塾長、閣下、諸君、今日は慶應義塾五十年の祭典にご案内を受けまして祝辞を述ぶることは私にとって最も光栄、<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ最も興味を感ずる次第である（拍手）。既にただいままで福沢〔諭吉〕先生に対する種々の御話は、先生の<ruby><rb>薫陶</rb><rt>くんとう</rt></ruby>を受けられた尾崎君に依て、ほとんど<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>なく説明されたのであります。私の言わんとすることも大部分は既に言い尽されたのであります。しかしながらまだ残っている事がある。最も必要な事が残っている。これは私が福沢先生の友人とし――友人といえば少しく<ruby><rb>鳴滸</rb><rt>おこ</rt></ruby>がましいようでありますが、最も<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>するところの先輩とし、ほとんど三十五年間の深い交わりのあった関係からして、ただいま御話しにならぬその以外の、最も必要なる事をこの席に於て述ぶることは、最もこの紀念祭に<ruby><rb>肝要</rb><rt>かんよう</rt></ruby>であると信ずるのであります。

## 〔安政五年は如何なる年か〕

大分色々長い御話があって時が経ちましたからごく簡単に御話を致しますが、まず古い事は除きまして安政五年、安政五年という年は<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる年であるか、この年は「タウンセント・ハリス」、即ち<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にも<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>合衆国の代表者が<ruby><rb>御出</rb><rt>おい</rt></ruby>でになるが、その「タウンセント・ハリス」君が将軍政府との間に結ばれたところの条約、続いて<ruby><rb>露西亜</rb><rt>ロシア</rt></ruby>、英国、<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>、<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>、この五ヵ国と締結されたところの条約に、京都の政府即ち真正なる主権者が批准を与えぬという時に当って、将軍政府は非常なる困難に陥った時であるのであります。その時に当って外国からは、既に条約を結んで何故に批准を与えぬかといって迫って来る。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに内地は諸侯は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>国民の議論は、外国と条約を結ぶことは国を<ruby><rb>危</rb><rt>あや</rt></ruby>うくする、そうしてこれに反抗する。同時に京都に於ては最も反対が<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だしい。これが反対の中心となって全国の有志が皆京都に集った。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>して帝室に於てはこれを<ruby><rb>御拒</rb><rt>おこば</rt></ruby>みになる。ここに於て幕府はその中間に在って、ほとんど板挟みになったその時である。それが即ち安政五年であります。まだ福沢先生が<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>に行かれぬ前である。ここに於て幕府は閣老<ruby><rb>堀田備中守</rb><rt>ほったびっちゅうのかみ</rt></ruby>〔<ruby><rb>正睦</rb><rt>まさよし</rt></ruby>〕を使節として京都に送って、京都を圧迫して批准を得ようという企てをしたが、全国の有志者が大騒ぎ、堀田備中を途中で殺すという騒ぎ、<ruby><rb>到頭</rb><rt>とうとう</rt></ruby>要領を得ずして京都から逃げ返った。こういう時であります。<ruby><rb>是</rb><rt>ここ</rt></ruby>に於て幕府は進退きわまって、その当時の名高い<ruby><rb>井伊掃部頭</rb><rt>いいかもんのかみ</rt></ruby>〔<ruby><rb>直弼</rb><rt>なおすけ</rt></ruby>〕を大老にして、<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>して京都に有名なる大獄を起して、近来の言葉で言えば「クーデター」をやった。御<ruby><rb>公卿</rb><rt>くぎょう</rt></ruby>様も有志もことごとく一網に縛りあげてしまって、而して初めてこの批准交換が出来たのである。これが安政五年五ヵ国条約といって一般に発布された。この中には記憶しておられる方があるだろうが、その時に<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>になった。その時にこの学校が初めて社会に生れたのである。

その当時に於て福沢先生は<ruby><rb>攘夷家</rb><rt>じょういか</rt></ruby>であったか、開国家であったか、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>までは<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く研究しないが、いずれ攘夷は不可能ということは<ruby><rb>無論</rb><rt>むろん</rt></ruby>知っておられた。しかしながらなかなか愛国者である、外国の圧迫に依って、脅迫されて条約に調印するということはあまり満足しておられなかったのであろうと思う。

それからその条約が出来たに依て、初めて幕府は<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>合衆国に使節を三人送った。これは千八百五十八年、安政六年に送ったのである。その時の福沢先生は<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>政府から将軍政府に送ったところの軍艦、軍艦といえば大きいようであるが、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに千<ruby><rb>噸</rb><rt>トン</rt></ruby>以下の「ガンボート」である。それに乗って――二ヵ年ばかり長崎で<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby>の士官に就いて航海術、もしくは機関を扱うこと、そういう事を稽古して、それから水夫も少しばかり稽古して、その他は大方漁夫などを雇い上げて、日本人のみで大胆にも太平洋を初めて渡って<ruby><rb>桑港</rb><rt>サンフランシスコ</rt></ruby>に行った。その時には名高い<ruby><rb>木村摂津守</rb><rt>きむらせっつのかみ</rt></ruby>〔芥舟〕、<ruby><rb>勝麟太郎</rb><rt>かつりんたろう</rt></ruby>〔海舟〕、それに随行して福沢先生が初めて<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>へ行かれた。合衆国の最も田舎、その時にはまだ今日の如く開けない桑港に行った。その前に少しばかり英語をやられたがまだ深くはない。<ruby><rb>桑港</rb><rt>サンフランシスコ</rt></ruby>に行くや否や非常に英語の大切なることを知られた。英語は「アングロ、アメリカン」両大陸に力をもっておる。これが世界に拡まるところの力は、将来世界は英語で必ず支配するであろうという感じを起されて、それから熱心に英語に力を尽された。こう考えるのである。そこで<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>から返ってから一層教育に力を尽すと同時に、多少幕府を助け、条約を施行する上について幾らか助けて、幕府に一時仕えられたのであります。

## 〔福沢先生の困難と勇気〕

そこで先刻の御話では、福沢先生は平易にあらゆることを成功された、実に偉大なる天才を以てすべての方面に少しも困難なしに成功されたというように聞えるのであるが、決してそうではない（拍手）。その時に当ってもはや開国が必要である、「アングロサクソン」の文明を日本に入れることが必要である、英語が必要であるということを感ずるや否や、ああいう性質の人であったから無遠慮にこれを<ruby><rb>皷吹</rb><rt>こすい</rt></ruby>するのである。この時に当って四囲の福沢先生に対する圧迫はなかなか盛んなものであった。<ruby><rb>井伊掃部頭</rb><rt>いいかもんのかみ</rt></ruby>の京都に於ける「クーデター」に依て、一時<ruby><rb>攘夷家</rb><rt>じょういか</rt></ruby>達は閉息したのである。京都も閉息した。ところが<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちその反動が来った。ちょうど<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>合衆国に使節を送って、<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>の文明を視、日本の改革を為そうという幕府の考えは全く一転したのである。<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>の使節が返ってみると、大切なる開国者の井伊掃部頭は桜田の変で不幸にも攘夷家達、乱暴なる有志に殺されたのである。幕府の形勢一変、京都の勢力は非常に強くして、幕府を圧迫して既に攘夷が決したとこういう訳、そこで福沢先生も<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>から返って一層欧米の文明を<ruby><rb>皷吹</rb><rt>こすい</rt></ruby>して、早々日本の文明を進めようとした。ところが内地の形勢は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>攘夷、少しでも開国を論ずる者があれば<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ殺すという、その圧迫はなかなか非常なものである。大抵気の弱い人はやめてしまうのである、やめた人も大分あったのである（拍手）。今日から考えるとなんでもないように思うが、なかなかそういう訳でない、実に恐るべきほとんど朝夕を計られぬという時である。

その時にやはり依然として……多分その時の福沢先生の状態は、封建の武士は今日から見れば、豊かなものと考えている若い諸君がいるかも知れないが、なかなか貧乏している。我輩と同じく貧乏、先刻奥平侯の藩邸などという鎌田〔栄吉〕校長の御話であったが、話で聴くとよほど立派に聞えるが、なあに勤番長屋である、借家長屋である（拍手）。実に貧乏なる状態で、そんな立派なものでない。諸君が夢にも見ることは出来ぬ。これを見ようとすればどこかこの辺の貧民窟へ行ってみると直ぐ分る。ほとんど貧民窟の状態である。その時分の状態なんというものは――、<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>してそれでもなお安んじて人に教える。そればかりではない。一方には今に来て殺しはせぬかという困難がある。前に向わんとすれば貧乏に迫られ、後ろからは攘夷家が圧迫する。腹背敵を受けている。そういう時代に死生の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に立って国の文明を進めることに奮闘されたのである。

ところがその圧迫が来れば来るほど百倍して勇気を揮い起す。無論申すまでもなく、古い写真がこの塾には残っているに相違ない。<ruby><rb>丁髷</rb><rt>ちょんまげ</rt></ruby>を結って大小を帯して真に不様な風をしている。福沢先生の晩年に於ては実に円満なる温和なる、ごくごく常識の高い、決して過激なんどはない、おとなしい人である。こう諸君は思われているか知れぬ。無論平日はおとなしい。しかしながら物に触れて激する時には、ほとんど電光石火の如く、驚くべき勇敢なる働きを為されたのである（拍手）。

## 〔思想界の大革命と破壊的大運動〕

それについては私ども<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>実験がある。その実験の一つを諸君に御話しすることが必要である。多分知っている御方もあるだろう。そうこうするうちに王政維新となって、幕府二百五十年の栄華は終りを告ぐるという時に、福沢先生は小禄ながら幕府の禄を受けておられる。幕府の禄を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>むということは有志家などから見るとよほど不思議に見えるけれども、そうでない。先生の心では国の文明を進めようという目的から、幕府が<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れようとも、伏見の敗北が起ろうとも少しも頓着しないのである。多分<ruby><rb>鉄砲洲</rb><rt>てっぽうず</rt></ruby>か新銭座の勤番長屋に書生を集めて講義をやっておられた。こういう訳である。

ところで当時の多少学問のある人達は皆幕府が傭って開成所というものを造って、外国の文書を翻訳させるということをやった。その仲間は皆西の丸に集って、これは容易ならぬ事である、薩長が天子を擁して幕府に向ってこういう乱暴をする、これに反抗をしようという相談が起ったのである。ところが先生は何度使いをやっても行かぬのである。どうも強そうな奴だが臆病な奴だというのでその仲間が先生の所にやって来て、なんで貴様は腰を抜かした。いや<ruby><rb>予</rb><rt>よ</rt></ruby>は語らぬ、戦争は大嫌いだ。<ruby><rb>内輪喧嘩</rb><rt>うちわげんか</rt></ruby>は大嫌いだ。今はそんな世の中ではない。これから学問して国を文明にする。薩長と将軍の喧嘩――先生は喧嘩と言うておられる――どっちが勝っても<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い――そんな事には命を捨てちゃ<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らぬ。予は語らぬとこう言われた。これがちょっと聞くとなんでもないようであるけれども、<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り間違えば直ぐ殺すという物騒な世の中である。その時には<ruby><rb>彰義隊</rb><rt>しょうぎたい</rt></ruby>などいう奴が上野におって皆殺す、脅迫して皆殺す。ほとんど朝夕を計られぬ。それでも自分の主義のためには少しも動かぬ。

それから到頭王政維新が<ruby><rb>仕遂</rb><rt>しと</rt></ruby>げられて、明治二年になるとどうなったかというと、福沢先生を勧めて共に官軍に反抗しようというた仲間は皆建白を出したということがある。これは先生が一番得意の議論で日記にも書いてあるはず、多分この中におる人達も聞いたかも知れない。最も今日まではあまり世の中に発表すると人に<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えがあった。しかしもはや歴史になった。歴史になったから差支えない。どうやったかというと明治二年になると建白流行の世の中、先生の友達は皆学者で文章が書ける。けれども西洋風の文章、翻訳体の文章、これではどうもいかぬ。大政維新、王政復古というので、昔に復するのであるから古文学でなくてはいかぬ。西洋学者には古文学は出来ない。そこで建白書というものを見ると<ruby><rb>懸巻</rb><rt>かけまく</rt></ruby>も<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>し、そういう文体で建白書を出す。そうすると直ぐに役人に採用する。そういう様にして皆役人になった。ちょうど福沢先生が熱海に入湯しているところへやって来て、面白い世の中になった、お前一つ役人にならぬか、建白をやると直ぐ役人になれると言うと、先生は<ruby><rb>御免蒙</rb><rt>ごめんこうむ</rt></ruby>る、予は懸巻も畏くは大嫌い、<ruby><rb>真平御免</rb><rt>まっぴらごめん</rt></ruby>だ。前に戦争をやろうと言った時に先生の事を臆病者と言った者が、今度は懸巻も畏くになった。だからそういう先生を名づけて懸巻も畏く先生といった。よほど奇談だ。これも今話してみると<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>のように聞えるが、なかなか尋常な事ではない。王政維新の勢いは盛んなるものである。その時には誰でも――ただいま<ruby><rb>牧野</rb><rt>まきの</rt></ruby>〔<ruby><rb>伸顕</rb><rt>のぶあき</rt></ruby>〕文部大臣が御話しになったように、政府万能主義の時代である。何か仕事をしようといえば政府に入らなければならぬ。それに御免蒙るといって決して仕えない。

それからどういうことが起ったかというと、王政維新にはなったが思想界に於ては復古の思想と維新の思想と、二つの潮流が大衝突をしてたびたび叛乱が起り、全国の頑固党は猛烈なる反抗をしてたびたび暗殺をする。立派な役人達もその暗殺に依って<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れたのである。そういう時である。そういう時に先生がどういうことをやられたかというと、私が先生の働きを直接に見、また聴いたところを以て見れば、先生の第一の目的はこの思想界に大変動を起そうというのである。支那的思想、封建的、形式的思想、これを破壊しなければ、到底日本を文明に導くことは出来ぬという。そこでその当時ちょうど英米に於て最も盛んなる功利主義を皷吹した。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>して儒教主義、封建主義、形式的主義を根底から破壊した。その時には随分奇激な言葉もある。今日から見るとあまり大人気ない子供らしい、随分手きびしい極端な議論もあったけれども国民の思想を根底から破壊しようとかかった。ほとんど思想界の革命を企てた。大革命である。思想界の大革命者である。

その時に当って福沢先生を気早い若い人達、頑固の書生達が随分手きびしく圧迫した。それがために当時の慶應義塾の塾生は、福沢先生を保護することに随分心配されたであろう。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>してかくの如き極端なる行為は、当局者にはあまり<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばれなかったのである。さきの大久保〔利通〕公の如き偉大なる人傑は偉大なる人傑を知るのであるが、多数にはあまり悦ばれなかったのである。破壊党とでも認めたのであろう。無論破壊党である。全然この思想界を破壊しなければ、旧物を破壊しなければ、日本を文明に導くことは出来ぬというので、今日までの事業はことごとく破壊である。その時に当っては<ruby><rb>玉石</rb><rt>ぎょくせき</rt></ruby>共に焼くことがあるかも知れない。何でも構わぬ、一たび破壊しなければとても日本を文明に導くことは出来ぬということであったのである。その方から見れば先生に<ruby><rb>親炙</rb><rt>しんしゃ</rt></ruby>した人達が見ると、そういう乱暴な行為は不思議であると思うほどである。

ところが先生ひとたび意を決して国のため社会のためにこれなりと認めると、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる反抗があっても生命を賭して<ruby><rb>驀進</rb><rt>ばくしん</rt></ruby>する。即ち破壊的大運動をなすのである。この勇敢なる行為というものが先生をして今日の如くあらゆる方面に向って成功せしめ、且つ多数の国民が先生に向って十分なる尊敬を表するという如く偉大ならしめたところのものは、基本は何であるかというと、即ち破壊的大運動である。その当時に書いたものが残っている。それをご覧になると皆破壊であって、日本の旧来の道徳を根底から破壊した。その破壊の余波が婦人の問題にも及んでいるのである。政治の問題にも及んでいるのである。経済の問題にも及んでいるのである。あたかも「コップ」の水をぶちまけると四方に流れるという様な訳で、破壊的運動の余波があらゆる方面に及んだのである。その間に常識が発達して且つ円満にあらゆる方面に働いたのである。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>して「アングロサクソン」の文明と「アングロサクソン」の精神を日本の国民に先だって了解されて、これを日本の文明と結付けて而してこれを理想界に人に教える位ではない、直ちにこの理想を実現しようという大勇気を出して運動をやられたのである。而してそのために非常なる反抗を受け、非常なる圧迫を受けた。非常なる困難というものが、到頭先生の最後の成功となったのである。今日に至って国民が皆先生の徳を慕うというのは、即ち明治初年に於ける破壊的大運動、日本の精神界に思想界に大破壊を加えられた、これが<ruby><rb>基</rb><rt>もと</rt></ruby>いである。そこで晩年に至って先生の種々の修身、もしくは独立自尊、あるいは婦人問題という建設的の道徳論が<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>あるのは、ちょうどその破壊の後始末であると考えるのである（拍手）。

## 〔慶應義塾には福沢先生の精神が宿っている〕

私は先生が<ruby><rb>歿</rb><rt>ぼっ</rt></ruby>するまで年をとるに従って<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>交わりを親しくした友人である。最も畏敬する先輩として、実にあの人を失ったのは非常に悲しむのである。しかしながら福沢先生の精神と思想というものは即ち慶應義塾という一の団体、この団体は有機体である。その精神に福沢先生が宿っている。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>してこれは次第に発達するに相違ない。而して福沢先生の思想はまだ十分の一も実現していないのである。ことに先生の末年に於て、精神界に於ける道徳上の問題についてはその端を発したというだけである。これは先生が諸君に責任を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>した。慶應義塾という有機的団体に遺されたものであると信ずるのであります（拍手）。

この五十年の祝典はその福沢先生の精神が大なる図書館となって現われた。同時にその精神は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>慶應義塾をして将来に発展せしめ、而して無論官立も公立も私立も、沢山学校はあるが、これを兄弟として論ずれば一番兄である。恐らくは帝国大学その他の官立公立、あらゆる学校を合しても遥かに年少である。慶應義塾は一番先輩である。而して日本に新文明を皷吹する上に於て、実に偉大なる指導者である。かくの如く慶應義塾という団体的生命には、福沢先生の精神が宿っているのである。人の生命には限りがあるが、この心霊的精神、慶應義塾という団体の精神は永久的のものである。国家と共に繁栄するものである。而して国家に向って大いに貢献するものであると信ずるのであります（拍手）。それ故に既往を祝すると同時に将来の慶應義塾の発展を祝するのであります（拍手喝采）。