Soranoha

観想の時

かんそうのとき

北原 白秋

黎明の不尽

天地あめつちの闢ひらけしはじめ、成り成れる不尽の高嶺たかねは白妙の奇しき高嶺、駿河甲斐二国ふたくにかけて八面やおもてに裾張りひろげ、裾広に根ざし固めて、常久に雪かつぐ峰、かくそそり聳やきぬれば、厳いかしくも正たゞしき容かたち、譬ふるに物なき姿、いにしへもかくや神さび神ながら今に古りけむ。たまたまに我や旅行き、行きなづみ振さけ見れば、妻と来てつつしみ仰げば、あなかしこ照る日もわかず、暮れゆけば雲巻き蔽ひ、霹靂はたゝがみはためくさへに、稲光青さをの火柱、火ばしらの飛ぶ火のただち、また、とどろ雹ぞ飛びたる。御殿場のここの駅路うまやじ、一夜寝て午夜ごやふけぬれば、まだ深き戸外とのもの闇に、早や目ざめ猟犬かりいぬが群、勢きほひ起き鎖曳きわき、跳おどり立ち啼き立ち急せくに、朝猟の公達か、あな、ひとしきり飛び連れ下りる騒さうぞきの、さて出立でたつらむ。けたたましく自動車の鳴り爆はぜる音、咽喉太のどぶとの唸り笛さへ凝こり霜の夜凝よごりに冴えて、はた、ましぐらに何処いづくへか駈け去りぬ。底冷そこびえの戸の隙間風、さるにても明け近からし。目のさめて明告鳥あけつげどりの息長に啼き呼ばふ声、そことなく応こたふる声の裾野原揺りどよもすに、おのづ覚め我は在りけり、目はさめて我もありけり。つくづくと首延のし見れば、こちごちの濃霧こぎりのなびき、渓の森、端山の小襞こひだ黒ぐろとまだ気けぶかきに、びようびようと猛ける遠吠、をりからの暁闇あかつきやみを続け射つ速弾はやだまの音。たださへも益良夫ごころ溢れ揺り抑へもあへぬを、見透かせば渦巻く霧の瑠璃雲の漂ひが上、数かぎりなき糠星の瓔珞の中うち、あなあはれ不尽の高嶺ぞ、白妙の不尽の高嶺ぞ、今し今、一きは清き紫の朝よそほひに出で立ち立てり。夢か、こは、まことなりけり。夢ならず、現うつつなりけり。起きよ起きよ。まことこれ日の本の不尽、木花咲耶姫の神、神しづまりに鎮まらす不尽の御嶽みたけぞ、見よ目に見えて近ぢかと明け初むるなれ。起きよとて妻揺りたたき、目ざめよとまた呼び覚まし、口漱ぎ、さて、身をきよめ、さむざむと袂合はし、しみじみと二人い寄り、ひたすらにかくて見恍ほれぬ。時ありぬ。やや時経れば、ほのぼのとして薄明る山際やまぎはの色、黎明しののめの薄樺いろに焼け明るその静けさに、日出づる前か、明鴉かをかをと二羽連れだちて羽風切る、その羽裏いよよ染みたり。はたはたと山鳩もまた二羽競ひ行く。観る人も妻とし見れば飛ぶ鳥も連るるものかも、うれしやと妻は見て云ふ、我もまた微笑みて見つ。さるからに、薄紅き蓮華の不尽の隈ぐまの澄み明りゆく立姿、頂いたゞきの辺べは更にも紅あかく、つや紅く光り出でたれ。よく見ればその空高く、かすかにも靡くものあり。高うして吹雪すらしか、かすかにも雪煙立ち、その煙絶えずなびけり。いよいよに紅く紅く、ひようひようと立ちのぼる雪の焔の天路あまぢさしいよよ尽きせね、消えてつづき、消えてつづけり。あなあはれ、かのいつくしさ、このかうかうしさ。眺むれば見れども飽かず、言ことにさへ筆にさへ出ね。あなかしこ、不尽の高嶺は日の本の鎮めの高嶺、神ながら奇くすしき高嶺、この高嶺まれに仰ぎてこの朝新あしたあらたにぞ見て、この我や、ただこの妻と、ただ得も云へず涙しながる。

遠山脈の歌

上つ毛の加牟良かむらの北に天あまそそる妙義荒船、遥はろばろと眺めに出づれば、この日暮ふりさけ見れば、いや遠し、遠き山脈やまなみ、いや高し高き山脈やまなみ、いやが上へに空に続きて、いや寒く襞ひだを重ねて、幾重ね、幾畳たたなはり、末すゑ遂に雲居にぞ入る。かりそめの旅にはあれど、夕されば内にも堪へず、外とに出でてひとりありけり。向ひ吹く川の瀬の風、川風の吹きの凍こごえに我が向ひ辿る高崖、遥か見る北の山脈。冬も早や絹のつや雲、巻雲の巻きのなびきに、氷凝ひこり雲層雲かさぐもの群、重ね雲、寂び金の雲、下明あかり雲ともわかず、薄ぎらひ山ともわかず、たださへも現うつつならぬを、たださへも果てしわかぬを、日の射すか末広の虹幾すぢか透きて落せり。かうがうしその薄光、寂び寂びしプラチナのすぢ、濃き淡き峰の畳みに、引きちがふ山の小襞に、また雨と和なごみ注げり、柔かき金色の霧。あな遠し遠き山脈、あな高し高き山脈、立ちとまり見れども消えず、目ふたぎて傷めど尽きず、目翳まかげして遥けみ見れば、いや寂し薄き陽ひの虹、また見ればさらに彼方に、いや高き連山つらやまの雪、いや遠き連山つらやまの雪、ひえびえと、つぎつぎと、続きつづきて耀かゞやきいでぬ。

竹と曼珠沙華

わが門かどの竹の林に、曼珠沙華赤く咲きたり。竹の根の一つ一つに、この華はなや六つ七つづつ、日に増しに数かさみゆく。怪しくも赤き巻髭、髭細の蓮華なす華はな、咲き盛るその華見れば、おのづから秋も澄みけり、いよいよに風も寂さびけり。隣り寺、寺の古墓、日あたりは未まだも暑けど、墓掃くとかがむ影すら、阿閼汲むと寄るすらも無し。あなあはれ、摩訶曼珠沙華、出で入るとひとり眺めて、時をりは妻と眺めて、昨日きのふゆかいよよ殖ふえしと、まだ今日も赤しとぞ見る。孟宗のしだれ笹ゆゑ、陽ひは射させどいぶせき籔を常くぐり我は在りけり。わびしけど遊び馴れけり。山住の心安さは籔越しに浪の音聴き、里囃子うれしとも聴け、施餓鬼過ぎ流石さびしく、人訪はぬ今は堪へえね、また出でて竹の根見れば曼珠沙華赤く赤きに、ちらと向き、釣眼つりめ野狐、うしろ向き尖り口して、小籔吹き、吹き吹く風に、日の暮に、あな、飛び飛びて消えつつ失せぬ。

竹の林の歌

雨あとの竹の林に、夕あかりかがよふ見れば、その竹の湿しめる根ごとに、何か散り、深く光れり。その節のひとつひとつに、何かまた溜り光れり。其笹のさみどりの葉に、何かまた揺れて光れり。金色こんじきのその光るもの、こまごまと目に染しみるもの、雨ふりてあかれるのちは、とりわけて揺れてうつくし、寂しくて見てゐるきははいよいよに消えてうつくし。揺るるともただ見て居をらむ、消ゆるともまた見て居らむ、堪へ堪へて日の暮るるまで、なほなほに寂しがりつつ。わが宿の竹の林の夕あかり、裏山松の松風も聴けば親しさ。

蜩の歌

蜩かなかなの啼き連るるなり。二つなり。啼き連るるなり。その二つ啼きやめばまた、こなたより啼きしきるなり。ただ一つ啼きしきるなり。孟宗の片日射なり。山松の遠日射なり。かなたには輝りきらふ海、こなたにはわたる山霧、山ぎりに山の施餓鬼のほとほとに果つる頃なり。金色こんじきに秋の日射の斜なし澄みとほる中、蜩かなかなは啼きしきるなり。急せき急せきて啼き刻むなり。二つ啼き、一つ啼き、また、こもごもに啼き速はやむなり。

蜩が二つ啼きまた一つがこもごもに

湯どころの秋

ねもごろの日のあたりかも。そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅の傍に斑牛まだらうしひとり居りけり。安らかに繋がれてけり。山峡の湯どころの秋。出でて見れば、下の小橋を杖つきて渡る子もあり。垂稲の黄ばむ田づらはをりふしに雀むれ立ち、道ぞひの茅屋の庭に白菊の盛り見せたる、胡麻と栗並べ干したる暇いとまある心に見ればなかなかに今日は安けし。向つべに日のかげる山、なほ明あかく温かき山、その空の白き綿雲、ちろちろと渡る禽とりさへなかなかにあはれとも見れ。妻と来て、二人来て、七日まり住み馴れてのち、やうやうに紅葉もみぢ色づく遠近をちこちのこの眺めなる。あなあはれ、ねもごろの日のあたりかも。そことなき湯のけぶりかも。日のあたる原のかたへに欅立ち、欅のかげに斑牛ひとり居りけり。繋がれてただねんねんと草食はみにけり。

秋山の歌

秋山のなぞへの薄すすきひとつらね揺りかがやけり。秋山の名も無き山の草山の山の端薄はすすき、その穂の薄揺りかがやけり。この夕、出いでて見て、岨そばゆ見て、丸木橋妻と渡りて、また見ればまだかがやけり。その薄刈る人もあり。また負ひて下り来るもあり。下りて来て、行きすぎざまにさわさわと背そびら見せゆく、さわさわの背そびらの薄またかがやけり。雲白くうかべる峡の日屯ひだむろの空間そらあひの中、こまごまと飛べる羽虫も、よく見れば一つ一つに命あり、舞ひ立ち光る。閑しづかなり、ただ安らなり。まだ深き日のあたりなる。暑からず、寒くしもなく、まだ温ぬくき日のかげりなる。湯どころのうしろの山の秋山のその柔かき草山のこのもかのもにさわさわと音する薄、穂薄の、今日来て見れば、揺りかがやけり。あなあはれ、我も見て、妻も出て、二人ながむるさわさわ薄、そのさわさわ薄。

岡の鉾杉

わが宿の岡のなぞへに杉いくつ屯たむろせりけり、せうせうと屯たむろせりけり。鉾杉のひとむら木立鉾杉の鉾を並べて、この朝明あさけしぐるる見れば、霧ふかく時雨るる見れば、うち霧らひ、霧立つ空にいや黒くその秀ほうかび、いや重く下べ鎮しづもり、いや古く並び鎮もる、凡なべてこれ墨の絵の杉、見るからに寒し厳いつかし、かうがうし、寂さびし崇高けだかし。あなあはれ、岡の鉾杉、をちこちの小竹ささのむら笹、柿もみぢ、梅が枝えの蔦、とりどりに色に出づれど、神無月すゑの時雨に濡れ濡れてその葉枯れず、落葉せず、透かず、薄れず、ただ上うはべわづか赭あかみて天鵞絨びろうどの焦茶いろすれ、深ふかぶかと黒くか青く、常久に古び鎮しづもる。寂しくも寂しき姿、堪へ堪へて常立つ心。あなあはれ冬の鉾杉、海ちかき岡の鉾杉、鉾杉の渦うづ成なす霧に、涯はて知れぬ海も見わかず、ひさかたの空もえわかね、時をりは渡りの鳥のはぐれ鳥どりちりぢりと落ち、羽重はねおもの一羽鴉も飛びなづみややに来て揺る。あなあはれ、雨の鉾杉、見てあれば幽かすかに揺れて、ふる雨に幽かに揺れて、ただせうせうと音たてにけり。

榧と栗

伝肇寺でんでうじ、小ちさき古寺、此寺の山の墓場に、榧かやと栗並び立ちたり。並び立ちともに老いたり。榧の木は栗の木のそば、栗の木は榧のかたへにさびさびて、すでに老いたり。その榧よいつよりか老い、この栗よいつよりか立つ。榧と栗さびにさびつれ、なほし未まだ花は咲きけり。年ごとに花はつけけり。榧の木はかすかなる花、栗の木は露あらはなる花、その榧に小ちさき榧の実、この栗に栗の青毬、風吹けば実さへ毬さへまたいつかこぼれこぼれぬ。枯れ枯れて土にかへりぬ。見る人も知る人もなし。寺まうで墓まうでびと、たまさかに蹲かがみ通れど、誰ひとり振りは仰がず、誰ひとり眼にもとめねば、ただ二木ふたき立てるのみなる、榧と栗さびるのみなる。あなあはれ、榧と栗の木、落葉する栗も寒けど、常青く立てる榧の木、冬の日はことに高しよ。栗の木はいよよ透けれど、榧の木はいよよか黒く、薄日射函根の入陽いりひ秀ほに受うけてひとり尖とがれり。いや黒くひとり堪へたり。雨まじり霙ふる日も風まじり雪の飛ぶ夜も、こごしくも凍こごえ立ちたり。親しくも立ちて堪へたり。あなあはれ、老木の二木ふたき、親しくも並ぶ姿の、寂しくも隣り合ふ木の頼り無き二木を見れば涙しながる。

孟宗と月

さわさわと揺るるものあり。午夜ごやふけて揺るるものあり。わが窓の硝子戸の外そと、真透ますかせば月に影して凍こごえ雲絶えず走れり。円かなる望月ながら、生蒼なまあをく隈くまする月の、傾けばいよよ薄きを、あな寒さむや揺るる竹あり。孟宗の重きしだれの重かさなりのその上へに抜けて、ただひとり揺るる秀ほのあり。目か醒めし、夜風か出でし、さわさわと揺れて遊べり。しだれつつ前にうしろに、照りかげり揺れて遊べり。円まどかなる望月ながら生蒼なまあをく隈くまする月の飛び雲の叢雲むらくもが間あひ、ふと洩れて時をり急に明るかと思ふ時なり。目に見えてさわさわさわと、照り浮ぶ孟宗の、あな、一きは強き、狐光きつねびかりのその月に、さながら生きて踊るかに、近明ちかあかりして勢きほひ舞ふ、かと見れば、また、何か暗く薄かげりして、揺ゆらぎ止み、揺ゆらぎ騒立さやだつ。此夜よさや、夜鳥も啼かず、藪かげの隣となりの寺もしんしんと雨戸鎖さしたれ。時として川瀬の音おとの浪の音ねと響き添ふのみ。それもただ遠し、気疎けうとし。あなあはれ、この夜の山に、何しらず目のさめしもの、我のみか、揺れそよぐあり。揺れそよぎ、独り遊ぶと、揺れそよぎ、この目の外そとに、また、さわさわと音立ててゐる。

冬の山岨

玉くしげ函根の山は短か日のことに短かく、み冬さり霜下おり来れば、午ひる過ぎて日の目も知らず。向つべの山は明れど、こなたなる高山の岨そば、風寒く木の葉ちるのみ。早や早やも土は凝こごりて、岩角の犬羊歯が下、枯れ枯れの雑木の根ごと、そくそくと氷柱つららさがれり。ほきほきと、氷柱掻き折り、かりかりと噛みもて行けば、あな冷つめた、つめたかりけり。妻もまた冷つめたよと云ふ。二人ゆく高崖の上、何の枝えぞ透きてこまかにつや黒の果みをちらつかす。ふり仰ぎ透かし見すれば、高く澄む空の青きにひえびえといそぐ雲あり、また薄く消ゆるものあり。長尾鳥飛びて叫ぶに行きなづみ、蹲こごみてあれば、あなさむや、渓裾紅葉たにすそもみぢ鉾杉の暗きを出でて、ひと明あかり紅あかく燃えたり。その紅葉淵に映れり。人知らぬ寂びと静けさ。その下しもに飛び飛びの岩、岩もまた幽かすけかりけり。冬はなほ幽けかりけり。あなあはれ、欅の枯木、行き行けば見る眼に聳え、滝落ちてかげり陽び迅はやし。あなあはれ、山の端薄陽うすび。下しも見れば早や塔の沢、こちごちに湯の香か煙けぶりて、ちらちらと揺るる燈ひの見ゆ。海見えて漁火いざりつく見ゆ。この岨や馴れし山岨、遠く来し旅にもあらね、さは急ぐ道にもあらず。我がどちや言ことにこそ出でね、今さらの連れにもあらねば、ただ二人ほつりほつりと、日の暮はほつりほつりと、また家路さし下くだるのみなり。下るのみなり。

冬の棚田

丘窪の冬の棚田たなだはねもごろにうれしき棚田。寂び寂びて明るき棚田。たまさかに鶸茶の刈田、小豆いろ、温かきいろ、うち湿しめる珈琲の土つち。下田しもだにはいくつ稲村白金プラチナの笠めき和なごめ、上畑かみばたは緑の縞目、わづかにも麦ぞ萠えたる。その畑に動く群禽むらどり、つくづくと尾羽根振りては、また空へ飛び立ち翔かける。あな冷つめた群むれの鶺鴒せきれい群れ飛べど目にもとまらず。いづこにか鵯ひよは叫べど、風騒ぐけはひも聴かず。ただ低き日あたりの中、茅屋根の物静かなる、紫に寂び沈みたる、人気なき庭にはあれど、背戸ごとに柿の実も見ゆ。裏丘へのぼる小径こみちは孟宗の林に見えて、その籔の上の日向に蜜柑もぐ人もよく見ゆ。声高にさては語りて燧石ひうち切る莨火たばこびも見ゆ。珍らかにいとど澄めばか、遠近の枯葉のくぬぎ、草もみぢ、耀く薄、おしなべてかくて安やすけし。あなあはれ、ここの丘窪、明るけど古さび棚田、うれしけど冬の日棚田、その空に翔かける群禽むらどり、鶺鴒の薄黄の尾羽のただ波うちて影もとまらず、影もとまらず。

荒浪千鳥

磯長しながの小こゆるぎの浜、この浜や荒浪高し。この夜ごろいよいよ高し。時化しけつづき西風強く、夜は絶えて漁火いざりすら見ね、をりをりに雨さへ走り、稲妻の青さをの映うつりに、鍵形かぎがたの火の枝の棘はりひりひりと鋭とき光なす。其ただちとどろく巻波まきなみ。時として雹さへ飛ぶに、なにぞ何なぞ乱るる鳥は。なにぞ何なぞ散り散る鳥は。目に見れば数かぎりなく、声きけば消けなば消けぬかに、へうへうと連れ啼く鳥の、百千鳥、荒浪千鳥。荒浪の穂立ほだちの空を、とまるすべ、寝ぬるすべ知らに、ただ飛びて散り散る千鳥。此海や涯はてし知られね、この荒れや測り知られね、初夜しよや過ぎて、また後夜ごやかけて、闇ふかく翼はねふる千鳥、この雨を、また稲妻を、ひた濡れて乱るる千鳥。ある声は遠くはぐれて、ある群は千鳥型がたして、また或あるは陸くがの方向き、また或あるはちりちりと散り、すれすれに或あるは落ちつつ、波の上驚きて飛び、時に消え、時に明り、いよいよに暗く恐れて、いよいよに青さをに染そまりて、時わかず連れ啼く千鳥、へうへうと凍こごゆる千鳥。いつまでか全またく迷ふぞ、いつまでか飛びてやまぬぞ。

磯長しながの小ゆるぎの荒浪千鳥。荒浪の天そらうつ波の逆まきのとどろきが上、あああはれ、また向き向きに、稲妻の青さをの脅おびえに連れ連れ乱る。啼き連れ乱る。

落葉行

ひとりゆくこの山岨やまそばは落葉のみ溜り湿しめれり。落葉踏みつつ行けば、いづく飛び鵯高音うつ。かさこそり、櫟くぬぎの枯葉わがかたへまた声立てぬ。日おもての草崖薄くさがけすゝき、その穂にも落葉かかれり。草紅葉まだ温ぬくけれど、その上へにも落葉うごけり。向ひ山、こなたの小丘、見るものはみな枯木のみ。空ぐるま軋るを見れば、上岨うはそばを尻毛振る赤馬あか、ひようひようと吹かれゆく馬子、みな寒き冬のものなり。渓の上への小茶屋の椅子も紅葉積み、その渓かけて、はらはらと落葉ちりゆく。山窪の幾むら藁屋、水ぐるま廻まはれる見れば、ほとほとに水も痩せたり。欅原ばらただ目に寒く、入りゆけば陽ひの目薄きに、雨のごとちる落葉あり。よく見ればいよいよ繁し。声立てていよいよ寂さびし。ほうほうと立てる雑木の岨路そばぢゆき、別れ径みちゆき、当処あてどさへ果てはわかねど、風のまま歩みのままに、行き行けばただ落葉なり。前うしろただ落葉なり、かさこそと、また、はらはらと、空にも地にも声ばかりして。

落葉吟

かうかうと照る月ながら、雨のごと飛ぶ落葉かな。ああ落葉、その影見れば、秋も早や老いにたるらし。ああ落葉、その声きけば、おのづから冬か待たるる。身の老おいといふにはあらね、おのれまた若しともなし。さやけさはかかる夜ながら、見の恍ほれむ光にあらず。杉木立青きはあれど、隣山となりやま早やも痩せたり。枯れ枯れの木の枝えを透きて、月はただ遠くあらはに、落葉また風に吹かれて、へうへうとかぎりも知らず。いつの日かまたと還らむ、いつの世か久しかりちふ。これやこの常なかる世に年月の移らふまにま、我はあり、我はあれども、いつ知らず後あとべのみ見る。なほなほも先きぞ気遠き。而かもなほ過ちにけり。つくづくと耻ぢ泣きにけり。さりとては諦あきらめも得ず、また和のどの悟りをも見ね、ただすこしおのれ知るからただ堪へて遜へりくだるのみ。ややややにかくてあるまで。寂しがり寂しがるなる。ほとほとに堪へは得ぬとも、この寂びや、身もて得し寂び、せめて者まだ頼りなる、ただたのみただ守るべき。ただひとり物も思はむ。さてひとり歩み歩まむ。あはれなる末の末かも、飛びちらふ落葉なるべき。落葉なら風のまかせよ。照る月に、北山風に、夜あらしに、影は影とし、はらはらと、ただ、はらはらと声ばかりせよ。

おらもまたあなたまかせぞ一茶坊

水仙と菊

窻掛の絹寒冷紗きぬかんれいしや、硝子扉どの外そとの短か日、短か日の斜の陽ざし。窻掛の絹寒冷紗、其蔭の水仙と菊、鉢台の薄玻璃の壺。今朝咲きし一重水仙、いつの日か挿しし寒菊。冷たくて白き水仙、やや温ぬくく黄なる寒菊。水仙の青さをの葉は張り、寒菊の葉は半ば枯る。水仙は水仙の影、寒菊は寒菊の影、その壺も玻璃の影して、栗色の砂壁に在り。硝子透き、窻掛を透き、斜め陽びの明あかるみぎりは冬もなほいつくしく見ゆ、頼たより無き影としもなし、柔かく親しかりけり。薄玻璃の影もゆらげり。妻とゐる二階の書斎、午ひる過ぎはただ閑しづかなり。湯沸のふき立つる湯気、わがふかす煙草のけむり、また揺れてその壁にあり。妻の影、わが影もあり。水仙と寒菊の花、現身に正眼まさめに見れば、まこと今あはれなりけり。水仙と寒菊の影、現なく映うつらふ観れば現なし、寂さびしかりけり。近々と啼き翔る鵯、遠々とひびく浪の音と。誰か世を常なしと云ふ、久しとも愛かなしとも思もへ。山に住み世に離さかるとも、全またく世を厭ふにあらず、五月蠅うるさやと切せちに思へど、人来ねばたづきも知らず、妻と我、二人居れども、かくてあれども、時をりはただ寂しくて眼を見合せぬ。

竹林の早春

わが庵の竹の林にこぬか雨今朝も湿しめれり。春さきのこぬか雨なり。ふるとしも見えぬ雨なり。こぬか雨笹にこもりて、香かう焼たけば香かうもしめりて、事もなし、ただ明るけし。こまごまと濡れかかるのみ、漂渺と煙曳くのみ。しづかなり、唯安らなり。顔出してつくづく居ゐれば、笹子啼き、目白寄り来る、笹葉揺り揺りて又去る。散りたる去年こぞの枯葉も寂しけど寒しとも無み、何かしら萠ゆる緑の春は早や竹の根にあり。よき湿しめりかくて湿らば、竹煮草、葛、蕗の薹ややややにすずろき出でむ。髭長の籔の菎蒻、菫など、やがて咲くべし。松風の声は沈めど、常ならぬわびしさならず。裏岨うらそばののぼりくだりに、ほつほつと通る馬さへ時をりは青きつけつつ、声高こはだかの人の話も濡れながら行けば親しき。静こころ香かうをつぎつつ、さて、今日もうら安くこそ。こぬか雨ふるがごとくに、こまごまといつくしみてむ、春さきの我の思を。

元旦の夜のこと

あな踈忽そこつ、吐息といきいでたり。気にかけそ、何といふ事もあらぬを。また妻よ、焙ほうじてむ玄米の茶を。来む春の話、水仙の話、やがて生れむ子のことなども話してむ。元旦のこの夜の深さ。山住の我らなるゆゑ、いついつとかはりは無けど、今日はまたとりわけて、とりわけてよろしかりけり。全く今しづかなりけり。今さらに何をかや云ふ。この夜さのこの安けさは神ぞただ守りますべき。心ゆくうれしさの中、我は唯詩を思ふなる、汝みましまた差しのぞくなる。しづかなり、ただあはれなり。筆動く音のみぞする。身じろきの、息のみぞする。さてあらば夜も明けぬべし。あれ聴けよ、鶏とり啼くらしき。また聴けよ浪の音なる。二人ただかくて起きゐて、まこと今ただ二人なる。二人なるいのちの息のおのづから触れかよふかな。親しくもゆき通ふかな。蜜柑なと一つむきてむ。近々と火にむかひゐむ。またすこし炭つぎ足して、さて待たむ。二日の朝の海原の紅き日の出を。

蕗の薹

新らしき蕗の薹かな。珍らしき苦にがき香かぞする。その蕗の薹一つ刺し、二つ刺し、竹の小串に三つ刺して、さて味噌つけて、火に焼きて、あな苦さよと一つ食べ、あなうまさよと二つ食べ、あないつくしと三つ食べて、さてさびしやと我ゐたり。春さきの夜のあは雪の消けなば消けぬかの声聴きてけり。そのしばらくは。

聴けよ妻ふるもののあり

聴けよ、妻、ふるもののあり。かすかにもふるもののあり。初夜過ぎて夜の幽かすけさとやなりけらし、ふりいでにけり。何かしらふりいでにけり。声のして、ふりまさるなり。雨ならし。いな、雪ならし。雪なりし。雪ならば初はつの雪なる。よくふりぬ。さてもめづらにふる雪のよくこそはふれ、ふりいでにけれ。さらさらとまた音たてて、しづかなり。ただ深むなり。聴けよ、妻、そのふる雪の満ち満ちて、ただこの闇に舞ひ深むなり、ふりつもるなり。

たまさかに浪の音する夜の雪なり

ころころ蛙の歌

春さきのころころ蛙、一つ鳴き二つ鳴き、ころころと後あと続け鳴き、ふと鳴き止み、くぐみ鳴き、また急に湧わきかへり鳴く。いよいよに声合あはせ鳴く。近き田のころころ蛙、よく聴けば声変り鳴く。声変り一つ一つに、あなをかし、鳴けるさま見ゆ。あちら向きこちら向き、飛び飛びて、また水くぐり、うちひそみ、頬をふくらかし、鳴き鳴ける咽喉のさま見ゆ。あなをかし近田の蛙。さみどりの根芹が湿しめる、塗畔ぬりあぜかまだ新らしき。雨もよい雨よぶ声の寒けども寒しともなし、寂しけどなにか笑へり。友よびてまた鳴く蛙遠田にも遥かどよもす。あなあはれ遠田の蛙、また聴けば遠く隔てて、夜の闇の瀬の音と隔てて、いや離さかりうち霞み鳴く。また寄せて近まさり鳴く。遠つ浪辺へに寄するごと、遠つ風吹き寄するごと、その声は夜空つたひて、いよいよ近く響きて、さて絶えて、また続け鳴く。近き田もまた競ひ湧く。初夜過ぎてまた後夜ふけて、なほなほにどよもす声の、おそらくは夜の明くるまで。萠黄月、月の円暈まろがさ、遠近の薄き飛び雲、濡れ濡れてちらめく星の糠星のかげ白むまで。ころころとまたころころと、夜もすがら、夜をただ一夜、春さきのをさな蛙が、声かぎり、また声かぎりここだく鳴くも。

底本 / Source edition

底本:「白秋全集 8」岩波書店
1985(昭和60)年7月5日発行
底本の親本:「大觀 二月號 大隈侯哀悼號 第五卷第貳號」實業之日本社
1922(大正11)年2月1日発行
初出:「大觀 二月號 大隈侯哀悼號 第五卷第貳號」實業之日本社
1922(大正11)年2月1日発行
入力:フクポー
校正:岡村和彦
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/057974_000106/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/057974_000106/

北原 白秋「観想の時──――長歌体詩篇二十一――」(新字旧仮名)、底本『白秋全集 8』岩波書店、1985年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057974_000106, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite