Soranoha

銭形平次捕物控

ぜにがたへいじとりものひかえ

野村 胡堂

六人斑男

第一人目磔

「親分、良い心持じゃありませんか。腹は一ぺえだし、酔い心地も申し分なし、陽気が春で、女の子が大騒ぎをすると来ちゃ――」

ガラッ八の八五郎は、長んがい顔を撫でて、舌嘗したなめずりしながら、銭形平次の後に追いすがるのでした。

与力筆頭笹野新三郎の心祝いの小宴に招かれて、たらふく飲んだ八丁堀の帰り、二人は八つ小路を昌平橋へ――、筋違すじかい御門を右に見て歩いておりました。

「それでお小遣がふんだんにありゃ申し分がなかろう。もっとも、女の子が大騒ぎするというのは、当てにならないが――」

「見くびったものじゃありませんよ、親分。近ごろうっかり明神下を通ると、色文が降るようでヘッヘッ」

「とんだ助六だ、――もっとも八を見かけて吠えつくのは、角の酒屋の牝犬ばかりじゃないんだってね。叔母さんは意見をしたがるし、菜飯屋のおかみは去年の掛けをうるさく言うし、煮売屋のお勘子は――」

「もう沢山、そんないやなんじゃありませんよ。この節あっしと親しくなったのは、金沢町の近江屋半兵衛の姪めいお栄――」

「おや、大層な玉を狙やがったな。あれはお前ピカピカする新造だぜ」

「それがすっかり打ち解けちゃってね。この節では、八五郎親分、八五郎親分――と」

「気味の悪い声を出すなよ。あの娘は、当人の前だが、八には少しお職過ぎるぜ。伯父は浪人崩れの金貸しで、一と筋縄でいけそうもないから、十手なんか突っ張らかして出入りしちゃ、後の患いだ」

平次は日ごろの用心深さに還って、そんな事を言うのでした。

三月になったばかりで、ポカポカする陽気ですが、桜にはまだ早く、江戸の街もこれから、春の夜の夢に入ろうとする亥刻よつ(十時)過ぎの静かなたたずまいでした。その時、

「た、助けてエ――」

押し潰されたような女の声、昌平橋をバタバタと渡って、平次に突き当たるように、わずかにかわされて、前のめりに、続く八五郎に抱きついたのは、夜の空気を桃色に燻蒸くんじょうするような若い女です。

「あっ、びっくりさせやがる」

抱きすくめるように、二、三歩退いて、橋の南詰の番屋の油障子を漏るるあかりに透して八五郎は驚きました。

「あ、お前は、お栄じゃないか」

ツイ今しがたまで、親分の平次とうわさをしていた、金沢町の近江屋の姪お栄という、近ごろ明神下をカッと明るくしている評判娘だったのです。

血の気のない顔、少し振り乱した髪、昼のままらしい袷あわせの前褄づまが乱れて、恐怖と激動に早鐘を撞く胸を細々と掻い抱くのでした。

「あ、八五郎親分、良いところで」

まさに息もたえだえ、そのまま崩折れそうになるのを、八五郎はもう一度抱き留めました。

「どうしたというのだ、お栄」

「伯父が、伯父が――殺されて」

「何? 伯父さんが殺された。何処だ」

「家の中で、――私がお隣りから帰って見ると殺されていたんです。早く早く」

お栄は漸く平静を取りもどしたらしく、二人の袂たもとを引かぬばかりにせき立てます。

「暗いじゃないか」

平次は初めて口をききました。金沢町の路地を入って、突き当りのしもたや、近江屋半兵衛の家は、金貸しらしくお客が入り良いように出来ております。

「とび出すとき、手燭を消してしまいました。待って下さい、直ぐあかりをつけますから」

お栄はもうすっかり落着いたらしく、先に入って火打ち道具を捜しておりましたが、やがてプーンと硫黄の匂いがして、手燭にあかりが移されました。

見ると、入口から奥へ、斑はん々たる血の痕、平次と八五郎はそれを除け除け、お栄の手から受取った手燭をかざして次の間に踏込みます。

「おや?」

平次は敷居際に立止りました。

「どうしました、親分?」

「大変な血だが、死骸はないよ」

「そんなはずはありませんが――」

後ろからのぞくお栄の頬の温ぬくもりと、香ばしい息が八五郎の首筋をかすめます。

「まア、何どうしたんでしょう。ツイ今しがたまで、此処にあったのが」

お栄もさすがに胆をつぶした様子です。

「八、重い死骸を持出しても、遠くへ行く隙はなかったはずだ。お前は家の外まわりを捜せ――遠くへ行くには及ばないよ、おれはその間に家の中を見る」

「よし来た」

八五郎は行燈に灯を入れて、それを片手に、裏口から飛び出しました。後には平次とお栄の二人。

「物を盗られた様子はないか」

「そんな様子は見えませんが」

戸棚も押入も、部屋の中も、キチンと片付いて、少しも取散らばした風はなかったのです。

「金は?」

「それはわかりません。伯父さんが自分で始末して、私などには手も付けさせないんですから」

「そんな事だろうな。ところでこの家には、お前と伯父さんとたった二人で住んでいるのか」

「いえ、番頭さんも小僧もおりますが、番頭の宇八さんは商売用で芝へ行き、小僧の定吉は、遅い藪入で、本所の親許に泊りに行きました」

「そして、お前は?」

「お隣りへ行って、話し込んでいたんです」

「なんどき時分からお隣りへ行った」

「酉刻半むつはん(七時)少し過ぎでした。お芝居の話に夢中になって亥刻よつ(十時)の鐘を聞いてびっくりして帰ると――」

お栄はその時のことを思い出したものか、ゴクリとかたずを呑むのです。

声は少し顫えておりますが、顔色はすっかり平静になって、聡明らしい大きい眼も、紅い光沢つやの良い唇も、頬から頤へ、首筋にかけての柔かい線も、八五郎が夢中になるように、全く比類の少ない美しさです。

物の言い振りに特色があって、少しあどけない調子は、二十歳はたち白歯の娘らしくはありませんが、それが一種の媚になって、人によっては、たまらない愛嬌ともいうでしょう。

その時、

「あッ、大変、こんなところに」

八五郎の声、家の裏のあたりで遠慮もなく張り上げます。

「何が大変なんだ。御近所でびっくりするじゃないか」

平次は八五郎をたしなめながら、水下駄を突っかけて、お勝手口から顔を出します。

続いてお栄、これも血だらけな部屋に、たった一人残るのが不気味だったのでしょう。

「親分、こいつが大変でなかった日にゃ」

八五郎は裏の空地に突っ立って、手ごろの椎の木を指さしながら、なおもわめき散らしております。その指先をたどった平次の眼。

「あッ」

さすがに驚きました。

「でしょう、親分。こいつは鳴物入りで驚いたって驚ききれませんよ」

そう言う八五郎の言葉はもっともでした、椎の木を背負わせて、磔刑型はりつけがたに縛ったのは、血潮に塗まみれた大男の死骸ではありませんか。

これが近江屋の主人で、お栄の伯父半兵衛の浅ましい姿であったことは言うまでもないのですが、胸から首を荒縄で椎の木に縛った上、匕首で突いたらしい首に、千両箱を一つ、頭陀袋のようにブラ下げさしたのは、何んのまじないか怨みか、とにも角にも凄まじい姿です。

半兵衛は四十五、六の男盛りで、滑らかな四角な顔と、武術家らしい逞ましい骨組を持った男で、浪人崩れというのは一と眼でもわかります。こんな手剛そうな男の首筋に、匕首を突っ立てるのは、容易のことではなかったでしょう。

死骸が重かったせいか、足は大地についたままで、磔風に大手を拡げさせる為に、六尺ほどの棒切れを肩に背負わせて、両腕を水平に縛ってあるのは、如何にも念入りです。

「ウ――ン」

平次の後ろで、物の倒れる音、――振り返るとお栄は、あまりの凄まじさに気を喪ったものか、庭石の上に崩折れております。

「八、お前はその娘を介抱しろ。おれは死骸を取りおろす」

「一人で大丈夫ですか」

平次はそれには返事もせずに、先ず死骸の首から千両箱を取りおろしました。縄の掛けようなどは、なかなか念入りで、貫々は思いの外軽く、開いている蓋を払って見ると、中には五、六十枚の小判が入っているだけです。

死骸の首の右側――千両箱を掛けた縄の当ったあたりは、物凄い傷口が開いて、血は肩から胸から、腰のあたりまで浸しております。縄はさして汚れていないところを見ると、死んでしまってから、此処に運んで、椎の木に縛ったものでしょう。

「手伝いましょうか、親分」

八五郎はもう一度お勝手口から出て来ました。

「娘はどうした」

「気分が直ったようです、――こいつは全く女子供に見せる代物じゃありませんね」

「手を貸せ。とも角家の中へ入れて、仏様らしくしよう」

「ヘエ」

平次は縄の結び目から、死骸の身体まで調べながら八五郎と二人、血潮に汚れるのも構わず、椽側に運び入れました。

「おや、変なものがありますよ」

八五郎は死骸の腕――捲くれた袖から出た二の腕の外側を見ております。

「何があるんだ」

「変な入墨ですよ」

賽の目

「どれどれ」

平次は庭の土の上に置いた行燈を持って来て、死骸の側に寄せました。

「ヘエ、こいつは、真田幸村の紋だ」

八五郎の声の頓狂さ。

「そんな小さい六文銭があるものか、それは賽さいの目の六だよ」

「賽の目にしちゃ大き過ぎはしませんか、豆粒ほどの大きさですぜ。こんな大きい目の賽ッころは、玩具屋の看板にブラ下がっている張子の賽だ」

「真物ほんものの賽の目の通りには彫れないよ」

むだを言いながらも平次は、念入りにその入墨を眺めております。

「そう言えば、薄く四角の筋彫がありますね」

そんな事を言って居るところへ、玄関からヌッと入って来た男がありました。

「おや、お栄さん、何どうかしたのかえ」

「あ、宇八さん、大変なことが」

「何をやったんだ」

それは三十七、八の痩せぎすの強靱な感じのする男でした。お栄はこの時漸く元気を回復したらしく入口の方に這い寄ります。

「伯父さんが――殺されたのよ」

「えッ、あの人が、――かつぐんじゃないだろうな。人に殺されるようなヤワな人間じゃない筈だが――」

そう言いながら入って来た番頭の宇八に、手燭の灯りの下に斑々たる血潮や、椽側の行燈の側に、死骸を調べて居る平次と八五郎を見てさすがに仰天した様子です。

「銭形の親分よ、宇八さん」

「そいつは――驚いたね、そんな事と知らないから、芝で二三軒まわって、ごちそう酒で良い心持になって歩いて居たが――」

「お前は?」

平次は死骸から顔を挙げました。隣り町に住んで居て知らない筈はないのですが、近江屋が此処で金貸しを始めたのは、ツイ半年ほど前のことで、番頭の宇八とは、往来ですれ違うか、湯屋で顔を合せる外には、口をきき合ったこともなかったのです。

「奉公人の宇八でございます。――大変なことで」

落着いた調子で、顔色も変えず、眉も動かしませんが、膝に置いた手がわずかに顫えるのを、平次は見のがす筈もありません。

「何処へ行って来たのだ」

「昼過ぎから、主人の申し付けで、取り立てに芝をひとまわりして来ました」

「何処をまわったのだ。行った先の名前は」

「巴ともえ町の御浪人で大橋伝中様、宇田川町の呉服屋で相模屋清兵衛さん、芝口二丁目の棟梁で、喜之助親方――それだけでござります」

「晩飯は? 何処でやった」

「喜之助親方のところでごちそうになりました。お酒まで出て」

宇八は自分の頬に手などを当てるのです。

「集めた金は?」

「二月は不景気で、あまり集りません。三軒とも利子だけで勘弁してくれということで、ほんの七、八両取っただけでございますが」

平次の気色の厳しいのにおされたものか、宇八は懐中から財布を出して、中味をザクザク鳴らしたりしております。

そのころから騒ぎを聴き付けたものか、夜更けの路地は次第に弥次馬の数が加わって行く様子です。

「八、お前は隣りへ行って、お栄が行った時刻と、帰った時刻をきいて来てくれ。如才もあるまいが、隣りの人達から、近江屋の内輪のことをよく訊くのだ」

「ヘエ」

「それから土地の下っ引を、出来るだけ集めてくれ。宇八が立ちまわったという芝の三軒に人をやって一々時刻を聴いて来るのだ。それから、本所の親許に帰って居るという、小僧の定吉も呼び出してくれ」

「そんな事ですか」

「用事はうんとあるが、先ずそれだけが急ぐんだ」

「ヘエ」

「あ、危ない、気を付けて歩け。畳の血の痕を踏むと後で始末が悪いぞ」

「おや、血の痕は固まりかけて居ますよ、親分」

八五郎は畳の上にしゃがみ込んで、血の痕を指で摩こすっております。

「殺されたのは宵だな、――それはまた後で調べる。早く先刻の手配だ」

「ヘエ」

八五郎は飛んで行きます。

「お栄、――少しききたいことがあるが」

「――」

お栄は黙って平次の側へ来ると、少しおびえた眼を挙げました。

「お前が隣りから帰って来た時、家の中に灯りが点いて居たのか」

「いえ、真っ暗で、何んにも解りませんでした」

「その真っ暗な中へ入って、灯りを点けたのだな」

「え、なれておりますから」

「灯りをつけた時は、たしかに伯父の死骸はこの部屋にあったのだな」

「確かにございました。長火鉢にもたれるようになって、首をがっくり前へ下げて」

なるほどそう言えば、長火鉢の灰が血潮を吸って真っ黒に固まっております。

「その死体を見て、お前は真っ直ぐに昌平橋の方へ駆けて来たのだな」

「え」

「何処へも寄ったわけではないな」

「何処へも寄りません」

「そんな時、当り前なら、お隣りへ声を掛けるのが本当じゃないか」

平次の問いは微妙で辛しんらつでした。

「でも、面喰ったんです。あんまりびっくりして」

お栄の調子は淡々として何んの技巧もなく、そう言われる意味さえも呑込み兼ねる様子です。

「それにしても昌平橋の方へ来るのは変じゃないか。隣りの家へ駆け込まなくても明神下のおれの家くらいは知ってるだろう、昌平橋へ行くのは、まるであべこべじゃないか」

薄暗い行燈の側、もう一つの手燭は畳の上に置いて、斑々たる血痕に繞らされながら、この臨時お白洲は、物凄くも効果的です。

「宇八さんが帰るころだと思ったんです。伯父さんが殺されているのを見ると、一番先にそんな事を考えて昌平橋の方へ行ったのでしょう。それに――」

「それに?」

「昌平橋の南詰には、番所があります。私はそれへ駆け込む気だったかもわかりません」

咄嗟の間に動く娘の心理は、銭形平次の叡智にも及ばないものがあるのでしょう。

「親分、お隣りへ行って来ましたがね」

八五郎は何にか平次に言いたいことがある様子で、あたりを見まわしたり、鼻の穴をふくらませたりしております。

「何んだ、其処で言ってみな」

平次はたいして警戒する様子もなく八五郎を促します。隣りの部屋には姪のお栄も番頭の宇八も聴いて居る筈ですが、どうせ御近所の衆が岡っ引に話すことくらいは、本人達の耳に入れてもたいして不都合はあるまいと思って居るのでしょう。

「お栄が隣りへ行った時刻と、帰った時刻は、本人が言った通りですよ。夕食の後片付けが済んだ時行って、ツイ先刻亥刻よつ(十時)の鐘が鳴ると、――おやもうそんな時刻か知ら、伯父さんに叱られるといけないから――と大急ぎで帰ったそうです」

「あの娘の近所の評判はどうだ」

「悪くありませんよ。開けっ放しで、きりょう良しで、気が大きいから」

「主人は?」

「近江屋半兵衛は金貸しのくせに大気で、近所附合いもよく、町内の寄付寄進諸掛りにも、糸目をつけない方で――」

「金貸しの癖に気の大きい男などは、ちょいと珍らしくはないか、八」

「そう言えばそうですが、――もう一つ親分」

八五郎は言いにくそうにモジモジしております。

「何んだえ、八。いやに出し惜みをするじゃないか」

「でも、こいつは大きい声じゃ言えませんよ――御近所の衆のうわさでは、主人の半兵衛のことを伯父さん伯父さんとは言って居るが、あのお栄という女はどうも本当の姪じゃあるまいって――ウフ」

「変な声を出すなよ」

「とんだ伯父姪でなきゃ宜いが、――こいつは人別をみなきゃわかりませんね」

八五郎は独りで面白そうにして居るのです。

「番頭や小僧は?」

「宇八は男っ振りも好いが、商売も上手だそうで、あの店は番頭の働きでやって居るようなものだ――なんて言うのがありますよ」

「それから?」

「小僧の定吉は唯の小僧で、――もっとも十五というにしては柄も大きく、智恵もあるそうで」

「そんな事でよかろうよ。半兵衛の前身のことは聴かなかったか」

「中国あたりの浪人者で、どこか武張ったところがあったということですが」

「お栄を呼んでくれ」

「ヘエ」

八五郎が隣りの部屋へ姿を消すと代ってお栄が、少しおどおどしながら出て来ました。

「どうだ、気分は? 少しは落着いたか」

平次の調子は平凡で優しくさえありました。

「え、有難うございます。もう大丈夫です。先刻さっきはあんまりびっくりしたんで」

お栄はそういいながら、まだ動悸の納まらぬらしい、胸のあたりを押えるのです。

「お前にきいたら分るだろうが、伯父さんの半兵衛は浪人者だということだが、何処の藩中だえ」

「それが私にはわからないんです」

「姪のお前にか?」

平次も少し詰問的になりました。お栄の調子は少し変り過ぎていたのです。

「でも、それにはわけがあるんです」

姪が伯父の素姓を知らないわけを、お栄はどう辻褄を合せる気でしょう。

「そのわけというのは?」

「私は、伯父さんの本当の姪じゃなかったんです、――恥を言わなきゃわかりませんが、私が物心ついた時は、親も兄弟もない、見世物小屋の親方に養われて居る孤児みなしごでした。遠い田舎で水呑み百姓の娘に生れて、食うに困って売られたものか、それとも、親の許さない不義悪戯の果てに出来た子で、里流れになって見世物の親方の手に渡ったか、それはわかりませんが、兎も角、物心ついてから十五、六まで、日本中を渡って歩く、旅の見世物師の小屋で育ち、いろいろの芸を仕込まれて舞台に立っておりました」

お栄の話はかなり奇ッ怪ですが、この女の持って居る一種の媚態は、いずれ真面目な家庭で習得したものではなく、長い間見世物の娘太夫で、多勢の客の好みに応じて、自然に会得したものとわかると、不思議でも何んでもなくなります。

「――」

平次は黙ってその先を促しました。

「今から三年前、東海道を旅興行中、親方が土地の顔役に怨まれて既に命までもという大難に逢った時、伯父の半兵衛に助けられ、それから打ち解けて附合うようになり、到頭私は納得ずくで伯父にもらわれ、姪ということで養われました。旅から旅への暮しもそこでお仕舞いになり、私は江戸に住みついて、何時の間にやら三年も経ってしまいました」

お栄の物語はこれで終りました。整然と筋の立つもので、近江屋半兵衛との関係――伯父姪の義理もこれで一応は説明されます。

「ところで、半兵衛の腕に彫ってあった、賽の目の六は、ありゃどういう入墨なんだ。お前は知って居るだろうと思うが――」

「いえ、何んにも知りません。主家を退転して禄を離れた当座、その日にも困って賭場の用心棒もしたことがあると、笑い話にしておりました。多分そのやくざ附合いの形見じゃございませんか」

そう言われるとそれまでのことですが、博奕打の賽ころなら、刺青ほりものにしても二つ並べて彫りそうなものですが、たった一つ六だけを彫ったところに腑に落ちないものがあります。

「半兵衛は腕が出来ていたことだろうな」

平次は妙なことを訊ねました。

「腕自慢でございました。柔術やわらも剣術も、弓も馬もひと通りはやったが、わけても剣術は自慢だったようで、免許とやらを取って居ると言っておりました」

「それが苦もなくやられるというのは――」

それが平次には呑込めなかったのです。仮にも一流の免許を取ったものが、何んの抵抗の様子もなく、蟲のように刺されて宜いものでしょうか。

「ふだん、附合って居るのは、どんな人達だ」

「あまりお附合いはありません。御近所の受けは良い方ですが」

「配偶つれあいも子供もないのか」

「ないようでございます」

「金はどれくらいあると思う」

平次の問いは飛躍します。

「それは私にはよくわかりませんが、これで私もどうやら千両分限ぶげんになった――と言って居たのは、去年の夏あたりでございます――もっともそのうち九百両までは貸した金だが、とも言っておりました」

お栄の言葉はなかなかよく説明が届きます。

「千両はたいしたことだな。ところで、くどいようだが、半兵衛の生国や旧主を何にかの話の序ついでに漏したことはないのか」

「そればかりは申しませんでした。何んでも中国筋のことをよく知っておりましたし、上方なまりのあったところから見ると、上方から中国へかけての、小大名の家中かと思いますが――」

お栄の聡明さも、ここまでは探索が届かなかった様子です。

「もう一つお前がもと居たという見世物は何んという一座だ。親方の名は?」

「明石一座と言いました。親方は明石五郎八、旅まわりの田舎芸人で、江戸などで小屋を掛ける人じゃございません」

「よしよし、今度その見世物小屋にめぐり逢ったら、お前のことを話して見るよ」

平次はそんな愛嬌を言うほど心に余裕が出来た様子です。

「親分」

飛び込んで来たのはガラッ八でした。相変らず疲れを知らぬ男です。

「何んだ――もう遅いぜ。宜い加減にして引揚げようと思って居るところだ」

「それどころじゃありませんよ、井戸端で血を洗った奴がありますよ。まぐろを料りょうった板みたいについて居ますぜ」

「そうか」

平次は外へ出ました。下っ引二、三人、提灯を振りかざして騒いで居るのを見ると、なるほど井戸端の流しは斑々たる血の痕で、ここで汚れを始末しましたと言わぬばかりです。

「親分、刄物は見つかりませんね」

「おれもそれを捜して居るんだが――曲者が持って逃げたんだろうよ」

「下手人の当りは付きましたか、親分」

「いやまるで見当もつかないよ」

「あの腕の立った浪人者の主人を一と太刀でやっつけるのは、余っ程の腕前ですね」

ガラッ八もそんな事を一生懸命考えていたのでしょう。その余っ程の腕前を持った男が、このへん――八五郎の縄張り内には居そうもありません。

「真っ向から行けば大変だが、そっと後ろから行って匕首でやったかも知れない」

「自分の首筋に匕首を叩っ込まれるまで、黙って居るでしょうか、あの男は?」

「油断をさしたのだろう、――いや後ろにまわっても何んとも思わせない相手だろう」

「ヘエ」

「ところで、もう一つお前に頼んだことがあった筈だが――」

「お栄がお隣りへ行った後で、半兵衛の達者な姿を見た者はあるかないかということでしょう。姿を見た者はないが、声を聴いた者は二、三人ありますよ。お栄が出かける時門口で、――ではちょっと遊んで参ります――と甲ん高い声でいうと家の中から半兵衛が不機嫌らしい声で――おれ一人にされちゃ不自由で困るから、早く帰るんだぜ――と言って居たそうですよ」

匕首の行方

「親分、到頭出ましたぜ」

相変らず、脈絡みゃくらくのない事を言いながら、飛び込んで来る八五郎でした。

近江屋半兵衛殺しがあった翌る日の夕景、平次は金沢町の現場で一日調べ抜いて、ツイ眼と鼻の間の、自分の家へ来て一と休みするともうこれです。

「何が出たんだ、明神様の裏から、また狸の子でも出たというのか」

「そんな間抜けなものじゃありませんよ。今日の昼の引潮時に、昌平橋の下から匕首が一本出たんで」

「なに、匕首?」

「こいつは狸の子より面白いでしょう。脂の浮いたドキドキするのが、投り込む時見当でも外れたか、うまい具合に岸の石垣の根に突っ立っていたんですって」

「それから何うした」

「近所の子供達が見つけて、石垣から降りて取って来たまではよかったが――」

「その匕首を何処へやった」

「話はこれからですよ。それを見ていたのは通りすがりの樽拾いの小僧で、いきなり子供達のところへ来て餓鬼大将に渡りをつけた――」

「まわりッくどいな、手っ取り早くらちをあけてくれ。事と次第じゃ、匕首を追っ駆けなきゃなるまい」

平次はもどかしそうでした。話の発展の様子では、直ぐにも飛び出しそうな気組です。

「今から駆け出しても間に合いませんよ。その樽拾いの小僧は、匕首を一朱で買ったんで」

「仕様がねえなア、何んだってその小僧を促つかまえなかったんだ」

「つかまえましたよ。小柳町の駄菓子屋に首を突っ込んでいるのを見つけて、昌平橋の自身番に預けてありまさァ、うんと脅かしたら、ワンワン泣き出しゃがって手のつけようがありません。一朱で買った匕首なんか何処へやったか持っちゃ居ませんよ」

「子供に口をきかせようと思ったら、脅かしちゃダメだ。どりゃ行って見よう」

平次はみこしをあげました。八五郎について昌平橋まで行くと、黒山の人だかりの中に、十二、三のあまり賢こくなさそうな男の子が、ワアワア手放しで泣いております。

「その小僧ですよ、親分。匕首を一朱で買って小柳町の駄菓子屋に首を突っ込んでいたのは」

八五郎は相変らず遠慮もなく張り上げます。

「よしよし――お前はこの辺で時々見かける小僧じゃねえか。匕首を買ったって、叱りもどうもするわけじゃない。そんなに菓子が欲しきゃ、暴れ食いするほど買ってやろうよ。泣くことはないよ、お前も男じゃねえか」

平次は樽拾いの小僧の背をなでながら、巧みにきげんを取って行きます。

「――匕首をだれに頼まれて買ったか、その匕首を何処へやったか、それさえ言や宜いのだよ。わかったか小僧さん。――それよ、ここに一朱ある、おれは無理なことなんか頼みはしない、これでへそが抜けるほど好きなものを食うが宜い、――もっとも腹をこわしちゃ何んにもならないよ。宜いだろう、解ったな。フ、フ……そら笑った、――もう泣いちゃいない、なア兄さん」

平次は巧みに小僧の気を引いて行くのでした。

「うん、おいらは人に頼まれたんだよ。あの子供達の見つけた匕首を一朱で買ってくれたら、お前にも褒美を一朱やろうといわれたんだ」

小僧は新しい一朱銀を一つ、宝物のように握り締めて、泣きじゃくりながらいうのでした。

「それから何うした?」

「匕首は、その頼んだ人に渡したよ――その人は、何処へ行ったか知らないや」

小僧は覚束なくあたりを見まわすのです。

「その匕首を買わせたのは、どんな人だ。お前の知っている人か、それとも知らない人かえ」

平次は漸く重大な緒口に取っつきました。

「知ってる人だよ、あの声は幾度も聴いたことのある声だよ。顔は思い出せないんだ、――だって頬冠りをして袖で口のあたりを隠して居るんだもの」

「みなりは」

「双子縞というんだね、袷の上へ半纒を着ていたよ。何処かの番頭さんかも知れない」

「何んとか、そいつを思い出す工夫はないのか。頼むぜ、小僧さん」

平次は小僧の胸倉でも掴みたい心持でした。このあまり賢こそうでもない小僧が、もう少し気をきかしてくれたら、この厄介な事件は、たったいっぺんに解決してしまいそうな気がしたのです。

「もう一度逢ったら、きっと思い出しますよ。この近所の人に違いねえんだから――」

小僧の言葉にはわずかに光明が射します。

「お前の家は何処だ」

「佐久間町だよ。仁助店だなの元吉って訪ねて来ねえ」

樽拾いの元吉は、幡随院長兵衛みたいなことを言います。

「仁助店の元吉というんだね。良い子だ、暫らくこのへんをまわって、お前に匕首を買わせた人間を捜してくれ。日当は出すぜ。その上首尾よく捜し当てたら、もう一朱はずもう」

「有難てえな、頼んだぜ、親分」

高慢なことを言いながら、この賢こくなさそうな小僧は、明神橋の方へ弥次馬を縫って去りました。

やや暫らく平次は昌平橋の上から、匕首の落ちていたあたりを、子供達に訊いたりしておりました。

「鞘はなかったか」

「なかったよ小父さん」

匕首を拾って、一朱せしめた子供達はまだ何にか落ちているんじゃあるまいかと思う様子で、未練らしく石垣のあたりを粘っております。

「匕首と鞘は別々に投ったか、それとも水の中で抜けたか――兎も角鞘を見つけたら、持って来てくれよ、褒美はやるぜ」

「有難てえな、小父さん」

子供達はもう鞘を見つけたような気持になって居るのです。

「ところで八、大変なことを思い出したが――」

平次は八五郎を呼びつけました。恐ろしく突き詰めた顔をしております。

「何んです親分」

それを迎える八五郎の顔の長閑のどかさ。

「あの樽拾いの小僧に見張りをつけるんだ。糸目を忘れたのが、とんだ手落ちにならなきゃ宜いが」

平次はひどく気をもんで居る様子です。

「親分、あの小僧の行方ゆくえはわかりませんよ」

八五郎が平次の家へ報告を持って来たのはその晩――まだ宵の内でした。

「仕様がねえな、もっともこいつはおれの手落ちだったが」

「佐久間の仁助店も覗きましたが、暗くなるのにまだ帰っていませんよ。佐久間町の路地の奥で、雀の巣のような家ですがね、母親一人に子供が六人という大世話場で、あの子は二番目の見掛けに寄らぬ働き者だそうですよ」

「間違えがなきゃ宜い――」

平次はそれを心配して居る様子でした。

「ところで、近江屋の番頭宇八が、あの晩立ちまわった先は一々調べさせましたよ」

八五郎は新しい話題を持出しました。

「どんな様子だ。詳しくわかって居るだろうな」

平次もこれはひどく興味を感じているらしく、樽拾いの小僧の行方は、それっきり忘れてしまいました。

「巴町の浪人者、大橋伝中のところへ行ったのは未刻半やつはん(三時)ごろで、貸し金の利息一両二分だけ受取ってお茶を呑んでおこしをつまんで帰ったそうです」

「それから」

「芝口二丁目仙台屋敷の側の棟梁喜之助のところへ行ったのは申刻ななつ(四時)丁度で――あつらえたように、増上寺の鐘が鳴ったそうですから、間違いはありません、――其処では入って話し込んで、一杯飲んで晩飯までご馳走になって、悠々と酉刻半むつはん(七時)ごろ帰ったということです。受取ったのは利息の外に月賦の金を入れて三両二分」

「――」

「三軒目の宇田川町の呉服屋――相模屋清兵衛のところへ行ったのは戌刻いつつ半(九時)」

「待ってくれ、その間が少しかかり過ぎたようだな。芝口二丁目と宇田川町は眼と鼻の間だ、四つん這いになって行っても、一刻(二時間)もかかるはずはないじゃないか」

「あっしも変だと思いましたよ。念のため宇八に逢って訊くと、喜之助親分の家で、少し飲み過ぎて、頭痛がしてかなわないから、暫らく芝浦へ出て、仙台様御中屋敷の裏あたりで、御浜御殿を眺めて、海の風に吹かれていた――とこう言うんで」

「それから」

「相模屋では店先で用事を済まして、――もっともこれは大口だから、利息を三両受取って、真っ直ぐに金沢町へ帰ったということです」

「すると、宇田川町から金沢町まで、一刻で帰ったことになるな」

「そんな事になるでしょうね」

八五郎の報告はそれで終りました。芝口二丁目の喜之助の家から、金沢町まで取って返して、近江屋の主人半兵衛を殺し、もう一度宇田川町へ引返したとすれば、番頭宇八には下手人になる可能性はあったわけで、芝の海を眺めて、だれも居ないところで酔いをさまして居たなどということは、この際不在証明アリバイとしては成立しません。

「ところで、もう一つ、近江屋の小僧の家はどうだ」

「小僧の定吉――あれは利口者ですね。親一人子一人で、その親は中風で身動きも出来ず、妹の世話になって居ますが――」

八五郎は語り進むのでした。

「――小僧の定吉の家へも行ってみましたらね、本所の石原ですよ。父親の定五郎は昔は戸塚の宿で旅籠屋をして、よく暮したそうですが、身上をいけなくして江戸へ出て、数々苦労をした揚句の果てに中気に当り、足腰も立たない始末でさ。妹というのは出もどりのお里――定吉の叔母で、名前だけは可愛らしいのが世話をしていますが、これがまた人間の雌の乾物に魔がさしたような中婆さんで――」

「口の悪い奴だな」

「でも、定吉は孝行者ですよ。あの通り十五にしてはませた方で、智恵も身体も一人前ですが、主人の半兵衛が因業で、ろくな手当もしない上、藪入りにも出さなかったというんだから、思いやられまさ、――あの日は昼から親の家へ帰って、両国の見世物一つ見るんじゃなし、叔母のお里を骨休みに出してやって、父親の世話をして居たというんだから、感心な子じゃありませんか」

「御苦労御苦労、そんな事で、捜ることは捜り、聞き込むことは聞き込んでしまったが、肝腎の近江屋半兵衛を殺して得のゆく者や、近江屋半兵衛を殺すほどの怨みを持って居る者の見当はついたわけじゃねエ」

平次は深々と考え込んでしまったのです。

「これから先、何をやりゃ宜いんで、親分?」

「相手の仕掛けて来るのを待つほかはあるまいよ、――することが器用で執念深いから、これっきりで引っ込む相手ではなさそうだ」

「すると?」

「待ちなよ、だれか路地へかけ込んだ者があるようだ」

平次が聴き耳を立てる間もありませんでした。

「親分大変なことになりました。早速お出でを願います」

それは滅多なことでは驚いたことのない、湯島の吉という中年者の下っ引でした。

「どうした、吉じゃないか」

「妻恋稲荷さまの裏で、あの小僧が殺されていますよ」

「樽拾いの小僧か」

「え、元吉とか言いましたね。可哀想に、野良猫のように首に縄を掛けられて」

湯島の吉もさすがに声を呑みます。

「行こう、八――そんな事にならなきゃ宜いがと思ったが」

平次の予感が残酷なほどよく当りました。三人一団になって、妻恋稲荷の境内を抜け、その後ろの藪へ出ると、町役人や弥次馬が、幾つかの提灯とともにひしめき合う中に、あの樽拾いの小僧の死体が横たわって居るのでした。

「おや、銭形の親分、――こいつはもうだめだね。殺されてから半刻は経っている」

町内の医者は坊主頭を振りながら、そっと死骸の側に立ち上がりました。

「ひどい事をしやがる」

「こんなむごたらしい事をする野郎は、磔柱はりつけばしらを五、六本背負わせなきゃ、腹の虫が納まらねえ。畜生ッ」

平次と八五郎は死骸を中にしてしゃがみました。首の縄は解きましたが、苦悩の色がありありと顔に刻まれて、額へ触ってみると、もう冷たくなりかけております。

「この小僧を道具に使って、しりが割れそうになってこんなむごたらしい事をしたんだろう。おれはきっとこの下手人を見つけてやるよ」

平次の言葉は静かですが、下手人の残酷さに腹の中には煮えくり返るような忿怒を感じている様子です。

「八、お前は金沢町の近江屋へ行ってみろ、夕方からだれとだれが外へ出たか、それを突き止めるんだ」

平次はとッさの間に、この樽拾いの小僧の死と、紛失した匕首とそれから近江屋の主人半兵衛の死と、以上三つの事件の緊密なつながりに気がついたのです。

八五郎は弾みきった猟犬のように飛んで行きましたが、やがて四半刻も経つと、嵐の如き鼻息を先に立ててもどって来ました。

「親分の鑑定通りだ――あの野郎が主人の葬いの後片づけも済まぬうちから飛び出して、まだもどって来ませんよ」

「番頭の宇八か」

「その通りで」

「そんなことだろうと思ったよ。多分ムダだろうが、五、六人下っ引を狩り集めて、心当りの筋を漁あさって見てくれ」

「そいつはあっしが引受けましょう――宇八の野郎なら顔見知りだ」

湯島の吉は飛び出しました。下手人の足跡らしいものをかぎつけると、それを手繰らずに居られない、岡っ引本能にかり立てられたのでしょう。

「それじゃ宇八の方は吉兄哥に頼んで、お前はこの小僧の死骸を、佐久間町の親許に送り届けてくれ」

「ヘエ」

「おれは大急ぎで調べて置きたいことがある」

平次は何を考えたか、人混みを分けて、春の夜のやみの中に姿を隠してしまいました。

「おーい、この子の引取人は来ているのかえ」

「ヘエ、ヘエ、私は佐久間町の家主仁助でございます。これは元吉の姉のお雪で」

八五郎の声に応えたのは、六十近い禿頭の老人で、その声にハッと顔を挙げたのは、死骸の側にしゃがんで、ヒタ泣きに泣いていた若い娘でした。

十七、八にもなるでしょうか、女の美しさが漸く成熟しかけておりますが、骨の髄までしみた貧しさがその美の完成を妨げて、何んとなく蟲食いの果物のような感じのする娘です。八五郎の指図で、人足達は戸板を一枚持って来ると、小僧の死骸をそのうえに載せ、提灯の黄色い灯りにわびしく照らされながら、夜更けの街を佐久間町にたどるのでした。

姉娘のおえつの声が顔を覆ったボロボロの袖口からもれて、八五郎の胸を痛めます。

仁助店の――いわゆる雀の巣のような裏長屋に死骸が運び込まれた時は、八五郎は幾度逃げ出してしまいたい衝動に駆られたことでしょう。四十前後の見る影もなく世帯疲れのした母親と、お雪の外にまだ四人もある小さい妹と弟たちが、無慙な元吉の死体に取りすがって、たしなみも遠慮も忘れて、ワーッと慟哭の大合唱を始めてしまったのです。

「親分、弟が、あんまり可哀想です。こんなむごたらしいことをしたのは、一体だれでしょう」

お雪は八五郎の袖にすがりついてこうかき口説くのでした。

「下手人は大方わかっているよ、心配することはねえ。三日経たねえうちに召捕って、おしおきに上げてやるよ。銭形の親分が心得ているんだ、なア」

ポロポロと涙をこぼしながら、娘の肩を叩いて、恐ろしい安請合いをする八五郎だったのです。

一万二千両

平次と八五郎が顔を合せたのは、その翌る日の朝、明神下の平次の家でした。

「どうした、八。ぼんやりしているじゃないか」

猿屋の揚子を使いながら、平次は井戸端から声を掛けます。

「ぼんやりもしますよ。あんまり癪にさわるから、夜半過ぎまでかぎまわったが、小僧殺しの下手人は見当もつかねエ」

明けっ放したままの格子戸の中へ入ると、お静のほうき先を除け除け八五郎はお勝手をのぞくのでした。

「こいつは底が深いよ。急いでもらちは明くまいとみたから、おれはあれから直ぐお数寄屋橋まで飛んで行き、お南の書き役をたたき起して、お奉行所の御記録を調べてもらったよ。家へ入ったのは白々明けさ」

平次は事件の真相を突くために、ほとんど徹夜の調べに立ち合ったのです。

「それで、あの樽拾いの小僧を殺した奴がわかりましたか、親分」

「お前はまた、大層小僧殺しに力瘤ちからこぶを入れるじゃないか」

「佐久間町の仁助店まで、死骸を運び込んだら、可哀想でしたよ。母親は貧乏疲れのした四十女で、足手纒いの小さいのが四人、一番上の姉が十七で、手内職をして暮しを立てているが、滅法可愛らしい癖に、袷も帯もボロボロだ。あっしは財布をたたいて香奠こうでんを置いて来ましたがね、昨夜ばかりはこの財布にせめて三両でも五両でも入っていたらと、情けなくなりましたよ――穴のあいたのが、五、六枚じゃ、紙に包む張合いもない」

「泣くなよ、八。小遣のないのは平常ふだんの心掛けが悪いからだ、――もっともそういうおれだって、財布の中が光っていたためしはないがね」

そう言いながら、平次も淋しく苦笑いしているのです。

「だからあっしは、せめて下手人を三日経たないうちに召捕って、この怨みだけは晴らしてやると、請合って来ましたよ」

「良い新造がいると、お前の気組が違って来るから不思議さ」

「そんなわけじゃありませんがね、親分」

「まァ、宜いやね。ところで、お南の書き役に一升買って、とんだ眠い思いをしただけに、いろんなことがわかったよ」

「ヘエ、どんなことで?」

「先ず第一に、あの近江屋半兵衛の二の腕の入墨は唯事じゃない」

「ヘエ」

「ひとしきり海道筋を荒した、斑まだら組の六人男というのをお前は知ってるだろう」

「知ってますよ。二、三年前でしたね、小田原から駿府へかけて宿々を荒した、六人組の大どろぼう」

「それだよ――お膝元の江戸へは入らなかったが、箱根から宇津の谷峠をかせぎ場に、大物ばかりを狙った悪者だ。それが今から丁度二年前、宇津の谷峠で尾張様の御用金――名古屋から江戸へ持って来る一万二千両の金を、馬子と宰領のお武家二人を斬って奪い取り、二人の仲間の死骸を捨てて、それっきり行方知れずになっていることはお前も聴いている筈だ」

「知ってますとも、お上からのお指図で、江戸中は言うに及ばず、四宿の外まで手配して、その六人組を捜したが、到頭行方がわからなかった――」

「江戸で起ったことと違って、宇津の谷峠のどろぼうでは、ツイ力瘤も抜けて、月日が経つと忘れてしまったが――この間殺された近江屋半兵衛は、その一味らしいのだよ」

平次の話は全く驚くべきものでした。

殺されて庭の椎の木に磔刑にされた近江屋半兵衛は、かつて街道筋を荒し抜いた、斑組六人男の片割れとは、まさに岡っ引本能にどんでん返しを打たせるような、センセイショナルなビッグ・ニュースです。

「そいつは、親分、本当ですかえ」

さすがの八五郎も、口を開いたり塞いだり、膝っ小僧をたたいたり、顎を撫でたり、暫らくは興奮のやり場に困っている様子でした。

「お前も知っての通り、尾張様では御用金をどろぼうにしてやられたうえ、選り抜きの家来が二人まで、蟲のように殺されたのでは、世間に対して御三家の面目が立たないというので、御家中を挙げての大掛りな探索をしたが、日が経っているので、金の行方も、曲者の逃げた先もかいもくわからない。たった一人生き残った馬子の口から、相手は六人組の曲者で、首領は浪人風の中年男、中に若い前髪立が交っていた、これがなかなかの腕ききらしかったということだけはわかっているが、それだけのことでは、手のつけようがなかったのだ」

「――」

八五郎は今更感に堪えて聴いております。お南奉行所の記録に残っている、一年前の宇津の谷峠の出来事を平次は朝の茶に唇を潤おしながら、反芻はんすうするように続けるのでした。

「曲者はその前から街道筋を荒していた斑男の六人組で、一万二千両の金は、多分姿を変えて、酒か米の荷に紛れて江戸へ入ったことだろう」

「その時分、江戸の町方へもお触れがまわりましたね。斑組六人男の巣を突き留めたものには十両ずつ、召捕った者には一人について百両ずつの褒美が尾張様から出ることになったと――」

「欲張ったことは感心に忘れないんだね」

「今でも、その褒美は出るでしょうか」

「相手は御三家の筆頭、六十一万九千石の大々名だ、あれは冗談であった――などとは言うまい、首尾よく六人男斑組の残党四人を縛って、四百両の褒美を八五郎が一人占めにしてみるか」

「ヘッ、悪くありませんね」

「その中から、樽拾いの小僧の姉――その何んとか言う新造のところへ、二朱ばかり香奠を持って行く――」

「そんなケチなことはしませんよ。香奠に半分はずんであとは夏の物を出して、叔母さんに小遣をやって、親分に一升買って来て」

「おれの分は辞退しようよ、後が怖いから」

緊迫した空気の中にも、相変らず洒落のめさずにはいられない二人です。

「それから親分、どうしました」

「もう一つ面白いことがわかった。斑組の六人男は、二の腕に賽ころを彫っているということだ、目の数は一(ピン)から六まで――多分一か六が首領だろう。近江屋半兵衛の腕に彫った入墨は六だった、斑組の中では多分良い顔だろう」

「二の腕の入墨なら、江戸中の湯屋に触れをまわせば、直ぐわかりゃしませんか」

「そいつは思いつきだが、だれでも気のつくことを、斑組の悪者だけ気がつかずにいるはずはない。それより、差当り腕守りを外さずに湯に入る奴はないか――一年も半歳も、町のフロへ行かない奴はないか――そんなことを調べる方が近道だろうよ」

「江戸中で、湯の嫌いな野郎は何千人あるかわかりませんが、その不精な人間をみんな調べ上げるんですか親分」

八五郎は酢ッぱい顔をするのです。かく申すガラッ八も、たいした湯の好きな肌合いらしくはありません。

「馬鹿だなア、江戸は広いやな。一々湯好きと湯嫌いを調べ上げられるものか。それに大店ではみんな内湯を立てているし、お目見得以上の武家は、銭湯へは行かないことになっているんだ」

「なるほどね」

「それに、もう一つ、宇津の谷峠で一万二千両の御用金を盗んだ時宰領の尾張様の御家来が二人とも死んでいるが、斑組六人男の方にも怪我があったんだ。――悪者六人のうち浪人者らしいの一人と、やくざ者らしい男が一人、尾州の宰領に斬られて、相討ちのように死んでいたんだ」

「すると、六人組のうち、四人しか残っちゃいないわけですね」

「その通りだ。そのうち、近江屋の半兵衛が一人殺されて、斑組六人男のうち、生き残っているのは三人だけだ、――みんな八五郎が縛っても、褒美はたった三百両だよ、樽拾い小僧の姉――何んとかいったな」

「お雪っていうんですよ、――一々忘れちゃ困りますね、そりゃ可愛い娘で」

「俺は古い借金と若い女の子の名前は忘れることにしてあるんだよ。親爺の遺言でね」

「あっしなんざ、新らしい借金も忘れますよ。その代り、若い女の子の名前なんか忘れやしません」

「良い心掛けだ――ところで、そのお雪坊に達引いてやる香奠も精一杯百五十両ということになるぜ」

「ヘッ、百五十両ありゃ御の字で――」

「当り前だ、――話は何処まで行ったっけ――、お静がお勝手で笑いこけているぜ。日が長げえやな」

「六人組の二人は宇津の谷峠で死んだというところで」

「そうそう、その二人の腕に賽の目の二と四の入墨があったというぜ。すると残っている三人の腕には、一と三と五の入墨があるわけだ」

「それだけわかっていれば、大助かりですね、――ところで、その盗んだ一万二千両の金は何処へ行ったでしょう」

八五郎の問いも漸く本題に立ち還りました。

「それだよ、御三家の御用金だから一と箱に小判で二千両ずつ入ったのが、六つあるわけだ。絵に描いた千両箱のような小振りなのじゃない、細長い二千両箱――といったところで、御同様見たわけじゃないが、一つが十貫目近いというから、手軽に持運びの出来る品じゃない。多分、山の中で箱を叩き割って焼き捨てた上、中味だけ他の物と紛れるように、小さい荷物にして江戸へでも送り込んだことだろう」

「――」

「一万二千両は何処へ隠したかわからないが、近江屋半兵衛が殺されたところを見ると、残る四人の悪者に仲間割れか、揉め事があったのだろう。四人腹を合せて隠れていると、江戸の中じゃ手繰り難いが、四人の間にヒビが入れば占めたものだ」

平次は何やら期するところがある様子で、柄にもなく揉手などをしているのです。

第三の犠牲

その晩平次と八五郎は、金沢町の近江屋に行っておりました。明日は殺された半兵衛の初七日で、心ばかりの逮夜たいやを営みたいという、お栄の招きを受けたのです。

客というのは、近所の衆がほんの二、三人、それに小僧の定吉の叔母――お里という物の影のような、淋しい中年女が加わって、逮夜の僧の、眠そうな経が済むと、かなり贅沢な精進料理に、これも吟味したらしい酒が出ました。

お栄はつつましく一座をあっせんして、さすがに日ごろの艶やかさも撒き散らさないのが、八五郎に取っては甚だ不足らしい様子です。

「親分さん方、とんだ御縁でお附合いして頂きました。伯父は世間の狭い人で、こんな時は来て頂く方もございません。どうぞ、ゆっくりお過し下さいまし」

そういった調子です。薄化粧に、青い地味な袷、黒い帯、紅いのは八つ口と唇だけといったたしなみも、反って深々とした魅力で、八五郎はツイそれを眺めながら盃を重ねるのでした。

仏様は斑組六人男の一人、配符のまわった大どろ棒と知りながら、平次はそれをいわず、お客は知る由もなく、姪といって居るお栄も、そんなことまでは知らなかったでしょう。

定吉の父親定五郎の妹のお里は、不思議な女の一人でした。眼の下に黒い隈があって、小鼻のやせた淋しい中年者には相違ありませんがよく見ていると、立居振舞いに仇っぽいところがあり、声がしわ枯れて眼がギョロリとして、皮膚の色が青くむくんで、不摂生と病いとで、すっかり青春を荒廃させた、商売人あがりの女の典型的なものに相違なかったのです。

年齢もどうかしたら、まだ三十代かもわかりません。眼鼻立ちも悪くはなく、健康と精神が正常で、若ささえ失わなかったら、これは随分美しい女だったことでしょう。

平次は何にか予想外な気持で、この女の様子を観察しながら、静かに盃をくんでおりました。

「ね、親分。今晩のお栄はバカにしとやかじゃありませんか」

八五郎は囁やきます。正に玉山崩れんとしております。左に捧げた盃が大波を打って、唇に持って行くとなんがい顎が天に朝するのです。

「樽拾いの小僧の姉――何んとかいったな――あの娘より良いが」

平次は少しからかい面になります。

「お雪坊ですよ、忘れちゃいけません――お雪坊の方は唯もう可愛らしいが、お栄は仇っぽくてしおらしくて、色気があって、慎み深そうで、何んかこう――」

「大層厄介なんだな。酒がこぼれるぜ、おい、八」

夜はもう亥刻よつ(十時)近かったでしょうか、帰ろうとする平次と八五郎は、お栄の程のよさに引留められて、ツイお酒が深くなって行きます。その時でした。

「御免下さい――本所から参りましたが、定吉さんはおりますか」

「何んだえ、どうかしたのかえ」

当の定吉がアタフタと戸口へ顔を出すと、それへ叩きつけるように、

「定五郎さんに間違いがありました。直ぐ来て下さい――私は町内の者ですが」

平次と八五郎と、小僧の定吉とその叔母のお里は、使いの男と一緒に、本所石原の定五郎の家まで飛びました。もう亥刻よつ(十時)過ぎ、江戸の街も静まり返って、乱れる自分達の足音だけが、物々しい響きを、町から町へ伝えて行きます。

小僧の定吉は自分の親のことが気になったのか、若さに任せて真っ先に列を離れ、やがて春のやみの中に姿を失いましたが、自分達と一緒に、雁行して駆けて来たはずの使いの男が、何時の間にやら姿を隠して居ることに平次は気がつきました。

「八、本所から来た男は、何処へ行ったかお前気がつかなかったか」

「知りませんよ、――いや待って下さいよ。そういえばあの男は、ツイ先刻履物を直すような振りをして、親分とあっしをやり過し、右手の路地の中へ消え込んだようですが」

「あッ、それだッ」

「追っ駆けて見ましょうか」

「無駄だろうよ。前々から企んで逃げ出したに違げえねえ、――それより定吉の叔母さんに訊いてみよう、お前は先へ飛んで行ってくれ」

「ヘエ、それじゃ親分」

八五郎は親分と附合なくても宜いとなると、逸れた奔馬のように駆けて行きます。

それは柳原の土手でした。夜分は辻斬りと夜鷹を名物にしている物騒なところ、春の夜の朧の中に立って、平次は足弱のお里が来るのを、やや暫らく待たなければならなかったのです。

「小母さんだね」

「あ、銭形の親分、――私はびっくりしました、悪者かと思って」

お里は立ち留って、ハアハア息をきりながら、弱そうに胸を抱いております。

「変なことを訊くようだが、先刻本所から来た使いの男を、お前さんは知って居るのかえ」

「いえ」

お里の顔は、無智で、無関心で何んの疑惑の影もありません。

「少し気になることがあるんだ、――すると本所の家には、だれが病人の世話をして居るんだ」

「病人と申しても、足腰の起たないほどじゃございません。晩の食物の用意をして、あとはお隣りへ頼んで来ました」

「先刻の男はそのお隣りの人ではないのだね」

「お隣りの小父さんはもっと年を取っています。あの人は私の知らない人で」

「知らない人が本所から来てくれるというのは変じゃないか。それに途中から姿を隠すのも容易じゃない」

「?」

「おれはもう一度金沢町へ引返して見るから、お前は先へ行くが宜い、――もっとも女一人では夜道は物騒だ。この辺で夜明かしをして居る駕籠屋は、大概顔馴染みだから、一梃見つけて石原まで送り届けてやろう」

平次は行き届いておりました。顔見知りの駕籠屋――夜更けて吉原まで飛ぶのを渡世にしている四つ手を一梃さがして来て、お里を本所の石原まで送るようにいいつけると、自分はそこから引返して真っ直ぐに、金沢町の近江屋まで、真に追っ立てられるように飛んだのです。

「今晩は――開けてくれ、平次だ」

平次は近江屋の入口の戸を叩きましたが、中は恐ろしい不安をはらんだまま静まり返って、返事をする者もありません。

「おい、お栄さんは居ないのか、――平次がもどって来たんだ、開けてくれ」

二三度、少しせっかちに叩くと、いきなり裏口の戸は開いた様子、――多分そこから入れというのでしょう――平次はそんなことを考えながら裏にまわると、パッと裏口から飛び出した一人の男、出合い頭に平次を突き飛ばして、一足飛びに路地の外へ――。

「待て待て」

飛びついたが、これは及びませんでした。曲者は恐ろしく心得た奴で、ごみばこを蹴返して路を塞ぐと、くも手の路地のやみを縫って、素早い昆蟲のように姿を隠してしまったのです。

平次は執拗にそれを追ってみましたが、フト、近江屋の家の中に若くて綺麗なお栄がたった一人いることを思い出して、宜い加減にして諦めて曲者の飛び出した裏口から入って見ました。

お勝手の次の六畳、平常ふだん居間にも寝間にも使われる薄暗い部屋に、行燈の燈心を掻き立てたのを前に、お栄は滅茶滅茶に縛られた上、猿轡まで噛まされて、眼に沁みるような緋縮緬の長襦袢を踏みしだいた儘、畳の上に転がされているではありませんか。

「――」

平次はハッと立ち縮すくみました。見るべからざるものを見たような、恐ろしい冒涜感に襲われて、思わず顔を反けたのです。

が、次の瞬間、思い返して近づくと、お栄の柔かい体を抱き起して、まず猿轡を取ってやりました。

「どうした、お栄さん。気を確かに持つんだ」

お栄は半ば気を失っておりましたが、縛った細紐を解いて、前褄を直してやって、静かに背など撫でてやると、

「あ、あ痛い、痛い」

わずかに眼を見開いて、夢心地に四方あたりを見まわすのです。

「気がついたか、お栄さん」

「あ、親分さん、怖いッ」

平次の顔を意識すると、お栄はいきなり平次の首っ玉へ、たった三つになる幼な児のようにひしひしと縋りつくのでした。

「どうかしたのか、お栄さん」

「私は、本当に、殺されるのかと思いました」

漸く正気づいたらしくお栄は、極り悪そうに平次の首っ玉から離れると、あわてて衣紋などを直すのです。

「ここから飛び出して行ったのはありゃだれだ」

「――」

「お前が知っている者だろう、――音も立てずに縛られたところを見ると」

お栄のような若くて健康なものが、近所の者にも知れないように縛り上げられたことは、早くも平次の注意を引いたのです。

「いわなきゃならないでしょうか、親分」

「それは、そうとも」

「隠しきれることではないかも知れません――あれは宇八どんですよ。皆んな本所へ行くって、御近所の衆もそこそこに帰ると、いきなり裏口から入って来て、無躾なことばかりいった揚句、私が聴かないので――」

お栄の言葉は悩ましく意味深長なものでした。

「先刻本所から来た男の顔を、お前見なかったのか」

平次は継穂のないことを、気ぜわしく訊ねました。

「いえ、逢ったのは私ですが、――見たことのない人でした」

「それで、話はもとへもどるが、宇八はお前にどんなことをいったのだ」

「いやらしいことばかり」

お栄はそういって、さすがに顔を伏せるのです。

「それっきりか」

「それから、伯父さんが何にか書いたものをお前に渡していかなかったか、と、それはそれはしつこく訊きました」

「書いたもの?」

平次は一万二千両の秘密にハタと直面したように感じました。

「宇八は何処にいるか、お前にいわなかったのか。この五日の間逃げまわって、どうしても尻尾をつかませないが――」

「どこにいるか、それはいいませんが、――おれは追い廻されているが、おれの隠れ家などは、江戸中の岡っ引が総出で捜してもわかるものかと――せせら笑っていました」

「あの野郎は樽拾いの小僧を殺している。それからお前の伯父の半兵衛も、あの男が殺したかも知れない。あの日宇田川町の相模屋を出て、芝口二丁目の棟梁の家へ現われるまで、一刻というもの、あの男が何処にいたか、だれも見た者はない」

平次は独り言のようにいうのでした。

「まア、怖い」

寒々と袖を合せて、肩をふるわせるお栄です。

「宇八が主人を殺し、その主人を殺した匕首を手に入れようとして、樽拾いの小僧を使って顔を見知られ、とうとう小僧まで殺してしまった。悪いことをする奴は、深く企らんだつもりでも、企らみの尻が割れかかると、自分の猿智慧で、自分の首を締められるのが落ちだ。宇八は丁度そこへ落ち込んでやけになっているから、何をやり出すかわからない」

「何うしましょう親分」

「一刻も早く宇八をつかまえる外はない。が、それについては、お前にいろいろのことを正直に打ちあけてもらいたいのだよ」

「皆んな申し上げます、親分さん」

「お前は宇八と約束なんかしたわけじゃあるまいな」

「とんでもない、親分さん」

「お前は少し綺麗過ぎるから、いろいろ厄介なことが起きるのだ」

「まア」

「殺された半兵衛とお前は伯父姪でも何んでもないとすると半兵衛はお前を配偶つれあいにする気じゃなかったのか」

平次はとうとうここまで突っ込みました。

「親分さん、それで私は、この家を逃げ出そうとしておりましたが、伯父さんが見張って、一人では町内の風呂へもやらなかったんです」

「そんなことだろうと思ったよ。ところで、宇八と半兵衛は唯の奉公人と主人か」

「え、表向きは主人と奉公人ですが、旧い附合いだということで、かげにまわると随分ぞんざいな口を利いておりました」

お栄は果して、秘密の匂いをほのめかしてくれるのでした。

お栄を隣りの家へ預けて、平次は真夜中の街を、もう一度本所へ飛んだことはいうまでもありません。

「あ、親分じゃありませんか」

両国橋の上で、ハタと顔を合せたのは八五郎です。

「八か、どうした、あの小僧の父親は?」

「大変ですよ、あっしの手には了えねえから、親分を迎えに飛び出したところで」

ガラッ八の八五郎は、額口の汗を拭き拭き、馬のような荒い息を、川風に吹き送るのです。

「殺されたのか」

「それもひと通りの殺しようじゃありませんぜ。匕首で一とえぐりにして、怪しい床の間の柱に、心張り棒を背負わせて磔刑だ」

「悪どい野郎だな。それで、二の腕を見たか」

「見ましたよ。あのヨイヨイの老爺も、間違いもなく、斑組の仲間で、二の腕の彫物は、賽の目の五」

「大方そんな事だろうと思ったよ。あと三と一が残っているわけだ」

「いよいよ江戸中の風呂屋へお触れをまわすんですね」

話しながら二人は石原の定五郎の家に着きました。まことに見る影もない裏長屋――といっても、空地とガラクタを詰めた物置の間に挾まって、全く町並からは隔絶しておりますから、野中の一軒屋も同じことです。

「親分さん」

二人の足音を聴いて、飛んで出たのは小僧の定吉でした。家の中の灯りもここまで射さず、鉢合せをしてもわからないほどの闇ですが、神経の鋭くなっている定吉には、平次の来るのが待ち遠だったでしょう。

「定吉か、気の毒だったな」

「――」

定吉はやみの中に顔を反けました。ひどく泣いている様子です。

平次はその泣声を痛々しく聴いて、家の中に入ると、中は思いのほか小綺麗で、土地の御用聞や近所の衆が四、五人、お里を交えてただウロウロしている有様でした。

死骸は床柱からおろして、ざっと拭き清めた六畳に寝かしてあります。唐紙に飛沫しぶいた血が斑々として、その無気味さというものはありません。

「八、床柱から取り下ろしたのはお前か」

平次は後ろから首を伸ばしている八五郎を顧みました。

「ヘエ、あっしも手伝いましたよ」

「お前たちが駆けつけた時は、家の中にはだれとだれがいたんだ」

「仏様だけですよ――騒ぎを聴いて、近所の衆が駆けつけてくれたんで」

「すると、戸は閉っていなかったのか」

「入口の格子には締りはありませんでした。もっとも掛金があったひにゃ、仏様が戸締りをしたことになるが――」

八五郎は無駄をいっております。もっとも家の中はたいして取乱した様子もなく、死骸の怪奇な様子や、凄ましい血飛沫しぶきを除いては、物のありかにも、道具の落着き場所にも、たいした変りはない様子です。

「ところで、死骸の足は床の間に着いていたのか、それとも浮いていたのか」

平次の問いは微妙になって行きます。

床柱に磔刑になった死骸の足が宙に浮いていたか、下に着いていたか、それは重大なことでした、血だらけの死骸を前から抱き上げて、足が浮くほど高く釣るためには、非凡な力量か数人の協力が必要であり、その上そんな作業をした者は夥しい血潮に浸らなければなりません。

「足は浮いていたと思うが――、なあ御近所の衆」

八五郎はその辺にウロウロしている近所の人達を顧みました。

「縄を切った時、どたりと音がして落ちましたよ」

その中の一人、分別あり気なのが答えました。そして椽側に捨ててあった血だらけの細引を見せましたが、結び目は厳重な男結びで、それは近江屋半兵衛の場合と同じことです。

ござの上に寝かして、袷一枚掛けたままの死体の側には、妹のお里がしょんぼり坐っておりますが、平次はそれと相対して袷を取ってみました。

死体は五十三、四の、思ったよりたくましい男で、ただの旅籠屋の亭主の成れの果てとは見られず、身なりなどもなかなかに凝ったもので、決して暮しに困ってせがれを奉公に出す人柄とは思われません。

もう一つ不思議なのは、人相の穏やかなことで、人と激しく争って殺された人に見る、険しいところなどは少しもなく、穏かな話でもしているところを、不意の襲撃を受けて、電撃的に死んだとしか思われないことでした。

傷は近江屋半兵衛と全く同様、右の頸筋を一とえぐりされたもので、この業をする下手人は、殺された者とじっこんの間柄でなければならず、その点、容疑者の範囲は非常に狭められるわけです。

「奪られた物はないのか」

平次はお里を顧みました。

「何んにもない様子でございます」

「ところで、お前はこれに気がついているだろうな」

平次は死骸の――もうすっかり冷たくなった二の腕を捲くり上げて、賽の目の五を彫った入墨をお里に見せました。

「何んか入墨らしいものがあるとは知っておりましたが、賽の目の五と解ったのは、今が始めてでございます」

「いつごろからこの彫物はあったのだ」

「サア」

「子供の時から一緒に育った兄妹なら、それくらいのことは知っている筈だが」

「でも私は長い間別れておりました。一緒に住むようになったのは、この二年ばかりの間です」

平次はお里の答えにあまり期待を持たなかったらしく、そのままクルリと振り返ると、

「あれほどの騒ぎを、近所では気がつかなかったのかな」

その辺にウロウロしている人達に問いかけました。

「何分、この家だけ一軒離れておりますから」

引取って答えたのは、家主の中老人でした。

「すると金沢町へ知らせに来たのは?」

「下手人でなきゃ、下手人の仲間ですよ。途中で消えてなくなったのからして変じゃありませんか」

八五郎は至極当り前の事らしくいうのです。

谷中の森

「親分、ヘッ、ヘッ、ヘッ」

「何んだえ、人の面を見て、いきなり笑い出しゃがって、殴られても文句はいわねえだろうな」

銭形平次と八五郎は、こんな調子で始めました。本所の石原で、小僧定吉の父親定五郎が殺された翌る日のことです。

「親分のことを笑ったんじゃありませんよ。実はこのあっしが変なことを頼まれたんで」

「広い世間だ、八五郎に物を頼むような酔興人もあるだろうよ、――金でも貸せというのか」

「ご冗談で」

「踏台代りに、背中でも貸せというのだろう、――相手はだれだ」

「それが大変なんで。女ですよ、ヘッ」

「どこの誰だ。それとも叔母さんが留守番に来てくれとでもいうのか」

「金沢町の近江屋のお栄です」

「何んだと、まさかお前を口説いたわけじゃあるまいな」

平次もこの相手の名には少し驚いた様子です。殺された近江屋半兵衛の、姪だか妾だかは知りませんが、兎も角も滅法仇っぽくて、魅惑的で、愛嬌がポタポタこぼれそうなお栄が、少しタガの緩い八五郎に頼みごととは聴き捨てになりません。

「ヘッ、まア、口説いたようなもので」

「バカ野郎、もう少し顔の紐を締めて物をいえ。涎が落っこちそうで、聴いている方が楽じゃないぜ」

「そのお栄がね、怖くて淋しくて死にそうなんですって。また昨夜のように、宇八がやって来て、力ずくで手籠めにするかも知れず、伯父の半兵衛や、本所の定五郎を狙った手が今度は私に何うかしないものでもない。小僧の定吉は本所の家へ帰ったきりで、初七日が過ぎなきゃ来てくれそうもないし、済まないけれど当分の間、近江屋へ来て泊ってくれまいか、精一杯御馳走もするし、事と次第じゃ八五郎親分に口説かれても宜い――と」

「バカ野郎」

「行って泊ってやっちゃいけませんか、親分。折角の頼みだから」

「呆れ返って物がいえねえ――が待てよ――それ程のことをいうのは、何にか思惑があるのかも知れない。随分行って泊ってやるのも面白いだろうな」

「宜いんですか親分」

「お前一人じゃいけねえ。見す見す結構な餌になるだけだ――叔母さんも連れて行くが宜い」

「ヘエ、叔母さんつきで泊りに行くんですか、それじゃ一向つまりませんね。親分の前だが――」

「贅沢をいうな」

「チェッ、叔母さんつきの情事いろごとなんざ、洒落過ぎて腹も立ちませんね」

そんなことをいいながらも、八五郎はたいして不平もいわずに帰って行きました。お栄は綺麗で才はじけてはおりますが、何を考えているのか腹の底までは見通しがつかず、平次が用心する気になったのもまことに無理のないことだったのです。

それから三日、果して思いも寄らぬ事件が展開して、この騒ぎを凄まじい破局カタストローフィに引ずり込んでしまいました。

「た、大変ッ、親分」

ガラッ八の八五郎が、鉄砲玉のように飛び込んで来たのは、定五郎が殺されてから、四日目の朝、まだ卯刻むつ半(七時)前でした。

「相変らず素ッ頓狂な声を出して、お長屋の人達は、番毎胆を冷やすぜ――小さい子供のある家は八丁四方に住みつけないといううわさだ」

平次は朝の空気を腹一杯に吸い込んで、椽側から空をながめていたのです。

「落ついていちゃいけませんよ、親分。また殺しだ」

「何んだと?」

「今度は谷中の森、同じく刺し殺された上、木の枝へ磔刑にされているんだ。凄いの何んのって」

「だれだ殺されたのは?」

「近江屋の番頭宇八ですよ」

「あッ、それは」

平次もさすがに驚きました。この宇八こそは、近江屋主人半兵衛、樽拾いの小僧元吉、定吉の父親定五郎など続け様に殺した、第一の容疑者で、この数日来江戸中の御用聞を動員して、その行方を捜させていた人間だったのです。

その宇八が、半兵衛や定五郎と同じように、刺し殺された上磔刑にされているとは、これこそ想像も及ばぬ事件の成行ではありませんか。

手早く支度をすると、ガラッ八に案内されて平次はひたむきに飛びました。

「八!」

「ヘエ」

「お前は恐ろしく足が達者だが、俺は馬のようには駆けられない」

「あっしは馬ですかえ」

「怒るなよ、八。馬だってそんなには駆けられないよ、少し息をつく間、ゆっくり歩いてくれ。向うは見張りの者がいるだろう」

「お山同心に見張りを頼んで来ましたよ。寛永寺の寺内ではないが、どうせお山の見まわりが見つけたんだから」

「それでは急ぐことはあるまい、――お前はだれに聴いてお山へ行ったんだ」

「近江屋を出て、家へ帰るつもりで歩いていると、谷中の菊の野郎がとんで来ましたよ。大変なことがあるから、兎も角も来て見てくれって」

谷中の菊はその土地の下っ引で、平次よりは八五郎の方がよく知っております。

「お話中だがな、八」

「ヘエ」

「お前はあれから毎晩近江屋へ行って泊っているのか」

「ヘエ、約束は約束ですから」

「あきれた野郎だ。お栄なんかに変なことをすると、勘弁しないよ」

「大丈夫ですよ、叔母さんと一緒で。毎晩飯が済むと仕事の残りを持って行って、上野の亥刻よつが鳴るまで有難いお話を聴かされるんで、大師様の話ですよ。石の団子のことだの、逆葉の芦の話だの」

「その有難い話を聴問しながら、お栄の顔をマジマジとながめているんだろう、罰の当った野郎だ」

「話が済むころから寝酒が出て、ホロッとした心持で銘々の部屋に引取りますよ。叔母さんもいける口だし、お栄も猪口ちょこで二つや三つはやるし、悪くありませんよ、あのお伽とぎばなしは」

平次と八五郎は谷中の森に入って行きました。木立の中に墓石が散在して、小鳥が鳴いて渡る頭の上には、悠然と青空を劈いて、五重の塔が聳え建つ風物は、江戸の町の雑沓から、僅かに数丁の距りとも思えぬ物淋しさがあります。

「あれですよ、親分」

とある藪の中に、逞ましい松の樹を囲んで二十人ばかりの人間がうごめくのを、八五郎は遠くから指さしました。

近づくとそれは松の樹から取りおろした、凄まじい変死体を囲んで二人のお山同心、三、四人の町方の下っ引、それに近所の寺男や、谷中に近い店から飛び出して来た弥次馬の一隊でした。

「銭形の親分」

弥次馬は二つに分れて道を開きました。平次はお山の同心に挨拶して、

「御苦労様でございます」

静かに死骸を隠した筵を剥ぎます。

それは、近江屋の番頭の、宇八の死骸に紛れもありません。この間からの十日余りを何処で過したかわかりませんが、着物などはひどく痛んで、折目も崩れ、埃もつき、見る影もなくなった上、宇八本人も月代さかやきが伸び、不精髯まで生やして、見ように依っては、まことに哀れな姿です。

傷は半兵衛や定五郎と全く同様、右の首筋を深々とやられたものでこれが前から斬ったものなら、下手人は夥しい血を浴びたことになるでしょう。

「死骸はこの樹に吊ってあったでしょうね」

平次はだれへともなく言いました。

「磔刑の恰好で、この下枝に縛ってあったよ。ひどいことをするものじゃないか」

お山同心の一人は説明してくれました。

「足は大地から離れていたでしょうか」

「左様、五、六寸くらいは離れていたと思うが」

平次は死骸の前に腰を据えて、恐ろしく念入りに調べ始めました。近江屋半兵衛や、定吉の父親の死骸に対した時とは、熱心さにおいて格段の違いがあります。

月代さかやきも髯も伸びているにしても宇八はそんなに悪い人相ではなく怨みを呑んで死んだ顔には、何処かにほのぼのとしたあまさがあります。三十八というにしては、少し老けて見えるのは、この十何日の間、江戸中の岡っ引の眼を逃れるために、堂宮の椽の下か何んかに帯も解かず逃げ込んでいたのでしょう。

身体は華奢な方ですが、二の腕に賽の目の三が入墨してあるところを見ると、間違いなく斑組六人男の一人でなければなりません。

「これで、宇津の谷峠の尾州の御用金一万二千両を奪った斑組の六人男が、五人までは死んだことになる」

平次は死骸の腕の入墨を見ながら、感慨深くいうのでした。

「残るは一が一人だけ」

八五郎は指などを折って見ております。

「そいつが多分首領だろう。宇津の谷峠で二人の仲間が死んでいるから、残ったのは四人だけだ。その四人が何にかわけがあって仲間割れをしたのだろう」

「その生き残った首領はどんな凄い野郎でしょうね。面だけでも見たいじゃありませんか」

「恐ろしく悪賢い野郎だ。容易のことでは尻尾を出すまいよ」

平次はそういううちにも死骸の調べを続けております。

新らしい手掛り

「こりゃ何んだ」

肌守りの中から平次は、小さく畳んだ紙片を一枚見つけました。

「有難そうなお守りかなんかじゃありませんか」

八五郎は長いあごで覗くように、向うから顔だけ持って来ます。

「いや、――手紙らしいよ――こじきばしのたばこ屋、やつまえ――とあるじゃないか。恐ろしく下手な字だが大事そうに畳んであるところを見ると、こいつは女の子と逢引の約束かなんかだろう」

「日がわかりませんね。今日とか、昨日とか書いてあると好い都合だが」

「今日や明日のことじゃないよ。紙は毛ば立って折目が切れて、少し汗が染みている。そいつを夜昼肌につけて、幾度も幾度も出して読み直したんだろう。五日や十日は抱いていたことだろうな」

「すると、あの晩の打ち合せじゃありませんか。近江屋半兵衛が殺された――」

「あッ、何んだってそれに気がつかなかったんだ。あの晩宇八は、酉刻むつ半(七時)に芝口二丁目の棟梁喜之助の家を出て、戌刻いつつ半(九時)過ぎに宇田川町の相模屋へ行くまで、ざっと一刻の間の足取りがわからなかった筈だ。本人は芝浜へ出て風に吹かれていたといっていたが、そんなバカなことがあるわけはねえ。ことによる、乞食橋の煙草屋で、だれかと逢引をしていたのだろう、良いことに気がついてくれたよ、八。お前の智慧も満更じゃないね」

「なアに、それほどでもねえが」

「バカだなア、褒めればもうそれだ。自惚れている隙に、一と走り乞食橋まで駆けて行って、煙草屋で訊いて見てくれ。宜いか、大急ぎだぞ――相手は容易ならぬ曲者だ、油断も隙もないぞ」

「合点」

ガラッ八の八五郎は、裾を端折って飛び出しました。残るのは平次のほかに、谷中の菊のほか下っ引が二、三人、それに物好きそうなお山同心と、青蝿のように執拗な弥次馬が二十人ばかり。

八五郎の駆けて行くのを見送って、平次はなおも調べを続けました。宇八の内懐ろから出た財布の中には小判が五枚と小粒が少しばかり。たいした金ではないにしても、高飛びの路用には、差当り不自由のない金です。そのころの物の相場は、伊勢参宮が上下で一両もあれば贅沢過ぎたくらいで、宇八が江戸に踏み留って網の目のような役人の追及を潜って、堂宮に泊っていたのは、何にか深い仔細がなくてはかないません。

だが、斑組六人男の盗んだ、一万二千両の御用金に比べると、五両や六両では、あまりにもケタが違い過ぎます。

宇八は恐らく、その一万二千両の金には手を触れていなかったことでしょう。一万二千両の金がままになれば、盗人根性の宇八が、どんなに譲歩して考えても万一の用意に、二百両や三百両の金を身につけていないはずはなかったのです。

それから半刻ばかり、調べを一段落にして一と休みしているところへ、八五郎が大汗になって帰って来ました。乞食橋というのは、竜閑橋と今川橋の間で、乞食のたむろになっているのでつけた名前ですが、そこへの往復半刻はさすが八五郎の自慢の快足です。

「ああ驚いた、飛脚を二人追い抜いたは宜いが、山へ掛るといきなりお山同心につかまって大目玉だ。十手を見せて勘弁してもらったが、話のわからねえ役人で――」

平次が眼顔で止めるのも気がつかずに、八五郎は汗を拭き拭きまくし立てるのです。苦笑いしながら聴いているのは、同じ仲間のお山同心が二人。

「エヘンエヘン、用事の方はどうしたんだ。先ずそれを聴こうじゃないか、八」

平次は全く気が気じゃありません。

「ブルブルブル、その事よ、親分。乞食橋の煙草屋、番太に毛の生えたようなケチな荒物屋だが、婆さんが内職に、二階を貸して、出合い座敷料をかせいでいるんで」

「それで」

八五郎も漸くお山同心の聴き耳立てているのに気がついて、報告レールの上に乗っかります。

「親分の推察通り、まさに図星で。今から十一日前、丁度近江屋半兵衛の殺された晩、顔見知りの近江屋の番頭宇八がやって来て酉刻むつ半(七時)過ぎから戌刻いつつ半(九時)近くまで、女でも待っている様子で、焦々しながら煙草ばかり呑んで――何時までもこうしちゃいられない、もう一軒行くところがあるから、若し女が来たら、改めて日取りをきめようといってくれ――とぼんやり帰って行ったそうですよ」

それは実に思いもよらぬ新事実でした。その煙草屋の婆さんのいうことが本当なら、あの晩の宇八の行動は立派に証明されるわけで、近江屋半兵衛が殺された時刻に、申し分のない不在証明を持っていることになります。

「まさか嘘じゃあるまいな。煙草屋の年寄りが、いい含められて拵え事をいってる様子じゃなかったか」

「それは大丈夫、十手を見せての上の話で、拵え事する隙もありませんよ。それに店番の小僧が宇八に頼まれて、一升買ってつまみ物まで用意させられていますよ」

「するとおれ達は今まで、大変な間違った穴を、盲目めくら探りしていたわけだな」

「?」

「宇八が主人の半兵衛を殺したからこそ、樽拾いの小僧を頼んで匕首を買取らせ、その小僧の口を塞ぐために、可哀想に妻恋稲荷の裏で殺したと思い込んでいたんだ」

「それは、その通りですね」

「定吉の父親の定五郎を殺したのも、半兵衛殺しと同じ手口だから宇八に違いあるまいと思い込んでいたが、――その宇八も半兵衛や定五郎と同じように磔刑になり、その上半兵衛を殺したのが宇八でないということになると、これは一体どうなるのだ、八」

「親分にわからねえことが、このあっしにわかる道理はないじゃありませんか」

「して見ると、さっきお前を褒めたのは、ありゃムダ褒めだったね」

「ヘッ、有難い仕合せで」

そんなムダを言いながらも、平次は忙しく思案をめぐらしている様子でした。いやどうかしたら黙って煙草を吸っている時は、平次の脳の休養時で、こうばかばかしい冗談を飛ばして、八五郎をからかっている時こそ、平次の頭脳の歯車が一番猛烈に動いている時かもわからないのです。

斑組六人男の事件は、これで完全に行き詰ってしまいました。銭形平次は眼の前に四つの死骸を並べられ、最初の事件から十日あまりの日を重ねましたが、一体何んの目的でだれが殺したのか、そしてこの後も、だれがだれを殺そうとしているのか、まるっきり見当がつかなかったのです。

「八、お前は近ごろ、すっかりお栄とじっこんになっているようだな」

「それほどでもありませんよ」

平次の調子が真剣なので、八五郎も惚気のろけまじりに受けられません。

「用心棒にお前をやったのは、色事の取り持ちをするつもりでなかったことは、懐ろの十手の手前、お前も知っている筈だな」

「ヘエ?」

「用心棒なら叔母さんだけで沢山さ。お前をやったのはな、八」

「?」

「お栄の二の腕を見てもらいたかったのだよ」

銭形平次は到頭本音を吐きました。ガラッ八に恋の冒険までさしても、これを知りたい謎だったのです。

「ヘエ? お栄のね」

八五郎の顔の照れ臭さ、狭い額を撫でたり、長んがい顎をしごいたり、暫らくは両手のやり場にも困っていた様子です。

「その前に一応町内の二つの風呂屋にも当って見たが、二軒ともお栄が来たことはないというのだ」

「近江屋には内風呂がありますよ」

「そうだってね。出来星の小さい質屋に内風呂は大げさだが、考えてみると殺された主人の半兵衛も、番頭の宇八も、人に見られたくない二の腕を持っていた」

「なるほどね」

「そこでハタと困った揚句が、お前をお栄の望み通り用心棒に入れたというわけさ」

「ヘエ、恐ろしい企みですね、親分」

「まるで由比の正雪みたいだろう――もっとも天下を狙ったわけじゃねえ、多寡たかが女の二の腕だ――どうだ、八。見たか」

「?」

「何んという変な顔をするんだ。お栄の二の腕を見たかと聞いてるのだよ」

「まだそこまではねえ、親分」

「何んという間抜けなんだ。お前もまだ三十そこそこの良い若い男だろう、綺麗な新造と十日も同じ屋根の下に寝ているくせに、二の腕も見せてもらえないなんて」

「ヘエ、相済みません」

「臍の穴を覗いて見ろというんじゃねえ――一々俺にいわれなくたって、それくらいのことに気のつかない筈はあるめえ。朝夕顔を合せている癖に、唯もうニヤリニヤリとヤニ下がっていたんだろう。だからお前は間抜けでお人好しで、食いしんぼうで――」

「見て来ますよ、見りゃ宜いんでしょう。何んの女の子の二の腕くらい、力づくでねじ伏せたって、畜生ッ」

平次に漫罵を浴びせられて、八五郎は面喰って飛び出してしまいました。

「まア、お前さん。あんな事をいって、八さんが気の毒じゃありませんか」

心配そうにその後ろ姿を見送るお静。

「宜いってことよ、あれで丁度宜いんだよ。八はあれでとんだ弱気で、行儀の良いところがあるんだよ」

平次は面白そうに笑っているのでした。

八五郎が飛び出した後、平次はフト思い立って、佐久間町の仁助店に、殺された樽拾いの小僧、元吉の家を覗いて見る気になりました。

蜘蛛手に入り混んだ路地の奥、元吉の家を捜し当てて、その前に立った平次は、どうしてもう少し早く気がついて、見舞ってやらなかったかと思うほど、それは凄まじくも哀れな暮し向きでした。

「御免よ」

「だれだえ」

奥といっても、破れ障子の中から皺枯れた声がして、それを引開けると鼻の先へ、ヌッと顔を出したのは、埃と垢にまみれて、恐ろしいボロに包まれた四十女。骨張った顔や、険しい眼などを見ると、さすがの平次も一と足後ろへ下がったほどの代物です。

「俺は明神下の平次だが、この間は気の毒だったな。働き者に死なれてさぞがっかりしたことだろう。早速悔みに来なきゃならないと思いながら、御用繁多で遅くなって、済まなかったよ」

「あ、銭形の親分さん」

女の険しい表情が崩れると、柔かい悲しみがムラムラと湧いて、激しい嗚咽が喉をさいなみました。そして絶望的に涙が爛れた睫に溢れるのです。

平次は足の踏み所もないような、凄まじい混乱の中へ通されました。四人の子供と、ガラクタと、気味の悪いボロ切れが、六畳たった一と間いっぱいに散らばって、荒壁の前に木の箱を据えた不思議な仏壇に額ぬかづく場所を作ってくれます。

「可哀想に諦めきれまいが、あとに子供も多いようだから、泣いてばかりいる時じゃあるまい。万々一暮しに困るとか、思案に余ることがあったら、俺の家へ訪ねて来るが宜い。何んとかまた相談にも乗ろうじゃないか、どうせたいしたことの出来る人間ではないが」

腹いっぱいの親切はあっても、正直真っ当に暮している御用聞の平次は、ささやかなお上のお手当で、女房と二人口を養うのが精いっぱいだったのです。

「八五郎親分が、時々覗いて下さいます。あの人は、見掛けに寄らない親切な方で――」

「八が来るかい、そうか、逢ったら褒めて置こうよ。あの男は素っ頓狂でいうことは馬鹿馬鹿しいが、腹の中は良い人間だよ、――それから、これはいくらでもないが、香奠のしるしだ」

平次は妙に湿っぽい心持になって、財布と煙草入に投り込んで置いた小粒を五、六枚、平次にとって、それは今の全財産ですが――鼻紙にひねって、女房の前に押しやるのでした。

「とんでもない、親分さん――そんなことをして頂いて」

「なアに、遠慮するほどの金じゃないよ。そういわれると、極りが悪いくらいのものだ」

「ところが親分さん――昨夜、まだ宵のうちでございました。私の家の窓から、金を投り込んだ者がございますが」

「何? 金を」

女房の話の予想外さに、平次も屹となりました。

「財布に入れて二十両、私どもには夢にも見たことのない大金でございますが、あんまり気味が悪いので、娘に持たせて家主付添いの上、お奉行所へお届けいたしました――あれ、娘がもどって参りました」

女房の指す路地の外、大きな禿頭の親爺と一緒に、薄汚ない身扮に、素晴らしい若さを包んだ娘が、いそいそと帰って来るのが見えます。

「お神さん、たいしたことだぞ」

大きな声を先触れに、歪んだ格子の中へ入って来たのは、この辺一帯の家主で町役人を務める仁助でした。

「御苦労様でございました。とんだお手数を掛けました」

「何んの何んの、一緒に行った私まで褒められて、今日はとんだ晴れがましい心持であったよ。まず聴いてくれ」

「――」

「二十両の小判を財布ごと持参して、お係りの役人に申し上げると、暫らく待たせて置いて、お白洲に引出されお奉行様直々のお調べだ。私はな、ここぞと、お雪坊の孝行なことや、死んだ元吉のこと、お前の不仕合せなことまで、一切合財申し上げたよ。するとお奉行様は、大層感心なすってな、お雪とやらの孝心は篤く褒め置くぞと仰っしゃってな、窓から投り込まれた金子二十両は、天孝子の志しをめでて下すったものであろう、そのまま持帰るようにとその儘お下げ渡しになったよ。有難いことではないか」

「――」

立てッ続けに弁じている仁助老人の言葉を聴いて、女房はまたも涙を新らたにした様子です。

平次は急に声を掛けもならず、暫らく部屋の隅、ガラクタの蔭に控えておりましたが、やがて日向を歩いて来た仁助老人の眼が馴れて、家の様子が見え始めると、

「おや、銭形の親分じゃありませんか。黙って聴いているのは、人が悪いぜ」

照れ臭そうにそんなことをいいながら、禿頭の汗を拭いたりしております。

「あっしに口を利かせなかったのですよ。それは兎も角として、よい塩梅でしたな」

「有難いことだよ。これもお雪坊の孝行の徳さ――私はね、半歳も家賃を取らずに、黙って見ていたが、今日はそれどころじゃない良い心持になりましたよ。婆さんにそういって、赤飯でも炊いて届けることにしよう。いやもう、家主にとっては、店子に心掛けの良いものがあるほど、嬉しいことはないよ、では銭形の親分」

仁助老人はホクホクしながら帰って行きます。

「おっ母さん」

その後ろ姿を見送っている母の膝に、お雪はドシリと二十両の小判の入っている、縞の財布を置くのでした。見上げた眼も、見下ろした眼も、涙に濡れておりました。この激しい貧苦にさいなまれている暮しの中で、天から降ったような二十両の金を、奉行所へ持って行く心掛けは容易のことではありません。

「一寸、その財布を見せてくれ。借りて行っても構わないだろうな」

平次はその財布の縞柄が妙に気になりました。

「ハイ」

お雪は財布から出した小判を、反古紙ほごがみに包んで母親に渡し、財布を四つに畳んで平次の手に載せました。

肩の透いた袷、よれよれの帯、油気のない髪――それは見る影もない姿ですが、眼の涼しさにも、頬の豊かさにも、十八の青春は美しく燃えて、貧苦も艱難も虐げ尽せぬものがこの娘にあります。

お栄の二の腕

その晩八五郎は、珍らしく一升ブラ下げて行って、叔母がハラハラするのも構わず、お栄を誘ってチャブ台を囲みました。

「叔母さん、今晩はうんと酔って、お栄さんに聴いてもらい度いことがあるんだ。すまねえが年寄りは早く飯にして、お開きと願いたいね」

立て続けに大きいので五、六杯あおると、八五郎はもうトロリとして、チャブ台に両肘を乗せたまま、こんなことをヌケヌケというのです。

「この子はまア、私が邪魔だっていうのかえ」

三十男の八五郎を、まだ子供扱いにしている叔母は、一応ムッとした様子でした。こっちを向いて眼で拝んだ八五郎の顔が、思いのほか酔っていないのを見ると、ホッと安心した様子で、

「年寄りがいちゃ邪魔だろうから、私は一寸家へ帰って、夜なべの仕立物を持って来るよ。二、三軒油を売って来るかも知れないから、のんびりと話したいことを話すがいい」

そんなことをいいながら、夜食のお仕舞いを済ますと叔母は呑込み顔に出て行ってしまいました。

「八五郎親分、今晩は本当にどうかしていますよ。気の良い叔母さんだからいいようなものの、変に気をまわされたら、一体どうなさるつもり」

お栄はそういって、何本目かの銚子を絞ると、銅壺どうこの湯加減の脈を見て、

「あ、熱ッ」

桃色珊瑚で彫んだような、可愛らしい耳朶に三本の指を持って行って、

「ほら、こんな」

などと八五郎の聊いささか不精髯の伸びた頬に触って見せるのでした。

「まア、もう少し過してくれよ、お栄さん。今晩という今晩は命がけでききたいことがあるんだが、お前が素面しらふじゃきり出しにくい」

「まア、怖いじゃありませんか。眼なんか据えたりしてさ」

「眼も据わるだろうよ、十日も考え抜いたことを、一ぺんにいってしまおうてんだ。驚くな」

「驚きゃしませんが、――八五郎親分は濡事は下手ねえ、そんなせりふはちょぼにも銅鑼どらにものりゃあしません」

「チェッ、銅鑼にのる濡事なんてあるかえ」

二人はそういううちにも、照れ隠しらしく引っきりなしに盃を重ねておりました。玉山滅茶滅茶に崩れて八五郎の眼尻が下がって、袷の襟が一尺八寸ばかり開いたころは、お栄も横ッ坐りに、赤いもすそをかき合せながらチャブ台を押し除けて八五郎の膝の上へ、こう片肘を突いたまま斜め下から意味深く見上げているのでした。

「銅鑼が気に入らなきゃ木魚よ。ウ、フ、洒落た口説ねえ」

「冗談は宜い加減にして、お前は本当に俺の話を聴いてくれる気があるかえ」

「大ありよ八さん、――八五郎親分といっちゃあ気がないから、――御免なさい、――これから八さんと呼ぶワ」

「俺は本気でお前を口説くかも知れないよ。まさか逃げるんじゃあるまいな」

「逃げるか逃げないか、試して御覧なさいよ。ちょいと、八さん」

下から見上げる妖艶な眼、トロトロと情火に燃えて、それは悩ましくもまた美しいものでした。

二十歳の白歯、豊艶この上もないお栄が、その五体に溢れる全魅力を動員して、何んの憚るところもなく八五郎に迫るのでした。

黒髪に炷きしめた、不思議な異香が、この女の甘酢っぱい体臭とカクテールになって、八五郎の官能をグイグイと揺ぶるのです。

透き通るようなとろりとした肉づき、大きいうるんだ眼、そしてグミのように熟れた唇と美しい歯並みが、物いう毎に妖しい魅力を撒き散らして、土蜘蛛の巣を掛けたように、男の全生命を縛り上げるのです。

「なア、お栄さん、思いきっていうが――俺はこんなにまで酔っ払って、お前というものの懐中に飛び込んだが、土壇場になっても、たった一つ、打ち融けないことがあるんだよ」

「まア、それは一体どんなことなの八さん、思いきっていって下さいよ、――どんなことでも私は、八さんの無理を聴いて上げたい心持でいっぱいなのに」

お栄は伸び上がって囁くように、八五郎の耳のあたりに柔かい息を吹き送るのでした。

「有難い、――そう聴いて安心したよ。実はな、お栄。俺は、お前の二の腕が見たいのだよ」

「まア」

「万々一だよ、お前の二の腕に、半兵衛や宇八や定五郎と同じ、賽の目の入墨があれば、口惜しいが百年の恋もお仕舞いだ」

「そんなものがなかったら八さん」

「俺はどうしてくれよう、お栄」

八五郎がこれをいうために、一升自腹を切った上、あらゆる酔態と狂態を演じなければならなかったのです。

「さア、見せて上げるわ、八さん。自慢ではないけれど、私の二の腕を、つくずく拝むのは八さんが始めて」

「――」

「その二の腕に、蚤に刺された跡でもあったら、私は口惜いけれど那須野ヶ原に退散しますよ」

そういいながらお栄は、行燈を引き寄せて、その灯りの先へ、右の二の腕を無造作に捲くり上げるのでした。

「フーム、ない」

八五郎は酔眼を据えて、思わず唸りました。賽の目は愚か、玉を伸べたようなお栄の腕には、蚤に刺された跡もなかったのです。

「今度は左」

お栄は身体の位置を変えると今度は左の腕を高々と捲くって見せました。

見事な凝脂は肩から滑ってトロリと淀んで、腋の下から肘関節の桃色に流れる美しさは想像も及ばぬ魅力ですが、そこもまた無瑕むきずの壁で賽の目の入墨などという汚らしいものはありません。

「どう? 八五郎親分」

「ない」

八五郎は呆然として首を起しました。

「それだけ、八さん」

「いや、お前を疑って済まなかった、――八五郎この通り」

真面目に首を垂れる八五郎、その首にしがみついたのは、張り切った情熱の吐け口を失って 少し取りのぼせたらしいお栄でした。

「たったそれだけ、八さん。それで済ませるつもり、――私は、私は口惜しい」

お栄の繊手が八五郎の首に絡むと、全身を投げかけるように、怨嗟とも歓喜とも、忿怒ともつかぬ声をあげるのです。

「親分ッ、大変ッ」

相変らず、路地の外からどなり込む八五郎です。翌る日の朝のこと。

「うるせえな、何処の牝猫が子を産んだというのだ」

貧乏臭い粉煙草、端居に朝のすがすがしさを楽しむ平次は、日ごろ『大変中毒』がしているので、自若として振り向いても見ません。

「牝猫じゃない、人間の女ですよ。滅法出来の良い二つの腕を見て来ましたよ」

「何をいってるんだ、それが大変だというのか」

「大変じゃありませんか。お栄の二の腕を見たんだから、こいつあたいしたものでしょう」

八五郎はすっかり有卦うけに入って、ニヤリニヤリと思い出し笑いをしているのです。

「そんな大層なものなら、見たといわずに拝んだといえよ、――新造の二の腕を見て、眼の色を変えるなんぞ、甘えもんだな、八」

平次はそういいながらも、かなり好奇心を動かしている様子です。

「ところがその二の腕は、出来たての餅のようで、入墨や刺青ほりものは愚か、蚤にさされた跡もありませんよ」

「それで眼の色を変えて飛び込んで来たというわけか、――ところで、お前の見せてもらったのは、右の腕か左の腕か」

「右も左も見ましたよ。この眼で見たんだから間違いはありません」

「あばたがえくぼに見える眼だ、あまり当てにならないが、まず本当にして置こう。ところでお栄の腕に賽の目の入墨がないとすると、一体だれの腕に残る一ぴんの目があるんだ」

「そいつは斑組の首領なんでしょう、――何処かに死んでいるんじゃありませんか」

「すると、宇八を殺したのはだれだ」

「あっしに判るわけはありません――兎も角、お栄は山賊の首領にしちゃ、少し若くて綺麗過ぎますよ」

「呆れた野郎だ。お前の眼から見れば、若くて綺麗な女は、皆んな善人だ」

「ヘッ、おあいにく様みたいで」

「ところが、お前はこの財布の柄を思い出さないか、何処かで見たことのある柄だが――」

平次は樽拾いの元吉の家から借りて来た財布を取り出しました。少し派手な黄八丈で、だれが見てもたった一と眼で個性がつかめる柄です。

「お栄の袷と同じ柄ですよ、――あの晩着ていたでしょう。あの女はとんだ衣裳持ちで、それからあの袷は着ませんが」

八五郎は飛びつきそうな顔をするのでした。

「そうか、それで思い出したよ。柄に覚えがなきゃ、お前にかいでもらおうと思っていたんだが――」

「ヘッ、かぐんですかねエ」

「かぎたいような顔だよ、鼻をヒクヒクさしているじゃないか――ところで、この財布に二十両の小判を入れて、佐久間町の樽拾いの小僧の家の窓から投り込んだ者があるんだ」

「ヘエ」

「そいつはだれの仕業だと思う、八」

「何時のことです?」

「宇八が谷中で殺された晩だよ」

「それじゃお栄じゃありませんか。あの晩お栄は宵のうちにちょいと出たようですが、何処へ行ったかときいても、笑って返事をしなかったんです?」

八五郎は今までお栄をかばうつもりもなく、それをいわなかったのです。

最後の一人

それから三日目。

「おや、お静、また大変の憑物が来たようだ。入口の洗い物だけでも片づけて置け」

そんな事をいっているところへ、

「親分、本所の叔母さんがやられましたよ」

八五郎の長んがい顔が躍り込んだのです。

「何んだ、本所の叔母? お前の叔母さんは向柳原じゃないか」

平次は自若として動じません。

「あっしの叔母じゃありませんよ。近江屋の小僧の定吉が、昨夜始めて金沢町へ帰って来ると、その留守中にあの叔母さんのお里とかいう、青脹れの婆さんがやられたんで」

「何? 定吉の叔母さんがやられた。お前は見たのか」

「石原の利助親分のところから、若い者がとんで来ましたよ。銭形の親分にそういってくれって」

「よし、行こう」

平次は手早く支度をすると、八五郎と一緒に飛びました。

本所石原の空地、置き忘れたような家は、土地の御用聞が厳重に見張っておりますが、定五郎が殺されてから、一と月と経たないうちにこの騒ぎですから、空地は群がる弥次馬でいっぱい。それを押しわけて入ると、

「あ、銭形の親分、丁度宜いところへ――」

今検屍が済んだばかり。石原の利助の子分達は、この奥行の深そうな事件に手を下し兼ねて、心待ちに銭形平次の出動を待っているところだったのです。

「利助親分は?」

「まだフラフラしていますよ。今日は姉さんに来てもらいましたよ」

石原の利助――それは曽て銭形の平次と張り合った御用聞の古顔ですが、身体を悪くしてからは気も心も挫けて、娘のお品が、出戻りの若い身空で多勢の配下を率い、銭形平次を唯一つの後ろ盾として、兎も角も十手捕縄を預っているのでした。

「あ、銭形の親分」

お品は平次の顔を見ると、ホッとした顔で迎えました。まだ二十四、五、充分若くも美しくもあるが、女だてらに岡っ引の真似事をして、女御用聞とかなんとかいわれながら、父親の代りに十手一梃の名を恥かしめずにいる気性者だったのです。

「利助親分はいけないんだってね。さぞ気をもんでいるだろうが、俺が精一杯働いてみせるから安心するようにと、そういってくれ」

「有難うございます、銭形の親分」

平次にそういわれると、女御用聞のお品もツイ涙ぐむのです。

家の中に入ると、掛り同心と町役人が引揚げた後で、お里の死骸の前に、小僧の定吉が、しょんぼり見守っているだけ。

「小僧さん、重ね重ねで気の毒だね」

「あ、銭形の親分さん」

定吉は平次の顔を見ると、驚いて立ち上がりましたが、この前父親が殺された時、あんなに取乱して泣いたのに、今度は思いのほか落ちついて、何んとなく死骸に対して冷たい嫌悪と、何にかしら子供らしい恐怖をさえ感じている様子です。

柄の小さい小僧で、一寸見ると十三、四としか見えませんが、肉づきの確りしたところや、顔の表情の単純でないところ、明るい光線の下で見ると、鼻の下に薄黒く生毛の生えているところなどどうかしたら十五、六になるかもわかりません。

「今朝この死骸を一番先に見つけたのはだれだえ」

平次の問いは順当で常識的でした。

「私でした。昨夜金沢町で泊って、忘れものがあったので、けさお栄さんにそういって帰って来ると、入口の戸が開いて、中で叔母さんが殺されていたんです」

「で?」

「私は驚いて石原の利助親分のところへとんで行きました」

定吉の説明はハキハキしております。

「昨夜ゆうべ、お前が金沢町の近江屋で泊ったのはたしかだろうな」

「え、八五郎親分がよく御存じで」

まだ近江屋に泊っている八五郎が証人では、その上追及のしようがありません。

平次は死骸の側に寄って、軽く拝んでから、念入りに調べ始めました。

青脹れの醜い女――四十七、八にもなるでしょうか、その死骸はまた一段と不気味ですが、幾らか浮腫むくんでいるのは、縊れて死んだ者にある特徴です。よく見ると若い時は白粉を濫用した皮膚で、眼の縁の黒い欝血も、悪い稼業のために健康を滅茶滅茶にした証拠とも見られるでしょう。

よく見ていると、眼鼻立ちはそんなに悪くはなく、若い時分には随分美人といわれた女かもわかりません。生活の悪さから、性格も血液も荒らして、こんな不気味な醜さになったとすれば、一応気の毒な女ともいえるでしょう。

「おや」

首筋には匕首の傷があります。それは半兵衛や宇八や定五郎と同じことですが、お里の場合は血がほとんど流れておらず、その上首筋には、明らかに絞殺した細紐の跡がはっきり残っているのです。

「絞め殺して、死んでから匕首を突っ立てたのですね」

八五郎にもそれくらいのことはわかります。こんな手数な細工――しかもだれにでも一と眼にわかる二重の仕事を、どうしてやらなければならなかったのでしょう。

「磔刑になっていないのも不思議じゃないか。多分斑組の仲間の仕事でないかということを、まわりっくどく呑込ませるためだろう」

平次は裏の裏まで考えております。

「この死骸の二の腕には、賽の目の入墨はないでしょうか」

ガラッ八は、お栄の二の腕の連想から、フトお里の二の腕のことを考えた様子です。

「あるまいよ。これが斑組六人男の首領とは思えない――が念のため見て置こうか」

平次はそういいながら、死骸の左手の腕を捲りました。青脹れの不気味な腕ですが、その肩から三寸ほどのところに、何やら青黒いものが見えているではありませんか。

「あっ、賽の目」

八五郎もあごを持って来ました。

お里の死骸の二の腕には、彫ったばかりといった青黒い筋彫りで、一寸四方ほど賽形の角の中に、一点小豆粒ほどの目が彫ってあるではありませんか。

「八、これをよく見て置け――お前の身体に、彫り物があるなら比べて見るが宜い。色合いや、針の跡など――よいか、死骸は葬るか焼くかして、この彫り物も見られなくなるだろう、俺とお前の眼が何よりの証拠だ」

平次は不思議なことをいうのです。

「これで斑組の六人男は皆んな死んでしまったわけですね、親分」

平次とガラッ八は、一応調べが済むと、定吉の家を引揚げて、両国の方へ歩いておりました。

「お前はそう思うか」

「宇津の谷峠で二人死んで、あとの四人は近江屋の半兵衛と、定吉の父親定五郎と、近江屋の番頭宇八と、それから定五郎の妹のお里でしょう。それで一から六まで、彫り物の賽の目がそろったわけじゃありませんか」

八五郎はでっかい手を出して、指などを折って勘定しております。

「すると、だれがその四人を殺したんだ。似ているようでも、手口は少しずつ違っていると思うが――」

「斑組の敵か何んかあって、一万二千両の金を奪い合っているんじゃありませんか」

「その一万二千両が、まだ匂いも嗅がせない」

「それがわかれば、四人を殺した相手もわかるだろうよ、――ところで、斑組六人男といわれているが、実は斑組五人男に一人女だったわけだね」

「お里が首領だとすると――」

「お前はあのお里の腕にあった賽の目の入墨を変だとは思わないか――多勢の人が聴いているので、あの場では物をいわずに、お前によく見て置くようにいった筈だが」

「そういえばそうですね、墨の色も変だし、針の跡だって胡麻をまいたような砂目になっていましたね」

八五郎もそこまで見て置いたのです。

「あれは生き身へ墨を入れたのとは違うように思うが」

「?」

「なア、八、よく思い出してくれ。生き身に入墨したのは、墨が流れるから、あんな具合に砂目に入るものじゃない――あれはお前」

「――」

八五郎はゴクリと固唾を呑みました。平次の言葉はあまりにも奇ッ怪です。

「あれは、死骸に入墨したのだよ。墨に青い絵の具をまぜて」

「親分、そんなことが出来るでしょうか」

八五郎は、平次の想像力の飛躍に逢って、まさに仰天しました。

「斑組六人男が、皆んな死んでしまったと思わせるにはあの外に術てはないよ。斑組の首領で、賽の目の一の彫り物のあるのが、生き残った仲間の三人を殺して一万二千両の金を独り占めしたのだ」

「――」

八五郎はゾッと身を顫わせました。あまりに悪企みの深刻なのに驚いたのと、それを憎む義憤に燃えたのです。

「それはだれです、親分」

「わからないよ。今まで俺達は、斑組の首領に玩具にされていたのだよ。そして、眼の前で、順々に四人の仲間を殺すのを、指をくわえて見ていたのだ」

「樽拾いの小僧を入れると五人ですよ」

「いや、あの小僧を殺したのは違う。あれは斑組の首領ではない、近江屋の番頭の宇八だ。宇八は首領を庇うか強請ゆするか、なんかそんなことのために、あの匕首が入用だったのだ。そして子供から匕首を買ったことを隠して置きたさに、可哀想に樽拾いの小僧を殺したのだ」

詭計の用心棒

「大変なことになりましたね、親分。斑六人組の首領が、三人の仲間を殺して、すまして生きているとなると――」

八五郎は日本一の酢っぱい顔をしました。

「最初からやり直しだよ、八」

銭形平次の顔は深刻でした。

「何をやらかしゃ宜いんで」

疲れを知らぬ八五郎は、直ぐ様長崎へでも飛んで行きそうです。

「しりなんか端折るまでもないよ、ここから利助親分の家は近いはずだ。お品さんは悧巧だから、何か聴き込んでいるかもしれない」

平次は両国橋から引返して、もとの石原へ――、利助の家は小僧の定吉の家からそんなに遠くはありません。

「おや、銭形の親分」

一と足先に帰って来たお品は、思わぬ銭形平次の訪問に、少し面喰った様子です。

「お品さん、少し聴きたいことがあってもどって来たよ」

「?」

「利助親分には済まないが、中へ入って暢気に話し込んでいるわけにも行かない――ほかじゃないが、お品さん、この間からの騒ぎで、定五郎の家のことは気をつけていたんだろうな」

「え、いろんなことを聴き込んでおりますよ」

「例えば?」

平次は入口の格子の前で、直ぐ要件に入って行くのでした。

「昨夜殺されたお里という女の人は、この間殺された定五郎の妹ということになっておりますが、実は妾か何んかだった様子でした」

「ヘエ?」

それは平次にも予想外でした。

「そんなことで、定吉とお里はひどく仲が悪かったそうです」

「そいつは初耳だ。定吉とお里が叔母甥でないとすると、こいつは考え直さなくちゃ」

平次もすっかり面喰った様子です。

「それに、定五郎とお里も仲が悪かった様子で、――身体の悪い定五郎が口やかましいのに、お里はまた、見掛けによらない我ままな女だったのです」

「フーム、いよいよやり直しだ。おれは見当違いの筋ばかりせせっていたのだ」

平次はすっかり考え込んでしまいました。

それから両国橋を二度渡り直して、昌平橋から金沢町へ入るまで頑固な沈黙は続きました。八五郎もそんな時は心得たもので、鼻唄の節回しを研究したり、あの娘のことを考えたり、平次の邪魔にならぬ程度に良い道連れになってヒョコヒョコと縋いて来るのでした。

「八、お前に頼みがあるが――」

「何んです、親分。金のことと女のことは相談に渡り兼ねるが――」

「バカッ、そんな気楽な話じゃないよ」

「ヘエ」

「お前の智慧で、お栄をおびき出してくれ。あの家に少し調べたいことがあるんだが、お栄がいちゃ面白くない」

「やってみましょう、それくらいのことなら」

八五郎は大呑込みで駆け出して行きましたが、暫らくすると、町角に待っている平次のところへ帰って来ました。

「お栄はすぐ出かけますよ。今がおめかしの真っ最中で」

お栄がイソイソと出て行く姿を見ると、入れ換って八五郎は、平次を案内して、近江屋に入りました。

主人の半兵衛が死んでから、商売も休み続きで、お栄が外へ出かけるときは、カギを女世帯のお隣りに預けることまで、八五郎は知っておりました。

「石原の定吉のうちで、検屍の役人がお前に逢いたいっていったと聴いて、さすがのお栄も胆をつぶして飛んで行きましたよ」

けろりとして、そんな事をいう八五郎です。

「方便にしちゃ、殺生なウソだな。とも角、お栄が帰って来るまでに、調べて置きたいことがうんとある」

「ここに一万二千両の金を隠してあるんですか、親分」

「そんな事じゃない、――お前は何処に寝るんだ、第一それから聴きたい」

「入口の三畳は叔母さんで、その次の六畳は私、――お栄はしゃくにさわるが、奥の六畳ですよ」

「妙なことがしゃくにさわったものだな」

平次は苦笑しながら、奥の六畳に入ってみました。そこは曽つての主人半兵衛の部屋だったらしく、調度もぜいたくで、押入を開けると見事な夜の物が、キチンと畳んで入れてあります。

三尺の床の間と丸窓が一つ、そこには格子がありませんから椽側の雨戸は閉っていても、履物さえあれば昼でも夜でも自由に出入りが出来るのが妙に平次の神経を尖らせます。

「八、その戸棚を開けてみてくれ。万一だよ――履物があれば、俺の勝ちだ」

三尺の床の間の下の袋戸棚を、恐る恐る開けた八五郎は、その中に箱が一つあって、箱には紙に包んだ草履の、泥の生々しいのが入っているのを見つけると思わず歓声をあげました。

「ありましたよ親分」

「よしよし、あれば宜いよ。町内中に聞えるほど張り上げるには及ばない――ところで窓の外は踏み堅めた足跡だらけといいたいが、花でも植えるつもりか、よく掘ってあるな」

平次は丸窓から首を出して、凡そ人間が踏み込んだ様子のない窓の下の畑の新らしい土を見ているのでした。

「お栄はとんだ風流人でね、花が好きだといって、毎朝くわをもっちゃその辺を掘っくり返していますよ」

「そんなことだろうな――ところで、昨夜小僧の定吉は何処に寝た」

「お勝手の隣りの二畳ですよ」

「よしよしそれでナゾは解けたよ。女に甘いことにかけては、日本一だろうと思う八五郎を、この家へ用心棒に泊めて置いたのがおれの間違いさ」

「親分」

「まア、変な顔をするなよ、八。おれは今ごろになって漸く斑組の首領の正体と、その悪企みを突き留めたのだ」

「親分、そいつはだれです。何処の野郎です」

「驚くな、八」

「?」

「斑組の首領――、三人の仲間を殺した、恐ろしい下手人はあの蟲も殺さぬ顔をしているお栄だよ、――お前の岡ぼれの相手のお栄だよ」

平次は自分の言葉の重大さを警戒するように、四方あたりをながめました。

「あの女には、賽の目の入墨はありませんよ、親分」

八五郎はやっきとなりました。

「お前はお栄を裸にして見たわけじゃあるまい、――お前の見たのは、お栄の右左の腕だけだ」

「――」

「お栄の入墨、――一つ星の賽の目は、腕ではなくて多分太股だろうよ」

「えッ」

「六人組の五人までは男、その入墨は左の二の腕にあったが、たった一人の女――それも首領の賽の目の入墨は、外の者と違って、思いきってふざけたところにあるだろうと思うよ」

「それにしても、お栄が首領というのは変じゃありませんか。あの女は半兵衛が殺された時はこの家にいなかったし、――本所で定五郎が殺された時は、半兵衛の初七日の逮夜たいやで、この家から一足も出なかったでしょう、――そして番頭の宇八の殺された晩は、ここにあっしと叔母が泊って見張っていました。昨夜もその通り、お栄は宵のうちから自分の部屋に籠って何にか仕事をしていましたよ」

八五郎はここを先途といった一生懸命さです。

「その弁解は後で聴こう。とも角鳥を逃がしちゃ話にならない、直ぐ本所へ引返そう」

「本所へ?」

「石原へ行って、騙されたと気がつくと、あの女は何んの未練もなくその場から飛ぶだろう、一万二千両の隠し場所を知っている人間だ。近江屋の身上なんか、へとも思っちゃいまい」

「それじゃ親分、石原まで」

平次と八五郎は、弾みきった猟犬のように、その場からまっ直ぐに石原へ駆けつけました。が、

「お栄は? 近江屋のお栄は来ませんか」

門口で見張っている石原の利助の子分にきくと、

「そんな人は来ませんよ」

と、つままれたようなあいさつです。

「若くて綺麗な新造だが」

八五郎、もどかしそうに注を入れましたが、

「若いのも年取ったのも、女は一人も来ませんが」

答えは少し不愛想で冷かし気味でした。

「八、ムダだ」

「ヘエ?」

「お栄はお前やおれよりは悧巧だよ。こいつは臭いと思ったら未練がましくその辺にマゴマゴしているものか」

「ヘエ?」

八五郎は未だ信じ兼ねる様子でした。

「お前におびき出されたと見せて実は引返しておれ達の調べを見たんだろう。そして袋戸棚の草履を見つけられると、こいつはいけないと、その場から高飛びしてしまったに違いない」

「すると一万二千両の金はどうなったでしょう」

「仲間が皆んな死んでしまえば、お栄だけがその隠し場所を知ってるだろう、――待てよ八。おれは少しまわって見るところがある。お前は一と足先に金沢町へ帰ってもう一度近江屋を見張っていてくれ」

八五郎の返事も待たず、平次はこういい捨てて何処かへ行ってしまいました。

縄抜け

八五郎は平次に別れて、緊張した心持で金沢町の近江屋に帰って来ました。この家へ、だれが最初に来るかわかりませんが、とも角、八五郎は懐ろの十手を取り出して腰に差したり、袂の中に落してある捕縄をまさぐったりして、すっかり英雄的な気持になっていたのです。

鍵はお隣りに預けてあるはずだと思いましたが、念のために入口の格子に手をかけると、格子戸は手に従って軽く開きました。

「どなた?」

中からは、響の音に応ずるような若い女の声、その艶っぽい張りきった調子は、お栄の声でなくてだれであるものでしょう。

八五郎はハッとしました。そのお栄を縛るために本所まで飛んで行き、そのお栄のもどって来るのを見張るために、金沢町へ取って返したのです。まさかこの家の中に、当のお栄が引返して来て、日本一の爽やかな声で受け応えしようとは、八五郎の飛躍する想像力の限度を超えた奇蹟でした。

「お栄か」

ばかな念を押しながら、八五郎はガラリと障子を開けました。

「あら、八五郎親分」

それを嫣然と迎えるお栄は、たんすのひきだしを開けて何やら捜している真っ最中だったのです。

「御用だぞッ、神妙にしろ」

その瞬間、さすがに職業意識が働くと、八五郎は十手を後ろ構えに、飛びつきそうな格好になりました。

「まア、それは冗談? でも勇ましいワねエ」

お栄は捜し物の手を休めて、振り返り様、にっこりするのです。肩を引いて七三に捻った上半身、豊艶な首筋から頬のあたり鼻筋が匂って、眉が煙って少し受け唇に白い歯のチロリと見える恰好は、この女を一番美しく見せるポーズでした。

「ごまかすな、お栄。お前は半兵衛を殺し、定五郎を殺し、宇八を殺し、お里を殺したろう、太てえ女だ」

「ま、ま、まア、大変ねえ、――私が、そんなに殺したの」

「覚えがあろうが」

「もっとも八五郎親分を眼で殺そうと思ったけれど、こればかりは手に了えなかったのさ。お前さんには綺麗なあやかしがついているんだね、――口惜しいけれど手応えなしさ」

「ふざけるな、神妙にお縄を頂戴せい」

八五郎は飛びつくように、お栄の肩を、白みがきの十手でハタと打ちました。いや打ったつもりでも豊かで柔らかい女の肩を、ちょいと撫でたといった方が宜かったでしょう。

それでもお栄はがっくり膝を突きました。大輪の牡丹が、音もなく大地の上へ、ポトリと落ちて砕けたような風情です。

「あれ、本当に縛るつもり? 八五郎親分」

「当り前だ、十手は伊達に持っちゃいねエ」

「まア――そんなつもりだったの、八五郎親分。では一度縛られて上げるワ、八さんのお手柄になることなら――こう」

お栄はそのまま自分の手を後ろにまわして、神妙に八五郎の縄を待っているのです。

八五郎は暫らくキョトンとしました。引っ掻くとか飛びまわるとか、精一杯暴れてくれると縛る張合いもあるのですが――。

「でも、人殺しや押込みで縛られるのはいやねえ――お小姓の吉三さんに逢いたくて、家へ火をつけて縛られるなら、火あぶりになっても本望だけれど」

八五郎に縄を掛けられながら、身体をクネクネと揉んで、お栄はまたこんなことをいうのです。

「ぜいたくをいうな」

八五郎は精一杯冷酷無残な顔をして、奥歯を噛みしめながら、キリキリと縄尻を締めるのでした。

「あら、自棄な力ねえ。痛いじゃありませんか」

「我慢しろ」

「でも、私は一体何んで縛られるんでしょう」

「四人殺しの証拠が上っているんだ。おれを用心棒に泊めて置いて裏の部屋から脱け出したろう。地袋にどろだらけの草履があったのを見つかったとは気がつくまい」

「まア、そんなことなの――私は寝つきが悪いから、時々夜風に吹かれに、外へ出るんですよ――せっかく泊ってもらっている、八五郎親分や叔母さんを起しちゃ悪いと思って草履を用意して、床の間の地袋へ入れて置いたんじゃありませんか」

「何んだと」

「それとも草履を神棚へでも載っけて置きゃよかったでしょうか」

「ばかにするな」

「でなきゃ、八さんの寝ている枕許を通って、表から外へ出ても宜かったでしょうか――夜中に八さんの枕元を通って」

「――」

「私は口惜しい、八さん」

お栄は縛られたまま、サメザメと泣くのです。長い睫毛を伝わる涙の玉が、豊かな頬をホロホロと落ちて、少し踏みはだけた膝に落ちるのも、妙に八五郎の胸をうずかせます。

「それじゃ聞くが、本所へ行ったはずのお前が、向うへ顔を出さずにここへもどって来て、何んか捜し物をしていたのはどういうわけだ」

八五郎は自分で縛り上げた手前一応この女を説破したい衝動に駆られたのでした。

「途中から、大事なことを思い出してもどって来たんです――あらそんな変な顔をすることなんかありゃしません。連判状なんかじゃない、私の大事な覚え書なんですもの、うっかり人様に見せたくないじゃありませんか。現に、八さんのことなんかも、沢山書いてありますよ、――極りが悪いワ、こんなことまでいわして、――御用聞って罪な稼業ねえ」

そういいながら、八五郎の顔を斜下からなめ上げるように打ち見やるお栄です。

「うまくいうぜ、――お前が斑組六人男の仲間ということはもう証拠が上がっているんだ」

「まア、どんな証拠」

「お里の腕の入墨は偽ものとわかったよ。賽の目のピンが、お前の身体の何処かに彫ってあるに違げえねえ」

「まア、疑い深い八さん。この間の晩、私の腕を見せて上げたじゃありませんか」

「入墨は腕じゃあるまいよ、太股とか背中とか、変なところにあるんだろう」

それは平次の智慧でしたが、八五郎はそれを拝借して突っぱねたのです。

「ま、まア、見せて上げましょう、念晴らしに。余人ならとも角、八さんなら喜んで、何処でも御覧に入れましょうよ。太股でも、背中でも――」

「ばかなッ」

八五郎は顔を反けました。縛られた若い女の、太股を見せてもらうほど、八五郎は図々しくはありませんが、膝の間からこぼれる緋縮緬が、若い八五郎の眼に沁みます。

「じゃ、どうすれば宜いの、八さん。縄を解いて下さるなら、私はどんなことでもするワ」

「黙っていろ、おれは少し用事がある」

「黙って私に四人殺しの毒婦になれというの、八さん。可哀想じゃありませんか」

「うるさい女だ。お前は暫らく隣りの部屋にいるんだ、おれはこのたんすの中が見たい」

「まア」

散々にすねたり絡みついたりするお栄を、八五郎は抱き上げるように隣りの六畳に移しました。

「暫らく我慢するんだ」

丁度誂えたような床柱、それにお栄の身体を厳重に縛って、八五郎はもとの部屋に取って返します。

お栄がツイ今しがたまで、あらゆる抽出しを引っくり返すような大袈裟な捜し物をしていたたんすに、八五郎はその中にこそ、斑組六人男と、盗まれた御用金一万二千両の、重大な秘密が隠されてあるのに違いないと思い込んだのです。

「変なものを出さないで下さいよ、八五郎親分」

お栄はその手を牽制するように、隣りの部屋から声をかけます。

「黙っていろ」

たんすを調べるときは下の抽出しから――、八五郎もそんなことは心得ておりました。手に取って引出されたものは、派手で艶めかしくて、思いのほか贅沢な若い女の着物の数々。

「女には、いろいろ男の方に見せたくないものがあるのよ。宜い加減にして、こっちへ顔を見せて下さらない、八さん」

「もう少しの辛抱だ」

八五郎の手は忙しく動いて、一枚一枚の着物を調べて行きますが、袂の中から襟の裏まで気を配るので、思いの外時間がかかります。

でも、何うやらこうやら一段落になりましたが、怪しいものは何んにもありません。

「お栄」

「――」

「お前はたんすから何を取出した」

「――」

ツイ今しがたまで、引っきりなしに口を動かして、八五郎を牽制していたお栄が、急に黙り込んで、返事をしないのは唯事ではありません。

どうかしたか? 八五郎はそういった不安に駆られて、境の唐紙をハネ飛ばすように開けました。

「あ、いない」

そこにはお栄の姿はなく、床柱の前には、見事に脱けた捕縄だけ、とぐろを巻いて畳の上に落ちているではありませんか。

「畜生ッ、何処へ失せやがった」

八五郎は狂気のように家中を捜しましたが、素よりお栄の影も形もなく、裏口の障子がここから逃げ出したといわぬばかりに半分開いております。

八五郎が路地へ飛び出したことはいうまでもありません。

「どうした、八。大層あわてているじゃないか」

その前に立ちふさがったのは、何処からか今帰って来たらしい銭形の平次だったのです。

平次は解く

「親分、その辺でお栄の阿魔の姿を見かけませんか」

八五郎はすっかり面喰らっておりました。

「そんなものは見ないよ――お栄がどうしたんだ」

平次の顔もさすがに緊張します。

「ここへ帰って来ると、箪笥なんかガチャガチャさせながら、あら八さん――なんて済ましているじゃありませんか、いきなり縄を打つと――賽の目の入墨があるなら、太股でも何んでも見せるって――」

「お前そんなもの覗いて見たのか」

「覗きゃしませんよ。憚りながらうるさくからみつくのを振りきって、隣りの六畳の床柱に縛って、臭いと見た箪笥を調べるうち、いやに静かになったと思って覗いて見ると――」

「太股をかえ」

「太股じゃありませんよ。隣りの部屋をのぞいて見るとこの通り、綺麗に縄を抜けて、裏口から逃出してしまったんで――太え阿魔じゃありませんか」

床柱に残った捕縄を見せながら八五郎は地団太を踏むのです。

「間抜けだなア――あの女はお前明石五郎八の一座の女太夫で、縄抜けの名人だったんだぜ」

「ああなるほど」

「雁字がらめにして葛籠つづらの中に入れられながら綺麗に縄抜けの芸当をやらかして、赤い長襦袢一枚の姿で、お客様にニッコリ笑って見せたお栄だ。お前の掛けた縄なんか抜けるのは、お茶の子さいさいだよ」

「チェッ」

「舌打ちなんかしたって追ッつくものか。縄抜けの芸人を縛るには、縛りようがあったんだ――まア宜いや、ここで講釈をしても始まるまい」

平次は八五郎を慰めながら、足で派手な座布団を引寄せます。

「済みません。親分」

ポリポリと小鬢を掻きながら、その前に蹲る八五郎。

「仕方があるまいよ。あの女は下っ腹に毛のない代物だ、俺が縛っても逃げられたかも知れないよ」

「ところで、親分」

「何んだ八、大層改まって」

「お栄は本当に斑組の首領で、四人殺しの下手人でしょうか」

八五郎にはまだそれが呑込めなかったのです。

「斑組の首領かどうか、それこそ太股でも見なきゃわかるまいが、半兵衛、定五郎、宇八、お里のうち、三人までは確かにあの女が手を貸して殺しているよ」

「ヘエ、すると外にも、あの女の相棒があったんで――」

「気がつかないか、――あの小僧の定吉、あれがお栄の相棒だったのさ。俺は本所でお前と別れて、定吉の行方を捜していたんだ」

「ヘエ、あの小僧がね、――あれはまだ子供じゃありませんか」

「お前もそう思ったのか、俺も最初はそう思い込んだから、とんだ間違いをしてしまったよ。あの定吉という小僧は、十三や十四じゃない。背こそ低いが、身体は出来ているし、鼻の下に薄髯まで生えていたよ、あれはどうしても十七か十八にはなるだろう」

平次は大変なことを見抜いていたのです。

「驚いたね、あの小僧が十七、八ですか、ヘエ」

感に堪える八五郎に、平次はこう冠せて話して行くのでした。

「男の子の一番危ない年ごろだ。その上あの定吉という小僧は、生れながらの恐ろしい心を持っているよ。お栄のような男を玩具にすることを何んとも思わない、女にはこの上もない結構な道具だ」

「ヘエ」

「それから、まだ驚くことがある。殺された定五郎は定吉の父親に違いないが、お里は叔母でも何んでもない――あれは定五郎の妹といい触らしたのは真っ赤な嘘で、実は定五郎の妾か何んかだったんだ」

「――」

「定五郎が殺された時、あんなに泣いていた定吉が、お里が死んだ時はケロリとしていたし、お品さんに聞くと、お里と定吉とは恐ろしく仲が悪かったそうだ。お里は多分身を持崩した素姓の悪い女で、定五郎のところへ転がり込んで、定吉を邪魔にして投り出したんだろう」

平次の話は一々根拠がありましたが、

「そのお栄が何んだって三人も四人も殺したんでしょう」

「宇津の谷峠で奪った一万二千両の奪い合いだよ。一万二千両の御用金は何処かに隠してあるだろう、それを知っているのは誰だかわからない。が、四人の仲間が殺し合って、たった一人になれば、その残る一人の手に入ることだけは確かだ」

「ヘエ」

「最初から話してみようか。半兵衛が殺されたあの晩、昌平橋で、俺とお前に逢った時は、お栄もさぞ吃驚したことだろうよ。あれは半兵衛を殺した匕首を捨てに来たのだ。匕首には一と目でお栄の持物とわかる目印でもあったに違いない」

「なるほどね、それで樽拾いの小僧まで殺して、あの匕首を手に入れたんですね」

「匕首を手に入れたのは番頭の宇八さ。宇八はその匕首を手に入れて、お栄を脅かしたんだ――いや、宇八はお栄に参っているから、匕首を種に口説いたんだろう」

「いやな野郎ですね」

「八五郎なら、そんな事はしない。女を口説くのは男前と胸三寸」

「ご冗談で」

「話は後前になったが、お栄はあの晩乞食橋の荒物屋で、宇八に逢う約束をしながら、半兵衛を殺してお隣りで油を売り、乞食橋へは行かなかった。宇八を釣って置いて、一刻半ばかりの行先を変なものにし、疑いを宇八の方へ持って行くつもりだった」

「悪い女ですね」

「あの時、俺とお前を案内して、灯りのない血だらけの部屋へ飛び込んだ癖に、お栄の裾にも足にも血が付かないことをおれは不思議がったろう。――お栄は家の中のことを心得ていた証拠だ」

「でも、お栄は隣りへ行く時、戸口で半兵衛と話していたというじゃありませんか――そして隣りから帰ると直ぐ、半兵衛が殺された騒ぎが始まり、親分と私が行った時は、血が固まりかけていましたね」

「いや、お栄がお隣りへ行った時は半兵衛はもう殺されていたよ。血の固まり具合で見ても、おれ達が行く一刻か一刻半も前に殺されているはずだ」

「するとお栄と話したのは?」

「お栄だよ」

平次は不思議なことをいうのです。

お栄と話したのはお栄――平次は不思議なことをいうのでした。

「お栄は縄脱けの名人だといったが、この節の軽業や手品が、歌舞伎芝居の真似事をしてお客様の御機嫌を取ることはお前も知っているだろう」

「――」

「お栄は声色も上手に使えたのだよ。毎日聴きなれている半兵衛の声色ぐらいは、器用なお栄には何んでもなく真似られるだろう。半兵衛を殺して庭へ磔刑にし、血の汚れを井戸端で洗って、ザッと着換えをし、門口で半兵衛と掛合いの声色を遣って、ケロリとして一刻以上も油を売っていたのだよ」

「恐ろしい女ですね。でも、あの大の男の半兵衛を磔刑にしたのは、女の力じゃありませんね」

「本所からそっと脱け出して来た、小僧の定吉が手伝ったのさ」

「何んだって、あんな手数なことをしたのでしょう」

「力の弱い女の仕事でないと思わせるためだよ。五尺四、五寸もある大男を、五寸でも一尺でも宙につるのは、女に出来ることではない」

「定吉に手伝わせてもむずかしくはありませんか」

「上の枝からつッたのさ。二人でやれば楽に出来る」

平次の説明は微に入ります。

「それだけわかっていて、どうして親分はお栄を挙げなかったんです」

「確かな証拠は一つもないよ。あの女は恐ろしく悪賢こい、見当はついているが、一度も尻尾をつかませない」

「樽拾いの小僧を殺したのは宇八として、定五郎を殺したのはだれです」

「宇八だよ」

「ヘエ?」

「宇八はお栄に夢中だったのさ、お栄のいうことは何んでも聴いた。乞食橋の荒物屋で待ちぼうけを食ったり、樽拾いの小僧を使って、匕首を買ったり、その樽拾いの小僧の口を塞ぐために殺したり、その上にお栄に頼まれて、定五郎まで殺す気になったのだ」

「呆れた野郎ですね」

「父親の定五郎を殺したのは宇八だ――と小僧の定吉に教えたのはやはりお栄だろう。お栄はあの谷中で宇八を殺した晩、定吉に宇八を誘い出させ、自分は宵のうちに、佐久間町の樽拾いの小僧の家へ行って窓から財布などを投り込んだ、――そして金沢町の家へ帰って、お前が変な顔をするのを、面白そうにながめて思わせ振りな笑顔を見せた――こうして置くと夜中に脱け出しても八五郎は気が廻らない」

「ヘッ」

八五郎は照れ隠しらしく、長んがい顎をなでます。

「宵に一度出て八五郎に安心させて置いて、夜半にそっと丸窓から脱け出したのは手が込んでいるが賢こいやり方だ。その頃用心棒の八五郎は、鼻から提灯を出して、大福餅の夢を見ていた」

「冗談でしょう」

「お栄は抜け目がないよ。谷中で宇八に逢い、半兵衛を刺した時と同じように、背後から抱きついて、何んかささやくと見せて、匕首を男の首筋に叩っ込んだ。こいつはお栄の術てだ、相手の血を浴びずに、間違いなく止めが刺せる」

平次はその場を見ていたように話して行くのです。

「わからない事が一つありますが、親分」

「何んだえ」

「石原から定五郎に間違いがあったといって来た使いはだれでしょう」

「宇八だよ、――定五郎を殺した番頭の宇八さ、――定五郎は中風で身体が自由でなかったから宇八一人でも殺せた」

それはまことに思いも寄らぬことでした。

「それじゃ、顔を見られたわけじゃありませんか」

「使いの者の顔を見たのは、お里とお栄だけだ。お里は何にか仔細がありそうだと思って口をつぐんだし、お栄は万事心得て知らん顔をしたのだろう」

「何んだって、知らせに来たんでしょう」

「悪い事をする奴の見得だよ。おれとお前にあわてさせて、あとで細工をするつもりだったんだ」

「すると、使いの者に化けた宇八が、引っ返してお栄を縛ったんで」

「そうだよ、二人は打ち合せてあったんだ。お前とおれが柳原から引返すのを見定めて、一と足先に帰って、恐ろしい早業でお栄を縛った、――あの時の縄目は、両国の見世物で、縄抜けの時やる早縄だ。見てくれだけは厳重だが、身体を一つ揺るとゾロゾロと解ける」

「ヘエ、驚いたね」

「お前は一々物驚きをするよ。皆んなお栄好みの芝居だ」

「お里を殺したのは?」

「あれはお栄だ。女と女だから、後ろから行って絞めたのだ。抱きついて首筋を刺すわけには行かなかった。――尤も定吉も片棒かついだかも知れない。定吉は父親の定五郎を宇八に殺させたのは、お里の細工だと思っていたらしい」

「ヘエ、悪い奴らですね」

「お里はいろいろの事を知り過ぎて、邪魔になったのだろう」

「親分は一体、何時ごろからお栄が怪しいと思いました」

「最初の晩からだよ。でも、確かな証拠が一つもなかった。お前を泊めて置いたら、何にかかぎつけるかと思ったら、それも大当て違いよ」

「ヘッ」

八五郎は舌を出して額を叩きました。

「宇八がお栄の手紙――逢引の打ち合せを書いたのを、大事そうに温めていたのを見ておれはいよいよお栄が怪しいと思ったよ。太股の入墨なんか覗くまでもない」

「ヘッ、親分に逢っちゃ叶わねえなア」

「ところでお栄は逃げた、定吉も姿を隠してしまった。斑組の首領は誰だかわからず、四人殺しの下手人も挙ってはいない。今度ほどおれもドヂを踏んだことはないが、その代り今度引っ掛りを見つけさえすれば、斑組の首領を一万二千両のお土産付きで縛るよ」

「その一万二千両は何処にあるんでしょう」

「お前の後ろだよ」

「えッ」

「その箪笥の中さ。お栄が命がけで戻って来たのは、何んの為だと思う」

平次は八五郎が散々掻き廻した、化けそうな古箪笥を見やるのでした。

黄金環

挑戦

それから一と月あまり、江戸はすっかり初夏になりきって、町懐ろを彩どる稲荷の祠ほこらも、若々しい青葉に包まれ、朝々には時鳥ほととぎすが、いらかの波の上を大川へそれて、町々に初鰹売りの声が、高々と響き渡るのでした。

斑組六人男の五人までは明らかに死んでしまいましたが、たった一人残ったはずの、凶賊の首領の行方は、それっきりわからず、困ったことに、その本名も、人相も、年輩も、性別さえもわからないのですから、江戸町人達の心の底には、一脈の不安がコビリついたまま、江戸開府以来といわれた捕物の名人銭形平次もまさに十手捕縄を預かって以来の、最初の黒星を頂戴したことになりました。

「銭形の親分は何んとかしてくれるだろうよ」

江戸の年寄り達はそういいました。平次に対する、抜くべからざる信頼感です。

「いや、平次も今度は大味噌をつけたよ。斑組の首領が、雌か雄かわからないようじゃ、四人殺しの下手人も挙りっこはあるめえ」

若い人達はそういって面白がりました。偶像破壊的な興味です。

こんな取り沙汰を他所よそに、平次は気のない顔をして、ぼんやりとその日その日を暮しておりました。小遣も煙草も尽き、晩酌の工夫に女房のお静が肝胆を砕くのをいじらしく眺めながら、さて、御輿をあげようともしないのはなんとしたことでしょう。

その間にガラッ八の八五郎は、新らしい穴を二つまで見つけました。一つは佐久間町の仁助店に、鼠の巣のように暮している、樽拾いの小僧――宇八の凶刄に倒れた――元吉の家で、母親を慰めるというのは口実で、実は姉のお雪の顔を見たさに、せっせと通い始めたのです。

お雪は貧乏人の娘らしく、何処かませておりますが、年からいえばたった十七で、世辞も愛嬌もない代り、木の上からもぎ立ての果物のような、清純な感じのする娘でした。

色白で、キリリとして、眼鼻立ちの可愛らしい娘ですが、そんなに綺麗な方ではなく、八五郎が魅力を感じたとすれば、そのつくろはぬ自然さと、貧苦に鍛錬された一種の気性に引かされたのかもわかりません。

もう一人は、谷中の天王寺の側にある、小さい茶店の女で、これは二十三の抜群のきりょうでした。厳格に人別を洗えば、茶店の婆さんの姪で、出戻りになって遊んでいるのを、婆さんが懇望して、この間から店を手伝ってもらっているということでしたが、谷中の森の中をピカピカさせるような美しさと、鼻声で物をいう媚態が評判になって、近ごろ名物の一つに数えられ、私娼窟のいろは茶屋を圧倒するほどの人気でした。

近江屋の番頭の宇八が、谷中の森で殺された後、何彼とそこに用事のある八五郎が、茶店の女房お銀とすっかり馬が合って、間がな隙がな、五重の塔の下へ行ったのも無理のないことでしょう。

眉を剃った跡の青い、黒々と鉄漿かねをつけた、お銀の悩ましさはお雪とはまた別に八五郎の心を囚えたのです。

「大変、親分」

その八五郎が、例の前触れと一緒に飛び込んで来たのは、ある日の朝、平次の野孤禅やこぜんが漸く煙草の煙の中に解け入って大悟の妙境に入ろうとするころのことです。

「相変らず騒々しい野郎だ。何が大変なんだ」

平次はとぐろをほぐして、煙草をくわえたままの首をネジ向けました。

「佐久間町のお雪の家へ、変なものを投り込んだ奴がありますよ」

「また小判の入った財布でも投り込んだのか」

「そればかりじゃありませんよ。癪にさわるがあっしには見当もつかねえ、判じものですよ。親分」

八五郎は膝ッ小僧を並べて坐ると、深々と懐中の中にしまい込んだ、手拭包みの一と品を取出して、平次の前へ押しやるのです。

「色文じゃないだろうね、――お前の眼の色から鑑定すると、お雪坊に新らしい男が出来たという筋らしいが――」

「そんな間抜けなものじゃありませんよ。兎も角読んで見て下さい」

「少し怖いなア、果し状なんか謝るぜ」

平次はそういいながら、件くだんの一と品を取上げました。手拭をほどくと、中からコロリと落ちて、畳の上で燦然と光ったのは、径二寸ほどの、山吹色の丸環が一つ。

「こりゃ何んだえ」

「手紙を読んで下さいよ」

平次は黙って環をながめておりましたが、牛の鼻輪ほどある黄金の環が、何んのまじないになるのか、まるっきり見当もつきません。

環と一緒に半紙を四つ折にして、畳んだ手紙が一通、押し開くとかなりの達筆でこう書いてあるのでした。

銭形の親分、気の毒だが今度は面目丸潰れだろう。斑六人組の正体も、四人を殺した下手人も、親分は金輪際わかるまい。この儘一万二千両の御用金を、俺が一人占めにしたところで、どこからも文句はつけられまいが、俺は人間が正直だから、黙って自分だけ甘いしるを吸ってはいられない。一万二千両の御用金を取出す前に、もう一度親分にも天機をもらして置こう。

○月○日○刻、六十上でお目にかかる。

おやじの口の中、斑組、三申さんしん念のために黄金の環を貸してやる、これを何に使ったものか、よく考えるがよかろう。

「畜生ッ」

平次はさすがに唇を噛みました。あまりといえば、人をなめた手紙です。

「こいつをお雪坊の家へ投り込んであったんですよ。別に金が十両と手紙がついていて、名前はエテ三とあったようです」

「たしかにエテ三とあったのか」

「あっしが見たんだから間違いありませんよ。それくらいの字ならあっしも読めまさア」

「すると、斑組の首領は、猿三とか申三郎とかいうんだろう」

「役者みたいですね。女ならお猿とか、おえんとか」

「その手紙の文句を覚えているか」

「何んでも面倒臭いことが書いてありましたよ。一と息には読み下せそうもないような」

「仕様のない野郎だ。だから少しは四角な字も習って置け、――というと、俺は大層学がありそうだがね」

平次はそういって苦笑しながら出かける支度を始めました。

銭形平次は、八五郎の腑甲斐なさを責める気にもなれず、そのまま自分で佐久間町のお雪の家へ行きました。

相変らずの浮世小路で、世帯疲れのした母親と、不思議にピカピカする娘のお雪が迎えてくれます。

奉行の計らいで、窓から投り込まれた金をもらったところで、骨まで貧乏のしみ込んだ世帯が、急に明るく豊かになるわけではなく、旧態依然たる鼠の巣に、母親は手内職の玩具などを並べておりました。

「あ、八五郎親分」

お雪は早くも路地へバアと顔を出した、長んがい顎を見つけて、門口の外まで迎えてくれます。

洗いざらしのひどい袷、襟の赤い色もあせて、見る影もない姿ですが、襤褸ぼろに包まれた四肢にも、油っ気のない髪の光沢つやにも、娘盛りの美しさが溢れて、豊かな頬、聡明そうな瞳、柔かく延びた首筋――すべて魅惑的でないものはありません。

「今日は銭形の親分をつれて来たよ」

「まア」

平次の顔を見ると、娘はバタバタと家へ飛び込みました。

「八、お安くないぜ、――お前の顔を見ると飛び出したじゃないか――でも俺の顔を見るとあわてて家へ逃げ込んだが」

「そんなわけじゃありませんよ。きまりがわるいんですよ」

八五郎の弁解を、背中越しに聴いて、平次は母親の前に御輿みこしを据えておりました。

「昨夜投り込んだ品を見せてくれ。俺へ届けてくれた分は受取ったが」

「ハイ、これで御座います、親分さん。見す見す悪い人達の仕業と知っては、このままにもなりませんので、家主さんと相談をして、お役所に届けようと思っておりますが」

そういって出してくれたのは、小判で十両入った紙包と、半紙一枚のこれも八つ折にした手紙でした。

小判を包んだ紙には何んにも書いてなく、手紙の方は平次へ宛てたのと同じ筆跡で、

死んだ元吉の四十九日も近い、これでお経の一つもあげてくれ。そういったところで俺は元吉を殺したわけじゃない。それからこの前の例もあることだから、この金はお上へ届けるに及ぶまい。俺が働いてもうけた金だ、安心して貰うがよかろう。外に金の環と手紙を添えたが、それは銭形の親分か、八五郎の馬鹿に渡してくれ頼むよ。

斑組  エテ三

こう書いてあるのでした。

「おい、八」

「何んです、親分」

「お前はこの手紙を読まなくて良かったよ」

「何んかあっしのことを書いてあるんですか」

「大層褒めてあるよ、八五郎親分は悧巧で気前がよくて好い男だ――とね」

「嘘でしょう」

「満更悪い心持じゃあるめえ、――ところでこの手紙を投り込んだのは」

平次はお雪親娘を顧みました。

「あの窓からでございます。昨夜の亥刻半よつはん(十一時)だったかも知れません。仕事をよして休もうとしている時分でした」

「ところで、これから何をやりゃ宜いんでしょう、親分」

「そうだな、差し当りあの判じもののような手紙を読み直して、相手が何を企らんでいるか考えなきゃなるまいよ」

平次と八五郎は、佐久間町のお雪の家を出ると、足は自然明神様の方に向きました。

「きょうは何んの日だえ、八」

「あっしはそんなことを考えたこともありませんよ。犬の日だの猫の日だの」

「新造の日だの年増の日だの――てえのがありゃ宜いんだが」

「ヘッ、ヘッ、まアそんなことで」

「そこで易者にきいて見な、昌平橋の袂にいるよ。商売々々でそんなことはよく知ってるだろう、何をするといったら、仲町へ申の日に行く約束があるとでもいえ」

「見料を欲しいといったら、どうしましょう親分」

「占いや易を頼んだわけじゃねえ、暦の代りにきいたんだ。十手を見せて引揚げて来い」

「食い逃げの術ですかえ」

「きき逃げだよ。もっとも青銭一枚置こうと、小判をはずもうと、お前の勝手だ」

ガラッ八は橋の袂へ行きましたが、易者と一と問答してすぐ引揚げて来ました。

「エテ公の日ですよ、親分――その上月までが申で、念入りに今晩は庚申こうしん様だ」

「サア、大変だぞ、八」

「どこかの庚申講にでも踏み込むんですか」

「そんな罰の当った話じゃない、――お前先刻見た手紙の文句を知っているだろう」

「ヘエ」

「――○月○日○刻、六十上、三申――と書いてあったはずだ」

「斑組の首領はエテ三といったろう、猿三か猿三郎という名前だろう。それを三申さんしんと引くり返して書いたのはワケのあることに違いない」

「ヘエ?」

「○月○日○刻と書いた三つの丸に申さるの字をハメ込んで見ろ、申の月、申の日、申の刻じゃないか」

「あッ、なる――」

「相手は今日の申刻ななつ(四時)に何処かへ俺をおびき寄せようというのだ」

平次はここまで考えたのです。

「場所は何処だ、八」

「親分にわからないものが、あっしにわかるわけはありませんよ」

「膝とも談合ということがある、そういわずに考えてみろ」

「あっしが膝ッ小僧ですかえ」

「少し長んがい膝ッ小僧だ、――鼻糞を掘ったり欠伸あくびをしたり、行儀の悪い膝ッ小僧じゃないか」

「ヘエ、有難い仕合せみたいなもので――」

ムダをいいながらも平次の頭は恐ろしい勢いで動いているのでした。

「畜生ッ、こんな甘口な判じものがわからないはずがあるものか、六十上とは何んのことだ。八、お前も考えろ」

「愛宕山の男坂の、六十番目の段々の下なんかどうです」

「うまいッ、そいつは見料をはずんでも宜い」

「でしょう」

「お前愛宕山へ行って、六十番目の段々の下を掘って見ろ。請合いみみずが二、三匹這い出して来る」

平次は威勢よく八五郎の知慧を叩きつぶします。

五重の塔

「では、何処です。親分」

「おれにも見当はつかないよ。思い当ることがないでもないがこいつをいうとお前に笑われそうだ――黙って来るが宜い」

「あっしは、愛宕山の外に、六十も段々のある場所はないと思うが。ね、親分」

八五郎は執念深く食い下がります。

「あの文句の後にある(おやじの口の中)というのは何んだ。愛宕山にそんなのがあるかえ」

「おやじの口の中にあるのは入歯ですよ」

「それが一万二千となんか引っかかりがあるというのか」

「それがね」

八五郎もそれ以上には知慧がまわりません。

山下で昼の支度をして、上野の山へ登ったのは未刻半やつはん(三時)ごろ。

「何処へ行くんです、親分。その先にはいろは茶屋ばかりですよ」

谷中天王寺を取巻いた私娼窟は、上野から谷中へかけての夥しい僧侶の隠れ遊び場所で、これをいろはと俗称しております。

「その中に、お前は夢中になっているのがあるという話じゃないか」

「あれはいろは茶屋じゃありませんよ。天王寺の側でしきみや線香を売っている家ですよ」

「大層な信心なんだね。兎も角、その仏様臭い家へ案内してくれ。店先を借りて、潮時を待ちたいから」

「お銀の家なら、ツイそこですよ。それ、店先に水を打っている」

「あれがエテ物か――なるほど白い手拭を姉さん冠りにして、小股のきれ上がった良い年増だね――八、声を掛けて見ろ、拍手を二つ三つ打っても宜い」

「お狐様と間違えちゃいけません」

ムダをいうのが聴えたか、振り返ると手拭を取って、

「あら、八五郎親分、いらっしゃい」

こうにっこりするのです。ひどく鼻声で、笠守稲荷が近いだけに気になりますが、それがまた恐ろしく魅惑的でもあります。

毛の多い丸髷、眉を剃った跡が真珠を塗ったように濃いのも、紅い唇から黒瑪瑙くろめのうのような歯が漏れるのも、いいようもない色っぽさです。

「少し店先を借りるよ。なアに、座布団にも及ぶものか、日蔭で一と息入れて、待つ人があるんだ」

平次は椽台を引寄せるように、薄汚れたござの上に腰をおろしました。

「まア、そんなところへ――中に少しは綺麗なのもございます。――銭形の親分さんでしょうね八五郎親分、引合せて下さいな」

女房は座布団を二枚、乳の上に抱くようにして、ひどく色っぽいシナを作りました。

「銭形の親分だよ、お前が口癖に噂している」

「まア、極りが悪い」

「――何時か銭形の親分を連れて来て下さい。私は長い間見ぬ恋にあこがれているんですから――って、お前はいったじゃないか」

八五郎はヅケヅケと素ッ破抜きます。

「まア、そんなことを、私はもういや、八五郎親分」

クネクネと身体を揉みながら、女房はそれでも逃げも隠れもせずに、茶などをくんでくれるのでした。

「八、良い加減にして出かけよう」

温い茶を一と口、茶代をぼんの上にのせて、平次は外へ出ました。女房お銀の色っぽさに、少なからず当てられた様子です。

「何処へ行くんです、親分」

「五重の塔だよ」

「ヘエ? 五重の塔へ願でも掛けるんで――」

「間抜けだな、お前は」

「それにしても、あの女は乙でしょう」

八五郎は自分の肩越しに、後にした茶店の柱にもたれて、芝居の幕切れの見得で、此方を見送っているお銀を指さすのでした。

「乙過ぎてお前には毒だよ」

「ヘエ」

「あの鼻声は唯事じゃねえ。あんまり近しくしない方がお為だろうよ」

「へ?」

「不足らしい顔をするな――今に怖い兄さんが、出刄包丁なんか振り廻して飛び出さなきゃいいが」

「そんなものですかね」

「ところで此処が五重の塔だ」

平次は谷中の五重の塔の前に立って、七三にその頂上を見上げるのでした。

「五重の塔がどうしたんです」

「日射しも丁度申刻ななつ(四時)だろうな――おれはこの塔の上へ登り度いが、天王寺へ行ってかぎを借りて来てくれ」

「ヘエ」

八五郎は飛び出そうとしました。

「待て待て八、かぎを借りて入ったんじゃ知慧がなさ過ぎる。何にか工夫がありそうなものじゃないか、相手はまさか天王寺に渡りをつけて居るはずはない」

平次は八五郎を留めて、一応塔の周りをグルリと一巡しました。

そのころの五重の塔はまだ真新らしく、建付けも扉も厳重で、一寸一分の隙間があろうとも思われません。

「八、四方の扉へ触って見ろ。間違って開くのがあるかも知れない」

「ヘエ」

八五郎は五重の塔の四面の扉を一々念入りに調べましたが、それは鉄の如く厳重で、押しても引いても開く気振りもなかったのです。

「あッ、これだよ八」

「何んです親分」

「こんな事を忘れて居たんだ――これがかぎだよ」

平次は懐中から先刻の黄金の環を取出しました。五重の塔を一と廻りすると、南側の扉の、人の背丈より少し低いところに、丁度黄金の環を横にして滑り込ませるほどの、真新らしい隙間が出来て居るではありませんか。

平次はもう少しの躊躇もしませんでした。

「大丈夫ですか、親分」

心配する八五郎の顔をしり目に、その隙間に、黄金の環をスルリと滑り込ませたのです。

環は無造作に穴の中へ落ちて、何処かでチーンと音がしました。同時に押していた銭形平次の手に従って、見る見る五重の塔の南面の扉は、音もなく内側へサッと開くではありませんか。

「入るのだ、八」

「大丈夫ですか」

中はほの明るくて、思いの外浅間な感じも外からの見掛けの堂々たるに比べて、妙に幻滅的ですが、それでもさすがに無気味さは背に迫ります。

「待て待て」

五重の塔に飛び込もうとした八五郎は、平次の手で押し戻されました。

「どうしたんです、親分」

「考えて見ると、二人で入って二人に間違いがあった日にゃ、後の始末が付かねえ」

「へえ、そう言ったものですかね」

「塔の中へはおれ一人で入って見る、お前はここから引返して精一杯人数を集めてくれ。谷中の菊がその辺に居るだろうし、手に及ばなかったら、お山同心にお願いして中間でも人足でも出来るだけかき集めるのだ」

「親分は?」

「おれは塔の上へ登って見るよ」

「危なくはありませんか、多勢集めて来るまで待っていちゃどうです」

それは五重の塔の入口に立っての、言葉せわしい問答でした。

「いや申刻ななつ(四時)に此処で逢おうと誘われているんだ。もうあの日足は申刻半ななつはん酉刻いつつルビの「いつつ」はママ(六時)近いだろう。敵に後ろを見せるわけには行かないよ」

平次は隙間もる陽の光をながめながら、一寸も退く様子はありません。

「相手は確かにこの塔の上ですね親分」

八五郎はまだねばっております。虎狼のあぎとの中に飛び込んで行く、親分の身の上を案じたのです。

「間違いはないよ。先刻の手紙に書いてあったろう、『おやじの口の中』は谷中の判じものさ、谷という字は父の下へ口と書くだろう」

「へえ」

「六十の上は、五十の上だ、五重の塔さ、まるで子供だましだ。こんななぞなぞにつられるのはごうはらだが、一万二千両の御用金は放っちゃ置けない。それに斑組の首領は四人までも人を殺している。それを許して置いちゃ、懐中の十手に済まねえ」

「でも、親分」

「うるさいな、八。行けと言ったら、早く行ったらどんなものだ」

「へえ、行きますよ。怒ることはないでしょう――行きゃいいんでしょう」

八五郎は後に心の残る風情でしたが、平次の言葉が荒くなると、それに逆うのが悪いと思ったか、直ぐにトボトボと上野の森の中に影を隠してしまいました。

平次はそれを見送ると、一応塔の扉を閉めて先刻落し込んだ金環を拾い上げます。

見ると、扉のあなから滑り落した環は途中のこぶに引っ掛って桟を外し、扉はわけもなく開くような仕掛けになって居るのです。五重の塔を住家にして、こんなに簡単で、そして効果的な仕掛けをこしらえるのは容易の相手ではありません。

二階と一階の間にははしごがなく振り仰ぐと二階へ登り口のあなから、遙かに遙かに高く、五重の塔の雄大な木組が見えて、二階から上は、立派なはしごが掛って居る様子です。恐らく塔の管理者が、子供の悪戯や、こじきなどの寝泊りを防ぐために、一階から二階へのはしごを引いて置くのでしょう。

平次はしばらくながめて居ましたが、懐ろから手拭を取出すと、その先に結び玉をこしらえて、二階の穴から顔を出して居る、木組の間へポンと投り込みました。引き試みると、手拭の先は巧みに掛って丁度いい手掛りになります。

ひょっとこ面

二階にも埃がうず高く積って、人の足跡が縦横に入り乱れております。平次は併しそんなものには眼もくれず、三階へ、四階へと極めて無造作に登って行きました。

やがて五重の塔の一番上へヌッと顔を出しましたが、そこには予期しただれもいません。見ると五階の狭い床を埋めて、金具の厳めしい箱が六つ――それは普通の千両箱などより遙かに大きく、細長い恰好に出来た御用金の金箱が、極めて無造作に並べてあるのです。

この箱一つには二千両づつ入るのが常識で、六つ並べると、明らかに一万二千両の金が入っていたわけですが、斑組の首領が易々とこれを平次に引渡す意味がわかりません。

念のために、一番手近の箱を動かしてみると、何んの苦もなく手に従って動きます。

「おや?」

見ると箱の蓋にブラ下がった大海老錠は抜いたまま、蓋を持上げてみると、中は思った通り空っぽです。

六つの金箱を手前から順々に開けて行くと、五つまでは無事に開きましたが、最後の一つは錠前が違っている様子で、海老錠も金具もなく、白木の箱の上――端っこの方には塔の入口の扉と同じように、幅二分長さ二寸ほどの穴があいているのでした。

恐らくこの穴も、塔の入口の扉と同じ仕掛けで、平次の手にある金の環で開けられるのでしょう。何処まで一体子供騙しのようなことをするのか、平次はひどくいまいましい心持になって、金の環を件くだんの穴の中にポンと投り込みました。

が、暫らく押し試みても、箱は開く様子もありません。箱ごと持上げて、いろいろ工夫をしてみましたが、箱の六面は厳重な板を釘づけにしたもので、種も仕掛けもあるはずはなく、振りまわすと箱の中で黄金の環が、ただカラカラと鳴るのです。

「どうだ、その玩具は、気に入ったか」

図太い声が頭の上から、平次をからかい面に響きますが、振り仰いでも人の姿は見えません。

「ここだよ、銭形の親分。ここだよ」

今度は確かに見つけました。平次のいる五階の上、塔の扉の上部の鏡板の外れたところから覗いて見ると、一番上の屋根の下のヤスガタに、蝙蝠の様にへばりついてひょっとこの面を冠った一人の男が、人を馬鹿にしたような声を掛けているのでした。

「野郎ッ」

平次は飛び出そうとしましたが、いけません。塔の扉はどんな仕掛けがあったものか、外から厳重に閂かんぬきを差して一寸も動かないのです。

「ムダだよ、銭形の親分、その扉は打ち壊さなきゃ外へ出られないよ。扉を壊せば天王寺の役僧にしかられるだろう。フ、フ、フ、銭形の親分でも、寺社の役人には歯が立つまいて」

「――」

「それより、おれの話を聴くが宜い。おとなしく聴くだけの値打ちはあるよ。これだけの手数をして、銭形の親分を五重の塔の上におびき寄せたのは、水入らずに話をしたいためだ。斑組六人男の首領のこの俺が、折入って銭形の親分に話したいことがあったからだよ」

「――」

妙に含み声ですが、それは恐らくこの男がひょっとこの面を冠っているためでしょう。

「お前はだれだ」

この傍若無人の広言に、平次もさすがに我慢がなりかねました。懐ろの十手をそっと抜いて、万一の場合には、この扉一枚を打ち破っても、この曲者を捕えてやろうと、ぎりぎりの決心までも堅めて、餌物を狙う豹のように、金箱を小盾に構えます。

「名前をいえというのか――そいつは無理だ。名前が知れると、三日経たないうちにおれは縛られるよ」

「――」

「それほどおれという者の顔が知られているのだ。銭形の親分をここへおびき出したのは他の事じゃない」

「おれはおびき出された覚えはない。おれは勝手にここへ来たじゃないか、馬鹿ッ」

「怒ったか、銭形の――だが考えて見るが宜い、何月何日何刻、谷中の五重の塔の上へ、こうこうして登って来いといってやったら、銭形の親分はノメノメとここへは登って来なかったろう。来るにしても、あの顎の長んがい野郎を始め、血のめぐりの悪い子分や、組子を二、三十人はつれて来るだろう。それじゃ落ちついて内証話も出来まいではないか」

「――」

怪しい男の快弁にいい捲られたか、平次は黙ってそれを聴いております。

夏の陽は五重の塔の裾から暮れて、やがてこの肩のあたりも雀色の暮色に包まれるのでしょうが、その多勢を迎えに行った筈の八五郎は、まだ影も形も見せません。

「あんな子供騙しの判じものを書いて、大切な金の環まで添えてやればこそ、銭形の親分ほどの智慧者も、この五重の塔のてっぺんまでノコノコとやって来たろう。もっともその金の環は、唯じゃやらないよ。そいつはまだ使い途があるんだ。六つ目の金箱を隠して、唯の箱へ穴をあけて置いたら、銭形の親分は自分の智慧に負けて、金の環を箱の中へ入れてしまったろう、ハッハッハッ、ハッハッ、いや、こんなおかしいことは滅多にあるものじゃない。銭形の親分の前だが、そいつは種も仕掛けもない唯の箱だよ。鋸のこぎりと鉞まさかりでも持出さなきゃ、容易に打ち壊されない箱だよ。その箱の中に落し込んだ金の環は、間違いもなくこっちのものさ――窓から投り出そうというのか、親分の眼はそういっているよ。宜いとも五重の塔の上から投り出せば、下の石塔か石畳にたたきつけられて間違いもなく打ち壊れるだろうから、下に隠れている仲間の者が、有難うとも何んともいわずに持って行くだけのことだよ。ハッ、ハッ、ハッ、驚いたか、銭形の親分」

「――」

平次は思わず唇をかみました。考えると自分の智慧に負けたようなものですが、近ごろこんなに手ひどく曲者のわなに落ちたことはありません。

「怒るなよ、銭形の親分。運不運だ、賽ころの目は、明日はどう起きるかわかるものか――ところで、呑気にしていて、邪魔が入るとうるさい。早速用件を片づけよう、外じゃないが親分、親分はこのつまらねえ仕事から手を引いてはくれまいか」

「――」

「タダじゃないよ。銭形の親分が手を引いてくれさえすれば、小判で二千両、明日とはいわない、今夜のうちに――いや今直ぐでも宜い、耳をそろえて親分に引渡すが」

この事件から手を引いたら、小判で耳をそろえて二千両、今直ぐでも引渡すというのは、随分人を嘗めた提議で、銭形平次も思わず満身の血が逆流する心持でした。

「馬鹿ッ、そんなことを聴き入れる平次と思ったか」

「どっこい、怒るだけまだ若いぜ、――俺はまた、素直に承知したと見せて置いて、いざ金を渡そうという時、『御用ッ』と来るのが怖かったのさ。はなっから怒るようじゃ、憚りながらまだ若い」

「――」

平次は併し次第に冷静になって行きました。こんなにかさにかかった長広舌を弄してはいますが、自分を金で買収しようとしたところをみると、銭形平次が怖ろしくなったことは事実で、恐らく平次の今までに握った証拠の数々は、この男とこの男の仲間を、窮地に追い込んでいるのかもわかりません。

「どっこい、そういったところで、自惚れちゃいけない。憚りながら斑組の首領、江戸の岡っ引が怖いわけじゃない。唯うるさい思いをせずに、自分の仕事を運べば、その方が楽なだけのことだ」

「――」

「商談がまとまらなきゃ、ハイ左様ならと別れてしまえばそれっきりだ。が、なア、銭形の親分、俺と親分は敵同士に生れたわけでも何んでもない」

「――」

「お互いに怪我のないように、折合って行けるものなら行こうじゃないか」

この曲者、斑組の首領と称するひょっとこの面の男は、強気なことをいいながら、妙に銭形平次に絡みついて離れないのです。

扉の上、屋根の下の、マスガタにへばりついて、これだけ口の利けるのは、余っ程身軽なものか、体術の妙を得たものでなければなりません。

身体は至って小さく、強靱ではあるが、決して逞しさはなく、ひょっとこの面に豆絞りの手拭、至って粗末な半纒に、浅葱あさぎの股引、素足が小さいのも、妙に気になります。

「お前はいったい何んの望みがあって、俺に渡りがつけたいのだ」

平次は卒然として問いました。

「そいつは痛いところだよ、銭形の親分」

「何が痛いのだ」

「宇津の谷峠でせしめた一万二千両の小判、江戸へ持込んだところまではわかっている――その通り二千両づつ納めた金箱が五つあるくらいだから」

「――」

「そのうち一箱、二千両だけは確かにおれの手に入った。その二千両を皆んな投げ出して親分にやろうというんだから、斑組の首領の気の大きいには感心するだろう」

「――」

「ところで、あとの一万両は、箱だけはここにあるが、中味は何処へ行ったか解らないのだよ。口惜しいが、斑組の仲間でそれを知っていたのは、俺のいいつけで、金の始末をした近江屋の半兵衛と、石原の定五郎だけ――二人は俺が江戸へ帰るのを待って、一々俺にいう筈のが、一と足違いで殺されてしまったのだ」

斑組の首領と称する、このひょっとこの面の男のいうことは、如何にも途方もないものです。

斑組の首領が、御用金一万両の行方を知らないということは、実に信じ難いことでしたが、あのひょっとこの面の男の冒険と、真剣な態度を見ると、それは決して嘘とは思われません。

「半兵衛と定五郎を殺したのは、お前じゃないか」

「とんでもない。銭形の親分がそんなことをいうと笑われるぜ」

ひょっとこの男はマスガタの上でせせら笑うのです。

「だが、佐久間町のお雪のところに投り込んだ手紙の筆跡は、前のも後のも同じ人間の書いたものじゃないか。前の手紙に二十両添えて投り込んだ奴は、その晩天王寺で宇八を殺している、そして後の手紙に十両と金の環を一緒にして投り込んだのはお前だ――」

銭形平次は独り言のようにいうのでした。

「フ、フ、フ、甘めえもんだぜ、銭形の。あの女はだれの声色でも自由に使い、だれの筆跡でも楽々真似るのだ」

「お前はお栄のことをいっているのか」

「お察しに任せようよ。ところで、あのアゴの長んがい馬鹿が、井戸替えほどの人数を集めて来たようだ。何時までもこうしちゃいられまい。どうだえ、銭形の親分、もう一度考え直す気はないのか。小判で二千両だよ」

「馬鹿ッ」

相手の冷笑的な調子に我慢がなり兼ねて、平次の怒りは遂に爆発しました。

「どうしてもいやだというのだな」

「当り前だ」

「それじゃ気の毒だが、もう三、四人眠らせなきゃなるまい」

「なんだと」

「覚えておくがよい。おれと折合うのがいやなら、銭形平次と一番近い者からたたって行くよ。差当りお前の女房のお静などはどうだ」

「――」

さすがに平次もギョッとしました。それは平次に取っては何物にも換え難い恋女房です。

「それから、お栄の阿魔に定吉かな。お栄の阿魔と来た日にゃ、ピンシャンしてて一番始末が悪いよ――それに近頃あの八五郎が夢中になっている、佐久間町の樽拾いの小僧の姉のお雪などはどうだ」

「畜生、畜生」

平次は五重の塔の五階の扉を揺ぶりながら歯噛みをするばかりです。

陽は谷中の森に落ちて、四方あたりは本当にたそがれ始めました。この頃になって急に塔の下で騒がしくなったのはガラッ八の八五郎が漸く多勢の人数を狩り集めて飛び込んで来たのでしょう。

「来たぜ、銭形の親分。二、三十人は来た様子だ。どうせ雑魚ざこだが、あれを相手に立ちまわりを始めるのは、たて師も楽じゃねえ――どうしても折合わなきゃ気の毒だが一と足先へ行って、親分の恋女房の命をもらって置くぜ」

「あ、野郎、待ちやがれ」

平次はさすがに死物狂いでした。曲者の潜んでいる足の下の扉を必死になって揺ぶると、何処に破綻があったものか、心張棒はコトリと外れて、扉は何んの他愛もなく、外へパッと開きます。

「あ、出て来やがったか」

曲者は逃げ場を失って、屋根の上へ――恐ろしい器用な身のこなしで、楽々と這い上がります。

「野郎ッ」

続く平次――だが、そこへは平次は登れません。

「親分」

下から五重の塔がユラユラするほどの騒ぎで登って来たのは、ガラッ八の八五郎でした。

「八、曲者は屋根の上だ」

平次はそれを指さして歯噛みをするばかり。

「それなら大丈夫ですよ。塔の中へ三十人も連れて来ているんだ、屋根の上から飛び降りでもしなきゃ間違いもなく捕りますよ」

五重の塔の上の屋根が狭くて、残念ながら芳流閣ほうりゅうかくごっこは出来ませんが、その代り五階を完全に堅めさえすれば、曲者は羽がない限り、ここから逃げ出す工夫はありません。

「屋根の上から降りて来なきゃ、どうにもならないよ八」

「兵糧攻めという術てがありますよ」

「気が長いな」

「それじゃ、竜吐水で屋根へ油を撒く。どんな体術の名人だって、あんな急勾配の屋根の上に、油を撒かれちゃ一刻と獅噛みついちゃいられませんよ」

「お前の工夫は結構だが、下からでは竜吐水の油が届かないし、五階からだと庇が邪魔になって屋根の上には撒けないよ」

「そこが工夫で」

ガラッ八の八五郎は、尤もらしく長んがい顎を襟の中に埋めるのです。

そうしているうちに、完全に陽は暮れてしまいました。五重の塔の屋根の上の、ひょっとこの面の怪人は、階下の騒ぎを面白そうに聴きながら、鼻唄で浄瑠璃か何んかをうたっているのです。

「畜生、憎い野郎じゃありませんか。この五重の塔を買い占めて、下からポーッと燃やしてしまいましょうか」

途方もないことをいう八五郎でした。

「馬鹿なことをいえ、――だが、相手も生身の人間だ、時が経つうちには腹も減るだろうし、眠くもなるだろう。ここでジッとして待っている、こっちの方がどんなに楽だか知れやしない」

「ヘエ」

「屋根の上よりはここの方が住みよかろう。五、六日逗留のつもりで、布団と食物を持って来てくれ。宜いか、八」

「なるほど、そいつは面白いや。屋根の上と根比べなら、負けっこはねえ」

八五郎は有頂天になって、籠城の支度に塔を降りようという時でした。

「あれは何んでしょう、親分」

下っ引の一人が、開いた扉の外で、夕空に透しながらいうのです。

「?」

平次と八五郎はヒョイと扉の外へ首を出しました。

「アッ」

驚いたのも無理はありません。さながら一匹の巨大なる蜘蛛が、塔の上の五輪に伝って頂上の屋根から庇へ下へと長々と垂れた一本の綱を伝わって、何んの苦もなく、スルスルと下へ降りているではありませんか。

「畜生、あんなことをしやがる」

手を伸ばしても、欄干から庇の綱までは届きません。

「銭形の親分、一と足先へ行くぜ。お内儀さんのお静さんに言伝はないのか」

「野郎ッ」

八五郎を真っ先に、三十人の同勢は、平次を殿しんがりに梯子を駆け降りました。が、綱一本で屋根から滑り降りる、蜘蛛男の軽捷さには及ぶべくもありません。

お静危難

銭形平次と八五郎を真っ先に、多勢の者が鵯越ひよどりごえの逆落しほどの勢いで、一団となって五重の塔の外へ出た時は、あたりはもう雀色にたそがれておりました。

「親分、神田まで一と飛びだ」

振りきって尻をからげる八五郎、この男は親分平次の女房のお静を、御神体のように崇拝して、その危難に赴くためには、何時でも自分の身体くらいは張り兼ねない気組を持っているのでした。

「待ちなよ、八」

「――」

平次は二、三十歩駆け出して、ふと立ち留りました。

「大変なことを忘れて来たんだ」

「何んです。それは」

「お前は一と足先へ行ってくれ。俺はもう一度五重の塔の頂上まで引返さなきゃならない」

「そいつは、姐さんの命より大事なことなんですか、親分」

八五郎はかみつきそうな顔をするのです。

「あの環だよ――新らしい箱の中に入れた黄金の環だよ。あれを忘れて行って、見す見すあのひょっとこ野郎の手に返すのは業腹じゃないか」

あの黄金の環の重要性を、平次は忘れるわけに行かなかったのでした。

「それじゃ、あっしが戻りましょう」

「いや、俺よりお前の方が足が早い。その代り五重の塔を駆け登るのには、身体の軽い俺の方が早かろう」

「そうですか、じゃ、親分」

「頼んだぜ」

そういううちにも平次は、早くも五重の塔の中に飛び込んで、二階へ飛びついているのでした。それを見送って八五郎は、言葉せわしくお山の役人達や駆り集めた人足に別れを告げ、五人の下っ引だけを連れて、夕暗の街を、神田明神下まで逸散に飛びます。

その間に平次は二階へ三階へ五階へと、何んの支障もなく登りました。足元は次第に覚束なくなりますが、五階の頂上は幸い薄明りが残って、六つの箱が口を開いたままよく見えます。

六つの箱が口を開いたまま――平次はその数を読んでギョッとしました。先刻まで口を開いていた箱は五つで、六つ目の新らしい箱、あの黄金の環を滑り込ませた箱は、確かに口は開けていなかった筈です。

「?」

今は金具を厳重に打った五つの金箱も、六つ目の金具のない新らしい箱も、明らかに口を開けて、中は夕闇のうちにも、塵一つない空っぽなことは、幾度見直しても同じことでした。最早疑う余地もありません。八五郎等と共に、五重の塔を駆け降りてから平次が再び登って来るまでの咄嗟の間に、だれかがこの五階に引返して、六つ目の箱のふたを開けて、黄金の環を持出して行ったことでしょう。

「――」

平次はこの取返しのつかぬ手ぬかりに、思わず唇を噛みました。

恐らくあの綱を伝わって五階の庇から下へ降りたひょっとこの曲者か、或はその仲間の者が、少しばかりの隙をねらってここに引返し、仕掛けのふたを開けて環を持出したことでしょう。そして下からアタフタと登って来る平次は、二階か三階のあたりで物蔭に隠れて巧みにやり過されたわけです。

八五郎は馬のように飛びました。宵明りの江戸の町を、十手を腰に挾んだのが六人、奔馬の如く駆けるのは、それは穏やかならぬことですが、今はそんなことを考えている余裕もなかったのです。

明神下の平次の住居は、路地の奥の奥で、置き忘れられたようなささやかな家でした。

黒板塀と共同井戸と、格子戸と野良犬と、型の如き道具立ての中を、マラソンの選手のように、飛び込んで来た六人。

「――」

格子戸にすがりつくように、まず八五郎が一と息入れる間もありません。

「あッ、助けてエ」

閉めきった障子の中に起った絶叫は、紛れもないお静の声だったのです。

「野郎ッ」

八五郎は力一パイ格子を引きあけましたが、中にどんな締りがあったものか、地獄の門のように厳重で、押せども引けども、貧乏ゆるぎもすることではありません。

家の中からは暫く揉み合う音が聞えて居りましたが、やがてそれもピタリと鎮まって、無気味な静けさが、夕闇と共に人に迫ります。

「開けろ、開けろ」

八五郎はやけにこぶしを当てましたが、格子はお長屋中に高鳴るだけで、中からは何んの応えもありません。

「さア、皆んな手を借してくれ。間違ったら格子戸を打ちこわしても構わない」

「よし来た」

六人の手は隙間もなく格子戸に掛りました。ヒイ、フの、ミと強引に押し開けると、輪鍵はカラリと土間に飛んで、格子はどうやら口を開けます。

「それッ」

六人は一団となって飛び込みました。障子を弾ね飛ばすように開けて、六畳の居間に入りました。行燈に灯りが入って、長火鉢の火がカンカン起きているのに、曲者の姿は愚か、かんじんのお静の美しい姿も見えなかったのです。

「お勝手だ」

八五郎は真っ先にお勝手へ行って見ましたが、出口は厳重に締っているのにそこも空っぽ、へっついの蔭などを覗いたところで、何んにもなるわけはありません。

「奥の部屋じゃないか」

もう一つ奥にある六畳、そこは二人の寝室で、お静の鏡台や、母親譲りの古いたんすまで置いてあるのですがそこにも猫の子一匹いず、あとは平次の愛蔵の植木鉢を並べた椽側と押入と、便所と――それだけでお仕舞いです。しかもその椽側の雨戸も厳重の上にも厳重に締めてあるのです。

「いない」

八五郎は恐ろしい疑惧にさいなまれて、何処ともなく宙を見詰めて突っ立ちます。

「天井裏か、床下じゃないか」

「提灯に灯りを入れろ」

「おれは天井へ潜ってみる」

下っ引はこんなことには馴れておりました。商売道具の御用の提灯をおろすと、大あわてに灯りを入れて、一人は押入から天井裏へ、一人はお勝手の落しから床下へ這い込みましたが、そこにもあるものは鼠の糞だけ。

「いない」

「見えないぜ、八兄哥」

二人はつままれたような顔をして這いもどりました。

「そんなばかなことがあるものか」

八五郎はもう一度家の中を調べてまわりましたが、椽側もお勝手口も厳重に締めてあり、曲者とお静はこの箱のような密閉された家の中で、真に咄嗟の間に、煙の如く消えてなくなったのです。

若い女――お静は、夫平次の稼業柄もあり、夕方早いうちに、用心深く戸締りをすることは、八五郎もよく知って居ります。曲者は恐らく堂々と表の格子を開けさせて入り、驚き騒ぐお静をさらって何処かへ消えてなくなったのでしょう。

お静の悲鳴は、八五郎もその同勢も、確かに格子の外で聴き、それからたばこ一服の時も経たないうちに、六人は押し重なるように雪崩れ込んだのです。

もっともそのわずかの隙に、お勝手口か椽側から脱け出せないことはありません。が、その脱け出した後でだれが一体、こんなに厳重に締めたのでしょう。雨戸は上下の桟がおりた上、念入りに輪鍵まで掛けてあるのですから、八五郎等六人が飛び込む隙に、外からこんな手の込んだ締めようは絶対不可能です。

「あ、銭形の親分だ」

その騒ぎの中へ、銭形の平次はようやく帰って来ました。

「どうした、変な顔をしているじゃないか」

「あ、親分、済まねえ」

八五郎はいきなりその足の下へヘタヘタと坐り込んでしまったのです。

「何が済まねえんだ。え、八」

平次も一脈の不安に、さすがに落ちつき兼ねて、四方を見まわします。

「お静姐さんが、さらわれたらしいんだ、親分」

「え?」

「路地を入って、格子へ手を掛けた時は、確かに声が聴えたんだ――助けてエ――といったのは、お静姐さんに違いないが、格子を叩き開けて入ると、家の中は空っぽだ。天井から床下まで見たが、影も形もねえ」

八五郎は言葉せわしく説明するのです。

「お勝手口と椽側は開いてなかったのか」

「あの通り、念入りに締めたまんまで、戸のすき間からでもなきゃ出るはずはねえ」

「フーム」

平次も腕を組みました。六畳の居間は、いくらか荒らしておりますが、あとは八五郎と五人の下っ引が踏み荒したほかは、何んの変りもなく、行燈の灯が、静かに瞬いているのも、妙に物淋しく凄まじい風情です。

「親分、あっしの足が少し遅かったんだ。せっかく頼まれながら、姐さんをさらわれちゃ、首でも縊ってお詫びをするほかはねエ」

八五郎の萎れようというものはありません。

二人は何時の間にやら、お勝手に入っておりました。竈へっついの上に、ダラリと下った引窓の綱。

「丁度宜い首縊り綱だぜ、八」

平次は日ごろにもない人の悪い冗談をいいながら、その綱を辿って閉めたままになっている引窓を見上げるのでした。

「そいつで首を吊るんですか、親分」

怨めしそうに見上げる八五郎の顔を、平次は擽くすぐったく見やりながら、綱を引いてサッと窓を開けました。真っ黒な夜の空の断片がその窓から無気味に中を覗いております。

「八、へっついへ手を入れてみてくれ」

平次は妙なことをいいます。

「やけどをしやしませんか」

「火があればお静は家の中にいる」

八五郎は何が何やら解らぬままに、いきなりへっついの中に手を突っ込みました。

「火の気はありませんよ、親分」

手についた冷たい灰をたたきながら、八五郎は顎をしゃくります。

「火がなきゃ、お静は煙のように消えたわけじゃない」

「ヘエ?」

「へっついへ火を焚かないのに、引窓を開けて置く筈はない。日が暮れると引窓を締めた上、綱はその柱の環に結んで置くのがいつものやり方だ」

「?」

「引窓は綱を結ばずに置けば、独りで扉が落ちて締まるのだ」

「――」

「曲者はお静をさらって、へっついを足場にその引窓から屋根の上に出た。曲者が出た後で窓の扉は独りで締ったが、綱はへっついの上へダラリと下がっていた、わかったか、八」

平次にこういわれると、最早疑いを挾む余地もありません。

「あ、あれへ出たんですか。行ってみましょう」

八五郎は思い立つと躊躇しませんでした。矢庭にへっついを踏むと、それを足場に窓へ這い上がります。

「どうだ、うまく行くか、八。尻でも押してやろうか」

「何んの」

八五郎は大骨折で何うにかこうにか屋根の上へ這い上がりました。

「今頃屋根の上へ出たって、何んにも見えやしまい」

平次は下から声を掛けます。

「ヘエ、何処を見ても屋根だらけで、どの方角へ逃げやがったでしょう」

「間抜けだなア、季節外れの猫の恋じゃあるめえし、屋根なんか渡って歩くと、大家に文句をいわれるぞ」

「でも癪にさわるじゃありませんか」

「相手はその辺にマゴマゴしているものか、降りて来い」

「ヘエ」

八五郎は諦めた様子で、もとの引窓からへっついの上へ降りて来ました。

「何時までも屋根の上にいる筈はない。お前達が家の中で大騒動している間に相手は路地の外へ屋根から飛び降り何処かへ飛んでしまったに違いないよ」

「じゃ何処へ逃げたんでしょう、親分」

「お静という荷物があるんだから、遠くへは行くまい」

平次は長火鉢の前へ来ると、座布団の上へ腰を据えていました。今しがた行方知れずになった女房のお静が、平次の帰りを待って、熱い茶でも入れようと思ったのでしょうか、鉄瓶の湯はチンチン沸って、銅壺も徳利を突っ込めるように、丁度加減が宜いようです。

「――」

平次は煙草入を出して、思案煙草を二、三服立てッ続けに吸いつけました。何遍か危ない目にも逢わせた女房ですが、急にいなくなると妙に身辺が空洞うつろになったような心持です。

「親分」

八五郎は少し果たし眼になって、その側ににじり寄りました。

「――」

平次はそれに応えず、深沈として考え込んでおります。

「親分」

「うるせえな」

「姐さんはいったい何処へつれて行かれたでしょう」

「――」

「せめて見当でも教えて下さいよ。親分に考え込まれると、あっしは心細くてかなわねえ」

八五郎は平次のひざの側まで寄って、その手を空中にモタモタさせるのでした。親分の身体をこう揺ぶって見たかったのでしょう。

「それが解れば苦労はしないよ――だがな、八」

「ヘエ」

「お前は引窓から屋根の上に出るのに、余っ程骨を折ったか」

「やってみて下さいよ。へっついの上に立って、引窓から漸く首が出るだけで、屋根に両手を掛けて這い出すのは、並大抵の芸当じゃありませんぜ」

「人一人抱えて、あの窓から出られると思うか」

「とても」

八五郎は大きな掌を、以っての外といったように振って見せるのでした。

「ところが曲者は、確かにあの窓からお静をつれ出しているんだ、――縛ってはあったにしても、羽搏きもさせずに屋根の上へ、人一人持出すのは、どんな野郎の仕業だと思う」

「――」

「五重の塔の頂上から、綱一本を頼りに下まで楽々とすべり降りた人間があったことはお前も知っているだろう」

「あの野郎ですよ、親分。あのひょっとこ野郎が、一と足先にやって来て、姐さんをさらって引窓から飛び出すという大変な芸当をやったに違いありませんよ」

八五郎は精一杯に自分のひざを叩きます。平次の導いてくれた結論に、漸く自分も到達したのです。

「そんな芸当の出来る奴は、どんな人間だと思う」

「武芸の達人でなきゃ――」

「武芸の達人はひょっとこの面を被って、浅葱の股引を穿くのは変じゃないか」

「軽業師」

「その通りだよ、八」

平次はまた深々と考え込んでしまったのです。

「何処の野郎です、親分」

八五郎はもう起ちかけておりました。平次の言葉一つで、京大阪までも飛んで行くつもりでしょう。

「お栄――近江屋のお栄――あの女がもと居た軽業の親方は何んとかいったな」

平次の推理は飛躍します。

「明石一座の五郎八ですよ」

「その五郎八は、江戸にいるのか」

「東両国で小屋を掛けていますよ」

下っ引の一人、両国を縄張りにしている寅吉というのが引取りました。

「行ってみよう。五郎八に逢ったら、また何にか良い思案も浮ぶだろう」

平次は漸く腰をあげました。

明石五郎八

旅芸人の明石五郎八は、三年に一度、二年に一度は、生れ故郷の江戸に還って来て、場末の空地、堂宮の境内などに小屋を掛け、その適当な芸を江戸の客に見せておりました。

もとより格も身分も低い旅まわりの芸人ですが、時偶ときたま江戸一番の盛り場、東両国に小屋を借りて、一と月でも二た月でも興行するのは、明石一座が有卦に入った時で、今年は不思議に花時から江戸に踏み留まり、東両国で蓋をあけて、とも角も江戸の人気を繋いでおりました。

五郎八は四十過ぎの中年者で、一座には腕ッこきの達者がそろい、江戸のお客には、少し田舎臭い芸ではあったにしても、二た月あまり飽きさせずにいたのです。

平次はみちみち八五郎と両国の寅から、これだけのことを聴きながら、宵の東両国に向いました。

が、そのころの御布令で、興行物は大概暮れ酉刻むつ(六時)でお仕舞いになり、小屋は木戸を閉ざして、夜店の灯りだけが、寂しく泥絵具の看板を照らしております。

五郎八の家は小屋の番人に聞いて直ぐわかりました。二つ目の橋の側、相生町の五丁目を裏通りへ入ったところで、路地を距てて左手は、小身の御家人の屋敷が、目白押しに建て込んでおります。

「今晩は」

両国の寅は、物馴れた静かさで、相手を驚かさないように声を掛けました。

「だれだえ」

狭くて浅いが、芸人らしく小綺麗に住んでいる家の次の間から、少しろれつの怪しくなった声が応えます。

「親方、大層なきげんだね。おれだよ」

寅がズイと入ると、境の障子は女手でスウと開いて、

「おや、これは、寅吉親分」

灯りへ透し加減に、五郎八は如才なく受けます。

「ちょいと邪魔をするよ」

「さアさアどうぞ。丁度一本つけたところで、何んにもないが、つき合って下さい」

五郎八の赤い顔には、人の好い微笑がさざ波のように寄りました。心得顔にツと立って座蒲団を持って来たのは、三十五、六の年増、多分五郎八の女房でしょう。

「実は銭形の親分を案内して来たんだ。ちょいと親方にきき度いことがあるそうでな」

寅は身を引いて、平次に灯り先を譲りました。

「おや、銭形の親分さん。そうですかえ、こんな汚いところですが、まアどうぞ」

五郎八は立って迎えました。酒に焼けた胸をはだけて、湯上がりの少し早い浴衣で、薄寒そうに晩酌をやっていたらしい五郎八は、銭形平次と聴いてさすがに面食らった様子です。

「飛んだ邪魔をするね」

「銭形の親分さんが来て下されば私の家にも後光が射しますよ――おい、これは片づけて、さかづきもさかなも新らしくしてくれ」

五郎八はあわてて膳を押しやると、女房に半分は眼顔で言いつけて、火ばちの側に平次を招じ入れるのでした。

家の中は、外構えよりはまたよくみがき抜かれて、趣味の低さを別にすれば、如何にも住みよさそうです。

「親分さん、まア一つ」

五郎八は杯盤を新にして、まず平次に猪口を差しました。年のころは四十二、三でしょうか、芸人らしくあか抜けのした恐ろしく如才のない男で、眼じりのしわや、チンまりした鼻や、少しはげ上った額など、どんな初対面の人にも、不思議な親しみを感じさせるたちの人間です。

派手な柄の浴衣の胸をはだけて膝ッ小僧をそろえて神妙に坐った恰好は、少しばかりこっけいで、そして痛々しさをさえ感じさせるのです。

「それは後にしてくれ。おれは大急ぎでききたいことがあって来たのだ」

「ヘエ、ヘエ、どんなことでもお話はいたしますが、――さかなの支度が出来るまで、まず一つ、親分さん」

五郎八はさかづきを出したり引っ込めたり、間の悪そうに席を繕うのでした。相対する銭形平次には少しの作為もありませんが、何んとなく儼然として、酒では盛りつぶせそうもなかったのです。

「他じゃない、近江屋へ行ったお栄だが」

「ヘエ」

「あの女とお前の明石一座とは何ういうことになっているんだ」

「ヘエ、もう今では何んの掛り合いもございません。近江屋の半兵衛さんに綺麗に差し上げたのは二年も前のことでございます」

「あの女は、どんな女だ。人柄、癖、男との掛り合いなどを聴きたいが」

「御存じの通りのきりょうで、一座の人気者でございましたが、その代り何彼といざこざが絶えません。あの女が私の一座にいるうちに、殴り込み、ゆすり、喧嘩、強談を持込まれたことは幾度あったかわからないほどで、ここにいる女房のお六が証人でございます」

「人柄は?」

「色っぽくてジャラジャラするだけのことで別に悪い癖があるわけではございません」

「近江屋の主人が殺されてから、お栄の行方は何うなったかわからないが、親方は知っているだろうな」

「とんでもない。私はもうあの女は懲々こりごりで、向うから給金を持って来ても、一座には御免を被ります」

「大層な見限りようだな」

「ヘッ、ヘッ、あんなのがいちゃ第一女房が納まりません」

五郎八はそういって部屋の隅に神妙に差し控える女房のお六をふり返るのでした。

三十五、六の、これも昔は好い女だったに相違ありませんが、左半面は恐ろしい焼痕で滅茶滅茶に突っ張った上、声が多年の木戸番か何んかで壊したらしく、恐ろしい塩辛声で、顔を見ずに聴いていると、男か女かわからないほどの凄まじいものです。

「ところで、きょう両国の小屋が閉はねたのは何刻ごろだ」

「御法通り酉刻むつ(六時)そこそこでございました」

「それから、お前は真っ直ぐに帰ったのか」

「ヘエ、真っ直ぐに帰って、ひとふろ浴びて、一本つけさせたところへ、親分方のおいでで」

五郎八はそういって、薄寒そうに浴衣のえりをかき合せるのでした。酔いもふろの温もりもさめてしまいそうです。

「お前さん」

女房のお六はそれを察したか、後ろからどてらを着せかけました。

「ところで、金沢町の近江屋半兵衛を知っているだろうな」

平次は話題を変えました。相手の明石五郎八は、調子が滑らかで滅法人触りのよい癖に、どこかに要領をつかませない、したたかなところがあるので、平次はいろいろ攻め手を考えては、こう捜りを入れてみたのです。

「ヘエ、よく存じております。お気の毒なこと、非業の最期を遂げたそうで」

非業の最期――という浄るり仕込みらしい言葉が、妙に耳立ちます。

「お前とは、どんな掛り合いがあったんだ」

「三年前府中で興行している時、土地の顔役といざこざが出来、私の命も危ないという瀬戸際に立った時、あの近江屋の半兵衛さんに助けてもらいました。あの人は武家の出だそうで、腕も出来ておりましたし、掛け合い事も鮮やかでございました」

「それっきりか」

「いえ、それから御ひいきを頂いておりますと、その年の暮急に半兵衛さんが、お栄が欲しいというお話で――」

その時のことを思い出したらしく、五郎八の表情には、妙に割りきれない苦渋さがあります。

「それでお栄をやったのか」

「ヘエ、断りようはございません。命を助けてくれた義理がある上、半兵衛さんは言い出したら一寸も退きません。それに腕が出来てると来ては、みすみす一座の花形を持って行かれるとわかっても、私どもではどうしようもありません」

「半兵衛はお栄を姪ということにしてあったな」

「年が違い過ぎるから、世間体は姪ということにしておりましたが、ヘッ、ヘッ、その辺はもう」

五郎八はニヤニヤするのです。この男も恐らくお栄とは唯の仲でなかったのかも知れません。半面大焼傷の女房お六が、五郎八の話の進行とともに、その表情の次第に険悪になって行くのを、平次は見のがすはずもなかったのです。

「そのお栄は何処にいるんだ。お前に見当がつかないことはあるまいが」

「とんでもない親分、あの女は私などのところへ寄りつくものですか」

「お前がいう通り、お栄は性根の太い女なら、何んだって三年の間半兵衛のところに一緒にいたんだ。親娘ほど年が違う上に近ごろでは唯の質屋の亭主じゃないか。力づくでも金づくでも、お栄のような浮気者を引っつけては置けなかったはずだ」

平次はいよいよ大事な問いに辿り着いたのです。

「三年と申しても、一昨年の暮からですから、正味一年半ぐらいのものでございます。それに、お栄は何にか見込んだ山でもあったのでございましょう、何にかの折に顔を合せると、――親方何時までケチな芸人暮しをしているんだ、私などは近いうちにまとまったものを握る当てがあるから、しばらくあの陰気臭い半兵衛のところに我慢しているが――などと申しておりました」

「まとまったものとはなんだ」

「そこまではわかりませんが、兎に角たいした鼻息でございました」

これだけではたいして要領を得ませんが、お栄が近江屋半兵衛のところにいたのは、恐らく一万二千両の御用金に関係するだろうことは、最早疑いの余地もありません。

「親分、このまま帰るんですか」

明石五郎八の家を出ると、八五郎は不足らしく平次に突っかかるのでした。

「あの狭い家だ、何処へも人間一人隠せないよ。それに五郎八も女房もいやに落ちつき払っているじゃないか」

「そういえばそれに違いありませんが、あの野郎の外に、引窓から人間を一人ブラさげて抜け出せる奴はありませんよ」

八五郎はまだあきらめきれない様子です。

「隣りは湯屋だ、五郎八が本当に湯へ入ったか、きいてくれ」

「ヘエ」

八五郎は湯屋ののれんをまげの刷毛はけ先でかきわけて入りましたが、間もなくぼんやりした顔で出てきました。

「どうだ八?」

「さっきちょいと来たそうですよ」

「ちょいと――というと」

「ほんの煙草二、三服ほどで、手拭をしめして帰ったそうです。もっとも湯の早い男で、何時でも烏の行水みたいだっていっていましたよ――」

「今度は両国の小屋だ」

二人は足を急がせました。東両国の明石一座の軽業小屋に着いたのは、もう戌刻いつつ(八時)過ぎだったでしょうか。

小屋の番人をしている、木戸番の半次をたたき起して、中に入るまでにはよい加減手間を取りました。

「木戸は酉刻むつ(六時)に閉めるのが天下の定法だ。見物なら明日来てくれ」

平次と八五郎に、割れるほど裏木戸をたたかれると寝酒の入ったらしいろれつで、こんなことをいう半次です。

「お上の御用だ、開けろ」

たまり兼ねて、十手の柄で戸をたたく八五郎。

「うるせえな、この間も――御用だ、開けろ――っていうから、驚いて戸を開けると、身に覚えがあるなら明日奉行所へ自首して出ろ、わッ――って町の餓鬼どもが五、六人束になって逃げ出すじゃないか。今度そんなことをしやがると二、三人生捕って餓鬼じるにして食うから覚悟しやがれ」

そんなことをいいながら、ガラリと裏木戸を開けて、二人の前にげん固を見せたのは三十七、八の――金剛盧遮那仏にまげを結わせて、はんてんを着せたような大男です。

「ばかッ、それはなんだ」

「ヘエ」

あわててげん固を引っ込めた恰好は、柄にも似ぬ甘口な男らしくもあります。

「お前は?」

「木戸番の半次と申します。なんにも知らなかったんで、ヘエ、ご勘弁なすっておくんなさいまし」

「この小屋にはだれとだれがいるんだ」

それは平次でした。八五郎を後ろへやって、手燭の灯りの前に立ちます。

「ヘエ、私一人で」

「あの女は?」

「ヘエ?」

血の環りが悪いのか全く知らないのか、兎も角もこの男は、小屋にいるいきものは自分一人と信じきっている様子です。

「小屋の中を見るよ」

「ヘエ」

不満らしい半次をかき退けるように平次はズイと入りました。

「灯りを貸せ」

「ヘエ」

半次の手から受取った手燭を、眼八分にさげて透しましたが、小屋の中は森閑として、ろくなねずみも住んでいそうはありません。

両国の小屋は半永久的に建てたもので、それはひと通り整ってはおりましたが、夜中に手燭一つで見る凄まじさはまた格別で、高い天井はどうくつのようにやみに閉ざされて、灯りの届かぬ土間の隅々も、ちみもうりょうの夜の住家でないとはだれが保証出来るものでしょう。

しかし、土間にも、桟敷にも舞台にも楽屋にも、なんの変ったところもなく、もとより人一人かくせるくまもありません。

「五郎八はきょう何刻ごろ帰ったのだ」

一巡してもとの裏木戸に帰ると平次はこのグロテスクな木戸番にたずねました。

「酉刻むつ(六時)客を追い出すのと一緒でした。――一座の者はそれから小屋の中を掃除して、四半刻くらい遅れて帰ります」

「五郎八は近ごろ舞台へ出ているのか」

「相変らず芸達者ですが、二、三日前から痛風の気味で、舞台へは顔を出すだけで、危ない芸当はやりません。お客様はそれでも堪能して下さいます」

「何処か痛いところでもあるのか」

平次はツイ先刻の五郎八の姿を思い出しました。少し酔ってはいるが、至って元気そうで、女房の着せてくれたどてらに手を通すときも何んのさわりもなかったのを見たのです。

「四十肩とか五十肩とかいうんだそうで、こう腕が痛くちゃ、軽業稼業は上がったりだといっておりました」

「とんだ邪魔をしたな、それじゃ寝酒の方を続けてくれ」

平次はこんなことで小屋の調べに見きりをつけたのです。

裏木戸を出て少し行くと、関所のような路地の外にあやし気な呑み屋が二軒、向い合って客を呼んでおります。

「八、こんな家はお前の方が顔が通るだろう。きょうの未刻やつ(二時)から申刻ななつ(四時)までの間に、小屋から出て行った者はないか、きいてみてくれ、――おどかしちゃいけないよ」

「ヘエ」

心得て飛んで行った八五郎は、二軒の呑み屋ののれんの中へ首を突っ込んで、土地の名物の首の白い女と、暫らく何やらふざけておりましたが、やがてニヤニヤしながら出て来ました。

「五郎八は小屋から出なかったそうですよ」

「だれが五郎八の事をきいたんだ」

「ヘエ、あっしはまた五郎八がここから脱け出して、谷中の塔へ行ったのかと思いましたよ」

「五郎八が出なくて誰が出たんだ」

「あの女房のお六が未刻やつ(二時)過ぎに一人で出て行ったそうで、――ここ二軒の呑み屋が路地の口を挾んでお互いに見張っているでしょう。猫の子一匹通ったのだって見のがしません」

「?」

「五郎八の女房のお六は、手拭で顔を隠して通るので、だれにでも直ぐわかるそうです。なるほどあの大火傷じゃお見それ申すわけに行きませんね」

「何んという口を利くのだ、ばか」

「ヘエ」

八五郎は平次に何をしかられたか、その意味がよくわからない様子です。

お栄の手紙

両国を引揚げて、神田明神下の平次の家へ、二人はあなの中に引入れられるような滅入った心持で、ポクリポクリとたどっておりました。

たいして騒ぎもあわてもしませんが、銭形平次に取っては恋女房のお静が、不意に姿を隠したのは(別作『七人の花嫁』)の事件以来のことです。見てくれはたいして変ったところがなくとも、平次の焦躁と懊悩は、子分の八五郎がよく知っております。

いや、その八五郎のガラッ八こそは、ベターハーフの平次よりも、もっともっと熱烈なお静のファンで、そしてお静の崇拝者だったのです。

「ねえ、親分」

「何んだ、うるせえな」

新らし橋まで来ると、たまり兼ねてガラッ八は声を掛けました。

「姐さんはどうしたでしょうね。無事な顔を見ないうちはあっしは寝ても眠られませんよ」

それは恐らく八五郎の本音でしょう。あの、何時までも若くてフレッシュで、そして純情で可愛らしくさえあるお静が、親分平次の女房であると共に、子分の八五郎の偶像だったのです。

「何をつまらねえ」

事もなげにいう平次の胸のうちも、恐らく煮えくり返る思いだったのでしょう。

「おや、あれは何んでしょう」

「金太に助十に、若松に、己之吉じゃないか」

それは平次の子分どもで、銘々神田の縄張りを預かる下っ引だったのです。

「あ、親分。丁度宜いところでお目にかかりました」

先に立った金太はすれ違いざま平次を見つけて立ち止りました。

「何んだ、お前たちは金沢町の近江屋を見張っていたのじゃないか」

「ヘエ、近江屋に張り込んで、にらめっこをしていると、親分から使いが来たんです。宜いあんべえに四人そろっていたので、直ぐ飛んで来ましたが、捕物はどうなりました、親分」

「捕物?」

「ヘエ、近江屋半兵衛を始め四人まで殺した下手人がわかったが、手剛いから直ぐ助太刀に来るように――と」

「だれがそんなことをいったんだ」

「親分がそういってよこしたんでしょう」

「冗談じゃない、おれはそんなことをいった覚えはないぜ」

平次も胆をつぶしました。この四人の子分どもは一体何を面食らって、大事な持場を放棄して飛んで来たのでしょう。

「そんなはずはありませんが、親分」

「兎も角、おれはお前たちを呼んだ覚えはないぜ。第一四人殺しの下手人がわかったなんて大嘘だよ」

「ヘエ?」

「一体だれがそんなことをいって行ったんだ」

「変な小僧ですよ」

「小僧?」

「十五、六の小僧で――」

「それでお前たちは近江屋を空っぽにして飛んで来たのか」

「ヘエ」

「あきれた奴らだ――相手はそれがねらいだったんだ、来い」

平次は何やら重大なものを感じたのです。

平次は空っぽにされた近江屋に、どんな事が起りつつあるか、不安と焦躁にかられて、ひたむきに駆けつけたのです。

その後に続いて、八五郎、金太、助十、若松、己之吉――。

「八、お前は裏口へまわれ」

「合点」

平次と金太は表から、八五郎とあとの三人は裏から、ドッと押し入りました。が、中は森閑として、猫の子一匹いそうもありませんが、

「親分」

茶の間で顔を合せた八五郎は、小鼻をキナ臭くふくらませるのです。

「八、お互いに顔が見れるのが不思議じゃないか」

「灯りなんかつけて行ったはずはありませんよ」

金太はあわてて注を入れるのです。

気がついて見ると、居間には行燈がついて、家の中をほの明るく照らしているのでした。

「八、たんすだ」

平次は次の間に飛び込みました。かつてお栄が捜していた古だんすを置いてあった部屋、その疑問のたんすは四つ抽出しことごとくを抜いて、部屋いっぱいに中味を取乱しているのです。

「これになんかあったんですか、親分」

「お栄が命がけで中味を捜していたたんすだ。一万二千両のなぞか四人殺しのなぞがこの中にあるに相違ないとおれはいったろう」

「?」

「多寡がたんす一つだ、たたき割って板一枚捜してもたいしたことはなかったのに、おれはそれにも及ぶまいと思って、ツイ油断したのだよ」

平次はそういううちにも、四つの抽出しの一つ一つを、恐ろしく念入りに調べ始めたのです。

「ない、何んにもない」

暫らくして平次の挙げた顔には覆うべくもない失望がムラムラと動きました。

「まだ胴殻があるじゃありませんか、捜してみましょう、親分」

「一々板をはがすわけにも行くまい。かなづちでたたいてみろ」

「よし来た」

それは大変な騒ぎでしたが、少しの油断で大事な品は曲者に持って行かれたらしく、たんすを引っ繰り返して捜したに拘らず何んにも得るところはなかったのです。

「しゃくですね親分」

ガラッ八のブリブリするのに対して、

「相済みません親分」

金太、助十は全く頭も挙がりません。

「諦めるんだな、筋道の通った間違いは間違いじゃないよ、――おや、八。表の格子が開いたじゃないか――お客様は変だが、ちょいと行って見てくれ」

「ヘエ」

気軽に戸口へ出た八五郎は、やがて何やら白いものを一つ、でっかい掌の上に乗せて持込んで来ました。

「手紙じゃないか」

「見かけたことのない小僧が持って来ましたがね」

「その小僧は帰ったのか、――つかまえるんだ。手紙より小僧の方が大事だ」

平次は手紙も見ずにいきり立ちます。

八五郎を始め金太、助十の輩はそれッと飛び出しましたが、とっさの間に何処へ行ったか夜の街は音もなく更けて、それらしい物の影もありません。

「親分、小僧のカケラも見つかりませんよ」

ぼんやり帰って来た八五郎の顔の長さ。

「どうせ遠くは行くまい。駆け出した足音は聞かなかったし、お前が飛び出したのは、手紙を受取って直ぐだ、――その辺に隠れているに違いないと思う。四人の者を路地の外へ出して、通りの左右を見張らせてくれ」

「ヘエ」

八五郎はまた飛び出しましたが、路地の内外に四人の下っ引を配置すると、またもとの座へもどって来ました。

「八、この手紙はだれから来たのだと思う」

「わかりませんね」

「おれ達がここに引返して来るに相違ないとにらんでよこした手紙だ。一分一厘の隙もなく運んだ筋書通り、このおれもお前も踊らされているのだよ」

「ヘエ?」

八五郎には平次の言葉がいよいよわからなくなるばかりです。

「見るがいい、お栄の手紙だよ」

「ヘエ、あの阿魔が」

八五郎は平次の手から手紙を受け取ると、かぶりつくように見入りましたが、

「こいつはあっしに読めねえ。仮名は仮名でも女の書く仮名文字は一つ一つが気を持たせてクネクネと品を作っているから、素直に読み下せませんね」

とうとう投げ出してしまいました。

「意気地のない野郎だ。女の手紙が読めなきゃ、色文をもらった時どうするつもりだ」

「親分に読んでもらいますよ」

「間抜けだなア――聞くがいい、こうだ」

平次が読んでくれたお栄の手紙は、八五郎を驚かすに十分でした。それは八五郎のいわゆるクネクネと品を作った文字に似ず、のっけから、

助けて下さい、私は今真っ暗な部屋の中に押し込められ、怪しい男に手籠めにされております。その男は多分、銭形の親分が捜していたまだら組とやらのかしらでしょう、場所は両国に近く船の艪の音がよく聞えます。お願い申します。

栄より

とこう書いてあるのでした。

「行って見ましょうか親分。両国の西東をひとわたり見て歩いたら見当ぐらいはつくかも知れません」

八五郎はもう張り切った騎士のように、お栄の危難に駆けつける気でいるのです。

「待ちなよ、八。あの女は手籠めや足籠めに驚く柄じゃない、――この手紙に驚いて飛び出した後で、何にか細工をするつもりじゃないかな」

銭形平次は、手紙の中に隠された、謎の意味を読もうとしているのです。

「それにしちゃ、手がまわり過ぎますね、親分」

「お栄はそういう女だよ、――この字は命がけの女の書いた字じゃない。お前の言い草を真似するようだが、一字一字鳴り物入りで所作事をしているよ。第一もう亥刻よつ(十時)だろう、今から両国へ飛んで行ったところで、何が見えるものか」

「するとこの手紙は、どういうことになるでしょう」

八五郎には次第にこの手紙の持つぎまん性が読めてくる様子です。

「真暗な部屋の中に閉じ込められて、こんな手紙が書けるわけもない。それに手紙も墨も悪くないじゃないか」

「すると」

「この家を明けさせたかったのだよ。金太や助十をうまい具合におびき出したが、途中から引返されて、思うままに仕事が出来なかったから、今度はおれ達を追っ払って、何にか細工をするつもりだったんだ」

「ヘエ」

「ここに何にか大事なものがあるに違いない。朝までがん張って、そいつを捜し出してやろう」

平次は腰を据えました。家の中は二度も三度も念入りに調べたはずですから、残るところはもう、いくらもないわけです。

「でも、親分、姐さんのことが気になりますね」

八五郎はまだお静のことにこだわっております。ここで一と晩むだに過すうちに、お静の身に万一の間違いがあってはと思ったのでしょう。

「お静を隠したのはいやがらせだ。一と晩ぐらいは放って置いても、たいした心配はあるまい。それより相手は必死となってこの家を明けさせようとしているじゃないか」

「そういえばそんなものですが」

そう話がきまると、平次は寸刻もむだにはしませんでした。まず第一に眼をつけたのは、最初からお栄がこだわっていた古だんす、この中にどうかしたら、斑組に取っては致命的な大事の品か、御用金一万二千両の行方を暗示するものが隠されているのかもわかりません。

「八、たんすの抽出しは皆んな抜いたが、――引っくり返してみるが、手を貸せ」

「ヘエ」

二人がこの作業に取りかかった時でした。

「御用ッ」

「待てッ」

路地のヤミにしったの声が突っ走って、それとともに人の駆け出す音、ドタリ、バタリと格闘の響き。

「親分」

「待て待て二人で飛び出すと、また相手の術てに乗るようなものだ、――お前はここでがん張っていろ、一寸も動くな」

「ヘエ」

八五郎を残して、平次は路地へ飛び出してみました。争いは一瞬にしてやみましたが、四人の下っ引は路地の外に一団になって何やら騒いでいるのです。

「どうしたんだ」

「助十がやられましたよ」

「何?」

下っ引のうちでも一番年嵩の助十が、曲者に脇腹を突かれて、薄傷ながら三人の介抱を受けているのでした。

「曲者は?」

「後ろから抱きついたあっしを刺してヤミの中に姿を隠してしまいました。柄の小さい奴ですが、恐ろしく素早い野郎で」

助十は説明しております。

「早く家の中へ運んで手当をするがいい。傷は浅くても放って置いちゃよくない」

平次は云い捨てて路地の外へ出て見ました。

たんすの中

「何より傷の手当が先だ」

平次は何より手負いのことばかり心配しております。万一破傷風にでもなってはと案じたのでしょう。

「だい丈夫ですよ、たいしたことはありません。傷はでっかい引っ掻きほどだが、びっくりしただけのことで――」

助十は威勢の良いことをいっておりますが、それでも一応前後のことをきいただけで、下っ引を一人つけて、家へ送り届けました。

「八、お前は手紙を持って来た小僧の顔を見なかったのか」

「見ましたよ。十五、六の気のきいた小僧で」

「知らない顔か」

「知りませんね。この近所の小僧じゃなかったようですよ」

それを聴いて、

「八五郎親分に手紙を持って来た小僧なら知っていますよ」

金太は横から口を出しました。

「何処の小僧だえ」

「何処の野郎か知りませんが、さっき銭形の親分の使いだといって私ども四人をおびき出したのも、あの小僧ですよ」

「フーム」

平次はうなりました。相手の企らみには、底の知れない深さがありますが、係り合っている人間はそんなに多勢ではなさそうです。

「ところで、これから何をやりましょう」

「たんすの中を念入りに捜す外はあるまいよ。この中に何にか隠してあるに違いない」

平次はつかれた者のように、もとの古だんすに還りましたが、幾度見たところで、この中には何んの怪しいものが隠してあるとも覚えなかったのです。

抽出しの中味は死んだ半兵衛の平常着らしいものが一ぱい入っているだけ、その一枚一枚を、縫目をほぐすようにして見ても、ろくなたもとくそも出て来ない有様です。

抽出の板は前も後ろも両側も、底までもたたいてみましたが、たいした仕掛けがあろうとも覚えず、それからまた半刻近い調べも、得るところもなく夜は更けて行きます。

「八、これは矢っ張り行ってやらなきゃなるまいな」

「ヘエ?」

平次が何をいおうとしているのか、八五郎にはのみ込み兼ねた様子です。

「お栄だよ――あんなにいって来たのに、放って置くという術はないな、八」

「それですよ、親分」

八五郎は乗出します。若くて美しい女の急に赴くためには、どんな犠牲でも忍びそうな面構えです。

「何が何んでも、一応は行ってやらなきゃ可哀想だ。出かけようか八」

「ここはどうします、親分」

「金太を一人残して置きゃいいだろう。たんすにはもう何んにもないよ」

「そんなものですかね」

八五郎は一寸ちゅうちょしましたが、親分の平次の意思に引きまわされることに馴れているせいか、たいした異もたてずに、近江屋を見捨てました。行く先は東西の両国、水に近くて、人間一人を楽々と隠せる家というと、この辺にはそんな家はあまりにも多過ぎます。

近江屋に取り残された下っ引の金太は、生温かいのに火のない火鉢を抱え込んで、怠屈と不気味さを紛らすために、煙草ばかり吸っておりました。

四十を少し越した世帯ずれのした男、蟲食い頭の金壺眼で、昼は内職の古道具の店に坐っている男――といったら、その人柄が凡そ見当がつくことでしょう。

「畜生、自棄やけにシーンとしてやがるぜ」

愚痴をいいながら金太は、残り少なになった粉煙草を、煙管の雁首でしゃくっておりました。

「ちょいと」

裏口で馴々しい女の声がするのです。

「だれだえ」

「あたし」

女の声は甘酢ッぱく金太の好奇心をこそぐります。

「あたしじゃわからねえ」

「あら、ずいぶん薄情ねえ」

そんな掛合いのうちにも、金太は妖しい声に操つられるように、ノソリと立ち上がるとお勝手の方に歩いて行きました。

「だれだえ、今時分」

勝手口の戸に手をかけて、ガラリと開けるのと、金太の頭へ何やらパッと冠せるのと一緒でした。

「野郎ッ、何をしやがる」

それをかなぐり捨てようとする金太は、恐ろしく強い手で羽がい締めにされて、板の間にそっと寝かされました。続いて座布団らしいもので口を押へて、細引が頭から首へ、手へ足へ、と滅茶々々に縛って行くのです。

岡っ引――多寡が少々のお手当で、謀者の役目をしている古道具屋の金太に、たいした武力も胆力もあるはずはなく、こうなるともう蟲のように転がされて、相手の思う存分にされるほかはありません。

曲者は二人でした。最初金太を呼んだ若い女と、後で金太を手籠めにした、恐ろしく強い男と。

「暫らく休んでいらっしゃいよ。ウ、フ」

女は面白そうな笑い声を残して、男と一緒に居間の方へ行ってしまいました。

二人の狙っているのは、いうまでもなく古だんすでした。曽つてはお栄が恐ろしい冒険までしてその中を捜ろうとした古だんす、ツイ今しがたまで銭形平次が渾身の智慧を絞って、その秘密を探ろうとした古だんすが覚束ない行燈の灯りの前に、その古怪にさえ見える姿をさらして、粛然と据えられているのです。

「さあ、急がなきゃ」

「――」

女が号令をすると、男は急に勢いづきました。どちらも覆面ですが、女の声がひどく鼻にかかって、蜜のような媚を含んでいるのが、場所柄の陰惨な空気にそぐわない、一種の焦立しさを感じさせます。

「お前知っているのかえ」

「知っているわけじゃないが、噂には聴いているよ。近江屋半兵衛が死んだ後で、一万二千両の行方がわからないが多分このたんすの中に、その隠し場所を書いた心覚えの書付けがあるに違いない――とね」

「その通りさ。抽出しという抽出しは皆んな調べてしまったが、あとはどうするんだ」

「抽出しなんかにあるものかね、お待ち」

女は男を掻き退けるようにたんすの前へ出ました。

「この中ですかえ、姐御」

大男はたんすの抽出しを無造作に抜きました。

「抽出しなんかじゃないよ。抽出しを皆んな抜いて、その胴を見るんだ。上の板か中段に仕掛けがあるかも知れない」

鼻声の女はいいます。

覆面の男女は暫らくたんすの胴を捜しておりましたが、

「ないね。種も仕掛けもねえ、桐の一枚板だ。こんなたんすは安いことじゃ出来ないぜ」

男の方は諦めたようにいいました。

「捜しようが足りないよ、――半兵衛がそのたんすに、大事な物を入れて置いたことは、私も近ごろ知ったばかりなんだが」

「それじゃ何処に仕掛けがあるんだ、姐御」

「それがわかればお前なんかに頼むものか、わたし一人で来て、一人占めにするよ」

「ヘッ、ごあいさつだね」

「でも、わたしが来る前に、岡っ引が捜し出したかも知れない――幸い隠した場所がわからないから大事な品が無事なんだよ」

「そんなものかね」

「念のためにそのたんすを引っくり返してみておくれ。底に何んか仕掛けがあるかも知れない」

「何んのことはない、手品つかいだね――まずは一と通り、これなる道具を改めさせまアす――と来やがる」

「間抜けな声なんか出して、人に聴かれたらどうするつもり?」

「ヘッ、底にも仕掛けはねえ。念のためにおしりをたたいて御覧に入れますか」

「バカだねえ」

大男と若い女は遊戯気分でそして傍若無人でした。が、たんすには全く何んの仕掛けもなく、白々とした底板には年代の古びさえ付いてはいなかったのです。

「この通りだ、姐御。下らねえ細工をして、岡っ引どもを追い散らしても、握りッこぶしで引揚げちゃ、あまり良い器量じゃないね」

「文句をおいいでない、――おや、おや」

「何んだえ、姐御」

「この抽出しの錠前は飾り物じゃないか。鍵のきかない錠前があるんだよ」

女は抽出しの錠前――古風なでっかい金具をいじっておりましたが、その錠前の一つが鍵がきかないばかりでなく、ガタガタ動いていることに気がついた様子です。

「珍らしくはないよ、そんなもの。はばかりながらこちとらのたんすは鍵がきけば不思議なくらいのものだ」

「でも、この釘は抜けるんだよ。その上、金具がわけもなく外せるじゃないか、おや、おや、おや」

「何がおやおやだい」

「この金具に、紙片が入っているんだよ、おや、おや」

女は金具の中に入れてあった、小さく畳んだ紙片をつまみ上げたのです。

「いやだぜ、そんなに物驚きをする年じゃあるめえ」

「だってお前、これが目当ての品なんだよ。半兵衛が隠した一万両の宝の――」

女はふッと口を閉じました。隣りの部屋のあたりに、コトリと物音のするのに気がついたのです。

木戸番平次

「あッ」

振り返ると唐紙がスーッと開いて、そこに銭形平次が凝っとこっちを見ているではありませんか。

「野郎ッ」

早くも形勢を察した大男は、女を後ろにかばって、身を沈めたと見るや、恐ろしい勢いで平次の胸へ頭突きをくれて来たのです。

それは丁度傷ついた雄牛のような凄まじさでした。自分の体力に強大な自信を持った者でなければ出来ないことです。

「野郎ッ」

平次は身をかわすと、早くも腰の十手を抜きました。が、相手の大男の手にも、次の間の行燈の灯を受けて、匕首がギラリと光ります。

「くたばってしまえッ」

立ち直って突いて来るのを、もう一度平次はかわしました。身体が大きい癖に、恐ろしく素早い相手です。

「八、気をつけろ。女は勝手口へ逃げたぞ」

大男をあしらいながら、平次は裏口を見張っているはずの八五郎に声を掛けます。

覆面の女が仲間の大男と平次の争いを他所に、身を飜ひるがえすとお勝手へ飛び込んだのを、咄嗟の間に平次は見て取ったのです。

「応ッ」――お勝手の障子を開けて、八五郎はヌッと顔を出しました。長んがい顎がブルンと動くと、この男には思いも寄らぬ闘争力が盛り上がります。

その間に平次と大男は二、三合しました。長物と違って、十手業に匕首は苦手で、刄物と絡み合った時、一と捻りするとわけもないようですが、相手に心得があるとなかなか注文には乗ってくれません。

「畜生」

真っ直ぐに突いて来た匕首を除けて、一歩退いた平次は、思わずそこにあった長火鉢に足を取られてしまいました。

「あッ」

もんどり打って倒れる平次、その上から追いすがるように匕首が――。

「これでもくらえッ」

それは実にかわしようのない襲撃でした。が、その時大男の後ろから、

「た、助けておくれッ」

存分に艶めく悲鳴をあげたのは、八五郎に羽掻締めされた、覆面の女だったのです。

大男はハッとためらいました。そのわずかばかりの隙に、平次は必死の窮地から立ち直ることが出来たのです。気の抜けた大男の匕首を除けて、くるりと身を飜すと十手を左手に持って、右手は懐中へ――。

「あッ」

平次の手からは四文銭が一枚、三枚、五枚と飛んで、間近かに迫った大男の覆面の外にとがった鼻柱を、むき出した歯を、そして最後には匕首を振り上げたこぶしを打ったのです。

「御用ッ、神妙にせい」

相手がひるむと、平次は完全に立ち直りました。匕首を叩き落して、十手でアゴをこじ上げて、足を絡んで浴びせかけると、先手々々と打たれた大男は、最初の勢いにも似気なく、朽木をたおすようにのけぞりましたが、敷居でしたたか頭を打ったらしく、暫らくは起き上がれません。

平次の捕縄はキリキリとそれを縛り上げたことはいうまでもありません。

その間に八五郎は、女をしかと押え込みました。骨細で柔かで、八五郎の腕の中に、雪女郎のように消えそうなのを、享楽するような心持で、片手業で懐ろの捕縄を探ります。

「動くな、女」

そう言った時は、八五郎の両手は完全に女の身体を離れて、ただ両ひざだけで、俯向きになった女の華奢な細腰を押えていたのです。

次の瞬間、事情はすっかり変ってしまいました。今まで馴れた牝猫のように、じっと無抵抗にしゃがんでいた女は、八五郎の双手が自分の身体から離れると、猛然として雌豹のように振い起ったのです。

「あッ、畜生ッ」

八五郎の手が追っかけた時は、女の身体は見事に飛躍して、八五郎の肩をけって、八五郎が開け放したままにしてあるお勝手の外へ、真に脱兎だっとの如く飛び出してしまったのです。

「あッ」

見事にしり餅をついた八五郎は起ち上がって、その後を追いました。が、外は如法のやみ、一寸先も見えません。

念のために家の外を一とまわりしましたが、真っ黒な闇がヒタヒタと身に迫って、鼻の先にうごめくものの見当も付き兼ねる有様。

「どうした八」

ぼんやりもとのお勝手口へ還って来た八五郎の前へ、漸く大男を始末した平次が、気遣わしそうに立って来るのでした。

「逃げっちまいましたよ。恐ろしく素早い女で」

 ボリボリと首筋をかく八五郎です。

「お前の方がのっそりしているからだよ。女一人を持て余しちゃ、十手の誉になるめえ」

「ヘエ」

「どんな女だか、見当くらいはつくだろう」

「それがね、親分」

「仕様がねえなア」

「骨細で、斯うフワフワとしておりましたよ。真綿と相撲を取っているようで」

「顔は見ないのか」

「見ませんよ、もっとも、匂いくらいは嗅ぎましたが」

「犬じゃあるめえし、匂いじゃ嗅ぎわけはむずかしかろう」

「ヘエ、兎も角、家のまわりだけでも見て下さいな、親分。その辺に隠れているかわかりません、どうせ遠くへ逃げるすきはなかったはずですから」

「無駄だろうが」

「待って下さい、行燈を持って来ますから」

八五郎は家の中へもどると、たった一つの行燈を持出して来ました。幸い風はないので、路地の中や、家のまわりくらいを見る事は、これでも間に合ないことはありません。

「良い図じゃないぜ」

平次はそういいながらも、行燈をブラ下げた八五郎を先に立てて、家のまわりをグルリと一巡りした上、その足を路地の外まで伸ばして見ましたが、怪しい女は愚か、町内の雌犬もそこにはおりません。

「おや、家の中で変な声がするよ」

平次は聴き耳立てました。

「あッ、金太の野郎ですよ。縛られたのをそのままにしてあるんですから」

「それにしちゃ変だよ」

二人はもう一度お勝手へもどりました。

「あッ、親分」

先に入った八五郎は、思わず素っ頓狂な声を張り上げます。

「何うした、八」

続く平次も、一パイに取散らした箪笥の前を見て、思わず唸りました。

ツイ今しがた平次の手で縛られて、柱を背負わされていた覆面の大男が、首筋に自分の匕首を突っ立てられて、紅に染んで断末魔のうめきをあげているではありませんか。

「八、縄を解け。目を落す前に一と言でも訊き度い」

「ヘエ」

八五郎が縄を解く間に、平次はその覆面を取ってやりました。覆面の下から現われた顔は、予想したように、古仏のような黒い顔、たくましい眼鼻、それは紛れもなく、両国の軽業明石五郎八の小屋の木戸番をしている、半次という男だったのです。

「確りしろ、半次。お前を刺したのはだれだ」

平次はその後ろから抱き起しました。

「水、水」

うつろの眼を天眼にして、わずかにこういう半次、それを聞いて八五郎があわててお勝手へ行こうとするのを、

「バカ、こんな手負いに水をのませたら、いっぺんに落ちるじゃないか――半次、苦しかろうが、たった一言だ、お前を殺した相手を言えッ」

「姐御だ」

「姐御じゃわからねえ、だれだ」

「お栄のあま」

半次はそう言ってガクリと首を垂れます。またもやどっと首筋の傷からあふれ出る血潮。

「もう一つ言え。そのお栄は今何処にいる」

「知らねエ」

「お栄は先刻、たんすの錠前から何を見付けた」

「――」

「斑組の首領はだれだ?」

「――」

「お栄か」

「――」

「五郎八か」

「そんな事よりお静姐さんの行方を訊いて下さいよ、親分」

八五郎は側から口を容れましたが、それも無駄な努力でした。木戸番の半次は最後の根が尽きて、平次の腕の中に、ボロ切れのように崩折れてしまったのです。

「八、もう臨終だ――死んでしまえば同じ仏様だ。そっと其処へ寝かしてやれ」

「ヘエ」

「お栄はいずれ縛られる時が来るだろう」

「――」

「可哀想に、縄を解くような顔をして、後ろにまわって首筋をやられたのだろう。相手を油断させるのがあの女の術てだ」

「それにしても癪にさわりますね。あっしの肩を蹴飛ばして外へ出て、引っ返してこんな虐たらしい事をしたんですね」

「口を塞ぎたかったのだよ、半次は余計な事を知っていたからだ。それに大事の品が手に入って、半次にはもう用事がなかったのだ」

「太てえ女じゃありませんか」

「おや、そう言えば、変な唸り声がすると思ったら、まだ金太の縄を解いてやらなかったのだね」

平次は部屋の隅に俵のように転がされている金太を振り返りました。

つぶての手紙

その翌日、八五郎は夜の明けるのを待って、明神下の平次のねぐらに飛び込んだのです。

「親分」

「八か」

いつもの朝寝坊に似気なく、平次はもう起き出して、男手の覚束ない恰好で朝飯の支度などをしておりました。

「――」

八五郎は喉まで出た洒落をグッと呑み込むと、意気地がなくも、眼頭が熱くなります。あれほど仲の好い平次とお静は、平次が旅へでも出かけた時でなければ、別々の屋根の下に寝た経験はなかったでしょう。

「八、黙って突っ立っていずに、少しは手伝えよ」

「ヘエ」

「こんな事をさせると、男は意気地がないな。平常は大きな面をしているが、いざ自分の手でご飯でも炊こうとすると、薪一本だって素直に言うことを聴かない」

平次はそう言って淋しく笑うのでした。

「姐さんはどうなったか、見当くらいはつきませんか」

八五郎はかまどの前にしゃがんだまま、自分の涙を薪の煙ぶるので誤魔化しているのでした。

「まるっきり見当もつかないよ。今度はおれも負星だ、あせればあせる程ヘマばかりする」

平次は苦笑いを絞り出しております。

「だれが一体姐さんをさらって行ったんでしょう」

「それはわかっているじゃないか」

「?」

「引窓から女一人を引っ抱えて逃げ出したんだ。力があって身軽で、恐ろしく胆の太い人間だ」

「お栄と言ったような」

「早まっちゃいけねエ、あの女は胆が太くて身軽だろうが、まさかお静を小脇に抱えて、引窓から屋根へ出ると言った芸当はむずかしかろうよ。現に八五郎は自分の身体一つを這い出すんでさえ、一と騒動やったじゃないか」

「すると親分、あの軽業師」

「明石の五郎八はくさいが、あれでもない。酉刻むつ(六時)まで両国の小屋にいて、それから一と風呂浴びて一杯やっているところを、この眼で見ているんだから疑いようはないわけだ」

「それじゃ――五郎八の女房はどうです。未刻やつ(二時)過ぎに小屋を出ていますが」

「女じゃない」

「すると、天狗の仕業ということになりますね」

「いや、まだ一人いるよ。昨夜近江屋で殺された木戸番の半次」

「あ、あの野郎だ」

「あの男なら出来るよ。両国の小屋がはねてからここに飛んで来れば間に合ったはずだ。それにあの男ならお静を一人くらい引窓から引きあげるのは何んでもない。尤も木戸番の半次にさらわせたのは外の人間だ」

「姐さんが素直に窓から出たんでしょうか」

「一と当て当てられるか、眼をまわすかしていたんだろう」

「それから何処へつれて行ったか、考えて下さいよ、親分」

「みんなお栄の阿魔の細工だ――が医者は自分の身内の者の脈を取らないように、おれも女房のこととなると、良い智慧が出ないようだ」

平次はそう言って淋しく笑うのです。

「あッ、畜生、何んということをしやがる」

ガラッ八は猛然と立ち上がりました。平次と差し向いで密議を凝しているところへ、だれか家の中へつぶてを投り込んだものがあるのです。

つぶては椽側の障子を破って、壁に当って、ハタと畳の上へ落ちました。

間髪を容れずに椽側に顔を出した八五郎の眼が捕えたのは、路地をバタバタと逃げて行く近所の小僧の後ろ姿だけ。

「放って置け、八。どうせ人に頼まれてやった仕事に違いあるまい。小僧をつかまえたところで、知らない人に頼まれて、小粒を一つ握らされてやったとか何んとかいうのが落ちだ」

「その頼んだ奴の人相でも聴かなきゃ」

「ムダだよ。眼が二つあって、口が一つあって、着物を着た女の人だとか何んとかいうに違いあるまい」

いきり立つ八五郎をなだめながら、平次はつぶてを拾って、丁寧にそれを眺めておりました。

「なんです、それは? 親分」

「手紙だよ」

「ヘエ、あっしはまたつぶての皮を剥むくのかと思いました」

「皮を剥いたって、石のつぶては食えそうもないな、――おやおや大層念入りな手紙だ。昨夜お栄から来た手紙と、そっくりの筆蹟てだろう」

「何が書いてあるんです」

「待てよ、弁慶読みにしなきゃ、

――お静さんを返してやるから親分の手に入れた物をこっちへ渡せ。八五郎親分に持たせて昌平橋の真ん中に立たせておけば手拍子三つ打つうちに、お静さんをつれて行って、その書き物と取替える――

と何うだ八、やってみるか」

みみずをのたくらせたような手紙を読むと、平次は急に陽気になりました。

「何んです、その親分の手に入れた物というのは?」

「昨夜、近江屋の箪笥から見つけた品だよ。まだおれにも見当はつかないが、大変なナゾが書いてあるらしい」

「ヘエ、そんな物があったんですか。箪笥の錠前の中に隠してあった紙片を取って行ったのは、あの女と半次じゃありませんか」

八五郎の小鼻はキナ臭くふくらみます。

「あの女と木戸番の半次が見つけるものを、このおれが気がつかずにいるものか」

「ヘエ」

平次の調子には自信があふれます。

「昨夜箪笥を引っくり返して見た時、おれは錠前の中に、紙片きれの挾んであるのを見つけて、そっと抜いて、代りに白い鼻紙を畳んで入れて置いたよ」

「ヘエ、あっしも気がつきませんでしたよ」

「そうだろう、おれはだれにも知らせたくなかったんだ。あの家は全く壁に耳で、どこでだれが見張っているかわからないから」

「その紙片に何が書いてあったんです」

「何んにも筋立ったことを書いてないから不思議さ――それはマア後で見せるとして、相手もあの錠前の裏から抜いて行った紙片が、ただの鼻紙と気がついてあわてたんだろう」

散々に敗北したようでも、銭形平次はやはり、曲者と対等の勝負はしていたのでした。

「それじゃ、それを出して下さいな。あっしが昌平橋へ行って、暫らく立っていますから」

八五郎はあわてた恰好で手などを出すのでした。

「何を出すんだ」

「錠前の中から出た紙片ですよ。相手がそんなに欲しがっているなら、早速持って行って、姐さんの身体と換えて来ようじゃありませんか」

「いやだよ」

「ヘエ」

「おれはそんな術てには乗りたくないよ」

平次の表情は心持堅くなりました。紙片一つと、恋女房のお静の交換と、敢然として断わるのは、容易の努力ではなかったでしょう。

「だって見す見す姐さんが」

「お静のことを何とも思わないわけじゃないが、相手は義理も人情も思いやりも恥も外聞もない人間だよ」

「ヘエ」

「昌平橋の上に八五郎がボンヤリ立っているうちに、とんびが飛んで来て、手の上の紙片をさらったとしたらどうなるんだ」

「まさか、親分」

「都合よく行って、紙片と人質と換えたとしても、その人質が身代りの贋首だった日にゃしりの持って行きどころがあるまい」

「――」

「首尾よくお静と換えたとしても、大事の証拠を手離しちゃ、おれの十手は腐りものだ――そういったものじゃないか、八」

「だって、親分」

「お前のいい度いことはよくわかるよ――それじゃあんまり不人情だ――というつもりだろう」

「その通りですよ。親分の十手の面目は立っても、万一ですよ――万一姐さんに間違いがあっちゃ、親分の人間としての道が立たないわけじゃありませんか」

「よしよし、そんなに果たし眼にならなくたっていいよ。おれは女房の身体まで張って、良い男になる気はない――まかり間違えば、十手捕縄を返上しても、女房は助けるよ」

「本当ですか、親分」

「本当だとも、――だがな、八。それにしても、折角手に入った証拠を、おめおめ敵の手に渡して、身代りなどをつかまされちゃ、末代までの恥だ」

「――」

「この書いたものを返す前に、よみ直してナゾを解いて、それから返してもおそくはあるまい、おれは昨夜一と晩そんなことを考えて、到頭寝ずにしまったよ」

平次の顔に刻みつけられた、恐ろしい苦悶と疲労を、そういわれて八五郎は始めて気が付いたのです。

「まだ考え度いことがあるよ。この手紙を見ると、お前が昌平橋の上へ紙片を持って立っておれば、手拍子三つ打たないうちに、お静をつれて来るということだ」

「――」

「嘘にしても斯んな事を書くくらいだから、お静は昌平橋の見えるところ、あの辺から一丁とも離れていないところに隠されているに違いないと思うんだ」

平次の叡智は漸く活発に働き始めました。

「親分」

「何んだ、八。大層改まるじゃないか」

妙に堅くなって詰め寄る八五郎を、平次はやんわりと受けて、煙草入を引寄せるのでした。

「親分はそれで宜いんですか」

「何が」

八五郎はすっかり興奮しておりました。少し下がり気味の眼じりが上がって、長んがい顎をグイと引くと、これでもなかなか真剣な顔になります。

「あっしは不承知だ。十手の道はどうなろうと、お静姐さんを見殺しにしちゃ、人間の道が立たねえ」

「――」

「ね、親分、何んとかしてやって下さい。斑組の悪者だって、六人のうち五人までは死んでいるし、盗られた一万二千両の金は、貧乏人や正直者の御用金じゃありませんぜ――尾張様なんざクソでも喰らえ」

「これこれ八」

「そんなものに義理を立てて、あんな良いお内儀さんを殺して済むと思いますか、親分」

八五郎はすっかり夢中になって畳をたたいて詰め寄るのです。自分の口から思わず飛び出した激しい言葉が自分の忿怒をあおって、手のつけようのないほど燃えさかるのでしょう。

「わかったよ、八――お静が聴いたらさぞ喜ぶだろう。いやに人の女房の肩を持ちやがるなんて、焼餅がましいことは言わねえ」

「親分」

「だからよ、お静に代っておれが礼を言ってるじゃないか。お静を助けたいのは腹一杯だが、物には潮時というものがある」

「だから、親分」

「まア、宜いってことよ、おれに任せて置くが宜い。向うだって人質を手軽に殺すようなバカなことはしないだろう。それに」

「――」

平次は深沈とした顔を振り仰ぎました。何やら深々と考えている様子です。

「それによ、銭形の平次が大きな面をしている癖に、女房を人質に取られると、他愛もなく悪者の言いなり放題になり、大事な手掛りまで手放してしまったと言われちゃ、江戸の御用聞一統の恥ばかりじゃねえ、引いては公儀の名折れ――いやそんな見識張ったことはどうでも構わないとしても、悪人がはびこって始末の悪いことになりゃしないか」

「――」

「考えて見るが宜い、女房をさらわれただけのことで、御用聞がノメノメと悪人に降参するとしたらこれから先どろぼう人殺しをだれが縛るんだ。お上の御用を勤めるものが、金で買われちゃならねえと同じように、脅かしに乗るような事があってはならねえのだよ」

「親分」

「黙って聴けよ八。おれは昨夜一と晩眠らなかったのは近江屋の錠前から出た紙片の謎を考えてたためだ――こいつは殺された近江屋半兵衛が、一度五重の塔の頂上に隠した一万二千両の小判を、仲間に隠れて何処かに運び出し、それをまた隠した場所の心覚えに違げえねえ」

「――」

「近江屋が殺された、五重の塔の上には金がない。悪者――一人か二人か知らないが、兎も角、その生き残った仲間が、あせり出したのも無理のないことだ」

平次は斯う筋道を立てて話して行くのです。

「その紙片にどんな事が書いてあったんです、親分」

八五郎は義憤が解けると、新らしい緊張に引入れられました。

「あわてるな、野原の中の一軒家じゃない。石を投り込んだ奴の仲間が、何処かで耳をすましていないものでもあるめえ」

平次は落着き払って、煙草の煙を輪に吹いております。

「成程ね、待って下さいよ、親分」

八五郎はいきなり椽側から飛び出しました。さすがに馴れたもので、その動きは間髪を容れず、椽の下から飛び出した小僧は、真に脱兎だっとの如く、低い生垣を飛び越えるのが精一杯でした。

「野郎、待ちやがれ」

その後を追う八五郎、路地の外まで暫らくは鳴らしましたが、小犬と牡牛ほどのスピードの違いがあるわけでもないのに、通りへ出た時は、最早影も形もありません。

「畜生奴、今度来やがったら、ワサビおろしで摺って小僧汁をこしらえてやるから覚えていやがれ」

八五郎は小鼻をふくらませて、フウフウ言いながらもどって来ました。

「止せ止せ八五郎、相手は最初から逃げ場をこさえているよ。それに先刻だってつぶてを投って一度は逃げ出したが、お前が家の中へ入るのを見定めると、もう直ぐ引返したんだ」

「ヘエ」

平次は笑っております。

「だがな八、おかげで相手の巣が近いということがわかったよ」

「?」

「お前は足が長いから、駆け出す方じゃ人に引けを取らないと自慢しているね」

「ヘエ」

「その八五郎が追っかけて、路地から通りへ出ると、相手の姿が見えなくなるだろう」

「そうですよ、親分。通りへ出ると右左見通しだ、五間や十間おくれていたって、姿が見えなくなるはずはねえと思うんだが――」

「相手の本陣は近いよ。ことによれば」

「何んです親分」

「まア宜い」

平次はそれっきり口をつぐんでしまいました。

「ところで親分、先刻の続きですが」

「――」

「親分はその紙片の謎を解いたんですか」

八五郎はまたもとの興味に首を突っ込みます。

「大方解いたつもりだが少し解らないことがあるから、お前の言うことが素直に聴けなかったんだ」

「何んです、そのわからない事というのは?」

「お前は近江屋半兵衛が殺された時、いろいろの事を調べたはずだな」

「ヘエ」

「あの男には何にか変った事がなかったのか」

「変った事というと」

「外へ出歩く癖とか、とりわけ好きな物とか?」

「ありましたよ、――ばくちと酒と」

「他に?」

「芝居と釣りと将棋が好きだったようですね」

「芝居と釣りと将棋か、面白いな」

平次は何やら思い当ることがある様子です。

「その紙片の謎はどんな事が書いてあるんです?」

八五郎は到頭乗出してしまいました。

人質

「これだ、八」

平次は部屋のすみにポンと投り出してあった、小さい紙片を取上げました。

「ヘエ、そんなところへ」

「ここがいちばん無事さ。財布や煙草入も不用心だし、火鉢の抽出しも茶壺の中も、仏壇や猫いらずも無事とはいえない。昨夜はおれ一人で夜を明かしたんだから、どんな野郎が忍び込んでも見つからないところへ置かなきゃならなかったのだ」

「ヘエ」

「見るがいい、こんな文句だ」

平次はその紙片のシワを伸ばして、火鉢の猫板の上にひろげます。

「これならあっしにも読めますね」

八五郎は小学校の一年生の熱心さで、それを弁慶読みにして行きます。

さくら  二十六ノ三

あやめ    三ノ二

ぼたん  二ノ四ノ三

たったこの三行だけ、もとより何んの意味か見当もつきません。

「どうだ、わかるか、八」

平次は考え込んでいる八五郎のまげ越しにのぞきました。

「わからねえというのもごう腹ですね。半兵衛はばくちが好きだったそうですから、これは花合せの何んかじゃありませんか」

「なるほどね」

「もっとも『さくら』と『あやめ』と『ぼたん』じゃ役にも得にもなりませんね」

「その二十六とか三とか四とかいう数は何んだと思う」

「そいつはあっしじゃ一と晩ぐらい考えたってわかりませんよ」

「諦めが早いな」

「そこで、物は相談ですが」

八五郎は坐り直しました。

「また眼つきが変になったよ。今度は何をやりゃいいというのだ」

「この文句はもう覚え込んでしまったでしょうね、親分のことだから」

「これくらいの文句なら、二、三度読んでいるうちに、だれだって空で覚えるよ」

「ところが、あっしはまだ覚えません。『ぼたん』が二十六だか、『あやめ』が二つだか」

「心細い野郎だ。念のために、よく覚えて置け。書いたものは人に取られると面倒だ」

「ところで空で覚えてしまえば、この紙片は要らないものでしょう」

「そうだよ、今朝迄は焼いてしまおうと思っていたんだ」

「それじゃあっしに下さいよ」

「何をするんだ」

「昌平橋の上に立って手拍子を三つ打ちますよ」

八五郎はまだそれに憑かれているのでした。

「たいした役には立つまいが、やって見るがいい」

「いいんですか、親分」

「最初は焼き捨てようかと考えたが、思い直してみると、その文句を覚えてしまえばこっちでは要らない紙片だ。そいつを敵の手に渡して、どっちが先に謎を解くか、試して見るのも面白かろうよ」

「大丈夫ですか、親分」

そう出られると八五郎の方が少し心配になります。

話がきまると、実行は至って簡単でした。平次はわざと家に残って、八五郎だけたった一人、くだんの紙片を有難い御護符のように両手にささげたまま、お能の橋がかりから出るような足取りで、路地の外へ、そして金沢町の通りへ出て、昌平橋の方へ行ったのです。

夏の朝陽はもう高くなりましたが、朝からの緊張で八五郎はまだ朝飯も済んでいないのでしたが、さすがにそんな事を考える暇もなく、昌平橋の上に立って、暫らく四方あたりをながめました。

東は筋違御門から花房町、仲町へ、南は八つ小路から阿部伊豫守、青山下野守の御屋敷のあたりまで、往来の人も少なくありませんが、肝じんのお静の姿はもとより、それを連れて来そうな人間も見当らなかったのです。

八五郎は併しかし、そんな事で引っ込む柄ではありません。手に持っていた紙片を懐中にちょいと入れて、神様の前に立った時のように、拍手をポン、ポン、ポンと、いささかも極り悪がらずに打ったのでした。

往来の人は一瞬胆をつぶして立ち止まりました。若い大男が橋の真ん中に立って、八つ手の葉っぱのような手を打って、四方をキョロキョロ見廻しているのです。

が、その途方もない所作も、今の人が考えるほどは怪奇なものではありません。いわゆる淫祠邪教がなんの牽束もなく江戸中にはびこって、稲荷様を始め、あやし気な祠ほこらや地蔵様が、あらゆる路地の奥や町角に鎮座していたころのことです。

八五郎も橋の上から何んかを拝む、行きずりの狂言者と思われたらしく、往来の足はそのまま、たいした支障もなく、穏やかに流れ出しました。

「八親分」

「何んだえ」

振り返ると十五、六の小僧が一人、蜆売しじみうりか何かでしょう、饅頭笠で夏の朝陽を避けるように、実は自分の顔を隠して、二、三間後ろから声を掛けるのでした。

「持って来たかえ」

「うん」

「いきなり飛びかかろうなんて、悪い料簡は出さないことだぜ。そんな約束違いのことをすると、銭形の親分に怨まれるぜ」

「何?」

「お静さんは其処に仲間の者が連れて来ているんだ。見るが宜い、向うの天水桶の蔭だよ」

八五郎は思わず小僧の指さす方に眼を向けました。湯島横町の角の天水桶、その蔭に半分隠れて向うを向いているのは、平常ふだん八五郎が見なれた単衣、帯、身体の恰好、髪かたち、親分銭形平次の女房お静の後ろ姿に紛れもありません。

「どっこい、飛んで行って、お静さんを奪い取ろうたって、そいつは無理だ。此方にも用心があるんだぜ。親分が橋を渡って、あの天水桶の傍まで行くうち、仲間はじっとして待ってるものか。おいらの手が一つ動いて、約束の品が手に入らないとわかると、お静さんは気の毒だが命はないぜ。仲間の手には人に知れないように、匕首が隠してあるんだ」

「――」

「此方で望んだ品を、橋の上に落して、静かに向うへ行きねえ。おいらがそれを拾って見て、真物とわかれば、お静さんは無事に引渡されるよ」

小僧は実によく行き届きます。

八五郎は忌々しそうに歯噛みをしました。こんな事なら、銭形の親分も、見識張らせずに引っ張って来て、手分けをしてお静を奪い還させるのであったと思いましたが、今更それはどうすることも出来ません。

「畜生、勝手にしやがれ」

大舌打ちを一つ、紙片を橋の上へ捨てた上、足でポンとけって、そのまま急ぎ足に湯島横町へ――そのあとで饅頭笠の小僧は、紙片を拾って、何処ともなく飛んで行ったことは言う迄もありません。

紙片は相手に渡して宜しいと親分の平次に許されたものです。この上八五郎の勤めは、お静を無事に救い出して、親分平次の前へつれて帰れば済むのです。

八五郎は橋を渡ると、小僧との約束も忘れて、もうかけ出しておりました。

「お静姐さん」

天水桶の蔭へ飛び付いた時は、後ろ向きの女がたった一人、八五郎の大きな声に驚いてハッと振り返りましたが、

「ま、八五郎親分」

大きい眼を見張ってニッコリしたのは、お静ほどは綺麗でなかったとしても、お静よりはぐっと若くて可愛らしい、あの樽拾いの元吉の姉、佐久間町のお雪ではありませんか。

「お前は、お前は?」

八五郎は暫らくは開いた口も塞がりません。

「どうなすって? 八五郎親分」

「お前こそどうしたんだ。それはお前、昨夜行方不明になった銭形の親分のところの、お静姐さんの着物じゃないか」

「これが、あの、お静姐さんの着物ですって、まア、まア」

「呆れてばかりいずに、わけを話してくれ」

八五郎は四方をキョロキョロ見廻しておりますが、その辺にはもうこの狂言を書いた、作者らしいのは一人もいず、お雪はただひたむきにあきれて、暫らくは言葉も出ません。

「今朝知らない女の人が来て、銭形の親分のところに今日は昼ごろからお客様があるから、この着物を着て手伝いに来てくれというんでしょう――どうせ私は着物らしい着物はないでしょう、その女の人のいう通りになって――ここまで一緒に来たんですが」

「それはどんな女だ、若いか年寄りか」

「二十五、六のきれいなお内儀さんでしたよ、――ここまで来ると、今行っちゃまずいから暫らく待ってくれといって、天水桶の蔭へ私と並んで立って、お天気の話や町内の人達のうわさやら、とりとめもない事を話していましたが、親分が来るちょっと前、何処かへ急いで行ってしまいましたよ」

「お前を脅かしやしなかったか、匕首なんか突きつけて」

「まア、そんな事、――それはそれは暢気な話ばかりでしたよ」

この孝行娘は十分に賢こかったにしても、自分がどんな役目を勤めたか、もとより知る由もありません。

八五郎はお雪を引っ立てるように、もとの平次の家へ帰って来ました。

「親分、到頭やられましたよ」

悄気返った八五郎の報告を、平次は穏やかに聴いて、こういうのです。

「そんなことだろうと思ったよ。相手は義理も意地もないんだ――心配することはない。こうなれば容赦はしない、日の暮れるまでに一万両の小判を尋ね当てて相手の鼻を明かしてやろう」

謎

銭形平次がこれだけ戦闘的なことをいうのは、全く珍らしいことでした。相手の卑怯さと悪どさに、よくよく腹をすえ兼ねたのでしょう。

が、一度存分なことをいうと、それを反芻するように、暫らく深沈と考え込むのは、やはり放言癖におぼれない銭形平次でした。

「親分、何んとか恰好をつけて下さいよ。これだけバカにされれば、沢山じゃありませんか」

八五郎はまだ紛々ぷんぷんとしております。癇癪のやり場に困っているのでしょう。畳ざわりも荒々しく、柱をたたいたり、げんこを振りまわしたり、少しもジッとしておりません。

「静かにしてくれ、おれは今詰手を考えているんだ」

平次は冷たい火鉢の前にあぐらをかくと、好きな煙草を一服、煙を鉄拐仙人のポーズで天井へ吹いて、沁々とした淋しさを満喫するのでした。

「将棋ですか、それとも碁ですか、親分」

遊び事にかけては、親分の平次よりひとまわり強い八五郎は、詰手と聴くと、突き詰めた心持の中にも、一脈の和やかさが湧くのでしょう。

「そんな気楽な話じゃないよ――斑組生き残りの悪者も、いよいよ雪隠詰になりかけているんだ」

「ヘエ?」

「お静を隠したのも、半次を殺したのも、おれの手からあの書いたものを取り上げにかかったのも、皆んな苦し紛れの悪あがきだよ」

「すると親分、次の術てはどう打つことになるんで」

「あの謎を解いて、一万両の隠し場所を捜し当てるのだよ。――斑組の本当の首領の正体はわからないが、賽の目の六を入墨していた近江屋半兵衛は、何んかの都合で仲間を裏切り、谷中の五重の塔の頂上に隠した一万二千両の小判のうち、一万両までそっと持出して、何処かに隠してしまったのだよ」

「ヘエ」

「あと二千両というところで仲間のものに嗅ぎつけられ、悪者四人が互いに殺し合って、いちばん質たちの悪い首領――多分賽の目の一ピンを入墨している者だけが生き残ったが――その首領にまだ一万両の行方はわからないのだろう。そこへこのおれに飛び出されてはかなわないから、ひょっとこの面を冠った奴が、金づくでおれの気を引いたり、それでいけないと見ると、今度はお静をかどわかして、いろいろな細工を始めたのだ」

「――」

「皆んな相手があせり始めた証拠だ」

「で、これから何をやりゃ宜いんです、親分」

「一万両の金を捜し出して、お上で没収するのが第一だよ。悪者どものめあてをなくすることだ」

「それは何処にあるんです」

「先刻お前に持たしてやった、紙片の謎のような文句の中に隠してあるよ」

「それがわかったんで?」

「おれは謎を解いたよ。精いっぱい下っ引を集めて、おれと一緒に来るが宜い。一万両の小判を間違いもなく捜し出してやる」

平次は起ち上がりました。自信に満ちた姿です。

平次が早くも謎を解いたというのは、どんなに八五郎を有頂天にさせたことか。

「隠した場所は何処です、親分。あの書いたものがなくても大丈夫ですか」

「安心するが宜い。おれはあの紙片と一と晩睨めっこをしていたんだ。皆んな空で覚えてしまったよ」

「ヘエ」

「相手も悪あがきをするに違いない。明るいうちに始末するように、精いっぱいの人手を集めてくれ」

平次は直ぐ実行に移りました。八五郎を飛ばして近所の下っ引――湯島の吉を呼び出させ、それからそれへと檄を飛ばして、半刻経たぬうちに、平次の家へ集まったのが十人。

「あれだけありゃ宜いでしょう、親分」

「何人集めた」

「丁度十人です」

「お前を勘定に入れると千十人か」

「ヘエ?」

「お前一人が千人力さ――さア来い、少し遠いぞ」

平次はもう明るい日ごろの平次に還っておりました。明神下から両国まで飛ぶと、そこから早船を仕立てさせて、いっ気に綾瀬へ――。

「何処へ行くんです、親分。駆け出した方が早かありませんか」

八五郎は舟足の遅いのに気を揉んで、自慢の鉄脚をたたいたりしております。

「後をつけられているんだよ。船で行くと相手がマゴつくから面白いじゃないか」

平次は面白そうに、両国橋の上をウロウロする二、三人の影を指さしました。綾瀬川を少し上ると関屋の里から、花菖蒲の名所の堀切村になります。

「ここだよ、八。謎の文句の最初のあやめというのは」

「花合せじゃなかったんですね――三ノ二というのは何んです、親分」

「三ノ二じゃない、二ノ一だよ。相手にあの紙片を引渡すとき、おれは謎の文句に少しばかり細工をしたのさ。二ノ一へ一本ずつ棒を引くと、三ノ二になる」

「なるほどね、ところで、その二ノ一というのは?」

「釣場の番号か、石垣の数だろうよ」

「ヘエ」

「近江屋半兵衛は釣りが道楽だったと聴いて、おれは謎を解いたよ。半兵衛は釣りに行くということにして、谷中の五重の塔から持ち出した小判を、少しずつ運んで三ヶ所にかくしたに違げえあるめえ」

「手が込んでいますね」

「外の仲間に隠れて一万両を独り占めにする気だったが、その仲間が半兵衛に劣らぬ悪智慧の逞ましい奴らで、容易のことでは誤魔化せなかった」

「――」

そんな話をしているうちに、平次と八五郎と、十人の下っ引は、堀切の花菖蒲園の裏、綾瀬川のほとりに立って、あちこちを物色しておりました。

「八、これだ」

平次が指さしたのは、半兵衛が釣り場に使っていたらしい石垣で、その石垣の二列目の最初の石が、一つだけ際立って苔が剥げて、何んとなく不安定な恰好になっているのでした。

多勢の人の手で、石垣は何んの苦もなく取り除かれ、土を掻き捨ててその奥をのぞいて見ました。

中は思いのほか広い穴で、その中に樫の一枚板で出来た、がん丈な箱が押し込んであるのです。

「道具を借りて来て、こいつを掘出しましょうか」

八五郎はもう近所の百姓家に飛び出しそうにしております。

「いや、それは後でよかろう。まだ二ヶ所あるんだ、日が暮れると面倒だ」

平次は穴の中の箱をのぞいておりましたが、正面の板に幅三分長さ二寸あまりの穴のあるのを見つけると、思い当る様子で、自分のふところから、谷中へ持って行って、五重の塔の扉を開ける時使ったのと、全く同じ寸法の輪を取り出しました。

「妙なものを――何時の間に用意したんです?」

八五郎が鼻の穴を大きくして眺めます。

「あの金の環を受取った時、すぐ寸法を取って、町内の錺かざり屋に頼んで手に入れたんだ。とんだ役に立ったよ。もっともあれは金無垢きんむくだったが、おれは貧乏だから鉄で間に合せたよ。種を明かせばこいつは牛の鼻ぐりさ、黄金の環が牛の鼻ぐりで間に合うとは、斑組の首領も気がつかなかったろう」

平次は面白そうに笑いながら、箱の穴に件の鉄の輪を滑り込ませました。

中でコトリと音がしたように思いましたが、どんな仕掛けがあったものか、平次の引く手に従って土中の箱の蓋は簡単に開き、続いて腕を突っこんだ八五郎が恐ろしく丈夫な風呂敷に包んだ小判を、幾つも幾つも土手の芝の上に小山の如く積み上げます。

「これで皆んなですよ、親分」

「御苦労御苦労、二、三千両はあるだろう。風呂敷へ包んで手軽に持ち運び、石垣の奥に埋めた大箱の中に投り込んだのは悧口だな」

平次は近江屋半兵衛の細工の巧妙さに舌を巻いております。

「ところで、これを持って行きますか」

「船まで運ぶが宜い。今度は隅田川を下るのだ」

「次の謎はあっしに解かして下さいよ、親分」

八五郎もひどく乗気になっております。

「やってみるがいい」

「桜の二十六の二――向島の桜の数を算えて二十六本目の下を掘るんでしょう」

「二というのは何んだ」

「二尺掘るとか何んとか」

「心細いなア」

そんなことをいううちに、船は三囲みめぐりから竹屋の渡し、水戸様御下屋敷前まで来ておりました。

「おっと、この辺でよかろう。水戸様の御下屋敷は除けて、土手の桜を算えるんだ。一本、二本、三本、五本、十本――」

八五郎の言葉通り、静かに漕ぎ上る船が、丁度土手の桜の二十六本目のところへ来ると、二、三人の男が鋤まで持ち出して、その桜の木のあたりを、せっせと掘っているのが、川からもよく見えるのです。

「ああ、親分、一と足遅れましたよ。彼奴らも向島と気がついて、二十六本目の桜の下を掘ってるじゃありませんか」

八五郎はさすがに我慢のなりかねる様子で、船の中に伸び上がって十手などを打ち振ります。

「八、どうしたものだ」

と、平次。

「乗り込んで、一人残らず縛るんですね」

「あの桜の根元を掘っているのは、近所の百姓衆だぜ。あの中にお前がねらっている斑組の首領なんかいるものか」

「?」

「放って置くがいい。いくら掘っても砂利が出るだけだ」

「でも、あれが二十六本目の桜でしょう、親分」

八五郎はまだ口惜しそうに、小判掘りの作業を見ております。

「先刻もいったじゃないか、――あの紙片の謎の文句には、俺が細工をしてある――と」

「ヘエ?」

「十六とある上に、二の字を一字書き添えただけのことさ。本物の小判の箱は、ここから桜を算えて十本、水戸様の方へもどるのだよ」

「ヘエ」

「それ、これが十六本目のさくらだ。十六の二とあるのは、二尺先を掘るのじゃない。釣り場にしてある石垣の二つ目の石を動かすのだ。近江屋半兵衛は釣り道具しか持っていないのだよ。人目に立たぬように、小判を隠し場所へ蔵しまい込んだことを考えるがいい」

平次はそういいながら、手頃の石を少し動かすと、それは他愛もなく転って、その跡にツイ今しがた綾瀬で見たと同じような穴があき、穴の奥にはやはり大きな箱が、黄金環を滑り込ませる穴を見せて、粛然として横たわっているのです。

鉄の牛の鼻ぐりがここでも役に立ちました。箱の中から取り出した風呂敷包の小判は、ここでもざっと二、三千両、箱が空っぽになると、もとのように扉を閉ざし、土を直して、小判と人を載せた船は、両国へ下ります。

「次は四つ目のぼたんでしょう、親分」

八五郎は先を潜ります。

「お前にわかるくらいだから、相手の悪者にもわかるよ。謎の文句を少しずつ変えたのは、人が悪いようだが、とんだ役に立ったよ」

「今度は――ぼたんの二ノ四ノ三――少し手が混みますね」

「四つ目の河岸、二丁目の四側目の石垣の、橋から三つ目と――斑組の首領には読ませたが、実は一丁目の橋の下だ」

平次は笑っております。

「あれは皆んな親分の書添えですかえ」

「その通りさ。それ、あの石の下を見るがいい」

四つ目の橋の下に据えられた石、それは釣り人の腰掛のように見えますが、動かすとその下には大きい穴があって、穴の奥には型の如く木の箱があり、箱を開けると、ここには五千両近かろうと思う小判が、五十両百両ずつ、いろいろの風呂敷に包んで押し込んであるのです。

一万両四十貫の小判は、ズシリと船のキッ水を深くしました。

「さア帰ろう」

「何処へ行くんです、親分」

「相手も死物狂いだろう、陸おかへ上がるとうるさい。このまま真っ直ぐに八丁堀の組屋敷まで漕がせよう」

彼方此方に奔走する、夕暮れの陸の上の人の姿を数えながら、銭形平次はこういうのでした。

お静の命

一万両の金は、その日のうちに、八丁堀屋敷に入りました。ここに納まれば、まさに金城湯池です。

「八、帰ろうか」

銭形平次はだれも待つ者のない自分の家へ、淋しく帰るほかはありません。

「あっしは今晩から、当分の間親分の家へ泊ってもかまわないでしょう」

八五郎はそんな気でいるのでした。

「志こころざしは有難いが、ろくな御馳走はないぜ」

「心得ていますよ。角の酒屋から一升届けさせさえすれば、何んにもぜいたくをいやしません」

「それがぜいたくでない気でいるんだからやりきれないよ――お前が来るのは宜いけれど、一と晩口をおかずにしゃべるのだけは止してくれ」

「まだ謎か何んか考えるんで」

「考えなきゃならないことがうんとあるよ。斑組の首領はだれか」

「お栄は何処へ行ったか」

と、八五郎。

「ひょっとこの面の男の正体は?」

「なるほどね」

そんなことを話しながら、二人は平次の家へ帰って来ました。もう酉刻半むつはん過ぎ、一日の活動の後に来る、餓と疲労にさすがに馬力の強大な八五郎もヘトヘトになっておりました。

火鉢に火を入れて、一本つけて、冷飯の用意をして、平次と八五郎は、兎も角も不器用なお勝手仕事をひと通りすますと、始めて長火鉢を挾んで、お互いに慰め合うように顔を見合せました。

「食う支度は楽じゃありませんね、親分」

「女のようには行かないな、八」

苦笑いを交換して、空きっ腹へ一合お湿りをくれると、どうやらこうやら、人心地を取りもどします。

冷飯の湯漬け、サラサラと片づけて、

「この一件が落着したら、へそが眼をまわすほど御馳走することにして、今晩はこれで我慢してくれ」

「――」

そういわれると、八五郎はぬるい湯にむせて、ひどく咳き込んだりします。うっかりホロリとしたのを咳か何んかに紛らせそこねたのです。

「おや、変な音がしたじゃないか」

平次は聴き耳を立てました。

「野良犬が格子戸にさわったんですよ」

八五郎は泰然として未練がましく徳利をすすっております。

「いや、何にか投げ込んだ音だよ」

「見て来ましょう」

酔っていても八五郎は気軽でした。障子を開けて入口のあたりをのぞくと、

「あ、何にか投り込んだ奴がありますよ。手紙だ――小石を包んであるが」

少しあわてて、何やら白いものを拾って来ました。

「何んだ、いつもの女の筆跡てだよ」

平次は半紙八つ折の手紙を猫板の上に拡げて読み下しましたが、事件の重大さに、さすがにハッと息を呑みます。

一万両は其方にやられたが、この返報はきっとするよ。お静さんは明日までは生きちゃいないだろうよ、御愁傷様。

さいの目の一

平次どの

「畜生ッ」

八五郎は格子をハネ飛ばすように、ガタピシさせながら飛び出しましたが、もとより悪戯者はその辺にマゴマゴしているはずもなく、路地のやみは漆の如く濃い中を、八五郎は暫らくウロウロするだけのことでした。

「ムダだよ、八」

平次は格子の外へ顔を出しました。張りきった猟犬のように、歯を鳴らしたり、唾を吐いたり、闘争心に燃えさかる八五郎を呼び入れるのに、どんなに骨を折ったことでしょう。

「でも放っちゃ置けませんよ。相手は鬼のような奴等だ」

お静さんの命は今夜限り――と書いた手紙は、全くの脅かしとも思えず、今までの手口からいってもお静は邪魔っけな石ころのように、そっと片づけられないとは保証出来なかったのです。

「まアいいから家へ入れ。曲者はその辺にマゴマゴしちゃいない。おれの見当では両国か谷中か、いずれにしても巣は遠いよ」

「ヘエ」

八五郎は不承々々、お勝手口へまわって、雑巾で足を拭いております。戸棚から土竈へっついから床板まで、貧しい調度ながら整然として輝いているのを見ると、八五郎は妙に涙ぐましくなるのを何うすることも出来ません。

むかしは水茶屋の茶汲み女であったにしても、不思議な縁で平次と一緒になったお静は、何んという良い女房振りだったでしょう。内気で無口で、この上もなく清潔なくせに明るくて健気で、傍にいる者をホカホカと温めるようないいようもない優しさ。これこそ『江戸一番の女』と、八五郎はベアトリーチェのように思い込んで、心ひそかに自分の守り本尊のように信じていたのです。

そのお静が悪者に誘拐されて、条件も猶予もなく今夜限りの命と宣告されているのにジッと物を考えている平次の沈着ぶりが、八五郎には腹が立ってたまらないのです。

「親分、何んとかして下さい。火の中へでも水の中でもあっしは飛び込んで行きますよ」

狭い単衣ひとえからハミ出す膝ッ小僧をそろえて八五郎は平次にねじ込むのです。

「せくなよ八、おれも女房を見殺しにしたいわけじゃない。が、こんな時逆上すると、良い思案が浮んで来ない」

「――」

「今直ぐ、ここで相手の巣を突き止め、向うが新らしい術を打つ前に直ぐに飛んで行って、お静を救い出す外はない――お前はまず何処へ見当をつけたものだと思う」

平次はさすがに突き詰めておりました。淋しい行燈の上、溜った丁子ちょうじをかき立てることも、いつもの癖の粉煙草をせせることさえ忘れて、八五郎と膝を突き合せるのです。

「たった今、両国か、谷中――と親分はいったでしょう」

「それは計略だよ。お前が路地でワメキ散らすのを、曲者は何処かに隠れてやり過しているかも知れない。うっかり本当のことがいえるものか」

「すると、親分」

「待ちなよ、八」

平次は立ち上がって、椽側から狭い庭のやみを透しました。

外は夕立模様、何時の間にやら墨を流したような空から、ポツリポツリと雨が落ちて来て、はためく遠稲妻に誘われたように、腥臭なまぐさい風がサッと吹いて来ます。

「八、来い」

もとの座に還った平次は、もう一度猫板の上の手紙に眼を落しました。

「この手紙は、お栄の書いた手紙じゃありませんね。お栄の筆跡はヘナヘナでみみずがはったようだが、こいつは変に肩上がりで、ギスギスしているじゃありませんか」

八五郎もひとかどの事をいうのです。

「いや、手を変えて書いたから変な肩上がりになったんだ。矢張り女の筆跡てだよ」

「――」

「男なら、お静さんとは書かないだろう」

「な、成る程ね」

「それから、お前は気が付かなかったかも知れないが此処へ持って来た時、俺は手紙をわざと火鉢の上へ落したろう」

「ヘエ」

「慌てて拾い上げて、猫板の上で伸ばしたら、手紙の文句の墨の上へ、この通り灰が付いている」

「?」

「遠くから持ってきたのなら、墨が乾いているから、灰などは付く筈はない。馬糞墨まぐそずみで乾きが遅いにしてもこいつは両国や谷中から持って来た手紙じゃない」

「親分」

八五郎はもう一度スタートに並んだ選手のように張りきりました。

「これで、相手は女だということと、此処から遠くないところで見張っているということがわかるだろう」

「ヘエ」

「ところで、まだ気の付いたことがあるよ、――この間からお前は小僧を三度も追っかけてるが、路地の外へ出ると、大地へ消え込んだように姿を見失っているだろう」

「ヘエ」

「路地の外は八方見通しの大通りだ。ところが、手紙を投り込んだり、助十を刺したり、勝手な真似をしている小僧が、髪を掴まれるように追われているのに、どうしても捕まらねえ」

「?」

「ことに助十を刺した時などは、逃げようのないところを、恐ろしい手際で逃げている、――そればかりじゃねえ、昌平橋の上へお前が手紙を持って行った時だって、時刻を打ち合せたわけでも何んでもないのに、相手はちゃんと、天水桶の蔭にお雪をつれ出して、此方の出様を待っていたじゃないか」

「成る――」

「こいつは天眼通ででもなきゃあ出来ないことだが――相手の曲者も人間に相違ないから、俺はその時巣が近いといった筈だ」

それはもう平次が、三日も前にいったことです。

「すると、その相手の巣は何処でしょう、親分」

「路地の中だよ」

「ヘエ?」

「路地の中で俺達を見張っているのだ。屋根伝いに此処から行けるところ、――お静を引っ担いで、物干か二階から、――何の苦もなく滑り込める家だ。あの晩外であんなに見張っていたのに、お静をさらった曲者は姿も見せなかったじゃないか」

銭形平次は漸く必死の智慧を働かせ始めたのです。

折から雷鳴が近づいて、パラパラパラと疎に庇を打つ大粒の雨足と共に、凄まじい稲光りが格子戸の外からカッと眼に焼き付きます。

「あの家だ。親分、踏み込んでみましょう」

「急ぐな八。大江山が近いとわかれば、あとは相手にさとられないように、万に一つの間違いもない工夫をしなきゃ」

燃えつくような激しい緊張のうちに、平次はようやく氷の冷静を取り戻したのです。

「それじゃ何をやらかしゃいいんで?」

八五郎のもどかしさ、

「俺たちはやはり両国へ行くのだ。いいか、お前は湯島の吉を呼び出して、町内へ筒抜けに聴えるように、金太と巳之吉を集めるんだ、――夜討ちでも掛けるように繰り出して、両国橋のあたりで待っているがいい」

「親分は?」

「俺も後から行く。頼むぞ八」

「路地の中の、大江山はどうなるんで?」

「そんなものは綺麗さっぱり忘れてしまえ。路地を出るまでは、間違ってもキョロキョロあたりを見るな」

「大丈夫ですか」

八五郎は馬鹿に念を押しながらも、平次のプラン通り、降り始めた雨の中を適当にわめき散らしながら、路地の外へ出て行きました。その後から必ずだれかがついて行くに決っており、そしてその追跡者は、八五郎が湯島の吉を呼び出して、金太、巳之吉の輩を狩り出し、富士の巻狩りほどの騒ぎをしながら両国の方へ行くのを、馬鹿々々しくも見張っていることでしょう。

後に残った平次の仕事は、それから始められました。火の用心をして、戸締りを見て、悠々と傘をさして路地を出ると、真っ直ぐに行ったのは、金沢町の下っ引――下駄屋を内職にしている若松の家でした。表戸をたたいて何やら女房と掛合い、そのままスルリと家の中へ入りましたが、しばらくするともとの姿のまま出て来て、たいして急ぐ様子もなく、雷雨の中を両国の方へ、柳原の闇を辿ります。

それから間もなく下駄屋のお勝手口から、無造作に外へ出たのは、下っ引の若松でした。

「お前さん、早く帰って下さいよ。今ごろから湯へ行く人もないものだ、本当に馬鹿々々しいったら」

若い女房の声を背後に聴いて、不景気な浴衣、手拭をヒョイと肩に掛けて番傘をさした若松は、鼻唄をそそりながら夜の夕立の中を町内の湯屋へ行くのです。

が、路地を出た若松の姿は、湯屋の前を無造作に通り越して、少し足早に明神下へ――それは誠に見事な滑り込みでした。後を追う者もないと見ると、ひらりと平次の住んでいる路地へ入って、その左から二軒目、小綺麗に住んでいる『しもた屋』の軒下に身を寄せたのです。

「今晩は」

若松は少し含み声ですが、甲高い調子でやりました。

「だれだえ」

色っぽい女の声です。

「角の酒屋ですが、お頼みの品を持って参りました」

「何んにも頼まないがねえ、違やしないかえ」

女はそういいながら、掛金を外して、無造作に入口を開けました。

「御用ッ」

それは実に間髪を容れぬ気合でした。が入口の戸を開けた女はそれ以上に敏捷だったのです。手に持った手燭を相手の面上に叩きつけると、身を飜ひるがえしてサッと行燈を蹴飛ばし、真っ暗な闇の中に、怪鳥の如く姿を隠してしまったのです。

飛び込んだ男――浴衣を着て手拭を肩に掛けたのは、言うまでもなく銭形平次で、若松の家の表から外へ出て行ったのは、平次の装束を借りた若松自身だったことは言うまでもありません。

自分と背丈けから年恰好までよく似た下駄屋の若松を、自分の代りに両国へやって、相手の悪者をすっかり油断させた平次は、若松の家の裏口から、湯屋へ行くと見せて、敵の本拠を衝いたのは、まことに申し分のない兵法でした。

が、相手の女は一応その術てに乗ったものの、何時如何なる時でも、身の安全を保つための動きを用意するといった、悪者の本能を持っていることもまた事実だったのです。平次の面上に手燭をたたきつける、行燈を蹴飛ばす、――それは実に一瞬に行われた動きで、次の瞬間にはもう、家の中は死の如く静まり返って、コトリとも音がしません。

うるしの闇の中に、平次はジッと耳をすましました。何処から何が飛んで来るかわからないので壁際に身を寄せて、蝙蝠のように平べったくなって、

「――」

暫らくすき間漏る稲光りのほかは一切の光りも失せ、轟く雷鳴の外には一切の音も絶えました。が、この闇に眼が馴れるに従って、開け放した入口から漏れて来る稲妻の光りに透して、次第々々に物のありかが見えて来そうな気がするのです。

相手もまたそれに気が付かない筈はありません。やや暫らく経つと、その危険を感じたらしい相手は、少しずつ、行動を起したことがわかって来るのでした。

眼の前にあやかしが動くと、ほんの微かではあるが、畳に物の触る気はいがしてサヤサヤと絹摺れの音がするのです。

「――」

平次はゴクリと固唾かたずを呑みました。絹というものの有難さを、この時ほど痛感したことはなかったのです。

やがてミシリと音がしました。梯子段を踏んだのでしょう。続いて次の段へ、そして三段目へ、その辺まで昇ると、相手は足音を殺すことのむずかしさを感じたらしく、急に態度を変えて、力一杯に梯子段を踏んで、ドンドンと駆け上がるではありませんか。

「待てッ」

続く平次、この時若し平次にたしなみがなかったら間違いもなく頭の鉢をたたき割られたことでしょう。女は梯子段の上から、後に続く平次を目がけて、何やら強かにたたき付けたのです。ガラガラガラ――とそれは実に恐ろしい音でした。恐らく逃げる間際に、火鉢の上の鉄瓶をさらって二階に駆け昇り、続く平次にそれを投げ付けたのでしょう。

恐ろしい機転です。それは実に十中八九までは間違いのない襲撃です。平次は早くもその事を予期して、梯子をなめるように、手と足とを使って這い上っていたために、鉄瓶は背中をかすって、梯子段の下に恐ろしい音を立てます。

その間に女は二階へ飛び上がった様子、平次はそれに続いたことは言うまでもありません。二階は下より更に暗く、暫らくは物の見当もつきません。

が、必死の危険は刻々迫っておりました。二階へ飛び上がった女はその一と間に閉じ籠められているお静を引出して、手際よく外に移すか、でなければ一気に命を断って、平次に一と泡吹かせようとしているのです。

首領は誰

一瞬、二瞬、死の沈黙が続きました。暫らくは雷鳴も遠退いて、雨足もやや衰えた様子です。

が平次は異常な緊張感に、自分の心臓の高鳴るのを何うすることも出来ませんでした。それは本能の警告ともいうべきでしょうか、耳の側にお静のささやきを聴いたり、ツイ鼻先に、艶かしい脂粉の匂いを感じたりするのです。

それは何んとなく『容易ならぬ』緊迫でした。幾度生死の境に飛び込んでも、かつてこれほどの不気味なものを感じたことのない平次ですが、或は目前数尺のところに、女房のお静の生命が既に断たれようとしていたために、平次の本能を苛立せ、全官能を動員したのかも知れません。

それは兎も角、緊迫しきった事態は、心の臓の鼓動を歯車にして、一瞬一瞬を百年の如く刻んで行きます。

平次は右手の十手を左に移して、そのまま右手に懐をさぐりました。手慣れた四文銭がたった二枚、指先にまさぐり出されて、万一の用意に掌に納めました。

カッと思いも寄らぬ稲妻、戸の隙間から漏れてその光りは、一瞬部屋中を照します。

「あッ」

平次が驚いたのも無理はありません。ツイ自分の立っているところから二間ほど先、部屋の向う隅に、キラリと光ったのは、紛れもなく白い女の手に振り上げた匕首で、その下に引据えられたのは扱帯しごきと細紐で滅茶々々に縛られた女――紛れもないそれは、自分の女房のお静の横顔だったのです。

匕首がお静の首筋へ落ちる前、間一髪の機先を制して、平次の掌の中の四文銭が飛びました。

「あッ」

一つは女の拳を打ち、一つはその頬のあたりを、強かに打った様子。が、そんな事でひるむ女ではなかったのです。僅かに匕首を持ち直すと、忽ち次の襲撃は用意されたのです。

「あれッ」

悲鳴はお静でした。第二の匕首は、僅かに手許が狂って、お静の肩を滑ったのでしょう。

「御用ッ」

平次はもう身体ごとたたき付けて、女の匕首から辛くもお静を庇うのが精一杯でした。

「畜生ッ」

女は恐ろしく下司な呪いの言葉をたたき付けると、伸びて行く平次の手を免れて、飛鳥の如く飛び去りました。

又も近くなった雷鳴、屋を圧してガラガラガラと過ぎて行くと、続いて二た打ち、三打ち、眼に迫るプラチナ色の稲光り。

部屋はもう空っぽでした。怪しい女は何処へ潜ったか姿も見せず、平次の脚の下には縛られたままのお静が、死んだもののように崩折れているのです。大夕立と匕首と平次の声とに驚いて、思わず気を失ったものでしょう。

平次は半分は手さぐりで、兎も角もお静のいましめを解きました。縛られたままの人間を一人抱えては、何んとしても進退の自在を欠きます。

「お静、確かりしろ」

抱き起すのと、稲妻の光るのと同時でした。わずかに正気付いたお静は、

「あ、お前さん」

恥も外聞も忘れて、夫平次の首筋にひしと抱き付いたまま、唯シクシクと泣き出すのでした。内気なお静には、かつてない悩ましい激情です。

「いい加減にしろ、子供じゃあるめえし」

平次は自分の首っ玉から少しじゃけんに女房のお静を引離しました。

「でも私、本当に殺されるかと思いました――こんなに怖い思いをしたのは、生れてから始めてなんですもの」

お静は自分の激情の爆発を、極り悪そうな笑いで誤魔化しながら、髪の乱れや衣紋えもんの崩れを直しております。

今までも幾度か危ない目に逢い、夫平次の手伝いもしたはずのお静ですが、だれも見ていない場所で不意に夫の手に救い出されると、矢張り小娘のような心持にならずにはいられなかったのでしょう。

「相手に取っては大事な人質のつもりだ、滅多に殺しはしないよ――ところでこうなっては、お前を一人置くわけにも行くまい。暫らく大家さんのところに頼んで置こうか」

路地の外には家主の吉兵衛が住んでおります。そこへ暫らくお静を預けて、平次はそのまま両国へ。

「あれ、お前さん。そんな形なりで」

お静が気を揉むのも無理のないことでした。平次が引っかけているのは、下っ引の若松に借りた、七つ下りの浴衣で、頬冠りをして七三に尻を端折ると、あつらえたような自棄な扮装いでたちになるのです。

「なアに、おれの装束は、若松が着込んで両国で待っているよ。心配するな」

ポンと飛び出すと、雷鳴は遠退きましたが、雨足は一としきり繁くなって、七つ下がりの浴衣を、未練気もなく洗います。

そこから両国まで、平次は逸散に駆けつけました。相手の構えの立ち直らぬうちに打つべき手は打ちつくして、一気に押しきるつもりだったのです。

「八か」

「親分」

豪雨の中の両国橋の上、雨明りの中にわずかに動く人影はたった一つ、そのヒョロ長いのを、平次の感は八五郎と見て取りました。

「皆んなはどうした」

「橋番所に頼んで雨宿りしていますよ。でも一人は橋の上で見張っていなきゃ、親分が来ても見当がつかないだろうと思って」

それで八五郎は、臍まで濡れて橋の上に立っているのでした。

「間抜けだなア、橋の上にだれもいなきゃァ、橋番小屋でも辻雪隠でも覗いて見るよ」

そういう平次も、八五郎の馬鹿正直さがうれしくないことはない様子です。

「これから何処へ行きゃ宜いんでしょう、親分」

「何処でも宜い、おれについて来い」

「ヘッ、欄干に耳だ――おおい、皆んな出て来い」

八五郎が大きな声をすると、橋番小屋に雨宿りをしていた仲間が、惜し気もなく大雨の中へ出て来ました。湯島の吉に金太、巳之助、それに平次の着物を着た若松。

「お、好い心持だ」

雨に洗われて負惜しみをいっております。

「相手は手剛いぞ、宜いか」

「何んの、親分が一緒なら」

八五郎は橋板を踏み鳴らします。そこから相生町五丁目へ、平次を始め五人の者は、真に雷獣かなどのように飛びました。それはいうまでもなく明石一座の座頭五郎八の家です。

「八、お前と吉と二人は裏へ廻れ。逃げ出す奴があったら、だれでも構わねえから縛るのだ」

「ようし」

八五郎と湯島の吉が、庇合いの滝のような雨にたたかれながら裏へ廻るのを見送って、平次は表の戸をたたきました。

「今晩は、――親方はいるかえ」

「――」

「おれは平次だが、ちょっと開けてくれ」

真っ向から名乗る平次の声にも、中からは寂として応ずる者もありません。

「開けて見ましょうか、親分」

「そうしてくれ」

力自慢の金太が、双手もろてを戸に掛けてグイと引くと、ぬれた雨戸は何んの手答えもなく、油でも引いたようにスルリと開きます。

「あッ」

平次は恐ろしい疑惑に暫らくは立ち竦みました。が、次の瞬間気を取り直すと、

「隣りを起して、灯りを借りて来てくれ。踏み込んだところで、あれじゃどうにもなるまい」

咄嗟のことで、御用の提灯の用意もなく、よしんばそんな物を持っていたにしても、この豪雨の中ではどうすることも出来ません。

間もなく巳之吉はお隣りの荒物屋をたたき起して、小田原提灯を借りて来ました。

「一つで間に合いますか」

「宜いとも、この家の中には、多分息の通っている者はないだろうよ」

平次は提灯を受取ると、真ッ先に家の中へ飛び込みます。

丁度その時、裏口をどうしてこじ開けたか八五郎と湯島の吉も勝手口から入って来ました。

「親分」

「だれもいないか、八」

「猫の子一匹いませんよ」

「次の間だよ」

平次と八五郎は唐紙を押し倒すように飛び込みました。ツイ二日前の晩、五郎八が女房のお六を相手に、晩酌をやっていた六畳です。

「あッ」

八五郎が立ち竦んだのも無理のないことでした。其処は血の海、長火鉢の前に明石五郎八が、ぼろをつくねたように、血に染んで死んでいたのです。

「一と足遅れた」

平次は口惜しそうでした。引起すとまだ体温が残っていて、右頸筋の傷から、生々しい血が噴き出します。

「いつもの手口ですね、親分」

「――」

平次は死骸から離れて、提灯を高々とかかげたまま、部屋全体を見渡しております。こうして先ず最初の印象を正確に把握し、部屋の中の物の配置や、その位置の破綻などを見窮めるのでしょう。

「酒を飲んでいるところをやられたんですね、親分」

「徳利が引っくり返って、猪口を投り出してある、――それに間違いもあるまい。が、女物の半纒を羽織って右手だけ袖を通しているじゃないか」

「――」

「いつかおれ達が来た時も、女房のお六が五郎八に半纒を着せたりしたろう、――夕立が来て薄寒くなったので、其処にあった女物の半纒を着せてもらったのだろう」

平次の理智は冷たく働き出します。

「すると五郎八を殺したのは、あの火傷の女房ですか?」

八五郎の想像は飛躍します。

「待ちなよ八。五郎八に半纒を着せてやるのが、いつも女房ときまったわけじゃあるまい、――下手人は間違いもなく女だ、――それも濡れて来た女だ。長火鉢の前の座布団がグッショリ濡れているだろう」

「――」

「後から半纒を着せかけると見せて、半纒の下に隠した匕首で、一と突きに首筋を刺した。みんな同じ手口だ」

「するとお栄」

平次はそれには応えず、五郎八の死骸を引起して、大急ぎでその腕を捲って見ました。右にはなんにもありませんが、左の二の腕には、墨黒々とでっかい賽ころを描いて、豆粒ほどの黒い星が一つ。

「親分、こいつは斑組の首領じゃありませんか」

提灯と一緒に、長んがい顎まで持って来る八五郎です。

「あわてるな、こいつは入墨じゃない。墨で描いた悪戯だよ」

「ヘエ?」

「お里を殺した時は死骸に入墨しやがったが、今度はそんなすきがなかったので、墨で描いておれ達をからかったのだよ」

そう言いながら八五郎の手から受取った提灯を差し寄せると、死骸の左二の腕の賽の目は紛れもなく筆で描いたもので、しかもツイ今しがたの細工らしく、着物に摺れて、生乾きの賽ころが、上の方の角が消えているのもバカバカしい限りです。

「畜生ッ、人をなめやがって」

八五郎は地だん太を踏みますが、そこにはもうそれに驚く鼠もいそうはありません。

「騒ぐな八、相手も追い詰められているのだ。一万両の小判をこっちに捲き上げられたので、こんな事でもして溜飲を下げなきゃ、諦めきれないんだろう」

「――」

「だが五郎八を殺したのはどういうわけだ」

銭形平次は死骸の前に高々と腕を組むのです。一万両の小判を平次の手に納めてしまえば、斑組の首領と五郎八との争いの原因はなくなるわけで、五郎八を殺した意味は、どう考えても解けそうもないのです。

「宇津の谷峠で奪った尾張様の御用金は一万二千両でしょう――するとまだ二千両残っているわけじゃありませんか」

八五郎はでっかい指などを折って見せます。

「一万二千両から一万両引いて二千両残るか。そいつは塵劫記じんこうきにもない算盤だが、曲者同士が殺し合っているのは、そんなことではあるまいよ」

「ヘエ――?」

「山はもっと大きいよ、――街道筋で何年越し悪業を積んだ斑組が、盗み溜めた金がそれっきりということはあるまい。尾張様の御用金を狙う前にも、随分悪事を重ねて来たはずだ」

「――」

「それに、お栄は綺麗過ぎた。八五郎さえ夢中にさしたくらいだもの、他でも思いも寄らぬ罪を作っているかも知れない」

「すると親分、この仲間の首領はだれでしょう?」

八五郎は到頭最後の問いを投げ出しました。

「首領はだれ――というのか、困ったことにおれもわからないよ」

「ヘエ、親分にもね」

平次が何んのわだかまりもなくいうのが、八五郎には口惜しくてたまらない様子です。

「お栄の阿魔じゃありませんか。行く先々にあの女がチラつきますよ」

八五郎は顎を撫でたりします。

「とんだ綺麗な女白浪だ――が、それにしても腑に落ちないことがうんとある」

平次はまだ考えているのでしょう。容易に八五郎のカンには乗ってくれません。

「五重の塔で逢ったひょっとこの男じゃありませんか。人をバカにした野郎でしたが――」

「あれは五郎八だよ」

平次は事もなげでした。

「じゃ、何んだって今まで縛らなかったんです。親分ともあろうものが」

「怒るなよ八、おれともあろうものもツイ今まであのひょっとこが五郎八とは気がつかなかったんだ」

「ヘエ」

「ひょっとこの男が五重の塔でおれたちにからかっているころ、五郎八は両国の小屋にいるとばかり思い込んでいたのだ」

「――」

「ところが、ここへ来て死骸を見ると、この通り五郎八は女物の半纒へ片袖だけ通している――五郎八は小柄で華奢だから、女物の半纒を着てもたいして可笑しくない――どころか、とんだ似合って、これに吹流しに手拭でも冠せると、意気な年増姿になるだろう」

「?」

「あの日昼少し過ぎ――未刻やつ(二時)過ぎとかいったな、五郎八の女房のお六が、両国の小屋の裏から出て、一人で帰ったと路地の前の呑み屋でお前は聴いて来たはずだ」

「ヘエ」

「お六は顔半面の大火傷を隠すので、外へ出ると何時でも手拭を吹流しに冠っているともいった――あの時呑み屋でお六と見たのは、五郎八だったに違いあるまい」

「?」

「五郎八は女房の半纒を羽織って、手拭を吹流しに冠って、裏木戸からソッと出て、おれたちを呼んで置いた谷中の五重の塔へ急いだのだ、そして女房のお六は、亭主の五郎八になり済して、頭痛がするとかなんとかいって、楽屋に人眼を避けていたことだろう」

「驚きましたね――五郎八は何んだって、親分を五重の塔へ呼び出したんでしょう。あっしには、その思惑がわからねえが――」

「おれにあの御用金の入った箱を見せたかったのさ、――おれに手を引けなんていったのは、掛引だ」

「ヘエ」

八五郎は事ごとに驚かされるばかり、湯島の吉や金太、巳之吉の輩は、口を開いて聴いております。

「ところで何時までもこうしているわけに行くめえ。巳之吉は町役人を呼んで来てくれ、金太と若松は一応死骸の始末を手伝うのだ。何時までも放って置いちゃ仏様に悪かろう」

平次は話を一応打切って、兎も角にも死骸の始末やら後の手続きやらを運ばせます。

「不思議じゃありませんか、ね、親分。何んだって五郎八の奴が、五重の塔へ親分を呼び出したんでしょう」

その晩、相生町の五郎八の家を土地の町役人や下っ引に任せて、明神下の自分の家へ引揚げた平次に、八五郎は執拗につきまとって来て、こんなことを聞くのでした。

お静は家主の家から引取られて来て、濡れネズミになって帰って来た夫の平次と、子分の八五郎のために、乾いた単衣を出して着換えさせると、臍まで濡れた湿気除けのまじないに、一本つけてやって、お勝手で何やら酒の肴をこしらえております。

もう夜更けですが、雨は上がった様子で、四方あたりは不気味なほど静まり返りました。

「まア、一杯やるが宜い。このまま飯にしちゃ毒だよ」

「ついでに今晩は泊めて下さいな親分、用心棒になりますよ」

「お志ざしは有難いが、お前は一杯飲むとウワバミのような鼾をかいて寝込むから、用心棒どころか心張棒ほどの役にも立たないよ」

「ヘッ、違げえねえ」

八五郎はピシャリと自分の頬をたたきました。五、六杯立てッ続けに引っかけて、もう青大将ほどの生地は出来た様子です。

「ところで、五郎八がおれを五重の塔に呼び寄せたわけを聴きたいといったね」

「ヘッ、それですよ。あっしにはどうしても悪人のすることがわからねえ。黙って居りゃ宜いものを何んだって人もあろうに、銭形の親分なんか呼び出して、自分の首に縄を掛けるようなことをするんでしょう」

「皆んな自惚だよ。悪い奴は増長すると自分の智慧や腕に慢じて、この平次をからかってみたくなるのだ。もっとも五郎八が五重の塔へおれを呼び出したのは、他に狙いがあった」

「ヘエ?」

「五重の塔の上に誘って、おれにあの御用金の空箱を見せたかったのだ」

「箱は皆んな空ッぽだ。おれはそれを見せつけられて黙って引っ込むはずはない」

「?」

「手ッ取り早くいえばこうだよ。斑組の首領と五郎八とが互いに張り合って近江屋半兵衛の隠した一万両の御用金を捜したことだろう。それが何うしてもわからない、そこでこのおれをつり出して、謎を解かせることを思いついたのだ」

「なるほどね」

銭形平次の智慧を利用しにかかった、悪者どもの悪智慧に、八五郎はまさに口も塞がりません。

「一万両の小判はお前も知っての通り直ぐ見つかった。が、それを右から左へ積んで、真っ直ぐに八丁堀の組屋敷に持込もうとは悪者どもも思いつかなかったろう」

「ひどい奴らですね」

「その果てがまた一人殺された。残るのは斑組の首領と、斑組が盗み溜めた金だ」

「それは何処にあるでしょう親分」

「そんなことがわかるものか。向うから仕掛けて来るのを待つ外はない――が、斑組の首領はいずれおれたちの前に、その正体を現わすだろう」

平次が話し終ると、お静はそっと二本目の銚子を猫板の上に載せるのでした。

邪恋の果

不敵の予告

「た、大変、親分」

「サア来やがった。妙に生温かい風が吹くと思ったら、八の野郎が飛んで来たようだ。その煙草盆を片づけて置け、また火入れを履かれるとかなわない」

銭形平次はニヤリニヤリと笑いながら、物々しくもその辺中を片づけ始めたのです。

「まア、相変らず八さんは元気ねエ」

女房のお静も面白そうに眺めております。

「格子戸へ頭突きをくれて、クルリと廻ってバアと入るなんざ、よっぽどイキの良い人間でなきゃ出来ない芸当だよ」

「親分落ちついていちゃいけねえ、八丁堀は煮えくり返る騒ぎだ」

八五郎は委細構わずわめき立てるのでした。

「ヘエ、八丁堀が煮えくり返りゃ、築地あたりは煮えこぼれるだろう」

平次はまだ茶にしております。

「生き残りの斑組の首領が、八丁堀の組屋敷へ果し状を付けたんだ、――こいつは驚くでしょう、親分」

「驚くよ八。驚くからその障子へ拳固を叩きつけるのだけは勘弁してくれ。風通しがよくなって、晩のお菜まで往来から見通しだ」

「ヘッ、呆れ返るぜ親分。親分が謎々を解いて、漸く見つけてやった一万両の小判を、与力衆から尾張の御留守居へ申し入れると、――それは千万辱けない、明日正午刻ここのつ(十二時)当方から受け取りに参るで御座ろう――と来た。恐ろしく安値な挨拶だぜ」

「それはそうだろうとも、自分の物を自分のところへ引取るんだもの。あの金はもともと尾州の御用金だ、二年前に東海道宇津の谷峠で奪られたのを、漸く取戻したことになるじゃないか。一万二千両のうち二千両の行方は判らないのは惜しいが――」

平次はそんなことをいうのです。

「でも、一万両ですぜ、親分。それも銭形の親分が、姐さんのお静さんまでさらわれて、命がけの苦労をして取り還したことは、江戸中で知らない者がない筈だ」

「大層な評判だってね。湯屋でそのうわさが出て、俺はとんだ目に逢ったよ。うっかりバアと顔を出して、そのうわさの中へ飛び込むわけに行かねえ。あらかた四半刻も湯の中に漬ってよ、ジッと辛抱してみたが――」

「気が弱過ぎますよ、親分は」

「お前はまた少し気が強過ぎる」

「何んでも構わないから、世間の評判で銭形の親分の手柄が耳に入らないことはあるめえから、一万両の金を受取る前に、尾張の大将か何んか腐った羊羹の一と竿も持って来て、この度は有難う御座いました。とんだ骨折をかけました――と」

「止さないかよ馬鹿馬鹿しい。俺は羊羹の腐ったのと大名附合いはきらいだよ」

「だから、親分」

「もう判ったよ」

「だってまだ話は半分きゃ済んじゃいませんよ」

「腐った羊羹のことはもう沢山だ」

「いえ、尾張のお留守居から、鹿爪らしく挨拶が来るとほんの一刻も経たないうちに、八丁堀組屋敷の、吟味与力筆頭笹野新三郎様のお玄関へ、斑組の手紙が投り込まれたんだから驚くじゃありませんか」

「だれが持って来たんだ」

「小僧ですよ。酒屋の御用聞かと思っていると、石っころを包んだ手紙を投り込んで、何処ともなく消えてしまったそうで」

八五郎の報告は思いのほか怪奇なものでした。さすがの平次も暫らくは洒落を封じて、神妙に聴いております。

「その手紙に何んと書いてあった」

「借りて来ましたよ。これですがね」

八五郎は内懐ろを捜って、恐ろしく野暮な財布の中から十六に折った一枚の半紙を取出しました。

畳の上で折目を伸ばすと、いつもの蚯蚓みみずをのたくらせた女文字で、

当斑組より八丁堀屋敷に預け置候金子一万両は至急当方にて入用に付明日正午刻ここのつ参上受取る可候、尾州家に御送り届けの儀は全くの筋違ひに付堅く無用に被遊可く為念申入候 敬白

月  日斑組首領

こうのたくらせているのです。

「――」

平次は煙草を卦算けさん代りに、椽から吹く風に押えて、思わず腕を組みます。

「ね、驚くでしょう、親分」

八五郎は何んか自分のことのように、斑組首領と名乗る曲者の自慢をするのです。

「驚くよ、お前への附合いにだって驚かなくちゃ、――それからどうした」

「八丁堀が煮えくり返って、築地が煮えこぼれて」

「おれの真似をするなよ」

「兎も角も、今日中にこっちの腹もきめて置きたいから、平次をつれて来い――とこれは笹野の旦那の声色ですよ」

「よし、こうなりゃおれが相手になってやろう」

「ヘッ、そう来なくちゃ」

八五郎はすっかりうれしくなってしまいました。それから支度をして、平次と八五郎が八丁堀組屋敷の、笹野新三郎の、役宅に着いたのはもう夕景。

「平次か、御苦労であったな」

若いが南北町奉行四十六騎の与力の中でも、第一番の利け者といわれた笹野新三郎は、緊張しきったうちにも、愛想よく平次を迎えました。

「大層厄介なことが起りましたそうで」

平次は敷居際に膝をそろえました。

「まアこっちへ入るがよい、八五郎も一緒か、――よしよし、大方のことは八五郎から聴いたことだろう。斑組の生き残りが、何人あるのか知らないが、全く骨を折らせるな」

「そのことで御座います」

平次は膝を進めました。大名の下屋敷ほどの贅をするのが、当時の八丁堀与力でしたが、笹野新三郎はさすがに清廉で鳴らした人だけに、その座右の調度や生活様式も、貧乏御家人、小旗本とたいした違いはありません。

「何んぞ思い当ることでもあるというのか」

「思い当ると申すほどでは御座いませんが、あの手の廻りようや、次第に募る悪業から見ますと、最初の斑組の悪者は、六人のうち五人まで死んでしまいましたが、生き残った一人の首領が、新らしい子分を集めて二代目の斑組を作ったのではあるまいかと思います」

平次の言葉は想像を飛躍したものでしたが、

「そこだよ平次、私もそんなことを考えていたのだ。でもなければ、天下の役人――南北町奉行を相手に、あんな途方もないことがいえるわけはない」

笹野新三郎も膝を叩いて乗出しました。

「それについては、こっちも十分用意が入要でございます」

と、平次。

「そのことだよ平次。この度は向うから罠に陥ちて来るようなものだ。お前に采配を任せて、斑組と一騎打ちの勝負をさせ、一万両の小判を餌に、斑組の曲者どもを、一ぺんにからめ捕るつもりであった。が、それがいけない」

「ヘエ」

笹野新三郎は肩を落しました。

「こっちで万全の謀事をめぐらすつもりで、お前を呼びにやった後へ、尾張様の御留守居からの御使者があったのだよ」

「――」

「その口上はこうだ、――一万二千両の御用金が、二千両も減っているのは、まことに余儀ないと締らめるが、この上間違いがあっては、当家留守居の手落ちに相成る、ついては、この度は一万両の引取り方を一切当藩中において取計らいたいから、町方のお指図は御遠慮願いたい――とこうだ」

「畜生ッ」

後ろの方で、こんな無体な弥次を飛ばしたのは、我慢のなり兼ねた八五郎でした。

「八、気をつけろ」

「ヘエ」

平次に叱られると、八五郎は月代さかやきを押えてそっと舌を出します。

笹野新三郎は素知らぬ顔で話を続けました。階級制度のうるさい当時でも、八丁堀の旦那衆には、まことに解った人が多かったのです。

「相手は六十二万石の大藩だ。こっちで彼れこれ申す筋合いではないので、仰せの通りかしこまって引下がるほかはない」

「それで」

「一万両の小判は、当組屋敷の門内で、尾州家の使者に渡すことになった。せっかくお前を呼びにやったがこの儘引下ってもらうほかはない。御苦労であった」

笹野新三郎は心持頭を下げるのです。

「とんでもない、お言葉では反って恐れ入ります。ところで、明日私は当組屋敷の門前で、尾州の御家来に一万両の小判を引渡すのに立合ったものでございましょうか」

平次は静かに訊ねるのでした。

「左様」

「それとも蔭ながら一万両の行方を見護ったもので御座いましょうか」

「無用だな平次」

「ヘエ」

「尾州様御留守居、せっかくの申し入れだ、向うの面目を立てるのが第一だろう。お前はやはり明神下のお前の家に引籠っているがよかろう。諸方に顔を知られたお前が、この辺にウロウロしているのは宜しくない」

「左様でございましょうか」

「町方の仕事には限度がある。致し方あるまいな、平次」

「では、これでお暇を頂きます」

平次は静かに組屋敷を出ました。

そこから明神下の平次の家まで八五郎が腹を立てまいことか。

「チェッ、呆れて物がいえねえ。腐った羊羹どころか、邪魔だから手を引けだってやがる」

「まア、恐るな八、相手が悪いや。あんなに笹野様が仰しゃるんだから、俺は我慢をして引籠るが、お前は差支えあるめえ。俺の代りに八丁堀から尾張のお屋敷まで付いて行って、よく見張るが宜い」

平次の方策はせめてこれが精一杯だったのです。

お蔵屋敷

翌る六月一日、八丁堀組屋敷は早暁から門外を堅め、与力同心組子の数を尽して、真に鉄桶てっとうの人垣を作りました。その中にはいうまでもなく八五郎の長んがい顔も交っておりましたが、与力筆頭笹野新三郎の注意で、銭形平次の見えなかったのは一脈のさびしさでした。

正午刻ここのつ(十二時)のお時計が鳴るのを合図のように、笹野新三郎役宅の玄関に立ったのは、尾州家のお使い、大橋要人、同じく津田孫太郎、同じく鈴木倉之進の三名でした。

「これはこれはようこそ」

笹野新三郎自ら立っての出迎えです。三人の使者のうち大橋要人と名乗る四十男は、先日笹野新三郎役宅を訪ねて、尾張家御留守居の意を伝えた仁、津田孫太郎は名だたる槍術の名人で、鈴木倉之進は尾州の柔術指南番、いずれも当時江戸邸中に雷名をはせた武辺者です。中へ通して一巡のあいさつが終ると、

「先日申し入れました尾州中納言家御用金一万両、用人大橋要人改めて頂きにまかり出ましてご座る。これは留守居役山澄淡路守殿の書面、篤とくと御被見下さるよう」

恭うやうやしく取り出した大箱、笹野新三郎の前に高々とささげます。

「確かに」

文箱から書面を取り出して、一応披見した笹野新三郎、もとの通り文箱の高紐を結んで返しながら、

「一万両の金子は、これに置きました。御改め下さるよう」

床の間に杉なりに積んだ、五つの二千両箱を指すのでした。一つ一つがざっと十貫目もあるでしょう。小判一枚が純金で四匁もあった時勢ですから、一万両というと容易ならぬ大金です。

「では」

大橋要人が合図すると、庭に待機していた係りの役人は、椽側に五つの二千両箱を持出して一枚一枚念入りの調べが始まりました。それが済んだのは一刻過ぎの未刻やつ(二時)ごろ、引渡しが無事に終って、五つの二千両箱は、尾張家の五つのつり台に納められ、つり台一つ一つに、選り抜きの五人の侍が、襷を掛けた上に、この暑いのに羽織を着て、真に果たし眼で、八方をにらみすえながら組屋敷の門を出たのです。

万々一これに仕掛けて、一万両を奪い取るとしたら、名もなき草賊どもは、百人掛っても鎧袖一触でしょう。さすがに御三家の随一六十一万九千石の威勢は目を驚かすものがありました。

先頭は大橋要人、殿りは鈴木倉之進、その中に挾まれた五つのつり台は、深々と油単を掛けられ、五人の猛者もさに護られて、静々と中ノ橋に掛ります。

行列が橋の中程へかかったころ、

ドドドド……ドーン、凄まじい大音響が起ると、橋の下から渦を巻いた煙が五つのつり台に積んだ、一万両の荷物を包むのです。

「それッ」

「油断すな」

二十五人の猛者は、刄の反を打って身構えました。が爆音はそれっきりで後が続かず、煙もフラフラと宙に消えて行きます。

「騒ぐな。相手の仕掛けはわかっている。多寡がこけ脅しだ、構わず行列をやれッ」

流石に大橋要人は、相手の企らみの底を見通して、高らかに叱咜の声をかけます。

「バカッ」

高らかなボーイ・ソプラノが、その時橋の向う側、井伊様屋敷のあたりで高鳴ります。

「下郎ッ、まてッ」

大橋要人、おっ取り刀でかけ出しましたが、もとより追いつくことではありません。

「大橋氏、大人気ない、――それよりは一万両の金子を、一刻も早くお蔵に納めることじゃ」

いくらか思慮のある津田孫太郎はそれを止めました。

六月の陽がサンサンと江戸のいらかに降る中を、中ノ橋を越した一万両の行列は、軽子橋を右手に見て、数馬橋を渡り南小田原町から尾州家蔵屋敷の裏町にかかりました。

「あッ、あれは何んだ」

一万両の行列が、暫らく躊躇したのも無理のないことでした。行列の前後は、あやしの靄が立ちこめて、百千万の銀の征矢そやが、右から左から、前から後ろから縦横無尽に射込まれるのです。

「騒ぐな各々、相手は我々の行列に花火を打ち込んだのだ。構わず行列は、裏門へお入り召され」

落ちついた声、津田孫太郎が早くも相手の撹乱策を看破ったのです。

裏門へ差しかかって、ホッと安堵した一万両の行列へ、花火玉を打ち込むというのは、驚くべき頭の良さですが、その上を越す津田孫太郎の冷静な比判力が、危ないところで行列の混乱を救いました。

百千万の征矢が納まり、立ちこめた靄の消え去るころ、一万両の行列はつつがなく尾州家築地蔵屋敷の裏門から、静々と入ってしまい、残るは津田孫太郎、鈴木倉之進を始め、腕に覚えの武辺者が六人、花火玉を打ち込んだと思われる海上遙かに眺めると、それらしきハシケが二隻。

「ワーッ、ざまア見やがれ」

どッと笑いを残して、海上遙かに漕ぎ去ってしまいます。

海からの襲撃を予想しなかったのと、咄嗟の場合それを追う舟がなかったので、尾州の猛者達も、地団駄を踏みながら引揚げるほかはありません。

一万両の大金は、市ヶ谷の尾州上屋敷に持込んで、厳重の上にも厳重を極めた、御金蔵に納めるのが本筋ですが、八丁堀の組屋敷からでは道中が長過ぎて口さがない江戸の町民たちに、その物々しい警戒ぶりを冷やかされ、落首や川柳になって、お国許の藩主の耳に入るのがうるささに、留守居の重役方合議のうえ人通りの少ない本願寺裏を通って、近間の築地お蔵屋敷の土蔵に納めたのは、まことに一応の機宜を得た処置だったのです。

一万両の小判が、蔵屋敷に納まると、大橋要人を始め津田孫太郎、鈴木倉之進、ほか二十五名の猛者たち、すっかり肩の重荷をおろしてしまいました。

「御重役方、わけても山澄淡路守様のお許しだ、各々寛いでお過し下され。一万両の御用金は間違いもなく御当家のお蔵へ納まりましたぞ。斑組とやら猿智慧を絞ったところで、花火玉を打ち込むぐらいが精いっぱいだ。多寡が市井の草賊、御三家筆頭六十一万九千石の御当家に歯の立つわけはない」

大橋要人少しばかり好い気持そうです。

宴会は夕刻から夜半に及びました。殺風景なお蔵屋敷に、だれがよんだか芸子が立ち交って、長夜の宴は果てしもなく続くのです。

市ヶ谷御上屋敷からは今日の成功を褒めて、物凄まじくも豪勢な肴と、酒の荷が二度までも届きました。

「御家老山澄淡路守様もことのほかお喜びじゃ。一万両の御用金のもどったのは、何んと申しても六十二万石、御三家の御威光じゃ。さあ、酒はいくらでもあるぞ。各々、遠慮は御無用、お過し下さい」

大橋要人が先に立っていうのです。飲むほどに、飲ませるほどに、玉山崩れて二十五人の猛者たち、バタリバタリと河岸の鮪のように寝込んでしまったのも、まことに已むを得ないことだったのです。

「これはいかぬ。津田氏、御用心召されよ」

「何んの拙者が」

そんなことをいいながら、大橋要人、津田孫太郎、鈴木倉之進の三人武者も、折重なって倒れてしまいました。

お蔵の番人たちも、そのころまで無事でいるはずもありません。

「いや、たいした御馳走だぞ」

「今夜の酒はよく利くぞ、各々」

そんなことをいいながら、蔵の前にがん張った三人の番人も、甚だしくロレツが怪しくなります。

「市ヶ谷の御上屋敷から、お喜びの御馳走でございます。お過しなさいませよ」

「いや、もうかなわぬ、許せ」

「あれ、そんなことじゃ」

ここへ来た芸子の一人は、二十二、三の中年増で色っぽくて、勤め上手で、そしてこの上もない魅力的な女でした。

番人たちはその調子に乗せられるともなく、思わず呑み過して、お蔵の戸前の前に、枕を並べて寝転んでしまいました。

「姐御、首尾は?」

暗がりの中から、顔を出したのは、十五、六の少年でした。

「シッ、声が高いよ。皆んな材木のように寝込んでしまったけれど、鍵がなきゃこの戸前を開けるわけに行かない」

「そんなことに如才があるものか。大橋要人の腰から、お栄姐さんがこれを抜いたよ」

「まア、さすがに良い働きねえ」

女――芸子と見せた年増女は、少年を引き寄せて、その脇の下に手を入れるとグイと抱き締めるのでした。

「あ、苦しい」

「ま、この子は本当に仕様がない。何時までもそんなで――」

女は少年を突き放すと、受け取った鍵を、厳重なお蔵の錠前に差し込むのです。

「皆んなは?」

「待っているよ」

「一つが十貫目もあるんだから、二人で一と箱づつ運ぶが良い。有難いことに海が鼻の先だから、船に積んでしまえば、上総房州までも一と息に持って行かれる。頼むよ」

「あいよ」

闇の中から出て来た五、六人の男、この暑いのに念入りに覆面したのが、蔵の中から五つの二千両箱を取り出して、さながら蟻が餌を運ぶように、黙々として運んで行くのです。

「いや、もう大笑いだよ、親分」

八五郎が明神下の平次の家へ飛び込んで来たのは、その翌る日の朝の卯刻半むつはん(七時)前でした。

「縁起がよくて、お前は幸せだよ。朝っから大笑いなんか持込みやがって」

寝足りない顔の銭形平次は、猿屋の総楊枝をくわえたまま、椽側に立ってぼんやり狭い庭の朝をながめているのでした。

「いやもう親分、大笑いのコンコンチキさ。相手はどんな術で来たと思います、親分」

「おれはそれを考えて、ゆうべはまんじりともしなかったのさ。組屋敷の門内で仕事をしなきゃ、市ヶ谷の尾州様上屋敷へ荷がついてからだろう」

「市ヶ谷の上屋敷じゃありません。一万両は首尾よく築地の蔵屋敷に送り込まれましたよ」

「それならなおのことだ。あの短かい道中じゃ、孔明、楠でも業のほどこしようがねえ」

「その通りだ、親分」

八五郎は仕方噺になりました。一万両の大金が組屋敷から出て、中ノ橋へ来ると相手の仕掛けで胆を冷し、蔵屋敷裏門に入るとき、海から花火玉を打ち込まれて二度びっくりした話まで、八五郎の話術はなかなかに巧みです。

「それから酒盛りが始まって、市ヶ谷御上屋敷から繰り込んだお女中と、だれが呼んだか知れねえ町芸者とで、蔵屋敷中の者が滅茶苦茶に盛りつぶされた。その上お上屋敷から届けた酒の多かったこと――」

「その酒に眠り薬かしびれ薬が入っていりゃ、手もなく黄表紙の筋だ」

「それなんですよ親分。何が入っていたのか知らないが、蔵屋敷中の者がドロのように酔って、前後不覚に朝まで寝込んでしまった。敷居を枕にする者もあり、蔵の戸前にもたれた者もあり、まるで河岸へ上げた、鮪の荷だ。あれじゃ寝首をかかれたって気のつくものはあるめえ――とこれはあっしが見たんじゃありませんよ。吹けば飛ぶような庭掃きの爺が、疝気で酒が呑めないばかりに物置の蔭に隠れて何も彼も見てしまったんで」

「それから何うした」

平次もすっかり気乗りがした様子、思わず膝をすすめました。

「どうもこうもありゃしません。大将面の大橋要人という強そうなのが、芸子の膝枕で大鼾をかいてるところを、腰にブラ下げた蔵の鍵を抜かれ、お蔵の中に入れたばかりの一万両の大金は、半刻経たないうちに、煙のように消えてしまったそうで」

「それは大変じゃないか」

「大笑いですよ。町方の世話にゃならねえなどと大見得切った連中が今日は青菜に塩で、腹を切ろうか、八所借りで一万両まとめようか、坊主になろうか、それとも夜逃げをしようかと、朝っからの大評定で」

八五郎はすっかり有頂天ですが、平次はそれを聴くと、妙に考え込んでしまいました。

「一万両は尾張様に取ってはたいした金でないかも知れぬが、二十八人の選り抜きの若侍に、万一のことがあっては取返しがつかない。行ってみようか、八」

「何処へ行くんで」

「八丁堀の組屋敷だよ。今ごろは笹野様に泣きを入れて来ているに違いない」

そういううちにも、平次は支度を整えております。

平次出動

二十八人の若い生命、それに間違いあらせないために、平次は意地と面目を捨てて、八丁堀屋敷へ行ったのでした。

「平次が参ったというのか、それは丁度宜い」

笹野新三郎はホッとした様子です。大橋要人、津田孫太郎、鈴木倉之進の三人に絡みつかれて、ひどく弱っているところだったのです。

「お引合せ申す。これはおうわさの平次でござる」

椽側に膝を突いた平次を新三郎は遠く指さしました。

「これはこれは御高名な銭形殿か。始めて御意を得申す、拙者は尾州の藩中、大橋要人」

「拙者は津田孫太郎」

「拙者は――」

といった調子、三人の武家は座布団を滑って、一介の岡っ引を迎えるのでした。

銭形殿――といわれると、平次の後ろに坐った八五郎は、思わずプッと吹き出して、平次に肘で小突かれました。が、後ろをにらんだ平次の眼は、間違いもなく笑っております。

「とんだ御災難だそうで、御心配なことでございましょう」

平次はさり気なく応じました。

「そのことでお願いがあるのだよ、平次殿」

「ヘエ」

「唯今も笹野殿に無理を申したが、笹野殿は――尾州家蔵屋敷の門を入った金は、もはや町方に掛り合いはない――といわれる。が相手は姿を見せぬ泥棒では、弓馬槍剣で立ち向うわけにも参らず、全く閉口いたしたのじゃ、何んと平次殿」

「――」

「このまま表沙汰になれば我々二十八人の者、腹を切らないまでも重いお咎めは免れない。その上尾州一藩の名折れとも相成る」

「――」

「折入っての願いだが、平次殿。盗まれた御用金一万両を奪い還して、我々二十八名の面目を救っては下さらぬか、この通り」

大橋要人以下三人の武家は、畳に手を突いて、平次に頼み入るのです。

「ヘエ、そのごあいさつでは恐れ入ります。どうぞ手をお挙げ下さい」

「平次殿、聴き入れて下さるか」

「聴き入れるも聴き入れないもありません。あっしがわざわざやって来たのは、皆さんのガン首が心配になったので――」

「ガン首?」

「まア、出来るだけのことはやって見ましょう。いったい旦那方のような立派な御身分の方が、怪し気な泥棒を相手に、腕比べや智慧比べをなすったのが間違いの因だったんで」

「?」

「人間がどんなに威張ったって、かけっこをしちゃ、馬や犬にかなわねえようなもので。泥棒の悪企みにかかっちゃ、六韜三略も軍学兵法もだらしがねえわけで」

「なるほどな」

「御歴々がコソ泥棒に勝ったところで、自慢にも誉れにもなるわけじゃございません。餅は矢っ張り餅屋で、最初からこの一万両を町方にお任せ下されば、何んの苦もなく市ヶ谷御上屋敷へお届けするはずでございました」

平次は丁度宜い折をつかんで、日ごろのうっぷんを漏らすのです。

それだけいえば、平次の気も済みました。それを聴いて三人の武家がいそいそと帰った後で、笹野新三郎は折入った態度でこういうのです。

「平次、面白くない行き掛りもあるだろうが、これは是非、お前に埒らちを明けてもらわなければなるまい」

「ヘエ」

「まかり間違えば二十八人の、あたら若い武家の命だ。尾州藩の面目もさることながら、それより恐ろしいのは、尾張六十一万九千石の蔵屋敷へ入り込んで、ヌケヌケと一万両の大金を奪いとったと思う悪者どもの増長心だ。これを捨て置いては、天下の法がすたる」

笹野新三郎の語気は、誠実な良吏らしい熱心さが溢れるのです。

「よくわかりまして御座います。奪い還せるかどうかそこまではお請合いいたし兼ねますが、兎も角も、精いっぱいのことをいたしてみましょう」

それは平次の驕りのない心持だったのです。

早速尾州藩の蔵屋敷へ行くと大橋要人が自分で案内に出て、

「平次殿、平次殿」

と下にも置かぬ扱い。一緒について来た八五郎などが、すっかり良い心持になって、鼻唄をうたったり、口笛を吹いたり、弥造を拵えたり長んがい顎を撫でたりしております。

「当屋敷で用意した心祝いの酒肴は、ほんの心ばかりの物であった。酒も肴も後から後からと出るのじゃ。訊けば市ヶ谷の御上屋敷から、一万両を奪い還した祝いに、山澄淡路守様格別の思召しで下されたというので、いや飲んだの飲まないの――」

大橋要人は面目ない顔をするのです。だがこの人物は思いのほか淡白で、自分の非を隠そうともせず、打ち解けた態度で平次に委ねるのは好感が持てました。

威張るよりほかに悪気のない人で、一度挫けるとこんな人は案外気の良い生地が出るのでしょう。

「その酒肴を運んだのはどんな者でございます」

平次は静かに応じました。

「後で調べて見ると、道具箱には一々南小田原町の料亭『清月』の印が入っているのじゃ。早速今朝になって、清月へ行って訊ねると、当蔵屋敷からの注文といったそうで勘定も払っていない」

大橋要人はことごとく苦々しそうですが、八五郎は泥棒に払いをさせる気が面白かったのか、可笑しくてたまらない様子です。

「芸子が参ったということですが、それはこちら様でお呼びになりましたので」

「とんでもない、それも上屋敷から参ったものと思い込んだのじゃ。とんだ美形ぞろいでの、左様五人くらいはおったと思うが――外に十五、六の前髪立ちの少年が一人、岡持や樽を持込んで、お燗をしてくれた若い男が二人」

「大がかりの仕事でございましたな」

あまりにも巧奇な企みで、悔をいうほかはありません。

「これほどうまうまと謀られようとは思わなかったよ。本来ならば我々三人腹でも切って申し訳するところだが、二十五人の若侍が、手落ちはお互いのことだから、我々と生死を共にするといって聴かない」

「御尤もなことでございます。何んとか手を尽して一万両取り還しましょう」

この責任感の強烈な正直者のために、平次はツイこう安請合いする気になったのです。

「昨夜酒を呑まない方が一人あったそうじゃございませんか。その方に逢わして頂きたいのですが」

「与吉と申す下男だ。年寄りで智慧も分別も怪しいからあまり頼りになる人間ではない」

平次の問いに対して、大橋要人は気乗りのしない顔をするのです。

「だが、大橋様、組屋敷から一万両を運んだ二十八人のほかに、当お屋敷の方もいらっしゃる筈ですが」

「左様、ここに常住十二、三人はいるだろうと思う。総体で四十人くらいの人数かな」

「その四十人の方が、正体もなく酔うというのは少し変じゃございませんか。四十人のうちには、酒に強い方も弱い方もあり、中にはお女中方も交っていた筈です。五合、一升と呑んだ方も、猪口で少しばかり嘗めた方も、いち様に前後不覚に酔うというのは唯事ではないように思いますが、如何でしょう?」

平次の問いは急所を射抜きました。

「いかにも」

「睡り薬か、痺れ薬――そんなものがこの世に有るかないかわかりませんが、その酒には何にか仕掛けがあったに違いございません」

「フーム」

「その証拠を申しましょうか、大橋様」

「?」

「昨夜皆様のお相手をしたお酌女や芸子が、随分よく勤めたと思いますが、酒は一と口も飲まなかった筈でございます」

平次の言葉には妙に自信が溢れております。

「待てよ、津田氏、鈴木氏、どうだ――拙者一人では間違いがあってはいけない。昨夜の女どもは酒を飲んだか、それとも飲まなかったか」

大橋要人は覚束なく助太刀を求めるのでした。

「そういえば、飲んだと見せて、盃洗にあけてしまったようだな」

津田孫太郎は応えました。

「あのお栄とかいう女、大橋氏の膝にもたれて、大分ひどい酔態であったが、そういえば酒を飲んだ様子はなかった」

鈴木倉之進も今更妙なことに思い当るのでした。

酒を飲まずに酔態を演じた女たち、思い起すとそれは不思議なことばかりです。

「なるほど、そんなことがあったようだ。が――」

大橋要人はまだ頭を捻っております。人をそんなに自由に眠らせる薬などというものの存在を信じ兼ねたのです。

「何は兎も角、その酒を飲まなかったお庭掃きの老人に逢いましょう」

と、平次。

「では案内いたそう」

大橋要人は、平次と八五郎を、屋敷の隅に置き忘れたように建っている、下男部屋に案内しました。

蔵屋敷も六十一万九千石、御三家随一の尾張様の息が掛ってまことに宏大ですが、ここにはさすがに上屋敷と違って、見識張った人間ばかりいるわけでなく、庭掃きの老爺与吉といったようなのが、一生飼い殺しに庭の隅の小屋を住家にしているのでした。

「ここだ、――おい与吉はいるか」

大橋要人はガタピシさせながら戸を開けました。真夏の暑さに閉めきっているのが変だと思ったのも道理。

「あッ」

のぞいた小屋の中にはいったい何があったのでしょう。

平次は大橋要人をかき退けるように、下男部屋の中をのぞきました。

「あッ」

ひと目、さすがの平次が驚いたのも無理はありません。たった一人の生証人庭掃きの親爺の与吉は、虚空を掴んで死んでいるのです。

六十を越した老人の、半白の髪は乱れて、唇の隅から引いた血潮の糸は、間違いもなく毒害の証拠ですが、そこには老人の食べたらしいものは、何んにも見当りません。

恐らく超人間的な悪賢い曲者は、老人の死んだ後にここへやって来て、あらゆる証拠をかき消して行ったのでしょう。

「早く、八、表裏の御門を閉めさせるのだ。そして、当屋敷に入った者の名前を調べて来い」

「応ッ」

八五郎は疾風の如く飛び去りました。事件の緊迫した時、骨惜しみをせずに活動するのが、何んといっても八五郎の特色的な良さでした。

「これは、大変なことだな、平次殿」

大橋要人はこうなるとまるっきり無能者でした。

「曲者の正体はすぐわかりましょう。それより老人の手当てが大事ですが」

平次は念のために、与吉老人を抱き上げて、いろいろ手をつくしてみましたが、最早冷たくなりかけて、呼び活かす望みもありません。

「親分わかりましたよ」

「――」

飛んで来たのは八五郎でした。

「今朝ここへ入ったのは、あっし達のほかには、南小田原町の清月の女中だけですよ」

「それだ」

「若くて綺麗な女中が二人で来て、昨夜持ち込んだ岡持や皿小鉢を持って帰ったそうです」

「それだッ」

平次は地団駄踏みましたが、追っつくことではありません。

先手、先手と打って行く相手の機敏さは、いろいろの行き掛りで一手づつ遅れて行く銭形平次を、口惜しがらせるだけです。

「それより親分、腑に落ちないことがあるんだが――」

八五郎はいったい何を思いついたのでしょう。

「お前の腑に落ちないというのはよくよくのことだ。いったい何が腑に落ちないんだ」

「一万両というと、小判にしてザッと四十貫もあるといいましたね」

「小判一枚が四匁、一万両というと、中味だけで間違いもなく四十貫はあるだろうよ」

「その四十貫の小判をどうして持出したんでしょう? ――表門は昨日の暮れ酉刻むつ(六時)に閉めたきりだし」

「?」

「昨夜裏門を出た清月の女中や芸子は皆んな何んにも持っていなかったといいますよ。二、三人の男だって大きな荷物なんか持っていちゃ、裏門の関所は通しゃしません」

「裏門の御門番は酒を呑まなかったのか」

「酒も呑まない代り、門から一と足も動かないから、昨夜のことを何んにも知りゃしません」

「では、人の出入りくらいは見ていたはずだ――ここは皆様にお願いして、裏門へ行ってみよう」

平次はここにはもう何んにも調べる種がないとみたか、八五郎をつれて裏門へ行きます。

二枚の手札

門番の老人は頑固一徹で融通のきかない人間でしたが、それだけに、

「ここから昨日入ったのは、女が五人、男が二人、それから小僧が一人だけだ。岡持に入っていたのは料理だけ――それに間違いはない」

こういう言葉には寸分の間違いがあろうとも思われません。

「この門をだれでも入るわけではないでしょうな」

平次は訊き返しました。

「申すまでもない。当蔵屋敷の者、尾州御藩中の方以外は、出入り町人の手札がいる、これじゃ」

老人は門番の控え部屋から、一枚の手札を持って来て見せました。小判形の檜の札に、焼印を捺したもので、裏には松の八番と墨で書いてあります。

「昨夜の女五人と男二人も、それを持っていたのでしょうな」

「手札のない者を、ここを通す筈はない。夜分はわけても厳重じゃ」

「すると?」

平次は口を緘みました。出入り商人の手札を八枚、曲者どもはどうして手に入れたか、平次も暫らく見当がつかなかったのです。一枚や二枚の手札なら、それは随分融通するとか、拾ったとか、永い間には間違いもあるでしょうが、八枚という大量の手札は、曲者がどんな手をまわしても、容易に利用の出来るはずはありません。

「屋敷の中に、手引きをした者がありゃしませんか」

八五郎は平次の耳にささやきます。

「あるだろう。いやきっとあるに違いない。が、町人の家と違って、大名屋敷は調べようがない。が、追々わかるだろうよ」

そんなことをいいながら、裏門を中心に、右と左に植込みや建物の間を縫って、平次の探索の足は伸びます。

「平次殿変なことがあるが」

大橋要人は植込みを抜けて顔を出しました。

「変なことと仰しゃると?」

「庭男の与吉の死骸を取片づけると、床の下から、小判で五十両という金が出て来たのだが、年に四両の給金をそっくり溜めても五十両にするには十何年もかかる。一寸腑に落ちないことではないか」

大橋要人はうさんらしく鼻の穴をふくらませるのでした。

「それでわかりましたよ、大橋様」

「何が?」

「こんなことを申し上げると、お腹立ちだろうと思って、実は今まで黙っておりましたが」

「――」

「当御屋敷の中に、曲者の手引きをした者があったのでございます」

「手引き?」

「御屋敷内のことが、筒抜けに相手にわかっておりました。それから御門通行の手札を門番控所から盗み出して、相手に売った者があるに違いありません。何枚なくなっているか、訊いて参りましょう」

平次と八五郎と大橋要人は、早速裏表の門番に当ってみました。

蔵屋敷の門鑑、つまり出入りの町人に預けてある手札は全部で三十枚。その数は一定しておりますが、出入りの町人に変動があるので、実際外へ出ているのは二十五、六枚、あとの五枚や三枚は何時でも門番の控所の抽出しに残っているのです。

帳面と札の数とを合せて見ると、それは直ぐわかります。

「二枚足りない。梅の五番と竹の七番だ」

頑固者の門番も、この時ばかりは色を失ってしまいました。門鑑を紛失するということは、今も昔も重大な失態で、まかり間違えば係りの者は、御役御免くらいにはなるのです。

「だが、たった二枚の手札で、八人の曲者が入れるわけはないが」

大橋要人はせめてもの助け舟を出しました。正直者の門番の手落ちを、何んとかして救ってやろうというのでしょう、この武家は思いの外の人情家です。

「で、昨夜の八人の曲者は、一度に御門を入ったのでしょうか」

「いや、一人、二人ずつ、四度か五度に料理を運んだと思うが――」

平次の問いに対して、門番は指などを折っております。

「それでわかりましたよ。これを御覧下さい」

平次は裏門側の植込みの蔭に大橋要人を誘いながら続けました。

「――御屋敷の中から塀の上に覆いかぶさったこの椎の木の枝に、凧の糸が引っ掛っておりますが、これを何んと御覧になります」

「子供の悪戯ではないか。凧を椎の木に引っかけて引きちぎったので糸だけ残ったのであろう」

「梅雨過ぎの凧は変じゃございませんか」

「左様」

大橋要人は唸ります。実際江戸の年中行事は、今日のように出鱈目なものではなく、三月過ぎ五月、六月になって街の子が凧をあげるなどということは、全く考えられないことだったのです。

「これは曲者の仲間が、御門番の眼を盗んで、外から椎の木の枝に小石の錘をつけた糸を投げかけ、糸の端を塀の中へ垂らして置いたのでございます」

「――」

「昨夜二枚の手札を使って裏門から入った最初の二人の曲者は、その手札を凧の糸の端にブラ下げて塀を投げ越し、外にいる二人に渡したのでございましょう。それを四度くり返すと、二枚の手札で八人の者が御門を入れます」

「――」

平次の明智に服したか、大橋要人は黙ってしまいました。

「御門内から投って、外の者に渡してもよいわけですが、檜のよく枯れた札で、投れば塀外の砂利に落ちて、大きい澄んだ音を立てます。それに四方は真っ暗で、一つ見当を間違えると、手札は水へ落ちないものでもありません」

「なるほどそこまでは気がつかなかった。凧糸を子供が絡んだのなら糸の端に小石を結んで置く筈はない」

大橋要人も漸くここまではわかります。

「こうまで企んだ仕事では、だれが門に頑張っていてもやられます。決して御門番の手落ちとは申されません」

平次はここで、あの頑固者らしい門番のために一言弁じて置くのでした。

裏門から出た平次は、念入りに四方を見ながら、南小田原町の方へとたどりました。

「何処へ行くんです、親分」

後からついて来た八五郎には、海の水に見入ったり、稲荷の祠を覗いたりする、平次の探索ぶりが呑込めません。

「屋敷の近くには捨てられまいと思ったよ。見るが宜い、八」

平次が指さしたのは、本願寺橋の下、この辺の水はまだ美しかった頃で、満潮の中に深々と沈んでいるのは、猪口に徳利に、皿小鉢に、残り肴の入った岡持、そして流れもやらずに漂う箸や刺身のつまだったのです。

「こいつは親分」

「けさ蔵屋敷へ来て、庭掃きの与吉を殺した女二人の仕業だよ。こんな物を清月に持ち込めば、すぐ化の皮が剥げるから、ここへ投り込んで姿を隠したのだろう」

平次は何もかも見通していたのです。

「何んだって、与吉を殺したんでしょう? 五十両という元を掛けた相手だもの、活かして置きゃ何んかの役に立ったでしょう」

「一応はそう思うだろうが、あの老爺は余計なことを知り過ぎたよ。昨夜のことだって皆んな見ていたに違いないから、責められると一万両の隠し場所を、ペラペラとしゃべらないものでもあるまい」

「その一万両は何処にあるでしょう、親分」

「それを調べるつもりで外へ出たのだ。もう一度、蔵屋敷の外へ引返そう」

「ヘエ」

平次と八五郎は、もう一度蔵屋敷へ引返しました。方三四丁もある塀外を、グルリと一と廻りした平次は、

「見るがよい、八」

潮入の池に水を引く、石で畳み上げた小さい水門の前にピタリと立ち停りました。

「こいつは丁度鬼門に当りますね、親分」

「家相を見ているんじゃないよ。尤も争われないかも知れない、その水門から一万両の小判が逃げたのだ」

「ヘエ?」

「塀は高いし、締りは厳重だし、裏門を出た八人は何んにも持っていなかったとすると、一万両の小判は、この水門を泳がせて、海に出すほかに屋敷の外へ持ち出す工夫はあるめえ」

「ヘエ」

「水門は狭いから、人間はもぐれないが小判なら楽にもぐれるだろう。一人は屋敷の中からひしゃくか何んかに入れて出すのを外にいる仲間が受取りゃ宜い。一万枚の小判を出すには、一刻もかかるだろうが、一と晩仕事には楽だ」

「なるほどね、手間にしたって安くはねエ」

「ここから船で運べば、夜明け前に綾瀬でも、堅川でもおれの家の前の神田川へでも持って行けるよ」

「ヘエ、驚きましたね、親分」

「あんまり驚かれると、極りが悪いよ。金の持出された筋道がわかったところで、何処へ持って行ったかもわからず、だれが盗み出したかもわかったわけじゃない」

「――」

「兎も角、これだけを土産に、ひとまず引揚げようか。その先は昼寝でもしながら考えるのだ」

平次は諦めた姿でした。無理をしたところで、これ以上は容易にわかりそうもありません。

お静の客

「親分、不思議じゃありませんか。親分の留守に家などをあける姐さんじゃないが」

路地を入ると、まだ陽の高いのに、平次の家の雨戸は皆んな締って、たたいても、声を掛けても、応える者はなかったのです。

「お袋のところへでも油を売りに行ったんだろう。お勝手口に隠し鍵があるんだ、心配するなよ」

平次は裏へまわると、格子から手を入れて何んの造作もなくお勝手口の戸の掛金を外し、八五郎に手伝わせて、雨戸などを開けました。

「ちょいと佐久間町のお母さんのところへ行って来ましょうか」

「宜いってことよ――用事が済めば帰るだろう。冷飯は残っているはずだし、酒の燗くらいはおれだってつけられる」

「済みませんね、親分にそんなことまでさしちゃ」

「お世辞をいう間があったら、火でも起してくれよ。お客様をコキ使っちゃ悪いが」

「ヘッ、違げえねえ」

平次と八五郎は、それでも何うにか膳の支度をしました。

男手の埒のあかない仕事で、差し向いで猪口を取ったのは、もう薄暗くなってから。

「姐さんは、遅いじゃありませんか。先刻ちょいと迎えに行くんでしたね」

「放っておけよ。暗くなれば、お袋が送って来るだろう」

平次は呑気そうにいいますが、さすがに留守中に外へ出たことのないお静のことを考えると、酒の味がホロ苦くなります。

暢気者のガラッ八も妙に沈んでしまいました。親分平次の恋女房お静は、八五郎に取っては永遠のベアトリーチェで、お静に万一のことがあれば、喜んで命を投げ出すかも知れない、八五郎の心意気だったのです。

内気で優しくて、何時までも娘々したお静、その清潔な美しさと、行き届いた世話女房ぶりは、親分の恋女房という、厳重な埒を据えて、八五郎の崇拝の敬慕の的だったところで、何んの不都合があるでしょう。

ホロ苦い酒が、一本二本と重なりました。量からいえば、日ごろの平次にない過しようですが、軽口を交換しながらも、一向に酔った風はありません。

いやその軽口さえも、次第に少なくなって、更けて行く夜とともに、二人は銘々のことを考えて、ツイ黙り込む時間の方が多くなって行きます。

「何刻でしょう」

八五郎は冴えない眉を挙げました。

「先刻撞いたのは、上野の亥刻よつ(十時)かな」

「少し遅過ぎやしませんか。やはりひとっ走り行って来ましょうか」

八五郎はたまり兼ねて起ち上がりました。そのころ佐久間町に住んでいたお静の母親の家まで、ガラッ八の足で飛べば、四半刻で行って来られるでしょう。

「じゃ、御苦労だが――」

平次もこうなるともう、強いて留める気にもなりません。いや、それどころでなく、もう少し早く迎えにやってみるのであった――といった、淡い後悔の思いが、シクシク酔わない胸にうずくのです。

八五郎が出かけた後の、家の中のさみしさはまた格別でした。

二本燈心に丁子が留って、ぼんやり照らしている部屋の隅には、お静が出かける時どんなに急いだものか、平常着の単衣をざっと袖だたみにして、その上に細紐が放り出してあるのも、妙に平次の酔いきれない感傷をそそります。

「――」

平次は舌打ちを一つ、大きな伸びをすると、それを合図のように、バタバタと路地を駆けて来た女の足音。

「あっ、お前さん、無事で」

格子を開けて飛び込んで、上がりかまちへヘタヘタと崩折れたのは、お静でなくてだれであるものでしょう。

「お静か、どうしたのだ」

真夏のことで、障子を開けたままの入口へ、誘われたように平次は顔を出したのです。

「お前さん、本当に何うもしなかったんですか」

「何をいうんだ。おれはこの通り無事だが、お前こそ――」

「おや? 怪我をしているじゃないか、顔をこっちへ見せろ」

引きずり上げるように、浅間の家の中へ、行燈を近か近かと持って来ると、お静の左のこめかみから血が流れて、痛々しくも豊かな頬へ二筋三筋真紅の線を引いているのです。

「私の傷はたいしたことはありません。それよりお前さんは?」

「何をつまらないことをいっているんだ、おれは百までも生きそうだよ。そんな心配をするより、その傷の手当てをしなきゃ」

「でも、お前さんが悪者に斬られて、死ぬか生きるかわからないって――」

「だれがそんなことをいったんだ」

平次も驚きました。お静の話はあまりにも途方もないものです。

「十五、六の小僧さんでしたよ――親分は八五郎さんと一緒に一万両の小判を追っ駆けて、谷中の五重の塔へ行ったが、悪者の待ち伏せをくらって、八五郎さんは斬り死に、親分は大怪我をしたと――」

縁起でもない――といったように、お静は自分の顔のあたりで手を振るのです。

「八が斬り死に――そいつはよかった。本人が聞いたら胆をつぶすだろう――おや、そういえば足のある幽霊が帰って来たようだ」

平次が指した格子――お静が入って開けっ放したままの入口へ、八五郎は心配そうな顔を持って来たのです。

「親分、姐さんは佐久間町のお母さんのところへも行っちゃいませんよ」

「御苦労々々々。本人はお前と入れ違いに帰って来たよ――少し怪我をしているようだがたいしたことはあるめえ」

平次はお静の傷を焼酎で洗ってやって、有合せの膏薬などをはっております。

無疵の美しい顔に、毛ほどの傷でもつけたのは、八五郎が見てもムズムズするほどの痛々しさですが、傷は幸いたいしたことでなく、本人はすっかり安心しきった顔になって、今更夫の平次と八五郎の顔を見比べております。

「何処でそんな怪我をしたんです」

「おれとお前が谷中で悪者に取り巻かれて、お前は潔よく討ち死に、おれは怪我をして、生死のほどもわからないと聴いて飛び出したんだよ」

平次は代って説明しました。

「ヘエ、あっしが討ち死に――とね、そんな気がしませんがね」

ガラッ八は自分の首などをなでまわすのです。

「ところで、谷中へ行って、お前はどうしたのだ」

平次は手当てを終った女房のお静に改めて訊くのでした。

「――小僧さんと一緒に谷中へ駆けつけましたよ。まだ陽の高いうちでたいして危ないとも思わなかったんです」

お静は漸く落ちついて、自分の冒険の恐ろしさを反芻しております。

「それから?」

平次はもどかしそうにその先を促しました。

「小僧さんは私を、五重の塔の中へ案内しました。この間五重の塔の中で、何にかあったと聴いたので、少しも変だとは思わず、小僧さんについて入ると、いきなり横から頭を打たれて、私は気が遠くなってしまいました」

「こめかみの傷は、その時受けたのだろう――それから」

「暫らく経って気がつくと、私はガランとした薄暗いところに、手足を縛られた上、さるぐつわを噛まされて転がされていたんです。頭は血が下がるし、ほこり臭いし、死ぬような思いで唸っていると、そっと戸を開けて来た人があるじゃありませんか」

「それはだれだ」

「あの人。あ、あの人は帰ったか知ら。そこまで私を送って来てくれた女の人」

お静はいきなり外へ飛び出しそうにするのです。

「何処へ行くんだ、お静」

「五重の塔から、私を救い出してくれた人は、ここまで私を送ってくれました。八五郎さん、その辺に若いお内儀さんがいなかったでしょうか」

お静の記憶は蘇がえったのです。

「そういえば路地の中に、小意気な年増が一人、思案に余った様子で立っていましたよ。橋の上か松の木の下だと、こいつは放って置けねえが、路地の中じゃ首吊りの足場もねえ、多分逢引くずれか何んかだろうと気にも留めなかったが――」

「その人ですよ八五郎さん。私のためには命の恩人、丁寧にここへ案内して下さいな。しみじみお礼を申し上げ度い」

「よし来た」

八五郎は飛び出しました。それから暫らくの間、路地の中で何やらゴトゴト揉んでおりましたが、やがて一人の年増――夜眼にも咲き匂うような二十一、二の女を一人、無手むずと手首などをつかんで、引っ立てるような恰好でつれて来たのです。

「あれさ、八五郎親分。そんなに引っ張ると手首が抜けるじゃありませんか」

少し媚めかしい鼻声です。

「可愛らしい腕が抜けたら、オガ屑が出るだろう――まア安心しておれと一緒に来るが宜い。銭形の親分から、しみじみとお礼をいわせるぜ」

「でも、私は極りが悪い」

「何をいやがる」

大変な騒ぎで格子の中へ引摺り込んだのは、眉の痕の青々とした素晴らしい年増――谷中の五重の塔の下に、さみしく花など売っている茶店の女房のお銀だったのです。

「あッ、お前か」

年増の顔を一と眼、平次は少したじろいだ形でした。いつぞや八五郎の口から、この美しい女房が、平次に岡惚れしていて、八五郎をつかまえては、平次を連れて来てくれとせがんでいたことなどを聴かされていたのです。

「親分さん――私は大変なことをしてしまいました」

「大変なこと?」

八五郎はおうむ返しに訊ねます。

「お神さんが悪者に騙されて五重の塔へ入れられるのを、私は見てしまいました――御存じの通り私の店から五重の塔は眼と鼻の間なんですもの」

「――」

平次の眼は黙ってその先を促します。紫陽花あじさい色の単衣、青々とした眉、そして抜けるほど白い顔の色――糸切歯が一本欠けて、笑わなくとも片えくぼの寄る豊かな頬――この女の魅力は全くこの世のものとも思えぬ幽玄なものでした。

少し鼻にかかるアルトの、不思議な肉感的な媚びさえなかったら、この女は活身のそのまま、伝説の物の精とも見えたことでしょう。

「すると青ひげの大きな武家が私の家へやって来て――今お前は何を見た――いや隠さなくてもいい、見た以上彼れこれいうわけでない。その代りあの女の見張りを頼んだぞ、万一取り逃がすようなことがあったら、この店を踏みつぶして、お前の細首を引っこ抜くからそう思え――と」

「――」

お銀の話は次第に深刻になります。

「その怖い武家は暫らく五重の塔を見張っておりましたが、何処かへ姿を隠してしまいました。私は暫らくの間は、恐ろしさにすくんでしまいましたが、見す見す眼の前に銭形の親分のお神さんが、手ごめにされていることを思うと、私の安穏ばかりも考えてはいられません。四方の暗くなるのを待って、私は五重の塔に忍び込み、半死半生のお神さんの縄を解いて、ここまで送って参りました」

お銀はいい終ってホッと溜息をつくのでした。

「有難う、遅ればせだが礼をいうぜ。放って置けばおれの女房は、今ごろどんな眼に逢っているかわからない」

「あれ親分さん、そんなにまでいわれると――」

「ところで、お前はこれから何うするつもりだ」

平次は立ち入って訊くのでした。

「それを考えて私は、路地の外へ出られなかったんです。谷中へ帰れば、お神さんを五重の塔から救い出したなとはわかっているはずですから、あの青髯の武家が私を許して置くはずはありません」

「――」

「そうかといって頼るところもなし、私は思案に余っているところを、八五郎親分に捕まってしまいました」

お銀は漸くいいきって、恥らう風情に首を垂れるのです。身じろぎする毎に、パッと掛香が匂って大きいまげの下に、ほのかな頬が霞みます。

「谷中の店はどうなるんだ」

「年寄りの伯父がおりますから、何んとかやって行くことでしょう。もともと他所へ縁づいて、不縁になって帰った身体ですから、伯父は私なんか当てにはしてくれません」

谷中の女――お花屋の姪、正確にいえば出もどりのお銀は、一度はお静を助けはしたものの、もとの谷中に帰る勇気もなく、路地の中にウロウロして、八五郎につかまったのです。

「でも、私は帰りましょう。あのお武家は、あんないやがらせなことをいっても、脅かしにきまっています。弱い女の私に、この上仇をしたところで、どうなるものでしょう」

お銀は潮時を見て、そっと起ち上がるのでした。

「あれ、お前さん――今帰っては夜道が物騒だし、それにあのお武家に、どんな仇をされるかも知れない」

お静は思わず入口に立ち塞がって、お銀の帰りを止めるのです。

「有難う御座います、お神さん。御親切は身に浸みて嬉しいけれど、私はやはり谷中へ帰らなきゃなりません――それじゃ親分」

お銀は平次にあいさつをして、何んの躊躇もなく、薄暗い土間で下駄など探しているのでした。

「親分」

八五郎は妙に穏やかでない心持でした。ここで親分の平次が、たった一と言「まア宜かろう」といってくれさえすれば、お銀はそれを力に思いきって、恐ろしい夜道を谷中へ帰る気にならなかったでしょうが、苦蟲をかみつぶしている平次の顔を見ると、八五郎輩が横合いから口を出して、それを何う斯ういう筋合ではないような気がするのです。

「よし、それじゃ、おれが送ってやろう」

ツイ不用意な言葉が、八五郎の唇に上りました。この無類のフェミニストは、お銀の困惑を黙って見ているにしては、少しばかり人が好過ぎたのです。

「ま、済みませんね、それじゃお願いいたします。銭形の親分さん、お神さん」

お銀は丁寧に別れのあいさつをして、促し立てる八五郎と一緒に、路地の星明りに立っておりました。

「待って下さいな、八五郎親分」

さっさと先へ行く八五郎の後ろから、粉々として掛香が匂います。

「冗談じゃないぜ、――銭形の親分のとなりへ泊り込もうという寸法だろうが――いや知ってるよ、憚りながら天地見通しさ。お前はいつか、銭形の親分に岡惚れしているといったじゃないか、お静姐さんを助けて来て、うまく滑り込もうという術は下手じゃないが、相手が銭形の親分じゃ駄目だよ」

「まア」

お銀はイソイソと近づいて、八五郎と肩を並べました。

「銭形の親分は、お楽の阿魔が入り込んだ一件(別作『平次女難』)ですっかり懲りているんだ。あの家へ入り込もうなんて無理な望みさ」

八五郎はズケズケと素ッ破抜くのです。

「そんなつもりじゃありませんよ、八五郎親分」

「だからよ、おれは不粋な役を買って出て、お前を誘い出したんだ。悪いことはいわねえ、鼻面を北の方へ向けてよ、真っ直ぐに谷中の森へあんよしな」

八五郎は好い心持そうでした。

「まア、八五郎親分。いえさ、八さん、私はそんなつもりじゃないの。お前さんの家へつれて行って下さいな。宜いでしょう、ね、ね」

驚くべき魅惑的な鼻声、八五郎はそれを聞くとフラフラと眩暈がするのでした。

お銀の宿

八五郎にズケズケいわれながらもお銀は黙ってついて行きました。夜道の暗さでよくは見えませんが、青い眉を垂れてトボトボと歩く姿は、シットリ夜露にぬれたようで、妙に人の感傷をそそります。

フェミニストの八五郎に、それがわからないわけではありませんが、この女の持つ不思議な魅力から抜け出そうともがく努力が、心にもない荒い言葉を高鳴らせるのかも知れません。

向柳原のとある路地の奥、仕立物などをして、細々と暮している叔母のお浅の家へ、八五郎はたどり着きました。長い間平次の家に居候していた八五郎は、二、三年前十手一本の主になった時、嫁でももらって一家をもつ用意に、一応叔母さんのところに引取られましたが、持って生れたノウテンキで、金もたまらず女も出来ず、だれも嫁の世話をしてくれる者もないままに、相変らず極楽トンボで、江戸中を飛びまわっているのでした。

「叔母さん、今かえったよ」

表の雨戸に、網の目のような隙間の入ったのへ拳を当てると、

「生意気だよ、表戸なんかたたいて。今ごろまで何処を歩いていたんだ」

こういった調子で、中の灯りは動きます。

八五郎の叔母のお浅は五十二、滅法気が強いくせに、涙もろくて優しくて、そして口の悪い婆さんでした。この三十男をポンポンしかり飛ばしますが、そのくせ自分の子のように可愛がっているのです。

「お客様だよ。文句をいわずに大玄関を開けてくれ」

「まア」

お客様と聴くと、ノドまで出た小言を呑み込んで手燭を片手に、締りのしてある表戸をガラリと開けました。

「済まないね。叔母さん遅くなって」

「いやにこの子はお世辞が好いと思ったら、変なお客様をつれ込んで来たじゃないか」

叔母は八五郎の後ろに引添うお銀を見ると、すっかり警戒して、入口いっぱいに立ちふさがってしまいます。

「変なお客様てえ奴があるかえ、親分のところのお客様だよ。お静姐さんの危ないところを助けて下すったんだ」

「まア」

八五郎は精一杯の弁解でした。

「そこを退いて、入れて下さいよ叔母さん」

八五郎の手が動いて、入口いっぱいに立ち塞がるヒョロヒョロの叔母をかき退けようとしました。

「ダメだよ、この子は私を盲目だと思っているのかえ」

「――」

叔母は本阿弥のような熱心さで、お銀の頭のテッペンから、闇の中にボケている素足の爪先まで見究めるのです。

「お静姐さんを助けた方なら、銭形の親分がおろそかにするはずはないじゃアないか。お前は何んかうまいことをこさえて、その人を家へ引入れる気だろうが、そうは行かないよ」

「弱ったなア、叔母さん」

八五郎は全く手こずりました、こればかりは十手でも捕縄でもいけません。

叔母のお浅が、関所を据えて、お銀を通さなかったのも無理はありません。

手燭をかかげて、闇の中に浮かしたこの女の妖しさは、全く抜群だったのです。多い毛からしづくが垂れそうで、ほの暗い顔に、青い眉、紅い唇の対照は、何んという魅力でしょう。細っそりした肩から流れる紫陽花色の単衣も、物の精のような幽玄な美しさです。

「さア、さっさと帰っておくれ。同じ伴れ込むんなら、せめて眉をそらない、歯の白いのにしておくれ。本当に人を馬鹿にしているよ」

明らかに人妻と見られる女を伴れ込んだのが、八五郎一代の不覚だったのでしょう。意地っ張りと貧乏の闘いに、半生の辛酸をなめて来た叔母のお浅は、可愛いい一人の甥が、眉毛をそり落した美女を、夜中に伴れ込んで来たのを――よしやどんな弁解を用意したにしても、そのまま享け容れるほど寛大になりきれなかったのです。

「叔母さん、そんなんじゃありません。本当に銭形の親分が――」

「もう沢山だよ――同じ伴れ込むんなら、気のきいた夜鷹でも見つけて来るが宜い、畜生ッ」

叔母さんは、表戸をピシャリと締めると、ガチャガチャ鳴らしながら、掛金など掛けている様子でした。

「八五郎親分、私は矢っ張り谷中へ帰りましょう」

女はこの気まずさから逃げ出すように、クルリと背を見せました。

「冗談じゃない。このまま谷中へ帰りゃ、お前の命が危ないじゃないか」

「でも」

お銀は八五郎の追いすがるのを意識するように、何んの躊躇もなく、路地の闇から大通りへ飛び出すのです。

「待ちなよ。叔母はあの通りだから理窟を言ったところで急には折れる人じゃない。――お前の身寄りか知り合いがあるなら、暫らく其処へ落着いて、そのうちにお静姐さんに来てもらって、叔母に頼み込ませるがどうだえ」

八五郎はお銀の側へ近か近かと寄って、その肩をたたこうとしましたが、フト気が付いて手を引っ込めました。お銀の肩が哀れ深く縮んで八五郎の愛撫を誘う風情でしたが、八五郎ツイ今しがた叔母に言われた事を思い出して、この歯を染めた女に馴れ馴れしくする不謹慎さを危ないところで思い止ったのです。

「私は親無し子で育って、金が目当ての嫁にやられました。谷中の伯父さんというのも、本当は里親の身寄りで、私とは何の続き合いでもないんです」

「――」

「その上我儘を言って、嫁入り先から出て来た私ですもの」

「――」

「本当に、叔母さんを怒らしたりして、済みませんでしたねえ」

しんみりと言いながらも、お銀の足は、もとの明神下の方に動いて行くのです。

「で、何処へ行こうと言うのだ」

「たった一軒、明神下に知り合いのあることを思い出しました。銭形の親分さんのツイ近所で」

お銀は立ち止ってホッと溜息をつくのでした。

お銀が八五郎を案内したのは、平次の家の裏路地で、御台所町の隅へ置き忘れられたようなささやかな長屋でした。

「――」

お銀はその表戸に寄り添うように二つ三つ妙な調子で軽くたたくと、暫らく中でゴトゴトしておりましたが、やがて内から戸が開いて、

「まア、お前さん、今ごろどうして?」

お銀より少し年上らしい、これも美しい女が、寝巻姿に行燈を提げて出て来ました。

「八五郎親分に送られて来たのよ」

「まア」

「暫らく泊めて下さらない? 私谷中へは帰れないことになったの」

「また伯父さんと喧嘩をしたんでしょう。どっちも意地っ張りだから」

「そんな気楽な話じゃありませんよ」

「まアまアどうぞ。わけはあとでゆっくり聴くとして八五郎親分もどうぞ。女世帯で気味が悪いでしょうが、白粉臭いようなことはありません」

女のいうのをでっかい掌で払い退けるように、

「それじゃ俺は帰えるぞ」

八五郎は背を見せました。

「あれさ、親分、――女世帯でもお酒くらいはありますよ。せっかく私の妹分のお銀さんを送って来てくれたんだもの、門口から帰しちゃ済まないじゃありませんか」

主人の女は下駄を突っかけてバタバタと外へ出ると、後ろから八五郎の袖を引くのです。プーンと何やら夜風に匂って、東海道赤坂の宿といった気分になります。

「姉さん、八五郎親分を留めて下さいな。散々お世話になったんだから」

家からは、もう中へ入ったらしいお銀の鼻声が聴えます。

「離しゃしないよ、雷が鳴っても。ね、親分。ちょいと女世帯ものぞいて下さいな、――親分さえそのおつもりなら、お銀さんと私との間に寝かして、一と晩中可愛がって上げますよ」

女はそんなことまでいって、八五郎の肩を押えるのです。柔かい温かい手の触感が、八五郎の若さをかきたてないわけではありません。

「それじゃ、ほんの暫らくだぜ」

八五郎は腑甲斐なくも踵きびすを返しました。

「そりゃもう一と月も一年も留めやしません。ほんの暫らく、五、六日」

「冗談いっちゃいけねえ」

家の中へ誘い込まれて、八五郎はフト立ち縮みました。それは女一人の世帯にしては、思いの外の贅沢さです。

主人の女は二十四、五でしょうか、色の浅黒いキリリとした年増で、お銀に比べると妖艶な魅力はありませんが、取りまわしの巧妙さや、調子の鮮やかさが抜群で、この女をきりょう以上に美しく感じさせます。

若いお銀が眉を落して歯を染めた元服姿なのに、主人の女はこのごろの人には珍らしい年増の娘姿で、テキパキと身なりを直すと、消炭をブチまけて、早速の一本を鉄瓶に落します。

その間にお銀が、今夜の始末を説明するのを、フンフン、と素直に聴いておりましたが、

「銭形の親分も随分卑怯ねえ。お前さんが綺麗過ぎるんで、お神さんの手前遠慮したんじゃない?」

と突っ込んだことをいうのです。

その翌る日の朝――といっても、夏の陽は真上にカンカンと照りつけて、庇の影の一番小さくなった、昼近い時分のことです。

「ヘッヘッヘッ、親分、面白いことになりましたよ」

八五郎はタガの抜けた桶のような、手のつけようのない馬鹿笑いをしながら入って来ました。

「何んというあいさつだ。もう少し顔の紐を締めて歩いたらどうだ」

「これで精いっぱいなんで。何しろ達者な女二人にさいなまれて、昨夜はろくに寝かされないんで、ヘッヘッ」

「どこの比丘尼びくに長屋へしけ込みゃがったんだ、馬鹿々々しい」

「比丘尼長屋なんかじゃありませんよ。ちゃんと毛のある綺麗なのが二人、ズブの素人だ。呑んで食って、泣いたり笑ったり、謎々をかけたりジャン拳したり、とうとう夜が明けちゃったんで、ヘッ」

ガラッ八の八五郎は、お銀を送って御台所町のとある長屋、丁度平次の家の裏のあたりに住んでいる不思議な女世帯に上がり込み、引留められるままに夜と共に呑み明かして、今ごろボンヤリ平次の家へたどり着いたのでした。

「その面白かったということは――何しろ綺麗なのが二人でしょう」

「馬鹿野郎」

平次は一喝をくらわせました。

「でも親分、叔母さんはもってのほかの機嫌で寄りつけそうもないでしょう。仕方がないからあの女に、近いところに知合いはないかときくと、銭形の親分の家のツイ後ろに、お楽さんという懇意なのがあるというから、ツイ送って行く気になるじゃありませんか」

「確かにお楽といったな」

平次はきき返しました。

「お楽に違いありません。二十四、五の白歯で、苦労というものの味を知らないような年増でしたよ。酒が強くて洒落がわかって、気前がよくて色っぽくて――」

「そこへお前は入り込んで、引留めるのを宜いことに、女二人の中で一と晩ムダ話をして来たというのか」

「ヘエ、そりゃ暢気でしたよ。女の癖に世帯の話や米の値なんか、これっぱかしも出ませんよ。呑んで食って、しゃべって、洒落のめして、謎々からジャン拳まで――」

「それはもう聴いたよ、――ところで八」

「ヘエ」

「考えてみると、あのお銀というのは、おれの女房の命の恩人だ」

「ヘエ」

「昨夜はツイ蟲のいどころが悪かったので、引留めもせずに帰してしまったが、今になってようく考えると、それじゃ人間として済まねエわけだ。なア、八」

「ヘエ、そんなもんですかね」

平次の態度の豹変の見事さに、八五郎の方がすこし面食っております。

「お前気の毒だが、もう一度御台所町のそのお楽という女の家まで俺を案内してくれないか」

「ヘエ、親分が行くんですか」

「礼をいわなきゃ気が済まないよ」

「驚いたね、どうも。ヘエ」

八五郎はすっかり面食らっておりますが、平次はそんなことに関わらず出かける用意をしております。

「頼もう、お頼み申す、――まだ陽は高いぜ。今から表をしめて、何をしているんだ、――御上使のお入り――と来たぜ、おい」

ガラッ八の八五郎は、御台所町のお楽の家の前へ来ると、平次を待たせて置いて、精いっぱい張り上げるのです。

西にまわった真夏の陽を受けて、表戸を堅く閉ざしたのは、この辺の町家には類のないことですが、八五郎はもとよりそんなことを気にする柄でもありません。

「どなた? ご用なら夜分にして下さいな。今が丁度寝入りばなよ、冗談じゃない」

中から答えたのは女主人のお楽の声でした。

「何をいやがる、まだ陽が高けえやな。おいらん衆だって今頃はお目ざめで、お化粧を始める時刻だぜ」

「まア、八五郎親分ね。まだ呑み足りなかったの」

表戸が二、三寸開いて、お楽の浅黒い――が抜け目のない顔がのぞきます。

「何をいやがる、そんなに呑みたきゃ、真っ直ぐにお屋敷へ帰るぜ。大玄関には薦被こもかぶりがドカリとすえてあるんだ」

「何んの薦被り?」

「畜生ッ、薦被りは灘の生一本と極ってらア――ところで、おれの後ろにいる人の顔が見えねえのか。銭形の親分が、そのお楽とやらに会って礼をいおうとここまで出張って来たんだぜ」

「まア、銭形の親分の出開帳ってわけね、――ちょいとお銀さん、お前さんの本望が遂げられそうよ。起きて頂戴よ、銭形の親分が、わざわざ来てくれたんだって」

お楽の顔が引っ込むと、家の中はドタリバタリという騒ぎでした。床を畳んで掃除をして、着換えをして化粧を直すのですから、それはもう田舎芝居の七変化ほどの騒ぎです。

「さあ、どうぞ」

改めて表戸を開けたお楽の顔は、正面に受けた華やかな夕陽に、カッと燃えておりました。

「とんだ邪魔をするぜ」

平次は八五郎についてズイと入ります。

「まア、そんなことを親分さん」

二人の女は、真にイソイソと平次を六畳の居間に案内するのでした。

八五郎の神経にさえ、それはピンと響いたほどの贅沢な調度で、趣味の悪ささえ気にしなければ、建具から小道具の一つ一つまで、容易ならぬ金のかかっていることがよくわかります。

「親分さん、まア一つ」

平次を長火鉢の前にすえて、最初の生温い一杯を注いでくれたのは、お銀でした。

何処で身ごしらえを改めたか、派手な浴衣に、居ずまいを崩して徳利を持つ手を差し伸べる時、ほんのりと香料をにおわせるのは、たいした技巧です。

「済まねえ、お銀さん。昨夜は女房の手前、ああでもいうよりほかになかったんだ。まあ勘弁してくんな」

「あれ、親分さん」

長火鉢の前へがっくり首を垂れる平次を、お銀は宙に押えたい衝動に駆られている様子です。それほど平次の態度は素直で、そしてお銀の態度は色っぽさに徹していたのです。

お楽と八五郎

「この辺にこんなしゃれた家があろうとは、夢にも思わなかったよ」

「まア、親分さん、――しゃれた家なんかじゃありませんけれど、お気に召したら、ちょいちょいお立ち寄り下さいませんか。女一人の世帯で、何処へ行っても白い眼で見られて、そりゃ心細いんですもの。銭形の親分さんの羽がいの下にいると思うだけでも、どんなに気強いか知れやしません」

お楽はしんみりとなります。お銀ほどのきりょうではないにしても、才はじけて小意気で、そのくせ何処か上品なところのある、一風変った魅力の持主です。

「漸くお燗が出来ました。さア親分さん」

お銀は銅壺から抜いた徳利を、器用に拭いて平次のところへ持って来ました。

少し居崩れて、片袖をくわえたポーズは、含んだ鼻声とともにたまらない媚態ですが、若い時は激しい労働でもしたらしく、匂うばかりの滑らかな顔に比べると、手はひどく荒れて逞ましさの目立つのが気になります。

「済まなかったね、お銀さん。昨夜は引留めもせずに帰して」

「あれ、そんなこと。もう親分さん、私はとうに忘れていましたのに。それに――」

「――」

平次に酒をつぐと、お銀は少し居住いを直して言葉を続けるのです。

「それに、――私は苦労には馴れております。宿のないことや、三度のものにもありつけないことだって、幾度あったかわかりゃしません」

「そいつはまた――」

平次も返事に困りました。そんな話を聞かされると、急に座が白けて、酒までホロ苦くなりますが、お銀はそれさえ意識しないほど、自分の思い出に溺れている様子でした。

「私の育ったのは、相州の厚木でした。どうせ不義いたずらの末か何んかに出来た子でしょう。親知らずで里に預けられ、貧乏人の子らしく育ちましたが、七つの時親からの仕送りが絶えると、里親は薄情な人で、その日から私に守りっ子の仕事から、使い走り。翌る年にはもう、百姓の仕事までさせました」

「フム、フム、それから」

いっこう面白くもない話ですが、平次はすっかり乗気になって、しきりに盃を傾けながら、お銀の述懐を促すのでした。

「私は大抵の百姓仕事をしました。こんなに見えても、四斗俵の米だって持てるんですもの」

お銀はそういった自分が恥かしくなったか、袖塀風の蔭で忍び笑いするのでした。

「そいつは豪気だ。俺や八五郎だって、四斗俵は持てそうもないぜ」

「あれは力じゃなくてコツですよ、――そのうち年頃になると、幸い片輪でも鼻ッ欠けでもなかったので、諸方から縁談の口が来ました」

「ちょいと、お銀さんはそれがご自慢よ。村一番の庄屋の若旦那まで振り飛ばしたってね。自分さえその気になれば、大名のお妾にだってなれないことはなかったんですって、随分背負しょっているでしょう」

お楽は四方あたりかまわずまくし立てます。

百姓娘になりきったお銀は、望まれて江戸へ嫁入りしましたが、その時もらった支度金の百両は里親がそっくり取り込んで懐ろを肥やし、お銀にあてがわれたのは、婿という名前も恥ずかしいような孫が三人もあるという、五十三歳の大禿茶びんでした。

「一年の間辛抱したとは、たいした難行苦行じゃありませんか」

お銀のいう言葉を引ったくるように、

「お銀さんは、こんなに若くてきれいなんだもの、人身御供に上げっ放しじゃ可哀想ね。私が友達がいに、散々突ッついて飛び出さしたのは、悪かったでしょうか、銭形の親分さん」

お楽は側から声援をおくるのです。

「でも、その嫁入り先の名前だけは堪忍して下さい。いくらなんでも私はきまりが悪い」

お銀はそういって照れ隠しらしく銚子を代えるのです。

やがて灯りが入りました。八五郎は、昨夜からのごちそう攻めで、さすがにげんなりしてしまったものか、しきりに尻をモジモジさしておりますが、肝腎の平次は悠然と坐り込んで、テコでも動きそうはありません。

「ちょいと八五郎親分」

「何んだえ、用事があるならそこで言いねえ。障子のすき間から、おいでおいでなんかしやがって、気味が悪いじゃないか」

「だからさ、口説くかも知れないから、ちょいと、お耳を貸して下さらない?」

それはお楽でした。キビキビした調子で、男にいやとはいわさない呼吸です。

「何んだい用事は?」

「ま、なんてお顔だろう、――女の子に呼ばれたら、もっと器用に返事をするものよ」

「口説いたってダメだよ。先口がつかえているんだから」

「八五郎親分の煙管みたいね」

「何をいやがる」

八五郎は脂やにでジワジワする煙管をあわてて仕舞い込みました。どうもこの女とはまともに太刀打ちが出来そうもありません。

「だから、ちょいといらっしゃいよ、――ね八五郎親分、お銀さんの心持が親分にはわからないのかねえ」

「?」

「お銀さんはこの間から銭形の親分にあいたいって口癖のようにいってたでしょう」

「それは聴いた」

「女の口から――鉄漿かねはつけているけれど――あの人まだ二十二になったばかりよ。その若い女の口から、平次親分に岡惚れしたっていうのは、よくよくじゃありませんか」

「?」

八五郎はつままれたような心持です。口を開いたり、塞いだり。瞬きをしたり、鼻をかんだり。

「岡惚れどころじゃない、大熱々のコンコンチキよ。畜生ッ、どうしてくれよう」

「あ痛、おれをつねったって始まるまい」

「だからさ、じれったいねえ、――仲人は宵のうちっていうじゃありませんか。銭形の親分をここへつれて来れば、八五郎親分なんかにはもう用事御座いませんとさ。この辺で消えてなくならなきゃ犬に食われて死んでしまえ――と怒っちゃいけませんよ。お銀さんは腹の中でそう思っているに違いない」

お楽の操縦はまことに見事です。

「やいやい、何をいやがる。銭形の親分はな、行きずり後家なんかに手を出すような、そんな人柄じゃねえんだぞ。見損ないやがったか、野郎ッ」

八五郎は急にいきり立ちました、浅間な家の中で、ここから平次のいる部屋へは、つつ抜けに響きますが、そんなことに遠慮するような八五郎ではありません。

「ま、怖い、――でもね、八五郎親分のお言葉だが、野郎は少し変じゃありません。これでも新造のつもりよ。出来はあんまりよくはないけど、阿魔ッとか何んとかいって下さいな」

「何をッ、阿魔ッ」

「うれしい、そのコツよ」

お楽は椽側で、八五郎にしがみつくのです。

「放せッ、やい、畜生ッ」

「あれ、今度は畜生と来た、少し浅ましいわねえ」

「銭形の親分には、お静姐さんという、それはそれは貞女のおかみさんが付いているんだぜ」

「それがどうしたのさ、八五郎親分」

「その江戸一番のおかみさんを泣かして、化け猫のようなお銀なんかに、ちょっかいを出す親分じゃねえ」

八五郎は精いっぱいに見得を切るのです。八五郎に取って親分平次の恋女房お静は、神聖犯すべからざるベアトリーチェだったとは、幾度か話しました。

「おや、おや、変なことを仰しゃるわねエ。お前さんは十手捕縄を預かる立派な御用聞かと思ったら、お静姐さんの番人だったのかえ」

「何をッ」

「それともほかの女が銭形の親分を口説いちゃいけないという、御布令でも出たというのかえ」

「な、何をいやがる」

「第一、お前さんが親分の傍に、出来損いの狛犬みたいに頑張っているのが、平次親分のお気に召すかどうか、ちょいときいて御覧なさいよ」

「――」

「銭形の親分は、お銀さんの酌であんなに落ちついて、好い心持そうに飲んでいらっしゃるじゃありませんか」

「それがどうした」

八五郎はまだ紛々としてねばっておりますが、お楽は攻め手を変えて執拗に絡みつくのです。

「八」

「ヘエ」

いきなり隣りの部屋から声を掛けたのは平次でした。

「お前は帰れ帰れ、もう用事はねえだろう」

「ヘエ」

八五郎の器量の悪さ。

「それ御覧なさい、到頭銭形の親分に叱られたじゃありませんか。さア、思案も勘考も時によりけりよ。ねばればねばるほど、八五郎親分は間抜けに見えるじゃありませんか」

「何?」

「そんなにとんがらずに、一しょに退散しましょうよ。その代りお供はこの私、少し役不足でも何処へでも参りますよ。口説こうと、かじりつこうと、御自由になるわ、いっそもう、殺して貰おうか知ら」

お楽はもう一度、八五郎の首っ玉にかじりつくのです。

首領の妻

八五郎とお楽の二人が、揉みに揉んで出かけた後は、嵐の後のような静けさでした。行燈の燈心がジーと油を吸い上げる音が聞えて、庭では夏の蟲が、今宵一夜の恋のために、命を限り唄っております。

「ま、何という騒ぎでしょう」

お銀は漸く顔を挙げました。さすがに消えも入りたい風情でしたが、二人の出て行く足音が、路地の外へ遠ざかると、ほっとした心持になるのです。

「――」

平次は黙って杯を取りました。妙に照れ臭いのは、そんな仕業で救うほかはありません。

「少しさめましたか知ら」

銚子を取ったお銀の手はさすがにふるえております。

透き通るような顔に、くっきり眉の青いのと表情的な大きい眼、熟れたグミの唇、すべてが神秘と魅惑との不思議な交錯ですが、真っ黒に染めた歯が一本、無残にも欠けているのが、妙にこの世的な肉感をそそります。

「ところで、こうまで献立をして、いったい何を話そうというのだ」

平次はこの女には、何にかしら深い企みのあることを察して兎も角そのプログラム通り、一人と一人の差向いになったのです。

「親分さん、私は大変なことを、親分さんに聴いて頂いて、親分さんの良い智慧が拝借したいのですが――」

お銀の顔――情熱と神秘の交錯した顔が、平次の側へ近々と寄って、青い眉が肩のあたりを匂います。

「智慧――あいにくそんなものは――」

平次はいつもの八五郎との掛け合いのような調子で受けましたが、お銀の表情の恐ろしく突きつめた真剣さを見ると、さすがに冷やかしもならず、真面目な顔でうなずきます。

「ほかではございません――私が江戸で縁づいたのは」

「――」

お銀はいいかけて四方を見まわしました。

「さき程は申し兼ねましたが、何を隠しましょう海道筋で聞えた大泥棒の頭領、斑組六人男の筆頭で、大橋伝中という浪人者でございました」

「それは芝巴町に住んでいた?」

銭形平次も驚きました。それは曽て金沢町の近江屋の番頭で、後に人手に掛って死んだ宇八というのが、近江屋の主人半兵衛の殺された晩、訪ねて行ったという浪人者の名だったのです。

「――大橋伝中というのも、本名かどうかわかりませんが、兎も角近江屋の主人半兵衛、番頭の宇八、本所石原の定五郎、明石一座の五郎八夫婦などを手下に、海道筋で荒いかせぎをし、何千両という金を溜めましたが、先年東海道宇津の谷峠で、尾州の御用金一万二千両を奪い盗ったのを打ち止めに、綺麗に足を洗って江戸に入り、銘々離れ離れになって堅気の仕事を見つけ、ほとぼりのさめるのを待って、三年後に二万両の大金を分ける約束でございました」

お銀の話の途方もなさと、それにも拘らず寸毫の疑いを挾みようもない真実性に、銭形平次もさすがに固唾を呑みました。

「それから、どうした」

お銀は静かに語り続けるのです。

「あと一年も待ったら、斑組の生残った四人の者と、外に手伝ってくれた二、三人にも二万両の金を分けてやろうという矢先、仲間のうちに思いも寄らぬ仲違いが出来、四人がそれぞれ自分だけで、この大金を独り占めしようと目論むようになりました」

「――」

「それから先は親分もご存じの通り、むごたらしい殺し合いが始まったのでございます」

「だれがだれを殺したのだ。俺には腑に落ちないことばかりだが」

「宇八は近江屋半兵衛を殺し、それから定五郎を殺しました。そして宇八と明石五郎八とお里は、大橋伝中に殺されたのです」

「大橋伝中というのはどんな男だ」

「孫が三人あって、五十三の大茶びんさんというのはあれはお楽さんの冗談で、本当はまだ四十台の、それはそれは怖い人」

「――」

お銀はかつて自分の配偶つれあいだった巨盗大橋伝中のことをいうとき、一種の不思議な表情をするのです。それは決して恐怖とか、嫌悪とかそんな感情の伴なうものではありませんが、決して恋人や亭主のうわさをするような、甘さのないことは事実でした。

「私はその怖い人のところから逃げ出してしまいました。暫らくは谷中の叔父さんのところで、手伝いをしていましたが、私のもとの配偶は、谷中の巣もかぎつけたようで、この上はもう、一日も安穏には暮せません」

「――」

「斑組六人男の首領、大橋伝中に狙われている私は、自分の命を助けるためには、当時江戸で飛ぶ鳥も落す銭形の親分さんの懐中に飛び込むよりほかに、良い思案があるでしょうか」

「――」

とうとう話は落ちつく所まで来てしまいました。銭形平次は腕を組んだまま、冷たくなった盃をにらんで、黙って考え込んでいるのです。

「お願いでございます、銭形の親分さん。今となっては頼る人もないこの私を可哀想だと思召して、親分の羽がいの下に、隠して置いては下さいませんか」

「――」

「その代り私は、知っていることを皆んな申し上げます。お望みとあれば、大橋伝中の隠れ家も二万両の金の隠し場所も」

「――」

「親分さん」

お銀は寄り添うように、銭形平次の側に身を寄せると、そっと膝の上に手を置いて、子供が母親に物ねだりするように、その膝をゆすぶり始めるのです。

「その大橋伝中という浪人者は何処にいるのだ」

「今は江戸にはおりません。でも、近いうちには戻って来て、盗みためた二万両の金を何処か遠いところへ運び出すことになっております」

「それは何処だ」

「そこまではわかりませんが、二万両の金を隠してある場所ならよく知っております。親分さえそのおつもりなら、今直ぐでも御案内いたしましょう」

お銀の話は恐ろしく具体的になりました。

斑組六人男が盗み溜めた二万両の金、――そのうちの尾州御用金一万二千両だけでも七、八人の命をかけた、恐ろしい呪いの金です。――その二万両の金を今ここで見せてやろうという、お銀の無造作な言葉は平次を驚かせました。

「それは本当か、――何処にその二万両を隠してあるのだ」

「近いところですよ、親分」

お銀は落ちつき払って銚子に手を伸べるのです。

「それを見せてもらおうか」

「まア、ゆっくり話しましょうよ、親分。一杯召し上がりながら、お楽さんは八五郎親分をつれ出したし、夜が明けるまでは、邪魔の入る心配はありません」

お銀の態度は自信に充ちておりました。これだけの餌をやって置けば、江戸開府以来といわれた名御用聞の銭形平次といえども、木偶でくのように操縦が出来ると思っているのでしょう。

「だが――」

平次は受太刀でした。斑組六人男の首領を召し捕って二万両の金を取り返すことが出来れば、十手捕縄を預るものとしては、これに越した誇りはありません。

「ね、親分。私はそのために、命を投げ出していることは、よくおわかりでしょうね」

「――」

「これがもとの配偶つれあいの大橋伝中に知れたが最後、私は一刻も半刻も無事には生きていられません。――あの人はどんなにこわい人間か、親分もよく御存じのはず」

「――」

「命がけの仕事をして、親分に喜んで頂くのは、何のためでしょう、親分」

お銀の手はソッと平次の膝に、そして斜下から、うるんだ眼が沁々と見上げるのでした。

揺れる前髪へ、ほの白く霞む額、そして燃える瞳と、真紅に熟れた唇の前に、平次は眼をつぶって寂然と腕を拱ぬいているのでした。

「――」

それは大きな誘惑でした。

「ね、親分、私はどうすれば宜いのでしょう。このまま黙って、配偶の腕の中へ帰ったものでしょうか。それとも親分の手引きをして、二万両の金をお上に引渡し、私は明日という陽の目も見ずに、蟲のように殺されて行ったものでしょうか」

「――」

女の体温に薫蒸された香料が、フンワリと平次の身体を包んだと思うと、お銀は立ち上がって中腰になったまま、平次の肩に柔々ともたれているのでした。

それは素晴らしい媚態でした。が平次はまだ腕を組んだまま、禅定に入ったように、固く眼を閉じております。

「親分さん、――私はもう」

平次の首へ、蔓草のように、犇々ひしひしと巻いて来る女の腕は、平次の手で静かにほぐされました。

「お銀――お前から見ると、男は随分馬鹿に見えるだろう。が、俺も銭形平次だ、二万両の隠し場所を、まるっきり見当がつかないわけじゃない」

「?」

「お前にばかり物をいわせるのも能じゃないだろう。一つ俺は俺だけの勘考で捜してみようか」

平次は大変なことをいい出しました。

地下の黄金

「まア、さすがは銭形の親分さん。ではその金の隠し場所へ、案内して下さいませんか」

お銀はもとの冷い態度にかえると、少し離れて平次の動きを見ております。

「尾州の御用金一万二千両は、最初金沢町の近江屋に隠して置いたが、仲間割れが始って谷中の五重の塔に移した」

「――」

「それが一度尾州の蔵屋敷に入って、また盗み出されたが、曲者は今度は自分の身近かに置いたに違いない。盗んだ金を遠くへは離せないのが盗人ぬすっとの根性だ。近江屋は自分の家へ隠し、谷中の五重の塔の時は、お前がツイ傍の花屋で見張っていた。一度隅田川へ持ち出した時は、細工が過ぎて、直ぐ俺に捜し出されてしまった――」

「――」

平次の推理は、傍にいるお銀を無視して、この方程式を解いて行くのです。

「今度は近江屋ではあるまい、――先刻からお前の眼の動きを見て、俺はもうその金の隠し場所を、見破ってしまったよ。案内しようか、お銀」

平次はつと起ち上がると、片手に行燈を提げました。

「――」

それを黙って見ているお銀。

「少しは手を貸せ、お姫様じゃあるめえ」

そういいながら平次は、部屋の隅の三尺の置床を無造作に起しました。その下にはまた一枚板があって、板には念入りに手掛けの環までついているのです。

「もう沢山、親分、――決して親分を甘く見たわけじゃないけれど私の方が自惚れ過ぎました。ご案内しましょう、行燈を貸して下さいな」

床板を起すと、その下にポカリと口を開いた真っ暗な穴、行燈を寄せて見ると、下へ梯子が斜に掛けられてあります。

「さあ、入れ」

後ろから平次。

「蜘蛛の巣ぐらいはあるかも知れません。お先へ」

お銀は小褄をキリリとからげると、片手に行燈を提げたまま、器用に梯子を踏んで穴の底へ降りて行きます。

その後から、銭形平次が続いたことはいうまでもありません。

地下の穴倉は思いのほか広く、下には乾いた板などを敷いて、ザッと四畳半ぐらいはあるでしょう。穴倉の三方に幾つかの箱がつんでありますが、その一つ一つが急造の千両箱で、一万両の大金が、この中に隠されてあることは、調べてみるまでもなく、四方の物々しさや、冷々とした空気や、お銀のただならぬ表情でも明らかです。

二人は行燈を横に置いて、何時の間にやら穴倉の左右に相対しておりました。

「ところで、お栄」

銭形平次は突然として古い名を呼んだのです。

「え?」

「隠すなお栄。眉を落して歯を染めて、その上一本歯を欠けば大概人相は変るし、声を変えることはお前の一番得手な芸当だが、どう骨を折っても少しも変らないところがあることに気がつかなかったのか」

昔は糀こうじ室かなんか、なんの悪意もなく造った地下室でしょう。それを見つけ出して、盗み溜めた宝の隠し場所にしたのは、悪者どもの賢さで、さすがの平次も、自分の家の背中合せに、こんな場所があろうとは夢にも知らなかったのです。

それは兎も角、狭い穴倉の中に二万両の小判と、心細い行燈の灯りをはさんで、お栄のお銀と、銭形平次は相対しました。邪悪な恋と激しい敵意に燃える女の瞳が、かみつきそうに平次に挑みますが、平次は冷たくそれを受けて、相手の出ようを見ているのです。

「お前がお栄だということは、五重の塔の下で見たときは気がつかなかった――俺の恐ろしい手ぬかりだったよ。だが、どう考えても、お栄は生きていなきゃならない。生きているとすれば、一万両の金の傍へ寄って来るに違いない」

「――」

「俺はそれを待っていたのだ。一万両の金に寄って来る蠅、そいつは尾州蔵屋敷で、お楽という女と十五、六の小せがれと、その小せがれにからまっている眉を落して鉄漿をつけた年増とわかった」

「――」

平次は退っ引させぬ調子で、この不思議な論告を続けるのでした。

「その眉を落した女が、おれの女房を五重の塔の中から助けて来た。話の運びがうま過ぎるから、おれは最初はなっからこしらえ事だと思ったよ――だが、その女をよく見ていると、顔も声も違っているが、たった一つだけ、間違いもなくお栄に違いないところがある――それは手だよ」

「顔や姿はどうにでも変えられるが、人間は自分の手だけは変えようはない――ことにお前の手は、軽業で鍛えているから、顔にも姿にも似ず男のようにたくましい」

「――」

お栄のお銀はハッとした様子で、自分の手を背後に隠しました。

「おれがその手に気がつくと、お前はあわてて、子供のとき里子にやられて、百姓仕事をさせられたなどと、尤もらしく話し始めたろう。だが百姓で荒れた手と、軽業で荒れた手とは違わなきゃならない」

平次の論告は整然として、まさに一分の隙もありません。

「それが、どうしたというの。銭形の親分」

お栄は少し捨て鉢になりました。こうまでも念入りに追及されると、我慢にも化の皮を着通せる自信がなくなります。

「それだけのことだよ。お前が近江屋の姪といっていた、お栄でありさえすればそれで宜いのだ」

「親分、それだけじゃないでしょう。私がお栄だったら、まだいうことがありゃしない?」

「その通りだよ。お前がお栄とわかれば、お上から預った十手捕縄の手前、おれはここでお前を縛らなきゃならない」

「私を縛る?」

「小僧の定吉に手伝わせて――あの定吉は十四、五に見えているが、本当はもっと年を取っているだろう。十六かな、十七かな、お前はあの小僧を道具に使って、いろいろの悪事を重ねた」

平次はなおもこの論告を続けるのです。

「お前は仲間の者を騙して、近江屋にある金を谷中の五重の塔に移させ、そこで山分けにするといったに違いあるまい。――が考えるとその金が惜しくなった。――色気づき始めた小僧の定吉を手伝わせて、まず近江屋半兵衛を殺した」

平次のこの推理は、いつぞや八五郎に説き聴かせたことで、平次は近江屋の事件のあった時、早くもこのいきさつを見破っていたのです。

「それから?」

お栄は平次の論告に圧倒されながらも、積み重ねた金箱にもたれ加減に、わずかに反抗心を盛り返しました。

「番頭の宇八はそれを知ってお前を脅かした。が、宇八はお前のいいなり放題で、何うにでもなる男だ。樽拾いの小僧の元吉の口を塞いだ上、お前に頼まれて本所石原の定五郎――あの定吉の父親を殺したが、自分も谷中へおびき寄せられて、お前と定吉の手で殺された」

「――」

平次はこれだけのことは、その当時既に観破っておりましたが、それから先の局面は、新らしい推理になります。

「お前という女は、鬼とも蛇とも、いいようのない恐ろしい女だ。昔のうるさい仲間を一人ずつ殺して行った上、今度は少しばかりの分け前でも文句をいわぬ新らしい仲間――お楽のような安っぽいのを五、六人集め、谷中の五重の塔から小判を持出させて、川の岸三箇所へ隠したが、まだ安心が出来ないので、明石の五郎八も殺してしまった」

「まだあるでしょう親分」

お栄は自若としてそれに応じます。

「定五郎の妾のお里も、五郎八の女房のお六も、お前に殺された人数のうちだ――それから尾州蔵屋敷の庭男の与吉も、両国の軽業小屋の木戸番半次も――」

「――」

「お前の眼の前には、お前が手にかけて死なした死骸が山のようにつみ重なっているじゃないか。お前の手は血だらけだ――見ろ、お前の後ろに半兵衛や宇八や定五郎や、お里や半次の亡霊が、煙のように現われて、お前を指してケラケラと笑っているじゃないか」

銭形平次は手を挙げて、お栄の背後のあたりを指さすのです。振り返るとジメジメした黒い土と、白々と積まれた金箱の間から、ユラユラと夜の妖気が立ち昇って、お栄の艶やかな姿を押し包みそうにも見えるのです。

「止しておくれ、もう沢山だ。止してもらおうか、親分」

お栄はわずかに踏み留まると、竜虎のような凄まじい勇気を振り起して、敢然と平次に立ち向ったのです。

「いや、止さぬ――お前のような女は縄を打って処刑台に引上げただけでは、その背負いきれない罪の償いはつくまい。お前は自分の欲得のために、蟲のように殺して行った多勢の亡霊につかまって、生きながら焦熱地獄の底に堕ちて行くのだ」

平次の舌は正義感に煽られて、この世にも美しい顔と姿を持った、殺人鬼お栄を真っ向から責め立てるのでした。

最後の賽の目

「違う、違う。皆んな嘘だ」

お栄は超人的な意思で、わずかに立ち直りました。

「何が違う。今となって、自分の罪を免れようと、悪あがきをするのは卑怯だぞ」

平次はそれを押しもどします。

「親分は何んにも知らないんだ、――近江屋半兵衛を殺したのは如何にもこの私だ。定吉に手伝わせて、磔刑にしたのは、ありゃ親の怨みを思い知らせるためだ」

「親の怨み?」

「親分、聴いておくれ。私は斑組六人男の首領大橋伝中の娘なのだよ」

「何?」

それは思いもよらぬ言葉でした。ツイ先刻は大橋伝中の女房だといった女が、一刻も経たないうちに、大橋伝中の娘になってしまったのです。

「私の父親の大橋伝中は、宇津の谷峠で盗った、尾州の御用金一万二千両を、江戸へ運び込んで間もなく、近江屋半兵衛に騙し討ちにされ、それから小頭の半兵衛は、六人組の首領のような顔をして、明石一座にいる私を無理に引取って、世間体は姪ということにいいこしらえ、実は自分の妾にしようと牙を磨いたのだよ」

「――」

「朝から晩まで付けまわされて、うるさくてかなわないから、小僧の定吉と相談して殺してしまったが、――それがどうしたのだえ、親分」

「――」

「それっきり事が済んで、仲間で盗み溜めた金を頒けて、足を洗えば無事だったものを、番頭の宇八が私を口説きまわして、頼みもしないのに余計な細工をし、私に一万二千両の金を一人占めさせるつもりで定五郎とお里を殺してしまったのは、とんだ忠義立てさ。定五郎の伜はあの小僧の定吉さ。柄は小さいけれどあれでもう十八だし、気味の悪いほど智慧走っている。その上あの子は私に夢中だから、私のためにはどんなことでも仕てのけた。自分の父親を殺した宇八に怨みを返した上、五郎八とお六と半次が一万両の小判を嗅ぎ出して、うるさく付き纒うのでそれも片づけてしまった。あの子は全く害蟲のような恐ろしい子だよ」

「――」

これは何処まで信じて宜いか、平次も迷いました。お栄は相当以上に悪賢く、それに恐ろしく見栄坊ですから、この話の半分は嘘かもわからないのですが、近江屋半兵衛以後の殺しの大部分は、宇八と定吉と二人の手で行われたといっても、たいした矛盾のないことは事実です。

「親分は、私のいうことを本当にしないかも知れない。それも無理はないけれど、明日にでも芝巴町へ行って、大橋伝中という浪人者の家を訪ねてみるが宜い。あすこにいるのは友蔵といって永年使われている爺やがたった一人、私から聴いたといったら、何も彼も話してくれるだろう」

「――」

「それが嘘でない証拠を、何彼と並べ立てるより、お上の御用を聞いている親分を、この穴倉へ案内して来たことでもわかるじゃないか――私は、親分、斑組六人男の悪業の渦の中に引きずり込まれて、もがきにもがきながらも、親分のことが忘れられないばかりに――」

お栄の言葉は思わぬ方へ飛躍するのでした。

「親分」

「――」

「何んという因果だろうね――女泥棒の私が、人もあろうに江戸一番の人気者十手捕縄を預っている、銭形の平次親分に、命を賭けて惚れたのだよ」

「――」

それは実に驚くべき告白です。二万両の小判を積んだ、地獄の底のような陰惨な穴倉の中に稀代の女賊――妖麗この上もないお栄が恥も外聞も捨てて、こういいきるのでした。

「そのために、私はいろいろの細工をした。お静さんを二度までもおびき出させた――そのくせ私は親分のところへ押しかけて行くほどの気力もなく、お静さんを殺す気にもなれなかった。私はたった十六の小娘のように、身も細るばかりに焦がれていた。親分」

お栄はガックリと床の上に膝を突くと、平次の裾にまつわりつくように、サメザメと泣くのです。

「ばかなッ」

銭形平次――江戸開府以来といわれた男も、十手を握ってから、この時ほど困ったことはありません。

「親分、私はどうすれば宜いでしょう。斑組の盗み溜めた二万両、これは親分の手でお上へ差上げて、せめてもの手柄にして下さい。尾州の蔵屋敷から盗まなくても宜い一万両を盗み出したのは、親分をここへ呼び寄せて、手柄を立てさせたいばかり。私は今となっては一万両、二万両は愚か、百の銭も欲しくはない」

「――」

「手下の者も、それぞれ足を洗うように手配したが、ただ気になるのは定吉がたった一人。あの子は蚊帳の中に放した蜂のようで、何をやり出すかわからない」

「――」

「どうせ背負いきれないほどの罪を作った私、親分の手で縛って突き出して下すっても、少しも怨みとは思いません。その代りたった三日でも、私を側へ置いて、存分に可愛がって下すったら、私は死んでも――」

それは実に恐ろしい執念でした。お栄は平次の足の甲にその濡れた頬を摺り寄せて、赤ん坊のようにだだをこねるのでした。

「宜い加減にしないか、ばかばかしい」

平次はしかし、この女を抱き上げて、たった一言でも、優しいことのいえる人柄ではなく、暫らくは困惑しきって、女の狂暴な告白を聴くほかはなかったのです。

「私は最初から、逃げる気になれば逃げられました。二万両の金も船にでも積んで持って行けば、京大阪へも持って行けたことでしょう。住みにくい江戸に踏み止まって罪の上に罪を重ねたのは、他所ながら親分を見ていたいばっかり」

「――」

「そのために私は、眉も剃り落し、嫌いな鉄漿かねをつけ、それでも足りなくて、前歯まで一本欠きました」

「――」

「親分、親分がお静さんを可愛がる心持はよくわかります。こんなに憎んでいても、私が殺しかねたほどの可愛らしいお静さん、親分の気持に無理はないが、男の一生のうちで、たった一度の道草、私をそっと抱き上げて、せめて、せめて、――可哀想に――とでもいって下すったら」

お栄は床の上を這いまわってひた泣きに泣くのです。

お栄の身体は、あじさい色の蛇のように、暫らく狭い床の上を這いまわります。

銭形平次は突っ立ったまま、黙然として腕を拱ぬいております。慣れると二本燈心の行燈の灯が、思いのほか明るく穴倉を照らして、邪恋の女の黒髪の乱れ、青白い顔、紅い唇、脈動する四肢まで、心おきなく照らします。

「親分――随分ばかばかしいと思ったでしょうねエ」

不意に立ち上がったお栄はもとの金箱にもたれて平次に相対しながら、急速にもとの自尊心をとりもどそうとしている様子でした。

「――」

平次は相変らず黙って、この女の顔に動く感情の揺ぎを見ております。野性と羞恥心と、自尊心と情熱と、痴愚と叡智と、極端から極端に動く女の心持は、平次に取ってもなかなかの観物です。

「もう困らせない。堪忍して下さい、親分。でも、たった一つ、親分に見てもらいたいものがあります」

「――」

平次の返事も待たずに、お栄は何んの思い入れもなく、風呂場へでも行ったような無造作な態度で、紫陽花あじさい色の単衣の肌を押し脱ぐのでした。

凝脂に銀の粉を撒いたような、桃色珊瑚を薄絹で包んだような、それは実に素晴らしい肉体です。

「これを見て下さい」

お栄が指さしたのは、自分の胸でした。

こんもり盛り上がって美しい半円を描いた強力的な二つの乳房、桃色の乳首――そんな眩惑的な美しい宇宙の中に、朱色に彫った方五分ほどの賽ころの入墨、この中に真っ赤な一点は、まさに斑組の首領の目印でなくて何んでしょう。

「それは?」

「賽の目のピン、親分が長い間捜していた斑組の首領の目印じゃありませんか。もっとも私の父親、大橋伝中の二の腕にあったのは、世間並の黒い入墨でしたが、親の跡を継いだ私は、女らしく洒落て、乳と乳との間へ、朱で入墨させたのです」

「――」

「お里さんの死骸に彫ったのも、五郎八の腕に描いたのも、あれは皆んな定吉の悪ふざけで、私の知ったことじゃありません」

「――」

「八五郎親分は、この入墨が私の太股にあると思い込んでいる様子でしたよ――まさかねエ、親分」

お栄は突き詰めた情熱から解放されて、漸く女賊の自尊心をとりもどした様子です。

「その賽の目の入墨を見せた上は、どうなるか、お前はわかっているだろうな」

「それはもう、逃げも隠れもすることじゃありません。さア、存分にして下さい。でも、銭形の親分はまさか、裸のままの女を縛るつもりはないでしょうねえ」

「肌を入れるが宜い」

平次の言葉は冷たくて職業的にさえ響きました。

「私は負けました――もう未練も何んにもいやしません。せめて世間様へは、斑組の首領――大橋伝中の娘のお栄が、大暴れに暴れた末縛られたとでもいって下さい」

お栄は紫陽花色の単衣に肌を入れながら、フト聴き耳を立てました。

「おや? あれは?」

炎の中に

それは物の爆はぜる音でした。いや、物の焼けるすさまじい音といった方がよいかも知れません。それに絡んで、犬のほえるのが、次第次第に高くなって行くのです。

不意に、穴倉の蓋が開いて、梯子の上の方から焦臭い風がどっと吹きおろして来ました。

「火事だッ、早く」

平次はためらうお栄の手を引寄せると、それを横抱きに、梯子へ手を掛けようとしましたが、一瞬の違いで、梯子は上からサッと引き上げられてしまったのです。

「お前達はそこで死ぬんだ」

「あッ」

上から顔を出して、呪いの冷笑を浴びせたのは、かつての近江屋の小僧、定五郎のせがれの定吉のクリクリとした、可愛らしい――が、精悍な顔だったのです。

「定吉じゃないか、冗談をしちゃいけないよ」

お栄は下から姉らしい調子でたしなめます。

「チェッ、冗談? これが冗談かえ――おいらは先刻から耳を澄まして、二人の話はみんな聴いたよ――そして、おいらが今までお栄さんのオモチャになって、人まで殺す手伝いをしたことも、そのお栄さんが蔭ではおいらを鼻であしらって、その岡っ引野郎に夢中なことも――それからお栄さん、おいらの親父を宇八に殺させたのも、外ならぬお栄さんの指金だったということもわかったよ」

「まア、お前」

穴倉の出口を塞いで定吉の小さい顔が、復讐の喜びと、悪業の陶酔に輝くのです。

「おいらはそれを聴くと、ここへ三カ所から火をつけたよ、――もう何処かの半鐘も鳴っているぜ。鳶の者も駈けつけて来るだろうが、それまでには見事にこの家が焼け落ちて、穴倉の二匹のもぐらは宜いあんべえに蒸し殺されるぜ」

「お前、お待ちよ、定吉」

お栄は穴の口を仰いで精いっぱい呼びかけましたが、それもこの怪童定吉――十八になる奇形の偏執狂のゆがみにゆがんだ復讐心と、蛇のような嫉妬をなだめる由はありません。

「火はもう家いちめんにまわったぜ。危なくていられやしない、あばよ、姉御」

定吉は最後の冷笑を残して、穴の口から身を引くと重い蓋を――

「親分、あの蓋をされちゃ、下からは開けようがない。早く、早く私を踏み台にして」

お栄は忙がしく平次に暗示を与えると壁側に後ろ向きに立って自分の身体を梯子にするのでした。

「よし、暫らく我慢しろ」

平次はその肩に手を掛けると、女の帯際を踏んで、見事に跳躍しました。

「野郎、くたばってしまえッ」

半分蓋を閉めかけたところへ、平次に飛びつかれた定吉は、一度は後ろへ引っくり返りましたが、立ち直ると早くも匕首が。

「ばかッ」

単衣の肩を裂かれた平次は、わずかにその切っさきを避けると、懐中をさぐって手なれた青銭が二枚三枚、炎と煙をきって定吉の額に、唇に拳に飛びます。

そのうちにも三方からまわった炎は、さながら火焔車と転じて、右から左から後ろから、カッと迫るのです。

平次に匕首をたたき落されると、定吉は何処かへ姿を隠してしまいました。

八方から迫る炎、うず巻く煙、最早ここから無事に逃げ出す見込みもありやなしや――そんなことに構わず、平次は穴倉の口に顔を持って行きました。

「お栄、危ない。早く、早く、俺の手につかまるのだ」

穴倉の口から出した平次の手から遠く、お栄は向うの隅から、うらみ多く平次を見上げるのです。

「親分、放って置いて下さい。私は助かったところで、処刑台より外に行く場所はない」

「何をつまらぬ。さア、早く」

「いいえ、親分だけ逃げて下さい――私には構わず――時々は私を思い出したら、せめて線香の一本も――」

「ばかッ、お前をこの火の中へ置いて、おれだけ助かられると思うか――待て待て」

それは実に驚くべき作業でした。

両頬にカッと燃える炎、鬢の毛までがチリチリ焼ける中を平次は定吉の引上げた梯子を取って穴倉の口へ掛けると、一気に穴倉の底へ飛び込むのでした。

「まア、親分」

「さア、来い」

もう一度女を横抱きに、危うい梯子を登り、煙と炎の間をかい潜りながら、外へ飛び出したのは、実に千に一つの機会をつかんだ平次の見事な働きでした。

平次はお栄の身体を冷たい大地におろすと、真に心からホッとしました。

「世話を焼かせるぜ、おい」

「でも、親分、私は生きてはいられない」

「何をばかなッ」

「親分、お礼をいいますよ。お静さんとは仲よく暮して下さい。左様なら」

かつての軽業娘のお栄の飛躍は見事でした。大地を蹴ると一気に平次の首っ玉にかじりついて、最後の熱い頬を寄せたと思うと、次の瞬間にはもう、燃えさかるもとの炎の中へ、身を躍らして飛び込んでしまったのです。

それは実に何うすることも出来ない早業でした。あじさい色の大きい花が、炎の中にパッと咲いたと見たのも暫し。

「お栄」

平次の絶叫に応えるものは、崩れ落ちた屋根の下に、車軸の如く回転する炎のうなりばかり。

気がつくと八方に起る人声。半鐘の響き、江戸の町は夜半の大火にかき立てられて、一としきり無気味な動揺を続けるのでした。

「親分、ここでしたか。いや驚いたの、驚かねえの――でも無事で安心しましたよ。お栄はどうしました」

飛んで来たのは八五郎でした。平次はそれには答えず、眼の前に燃えさかる炎を指さしてそっと掌を合せるのでした。

×    ×    ×

翌る日焼跡から二つの死体が掘出されました。一つはいうまでもなくお栄ですが、あとの一つが小柄の少年、定吉のそれとわかった時は、さすがの平次も、その執念の恐ろしさに顔を反けたほどです。

焼跡の穴倉から出た二万両の金は、尾州を始め斑組に荒らされた向き向きへ適当に返しましたが、不思議なことに、お栄を始めお栄の手下と思われた新まだら組の一味は、それっきり何処へ行ったかわかりません。

そしてお栄のいったことは何処までが本当で、何処から先がこしらえごとであったか、永い間平次を悩ませた疑問でした。

底本 / Source edition

底本:「怪盗系図 長編銭形平次捕物控」桃源社
1971(昭和46)年2月27日発行
初出:「四國新聞」四国新聞社
1948(昭和23)年2月15日~1948(昭和23)年7月7日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「虫」と「蟲」、「斑男の六人組」と「斑組の六人男」、「筆跡」と「筆蹟」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、著者生前に発行された「銭形平次捕物全集 12」河出書房、1956(昭和31)年10月10日発行の表記にそって、あらためました。
入力:結城宏
校正:江村秀之
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

この表示について / About this rendering

記録は下にリンクした署名済みの TEI ファイルです。このページはそれを読むための一つの形です。読みが複数ある箇所は一つだけを本文に示し、もう一方は語の title に残しています。 / The record is the signed TEI file linked below. This page is one way of reading it. Where the text has more than one reading, the page shows one of them and keeps the other on the word itself, in its title text.

リリース / Release
913b24012e1626b47bebf5a14fd31773728229efdb088f1ceb934717c1ac800c
TEI
/works/058071_001670/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/058071_001670/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/058071_001670/

野村 胡堂「銭形平次捕物控──227 怪盗系図」(新字新仮名)、底本『怪盗系図 長編銭形平次捕物控』桃源社、1971年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 058071_001670, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite