といわんか、一種不可思議なる勢力を秘むる神経組織が存在し、これがことごとく脳細胞に作用して、ここに霊妙なる精神活動を現出するが、かくの如き脳細胞は、吾人を待って初めて存在したものでなく、祖先以来遺伝し発達し来ったところのもので、さればその個人的なるにせよ、はた社会的なるにせよ、この中枢たる脳細胞を活動せしめて開展したる吾人の万般の事業は、また等しく祖先以来継承し発達し来ったところのものでなければならぬ。換言すれば、現存する吾人の事業の一切は、ことごとく進化の理法に依って開展し来れる祖先の事業の集積なんである。我輩は保守を厭いとう。勿論もちろん進歩を愛するけれども、上述の如く水に漂う蓴菜じゅんさいの一葉も、これを引けば千根万根せんこんばんこん錯綜さくそうして至るにも似たる長き連鎖の中に在るものであるから、およそ如何いかなる制度、文物、倫理、道徳、風俗、習慣というの類といえども、その由よって来るところを密にして、現在並びに将来に於ける利害得失を究めて、然しかる後に徐おもむろにその向うところを定めなければならぬ。然しからずんば形こそ急激なる革新であっても、その革新の進歩ならずして、往々おうおう退歩なるべきことを免まぬかれぬ。我輩は特に、人類に至重至要なる男女関係についてこれを言う。

二 愛は百行の本なり

古来東洋では孝は百行ひゃっこうの本なりというが、これはあえて誤れりとはせぬけれども、なお説いて詳つまびらかならざるものがある。何となれば、孝とは子の親に対する道である。然らばこの親子の関係は、如何いかにして生じたかというに、それに先だってまず夫婦なる関係が存在せなければならぬ。夫婦の愛の結晶が即ち小供である。この夫婦が即ち父母であって、その間に生れた小供は即ち父母の間の濃厚なる愛の結晶なのである。故に愛は百行の本なりといってこそ、より多く事実に適切であろうと想う。普あまねく動植物界を通観するに、いずれか雌雄牝牡の別を具そなえて、生々化々し行かざるものがある。人類も、またその数に洩れず、男女あって夫婦あり、夫婦あって親子あり、而しかして兄弟姉妹あり、一家眷族けんぞくあり、而しかして郷党きょうとうあり、社会あり、国家あるのである。即ち君子の道は端を夫婦に発すというが如く、人倫の端緒は夫婦から開けるんである。更に言えば、男女はこの世の経緯である。経緯相交じって衣を為す。経緯離るれば、衣、何処いずこにか存そんせん。あたかもその如く、この世は男女あってのこの世である。すればまさに社会の基礎は愛であるので、古来如何いかなる宗教家も、立法家も、一人としてこの愛を説かぬものはない。我輩の平生人に向って語り来ったところのものはこれであるが、この頃英人カアンペンター氏の著書『愛と詩』を繙読はんどくするに最もこの意味を力説している。その中には、今ここにちょっと説明し難いような際きわどいところもあるけれど、ある場合には幾らか吾人の知り置くべきことも散見する。勿論もちろん元々独断ではあるが、独断なりとて無下むげに排斥するは悪い。否、古来幾多の聖賢哲人の金言も思想も幾らかそれ独断を免れ得るか。さればこそ彼等によりて一たびは真理と確定されたものでも時代の篩ふるいに掛けられて、今では真理ならずとされたものが沢山たくさんあるゆえんである。それが進歩である。その故に世に絶対の真理なるものなく、皆時と共に進化すべき性質を持っておる。古いにしえの聖賢哲人といえども、吾人と同様に社会進化の法則に従って生存し、吾人と同様な理智に訴えて判断したもので、従って当時の事情のその後漸を追うて進化するに従い、その一たび定められた真理も、また漸を追うて自ら進化せざるを得ぬ。それ故に独断なりとて強あながちに排斥すべからざると同時に、ことごとく書を信ずれば書無きに如しかずともいうが如く、如何なる聖賢如何なる哲人の語といえども、皆自己の理智に照らして新たに考え直し、それをして進歩せる現代にも適合すべきものとならしめなければならぬ。六経りくけいは我が心の註脚ちゅうきゃくなりというが如き高き見地を占めて、仔細に古来の思想に注意し、批評し、改定せなければならぬ。これは我輩の常に機会ある毎ごとに、諸所の学校に於て学生等に語るところなのだ。

三 誇るべき基督の偉功

男女両性の問題については古来幾多いくたの思想家も、宗教家も、はた立法家も、皆迷うた。釈迦しゃかも迷えば、孔子こうしも迷う、ソロモンも迷えば、マホメットも皆迷った。基督キリスト教国を以て誇る西洋諸国も、旧約時代までは全く迷っていたので、基督キリストに至って初めて、千古の疑問に一大鉄案いちだいてつあんを下したのである。両性相愛するは、一切の生物間に共通の事実であるけれども、その婚姻には進化があって互いに等しきを得ぬ。即ち人間以外の動物に在っては、繁殖のみあって、それに秩序を与うる道なるものが存在しておらぬ。これあるは独り人間であるが、この人間もその蠢爾しゅんじたる原始生活を営む時代には、あたかも野獣の如く雑婚を恣ほしいままにしていたので、生るる小供に母は有るけれども父はない。従って母に対する孝はあっても、父に対する孝なるものは無く、兄弟姉妹があっても血が混淆こんこうして同異を弁じ難いから愛情も乏しく、生長すれば相離散するので、ほとんど家庭を為さぬ。それが進化して次には一夫多妻となり、婦人をば権力富力あるものの兼併けんぺいに任せたが、本来天の人類を造るに、ほぼ男女の数をして相等しからしめて在るのだから、かくの如き一夫多妻の許されている時代には、他方に孤独を以て生涯を終らねばならぬ多数の男子を生ぜねばならぬ訳で、かくの如きは、吾人が平和なる共同生活を営むべきゆえんの道でない。けれども時代の意識は朦朧もうろうとして、なおこの至理に通徹するを得ず、一夫多妻の宿弊滔々とうとうたる時に、大胆にも基督キリストは巷ちまたに獅子吼ししくして、一夫一婦論を提唱したのであったから、定めし一世の耳目を聳動しょうどうしたと同時に、彼等の喜ぶところと為らなかったであろうと想う。而しかも断じて行えば鬼神もこれを避く。彼がこの毅然きぜんたる勇気を振い起して、全欧州にこの教義を宣伝した結果は如何いかん。今日の欧州諸強国の文明の進歩とその富強とは決して単純なる科学の発達それのみとはいえぬ。本もとづくところまたこの男女関係の粛清された一事が与あずかって大いに力を為すものあるに因よると思う。即ち欧州の文明の進歩と富強とは、独り男子の努力に依らず、婦人との共力に俟まつものが甚はなはだ大であると思う。然しからば欧州全土はことごとく名実で全うして、一夫一婦制が実行されているかといえばそうはいかぬ。事情を探れば頗すこぶる乱倫の行いもあり、公娼制度の行われているところもあれば私娼の如きは沢山に存在するというが如く、人類間に行われる一切の弊害の一として有らざる無しという有様であるけれども、概括的に言えば一夫一婦制が採用されているので、羅馬ローマの帝室の権力に依り基督キリスト教が国教と定まりてより以来、この教義が道徳上に是認されて普あまねく社会制度と結び、特に深く法律と結合したるその効果は偉大である。その他の事については、基督キリスト教の教義に疑うべきことも多くあるけれども、ただこの両性問題解決の一事に至っては、その偉功は顕著であって到底とうていこれを他教に求むべくも無い。

四 外柔内剛の女子の実勢力

基督キリスト出現以前までは、多くの聖賢哲人が皆両性問題の解決を誤り、人格の上から女子を以て男子の下位に立たしめ、その権利を制圧していたのであったが、しかし我輩はかくの如く制圧を加えられねばならぬところに、却かえって女子の実勢力を見るのである。外柔内剛のその侮あなどるべからざる潜勢力を認めるものである。孔子は女子と小人とは養い難しといっているが、窃ひそかに思うに、孔子は閨房けいぼうに於て、あるいはその夫人に大いに苦しめられたものではあるまいか。釈尊しゃくそんもまた女子は三界に家なしなどといって、女子を以て天性罪障の深いものと定めているが、これもあるいは孔子と等しく、その後宮に於て頗すこぶるその妃に苦しめられ、言うに言われぬ内部の煩悶はんもんがあったのではなかろうか。およそ吾人の判断はその日常親しむ最も近きところよりして遠きに及ぼすの順序であれば、彼等をしてかくの如きの断案を下さしむるゆえんの、必ずやその夫人並びにその妃に於ける観察に始まっておろうと推測する。而しかもこれは大独断の言であって、その直覚の誤謬ごびゅうに胚胎はいたいしたものである。我輩も直覚論者であって、おおよそ宇宙間の事物は冷静れいせい静思せいしすれば、如々にょにょの姿を心眼の上に現出するとは思っているけれども、しかし物に依っては左様のみは行かず、大いに史的研究を要するものもある。而しかしてこの両性問題の如きがそれである。ソロモン王の如きも女子を賤いやしめているけれども、彼は世にソロモンの栄華の称ある如く、金殿玉楼きんでんぎょくろう酒池肉林しゅちにくりんにおよそ人間として望み得らるべき物欲の限を満足せしめ、その後宮には数百人の佳麗を養った。而しかも彼は立法者であるから、狡獪こうかいにもこれを享楽のためとは言わずして、婦人研究のためと称しておった。果して婦人研究か非か、とにかく、その結果は如何いかん。必ずやかくばかりの多数の婦人に包囲されて、その盤渦ばんかの中に埋没しては、彼の受けたる苦痛の経験は孔子釈尊のそれにも優ったことであろうと思う。マホメットもまた境遇よりして、婦人の地位を高むるを知らず、一夫多妻主義を守ったことであろうと思う。彼の出現当時の亜剌比亜アラビアは、婦人を兼併けんぺいするの弊へい実に甚しきものあり、彼に至ってこの弊に鑑かんがみて、その数をば五人というが如くに幾らか制限したのであったが、またソロモンと同じく、その内房に於ては頗る婦人の苦しむるところと為った事情があったろうと想う。而しかも表面婦人を制圧してその自由を奪えば、これを以て一家は平和かというに、決してそうはいかぬ。即ち男尊女卑の倫理の下に、一夫多妻主義の許容されているところには、却って一家の風波の絶間なく、男子をして常に煩悶はんもん焦燥しょうそうせしむるものである。されば畢竟ひっきょうこの苦し紛れに叫び出した語ことばであろうと思うが、支那人は婦人を指して傾城傾国けいせいけいこくといい、長恨歌にもこの文字が使用されて「漢皇色を好んで傾国を重んず」などとも歌ってある。即ち唐の玄宗皇帝が女色じょしょくを愛するの極、美人と国替くにがえに往こうとする、それを歌ったのである。本来人間の欲情多き中にも、この最も強烈なるは子孫の繁殖に越したものは無い。俗にいわゆる色気である。これが亢進こうしんして、心眼の玲瓏れいろうを蔽おおい、ために幾多の聖賢哲人をも、政治家立法者をも手古摺てこずらせ、その判断を誤らせて、大切なる人生をも解釈し得ざらしめたのである。女子は男子に自由を奪われているから、表面は反抗し得ないけれども、事実の上はその情意を恣ほしいままにしていわゆる傾城傾国けいせいけいこくをやる。すべて不自然のところには、常に大破綻を伴うものである。これ基督キリストの一唱してその弊を改めたゆえんで、人類に幸いしたるその功や永久に没すべからざるものがある。

五 庶は衆なり、庶子は衆人の子なり

支那人とてもその思想の根柢こんていに於ては、必ずしも一夫多妻を是認しおるものではない。彼等は天の人類を生ずるに、もと男女の数をほぼ等しからしめておるのであるから、一人が多くの妻を持てば、それだけ他人の妻を奪った訳になると考えていた。さればこそ支那では正妻と妾とを区別し、正妻の子を嫡子というに対して妾の子を庶子といっているので、庶とは衆の義と訳し、庶子は衆人の子の意味となり、自ら其処に他の衆人に属すべきものを奪って、我われ一人の者としたという褒貶ほうへんの義を含ませてあるのである。この解釈には、かくの如き道徳上深甚の意義あるに拘かかわらず、あまり東洋人の脳裏には強き感じを持っておらぬが、而しかも真理の自然に有する力は大なるもので何となく良心の呵責かしゃくがあり、一夫多妻には後ろ暗い影が伴う。それ故淫行者は内密に働いても表面はさりげない風を粧よそおう。特に地位有り、身分ある王公貴人達は勉つとめて表向にはやらぬ。しかし蓄妾の久しく行われて来た余弊よへいを受けて、我が国でも明治の初めに民法を制定し、親族法を設くるに当りては頗すこぶる苦心を要した。最初は日本の旧習を参酌さんしゃくして欧州の法典を折衷せっちゅうし、従来の家族制を存して一等親、二等親、三等親の別を立てたのだが、この三等親は即ち権妻ごんさいである。しかしながら熟考すると、如何いかにするも欧州の如き一夫一婦制こそ然しかるべきで、マホメット教的の一夫多妻制には、その正義の観念に矛盾すると共に、また幾多の弊害へいがいが伏在する。そこで実際には随分困る人達も多かったのだけれども已やむを得ぬ。ついに二等親、三等親を除いて妾を認めず、同時に妾腹の子は男子の証認を経ざる限りすべてこれを私生子と称することにした。理性力で此処まで漕ぎ付けたが、しかし勃々ぼつぼつたる人間の欲情は致方いたしかたなく、内密でなお外に蓄妾する。なかなか理想通りにはいかぬが、表面だけでも粛清されたのは結構である。隠れたる過失はまず外に出さぬんである。これを悪く言えばいわゆる臭い物に蓋ふたである。これはあるいは已むを得ぬ。如何様いかような立派な家にも必ず雪隠せっちんがあると同じように、何処の国でも蓋を開けてみれば幾らかは臭いところがあるが、それを日本人は正直に台所の隅々までほじる癖があるのは、却っていけぬ。それよりもむしろそれから先は宗教家の努力の領域として残し、その道徳上の罪悪を他より訐あばかずとも、自ずから悔悟せしむるに勉むるが宜よろしい。外人はその様な詮議せんぎ立てをせぬ。それ故外観は如何いかにも立派だけれども、内実はやはりいろいろな過失が行われている。見よ、彼等の夫婦手を執り合って外出する時の有様などは、如何にも睦むつまじげに美うるわしく、楚々衣にも堪たえぬらしい妻を良人おっとが扶たすけて、喃々なんなん私語して歩いているところを見ては殊勝であることを。けれども焉いずくんぞ知らん、外より共に帰って家庭内の人となるや、往々にして、忽たちまち夫婦喧嘩げんかを演じ、声荒々しく膂力りょりょく逞しき妻にその手をねじ伏せられて、良人は言い甲斐なくも温ぬくめ鳥どりの如くに押し蹙すくめられるという奇劇も珍しからぬ。流弊の免れ難きは何処どこも同じことであるが、しかしとにかく一夫一婦制が倫理上に勝を制し、それが法律上、社会上に動かすべからざる基礎を据えたる点に於て大いに女子の自由を伸べ、男子の専横を制したる基督キリスト教の功は争うべからざるものである。

六 男女各々天職を異にす

我輩は天の男女を生ずるに、もとその間に愛憎の私念なかるべきを信じているから、人格の上には両性を同等に見るけれども、さればとて、その天職をまで同一に見るものではない。何となればその体質の上に、その性情の上に、両性にはその地上に始むる第一歩からして明確なる相違を存するものではないか。即ち男女の天職は本能的に定められて、自然の分業を為しおるんである。婦人には最も大なる任務がある。妊娠がそれである。男女共力して小供を作るというけれども、婦人の妊娠に当って、男子にはなんら肉体上の苦痛を伴わぬ。婦人はやがて烈しき産痛の後に分娩すれば、生児せいじに乳を哺のませる。小便をさせる。始終汚れた襁褓おしめを取り換えてやらなければならぬ。むずかる、夜泣きをする、すれば夜の目も合わさずに介抱し劬いたわってやらねばならぬ。その手数その心労は尋常のことでない。而しかしてこの様な苦痛は一切男子の与あずかり知らぬところである。しかしながら女子が一方にかくの如き至大の任務を尽つくすについて、男子にもこれに対する一の任務がある。それは言うまでもなくこの妻児を養うことである。婦人は生児に乳を与えるから食量が平日に二倍する。且かつ食物が十分滋養分に富まなければそれが乳に作用し、直ちに生児の体質に影響するから、平生よりも美食を取らなければならぬ。従って等しく妻児を養うといっても、それに要する費用は従来に倍蓰ばいしする。それだけ男子は従来よりも多く外に活動して生活費を得て来なければならぬ。この任務もまた甚だ容易ならぬものであって、終ついに自然に男女両性の分業が萌芽し来る。かくの如きは、近世に始まったことでなく、人類の発達時代からして然しかるものである。通俗に言えば男女手分けして働くのである。ここに男女間の権利義務が定まる。夫婦ありて家庭あり、家庭ありて郷党あり。かくて広く社会、国家を形成するのであるから、男子は外に出いでて世間の事に活動し、女子は内を守りて家庭の事に勤労するという分業は、この世に於て已やむべからざるところ、而して婦人の性情は、自ずからこの分業に適し、小供に対する神経は鋭敏に、その用意は周到である。生児のなお嬰孩えいがいにして口も利けぬ時にも能よく眼に察し、意に迎えて、その欲するところを知り世話を焼く。少しく語ことばを解し自らも口が利けるようになれば、御伽話おとぎばなしでもして聴かせる。小供の世話はなかなか六ヶむつかしいもので、ちょっとでも意に満たぬと直じきに声を揚げて泣く。これを賺すかし宥なだめるなど容易なことで無く、到底天賦の性情の粗雑なる男子の出来る仕事でない。児童の性質を最も能く知るものは女子で、而しかして小供もまた外出がちで家にいることの少ない父親よりも、幼少の時から常住傍かたわらにいて撫育ぶいくしてもらう母親の方に多く熱烈な親しみを持つから、家庭教育の義務は、自ずから母の責任に属せねばならぬ。従って児童に対する感化力の大なることも、また母に及ぶものはない。それ故小供の賢不肖は、一に母に因よるというも可なるべく、母たる婦人の品性が低劣であれば、従ってその小供も悪く、将来のその民族は次第に堕落し行くことは必然の道理である。さればこそ支那人は賢婦人の下に賢子有りと称し、而しかして孟子の母の如きが常に絶好例話として引かれる。いわゆる孟母の三遷と称し、孟子の教育の必要のためばかりに三たびその居を移したという話になっている。誠にその通りで、およそ模倣性の強烈なること小児に及ぶものはない。而しかして三つ子の魂百までとも称し、三つ子の時に打ち込んだる魂は、いわゆる習慣は第二の天性であって、牢乎ろうことして抜くべからざるものであるから、教育の必要は最もこの際に在る。而しかして、小供に対する婦人の感化力の遥かに男子よりも大なる以上は、家庭教育に於て婦人はまた実に一大責任を有するものである。換言すれば婦人は、実に我が将来の国民を陶鋳とうちゅうし出すところの一大技師なのである。然しからば婦人の任務の重且つ大なるは言わずとも知らるべく、男子としてこれを軽蔑することはならぬ。要するにこれを以て彼に易かうべからず、彼を以てこれに易うべからざる截然せつぜんたる区別が、男女両性の天職の間に存在するので、而しかしてこれは、なんらその人格と関係するところ無いものである。

七 両性関係と東西両洋の盛衰

不純不正なる男女関係の間に生れたる小供は、その体質に於て、その精神に於て、到底健全なる発達を期し難い。然しかるに東洋では古来女子の人格を尊重するを知らず、女子を以て一種の子孫を生む器械の如くにも見、結婚にもひたすらその容貌の美醜に依りて選択するの悪風が有ったから、その結果は今日の如く堕落して萎靡いび振わず、其処そこへ比較的厳粛なる西洋の家庭に人と為った体質、精神共に強健なる小供が南洋を迂回して東洋に来り、これを圧迫したから堪たまらぬ。彼等白人から異人種と称して劣等視され、差別的待遇を受けてその圧力に堪えず、衰滅の道を辿たどりつつあるの観を呈している。然らばこの過ちを知って、これより大いに改むべきである。さればといって、婦人はその自由の回復の名の下に、その天賦の体質性情に基づく分業を忘れて、男子の事業の領域まで侵蝕し、それがために自己の付与された一大任務を忽諸こっしょに付してはならぬ。これは如上じょじょう論述するところに依って、すでに明瞭なるところであるけれども、近来我が国にも新婦人なるものが現れて突飛なる意見を口にするというから、なお少しく実際に渉わたる一、二の例を引いて考うる必要があろう。男子も人ならば女子も人なり。男子の為すところなんぞ女子に為し能あたわざるの訳あらんやと力りきんでみても、その体質の上からして女子は軍務に不向きである。また政治の如きも一身国家社会の重きに任じては、家門を過ぐれども入らずというほどに、昼夜を分たず外に活動し廻らねばならぬことが珍しからぬ。すればこれも家庭を守るべき第一任務の存在する女子に在っては甚だ不向きである。それ故に少なくも女子は軍人たる能わず、また政治家たるべからざるものであり、この方面に於ては、到底男子に代るべき素質を有せざるものなる事を承知せなければならぬ。女子に於ける最大任務は何としても、妊娠、出産、子女教育のこの三つでなければならぬので、その他はこの余力を以て当れば当るのであるが、それを以て今日男子の天職とするところのものを奪う訳に行かぬ。好しや仮りに女子が男子に代るの能力ありと仮定するも、男子にして、今日女子の当る天職に代り得る素質の無い以上は致方いたしかたない。男子には妊娠出来ぬ。すでに出産後といえども男子には哺乳が出来ぬ。男子にも乳は有る。けれども男の乳は飾物であってなんら実用を為さぬではないか。すれば到底男子は女子に代るを得ぬ。否この点については、男子は衷心、女子に対して感謝しておらなければならぬはずである。それ故何としてもこの世は男女の申し合せで、各々おのおのその本然の体質性情に従って分業を守らなくてはならぬ。妊娠、出産、子女養育の家庭の任務が無いからして、それを倖いに好い気になって男子が勝手に飛び廻り、仕したい放題をしては困るが、そこは獣類とてもその子の愛すべきを知っている。況いわんや人間に於て子孫を愛せざるものが有ろうか。然しからば良人おっとたるものは、その妻と等しく自己の小供の教育に注意し、その家庭を純浄に保つことを勉めなくてはならぬ。これが我輩の婦人論に於ける根本の信念であって、自余幾多の問題は皆これより派生するものに過ぎぬ。

八 新婦人論の根本的誤謬ごびゅう

男女両性の精神的発達の傾向を概説すれば、男子の意的に発達するに対して女子は情的に発達している。それ故にまた審美的に発達し、従って美術、音楽、歌舞、その他の芸術の上にその特長を有する。従って女子の気質は淑しとやかで優しく、英語のいわゆるソフトという感じを与える。これが実に自然であって、この気質を円満に育て上げることが女子教育の心掛くべき大切な点であるが、今日の一知半解いっちはんかいなる婦人論者、世のいわゆる新婦人論者とかいうものはこの根本を無視して往々自然を傷やぶり、婦人の温良貞淑、優美なる性情を損い、而しかして徒いたずらにこれを野卑なる情欲に導き、放縦なる生活に陥れんとするものあるは戒むべきである。男子に対して婦人の権利を主張し、婦人の人格を尊重せしむると同時に、彼等の乱倫を禁ぜしむるは宜よろしいけれども、自ら進んで彼等と同じく乱倫の行為に出でんとするは大いに誤る。なんと理屈を付けようとも、人類が長き長き社会的共同生活の間に磨礪まれいし、洗錬して、今日に至った進化の結果に到着したる一夫一婦制をば、また獣的の雑婚時代の旧態に還元せんとするが如きは、これを没理性なる賤いやしむべき本能満足と言わずしてなんと言おう。彼等は自由恋愛とか、なんとか美わしき語ことばの衣を粧よそわしめて人を欺瞞せんとするとも、かくの如き単純なる本能満足は吾人の祖先がすでに幾千年の間に経験し、その非を悟って次第に改めて来たものではないか。何を苦しんで今また野獣の如き原人生活の昔に還さんとするか。革新は宜よろしいが退化は悪い。何処どこまでも進化でなくてはならぬ。

九 女子の高等教育とその参政権

我が国の女子教育は勿論もちろん御維新後のことであるが、西洋とても極めて近世のことで、僅わずかに一世紀以前に濫觴らんしょうしている。それにも拘わらず爾来じらい女子教育の発達は駸々しんしんとして進み、なかんずく米国の如きは最も隆昌の域に達し、女子は男子と等しく如何いかなる高等教育をも受け得、その間になんら両性を隔つる屏障へいしょうが存在しておらず、男女両性をして、共に天稟てんぴんの智能を遺憾なく教育せしむることとなっている。従ってこの自然の勢いはついに米国を騙かたって、その各州に女子参政権を与えしむることとなった。欧州諸国に於ける女子教育もまた大いに進歩したが、その結果として英国には早く女子参政権運動が行われ、長い間困難なる問題として研究されて来たが、この度の大戦を経て英国の国論は、次第に女子の主張に同意し、ついに今日は彼等に参政権を与うることとなった。この頃の文化の潮流から察すると、女子も男子と同様に政治上の地位を要求して已やまざるべく、この必至の勢いはついに何時いつかは我が国にも到来するであろうと思う。これはむしろ当然のことである。前にも言う通り、この世は男女相半あいなかばして存在しているので、日本も六千万の民衆というが、この半なかばの三千万人は女子でなければならぬ。然しかるに独り男子のみ政治に参与するの権利を有し、自己のために代弁する代議士を議院に送り得るに対し、三千万人の女子は自己の権利を擁護して代弁する一人の代議士をも議院に送り得ぬということは理に於て矛盾である。もとより物には階段があるので、この階段を経ずして一足飛びには進み兼ねるけれども、将来女子教育と女子の自覚との進歩に伴い、この問題は必ずや我が国にも齎もたらさるべき時期が有るであろうと信ずる。かくの如きは、婦人の当然の権利の主張なのだから、これまでは道理あることだけれども、これと前の自由恋愛というが如きものとは全くその性質を異にしている。我輩はあくまで社会的共同生活を愛するが故に、彼の如き利己的なる乱倫なる自儘じじん主義を排する。その様なる議論は勿論婦人界の全部に普及しおる訳でもなく、またかかる不健全なる思想は、莠はぐさの如く早晩誅鋤ちゅうじょされ了おわることと思うけれども、今日一部にかくの如き思想が存在しおるが故に、我輩はあえてこの説をなすものである。

十 釈迦孔子の子孫の現状如何

勿論かくの如き本能満足の欲望は、いずれの世いずれの人にも存在するので、ただに今日に始まった訳でない。換言すれば人類共通の欲望である。即ち吾人は、この性的欲望を動物と共有しておるので、支那人はこれを称して食色は性なりと断言している。実にこれは原人以来、吾人の欲望中最も強烈なるものである。それ故にこの本能を満足させることに対して、あえて自然主義とさえいっている。然しからば彼等は、次第に進化し来った今日の婚姻制度、即ち、一夫一婦制を以て自然に悖もとれりとするか。進化もまた自然である。自然に背いて何処どこに進化なるものがあるか。然らば自然を尊ぶからとて、この進化の理法に従って、自然に発達し来った今日の一夫一婦制を破壊せんと欲することは意味を為さぬ。下等動物よりして人間に発達するまでに、何十万年何百万年を費やしたか知らぬが、その結果四足が二足になり、匍匐ほふくして歩いたものが立って歩くようになり、前の二足は変形して運動の極めて自在なる手と為った。顔も突出して四十五度の角度を為したものが、何時いつしか今見る如く直角を為すに至った。全身に龐々むくむくした毛の生えていたものが、今では沢々つやつやしく滑らかになっている。房々した尾の垂れていたものが、今は僅わずかに名残りの尾骶骨びていこつを止めているばかりである。もしも彼等にして、自然を尊ぶというその自然の意義が進化の初程しょていに於ける獣的生活の状態を指すものであるならば、その生活を必要ならしめた当時の身体からだに、吾人の今の身体を立戻らせなければなるまい。が、此様こんな事が果して出来るか。彼等の眼よりして見たならば、かくの如き衣服を用うることも不自然であろうが、さればとてこれを脱いで、昔の姿に返すべく裸体でいるならば暑往き寒来り、未だこれを防ぐべき毛を生ぜざる間に、早くも凍死すること請合うけあいである。この如きは出来ない相談である。これまで進化した人類が如何いかにして原始生活に戻り得るか。即ち今日に於てこの一夫一婦制を棄てて、自由恋愛の美名の下に、原人時代の雑婚に復帰せんとするは、これ明らかに社会的共同生活を呪咀じゅそし、これを根柢こんていより破壊せんと欲するものに外ほかならぬ。人類は漸次に進化して、今では昔に比べればその身長も加わりその寿命も延びて来ておる。科学の発達せず医学の進歩せなかった以前までは、流行病の種類も頗すこぶる多く、一たびこの魔風に襲わるれば、夭死者ようししゃの続出を免れぬのであったが、今では一般衛生の進歩と共に、伝染病学の研究もまた進歩してそのために犠牲者の数を著しく減じた。その他あらゆる方面に於て人類が人類自らを改善したることは枚挙し能あたうところに非ず。吾人は更に更に努力して、この進化を無限ならしめんとのみ勉めている。乱倫なる婚姻の行われるところには忌いまわしき花柳病かりゅうびょうが多く、而しかして花柳病ほどに人間の血を悪化するものは無い。されば時と共にこの男女両性の関係を進化せしめて、層一層に純正ならしめれば、層一層に健全なる小供が生るべく、従って全社会、全国家が、また層一層に改善されるに相違ない。この努力を為し得ぬ意気地なしの民族は、漸次に悪化して衰滅に急ぐに相違ない。釈迦しゃかの子孫は如何いかん、孔子の子孫は如何、印度インドも、支那も、その国勢の凌夷りょういの何に帰因するを思うて、これを殷鑑いんかんとせなければならぬ。更にマホメットの子孫は如何。一時半月旗の影のダニウーブ河畔に翩翻へんぽんたりし時には、全欧州民族に顔色がんしょくが無かったでないか。然しかるに今果して如何の状に在るか。彼等は間も無く享楽主義の極弊に陥り、現在では国勢ほとんど西風落日の寂寥せきりょうたる光景を呈しているでないか。我が国家の前途、我が民族の前途を憂うるものは、以て他山の石となして自ら猛省せなければならぬ。

十一 一切の問題解決の秘鍵

建部たけべ〔遯吾とんご〕博士は、一般思想の変遷の上に三期を画し、第一を純所動の時代、第二を個人本位主義の時代、第三を社会本位主義の時代とし、而しかして吾人を以て今なお第二期の思想時代にいるものとし、これより進んで第三期に進み入るべきであるけれども、一般が悟らぬと説いておられるが、この悟る悟らぬの問題はともかくもとして、吾人が博士の説明する如き社会本位主義の思想を抱かねばならぬことは当然である。けれどもそのいわゆる社会は何に因よって形成されておるかといえば、夫婦に因るものであることの明確なる上は、何としてもこの婦人問題からして十分解決せなくてはならぬ。婦人問題の未解決に残る間は、個人主義も、社会主義も、はたいわゆる社会本位主義も真の解決を得ることは出来ぬ。従って一切の政治問題も、教育問題も、社会問題も、解決することは出来ぬ。婦人問題はすべての問題の基礎であって、基礎を固めずんば以て殿堂を造る能あたわず。殿堂を造るも一風一雨に直ちに崩壊し了るを免れぬ。誠に大切な問題である。然しかるに何故にこの問題を措おいて顧みぬか。ここに世界の人類の大謬が存している。而しかもこの問題を解決することは、さまでに困難でなく、指針は希伯来ヘブライに現れたる耶蘇基督ヤソキリストなる天才が吾人に明示している。即ち神意を仮かりて吾人に一夫一婦制を説き、「神は愛なり」と熱叫して、人類のために長く紛糾ふんきゅうせる困難なる問題を解決し尽しているではないか。吾人はただこの意義を宗教的でなく、別に理智に照らして大自覚を開き、その上に堅固なる信念を築けば宜よろしいのである。然しからば百千の妖説魔語も何かせん。これについてはもとより男子の自覚も必要であるが、婦人自らの自覚が更に更に大切である。瞑目沈思めいもくちんしして、夢にも世のいわゆる新婦人などいうものになってはいかぬ。今頃自然生活などと称し、無検束なる獣的自由などを慕っては、これを基督キリストより見せしめたなら、なんといって長嘆大息ちょうたんたいそくするで有ろうか。

底本 / Source edition

底本:「大隈重信演説談話集」岩波文庫、岩波書店
2016(平成28)年3月16日第1刷発行
底本の親本:「大勢を達觀せよ」帝國講學會
1922(大正11)年3月11日発行
初出:「大觀 第一卷第四號」大觀社
1918(大正7)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※〔 〕内の補足・注記は、編者による加筆です。
※底本巻末の編者による語注は省略しました。
※本文冒頭の編者による解題は省略しました。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:フクポー
校正:門田裕志
2020年8月28日作成
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TEI
/works/058104_001879/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/058104_001879/

大隈 重信「現代の婦人に告ぐ」(新字新仮名)、底本『大隈重信演説談話集』岩波文庫、岩波書店、2016年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058104_001879, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite