## <ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>

うす寒い秋風の<ruby><rb>町角</rb><rt>まちかど</rt></ruby>に、なんの気もなく見る時ほど思わず目のそむけられるものは、女の<ruby><rb>呪詛</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>をたばねたような、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かもじ</span>のつり看板です。

<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>の長いおどろしき黒髪が軒ばに手招きしている<ruby><rb>小間物店</rb><rt>こまものみせ</rt></ruby>は、そこのうす暗い奥に、とろけそうなたいまい、<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby>、金銀青貝の<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>るい</rt></ruby>が、お花畑ほど群落していようとも、男にとっては、まことに縁なきけんらんで、それに女性の<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>を連想すれば、かえって魔術師の箱をのぞくようなふしぎな気味わるさにとりつかれる。

よ、つ、め、や。

一字一字こう白く<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>のれんに裂かれて風にうごいている店の軒に、そのおどろしき物がブラ下がっています。茶屋町の横丁はもう<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>日影で、<ruby><rb>雷門</rb><rt>かみなりもん</rt></ruby>の通りからチラホラと曲がる人かげも、そこに縁なき男どもばかりで、<ruby><rb>枯柳</rb><rt>かれやなぎ</rt></ruby>がまい込むほか、午後になって<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>の音もせず、店はいたって閑散な日。

「おや？　……」

桐箱とひとしくキチンとすわって、<ruby><rb>鬱金</rb><rt>うこん</rt></ruby>のきれで<ruby><rb>鼈甲脚</rb><rt>べっこうあし</rt></ruby>をふいていた<ruby><rb>新助</rb><rt>しんすけ</rt></ruby>は、のれんの<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>から見える往来へ、色の小白いよい男にしては、ちょッと<ruby><rb>険</rb><rt>けん</rt></ruby>のある目を送って、

「――今の娘だが」

小首をかしげて、通りすぎた下駄の音にまで耳をすましたが、やがて、細口の銀ぎせるに、<ruby><rb>水府</rb><rt>すいふ</rt></ruby>をつめて、一ぷく、たばこずきらしく深く吸って、また物待ち顔に、往来を気にしている。

<ruby><rb>浅草界隈</rb><rt>あさくさかいわい</rt></ruby>に、見かけない娘――今までたしか三度もこの前を行き戻りしたが？　……と思うそばから新助のニヤリとしたのは、この男にありそうな銀流しのうぬぼれ。

たばこ屋に<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>くぼのある娘をおくように、小間物屋にこの<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>の男を坐らせておく商法の<ruby><rb>機微</rb><rt>きび</rt></ruby>は、今も昔も変りないものとみえました。しかし、気になるのは新助の目で、うす暗い中にジッといる猫目という感じ――ことにあらぬ所を見て何か考えている時は、どうも女たらしの<ruby><rb>手代</rb><rt>てだい</rt></ruby>にしては、<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>に過ぎたる<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しさのあるのが気になる。

「また帰ってくるにちがいない」

こんな予感をもったらしく、新助はわざと往来を気にして往来を見ずにいると、やがて案のじょう、のれんの下に影がさして、

「あの……」

と、お客様です。

「いらっしゃいまし」

「おたくに、油はありますか」

「油？　……へい、びんつけで」

「いいえ、<ruby><rb>伽羅</rb><rt>きゃら</rt></ruby>か、でなければ<ruby><rb>松金油</rb><rt>まつがねゆ</rt></ruby>でも……」

「おあいにくさまでございました」

「そう」

客は軽く立ち去って、別のものを見ようともしない。けれど、それは新助が心まちをみたしに来たさっきの<ruby><rb>紫頭巾</rb><rt>むらさきずきん</rt></ruby>の娘ではなく、お珍しくない近所の引ッかけ帯のおかみさん。

あきらめました。もうそろそろ<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を入れなければならない。新助はザッと店を片づけて表に立ち、のれん棒を持って軒のものを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>しにかかる。

夕方の風が砂と落葉をまいてゆきます。

と――その時、

「ちょっと、お伺いしてみますが……」と、いかにもオズオズした様子で、店口へ寄ってきた女を、新助は見ると共に、

「あ」

来たナ、と思わず<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>つぼに<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るのを隠し、あわてて<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>しかけたのれんを戻すと上へ<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>けあがって、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を<ruby><rb>四角</rb><rt>しかく</rt></ruby>く、

「さア、どうぞお掛け下さいまして」

一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>あまり疑いつかれていた娘の姿を、まともから見上げて、紫の頭巾につつまれたその<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>だった目鼻立ちの美しさに、また<ruby><rb>瞠目</rb><rt>どうもく</rt></ruby>を新たにしました。

「何か、お<ruby><rb>髪物</rb><rt>ぐしもの</rt></ruby>の、お好みでも？」

「いいえ」

娘は往来の<ruby><rb>人足</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>がとだえるのを待って、

「あの、売物なんですが」

「え？」

「買って下さいませんでしょうか」

どうやら話はあべこべです。

娘の<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby>や身なりから<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>しても、てッきり、紋くずしの<ruby><rb>平打</rb><rt>ひらうち</rt></ruby>とかばら<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>の櫛のあつらえとかいうに相違ないと<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>したところが、何か使い古しの<ruby><rb>細工物</rb><rt>さいくもの</rt></ruby>でも金に代えたいらしい口ぶりで、

「どうでしょうか」

<ruby><rb>紅絹裏</rb><rt>もみうら</rt></ruby>のたもとから、ソッと、小さく<ruby><rb>袱紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>に包んだ品を膝の上へ移しかける。

「ヘエ……」と四ツ目屋の新助も、少し勝手がちがって、常の<ruby><rb>口巧者</rb><rt>くちごうしゃ</rt></ruby>にも似ずまじまじとその娘を見直さずにはいられない。

なるほど、時世もだいぶ変ったものだ。と考えさせられたものでしょう。

新助の記憶でも、去年の大奥の<ruby><rb>江島</rb><rt>えじま</rt></ruby>や<ruby><rb>宮路</rb><rt>みやじ</rt></ruby>などという奥女中たちが、芝居者をひきよせたかどで流罪になった騒ぎの当時は、江戸じゅううわさで大変なものだったが、その後、小間物屋として<ruby><rb>女界</rb><rt>じょかい</rt></ruby>の裏を見てあるくと、あんなことは表向きになったのが不運で、別に<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>とするに足るほどな事件ではないという時世がわかる。

それを思えば、まだ眉も歯も女になっていないこの娘が、紫ちりめんの頭巾を重そうに、親にいえない金のために髪道具を売りにくるくらいは、ぜひのない<ruby><rb>当世</rb><rt>とうせい</rt></ruby><ruby><rb>女気質</rb><rt>おんなかたぎ</rt></ruby>で、まだまだしおらしい方なのかも知れません。

「そりゃ、品によりましては、手前どもでも、引取らないこともございませんがね」

と、新助の調子は急にニベがない。

金をうけとる<ruby><rb>算段</rb><rt>さんだん</rt></ruby>の<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>が、いったん、金を出すがわに立つとなると、まるでふところで<ruby><rb>仮面</rb><rt>かめん</rt></ruby>をスリかえたほど苦もなく全人格をかえてしまうが、今の新助もそんなふうで、ポンと、きせるをハタく音までが、おあいそのないことおびただしく、

「いったい、物はなんですか」

「<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>でございます」

「というと、<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>ですね。かんざし、おじめ、どちらでございますな？」

「<ruby><rb>枝</rb><rt>えだ</rt></ruby>だろうと思いますが」

「おや、それじゃお嬢さん、お話しになりますまいよ」

娘はまッ赤になってうつ向いてしまう。白い<ruby><rb>襟脚</rb><rt>えりあし</rt></ruby>がのびるだけのびて、頭巾の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>がタラリとなやましげに――。

「まるで<ruby><rb>師宣</rb><rt>もろのぶ</rt></ruby>の絵じゃあないか」

買物にそそられない新助は、そう考えて、しきりと女の姿を見入っていたが、さて、これを一枚の師宣として見るだんになると、帯や着物の調子はよいとして、また紫ちりめんをかぶったのも悪くないとしても、ほかに難がないだろうか。どうも何か苦情をつけたい。

どこが――というとさて困るが、横顔になってみると、あまり鼻すじがとおり過ぎて、男には一種の強迫感を与えそうだし、まつ毛の濃さも<ruby><rb>目化粧</rb><rt>めげしょう</rt></ruby>したほどきわ立って、あの浮世絵のやわらかい線や色あいとはやや遠い。それに、もういちど立たせて見たなら、女にしては、<ruby><rb>背丈</rb><rt>せたけ</rt></ruby>の勝ち過ぎるきらいがありはしまいか。

何しても、美人にはちがいないが、江戸の系統といえず、<ruby><rb>上方風</rb><rt>かみがたふう</rt></ruby>ではなおさらなし、女ばかり常に見なれている新助の目にも、この娘の<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>というものは、妙に不可思議な――難をかぞえながら、それでいて、強い<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>にくるまれそうです。

「どうも、お気の毒でございますが、<ruby><rb>枝珊瑚</rb><rt>えださんご</rt></ruby>というやつは、珠にも粒にもならない<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>で、白ぼけや虫くいなどを、ろくでもない飾り物などにいたしますンで……。へへへ、どちらへお持ちになりましても、とても、お値段にはなりませんです」

「ですが……」と、娘もその時は、だいぶ度胸がすわって来たものでしょう、押し返して、<ruby><rb>彫</rb><rt>ほり</rt></ruby>のふかい面だちを<ruby><rb>真面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に白くふり向けて、

「見るだけでも、見て下さいませんか」

「へい、そりゃもう」

「自分では、たしかな、<ruby><rb>古渡</rb><rt>こわた</rt></ruby>りだとぞんじますから」

「え、古渡り？」

カチッ……と奥で<ruby><rb>火打</rb><rt>ひうち</rt></ruby>が鳴ったのはその時で、いつか、<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の内は外より早く日が暮れている。

<ruby><rb>中仕切</rb><rt>なかじきり</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さん</span><ruby><rb>格子</rb><rt>ごうし</rt></ruby>に、ゆらゆらと黄色い明りがさしたので、娘の目も初めて影法師に知ったでしょう。四ツ目屋の奥には、最前から物音もさせずに、まだほかの男がいた気配であります。

小判で百両。

<ruby><rb>重目</rb><rt>おもめ</rt></ruby>にしてもだいぶなものです。

異様な娘が、それを赤い帯あげの中にくるみ込んで、宵の町角を<ruby><rb>雷門</rb><rt>かみなりもん</rt></ruby>の方へ出てゆくと、あとの四ツ目屋も戸をおろして、しとみ障子のうす明りに、「<ruby><rb>御小間物類</rb><rt>おんこまものるい</rt></ruby>」という字ばかりが往来に残っている。

シンとなると、裏にも表にも、落葉のあるく音がします。浅草もちょッと横丁へ入ると、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の出入りするくらいな淋しさ。おまけに、秋も終ろう初冬も来ようという霜枯れ月の晩。

「親分」

奥へ入った手代の新助は、そこにいる者に不平そうに、

「つまらねエ口を出したんで、百両くれてやったようなものです。どうも親分は、時によると、女に甘い<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>が出るンでいけねえや」

女気がないとみえて、ひとり、箱膳を隅ッこへ出し、ザクザク湯漬けを食べながら、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>休めのグチでした。

グチはいいが、新助、いかに店を<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>った奥とはいえ、別人のようにガラリと変った今の<ruby><rb>伝法</rb><rt>でんぽう</rt></ruby>な物言いぶりはどうしたものか。かたぎな小間物屋の奥で、親分という声がもう穏やかではありません。<ruby><rb>魑魅魍魎</rb><rt>ちみもうりょう</rt></ruby>の巣のようにひびく上に、なおさら怪しげなのは、そこの小火鉢にゆったりとしている人間の<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>。

五<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>さかやきの浪人であります。年二十七、八、肩幅のわりに<ruby><rb>痩身</rb><rt>そうしん</rt></ruby>ではあるが、浅黒い皮膚には<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>な健康が<ruby><rb>魚油</rb><rt>ぎょゆ</rt></ruby>を塗ったようにみなぎっている。また<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>長ではあるが、<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>ばッた<ruby><rb>顴骨</rb><rt>かんこつ</rt></ruby>と鋭い<ruby><rb>眉宇</rb><rt>びう</rt></ruby>をそなえてもいる。

大小をおッぽり出して、坐りながらのふところ手で、膝の上にある桃色<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の枝を眺め入りつつ、

「<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い色だ、七ツは取れるな」

その感にたえている<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>がばからしそうに、新助はおはちのふたへ<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をついて、

「なにがですえ？」

「印籠のおじめ、五<ruby><rb>分玉</rb><rt>ぶだま</rt></ruby>のかんざし、何だってこれくらいな<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>なら、好きな物がとれようじゃねえか」

「ヤキが廻りましたね、親分も」

「ばかをいえ、<ruby><rb>大名</rb><rt>だいみょう</rt></ruby>の土蔵をかき廻したって、古渡りで、しかもウブなこんな珊瑚が<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>のままであるなんていうことはない。何しろ、いい物が手に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>ったよ」

いかにも<ruby><rb>艶冶</rb><rt>えんや</rt></ruby>な桃色の中へ心まで<ruby><rb>溶</rb><rt>とろ</rt></ruby>けいったさまで、新助の<ruby><rb>半畳</rb><rt>はんじょう</rt></ruby>などには耳を貸している風もない。それはまごうかたもなく当時にあっては<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>も珍重しておかぬ<ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>の虫きずもない七寸ばかりな生地でした。

けれどよく見ると、それは地中海からあげた<ruby><rb>素</rb><rt>す</rt></ruby>のままとも思われない品、加工した<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>がある。何かの品として<ruby><rb>愛玩</rb><rt>あいがん</rt></ruby>されたらしい<ruby><rb>手艶</rb><rt>てづや</rt></ruby>がある。膝にのせている<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>は、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>のやわらかい<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をよせて、これがそも何に使用されたものか、どんな持主の手にあったものか、そして、これを売りに来たあの娘の<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>にまで、鋭い想像を走らせているものらしく見られました。

「そりゃ私だって、物はたしかだと見ていましたがね」

「あたり前だ、奥にいたおれにさえわかったことを」

「だが、あっしは、金をくれて買うなんて夢にも思っていなかった。すると親分が百両くらいなお<ruby><rb>入用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>なら引取っておあげしろと、飛んだ小間物屋の旦那口調で、惜しいやね、五十両の封金二ツ、あんな小娘にくれてしまうなんて……、よっぽど、新助の方が貰いとうございましたぜ」

相手にする値うちもないように、浪人の男は、珊瑚を<ruby><rb>袱紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>にくるむ、<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>をギッとたばさむ、長い<ruby><rb>蝋色鞘</rb><rt>ろいろざや</rt></ruby>を左にさげる。

そして、腰をのばして、

「どれ……」と立ち上がったかと思うと、新助に袱紗を預け、あとの戸締りをいいつけて、ノシリと裏口へ出てゆく様子なので、

「あっ、親分」

もう戸が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いています。

世間とはツツ抜けなのに、そのばかな声を、

「しッ！」

と、<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み返されたのは、さもあるはずでしたが、それにしても一瞬浪人の<ruby><rb>白眼</rb><rt>はくがん</rt></ruby>が、あまりといえば凄い目であった。

「オオ、笠……」

出してくれ、と戸の外から手をのばす。

降るのは星ですが、しら<ruby><rb>浪</rb><rt>なみ</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>かくし、ぜひ忘れてはならない品物でしょう。

新助、今のにコリているので、今度は返事も<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>で殺し、だまって押入れから<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>を取って渡しましたが、幸い、裏は<ruby><rb>紺屋</rb><rt>こうや</rt></ruby>の<ruby><rb>干場</rb><rt>ほしば</rt></ruby>つづき、さっきのウカツな声とても、近所へまで聞かれたとは思われません。

「ど、どこへ行くんですか親分」

「わからねエのか」

「だって、あんまり不意じゃありませんか」

「まあいい、あとを<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>めておけよ」

「帰らねえンですか、今夜は」

「あさッて市で会うだろう」

もうその影は、紺屋の<ruby><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby>を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>に抜け、後ろ姿を怪魚と見せて、夜干しの<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>の浪をくぐッて行く。

曲がりくねッた露地の<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>板をふみ出すと、急に明るい大通りがあらわれる。文字どおりな浅草の<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>、目に痛い繁昌ぶりです。夜霧と明りの<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>み合っているところに、観音堂の法城が一まつの<ruby><rb>薄墨</rb><rt>うすずみ</rt></ruby>をはいているほかはすべてこれ、目まぐるしい交響とうごきでありました。

その中に、かれの目は鋭く何かを求めている。いうまでもありますまい、<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>の高い紫の頭巾。

四ツ目屋の奥で、およそは観察していたはず、あてなき探し方ではありません。糸をたぐッて行くように、ここ、あすこ、思う所の横丁や店をのぞいてあるくうちに、チラと、目の中に飛びこんできたのがあの紫です。

三味線屋に腰かけて、しきりと何か出させている。

まぎれもなく、<ruby><rb>出所</rb><rt>でどころ</rt></ruby>のいぶかしい<ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>を、四ツ目屋へ売りにきた<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>の娘。

そこで、<ruby><rb>紫</rb><rt>し</rt></ruby>たんざおの値をきいて、欲しそうになでてはいたが、それは買わないで、買ったのは<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の<ruby><rb>爪箱</rb><rt>つめばこ</rt></ruby>と、糸を七かけ。

畳の上にチカッと光った小判を見て、番頭が手をもむと、こまかいのはありませんという。で何かまた、いらない物まで買い足して、そこを出るとすぐにまた、<ruby><rb>半襟屋</rb><rt>はんえりや</rt></ruby>へ入って行く。

呉服物を見ては、あれ、これ、とまるで夢中になって<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>りわけながら、大まかに欲しいものをズバズバと切らせている様子。のれんを分けて出て来た時に見れば、それが、かなりな風呂敷包となって、左の手に抱えられているのでした。

でも、なお買物に<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>かぬ顔つきが、両側の明るい<ruby><rb>店舗</rb><rt>てんぽ</rt></ruby>を軒ごとに眺めつ迷いつしているのは、いかに物欲の強い年ごろの女とはいえ、浅ましい沙汰の挙動です。いや、あるいはそれ程にこの娘が、物質に渇していたのかも知れないが……。

かくて、珊瑚を売った百両の小判のカケが、<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>となり、おしろいとなり、<ruby><rb>袋物</rb><rt>ふくろもの</rt></ruby>と化けて、<ruby><rb>病</rb><rt>や</rt></ruby>み上がりの胃袋みたいな風呂敷を満たしてゆくのはいいが、そのうしろから、見て歩いている<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>には、自分の金を、分別のない小娘に、パッパとつかい散らされているような気がしないでしょうか。

四ツ目屋という紺のれんは、元より世間に日蔭を作る仲間の巣。新助でさえ不平なのに、無論、しら浪根性に劣りのないこの男が、世の中の物質に代価を見ない盗賊という本業を裏切って、すなおに、あの珊瑚を買うべき理由がないのですから。

渡してやった百両は一時の<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>しに違いない。<ruby><rb>実名</rb><rt>じつみょう</rt></ruby><ruby><rb>浜島庄兵衛</rb><rt>はましましょうべえ</rt></ruby>、しら浪の通り名を<ruby><rb>日本左衛門</rb><rt>にほんざえもん</rt></ruby>というのは彼です。

「ちイッ……」

と、小娘の浮かれの果てしなさに、うしろで舌打をもらしたものの、名うてな日本左衛門とて、この盛り場では手も出せますまい。

やがて、浅草の灯に別れると、酔のさめたように娘の足どりは少し早めになって、<ruby><rb>下谷裏町</rb><rt>したやうらまち</rt></ruby>から<ruby><rb>本郷台</rb><rt>ほんごうだい</rt></ruby>の方角へ向ってゆく。

根気よく影をつけていた浜島庄兵衛の日本左衛門には、そろそろ思うつぼの並木や、人通りのまれな<ruby><rb>海鼠塀</rb><rt>なまこべい</rt></ruby>、暗やみです。

「オイ、娘さん」

と、手をあげた。切通しの坂をのぼりきッた所で、このあたり<ruby><rb>根生院</rb><rt>こんじょういん</rt></ruby>の森と<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>屋敷の<ruby><rb>黒塀</rb><rt>くろべい</rt></ruby>を見るほか、明りらしいものは、<ruby><rb>湯島新地</rb><rt>ゆしましんち</rt></ruby>の<ruby><rb>大根畑</rb><rt>だいこんばたけ</rt></ruby>の中にチラホラする隠し<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいじょ</rt></ruby>の何軒かが数えられるに過ぎません。

「待て！　おい」

走り出しそうな気振り――と見たので、<ruby><rb>日本左衛門</rb><rt>にほんざえもん</rt></ruby>、かかとを蹴って飛びつくと、娘の白い手くびをつかんでズルズルと路傍へ引きよせてくる。

「な、なにをするのさ、お前さんはッ」

高い悲鳴をあげる代りに、<ruby><rb>疳走</rb><rt>かんばし</rt></ruby>ッた声でこう<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ッたのは、かなり気の勝った娘らしい。つかまれた手に爪を立てながら、<ruby><rb>切通</rb><rt>きりどお</rt></ruby>しの広い前後をふり<ruby><rb>顧</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、早く誰か来る人影はないかと必死に、

「声をたてますよ、いいかい」

「静かにしろ」

「二、三丁先は<ruby><rb>新花町</rb><rt>しんはなちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>番屋</rb><rt>ばんや</rt></ruby>がある。お前さんは物盗りならお金をあげるから、この手を放しておくれ、痛いッ、放しておくれッてば」

「小娘にしては、なかなか落ちついたもんだ。おい、もう少し落ちつけよ。物どりには違いねえ、いかにもおれは<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>だが」

「誰か来て下さい――ッ」

突然人を呼ばれたので、日本左衛門の袖がその頭を抑えつけて、少し力を<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>ったものでしょう。<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>と<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>、二ツの影が、降る落葉をあびてもつれ合っている。

「シッ、静かにしろッてえに！」

「く、くるしい」

「何も、お前みたいな小娘を、どうこうする盗賊じゃない」

「手ッ、手を、手を放して下さいよ」

「可哀そうに……」

その美しいもがきに、ちょッと恍惚として、

「放してやるから金切り声を出さないでくれ。いいかね、なるべく殺生はしまいと泥棒の方で願っていても、そッちでヤボな声を出されると、つい、こいつが後を追いかけて行きたがるからな……」

と、何やら魔の目のように<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>の光る刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>をたたいて見せて、ふわりと、娘の体を放してやるとよろめいた女帯の間から、リン！　といい<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>がこぼれて落ちたのは、つかい散らした残りの小判の何枚かでした。

が、それには、目もくれないで、

「――少し頼みたいことがあって、実ア四ツ目屋から御迷惑でもつけて来たんだ。ねえさん、一ツおれに、案内をしてくれまいか」

「……案内ッて？　ど、どこへですか」

「それがわかるくらいなら……」と思わず含み笑いをもらして、

「知っているのは、お前だけの行く先だ」

「？　……」

「四ツ目屋へ持ってきた<ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>、あれは、どこからおめえ持ち出して来た。なみの屋敷や<ruby><rb>町家</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>の土蔵じゃあるまい。あれ程の品がある穴なら、まだまだ、存分、金目な品が<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>ずまっているはず、案内してくれというのはその穴だ」

かの女がカッとした一時の熱い動悸は、まぶかな編笠の顔をのぞくにつれて、ようやく<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を抱かされたような冷たい身ぶるいに変っています。

## <ruby><rb>鬼女面</rb><rt>きじょめん</rt></ruby>

「どこだ？　お前の家は」

「知りません」

「自分の家を知らない？」

「だって、あたし」

「じゃ、あの<ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>はどこにあった品物だか、それを言え、その屋敷の名を聞かせろ」

「知らない。あたし、そんなこと……」

「シラをきるな」

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>、人に頼まれたんだもの」

「うるせえッ」

「…………」

「案内しろ！」

「いやです」

「ウム、じゃ<ruby><rb>仕方</rb><rt>しかた</rt></ruby>がねえ。夜どおしでも、お前の帰る所へついて行くだけの話だ」

恐ろしい脅迫。

なまなか光り物を抜いたり<ruby><rb>月並</rb><rt>つきなみ</rt></ruby>な<ruby><rb>凄文句</rb><rt>すごもんく</rt></ruby>をならべないだけに、かえって底気味の悪いことは、倍で、さすが気の強い当世の<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>葉</rb><rt>ぱ</rt></ruby>らしい紫頭巾の娘も、糸の切れた<ruby><rb>操</rb><rt>あやつり</rt></ruby>のように、居すくンだまま逃げ腰が立ち得ません。

その恐怖にみちた瞳を、この暗やみでなく、昼の明るさにこうジッと見合ったならば、日本左衛門も、かの伊太利珊瑚と思い合せて、ははアと、出所の謎を解いたのかも知れない。

と……切通し下から三ツ四ツの灯がチラついてくる。

タッ、タッ、タッ、と足音も少ない<ruby><rb>人数</rb><rt>にんず</rt></ruby>ではなく――。

「オイ、歩け」

と言ったのは日本左衛門が、早くもそれを知ったからで、うしろから帯あげの腰をグッとつかもうとすると、思いがけない、柔らかい手の<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みが蛇の肌を思わせてからんで来ました。

「ねエ、御浪人さん、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>ですから……」

驚く間に、<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ッぽい女の香が、いきなり胸元へ押してきたのです。

「後生ですから、私を見のがして下さいよ。私、あの<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>のことが屋敷にわかると、ほんとに、困ってしまうんですから……」

なみの娘なら気を失う男の胸へ、自分の方から甘えるようにすがりついて行った。機敏な態度の変りようが、世間の裏を見抜いている日本左衛門にも舌を巻かせる<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>ッ葉です。

「頼みます」

「まあ、あるきねえ」

「だッて、あなたについて来られちゃ、私、なお困るんですもの……助けると思って。ネ、お願いですから」

「そんなに困るなら、番屋へでも奉行所へでも飛びこんだらよかろう」

「そうすれば、なおさら私の自滅ですもの」

<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を顔へ持って行って、肩をふるわせたまま、固くなって動かない。

よくよく窮して、ついに泣きだしたものでしょうか。やはり女は女、最後はいつも涙であります。

だが、猶予ならないのは、ぐずぐずしている間に、坂下から足拍子をとって近づいてきた数点の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>！　しかも、異様奇妙な行列なンです。

カッと炎をこがす一団の火焔行列とも見えました。

見事な<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>の枝をゆッさりと上にのせて<ruby><rb>金鋲青漆</rb><rt>きんびょうせいしつ</rt></ruby>の<ruby><rb>女駕</rb><rt>おんなかご</rt></ruby>、<ruby><rb>供人</rb><rt>ともびと</rt></ruby>は紅白ちりめんの<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>、いずれも、<ruby><rb>御守殿</rb><rt>ごしゅでん</rt></ruby>風な女ぞろいで、これまた、手に手に紅葉の枝を持っているので、前後を照らす明りをうけた盛観は、むしろ<ruby><rb>夜行</rb><rt>やぎょう</rt></ruby>の<ruby><rb>鬼女</rb><rt>きじょ</rt></ruby>の<ruby><rb>群</rb><rt>むら</rt></ruby>がりかとも凄かったのです。

しかし、その近づくのを見て、日本左衛門が驚いたのは、その夜中横行の異風でなく、まッ先に立った<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の手にある、六ツ<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>。

紫頭巾が泣きじゃくッているのが幸いでした。肩に手を。

戸まどいしては、かえって、見とがめられる<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあるので、<ruby><rb>逢引</rb><rt>あいびき</rt></ruby>の男女が、たたずむように見せかけて、やり過ごそうとしたのですが、とたんに、抱きよせた娘の<ruby><rb>袖裏</rb><rt>そでうら</rt></ruby>から、月形の短刀がのびるよと見るまに、日本左衛門のあばら骨とまではゆかず、突き<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>ッて手の<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>をかすッたのです。

「あっ」と、一歩を引く。

「しまッた！」

日本左衛門としては、あるまじき不覚。

かれ程な者も、小娘の涙にはウカと油断をさそわれたものか、不意に手をかすッた短刀は、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>たたき落としたものの、娘は声かぎり悲鳴の尾を引いて、まっていた<ruby><rb>異風行列</rb><rt>いふうぎょうれつ</rt></ruby>の駕わきへ、

「お。お助け下さいまし！　あれっ、あれッ」

<ruby><rb>風鳥</rb><rt>ふうちょう</rt></ruby>のように<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びこんで、恐怖を装った<ruby><rb>金切</rb><rt>かなき</rt></ruby>り声に、御守殿たちを驚かせました。

「これッ」

「お<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>わきへ――」と、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の提灯と、<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>を投げて騒ぎ乱れた紅白の女房たちが、<ruby><rb>青漆砂子塗</rb><rt>せいしつすなごぬり</rt></ruby>の<ruby><rb>女駕</rb><rt>おんなかご</rt></ruby>と娘の間を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って、

「寄ってはならぬ」

「無礼もの！　そちは何じゃ」

と、口々です。

「は、はい……」娘は小鳩のようなおののきを見せて、顔の紫ちりめんを解く、そして、むき出された<ruby><rb>文金</rb><rt>ぶんきん</rt></ruby>の<ruby><rb>高髷</rb><rt>たかまげ</rt></ruby>と白い指を、惜し気もなく地につかえて、

「今、あの<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>の暗がりで、盗賊に<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>をつきつけられ、恐ろしい目にあおうとしていたものでございますから、それで思わず不作法な……ど、どうぞ、お助けなされて下さいまし」

それまで、ひッそりと、ゆかしい<ruby><rb>薫</rb><rt>かおり</rt></ruby>と気配をこめていた女駕の中で、

「なに、盗賊だと？」

<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>した、しかも男性的な、若者の声が、

「面白い！」

と、ひびきました。

スッと、内から<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>の<ruby><rb>塗戸</rb><rt>ぬりど</rt></ruby>をあけて、半身乗り出すように姿を見せた人物を仰ぐと、<ruby><rb>青月代</rb><rt>あおさかやき</rt></ruby>の<ruby><rb>凜</rb><rt>りん</rt></ruby>とした<ruby><rb>殿</rb><rt>との</rt></ruby>ぶり、<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>前後と思われます。<ruby><rb>黒羽二重</rb><rt>くろはぶたえ</rt></ruby>の袖は<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>のかげ紋、<ruby><rb>装剣</rb><rt>そうけん</rt></ruby>の美をちりばめた<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に、遠い星の光が吸われている。

幕府三家の一、<ruby><rb>尾張中将綱誠</rb><rt>おわりちゅうじょうつなのぶ</rt></ruby>の七男、<ruby><rb>徳川万太郎</rb><rt>とくがわまんたろう</rt></ruby>その人です。

それにしては、女駕の<ruby><rb>御守殿</rb><rt>ごしゅでん</rt></ruby>の<ruby><rb>供人</rb><rt>ともびと</rt></ruby>など、合点のゆかない行装であるが、父中将の持てあましている万太郎<ruby><rb>君</rb><rt>ぎみ</rt></ruby>の日常を知る者には、さほど、目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>るに足らないことで、今日は<ruby><rb>真間</rb><rt>まま</rt></ruby>の<ruby><rb>釈迦堂</rb><rt>しゃかどう</rt></ruby>から<ruby><rb>遍覧亭</rb><rt>へんらんてい</rt></ruby>あたりの今<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>りと聞く<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>見物に出かけた帰りで、例の<ruby><rb>部屋住</rb><rt>へやず</rt></ruby>み気分の座興がつのッて、姉君の女駕をさらって、あとの困り方を想像しながら、ひとり<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>がりつつ、<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>谷</rb><rt>や</rt></ruby>御門外の屋敷へ急がせてきたところ。

「盗賊とは面白いやつに会った。つかまえてやろう、草履を持て！」

と、<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え刀で、片足を出す。常の若殿ならば<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>であるべきに、万太郎の好みであろうか、<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>の足袋が<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>に見えました。

「めッそうもないことを」

当然、供の者は、以ての外という顔で、お<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を取ってさし上げない。草履のそろわないうちは、駕を抜け出ないところは、やはり<ruby><rb>吾儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>でも<ruby><rb>放縦</rb><rt>ほうじゅう</rt></ruby>でも大名育ちらしいが、万太郎そろそろ常の駄々ぶりを現して、

「草履をもて！　逃げてしまうわ」

と、高声をいら立てる。

すると、うしろの<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>が、手の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をあげて、

「やッ、<ruby><rb>相良様</rb><rt>さがらさま</rt></ruby>が駆けてまいりました」

「なに、金吾が？」と、万太郎がそれに思い止まったところへ、何かにおくれて、息をきりながら一行に追いついて来たのは、尾州の馬廻り役、江戸<ruby><rb>詰</rb><rt>づめ</rt></ruby>となってから、癖の悪い馬より<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>の取りにくい万太郎付きの<ruby><rb>近侍</rb><rt>きんじ</rt></ruby>となっている、<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>とよぶ武士でした。

「金吾か、よいところへ来た」

かれの姿を見ると<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>ちに万太郎。

「そのあたりに、この娘が出会った盗賊がひそんでいよう。そちの手で、からげて来い！」

「はッ」と、主命、息をつく間もゆるされない。

金吾は<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>のもも<ruby><rb>立</rb><rt>だち</rt></ruby>を高くして、路傍から<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>屋敷の石塀にそって駆け、カサ、カサ……と落葉のふるえる暗やみへ姿を入れる。

相良金吾が木立の奥へ駆けこんだのを見て、

「それ、逃げ口をとれ」

と、徳川万太郎は<ruby><rb>女駕</rb><rt>おんなかご</rt></ruby>のうちから、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>どもを<ruby><rb>下知</rb><rt>げち</rt></ruby>して加勢に追いやったが、煙の如き盗児、風の如き日本左衛門が、いつまでそれを待っておりましょうや。

捜索は遂に徒労でした。かれの<ruby><rb>猟奇心</rb><rt>りょうきしん</rt></ruby>は失望をむくいられて、やがて相良金吾も、最後にむなしく引っ返してくる。

「ウーム、逃げおッたか」と万太郎は残念そうに駕の内へ<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>みかけたが、そこにうずくまッている娘に目をつけて、

「金吾、この女中を、<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>まで送ってとらせい。途中でまたどんな災難がないとも限らぬ」

娘が<ruby><rb>目礼</rb><rt>もくれい</rt></ruby>する<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>ざしをジッと見て、駕の戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>める。そこへ、また四、五人の家臣も追いついて来て、男女入り交じった行列は、再び、道を急ぎだします。

市ヶ谷御門外の尾州家、<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>ずみの万太郎が住居は、邸内北がわの<ruby><rb>別棟</rb><rt>べつむね</rt></ruby>とみえました。

途中万一を思って、娘を送らせた金吾は直ちに戻ることと思っていたが、かれがそこに落着いて、<ruby><rb>湯浴</rb><rt>ゆあ</rt></ruby>みをすまし、服をかえ、<ruby><rb>九</rb><rt>ここの</rt></ruby>ツ<ruby><rb>刻</rb><rt>どき</rt></ruby>の時計を聞く頃になっても帰邸しない。

何となく待たれる。

「どうしたのだろうか？」

<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>に頬杖をついて、ジッと、夜更けを起き澄ましている万太郎の心に、あの白い手に<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出された時の、紫頭巾の<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>な顔が浮かび出ました。どこの<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>であろうか、何者の娘だろうか、その素性を聞かないうちは、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>につかれぬような待ち<ruby><rb>久</rb><rt>びさ</rt></ruby>しさに<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われながら……。

と。

音もなく、<ruby><rb>銀泥</rb><rt>ぎんでい</rt></ruby>の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いている。

流れこむ冷気に<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をなでられて、徳川万太郎、ふッと、脇息から顔をあげると、金吾です。が、入口にたたずんで、<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りを見廻しながら、

「殿……」

「おお、金吾か」

「只今帰邸いたしました。時に、今ここを拙者と入れちがいに向うへ行った者は<ruby><rb>御近侍</rb><rt>ごきんじ</rt></ruby>でござりますか」

「いや、別に……」

万太郎は、異なことをいう、という風な面もちで、

「<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>もここへ呼びは致さんが」

「はてな？」

と、小首をかしげて、金吾はもう一度廊下の外を見廻したが、そういわれれば異状はないので、自分の気のせいであったかと思い直して、静かに室内へ入り、うしろの<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を閉めました。

「たいそう遅いことであったな」

「はい、意外に暇どりまして」

「して、娘は送り届けたか」

「は、小石川の同心組の近くまで参りました」

「ふウむ、すると何か、ありゃ同心組屋敷のうちの女中であったかの」

「ところが」

と、相良金吾は、やや<ruby><rb>不面目</rb><rt>ふめんぼく</rt></ruby>な様子をして、

「<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬ娘でござります。殿の御親切を<ruby><rb>無</rb><rt>む</rt></ruby>にいたすばかりか、拙者に口実を申して、その同心屋敷の辺から、姿を消してしまいました」

「なに？」

と、万太郎は<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>を横へやって、

「そちの送り届けてやったのを、かえって迷惑がって、姿を隠してしまったと申すか」

「<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>」

「ふウむ……？」

と万太郎は唸った。金吾も、今なお<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬ想像をえがいています。

「では、そちはあの娘に、<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれて帰ってきたわけじゃな」

「しかし、それでは金吾、仰せつけを果たさぬことに相成ります。また、いろいろ不審を感じましたので、やっと、それから一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>あまり付近を歩き廻って、娘の帰った家だけは突きとめました」

「ほウ……」と、徳川万太郎は好奇な目をして、

「そちが突き止めたと申すあの娘は、そして、どこへ入ったか？」

「一度見失った姿をチラと見うけましたのが、<ruby><rb>小日向</rb><rt>こびなた</rt></ruby>の<ruby><rb>丹下坂</rb><rt>たんげざか</rt></ruby>なので――あの広い<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>な<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>の中へと、すばやく影を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ましたには、拙者も意外な感にうたれました」

と、万太郎は思わず膝をゆり出して、

「えっ」

「切支丹屋敷の中へ」

「はい、<ruby><rb>慥</rb><rt>しか</rt></ruby>と！」

「あの娘が？　……ふウむ」

「殿」

「おお金吾」

「まことに、惜しいことを致しました」

「そうと知ったなら、帰すのではなかった！　屋敷へつれ参って問いただせば、かねてから心がけている例の事や、また<ruby><rb>宗門牢</rb><rt>しゅうもんろう</rt></ruby>におる異国人の消息も聞けたであろうに！」

と、舌打ちして、その残念さをくり返しているのは、尤もな理由のあることで、<ruby><rb>国元</rb><rt>くにもと</rt></ruby>の尾張城からこの江戸屋敷へ移ってきて以来、彼が心ひそかに探っている目標がその<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷であったのです。

同じ剣工の<ruby><rb>鞴</rb><rt>ふいご</rt></ruby>から生まれる刀にしても、その<ruby><rb>紋流</rb><rt>もんりゅう</rt></ruby>や切れ味や鉄質までが、あながち同一でないように、<ruby><rb>鋳型</rb><rt>いがた</rt></ruby>にハメた大名の子にも、時には、飛んでもない異端者があらわれます。

万太郎はまずその方で、甚だしくお大名の素質に欠けている。<ruby><rb>安逸</rb><rt>あんいつ</rt></ruby>が嫌いで波瀾をこのむ、ぼんやりと物を見流さないで探奇心の目が光る。軽快であるはいいが<ruby><rb>争気</rb><rt>そうき</rt></ruby>が強い。長袖の風俗をきらって<ruby><rb>市井風</rb><rt>しせいふう</rt></ruby>の<ruby><rb>紺足袋</rb><rt>こんたび</rt></ruby>をはくなど、すべて六十万石三家尾州の若殿としては軽すぎる。

けれど、またかれの性格がこうのびたのも、あまりな当時の大名生活の退屈さが助成したのかも分りません。

とにかく、そういう万太郎である。ところがその万太郎に、皮肉にも、また大きな<ruby><rb>猟奇心</rb><rt>りょうきしん</rt></ruby>をあおるものが現れました。何かと言うと、去年、尾張城の書庫の整理の際に、<ruby><rb>邪宗門</rb><rt>じゃしゅうもん</rt></ruby>にかかわるものすべてを焼いた中に、偶然、かれの目についた、一通の古書。

「<ruby><rb>御刑罪</rb><rt>おしおき</rt></ruby>ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」

です。それは前々代、大納言<ruby><rb>義直卿</rb><rt>よしなおきょう</rt></ruby>の当時、名古屋の城下でとらえた一人の宣教師を斬った時、<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>で調べあげた写しで、てんぐじょうの厚紙十枚<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じばかりのもの。

すでに、書庫の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>と一緒に積まれて焼かれるところを、万太郎がそれだけ引抜いて来て、ひそかに虫ばみの字を拾って読んでみると、重大です。世にも怪奇な事実が、斬られた「ばてれん」の口から語られている。

以来万太郎は十枚<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じの秘密の<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>を近侍の<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>以外のものには見せていない。で――それについて、切支丹屋敷の内部の者に、ぜひ<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>き探ってみたいことがあるのだが、あすこばかりは、絶対に世間と隔離されている<ruby><rb>邪教人</rb><rt>じゃきょうにん</rt></ruby>の<ruby><rb>封獄</rb><rt>ふうごく</rt></ruby>で、自分の謎を問うことはおろか、そこの世界を覗き見ることもできなかったのであります。

「しかし、御失望なさいますな」

金吾がそう言って、舌打ちをした万太郎へ、何か、思案のありそうな微笑をして見せたのは、かれも共に腕ぐみをして、しばらく無言をつづけた後で――

「必ずあの娘から、例のことを聞き出して見まする。金吾、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>にでも早速参って、トクと<ruby><rb>工夫</rb><rt>くふう</rt></ruby>をめぐらしましょう」

「イヤ、そりゃ、まずいぞ！」

と、万太郎は期待をはずして、

「邪教<ruby><rb>風</rb><rt>かぜ</rt></ruby>は<ruby><rb>禁物</rb><rt>きんもつ</rt></ruby>な当今、かりにも切支丹屋敷の付近を、尾州家の者がウロついていたなどと風聞されては困る、第一、<ruby><rb>宗門</rb><rt>しゅうもん</rt></ruby>役人が寄せつけまい。それよりは、この万太郎に一策があるがどうじゃ」

「ほ、伺ってみまする」

「毒をもって毒を制す名案であろうと自分は思うが……」

「それは？」

「盗賊を使うのじゃ！　つまり、<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>を雇って手先にあやつる……」と、言いかけた時に、深沈と更けた殿中のうつばりが、新しい柱にヒビが<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったように、どこかでミリッと聞えました。

ここに万太郎と金吾の話し声だけは、いつまでも時刻を忘れていたが、一城の広さもあろう程な尾州家の建て物は、うし<ruby><rb>満</rb><rt>みつ</rt></ruby>に近い真夜中の底に沈んでシーンと眠り落ちている。

ぼッ、ぼッ……と大廊下三<ruby><rb>間</rb><rt>げん</rt></ruby><ruby><rb>置</rb><rt>お</rt></ruby>きの金網ぼんぼり、風を吸って、あやうげに明滅しているが、油を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで廻る<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>の影とて見当りません。

すると――

今、二人のいる一室と<ruby><rb>講書</rb><rt>こうしょ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>との<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>廊下を、腕ぐみをした人影が、もうろうと幽鬼の如く、行きつ戻りつしているようでしたが、ふッと明りなき一室の内へかき消えてゆく。

何者？

桐の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>から鏡の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へと。

<ruby><rb>間数</rb><rt>まかず</rt></ruby>を越えて忍んでゆきながらも、ふすまの<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>は、いちいち元通りに閉めては行くが、<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>ざわりの足音はおろか、<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>のこぼれる足音もさせない。

そこで、もうろうたる人影は、ニヤリと<ruby><rb>黙笑</rb><rt>もくしょう</rt></ruby>の歯を見せたようです。床の間に腰をおろして、暗やみの中でも視覚の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>くらしい<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>。

ジロジロと辺りを見ながら何か思案をしている風でもあります。何者かと思うと、それはまぎれもなく日本左衛門。

切通しで、万太郎と金吾の為に、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>な場合を<ruby><rb>邪</rb><rt>さまた</rt></ruby>げられて姿を消したが、かれは、それで<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて帰るような人間ではない。一時、<ruby><rb>棟梁屋敷</rb><rt>とうりょうやしき</rt></ruby>の石塀をこえて、ポンと、中へ姿をかくしたのは方便で、金吾と娘のあとをつけて、遂に、切支丹屋敷のそばまで見届け、その金吾よりも一足先に、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>でそれと知った尾州家の邸内へ、先廻りをして<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいた――というのが、あれからの日本左衛門の行動でした。

目的の娘が、切支丹屋敷へかくれたまで見届けたなら、何も、危険を冒して、こんな尾州家の奥深い殿中まで、忍んで来る必要がないように考えられるのは、善良人の思いそうなところで、盗賊心理はまた別であります。

では、日本左衛門、ここへ何しに来たのかというと切通しでブマをした腹いせに、その意趣返しをしに来たものに相違ありません。

復讐！　あだをしてやる！

すべて盗賊は仕事の上に、その快味をも忘れぬと言います。本来の物盗り以上に、仕返しはかれらの血をわかせるもの。しかも、今夜のことは、相手が尾張中将の七男徳川万太郎。こいつのドギモを驚かせて、御三家の邸内に足あとをつけてやるということは、日本左衛門が好みそうなところで、好まれた方こそ、まことに禍いなるかなであります。

だが、奥書院まで、幾室かの<ruby><rb>間数</rb><rt>まかず</rt></ruby>を通って検分したところでは、格別<ruby><rb>目星</rb><rt>めぼ</rt></ruby>しい品物もなく、奇抜な仕返しの手段も思い当らないので、今かれは、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の間に腰をおろすと、

「ふん……部屋住みの万太郎、この様子じゃ、だいぶ手元をつめられているな」

と、家財調度を目づもりして、大盗らしい<ruby><rb>愍笑</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>をくれながら、また、

「さて？　……」

と、あだをする手段を考えている。

運わるく、その床の間にうやうやしく置いてあったのは万太郎の兄にあたる当主<ruby><rb>義通</rb><rt>よしみち</rt></ruby>が、西之丸に隠居した前将軍<ruby><rb>家宣</rb><rt>いえのぶ</rt></ruby>から貰いうけた拝領面――<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>一<ruby><rb>刀彫</rb><rt>とうぼり</rt></ruby>の鬼作と称せられている鬼女面を秘めた一箇の箱。

持って帰るには、手頃であります。

その面箱をゆすぶッて、中のコトリという音を聞いただけで、日本左衛門の六感は禁じえぬ欣びにくすぐられました。

一方。

万太郎の部屋ではその万太郎と金吾とが、何か密話に他念がなかったが、その相談の結果、かれが尾張城から持ち出して来て秘密に<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>いこんでおいた「<ruby><rb>御刑罪</rb><rt>おしおき</rt></ruby>ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」を念の為に、もう一度よく調べて見ようとなって、金吾に<ruby><rb>手燭</rb><rt>てしょく</rt></ruby>をもたせ、室外へ出て来ると、

「若殿、すぐに<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>を持って参りますから、暫くここで」と、金吾が<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>へ走ろうとします。

「いや、<ruby><rb>書物蔵</rb><rt>しょもつぐら</rt></ruby>ではないぞ」

「ほ、では何処へお仕舞いなさいましたので」

「誰も気がつかぬ所だ」

「――と申すと、書院の袋戸へでも？」

「ウム、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>じゃ」

「えっ、あんな所へ」

「心配いたすな、兄上が大事にしている<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>の底へ、二ツに折って入れこんでおいた」

面箱が紛失している。

北口の杉戸に土足の痕がある。

<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が忍んだ。

すわ！　と騒ぎはじめたのは、それから寸刻の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>でありました。

変を聞くと、

「なに洞白の面が？」

と、誰よりも驚いたのは、当主であり万太郎の長兄である<ruby><rb>尾張義通</rb><rt>おわりよしみち</rt></ruby>で、

「洞白の面が盗まれたとは、そりゃまことか！　曲者は捕えたか！」

義通は青くなって、<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>のあわて乱れる中を、近侍と共に遠い<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>から駆けつけて来る。

かれは病身、息を切っています。

見ると、<ruby><rb>紙燭</rb><rt>ししょく</rt></ruby>を持って、舎弟の万太郎が書院の<ruby><rb>床壁</rb><rt>とこかべ</rt></ruby>を茫然と眺めている。まったく、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を奪われたていで、義通がうしろへ来たことにも気がつかない。

床には、<ruby><rb>探幽斎</rb><rt>たんゆうさい</rt></ruby>の筆、水墨の<ruby><rb>大幅</rb><rt>だいふく</rt></ruby>が掛けてあったが、紙燭のゆらぎに浮いて見えるのは、その絵ではなく、画幅を無残にして遺憾のない大きな文字で、

<ruby><rb>緑林涼風</rb><rt>りょくりんりょうふう</rt></ruby>日本左衛門のこす。

と、なすり付けてある<ruby><rb>墨痕</rb><rt>ぼっこん</rt></ruby>でありました。その不敵な筆法は、これに目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>るものを嘲るように<ruby><rb>生々</rb><rt>なまなま</rt></ruby>とした<ruby><rb>墨色</rb><rt>すみいろ</rt></ruby>です。

「万太郎ッ」

義通は激しい声で、不意に、弟の肩をつかんで、

「出目洞白の面を、かような所へ置きすてておいたのはその方か」

「はい！」

と万太郎は、やり場のない怒った声で、

「はい、私ですが」

「な、なぜ、そんな不始末な……」

「兄上」

「そちは身の行状の悪い通り、何事にも、ふしだらでいけないッ。殊に、<ruby><rb>品</rb><rt>しな</rt></ruby>もあろうに」

「いや、お待ち下さい。私は兄上の許しを受けて、いつか、<ruby><rb>舞</rb><rt>まい</rt></ruby>を催しました折に拝借したので、決して、無断に持ち出した次第ではございませぬ」

「黙んなさい！　そちはその後、納戸の者に渡して面箱は宝蔵へ返したと言っておったではないか。それも単に秘蔵の品というならばとにかく、<ruby><rb>文照院様</rb><rt>ぶんしょういんさま</rt></ruby>から拝領の<ruby><rb>鬼女面</rb><rt>きじょめん</rt></ruby>、年ごとの西之丸の<ruby><rb>御能</rb><rt>ごのう</rt></ruby>には、ぜひとも<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>に持って<ruby><rb>伺候</rb><rt>しこう</rt></ruby>せなければならぬ」

義通は唇をわなわなさせ、あくまで、<ruby><rb>詰責</rb><rt>きっせき</rt></ruby>してやみません。万太郎の放縦な<ruby><rb>行蹟</rb><rt>ぎょうせき</rt></ruby>が、こういう大事をひき起こすのだとあって、この晩の騒ぎが動機となり、平常の<ruby><rb>不身持</rb><rt>ふみもち</rt></ruby>な事実までが、数かぎりなく<ruby><rb>大殿中将</rb><rt>おおとのちゅうじょう</rt></ruby>の耳に入って、とうとう万太郎、その翌日は、上屋敷から<ruby><rb>根岸</rb><rt>ねぎし</rt></ruby>の別邸へ移されて、<ruby><rb>謹慎</rb><rt>きんしん</rt></ruby>という、きびしい命をうけました。

が、かれに取っては、結句きゅうくつな上屋敷よりも、草<ruby><rb>茫茫</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる廃屋でも何でも、なお自由のきくこの方が有難い。

ただ、無念なのは、日本左衛門の皮肉な置きがたみです。面箱の底へ<ruby><rb>秘</rb><rt>ひ</rt></ruby>しておいた、「ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」の一<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>も、ぜひ、何とかして取り返さなければならない。

かれが根岸へ移された翌日のこと。

相良金吾は、ひそかに、<ruby><rb>田舎侍</rb><rt>いなかざむらい</rt></ruby>を装った<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>とわらじばきで、<ruby><rb>面</rb><rt>めん</rt></ruby>が手に戻らなければ、せめて、万太郎に取って大事な「ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」の一帖だけでも取り返そうと、浅草の四ツ辻に立ちました。

今日もまた、<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>に人出のありそうな、晩秋の明るい<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>。

よ、つ、め、や。

紺の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>にそう見たのは、彼が送って行った娘の口から聞いていた、怪しげな巣の小間物屋です。

## <ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>

のぞいてみると四ツ目屋の店には、例の銀流しの店番男、新助の姿は見えないで、それに代る<ruby><rb>松葉髷</rb><rt>まつばまげ</rt></ruby>の<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>なかみさんが、小僧相手に荷の入れ代えをしているので、

「オ、違ったかナ？」

と相良金吾は、わざと田舎者めかした菅笠を上げて見なおしたが、間違いはない、茶屋町の軒ならび、似よりの店もこの一軒よりほかにはありません。

だいぶ聞いた話とは違っている。――新助という若い男が店にいて、表面は手固い小間物店に変りないが、実は<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>の寝泊りする家で、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>はそこで買物をしたが因果で、怖ろしい男に切通しまでツケられたのでございます。――という風に、あの<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>の娘は、<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>自分に話したが？　……

「それも嘘か。あの娘の言葉も信じきるわけにはゆかない」

と金吾は迷いました。

ままよ、どうせ<ruby><rb>田舎武士</rb><rt>いなかざむらい</rt></ruby>に作ってきた<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>、かまうものか、といった調子で、かれはズカリとそこへ入って、

「物を聞きたい！」

わざと、ぶッきら棒に、

「新助という手代のいる店は当家か？」

あッけにとられたかみさんは、積みかけていた<ruby><rb>根掛</rb><rt>ねが</rt></ruby>けの桐箱を抱えたまま、

「いいえ……」

「では、年頃二十七、八、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>み走ッた五分さかやきの浪人者が、ここに寝泊りしているだろうな」

「……存じません、お<ruby><rb>門違</rb><rt>かどちが</rt></ruby>いじゃございませんか」

「たしかに、茶屋町の四ツ目屋と聞いたが」

「あー、それでは、前の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>でございましょう」

「前の方？」

「はい、<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>が変っておりますよ」

と、かみさんの綺麗なおはぐろ歯が笑みこぼれる。

聞いてみると、店は<ruby><rb>居抜</rb><rt>いぬき</rt></ruby>でトウから売りにかかッていたが、先で急に値段を見切ったので、この人々は俄に<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>金の取引をすまし、ここへ移ってきたばかりだとのこと。

明け渡した新助や浪人の住居は、どこへ変ったか、主人でも居なければ……と極めて<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>な話に、金吾は、しまった！　と叫びながら菅笠を持って往来に飛び出しました。

「あっ、もし！」

かれに続いて四ツ目屋の露地から、ひとりの男が手をあげて、

「もし、お<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>さん、お侍さん」

草履が砂をとばしたが、金吾はカッとした気味で、耳にも<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>らず早足に横丁から雷門の裏<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>へぬけてしまう。

「もしッ、お侍さんてば！」

やっと、その男が先の袖をとらえ得たのは、観音堂の境内、いちょうの葉に水の見えない池のそばで、

「ああ、息がきれた……」と胸をたたきながら小腰をかがめ、

「少しお話したいことがあって、四ツ目屋の露地から追いかけて参りました。恐れ入りますが、向うの<ruby><rb>淡島堂</rb><rt>あわしまどう</rt></ruby>の裏へ、ちょッと、お体を貸して下さいませんか」

と、甚だ<ruby><rb>馴々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しい物腰であります。

不審な目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>って、金吾はまずこの唐突な町人に一<ruby><rb>瞥</rb><rt>べつ</rt></ruby>を与え、おもむろに考えたことには、ははあ<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>、四ツ目屋の露地から出てきたといえば、或いは<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>の一匹ではないか。

めったに、油断はならぬと思いながら、

「拙者に、どこへ来てくれと申すのか！」

「御立腹なすっちゃ困ります。その、ここはあまり人通りがございますから」

「うむ、それで……」

「あの淡島堂の陰で、とっくりお話を伺いたいと思いますンで」

「話があると呼びとめたのは貴様ではないか。拙者の方から聞かす用談などはない」

「どッちにしても同じことです。まア、ちょっとこッちへお<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>なすっておくんなさい」

袖をつかむ町人の手を切るように、パッと払って<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けると、金吾は逆に相手の胸ぐらをつかんで、

「これッ、おのれは！」

と、喉を攻めつける親指と共に、激しい<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしで睨みつけます。

金吾に襟元をしめつけられて、町人は喉の血管を太くしながら、

「待ってくれ！　けッ、決して怪しい者じゃありません」

悲鳴に似た声で手を振るのを、

「だまれ、おのれは日本左衛門の手先に相違あるまい」

「飛んでもねえことを、な、なにしろ、淡島堂の裏に待っている人に逢ってくれれば、話はわかる。く、くるしい、少し手をゆるめておくんなさい」

「待っている者がある？　……」と、金吾はいよいよ不審に思いながら突っ放してやると、その様子を見ながらニヤニヤして、池の<ruby><rb>唐橋</rb><rt>からはし</rt></ruby>を渡って来た男があります。

黒ッぽいみじん縞の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>に石帯を固くしめ、片手をふところにして丸腰、弾力のある小肥りな肉じまりに、三十前後の風貌をあらわしてはいますが、<ruby><rb>市井遊侠</rb><rt>しせいゆうきょう</rt></ruby>のばちびんとも見えず、そうかといって堅気らしくも思われません。

そこへ来ると金吾の前に、カッチリした物腰で頭を下げて、

「お迎えにやったのは手前でございます。何か使いの奴が、不作法なことを申し上げたようですが、どうか御立腹なく」

と、この方はまたすこぶる尋常な応対なので、金吾も今さら大人気ないことに自ら恥じながら、

「おお、拙者を呼び止めたのは、其方のさしずか」

「左様でございます。突然、お後をつけさせたりして、まことに失礼でございますが」

「して、そちは」

「初めてお目にかかります。私は、<ruby><rb>釘抜</rb><rt>くぎぬ</rt></ruby>きの勘次郎と申しますもので、そいつをちぢめて、<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>というのが通り名になっている<ruby><rb>目明</rb><rt>めあか</rt></ruby>しでございます」

「ウーム、目明しと申すと、奉行手先の御用ききだな」

「御信用下さいまし」

と、釘勘は、片手を<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に落としてその袖口から、十手の端をチラと見せる。<ruby><rb>朱房</rb><rt>しゅぶさ</rt></ruby>でなく<ruby><rb>紺房</rb><rt>こんぶさ</rt></ruby>の十手であるところから察しると、南の手先で、かなりの岡ッ引を部屋に飼っている古顔の密偵とみえました。

「オイ、伝吉」

と<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、

「てめえはもう役済みだ、家へ<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えって、部屋の者にあれだけを耳打ちしておいてくれ」

と、<ruby><rb>喉首</rb><rt>のどくび</rt></ruby>をさすって、ぼんやりしているのを追い返してから、金吾を誘って、わざと人ごみの観音堂の方へ歩きだします。

「定めし、びッくりなさいましたでしょう」

「どうも、何が何やらわからんのだ。が一体、目明しの其方が」

「なんで呼び止めたかと仰っしゃるのでございましょう。実は、わっしは<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くから、あの四ツ目屋を張込んでいたので、おとといの晩、切通しでの事、また、お屋敷から洞白の面箱が消えうせた事も、のこらず釘勘の<ruby><rb>閻魔帳</rb><rt>えんまちょう</rt></ruby>にのっておりますんで……」

「あっ、あの騒動を存じておるのか」

「そこで今日、洞白が売りに出るかも分りませんから、旦那に知らせて上げるんです」

「売りに出ると申すのは、あの面箱がか？」

「そうで」

「人手に渡っては一大事、あの洞白の鬼女面は、文昭院様から大殿が拝領した品、毎年<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>のお<ruby><rb>能</rb><rt>のう</rt></ruby>には、ぜひ持って参らなければ将軍家へ申しわけの立たないことになる」

「ですが……」と釘勘は薄く笑って、

「面も大事な品でしょうが、それよりもなお欲しいのは、面の下になっている<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>の方じゃございませんか」

「そこまで存じているなら何も隠さぬ。いかにも『ばてれん口書』の一帖は、万太郎様に取って命から二番目の物だ。それが売りに出るとは耳寄りである。いッたい、どこへ行ったら買い戻せるだろうか」

「<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>でございます」

「市？」

「へい、そこへ、お連れ申しましょう」

「かたじけない。では、<ruby><rb>骨董屋</rb><rt>こっとうや</rt></ruby>の道具市だな」

「なアに……」と釘勘は前後を見廻して、

「あなた方は聞いたこともございますまい、くらやみ市とも<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>ともいう、おそろしい、世間の裏の盛り場なんで……」

<ruby><rb>目明</rb><rt>めあか</rt></ruby>しの釘勘がどういうわけでそこへ自分を連れて行こうというのだろうか？

金吾も、これは多少疑わないでもありませんでしたが、深くたずねてみると、かれは、江戸の盗賊や<ruby><rb>掏模</rb><rt>すり</rt></ruby>やけいず買いどもが集まる、今日の暗やみ市を機会に、一網打尽、大がかりな手入れをやる<ruby><rb>気組</rb><rt>きぐみ</rt></ruby>らしいのであります。

目明し道徳とでもいおうか、釘勘は、万太郎や金吾の困惑を見て、手入れの騒動となる前に、あの洞白の面箱を何とか無事に被害者の手に返してやりたいと思いました。で、もしその品が今日の市に出たら、<ruby><rb>値</rb><rt>ね</rt></ruby>にかまわず買い取って行くように――と<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>あるきながらも金吾に心得をさずけている。

救いの神――と金吾は心に謝しながら、

「釘勘とやら、どうか、よろしく頼む。しかし、盗賊どもの集合している所へ、この姿では工合が悪かろうな」

「なあに、泥棒だからといって泥棒らしい姿をしている者は一人も居ませんから、かえって、私達もヘタに化けるよりはこのままの方がようございます」

「で、時刻は、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>頃になるかの」

「もうそろそろ寄っている時分です」

「え、この昼間？」

「急ぎましょう、洞白が人に買われてしまっちゃ何にもならない」

「どこだ、その場所は？」

「まア黙って、私についておいでなさい」

釘勘は人ごみを縫って、サッサと足を速めだしてゆく、その足どりの様子では、浅草観音堂を中心とした盛り場を程遠くないようですが、金吾はいよいよ怪しんで、この真昼中、江戸も目抜きなこの辺にどうして、かれのいうような盗ッ人市などがあるだろうか、どうしても合点がゆかない。

だが、釘勘は迷う風もなく、三<ruby><rb>社</rb><rt>じゃ</rt></ruby><ruby><rb>権現</rb><rt>ごんげん</rt></ruby>の広前をスタスタと斜めに急いで、矢大臣門の所でヒョイとうしろを振向いた。金吾の足が、おそいので、早く、と目で<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いているあんばいでした。

大股に寄ってゆくと、

「<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>さん、今、三社の前で、すれちがッた女がありましたね」

「ウム。<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>ッぽい<ruby><rb>櫛巻</rb><rt>くしま</rt></ruby>きの女？　……」

「あいつは、<ruby><rb>丹頂</rb><rt>たんちょう</rt></ruby>のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>といって、名うてな女賊ですぜ、どうです、どこかの茶屋のかみさんという<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>、まさか、女の<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>とは見えなかったでしょう」

「ほ、あれが」

と、うしろを見たが、黄ばんだ桜並木の間を織る行楽の人通りに、もうその姿は見つからない。

こういちいち釘勘の目を借りてみると、世間はあたかも百鬼昼行で、そこにもかしこにも、面をかぶった<ruby><rb>変化</rb><rt>へんげ</rt></ruby>の者が、すまして歩いているのに驚かされる。人を見たら泥棒と思え――成程なアと金吾は今さらに思うのでありました。

馬道へ出ます。

ここへ出ると、所々の人家のきれめに、枯れ尾花のくぼ地や、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を売る店や、<ruby><rb>駄賃馬</rb><rt>だちんうま</rt></ruby>の往来などが<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>なので、あたりは急にひなびて見える。

<ruby><rb>遊冶郎</rb><rt>ゆうやろう</rt></ruby>がかッたるそうに帰って来る<ruby><rb>吉原組</rb><rt>よしわらぐみ</rt></ruby>の駕もあれば、昼狐につままれにゆく、勤番の<ruby><rb>浅黄裏</rb><rt>あさぎうら</rt></ruby>もぼつぼつ通る。午後の陽ざしに、<ruby><rb>馬糞</rb><rt>ばふん</rt></ruby>の<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>が黄色く立つ。

「どこへ行くのだろう？」

金吾のいぶかりも今は一ツの好奇心でした。

千<ruby><rb>住</rb><rt>じゅ</rt></ruby>か、田中あたりか、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>つ<ruby><rb>崎</rb><rt>ざき</rt></ruby>の森か、まさかこの<ruby><rb>順道</rb><rt>じゅんどう</rt></ruby>をそのまま吉原へ入るのではあるまい。

などと思っている<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に、とある<ruby><rb>横丁</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>で、釘勘の姿がふッと見えなくなっています。

おや？

と見廻すと釘勘は、ツイと湿っぽい<ruby><rb>土塀露地</rb><rt>どべいろじ</rt></ruby>へ飛びこんでいる。俗に<ruby><rb>椎寺</rb><rt>しいでら</rt></ruby>というその横丁から寺の門内をのぞいていると、待っていたように、ひとりの男が石井戸のかげからおどり出して、釘勘の耳に口をよせる。

要所に、手配を伏せておく、かれが組子の岡ッ引ということは、うしろで見ている金吾の目にも分りましたが、

「ム……そうか」

と何かうなずいて、囁き合うと、金吾をさし招いて釘勘はまたすぐにその横丁を走り出して、<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>ぷちへ出てゆく様子。

「どこへ行くのだろうか？」

金吾は一歩ごとに不審を増して後から続くと、今戸橋から北に寄ったそこは隅田川の三角洲、川口から向う<ruby><rb>河岸</rb><rt>がし</rt></ruby>には<ruby><rb>三囲</rb><rt>みめぐ</rt></ruby>りの土手を見、すぐ右側には<ruby><rb>真土山</rb><rt>まつちやま</rt></ruby>の<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>、森と木の間の石段が高く仰がれる麓であります。

この辺に多い<ruby><rb>今戸焼</rb><rt>いまどやき</rt></ruby>の<ruby><rb>陶物</rb><rt>すえもの</rt></ruby>を焼く家、かやぶき屋根の壁の下に、雑多なかたちの<ruby><rb>素土</rb><rt>すつち</rt></ruby>が干してならべてある。土間に藁ござを敷いて、<ruby><rb>轆轤</rb><rt>ろくろ</rt></ruby>をかけているおやじを見かけると、釘勘はまたそこへ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って、

「おやじ、市へ来たんだが、合図を頼むぜ」

と、声をかける。

「ふたりだね」

と、<ruby><rb>焼物師</rb><rt>やきものし</rt></ruby>は、<ruby><rb>轆轤</rb><rt>ろくろ</rt></ruby>を離れて、土間のうしろの戸を押しました。裏はすぐに隅田川の満々とした水で、

「よしきた。合図はしてやるが、親方、手配はずいぶん大丈夫だろうね」と、そこから、不安そうに釘勘を振向いて、念を押すのを、

「うむ、済んでいる。大丈夫だから、安心しねえ」と、釘勘がくり返します。

「しかたがなしに、仲間の者を裏切るのだが、もしこれがヘタなことになると、こッちの命があぶねえからの」

「あとはお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>でお前の体を守ってやるから、<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぱい</rt></ruby>しねえがいい。おお、何しろ早く合図をしてくれ」

「へい」

と、おやじは、なかば<ruby><rb>不承不承</rb><rt>ふしょうぶしょう</rt></ruby>に、裏の水ぎわから<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>つづきの竹林をのぞんで、何か、<ruby><rb>指合図</rb><rt>ゆびあいず</rt></ruby>をしております。竹林といっても、それは叢々とした樹林ではなく、<ruby><rb>丸太林</rb><rt>まるたばやし</rt></ruby>を交ぜた大きな材木屋の青々とした<ruby><rb>竹蔵</rb><rt>たけぐら</rt></ruby>です。

その間に、金吾はつれの方へ向って、

「釘勘」と、小声に、

「へい」

「あの今戸焼の老人もやはり盗賊なのか」

「なあに、あれは善人です。ただ幾らかの口止めをもらって、市の時には、ここで見張りをしている奴なので」

「その方の指図にしろ、よくその口止めを破ったものだな」

「<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうですが、先にあのおやじの娘をアゲておいて、そいつを責め道具に仲間を裏切りさせたわけ。ですから御覧なさい、おどおどして落着いていませんや、無論、私たちが市へまぎれこむとすぐに、おやじは今戸焼の<ruby><rb>竈</rb><rt>かま</rt></ruby>を<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ちこわして、江戸の外へ逃げ出す寸法なんで……、なぜかって旦那、まごまごしていれば、すぐ仲間がその仕返しに命を助けてはおきませんからね。あいつらの怖ろしいことは、その仇をするっていう一念です」

囁いているまに、おやじは、指合図が向うに通じたと見て、

「親方、行って下さい」

「御苦労だった。じゃ相良様、こっちへ」

と、<ruby><rb>竈場</rb><rt>かまば</rt></ruby>の裏から隅田川の<ruby><rb>水際</rb><rt>みずぎわ</rt></ruby>に添って行くほどもなく、そこは、厳重な<ruby><rb>陣屋門</rb><rt>じんやもん</rt></ruby>と言ってもいい材木屋の<ruby><rb>木柵</rb><rt>もくさく</rt></ruby>。

雑多な舟が<ruby><rb>何艘</rb><rt>なんそう</rt></ruby>となく<ruby><rb>纜</rb><rt>もや</rt></ruby>ってある。柵の中へ入ると両側はズッと青竹と丸太の林で、<ruby><rb>八幡</rb><rt>やわた</rt></ruby>の藪知らずへ踏みこんだように、竹と丸太にすべての視野を遮った迷路が曲がりくねりして、やがて半町も行ったかと思うと、<ruby><rb>洞然</rb><rt>どうぜん</rt></ruby>たるつき当たりの暗黒と、青白い一点の灯がボッと見えました。

近づいてみると、立って自由に出入りのできるくらいな<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>で、奥の方から何かガヤガヤ雑音が聞こえてくる。そこの口元に、めらめらと<ruby><rb>人魂</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>のように見えたのは、鉄の<ruby><rb>灯皿</rb><rt>ひざら</rt></ruby>につるされた<ruby><rb>魚蝋</rb><rt>ぎょろう</rt></ruby>の炎でありました。

金吾の記憶にも、この<ruby><rb>真土山</rb><rt>まつちやま</rt></ruby>には、金龍山<ruby><rb>草創前</rb><rt>そうそうぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>水郷民族</rb><rt>すいきょうみんぞく</rt></ruby>のあとや、<ruby><rb>土師</rb><rt>はにし</rt></ruby>の住んでいた穴や、舟止めの<ruby><rb>水洞</rb><rt>みずあな</rt></ruby>があるなどということは聞き知っていたが、その洞穴の跡も、この山の土をくずして<ruby><rb>日本堤</rb><rt>にほんづつみ</rt></ruby>を築いた時にあらかたは削りとられて、今では知る人もなくなっていると思っていました。が、しかし、今この材木場の奥に突き当って、そこに眺めた深い暗やみはたしかにその一ツで、俗に、<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby><ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>といった跡にちがいない。

「相良さん、これから先は、あまり口数をきかないように。それと、武家言葉は<ruby><rb>禁物</rb><rt>きんもつ</rt></ruby>ですぜ」

「ム、承知いたした」

金吾は心得てうなずいたが、これはむずかしいと、自分でも思いました。今の返辞からしてすでに固い武家口調がぬけてない。

「じゃ……」と、あとは、目まぜで、釘勘は委細かまわず先に立って<ruby><rb>洞窟</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>へ入る。と、そこに<ruby><rb>裸火</rb><rt>はだかび</rt></ruby>を立って、なぐさみをしていた男どもが五、六人、<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>の音をザラザラとさせて、

「だれだッ？」

と鋭い咎め声をガンとひびかせました。釘勘はすました顔で、

「<ruby><rb>穴番</rb><rt>あなばん</rt></ruby>、今日は御苦労だな」

「どこから？」

「<ruby><rb>古河</rb><rt>こが</rt></ruby>の重兵衛よ」

「あ、<ruby><rb>古河重</rb><rt>こがじゅう</rt></ruby>さん。で、うしろの<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>は？」

「村山の彦七。途中で一緒になったので、不案内だというから連れて来た」

「おかしいな、<ruby><rb>村彦</rb><rt>むらひこ</rt></ruby>さんはもう先程から奥に来ていますが」

「ありゃ東村山だろう、こちら、西村山の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>で、市へは初めてだが、<ruby><rb>丹頂</rb><rt>たんちょう</rt></ruby>のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>とはよく知っていなさる仲だ。おお、そういえば抜け買いの組はもうみんな来ているかね」

「おいでになっています。ツイお見それ申してすみません。さ、どうぞ奥へ」

ひとりが立ち上がって両手でパッと暗やみを割るように開くと、ハネ上がったむしろの間から、赤い光線に塗られた奥の怪奇な光景が、びょうぼうとして面前にのぞまれた。

嗅ぎつけない<ruby><rb>南蛮煙草</rb><rt>なんばんたばこ</rt></ruby>の煙やら魚燈のいぶりなどが濛々とこめて、そこにいる人間たちの数も<ruby><rb>慥</rb><rt>しか</rt></ruby>とは分らないが、ざっと見ても三、四十人はうごめいている様子。

なお端の方から個々に注意してみると、<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>一枚の浪人もあれば、勤番風な侍もいる。十徳を着た<ruby><rb>宗匠体</rb><rt>そうしょうてい</rt></ruby>、船頭らしい男、<ruby><rb>角鷹眼</rb><rt>くまたかまなこ</rt></ruby>の町人、堅気な<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>の旦那ぜんとした者など、雑多な階級の色を集めていますが、その悪業において暗黒に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む陰性であることだけは皆ひとしく一致しております。

が、目明しの眼でこの集合を眺めると、職業的に二分されます。一は盗む者と、一はさばく者です。需要と供給、泥棒とけいず買い、この両者が必要をもって寄る所に、当然、<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>が立つわけであります。

さすがな釘勘も目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>ってしまう。

河ッ童穴の奥は、いつのまにか百<ruby><rb>坪</rb><rt>つぼ</rt></ruby>程もひろげられて、板も敷いてある。羽目板も立ててある。<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>や座ぶとん、火鉢やせり台、立派な盗賊の都会、盗品の取引<ruby><rb>市場</rb><rt>しじょう</rt></ruby>として<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>っている。

顔ぶれの中には、諸国の役人を血眼にさせている雲霧と呼ぶ兇賊や、常にその<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>の知れない抜け買い（密貿易）の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>の<ruby><rb>先生金右衛門</rb><rt>せんじょうきんえもん</rt></ruby>や、有名な道中師<ruby><rb>戸隠</rb><rt>とがくし</rt></ruby>の伊兵衛、そのほか目ぼしい悪玉が指を折るにいとまもないのですから、その雰囲気を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだだけでも、金吾は<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をそむけずにいられなかったが、南奉行所づきの中で釘抜きといわれた程に、職業的本能の強い<ruby><rb>目明</rb><rt>めあか</rt></ruby>しの勘次郎、かれは吾知らずに、ブルブルッとしてくる<ruby><rb>総身</rb><rt>そうみ</rt></ruby>のふるえを抑えきれぬもののようでありました。

幸いなことに、洞内を赤く照らしている灯は、煙草の煙に<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>としているし、すでに市も進んでいるので、一同の喧騒と物慾にくらんでいる目は、そッとまぎれ込んだ金吾にも釘勘にもさしたる注視を向けていない。

その渦の中で、ひとりの男が、

「ジャワ<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>！」

と叫んで、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>な<ruby><rb>反物</rb><rt>たんもの</rt></ruby>をひろげる。

「ジャワ？」

「<ruby><rb>南蛮</rb><rt>なんばん</rt></ruby>だ」

「どっちでもいい。さ、いくら！」

「一<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>！」

「一丁三ッ」

「幾巻あるんだ？」

「五本」

「よし、オヤ指、一手で抱いた」

「次！」と、札を落す。「――奥ジマ十反、潮かぶりは一反もない<ruby><rb>上物</rb><rt>じょうもの</rt></ruby>だ」

「<ruby><rb>唐桟</rb><rt>とうざん</rt></ruby>、唐桟」

指が出る。<ruby><rb>糶声</rb><rt>せりごえ</rt></ruby>がとぶ。

引ッたくるように誰かがうける。とすぐに次！　次！　次！　と順々に出る品物は、南京どんす<ruby><rb>幾巻</rb><rt>いくまき</rt></ruby>、<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べっこう</rt></ruby><ruby><rb>何斤</rb><rt>なんぎん</rt></ruby>、皮、短銃、<ruby><rb>麝香</rb><rt>じゃこう</rt></ruby>、さまざまな異国品ばかりが一<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りけいず買いの欲心を血走らせる。それは皆、抜け買いのともがらが、禁制を犯して、海からもち込んだ物でありましょう。

中でも、あばき合いで<ruby><rb>糶上</rb><rt>せりあ</rt></ruby>げられたのは、<ruby><rb>阿片</rb><rt>あへん</rt></ruby>、魔薬、毒のたぐい、紫ギヤマンの<ruby><rb>瓶</rb><rt>びん</rt></ruby>や黒い<ruby><rb>薬塊</rb><rt>やっかい</rt></ruby>を見ると、けいず<ruby><rb>買</rb><rt>か</rt></ruby>いどもは、肉を争奪する<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>のように、仲間争いをして引きこみます。この魅力、かれらの緊張ぶりをみると、それをまた強く要求している半面の社会というものが、当時江戸のどこかにも伏在していたに違いはなく、金吾は浅ましさに一種の<ruby><rb>悪酔</rb><rt>あくすい</rt></ruby>をおぼえながら、思わず耳を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>い、それらの物の消化されてゆく社会の健康におののきを感じていました。

そのうちに、

「<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>だぜ！」

と叫ぶと、<ruby><rb>地物</rb><rt>じもの</rt></ruby>、地物、とガヤガヤどよめくうちに、<ruby><rb>糶場</rb><rt>せりば</rt></ruby>の手が変わっている。

何を叫ばれても、それがみな<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>なので金吾の耳には一向意味が通じないが、抜け買いの方が片づいて、こんどは細かい地の盗品が処理されるのだということだけは、どうやら分りました。

「さ、<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の面が出るかな？」

と息を殺していると、右の袖をグイと引ッぱる者がある。<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>だな。……とソッとうなずくと、またあとから来た者とみえて、四、五人の者がぞろぞろと二人の間に立ちはだかる。

呼ぶわけにもゆかないので、そのままにしていると――一番に振られたのが、

「<ruby><rb>本阿弥</rb><rt>ほんあみ</rt></ruby>の<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めつき、<ruby><rb>堀川国広</rb><rt>ほりかわくにひろ</rt></ruby>の<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>、<ruby><rb>目貫</rb><rt>めぬき</rt></ruby>は<ruby><rb>白魚</rb><rt>しらうお</rt></ruby>に<ruby><rb>蛇籠</rb><rt>じゃかご</rt></ruby>、うぶご<ruby><rb>磨上</rb><rt>すりあ</rt></ruby>げなし！　……」

と叫ばれた<ruby><rb>大名物</rb><rt>だいみょうもの</rt></ruby>の刀ですが、所詮、ここで見たのでは、小気味が悪くて、金吾の愛刀心もそそられたものではありますまい。

紙入れ、軸、<ruby><rb>色鍋島</rb><rt>いろなべしま</rt></ruby>の<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>、しゅちんの帯、そうかと思うと金泥の仏像や嫁入り衣裳、またかなり<ruby><rb>値</rb><rt>ね</rt></ruby>にもならないガラクタ物まで現れましたが、さて、どうしたのか、金吾と釘勘が目をすえて待つ、出目洞白の面箱という声はあがらない。

すると、市も少しダレ気味になり、混濁した空気に各〻の頭もだいぶ疲れたころになって、

「<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>！　珊瑚！」

という囁きが交わされだした。抜け買いの手から出るなら分っているが、こんな<ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>の<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>が、どうして誰の手から出たのかと、その売り手を怪しむ者の目が、やがて、隅の板場に<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をくんで、ジャワ<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>の山に肘をつきながら、煙草をくゆらしている日本左衛門と四ツ目屋の新助を見出して、

「ウウム、相変らず、うめえ仕事をするな」

と、感じ合っている顔つき。

そして、<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>の呼び値が<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>りだすと、伊太利珊瑚の値は一躍百両を越えて百五十両の台になり、さすがな、買い方も<ruby><rb>呆</rb><rt>あ</rt></ruby>ッけにとられて口を<ruby><rb>緘</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでしまったと思うと、金吾のうしろから、肩越しに白い手がのびて、見事、これだけのけいず買いが寄りつけない値で、それを引き取った女があります。

こんな世界にも女が交じっているのかと、金吾が、珊瑚の買主をうしろに物色してみると、どれもこれも目ばかり光る物騒な顔の中に、たッた一人、きわだって白い女の<ruby><rb>瓜実顔</rb><rt>うりざねがお</rt></ruby>が、かれの視線を受けとって、

「あら――」

といった調子に、<ruby><rb>馴々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しい<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>をたたえて迎えましたが、金吾には、夢々おぼえのない女なので、

「はてな？」

と思ったまま見つめていると、女は前の二、三人を抜けてきて、押されるように背中へピッタリと寄りついたかと思うと、なまめいた髪油の匂いが、金吾の耳の辺に<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>れるばかりに、

「旦那……」

と、<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>い息が囁きました。

「お忘れですか」

「？　……」

「しらばッくれているんでしょう」

「…………」

「<ruby><rb>真間</rb><rt>まま</rt></ruby>でお目にかかっているじゃありませんか」

「えっ」

「<ruby><rb>紅葉見</rb><rt>もみじみ</rt></ruby>の日でございますよ。あなたは殿様のお供で、私は一人で、あの<ruby><rb>釈迦堂</rb><rt>しゃかどう</rt></ruby>で御一緒になりました」

「あ……」

「そしてまた今日も、ここへ来る前に、たしか観音堂の手前で逢っておりましたね」

この薄暗い中でこそ幸い、金吾はギョッとして顔色をかえたに違いありません。

真間で逢ったということは自分の方の記憶にはないが、観音堂の境内で擦れちがったのはつい今し方――あの時釘勘が自分に教えた、丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>という女がこの者であるのは、もう問うまでもないことです。

しまった！

ここで素性を知る者にとび出されては、もう釘勘の好意も滅茶滅茶で、下手をまごつくと生きてこの<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby><ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>を出ることは不可能かもしれない。

南無三です――悪い所へ悪く目ばしこい女が来合わせたもので、さすが<ruby><rb>強胆</rb><rt>ごうたん</rt></ruby>な金吾も胸に早鐘をついていると、

「あ、それどころじゃない」

女の指が、かれの背中を突いて、

「<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>が……洞白が」

「えっ！」

「<ruby><rb>糶場</rb><rt>せりば</rt></ruby>に出ましたよ、お前さんの探しに来たのはアレでしょう」

「おお！」

と、のび上がって前をのぞくと、覚えのある<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の面箱を中心に、ガヤガヤと多勢の声が騒ぎ立っている様子ですが、それを一目見ると、かれは周囲の人間も場所も忘れて、思わず、

「か、買った！」

と、夢中に手を振ってしまったものです。

けれど幸か不幸か、単に買ったというだけでは、市の通用語をなさないので、かれの絶叫は一顧もされず、面箱は他の<ruby><rb>糶声</rb><rt>せりごえ</rt></ruby>にドンドン<ruby><rb>値</rb><rt>ね</rt></ruby>を争われている。

金吾は当惑して、気が気ではあるまい。人手に取られては大変な品、ことに、けいず買いの手に移ったが最後、どこへどう行ってしまうか知れたものではないのですから。

と言って――いかにかれがこの切迫にワクワクしても、すべての声が<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>なので他の形勢がさっぱり分らない。およそ幾らくらいな値に行っているのか、何をワイワイやっているのか、てんで見当がつかないのですから、それらを圧倒して自分の手に落す一声がかれの口から言えッこはないのであります。

釘勘は？　釘勘は？　オオ釘勘はどこへ行ったのかと今になってあたりを見廻すのもすでに遅い話で、頼みにしていたその釘勘は、あなたにいる日本左衛門の射るような視線をよけて、人の足元から<ruby><rb>荷行李</rb><rt>にごり</rt></ruby>の積んである蔭へ<ruby><rb>土龍</rb><rt>もぐら</rt></ruby>抜けに隠れている。

「ちぇッ」

と、金吾は歯ぎしりをかむ。

市へ来ては<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>はまるで<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>にひとしいくらいなもの、まして、盗ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>市に於いてをやです。どうする<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もない。<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>なことを叫べば、自ら、真人間を自白するようなものになる。

「ウウム、弱った！」

腹の底でうめいていると、その時また、うしろの小声が甘い<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>おしろいの匂いをふくんで、

「サ、早く引かないと、横合いからさらわれてしまいますよ」

と、お粂が見すました止めの<ruby><rb>値頃</rb><rt>ねごろ</rt></ruby>を符牒で教えてくれたので、金吾はその通りに二声ほど呼ぶと、ポンと、首尾よく面箱はかれの手に落ちましたが、さて、その金です。

品物を受取ったはいいが、幾ら払ったものかマゴマゴしていると、お粂が、

「七十両」

と教えました。

七十両、心得たと、金吾はよろこび勇んで紙入れを出しかけたが、どうして今日はかれ程な男が、こうも、たびたび血のあがったヘマを演じるのか、考えて見れば、屋敷を出た時に金子の用意などは無論していないので、紙入れを逆さに振ってみたところ、高々四、五枚の小判と一両に足らぬ小つぶがあるに過ぎないはず。

ハッと思って、ふところへ勢いよく入れた手を出しかねていると、<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の下からそッと蛇のように忍んだお粂の手が、重いものを残して誰の目にも分らずうしろへ隠れたのでした。

探ってみると封金、百両ほどな厚みです。

金吾の一心はただ面箱を取り返したいことにあって、一瞬、何を考えているまもなかったことでしょう。その金を投げるが如く渡すと、うしろへ身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、一散に<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby><ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>を飛び出そうとしましたが、途端に、

「や、釘抜きッ」

「な、なにッ」

「釘抜き、釘抜きが潜りこんでいやがった」

「畜生」

「逃がすなッ」

というすごい騒ぎです。

グワラン！　と岩天井の<ruby><rb>釣灯</rb><rt>つりあか</rt></ruby>りが落ちる。百<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby><ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>が火のついたままおどる。争闘です。なぐり合いです。<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れる音、打ち合う喚き、<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>たる暴風が暗やみの洞窟内に渦を巻いて起ったのです。

ダッ――と相良金吾、一足とびに穴を馳け出して来ましたが、どうやら釘勘が密偵ということを見破られて、袋だたきになっている気配。

「取り返す品を手にしたなら、私にかまわず逃げてくれ、あとは捕手の方寸にあるから――」

とは前もってかれがいい切っていたことではあるが、みすみす群盗の中で袋だだきの目にあっている者を見捨てて、おのれの功にのみ急ぐのは、金吾として甚だ忍び得ない行為に違いありません。

でも、人間は迷う。誰にせよこういう場合は、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に浅ましいと思う迷いをする。求める品は手に返った、かれにも何か捕手との連絡があるだろうと、一瞬はそう自分の都合のよいように考えて金吾は足をためらわせましたが、その時また、息も苦しげに、ピピピピと奥の方で断続する釘勘の<ruby><rb>呼子</rb><rt>よびこ</rt></ruby>を聞いてまたゾッと身をすくませると、怒り立った一方の<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りが、

「<ruby><rb>簀巻</rb><rt>すまき</rt></ruby>にしろッ」

「たたッ殺せ」

「大川へ蹴込んでしまえ」

「うぬ」

「ふてえ奴だ」

いかに残酷な土足にかけているかを想像させてひびいて来ます。

胸に抱えた<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の面箱を、<ruby><rb>竹蔵</rb><rt>たけぐら</rt></ruby>の竹のかげへかくし込んだ金吾。

遂に見すてては行かれないかれの本性は燃えあがる。

<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>とはいうが無銘で、まだ自身には血を試みたことのない一刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を打つと、<ruby><rb>豹身</rb><rt>ひょうしん</rt></ruby>、くるりッと返って、ふたたび暗黒の口をのぞんでおりました。

かれが身をめぐらして引ッ返したのは一瞬でありましたが、元の場所へ馳け戻ってみると、こはいかに、洞窟の奥には、一点の<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>の灯の明りも今の喧騒もハタとなく、またあれだけ居た盗ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>市の集まりが一人として見当りもせず、心なし、そこに有りやと窺われるものは、<ruby><rb>漆壺</rb><rt>うるしつぼ</rt></ruby>をのぞくに似た陰たる鬼気のただよいであります。

「やっ？　……」

ですが――かえって疑心暗鬼は金吾をして、そこに兇猛な影が群れをなし<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を植えて待たれるよりも、なおなおウカツに足のすすめない気がまえを<ruby><rb>慥</rb><rt>しか</rt></ruby>と持たせて、

「うむ、鳴りをひそめたな」

と身をかがめたり土の肌をなで廻すほどに、<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>はかれを<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>びました。そして、

「――釘勘ッ、釘勘ッ……」

と、石を投げて古井戸の水をさぐるように、四、五<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>呼びたてましたものの、自分の声がガァーンと<ruby><rb>穴山彦</rb><rt>あなやまびこ</rt></ruby>に変ってくるだけで、かれの返辞もなければ、あれ程な群盗が息を殺していようとも思われない。

いよいよ変です。

どうしたのだろう？　つい今までここにわめいていた人間どもは？

<ruby><rb>日本左衛門</rb><rt>にほんざえもん</rt></ruby>は？　四ツ目屋の新助は？

戸隠の伊兵衛、<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門、雲霧や丹頂のお粂までが、一斉にどこへ身を隠してしまったのか。

――と相良金吾の怪しんだのはさることながら、帯の結び目にも抜け身を工夫している盗賊の寄り合いです。元より一方口の<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>に、あぶない市を開くはずはなく、必定、この<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby><ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>のどこかには、イザという場合の抜け道があって、一匹の目明しを見つけると共に、さては！　とそこから一同ドロンをきめたに相違はない。

とすれば――いよいよ釘勘の身こそあぶない次第で、金吾は、

「あっ、いっぱい食わされたな！」

と気づいて、にわかに頻りとその抜け口を探しだし初めたが、勝手を知らぬ上の暗中摸索、まるで、<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>に這入って<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>をなでているようなものに過ぎない。

「面倒！」

と<ruby><rb>焦心</rb><rt>じれ</rt></ruby>だして、この上は、外に出て<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らの間道をたずねるか、張番の男を締めあげて問いただしてみる方が早手廻し――と急いでそこを飛びだしてくる。

途端です。

「あっッ」

かれが仰天したのは、釘勘を救うべく、手に抱えていては邪魔だと思って竹置場の青竹の蔭へかくして置いた<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の面箱を引ッさらってゆく男の影が、隅田川に<ruby><rb>薄陽</rb><rt>うすび</rt></ruby>を落した夕<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>をかすめて逃げて行く。

カラカラッと、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>に<ruby><rb>木枯</rb><rt>こがら</rt></ruby>しと聞こえたのは、逃げる<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、その男が竹の束に<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかッて鳴ったひびきで、

「おお、うぬ！」

と金吾の姿も林の如く立て掛けてある竹と竹との間をくぐって、飛鳥の如く追いました。

追いつつ先の<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>の姿を見ると、<ruby><rb>太縞</rb><rt>ふとじま</rt></ruby>の<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>、<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>のきゃはん、道中師<ruby><rb>戸隠</rb><rt>とがくし</rt></ruby>の伊兵衛というのはあの野郎です――と釘勘が目で囁いた人相の者にちがいはない。伊兵衛の合羽は逃げ足の早さに吹かれて、<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>の如く風を切っている。

待て！　などとこの場合に尋常なことを叫んでいる余裕などはなく、金吾の目はそれを睨んだまま息をつめ、ただ疾風です、ただ懸命です。

ここで折角手に入れた面箱を横からしてやられて堪るものか。

と思うと――材木場の薄暗い迷路の一方から、ひゅッと、<ruby><rb>烏蛇</rb><rt>からすへび</rt></ruby>の弾力に似た一すじの飛繩が、かれの足を巻いて、<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>が<ruby><rb>空光</rb><rt>からびか</rt></ruby>りと共に、おが屑の道に五体をもンどり打たせました。

材木のかげや竹蔵の八方から、仆れたと見た自分の上へ、ワッと<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さッてきた真っ黒な人数を、金吾は、必然に斬ってハネ上がりました。

返り血をあびた<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>！

後も見ずに、七、八間ほど馳けだしたかと思うと――その時、

「御用ッ！」

と、地を引ッ裂いた<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>の声が、たそがれの空にひろがり、つづいて、追いかけざまに、

「御用、御用」

なだれ合って慕ってくる光が、横なぐりに降る<ruby><rb>氷雨</rb><rt>ひさめ</rt></ruby>にも似た十手であると初めて分る。

「あっ……」

さては、賊の仲間とまちがえられたか――と追われつつ金吾も気がついた事ではあったが、もう及ばぬ場合、血刀のやり場に困りながら、一時のがれに真土の森へでも姿をかくすほかに道がない。

隅田川に近いせいか、捕手の声が水と木の間に嵐のような音響を交わし合って、細い二日の月が梢に見える頃までも、そのたけびが麓にたえないようでありましたが、いつまで、笹の下にも居られないので、金吾は女坂の途中から身をあらわし、あたりに気を配りながら、静かに、<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の黒髪堂の裏へ登ってゆく。

と。

それも捕手の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を待っていた者でしょうか、黒髪堂の<ruby><rb>床柱</rb><rt>ゆかばしら</rt></ruby>に、<ruby><rb>守宮</rb><rt>やもり</rt></ruby>のように貼りついていた男が、かれを見るや、

「お、<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾か！」

と声をかけて驚く面前に立ちはだかりました。

ゆらりと仰がれたのは、広い肩幅とつばの深い編笠。で、

「今日はとうとうムダ骨折りだったな」

さびのある声が<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざ</rt></ruby>ける如く笑ったものです。

「な、なにッ？」

「おれは、いつぞや<ruby><rb>推参</rb><rt>すいさん</rt></ruby>した日本左衛門。切通しの晩の返礼は、充分うけてくれたようだな。しかし、今日は御苦労だった。屋敷へ帰ったら万太郎殿という坊ッちゃんに、よろしく言っておいてくれ」

「ウーム、おのれッ！」

かッと燃えあがる血気にまかせて、<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>の用意も思わずに、飛びかかッたのは金吾に似げなき不覚です。

夕月を斬ッた水の如き光は、編笠の肩をはずして、黒髪堂の床柱へ、ズンと深く食い込んだまま<ruby><rb>牙歯</rb><rt>きば</rt></ruby>のように立ち、かれは大地に弓なりに仆れています――言うまでもなく日本左衛門に袖をくぐられた<ruby><rb>当身</rb><rt>あてみ</rt></ruby>！　あばらを折られていなければ<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>なのです。

「ばか<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>！」

高く笑った声を消して、その姿は、表の石段から浅草の灯の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>へ向って、夜の鳥かとばかり早く走り去ってしまう……。

金吾はビクともせずに仰向いていました。夕月を散らす<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の木の露が、やがて、かれの眉をも袖をもビッショリしとらして行くであろうと思っていると、どこかで、ギイ……と<ruby><rb>桟格子</rb><rt>さんごうし</rt></ruby>の<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>く音がする。

闇を割って、お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>の顔がそこを見ました。

捕手騒ぎに抜け穴を出て、聖天の宮にひそんでいた丹頂のお粂は、何かうなずくと金吾のそばへ寄って、ジッと、悶絶している男の顔に見入っています。

青い夕月をうけて、血の気のうせた金吾の顔は、おそろしく秀麗に見える。頬を寄せても知らずに、手を握っても知らずに、眉をひそめたままでいる男の顔は、多情な女の眼にあやしい思いをさせないでしょうか。

「妙に縁のある人だよ……」

お粂は、<ruby><rb>真間</rb><rt>まま</rt></ruby>の紅葉の日に、初めて金吾を見かけた時からの思いが漸く満たされてくる気がしてニッとその側を離れて立つ。

だのに、金吾の体をそこに見捨てて、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>へ足早に馳けだしたのは妙だと思われましたが、程なくお粂に招かれた駕の灯が、女坂をブラブラ登って来るようでありました。

## <ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の使者

<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>畑の霜除けにキクイタダキが一羽、赤い口ばしを陽に<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いている。

十二月。

正徳五年のあます日もおしつまりました。

けれど、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しない騒音が渦をまいている町中とは違い、ここは<ruby><rb>師走</rb><rt>しわす</rt></ruby>とも見えないのどけさで、カサリ……と真ッ黄色な枯れ葉が<ruby><rb>灌本</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の枝をすべる音も、時々、酔った女の<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>のような<ruby><rb>山茶花</rb><rt>さざんか</rt></ruby>が地にこぼれる音すらも、耳につくくらい静かな昼です。

「お蝶さん、坐らないか」

<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の<ruby><rb>龍平</rb><rt>りゅうへい</rt></ruby>は、霜よけの藁を取って、野菜小屋の前にバサリと敷きました。

そして、どっかりと自分が先に腰をおろして、

「こいつは工合がいい、お<ruby><rb>太陽様</rb><rt>てんとさま</rt></ruby>をふところに入れてるようだ。<ruby><rb>置炬燵</rb><rt>おきごたつ</rt></ruby>なら差し向いだが、差しならびの<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>ぼッこ。お蝶さん話があるんだから、ちよッとここへ坐ってくんな」

「だって……」

「何が？」

「こんな所にいて、もし、誰か来たらどうするの」

「臆病だなあ」

龍平はお蝶の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ手を届かせて、

「大丈夫だってことさ。同心でも来たら、お蝶さんは野菜小屋へ用があるふりをしているし、わっしは、ぽいと隠れてしまうまでのことじゃないか」

「もしか、人に見つかるとねえ」

「そんな怖がりんぼじゃ、色恋はできませんぜ」

「あら、八ツ口が<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びるじゃあないか」

「だから、素直におしなせえ」

「なアに……用って？」

袂に引かれて、お蝶は龍平のそばへ身を寄せました。

ここは小石川の窪地、<ruby><rb>丹下坂</rb><rt>たんげざか</rt></ruby>の<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>。

ちょうど、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>時分なので、広い<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>いを見る<ruby><rb>同心</rb><rt>どうしん</rt></ruby>も歩いていず、あなたの役宅もシンとして、折からこの山屋敷の奥は、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を敷いて<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>にならんだ若い仲間の男とあでやかな娘には、至って、安心のできる<ruby><rb>逢引</rb><rt>あいび</rt></ruby>きの場所でありました。

外の者はここを切支丹屋敷とよび、内部のものは山屋敷と呼んでいる。もとは<ruby><rb>宗門奉行</rb><rt>しゅうもんぶぎょう</rt></ruby>の屋敷でしたが、今は数町四方を囲った石垣と九尺の板塀と、自然の森と藪とを残して、内部にはわずかな番所、役宅、お長屋、官庫、井戸、<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>め門などが散在しているに過ぎません。

それと、たった一つの<ruby><rb>異人牢屋</rb><rt>いじんろうや</rt></ruby>。

あとはすべて畑です。

<ruby><rb>人参</rb><rt>にんじん</rt></ruby>が作られてある。大根畑がある。茶の木がある。ぼたんに霜が除けてある。果樹園がある。

そこへは時々、<ruby><rb>百舌</rb><rt>もず</rt></ruby>、<ruby><rb>山雀</rb><rt>やまがら</rt></ruby>、文鳥、ひわ、目白、さまざまな小鳥がブチまけたように下りて来て、日ねもす歌っている。

世間で思う切支丹屋敷とはまるで違っている。

一口に、山屋敷といえば、水責め火責めの<ruby><rb>拷問</rb><rt>ごうもん</rt></ruby>道具に、異人の血と陰火が燃えているように、外部の者は想像していますが、それは昔の話。

六、七十年<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>――<ruby><rb>元和</rb><rt>げんな</rt></ruby>から家光時代、天草の変以後、しばらくはそうでした。しかし、その後は、幕府の手きびしい禁教政策で、まったく、この屋敷が不用になるほど、異教者の影が絶えていました。

では、ここは<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>かというとそうでもない。

今でも一人の異国人が、あなたの牢に数年間とじこめられている。その一人のために、これだけの広い場所が保存されてあるのですから、政策というものは<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>にちがいない。

<ruby><rb>閑</rb><rt>かん</rt></ruby>にして不善をなす。

されば、山屋敷の内部では、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>やこんな娘までが、同心の目を盗んで、<ruby><rb>昼中</rb><rt>ひるなか</rt></ruby>、<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>畑の霜よけにかくれて、甘い恋など囁こうというものでしょう。

「<ruby><rb>龍</rb><rt>りゅう</rt></ruby>さん」

お蝶は、男にもたれて、

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>に話って……なんなの？」

とろけそうな<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>を目じりに流しました。

おや、その<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>には特徴がある。

いつか、浅草の四ツ目屋へ、<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>を売りにきた、<ruby><rb>紫頭巾</rb><rt>むらさきずきん</rt></ruby>の娘の目です。

お蝶が、敷いている<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を一本抜いて、白い指先に巻いて、<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>びながら、

「え、どういう話？」

と、<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>になってのぞきこむと、龍平は、わざとらしく<ruby><rb>横鬢</rb><rt>よこびん</rt></ruby>をかいて、

「それが、ちょっと、言い<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>いことなのさ」

「なぜ？」

「たびたびだからなあ」

「じゃ、またお金のことなの」

「まあ、そんな<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>だな。どうしてもまた、五十両ばかり<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>ることができちゃって、<ruby><rb>暮</rb><rt>くれ</rt></ruby>じゃああるし、弱ってるんだ」

膝ッ子へ、がっくりと額をつける。

お蝶の眉が少し曇りました。

<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>ぼッこの幻滅――恋には<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>いものがつきものとみえます。

だが、この娘も酔狂ではあるまいか。十人並以上の容貌をもって、何を苦しんで山屋敷の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>ずれを恋の相手に選んで、無心などを吹っかけられているのだ。

思案のほかにも程があろう。

と――岡焼きの意味でなくとも大いに疑われますが、さてまた、そこには多少道理なわけがある。なぜかといえば、お蝶は、その青春の対象を、山屋敷の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には求めることのできない宿命をもって生まれたものです。

かの女は、<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>でした。

宗門同心今井二<ruby><rb>官</rb><rt>かん</rt></ruby>の娘であります。

今井二官といえば日本人の如くきこえますが、海をこえて布教に来た異国人です。しかし、かれは日本に着くと幕府に捕われて、きびしい責め道具に逢い、その宗旨をすててころびました。転宗すると、幕府の同心になり、この山屋敷のお長屋に住んで二十人<ruby><rb>扶持</rb><rt>ぶち</rt></ruby>をうけ、大小チョン<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>、名も二官と名乗って、すっかり日本に帰化しています。

そういう者を「ころびばてれん」と呼んで、幕府ではいい<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>に使って、生涯切支丹屋敷の飼い殺しとするのが例です。

また、首を斬られた罪人の後家さんで、適当な女があると、それを妻として<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>しおかれるのも法則でした。

二官も型の如く、ある罪人の後家を妻として、お蝶という子をもうけた。つまりお蝶は、ころびばてれんを父とし<ruby><rb>囚徒</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>の後家を母として、その仲に生れながらの宿命をもって美しい娘と育ちました。

なんと、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>われた美しさ。

いかに美しくとも<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>は蜘蛛として人に忌まれる。

ころびばてれんの娘――お蝶にも青春がめぐってきた。けれど山屋敷にはいろいろな束縛がある。そこへ対象に現れたのが<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平。

こいつ、仲間にしては<ruby><rb>小才</rb><rt>こさい</rt></ruby>もあり、<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>ぬけのした<ruby><rb>肌合</rb><rt>はだあい</rt></ruby>もあるので、巧みに、お蝶の心をとらえ、よからぬ悪智を吹きこんでいる。

また、お蝶も、こういう所で育ったせいか、<ruby><rb>数奇</rb><rt>さっき</rt></ruby>な<ruby><rb>双親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>の血を<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜた心に、因果な本能が<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されたものか、とかく悪魔的な行為を好む性格が、男によって、一層早く芽を出して来つつあります。

「――何も考えることはねえじゃないか。おやじの二官が持っている合鍵をちょッと借りて来りゃ、百や五十になる品物は、いくらもあの土蔵から引き出せるんだ。頼むから、何とか都合してくれよ、え、お蝶さん……」

先頃も、同じようなハメになって、お蝶は父二官の合鍵を盗み、父が管理している切支丹屋敷の土蔵から、<ruby><rb>金目</rb><rt>かねめ</rt></ruby>の品物を持ちだして龍平に渡している。もっとも、男に与えたばかりでなく、<ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>の生地を売った金では、自分の虚栄をも満足させていたのです。

「いいわ」

お蝶は、遂に<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>めない女でした。

「じゃ今夜、あの土蔵の窓の下に来て待っていてくれない？　……<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>、合鍵を持ってそこへ行くから」

「すまねえな」

男は、小娘の胸に、ありありと高い<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>を感づきました。

古い柿の木だ。

自分がこの切支丹屋敷の長屋に住んで帰化してから、も早や二十年以上にはなる。そして、また今年もすでに暮れようとしている。

夢だ……。

――ころびばてれんの今井二官は、そんな追憶にふけりながら、<ruby><rb>手狭</rb><rt>てぜま</rt></ruby>な<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>の机によりかかって、しみじみと、縁先の柿の老木を眺めておりました。

わからないものは人の運命。

<ruby><rb>伊太利人</rb><rt>イタリヤじん</rt></ruby>である自分が、日本の幕府の<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んで、髪や着物の風俗まで、この国の者とそッくりになって、五十に近い年を迎えようとは……。

そして、お蝶という、娘までもつ身になっていようとは。

故郷の――<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都の人々も、夢にも知らないことであろう。自分を日本へ宣教に派遣した法王庁の学林の友なども、きッと、かれは日本で捕われて<ruby><rb>殉教者</rb><rt>じゅんきょうしゃ</rt></ruby>の死をまっとうしたに相違ないと思っているだろう。いや、きッとそう信じている。

面目ない。

二官はそれを思うたびに苦痛らしい。

使命を裏切った背教者！

意気地なく<ruby><rb>十字架</rb><rt>クルス</rt></ruby>をすてて生きのびているころびばてれん！

長崎に、<ruby><rb>温泉</rb><rt>うんぜん</rt></ruby>の山に、大村の刑場に、殉教の美しい血を惜しまなかった幾多の聖徒の名をけがす<ruby><rb>破廉恥漢</rb><rt>はれんちかん</rt></ruby>！

それはみんな汝の名だ！

と――遠い<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の人々には知られなくとも、かれは常に頭の上から、神に罵られているが如く感じて責められるのでしょう、――今も机に暗い顔を俯向けました。

その机の上には。

こくめいに文字をつめた書類や<ruby><rb>綴文</rb><rt>とじもの</rt></ruby>がいっぱい。

何かと見ると、辞書の草稿です。

幕府の<ruby><rb>儒者</rb><rt>じゅしゃ</rt></ruby>、<ruby><rb>筑後守</rb><rt>ちくごのかみ</rt></ruby><ruby><rb>新井白石</rb><rt>あらいはくせき</rt></ruby>にいいつけられて、聖書の洋語を拾って和訳することが、ここ数年、かれの仕事とされていました。

「ああ、また自分で気を腐らせた。忘れよう……及ばないことを」

気をとり直して筆を持つと、

「二<ruby><rb>官</rb><rt>かん</rt></ruby><ruby><rb>殿</rb><rt>どの</rt></ruby>」

と、その時、形ばかりの竹垣をめぐらした裏口から、落葉をふんで、ひとりの同心が、

「よく精が出るのう。もう陽が暮れるのに、そんな薄暗い所で<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>をつめては毒ではないか」

と話しかける。

南天の枝へ六尺棒を預けて、くつぬぎ石から投げるように、縁へ腰をおろしましたが、それはやはりこの<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>い内に住む同心組のひとり、<ruby><rb>河合伝八</rb><rt>かあいでんぱち</rt></ruby>と分っているので、べつに顔も上げないで、

「……こうして夢中になって<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>をしている間が、私には、無上の楽しみでございますから」

「ウーム、しかし、余り精を過ごして、体を<ruby><rb>損</rb><rt>そこ</rt></ruby>ねぬ方がよい。もし<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>がわずらいでもすると、あのお蝶が可哀そうだ」

「女親が先に亡くなっていますので、私も、お蝶の行末だけは、何かにつけて案じられまする」

「親心は、異国人でも、変りがないとみえる」

「むしろ、人一倍でございましょうな。何せい、血の<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った父のひとり娘……」

「ウム、けれど、お蝶も近頃は、目に立って美しくなった」

「はい、年頃は、争えませぬ」

「気をつけることだな、もう、そろそろ油断がならないぜ」

と河合伝八の言葉は意味ありげでしたが、<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>に<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んだままの二官は、

「あの美しさが<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>でなりません、いッそ、男か<ruby><rb>不縹緻者</rb><rt>ぶきりょうもの</rt></ruby>なら、生涯、山屋敷の中で暮らそうとも、まだ諦めようもございますが……」

と、先の真意のあるところは耳うつつで、ただ子<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>な<ruby><rb>繰言</rb><rt>くりごと</rt></ruby>と、たそがれかかる机に筆をなやめております。

そこで、伝八はきせるを抜いて、

「火を一つ貸してもらうぞ」

手あぶりを縁へ引きよせながら、ジロと、部屋の中から勝手口をのぞきこんで、

「お蝶は、見えんようだな」

「先程、畑の方へ、野菜をとりに参りました」

「ふウん……<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>頃には<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>畑に姿が見えたが」

「私が陰気なので、あれだけは、若い娘らしく、せめて山屋敷の中だけでも、好きに、飛び歩かして置きたいと思います」

「結構だ。けれども二官殿」

「え？」

「気をつけろよ」

「…………」

「<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>はまだ知らんようだが、悪い虫がついておる」

「……悪い虫が？」

<ruby><rb>筆架</rb><rt>ひっか</rt></ruby>へ筆を置いて、二官はゾッとしたように色を変えます。

「ウム、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平！」と河合伝八、妙に力を入れて、

「あいつ、拙者の見るところでは、どうやらお蝶に甘い言葉をならべて……」

なおも言いかけようとした時に、コトン……と勝手の水口で、誰やら帰ったらしい物音。

色を変えてボウとしている二官の前に、いつか伝八の姿は去って、入れかわる夕闇の<ruby><rb>畳目</rb><rt>たたみめ</rt></ruby>に、ゆらゆらと明りを揺らせて歩いてくる、<ruby><rb>朱骨</rb><rt>しゅぼね</rt></ruby>の<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>とお蝶の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>。

「お父さん」

「…………」

二官は腕を組んだまま。

「ここでよろしゅうございますか」

八畳の間の中ほど、<ruby><rb>竹脚</rb><rt>たけあし</rt></ruby>の膳の出ているわきへ、行燈をすえて父に聞くのを、振り向きもしないで、

「ウム……」

不きげんに、言ったのみであります。

気にもかけないで、お蝶は、長い<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ<ruby><rb>片襷</rb><rt>かただすき</rt></ruby>をかける。

そして、暫くは、勝手で瀬戸物の音がつつましく、この寒いのに、香の物をきざむ音が、子煩悩な二官の<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>へ<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みてきます。

「ばかな！」

かれは、今の、不快な想像をうち消して、

「お蝶に限って、そんなことのあるわけはない。わしを異国人と思うて、伝八めが気をもましてみたのじゃ」

自ら気をとり直して、雨戸を閉めたり、書物を片づけて、膳の前にきてみると、お蝶は、親の目にも見とれるくらい、濃厚な<ruby><rb>夜化粧</rb><rt>よげしょう</rt></ruby>をいつのまにかして、父の給仕を待っています。

「つけて貰おうか」

「<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>、温かい物が何にもなくなって……」

「いや、結構。だがお前は、今し方までどこへ行っておったのだ」

「御門鑑をいただいて、坂上まで、買物に行ってまいりました。お父さんの<ruby><rb>煎薬</rb><rt>せんやく</rt></ruby>やら、私の、あの、春着を縫う糸なんかも……」

もの言うたびに、黒髪の蔭で金の<ruby><rb>蝶簪</rb><rt>ちょうかんざし</rt></ruby>がキラキラする。気をつけてみると、<ruby><rb>半襟</rb><rt>はんえり</rt></ruby>や帯、袖口からのぞかれる<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>といえども、それは、山屋敷に住む者の娘などとは思われない贅沢ずくめ。

貧しい二官は、お蝶が自力で、<ruby><rb>春秋</rb><rt>しゅんじゅう</rt></ruby>の粧いを見事にやってゆくのを変には思ったが、聞いてみると与力の奥様に貰ったとか、縫い仕事をして求めたとか、巧みに言ってぬけるので、そうかしらと、信じて少しも疑わない。

「世間を知らないお父さん――」

お蝶は、自分の父が、事情に暗い異国人であることを、ある時は、幸せだとさえ考える折があります。

何しろ、十六、七までは、欲しいと思う紅を求め<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を得ることさえもできず、極端な不自由と束縛された生活が、年頃になって、殊に龍平という悪い虫がついてから、にわかに異常な虚栄を張るようになりましたが、二官には、その怖ろしい物質慾の芽生えも、お蝶の、青春の危機にも気がついていない。

ふと、伝八の口から耳にしたことさえ、つとめて、打ち消すようにして、敢て、幸福な眠りを急いで<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>についてしまう。

すると……その晩です。

やがて――

<ruby><rb>父娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>ふしどをならべて、平和な夢に入ったかと思うと、二官の寝入りばなをうかがいすましつ、お蝶の<ruby><rb>腕</rb><rt>かいな</rt></ruby>が、夜具の端から白蛇のように、父の枕の下をさぐっている。

「む……むウム……」

二官が寝返りを打った途端に、かの女の身は機敏にちぢまり込む。

木枕のきしみに、あの、<ruby><rb>妖冶</rb><rt>ようや</rt></ruby>な顔を<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けにしたままのそら寝入り……。

そして。

眼をつぶりながら……。

お蝶は<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の中で父の<ruby><rb>革巾着</rb><rt>かわぎんちゃく</rt></ruby>を胸のところに抑えていました。――必死となれば切通しの晩の如く、日本左衛門に向って<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>をひらめかす程なかの女も、さすがに、父親はこわい。

蒲団の中の心臓の音が自分にもハッキリと聞こえる。

冷やッこい金物が、<ruby><rb>革袋</rb><rt>かわぶくろ</rt></ruby>の口からお蝶の指にさぐり出される。それは、<ruby><rb>辞書編纂</rb><rt>じしょへんさん</rt></ruby>のため常に出入りするので二官が特に預かっている切支丹屋敷の土蔵の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>。

うしろ向きに、深く夜具の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をかぶって寝ている父を見ながら、お蝶は、<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>を破って抜け出る<ruby><rb>蛾</rb><rt>が</rt></ruby>のように<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い起きて、壁の頭巾をとり、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をくるむ。

水口の戸を開けると同時に、サッと流れこむ寒風を怖れながら、素早く、音を盗んで外へ出ます。

まだ宵でしょうが山屋敷の中は<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>とも思われる淋しさ。黒い同心長屋の屋根、お役宅の壁、それらは<ruby><rb>一所</rb><rt>ひとところ</rt></ruby>の森にかくれて、どこかで、気味のわるい夜鳥の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き声がするなど、成程、世間の人が、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷という名にあわせて鬼気陰々たる所と想像しているのも、いわれなき事ではありません。

「土蔵の下で、もう龍平が首を長くしているだろうネ……少し約束よりおそくなったようだ」

お蝶の目には男の姿がチラつく。

家の裏から<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>に添って少し出ると、バラバラバラバラ、雨のような落葉！

そこに年ふる四、五本の<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>があるので。

「オオ、寒！」

と頭巾のはしを口にくわえて、お蝶の足が自然と早くなりましたが、それとともにどこかで不意に、

「お蝶さん――」

呼びとめた声がある。

遠いようで近い声――さびたる<ruby><rb>音声</rb><rt>おんじょう</rt></ruby>でまた弱々しげな声でもあります。

「どこへ行きますか、お蝶さん」

「…………」

お蝶はゾッとして、木の葉まじりの風に吹き止められながら、

「誰？」

と言うと、

「わたしです、ヨハンです」

<ruby><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby>と榎との間に、<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>みこまれた石牢の鉄格子。

声の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>はその鉄格子に、爪の長い手と蒼白な顔をすがらせて、前を通ったお蝶の姿に、なつかしげな瞳を呼びかけているのです。

「あ、ヨハンさん」

「いいところへ来て下さった。すみませんが、その<ruby><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby>の下に白い物があるでしょう」

「あ、これ？」

「ええ。私の、<ruby><rb>聖書</rb><rt>バイブル</rt></ruby>の<ruby><rb>綴</rb><rt>とじ</rt></ruby>が切れてしまって、そこへ、ページの<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>が飛びました」

「取ってくれというの？」

「どうぞ……」と、牢のヨハンは拝むような表情をして、お蝶の手からそれが鉄格子の間にさし込まれると、いくたびも感謝しながら、古い聖書のページへ大事におさめました。

「もう七年」

ヨハンは暗い中にかがやく目をして、

「――<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都を立ってきた時から、この牢にいる間、七年、一日も肌を離しません。こんなになるのも<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もです。私の体さえ、このとおり痩せ細りました。ただお蝶さん――あなたはその頃からみると、よい娘になりましたね……」

現在、切支丹屋敷の牢獄に、たッた一人いる異国人とは、すなわち<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリヤ</rt></ruby>ローマの人、<ruby><rb>伴天連</rb><rt>ばてれん</rt></ruby>ヨハンのことであります。

かれは今から七年<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に、<ruby><rb>大隅</rb><rt>おおすみ</rt></ruby>の海辺に漂着し、江戸<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ護送されて吟味をうけたが、お蝶の父の今井二官のように、信仰をすててころばないところから、この終身牢に監禁されている。

吟味所でかれを調べた新井<ruby><rb>筑後守</rb><rt>ちくごのかみ</rt></ruby>も、何としても、ヨハンが信奉をすてないのにはもて余したが、

（すべてその人博聞強記にして、かの国多学の人と聞こえて、天文、地理の事に至っては、われら<ruby><rb>企</rb><rt>くわだ</rt></ruby>て及ぶべしとも覚えず）

と自著西洋<ruby><rb>紀聞</rb><rt>きぶん</rt></ruby>にも賞めて書いている。

ころべば、幕府は妻家<ruby><rb>官禄</rb><rt>かんろく</rt></ruby>を与えて優遇するが、ころばなければ、終身、この<ruby><rb>牢舎</rb><rt>ろうごく</rt></ruby>に繋いでおく。

日に、小麦の<ruby><rb>団子</rb><rt>だんご</rt></ruby>少しと、野菜揚げと、<ruby><rb>干柿</rb><rt>ほしがき</rt></ruby>二、三個。

それで命をつないでいるヨハンですが、肉おとろえ骨あらわれても、どこか、かれが生気を失わないのに反して、<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>をうけ娘をもって、とにかく、人間らしく送っている今井二官の方は、折にふるるごとに何か苦悶があるらしく、うかぬ顔つきを見る日が多いのは、この山屋敷の<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>不思議。

ころびばてれんと。

ころばぬばてれんと。

何しろ、皮肉な対照でありました。

ところで今――こんもりした榎の下の暗がりで、ヨハンは石室の鉄窓からお蝶の夜目にもあでやかな影を見ながら、

「ど、こへゆきますか、こんな晩に」

と<ruby><rb>怪訝</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かしそうに問い直してくる。

「わたし？」

お蝶は面倒くさかッたが、

「<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>畑へかんざしを探しに――昼間、あの辺で失くしたのを」

と、出まかせなことをいう。

「かんざし？」

ヨハンは<ruby><rb>片言</rb><rt>かたこと</rt></ruby>の日本語で、

「アア、髪へさすかんざし？　……それなら、あした、明るい時に見に行った方がよいでしょう」

「だッて、もし、雨でも降ると、泥の中に埋まってしまうかも知れないんですもの……あたし、心配で、寝られやしない」

こんな答えをする時のお蝶は、いかにも無邪気そうな、あどけない表情をして、あの毒針を心のどこへ引ッこめてしまうのか、ちょうどヨハンの故郷、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>カピトルの丘の競馬場や浴宮に出入りする軽快な踊りッ子を見るように、かれに郷慕のまぼろしを描かせます。

「いつか、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>に話したいことを、私、胸に持っています」

牢の中では、思い出したように不意にいって――

「お蝶さん、ちょうどいい、話があります」

「まあ、いやだ、気味のわるい人！」

飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>こうとすると、かの女の袖は、鉄窓にからんでいました。

「離して！　わたしには、ほかにも急ぎの用があるんですからネ」

「気味がわるいことはない、私は神の<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>です。ころびばてれんのお前の<ruby><rb>父親</rb><rt>てておや</rt></ruby>とはわけが違う」

「大きなお世話じゃないか」

「お気の毒な、さだめし、二官殿は良心に責められておいでだろう」

「うらやましかったら、お前さんも早くころんで、牢から出してもらえばいいのに」

「はははは……」

あたりを忘れて笑ったが、ふと、改まって、

「私の国も<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>。そなたの父親も故郷は羅馬。ふたりは、同じ国の同じ都の人間です。お蝶さんは、それを知っていますか」

「そんなこと、聞かなくッても分っている」

「じゃ……二官殿が日本へ来たほんとの<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>を聞いておいでかな？」

「？　……」

「日本は禁教の国、徳川家では、海をこえて来た異国人と見れば、すぐ捕えずにはおかない。そんな危険を承知しながら、なんで、私がまた二官殿のあとから羅馬を立って来たか、そこに深い秘密がなくては……」

「離して下さいよッ」

じれッたそうに袖を引いてうしろを見ました。

そこには、いつのまにか、土蔵の方で待ちぼけを食って、たずねて来た<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平。

オイオイお蝶、いい加減にしろよ、いい加減に――。

何をつまらねエ<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>に、いつまで引ッかかっているんだ――といわないばかりの鼻先を<ruby><rb>凍</rb><rt>こお</rt></ruby>らせて、<ruby><rb>木蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>に、<ruby><rb>弥蔵</rb><rt>やぞう</rt></ruby>をきめて<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んでいる。

## 官庫の闇

男の手招ぎに気がつくと、聞くのもじれッたいヨハンの話などは、もう耳にも入らないで、お蝶はその方へ馳け出しました。

「龍平かい？」

<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んでいた影は、しびれをきらした膝ぶしをなでて立ちながら、<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をふくらまして、

「で、ございましょうよ」

「悪かったネ、遅くなって」

「お嬢さん、じょウだんじゃありませんぜ」

「オヤ、何が？　……」

「何がって、ばかばかしい、大事な約束を前にしながら、この寒空に、龍平を<ruby><rb>高野豆腐</rb><rt>こうやどうふ</rt></ruby>みてえに忘れッ放しでいいんですか」

「そんなに怒るもんじゃないよ。だッてね、今夜に限って、あのヨハンが私を見かけると、<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに妙なことを言いかけて、離さないのだもの」

「あんな、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>の火がとぼり切れているキリギリスなんぞに、<ruby><rb>生半可</rb><rt>なまはんか</rt></ruby>やさしい言葉をかけると、かえって思いが取ッつきますぜ」

「ア、いやだ……そんなことを言ッちゃあ」

ぶるッと、怖そうな表情をして、男の腕に巻きついたが、その柔らかい手は、少しも真から怖そうな脈のひびきではありません。

そうでしょう、これから官庫の<ruby><rb>戸前</rb><rt>とまえ</rt></ruby>を開けて、男の歓心を買おうとするお蝶が、それくらいのことで、いちいち心臓を息づまらせていたひには、この暗さだけにも堪えられたものではない。

<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>の官庫。

俗にお<ruby><rb>山庫</rb><rt>やまぐら</rt></ruby>とよぶ土蔵の白壁の前に、やがて、さまよう人影があったのは、お蝶と龍平であったでしょう。さびしい夜廻りの<ruby><rb>警鼓</rb><rt>けいこ</rt></ruby>と<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が、<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ほどの間に一、二度、ぼたん畑から<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>め門の辺を廻って、そこを通り過ぎましたが、しかし、その頃には、別だん何の異状も見えなかったのであります。

けれど、それを<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り過ごすと暫くしてから、

「お、鍵は？」

と、うしろで、龍平の低い声がします。

くずれた石垣の蔭から、無言で姿をみせたお蝶は、帯の間から取りだしたものを、思い入れして男の手へ渡しました。

かの女は、このお<ruby><rb>山庫</rb><rt>やまぐら</rt></ruby>の中に、およそどんな貴重品があるかをよく知っている。それは春の日永な頃などに、二官が調べものの書類をさがすのを手伝いながら、あきるほど見覚えていたものでしょう。

百数十年来――二代将軍時代からの<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>とほこりの中にそっと<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まったままそこにある物はといえば、手のつけられないガラクタもあるが、中には真珠の<ruby><rb>念珠</rb><rt>コンタツ</rt></ruby>、<ruby><rb>黄金</rb><rt>きん</rt></ruby>の<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>、<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の<ruby><rb>法杖</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>など、すくなからぬ<ruby><rb>金目</rb><rt>かねめ</rt></ruby>の品物が、まま妙な箱や、聖像の銅板や、きたない<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>の間などから転げて出る。

それはまた何かといえば、皆、はるばる海をこえて、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の府や、スペインや<ruby><rb>南蛮</rb><rt>なんばん</rt></ruby>諸国から、日本へ布教の目的で来て、かえって<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>にふれて片ッ端から殺された多くのバテレン達の――その所持品であり、着衣であり、祭器、書籍などという類の<ruby><rb>遺品</rb><rt>かたみ</rt></ruby>であります。

されば、中には、当時の江戸ではまだ見たこともない、白金や宝石や異国の七宝珍貴な物が、あるべかざらざる所にあるわけでありますが、慾には抜け目ないはずの要路の役人どもが、それを<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>に<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>めて顧みないのは、幕府の人も、邪宗門といえば、絶対に忌むからで、まして、バテレン達の<ruby><rb>遺品</rb><rt>かたみ</rt></ruby>とあれば手も触れようとはしない。

だが、龍平にはそんなことは、決しておかまいないことで、お蝶とても、父の手伝いにここへ入って、初めてそれを見つけた時には、

「まア、勿体ない」

と、むらむらとしていたくらいなものです。

「――お蝶さん、見張りを頼むぜ」

龍平は、鍵をうけ取ると、五、六段ほど石段を<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って、戸前へかかる。

「あ、早く……」

と、お蝶はそれに応じて、小走りに土蔵の裏がわをのぞいて来て、

「大丈夫……今のうちだよ」

「ウム！」

と言うと、龍平の両手は、ガチリ、ガチリ、と大きな<ruby><rb>錠前</rb><rt>じょうまえ</rt></ruby>にふれておりましたが、その時、土蔵の横の網窓に、うッすらと中から不可解な光線がゆらめいていたのを二人とも知りません。

全身を<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>にくるみ、目ばかりピカピカさせたやつ、なんのことはない四本足の<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>と思えばたいして間違いはないヘンな人間が、手に一つずつ<ruby><rb>嵯峨流</rb><rt>さがりゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>忍法手灯</rb><rt>にんぽうあかり</rt></ruby>を持ち、ひとりならず二人ならず、土蔵の中の四角な暗天地に、<ruby><rb>鍵繩</rb><rt>かぎなわ</rt></ruby>をかけたり<ruby><rb>数珠梯子</rb><rt>じゅずばしご</rt></ruby>をわたしたりして、あやしき活躍をいとなんでおりました。

――<ruby><rb>塗籠</rb><rt>ぬりごめ</rt></ruby>です。

耳をつけても外では音の知れッこはありません。

――でまさかにそれとは知らなかった。<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>のお蝶も、また、錠前をカチカチやりだした御本人の龍平も。

ところで、中なる土蔵では、

「――親分」

と、ひとりの黒ン坊が、

「こんなものがありましたぜ」

「ウム、<ruby><rb>革箱</rb><rt>かわばこ</rt></ruby>だな」

と言ったのは、本格な黒いでたちをした男、そばにも二人ほど控えていて、それだけは大長持に腰をすえ、

「明けてみろ……」

と、<ruby><rb>大風</rb><rt>おおふう</rt></ruby>な<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>ざし。

「<ruby><rb>白蝋</rb><rt>はくろう</rt></ruby>がいッぱい詰まっています」

「用はねえ」

「親分――」

と、また<ruby><rb>厚布</rb><rt>あつぬの</rt></ruby>の袋をかついでそれへおく。

「これはどうでしょう」

「<ruby><rb>検</rb><rt>あら</rt></ruby>ためるまでもねえ、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の葉だろう」

「そうらしゅうございます」

「すててしまえ」

スルスルと梯子をすべって来たのがまた何か見せると、用はねえ、違う、イヤ、それでもねえ、あれでもねえ、と次から次へ首を振って、ほとんど、この土蔵の中に何を求めるのか、かれの不機嫌に<ruby><rb>怖</rb><rt>お</rt></ruby>じおそれて、こま<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>のようにクルクル舞いしている黒衣の黒ン坊どもには、ついに想像がつかないものとなって、<ruby><rb>匙投</rb><rt>さじな</rt></ruby>げ気味をあらわしました。

で、とうとう見切りをつけることに一致した黒ン坊一同、ソロソロと長持の前にかたまッて、

「親分、もうこれ以上は、探しようがありませんが……」と、かぶとをぬいだ泣き声で、あやまり入った風情です。

「ウーム……」

男は腕をこまぬいて、荒涼たる土蔵の中を眺め廻しておりましたが、舌打ちして、

「じゃ、しようがあるめえ。引き揚げよう」

「いめいめしいなあ」

うしろで、舌打ちにつれて言うものがある。

「わっしは、七日七晩、焼き米かじッて、ここに住み込みで探したんですから、それで外へ出たひにゃもう半病人です」とさえ、中には言うやつがありましたから、これは、何かよほどな探し物だったにちがいありませんが、それは骨折り損になり、なおまだ、親分というものが何を求めるのか、意中の<ruby><rb>掬</rb><rt>く</rt></ruby>めない面々は、せめて、ここでそれだけでも打ち明けて貰いたいと主張するのが異口同音でありました。

「尤もだ、じゃあ話すから、誓いをしてくれ」

と、一同へ<ruby><rb>他言</rb><rt>たごん</rt></ruby>を封じて、

「おれとここにいる<ruby><rb>先生金右衛門</rb><rt>せんじょうきんえもん</rt></ruby>とが、もう数年前から、何か手懸りのあるごとに探し廻っている品というのは……実ア、たッた一尺ばかりの短刀なんだ」

浜島庄兵衛の日本左衛門、ここに初めて、手下の者へも秘していた、ひとつの大仕事をうちあけようとして、声調おのずから低まりました。

<ruby><rb>塗籠</rb><rt>ぬりごめ</rt></ruby>の外では龍平。

ガチリ、ガチリ……と、いつまでも錠前と取ッ組んでいる様子なので、見張へ廻っていたお蝶も、見ていられない気になって、

「ちイッ、なにをしているの」

「ま、待ってくれよ」

「鍵が合わないのかい？」

「ピッチリ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っているんだが……」

「おかしいネ、貸してごらん」

代り合って、こんどはお蝶の白い指が、冷やかな金物にふれました。

日本左衛門を真ン中に、土蔵のうちでは黒いものが、

「短刀？」

「ウム」

「一尺ばかりの短刀ですって」

「ウ……」

「親分がそれまでに目をつけるからには、いずれ<ruby><rb>鈍刀</rb><rt>なまくら</rt></ruby>じゃござンすまいね」

「もちろん」

「とすると――<ruby><rb>行平</rb><rt>ゆきひら</rt></ruby>、<ruby><rb>小鍛冶</rb><rt>こかじ</rt></ruby>、<ruby><rb>正宗</rb><rt>まさむね</rt></ruby>、あんな仲間でございますか」

「いいや」

「少し下がって、千手院、<ruby><rb>手掻</rb><rt>てがい</rt></ruby>、<ruby><rb>志津</rb><rt>しづ</rt></ruby>、<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>もの」

「ちがう」

「古刀ですか」

「うんにゃ」

「じゃ、新刀で？」

「そうでもねえ」

「はてね……。だが、<ruby><rb>相州</rb><rt>そうしゅう</rt></ruby>とか<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>とか京ものとか、およそ、その短刀の系図ぐらいは<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>がついていねえんでしょうか」

「いる！」

「分っていますか」

「ウム、実は、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>だ」

「えッ」

と、ここで初めて黒い連中は、自分たちの反問が<ruby><rb>迂愚</rb><rt>うぐ</rt></ruby>というよりは、てんで、お門違いであったことに気がついて黙りこみました。

しがない<ruby><rb>白浪</rb><rt>しらなみ</rt></ruby>の下ッ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱ</rt></ruby>にしろ、剣といえば日本のほこりと合点し、伊勢の<ruby><rb>玉纏横太刀</rb><rt>たまきのたち</rt></ruby>や天王寺の七星剣などの<ruby><rb>古事</rb><rt>ふるごと</rt></ruby>はとにかくとして、<ruby><rb>天国</rb><rt>あまくに</rt></ruby>出現以来の<ruby><rb>正宗</rb><rt>まさむね</rt></ruby>、<ruby><rb>義弘</rb><rt>よしひろ</rt></ruby>、<ruby><rb>国次</rb><rt>くにつぐ</rt></ruby>、<ruby><rb>吉平</rb><rt>よしひら</rt></ruby>、<ruby><rb>等々々</rb><rt>とうとうとう</rt></ruby>のえらい剣工を自分たちの祖先にもつことを三ツ子といえども知っていて、いわゆる<ruby><rb>銘刀</rb><rt>めいとう</rt></ruby>といえばそこいらでなければならないと心得ているところへ、日本左衛門が、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>――とあまり意表外なことを言ったので、あたまも尻ッ<ruby><rb>尾</rb><rt>ぽ</rt></ruby>もなく皆ヘンな顔をして半信半疑、イヤ、無智をなぶられるのではないかとムッとした色さえ目つきにうかがえる。

「妙に聞くかも知れないが、決して、嘘やからかい事じゃあない」

無智な手下たちの気を見てとることは早く、日本左衛門、

「――おれが生涯の大仕事として、ひそかに探し求めているのはその短刀の埋もれている<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>だ。最初の聞きこみはこの先生金右衛門、抜け買い（密貿易）のことで五島沖の南蛮船にもぐりこんで行った時、その船の<ruby><rb>加比丹</rb><rt>カピタン</rt></ruby>（船長）から、おれたちに連絡のあることを見こまれて、頼む！　と打ちあけられた仕事なのだ」

真面目です。

その<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>の真剣さは、やがてふわふわしていた手下たちの気をひきしめて、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をのむ音もゆるさない。

そこでかれが話すところには。

短剣というのは<ruby><rb>正寸</rb><rt>しょうすん</rt></ruby>一尺一分、<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>づくりの<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>にすばらしい夜光珠を<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>めこみ、<ruby><rb>刀身</rb><rt>なかみ</rt></ruby>の一面には南欧美少女の<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>が青金で<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>してあるとのこと。もとより鍛冶も持ち<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>も<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の人で、かの国の王族だったと申します。

その者は、日本でたしかに<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>を終ったが、年も月も場所も、今ではおぼろにもただすよしがないともいう。

「夜光の短剣が見つかれば、ある王家が亡びずにすむのです。誰でもよろしい、それを手に入れてくれた方と何万金でも取引します」

熱心に南蛮船から<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>されたことが、抜け買いの者からだんだん波及してきて、その捜索が江戸へ移るにつれ、当然、緑林に息を吸う以上その顔色をはばからなければならない日本左衛門へ渡りがかかッて、果ては、かれをこの探し物の中心にもり立ててしまったわけである――ということも、この際話のついでに釈明しました。

あの、四ツ目屋での、<ruby><rb>伊太利珊瑚</rb><rt>イタリヤさんご</rt></ruby>と紫頭巾のいきさつ。

それも実は、日本左衛門が、こいつは？　――と首をひねッた敏覚からつけてみた事で、その暗示から山屋敷をこえ、一歩進んで、官庫の中をこうかき廻したのも、まったく、<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>た金や珊瑚のカケラの小慾ではなく、目的は夜光の短剣、あるいはその手懸りにあったのであります。

けれど。

それは見事な失敗に終って、

「こいつらにも、無駄骨を折らせて気の毒だった」

と思うままに、今、実相の一端を洩らしたのでありましょうが、意外にも、かれが話し終ると共に、

「はてね？　……親分、私はそれと同じ話をツイ四、五日前にもよそで聞きましたが……」という者が出てきました。

日本左衛門には意外でありました。

夜光の短刀の秘密こそは、まだ自分と、<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門を頭にいただく抜け買い仲間の一部のほかには、こんりんざい、<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>に詳しいことを知っている者はないはず。

手下の前で、今、その一端をもらしたのも実に初めてであるのに、それをもう<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>で聞いた者がいるとは、いかに、耳や勘の異常に発達した社会とはいえ、かれにしても驚かされたのでしょう。

うっすらと<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>に色をなして、

「だれだ？　そう言うのは」

声の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>を物色すると、

「へい」

と、うずくまった<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>のうちから、ひとり、神妙に存在を申し出る答えがありました。

「ウム、てめえは<ruby><rb>率</rb><rt>そつ</rt></ruby>八だな」

「へい」

再度こう返事をしたのは、お人好しの率八と通称のある小泥棒。

盗賊の中に籍を置いていて、それで、お人好しもないように聞こえますが、この黒い連中もこれで一社会をなしている以上、やはりその粒のうちにも、おのずから善と悪があり、義と不義があり、固い性質とズボラがあり、素走ッこいのと薄のろ、陰険なやつとお人好しの<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>など、<ruby><rb>箇々</rb><rt>ここ</rt></ruby>その箇性はさまざまでありまして、やはりかれらといえども悪を憎み、不義はそしるところでして、お人好しの率八のごとき、たとい稼ぎは<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>にしても、<ruby><rb>相応</rb><rt>そうおう</rt></ruby><ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の一員として愛護されて生きてゆかれるだけの組織にはなっている。

「前へ出ろ」

その率八をあごで招いて日本左衛門は、

「――今おれが話したとおりなことを、よそで四、五日前に聞いたと言うが、そりゃあ、まったくか」

「まちがいなく耳にしました」

「どこで？」

「<ruby><rb>溝店</rb><rt>どぶだな</rt></ruby>の伊兵衛の家で聞いたんで……。今四、五日前といいましたが、それはおぼえ違いで、もう半月ほど前になるかもしれません」

――何を言ッてやがンでえ――と例に依ってクスクス嘲笑しかける者がありましたが、日本左衛門は、それで一笑に付し去ろうとはしないで、なお<ruby><rb>熱</rb><rt>ねつ</rt></ruby>く、

「伊兵衛というと、道中師の伊兵衛のことか」

「そうです」

「あいつなら、たしか、いつぞやの市にも顔を見せていたな」

「<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>を着て隅の方に立っていました。あの市からだいぶ<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の話なんで……あっしは何の気もなく<ruby><rb>溝店</rb><rt>どぶだな</rt></ruby>の近所まで行ったので、その伊兵衛の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>をのぞきました」

「ウム」

「すると、伊兵衛は居ません。あっしは腹が減っていました、飯が食いてエなと中に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って見ると、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>のそばに飲みかけの酒がありました。有難いと思って、それを飲んで炬燵の中へ寝てしまいました、ヘイ、ずいぶん永いこと寝ちまったんで……」

「ウム……」

「話し声に目がさめると、隣の部屋で、伊兵衛と<ruby><rb>易者</rb><rt>えきしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>馬春堂</rb><rt>ばしゅんどう</rt></ruby>がコソコソ話し合っています」

「ふム……」

「とネ、親分、馬春堂のやつがでッかい声で――伊兵衛！　こいつあ大変だぞ！　えらい物が手に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったもんだ――と言っているんで……オヤ、と障子の穴へ目を押しつけてのぞいて見ると、馬春堂と伊兵衛さんが、こればかしの、四角な箱をあけて、ウームと腕ぐみをして考えこんでいるあんばいでした」

「箱を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けて？」

「へい、そのそばに、女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が畳の上に置いてありました」

<ruby><rb>梁</rb><rt>うつばり</rt></ruby>から落ちる<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>ごみが、<ruby><rb>忍法手灯</rb><rt>にんぽうあかり</rt></ruby>に、チリと燃えて、土蔵の中の夜は更けてゆきます。

その外では。

中から用意の<ruby><rb>心張棒</rb><rt>しんばりぼう</rt></ruby>が掛っているということは知らないので、今は、お蝶と龍平、あたかも錠前の<ruby><rb>呪縛</rb><rt>じゅばく</rt></ruby>にかかったように、<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かねば開かぬほど意地になって、蔵の<ruby><rb>戸前</rb><rt>とまえ</rt></ruby>を引いてみたり揺すぶッてみたり、苦しみぬいている様子。

けれど……そこが開いたらどうだろう？

むしろ、開かない戸こそ、幸いだったのではないでしょうか。

率八は、それからまた、

「馬春堂と伊兵衛さんが、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を置いて、何を考えているのかしら？　……と、あっしも変に思ったので、障子の穴から見ているッてえと……」

と、日本左衛門へ向って、話しつづける。

「なアに、二人が思案し合っているのは、その女の仮面じゃあなくッて、面箱の底から出て来た、<ruby><rb>虫蝕本</rb><rt>むしくいぼん</rt></ruby>の方なんで。……<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と、こちとらには文字が分りませんが、なんでも易者の馬春堂がそいつを口のうちに読んで、ウーム、こりゃあ尾州家で<ruby><rb>御刑罪</rb><rt>おしおき</rt></ruby>にあったばてれんの調べ書だとか何とか言っておりやした」

「尾州家の……おっ、それが面箱か？」

「へい」

「合点がいかねえ！」

と日本左衛門は、大長持に腰かけて抱えていた大刀のこじりを、<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>と共にトンと突いて、

「尾州家の面箱といえば、<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の鬼女面――そういくつも世間にころがっているはずはねえ。ありゃあ、おれが市ヶ谷の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷から持ち出して<ruby><rb>故意</rb><rt>わざ</rt></ruby>と市ではたいた品物、それも、ほンの<ruby><rb>意趣返</rb><rt>いしゅがえ</rt></ruby>しの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>にしたことなので、<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>という家来が仲間にやつして入り込んで来たのも万々承知の上で、それへ売って返してやったのを……ふウむ、伊兵衛の手に渡っているたア初耳だ」

「親分、あいつは、伊兵衛があのドサクサまぎれに、さらッて逃げたんでございます」

べつな<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>が横から告げます。

なるほど。

それには日本左衛門にも、<ruby><rb>頷</rb><rt>うな</rt></ruby>ずかれる節がある。<ruby><rb>真土</rb><rt>まつち</rt></ruby>の上の黒髪堂で、突然、かれが斬りつけてきた抜きうちは<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>をかけてきたのであって――今思えばあの時面箱を持っていた様子はなかった。

「まア、そりゃ、どうでもいいが……」

深くは<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>せずに、先の疑問。

「で、それから、馬春堂が何か話したのか」

「そうです、伊兵衛さんの口ぶりじゃ、その面箱をポンと開けると、面の裏から、奇妙な、えたいの分らねえ、<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>を<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>ったものが出て来たんで、その鑑定をして貰いてえというので、裏に住んでいる馬春堂を呼んで来たんでございます。そこで馬春堂が、ズウと読みながら、こりゃあ大変だ、途方もねえことが書いてある、ウウム、と唸りながらそいつを伊兵衛さんに解釈して聞かせます。あっしも、隣の部屋でツイお<ruby><rb>相伴</rb><rt>しょうばん</rt></ruby>をして聞いちまいましたが……」

どうもお人好しだけに、複雑な話になると廻りくどい。

つまり。

率八の話を<ruby><rb>綜合</rb><rt>そうごう</rt></ruby>してみると、それは尾州家の若殿徳川万太郎が秘持していた「<ruby><rb>御刑罪</rb><rt>おしおき</rt></ruby>ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」の<ruby><rb>綴文</rb><rt>とじもの</rt></ruby>に相違ない。

首きられたそのばてれんの口書にも、はるばる<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の国から日本へ渡ってきたのは、夜光の短刀をさがしに来たので、決して、邪宗をひろめに来たのではない――という陳述がこまごまと写してあったのです。

けれど、時の役人――尾州家の者も、異教禁令の<ruby><rb>色眼鏡</rb><rt>いろめがね</rt></ruby>をもって調べているので、そのばてれんが夜光の短刀について、<ruby><rb>縷々</rb><rt>るる</rt></ruby><ruby><rb>陳弁</rb><rt>ちんべん</rt></ruby>をつくしているにもかかわらず、

（巧みに虚妄を申し立つるといえども神威のお<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>いかでかまぬかれん遂に<ruby><rb>拷問</rb><rt>ごうもん</rt></ruby>四十三日目に条々伏罪して獄門にかけらる）

と結んで、審議のあやまちは知らず、調書に誇って書いてある。

けれど見る者が見ると、

（夜光の短刀をこの日本へさがしに来たのだ！　布教ではない！　夜光の短刀がほしい！）

と白洲で叫びつづけたその者の口書には、どこかに真実が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいたはずで、万太郎はそこへ自分の考察を朱筆で入れておいたものです。

偶然――その口書の内容と、今、日本左衛門がここで一同に話したこととは<ruby><rb>符節</rb><rt>ふせつ</rt></ruby>がピッタリと合っている。

「ウーム、そうか。率八よく聞かしてくれた、礼を言うぜ」

と、すべてを聞いて黙思した日本左衛門も、ここに一段と自分の捜索に眼界をひらかれた心地。

思えば……。

じッと冷静に夜光のまぼろしの遠い過去を思えば……それは二年や三年、きのうや今日に始まったことではないらしい。

<ruby><rb>元和</rb><rt>げんな</rt></ruby>、慶長のころ、すでに現在から百余年も昔のまだ江戸城創府の当時から、どうしてもなくてはならない夜光刀をこの日本に求めて、幾多の異国人が千里の波濤をこえ禁教の国を承知しながら、捕われても首きられても、生きかわり死にかわり、日月の転変と共に絶えまなく海の<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>から訪れていたのではあるまいか。

率八の話をきいて思わず深い黙思に落ち入っていた日本左衛門は、やおら、やがて、

「うッ、うーウむ……肩が張った！」

土蔵の天井をつきぬくように<ruby><rb>双手</rb><rt>もろで</rt></ruby>をさし上げ、人もなげなる伸びをして、

「さあ、いつまで、ここにこうしていてもしようがねえ。みんな！　ぼつぼつ引揚げとしようぜ」

ぬッくと、大長持から腰をあげました。

そして自ら先に、黒頭巾を脱ぎすて<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>を解いて振り落とすと、下は常着のおはぐろ<ruby><rb>紬</rb><rt>つむぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>鶯茶</rb><rt>うぐいすちゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>博多</rb><rt>はかた</rt></ruby>かなんぞと見られる平帯。

それに習って。

一党の黒い連中もおのおの黒衣の一端からクルクルと仕事着の皮を剥きはじめる。

見ると、それは縫目もなければ袖もない、<ruby><rb>並幅</rb><rt>なみはば</rt></ruby><ruby><rb>半反</rb><rt>はんだん</rt></ruby>ほどなただの<ruby><rb>黒木綿</rb><rt>くろもめん</rt></ruby>。

それを器用に五体へ巻きつけて、四本足の<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>となって働いていたものとみえ、一斉に、黒ぐるみから脱け出すと、みんなふだんの通りな<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>で、<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>は二ツに折って腹巻に締めこむ。

「腹が黒い」という語源が、そもそもこの辺りから出たものかどうか、それは詮索の<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>としまして、とにかく半<ruby><rb>反</rb><rt>だん</rt></ruby>の布、よく彼らに保護色を与え、機に応じ変に臨んで白くも黒くも意のままであります。

ちょッと、たもとからくり出される<ruby><rb>数珠繩</rb><rt>じゅずなわ</rt></ruby>の<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>や、脱いで腹巻になる黒装束などは、どうあっても根が武家である日本左衛門の才覚でなくてはなりますまい。<ruby><rb>嵯峨流</rb><rt>さがりゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>手明灯</rb><rt>てあかり</rt></ruby>やそれらの利用などを考え合せるに、この一流の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>も忍者の故智を盗んだものにちがいなく、しいて名づければこう申しましょうか――<ruby><rb>白浪流</rb><rt>しらなみりゅう</rt></ruby><ruby><rb>早抜</rb><rt>はやぬ</rt></ruby>きの黒衣。

さて。

連中があざやかに引揚げ<ruby><rb>支度</rb><rt>じたく</rt></ruby>をなし終ったのを見ると、抜け買いの<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門が、

「おい、日本左衛門」

「ウム……」

という気のない肩を打って、

「――がッかりのあとが理に落ちて、イヤに今夜は陰気になった。吉原とでも目先をかえて、<ruby><rb>大陽気</rb><rt>おおようき</rt></ruby>にサンザメかそうか」

「よかろう、案内をしてくれ」

「雲霧」

「おう」

「行くか」

「なにしに否やの<ruby><rb>候</rb><rt>そうろ</rt></ruby>うべき」

「は、は、は、は、こういう相談で破談になった<ruby><rb>例</rb><rt>ため</rt></ruby>しがねえ」

「親分」

「親分、あっしも」

「てめえたちは鼻の穴でも洗って、どこかへ勝手に散らかるがいい」

チリン、チリン、チリン、と分け前の小判が、こんな中でも<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>とした光をもって、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の手のひらへ一枚ずつおどる。

「じゃあ――行こうぜ」

「灯を消せ」

日本左衛門の声を最後に、ふッ……と前後に吹かれた息が、さらぬだに暗い真のやみを呼び落しました。

「…………」

ズ、ズ、ズ……と一同の<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り足。

先にやみをなで廻して、<ruby><rb>官庫</rb><rt>かんこ</rt></ruby>の戸の内側をさぐッて行ったのは、<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門であったらしいが、さわり合っているそばの者も、匂いで知るほか誰やら判じがつかない。

鉄のような<ruby><rb>分厚</rb><rt>ぶあつ</rt></ruby>な<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の一枚戸。

そこの<ruby><rb>心張棒</rb><rt>しんばりぼう</rt></ruby>へそッと手がかかった時、金右衛門の第六感をビクッとさせたのは、その外の声なき空気でありました。

## 入れ<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>

女性のねばりづよい執着。

そのあるかぎりの精を蔵の戸に賭けて、お蝶はさっきから何ものもない様子で、そこを開けないうちは去り得ぬ心理になっている。

<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かッたが最後――どんな大変がわくか、どんな危難が身に落ちてくるかも知らずに。

かかればかかるほど、凡婦と凡夫、自己の錯覚に捉われてゆくばかりで、

「どうして開かないのだろう。こんなはずはない、こんなはずは……」

精と根気をすり<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らすのみでした。

そうです。<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>がきかないのかと一時思ったのは、あれは、龍平があわててカラ廻りをさせていたので、いつのまにかそれは立派にはずれていて、そのくせ、依然たる<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かずの戸。お蝶の根気も龍平の力もうけつけたものではない。

「よそうじゃねえか」

とうとう男が、弱音を吹くと、

「なにさ！」

かえってお蝶の方はやッきとなって、

「折角鍵をなにして来たのに、またいついい折があるか分りゃあしない」

「そうだなあ……。どれ、もう一度おれが」

浅ましいやつ。

まだ感づかずに、口をへの字に曲げて<ruby><rb>渾力</rb><rt>こんりき</rt></ruby>をしぼっているかれの形は、力をこめればこめるほど<ruby><rb>冷蔑</rb><rt>れいべつ</rt></ruby>と滑稽を思わせますが、吾人にもこんな例がままあって、<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けばかえって不幸な扉を、無理にも開こうとし、その開かぬことを人生の不運となげいたりして、龍平と同じ努力をやることが処生の<ruby><rb>随所</rb><rt>ずいしょ</rt></ruby>にあるような気もします。

「あっ……お待ち！」

その時。

お蝶が不意に袖をひきましたが、龍平は<ruby><rb>磁力</rb><rt>じりょく</rt></ruby>に吸いつけられてしまったように、

「ウムッ……強情な戸だなあ……」

「お待ちってば、龍平」

「こいつあ変だ。いよいよあかねえと相場がきまった」

「それどころじゃあない……」

「えっ」

「たれか来たようだよ、人がさ……」

「ど、どこへ？」

と、かれがうしろへ目をやった途端。

しまった！

<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>め門の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にある石井戸の陰から、こッちの様子を眺めていたらしい<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の明りがチラッと……。

はッと驚いて、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>がそこへしゃがみ込むと同時に、向うの提灯もふッと消えましたが、それと共に明らかに分るのは、タ、タ、タ、タッ……暗い大地をうって、ここへ目がけてくるその人間の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>。

「ちイッ、いけないねえ……」お蝶は龍平の手首をきゅッと握って、

「見つかったよ、見つかったよ」

「こ、こうしちゃアいられねえ」

ひッ腰もなく、男が戸まどいして馳けだそうとするのを抑えつけて、

「<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てでない……そんな方へ逃げだしてどうするのさ」

「おっ、来やがった」

「早くッ……姿を隠すんだよ！」

じゃけんに枯れ草の中へ男を突きとばしておいて、お蝶自身はヒラリと石垣の下へ飛び降り、そこに乱雑に積んであった大谷石の間へ、機敏に体をひそませました。

と！

一瞬の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を措かず、そこへ、疾風のようにとんで来たひとりの武士、六尺棒をかいこんで、ハッ、ハッ、と白い息をはきながら、

「はてな？　……」

と、急がしい目くばり、白壁にさした人影をあたりに探し求めている。

見るとそれは、夕刻、今井二<ruby><rb>官</rb><rt>かん</rt></ruby>と少し話して帰った、山屋敷<ruby><rb>常詰</rb><rt>じょうづめ</rt></ruby>の<ruby><rb>同心</rb><rt>どうしん</rt></ruby><ruby><rb>河合</rb><rt>かあい</rt></ruby><ruby><rb>伝</rb><rt>でん</rt></ruby>八。

ふと、蔵の<ruby><rb>戸前</rb><rt>とまえ</rt></ruby>をふり仰いで、そこの<ruby><rb>鉄錠</rb><rt>てつじょう</rt></ruby>がはずされているのを見つけるや否、

「おおっ！」

かれは、<ruby><rb>仰</rb><rt>の</rt></ruby>けぞるばかりに<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>して、なんの<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>いもなく、六尺棒を小脇にしたまま、正面六、七段の石だんを、トン、トン、トンと勢いよく馳け上がってゆきましたが――それとほとんど同時に、目の前の大戸が、あたかも雷車の如き音を立って、グワラッグワラッグワラッと一気に押ッ<ruby><rb>開</rb><rt>ぴら</rt></ruby>かれたのです。

そして。

<ruby><rb>洞然</rb><rt>どうぜん</rt></ruby>とした暗やみの口はシンとして静かでありながら、同心河合伝八は、脳天に浴びた<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>の血を抑えながら、身を弓なりに<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らして<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けざまに、デンと、石段の下へ落ちてきました。

もう――と霧に立って、あたりへ降ってきた細かい血汐の粒にお蝶は肩をすくめて、

「あっ……」

歯の根をかみながら、口を破ッて出そうな驚きを、ジッと袖口でおさえました。

今。

蔵の錠前がはずれているのを見て、いきなり馳け上がって行った同心河合伝八が、そこの大戸があくよと見るまに、真っ向から<ruby><rb>唐竹</rb><rt>からたけ</rt></ruby>に割りつけられて、満顔<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>に<ruby><rb>染</rb><rt>し</rt></ruby>みた姿を下へ落としてきた意外な<ruby><rb>惨状</rb><rt>さんじょう</rt></ruby>は、同じように、石垣のわきに身をひそめていた龍平の眼にもありありと映じたでありましょう。

下へ落ちた伝八は、ただ一刀に絶命して、

「ウームッ……」

と枯れ草の根をつかみ、<ruby><rb>滅前</rb><rt>めつぜん</rt></ruby>の一<ruby><rb>燦</rb><rt>さん</rt></ruby>ともいうべき断末苦を、ピクリ、ピクリ、と四肢の先に脈うたせているばかり、

ですが。

お蝶にも龍平にも、どうして、誰に、伝八がかく斬りさげられたのか殆ど前後が分らない。

こんな一瞬の気もちを夢中というだけで片づけるには、あまりに当人たちの心理が複雑でありましょう――言いようのない恐怖、疑惑、戦慄、さまざまな錯倒を胸に描いて、なお怖いもの見たさの目が無意識に、真っ黒な口をあいた蔵の戸前へつり上がッている。

逃げるにも逃げられる場合ではなし、その気力もあり得ようはずはなく、疑惑とおののきを歯の根にかみしめて、虫のごとく、

「？　……」

ただジッと、息をころしているほかにない<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>。

すると、静かな空気のまま。

魔法をもって吹き出された人間のごとく、蔵の中からのッそりと足をふみ出したのは雲つくばかりな大男――、栗色の衣類に<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>をうがち、肩のあたりまでふッさりと総髪の毛先を垂れた中年<ruby><rb>頑骨</rb><rt>がんこつ</rt></ruby>の武士、これ、暗中にその声のみしていた、抜け買い派の頭領<ruby><rb>先生金右衛門</rb><rt>せんじょうきんえもん</rt></ruby>です。

すぐあとから一本の刀の光が、<ruby><rb>海蛇</rb><rt>かいだ</rt></ruby>のごとく閃めいて見えました。星明りをうけて、それは日本左衛門と知られます。刀の<ruby><rb>血糊</rb><rt>ちのり</rt></ruby>を拭いてとると、チーンと鳴りのいい<ruby><rb>鍔音</rb><rt>つばおと</rt></ruby>をさせて、金右衛門と肩をならべて石段を一歩、一歩、と降りかけます。

つづいて、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>をハネたいなせな若い男、雲霧の<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>です。

でっぷりと肥った男、<ruby><rb>千束</rb><rt>せんぞく</rt></ruby>の<ruby><rb>稲吉</rb><rt>いねきち</rt></ruby>です。

一<ruby><rb>眼</rb><rt>がん</rt></ruby>、じゃんかのこわい顔をした男、尺取の十太郎です。

そのほか一味の<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>と名のつくともがら、あとから後からと姿をあらわして、<ruby><rb>魔形</rb><rt>まぎょう</rt></ruby>一列を成すかと思われましたが、十二、三人目に出てきたお人好しの率八を<ruby><rb>殿</rb><rt>しんがり</rt></ruby>の<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めとして、もう土蔵の中にいた黒いのは、残らず出払ったかと思われました。

ところが、また少し間をおいて、慌てて走り出してきたのは、今までの連中と違って、しなやかな線をもった痩せ形な人影。

追いついて、先の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>へ<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>じった時、ふとその横顔が白く読めました。道理で馳けて行った時の姿の見好かったはずです――それは女！　あの丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>でした。

しとしと……と多くの足音が、遠のいて行く<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>をのび上がりながら、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平とお蝶は、互に茫然とした顔を見合わせたのみで、なんの言葉もありません。

一陣、夜更けをすさぶ<ruby><rb>野分</rb><rt>のわき</rt></ruby>の声があります。

ザア――ッと吹きめぐる風の渦は、山屋敷いちめんの畑や蔵や役宅や<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>め門や、すべての黒いものの影へ、おびただしい落葉をフリ<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、同時に、塀ぎわで散らかッた十数人の<ruby><rb>魔形</rb><rt>まぎょう</rt></ruby>の行方を知れないものとしてしまいました。

翌日、山屋敷の騒ぎは案の如きものとなって、役宅からは<ruby><rb>与力</rb><rt>よりき</rt></ruby>が、また総長屋の同心や小者までが、大変という声を耳にすると共に、何事かと朝飯の箸をすてて、孤立した白壁の建て物の前へ駈け集まってくる。

わらわら飛んで来たはいいが、見るほどの者が皆そこへ来ると<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>として、棒を飲んでしまった形です。

<ruby><rb>官庫</rb><rt>かんこ</rt></ruby>の扉が押ッ開かれている！

中は目もあてられない乱脈！

さらに、戸前の下には同心河合伝八の謎めいた死骸！

あまりの事に寄り集まった者が、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をひしがれて茫然としていると、中にひとり盛んに驚き方を誇張して<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている男がある。見るとそれは、大変！　という第一声をあげてこの椿事を山屋敷じゅうにふれて廻った<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平で、

「まったく、あっしゃ、生れてから今朝みてえにビックリした事はございませんよ。何しろこれですからね。何の気もなく起き抜けに奥の物置へ掃除の道具を取りに行こうと思うとこれなんでさ」

大勢の者は、同じことを何度も言って廻る龍平の<ruby><rb>熱</rb><rt>ねつ</rt></ruby>い話には殆ど耳うつつで、口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた倉の戸ばかり見つめていたが、龍平は発見者たる立場を一同にうなずかすため、いっそう身ぶり手ぶりで、

「はじめ、あの<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>め門の向うがわから、何の気もなくこッちを見ると、お倉の戸が開いてやがるんで……。いつも東から朝日がさし初めると、この戸前の正面が薄赤くパッと冴えて見えるのが、<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>はイヤに変だがと思って来てみると、河合様が斬られている。あっしは、腰が抜けそうになりましたね、まったく」

「では、貴様が第一にこれを見つけたのだな」

初めてかれの顔を顧りみたのは、役宅<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>早川<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>で、

「よろしい、現場は拙者が預かる、一同はここを<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>いて、いつもの通り静かに役儀に就くように」

こういうと側に居合した二人の同心に何か耳打ちをした様子。ひとりは龍平を連れて役宅へ戻り、ひとりはあとの者を追い帰して、直ちに、今日よりお許しの出るまで、山屋敷の者一同外出まかりならず、というきびしい触れを出して禁足しました。

これは当然な処置でした。この<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>は宗門方の自治で、町<ruby><rb>奉行</rb><rt>ぶぎょう</rt></ruby>の支配でもなければ寺社奉行の権限でもありません。こういう騒動が起った場合も、それらの機関に力を借りるのはべつとしても、まず犯人の判定や、被害や目的の如何など応急な方針と処置は、当然、ここに<ruby><rb>常詰</rb><rt>じょうづめ</rt></ruby>となっている与力同心たちの双肩にかかる重大責任です。

で、<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>は、あとに残って詳細に倉の内外を見て廻っている。それを終って、河合伝八の死骸を片づけたのは午後でしたから、とうとう<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>の食事さえ<ruby><rb>摂</rb><rt>と</rt></ruby>っていない。

「弱った……」

役宅へ引揚げてきたかれの顔色はまっ青で、

「ウーム、弱ったことができた」

ただ吐息をくり返すばかり。

皆目、なんの見当もつかない。官庫を破った者は少なからぬ人数のようであるが、その目的とした所がまるで想像がつかない。

このまま、これを幕府に報告して、町奉行の力を借りるとなれば、切腹は待つまでもなくそれと同時の仕事です。と言って、風の如く来て風のごとく去った群盗の<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>と察しても、それを捜索するにはあまりに山屋敷預りの自分たちだけでは微力すぎる。

わずかに、勘解由が思い当るのは、これは誰か、内部のものが内から手引をしたのではないかという疑念。

で――その翌々日、かれは役宅に<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>を開いて、まえから禁足してある山屋敷内のお<ruby><rb>扶持人</rb><rt>ふちにん</rt></ruby>残らず――しめて、二十七人の者を一所に呼び集めて、入れ札の下探りを試みました。

入れ札。

それは一体どういうことかと疑いながら、むしろ好奇な目で、ころびばてれんの今井二官は、何も気がつかずに娘のお蝶を連れ、神妙に、その中の<ruby><rb>頭数</rb><rt>あたまかず</rt></ruby>となって控えております。

入れ札の白洲というのは、いわゆる犯人投票といったような方式で、当時、何か事が迷宮に入った場合にはまま行われたものだと申します。

白洲といっても畳を敷きつめた役宅の広間なのです、正面には山屋敷<ruby><rb>預</rb><rt>あずか</rt></ruby>りの与力、<ruby><rb>熊野牛王</rb><rt>くまのごおう</rt></ruby>の神紙二十七枚を三方にのせて前へ置き、側には、机を控えて同心と<ruby><rb>書役</rb><rt>かきやく</rt></ruby>、左の袖部屋にも三、四の下役がおそろしく緊張した<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で折目を正している。

で、与力の<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>は、呼び集めたもの一同へ向って、

「お上の御封庫を荒し、同心河合伝八を殺害した不敵な<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>は、およそ<ruby><rb>此方</rb><rt>このほう</rt></ruby>にも目ぼしがついておるが、前後の事情、また官庫の附近に落ちていた証拠の品などから察するに、どうも当夜お<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>い内から曲者を手引したものがあるらしく思われる」

ジロリと二十七名の頭数を見渡して、なおも一応入れ札を取るに至った理由をのべます。

そして、言い渡しの終りに、

「たとい肉親<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>の親しい間がらであろうと、必ず隠し立てをいたさぬ事。万一虚偽の入れ札をなすものは下手人同罪であるから左様心得ておくように」

<ruby><rb>神文誓紙</rb><rt>しんもんせいし</rt></ruby>の形式をとった上に、改めて<ruby><rb>扶持高</rb><rt>ふちだか</rt></ruby>の者から順々に一名ずつ<ruby><rb>書記机</rb><rt>しょきづくえ</rt></ruby>の前へ呼んで、<ruby><rb>熊野神紙</rb><rt>くまのしんし</rt></ruby>へその当人の怪しいと疑いを抱いている者の名を書かせる。

思い当りの全くない者は、

（誓って存じ寄り<ruby><rb>無之</rb><rt>これなく</rt></ruby>）

と書いて<ruby><rb>棄権</rb><rt>きけん</rt></ruby>しても一<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby><ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えないのですが、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になって、当然知っていながら逃げたと分ると、これまた下手人同罪をまぬかれない破滅を求めるので、うかつなことも書けず当りさわりなく逃げておくのも容易に許されない仕組。

扶持高の順番が一人一人廻ってきて、やがて指名されたのは今井二官です。二官は御封庫破りの騒ぎも寝耳に水でありましたし、それを手引したという疑いをもつ者なども、自身の周囲には思いよるところがないので、そのまま正直に、

（誓って存じ寄り<ruby><rb>無之</rb><rt>これなく</rt></ruby>）

と、入れ札をすまして引き退がりました。

次には、その<ruby><rb>愛娘</rb><rt>まなむすめ</rt></ruby>のお蝶の番。

お蝶の濃艶な姿はこんな情味のない席にあって一層衆目をひきながら、静かに書記机の前へすべって、歌でも書くようにスラスラと何か入れ札を<ruby><rb>了</rb><rt>お</rt></ruby>えて父のそばへ戻ってくる。

最後に、八、九人の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>小者も、型の如くいちいち呼ばれて立って行く。そして中に交じっていた龍平は、入れ札を手にとる時、チラと、お蝶の方へ目をやりましたが、かの女の素知らぬ顔は横に向いて男のうしろ姿さえ心にかけぬふうでした。

入れ札が終ると、一同は役宅を出て、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の長屋や住居へ戻ってゆく。そして、あとには<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>と腹心の者だけが残って、一室を閉め切り、その入れ札を開くこととなりましたが、二十七枚の多くは、

（誓って存じ寄り<ruby><rb>無之</rb><rt>これなく</rt></ruby>）

という札ばかりです。

仲間の龍平が入れた札も同様でありました。

ところが、最後に開いたお蝶の入れ札を見ると、それには優しい文字で明らかに、官庫破りの盗賊を内から手引きした下手人の名として、

お小屋番のもの龍平。

と、かれの名を<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>した文字があらわれて出ました。

## 赤い櫛の女

遠いところの昼の三味線――

松の内の町を流す女太夫の糸でもありましょうか、例のけだるい稽古<ruby><rb>三味</rb><rt>じゃみ</rt></ruby>の調子はずれでもなく、<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>の<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えと申すほどな鋭いさばきとも違って、なんとなく心を<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>まされる<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>な三絃の音が、張りたての障子紙を透して、ちょうどいい程度の音階に聞えてきます。

枕元には、白茶の<ruby><rb>柄糸</rb><rt>つかいと</rt></ruby>に<ruby><rb>赤銅</rb><rt>しゃくどう</rt></ruby>ごしらえという<ruby><rb>柳鞘</rb><rt>やなぎざや</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>一刀と、同じ作りで吉光の差し<ruby><rb>添</rb><rt>ぞえ</rt></ruby>。

また、鎌倉塗りの盆の上には、<ruby><rb>薬湯</rb><rt>やくとう</rt></ruby>をせんじた<ruby><rb>薬土瓶</rb><rt>くすりどびん</rt></ruby>と湯呑みが伏せてあって、そばには一鉢の<ruby><rb>福寿草</rb><rt>ふくじゅそう</rt></ruby>。花嫁の<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>に綿ぼこりがついているくらいな、目に触らない<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>がすこしたかッて見えます。

その福寿草も開き切ってしまいそうな暖かい初春の陽が、<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>の窓いッぱいにさしこんで、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に日かげの<ruby><rb>縞目</rb><rt>しまめ</rt></ruby>を描いていますが、その陽光と了戒の刀に枕元を守られている当の人は、春眠暁を知らずという<ruby><rb>甘睡</rb><rt>かんすい</rt></ruby>の度を超えて、こんこんとしたまま、いつまで醒めよう<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>も見えません。

眠れる人は、<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>でありました。

金吾といえば、彼は尾張中将の放縦なる若殿徳川万太郎の側付き、その万太郎が市ヶ谷の上屋敷を放逐された<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>は、当然一緒に根岸の別荘に移って、主人と共に起居しているべきでありますが、ここは<ruby><rb>忍川</rb><rt>しのぶがわ</rt></ruby>の水門<ruby><rb>尻</rb><rt>じり</rt></ruby>、上野のお<ruby><rb>成</rb><rt>なり</rt></ruby>街道を横切ってくる小川に添った<ruby><rb>片側</rb><rt>かたがわ</rt></ruby>町の露地で、野暮にいえば下谷の<ruby><rb>源助店</rb><rt>げんすけだな</rt></ruby>、丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>がひとり暮らしの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>であります。

「おや……」

切壁の<ruby><rb>小襖</rb><rt>こぶすま</rt></ruby>をあけて、そこを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながらこう言ったのはお粂です。

「……まだ眼がさめない」

枕元にやんわりと坐ると、長火鉢で加減をみてきた<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>の<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>と<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>の<ruby><rb>刺身</rb><rt>さしみ</rt></ruby>をのせてきた盆を、一まず横の方へ置いて、

「――だが、瘠せたねえ」

何を思うのでありましょうか、手を<ruby><rb>黒繻子</rb><rt>くろじゅす</rt></ruby>の間に入れて、男の寝顔をしみじみとながめている。

あれは十一月の頃でした。

<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の丘から駕にのせて、相良さんをここへ連れて来てからもう二月ほどになる。わずかな間に、あんな<ruby><rb>凜々</rb><rt>りり</rt></ruby>しい侍も病には勝てないで、こうも瘠せ細るものであろうか――とお粂が今更のような考えごと。

その考えごとに<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われるには、お粂の胸の中だけに、かなり深刻な<ruby><rb>魂胆</rb><rt>こんたん</rt></ruby>が<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>りされています。

と、いうのは、

もともと金吾があの時の不覚は、日本左衛門の<ruby><rb>当身</rb><rt>あてみ</rt></ruby>を<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>にうけたのみで、正気がつけば何も病床に親しむほどのことはない。お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>が駕にのせて帰って、一服の気つけ薬を与えれば、それで充分、元気は恢復しているべきです。――が、お粂があの時の親切気というものは、元々ふッと魔がさしたような、妙な心から発足していたので、どうしても、男をすぐに正気に<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>してしまう気にはなれなかったと察しられます。

と言って、気を失ったままにしておいて、自分の置きたい部屋に、そっと据えておくこともならない。

お粂が甘やかな親切気を見せて、気つけ薬と言いながら金吾に最初飲ませたのは、何か微量な毒のある<ruby><rb>煎薬</rb><rt>せんやく</rt></ruby>で、かれは正気にかえると共に、一日ごとに、この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>を出られぬ体となってゆきました。

「万太郎様がお案じであろう、早く、一日も早く、わしは根岸へ帰らなければならぬ」

金吾の<ruby><rb>囈言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>を聞けば聞くほど、かの女の甘い毒薬は少しずつ朝夕の<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>に増されて、春は来ても梅は咲いても、相良金吾、<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>よりはさらに<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>な妖婦の愛のとりことなって、今は、いつこの<ruby><rb>水門尻</rb><rt>すいもんじり</rt></ruby>の隠れ家を出られることか、寝顔のかれも、枕元で見つめているお粂自身も、結び合されて解けない奇なる運命を、自分で作って自分でもどうなることか分りますまい。

「もし……相良さん」

と、お粂はやがて夜具の中の<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>たる夢の人を軽くゆすぶって、なお醒めない寝顔に吾を忘れて見入っておりましたが、

「堪忍しておくんなさいね」

こう詫びると、突然、自分の顔を男の頬へピッタリと押しつけて行って、美しい<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>のある猛獣が<ruby><rb>香</rb><rt>こう</rt></ruby>ばしい餌にじゃれて、うつつにでもなったような身ぶるいを寄せ付けつつ、

「帰しゃあしない……<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>ゃあ、どんな事をしたってこの人を、自分の手から、帰しやしない！」

<ruby><rb>囈言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>のように呟やき、ひとり涙を流しながら涙の甘さに酔いかけておりますと、

「お粂さん――御馳走さまだな」

あらぬ所から思わぬ人声が飛びこみました。

はッと男の体から身を離したものの、ここは丹頂のお粂が好きに手足をのばしている隠れ家で、まして茶室ごのみに壁で仕切ったこの奥の部屋へそんな不作法な人目はないはず。

と、思って――お粂は自分の驚きを打ち消しはしたものの、もう<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>りかけた情炎は水を浴びせられたような心地で、吾ながらてれ臭そうに、そこへ落ちた<ruby><rb>丹色塗櫛</rb><rt>にいろぬりぐし</rt></ruby>をやけに横へ<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>きあげました。

あだめいた女がさす櫛とさえいえば、<ruby><rb>油艶</rb><rt>あぶらづや</rt></ruby>の<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>をめでる<ruby><rb>黄楊</rb><rt>つげ</rt></ruby>と相場がきまっていますが、お粂がまだ<ruby><rb>廓</rb><rt>さと</rt></ruby>の芸者でいた前身の頃、櫛に血色の<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬ</rt></ruby>りをかけて、それを<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>に<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らせたことがあります。今もさしているのはその頃の好みで、黒髪にうつる半月形の朱を、誰が見立てたか丹頂のお粂と、白浪仲間では通り名になって、文字どおり緑林の一<ruby><rb>点紅</rb><rt>てんこう</rt></ruby>、噂によれば、<ruby><rb>廓</rb><rt>さと</rt></ruby>から根びきした金の出し<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>は日本左衛門だということですが、元々どっちも変り者、どうせ世間通例のお<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>でお粂が納まっているはずもなく、一方の日本左衛門とても、月何回と<ruby><rb>版木</rb><rt>はんぎ</rt></ruby>にかかッて出る定刊本のように<ruby><rb>妾宅</rb><rt>しょうたく</rt></ruby>へ顔を出して、おほんと言っている旦那でもありません。

で、この両名の関係は、仲間の者でもあいまいに考えられていますが、いつか<ruby><rb>見様見真似</rb><rt>みようみまね</rt></ruby>で、稼業の方だけは、お粂もいッぱし一人前になって、時には女装へ<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>をくるんで、かれと共に行動をするし、ある時はまた単独であざやかな小遣い取りの仕事もする。

そういうお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>が、<ruby><rb>真間</rb><rt>まま</rt></ruby>の<ruby><rb>紅葉見</rb><rt>もみじみ</rt></ruby>でどういうことがあったのか、とにかく、相良金吾にはよほど打ち込んでいた様子です。そして、日がふればふるほど、金吾をこの家から去らしたくない、その手段には微量な毒を盛って、いつまでもいつまでも、男を青い皮膚の色にさせて、この密室にとりこめて置こうとしている。

そうした愛と毒心の矛盾に立ってお粂は今またそこで、

「相良さん、目をおさましなさいな。御飯ができましたから……ね、相良さん」

と、今度はほんとに肩を抱いて起しかけましたが、それを聞くとどこかでまた、笑うらしい<ruby><rb>濁</rb><rt>だ</rt></ruby>み声がして、

「おやおや、朝ッぱらから……は、は、は、は、どうもお安くないことですな」

襟すじへスウと風が来たので、お粂はムカッとしてうしろの<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>窓を見ました。案の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>です、そこの小障子を四寸ほどあけて、外から罪なところを覗き見している馬の如き長い<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>が、

「どうも飛んだところを拝見しました」

と、げらげら笑いながら謝っている。

謝るくらいなら引ッ込めばよいのに、なおずウずしく馬面を貼りつけているので、お粂の仲の<ruby><rb>町張</rb><rt>ちょうば</rt></ruby>りな<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>ぺきはいッぺんにそこへ叩きつけざるを得なくなりまして、

「なんだねまア、大きな鼻の穴をしてさ、物貰いのお獅子かと思ったら、その顔は馬春堂じゃないか」

「仰せのとおり、<ruby><rb>売卜</rb><rt>ばいぼく</rt></ruby>の馬春堂でござるが」

「何がげらげらおかしいのさ、家にゃ、こんな九尺二間でも、格子作りの入り口があるんだからね、用があるなら表から廻っておくれよ」

「ところが、いくら訪ずれても、その表の格子が開かないと来ています」

アア違いない！　と気がついたが、ここで折れるのは<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>なので、

「そうさ、<ruby><rb>初春</rb><rt>はる</rt></ruby>だもの。開けておけばお獅子だの<ruby><rb>太神楽</rb><rt>だいかぐら</rt></ruby>だの、お前さんみたいな長い顔だのと、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>なものは舞いこんで来ないから<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>めッ放しにしてあるんだよ。ここまで廻って来たついでに、用があるなら、台所から<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っておいで」

朝から縁起でもない<ruby><rb>馬面</rb><rt>うまづら</rt></ruby>が舞い込んで来たとは思いましたが、無理に金吾の寝心地を醒ますでもあるまいと、そっとかれの夜具を直してお粂が茶の間の方へ立って行って見ると、勝手口から廻って這入った馬春堂は、

「<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>、どうぞあちらの御用をごゆっくりと。――手前はお手数をかけずに、ここで頂戴いたしていることにする」

折から長火鉢のわきへ出してあったお重箱の<ruby><rb>煮〆</rb><rt>にしめ</rt></ruby>をひろげて、猫板に乗せてあった一本まで、<ruby><rb>燗銅壺</rb><rt>かんどうこ</rt></ruby>に這入っております。

腹を立てる値打ちもなくなって、お粂は<ruby><rb>友禅</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>の座ぶとんへ膝を<ruby><rb>居</rb><rt>い</rt></ruby>くずしに坐りながら、

「用のありそうな顔つきをして来て、やっぱり<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>は一口飲みたいんだろう」

「仰っしゃる通りでもあり、そうでもない用件も少し帯びて参ったので。まあ春のこと、一杯やりながら<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆるゆる</rt></ruby>とそのお話をいたしたいと思ってな……」

と<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>に指を触れて見て、

「あちッ、ち、ち、ち、ち……」

<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>に湯気の立つのを持ち代えながら、

「ひとつ、<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>もどうですな」

「有難くないね、お前さんのお<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>じゃあ」

「いくら奥に色の小白いのを寝せつけてあるからッて、そんな憎まれ口をたたくものじゃありませんぜ、馬春堂だって、一年三百六十五日広小路へ<ruby><rb>売卜</rb><rt>ばいぼく</rt></ruby>の野天を張っているうちにゃ、これでも、易はあたらなくってもいいから相談相手になってほしいといってくる御婦人方も少なからぬ男でしてな」

「ああ、そうかよ、うるさいね」

「人の顔を見るや否や、すぐに<ruby><rb>虫酢</rb><rt>むしず</rt></ruby>の走りそうな筋を立てるのは、けだし丹頂のお粂さんひとりと言っても過言ではない」

「どういう訳だが、自分で<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>を立てて見たらいいだろうにさ」

「その判断なら<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>はいらない。梅花堂流の<ruby><rb>心易</rb><rt>しんえき</rt></ruby>で、ちょッとこう胸に算木を置いてみるならば……ウムと……<ruby><rb>山天大畜</rb><rt>さんてんたいちく</rt></ruby>の二<ruby><rb>爻変</rb><rt>こうへん</rt></ruby>、浅き水に舟をやるの<ruby><rb>象</rb><rt>かたち</rt></ruby>――君子徳を養うの<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>というところだ。<ruby><rb>兌沢</rb><rt>だたく</rt></ruby>の水に<ruby><rb>離船</rb><rt>りせん</rt></ruby>をうかべ、ものに行き詰るの有様で、水意あれど船走らず、胸にジリジリと開けぬものがこだわッて、それがその、つい広小路から近いので度々お邪魔にくる馬春堂の<ruby><rb>故</rb><rt>せい</rt></ruby>みたいに思われて、飛んだ飛ばッちりを食うという易のお言葉だ。――どうだいお粂さん、あたったろう、気をつけなくッちゃいけませんぜ」

と、膝をあぐらに組直して、馬春堂の針をふくんだ手酌のあいさつ、この八<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>見も一癖以上はありそうです。

「なるほど、まあそんなことかも知れないねえ」

お粂は取り合わないふうに、かんざしの脚で、きせるの朝顔をほじりながら、

「見料にもう一本つけるから、さッさと飲んで帰っておくれ。今日は少し出かける用先を控えているんだから」

「よろしい、じゃぼつぼつ用談に取りかかろう」

と二ツ三ツ<ruby><rb>手酌</rb><rt>てじゃく</rt></ruby>を重ねて、

「ほかじゃないがお粂さん、あの奥に寝ている侍は、尾州の徳川万太郎の家来だろうね」

「それがどうかしたのかえ」

胸にギクリとくるものをかくして、お粂はわざと何気ない眉を馬春堂へ寄せながら、ぷッと<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>の<ruby><rb>吸口</rb><rt>すいくち</rt></ruby>に息を鳴らしてかんざしを髪の根へ戻しました。

「なに、どうもしやしませんが、その相良金吾に違いなければ、どうだろう、わしにあの侍の体を一日貸してくれませんか」

「おとぼけでない」

お粂は糸切歯にゆがんだ笑い方を見せて、

「相良さんの体を貸してくれないかってお言いなのかえ？　じょうだんも大概にするがいい、お前、<ruby><rb>他人様</rb><rt>ひとさま</rt></ruby>の体を、損料ぶとんや<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>と間違えちゃ困るよ」

「じゃあ、どうだろう」

馬春堂はお粂の舌頭ぐらいには、チクリとも感じそうもない<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の皮をして、

「ちょっと、手前に引き合わせてくれぬか」

「会ってどうするのさ」

「話があるんだ」

「私が聞いて取次いであげようじゃないか」

「御親切は有難いが、少し内密なことなので、じかに聞いて貰いたいと先方からも頼まれているので、どうも<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>に話すわけにはまいらんて」

「……ヘエ、それでは、用があるのはお前ではなくって、だれかべつに頼まれている人間があるんだね？」

いよいようさん臭いお客様と見て取って、長火鉢の猫板へ<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をもたせかけているお粂のたださえ凄艶な目の底に、油断のない光を加えています。

「だれだい、その頼み<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>は？」

「それも言ってくれるなと固く口止めされていてな……どうも弱った。だが何、決してお前さんの恋の邪魔をしようの何のというような腹じゃあないから……」

と馬春堂はお粂の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりを嫉妬と察して、あらかじめその人間が女でないことを釈明するに努めましたが、お粂のきげんは直りそうもなく、頑として、金吾に会わせることはできないの一点張。

手酌に重なる<ruby><rb>熱燗</rb><rt>あつかん</rt></ruby>の酒と業腹とが煮え合って、馬春堂は急に、

「オイ、なんだッて！」

<ruby><rb>売卜</rb><rt>ばいぼく</rt></ruby>先生あられもない権幕と居直りました。

「よしゃアがれ、おたんちんめ、相良に会うも会わねえもこッちの勝手だ。ありぁあ元々てめえが<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の市の晩に、日本左衛門には内証でくわえこんだ男だという話じゃねえか」

「ホ、ホ、ホ、ホ。そんなおせッかいな噂をしている<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>人があるのかい」

「知らぬは亭主ばかりなり――日本左衛門はどうだか分らぬが、おら、道中師の伊兵衛から深いことを聞いているよ」

「伊兵衛？　……ああそうか、お前に何か頼んだというのは、あのからくり屋の小細工だね……」と、お粂が何か思い当っている<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>でした。いきなり馬春堂はそこを立って、

「そんなことはどうでもいい、表にゃ駕が待たせてあるんだから、金吾はおれが連れて帰るぜ」

「――何をするのさ、病人だよお前、相良さんは」

あわててお粂がその前に立ちふさがると、馬春堂は相手を女と呑んでかかって、

「そうよ、その病人をなおしてやるんだ。邪魔をすると承知しねえぞ」

「ふざけた真似をおしでない、丹頂のお粂の家で<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を立てると、つまみ出すからそう思ッておいで」

「生意気なことを！」

平手で横顔をはりつけようとすると、お粂もきいている女ではありません。

「人を<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>ったね」

蘭花のまなじりに<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>をさして、馬春堂の耳たぶをつかみ、力まかせに捻り廻して、

「さ、出ておいで！　出ておいで！」

台所のほうへ引きずってゆくと、

「ちッ、この<ruby><rb>阿女</rb><rt>あま</rt></ruby>がッ……」と馬春堂、真似もできない顔をして、耳がとれるか手を離さすか、大きな<ruby><rb>図</rb><rt>ず</rt></ruby>ウ<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>を不器用にどたばたさせて、その胸元を食ッてかかる。

とたんに。

棚の瀬戸物小鉢が、いっぺんにガラガラと流し元へ落ちて<ruby><rb>粉裂</rb><rt>ふんれつ</rt></ruby>したのは、<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>と<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>二つの体が、板の間へ組んで倒れたのと同時で、折から露地の表の方では、初春の<ruby><rb>獅子頭</rb><rt>ししがしら</rt></ruby>を町内に振りこんであるく笛太鼓が、景気よくチャンギリを入れて乱調子に高まりました。

「あい、ごめんよ、ごめんよ」

その時。

露地の口元が人で<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>まっているのをかき分けて、やっとそこを通りぬけ、お粂の家の前へ立ったのは、<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>の皮みたいな頬ッぺたの色に春を<ruby><rb>象徴</rb><rt>しょうちょう</rt></ruby>したお人よしの率八で、

「あれ、親分……留守のようですぜ」

と、開かない格子に手をかけながら、自分のうしろにヌッと立っているふところ手の<ruby><rb>青編笠</rb><rt>あおあみがさ</rt></ruby>――日本左衛門へ口をとがらせてみせました。

「留守？」

「ええ、開きませんもの、これが」

「そんなふうには見えない、もう一度、でかい声で呼んでみろ」と日本左衛門。

稼業がらの癖に、留守か留守でないかの見分けがつかないところはさすがに率八らしく、格子に顔を押しつけて、奥へ訪ずれることなおしばし、しかも、返辞のないのは依然であります。

日本左衛門はその間に、かれを残して家の横へと廻っている。それは何の<ruby><rb>狐疑心</rb><rt>こぎしん</rt></ruby>でもなく裏の様子を見るための<ruby><rb>摺足</rb><rt>すりあし</rt></ruby>でありましたが、そこまで行かぬ<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>の窓下へ来かかると、二寸ほど開いている小障子の間から、<ruby><rb>春陽</rb><rt>はるび</rt></ruby>に<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>れる<ruby><rb>煎薬</rb><rt>せんやく</rt></ruby>のにおいが、<ruby><rb>薫梅</rb><rt>くんばい</rt></ruby>のただよいに似てぷんと鼻へ……、

「そうか――」

かれはお粂が風邪でもひいて寝ているものと直覚しました。で、何気なく前に馬春堂が立った所から四畳半の内をさしのぞいて見て、

「やっ？」

お粂と思いのほか、どこかで薄ら覚えのある若い武士の寝姿が<ruby><rb>小屏風</rb><rt>こびょうぶ</rt></ruby>のかげに。

「……おっ、相良金吾だ？」

思わず口走ろうとする驚きを、ペリッと笠のつばに折って、うしろへ身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたかれの口元には、見まじきものを見たような、不快の<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>さをゆがめておりましたが、

「親分――」

どんと<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかるように馳けて来た率八がそこへ、

「やっぱり留守じゃありません、お粂さんは裏の方にいるようなんで、それに、変な物音が……」

導いて行こうとすると日本左衛門は、何思ったか、反対の方へ五、六歩急いでお人好しの率八をうしろに<ruby><rb>見顧</rb><rt>みかえ</rt></ruby>り、

「おれは帰る、お粂にあれだけを耳打ちしてやってくれ」

ただ一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>。

ぽかんと、口を開いている間に、その姿は抜け道へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れてしまったので、率八は仕方なく裏へ廻って勝手の腰障子を、

「<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>！」

と、前の調子で力強く手にかけると、こんどは勢いよく開け過ぎて、あぶなく流しの前へ<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>とんぼを打つところでしたが、それよりもあッと驚いたのは、板の間で今や組ンずほぐれつの落花<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>。

お粂を下にねじ伏せた馬春堂が、相手の胸元へ短刀を擬している。その光が率八の眼の玉へいきなり飛びこんだから堪りません。

「野郎！」

というと有り合う獲物、何をつかんだか自分でも分らず、飛び上がるなり馬春堂の頭の上からザーッと手桶の水をおんまけて、

「姐御に向って何をしやがる」

不意を食った馬春堂が下へころげ落ちたところを、手にふれた<ruby><rb>火消壺</rb><rt>ひけしつぼ</rt></ruby>をたたきつけ、騎虎の勢いはなお余って、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>や十能や<ruby><rb>火吹竹</rb><rt>ひふきだけ</rt></ruby>など手当り次第に投げつける。

「ウーム、おぼえていろよ」

<ruby><rb>寒垢離</rb><rt>かんごり</rt></ruby>をして<ruby><rb>骨</rb><rt>こ</rt></ruby>ッぱいになった馬春堂が、<ruby><rb>獅子舞</rb><rt>ししまい</rt></ruby>の<ruby><rb>遠囃子</rb><rt>とおばやし</rt></ruby>を引っ立ててそこを逃げ出してから暫くして<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>――。

お粂は髪を直し、濡れた着物をつけ直して率八を長火鉢のそばへ呼び、

「<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>なんぞを抜きゃあがって、ほんとに、お前でも来てくれなければ」

率八の労を<ruby><rb>多</rb><rt>た</rt></ruby>として膳の上を拭き代え、縁起払いにつけ直した酒をお粂自身の手で<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>までして与えながら、

「なんてえ、ゲジゲジだろう」

と、なお去らぬ余憤に舌打ちを鳴らしています。

「姐御もまた、何だって、あんな野郎を寄せつけるんで」

「いくら不愛想にしてやっても、のこのこ来るのだから、手におえないやね」

「いつか私が、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷の蔵の中で親分にも話した通り、あいつと道中師の伊兵衛はグルになって、この頃じゃ夜光の短刀を<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>で探し廻っているてえことですぜ」

「ああ、それでだね……」

とお粂のひとみが奥の方へうごいたには気がつかないで率八は、

「ところで、今日来たのもその話なんてすが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と親分は帰ってしまいましたから、お<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>だけをいたします」

「親分……が来たのかい？」

「ええ、つい窓の下まで」

ドキと不安を呼ばれたお粂の胸に、あの蒼白にして<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>な日本左衛門の怒色をふくんだ顔が浮く。

「で――話は急だし大変です。切支丹屋敷の一件が町奉行の手に移って、ぐずぐずしていると、ここも捕手の目につくから、今夜のうちに世帯をたたんで一時どこかへ姿を隠した方が無事だろうと、こう親分が御心配なすって、その耳打ちだけをしておいてくれといって帰りましたぜ」

## 噛みつく釘抜き

がアーッと二、三羽の<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>――<ruby><rb>御行</rb><rt>おぎょう</rt></ruby>の松のこずえを打って、薄陽の残る<ruby><rb>御隠殿</rb><rt>ごいんでん</rt></ruby>の森の暮色へと吸いこまれてゆく。

ここは根岸の里。

<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>と<ruby><rb>山茶花</rb><rt>さざんか</rt></ruby>ときれいな小川と、まして茶荘や<ruby><rb>寮構</rb><rt>りょうがま</rt></ruby>えの多いここらあたり、礼者や<ruby><rb>太神楽</rb><rt>だいかぐら</rt></ruby>の春めきもなく、日ねもす消えぬ道ばたの薄氷から早くもシンと身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みる<ruby><rb>夜寒</rb><rt>よさむ</rt></ruby>の闇がただようています。

すると。

かなり荒廃した<ruby><rb>海鼠塀</rb><rt>なまこべい</rt></ruby>の一軒の屋敷、そこでミリッと生木の裂けるような音がしたかと思うと、松の枝を<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>わせて塀を越えた一人の若者が、ひらりと、大地へおどり立ちました。

空へハネ返った<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>の先からハラハラと<ruby><rb>落松葉</rb><rt>おちまつば</rt></ruby>の身にかかるのを払って、ふところから取出した<ruby><rb>秀鶴頭巾</rb><rt>しゅうかくずきん</rt></ruby>を、

「うまく行った」

と、いうていにニコッと<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>にかぶったのは、この廃邸の下屋敷に、行状の直るまではと、押込めにあっていた徳川万太郎でした。

けれど、塀を越えて抜け出したところを見れば、まだその行状は相変らずなものと見えます。身なりは、絹の光の冷やかな着流しに<ruby><rb>紺足袋</rb><rt>こんたび</rt></ruby>ですが、さすがに同じ黒の羽織は掛けていて、秀鶴頭巾のかぶり振りに見るも、この恰好ですいぶん仲の<ruby><rb>町</rb><rt>ちょう</rt></ruby>あたりの夜更けをうろついたものにちがいない。

「寒い……」

肩をすぼめて急ぎ足に、かれがそこを離れてゆくと、藪のかげからまた一人の男が、

「――万太郎様、しばらく」

と曲ってゆく<ruby><rb>孟宗藪</rb><rt>もうそうやぶ</rt></ruby>の抜け道を追って、

「万太郎様、万太郎様」

呼んでゆきますが声が低い。

それをいい事にして先へ行く万太郎は、耳のない振りをしていよいよ大股になる。

ええまずい！

外にまで<ruby><rb>張番</rb><rt>はりばん</rt></ruby>を付けておくとは、まるでこの万太郎という者を<ruby><rb>囚人</rb><rt>めしゅうど</rt></ruby>あつかいだ。

ままよ、面倒くさい、打ッちゃらかして行けという気なのでしょう、そのまま<ruby><rb>御行</rb><rt>おぎょう</rt></ruby>の松の先から横丁へ影を隠して、やがて上野のすそから山下の通りへ出ました。

久しぶりで万太郎、<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>の夜景にのびのびとして、<ruby><rb>雪踏</rb><rt>せった</rt></ruby>を軽く擦りながら町の軒並を歩きますに、茶屋の赤い灯、<ruby><rb>田楽</rb><rt>でんがく</rt></ruby>屋のうちわの音、<ruby><rb>蛤鍋</rb><rt>はまなべ</rt></ruby>、<ruby><rb>鰻屋</rb><rt>うなぎや</rt></ruby>の薄煙り、<ruby><rb>声色屋</rb><rt>こわいろや</rt></ruby>の<ruby><rb>拍子木</rb><rt>ひょうしぎ</rt></ruby>や影絵のドラなど、目に鼻に耳に、ふるるものすべて偉大な<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びでないものはありません。

「まず、飯でも食べての上の思案としようか」飢えてはいないが冬眠していたかれの習性が催促する。<ruby><rb>忍川</rb><rt>しのぶがわ</rt></ruby>という角の茶屋――外から見ると静かそうな二階があるので、三枚橋を渡ってそこへ入ろうとすると、辻に一本の枯柳があって、柳と細竹に<ruby><rb>風防</rb><rt>かぜよ</rt></ruby>けを廻し、<ruby><rb>掛行燈</rb><rt>かけあんどん</rt></ruby>に<ruby><rb>算木</rb><rt>さんぎ</rt></ruby>を書いた大道易者。

びっくりするような、<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>が突然そこから聞こえましたので、万太郎の目がふと白くヒラヒラする机掛けを見ると、雨によごれた布の文字が――馬春堂流<ruby><rb>神易</rb><rt>しんえき</rt></ruby>。

ハタとかれの足が止まる。

万太郎は生れて初めて、六本の黒い<ruby><rb>劃線</rb><rt>かくせん</rt></ruby>を朱がつらぬいている<ruby><rb>象形</rb><rt>しょうけい</rt></ruby>に一種の頼りを感じました。久しぶりで世間の灯を見たとはいえ、かれは今、無明の迷路へさまよい出たも同然で、実は<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>と酒食を求めに来たのではない。

相良金吾をたずねに出たのです。帰らぬ金吾の身を案じて、その消息を知らんとして抜け出して来たのです。

また、金吾が取返してくると言って出た、かの洞白の面箱と、その底に秘めておいた「<ruby><rb>御刑罪</rb><rt>おしおき</rt></ruby>ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」の<ruby><rb>綴文</rb><rt>とじもの</rt></ruby>の行方も、何とも気がかりでならない。

で遂に番人の目を盗んで飛びだして来たものですが、さて、何を手懸りに尋ね出したものか？

その、迷路の靄に<ruby><rb>神易</rb><rt>しんえき</rt></ruby>判断のうす明りです。

「ゆるせ」

という万太郎は、吸われるようにそこの囲いへ身を入れました。

「お……」

と<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を向けたのは馬春堂。

判断の前に<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>を一見して、これは<ruby><rb>掃溜</rb><rt>はきだめ</rt></ruby>に鶴の<ruby><rb>亡者</rb><rt>もうじゃ</rt></ruby>、まずお掛けなさい、と愛想を言おうとしましたが、昼間、率八に水をぶッかけられた<ruby><rb>濡鼠</rb><rt>ぬれねずみ</rt></ruby>の逃げ出しがたたッて、すっかり<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>を引いたらしく、また折悪しくクシ――ンと出る<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>を横へ飛ばしてしまう。

ある紛失物を求めるために屋敷を出た家来が今もって帰らないがその者の消息が知りたい。

まず、生死の点如何？

あるいはそのもの変心して遠く<ruby><rb>出奔</rb><rt>しゅっぽん</rt></ruby>したのでもあるか、どうか。

また求めに行った紛失物はかれの手に入っているのか、それともその<ruby><rb>所在</rb><rt>ありか</rt></ruby>は<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>にあるのか否か。

――徳川万太郎はあらましこんなところを告げて大道易者馬春堂の一<ruby><rb>筮</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を乞いました。

おぼるる者<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>をもつかむの心理で、金吾の生死をひたすらに気遣うかれが、はかない八<ruby><rb>卦見</rb><rt>けみ</rt></ruby>の灯に吸われこんだ気持はわかりますが、さて、薄暗い<ruby><rb>卜机</rb><rt>ぼっき</rt></ruby>に対して、<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>を殺した馬春堂の赤い鼻を眺めると、まことにたよりすくない易面が、かれよりは客の胸にこそ先へうかぶでしょう。

「ほう、紛失<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>？　……また、御家来の安否とな……それは御心配なことで、イヤ、よろしい」

と馬春堂。

<ruby><rb>売卜</rb><rt>ばいぼく</rt></ruby>先生は型の如く、早速、<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>をとりあげて一本を端へのぞき、四十九本をザラリと押しもんで扇形にひらくと、思念の眼を伏せて<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>にあて、<ruby><rb>伏義</rb><rt>ふっき</rt></ruby>文王周公の<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>をぶつぶつ念じ出しましたが、するとそこへ、

「――お待ち遠さま」

うしろの日月の幕の間から、顔を出したそば屋の<ruby><rb>出前</rb><rt>でまえ</rt></ruby>持ち、けんどん箱の中からあたたかそうな<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>一個と、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>の一服ぐすりとを取り出して隅の方へおき、客と見てそのまま首を引っ込めました。

パチ、パチ、パチ、パチ……

<ruby><rb>略筮</rb><rt>りゃくぜい</rt></ruby>を立てて算木をかえし、馬春堂はうしろへ忍びこんだうどん<ruby><rb>掛</rb><rt>か</rt></ruby>けが、あたら冷えることを頭の一部で惜しんでいる。

万太郎は<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>をすり寄せて、

「<ruby><rb>卦面</rb><rt>けめん</rt></ruby>はなんと出ましたな」

「さらば……」と馬春堂、しかつめらしく机をにらんで、

「ウウム、お案じなさることはあるまい、凶兆はあるが、また一道の吉兆も見える」

「では、家来金吾の身にも、まだ別状はござらぬな」

「いいや、そうもいえませぬて。つらつら<ruby><rb>卦面</rb><rt>けめん</rt></ruby>によって判じますに、こりゃその人が婦女の術中に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちて苦しまれている。甘泉の美毒に酔死するか、吉に変って渦中からのがれ得るかという境目じゃ。しかもそれは今宵を過ぎては一命にかかわる」

半信半疑に聞いていますと馬春堂は易書をくって<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>の先で文字の行をたどりながら、

「ウウム<ruby><rb>水辺</rb><rt>すいへん</rt></ruby>だな……これより<ruby><rb>巽</rb><rt>たつみ</rt></ruby>の方、それも遠くはない所に」

「なに、その者がおると申すか」

「いかにも、北に向って湿気の多い袋地、その奥にある女<ruby><rb>住居</rb><rt>ずまい</rt></ruby>の家に捕われている。ここから申せばまず忍川をたどって<ruby><rb>水門尻</rb><rt>すいもんじり</rt></ruby>の近辺と思えば間違いはないでしょう」

あたるも八<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>あたらぬも八卦というが、遠くもない水門尻といえば、行ってその虚実を試みるのもよかろうかと、万太郎が見料を払ってそこを去ると、辻の陰からひとりの男が、姿を見つけて後を追います。

それは根岸の<ruby><rb>孟宗藪</rb><rt>もうそうやぶ</rt></ruby>から声をかけて、頻りとかれを呼んだ男でしたが、あたりの人通りを<ruby><rb>憚</rb><rt>はば</rt></ruby>かるのか、ここではただ先の姿を見失わないようにだけして、万太郎の行くがままに任せている。

あとでは易者の馬春堂、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から鼻紙を出してチンとかみながら、

「は、は、は、は。今夜みたいにあたった易はねえだろう」

独り呟やいたのも自慢にはならない。昼間、自分が見てきた相良金吾の居所、お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>への仕返しにそれを万太郎へ教えてやったのですから、これは<ruby><rb>伏義</rb><rt>ふっき</rt></ruby>文王の呪文に及ぶまでもなく、あたるにきまッた易断です。

そこで先生、

「どれ、冷えないうちに」

と、早速うしろの<ruby><rb>饂飩</rb><rt>うどん</rt></ruby>へ手を出しましたが、おや？　これはまた<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからぬ話、出前持ちが置いて行った<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>の一服薬だけは地べたに落ちているが、かんじんな<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>はかげをかくして有る所に無く、

「はーてな？　……いやに<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せ物が多い晩だぞ」

目を皿にして、いくら見廻したとて見当りません。

すると、日月星辰を描いてある灰色の幕のかげて、何者かクスクス笑う声がしたので、いよいよ驚いた馬春堂、そこを払い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて外へ首をつん出しましたが、

「これはしたり」

とばかり、呆れ返ってものがいえない。

さてこそ<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>です、呆れましたが疑問のうどん掛けはここに所在を明らかにしました。すなわち、いつのまにか幕の裾から失敬して、うまそうにスルスルと柳の下で立食いしている奴がある。

<ruby><rb>斑竹</rb><rt>ふちく</rt></ruby>の皮の<ruby><rb>饅頭笠</rb><rt>まんじゅうがさ</rt></ruby>に、軽そうな、<ruby><rb>燕色</rb><rt>つばめいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>を引ッかけ、後ろ向きになって、汁まで飲みほした上に、

「アア、うめえ。御馳走様」

ひどい礼儀もあったものです。食べた杉箸を<ruby><rb>忍川</rb><rt>しのぶがわ</rt></ruby>へ抛り込み、<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>の丼をしゃアしゃアと馬春堂の手へ返して来ました。

「ふざけた野郎だ」

と、丼は受け取らずに、その腕首を引ッつかんでくれると、

「おッと、止せやい」

「何をいッてやがる、乞食かッ貴様は」

「止せったら、馬春堂。おれだよ、おれだよ」

手を捻じられながら、笠のつばを上げて顔を見せたのは、下谷<ruby><rb>溝店</rb><rt>どぶだな</rt></ruby>で同じ長屋のわるさ仲間、道中師の伊兵衛でありました。

「なあんだ、おめえか」

「折角の<ruby><rb>誂</rb><rt>あつ</rt></ruby>らえ物を冷たくしちゃ勿体ねえから食べてやったのよ」

「よけいなおせっかいだ、風邪を引いた気味なのでワザワザ熱くして頼んでおいたものを」

「何でまた酔狂に、春先から風邪なんぞ引きこんでいるんだ」

「それもお前に頼まれた一件からだぜ」

「どうして？」

「お粂の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で水を<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>っかけられたのよ」

「じゃ、例のを探りに、行ってくれたのか」

「ところが、その方の首尾は散々でな」

と、馬春堂は伊兵衛の期待へあわてて手を振って、

「まあ、こっちへ這入ってから話すとしよう」

風<ruby><rb>防</rb><rt>よ</rt></ruby>けの蔭へもぐり込んで、<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>代りの<ruby><rb>摺鉢</rb><rt>すりばち</rt></ruby>の火をほじり立てます。

「おめえが頻りと気にしているから、実は今日お粂の家へ様子を見に行った。ところが御安心なものさ、その金吾は病人で腰が立てない」

「それじゃ、あの<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>をおれに<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>い<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られても、今のところじゃ、取り返そうとしておれを<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>け狙っているような<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりはまずねえな」

「そんな元気はないようだよ」

「ないようだじゃ心細い。金吾に会って、そらとぼけながら口裏を引いて見りゃいいに」

「それをやろうとしたのが大しくじり、会わせてくれというと、いきなりお粂が<ruby><rb>巽</rb><rt>たつみ</rt></ruby>あがりに怒りやあがって」

「意気地がねえな、女に水をぶッかけられて引き<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>ったのかい」

「なあに、水をかけた奴は率八だがね」

「どっちにしても<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>められた話じゃねえ。だがお粂の所に<ruby><rb>匿</rb><rt>かこ</rt></ruby>われていても、金吾が病気といやあ安心だが、また一ツいけねえことが降ってわいたな」

「今行った、徳川万太郎かな」

「そうよ、あれを馬春堂、お前は尾州の若殿徳川万太郎と知って、金吾の居所を教えてやったのか」

「ウム、<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>のくずし紋や物いい人品、尋ね物と来た時に、すぐそれだなと感づいていた」

「どうする気だ！　飛んだことをしゃべったじゃねえか。もし万太郎が金吾の体を取っ返して見ろ、今度は二人がかりで<ruby><rb>紛失物</rb><rt>ふんしつもの</rt></ruby>を探しながら、この伊兵衛の命を<ruby><rb>狙</rb><rt>つ</rt></ruby>け廻すにちがいねえ」

「なるほど」

馬春堂はお粂に対する腹いせに、金吾の居所を指してやったのですが、いわれてみると伊兵衛の言葉がもっともなので、

「こいつは、悪い易を立ててやった」と、悔いを噛んで目をそらしました。

と――その目の前の往来を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>ッて、十四、五人ずつ二組ばかりの<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>と組子が、手に手に十手をしのばせて、忍川の川尻へ真ッ黒になって馳けて行く――。

「やっ、捕手が廻っている！」

と馬春堂は腰をうかして、宵の町に黄色く舞った砂ぼこりの行方へ眼色を変えましたが、<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>に傷を持つ伊兵衛の挙動も同時にソワソワし出して、

「たいそう仰山な人数だな……こいつは悪くすると、また当座だけでも江戸から足を抜かないと<ruby><rb>剣呑</rb><rt>けんのん</rt></ruby>かも知れねえぞ」

あわてて腰へ煙草入れをさし込み、笠の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を締め直しましたが、不意に手を出して、

「オオ、それから、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>に預けておいた<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>、あいつを貸してくんねえか」

「持って行くのか」

「おめえに預けておくのは<ruby><rb>心許</rb><rt>こころもと</rt></ruby>ないし、おれが持ち歩いているのも物騒。いッそのこと人目にかからない山の中へでも<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けておいて、それから悠々と夜光の短刀を探しにかかろうと考えているんだ」

「成程……だが伊兵衛、お前はそれについて、これと目星がつくような手懸りがあるのかい？」

「あるものか。見当がついているくらいなら、こんなまごまごしちゃあいない」

「<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>を持って行くはいいが、ひとりでうまい事をしちゃあいかんよ、初めから、この馬春堂も半口乗っている仕事だからな」

「気を廻すにゃおよばねえ、そんなに造作のない物なら、あのばてれん口書を持っていた徳川万太郎が、とうの昔にどうかしていら」

「何しろ、でかい騒動になったものだ」

「どうして」

「夜光の短刀のことを知っているのは、その万太郎と日本左衛門と――それからお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>におれというわけだ」

「ウム、腕にかけても、伊兵衛がきっと探し当てて見せる」

「そう問屋で<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>してくれれば、おれもお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>も一躍して百万長者だが」

「何より頼りになる、あのばてれん口書がこッちの手に這入っているのが強味じゃねえか、心配するな。オオ早くあれを出してくンな」

「伊兵衛、おれも一緒に出かけよう」

「どこへ？」

「どこへでもいいやな。お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の行くがままに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、夜光の短刀を探す旅をして廻ろうじゃないか。もう馬鹿馬鹿しくって、この寒い野天の<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>ッ風にふるえながら、待ち人や縁談の亡者を相手にしちゃいられなくなった」

「そいつもよかろう、じゃその<ruby><rb>簓</rb><rt>ささら</rt></ruby>と四角い木だけを背中へ<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>いこみねえ」

「お手のものの道具で旅易者か」

「おれが食えなくなった時は、途中でチョイチョイやって貰うことにするぜ」

「こいつは助からない役廻りだ」

にわかに、幕や机や<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>き箱などを片づけて、伊兵衛も共に<ruby><rb>手助</rb><rt>てつだ</rt></ruby>いながら、野天の世帯はまたたくうちに<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>まれる。

どうせ捨てて行っても、至って惜しくもないガラクタばかり、算木と<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>さえ風呂敷にして首へ巻いていれば、行く先々に渡世の名目はあろうというもの。

馬春堂は<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>の中へうどんの代金を残しておく。

そして、最後に。

ジューッ……と忍川の流れから白い煙が噴き揚ッたのは、おさらばのついでと景気よく蹴込んで行った<ruby><rb>摺鉢</rb><rt>すりばち</rt></ruby>の残り火でしょう。その<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>たる白煙が薄れた跡には、ドロンをきめた二人の姿、すでに、どこへ行ったか分りません。

…………

一方は<ruby><rb>秀鶴頭巾</rb><rt>しゅうかくずきん</rt></ruby>に夜寒と人目をさけつつ、水門尻の袋地を頻りと<ruby><rb>迂路</rb><rt>うろ</rt></ruby>ついている徳川万太郎。

ここに戸を閉めきった一軒の構えがある。

表通りで女住居と聞いたには、<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに、馬春堂の言葉と<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>の合うところがあるが、まだ寝るには早い時刻、それなのに、中から漏れる明りも人声もなく、これはどうやら空家らしい。

まさか、易者の言葉を真ッ向に信じて、戸をたたいてみるほどの勇気も出ない。

ピタリ、ピタリ……とかれは<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のまわりを一周してジッと考えこみましたが、その袋地の闇に何をか感じたのでしょう。

「あっ……？」

といって立ちすくみに、ぶるるッと身ぶるいをしましたが、時やおそし、万太郎がハッと気づいた殺気のただよう所から、闇を切って<ruby><rb>氷柱</rb><rt>つらら</rt></ruby>のカケの如き短い光が<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>へ向って飛んで来ました。

ぶ――んと低く<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>ッて来た光の筋！

万太郎の右足が上がって、<ruby><rb>雪踏</rb><rt>せった</rt></ruby>の裏でカラリッと大地へ落とされた物を見ると、それは<ruby><rb>銀磨</rb><rt>ぎんみがき</rt></ruby>きの丸棒に<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りの打った鉢割という武器で、やはり捕物道具のひとつ。

形は小太刀に似て作りは十手と同じこの<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を持つものは、無論、八丁堀の<ruby><rb>捕役</rb><rt>とりて</rt></ruby>か、<ruby><rb>奉行</rb><rt>ぶぎょう</rt></ruby>手先の<ruby><rb>捕方</rb><rt>とりかた</rt></ruby>に限ったもので、

「やっ？」

と、蹴って返す万太郎。

「無礼なッ。何者だ！」

尾張中将の<ruby><rb>御曹司</rb><rt>おんぞうし</rt></ruby>――徳川家の門葉六十万石の気位は、時と場所と自身の変装とを忘れしめて、投げつけられた不浄道具に、かッと、若殿らしい<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りの大喝を、袋地の隅へゆるがせました。

ですが、その怒れる声の張合いもなく、向うの気配はシーンとして、ただ氷の如く張りつめる殺気と人の動きだけが<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>てとれる。

露か、<ruby><rb>氷柱</rb><rt>つらら</rt></ruby>が光るのかと、闇に見えたのは十手の数――それもようよう万太郎の目に、微かながら読めてきました。

しかしながら万太郎には、不浄役人に陣を以て待たれる理由は毛頭ない。

「――人違いであろう」

早くも察したので胸をなだめて、早足に露地の口へ引っ返して来ると、表通りから馳け込んで来た男の影が、

「オオ、万太郎様で」

と、出会いがしらにバッタリと、膝を折って足元へうずくまりました。

今し方、どこぞで聞いた声のようだが――と思いながら、影ににひとみをこらして見ると、ガッシリした町人<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>の、大地に膝を突いて<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>まっている様子、<ruby><rb>手坑</rb><rt>てむか</rt></ruby>いすべき態度でないのは分っているが、嫌なことには<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>も一本、銀のギラつく磨きの十手を、<ruby><rb>支</rb><rt>つ</rt></ruby>いている<ruby><rb>手裡</rb><rt>しゅり</rt></ruby>にかくしてつかんでいます。

「――路傍、かような場所がらで、身分の低い手前などが、<ruby><rb>直々</rb><rt>じきじき</rt></ruby>お声をかけるのさえ、何とも<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ多い次第でござりますが、事<ruby><rb>火急</rb><rt>かきゅう</rt></ruby>の場合、特に御仁恕をもって、<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>応対御免下しおかれますれば、有難い儀と存じます」

ははあ、こいつはわしの素性を知っているな。

万太郎はかく思いましたので、

「ウム、ゆるす！」

<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの――ふところ手。

「呼び止めたのは何の用事であるか、申して見い」と、屋敷言葉で<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>に見下します。

「と申すお願いは、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>でもございませんが、今夜は手前が十手の指図役となって、御府内の兇賊狩を決行いたしております晩なので、貴人の御身として、かかる所をお歩きあっては御身辺の危険、ことに吾々にとりましても、配置追っかけ誘引の捕物の陣取上に、まことに邪魔になって困却いたします」

「邪魔になる？　……」

「へい、恐れ入りますが、今宵はすぐ根岸のお住居へ、お引取り下さいますように」

「だまれ、左様な指図はうけんでもよい」

「と、お怒りも無論であろうと、実は最前からたびたびお呼び止めいたしながら、心怖じけて差控えてまいった次第、ここまでの辛抱を何とぞお酌み取り仰ぎまする」

「なに、最前も<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>呼んだと申すか」

「塀をお越え遊ばして、あれから、<ruby><rb>盂宗藪</rb><rt>もうそうやぶ</rt></ruby>の技け道をお急ぎなさいました途中でも」

「や、では、あの時の声は？」

「不作法<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ッ<ruby><rb>平</rb><rt>ぴら</rt></ruby>おゆるし下さいまし、手前に相違ござりませぬ」

「ふーむ、してそういう<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>は、一体何者であるか。また、なんで拙者にこのまま帰れと申すのか仔細をいえ」

「申しおくれました。手前は、食いついたらきッと抜くといわれた釘抜きの勘次郎――と申す<ruby><rb>南方</rb><rt>みなみかた</rt></ruby>の目明しにございます」

会釈がすんで腰を立てる。

<ruby><rb>炯々</rb><rt>けいけい</rt></ruby>とした釘勘の眼。

かの<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>へ金吾と共にまぎれこんで見破られ、日本左衛門の手下のため、袋だたきに会わされて、隅田川へブチ込まれた釘勘が、痛手を養って衰えぬ姿を、ここに見せたは久し振りです。

金吾のこと、お粂の恋、道中師伊兵衛と馬春堂の関係など、すべての<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>はここで釘勘の口から万太郎の胸へ<ruby><rb>手短</rb><rt>てみじか</rt></ruby>に移される。

しかし。

<ruby><rb>飛耳張目</rb><rt>ひじちょうもく</rt></ruby>の稼業がらとはいえ、どうしてそこまで仔細に釘勘の探りが早くついていたかといえば、手懸りは例の切支丹屋敷――官庫荒しの一件が逐一町奉行所の手へ移されたがためでした。

だが分らない。

町奉行所でも、どうしても分らない一つの疑問。

そも何のために日本左衛門らが、山屋敷の官庫を無益にかき廻したのか、その根本の目的であります。

解けぬ謎を解くべく、釘勘が今夜の手配に先立って、根岸に押込められている万太郎を訪ねたのは、つまりそれが重大な動機。

けれど、<ruby><rb>下世話</rb><rt>げせわ</rt></ruby>に通じている紺足袋の若様とはいえ、先は尾張中将の御末子、正面から行ったところで番士が会わせるはずがない。

で、どうしたものか？　……と<ruby><rb>孟宗藪</rb><rt>もうそうやぶ</rt></ruby>の立ち思案に、思わず時を過ごしている所へ、天来の人影は<ruby><rb>秀鶴頭巾</rb><rt>しゅうかくずきん</rt></ruby>であったのです。

すぐ、声をかけたものの、先の身分や往来を考えて、つい気おくれしているうちに、その万太郎の<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>は、釘勘が折角線を引いておいた今夜の捕物配置を無意識に、打ちこわして行く結果になったので、かれは、

「ええ、しようのねえ坊っちゃんだ」

どれほど、ジリついたか分りません。

今夜伊兵衛が姿を現わすのは分っていたので馬春堂の<ruby><rb>掛小屋</rb><rt>かけごや</rt></ruby>へ首を突っ込むところを、二人一緒に御用にするところだったのが、悠々と万太郎が這入って話し込んでいたため、その機会を逃がしたのみか、またそこを出た万太郎が、袋地の捕物陣へ邪魔をしに来ました。

この袋地では、釘勘が、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>から<ruby><rb>暁</rb><rt>あけ</rt></ruby>にかからぬうち、きっと、日本左衛門を網の魚にしてみせるといい払って、宵から八方の暗がりへ組子を伏せていたのです。

日本左衛門はもう一度必ずここへ来る。

<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>から朝までの間。

釘勘は自信をもっています。目明しの霊感を以てその信念の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>いてある捕物陣です。

だのに――万太郎が<ruby><rb>雪踏</rb><rt>せった</rt></ruby>を鳴らして、ぶらりぶらり、さなきだに感覚的な盗賊たちの目をひくような彷徨をやっていたひには堪ったものではない、ぶちこわしです。

かれが万太郎に向って、

「邪魔になる」といったのはここのこと。

「根岸のお住居へお帰り願いたい」と<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を犯して突っ込んだのも、要するに、金吾の身の上は自分の方策で何とかするから、あなたは大人しく屋敷に居て<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きっそう</rt></ruby>をお待ちなさいましという意味に受け取って差支えない。

暗愚ではない徳川万太郎、一部始終を聞き終って、

「ウム。ウム。おお、そうであったか」

尋常にうなずく事はうなずきました。

しかし、素直に帰る<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>はなく、

「日本左衛門が官庫を荒らしたには深い理由がある。金吾に力添えをしてくれた礼として、その秘密をそちだけに洩らして<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わそう」

こういわれたのには、<ruby><rb>雀躍</rb><rt>こおど</rt></ruby>りをした釘勘、

「あっ……それを。有難う存じます、では暫く、あの空家へでも這入って」

<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら案内して戸を明けた家は、今は<ruby><rb>藻抜</rb><rt>もぬ</rt></ruby>けの<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>となって、金吾もお粂の姿も見えず、薬の香ばかりが壁に残る一番奥の四畳半。

南町奉行所<ruby><rb>朱文字</rb><rt>しゅもじ</rt></ruby>の提灯――外へ明りが漏れないように、それを押入れの中へともして、釘勘は冷たい畳にかしこまる。

万太郎は、座敷にあった小机に腰をかけて、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の王家からあらゆる手を廻して日本に求め来つつある、刀身に南欧美少女の<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>――<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に夜光珠をちりばめたる奇剣のいわれ因縁を、<ruby><rb>縷々</rb><rt>るる</rt></ruby>低音に語り聞かせます。

更けてきました。――こうしているまに、もう真夜中ともおぼしいころ。

果たせるかな、その時刻になると、霜の降りたせいかほの白く冴えた袋地の一端に、ぼッと、三ツの<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>が立っている。

<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し、その三個の人影は、表から露地を通って来たのではなく、地つづきの浄音寺境内から、いけ垣をもぐってそこに現れたものと察しられます。

怪しげな三人の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>、足元を見ると高飛びでもするような、わらじ<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>のこしらえです。

何か囁やき合っていましたが、やがてお粂の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の窓近くまで忍んで寄ると、中の一人が、

「<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>、迎えにまいりましたぜ」

のび上がって家の中へ――

「<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>はできていましょうね。へえ、率八でございます。昼間打合せに来た率八がお迎えにまいりましたんで、いつもと違って今夜はだいぶ捕手の配りが厳重だから、とても姐御ひとりでは逃げきれまいと――親分も心配して、ここへ雲霧の<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>と四ツ目屋の新助も一緒に参っておりますから、支度がよかったらすぐ裏口の方から……」

合図をして問わず語りにしゃべり出したのを聞くと、釘勘は家の中で、

「しめた」

と、明りを吹き消し万太郎の耳へ、

「いよいよやって来たらしゅうございます……」

「お、日本左衛門が？」

と驚いた様子で、万太郎も思わず腰を上げました。

「そうです。高飛びの行きがけに、ここへ、<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の者と一緒にお粂を迎えに来たんです」

「しかし、そのお粂は、もうここにはおらぬと申したが」

「賊でも日本左衛門は首領と立てられるくらいな人物、仲間の者の手前、お粂と金吾のことは見て見ない振りをしているんですが、お粂は男を見捨てきれないで、夕方のうちに二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby><ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を仕立てて何処かへ<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくでん</rt></ruby>してしまっているのです」

「ではその駕の一挺の方には、金吾が乗っていたわけじゃの。ウウム、一足違いで惜しいことをいたした」

「何しろうつつの病人ですから、何処へ連れて行かれようと、今じゃあお粂の意志のままで、御当人にも分らなかったでしょう」

「してその行った先は？」

「手先を追わせてありますが、まだ何ともいって来ないところを見ると、何処かでうまく<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれてしまったのかも分りません。何しろ日本左衛門を先に<ruby><rb>捕縛</rb><rt>あげ</rt></ruby>てからと思ったので、お粂にはわっしも少し油断をしていた形があります……オ、だが万太郎様、もう悠々とお話しちゃおられません」

「そうか」と万太郎も心得て――

「それでは今夜のところはここで別れるであろう、金吾の居所が分り次第に、根岸の方へ知らして来てくれい」

<ruby><rb>秀鶴頭巾</rb><rt>しゅうかくずきん</rt></ruby>の結び目を固くして、スルリと外へ出ようとするので、釘勘は慌ててその袖をつかんで、

「あっ、今ここをお出なすッてはいけません」

「工合が悪いか」

「折角、日本左衛門という大きな<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>が、<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に掛るか掛らないかとしている、<ruby><rb>肝腎要</rb><rt>かんじんかなめ</rt></ruby>な危機一髪です」

「成程」

「御窮屈でしょうが暫くの間、その押入れの中へかくれていて下さい。ワッと捕物の<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>騒動がすむまでの御辛抱です」

「これへか……ウム、よろしい……」と万太郎は意外な修羅場に遭遇した危険を、むしろ欣ぶふうに、戸棚のうちへ身をひそめます。

「ようがすか、わっしが合図をするまで、外へ出ちゃいけませんぜ……あぶのうございますから……ようがすか」

いい残して釘勘はそこを去った様子。

颱風の中心にあるこの家は、今や、刻一刻と、気味のわるい<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>さに鳴りをひそめてゆく。そして、どうなることかと息を殺していた万太郎は、胸騒ぐ血を抑えて、いたずらにこの秒間の<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>みをジッと屈みこんでいるに耐えなくなったものか、

「そうだ！　……」

飛んだ野心を起しました。

「すさまじい乱闘が起るだろう、血の雨が降るだろう、日本左衛門が死にもの狂いを見せるであろう――ウームそれと釘勘の捕物陣、どんなものか、ひとつ見物したいものだが……」

と、今いわれた言葉を忘れ、スルリと外へ抜け出すと、かれは手探りで勝手の方へ忍び出し、上からダラリと下がっている何かの繩の端に手をかけた様子です。

引窓の繩――

スウと引くと暗やみに、四角い星空が切り抜けて出る……。

引窓を仰いで万太郎が、そこの<ruby><rb>土竃</rb><rt>どべっつい</rt></ruby>に片足を乗せかけた途端です。

<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>！

――不意に水を断つごとき呼子笛のつンざきが、家のどこかで吹かれたかと思うと、それが釘勘の合図であったものと見え、

「わアーっ……」

突如、袋地の八面から一時にあげた捕手の声は、まるで暴風を思わせて家の周囲を駆けめぐり、

「御用」

「御用！　御用！」

すわこそ、

窓の下へ寄っていた三人の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>、四ツ目屋の新助、お人よしの率八、雲霧の<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>を取り囲んで、追っ馳け追ン廻す物音の様子であります。

「オオ、始まったな」

万太郎はなんだか愉快になりました。

美殿の厚いしとねに乗って腰元や老臣相手に光る君を写したような生活をしているよりも、かかる所にかかる遊戯をしている時こそ、かれの性格に適しているのでありましょう。

「こりゃ面白い」

と、呟やきながら、引窓の綱を頼りにしてスルスルと蜘蛛上がりに、屋根の上へ抜け出しました。

そこで、瓦の波を這い廻りながら、様子如何に？　と見下ろします――ああ綺麗だ！　地境の隣にあたる浄音寺の境内から西がわの長屋の<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほし</rt></ruby>、質屋の黒塀のかげ、表通りを見れば忍川の水門尻のあたりまで、点、点、点、点、<ruby><rb>鬼灯</rb><rt>ほおずき</rt></ruby>を咲かせたような<ruby><rb>御用提灯</rb><rt>ごようぢょうちん</rt></ruby>の鈴なりです。

「ウーム、なるほど」

捕物陣といったのは、あの時釘勘の口ぶりとしてチと<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>に聞こえたけれど、かくして眺めれば成程それは立派な一ツの陣形を成しているもので、いわば永沼流とか越後流とかの軍法を縮図にしているような配置。

露地、川、本道、建て物、障害物、樹木などの市街物を巧みに利用して、これほどの捕手が今までどこにいたか分らず、一瞬一声の<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>で、無数の灯を闇に描きだしたところは、なるほど釘勘も味をやるなと、そこには多少兵法の心得もある万太郎として、特殊な興味の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に感服しました。

「御用――ッ」

すぐ目の下のすさまじい声に、はッと、ひとみを移して今度は足元をさしのぞくと、

「あっ、<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>」

「<ruby><rb>率</rb><rt>そつ</rt></ruby>八ッ――てめえは逃げろ！」

「あ、親分」

雲霧の仁三が、うろたえるお人よしの率八をかばって、大刀を振り廻して寄せつけない様子。

四ツ目屋の新助は裏の方へ馳け出して、井戸と猫柳の木をグルグル廻りながら、これまた道中差を引ッこ抜き、捕手を相手に死物狂いと見えました。

「お、親分、お、お、親分はどこへ行った？　――」

と、その乱闘に目を廻して、迷子が母親でも探すように、悲鳴をあげているのは率八で、上からその男を見つけた万太郎は、盗賊の中にもあんな弱虫がいるのかしらと、笑止がっていよいよ吾を忘れていますと、

「わーッ」

と、たれか、斬られたらしい凄い絶叫。それと共に、プーンと湿っぽい血けむりが、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下からかれの<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>ってきたので、

「斬ッたな」

身をのばして二、三尺、屋根瓦の坂を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って行くと、不意にうしろから寄り添った二ツの手のひらが万太郎の目をふさいで、

「――尾州家の坊っちゃん。今晩は」

と、人をばかにしたことをいいました。

「や？　……たれだ……」

と万太郎は驚いて、目をふさがれた冷やっこい手へ、自分の手を重ねて軽く身をもがく。

たれとも知れぬ者にうしろから目をふさがれたので万太郎、

「おのれ！」

と、その手をねじって離そうと試みましたが、どうして、離れればこそ。

<ruby><rb>膠</rb><rt>にかわ</rt></ruby>で顔へ<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りついたような憎い手、<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>の手。

爪を立てたが離しません。

と言って――何しろ足場の悪い屋根の上、霜にぬれた瓦のぬめりを無理に踏んで立ち上がれば、身を滑らすのは知れているので、

「ウヌ、何奴ッ？」

<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>の<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>をキッと逆手に、抜くも矢庭、いきなりかれの腕首に斬りつけましたが、

「あぶねえ！」

と、逸早くその手はサッとうしろへ逃げて、万太郎の短気、あわや、自分の<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>で自分の<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を切ってしまうところでありました。

と、宙天にからからと笑う声がして、

「お坊っちゃん、ひどく、御立腹だな」

「あっ！」

振り仰いた万太郎は、<ruby><rb>梨地</rb><rt>なしじ</rt></ruby>の星をさえぎって屋根の峰に立った黒い男の影を、一目で日本左衛門の<ruby><rb>黒装束</rb><rt>くろしょうぞく</rt></ruby>と見てとりました。

緑林涼風。

日本左衛門のこす。

忘れはしませぬ！　去年市ヶ谷御門<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷へ忍びこんだかれが、<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>を持ち去って、そのあとの床の間に、こう墨黒々と書き残して行った不敵な文字を。

「ウーム！　<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>は日本左衛門」

ジリジリと瓦の<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>に足の指をかけて詰め寄ると、かれは、四囲の<ruby><rb>叫喚</rb><rt>きょうかん</rt></ruby>も耳になく、八方の御用提灯も目にないものの如く、

「おお、おれはその節飛んだ騒ぎをさせた男、いかにも日本左衛門だ」

「おのれ、よくも秘蔵の<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>を盗みおったな」

「あとで聞いた噂には、そのためにお手前は、父中将殿の怒りにふれて上屋敷を追われ、今では、根岸に閉門幽居の身の上だってな。おれも、蔭で聞いて少しは気の毒に思っている」

「えい、左様なことはどうでもいい！　ここで汝の姿を見つけたのは何より幸い、秘蔵の品を盗んだ下手人、家来金吾の仇、この万太郎が召捕ってくれるから、そこ動くな！」

「はッ、はッ、は、は、は、は……。さすがは御三家のお坊っちゃんだ」

身を切るほど冷めたい天風のうちに、日本左衛門はこう嘲笑して、

「――世間知らずにも程があらあ！　おめえの手で日本左衛門が召捕れるくらいなら、八丁堀や奉行所の人間どもは、あすから飯の食いあげになるだろう」

「な、なんじゃと」

と万太郎は歯がみをしたが、かれの足元には、うかとは寄れない構えが見える。

あくまで、万太郎の無念そうな様子を、子供あしらいに見下ろして、日本左衛門は悠々然と、

「ウム、時に」

ふと語調を変えて、

「おれは今夜から当分の間、影を消すかも知れないが、それについて一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>断っておくことは、あのばてれん口書でお前も承知の夜光の短刀だ。――ありゃ<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>、この日本左衛門が探して手に入れるつもりだから、<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>な邪魔を入れると承知しねえぞ」

グッと、上から睨みをくれて、うしろへ一歩<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたところを、万太郎の手からサッと一条の青光が飛ぶよと見るまに、

「ちイッ、何をしやがる」

身を沈めた日本左衛門の肩――

キラッと光を縫って<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れたのは、さっきから万太郎の手に隙を待たれていた<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>でした。

ふわりと、先の影が屋根の峰を歩みだしたのを目がけると、徳川万太郎、おのれ逃がしては――と勢い込んだ<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>り腰に、

「待てッ」

と、飛び上がって大刀の抜打ち！

<ruby><rb>虹光</rb><rt>にじびかり</rt></ruby>を走らせた切先は輪を描いて、日本左衛門の肩から胴体を斜めに通り抜けたかと見えました。

さッと、眉の先へ流れて来た閃光を逃がさず、

「あぶない！」

と日本左衛門。

肩を開いて、斬り<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って来た万太郎の刀の<ruby><rb>柄手</rb><rt>つかで</rt></ruby>をグッとつかみ取るなり、

「殿様芸の刃ものいじり、金吾のてつをふんで怪我をするな」

グワンと耳へ<ruby><rb>釣鐘</rb><rt>つりがね</rt></ruby>をつかれたような大喝に、さしも徳川万太郎、思わずハッと気が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んで、屋根の天ッ辺から大地へ投げつけられるかと気をちぢめた刹那！

「ううむッ」

と、弦を掛けられた弓のように日本左衛門の体が<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り返ったかと思うと、いつのまにか、その胸元へピッタリと斜めに食いついている磨きの十手。

「実名浜島庄兵衛ッ、御用！」

まぎれもありません、目明しの釘勘。

ここに人影ありと見て、下の捕り物を組子にまかせ、自身屋上によじ登って来てみたところが、見当らぬ日本左衛門と万太郎とがそこに影を重ねていたので、猶予なく、うしろから差廻した十手の<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>、

「御用」と、一つ絞ってみたのであります。

「<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃら</rt></ruby>ッくせい」

さすがは日本左衛門、動じるさまもなくうしろへ身を捻って、顔をながめ、

「うぬは釘勘だな」

「…………」

釘勘は声が出ない。

今や、自分の内ぶところに、緑林随一と誇称する大盗の五体をかかえ込んでいる。全身からふり絞っている力は歯の根と十手の先に集められているのに、この際、何の四の五を言っている余裕などがあるものか。

ふふん……日本左衛門は笑いまして、

「命知らずめッ」

振りほどいた両手の力は、あたかも鷲が存分に蛇に体を巻かせておいて一時にパッと寸断する翼の<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>と相似ている。

だが、釘勘も捕り物の老巧、敢て<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>ほどきに刎ね飛ばされるまでシガミついている愚はしません。

「万太郎様、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いたッ」

と、かれの危地だけを救うと、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>のように屋根の<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>をスルスルと<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の角に足をふみ止め、

「神妙にしろッ！」

――見ればいつのまにか、かれと日本左衛門の腕首の間には、タランと一本の<ruby><rb>取繩</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>がつながれていて、釘勘は右の片腕を糸巻にしながら<ruby><rb>徐々</rb><rt>じょじょ</rt></ruby>とその<ruby><rb>弛</rb><rt>たる</rt></ruby>みを張りつめて行く気構え。

すると、

「あっ！」

万太郎が突然絶叫する。

それと共に釘勘も、自分の力を逆に引かれて、屋根の上へツンのめりました。まるで重い<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>を落としたように、手をすりむいてズッこけた繩の先をハッと見ますに、こはいかに、そこにはもう日本左衛門、影も形も見せないで、

「おお」と、驚いて馳け寄ると、しまった！　引窓の口から下へ飛びこんでいる。

「ウウム、抜け道がある！　家の中から抜け道があるに違いない！　ちイッ、しまった！」

と、地だんだを踏んだ釘勘。

飛鳥！　屋根から袋地へ飛び下りました。

「ああ、凄い奴だ――」

茫然と、<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>げた<ruby><rb>抜刀</rb><rt>ぬきみ</rt></ruby>もそのままに、時に徳川万太郎は、あとに残って再び<ruby><rb>四顧</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見渡しますと、雲霧の仁三、四ッ目屋の新助、いずれも素早い上に腕達者な<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>、遂に、一方を破って逃げたものでしょうか。

浄音寺から水門尻へわたる捕手明り半円の灯の陣は、今、三枚橋と下谷の二手へ列を乱して、吹かるる螢の如く<ruby><rb>散々</rb><rt>ちりぢり</rt></ruby>に追って行きます。

そして、あとの袋地には、何かわめくお人よしの率八の声が、泣くが如く<ruby><rb>訴</rb><rt>うっ</rt></ruby>たうるが如く聞こえますから、大山鳴動して鼠のたとえにもれず、かくまで用意した釘勘の手配も、召捕ったのは<ruby><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>の率八で、大魚は遂に網にかからず、目ばかりいたずらに血走らして、むなしい明け方にガッカリした疲れを見合う、十手商売の<ruby><rb>苦味</rb><rt>にがみ</rt></ruby>を今朝も<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めねばなりますまい。

## 謎

どこを毎日遊んで廻るのか、不良少女の<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>お<ruby><rb>蝶</rb><rt>ちょう</rt></ruby>は、派手に着かざった身なりをして、相変らず二<ruby><rb>官</rb><rt>かん</rt></ruby>に口実をもうけては出歩いている。

今日も。

かの女の姿が丹下坂に戻って来たのがもう夕方――。あたりの<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>に<ruby><rb>笹鳴</rb><rt>ささな</rt></ruby>きの声がさびしく、山屋敷の塀越しに、紅梅の花が黒く見えます。

だらだらと坂を降りると<ruby><rb>小溝</rb><rt>こみぞ</rt></ruby>があって、切支丹屋敷の曲り角、お蝶の帰ろうとする通用門まで、そこも流れに添った薄暗い藪で、赤い<ruby><rb>椿</rb><rt>つばき</rt></ruby>が、あの世の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>みたいに咲いている。

そこへ来ると、

「あ……廻り道をすればよかった」

お蝶に悔いの色がうかぶ。

急に足を小刻みに早くして、右がわの藪を見まいとしながら急ぎましたが、そう思う一方には、怖いものを見たさの心が、

（どんな顔に変ったろう）

と、頻りに好奇を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>りもする。

獄門橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>です。

橋と言っても、ほんの四、五尺の小溝に渡してある土橋のそば、見まいとしても目につく所に、白木の制札と栗の丸木に新らしい板を架けてある獄門台が、お蝶の足をギクリとくい止めました。

たとい三町や五町の所は廻り道をしても、お蝶はこの前を通るべきではありません。だのに、今日に限って、思わずこっちの道から帰って来たのは、やはり一度はどうしてもここに招き寄せられる因縁であるかも知れない。

ぽと！　……と<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の椿の落ちる音。

片がわの茂みですが夏は<ruby><rb>木下闇</rb><rt>このしたやみ</rt></ruby>のうす暗く、昼もふくろの啼くさびしさです。チロチロと行く小溝の黒い水に、鬼火のような<ruby><rb>紅椿</rb><rt>べにつばき</rt></ruby>がグルグルと人の口を廻すように流れて、獄門橋という橋の名までが、まったく、夕方から夜の人通りを絶っている。

しかも四、五日前から、そのわきの<ruby><rb>新木</rb><rt>あらき</rt></ruby>の台には、一つの首がさらされて、梢の<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>をもとどりに浴びながら無念の目をふさいでおります。

かなり気の強いお蝶ですが、戻って廻り道をしようかと迷うらしく、袂を唇にあてて足を<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めましたが、

「ばかだね私は……死んでしまった人間が何をすることがあるものか」

自分の臆病を笑い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて、むしろ、反抗的に瞳を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らさず、獄門橋に近づいて行ったものです。

（怖かあない）

ほほ笑ましくなりました。そしてこんどは声に出して、

「ちッとも怖いことなんかありゃしない……ねえ、龍平や」

じッと見つめているお蝶は、いったいどんな気持なのか。

<ruby><rb>青蝋</rb><rt>せいろう</rt></ruby>のようなさらし首、ねッとりと黒髪を垂れ、無念そうに目を落ちくぼませたその顔は、ああ紛れもありません。一頃はお蝶の<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>であった、かの山屋敷の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>龍平が、あわれにも変り果てた姿でした。

あの入れ札のあった時。

龍平は正直に知らぬと札を入れたものを、お蝶はもし発覚しては身にかかる難儀と男を裏切って、ひそかに龍平の名を入れ札にさしたので、かれは立ちどころに捕えられて、<ruby><rb>牢舎</rb><rt>ろうしゃ</rt></ruby><ruby><rb>拷問</rb><rt>ごうもん</rt></ruby>の揚句、とうとう首を斬られたのは、自業自得とは言いながら、さぞ、お蝶に心が残ったでしょう。

だが、お蝶は<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>をくくっていました。

入れ札ではその密告者を決して当人に洩らさない<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>です。龍平だって、まさか、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>がそうしたのだとは知らずに死んだに違いない……。

「けれど、こんな姿になったのを見ると、私もいい気持はしないよ、ねえ龍平、お前が私をダシに使って、官庫の物を盗ませさえしなければ、お前だって、こんなことにはなりはしなかったのに……可哀そうね」

お蝶は、死者の妄念を無視しておりました。いつか死顔の形相に馴れて、恐怖を忘れていたものか、それともかの女らしい<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>な心か、櫛を抜いてさらし首の乱れ髪を<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き上げてやる。

そして、

「龍平！　あばよ」

急ぎ足に、山屋敷の方へ、五、六歩下駄を鳴らしかけますと、

「お蝶！」

と、獄門の首が呼び止めました。

二度目の声も、

「お蝶！」

と、たしかに龍平の生首が、獄門の上から呼んだ如く聞かれましたが、見世物のからくりではあるまいし、首がものを言うわけはないので、

「誰ッ？」

と、わざと声の<ruby><rb>甲</rb><rt>かん</rt></ruby>を張って、<ruby><rb>怯</rb><rt>ひ</rt></ruby>け身を見せまいとしましたものの、思わず寒気に襲われて、ぞッと<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>すじをすくめた証拠には、お蝶の銀のかんざしが微かに光を砕いています。

「どんなお化けだか知らないけれど、思わせぶりばかりしていないで出ておいで。山屋敷の人を呼んでやるから」

いずれ首番の非人か、この辺に、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をかぶっている宿なしの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>であろうと、試しにこう強く出てみると、

「なるほど、胆ッ玉の太い娘だ、これじゃ龍平が一杯食ったのも無理はねえ」

ぞろぞろと三人の男。

椿の蔭、橋のたもと、三方から現われて来てお蝶の前後を取りかこみ、

「おれ達だよ」

<ruby><rb>豆絞</rb><rt>まめしぼ</rt></ruby>りの頬かむりを<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby><ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>って、化け物に縁の遠くない<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>がまえをつン出していやがらせる。

「ああお前たちは、先頃、山屋敷をお暇になった小屋番の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>だね」

「そうよ、龍平たあ生きてるうちから兄弟分にしている仲間の源六、松、権次のお三人様だ」

「御参詣でいらっしゃいますの？」

「なにを」

「<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>がこんな浅ましい姿になっているので、お詣りに来て上げたんじゃないんですか」

「な、なにを言ってやがるんで」

<ruby><rb>法被</rb><rt>はっぴ</rt></ruby>の袖をまくり上げて――

「てめえの帰るのを待ち伏せしていたんだ。さ、今日は少し取ッちめて、聞く筋があるんだからおれ達と一緒に来い」

「聞くことがあるなら仰っしゃいな。よそへ行くことはありゃしない」

「うぬ、素直にしねえな」

「お前さんたちッ――」握って来た手を振り払って、「わるさをすると、すぐ向うは通用門、山屋敷の者を呼びますよ」

「おお呼んで見ろ、おお、呼んで貰おうじゃねえか。<ruby><rb>篦棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>め、今じゃ<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>に離れているおれ達三人、そんな事にビクついちゃいねえんだ」

中でも手強い源六という<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>、<ruby><rb>真鍮鐺</rb><rt>しんちゅうこじり</rt></ruby>を背なかへ廻してお蝶の袖を自分の腕へからめてしまう。

「やい！　虫も殺さねえような<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をして、てめえぐらい、罪の<ruby><rb>深</rb><rt>ふけ</rt></ruby>え女はねえぞ」

「なぜです！　<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>には、ちッとも意味が分らない」

「うぬの胸に聞いてみろ。え、お蝶。あとで探って見りゃ入れ札に、龍平を下手人だと書いたのはてめえだという話じゃねえか。しかも龍平とはさんざんおれ達を岡焼きさせた二人の仲、ふだんからその事は、龍平にもすっかり聞いているんだぞ」

「それがどうしたんですか！　それが！　私と龍平とどんな仲だったからって、大きなお世話じゃありませんか」

「じゃその<ruby><rb>情夫</rb><rt>おとこ</rt></ruby>を、何で、裏を掻いて殺しゃあがったか、さ、返辞をしろ」

「私がいつ龍平を殺しましたか」

「てめえが殺したも同然だ」

「言い<ruby><rb>懸</rb><rt>がか</rt></ruby>りも程におしよッ」

「何と言おうが承知はできねえ、兄弟分の恨みに<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>ってやるからそう思やがれ。いいか！　山屋敷の官庫へ日本左衛門が入って、何か荒して行った晩は、てめえと龍平が、一緒にそれを見ていたはず、龍平が首になるくらいなら、言わばてめえも同罪でなけりゃならねえ、おまけに罪のねえおれ達まで、巻添えを<ruby><rb>食</rb><rt>く</rt></ruby>らって山屋敷を追ン出され、てめえばかりに涼しい顔をしていられたんじゃ、大の男三人が世間へ出す顔がねえ。さ、呼ぶならここへ呼んでみろ！　山屋敷の分らずやの役人どもを、呼ぶならここへ呼んでみろ！　その<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な化けの皮をヒンむいてくれるから、どいつでもここへ呼んで見てくれ」

酔いどれのような<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>き声をあげる源六、今にも飛びつきそうな権次と松、三人の顔を当分に流し目で見ていたお蝶は、言わせるだけ言わせておいてから、

「じゃあ私、呼ぶのは止すわ……」

と、そこの木の根へ<ruby><rb>蹲踞</rb><rt>しゃが</rt></ruby>みこんで、妖麗きわまる銀<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>と赤い<ruby><rb>襟裏</rb><rt>えりうら</rt></ruby>をのぞかせました。

「それまで知り抜いているのでは、いくら強情な私でも、観念するよりほかに道はないネ」

かがみ込んだまま地に向って、お蝶は、ひとり<ruby><rb>語</rb><rt>ごと</rt></ruby>のように言う。

「……ああ悪いことはできないもんだ……」

「おい」

赤い襟裏をイヤな目でのぞきながら、三人のうちで<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の源六が、丸まッているお蝶の肩を指先で小突いて、

「どうだ、いくら賢いようでも女の小智慧、世間には<ruby><rb>上手</rb><rt>うわて</rt></ruby>な悪党がうんといるのが分ったろう」

「じゃ、お前さんたちも、悪党なの」

「当たりめえよ、ぼんてん帯の渡り仲間に、真っ直な人間がいてたまるものか。だがお蝶、そう怖がることはねえ。なあ、この三人は龍平の友だちだから、龍平同様におめえとも<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>いたいと願っているんだ……だから、ちょっとこッちへおいでよ、話がある、何さ、怖いことがあるもんか、おめえだってもう清浄無垢な<ruby><rb>生</rb><rt>き</rt></ruby>娘じゃなかったはずだぜ」

少し脅しの風向きが変って来ました。

弱味をつかまれて身を縮めたお蝶の艶な姿が、みだらな出来心を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>ったのか、すでに前々から、かくあるべき下心でいたのか、どっちにしろ三人のあぶれ者が、奥の手の爪を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>いで、獣情の目を燃やし出したのは始末が悪い。

「あっ……いやッ……」

お蝶は手を出して来るのを払いつけて、両の袂で両の乳を抱きしめました。

「へッ、へ、へへへへ」

権次と松はみだらな笑い方を見合って、

「憎かあねえな、え、おい」

「うん……こんな<ruby><rb>美女</rb><rt>たま</rt></ruby>を龍平の野郎め、よろしく、ひとりで<ruby><rb>永々</rb><rt>ながなが</rt></ruby>と楽しんでいやがったんだから、ああなったのも、男<ruby><rb>冥利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>に尽きたんだろう」

「おい、松、よだれが……」

「嘘をつけい」

情炎に<ruby><rb>溶</rb><rt>とろ</rt></ruby>けた三人の目が、いかにも、いやしげに、お蝶の襟や横顔の肉線をむさぼる如く見つめている。

お蝶はぶるぶるとふるえている。もう、<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>にうごけば盲目な魔獣の爪が、肉と黒髪と唇とを、三ツに裂いてあばき合うのは分り切っています。

三人は何か耳と目まぜで<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き合っていたが、やがて源六が、すくみ込んでいるお蝶のそばへ寄って来ると、

「なあお蝶さん、今ほかの者とも相談したんだが、これからおれ達の部屋まで一緒に遊びに来ないか？　え、なアに今夜のうちにはきっと家へ帰してやるさ、もう一度この獄門橋を通るのが気味が悪いというなら、おれ達三人で送って来てやろうじゃねえか。な、おいでよ、いいだろう」

猫なで声の優しい裏には、イヤとは言わさぬ眼光と前の弱点をつかんでおります。

「ええ、行ってもいいけれど、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>……」

お蝶は袂を噛みながら、くるりと背なかを向けて、またそれを慌てて打ち消すように、

「嫌よ、私……」

歩き出したので源六、玉を逃がしてはと追いすがって、

「な、なぜよ？」

「だって、嫌いな人が居るんですもの」

「お蝶、まだおめえは話が分っていねえのかい。ここで嫌だの応だのと言うと、おめえの身の破滅は元よりおやじの二官まで飛んだ目にあう事になるんだぜ」

「だから、嫌じゃないんだけれど……私、だけれど、やっぱり嫌になってしまう」

前髪のほつれを眉に垂らして、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の隅をいじくッている姿を見ると、源六はほのかに迫る匂い袋の香にだけでも酔ってしまいそうな心地でした。

「何を言ってるんだよ一体。嫌なのかい」

「いいえ」

「じゃ、承知なんだろう」

「私、向うの……」

「え、向うの？」

<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>にみちたお蝶のひとみが、<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>にうしろへ流れたので、源六の目もそれに引かれて<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ると、

「あの二人が嫌なのよ。ねえ、源六。あたしあんな者さえ居なければ、お前と何処へでも行きたいのだけれど……」

<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の下から、そっと、柔らかい手が忍びました――そして、ギュッと源六の手を。

あまり不意だった歓びと、生れて初めて知る幸福の巡り合わせに、かれが思わずぶるると胴ぶるいをして、その返辞をすら忘れている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、

「ネ、ネ。だから……あの二人を殺して頂戴な」

ぽッとなった源六の<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>へ、<ruby><rb>甘酢</rb><rt>あまず</rt></ruby>い息が<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>りました。

「うん……うん……」と、源六はうつつになってうなずきながら、

「おめえの心がそうならば、よし、どうせ後には邪魔な奴らだ」

急に引っ返そうとすると、お蝶は軽く、

「あっ……」

と言って、袂の蔭で握り合っていた手を離してやりながら、

「きっとよ」

と、ひとみにいッぱいな<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>。

源六が元の場所へ戻って来ると、待っていた権次と松のふたりは不安らしく、

「おい、何をいつまで、向うでグズグズ話をしていたんだい」

不平を尖らせて来た返辞の代りに、源六、いきなり<ruby><rb>真鍮鐺</rb><rt>しんちゅうこじり</rt></ruby>の木刀を、ガン！　と権次の脳天へくらわせて、

「やかましいやいッ。都合の悪いことがあるから、お蝶はおれ独りで貰って置くんだ」

「やっ、この野郎」

と、おどろく朋輩の松まで、返す木刀で腰骨を砕いて仆し、足にからんで来る一方の必死を、なおも、嫌というほど打ちのめしました。

不意を食らった味方の裏切に、なんの骨折りもなく二人はグッタリと土を掴んで<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>ッ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぷ</rt></ruby>してしまう。

源六は、その襟がみを両手にして、女を独占する勇躍の余力で、ズルズルと獄門橋、溝の際まで引きずって行き、そこでドボン！　――、と泥まじりの<ruby><rb>水煙</rb><rt>みずけむり</rt></ruby>をあげましたが――。

途端です！

どうしたのか、源六。

「わーっ！　……」

ダ、ダ、ダ、ダッ、と橋板を荒くふみ鳴らして、うしろへ<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>けて行ったかと思うと、<ruby><rb>真鍮鐺</rb><rt>しんちゅうこじり</rt></ruby>を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り飛ばして、<ruby><rb>腸</rb><rt>はらわた</rt></ruby>をつかみ出すように引っこ抜いた刃渡りの鋭い<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>。

「ちッ、ちッ、ちッ、畜生――ッ」

滅多やたらに空を切って、もがきながらのグルグル廻り、ただ事ではないがとよく見ると、その脇腹にうしろから組み付いている白い人の手と月形の懐剣！

虚空をつかむ源六の苦しみは、その脇腹から黒血を噴かせて、見るまに橋板に<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>を散らし、なおピッタリとからんで離れぬ人影を振り放そうとして、狂乱の<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby><ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>く、体に火でも燃えついたように、グルグルグルグル<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>り廻ってやみません。

唇を噛み、黒髪を乱し、かれの背後から組みついているのは<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>のお蝶。

脇の下から白い腕を廻して、源六の肉体に懐剣を与えているのはかの女の手でした。

物狂わしく源六が橋板の上でグルグル廻ると、かの女の体も同体に振り飛ばされんばかりに<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り廻る。ちょうど、それは一箇の<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>に赤い小布れが取ッ付いているよう――

かんざしが飛ぶ、花櫛が落ちる。帯の間から鏡が抜ける。

それでもお蝶は離れませぬ。

「うう――む。……だッ、<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>しゃアがったな」

言ったかと見ると源六は、もがき疲れて、お蝶の腕にグンニャリと重くなります……、それをお蝶は突き飛ばすように仆して、自分も一緒によろめきながら、

「あっ……」と、火のような息を肩で吐く。

源六の体は俵のようなぶざまな転げ方をして、向うの橋<ruby><rb>桁</rb><rt>げた</rt></ruby>で止まりました。お蝶は欄干へ背中をもたせかけて、くずれた髪の毛を指先で<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き上げ、耳に垂れた紅白の根掛けを抜いて捨てました。

七日ばかりの月影が、森を洩れて橋板の上へ、青い光の<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き散らしている。その月光をジッと<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして息を休めていたお蝶は、まだ源六が死に切っていないのを見て、ふたたび懐剣を<ruby><rb>袖裏</rb><rt>そでうら</rt></ruby>に持ち直しました。

自分の膝を源六のみぞおちに当てて、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>の短刀、<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>しまに<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を狙って落してゆくと、

「うッ、うぬ！」

くわッと目を開いた源六が、断末とはいえ口惜しまぎれの<ruby><rb>渾力</rb><rt>こんりき</rt></ruby>、お蝶の腕へねばりついて、これこそまったくの必死必殺。

「よ、よくもおれを……、うぬ、うぬ、てめえも一緒に連れ込まなけりゃあ、死……死ねるものか！」

一念、遂に相手をねじ伏せて、お蝶の懐剣を噛み<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>ると、応報は余りに<ruby><rb>覿面</rb><rt>てきめん</rt></ruby>、かれを<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>った月形の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>が、こんどはかえって、お蝶自身の乳を目がけて、グサッと狙い刺しにひらめきました。

お蝶は息をうちへ引いて、

（突かれた！）

血を冷やして、そう思ったことでしたろう。

わき腹に、致命的な<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>をうけている源六、やぶれかぶれ、共に死の淵へ抱き込んでやろうと乳を狙ってきた怖ろしい短刀。

乗しかかッている相手の重圧で、その切ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を交わすこともならなかったのですが、

「がッ――」

と、妙なうめきを揚げると共に、源六は何者かに背中を蹴られて、下の体を飛び越えるなり向うへ俯ッ伏し、手を離れた短刀は、お蝶の顔から四、五寸<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>れた橋板の上へ、白くななめに突き立っている。

「おう、あぶないところだった」

誰かは知らないがそういった人の手に抱き起こされて、ほっと胸を伸ばしながら、お蝶は初めて意識的に、源六の死と自分の生命の無事な姿をハッキリと眺めましたが、まだ半ばは、夢……うつつです。

「おい、しっかりしなさい。どこも怪我をしちゃいないようだ」

抱かれている者に、体をゆさぶられてハッと吾にかえりながら、

「あ、ありがとうございました」

見ると知らない旅の者です。

「あぶなかったなあ、ほんとにあぶなかった。もう一足わしの来るのが遅かったら、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、お前さんの命はなかった」

離したらお蝶のスンナリした姿が倒れてしまいはしないかと、こわごわ支えているのは馬春堂、――かの<ruby><rb>忍川</rb><rt>しのぶがわ</rt></ruby>の枯れ柳に、大道世帯をおき残して、その晩から姿をくらました<ruby><rb>売卜</rb><rt>ばいぼく</rt></ruby>先生です。

「どうだい、どこか体でも痛むかね」

この人物、丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>に<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をつまんで追い出される程、顔に似合わず、婦人には喉を細めて親切な声がらです。

「大丈夫です……はい、もうなんともありません」

お蝶は自分の犯した罪が怖ろしい。まだ何とか挨拶の言葉も知らないのではないが、自分の顔を見覚えられるのがイヤで、

「御心配下さいますな、家はすぐそこの、山屋敷の中なんですから……、今帰ってすぐに、誰かここの始末によこすといたします」

しきりと馬春堂のいたわる親切を振り切って、あたりに飛んでいる持物や塗下駄をさがし、襟や帯の身づくろいをしながら木立の影をくぐって山屋敷の方角へ、風鳥のような姿を駆けらせてしまう。

馬春堂は取り残されて、

「なあんだ……」と、<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>われざるさびしさに、手のうちの玉を逃がした心地がしたが、元々、女を助けても女が取りすがってくる<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>でないことは、自分の履歴が承知しているので、

「どれ……もう来るだろう」

橋の<ruby><rb>袖木</rb><rt>そでぎ</rt></ruby>に窮屈な腰を下ろして、<ruby><rb>袂落</rb><rt>たもとおと</rt></ruby>しの<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>入れと、<ruby><rb>火鎌</rb><rt>ひがま</rt></ruby>を腰からとり出して、人待ち顔の暇つぶし煙草と出かけました。

が、幸いに、舌が<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>に飽きるほど待つ間もありませんでした。

かかるところへというあんばいに、<ruby><rb>小日向</rb><rt>こびなた</rt></ruby>の高台から一本道を大股にここへ急いで来る<ruby><rb>燕合羽</rb><rt>つばめがっぱ</rt></ruby>。

やがて近よると双方から、

「おう、馬春堂」

「あったかい？　忘れ物は」

「うむ、戻っても無駄じゃなかった、茶屋でちゃんと取っておいてくれたんでな」

「そりゃあよかった」

「ずいぶんここで待ったかい」

「なあに、待つ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>はさほどでもなかったが、考えて見ると待ち合わそうといった場所が<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る面白くない」

「なぜ」

「<ruby><rb>橋杭</rb><rt>はしぐい</rt></ruby>を見てくんな、獄門橋と来やがった」

「うふッ……そいつぁ成程、ひとりぼっちで淋しかったろう。悪党に獄門橋なんざあ禁物だ。……どれ、それじゃおれもつき合いに一服」

と、腰から取って、ぽんと、筒の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を抜いたのは道中師の伊兵衛。

肩の<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>をそこへ下ろして、

「南無、消えるな、消えるな」

と、<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>をいいながら、馬春堂の吹いてころがした<ruby><rb>吸殻</rb><rt>すいがら</rt></ruby>の火玉を、煙管の先で追いかけたが、<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>でおさえるとジーッといったので、

「おや？」

と、透かして見ると、油のような血が流れていて、そこに浮いている<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み<ruby><rb>細工</rb><rt>ざいく</rt></ruby>の一枚の<ruby><rb>花櫛</rb><rt>はなぐし</rt></ruby>。

「こりゃあ何だろう」

伊兵衛は血に染んだ花櫛を拾い取って、

「おい、馬春堂。向うに、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>ていの死骸がころがっているが、おれの来る前に、何かここで騒動があったのかい」

「なあに、江戸の場末には、ありがちなことさ」

「ちょッと、この花櫛が気になるじゃねえか」

「そこの<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいる娘ッていうのが、あぶれ者に巻かれていたんだ」

「ふウん……」

「武家の娘だろう、懐剣でその仲間のわき腹を突いていた。だが仕舞にゃ取ッちめられて、あべこべに突き刺されそうになったところを、うしろから馬春堂先生が、そいつを蹴とばしてやったというだけの話で、あとは<ruby><rb>濡事</rb><rt>ぬれごと</rt></ruby>にもなんにもならずさ。それで安心しただろう」

「はてな、こんな花櫛をさすような娘が、あの山屋敷の中にいたろうか」

「すらりとした<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女で、お前がいたら定めしどうかしたかったろうよ」

「年ごろは」

「八か、十九。<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>があるからもう少しにも見える。何しても、今時の娘の度胸のいいにゃ驚くなあ」

「そうか、ウーム……」と、伊兵衛は花櫛を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>にねじ入れ、立ち上がって馬春堂の出足を止めて、

「ちょッ、ちょッと待ってくんねえ」

ひょいと<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>を渡されたので、馬春堂は何気なく、肩にそれを預かりますと、伊兵衛はフワリと自分の<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>まで脱いで、かれのうしろから着せかけてやった上に、

「どうだ、あったかいだろう」

と一ツ背中をたたきました。

馬春堂は変な顔をして、

「おい、どうするんだ」

「ところで、歩いてもらおうじゃねえか」

「おめえは？」

「少し道草をしてあとから追うから、先へ行って、音羽の<ruby><rb>筑波屋</rb><rt>つくばや</rt></ruby>という<ruby><rb>定宿</rb><rt>じょうやど</rt></ruby>――おれの名をいやあ心得ているから、裏二階のいい座敷を取って待っていてくんな」

「ばかにするなよ」

馬春堂があわてて合羽を脱ぎ捨てそうにしたので、伊兵衛は抱くようにおさえつけ、

「まあ、そう怒らずによ。頼まあ先生」

「よくお前は道草をする男だなあ。いったいどこへ寄って行く気だ」

「切支丹屋敷！」

「えっ」

「まあ来いよ」

伊兵衛はグングン馬春堂を歩かせて、獄門橋を離れて行きながら、相手へ早口にこうささやく。

「――てッきり二<ruby><rb>官</rb><rt>かん</rt></ruby>の娘にちがいねえ。二官というなあ、ころびばてれんの今井二官よ、山屋敷の中であの花櫛の似合う娘といえば、お蝶というその女よりないはずだ。

……ところでおれも<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>至極さ、<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>にゃ、日本左衛門のやつは、とうからこの<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷に目をつけて、夜光の短刀の手懸りをさぐっているということだ。で、今の花櫛で思いついたんだが、おれもちょッとこの中の<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いで行こうかと思う……。

え、馬春堂、おらどうも切支丹屋敷にゃ、ぜひ何かなくっちゃならねえと思うよ。なぜかって、現在、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>のばてれんが牢にいるし、今井二官だって、今じゃお<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>お名前を頂いているが、<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を洗えば<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>から渡ってきた異国人。

……ま、おれの道楽仕事を見ていてくんねえ。盗ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>の勘というやつは、神様のお目よりたしかな事があるもんだ。それにどうせ、十年でも二十年でも根気にまかせて尋ね出そうとかかッている夜光の短刀、体をマメにすることと、勘というやつを馬鹿にしねえ事がかんじんだろう。まあ一足先きに筑波屋へ宿をとって置いて、おれの<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きっそう</rt></ruby>を楽しみに待っていてくれ」

もう一つ、そこで馬春堂の背中をたたきますと、いやも<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>も待たず道中師の伊兵衛。

「頼むぜ！」

ぷいと引き返して、小溝のめぐる石垣の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を馳けだし、少し勾配のついた坂道をのぼりましたが、やがてふり仰いだ<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の大木。

ひらりとその下枝へ飛びつくと――。

二、三度、体をぶらぶらさせて、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>をつけた片足を引っかけると、<ruby><rb>猿走</rb><rt>ましらばし</rt></ruby>り――見るまに枝から横枝の先ッぽへ。

体の重みで、グーと枝の先が弓なりに<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>います。すると、宙に吊り下がったかれの足の先が、切支丹屋敷の高塀の峰に、ひょいと、着こうとしては離れ……届こうとしては揺り返される。

枝に<ruby><rb>錘</rb><rt>おもり</rt></ruby>をかけられて強く曲った<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の木が、ばさッと水玉の粒を散らして、元の姿勢にハネ返ったかと思うと――

「おッと、どっこい」

梢と縁の切れた伊兵衛の体が、一丈二尺の高塀の峰に、<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>のように取ッつかまって、そこから小手をかざしながら、

「なるほど、広い」

と、山屋敷の中のムダ地の多いのに、いささか舌を巻いた<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>です。

いずれこいつは、ぽんと中へ飛び込むでしょうが、小手をかざしている間に、少しこの男の伝記を吹聴するならば、――伊兵衛取る年は四十一歳、泥棒も男ざかり分別ざかりで、ホシは<ruby><rb>猿</rb><rt>えて</rt></ruby>の五<ruby><rb>黄</rb><rt>おう</rt></ruby>、強情で素ばしッこく、悪くゆけばドン底まで落ちて<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>こうし、好くゆけば位人臣をきわめるほどでないまでも、ウンと幸運にのして栄える生れ性だそうだが――<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し、それは馬春堂が、九星本の所説であります。

根は百姓、<ruby><rb>御府外</rb><rt>ごふがい</rt></ruby><ruby><rb>多摩郡</rb><rt>たまごおり</rt></ruby><ruby><rb>阿佐</rb><rt>あさ</rt></ruby>ヶ谷村の産でして、<ruby><rb>業</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>とするところは練馬大根の耕作にありますが、いわゆる武蔵野名物は<ruby><rb>草神楽</rb><rt>くさかぐら</rt></ruby>、阿佐ヶ谷<ruby><rb>囃子</rb><rt>ばやし</rt></ruby>のおはやしの一人でして、柄にもなく笛が上手。

若い時には、笛の伊兵衛といわれたものです。

で、あッちこッちの二十五座に、<ruby><rb>神楽師</rb><rt>かぐらし</rt></ruby>として雇われて歩くうちに、御定法どおり、女ができる、江戸前にかぶれてくる、百姓がイヤになる、神楽師もつまらねえ。

といって、遊んで食べられない世の中を、伊兵衛は遊んで通ってきました。いや、遊んでとはいわれない、やっぱり、いつか泥棒という商売を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>かっていた。

ですが伊兵衛の渡世ぶりは、日本左衛門<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>まきとは、だいぶその選を<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>にしていまして、家を構えず多くの仲間を作らず、決して子分や女をもたないのもかれの特色。

稼ぎもたいがいは江戸ではやらない。

今日浅草にいたかと思えばあしたは奥州街道に、――ゆうべ武蔵野をゴソゴソ歩いていたかと思えば<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>は音羽の<ruby><rb>筑波</rb><rt>つくば</rt></ruby>屋あたりで、<ruby><rb>熱燗</rb><rt>あつかん</rt></ruby>の湯豆腐に首をつッこんでいようというあんばい。

今では、一本立ちの道中師としても人間の質にも、かなりサビの懸って来た伊兵衛には、日本左衛門の<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>な仕事振りや、かれら一まきの横行が、常に、ちゃんちゃら<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しく見えてたまりません。

関八州の盗賊が、すべてといっていいくらい、日本左衛門をかしらに頂いている中で伊兵衛ひとりは、

「ふん……青二才が」といった調子で、まだ、あいさつもした事がない。

仲間の異端者！

日本左衛門も、充分、腹にはふくんでいるでしょう。また、かれが伊兵衛を眼中におかない態度を取るにしても、この間うちのいきさつから、夜光の短刀が、双者のさぐり合いとなって行く様子には、伊兵衛の方で、慾以上の熱と興味をもち、やっきとなっていますから、とうてい将来の暗闘は、かれと伊兵衛の間に、まぬかれそうもありません。

さて。

塀の上に取ッついている道中師の伊兵衛。

「夜光の短刀」

こうつぶやいてニヤリとしました。

「――おれが探し当てて、日本左衛門の鼻をあかしてやったら、あいつら、泥棒の神様へ対しても、渡世をやめて坊主になるかも知れねえぞ」

空想は愉快です。

仕事を昂奮させます。

あいにくか、幸いか、今夜は七日ばかりの月がある。

ジッと、そこから下の足場を見下していた伊兵衛は、ススススと、腹にも短い足が何本もあるように、塀の峰をすべるが如く這い出しましたが、

「あっ？　……」

何か驚いて、突然、山屋敷の内側へと、もんどり打ってその影を消す。

けれど、どすんと、不器用な音もさせないし、今の素早さ、跳躍の軽さ、まことに、あぶな<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>ないものです。

## <ruby><rb>蛇身妖蠱</rb><rt>じゃしんようこ</rt></ruby>

きょうが<ruby><rb>音羽</rb><rt>おとわ</rt></ruby>の護国寺では、<ruby><rb>蟹清水</rb><rt>かにしみず</rt></ruby>の開帳日。

<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>はあたりました。

歳時記では今を水<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>むの時と申しますが、鐘にも春の<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みがある、<ruby><rb>嫋々</rb><rt>じょうじょう</rt></ruby>としてあたたかな、<ruby><rb>耳朶</rb><rt>じだ</rt></ruby><ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>い開帳の鐘の音、梅見がてらの人出と共に、朝から絶えまもありません。

「おお、あいにくな人出だな」

どこか気品のある侍です。

朱を浴びた春の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の仁王門で、雑沓に押されながらこういうと、供と見える<ruby><rb>縞物</rb><rt>しまもの</rt></ruby>の<ruby><rb>手固</rb><rt>てがた</rt></ruby>い<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>をした町人が、

「若様、あいにくは乱暴です。ここの坊さんが聞くと怒りますぜ」

「でも、あいにくではないか。こう<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>な人出では、先も探すに困るであろうし、そちが見付けるにも容易ではあるまい」

「それにしても、ここを約束の場所にしたのはこッちの都合で、護国寺じゃ、毎年きょうと<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まっている開帳日です。伝吉のやつもうっかりして、今日がこんなに混み合うたあ思わなかったんでしょう」

「何せい、仕方がない。どこか小高い所へ上がって、この群衆の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を一ツずつ<ruby><rb>検分</rb><rt>けんぶん</rt></ruby>しているとしようか」

「なに、ほかに探し方もあるんです。まあ、私についてこッちへお出でなさいまし」

といいながら、先に立ったのは目明しの釘勘で、法蔵院の池の前から八ツ橋をスタスタと渡り、向うの<ruby><rb>藤棚</rb><rt>ふじだな</rt></ruby>の人なきところで待ちました。

ついて行く侍を見ると、これは徳川万太郎です。きょうは釘勘の注意か無紋の羽織、例の<ruby><rb>茄子紺</rb><rt>なすこん</rt></ruby>の<ruby><rb>秀鶴頭巾</rb><rt>しゅうかくずきん</rt></ruby>は、それで人目を避けたつもりでしょうが、気品のある色白な目鼻立ちに、あまりうつろい過ぎていて、行きずりの人の目を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>らすとも、顔かくしの役には余り立ちそうもありませぬ。

「若様――こちらへ」

と、釘勘はまた先に立つ。

西国三十三ヵ所を模した<ruby><rb>札堂</rb><rt>ふだどう</rt></ruby>――五番堂のまわりを、グルリと廻って、

「ここじゃねえな」

ひとり<ruby><rb>語</rb><rt>ごと</rt></ruby>をいいながら六番堂、十二番、順もなく札所歩きを、初めたので、

「釘勘」

万太郎は不審そうに、

「最前から何を眺めて歩いておるのじゃ」

「千<ruby><rb>社札</rb><rt>じゃふだ</rt></ruby>です」

「千社札？　……腑に落ちぬことを申す。そちの組下の伝吉をたずねるはずではないか」

「その伝吉の姿を探しているより、この方が早くぶつかるかも知れませんので」

そういって、七番堂の廻廊へズカズカと登って行く。

釘勘はまたそこでも、柱、<ruby><rb>棟木</rb><rt>むなぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の裏などに、ベタベタ貼りちらしてある千社札を、早い眼で読み廻していましたが、

「ウム、ここだ。若様ここで伝吉の来るのをしばらく待ってみましょう」

「こんな所にいるのでは、なお見つかるまい」

「大丈夫、<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>があります」

「印が？　……」と万太郎は、廻廊の千本<ruby><rb>廂</rb><rt>びさし</rt></ruby>をふり仰ぎましたが、種々雑多な千社札の数あるうち、どれが目明し仲間の<ruby><rb>暗合符</rb><rt>あんごうふだ</rt></ruby>だかそれらしいのは一向に見出せない。

ある一ツの目的で、四方に散らかッている手先の者が、社寺の千社札を利用して、時には探索者の所在を暗示し、時には会合の場所を示し、ある時は行先を残す<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>とするなどは、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>が聞いても、甚だうま味のあることだと、万太郎はすこぶる興味をもちましたので、その暗合符の見方を問いましたが、

「へへへへ。あなたは尾州の若殿でいらっしゃいます。そんなことを御勉強なさらなくっても……」

てんで相手にしてくれない。

でも、興にふれると是が非でも、つきとめたいのが万太郎の性質、なおも追求して、目明しの<ruby><rb>秘機</rb><rt>ひき</rt></ruby>を<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>らせようとすると、

「？　……」

あらぬ方へ、釘勘の目が吸いついている。

それは天井の千社札ではない、本堂階段の降り口にあたる方角。

そこからかなりの距離がありましたが、今しも、<ruby><rb>涅槃桜</rb><rt>ねはんざくら</rt></ruby>のそばを通ってゆく<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>くずしの女を、群衆の中から見つけ出すと共に、

「あっ……お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>だッ」

<ruby><rb>欄</rb><rt>らん</rt></ruby>をとび越えた釘勘。

もう万太郎の<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりには居なくなっております。

兵庫くずしの姿を目あてに、七番堂から馳け出した釘勘の跳足！　かれの<ruby><rb>得手</rb><rt>えて</rt></ruby>とする捕繩の風を切るより早く。

織りなす開帳の人浪をこぐり抜けて、仁王門の前まで息をきって行く。

と――お粂も<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>どっていたのか、<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>の丸柱の影を交わして、ニッと凄いほど白い顔を、釘勘の方へ酬いたように見えましたが、

「――御苦労さま」

といわないばかりに、姿は素早く石段を降りて、なだれる人渦の中へ吸いこまれて行く。

「逃がしては！」

と、それを追う釘勘。

一足飛びに玉垣の前に来て立ちましたが、既に遅し！　ぱたぱたぱたと楼門の空から、白紙のように降りた<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>が、<ruby><rb>飴屋</rb><rt>あめや</rt></ruby>の<ruby><rb>紅傘</rb><rt>べにがさ</rt></ruby>にほこりを舞わせているのみ、かれの血走った目にチラついて、鳩ならぬ丹頂の逃げ足――お粂の姿は見当りません。

で、茫然としていると、

「親方」

と、馳けて来た者がある。

「オオ、伝吉か」

「さっきから、ずいぶん探しくたびれました」

「おれの方こそ、いくら見つけて歩いたかしれやしねえ」

「すみませんでした、今日が開帳だとは気がつかなかったので、ただ護国寺の境内とだけお<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせしたのは誤りでした。けれど、そのお粂の落ち着き場所は、やっと目星がつきましたから、どうか御安心なすって下さい」

組下の伝吉。

それは水門尻に捕物のあった晩から、釘勘の命をうけて、逸早く姿をくらましたお粂の行先を突き止めるべく馳けずり廻っていた手先のひとりです。

「ですが親方、七番堂の<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>へ、目印の<ruby><rb>合符</rb><rt>あいふ</rt></ruby>を貼っておきましたが、気がつきませんでしたか」

「ウム、見た」

「それなら、あすこに待っていて下さればよいのに、そこにも姿が見えないので、わっしゃ、まだ来ないのかしらと思っていました」

「ところが、今お粂の姿を見かけたので、七番堂に居たのだが飛び出して来たのだ」

「ヘエ……今もここを通りましたか」

「手懸りがあったとおれの方へ<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせておきながら、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>がそれを知らねえたあ何のこッた」

「いえ、ふたりの落着いた宿は、もうすっかり突き止めちゃあいるんですがね」

「というと、金吾様も、そこにいるんだな」

「この先の<ruby><rb>筑波屋</rb><rt>つくばや</rt></ruby>という家の、裏二階に部屋を取っています」

「この人混みじゃ立話もできねえ。向うの七番堂にゃあ万太郎様もおいでになっているから、とにかく、そこへ行って相談をするとしよう」

「えっ、万太郎様？　……あの尾州家の若殿様が来ているんですか」

「きさくなお方だけれど、馴れるにまかせて、御無礼な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしちゃいけねえぞ、いいか伝吉」

「へい、ですが」

「窮屈がることはねえ、ただ、それくらいな気持でおれに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来い」

<ruby><rb>法蔵院</rb><rt>ほうぞういん</rt></ruby>の前の八ツ橋を渡って、つつじを植込んである<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>の細道、以前の七番堂の丘へふたりは戻ってゆく。

すると、ふたりが通り過ぎた池のほとりから、ひとりの男がのっそりと、五、六歩あるいて見送りましたが、

「はてな？　……どこかで今の奴は見たことがあるぞ」

しきりと首をひねっていました。

だが考え及ばないものか、そのまま藤棚の下へ這入って、そこにある<ruby><rb>陶器床几</rb><rt>すえものしょうぎ</rt></ruby>に腰を下ろし、亀の<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>へ上がったように、ぽつねんとして、池の<ruby><rb>緋鯉</rb><rt>ひごい</rt></ruby>の<ruby><rb>游弋</rb><rt>ゆうよく</rt></ruby>に、無為徒然な春の日を過ごしています。

道中師の伊兵衛の荷物をもって一足先に、この護国寺のすじ向うにある、筑波屋へ泊りこんでいる馬春堂でありました。

「ばかにしやがる」

今さら腹が立ってたまらないように、馬春堂はそこでぶつぶつ呟いている。

「あの野郎、おれに合羽と荷物を持たせて、どこに道草しているのか、きょうであの晩からもう三日目、まだ姿を見せやがらない。第一こッちは<ruby><rb>文</rb><rt>もん</rt></ruby>なしなので、茶代はやれないし連れは来ず、宿屋の奴は変な目で人を見るし」

ははあ、それで馬春堂先生、気の腐るまま宿を出て、<ruby><rb>池辺</rb><rt>ちへん</rt></ruby>に<ruby><rb>亀首</rb><rt>かめくび</rt></ruby>を曲げながら、<ruby><rb>売卜者</rb><rt>ばいぼくしゃ</rt></ruby>の身の上知らず、来ぬ待ち人を待ちあぐねているものとみえます。

時をへて馬春堂は一転して、寺領の外の空地に小屋を建てならべている御開帳あてこみの見世物の景況を、いちいちひまつぶしに見てあるいている。

江の島の貝殻寄せ。亀市の<ruby><rb>活人形</rb><rt>いきにんぎょう</rt></ruby>。長崎のビードロ細工。火事と血だらけな絵巻をならべて、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>を持った坊主頭が、しゃがれ声を張りあげているのは、いつも人立ちの多い地獄極楽の見世物。

お隣を見ると<ruby><rb>脂粉</rb><rt>しふん</rt></ruby>の娘が、金糸と銀糸にかがられた若衆姿で、槍流しの<ruby><rb>水独楽</rb><rt>みずごま</rt></ruby>とか何とかをはやし、むしろの陰の鳴り物では、今たけなわと思われます。

<ruby><rb>志道軒</rb><rt>しどうけん</rt></ruby>の孫弟子なにがしの<ruby><rb>辻講釈</rb><rt>つじこうしゃく</rt></ruby>、冬の陣における<ruby><rb>真田父子</rb><rt>さなだふし</rt></ruby>の働きぶりをたたきにたたいておりますが、戸板にかこまれた木戸銭の影も<ruby><rb>斑</rb><rt>まば</rt></ruby>らで、このならびでは一番の不入り、孤城落日のところだなとは、馬春堂が心でおかしく思った半畳でした。

まだある。

<ruby><rb>居合</rb><rt>いあい</rt></ruby>抜きの歯磨き売り。<ruby><rb>百獣屋</rb><rt>ももんじや</rt></ruby>の白熊の<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>。

そのほか茶番道化、大道の針呑みまで寄せますと、この一側だけでも、見世物番付ができるくらいで果てしもありませんが、さて、見世物はあきません。

そこに立ち、ここに立ちして、いつかこの<ruby><rb>他愛</rb><rt>たあい</rt></ruby>のない雰囲気にくるまれると、馬春堂のごとき男すら、身は十か九ツの子供に立ち帰って、そぞろ昔、手をひいて歩いてくれた母や姉が、そこらの人ごみで名を呼ぶような気さえしてくる。

だが、その終りに、一脚の机をすえていた同業の<ruby><rb>売卜</rb><rt>ばいぼく</rt></ruby>者に出ッくわすと、馬春堂は急に幻滅を感じました。そして、用でもあるような足どりで、スタスタと同じ道を引っ返して来ると、

「あ……おじさん」

と、まろばすような娘の声が、前に見て通った、地獄極楽の木戸口から呼び止めました。

「おお」

と馬春堂は少し<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>って、

「おとといの晩の娘さんだったね」

「ええ……そのせつは」

あどけない笑顔を近づけて、<ruby><rb>伽羅油</rb><rt>きゃらゆ</rt></ruby>のにおいに馬春堂を<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せさせたのは、獄門橋で見た時とはまるで違って、いかにもおぼこらしい、<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>のお蝶であります。

お蝶を見ると馬春堂はまた心のうちで、伊兵衛が今もって帰らぬのはどうしたものかと、少し<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>が<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってきましたが、それはすぐ美しい娘の<ruby><rb>狎々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しさに消されて、

「お開帳の帰り道かね」

「ええ、ずいぶん人が出ましたわね」

「あまり遅く帰ると、またこの間みたいな悪い奴につけられるよ。それにお前は今、地獄極楽の見世物を見て来たんだろう、あんなものを見て、よく丹下坂の森を帰られるな」

「だって、おじさん、地獄極楽なんて嘘ッ八はありゃしないでしょう」

「あるさ」

「おかしい……」

ホ、ホ、ホ、ホ、と笑ったはずみに、手にかかえていた包の中から一枚の小皿が落ちて砕け、お蝶の足元へ玉虫色の<ruby><rb>小片</rb><rt>かけら</rt></ruby>を散らしました。

「あ！」

「なんだい？」

「<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>――」

口惜しそうに踏みにじッて、

「わざわざ京屋へ廻って買って来た寒紅なの。こっちの油を落とさなくってまアよかった」

「たいそうみやげ物を買い込んだじゃないか」

「父がひとりでまっていますからね」

「ウム……そういやお前の父親というのは、ころびばてれんの」

「嫌アよ！　おじさんは」

<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つまねをして眼に鈴を張りましたが、そのにらむ目をあべこべに、馬春堂がジッと見つめ返すものですから、お蝶はプイと怒ったように身をそらして、

「知らない。――嫌な人」

先に人ごみを縫って急ぎました。

「怒ったのかい、おい、お蝶さん、お蝶さん」

用もないが、からかい半分、前の仁王門の横手まで追って来ると、そこの玉垣の前にたたずんで、しきりと自分の方を注視している三人づれ。

二人の町人<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>は思い出せないが、目立つ方の<ruby><rb>秀鶴頭巾</rb><rt>しゅうかくずきん</rt></ruby>は、いつか忍川の売卜に応じたおぼえのある徳川万太郎にちがいない。

変な日というものがよくあるものです。

走馬燈の心棒に立ったように、いろんな影が自分を中心に織りめぐって、うしろにあるはずの影が前に居たり、前にさす影がうしろに居たり、心待ちにする影は来ないで思わぬ影がぽっかりと現われたり、すべて、疑心暗鬼から生まれる影が、目のさき足の先にちらついて、妙に心を<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>にさせる。

きょうの九星は何の日かわかりませんが、馬春堂、変な日だぞと考えました。

得てこういう日には、ちぐはぐな事が多いものだ。

お蝶さんに<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>でぶたれるなんていうのもその辻占かも知れない。

<ruby><rb>忍川</rb><rt>しのぶがわ</rt></ruby>の晩以来、どこも大嫌いな十手だの御用提灯だの、岡ッ引くさい眼だのが、そちらにチラついている気がしていけない。まずこんな日はおとなしく、宿の二階にでも閉じこもっているに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはありません。

なまはんか<ruby><rb>易占</rb><rt>うらない</rt></ruby>なぞをやるせいか、悪党らしくもなく馬春堂、きょうはばかに弱気であります。徳川万太郎の姿を仁王門の前に見たのさえ、なんとなく小気味わるく思われて、こそこそと宿の筑波屋へ戻ってゆく。

筑波屋の前は、早くも日暮を思わせて、宿についた、<ruby><rb>早駕</rb><rt>はや</rt></ruby>、四ツ手が木の下にズラリと埋まっていて、この陽気なのに、汗をふいているかごかきや、上がり<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>でわらじを解いている旅客やで、帳場はひとしきりの混雑です。

お帰ンなさいまし――とも迎えられずに、馬春堂は幅の広い<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>をふんで、ちょッと戸惑いをしそうな裏二階の一間へ来て、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を引こうとしましたが、

「おや？」

何か<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>につかえるものがあって、ガタガタゆすぶってみたがあきません。

また、「変な日」の迷信が頭にこびりついて来て、部屋違いをしたかしらと、廊下の曲りを考えましたが、やはりここは自分の部屋に間違いはないのです。

で、もう一度、襖のつぎ目をはだけて見ると、あかないはずです、<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>の境に、強情な爪を持つ足の親指がつッかいぼうになっている。

「こいつめ」

ギュッとつねると、

「あ痛ッ」

中で飛び上がッた<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりですが、馬春堂は笑いもしないで襖をあけ、たれと見るまでもなく知れ切ッているその人間へ、

「さんざッぱら人を待たせておいた揚句、つまらない<ruby><rb>悪戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>をするない」

と苦りきる。

「オオ<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>え、ひでえまねをしやがる」

と足の親指をおさえながら、そのまずい<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を眺めてあッ気にとられたのは道中師の伊兵衛で、<ruby><rb>朱塗</rb><rt>しゅぬ</rt></ruby>りの<ruby><rb>広蓋</rb><rt>ひろぶた</rt></ruby>に飲みちらした酒の徳利や小皿があり、そばには木枕がころがッていますから、馬春堂の留守にここへ来るなり、脚絆も解かないうちから、二、三本飲んでゴロ寝をしていたものと思われます。

「なんだ、おれが<ruby><rb>悪戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>をしたって？」

「襖をおさえていたろう」

「けッ……」

鶏が<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>をしたような笑い方をして、

「べらぼうめ、四十男の道中師伊兵衛が、そんな<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>みてえなまねをするかい。お前の帰りをまとうと思っていたが、あんまり腹がすいていたから、つなぎに一杯やっているうち、この間うちからの気疲れで、コロリと横になっているうち、思わず寝込んでしまったんだ。ドッチが<ruby><rb>悪戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>だか考えてみてくれ」

なるほど、いわれてみれば、その通りです。

ここでも一ツどじをやって、馬春堂はまた気が腐って来そうになりましたが、まず伊兵衛が帰って来れば多少景気もつこうというものと、

「おい、風呂へ行かないか」

「おれは少し気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いているんだが」

「今、宿へ着いたばかりじゃないか」

「ウム、まアいい……」と、伊兵衛は何か考えていたがクルクルと<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>を解いて、

「じゃ、つき合おう」

豆絞りの手ぬぐいを袖口にぶらさげる。

そして廊下へ出て行きますと、先に出た馬春堂が、何か奇妙な虫でもに見付けたような顔をして、入口の<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>に眉をしかめているので、

「何を見ているんだい？」

と自分もそこを見上げますと、<ruby><rb>勘亭張</rb><rt>かんていば</rt></ruby>りの読みにくい文字の上に、一個の人間の眼が描いてある千社札――それが斜めにピタリとはりつけてある。

なんの<ruby><rb>魔除</rb><rt>まよ</rt></ruby>けだろう。どれ、あれよ。ありゃ千社札さ。フーム客がいたずらしたんだな。なにさ<ruby><rb>納札</rb><rt>のうさつ</rt></ruby>の連中ときたら<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>きがあると人の顔にでもはりかねない。そいつはやッけえな<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>だ。まったく。するとこれなんぞはきっと眼医者の納札気狂いかも知れないぞ。なるほど。<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>の蠅のまじないにもなりそうだな、道中師には<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き目があるめえ、あはははは。

――と馬春堂に伊兵衛。

部屋の入口にはってあった奇妙な札へ、かたみ代りの批評をいって、そのままトントントンと<ruby><rb>裏梯子</rb><rt>うらばしご</rt></ruby>から風呂場へ降り、ぬぐとすぐに飛びこんで、

「アーいい湯だ」

二ツの首を浮かせました。

伊兵衛はスジ<ruby><rb>文身</rb><rt>ぼり</rt></ruby>のある二の腕をゴシゴシこすりながら、

「この間、獄門橋でわかれた時から、とうとう湯にも<ruby><rb>這入</rb><rt>へえ</rt></ruby>らずさ」

「また<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷の道草があり過ぎたんだろう。そうとは知らず、こッちは正直に座敷をとって、あの晩も<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>まで首を長くしてまっていたろうじゃないか」

「そうだろうたあ思ったが、おれも実はひどい目にあって、どうしてもここへ帰ることができなかったんだ」

「ふーむ、すると、山屋敷の役人にでもとッ捕まって、逃げて来たのか」

「なに、そうでもねえが……」

伊兵衛は湯気の立った体をザブリと上げて、小桶をふせて腰かけながら、<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>へよっかかりました。

馬春堂も上がって、グンニャリと膝をかかえこむ。

「――で、あれからの<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きっそう</rt></ruby>はどうしたんだ」

「飛んでもねえ邪魔物がいて、大不首尾よ」

「邪魔者というと？」

「知れてるじゃねえか、夜光の短刀の相手方、日本左衛門と一まきの奴らだ」と、伊兵衛は話しかけて、あたりに鋭い気をくばりましたが、<ruby><rb>湯気出</rb><rt>ゆげだ</rt></ruby>しの小窓に積んである風呂桶の隙間から、ほの明るい夕空と白い星が一ツ見えるのみで、しめ切ってある<ruby><rb>水戸</rb><rt>みずと</rt></ruby>の外にも、格別、かれの神経を要する気配はないあんばいです。

で――安心して、それからスラスラとしゃべり出すことには。

「おめえと別れて、あれから切支丹屋敷の高塀を越え、中の様子をのでいていると、いきなりおれの<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>へ、石をぶつけたやつがある。あッと思って、中へ飛びこんだが、別にたれも来る様子もねえから、夜ふけをまって這出すと、どうだろう、いたる所に<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>を着たやつがもぐっていて、おれが行く方、行く方へと、影になって付きまとって来る。こいつはいけねえと、その晩は足を抜いて、翌晩出直してみると矢っ張りそれだ。そりゃいいが今度は、山屋敷の外へ出てまで、おれのあとを黒衣の影がつけてくるので、このまま筑波屋へ帰っちゃ工合がわるいと考えたから、きょうは一日用もねえ所を歩き廻って、そいつをまいて帰ってきたわけだが……馬春堂、おらどうも<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しくッてたまらねえ」

「すると、そいつはみんな、日本左衛門の手下なんだな」

「そうとよりほかに思い当りはねえだろう」

「だが伊兵衛、日本左衛門のやつが、それほど根気よく山屋敷に目をつけているとすれば、こりゃだいぶ、仕事が面白くなって行くぞ」

「なぜ」

「考えてみるがいい、何かあの山屋敷に、夜光の短刀の手掛りがあるものと睨んでいればこそ、日本左衛門もあぶない要心をくぐッて、そこを<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>で探っているのだろう。まるでいわれのない所へ、日本左衛門がいつまで手下を廻しておくはずがない」

「ちげえねえ？　そう考えりゃ、ゆうべとおとといの<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじり</rt></ruby>も、こッちにゃ大きな張合いとなる。何しろおれは二、三日息抜きをしたら、また毎晩でも山屋敷へもぐりこんで、こんだアあすこの縁の下を、百日でも半年でも、住居にして探ってみる気だ」

「じゃ、あの洞白の<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>の方は、一体どうしておいたものだろう」

「隠しておくのが、身軽で一番安心だが……」

「その隠し場所にまた困るぞ」

「護国寺の札堂――あの辺は」

「物騒物騒」

「じゃ、目白の<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>ヶ岡へでも持って行って、どこかへ<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>け込んでしまうとするか」

といいかけた時でした――湯気出しの口につんであった小桶の幾つかが、ガラガラとくずれ落ちて、はッと振返った伊兵衛の目に、そこから逃げた女の影――。

ろくに体を洗いもしないで、それから伊兵衛と馬春堂が、上がり湯をザッと浴びて着物を引っかけ初めたころ。

――もう八<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>に灯が入って帳場格子に<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>のきた筑波屋の表<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>。

そこへ、化粧道具を<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>にくるみ、少し<ruby><rb>身丈</rb><rt>みたけ</rt></ruby>にあまる丹前は<ruby><rb>伊達巻</rb><rt>だてまき</rt></ruby>のあだッぽい姿を見せたのは丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>で、

「あの、番頭さん」

二、三だん、梯子を踏みかけながら、上げ<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の止めを、ちよッと指でおさえて、

「――早くして下さいよ、急ぐんだから」

「ヘイ、只今」

勘定書であろう、帳場の番頭、パチパチパチパチ<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>の珠音を<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>きながら、

「お風呂はもうお済みでしたか」

「ほかの客がいたから止めてきましたよ」

「あれ、<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>いていたはずでございますのに」

「いいよ、もう」

「あいにくと今夜は、護国寺のなんで、ばかに混み合いますもんですから、どうも不調法ばかり仕りまして」

「それから、<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>」

「かしこまりました」

「私は、足ののろい駕屋さんは嫌いだからね」

「達者なのをそう申しておきます」

「じゃあ、すぐにだよ」

「お夕食は？」

「いらない」

トントンと白い<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を二階へ運んで、お粂の姿は裏二階の廊下の奥に吸いこまれる。

女中の手が足りないかその部屋には、まだ行燈が来ていません。

<ruby><rb>掛障子</rb><rt>かけしょうじ</rt></ruby>の紙の色が暗い<ruby><rb>床脇</rb><rt>とこわき</rt></ruby>に白く目立って、秘かに<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めた夕暗の中に、人の気配も<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かであります。

音もなくあいた襖すべりに耳をとめて、<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾は床の上から――

「お粂か」

と、膝にのせた了戒の刀を重そうに向き直りました。

「――お支度は」

「ととのえておる」

うしろ向きに立って、お粂が丹前をぬぎすてると、白い肌の曲線が、手早く次に羽織る着物に隠されて、さやかな<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの音と共に、豊熟な女の匂いが部屋いッぱいにひろがって、さし俯向いている金吾の胸にも悩ましそうでありました。

「お粂……」

金吾は<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>に<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を抑えて、

「わしは止そう、どう考えても、そうしておられる体ではない……」

「あれ、またそんな」

男の体へふわりと絡んで、

「どうしてあなたは、そうすぐに気が変るんですえ？　もう駕まで頼んでしまったじゃありませんか」

「…………」

「あなたにしても、いつまでお体がこんなでは、どうジリジリあせッて見たところで、仕様がないことでございましょう」

「といって、このままお前と湯治場へなど、なんで<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>らしく出かけられようか」

「遊びに行くという訳じゃなし、あなたの御病気をなおしに行くんですよ」

「そりゃ一刻も早くこの体が、自由になりたいのは山々だが、もうお屋敷を出てから幾月目になるか、沙汰もせねば居所も知らさず、万太郎様も定めし憎いやつと思っておいでになるだろう……」

「ですから、せめてお手紙でも届けましょうかといえば、今となっては、面目ないと仰っしゃるし」

「当り前ではないか。なんで、今さらこの浅ましい病体をして、万太郎様にお目にかかかれようか、お前には武士の切なさは分るまい」

「それ故、湯治場へでも行って、お体の養生をなさるのが、今の大事じゃございませんか」

「ええ、重い」

お粂の体をうしろへ押しのけて、

「<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>める、拙者は行きたくない」

「そんな<ruby><rb>捨鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>をいわないで」

「ああ、どうしたらいいのだ、この体を……」

さすが気丈な武士相良金吾も、自分でも<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れぬ病状をもてあまして、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>へ蒼白な顔をふせましたが、お粂はその息づまり方を察しもなく、押し退けられるほど両の腕を、男のやせた肩へからんで、

「もう駕が来ているんですよ。ねえ相良さん、私のいうこともきいて下さいな。静かな湯治場へでも落着いたら、その上で、この気持ちもすっかり打明けて話しますから」

うしろへひいた帯の端が、スルリと夕暗の畳にうごいて、蛇の妖情を思わせます。

## <ruby><rb>無名神</rb><rt>むめいじん</rt></ruby>

それから程なく。

夜立ちと見ゆる二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の駕が、筑波屋をあとに宵を急いで、江戸川の土手へさしかかッて来る。

「あ、駕屋さん」

うしろの一挺でこういうと、駕の内からお粂の白い顔が外をのぞいて、

「すまないが、ちょっとここで降ろしておくれ」

「なにか、忘れ物でございますか」

「少し、思い出した用があってね……。<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>は、すぐにまた戻ってくるから、おお、すじ向うに居酒屋があるらしい、あそこでしばらく休んでいておくれでないか」

「ヘエ？　ここで、お待ち致しているんですか」

「病人は、駕の中へ残しておいてもいいけれど、寒くないようにしてあるだろうね」

「<ruby><rb>駕蒲団</rb><rt>かごぶとん</rt></ruby>を厚く入れて、こうしてございますが」

ひとりがタレを上げて中を見せますと、お粂はニッ……とうなずきました。

<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>の大刀に、衰えた肩をもたせかけ、膝を<ruby><rb>友禅</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>の小蒲団にくるんで、<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾は<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>と眠っております。

なんという奇病――<ruby><rb>業病</rb><rt>ごうびょう</rt></ruby>――かと金吾の<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れる<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>の謎をとくものは、お粂以外にはないでしょう。筑波屋に滞留中も、附近の医者にみてもらいましたが、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、病の名すらも分らない。

さっきも、駕にのるまでは、人手も借らずに乗った病人ですが、もうここまで来る間に、いつものような昏睡に落ちて、呼べどもさめるふうはなく、了戒の刀を抱いて俯向いたまま、おのれの駕の行く先も知らぬ<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>の旅の<ruby><rb>宵風</rb><rt>よいかぜ</rt></ruby>に吹かれています。

（ああ……罪が深い）

その姿を見ると、お粂もそら怖ろしいほど、自己の<ruby><rb>悪行</rb><rt>あくぎょう</rt></ruby>に、おののかぬのではありません。

しかしどうしても、金吾を自分の所有にしきってしまわないうちは――と、

「じゃ駕屋さん、少しだけれど」

紙入れの中から二朱金を一枚つまみ出して――「まっている間に一杯おやり」

「ありがとう存じます」

「アアこれでも、いくらか夜露をふせぐ足しになるかもしれない」

着ていた羽織をぬいで、フワリと裏返しに、金吾の駕の屋根へかぶせてやると、お粂は小走りに江戸川の土手を、元の道へ戻ってゆく。

どこへ？

と思うとその姿は、目白の台へ急いで<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>ヶ岡の二本松――夏ならば<ruby><rb>茗荷畑</rb><rt>みょうがばたけ</rt></ruby>、秋ならば虫や<ruby><rb>鶉</rb><rt>うずら</rt></ruby>の音も聞かれそうな、畑と草原の間に行きつ戻りつしている。

「こっちが先を越しているはずだが……どうしやがったんだろう、あの二人は」

人待ち顔につぶやいたお粂は、二本松の根方にある石神堂の前に、<ruby><rb>曼珠沙華</rb><rt>まんじゅしゃげ</rt></ruby>のように赤い線香の火を見ました。

×　　　×　　　×

それより少し前のこと。

筑波屋の裏口へ主人を呼んで、十手を示した上、客らしく装って二階へ上がって行ったのは釘勘です。

ズーと裏二階の廊下を見てゆくと、手先の伝吉がはっておいた、例の、目印の<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>が二ツの部屋にはってある。

そのどっちにも明りの影がさしていないので、釘勘は、しまッた！　と早くも手遅れを感づきました。

偶然、ここにお粂と道中師の伊兵衛とが、一ツ宿屋に落ち合っていたため、一方へかかれば一方を逃がすおそれを生じ、あれから、いったん引っ返して、手配のため番屋廻りに時刻を<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>したのが、今となれば、とんだ<ruby><rb>両兎</rb><rt>りょうと</rt></ruby>を逃がした原因というもの。

「だが、遠くへは行くまい」

と、一つの部屋をあけてみると、<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いこう</rt></ruby>にかけてある女着の丹前、それには、まだほのかにお粂の肌の匂いがある……。

火鉢の残り火を見つめながら、釘勘は、この部屋の空虚に立って、不思議な疑惑にくるまされました。

――病体にしろ相良金吾が、どうして、お粂と共にこう早く姿をかくしたり、あの妖婦の自由になって逃げ廻ったりするのか？

「ウーム、<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せない」

吐息の如くつぶやきましたが、今はそんな事を考えている場合でもないので、サッとその部屋を抜けて出ると、何やら足の先にコロコロと転がった物がある。手で探ってみると――冷ややかで、透明で、小さくて、見なれない形をした、紫色の<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>です。

むらさき色のビードロです。その当時にあっては、長崎の者か蘭法医でもなければ見知らない、小さな薬の<ruby><rb>瓶</rb><rt>びん</rt></ruby>。

それが拾われて、釘勘の手のひらに、気味の悪い色と冷たさを感じさせています。

丹頂のお粂が、<ruby><rb>倉皇</rb><rt>そうこう</rt></ruby>として去った<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の部屋にこの不思議な品は、そも何の謎でありましょうか。

とにかく、<ruby><rb>由々</rb><rt>ゆゆ</rt></ruby>しい物を手に入れたように、それをふところに捻じこむと、釘勘は表の帳場へ降りて来て、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>や番頭へ、

「忙しいところを、お邪魔しました」

「どういたしまして、何かあの……」

「なに、べつに」

本来は、二組の客の行先を、くわしく問いただすべきところでしょうが、お粂にしろ、伊兵衛にしろ、正直に行く先を帳場にいって立つはずはなく、聞くだけ野暮と<ruby><rb>見限</rb><rt>みき</rt></ruby>りをつけて裏口から飛び出すと、そこに、

「親方」

と、待構えていたのは手先の伝吉、

「一足ちがいで、逃げられた様子ですぜ」と、そばへ来て手おくれを口惜しがる。

「ウム、惜しいことだッたが、仕方がねえ。それよりも万太郎様は？」

「さっきも、親方が意見していたようですが、どうして、なかなか根岸へ帰る<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりはなく、今し方まで護国寺の前に居ましたが、そのうち、馬春堂と伊兵衛が筑波屋を出て行ったので、それを<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>てゆきました」

「じょうだんじゃあねえ、御三家の若殿が、こちとらずれの仲間に交じって、岡ッ引風情の真似を一緒になってやられちゃア困るじゃねえか」

「だって、万太郎様は、面白いといってきかねえんですからね」

「何が面白いことがあるものか」

「当分、釘勘の部屋の者になろうかって、いっていましたぜ」

「ばかをいやがれ。御勘当にこそなっているが、尾張様の七男、もしや怪我でもあった時にゃ、こッちが飛んだことにならあ」

「困ッた人だなあ」

「で、どっちへ尾けて行った？」

「目白台へ上がって行ったかと思いますが……何しろ私は、お粂の方へ、七、八人追いかけさせてあるんで、ここを動くことができねえんです」

「じゃ何しろ、馬春堂と伊兵衛から先に片をつけるとしよう。お粂の方は駕屋を洗ってみたらほぼ<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>がつくだろうから、そう急ぐにも当るまい」

こういいのこすと、釘勘は、もしやと万太郎の身が一途に案じられて、木立に暗い坂道をあえぎあえぎ、目白の台へかけのぼって行く。

…………

どこかに月が出たようです。

月のありかは分らない。

ただ銘刀の<ruby><rb>刃紋</rb><rt>はもん</rt></ruby>のうような<ruby><rb>朧夜</rb><rt>ろうや</rt></ruby>の雲が空いちめんに<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>っていて、その雲の明るみから見ても、どこかに月のあるような空ですが、月のありかは分らない晩です。

<ruby><rb>夜霞</rb><rt>よがすみ</rt></ruby>のあるせいか、江戸川の<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>の向うに、いつもは近く見える<ruby><rb>矢来</rb><rt>やらい</rt></ruby>の<ruby><rb>天文櫓</rb><rt>てんもんやぐら</rt></ruby>の灯が、今夜は、海のあなたほど遠く見える。

「なあ、馬春堂」

「ウーム？」

「陽気もだいぶ楽になったなあ、今夜あたりが、おぼろ夜っていうやつだぜ」

「そうさ、<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>にもあったっけ」

「俳諧ってなあ、なんだい」

「そう聞かれちゃ、ちと困る」

「おめえもやるのかい」

「多少は心得がある」

「悪党の癖にしやがって、<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>なんて作る法はあるめえ」

「悪党だって、絵の上手なのも居るし、家で<ruby><rb>盆栽</rb><rt>ぼんさい</rt></ruby>をいじっている奴もある。現に、<ruby><rb>木鼠</rb><rt>きねずみ</rt></ruby>の三公なんかは、<ruby><rb>巾着切</rb><rt>きんちゃくき</rt></ruby>りは<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>だが、伝馬牢へ入ると、時々、句を作って出てくるそうだ」

「量見のよくないやつだ。おれなんざ、おぼろ夜となれば、ひとりでに考え方が違ってくる」

「どう違うのかな？」

「やたらに、仕事がしよい晩だと思って、気が<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>げてきて仕方がない。――どうも馬春堂、おめえは少し、悪党にしちゃ半端でいけねえ。もう少し<ruby><rb>苦汁</rb><rt>あく</rt></ruby>が抜けて来そうなもんだ」

ぶらぶらと歩いてくる二ツの人影。

やがて、二本松の石神堂で足を止めると、伊兵衛は肩の<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>を下ろして、

「ウム、<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>を隠しておくにゃ、ここはお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつ</rt></ruby>らえにできている」

と古びた<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>を見廻しています。

「さ、どこへ隠そうか」

石神堂のぬれ縁に腰をかけて、伊兵衛が<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>の中から解き出したのはいうまでもなく、夜光の短刀の来歴をつぶさにした「ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」の一<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>と、<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>とを秘めたあの箱です。

「そうさなあ？」

と馬春堂が、改めてこの<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>を見るに、<ruby><rb>木組</rb><rt>きぐみ</rt></ruby>、<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>、<ruby><rb>手斧</rb><rt>ちょうな</rt></ruby>のあとなど、どことなく遠い時代のにおいがあって、建物としては甚だ粗末ですが、屋根においかぶさっている二本松と共に、<ruby><rb>年古</rb><rt>としふ</rt></ruby>ることは想像も及びません。

ギイ……と<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>をあけて見ると――、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣の中に石の祭神の半身が見える。

その石神がまた変っています。<ruby><rb>毘沙門</rb><rt>びしゃもん</rt></ruby>とも見えれば矢大臣の像とも見えるし、またただの<ruby><rb>甲胄</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>をつけた武人とも見える。

――土着の人は、何事の<ruby><rb>願掛</rb><rt>がんか</rt></ruby>けもかなうとかいって、<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しいことには線香を上げるかと思うと、生魚を上げたりして、その信仰に神と仏の区別をもっていないようです。

もっとも、本体の石神様自身が、神か仏かただの人間か、古色<ruby><rb>蒼然</rb><rt>そうぜん</rt></ruby>として、名もなく、わけもわからぬお<ruby><rb>像</rb><rt>すがた</rt></ruby>を持っているのでありますから、<ruby><rb>祭祀</rb><rt>さいし</rt></ruby>の方法もまた、これでいいのかも知れません。

「どうだろう、伊兵衛」

馬春堂は喜連格子の中へ首をつッこんで、

「ここに<ruby><rb>賽銭箱</rb><rt>さいせんばこ</rt></ruby>みたいなものが、こいつを動かして、その床下へ隠しこんでおいたら、たれも気がつくものはありはしまい」

「だが、動くか、そいつが」

「おそろしく頑丈だが、二人がかりならどうにかなりそうだ」

「しかし考えてみると、こんな所に隠しておくのも不安心だ」

「といって、その<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>へ入れてかついで廻っていると、万太郎だの金吾だの、悪くすりゃ釘勘なんて奴に、いつどこで出ッくわすか分ったものじゃない。まあここらへ隠しておけば無難なものだよ」

何しろ自分に大事よりは、人手に渡したくない性質の物なので、伊兵衛も暫くは迷いましたが、大事なだけに、これを持って歩いていることが、どれほど、苦労だったか分らないことを思うと、

「じゃ、人の来ねえうちに」

と、腹をきめて、

「馬春堂、手を貸すぜ」

「ウム、押してくれ」

二人がかりで賽銭箱をズラしました。

馬春堂はすぐその下の床板をさぐって、

「おや」

「なんだ？　……」

「お誂らえだぜ、面倒なく、床板が<ruby><rb>刳</rb><rt>く</rt></ruby>り抜いてある」

「そうか、じゃまってくれ、<ruby><rb>湿気</rb><rt>しっけ</rt></ruby>をくわねえように、今すっかりあいつを<ruby><rb>桐油紙</rb><rt>とうゆ</rt></ruby>でくるむから」

伊兵衛が手早く入念に、<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>をつつんで肩越しに渡すと、馬春堂はそれをうけとって床板の<ruby><rb>隙穴</rb><rt>すきあな</rt></ruby>へと、ズーと手をさしこみました。

そして、

床下の上へおくつもりで、そっと手から放しましたが、途端に――あっ！　と伊兵衛も馬春堂も、色を失なって飛び上がりました。

そこは、わずか二尺か三尺と思いのほか、手を離れて行った洞白の<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>は、数丈も深さのある地底へ行って、やっと、ストンという遠い音を返して来たのです。

「た、大変だこいつは」

「飛んでもねエことをしちゃったじゃねえか。どうして、そんな所へ」

「まさか、<ruby><rb>賽銭箱</rb><rt>さいせんばこ</rt></ruby>の下が、こんなからくりになっていようとは思わない」

「えっ、困った！　なんとかして引き上げる工夫はねえかしら」

「<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>を点けよう、蝋燭を」

「オオ、蝋燭なら、ここにいくらもある。早く<ruby><rb>火鎌</rb><rt>ひがま</rt></ruby>を<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>ってくれ」

焦燥と泣きたいような気持とが、カチカチッ、カチカチッ、と火花と散って、やがて、あたふたと点けた一本の灯を、手につかんだだけの蝋燭へ移して、それをかざしながら怪異な石神の足元をのぞきこむ……。

<ruby><rb>明邪</rb><rt>めいじゃ</rt></ruby>御本体のわからぬ無名の石神様は、身に<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>をつけ手に鉾らしいものを持ち、数百年の塵をあびて、<ruby><rb>顔容</rb><rt>がんよう</rt></ruby>おそろしげに、足元で浅ましい<ruby><rb>狼狽</rb><rt>うろたえ</rt></ruby>ざまをしているふたりの人間どもを、<ruby><rb>冷々</rb><rt>れいれい</rt></ruby>、見ておわすように思われました。

「ウーム、こりゃ深い。まるで井戸のようだ」

馬春堂は、伊兵衛のかざす蝋燭の流れを背中へポタポタ浴びながら、石神堂の床穴へ体をのめりこませていましたが、やがて遂に、

「とても駄目だ！」

と、絶望の声を放つ。

「ま、待ちねえ」

<ruby><rb>強悪</rb><rt>ごうあく</rt></ruby>な伊兵衛の声もふるえています。

「深いからといって、このまま諦らめるわけにゃ行かねえ。ウム……こうして見りゃおよそ底の見当がつくだろう」

手につかんでいる蝋燭を、火のついたまま一本一本床下の穴へ投げ落として見ますと――それは美しい一条の光をひいて、直線に真ッ暗な地底へ吸われてゆきましたが、ある程度まで下がってゆくと、ふッ、ふッ、と魔ものの息にかけられたように消えて、伊兵衛の機智もなんらの効果を見せません。

「ちぇッ」

と、舌打ちをしたものの、最後の一本まで投げてしまえば、上も暗やみになってしまうので、それは賽銭箱の上へ蝋を溶かして、ていねいに立てかけながら、

「馬春堂、帯を解きねえ、帯を」

「な、なにをするんだ」

「おれの三尺や何かもつなぎ合せて、この穴の底へ降りてみるから」

「よしな、あぶない芸当は」

「<ruby><rb>虻</rb><rt>あぶ</rt></ruby>も蜂もあるものか、大事な洞白の<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>――そりゃまあいいとしても、あの夜光の短刀のことが書いてある<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>を、こんな所へ落としちまっちゃあ仕様がねえ」

「いかにもそれは残念だが、まあもう少し考えて見るさ」と、伊兵衛が三尺を解きかけるのを押し<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めて、

「おれはかえって、こうなった方が、石神様の<ruby><rb>御利益</rb><rt>ごりやく</rt></ruby>だと思う。そう考える方が本当だ」

「ばかにするねえッ」

噛みつくように呶鳴った伊兵衛、この意外な失策に、ジリジリしているので喧嘩<ruby><rb>面</rb><rt>づら</rt></ruby>です。

「何が御利益だ、馬鹿野郎め」

「そうガミガミ怒るなよ。あのばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>は、なるほど、夜光の短刀の来歴を、つぶさに書いてある大事なものには違いない。しかし、いわばあれは、それだけを知る端緒に過ぎないもので、夜光の短刀のありかが書いてあるわけでもなければ、秘密の扉をあける鍵にもならない」

なるほど、それは馬春堂のいう通りです。先にはこの男を、半端な悪玉と<ruby><rb>冷笑</rb><rt>ひや</rt></ruby>かした伊兵衛も、冷静な思慮になると、やはり幾つでも年の上な馬春堂に、一<ruby><rb>籌</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>輸</rb><rt>ゆ</rt></ruby>さないわけにまいりますまい。

「――いいかな、ところで、あれに書いてあることは、おれもお前も、もう呑みこんでしまっていること、今では、用のない読みからしだ。ただそいつが人手に渡ると、またぞろ、夜光の短刀、夜光の短刀と猫も<ruby><rb>杓子</rb><rt>しゃくし</rt></ruby>も騒ぎだすやつがふえて、こッちの<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>にぐあいが悪い。ただそれだけの心配じゃないか」

「ウ、まアそういや、そんなもんだが」

「とすれば――めッたに人目にかかる気づかいのないこの御堂の縁の下――おまけに、石神様の足で踏ンまえていてもらえば、他人が探り出してゆく憂いはなし、いよいよ自分たちに必要な時には、また折を見てとり出すし、どっちにしても願ったり叶ったりだと思うんだが」

「ちげえねえ、なるほど、ものはとりようだ」と、伊兵衛もサラリと考え直して、

「じゃ、<ruby><rb>諦</rb><rt>あき</rt></ruby>らめてじゃねえ、この石神に預けたとして、引揚げようか」

と、何の気もなく、腰をのばした途端です。

「伊兵衛ッ！」

ガンと、耳の<ruby><rb>鼓膜</rb><rt>こまく</rt></ruby>をつき破るような声。

「あっッ」

といったが、もう遅い。

飛鳥といいましょうか、<ruby><rb>疾風迅雷</rb><rt>しっぷうじんらい</rt></ruby>、堂の両側からおどり上がって組みついて来た二人の者。

同時に、馬春堂もまた、賽銭箱に立ててあった蝋燭へ手をついて、コロコロと突ンのめるなり前へ<ruby><rb>翻筋斗</rb><rt>もんどり</rt></ruby>打ったらしく、

「わっッ……」と、ただならぬ声をあげましたが、南無三です。そこは今、蝋燭の灯で深さを測った底知れずの穴――ドタッといった物音をこの世の名残りに、ああ馬春堂先生、「変な日」の予感がとうとう本ものとなって、真ッ逆さまに落ちこんでしまったようです。

忽然と、床下に影を失った、馬春堂の片袖を手に残して、

「やっ、これは？」

<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>として、そこを見たのは徳川万太郎でした。

さあれ、一方では釘勘が、伊兵衛のうしろから組みついて、万力のような両腕をしぼり上げている刹那なので、

「おお！」

われに返って助太刀に向うと、どっちが足を踏み外してか、からみ合ったまま釘勘と伊兵衛、御堂のぬれ縁から勢いよくころげ落ちる。

落ちたハズみこそ伊兵衛にとって、逸すべからざる好機でした。

「ちッ、この岡ッ引め」

とんぼ返りを打ちながら、横ざまに抜いて、<ruby><rb>擲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>り払った<ruby><rb>道中差</rb><rt>どうちゅうざし</rt></ruby>。

伊兵衛、剣道の名人にあらずといえども、死に身の力から発した自然の<ruby><rb>居合</rb><rt>いあい</rt></ruby>、場なれのした切ッさき、<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>に法はなしとてなかなか<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>れたものではない。

ピシーッ。

真ッ青な火が削られる。

かれの道中差が<ruby><rb>箆</rb><rt>へら</rt></ruby>の如く鳴ったのは、釘勘の十手の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>にねじられたか、あるいはたたき交わされたものでしょう。あっと、横に泳いで草の穂を切ったところを、

「おのれッ」

と、寄って来た万太郎。

抜き打ちに、<ruby><rb>背割</rb><rt>せわり</rt></ruby>をねらって浴びせかけようとしましたが、それは届かず、伊兵衛はもう一度つンのめりながら、足へ飛んで来た捕り繩を切りすてますと、例の、すばらしい飛躍力――あの怖ろしく弾力のある五体を急に跳ね出して、<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>のガサヤブへ飛びこむや否、<ruby><rb>早稲田</rb><rt>わせだ</rt></ruby>へ下るだんだん畑を、一目散に駆け出しました。

さえずくもらず、夜は今もなお、宵のとおりな<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>です。いちめん、水銀をなすッたような果てへ向って、畑の土をカッ飛ばしながら無二無三に逃げてゆく道中師の伊兵衛の姿――

やがてまた、それを追っかけてゆく目明しの釘勘と、徳川万太郎の影が――見ているうちに、遠くなり、小さくなり、うすくなって、果ては、その<ruby><rb>夜霞</rb><rt>よがすみ</rt></ruby>の底に、江戸川の流れと関口の人家の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が、チラ、チラと見えるほか、何物もなく何らの音もない、真に<ruby><rb>寂</rb><rt>せき</rt></ruby>としたおぼろおぼろの夜と帰しました。

野となれ山となれ。

あとの石神堂は開けッ放し。

いかに何でもこれはひどい。まるで、<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>泥棒が荒して行ったあとのようです。霊あらば石神様の御機嫌とても、<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>このままでは納まりますまい。

だがしかし、あしたにでもなれば、例のごとくこの無名神を、神か仏かのけじめもなく、ただおそれあがめている土着の人たちが発見して、あら勿体なやと、戸締りをなおし、賽銭箱の位置も正すでありましょう。

ところが、それにも及ばないようです。それから<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ともたたないうち、喜連格子はちゃんと閉まって、元の通り、ここに何の異常も認められなくなっている。

どうしてといえば。

それも石神様だけが知っていたこと。いや、神通力のない釘勘でも万太郎でもが、もう少しあとに残って様子をうかがっていたら、必ず、同じあやしいものを見たにきまっている。

足音が遠のいたかと思うと――すぐその後です。

ふと気がつくと、いつの間にか、威厳おそろしき石神の首が変っている。

<ruby><rb>立兵庫</rb><rt>たてひょうご</rt></ruby>にきらめく銀の<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>が一本、うりざね顔の全体は、夕顔の花より白く<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>がとれて、そっと、石神のうしろから立つと、その肩越しに、前の暗い穴をのぞいたのが――まるで石体の<ruby><rb>無名神</rb><rt>むめいじん</rt></ruby>そのものの首が代ったかと見えたであります。

「ばかだねエ」

丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>はひとりで笑っていました。

## <ruby><rb>逃水</rb><rt>にげみず</rt></ruby>の果てへ

その翌朝――夜が明けると同時のことです。

耕作に出る毎朝の通りがけに、きまって石神堂のまわりを掃除する土地の百姓が、

「おや、落とし物がある……」

堂の前に、泥だらけとなっていた<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>と<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>を見つけ出し、不審そうに見廻すと、ぬれ縁には<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>だの、あたりには<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>な足<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>だのが、何か異状のあったことを、まざまざとそこに描いていました。

「大変だ！」

おそるおそる<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>をのぞいた途端に、吹っ飛ぶように馳けて行った男の声が、やがて後方の畑から、土着のたれかれを寄せ集めて来て、

「石神様を荒らしたやつがあるぞ」

「ふてえ奴だ、そいつはどうした」

「そいつは居ないが、ここに、これ、<ruby><rb>解</rb><rt>ほど</rt></ruby>けている振分と笠が落ちている」

「旅の者だろう」

「土着のものが、なんでそんな<ruby><rb>罰当</rb><rt>ばちあた</rt></ruby>りな真似をするもんじゃない。旅の者にちがいない」

「路銀に困って、またお<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>でもねらったのじゃろう」

「ばか者めが、そしたらまた、手を突っ込んだ<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴へ落ッこちているかも知れんぜ」

「何しろ早く、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の御本家へ、このことを知らせておかねばなるまい。たれか足の早い若い者、大急ぎで高麗村へ飛脚に行って来ないか」

それから、選ばれた足達者の男が、どこかへ急いで立ちましたが、御府内は元よりこの江戸川附近に、高麗村という地名は絶えて人に聞えておりません。

どこまで行ったのか、使いはなかなか帰らないで、それをまた<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の者も合点のように、石神様には発見した最初の男ひとりが<ruby><rb>悠暢</rb><rt>ゆうちょう</rt></ruby>に待ちかまえて、以外の者は平日どおり、みな野良へ戻って、青々とした<ruby><rb>尺麦</rb><rt>しゃくばく</rt></ruby>の鍬を持っているのであります。

それらの人が<ruby><rb>午飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>につどう頃には、優に半日は暮れていますが、まだ使いは帰って来ない。

それも特に選ばれた足達者が行ったのですから、一体、高麗村の御本家とかまでは何里あるのか？　江戸西方の近郷を指折ってみても、板橋、<ruby><rb>落合両部</rb><rt>おちあいりょうぶ</rt></ruby>、中野<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>一円、ずっと離れて多摩川の<ruby><rb>武蔵境</rb><rt>むさしざかい</rt></ruby>にしたところで、足達者というほどなら、もう<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>ごろには帰って来てもいいはずです。

すると、ようよう二本松の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>が夕焼に染められて来たころ、知らせに行った男を先に、チャリン、チャリン、チャリン、馬の<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>の音をさせつつ、<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>に軽装をした武士が駆けつけて来たかと思いますと、

「おお、御苦労」

といいながら、ぽんと馬上から飛び降りました。

これでも、かなり急いで来たものと見えて、使いの者は胸毛の汗をふき、馬は草に渇して、<ruby><rb>手綱</rb><rt>たづな</rt></ruby>を離されると、すぐそこらをかぎ廻り、青い泡をかんでいる。

その黒駒の<ruby><rb>鐙</rb><rt>あぶみ</rt></ruby>や、<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>が、余りきらびやかでない如く、駆けつけて来た侍の風采も、すこぶる立派ではありません。

藩のお<ruby><rb>抱士</rb><rt>かかえ</rt></ruby>ともおぼえず、浪人という<ruby><rb>肌合</rb><rt>はだあい</rt></ruby>ではなし、何しろそまつな<ruby><rb>手織木綿</rb><rt>ておりもめん</rt></ruby>の衣服で、しかも袖の形も一般の武家とは違い、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の下は<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby><ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>で、腰の大小を斧と差しかえれば、たしかに<ruby><rb>木樵</rb><rt>きこり</rt></ruby>と間違えます。

「おおこれだな、<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>は。ウム、やはり例の<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>荒しをする<ruby><rb>不埒者</rb><rt>ふらちもの</rt></ruby>に相違なかろう」

武士はそういって、石神堂の中を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めた上、使いの者と最初の発見者へ向って、

「よく知らせてくれた。ところで、少しこの方より駆け遅れて参るが、あとの始末をする者が、やがて二人ほどここへ来るから、お前たちは引揚げて、また呼びにやったら参ってくれ」

と、強いてそこから追い返してしまう。

そして、しばらくすると、かれと同色な<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>をした侍が、<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>のため馬よりはおくれて、息をせきながら姿を見せる。

素性の知れない三人の武士は、そこで、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>休みといったふうに、急いで来たほどのこともなく、平気で何か話しあっていましたが、

「どれ、それではひとつ、<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>ったやつの息の根をあらためようか」

三人一緒に、やおら腰を上げて、石神様の背中にあたる、堂の裏手へ廻りました。

堂のうしろの二<ruby><rb>重扉</rb><rt>じゅうど</rt></ruby>は、<ruby><rb>鎧組</rb><rt>よろいぐみ</rt></ruby>となっていて、ちょっと見ただけでは、そこが<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>くとは気がつきませんが、横木の<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>を技巧的に廻すと微妙にギイと鳴って、観音びらきに<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かってくる。

「お先へ」

と、いうと三人のうちのひとりが、<ruby><rb>龕燈</rb><rt>がんどう</rt></ruby>を用意して光を左右に振りながら、中へ足を入れましたが、見ているまにその影が足元から消え込んで、次に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>った者も、最後の武士の姿も、吸われたように地底へかくれます。

中をのぞくと床なしの段です。

素性不思議な三人の侍は、それを心得て降りてゆきましたが、やっと身を入れるに足るくらいな狭さ。

けれど、数歩下ってゆくとその空洞は、馬春堂の落ちた例の<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴と一つになって、なおも深い真っ暗な空虚が、一段おいて、すぐ目の前にのぞまれました。

その下へ向って真ッ逆さまに、サッと投げられた<ruby><rb>龕燈</rb><rt>がんどう</rt></ruby>の明りを、三ツの首が、ためつすがめつして、

「おい！　生きているのか」

と突然、大きな声で呼びかけて行く。

声はガア――ンと穴<ruby><rb>室</rb><rt>むろ</rt></ruby>にひびいて、不気味にいつまでも消えませんでしたが、それに澄ます神経の下では何の沙汰もない。

「はて？」

ひとりが小首を傾げると、

「返辞がないじゃないか」

「まいッてしまったかな？」

「いや、死ぬはずはない。底の土はやわらかいし、下には水も少したまっているから、一時気絶したにしろ、もう息を吹ッ返していなけりゃならない」

「そういえば今まで、各所の石神堂にある<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴で死んだものは一人もないな」

「そうとも、死んでしまわれたのじゃ、こちら様の御用に立たない事になる。どれ、<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>えているのかも知れないから、一ツ、地獄に仏のお救いと有難がらせてやろう」

小声にささやいていたのを、また怒鳴るような大声に変えて、

「これこれ、下に落ちている旅の者、息はないのか！　息は！」

「オオ、うなっている」

「しっ……」と手で制して、

「これ、どうした」

上から射す明りを見上げて、ウームと下で呻いていたのは馬春堂。――打ち所のいい悪いなどはとにかく、何しろ、夜の明ける前から、ふッと正気づいて、さんざんもがき疲れた揚句、わずかに、したたる水を吸って、飢えと恐怖にふるえていました。

それに、肩と頭部がひどく痛んで、ものの思判力がみだれている。

上に人影が見えるのですから、飛びつくように、助けを呼びそうなものですが、ぽかんと、しばらくは無言のまま、

「ウムム……」と、ただ太い息でうめいていますから、

「おい、旅の者――」と、上の三人は、再度口をそろえて、

「上がりたくないのか」

一本の<ruby><rb>繩</rb><rt>なわ</rt></ruby>を振りうごかし、目に見えている鯉が釣れないように<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れました。

その垂れている繩の先に、冷やりと顔をなでられたので馬春堂は、ハッと、失いかけていた生命の<ruby><rb>弾撥</rb><rt>ばね</rt></ruby>をよみがえらせて、

「おーっ、たッ、たッ、助けてくれ――」

いきなり、ムシャクシャに繩へかじりついてきました。

しかし、上の三人は、そう引ッ懸って来た魚をすぐに釣り上げようとはしないで、

「おお気がついたか。あせらんでもよい、あせるなあせるな、元より此方たちはお前を救いにまいったのだから、もう心配することはないぞ」

「あっ、ありがとうございます」

馬春堂の声は泣いているようです。もし、ここに道中師の伊兵衛が居たならば、また、

（悪党のくせにしやがって、しッかりしろい）

とか何とか、毒づいたかも知れませんが、こんな場合はかえって、<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>してやるのが当人のためで、狂喜させる甘い言葉はいよいよ<ruby><rb>悩乱</rb><rt>のうらん</rt></ruby>させるばかりでしょう。

上では、そんな思慮もない様子で、

「おい、ところでな、旅の者。上がるついでだ。今、上から袋をほうるから、その底にたまっている銭を、はいるだけ詰めてくれ。――なに、石神様の<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>さ、もうここのは三、四年揚げたことがないから、かなり土にも埋まっているだろうが、手さぐりで、およそ詰めてくれればよい。――そして、その次に、貴様を上へ揚げてつかわすぞ」

いわるるまま馬春堂は、穴の底で、手に触れたそれらしい物を土と共にかき集めて、上から垂れている繩の先に結ぶ。

この辺で土着の人が、石神堂の床下を、<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴とよぶ名にたがわず、多年底なしの賽銭箱から落ちて、雨露のしずくのようにたまっていた金。

「くくりつけたか、しっかりと！」

「はい」

馬春堂は神妙です。いや、半ば夢中なのかも知れません。

「よし！」

と、上では三名、それに応じてグイグイと<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り上げていったかと思うと、何やらまた小声でささやき合った後に、

「これ旅の者、もうしばらくそこで待っておれよ」

こういうと、一人だけをそこに残して、あとの二人は、ズシリと重いその袋をさげて、前の観音開きから堂の外へ飛び出しました。

さらに奇怪なのは、それから石神堂の前へ、土着の者を呼び寄せて言い渡した、かれの行動と言辞であります。

「この賽銭、何程あるか分らぬが、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の<ruby><rb>御隠家</rb><rt>ごいんけ</rt></ruby>様の思召しである、其方たちにこのまま渡し置くによって、一部は土地の貧者や病人へ、一部は関口の橋修繕に、一部は石神様<ruby><rb>鎮護</rb><rt>ちんご</rt></ruby>料としてよろしいように配分いたせ。なおまた、不心得なやつが、賽銭箱を破ろうとして<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴に異状のあった節は、すぐに高麗村まで急報いたしてくれるように。さすれば今日の通り、神罰の使いとして吾々が即刻成敗に向うであろうし、その時ごとに、たまっておる神財は、皆この土地のものに配分してつかわす故、くれぐれ石神様をおろそかにせず、また高麗村御隠家様の御恩は忘れてはなるまいぞ」

いかにも厳然とした口調でいうと、<ruby><rb>質朴</rb><rt>しつぼく</rt></ruby>な百姓どもは、神財配分の恩にひれふして、きっと誓約にたがわぬことを口々に答えるのでした。

もっとも、<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴に人の落ちた時は、必ず高麗村から<ruby><rb>罰使</rb><rt>ばっし</rt></ruby>が駆けつけて来て、その時ごとに、神財を分けてくれることは、かれらが祖先からの例で、今に始まった事ではありませんが、まず滅多にないことで、四、五年に一度あるかなしです。

それ故、土俗の者が、高麗村の御隠家様というものをおそれ敬うことは想像以上で、しかもその御隠家とやらは、武蔵の国に散在する幾多の石神の司祭者であるといいますから、馬春堂の落ちた銭瓶の穴――また<ruby><rb>樵夫</rb><rt>そま</rt></ruby>の如き風姿をした武士が罰使として<ruby><rb>野馬</rb><rt>のうま</rt></ruby>を飛ばしてくることも、決してここばかりの事件ではないと見えます。

さて、おごそかに神財配分の例事をすまして、一同を退散させると、かれらはまた、前の所へ戻って来て、馬春堂を<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴から救いあげました。

――もうその時刻には、日もとっぷりと暮れていて、ゆうべよりも<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>いそよ風に、星の色もにぶいおぼろ夜ですが、ここに、わだかまる二本松の陰だけは真ッ暗です。

穴の底にいた時は、ただ助かりたい一念であった馬春堂も、地上に足を着けると共に、にわかに、風俗不思議な三名の侍が怖ろしくなって、礼もそこそこ立ち去ろうとすると、

「これ、どこへ参る？」

と見とがめて、馬の<ruby><rb>鐙</rb><rt>あぶみ</rt></ruby>をすえ直していた一人が、声に<ruby><rb>刺</rb><rt>とげ</rt></ruby>をもって、

「すでに命のないところを救われておきながら、一応司祭者たる御隠家様にお礼も申さず立ち帰るやつがあるか、たわけ者めッ」

と叱りつけて、はッたと睨みつける。

その眼光にちぢみ上がッていると、うしろから<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の侍が馬春堂の背中を突いて、

「御隠家様のお屋敷へ案内してつかわす故、それへ乗れ」

と、駒の手綱を寄せましたが、それがまた、いかにも気の荒そうな野馬です。

「と、とんでもない事で」

馬春堂は一も二もなく尻ごみして、

「乗れません、はい馬になぞ、元来、乗ったことのない<ruby><rb>売卜</rb><rt>ばいぼく</rt></ruby>者でございますんで、どうぞ、そればかりは御用捨を」

「乗れないことはないッ、乗れと申すに乗らんか」

「でも、まったく、馬術のおぼえがございません」

「おぼえがなくとも大事ない。乗れッ」

「だ、駄目です、こればかりは」

「まあいい。教えてつかわすから、その<ruby><rb>鞍縁</rb><rt>くらぶち</rt></ruby>へ手をかけて見ろ」

一難去ってまた一難。あわれに馬の尻を見ている、馬春堂の泣きたそうな顔です。

「これくらいの馬に乗れないとは世話のやける男だ。ええ、面倒くさい」

そういうと、<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を起した一人が、いきなり馬春堂の襟髪をつかんで、取って投げるように肩へ引ッ懸けたかと思うと、

「やッ」

と、鞍の前壺へほうり上げて、自分もそれへヒラリと飛び乗ると、かれの体をしっかと膝へ抱きこみました。

「むッ……、苦しい」

それや苦しいでしょう、無理はない。馬春堂はゆうべからの半死半生。

<ruby><rb>亀泳</rb><rt>かめおよ</rt></ruby>ぎをしてもがきましたが、そのはずみに、かれの手を離れて、駒の足元へカラリと落ちた一個の箱がありました。――落ちた途端に<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>がとれて、その中からころころとおどり出したのは鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>、口は耳まで裂け、<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>をつり、<ruby><rb>青隈</rb><rt>あおぐま</rt></ruby>の色も物すごく、大地へピタリとすわッている。

「あッ、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>！」

馬春堂は驚かないが、驚いたのは三人の武士、その凄気にうたれて、思わず一歩足を引きながら、

「なんだこの箱は？」

「<ruby><rb>仮面箱</rb><rt>めんばこ</rt></ruby>だろう」

「ウーム、この般若はまたおそろしくよく出来ている！」

よく出来ているはずです。一代の<ruby><rb>仮面工</rb><rt>めんこう</rt></ruby><ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の逸作、尾張中将の秘蔵から世に迷い出た拝領<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>です。

馬春堂は穴から救い出される時にふと気がついて、この品を、ついでに持って上がったのですが、こんな事になるならば、むしろあのまま<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴の底に、置き残してきた方がよかったものを――と後悔しました。

「おい、貸してくれ」

と、馬上の侍は手を出して、

「――それを」

「<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>か」

「般若も、その仮面箱も」

「手綱と荷物がある上に邪魔ではないか」

「じゃ、箱の方だけ、貴公たちに、持って行ってもらおうか」

「<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は」

「顔へつけて参る」

「酔狂な！」

「いや、夜だ！　覆面がわりに」

「なるほど、それも春興か」

取って渡すと馬上の侍は、仮面をピタリと顔へかぶって、

「<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いてくるか」

と、手綱を進めかけながら、うしろを見る。

「うむ、追って行くが、あまり飛ばすなよ」

「心得た」

駒は石神堂をあとにして<ruby><rb>椎名</rb><rt>しいな</rt></ruby>方面へ一散に走り出してゆく。

おくれるものかという勢いで、<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>のふたりも馳けて行きます。が、少し距離のひらきができると、般若の顔が馬上からこッちを向いて、追いついて来るのをまっている。

――そしてまた飛ぶ。また駆けだす。

ここらはもう無論江戸の<ruby><rb>朱引</rb><rt>しゅびき</rt></ruby>外ですし、本街道にも<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れていますから、めッたに会う人とてはありませんが、出ッくわした者は、あッといって見送る前に腰をぬかしていたかも知れない。

天地は穏やかな春夜の<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>、ものの影はみな真珠色にくるまれていますが、その怪人の馬蹄が飛ぶところだけ一陣の黒風が条をひいて行くかと疑われて、<ruby><rb>金瞳青眉</rb><rt>きんどうせいび</rt></ruby>の鬼女の仮面は、それに吹かれて生きています。

いつか、道はもう<ruby><rb>練馬</rb><rt>ねりま</rt></ruby>の里。

川越街道の<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>を過ぎて疎林をくぐると、<ruby><rb>石神井</rb><rt>しゃくじい</rt></ruby>の流れが麦畑と草原とを縫って、あたかも、水銀の液を流したようにのぞまれて来る。

初めは、馬のたてがみに突ッ張っていた馬春堂の体も、また気を失ってしまったのか、グタッとやわらかになっています。そしてめぐり廻る家や岡や林――それらの<ruby><rb>土郷</rb><rt>どごう</rt></ruby>風物がすべて後ろに別れ去ると、もう、さして行く先は<ruby><rb>渺茫</rb><rt>びょうぼう</rt></ruby>として海のような武蔵野の原――行けども草原、行けども草原です。

馬と人とは、そこを、北へ北へと急ぎました。かの石神の司祭者御隠家様の屋敷とかがある<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>とは、果たしてこんな方角なのか？

<ruby><rb>久米川</rb><rt>くめがわ</rt></ruby>の<ruby><rb>夜虹</rb><rt>よにじ</rt></ruby>、<ruby><rb>狭山</rb><rt>さやま</rt></ruby>の怪し火、<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の里の迷路、<ruby><rb>染屋</rb><rt>そめや</rt></ruby>の逃げ水など、<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>の生んだ幻影はこの地の名物でありますが、遂に、その晩の馬と人も、逃げ水の消ゆるように果てなき野末へ影を没してしまいました。

## <ruby><rb>怨霊</rb><rt>おんりょう</rt></ruby>の虫

よくひらきました――<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷の吉野桜。

ころびばてれんの今井二官の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>のわきにも、変りざきが一本ある。寛永の何年かに邪宗門の女が斬られて、根元へ血をそそいだという<ruby><rb>中門前</rb><rt>なかもんまえ</rt></ruby>の<ruby><rb>枝垂</rb><rt>しだ</rt></ruby>れ桜は、まだ<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>が固い。

――陽気のせいでもありますまいが、お蝶はこの頃どうかしてやしないか、少し、いつものお蝶とは調子がちがう。

あの出ずきのお蝶が、ここ半月ほどは外出や買物あるきもせず、あのお化粧気ちがい、着物気ちがいのようなお<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>さんが近頃は張板を持ち出すやら、押入れの隅に冬から丸め込んであった洗濯物を整理するやら、がらりと日常の日課が変って、紫の頭巾で<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の夜を出歩く時のかの女とは、まるで別人のような娘らしさ――打って変った改心ぶりがふしぎであります。

きょうも<ruby><rb>裁板</rb><rt>たちいた</rt></ruby>と<ruby><rb>針差</rb><rt>はりさし</rt></ruby>とを前にして、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎからせッせと縫い物に他念がありません。

それも、自分の帯とか春着の小袖とかならばとにかく、洗い張りをした二官の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を仕立て直しているのですから、お蝶としてはしおらしい。

こういうところにも、かの女の鋭い才気というものが見れば見られまして、白い指に持たれている針が緻密に早くチクチクと運ばれてゆきます。

少しも倦怠や<ruby><rb>遅渋</rb><rt>ちじゅう</rt></ruby>というものがない。

かの浅草の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>をあるく時の<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしや日本左衛門の手をのがれた素早さや、獄門橋で脅迫された<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>に<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いた時のすごい動作などというのも、深く<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>れば、一分一分キチキチと袖の縫い口をきめてゆく運針のうちに、おのずから現れていないこともありません。

しかし、それは元より、かの女がたれにものぞかせぬ秘密な半面で、小縁にさす蝶の影にも気をとられず、針仕事に他念のない姿をながめる目には、まったく優しい、気だてのいい、<ruby><rb>押絵</rb><rt>おしえ</rt></ruby>を坐らせて見たような<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い娘で、

「二官もしあわせ者だ、あの<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>で、ころびばてれんの娘という素性さえなければ、たいした玉の<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>に乗るんだろうになあ」

と惜しがる世評に間違いはないのであります。

それだけに、二官がお蝶を愛していることもまた想像外です。お蝶は、この山屋敷の<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>いの外のあこがれに生きていますが、二官は束縛された境遇を窮屈とも思わず、お蝶によって生きている。

慈母と厳父の両性愛を身ひとつに持って、二官はお蝶を育ててきました。

ところがどうしたのか、その今井二官が、ここ七日ばかりというもの、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>もお蝶と口をきかないで、むッつりと、むずかしい顔をしたきり、あまり食事も進まない。辞書の仕事にも筆がとれていない。

家の中は<ruby><rb>氷室</rb><rt>ひむろ</rt></ruby>です。

一ツ屋の棟の下に、親ひとり子ひとりが、別々に生きてるような淋しさと、たまらない――ワッと泣きだしたいような空気がこもりきっている。

――で分りました。

父の顔色を見るにさといお蝶は、それでにわかに、態度をかえているものと見えます。かれの機嫌が直るように、賢く努めているものと見える。

二官はこわい。

お蝶にも父親だけはこわい。

二官の盲愛か慈母になっている間は、甘えたい放題甘えますが、その顔色が厳父になっている時は、さすがなお蝶も寄りつくことができません。

チロ、チロ、と時々お蝶の目が、机によっている二官のうしろへ今もうごいて、

「なんで幾日も私に口をきかないのかしら？　……」

どこかで、やぶ鶯の鳴くのが静かです。

「お父さん」

呼んでみました。

「――お茶でも入れましょうか」

それにすら答えないで、二官は机から重い胸を離すと、黙然と、ひとりで自分の肩を二ツ三ツたたきながら、

「ああ……」

と、思わず太い<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>。

「――もみましょうか」

ツイと、機敏に立ってきて、二官の肩へしなやかな指をかけますと、そのお蝶にからみついて来た糸巻が、コロコロと踊りを踊る。

二官が押しだまって煙管を持つと、

「あ、火がありませんのね」

<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>の火鉢をほじッて見て、お蝶は気転よく茶の間へ戻ってゆく。

火を運んでくる。

湯のみへ茶をついですすめる。

そして、またうしろへ廻って、父の肩へつかまりながら、

「あまり根気をつめ過ぎたんでございましょう、お父さんはもう筆をもつと、御飯も忘れていらッしゃるんですもの、だから、肩がこッて気がふさいで来るはずですわ」

わざと常のように、晴れ晴れしい声でそういって、幅の広い父親の肩をしなやかな指でもみ初めました。

そしてまた肩越しに、甘える<ruby><rb>姿態</rb><rt>しな</rt></ruby>をして、

「ずいぶん指に力があるでしょう――<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の指。え、お父さん。利く？　利かない？」

友だちにでも話しかけるような口ぶり。

ですが、二官は常のように、うれしい顔もせず返辞もせず、邪慳にお蝶の手を振りのけると、ツイと立って縁先から<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>草履をはいて家の外に出ました。

「ああ……」と、さっきの如き<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>が、そこでも春昼をなやましげに唇から漏れて、

「――わしは何できょうまで生きていたんだろうか」

髪の毛をつかんで、近頃目にたって衰えた肩をふるわし、かの柿の木の根元にうずくまりましたが、呪うても死ぬことのできない自分の生命を持てあますものの如く、額を抑えてふらふらと――<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>の影よりはまだ薄い姿の影を、まばゆい春光によろめかせて行く。

「まア」

と、お蝶は家の中から、呆れたような目をみはって、

「まるで、気狂いみたい――。わたしがこんなに機嫌をとっているのに、何をいつまであんなに怒ッているのかしら？」

チッと、舌打ちをして<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れましたが、ふと、父が立ったあとの机に、お蝶の驚きを吸いつけたのは、見おぼえのある一枚の<ruby><rb>花櫛</rb><rt>はなぐし</rt></ruby>。

「あら？」

手にとってギョッとしました。

その<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み細工の花櫛には、血のようなものが黒く干からびている。忘れようとしてもかの女には忘れることができますまい――あの獄門橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で、<ruby><rb>切羽</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>つまッた果てに、生れて初めて人ひとりを突き殺したせつな――<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>から指の股へと流れた人間の血の<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みを。

その時落とした花櫛です。

獄門橋で落として来たのは<ruby><rb>生々</rb><rt>なまなま</rt></ruby>しい事実にちがいないのに、二十日も経った後、どうしてそれが父の机の上にあるのだろうか？

と思うと神経で――<ruby><rb>怨霊</rb><rt>おんりょう</rt></ruby>の虫みたいに見えた血の花櫛！

お蝶はまだかわかぬ血が指へでもついたように、畳へそれを捨てましたが、一度おびやかして来た疑念と戦慄は、身をふるッても離れませぬ。

「じゃ……ことによるとお父さんは？　……」

そうです――感じるに敏なお蝶がひとりでサッと顔色をかえた胸のうちのとおり、これは、ヒョッとすると、二官の不機嫌な原因がこれに、<ruby><rb>胚胎</rb><rt>はいたい</rt></ruby>していたのかも知れません。

「どうしよう」

畳の目へ沈んだこぼれ針が一本、落着かないお蝶のひとみをキラキラと<ruby><rb>射</rb><rt>い</rt></ruby>ています。

二官はどこか知らず黙々とあるいて出ました。

憂いにみちた顔いろです。

無邪気な小鳥の声、雨とふりそそぐ温光、行く所の足元をいろどッている花も草も、かれの<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をひらくものとはなりません。

子ゆえの<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>。

古いことばの味も今の二官の心にはピッタリと迫ってくる。

かれの<ruby><rb>懊悩</rb><rt>おうのう</rt></ruby>は、やはりお蝶の行状を苦にするのあまりでした。それも、気がついたのはごく最近で、初めて、そうかと胸をうたれた時には、もうおそい。もう叱るくらいでは追いつかない。お蝶は親にみせる性格とはまるでべつな人間性を、立派に秘密の世界へ作りあげている。

かれは今さら自分に親の資格を疑い、ただ子煩悩というだけに盲愛してきた罪を悔い悩んでいましたが、また、こうした父を裏切ったお蝶の心が、時々、暴風のようにいきどおろしくなって、いッそ！　……と怖ろしい殺意さえ起って来ます。

だが……。

だが、と思うと、かれは意気地なく涙がわきます。

――あれもふびんな女にはちがいない。

世間なみの家と親の手で育てられた箱入娘とはちがう。周囲もちがう。自由もちがう。おれという者の<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>を、もッと大きく、永い生涯へ、美しい女の身にうけて生れた、ころびばてれんの娘！

ことに、お蝶の母親が、<ruby><rb>淫奔</rb><rt>いんぽん</rt></ruby>な<ruby><rb>囚徒</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>の後家さんであったことも、今となって、二官に<ruby><rb>慄然</rb><rt>りつぜん</rt></ruby>とする因果を想わせて来ます。

自分は生きるために屈服して、ころびばてれんの汚名にも甘んじていたが、幕府から与えられた囚徒の後家を妻にもって、その間に、お蝶という遺伝の結合が生れて、老い先にまでこの愛憎の苦しみを延長して来たのは、やはり、神にそむいた神の罰か。

――こう考えると、たまりません。

お蝶の行状をいきどおる前に、二官は、おのれの身を責めさいなんで、血を吐かせてもあき足らなく思う。

そしてまた、

「これだからわしはいけない。わしが考え方は煩悩だ、盲愛だ、ただわが子を<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ッてばかりいる毒の愛だ」と、考えを振向けてみても、なぜか、今度ばかりはお蝶を<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>する気力になれない。

以前から――殺された同心の河合伝八も、それとなく注意してくれた。

山屋敷の長屋の者が、妙なうわさをするのも耳にしていながら、それも、人のひがみとばかりとって、耳も<ruby><rb>仮</rb><rt>か</rt></ruby>さずにきたのが、すべて自分の子に甘い盲愛であった。

その後、官庫の騒動――入れ札の時のお蝶の挙動――また四、五日前の晩、たれのしたことか雨戸の隙に、血のついたお蝶の花櫛をさしこんで行った者があったりしたことなど――次々に起ってきた不審に、今は、二官もハッキリとお蝶に目をさましてはいるのですが、わが子ながら、あまりの怖ろしさに、単なる<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>や<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>でこれがどうなろうとも思われないのでした。

で、かれは歩いています。

黙々と、家のまわりを<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って、行くともなく、藪の小道にはいる。

そうしていても、かれの苦悩は少しでも軽くなることはありません。ただ居ても立ってもいられないし、お蝶の姿を見ていれば、気が狂ッて娘を刺し殺した上に、自分も死のうとするような気持が、いと易いことに思われてくるので、わずかの思慮が、しばらくかれをあてなく<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>わせているのであります。

と――道は日蔭にはいったようです。すッくと高い<ruby><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby>の木が、そのやぶの陰を<ruby><rb>陰湿</rb><rt>いんしつ</rt></ruby>にして――

「あっ……」

と、突き当りそうになった大榎に顔を上げた二官は、そこで急に、来まじき所へ来たように足をすくめて、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ戻りかけましたが、その微かな気配を、どこかで聞きとがめた者があるらしく、

「二官ッ！」

突然、呼び止めたかと思うと、かれが引ッ返そうとする足元を察して、なお鋭く、

「おうッ二官ッ。待て！　待て！」

うしろを見たら飛びついてきそうな叫びが、つづけざまに、榎の下の石牢からひびいて来ます。

呼び止めたのはヨハンです。石室の鉄窓にすがっている二ツの目です。

<ruby><rb>刺</rb><rt>とげ</rt></ruby>をふくんだヨハンのことばは、なお浴びせかけに二官の姿へ、

「人間の皮をかぶッた<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>――なぜ待たないか」

と、手痛く<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りました。

「…………」

無言で振りかえった二官の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>は真っ<ruby><rb>蒼</rb><rt>さお</rt></ruby>です。そしてしばらくは、榎の日蔭の白眼とかれのひとみとが、ジッと視線に暗闘をからませているように見られました。

「二官、ここへ来い。いって聞かすことがある！」

<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>にこういいましたが、二官の体はゆるぎもせず、依然として、四、五間の距離を<ruby><rb>持堪</rb><rt>もちこた</rt></ruby>えている。

「来られないのか、ウム、来られない道理だ！　いかに<ruby><rb>鉄面皮</rb><rt>てつめんぴ</rt></ruby>でも、幾多の肉親の頼みや故国の使命を裏切り、あまつさえ、神の<ruby><rb>御名</rb><rt>おんな</rt></ruby>をこの国の幕府へ売って、囚徒の後家を妻にもらい、生涯飼い殺しにされて喜んでいるころびばてれん――。その醜悪な身をもっては、さすがなお前も、わしの前には恥かしくて出られないのであろう」

毒舌は針を吹くようです。

ころびばてれんの二官と、ころばぬばてれんのヨハン。信仰の上だけでも、この二人の間には、犬猿もただならぬ暗闘のあるはずですが、ヨハンの口裏には、何かより以上な<ruby><rb>宿怨</rb><rt>しゅくえん</rt></ruby>があるやに思われるふしがあります。

「おい、何とか答えたらどうだ。これほど<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>られても、お前は恥かしいとは思わないのか」

「ヨハン殿」

二官は初めて五、六歩足を寄せて来て、

「――なんとでもいってくれ。わしの心は神様だけが知っている」

「ばかなッ、お前に神があるか。お前はその醜い肉体を生きのばす<ruby><rb>扶持米</rb><rt>ふちまい</rt></ruby>と、囚人の後家と、不良児のお蝶とをうける代価に、とうの昔、たった一ツの神まで売り払った畜生だ」

「…………」

「いい訳はあるまい。あさましい<ruby><rb>人非人</rb><rt>にんぴにん</rt></ruby>。その風俗をした姿を、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の町の辻に<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>しものにして、お前の肉親たちにも見せてやりたい」

「ヨハン」

くずれるように、二官は榎の根元へ腰を落として、

「もういってくれるな。それよりは、久しぶりで、羅馬の思い出話でもしようじゃないか」

「おれは責める！　責めずにはおくものか。二官、貴様はなぜ神を売った、なぜ幕府の手に乗ってころんだか」

「お前が責めなくとも、わし自身が、明け暮れひとりで責めている。妻を持ったためにも、子を持ったためにも、それは当然だろうけれど、人にいわれない苦悩が、現在、わしの上にむくいとなって現われているのだから……」

「その苦しみは当然だろう」

ヨハンは鉄窓の間から、小気味よげに二官のもだえを冷視して、

「これだけいえば、わしも胸がすいた。ころびばてれん！　もう用はないからあッちへ行け」

と、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐くようにいい捨てる。

「ひどい！　ヨハン殿、それはあんまりひど過ぎる」

二官が色を変えて鉄格子につかまると、

「けがらわしいッ、そんな泣き言をならべたところで、わしには何の同情も持ち合せない。わしは<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の民にかわって、お前を存分に恥かしめただけの話だ」

「羅馬……」二官は鉄窓に両手をかけたまま、祖国の名を呼んで、男泣きに肩をふるわせました。

「その羅馬の<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>を、わしだとて、決して忘れている訳ではない」

ジッと何か案じていた二官は、やがて何か決意に燃えるひとみを上げて、

「この二官が、恥をしのんでこうしているのは、まったく、王家のためにどうかして、あの夜光の短刀を、尋ねあてたいばかりなのだ」

「うまいことをいう」

ヨハンは一笑に付して取り合いもしません。

「いや、わしは恥じない、信じてくれ」

「ふん……人を欺くにも程がある。羅馬からこの国へ、夜光の短刀を探しに派遣されたばてれんは、もう百年も前から、数知れないほどあるが、みな<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>なく日本の土になっている。すでに、このヨハンも、その使命をうけて来た一人なのだ。だが、二官の如く、その使命をつくすどころか、信奉はころび、その上に、この国の女と子までなして、髪風俗まで変えてしまった恥知らずは一人もなかった」

「形の上では言い訳がない。しかし、元々雲をつかむような夜光の短刀、とてもあれは、自分一代で探し出せないことは分り過ぎている」

「それじゃ何もならないわけだ」

「イヤ、自分の一代で探せなかったら、次の時代へ自分の血をつないで探させる。それには子を育てるよりほかに方法がない」

「じゃ、使命を<ruby><rb>孫子</rb><rt>まごこ</rt></ruby>に伝えて行くというのか」

「いかに<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>から密使やばてれんをこの国へ運んでも、異教という邪魔ものや、風俗のちがう不便がある。しかし、子の代、孫の代になれば、その差別もなくなるし、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷から出ることも許されると思う」

「なるほど……その話はもっともらしく聞こえるが。じゃ二官、おぬしはまず第一に、たれにその使命を伝えるつもりでいるな」

「娘のお蝶へ」

「あれは美しい<ruby><rb>悪魔</rb><rt>サタン</rt></ruby>だ」

「なにッ」

「あの妖婦、あの毒の花のような娘へ、夜光の短刀を探せよといいつけて、おぬしは今の考えが順当に<ruby><rb>孫子</rb><rt>まごこ</rt></ruby>へ伝わってゆくと思うのか」

「ウウム……」

「わしは見ていたぞ、この<ruby><rb>石室</rb><rt>いしむろ</rt></ruby>の鉄窓から。――毎夜毎夜お蝶と<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平が、そこらの闇にみだらな恋をしていたのを。また、官庫の方であやしい挙動のあった事も、わしは残らず知っていた。あれは飛んでもない神様のいたずら、すなわち、神を踏みにじッた返報に、おぬしへ与えられた美しい<ruby><rb>悪魔</rb><rt>サタン</rt></ruby>だよ、それへ大事な使命を伝えてゆくなんて、あッはッはははは……あはははは」

さんざん<ruby><rb>面罵</rb><rt>めんば</rt></ruby>しぬいた<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>に、ヨハンは大声で笑いましたが、ふと馳けた足音に外を見ると、もう二官の姿はそこを去っていました。

存分に罵って、胸のすくほど相手に恥を与えたあとは、一時の清涼のあとに、やがて一種の淋しさが落ちて来る。そして、

「――二官のああいった考えも、ことによると真実なのかも知れない。いつか一度と思っていたので、わしも少しいい過ぎたような……」

と、手に聖書を持ちかけましたが、その聖書をパタリと落して、外の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>へ大きな<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を開いたまま、

「？　……」

何かにギョッとした様子。

いつか日の暮れてきた石牢の前を、落花のつむじが、小さな風の渦を幾つも巻いて流れてゆく。

## <ruby><rb>夜光走馬燈</rb><rt>やこうそうまとう</rt></ruby>

<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>になれたヨハンの眼は、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>の眼のように夜になるとかがやきます。

「オー、また今夜も来ているな」

<ruby><rb>烏羽玉</rb><rt>うばたま</rt></ruby>の暗にも、かれの眼だけには何か見えるようです。

見えるがため、かれは毎夜、安らかな眠りをとることができません。山屋敷の役人さえ少しも気づかずにいるあやかしの影を、かれのみは夜になると見ていました。

影です――人影です。

奇妙な黒衣の影、<ruby><rb>浪人体</rb><rt>ろうにんてい</rt></ruby>の怪しげな影、時にはまた、<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>のごとき敏活な男の影。

それも月のない晩に限って<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>見かけますが、その目的と正体がなんであるかはヨハンにも判じがつかず、

「もしや、自分の命をねらいに来るのではないか」

と、初めは怖れおののきました。

けれど日を追うて、そうでないことだけは薄々わかりました。かれらは何か、べつに目的があってこの山屋敷へ探りに入り込んでいる密偵であろう。

<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて、自分にかかわりのないものと考えを落ちつけて、星の光に聖書を読みなやみ、眠気を待とうとすることもありましたが、そんな時、何気なく鉄窓の外を見ると、いつのまにか、鋭い目を持った<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の男が石室の中をのぞいていたりすることがある。

…………

さて。

さっき今井二官が血相をかえて自分の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>へ戻って来た時、その後について、裏の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>からひょいと豆絞りで顔をくるんだ男の半身が、しきりに辺りの様子をうかがッている。

見ると、伊兵衛であります。

目白の石神堂で、釘勘という<ruby><rb>苦手</rb><rt>にがて</rt></ruby>に追いかけられて、すっかり泡を食った道中師の伊兵衛。

当座しばらく姿をかくしていて、今ここへ<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と現われたようですが、実は少しも忽然でなく、あれ以来たいがいな日は、この山屋敷のうちに生活していて、ただ姿を人目に見せないだけです。

「おれの眼力はちがわなかったぜ」

伊兵衛はニッタリして藪を出ました。

次に移ったかれの居場所は、すなわち、今井二官の家の床下です。そこには、どこからか持って来た<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>が一枚敷いてある。

「――おれもずいぶん根気がよかッた。それでも二官のやつめ、夜光の短刀のやの字もおくびに出さねえから、そろそろ根気もつきかけていたンだが、今日はとうとうヨハンのやつと<ruby><rb>啀</rb><rt>いが</rt></ruby>み合って、聞く者があるとも知らず、すっかり泥を吐いてしまったから面白い」

ゴロリと寝そべって、手まくらをかいながら、

「さあ……これで二官の腹も読めたし、ヨハンのやつの心底もおよそ見当がついてきたが、さて」

と、そこで将来の方針という<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>へ、しきりに思案をめぐらしている顔つき。

まるで、えたいの知れなかった暗中<ruby><rb>模索</rb><rt>もさく</rt></ruby>に、だんだん目鼻がついてきたような気がする。それは伊兵衛に、巨富の夢をみさせます。――目をつぶッて考えていると、この世のどこかにかくされている夜光のさんらんとした刀の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>が、ありありと目にうかんで来るほどです。

「ベッ……」

突然、伊兵衛は顔をなで廻している。巨富一<ruby><rb>掴</rb><rt>かく</rt></ruby>の夢がさめて、顔へ落ちた<ruby><rb>穢</rb><rt>きたな</rt></ruby>い<ruby><rb>埃</rb><rt>ごみ</rt></ruby>を払ったところは、あまりいい図ではありません。

上では、いつになく二官の荒い声と足音につれて、お蝶の泣くような声が聞こえだしていたので、

「ええ、耳がかゆいぞ、こりゃまた何か、いいことを聞く前兆かも知れねえ」

と伊兵衛はそろそろ起上がッて、体じゅうを耳にしました。

いつもの今井二官とは打って変って、ヨハンといい争った後、ただならぬ血相で家へ馳けこんで来たかれは、

「ウーム、こんなもの！」

やにわに机の上の物を、座敷じゅうへ取って投げ散らし、

「これも無駄な記録！　こんな物も今は見るのも腹立たしい」

日記やそこらの<ruby><rb>書物</rb><rt>かきもの</rt></ruby>まで引き破った上、かれが多年あれほど精を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らしてまとまりかけている辞書の草稿を、あたかも、その快味をむさぼるように、惜し気もなく片っ端からズタズタに裂いては捨て、破ッては部屋いッぱいに<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>きちらかす。

「あっ――お父さんは？」

何となく気が晴れぬまま、勝手へ出てぼんやりと、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>に立っていた娘のお蝶は、ひょッと障子をあけて、そのていを一目見るなり仰天して、

「ど、どうしたんですお父さん――もしッお父さんてば！　お父さんてば！」

立ち上がる父のうしろから、力いッぱい抱き止めて、

「気が<ruby><rb>狂</rb><rt>ちが</rt></ruby>ッちゃいやですよッ、気をたしかにして下さいッ、気を……お父さーんッ」

さすがに声もおろおろと懸命になって、この時ばかりは混血児お蝶も、純真純情な一個の小娘になって泣きだしました。

ですが、父二官の妙に<ruby><rb>空虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>に光る眼は、もういつもの慈父ではありません。

「えい、この体にとッつくなッ、貴様がさわると、わしはよけいに気が<ruby><rb>狂</rb><rt>ちが</rt></ruby>いそうだ」

突き飛ばそうとしましたが、お蝶は<ruby><rb>髪切虫</rb><rt>かみきりむし</rt></ruby>のように父の袖へしがみついて、

「静かにいッて下さい。わけをおッしゃって下さいッ……よ、よ、よッ、お父さーん」

「なに、わけをいえ？」

「ええ、わけを聞かして下さい、たった親ひとり子ひとりの私達なのに、この間から、口もきかないで怒ッていらッしゃるのは、一体どういう訳なのか、わたしは、情けなくッてたまりません」

父の足元へ、ワッと泣いて身をくずしましたが、その悲しげな泣き声も、今日の二官にはかえって腹立たしく、いつもお蝶の涙には、白も黒もなく盲愛にくるまれて口のきけないかれの手が、

「ええ、よくそんな空々しい口がきけたものじゃ、お蝶ッ、お前というやつは……お前という怖ろしい女はッ……」

<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>のふるえを歯の根に鳴らして、赤い<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>襟裏</rb><rt>えりうら</rt></ruby>をつかむや否、ズルズルッと座敷じゅうを引きずり廻して、それでもなお堪忍のなりきらぬように、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>をあげて<ruby><rb>丁々</rb><rt>ちょうちょう</rt></ruby>とお蝶の肩を打ちすえました。

その力に他人と父の愛憎のちがいはありましょうとも、なかば狂気した二官の骨ばッた握り<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>で打たれては、定めしお蝶の身にはこたえたでしょう。

しかし、お蝶はもう泣いてはおりません。ただ背なかに波を打っているばかり……ヒタと畳にひれ伏したきり、声も出さなければ逃げもしない。

瞬間、家の中は、おそろしいほどヒッソリとする。――二官は太い息を苦しげについて、なお怒れる拳を解かず、その手を膝に突ッ張ったまま、ぐったりとお蝶のわきに坐りました。

「お蝶ッ、顔を上げろ」

「…………」

「お前というやつは、まあ何という怖ろしい女だろう。わしはな、お前をそんな娘には育てなかったつもりだ。ころびばてれん、ころびばてれんと、衆人にさげすまれて来た永年の忍苦も、なんのためだ！　ああそんなことも、今はいうほど身を苦しめる<ruby><rb>世迷</rb><rt>よま</rt></ruby>い<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>、おれにすべての望みは<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くなッた。お蝶ッ、わしはもう用も望みもない世の中を去るつもりだ。お前を連れて世を去るつもりだ。来いッ、父と一緒に来いッ――地獄の底へ」

脇差はいつのまにか、二官の右手に抜かれていました。

それでもお蝶は身ゆるぎもせずに、ジッとうッ伏しているきりです。――上の様子は分らないが、縁の下では道中師の伊兵衛が、

「はてな――いやにシンとして来やがったが？　――」

そういう時こそ、<ruby><rb>親娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>が秘密なささやきをするのではないかと、気を廻してのび上がッた途端に、床板から出ている<ruby><rb>錆釘</rb><rt>さびくぎ</rt></ruby>の先へ、コツンと頭をぶつけたのは、痛いともいえぬ災難でした。

お蝶は顔を上げて、父の手に抜かれている<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を見ました。

「逃げると許さんぞ、逃げると」

ジリジリと二官は膝をにじらせて行きましたが、お蝶がわるびれもせずに、甘んじて父に<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>をつかませたまま、ジッと目をふさいでおりますから、

「おのれは……」

と、切ッ先を向けようとした二官の狂わしさも、多少<ruby><rb>張合</rb><rt>はりあ</rt></ruby>いを失って、ただ殺そうとして殺し得ない愛憎の<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>が、泣くように光をふるわすのみであります。

「取乱すなよ、わしも死ぬ。そしてお前も刺し殺してゆく」

お蝶は澄みきッた顔を、すごい程青白くしてこそいますが、ちッとも、取乱してはおりません。むしろ、こうつき詰めて来た今の瞬間では、二官よりも遙かに冷静です。

「なぜ死ぬんですか……なぜ私をお父さんは殺そうとなさるの？」

「わ、わからないのか、親の心が」

「わかりません。わたしは、お父さんに殺されるようなおぼえがないんですから」

「おまえは美しい<ruby><rb>悪魔</rb><rt>あくま</rt></ruby>だ」

「ええ、そうかも知れません――」お蝶の口答えは<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>になって、

「ころびばてれんの娘ですからネ」

「ちッ、わしに向って、よくもそんな口を！」と、ふたたび彼の気がたかぶると、押し揉まれるほどお蝶の顔色も真ッ青にさえて、

「だッて、そうに違いないんですもの。わたしは温かい母親を知りません、世間の娘のような楽しみを知りません、だから、自然に、こんなふうな女にいじけてしまッたんです。私の罪じゃあない、私を生んだものの……」

「まだいうかッ、まだその口をうごかすか」

「いいます！　どうせ殺されるなら、私はいいます！」

「悪魔ッ、悪魔」

その声を横にうけて、お蝶が笑ったように見えたので、二官はクワッと逆上しました。そして、思わず刃を走らせると、

「死ぬのはいやですッ」

父の手元を交わして、お蝶は刃をもぎ取ろうとする。

「生かしてはおけない、おまえは、わしの鍵を盗んで、御封庫を破った大罪を犯している」

「知りません、わたしは……」

「だまれッ、まだ罪がある。おまえは<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平と不義をしていた、そして、自分の罪をなするために、入れ札の時に、龍平の名をさして男を獄門に<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>した」

「知らない、知らない。みんな世間の人のうそばッかり」

「いうな、あの血のついた花櫛も」

「あれは<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の物じゃありません」

「いくらこの二官が子におろかでも、もうお前にだまされてはおらんぞ。たれも知るまいと思っていようが、おまえと龍平のしていたことや、お前が暗の夜に犯していた罪の数々は、のこらず、あの石室の鉄格子から、ヨハンの目が見ていたのだぞ」

「ヨハンが？　……」お蝶はぶるぶるッと目に恨みをこめて、

「あの人が、そんなことをお父さんに告げ口したのですか」

「天を怖れろ、おそろしいのは神のおさばき、おまえのその生首が、龍平と同じ獄門台に乗らないうち、自分の手てさばきをしてやるのが、わしがお前に送る一番最後の愛だ」

「いやです、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>は死にません」

「刑吏の<ruby><rb>錆刀</rb><rt>さびがたな</rt></ruby>よりは、慈愛の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>をうけてわしと一緒に死んでくれ」

「あっ、いやですッ」

「こッ、こうまでいって聞かしても」

「死ぬのは嫌です！　お父さんッ、――あれッ、あれッあぶない！」

絹をさくようなお蝶の声。

それまで、耳をすましていた縁の下の伊兵衛も、ふたたび頭の上にひびく物音に、どうなる事かと思っていると――その襟元へ、タラタラと生ぬるい液体がこぼれて来たので、

「あッ」

と、仰向いて見ると、床板の隙間に、まざまざと<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>み出してきたのはまぎれもない血汐の<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>……

「ちぇッ、ばかな真似をしやがッて、とうとうお蝶を」

首すじに垂れた血潮をなで廻して、伊兵衛もそこでうろうろと、

「折角、夜光の短刀の秘密を、親子の口から<ruby><rb>索</rb><rt>さぐ</rt></ruby>ろうと思っていたのに、心中されちゃア玉なしだ」

じッとしてはいられなくなって、四ツん這いになった道中師の伊兵衛、そこを飛び出そうとして暗がりをはい出すと、土台柱一本へだてて、意外やそこにも二ツの目玉。

「？　……」

「？　……」

すくみ合って、双方、互いのにおいをかぎ合いました。

こういううまいかくれ場所に道中師の伊兵衛様が、地獄耳をそばだてていることは、相手方の日本左衛門でも、夢、気がつくまいと内心得意でありましたところが、あにはからんや、この縁の下には自分のほかにも、ヘンな<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の人間がジッと<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでおりましたのに、

「おっ……」

と、しりごみをした伊兵衛。

「こいつはいけねえ」と、あと下がりに身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きましたが、先に光っている目玉は、足元をつけ込んで来る猫のように、伊兵衛が一尺さがれば一尺、三尺さがればまた三尺、

（この野郎、うさんくさい）

と、向うでもいいたそうに、四つンばいに這って追い廻して来ますから、伊兵衛も<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>をにやして、チッと舌打ちを鳴らしました。

「甘く見てやがるな、三<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>め」

そこで今度は攻勢に出て、こッちから<ruby><rb>反対</rb><rt>あべこべ</rt></ruby>に前へ出てゆくと、向うも少し気味がわるくなったとみえ、ジリジリあとへもどりましたが、突然、ピカッとしたものを真ッ直に向けてきました。

抜いたと知りましたから道中師の伊兵衛も、からかい半分ではなくなりました。いくら、<ruby><rb>足掻</rb><rt>あがき</rt></ruby>のわるい縁の下でも、あぶないものを持って暗やみを無茶にかき廻されたひには、たまッたものではありませんから、

「よし」

と、伊兵衛も道中差。

<ruby><rb>平身</rb><rt>ひらみ</rt></ruby>にかがまッて抜き合いましたが、頭はつかえる、土台の邪魔はある、おまけに相手の毛色も分らない床下では、なんの変哲もあり得ませんから、ただそれをそうやッて、そのまま睨み合っているよりほか、このところ変化のつけようがありません。

そこでこの状態のまま、二本の刀が根くらべの三<ruby><rb>昧</rb><rt>まい</rt></ruby>に入ることややしばし。

果てなき勝負と見えました。

ここに冬眠からさめた<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>でもそこらにおりましたなら、さだめし、結果いかにと、両手を突ッ張って<ruby><rb>行司顔</rb><rt>ぎょうじがお</rt></ruby>に、ながめ入っていたかもわかりません。

すると、その時また、

「うう――むッ」

と、床の上のただならぬ絶叫。

お蝶のうめきやら二官の苦しみやら知れませんが、とにかく、上の屋内で大変の起っているのは、甚だしくそこらへ<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>となって垂れる血汐でも察しられます。

どたッと、たおれる音。

「おッ、お蝶ッ……」

はッきりと、二官の声。

「――夜光の！」

もつれる舌で、

「夜光の！　……」

「おッ、お父さーんッ……」

と、つづいて苦しげなお蝶の声が、嵐の中から叫ぶように。

はッとそれに気をとられて、伊兵衛の胸算はとつおいつ、この縁の下を出ようか出まいか。

「はて、困った」

と、迷いましたが、ふと見るといつのまにか、今の物音の途端に外して行ったのか、相手の刀は消えています。

すッぽかされた道中師の伊兵衛も、それ幸いと飛び出して、初めて、床下から腰をのばして見ると、陽はすでに暮れて花のおぼろ夜――

二官の家の庭先の桜が、なんの凶兆を暗示してか、しきりに降り散って、それが山屋敷じゅうに<ruby><rb>繽紛</rb><rt>ひんぷん</rt></ruby>と、高く低く、迷っているかに見えました。

すると、そのとたんに――お蝶でした――お蝶にちがいありません、家のうちから落花の庭先へ、突きとばされたように転んで来て、そこへうッ伏せに仆れたかと見ると、帯も黒髪もしどけなく、よろ、よろ、と足元もあぶなげに、ヨハンの<ruby><rb>石室</rb><rt>いしむろ</rt></ruby>の方へよろめいて行く様子。

――そのあとで。

伊兵衛はすぐに家の中へ土足で飛び上がりました。行燈の灯も今宵はともされぬままでありましたが、花明りでそこらを見れば、目もあてられない有様で、乱脈をきわめた<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>のなかに、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を当てた二官の死骸が、冷たくなってねじくれている。

無残……

二官の死に顔はまだ泣いているようです。

「どうしたのだろうか？」

刃物はかれの手を離れて、ふすまの下にほうり出されてあるので、伊兵衛にも、たッた今の<ruby><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>が判じられないで、

「まさか？　……」

と、つぶやきました。

かれの如き人間の推測でも、お蝶が現在の親を殺して逃げたとは考えられないことであります。

わたしは若い、十九やそこら。

十九やそこらで<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>は死にたくない。どんな思いをしても生きのびていたい！

――お蝶の生の執着は、今、なにもかも忘れて家から迷いだしたのであります。

逃げる気でしょう。

この山屋敷をのがれて、どこかに新しい生き場所を求めるつもりらしいが、ふだんの才智なら、化粧をととのえて、表門からぬけ出すでしょうに、ここへ来て、うろうろと高い塀を見あげているさまを見ると、さすがに彼女も、父の血を浴びたせつな、心を取乱してしまったとみえます。

「お蝶さん、どこへ行く？」

すると、どこかで咎めるものがありました。

「また今時分、どこへ出て行こうとするつもりか」

「ヨハン」

きっと、<ruby><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby>の下を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、お蝶はしばらく立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みましたが、さっき父のいったことばが思い出されると共に、

「ヨハン！」

むらむらとして、石牢の前へ馳けよりました。

「おお、どうしたのか、そんな姿をして」

「あの」

赤いくちびるを鉄の格子につけて、

「あのね」

「ム」

「大変ができたの」

「大変が」

「ヨハンさん」

「え……」

かれも昼のことが胸に思い当って、何か知れぬ不快な胸苦しさをおぼえながら、

「どうしましたか」

「こっちへ、こっちへ、ヨハンさん。もっとこっちへ寄って、耳をかして頂戴」

「なに」

と、そばへ行って、赤いくちびるへ顔をよせると、鉄窓の下の方からいきなり、短い刃物の切ッ先が、ヨハンのわき腹をねらッて勢いよく突いて来ました。

<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>のはいった牢のなかは真ッ暗で、どうなったやら分りませんが、<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>にかまれたようにお蝶の姿は、

「ちイッ……」

と、鉄格子の間に手をつッこんだまま、唇をかんでもがいている。

「オオ美しい悪魔」

やがてヨハンがいいました。

声の様子ではべつに怪我もなく、中でしッかとお蝶の手を抑えつけているものらしく、

「なんで私を殺そうとしますか」

「な、なにがッて」

お蝶は眉をしかめて、死ぬ苦しみをこらえながら、

「お前が、わたしのお父さんを殺したから、私もおまえを殺してあげる」

「えッ、二官殿が死んだッて」

急にブルブルとふるえるのが、お蝶の腕にも激しくひびいて、

「ほんとに、二官殿は死なれたのか。あの一途な気持で……ええ、しまッた」

絶望的な息をついて、なおもお蝶の腕をだきしめる。

お蝶はヨハンの無性に泣く涙が、自分の腕にこすられるのをこそばゆく感じながら、妙に血が下がってきました。

「お蝶さま、お蝶さま」

「え……」

ヨハンの改まった言葉に、身をうごかそうとしましても、まだ苦しい手を放してはくれません。

「おわびいたしますお蝶様。二官殿は自殺したのでございましょう。それは私が殺したのも同然です。あの方の本性を疑っていたのはこのヨハンのあやまりでした」

まったく、昼のヨハンとは話がちがって、お蝶も奇異な思いが、いつやら身にしみてくる。

「深いあやまりでした。私は、どこまでもあの方を、日本へ帰化した今井二官、ころびばてれんと憎みました。そして疑ッてまいりました。しかし、実をいうと故郷の<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>では、私の親が、代々つかえてきた御主人の家筋なのです」

「だれが」

「二官殿です」

「えッ、おまえは、私のお父さんの家筋に、代々つかえてきた家来だッて？」

「はい、あの方こそ、今は夜光の短刀がないために、家名はつぶれ、貴族の籍もはぎとられて、それを探しに日本へ流浪なされましたが、まことは、羅馬のさる王家を再興なさらなければならない、たッた一人のお血筋であッたのです」

はじめて聞かされた父の系図。

祖先を思うときに現実の自分はひとつの不思議な存在であります。

お蝶もまたわれとわが身を疑いなくしていられません。

ヨハンのいうが如く、父の二官が羅馬の一王家を興すたッた一人の血筋であるとすれば、その人の亡い次の血は、異国にこそあっても、当然、自分ひとつの身に遺されて、自分は王家の姫である。

<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>――この場合ではありましたが、お蝶はその話に一種の<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>を覚えて、そしてまた一方では、

（そんなはずはない！　そんなはずはない！）

と聞くそばから否定して、

（わたしはいやしい山屋敷の<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>われ者、人にいみきらわれるころびばてれんの娘――羅馬王家の血筋とやら、貴族の姫とやら、そんなわけがあるものじゃない）

と、思いました。

けれどヨハンの話は、<ruby><rb>諄々</rb><rt>じゅんじゅん</rt></ruby>と説いておそろしいくらいまじめです、真剣です。

「わかりましたか、お蝶さま」

いつまでも彼女の腕を放さない。

決して、うわの空に出る一言一句とも思われません。

「――そこで私の素性を申しましょう。私はさっきもいったとおり、王家の従僕でございます。代々の家来でございます。ところが夜光の短刀をさがしに、日本へ渡来された二官殿が、幕府の手にのッてころんだ上、名も今井二官と名のり、妻をもち子までもうけて、帰化しているという噂が、本国の法王庁へまで聞えてまいりました」

「手がしびれる……すこし放してよ、ヨハンさん」

「あ、すみませんでした」

ヨハンが手をゆるめると、<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>を失ったお蝶の指から、短い刃物がカラリと床へ落ちておどる。

「で、私は法王庁から、その視察をいいつけられ、日本へ渡航を命じられましたが、禁教の国へばてれんとして<ruby><rb>上陸</rb><rt>あが</rt></ruby>るすべはないので、わざと漂流人のふうていを装い、大隅の国の屋久島へ乗渡り、そこで故国の人々と船をすてて、ぼんやりと、ひとり<ruby><rb>湯泊</rb><rt>ゆどまり</rt></ruby>の海岸へあがッたのです」

ヨハンは、七年の前を追想して、石室の中で目をとじました。

あとのことは日本幕府の記録が示すとおり、村人に見つけられて長崎の<ruby><rb>宗門方</rb><rt>しゅうもんかた</rt></ruby>に渡され、やがて江戸<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby><ruby><rb>護送</rb><rt>ごそう</rt></ruby>となって、前後十数回、筑後守新井白石のきびしい取調べをうけたのであります。

思うつぼに、ヨハンは<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷へ下獄されました。そして、折あらば二官に向って、羅馬王庁のことばを伝え、王家の復興をわすれ夜光の短刀の捜索をすてて、無為に生きながらえている非行を責めようと、機を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>ッていたのでありました。

ところが、二官はヨハンの下獄してきたのを知りつつ、そこへ会いに来たこともなければ、たまたま、ちらと姿を見せても、あわてて顔をそらしてしまう。

「浅ましい人間！」

ヨハンは自分の主人ながら、その<ruby><rb>卑劣</rb><rt>ひれつ</rt></ruby>さをいきどおろしく感じて、ひたすら、面と向って言葉を交わす日を、今に今にと待ちかまえていたのです。

「私は、その<ruby><rb>鬱憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>を投げつけました。二官殿の死は、わたしの毒舌が<ruby><rb>殺</rb><rt>あや</rt></ruby>めたも同様……お蝶様、ゆるして下さい」

ヨハンは声をすすッて泣き入りました。そしてまたお蝶に力をこめていうようには、

「この上は、二官殿の遺志をついで、夜光の短刀を探しだす者は、あなた以外にないことになりました。――お蝶さま！　あなたはこの山屋敷をお逃げなさい。そして夜光の短刀をたずね出して<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都へお立ちなさい。羅馬はあなたの祖先の国、そこには、<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>なき王家の財宝と幸福が待っています」

一句一句、ヨハンが胸の秘密を解いてしぼり出すようなことばに衝たれて、お蝶も、ジッと首をたれて聞き入りましたが、

「だって、それを探すといっても私には……」とためらい顔です。

「いいや！」

ヨハンは強く首をふる。

「そんなむずかしい事ではありません。それにあなたはどう見ても日本の娘、どこを歩きさまようても、怪しまれぬのが何よりです。――教えましょうお蝶様、さ、教えましょう」

「え、なにを？」

「夜光の短刀のありかを知る、たった一ツの手がかりを！」

花のちる音か、やぶの笹鳴きか、その時あたりの物蔭でかすかな空気がうごいたようです。

その時――

「また<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の人間どもが跳躍するのか」

と、ヨハンが牢のそとへ神経をすましたので、お蝶も、思わずわが身のうしろを脅かされて振向きましたが、夜の幕には、ただ散る花のゆるい運動が怪奇美な光を舞わせているのみであります。

「……お蝶さま、夜光の短刀のある方角を教えてくれるただ一つの磁石、それはこれです」

ヨハンの手は何かの興奮にふるえている。

見ると、かれは肌身はなさずに所持している聖書の<ruby><rb>羊皮</rb><rt>かわ</rt></ruby>表紙をなでていました。

そして、その聖書のこばを歯で破ッて、ビ、ビ……と<ruby><rb>横裂</rb><rt>よこざ</rt></ruby>けのせぬようにしずかにさいて、

「これです、お蝶さま」

と、かの女の手に握らせる。

手ざわりのいい<ruby><rb>羊皮紙</rb><rt>ようひし</rt></ruby>――

はがれた聖書の裏表紙？

不審そうに見はッたお蝶のひとみは、それとヨハンの顔とを、かたみがわりに見つめています。

「これですよ、お蝶さま」

「これが？」

「なにか指にさわる物があるでしょう。その羊の皮のやわらかな手ざわりのほかに」

「ええ、石つぶのような、こまかいものが」

「いいや、それは、石ではありません。二枚かさねて袋になっている表紙の中に、わたくしがソッとかくしておいたのは、<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>です、ある植物の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>なのです」

「え、種子が」

「端の方をすこし歯で破りました。出してごらんなさい。あ！　……ですが、こぼさないように、それをなくしては大変です」

いわるるままに、お蝶は、貝のような白い手のひらの上へ、中の黒いつぶを<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>してみました。

なるほど幾つぶかの植物の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>です。

まるみのかかッた三角形のその<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>は、お蝶も日本で見たことがあるようですし、そうかといって、手近な<ruby><rb>枇杷</rb><rt>びわ</rt></ruby>や梅や野菜の種子ともまるで変っていますので、

「なにかしら」

と、小首をかしげているばかり。

これがどうして、ありかの方角を知る磁石なのか、秘密をあける鍵なのか。

疑惑は依然として疑惑で、さらにふしぎが深まるのみであります。

「お蝶さま、それは<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>のペトロ院の庭や、カピトルの岡にたくさん咲く、めずらしくない花の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>です。色は王妃の舞踏服のように真ッ赤で、なぜかこの草を折ると茎から血がしたたると昔から申します。それで、羅馬の人はこの花を<ruby><rb>鶏血草</rb><rt>けいけつそう</rt></ruby>とよんでいますが、たれも手にふれるものはありません。それはカピトルの踊り子などが、勝手に『恋すな草』などと名をつけて、失恋の花、失愛の花ときめているからでございましょう。またこの花を好くものは必ず不運な死をとげるという迷信も手伝っておりました。――ところが、あなたの御先祖、慶長の頃、この日本へ流浪なされて、夜光の短刀を持ったまま最期の場所を謎となされたその貴族は、たまらなく、この鶏血草の真ッ赤な花がお好きだったので有名な方でございました」

ヨハンの話は、ペトロ院の日あたりのいい庭で、説教をする時のように、お蝶の耳へもわかりよくはいりました。

二官の祖先、お蝶にも血のつながる遠い過去の人――

かの<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の市府では「恋すな草」とさえいって人のいみきらう鶏血草の赤い花を好んだ貴族。

その人はまだ、日本が戦国の<ruby><rb>余燼</rb><rt>よじん</rt></ruby>をあげていたころに渡来して、かの京都<ruby><rb>耶蘇寺</rb><rt>やそでら</rt></ruby>の焼亡後、西国の<ruby><rb>切支丹大名</rb><rt>きりしたんだいみょう</rt></ruby>にもよるべなく、禁教の声と迫害の目に追われて、ひとり関東地方を流浪していた形跡があります。

その後かれがなつかしき<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>へあてた通信もたえて、世は徳川治世となり、新将軍秀忠、三代家光相ついでの<ruby><rb>鎖国</rb><rt>さこく</rt></ruby>禁教の令に、薄命な<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>貴族は、<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>としてその消息をたったままとなり来りました。

かくても、天草の宗教戦前後までは、幾多勇敢な宣教師たちが、海を越え、危険をおかして、日本へ乗渡ってきつつありましたが、特に、<ruby><rb>羅馬王庁</rb><rt>ローマおうちょう</rt></ruby>から派遣されてきたもののうちには、夜光の短刀をさがし出すべく、秘命をおびて来たものがどれほどあったか知れないという。

しかも、そのありかを知るに至難なことは、かの貴族の古い通信によって見て、その人の最期の地が、今は、将軍家の膝元となっている関東江戸附近ということが、ほぼ限定的に分っているのに、長崎天草までは乗渡って来た羅馬の人も、よくここまで足をふみ得たものが稀であります。

布教にくるばてれんも、それをたずねて日本へ渡った者も、幕府の宗門役人からみれば、みな同色な異国人、見つけ次第に十<ruby><rb>字架</rb><rt>じか</rt></ruby>を背負わせて、仮借なきサビヤリを加えた数は、かの切支丹鮮血遺書やその他の殉教史が示すとおりであります。

徳川万太郎が名古屋城で手に入れた「<ruby><rb>御刑罰</rb><rt>おしおき</rt></ruby>ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」。あれなども羅馬の使徒が、江戸表へこころざして来る途中、運つたなく尾張の城下で捕りおさえられたものの口書でありましょう。

思えば、夜光の短刀を求めにくる、羅馬の人々の屈せぬ根気は敬服にあたいしますが、それに払われた犠牲もまた少ないものではありませぬ。

文字どおり生きかわり死にかわり、慶長から現在の正徳五年にいたるまで、およそ百二、三十年、今なおここに二官やヨハンにまでうけつがれて来ています。

そして、日本へ赴く時その使徒たる人が、王庁からさずけられる手がかりとしては、わずかに左の数項よりなかったので、それは今――ヨハンからお蝶へ手渡された羊皮の裏表紙にもギリシャ語をもって<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>されてあるとおりで、

Ⅰ　日本にて客死せる王族ピオ（かれの名）の最期の地は、関東江戸市を中心とせる僻地なるべし。

Ⅱ　ピオは世襲の夜光珠の短剣をもてり。

Ⅲ　ピオはおそらく日本政府の追捕をおそれて人跡なきところに<ruby><rb>餓死</rb><rt>がし</rt></ruby>せしならんか？

Ⅳ　ピオは自然をこのめり、生前バチカノの草原の風趣を愛せり。あるいは江戸市西北の未開の<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>にかくれて、天寿を全うせしか？

Ⅴ　また、ピオは花をこのみ、ことに鶏血草の<ruby><rb>深紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>を強くめずるの癖あり。かれが日本渡航の理想は、バチカノの野に似たる平和の自然に、鶏血草を移植して学林の庭とし、日本における聖カトリック<ruby><rb>羅馬教</rb><rt>ローマきょう</rt></ruby>の教会を建設するにありき。

Ⅵ　またピオの通信は千六百〇三年――日本慶長八年の記号を最終としてたえたるも、絶対にかれは日本政府に捕われたるものにはあらず、その後の天草支会の報告書を綜合するもすべてそれに一致すればなり。

「こう書いてあるのです、その羊皮の裏表紙にも――」

と、ヨハンは、お蝶にもわかることばに訳して、<ruby><rb>諳</rb><rt>そら</rt></ruby>で読んで聞かせてから、

「――つまり、日本にない鶏血草の花が、一輪でも、この国のどこかにさいていれば、そこはピオ様の居たところか、<ruby><rb>終焉</rb><rt>しゅうえん</rt></ruby>の地にちがいない……こう羅馬の人たちは考えました」

「あ、それで私も思い出した」

お蝶は、その<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>と羊皮の文字を手の上に見つめながら、

「お父さんも、こんな草の種子を、春の彼岸、秋の彼岸がくるたびに、しきりと<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>いていたことがあります」

「オオ、じゃこの山屋敷にさきましたか」

「いいえ……だめなんです、いくら土や日あたりのよい所に蒔いても、いちども芽を出したことがありません」

「二官殿は何といっていました」

「最後に、もう一粒しかない、この一粒でさけばお前に羅馬の花を見せてやることが、できるが……となげいていましたが、とうとうその一粒をなくすにはしのびないといって、蒔かずに、どこかへ取っておいたようですけれど……」

「しッ！　……たれか来た」

ヨハンは突然、<ruby><rb>豹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>のように身を起して、

「<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>、黒衣……。お蝶さま、あなたの身をねらッている怪しい人間が、私の目にはありありと見える。早く、この山屋敷を逃げ出しなさい」

――でなくともお蝶の心は、さっきから追い立てられているように、<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りと胸が動じています。

父のあんな死にざま。

あれを山屋敷の役人に見せないわけにはゆかない。

当然、きびしい調べがあろう。白洲へつき出されれば勢いそれからそれへと、身の疑いが明るみに出て、自分の罪もあばき出されるにきまッている。

オオ、龍平の首が、獄門台の上から呼んでいるような。

――夜光の短刀の奇しき話に気をとられている間は、そんなおそれもふと忘れていましたが、ヨハンが突然、

「たれか来た」

と、あわてる声に、お蝶も一緒にビクッとして、鉄窓の前を離れながら、別れをつげて、

「じゃ、お別れよ、ヨハンさん」

ヨハンは<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かぬ牢の格子へすがりついて――

「体を。体をな……。お蝶様」

「大丈夫、私は、死にゃあしないから」

「お待ちください。そして、二官殿の死を<ruby><rb>犬死</rb><rt>いぬじに</rt></ruby>となさいますなよ。ヨハンも、あなたが夜光の短刀を探したという知らせを聞くまで、どんな事しても、骨になっても、きっとここに生きております」

「だって」

お蝶は、逃げも得ず去りもえずに、

「――わたしに、探せるか探せないかわかりゃあしないものを……お前。待っているなんていッたって困ッちまう」

「そ、そんな事で、どうなさいますか！」

ヨハンは思わずやッきとなって、

「きっと探せます！　私は捕われの身、この牢獄で神様に一念お祈りしています」

「いいよ、いいよ、そんなことをしていてくれなくッても」

「じゃ何の為に、あなたは山屋敷を出てゆきますか」

「命が惜しい、明るい世間に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでみたい。だけれどねえ、またついででもあったらば、夜光の短刀だって心がけて見るには見るけれど……」

「ちぇッ……そんな気持か」

あれほど説いて聞かした自分の誠意も、この少女には通じないのかと、ヨハンは歯がみをしてまた何か叫ぼうとしましたが、それは、あッという仰天に変りました。

ツイと、お蝶が身をひるがえして、そこを去らんとしたとたんに。

さッきから物蔭で、いさい残らず聞きすましていた道中師の伊兵衛、いきなり<ruby><rb>燕返</rb><rt>つばめがえ</rt></ruby>りにお蝶のふところへ<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかッて行って、

「もったいねえ、おれがもらっておいてやる」

と、かの女の手にあった羊皮の表紙を引ったくッて、どんと、胸を突く。

バラッと、あたりへ撒かれた鶏血草の種子、伊兵衛の襟にもこぼれました。

――お蝶は倒れます。

落花は<ruby><rb>繽紛</rb><rt>ひんぷん</rt></ruby>、その時、<ruby><rb>一風</rb><rt>ひとかぜ</rt></ruby>吹きて。

「おさらば、もう山屋敷に用はねえ」

伊兵衛はこういって、<ruby><rb>豆絞</rb><rt>まめしぼ</rt></ruby>りの上から、フワリと<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>を引きかぶり、一目散にかけ出しましたが、行くこと数歩。

あッ。ドたッ――という音。

見ると、竿でハタキ落とされた<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>みたいに、伊兵衛が大地へ投げられています。元より体に伸びちぢみのある男ですから、そこで鼻血を出してヘタばるようなことはなく、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、ぱっとまたハネ起きましたが、時やおそし八方から一時にあらわれた<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の群。

「渡せ」

「今のを出せ」

「うぬ、いやとはいわせねえぞ」

ギラギラッと端の方から一斉に抜きつれると、たちまちそこに輪をつくる剣の歯車、伊兵衛の体は心棒の位置に置かれています。

「ふざけるな」

と、伊兵衛は笑って、

「てめえたちは、日本左衛門の手下だろう、御苦労様なやつらだ。この間うちからの張込みで、さだめし足に痺れをきらしたろうから、おれが風を吹かして送ってやる」

いきなり、着ていた合羽を両手にしぼると、それをつかんで<ruby><rb>縦横無尽</rb><rt>じゅうおうむじん</rt></ruby>です、蚊でもハタくように振廻してゆく。

ところへ。

小者の急報で、二官の家に集まってきた山屋敷の役人は、そこに自殺とも他殺ともつかず倒れている、かれを検視しておりましたが、大<ruby><rb>榎</rb><rt>えのき</rt></ruby>の方角に、時ならぬ人声を聞きつけると、

「やッ、あれは？」

と、六尺棒や提灯が飛花をついて駆けだしてくる。

しかし、乱闘は同じ場所に待ってはいません。ことに<ruby><rb>敏</rb><rt>はし</rt></ruby>ッこい道中師の伊兵衛や、<ruby><rb>野鼠</rb><rt>のねずみ</rt></ruby>のような<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>。もう一匹もそこには見えない。

牢獄のすみでは、ヨハンが、石のように身を伏せたまま、何か<ruby><rb>黙祷</rb><rt>もくとう</rt></ruby>している様子。

ところが、ここにもう一人――いやもう二人、事の始終を高い所から見ていた人間がある。それは裏の高塀の境にある<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の木の股に腰をすえていた<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門と日本左衛門で、

「きれいじゃねえか」

と、指さして、

「まるで<ruby><rb>走馬燈</rb><rt>そうまとう</rt></ruby>を見るようだ」

よそごとのようにいって笑いましたが、<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て手も下さず、しばらくそこから降りもしません。

## <ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の家族

どこかの部屋では世間をよそにして気のいいめりやすの三味線が、『描のつま』か何かの独吟に三を下げて、

三とせなじみし

猫の妻

もし恋ひ死なば

かはいのものよ

三味線の

いろにひかるゝ

中つぎの

<ruby><rb>棹</rb><rt>さを</rt></ruby>はちぎりのたがやさん

ごていねいにも、わざわざ江戸から師匠づれで来ている蔵前のお客様とかが、毎日、まずい一くさりをさらッては、どッと、あたりお構いなしに笑いくずれています。

きょうは、<ruby><rb>日金山</rb><rt>ひがねさん</rt></ruby>にも風がない。

ここは<ruby><rb>豆南</rb><rt>ずなん</rt></ruby>の一角、海をへだてた大島の<ruby><rb>御神火</rb><rt>ごじんか</rt></ruby>と対して、町に<ruby><rb>湯煙</rb><rt>ゆけむり</rt></ruby>のたえない<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>の湯治場。

「あれ、お嬢様」

<ruby><rb>小間使</rb><rt>こまづか</rt></ruby>いふうの、愛くるしい女――藤屋の隠居所の二階に立って、

「ちょッとここへ、お嬢様、ちょッとここへ出てごらんなさいませ」

手拭を<ruby><rb>欄</rb><rt>らん</rt></ruby>にかけて、そこから、部屋の中へ呼びかけました。

「なアに」

やさしい返辞はしますが立っては来ません。

書院の下に小机をよせて、巻紙をひろげている後ろ姿が見えるばかりで、

「――いいものが見えますから」

「私は今、手紙を書いているから駄目」

「そんな事おッしゃらないで、ちょッとここへ来てごらん遊ばせ」

「うるさいね」

と軽い舌打ちをして、

「――今この手紙を書いてしまってからネ」

と、いいふくめるように、机に向ったまま、サラサラと筆の穂を走らせている人は、まことに上品な――少しやせすぎてはいますが――線のいい美人でした。

<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>風呂場で、洗ったばかりの髪なのでしょう、<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>やかに背なかへ流した黒髪の先を紫の<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>で結んでおります。

書き終えた巻紙を、くるくると封じてやっと筆をおいてから、ニッコリした顔が小間使いのおりんを見る。

「はい、すみました」

「もうだめですわ、お嬢様。とッくに下町の方へ行ってしまいましたもの」

「そら、やっぱり、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>をだましたのじゃないの」

「いいえ、嘘ではございません」

「じゃ、何があったの」

「<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>」

「孔雀？」

「ええ、ゆうべ湯番も話していました。上方の方から来た孔雀の見世物が、あしたは船で黒磯へ上がるから、小屋へかからないうちに見てしまえば、その方が木戸銭がいらないなんて」

「それが通ったのかえ」

「ええ、ぞろぞろと沢山の人がついて」

「じゃ、次郎もそれを見に行ったのかしら。この手紙を、飛脚屋へ頼もうと思うのだけれど」

「それなら何も、宿の者へおいいつけ遊ばせばようございましょうに」

「ところが、私は字が下手ですから、人様に見られるのが恥かしい」

「あんなこと」

「次郎を探しに行こうかしらね」

「二、三日の雨で、少しも外をおひろいになりませんでした。おりんもお供をいたしましょう」

身分のある武家の御息女らしく思われますが、固くるしい作法のとれた湯治場のこと、気軽に<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ降りかけました。

と――薄暗く湯のにおいがする梯子だんの中途で、病人らしい若い侍へ、

「お風呂でございますか」

小間使いのおりんが、ことばをかけると、

「お出かけか」

と、先でも軽く、あいさつをしました。

そして、もう一度、上と下とて、両方の目が振り向き合った時、

「――<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>さん、ずいぶん長いお湯でしたね」

廊下の角に待っていたのは、宿の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>にかい<ruby><rb>巻</rb><rt>まき</rt></ruby>をひッかけた、丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>の姿でした。

次郎という山猿のような<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>の少年と、おりんというこれはまた愛くるしい小間使いをつれて、三人ひと組、この隠居藤屋の二階にいりようおかまいなしで、春先から入湯にきている妙齢な<ruby><rb>佳人</rb><rt>かじん</rt></ruby>は、今――本家の方の退屈な湯治客のなかで、よるとさわるといい話題の中心となっていて、

「いったい、あの女は何様だろうか」

と、いうささやきが、もッぱらであります。

この<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>のことなら土地の者よりはおれに聞けというような顔をしている、<ruby><rb>中風病</rb><rt>ちゅうきや</rt></ruby>みの男が、

「あれは番町のお旗本のお嬢様で、連れている猿みたいな小僧は、<ruby><rb>根府川</rb><rt>ねぶかわ</rt></ruby>のお関所で<ruby><rb>飯炊</rb><rt>めした</rt></ruby>きをしていたのを、用心棒のためにもらいうけて連れて歩いているのさ。あの小僧と棒押しをして見な、とても強いから」

「ヘエ、そうかな」

と、一時は感心しましたが、二、三日すると、また<ruby><rb>輿論</rb><rt>よろん</rt></ruby>がちがってきて、

「湯番に聞くと旗本の娘じゃないっていう話だぜ」

と、<ruby><rb>中風病</rb><rt>ちゅうきや</rt></ruby>みの<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>が否認される。

「どうもおれも、旗本にしちゃ、あのお供や、あの小間使いの口ぶりが変だと思ったよ」

「第一、屋敷は江戸じゃないそうだ」

「へえ、どこだい」

「どこだが分らないが、御府外の遠方だそうだ」

「あんなに永く湯治場においといて、虫がついたらどうする気だろう。親の気もちが分らないよ」

「次郎という小僧が、その虫の番人にちげえねえ、何しろ、毎年、二月ぐらい入湯に来るというこッたから、何か病気でもあるんだろう」

「気の毒だな、あの若さと、あの<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>で」

「だが、病人とは見えねえな、いつもきれいだし、外へも出るし」

「病人だってなにも、<ruby><rb>中風</rb><rt>ちゅうき</rt></ruby>だの、脚気だの、<ruby><rb>脱肛</rb><rt>だっこう</rt></ruby>だのッて、そんな、ぶざまな病気ばかりがあると限ったものじゃない、中には、きれいな病気だッてあるさ」

「きれいな病気ッてものがあるかしら」

「<ruby><rb>癆痎</rb><rt>ろうがい</rt></ruby>よ」

「なるほど、癆痎かな」

「そういえば癆痎かもしれない、あんまりきれいだ」

とうとう素性の方が分らない腹いせに、衆議が癆痎にしてしまいました。

こんなふうですから、二階の障子が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>くと、それ開いた。手すりへ出ると、それ出てきた。外をひろい歩くと、それ歩いた。――いやはや人間を暇にさせておくと実にうるさいものであります。

せっかく世間を<ruby><rb>遠去</rb><rt>とおざ</rt></ruby>かって入湯にきているものを、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>くんだりまで来ていッそうこうでは、さだめし当人に<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしかろうと思われますが、それが案外で、次郎という小僕も、小間使いも、また問題の<ruby><rb>佳人</rb><rt>かじん</rt></ruby><ruby><rb>月江</rb><rt>つきえ</rt></ruby>様という人も、そんなことはどこ吹く風かで、少しも、気にかける様子がありません。

ある日は、次郎をつれ、<ruby><rb>紅緒</rb><rt>べにお</rt></ruby>の草履に<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をつけて、<ruby><rb>湯前</rb><rt>ゆまえ</rt></ruby>の神から<ruby><rb>日金</rb><rt>ひがね</rt></ruby>の山へのぼッてゆく。

ある晩は、<ruby><rb>歌留多</rb><rt>かるた</rt></ruby>をよむ声が高くきこえてきたり、<ruby><rb>投扇興</rb><rt>とうせんきょう</rt></ruby>にキャッと笑っていたりする。

洗い髪で、磯を飛んであるく、月江の姿もよく見ます。時には、庭先で、鬼ごッこをしていたり、すべてが開放的で、明るく、そろいもそろった無邪気な三人であります。

だから、傍観の<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>には、その無邪気な生活ぶりが、一つの<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんぼう</rt></ruby>でありました。

「おお、道がきれいになった、ゆうべの雨で」

今も、庭の裏口から、宿の<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>をはいて外へ出た月江は、磯からくる風に黒髪を吹かせて、それへ軽く手をあてながら、

「おりんや」

と、涼しい目を細めて呼ぶ。

「はい」

「お前はほんとに人なつこいね」

「なぜですか、お嬢様」

「だって、あんなお<ruby><rb>侍様</rb><rt>さむらいさま</rt></ruby>に、いきなりお風呂ですか――なんて声をかけるのだもの」

「ちッとも突然ではございません、私は、もう朝夕ごあいさつをしているんですから」

「まあ……」と仰山に、

「おまえはいつのまに、あのお侍様と御懇意になっているのかえ」

「ホホホホ……お嬢様ッてば」

「何がおかしいの」

「わたし、御懇意にしたからッても、べつだん何でもありゃしませんのに」

「だから、何でもあるといやアしないのに、お前こそ、よッぽどおかしい」

「お嬢様こそ、よッぽど妙です」

「いいよ、おりん。旅先だと思ってたくさんおいじめ、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>へ帰ったらお<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>様にいいつけてあげるから」

「あら、お怒り遊ばしたんですか。――お嬢様そんなに早く行かないで」

「いいよ、いいよ。お前はあッちへ行って、相良様とたくさんお話し！」

くるりと身を廻して、<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>の垣の根にさいている、<ruby><rb>連翹</rb><rt>れんぎょう</rt></ruby>の花をむしりとって、おりんの笑くぼへぶっつけました。

それも軽い戯れでした。

くったくのない蝶々のように、月江とおりんの主従は、それから次郎の姿をさがしに、下町の坂を北の方へ向って駆けだして行く。

「あら、また坂がある」

「<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>は坂ばかりでございますね。それも、みんな短い坂道ばかりが……」

「武蔵野には坂がない」

「あんな海もございませんのね」

「りんや」

「はい」

「次郎はいッたいどこへ行ったのだろうね」

「さあ――こッちにも見えませんが――また遠ッ走りをして、走り湯の権現様の方へでも行っているのじゃありませんかしら」

「おや、あそこに沢山人が見える」

「ほんとに、たいそう人がたかッておりますこと」

「居るよ、あの中に。きッと次郎も交じッているんだよ」

「行ってみましょうか、お嬢様」

「うしろから行って、そッと、目をふさいでやると面白い！」

「それよりもわッと背中をたたいておどかしてやりましょう！」

軽快な姿が、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に風をはらんで、また短い坂を駆けました。

そこは野中の地蔵とよぶところで、晩には、沖の潮鳴りがきこえるほか、人も通らない湯町の端れで、ただ一軒、<ruby><rb>漁師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>の網小屋がぽつんと建っています。

網小屋のそばには、馬子や漁師や往来の者の<ruby><rb>湯浴</rb><rt>ゆあ</rt></ruby>みにまかせる野天風呂があって、今も、<ruby><rb>紫雲英</rb><rt>げんげ</rt></ruby>のさいている原ッぱへ、笠やわらじをぬぎすてた旅の人が、草の葉の浮いている青天井の温泉につかッて、

「アー……いいお湯だ」

と、湯気の中から渡り鳥の腹を仰向いて見ていました。

板前の<ruby><rb>庖丁</rb><rt>ほうちょう</rt></ruby>に甘いもからいもいえず、出るには焼き印のある下駄をはき、うちでは<ruby><rb>棒縞</rb><rt>ぼうじま</rt></ruby>の丹前でお客様お客様と下にもおかれぬ不自由をしているよりは、かかる野天で、かかる湯泉に、堪能していられた時代の旅人の方が、遙かに、自然の恩恵をまことに浴したもので、また、諸国に<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>をひらいたという<ruby><rb>湯前</rb><rt>ゆまえ</rt></ruby>の神様――<ruby><rb>大己貴尊</rb><rt>おおあなむちのみこと</rt></ruby>の心にもかなうものでありましょう。

ところで。

月江とおりんがそこへ来て見ますと、野天風呂と<ruby><rb>網</rb><rt>あみ</rt></ruby>小屋の裏の間に、ばく、ばく、と勢いよく白い煙がふいていて、ちょいと寄りつかれない湯鳴りがしています。

次郎の姿はここにも見えませんでしたが、宿の丹前を着たお客の男女や、往来の者や、土地の悪太郎が寄ッてたかッて、

「<ruby><rb>法斎</rb><rt>ほうさい</rt></ruby>、法斎」

「法斎、法斎、法斎……」

「法斎きちがい！　法斎きちがい」

――なにか知らないが面白そうに騒いでいるので、思わず首を突ッ込んで、人の肩の間からのぞいて見る。

名物の馬鹿でもいるのかと思いましたら、べつだん人間をよんでいる訳ではなく、岩の間からふきだしている湯へ向って、土地の子供が、

「法斎きちがい、法斎きちがい」

と、手をたたいているのでありました。

「ああ、これが、法斎湯だよ」

と、月江もおりんの耳へ口をよせてささやいている。

この湯口は、法斎きちがいと呼んで手をたたくと、自然に<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>ッて湯をふき出し、それをやめると湯鳴りもしずまるのだそうで、湯治客は一度はここへ見物にきて、面白半分に、土地の子供へ手をたたかせる。

で――その湯口のそばには、江の島の<ruby><rb>鮑</rb><rt>あわび</rt></ruby>取りみたいに、「法斎きちがい」を商売にしている鼻ッたらしがウヨウヨ居て、湯鳴りがやむと、黒い手を出して、

「おじさん、法斎呼ぼうか」

「おばさん、法斎呼ばしておくれよ」

と、一文二文をねだッています。

「つまらない……」

おりんは、さんざん見てしまったあとで、つまらないと呟やきながら、そこを離れて月江と一緒に歩きだしました。

「あの法斎法斎ッて、お湯が怒ッてくるのは、仕掛があるんですとさお嬢様」

「まあ……そうかえ」

「あの子供たちには、<ruby><rb>才</rb><rt>さい</rt></ruby>取りをする大人が居て、網小屋の中で、手の音をききながら加減をするんですッて」

「そんなことは、知らない方がいいのだよ。あれも土地の名物だと思って、ぼんやり見ていれば面白いじゃないか。世の中のことは、みんな法斎湯みたいなものだからネ」

話しながら野道を縫って、磯の方へ廻ってゆきますと、よく湯治場にあるやつで、甚だよくない眼つきをした遊び<ruby><rb>人</rb><rt>にん</rt></ruby><ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>の男が三名、

「もすこし先へ行って」

「磯へ出るぜ」

「だからよ……」

あと先を見廻しながら、ふたりのあとからついて行きます。

わるい者が目をつけてゆく。

何かなければいいがと眺めていると、案の如く、海辺へ出てあたりに人なき様子を見廻すと、三人のならず者が、突然、月江のうしろへ飛びかかッて、<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を廻そうとしました。

「あれッ」

と、悲鳴をあげかけた小間使いのおりんも、その口を大きな手のひらでふさがれて、小雀のように、磯松の根元へだき倒されましたが、

「おりんや、大丈夫だよ！」

月江の声がこうひびきますと、大の男が<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>を切ったように、かの女の肩から黒髪に吹かれて、デンと前へ投げ出されている。

姿に似気ない手のうちに驚いて、おりんの方はあと廻しに、こんどは、三名が一束になって<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>みかかりましたが、さッと、身を開くと、

「何をしやるッ」

柳眉に美しい険が立つ――

「女と思うて、ぶしつけな、この上わるさをすると許しませぬぞ」

いうかと思うと、いつのまにか、手につかんでいた砂の目つぶし。

笑止です。

「わッ」

と、<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を抑えて三人のならず者が、たじろいだ隙を見て、おりんは逸早く月江の手をとり、きれいな砂浜を一散にかけ出しました。

そして、二、三町ほど走ッて行って、また、小舟のかげに顔を出し、いまいましそうに見送っていた人の方をながめて、

（いい気味！）

と、いわないばかりに手をはやしました。

ところが、それから月江とおりんの主従が、横磯の砂浜をきれてゆく頃――<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ってみると、たッた三人だったならず者の影が、いつか、七人にふえ、九人にもふえ、衆を狩りあつめて、どこまでも<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いてくる様子。

「お嬢様、大変です、大変です」

「うしろをお見でない、うしろを見ると、よけいに狼は飛びついてくるものだから」

「だって、帰れないじゃございませんか」

「錦浦の方へ歩いて見ようよ、わたしはまだ、観音様の石門も見ないし」

「見物どころじゃございません」

「お前がわるいのだよ、あの法斎湯に仕掛があるなんて、土地の名物にケチつけたから、それをよい言い懸りにして来るんです」

「まあ、どうしましょう月江様」

右は念仏山の断崖、左は海、道はそのふもとに添う一筋です。

うしろを見ると、大漁<ruby><rb>染</rb><rt>ぞめ</rt></ruby>の<ruby><rb>半纏</rb><rt>はんてん</rt></ruby>を引ッかぶった漁師だの、熊のような男達が、腕ぐみをして、こんどは前にこりて用心ぶかく、こっちの足どりにつれて黙々と、船虫のようにくッついてくる。

はッと、おりんが思いあたったのは、この道の先の<ruby><rb>魚見</rb><rt>うおみ</rt></ruby>小屋です。網で攻めるように自分たちを追いこんで、そこへ連れこもうとする策ではなかろうか？

とは気がついてみても、うしろを振顧ると、あとへ帰る気にもなれないし、立ち止まってもいられません。

鎌倉右大臣の――箱根路をわがこえくれば伊豆の海や――その伊豆の海はだんだんと困惑の足もとから暮れかけてきそうです。

大島初島も、すでに紅い<ruby><rb>夕霞</rb><rt>ゆうがすみ</rt></ruby>の奥となって。

…………

時に、ちょうどその頃――同じ海の暮色を見ながら、日金の峰の中腹、東光寺の下あたりから、口笛をふきつつ町へ帰ってくる、風の子のような元気な小僧がありました。

まもなく、湯前神社の石段から町へ降りてきた口笛の馳け足は、隠居藤屋の裏庭へ飛びこんで来て、そこから、

「お嬢様、ただ今」

と、二階の部屋を見上げました。

月江の<ruby><rb>小僕</rb><rt>しょうぼく</rt></ruby>次郎です。

次郎は今年十五だそうで、遊びたい盛りの溌剌たる眼が、ちょッとの間も、ひとつ所にジッとしてはおりません。髪は麻糸でそッけなくうしろへ結び、なりは手織りの<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>に、黒のもんぺときまッていて、腰の短い山刀が、この<ruby><rb>小童</rb><rt>こわっぱ</rt></ruby>の風采を、すこし異様に光らせています。

「おう、次郎さんかい」

「え」

月江の返辞がなくて、うしろで呼んだ者があるので振顧ると、

「お嬢様は、お前をさがしにゆくといって、さっき出かけたきり、まだお帰りがないようだ」

と、顔なじみの、宿の下男が来て、おりんも一緒であることまで教えました。

「へ……そうかい」

次郎は、障子の<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>ててある二階を見ながらキョトキョトして、

「どッちの方へ行ったか、おじさん、知ってないかい」

「さあ、下の<ruby><rb>法斎湯</rb><rt>ほうさいゆ</rt></ruby>の方へ降りてゆくうしろ姿は見たが、その先は知らないな」

「アア、あの法斎きちがいか」

次郎はふところへ手を突ッ込んで、藁や髪の毛や木の葉でまるまッた鳥の巣を、両手で<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>そうにとり出して、

「おじさん、これを預かッといてくんないか」

「なんだいそれは」

「鳥の巣さ」

「鳥の巣は分っているけれど、一体どこで取ったんだ」

「東光寺の<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の木へ登って、やっとおさえて来たのさ――お嬢様に見せようと思ってね。おじさん、風呂場の隅へ仕舞ッといてくんないか」

「困るなあ、<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>は死んでしまうぜ」

「大丈夫だよ」

「縁の下へでも入れておきな」

「猫に食われてしまうと可哀そうだもの」

「ほんとに雛が居るのかい」

「居るよ。寝ているよ」

「弱るなア、そんなもの」

「ここへ置いたよ、いいかいおじさん。猫に食わすと承知しないぜ」

次郎はまたスタスタと馳け出して、行きちがいになった月江の姿を、そこか、ここかと、しきりに探し廻っている。

そして、法斎湯の近所へ来て、知ると知らないにかかわらず、逢う人ごとにたずねて見ると、

「あ、藤屋の隠居所のお客さんですか。その人ならばさっきこの辺で、湯鳴りを見物していなすッたが、その法斎場には仕掛があるとか人に話していたっていうんで、土地のならず者が聞きかじッて、横磯の方へ追いかけて行ったようです」

「えッ、ならず者が追いかけてゆきました」

「お前さん身よりの方なら、早く行って見ておあげなさい。<ruby><rb>魚見</rb><rt>うおみ</rt></ruby>小屋の方には、わるい奴がおりますからね」

「ありがとう！」

次郎は、それを聞くや、宙を飛んで、

「さあ、大変」

と思いました。

もしやお嬢様の身に、かすり傷でもつく事があったひには大変だ。次郎はなんのために熱海までお供をして来たのか。

<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の御隠家様がおッしゃった。――次郎よ、道中は<ruby><rb>嬢</rb><rt>じょう</rt></ruby>の体を何分たのむぞ、今年は、おまえがついてゆく番なので、わしも大きに安心じゃ――と。

「さあ、一大事」

彼も責任感に責められました。

温泉<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>の平和な日になれて、毎日、<ruby><rb>日金山</rb><rt>ひがねさん</rt></ruby>へ蜂の巣や鳥の<ruby><rb>雛子</rb><rt>ひなこ</rt></ruby>ばかりさがしに行っていて、もしやの事があった場合は、何といって、御隠家様の前へ出よう、あの高麗村へ帰ってゆこう。

次郎は草を蹴って、野づらを<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>かいにスッ飛びました。そして、横磯の海辺に立ち、左右の浪打ち際を見渡しましたが、

「ウーム、見えないぞ」

と、太い息でうめくばかり。

潮のけぶる<ruby><rb>長汀</rb><rt>ちょうてい</rt></ruby>に、まだ明るい残照の陽かげが、ところどころ、夕霞を破ってはおりますが、次郎の視線のとどくかぎり、月江様らしい人影は見当りません。

「どこだ、どこだ。おいらのうちのお嬢さまは？」

次郎は波うち際を<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>となって駆けだしながら、

「月江さまア」

と、大声を張りあげましたが、その声には、一脈の哀傷と不安なものがカスれていました。

――駆けるほどに、呼ばわるほどに、暮れかけている横磯の<ruby><rb>長汀</rb><rt>ちょうてい</rt></ruby>は、またたくうちに、次郎の飛ぶ足のうしろとなって流れ去りましたが、かくてもまだ、その人に似た姿は先に見えません。

「どこだ、どこだ」

次郎はいよいよ血眼となって、

「――お嬢さまア、お嬢さまア」

遂には、波にひびくその絶叫も、涙ッぽい訴えと変って、刻々と<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>のこくなる海のいろに、思わず深い溜息をもらしている。

すると――向うで、

「おのしは、次郎さんでねえか」

と、磯の石が呼びました。

磯の石が声をかけるはずはないが、うす暗い海辺にかがんでいたひとりの<ruby><rb>海女</rb><rt>あま</rt></ruby>が、そこを立って歩きだすまでは、一個の磯の石としか次郎の目には見えなかったので――

「あ……」

驚いて近づいてゆくと、ふだんこの辺でよく顔を合せている海女です。

「おばさん、教えてくンないか」

次郎の問いは唐突です。

「おめえ、それで飛んできなしたか」

「居なくなッちゃッたんだよ、お嬢さまが。――おばさん、おいらのうちの月江様を知ってんなら、教えてくんなよ」

「大変だぞ、おめえ」

「えッ」

次郎はもう飛び立ちそうな様子をして、

「大変て、ど、どうしたンだい」

「悪いやつに追われて、魚見小屋の中へ連れこまれて行きなしたようだ」

「見ていたのか、おばさんは」

「札つきの悪者ばかりが、のッそりのッそり、藤屋のお客さんのあとをつけて行くので、なんか悪いことがなけりゃあいいがと、さッきからここで案じていたところ……おめえよく来なした、早く行って見てあげるといい」

「ど、どッちの方だい」

「<ruby><rb>岬</rb><rt>みさき</rt></ruby>だよ」

「岬ッて？」

「ここを真ッすぐさ、そこにな、魚見小屋があるから、すぐと知れるだ」

「あ、ありがとう、おばさん」

いいすてて勢いよく走りだしましたが、何か棒のようなものを蹴って、砂の上につンのめりました。

そして、前へころんだついでに足で蹴ったその棒を拾って、よい獲物とばかり小脇に持ちこみましたが、その先ッぽに、鋭利な刃物が光っているところを見ると、これは、漁師の置忘れた<ruby><rb>銛</rb><rt>もり</rt></ruby>という物騒な道具に相違ありません。

波はごうごうと<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えています。はや、夜のとばりは<ruby><rb>相模灘</rb><rt>さがみなだ</rt></ruby>をいちめんにとざしていますが、沖の一線は、月明りのように空が冴えて、しぶきをあげる波明りと共に、磯の道は案外足もとがよい。

と――

やがて次郎のあえぐ道が、岬の鼻へ向ってのぼりになって来たかと思うと、ごうッ――と耳をなぐる松風の間に、ちぎれ飛んでくる大勢の人声。

たしかに魚見小屋のあたりです。

きッと、空の明りにすかされる岬の松のかげを睨んで、

「畜生、見ていろ」

と、くちびるを噛んでつぶやくと高麗村の次郎、山に<ruby><rb>鯨</rb><rt>くじら</rt></ruby>を見つけでもしたように、モリを持ち直し道端へかがまりました。

ところが、ここに。

まだ岬のはなの乱松に<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>あしの高い時分から、散り松葉にしっとりと潮気のふくむ岩蔭に腰をおろして、そこから一望にながめられる<ruby><rb>相模灘</rb><rt>さがみなだ</rt></ruby>をよぎッて、熱海の<ruby><rb>温泉町</rb><rt>ゆまち</rt></ruby>、くすみの漁村などへ寄りつく舟を、一艘も見落すまいと目をこらしていた旅の者があります。

きのう網代へついた江戸の便船のうちに、ちらとその姿を見せた目明しの釘勘と、かれが組下の伝吉という男。

――伝吉は、いつぞや、丹頃のお粂と<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾とが、護国寺前のつくば屋を去る時、その夜、ある地点までふたりの行動をつけて行ったので、かれらがこの半島の<ruby><rb>温泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>に姿をひそめたことは、職業がら、とうに感づいていなければなりません。

しかし、きょうの半日を、この岬のはなの風にあたッて、根気よく海とにらみ合いをしていたのは、まったく、それとは意味のちがうものであって、

「まだ見えない」

「はてな、きょうは波も穏やかだし、日どりの狂うはずはねえが」

と、何か心待ちにするのか、ついそこで、日の暮れるのをうッかりしていたものであります。

「いけねえ、暗くなって来た……」

海の<ruby><rb>文色</rb><rt>あいろ</rt></ruby>もどッぷりと暮れ落ちると、伝吉は初めて、<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>を疲らしたようにガッカリとして、

「親方、このあんばいじゃ、やつらの船がくるのは<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>か明け方でしょうぜ」

「ウーム、そうかもしれねえ」

「どうします」

「しかたがねえから、そこらで一晩しのごうじゃねえか」

「ちょうどいい小屋がありますぜ、その向うに」

「<ruby><rb>魚見</rb><rt>うおみ</rt></ruby>小屋だな」

「なんです、魚見小屋ッてえな」

「潮色を見て出漁引き漁の貝合図をふく番人のいる所だ。――だれか居るか」

「いねえようです、だれも」

「そこらの、松葉をすこしかき集めてきねえ、中へ<ruby><rb>入</rb><rt>はい</rt></ruby>ッて一ぷくやるから」

がらりと、あるという名ばかりの<ruby><rb>破</rb><rt>や</rt></ruby>れ戸をあけて、小屋のうちへ足を入れてみると、これでも潮風をしのいで人の寝るには足るだけの備えがあります。

伝吉が土間の<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>へ、松葉や枯れ枝をつみかさねる。

釘勘は腰をさぐッて<ruby><rb>火打石</rb><rt>ひうち</rt></ruby>を<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り、やがて、暗いなかに、トロトロと燃えあがる松のにおいのある火を取りかこんで、

「ははあ、この辺のやつも、だいぶ抜け買い（密貿易）の手伝いを内職にしていやがるな」

と、ぼウと赤い炎のいろに浮き出したあたりの物を、まず一流の鋭い目で見てしまいました。

そこのすすけた壁には、漁具、網、法螺の貝、<ruby><rb>錨</rb><rt>いかり</rt></ruby>、等のふつう目なれた物以外に、<ruby><rb>銛</rb><rt>もり</rt></ruby>や鉄砲――海の武器とも呼ぶべきものまでが、雑然と掛けならべてありました。

「――で、なんでしょうか」

伝吉は一ぷくつけながら、小屋へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っての方が、かえって耳につく潮鳴りの間に声を<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて、

「その……きょうか今夜は、必ずこの辺へつくはずだと親方のいう霊岸河岸をでた<ruby><rb>乾鰯</rb><rt>ほしか</rt></ruby>船には、いッたい、だれとだれが乗り合わせて来るんでしょうか。そいつアまだ、親方には目星はついていねえんでしょうね」

「分っているのは、日本左衛門に<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門だが、そのほかの者といやあ、まず四ツ目屋の新助、雲霧の<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>、尺取の十太郎、あのへんだろうな」

「で……そいつらの旅へ出たのは」

「無論、江戸は近ごろ物騒だからよ」

「夜光の短刀をさがす<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>もあるんでございましょう」

「それもある……だがそれより先に」

「お粂ですか」

「ウム、自分を裏切った丹頂のお粂――お粂を奪ったとにらまれている相良金吾。――日本左衛門はなにより先に、この二人を生かしちゃおくまいと、おれは前から要心しているのだ」

「なるほど、あの男にしても仲間の者にも、それくらいな執念はありましょうね」

「どッちみち、こんどは、よほど気をつけないと、お粂はもちろんのこと、金吾様の命もあぶない、おれも、江戸表ならどうにでも捕手を自由に使ってみせるが、旅へ出ちゃ腕一本すね一本、それにひきかえて日本左衛門の方は……」

といいかけた時、何か、ぶつけたような物音と女の声が、突然、後ろの戸を倒して中の火をあおッたので、

「おうっ！」

と、釘勘も伝吉も、<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>に吹かれて、思わず左右へおどり立ちました。

そこの、魚見小屋を背なかにして、外に立っていたのは、遂にここまで追いつめられてきた、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の息女と小間使いのおりんです。

おりんは歯の根もあわずに月江の胸にすがっている。

その<ruby><rb>両女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>を取巻いて、磯くさい人間ども、幾人ともわかりません――悪魚の群のようなのが、飢えた目をして、今にもいどみかかりそうなけしき。

「りんや、心配おしでない」

と、月江の片手が帯の懐剣をさぐッたせつな、目まぜをし合ったあぶれ者の二、三人が、いきなり、かの女のうしろへ廻ろうとしましたが、そのひとりが、懐剣で頬をかすられたかと思うと、魚見小屋を内がわへ<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、

「あっ」

と、中へころがり込む。

とたんに。

「こいつらッ」

意外な<ruby><rb>大喝</rb><rt>だいかつ</rt></ruby>を投げて、そこから吹き出した松葉の<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>といッしょに、二本の十手がおどッて出たので、

「わッ」と、驚いたあぶれ者の影が、一時に小屋の前をひらいて、

「野郎、なんだてめえは！」

と、虚勢を張って立ち直りましたが、伝吉が、

「御用ッ！」

と、ふた声ばかり浴びせかけますと、もともとたいして骨ッぽいのは居ない連中ですから、十手を見たばかりでわれ勝ちに岬の下へ逃げだしました。

それほど、他愛のない小悪党の群を、釘勘や伝吉とて、なにも<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て、<ruby><rb>大人気</rb><rt>おとなげ</rt></ruby>なく追いかけるまでのこともなかったでしょうが、地勢上、下へ逃げてゆくやつを、上から追いかけて行くことになるのは自然の弾みで、

「うぬ、待て」

とばかり駆け散らして行く。

すると。

その坂道の横合から、ブ――ンと風を切ッて飛んだ一本の<ruby><rb>銛</rb><rt>もり</rt></ruby>が、先へ逃げだした一人の男の体へグザと突き立って、<ruby><rb>鮫</rb><rt>さめ</rt></ruby>のような絶叫をあげさせたからたまりません。

いやが上に、驚きあわてたあぶれ者は、むしろより以上な危険のある横手の<ruby><rb>灌木帯</rb><rt>かんぼくたい</rt></ruby>へとびこんで、そこの断崖から白浪をのぞんで、めくら滅法に飛び下りましたが、これは少し、釘勘の気持としては殺生に過ぎたようです。

だが、自分たちのおどかしよりも、なおかれらを驚かした銛の投げ手はたれだろうか――と、そこに<ruby><rb>串刺</rb><rt>くしざ</rt></ruby>しとなった死骸よりも先にその方をジッとすかして見ると、<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>の小さな、もんぺを<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いたひとりの<ruby><rb>小童</rb><rt>こわっぱ</rt></ruby>がいきなり山刀を抜きそうにしてくるので、

「おい、待ッた」

釘勘が手をあげて、

「人違いをするな、おれたちは、通りかかった旅の者だ」

「どこだ！　おいらのうちのお嬢様は」

「ウム、向うにいる、お女中をさがしているのか」

「えッ、いる？」

「待ちねえ、今、おれの連れが呼びに行ったから。だが、おめえ達は一体どこの者だね」

「おいらのことかい？　お嬢様かい？」

「おめえも、あのお女中も」

「お嬢様は<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の御息女。おいらあ、その<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎ッてえんだ」

「ついぞ聞いたことのねえ所だが、高麗村というと、やはりこの伊豆の<ruby><rb>田方</rb><rt>たがた</rt></ruby>のうちなのかな」

「ばかをいッてら、おじさん。高麗村がこの伊豆なもんか。――武蔵の国北多摩の奥で、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>と甲州の山を後ろに<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って、前には、この<ruby><rb>相模灘</rb><rt>さがみなだ</rt></ruby>みたいな広い原ッぱを控えているんだぜ、そこに<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>、高麗村という、おいら達の村があって、村の将軍様は狛家の御隠家といって、そりゃあ……」

次郎、そこまでは、問わず語りにお国自慢をしゃべりかけていましたが、ふと気がついて口をつぐんだ時、魚見小屋の方から来る、月江とおりんの姿を見たので、

「おっ、居た、居た！」

釘勘を置きッぱなしにして、そッちへ足を向けたかと思うと、次郎のいう、おいらのお嬢様なる人の求める腕へ、まるで、犬ころのように飛びついて行ったものです。

## <ruby><rb>投扇興</rb><rt>とうせんきょう</rt></ruby>

ふと――

刀の<ruby><rb>柄糸</rb><rt>つかいと</rt></ruby>の<ruby><rb>縺</rb><rt>ほつ</rt></ruby>れを見つけて、それを気にしてつくろいだすと、いじればいじるほど解けて来て、果ては、しまつが悪くなったので、糸切歯をあててプツンとかみましたが、その<ruby><rb>糸屑</rb><rt>いとくず</rt></ruby>も唇にくわえたまま、なぜか、相良金吾の目にいつまでも、消えない怒りが燃えていました。

刀は持ち<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>の心をうつす。

心の腐ッた持ちぬしの手にあれば、柄糸も<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>がぬけて<ruby><rb>縺</rb><rt>ほつ</rt></ruby>れ出すか。

どうにもならない<ruby><rb>解</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>れ<ruby><rb>糸</rb><rt>いと</rt></ruby>。――今の自分の心がちょうどそれともいえる。

もう近頃では、この愛刀<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>さえ抜いてみる気になれない自分だ。おそろしくて抜けないのである。

<ruby><rb>破邪顕正</rb><rt>はじゃけんせい</rt></ruby>そのものの光、偽りを許さぬ剣の光の前に、暗鬱な、邪心を押しかくした心をもって、なんで抜いてみる気になれようか。なんで、じッと、それに対して目を<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>けずにいられようか。

ふしぎです。

刀は人の持つものでありながら、かくまで人を支配します。心おおらかな時は、それに<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>みなく、心よこしまな時は、自分の刀とて、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払って見ることができません。

――それを感じて、金吾は、自分というものに、強い<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>を投げたのでした。

「武士か！　貴様は」

かれの矛盾した心は、二ツの相良金吾という人間に苦しめられているようです。

一つは本来の金吾であり、一つは、奇病に衰えた肉体から、武士らしい魂をひき抜かれて、ここにこうしている相良金吾。

過去の金吾は大殿の信も篤く、ために徳川万太郎の側付きとなった程、忠義一徹、武門名誉の侍であるはず。

しかし。

現実の金吾は――というと、本心はとにかく、表面の生活から<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>られれば、妙な年増のあだ女に養われて、その妖情に溺愛して抜くにも抜けないところまで、足をふみすべらそうとしている<ruby><rb>唾棄</rb><rt>だき</rt></ruby>すべき非武士！

そうではないか。

そう<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>られても言い<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>の道がない境遇にいる自分ではないだろうか。

――金吾は了戒を膝から落として、ゴロリと仰向けに寝ころびながら、また口のうちで、

「武士か！　貴様は」

おのれを、おのれの外に置いて、腹立たしげに罵りました。

おしろいの<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>い……

なまめかしい女の小袖。

<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>に灯を入れるのも物憂いので、そのまま手枕をかッていますと、<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てきってあるこの藤屋の奥二階の一間が、徐々と白みはじめてくる……。

横磯の沖に月が出たのです。

黄色い春の月の思いきッて大きく、ぬっと、<ruby><rb>相模灘</rb><rt>さがみなだ</rt></ruby>の水平線に君臨しだしてきたけしきが、金吾の手枕に想像されました。

風もなく、障子にさわる桃の花びらが、<ruby><rb>蛾</rb><rt>が</rt></ruby>のような影をサヤサヤと黒く舞わせて、――その時、思いだしたように、

白玉か

何ぞと人のとがめるは

露と答へて消えなまし

物を思へば恋ごろも

それは昔の<ruby><rb>芥川</rb><rt>あくたがは</rt></ruby>

芥川

これは<ruby><rb>桂</rb><rt>かつら</rt></ruby>の川水に

浮名を流すうたかたに

泡ときえゆく

<ruby><rb>信濃屋</rb><rt>しなのや</rt></ruby>の

お<ruby><rb>半</rb><rt>はん</rt></ruby>を背なに長右衛門

また、あちらの座敷に陣取っている師匠と<ruby><rb>蔵前</rb><rt>くらまえ</rt></ruby>のお旦那が、晩酌のすさびに音じめを直したのでしょう。<ruby><rb>爪弾</rb><rt>つまび</rt></ruby>きではありますが、手にとるように聞えてくるのは、ここもと、園八節の<ruby><rb>道行</rb><rt>みちゆき</rt></ruby>、<ruby><rb>桂川</rb><rt>かつらがわ</rt></ruby>恋のしがらみか何かであります。

「ああいう世界もあるんだなあ」

金吾はうッとり耳を誘われていました。

そして、いつか軽い湯づかれにとろとろとうたた寝の浅い眠りに落ちたかと思うと、やわらかい丹前を、ふわりと自分に着せかけたものがある。

おぼえのある肌の<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>い、髪の香い、それに、はっと眼をさましてみると、いつか、<ruby><rb>朱骨</rb><rt>しゅぼね</rt></ruby>の丸行燈に明るい灯がともッて、向うにある鏡台の鏡の中に、湯上がりの肌を押しぬいで、<ruby><rb>牡丹刷毛</rb><rt>ぼたんばけ</rt></ruby>を持ったお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>の顔が華やかに笑っています。

お粂は、いつのまにか湯から上がってきて、そこに寝ころんでいる手枕の人をよそに、あだな夕化粧をこらしていました。

で、偶然、鏡の中で見合した<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の目と目。

金吾が見た鏡の中のお粂の顔は媚をふくんで笑っていましたが、お粂が見た鏡の中の金吾の顔は、

（妖婦め！）

と、いわんばかりに睨んでいました。

「まあ、こわい顔」

と、くちびるへ<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>を点じ、やがて、化粧をすまして向き直った女の顔は、ちょうど、夜桜の<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>に灯がはいッたように明るくなって見えます。

「――相良さん、また江戸表のことを考えているんでしょう、およしなさいよ、しんきくさい」

冷たい海風のもれてくる障子の隙を合せながら、

「オオ、向うの座敷の陽気だこと……私たちも、今夜は酒でも少しとりましょうか」

「酒？」

「エエ」

金吾はハネ起きて、

「酒」

と、もう一度つぶやきました。

こういう時にこそ、酒を飲むべきものだったと、初めて気がついたように、

「よかろう！　いいつけてくれ」

「まあ、めずらしい」

お粂は自分からいい出しておきながら、金吾が同意したのをわざとらしく笑って、それから女中をよんで支度を頼み、その間に、<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>の下の火を見たり、あたりの物を片寄せたりして、自分も、世話女房らしくいそいそする。

<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>がくる。

<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>がつく。

<ruby><rb>温泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>の宿らしい腰のひくい長火鉢に、ほッてりと炭火も赤くなって、障子越しに聞く遠い波の音も、旅愁を<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>めるほどでなく、よその宿屋の三味線も、耳ざわりではありません。

「こちの人、おひとつ」

浮いた調子で、お粂は軽く戯れながら銚子に細い指をかけて、

「いかが……」

と、少し首を曲げる。

黙然と杯をとって、金吾は苦しそうに一口グッと飲みほしました。

「私にも下さいな」

お粂は元よりいける口です。

相手がものをいわないので、さしては飲み、うけてはつぐという調子には、杯が廻らない。

でも、<ruby><rb>置注</rb><rt>おきつ</rt></ruby>ぎで、互に数杯。

<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>とも、ぽっと赤くなりました。

しかし、同じ<ruby><rb>酒瓶</rb><rt>ちろり</rt></ruby>の酒を酌みわけて、同じように飲んでいながら、金吾の舌には毒のようにほろ苦く、お粂の舌には蜜のように甘いようです。で、酔わされるその心のうごき方が、酔うにつれてだんだんと食いちがッてくるのはやむを得ない結果でした。

「あなた」

「…………」

「何をさっき、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>を睨んでいたんですか。まアいやだ……まだ怒ッているんだよ、<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>さんは」

金吾はものをいいません。いわんとする時は、その口を杯でふさいでいる。

そして、両の腕をくみ、飲めば飲むほど陰鬱に、青白い顔をうつ向けています。

入湯のききめか、お粂の手当が届いたせいか、この熱海へ来てから、とにかく金吾の奇病というものも、ある程度まで回復して来たようです。

けれど、そのかわりに、<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>以上の憂悶がこんどは金吾の<ruby><rb>心核</rb><rt>しんかく</rt></ruby>に食い入ッて、かれを苦しめていることもまた見のがせません。

それは、こうしている宿屋住居の二人の生活が、前とだいぶ変って他人行儀がとれ、それでいて、許し合った情人というほど密でもなく、夫婦ともつかず、お互いにどうにもならない運命の部屋に閉じこめられているような状態から見ても、その後、お粂と金吾の仲に思いがけない――もう切るにも切れないものが生じて、悪縁の鎖を結んでしまッたことが明らかであります。

お粂の熱情にほだされたにせよ、金吾のためにこの一事は、実に終生の不覚というべきでありますが、一頃のように、彼が昏々と眠りから眠りへ落ちている間ならば、妖婦の抱擁もこばむ力がなかったわけですから、一概に彼の心事を責めるのもどうでしょうか。

しかし、お粂にとれば、これで思いが<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げられたわけです。

お粂は陰性の妖婦とみえます、これが陽性の毒婦型の女だったら、こんな遠廻しな、手数のかかることはしていないでしょう。また、いかなる男も、お粂のような手段をもってされては、その術中に墜ちないではいられますまい。

ですが不自然に結ばれた、二人の間というものは、その成長につれ、その変態な苦しみが、当然ふたりへ公平に分けられてくる。

金吾の憂鬱はその悔いです。

お粂のいらいらするのは、ここまで行ッていながら、まだともすると、自分の手から逃げそうな男の<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶ</rt></ruby>りです。自分の情炎に溶けきれないものが男のどこかに残っている不満です。

せめて、その憂鬱を晴らすかと思って飲んだ酒も、金吾には沈痛な理性が<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>げてくるばかりであり、お粂には、いよいよ酒がそのじれッたさを増すのみでありました。

……酒が冷える。

「<ruby><rb>導引</rb><rt>どういん</rt></ruby>はいかが、導引はいかが」

廊下の障子をなでてゆく<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>の影が、この無言の部屋の前を大きな<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>のように通りすぎました。

宿の<ruby><rb>間毎</rb><rt>まごと</rt></ruby>は、浮世の縮図のように、さまざまです。

そこから廊下を離れた角二階の部屋は、例の問題の、月江様、おりん、小僕次郎、こう三人がいる部屋で、そこの空気はまた、いつも和気と春風にみちて、ハチきれそうな笑いの爆発がたえません。

「いや！　次郎は<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>い」

「痛い、痛い」

「痛ければお放し」

「死んでも放さない」

「強情だね、お前は。りんや、加勢しておくれな、次郎は狡くッてしようがない」

「ホ、ホ、ホ、ホ、<ruby><rb>錣引</rb><rt>しころびき</rt></ruby>、錣引、わたしは読み手ですから、どちらへも御加勢はいたしませんよ」

何を笑いはしゃいで争ッているのかと見ますと、これは近ごろ<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>ッている読み<ruby><rb>加留多</rb><rt>かるた</rt></ruby>のうんすんであります。

一枚のうんすん加留多の札を、月江が抱きこんでいると次郎がそれを奪おうとしてゆずりません。読み手のおりんは面白がッて、キャッキャッと笑いながら口から読み札をこぼしている。

「あッ、やぶけた」

「次郎、おまえは」

「知らねえ知らねえ、お嬢様のせいだ」

「意地わる！」

「ほーら、負けたんで口惜しがッてら」

「おまえの負けよ」

「お嬢様の負けだい」

「どうして」

「どうしてでも」

「りんが証人だよ、ねえ、りんや」

「おりんさんが知ッてら、ねえ、おりんさん」

「憎らしい。ひとの口真似をして」

「憎らしい。ひとの口真似をして」

「あら」

「あら」

「ホ、ホ、ホ」

「オホ、ホ」

「猿！」

と、月江がそこらの札をかき集めて、笑いながら相手の顔へぶつけたので、次郎はクシャンと<ruby><rb>参</rb><rt>まい</rt></ruby>ッてしまいましたが、座敷はいちめん加留多の落花、春の夜らしく散らかりました。

と、次の間の障子があいて、

「ごめん遊ばせ」

宿の女中の声がしています。

そんな事には気がつかないで、笑いさざめいている三人は、加留多をよせ集めると次には遊戯の趣向をかえて、座敷の中程に<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>毛氈</rb><rt>もうせん</rt></ruby>をのべ、古雅な<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の枕を置きました。

枕の上には銀の<ruby><rb>水引</rb><rt>みずひき</rt></ruby>で蝶形の<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>をすえ、席をさだめて<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>を持つ。

扇は金泥に山桜の<ruby><rb>胡粉</rb><rt>ごふん</rt></ruby>絵、銀に<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>、その幾本かをとって的に向う。つまり、これから投扇の技をくらべて、月江が次郎の鼻を明かそうという趣向かにみえます。

おりんも次郎も、投扇にはまだ初心とみえて、どうやるのかと神妙に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まッていると、月江は、<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>十組の<ruby><rb>橋立</rb><rt>はしだて</rt></ruby>が何点、春の野が何点、富士が何点、裏の<ruby><rb>高砂有明</rb><rt>たかさごありあけ</rt></ruby>が何点といちいち説明して、投技の秘訣に及び、さておしまいには、小さな冊子を膝にひろげて、投扇の起源という<ruby><rb>一齣</rb><rt>ひとくさり</rt></ruby>まで読んで聞かせました。

――<ruby><rb>投楽散人</rb><rt>とうらくさんじん</rt></ruby>とかいえる人、<ruby><rb>花都</rb><rt>かと</rt></ruby>の産なり、さる<ruby><rb>年</rb><rt>とし</rt></ruby><ruby><rb>水無月</rb><rt>みなつき</rt></ruby>の炎暑にたえかね、昼寝の夢さめて、席上に残せる木枕をみるに、胡蝶一つ羽を休む。投楽かたわらの扇をとり、何気なくかの蝶に投げ打てば、扇は枕に<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まり、蝶は去りぬ。

われながらいみじき事に覚えて、今一度と、扇を取って幾十返りかこれを投げるといえども、枕の前後に落ちて、枕上に止まらず、これより<ruby><rb>投壺</rb><rt>とうこ</rt></ruby>の遊びを思いよりて投法をたて、投扇興と名づけて<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら宴遊の<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に流布されしとなん。

「まあ、お<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>ばなしみたいですね」

と、おりんが聞き終ると、次郎は半分以上わからない顔をしていたくせにして、

「なんだ、そんなことか」

「<ruby><rb>御褒美</rb><rt>ごほうび</rt></ruby>は」

「白酒を飲むこと、点の多いのを打った時には二杯」

「じゃ、おいらが先に、一杯飲む」

興にのッて、次郎が月江の指南を真似、妙な手つきで山桜の扇をぽんと投げましたが、それは胡蝶を追って枕上にとまる――というような軽妙ではなく、まるで扇の<ruby><rb>手裏剣</rb><rt>しゅりけん</rt></ruby>のようでありましたから、パンと、扇の<ruby><rb>要</rb><rt>かなめ</rt></ruby>が枕を蹴って思わぬ所へスッ飛んでゆきました。

「あら！」

と、月江が目を見はッたのは、その調子はずれに驚いたのではありません。

扇の飛んで行った次の間に、ひとりの男がいつのまにか坐っていて、

「折角なところを、夜分お邪魔いたしまして相すみませんが」

と、その扇を持って、いざり出して来たからでありました。

「最前から、女中に案内されて、こちらでお声をかけましたが、お遊びに夢中な御様子だもんですから、しばらく控えておりましたんで」

「そうですか、して、お前はたれですか」

「お忘れでございますか。いつぞや、岬の<ruby><rb>魚見</rb><rt>うおみ</rt></ruby>小屋から御一緒になって帰りました、江戸の伝吉という者でございます」

と、<ruby><rb>縞物</rb><rt>しまもの</rt></ruby>の<ruby><rb>膝前</rb><rt>ひざまえ</rt></ruby>をキチンと折って、いんぎんに腰をかがめましたが、伝吉、あの時もう一人いた連れの方の釘勘の名は出しません。

「アア、伝吉さんでしたか」

それでほっとしたらしく、おりんも安心し、次郎の鋭い目元も<ruby><rb>和</rb><rt>やわら</rt></ruby>らぎました。

月江としては、その折、助けられた恩人なので自身の方から礼に行かねばならぬと、二人の宿をたずねさせていたくらいなので、よいところへと茶菓子をいいつけようとすると、

「あ、どうか、それは」

と、伝吉は、あわてて止めて、

「実はとんだお願いがあって伺いましたので、いずれまた改めて、連れの者と一緒にお邪魔をいたしにまいります。で、今夜のところは、その話だけをぜひ一つ聞いていただきたいと存じますが」

「前にお世話になっている私たち、なんでございますか、出来ますことならば」

「有難うぞんじます。ほかじゃございませんが、こちらの同じお二階にいる、相良金吾というお人と、もしや、御懇意ではござんすまいか」

「相良さんですか」

月江はおりんと顔を見合わせて、伝吉をよそに微笑を交わしましたが、すぐに改まって、

「はい、御懇意というほどでもございませんが、このりんと申す者が、時折、おことばくらいは交わしております」

「ならば、何より好都合でございます。まことにあつかましいお願いですが、一方のお粂という女が疑わないように、その金吾様だけを、何とかして、ちょッとここへ呼んでおもらい申す事はできますまいか」

「さあ？　……」と、三人は顔を見合している。

これはいと易いことに似て、甚だ難題に考えられたに違いありますまい。

なぜかといえば、あの侍の側についている女は、おりんが廊下でちょっと金吾へ声をかけても、決して、快くは思わないふうでありますし、第一彼の起居に影と形のようにつきまとッていて、かつてあの<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>が別々によその部屋へ話しに行っているなどという場合をチラとも見た事がありません。

どう考えてみても難題です。

あの女に内密で金吾をよび出してほしいという伝吉の注文はむずかしい。

月江にもおりんにも、これには名案がありそうもない。折角魚見小屋での恩返しにも、できることならして上げたいが。

そう思ってうつ向いていますと、何か、伝吉に妙案があったか一膝すすめて声を落としていうには、

「お嬢様、まことに<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>を申すようですが、今そこでおやりになっていたお綺麗な遊び事……何といいましたッけな、オオそれ、投楽散人の昼寝が発明した投扇興ってやつ、そいつをひとつもう一度、ここでやり直して下さいませんか」

これはやさしい。

またすぐにもできる事ではありますが、そしてどうしようという伝吉の考えなのか。

あまり深く聞くのも失礼だと思いましたから、無邪気なおりんと単純な次郎と、世間見ずなお嬢様とが、そこでまたかれの望みに任せて、投扇の点取りをやって遊びはじめました。

「なるほど、まことにシャレたお遊びでございますな。やはりお嬢様が一番お上手だ。さあ、どうぞ御遠慮なくやって下さい」

伝吉は、行司になって、拝見している。

興に入るとまたおりんの調子はずれな笑い声や、次郎のおいら言葉が廊下を越えてもれてゆく。

「あ、<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>え！」

すると、不意に伝吉が立って、

「ばかにするないッ。何を。いけねえいけねえ、わざとおれに<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つけやがッたに違いねえ。さあどうしてくれるんだ」

ふた声ばかり怒鳴って、<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>や枕を廊下の外へガラガラとほうり出す。

そして<ruby><rb>緋毛氈</rb><rt>ひもうせん</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>的台</rb><rt>まとうだい</rt></ruby>のかわりになってあぐらをくみ、なにか<ruby><rb>与三</rb><rt>よさ</rt></ruby>もどきに暴言を吐いておりますと、

「あれッ」

と、おりんが、びッくりしたり呑み込んだりして廊下を馳け出し、奥の一間の唐紙をサッとあけたものですから、

「あっ」

と、驚いたのは水入らずの長火鉢で、そこに<ruby><rb>鬱</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎの虫をころし合っていた丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>と相良金吾。

「お侍様、あの、あの……」

声をおろおろさせておりんはお粂の顔を見ずに、

「お助け下さいまし、今あちらで、投扇興をしておりますと、廊下を通りかかった悪いやつが、その扇がぶつかッたと、お嬢様に<ruby><rb>難癖</rb><rt>なんくせ</rt></ruby>をつけて」

「びっくりいたした、そなたは向こうの部屋にいる、月江殿の小間使いではないか」

金吾がいつの間にか、月江というよその客の名を知っていたのが、お粂にはちょッと意外で、何か面白くない気持です。

おりんは会釈なく、

「はい、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の召使いでございます。あれあんな声がしております。何しろ女子供ばかりでもうふるえあがっているところ、どうか、助けると思って、ちょっとお手を貸して下さいまし、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>でございます、お早く、お早く」

手を取るように<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>きたてますし、弱者の難儀、見捨てはなるまいと、金吾は<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>の一腰を左の手に、

「お騒ぎなさるな、ほかの客の興をさましては宿へも気の毒」

立ち上がりながら、ちよッとお粂の方を見ましたが、お粂は何が気にいらないのか、冷えた杯を猫板に移して、ツンと横を向いておりました。

で、金吾もそのまま、おりんについて廊下へ出て刀の<ruby><rb>下緒</rb><rt>さげお</rt></ruby>をたくしながら、月江の部屋へ来てみますと、なるほど、<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからぬ<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>の男が、風雅な投扇の遊具を蹴ちらかして<ruby><rb>毛氈</rb><rt>もうせん</rt></ruby>の上へうしろ向きに大あぐらをくんでいますから、

「こいつ、湯治客をゆたぶる、遊び人だな」

と、一図に見てとって、ずかずかとそこへ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っていくなり、

「貴様か、宿を騒がすやつは」

ムズと、襟がみをつかみました。

ひょいと仰向いて伝吉は、

「お、相良金吾様」

ずばりと名をさしたものですから金吾は仰天して、はっとその手をゆるめますと、こんどは伝吉の方から突然かれの腕くびをつかんで――

「やっと誘い出しました。さ、さ、お粂に気のつかれないうちに、少しも早く外へ出ておくんなさい。今夜ある場所で、親方の釘勘が待っているんです」

「えっ、釘勘が？」

「いやとはいえませんぜ、相良さん。会った上のお話はいろいろありますが、釘勘はあなた様の御主人、徳川万太郎様の頼みをうけて、遙々ここまでやって来たんでございますからね」

金吾は穴にでも入りたいように、

「なんと申す、では、万太郎様のおさしずで、釘勘がわしを迎えに参ったとか」

「まア、そんなことはどうでもいい、お粂が感づくと困りますから」

「待ってくれ、ま、考えさせてくれ」

「今夜は待ッたなしです、あなたをここまで誘い出したのも、なみたいていな苦労じゃねえ。主命と思って来ておくんなさい」

と、無理に梯子段を降りてゆくと、かれは金吾の腕を抱きこむようにして、庭の植込みから木戸を押して、湯気のさまよう湯町の辻へ駆けだしました。

## 魔のさす辻

誘い出してというよりは無理やりにして、金吾を外へ引ッ張り出した釘勘の<ruby><rb>組下</rb><rt>くみした</rt></ruby>手先の伝吉。

どこへ連れてゆくのやら、浜町のお<ruby><rb>成橋</rb><rt>なりばし</rt></ruby>。

そこを一散に北へ上がる。

たった一度の湯治お<ruby><rb>成</rb><rt>なり</rt></ruby>に万金の工費をかけて、そのまま建ちぐされとなっている将軍家のお<ruby><rb>湯浴</rb><rt>ゆあみ</rt></ruby>御殿や諸侯の湯荘など、<ruby><rb>築地</rb><rt>ついじ</rt></ruby>なまこ塀の建ち並ぶ小路をスタスタと話もせずに急いで、やがて小高い岡に仰がれたのは、<ruby><rb>老杉</rb><rt>ろうさん</rt></ruby><ruby><rb>参差</rb><rt>しんし</rt></ruby>として神さびた<ruby><rb>湯前</rb><rt>ゆまえ</rt></ruby>神社の石段であります。

のぼるとそこは広前の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>、拝殿に一<ruby><rb>炊</rb><rt>すい</rt></ruby>の<ruby><rb>御明</rb><rt>みあか</rt></ruby>しがさびしく。

梅が<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>もわくや

<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で湯の春のかぜ

と、<ruby><rb>也有</rb><rt>やゆう</rt></ruby>の句の刻まれてある石碑のかげに、その時人影がうごいたようですが、それは問うまでもなく最前から、使いの<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きっそう</rt></ruby>いかにと、ここに首を長くしていた釘勘で、近づく足音を聞くとすぐに、

「伝吉か」

と、楠の木を楯にうかがいました。

「オオ、親方」

「どうした、相良さんは」

「やっとの事で、ここへお連れ申して参りました」

「えッ、一緒にお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でなすったって。そいつアでかした、御苦労御苦労」

と、これは釘勘としても予期以上の上首尾らしく、ひどく機嫌のよい調子で伝吉の気転をねぎらいました。

しかし、その声を聞いただけで、もうハッとして胸を衝かれたのは相良金吾。

面目ない！

思えば釘勘とここに会うのは沙汰の限りな恥かしさです。彼とは<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の盗っ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>市で別れて以来でありますが、主人万太郎の意思をうけて自分を迎えに来たとすれば、すべての事情は知っていよう。

ああ、どの<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>下げて――

金吾は杉の幹に両手を支えて、<ruby><rb>鷺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>のように、肩の間へ深くその不面目な顔をさしうつ向けている。

――その姿へいきなり物をいうには耐えないで、釘勘も、しばらく無言でいましたが、

「オオ……」と気がついたように――「伝吉、おめえはまた御苦労だが、もしやお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>があとで感づいてここへやって来ると少し工合がわるいんだが、どこか途中で、見張っていてくれねえか。おれは少しここで、金吾様に御相談があるんだから」

「ええ、よろしゅうございます」

「頼んだぜ」

「もし、お粂が追いかけて来たらどうしましょうね」

「そうだな？　……」

と、釘勘はちょっと金吾の方へ気がねしながら、

「かまわねえから、御用とくらわせろ」

「合点です」

――馳け出そうとすると、

「おっと」

呼び止めて、

「待ってくれ」と、また考え直した。そして、「まさか今夜はそうもゆくめえ、こッちの話さえ<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まれば、お粂は熱海へ置きっ放して江戸へ帰った方が世話がねえというもんだ。じゃアこうしてくれ、もしかお粂が藤屋から出て来るような様子だったら、先に飛んで来て知らしてくんな。それがいい」

「へい、承知しました」

伝吉はすぐ町の方へ引っ返して行きます。

あとは――釘勘と金吾の二人。

最初に姿を見合った時、オオと声をかけてしまえばそれで話の糸口があいたのかも分りませんが、お互いの胸のうちを話の先に察してしまって、妙に<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>をおいたものですから、さて二人になってから、何を先にいいだしてよいやら、ただ涙っぽいものが胸へこみあげるばかりで、男二人が恋人のようにしばらく横を向き合っていました。

やがて、釘勘の方から、

「相良様、ずいぶんお久しぶりでございましたなあ」

取ってつけたようにいいました。

「いちべつ以来、そちも健固で」

金吾の声は処女のようです。

「おかげ様で」

「なによりじゃ」

「まず、そこらへ、腰をすえようじゃございませんか」

と、くだけていうと、金吾は突然に、

「釘勘ッ、せ、拙者は、そちに今ここで会わせる顔がない！　……面目のうて会わせる顔がないのだ……」と、にわかに感傷に走って来た声をふるわせて、深く顔を押しかくしますと、

「は、は、は、は。そう窮屈に考えるからいけませんや」

と釘勘は、抜きかけた<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を持って、骨ばッた金吾の肩をやんわりと押しながら、

「まあさ、そこへおかけなさいまし、武門のことは分りませんが、女出入りのあとしまつなら、こりゃお侍様の智慧よりも、はばかりながら町人の方が遙かに<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>っておりますからね」

と、あくまで金吾の苦しみを見ぬいている、苦労人のことばです。

さりながら、好意も時には罵倒よりは胸に痛い場合もある。

春ながらここは寒い。

杉の夜露が襟もとを打つ時は、思わずゾクとしてきます。

「ぶしつけな申し分かも知れませんが、あっしとあなた、浅い御縁じゃございませんな」

そこで、釘勘は<ruby><rb>火打</rb><rt>ひうち</rt></ruby>を<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>る。

すぱりと、一服つけて、

「――金吾様、どうか今夜はひとつ、<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>らさまにおっしゃって見て下さいませんか。実をいうと万太郎様もかくいう手前も、あなたの心もちが分らねえんです。――なぜお屋敷へ帰らないのか、どうして、お粂なんて女とああして逃げかくれなすっているのか。……といってみたところで、元より女の沙汰というやつは、他人に判じがつかないもの、ハタからおせッかいのできないものと、昔から色恋の相場はきまっておりますけれども、それにしても相手によりけりで、丹頂のお粂が何者かという事は、聖天の市へ行く途中でも、たしかあっしの口からよくお話がしてあるはずじゃございませんか」

ぼつぼつ彼のことばはいわんとするところへ向って来ました。

その語調は至って平静でありますが、すぱすぱと味もなく吸う煙草の火のかすかな光で見れば、釘勘の目は涙でいっぱい。

「ええ、相良さん」

返事のないのにじれ出して、

「どうしたもんでございます！」

「…………」

古木の<ruby><rb>切株</rb><rt>きりかぶ</rt></ruby>に腰かけて、われながら痩せたと思う膝をかかえた相良金吾は、どういう縁でか、こうも自分をいとしんでくれる釘勘のことばにいよいよ<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を上げ得ません。

けれどまた釘勘の察し方もすこし情けない。大きな誤解がある。自分がお粂の色香に迷ってこうなったものと思いこんでいる独り合点がある。

今さら言い訳がましいことは、彼の性格としても<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>しとしませんが、それだけはどうしても解いておかなければと、

「いや、待ってくれ」

初めて、敢然と口をひらくと、その顔色に驚いて釘勘が、

「お怒りなすっちゃ困ります、どうか、御立腹ないところで」

「なんの怒ってよいものか。しかし釘勘。いかにも拙者は武士として、終生ぬぐわれぬ不覚を踏んだには相違ないが、決して、お粂の色香におぼれて主家を忘れたわけではない」

「分っております。失礼ながら、その御本心を買っていればこそ、あっしは自分の役目がらを忘れてまで、こうして万太郎様のお<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>を」

「待て、今のそちのことばでは、深い事情までは分っていない」

と、金吾はやや興奮して、<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>の晩、<ruby><rb>真土</rb><rt>まつち</rt></ruby>の黒髪堂の前で日本左衛門のために思わぬおくれをとって気を失なったこと、また、それからお粂の家へ助けられて以来、ふしぎな<ruby><rb>業病</rb><rt>ごうびょう</rt></ruby>をなやみ通しで今日に至ったまでのことを、一息に語りつづけますと、釘勘はさもあんめりとうなずいて、

「その通りです。だからあっしはなぜあなたが早く気がついて、たとえどういう手段をとっても、お粂の家から出ないのかと、それがふしぎにも思われましたし、また歯がゆくってならなかったんでございます」

「そうは申すが、お粂とても拙者にとれば、かりそめならぬ命の恩人じゃ」

「と、とんでもないこと」

「なぜ？」

すこし色をなして<ruby><rb>詰問</rb><rt>きつもん</rt></ruby>すると、釘勘はふところへ手をつッ込んで、

「これでもあなたは、お粂の親切をまことと思い、あくまで命の恩人だとおっしゃいますか」

金吾は眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて、ふしぎそうに、彼が自分へ突きつけている紫いろの物をじっと見つめました。

「なんじゃ、それは」

「ビードロです」

「ウム、蘭薬を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れるビードロの瓶か」

「そうです、しかもこのビードロの瓶に、どんな蘭薬が入っていたかお分りにはなりますまい。小石川<ruby><rb>養生所</rb><rt>ようじょうしょ</rt></ruby>の蘭方医小川<ruby><rb>笙船</rb><rt>しょうせん</rt></ruby>という人にこれを鑑定してもらいますと、どうでしょう、こりゃあ南蛮の眠り薬、なんとかいいました……嗅いただけでもグッタリと人を<ruby><rb>麻酔</rb><rt>ますい</rt></ruby>させるおそろしい薬が入れてあった物だと折紙をつけました」

――とまで聞いた時に相良金吾は、思わずその小さな紫のビードロから顔を横にせずにはいられませんでした。

かれにとって怖るべきものと頭にしみついていることは、眠りであります。眠りつつ衰えてゆく奇病のために、妖婦の<ruby><rb>絆</rb><rt>きずな</rt></ruby>に結ばれてぬぐわれぬ生涯の汚辱を求め、帰るべき主家へも帰られずに、武門のすたり者となっている自分と思うことを、<ruby><rb>夢寐</rb><rt>むび</rt></ruby>にも忘れられません。

「ようがすか、話の眼目は、それからなんで」

釘勘は、ここで一だんと力をいれ、

「そこでこの滅多にない品物を、どこで手にいれたかというと、あなたもお忘れはありますめえ、音羽の護国寺前、筑波屋いう旅籠の二階で、惜しいことには一足ちがいで、あの晩そちらは、お粂と二挺駕で旅へ夜立ちと出かけたあと、入れちがいにあとの部屋で、ひょいと見つけたのがこのビードロです。<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>だと思って、うっかり鼻へでも持っていったひには、それこそ、あっしもあの時たれかと同じ病気をやっていい心もちになっちまうところでさ。……物騒物騒、もうくどい話をしなくってもおよそ見当がつきましょう、思えばお粂という女も、情が深いだけあって、ひどい親切をつくしたもんじゃございませんか」

親身とみせたお粂の情けが、実はおそるべき魔薬の手管であったと、その証拠までを釘勘につきつけられて、金吾は慄然たるおののきに、そのビードロを手にとる勇気もありません。

しかもその女の策におちて、切るに切れない悪縁のちぎりまで結んでしまったとは。

なんたることだ！

身を責め、自己の<ruby><rb>迂愚</rb><rt>うぐ</rt></ruby>をののしり、今さらその憤怨を歯ぎしりして怒り歎くといえど、なんでこの汚辱がぬぐわれましょうか、夢のように暮らしてきたこの半年のいまわしい記憶とて永劫きゆべくもありません。

「釘勘！」

悲痛な一語。

いきなり<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>の柄に手をかけると、金吾は抜く手も見せぬ勢いで、

「万太郎様へこの通りと、よしなに、犬侍の終りを<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>いたしてくれい」

あわやです、われとわが腹へその切ッ先を。

「あッ」

と驚いた釘勘。

前もってこんな事になろうかと油断はしていませんでしたが、さて実際にこうなってみると、かれもあわてて取っ組むように、金吾のうしろへかぶりついて、

「ばッ、ばかなまねをしなさんな。だからおら侍は<ruby><rb>嫌</rb><rt>きれ</rt></ruby>えだ。侍くらい理屈のわかりそうな顔をして、ものの分らねえハンチクはありゃしねえッ」

「放せッ、放してくれ釘勘」

「じょ、じょうだんいっちゃいけねえや。ここでおめえさんを殺すくらいなら、なアに、人間一生、どうころんだって五分と五分、お粂の<ruby><rb>間夫</rb><rt>まぶ</rt></ruby>で暮らしているのも悪かあねえから、あっしだって、知って知らない振りをして見ていまさあね。……だ、だがさ。そうならねえのが義理とかヘチマとかいう浮世で、あっしもお前さんも、お互いに苦しいところだが、また少しゃアそこで武士とか男とか<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby>を持って生きていられるところじゃございませんか」

思わずはいる力が、金吾の腕くびの骨をにぎりくだきそうにして――

「え、相良様。あなたがここで御短気をなすったら、あと、万太郎様の御勘気はどうなりましょうか。出目洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>がお屋敷へ返らぬうちは、あの方の御勘当におゆるしも出ないばかりか、一朝二之丸の御能があるひになると、尾州の大殿様としても将軍家へ申し開きの立たない破滅になるというお話――こいつを聞いちゃア釘勘のような町人風情でも、目先の功名や岡ッ引根性をすてて、<ruby><rb>一肌</rb><rt>ひとはだ</rt></ruby>ぬがなければなるまいと柄にもない乗り気になっているんです。――だのに、ましてや万太郎様付きで<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んでいたお前さんが、ひっ腰もなく、ここで腹を切って、人より先に楽な方へ廻ろうなんてえ考えは、あんまり虫がよすぎやしねえか。あっしにいわせれば、侍ってやつが、何かというとすぐ自害して、それで立派に言い訳が立ったと思っているのぐれえ、卑怯な、ばからしいことはないと思う」

痛烈です、雄弁です。

町人の見解としても、そこに多少の真理はある。

ことに万太郎の境遇を考え、最初に自分が屋敷を出た目的を思い合せれば、かれのことばを待たずとも、金吾は、何としてもここで死なれた自分ではありません。

といって――

ああ、そうかといってまた、生きておめおめと万太郎の前へ、どうこの姿で会えるものか。

なるほどかれのいう通り、死は<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>き道で生きるは至難な方角です。その至難をさけて易き死をえらぼうとしたのは、いかにも、卑怯な逃避です。釘勘の伝法ことばを以て評すならば、べらぼう極まる横着な考え方です――そういわれても弁解の途はない。

「悪かった」

やがて、金吾はおとなしく、釘勘の前に両手をついて、

「不覚な上に不覚をかさねるところだった。よく申してくれた」

「えッ、じゃあ、あっしのいう事をきいて下さる？」

「うム、一途に死を急ごうとしたのは拙者の心得ちがい、金吾は死ぬまい。あくまで生き恥をさらすであろう」

「では、手前と一緒に、すぐここから江戸へ帰ってくれますか」

「だが待て……」と、かれは再び苦悶の色をあらわして、

「それだけは許せ！　いかに<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をかぶっても、万太郎様へ今は会われぬ」

「いや、すいも甘いも知りぬいた若様、なんで野暮なとがめ立てをしますものか」

「なんというても今お目にかかるのは金吾の苦痛じゃ、ただよしなにお<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>しておいてくれ、ある時節には、きっと、金吾がお詫びに参じますと――」

「あッ、もし……」

釘勘はあわてながら、どこともなく立ち去ろうとする金吾の影を追って、

「もし、相良様――、もし、もう<ruby><rb>一語</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>」

湯前神社の<ruby><rb>杉木立</rb><rt>すぎこだち</rt></ruby>の暗を、ななめに縫って馳けだしました。

「強情な事をおッしゃらずに……もしッ相良様」

「何とあろうが、江戸表へは参れぬ、放せ、たもとを」

「万太郎様の仰せにそむいても？」

「ウウム、ゆるせ。しばらくの間、金吾はなきものと思うて見のがしてくれ」

「あとはどうなさろうとも、一度はお屋敷へ帰った上で」

「そちに会うさえ心苦しい今のわしが、万太郎様の前に、ただ今帰邸いたしましたと、どの面下げてお顔を合されようか。止めるなッ、この金吾をこれ以上苦しめてくれるな」

「といって、一体、どこへ行こうというつもりなんです」

「あてはない！」

――金吾は叫びました。

「ただ洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のある処へ」

止めようとする釘勘、ふり切ろうとする影が、なおもそこで、もつれ合っている時でした。

石段を馳け上がってきた伝吉が、

「――親方ッ、お粂が」

「えッ」

思わず手を放し合って、

「お粂が来た？」

「まだここを探し当てるには間がありましょうが、あとで宿の者に様子を聞いたらしく、眼色を変えて藤屋から出て来ましたぜ」

「それ、ごらんなせえ」

釘勘はいい<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>として、

「じゃあ、伝吉」

「へい」

「てめえ気の毒だがもう一度戻って行って、本陣の四ツ辻あたりで、おれが金吾様をつれて裏通りから宿へ帰るまで、見張りをしてくれねえか。何しろ当座は、あいつにだれかの姿を見せるのは禁物だからな」

かれはもう自分ひとりで、金吾と万太郎の引合せ役、また帰参の取りなし役を背負ッて立った気で、いや応なく、江戸表へ同道するものと決め込んでいるらしい。

で、どこまでも、このまま<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>を会わせぬ方が万全の策と心得たものでしょう、旨をふくませてふたたび伝吉を町の方へ見張にやりました。

その伝吉が取って返して、本陣今井屋の四ツ辻の辺に姿をかくした頃――ちょうどその頃に丹頂のお粂は、ヒタ走りに浜の方へ馳け出して行ッて、

「どこへ？　どこへ？」

あの切れの長い眼をつりあげ、あなたこなたをさまよっていました。

つづく限りの波うち際にも、磯松のほの暗い並木にも、金吾の影が見出せなかったので漁師町の細い露地から野原へ出て、夜も白い湯煙を噴いている<ruby><rb>法斎湯</rb><rt>ほうさいゆ</rt></ruby>や平左衛門の湯のあたりまで足早に探しあるいている。

「逃げたんだね！　あの人は」

そこで初めて、お粂はキッとくちびるをかみしめて、怨めしげな眼をうるませました。

逃げたとすれば、人をだまして、手引をしたのはたれだろうか？

おかしいと気がつき初めた時は、ふと、同じ二階に泊っている<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の月江とやらを疑ってみましたけれど、あの娘も小間使いも宿に残っているし？　……

「何しろ、こうしてはいられない」

金吾ひとりはお粂の生活全部であります。日本左衛門をすてて金吾にこれまで打ち込んだことは、かの女にとって、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>がけの仕事でした。

はたから見れば妖婦の面白そうなからくりと見えても、あれ程の侍ひとりを、この熱海まで連れてくるまでには、お粂自身として生命がけといっても足らない、気苦労、細心、根気、情熱――そしてその男に毒を<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>ませる大胆さまでいりました。

不自然な技巧で遂げられた恋の結果は、当然、男の<ruby><rb>憂悶</rb><rt>ゆうもん</rt></ruby>と気の荒くなるのをみるのみでしたが、それでも彼女は悔みません、男が嫌えば嫌うだけの面白味、男が<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えれば悶える姿を見る面白味、――果ては蘭薬のことを知ったら金吾がどう怒るかまで、いたずらな興味の想像に数えて、ふッと、それを話してみようかとさえ思う事もままあるくらい、お粂の恋はお粂だけに自由な考え方をされていました。

「きっと、万太郎の廻し者が来て、連れ出したにちがいない。そうすると浜の方よりは、<ruby><rb>根府川</rb><rt>ねぶかわ</rt></ruby>の街道へ急いで行ったかもわからない」

もう<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>です。

かかる場合の女の前にはどんな宗教も光がないといいます。ましてやお粂にはあの伝法と世間を怖がらない強さがある。

「ホ、ホ、ホ。わたしも丹頂のお粂、どんなことをしたッて、逃がしゃアしないから！」

たれにいうともなく罵ッて、根府川街道の方へ道をかえて走りだしてゆく。

そして次第に息ぎれが激しくなるにつれ、<ruby><rb>夜化粧</rb><rt>よげしょう</rt></ruby>のおしろいに青味がのぼって、いわゆる<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>をそれにほつれる黒髪が作ってきます。

と。――丑の<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby><ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りのようなその姿が、本陣今井屋の四ツ辻をよぎろうとした時、

「オオ<ruby><rb>丹頂</rb><rt>たんちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>」

不意に横からよぶ者があって、またすぐに違って次の声が、

「姐御のさがすものはここに居ますぜ」

と、手をあげました。

背筋へ水をかけられたように、お粂がキッとうしろを見ると、そこに四、五本の<ruby><rb>芽柳</rb><rt>めやなぎ</rt></ruby>があって、そこに四、五人の黒小袖。

かなり取りのぼせていたお粂の耳にもそれはハッとひびきました。江戸なら知らずこの熱海で自分を丹頂の姉御とよぶものは一体たれなのか？

「お久しゅうございました」

お粂があきれている前へぞろぞろと姿をならべたのは余人でもありません、四ツ目屋の新助、尺取の十太郎、雲霧の仁三、千束の稲吉など。

それら五、六人の者はみなお粂にも深い馴染がある日本左衛門一まきと称されるなかの<ruby><rb>強</rb><rt>ごう</rt></ruby>の者で、

「あッ……」

それと知って驚いたお粂が、返辞もせずに逃げようとしましたが、もう間に合わないことでした。

「おッと、待ッたり」

油断のない目が前とうしろを取巻いて、

「ここで逃がしてたまるものか。さ、会わせてやる人があるから素直におれたちについて来るんだ」

と、にわかに言葉があらくなります。

なかで四ツ目屋の新助は、お粂のそばへズッと寄って来て、

「びッくりするこたあありませんよ、会いてえというのは親分です。だが、この湯町の近くじゃ人目につくからというんで、さる所にお待ちなすッていますから、まあ余り世話をやかさないで、黙ッて一緒に来ておくんなさい」

背なかを押して追い立てようとしますと、お粂は振り払って、

「いやだよッ、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>ゃ」

「え」

「親分に会いたくもないし、それに、今夜はほかに忙しい用があるんだから」

「忙しい用が？　へへへへ」と尺取の十太郎、<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐッたいような声をだして笑いながら、

「まあそちらの方もお忙しゅうございましょうが、親分にしましても目をかけた女に寝返りを打たれたままで引ッ込んでいるわけにも行かねえし、こちとらにしたッて姐御と相良金吾の<ruby><rb>道行</rb><rt>みちゆき</rt></ruby>を、<ruby><rb>常磐津</rb><rt>ときわず</rt></ruby>のきれい事か何かのように、指をくわえて拝見しているわけにもまいりません。――おそかれ早かれ、なんとかこの結末をつけなくッちゃあね」

「それでお前たちは熱海へ来たのかい？」

「お察しのとおりで」

「御苦労さま」

「まッたく御苦労さまですよ、姐御の浮気がたたッて、江戸から、ワザワザ追ッ手役に参ったわけです。元来、駆け落ちの追ッ手なんてものほど御苦労さまな役目はありゃあいたしません」

「ああ、じれッたい。わたしは今そんなくだらないことに暇をつぶしていられない場合なんだからね、どうか、ここで会わないことにして別れておくれな」

「じょうだんいッちゃ困る」

四ツ目屋の新助はくちびるで薄く笑って、お粂の背なかを小突きながら、

「さ、歩いてもらおう！」

ほかの者もそれにつづいて、

「姐御、話は親分と会ってからにして、とにかく先へ行ってもらおうじゃねえか」

「何をするのさ、おまえ達は」

「なにもこうもあるものか、さッ、あるけ、あるけ！」

と、あとのことばは耳にも入れず、いやといえば腕力でも引ッ立てずには<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かないふうです。

しかしお粂は動きません。今さら日本左衛門の所へ戻るくらいなら初めからかれを捨てて金吾という男はこしらえない。それに、こうしてぐずぐずしている間に姿をかくした男が刻々と遠く去ってしまう気がして<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れッたいことおびただしい。

なみの女ならばおどしにも乗りましょうが、役者はお粂の方が一枚上ですから、なんといったところで決して動く<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>がない。

「生意気ッ」

と、業をにやしたのは短気者の雲霧で、

「面倒くせえじゃねえか。こんなやつは手ぬぐいをかませて引ッかついで行くにかぎるぜ」

目まぜをすると、お粂のうしろに立っていた千束の稲吉が、

「兄弟、手を貸してくれ」

と仕事は早い――いきなり手を廻して猿ぐつわをかけようとしましたが、いつのまにか抜いて持っていた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>がそれを払ったかと見ると、お粂は四ツ目屋の新助の胸を突いて飛魚のように身をハネました。

「畜生ッ」

ばらばらッと六、七間。

逃げ出す先へ廻って尺取の十太郎が手をひろげる。

雲霧が帯をつかんで引きもどす。

そこを新助が飛びついてウムをいわせず匕首をたたき取る。

――親分日本左衛門が寵愛していた女と思えばこそ多少の手加減もしておりましたが、こうなればイヤも応もいわせたものではありません。

いかにまたお粂が必死で反抗してみたにしろ、雲霧、四ツ目屋、尺取なんていう人間たちが、手をつないで取巻いてしまッては逃げられないのが当然で、逃げようとすればするほど<ruby><rb>牛頭馬頭</rb><rt>ごずめず</rt></ruby>の苛酷をあおるばかりです。

「それッ、早くしろ」

ねじ伏せたお粂の口を<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>でしばりつけると、手を取り足を取りして、大の男が四天にかつぎ、

「飛んだ世話をやかせやがる」

<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>になって一散に走り出ようとしましたが、四ツ目屋の新助は先に立って、

「ほい！　道が違うぞ、こッちだこッちだ」

「宿じゃあねえんですか」

「<ruby><rb>古々井</rb><rt>ここい</rt></ruby>の森を抜けて山越えにかかれ」

と、辻を北へ曲がろうとした時に、何を見たのか、ひとり横ッ飛びに、

「野郎！」

と怒鳴って紙屋の辻の方へ駆け出したのは雲霧です。

見るとかれの真ッ先へ猫に追われた鼠のように駆け出してゆく男がある。それはさッきから辻の一方にジッとかくれていて、つぶさに事のなりゆきを<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていた手先の伝吉でしたが、脱兎のごとく身をまろばして行くそのうしろから、<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を蹴って追いついた雲霧が五体の弾力を拳に集めてかれの背骨を突きのめしたかと見えますと、

「わッ」

といって伝吉は、前の方へ身を泳がせ、<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>の<ruby><rb>石塀</rb><rt>いしべい</rt></ruby>にその勢いで<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>をぶつけたらしく、鼻血を抑えたまま<ruby><rb>小溝</rb><rt>こみぞ</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>へ倒れました。

小気味よげに<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>って雲霧がそこから影を消してから、いくばくの時も経ぬうちでした。――なるべくゆるりと帰った方がよかろうと考えて、湯前神社の方から沈みがちな金吾を連れてそこへ近づいて来た釘抜きの勘次郎。

「おや？　……」

ふと、辻の<ruby><rb>小溝</rb><rt>こみぞ</rt></ruby>に手を突ッこんだなりダラリとなっている男を見つけ、

「やッ？」

抱き起してみると伝吉です。

金吾もおどろいて共に手当を加えました。そしてやっと気のついた伝吉の口から、たッた今の出来ごとを詳しく聞いて釘勘はそれをむしろ好い都合と考えましたが、「ウーム……お粂が」

と、相良金吾はあらぬ方へ目をやって、何か目に見えぬものの力に引きずり込まれるように足を前へのり出しました。

ひょいと釘勘がうしろを見た時は、もうそこに金吾が居なかッたのです。

「しまッた！」

かれが<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>と何かを直覚していながら、あたりの小路をうろうろと探していたのは、まさか、金吾が伝吉の話を聞くや否、千鳥ヶ浜の方へ走ッたとは、常識の上からも夢々思いつかなかったものとみえる。

しかし。

相良金吾はあきらかに常人の常識とは反対な方角に向って、今、<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>を放れた矢のごとく走ッていました。

その血相をごらんなさい常の金吾ではありません、常識の人でないことは、その眼気、その息づかい、その足どりの早さ、髪を乱してゆく風の間に見てもわかります。

恋は熱病といいますが、恋とはいえない不純の女の危難を聞いて、なんで金吾がかくまでにすごい勢いで駆けだすのでしょうか、これは<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく釘勘がまさかと思った方が常識で、恐らく金吾自身としても、この瞬間の自己の気もちは分らないのではありますまいか。

とにかく、この瞬間だけでは、深くかれの心理に立ち入ることができない。ただ不可解です、魔がさしたようです、しばらくはかれの行動を見ているほかにありますまい。

――見ていれば相良金吾はなおもそれから走りに走りつづけ、小田原の宿へつづく根府川七里の街道をさながら<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>の姿で急いでおります。

## 宿怨情恨

はるか南に、走り湯<ruby><rb>権現</rb><rt>ごんげん</rt></ruby>の常明燈が一点、西の方には<ruby><rb>根府川</rb><rt>ねぶかわ</rt></ruby><ruby><rb>女関所</rb><rt>おんなせきしょ</rt></ruby>の灯がポチッと暗の空に見えていて、そこへはどッちも二里ほどずつ離れているさびしい漁村。

まばらな家数はみな寝しずまっていました。

そして漁船の柱にかけた網の目に、晩春にしてはめずらしく冴えた月が<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>がれています。

ぽウッと白い煙がうすく濃く海風にあおられました――千鳥ヶ浜の波うち際に。

そこで火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>こうとしている男ふたりの影が見出されて、

「寒い……」とつぶやきながら、

「潮風にあっちゃたまらねえ、肌着の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>までジメジメとして来た」

「何しろ、もうすこし焚きつけがなくッちゃあ困る。オ、そのうしろに舟板がある」

「こりゃ<ruby><rb>漁師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>の渡世道具、こいつを焚き物にされちゃ、さだめしあとで困るだろうが」

「ふ……<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>の<ruby><rb>菩提心</rb><rt>ぼだいしん</rt></ruby>」

「あまり<ruby><rb>後世</rb><rt>ごせ</rt></ruby>の功徳にもなるめえな」

「あたりめえだ。人殺しをしていながら、板子一枚助けてみたところで、<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>の庁の<ruby><rb>悪業帳</rb><rt>あくぎょうちょう</rt></ruby>が帳消しにもなるまいて」

「それでだんだん悪事に深入りするのだ」

「まあ、そうかも知れねえ」

「オオ、いい火になった」

「冬のようだな」

「もう<ruby><rb>初時鳥</rb><rt>はつほととぎす</rt></ruby>が鳴く頃なのに」

「そういえば、もう<ruby><rb>初松魚</rb><rt>はつがつお</rt></ruby>も出る時分だ」

「――と聞けば、やはりお江戸が恋しくなる」

「恋しいのはお粂じゃあねえか」

「ばかな！」

「あは、は、は、は、は」

と焚き火にてらされた赤い顔が大きな口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>きました。

<ruby><rb>裾縁</rb><rt>すそべり</rt></ruby>をとった野袴のひざをひらき、<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>しゅざや</rt></ruby>の大小をぶッちがえて、かますの煙草入れを指に挾んでいる四十がらみの総髪の武家。

その風采から眺めますと、平和な<ruby><rb>御代</rb><rt>みよ</rt></ruby>に<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らない軍学者の<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>りものみたいな男ですが、それにしても、ことばが少し下卑ている。

余人でもありません。これは聖天の盗ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>市にも顔出しをしてた抜け買いの頭領<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門で、それに対して編笠をかたわらに脱ぎ、あかあかと燃える火に潮風の袖をほしているのは日本左衛門でありました。

「なあ、金右衛門」

お粂の話が出た<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>にかれはその笑いにまぎらせて、

「こんだあ飛んだ<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあい</rt></ruby>をさせてすまなかったな」

「なにさ、どうせ当分は江戸から足を抜いているところ、かえっていい保養をしたというものだ」

「うまいことを言う……」

薄ら笑いをして<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>をよけながら、

「だが、今夜なんざ、あまりいい保養にもなるめえが」

「このくらいな義理はしかたがない、友情というやつでな――。しかし日本左衛門、よけいな口を入れるようだが、まあ腹の立つところを抑えて、こんどは一つこらえてやるんだな」

「なにを」

「お粂の始末さ」

「…………」

「おめえの身になってみれば、<ruby><rb>廓</rb><rt>さと</rt></ruby>から根びきした後も、色恋はべつとして、あの女にはずいぶん金をかけていたようだから、腹の立つのはもっともだが、誰にも、ひょッと気まぐれというやつはあるもの。まして、<ruby><rb>水性</rb><rt>みずしょう</rt></ruby>の女を世話する以上は、こんな苦い事のあるのも前から承知でなくッちゃならねえ。怒るのは野暮というもの、それに、大盗日本左衛門という貫禄を小さくすることにもなる」

「……ありがとう、その忠言に礼だけは言っておく」

「いや、まったく」

「だが、この事だけは、黙ッて見ていてもらいたい。すこしおれにはおれの方寸がある」

「どうしても、おめえはお粂を許さないつもりか」

「これ以上大目に見ているなあ、許すという意味にはならない。ただ日本左衛門が女に甘いと見られるばかり。第一おれが忘れてやるにしても、手下のやつが歯を喰いしばるので捨てちゃあおけない」

「ならば、男の方さえたたッ斬ってしまえば、お粂も目をさましてわびを入れてくるだろう」

「いやいや、このいきさつの罪は明らかに金吾になくて、お粂にある」

「金吾はおめえと<ruby><rb>仇敵</rb><rt>あだがたき</rt></ruby>、きゃつを生かしておくことは、身のあぶないばかりでなく、夜光の短刀をさがす上にもだれより邪魔になると思うが」

――もうそれ以上は答えないで、日本左衛門はただ微苦笑をもらしておりましたが、

「それはそれ、これはこれ」

と、つぶやきながら板子の焚きつけを持って綺麗な火の子をほじり立てる。

その時、街道から磯へ降りてくる<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の人影が見えはじめました。先の者がここの焚き火を見て見当をつけて来るように、日本左衛門もやおら立ち上がッて、<ruby><rb>皎々</rb><rt>こうこう</rt></ruby>たる月光に、それが待つ者であることを遠くから読んでいたようであります。

なにか罵り合いながらやがてそこへ近づいて来たのは、お粂を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して急いできた雲霧、四ツ目、<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>なんどの連中で、

「親分、お待たせいたしました」

と注文の品物でも引っさげて来たように、彼の足もとへ、しどけない姿のお粂を突き出しました。

そして、口をそろえて、

「どうも親分、こんな<ruby><rb>手古摺</rb><rt>てこず</rt></ruby>ッたことはございません。何のかのと駄々をこねるんで、大の男が一汗かいてしまいましたよ。これが自分の女ならば、どうにだッて荒療治をしちまいますが」

「そうか、ウム――」

と、日本左衛門は、自分の足元へ突き倒されてきた<ruby><rb>惨</rb><rt>みじ</rt></ruby>めな女の姿にジロリと一瞥をくれただけで、

「御苦労だった。こんなことで、てめえ達にまで世話をやかせたのはおれの落度、勘弁してくれ」

「どういたしまして」

愚痴をならべた連中がみな恐縮しながら、

「なにも親分、そう真面目になって、こちとらに勘弁してくれなんて、水くそうございます」

「でも、こんな女の後始末までに、子分の手を煩わすのは、いかにも親分甲斐のねえ話。――おれは面目ないと思う」

いつに似もやらず憂鬱な顔を伏せて、日本左衛門は波うち際の砂をふみつつ、

「アア子分はいいものだ……」

だれにいうともなくつぶやきました。

「――おれには親もなし女房と名のつく者もない、子を持つ親の味も知らなければ、女親の愛情も小さい時から覚えがない。だから、金や物に不自由を知らねえ日本左衛門も、人情のあたたかみには飢えていた。……お粂を世話していた気持も、実は色恋ばかりでもなく、こいつを娘とも<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>とも、また女房とも思って、<ruby><rb>吾</rb><rt>わが</rt></ruby>ままをしたりされたりしたかったのに。――つまり、世間の人のやる人情のある<ruby><rb>生活方</rb><rt>くらしかた</rt></ruby>の真似ごとをして<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り慰めていたおれだが……」

内面の怒りを理性で抑えつけようとして、行きつ戻りつしながら、波の間にこうつぶやいている親分の独り言に、あらくれた手下たちも、思わずシーンとして消えかけている焚き火の残り火に目を集めました。

<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門もうなだれて、そのことばに<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれている。

それは日本左衛門のみでなく、心の<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>を訪れる時、たれもさびしと思う盗人の悲哀でしょう。

<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>は盗める。

世の中の品物はみんなおれの物だと考えることも、盗人だけにはできます。

将軍家の秘庫の宝物たりといえどかれの手のとどかないものではありません。

また黄金をもって世の中に得られぬものも何一つとしてない。

しかし、ただ一つ、人の愛情をいかんせんです。世に人情を盗み出し得る<ruby><rb>蔵</rb><rt>くら</rt></ruby>はない。

常に盗人の淋しいものは、その生業の性質から、その生活に愛情味のかけることでありましょう。

「……おれもばかな考えをしたものさ。それをお粂に買おうとして、忍川に家を持たせた。ところが、その家からも人情の芽は吹かない。――だが<ruby><rb>水性</rb><rt>みずしょう</rt></ruby>の女にそれは無理な注文、今思えば、あのお人よしの率八でも可愛がってやった方がよッぽどましであったものを……」

お粂は突き倒されたなり砂浜の上へうッ伏し、泣きじゃくッている様子でありましたが、日本左衛門のことばを聞いて今さら悪かったと悔悟しているものやら、または金吾との仲を裂かれて口惜しいと思っているのか、泣いている時の女の本心ばかりは神にも人にもわかりません。

「親分、勝手を申すようですが」

そこの空気がどうにもならなくなったので、気転をきかした四ツ目屋の新助が、

「まだ<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>とお話もございましょうし、ここに大勢で<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>をしていちゃ人目にもかかりますから、あっしやほかの者は一足先に御免をこうむッて、小田原の城下でお待ち申しておりましょう」

「ウム……そうだな」

と、日本左衛門が考えているうちに、先生金右衛門もそれがいいと立ち上がって、一同サクサクと根府川の方へ立ち去りました。

ザブン、ザ、ザ、ザ、ザ……とあとはひとしお静かな波の諧音。

お粂はいつまで顔をあげず、日本左衛門も<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と<ruby><rb>苫舟</rb><rt>とまぶね</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>に腕ぐみをしたままで、千鳥ヶ浜は更けてゆきます。

「お粂！　<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をあげろ」

やがて、こう口を切った日本左衛門。

のッしりと、小舟の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>から立って来て、月光の中に倒れている女の姿をジロリと流し目に――

「なぜ顔を上げない？　なぜ早く両手をついて詫びないか。最前、おれの述懐も聞いていたろうに」

声のさび、<ruby><rb>陰</rb><rt>いん</rt></ruby>にすご味はありますが、言葉は常と変りなく、

「てめえが金吾をかくまっていたことは、この春、おれもたしかに茶の間の<ruby><rb>襦子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>窓から見届けていた。――がその時はワザと帰って、率八を使いにやり、その晩捕手の手が入ることを知らせてやッたなあ、おれとしてはかなりな我慢……。その情けをば、てめえは甘く受けとッたな」

いう語調の少しもせかぬ如く、おッとりとした片足の<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>が、砂のまま、静かに女の肩へ乗りました。

憎いやつ！

そう思って踏みつけるほど、そこに力がはいッているのではありませんが、理もあり情もある片足の下から、お粂はのがれることはなし得ませぬ。

「おれは甘い。いかにも、もろい人間だと、自分でも合点はしている。しかしおれがもろいのは人情を<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>とする時で、女に<ruby><rb>甘</rb><rt>あめ</rt></ruby>えと受け取られちゃあ少し困る。

――そりゃあ時と場合によりけりで、好きな男があるというなら、<ruby><rb>熨斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をつけてやらない限りもねえけれど、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>に依る！

相良金吾！　おれを仇とねらッて屋敷を出ているやつ！　おれの大望に邪魔だてをする万太郎や釘勘と同腹のやつ！　そいつに<ruby><rb>熨斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をつけて進上するわけにはまいらねえ。――いや、かりにおれは見て見ぬふりをしてやるとしても、<ruby><rb>側</rb><rt>がわ</rt></ruby>の奴らが承知しないことは火を<ruby><rb>賭</rb><rt>み</rt></ruby>るよりも明らかな事。ほうッておけば、いつか一度は、<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の早いのがてめえの寝首をかきに出かけて、親分こうしてまいりましたが――と開き直るにきまッている」

風のない月光の海――

珠を洗う波の音。

日本左衛門は、ふと、ことばを切って、あなたの街道を飛ぶ一点の灯に注意していました。

しかし、それは熱海を<ruby><rb>九刻立</rb><rt>ここのつだ</rt></ruby>ちで江戸へ急ぐ早飛脚の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>とわかりましたので、またお粂を足元に見て、

「もうくどい事はいうまい。金吾と別れろ」

「…………」

「お粂ッ」

返辞がないのでやや鋭く、

「金吾と手を切って、おれや子分の目の届かねえ所まで落ちて行け。さすれば、てめえの命だけは助かるというもの、これがおれの最後の情けだぞ」

と、足を放して突きやりました。

そして自分は、先に小田原へ向った金右衛門や子分のあとを追うべく、砂地に捨ててあッた<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>を取り上げますと、

「待ってください親分」

何と思ッてか、お粂も急に立ち上がって、その編笠をつかみながら、

「じゃ親分、あなたとは、今夜ではっきり別れましたね」

「よし！　金吾ともきッと切れたな」

「その御親切はわかりましたが、私も丹頂のお粂、卑怯な嘘はいいますまい。ここでおことわりしておきますが……親分え、お粂は死んでも相良さんとは切れない覚悟でございますから、それだけを承知していて下さいましね」

「なんだと」

かぶりかけた編笠が、ふたたびその手に戻りかける。

虫をこらえていた心へ、女が投げつけてきた捨鉢なことばに、

「お粂ッ、もう一度いってみろ」

むッと、日本左衛門の顔いろがうごきました。

この男の憎念を買ったが最後、それがどんなに恐ろしいものかということも、知りぬいているお粂ではありましたが、持前の気性がこじれて、その恐れ<ruby><rb>気</rb><rt>げ</rt></ruby>もなく反撥的に、

「はい、どんな目にあおうとも、相良さんのことは思いきれない！　金吾さんとは手を切れないといッたんですよ！」

糸切歯に唇をゆがめて、二度まで、男の名をことばのうちに呼んだものです。

「こいつ、<ruby><rb>逆上</rb><rt>あが</rt></ruby>ッているな……ふ、ふ、ふ、ふ」

と、日本左衛門は笑いかけましたが、それは火のつきそうな怒気を自嘲する身ぶるいにも似ておりました。

「おれの気持がわからないと見える。女子と小人は度しがたしというやつか」

「女の気持もべつですからね、御親切は身にしみますが、一方と手を切れなんて、情けの押し売りはやめてください」

「では、どうしても、金吾とは手を切らねえというのだな」

それには、<ruby><rb>空耳</rb><rt>からみみ</rt></ruby>を装って、しどけない帯の結びや<ruby><rb>小褄</rb><rt>こづま</rt></ruby>の前を直し、顔にかかる乱れ髪を白い指先でかきあげながら――

「ほんとに、ひどい目に会わせやがッたよ」

呟やいて、うしろ向きに、

「――じゃア親分、お<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>をひかないようにいらッしゃいね」

「待て待て、お粂、お粂」

「なんですか」

「待てッ！」

「親分とは、今夜ここで、きれいに別れる約束をしたはずでした」

「うーむ、ぬかしたな？」

「未練じゃありませんか、去った女に」

「ちイッ」

というと、かれの手にふるえていた編笠はポンとうしろへ――

「<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>めッ」

という一喝――抜き打ちの<ruby><rb>大刀</rb><rt>だんびら</rt></ruby>と、はねおどッた五体とが、ほとんど同時にお粂の襟筋へ飛びつきました。

せつな！

ひ――ッ……という傷手をふくんだ声が千鳥ヶ浜をかすれて行きましたが、一瞬の剣風をかわして、お粂の影がまたドドドドと砂地の浜をこけつまろびつ、死に身になって逃げ廻るのが、黒く明るく、潮煙と月光のなかに見える。

白い<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>のさきに、ほんの、口紅ほどな血は塗りましたものの、一太刀にやり損じて、しまッたと<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き込みながら、その悲鳴を追ッかけ追んまわす日本左衛門。

親分という<ruby><rb>貫禄</rb><rt>かんろく</rt></ruby>の上に、かなり自省心を強めていた男ですが、こうなるとかれも痴情におどる一個の凡夫にすぎません。

初めは、足にからまッた厄介な<ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるくさ</rt></ruby>をあしらうくらいな気持で、女を見ていられましたが、理智の鯉口を切ッた以上、もうそうではありません。

千鳥ヶ浜の広さと、<ruby><rb>鬢髪</rb><rt>びんぱつ</rt></ruby>を<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>になでる海風とが、人殺しの快味をあおるのではありますまいか、――また、刀を呼びよせるような女の悲鳴と、刀につられ込んでいくかれの血を好む本能も、因果な一筋の糸になって、断然、お粂の白い体を斬りきざまなければ承知しない。

が、しかし。

そうしたかれの白刃が、お粂の背後へ憎念の風を切ッて迫ッた時には、意外な危機が、女の身よりも、かえってかれのうしろへ急迫していたのです。

怖るべき殺気に吹かれて、

「あッ！」

と、日本左衛門が気がついたのも髪一筋の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どい瞬間で、何者ぞ、

「おのれ！　卑怯ッ」

という不意なかすれ声に、思わず<ruby><rb>踵</rb><rt>くびす</rt></ruby>を蹴りました。

ダッ――と横に跳ね飛ぶと、砂地へ半身<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めこんだように身をかがめ、<ruby><rb>当麻</rb><rt>とうま</rt></ruby>五郎のだんびらを守り<ruby><rb>構</rb><rt>がま</rt></ruby>えの青眼に、二ツの<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>は剣のミネをおもむろにたどって、月光をチカッと射る<ruby><rb>鋩子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>の先から、そこに<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えぬけた<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の正体を見直しました。

その間を波の叫びが、

「おお！　さ、相良さん――相良さん――」

お粂の狂気した声を交ぜて通りぬける。

と知るや日本左衛門は、伏せ身の青眼を少しもくずさず、そのまま体をヌーとのばして、

「ウウム、来たなッ金吾」

と、かえって心の落着きを取り戻していう。

はッはッ……という荒い息づかいが、かれの剣前に聞こえます。そして海をうしろにし、月に鬢の毛をそそけさせて、柄に手をかけている若者は、相良金吾でありました。

卑怯――と<ruby><rb>初手</rb><rt>しょて</rt></ruby>に呼びかけたところを見ると、日本左衛門がお粂を追ッている間、金吾はしばしばよびとめていたのに違いありませんが、それと知ることの遅かったのは、お粂はもとより日本左衛門も、かなりカッとしていたものに相違ない。

ですが、日本左衛門の立場から見ると、ここに金吾の来たことは、決して、偶然ではありません。

ありうることです。

いや、こう来なくッちゃあならないところだ。

かれの考えからは、金吾の複雑な心理や悩ましさなどは毛頭察し得ない。

で、瞬間。

来たなッ――という気が真ッ先に起りました。深間になった女を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り返されて、無念まぎれに追いかけて来た命知らずよ！

いかにも金吾の眼はおそろしい敵意に燃えている。

（おのれ、お粂をやッてなろうか）

とも見られる<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>。

鯉口に半身の力をこめているので、刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>は後ろへ高く跳ね上がっています。そして、彼の剣勢を見、自身の体をととのえる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、ここまで宙を駆けてきた呼吸を平調に返そうとしているふうです。

その猶予を与えまいとして、一方の<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>が、二度ほど、月に光をよじらせて挑みましたが、金吾はそれに乗っても来ず、また、つけ入ってゆく隙もない。

こいつは少し手間がかかる。

――と考えたのは日本左衛門の胸のうち。

金吾はまた金吾として、ここに立つ以上、充分なる覚悟と死に身の用意がなければならないはずです。かれには一度、真土の山の黒髪堂で、素早い<ruby><rb>当身</rb><rt>あてみ</rt></ruby>をくらッています。あの苦い味を与えられている相手です。

容易に切ッて放たない<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>にも、いかにかれへ向って大事をとっているかが分りますが、呼吸の平調がもどるうちに、かえってその心気に疲れが来はせぬかと思っていると、

「金吾、<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆいごん</rt></ruby>は」

と日本左衛門のことば。

タ、タ、タ、と寄りつめて来たかと思うと、

「オオ、ゆくぞッ」

空に白い剣の虹――

ひゅッと来れば受けきれますまい！　あなやというまもありません――大上段から真ッ向です。

で金吾、なんでその<ruby><rb>剣風</rb><rt>けんぷう</rt></ruby>に当り得ましょうか、あとへ<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>くよと思われましたが、途端に、パッと屈身をのばし、一跳足に手元へとび込み、

「むッ」

と、刀の<ruby><rb>柄頭</rb><rt>つかがしら</rt></ruby>で、かれの<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を打ち当てますと、その勢いで了戒の一刀は、<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>を<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>に加えるばかり深く相手にのぞみました。

「あっッ――」

と、日本左衛門は思わずのけぞる。

誰がこの無法な剣を予期しましょう、いかに捨て身とはいえ、殆んど剣も生死も無視したやり方。

ですがこれを、片山安久の抜刀法なり一ノ宮流の<ruby><rb>居合術</rb><rt>いあいじゅつ</rt></ruby>からみれば本格です。ここで初めて思いだすのは、尾州家国元の地方では、この居合をとり入れた戸田流の刀法がすこぶる行われている。

かれは初太刀で完全な居合の呼吸に成功した。

けれど、自身の剣を相手へ深く届かせたことは、同時に、相手のだんびらを自分の肩へ充分のぞませたことにもなる。

相討ち？

よれて合ッた二ツの影へ、ザアッ……と波しぶきが煙るのをすかして、お粂は意識なくその方へ駆け寄っています。

火の如き勢いが剣の機先を制して、金吾の第一刀はあざやかに、日本左衛門をして<ruby><rb>瞠若</rb><rt>どうじゃく</rt></ruby>たらしめましたが、かれもさるもの、敢て、その殺風に逆らわず、

「若蔵、味をやるな」

と、軽く<ruby><rb>扱</rb><rt>あしら</rt></ruby>いつつ、老巧に相手の疲れを誘って、その呼吸の急きこんできた頃合をきッかけに、

「――さ、出かけるぞッ」

と激越に立ち直り、

「無駄な<ruby><rb>足掻</rb><rt>あがき</rt></ruby>をやるのは止せ。もう、てめえの<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>は死相に変って来ているじゃねえか！」

ジリジリと食い迫ッてきたなと思いますと、あわや、<ruby><rb>右風左風</rb><rt>うふうさふう</rt></ruby>のだんびら、閃々たる光流をほとばしらせて、たとえば一体六<ruby><rb>臂</rb><rt>ぴ</rt></ruby>の魔神から一時に数十本の剣が振り出されてくるように、その殺気と隙間なき剣の交錯の前には、とても、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を向くべくもありません。

「ム、無念ッ」

と歯がみをして、懸命、踏みこらえんとはしますものの、技量の相違はここに至って絶対的なものとなります。

ことに、血気一図な若さと場なれのした老練との差は、時ふるほど格段な差をあらわし、相良金吾たとえ意気はどれほど<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>んなりといえ、病後の気息ヤヤもすると乱れがちに、汗は<ruby><rb>鬢毛</rb><rt>びんもう</rt></ruby>に油としたたり、目は血走り、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>はかわき、タジ、タジ、タジ……あとへあとへと斬り立てられて来たのはまことに是非もないわけ。

おお、その顔は死相です。生ける色ではありません。日本左衛門が<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>するとおり、かれが戸田流の必死な防ぎも無益か、どう<ruby><rb>贔屓目</rb><rt>ひいきめ</rt></ruby>に見ましても金吾の一命、ここにあやうしと見えました。

が――

幽明を<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>するその間一髪。

バラバラッと日本左衛門の顔へ向って、突然、<ruby><rb>霙</rb><rt>みぞれ</rt></ruby>のごとき風が<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかる。

「あッ……」

目つぶし！

砂！

お粂です。

横に廻った丹頂のお粂が、男の危機にわれを忘れて、つかんだ砂の目つぶしです。

消えなんとした<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>の火がパッと明るくなったように、攻守<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんどう</rt></ruby>の形となる。

しかし、それで金吾が相手を逆地に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>とすわけにはゆきませんでした。その時、一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>の舟が<ruby><rb>小半丁</rb><rt>こはんちょう</rt></ruby>程あなたの磯岩の間へドンと着いて、

「やッ、親分じゃねえか」

と叫び合うや、ひとり残らず、舟の中からおどり上がッて、わッとここへ馳け出してくる様子。

それは今し方、一足先に小田原へ行くといって、日本左衛門と別れた四ツ目屋、雲霧、尺取、<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門などの一群です。

どうして、その連中が、ここへ引ッ返して来たかというと、ここから遠からぬ根府川の関所――そこは女手形の関なので、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>をくくッて通ろうとすると、すでに、熱海にいる釘勘から密告の<ruby><rb>早打</rb><rt>はや</rt></ruby>が飛んでいて、小田原の役人や<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>がビッシリ手配をしていたのであります。

で、にわかにあとへ戻って、磯辺の舟を拾い、江の島方面まで海づたいに落ちのびようと相談はきまりましたが、日本左衛門がもしそれを知らず根府川へかかッては一大事と、二<ruby><rb>挺櫓</rb><rt>ちょうろ</rt></ruby>を押して一散にここへ帰ってきたわけ。

それはいいが、早くも、関所の方でもまたそれを感づいて、海と<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>の両方面から、捕手をわけて追いつつんでくる。

遠く聞こえる<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>の<ruby><rb>警板</rb><rt>けいばん</rt></ruby>――

いんいんたる太鼓の音も浜にひびいて聞こえてくる。

月明の海上にチラチラと<ruby><rb>漁</rb><rt>いさ</rt></ruby>り火のように見えだしたのも<ruby><rb>烏賊</rb><rt>いか</rt></ruby>採り舟ではありません――、あれは関所のお船手と、早川番所につめている大久保加賀守小田原の人数です。

すでに月は箱根の二子山と駒ヶ岳の背に傾いている。時刻はあれからだいぶ過ぎて、もう夜明けにも程近い頃。

ひとり道なき山の沢を迷っているのは金吾の影でした。

いや金吾のみならず、あの関所の人数が暴風のように千鳥ヶ浜を襲った後は、みな<ruby><rb>散々</rb><rt>ちりぢり</rt></ruby>ばらばらになッて、八方へ敗走せざるを得なかったでしょう。

「残念至極……あの事さえなければ、たとえ刺しちがえるまでも、日本左衛門のやつを生かして置くのではなかったのに」

と、金吾は道に迷いつつ、道に迷っている当惑は念頭にありません。

体も綿のごとく疲労しているはずなのに、なお、時々、つぶやくことは、かれを打ち損じた無念。一太刀の怨みを<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>ゆることのできなかった心残り。

が反対に、相手の日本左衛門にいわせれば、もう一足捕手の殺到が遅かったなら、金吾の五体を<ruby><rb>膾斬</rb><rt>なますぎ</rt></ruby>りにしてくれたものを――と、今頃はどこかで、舌打ちをしているのかも分らない。

とまれ金吾は、今夜の機会を逃がしたにせよ、またいつか一度は、きッとこの報復を思い知らしてやるぞ――と迷える道を歩むのでした。

どこへ？

この迷える道をどこへ歩もうとするのか？

それは金吾にも分りません。

かれはただこれから先、どこまでも生きなければなりません。<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を万太郎の手で尾州家の元の宝蔵へ納めるまで、必ず生き通さなければなりますまい。

そして、それまでは、尾州家へ帰ることもできないし、万太郎の前に姿を見せることもならない彼です。――この道をどこへ向ってゆく気かと問われれば、出目洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のある所へ――と答えるほかありません。

すると……

どこからか自分を追い慕って来るような声が、

「相良さアん――相良さん――」

と、木魂にひびいて、沢の真下に聞こえて来ました。

耳のせいかと疑ぐりましたが、その声が、だんだん近くなって来たので、足を止めて山の中腹に待っていますと、すぐそこへ、髪を乱したままのお粂の影が見えたので、

「おッ！　お前は」

と驚きながら、金吾は何思ったか、ことばもかけずバラバラと山の背へ馳け<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ろうとする。

「ひどい人！」

お粂は追いつくと共に、男の袖をつかんで、

「待ってくれたッていいじゃありませんか、いくら呼んでも、振り向きもしないで」

怨みがましくいって、波うつ息を<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいる。

と――身をへだてて金吾は鋭く、

「何しに拙者を追って来たッ」

と、<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>に睨み返しました。

「えッ？　……」

お粂はハタかれたように、目を見張りましたが、自分の聞き違いかと思い直して、

「一緒に逃げてくれるつもりなんでしょう。……だのに、ちッとも待ッてくれないでさ」

と、ようよう少し落着いて、髪や<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>を直していますと、

「お粂、お前は何か考え違いをしていやしないか。――拙者はもうお前とは逢わないつもりだ。この先まで、一緒に逃げて行くなどという思案は毛頭ない」

「相良さん、それは本気でいっていることなんですか」

「元より本気じゃ、この場合のことばに、なんで嘘や<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れがあろうか」

「それでは、何で私を助けるために命がけで、日本左衛門を追ッかけて来たんですえ？　そんな、気の分らない話ッてないじゃありませんか」

「お前を助けるために？　……なるほど、お前から考えれば、そう思ったかも知れないが、拙者が日本左衛門を打とうとしたのはその意味ではない。かれは主家の<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>だ、自分にとっても真土山の黒髪堂以来、終生、忘れることのできない仇だ」

「えッ……じゃお前さんは、私のことなどはちッとも助ける気じゃなかったんですか」

「お粂ッ――貴様も拙者にとれば<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>の<ruby><rb>片破</rb><rt>かたわ</rt></ruby>れだぞ。お前は知るまいと思っていようが」

「あッ……それでは、何もかも」

「知らいでどうしよう！　金吾は悪病と悪夢からさめている！　形の上ではそちにも長い世話になったが、礼をいう一言もない。――帰れ帰れ！　妖婦ッ、<ruby><rb>奸婦</rb><rt>かんぷ</rt></ruby>ッ。これ以上金吾の身に寄ってくるならば、この<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>の刀を越えてまいらねばなるまいぞ――」

と、かれは心の怨敵へ構えるものの如く、<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の一刀を片手に抜いて、お粂のひとみに見せつけますと、ヒラリと身を躍らして、幻滅の谷底へつき落とされた女をあとに、また行方も知れぬ山路をしばらく無我に走りつづけました。

気がついて見れば、いつかあなたに青々とした<ruby><rb>芦</rb><rt>あし</rt></ruby>の<ruby><rb>湖水</rb><rt>こすい</rt></ruby>の水と、湖尻の山、<ruby><rb>乙女峠</rb><rt>おとめとうげ</rt></ruby>、長尾の肩などが明け方の雲表にのぞまれて、自身は、暁風に吹かれて一面な<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>の<ruby><rb>笹叢</rb><rt>ささむら</rt></ruby>がつづく十国峠の背なかを放浪しているのでありました。

## <ruby><rb>大望</rb><rt>たいもう</rt></ruby>

タラン、タン、タン、タン

ドン、ドドン、ドン

ヒュウー、ヒャラリ……と横笛や<ruby><rb>大鼓</rb><rt>おおかわ</rt></ruby>の音につれて、<ruby><rb>長閑</rb><rt>のどか</rt></ruby>にもまた悠長な太鼓や鈴の交響楽――お<ruby><rb>神楽囃子</rb><rt>かぐらばやし</rt></ruby>が聞こえます。

それが、<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>の内ならともかく、一軒の<ruby><rb>草葺</rb><rt>くさぶき</rt></ruby>屋根を、グルリと取りまいた防風林――その百姓家の庭先で。

のぞいて見ると、色の黒い男どもが五、六人、そこに<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を敷き、太鼓をすえ、横笛をかまえ、<ruby><rb>草神楽</rb><rt>くさかぐら</rt></ruby>の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>の最中と見えまして、

「ほい、右足――」

「それ、打ちこむよ」

「廻って――」

「ドン、ドドン、とそこで<ruby><rb>大鼓</rb><rt>おおかわ</rt></ruby>がはいる」

「すぐ笛につれて<ruby><rb>能</rb><rt>のう</rt></ruby>がかり」

と、しきりに笛に合せ<ruby><rb>撥調</rb><rt>ばちしら</rt></ruby>べをしていますが、中にひとり立って、<ruby><rb>鎌倉舞</rb><rt>かまくらまい</rt></ruby>の稽古をしているお百姓も、麦を踏み大根を抜く日にやけた<ruby><rb>素面</rb><rt>すめん</rt></ruby><ruby><rb>素手</rb><rt>すで</rt></ruby>で、それへ古風な衣裳だけをキラビやかに着けているところが滑稽でありました。

家のあたりをながめると、ここは武州阿佐ヶ谷村の百姓家、ただの<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>家と変りがない。

<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>、<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木、けやき、<ruby><rb>櫨</rb><rt>はぜ</rt></ruby>。

防風林の喬木はみな薄赤い木の芽をもって、その百姓家の仏壇がある奥の部屋まで、暗からぬ陽がさしています。

およそ、武蔵野原に土着の百姓家には、どこの<ruby><rb>草葺</rb><rt>くさぶき</rt></ruby>屋根にも、この防風林がつきもので、十<ruby><rb>方</rb><rt>ぽう</rt></ruby><ruby><rb>碧落</rb><rt>へきらく</rt></ruby>のほか何ものも見えない平野にあっては、時折、気ちがいのようにやッて来る<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじかぜ</rt></ruby>や、<ruby><rb>秩父颪</rb><rt>ちちぶおろし</rt></ruby>の通り道のようになっている地形上、それが自然の城壁であり、またこの郷土特有の点景でもありました。

ところへ――

その悠長な音律を楽しんでいる防風林のなかへ、バラバラッと、眼色を変えた人間が八、九人馳けこんで、

「これ！　ただ今この中へ、<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>を着た四十がらみの男が逃げこんで来たはずだが、そち達、見かけなかッたかどうじゃ」

という。

笛を持っていた男、<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>を構えていた男、舞の稽古をしかけていた男、みな、一様にポカンとした顔をして、唐突な<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>者の群をしばらく眺めておりましたが、

「へい、これはお役人様で」

と急に、ぞろぞろと<ruby><rb>上下座</rb><rt>どげざ</rt></ruby>をしました。

一人の同心と<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby><ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby>の捕手が、<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>くさい目を光らし、頻りと<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の内を覗いておりましたが、

「後刻また、こういう者が立ち廻って来るやも知れぬ。その時はすぐ役所向きへ訴人いたすように、万一、縁故者が<ruby><rb>情</rb><rt>じょう</rt></ruby>にからんでかくまい立てすると同罪であるぞ」

一枚の人相書を渡して、先を急ぐように、またバラバラと引ッ返して行く。

「おや、この人相書の男は、見たことがある」

あとで、百姓<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の連中がそれをひろげて、

「な、見たような男じゃないか」

「ほんとだ、これはよく似ている」

「だれに？」

「もとこの村にいたあの男さ」

「じゃあ村の者か」

「やはり、おれ達の、阿佐ヶ谷<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の仲間で、しかも笛がうまかった。なんといッたッけなあ？　……おお、そうそう伊兵衛、伊兵衛」

「ああ、あのやくざ者か」

「ゲジゲジの伊兵衛に違いない。飛んでもないやつが立ち廻って来たもんだ」

「お役人様が触れを廻して来たところを見ると、あいつめ、諸所方々を食いつめて、また村へ舞い戻ってきたのかも知れないぞ」

「どうすべえ、やツが来たら」

「水をおンまけてやれ」

「止せ止せ、あとの<ruby><rb>祟</rb><rt>たたり</rt></ruby>が恐い」

「訴人したらなお怨まれるだろう」

「どんな仕返しをするか知れたもンじゃない。まアまア、<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>よく、<ruby><rb>草鞋銭</rb><rt>わらじせん</rt></ruby>がとこで追ッ払うことさ」

「困ったなあ」

「何か来ないお<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>はないか」

と、折角な稽古の興をさまして、なおも伊兵衛の悪口をたたいておりますと、向うの日当りのいい母屋の縁側で、

「オイオイここへ珍客様が訪ねて来ていらッしゃるのに、何をいつまで、飯粒を取ッつけ合った<ruby><rb>雛</rb><rt>ひよ</rt></ruby>ッ子みたいに、そこで首を集めているのよ。早く、お茶でもわかして持って来ねえな」

と、ゲラゲラ笑い出した男がある。

「あれ？」

と、<ruby><rb>頓馬</rb><rt>とんま</rt></ruby>な声を出して、初めてうしろに気がつくと、笠を縁がわへ押ッぽり出し、<ruby><rb>紺合羽</rb><rt>こんがっぱ</rt></ruby>の片袖を撥ねて、きせるの<ruby><rb>雁</rb><rt>がん</rt></ruby>首で無断に座敷の<ruby><rb>煙草盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby>を引きよせている<ruby><rb>自称</rb><rt>じしょう</rt></ruby>珍客様。

それが今、人相書が廻ってきた本ものの道中師の伊兵衛でありました。

伊兵衛はニヤニヤ笑って、

「オイみんなの者、また厄介なやくざ者が村へ帰って来たから、何分よろしく頼むぜ。阿佐ヶ谷村なんて<ruby><rb>肥臭</rb><rt>こえくせ</rt></ruby>え土地へは、何も好んで帰りたくもねえが、生れ故郷であってみりゃしかたがねえ」

と縁側いッぱいに足を投げだして、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>を上へ吹き、

「それともおめえ達、人相書にてらして、訴える気なら何も遠慮はいらねえぜ、おれはここで日向ぼッこをしているから、今出て行った<ruby><rb>頓馬</rb><rt>とんま</rt></ruby>な役人に教えてやんねえ」

と、あきれている百姓<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の連中をながめ廻して、空うそぶいた面構えを、高い防風林の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に向けておりました。

「いや、とんでもない事、たれが昔なじみのお前を、訴人してよいものか」

異口同音にいいわけをすると、伊兵衛はクスッと鼻で笑って、

「それでも、昔なじみと心得てくれるのか、やッぱり生れた村はいいものだな」

「四、五年姿を見せなかッたが、その永い間、一体どこを飛び歩いていなすッたの」

「べらぼうめ、道中師という<ruby><rb>小稼業人</rb><rt>こかぎょうにん</rt></ruby>に向って、どこにいたときく奴があるものか。水のまにまに風のまにまによ」

「へえ、のん気だの、相変らず」

「のん気というなあ、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>達の事だ。いつもヒャラリコドンツク、百姓の合間に、<ruby><rb>神楽囃子</rb><rt>かぐらばやし</rt></ruby>をやッていれば、すぐ五十年の<ruby><rb>年貢</rb><rt>ねんぐ</rt></ruby>納めが済んでしまう。おら、ここへ来ると、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>たちが羨ましいな」

「じゃ、なぜこの村に、大人しくしていないのじゃ」

「性分だ。持ッて生れた根性を、おれにだッてどうにもなりゃしねえ」

「そうそうおめえを育てたお<ruby><rb>常</rb><rt>つね</rt></ruby>婆さんも、それを案じて死んだッけ」

「へえ、お常婆さんは死んだかい？」

「まだある、原の<ruby><rb>嘉助</rb><rt>かすけ</rt></ruby><ruby><rb>小父</rb><rt>おじ</rt></ruby>も、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>のたッた一人の身寄りだが、とうとうこの春先死んでしまった」

「やれやれ、諸行無常ッてやつだね、南無阿弥陀仏」

「来たついでに、墓<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りでもしてやったら、どんなに功徳か知れまいぞ」

「どうして、そんな暇はねえ体だ。ところで<ruby><rb>方々</rb><rt>かたがた</rt></ruby>、たいそう稽古に熱心だが、また何か近所のお祭りかい？」

「なに、今度はすこし、遠方から頼まれて、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>はそこへ乗込むことになっている」

「遠方へ？　ふウむ……どこだえ行く先は」

「今度初めて行く所だが、なんでも、北多摩の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れで<ruby><rb>秩父境</rb><rt>ちちぶざかい</rt></ruby>にあたる所だというんだが、そこに、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の<ruby><rb>狛</rb><rt>こま</rt></ruby>家というえらい旧家があるそうじゃ」

「狛家！」

というと、伊兵衛はツイと縁がわを離れ、不作法に合羽の裾をまくるなり、一同のいる<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の上へ割りこんで、

「その高麗村へ頼まれてゆくのか」

と、にわかに真剣な目いろになりました。

「何かしらないが、高麗村の御隠家様とかで、今度、<ruby><rb>稀代</rb><rt>きたい</rt></ruby>な<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をお手に入れなすッたそうで、お屋敷内の石神堂でその仮面納めの祭りをやるというわけ。――ちょうど来月は秩父三ツ峰の大神楽もあるし、あれから秩父へも近いから、一ツ出かけて見ようかとこッちの相談もきまって、この一組で<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>を調べている最中さ」

「ふウむ……そいつアいい所へ来合せたものだ、じゃあ頼むぜ、おれも一人」

「えっ？　……」

と、伊兵衛のことばの意味がくめないで、目をしばたたいておりますと、

「笛でもよし、舞でもよし、<ruby><rb>鼓師</rb><rt>かわし</rt></ruby>の方だッてかまわねえ。昔とッた<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>づかだ、おれも一ツその阿佐ヶ谷神楽のお仲間に入れてくんねえ、え、いいだろう。いやか、いやならいやといって見な、おれにも少し考えがある」

ここにまた徳川万太郎は、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>へ行った釘勘の返辞を待っている約束で、根岸へ帰った後、しばらくおとなしくしておりましたが、春<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>かんとする<ruby><rb>呉竹</rb><rt>くれたけ</rt></ruby>の里に、歌をよむでなく詩を作るでもなく、<ruby><rb>無為</rb><rt>むい</rt></ruby>の<ruby><rb>日永</rb><rt>ひなが</rt></ruby>を歎じていますと、夏めく南風にも<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>が出、<ruby><rb>爛熟</rb><rt>らんじゅく</rt></ruby>した花鳥もいたずらに<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>です。

で、またぞろ、禁足を破ッて、根岸の屋敷を飛び出しました。

外の風に吹かれると、かれの本性は目をさましたようにピチピチして、

「ああ、<ruby><rb>大名生活</rb><rt>だいみょうぐらし</rt></ruby>は退屈だ」

と、青空の下の自由をよろこび、心ゆくまで世間の空気を吸うもののように歩む。

「あぶない！」

いきなり鋭い声を浴びせられて、びッくりした万太郎が、はッと、うしろを見ると声の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>は、もう前の方へ、パパパパッと砂煙をあげて駆け抜けている。

一騎、神田橋から大手の方角へ――

つづいてまた二、三騎。

どれも、式服を着けた武家ばかり――そして江戸城の正門へ一散に。

「はて、なんだろう？」

彼は鎌倉<ruby><rb>河岸</rb><rt>がし</rt></ruby>にたたずんで、葉柳の糸をへだてた所から、道三橋の方へ笠をあげておりましたが、

「何か、お城の内に変事があるな」

と思った直覚が、いつかしら<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>に沿って大手の方へと、万太郎の足を向けさせている。

見ると、諸門は<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>です。

ことに大手の<ruby><rb>濠際</rb><rt>ほりぎわ</rt></ruby>には、下馬下乗、あまたの大名や旗本の<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>がこみ合ッていて、供待の者どもが憂色をつつんでいる様子。

その騒ぎを横に見て、

「はて、ばからしい。将軍家が、<ruby><rb>嚏</rb><rt>くしゃみ</rt></ruby>を一ツしてもこの騒動、先頃うち、御不例といううわさであったから、多少模様でも悪いのかもしらぬが、その病人へこう押しかけては、かえって容体を悪くしてしまうだろうに」

と、苦笑をもらして行き過ぎようとすると、

「下郎、邪魔だッ」

またもや、日比谷の方から砂を蹴立てて来た一列の騎馬に怒鳴られました。

下郎ということばにムッとしましたが、万太郎の方も充分に悪い。当然歩みよい柳並木の道端もあるのに、かれは大道の真ン中を、ふところ手で歩いていました。

しかし、尾張中将の七男である万太郎の大名気風が、道ばたをかがんで歩かない癖になっているのも自然で、それを知れば騎馬の先頭も、そんな<ruby><rb>罵詈</rb><rt>ばり</rt></ruby>は浴びせなかったでしょうが、万太郎は堪忍がなりません。

「待てッ」

いきなり、四、五人目の――その主人と見える立派な鞍へ飛びついて、

「聞き捨てにならぬ暴言、あれはその方の家臣であろう。待てッ、降りろ」

と、引きずり降ろさん血相です。

驚いたのは馬上の武家――

「あッ……」と、万太郎の力に引かれて、グルリと駒を廻しましたが、

「やあ、尾張の七男坊」

「なんじゃと」

「どうした！」

といわれて初めてその姿を見上げると、鞍上からなれなれしい笑顔を向けている者は、ちょうどかれと同年配ぐらいな若殿。

弓の稽古をしているところを急に飛んで来たものとみえ、手に<ruby><rb>弓懸</rb><rt>ゆがけ</rt></ruby>を着け、木綿の粗服に<ruby><rb>馬乗袴</rb><rt>うまのりばかま</rt></ruby>という姿で、一見、旗本の息子ぐらいにしか見えませんが、これは万太郎とは<ruby><rb>莫逆</rb><rt>ばくぎゃく</rt></ruby>の友だち、紀州和歌山城の<ruby><rb>宰相頼職朝臣</rb><rt>さいしょうよりもとあそん</rt></ruby>の<ruby><rb>世嗣</rb><rt>よつぎ</rt></ruby>、すなわち、紀伊家の吉宗です。

「やあ」

と、万太郎はてれました。

吉宗は如才なく、

「火急の場合とて、家来の暴言、悪く思うてくれ給うな」

「何か、御城内に？」

「オオ、御危篤」

「えッ、<ruby><rb>家継公</rb><rt>いえつぐこう</rt></ruby>が」

「<ruby><rb>御不予</rb><rt>ごふよ</rt></ruby><ruby><rb>重</rb><rt>おも</rt></ruby>らせられた御容子なるによって、急ぎ登営あるべしと、三家を初め、諸公がたへも、老中から御急使が廻ったばかりのところ」

「では、いよいよ将軍家<ruby><rb>御代</rb><rt>ごだい</rt></ruby>がわりか」

「不吉な！」

と、叱られて、万太郎もハッと口をつぐみましたが、

「では、急ぎな矢先、これでお別れといたそう」

「貴公は」

「……む、自分は今、根岸の方に」

「兄上の尾州殿のお姿も、ついその辺でお見かけいたしたが」

「や、兄貴が来る？　それはいかん」

と、万太郎はすこし<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>して、

「自分もきょうは急ぎの出先、これで御免を」

「オオ、こちらも火急なところ故、御免！」

「いずれ！」

「いずれ！」

と双方、端的な会話を投げ合って、吉宗が江戸城へ<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を上げてゆくと、万太郎も、笠を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えたまま、<ruby><rb>大名小路</rb><rt>だいみょうこうじ</rt></ruby>の陰へと、逃ぐるがごとく馳けこみました。

<ruby><rb>石焜炉</rb><rt>いしこんろ</rt></ruby>をハタハタたたく<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>の風に、白い灰が往来なかへ、淡雪のように舞ってゆく。

ぷーんと、木の<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby>に味噌の焼けるにおい……

ちょうど日ぐれ時、夕飯の<ruby><rb>潮時</rb><rt>しおどき</rt></ruby>。

今、<ruby><rb>軒行燈</rb><rt>のきあんどん</rt></ruby>に灯がはいッたばかりの「木の芽でんがく」の店にはかなりな客足です。

「ゆるせ」

と、その奥へ通って行ったのは徳川万太郎。

あたりの客の膳を見廻して、

「あのようなものをくれい」

と、小女に注文する。

田楽屋へはいッて、あのようなものという注文は、かなり<ruby><rb>下世話</rb><rt>げせわ</rt></ruby>に通じているようでも、やはり大身の若殿らしい。

酒、ひたしもの、吸い椀、田楽、それに、茶づけ茶碗まで付いて一人前、あのとおりなお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えがまいりました。

それは<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の<ruby><rb>高脚膳</rb><rt>たかあし</rt></ruby>に向う常の<ruby><rb>夕餐</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>より食味をそそッて、不なれにあぐらを組む居心地までが、万太郎にはたまらなく解放された気分です。

「へえ……」

と、イヤに感心した声がする。

背なか合せの<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>のうしろに居る一組の客のささやき。

「じゃあ、もうお<ruby><rb>陀仏</rb><rt>だぶつ</rt></ruby>になっているんで？」

「……らしいネ、御様子が」

「だって、まだ御危篤ぐらいなところだッていう<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>じゃねえか」

「えらい人のおかくれになる時は、みんなそうさ。それから喪を発すという事になるんだ。きッと、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>あたりは鳴物<ruby><rb>御停止</rb><rt>ごちょうじ</rt></ruby>のお触れが出るぜ」

「と、また不景気だろうな」

「おれたちの稼業に、不景気があるもんか」

――ははア将軍家のおうわさだなと、万太郎は何か面白いような気持でそれを聞いている。

衝立の向うにいるのは三、四人の町人で、

「飲む時に稼業の話は止そうぜ、稼業の」

「ウ、つい口がすべッた。ま、一つ<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ごう。ところで将軍様がおかくれになると、さしずめ、次の将軍家はたれッていう事になるんだろう」

「<ruby><rb>家継公</rb><rt>いえつぐこう</rt></ruby>様は、まだたったお<ruby><rb>八</rb><rt>やっ</rt></ruby>ツ、無論、お<ruby><rb>世嗣</rb><rt>よつぎ</rt></ruby>はねえわけだ」

「なんでも、後見の<ruby><rb>間部詮房</rb><rt>まなべあきふさ</rt></ruby>とお<ruby><rb>傅役</rb><rt>もりやく</rt></ruby>の月光院様とが庭でいちゃついていて、小さな将軍様に風邪をひかしたのが、こんどの病気の<ruby><rb>因</rb><rt>もと</rt></ruby>だという話だが」

「わかりもしねえ大奥の事を、あんまり見て来たようにいうない」

「いや、おれは、確かな筋から聞いているんだ」

「じゃ、こんどの将軍様が、水戸から出るか、紀州から出るか、尾張から出るか、てめえ知っているか」

「それがもめているんで、将軍様はとうに死んでいるんだが、その喪っていうやつを、世間へ触れることが出来ねえんだとよ」

「へえ」

「紀州から出すか、<ruby><rb>館林</rb><rt>たてばやし</rt></ruby>から出すか、尾張から出すか、このけんかだ」

「なるほど」

「水戸様は館林をかついでいるし、<ruby><rb>間部</rb><rt>まなべ</rt></ruby>は紀州をかつぎ上げている。そこへまた、尾張から引ッ張り出そうとしている連中もあって、三ツ<ruby><rb>巴</rb><rt>どもえ</rt></ruby>に、こんがらかッている」

「ありそうなこッた。だが、紀州から出るとすれば、たれだろうか」

「まず赤坂に屋敷のある吉宗公だろう」

「尾張とすると」

「万太郎様だね。年頃からいっても」

「万太郎？」

「ウム、尾張の徳川万太郎」

「聞いたようじゃねえか、万太郎ッて……」

「そういや、聞いている名だ」

「あっ……いけねえ。あいつが将軍家になぞ納まッたひにゃ、それこそ親分はじめ、おれたちの稼業が、上がッたりになってしまう」

最前から、噴き出しそうになる<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>さをこらえていた万太郎、終りの一句に、思わず衝立の横からうしろをのぞきました。

ははあ、これはやはり日本左衛門の手下か、もぐりの<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>であろう。

万太郎はそう察しました。

間もなく勘定を払って、彼等は、いい機嫌な足どりで「でんがく」の軒先を出て行く。

万太郎も、<ruby><rb>田楽</rb><rt>でんがく</rt></ruby>屋の小女の景気のいい声をうしろに聞き、早速、そこを飛び出して、ピタピタと三人の影について歩く。

<ruby><rb>辻行燈</rb><rt>つじあんどん</rt></ruby>の明りを交わして、ほの暗い葉桜の横丁。

口三味線に端唄かなんぞを合せて、千鳥足にもつれてゆく三人のうしろから、

「これ、ちょッと待て」

と不意に声をかけると、ギクとして振向いた六ツの目が、その姿を凝視するなり、

「わッ」

コマ鼠のようにキリキリ舞して、馬場の土手を飛び越えました。

二人はあざやかに逃げ去りましたが、最後のひとりは戸惑いして、土手の<ruby><rb>棘</rb><rt>いばら</rt></ruby>に首を突ッ込み、まごまごしている様子なので、

「これッ、待てと申すに」

ずるずると引きずり降ろすと、あわれやこ<ruby><rb>奴</rb><rt>いつ</rt></ruby>、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>か片輪か、なんにもいわずペタリと坐って、両手を合せて拝んだものです。

「は、は、は、は」と万太郎は笑って――「あわてるな、身は奉行所の役人ではない」

「へ、へい……」といったが、まだ不安そうに、

「どうか、ま、まッ平御勘弁を」

「何を勘介してくれというのか」

「何しろ、今日は半年ぶりに、伝馬牢から出たばかりなんで、へい、それで仲間のやつが、一杯祝ってくれた晩なんですから、どうか、お目こぼしを願います」

「ふウむ、では察しの通り、貴様は小泥棒だな」

「左様で」

「顔を見せろ」

「どうかお慈非に一つ……。まだ牢から押ッぽり出されて、家にも帰っておりません。それをまた、ここから逆戻りしましては、女房や子が嘆きます」

「まだわしを役人だと思ッているのか、そう拝むな、拙者は不浄役人や手先ではない」

「へ。では、お役人様じゃないので」

「ウム、少したずねたい事があって呼び止めたのだが」

「ヘ……ヘイ」

「貴様、日本左衛門の手下ではないか」

「よく御存じでいらッしゃいます。まッたく、そうなんで、ヘイ、嘘は申しません」

「なんという」

「へ？」

「そちの名はなんと申すのか」

「<ruby><rb>率</rb><rt>そつ</rt></ruby>八というんで」

「率八か」

「お人よしの率八というんで」

万太郎はつかんでいた<ruby><rb>襟髪</rb><rt>えりがみ</rt></ruby>を放しました。

そして、つらつらこの小泥棒の顔を見るに、なるほど、愛嬌のある憎めない顔つきをしております。

お前の親分は今どこに居る？

その後夜光の短刀について仲間で何か手懸りを得てはいないか？

馬春堂の所在を知らないか？

道中師の伊兵衛は今どうしているか噂でも聞いていないか？

<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は？

<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>は？

お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>という女は？

何か変ったことはないか何か――と、矢つぎ早にこんな事を万太郎が質問しだすと、それに向ってお人よしの率八は、いちいち神妙に首を振って、

「知りません。へい、知りませんです。へい、嘘は決して申しません」

張合いのないこと一通りでなく、憎めないことおびただしい。

これはいけない、<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>に<ruby><rb>脛押</rb><rt>すねお</rt></ruby>しと思いましたが、わざと苦笑をかくして、

「何をきいても知らぬ存ぜぬで、こやつめ、さては白ばッくれておるのじゃな」

ホンの形ばかりに、<ruby><rb>柄頭</rb><rt>つかがしら</rt></ruby>へ指をふれて見せると、

「あっ――」と、手ばかり振って、逃げ腰も立て得ない<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>さにまた苦笑して、

「申せ！」

「で、でも。まッたく知らない事が多いんで……何しろ今年の正月早々、忍川の袋地で捕手にかかッたきり、<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>の風に吹かれたのは、今日が久しぶりなんで」

「しかし、ああして仲間とも会っておる以上、種々その後の話も聞いたに違いない」

「え……そ、そりゃ、何ですが、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>へもらしては、仲間へ義理が欠けるんで。……ああ困ったな。じゃ、申し上げッちまいましょうか」

「ウム、今たずねた事だけを、答えたら放してやる」

「親分は詮議がきびしいので、当分江戸へは帰らねえそうです」

「して、今は」

「伊豆へ行ッたという話ですが、変な所へ出かけたもんで、何しに行ったのか、あっしにも判断がつきません」

「伊豆へ……」と、万太郎は目を閉じて、

「夜光の短刀のことは？」

「まだ皆目、手懸りも足がかりもありゃしません。あ。それに、あの短刀は、伊兵衛も<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>で探してるんですぜ」

「その伊兵衛めはどうしたろうか」

「どこか飛んで歩いているンでしょうな。何しろ、足の早い奴で」

「それきりか」

「へい」

「行け」

「ありがとう存じます。……あ旦那、それからお粂さんの事をお聞きになりましたが、あれは親分が可愛がっていたお<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>で、そのお妾と金吾という侍が、ちょうど、あっしが牢へぶちこまれた晩に、どこかへ<ruby><rb>駆落</rb><rt>かけお</rt></ruby>ちいたしました。牢へはいる者と、駆落ちする奴と、ずいぶん運のいい悪いがあるもんで」

「もう用はない、行けと申すに！」

それは万太郎の知りたい事ながら、聞いて決して愉快ではありません。

率八はホウホウのていで、腰や懐をなでながら<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>とあたりを見廻し、何か落とし物に未練を残しておりましたが、万太郎の眼がジッと向いているので、

「さようなら」

と、思い出したようにお辞儀をして、ひょこひょこ歩きかけました、

すると万太郎はまた、

「あ、これこれ、率八とやら」

呼び止めると、もう沢山な顔をしながら、

「ハイ」

と、情けない返辞をする。

「率八」

「ハ、ハイ」

「貴様は<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、盗人の中で出世のできそうな奴ではないの」

「左様でございましょうか」

「なんで泥棒になった」

「わかりません」

「どうして日本左衛門の手下などになったかとたずねるのじゃ」

「いつか、お金を恵んでもらいました。それで、恩返しに、泥棒になったようなわけで」

「ふびんな奴じゃ……」

「ど、どういたしまして」

「改心して真人間になれ！　よ！　貴様には女房や子もあると、最前申していたようだが」

「きッと、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に待っているでしょうよ。何しろ、お正月から帰りませんでね」

「早く足を洗うがよい」

「食べることができますかしら」

「これをやる」

「え」

「これをやるから持ってゆけ」

「へ？　……」

「<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わすというのじゃ、遠慮するな」

と、万太郎の差し出した手のひらに、大判か小判か、四、五枚の山吹色がのせられているのを見て、率八は、ひょいと食指を動かしましたが、急に手を引ッ込めると、淋しいゲタゲタ笑いを作って、

「……な、な、なんて旦那、人をからかッた上に、バッサリと来るんでしょう」

「ばか」

遂に、癇癪を起した万太郎が、それをザラリンと投げてやりましたが、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>と降った山吹色を、剣の光のように驚いて、一言といわずお人よしの率八、胆をつぶしたまま逃げ去りました。

その夜は赤い<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の中。

<ruby><rb>雉子町</rb><rt>きじちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>丁字風呂</rb><rt>ちょうじぶろ</rt></ruby>の二階に彼は泊っていました。

なんとなく面白い。春や過ぎたりといえど湯上がりの寝心地、身は<ruby><rb>勘気</rb><rt>かんき</rt></ruby>の境遇といえ青春です。

夜更けまでどこかで聞こえる<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>の笑い声も、横丁をゾロゾロ流れる下駄の音も、万太郎の枕には妙な交響をまろばせてくる。そして、この世間の物音が面白すぎて寝つかれません。

ただ、物淋しいのは、将軍様<ruby><rb>御不予</rb><rt>ごふよ</rt></ruby>によってというお達しの――<ruby><rb>鳴物停止</rb><rt>なりものちょうじ</rt></ruby>。

それについて、町ではヒソヒソと<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>な風評を立てている。幼少な将軍の臨終の枕元では、もう<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>にすわる八代将軍の人選で、三家閣老、それぞれ自己権力の援護で<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>突き合いをやっているらしい。定めし、おやじの中将<ruby><rb>綱誠</rb><rt>つなのぶ</rt></ruby>や兄貴の<ruby><rb>継友</rb><rt>つぐとも</rt></ruby>もそのお仲間に交じッて、すこしでも尾張に<ruby><rb>歩</rb><rt>ぶ</rt></ruby>のいいような主張をしているのだろう。

――などと考えて、枕の上のかれの顔が、ひとりでニヤリと笑みくずれる。

いや待てよ。

あの野心<ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>たるおやじの中将<ruby><rb>綱誠</rb><rt>つなのぶ</rt></ruby>が、<ruby><rb>歩</rb><rt>ぶ</rt></ruby>のいい主張ぐらいで<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めていればいいが、魔がさして、一ツ尾張からお<ruby><rb>世嗣</rb><rt>よつぎ</rt></ruby>をなどと大それた気を起したひには大変だ。それこそ<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>ではない。尾張で体のあいている息子は、かくいう万太郎一人きりだ。

――ひょッとして、そういう事がないともいえない、なかなか可能性がある。子の心親知らずで、丁字風呂の赤い夜具にくるまっている<ruby><rb>御曹子</rb><rt>おんぞうし</rt></ruby>の心事も知らずに、おやじがムキになっている顔が目に見えるような気もして来る。

真ッ平、真ッ平、願わくばそんな風よ、向きをかえて、水戸へでも紀州へでも吹いて行け。

紀州はいいな。

そうだ紀州はいい。

今日途中で会った吉宗なら将軍様にもッてこいだ。素行はよいし、<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>だし、武芸文事にも熱心だし、周囲もうしろだても、しッかりしている。

それより何より本人に充分色気があるようだ。今日会った時馬上から、「やあ、尾張の七男坊」なんて来た調子は、すでに御臨終に駆けつけながら、あわよくばの気じゃあないか。

（だがと、待てよ……）万太郎の空想はそこで<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>め<ruby><rb>途</rb><rt>ど</rt></ruby>もなくなりました。

――あの自分と同年ぐらいな、しかも、家柄も何もかも似ている吉宗が、一躍、八代将軍家となって、小マシャクレた朝令暮改なんかをやり出すと、この万太郎も少し癪にさわらないかしら。

将軍家にすわることなんかは願い下げにしたい自分なのだが、吉宗が大統をうけて天下にのぞむとなると、自分も少し、何か、して見せなければ男が立たない。

尾張の七男坊とは竹馬の友じゃに依ってなどと、<ruby><rb>辺僻</rb><rt>へんぺき</rt></ruby>な山国の二万石や三万石を有難く頂戴してもおられまいではないか。

――こう考えているうちに、万太郎の仰ぎ見つめていた天井の木目が、満々たる大洋の水となってまいりました。そして漠々たる雲と海とのあなたに異国<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都府や沿岸が美わしく霞んでみえましたが、それは空想か夢だったのか、自分でもけじめのつかないうちに、彼はもういつの間にかスヤスヤと深い寝息になっています……。

と――その翌日。

かれは起きるが早いか、<ruby><rb>丁字風呂</rb><rt>ちょうじぶろ</rt></ruby>を出て、今日はハッキリとした<ruby><rb>目的</rb><rt>あて</rt></ruby>のあるものの如く、音羽を経て、目白の台へスタスタと上ってゆく。

いつか釘勘と共に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来て、道中師の伊兵衛を取逃がし、そのまま来る折もなく気になっていた目白の石神堂。

覚えのある<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>の古い御堂を前に見ると、万太郎は、あの時、馬春堂と伊兵衛とが<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>をともして、ここでコソコソやっていた挙動を思い出し、そッと、例の<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴の辺を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていましたが、突然人の咎める声にハッとする。

堂の横からのッそりと出て来て、

（何をする？）

といわんばかりに監視の目を光らした男どもは、銭瓶の穴の変事以来、申し合せて、この御堂番をしている土着の者でした。

やましい気持のない万太郎は、ズカズカと自分から歩み寄って、

「その方たちは土地の者と見えるが、ちょッと、この堂の内部を<ruby><rb>検</rb><rt>あら</rt></ruby>ためさせてくれぬか」

「駄目でがす」

「なぜ」

「なぜでも開けるわけにはいきません。はい。この武蔵一円の石神の司祭者御隠家様のおゆるしがなければ」

「御隠家とはどこの者じゃ」

「<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>高麗村の御隠家様でござります」

「ではたずねるが、その後この堂へたれか立入った者はないか」

「きのうもここへ、うさんくさい男が来て、あなた様と同じような事を尋ねて行きましたが、何しろここの銭瓶の穴へ落ちた男の体は、すぐ御隠家のお使いが高麗村へ連れて行ッてしまったので、その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>のことは私どもには分りません」

「きのうも来た？　……？」

「はい」

「風采はどんな男じゃ」

「<ruby><rb>角鷹眼</rb><rt>くまたかまなこ</rt></ruby>をした四十前後の男で、<ruby><rb>紺無地</rb><rt>こんむじ</rt></ruby>の<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>を着ておりました」

「そして？」

「じゃあ高麗村に行ッて見ようかと、しばらくここで考えていましたが、そのうちに、通りかかッた捕手の衆を見ると、プイと、姿を消してしまったのでびッくりして、そのお手先に聞きますと、そいつは道中師の伊兵衛とかいッて、有名な悪党だそうでございます」

「ははあ……」と、万太郎はそこでわずかに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きました。

彼も、何か思い迷うらしい面持。

実はゆうべ、<ruby><rb>丁字風呂</rb><rt>ちょうじぶろ</rt></ruby>の二階に寝つつ、さまざま猟奇的な空想を馳せているうちに、かれは、にわかにもう一度「ばてれん口書」を手にして見たくなったのです。

そして、あの一帖の文に暗示されてある「夜光の短刀」を探し求めて、ひとつ、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都府へ渡って見ようか。

紀州の吉宗が八代の将軍になって納まッている頃に、おれは<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>と日本から影を消し、徳川万太郎は失意の結果、身を隠したのだろうと人の<ruby><rb>取沙汰</rb><rt>とりざた</rt></ruby>する時分に、羅馬王朝の貴族となり、あわよくば異海三千里の外に<ruby><rb>壮図</rb><rt>そうと</rt></ruby>を挙げるのも面白かろうではないか。

こんな大望がむらむらと起ったものですから、かれの夢が、ゆうべ、あの丁字風呂の部屋を<ruby><rb>青々</rb><rt>せいせい</rt></ruby>たる大海にし、異国の美しい市街を波のあなたに描いたのでしょう。

「いや。そうか」

というと、万太郎は忽然とそこを去りました。

そして、かれの足は御府外の方へ向く。

武蔵野原を北に歩んで尽くところ、北多摩の山の尾根と、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>連峰のなだれが<ruby><rb>畳合</rb><rt>たたみあ</rt></ruby>っている辺に、<ruby><rb>峡谷</rb><rt>きょうこく</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>さと</rt></ruby>が幾つもあるそうです。

高麗の郷高麗村というのは、その峡谷の首村であり、御隠家様の屋敷がある所と、かれは今、堂番の男につぶさに聞いてまいりました。

途中、街道の古びた草紙屋で見つけて買い求めたのは、一冊の<ruby><rb>懐中絵図</rb><rt>ふところえず</rt></ruby>――その頃、まま版行された道中<ruby><rb>細見</rb><rt>さいけん</rt></ruby>、あるいは、御府外名所<ruby><rb>手引</rb><rt>てびき</rt></ruby>などの<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>でありましょう。

のろのろと<ruby><rb>往還</rb><rt>おうかん</rt></ruby>する<ruby><rb>牛飼</rb><rt>うしかい</rt></ruby>、野菜車、<ruby><rb>馬子</rb><rt>まご</rt></ruby>、旅人、<ruby><rb>薬師詣</rb><rt>やくしもう</rt></ruby>での人たちの中に交じッて、<ruby><rb>平坦</rb><rt>へいたん</rt></ruby>な街道を歩みながら、その<ruby><rb>懐中絵図</rb><rt>ふところえず</rt></ruby>をひろげて見ましたが、高麗村という名は見当らない。

けれど、<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>ヶ原、久米川の流れ、北多摩の山裾などをたどり見ますと、おぼろにその方角だけは察しられますので、尋ねて尋ね当らぬこともなかろう。

武蔵一円の石神の司祭者、高麗の御隠家様とは何者か知らぬが、銭瓶の穴から持去った洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>と「ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」は明らかに自分の品、正当に理由をのべて返してもらうに憚る事はない。

そして<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は、あのために迷惑している市ヶ谷の兄の屋敷へ送り返し、自分は心やすく夜光の短刀を探してみよう。

「ああ、それにつけても、金吾が居たならば……」

と思う道の先へ、小さな蝶の群がうららかに飛び乱れて、そこに、人待ち顔な一挺の<ruby><rb>女駕</rb><rt>おんなかご</rt></ruby>。

はて？

<ruby><rb>樵夫</rb><rt>そま</rt></ruby>とも浪人ともつかない侍が、その<ruby><rb>砂子塗</rb><rt>すなごぬ</rt></ruby>りの女駕を取りまいて、のどかに煙草をふかしていますが、駕は無紋、付人は異様な郷士？

「誰を待っているのであろうか」

懐中絵図を畳みこんで、万太郎は足を休める振りをしながら、しばらくそこに立ち止まり、その女駕の前を通り越してしまうのが惜しまれました。

## 馬春堂日記

「どうしたのだろう」

「ウム、もうお見えになりそうなもの」

「道を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えてお帰りになったのではないか」

「すると、こんな所に、ゆうゆうとお迎えの駕をすえて待っていたとて、いつまでおいでになる気遣いはない」

「そんなはずはあるまい。<ruby><rb>御隠家様</rb><rt>ごいんけさま</rt></ruby>のお手元へまいった手紙によれば、今日熱海から江戸へ着いて、<ruby><rb>新宿追分</rb><rt>しんじゅくおいわけ</rt></ruby>よりこの道を通ってお帰りになるという前ぶれ」

「おかしいな」

「まあ、もう<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>もお待ちしてみよう」

そこに一挺の女乗物を置いて、人待ち顔に往来を眺めている郷士風の侍のささやきを聞くと、これはまごうかたなき<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の人々です。

察するところ、永らく熱海へ行っていた月江が、次郎、おりんを連れて帰ることになり、その前ぶれの手紙を見て、ここまで折角迎えの乗物を用意して来たものが、何かの間違いで行きちがいとなって、<ruby><rb>待呆</rb><rt>まちぼう</rt></ruby>けているものとみえる。

そういう内容は分りませんが、話のうちに、御隠家というのをチラと耳にとめたので、万太郎ツカツカとその前へ寄って来て、

「あいや、突然失礼ではあるが、少々ものをおたずね申したい」

と、こころもち笠を下げて、

「当所武蔵野の山尾根に、高麗村と申す部落がある由でござるが、絵図にも見当らず、詳しい方角も知らず、当惑いたしておるところ、お見うけすれば<ruby><rb>方々</rb><rt>かたがた</rt></ruby>には、その地方のように察しられる。何と、御存知ならば道案内を頼みたいと思うが御承知下さるまいか」

「高麗村のだれをおたずねなさるのか」

「御隠家とか申す、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の主人に会いにまいる」

「ふむ……？」

と、一同は目と目を見合って、

「してまた、どういう御用向きで」

「先頃さる者が、目白の石神堂へ取落とした品、それを高麗村のお使いが持ち去ッたと聞いた故、取戻さんと存じました」

「その品物というのは」

「身にとって大切な、洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>と古帖一冊」

「ははあ？　……」

そこでまた一同のひとみが、万太郎を何者かというらしく、期せずして、その風采と笠のうちを見廻しました。

「――もしや各〻は、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の御家士ではないか」

「左様、<ruby><rb>手飼</rb><rt>てがい</rt></ruby>の<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>どもです」

「どうやら、そうではないかとお見受けいたした。ならばもっけの幸い、ぜひ御案内願いたい」

「しかし、御隠家様は、めッたな者にはお会いにならんが」

「会わんと拒んでも、ぜひ、会って話されば相成らぬ」

「どこの馬の骨か素性の知れぬものをウカウカ連れて行って、もし、御隠家様にお叱りをうけては吾々の<ruby><rb>落度</rb><rt>おちど</rt></ruby>、まず、この案内は御免蒙る。無駄足を覚悟で行くなら、一人でたずねて行かッしゃい」

と、意地わるく横を向く。

導く親切気のないものへ、敢てこれ以上に求めるところはありません。

「左様か」

と、万太郎も少し片意地。

道ばたの草のように高麗村の者を見捨ててサッサと歩み出したのは、これも涼しいしかたです。

すると、あとに残った者達は、何か目まぜをしてヒソヒソとささやき合っておりましたが、不意に一人がバラバラと万太郎のあとを追いかけて来て、

「あいやお武家、高麗村へ御案内申すからしばらくお待ちなさい」

と、呼び止めます。

「あいや、そう参っては方角が違う――」

と、重ねて呼び止めた前の郷士、万太郎の<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>る姿へ手招ぎして、

「先程申したのは戯れでござる、高麗村へおいでとあれば、どうせ吾々も帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>、一緒にまいって御隠家様へお取次いたすであろう」

「では、案内してやると仰っしゃるか」

「お易いこと、ちょうど乗物もあれにある、女用ではござるが……」

「いや、乗物まで頂戴しては恐れ入る」

「御遠慮には及ばん、どうぞあれへ」

「いや、かえってそれは」

と、固辞していると、あとの郷士達が、もう例の女駕をそこへ運んで来て、

「さあさあ、どうぞこれへ、御隠家様をお訪ねとあれば屋敷のお客も同様、遠慮なく御使用下されい。それに<ruby><rb>空駕</rb><rt>からかご</rt></ruby>で歩行いたすより、お乗り下すッた方がかえッて手前達の足取も調子がいいと申すもの。さあ、いざ」

と一同が余りすすめるので、<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>みもならず、万太郎、

「ではおことばに甘えて」

「どうぞ」

「御免」

腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>を手に抱いて、乗物の内へはいりました。

ぷーんと、えならぬ香気がする。駕の中に<ruby><rb>香炉</rb><rt>こうろ</rt></ruby>があり何かの銘木が<ruby><rb>燻</rb><rt>く</rt></ruby>べてあります。女乗物としてもこれはかなり贅沢なものじゃ――と万太郎は、それからおして、行く手の<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>なるものも、定めし由緒ある<ruby><rb>豪家</rb><rt>ごうか</rt></ruby>に違いあるまいと聯想しました。

いつか、自分の身は浮いています。駕の<ruby><rb>簾戸</rb><rt>すど</rt></ruby>から外を見れば、うららかな武蔵野の風物がゆるく、後へ後へと流れてゆく、

と――その足取りもだんだんに早くなる。

駕が早くなるにつれて、ギッギときしむ音、タッタとそろう郷士たちの足音、一つの調子をもって来て、万太郎の体は浪に揺らるる小舟の中にあるような感じ。

それも、行く程に駆ける程に、<ruby><rb>益〻</rb><rt>ますます</rt></ruby>、加速度となって、息をつくまもありませんから、万太郎はわが身の動揺よりも郷士の労苦を気の毒に思っている。

森を見ました、八幡の鳥居を見ました、<ruby><rb>菜種</rb><rt>なたね</rt></ruby>の花の<ruby><rb>路傍</rb><rt>みちわき</rt></ruby>に小さい地蔵堂を見ました。朝鮮塚という<ruby><rb>石碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>の文字、杉の並木、一望の草の波、窪地、また岡――というふうに、奇趣なき平野の点景も様々に目まぐるしく流れ去りましたが、絶えて橋というものを越えません。武蔵野に少ないものは橋でした。

もう、この駕は、何里を駆けたでしょう。

いつか夕霞の薄い<ruby><rb>膜</rb><rt>まく</rt></ruby>が、すべての物にかかっている。

あれから<ruby><rb>二刻</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>。

としても、四、五里は一息に来たにちがいない。

途中、<ruby><rb>駕側</rb><rt>かごわき</rt></ruby>の<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>が、肩を代えることは<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>でしたが、休むということもなく、足取りのゆるくなることもありませんから、何を問う機会もない。

乗物はまだギッギと飛んでいる。

もみにもまれて、万太郎もヘトヘトになって来た様子です。

どッぷりと厚ぼッたい夜がこめて来て、もう外には微光だも見えず、身は雲の中でも駆けているような<ruby><rb>目眩</rb><rt>めまい</rt></ruby>をおぼえ出しました。

「おお、<ruby><rb>駕外</rb><rt>かごそと</rt></ruby>の方々」

遂に声をあげて呼びかけましたが、それも耳にははいらない風なので、

「あいや、しばらく」

と、中でガタガタたたき初める。

それも聞こえぬ様子です。

駕は<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>――明るいうちよりなお激しく、<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>に乗せて行くように。

「あっ……これは乱暴な」

身を浮かせた万太郎は、

「駕の者、静かに！」

と、もう一度、怒鳴るが如く叫びました。

<ruby><rb>返辞</rb><rt>へんじ</rt></ruby>はなく、その代りに、渦の中へ巻き込まれるように急にグルグル廻り初める。――そしてまた直線に、どことも知らず駆けだしてゆく。

西へゆくのか、東へ向っているのか、もう方角も分らない。

「これは不都合千万」

気がついたものの万太郎、もうどうにもなりません。

「待てッ。これッ。降ろせ！」

<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>けど、たたけど、無駄なことです。

と思うと――にわかに体も乗物も坂になって、ふらふらと高い所へ差し上げられたような心地がして、その途端に、ゲラゲラ、ワハハハ、一斉に嘲笑う声と共に、

「それッ、高麗村に案内してやる！」

とばかり、駕もろとも万太郎は、笹や<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の枝をザザザザザ――と摺って、高い岡窪地の底へ、ドウンと、勢いよく手を放されたものらしく、身は転々と転落して、その落着きを知りません。

ややあって万太郎は、ハッと正気に<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>った様子。

意識を得て、彼は初めて、自分が<ruby><rb>幾刻</rb><rt>いくとき</rt></ruby>か、あのまま気絶していたことを知りました。

そして、吾に回るや、

「ウーム、憎ッくい奴！」

と、<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>ろしき呻きをもらしましたが、箱詰同様な駕の中、早速に、手も足も出たものではない。

しかし、その駕があるため、あの高い所から転落しても、かすり傷一ツなかったのは一面の<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>でしょう。

駕は苦もなく破れました。

彼は脇差を以てメチャメチャに突き破り、<ruby><rb>乱鬢</rb><rt>らんびん</rt></ruby>となって這い出しました。

地上に星がまたたいている。水があるなと歩み寄って、小さい泉へ身をかがめ、口をつけて<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>そうに吸いこみます。泉に映れる星影が、万太郎の口へ幾つもはいったような風に見える。

ついでに、脇差の<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>をぬらし、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の乱れをなでつけて、<ruby><rb>衣</rb><rt>え</rt></ruby>紋を直した落着きは、こんな場合にも、さすが尾張の<ruby><rb>御曹司</rb><rt>おんぞうし</rt></ruby>です。

と――その時、どこかでゆるい笛の音がする……笛につれて太鼓……太鼓につれて小鼓、<ruby><rb>大鼓</rb><rt>おおかわ</rt></ruby>。さらにもつるる<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>と笛とが面白そうな諧調を作り出します。

「や？　……」

仰げば、そこは盆のくぼのような低地、一面の灌木におおわれて、自分の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>も、皆目見当もつきません。

ザワザワとその茂りを分けて、上へ上がッて見ると、夜は深沈たる武蔵野の<ruby><rb>渺茫</rb><rt>びょうぼう</rt></ruby>です。

見えました。

まさに、そこから二、三丁先の草原に。

火を焚いている一群の人影が黒く。

笛、太鼓、<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>、

そこで節面白く<ruby><rb>神楽囃子</rb><rt>かぐらばやし</rt></ruby>をやっているのが、この深夜といい、平野の場所がらといい、何とも怪異で、あるいは、静夜の星光に浮かれて遊ぶ<ruby><rb>変化</rb><rt>へんげ</rt></ruby>の群かとも見えたのです――

「はてな？」

万太郎は早足になって、

「将軍家の逝去、ために、天下は、<ruby><rb>鳴物停止</rb><rt>なりものちょうじ</rt></ruby>のこと、いかに草深い所の百姓でも、知らぬはずはあるまいに、あの人もなげな神楽囃子は？　――」

と、好奇に駆られて、急ぎました。

近づいて、物蔭へ、ソッと身を伏せてうかがいますに、黒い人数は六、七人、枯木や枯草をパチパチ<ruby><rb>燃</rb><rt>も</rt></ruby>して、それへ酒とおぼしき湯沸しをかけ、茶碗を廻して野天の<ruby><rb>酒宴</rb><rt>さかもり</rt></ruby>。

「オイ、もう一つ稽古をつけてくれ」

と、中のひとりが立っています。

「何をやろうか」

「<ruby><rb>湯立</rb><rt>ゆだち</rt></ruby>の舞」

「おっと、合点」

ことばと一緒に、また野趣のある諸〻の楽器が、一だん調子をそろえて<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>しました。

踊る、踊る、踊る。

<ruby><rb>湯立</rb><rt>ゆだち</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をつけたひとりの男が、笹を持って踊りぬきます。

その踊りと囃子を見ていますと、この人どもは心から、「あな面白や」と浮かれきって、ちょうど平安朝の頃の民が、自由民楽時代の土俗のように、世間かけかまいなく欲する遊戯に陶酔している風に思われる。

「うまい！」

と、囃子の者が、<ruby><rb>合</rb><rt>あい</rt></ruby>の手の代りに、<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めました。

踊っている男は図に乗って、

「どうだ、どうだ」

「やんや、やんや」

「うまかろうが」

「さすがに、ちっとも忘れていないな」

「根が器用な生れつきでござる」

「されば」

と、狂言ことばで、笛吹の男がすぐに<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打つ。

「根が器用でござれば、神楽ばかりでなく、盗人の方も、都で聞こえを取りました」

「やい！」

と、踊っていた男は、いきなり仮面を取って、

「お調子に乗って、つまらねえ冗談をいうのは止せッ」

と、ムキになって怒り出した様子。

やッと、――万太郎は仰天しました。

<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を取ったその顔は、確か、いつか釘勘と共に、石神堂で取逃がした<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>に違いありません。

「オオ、貴様は道中師の伊兵衛！　そこうごくなッ」

と、大声に、吾を忘れておどり立ちましたから、伊兵衛は元より阿佐ヶ谷<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の連中も、あっと、総立ちに仰天して、たれの気転か、酒やら水やらザッと燃え火へぶっかけるなり、てんやわんやに逃げ散りました。

さて、話がかわります。

――例の馬春堂先生の身の上をちと伺いましょう。

<ruby><rb>去</rb><rt>い</rt></ruby>ぬる月の<ruby><rb>朧夜</rb><rt>おぼろよ</rt></ruby>に、<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴から捕えられて、奇怪な侍に広野の果てへ引っさげられて行った先生。

その後、あの長い顔が、息災なりや否や。

<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>を按じますに、まだ生きております。今、彼のいる地点は北武蔵野の一角、<ruby><rb>入間川</rb><rt>いるまがわ</rt></ruby>を<ruby><rb>距</rb><rt>さ</rt></ruby>ること遠からず、秩父から武蔵へ通う山境、<ruby><rb>鳥首峠</rb><rt>とりくびとうげ</rt></ruby>が遙か西の方に見られる峡谷の一部落。

四<ruby><rb>時</rb><rt>じ</rt></ruby>鳥鳴き、花咲き、<ruby><rb>潺湲</rb><rt>せんかん</rt></ruby>たる<ruby><rb>水音</rb><rt>みずおと</rt></ruby>と静かな<ruby><rb>山嵐</rb><rt>さんらん</rt></ruby>――、そして、<ruby><rb>機織</rb><rt>はたお</rt></ruby>りの歌と<ruby><rb>梭</rb><rt>おさ</rt></ruby>の音がどこかにのんびりと聞こえている。

<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>、高麗村。それはすなわち、ここでした。

そこに、<ruby><rb>入間</rb><rt>いるま</rt></ruby>へ落ちる渓流を前にし、青い峯をうしろにして、広やかな芝生の荘園を抱き、<ruby><rb>法然</rb><rt>ほうねん</rt></ruby>作りの門構え、古風にして雅致ある南画のような邸宅がある。

村の将軍様――というくらい。ふしぎな権力のある<ruby><rb>御隠家</rb><rt>ごいんけ</rt></ruby>の屋敷がそれです。

そしてそこの、奥まった一室に、わが馬春堂先生は、長い<ruby><rb>顎</rb><rt>あぎと</rt></ruby>の突端を抑えて、毎日ぼんやり暮らしていました。

<ruby><rb>実</rb><rt>げ</rt></ruby>に易者の身の上知らずとは、よくいッたものだと、<ruby><rb>熟〻</rb><rt>つらつら</rt></ruby>自分でも感心している面持ちです。

かれは今、自分が幸福に恵まれているのか不幸に呪われているのかも分っていません。これから先はなお分らない。そして現在の存在も一向ハッキリしていません。ただ、分っているのは、

（おれは、生きていることは生きてるんだろうな）

という事だけです。

そこで目をパチパチさせて、庭を見たり、窓から首をのばして見たり、天井を眺めたり、床の間の<ruby><rb>幅</rb><rt>ふく</rt></ruby>に向ってみたり、たまたま見つけた<ruby><rb>天陽虫</rb><rt>てんとむし</rt></ruby>に頬杖をついて話しかけて見たくなったり……

すこぶる退屈の<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>たらくです。

逃げたいにも逃げられないこの<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の構造、こうして生きているのも楽ではないが、折角助かった命を無駄にしてはならないのは、なおさらのこと。

（いったい、おれを、どうしてくれるつもりなんだい！）

怒鳴ってみたくなりましたが、そんな勇気もありません。

そこで馬春堂は、この<ruby><rb>狛</rb><rt>こま</rt></ruby>家の一室にほうり込まれた当時から、退屈まぎれの<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>のよすがにもと、半紙を四つ折に<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じて書きためた自分の日記をくりひろげて、

「……もうこんなになったかなあ」

と、日数を先に勘定して、また書出しの方からボツボツ黙読しはじめましたが、

「ウーム……自分で読んでも、これはなかなか面白い、一つ、江戸へ帰る日があったら、これを版木にかけて、<ruby><rb>書屋</rb><rt>ほんや</rt></ruby>から出してやろうかな。――売れるぞこいつは。これは<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>としても随筆としても事実話としても面白い。実際自分が出会ったことだからな」

こういう時に、助かるものは空想です。

「版にして出すとしたら、書名をなんと<ruby><rb>名</rb><rt>つ</rt></ruby>けようか。馬春堂怪<ruby><rb>遊綺譚</rb><rt>ゆうきたん</rt></ruby>か、まずいな、<ruby><rb>桃源</rb><rt>とうげん</rt></ruby>夢物語、とすると人がほんとに思うまいし……武蔵野あやし草、これも面白くない、いっそ、馬春堂日記、ふん……それでもいいな、梅花堂流の易学者馬春堂先生、<ruby><rb>文筆</rb><rt>ぶん</rt></ruby>もなかなか立ちますぞなンて、一ぺんに、名は売れ出すし、<ruby><rb>洛陽</rb><rt>らくよう</rt></ruby>の紙価ために一時に高し……」

――ところへ、<ruby><rb>郷士風</rb><rt>ごうしふう</rt></ruby>の男がふたり、一人は膳を持ち、ひとりは銀の銚子を用意して、杉戸の口から現れ、

「お客人、さだめし御退屈なことでござろう」

馬春堂は起き上がって、あわてて行儀を直し、<ruby><rb>天神髯</rb><rt>てんじんひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>ぶ</rt></ruby>しながら、

「おや、もう<ruby><rb>御飯時</rb><rt>ごはんどき</rt></ruby>ですかな」

「山家のこと、いつも珍しい御馳走もございませんで」

「今、朝飯を頂戴したと思っていたら、もうお午、これで、またすぐに晩飯。イヤハヤ、食べてばかりいるようですテ」

「どうぞ、食べるのが仕事と思って、御遠慮なく、あれをくれ、これを食わせろと仰っしゃって下さい。さ、御一<ruby><rb>献</rb><rt>こん</rt></ruby>」

と、杯をすすめ、銚子を取る。

「やあ、三度三度、こうして結構な美酒と御馳走、夢のように覚えますな」

「ちと、おぬるくはござらんか」

「イヤ、ちょうど頃合」

と、<ruby><rb>舌鼓</rb><rt>したつづみ</rt></ruby>を打って、

「ウーム、実に<ruby><rb>芳醇</rb><rt>ほうじゅん</rt></ruby>な<ruby><rb>御酒</rb><rt>ごしゅ</rt></ruby>だ」

「酒はお好きとみえますな」

「至って好物」

「御隠家様のお心添えで、今日からは量を増しました故、この世の名残りにたっぷりとお過ごしあれ」

郷士の口裏に、ちょっと変な意味が挾まりましたが、酒の<ruby><rb>甘味</rb><rt>うまみ</rt></ruby>に気をとられていて、さりとは気がつかず馬春堂先生、

「いや有難いおことば」

と、お目出度く額をたたいて、

「ならば<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>は、ゆるりと頂戴いたそうかな」

「どうか、お心おきなく」

「しかし……」と、ソロソロこの辺から<ruby><rb>陶然</rb><rt>とうぜん</rt></ruby>とほろ赤くなって、

「まだお目にもかからんが、御隠家様の指図で、<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>から酒の量を増して下さるというのはどういうわけかな？」

「少しばかり心祝いのお印しに」

「ほほウ……およろこび事か」

「左様。永らくお留守であったお嬢様が、久しぶりで<ruby><rb>今日</rb><rt>きょう</rt></ruby>あたりはお帰りになるはず」

「どちらへ行っておられたので」

「熱海へ御保養に」

「じゃあ、御病身とみえる」

「至って御丈夫に見えますが、どうも御当家のお<ruby><rb>血統</rb><rt>ちすじ</rt></ruby>には、代々、女の方が<ruby><rb>夭折</rb><rt>わかじに</rt></ruby>と極まっているので、御隠家様にはそれのみが御心痛なので」

「ふうん……女が<ruby><rb>夭折</rb><rt>わかじに</rt></ruby>の<ruby><rb>血統</rb><rt>ちすじ</rt></ruby>？　……するとつまり、何か、遺伝とやら申して、よくない病気が伝わっているものに違いない。やれやれ」

と馬春堂は、いつかお酌を待たず手酌になって、ここでまたチビリ、チビリと杯を重ねてから、

「御当家の息女とあれば、さだめし美人でいらっしゃいましょうな」

「お美しいことも代々でござります。これで御病気の遺伝がなければ申し分はないが、世の中はままにならぬもので」

「しかし<ruby><rb>夭折</rb><rt>わかじに</rt></ruby>と言っても、およそお幾つぐらいまでは？　……」

「たいがい、二十四、五歳におなり遊ばすと、枯れるが如く亡くなられる。それが、系図を拝見しても、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>数十代の間、連綿と、判で押したようですから不思議でござる」

「<ruby><rb>当</rb><rt>とう</rt></ruby>狛家という家柄は、そんなにお古い系図かな？」

「大して古いという程でもないが、今よりザッと一千年前の<ruby><rb>霊亀</rb><rt>れいき</rt></ruby>年間から、この武蔵野にお<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>なされておる」

「それは大変な旧家だ。江戸にしてもまだ家康公開府以来二百年とはならないのに、一千年も前から武蔵にお住居とは驚きましたな」

「ところで、当代の<ruby><rb>月江様</rb><rt>つきえさま</rt></ruby>は、御隠家様のお孫にあたるが、今ではお血統の一粒種、ほかにお子様もないところから、ひどく御心痛遊ばしている」

「なるほど、それはお<ruby><rb>大切</rb><rt>だいじ</rt></ruby>なわけ。そういう御旧家であってみれば、何か、<ruby><rb>夭折</rb><rt>わかじに</rt></ruby>をしないような、家伝の名薬があってもよいわけだが……」と、馬春堂は、自分も狛家の家族になった気で、

「<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>の遺伝は厄介なものと聞いておるが、何かその、今のうちに、御工夫がありそうなものではございませんか」

「それに就いて、御隠家様には、まだ月江様がお小さいうちから、ほとんど十幾年の間、本草書類や伝家の古書を<ruby><rb>渉猟</rb><rt>しょうりょう</rt></ruby>して、その<ruby><rb>夭折</rb><rt>わかじに</rt></ruby>の病源をたずね、やっと、一つの奇薬を見つけたのでござる」

「おお。では今日に至っては、その御心配もとれたわけか、やれやれそれで手前も安心したが、してそれに利く名薬は何でございますな？」

「あは、は、は、は」

と給仕の郷士が、急に腹を押えて笑いこけたものですから、馬春堂は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔を作って、

「何をお笑いなさる」

「イヤ、こっちの事で。まあもう一献どうでござる」

「わしは今、お嬢様の<ruby><rb>夭折</rb><rt>わかじに</rt></ruby>に利く名薬は何かとおたずねしましたので」

「ああ、左様でございましたな」

「何ですか、それは？」

「その薬法でござるか」

「その薬は」

「……じゃあお話しいたすが、実はその薬になる物というのは、お手前の生き<ruby><rb>胆</rb><rt>ぎも</rt></ruby>じゃ」

「えっ……」

と息を止めた馬春堂の顔の長さは見ものです。

<ruby><rb>人胆</rb><rt>じんたん</rt></ruby>がある種の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>に奇効があるということは、漢書でも見たことがあるが、現在の自分が生き<ruby><rb>胆</rb><rt>ぎも</rt></ruby>を抜かれるために飼われているのだと聞かされて、馬春堂は、あっと色を失いました。

「おからかいなすッてはいかん。生き胆を取るなんて、冗談にも程がある」

「まあ、そうお怒りなさらないで」

「人を……人を馬鹿にしている」

「ご<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もでござる。まあ、こうなったのも、貴殿の運命と達観して、もう<ruby><rb>一献</rb><rt>いっこん</rt></ruby>お過しなさい、お酌いたそう」

「もう沢山ですわえ」

「御酩酊なされたか、じゃ、御飯をおつけ申そうか」

「飯も食いたくない」

「それは困る……折角今日まで美酒<ruby><rb>佳肴</rb><rt>かこう</rt></ruby>をさしあげて、貴殿の精をよくしておいたのに、今になってお食事が細ると、貴殿の人胆の<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>がうすくなる。まあ長い御丹精はお願いしませんが、もうここ二、三日のところ、せいぜい美食をしていただきたいもので」

「じゃあ……」と馬春堂の厚い唇がワナワナとふるえて、

「わしの生き胆が入用なために、ここへ捕えて置くというのはまったくなのか」

「今日までおかくし申していたが、貴殿はこれでちょうど四人目。御隠家様のお心として、いかに月江様のお<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>が大切じゃとて、罪なき人の生き胆をとるのは余りにむごい<ruby><rb>為業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>、何かよい工夫はないかとお考えの末に、あの石神堂の穴が思いつかれたのです」

「？　……」

馬春堂は、なるほどとも申しません。

もう酒の気もどこへやら。

給仕の郷士は、あらかじめ覚悟をさせて置くように、人胆の由来と犠牲者に選まれた理由を述べ、因果をふくめるつもりでしょうが、馬春堂の身になってみれば、聞きたくもあり聞きたくもなしで、もう半ばは生ける心地もないでしょう。

「――そこであの<ruby><rb>銭瓶</rb><rt>ぜにがめ</rt></ruby>の穴は、貴殿もよく御承知の通り、落ちたが最後出られません。そんな所へ、なんで酔狂に落ちる人間があるかというと、石神様の賽銭盗みが時々引っかかるので、いわば神罰と見なすべき奴――、そういう人間ならば、司祭者である狛家として、それを成敗いたすのは当然、なんの仔細もあるまいというので、あの武蔵野にある各所の石神堂に、生き胆をとるべき人間の<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に懸るのを待っているのじゃ」

「あ……」

「つまり貴殿はその一人」

「ま、ま、待って下さい」

「もうここへ参った以上、泣いても喚いても無益でござる」

「……お助け下さい」

馬春堂は、にわかに立ったり、すわったりして嘆くが如く泣くが如く、わけの分らぬ事を叫んで、グルグル部屋の中を廻りはじめましたが、給仕の郷士ふたりは、素早く酒器や膳を下げて杉戸の口へ、例のとおりピンと錠をかけたきり、二度と姿を現しません。

馬春堂の桃源夢物語はさめました。もう日記どころではない、空想どころではない。頬杖ついて<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>を長くしているどころの騒ぎじゃない。

何ぞ知らん、ここへ来てからの御馳走は、生き胆の精をつけるためであり、下へもおかぬもてなしは、<ruby><rb>胆薬</rb><rt>たんやく</rt></ruby>の材料とする自分をして、いい気持に油断させておく方法でありましょうとは。

「もう<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>がないといったぞ、もう二、三日のうちだといったぞ。ちぇッ……一体どうしたらいいんだ、この馬春堂」

さんざんもがき疲れた末に、どっかりと腰を折って坐りこみましたが、ふしぎに涙も出てきません。

すると、たった一つの明り取りの窓から、ひょいと、見なれぬ者が眼だけ見せて、

「馬春堂」

と、小声で呼んでは首を引ッ込め、またしばらくすると、

「オイ、馬春堂」

と、首をのばしている。

明り取りの小さな窓から、馬春堂馬春堂と小声で呼ぶ者があるので、かれは飛びつくようにそこへ寄って、

「オオ、たれだ」と、人恋しげに<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んで言うと、外の男は、

「しッ」

と手を振って、辺りを見廻しながら、

「おれだよ」

と、<ruby><rb>豆絞</rb><rt>まめしぼ</rt></ruby>りで包んだ顔を寄せてくる。

「やッ、伊兵衛じゃないか」

「どうしたえ、先生」

「ウーム、来てくれたか。伊、伊兵衛、来てくれたのか……」

と馬春堂は茫然となった後に、地獄で仏、感<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>まったもののように、水やらはなやらポロポロとこぼし、

「どうもこうもない、一刻も早くこの死地を逃げ出さなければならないところだ。早く、おれをここから助け出す工夫をしてくれ」

と、拝まんばかりの哀訴です。

その<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>を眺めると、ふだんはドジだの<ruby><rb>半間</rb><rt>はんま</rt></ruby>だのと馬春堂を道具に使っている道中師の伊兵衛も、少し哀れを感じたように、

「あわてちゃいけねえ、おれがここへはいり込んだからには、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>、どうにかして連れ出してやるから、気を落着けて、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の召使いなどに覚られねえように、わざと、神妙に作っているのが<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>だぜ」

「有難う、有難う、じゃ<ruby><rb>矢</rb><rt>や</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>りおれの安否を気遣って来てくれたのか。……伊兵衛、今日のことは忘れないよ、持つべきものは友達だ」

「何を言ってやがるんで、<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>でもかめよ、きたならしい」

「だが、どうして、おれがここに居るというのが分ったのだ。何だか夢みたいな気がしてしようがない」

「あの後の<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆ</rt></ruby>きは、目白の近所で、ぼつぼつ様子を探って来たんだが、まさかおめえの体が、生き胆の薬にされようたあ夢にも気が付かなかった」

「じゃ、今の話も聞いていたのか」

「声を出して笑えばバレるから、おら、この下で、腹を抑えて我慢していた」

「ええ、人の気も知らないで、何がおかしい事がある。出してくれ、後生だ」

「ところが、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>へは阿佐ヶ谷<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の連中という触れ込みで来たわけだ。向うの<ruby><rb>離亭</rb><rt>はなれ</rt></ruby>にゃ、まだ四、五人の連れもいるし、何しろ構えも厳重だから、しばらく様子を見た上でねえと、とても此処は逃げ出せめえぜ」

「そんな<ruby><rb>気永</rb><rt>きなが</rt></ruby>を言っては困る、今、馬春堂は命<ruby><rb>旦夕</rb><rt>たんせき</rt></ruby>に迫っておる……」

「なあに大丈夫、まだおれだって、十日や二十日は御滞在遊ばすつもりだ」

「よしてくれ、おれの方は、もう<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>か<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>があぶない命だ」

「その時にゃ、またどうかならあな、いいかい、くれぐれも血迷って先へ<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>られちゃあいけないよ」――と別れようとすると、

「おい伊兵衛、伊兵衛、待てよ伊兵衛……」

馬春堂はわれを忘れて、思わず泣き声を上げかけました。

しかし、一方はそれに耳も貸さないで、真っ赤に咲いた<ruby><rb>躑躅</rb><rt>つつじ</rt></ruby>や八ツ手の間をこぐり、庭の奥へと素早く影をくらましてゆく。

一時は情けない気がして、かれは伊兵衛の不人情を恨みたくなりましたが、考えてみると、かれにも何かの都合があろうし、自分の無二の者が、ここへ化け込んでいるかと思うと、最前よりは遙かに心強いわけです。

それから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、その明り取りへ首を出して、外の気配にばかり神経を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らしていますと、やがて陽ざしの<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>近い頃、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の召使いや数人の郷士たちが、

「お嬢様のお帰りじゃ」

と<ruby><rb>騒</rb><rt>ざわ</rt></ruby>めき立つと、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>からフラフラと駆けて出て<ruby><rb>法然門</rb><rt>ほうねんもん</rt></ruby>の両側へずらりと出迎えに並びました。

## <ruby><rb>千蛾老</rb><rt>せんがろう</rt></ruby>と<ruby><rb>久米之丞</rb><rt>くめのじょう</rt></ruby>

藤棚の藤の花もゲッソリと散り細ッて、<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>の四角い地上だけが、紫白の<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>を敷きのべたようです。

<ruby><rb>唐焼</rb><rt>からやき</rt></ruby>の<ruby><rb>陶物床几</rb><rt>すえものしょうぎ</rt></ruby>に、ここの<ruby><rb>御隠家</rb><rt>ごいんけ</rt></ruby>様なる<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人はゆたりと腰を休めて、<ruby><rb>網代</rb><rt>あじろ</rt></ruby>竹の卓のうえに<ruby><rb>片肱</rb><rt>かたひじ</rt></ruby><ruby><rb>乗</rb><rt>の</rt></ruby>せ、

「<ruby><rb>久米之丞</rb><rt>くめのじょう</rt></ruby>、おまえも、月江に会うのはだいぶ久し振りじゃろう」

と、その人をひきつける童顔に目じりを細めて、銀を植えたような<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の先を指でまさぐりました。

「左様でございます。何しろ、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>へおいでになる前には、拙者が旅中でございましたから、あれ以来とするともう半年近くに相成ります」

<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>をはさんで、窮屈そうに前にいる男は、この裏山の<ruby><rb>背村</rb><rt>せむら</rt></ruby>に住む、<ruby><rb>関久米之丞</rb><rt>せきくめのじょう</rt></ruby>とよぶ旧家の郷士。

久米之丞は<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶおとこ</rt></ruby>だが腕が強い。

いかにも武蔵野育ちらしい野性と<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>さをその顔骨にあらわして、長い<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>しゅざや</rt></ruby>と何流とかの剣法は彼の得意としているところ。

年はまだ三十になるまいが、粗野な性格を無理に抑えて、もっともらしい会話をしながら、一言一句にも、<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人の信用をうることを忘れていません。

ことに。

月江や次郎が留守のうちは、一日置きに、この狛家を訪れて、御隠家様の千蛾老人の機嫌をとり結び、何かの相談にもあずかるので、自然今では、召使いをはじめ彼自身も、ここの家族同様な気持でいるらしい。

「ウウ……もう半年も会わんか」

「入湯の<ruby><rb>効</rb><rt>こう</rt></ruby>で、定めし、見違えるほど御壮健になったことと存じます。何と申しても人間は健康第一、これでなくてはいけません」

と、<ruby><rb>黒鉄</rb><rt>くろがね</rt></ruby>のような、自分の腕をたたいて見せる。

「久米之丞様は、相変らず人斬りがお好きかなどと、月江も、よくあちらからの手紙の端に書いて来おッた」

「やあ、それではいかにも<ruby><rb>殺伐</rb><rt>さつばつ</rt></ruby>な人間のようで……」と、武骨に頭へ手をやったが、またうれしそうに、

「それなのに、拙者は、月江様が入湯中も、一向ぶさたばかりしておりました故、今日はキッとお怨みをいわれるやも知れません」

「それはいかん、なぜ手紙をやらぬのじゃ。旅先では知人の手紙ほどうれしいものはない」

「気はついておりましたが、ちょうど、拙者と月江様とは人目うるさい年頃……もし御隠家様のお目でも忍ぶように噂されてはなるまいと思って」

「は、は、は、は、気の小さい奴じゃ。まだお前にも若者らしい正直さがあるのじゃな」

「まったく、この一本気の正直なために、よく友人などにも誤解をされましてな」

と、久米之丞は妙にソワソワしたり、またひとりで顔をどす赤くしたりして、

「御隠家、ちょッと、中座をいたします」

と、立ちかける。

「どこへ行く」

「とにかく、一応月江様に、御挨拶だけを済ましてまたここへ戻ってまいります」

「まア、よい」

と、老人は眉で抑えて、

「月江も今屋敷へ着いたばかり、疲れてもおろうし、支度もかえねばならぬ。――何かの事がすんだらここへ来るようにと申してあるから、お前が行かなくとも、やがて、ここへ見えるであろう」

「でも」

「まあ、そこに掛けていなさい」

「べつに御用事もないふうですから、とにかくちょッとあちらで」

「いや、用事がないどころじゃない。あればこそ、わざわざ人を遠ざけて、ここにお前を呼んだのだが……」

「はあ、何か？」

「ウム、これを読んでみい」

と、千蛾老人はふところから一冊の古びた<ruby><rb>綴本</rb><rt>とじもの</rt></ruby>を<ruby><rb>卓</rb><rt>たく</rt></ruby>の上へさし向けて、

「先頃、かの<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>と一緒に、こういう思いがけないものを手に入れた。……どうじゃ久米之丞おまえはこれを何と見る？」

「ははあ？　……」

と、久米之丞は渋々ながら浮腰をおろして、初めはお役目に一、二枚拾い読みしておりましたが、いつか、その中の奇怪な文字の魅惑に、われを忘れて引きこまれてゆく顔つき。

それは洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>と一緒に、千蛾老人の手へ渡った、かの「<ruby><rb>御刑罪</rb><rt>おしおき</rt></ruby>ばてれん<ruby><rb>口書</rb><rt>くちがき</rt></ruby>」の古冊です。

「ウウム……」と久米之丞、初めは渋々でしたが、深く読み入ると、いつまでも手から放そうともせず、

「御隠家様！」

と妙に力を入れ込んで、

「一体かようなものが、どうして世上にあるのか、これはどうも、実に不思議千万で」

「どうじゃ、お前も意外に驚いたであろう」

「これによって祭しますと、慶長以来より、御当家数代の方がかかッて尋ねている、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>国の短刀をほかにも探している者が<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>あると相見えますな。――しかもその来歴をつぶさに書いたこの口書が、転々して御隠家様のお手に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るは、まったく不思議な巡り合せで」

「わしも因縁の奇なるに一驚を<ruby><rb>喫</rb><rt>きっ</rt></ruby>した。しかし、こういう物が世上にもれているとすれば、あの方のことも悠長に構えてはおられない。これは当家に取ってもいい刺戟じゃ」

「仰せに相違ございませぬ」

「久米之丞、お前もせいぜい骨を折って、一日も早くあの短刀を尋ねてくれ」

「承知仕りました。だんだん捜査の端緒も見えております故、今に必ず尋ねだして御覧に入れます。……が、御隠家様」

と、久米之丞は抜かりのない目つきをして、ギシッと網代竹の卓を押して来ました。

「む……何じゃ」

と、千蛾は「ばてれん口書」をふところに入れて、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>く髯をまさぐる微風に目を細めています。

「……もし、何でございましょうか」

「もし、何じゃ？」

「その夜光の短刀を、拙者が尋ねてお手元へ差上げましたなら」

「ふム」

「つまり、由緒ある御当家には、御不幸にして、跡目をつぐ男子がございませぬ」

「何をいう。分らんの」

「いや、その……」と久米之丞は、ヘドモドしながら、ここ懸命になって、

「押しつけがましゅうござるが、拙者と月江殿をお<ruby><rb>娶合</rb><rt>めあわ</rt></ruby>せ下さること、お許し願えましょうか」

「お前が夜光の短刀を探して来たらというわけじゃな。つまりそれを功にして」

「はっ、御意で」

「月江がほしいか」

「面目次第もない儀でござるが」

「あ、は、は、は、は」と千蛾は笑って――

「何もそう面目ながることはない。わしの目を盗んですることなら許さんが、夜光の短刀と取換えの約定で、堂々と、月江の婿になりたいという申込み、イヤ面白い、いかにも約束いたしてやろう」

「えっ、ではおゆるし下さいますとか。それで一段と骨折り甲斐もあるというもの、有難くお礼申しあげます」

「これこれ久米之丞、その礼はまだ少し早かろう。わしの先代も、その先々代も、生涯かかッて尋ねながら遂に探し得なかった夜光の短刀。間に合うかな？　月江が若い間に」

「自信がございます」

「ほう……」

「慶長の昔、この武蔵野にさまようて来て、御当家にもしばらく<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まり、その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>、夜光の短刀を持っていずこかにて世を果てた、ピオと申す<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の貴人の足跡を、やっとこの頃、少々さぐり当てたことがございますので」

と、久米之丞がなお話に<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>を入れかけていると、ザワッと風もないのに怪しい音。

ふと、ことばを切って、二人がそこの<ruby><rb>陶物床几</rb><rt>すえものしょうぎ</rt></ruby>から立ち上がって見ると、<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>のうしろの山吹が微かにゆれていて、真ッ黄色な花の粒がまだホロホロとこぼれている。

「たれじゃ」

「猫ではございませぬか」

と見廻していた久米之丞は、突然、顔じゅうに笑みをくずして、

「やあ、お嬢様が」

と、落着かない挙動となる。

なるほど、それへ見えたのは次郎を連れた月江です。衣服を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えて久し振りに、屋敷の湯に<ruby><rb>浸</rb><rt>つか</rt></ruby>って<ruby><rb>化粧</rb><rt>けしょう</rt></ruby>を改めた月江の姿は、今旅から帰った人とも見えず、久米之丞にはまぶしすぎる。

「月江、おまえか。今そこの山吹のうしろで何かしていたのは」

と、顔を見るとすぐに、千蛾老人がこう尋ねましたので、月江も次郎も不意をうたれたように、

「いいえ」

と顔を見合せています。

「たれだろうか？」

月江でも次郎でもないとすると、そこの山吹の蔭で、今、二人の密話をぬすみ聞きして逃げた者がほかにあるに違いない。

「おかしいのう……」

と、<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>は眉をひそめましたが、久米之丞はもうそんな事にこだわりなく、

「さ、月江殿こちらへ」

と、自ら<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の位置を直して、彼女の瞳を待ちましたが、月江はそれへ一<ruby><rb>暼</rb><rt>べつ</rt></ruby>も与えず、千蛾のそばへ寄って、

「お<ruby><rb>祖父様</rb><rt>じいさま</rt></ruby>、ただ今帰りました」

「おう」と、久し振りの孫娘へまなじりを細めて――「どうじゃッたな、熱海は」

「ほんとに面白うございました。<ruby><rb>日金峰</rb><rt>ひがね</rt></ruby>へ登ったり、海辺へ出て見たり、飽きると次郎やおりんと<ruby><rb>投扇興</rb><rt>とうせんきょう</rt></ruby>をしたりして」

「そんな事をきくのではない、体の工合はどうか、入湯の<ruby><rb>効目</rb><rt>ききめ</rt></ruby>はあったかと問うているのじゃ」

「――でもお祖父様、私は元より丈夫でございますもの」

と、顔に触った<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>を指に巻いて引っ張ると、散り残りのもろい花が老人や久米之丞の頭へ面白くこぼれました。

「ホ、ホ、ホ、ホ」

背中へ手を突ッ込んで<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>がッている久米之丞を見て、月江はこう笑いこぼれながら、また千蛾の方へ甘えるようなことばで、

「私は元からこの通りすこやかなのに、お<ruby><rb>祖父様</rb><rt>じいさま</rt></ruby>、どうして、そんな事をおたずねなさいますの」

「ウム、ウム」と、千蛾は前言を取消して、うっかり口をすべらした病気のことを、かの女の気に病ませまいとして<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てながら、

「そうじゃ、そうじゃ。熱海へ行ったのは何も病気の為ではなかった」

「ええ、私は<ruby><rb>毎年</rb><rt>まいとし</rt></ruby>、ただ遊びに行くんですもの」

「面白かったらそれでいい。イヤ結構結構」

「来年はお祖父様も、きっと一緒に参りましょうね。この武蔵野には海がありません、お祖父様は海を御覧になったことがありますか」

さっきから話の仲間に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>り得ないで、てれた顔をしていた久米之丞、

「海はようございますな！」

と、<ruby><rb>突拍子</rb><rt>とっぴょうし</rt></ruby>もない声で、自分の存在を誇示するように、

「武蔵野に<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の伸びる頃もいいが海の<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>もまた格別。来年はぜひこの久米之丞もお供致しましょう」

「あら」

と、初めてその人間に気がついたように、

「久米之丞様におすすめしているのではありませんよ」

「これはきつい御挨拶」

千蛾老人は突然上を向いて哄笑しました。

そこへ小間使いのおりんが馳けて来て、

「お嬢様、あちらの芝生へいらっしゃいませんか」

「<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>は？」

「ここに」

と、たもとの中に抱いている<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>の<ruby><rb>蹴鞠</rb><rt>けまり</rt></ruby>を見せますと、月江はすぐに<ruby><rb>亭</rb><rt>ちん</rt></ruby>の外へ走り出して、いつの間にか見えなくなった次郎の姿を探しながら、荘園の広場へ向って蝶のような姿を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して行く。

「蹴鞠をなさるのでござるか、月江殿、月江殿」

と、それにつれて久米之丞も、あたふたと立ちかけますと、

「ああこれこれ」

と、千蛾老人はその出鼻を呼び止めて、

「お前にもう一つ厄介な頼みがある。そろそろ風が薄寒くなったから、奥の座敷へ来てくれんか」

「はっ」といったが、久米之丞はうらめしそうです。

「まだ何かほかに御用が？」

と、不承不承。

こう御隠家様の信用を取りすぎるのも好しあしだわい――と思いながら、月江の去ッた方をまだ眺めていますと、ポーンと快い音と一緒に、蹴上げられた<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>が若葉の上に高く見えます。

暮れのこる卯の花に、もうこの山里では<ruby><rb>時鳥</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>の声が聞かれます。

「えっ、<ruby><rb>癆痎</rb><rt>ろうがい</rt></ruby>？　……」

と、奥の一間からびッくりしたような人声。

そこに対座して夕刻から、何かヒソヒソと囁いていたのは千蛾と<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>久米之丞の二人です。

淡墨の<ruby><rb>絵襖</rb><rt>えぶすま</rt></ruby>に、<ruby><rb>高脚</rb><rt>たかあし</rt></ruby>の<ruby><rb>切燈台</rb><rt>きりとうだい</rt></ruby>の灯が静かにまたたいて、黒い艶をもった柱、古色をおびた天井、つぶし貝が星のように光る砂壁など、いかさま千余年来の旧家と思われる落着きです。

「月江殿には不治の癆痎であると仰っしゃいますか」

久米之丞は、もう一度こういって、千蛾へ膝をつめ寄せている。

かれが、行末は自分の妻と、深く思いきめている月江の血のなかに、<ruby><rb>癆痎</rb><rt>ろうがい</rt></ruby>という怖るべき不治の業病が潜んでいるということは、今――たッた今ここで初めて、御隠家自身の口からぶっつけに話されたのですから、久米之丞がわが事以上に<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>としたのも無理ではありません。

だが、また。

そんな虚言を構えて、自分に断念させようとする千蛾の腹ではないかとも思って、少しひがみを持ちながら、

「仰せではござるが、あの健康そのものの月江殿が、癆痎なんて、そんな御病気であるはずはございますまい」

と開き直りました。

「ウム、まだその<ruby><rb>兆候</rb><rt>ちょうこう</rt></ruby>は見えていないが……」

と、老人は憂色を声にあらわして、

「ほっておけば、やがて、あの<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>がいよいよ美しくなると共に、やがて、血を吐いて死ぬ！」

と、いい切りました。

久米之丞は、こは<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからんという風に肩を張って、

「な、なぜでござる」

「それが、癆痎の特徴じゃからしかたがない」

「しかし、まだ病気の兆候も見えないうちに、なんで月江殿の運命が、左様に呪われたものといい切れますものか」

「それは、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の系図が示している」

「はて、不審なおことば」

「お前は他家の者ゆえ、そこまで深刻に考えついておらぬかも知れないが、わしに取ってみれば、もうあの月江は一つぶ種、何よりそれが案じられておるのじゃ。……当家の系図が示すところによると、代々、不思議と女が<ruby><rb>夭折</rb><rt>わかじに</rt></ruby>しておる。それもみんな美しく生れて、美しい盛りに血を吐いて！　……」

「血を吐いて？」

と、<ruby><rb>鸚鵡返</rb><rt>おうむがえ</rt></ruby>しにつぶやいて、久米之丞は暗い色をその顔にただよわせる。

千蛾はしんみりと語をついで、

「しかし、不治の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>といえ、<ruby><rb>治</rb><rt>じ</rt></ruby>する薬法のないことはあるまい。わしは月江の病を未発になおすと共に、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>の代で、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>のいまわしい遺伝を根絶やしにしなければならないと考えた」

「なるほど」

「その為、あらゆる漢書和本をあさッて見たが、これはと思う物もなかった。で、一度は断念して、月江が美しく育つのをただ怖ろしく眺めていたが、そのうちに、わしの<ruby><rb>猟奇癖</rb><rt>りょうきへき</rt></ruby>が例の夜光の短刀の方へ移って行った」

「あのお話なら、この久米之丞も、前から御相談にあずかっておりました」

「ウム。だがお前はどうしてこの<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>代々の者が、そういう物を尋ねて来たか知っているか」

「さあ、その辺はどうも……」

「今日はその由来を話そう」

と、老人は燭を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>る。

いつのまにか、不治の遺伝の話が、また夜光の短刀のことに変り出して来たので、久米之丞は、

「はあ」

と、答えましたが聞き骨の折れる顔をして、さっぱり気が乗らないふうです。

「ピオと申す異国人があった」

千蛾老人は目を閉じて語り初めます――

「慶長の当時、上方の戦乱や、異教迫害の火の手に追われて、この武蔵野へのがれて来たのじゃ。ピオは<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の貴人で、かの国では王族の一人であったそうな。そして、永らくこの狛家にかくまわれていたが、やがて、江戸城にも新将軍秀忠が移り、この地方にも諸侯の制度がきびしく<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれてきたので、当家に潜伏していたピオは、狛家に<ruby><rb>累</rb><rt>るい</rt></ruby>を及ぼしてはならぬと、ある夜、無断で抜け出したまま、遂に、その行方も死所もわからずになってしまった」

「それが、夜光の短刀の持主でございましたな」

「そうじゃ」

「その時、彼がその短刀を持っていたのは、事実でございますか」

「わしが伝え聞いているところによると、ピオは、自分の命をとられるよりも、その短刀が人の手に渡ることを怖れて終生逃げ廻っていたらしい。だから、後世になればなる程、その<ruby><rb>所在</rb><rt>ありか</rt></ruby>が分らぬはずじゃ」

「それをまた、御当家の方が、幾代となく探しておいでになるには何かそこに、深い理由がございましょうな」

「ある！　それはピオとの約束じゃ。――ピオは当家の祖先の者へ、ある年限を過ぎさえすれば、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の国も自分たち王族の天下になるから、その頃になったら夜光の短刀を<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>王庁へ送ってくれと頼み、またこッちもそれを誓ってやった」

「不覚でござるな。それくらいならば、夜光の短刀を御当家へ預けてゆくなり、また何か、かくし場所に目印をしておけば、こんな苦労もない訳でございます」

「それ程大切がっていた品ゆえ、生ける間は、手放すことが出来なかったのは異国人として無理の無い気持じゃろう。……ところが、まことに偶然なわけで、わしが月江の短命を苦にして、その薬法を究めるため、先頃、また気まぐれに書庫をかき廻していると、そのピオが当家に残して行った手廻りの品が見つかった」

「ははあ、ピオの<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>でございますか」

「中にピオが日本で<ruby><rb>耶蘇会堂</rb><rt>やそかいどう</rt></ruby>を建てた時の用意として、蛮書や漢書から写し取っておいたものと思わるる病者救治の秘方が一冊あって、何気なく、その漢訳されている個所だけを拾い読みしてまいると、偶然、<ruby><rb>癆痎必治</rb><rt>ろうがいひつじ</rt></ruby>の処方が立派に記されてあるではないか」

「な、なるほど！」

と、久米之丞は、ここで月江の病気と結びつく話の前提だったのかと、にわかに生き生きした調子でうなずきました。

「して、その薬法はどういう秘伝でございますか」

「人の<ruby><rb>胆血</rb><rt>たんけつ</rt></ruby>を根本とする」

「胆血？」

「わかりよく申せば人間の生き<ruby><rb>胆</rb><rt>ぎも</rt></ruby>。――それへピオがまたこう書き添えてあるのじゃ」

「ふム」

「――漢方の胆血に加うるに、余のもてる<ruby><rb>鶏血草</rb><rt>けいけつそう</rt></ruby>の根を以てせば、この地にて癆痎と呼ぶ肺器の病はいえざることなし――と」

「しかし御隠家様、鶏血草などと申す植物が、この日本にありましょうか」

「ある！」

「拙者は初めて耳にいたしますが」

「今もいったとおり、それにピオが、余の持てる鶏血草の――と書いている。してみればかれがその薬草の種を日本へ持って来たことは明らかなわけではないか」

「いかにもな！」

「のみならず、ピオは生前に当家の者へ、自分が終った所には、必ず鶏血草がさいているであろうと話していたそうじゃ。――察するところ、その鶏血草の花こそ、ピオの墓じゃ、夜光の短刀の<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>もれてある場所じゃ」

「ウーム、鶏血草の花……ピオの墓……夜光の短刀……癆痎の薬草」と、久米之丞が首をかしげてつぶやくのを、老人は軽く話を笑い納めて、

「そう複雑に考えるからいけない。お前が見事、夜光の短刀の<ruby><rb>所在</rb><rt>ありか</rt></ruby>をつき止めさえすれば、同時に、月江の秘薬も手にはいるし、そちの望んでいる月江の体も、久米之丞の妻として、お前のものになるわけじゃ」

## <ruby><rb>裸馬</rb><rt>はだかうま</rt></ruby>と<ruby><rb>騎</rb><rt>の</rt></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>

ふと、ふすまの向うでする<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>。

密談のあとで、何か耳打ちをしていた御隠家様と久米之丞が、あわてて身を離すと次の間の外で、

「お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>さま」

と、開けないままの声がする。

「おう、月江じゃの」

「ハイ、まだお居間へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってはいけませんか」

「ウ。……ム、いやよろしい、おはいり」

「もうお話はおすみ遊ばしたのでしょうね」

最前からそこの話が、余り永々としめやかだったので、少しヒガんでいる様子です。

その時、御隠家自身が何となくハッとしたのは、月江が今の話をそばで聞いてしまったのではないかという疑念でした。

久米之丞の粗野な神経には、そんな心配もひびかぬらしく、月江と知るとにわかに陽気づくッて、

「水入らずのこの部屋に、なんの遠慮がいりましょうか、さ……」

と、自身立ってふすまを<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>け、

「<ruby><rb>蹴鞠</rb><rt>けまり</rt></ruby>をしておいでの様子ゆえ、わざとお呼びせずに控えておりました」

「だってもうとッくに日が暮れておりますのよ」

「なるほど、いつのまにか燭台が来ている」

月江は、ツンツンとして坐りながら――

「久米之丞様」

「はっ」

「何をここでお<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>様と話していたんですか。あんなに永く」

「その……やはりあなたのことで」

「<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の悪口？」

「<ruby><rb>滅相</rb><rt>めっそう</rt></ruby>もない。――久しぶりでお帰りなされたこと故、今夜は何をして慰めてやろうかというような話を、御隠家様に申し上げていたところです」

「そうそう」

と、<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人も調子よく<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打って、

「いいつけて置いた酒の支度はどうしたものじゃ」

と、手をたたいてそれを<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かせ、また思いついたように、

「オオ、<ruby><rb>嬢</rb><rt>じょう</rt></ruby>の慰めにはよいものがある。久米之丞」

「はっ」

「あの奥に泊めてある阿佐ヶ谷村の<ruby><rb>神楽師</rb><rt>かぐらし</rt></ruby>ども、<ruby><rb>田舎能</rb><rt>いなかのう</rt></ruby>の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>ほどはするであろう。あれをここへ呼んで、笛、小鼓。わしも舞おう、月江も<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>え」

「春の<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>、それは一段と面白うございましょう」

「<ruby><rb>嬢</rb><rt>じょう</rt></ruby>が帰った心祝いじゃ。今宵は召使いたちも遊ばしてやれ」

「では、早速」

と、久米之丞が呼びに立ちかけますと、月江はそれを<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるように、

「お祖父さまは、こんど将軍様御他界で、<ruby><rb>鳴物停止</rb><rt>なりものちょうじ</rt></ruby>になっている世間のことを、御存じないのでございますか」

「いや、それは、こんな山奥にもお触れがあったよ。だから当家でも、折角催すつもりであった石神祭りの<ruby><rb>仮面納</rb><rt>めんおさ</rt></ruby>めも見合して、わざわざ雇った神楽師どもも、ああして無駄に遊ばせてあるのじゃ」

「内輪だけのことなら、何も苦情はござるまい。それにこの山間の広いお屋敷、世間に聞こえるはずはなし」

と、久米之丞は独りぎめに立って、何かの指図を急ぎ初めました。

支度はやがて、べつな広間。

五、六十畳も敷かりましょうか、正面の九尺床には、偉なる<ruby><rb>高麗焼</rb><rt>こまやき</rt></ruby>の大花瓶に一個の<ruby><rb>梵鐘</rb><rt>ぼんしょう</rt></ruby>が釣ってあり、また、銀の<ruby><rb>大襖</rb><rt>おおぶすま</rt></ruby>につらなる燭台の数は、<ruby><rb>有明</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>の海の<ruby><rb>漁灯</rb><rt>いさりび</rt></ruby>とも見えまして、さしも由緒ある豪族の名残はここにもうかがわれる。

ならびました。人々、席順に。

まず、御隠家様の千蛾老人、無論正面をうしろにしまして。

そばには、月江。

<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>がッて小間使いのおりん。

左には関久米之丞。

以下は家の子たる高麗村郷士の者たちで、はるか末席の<ruby><rb>殿</rb><rt>しんがり</rt></ruby>として、例の次郎がちょこなんと控えている。

すべてを入れて三、四十人、ここにズラリと居ならんだ有様、鎌倉山の星月夜とはまいりませんが、貧しい大名などは及びもない一家族で、それにこの<ruby><rb>宴</rb><rt>えん</rt></ruby>には、突ッ張った<ruby><rb>裃姿</rb><rt>かみしもすがた</rt></ruby>がない点も一段うれしいところであります。

程なく。

それへ案内されて来る六、七人。

阿佐ヶ谷<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の連中でございましょう。百姓芸人でも<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>の<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みはありますが、鎮守様のお神楽堂とは、少々勝手がちがうので、<ruby><rb>燭</rb><rt>しょく</rt></ruby>の明りが<ruby><rb>映</rb><rt>は</rt></ruby>えかがやく長廊下を、いかにもオズオズ、<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>る畏る。

そのおしまいにくッついて来たのは、まぎれもない道中師の伊兵衛。

どうも、白足袋の似合わないこと。

こいつ、豆しぼりの<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を、つかんでいたそうな物腰でやって来ました。

「これ、神楽師どもにも杯をやらぬか」

と、御隠家様は目通りの一同を細目にながめて御機嫌ななめならず、

「膳部、膳部」

と、世話をやかれる。

「はい」

と、おりんが立って<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby>を運ぶと、<ruby><rb>末席</rb><rt>ばっせき</rt></ruby>にいた次郎も、ちょこちょこと銚子を持って神楽師たちの前にかしこまり、

「お酌いたします、お過ごしなさいませ」

と、武骨につき出す。

「へ……へい」

「<ruby><rb>無礼講</rb><rt>ぶれいこう</rt></ruby>じゃ」

と、御隠家様のお声がかかる。

「無礼講だそうですよ」

と、次郎がことばの取次をしていう。

「では……」と、それから始まって、神楽師も飲む、郷士たちも飲む、久米之丞も飲む。

御隠家様の千蛾老も、今夜はだいぶ過ごされている様子。

「どうじゃ月江、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>もよかろうが、自分の家もよいであろうが」

月江は何か浮かない顔色で、

「お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>様、私はほんとに病気があるのでしょうか」

「何をいう」

「だって……」

「ばかな事を。お前のような、<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>した顔色の者がなんで……は、は、は」

陶然と、今度は、反対な方を向いて、

「久米之丞。酌」

と、杯を重ねます。

その<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>に老人の目が、チラと何か意味あるようにうごきますと、久米之丞は辺りのザワめきに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れて、そッと席から姿を消して行く。

それをまた、強いて紛らわそうとするものの如く、千蛾老人は頻りと自分から賑やかになって、

「おお、それよ、阿佐ヶ谷村の者達。ただ騒然と飲んでおッても面白うない。何かさかなをせい」

「へい」

と、連中一度に返辞をして、

「なんぞ、御所望が？」

「いや、なんという事はないぞ、なんでもいい。こうした晩らしく、賑やかに、<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>を！　興を！」

「では御隠家様」

と神楽師のひとりが、うしろに引ッ込んでいる伊兵衛の顔を指さして、

「あれにおります男、至って、人相はよろしくありませんが、生来笛の名人でござります。御所望とあれば何がな一曲吹かせておやり下さいませ」

「ウム、笛をやるか」

「仲間でも吹ける男といえば、まず、あれにいる伊兵衛でござります」

「やい、やい」

と、道中師の伊兵衛、あわてて袖を引ッぱりながら、

「つまらねえ事を<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るな、笛なんざ、もうとッくに忘れていら」

というのを、千蛾老人、遙かに目に止めて、

「伊兵衛とやらいう笛吹きの名人、ちょうどここに、当家秘蔵の一<ruby><rb>管</rb><rt>かん</rt></ruby>がある、お前なら吹けそうじゃ、試してみい」

と、うしろの床の間から、<ruby><rb>朱塗</rb><rt>しゅぬり</rt></ruby>の<ruby><rb>狛笛</rb><rt>こまぶえ</rt></ruby>を取って、ここへ――という目でさしまねきました。

「ど、どう致しまして、仲間の奴らが、からかい半分に飛んでもねエほらを吹きゃアがって。イヤ<ruby><rb>滅相</rb><rt>めっそう</rt></ruby>もないこッてす。何で、あっしのような頓馬にそんな名器が扱えるものじゃございません。……ヘイ、それだけは、真ッ<ruby><rb>平</rb><rt>ぴら</rt></ruby>御免なすッて下さいまし」

いかにも、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>したように見せかけましたが、どうも、<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>抜けしすぎたその物腰や口ぶり、ほかの指の太い連中とは異なっておりますから、千蛾も、

「はて、この男は？」

と、燭を透かして、酔眼にジッと見直しました。

一方。

そッと席を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>した久米之丞は、奥深い屋敷の間数を越えて、やがて薄暗い橋廊下を手さぐりで渡ってゆく。

その突き当りに、<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>のかかッている厚い<ruby><rb>欅戸</rb><rt>けやきど</rt></ruby>があり、かれは、その外へピッタリと身を寄せて、シンとした中の気配をさぐっていました。

この<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>は橋廊下をへだてて、二重壁となっている一見奇怪なからくり<ruby><rb>普請</rb><rt>ぶしん</rt></ruby>。

例の馬春堂先生が、桃源の夢こまやかであッたり、地獄の<ruby><rb>羅刹</rb><rt>らせつ</rt></ruby>に<ruby><rb>魘</rb><rt>うな</rt></ruby>されたりしながらも、どうしても逃げ口がない八方ふさがりの密室！　いわば<ruby><rb>暗剣殺</rb><rt>あんけんさつ</rt></ruby>の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>であります。

奥の酒宴を抜けて、かれがここへ来たのは、いうまでもなく千蛾老人の<ruby><rb>指金</rb><rt>さしがね</rt></ruby>をうけて、馬春堂の生き胆を料理しに来たものに相違ありません。

しばらくそこで、密室のうちの気配に、耳をすましていた久米之丞、刀の<ruby><rb>下緒</rb><rt>さげお</rt></ruby>を解いて片袖をむすび、

「ウム、寝ているな……」

ニッと、殺気のある笑みを流しますと、そこの錠口に手をかけました。

すると――

その時、遙かな母屋の方から、<ruby><rb>喨々</rb><rt>りょうりょう</rt></ruby>と玉をまろばすような笛の調べ！

いと面白き<ruby><rb>狛笛</rb><rt>こまぶえ</rt></ruby>の音です。

低き時は水のせせらぎも<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>まるかと思われ、<ruby><rb>高音</rb><rt>たかね</rt></ruby>を張りきる時は山嵐の樹木も一時に身ぶるいするかと思われます。

御隠家様を初め、一同の者に<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>められて、道中師の伊兵衛がぜひなく試みた狛笛の一曲でしょう。

伊兵衛は天生笛の名人であるとか。なるほどこれは本ものです。まことに奇妙な泥棒の隠し芸。

一座の者も、かれの本業を知らぬ故、それに酔わされておりましょうが、それを、泥棒の芸術と知って聞いたら、鬼気身にせまり、肌に<ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>を生ぜずには聞かれなかったに違いない。

……今、馬春堂を殺そうとして密室の外へ忍び寄った久米之丞も、その妙音に酔わされて、うッかり、曲の終るまで聞きほれてしまいそうです。

「オオ、あの笛は？」

と、<ruby><rb>暗剣</rb><rt>あんけん</rt></ruby>の間にこもっていた馬春堂も、寝つかれぬ枕をもたげて、

「伊兵衛らしいが……」

と、不安そうな目をポカッとあいて、部屋のあたりを見廻している。

「なんていう呑気な奴だ、畜生、人の気も知らねえで」

と、やたらに腹が立つ。

泣きたい程、<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわる。

一方は死の恐怖に襲われどおしで、寸間も安心していられないというのに、一方は笛や<ruby><rb>酒宴</rb><rt>さかもり</rt></ruby>。

昼には、月江が帰って来たのを見たし、今夜はいつもと違って、ばかに陽気な空気が馬春堂にも感じられていましたから、

「こいつは変だ、伊兵衛の助けに来るのを安閑と待ってなんかいると、飛んでもねえことになるかも知れない。ウッカリすると今夜あたり……」

馬春堂は跳ね起きました。

だが、これという計画的な考えもない。ただ、ジッとしていられない恐怖の本能が、彼をして、<ruby><rb>竹籠</rb><rt>たけかご</rt></ruby>をかむキリギリスの如き<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>を演じさせる。

そのうちに。

あなたの狛笛、曲や終りけん、ハタと止んで、こんどは能がかりの<ruby><rb>総囃子</rb><rt>そうばやし</rt></ruby>が、前よりも、調子高く、<ruby><rb>大鼓</rb><rt>おおかわ</rt></ruby>を入れて鳴り出します。

「今夜だ、今夜だ」

馬春堂の意識にも、それだけのことは働いていました。

<ruby><rb>大陽気</rb><rt>おおようき</rt></ruby>になっている今夜の酒宴の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>に逃げ出さなければ、またと逃げ出す機会はない。

窓へ<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>みついてみたり壁を押してみたり、<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>へバリバリ爪を立ててみたり。

――何ぞ知らん、すでにその時には、橋廊下の錠口が四、五寸<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、スウと、あの世の冷たい風が先生をお迎えに来ているものを。

すウと、<ruby><rb>錠口</rb><rt>じょうぐち</rt></ruby>をあけて、忍びやかな夜風と共に、中へ足を入れて来た関久米之丞。

真ッ暗な二重壁の廊下を、ミシ、ミシと手さぐりで進みながら、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に水の<ruby><rb>垂</rb><rt>したた</rt></ruby>るような大刀を抜いてうしろへかくし、

「馬春堂殿、少々お話し申したいことがあるが、お目ざめでござるか」

と、声を作って、うかがいました。

「？　……」

どこかで鼠のようにガリガリ音をさせていた先生は、その声と、部屋の中へ流れ込んで来た夜風にギョッとしたものでしょう、しばらく返辞もありません。

明りがないので中は真ッ暗。

久米之丞もこれには少々<ruby><rb>戸惑</rb><rt>とまど</rt></ruby>いの形です。

相手を怖るるのではないが、<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に初太刀を誤ると始末がつかないことになるのは、彼の殺人の経験がしばしば教えているところなので、

「馬春堂殿、ちょッとこちらへ」

と、また呼んで、手元へ招き寄せようとする。

「？　……」

でも、先生は動かない。

どこにいるのかと思うと、袋戸棚の<ruby><rb>上段</rb><rt>うわだん</rt></ruby>に潜ッている。そこから、天井板をめくッて、屋根裏へはい出そうという作業中であったと見えます。

果てしがないので久米之丞は、膝歩きにソロッと部屋の中へ進んで、相手の所在を見廻しましたが、まさか、戸棚の上とは気がつかない。

手さぐりで、机、床の間、ふとん、枕……。

と――そこが、<ruby><rb>藻抜</rb><rt>もぬ</rt></ruby>けの<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>なので、

「やや？」

と、いった途端に、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へかくしていた大刀が、チカッと、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中に螢のような光を<ruby><rb>捩</rb><rt>よじ</rt></ruby>らせる。

戸棚の上の馬春堂先生、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>のような眼にそれを見て、

（あッ……）

と、水を浴びたようにゾッとしましたが、からくも口を抑えて、その驚きだけはのみ殺しました。

そして、<ruby><rb>泰然自若</rb><rt>たいぜんじじゃく</rt></ruby>――天なり命なりと達観してしまッたように、あぐらをかいて動きません。

けれども、それは真の覚悟ではなく、立とうとしても立てない形、腰が抜けてしまったのでしょう。

「はてな？　はてな？」

下では久米之丞、夜具や辺りをなで廻して、

「逃げるはずはないのだが」

と、二、三度、大刀に素振りをくれて、暗の手ごたえを探ッている。

馬春堂は目前の<ruby><rb>稲妻</rb><rt>いなずま</rt></ruby>にいよいよ胆をちぢめて、今はたまらぬと思ったか、不意に――吾を忘れて、内から戸を閉めきッて抑えたので、その音に、初めて居所を知った久米之丞、

「おのれ、そこに居たか」

と、飛びついて来ました。

中では必死。

戸はガタガタと馬春堂の胴ぶるいを<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>すッています。けれど、久米之丞には<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え向きです。ここに封じて置いて殺せば、多少、ジタバタしようが声を出そうが、始末におえないことはない。

充分、無駄な戸を抑えさせて置いて、久米之丞は大刀の切ッ先をそこへ向け、力いッぱい刺し入れて、ふすま<ruby><rb>諸共</rb><rt>もろとも</rt></ruby>えぐり廻しました。

…………

能がかりの笛や太鼓、奥の夜宴は今たけなわの最中とみえます。

伊兵衛の<ruby><rb>狛笛</rb><rt>こまぶえ</rt></ruby>の一曲が終りますと、夜宴の<ruby><rb>無礼講</rb><rt>ぶれいこう</rt></ruby>はここにくずれて、阿佐ヶ谷連中の<ruby><rb>能</rb><rt>のう</rt></ruby>がかりを皮切りに、赤い顔をならべた郷士たちが、<ruby><rb>野趣横溢</rb><rt>やしゅおういつ</rt></ruby>な武蔵野歌を手拍子でうたえば、珍しく、千蛾老人もいでやと立って、あざやかなところを一さし舞って見せる。

やんや、やんや、

<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>は高潮。

<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>もどよめく騒ぎです。

かかる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、いつのまにか道中師の伊兵衛、そこからドロンをきめたまま、席へ戻って来ませんが、たれも気のつく者はない。

そこの雰囲気はただ賑やかに。

――御隠家様でさえお舞いなされた。次にはぜひとも、月江様の<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しまい</rt></ruby>の一さしを、所望所望、という声がしきりと彼女を攻めたてている。

「一同がアア申すのじゃ、わしも見たい、立て、立て」

と、老人まで一緒になって、月江の舞をうながしましたが、いつもは、歌えといえばすぐ歌い、舞えといえば軽快に仕舞の扇をとることを惜しまない月江が、なぜか、

「いやです、私」

かぶりを振って浮かない色です。

その浮かないのが気になって、どうにかして月江を陽気にしてやろうと、心にもなく自身から舞って見せたり上機嫌を努めていた千蛾老人、

「なんじゃ、そちとしたことが。――おりん、仕舞の衣裳と<ruby><rb>舞扇</rb><rt>まいおうぎ</rt></ruby>をもて」

取上げずにいいつけましたが、

「おおそれ。いつぞや手に入れた<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>、ありゃ、<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の名作じゃ、奥庭の石神堂に納めてあるが、あれを取りよせて<ruby><rb>仮面披露</rb><rt>めんひろう</rt></ruby>に一さし<ruby><rb>舞</rb><rt>も</rt></ruby>うたらどうじゃ」

「なるほど、御趣向！」

と、郷士たちは、手を打って、

「あれをつけて、お美しい<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>披露とは思いつき。ぜひ、所望でござる」

「たれぞあの洞白の仮面を、奥の御神前から取出して来い」

と、月江がしきりと拒みぬくのを、そうして機嫌を直そうと御隠家様がいなやをいわせぬお声がかり。

「はっ」

と、郷士のひとりが立つ。

すると、それまで酒の酌ばかりしていて、足にしびれを切らしていた<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎が、

「はい！　私がすぐに！」

人の先を越してバラバラと、<ruby><rb>心得</rb><rt>こころえ</rt></ruby>顔に廊下の外へ駆け出しました。

所々、ほの暗い<ruby><rb>網雪洞</rb><rt>あみぼんぼり</rt></ruby>のついている六間廊下を、面白そうにドンドン駆け出して行った次郎。

かねて、奥庭の石神堂の内部へ出るには、千蛾老人の部屋から三ツ目のお<ruby><rb>書物納戸</rb><rt>しょもつなんど</rt></ruby>から、地底を抜ける隠し道があるのをよく知っておりますので、そこの道がくしを<ruby><rb>撥</rb><rt>は</rt></ruby>ね返し、真ッくらな間道を、スタスタと一筋に進んでゆく。

やがて、ゆくこと遠からず、間道の突き当りに、七尺ばかりの自然石を畳み上げたところがある。

幾度か出入りしているので、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>にも何の<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためらい</rt></ruby>なく、そこをチョコチョコとはい上がった次郎が、やがて首を出した所は、洞然たる一宇の堂内。

これ、狛家千余年来の守護神であり、また武蔵野に散在する幾多の小さき石神堂の総元の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>であります。

しばらく、中のくらやみで、カサコソと音をさせていた次郎が、程なく、

「あった！　あった！」

と、つぶやいて、何やら箱のような物を振って見ている。

「これだろうな？　……音がする、音がする」

でも、音だけでは不安になって、念のために箱の紐を解き、逆さにポンと板敷の上へふせると、<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>から流れる星明りのかげへ、裏返しの<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>！

ザワザワと、その時、堂の横手で風らしくもない樹木の枝がゆすれました。

「おや？」

と、次郎が耳をたてると、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しくそれは人の足音。

ガサ……ガサ……と横手の樹木をかき分けて来る者があるので、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を片手に、<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>にのび上がッて、外をさし覗いてみると、泥棒かぶりをした一人の男が、ポンと、堂のぬれ縁へ飛び上がッて、

「なんてえ奥<ruby><rb>深</rb><rt>ぶけ</rt></ruby>え屋敷だろう。ここから見りゃ、まだ<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷の方がよッぽど歩きいいくれえだ」

体の木の葉をハタきながら、抱えて来た包みをそこへ押ッぽり出し、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>、<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby>などを取りひろげ、ゆうゆうと、旅支度にかかり出します。

おや？

変な男が来やがった。

旅支度をしているじゃないか。せかせかと、妙にあたりをキョロつきながら。

それもいいが、勿体なくも石神様にお尻を向け、<ruby><rb>道中差</rb><rt>どうちゅうざし</rt></ruby>や<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>までかかえて来て、何だッて、こんな所で支度をするのか？

「怪しいやつ」

次郎は目を丸くして、喜連格子の内からジッと息を殺していましたが、やがて、すっかり身づくろいして、キリッと裾を<ruby><rb>端折</rb><rt>はしお</rt></ruby>った男の顔を見るに及んで、

「あっ……あん畜生」

と、二度ビックリです。

それは次郎より一足前に、酒席を抜け出していた道中師の伊兵衛で、ひそかに自分の手廻りをかきあつめ、ここで衣裳を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>え、草鞋の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をしめたのは、すべて、彼としては予定の行動。

この<ruby><rb>堂宇</rb><rt>どうう</rt></ruby>の内に納めてある洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>箱を盗み返し、離れの密室にいる馬春堂を助け出して、この<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村におさらばを告げる方寸と見えました。

ここは、「<ruby><rb>那須</rb><rt>なす</rt></ruby>の<ruby><rb>与市</rb><rt>よいち</rt></ruby><ruby><rb>西海硯</rb><rt>さいかいすずり</rt></ruby>」の奥庭の<ruby><rb>書割</rb><rt>かきわり</rt></ruby>にでもありそうなさびしさ。

<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>は折よくあの騒ぎですし、多くの郷士も武蔵野歌で酔いつぶれている。

「あしたの朝になったら、さだめし<ruby><rb>呆</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ気に取られて、ゆうべ吹いた笛吹きの名人は、狐か狸じゃなかッたかと、大騒ぎをして戸惑いをしやがるだろう」

伊兵衛はおかしく思いながら、ふところにのんでいる<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を抜いて、いきなりヌッと、喜連格子の前へ腹合せに立ち上がる。

あぶなく、声を出しそうだったのは、中に忍んでいた次郎で――

「あらッ？　……」

と、驚きながら身をかがめ、白眼をジッとそこへ射向けていますと、外の伊兵衛は<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を持ちかえて、喜連格子とねじ合っているようなあんばい。

鋭利な<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>が、見事にサクリサクリと削り抜くのが、何ともすごい静かな音です。

なんの手間ひまもかかりはしません。

忽ちそこの用心を切り破って、ギイ……と開いて来た道中師の伊兵衛、すでに、その品物の位置までちゃんとのみ込んでいたものの如く、<ruby><rb>無造作</rb><rt>むぞうさ</rt></ruby>にズカリと中へ身を入れて、心覚えの所へ手探りをのばしかけますと、

「<ruby><rb>小父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さん、何だい？」

と、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の中から伊兵衛の腕首をつかんだ、青面<ruby><rb>金瞳</rb><rt>きんどう</rt></ruby>の<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>――口が耳まで裂けたる<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の顔。

「あっッ」

と、さしもの伊兵衛が<ruby><rb>度胆</rb><rt>どぎも</rt></ruby>を抜かれたのは、その不意であった事よりも、燈下に見てさえ身の毛のよだつ、<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の神作の怪しい力に衝たれたに違いない。

途端に――

「泥棒ッ！」

と、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の次郎、その体より大きな声で、相手の<ruby><rb>鼓膜</rb><rt>こまく</rt></ruby>もやぶれよと怒鳴る。

小童の鬼面におどされたとは知らず、伊兵衛もスッカリうろたえて、

「ちぇッ、何をしやがる」

振り払うや、無我夢中、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>の短刀で縦横に<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>を斬りながら、ドタドタドタと石神堂からころがり出す。

「どッこい！」

次郎もなみの小僧ではありません。

飛び降りる伊兵衛の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみを引ッつかんで、

「小父さん、どこへ？」

目をふさいで、うしろへ引き倒そうとするのを、そのままなおも、伊兵衛が駆け出しましたから、身の軽い次郎の体は、彼の肩先へてんぐるまになッて取ッついて行く。

「ええ、この化け物め！」

身ぶるいをして叫んだ伊兵衛。

何か、不気味なものを振り捨てるように、堂の岡から平庭の方へ駆け出しながら、腰を落として肩越しに、デンと次郎を投げつける。

「あ痛ッ」

と、般若の泣き声。

次郎は<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をかぶったまま、コロコロコロと<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>から<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>の上へころげて行ッて、そこでまた、声いっぱい、

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>ッ！　曲者ッ！」

起き上がり小法師のようにピョンと立つ。

――いよいよ面食らッた道中師の伊兵衛は、それとは反対に植込みの中へ身をかくし、<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほ</rt></ruby>し<ruby><rb>竿</rb><rt>ざお</rt></ruby>で追い廻された猫のように、逃げ口の度を失ッて、あッちこッちを駆け廻ッておりましたが、例の馬春堂が封じられた暗剣殺の建物のうしろまで来ますと、

「おお、伊兵衛助けてくれーッ」

と、突然、針の山から呼ぶような悲鳴。

ひょッと見ると、屋根の上、

<ruby><rb>青苔</rb><rt>あおごけ</rt></ruby>の生えている、<ruby><rb>柿葺</rb><rt>こけらぶき</rt></ruby>をバリバリ破って、そこからやッと、首だけ出した先生の声でした。

その前に。

かの密室において関久米之丞が、戸棚のうちへ刀を逆しまにして突き込んだ時のせつな！

中で、ワッと<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>した物音は確かにありましたが、幾度かえぐるうちに、少し手ごたえが変るので、そこの戸を開けて見ますと、もう馬春堂の姿が見えない。

身代りになって、<ruby><rb>臓腑</rb><rt>ぞうふ</rt></ruby>から綿を出していたのは、そこにあった、<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>くさい夜具であります。

途端のこと。

ドタドタッと天井裏の<ruby><rb>家鳴</rb><rt>やな</rt></ruby>り。

さては！　と久米之丞、荒々しく蒲団をつかみ出してその上へ飛び上がりました。見れば、頭の上の天井板が、やっと身をのがれる程<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれている。

死にもの狂いの馬春堂は、ここから窮地を脱したものとみえます。

彼とて何の猶予がありましょう。

「うぬッ」

と、怒声を投げるや否、つづいて其処から屋根裏へ這い上がろうとしてソッと首をさし入れる。

ところを。

待ッてましたというように馬春堂の足が、力いッぱい、

「けッ！」

とばかり久米之丞の頭を蹴飛ばし、なおも<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>や<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>を<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>のように落しましたからさすが白刃を取っては自慢な男も手がつけられず、

「おのれ、どうしてやろうか」

と、屋根裏を睨んでいるところへ、

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>、曲者！」

「それ、橋廊下の向うへ」

「お出合いなさい、曲者だ！　曲者――ッ」

と、不意に、向うの長廊下を馳けめぐる物々しい人声。

久米之丞はあわてました。

おそろしく素早いやつ、さては、もう何処からか屋外へ逃げ出していたのかと<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>を起して、<ruby><rb>錠口</rb><rt>じょうぐち</rt></ruby>の方へ、引ッさげ刀で馳け出しましたが、馬春堂の方は、実はその間に初めてホッと虎口をのがれ、小屋組みの<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>を力に、肩をもって<ruby><rb>柿葺</rb><rt>こけらぶき</rt></ruby>の屋根板を突き破ッていたのです。

「伊兵衛ッ、助けてくれ――ッ」

と呼んだのはその時。

地獄で仏、吾を忘れて大地へ飛び降り、何を叫んだのか何を言われたのか、一切夢中で二人とも屋敷の外へ逃げ出しました。

かかる間に<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の次郎は、例の<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をつけたまま、長廊下を馳け歩いて、

「お出合いなさい、お出合いなさい！」

と告げて廻る。

すでに<ruby><rb>夜宴</rb><rt>やえん</rt></ruby>の場所には唄も<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>もありません。

あまたの郷士たちは、みな押ッ取り刀で八方へ馳け出し、あとの空虚には、燭も白け渡って、<ruby><rb>杯盤</rb><rt>はいばん</rt></ruby>の<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>と阿佐ヶ谷<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の者が五、六人残って、そこにウロウロしているばかり。

一同が出払ったと見て、次郎もつづいて表門へ走り出して行く。

逃げた！　逃がすな！　という声が入り乱れて聞こえる。今さらそこでそんな間の抜けた叫び声がするようでは、もう道中師の伊兵衛も馬春堂も、この峡谷を一散に、足の限り根かぎり逃げ出しているに違いありません。

「馬小屋ッ、馬小屋ッ」

たれともなくこう<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き立つ。

チャリン、チャリン、チャリン、あわただしい<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>の音。

<ruby><rb>人魂</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>のような<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を振り廻して、峡谷の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ飛び出す者。

その間に、それを指図しそれを追わせる、御隠家様の<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りがひびき渡る。

次郎も一匹の裸馬を引ッぱり出して、ヒラリと背なかへ取ッつきました。

この峡谷は前にも説いたように、<ruby><rb>秩父越</rb><rt>ちちぶご</rt></ruby>えにかかる峠道か、あるいは、武蔵野へ下る一路のほかありません。逃げる者の自然な原則として、その高き難路へ向うよりも、やすき低地へ向ったろうと思われるので、次郎は裸馬の尻をなぐりつけて、<ruby><rb>逆落</rb><rt>さかお</rt></ruby>としに追いかけました。

夜風に逢うと般若の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は、その魂を呼びよせて、生けるが如く見えました。それを顔につけて裸馬に乗った次郎は、何か、自分が華やかな戦陣にでも立ったようにおどり立って、こうして、いつまでも曲者の捕まらない<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆ</rt></ruby>きを、かえって愉快に感じています。

## <ruby><rb>野鍛冶</rb><rt>のかじ</rt></ruby>の<ruby><rb>宿</rb><rt>やど</rt></ruby>

<ruby><rb>女影</rb><rt>じょえい</rt></ruby>と書いて「オナカゲ」と読みます。

そこは<ruby><rb>入間川</rb><rt>いるまがわ</rt></ruby>と<ruby><rb>高麗川</rb><rt>こまがわ</rt></ruby>の二水にはさまれていて、幾ツもの低い岡や静脈のごとき支流の水や、同じような土橋や<ruby><rb>藪畳</rb><rt>やぶだたみ</rt></ruby>や森や池や窪地の多いため、ここへ足を入れた旅人は、必ず道に迷って行く所を失うといわれている。

夏は<ruby><rb>螢</rb><rt>ほたる</rt></ruby>、秋は月、迷路の名所<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の里です。

そこに一軒の鍛冶小屋があって、今夜も<ruby><rb>夜業</rb><rt>よなべ</rt></ruby>の<ruby><rb>槌音</rb><rt>つちおと</rt></ruby>高く、テ――ン、カ――ン、テ――ン、と<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>の水に、すごい<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>を呼んでいました。

<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>といっても、無論、鎌や<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>の耕具をもッぱらに<ruby><rb>鍛</rb><rt>う</rt></ruby>つ野鍛冶でありましょう、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>というのは半五郎といって、白毛まじりの髪の毛から見れば、もう年配も五十の坂をだいぶこえているらしいが、壮者をしのぐ四肢の筋肉、<ruby><rb>赤銅</rb><rt>しゃくどう</rt></ruby>いろの皮膚など、そっくり<ruby><rb>鞴</rb><rt>ふいご</rt></ruby>の焔から飛び出したような頑健さです。

それに若い時、<ruby><rb>撥</rb><rt>は</rt></ruby>ね火で<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をしたとかいうことで、右の一眼がつぶれているため、その片目の人相が、いかにも一<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>ありげに見られる。

「ああ、やッと上がッた」

と、今まで根よく<ruby><rb>金敷</rb><rt>かなじき</rt></ruby>の上に火花をそそいでいた仕事を抛り出して、グーッと伸びをした半五郎。

「今日はすこし精が出過ぎたようだ。オイお常、そろそろ寝酒の御用意、おれはここを片づけ初めるから、奥へ支度をしてくんな」

と、しゃがれ声で女房へ怒鳴って、<ruby><rb>鞴</rb><rt>ふいご</rt></ruby>のまわりや土間いッぱいの仕事道具を、カチャカチャ片づけ初めました。

その忙しさと物音にまぎれて、半五郎もお常も気がつきませんでしたが、女影の里の迷路をグルグル駆け廻って、ここへ馬蹄を飛ばして来た四、五騎の郷士、

「半五郎おるか！」

と、鍛冶小屋の前で手綱を投げるや否、馬の背から飛び下りて、ドヤドヤと土間の内へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ッて来る。

「あ――これは<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の衆」

と半五郎、あっけにとられながら、

「みな様おそろいで、しかも騎馬立ち、何か変った事でも起りましたんで？」

「ウム、実は御隠家様のお屋敷を騒がして、この方角へ逃げ出した奴があるのだが……」と、うす暗い仕事場を見廻してギョロギョロしていたのは、先に立って来た関久米之丞でありました。

「――一人は総髪、一人は合羽、遊び人ていの男と<ruby><rb>売卜者</rb><rt>ばいぼくしゃ</rt></ruby>風のふたり連れじゃ。もしやこの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ逃げ込んで来はしないか？　そんな人間が」

「さアてね……」

と、半五郎は腰骨をたたきながら、

「ついぞそんな者は、この辺で見かけたこともなし、訪ねても来なかったようです」

「これ、隠すとそちの為にならんぞ」

「なんで、わしが」

「いや、わずかな慾に目がくらんで、かくまッてやるという事は、よく<ruby><rb>下賤</rb><rt>げせん</rt></ruby>な者の根性にある事だ」

「飛んでもないことを。御隠家様へはお出入りをしているし、うちの餓鬼の次郎までお嬢様のお世話になっているこの半五郎でがす。――そのお屋敷を騒がして逃げた悪い野郎を、かくまい立てなどしてよい訳のものじゃございませぬ」

「きッとだな！」

「まだ疑わしく思いなさるなら、家探しでも何でもしておくんなさいまし。なあお常、おめえも、そんな者は見かけやしまいが」

「ええ、易者だの<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>を着た男だなんて、この辺に見かけたこともありませんよ」

という夫婦のことばに、偽りがあろうとも思われませんし、そうとすれば、またほかを探す心も<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くので、久米之丞以下の郷士達は、

「では、吾々のあとにでも、ひょッとしてそういう者が参ったら、ことば巧みに<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>め置いて、すぐ御隠家様の方へ密告いたせよ」

といい残し、またワラワラと馬の背に飛びついて、迷路の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を上げました。

が、しかし久米之丞だけは、何と思ったか、馬に水を飼わせておいて、鍛冶小屋の横にただ一人、忍ぶように身を寄せている。

そして彼は、そこに絞り上げて干してあった<ruby><rb>友禅染</rb><rt>ゆうぜんぞめ</rt></ruby>の<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な小袖を、星明りにジッとながめて、野鍛冶の家にふさわしからぬこの女物を、不審にたえない面持ちで見つめております。

騎馬の郷士が立ち去った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、鍛冶小屋の軒から白雲のごとき湯煙りがモウッと噴き出しました。

<ruby><rb>鞴</rb><rt>ふいご</rt></ruby>の火に水をかけた野鍛冶の半五郎、顔を洗って、畳の上へあがり込み、

「ああ<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>させやアがる、おらあまた、奥の娘のことで、<ruby><rb>川越</rb><rt>かわごえ</rt></ruby>の役人でも来たんじゃねえかと思って、ギクリとしたよ」

と、仕事を終えたあとの一服、うまそうに吸って<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を投げ出す。

お常が寝酒の支度をしてくる。

早速それにかかって、チビリ、チビリと飲みながら、

「どうだい、奥のは？」

と、一眼をギョロリと、ふすま隣へ向けました。

「どうしたのか、よほど疲れているとみえて、正体なく、寝てばかりいるようだよ」

「そうだろう、おれが<ruby><rb>巣鴨</rb><rt>すがも</rt></ruby>へ行った帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>、ちょうど<ruby><rb>庚申塚</rb><rt>こうしんづか</rt></ruby>の先であの女を見かけたんだが、まるで、ふらり、ふらりと、魂の抜けた人間みたいに歩いているので、初めは、てっきり<ruby><rb>気狂</rb><rt>きちが</rt></ruby>いだと思ったくらいだ」

「そんな調子で、何処からとなく歩いていたのかしら、着物の袖はほころびているし、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>はまるで泥だらけさ。……で、夕方ちょっとつまみ洗いをしておいてやったけれど、友禅のゾックリした物なんだよ」

「いずれ、素性の悪いものじゃあるまい」

「だけれど、よくお前さんのような、すごい人相をしている年寄について来たもんだね」

「馬鹿アいえ、おれのような、親切なおじいさんがあるものか」

こう笑いながら半五郎は、お常に追い注ぎをさせて、杯を膳の隅へおき、

「――歩きながら話を聞いてみると、まんざら気狂いでもなさそうだ。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>はときくと、無いという、親はと聞くとカブリを振る、行く先はときくと、自分でも分らないといやあがる……。は、は、は、は……そこでお連れ申して来たのよ、こんな<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>はねえだろう」

「だが、おやじさん。そしてあの女をどうする気？」

「どうするって、何が、どうだ？」

「まさか、その年で、浮気沙汰でもないだろうしさ」

「有難いな、おめえもその年で、すこし<ruby><rb>妬</rb><rt>や</rt></ruby>いてくれるところは有難い。――だがお<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>さまだ、色よりは慾の一本道、すこし餌をならしておいて、中仙道の<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>ッ子にしてやるのよ」

「流行ッ子たあ、なんのことさ」

「――<ruby><rb>善哉善哉</rb><rt>ぜんざいぜんざい</rt></ruby>。そんなこたアあとで分るよ。お常、前祝いだから今夜アもう一本つけねえ」

「ごきげんだよ、いつになく」

「そりゃ、うれしい事のある時は、酒も素直にまわるというもんだ。おめえも喜びねえ、近いうちにゃ、チリン、チリン、チリン……悪かアねえな、うふ、ふ、ふ、ふ……」

「なんだい、その真似は」

「小判を勘定するところよ」

「夢でもみているんじゃないかいこの人は。おいておくれよ、ばかばかしい」

「何が夢だ、まア聞けよ。――中仙道でもあれくらいな玉のハマる宿場はたんとはないぞ。板橋や大宮じゃ、江戸に近すぎてあとくされが心配になる。まあ、軽井沢だな、軽井沢の遊女屋は草津へゆく江戸者がみんな財布を病気にするところだ。あそこの扇屋か二葉屋あたりなら、アノ上玉で百両や百五十両は右から左に出すだろう」

「じゃ、おやじさん、あの奥へ連れて来た娘をおまえ売り飛ばすつもりなんだね」

「でッけえ声をするなよ。でッけえ声を。――だから貧乏人の婆さんに、めッたに小判の話はできねえ。売り飛ばすというと、なんだかおれが悪党らしくなるが、親もない、家もない、行く先もないという女の身の落着きをつけてやるんだから、大した功徳というもんじゃねえか」

と、ひとりで理屈をつけましたが、吾ながら、少し声の<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んでいたのに気がついて、

「だが、次郎には<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るなよ。あいつ、おれの子にも似合わず、どうも<ruby><rb>重盛</rb><rt>しげもり</rt></ruby>みたいに野暮でいけねえ、いつもおれのする事を聞きほじると、生意気に<ruby><rb>諌</rb><rt>いさ</rt></ruby>めだてして、それにゃ、浄海入道も<ruby><rb>閉口</rb><rt>へいこう</rt></ruby>だからな」

声を落として杯を取りましたが、その時その途端に、仕事場の境をガラッと押し開けたものが、

「わッ！」

と夫婦をおどかして、<ruby><rb>金瞳青眉</rb><rt>きんどうせいび</rt></ruby>の般若の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を、ヌッとそこから突き出しました。

かっと<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>をむいた<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が、不意に<ruby><rb>仕切戸</rb><rt>しきりど</rt></ruby>を開けたので、野鍛冶の夫婦はびッくりしましたが、足元を見てそれとわかり、

「小僧めッ。親をおどかすやつがあるか」

と半五郎が、むきになって怒鳴りつける。

次郎は手をたたいてうれしがりながら、

「お父ッさんは臆病だな。ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」

と腹をかかえて笑いこけましたが、それも<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>に息が<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>れて、不気味な奇声となって出ます。

「しようのない<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>だ」

半五郎は片目で親らしく睨みつけながら、

「この夜更けに何しに来たんだ、そんな物を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りゃアがって」

「悪いやつを追ッかけて来たんだよ。御隠家様のおいいつけで」

「てめえなんぞに捕まるものか。早く帰ってお嬢様のお気にいることでも考えていろ。あのお屋敷を追ん出されたって、もう家へは<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>れないからそう思え」

「おいらも家になんか帰りたくねえや」

と、次郎は<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の目の穴から半五郎の膳をのぞき、<ruby><rb>小笊</rb><rt>こざる</rt></ruby>の中に食べ残してあるきぬかつぎを見つけて、その皮をむいては仮面の下からムシャムシャと頬張って、

「おッ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>、今夜泊まって行こうか」

「いけないよ、今おまえは、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>なんか嫌いだといったじゃないか」

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>ッさんは嫌いだけれど、おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>のそばなら居たい」

「こいつめ」

半五郎もわが子には他愛がなく吹きだして、

「大きな<ruby><rb>図</rb><rt>ず</rt></ruby>う<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>をしやがッて、いつまで、おふくろに甘える気だ。よくそんな事でお屋敷の奉公が勤まっているもんだな。さ、早く帰れ帰れ、お屋敷でも、今夜は何か騒動が起って、騒いでいるところじゃねえか」

「駄目駄目」

と次郎はかぶりを振って、

「もう追ッつかない。逃げたやつは、何処へもぐり込んだのか、影も見つからないんだもの。――この広い武蔵野で二人ばかしの人間を探すのは、二匹の虫を探すようなもんだよ」

「それにしたッて、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ寄って、道草なんぞしていちゃいけねえ」

「だッて、いつも、おいらが帰るといえば、泊ってゆけ、泊って行けと、おっ母もいうくせに」

「でも、今夜はいけないよ」

「なぜ？」

「お客様が居るんだから」

「え。お客様が泊っているのかい」

「だから、帰れよ」

「いいよ、おいら、くたびれたから、泊まるよ今夜」

女親のひざを枕に、両手をのばしてふんぞり返り、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>はそのまま寝入ってしまう。

「どうも、この小僧と来たひには、手におえねえな」

と野鍛冶の夫婦も仕方なく、次郎にうすい<ruby><rb>藁蒲団</rb><rt>わらぶとん</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せて、程なく明りを消しました。

そして人々の寝息が静かに夜の時刻をかぞえてゆく……。

時ならぬ頃にその家の外を、馬の<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>が鳴って遠去かって行ったのは、関久米之丞が帰って行ったものでしょう。――風なき夜の武蔵野はこの一軒家の夢を守って、しっとり霞んでおりました。

と――。

いわゆる、屋の<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>も三寸下がるという<ruby><rb>丑</rb><rt>うし</rt></ruby>の時刻。

墨を塗ったような鍛冶小屋の戸が、内からスーと開いたかと思いますと、夜目にもあざやかな<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>……。

ありあまる黒髪の乱れを白い指先でかき上げながら、そッと、あとの戸を閉めてよろめくように、野鍛冶の家の軒下を出る。

その手に――<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>の袖にくるんで――何やらかかえている風です。

そのときは、よいのうちの<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>とちがって、空も地も、草も水も、みな一色に薄あかるくなっている。

夜が明けかけたような景色で、月のありかをたずねると、まだ真の<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>。細い女の影法師は、墨色の羽目板をうごいて、行くての道を思い迷う様子でありました。

ふと。

そこに干し忘れてある<ruby><rb>友禅</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>の小袖を見出すと、女は、それを取って黒髪の上から<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>のように<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りました。

そして、両手を顔に当てたかと思うと、美しい<ruby><rb>眉目</rb><rt>みめ</rt></ruby>は忽然と口の引っ裂けた形相に変っている。

次郎の寝顔から<ruby><rb>剥取</rb><rt>はぎと</rt></ruby>って来た<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の神作。

――やがてその怪奇な、そして美しい人影は、草と水と水蒸気とにぼかされた<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の里の迷路を、<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>ともなくさまよい<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でました。

女は何処へさして行く気でしょう。

右を見ても左をながめても、<ruby><rb>渺</rb><rt>びょう</rt></ruby>として同じような草の波がうねるばかりな女影の迷路を、果てなく、<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>なく、さまよって行く様子では、何処へという、心の目当てもありそうもありません。

――だのに。

この深夜、野鍛冶の家を出て来たのは、片目の半五郎のおそろしいささやきを聞き、親切ごかしのたくらみに気がついたものから、にわかに、虎口をのがれる気で、抜け出したものにちがいありますまい。

そして。

次郎の<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていた洞白の鬼女<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を取って自分の顔につけ、夜干しの小袖を頭からスッポリと<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>にしているのは、この真夜中に女の一人歩き、野獣や野盗に対する魔除けかと思われます。

いかにも、その<ruby><rb>化装</rb><rt>けそう</rt></ruby>の女に正面から行き逢ったら、野づち、狐などの野獣も寄りつくことができないでしょう。

また、命知らずな野伏せりも<ruby><rb>魔魅</rb><rt>まみ</rt></ruby>も道を避けるにちがいない。

現に。

その晩、高麗村の<ruby><rb>峡谷</rb><rt>きょうこく</rt></ruby>から命からがら逃げ出して来た阿佐ヶ谷神楽の仲間の残りは、運わるく、<ruby><rb>二子</rb><rt>ふたご</rt></ruby>の池のほとりでこの女に出っくわして、<ruby><rb>肝</rb><rt>きも</rt></ruby>を消し、中には早腰を抜かした者もあって、散々な目に会いました。

しかし、ひどい目に会ったとはいえ、それは勝手に先方が驚きあわてて、吾れがちに逃げ出して、小川へ落ち込んだり、いばらに引っかかれたりした臆病の罪で、女が何の危害を加えたわけでもありません。

同じように、<ruby><rb>浦和</rb><rt>うらわ</rt></ruby>の馬市へ<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>から立って来た<ruby><rb>青梅</rb><rt>おうめ</rt></ruby>の<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>連も、意気地なく馬をすてて逃げ散りました。

それとて、べつに女が不意に声をかけたわけでも何でもなく、彼女は真ッすぐに<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を向けたまま無心のごとく歩いて行ったに過ぎないのです。

が――

<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に浦和や<ruby><rb>川越</rb><rt>かわごえ</rt></ruby>あたりでパッと立った評判を聞くと、あらくれた<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>たちには、かえってそれが鬼気に迫って、実際凄かったものとみえる。

噂はすべて、ひろがるほど<ruby><rb>尾鰭</rb><rt>おひれ</rt></ruby>がつくが、その晩の博労の一人が、後に人に語っていうには、

「おらあ、てッきり、二子の池の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>だと思うんだ。なぜかってお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>、その女が……その口の裂けた女がよ、友禅の裾をうしろへ曳いて、スウと、とおって行ったあとを見ると、どうだろうおめえ……まるでなんだ、<ruby><rb>大蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>が草を分けて行ったように、おんなの歩いたあとがグッショリと水にぬれている――」

これは嘘です。

うわさが生んだ大げさというものです。

怪力乱神を語ることを好む人の通有性が、あざむく気もなくいい触らす誇張です。

とはいえ、その晩その女に出会ったものは、実際、このくらいに感じたことはほんとでしょう。伝説はそんなところから生まれてゆく。

さるにても、女は何処まで行くでしょう？

月も野末にかたむいてくる。

そして、暁の支度が、うッすらと白い霧が立ちこめて来ます。

「ああ……」

やがて――

裾は露に、袖は夜霧に、ビッショリとぬれ果てて、女もさすがに疲れぬいてしまったものでしょう、道ばたの丸い<ruby><rb>玉石</rb><rt>たまいし</rt></ruby>に腰をおろして、ジッと<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をうつ向けました。

眠る様子でもありません。

膝をかかえて夜の白むのを待とうとするふうでもない。

過去か、行末か、今の身の上にか、とにかくそうした思いに、深くなやみ沈んでいる様子。

思えば、世の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>こそ不思議ではありませんか。

草がのび草が枯れ、いつも<ruby><rb>蒼々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>たる<ruby><rb>野分</rb><rt>のわき</rt></ruby>のそよぎがあるほか、春秋一様な転変をくりかえしているに似た武蔵野の原にも時と人との推移があります。

遠い昔、<ruby><rb>推古朝</rb><rt>すいこちょう</rt></ruby>の世には、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の移民が<ruby><rb>野馬</rb><rt>のうま</rt></ruby>追いに疲れて腰をかけたかも知れないこの野中の玉石。

――また源平前期の頃おいには、村山党、畠山党、<ruby><rb>児玉党</rb><rt>こだまとう</rt></ruby>などのいわゆる武蔵武士の<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>とよぶ武将が<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>にしたかとも思われるこの石。――世も移っては<ruby><rb>西行</rb><rt>さいぎょう</rt></ruby>がぽつねんと夕暮の富士に見とれ、<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>が昼顔の句をあんじながら足を休めたかも分らないこの石に、今は――<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷を追われた混血児のお蝶が、夜明けの霧の寒さにジッとかがまって、自分の未来におののいている……。

## <ruby><rb>飛耳張目</rb><rt>ひじちょうもく</rt></ruby>

江の島から藤沢の宿を<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>で通して、大山街道の一<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>、厚木の町へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ッたふたりの侍があります。

駕は、<ruby><rb>秦野煙草</rb><rt>はたのたばこ</rt></ruby>の荷元で、土地でも信望もあり<ruby><rb>大店然</rb><rt>おおだなぜん</rt></ruby>とした構えをしている、<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>九兵衛の門へ横づけになる。

「若い衆さん、お茶を飲んで行ッて下さい」

駕の者をねぎらッて、手代が<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>をつつんで与えている間に、二人の侍はおッとりと駕を抜けて、衣紋ただしく、

「九兵衛。突然におとずれて、家内を騒がせて気の毒だの」

「どういたしまして」

羽織を着かえて、店先へ迎えに出ていた亭主、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>につけて、

「今朝ほど江の島のお宿から、立ち寄ってつかわすという、有難いお手紙、大山街道から江戸表へお帰りでは、廻り道になるものを、わざわざお訪ね下さいまして、<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby>の至りに存じます」

「いや、家来どもをつれて、江の島詣での帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>、いわば遊山の気まぐれに廻って来たこと、そう改まられては困る」

「まず、どうぞ、奥へお通りを」

「ゆるせ」

と、<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げ刀になって上へ通る。

そして店の者一同へ<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>な<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をあたえながら奥へ案内されて行きました。

九兵衛はあとに残って独り言のように、

「まったく珍しいお方がお見えになったものだ。これ、お前がたも<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そこつ</rt></ruby>のないように気をつけておくれ」

「旦那、ついぞお見かけしたことのないお武家様ですが、あれは一体、江戸のどなた様でございますか」

と、店の者たちも、九兵衛の出迎えの<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>さに、声まで小さくしております。

「あれは、多分お前がたにも話したことがあると思うが、この<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>が悲運に会ってつぶれかけた時、またそれ以来も何かというと、<ruby><rb>資本</rb><rt>もと</rt></ruby>を出してくださる番衆町の殿様だ」

「ああ、あの<ruby><rb>大番組</rb><rt>おおばんぐみ</rt></ruby>の岩波様でございますか。すると、あの総髪の方のお年上が殿様なので？」

「いいや、あれは御用人。お若い方さ」

「たいそうキビキビしていらッしゃいますな」

「御番衆のなかでも一番の裕福だし、もう大殿様はお<ruby><rb>役附</rb><rt>やくづき</rt></ruby>をお<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きになっているので、まことに、のんきなお身の上さ」

「なるほど」

「それでアアして、お気軽に、湯場や江の島などを歩いていらッしゃるのだろうが、こんな<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へ、お越しがあろうとは、わしも、夢にも思わなかったよ。――何せよ珍客、ゆッくりお泊まりを願うつもりだ、ウム、奥へ酒やさかなの支度を頼みますが……、わしはと……わしは一ツ急用の手紙を二、三本走り書きして、そのあとで、ゆッくりお相手に出ますからな、その間、お前方でおもてなしを」

九兵衛は帳場格子をまたいで、忙しそうに<ruby><rb>仕切帳</rb><rt>しきりちょう</rt></ruby>をひろげ、何か商用らしい手紙をスラスラ書き初める。

奥では、女中の声や<ruby><rb>器物</rb><rt>うつわもの</rt></ruby>の音がしばらくの間せわしげに聞こえて、時折、手代が九兵衛のところへ、もてなし方を相談に来る。

「……そうだな、江の島に永らく御滞留だったのだから、所詮、この辺の生魚などはお口に合うまい。……野菜がいいよ、新しいお野菜をな。……ウム、<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>のものか、鳥？　よかろう、竹の子の木の<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby>あえ、それもいい、それから、<ruby><rb>網源</rb><rt>あみげん</rt></ruby>へ聞き合せて、まだ<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>は育っていまいが、何か<ruby><rb>相模川</rb><rt>さがみがわ</rt></ruby>の」

そんなことをいいつけながら、書き終えた手紙を飛脚状にして、

「じゃ、奥の支度はすッかり済みましたね。そうしたら、お前たちも骨休みをして。いいかね。用があったら手をたたきますから、つまらない事でいちいちわしを呼びに来てはいけない。第一、お客様の御酒興を<ruby><rb>殺</rb><rt>そ</rt></ruby>ぐしな」

着物の紙ぼこりをたたき、<ruby><rb>襟前</rb><rt>えりまえ</rt></ruby>をつくろいながら、こういい残して奥の一間へ行く。

人払いをしてあるので、中座敷から先はひッそりしています。そこの、ふすま際に膝をついた九兵衛は、

「ごめん下さいまし」

と、静かにおとずれて、<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>る畏るすべり込む。

目で迎えた客の二人。

「九兵衛、ここは大丈夫らしいな」

「ええ、安心なもンです」

「じゃ、ひとつ、こうなろうじゃねエか」

と、膝をくずして<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>を組むと、

「ウム、気をゆるしてくれ」

と、九兵衛もあとをピンと閉めて、

「――だが、どうしたッていうんだい二人とも。まるで、化け物みたいに不意にやッて来て、<ruby><rb>堅気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を掛けているこッちはまッたく面食らッたぜ」

客も客なら、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>も主です。何とも、いぶかしい打解けよう。

奉公人を遠ざけて、そこの一間を閉めきると、動作、ことばづかい、最前の店先とは主客の様子がガラリと変っている。

「九兵衛、しばらくだったなあ」

と、肩で笑って、

「<ruby><rb>堅気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の旦那で納まッているおめえの所へ、迷惑な<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>だろうが、当分世話になるかも知れない。そのつもりで、ゆっくりと今日はひとつ……」

盃をとり直して、こういった客なる者は、日本左衛門に<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門の二人でありました。

<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>街道をひきあげて来る途中――かの<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>と物別れになり、その揚句に、<ruby><rb>根府川</rb><rt>ねぶかわ</rt></ruby>番所の役人に<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>と船手から囲まれて、一味ちりぢりバラバラ、ようやくのこと、小舟で逃げのびた二人は、その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>、江の島あたりに潜伏して、しばらくほとぼりを冷ましていたものと見えます。

また。

この厚木に店を構え、煙草の荷元として、かなり手びろく商いをしている秦野屋九兵衛も、実は、前身でなく現在においても、<ruby><rb>金箔付</rb><rt>きんぱくつき</rt></ruby>の白浪なので、この辺のことは、くどく聞くまでもなく、四、五杯の盃をやりとりする雑談の間に察して、

「そうか。じゃあ、江戸表は鬼門だし、東海道筋にも落着いてはいられまい。店の奉公人たちには、巧くいいくるめてあるから、その窮屈さえ忍べるならば、いつまでも、滞留していて貰いたい」

「で、おれ達は、どういう触れ込みになっているのかな？」

「番衆町の岩波様っていうことに話してあるんだから、万事、店の者にはそのつもりで、ソツのねえように、芝居気を持っていてもらわないと困る」

「は、は、は、は。飛んだものに出世したな」

と、金右衛門もくすぐッたそうな笑い方をする。

それから、四、五日経ちました。

今日は<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>九兵衛、<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>な顔を作って、帳場格子の中でパチパチとそろばんの音をさせている。

店の隅では、たばこの葉を<ruby><rb>鉋台</rb><rt>かんなだい</rt></ruby>にかけている者があるし、<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>にかけて五十<ruby><rb>斤</rb><rt>きん</rt></ruby>箱に詰めて、江戸へ出す荷ごしらえをしている者もある。

ところへ。

渋色の<ruby><rb>巻頭巾</rb><rt>まきずきん</rt></ruby>に、箱形の<ruby><rb>胴乱</rb><rt>どうらん</rt></ruby>を肩へ掛けた男が、

「ごめんなさい」

と、秦野屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をくぐッて、店先の上がりがまちに腰をおろし、

「いいお<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>がつづくじゃございませんか、こんなあんばいでは、今年は雨なしの<ruby><rb>空梅雨</rb><rt>からつゆ</rt></ruby>かも知れません」

たれにいうでもなく世辞を撒いて、ジロジロと奥の方や店の棚をながめ廻している。

男が、首からはずした胴乱を見ると、箱の左右に「諸国<ruby><rb>銘葉</rb><rt>めいよう</rt></ruby>」とし。前には「目ざまし」とだけ記して、その下の草という字のかわりには、たばこの葉が一枚<ruby><rb>朱漆</rb><rt>あかうるし</rt></ruby>で書いてあります。

で――店の者には、小口の<ruby><rb>仕入</rb><rt>しい</rt></ruby>れに来た、たばこ行商人と分っておりましたが、べつにお世辞の<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>も打たず、九兵衛も手代も<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>もなく黙っておりますと、男は、

「……ええと、龍王の<ruby><rb>細刻</rb><rt>ほそぎり</rt></ruby>が一朱で二百五十<ruby><rb>匁替</rb><rt>めがえ</rt></ruby>、<ruby><rb>国分</rb><rt>こくぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>舞留</rb><rt>まいどめ</rt></ruby>が百五十<ruby><rb>匁替</rb><rt>めがえ</rt></ruby>。田舎じゃどうも売りきれねえな」

などと呟いて、店のはり札を読んでいましたが、やがて、

「――じゃあ番頭さん」

と、手代へ向って、

「細かくってすみませんが、<ruby><rb>秦野</rb><rt>はたの</rt></ruby>の<ruby><rb>古葉</rb><rt>ひね</rt></ruby>を二十<ruby><rb>匁</rb><rt>め</rt></ruby>、<ruby><rb>年員</rb><rt>としかず</rt></ruby>の並物を二十匁、甘いところで水府もの少々と<ruby><rb>蒔田物</rb><rt>まいだもの</rt></ruby>をまぜて三十匁ばかり。……それから在方売りの『鬼殺し』という甲州葉の<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>いやつを五十玉ばかり揃えておくんなさい」

と、注文する。

「秦野の<ruby><rb>古葉</rb><rt>ひね</rt></ruby>は小出しがしてなくてお<ruby><rb>生憎様</rb><rt>あいにくさま</rt></ruby>ですが、<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>じゃ如何でございましょう」

「薩摩はどうも好き嫌いがあって売りにくい。じゃ、<ruby><rb>天下野</rb><rt>てがの</rt></ruby>にしてもらおうか」

「へい、有難うございます」

品をそろえ、<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>に添えてそれへ出す。

男は、首にかけていた財布の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を解き、<ruby><rb>品書</rb><rt>しながき</rt></ruby>を見ておりましたが、

「おや……旦那、こりゃあ少し<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>が違ッていやしませんか」

と、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>ばきのまま這い上がッて、帳場にいた九兵衛の方へ身をのばしてまいりました。

「え？」

と、初めて、顔を上げた九兵衛。

見ると、渋色の巻頭巾に、たばこ売りとはうまく化けました。それは日本左衛門の手下、四ツ目屋の新助で、

「ネ、旦那。……ここは、それ、お間違いじゃござんせんか」

と、書付は店の者の手前、何か、意味ありそうな目まぜをする。

九兵衛がハッとして目をまどわせると、新助は小声になって、

「奥に居る親分へ、内密でこれを」

と、今の<ruby><rb>書出</rb><rt>かきだし</rt></ruby>の下にもう一通、何やら手紙のような物を重ねて、帳場格子の隙間から彼の膝へ渡しました。

「や、左様でございますか。勘定に間違いのない<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>でございますが、では、念の為もう一<ruby><rb>算</rb><rt>さん</rt></ruby>」

さり気なく装いながら、九兵衛は、下の手紙を袂へ落とし、たばこの品書だけをひろげてパチパチやっておりましたが、

「お客様、勘定はこの通り合ッておりますが」

「へえ……あっ、なるほど、こいつは私の勘違いで、<ruby><rb>上葉</rb><rt>じょうば</rt></ruby>の方でございましたね。いやどうも飛んだ粗相をいって相済みません」

「いえ、どういたしまして、またどうぞ<ruby><rb>御贔屓</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>に」

「はい、これからなるべく、こちらへ仕込みに参りますから、よろしく」

箱胴乱に仕入物を詰めこむと、それを肩にかけて四ツ目屋の新助、<ruby><rb>旅商人</rb><rt>たびあきんど</rt></ruby>らしい<ruby><rb>世辞</rb><rt>せじ</rt></ruby>を投げて、<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>の店から姿を消しました。

と――それからまた二、三日経ってのこと。

同じような行商姿のたばこ売り、これまた<ruby><rb>渋色</rb><rt>しぶいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>巻頭巾</rb><rt>まきずきん</rt></ruby>をしたのが、店へたばこを仕入れに来て、ちょいと、九兵衛の方へ目まぜをする。

見るとそれは、やはり日本左衛門の手下のひとり、尺取の十太郎です。

それがまた、前に来た新助と同じように、店の者の目をぬすんで、そッと、一本の封書を<ruby><rb>託</rb><rt>たく</rt></ruby>して帰っていく。

「ははあ」

と、九兵衛はやっと思い当ッて、

「おれの家の奥に、日本左衛門が潜伏しているので、手下の奴らは表向きに訪ねて来ることもならず、たばこ売りに化けて、つなぎを取っているのだ」

案の定。

それからも千<ruby><rb>束</rb><rt>ぞく</rt></ruby>の稲が来る。<ruby><rb>雲霧</rb><rt>くもきり</rt></ruby>の<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>が来る。そのほか、有名無名の白浪たちが「目ざまし草」の胴乱をかけ、たばこを仕入れに出入りします。

しかし、人出入りの多い秦野屋の店、わずかな品を仕込みにくる「目ざまし草」の行商も、この者達ばかりではありませんから、店の手代や<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でっち</rt></ruby>も、べつにそれを不審とも思っていません。

が、不審は九兵衛の胸にあって、どうも、こう頻繁に奥と世間でつなぎをとっているところを見ると、奥にいるあの二人は、ただ江戸から足を抜くばかりの目的ではなく、何かほかに仕事をもくろんでいるものに違いない。

こう考えて、九兵衛ある一日、

「兄貴、さだめし退屈だろうな」

それとなく、二人の腹をさぐりに、奥の座敷へ茶をのみに来ました。

何か、絵図面らしいものをひろげて、額を寄せていた日本左衛門と金右衛門は、九兵衛が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ッて来ると、それを二ツに折ってうしろへかくし、

「いや、退屈どころじゃねえ。いろいろなやつが店へ出入りするので、おめえこそ、人知れない気苦労だろうが、まあ、もうしばらくゆるしてくれ」

「そんな事はどうでもいいが、兄貴、おれは少し気にくわない一件がある」

「なんだ？」

と、金右衛門は<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>ッぽく<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>りました。

「水くさいと思うのさ」

九兵衛はジロリと彼のうしろにある紙片を見ながら、

「こうして、二人の<ruby><rb>身状</rb><rt>みじょう</rt></ruby>を預かっている以上、たとえ、どんな事があっても、仲間を裏切るような真似はしないつもりだが、この間から見ていれば、何か、おれには<ruby><rb>秘</rb><rt>ひ</rt></ruby>しかくしにして、外とつなぎを取っている様子、どういう方寸か知らないが、この秦野屋の奥を帳場に構えて、仕事の算盤をハジキながら、この九兵衛に、ふッつりとも打ち明けてくれねえのは面白くない」

「もっともだ」

日本左衛門はうなずいて、

「実はそれについちゃ、この間から、話した方がいいか、話さぬ方がおめえの為か、おれも、迷っていたところなのだが……、そういうならば<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>いい折、九兵衛、念のためにそこらを……」

と、目くばせして、庭先や部屋の外に、立ち聞く人もあるやと注意ぶかく見廻しました。

この間うちから「目ざまし草」の箱胴乱をかけて、しきりと秦野屋に出入りし、折あるごとに九兵衛の手をへて、奥へ密書をもたらして来た者たちは、皆これ、日本左衛門のさしがねをうけて何物かを探しあるく、彼の<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>る目かぐ鼻ともいうべき役者――<ruby><rb>飛耳張目</rb><rt>ひじちょうもく</rt></ruby>の報告なのであります。

その探し物とは、無論、彼が一代の大望としている夜光の短刀。

江戸では、釘勘の<ruby><rb>捕物陣</rb><rt>とりものじん</rt></ruby>以来、<ruby><rb>兇賊狩</rb><rt>きょうぞくがり</rt></ruby>のきびしい詮議に追われ、地方へ足を抜いては行く所に捕手の影がつきまとって、席のあたたまる間もない彼等も、その捜索は<ruby><rb>夢寐</rb><rt>むび</rt></ruby>の間も忘れていない。

いや、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に巣を張る、多くの手下の飛耳張目が、雲をつかむような迷宮のうちから、その手がかりをだんだんと積層してきて、今では、そのありかがこことまでは分らないが、ある地域の範囲内に限定されて来ております。

で、今。

日本左衛門は九兵衛のひがみが解けるように、その次第をつぶさに打明けて、

「金右衛門、それを見せてやってくれ」

と、少し席をひらく。

九兵衛が部屋へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ッて来た時、二人で首を寄せていた紙をそれへひらくと、それは、<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門が書いたらしい精密な、夜光刀<ruby><rb>捜索</rb><rt>そうさく</rt></ruby>の推測図。

江戸及び江戸の御府外を中心として、関東一円にわたるふつうの絵図面に、今日までに探り得た<ruby><rb>要所</rb><rt>ようしょ</rt></ruby>要所を朱点や暗号で、いちめんにしるしつけられた物であります。

（江戸市西北の<ruby><rb>広野</rb><rt>こうや</rt></ruby>！）

それは、切支丹屋敷でかのヨハンがお蝶へ指さし教えた<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>り。

御府外を西北に去る平野といえば、そこは草<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる武蔵野の原のほかにはない。

南は多摩川を境とし、北は中仙道、西は<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の連峰、東は江戸の町を境界に、今見るその絵図面にもグルリと朱の点線が打ってあります。

九兵衛はそれへかがみ込んで、

「ウーム……」

と、何かうめいている。

「この中だ」

日本左衛門はその点線を、<ruby><rb>火箸</rb><rt>ひばし</rt></ruby>の先でグルリと書いて見せながら、

「図で見れば、一尺四方に足らないこれだけの中だが、さて、尋ねてみると、武蔵野の広さがわかる。ことに、その方角を知っているのは、おれ達ばかりではない、まず」

と、指を折って、

「お蝶が知ッている。道中師の伊兵衛がかぎつけている。――徳川万太郎はまだそこまで深く知らないが、あのお坊っちゃん<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の一途に、夜光の短刀にはたれよりも強い執着をもっていて、これも、雲霧の知らせによると、近頃、武蔵野の奥へ姿を見せたそうだ。――まだ油断のならないのは<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾、とかく、邪魔になりそうなやつは丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>」

夜光刀の秘密をめぐる幾多の人間の影を数えて、日本左衛門は、そのまま黙ッてしまいました。

「兄貴」

九兵衛は膝をのり出して、

「よく打明けてくれた。ろくな役には立つまいが、この九兵衛にも手伝わせてくれねえか。何しろ話を聞いただけでもこいつあ面白そうな仕事だ」

日本左衛門はかぶりを振って、

「いや、おめえに乗ってもらうくらいなら、初めから何もかも打明ける。それを今日までつつんでいたのは、おれの老婆心、まア、止したがいいだろう」

「なぜ？」と九兵衛は<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばんで、

「おれなどは、邪魔にはなっても、役に立たねえという腹か」

「このまま、世間に前身を知られずに済めば、秦野屋九兵衛という堅気で無事に生涯の終れるおめえだ。それを、こんな話から引き込んで、首尾よく目が出てくれればいいが、まかり違ッて、おれたち同様、獄門台に目をつぶるようなことになッちゃ、どうも、おれの寝ざめがよくねえからな」

「なるほど、兄貴らしいその思いやりは有難いが、いくら上手に世間ていを作ッていても、おれの素性が、このまま世間に分らずに、生涯無事に通るなんていうはずはねえ。どうせ、末には、<ruby><rb>年貢</rb><rt>ねんぐ</rt></ruby>の納めが来るものと覚悟をしている九兵衛、同じことなら男らしく、大きな<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>を打ってみたいのさ」

店では夕方の取片づけにせわしく、一日の<ruby><rb>塵</rb><rt>ごみ</rt></ruby>を掃き出し打水を撒き、八<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>に灯を入れなどしている最中、

「番頭どん、わしは奥のお客様を案内して、夕飯は河原の<ruby><rb>井筒屋</rb><rt>いづつや</rt></ruby>ですまして来ますから、<ruby><rb>帳合</rb><rt>ちょうあい</rt></ruby>がすんだら、早目に戸を下ろして、みんなも今夜は休ませて下さい」

いかにも商家の旦那らしい、地味な<ruby><rb>手織</rb><rt>てお</rt></ruby>りの羽織をかけて、こういいつけた秦野屋九兵衛は、

「じゃ、頼みますよ」

たばこ入れを腰にはさみながら、外へ出る。

外へ出ると、土蔵わきの木戸口から、ちょうど庭づたいに出て来た日本左衛門と<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門のふたりが、笠の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をむすびながら待っていて、

「九兵衛、大儀だのう」

「どういたしまして」

「どこやら風に青葉のにおいがする。今頃の夕方はまた格別じゃ」

「折角、お<ruby><rb>徒歩</rb><rt>ひろ</rt></ruby>いをおすすめしましても、この通り淋しい宿場、御見物なさる所もございませんが、河原あたりで御一献も、たまには御気分が変ろうかと存じまして」

店の前を小戻りして、宿場はずれをブラブラ抜け、いつか<ruby><rb>相模川</rb><rt>さがみがわ</rt></ruby>の河原へ出ていました。

川のながめを裏にした井筒屋という茶屋、そこへ上がッて、二階の一間に席をとる。

<ruby><rb>鮎</rb><rt>あゆ</rt></ruby>には早し、涼みの人は元よりなし、ほかに客らしい声もせず、至って閑散なところが殊に三人にはくつろげる。

それは秦野屋の奥で、日本左衛門が夜光の短刀のことを九兵衛に打明けた数日の後。

あの時、九兵衛、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>っての頼みに、日本左衛門も遂にかれの希望をいれて、共に、夜光の短刀を探そうという誓いは結びましたが、今夜、河原へ案内してくれと日本左衛門がいい出したのは、何の為か、まだ九兵衛にも分っていません。

盃の音もひそやかに、そこで酒を酌んでいること一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>あまり、

「もうぼつぼつ来そうなもんだが……」

と<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門は、時々、思い出したように、その二階から川向うへ目を配っている。

すると。

やがて対岸の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に、ポチと、ほたる火ほどな<ruby><rb>火繩</rb><rt>ひなわ</rt></ruby>が見え、その火繩は暗に何か、描くように、しきりと赤い線を振っています。

それはこの仲間の<ruby><rb>火合図</rb><rt>ひあいず</rt></ruby>とみえて、じっと、読むように赤い微光を見つめていた金右衛門、

「兄貴、やっと人数がそろったから、出かけて来てくれといっているぜ」

「そうか、じゃあ渡ろうか」

九兵衛は変に思って、

「え、向う<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>へ？」

「ウム、うまくいって、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>の<ruby><rb>鮎舟</rb><rt>あゆぶね</rt></ruby>を借りてくれねえか」

「それや造作もねえが、一体、今夜何があるんだ」

「まあ、一緒に来て見ればわかる」

女中をよんで舟の支度を頼み、それへわざと酒さかなを運ばせて、茶屋へは酔後の遊船らしく見せかけ、九兵衛が竿を取って相模川を少し<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>へくだってゆく。

と、――向う岸の火繩もそれに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩き出し、やがて四、五町も来たかと思うと、クルクルと暗に渦を描いて、また何かの合図を送って来ます。

「ここだ、<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めてくれ」

と、金右衛門と日本左衛門はヒラリと<ruby><rb>川洲</rb><rt>かわす</rt></ruby>へ飛び上がる。

九兵衛も鮎舟の綱を<ruby><rb>蛇籠</rb><rt>じゃかご</rt></ruby>にからげて、二人の影を追いました。

そして三人が、千鳥のように川洲を飛んで、向うの岸へ駆け上がッた頃です。何ぞ知らん、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に捨て残された小船のなかに、まだもう一人の人影がうごめいている。

鮎舟の一隅に積みかさねてあった<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>を<ruby><rb>撥</rb><rt>は</rt></ruby>ねのけて、三人のあとを見送りながら、<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>に立った若者。

<ruby><rb>虚無僧</rb><rt>こむそう</rt></ruby>にしては<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>を持たず、六部にしては<ruby><rb>笈</rb><rt>おい</rt></ruby>を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>っておりません。白の<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby><ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby>に白木の杖、その身ごしらえから察しますに、この辺りでは珍しからぬ旅人、<ruby><rb>石尊詣</rb><rt>せきそんまい</rt></ruby>りの行きか帰りの<ruby><rb>大山行者</rb><rt>おおやまぎょうじゃ</rt></ruby>でありましょう。

秦野屋が土手へ上がッてみると、そこに待つ者がありました。最前から暗に火繩を振って、日本左衛門と金右衛門に合図を送っていた男。

「そろっているか」

「みんなお待ち申しております」

三人は黙って男のみちびく<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>について行きます。

そこは多分、社家の<ruby><rb>粉場</rb><rt>こなば</rt></ruby>と呼ぶ所でしょう。河原口から<ruby><rb>疏通</rb><rt>はけ</rt></ruby>て来る数条の引き水が流れ、流れに添って、四、五軒の水車小屋がかたまッている。

ボッと薄赤い明り――その水車場の裏手でした。シンと鳴りをしずめていた人間の顔が、二十か三十か一斉に足音へ<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>る。

「あ、親分」

どろどろと立ち乱れると、無言のうちに整然と、それへ来て腰かけた三名を<ruby><rb>要</rb><rt>かなめ</rt></ruby>にして、<ruby><rb>扇形</rb><rt>おうぎがた</rt></ruby>に坐り流れる。

見ますと。

そこに集合していた人間は、一列一体に、渋色の巻頭巾、わらじ脚絆、「めざまし草」の箱胴乱をかけた姿で、みなこれ、同業同色のたばこ売りでありましたから、九兵衛もいささか驚いて、いつのまに、こんな出店がふえたろうかと呆れている。

「頭数は？」

と、やがて日本左衛門のことば。

「三十四人です」

答えた声は雲霧らしい。

「この中に、<ruby><rb>率</rb><rt>そつ</rt></ruby>八が居ねえようだが……」

日本左衛門は、少し不機嫌に、

「あいつが、水門<ruby><rb>尻</rb><rt>じり</rt></ruby>で捕方にあげられたのは、てめえ達も知っていように、だれも率八ひとりを伝馬牢から助け出してやる奴が居なかッたのか」

「へえ」

と、おそれいる後ろから、<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>の十太郎、

「親分、率八の体のことは、御安心なすッて下さいまし。江戸に残っている仲間の者が、この間牢役人に手を廻して、うまくもらい出したそうでございます。――ただ今夜の<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせは間に合いませんので、ここに姿を見せませんが……」

「そうか、それは好くやッてくれた。今日の<ruby><rb>寄合</rb><rt>よりあい</rt></ruby>はこの頭数で充分だ」

満足そうに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、何か金右衛門に顔を寄せて<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>に打合せをささやいておりましたが、

「時に」

と、重い語調で、一同へ向き直る。

改まって、何をいい出すのかと思っていると、日本左衛門、

「――この間うちから夜光の短刀の事について、皆が必死に働いてくれたおかげで、どうやら少し糸口がついて来た。まず今夜の用件を相談する前に、それから先に礼をいっておく」

両手を膝にし、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に頭を下げましたから、居ならぶ手下の渋頭巾も、おのずとそれに従ッて膝まで頭を下げずにはいられません。

「ウーム」と、腕ぐみをして眺めていた秦野屋九兵衛は、日本左衛門が常にその手下を、<ruby><rb>小憎</rb><rt>こにく</rt></ruby>いぐらいに巧みに使う<ruby><rb>旨味</rb><rt>うまみ</rt></ruby>はここだなと感服しつつ、これで盗賊なんだから呆れたものさと、自分の盗賊なることを忘れて考えこみました。

人を使うことで、思いあたる話は、<ruby><rb>呉子</rb><rt>ごし</rt></ruby>が<ruby><rb>武候</rb><rt>ぶこう</rt></ruby>に与えた兵法の虎の巻にある一項で、

「ソレ兵法ノ<ruby><rb>神髄</rb><rt>シンズイ</rt></ruby>ハ兵ヲシテ死ヲ楽シマシムルニアリ」

といったことば。

なるほど、自分から死を楽しんでバタバタ死にたくなるほど上手に人間を使いこなせば、これ以上の兵法はありますまい。軍学者とはまことに怖ろしい哲学を<ruby><rb>編出</rb><rt>あみだ</rt></ruby>すもので、そんな悪い智慧を武侯にさずけた呉子にはこういう挿話さえある。

<ruby><rb>呉起</rb><rt>ごき</rt></ruby>が<ruby><rb>秦</rb><rt>しん</rt></ruby>を討ち五城を抜かんとして出征した陣中での事。

士卒のなかに、<ruby><rb>疽</rb><rt>そ</rt></ruby>というきたない<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>を病む者がありましたのを、陣を見廻って来た呉子が見て、口をつけて<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>を吸ってやった。すると、故郷の母がその<ruby><rb>便</rb><rt>たよ</rt></ruby>りを聞いて、声をあげてオイオイと泣きました。

人あり、<ruby><rb>卒</rb><rt>そつ</rt></ruby>の母をなだめて、

「あなたの息子さんは仕合せ者じゃないか、呉起将軍が口をつけて<ruby><rb>疽</rb><rt>そ</rt></ruby>を吸って下すったとは、なんと大した光栄だろう、それをお前さんは、なんでそんなに悲しみますか」

卒の母、泣きながら答えますには、

「昔、呉王もあれの父の<ruby><rb>疽</rb><rt>そ</rt></ruby>を吸いました。案の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>、<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>は呉王のために討死して家へ帰って来ませんでした。今また、たッた一人の息子の疽を吸われましては、この老婆が、たれに死に水を取ってもらいましょうか」

なおオイオイ泣いて止まなかッたという話であります。

秦野屋はいやに感服したふうですが、日本左衛門は元来侍あがり、<ruby><rb>孫武</rb><rt>そんぶ</rt></ruby>や呉子の兵書ぐらいは腹に入れているに違いありまん。

しかし、泥棒が兵法を応用するのは、さまで恐ろしいことでもないが、これを金満家が人を使って大きな仕事を成す上に使ったなら、それこそ、<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>に疽を吸われて白骨になる人間がいくら出来上がるか分りますまい。

余談はとにかく。

何の密議か、ここに暗夜の会合が、ひそかに首を寄せ合った時、河原の土手に駆け上がって来た<ruby><rb>石尊詣</rb><rt>せきそんまい</rt></ruby>りの男は、杖を立てて、しきりと四方を見廻しています。

<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に目立ち<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い<ruby><rb>行衣</rb><rt>ぎょうい</rt></ruby>。

――遠目にも、すぐ相手に認められ易い自分の姿に、石尊詣りの男は、ふと、そこで思案に迷っているふう。

と。

男は、あたりの灌木の枝を手頃に折ッて、それを幾つも持ちました。

こうして身を屈して行けば、幾分か白い姿を紛らわしますから、<ruby><rb>木遁</rb><rt>もくとん</rt></ruby>の法の機智ともいえます。

首尾よく、水車小屋の近くまで忍んで行くと、一枚の<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>があったので、木の枝をそれにかえ、<ruby><rb>蓑虫</rb><rt>みのむし</rt></ruby>のようにクルリと丸まりながら、なるべく人声に接近して、大きな歯車の蔭にそッと身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かがめ</rt></ruby>め込む。

ゴトン……ゴトン……と<ruby><rb>諧調</rb><rt>かいちょう</rt></ruby>をもって廻る水車の音に、先の話し声が消されがちでしたが、その代り彼が忍んだことも、鋭敏な彼等に気づかれていない。

「じゃ、釘勘はあれから、一たん江戸へ引返したのだな」

何かたずねる声は日本左衛門。

「それは確かです。充分突き止めてまいりました」

「そうか」

といって次のひとりへ、彼の質問が移ってゆく。

「尾州家のお坊っちゃんは？」

「…………」

返辞がない。

「だれだ、万太郎にかかッていた者は」

「あっしです」

「稲吉か」

「へえ」

「なぜ黙っている？」

「実は、今夜の<ruby><rb>寄合</rb><rt>よりあい</rt></ruby>までに、よく居所を突き止める事ができなかったんです。根岸の屋敷を出た<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、御府外へ向ッた事だけは分っておりますが」

「お蝶は？」

言下に雲霧が答えました。

「あいつあ、<ruby><rb>野鍛冶</rb><rt>のかじ</rt></ruby>の半五郎にだまされて、あっしが寄合に戻って来る日の昼間、その鍛冶小屋に連れ込まれました」

「馬春堂の様子を探りに行ったのもおめえだな」

「いえ、そりゃあ、<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>です」

「十太郎か」

「へい」

「あいつは毒にも薬にもならねえが、どうしているこの頃は？」

「伊兵衛に助け出されて、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村から逃げだしたあんばいです」

「そして」

「あとの事はまだ探りにかかりませんが、多分、中仙道筋へもぐり込んだものと観ております」

「じゃ、これで、あらかた目星はついて来たな」

「でも、まだ<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>の居所が分りませんぜ」

「ウム、お粂か」と、彼の声がやや沈み入りましたが、

「あいつは、やがて自然にわかって来るだろう……じゃ、これでおよそ皆の話も聞き取ったから、そこで」

と、また深く考えて、不意に、

「雲霧、<ruby><rb>籖</rb><rt>くじ</rt></ruby>をこしらえてくれ」

といいました。

「籖？」

妙な顔をして訊くと、

「そうだ、これからの大役を、<ruby><rb>籤引</rb><rt>くじびき</rt></ruby>で一役ずつ引受けてもらうのだ」

「へ。何本？」

――指を折って、

「五ツ組、六本でいい」

雲霧が<ruby><rb>懐紙</rb><rt>かいし</rt></ruby>を出して、五つに細く裂き、それを日本左衛門に差出すと、かれの代りに<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門が、その<ruby><rb>紙縒</rb><rt>こより</rt></ruby>の末に、いちいち何かを<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めました。

「ところで、この<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>だが」

と、引かせる前に日本左衛門は、雲霧、四ツ目屋、尺取、千束、それと秦野屋九兵衛とを加えて、その五人にすべての手下を五ツ組に分ける。

そして、これからの行動は、すべてこの五ツ組に分れて目的を遂行すること。寄合の時、場所、その<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の連絡など、すべての約束を結ばせた後、

「サ、たれからでも引くがいい」

金右衛門が<ruby><rb>紙縒</rb><rt>こより</rt></ruby>の先を一同へ向けましたが、

「ですが、これは一体、どういう訳の籖なんだか、そいつが分っていねえと、張合がありませんね」

と、たれかいう。

「じゃ、前に種を明かしておこうか、実はそれには、<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>、丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷のお蝶、目明しの<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>、道中師の伊兵衛、徳川万太郎、こう六人の名が書いてある」

「へえ……それで？」

「その名を引いた組の者の仕事は、その人間を殺すことだ」

「すると、一本よけいになりますが」

「残りは、親引き」

「なるほど」

「ですが、親分……」と、また四ツ目屋が疑いをはさんで、

「――その中にある、かんじんな、相良金吾だけは、まだどうしても<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>が分っておりませんが」

「ウム……金吾か」と、日本左衛門はニンマリと笑みをふくんで、

「泰野屋の奥に居ても、おれも、ただは遊んでいない。金吾の歩む足音は、この<ruby><rb>迅風耳</rb><rt>じんぷうじ</rt></ruby>で聞きすましている」

「えっ、じゃ、親分はご存じですか」

「知らなくッて、どうする！」

「どこに居ますか、今、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>は」

「わからねえのか。……それ、てめえ達の居所から、ものの十尺と離れていない、ツイそこの水車の蔭に屈んでいるのが――」

金吾？　金吾ならばついそこの水車の蔭に居るではないか。

――何の前提なしに日本左衛門がこういったものですから、一同はギョッとしながら半信半疑に、

「えッ、金吾が？」

と、あたりを一斉に見廻して立ち迷いました。

が――その幾ツもの目が、水車小屋の蔭にハッとして動いた影を見つける前に、<ruby><rb>石尊詣</rb><rt>せきそんまい</rt></ruby>りの例の男は、<ruby><rb>木鼠</rb><rt>きねずみ</rt></ruby>のごとく一方の森へ駆け込んでおります。

そして、後ろを<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえり</rt></ruby>りましたが、一時に追い駆けてくる様子もない。

「おそろしいやつだ」

ホッとして<ruby><rb>行衣</rb><rt>ぎょうい</rt></ruby>の土を払いながら、そこの朽ち木の根へ腰をおろした男は、姿こそまったく変っておりますが、まことに日本左衛門の<ruby><rb>慧眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>が<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>たとおり相良金吾その人に違いありません。

金吾は今の一時ほど、日本左衛門という男のおそろしさを真に感じたことがない。

「どうして彼が自分の<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>ていたことを知っていたか？」

と思えば思うほど不思議にたえません。そして、根府川の千鳥ヶ浜で、剣と剣とをもって生死の境に面接した時の彼よりも、遙かに脅迫的な日本左衛門のむッつりした<ruby><rb>風丰</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>が今も自分の背中に、こびりついているように感じられる。

しかし、金吾が彼にもつ疑いと同じに、彼が日本左衛門の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>を知っていたのも一ツの疑問でなければなりません。

丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>を突き放して、十国峠の背を<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>ともなく去った相良金吾は、その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>、転々した末に、この厚木から遠からぬ<ruby><rb>雨降山</rb><rt>あふりやま</rt></ruby><ruby><rb>大山</rb><rt>おおやま</rt></ruby>の宿の行者宿に落着いていたのです。

白い<ruby><rb>垢離衣</rb><rt>こりご</rt></ruby>を着た人々に交じッて、彼も三七の日を雨降山にこもって、一日も早く、主家に帰参の日のあることを祈願しておりましたが、そのうちにふと大山の宿で見かけたのが、江戸で見覚えのある四ツ目屋の新助、渋色の<ruby><rb>巻頭巾</rb><rt>まきずきん</rt></ruby>に目ざまし草の箱を掛けて、たばこを売り歩いている行商姿。

それから彼の行動を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、秦野屋に出入りすることを確かめた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、ある夜、住居の庭へ忍んで様子を窺ってみると、怪しい客が滞在している。

で――今夜、河原の井筒屋へ上がッたことも知っていたので、どうかして、近づこうと苦心しているうちに、二人が裏の河原へ降りて来たので、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>鮎舟</rb><rt>あゆぶね</rt></ruby>の<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていたわけです。

一方。

水車場の裏では、金吾がそこに居ると聞いて、一時、ソレと総立ちになった様子でしたが、日本左衛門が、

「立つな。今夜は決して追ッちゃあならねえ」

という制止に、ようやく動揺をしずめて、元の冷静に返ったらしく、やがて、今後の役割を振分けるべく用意した「暗殺の<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>」を順々に引き初めました。

――夜光の短刀の捜索が、ようやく、その<ruby><rb>曙光</rb><rt>しょこう</rt></ruby>を見出して来るとともに、日本左衛門中心の一味にとって、事ごとに邪魔になるものは、その短刀を<ruby><rb>廻</rb><rt>めぐ</rt></ruby>ッて同じ<ruby><rb>猟奇心</rb><rt>りょうきしん</rt></ruby>に動く人間と、その秘密を一層世間へ<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>するおそれのある人間の存在です。

そこで、彼の果断は残忍をいとわぬ事になって来ました。すなわち、自分を別にして、手下の者を五ツの組に分け、数えあげたその邪魔ものを、疾風迅雷に手分けをして刈り尽くそうという考え。

そこで、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>が引当てた「暗殺の<ruby><rb>籖</rb><rt>くじ</rt></ruby>」の結果は？

<ruby><rb>紙縒</rb><rt>こより</rt></ruby>の端を順にひろげて見ました上、役割はこうと極まりました。

雲霧の仁三の組…………徳川万太郎を暗殺する。

尺取の十太郎の組………目明しの釘勘を暗殺する。

千束の稲吉の組…………丹頂のお粂を暗殺する。

四ツ目屋の新助の組……道中師の伊兵衛と馬春堂の二人を暗殺する。

秦野屋九兵衛の組………相良金吾を暗殺する。

そして最後に親引きとして残った日本左衛門の<ruby><rb>籖</rb><rt>くじ</rt></ruby>は、もう見るまでもありません。――切支丹屋敷のお蝶。

暗殺の籤を引いて、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の決行する仕事をさだめた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、夜光の短刀のことについてもいろいろ打合せを済まして、

「さて、つぎの寄合は土用の<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>の日とする。場所は<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>をかえて<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>の<ruby><rb>鹿野山</rb><rt>かのうざん</rt></ruby>、場所は上総の鹿野山」

と、日本左衛門が一同の耳へもれなく届くように、こうくりかえして――

「いいか、日は土用の初めの<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>の日、時刻は<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の六ツ半から<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>の間、鹿野山の<ruby><rb>額堂</rb><rt>がくどう</rt></ruby>に集まることだぜ。忘れねえようによく耳へとめておけ」

と言い渡すと、千束の稲吉が、

「親分、おたずねするまでもなく、あっし達が受け持った仕事も、それまでの間に、首尾よくやッてのけなければなりますまいが、万一の場合があって、もし土用の辰までに、目ざす<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>を殺すことが出来なかったら、その時は、どうしたもんでございましょう」

「いや、次の土用の寄合は、お互いの首尾や<ruby><rb>報告</rb><rt>しらせ</rt></ruby>、また、先の仕事の手順を<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せるつもりだから、それまでに、今夜籖できめた暗殺の仕事を、首尾よくやッて済ました者も、<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>く行かずにいる者も、不面目を思わずに、必ず顔出しをしてもらいたい。なお念のために言っておくが、この事は、稲吉のほかの者も、よく胸にたたみ込んでおいてくれ」

「承知いたしました。じゃ親分、土用の辰に、<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>の鹿野山で、またお目に懸ることと致します」

「ウム、それまでは、もう寄合うことはねえだろう、お互にこれから先は東西南北、どこへでも気ままに散らかッて行くがいい」

立ちかけましたが、日本左衛門は、ふと傍らの九兵衛を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、

「おお秦野屋、おめえにも<ruby><rb>嫌応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしに、一役振り当てたが、異存はねえか」

「元よりおれから望んで仲間にはいッたこと、なんで異存があるものか」

「おめえの受持ちは相良金吾、あの<ruby><rb>籖</rb><rt>くじ</rt></ruby>の中では一番手<ruby><rb>強</rb><rt>ごわ</rt></ruby>い侍だから、ずいぶん抜かりのねえように頼む」

「一番骨ッぽいのを引受けたのは、秦野屋として面目をほどこしたわけ、兄貴、どうか心配しねえでくれ」

「じゃあ、今夜の<ruby><rb>寄合</rb><rt>よりあい</rt></ruby>はこれで済んだな」

と、<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>る親分の<ruby><rb>尾</rb><rt>お</rt></ruby>について、一同が人影を織りながらゾロゾロと水車場の間を歩み出しましたが、そこの小屋の蔭を出た途端に、目の前の草原が、夕焼けのように、カーッと赤い光になすられているのに、

「オオ」

と、思わず一同が立ちすくみました。

それと共に、静かな夜気と相模川の水に反響して、カ――ン、カ――ン、カ――ンと、河向うの厚木の宿で、<ruby><rb>熾</rb><rt>さかん</rt></ruby>に鳴っている三ツ<ruby><rb>鐘</rb><rt>ばん</rt></ruby>の音がたれの耳にも気づかれます。

風がある。西らしい。

土手に若葉をゆす<ruby><rb>振</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ッている<ruby><rb>血櫧</rb><rt>あかがし</rt></ruby>の木立を楯にして、顔を焼きそうな対岸を眺めますに、燃え<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>ッている火の手はちょうど<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>上町</rb><rt>かみまち</rt></ruby>辺で、炎は人家の建てこんでいる、下へ下へと延びている。

その炎の色を映して、<ruby><rb>幾条</rb><rt>いくすじ</rt></ruby>にも裂けている相模川の水は、あたかも<ruby><rb>坩堝</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>の溶液が砂利の間を煮え流れているよう。

風向きのせいかパチパチと<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>のハゼる音までが、広い河原の距離を越えて聞こえ、それに交じる人声までが、陰々たる空を煙に送られて来ます。

「どこだ、どこだ火事は」

土手を駆けて行く人と人が、たれに聞くでもなく、これに答えるでもなく、

「<ruby><rb>上町</rb><rt>かみまち</rt></ruby>の芝居小屋だ――<ruby><rb>岩井染之助</rb><rt>いわいそめのすけ</rt></ruby>の<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>から出たんだとよ！」

声を投げ合ッて走って行く。

岩井染之助一座。

なるほど、そんな<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>が、宿場の辻にハタハタしていたのを見かけたことがある。

――と、四ツ目屋、雲霧、<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>などは、面白そうにそれを対岸の火災視しておりましたが、ひとり秦野屋九兵衛は、

「ウーム、この風じゃ……」

黙然と腕ぐみをして、炎をにらみながら呟やきました。

「秦野屋、どうやらあの火の手じゃ、おめえの店は<ruby><rb>一舐</rb><rt>ひとな</rt></ruby>めになりそうだな」

と、日本左衛門が側へ寄ってささやくと、九兵衛は結んでいた口をニヤリと<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めて、

「――とすると、千両ばかり煙になる勘定だが、楽に積んだ<ruby><rb>身代</rb><rt>しんだい</rt></ruby>は、やッぱり、楽に灰になりゃアがる」

「あはははは。<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めねえ」

と、日本左衛門も、これが堅気の秦野屋なら、慰めなければならないところを、かえって妙に<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>くなって、九兵衛の肩をたたきながら、

「――おい、盗ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>の目ざまし草だな」

おのれの身にもありそうな、この皮肉に自嘲をおぼえて、愉快そうに<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>しました。

火をもてあそぶ風は血を見た人間のように、いよいよ<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>り出してくる。

宿場の火事は加速度に燃えひろがりました。

一度西から東へ転じていた風が、また<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に方角を変えてきたので、火の手は二手にも三手にも分れた様子で、もう秦野屋の店あたりも、完全に助からない位置にあるようです。

九兵衛は遠い炎に赤く照らされている顔を笑いくずして、

「こうなってみりゃ、<ruby><rb>結句</rb><rt>けっく</rt></ruby>おれも気楽にお仲間入りができるというもの。どれ、焼け出されの秦野屋から、お先に御免こうむろうか」

サバサバとした顔つきで、日本左衛門や他の者と、<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>での再会を誓って、ぷいとそこから影を消す。

「では親分、土用の<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>に」

「いずれいい<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きっそう</rt></ruby>をお<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に」

「あっしもこれで」

「手前もここで」

雲霧の<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>、四ツ目屋の新助、<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>の十太郎、千<ruby><rb>束</rb><rt>ぞく</rt></ruby>の稲吉達も、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>その組の手下を六、七人ずつ連れて、ちょうど今夜の廻り風のように、そして四方に散らばる火の子のように、思い思いな方角へ、騒ぎにまぎれて立ち去りました。

その頃――

相良金吾は<ruby><rb>行杖</rb><rt>ぎょうづえ</rt></ruby>をかかえて、まっしぐらに<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>の渡船場へ向って駆けている。

たれを追いかけたわけでもない。ただ、向うへわたる渡船を求めるために。

自分がひそかに宿を取っていた、宿端れのわびしい<ruby><rb>安旅籠</rb><rt>やすはたご</rt></ruby>には、足の不自由な石尊詣りや、業病の願がけに来た<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>や、また宿の家族にも子供や老婆などが多いのを思い起して、一樹の縁の人々の災難を、ジッと見ていられない気持でした。

と、息をきって、渡船場へ駆けつけて来るなり、向うへ渡る舟はないかと見廻しますに、それどころではない、ここは瀬がいいので、対岸の火中から逃げのびて来る人々が、荷物や女子供を舟に託して、われ先にと混み合ってくる一筋路。

火の子に泣く幼い者の声、何か高声でわめく男、荷物を流して身を忘れる女など――金吾は思わず目を<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>いました。

<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、空いている捨て舟などはないので、向うへ越えることは諦めねばなりませんが、その惨めな雑沓を見るや否、金吾は夢中で働いている。

どこの家族という見境なく、荷物や老人に手を貸して、夢中になって働き出している。

そのうちに、意気地のない悲鳴をあげて、二、三艘の小舟に乗って逃げて来た一組がありましたが、その<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>や荷物がおそろしく<ruby><rb>嵩張</rb><rt>かさば</rt></ruby>っている上に、この騒ぎの中だというのに、ある者は金糸銀糸の衣裳を着、ある者は<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>に<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>をなすりつけており、気をつけて見ると、一人も満足な形でありません。

<ruby><rb>葛籠</rb><rt>つづら</rt></ruby>の紋やふろしきの染め抜きを見ると、これは、今夜の火事を出した火元とか噂をされていた<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>廻りの旅役者、岩井染之助一座の河原者と思われる。

すると、今。

岸に着いてゴッタ返しながら、荷物をあばき合っていた河原者の舟で、

「あれッ、あれッ、どなた様か、そこへ流されてゆく者を助けて下さいませ」

と、<ruby><rb>鬘下地</rb><rt>かつらしたじ</rt></ruby>の<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>らしいのが、金切声を上げました。

見ると、折わるく一番瀬の早い<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>へ、誤ッて落ちた者があるらしく、あれよというまに、水に巻かれた人らしいものが、渡船場の<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れて<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>へ押し流されてゆく。

岩井一座の小屋が火元だという土地のうわさが、初めからパッと広がっているので、自然と憎しみを持つものか、それとも自分達のことで他を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みている気持が起きないのか、たれもそれへ手を出す者がない様子。

ひとり、駆け出したのは金吾です。

急流とはいえ、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>を駆ける足どりは、すぐに流されてゆく者を追い越します。彼は、<ruby><rb>蛇籠</rb><rt>じゃかご</rt></ruby>の<ruby><rb>崖縁</rb><rt>がけぶち</rt></ruby>から<ruby><rb>川洲</rb><rt>かわす</rt></ruby>へ飛び降りて、瀬の狭くなる流れ口に足を踏み込み、いきなり、そこへ見えた黒いものをつかみました。

「ああッ……」

と、水の中から、人魚の泣くような声。

かれが掴んだのは女の黒髪と<ruby><rb>衿元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>で――まだ正気のあったらしいその女は、無我夢中になって、ビッショリとぬれた両腕をあげて、金吾の足へすがりついて来る。

「しっかりいたせ！　これ女中」

水を吐かせようとするのと、気を張らせようとする用意で、わざと<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>に<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>をすくい上げてから呼びました刹那、

「おっ、<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>さん――」

なんという不意でしょう。こう言った女の声です。

「えっ……」と金吾。

抱きかけた黒髪のベットリついた女の顔を、空明りによくよく見ると、それは思いがけないというよりは、彼にとって、むしろ<ruby><rb>怨霊</rb><rt>おんりょう</rt></ruby>のように見えたかも知れません――あのお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>です、丹頂のお粂です。

「あっ！　……」

と金吾が驚きを投げた途端に、そこでザッと水しぶきが上がりました。そして、彼の白い影が、逃ぐるが如く、<ruby><rb>川洲</rb><rt>かわす</rt></ruby>から崖へ駆け上がった時、それと反対な川下へ、黒い<ruby><rb>水巴</rb><rt>みずどもえ</rt></ruby>が渦巻いて行きました……

一度救われかけたお粂は、金吾に救いの手を放されて、また十数間水に押されてゆきましたが、幸い、浅瀬の<ruby><rb>柵</rb><rt>しがらみ</rt></ruby>に体が引ッかかったので、身ぶるいしながら這い上がり、そこでばッたりと、気を失って倒れていました。

と、やがてのこと。

前の岩井染之助一座の者でしょう、人手をかりて駆け出して来たのが、提灯の明りを<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>して口々に、

「おお、あすこにだれか倒れている」

「あれだ、あれだ」

と呼び騒ぎながら、土手を降りて川床の草地へ集まって来る。

こういう場合に経験のつんでいる土地の船頭らしい男が、

「<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女だなあ、すごいような<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女だ」

生きるか死ぬかと、はたの者が心配している最中に、のん気なことをいいながら、みずおちを押して見て、

「大丈夫、大丈夫。ろくに水をのんでいねえから、気がつけば確かなものさ」

ゆうゆうと手当をしてくれるのが、かえって<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しく思われて、周囲の者をホッとさせます。

ところが、一座の御難はこれに<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まらず、またぞろ、そこへばらばらと駆けて来た<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>文字の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>があって、

「その<ruby><rb>方</rb><rt>ほう</rt></ruby>たちは、岩井染之助一座の者であるか」

と、<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>な声。

見ると<ruby><rb>厚木</rb><rt>あつぎ</rt></ruby>の天領役人と四、五人の手先です。何よりはその手にある十手の光にハッとして、

「左様でございます。手前どもは<ruby><rb>上町</rb><rt>かみまち</rt></ruby>の小屋に<ruby><rb>興行</rb><rt>こうぎょう</rt></ruby>のお<ruby><rb>免許</rb><rt>ゆるし</rt></ruby>を願っておりました染之助一座の楽屋者に相違ございません」

「その染之助はこれにおるか」

「へい」

と、うしろの方にふるえ上がっていた<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>のない男が、衣裳下の<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>の<ruby><rb>衿前</rb><rt>えりまえ</rt></ruby>を合せながらオズオズと前へ出て、

「手前が<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>の染之助でございますが……」

「<ruby><rb>太夫元</rb><rt>たゆうもと</rt></ruby>の長吉もこれへ出い！」

「ええ、その太夫元というのは名前だけで、一座と一緒に歩いているわけではございません。御覧の通りな、頭数の少ない一座、手前が名前人やら奥役やら<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>やら、すべてを兼ねてやっておりますので」

「しからば申し聞かすが、今夜、その方たちの小屋より失火を出しておりながら、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>のお許しもまたず逃亡せんとするは不届き至極な奴、一座の重立った者三、四名、天領御役所まで引ッ立てるから左様心得ろッ。いや、言い訳ならん、ならん！　立てッ」

と、<ruby><rb>郡代</rb><rt>ぐんだい</rt></ruby><ruby><rb>同心</rb><rt>どうしん</rt></ruby>が、いかにも<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>役人らしい<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>で<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をすくう。

待ちかまえていた手先は、有無をいわさず、座頭の染之助、<ruby><rb>中軸</rb><rt>ちゅうじく</rt></ruby>の市川<ruby><rb>姉蔵</rb><rt>あねぞう</rt></ruby>、<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>の<ruby><rb>袖崎市弥</rb><rt>そでざきいちや</rt></ruby>の三名をねじおさえて、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>つなぎに引ッくくる。

その間に、ふと、ぬれ鼠になって倒れているお粂に目をつけた同心は、<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>くさそうに顔をのぞき込んで、

「この女は何者じゃ」

と、染之助に問いつめて来ました。

「……ええ、そのお方は、一座の者ではございません故、どうかこの事にはお見逃しの程を」

「だまれ、何者かとたずねるのじゃ」

「江戸表におりました頃、<ruby><rb>度々</rb><rt>たびたび</rt></ruby>、<ruby><rb>御贔屓</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>になりましたお客筋で、芝居の方とは、何の<ruby><rb>関</rb><rt>かか</rt></ruby>わりもないお方でございます」

「それがどうして、その方たちの楽屋におるのか」

「ちょうど手前達が、三島の小屋を打っております時、突然たずねておいでになり、事情があってしばらく旅に居たい身の上だから、楽屋においてくれないかというお話、以前御贔屓になった御縁もあるので、何とはなしに、そのまま私達の仲間と一緒に、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>を歩いてまいったわけでござります」

「ふむ……しからば引ッ立ててまいっても仕方があるまい」

同心は目くばせして、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>つなぎの三名を先に立たせ、なおあとの者に何か心得を言い聞かせて、土手を遠く立ち去って行く。

赤い空も、いつかどす黒く沈んでいました。

その翌日。

焼け出された岩井一座の小屋者は、衣裳つづらと一ツの籠を取り巻いて、旅回りの惨めさをかこちながら、八王子街道を落武者のように元気なく<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っていました。

## <ruby><rb>迷路</rb><rt>めいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>迷人</rb><rt>めいじん</rt></ruby>

今日もまた武蔵野の原をさまよう一ツの<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>がありました。

「はてな……」

と。幾つもの<ruby><rb>岐路</rb><rt>きろ</rt></ruby>に立つごとに、行き迷っている様子。

時折、笠のつばを上げて、四方の<ruby><rb>碧落</rb><rt>へきらく</rt></ruby>を見廻す瞳は、疲れながらも、何かの希望に燃えている。

編笠につつまれた顔をのぞくと、それは徳川万太郎でした。――かの不思議な<ruby><rb>女駕</rb><rt>おんなかご</rt></ruby>に乗せられて、武蔵野の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>を夜ッぴて疾駆した揚句、<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>どもの嘲笑と共に、駕ぐるみグルグルグルグル廻されて窪地の底へ抛り込まれた万太郎。

彼です。

彼はあの晩、阿佐ヶ谷神楽の連中が、<ruby><rb>野舞</rb><rt>のまい</rt></ruby>をしているかがり火を見ました。

また、その連中のなかに、道中師の伊兵衛が交じッていたのも見ました。

ところが、いつもながら、例の<ruby><rb>懸引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>知らずな若殿<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>。

いきなり躍り出して、彼等の<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を冷やしたものですから、百姓神楽の者どもは、

（<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>、<ruby><rb>鳴物停止</rb><rt>なりものちょうじ</rt></ruby>をとがめに来た村役人！）

と驚いて、かがりを踏み消して八方へ逃げ散り、伊兵衛も共に影をくらましましたから、万太郎はまた元の暗黒に一人取り残されて、夜もすがら迷うのほかなき結果を招いたのです。

そしてその後、数日の間。

彼は、見知らぬ百姓家に宿を借りて、その晩の疲労をいやしておりましたが、ようよう体の痛みも癒えたので、昨日から教えられた<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の方角へ向って歩いているところ。

ですが――自分ではその方角が誤らないつもりなのが、どうもだんだん妙な道に踏みこんで、少し頭も混迷してきた形です。

一方。

伊兵衛の方は、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うの昔に、高麗村へ<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れこんで、あんな器用な芸当をやッてのけた上、ともかく、馬春堂を助け出して、物騒なお屋敷におさらばを告げているというのに、彼は、まだこんな所に<ruby><rb>遅々</rb><rt>ちち</rt></ruby>としている。

気性が勝っているようでも、やはり若殿は若殿、日本左衛門がお坊っちゃん扱いをするが如く、どこか悠長なところがあるのでしょう。

「――どうしたのじゃ、この道は、昨日もたしかに歩いたように覚えられるが？」

二日も道に迷いながら、迫らず騒がず、まことに鷹揚なふところ手。

染屋の悪狐にでも<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれているようです。

だが、いかに万太郎が<ruby><rb>御殿</rb><rt>ごてん</rt></ruby>育ちでも、昼狐につかれる程なボンヤリではありません。

彼が、昨日も今日も、自分で怪しみながら同じ道に迷っているのは、この土地の地理にうとい必然な錯覚であります。ここを有名な<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の里の迷路であると知ッたなら、彼も、もう一層ゆッくりと<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>でも解いて、そこらの<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>にどっかりと腰を下ろし、おもむろに迷って来た方角を反省してみる必要があったでしょう。

――それを知らずに、唯、錯覚の感じを頼りに歩いている<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>に、彼は、一軒の黒い家を見かけて、

「おお、あれにあるのは<ruby><rb>野鍛冶</rb><rt>のかじ</rt></ruby>の家らしいが……」と、そこへ足を早めて行く。

半五郎の鍛冶小屋です。

<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>に寄って、仕事場の土間をのぞき込んで見ますと、今日は、半五郎の夫婦もいず、<ruby><rb>鞴</rb><rt>ふいご</rt></ruby>に赤い火も燃えていない。

「留守か……」

がっかりして辺りを見廻していると、ちょうど鍛冶小屋の横手にあたって、たれか、<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をすするような泣き声がもれる。

何の気もなく、万太郎は、静かにそこへ足を運んで行ったのです。

見ると、羽目板の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>に、犬のようにうずくまッている少年がある。

顔は見えないが<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の次郎でしょう。次郎は太陽に<ruby><rb>謝</rb><rt>あや</rt></ruby>まッているように、膝をかかえて泣いていました。

たれか近づいて来た<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>に、ふと顔を上げた高麗村の次郎。

この辺では見かけない人品のいい侍が、ジッと<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>のうちから自分を見つめておりましたので、いかにも間が悪そうにあわてて、涙の目をそらす。

万太郎はそれへ立ち止まって、

「お前はこの鍛冶小屋の小僧か」

と、驚かぬように、やさしく声をかけて見ました。

暫くこッちを向きませんでしたが、やがて次郎、涙をかわかして、

「おいらかい？」

「うむ、少々道をたずねたいのだが……」

「ああ、道に迷った人か」

「<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>というのはこれからどう行ったらよいのか、お前は存じておらぬか」

「高麗村へ行くの？　おじさん」

「そうじゃ、そこの御隠家様と申す屋敷をたずねあぐんで、昨日からこの辺を迷うている。知っているなら教えてくれい」

次郎の眼は改めて、万太郎の<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>を見直しておりましたが、

これは伊兵衛や馬春堂の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>の人物ではないとやや安心したらしく、

「その高麗村はネ」

と立って――あなたの連山を指さしながら、

「あの右に見える物見山と、左の奥に見える大丹波の間を、グングンと<ruby><rb>峡</rb><rt>かい</rt></ruby>へはいッて行った所だよ。だが、それよりもッと分りいいのは、この入間川の水に<ruby><rb>沿</rb><rt>そ</rt></ruby>って、何処までも何処までも、流れの<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>へゆくとそこが高麗村さ」

「では、飛んでもない方角ちがいをしていたわけだな」

「ここは<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の迷路といって、だれでも、旅の人は迷うのが当り前だ」

「女影の迷路？　……話に聞いた女影の里というのはこの辺であったか。道理で……」と万太郎は笠をめぐらしながら、

「この先へまいって、もしまた、道に迷っては甚だ難儀に思うが、お前、わしの案内をしてその高麗村まで同道してくれぬか、駄賃は何程でもそちの欲しいほど遣わすが」

――と言うと、次郎の眼がまた急に曇って、

「おいらも高麗村へ帰りたいのは山々なんだけれど、わけがあって帰れない。おじさん、一人で行っておくんなさい」

「ほウ、では、お前は高麗村の者であるか」

「御隠家様のお屋敷に奉公していた、次郎という者だけれど、おじさんは？」

「わしか……」と、口をにごしながら万太郎は、これはいい者に出会ったと喜んで、

「わしは徳川万太郎という者だが、そちがあの屋敷の召使いとあらば、さだめし様子も知っておるであろう」

と、目白の石神堂から郷士たちの持ち去ッた<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>箱のことをききほじると、次郎は意外な顔つきをして、

「ああ、おじさん、それじゃ高麗村へ行っても無駄足だよ」

と、両手を頬に当ててガックリとうなだれました。

次郎の答えに、何かつつまれている事情があるらしく思えたので、万太郎も少し色をなして、

「えっ、では<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>にもないと申すのか」

「この間までは、確かに御隠家のお屋敷にあったんだけれど、今では、どこへ行ったか分らない」

「嘘であろう、<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りであろう。あれほどな名品を一度でも手にした狛家の者が、滅多に人手に渡すはずはない」

「嘘じゃない……ほんとだ。……ほんとだからこそ、おいらはここで泣いている」

「洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>ゆえに、お前はここで泣いていたのか」

「ああ……おいらは狛家へ帰りたい。お嬢様のそばへ行きたい。だけれど、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を人に<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られたまま、手ぶらで帰ったら御隠家様がどんなにお怒り遊ばすか……それを思うと高麗村へも帰れない」

次郎の答えは率直です。彼には邪心がありません。邪心のない者は人を疑わない。

殊に万太郎のたずね方がやさしいので、やや感傷的な気持でここに泣いていた次郎は、自分の<ruby><rb>落度</rb><rt>おちど</rt></ruby>を訴えるように、相手がたぐる話の糸に引き出方れて、その話すところ訴えるところに、少しも包みかくしがないのです。

――自分や<ruby><rb>月江</rb><rt>つきえ</rt></ruby>様が<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>から帰った晩の夜宴のこと。

また、その晩の騒動。

あれからのいきさつ。

調子に乗って石神堂から取出した<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をつけたまま、逃げた<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>を追ッかけ追い廻し、その揚句、あまり疲れたためこの鍛冶小屋に立ち寄って、両親に甘えながらツイそのまま寝込んでしまったのが、あとで思えば自分の不覚。

ちょうど同じその晩――

父の半五郎が連れて来て奥へ寝かしておいた素性の知れない女が、自分が顔に<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って寝ていた般若の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をはぎ取り、夜の明けないうちに、何処ともなく姿を消して、あとの寝床はもぬけの殻となっている。

半五郎は怒ッて、その翌日、早速女の行方をさがしに出かけたが、とうとう姿が見つからず、と言って、このまま捨てておくのも業腹だし、仕事も手につかないといって、二、三日前にまた家を飛び出したが、まだ帰って来ないところを見ると、やはり行方が知れないのかも知れません――と次郎はここで元気なく話を区切り、うつろな顔を上げて昼の雲を眺めました。

「それが確かに洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>だ！」

万太郎は思わぬ者から、幾多の耳寄りな事実を聞き取って、暗夜の行路に一点の明りを見つけたような心地――

こう分ってみれば、もう高麗村の屋敷を訪れて行くのも無益となりました。

それ以上の急務は、怪しげなその女の髪かたちや特長を知ることですが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と、次郎はそれを見ていませんので、

「半五郎とやらに会って、なお<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい話を聞きたいと思う故、今夜、そちの家で世話になるぞ」

と、万太郎は<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>小屋へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ッて、遠慮なく編笠の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を解く。

そのうちに、次郎の母が戻って来て、立派な侍が上がり込んでいるのに驚いた様子でしたが、訳を聞いて気を休めたらしく、野菜などを煮て夕飯のもてなしを急ぎ初める。

次郎は母親にいいつけられて、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を割り、<ruby><rb>掛樋</rb><rt>かけひ</rt></ruby>を掛けて、野天に出ている<ruby><rb>据</rb><rt>すえ</rt></ruby>風呂を<ruby><rb>沸</rb><rt>わか</rt></ruby>しています。

「お武家さん」

窓の外から顔を出して――

「風呂がわいたよ。お湯におはいンなさい」

「それは<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>い。では一風呂浴びようか」

「ここへ<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>き物を置いとくぜ」

「大儀だのう」

「え、大儀ッて、おじさん、何のことだい？」

「はははは。貴様、なかなか面白い小僧じゃ」

帯を解いて、ふと見ますと、そこから出た方が近道という次郎の考え、片ちンばの下駄が窓の外にそろえてある。

窓から下駄をはいて裏へ出るということが、万太郎にはすこぶる愉快に感じられました。屋敷にいては想像もつかないこういう生活が、彼には事ごとに一つの興味となっている。

そこを<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで、ちんばの下駄を引きずりながら、次郎に案内されて風呂にはいる。

その風呂がまた彼には何ともいえない物です。破れた雨戸を横に立てて、その中に<ruby><rb>肥桶</rb><rt>こえおけ</rt></ruby>に似たものがある。

どぶりと野風呂に身を沈めて、夕暮の空を仰ぐと、初めて、気のつかない雲の美しさを見出します。

「アア……よい気持だ」

尾張中将の若殿も、こういう幸福感にひたったことは、実際生まれて初めてのよろこび。

と――たれか、<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>ってある戸板のうしろへ、忍びやかな<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>をさせて、

「次郎や……」

と、呼んだ者がある。

「次郎や……、次郎は居ないの？　……」

<ruby><rb>月並</rb><rt>つきなみ</rt></ruby>に形容すれば、<ruby><rb>藪鶯</rb><rt>やぶうぐいす</rt></ruby>の音といったような、愛らしい女の声です。

風呂の<ruby><rb>火口</rb><rt>ひぐち</rt></ruby>に<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>みこんで、鼻の穴を黒くしていた次郎は、

「あ……お嬢さん」

と、吾を忘れてキョロキョロと見廻しました。

声のみ聞こえて、風呂の中にいる万太郎に、その姿は分りませんが、双方から寄って行ったらしい二人の話し声が、恋仲のように<ruby><rb>蜜</rb><rt>みつ</rt></ruby>でした。

「まあ、次郎。おまえは一体どうしたの？」

「お嬢様、……すみません」

「男のくせに……<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>な人……おまえ泣いてるネ、泣いてるネ」

「いいえ、煙いんです、風呂の煙が」

「じゃ、顔をお見せ。……<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>、どんなに心配していたか分りませんよ、あの騒ぎの晩きりお前は帰って来ないんだもの。……お前が帰らないので、たれよりも一番心配していた者は、この私だということを次郎は知っておいでかえ？」

「え。それはよく、分っています。だから私も毎日この<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>小屋で、お嬢さんの事ばかり考えつづけておりました」

「じゃあ、なぜ高麗村へ帰って来ないの」

「…………」

「おまえは、もう奉公がいやになったのかえ？　私のそばに居るのがいやにおなりなのだろう」

「お嬢さん。次郎はお屋敷へ帰れないことをしてしまったんです。あの、石神堂に納めてあった<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を失くしてしまいました」

「ああ、それで」

「御隠家様の前に合せる顔がないんです」

「いいよ、いいよ。月江がお詫びをして上げるから」

「でも……」

「いいから私と一緒にお帰り」

「行かれません。次郎はどうしても、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を持たずにお屋敷へは帰れません」

「まあ、強情な次郎だこと」

果てしのない押問答。

いつまでも黙って聞いていると、湯気に上がッてしまいそうなので、万太郎が風呂から立ちますと、その音にハッとしたのか、二人はあわてて鍛冶小屋の横へ話を持って行きました。

「あれが<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の娘、月江であろう」

万太郎は戸板の隙間からチラと見えた姿にうなずいて、湯を上がりながら、洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は元尾州家の所蔵であることを告げて、幾分なりと、次郎の罪を軽くしてやろうと思いつきました。

で、急いで衣服を着け、ふたたび前の窓口から外へ<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぎ出ようとすると、そこへ、馬の金輪を鳴らして、ヒラリと鞍の上から飛び降りた者がある。

見ると<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>に、朱房のついた寒竹の<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を持ち、かなつぼ眼を光らした中年の武家で、馬から降りた途端に万太郎と顔を見合せて、互いに、疑惑の目をからみ合せましたが、ふイと向うへ歩き出して、

「やっ、お嬢様ここにおいででございましたか」

「<ruby><rb>久米之丞</rb><rt>くめのじょう</rt></ruby>様、よく見つかりましたこと」

「ひどいお方じゃ。染屋の観音へお<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りになるというて、拙者と共にお屋敷を出ながら、いつのまにか姿をおかくしなされて。……何？　次郎を連れてお帰りになる？　……お止しなさい、お止しなさい。そんな<ruby><rb>不埒者</rb><rt>ふらちもの</rt></ruby>は放ッてお置きになるがよろしい、聞けば、あの夜大事な神品を紛失したとか、不都合きわまる奴、すでに御隠家様のお耳にも<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って、<ruby><rb>放逐</rb><rt>ほうちく</rt></ruby>じゃとお怒りなされておる。そんな者を連れ戻れば、この関久米之丞までがお<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>を食わねばならぬ」

無理やりに、月江を自分の乗って来た馬上に押し上げ、自身は馬の口輪を取って、

「どうッ、どう！」

薄暮の野路をさして急ぎ出します。

次郎はションボリと取り残されて、馬の背に吹かれてゆく月江の黒髪を、<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>かずにそこで見送っている。

月江も馬上から<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、次郎の方へ、何か二声三声いったようですが、それは多分、彼を力づける慰めのことばであったことでしょう。

すると――その馬と人とが、入間川の水辺を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って次第に薄れかけて行った頃、ちょうどまた、その川べりをトボトボと辿って来た四、五人の男が、ひとつの死骸を戸板に乗せて、黙々として歩いて来るのが分ります。

「お客様、お腹がおすきなさいましたろう、さ、御飯をやっておくんなさい」

半五郎の女房のお常が、奥へ<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>や<ruby><rb>飯櫃</rb><rt>めしびつ</rt></ruby>を運んでいるところへ、外から帰ったらしい物音がしたので、

「次郎かあ？」

「おい」

「<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>をとぼしてくんな」

「おっ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>あ、何処にあるのよ行燈は？」

「<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>おめえが片づけたんじゃないか」

「ああ、油がねえよ」

「油壺はうしろの棚に乗っている。早く明りをとぼして、お客様にお給仕でもして上げな」

万太郎は膳を構えてキチンと四角に坐っておりました。

お常が煮出した茶を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐと、次郎が不器用な手で山盛りに御飯をつける。

客が<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取っている間に、また<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てのない<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の話。――万太郎はひどく空腹であったので、半ばはこの<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>びた馳走の味覚に、半ばは<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の会話に耳をかしていました。

「なあ、おっ母あ。<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>ンはどうして帰らないんだろう」

「五日や六日帰らないことは、いつでもよくあることなんだよ。お前は家に居なかったから知らないだろうけれど」

「今ね、そこを町屋の<ruby><rb>矢作</rb><rt>やさく</rt></ruby>さんが死んで通ったのを見て、おら、<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>ンのことが心配になって来た」

「死んで通ったッて<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>な話だね。死んだ人間が歩いてかい？」

「ううん。戸板に乗せられて」

「へえ」

「どうしたんだい、といって聞いたら、一ツ石の辺で、女の通り魔に殺されたんだとさ」

「女の魔もの？」

「この頃、<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の原には、女の通り魔が出るんだぜ。おっ母あはそんな話を聞いていないか」

「知らないね」

「<ruby><rb>青梅</rb><rt>おうめ</rt></ruby>の<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>さんも話していた。昨日だったか、甲州から来た飛脚屋も、その通り魔に殺されかかったという話だったよ」

「……そら、お客様が御飯じゃないか」

「おい」

と、両手を出すと、万太郎は首を振って、

「茶をくれい」

「お客さん、もうお<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しまい</rt></ruby>かね」

「うム、たいそう馳走になった」

「遠慮をしない方がいいぜ、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>ンはあんまり好くないけれど、おっ母あは、旅の人にも親切なんだぜ、もう一杯おあがんなさい」

「もう沢山じゃ。……ところで今の話だが、それは近頃の事か、それとも、前から左様なうわさがあるのか」

「いいえ、ついこの頃の噂なんです」

「して、その通り魔というのは、どんな姿をしているのじゃ」

「さあ？　……」と次郎は小首をひねッて、

「だれもそれを、側でよく見た者はねえし、おらも出会ったことがない」

万太郎が何か考えこんでいると、次郎は母親と辺りを片づけながら、まだしきりと、帰らぬ父の身を心配している。

あの心のねじけた片目の半五郎でも、次郎にとれば、またなき父親と恋われるのでしょう。町屋の<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>が戸板に乗せられて行った死骸の連想から、果ては居ても立ってもいられない様子。

<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>をよせて、針仕事にかかり初めたおふくろの側へ寄って、

「おっ母あ、おいら、行ッて見て来ようかなあ」

「何処へ？」

「何処ッて分らねえけれど、<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>ンを探しに」

「ばかなことおいい」

「なぜよ」

「夜じゃあないか」

「でも、なんだかおらあ、胸騒ぎがしてならねえ。<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>ンも今に戸板に乗せられて来るんじゃないか」

「お寝よ。そんなことをいっていないで」

「寝られないんだよ、おっ母あ」

「じゃ、お客さんとこへ行って、話の相手にでもなっているがいいじゃねえか」

「あのお客さんは、黙っている人だ」

「立派な方だね」

「この頃は妙にこの<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>小屋へ、いろんな人間がたずねて来るなあ」

――次郎は何げなく呟いたのでしたが、彼のことばは、夕方から妙に神経の<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>げている次郎の心が、微妙な感知を働かせたのかも分りません。

なぜかといえば。

その時<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>小屋の外をひそやかに歩き廻っている人間がありました。

ひとりの男の目まぜに働く四、五人の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>、それは<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく、徳川万太郎を暗殺することの<ruby><rb>籖</rb><rt>くじ</rt></ruby>を引きあてた、<ruby><rb>雲霧</rb><rt>くもきり</rt></ruby>の<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>の一組です。

万太郎は眠りについている。

疲れた手足をぐッたりとのばして、枕に目をふさぎましたが、次郎の話した奇怪な<ruby><rb>巷説</rb><rt>こうせつ</rt></ruby>が、どうもまたしきりに彼の<ruby><rb>猟奇心</rb><rt>りょうきしん</rt></ruby>を駆って、ついさまざまな空想にとらわれてなりません。

武蔵野のあちこちに出没して、<ruby><rb>行来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>の旅人をおびやかす通り魔というのが、そもそも彼には<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない。

この鍛冶小屋に泊って<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を盗み去った怪しげな女と、その通り魔と、何か一筋の糸につながるように思われて、

「ことによると、その通り魔というのがその女ではないか？」

暫くムズムズとしているうちに、洞白の仮面を取り返さねばならぬと思う一心と、その怪異な風説の正体をつかもうとする猟奇心が時刻を忘れて、

「そうだ！」

と、思わず彼をしてガバと<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きさせました。

しかし、今夜はいたく疲れています。

終日道を迷い歩いた足のくたびれや何かを顧みると、さすがの彼もまた少し二の足をふむ。

そして、思い直したらしく、

「この間からの風説といえば、何もにわかに、今夜と限ッたことはあるまい」

と、ふたたび枕を引き寄せましたが、今度こそ雑念を払って寝入ろうとするものの如く、夜具を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ろうとした身をのばして、ふッと、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の灯を吹ッ消しました。

すると、ちょうど手をついた床の辺りから、何か目に痛いような光がサッと瞳の中へ飛び込んで来たので、

「あっ」

と立ち上がッた途端に、どうでしょう、まぎれもない大刀の<ruby><rb>鋩子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>です。

まさに鋭い刃先が四、五寸、おびやかすように、ズバと目の前に突き出ているのです。と――見つめている間もなく、その冷刀の先が、ギラギラと畳の目へ消え込んでしまう。

万太郎は<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として、上の夜具を投げました。そして、それを踏んで、次の<ruby><rb>仕切戸</rb><rt>しきりど</rt></ruby>をあけて見ますと、次郎<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は仕事場のそばの床に、何も知らずに寝息をかいている様子。

次に、彼はまた、ガラリッと窓の破れ戸を押し開けました。

サッとはいる風と共に、流れ星が吹き込んで来そうな晩――

じッと耳を澄ますと、何処かをシトシトと歩く人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がするようでもあり、また気のせいかとも思いなされる。

この夜、鍛冶小屋のまわりや床下に、しきりと怪しい物音と気配があったのを、万太郎もうつらうつらと知りつつはありましたが、昼の疲れがいつかしら彼を放胆な眠りに導いて行きました。

あるいは、その疲れが倖せであったかもしれない。

もし、畳の目から顔を出した刀におびやかされて、あわてて外へでも飛び出したものなら最後、そこらの<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に手ぐすね引いていた暗殺の雲霧組の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>たちが、一時に魔手をのばして万太郎を<ruby><rb>膾斬</rb><rt>なますぎ</rt></ruby>りにしたであろう事は、あながち空想ではなかったでしょう。

だのに、怖いもの知らずの若殿は、そういう異変の予報をうけた翌日、しかも逢う魔が時という夕暮をことさらに選んで、

「べつに用もないのじゃが、退屈しのぎに、ちょッと染屋の観音まで歩いて行ってみる。帰りは遅くなるかも知れぬし、あしたの朝になるかもわからぬが、心配しないでくれるように」

こういって、鍛冶小屋を出たものです。

そして<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の迷路を四、五丁来たかと思いますと、

「お武家さーん。お武家さアーン」

と、うしろから宙を飛んで来るものがある。

たれかと思うと高麗村の次郎で、<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>の下へ駆け寄って来ると、

「おじさん、おいらも一緒に行こう」

<ruby><rb>心得顔</rb><rt>こころえがお</rt></ruby>で万太郎の先に立ち、杖のような物を横に持って歩き出しました。

その杖の先ッぽが、キラキラ光るふうなので、よく見ますと、鍛冶小屋の隅から持ち出してでも来たか、野獣を追う時に農家の者がよく使う、<ruby><rb>胆刺</rb><rt>きもざし</rt></ruby>と呼ぶ野槍であります。

## <ruby><rb>雲霧組</rb><rt>くもきりぐみ</rt></ruby>

次郎の次郎たる値打ちをまだ深く知っていない万太郎は、彼が物騒な野槍などを引ッさげて<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来たのに迷惑して、

「あ、これ。そちは何処へ行こうとするのか」

わざと訊ねますと、次郎は、

「何処へでも、おじさんの行くところへ」

と、<ruby><rb>仕澄</rb><rt>しす</rt></ruby>ましている。

「染屋の道は聞いてまいったから、もう迷うようなことはない。帰ってくれ、帰ってくれ」

「おじさん、染屋の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>へ行くつもりじゃないんだろう」

「なぜじゃ」

「<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をもって逃げた女をさがしに行く気なんだ。おいらには、おじさんの腹がちゃんと分っている」

「ウーム、それを承知いたしながら、わしに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いてまいるのか」

「おいらだッて、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を探さなければ、お嬢様のそばへ帰れない。……それに、<ruby><rb>父</rb><rt>ちゃ</rt></ruby>んの身も心配でならないんだ」

「しかし次郎、きのうも<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>に訳を話したとおり、あの品は<ruby><rb>元々</rb><rt>もともと</rt></ruby>尾州家秘蔵の拝領仮面、たとい自分の手に返っても、其方や狛家へ戻して遣わす訳にはゆかぬのだぞ」

「それは、分っています」

「ならば、そちが来ても仕方があるまい。それよりは、わしの申したことを御隠家殿に伝えて、<ruby><rb>詫</rb><rt>わび</rt></ruby>を入れた方がよかろう」

「でも、今日となっては、手ぶらでは帰れません」

「と申しても、あれは戻せぬというに」

少し鋭くいいましたが、次郎は悪びれもせず、

「はい、一緒に行って、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が返っても、自分の物でもないものをくれとはいいません。その代り、たッた一日、貸してもらいます」

「貸してくれ？」

「え、それを持って、御隠家様に事情を話せば、きッと許してくれるに違いありません。そして<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は尾州家とやらへ、必ずお返しいたします」

万太郎はこの辺のことばから、この童子の奇なることに気がつきました。彼がいうとおり、一日でも<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を貸してやれば、彼の面目も立ち<ruby><rb>狛</rb><rt>こま</rt></ruby>家への申し訳もすむというもの。

だが果たして自分の推察どおり、噂の通り魔が仮面を持つその女であってくれればいいが……。

いつかどッぷりと日が暮れる。

行けども行けども果てしのない同じ野道。次郎と話しながら歩いて来るうちに、万太郎には行く手の方角も、過ぎて来た方角も、さらに分らなくなってくる。

<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の迷路をめぐり歩いて、十方何ものも見ぬ武蔵野の真ッただ中に立ちますと、何かしら、あまりに雲をつかむような探しものに来たような心細さがないでもない。

「おじさん、少しこの辺で休もうか」

「うむ」

「ここに石がありますよ。ここへおかけなさい」

次郎は青すすきの<ruby><rb>叢</rb><rt>むら</rt></ruby>にどっかりと<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まり込んで、野槍を肩に立てました。

すると、この二人よりは半丁ほど離れて、絶えず見えがくれに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た五、六人の人影が、それと見ると、送り狼のように立ち止まって、何かヒソヒソとささやいている。

「二手になれ」

こういったのは<ruby><rb>雲霧</rb><rt>くもきり</rt></ruby>の<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>で、

「おれが合図をするまで消えていろ。いいか、なるべく近づいて息を殺しているんだ」

<ruby><rb>合点</rb><rt>がってん</rt></ruby>という風に、六人の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>が道の両側に分れたかと思うと、まだ短い青すすきの中を、這うようにして少しずつ近寄って行く。

<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>とした野と空をながめて、次郎と万太郎がしばらく黙し合っているところへ、忽然と、<ruby><rb>背丈</rb><rt>せい</rt></ruby>の小づくりな一人の男が、風に吹き送られて来たように、目の前に立って小腰をかがめて、

「ちょッとお伺い申しますが」

と、笠を取って申しますことには、

「――もしや<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>様は、尾州家の若殿万太郎様ではございませんか」

と、いんぎんな言葉ではありますが、その鋭い眼ざしに驚いて、次郎は少し野槍の手を動かしかける。

見知らぬ町人、不審と感じながら万太郎は、ふと、ゆうべの<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>を思いうかべて、

「そちは、たれか！」

と、油断のない気構え。

男はさらに悪びれないで、

「へい、手前は日本左衛門の手下、雲霧の仁三でございます」

「なにッ？」

立とうとするのを、笠で制して、

「ま、お待ち下さいまし。万太郎様、もう駄目でございます」

「だまれ、何が駄目？」

「お命をもらいにまいりました。実は、ゆうべ早速と存じましたが、ちと<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>のわるい事があって今夜にのばしておきましたところを、ようこそ、こういう場所までわざわざおいで下さいました。雲霧、お礼を申し上げます」

「わしの命を取りに来たと？」

「はい、親分のいいつけで」

「やらなかったら何とする？」

「だから前もって、駄目だとお断りしてございます。<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>のうしろに三人、わっしのうしろに三人、支度をして合図を待っておりやすからね。……多分、駄目だろうと存じますンで」

「ウーム、さては汝ら、かねてのことを遺恨にふくんで、この万太郎を<ruby><rb>殺</rb><rt>あや</rt></ruby>めんとして参ったか」

「大体そんなものでございますが、また、そんな簡単な<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>からでもございません。どうせ只今限り、<ruby><rb>野晒</rb><rt>のざら</rt></ruby>しとなるお身の上、かいつまんで<ruby><rb>回向</rb><rt>えこう</rt></ruby>がわりにお話し致してしまいましょう。実はなんで……」

と、雲霧の仁三の物腰は、少しも人を殺そうとする前のようでないから一層気味が悪い。

「御承知の夜光の短刀。――あれは親分がぜひ手に入れる段取になっております。ところで、その秘密を知ってウロウロしている人間達が、親分の目にはまことに邪魔でいけません。まず第一に<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>様、釘勘という野郎、お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>という<ruby><rb>阿女</rb><rt>あま</rt></ruby>、お蝶という女……みんな<ruby><rb>籖引</rb><rt>くじびき</rt></ruby>で、こちとらの仲間が、それぞれ片づけることになっております。そうそう、その中にはまだ<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>というやつもいる」

万太郎は髪の毛のそそけ立つような<ruby><rb>脅迫感</rb><rt>きょうはくかん</rt></ruby>をうけました。

前後に暗くそよぐ風も、今は、いつ身をのぞんで来るかわからない白刃が思われまして、さすが自負自尊の念の強い若殿も、そのたびごとに思わず四肢の筋がビクッとするのをいなみ得ません。

次郎も驚いたことでしょう。けだし、次郎の驚きはさまざまであります。

自分の家の、あのきたない<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>小屋に泊まって寝た、見ず知らずのおじさんが、彼には雲上の人間のように思われる尾州家の若殿であると知ったのもその一つなら、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>の湯場で見知っている<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>の名を、偶然ここで、雲霧の口から聞いたのも驚きの一つ。

驚きながら<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の次郎は、いつのまにかそろそろと<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>から腰を離していました。彼の判断は単純で明快です。世の中の人間を、いい人間と悪い奴との二色に分けている次郎は、直ちに、万太郎をいい方、雲霧を悪い方と鑑別して、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>のような眼玉を剥き、

（この野郎！）

いざといわば、持って構えている<ruby><rb>胆剌</rb><rt>きもざし</rt></ruby>の先で、雲霧の横っ腹を突ッとおしてやろうという物騒な態度に見える。

暗殺といえば不意打ちを原則としているようですが、この場合は違っている。

貴様の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をもらうぞ！　とあらかじめ予告しておいて相手の度胆を奪い、その上で仕事にかかろうという行き方は、雲霧一流の<ruby><rb>殺生</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>の手と見えます。

そして、ふッと話の切れた途端に、かえって万太郎の方から不意をねらッて雲霧に斬りつけましたが、<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て殊さらに、お前を殺すぞと断って出て来た男に、うかつな油断のあるはずはなく、彼の抜き打ちは立派に<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を斬っている。

「それッ」

というと雲霧の仁三、持ったる笠を投げ上げました。

笠はクルルッと<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>の如く廻りながら、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に一文字を描きましたが、その笠の地に落ちても来ないうちに、

ひゅう！　ひゅッ……う！

何が唸ッたものやら分りません。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いていえばそこらの草がにわかに声をしゃくッて泣いたような音、――でなければ<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>をなぐりつけて行ッた一陣の風。

――と同時に万太郎、タタタタッと駆け廻りながら、狼に似た六人の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>を相手に、滅茶苦茶に刀を振ッて振ッて振りまわしている。

彼もいわゆる詩歌<ruby><rb>管絃</rb><rt>かんげん</rt></ruby>式な<ruby><rb>大名</rb><rt>だいみょう</rt></ruby>の子ではありませんから、たとえ御指南番仕込みの剣法といえ、まあ武芸といえる程度のことくらいは心得ています。刀の<ruby><rb>峰</rb><rt>みね</rt></ruby>も刃もかまわず、ぶつかり放題、棒のようにそれを振り廻すほど修業がないわけではありません。

けれど、法は法を知る相手によってこそ行われるので、法もヘチマもない敵に向っては、構えをとり気息を正し、青眼兵字構えなどの組太刀の型どおりを、そのままやっているわけには行かない。しかも相手は<ruby><rb>野鼠</rb><rt>のねずみ</rt></ruby>のように素ばやい奴、兇器もことさら短刀を持って、いきなり飛びついて来たのですから。

で――万太郎がこの際、御指南番流の法を捨てて、刀の峰であろうと<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>であろうと構わない、飛び出して来たやつを、盲なぐりに叩き払ったのは、すこぶる当を得たる護身の機智でありました。

しかし一方も、多少あばれることは覚悟の上なので、彼の前後にからんで、組んず倒れつ、何処か体の一ヵ所穴をあけてしまえばしめたものと、必死に六本の短刀がおどる。

万太郎には、相手の兇器が短刀であるのが致命的な苦闘でした。これが、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>脇差でかかって来たならば、彼等同士、相当な間隔を保って来なければならないので、そこに変化のつけようもあるが、短刀と短刀では全然同志討ちのおそれがないので、片手にそれを持ちながら、手足に組みついて来るやつには、ほとんど手の下しようがありません。

そのうちに――

雲霧組の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の短刀が、遂に万太郎の体のどこかへ、その兇器を突きとおしたものか、腰かけていた石を<ruby><rb>距</rb><rt>さ</rt></ruby>ること十四、五<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>まで行ッたところで、

「あッ」

と、万太郎のただならぬ声です。

そして、彼の体がズデンと草の中に倒れましたから、雲霧の仁三は駆け出しながら、

「うム、<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ったな！」

と、<ruby><rb>快</rb><rt>かい</rt></ruby>を発して叫びました。

それをまた、それと同時に、怒髪を<ruby><rb>逆立</rb><rt>さかだ</rt></ruby>って追いかけた次郎が、

「こん畜生ッ」

とばかり、<ruby><rb>猪</rb><rt>いのしし</rt></ruby>を追うように、いきなり野槍の穂を向けて、雲霧の足元をサッと見舞う。

「この餓鬼め！　帰れ」

はッたと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み捨てにして、雲霧はそのまま走り出そうとしましたが、睨まれて帰ったり泣き出すような子供ではない高麗村の次郎、

「何をッ」

前へ駆け廻るが早いか、目を射て来た野槍の光が、顔へと思わせて胸板へブンともひとつ。

あぶなく<ruby><rb>串刺</rb><rt>くしざ</rt></ruby>しになるところを、あッと踏み<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた雲霧は、この時初めて、勘定に入れなかったこのチビが<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>い<ruby><rb>厄介者</rb><rt>やっかいもの</rt></ruby>であったのに気が着いて、

「野郎――ッ」

奮然と野太い声をあげたかと思いますと、紺の<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby>を銀ごしらえの脇差の柄へガツンと乗せて、

「てめえも殺してもらいたいのか」

と、ギリギリと体の向きを変えてきました。

ですが、それは<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かしです。わざと作って見せた<ruby><rb>権幕</rb><rt>けんまく</rt></ruby>です。雲霧のあたまには、まだ何処かに相手が子供だという念がありますから、野槍を持って<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>ッてきても、それを憤然とたたッ斬る程の<ruby><rb>大人気</rb><rt>おとなげ</rt></ruby>ない<ruby><rb>敵愾心</rb><rt>てきがいしん</rt></ruby>は湧いてこない。

のみならず、次郎が歯がみをしてムキになってくると、かえってクッと<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>くさえなって、とてもこのチビを斬る力は出そうもありません。

――といって、なかなか味をやるので、<ruby><rb>放</rb><rt>ほう</rt></ruby>っても置けず、うっかりしてもいられない。

「この餓鬼め！」

彼はもう一度すごい形相を作って見せながら、

「<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>けッ。退かねえと<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ッた斬るぞ」

次郎はビクともするひまもなく、

「なにッ」

と、<ruby><rb>胆刺</rb><rt>きもざし</rt></ruby>の光をよじらせる。

「帰れ、小僧」

「くそうッ、だれが」

「斬られたいか、この刀が目に見えねえか」

「おいらの槍がわからねえか」

「ちッ……」

ここに至って、雲霧も、この足手まといを、どうにかしなければならなくなりました。

否、どうにかしなければならない機会は、また別の方からも起って来ている。――というのは折悪くちょうどその時、一方の道から<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>や<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>を分けて、

じゃらん、じゃらん、じゃらん……

数頭の馬の鈴、賑やかな話し声、そして八王子組の<ruby><rb>駅伝問屋</rb><rt>えきでんといや</rt></ruby>の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が七ツ八ツ。

――雲霧はいきなり次郎の手元へ飛びつき、かれの襟がみを引ッつかみました。次郎の<ruby><rb>胆刺</rb><rt>きもざし</rt></ruby>は二度三度<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を突いて、雲霧の左の小脇に抱え込まれる。

<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られまいとして、次郎が必死の力を野槍の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>にしぼッた途端、五臓のちぢみ上がるような声と一緒に、次郎の体は雲霧の肩に乗せられて、いやという程投げつけられました。

だが――不覚はかえって雲霧の方にありました。なぜといえば、彼が無造作に次郎を鷲づかみに取って役げた刹那、投げられた次郎もウンといって気を失ったが、投げた雲霧もその<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、

「あっ」

と叫んだまま眼が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けません。

そして、ぶッと唇の血を吹きながら、二度首を振りうごかした様子。見ると、満顔<ruby><rb>血汐</rb><rt>ちしお</rt></ruby>の<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>に染まっています。

じゃらん！　じゃらん！

<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>を組んで歩く夜旅の人の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>が、鈴や話し声に景気をつけて、もうそこらまで来たらしいが、何しろ雲霧は目が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けない。

次郎の体を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ッて投げた途端に、あの<ruby><rb>胆刺</rb><rt>きもざし</rt></ruby>の鋭い<ruby><rb>穂先</rb><rt>ほさき</rt></ruby>が顔面のどこかを機敏に突いたか掠ッたかしたものと思われますが、何しろ雲霧は目が開けない。

彼は狼狽しながらも、一方の万太郎の方は首尾よくいったものと信じていましたから、指の間からしたたる血汐に着物の前を染めつつ、両手で顔を抑えたまま、<ruby><rb>盲滅法</rb><rt>めくらめっぽう</rt></ruby>、武蔵野の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>を方角もつけずに走り去りました。

「出た！」

「出たぞ――通り魔が」

と、そこで立ち騒いだ八王子組の<ruby><rb>駅伝人足</rb><rt>えきでんにんそく</rt></ruby>が、わッと逃げ腰になろうとすると、

「逃げて行ったじゃないか、<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>か何かにちがいないよ。こッちだってこれだけの人数がいるのだから、何も驚くことはありゃあしない」

数頭の小荷駄の間にはさまって、道中馬の背に横乗りになっていた手ぬぐい<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りの一人の女が、大の男どもの<ruby><rb>小胆</rb><rt>しょうたん</rt></ruby>な慌てざまを制しました。

そういわれて落着いた面々が、<ruby><rb>問屋場提灯</rb><rt>といやばちょうちん</rt></ruby>の明りをかざし合って、

「おう、棒を持った小僧が死んでいる」

「死んでいるのではない、気を失っているんだ、気絶しているんだ」

「血がついているじゃねえか、この棒に」

「あっ野槍だ」

「何しろ早くどうかしてやらなくッちゃ……」

などと口々にいって、ある者は荷駄から飛び下り、ある者は<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>をぬぎ、馬子や人足はその人々に持合せの気付け薬はないかと聞き回っている。

それはその連中に任せておいて、手ぬぐい冠りのあだッぽい女は、細口の<ruby><rb>女煙管</rb><rt>おんなぎせる</rt></ruby>とたばこ入を帯の間から取り出して、馬の背に横乗りになったまま、どれ一服という姿に見えます。

この旅人や小荷駄の一行は、その日の昼、八王子の宿を出て、今夜の<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>ごろまでに、川越の城下へ行き着こうとするものです。

どうも近頃、<ruby><rb>入間</rb><rt>いるま</rt></ruby>川から<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の原付近で、とかく物騒なうわさが絶えないというので、夜旅をかけて武蔵野を横ぎる場合は、<ruby><rb>立場問屋</rb><rt>たてばといや</rt></ruby>で<ruby><rb>出立</rb><rt>しゅったつ</rt></ruby>の時刻をさだめ、同じ方角へ向うものが一団となって群旅するのが慣例となっている。

そこで、この一行も<ruby><rb>同行異体</rb><rt>どうぎょういたい</rt></ruby>の集まりです。

中仙道の川口方面へ出るという<ruby><rb>鋳物商人</rb><rt>いものあきんど</rt></ruby>、大宮へ行くという<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>買いの男、野田<ruby><rb>粕壁</rb><rt>かすかべ</rt></ruby>地方へ所用でゆく人々、六部、煙草売り、雑多な者の姿が見える。

中で一番あたま数の多い一組は、五日市から八王子を三日ほど興行して、これから中仙道を打ちに廻ろうという旅役者。

それとて、役者らしく見える者はわずか四、五人で、<ruby><rb>揚羽蝶</rb><rt>あげはのちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>の紋がはげ落ちた衣裳つづらが荷駄の背に二つばかり、小道具と木戸役らしい男が二人、そして馬の背中の荷物の間にはさまっている<ruby><rb>艶</rb><rt>あだ</rt></ruby>ッぽい女と。

その<ruby><rb>婀娜女</rb><rt>あだもの</rt></ruby>が、涼しい顔をしている間に、馬子や旅人たちは、寄ッてたかッて、次郎に<ruby><rb>気付薬</rb><rt>きつけぐすり</rt></ruby>を与え、オ――イ、オ――イ、と呼ぶこと二、三度でありました。

ふッと気がつくと、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎は、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔をして、幾つもの灯と人と馬の顔を見廻している。

「気がついたか」

「有難う……」

「どうしたんだい、お前は」

「悪い奴にいじめられて、あぶなく殺されるところだったんだ。おいらは、死んだのじゃなかったのかしら」

「人に聞くやつがあるものか。立派に助かっているじゃないか」

「そうだね」

「お前は何処の者だい。これから先だって、一人で帰るのは物騒だよ」

「あっ……」

やがて、身を吹く風を覚えると、次郎は万太郎の身の上を思い出して、足元の野槍を拾い取るや否、この一同を指揮するように手を挙げて、

「みんな、探しておくれよ！　探して！　おいらのほかにもう一人連れが居たんだ、その連れが生きたか死んだか分らない」

<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>になって駆け出すと、

「えっ、まだ居たのか」

と驚いた人々が、提灯を振り廻しつつ、さながら、次郎の手足の如くになって<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あちらこちら</rt></ruby>を探しはじめました。

そのうちに、遠からぬところで、一人が何か<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声で叫ぶと、期せずして、この一団がそこへ移って行きました。

見つかったのは<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>にまみれた万太郎の姿。

斬られています。

左腕にかすり傷、肩に突き傷、ほかにもあるらしいが何しろ衣服も血みどろで裸体にしてみなければ判明しない。

「息を見ろ、息をよ」

と、だれか罵るようにいう。

「息はある」

抱き起した者がうしろへ叫ぶ。

「それじゃ捨てても置けないから、何処か医者の所へ」

「医者といったッて、この原じゃあ……」

「血止めだけして、乗せてゆくのよ」

「川越の城下までもつかしら」

「もたなかッたら、それまでの寿命とあきらめてもらうより<ruby><rb>仕様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がない」

てんやわんやの<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>療法で、どうやら出血だけは防ぎましたので、それを一人が荷駄の背なかに抱え、また気味のよくない夜旅がつづきました。

行くこと半里ばかり、一軒の灯を見ますと、次郎はその家へ飛びこんで、また野槍をさげながら出て来ました。

「今のは、お前の家かね」

一行の者が、たずねると、首を振って、

「ううん、おいらの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>じゃない、知ってる家だ」

「おまえの家は」

「<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の北だから、もっと、ずッと向うの道だよ」

「じゃ、みんなと別れて、早く帰ったらいいじゃないか」

「あの小父さんがどうなるか分らないのに、おいら一人で帰れるもんか。今そこの家へ、おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>が心配しないように、<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>を頼んで来たから大丈夫だよ」

こういいながら、馬と人の間にはさまって歩いてゆく。

その馬の背中から振り向いた女の目は、最前から頻りと次郎に注意している様子でした。

熱海の湯場で永らく一つ宿に泊まり合せていた記憶を、女の方は、あるいは思い出していたでしょう。しかし、次郎はその手ぬぐい<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りの女が、あの隠居藤屋の奥にいた、丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>であるとはちッとも気がついていない。

<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ道の石が教えるところでは、<ruby><rb>川越</rb><rt>かわごえ</rt></ruby>の城下までまだ、これより三里半。

死ぬか生きるかわからない虫の息の<ruby><rb>怪我人</rb><rt>けがにん</rt></ruby>をこの一行に交じえたので、一同の足なみも何となくしめやかに、馬子が<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>自慢の<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>も出ません。

＊　　　＊　　　＊

ここは徳川家の<ruby><rb>親屏</rb><rt>しんぺい</rt></ruby>、<ruby><rb>秋元但馬守</rb><rt>あきもとたじまのかみ</rt></ruby>が城主としてすわっている所です。城の<ruby><rb>塁濠</rb><rt>るいごう</rt></ruby>は<ruby><rb>方</rb><rt>ほう</rt></ruby>六町、市街の<ruby><rb>橋梁</rb><rt>きょうりょう</rt></ruby><ruby><rb>巷路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>とあわせて、多くは前の城主松平伊豆守の<ruby><rb>繩取</rb><rt>なわとり</rt></ruby>によるとか、織物<ruby><rb>農穀</rb><rt>のうこく</rt></ruby>の産業もゆたかで、川越の城下の繁昌はなかなかであります。

そこの<ruby><rb>唐人小路</rb><rt>とうじんこうじ</rt></ruby>の空地に、手ッ取り早い丸太組みの掛小屋が出来かかっている。

「御当地<ruby><rb>初御目見得</rb><rt>はつおめみえ</rt></ruby>、長崎流<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>廻し<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>、近日、<ruby><rb>賑々</rb><rt>にぎにぎ</rt></ruby>しく小屋びらき<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつり</rt></ruby>り<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>」

こんなビラが掛小屋の付近に目につく。

けれど、小屋組みが出来ても、一<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>表の飾りもつかず、ビラの文字が雨のふるたび流れてゆくのに、いつ<ruby><rb>賑々</rb><rt>にぎにぎ</rt></ruby>しく木戸が開くのか、こいつもおおかた幽霊だぜ、と通りがかりの職人などが笑っていました。

## 楽屋<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>

同じ<ruby><rb>唐人小路</rb><rt>とうじんこうじ</rt></ruby>の裏通りに、時々、いかものを小屋にかける<ruby><rb>興行元</rb><rt>こうぎょうもと</rt></ruby>の親方が住んでいる。

そこのいかもの部屋に、この間うちからゴロゴロしている一組は、<ruby><rb>厚木</rb><rt>あつぎ</rt></ruby>を焼け出されて以来、五日市、八王子の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>と流れあるいて来た御難つづきの旅役者の一<ruby><rb>行</rb><rt>こう</rt></ruby>です。

そこに、例のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>も落着いていました。

<ruby><rb>丹頂</rb><rt>たんちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>も、元を思えば、近頃はまったく<ruby><rb>尾羽</rb><rt>おは</rt></ruby>を<ruby><rb>打</rb><rt>う</rt></ruby>ち枯らしたものです。<ruby><rb>藍気</rb><rt>あいけ</rt></ruby>のさめた<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>にさえ<ruby><rb>襟垢</rb><rt>えりあか</rt></ruby>をつけている旅役者の残党に交じって、<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の稽古をやらなければならない境遇。

腹では涙をこぼしているかも知れません。

「どうだいお粂さん、少しゃあ板について来たかい」

こういって、時々部屋へ様子を見に来るのは、でっぷりした興行元です。

「まだどうもねえ……」

「うまくいかないのかい」

「不器ッちょだからなかなか覚えきれないんですよ」

と、お粂は気がくさるように、<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を丸めて投げ出しました。

「師匠の教え方がいけねえんだろう、どうせ見物の目をごまかす<ruby><rb>仕掛独楽</rb><rt>しかけごま</rt></ruby>だのに、そうむずかしいことはねえ。どれ、廻してみねえ」

「まだ<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>流しがうまく行かないんでね」

「衣紋流しだの吹上げが出来りゃあ、独楽廻し一人前だ。前芸に<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>の峰づたい、針金渡し、それに何かちょッとしたものが出来りゃ沢山だ、それで後は連中の持ち合せの芸当と鳴物で<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し立てりゃあ、なアに、木戸の<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かないことはないさ。どうだろう<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>でも」

「え、明日から小屋を打つんですか」

「ビラばかり景気よくはり出してあるんでどうも世間ていが持ち切れない。慾をいわないで、ひとつ明日から<ruby><rb>舞台</rb><rt>いた</rt></ruby>に立って見るさ。……<ruby><rb>太夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>の衣裳や支度はあっしの方で工面しておいたから」

と、興行元はそこらに居合す者へも、それぞれ何かいいふくめて、空き地の小屋へ出掛けてゆきました。

「困ったねえ……」

と、お粂は板の間へペッタリすわって膝の前に仕掛<ruby><rb>独楽</rb><rt>ごま</rt></ruby>を、つくづく妙な気持で見ました。

もし、独楽が人間だったなら、

（お前とわたしと、どうしてこんな縁になって、こんな家の板の間に、さし向いになるようになったんだい？）

と、聞いて見たいような気持です。

で、考えてみると、そもそもこうなる初まりが、熱海を去ッた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、一時の寄るべに窮して、江戸にいたころ<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>にしていた染之助一座の<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>を見かけ、その<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>へ身を頼って旅を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩いたのが因縁でありました。

でも、一座が厚木を打っていた時分は、曲りなりにも、岩井染之助一座という看板がありましたが、あれからが一座の災難とお粂の災難。

飛んだ火事騒ぎから<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざがしら</rt></ruby>の染之助や<ruby><rb>女形</rb><rt>おやま</rt></ruby>の<ruby><rb>袖崎市弥</rb><rt>そでざきいちや</rt></ruby>などが天領役所へ引ッぱってゆかれてしまうし、なけなしの衣裳小道具もだいぶ焼いたし、<ruby><rb>眉毛</rb><rt>まゆげ</rt></ruby>のない残党どもと、とぼとぼ落ちてゆきましたが、あとに残った御同役組では、いかな草深い<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>小屋でも、とても芝居にはなりません。

でも無理に、五日市や八王子で、<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>なお<ruby><rb>道化</rb><rt>どうけ</rt></ruby>を三、四日売ってみましたが、予期どおりな悪評で、さんざんなていたらく。

そこでまた、見切りをつけた者が、持ち逃げ着逃げをして三、四人一座を抜け、あとに残ったのは、逃げても食えない、居ても食えない連中ばかり。

その結果、<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>つづらを荷駄にのせて、八王子からこの川越へ、夜逃げ同様に落ちてきたわけでありますが、頼って来たこのいかもの部屋でも、この一行には恐れ入ッて、

「とても、これじゃあ」

と相談にならない。

ところで、興行元は興行元の目があるといえましょう。役者でないお粂の<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>に目をつけて、

「お前さんが看板になれば、確かに、一枚で売れるがなあ」

と、おだて上げました。

でも、<ruby><rb>頭数</rb><rt>あたまかず</rt></ruby>が足らない、衣裳もない、というので興行元の発案が、ここに岩井一座の残党の名をぬりつぶして、<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>廻し<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>の新看板、これで行こうという方針です。

腹のひもじそうな連中から、<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>姐御とすがられると、お粂もこの周囲の人間を、何とか食べさせてゆきたいと考えるし、自分の身も今はどこへというあてのない境遇なので、これはひとつ、<ruby><rb>浅黄繻子</rb><rt>あさぎじゅす</rt></ruby>の<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>に<ruby><rb>厚化粧</rb><rt>あつげしょう</rt></ruby>をした嵐粂吉になってみるのも面白いかも知れない。

――<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>がもし人間だったら、お粂が心できいてる問いに、そも馴れそめのいきさつを、右の如く答えたでしょう。

一夜づくりの<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の太夫が、とにかく明日から見物にお目見得というので、永らくシケを食って<ruby><rb>粉煙草</rb><rt>こなたばこ</rt></ruby>にさえ<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いていた一座の者ども、さあ、これで一つ大入りを取ってと、にわかに元気づいてのテンテコ舞い、浅ましいほど働きます。

どうやら生業にありついている間は、遊びたいが一願の人間も、いったん生活の<ruby><rb>干潟</rb><rt>ひがた</rt></ruby>にほし上がって永い遊びがつづき出すと、彼自身は寝て暮らす根気があっても、<ruby><rb>旺盛</rb><rt>おうせい</rt></ruby>な胃液がやたらに溶かすものを求めて、遂には、仕事がしたい仕事がしたいと、寝言にまでいいだしてくる。

そんな、あんばいで。

岩井染之助の看板を嵐粂吉一座と塗りかえて浮かび上がった連中の顔つきを見ると、お粂も悪い気持はしません。

そこへ衣裳屋の使いが来て、

「太夫さん、これでお気に召しましょうか」

と、風呂敷をひろげました。

縫い上がって来たのを見ると、けばけばしい、小袖と、その上になる<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>に<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>は、おあつらえの<ruby><rb>浅黄繻子</rb><rt>あさぎじゅす</rt></ruby>に金糸の<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>い紋です。

「何しろ急ぎましたので。はい。今もこちらの太夫元が来て、すぐお目にかけておけというので、まだすッかり上がっておりませんが、ちょっと持ってまいりました」

「これを私が着るのかい」

使いは変な顔をして、

「左様でございましょうと思いますが……」

「<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>だねエ」

「舞台でござんすもの」

「気まりが悪いよ、こんな年をして」

「御冗談ばッかり。……それから紋でございますが、御相談なしに、<ruby><rb>揚羽蝶</rb><rt>あげはのちょう</rt></ruby>としておきましたが」

「あ、それは<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>の羽にかえてもらいたいね」

「鷹の羽ですッて」

「いけないかえ？」

衣裳屋は吹き出しそうになって、

「太夫さんが鷹の羽はヘンでげしょう。お侍か何ぞのようで、どうにも、うつりが悪うございますよ。蝶がいけなければ、<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>ね<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>か鶴の丸、<ruby><rb>桔梗菱</rb><rt>ききょうびし</rt></ruby>なんぞは、お嫌いでございますかな」

「やっぱり鷹の羽にして欲しいんだがね」

「へえ。ははあ。さては……でございますね。成程、それじゃぜひ鷹の羽でなけりゃあいけますまい、だが、まさか浅野<ruby><rb>内匠頭</rb><rt>たくみのかみ</rt></ruby>のとおりでも困りますから、何とか鷹の羽をくずして優しくして置きましょう」

衣裳屋の使いが帰ると、入れ代りに<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>が来る。お粂もなかなか多忙です。

その髪でも、お粂の気持と<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>の注文が合わないで一もめもめました。お粂としては<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>返しか松葉くずしにでも渋く結うつもりでいたのが、髪結は反対して、

「それじゃ、まるで年増に見えてしまいます、<ruby><rb>浅黄繻子</rb><rt>あさぎじゅす</rt></ruby>や濃い化粧にうつりよくするにゃ、どうしても、こう来なくッちゃなりません」

と呑みこんで、<ruby><rb>唐人髷</rb><rt>とうじんまげ</rt></ruby>に色ざんざらをたッぷりと掛け、<ruby><rb>髱</rb><rt>たぼ</rt></ruby>をねり油で仕上げました。

十七、八の娘のようになった自分の首を鏡にうつして、お粂は、<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>くもあり、何となく気恥かしくもある。

そして、

「あの……髪結さん」

と、帰ろうとする男を呼び<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めて、

「お前さん、これから南町へ廻るといったね」

「へい」

「南町に小川玄堂というお医者があるだろう」

「へ、ございます。<ruby><rb>金創</rb><rt>きんそう</rt></ruby>にかけては、川越で一番という方で、御城主の秋元様からもお<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>があるくらいな上手なんだそうで」

「そこへ、お前さん、ちょッと<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>を頼まれておくれでないか」

「へえ、玄堂先生にてすか」

「なあに、お医者の家に居る者にだよ。……実は、私が八王子から川越に来る途中で、ひとりの怪我人があって、それを大勢で助けて来てあげたんだけれど、だれも旅先だし、私も落着き先が当てにならない矢先だったので、とにかく医者の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ持って行って、<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>おうなく、預けてしまったというわけさ」

「なるほど」

「その<ruby><rb>怪我人</rb><rt>けがにん</rt></ruby>に、たしか、次郎という子供が世話についている」

「へい」

「その次郎という子に、<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>をしてもらいたいのさ」

「お<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い御用でございます。……で、何と申しますんで」

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>からこの唐人小路に小屋が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>くから、怪我人の容体がよくなったら、ぜひ見物に来て、楽屋へも遊びに来ておくれッて。……そういってくれれば<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>わかるよ、それでも分らないようだったら、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>に居たお粂さんからだといっておくれ」

## 七男坊

<ruby><rb>川越城</rb><rt>かわごえじょう</rt></ruby>の本丸で、領主の秋元但馬守<ruby><rb>涼朝</rb><rt>すけとも</rt></ruby>が、

「ほウ。……あの尾州家の七男坊がか？」

と、鼻をつまみ上げられたように、脇息から顔を上げて驚いていました。

お話相手は、お扶持医者の小川玄堂で、

「いや、手前も、こんなに驚いたことはかつてございません」

と、その驚き具合の顔を白扇であおいでいる。

「で、玄堂」

「は」

「いつの事じゃ、一体それは」

「もう十日あまりの<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>なのでございます。何者か門をたたく、大勢の声でガヤガヤと騒ぐ、そこで出て見ますと、その<ruby><rb>怪我人</rb><rt>けがにん</rt></ruby>をかつぎ込んでまいりましたので。は。申すまでもなく、医は仁術、ことに御領主様のお扶持をいただき<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>安穏に暮しております玄堂、捨ててはおけません。早速傷をあらためました」

「む」

「金創三ヵ所、<ruby><rb>匕首傷</rb><rt>あいくちきず</rt></ruby>でございます、これはいかん、初めはそう思いました、刀傷よりも短刀の突き傷は加療のかなわぬ場合が多うございます」

「そうじゃろう」

「ところが、よいあんばい、一ツの突き傷は浅く、一ヵ所はかすり傷の程度でございます。ただ出血おびただしく、そのため昏倒していたものと診断して、手当を加えますと、果たして、結果はまことに上乗で、まあ半月も過ぎましたら元の体となることは<ruby><rb>請合</rb><rt>うけあ</rt></ruby>い。――と申しましたが、怪しからん話で、夜半怪我人をかつぎこんで来た者どもは、その時いつのまにやら、ひとり残らず立ち去っております」

「ほう、置いてきぼりか」

「左様な次第で」

「<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>な奴どもではある」

「しかし、あとで話を承ると、それは<ruby><rb>当</rb><rt>とう</rt></ruby>の怪我人と何らの縁故なき旅人どもであったそうで、あとに残って付添うているのは、まだ年の<ruby><rb>少</rb><rt>わか</rt></ruby>い次郎とよぶ<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>ひとりでございます」

「ウム、その<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>から、素性を聞いて、初めて驚いたと申すのじゃな」

「御明察の通りにございます。彼――次郎が申しますには、このお方は、徳川万太郎とおっしゃる御身分の高い人、もし療治の届かぬ時には大変なことになる、どうか、そのつもりで充分に――などといい出してまいりました。しかし実を白状いたしますと、この玄堂も、初めは一笑に付していたのでございます。ところが、日を追うにつれて、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>に御所持の刀や印籠などに目をつけますと、まぎれもない尾張中将様の三ツ葉<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>、ことに隠されぬ御人品は、まことに疑う余地なき御三家のお血筋とお見上げ申しました。で、どうも、にわかに驚き入って、<ruby><rb>恐懼</rb><rt>きょうく</rt></ruby><ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>の措く所も知らずという有様、実以て、御処置に当惑いたしました」

「なるほど、それで、相談にまいったか」

「捨てては置けぬ儀と、御内聞までに」

「あの万太郎と来ては、尾張殿も持てあまされている<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>息子と聞いておるが、御三家の一子、知らぬふりをしているわけにもまいるまいな」

「後日のたたりこそ恐るべしでございます」

「飛んだ厄介者が領内へ飛びこんで来たものじゃ。どうしようかの、玄堂」

「弱り入った次第でござります」

「おやじの中将へ申し<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わして引取らそうか」

「なかなかそんなお計らいで自由になるお方ではございますまい」

「それも、そうか」

と、<ruby><rb>涼朝</rb><rt>すけとも</rt></ruby>は考え込んで、

「では、たれぞ重役どもを迎えにやろう」

「御城内へお連れ申し上げますか」

「いやいや、ああいう<ruby><rb>放埒者</rb><rt>ほうらつもの</rt></ruby>に、ここまでやって来られてはかなわん、重役どもの屋敷に一時とめておいて、わざと、<ruby><rb>慇懃鄭重</rb><rt>いんぎんていちょう</rt></ruby>に扱っておけば、そのうちに窮屈がって、向うから逃げ出すじゃろう」

「御名案」

「早速に呼べ」

「どなた様に、この御大役をお願いいたしましょうや？」

「そうじゃの、万太郎の窮屈がるような者といえば……ウム、家老の<ruby><rb>曾根権太夫</rb><rt>そねごんだゆう</rt></ruby>、あれを<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろう、あれを迎えにやって、しばらくの間、曾根の屋敷で預かって置くように申すがよい」

お<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>医者の小川玄堂は、その足で直ぐに、城下の上屋敷に老臣の曾根権太夫を訪れていました。

殿からのいいつけを聞くと、権太夫は、

「なに、尾張中将様の御一子万太郎<ruby><rb>君</rb><rt>ぎみ</rt></ruby>がそちの家に？　そりゃ<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>なことじゃ、万が一、お粗相でもあっては、お家の一大事」

とばかり、<ruby><rb>蒼惶</rb><rt>そうこう</rt></ruby>として<ruby><rb>供揃</rb><rt>ともぞろ</rt></ruby>いの用意をさせ、玄堂を案内に、自身は<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>で、一挺の<ruby><rb>塗駕</rb><rt>ぬりかご</rt></ruby>を清掃して早々迎えに出向く。

やがて、南町の小川玄堂の宅。

お扶持だけでは過ごしてゆけず、町医だけでも立ってゆかず、両天をかけてどうやら<ruby><rb>雀羅</rb><rt>じゃくら</rt></ruby>だけを張らないでいる外科医者の門前に、<ruby><rb>糊目</rb><rt>のりめ</rt></ruby>正しい<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>の<ruby><rb>供侍</rb><rt>ともざむらい</rt></ruby>がズラリと<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まったところはまことに奇観です。

「玄堂」

「はっ」

「若殿はおいでの御様子か」

「おられるようでございます」

「但馬守<ruby><rb>涼朝</rb><rt>すけとも</rt></ruby>の老職、曾根権太夫がお迎えに参ったと<ruby><rb>御前体</rb><rt>ごぜんてい</rt></ruby>よしなにお<ruby><rb>取次</rb><rt>とりつぎ</rt></ruby>いたしてくれ。わしはここに控えておる」

権太夫、そういって、<ruby><rb>薬種</rb><rt>くすり</rt></ruby>くさい一室の隅にしゃちこ張っている。

「では、暫時これにて」

「わしはかまわん、若殿の方に、くれぐれお粗相があってはならぬ」

「只今、御意を伺ってまいります」

と、玄堂はおそるおそる奥へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行った様子です。

書斎、薬室、寝間、すべてを兼ねた玄堂の居間とみえる奥の一間に、徳川万太郎はそこの机や<ruby><rb>薬研</rb><rt>やげん</rt></ruby>と雑居して、今しも一面の鏡をすえ、

「ウム、これは少し、<ruby><rb>鈍刀</rb><rt>なまくら</rt></ruby>だな」

<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を持って、あごの辺を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>り上げている。

その傍らに、ちょこなんと、畏まっているのは高麗村の次郎。

「おじさん、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>ってやろうか」

「などといって、お前は、剃刀を持ったことがあるのか」

「ばかにしちゃいけないぜ、狛家にいた時分は、いつでも、おいらがお嬢様の襟足を剃ってやったんだ」

「そうか、じゃひとつ、腕前をふるって見せてもらおうか」

「よし、やってやろう」

と、次郎は小脇差の<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>げ緒を解いて、肩から袖を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>にむすぶ。

「なかなか形がいい、その構えなら剃れるだろう」

「おじさん、動いちゃいけないよ」

と、自分の指に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をつけて<ruby><rb>襟足</rb><rt>えりあし</rt></ruby>へぬりつけ、彼の頭を<ruby><rb>唐瓜</rb><rt>とうがん</rt></ruby>のようにつかみましたから、万太郎も恐れ入って、

「これ、次郎」

「へ」

「なんで<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をぬらしているのだ」

「つばで」

「きたない！　その<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>に湯があるだろう」

「もうありません。あ、それではあそこの水を」

と、湯呑みを持って行って縁先から、<ruby><rb>手洗鉢</rb><rt>ちょうずばち</rt></ruby>の水をすくってくる。

「<ruby><rb>懸人</rb><rt>かかりゅうど</rt></ruby>は不自由じゃのう」

「おじさん、懸人って、なんの事？」

「居候のことさ」

「すると、おいらも居候なんだね」

「おまえは、居候のまた居候」

次郎を相手に他愛なく襟を剃らせながら笑っているところへ、

「へへッ」

と、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けて玄堂が平伏しました。

次郎に襟を剃らせながら、万太郎は不審そうな顔をして、

「だれだい？　そこでお辞儀をしているのは」

と、たずねたものです。

平伏した者は、<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>に<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>をすりつけたまま<ruby><rb>頭</rb><rt>ず</rt></ruby>も上げ得ないで、

「<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の玄堂めにござります」

「あ、御主人であったか。永いこと世話になった上、おかげで傷も本復、わしの方から改めて礼を申さねばならんところを、何だって左様な真似をなさる。さ、手を上げて下さい、お手を」

「勿体ないおことば、いよいよ恐縮仕ります。元々、御身分を承知しておれば、かような御無礼もいたさぬものを、さる高貴のお方とは知らず、先頃からの不作法、何とぞ御仁慈を以て、おゆるし置き下さいますように」

「はてな」

と、万太郎が首を上げましたから、次郎も剃刀を離して、同じように、玄堂のしかつめらしい有様に見とれています。

「はて、どうしたものでござる御主人」

「見るかげもない<ruby><rb>藪医者</rb><rt>やぶいしゃ</rt></ruby>を、御主人などと、若殿のお口から滅相もないことで」

「<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>いのう」

「まったく今日まで気づかずにおりましたのは玄堂の<ruby><rb>落度</rb><rt>おちど</rt></ruby>、早速、殿のお耳に達しましたところ、意外なお越しに驚かれ、御自身お迎えにもまいるべきでござりますが、先頃から少々お風邪のため、御老職曾根権太夫様が名代としてお出迎えにまいっております」

「何だ……老職が迎えに来た？」

「は。一応お目通りを願いたく、あちらに差控えております次第で」

「一体、どこの老職だ」

「<ruby><rb>但馬守涼朝</rb><rt>たじまのかみすけとも</rt></ruby>の家臣で、<ruby><rb>当</rb><rt>とう</rt></ruby>秋元家の御家老にござります」

「それがわしを迎えに来たとは変な話、何か、<ruby><rb>門違</rb><rt>かどちが</rt></ruby>いをしているのではないか」

「いや、お隠し遊ばされても、御素性は早や御近侍から承っております」

「おれに近侍などは付いていないが……ははあ、次郎、さては、お前が何かしゃべッたと見えるな」

「何も、しゃべりはしませんが、あのお医者がいろいろ聞きますので、尾張の若殿徳川万太郎様だといって聞かせました」

「それはいかん」

万太郎は苦笑して、

「それはいかんなア……」

ともう一度いいながら、剃り立ての顔を撫で廻しました。

ところへ、次の部屋へ、家老の曾根権太夫がうやうやしく式体して平伏しながら、<ruby><rb>上目</rb><rt>うわめ</rt></ruby>づかいにこッちを見上げて、

「へへっ。初めて御見にいります。自分ことは但馬守の老臣曾根権太夫というもの、何とぞ、お見知りおき下されますように」

と、玄堂と同様な言い訳を<ruby><rb>諄々</rb><rt>くどくど</rt></ruby>とならべ立てて、どうか、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷の方へ移ってくれと申します。

これは領主の<ruby><rb>涼朝</rb><rt>すけとも</rt></ruby>でさえ、常にけむたがっている老人で、いかにも家老を勤めるべくこの世に生まれて来たような御家老、型どおりな左様しからばで、<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>いも甘いも加減がなく、一にもお家、二にもお家、<ruby><rb>杓子定規</rb><rt>しゃくしじょうぎ</rt></ruby>に納まって、およそ<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>つ<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>の世間というものを、将軍様と秋元六万石よりほかに知らない人物です。

ですが、事情さえ分ってみると、万太郎はべつに驚きもしません。

自分のうちの尾張の家中にも、こんなのが、二人や三人はいて、よく<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い事ばかりいったものだ。

「ははあ」

と、彼は軽くうなずいて、

「じゃ、但馬守のさしずで、わしを迎えにやって来たのか」

「御意にござります」

「折角だが、それは断る」

「えっ、それはまた<ruby><rb>何故</rb><rt>なにゆえ</rt></ruby>でございましょうか」

「わしは非常な<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>だ、それに、堅苦しいことがしていられない性分、お前の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷などへ行くのはどうも余り有難くない」

「御窮屈がおきらいとあれば、如何ようにも御自由にして、ともあれ、お越し下さりませぬと、このおやじめが折角お迎えの役儀が相立ちませぬ」

と、権太夫はどこまでも、この<ruby><rb>貴賓</rb><rt>きひん</rt></ruby>の気を損なわぬことが、お家の為と心得ている。

いやだの、有難くないのと、さんざん駄々をこねた万太郎も、結局、権太夫の役儀大切に根負けして、

「じゃ、行ってやろうか」

と、<ruby><rb>渋々</rb><rt>しぶしぶ</rt></ruby>、迎えの<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>に乗りました。

知らぬ他領の城下へ来て、こうもてるのも、いわば七男坊にまで及ぶ親の光。

供揃いが出来る。<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>が上がる。次郎は妙なことになったと思いながら、例の<ruby><rb>胆刺</rb><rt>きもざし</rt></ruby>を杖について行列の一番あとから<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いてゆく。

すると、歩み出す間もなく、

「もし、小僧さん」

ひとりの男が、小川玄堂の門前から引っ返して来て、

「もしやおめえは、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の次郎というものじゃないかね？」

呼びとめた男は、<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>みじんの<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>に角帯をしめ、油じみた桐箱を手にさげて、まげの先に一本の<ruby><rb>鬢掻</rb><rt>びんか</rt></ruby>きを挿していました。

次郎の目にも一見して、それは<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>の男とわかりましたが、

「おいらかい？」

いぶかしそうな顔をすると、

「次郎というんだろう、お前さんは」

「あ、おれは高麗村の次郎だけれど、何か用かね」

「御城下の盛り場に<ruby><rb>唐人小路</rb><rt>とうじんこうじ</rt></ruby>というところがある。そこで<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>から小屋<ruby><rb>開</rb><rt>びら</rt></ruby>きになる<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>という太夫さんから<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづか</rt></ruby>って来たんだが……」

次郎はいよいよ変な顔をして、<ruby><rb>鬢掻</rb><rt>びんか</rt></ruby>きを<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>した男の顔を見上げていますと、男はまた口をついて、

「その太夫さんがいうには、ぜひ一度、曲独楽を見物に来て、楽屋へも遊びに来てもらいたいということだ」

「おじさんは、人違いをしているんだぜ」

「人違いなことがあるものか、小川玄堂さんの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、怪我人に付き添っている高麗村の次郎というのは、お前よりほかにありはしまいが」

「おかしいな」

「なぜ」

「なぜだっても、おいらは、そんな太夫さんなんて者を知らねえもの」

「なるほど、こいつあおれが言い落としをしている。嵐粂吉じゃお前さんにも分らないはずだ、その太夫というのは、この春頃、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>にいたお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>という人だよ、丹頂のお粂という<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な人さ」

「あ、あの、お粂さん」

「知っているだろう。じゃ、今の<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>も分ったね」

といったまま、髪結の男は忙しそうに、<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を返して、横丁へかくれて行きます。

気がついて見ると、万太郎の駕とそれを囲んでゆく曾根権太夫たちの列は、すでに、一町も先へ遠のいているので、次郎は、

「あ！」

と、野槍を小脇に持ち直しながら、あわてて<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から駆け出しました。

かくて徳川万太郎は、その日から、秋元家の家老曾根家の上屋敷に食客となって、かたがた玄堂の治療をうけながら、寝たい時に寝、起きたい時に起き、人の羨む自由気ままな数日を送っている。

三ヵ所の短刀傷もほとんど癒えて、もう立ち居になんの不自由も感じなくなると、そろそろ七男坊の<ruby><rb>駄々振</rb><rt>だだぶ</rt></ruby>りがあらわれて、

「次郎、おやじが居たら、ちょっと参るようにいってこい」

と、ある日、彼のことばです。

次郎は心得て、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷の用人部屋へずかずかとやって来て、そこの入口から大きな声で、

「御用人様！」

「おい」

と、びっくりしたように、そこで居眠りをしていた用人の伝内、

「やあ、万太郎様の<ruby><rb>僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>、次郎さんか。何じゃ！　何の御用じゃ」

「おやじは居ますか」

「おやじ？」

「ウム」

「おやじとはたれのことで」

「おやじといえば、ここのおやじ。それ、いつも、こういうふうにシャチコ張っている、曾根権太夫という人のことさ」

「これは<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからん、かりそめにも、秋元六万石の御家老をさして、おやじなどと申すと口が曲がるぞ」

「でも、万太郎様が、おやじをすぐに呼んで来いといったんです」

「御家老はまだお城からお<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>がりになりません。御用があったら、この伝内が参って伺いましょう」

「駄目駄目、お前さんじゃいけない」

「なぜ手前ではいけないのか」

「万太郎様は、伝内さんがお嫌いです。あの<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>のような<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をした、用人の<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>が給仕にまいると、御飯もまずいといっています」

「これはひどい。河豚内とは、お口がわるい」

「じゃ河豚内さん、おやじがお城から帰ったら、すぐ奥へ来るようにいっておくれ」

「こいつめ、居候のくせにして」

と用人の伝内が、頭から湯気を立てるのを面白がッて、次郎は拭きこんだ大廊下を、武蔵野を駆けるように、<ruby><rb>家鳴</rb><rt>やな</rt></ruby>りをさせてドンドンと戻って来ました。そして、

「おじさん、おやじはまだお城から帰って来ませんッて」

と、突っ立ッたまま復命しました。

「では用人の<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>は居るか」

と万太郎がいいますと、次郎は今の<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>さを思い出したように笑くぼを作って、

「ええ、用人部屋で、居眠りをしていました」

「そうか。じゃ、河豚内をよんでくれ。おやじが居なければ仕方がない」

心得ましたという風に、次郎はまた表の部屋へ取って返して、そこをのぞくと、河豚は居眠りをさまして、破れ<ruby><rb>扇子</rb><rt>せんす</rt></ruby>のつぎ張りか何かしている。

「御用人さん、お召しです」

「また来たな。だれが」

「万太郎様が」

「それみろ、わしでも済む御用なのじゃないか」

と用人の伝内、そこは不承不承に立ちましたが、万太郎の次の間まで来ると、陪臣らしい習性でペタと鼻まで畳にすりつけて、

「へへっ、用人の伝内めにござりますが、何か御用でございましょうか」

「オ。<ruby><rb>河豚</rb><rt>ふぐ</rt></ruby>か」

「は」

「ちと退屈したによって、ぶらぶら城下を見物して来たいと思う」

「主人権太夫こと、公用多繁のため、一向おかまいも申し上げず、重々相済まぬ儀と、<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>ながら恐縮いたしております」

「そんな事はどうでもいい。何分居候の身で出かけたいにも<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>き物がない、笠がない。それに<ruby><rb>小遣銭</rb><rt>こづかいせん</rt></ruby>の持ち合わせもない」

「恐れ入ッてござります」

「それを<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えて欲しいのじゃ、すぐにな」

「は」

「早くしてくれ。次郎、一緒に来い」

ずかずかと玄関へ出て行きましたから、河豚は狼狽して笠や<ruby><rb>履</rb><rt>は</rt></ruby>き物の支度をしましたが、困ったのは、万太郎がもう一つ無いものに数えた小遣銭のことであります。

御三家の若殿などというものが、小遣銭などを持つものか、持つとしたら幾らふところに入れているものか、その辺の見当もっかず、まさかおいくら要るのですかとも聞き<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>い。

まごまごしている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、万太郎はもう式台から降りていて、<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>をおこし、

「河豚、早うしてくれ」

「はっ……」と、いよいよ当惑したらしく、<ruby><rb>窮余</rb><rt>きゅうよ</rt></ruby>の一策、自分もあわただしく支度をして、

「手前もお供仕りましょう。主人に代って、御城下を御案内いたしまする」

先に立って門前を出かけると、そこへ、<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の駕と人とが寄って来ました。今しも城を退出して来た家老の曾根権太夫で、

「おう、若殿」

驚いて駕を出ながら、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるごとく、用人の伝内に外出の理由をただして<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、滅相もないという顔つきで、

「おそれ多くも、君は将軍家の御門葉、高貴のおん身として、軽々しく町なかを御遊歩あるは<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>なものか。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いてお望みとあれば、せめて駕になと召されて、三、四名の御警固をお連れ遊ばすよう。第一、伝内がお付き添い申し上げながら、それくらいなことに気づかぬということがあるものか。早う駕のお支度をしてさし上げい」

万太郎は心のうちで、人が気楽に歩こうというのに冗談じゃない――と思いましたが、御家老や<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>は冗談でなく、早くも駕の用意をする。

しかたがなく、それに乗ると、供侍が三、四人付いたのでもウンザリするのに、家老の権太夫と用人の河豚内が、駕のそばについて歩いて来ます。

そして、面白くもない城の附近や、寺町のなんとかという<ruby><rb>名刹</rb><rt>めいさつ</rt></ruby>などを見せて歩かされたものですから、万太郎もすッかりまいってしまッて、ひそかに思うには、これは何とかして、おやじと河豚を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>く工夫をしなければ助からない。

そこで、自分の屋敷の者を追い使うような調子で、

「おやじ」

と、権太夫をよんでたずねました。

「この川越の城下には、もっと、繁華な所はないのか」

「は。御意遊ばすのは、あの<ruby><rb>下民</rb><rt>げみん</rt></ruby>どもの寄る盛り場の儀で」

「そうだ、その盛り場へ駕をやッてくれ、万太郎は下民の仲間入りをするのが大好きでな」

権太夫は眉をひそめながら、

「したが、御身分がら、ああいう場所へお近づき遊ばすのは、あまりよろしくございますまい」

「では、次郎だけ連れて歩いて行こう」

と、遂に駄々な七男坊は、駕の中から片足を出して、

「河豚、草履をくれ」

と、不機嫌にいいつけます。

権太夫も呆れましたが、ぜひなく万太郎の<ruby><rb>御意</rb><rt>ぎょい</rt></ruby>のまま、駕は城下の盛り場に曲げられました。

さて、そこの賑やかな町といっても、江戸の両国や浅草とは比較になりませんが、古着や<ruby><rb>繭</rb><rt>まゆ</rt></ruby>市の立つ町角を中心に、<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>びた遊び風呂屋が何軒か見え、附近には雑多な<ruby><rb>食</rb><rt>た</rt></ruby>べ物店や、楊弓場や、露店、見世物、辻講釈などがあって、その騒音が城下の町人や<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>や、行きずりの旅人の足をも相応に集めております。

そこへお練りの御家老と駕です。

権太夫と用人の河豚内が、むずかしい顔をならべて、駕の後から真ッすぐに向いて歩いていると、万太郎は駕の垂れを上げて、

「ここは何という町か」

「唐人小路と申します」

「あれは何だ」

「<ruby><rb>歯磨売</rb><rt>はみがきう</rt></ruby>りの人寄せかと存じます」

「<ruby><rb>居合</rb><rt>いあい</rt></ruby>を見せているのじゃな、ウム、面白い、川越の城下にもこんな繁昌な所があるか」

「恐れいります」

「向うに頭へ箱を乗せて何か怒鳴っているものがあるな」

「あれは、すし売りでございましょう」

「なるほど」

と、さかんに話しかけたり指さしをするので、供の者も閉口していると、

「河豚内、河豚内」

と、人前もなく呼び立てる。

「は」

何事かと、駕を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めてひざまずくと、万太郎は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>くさって、

「腹が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>った、あのすし売りを呼べ」

というのであります。

「御冗談を<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せ遊ばして」

「冗談ではない、まったく空腹じゃ。あのすし売りの姿が殊に面白いではないか、これへ呼べこれへ。そして、お前たちも<ruby><rb>相伴</rb><rt>しょうばん</rt></ruby>するがいい」

「ここは町の<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>、<ruby><rb>下人</rb><rt>げにん</rt></ruby>たちの目がござります故、ならば御帰邸の上お屋敷にて、お好みのすしを調理いたさせます」

「それではうまくない、すしはこういう場所で立ち食いするに限る、江戸表ではよくそうして試みたものだ」

「いかがいたしたものか、どうも、伝内には取り計らいかねます故、只今、御家老と御相談の上で」

「厄介な奴だ、ぐずぐずしておるまにすし売りが行ってしまうぞ。これ、あのすし売りを逃がすな」

あたりの弥次馬は目をみはって、何事かと、そこに人の輪を作ってガヤガヤと騒ぎ出す。

それにさえ当惑していた家老の権太夫は、伝内のことばを聞いて飛んでもない事と、すぐ駕を上げるように命じましたが、どたどたと弥次馬が寄って来た混雑の瞬間に、万太郎は逸早く、次郎をつれて一散に横丁へ駆け出している。

あとで、おやじと<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>が、どんな顔をしているかと、そこで腹をかかえて笑った万太郎は、

「ああ、これでやっとのびのびしたぞ」

と、鬱屈していた五体を思うさまのばして、

「次郎」

「はい」

「これから久し振りで、気ままに体の保養をしたいな。わしが思わぬ<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いに<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>って、洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をたずねることもあのままになっておるが、とにかく、<ruby><rb>浩然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>の気を養った上で、またいい分別もあろうというものだ」

「もう、あの晩から、二十日にもなります」

「そうか、早いものだな」

「<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>では、おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>が心配しているだろうし、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>では月江様が、次郎はどうしているのかと案じているだろうと思うと、おいらも、時々、悲しくなるんです」

「心配するな、そのうちに、きっとお前の詫びはかなえてやる」

「でも、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が、こッちの手へはいらなければ……」と、さびしげに、呟いているうち、彼の目が、ふと向うの立て看板の文字に吸いつけられました。

連日大入りにつき日のべ<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>り候――<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>娘一座、<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>。

その辻看板に、嵐粂吉という名を見たものですから、いつぞや<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>が<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>して来たことばを、胸に浮かべたものでしょう、次郎はふと、

「あ。お粂さん」

と、そこで口に出しました。

「お粂さん？」

万太郎も、お粂という女の名は、どこかでうすら覚えのあるような気がする。

そこで次郎の話が、彼に偶然な興味を添えたものか、賑やかな鳴物を<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し立てている<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>き地の方へ、人波に交じッて流れてゆきますと、

「おい、稲」

と、その人中を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、前へゆくうしろ姿へ、編笠の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>をしゃくッた二人連れの侍がある。

稲とよばれたのは、前髪でいなせな若者、

「え？」

と、人<ruby><rb>混</rb><rt>ご</rt></ruby>みへ目を迷わすと、

「あれへ行ったのは、たしかに、尾州の万太郎じゃねえか」

と、肩に肩を寄せて来てささやきました。

「人中でよく見えなかったが、<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>イ<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>は万太郎らしかった。だが、何か、紋所が違っていやしなかったろうか」

といったのは、もう一ツの笠、<ruby><rb>赭顔</rb><rt>しゃがん</rt></ruby>総髪の武家<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>です。

「行ッて見ましょうか」

<ruby><rb>燕</rb><rt>つばめ</rt></ruby>のように、稲とよぶ前髪が、前へ走ろうとするのを抑えて、

「まあ待て、――万太郎は雲霧にまかせてある」

日本左衛門の、あの、静かなことばに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもありません。

編笠の本体がわかれば、一方の笠の判断もすぐにつく。無論それは<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門で、稲というのは<ruby><rb>千束</rb><rt>せんぞく</rt></ruby>の稲吉でしょう。

附近を見廻しているのは、少し話のできる<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>茶屋を探しているものらしいが、何分、あわただしい市と遊び場と旅人の立て場が一つに混雑している情景なので、これという家も見つからない。

「親分、空き地の向うはどうです」

「ウム、二、三軒見えるな」

「<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>池があります。あれを前にした所は、ちょっと、不忍池の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いろは</span>か<ruby><rb>蓮見</rb><rt>はすみ</rt></ruby>茶屋といったあんばいですぜ」

「静かだろう、行って見よう」

三人は、<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>の浪を横に抜けて、<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>の小屋や<ruby><rb>幟</rb><rt>のぼり</rt></ruby>を横に見ながら、じめじめした<ruby><rb>蓮田</rb><rt>はすだ</rt></ruby>のへりを悠々とならんで歩み出しました。

どろりとした青い水面に、富士形の編笠と、丸べりの笠と、前髪の半身の影が、足につれて浮いてゆく。

めし、<ruby><rb>煮</rb><rt>に</rt></ruby>ざかな。

来てみればこんなものです。

「飛んだ蓮見茶屋だ。は、は、は、は」

笑いながら、<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>を分けて、醤油くさい店先へずっとはいると、それでも白いものを塗った女の顔が愛嬌よく、

「いらっしゃいまし」

と、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の位置を直してくれる。

「酒」

「はい」

支度をさせておいて、稲吉は奥の床几を<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>近くズリ出して来ながら、

「親分、ここに腰をおろしていると、<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の小屋の背中が、そッくり一目です」

彼の笠も、今、その方角に向いていました。

酒の<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>をつけて、何か膳に見つくろっていた女は、べつに深い意味のあるその話を、すぐ横から奪い取って、

「あの、粂吉さんの曲独楽をごらんになりましたか」

「いいや、おれはまだ見ねえが、どうだね、評判は？」

と、稲吉が軽く相手になる。

「とても、大変な人気なんですよ」

「へえ、どう大変なんだい」

「何しろ、<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女だっていうんで」

「おや、それじゃ、独楽はそッちのけだね」

「何にしたッて、あなた、女の太夫さんなんていうものは、芸より顔でござんすからね」

「つまり、居酒屋にしてみれば、酒よりはお酌というわけだな」

「ホ、ホ、ホ。まあ、そんな<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>なんでございましょうね。それですからね、あなた、日のべをしてまで、まだあんなに毎日入りがつづいているんですよ」

「そうかい、世間様は、<ruby><rb>有難</rb><rt>ありがて</rt></ruby>えもんだな」

と、稲吉が、何の気もなくいったことば、日本左衛門の黙りこんでいる心の底を、<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐるように苦笑させました。

やがて、そこへ来た酒を、真似ばかりに飲みながら、

「稲」

「へい」

「お粂はおめえの持ちだったな」

「そうです。あっしが<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>を引きました」

「いい籤を引いたな。雲霧の相手や、おめえの目ざすものは、いつでも手の届くところにぶら下がッているのに、おれの引き当てた<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷のお蝶ばかりは、どうしても、影もかたちも見せてくれねえ……」

と、含んだ酒も<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>そうに、それには、よほど探しくたびれた様子であります。

彼をはじめとして、暗殺の<ruby><rb>籖</rb><rt>くじ</rt></ruby>を<ruby><rb>抽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて別れ別れになった五ツ組の者は、その後、各〻目ざす方角へ向って、みな相応な飛躍をやっているだろうと思われる。

しかるに、その根幹である自分の持ちのお蝶の姿と来ては、いくら探りの手を分けてみても、一<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>見当がついて来ないので、日本左衛門も手を下しようがなく、夜光の短刀の手懸りと共に、あれ以来の日は空しく過ぎておりました。

嵐粂吉となったお粂は、すぐ目の前の小屋に、おおびらで姿を見せつけている。けれど、それは暗殺の<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>で、千<ruby><rb>束</rb><rt>ぞく</rt></ruby>の稲にまかせてあることだし、自分の心も、あの女に触れたくない。

――と、茶店の<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に、少し話が途切れている所へ、どかどか入って来た四、五人の男どもがある。

はいって来ると、ここの<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の女と<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>と見えて、奥の上がりがまちに思い思いに腰をすえて、勝手な冗談口を交わしはじめる。

話の様子では、城下の馬市へ来ている<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>と見えます。日本左衛門や金右衛門にはわからないが、何か仲間ことばで、馬相場の話をしている。と思うと、いつかしらその話題が、手なぐさみの事から茶屋女のうわさ、取りとめもなくやかましい。

そのうちに、なかの一人が、

「おい、そりゃあそうと、またこの間の晩、上野原の弥助が、<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の辺で、いやなものを見たっていうぜ」

そこへ来た酒の盃をやり取りしながら、

「おれも明日は、金を持って、<ruby><rb>青梅</rb><rt>おうめ</rt></ruby>へ帰らなくっちゃならねえが、その話を聞いて、いやな気持がしてしまった。だれか、青梅へ帰る道づれはねえかしら」

「博労渡世の者が、旅をこわがッていたひには商売ができるもんか」

「だって、二度や三度のことじゃねえからな」

「上野原の弥助が、一体、何を見たッていうんだい」

「あれだよ、この前の市に、おれたちが青梅から来る途中、女影の手前でぶつかッた女の魔物だ」

「ヘエ……弥助のやつも出会ったって？」

「うム」

「いつ頃？」

「もう半月程まえだそうだが、その時は、今小屋にかかっている<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>一座の者や、八王子の宿場問屋を出て来た者が大勢一緒だったから、何の事もなかったそうだが、でも、途中で<ruby><rb>大怪我</rb><rt>おおけが</rt></ruby>をしている侍があって、それをこの川越までみんなして助けて来てやったそうだ」

「じゃ、あの女を、見たというわけじゃねえのだろう」

「だが、多分あの女の<ruby><rb>為業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>にちがいないと、あとで、みんなが噂しているのだ」

と、真面目になって、その男は、この晩春の頃、自分たち青梅の仲間が実際に出逢ったという、女影の鬼女の話をもち出しました。

最前から、一隅に、<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>を囲って飲んでいた日本左衛門は、それを小耳にはさむと、吾を忘れて聞き入っておりましたが、

「稲」

と、編笠をうしろに向けて、

「あの男を、ここへ呼んで来てくれねえか」

と小声で言う。

稲吉は<ruby><rb>目交</rb><rt>めま</rt></ruby>ぜで立って、つかつかと連中の前へ行き、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み手をしながら、

「エエ親方」

と、<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っていた男の前に小腰をかがめました。そして、

「あちらにいる方が、一杯さし上げながら、少し伺いたいことがあるっていうんですが、どうでござんしょう」

博労は<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>な顔をして、

「何が、どうなんだい」

「お前さんだけ、ちょっと<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>へ来てくれませんか」

「ふざけた事を言うねえ、人にものを聞くのに、こッちへ来いなんて大ッ面をしやがって、おれ達を何だと思ってやがる」

と、酒の勢いもありましょう、<ruby><rb>野卑</rb><rt>やひ</rt></ruby>な博労ことばで、<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を切ッたものです。

すると、<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>の蔭で、

「オイ、稲。もういいから<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ来ていろ」

「へい」

と稲吉は、すごい目をくれて、

「とんだお邪魔をいたしましたネ」

セセラ笑って引っ込みました。

それで初めて気がついた<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>どもが、土間の一隅を見ると、<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>を囲ったなかの<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に、稲と呼ばれた今の男のほかに、どっしりした浪人<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>の者がふたり、しめやかに盃を交わしている。

おとなしく引ッ込まれただけに、博労どもは薄気味がわるくなって、前の元気もどこへやら、大声な話も出来ず、そこを通って帰るにも帰られず、

「おい、何の用だか、ちょッと行って来ねえ。いやに鳴りをしずめているから、あとのたたりが怖ろしい」

と、仲間の者を小突いていました。

「どうも、只今は、とんだお見それをいたしまして」

おそるおそるそれへあいさつに来た男を見ると、今、<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>を切ッた博労ですから、三人は苦笑いをして、

「さ、こちらへお掛けなさい」

「ところで、何かあっしにお話があるそうですが」

日本左衛門は、博労の男にも<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>を与えて、

「呼び立てて聞きただす程のことでもないが、そちが只今、向うで話していた<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の妖女のうわさは真実なのか」

「へ、へい。こればかりは、嘘でも大袈裟でもございません」と、博労が得意になって語り直すのを、日本左衛門がところどころ反問して、どうやらそれで彼の疑問は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けたようであります。

「いやよく分った。折角飲んでいるところを済まなかったな、これは少ないが……」

と、<ruby><rb>呆</rb><rt>あ</rt></ruby>っ気にとられる博労の男の手へ、一枚の小判を落として、三人はぶらりと外へ出て行きました。

外の風に吹かれると、すぐ耳につくのは池の向こうの<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋の鳴物です。どんよりした夕雲の影を落としている蓮池の水面に、<ruby><rb>水馬</rb><rt>みずすまし</rt></ruby>がツイツイと細い線を描いているのが、何となく夜の雨でも待つように見えました。

暫く肩をならべて行ったと思うと、日本左衛門と金右衛門とは、別な道へそれて行きながら、

「じゃ稲、しッかりやれよ」

言い残して、何処ともなく、<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>のなかに影を没してしまう。

稲吉はふところに手を入れて、指先で、肌に温まっている<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を触ってみました。そして、ポツンと来た一つぶの雨に、頬へ手をやりながら、空模様を仰いでいたかと思うと、まだそれ程でもないのに、にわか雨でも来たように、一目散に走り出します。

そして、<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の木戸口へ来る。

木戸番の男は<ruby><rb>下足札</rb><rt>げそ</rt></ruby>をたたいて、声をからしながら客を呼んでいる。その混雑に入りまじッて、何十文かの木戸銭を投げると、稲吉の姿もその<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>小屋のなかへ吸い込まれて行く。

中には、もう昼間から二、三百の見物が詰まっている。小屋の内を眺めると、何か大きな動物のあばら骨でも見るように雑な丸太組のホッ建て小屋で、無数の<ruby><rb>藁蓆</rb><rt>わらむしろ</rt></ruby>と、へんぽんたる<ruby><rb>古幟</rb><rt>ふるのぼり</rt></ruby>とあまたのビラと、毒々しい幕と<ruby><rb>緞帳</rb><rt>どんちょう</rt></ruby>とで粉飾されています。

舞台では今、前芸とあって、やたらに騒々しがる男芸人と手踊りの娘とで、何か、お茶番じみた所作を見せている。

こういう<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>のなかに立って、どこを見るともなく、暫く、坐り場所をさがしていた千束の稲吉は、やがて薄暗い土間の隅に、一組の見物を見出して、

「お」

と、人を分けながら、連中の仲間にすっぽりと坐り込みました。

「兄貴、ばかに遅かったじゃねえか」

「ウム、ここで落合う約束で、急いでやって来ると、途中で親分に会ったものだからな」

「あ、親分も、この川越へ来ているんで？」

「<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷のお蝶のやつが、どこへ影を消していやがるのか、さッぱり当てがつかねえので、さすがの親分も気をくさらしておいでなさる。……だが、やっと今日、博労の口から妙な手懸りを聞き出したんで、これからその方角へ行くというんで別れて来たばかりだ」

と、みんな膝を抱えながら、眼だけは義務のように舞台へ向いておりますが、<ruby><rb>密々</rb><rt>ひそひそ</rt></ruby>とささやき合っている話の方に、多分な心をつかっていることは、少し<ruby><rb>緻密</rb><rt>ちみつ</rt></ruby>な眼でこの一組を注意していれば分りましょう。

そのうちに中の一人が、何気なくうしろを振向いた時、はッと驚いたというのは、自分達が背中を向けている垂れ<ruby><rb>菰</rb><rt>ごも</rt></ruby>の間から、鋭い白眼が、じッと、この連中に射向けられていたことであります。

「シッ……」

と、たれかが、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて稲吉の袖へ知らせをくれた時、舞台の方では、ちょうど前芸のお<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>しの賑やかなサンザメキと共に、木の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>がはいって、とたんにザラザラと<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>が下りました。

<ruby><rb>中入</rb><rt>なかいり</rt></ruby>です。

土間の見物や中売りの声が、にわかにガヤガヤしはじめると共に、楽屋の内でも足の踏み場もないような混雑。

ここ大入りつづきで、ほくほくものの太夫元は、この興行に見込みがあると見て、旅先から手踊りの女芸人を数名買い込んで来て、<ruby><rb>粂吉</rb><rt>くめきち</rt></ruby>の前座に景気をつけている。

その<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>ぎたない女達が、鏡台をならべて、脱ぎ捨てた衣裳のなかに行儀わるく坐っている所へ、すしを食べ散らした<ruby><rb>錦出</rb><rt>にしきで</rt></ruby>の大皿や、たばこ盆や、<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>や、乱れ箱やらが雑然と同居していて、舞台と楽屋の間を往来する道具方の黒い足が、それをまた感傷なくズカズカと踏んづけて通ります。

お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>の<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>粂吉は、その突き当りの二畳ばかりな狭い場所に、一枚のビラ幕を下げて鏡台をひかえていましたが、そこへ一人の<ruby><rb>出方</rb><rt>でかた</rt></ruby>が腰をかがめて、

「太夫さん、妙な子供がやって来て、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>に居たお粂さんに会いに来たんだといっていますが、お知り合いなんですか」

もろ肌を脱いで、<ruby><rb>刷毛</rb><rt>はけ</rt></ruby>をはいていたお粂は、それを聞くとニッコリ笑って、

「来たかえ？　あの山男のような子だろう」

「そうです、太夫さんから何か<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>がしてあるそうで」

「あ。ここへ、連れて来ておくんなさいな」と、お粂は肌を入れながら、一人の者が坐れるだけの余地を作って、そこに待っておりました。

<ruby><rb>出方</rb><rt>でかた</rt></ruby>の男は、<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>裏の<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を上げて、

「お待ち遠さま。ちょうど中入だから、太夫さんが会うそうだ。さ、こッちへはいんねえ」

と、外へ呼ぶと、そこに<ruby><rb>佇立</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた高麗村の次郎が、

「じゃ、おじさんは、外で待っている？」

と、うしろの連れを<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>りました。

連れがあったのか？　と出方の男が外を見廻すと、青い<ruby><rb>藺笠</rb><rt>いがさ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>った人品のいい侍が、蓮池のほとりに立って、池の<ruby><rb>水馬</rb><rt>みずすまし</rt></ruby>に小石を投げております。

オ。ここで待っている――というふうに万太郎の笠が向うで<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたのをみると、次郎は男に案内されて、小屋がけのなかに<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行きましたが、例の、咽るような女芸人の<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いに満ちた楽屋を通るに及んで、その<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>ぎたない雑然とした色彩に、目をみはるというよりも、気がおののいてしまいました。

だが、そこを次郎にずかずかと通られた女達も鏡台から首を曲げて、皆、少なからず<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した様子です。武蔵野の原や高麗村の山峡におればこそ、さまで人目にも立ちませんが、何しろ次郎には一種怪童的な風貌があります上に、ここへ来てまで、例の杖とも槍ともつかない<ruby><rb>胆刺</rb><rt>きもざし</rt></ruby>を携帯しているので、

「あら、いやだ」

と、娘手踊りの連中が、こわそうに首をちぢめて見送ったのも無理ではありません。

「太夫さん、御案内して来ました」

と、<ruby><rb>出方</rb><rt>でかた</rt></ruby>の男が去ると、

「さ、おはいんなさい」

うすら覚えのあるお粂の声が内でする。

野槍をそこに立てかけて置いて、次郎はおずおずとビラ幕を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>り上げました。そして、女に無関心な彼の目にも迫るような濃艶な顔が、

「あら」

と、笑いながら迎えると、

「<ruby><rb>今日</rb><rt>こんち</rt></ruby>は」

取って付けたようにそう言ったきり、次郎はなんだか間が悪くなって、あとの言葉が出ないのでありました。

「ここは狭いけれど、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>の世帯なんだからね、たれにも遠慮はいらないんだよ。さ、こッちへはいって、お菓子でもお食べ」

茶をついでやったり、お<ruby><rb>重箱</rb><rt>じゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>食物</rb><rt>もの</rt></ruby>を出して与えたりしましたが、お粂がもてなせばもてなしてやる程、次郎はもじもじして、いつもの野趣の風がない。

けろんとして、鏡台のまわりの紅皿や<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>つぼ、釘にかけてある三味線や赤い<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>や<ruby><rb>浅黄繻子</rb><rt>あさぎじゅす</rt></ruby>の衣裳、または金糸の<ruby><rb>元結</rb><rt>もとゆい</rt></ruby>をたッぷりかけた相手の人の<ruby><rb>唐人髷</rb><rt>とうじんまげ</rt></ruby>などを、物珍しげに見廻している。

それらの、あまり目馴れない強い色彩が、彼を脅迫するものですから、<ruby><rb>自然児</rb><rt>しぜんじ</rt></ruby>の次郎の自然児らしいところは、ビラ幕の外へ立て掛けて来た野槍と共に、すッかりどこかに置き忘れて来た<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>であります。

「たしか、次郎さんと言ッたね」

お粂が見入るように目元で親しげに言うものですから、次郎はぽッと顔を赤くして、

「え。次郎って言います」

「それについて、実は、お前さんなら知っていやしまいかと思うんだけれど……、あの<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>の宿で、私と一緒にいた<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>という人、お前さんも知っているだろう」

「相良さん。ウム、知っている……」

「そして<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>のお嬢様、月江様とか言いましたね、あの月江さんと金吾さんが、私に<ruby><rb>内密</rb><rt>ないしょ</rt></ruby>で、熱海にいるうちだいぶ懇意にしていたようだけれど、その後何かの様子を聞かないかえ」

お粂の粂吉が、わざわざ使いをやって、次郎を楽屋に呼んだのは、まったく、相良金吾ののその後の便りを、少しでも聞きたいばかりの手段でありました。

ですが事実は、お粂が邪推を廻しているほど、<ruby><rb>当</rb><rt>とう</rt></ruby>の金吾と月江様とが熱海において格別な親しみを作っていたわけでもありませんので、次郎があれから後の金吾の消息を知っているはずもないのでした。

で、彼女の<ruby><rb>目企</rb><rt>もくろ</rt></ruby>みは見事に<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れましたが、今度はかえって次郎の方から、

「あの、お粂さんは、元江戸の水門<ruby><rb>尻</rb><rt>じり</rt></ruby>という所に居たことがあるかい？」

と、思いがけない反問を出して来ました。

「よく知っているね、お前さんは」

「じゃ、日本左衛門という人とも前に知り合いだったんだね」

「どこで聞いたえ、そんな事を」

「熱海に居た時」

「だれに？」

「ううん、だれにでもないけれど」

短い中入の時間はもう過ぎたと見えまして、その時、土間の客席や蔭の鳴物がまた騒めき出すと、男衆がそれへ飛んで来て、

「太夫さん、出番です、お支度は出来ていますか」

「あっ、もう」

「お早く願います。見物が沸いておりますから」

お粂はあわてて衣裳を着け出すと、そこへ二、三人の女達が来て、帯を手伝うやら、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をしめてやるやら、忽ち次郎の存在は消えてしまいました。

「おじさん、お待ち遠さま」

と、ひょッこり小屋の楽屋から飛び出して来た次郎は、そこにたたずんでいた万太郎の前に帰って来て、

「聞いて来ました。やっぱり、おじさんが言った通り、あの女は、日本左衛門をよく知っている水門尻の人でした」

それは万太郎が、次郎をもって探らせた事と見えます。そして彼はまた、お粂こそ金吾の体を、いまだに隠している女だと信じているのでした。

「御苦労だった。けれどそういう事を聞いて、何も向うでも変に思いはしなかったか」

「いいえ、ただ、熱海で一緒に居た、金吾という人の事をいろいろくどく聞いただけです」

偶然に、この時初めて、次郎の口からもれた金吾という名に、彼はハッと眼を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>って、

「次郎、今お前の言った金吾というのは、一体どういう人間なのか。もしや、相良金吾という者ではないか」

「そうです」

「えッ」

「相良さんというんです。月江様もおりんさんも、おいらも、みんなあの人が好きでしたよ」

「では、熱海の<ruby><rb>温泉宿</rb><rt>ゆやど</rt></ruby>で、あのお粂と共に入湯していた折に、お前たちも同じ宿に泊り合せていたという訳か。なぜ早く話してくれなかった、その金吾には、ぜひ会わねばならない事がある」

「だって、おじさんと、相良さんと、知ってる人だとは少しも思わなかったもの」

「なるほど、それも無理はない話……。しかし、そうと分れば、なお<ruby><rb>細々</rb><rt>こまごま</rt></ruby>とそれについて訊ねたい事がある。……と申してもここは<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>、次郎、向うの人通りのない方へ参ろう」

「おじさん、何だかポツンと降って来たようですよ」

「雨どころではない、さ、わしに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来い」

と、万太郎がやや大股に、<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋の裏から歩み出しますと、それまですぐ後ろの物蔭にかがんでいたらしい一人の男が、

「もし万太郎様、その話なら、私がくわしくお話し致しましょう」

と、不意に手をあげて呼び止めました。

突然、万太郎をよびとめて、彼の前へ立った男は、めずらしくも熱海以来その姿を見なかった目明しの釘勘でありました。

「おウ」と万太郎は、びッくりした目を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>って、

「そちは釘抜きの勘次郎、どうしてこんな所に参った？」

「どうしてというのは若様、あなたの事じゃございませんか」と、釘勘は笑いながら、

「――熱海から江戸に帰って、早速お目にかかりたいものと、根岸のお屋敷へ伺いましたところ、ぶらりとお出かけになったまま、幾日経ってもお帰りがないというお話」

「うム……実は、そちの帰りも心待ちにしていたが、何かにつけて、じっとしていられぬ自分の性分、つい根岸から脱け出してしまった」

「はははは、相変らずで」

「いや、そのために、ひどい苦難に出会ったぞ」

「少しはお薬でございましょう」

「薬にしては強過ぎた」

「ところで、その折、根岸の御家来衆の口から伺いますと、毎年江戸城の御本丸でお催しになる<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>の<ruby><rb>夜能</rb><rt>やのう</rt></ruby>に、ぜひとも、あの<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>がなければ尾州家として将軍様へ申し訳が立たないことになるのだそうです」

「今年もやがて<ruby><rb>七夕能</rb><rt>たなばたのう</rt></ruby>の時期に近いな」

「で、市ヶ谷のお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷では、中将様を初め御当主の殿様も、たいそうお心を痛めておいでなさるそうで、御家来を通じて、ぜひそれまでに洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を探して、無事御本丸の夜能に間に合うようにしてくれというお頼みなんです」

「お、それは兄や父も当惑であろう」

「ぜひ急がなければ一大事でござります」

「洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>には、自分にも心当りがないではないのじゃ。きっと、<ruby><rb>七夕能</rb><rt>たなばたのう</rt></ruby>までには兄の屋敷へ届けてやる」

「それから……次には相良様のことでございますが」

「ウム、熱海で、そちは金吾と逢って来たか」

「お目にかかってまいりました」

「で、あれは一体、どういう気持でいるのか、この万太郎には彼の心持が<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>しかねる」

「何しろ、この往来では、落着いて話も出来ませんから、何処か静かな所へまいって、ゆっくりお話し申し上げたいと存じます」

「よかろう、では、わしの屋敷まで来るがいい。次郎、お前は帰りの途を知っているか」

野槍を杖についた高麗村の次郎は、ふたりの先に歩き出して、

「え、分っています」

釘勘は妙な顔をして、

「この川越にお屋敷があるということは<ruby><rb>初耳</rb><rt>はつみみ</rt></ruby>でございますが？」

「なに、当座の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>じゃ」

と、万太郎は澄ましたものです。

次郎は露払いの格で悠々と前に立って、やがて、秋元家の家老<ruby><rb>曾根権太夫</rb><rt>そねごんだゆう</rt></ruby>の屋敷へ先にはいりました。

「お帰りです。<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>さん若殿のお帰りですよ！」

今も今とて、まかれて帰って来た権太夫と用人の伝内とが、万太郎に手を焼いて困ったものだと噂をしているところへ、

「お帰り！」

という声がしたので、ゾッとしました。

権太夫は、何事もお家の為じゃ、と虫を殺しているような顔で伝内と首をそろえて式台まで<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に出迎えました。

「おやじ、先へ帰っていたか」

「へへっ」

「今日は御苦労だったな」

万太郎は空とぼけながら、うしろにモジモジしている釘勘に向って、

「おい、何も遠慮はいらない、上がるがいい」

「へえ、真ッ<ruby><rb>平</rb><rt>ぴら</rt></ruby>御免こうむります」

式台に手をついていた用人の<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>と権太夫は、見も知らない<ruby><rb>素町人</rb><rt>すちょうにん</rt></ruby>がずかずかと上がって来たのに眉をひそめて、

「あ、万太郎様」

「なんじゃ」

「それなる町人は何者でございましょうか、御同列は畏れ多い次第。庭先へお廻しなされては如何なものでございましょう」

「これは、釘勘と言って、わしの友達だ。何か<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>い物を<ruby><rb>見繕</rb><rt>みつくろ</rt></ruby>って、酒の支度をして来てくれ」

と、まるで<ruby><rb>田楽茶屋</rb><rt>でんがくぢゃや</rt></ruby>の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>でも<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>ッて入るような調子で、万太郎は釘勘を連れて奥の客間へ通り、次郎はまた次郎で、<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>きみがいてある大廊下へ、ベタベタと大きな足跡をつけて行きます。

奥へ通った万太郎と釘勘は、そこで、夜のふけるまで<ruby><rb>種々</rb><rt>くさぐさ</rt></ruby>の話が尽きない。

熱海の<ruby><rb>湯前</rb><rt>ゆまえ</rt></ruby>神社で出会った時の<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>のことばが、そッくり釘勘の口から万太郎に伝えられたことも言うまでもありません。

「そうだろう」

万太郎はすべてを善意に聞きました。そして、自分に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて帰らぬ彼の心情を察して、

「こうなった以上、金吾の気質としても、何か一<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>を立てぬうちは、わしの側へ帰るまい。人に合わせる顔がないと申して、それから先、また姿を隠したあれの気持は分っている」

むしろ彼は、金吾の行為に、<ruby><rb>憐愍</rb><rt>れんびん</rt></ruby>と同情をもって、釘勘の便りを<ruby><rb>逐一</rb><rt>ちくいち</rt></ruby>聞き終ったのです。

「ところで、そのかんじんな<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の事になりますが――」と、釘勘はここで<ruby><rb>話頭</rb><rt>わとう</rt></ruby>をかえて、

「妙な方角から、思いがけない<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りがつきまして、近いうちには、きっと、お手元に戻るだろうと存じます」

「いや、その<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の手懸りなら、実はこの万太郎も目星をつけている所があるのじゃ」

「へえ、じゃ、あまり商売人の早耳も、自慢にはなりません」

「けれど、そちの探ッている目星と、わしの存じている事とは、違っているかも分るまい。釘勘、お前はその仮面が、今何処の誰の手にあると<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきき</rt></ruby>をつけているな」

「思いがけない人間です」

「ウム、それは？」

「<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷を逃げだした二官の娘、お蝶が持ち歩いているものと存じます」

次郎を連れて、<ruby><rb>野鍛冶</rb><rt>のかじ</rt></ruby>の家を出かけた時から、ひそかに、それと信じているところを、釘勘がずばりと言い当てたので、万太郎も驚きながら、

「お蝶がと申すか、ウム……しかし、そちはまたどうしてお蝶があれを持っていると知ったのじゃ」

「種を明かしちゃ、つまらない話ですが、実は、<ruby><rb>貴方様</rb><rt>あなたさま</rt></ruby>をたずねて諸所を歩き廻っているうち、野鍛冶の半五郎という男を<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>ッつかまえて、その半五郎の口から、お蝶が鍛冶小屋に泊ッたことを聞き出したものです」

「えッ、おじさん、半五郎ッていうのは、あの目ッかちの半五郎ですか」

突然、次郎がそばからこう言って、ただならぬ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を見せたので、釘勘は、

「うム、悪い奴だ」

何気なく言ったものです。

すると、次郎は急にベソを掻いて、悄然と首を垂れてしまいましたから、どうした訳かと聞いて見ると、その一眼の鍛冶屋の半五郎は、彼の父親で、目明しのおじさんに捕われたことを悲しみ歎くのであると分りました。

「そうかい……」と釘勘も初めて知った様子で――「あの半五郎というのは、時々江戸の近くへ出て来ては、よくねえ事をやる男だったので、何の気もなく<ruby><rb>召捕</rb><rt>あげ</rt></ruby>てしまったが、おめえが半五郎の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>だとは知らなかった。……まあ、そう心配しねえがいい、<ruby><rb>召捕</rb><rt>あげ</rt></ruby>たと言ったところで、手近な百姓牢に預けて置いたのだから、十日もたてば、百叩きで押ッぽり出されて家へ<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ってるだろう」

それで、次郎も少し安心したふうです。

ところへ、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が開いて、小侍たちが高足の膳を目八分に持ち、能がかりの足どりでソロリ、ソロリと<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>のつま先をそろえて来る。

「やあ、やっと御馳走が参ったそうな」

万太郎は席をひらいて、

「さ、次郎もならべ、釘勘も遠慮なく、<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>のままで頂戴するがいい」

見ると権太夫と河豚内は次の間に平伏して、

「<ruby><rb>粗肴</rb><rt>そこう</rt></ruby>の上に、何らのおかまいも仕りませぬが、どうぞ御充分にお過ごしのほどを……」

と、<ruby><rb>御座</rb><rt>ござ</rt></ruby>り奉ッておりました。

「あ。おやじか、どうじゃ、ここへ来てお前も一杯つきあわんか」

「<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ入りまする。陪臣の身として<ruby><rb>直々</rb><rt>じきじき</rt></ruby>のお流れ、<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby><ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>に存じます」

「じれッたいやつ、早く取らんか、盃を」

「へへっ」

と、叱られて、権太夫は<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby><ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をうけ取って、懐紙をもってそれをぬぐい、またおそるおそる御返盃申し上げる。

「もういい」

と、万太郎は素ッ気なく盃を取り返して、

「そちや<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>がここに筋張ッていると、折角の酒もうまくない。もう用はないから<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby>へ退がれ」

そう言って、人を追ッ払ったかと思うと、やがてポンポンと手をたたく、お銚子のおかわりだという、もっと、あッさりしたお肴を持って来いと言う、誰か三味線のひける家来は居ないかと言う、権太夫に来て踊れと言う、<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>に負ぶッて<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>へ連れて行けと言う、酒をもどしそうだから<ruby><rb>金盥</rb><rt>かなだらい</rt></ruby>を持参せいと言う、口をふけと言う、背中をさすれと仰っしゃる。

いやもう、ふだんのシラフでさえも大概な七男坊様、酔ッたが最後の助、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>にも棒にもかかりはしません。

かくて、やっと乱酔のまま寝所に納まった万太郎に、ヤレヤレと、河豚内はじめ家来どもは、翌朝、思わずいつもよりは寝過ごしました。

しかるに、

また起き抜け早々、朝ッぱらからの一騒ぎ。

今朝になってみると、万太郎は居ない。

また妙に眼の光る町人も、物騒な棒を持ってあるく<ruby><rb>変梃</rb><rt>へんてこ</rt></ruby>な餓鬼も、いつのまにか寝床をもぬけの殻として、風を食らッて出立してしまったふうです。

## 軍師の旗本

二日ばかりの小雨つづき。

大入りあげくの息抜きに、<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の小屋も休んでおりましたが、いよいよ最後の日を御当地お名残りと触れ出して、木戸を開けたその晩のこと、川越じゅうを、<ruby><rb>鼎</rb><rt>かなえ</rt></ruby>のわくが如くに騒がせた<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>がもち上がりました。

事の次第はこうであります。

人気者の<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>が、ここ暫くの演技に、いよいよ曲独楽の<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>も円熟して、日ごとに見栄えがしてきた折から、その日の舞台でも、場内の見物を酔わせておりますと、突然、どこからか飛んで来た飛魚の如き短刀が一本――いや二本、三本、たしかに太夫の乳のあたりへ。

「きゃッ」

と、演技中の粂吉が、ばッたりと、床に倒れた騒動であります。

なんで見物がじっとしていられましょう。

「わ――ッ」

と、場内総立ちとなって、何が何やら分らぬなかに、<ruby><rb>御簾</rb><rt>みす</rt></ruby>が下り、八<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の灯がゆらめき、凄惨の気、一時にあたりを暗澹たるものとしました。

かかるなかに、押しくずれ、泣きわめく場席の其処此処で、なぐり合い、取ッ組み合いの争闘が、幾組となく行われている。

「逃がすなッ」

「こいつだこいつだ。こいつが短刀を投げた手元をたしかに見た」

「それ、逃げる」

「抑えろ、ばかッ」

「あっ」

「野郎」

いくら落着いて見ていても、だれが打ったのやら、だれが組みしかれているものやら、決して分ったものではありません。

しかしその、ごッたすッたの間に、八方<ruby><rb>筒抜</rb><rt>つつぬ</rt></ruby>けの<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>小屋の事とて、当然、逃げるべきものは遁れ、避難する見物は避難して、あとに残ったのは小屋者の男衆のみで、<ruby><rb>大山</rb><rt>たいざん</rt></ruby>鳴動して鼠一匹のかたちがないでもない。

すると、その動揺した空気が、まだ落着かないガヤガヤのなかで、

「まア、いい、見物に<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>さえなけりゃいいさ、大難が小難、これで済んだ、これで済んだ」

と、大ふうな口をきいて、<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>でもない太骨の扇子を、バッス、バッスと、あおいでいる変人があったものです。

たださえ気の荒い小屋者の気が立っているところだからたまりません。

「<ruby><rb>唐変木</rb><rt>とうへんぼく</rt></ruby>め」

と、だれかいうと、ポカリと一つ。

「あいたッ、何をするんで」

「べらぼうめ、なにが大難が小難だ、やいッ、何がまアいい、まアいいだよ。この野郎、生かしちゃあおけねえ」

と、いきなり彼の<ruby><rb>河童</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>の如き総髪をつかんで、ゆるせゆるせというやつを、げんこつの乱打でそこへ参らせてしまいました。

まだそれでも飽き足らず、ほんとに殺してしまいそうなところへ、

「あっ、待ってくれ」

これは前の<ruby><rb>河童</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>に似た総髪よりも、この仲間には顔のききそうな町人が飛んで来て、

「それはおれの連れだ、待ってくれ、おれの連れだ」

と懸命に叫んで食い止めました。

それに一時は手を引いたものの、またお互いに怪しみの目を交わして、

「やい、おれだの連れだのって、てめえは一体見物人か、どこのだれだ？　ちッともこの小屋で見かけねえ野郎じゃねえか」

「そりゃ、見かけねえはずだ、おら、旅の者だ」

「何、旅の者が、なんでこんな所に出しゃ張ってまごまごしているんだ。太夫に短刀を投げやがった野郎の片割れにちげえねえ」

「おッと、皆さん、逆上してそう勘違いされちゃ困る。おら、なるほど旅の者だが、太夫の粂吉たあまんざら縁故のねえ人間じゃあない。嘘だと思うなら、今ここへあの女が来るから、それに聞いてみるのが一番確かだろう」

「ふざけやがるな」

と、小屋の連中はますます<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>り出して、

「まだ医者の来ねえうちは分らねえが、胸元へ三本も短刀を<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ッ通された太夫が、なんでここへ歩いて来る、いよいよ<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>らは油断がならねえ」

と、一方の弁明もガンとして受け取らず、あわや再び、<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>ならぬ撲り合いの<ruby><rb>乱取</rb><rt>らんどり</rt></ruby>が始まろうとしているところへ、嘘ではありません、衣裳を捨てて軽くなったお粂が、<ruby><rb>舞台白粉</rb><rt>ぶたいおしろい</rt></ruby>の顔のまま、髪だけをつぶしにくずして、赤い吉田<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を指にはさみながら、

「おや、何をやっているんだえ」

笑ってそこへ立ちました。

楽屋へ抱え込まれると同時に、死んだものと思って騒いでいた粂吉が、ひょっこり大部屋<ruby><rb>格</rb><rt>かく</rt></ruby>の娘<ruby><rb>連</rb><rt>れん</rt></ruby>をつれて出たので、

「あれ？」

と<ruby><rb>呆</rb><rt>あ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>にとられたまま、居合せた大勢の者は開いた口がふさがらない。

「どうしたんです太夫さん」

一同が足元から顔までじろじろ見上げるのを笑いながら、

「どうもしやしないよ、この通りさ」

「へえ……よく何ともなかったもンですね、こりゃ不思議だ」

と、さらに驚きを新たにして、ガヤガヤとお粂を取巻いているところへ、迎えを受けて飛んで来た外科医者も、それには及ばないとお断りを食う始末に、いよいよ今の一瞬の騒動が、たれの頭にも夢としか思い出されません。

ところで、それ見やがれといわんばかりに、息を吹ッ返して起き上がったのは、大勢に袋だたきにされて、へたばッていた総髪の男で、

「アー<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>え、こいつら、血迷いしやがって、ひどい目にあわせやがった」

すると、側に食い止めていた<ruby><rb>伝法肌</rb><rt>でんぽうはだ</rt></ruby>の町人も、一緒になって、

「どうだ、これでも何か文句があるのか」

と、息巻きました。

お粂は、総髪の男に向って、

「どうしたのさ、馬さん」

「どうもこうもないよ、おれを捕まえて、太夫さんへ短刀をぶつけた仲間だといやがるんだ。イヤ、飛んでもない飛ばッ散りさ」

「そりゃ気の毒だったね。まあ何しろ、今夜で無事にこの小屋も打ち上げたわけだから、お祝いに、何処かで一杯おごりましょう」

「そうでもなくッちゃ助からねえ」

「だれか、駕を頼んでおくれな。<ruby><rb>川辰</rb><rt>かわたつ</rt></ruby>まで」

川辰とは、城下で一流の料亭です。あぶなく死人を戸板で出すところを、吉凶転じて大変な景気。

一座こぞって川辰へ乗りこみました。

そこへ太夫元や何やかが見舞に来る。そして来たほどの者が、すべて事の真相が反対なのに驚き呆れない者はない。

それでもまだ川越の城下では、<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の嵐<ruby><rb>粂吉</rb><rt>くめきち</rt></ruby>が舞台で倒れたという評判が<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>にひろがって、何処もかしこも、その噂ばかりを耳にするくらいだとは、駆けつけて来た一人の男の話です。

それは二階の大広間のこと、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>ではべつに小座敷を取って、一座の者とわかれて飲んでいた最前の総髪と伝法肌が、

「なあ、伊兵衛、今夜の狂言は首尾よく当ッたな」

「あんまりうまく行き過ぎてやがる。お粂のやつも運がいいや、あれが一本、顔の真ン中にでも当ッて見ねえ」

「事だな、あははは」

「あの騒ぎが本物になるところだ」

「こうなると、やっぱり、馬春堂先生の<ruby><rb>易断</rb><rt>えきだん</rt></ruby>も、ちょっと<ruby><rb>端倪</rb><rt>たんげい</rt></ruby>すべからざるものだろう。おほん」

タンゲイの語意が、伊兵衛には素直にのみこめなかったものですから、話はとぎれて、盃に手が出る。

<ruby><rb>説</rb><rt>と</rt></ruby>きおくれましたがこの二人の人間は、すなわち道中師の伊兵衛とそして馬春堂先生であります。

九死に一生を得て、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の御隠家様の屋敷を脱した先生と伊兵衛が、中仙道筋を歩き廻って、この川越に来合せたのは、あながち偶然なことではない。

ところでこの二人が、お粂を種にして、一狂言書いたには、なかなか面白い<ruby><rb>機関</rb><rt>からくり</rt></ruby>があって、その発端と<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>はこういう訳。

――まだ興行の<ruby><rb>中日</rb><rt>なかび</rt></ruby>の頃、千束の稲吉とその組の者とが見物のなかに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れ込んで、お粂を<ruby><rb>刺殺</rb><rt>しさつ</rt></ruby>する相談をしているところを、後ろのむしろの間からのぞいていた眼がありました。

今思い合せると、あれが、伊兵衛か馬春堂であったものと見える。

その翌日一本の手紙が<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>のお粂に届きました。見ると馬春堂とあるので、江戸表にいた頃から気に食わないやつ、何をいって来たかと眉をしかめて読んでみると――です。

お前を殺そうと狙ッている者が、毎日小屋へまぎれ込んでいる。日本左衛門の手下<ruby><rb>千束</rb><rt>せんぞく</rt></ruby>の稲吉と五、六人の子分だ。わしと伊兵衛でそれとなく邪魔をしているが、お前の方でも気をつけるがいい。委細はそのうち。

<ruby><rb>頓首</rb><rt>とんしゅ</rt></ruby><ruby><rb>再拝</rb><rt>さいはい</rt></ruby>

こんな調子に書いてある。

注告のしてが馬春堂なので、お粂も半信半疑でしたが、日本左衛門がという一点が何しろ気味わるく思われて、その日から人知れず衣裳の下にも真綿の肌着をきこみ、太夫の部屋から小屋への往復にも、充分警戒を怠らなかったのです。

で、千束組の暗殺の手もつけ入る隙がない上に、見物を装って小屋へ紛れこんでみても、いつも伊兵衛と馬春堂がそれとなく見張っているので、とうとう千秋楽の日に、投げ短刀の放れ技で、満目<ruby><rb>環視</rb><rt>かんし</rt></ruby>のなかでお粂を殺してみせようと計りましたが、かれに用意があったため、伊兵衛と馬春堂の書いた狂言は、今も彼等のいっている通り、あんまりうまく当り過ぎました。

「だが、ばかにしていやがる、命の恩人を下座敷に置き忘れておいて、お粂のやつはいつまで何をしているんだ」

やがて馬春堂は、<ruby><rb>茹</rb><rt>ゆ</rt></ruby>で上がった<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>のようになって、

「アアこれこれ、女中ども、女中ども」

と、野暮にぽんぽん手を鳴らしました。

<ruby><rb>粂吉</rb><rt>くめきち</rt></ruby>をここへ呼べと、馬春堂か何かしきりと女中にクダを巻き初めたので、伊兵衛は外聞をはばかりながら、

「おい、よせよせ馬春堂」

「何がよせだ、お粂がここへ挨拶に来ねえという法はない。命の恩人じゃないか、わしやお前は」

「分ったよ、分ったよ」

「一応の礼に来ないというのは怪しからん。誰のために今夜のあぶない所が無事に助かったと思う？　エ？　伊兵衛」

「おれに文句をこねたッてしようがあるめえ」

「だ、だから、粂吉をここへよこせと申しているんじゃないか。太夫もへッたくれもあるものか、馬春堂先生が用があるといって来いッ。こ、こ、<ruby><rb>独楽廻</rb><rt>こままわ</rt></ruby>しのお粂をちょッとよんで来い」

と、先生は、しゃッくりをしながら呶鳴っております。

二階の大一座のくずれた頃を見計らって、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ抜けて来た粂吉は、持て余している女中のうしろから顔を出して、

「まあ、大変な<ruby><rb>御権式</rb><rt>ごけんしき</rt></ruby>だね」と、笑って、

「粂吉がごあいさつにまいりましたから、<ruby><rb>馬大尽様</rb><rt>うまだいじんさま</rt></ruby>、どうか少しお静かにお願い申しましょう」

と、伊兵衛と馬春堂の間に坐りこみました。

先生は大いにテレて、

「まあ、粂吉太夫、御座あらせられましたネ」

「ハイ、おん前に候」

――と粂吉も人を食って、

「ずいぶん久し振りだわねえ」

と、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のおまけに先生の背中をどやしつけました。

それで、計らずもしゃッくりの止まった馬春堂は、けろりとした酔眼をお粂の姿に改めて、

「そうそう、今年の正月、水門<ruby><rb>尻</rb><rt>じり</rt></ruby>のお前の家でつかみ合いをやって、あの率八の奴に<ruby><rb>寒</rb><rt>かん</rt></ruby>の水を浴びせかけられたきり、会わなかったんだね」

お粂もその時の事を思い出しておかしくなりました。当時、お粂とこの二人とは、何となく気まずい間がらでありましたが、日本左衛門とは縁が切れ、金吾のそばからは離れているお粂であってみれば、伊兵衛や馬春堂がこの女に敵意を持つ理由もなく、お粂もこの二人を目の<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>に憎むほどの筋もない。

そこで。

冗談は冗談として、過日の注告や、今夜のことを改めて礼をいうと、馬春堂はそれですっかり虫の納まったふうですが、伊兵衛には胸に一<ruby><rb>物</rb><rt>もつ</rt></ruby>があるらしく、

「なに、礼なぞには及ばねえことだが、おめえ、この先の興行を一体どうして打つつもりだい」

「この先？」

「そうよ！」と伊兵衛は<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>に、

「あぶねえのはこの先だ、いろいろの事情を聞けば、日本左衛門はどうしても、おめえを殺さずにはおくまいと思う」

「それを思うと、<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>ゃ、いやになってしまうのさ。いつまで、執念ぶかく私を困らすつもりなのだろう」

「しかたがねえ、蛇を食ったむくいでね」

「<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いておくれ、今じゃこの通り、旅芸人にまでなり下がって、それどころの身の上じゃないよ」

「だが、今さらなんといったところで、千束の稲吉は、日本左衛門からいいつけられたところを、やり遂げるまでつけ廻すにきまッている。この川越を打ち上げて、次へ行けばその土地へ、そこで殺せなければまた次へ」

なるほど。

そういわれて見ると、今夜の無事を祝ってはいられません。――お粂は伊兵衛のことばを聞くにつれて、思わず気が沈んで来ました。

お粂の弱みを突いて、うまく話の水を向けた伊兵衛は、

「仮に日本左衛門のことがないにしても、これから先の旅先で、女ばかりで興行して歩くうちには、ずいぶん難儀が多いものだ」

と、親切顔に、うまく話を取り結ぶところへ、馬春堂もそばから<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>よく<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打って、

「そうとも、だから大概な小屋には、やくざな浪人の用心棒が、ひとりや二人は必ず楽屋にころがっているものだ」

「どうだいお粂、実あおれ達も、例の一件で、当分江戸から足を抜いている体だ。一ツその用心棒格で、おめえの一座を見てやろうじゃないか」

「よかろう、それは是非ともそうありたいものだて」

と、馬春堂は自分が相談をうけているようにのみこんで、

「さしずめ、馬春堂先生を軍師とし、伊兵衛を旗本として連れてあるけば、嵐粂吉の一座も天下に怖いものなしじゃないか。――なあに、場合によれば、わしが木戸へ坐り、伊兵衛がお手の物の笛ぐらいは吹くさ」

――などとしきりに打ち<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>けて来るので、お粂も馴れぬ興行ではあり、かたがた日本左衛門の手先につけ狙われていると思えば、この二人まで敵に廻したくはありません。

とやかくして、次の興行地へ旅立つ支度をしている間に、川越の景気を聞き伝えて、例のいかもの部屋の太夫元へ、粂吉一座を買いに来る地方の飛脚が<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>であります。

いつのまにか、粂吉の番頭とも用心棒ともつかず部屋へころがり込んだ馬春堂と伊兵衛が、何のかのと、それらの相談にも口を出して、やっと取り極めたのが甲府で十日百七十両三<ruby><rb>歩</rb><rt>ぶ</rt></ruby>という嫌に切りつめた約束。

「田舎にしちゃ思い切って気張った方だ、どうです、ここへ一つ乗り込んでは」

と、話が極まッて、途中二、三ヵ所の宿場で打つ安い興行も引きうけ、一座はそれから甲州路を諏訪あたりから上田辺まで打ち廻って、中仙道をグルリと廻って来る方針と<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まる。

そこで。

一座は粂吉を初めとして、番頭格の馬春堂、用心棒の道中師の伊兵衛、若い娘芸人や<ruby><rb>出方</rb><rt>でかた</rt></ruby>や男衆などの小屋者、すべて、すぐッて十七、八名、

鷹の羽くずしの衣裳つづらを小荷駄の背中にのせて、お粂は例の<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>かぶりに、馬の鞍へ横乗りになり、あとの者も<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>や馬や、思い思いな旅<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いで、ふたたび川越から武蔵野の原をななめに抜けて甲州街道へこころざしました。

わずかなうちに、武蔵野の草もめッきりとのびている。

行くてにあたる甲州の山と<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>平野の間にかけて、白い雲の峰が高いのも、にわかに夏らしく感じられて、ムッとするような草いきれの広野を、<ruby><rb>気怠</rb><rt>けだる</rt></ruby>そうな人の足どりと馬の鈴が、同じような歩調をもって変化のない道を西へ西へと進みました。

やがてこの一<ruby><rb>行</rb><rt>こう</rt></ruby>が、かなり武蔵野の深くへかかった時、驚目に<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>する一人の女を見かけました。

それは。

一番初めに馬春堂が見つけたので、

「あれ……？」

と、一同に指さしたのが初まりで、みんな等しく足を止めて、その女に小手を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>したものです。

若い娘です。距離があるので、<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>の好し悪しはわからないが、何しろ、その姿はすばらしく<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い。

娘は一頭の白馬に乗って、手に、<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>の枝か何かを<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>に持っている。――初めは草深いあなたから、その半身が徐々に見え出し、やがて大きな輪をえがくよう武蔵野を駆け飛ばして来たかと思うと、程なく、一同の立ち止まっている先の小川を一気に跳び越えて、遙かあなたに、その黒髪を思うさま風に吹かせながら、次第に姿を小さくして行く。

「――なんてえお<ruby><rb>転婆</rb><rt>てんば</rt></ruby>な娘だろう」

と、さすが、ばくれん女のそろっている小屋者の女も男も、あきれ顔に見送って、しばしの汗ばみを忘れています。

それから、またボツボツと馬の鈴と人の足が前へ進み出してから、お粂はたれに話すともなく、

「あれはね、たしか高麗村の<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>とかいう<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の娘にちがいないよ。――ああいつか楽屋へやって来たろう、あの次郎という子供の主人さ」

そういって、あとは無口になりました。

馬の背にあるお粂の心には、いつか月江と金吾のことが胸苦しく考えられているふうです。

## <ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>越え

<ruby><rb>拝島</rb><rt>はいじま</rt></ruby>の丘のすそに、旗本でも住みそうな、古めかしい一<ruby><rb>構</rb><rt>かま</rt></ruby>えの屋敷がある。

野心家でそして野人的な、<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>の<ruby><rb>関久米之丞</rb><rt>せきくめのじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>がそれです。――そこは武蔵野の西端で立川の流れを越えれば八王子の宿に遠くありません。

「久米之丞殿。……お留守ですか。久米之丞殿」

門の跡はあるが門の扉はない。<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>の面影はあるが塀の<ruby><rb>堺</rb><rt>さかい</rt></ruby>は雑草で<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>まっています。その関の屋敷のなかへ、今こういいながら玄関をのぞいて裏へ廻ったひとりの男がある。

元より門番とか用人とかいう使用人も家族もない屋敷なので、男はずかずかと裏庭へ廻って行って、

「お留守でござるか、久米之丞殿、関殿」

と、<ruby><rb>繰返</rb><rt>くりかえ</rt></ruby>してキョロキョロしている。

――と、やっとその声を聞きつけたらしく、久米之丞の姿が庭の奥で、

「やあ」

と、いいながら<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を持ってのび上がりました。

「やあ」

と、こっちも同じ言葉を返して、

「そんな所においでになったのか、何をしておられるので？」

と遠慮なく寄って行く様子です。

男は<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>に仕える<ruby><rb>高麗村郷士</rb><rt>こまむらごうし</rt></ruby>のひとりで、三日にあげず、御隠家様の御機嫌取りと、月江の顔を見に通うのを怠らない久米之丞とは、元より<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>てのない懇意であります。

「おや、これはめずらしい」

高麗村郷士の男は、そこへ近づいてゆくと彼の手にある鍬と彼の顔とを見くらべて、

「あなたが庭木いじりをなさるなんて、かつて見たこともないのに、一体、どういう加減で土いじりなぞをお初めなさるか」

「ばかにしてはいかんよ――」と久米之丞は、あの物慾満々な大きな鼻を笑い広げて、

「拙者だって、そう<ruby><rb>没風流</rb><rt>ぼつふうりゅう</rt></ruby>じゃないつもりだが」

「そうですな、そういえばこのお住居なぞは、実に風流きわまるものでござる。しかし、鍬を持って土を返している久米之丞殿の姿を拝んだのは、何せ今日初めてなので、ちょッとばかり異様に感じた次第でござる……。で、何をお植えなさるので？」

「草花の<ruby><rb>土床</rb><rt>とこ</rt></ruby>を作ろうと思ってな」

「へえ、草花の土床を？」

「そういちいち驚く顔をいたすなよ」

「いや何、まことに、しおらしいお慰みと存じます。ですが、草花の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>をおろすのは、たいがい春か秋の彼岸をよしと伺っていますが」

「そうかな」

「そうかなは心細い。それで何をお<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>きになるつもりですか」

「異国の草花、<ruby><rb>鶏血草</rb><rt>けいけつそう</rt></ruby>の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>をまいて、一つ、この秋頃に咲かしてみたいと思っているのだ」

「なるほど、異国の草では、種子の季節もよく分りますまい」

「まず、一、二度は、どうせしくじるものと覚悟している」

「鶏血草とは珍しい名前ですな、して、そんな、種子をどういう所からお手に入れなすッたので」

「うるさいなあ」

と、久米之丞は鍬を置いて、

「こっちの<ruby><rb>詮議立</rb><rt>せんぎだ</rt></ruby>てばかりしておって、一体、今日は何しに参ったのだ」

「オオ」

と、郷士の男は頭をかいて、

「失礼失礼、すッかりいうのを忘れました。実は、突然ここへ急いでまいったのは、かねて御隠家様のおいいつけで、見つけ次第に持って来いと命じられている、例の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の話で、伺いました次第で」

「なあんだ、夜光の短刀の方じゃないのか」

「はい、その方は、とても一朝一夕には」

「そうだ、そうたやすく<ruby><rb>端緒</rb><rt>たんしょ</rt></ruby>のつくはずがないわけだ。――ところで、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>がどうかしたかな」

「今日、何気なく、八王子の宿まで参りましたせつ、意外なことを耳にしたので、何より久米之丞殿に、早速お知らせした方がよかろうと考えて伺いました」

「ウム、次郎の<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くした、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が見つかったのか」

「――と申す次第でもございませんが」

「くどいな話が。……分りよく手短にいってくれ」

「ある女が、それを持って、八王子の千人町へあらわれたのでござる」

「さては、鍛冶小屋に泊まったあの女が……」

といいながら久米之丞は、ブーンと来た熊ン蜂に顔をしかめて、手裏剣をかわすように顔を横にしました。

その郷士の話に依りますと。

鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をたずさえて、八王子の千人町に姿を見せた怪しげな娘は、同所の<ruby><rb>田能平</rb><rt>たのへい</rt></ruby>という質屋にはいッて出る時には、はいッた時と<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>がまるで変って出て来たというのであります。

近ごろ、関久米之丞は<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人との約束から、夜光の短刀のことについて、その<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>や考証に他念のない折からでありますが、それと聞いては捨て置くわけにも行きません。

「よろしい、早速行って調べて見よう」

奥へはいって行ったかと思うと、やがて、裾べりの着いた<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>に、<ruby><rb>海老巻</rb><rt>えびまき</rt></ruby>の<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>しゅざや</rt></ruby>をぼっ込みながら戻って来て、

「千人町の<ruby><rb>田能平</rb><rt>たのへい</rt></ruby>だな」

「あの町通りに、土蔵造りでただ一軒の質屋でございますから、すぐに分るはずで」

「そうか」

と<ruby><rb>藁草履</rb><rt>わらぞうり</rt></ruby>を突ッかけて、

「暑そうだな、今日は」と、雲の峰を仰ぎながらいう。

縁の隅にあった<ruby><rb>藺</rb><rt>い</rt></ruby>笠を頬にしばりつけて、

「じゃ、御隠家の<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>様には、その次第を話して、久米之丞が参りましたからには十中八、九取り返してまいりますとお答え申しておいてくれ」

「承知しました」

そして、水口の前を通る時、

「<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>や、今夜は帰れぬかも知れない。いや、都合によると、四、五日はどうか分らんからそのつもりでな」

と薄暗い勝手のなかへ呶鳴る。

<ruby><rb>蛞蝓</rb><rt>なめくじ</rt></ruby>のように流し元で働いていた婆やが、ちょっと顔を出しました。久米之丞はそういったきり、肩をそびやかして<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>なしの門をサッサと出て行く。

「あら！」

その出会いがしらです。

銀毛の馬からヒラリと降りて、その門柱へ手綱をつないでいた下げ髪の娘が、明るい声で彼の前に立ちました。

「やあ、月江様で」

「久米之丞」

「は」

「何処かへ出かけるところと見えるのね。じゃ、また来ましょう」

「暫く、暫く」

と、久米之丞はあわてて、

「出かけると申したところで、さして、急ぐ程の事でもござらん。ま、ま、どうぞ暫く御休息を」

「いいえ、私もべつに、用があって来たわけでもないのだから」

と月江は、ふさふさした黒髪を指ですいて、毛の根に沁みる涼風に眼を細めています。

久米之丞は、ふと、その眼元にウットリと気を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られていましたが、八王子への急用は忘れたように、

「まあ<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しいではございませぬか、この見苦しい<ruby><rb>茅屋</rb><rt>ぼうおく</rt></ruby>へ、お嬢様からお運び下さるなんて、光栄とも<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby><ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>とも、いいようのない<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しさでござる」

「そうかい」

と、月江の方には、さっぱり感激がなく、

「どうしたのだろう……私も、ほんとに困ってしまった」

「何がそんなにお困りでござるか。それ程のおなやみを、この久米之丞にお話がないなんて、お恨みに存じます」

「じゃ、お前も探してくれればいいのに」

「でも何事か分りませんもの」

「しらばッくれて、だから、お前は嫌いです」

と、手きびしく悪たれをいって、ツンと横を向きました。

「……ははあ、分りました。次郎のことでございますな。次郎をお探し遊ばしているので。それは内々、手前も心配いたしているところですよ。え、お嬢様」

「嘘をおいい！　お前は次郎なんか死んでも帰らなくってもいいものだと思っているのにちがいない」

「毛頭そんな考えではござらん。その証拠には、オオ、今も今とて、これから八王子まで参ろうとしているではございませぬか」

月江は少し機嫌を直して、

「え、次郎が八王子に居たッてかえ？」

「いいえ、そうじゃございませぬが、その、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を持って失せた怪しい女が千人町の質屋の店に見えましたそうな」

――なんだ、つまらない！　という風に、月江は<ruby><rb>塀際</rb><rt>へいぎわ</rt></ruby>の木の葉を<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>って、

「それがどうしたのさ……」

「物には順序がござりましょう、まず、次郎の<ruby><rb>失態</rb><rt>しったい</rt></ruby>はあの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>で、仮面が返らぬうちは、おそらく御隠家様も、彼の勘当をお許しにはなりますまいし、次郎もおめおめ姿を見せますまい」

月江は、不意に、元の馬の鞍へ飛び乗って、

「久米之丞や、私も、一緒にそこへ行って見ましょう」

突然なので、彼もあわてながら、

「え、八王子へ」

「次郎の為になることだもの、不親切なお前にまかせておいては<ruby><rb>心許</rb><rt>こころもと</rt></ruby>ない」

「ひどいことを仰っしゃる！」

「案内をしておくれ！」

ピシッと萩の鞭が鵈る。

と、同時に、黒髪と両の袖が風に浮いてうしろへ<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>く。

驚いたのは久米之丞です。案内をしろといっても、一方は逸足の駒、こっちは<ruby><rb>徒歩</rb><rt>かち</rt></ruby>、

「月江様！　月江様！　もしお嬢様」

手を振りながら馬上の人を追って、汗みどろに炎天の立川の河原まで引きずられて行くのでした。

灯ともし頃の八王子の町を、下げ髪の美女が銀毛の駒に乗り、その供として<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>の屈強な侍が付いて歩く奇観に、往来の目が<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ります。

しかもその駒が、千人町の<ruby><rb>田野平</rb><rt>たのへい</rt></ruby>という、質屋の門口についたから人目をひく。

まさか妙齢の<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>が、馬に乗って<ruby><rb>質</rb><rt>しち</rt></ruby>入れにも来まいに、一体なんだろうと立ち止まる者を残して、乗りすてた駒を<ruby><rb>塗籠</rb><rt>ぬりごめ</rt></ruby>の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ、美女と侍は<ruby><rb>暖簾口</rb><rt>のれんぐち</rt></ruby>から戸のなかに消え込みました。

「これ、召使いども、当家の亭主が居たらこれへ出してくれ、拙者は<ruby><rb>拝島</rb><rt>はいじま</rt></ruby>の関久米之丞と申すものだ」

こんな所へ来てまでも、野侍を<ruby><rb>剥出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>しに物をいう久米之丞の身ごなしが、一緒に来た月江には、ひどく不快に感じられます。

で、黙ってそばに腰掛けていますと、

「番頭、これ、亭主は居るのか居ないのか」

と、久米之丞はいよいよ月江の嫌いな<ruby><rb>濁</rb><rt>ど</rt></ruby>す声で、

「少々取りただしたい儀があって、わざわざ<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>のお嬢様同道でまいったのじゃ」

「只今。……ええ只今主人に申し告げておりますから、少々これにて」

何の用事かと驚いているらしい手代や小僧が、しきりに敷物をすすめ<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>盆を出し、二人の姿をじろじろと帳場の隅から眺めている。

まもなく、それへ来た田能平の主人。

<ruby><rb>質物</rb><rt>しちもつ</rt></ruby>を持って来る客出入りに都合がわるいと考えましたから、上へあげて、久米之丞が話し出す用件を神妙に聞き終りました。

すぐ<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けた様子で。

「なるほど、仰っしゃるとおり、ちょうど今日の<ruby><rb>午頃</rb><rt>ひるごろ</rt></ruby>、そういう女の方が見えました。……左様で、年は十八か九、鼻の高い、眼の鈴のように張った、どうしてなかなか<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女でございました」

「して、当家へ参った用向きは？」

「やはり、その質物の御用でございました。……<ruby><rb>古渡</rb><rt>こわた</rt></ruby>りの<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の珠、帯止めや何かの金銀もの、それに着ているお召物など、身のまわりの物そッくりお預かりいたしまして、その代りに、手前どもの流れ物で、お間に合いになる<ruby><rb>柄合</rb><rt>がらあい</rt></ruby>のお<ruby><rb>召衣</rb><rt>めし</rt></ruby>や帯をさし上げました次第で、はい」

「ふーむ、妙な事をして行ったな」

「それがその……嘘か<ruby><rb>真実</rb><rt>まこと</rt></ruby>か存じませんが、道中で路銀を失くしたので困るから、身の<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りの物を払って、差引きの代金が欲しいというお話。――で、お<ruby><rb>髪</rb><rt>ぐし</rt></ruby>のものや何やかや<ruby><rb>細工類</rb><rt>さいくるい</rt></ruby>に金目なものがございましたので、<ruby><rb>剰余</rb><rt>あま</rt></ruby>り金<ruby><rb>拾</rb><rt>じゅう</rt></ruby>一<ruby><rb>両</rb><rt>りょう</rt></ruby>二<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>ほどお渡しいたしました」

久米之丞は心のうちで、もうてッきり<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>小屋に泊った女と<ruby><rb>見極</rb><rt>みきわ</rt></ruby>めをつけて、なお膝をすすめながら、

「して亭主。その節、衣類などのほかに、何かまた別な品物を質入れいたしはせぬか、その女が」

「と申しますと？　……どんな品物でございますな」

「されば、ここにおられるお嬢様のお屋敷から、<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>あって人に持ち出された、<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>だ」

「仮面？」

と、亭主はびッくりした顔をして、

「そういうお品物は、お預かりも致しておりませんし、その節お召し<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えなさいました時も、お持ちになっているようには見えませんでしたが」

「そんなはずはない」と、久米之丞は頑張って――「確かにその女が所持していたに違いないが」

「はて、ではたれか店の衆のうちで、それを見た者はありませんか」

と手代に聞いていると、ひとりの<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でっち</rt></ruby>が、

「旦那さん、いってもかまわないんですか」

「いいとも。わしが正直にお答え申しているのに、何をかくし立てする事があるものか」

「じゃ、いいますけれど、その鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>みたいな物を、あの女の人がかくして持っていましたよ。私も、変だなと思っていたんです」

「ほんとか」

「嘘なンかいやしません。着物を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>える時に、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から袂へ入れるのを、ちゃんと、見ていたんですから」

「それだ！　まぎれもない<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>」

と、久米之丞が<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの月江を見ますと、このかんじんな話をよそに聞いて、彼女はあらぬ方へ向いています。

――というのは、最前から、店先へのッそりとはいっていた編笠の侍が、笠のまま、ふところから一個の<ruby><rb>印籠</rb><rt>いんろう</rt></ruby>を出して、

「おい、これで二<ruby><rb>歩</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ほど貸してくれ」

と、手代の前へポンと抛り出したので、その<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>と印籠とを、物めずらしげに見較べたのでありましょう。

刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>を突いて、久米之丞はもう立ち腰になりながら、

「ところで、亭主」

「はい」

「もう一つ聞き置くが、その怪しげな女は、当家で<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えてから、何処へ行くといっていたであろうか」

――店先では、編笠の浪人が、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した印籠に質の<ruby><rb>値</rb><rt>ね</rt></ruby>をつけさせて、番頭を相手に何やら押し問答をしているふうでありました。

<ruby><rb>田能平</rb><rt>たのへい</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は小首をかしげておりましたが、やがて思い出したように、

「そういえば、店を出る時、<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>越えの<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>を聞いておりました。女の足では難儀でしょうか――などと申しまして」

「ふーム、では甲州路へ向ったな」

「左様かも知れませぬ」

小仏峠へ？

――久米之丞が、じッと思案顔をしていると、店先に腰掛けていた浪人の眼も、<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>のうちで異様な光り方をして、聞かぬ振りをしながら耳を澄ましているかに見えました。

「いや、邪魔をしたな」

と、久米之丞が突然に立ったので、月江も一緒に敷物をすべって、

「うるさい事をたずねて、気の毒をいたしました」

「いえ、どう<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>りまして。これ、おはき物がそろえてあるか」

と、主は店先まで送って出る。

そこの上がり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>に腰をすえていた浪人が、少し体を避けたので、

「ごめん遊ばせ」

と、月江は女らしく会釈をして、久米之丞と共に質屋の外へ出ましたが、二人がそこを出るとまもなく、浪人は、言い張っていた印籠を番頭の言い値にまけて、なにがしかの金を受け取ると、つづいて、田能平の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を出ました。

町は宵の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>。

もう土蔵の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>につないであった、月江の白駒は乗り<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>と共にその姿が見えません。

――と向うの葉柳の蔭に<ruby><rb>佇立</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた年配の武家が、質屋の門を出て来た浪人を待ち設けていて、

（ここだ、ここだ）

というふうに手招ぎをする。

黙って、向う側へ寄って行った編笠と、待っていた<ruby><rb>丸縁</rb><rt>まるべり</rt></ruby>の笠と、やがて肩をならべながら千人町の宵を歩き出しましたが、そのあとに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて二人の会話を聞いてみますと、

「――そうか、じゃあ今そこを出た二人は、あれから<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村へ戻らずに、すぐ女のあとを追いかけて行ったんだな」

「そうらしいよ、<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>へ向ったから」

「だが、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>にかけて、山越えもしやしめえ」

「今夜のうちに、麓の<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>まで<ruby><rb>捗</rb><rt>はか</rt></ruby>を取っておくつもりではないか」

「なるほど」

「ところで、こッちの方寸は」

「この質屋で姿を更えて行った女が、切支丹屋敷のお蝶ということが分った以上、何もあわてることはない」

「ウム、いわば袋の鼠だからな」

「<ruby><rb>悠</rb><rt>ゆ</rt></ruby>っくりと、高麗村の者に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行って、あの二人の<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>仕事の手際を眺めていようじゃねえか」

「じゃ、こッちはその上の手段とするか」

「そうよ」

と、一方の編笠は星を仰いで、

「小仏越えの道は<ruby><rb>長</rb><rt>なげ</rt></ruby>え……」

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>く如くいいました。

無論、これなん日本左衛門と<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門の二人。

川越の宿や扇町屋あたりの噂から、わずかな手がかりを得て、ここに、ようやく迷路の人――切支丹尾敷のお蝶の行く姿をみとめ、今は心にも多少、余裕があるふうです。

日本左衛門はお蝶の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をとるべく、また、<ruby><rb>久米之丞</rb><rt>くめのじょう</rt></ruby>と月江とは、お蝶の手から鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を取り返すべく、ちょうど同じ小仏の麓、小仏の<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>に宿を求めた晩――。

時刻にすればそれとは行きちがいに、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に向うその頃を、男も怖れをなす小仏越えに、ただ一人、足を向けてゆく不思議な<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>がありました。

ここは、旅をするほどの者がたれも知るとおり、甲州街道の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>で、<ruby><rb>相州</rb><rt>そうしゅう</rt></ruby><ruby><rb>津久井県</rb><rt>つくいけん</rt></ruby>と<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>の国の分水嶺でもあります。――小仏の名の起こるいわれは、俗説によると<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>にある小さな石地蔵によるともいい、あるいは峰の大日堂にもとづくとも伝説されている。

峠の<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しさ、幾曲りの道の気味わるさは、申すまでもありません。昼でさえ、巡礼の親子が殺されたの、侍が<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>になって降りて来たの、女の悲鳴を<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>に聞いたのという嫌な噂が、昔から小仏の山の名と何かの因縁を結んでいるように、この往来に絶えたことがない。

かかる山ですから好んで夜旅を試みる者もなく、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>は<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>より早く暮れ、星を見れば駒木根川へ落つる水の音と、高尾に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>むという<ruby><rb>閑古鳥</rb><rt>かんこどり</rt></ruby>の鳴く声のほか、絶えて往来を見ないのが常です。

だのに――殊さらに宵も過ぎた時刻を計らって、この小仏へさしかかって来た女の心事こそ怪しむべき限りです。

しかも、とぼとぼと小仏へ向ってゆく姿を、星明りによく見ますと、<ruby><rb>蜀江</rb><rt>しょっこう</rt></ruby>模様の帯を高くしめ、振りのたもとを永く曳いて、<ruby><rb>紅緒</rb><rt>べにお</rt></ruby>の<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>もその<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>にかくれていようという――まことに山越えの旅にはふさわぬ身支度で、顔さえも、<ruby><rb>口紅</rb><rt>べに</rt></ruby>や<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の薄化粧をほどこしているさま、敢て魔神の<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いを身にうけんとして来た化粧としか思われません。

それは、切支丹屋敷のお蝶でした。

十九の春まで、ころびばてれんの娘として、<ruby><rb>茗荷谷</rb><rt>みょうがだに</rt></ruby>の異人屋敷に縛りつけられていたのを、その宿命の牢獄を破って、見も知らぬ広い世間の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ、あてどなく<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>い出した混血児のお蝶であります。

「水……」

喉が<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>きました。

氷のような冷めたい風に吹かれながら、五体は熱く、ねっとりと汗ばんでいる。――で、どこかに流れる水音を聞いて、お蝶は急に焼きつくような渇きをおぼえました。

「ああ……冷めたい……」

岩根の流れをすくって、お蝶は初めて山の肌と同じ寒さをおぼえたように、ぶるッと、身をふるわしたようでした。

でも、まだ後ろを<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>れば、八王子、小仏村、小原、駒木根あたりの灯は近く見えて、越えようとするこれから先の山容は、<ruby><rb>岸々</rb><rt>がんがん</rt></ruby>とした難所<ruby><rb>切所</rb><rt>せっしょ</rt></ruby>を目の前に見せている。

「とても、今夜のうちには越えられそうもない」

お蝶も今はそう思うのでした。

また、そうしてまで、道を急がなければならない理由も彼女にはありません。

では、何で、ふつうの旅人も大事をとる山越えに、夜を選んで来たかというと、それはむしろお蝶には安心な方法で、彼女の旅は、昼よりも夜こそ<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>とできるからです。

人は夜を怖れますが、お蝶は昼が怖ろしい。<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>に着けば必ず役人の眼が光っているし、山にかかれば妙な男が話しかける。駕をすすめる駕かき、馬を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いる馬方、それらの道中人足の荒ッぽいことばも、みな自分がころびばてれんの娘と知って脅迫するように思われ、ただ<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>る往来の人の目も、自分を混血児と知って指さすように気がちぢまる。

それよりも、むしろ夜の旅こそ、お蝶にとっては気楽でした。また生来十二、三の少女の頃から、お蝶は、人のように夜を気味わるがらない<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>でもありました。あくまで、お蝶は<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に生きる美しい<ruby><rb>毒蛾</rb><rt>どくが</rt></ruby>のような生まれ性なのかも知れない。

とにかく、お蝶はそうして、甲府へ行こうとしています。

「甲府へゆけば、小さい時、私に乳を飲ませてくれた<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>やが居る」

そんな、おぼろげな目あてです。しかし、彼女の本心をのぞいて見ると、その乳母をしたって行く目的よりも、江戸を離れよう、江戸から遠くへ身をかくそう――そうしたものに、追われる気持に、追われて歩いているのです。

――やがて、少し道が胸突きになる。

お蝶の歩く星の下はいよいよ暗く、いよいよ<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しく、岩と<ruby><rb>熊笹</rb><rt>くまざさ</rt></ruby>とにせばめられて来ます。――すると、

「オオ――イ、オウ――イ」

遙か下から、<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>に返って呼ぶ声がしてきました。

彼女は、ふと足を止めて、

「……私を呼ぶのかしら？」

騒ぎもせず、そういって後ろの谷をのぞきましたが、その時見ると、薄化粧のお蝶の顔は、いつか、<ruby><rb>金瞳</rb><rt>きんどう</rt></ruby>青眉のおそろしい<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>に取り変っていました。

お蝶は暫く立ちすくみました。

しかし、耳のせいか、べつな者を呼ぶのであったか、程なくその声もかき消えて、足元の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に遠い渓流の音を知るのみであります。

で――彼女はまた小仏の上へ向って、そのまま歩き出しました。<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>恐ろしき般若を顔に<ruby><rb>仮</rb><rt>か</rt></ruby>りたままで。

肉眼に見えぬ夜の空も、絶えず動いているものとみえまして、麓あたりでは<ruby><rb>漆壺</rb><rt>うるしつぼ</rt></ruby>のようだったのが、いつか、月こそないが冴え渡って、一粒一粒に星の光が<ruby><rb>妍</rb><rt>けん</rt></ruby>を競っているようです。

何となく、お蝶は胸に思いました。

「ああ、今年の<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>も、もう近い」――と。

去年の星祭りには、七夕の歌を書いて、あの<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷のなかの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>に立てた。<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の二官は、日本のああいう風俗や行事を、欠かすことなく真似ていた。――それも夜光の短刀を求める目的のために、飽くまで、幕府に帰順を見せる配慮ではあったろうが。

その父も、今は天国とやらに帰ってしまった。――あるいは、その<ruby><rb>妄執</rb><rt>もうしゅう</rt></ruby>が妖星となって、こうして迷い歩いている、私に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて廻っているかも知れない。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とう</rt></ruby>さん、堪忍して下さい」

空を仰いだ般若は胸で<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びている。

「ゆるして下さい、お父さん。――とてもお蝶には、あなたが最期の時に仰っしゃった、夜光の短刀なんて、探し出す力はございません。……オオ怖い星の目！　お父さん、あなたは私を睨みますか」

小仏の夜路もこわいとは思わないお蝶が、なぜか、ぶるぶると足をふるわせて、

「睨まないで下さい、お父さん。……だって私は<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>ですもの、ころびばてれんの娘ですもの！　十九の年まで広い世の中を知らずに来た女ですもの！　……どうして夜光の短刀を探し得ましょう。無理です、無理というものです。――それなら、なぜ死なぬかと仰っしゃいますか。早く<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の所へ来いとお呼びなさいますか。……ああ、私にはそれも出来ません……。お蝶は死ぬのも嫌なんです。どんな思いをしても生きられるだけ生きつづけたい」

夜は一足ごとに深まります。

聞く人もないと思うもの故、遂には、思わず、独りごとの声に出て、歩みつ仰ぎつ、髪そよがせた<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>がヨヨと泣くのでありました。口を<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>いた般若が四方の暗に訴えるのでありました。

しかし。

たれが彼女の泣き声に答えましょう。たれが彼女の訴えに正しい裁きを聞かせましょう。

風と足。

天地はそれあるばかりです。

<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>は<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>とうなだれました。世に生きとし生ける者のなかに、<ruby><rb>孤寂</rb><rt>こじゃく</rt></ruby>！　真実の独りぼッちである、お蝶というあわれな<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>の姿を、吾と姿とのけじめを忘れて、暫く見つめているふうです。

シュクッ、シュクッ……と般若が泣く。

<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の裏は濡れています。それでもお蝶は、脱ごうとしません。

この仮の顔は、彼女が武蔵野の草深い所から、夜旅をつづけて来た唯一の護りでありました。昼は宿に寝、夜ばかり歩く若い女の身を、無事に護ってくれたのはこの鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>です。

野路、山路、あるいは真っ暗な松並木で、<ruby><rb>偶〻</rb><rt>たまたま</rt></ruby>悪い男に出会っても、この<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をつけて、道のまン中を静かに歩いていれば、向うで悲鳴をあげて逃げても、指をさす憂いがまったくありません。

――その後、<ruby><rb>女影</rb><rt>おなかげ</rt></ruby>の原に通り魔が出るという噂が立ったのを聞いて、彼女は、いよいよこの<ruby><rb>化身</rb><rt>けしん</rt></ruby>の効果を信じておりました。

さて。

そうしてお蝶が峠の二合目あたりを辿って行くうち、<ruby><rb>信玄沢</rb><rt>しんげんざわ</rt></ruby>という低地を、近廻りして、何者でしょうか、ざわざわとかき分けて来る者がある。

影をかぞえると、三人か、四人。

それは、宵に若い女の夜立ちを見つけて、幸運の抬い物でもしたように、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>から<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来た<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>人足とおぼしく、

「ほい、また<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ路だ」

「どッちへ行きやがったろうか」

「女の足だ、先は<ruby><rb>裏道</rb><rt>うら</rt></ruby>の嶮しいところとも知らずに、その<ruby><rb>平地</rb><rt>ひらち</rt></ruby>な方へ向ったにちがいねえ」

などと、<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えたる狼のように、女肉の<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ慕って、御苦労にも、この山中へ後を追って来たものです。

ですが、彼等にしてみれば、この小仏の日ごとに往復している帳場なので、難路も一<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>難路ではありますまい。殊に、麓でチラと見かけた、あのくらいの<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>の<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い玉というものが、そうザラにこの辺で拝めたものではありませんから、それを知って、指を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて過ごしては、<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>稼ぎの<ruby><rb>冥利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>につきる。

お蝶は、最前下の方でオ――イという声を確かに耳にしましたが、まさか、そんな女肉の<ruby><rb>猟人</rb><rt>かりゅうど</rt></ruby>が、くッ付いて来るとも思わず、幾曲りの道のつづくにまかせて歩みつづけているのでした。

しかし、いつまた、忽然と物騒な男に会わない限りもないので、例の<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>は顔から離しません。<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>に光る般若のひとみは、あらゆる<ruby><rb>魑魅魍魎</rb><rt>ちみもうりょう</rt></ruby>をにらみすえて、青い星光と冷ややかな風とのなかを、静かに、道を拾って行きます。

「あ、ここが小仏の石地蔵かしら？　……」

ふと見ますに、そこに一<ruby><rb>宇</rb><rt>う</rt></ruby>の堂がある。

けれど、峰の地蔵にしては、ここはまだ、四、五丁の胸突きを越えたばかりの小平地で、小仏岩までの峠道二十六丁、中の茶屋までの十二丁も前に残っておりますから、<ruby><rb>按</rb><rt>あん</rt></ruby>ずるにその堂みたいなものは、昔、武田衆が武相乱入の折に人馬千魂の<ruby><rb>弔</rb><rt>とむら</rt></ruby>いをしたという<ruby><rb>経塚</rb><rt>きょうづか</rt></ruby>の<ruby><rb>名残</rb><rt>なご</rt></ruby>りであるかも知れません。

そこへ、お蝶は足を止めました。

実はもう足もかなり疲れたので、この経塚に夜を明かし、また<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>の夜を待ちたいのですが、こんな所では昼の眠りも食べ物も求められないし……。

まあ少し休んで、夜の白む頃までに、甘酒茶屋のある所まで行き着こう。あすこには、気の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い老夫婦が<ruby><rb>褄</rb><rt>す</rt></ruby>んでいるということ。そこならば、充分、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>の昼は休むことができる。

「それにしても、その甘酒茶屋まで、もう何丁あるのかしら……？」

堂の縁に腰を下して、上の方を振仰ぎました時、何かパラパラと彼女の顔に音がしました。――<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を打った松のしずくです。

<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>はとにかく、髪のぬれるのを気づかって、お蝶はふとそこに落ちてあった、幕のような、白い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を頭からすッぽりと<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りました。

被ってみると、それは、堂の<ruby><rb>扉代</rb><rt>とびらがわ</rt></ruby>りに村人が作ったものでしょう、<ruby><rb>千魂塚</rb><rt>せんこんづか</rt></ruby>と書いてある白麻の<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>。

千魂塚――

墨黒く、筆太くそう書いてある。三ツの大字が、あざやかな模様の如く、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の頭から肩にかけてタラリと被さりました。

すると――その時、何処かでガサゴソと木を分けて来る人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がする。般若はキッと耳を澄まして、明らかにそれを、

三、四人の人声と知った様子です。

「誰だろう？」

お蝶の神経は<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>げて来ました。そして、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の、沢からオ――イと呼んだ声が、ふたたび耳によみがえってくる。

とこうするまに、いよいよ荒くれな男どもの声が、すぐその辺まで近寄って来たので、彼女は腹をすえて、白麻の<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を被ったまま、パラパラ、身に降る松のしずくを浴びて、じッとそのままうつ向き込んでしまいました。

「おう、居たぜ」

と、うしろの仲間を誘いながら、のッそりと、そこに立ったのは最前の<ruby><rb>立場人足</rb><rt>たてばにんそく</rt></ruby>。

胸毛をザラザラさせた大の男が三人、いやしげな笑みを交わしながら、堂の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下に、一個の<ruby><rb>春日人形</rb><rt>かすがにんぎょう</rt></ruby>を腰かけさせたような、お蝶の姿を見とれていましたが、

「おい、娘さん――」

そのうちに中の一人が猫なで声で、

「さっきからおれ達が、あんなに呼んでいるのに、聞こえなかったかい？」

と、三方から、薄気味わるく寄って来ました。

――お蝶は頭から白麻の<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>にしたまま、何を問われても、返辞をせず、顔を上げず、手出しをされれば最後のこと、それまではどうする気か、じっとしていて見ようと決心していました。

で――<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>と見たら、一つかみの勢いだった好色の<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>どもも、お蝶が顔もあげないで落着き澄ましているさまに、何となく側へ寄りかねて、遠巻きの<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>に腰をかがめ、

「ハハア、娘さん、様子を見るにおめえは、ただの町人の御息女じゃありませんね。道理で、女ながらも<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>ッ玉のすわっているはずだ。――が、それにしても、この<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>の小仏を、何処へゆくつもりか知らねえが、女一人で越えるなんて、無茶にも程があろうじゃねえか」

と、甲の<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>が申しますと、乙の<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>が、

「それにゃあまた、やむにやまれない、深い事情があるんだろうさ。どうせおめえ、ただの身の上でねえ事は分っていら」

「なるほど、さもなければ、こんな峠を、若い女が夜歩きする訳もねえはずだな」

「エエおい。可哀そうじゃねえか、この先、何処へ行くのか知らねえが、事情を聞いておれ達が、この<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>の相談に乗ってやろうじゃねえか」

「そうだとも、こんな姿をして、五街道のうちで一番物騒だというこの甲州路を歩いてみや、<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>だの、<ruby><rb>蛭</rb><rt>ひる</rt></ruby>だのッて、ろくなものは付きやしねえ。……もしお嬢さん、悪いことはいわないから、この下の<ruby><rb>沢</rb><rt>さわ</rt></ruby>までおいでなさい、そこまで行くと、こちとらの中継ぎ小屋があるから、そこで今夜は足を休めて、ゆっくりと先の相談をして上げよう。エエ、何とかいいねえな、何とか……」

と、丙の男がそろそろとお蝶の体へ近寄って、膝の上の白い手へ<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>りましたが、彼女の手は、<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>の如く<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>を立って男のそれを振り<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けます。

「オヤ」

と、そこで狼連は予定のごとく腕を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>りあげて、

「この<ruby><rb>阿女</rb><rt>あま</rt></ruby>め。人が甘い口をきいてやればツケ上がって、おつに澄まし込んでいやがるな」

「おれ達は、この小仏を帳場にしている悪玉ぞろいの人足だ、それに見込みをつけられた以上、どう騒いだところで追ッつかねえんだから、<ruby><rb>月並</rb><rt>つきなみ</rt></ruby>な<ruby><rb>金切</rb><rt>かなき</rt></ruby>り声をあげねえで往生しちまえッ」

ひとりが突然、お蝶の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみへつかまると、ひとりは素早く<ruby><rb>諸</rb><rt>もろ</rt></ruby>足を取って、彼女の体を浮かそうとする。

――最後が来ました。こういう男どもの強迫に出会うと、<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>と、不敵な度胸をもつ彼女ではありますが、悪玉達の月並な<ruby><rb>科白</rb><rt>せりふ</rt></ruby>どおり、ここは小仏の山中です、悲鳴も及ばず助けも届かず、わずかに、帯の間に秘めている九寸足らずの<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>一ツで、この三<ruby><rb>疋</rb><rt>びき</rt></ruby>の狼をどうしましょう？

元より、貪慾好色なあぶれ者は、思いがけなく小仏の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>にまぎれ込んだ妖花の一輪を、存分になぐさみ揉みにじッて、甲府か<ruby><rb>猿橋</rb><rt>えんきょう</rt></ruby>あたりの<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>にでも売り飛ばそうという腹にちがいない。

彼女の身に危機は迫ッているのです。悪玉の毒気と爪は、すでに、手足にかかっています。

アレ――ッ！

当然、そういう悲鳴のあるべき場合を、お蝶は静かに左右の太い腕をもぎ離して、

「あら、何をするの、くすぐッたい！」

<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>の隅に身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くなり、<ruby><rb>爛</rb><rt>らん</rt></ruby>としたひとみを伏せた<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の顔――その<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の裏が、クスクス笑いました。

口程にもない悪玉三人、何に胆をつぶしたか、道もえらまず千<ruby><rb>魂塚</rb><rt>こんづか</rt></ruby>から裏谷の沢へと、岩ころが落ちて来るように逃げ出して来ました。

<ruby><rb>信玄沢</rb><rt>しんげんざわ</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の河原に、自然木で組んだ形ばかりの山小屋がある。

誰がつけたかこの山では、その建物を<ruby><rb>下頭</rb><rt>げとう</rt></ruby>小屋と称しています。――昔この街道に隠徳のある乞食があって、往来の旅人に<ruby><rb>下頭</rb><rt>げとう</rt></ruby>して得た生涯の<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎ銭をつみ、その死する時に、この小仏に旅人の安息場となる共同小屋を建ててくれと遺言して死んだその<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>だそうであります。

で――今ではその下頭小屋が、乞食の願望どおり小仏唯一の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>となって、夜は迷える人を容れ、昼は土地の者や旅人の湯飲み場となり、にわかの嵐の場合、行き暮れた霧の深い夕方など、幾多の人を救っているかわかりません。

下頭の光また偉大なるかなです。

けれど善根のものもこの<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>では、どこまでいい事にばかりは使われません。時には、その下頭小屋に、<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>が手枕で宿をかり、悪玉どもがよからぬ相談の車座で<ruby><rb>占</rb><rt>し</rt></ruby>めることも、まことにやむを得ないわけです。

こんもりした沢の低地に、その下頭小屋の灯がもれて見える。果たして、今夜のお客様は、それらのうちの何の種類か？

「おや、誰か来たぜ」

と、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>べりで何かグタグタと煮ていた男が耳を立てました。

見ると、そこに泊まっているのは雑多です。グッタリと荒壁にもたれて何か考えている旅の男、片隅に首を寄せて、銭の音をさせているこの峠の荷持や馬子、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>から使いに来て足を留めた<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の若者など……その他は、等、等、等として置いて足りる十三、四人。

「おお、駆けて来る」

その多種多様な首がヒョイと上がった時と、入口の戸が、勢いよくがらッとひびいたのが同時であります。

「やあ、<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>の衆――」

なかで顔なじみの者が、一斉にこういうと、飛び込んで来た三人の男は、雪に吹ッ込まれたように後を閉めて、

「オオひどい目に会った」

と、顔なじみの仲間に割り込んでくる。

「どうしたんだい今頃」

「どうもこうもあったもんか、……ああ驚いた、<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>の時からこの小仏で稼いでいるが、今夜ぐらい胆をつぶしたこたアねえ」

と、三人が三人とも、口を合せて顔色を変えているさま、ただ事ならず思われましたので、<ruby><rb>下頭</rb><rt>げとう</rt></ruby>小屋の<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>に、なんとなく陰気な影が下がって来ました。

すると、毎日同じ帳場で<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでいる馬方らしい男が、ふふん、といったふうな<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>え<ruby><rb>煙管</rb><rt>ぎせる</rt></ruby>で、

「よせやい、悪い事にかけては、名うてなおめえ達が、人並に胆をつぶしたなんていったッて、だれが真顔にうけるものか」

「ところが、その悪玉のおれ達が、キャッと悲鳴をあげて来たんだから話はすごいや」

「ヘエ、ほんとかい？」

「嘘だと思ったら、だれでもいい、この上の千魂塚まで行って見ねえ」

「そこに、何が居るッていうのか」

「女よ！　しかも素敵に美しい」

「野郎、いよいよ人の退屈をなぐさみに来やがッたな」

「どうして、話は本筋だ、まあそう茶化さずに聞きねえッてことよ。――実はというと、こッちの<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>も出るわけだが、どうせおれ達の根性は<ruby><rb>太陽様</rb><rt>てんとうさま</rt></ruby>も御照覧だから、なにもかも言ってしまう。――今夜……と言ってもまだ宵の中、麓の立場からただ一人で、この小仏へかかった<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女があるので、はて変だと思いながら<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けてゆくと、やがて、千<ruby><rb>魂塚</rb><rt>こんづか</rt></ruby>へ来て、その女が休んでいたと思いねえ」

「なるほど……」

「で、誰だって、<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>を起すだろうじゃねえか。ましてや山だ、しかも<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>、おまけに相手は十八、九の<ruby><rb>美女</rb><rt>たおやめ</rt></ruby>と来ていやがる」

「もっと、悪党らしく話してしまえよ」

「ウム、そこで三人が、ちょっとおどし文句をならべて、そろそろ側へ寄って行ったが、返辞もしなければ、逃げもしねえ、おや、こいつは、年にしては……と飛びつくと、どうだろう……」

「どうした？」

「ゲラゲラッと笑ったものだ」

「えっ、笑った？」

「あら、くすぐッたい――、そう言ったような気がしたので、ヒョイと娘の顔を見ると、真ッ青なんだ、その顔がよ。――口は耳まで裂けているし、眼は百<ruby><rb>錬</rb><rt>れん</rt></ruby>の鏡というやつ、おまけに<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていた<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>の下に、きッと二本の角のようなものが……」

こう<ruby><rb>明々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>とした点し灯と人のなかで話していると、話している当人も、実際に出会った時のせつな程の恐怖は消えてしまいましたが、ことばは心と反対に、そのいかにすごかったかを誇張する。

すると、片隅に<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>を敷いて寝ていたひとりの<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくい</rt></ruby>の男が、手枕を上げて、むっくりと起きかけました。

ふと、身を起こしかけて、そら寝入りをしていたその男は、千魂塚から飛んで来たならず者どもがあまり自慢にもならないしくじりを、さも怪奇きわまる事のように<ruby><rb>喋々</rb><rt>ちょうちょう</rt></ruby>と皆に話しているのを、ひとり注意深く聞いていました。

で、三人の<ruby><rb>遭遇談</rb><rt>そうぐうだん</rt></ruby>が片づくと、後はそれに対して、一座まちまちな観察や批評が出初めます。

いくら小仏だって、今の世に、そんな妖怪や<ruby><rb>変化</rb><rt>へんげ</rt></ruby>が出てたまるもんか、そいつは<ruby><rb>眉唾物</rb><rt>まゆつばもの</rt></ruby>だよ、とテンから笑い消す者がある。

いや、そうじゃない――とまたそれに反説をかつぐ者もあって、狐だろう、狸の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>だろう、否、<ruby><rb>野槌</rb><rt>のづち</rt></ruby>という<ruby><rb>河獺</rb><rt>かわうそ</rt></ruby>のような小動物の妖気にちがいないなどと、知ったか振りをするのもある。

また一人の旅の坊さんは、すべての俗説をしからずとなしてこう言う。

――それは木の精でも妖獣の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>でもありますまい、私の考えでは、いつか小仏の峠で、非業な一命を落とした女人の霊魂だと思います。あえなくも浮かびきれない<ruby><rb>魂魄</rb><rt>こんぱく</rt></ruby>が、そうして、人なき夜の小仏を越えてはシュクシュクと泣くのでしょう。

「いやだぜ坊さん――」と一座が襟すじを寒くしていますと、片隅に<ruby><rb>空</rb><rt>そら</rt></ruby>寝入りをしていた最前の若者が、

「もし、その千魂塚とやらは、これからだいぶ先でございましょうか」

と、初めて、明りの届く所へ顔をあらわしました。

「や、お前さんは、大山から<ruby><rb>御岳</rb><rt>みたけ</rt></ruby>へ詣るとか言っていた行人衆だね」

「左様でござります」

「今頃に、千魂塚の道なんぞ聞いてどうするつもりだね」

「いや、にわかに急用を思いつきましたので、これから峠を越えたいと存じますが、今のお話に気味が悪く、そこを避けて行きたいと存じますので」

「やれやれそいつは大変だ、どんな急用があるのか知らないが、夜が明けてからにしたらどうだい」

折も折なので、しきりと止める者もありましたが、若い行人は身支度をして、教えられた間道から小原へ越えると言って、まもなく、ただ一人で<ruby><rb>下頭</rb><rt>げとう</rt></ruby>小屋の人々と別れて行きました。

よせばいいのに。

さだめし後では下頭小屋でそう言っていましょう。一歩、<ruby><rb>沢尻</rb><rt>さわじり</rt></ruby>の細道を踏み出すと、両手で目をふさがれて行くような<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>。

しかし、やがてだらだらと上へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>ると、空を、<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>うていた<ruby><rb>叢林</rb><rt>そうりん</rt></ruby>もとぎれ、<ruby><rb>沢辺</rb><rt>さわべ</rt></ruby>の水明りも足元を助けて、そこに一つの道しるべの石が見出されます。

それから沢を向うに渡って、狭い道を流れに沿って行けば、小仏の裏道、例の千魂塚の前を通らずに、甘酒茶屋の先に出る――と下頭小屋で聞いて来たはずなのに、その男は、敢て、右手の登りへかかりました。

小仏越えの本道、星影のつづら折りを<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>る程に、まもなく前の千魂塚の堂の前へ出る。

彼はそこに立って、あたりの暗を見廻しました。

<ruby><rb>颯々</rb><rt>さつさつ</rt></ruby>たる松の声、雨のごとき<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>の音、依然として一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>前と少しも変りがありませんが、そこに千魂塚の白麻の<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>をかぶッていたお蝶の姿は見出せません。

四<ruby><rb>顧</rb><rt>こ</rt></ruby>を見廻して<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>たる様子。

「はてな？　……」

<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をたずねて、ここへさまよい来た<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾は、夏も寒げな白木綿の旅の<ruby><rb>行衣</rb><rt>ぎょうい</rt></ruby>に、お蝶の濡れたそれと同じな松のしずくに身ぶるいを覚えていました。

ゆうべ、下頭小屋で夜を明かした連中は、今朝もまだ、千魂塚の話でもちきりながら、ぞろぞろと<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の立場へ下って来ます。

その人々と別れて、一人スタスタと急ぎ足に帰って来た<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>の手代は、ちょうど今、店の前から出て来た早立ちの男女の客を見かけて、

「お早いお立ちでございますな」

と、声をかける。

それに振向いたのは、ゆうべ<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>に宿を取っていた<ruby><rb>関久米之丞</rb><rt>せきくめのじょう</rt></ruby>と月江の二人でありました。

「お、宿の男か。昨夜は遅く着いて、いろいろと世話であった」

「どういたしまして、私はあれから、<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>の小岩村まで用達に行きまして、ゆうべは下頭小屋で夜を明かしてまいりました。どうも、何もおかまい申しませんで」

「そちが、あの刻限の頃から用達に行くようでは、この小仏も、大した<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>はないようじゃな」

「ところが、どうして、馴れておりますから夜でも歩くようなものの、ふつう、旅のお方には決して楽な山ではございません。――それに、昼ならまだよろしゅうございますが、ゆうべもこんな事がございまして……」

と、問わず語りに、ここでもまた、千魂塚の怪女のことを立ち話に持ち出しますと、久米之丞と月江とは、ほくそ笑みを見合して、ひそかに目と目でうなずきました。

しかし、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の手代には、山越えの道や、その他のことを聞いたのみで、さり気なくそこを別れて、

「お嬢様、今の話の様子では、あの女もまだ遠くには参っておらぬようでござる」

「今日いッぱい、足を早めて行ったならば、追いつけるかも知れないね」

「ただ、この嶮しい道を、あなた様のそのお優しい足で歩かせるかと思うと、久米之丞は負ぶってでも上げたいように思います」

「久米之丞。よして下さい」

「なにが？」

「お前がそんなに側へ寄って歩くと、人が、<ruby><rb>夫婦</rb><rt>みょうと</rt></ruby>のように思うではないか」

「いいではございませんか。お嬢様。どうせ馬方や荷持などは、とかく口の悪いもの故、そんなことを気になされていては、道中を歩くことはできません」

「お前は、私のあとから離れてお歩き。……いいえ、もっと、もっと後から――」

と、月江はぐんぐん先に出る。

彼女の乗り馴れた銀毛の駒も、この小仏越えには<ruby><rb>馭</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>しきれまいと思ったので、それは麓にあずけて来て、今朝は<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>に<ruby><rb>紅緒</rb><rt>べにお</rt></ruby>の草履。

下頭小屋にたどり着いた時、そこで、接待の麦湯をもらいながら、手代から聞いた千魂塚の真相を、なおもよく聞きたいと思いましたが、もうゆうべの者は一人も足を止めていないので、そんな噂を知る者もありません。

汗をぬぐい、食事をととのえ、やがてそこを出たのが<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎ。

「ああ、山はいいね、こんな道を、秋の落葉が落ちる頃、お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>様と一緒に歩いたらどんなだろう。次郎を連れて歩いたら、さだめし面白いことだろうね。そうだ、今年の秋は、次郎を連れて、この甲州の旅から木曾を歩いてみよう……」

鳥の声を仰ぎ、清水のせせらぎをのぞいて、ひとりでこんな事を呟いて行くくせに、久米之丞には一言も話しかけない。

道連れもなく、一人で歩いているような月江の様子です。けれど、久米之丞はもうそれに大した不平も抱いていない。彼もまた、一人旅の味気なさをつづけるものの如く、月江のうしろ姿に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、黙々として歩んでいます。

一歩一歩、山は<ruby><rb>森々</rb><rt>しんしん</rt></ruby>と深くなってくる。

程なく月江は、路傍の<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>に、千<ruby><rb>魂塚</rb><rt>こんづか</rt></ruby>と彫ってある丸石と、道しるべの朽ちた柱とを見ました。

<ruby><rb>是</rb><rt>コレ</rt></ruby>ヨリ甘酒茶屋マデ一里二十七町――

それを眺めて、急に休みたくなりましたが、横手の<ruby><rb>堂宇</rb><rt>どうう</rt></ruby>を見ると、そこの<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の日蔭には、羅漢のような雲助と<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>の食べ散らした<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>が、<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>を集めて昼寝をしているので、近くに休む気にもなりません。

道は、また暫く平地になってくる。

頼む木蔭もあらば休みたいがと思っていますと、うしろの方で、

「痛い」

と、久米之丞の声がしました。

振向いてみると、彼は、片足を抱えたなり、<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の中に腰をついていますから、彼女も驚いて、

「久米之丞、どうかしたのかえ？」

足を戻してゆきますと、彼は、顔をしかめながら、

「石につまずいて、<ruby><rb>生爪</rb><rt>なまづめ</rt></ruby>を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がしてしまいましたわい」

「おや、それは困ったねえ」

「どうも痛くって、意地にも我慢にも歩けませぬ。おそれ入りますが、<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>お待ち下さらんか」

「じゃ、私がそこを<ruby><rb>結</rb><rt>い</rt></ruby>わえて上げよう」

気前よく、<ruby><rb>紅絹</rb><rt>もみ</rt></ruby>のしごきをピリッと裂いて、彼の足元に膝をつきますと、久米之丞はその手を強くつかんで、

「あれ、勿体ない」

と、<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>な態度をして引き寄せます。

「何をするのッ」

「いい見晴らしではございませぬか。少しここで休みましょう。折から、前にも後ろにも、ちょうど人影が絶えている」

「嘘を言ッたんですね――生爪を剥がしたなんて」

「この長い峠を登るうち、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>から一言も口をおききなさいませぬ故、ちょっと一策を案じたわけです。は、は、は、月江殿、あなたまだ、ほんとに<ruby><rb>処女</rb><rt>おぼこ</rt></ruby>でございますな」

「……お放しッ、この手を」

「いえ、放しますまい。……麓の宿屋で、ゆうべも拙者があんなに申した<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>を御理解ないというはずはない。ここで、御返辞を承ろうではございませんか」

「返辞？　……」

「またあんなに空とぼけておいでなさる」

「お前こそ、よい程にたしなむがいい、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>に帰ったら、お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>様に言いつけて上げるから、覚えておいで」

「ああ、お言いつけなさいまし。――夜光の短刀を見出した時は、晴れて添わせてやるぞとは、千蛾老人も御承知のおことば」

「知らない、知らない！　誰がお前などに！」

「いくらそッちで嫌っても、老人の<ruby><rb>言質</rb><rt>げんち</rt></ruby>を取ってある上に、すでに夜光の短刀のある場所は、着々として、拙者が調べをすすめているから、久米之丞の妻にならぬというわけにはまいるまい」

「よして下さいッ、けがらわしい」

「ふン。けがらわしい？　……」

「お放しッ」

やにわに、月江が爪を立てると、久米之丞は苦もなく<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>つけて、

「やかましいッ、声を立てるな」

野獣の野性をあらわして、彼女の体をかかえ込みます。

胸のムカつくような体臭が、彼女の呼吸を圧しました。月江は<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>に倒れながら、懸命に相手の腕を払い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>ける。

久米之丞はもう盲目です、情炎の<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>です、こういうきッかけが出来た以上、彼がつつしみ抑えていた常識も、一時に火となって、すさまじい<ruby><rb>醜熱</rb><rt>しゅうねつ</rt></ruby>の力が、月江の肉をむさぼりにかかりました。

――月江は声かぎり人を呼ぶ。

逃げては捕まり、起きては引きずり倒される。ああ、誰かここへ来てくれないか、ここへ来てこのいやらしい奴を<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らしてくれる人はないか。

彼女はまた、久米之丞に組み敷かれながら、目を閉じて念じましたが、高麗村郷士きっての<ruby><rb>猛者</rb><rt>もさ</rt></ruby>、この男の力には、さすがの月江も及びません。

でも、二、三度は、必死に男を跳ね返し、あるいは投げつかわしつして、逃げられるだけ逃げのびましたが、のがれて行く先は<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>の疎林で、いよいよ人通りの<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>も望まれないさびしさ。

「次郎――次郎や――ッ」

疎林をつんざく月江の声。

ここで次郎の名をよんでも、次郎が救いに来るわけはありませんが、彼さえ居たらば――と思う念がせっぱつまッて、思わずそう呼ばせたものでありましょう。

「月江ッ、月江ッ」

久米之丞は呶鳴りながら、逃げ廻る彼女を追って、疎林のうちを駆けめぐっていましたが、もう見得も外聞もない情炎の獣に、なんの仮借がありましょうか、

「うぬッ」

と、うしろから<ruby><rb>喉輪</rb><rt>のどわ</rt></ruby>の<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>。

片手に喉を<ruby><rb>締</rb><rt>しめ</rt></ruby>つけて、片手で月江の口をふさぎました。

瞬間、死ぬか――と思われた程、月江の顔色がサッと白く変りましたが、彼女の必死な手はここを最後と念じて、帯の間の懐剣を、肩の後ろへひらめかせる。

不意を食った久米之丞は、

「あっ」

と、彼女の体を突き放して、その途端に、<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>に染まった自分の右腕をはッきりと見ました。

「ちッ、女と思って、よいほどにしておけば、よくも生意気な腕立てをしおッたな。おのれ、どうするか見ておれよ」

言うなり腰の<ruby><rb>長刀</rb><rt>ながもの</rt></ruby>を抜いて、その朱い手に振りかざすや否、まことに、殺しかねまじき形相で、くわッと月江をにらみつける。

月江も三日月<ruby><rb>形</rb><rt>なり</rt></ruby>の短い<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を<ruby><rb>斜</rb><rt>しゃ</rt></ruby>にかまえて、寄らばと強く身を守りました。――しかし、彼女がそうして<ruby><rb>刃</rb><rt>は</rt></ruby>向えば刃向うほど、血を見た情炎の男は狂うばかりです。そして、相手にはまだ争う実力と呼吸において、多分な余裕をのこしているのです。

――それにひきかえて月江の方は、もう血色も呼吸も苦しげに迫っている。ねッとりと執念ぶかい男の刃は、かくて一寸二寸と彼女をうしろへ追いつめました。

（あっ！　……もう駄目だ……）

<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くも、そう観念の目を閉じて、彼女は突然、自分の刃を自分の乳へ当てようとする。

はッと驚いた久米之丞が、刀を引いて、飛びつこうとしたはずみに、その短剣は飛魚の如く、おのれの素面へ風を切って来ました。

あぶなく顔の真ン中に穴のあくところを、身をかわした久米之丞が、ふと見ると月江はもう<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>へ脱兎――

「ちッ、畜生、逃してなるものか」

<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を蹴って追いかけることも、あまり永くはありませんでした。

疎林を抜けた途端です。

引ッつかまれた帯の端に、それが解けて、月江の体がくるくると無残に廻って倒れたかと思いますと、――どどどどッ――と足元の土が地崩れのようにメリ込んで、

「おっ！」

と、久米之丞も、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>にそこの岩藤の根にすがらなかったら、奈落の谷底へ誘われたかも知れません。

「アア、あぶねえところ……」

思わずホッとつくため息。

人間の心の機微、必ずやその時は、獣情に燃えていた久米之丞も、冷やりとするのと一緒に、命びろいをしてまア好かった――と思ったことは思ったでしょう。

が――気がついてみますに、そのよろこびもホンのつかの間。かんじんな、月江の姿が消えている……。

あっ、谷底へ。

一道の赤土が、岩の肌や<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>や雑草の断崖を<ruby><rb>顛落</rb><rt>てんらく</rt></ruby>して行ったあとをのぞいて、

「しまッた！」

と、初めて、心の底から出た彼の舌打ちが、いかにも<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しそうでありました。

それさえあるに、途中の木の枝にからまっている月江の帯を、茫然、自失のていで、ぼんやりと見つめている彼のうしろから、

「久米之丞！　こッちを向け」

と、人をばかにした人間の声がしました。

そういう人を<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>にした<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>のかけ声に、何も命令どおり、首を曲げる必要もありますまいが、折も折であり、不意だったので、

「えっ！」

と、思わず彼がうしろを向いた途端に、

「間抜けッ」

と、叱りつけるような一喝。

あっ――とかわそうとしたが、後ろは谷です。と言って、前から風を切って来たのは、相手の<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>もつかぬ鋭い<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>！

「あ――何者ッ」

久米之丞は、その無鉄砲な抜き討ちをかわして、さッと、横ざまに飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>きながら、

「人違いするなッ、人違いを！」

と相手を確かめようとしましたが、さらに烈しい二<ruby><rb>刃</rb><rt>じん</rt></ruby>三刃、口をきくまもない太刀風です。

ぜひなく――久米之丞はまったくぜひなく、太刀を取り直して斬り合いましたが、心は月江の落ちた谷底にとらわれていて、必死な反抗も持ち得ないのであります。

で、自然と受身になりながら、

「人違いであろう、拙者は武蔵野の<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>関久米之丞というもの、刀を引かッしゃい！　話があれば承ろう」

と、言い訳に似たことばを続けざまに叫んでいましたが、事面倒と思ったか、今まで手ぶらで眺めていた相手の連れらしい<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>の男が、ツツと、彼のうしろへ廻って行ったかと思うと、

「やかましいッ」

<ruby><rb>刮然</rb><rt>かつぜん</rt></ruby>たる<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>の音、――と共に関久米之丞は肩から<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>がけに斬り下げられて、そこへどッと倒れるなり、青天井をにらんで<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>をつかみました。

斬った男は、いつのまにか、岩の根に腰をおろして、両手に頬杖をかいながら、<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>る血の中に<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>する死骸を冷然とながめている。

「――可哀そうなことをしたな、折角、いい夢を見ていたのに」

相手に立った一方の者が、こんな事をつぶやきながら、死骸を谷間へ蹴落とそうとすると、

「あ――待ちねえ」

ふたたび編笠が腰を立って、

「念の為だ……」

と、前後を見ながら顎をすくう。

「ウ、なるほど」

頷いて、そこに、しゃがみ込んだのは<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門です。彼が死骸のふところをしきりと探っている間に、日本左衛門は<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あなたこなた</rt></ruby>を、涼しい顔で歩いていました。

八王子千人町の夕暗から、絶えず、この二人が<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にいたことを気付かなかった不覚が、まったく久米之丞の禍いの因をなしていました。しかしそれも、今は及ばぬこととなって、死骸となった血みどろな彼の五体は、金右衛門の足の先から、月江のあとを追って同じ谷底へと<ruby><rb>顛落</rb><rt>てんらく</rt></ruby>して行きます。

「金右衛門、何かあったか」

と、日本左衛門がそれに振向くと、

「ウム……小銭のはいっている紙入れが一つ」

返辞はしません。

日本左衛門はただ<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い顔つきで――

金右衛門は死骸から取り上げた幾つもの品のうちから、その紙入れを<ruby><rb>撰</rb><rt>よ</rt></ruby>って谷底へポンと捨てて、次に、

「――<ruby><rb>白扇</rb><rt>はくせん</rt></ruby>が一本。こんな物もしようがねえな」

と、それも抛り捨てながら自問自答に、

「懐紙、銀ぎせる、<ruby><rb>印籠</rb><rt>いんろう</rt></ruby>、みんなろくでもねえ物ばかりだが、この懐紙の間にこんな、いたずら書きがしてある……」

「どれ」

と、初めて日本左衛門が手を出しました。

それは、ほんの心覚えだけに、久米之丞が懐紙へ書きつけておいたものらしく、

<ruby><rb>羅馬人</rb><rt>ローマじん</rt></ruby>ピオ――鶏血草――<ruby><rb>終焉</rb><rt>しゅうえん</rt></ruby>――<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>――<ruby><rb>蜻蛉屋</rb><rt>とんぼや</rt></ruby>久助――<ruby><rb>逃水組</rb><rt>にげみずぐみ</rt></ruby>――王家の秘宝――<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>――武蔵野――夕顔城――赤城――<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>――不明。

こんな意味も連絡もない端的な文字が、墨色もその時さまざまに<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>し散らしてあります。

「あっ、しまッた事を……」

「なぜ？」

と、金右衛門は不思議な顔でした。

「あいつを生かして置けば、何か手懸りがあったに違いないものを、こりゃ少し<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>まったぜ」

と、日本左衛門は、その書き散らしの懐紙を紙入れのなかに畳み込んで、

「そうだ、せめて月江という女をこの谷底に探してみよう。事によったら、助かっていまいものでもない」

先に立って、谷間へ下る道をたずね、わずかに猟師の通うらしい一筋の道を見つけ、岩藤の根を足がかりに、絶壁を下へ降りて行く……。

昨夜以来、日本左衛門がそっと久米之丞を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>け歩いているうち、それとも知らぬ彼が月江に向って夜光の短刀ということばをしばしば口に出したので、にわかに殺意を起こして兇行を決したのですが彼の手記ともいうべき<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>の文字を読むと、その短刀の捜索には、かえって自分達よりも何か深い真相をつかんでいたらしく想像される。

で――生かして置くのに――とあとで後悔をしたわけでありますが、この上は、一方の月江を探してたずねたら、また何かそれについていい手懸りがないとも限らぬ。

こういう<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>にちがいない、と金右衛門は連れの心を読んでいました。

本来、この<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>へ来たのは、お蝶を殺そうという日本左衛門の目的でしたが、何をおいても、夜光の短刀の手懸りとあれば、すべてを放棄しなければなりません。

断崖の途中まで降りてくると、金右衛門が<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い松の枝にすがりながら、

「お、ここに、さっきの女の帯が引っ<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まっている」

と示しました。

「じゃ、月江は、いったんこの辺で止まってすべり落ちて行ったとみえる」

「そうさ、この這い松に帯を取られて……」

「そこから下の方に、倒れている姿が見えないか？」

「見えない」――と金右衛門は谷底へ手をかざして、

「まだまだとても下までには<ruby><rb>余程</rb><rt>よっぽど</rt></ruby>な距離がありそうだ」

「谷河の水音がする……」

「ウム、遠雷のように」

「うまく、水の上に落ちていれば助かるだろうが」

「おッと、兄貴」

「どうした、金右衛門」

「お<ruby><rb>生憎様</rb><rt>あいにくさま</rt></ruby>、道はここで行き止まりだ」

「なに、行き止まりだ？　……そいつは都合が悪いな。こんな所を曲りくねりして降りて行くと、どの辺に月江が落ちているか、谷へ降りてから見当をつけるにまた一骨折りをしなけりゃならねえ」

「――といって、その這い松から下の崖は、まるで、<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>で削ったような一枚岩、こんな所じゃ、猿でも降りて行くことは出来めえ」

「じゃしかたがねえ、我を折って、ほかの道を探すとしよう。だが金右衛門、今もいったとおり、下へ着いてから見当がつかねえから、その帯を丸めて、ここから真っ下へ投げておいてくれ」

「帯をか？」

「そうだ」

「目印にだな？」

「ちょうど<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>いらが、月江の落ちて行った辺だろう」

「なるほど、そいつは妙案だ。西陣だが浮織だが知らねえが、このあでやかな女の帯を、谷底へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておけば、どこへ引ッ懸っても夜でも目につくにちがいない」

「だが、途中で風に<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われないように」

「おっ、心得た」

と金右衛門は、断崖の<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い松に引ッかかっていた月江の帯を輪に巻き、谷底を目がけてポーンとそこから真っすぐ下へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り投げました。

無風状態のようでいて、絶えず底から吹き上げている渓谷の冷風。

――途中からサッとなびいて、一筋に長く解けた女の帯は、色鳥の尾か、雲から捨てた<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>の羽衣の如く、ひらひらと虹を描きつつ、その行方を見えなくしました。

しかるに、その時です。

小仏の峰を裂いて西へ落ちる星影川の渓流に沿うて、しきりと、人でも探すように歩いていた<ruby><rb>御岳行人</rb><rt>みたけぎょうにん</rt></ruby>らしい白衣の男が、

「おや、何だろう」

行者笠とよぶ<ruby><rb>荒編</rb><rt>あらあみ</rt></ruby>の<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りものに手をかけて、<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>から舞って来た不思議な色彩に気をとられて立ちどまりました。

見ていると――帯は長く尾を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて<ruby><rb>喬木</rb><rt>きょうぼく</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に懸り、そのあまりは、枝から地上へ、旗の如くダラリと垂れ下がりました。

なんと、美しい謎。

いたずらにしては風流すぎる。

と、思いながら、白ずくめの行人姿は、しばらく<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられていました。いうまでもなく、彼は<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾です。

ゆうべ<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>に、下頭小屋を飛びだした金吾は、あれから、どう道を取り違えたものか、この小仏の低地へ迷い込んで、目ざす<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の女をいまだに見ることが出来ずにいました。

「はて……あれは？」

女、女、女、女――と胸に<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の女を呼び探しているところへ、偶然、まことに偶然、空から舞って来た女の帯。

金吾にとっては、実際、妙な心地がしたでしょう。

彼の目には、実際、妙な謎とも見えたでしょう。そして、これは何か、人智を<ruby><rb>試</rb><rt>こころ</rt></ruby>む山の精のいたずらに出会っているのではないかという<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>さえ起こしました。

しかし、いくら見直しても、その歴然たることは、若い女の帯であることです。<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>な<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>の織物に相違ないことです。

「不思議な？　……」

幾度も同じ思案をつぶやきながら、その一端に手をかけて、ズルッと引いてみますと、帯は<ruby><rb>大蛇</rb><rt>おろち</rt></ruby>のように地にすべって、彼の手に小さく巻かれてゆくのでした。

峰から笠が飛んで来たとか、人が落ちて来たとかいうなら、まだ椿事とするに足らないけれど、女の帯だけが？　……人は見えずに帯だけが？　……

彼にはどうしても分りません。帯の依って起るいわれとこの結果の間が少しも想像がつかない。

そこで、何の目的もなく、いったん手に丸めた帯を木の根において、そのままそこを立ち去ろうとしましたが、またふと、何か去りがてな魅力があって、帯が自分を呼び止める気がする。

いよいよおかしい。

金吾はその帯を疑うよりも自分の心を疑って来ました。――帯が自分を呼ぶ？　そんな<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>なはずはない、そんなはずが……。

ですが、どうも、それにうしろ髪を引かれる気がしてならないのを、深山に起るあぶない心の錯覚として、邪気を払うように、杖を取り直してスタスタと立ち去りました。

それは、金吾の理性として、いつも<ruby><rb>誤</rb><rt>あやま</rt></ruby>たぬ正しい歩行であったでしょうが、理性必ずしも物を間違えない限りもありません。

なぜかといいますと――金吾が自分の気のせいだと思い消したのは、その心こそすでに疑心の霧にくるまれていた証拠で、事実、木の根においた女の帯は、一度ならず二度も三度も、彼を呼んでいたのであります。

いや、帯が金吾を呼び止めたといってはいいようが悪いとすれば、置かれた帯の近くに倒れていた者が、彼を呼んだといい直しましょう。

その喬木の根から渓流の水ぎわへ、だらだら下がりになっている草むらが、三尺ばかりくぼんでいる。

のぞいて見るとその中に仆れている人間です。……まだかすかな<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をついている。そして、這おうともがいている。起きようとして草の根に爪を立てている。

彼女は、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな意識のうちに、人の跫音を感じたとみえます。そして、何か苦痛を訴えました。

一歩、ああまことにただ一歩、金吾がそこへ近寄って行ったならば、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>の宿で、お互いに顔をなじんでいる以上に、親しく思い合っていた月江と金吾が、奇遇の手を取って驚き合ったでしょうに。

知らぬとはいえ、なんとすげない、去り行く彼の姿。

ひとり、渓流のほとりに、月江は苦しげな息でした。死なんとする虫の姿でした。

一方。

日本左衛門と金右衛門の二人は、かなり降りた崖の中腹から這い上がって、いったん元の所へ引っ返すよりほかに道がなかったのです。

「なんだ、御苦労様な」

「いまいましい、何処か、降りる道がありそうなものじゃねえか」

そこで腕ぐみをしながら、未練に谷間を眺めていますと、山馴れた足どりで、二人のうしろを通りすがった者があるので、

「おう、町人」

金右衛門がよび止めて、

「そちはこの<ruby><rb>近郷</rb><rt>きんごう</rt></ruby>の者らしいが、何処からか、この渓谷へ降りて行く道はないだろうか」

歩調を共にしながら訊きますと、男は簡単に、これから七、八町行った先の<ruby><rb>虚無僧岩</rb><rt>こむそういわ</rt></ruby>とよぶ所から左に折れるがよいと教えました。

そしてなお、<ruby><rb>質朴</rb><rt>しつぼく</rt></ruby>な山家ことばで、その岩の近くで兄弟の虚無僧が返り討ちにされたという古い話や、この絶壁の下の渓流を星影川ということなどを、問わず語りに話してやまないものですから、二人もつい、男のあとに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩きながら、

「して、そちはこれから何処へ参るのか」

「へい、峠の甘酒茶屋へ参りますので」

「甘酒茶屋というのは？」

「中の峠を越えたその先の<ruby><rb>天</rb><rt>て</rt></ruby>っ辺で、すばらしい見晴らしのある所でございますよ。旦那様方も、これから甲府の方へおいでになるなら、いやでもそこに足を止めるでしょう」

「そうか。それでは、いずれその時に礼をするぞ」

「どういたしまして。じゃ、お気をつけなすって」

「御苦労だった。ここを左に降りるのだな？」

男の話した、虚無僧兄弟の血のような赤い<ruby><rb>深山草</rb><rt>みやまぐさ</rt></ruby>の花がさいている細い道へ、二人の姿がかくれて行く。

ここも、前の道と変わらない<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しさです。

しかし、降りても降りても羊腸として尽きないところは、さっきの行き止まりと違って、こんどこそ見込みがある。

「おう、だいぶ谷間らしくなって来たな」

と、日本左衛門は笠を上げて、紺碧な空を井戸の底からのぞくように見上げました。

「水音が近いぜ」

「星影川だ」

「ううム、さすがに此処まで来るとゾッとするように涼しい……。お、兄弟、河があった、河が……」

「は、は、は、は。おめえのような悪党も、こういう所を迷い歩くと、子供みてえになるから<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しい」

「なぜ？」

「何も、河があったッて、そう珍しいことじゃあるめえ」

笑いながらその渓流の水層岩に身を立てた時、初めて、小仏全山の<ruby><rb>緑翠</rb><rt>りょくすい</rt></ruby>をかしらにあつめ、<ruby><rb>涼風冠</rb><rt>りょうふうかん</rt></ruby>としていただいたかの如き清澄さをおぼえました。

「さあて、これからまた、今度はこの上流へ七、八町逆もどりだな」

「そうだ。しかし、帯はすぐ見つかるだろう」

「やはり、ああしておいてよかったな」

「や、兄貴！」

「なんだ」

「だれか向う岸へ来る様子じゃねえか」

と、金右衛門が小腰をかがめて、渓流の対岸に見える<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の蔭を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かすように指さします、

ここに道がある以上、ここを通る人のあることも当然ですが、暗緑な谷の<ruby><rb>檜林</rb><rt>ひのきばやし</rt></ruby>のなかに、それが、あざやかに白い人影なので彼がたれか来ると、指さしたのは、すでに、何者だろうという疑いを充分にふくんでいることばなのです。

「おお、あれか。……滝があるな、この<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>に」

「どうして」

「山に籠って、水<ruby><rb>垢離</rb><rt>ごり</rt></ruby>をしている男だろう」

「なるほど。……では、あいつが行き過ぎるまで、ちょっと一服していようか」

「よかろう」

あの高い所から、一気に降りて来た折なので、異議に及ばず、日本左衛門も腰をおろして、カチ、カチ、と涼しい<ruby><rb>火打石</rb><rt>ひうち</rt></ruby>を磨りました。

そうして、一服吸いながら、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の白い人影を気にしていますと、白鳥の如き人影は<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>のなかを縫って、やがて、対岸の道にあらわれました。

<ruby><rb>鞺鞳</rb><rt>どうとう</rt></ruby>と流れは<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>をあげていますが、川幅はわずか十一、二間、彼が対岸に立てばイヤでもこッちの人間を見ましょうし、こッちも最前からやり過ごそうと待っていたところ。

期せずして、奔流をなかに隔てた双者の眼は、そこでピタリと見合いました。

――すると、その刹那に、

「おう！」

と、驚いた対岸の人。

「ややッ？」

と、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をさかづかみにして、腰を浮かしたこッち岸の日本左衛門と金右衛門。

ああそも、これなんらの突然。

月白き半島の千鳥ヶ浜以来、ここに再び巡り会いました。

――<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>と日本左衛門。

しかしです。

皮肉にも、ハッと見合った双者の間には、足を入れて渡るにもよしない星影川の水が十一間の幅をもって奔流しています。

いかに仇敵の間柄でも、この奔流の水を隔てて向い合ったのでは、何ともしようがありません。

腕も及ばず、剣も届かずです。

（ウーム金吾だな！　身なりは変った装いをしているが、まぎれもない相良金吾！）

（オオ、おのれ日本左衛門）

と双方、<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の中でうめきながら、ハッとした瞬間の驚きを持続して、彼の道者笠とこちらの編笠、そのまま、両岸の岩上に<ruby><rb>山車</rb><rt>だし</rt></ruby>人形の如く立ちすくみとなったのみです。

無言の闘争、目と目の根くらべ、いつまで果てしなく見えました。

これ以上の行動は、日本左衛門と金右衛門が、死を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して奔流を越えて彼に迫るか、でなければ相良金吾が、最前女帯を捨てて渡った石の多い淵まで戻って、さらに、相手と剣眉を接して立たなければ不可能なことであります。

だが、争闘の意気ごみというものは、そんな<ruby><rb>迂遠</rb><rt>うえん</rt></ruby>な進路に火を発するものではありません。――また、すでに、<ruby><rb>蛇舌</rb><rt>じゃぜつ</rt></ruby>の如く<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>み合った双者の目と目、心と心とは、暗黙のうちに組ンずほぐれつ、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>以上の鋭いものを交じえているので、ここ、寸間の時を措くことすらゆるさぬ気持に迫ってもいる。

で、まったく、この空気がうごくことは絶望です。

どうなる事か、精と根気にまかせて、暫くはその成行きを傍観しているよりほかに、連れの<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門にも、まったく、咄嗟にいい智慧もうかばない。

そのうちに、眉毛もうごかさずにらみくらしていた日本左衛門が、<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>られたように、突然、大口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、

「わははははははは」

と、<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>しました。

どッかりと足元の岩に腰をおろすや、手にしていた<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をさし向けて、

「おい若造！」と金吾にいうのです――

「まアそこに腰を下ろしねえ。変なところで会ったものだが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と、この辺りには御挨拶を受けに行く橋も見当らない。少しばかり、<ruby><rb>沓</rb><rt>くつ</rt></ruby>の上から<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>いところを掻く気もするが、千鳥ヶ浜の時から一別以来、まんざら<ruby><rb>素気</rb><rt>すげ</rt></ruby>なく別れたものでもなかろう、何か変った世間話でも聞かしてくれねえか」

あたかも辺りにある<ruby><rb>岸々</rb><rt>がんがん</rt></ruby>たる岩のごとく、金吾を青二才あつかいに<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>している<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>です。

むかッとしましたが、相良金吾にも、手を下してゆく方法はない。

<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>く、冷然と平静に<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>って見せた相手の前で、及びもない歯ぎしりをいつまでかんでいるのは、一層かれの侮辱をまねくところであるくらいなことは、金吾としても気づいています。

しかし、彼のごとき複雑でない、また彼の如く横着でない、単純一徹な金吾には、対岸の哄笑に対して、同じような大声の笑いを投げ返してやることすら出来ないのでした。

まだ、衝動の紅潮を、耳のあたりに残しながら、ことば鋭く、

「ぬかすなッ、日本左衛門」

と、足をあげて蹴らんばかりの語勢です。

「人を<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>した今の一言、いつか、千鳥ヶ浜で会った時は、むなしく汝を見のがしたが、今日こそ、よい所で会ったというもの、うぬ、そこを去るなよ」

「なに、この激流を渡って来るのか？」

「ちッ！　待て待て」

つとめて、自制しながら、金吾はいつか吾ながら見苦しく<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>きこんで、何処か、飛び越えてゆく<ruby><rb>足懸</rb><rt>あしがか</rt></ruby>りの石はないか、下流に丸木橋でもないか、と地だんだ踏みながら目を配っている。

「金吾！　何をキョロキョロしているのだ。越えて来るなら早く来い、こっちは用事のある体、<ruby><rb>悠長</rb><rt>ゆうちょう</rt></ruby>に貴様が思案をつけるまで待ち込んでいるわけには行かぬぞ。……おい金右衛門、ボツボツ<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>へ出かけようじゃねえか」

「ばか野郎め、向う河岸で腕まくりをしていやがる。あはははは、飛んだいい<ruby><rb>木偶</rb><rt>でく</rt></ruby>人形だ」

毒口を叩きながら、金右衛門も野袴の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>をはたいて立ちかけます。

「卑怯者、逃げるなッ」

激流の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>をもひそめさせるような、金吾が声のあらん限りに、

「なにッ？」

と、<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った日本左衛門が、みなぎる冷嘲を編笠のうちに、

「逃げるとは、なんの寝言だ」

「では、なぜ待たぬ！」

「待つ弱みはない」

「<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>だ。逃げ<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>！」

「だまれ。ならば、こッちへ渡って来るか」

「ウウム」と、金吾はいいづまりましたが、

「この上流に行けば、石を伝って、自由に越えられる所がある。そこまで歩け」

「オオ、<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>の方なら、どうせこッちも足を向けてゆく先、そこまで行ってやってもいいが、しかし……金吾、あの時のままの腕では、おれに<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を立てるのも<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ねえこと。返り討ちは合点か」

「だまれ」

金吾はいよいよ烈火になって、

「その広言は後で申せ」と、流れの<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>へ向って大股に歩み出します。

対岸の日本左衛門も金右衛門と共に、岩を避けて進みながら、

「よし、それ程死神につかれているなら、望みにまかせて討ってやろう。……だが金吾」

「多言は無用、あとのことばはこの流れを越えた上で聞こう」

「<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くな、まあ聞け、――一体<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>はこの日本左衛門に、何の怨みをもってそう食ッてかかるのだ」

「<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>の<ruby><rb>白々</rb><rt>しらじら</rt></ruby>しさ。汝の胸にきいて見ろ」

「ウム、おれが尾州の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷から、洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を持ち出したので、その飛ばッ散りを食った万太郎やおめえが、路頭に迷うのはおれのためだと恨むのだろう」

「そればかりか、この<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>の<ruby><rb>御前能</rb><rt>ごぜんのう</rt></ruby>をひかえて、尾張中将様の御謹慎、家中御一統の心痛、それみな貴様の悪戯がなせるお家の禍いでなくて何であろうぞ」

「待て待て金吾。黙って聞いていれば、少してめえ達のいい草は勝手すぎる。そもそも、<ruby><rb>事件</rb><rt>こと</rt></ruby>の起りというのは切通しの晩、おれが夜光の短刀の手がかりをつけるため、<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>のお蝶を捕まえているところを、邪魔したのはあれは誰だ？　――相良金吾と徳川万太郎でなくて何者だ」

と、相手の口吻を真似て、どこか<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>するような口調。しかも益〻かれの毒舌は雄弁に、歩む足と共に激流のふちを<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>って行きます。

「――いいか、まだ先の道は三、四町あるから、<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かずにおれのいうことを聞きねえ。いわば、そッちの文句は<ruby><rb>逆恨</rb><rt>さかうら</rt></ruby>みで、あの晩の<ruby><rb>遺恨</rb><rt>いこん</rt></ruby>はおれの方にある。だから、その仕返しに洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby><ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>へたたき出してやったまでのこと、今さら、主家の仇呼ばわりは片腹痛いというものだ」

「おのれ、ぬけぬけと口をふいたそのいい訳、たとえ、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の一事はどうであろうと、金吾にとれば<ruby><rb>真土</rb><rt>まつち</rt></ruby>の黒髪堂での不覚もある。武士の意気地としても、汝を助けておくわけにはまいらぬ」

「はははは、苦情のつけように困って、こんどは、金吾個人の意気地とおいでなすッたな。――ならばかえっておれの方にこそ文句があるのだ。おい！　腰抜け武士、<ruby><rb>蔭間侍</rb><rt>かげまざむらい</rt></ruby>、<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を洗って出直して来い」

「なにッ、<ruby><rb>蔭間</rb><rt>かげま</rt></ruby>だと？」

「おう、<ruby><rb>蔭間</rb><rt>かげま</rt></ruby>のような生白いやつでも、もう少し恥や外聞は知っている」

「いい抜けのかなわぬところから、舌のうごき放題な暴言、おのれもう二、三町先へ歩いてみろ」

「いや、<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>はするが暴言は吐かぬ。蔭間とよばれて、人なみに腹が立つか」

「拙者の<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>が、おのれの頭上を見舞うまで、何とでも、存分にほざくがよい」

「了戒ほどな名工の刀も、蔭間の腰に差されては浮かばれまい」

「うぬ、いわして置けばよい気になって、蔭間とは何事！　無駄口をたたかずに、行くところまで早く歩めッ」

「オオ、向うに狭い瀬が見えた。急いだところでもう一、二町」

「歩け、歩けッ。一刻たりとも猶予はならぬ」

「ウム、いくらでも急いでやるが、汝、主家の<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby><ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ばわりをする男の囲い<ruby><rb>女</rb><rt>もの</rt></ruby>と醜い不義をしておりながら、侍らしい潔癖を装うのは止めにしろ！」

「なに、不義をしたと？」

「おれが囲っておいた妾のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>に、たれの許しをうけて手を出したか。熱海の藤屋にかくれていたあのざまが不義でないか！　それでも<ruby><rb>蔭間侍</rb><rt>かげまざむらい</rt></ruby>でないか」

「ウウム……」

と、唇をかんだ金吾は、<ruby><rb>剜</rb><rt>えぐ</rt></ruby>るような彼の声に、歩足の自由を奪われたかの如く、まッたく色を失いかけました。

「どうした！　蔭間侍」

冷然と、そしてまた、鋭いものは、対岸に立った仇敵の<ruby><rb>嘲蔑</rb><rt>ちょうべつ</rt></ruby>です。

彼はさらに、皮肉きわまる口をひらいて、顔色蒼白となった金吾をながめながら、

「<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って、望みとありゃあ、いつでも相手に立ってやるが……ただし！　貴様が最前からほざくように、主家の<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>とか、武士の意気地とか、侍らしい名分を口にするなら、まずその前に、きたない不義の名を洗って、お粂とのいきさつを片づけて来るのがほんとだろうと思うが、どうだ金吾！」

「…………」

「おれのことばが違っているか」

「むッ……」

「犬！」

「…………」

「蔭間！」

「フウ……」

「よも、返辞はできまい。それとも、貴様の口ぐせにいう大義名分を引ッ込めて、おれを<ruby><rb>逆恨</rb><rt>さかうら</rt></ruby>みの<ruby><rb>女讐</rb><rt>めがたき</rt></ruby>に、その女くせえ手で、来の了戒を抜いてみるか――」

言々句々、毒をふくむうちに明白な理をもって、<ruby><rb>剜</rb><rt>えぐ</rt></ruby>るが如きかれの<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>に、金吾の真ッ正直な理性と血気とは、グッと返辞につまッたまま、目のくらむような恥辱をおぼえました。

武士として、男として、かばかりの無念がありましょうか。

金吾はぶるぶると身をふるわし、<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>を裂いて、対岸を睨みました。

しかし、ひとたび憤念の烈火にみずから恥を感じてみれば、この際、彼に返すことばはないのです。残念とも何とも言いようがないけれど、一矢を<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>うることすらできない。理は彼にあって自分にはありません。

かなり深く、自分を理解してくれている主君や釘勘にさえ、疑惑の目をもってみられているお粂との関係を、仇たり<ruby><rb>女讐</rb><rt>めがたき</rt></ruby>たる日本左衛門が、今のように<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>るのは当然なことです。今さらそれを彼に向って、言い訳がましく叫んでみたところで何になりましょう。

ああ吾あやまてり。――金吾は髪の毛をかきむしッて自分を罵りたい。

怨むべきは吾が身です。次に、今さら愚痴ですが、憎んでもあきたらぬのは、魔性の女のいたずらな恋慕――内心<ruby><rb>如夜叉</rb><rt>にょやしゃ</rt></ruby>の美貌に親切らしい化粧をつくッて、眠り薬を用いて自分の生涯に拭うべがらざる不覚を与えた丹頂のお粂です。

（武士らしい名分を口にするなら、お粂との始末から先に洗って来い）

といった相手の放言は、<ruby><rb>罵詈</rb><rt>ばり</rt></ruby>でも毒舌でも、動かすことのできない正当なことで、むしろ、身の暗影を拭わずに、彼に向って、<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby><ruby><rb>呼</rb><rt>よ</rt></ruby>ばわりをした金吾が、匹夫同様に嘲けられても、まことに是非ないことと言わなければならぬ。

――最初の気込みをすッかり<ruby><rb>殺</rb><rt>そ</rt></ruby>がれて、金吾が顔色なく立ちすくんでしまった時、日本左衛門は彼にかまわず、向うの岸を、<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>へ向って歩きだしています。

「お……、日本左衛門、もう一度待て」

そのうしろ姿に、はッと吾に返って、ふたたび手をあげて、五、六歩追いかけて行った金吾、

「よくぞ言ッた、今の汝のことばを、金吾はきッと忘れぬぞ」

「うム、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>に<ruby><rb>刻</rb><rt>え</rt></ruby>り込んで、おぼえておけ」

「今日は、自分として考え直したこともある故、いったんここでは<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>してやるが、後日、遠からぬうちに、必ずおのれの<ruby><rb>素首</rb><rt>すこうべ</rt></ruby>をもらいに行く。その<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になって、卑怯な振舞をいたすなよ」

「ばかな！」

日本左衛門は笠をゆすぶりながら苦笑して、

「いつでも来い！　出会ッてやる。――だが、おれは風のように天下を往来する緑林の人間、また会おうと言っても、滅多に日本左衛門の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>がわかるまい」

「なんの、たとえ足にまかせ、月日にまかせて尋ねようとも、きっと、探し出して出会わずにおくものか」

「そう手数をかけさせては、おれのことばに男が立たない。……ウム、こうしよう。いつなん時でも、命が捨てたくなったならば出会いの場所と望みの時刻を書いて、何処の塀でも<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>へでも貼りつけておくがいい。おれには、関東一円、江戸の内外、いたるところに<ruby><rb>飛耳張目</rb><rt>ひじちょうもく</rt></ruby>の手下があるから、きッとどいつか見つけるだろう。その時は、いつでもこッちから出張ってやる」

「オオ、忘れるな、その大言を」

「それまでに、せいぜい痩せ腕をみがいて来い」

仇と仇、そこの渓流をなかに挾んで、互いに、睨み合いのまま、白刃にものを言わすことは後日に約して、両岸の道を一方は上流へ一方は下流の方へ、ここに一時の殺気を解いて別れました。

それから二、三町――

上流の方へ歩いて行った<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門は、あとで、時々うしろを<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>りながら、

「惜しいことをしたじゃねえか」

と、<ruby><rb>俎</rb><rt>まないた</rt></ruby>に乗せた魚を逃がしたように舌打ちして、義も道理もあるべきでない盗賊に身を落としていながら、どこかに元の浜島庄兵衛という武家<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せない日本左衛門の<ruby><rb>遣口</rb><rt>やりくち</rt></ruby>を<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>がりました。

「まあ、そんなことはどうでもいい」と、彼はすぐに常の様子に返っていて、

「それよりは、さっきの帯はまだ見つからねえか」

「お、この辺だな、投げたのは」

と、空に向ってひとみをつる。

金右衛門のひとみが、絶壁に添うて、ズッと足元まで見下ろしてくる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、水辺を見廻していた日本左衛門は、ふと、<ruby><rb>美鱗</rb><rt>びりん</rt></ruby>をもった魚の如き<ruby><rb>金襴</rb><rt>きんらん</rt></ruby>の<ruby><rb>小布</rb><rt>こぎれ</rt></ruby>が、奔激する水をくぐッて、浮きつ沈みつしてゆくのに眼を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られました。

それに気がついて、彼が川べりを数十歩のぼって行って見ますと、<ruby><rb>一叢</rb><rt>ひとむら</rt></ruby>の<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>のかげに、下げ髪の若い娘が、岩角から身をかがませて、澄んだ流れの水をすすろうとしていました。

何よりも真ッ先に、日本左衛門の眼に映ったのは、娘のしめているその帯で、

（おう月江だな。運よく助かったものとみえる）

と思いながら、つかつかと歩み寄って、彼女の帯ぎわを後ろから抑えてやりながら、

「お女中、あぶないぞ」

と、ことばをかけました。

不意に自分の帯をつかんだ者があるので、月江はハッと驚いた様子です。

「さ、わしが抑えていれば大丈大、さぞ苦しかろう、早く水を飲まッしゃい」

未知の人の好意を喜んで、月江は目にその礼をいいながら、白い<ruby><rb>頸</rb><rt>うなじ</rt></ruby>をのばして、ゴックリと一口冷めたい天泉をのどに通しました。

まだ打身の痛みはありますが、一口の冷水に、気だけはハッキリと<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ったので、

「どなたですか、御親切さまに、有難うぞんじました」

岩にすがって、<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>のなかに、立ちますと、そのおぼつかない足元をささえて、

「無理をなすってはいけない、さ、わしの肩につかまるがいい」

「でも……」

「なあに、御遠慮はいらぬ」

そこへ<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門も来て、左右から彼女の歩行を助けながら、

「何しろ、この谷底ではどうするすべもないから、中の峠の甘酒茶屋まで、少しの間御辛抱なさるがいい」

「まことに、お世話をかけて済みませぬ。して、失礼でございますが、あなた方は、ここをお通りがかりの人でございますか」

「ここは、街道を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れている星影の<ruby><rb>谷間</rb><rt>たにあい</rt></ruby>、通る道ではないが、そなたの難儀を遙かに見て、安否を見に降りて来たのじゃ」

「では、あの私の連れは？」

「関久米之丞というやつか。あれの死骸も、たぶんそこらの谷間に引ッ懸っているはず」

「えっ」

彼女は、自分をささえてくれている人の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>に、血汐らしい<ruby><rb>汚染</rb><rt>しみ</rt></ruby>が点々とあるのに気づいて、初めてこの二人に疑惑を持ちましたが、今さら、その好意にまかせた腕を振り払うこともならず、ひそかに油断のない気構えを持ちながら、陽も心細くうすずく<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の中の峠の茶屋を目あてに、たどたどと不安な足を運ぶのであります。

＊　　　＊　　　＊

「おばさん、水を一杯飲ませてくンないか」

ちょうど、同じ日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>少し過ぎ。

たッた一杯四<ruby><rb>文</rb><rt>もん</rt></ruby>の甘酒の茶屋へ、その甘酒を注文せずに、いきなり水を一杯くれといって飛びこんだ小僧があります。

「水かい？」

と、<ruby><rb>其店</rb><rt>そこ</rt></ruby>の婆さんもぞんざいなもので、

「水なら<ruby><rb>懸樋</rb><rt>かけひ</rt></ruby>から流れているだろう、いくらでも飲むがいいよ」

「オオ<ruby><rb>冷</rb><rt>つ</rt></ruby>めてえ！　お婆さん、うまいなアこの水は」

「うちの甘酒はもっと<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>い、小仏の名物、一杯あがらッしゃい」

「飲みてえな、甘酒を」

「ついでやろうか」

「いいよ、おれは一文もおあしを持っていないもの」

「なんだ、おめえは、銭なしで旅をしているのか」

「連れの人にはぐれたので、まだ<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>飯も食べることが出来ないのさ。……弱ったなあ、何処で道をちがえてしまったンだろう？　……もしやお婆さんは、おいらの連れを見かけなかったかい」

「どんな人？」

「偉い人だ」

「ただ偉い人だけじゃわからない。町人かね、それとも、お侍かね」

「一人は町人で、一人はお侍様でおいらが宿屋へ忘れ物を取りに返っているうちに、何処かへはぐれてしまったのさ」

「はアてね……今日はずいぶん人が通ったからなあ？　……」

「困ったなあ、おいらは、その人に会えないと、また今夜も御飯を食べることが出来ない」

と、さも<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>したように、杖にしている野槍をもって、しきりと腹の虫を<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えさせる甘酒の釜の前に、どっかり腰をおろしました。

## 甘酒茶屋

例の、杖とも槍ともつかない棒をたずさえている小僧といえば、それが、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎であることは言わずもがなの事でしょう。

おやじと称した御家老と、<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>とよんだ用人のいる屋敷から、夜逃げ同様におさらばを告げて、あれから何ものかを求めつつ、この甲州路へ急いだのが、徳川万太郎に目明しの釘勘、及びここに<ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>き腹を持てあましているところの次郎であることも、再度の説明には及びますまい。

ところで、甘酒の釜の前で、しょんぼりしている次郎の様子があまりにも<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>なので、茶屋の婆さんが何かと<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めていると、彼の腰にブッ下げている品物が、どうも、竹の皮に包んだ弁当らしいので、

「お前さん、もしやそこに持っているのは、弁当とは違うのかい」

と、疑わしげに<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めました。

次郎は、腰のそれへ手で触ってみて、

「ああこれかい。これは、<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>宿屋でこしらえてもらった三人分の握り飯さ」

「ばかな衆もあったもンじゃないか」

「なんだい、人をばかだなンて」

「だって、仏様づくる程、お腹が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>ッているのなら、何も、水を飲んでいる事はなかろうに。――食べたらいいじゃないか、その弁当をよ」

「いけねえ、いけねえ」

次郎は<ruby><rb>強情</rb><rt>ごうじょう</rt></ruby>にかぶりを振って、

「これを食うくらいなら、何もおいらは心配をしないことさ」

「へえ……」と、あきれた顔をして、「じゃお前さんは、腰に飯をぶらさげていながら、腹を減らして困っているのかね？」

「アアそうだよ」

「分らない子だ、何でそんな、くだらない痩せ我慢をして、よろこんでいるのだろう？」

「何も、おいらだって、こんなペコペコな腹をかかえて、よろこんでいるものか」

「じゃ、食べたらよかろう、その弁当を」

「大きにお世話様だよ」

と、口を<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>ンがらして、次郎がこの年寄にいって聞かすことには、

「自分が弁当を持っているからって、おいらだけ<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>い思いをして、もしやあとの二人が食べずにいたら、それこそ済まない話じゃないか。だから、二人に行き会わないうちは、この飯が腐るまで、おいらは食べずにいる覚悟だ」

それを聞いて、その義理固いのに、甘酒茶屋の年寄がひどく、感服したものですから、無一文なのを承知して、名物の甘酒を次郎の空腹に恵みました。

思いがけない接待に、彼は、ふウふウとその熱いのを吹きながら、

「ああ、うまい」

舌つづみを打っては、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の汗をこすッている。

「おいしいかね、小憎さん」

「うまい」

「もう一杯上げよう」

「もう二、三杯もらわずにはいられねえ」

「アア何杯でも」

「そんなに機嫌よくついでくれると、この釜いッぱい飲むかも知れねえよ」

やっと冗談口が出るほど腹の加減もよくなって来たものでしょう。

そこで次郎は、事によると、二人より先に道を追い越して来たのかも知れないから――といって、一個の包みを茶屋に預け、野槍を持って小仏の中の峠から千魂塚方面へと、はぐれた二人を探すべく、甘酒に元気づいてスタスタと引ッ返して行きました。

ちょうど、<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>下がりの刻限なので、そろそろ旅の者の影も絶え、次郎が去った後は、<ruby><rb>懸樋</rb><rt>かけひ</rt></ruby>の水の音がチロチロとせせらぐのみで、暫く茶店は閑散のていに見うけられる。

すると、障子の<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>ててある裏手の小座敷で、

「おばさん、糸と針をありがとうございました。さっきの針箱と一緒に、この戸棚へ入れて置きますから……」

姿は見えませんが、その座敷のうちで、<ruby><rb>夜飼</rb><rt>よがい</rt></ruby>の<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>が不意に鳴いてみせたような<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い声です。

無論――女、それも若い女の。

ところが、いつのまにか婆さんは、ピカピカ光る甘酒の釜を留守番にさせておいて、店は無人のまま<ruby><rb>寂</rb><rt>じゃく</rt></ruby>としていたので、答える者がなかったわけ。

ただ、その女の声に、

「おや！」

と、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の端から振向いたのは、茶屋の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>を待っている一人の男で、

「おかしいな、この甘酒茶屋には、あんな若い声のする娘はたしか居ないはずだが？　……」

小首をひねッているふうです。

ところへ、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>なる茶屋の名物婆さんが戻って来たので、男はここへ来た用件を話し、<ruby><rb>西陽</rb><rt>にしび</rt></ruby>を見て腰を立てかけましたが、

「あ、そういえば、今にここへ妙な侍が来るかも知れねえぜ」

と立ちかけ話に――

「気をつけなさいよ、どうも目つきがすごかった。それに、<ruby><rb>虚無僧岩</rb><rt>こむそういわ</rt></ruby>の手前に、死骸は見えなかったが、どっぷりと血が……そうでがす、あの森と崖ッぷちの間にね」

この者は、最前ここへ来る途中で、星影の谷間へ下る道を例の二人に教えた男とみえます。

下頭小屋でも変な話を聞いたし、千魂塚でも何とやらいう噂もある、お気をつけなさい、お互いに、<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでも、金なんぞはあまり貯めないことに限りますね――などと用心を言い残し、今日の最後のお客様として、甘酒の火を落とすのと一緒に、男は<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>へ引っ返しました。

やがて、店の<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>が巻かれると、裏の方からパチパチと青い煙が立ちのぼります。

もう、よくせき急ぎな早打ちの<ruby><rb>飛脚</rb><rt>ひきゃく</rt></ruby>か、迷子の<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>でもない限りには、この小仏を越えるものはなく、宇宙も大地もヒッソリとしたうちに静かな夜霧の幕が全山をつつんで来る。

戸じまりを終えた婆さんが、カタコトと気永に何か晩飯のこしらえにかかっていると、最前聞こえた娘の声が、やはり障子を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てたまま座敷のなかで、

「さっきお店に来た人が、何かいやな侍に逢ったと言っていましたが、何でしょうね？」

「こんな山の中だから、物騒な事は時々さ。だが、私のように、慾にも色にも縁の遠い人間になると、そりゃあ何処に住んでいても気楽なものだよ」

「<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましゅうございますね」

「ところが、それじゃ生きている甲斐がない。やっぱり、お前さんぐらいな年頃で、世の中が怖いようでなければ困るよ。――その怖いのを押して、いいなずけの男の所へ行こうという、お前さん時代が私は恋しい」

柄にもない老嬢の述懐を聞いて、障子の中では、若い女がクスッと笑いを押さえたようです。

いや、或いは、それを笑ったのではなくて、自分がここに宿を借るため出たら目に言ったことばを、先が正直に信じているので<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくなったのかも知れません。

一方で晩の仕度が出来て、やっと、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>という名ばかりの品物に、目の悪くなりそうな明りがボンヤリとつくと、女はへだての障子を開けて、

「では、おばさん。いろいろお世話になりましたけれど、これから峠を下りますから……。そして、これはほんの少しですけれども礼のおしるし、納めておいて下さいな」

と、紙にひねッた小粒銀を、明りの届くところへ置きました。

最前から障子をしめきって、中でシンとしていたのは、手廻りの物、<ruby><rb>髪粧</rb><rt>かみよそお</rt></ruby>い、何かの<ruby><rb>身仕度</rb><rt>みじたく</rt></ruby>を小まめにととのえていたものでしょう、あとは、草履の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結ぶばかりに、すっかり身ごしらえを済ましている。

お蝶です。

<ruby><rb>帯揚</rb><rt>おびあげ</rt></ruby>のうしろか、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の中か、何処かにあの<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を呑んでいるお蝶です。

これから人も<ruby><rb>怪鳥</rb><rt>けちょう</rt></ruby>の往来も絶えようという小仏の夜に向って、虫も殺さぬような小娘が、ただ一人で、この峠の絶頂を立とうというのですから、一方は、暫くあっけにとられました。

けれど、質朴な老婆心が、おいそれと、それをかんたんに送り出すものではなく、まあ御飯を食べて――と無理に坐り直させる。

そして、<ruby><rb>懇々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>ということには、この山越えが昼でも男の足に骨の折れること。また、夜に入って若い女がこうされた、ああされた実例など、お蝶を断念させようとして、いつまでも、家の外へ出すことを<ruby><rb>肯</rb><rt>がえ</rt></ruby>んじません。

元より、そんなことは、百も二百もお蝶は承知しておりますが、前に、口から出まかせな口実を言った手前もあるので、素直に俯向いて、聞くだけのことを聞くよりほかにない。

しかし。

だれが何と言おうと、夜のうちに歩かねば、歩くひまのないお蝶です、どうでも今夜のうちに、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>を出る決心はうごいていません。

何と言っていさめても、思いとまる様子がないので、その強情にあきれたか、遂には、茶屋の婆さんも好意をひっこめて、ではせめて晩の飯でも食べてと、そこへ膳を持ち出してくる。

実は、お蝶はそれもあまりすすまないところなのですが、そうそうこの真っ正直な善人を失望させるのもむごたらしく思えて、

「では、御飯だけいただいて」

言い訳ばかりに、支度のままで箸を収りました。

後で考え合せてみますと、それに彼女の食慾がなかったのも、一つの虫の知らせであったかも知れません。

ちょうど、お蝶がそうしている時刻です。

歩行にたえない月江の体を両方から助け合って、星影川の谷間から中の峠へこころざして来た日本左衛門と先生金右衛門が、ようやくのことで、この茶屋のかすかな<ruby><rb>灯</rb><rt>ともしび</rt></ruby>を数町の先に見たのは。

「もう間がない」

と、二人は月江を励ましていました。

「向うに見える<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が、たしか甘酒茶屋に相違ない。あれまで着けば、どうにも体を休めることも出来るし、都合によっては、麓から医者をよぶ方法もあろう」

「御親切さまに」

「なに、旅では、こんなことはお互いじゃ」

日本左衛門は、この娘の口から、やがて久米之丞のふところから得た夜光の短刀の手がかりを得ようという<ruby><rb>下心</rb><rt>したごころ</rt></ruby>ですが、世なれぬ月江は、ここまで来る間に、まったく親切な浪人もあるものと、今はすべての疑いを去っています。

暗を真っ直ぐに見れば、二、三町としか思えなかった道も、また一つの下りと上りを備えていました。今は気が張っているが、これで向うへ着いたらば、倒れたきりで起き上がることは出来まいと、月江はこの上にもこの<ruby><rb>後々</rb><rt>あとあと</rt></ruby>が思いやられる。

やっと辿りついた中の峠の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただ</rt></ruby>き。

大日岩のほとりに立って、四方を見廻しますならば、夜とはいえ満天をうずむる星の青い光に、遠くは木曾<ruby><rb>信濃</rb><rt>しなの</rt></ruby>の群山、広くは東方にわたる武蔵野の原、帯と曳く多摩川の長流、あるいは清麗な<ruby><rb>美姫</rb><rt>びき</rt></ruby>が<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>にかくれたような夜の富士の見られないこともありますまいが、月江は勿論、二人の方にも心にそんなゆとりがないとみえまして、ただまっすぐに、灯のもる家の外に立ちました。

あたりを見廻して、金右衛門がひとり<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら、

「茶屋だ、ここが甘酒茶屋に相違ない」

と、小声でつぶやく。

勝手な歩調であるいて来たのとは違って、日本左衛門も大分がっかりした様子です。

「早速、戸をたたいて、頼んでみてくれないか」

「うム、一つ当ってみよう」

「浪人者というと、気味わるがるかも知れないが、事情を話してな」

「よろしい」

と、金右衛門が先に立って、

「誰かおらぬか。茶店の者、茶店の者」

まず二つ三つ、軽くそこの戸をたたいてみる。

家の中へはすぐその音がひびいて、時ならぬ人声に、今膳の前で、<ruby><rb>白湯</rb><rt>さゆ</rt></ruby>をのみかけていたお蝶は、思わず、

「あ……？」と、あの特質のある、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の長い目をみはりました。

「これ、旅の者だが、ちょっとここを開けてくれ」

金右衛門が二度目にそこを叩いた時、何か答えがあって、目の前の戸がガラリと開きました。

手短にわけを話して一泊を乞うと、こんな例は日常の茶飯事でしかないように、婆さんは苦もなく承知して、もう明りのついていない一間を探って夜具の支度をしはじめている。

疲れと気のゆるみで、月江はその支度も待たずに、上がり口でぐったりと身を投げましたが、その時、まだ外に立って編笠をぬいだ日本左衛門が、

「忘れていた、水が欲しいのであろう。金右衛門、水をもらってやってくれ」

「水か」

と早速土間から部屋のなかをのぞき込んで、

「お、そこに居る娘、済まないけれど、湯飲みへ水を一杯くんでくれないか」

うす暗い<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の灯をよけて、壁の隅に身をちぢこめていたお蝶に向って、何の気もなく、こう頼んだものです。

「…………」

「水じゃ、水を一杯」

「…………」

「これ、娘……」

ところが先は<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>か<ruby><rb>聾</rb><rt>つんぼ</rt></ruby>か、いくら頼んでも一<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>返辞をしてくれませんから、金右衛門も少し変な顔をして、後ろの連れへ苦笑をしてみせますと、これはどうしたことだろう、その日本左衛門の視線と先の娘の目とは、自分の肩越しに絡みついたようになって、ジッと睨み合ったまま双方物を言うどころの様子でないので、何とは知らずギョッとして思わずその視線と視線の間から身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きました。

そこを日本左衛門の手が、押し<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けるように金右衛門の胸を払って、

「おっ、お蝶だな、てめえは」

片足をかけるや否、一<ruby><rb>跳足</rb><rt>ちょうそく</rt></ruby>に、部屋の中へ<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>り立ちましたが、とたんに、家のどこかへ穴でもあいたように、どっと一陣の風が吹ッこんで来たかと思うと、そこの<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の灯が見事に<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われました。

と、一緒に、一枚の雨戸が外へ転落して、その一枚だけの空間に星の夜空が見えたのです。そして、そこを飛鳥のように掠めたお蝶の影が、<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>く外の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ駆け出しました。

金右衛門は驚きを極めて、

「お蝶？　今のがお蝶か」

と、あまりの唐突にうろたえながら、そこの入口を出たりはいったりしていましたが、日本左衛門はそれに答えるまもなく、お蝶の出た裏の方へ飛びおりて、

「しまッた」

疾風をついて追いかけました。

それから間もないことです。

<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>を失った甘酒茶屋の真っ暗なところへ、スタスタと<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に飛んで来たのは、昼間、元気なくここへ立寄った<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の次郎で、明け放しになっている家の中へ首を突っこみながら、

「おばさん、寝たのかい。さっき預けたおいらの包を、返してくんないか。――おばさん、おばさんてば」

奥で物音がしていながら、さっぱり返辞がありませんので、何の気なしに土間の中へはいって行こうとすると、裏口から戻って来た金右衛門が見つけて、

「おや？」

と、その<ruby><rb>矮短</rb><rt>わいたん</rt></ruby>な影を透かして見ました。

次郎もひょッと<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>りました。そして<ruby><rb>魁偉</rb><rt>かいい</rt></ruby>な浪人<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>にギョッとした心が、思わずも、杖についている例の<ruby><rb>胆刺</rb><rt>きもざし</rt></ruby>の穂先を知らず知らず持ち上げて、自然のうちにおのれを護る形をとらせました。

それが次郎自身のつもりでは、万一の護身に備えた意味であろうと、先に<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>の付いている棒をいきなり横に持たれたのですから、立派な敵対行動を示して、相手の心を<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>と怒らしめたのもまたやむを得ません。

ことに今の騒ぎで、金右衛門の方にも充分戸まどいのあるところです。

「小僧。なんだ、うぬは？」

まずこう威嚇を<ruby><rb>試</rb><rt>こころ</rt></ruby>みてみますと、その声が鋭かったので、次郎の方も、打って響きの答えるように、

「なんだとは、てめえこそ何だ？」

と、いちだん野槍の先ッ穂を引き込みました。

「さては野郎、お蝶の道づれだな」

「お蝶？」

「小生意気なやつだ」

ちょっと<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで片づけるつもりか何かで、金右衛門がうッかり腕をまくり上げたせつなに、早くも次郎の<ruby><rb>胆剌</rb><rt>きもざし</rt></ruby>の穂が胆をねらって無造作に突いてきました。

かつて雲霧の仁三も、この油断から彼に目をやられたことがあります。今とても<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門が、あぶなく同じ<ruby><rb>轍</rb><rt>てつ</rt></ruby>を踏むところであったのを、身をかわして、その野槍の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>をつかみ、片手で大刀を抜かんとして見せながら、

「ウム、なかなか不敵な<ruby><rb>小童</rb><rt>こわっぱ</rt></ruby>だ、てめえはお蝶の道づれだろう、それとも、何かべつな用があってここへ来たのか。それを言わねえとたたッ斬るぞ、さ、言うか、言わぬか」

「な、なにを」

次郎は野槍を取ろうとして<ruby><rb>渾身</rb><rt>こんしん</rt></ruby>の力を両腕にあつめながら、

「斬れるものなら斬れ、おいらには、ちゃんと付いている人がある。今に泣き面をかかせてやるから見ていやがれ」

あれから、何処かでたっぷりと米の飯が腹におさまったものとみえて、次郎は、昼間ここの甘酒の釜の前でションボリしていた元気とは<ruby><rb>雲泥</rb><rt>うんでい</rt></ruby>の差であります。

連れがあると聞いて金右衛門は、いよいよこいつ油断のならない小僧、斬るべきか、手捕りにすべきか、それともどうしてやろうかと、思案をしながら、取敢えずポンと野槍の柄を押ッ放すと、

「あっ」

と次郎はうしろへよろけて、その足元を踏み直すや否、奮然、獅子の子のように<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby><ruby><rb>逆立</rb><rt>さかだ</rt></ruby>ててまいりました。

「さあ、突け」

「なに」

武器のうごきも心のごとく<ruby><rb>懸引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>がない、大手をひろげた金右衛門の胸元へ、野槍と一緒に真っすぐに突いてかかる。

それを軽くあしらって、かわすこと七、八たび。

もう疲れそうなものだと見ているが、棒に刃物をすげた奇妙な武器は、いよいよ鋭く、いよいよ加速度になって、ともすると金右衛門とて飛んだ不覚をとらない限りもないふうです。

最初の油断をのぞいても、まだ幾分か見<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>った考えを残していた金右衛門は、ここに初めて本気にならざるを得なくなりました。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、無手でこれをあしらっていたひには、このチビより先に自分の方が疲れてしまう。

「ええ、面倒だ」

さっと、飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた金右衛門が、<ruby><rb>豹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>のごとく身を屈したのは、向うみずな次郎が飛びこんでくるところを、抜いて、その<ruby><rb>諸足</rb><rt>もろあし</rt></ruby>を払わんとした用意にちがいありません。

おっと、待った。

次郎もその一歩はあぶないと考えたので、グッと股を割るように踏ん張って、野槍の<ruby><rb>穂先</rb><rt>ほさき</rt></ruby>を低目にかまえながら、まず二、三寸ずつジリジリと足の<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>に土を噛ませてつめ寄って行きますと、突然、うッと異様な声をあげた相手がその巨大な図ウ体をみずから大地へ倒していました。

突然、金右衛門をそこへ倒したのは一条の<ruby><rb>捕繩</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>です。

彼が次郎の野槍に対して全能をあつめた途端に、何処からか飛んできた丈余の捕繩が、その片足を巻いて力いッぱいに引っ込んだものです。

構えをとらぬ敵に会ってはどんな者もたまりますまい。金右衛門は<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに倒れました。しかし、彼の大刀はさすがにその捕繩を断って、盲目的に駆け出していました。

次郎は俄然身を跳らせながら、しかもいい気に調子づいて、

「待て、侍」

と、野槍をすぐって追いかけんとしましたが、またも、先へ駆け出した金右衛門が、不意に暗やみから伸び出た一本の刀に出会って、サッと、その出足の真っ向を割りつけられました。

すると、一方の暗で、

「あっ、万太郎様万太郎様、そいつを斬ってはいけません」

と、はっきりした声でいうものがある。

で、次郎は初めて、相手の急敗が自分の勢力や圧倒でなかったことに気づき、いささか失望の気味で、

「あれ？」

と言ったまま野槍を小脇におさめている。

無論そこへ来たのは、彼が半日がかりで探した釘勘と万太郎です。三人はこの事にさえ出会わなければ、予定どおり、夜を<ruby><rb>徹</rb><rt>てっ</rt></ruby>して小仏を越えてしまったでしょう。

ところが。

ここまで来ると、昼間甘酒茶屋に何か<ruby><rb>包</rb><rt>つつみ</rt></ruby>を頂けてあるからというので、次郎がそれを取りに寄ったので、一足あとから歩いて来ると、彼と金右衛門とがこの有様なので、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の急に釘勘は捕繩を送り、万太郎は向うから来るところを、得たりと抜き打ちに、その真眉間へ浴びせつけたのでした。

そして、すぐ<ruby><rb>二太刀</rb><rt>にのたち</rt></ruby>と思うはずみを、何故か釘勘が制止したので、例のお坊ちゃん<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>はすぐにその干渉へ、

「釘勘、なんで止める？」

と、不平です。

釘勘は笑いながら、

「だって、<ruby><rb>値</rb><rt>ね</rt></ruby>が下がります」

と捕繩で金右衛門の両腕をしばり上げながら、

「<ruby><rb>生洲</rb><rt>いけす</rt></ruby>の魚じゃありませんが、同じ江戸のお奉行へ差立てるにしても、<ruby><rb>生</rb><rt>いき</rt></ruby>のいいやつを送るのと死んだ<ruby><rb>骸</rb><rt>から</rt></ruby>を送るのじゃ、値打において大変なちがいです。――ことにこいつは日本左衛門と一緒に永年手をやかせていた抜け買いの<ruby><rb>巨盗</rb><rt>おおもの</rt></ruby>、殺してしまっちゃ、何もなりゃあしません」

「やっかいだな。いずれ江戸へ差立てても、斬罪ときまっているだろうに」

「そりゃ、相場はきまっていますが、生かしておく間に泥を吐かせれば、余類のやつを芋づるに<ruby><rb>召捕</rb><rt>あげ</rt></ruby>られようというもんです」

「ウ、なるほど。……だが釘勘、そうするとそちはこれから金右衛門を縛して、いったん江戸表まで帰らなければならないな」

「しかし、なるべくそうしたくないと思います」

「といって、こいつを引きずってあるくわけには行くまい」

「この小仏をあとへ戻れば<ruby><rb>駒木野</rb><rt>こまぎの</rt></ruby>の御番所がありますから、そこまで曳いて行って、南町奉行所への差立てを頼んでまいります。……で、恐れいりますが、若様と次郎は、あっしが帰って来るまで、この甘酒茶屋で休んでいて下さいませんか」

「これから行くか」

「どうもしかたがございません」

「大変ではないか、今夜はここに縛りつけておいて、あしたの朝にしてはどうじゃ」

「いや、先の事もありますから、そうしちゃあいられません」

<ruby><rb>繩尻</rb><rt>なわじり</rt></ruby>を手に巻きつけて、

「おい、あるいてくれ」と、金右衛門の腰を軽く突きました。

<ruby><rb>浅傷</rb><rt>あさで</rt></ruby>ではありますが、<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>をはすがけに斬られているので、彼の満面はさながら、<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>で顔を洗ったようです。

血まみれとなった金右衛門を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して、釘勘が夜路を麓へ引っ返して行ってから、そのあと、万太郎は次郎を具して、すぐそこなる甘酒茶屋をおとずれました。

内にはやっと明りがついている。

今の者が戻って来たのかとおぞ毛をふるって見れば、また違った二人の来訪者。

こうも時ならぬ時刻に客ならぬ客の訪れる事は、廿酒茶屋<ruby><rb>開闢</rb><rt>かいびゃく</rt></ruby>以来の異変かもわかりません。

そこで、当然な帰結として、この山頂の一<ruby><rb>灯</rb><rt>とう</rt></ruby>の下に、次郎と月江との思わぬ<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>があったことは、くだくだしければここに略すとしておきまして、ひとつ、万太郎にとって聞きずてにならないのは、たった今この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の棟から逃げていったと聞いた――お蝶のこと、日本左衛門のこと。

ああ、しまった！

そうと知ったなら釘勘をふもとへ返すのではなかったのに。

釘勘もまたうかつではないか。

人一倍勘のいい男のくせに、金右衛門がここにいた事実にぶつかりながら、どうして常に彼と一緒にあるいている日本左衛門の方に思い及ばなかったのだろう。

万太郎がこうジリジリ思ったのは無理ではありません。日本左衛門がお蝶を追って行った目的はわからないが、そのお蝶はたしかに<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を持っている。もし、再びその仮面が彼の手に奪われることがあったら、もう滅多にあの品物の<ruby><rb>秘庫</rb><rt>ひこ</rt></ruby>に返ってくる日はのぞまれない。

で、彼はそこに席のあたたまる間もなく、月江と次郎を茶屋にのこして、またぞろ小仏の二<ruby><rb>更</rb><rt>こう</rt></ruby>を暗夜行路の人となりました。

近頃は万太郎も、星を仰ぐと<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>の近いのを思い出すくせがついている。

と言って、その七夕の<ruby><rb>星燈籠</rb><rt>ほしどうろう</rt></ruby>に歌を書いて遊戯する身でもありませんが、例年江戸城の本丸にその夜催される七夕の夜能に、ぜひともなくてはならない洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が、果たしてその晩までに市ヶ谷の上屋敷に届けてやることができるかどうか。

できなかったら将軍家に対しての、父中将や兄の立場の首尾わるさが思いやられます。

かなり御苦労なしの万太郎に見えても、その禍根が元々自分にある自責の念に駆られてか、今は人知れぬ心痛、お蝶をさがして、ここまで来た旅の道すがらも、どうして、なかなか気が気ではなかったのです。

「いやだな、こんな心配は。早くひとつ<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の方を片づけて、おれはおれの生涯の楽しみに、夜光の短刀の捜索にかかりたい。――あれには、義理だの義務だの家のためだのといううるさい付けたりが一つもない。ただ、自分のみている夢が事実になって現れるか、夢のままで消えるかというだけの話だ。<ruby><rb>無為</rb><rt>むい</rt></ruby>の人間にちょうどいい人生の遊戯だ。夢のまんまでも面白い、夢がほんものだったらなお愉快じゃないか。――ところが<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の方は遊戯じゃない、これが紛失となると将軍家からケチをつけられ、兄貴やおやじの立場がひどい破滅になる。どうしても遊戯じゃない。金吾もそうだ、あの男こそ分けても遊戯<ruby><rb>沙汰</rb><rt>ざた</rt></ruby>じゃあるまい、一個の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のために、生々しい苦しみをしているだろう」

かなり足を早めつつ、こんな考えが頭のなかでも駆けあるいている。

ふと前面に<ruby><rb>突兀</rb><rt>とっこつ</rt></ruby>とした岩の姿に出会いました。来る者に対して、一問せんというが如く肩をいからしている岩容が、この際、日本左衛門が百倍ほどになってそこに立ったようにも見えます。

道は、岩の根から右へ折れます。そこを五、六歩降りかけて西北に傾斜している一帯を見おろしますと、羊腸とした道が星明りにもきれぎれに白く見える。

昼ならば、<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の坂道や向うの峰の尾根に、幾つかの寸馬豆人をかぞえられましょうが、夜では、<ruby><rb>皆目</rb><rt>かいもく</rt></ruby>何ものも見あたりません。

また、そこに立って、暫く心耳を澄ますといえども、心にふれ耳に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>るものは、形なく色なきものばかりです。日本左衛門の足音でもお蝶の悲鳴でもありません。

## <ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>

――さてまた<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷のお蝶の身です。果たしてあれから日本左衛門の追迫を首尾よくのがれ得たかどうか。

つづいて、万太郎がそのあとを追い駆けては行ったものの、彼のえらんだ道は、俗に高尾越えという裏街道で、まるで方角ちがいであったからぜひもない。

では、お蝶そのものはどう逃げたかというに、<ruby><rb>大日岩</rb><rt>だいにちいわ</rt></ruby>から左へ<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>って、小原の宿へ一散に逃げ下ったものです。

「オウ――イ」

その後ろから木魂になって追う声は、日本左衛門に違いない。茶屋で聞いた話には、小原までは登りの半分ということですが、その影と声とに追われて逃げるお蝶には、千里も下る思いがします。

いよいよ近いうしろに<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>。

所詮、この一筋の本道をまっすぐに走ったのでは、男の足にかなうわけがない。それに、素足の痛みにも堪え得ません。

<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ると影が見える――すぐ一曲り上の道に。

「お蝶ッ」

その声が近い頭上に聞こえたので、彼女は横の細道へ駆けこみました。

そこはいちめんなる<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>の海で、こまかい篠の葉が肩まで体をかくしてくれます。とは言え、その篠の波をくぐってゆくそよぎは、上からも明らかに見てとれるわけですから、この道必ずしも安心ではないのです。

果たして、暫く行って振顧ると、うしろの方からザッザという篠の<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎがして、抜手を切って泳いで来るような日本左衛門の影。

（この道が断崖の上で尽きたら、私はどうしたらいいんだろう？）

お蝶はそう恐怖せずにはいられない。

ただ、さっきよりいくらかましなことは、このいちめんな篠が生えているために、自分も自由に走れないが、追う者も<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>を飛ぶわけにはゆかないことです。従って、その足どりの速度に於ても、男女の差がすくなく、この篠のつづく限りは、同じ間隔をもっていられるだろうと思いました。

が――その安心もつかのまです。遂に来る所まで来てしまうと、案のじょう、道は深い断崖のふちで恨めしくも途切れている。

「どうしよう？」

彼女は身を抱きしめて立ちすくみました。

そうして、うろたえているまにも、ザッザと篠を掻き分けてさがして来る黒い影の半身が近づいて来る。

「おっ……」

思いがけなく、彼女の目を驚喜させたものがあります。それは、こっちの断崖と向うの絶壁の間に渡されてある一筋の<ruby><rb>蔓繩</rb><rt>つるなわ</rt></ruby>と、タランとそれに添うてたるんでいる一本の<ruby><rb>麻繩</rb><rt>あさなわ</rt></ruby>。

繩の影をたどって自分の足元を見ますと、その端が巨木の切株にからめてあります。オオと、お蝶の手がそれを解くが早いか、もう必死になって<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>りおります。

と。

招きに応じてくるように、あなたの暗から一箇の怪物がカラカラカラと鳴き声を立てながら宙を渡って彼女の手もとへ飛びこんで来ました。

おそらく、都会に育ったお蝶がその怪物に触れたのも初めてで、それを乗り物と感じたのは<ruby><rb>草双紙</rb><rt>くさぞうし</rt></ruby>の知識であったかも知れません。何かといいますと、例の木曾路の<ruby><rb>大妻籠</rb><rt>おおつまご</rt></ruby>あたりでは重宝がられている<ruby><rb>籠渡</rb><rt>かごわた</rt></ruby>しというしろもの。

<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>けられた一条の<ruby><rb>蔓繩</rb><rt>つるなわ</rt></ruby>に、小さな車を噛ませてあるばかりの<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>です。元より危険といえばこの上もない危険、とても安んじて大事ないのちを託しうる物ではありませんが、彼女として今の場合、そのあぶないものが地獄に仏です。

お蝶は、いきなりそれへ身を入れました。

しかし、乗るにも呼吸のあるものを、夢中で籠のなかへ身をまろばせ込んだのですからたまろうはずはない。

とたんに――

長い<ruby><rb>蔓繩</rb><rt>つるなわ</rt></ruby>は左右に大きな波のうねりを打ち、キキキキキッ――と<ruby><rb>車啼</rb><rt>くるまな</rt></ruby>きを立てた籠は、お蝶の体を振りこぼしてしまいそうに絶壁を離れてすべり出しました。

わずか、一歩あとから、

「あッ」

という日本左衛門の声が岩頭に聞かれました。

お蝶の籠を食い止めようとして、もしも彼が不用意に、風に乗った<ruby><rb>紙鳶糸</rb><rt>たこいと</rt></ruby>の如く勢いよく行ったそこの繩に手でもかけようものなら、上の綱を走る小車の力に引かれて、自分の体も岩角からトンボを打って<ruby><rb>奈落</rb><rt>ならく</rt></ruby>へのぞんでいたかもわかりません。

それがなかったのは彼のために<ruby><rb>僥倖</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>でした。平常は沈着といわれる者にでも、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>という秒間には、ずいぶん理智をはずした行動のあるものです。――が、日本左衛門の咄嗟の手が、この危険にふれなかったかわりに、彼としては第二段の失策を見事にやってのけていました。

すでに、お蝶の身が、手の及ばない谷間の空へ勢いよくすべッて行ったので、しまッた！　と意識なくうごいた彼の手が、なんの<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>なく、宙へ架けられてある籠わたしの太い綱を抜き打ちに切ッて払ったのです。

まったく、間髪をいれる隙もなかったほどであります。

が――それほど早かった機智の刀も、綱をすべッて行った籠わたしの電瞬だったのには及ばなかったとみえて、一方を断たれた<ruby><rb>蔓縒</rb><rt>つるより</rt></ruby>の綱がビュッと谷間へうねり落ちた時は、お蝶をいれた籠が向うがわの絶壁へ、どんと送り届けられた刹那でありました。

生きた心地もありますまい。

「あッ……」

と彼女がその中からころがり出すと共に、<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>になった籠は、宙にとどまるまもなく、断たれた綱の先端を抜けて、お蝶の身がわりに舞い落ちました。

「しまった！」

日本左衛門が二度目の悔いを叫んだのはその時で、かなり余裕をもって追って来たつもりの彼は、自分のなしたこのありがちな失策をながめて、思わず苦笑をもらさずにはいられません。

「ばかなまねをしちまった」

こういったきりです。

冷静になって、今の場合をもういちど反復してみれば、あえて、そんな<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>まッた行為をとるにも当らなかった。――なにも抜き打ちに綱を切ッてお蝶を籠もろとも、千<ruby><rb>仭</rb><rt>じん</rt></ruby>の底へ葬らなくっても、彼女が渡り着いたらそのあとから自分も細繩を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>ッて籠をまねき、それに乗って向うへ渡ればよかったことだ。

そう考えたのはあとのまつり。みずからその道を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>ってしまったのですから、今夜のことは、まず一段落と<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めるよりほかにない。

「なあに、あしたの日もあることだ。どの道あいつの姿はこれで確かめたのだから、何も、今夜が今夜にと急ぐこともなかろう」

諦めをつけてみると、むしろ、さッぱりと清涼な夜気にふれて、暫く足でも休めたい。

で、腰をおろしました。

<ruby><rb>火打石</rb><rt>ひうち</rt></ruby>をさぐって、スパリと一服くゆらして見る。

<ruby><rb>失策</rb><rt>しくじり</rt></ruby>を諦めたあとの一服も、まんざらわるいものではありません。独りごとに……

「そうだ、さっきの娘も、どうせあのあんばいじゃ四、五日は起きられまい。金右衛門がついているから、おれは茶屋へ戻らずに、このままどこまでもお蝶のやつを追いつめて行ってくれよう」

<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を頬について、しばらくはいい気持でいる。

すると。

いったん清涼になりかけた彼の気持が、また少しコジれだして来ました。――そこに落着いていると、<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>を隔てた向うの崖に、まだそこを去らぬお蝶の影がうッすらと見えるのでした。

――こっちへ向って笑っているような気がする。

何か自分をあざける如き手振りをしているようにも見えます。

元より星明りに遠く見ることですから、たしかにどうというのではないが、彼の気もちに映って彼の心をコジらせるものは、どッちみち、そこを去らないお蝶の影で、彼女を見ながら手が出ないということが、そもそも<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>にさわる原因であります。

その時、ふと気がついてみると、深い<ruby><rb>渓谷</rb><rt>けいこく</rt></ruby>のやみに一道の火光がさしている。

幾つもの赤い火が<ruby><rb>蝟集</rb><rt>いしゅう</rt></ruby>して、一疋の<ruby><rb>百足虫</rb><rt>むかで</rt></ruby>のような形を作りながら、山と山の間を縫って来るものとおぼえます。

「あれは何か？」

日本左衛門の気持はその火光にさらわれて、ふいと、お蝶のことを忘れている。と、同じように、向うの崖にうずくまっているお蝶のひとみも、やがてはそれを凝視したでしょう。

二人の間には、もう<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>をいれない空間があるので、彼の一時のあきらめとお蝶の安心とが、期せずしてその不意なものに気をとられていました。

火の<ruby><rb>百足虫</rb><rt>むかで</rt></ruby>はだんだんに山の尾根をすすんで、二人の目の下まで進んで来ています。そしてまた幾分か登りながら何かの足場を求めている動作に見える。

<ruby><rb>山家</rb><rt>やまが</rt></ruby>の人の<ruby><rb>寄合</rb><rt>よりあい</rt></ruby>でもあるのかしら？

お蝶はそんなふうに解していました。

火は<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>です、黒い影は人です、やがて彼女と日本左衛門の視力を<ruby><rb>距</rb><rt>さ</rt></ruby>ること遠くないところに、その一団がまろくなって<ruby><rb>宛</rb><rt>えん</rt></ruby>たる炎のかたまりを作りました。

何をしているのだろう？

何かしている。車座になって、その中に<ruby><rb>交〻</rb><rt>こもごも</rt></ruby>人が立って、みんな<ruby><rb>礼拝</rb><rt>らいはい</rt></ruby>の形をとって。

その景色は強い好奇を誘惑するにたるものでした。日本左衛門もお蝶も、いつかしら両端の崖を這って、共に、その不思議な火と人との実体に近づこうとしています。

近づいてみて、びッくりしたのは、お蝶ばかりではありますまい。

「<ruby><rb>天帝</rb><rt>デウス</rt></ruby>」

「マリヤさま」

そんな<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>の声がきれぎれに風に送られてくる。

疑わずにはいられません。この一団は人里をはなれたかかる山奥に来て、幕府がきびしく禁じている<ruby><rb>邪宗門</rb><rt>じゃしゅうもん</rt></ruby>の<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>を奉じているらしく想像されます。

いや。

それだけの事実ならまだしもですが、今、火の円座の中ほどに立って、何か空に向って祈念している背の高い人物がある。ただ一枚の黒い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>にすぎない衣服を肩から足元までまとい、胸に、白い十字の金属をさげているのがいよいよ疑うべくもない邪宗門のばてれんです。

似ている！

一目見て、お蝶はあまりのことに仰天しました。

なぜかといえば、そのばてれんは、<ruby><rb>茗荷谷</rb><rt>みょうがだに</rt></ruby>の<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>の鉄窓につながれているはずのヨハンに生き写しです。

いや、ヨハンがこんな所にいるはずはない。あの厳重な小石川の<ruby><rb>切支丹牢</rb><rt>きりしたんろう</rt></ruby>を破って出られるわけもないし、こういう山間に、こういう多くの人と共に居るわけもない――と自分でその驚きを打ち消してみるものの、近づいて行けば行くほど、やはり、あの<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の使者ヨハンに相違ありません。

不思議な！

どうして彼がこんな所にいるのだろう。

私が切支丹屋敷を抜け出る時に、ああ言って彼と別れたけれど、私ひとりで夜光の短刀をさがしてくることは<ruby><rb>覚束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>ないと考えて、矢もたてもたまらずに、彼も小石川を逃げだしたのだろうか。

それとも、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の本国から、何か変った知らせでも来たのか。

ああ分った。そうではない。ヨハンは私に深いのぞみをかけていない。私は美しい悪魔、救われない人間、そう考えている彼だから、とうとう自分で夜光の短刀を捜索に出て来たのだろう。

それにしても、私がここにいることを知ったら、彼もどんなに喜ぶことだろう。<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>のあれから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の消息も聞きたい。そして、自分がこんなに旅で苦しめられていることも話したい。

驚きのあと、そうした<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>な感情で、お蝶は前後の考えもなく、絹を裂くような声で、そこから叫びました。

「ヨハン！　ヨハンさん――！」

と、ふた声ばかり。

不意に、ヨハンと呼びかけた女の声に、静かに<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>をしていた<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>は、総立ちになって<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>しました。そうでしょう。もしそれが世に隠れて<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>を奉ずる者の群だったら、<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>とばかり、その発覚を恐れる心理に騒がされたはずです。

<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の明りはすぐさま踏み消されて、山間の奇怪な幻影は真っ黒にぬり消されました。

「あっ――ヨハンさん」

その幻滅を追うように、お蝶がも一度呼んでみた時、それに答えて来たものは、<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる一発の短銃でした。

「やっ？」

二度目の<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>は、あわてて姿を隠しかけた日本左衛門の近くをかすッて、ド――ンという音波が眠れる山ふところを揺すぶりました。

どこをどうあるき迷ったあげくか、その翌日には、お蝶は<ruby><rb>相州</rb><rt>そうしゅう</rt></ruby><ruby><rb>津久井県</rb><rt>つくいけん</rt></ruby>の<ruby><rb>堺</rb><rt>さかい</rt></ruby>を出て、甲州の郡内に一歩足をふみ入れておりました。

そして、容易ならない旅のしかたをしつつ、ともかくも、彼女の姿を甲府の柳町に見るようになったのは、それからだいぶ日数を費やした<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のこと。

そこへ着くまでの間は、たえず、日本左衛門におびやかされている気持でしたが、繁昌な甲府の城下にまぎれこむと、何か気強い気がして、いつかその恐怖も忘れています。

で、幼いころの記憶をたどって、きッと自分をよろこんで抱き入れてくれるであろうところの<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>の家をたずねてみました。

その乳母は彼女が十二の年に、切支丹屋敷の父から<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をもらって、甲府の家に帰っている。名は、忘れもしない、お咲という、おはぐろを染めた黒い歯に、なつかしみのある<ruby><rb>小母</rb><rt>おば</rt></ruby>さんでした。家は、城下から<ruby><rb>身延街道</rb><rt>みのぶかいどう</rt></ruby>に近い西青沼のはずれで、家は小さい<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>で、機屋のほかに、<ruby><rb>御岳</rb><rt>おんたけ</rt></ruby>の百草という薬の<ruby><rb>金看板</rb><rt>きんかんばん</rt></ruby>を出しているという話――そんな話もおぼえている。

そしてその<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>やが、切支丹屋敷の、あの吉野桜の咲く南縁で、よく、<ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かいき</rt></ruby>を織る<ruby><rb>機織唄</rb><rt>はたおりうた</rt></ruby>をうたって聞かせてくれたことも、お蝶はいまだに忘れません。

今たずねて行っても、小さな<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に結った乳母のお咲が、おおお嬢様――と膝にのせてくれるような気がする。

宿に休んだのは一日だけで、翌日はもう、お蝶は城下の西青沼の方角へ、お百草の金看板と、小さな<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>をたずねていました。

しかし、それは徒労でした。

尋ねるような家もないし、お咲という女を知る機屋の人もありません。

がっかりして、柳町筋を帰って来る。

日いッぱい歩いたので、足もかなり疲れていました。

江戸を離れた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、久しくふれない町の繁昌ぶりも、今夜だけは、お蝶にうるさい騒音としか響きませんし、また、往来の都会人の身なりと見くらべて、自分の装いをさびしく思う心も起きません。

ただ、注意するともなく、自然に目にはいったのは、

（<ruby><rb>江戸</rb><rt>えど</rt></ruby><ruby><rb>名題</rb><rt>なだい</rt></ruby><ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby><ruby><rb>娘</rb><rt>むすめ</rt></ruby>一座<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>）

という辻ビラです。

行く先々にはりつけてあるので、いやでもそのビラが目につきます。ことに、江戸という字がなつかしい。やはりここは甲府です。お蝶にも旅の空のたよりない意識がどこかにひそんでいます。

東両国で見たあの<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>かしら、それとも、浅草の地内に興行していたあれかしら。

切支丹屋敷にいたころは、よく父の二官をだまして、両国や浅草のいろいろな小屋をのぞいて歩いたが……

そんな事を考え出しました。

そして途方に暮れて来た彼女の心が、無意識に柳町の小屋場の灯に吸われてゆく。

すると、ちょうど小屋場の二つ目の横丁から、スタスタと追いかけて来た見なれぬ男が、お蝶を追い越して振りかえったり、わざとおくれて小半町ついて歩いていたかと思いますと、人通りのすきを見て、

「お蝶さん」

と、見事に彼女の名をさしました。

ひやりとしたように、彼女のひとみが自分の肩越しにうしろを見ると、

「やっぱり、お蝶さんですね」

と、男は、左の肩にのせていた物を、右の肩にのせかえました。

それは、箒のように<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を束ねた俗に「べんけい」という物で、そのべんけいには子供がよく空へ舞わせて遊戯する竹の<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>がいくつも刺してありました。

お蝶は、いぶかしさと、油断のない要心をひとみに沈めて、

「あら？　……」

「お蝶さんでしたね。あなた様は」

「わたし、お前さんみたいな人を知らないけれど……だれなの？　一体」

「わたくしですか。わたくしはその、とんぼ屋<ruby><rb>久助</rb><rt>きゅうすけ</rt></ruby>という旅<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>でございます」

お蝶がいぶかしそうな顔をしているのにかまわず、とんぼ売りの久助は、旧知のような口ぶりで、

「ところで切支丹屋敷のお嬢さん。折入って、あなたにお話があるんですが、ちょっと私と一緒にその辺までお<ruby><rb>徒歩</rb><rt>ひろい</rt></ruby>なすって下さいませんか。……なあに、お話すればすぐわかることで」

と、竹とんぼを<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>したべんけいを担いでスタスタと先に歩き出しました。

切支丹屋敷のお嬢さんだって？

久助は今たしかにそう言いました。どうしてそんなことを知っているのだろうか、見たことも聞いたこともない<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>売りが……と、お蝶は勿論ためらいました。しかし、<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、また招いた久助の<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしに、何かしらやさしみがこもっているような気がしたので、ふと、

「<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行ってみようかしら？」

と、彼女のいたずらな心がうごきかけました。

久助は、さびしい裏町へお蝶を導いて、何を<ruby><rb>渡世</rb><rt>とせい</rt></ruby>にする家とも分らない一軒のしもたやの戸を開けて、顔を出したそこの<ruby><rb>内儀</rb><rt>ないぎ</rt></ruby>と小声で話しておりましたが、

「さ、遠慮はいりませんからおはいりなすって」

お蝶を招き入れて、自分も<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>とべんけいを戸口の隅におきました。

そして、奥の――という程でもない、せまい一間に坐りこんだ時には、折角のお蝶の好奇心も、つまらない所へ来てしまったような悔いに取り代っておりました。

「どうか、御安心なすって下ざい、今は山へ行って留守ですが、ここの亭主も私たちと回じ心の者、何を話しても、心配はない<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ですから」

久助はこう言ってから――

「ところで、お嬢様は、さだめし変な奴だと、私をお疑いでございましょうが、実は、或るお方のいいつけで、<ruby><rb>郡内</rb><rt>ぐんない</rt></ruby>の手前からあなた様を<ruby><rb>蔭身</rb><rt>かげみ</rt></ruby>になって守って来たので、まあとにかく、ここまでは御無事で、ほんとによいあんばいでございましたよ」

と、<ruby><rb>暗裏</rb><rt>あんり</rt></ruby>に、日本左衛門のことを知ってるような話し振りで、しかも、その難を蔭身になって守護して来たと明言するにおいては、お蝶も意外に思わずにいられません。

「じゃ何ですか、郡内の手前というと、あの小仏の近くからこの甲府まで、お前さんは私のあとについて来たんですか」

「そうです。今も申しました、私たちの仲間の長老――ばてれん様の御命令で」

「ばてれん？」

「はい」

「ヘエ、ばてれん、それは一体だれのことなの……」

「御存知ないわけはございますまい。あの<ruby><rb>切支丹屋敷</rb><rt>きりしたんやしき</rt></ruby>のヨハン様を」

「えっ、ヨハン？　……。そしてお前はヨハンから頼まれて、私のあとを守って来たのかえ」

「そうです、何しろあなた様は、大事なお体だという話です」

「だけれど妙じゃないか、そのヨハンは、小石川の終身牢に捕われている人間、どうして私が日本左衛門に追い廻されたことなどを知っているわけがないもの」

「実は、そのヨハン様は、私たち<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>の仲間の者が相談の上、<ruby><rb>茗荷谷</rb><rt>みょうがだに</rt></ruby>の牢獄から山へお迎えいたしたのでございます。……それもこれもお嬢様、みんな、あなたの為、あなたの御先祖の<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>王家のために、仲間の者もヨハン様も御苦労をしているのでございますぜ」

久助の強い目に、お蝶は思わずうつ向かせられました。

そこで、なお得心のゆくように説いて話す彼のことばが、お蝶にとっては、いちいち今日まで夢想もしない世間と不思議な事実ばかりです。

――徳川初世の禁教令このかた、殊に寛永年度のきびしい<ruby><rb>邪宗門狩</rb><rt>じゃしゅうもんが</rt></ruby>りの<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>が天下に<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれて以来日本の地には、表面、切支丹の宗徒まったく影を絶っているようでありましたが、事実は、柱に<ruby><rb>天帝</rb><rt>デウス</rt></ruby>の像をかくして、マリヤに似せた観音像を<ruby><rb>仏壇</rb><rt>ぶつだん</rt></ruby>にひそめて、ひそかにそれを信奉するものや、或いは、そうした人々のみで、法令のとどかぬ山間の部落をなして、一種の切支丹村をかたちづくり、領主のさとるところとなると、山から山を遊牧して、またどこかに聖教の村を作る――そういったふうな<ruby><rb>宗徒</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>は今に至っても決して絶えていないのでありました。

その最も力のある団体が、<ruby><rb>榛名</rb><rt>はるな</rt></ruby>、赤城、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>、甲府にわたる無人の地を所さだめずに<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んで移る<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>の仲間の者であるのです。

とんぼ売りの久助もその一人。いま座敷をかりているこの家の亭主もその一人です。

また、吾々山岳切支丹族のなかまは、その<ruby><rb>漂泊</rb><rt>ひょうはく</rt></ruby>してゆくところの<ruby><rb>武甲</rb><rt>ぶこう</rt></ruby>の山や秩父の奥に、いくつもの<ruby><rb>耶蘇教会</rb><rt>やそきょうかい</rt></ruby>をもっている。だから、幕府が今よりも宗門の制を<ruby><rb>苛酷</rb><rt>かこく</rt></ruby>にして、信徒にあらゆる迫害をきわめても、少しも信仰を害されることはない。また、そんな政策によって、日本に<ruby><rb>聖徒</rb><rt>せいと</rt></ruby>があとを絶つことも決してない。

そこは自由な天地。

地上の楽園であります。

私たちは、その自由な山の教会へ、小石川の牢獄からヨハン様をお迎え申し、今また<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>様をお迎えに来たものです。そしてあなたを中心に、ヨハン様をそのうしろだてに、夜光の短刀をたずねようという仲間一統の申し合せなんでございます。

――久助はこう話し終って、

「この上は、私がお供をして、山へ御案内いたします。そして、ヨハン様にお会わせするのが久助の役目でございます。――<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>の沢で会合した<ruby><rb>仲間達</rb><rt>なかまたち</rt></ruby>は、あれから秩父の<ruby><rb>天童壇</rb><rt>てんどうだん</rt></ruby>へまいっているはずでございます。今夜はここでごゆるりと体をやすめて、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>は早朝に立つことにいたしましょう」

彼はひとりでのみこんで、そこへお蝶の夜具をのべ、自分は隣の部屋へさがって、一方の角柱へ礼拝して、ふッと<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を消して寝てしまいました。

疲れているので、お蝶もこの家を出る勇気はありません。と言って、久助のことばにまかせて、<ruby><rb>奥秩父</rb><rt>おくちちぶ</rt></ruby>の教会とかへ行ったものだろうか、それとも行かない方がいいだろうか。

とにかく、寝て考えることに決めて、明りが消えたあとの<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の波に、静かになって思案しています……

たよる者もなく行く先もなく、自分は暗夜の途方にくれている。

お蝶は自分の姿をこうながめてみました。

だが、あの人たちの自由の天地というところが、ほんとに自分にも自由の天地であろうか、楽園であろうか。いやいや、そんないい所ではないような気がする。お蝶は信仰の生活を求めて切支丹屋敷を逃げたのではありません。

彼女の欲しているものは、世の女が競ッて<ruby><rb>謳歌</rb><rt>おうか</rt></ruby>している華美な生活と飽くなき若さの享楽であります。それがために今の艱苦をこらえ、それがために一日も永く生きていたい。

何も、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の奥や、世間を遠去かった山の会堂などで一生を終るくらいなら、一緒に死ねといった父の二官と共に、心残りなくこの世を去っている。その方がどれ程ましか知れやしない。

彼女の考えはこう傾きましたが、また、今の辛い放浪を思うとやはりその生命の安全を計るには、久助に連れられて、ヨハンの所へ行くのが最も善策であるように思われます。

何しろ、あの日本左衛門がいったん自分をつけ狙った以上は、必ず、いつか一度はどうかされるに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っている。そうだ、何よりもいのちが大切、一時久助と共に切支丹族のなかまにはいって、それから折があったら逃げ出そう。

こう思案がきまると、いつか、彼女はスヤスヤと寝息をかきはじめました。

いままでは毎夜毎夜、心から気をゆるめて休んだこともありませんが、今夜は、久助という者が隣の部屋にいて、自分の身を守っていてくれるという安心がはっきり胸にあったので、お蝶の寝息も次第にグッスリと深まってまいりました。

かくて、短夜はまもなく白み初めたようです。カラカラと明け方の街道をとおる<ruby><rb>野菜車</rb><rt>やさいぐるま</rt></ruby>、どこか裏の方で、もう仕事をはじめたらしい<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>の<ruby><rb>筬</rb><rt>おさ</rt></ruby>のひびき、物売りの呼び声、井戸つるべの音。

陽はその家の東の窓に、朝からカンカンと照りつけています。たれか、用のあるらしい者が、一、二度その戸をたたいたりしましたが、ゆうべ夜ふかしをしたせいか、陽が三<ruby><rb>竿</rb><rt>かん</rt></ruby>に至っても起きる<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>しきが見えません。

暫くすると、やっと、

「あ、暑い……」

と、お蝶が一番先に目をさましたらしい。

ゆうべ、ちょっと見かけたここのお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>も久助も、まだグッスリと寝坊している様子です。<ruby><rb>羽目板</rb><rt>はめいた</rt></ruby>がソックリ<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>るほど照りつけている外の陽に、家の中は<ruby><rb>蒸籠</rb><rt>せいろ</rt></ruby>のように蒸されています。

勝手がわからないので、お蝶は、蚊帳のつり手を外しながら、

「久助さん」

と、隣へ声をかけてみる。

「まだお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>み？　おそいようですよ、ああ暑い――」

耐えられなくなって、窓の雨戸を開けますと、カッと、眼のくらみそうな日光が、寝起きのあぶら顔へ容赦なく照りつけます。

「おや、もう<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>ごろじゃないか。――久助さん、久助さん」

少しあわてて呼び起こしましたが、返辞がないので、境のふすまを細目に開けてみますと、その部屋は、<ruby><rb>閾際</rb><rt>しきいぎわ</rt></ruby>から枕元へかけて、ぶちまけたように一面の<ruby><rb>血汐</rb><rt>ちしお</rt></ruby>です。

駆け戻って、奥をのぞくと、そこにも、ゆうべの内儀が夜具のなかにことぎれている。

お蝶は、いったん明けかけた窓の戸をピッシャリとしめて、よろよろと<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の裾に腰をついてしまったのです。そして、<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>となった彼女のひとみは、目の前の<ruby><rb>有明行燈</rb><rt>ありあけあんどん</rt></ruby>に、こんな文字が書かれてあるのを、読む気力もなく見つめました。

お蝶に告げおくこと。

お蝶よ。

きょうは何処かにて必ずおんみに会うであろう。<ruby><rb>化粧</rb><rt>けしょう</rt></ruby>をととのえて待て。身もたのしみに待つ。

日本左衛門

## 柳沢吉保

「<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>じゃねえか、そこへ行くなあ。――おお仁三だ、<ruby><rb>雲霧</rb><rt>くもきり</rt></ruby>の兄い」

と、<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>のたねをホキだしながら、あわてて呼んだ者があります。

なまこ塀の多い横丁のつきあたりには、たたえたような青い水と巨大な石垣がふさいでいました。<ruby><rb>柳沢美濃守吉保</rb><rt>やなぎさわみののかみよしやす</rt></ruby>の<ruby><rb>封</rb><rt>ほう</rt></ruby>ぜられている甲府城の<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>。

その外濠から遠からぬ<ruby><rb>同心町</rb><rt>どうしんちょう</rt></ruby>の辻に、折助や御用聞きなどが油をうるに都合のいい<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>売りの縁台が二、三脚すえてあって、

「おい仁三、仁三兄い――」

と声を立てた連中も、両手で輪切りの大きなのを一ツずつ<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えこんで、盛んにそこらを<ruby><rb>核</rb><rt>たね</rt></ruby>だらけにしているところです。

「やあ」

一文字笠のつばを<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った男は、一方の目を<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>でふさいでいました。

そこで、呼びとめた方の連中はといえば、これは<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>の十太郎、<ruby><rb>千束</rb><rt>せんぞく</rt></ruby>の稲吉、四ツ目屋の新助の三人づれで、どれもこれも、まだ<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を解いていない様子をみると、例の暗殺の目あてをもって、この甲府へ入り込んで来る途中、期せずして落合ったものと思われます。

「どうしたい、雲霧」

「おれよりはおめえ達こそ、どうしてこんな所にガン首をそろえているのだ」

「まあ、そこへ腰かけねえ」

「おれも早速一つもらおうか」

「何を」

「<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>のつきあいさ」

「とっさん、もう一つ割ってくんな、その甘そうなやつを」

「何しろ、今朝は早立ちで、今までに七里も飛ばして来たんだから、のどが<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いてたまらねえ」

雲霧は話をそッちのけにして取りあえず大きな切れを一息に食い終って、

「ああうまかった。友達よりは、西瓜にめぐり会ったという気持だ」

「冗談じゃない、あれ以来久し振りなのに、西瓜と同格にされてたまるものか。……そりゃそうと、兄貴、その目はどうしたんだ、その目は？」

「こいつか？」

と、手を当てて、

「まあ聞かねえ事にしてくれ」

「じゃあ兄貴もまだ万太郎を片づけきれずにいるとみえる」

「御同様だ」と、雲霧は自分の不首尾に<ruby><rb>苦々</rb><rt>にがにが</rt></ruby>しい顔をして、

「……が、見ていてくれ、近いうちには何とかする」

「人ごとじゃねえ、おれたちも早く何とか<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>をつけなくッちゃ……あ」と、若い稲吉はじれッたそうに唇を噛みました。

「ところで兄貴」

四ツ目屋の新助は小声になって、

「今もみんなと相談をしていたんだが、例の<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>引きの一件が、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>こう永びくというのが、どうもおれはあの方法がまずかったからだと思うんだ」

「ふム、それで」

「だから、この甲府でみんなが落合ったのを幸いに、一人一人の手分けをやめて、力を<ruby><rb>協</rb><rt>あわ</rt></ruby>せて片っぱしから片づけて行った方が早くはねえかと思うんだが」

「新助、おめえは道中師の伊兵衛と馬春堂を<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>る役廻りだったな」

「そうだ」

「<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>は釘勘を、また稲吉はお粂を<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>るという約束だった。……それがまだ一人もうまく行ってねえとあっちゃ、親分に合せる顔もねえだろう」

「まったく」

これは異口同音でありました。

「だのに、親分にも無断で、最初の約束をかえるというのは面白くねえ話だ。第一、あれっきり会いもしねえが、相良金吾をばらす方に廻っている<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>の九兵衛などにも悪くはねえか」

「なるほど、それもそうか」

「大体そんな相談をするというのが、少し意気地のねえ話、おれはおれ独りで、きっと万太郎を片づけてみせるからお前たちはどうでもいいようにするがいい。いずれ土用の<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>の日にゃ、<ruby><rb>鹿野山</rb><rt>かのうざん</rt></ruby>でお目にかかるからな。あばよ」

と、一文字笠を取ってかぶると、雲霧は西瓜の食い逃げをするように、仲間に未練も愚痴もなくスタスタとそこを立ち去ってしまいました。

「さすがは仁三だ、やっぱり男らしいところがある」

取り残されながら四ツ目屋はほめています。

「そうだ、おれもこうしちゃいられねえ、尺取の兄い、四ツ目屋の兄弟、お先に御免こうむります。<ruby><rb>川越</rb><rt>かわごえ</rt></ruby>ではやり損なって、ひどい味噌をつけましたから、こんだあ意地でもお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>の首をかいてみせなけりゃなりません」

雲霧の今のことばに<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>されて、前髪の盗賊千束の稲吉も、続いてそこから別れて行きました。

あとに残ったのは十太郎と新助。

西瓜の代を払って、お<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>の方へぶらぶらと歩いてゆきましたが、ちょうど、そこの柳並木を縫ってゆく一人の男を見かけて、

「あっ、釘抜きだ！　……」

ぎょッとして足をすくめました。

釘抜きと聞いて、四ツ目屋の新助も柳の木を楯に見送って、

「お、ちげえねえ」

と尺取の顔を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みました。

釘勘がこの甲府へ急いで来た<ruby><rb>謂</rb><rt>いわ</rt></ruby>れ因縁は、その本人よりも先に甲府へ来て手ぐすね引いて待っている尺取の十太郎が百も二百も知りぬいていた事ではありますが、何となく不意を打たれた心地で、

「どうしよう、兄貴」

と、その新助へ反問する。

「あいつを<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>るのはおめえの方寸次第じゃねえか。だがまさか、ここで手を出す訳にもゆくまい」

「何しろ向うはこっちにとって苦手の目明しだからな。臆病風に吹かれたわけじゃねえが、おら一番わるい<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>を引いている」

「手伝ってやろう、思い切って<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ってしまえ」

「いや、そいつは断る。おれも尺取だ、雲霧のやつがああ言ったこともあるから、意地でも人手は借りねえ。……オ、そんなことを言ってる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に……じゃ兄貴、別れるぜ、おめえも、馬春堂と伊兵衛の方を首尾よくやってくれ」

そう言うと尺取は、先にゆく釘抜きのあとを追って、柳から柳へ、見えがくれに<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>だしました。

知ってか知らずか釘勘は、

「ふーム、これが甲斐の少将といわれる柳沢様の甲府城か。二、三百石のお小姓からとんとん拍子になり上がって、一代で十五万石まで築きあげた羽振りは当時すばらしいものだッた。しかしこの頃は、将軍様のお代がわりで、だいぶ風向きが悪くなったという噂だが、気のせいか、城下にも昔の威勢ほどには活気が見えねえようだ」

<ruby><rb>天主閣</rb><rt>てんしゅかく</rt></ruby>を見上げながらスタスタと急いでいます。

<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けてゆく尺取は短気になって、

「ええ、もう場所だの場合だのと、いつまでぐずぐずしちゃいられねえ」

ふところの<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>をにぎりしめて、折あらば彼の背中へ、ドンと行こうとする気ぶりです。

こう短気にかかるくらいなら、今日までの間にずいぶん機会はあったものを、相手が目明し、もし<ruby><rb>仕</rb><rt>し</rt></ruby>損じてはと大事をふんで来たわけですが、今も今とて雲霧にああ言われた仕事の意地――尺取の心はあせらずにいられません。

で、自然と、その足どりの無理や挙動が、先に行く釘勘に悟られたのはぜひもないわけです。

「ははあ」

釘勘は片腹いたく思いながら、

「また尺取のやつが<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来たな。大体、尾けるというのはこっちの本職だのに、逆手におれをつけて来るなんて身のほどを知らねえ野郎だ、――よしッ」

外濠の広場を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>に抜けて、土手になった石垣の角から左の小路へ早足に曲りました。

尺取も飛鳥のように向うへ抜けて、石垣の根にペッタリと身をつける。

そして、一顧もせずに急いでゆく先の影を追って、四、五丁ほどもついて行くと、城番屋敷か柳沢家の重臣の邸宅でもあろうか、高い土塀つづきに<ruby><rb>紅殻塗</rb><rt>べにがらぬ</rt></ruby>りの<ruby><rb>腕木門</rb><rt>うでぎもん</rt></ruby>が向うに見えます。

と、その門前で釘勘が立ちどまったかと思うと、不意にクルリと<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、尺取の方を横にらみに、

「おい、毎度御苦労さまだな」

と声をかける。

それを<ruby><rb>捨科白</rb><rt>すてぜりふ</rt></ruby>に釘勘は、腕木門の潜りを押してスッと中へ消え込んでしまいました。

そこで尺取は、どたん場へ来て見事に背負い投げをくわされた形となって、

「あっ、野郎」

と、釘抜きの姿が消えた腕木門まで駆けて来てみましたが、南無三です、そこの門札には、<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>の目にも分らせずには<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かないようなお役所流の書体で、

「甲府<ruby><rb>町方衆詰所</rb><rt>まちかたしゅうつめしょ</rt></ruby>通用口」

と、<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてある。

これは尺取には飛んでもない鬼門です。町方衆といえば同心岡ッ引の寄り合場、さしずめここは奉行所の裏門か、その役宅の一部と思われますが、そうとすれば天下の盗賊たる身がうかうか寄りつくべき<ruby><rb>門構</rb><rt>もんがま</rt></ruby>えではありません。

「ちぇッ、いめいめしいやつだ」

実際こんな<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>な捨てられ方はない。このまま尻尾をまいて引下がっては、岡ッ引なかまに甘くも見られるし、第一親分の名にかかわるというもの。

どうしてやろうか？

こう唇を噛みながら腕ぐみをした尺取の目の前に、<ruby><rb>天秤</rb><rt>てんびん</rt></ruby>を渡した八百屋の荷が置いてありました。見ると、その青物のかごに「<ruby><rb>御門鑑</rb><rt>ごもんかん</rt></ruby>」としるした木札が矢立てと一緒に引っかけてある。

それを取って、矢立てと共に帯の前へさしこむと、尺取は大胆にも、通用口の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り門をガラリと開けて、<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>の庁をのぞきました。

「だれだ？」

ひょいと見ると、内側には、<ruby><rb>菖蒲革</rb><rt>しょうぶがわ</rt></ruby>の門番と六尺棒とが、その六尺棒を外に立てかけておいて、<ruby><rb>将棋盤</rb><rt>しょうぎばん</rt></ruby>をかこんでいます。

「ええ、お出入りの酒屋です」

「酒屋？　<ruby><rb>石和屋</rb><rt>いさわや</rt></ruby>か<ruby><rb>角屋</rb><rt>かどや</rt></ruby>か」

「へい、<ruby><rb>角屋</rb><rt>かどや</rt></ruby>のもので」

「はてな、見かけない男じゃないか。<ruby><rb>御門鑑</rb><rt>ごもんかん</rt></ruby>を持っておるか。御門鑑を」

「持っております。いつも参りますものが食<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>りで倒れたりなんかして、店が手不足だもんでございますから」

「ふウむ……」

「通ってよろしゅうございましょうか」

「待て待て、門鑑を一見する」

「門鑑はこのとおりで」

「待てよ、ちょッと」

「へい」

「お手は？」

「へ？」

「おまえじゃない、御同役、お手は？」

少し負け色とみえて、盤に向っている男は、役目の方などはそッちのけで、

「何だッけ、お手は」

と、やッきになっている様子。

向うはすこぶる楽天的な態度で、

「お手かネ、お手は金銀さんご<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>にしき」

「ふざけないでさ」

「だから、金銀に<ruby><rb>歩</rb><rt>ふ</rt></ruby>が一<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>」

「金銀に歩か。ウーム……」

<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>はこの<ruby><rb>虚</rb><rt>きょ</rt></ruby>に乗じて、役宅のなかへまぎれ込んでしまおうかとも思いましたが、急いではあぶないと、わる度胸をすえて、わざわざ<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の仲間へ首を寄せてゆきながら、同じように及び腰で、

「な、なるほど、こいつあ難局でございますね。こちらの持駒は？　角に桂馬？　なるほど、角に桂馬と……ウーム……こいつあ打つ手がありませんネ……。王手と行くよ。金と下がる、そいつもまずいや」

「<ruby><rb>角屋</rb><rt>かどや</rt></ruby>、貴様も好きだとみえるな」

「とても、横好きの組なンで」

「何か名案はないか」

「さあ……どうも」

「弱ったな」

「弱りましたな」

仲間にはいって、いつかしら角屋ということを認めさせましたから、もうよい時分と、そろそろ足抜きの心支度をしていますと、そこへ不意に戻って来た最前の釘勘が、

「御門番、お奉行は西側のお役宅だとただ今伺いましたが、西側は同心のお<ruby><rb>役執場</rb><rt>やくとりば</rt></ruby>とほかのお長屋で行き止まりのようでございますが、与力衆の<ruby><rb>詰合</rb><rt>つめあい</rt></ruby>かお奉行のお役宅へはどう行ったらよろしゅうございましょうか」

と、大きな声で訊き直しました。

「あ、違ッた、お奉行の方はそこを右へ曲るんだよ、東側の中門の内だ」

「左様でございますか、じゃ、とんでもない方角ちがいで……。へへへへへ」

と、<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>へ顔をそらしている尺取の十太郎を横目に見て笑いました。

意味もない笑い方をして見せたものの、腹のうちでは釘勘も尺取の大胆なのにあきれました。

また尺取も、うまく空とぼけているところへ、不意に釘勘が戻って来たので、あぶなく顔色を変えてさとられるところです。

皆さん、お手を貸して下さい、そいつは尺取という大泥棒なんでございますから――と、釘勘にひとつ指をさされたら、尺取はもう進退きわまるほかありますまい。

が、何と思ったか、釘勘は、

「有難うございました」

門番達に礼をいうと、教えられた中門の奥の方へスタスタと立去ってゆく、次いでまもなく、尺取の姿も<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>のそばからかき消えました。

一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかり時移ると、釘勘は、役宅の一室で、<ruby><rb>町方与力</rb><rt>まちかたよりき</rt></ruby>の<ruby><rb>蜂屋源之進</rb><rt>はちやげんのしん</rt></ruby>という男と膝をつきあわせて談合中です。

「ではそちは、江戸南町奉行<ruby><rb>直属</rb><rt>ちょくぞく</rt></ruby>の手先であるか」

「勘次郎と申します。折入って只今お話いたしましたこと、お聞き届け願います」

「御人数を貸してくれというのだな」

「今が今というのではございませんが、もしもの事のあった場合に」

「貸してもやろうが、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>はどういう筋の者だ」

「すでに、諸国へおふれも廻っております、日本左衛門とその一味の者でございます」

「ならば人数を貸すまでもなく、当城下へまぎれ込んだ盗賊どもは、柳沢家の町方として、吾々の手で召捕るから、そちは江戸表へ帰ったがよかろう」

「それが当然でございますが、実は、そうならぬ事情がありますので。――と申すのは、尾張公の御子息、徳川万太郎様も御城下に来ておりまして、ある女の所持している<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を取り戻そうと苦心しておられます。それをまた、日本左衛門の手下どもがかぎつけて、折があれば、万太郎様を初め私どもにまで、危害を加えようとたくらんでいるようなわけなんです」

「ほウ、では何という、尾州家の万太郎様が、この甲府へ参っておられるとか」

「左様でございます」

「して、只今おいでになる所は」

「この甲府と存じます」

「甲府は分っておるが、そのお宿は」

「小仏峠でべつべつになりましてから、私も今日御城下へはいったばかりなので、まだお目にもかかりませぬ」

「ほかならぬ御三家の若殿、万一にも、当御城下で間違いがあっては柳沢家の迷惑にも相成る」

「ですからひとつ、急の場合には、ぜひとも御人数の拝借ができますように、釘勘が折入ってお願いに出ました筋は、そんなところでございます」

「う、なるほど」

「相手は日本左衛門、まちがいは御三家にかかわること、よくお考え下さいまし」

「いや、そういう事情とあれば」

「御承知下さいましょうか」

「たやすいことだ、望みの場合、いつでも当所の人数を助勢にくり出してつかわそう」

「早速のお引請けで、有難うぞんじます」

と、話がついて、釘勘もやっとこれで安心というていに砕けて、

「そのお約束が結べました上は、手前はこれから甲府の町をザッと一廻り見物と出かける事にいたしましょう。その上で方針を立って、御城下に入りこんだ日本左衛門一まきの盗賊どもを、根こそぎ一<ruby><rb>網</rb><rt>あみ</rt></ruby>に召捕って、江戸へお<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>にいたしますつもり、どうか、何分よろしくお力添えを」

そう言って立ちかけたが、ふと思いついたように、

「あ、<ruby><rb>蜂屋様</rb><rt>はちやさま</rt></ruby>」

「まだ何か用事があるか」

「<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>で思いだしました。――あまり大した代物じゃございませんが、途中から連れて来た小泥棒一匹、この床下まで持って来てありますから、よろしいようにお納めをねがいます」

驚いた尺取が、役宅の床下から逃げ出して行くところを、蜂屋源之進のあわただしい声と共に、ばらばらと駆けつけた奉行所の者が、寄ッてたかッて、高手小手に<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>り上げました。

彼が甲府町方の役所を辞して、もとの<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>へ引返して来ますと、思いがけなく、しきりと自分の名を呼ぶものがある。

見ると、道中もさんざんたずねあぐんで来た徳川万太郎です。

<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>で別れた時とは服装もちがい、髪から<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>にいたるまで、<ruby><rb>小洒張</rb><rt>こざっぱり</rt></ruby>と改まっているのがまず釘勘に目をぱちつかせて、

「やあ、若様じゃございませんか、一体どうしたというもんでございます」

万太郎は相変らず、何がどうしたのかというような顔つきで、

「お蝶と日本左衛門とが、この甲府へ来たのをそちは知らないのか」

「多分、それとは思いましたが、あれから甘酒茶屋へ戻ってみますと、次郎と月江というお女中だけで、万太郎様はあの晩から戻らないというお話、また出し抜けを食ったかと、一時はちょッと面食らいましたぜ」

「そうか、面食らわせてやろうと存じて、不意に甲府に来てしまったのじゃ、はははは、だいぶ探し廻ったとみえるな」

「どうも若様はお人がわるい。しかし、ゆうべは何処へお泊りでしたか」

「ゆうべの宿屋か、ゆうべの宿は至極<ruby><rb>上乗</rb><rt>じょうじょう</rt></ruby>であった。なかなかもてなしもよく、構えも大きい」

「柳町筋でございますか」

「なあに、あれに見える――」と、濠を越した<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に摩天楼のごとくそびえている甲府城の本丸を指さして、

「柳沢屋というてな、あそこの本丸に一晩世話になって、その上、<ruby><rb>肌着小袖</rb><rt>はだぎこそで</rt></ruby>、そのほか当座の<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづかい</rt></ruby>まで茶代に申しうけてまいった」

「えっ、それじゃ柳沢様のお城へお泊りなすッたので」

「はははは、不意にたずねてまいったので、柳沢の<ruby><rb>吉保父子</rb><rt>よしやすおやこ</rt></ruby>、何事かと驚きおって、昨夜は下へもおかぬもてなしじゃ」

「その上、茶代を取ってくるなンて、ひどいお客様もあったもんですね」

「だが、やはり世界は<ruby><rb>下</rb><rt>げ</rt></ruby>世話が面白い。あんな石垣や城壁でかためた宿屋には、滅多に泊るものじゃない。……ところで釘勘、今日はぜひともお蝶を探し出さねばならぬ、そちも懸命に腕を貸してくれ」

「お頼みまでもないことです。しかし、それにばかり気をとられていると、うしろがあぶのうございますぜ」

「うしろがあぶない？」

「日本左衛門を初め手下の奴らも、残らず甲府へ寄り集まっている様子です」

「それはわしも存じている。で、吉保に、彼等一味の<ruby><rb>召捕方</rb><rt>めしとりかた</rt></ruby>を依頼しておいたから、日本左衛門らは袋の鼠、この城下からのがれ出ることはかなうまい」

それについては釘勘も、たった今、<ruby><rb>町方与力</rb><rt>まちかたよりき</rt></ruby>の蜂屋源之進と談合を遂げてきたところなので、二人の予備運動は期せずして一致したわけであります。

すでに、ここまでの間に、<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門はあのとおりな始末で、駒木野番所から江戸表へ差立ててあるので、幸先もよいし、甲府は二人に地の利をしめていると思える上に、万一の時には、いつでも柳沢家の手を借りうる事になったので、二人はここ数日を逸すべからざる機会と見て、忽ち、城下の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>へ姿をかくしました。

＊　　　＊　　　＊

時刻にすると、ちょうど同じ刻限、釘勘が去ったあとの甲府町方の役宅へ、急を訴えて来た<ruby><rb>家主</rb><rt>いえぬし</rt></ruby>があります。

今朝、自分の<ruby><rb>家作</rb><rt>かさく</rt></ruby>うちに、人殺しがあったと近所の<ruby><rb>店子</rb><rt>たなこ</rt></ruby>同道で訴え出たのであります。

蜂屋源之進はすぐ四、五名の下役をつれて出張しました。場所は<ruby><rb>濁川</rb><rt>にごりがわ</rt></ruby>から少し東に寄った横丁、被害者は平常から律儀者といわれている、とんぼ売りの久助夫婦。

検視、下吟味もすみました。

疑問は、一個の<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>です。――いや、その<ruby><rb>有明</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>にしたためられた奇怪な文字です。

――お蝶よ今日は汝に会うであろう。そう<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてある下に、明らかに日本左衛門と読まれたあの文字です。

江戸を離れたといっても<ruby><rb>大府</rb><rt>だいふ</rt></ruby>のお<ruby><rb>膝下</rb><rt>ひざもと</rt></ruby>をさることわずか三十六里にたらない地です。蜂屋源之進を初め末輩の田舎役人でも日本左衛門の名を知らないものはありません。

「最前、江戸の目明しの言ったことは虚言ではない」

思い合せて慄然とした風です。

それと同時に、領主柳沢吉保の命として、<ruby><rb>御岳口</rb><rt>みたけぐち</rt></ruby>、<ruby><rb>石和</rb><rt>いさわ</rt></ruby>の関所などへきびしい非常の触れがまわり、城下の主なる番屋には、大盗日本左衛門の<ruby><rb>人相書</rb><rt>にんそうがき</rt></ruby>がわずか半日で行き渡りました。

## 片輪の鷹の羽

夜ふかしの疲れで、ものうい<ruby><rb>稽古三味</rb><rt>けいこじゃみ</rt></ruby>と物売りの声のほか、昼はげんなりとしたようにいやに静かな色町の横丁で、突然、

「喧嘩だ！」

と、時にとって、小気味のいい声が流れました。

「喧嘩だ、喧嘩だ」

そこで柳町の<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんたちや、細紐ひとつの飲屋の女たちが、<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>や格子から昼寝をさました<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>まだらな顔をつきのばしていますと、

「なに、喧嘩がある？　火事と喧嘩はお江戸のものだが、この甲府にもそいつがあるとはたのもしいな。どこだ火の手は？」

地廻りのあとについて、その横丁の<ruby><rb>溝板</rb><rt>どぶいた</rt></ruby>をふみ鳴らして来た<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけの人間があります。

それを見つけると、<ruby><rb>櫺子</rb><rt>れんじ</rt></ruby>の首や、格子先に飛びだしている女どもが、騒ぎはそッちのけで、

「あら、先生」

「太夫元の先生」

「<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の小屋にいる易者の先生」

「先生ッてば」

「寄ってらッしゃいよ」

<ruby><rb>鬼灯</rb><rt>ほおずき</rt></ruby>を舌に浮かせてさえずりました。

軒なみの女たちから、いろいろな名称をもってよばれた浴衣がけの先生なる人は、呼び声だけでもう説明は要しません、馬春堂です。

帯の前に手ぬぐいをはさみ、口に<ruby><rb>小楊枝</rb><rt>こようじ</rt></ruby>をくわえているところを見ると、さしずめ今朝は、お粂の興行している小屋から朝湯に出かけて、この附近で一本かたむけていたものか、あるいは、この先生のことだから、どこかそこらの<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>地獄で安価な一夜を買っていて、今の声に驚いて飛び出して来たものか、そのへんのことは馬春堂先生の評価に少しも影響のないことですから、まあどッちでもいいとしておきましょう。

けれど、お粂の嵐粂吉が、この甲府の柳町の小屋を打ってまだ日の浅いうちに、先生が安価な<ruby><rb>折花攀柳</rb><rt>せっかはんりゅう</rt></ruby>をやったのは、あらそい難い事実であると見えまして、

「寄ってゆかない、この人は」

「薄情者」

「素どおりはひどい」

などと、この昼なか、多少人前というものもあろうに、容赦なく<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をつかんで、格子の前を離しません。

先生は弱って――と言っても、迷惑やら嬉しいやら分らない表情で、

「オイ、くすぐッたい、くすぐッたい、放せ放せ放せ」

と悲鳴と共に手を振っている。

「このひとは、おとといの晩、あんないたずらをして帰って、よくもしゃアしゃアとうちの前を通れたよ」

「さ、上がってらッしゃいよ」

「堪忍してあげるから」

「上がらないうちは、通さない」

屋根びさしにはカンカンと陽がある時刻ですから、馬春堂先生たりとも、多少きまりがわるくなって、

「ばか、人が見るぞ」

「見たっていいじゃないの、わたしの色だもの」

「あやまった、助けてくれ」

「意気地なし」

「なんでもよろしい、今日ばかりは勘弁勘弁。わしは喧嘩を見に来たんだからな」

「喧嘩なんか、とっくの昔におしまいですとさ」

「それならまた来るよ。出直してな」

「うそばッかり」

「ア痛っ」

背なかをどやしつけられて、やっと放免された馬春堂先生、ほうほうのていで抜け裏を出て来ましたが、さすがに、色男にはなりたくないものだと、例の長い顎をなでてみる自信もこの時はないようでした。

すると、その露地の出あいがしらに、

「おお、馬公」

と、自分の方へ、突き当たりそうに駆け出して来た男がある。

道中師の伊兵衛です。ただし、伊兵衛であることはさしつかえありませんが、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を持って、左の腕くびに血をにじませているので、

「おい、どうしたんじゃ」

と馬春堂は目を丸くする。

「とうとう四ツ目屋の野郎に、不意打ちを食ったんだ」

「四ツ目屋の新助？　じゃ、今の喧嘩だという騒ぎはおまえだったのか」

「何しても油断がならねえ。おい馬公、おめえもいい気持になって、横丁の女にからかってなんかいると、今にみろ、その長い面が御挨拶なしに、胴の方とおわかれをするぜ」

馬春堂は思わず首すじへ手をやってみて、

「オイオイ伊兵衛、なんぼわしの顔が長いって、そう人の顔をみるたびに縁起のわるいことを言うなよ」

「いいにも悪いにも、おれは正直に教えてやるんだ」

伊兵衛はまだ落着かない目で、うしろの通りや横丁をのぞきながら、

「ま、ここじゃ話ができねえ、どこかへ行こう」

「わしは今しがた、飯を済ましてしまったから、酒も何もたくさんじゃ」

と馬春堂は、口の小楊枝を吹いてみせました。

「けッ、友だち甲斐のねえやつだ。じゃ、小屋へ行こう」

「小屋へ行ったって、昼間はだれも居やしまいぜ」

「だからよ、だれも居ねえところで、ゆっくり相談をしようって言うんじゃねえか」

と、連れ立って歩むうちに、伊兵衛が馬春堂の腰をそッと突いて、

「あれを見るがいい」

と、<ruby><rb>辻番所</rb><rt>つじばんしょ</rt></ruby>の羽目板を指さしました。

「何か貼ってあるな」

「ウム、<ruby><rb>人相書</rb><rt>にんそうがき</rt></ruby>だ」

馬春堂はペロリと自分の顔をなでさげて、

「まさか、おれのじゃあるまいな」

「人相書にまわるくらいな盗賊になりゃ大したものだが、まだおめえの顔にゃそれほどの<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>は付いていない」

「番屋のそばへ来て大きな声を出すなよ。一体だれのだろう、あの人相書は」

「まあもう少し近づいて見るさ、まんざら知らないやつでもないから」

「ふーム……」

うしろへ手を廻して、馬春堂がしかつめらしく鼻の穴を上げてみますと、それは今番太郎が張出したばかりのもので、糊のかわいていない一枚の紙に半身の似顔が描いてあって、それにこういう箇条がしるされてあります。

京都<ruby><rb>公卿浪人</rb><rt>くげろうにん</rt></ruby>

<ruby><rb>異名</rb><rt>いみょう</rt></ruby>日本左衛門<ruby><rb>事</rb><rt>こと</rt></ruby>、<ruby><rb>無宿</rb><rt>むしゅく</rt></ruby>浜島庄兵衛、年二十七歳

身長五尺三寸位

色あさぐろき<ruby><rb>方</rb><rt>ほう</rt></ruby>、鼻高き方、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>めだちて濃し、右眉の中に<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>、うしろ<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>に小さき刀傷一ヵ所、右御たずねの盗賊見当り次第訴人あるべき事、かくまいだてまたは逃走の<ruby><rb>伝手</rb><rt>つて</rt></ruby>をあたえたるものは御法に律して重罪たるべきもの<ruby><rb>也</rb><rt>なり</rt></ruby>

甲府町方奉行所

「なアるほど……」

馬春堂は番屋のそばを抜き足さし足に離れて来て、

「いやな<ruby><rb>辻占</rb><rt>つじうら</rt></ruby>だなあ」

と首を振りうごかしました。

それですッかりおびやかされた彼は、もう伊兵衛よりスタスタと先に立って、柳町の<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋の裏から飛び込むように姿をかくしました。

江戸の両国や浅草とちがい、ここの繁華は夕方からなので、昼は<ruby><rb>馬糧倉</rb><rt>まぐさぐら</rt></ruby>のように蒸れている<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>小屋に昼寝をしている者もない。

その楽屋にさし向いとなって、

「伊兵衛、どうしたものだろう？」

と、馬春堂の心配顔。

「だから、おれはこの甲府へはいる前から、ちっとも気をゆるしちゃいなかったんだ」

「日本左衛門のやつが、こんな方まで来ているとは夢にも思わなかった。どうしてもお粂を殺してしまわなければ虫がおさまらないものとみえる」

「そればかりだと思うと大間違い、お粂ばかりじゃない、俺達の命も絶えずねらわれているのだ」

「執念ぶかい男だな」

「あいつらしい<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>りかただ」

伊兵衛はくちびるを歯でしめて、

「おれたちに遺恨をもって殺そうというのじゃない。夜光の短刀――あの秘密を知っている二人が日本左衛門の気がかりになるんだ」

「じゃ、もうあのことはふッつり思い<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まろうじゃないか」

「ばかをいやがれ」

伊兵衛はこわい眼をして馬春堂を睨みながら、

「てめえがそういう二心を抱くなら、おれが生かしちゃおかねえからそう思え」

こういう脅迫をうけるのは、今が初めてではありません。実際、馬春堂は、雲をつかむような夜光の短刀の捜索にそろそろ退屈をおぼえております。いや、その大望に熱がさめたよりも、それによって起こるいろいろな危害や苦しみの多いのに、おぞけをふるッてしまったのです。

大体、伊兵衛の望みが大きすぎて、彼の望みとつり合いのとれないところがある。王侯の暮らしの百万両になる、そんな夢みたいな希望よりは、馬春堂先生は命が無事でうまい酒がのめて女に不自由がなければそれで結構なのであります。

粂吉一座の<ruby><rb>尻馬</rb><rt>しりうま</rt></ruby>に乗って旅興行に出てからというものは、その点だけでもめぐまれています。で、伊兵衛と一緒に苦労するのが少し、嫌気になってきたのかも知れない。

ところが、今日の風向きでは、どうやらこの一座にも悠々と長く居る事をゆるさない様子です。

万一、お粂にまちがいがあったひには、この一座はみじめな<ruby><rb>瓦解</rb><rt>がかい</rt></ruby>だし、お粂が助かってこっちが災難をうけたひにはなお取り返しのつかないこと。

加うるに、番屋番屋へああいう人相書が廻っているのですから、それから察して、この甲府という地相は、自分たちにも暗剣の方位にあるんじゃないかということも馬春堂の<ruby><rb>胸占</rb><rt>むねうら</rt></ruby>にうかんでいなければならないわけです。

ところが先生の梅花堂流の<ruby><rb>神易</rb><rt>しんえき</rt></ruby>たるや、<ruby><rb>見料</rb><rt>けんりょう</rt></ruby>を取って他人に売るものでありますが、少しも自分の運命を救うものではありませんから、こんな時には途方にくれて、

「どうしよう？　伊兵衛、おまえはこれからどうするつもりだね」

と、相手の思案をせがむに急なるばかりです。

「うるせえなあ」

と伊兵衛は腕組をゆすぶッて、

「いくらおれでも、そう早くおあつらえな智慧が出るもんかい」

――まだ木戸や舞台の支度にかかるにはだいぶ時刻が早そうなのに、その時、だれもいない<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋のなかを歩き廻って、やがて楽屋口から舞台裏をのぞく者がありました。

「おや、だれだ？」

二人がひょいと<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ってみると、<ruby><rb>熨斗幕</rb><rt>のしまく</rt></ruby>の裾に、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>をはいた白の<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>と、白木の杖の端が見える。

小屋の者じゃない。

白い<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>に杖？

ははあ、物もらいだな。

木戸に人がいないのを見て、何か見物の落とし物でもないかと、犬のように<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>りに来た物乞いだろう。

――馬春堂も伊兵衛もそう合点したものですから、目をそらしていると、いつのまにか<ruby><rb>熨斗幕</rb><rt>のしまく</rt></ruby>のかげにたたずんだ者は、そこを立ち去ってしまいました。

で、また、思案と、なげ首。

「おらあズラかると肚をきめた」

やがて伊兵衛の口切りです。

「逃げるのか、この一座を」

と、馬春堂は残り惜しそうな顔色にみえる。

「それよりほかに思案はねえや。もともとお粂にくッついて来たのも、楽に旅をつづけようというこっちの方便、ここらで見切りをつけるとして、あとは雲にでも風にでも乗るとしようじゃねえか」

「お前が出るならしかたがない。じゃ、わしも行くとしよう。しばらくのんきに暮していたが、また元の<ruby><rb>旅易者</rb><rt>たびえきしゃ</rt></ruby>になり下がるかな」

「べらぼうめ、<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>なんか<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>ってあるかなくっても、金と米ッ粒はおいらの足のふむところに付いて廻っているじゃねえか」

「でもないぜ。ずいぶんお前も飯の食いはぐれをやる性分だからな」

「そのかわりにゃ、今に夜光の短刀を手にいれてよ、<ruby><rb>南蛮船</rb><rt>なんばんせん</rt></ruby>の<ruby><rb>加比丹</rb><rt>かぴたん</rt></ruby>に持ちこんでみねえ、すぐその日から何万両の長者様だ」

「また<ruby><rb>十八番</rb><rt>おはこ</rt></ruby>が出た。おれは<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>をひきそうだ」

「ちぇッ、慾のねえお父つぁんだ」

「慾はあるが、おれの慾はじみちな慾さ」

「べらぼうめ、慾にじみちも<ruby><rb>新道</rb><rt>しんみち</rt></ruby>もあるものか、だが、そりゃあそうとして、オイ、馬公」

「なんだと、答えたいが、時に伊兵衛ちょッと待ってくれ」

「おや、いやに改まって、どうかしたのけえ？」

「お前はどうも<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>えば交際うほど人を甘くみてよくない<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>だ、<ruby><rb>溝店</rb><rt>どぶだな</rt></ruby>で隣合っていた時代はわしのことを先生と呼んだ。……おまえはな」

「はてネ」

「それから少し親しくなると、馬春堂、馬春堂とよび捨てにしはじめた。――だが、馬春堂ならまだよろしい、しかし、近頃のように、馬公とはなんだい、馬公とは。――いかにわしでも、馬公とよばれてオイと快く返辞はできんよ。ちッたあ人間らしい交わりをしようじゃないか」

「おめえ本気で怒ったのかい」

「あたりまえさ。<ruby><rb>轗軻不遇</rb><rt>かんかふぐう</rt></ruby>というやつで、<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>の仲間入りこそしているが、これでもわしの両親は、帯刀御免の名主様じゃった」

「おめえが名主様のお<ruby><rb>倅</rb><rt>せがれ</rt></ruby>だとは今はじめて承知したが、何も、<ruby><rb>双親</rb><rt>ふたおや</rt></ruby>まで引ッぱり出して怒ることはあるまい。腹が立つなら堪忍してくんな、おれもわる気で言ったわけじゃねえが、川越以来、お粂がおめえのことをよぶのに、いつも、馬さん馬さんというだろう……あれに染まって、おれもつい、馬公なんて失礼なことばが口ぐせになったというものさ。……ま、そんなことは、この際お互いにどうでもいいとしようじゃねえか」

「そりゃどうでもいいようなものの、虫の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>で、返辞のできない場合もある」

「<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もだ。そこで馬春堂先生」

「先生まではいらないよ」

「へいへい。じゃそこで、また御相談だが、一座から飛び出すといっても、おめえは<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけ、おらこのとおり着のみ着のまま、これじゃ、どうにもしようがねえ。で、どうしてもいったん宿へ帰った上でなけりゃ<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>がはけないという寸法だ」

「うム、その話は分った」

「次には路銀の一件だ」

「お前の足のふむところには、どこにでも金が付いて廻っていると言ったじゃないか」

「そりゃ、本業にかかればそうだが、まさか、今が今なにをする仕事もなかろうじゃねえか」

「じゃ、どうする？」

「先生はまことに結構なお身分でござんす。じゃどうする？　って<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>ごとのように言うんだから恐れ入ッちまう。しかたがねえや、宿へ帰って、うまくお粂の目をぬすんで、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>がおさえているこの興行の上がり銭をそッくり拝借してゆこうじゃねえか」

「待てよ、伊兵衛。あれをそッくり持って行ったひには、一座の者が、あとで<ruby><rb>餌干</rb><rt>えぼ</rt></ruby>しになってしまいやしないか」

「おい馬春堂、いい加減に少しあたまをハッキリもってくれよ、あとの困るのを考えながら泥棒渡世ができるものか」

「うむ、それにも一理あるな」

やっと頷いた馬春堂の耳を引っぱッて、

「手はずはこういう都合にするんだ……いいか……どじをふンじゃいけねえぜ」

と、何かヒソヒソとささやいていました。

すると、最前、<ruby><rb>熨斗幕</rb><rt>のしまく</rt></ruby>のかげを立ち去ったかと思われた男は、あれからまだ、小屋のなかをしきりと探り歩いていたものらしく、こんどは<ruby><rb>楽屋口</rb><rt>がくやぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を払って、のっそりと小道具の取り散らかった無人の大部屋へはいって来ました。

出会いがしらです。

そこへ楽屋から出て来た二人と、無断でそこへはいって行った男とが、真正面に顔を見合せて、

「おや？」

ギクと足を止めながら、両方で、どこかで見たようだがと小首をかしげました。

そこに来た者は相良金吾であります。

――<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>の<ruby><rb>渓谷</rb><rt>けいこく</rt></ruby>において、日本左衛門とああいう<ruby><rb>訣別</rb><rt>けつべつ</rt></ruby>をした金吾が、そのごの一念をお粂の行方に傾倒していたのは想像に難くないことです。

小仏から甲府に至るまでの宿場宿場――上野原、<ruby><rb>駒飼</rb><rt>こまがい</rt></ruby>、勝沼、<ruby><rb>石和</rb><rt>いさわ</rt></ruby>などの町で、彼の目にふれ、彼をしてここへ導いてきたのは、

「江戸<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>、<ruby><rb>嵐粂吉</rb><rt>あらしくめきち</rt></ruby>一座」のあの辻ビラでありました。

しかし、その粂吉がお粂であるや否やは、まだ金吾として明確につきとめたことではありませんが、粂吉という芸名になんとなくそれらしい疑いがありましたし、一日でも興行した土地の評判は大したもので、その噂にのぼる人気者の女が、どうもお粂にまちがいがない。

で――辻ビラをたどってこの甲府まで来てみると、ここでは七日の長興行というので、初めてその小屋の正体を見届けました。

けれど、今表に立ってみると、にわか作りの絵看板やのぼりは見えますが木戸番は居ない。また、中へはいってみても、同じようにがらんとしていて、働いている道具方ひとり見当りません。

といって、もう興行の終った様子もないので、さては、夕景が木戸<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>きかと合点しましたが、たれか一座の者でも居たら、よそながら粂吉なる者がお粂であるか否か、その実否を確かめてみたい。

そう思いながら<ruby><rb>熨斗幕</rb><rt>のしまく</rt></ruby>をのぞいて見ると、そこにヒソヒソと話をしている人間がある。

「はてな？」

金吾はその時から、伊兵衛をどこかで見たように感じられてならない。

「江戸で……」

そこまで記憶はあるが、何者か、かんじんな名も会った場所も、さらに考え出せません。

今――楽屋口へ廻ってきた所で、バッタリ顔を見合いましたが、そのわずかな機会には、妙な疑心がよけいに働いて、いっそう記憶をつかむことができない。

だが、金吾の<ruby><rb>空覚</rb><rt>うろおぼ</rt></ruby>えが決してあやまちでない証拠には、伊兵衛の顔色も鮮やかに変っている……

とは言え、伊兵衛の方でも、やはり誰というハッキリした驚き方ではなかったのです。

不意に、楽屋裏のむしろを上げて、白い<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby><ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>の男が、無断で目のまえに立ったのと、その容貌を見たせつなに、常には忘れていたような古傷がひらめいたので、意味なくハッとしただけのものであります。

なぜか、馬春堂が袖を引ッぱるので、伊兵衛は金吾を流し目に見ながら小屋の裏手へ飛び出して、

「何だい今の男は、小屋のなかをキョロキョロ見廻りやがって、うさんくせえ奴じゃねえか」

もう一度小屋の方を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ってつぶやくと、馬春堂スタコラとお先に歩いて、

「知らないのか、あの男を」

「見たような奴だとは思うんだが……どうも胸にうかんで来ねえ」

「お粂がさんざん可愛がった男さ」

「えっ、旅先でか」

「なあに、江戸でさ」

「江戸で？　……江戸でとすると相良金吾じゃねえか。あっ……ちげえねえ！」

思い当ると、さすがな伊兵衛も、今のうかつな出会いがしらが、なんとあぶないところだったろうと、あとで胆をちぢめた事であります。

――ひとり小屋の楽屋に立ち残った金吾の方は、あわてて出て行った二人のうしろを見送って、しばらく何か考えている様子でした。

芸人の手廻りの品は、夜ごと持ち帰るものとみえて、楽屋の内には何ひとつ派手な衣裳も見当りませんが、ふと向うを見ると、<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>の羽くずしの紋を染めぬいた柿色の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>がさがっている。

鷹の羽――それが自分の紋だけに金吾は特に目をひかれて、ふとそこを潜ってみますと、嵐粂吉の部屋でしょう。ほかよりは少し整っていて、なお不思議に感じられたのは、そこにある湯呑、<ruby><rb>鏡蓋</rb><rt>かがみぶた</rt></ruby>、衣裳つづら、すべて<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>のある品物、何ひとつとして、鷹の羽くずしの紋でないものはありません。

お粂だった。

自分の想像していたとおり、嵐粂吉というのはやはりお粂にまちがいはない。

この、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>によごれた<ruby><rb>蓆囲</rb><rt>むしろがこ</rt></ruby>いの部屋の調度が、すべて、自分の家紋をくずした鷹の羽くずしに<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まっているのを眺めた時、金吾は、言いあらわしようのない自責と侮辱にうたれました。

（アア、紋まで片輪になりおった……）

くずし紋は芸人のよくすること、その芸人社会のものの目で見れば、思う人の紋に心意気を似よせた<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>ごとに相違ないのでありますが、ここに立った相良金吾の身になってみますと、それは怖ろしい皮肉と恥かしめであるほか何ものでもありません。

――紋まで片輪になった！

こうもため息が出たでしょう。

家紋は武士がもっとも尊ぶものでした。それが、いまわしい女の、しかも<ruby><rb>蓆囲</rb><rt>むしろがこ</rt></ruby>いの楽屋の手道具に、片輪のようにくずされて、いっぱいになって散らかっている！

ああ紋まで――、その紋の前には、この金吾というものの生涯が、あの女のために、<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>われない不具者にさせられているのだ。

人の居ない楽屋と片輪の紋。――泣いて少しでも気のはれるものなら、ここは、金吾が泣くにもっともふさわしい場所ではないか――と金吾がみずから身を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>りました。

が――俄然として立つと、

「<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>だッ」

とばかり、かれの足は、あたりにのめのめとしている片輪の鷹の羽を、片っぱしから蹴飛ばし初めました。

衣裳箱、湯呑、鏡台、つづら、そこらに紋のついてあるものは、みな彼の足の先に踊って、道化役者のようにとんぼを打つ。

不快はいよいよ不快を加えてきます。

思えばこれもおとなげない<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と、自分で自分の行為に気がついた時には、すでにその不快のやりばがまったくなくなっている。

その時、救われたように、彼の手が倒れた鏡台のひきだしにのびていました。

手紙やら、<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>やら、ひとたばに丸めて突っ込んでおいた<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>です。そのなかに、伊兵衛という文字がちらちらある。よりわけてみると、楽屋の雑費や出入りをしるしておいた伊兵衛の書付がその大部分でありました。

「あっ？　……」

熱海にいたころ、お粂の話に聞いていた道中師の伊兵衛という名。

「もしや今の男が……その伊兵衛ではなかったろうか」

彼は<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>かれたように楽屋を駆け出して、掛小屋の裏手へ出てみました。

が、二人の姿は、もう見えぬ横丁へ曲っている。

――今、すれちがった時、どこかで見たような記憶があると直覚したのは、いつか、自分が<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>市へ洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を買いもどしに行った折、材木置場から隅田川へ追い落したあの男の<ruby><rb>風態</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>ではなかろうか？

「それだ！　その時の道中師の伊兵衛だ」

こう思い当ったのと、しまった！　という悔いとが、金吾の胸へひとつになってこみあげました。

「ウム、足のかぎりに急いでゆけば、今の二人に追いつかぬことはあるまい。そして、彼のゆくところについてまいれば、自然お粂の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>も知れるというもの！」

金吾はいだてんと駆け出しました。

<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋の裏から柳町の横へ。

彼は、<ruby><rb>焦</rb><rt>や</rt></ruby>けたる大地をふむ足の裏のあつさを知りません。<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>にじりつく真昼の陽のつよさにも気がつきません。

「お、あれだな」

やっと、向うの辻に見つけ出した、二人の影。

伊兵衛を捕りおさえれば、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の手がかりがあろう。

お粂に会い得れば、すなわち、自分の熟考してきたことの決行に依って、こんどは、日本左衛門へ堂々と果し状をつけ、小仏以前の怨みと、小仏以後の忍苦をそそぐことができる。

今、二つの<ruby><rb>赫々</rb><rt>かっかく</rt></ruby>たる希望に向って、金吾の汗は流れています。肩は熱風を裂いて、程なく伊兵衛と馬春堂の襟がみへその手が届かんとしています。

## 草いきれ

高札場の辻を右へ折れて、夏草のしげった空き地の細道をななめに抜けて行こうとした時です。

「や、小屋にいたさっきの奴が、追いかけて来るようだぜ」

「えっ、金吾が？」

偶然うしろへ首を廻した馬春堂と伊兵衛とが、小半町ほど<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から真向きに飛んで来る金吾の姿を見かけて、

「さては、野郎もあとで気づいたとみえる」

と、にわかに<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>の様子でした。

で――逃げろとも言い合わずに、道をそれて一方の代官原という空き地のしげみへ、泳ぐように逃げこんでゆく。

その附近まで追いかけて来てふいと、二人を見失った相良金吾は、いったんその空き地を駆け抜けてしまいましたが、それより先一すじの片側町にも、また十字路になる<ruby><rb>石和</rb><rt>いさわ</rt></ruby>街道の方角にも、先の姿が見当らないので、ふたたび<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ立ち返って来ました。

草<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる空き地の中ほどには、骨ばかりになった古屋敷と累層した古瓦があり、それをめぐらす土塀のあとらしいものも見かけられます。ここの数町四方を代官原と土地のものがよぶところをみると、それは半世紀前の甲府代官の陣屋跡かも知れません。

「たしかにこの辺まで、二人の姿が見えたのだが……」と金吾は足を<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>してその辺りの雑草のなかを踏み分けてみます。

青い羽の虫が彼の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>に飛んで逃げる。

「はて、何処へ隠れたのだろうか」

くずれた土塀の根石へ腰をおろして、一汗ふいていた時であります。彼にはかつて見かけたことのない四十前後の旅ごしらえの町人が、その土塀に沿ってつかつかと彼の前へ歩み寄って来て、

「相良様、見つかりませんか」

と意外なことばです。自分も一緒にかくれた二人を探していたような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>です。

金吾はこの不可解な旅人を前にして、ちょっと<ruby><rb>目睫</rb><rt>もくしょう</rt></ruby>のことを忘れながら、

「相良様といったようだが、そちは、どうして拙者の名を存じているのか」

「存じております。あなたは徳川万太郎様の御近侍、相良金吾様でございましょう」

「ウウム、いかにも自分は金吾だが、してそちは誰か」

「まったく御存知ないのですか？」

「知らぬ」

「はて、そんなはずはございませんがね」

男は笠を下へ置いて、その笠の上へすっぽりと腰をすえると、腰の煙草入れを抜き取って、

「よく考えてごらんなさいまし、そんなはずはございませんから」

小さく咲いた昼顔の花へ、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>の足を投げ出すと、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を持ったその手をひじ枕にして、ごろりと横に寝そべりました。

何という<ruby><rb>傍若無人</rb><rt>ぼうじゃくぶじん</rt></ruby>な男だろう。

邪推をまわせば、かくれた伊兵衛を逃がすために、わざと邪魔をしに出たように考えられぬこともありません。

金吾は少し<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>ばんで、

「貴様のような者に知り人はない。ここで見失ったものを探しているところ、無用な邪魔をするやつだ、あっちへ行け」

「だって、その二人は、逃げちまッたじゃございませんか」

「いや、たしかにこの附近へもぐり込んだにちがいない」

「そうかも知れません。けれどそいつあ無駄ですからおよしなさい。あの伊兵衛や馬春堂を捕まえてみたところで、あなたの目的には何の足しにもなりません」

「ウーム、それまでのことを知っているのは、いよいよ不審にたえぬわけだが、一体そちは何者だ、第一、人にものを話しかけるに、寝そべっておるのは無礼であろう」

「いや、これは、御安心なさいという、あっしの礼儀でございます」

「礼儀だ？　おのれ人を<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>にするにも程がある」

常に自らたしなめている一本気がまたもや金吾をして顔の色を変えさせました。

町人は寝そべっている体をクルリと腹んばいにかえすと、ぷッと吹いた火玉をつけて、草の根から新しい煙を揚げながら、

「まったくです、決して無礼じゃございません」と、底気味わるく笑っている。

そして、金吾がじッと睨むのを、<ruby><rb>小皺</rb><rt>こじわ</rt></ruby>をよせた目で見返しながら、ぽつぽつこんな言い草をならべたものです。

「――なぜかって言いますと、あっしはお前さんを殺害するために、時々、<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>みたいに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けている人間ですからね。……多分そんなことは、そちら様でも勘づいていることと合点したので、それを尋常なごあいさつで話しかけたのでは、そっちも油断ができまいし、こっちも物騒と考えたので、機転をきかして、わざとこうして寝そべったわけなんです。……つまり武士なら両刀を投げ出しておいてお目にかかったのと同じ礼儀のつもりなんで……へ、へ、へ、へ」

「ほウ、では拙者を<ruby><rb>殺</rb><rt>あや</rt></ruby>めようとして、常々この身を尾けまわしていたと言うのか。……うム読めた、貴様は、日本左衛門の手下の者だな」

これは存外、甲羅をへた<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>、なかなか油断はなりません。――金吾はおぼえず杖に仕込んである了戒をにぎりしめてそう思う。

が、男はなお夏草のなかに寝そべッたまま牛のように身を起さず、

「なるほど、まず見当はその辺でしょう。だが、あっしは日本左衛門の下風につくようなケチな男じゃない、これでも<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>九兵衛といって、相当苦労をなめている盗賊のつもりですが」と暗に自分より若輩の日本左衛門の手下と見られることを、いさぎよしとしない口吻であります。

九兵衛といえばこの春まで厚木の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>に店を構えていた煙草屋九兵衛という老賊を思い起こされる。

当時、そこへ暫く宿泊していた日本左衛門から、夜光刀の秘密をうちあけられて、自分からすすんでその仕事に割りこんだ彼は、たしか当夜の暗殺の<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>では相良金吾をあやめる難役を買ったはずでした。

金吾は今、この煮ても焼いても食えないような老賊を前にして、その肚のなかを<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>しかねていると、九兵衛は三服目のたばこを吸いつけて、

「だが、お前さんは若いに似合わず、なかなか見上げたところがある。おれも元よりいい年をして、初めから日本左衛門のお先棒につかわれたわけじゃねえが、道中それとなく<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩いているうちに、すっかり感服してしまった。――どうして、いくら頼まれたって、お前さんのような侍をムザムザ殺せたものじゃあない」

と少し<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>のみえる首をふりながら、おだてあげるような九兵衛のひとりごとです。

金吾はこの老賊が何の策をもっているか、その奥の手を見破ってやろうというつもりで、わざと語気をあらくして、

「起きろ！　この<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>」

とばかり、いきなり長くのばしている足の先を蹴とばし、杖の一刀を抜こうとして見せました。

「おや、怒ったね」

九兵衛はクルリと一つ<ruby><rb>転</rb><rt>かえ</rt></ruby>って居坐りになりながら、

「どうして怒るんだ先生」

煙管をとって中段にかまえます。

「ここへ追いつめて来た者を探しているところだと申すに、あくまで邪魔だてをするやつ、察するところ、おのれ伊兵衛と申すやつと<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>んでまいった……」

「笑わしちゃいけません、日本左衛門の下風にさえつかねえ秦野屋です。だれがあんな者の相棒になって、こんな所へのさばって来るものですか。……それに最前も御注意いたしましたが、あの二人を捕まえたところで、あなたのお望みの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は決してわかりませんぜ、なぜかって、その仮面はもう伊兵衛の手から人手に移って、今じゃ持ち<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>がちがっております」

「ふーむ、してその<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は今、何者が所持していると申すのか」

「おッと、人を怒りつけながら、それまでただ聞こうというのは少し虫がよすぎる。何も意地をわるくするわけじゃありませんが、そいつを知りたいとおっしゃるなら、黙ってあっしに尾いておいでなさい。どこかで飯でもたべながら、ゆっくり御相談をしようというもんです」

と、九兵衛は草の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>を払って、のこのこ先に歩き出します。

ことばの上では金吾はとても<ruby><rb>老獪</rb><rt>ろうかい</rt></ruby>な九兵衛の相手ではないようです。

「相良さん、来ねえんですか。なにも、取って食おうというのじゃありませんぜ」

九兵衛はもいちどそう言って、悠々と、持ち忘れた笠をひろいとる。

老賊め！

こいつ、うまうまと人を釣って、どんな芸当をやろうというのか。

こう相手の心を充分に疑っていながらも、金吾は、一面に今かれが口からもらした<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のことに誘惑されて、

「うム、話があるというのか、ならば一応は聞いてつかわそう、どこへでも案内をせい」

思わずそこを立ちました。

金吾が歩み出すと、彼はまた<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、

「ところで、どこに致しましょうか」

だまって<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来いといいながら、あてもないような口ぶりです。金吾はいよいよ曲者に二重三重の策があるにちがいないと睨んで、

「そちのたくらんでいる<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>とし穴へ行こうではないか」

わざと冷言を放ってみました。

九兵衛は深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>をつくって、

「なかなかあなたは要心ぶかい」

「ふん……」

笑ってみせると、思い出したように、ぽんと膝をたたきながら、

「時に、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>はいかがですか。どこかで飯でもたべながら話すことにしようじゃございませんか」

「ひまどってはいられぬ体だ。ことに今の場合、安閑と食事どころの沙汰ではない」

「でも、もう<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>すぎ、<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>はしかも城下はずれの宿を早くお立ちになったあなたです。今までの間に<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>ひと切れ食べていないことは目付役の九兵衛がよくぞんじています。まあどのみち食わずに馳け廻れるものじゃありませんから、どこかで弁当をつめこむといたしましょう。うム、お<ruby><rb>諏訪様</rb><rt>すわさま</rt></ruby>の裏に静かで女の居ない昼食屋がございます、そこへおいでなすって下さい、なあに、そんなに遠かアありません」

あとは心得顔に<ruby><rb>代官原</rb><rt>だいかんばら</rt></ruby>を横切って<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の土手へあがりました。

その後です。

声のわるいキリギリスが人の汗を誘うようにどこかでなきだしたかと思うと、代官屋敷の土塀のかげから、虫の音を踏み消して、

「あぶねえ、あぶねえ」

と馬春堂先生が、呟きながら出て来ました。

そのあぶないところを、首尾よくのがれ得たのにお調子づいて、

「おい伊兵衛や、もう大丈夫だよ。ほれ向うへ行っちゃった」

手を上げて、うしろを招いていると、べつな方から抜け出した伊兵衛は、もう彼より先の方をスタスタと歩いていて、

「オイお父っさん、どこを向いてだれを呼んでいるんだよ。こっちだこっちだ」

あべこべに声をかけられて、馬春堂はアタフタと追いかけながら、

「いつもお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は逃げ足が早いな」

「あたりめえだ、あんな野郎の目にふれて、まごまごしていられるものか」

「だが、うまいぐあいに行ったじゃねえか」

「<ruby><rb>天道様</rb><rt>てんとうさま</rt></ruby>の御守護だな」

「笑っているぜ、天道様が」

「そのせいか、いやにカンカン照りつけやがって、脳天が焦げるようだ」

草いきれの道を泳ぐように急いで、<ruby><rb>石和</rb><rt>いさわ</rt></ruby>街道の並木へ出ました。そしてまた少し城下の方へ逆戻りをして来る。

それから二人が曲ったのは、町家のなかの狭い横町、角の土蔵から幾軒目かの<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>をかぞえて、この一劃では小ぎれいな家の格子をあけると、伊兵衛が先にはいって、

「<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>、いまけえりました」

と、なにげない顔で上へあがる。

そこには、上がり口から三味線や太鼓がみえるし、すぐ次の部屋にはなまめいた女の衣類などがぬぎ散らしてありますが、世帯道具らしいものは一点も見当らない。

興行の間だけ、土地の太夫元が<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>を借りてあてがってくれた、嵐粂吉の住居です。

「お粂さんは居ないようだね」

馬春堂が奥をのぞくと、そこに、襦袢と湯もじ一つでふざけていた一座の女弟子たちが、

「いいえ、二階」

と、意味ありそうな笑い目を天井に向けます。

「このあついのに？」

伊兵衛はうンざりした顔で、

「――連中が二階に居ちゃしかたがねえから、夕方まで、ここで昼寝でもしているとするか、なあ馬春堂」

上がり口の六畳間に、二人はゴロリと手枕をかいました。――そして昼寝によそおいながら、この興行の上がり金をさらって逃げる相談をささやいていますと、上の二階では、伊兵衛が笑ってつぶやいたとおり、このあついのにウンスン<ruby><rb>骨牌</rb><rt>かるた</rt></ruby>の札音がさかんであります。

## 老賊

<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>神社のこんもりした森蔭に<ruby><rb>石和屋</rb><rt>いさわや</rt></ruby>という小料理屋の古びた屋根が、<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>しぐれの声につつまれてあります。

噴き井戸の水でしぼった手拭に汗と<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を拭いて、そこの二階へ上がったのは最前の九兵衛と金吾で、

「こりゃ思ったよりも涼しそうな家だ、ほかには客がないようでございますね」

あてがわれた小座敷へ坐りこまないうちに、九兵衛は言い訳ばかりの食いものと酒をあつらえ、その間に、幾つかの二階の部屋をずッと一通り見届けて帰ってくる。

そして、敷物の一つを、自分の手で床の間の上座へ直して、

「幸いとほかに相客も居ない様子です。さ、若旦那、どうかそれへお<ruby><rb>着座</rb><rt>つき</rt></ruby>くださいまし」

両手をぴたとついて、にわかに改まった九兵衛の態度が、ここへ上がる前の老賊ぶりとはガラリと打って変って、あまりといえば金吾の意表を出すぎています。

「さだめし、不審にお思いなさいましょうが、これには事情のあることです。……若旦那、あなたはもう私をお忘れでございましょうな」

「？　……」

「お忘れになっているのも無理はない。もう十六、七年も前になる。……あっしが名古屋表のお屋敷に御奉公をしていて、<ruby><rb>凧</rb><rt>たこ</rt></ruby>の骨を削ってあげたり、踏み台になって柿の実をもいであげたりした頃は、まだあなたはやっと八ツか九ツ、幼名<ruby><rb>丈太郎</rb><rt>じょうたろう</rt></ruby>さんといって可愛らしい坊っちゃんでしたからな」

「九兵衛ッ」

「ま、もう少し聞いて下さい。まだあなたは私を充分に疑っておいでなさる。この狸が、何をいうかと、半信半疑のお気もちでございましょうが、最前はあの物蔭に、伊兵衛と馬春堂のやつが<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>をひそめておりましたので、わざとああした傍若無人なまねをして、ここまでお誘い申したわけです。――そして何をおつつみしましょう、あっしは<ruby><rb>正真正銘</rb><rt>しょうしんしょうめい</rt></ruby>の大盗ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>、秦野屋九兵衛という<ruby><rb>兇状</rb><rt>きょうじょう</rt></ruby>持ちには相違ございませんが、十七年の昔をさかのぼれば、尾州名古屋の<ruby><rb>富</rb><rt>とみ</rt></ruby>の小路に御槍<ruby><rb>組頭</rb><rt>くみがしら</rt></ruby>で七百石をおとり遊ばしていた<ruby><rb>相良勘解由様</rb><rt>さがらかげゆさま</rt></ruby>を御主人としてつかえていた<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の九兵衛です」

「えっ、では<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>は尾州表で、拙者の父相良勘解由につかえていた仲間だったか」

「その頃から悪事に悪事をかさねて、隣屋敷の納屋倉にまで盗みの手をのばし、ツイそれがばれて首になるところを、あなたのおやじ様の情けで、逃がしてもらったのがお別れでございました」

「ウーム」

と金吾は茫然たるばかりで、<ruby><rb>艱苦</rb><rt>かんく</rt></ruby>をへた老賊の深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>に幼時の記憶をよび起こそうと一心に見つめました。

そこへ、あつらえ物の膳が来ましたが、軽く銚子をとる<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を見せて女中を遠ざけた後、ついだ盃も手にとらずに、九兵衛はなおも話しつづける。

老いて緑林の渡世のはかなさを覚り、悪事の足を洗って厚木に<ruby><rb>煙草問屋</rb><rt>たばこどんや</rt></ruby>の店をもったことの彼の述懐は、金吾にもうなずけました。

しかし、そこへ以前の悪事仲間の日本左衛門に頼られて来て、つい、何かの相談に乗るようになったところへ、また折悪く出火に会って店を<ruby><rb>烏有</rb><rt>うゆう</rt></ruby>に帰したので、その晩から元の裸一貫となると同時に、彼の仕事に組して老後の一かせぎという野心を起した――などと語りつぐ彼のことばもいかにも真実らしい嘆息に聞かれる。

暗殺の<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>のこと。

そして、自分が金吾を殺す籤をひきあてたことなど――

それらのことも順序を追って話してから、

「で、あっしはあなたの蔭に添って、一時は隙をねらっていましたが、ただ、相良という名が気になって、どうも思い切ったことができないので、実はこの甲府へ来る前に、いったん江戸表へ引っ返して、市ヶ谷にある尾張様のお長屋のものに、それとなく聞き探ってみると、相良勘解由様もとうの昔に<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなられたし、御子息の金吾様も今は若殿万太郎様の御勘気の責めを負って、共に、お行方が知れないといううわさ……アアやっぱり金吾というのは昔の<ruby><rb>丈太郎</rb><rt>じょうたろう</rt></ruby>坊ちゃんだったかと、あっしは、あっしは……」

と、九兵衛はすこし声を曇らせて、横につかんだ手拭で目を抑えました。

意外です。

みずから兇悪な人間と<ruby><rb>傲語</rb><rt>ごうご</rt></ruby>する老賊の目に思いがけない涙を見ようとは。

そして、<ruby><rb>纏綿</rb><rt>てんめん</rt></ruby>たる人なみの懐旧をもって過去を語られていることも、金吾には、常人の口から聞くことばよりも、惻々として胸にせまってくるような心地がする。

「そうか、じゃお前は、父上の時代に、名古屋の屋敷に奉公していた<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>だったのか」

「わるい事はできないものでございます。……というような弱音が出るようでは、もう悪党も焼きが廻った証拠じゃあございますがね」

「奇縁だな」

「空怖ろしい気がいたします」

「したが、そこでお前は、日本左衛門からいいつけられている――つまり拙者を殺そうという<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>の誓いを、どうするつもりだな」

「ヘエ」と九兵衛はうなだれて、

「――このまま、どこまでも、あなたの影に添って<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>け狙うつもりでございます」

「ふーむ……」

「が、それは<ruby><rb>表前</rb><rt>うわべ</rt></ruby>の事。日本左衛門の仲間の目にそう見せておく<ruby><rb>反間苦肉</rb><rt>はんかんくにく</rt></ruby>というやつです。なんで、あなたを殺せましょうか。――それよりはどうかこの老いぼれの九兵衛を、逆に活かして使って下さいまし。大旦那の勘解由様に対して、九兵衛は少しばかりの御恩返しにもなれば有難いとぞんじます」

「そのことばが真実ならば、自分の望みをなしとげた上に、そちに命をくれてもよい」

「と、とんでもないことを」

「いつわりではなかろうな」

「悪党は馬鹿正直といって、言い切ったことに、みじんも嘘はありません。その証拠として、あっしが知っている限りのことを、今日はのこらずお耳に入れておきます」

こう言って、九兵衛はふいと立ちました。

何をするかと思うと、もういちど、二階から裏口を注意ぶかく見廻して来て、さて、ぴったりと膝を改めて、

「――第一に、あなたが<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>でさがしている<ruby><rb>出目洞白</rb><rt>でめどうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>、あれは、切支丹屋敷のお蝶が持って、この甲府に来ております。そして、お蝶は多分今夜あたり、どこかで日本左衛門につかまるでしょう。……どうもそんな気がいたします」

彼の語りだすのを聞いていると、彼には幾つもの分身があって、この甲府にはいって来た人々の動静をいちいち見て歩いているようです。

万太郎が一夜柳沢家の本丸に泊ったこと、<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>が町方役所へ尺取の十太郎を誘いこんだ様子なども読むがごとき話し振りです。

さあ、金吾の体は、にわかに、幾ツあってもたらないことになりました。

知らねばこそですが、この甲府にいる人々の動静を皆明らかに聞かされて、甲府盆地を<ruby><rb>鳥瞰</rb><rt>ちょうかん</rt></ruby>したように知ってみると、一刻もじっとしていられた体ではありません。

何よりも、釘勘や万太郎様にも、こうしている自分の微力を告げたい。いや、その前に、お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>の始末をつけなければならない。そして、お蝶の持つ<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>も<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り返さなければならない。まだある、あの星影の渓谷の誓いを――日本左衛門と<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>の間に果さなければ<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>の前にも面目が立たない。

それもこれも、金吾の身辺には、一時に巻いている渦です。その幾つもの波紋を泳ぎ切ってゆくのには、いつもの、短気一徹なばかりの自分ではむずかしい。

程よく、勘定をすまして、<ruby><rb>石和屋</rb><rt>いさわや</rt></ruby>の軒を出ると、短い竹林をぬけてゆく間に、九兵衛がそれについて何かの意見をしたようです。

「ようがすか、その順序で、必ずあせらずにおやりなさい」

「<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけ</rt></ruby>ない。じゃ、お粂の方を先に」

「家は、先程申しあげた所です。途中まで御案内するといいんですが、仲間の方にも、なかなか目ばしッこいやつがおりますから、この辺で、あっしはちょっと姿を見えなくしております」

そこの竹むらの道から、ぴょいと小川を跳び越えて駆け出した秦野屋は、農家の<ruby><rb>鶏</rb><rt>とり</rt></ruby>を追いながら、向うの<ruby><rb>籾蔵</rb><rt>もみぐら</rt></ruby>のうしろへ姿を消しましたが、また、白壁のかげから首を出して、

（早く去れ）

という風に、金吾へ笠を振っていました。

## <ruby><rb>臙脂怨</rb><rt>えんじえん</rt></ruby>

伊兵衛と馬春堂とが、昼寝の狸をきめこむ事にした例の家の二階では、お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>をとりまいて、一座の男や女に土地の遊び人が二、三枚加わって、西陽の窓にすだれを垂れこめ、浅ましい眼色になりながら、手なぐさみのウンスンに夢中であります。

ウンスンというのは、<ruby><rb>南蛮</rb><rt>なんばん</rt></ruby>カルタ、天正カルタ、<ruby><rb>坊門</rb><rt>ぼうもん</rt></ruby>カルタなどの類と同じに、そのころ<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>った一種の<ruby><rb>骨牌</rb><rt>かるた</rt></ruby>の称呼であります。

どんな<ruby><rb>戯法</rb><rt>とりかた</rt></ruby>をしたものかわかりませんが、彩画職人部類のえがくところを見ますと、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に行われた花合せとはひどく違って、数字をあらわす〇と点と線だけで図をなしている異国的な<ruby><rb>象徴模様</rb><rt>しょうちょうもよう</rt></ruby>に、わずかな<ruby><rb>彩粉</rb><rt>さいふん</rt></ruby>がほどこしてあるのみです。同じなのは、やはり札の数が、四十八枚、そして、それによって銅財の争奪をたのしむこと、また、平常は程よくつつみかくしている獣的な個性までを<ruby><rb>遺憾</rb><rt>いかん</rt></ruby>なくさらけ出して惜しまないことも、<ruby><rb>博戯</rb><rt>ばくぎ</rt></ruby>に今昔の差はありません。

「どうしたんだろう、今日は」

<ruby><rb>旗色</rb><rt>はたいろ</rt></ruby>がよくないと見えて、お粂は札を手にするたびに、眉をひそめたり、じれたりしている。

じれたり、ぐちをこぼしたりするほど、<ruby><rb>骨牌</rb><rt>かるた</rt></ruby>は意地悪な<ruby><rb>道化</rb><rt>どうけ</rt></ruby>者みたいに、さしずめ人間の顔ならば、ベッカッコーや舌出し小僧をして見せるような<ruby><rb>札面</rb><rt>ふだづら</rt></ruby>を出して来て、いつのまにかそれによって遊ぶ人間が、あべこべに<ruby><rb>骨牌</rb><rt>かるた</rt></ruby>の<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>になっております。

そのうちに、風向きのいい地元の遊び人と、でっぷりした興行元の男が、

「おや、<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>過ぎだぜ、もう小屋の方じゃそろそろ木戸の支度だろう」

ていよく逃げ腰をうかすのを抑えて、お粂は、もう一度、もう一度と、楽屋入りの支度をのばしていよいよ負けを深めています。

そのうちにもとでが切れたとみえて、二階の降り口から下の者へ、

「あの――だれか居ないかえ」

はしごだんの下に見えた十三、四の女弟子、

「太夫さん、なんですか」

「わたしの衣裳つづらを開けてね」

「エエ」

「<ruby><rb>蝶貝</rb><rt>ちょうがい</rt></ruby>の<ruby><rb>模様</rb><rt>もよう</rt></ruby>のついた<ruby><rb>手筥</rb><rt>てばこ</rt></ruby>があるだろう。あれを持って来ておくれでないか」

「あの、小屋の方の上げ銭がはいっている？　……あれですか」

「黙って持ってくればいいんだよ、オチャッピイだね」

「……太夫さん」

「持って来ないのかえ」

「ありませんよ」

「ないはずがあるものかね、よく目をあいて探してごらんよ」

「でも、いくら見ても、ありませんもの」

「じれッたいねえ」

<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>をおこして、お粂は自分でトントンと下へ降りて行きましたが、奥の部屋の衣裳つづらを掻き廻してみて、初めて、弟子のまちがいでないことに驚きました。

ここ数日間の興行と旅の間でかせぎ上げた百両程の金を入れておいた手筥がいつのまにか失くなっている。

これには、遊びに夢中でいたお粂のあたまも、はッと水を浴びたようにさめました。――騒ぎはそれからで、風呂に出かけた女弟子たちを呼びもどすやら、二階にいる男に来てもらうやら、何しろ、その金は、座員の生活費であり、先へ旅立つ路銀でありするのですから、お粂の当惑のみならず、嵐一座の死活問題であります。

「そういえば、伊兵衛さんと先生はどうしたろう？」

「お。あの二人が影を見せない」

そのうちに、たれかがこういい出したことによって、たった今まで、その二人が上がり口で昼寝をしていたと分りましたから、

「もしや？」

とお粂が戸棚の隅々をあらためてみると、馬春堂の浴衣やら伊兵衛の衣類などがまるめてあって、笠や何かの<ruby><rb>旅支度</rb><rt>たびじたく</rt></ruby>が、ちゃんと二人前だけ<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>っています。

さては、<ruby><rb>飼犬</rb><rt>かいいぬ</rt></ruby>に手を噛まれたのか。――持ち逃げの下手人はボロ<ruby><rb>易者</rb><rt>えきしゃ</rt></ruby>と道中師。

そんなものを楽屋に飼っておいたから悪いのだと、お粂はあきらめをつけましたが、あきらめないのは飯を奪われた一座の者です。「それ、今逃げたばかりだッていうから、二人のやつを追いかけて取り返せ」

と、手分けにかかって、飛び出しました。

折も折です。そのドサクサの最中に、

「たのむ！」

と格子の外に立った白衣白杖の<ruby><rb>行人</rb><rt>ぎょうにん</rt></ruby>相良金吾。

「たのむ」

と外の声の二度目であります。

「オヤ、たれか<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>へ」

お粂が目まぜをして、今の騒ぎに落着かない女たちの口を黙らせたものですから、場合が場合なので急にシンとして、なかの一人が上がり<ruby><rb>端</rb><rt>はな</rt></ruby>へ出て見ますと、予期に反して、<ruby><rb>御岳</rb><rt>みたけ</rt></ruby>ごもりの<ruby><rb>行乞</rb><rt>ぎょうこつ</rt></ruby>か、<ruby><rb>石尊詣</rb><rt>せきそんまい</rt></ruby>りの旅人らしい<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>のものが格子の外に立っている。

「ちッ、人をばかにしているよ」

弟子の女は、舌打ちをもらして、用もきかずに奥へ帰って来た。

「太夫さん、お客様じゃないンですよ」

「物乞いかえ」

「ええ、<ruby><rb>御岳詣</rb><rt>みたけまい</rt></ruby>り」

なんのこった――と腹も立てないし、笑ってもいられない。

すると、前よりは鋭く、

「今の取次はどうしたのか。ここは嵐粂吉の宿ではないのか」

格子をあらく開けた音、そして、その語調のただ事でない様子に、弟子の女たちはまたハッと顔色を失いかける。

――でなくてさえ、ムシャクシャしていたお粂ですから、小うるさい物乞いと腹立ちまぎれに、

「いいよ、こんどは私が出て追い払ってやるから」

何気なく、上がり口の部屋へ立って来ました。

そして何の予感もなしに、そこへ立った金吾の姿を見ましたから、彼女の驚愕は一倍で、

「あらッ」

と言ったきり、暫くは、次のことばを忘れています。――やがて、

「相良さんじゃありませんか」

「お粂」

金吾にも、この際、一種複雑なる感情がなくてはいられません。

「ずいぶん珍しいじゃありませんか。一体、どういう風の吹き廻しなんだろう」

「折入って、そちに話があって訪ねて来たのだが」

「まあ、ともかく、上へあがって……」

「では」

と金吾は腰をおろして、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>の紐をときかけました。

その時、二階から降りて来たのは、先程まで、ウンスンの仲間に顔を見せていた興行元と<ruby><rb>地場</rb><rt>じば</rt></ruby>の遊び人<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>の男で、お粂を蔭に呼んで、心配そうな顔をしながら、

「何か取りこみ事が起ったようだけれど、小屋の方は十日のビラを<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>り廻した興行、休まれちゃ大変だ。今夜も、木戸を開けている頃だから、少しも早く顔を出してくれなければ困る」

と半ば、強迫的に談じつけて、せわしそうに、裏口から柳町の<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋へ急いで行く。

それを<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>にして、弟子の女達や、空しく帰って来た男どもも、持ち逃げ騒ぎはあとにして、ともかくも興行が大事、衣裳箱やら楽器やら、それぞれの支度をいそいで楽屋へ出払った様子であります。

金吾は、通されて、取りかたづけた二階に、ひざを真四角に坐っている。

<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>の上の<ruby><rb>風鈴</rb><rt>ふうりん</rt></ruby>が、今しがたまで、ウンスン遊びの連中に濁されていた部屋の空気を払って、涼しいそよ風に入れかえております。

若い女が、よろこび<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>むような足音が<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>に聞こえたかと思いますと、

「待ったでしょう、相良さん」

朱塗りのたばこ盆と、冷やし麦と。

それをすすめて、

「さ、楽に坐ってくださいな。旅先の仮屋にしろ、これでもお粂の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>ですから、あなたの家も同じじゃありませんか――そんなに四角張らないで」

そばへ坐ると、お粂はあでやかに笑いました。

夢にも忘れていない男の不意なおとずれに、小娘のような嬉しさがかくされない。

その証拠には、あんなせわしい間に、いつのまにか顔を<ruby><rb>化粧</rb><rt>つく</rt></ruby>って、大がらな浴衣に小柳の帯を千鳥に結んでいますが、それは門に出た時の乱れたものではありません。

そして、ジッと暝目したきりの金吾の横顔へ、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>のにおいのする団扇の風をやわやわと送っている……。

とうとうこの人は私が忘れられないで私のそばへ帰って来た。

女の笑くぼの裏には独り合点な誇りがみえます。

が、金吾は、

「今日ここへ参ったのはほかでもなく、改めてそちに頼みがあるのだが」

依然とひざもくずさずに、

「ぜひ、ききいれてもらわねばならぬ」

「やぼじゃありませんか」

お粂は<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を軽くうごかして、

「二人の仲に、改めてなんて水ッぽいものはないはずです。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もあなたの方じゃ気が変って一時私を捨てたでしょうがね」

「では、きっと承知だな」

と、不意に金吾は女の腕くびをつかんで置きました。

「まあとにかく、話のすじを聞かしてくださいな」

「ウム、ほかでもない、お前の命をもらいに来たのだ」

「なんですッて」

「命をもらいに来た！　それだけで、もう拙者の心は読めているはず。過ぎ去った愚痴をくり返してもしかたがあるまい」

「相良さん、じゃお前さんは、私へ恩を仇にして返すんだね」

「恩を」

「そうじゃありませんか、<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の黒髪堂で、あなたを助けたのはたれですか」

「言うな、それは」

「いいえ、それから先の看病まで、親身になってつくしたのはたれですえ。……わ、わたしはそのために、日本左衛門という世話になった男を捨ててまで、あなたに女の生涯をみつぎこんだつもりですのに」

<ruby><rb>臙脂</rb><rt>えんじ</rt></ruby>の唇はその毒をかくして、かえって男の心を綿々と怨んでやみません。

毒婦め！

今はあの時の金吾ではないぞ。

心で叱咤しながら、彼は、お粂のきき腕をひき寄せて、

「ここで、過ぎたいきさつを言い争ってもぜひがない。素直に命をくれるか、それともいやか？」

眼底に殺気をあらわして言います。

男の要求がなみなものでないのを知って、お粂もようやく白粉の顔を青ざめさせながら、

「この手を離してください。そんな無体なまねをしなくっても、話はわかるじゃありませんか」

「いやか、おうか、それを先に申せ」

「あなたに殺されるおぼえはない」

「では<ruby><rb>得心</rb><rt>とくしん</rt></ruby>せぬのだな！」

彼が二階へ持って上がった、<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>を仕込んである白木の杖――それが、金吾の左の手に招き寄せられたので、

「あッ――」と、女は窓ぎわへ飛びのいて、やや凄い血相を作りながら、

「相良さん、おまえは、ほんとに私を殺す気で来たのかい！」

その時です。

<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の格子戸に、たれか男の声がして、

「<ruby><rb>太夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>さん、太夫さん」

と、しきりと呼び立てているふうです。

お粂はつり上がった眼を金吾に向けながら、

「あ、木戸番の源七？」

そう答えますと、下の声が、

「ええ源七です、まだ太夫の姿が見えないというんで、みんな心配をするもんですから迎えに来ました。早く小屋へ来ておくんなさい」

「ああ今すぐ支度をして行くからね」

「もう客がつめているんですから、何分お早く」

使いの者は、外に待っている様子です。

それを機会に、お粂があわただしく<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ下りて行ったので、逃げる気だな、と金吾もすかさずに馳け下りますと、女は、鏡台の前へペタリと猫足に坐って、

「何も逃げやしませんよ」

こう<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に言い放つと、髪に<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>の歯を入れて、何か化粧下のようなものを<ruby><rb>小布</rb><rt>こぎれ</rt></ruby>にそそぎかけて、それを指先に巻きながら、眉、口紅を拭き直している。

「さ、相良さん、こうしている女を、斬るならお斬んなさいまし。わたしも丹頂のお粂、すじの分った話なら、あなたの為ですもの、素直に斬られもしましょうけれど、ただ命をよこせじゃ、得心はしませんからね」

「…………」

「とにかく、小屋には客がつめているんですから、今夜の<ruby><rb>撥</rb><rt>は</rt></ruby>ね出しまで<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>に待っていて下さいな。え、相良さん」

身をかえすと、お粂はいきなり男の胸へ寄って――

「もし、まったくあなたの為になる事なら、私は、死にもします、きっと素直に殺されもします。……だけれど、今も使いが来ているように、今夜の小屋をつぶしては、見物にすみません、私だけを待っている大勢の見物に」

哀切なことばで、男の体をゆすぶって言う。

そうまでいう女を、<ruby><rb>無碍</rb><rt>むげ</rt></ruby>に斬って<ruby><rb>立退</rb><rt>たちの</rt></ruby>くのは、少し無残な気がしないでもありませんが、

「いや、待ってはおられん」

突っ放しざま、金吾は、<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>の一刀を抜き打ちにと持ち直しました。

が、

その<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>の切って走る前に、今の化粧下をそそいだ布が、金吾の顔にふわりと投げられたかと思うと、彼の五体は、力なくよろよろとお粂のささえる腕へもたれて来ました。

奥で妙な物音がしたものですから、

「太夫さん、まだですか」

外に立っていた使いの源七、格子を細目にあけて、首をつッこみますと、

「あ、源さん、すまないが四ツ角の駕政に行って、一挺急いでくるように、たのんで来ておくれでないか」

と、境のふすまから半身のぞませて、少し息をせいたお粂が、あわてて、はいって来そうな源七の足を止めました。

その顔色が、<ruby><rb>青隈</rb><rt>あおぐま</rt></ruby>をとったように青ざめていたのには、使いの源七は気がつかないで、

「じゃ、駕で飛ばして来てくれますか」

「アア、あとからすぐに行くからね」

「お願い申します。じゃあ私は、駕政へ声をかけて、一足お先に」

「ご苦労だったね」

馳けだしてゆく源七を見送ってから、お粂はまた静かに奥へ戻って来て、そこに、うッ伏していた金吾のからだを、次の座敷へ抱き入れました。

そして――のぞき込んで、

「相良さん……お分りかえ？」

と言ったものです。

金吾のにぶい瞳には、そこに坐った妖艶なお粂のすがたが映っている。

だが、しぼんだ<ruby><rb>螢草</rb><rt>ほたるぐさ</rt></ruby>のように、どす黒くなった彼のくちびるは、わななくのみで、かすかにも、もののことばをつづる事ができません。

お粂が鏡台に向って、手ふきの布に、化粧下をそそぐと見せたのは、紫色のビードロに秘められてあったおそるべき魔薬でした。

魔薬と金吾――金吾とお粂、どうしてこうも、ねばりづよき悪縁でしょうか。

こうしておいて、後のしまつは、お粂に何らかの<ruby><rb>胸算</rb><rt>むなざん</rt></ruby>があるらしい。

枕を出して、そのつむりにあてがい、自分の<ruby><rb>小掻巻</rb><rt>こがいまき</rt></ruby>をふわりとかけてやります。

そして、

「お前さん、おとなしく待ってるんだよ。……女にこんなまねをさせるのも、みんな、男の罪っていうものじゃないか」

ふかい魔夢に落ちた金吾の頬へ、自分の顔をそっと持ってゆく……

やがては、ものの<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>にでもつかれたように、わくわく身をふるわしつつ、なおも金吾の喉笛を食いやぶるようにしがみついて。

気味のわるい妖婦の<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>――泣くともなく、笑うともなく、そして、かい抱くように寄りそったまま、いつまでもそこを離れようともしません。

ところへ、門口で、あつらえた駕屋の来た気配がする。

はッと、われに返ったように、お粂はそこを出て来ました。

乗るとすぐに、

「柳町ですね」

「あ、いつもの小屋へ」

駕屋は心得て、その方角へ息杖を上げます。

折から、町にも灯がはいって、洗い上げたような夕方の人通りを、駕屋の足も軽そうに。

＊　　　＊　　　＊

そのあとの事。

お粂が戸じまりをして出て行った留守の家を裏口から、のぞき込んでいた男がある。

鉄砲ざるを背中に掛けたひとりの屑屋。

うさんくさい目つきをして、勝手の外へ、ざるを下ろしたかと思うと、水口の戸へ手をかけて、コトンと、変な音をさせます。

こいつ、空巣ねらいかと見ていますと、四つン這いになって、奥の部屋をのぞきこんだのみで、一物も手にふれず、何かひとりで頷きますと、元の通りに戸を立てて、裏通りから<ruby><rb>鍋屋小路</rb><rt>なべやこうじ</rt></ruby>へ、いやにあわてた足どりで馳け出してゆく。

## 暗やみ飛脚

<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>とうもろこし</rt></ruby>の焦げるにおい、いり豆、味噌おでん、焼きするめの食慾。

見渡すかぎりをよく食べています。

それに、もうもうとこめる煙草の煙や、酒の香や、女の髪あぶらの蒸れるのや、雑音雑臭の交響。

相変らず、嵐一座の<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋は、ごらんのとおりぎっしりな見物人で、舞台はただいま百<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby><ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>の数を増して、競いざき<ruby><rb>潮来</rb><rt>いたこ</rt></ruby>の夜景色――そんな<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>で初まった娘手踊り。

前の渋い<ruby><rb>弄斎節</rb><rt>ろうさい</rt></ruby>の一曲よりはこの方の他愛ないのが一も二もなく、焼きするめや、<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>とうもろこし</rt></ruby>のお客様の御意にめして、やんやとうけているところが有難いものです。

番数すすんで、道化役の男が、

「太夫身化粧ができます間、一応は当座<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>のお目通り、はアい、<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>いまする<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>顔見世</rb><rt>かおみせ</rt></ruby>――」

というような口上で、形、彩色、さまざまな<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>を幾つも手玉にとって、

「そもそも<ruby><rb>本朝</rb><rt>ほんちょう</rt></ruby>こまつぶりの初まりは、<ruby><rb>行成大納言</rb><rt>ゆきなりだいなごん</rt></ruby>、小松の<ruby><rb>銘</rb><rt>めい</rt></ruby>のこまつぶりに<ruby><rb>紫濃</rb><rt>むらご</rt></ruby>の糸をお添えして、<ruby><rb>禁廷様</rb><rt>きんていさま</rt></ruby>のなんの宮とやら何のおひい様とやらのご覧と御感にあずかったのが発祥とかや。とにかく、深くはしらないが、それをまねたのが<ruby><rb>京童</rb><rt>きょうわらべ</rt></ruby>の<ruby><rb>貝独楽</rb><rt>かいごま</rt></ruby>、ひなの<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>独楽、長崎の<ruby><rb>漢土</rb><rt>かんど</rt></ruby>独楽、それから雨後の竹の子独楽、できるわできるわ、<ruby><rb>手品</rb><rt>てじな</rt></ruby>独楽、<ruby><rb>半鐘独楽</rb><rt>はんしょうごま</rt></ruby>、ゴンゴン独楽、うらない独楽から<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>独楽や<ruby><rb>不性</rb><rt>ぶしょう</rt></ruby>独楽にいたるまで独楽の<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>をかぞえ立てれば数とかぎりはございませんが、ここに当座の花形粂吉がつかいまする独楽といッぱ、東都名題の名人づくり<ruby><rb>金造</rb><rt>きんぞう</rt></ruby>独楽、そこらの歯みがき屋さんのつかう<ruby><rb>仕掛</rb><rt>しかけ</rt></ruby>独楽とは大きにことちがい、種やからくりのない正銘な芸と<ruby><rb>早技</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>、あざやかにまいりましても投げ銭はおことわり」

――よくしゃべる<ruby><rb>道化</rb><rt>どうけ</rt></ruby>の舌に感服して、ほかに目的があって見物にまじっていた千束の稲吉も、思わず、にが笑いを噛んでいました。

すると、うす暗い八<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の明りをたよって、やっと稲吉の姿をさがし出した一人の男が、見物の間を這って来て、

「兄貴、ちょっと」

帯の端を引いたふうです。

見物の目は、みんな舞台に吸いつけられているので、そこから稲吉が抜け出したことなどはさらに問題ではありません。

木戸を出て町を歩き出してゆく。

<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の明りで見ると小屋の中から稲吉を呼び出して来たのは、その夕方、お粂が留守の家をうかがって、何処ともなく立ち去った屑屋です。

「てめえは、何があっても、お粂の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の方を見張っていろというのに、なんだってこッちへ来たのだ」

「でも兄貴、たいへんな事が起ったんで、知らせに来ずにゃいられません」

「なんだ？　<ruby><rb>大仰</rb><rt>おうぎょう</rt></ruby>に」

「金吾がやられました」

「えっ、<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>が<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ったか」

「そうじゃありません、お粂のやつに、うまうまと魔薬をかがされて、一時仆れてしまったんです」

「どこで？」

「きょう、金吾がたずねて行った、お粂の家でです」

「うーむ、して、金吾を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けていた秦野屋は」

「どうも知らねえふうなんです、それで実あ、大急ぎで飛んで来たんですが、あいつの魔薬のさめないうちに、こちとらの手で片づけてしまっちゃどうでしょう」

「けれど、あれを<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>るなあ秦野屋の役廻りで、おれは、今夜もお粂の帰りを待って隙があったら、その女を先に<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ってしまわなければならねえ」

「ですが、金吾の方は、折角、魔薬が充分に廻って、今のうちなら骨も折れず、どうでもなるところですぜ」

「それもそうだな」

「宵のうちの一仕事、案内は、あっしがいたします」

「じゃ、そこらに居るのを、寄せて来い」

「ようがす」

<ruby><rb>鉄砲笊</rb><rt>てっぽうざる</rt></ruby>を持たない屑屋が、人ごみをくぐって、何処かへ姿を消したかと思いますと、それから間もない後、千束の稲吉を中心にして、七、八名の<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の男が、<ruby><rb>石和屋</rb><rt>いさわや</rt></ruby>の二階の灯がすいて見える、<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>神社の夏木立を背景として、目ばかり光る人影を集めていました。

この一組は、稲吉の手下について、毎夜お粂の楽屋帰りをねらっていたものですが、特に今は、魔睡している金吾のいのちを<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>ることは、袋の物をつかみ出すより<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>いことと、にわかに、それに向って動かんとするものです。

ゆさぶり落ちる<ruby><rb>松柏</rb><rt>しょうはく</rt></ruby>の夜露と共に、人のささやきも<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の影も、いつのまにか諏訪の森から消えていました。

…………

こういう事態の起こっている間に、柳町の<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋では、今が木戸番の声や<ruby><rb>鳴物</rb><rt>なりもの</rt></ruby>の客呼びがたけなわのところであります。

縫いぐるみの衣裳に汗と白粉を流して、舞台で働いている粂吉や一座のものたちも、まさかそうしている間に、留守の家をうかがう妙な黒衣の群があろうとは夢にも考えておりますまい。

「ああ、ほっとした」

今、こう言いながら、その釜熱の木戸口から、逃げるように出て来たひとりの男。

ひょいと見ると秦野屋九兵衛であります。

なかの人いきれがよほどたまらなかったとみえて、出ると、未練に<ruby><rb>絵看板</rb><rt>えかんばん</rt></ruby>をながめてもいず、スタスタと歩いてゆく。

歩きながら笠をつけ、少し横目に裾を折ると、これは立派な<ruby><rb>旅人</rb><rt>たびにん</rt></ruby>です、同じ歩くにもその形で、旅なれた者か否かはすぐわかる、飛脚や修業の侍などの間には、歩術という足と呼吸と身だしなみの定則さえあったといいます。年はとっても老賊の九兵衛にその面影があるのは当りまえでしょう。

そうして彼の足どりが、加速度になってゆく間に、時々ちょっと足を止める。

「おう」

「秦野屋さんで」

逢うのはみんな日本左衛門の手下、この甲府に入りこんで、<ruby><rb>飛耳張目</rb><rt>ひじちょうもく</rt></ruby>となって町をうろついている者達です。目ざまし草の<ruby><rb>胴乱</rb><rt>どうらん</rt></ruby>をかけた<ruby><rb>煙草屋</rb><rt>たばこや</rt></ruby>ていの男、しらみ絞りで顔をくるんだ男、或いは物売り或いは旅人、そうした者に、四、五町ごとに出逢います。

ちょうど、うす暗い河岸ぶちへ出た時、

「秦野屋じゃねえか」

<ruby><rb>辻行燈</rb><rt>つじあんどん</rt></ruby>のかげに身をひそめていたのが、のッそりと立って来る。

「雲霧か」

「お急ぎだな」

「うム、ちょっと」

「首尾はどうだい、そっちの？」

「<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>さ。ところで、おめえはそんな所で、何をしている？」

「万太郎と釘勘のやつが、さっき、この横の屋敷へはいったので、待ちぶせているんだ」

「首尾よくたのむぜ」

「親分はどうしたろうな、さっぱり出会う折がねえ」

「実あ、おれも、その親分をさがしているんだ。どうも、諸所の辻を見てあるくと、悪い触れが廻っているから……」

「何しろ、早い仕事をしなくッちゃ、この甲府にも長ッ<ruby><rb>尻</rb><rt>ちり</rt></ruby>はしていられない」

「おッ……誰か来た」

「えっ？　……」と、雲霧は黒塀の横へ飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>く。

「じゃあ……」

「うム、また逢おうぜ」

<ruby><rb>目交</rb><rt>めま</rt></ruby>ぜで別れて、秦野屋は風のごとく馳け去りました。そして、馳けるとなるとその足の早いこと何をあてに急いだのかわかりませんが、暗のなかに雲霧が見送っていると、人が宙を飛んでゆくというよりも、一箇の笠が飛んでゆくとしか見えない。

――さてまた、<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の森を去った<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>のものたちは、その頃、わざと人目にかからないように、<ruby><rb>石和</rb><rt>いさわ</rt></ruby>街道の歩きよい所を避けて、畑道を迂回しながら、<ruby><rb>鍋屋小路</rb><rt>なべやこうじ</rt></ruby>の角にその影を見せました。

そして、お粂の留守をうかがって、あの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の裏手からそッと足音をしのばせて集まる。

案内はこの家の裏に夕刻姿をみせた例の屑屋が<ruby><rb>万端</rb><rt>ばんたん</rt></ruby><ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みこんでいる様子。

でも、念のためにと、水口の戸に耳をつけて、ジッと気配をみましたが、まず、あれから格別なんの変化もないあんばいです。

「兄貴」

「う？　……」

顔を寄せたのは千束の稲吉でしょう、何かささやき合っていると、うなずいて、そのささやきを黒衣の仲間に伝えています。

スーと、音もなく一方の雨戸が開かりますと、吸われるように、稲吉をはじめ<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の影が一つ一つ家のなかにかくれました。

留守とはいえ、まるで留守ともいえません。

そこには相良金吾が眠っている。

だが、金吾が居るとて、べつに臆する必要もありません、かれは、魔薬の<ruby><rb>悪睡</rb><rt>あくすい</rt></ruby>に落ちて、おそらくはこの物音に<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>める知覚もありますまい。

忍び込んだいくつもの黒衣の影は、陰森とした屋内の暗やみを探って、金吾が眠り落ちている<ruby><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby>のまわりへスルスルと這い寄りました。――あたかも、どこかに印をむすんでいる伊賀者があって<ruby><rb>鼠行変</rb><rt>そぎょうへん</rt></ruby>の怪を見せているように。

と。

千束の稲吉が先になって、その一室のふすまを開け、じッと、畳をすかして見る。

何やら黒いものが横たわっています。で、稲吉がうしろの者へ目くばせをすると、スルスルと<ruby><rb>壁際</rb><rt>かべぎわ</rt></ruby>を這った四、五人が、その足と両わきの方へ廻って、ギラリと一斉に<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を抜いて逆手に持ちます。

が――麻酔におちているとは知っていても、何しろ相手が金吾と思うので、なお大事をとりながらじっとそこをうかがいましたが、どうも少し様子が変です。

で、稲吉が、そこに寝ている<ruby><rb>小掻</rb><rt>こがい</rt></ruby>巻に手をのばして、試みにパッとはねのけてみると、下には枕と座布団が二枚。

「あれっ？　……」

開いた口がふさがらないとは、この時の黒衣の者たちの顔つきです。

稲吉も拍子抜けがして、驚きと共に立ち上がりながら、

「居ねえじゃねえか！　金吾のやつは」

「そんなはずはないんですが？　……」

と首をひねったのは案内の屑買いの男で、

「――妙だな」

と、と息をついて首をひねる。

「眠り薬がさめたんじゃねえか」

「とすると、一大事だぜ」

「おい」

と、稲吉は少しあわてた声で、

「てめえ何か勘違いをしているんじゃねえか。ほかの部屋だろう」

「なに、たしかにこの部屋です」

「とにかく、念のために、二階や、その<ruby><rb>他</rb><rt>た</rt></ruby>の所も<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく探してみようじゃねえか。おい、だれか、そこに<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>があるな」

「つけますか」

「ウム、行燈に灯を入れてくれ」

「ようがす」

と、一人の黒衣が<ruby><rb>火打石</rb><rt>ひうち</rt></ruby>と<ruby><rb>附木</rb><rt>つけぎ</rt></ruby>をとって、カチッ、カチッ、と三つ四つ火花をすりつけました。

そしてぼッと火になった附木を行燈へ移そうとすると、何者でしょうか、突然うしろの押入から首をのばした人影が、

「ふッ！」

と強い息を吹いて、ともりかけた行燈のまたたきを消してしまいましたから、

「おやッ？」

という仰天と同時に、あたりを飛び開いた黒衣の連中が、

「金吾だ！　油断するな――ッ」

と口を合せて叫びました。

途端に、

そこにあった行燈も畳を離れて、暗の天井へ踊りを踊ったかと思いますと、千束の稲吉の肩をかすッて、勝手の流し元へ落ちた上、そのかぼそい骨や火皿を<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に散らしました。

行燈が飛んだあとには、また突然、そこにいた黒衣のひとりが、わっと、絶鳴をあげてぶッ倒れます。

「<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られた！」

と、たれか言う。

そして――押入の戸の外に、ぬッとのびた一すじの刀光をみとめたかと思うと、ぷーん……と<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いもなく色も分らぬしめッぽいものが、屋内のやみにみなぎッて、残る者たちの心胆を寒からしめました。

まさしく金吾だ――金吾が魔薬のしびれからさめて、そこへ身を挺して来たのだと思いましたから、稲吉はじめ<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>をもった黒衣の面々、<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>と油断がありません。

そのうちに稲吉が、

「えい、相手はひとりだ、びくびくすることがあるもんか」

たじろぐ仲間を叱りつけて、いきなり相手の刀光を目あてに斬りかけますと、気配を察したか彼の方から機を制して、

「おうッ」

とばかり<ruby><rb>跳躍</rb><rt>ちょうやく</rt></ruby>しました。

<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>を鳴らしたそのだんびらが、弱腰でいる黒衣の者たちの真っ向へのぞんで来た気がしましたから、わッとうしろへ身を避ける。

そこの四尺ぶすまが二枚、隣りの部屋へ風をあおッて倒れたはずみに、二、三人はそこへ折り重なって、ひとりは二度目のうめきをあげ、

「ちッ、野郎」

と、狂いまわる。

――あとは一時にすさまじい<ruby><rb>屋鳴</rb><rt>やな</rt></ruby>りと<ruby><rb>喚</rb><rt>おめ</rt></ruby>き。ふすま障子の<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>はもとよりのこと、旅芸人の仮の家だけに、家財器具のなかっただけが幸せです。

しかも、瞬間のうちに、相手の打ちふる刀にあたって斬られた者は、一人や二人にとどまりません。何しろせまい屋内のこと、あとでお粂が帰って<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>をともしてみたら、そのいちめんな血汐や柱の刀きずの凄惨なるありさまに気を失うかもわからないでしょう。

起てざる者は倒れ、<ruby><rb>薄傷</rb><rt>うすで</rt></ruby>の者は戸を蹴って外へ逃げ出しますと、存分に彼等を痛めつけた一方の影は、二階の梯子をふんでヒラリと<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほ</rt></ruby>しへ飛び出しました。

稲吉は無念でたまりません。で、彼が二階へ馳け上がると、それを追って、

「待てッ、金吾」

同じように<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほ</rt></ruby>しへ飛び上がろうとした時、ふと、星明りに描かれた相手の姿をきっと見ますと、彼はお粂のものらしい黒ッぽい<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を頭から<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていて、いきなり右手の大刀を稲吉の方へ向け、

（寄るか？）

という構えです。

「しゃれたまねをしやがるな」

前髪立ちでも、日本左衛門の手下のうちでは、何本目かの指に折られている男です。

ひゅッと、<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り落として来た刀光をかわして、物干しの上へ一足跳びに。

――そして、そこの手すりに足をかけて、飛鳥のごとく、屋根へ飛び移ろうとする相手の肩をつかみましたが、途端に、

「あッ」

と言いざま、<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>ったように飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いたのは、彼の手から横<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぎに払われた光流に、はッと自分の腰を守ったのですが、その足元に<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>な不自然があったからたまりません、稲吉の体は物干しの上にもんどり打って、見事、仰向けざまとなっている。

<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を破ッたような声で、

「ちぇッ、畜生」

咄嗟、反撥的な力で、落とした短刀をつかんで跳ね起きましたが、その時、相手のかぶっていた女の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>がふわりと彼の顔へ投げられて来ました。

肉感なお粂のにおいが稲吉の首を巻いたでしょうが、彼の手はいまいましげにそれを払ッて、ふたたびあたりを<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>め廻している。

しかし。

その時はもう相手の影はどこかに逸し去ッて、すじ向うの<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>の屋根に、背骨を<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>がらしている子猫の黒い影が、血のにおいを知っておびえた啼き声をあげているのみです。

甲府荒川のほとり、城下の南郊です。遊行念仏の名道場一<ruby><rb>蓮寺</rb><rt>れんじ</rt></ruby>の藪から遠くない寺町の一隅に、人呼んで「<ruby><rb>鼻寺</rb><rt>はなでら</rt></ruby>」となす古寺があります。

――<ruby><rb>葷酒</rb><rt>くんしゅ</rt></ruby>山門に入るを許さず。

例のかたのごとき<ruby><rb>戒札</rb><rt>かいさつ</rt></ruby>に対して、それの<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っている山門の柱の一方には、薬種屋とまちがえそうな<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>おきの看板。

読んでみますと、

「<ruby><rb>弘法大師</rb><rt>こうぼうだいし</rt></ruby><ruby><rb>御夢想</rb><rt>ごむそう</rt></ruby>ぐすり<ruby><rb>鼻神湯</rb><rt>びしんとう</rt></ruby>。一<ruby><rb>封</rb><rt>ぷう</rt></ruby>二<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>、貧者<ruby><rb>施薬</rb><rt>せやく</rt></ruby>、<ruby><rb>当山</rb><rt>とうざん</rt></ruby><ruby><rb>別当</rb><rt>べっとう</rt></ruby>」

看板の彫りものには、紫の雲をたなびかせ、勿体なくも大師の顔まであらわしてある。

なるほど、これを正しい<ruby><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby>の道場と見るから解釈がとれないが、つまりこの寺の<ruby><rb>和尚</rb><rt>おしょう</rt></ruby>さんなるものが、やまと本草か何かの書物をひっくり返して、寺で<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた鼻の薬を内職に売っているのでしょう。

その鼻寺の和尚と、どういう旧縁があるのか、ほの暗い<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を近くよせて、奥の<ruby><rb>方丈</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>で酒を酌み合っていたのは、今、城下に<ruby><rb>人相書</rb><rt>にんそうがき</rt></ruby>の行き渡っている日本左衛門でした。

和尚の<ruby><rb>借着</rb><rt>かりぎ</rt></ruby>か、久しぶりの行水を浴びたあと、<ruby><rb>白上布</rb><rt>しろじょうふ</rt></ruby>をさっぱりと着て、

「どうだ<ruby><rb>法達</rb><rt>ほうたつ</rt></ruby>、もう一杯」

内陣にあれば住職であり、方丈にあれば鼻神湯の発売元である和尚の名は法達というのでしょう。

「ウム、おりゃあだいぶ<ruby><rb>酩酊</rb><rt>めいてい</rt></ruby>したが……」

と太り<ruby><rb>肉</rb><rt>じし</rt></ruby>のあぶら顔をなでる。

「まあよかろう」

「久し振りの珍客だからな」

「てめえが島から帰った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、甲府あたりの寺に巣を食ッているというこたあ耳にしていたが、こんな古寺でも、一ヵ寺の住持に坐りこんでいるのは<ruby><rb>強気</rb><rt>ごうぎ</rt></ruby>なものだ」

「だからよ、人間どこへころんでも、相当に根を<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>やす所はあるものだよ」

「そうなると、そろそろ栄華や悪事がしたくなりゃあしねえか。よく、こんな所にこうして居られる……」

うしろへ手をついて、日本左衛門は、すすけた天井や怪奇な<ruby><rb>欄間彫</rb><rt>らんまぼ</rt></ruby>りを見廻していました。法達はその<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、寺の裏山にいくらもある<ruby><rb>榧</rb><rt>かや</rt></ruby>の折れた枝をピシピシと折って、そばの<ruby><rb>蚊遣</rb><rt>かやり</rt></ruby>へくべながら、

「ええ、<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>たい」

と、渋うちわであおぎ立てている。

そして、思い出したように、

「もう<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>って来そうなものだな」

「使いにやった、寺男か」

「ウム、八助のやつ、何をしていやがるのだろう」

「大丈夫か、あの男は」

「その方は心配はないよ。おれが手もとに置いて使っているやつだ」

「でも<ruby><rb>兇状</rb><rt>きょうじょう</rt></ruby>のかるいやつは、それを帳消しにするつもりで、仲間を裏切ることがあるものだからな」

「ちょっと、おれが、見て来よう」

「まあいい。間違った時にはそれまでのことだ」

「なに、そこらの居酒屋で、道草を食っているのかも知れないから、ちょっとおれが迎えに行って見る」

<ruby><rb>不恰好</rb><rt>ぶかっこう</rt></ruby>の下駄をはいて、<ruby><rb>法達</rb><rt>ほうたつ</rt></ruby>の姿がそこの縁先から消えると、日本左衛門はただひとりで、<ruby><rb>寂</rb><rt>せき</rt></ruby>とした方丈のなかに坐ったまま、何か考えこむように、左の<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>へかろいこぶしをくり返している。

「まずい……」

胸にうかび出る考えを、自分で否定するようにつぶやいて、

「やはり、お蝶のやつを殺してしまってはまずい……。と言って？　……」

その時、

法達の<ruby><rb>木履</rb><rt>ぼくり</rt></ruby>の音が、折返して少し小きざみに飛石を歩いて来ましたので、庭の植込みをさしのぞくと、

「お、兄貴」

と、笠をぬぎながら縁先へ腰かけた男があります。

見ると、それは法達がさがしに出た寺男ではなく老賊<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>九兵衛です。

「秦野屋じゃねえか、どうしておれの<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>が分ったのだ」

と、日本左衛門は意外らしく言って、

「が、とにかく、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を解いてあがってはどうだな」

「ところが、今夜は腰をすえちゃいられないので、この九兵衛のからだもせわしいが、兄貴、おめえも<ruby><rb>此寺</rb><rt>ここ</rt></ruby>に悠々と飲んでいるなんて、すこし物騒過ぎやしねえか」

九兵衛が声をひそめるのを、

「なぜ？」

と日本左衛門は微笑をふくむ。

「なぜって言って、知らねえのか、<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>が<ruby><rb>召捕</rb><rt>あげ</rt></ruby>られたのを」

「十太がどじを踏んだことはおれも噂に聞いているが」

「まだそればかりか、今夜は千束の稲がおれの鼻をあかす気かなんかで、金吾へ手出しをしに行ったところが、しびれ薬で参っていると考えたのが大間違い、かえって、先の<ruby><rb>策</rb><rt>て</rt></ruby>に乗って、さんざんな目に会ったろうじゃねえか」

「ふーむ、それは今夜のことか」

落着いては聞いていますが、金吾のために数人の手下があやめられたという事実を耳にしては、彼の心もおだやかではありますまい。

九兵衛はことばを次いで、

「そうさ、つい今しがたの出来事だ、おれはお粂の<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>の小屋にいて、それとなく<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の楽屋を探っていたところが、ちらとそんな噂を小耳にはさんだので、大急ぎで馳けつけてみたが、もう祭は済んで、金吾も稲吉も見当らねえ始末。……その上、町へ出てみると、あっちにもこっちにも柳沢家の同心や岡ッ引が目を光らしていやがって、兄貴の居所を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけたが最後、ふくろづつみの手配りがみえている」

「それで、おれにこの甲府を立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けと言いに来てくれたか」

「永くいる所じゃねえでしょう……と九兵衛は思うんだが」

「いや、こうなればおれも意地だ、この甲府を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>くにしても、柳沢や万太郎や釘勘の奴らに、一あわ吹かせずには足を抜かない」

「つまらねえ意地を張らないで、せめて兄貴だけでも、ここは身をかわした方が得策だと思うがなあ」

「おれに十手と朱文字の提灯はつきものだ、何も足元から鳥が立つように、にわかにあわてるには及ばねえ」

それまで、そばで黙っていた法達も口を出して、

「親分の気性としては、今のことばも無理のないところだろう。それに、ただの<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>にいるなら物騒かも知れないが、この鼻寺の奥にシンと鳴りをしずめていれば、たれが気がつくものじゃない」

一緒になって九兵衛の忠告を笑い消すので、彼も一度は口を<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>くしていさめたものの、遂には、

「じゃしかたがない」

と、さびしいあきらめ顔に話題を転じて、

「この上は、親分はどうしたかと心配している、雲霧や四ツ目屋などにも耳打ちをして、それとなく外からこの鼻寺を見張っていよう。……それと、稲吉の生死もわからず、今夜は妙に気がせくから、これでお別れといたしますぜ。なに、また隙を狙っちゃあ、ちょいちょいと会いに来ます。法達さん、ごめんなさいまし」

こういうと、九兵衛はひらりと<ruby><rb>方丈</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>の庭を出て、本堂の横から山門へななめにすたすたと踏み出しました。

そして、<ruby><rb>葷酒</rb><rt>くんしゅ</rt></ruby>山門に入るを許さず――の石段まで来ますと、ぷーんと酒くさい人間が摺れちがって行ったので、

「こう、八じゃねえか」

と呼びとめました。

「だ、だれでエ。お、おれを呼ぶなあ……」

「だらしのねえ返辞をするない、おれだよ、厚木の九兵衛だよ」

「えっ秦野屋の親分で？」

と、寺男の八助は両手を膝に突っ張って、<ruby><rb>蛙腰</rb><rt>かえるごし</rt></ruby>に相手の姿を見上げながら、

「なアるほど……親分にちがいねえや。どういう風の吹廻しか、この頃はこの甲府へ、いやに物騒な親分ばかり集まりましたね」

「はははは。てめえだって、あまり物騒でない方の人間じゃあるまい」

「なに、もう<ruby><rb>泥棒稼業</rb><rt>どろぼうかぎょう</rt></ruby>は、とうの昔に足を洗っておりますよ。あ、あれ……、あれをごらんなすってください、弘法大師<ruby><rb>御夢想</rb><rt>ごむそう</rt></ruby>ぐすりの<ruby><rb>鼻神湯</rb><rt>びしんとう</rt></ruby>ッていう鼻のくすり。あいつア、あっしと法達兄貴とて、夜なべに<ruby><rb>薬研</rb><rt>やげん</rt></ruby>にかけているしろものです。で……ござんすもの、どうしてお前さん、夜稼ぎなんか働いているひまがあるものじゃございません」

九兵衛はせせら笑って、

「それこそ弘法様が<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>で茶をわかすだろう。なんでてめえや法達が悪事の足を洗っているものか。……だがお互い様のこった、そんな<ruby><rb>詮議立</rb><rt>せんぎだ</rt></ruby>てはやめとして、時に、てめえ今夜はどこへ行ったんだ」

「あっしですか」

「そうよ」

九兵衛の眼ざしに、寺男の八助はまごついて、<ruby><rb>生酔</rb><rt>なまよい</rt></ruby>の首を振りうごかしながら、

「このとおり、ちょっと馴染みの家へ、飲みに行った帰りなんで」

「ばかをいえ。法達の話じゃ、使いに行ったということじゃねえか」と、少し声をとがらせましたが、急に顔をやわらげて、幾らかの金を八助に握らせながら、

「こりゃ今度、おれが甲府へ来た<ruby><rb>手土産</rb><rt>てみやげ</rt></ruby>のかわりだよ、すくねえが納めておいてくれ」

「ご冗談でしょう、厚木の親分、こんなものを頂戴しちゃあ……」

「まあいいから取っておきねえ。ところで、というとおめえを見くびって、金で口を開かせるようだが、今夜の使い先は何処なのか、おれにだけ、ちょっと耳打ちをしてくれねえか」

「実は、その、江戸の親分のお使いでしてね」

「だからよ、そいつはおれにも分っているのさ」

「濁り橋のそばに<ruby><rb>蔦屋</rb><rt>つたや</rt></ruby>という<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>がございましょう」

「ウム、ある」

「そこへ江戸の親分の<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>をしに行っただけの事なんで、へい」

「先はたしか、お蝶という女だったな」

「おそろしい地獄耳でございますね」

「そして、その<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>というのは」

「そ、そいつだけは、勘弁してください」

逃げ腰になる八助のえりがみを取っておさえて、九兵衛は<ruby><rb>道中差</rb><rt>どうちゅうざし</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>がしらを彼の鼻づらへこすりつけながら、

「言わねえな……この野郎」

「言います……言いますから手をすこしゆるめておくんなさい。あっ……血が」

八助かふるえ上がったのも無理ではありません。顔をこすられた刀の柄に、ねっとりとねばるものを感じたので、何気なく手をやってみると血のかたまりです。

「うるせえ、早く言え」

と九兵衛の力は仮借がない。

「実はなんです、江戸の親分のいいつけで、その蔦屋にかくれているお蝶さんていう娘に、呼び出しをかけたんでございます」

「なんと言って？」

「あの娘のさがしている乳母のお咲っていう者の名を<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>りまして」

「ウム」

「この間うち、お嬢様のお姿を町で見かけて驚きました。そのせつ、おことばをかけようと思いましたが、師の僧のお供をしていたので、ついそのまま行きちがいました」

「ふム、じゃそのお咲っていう昔の乳母が、今じゃ<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>にでもなっていると言って行ったのか」

「そういう狂言なんです。そこで、あしたの晩は、師僧も弟子僧も留守になるから、<ruby><rb>西蓮寺</rb><rt>せいれんじ</rt></ruby>という尼寺まで来てくださいませんでしょうか――と手紙と<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>の両方で、うまくお蝶を誘い出すようにしてくれというんで、そのとおりに、やって来たところです」

「西蓮寺というのはどこだ」

「この寺のことなんで。鼻寺ッていうなあ俗名でございます」

「よし、分った。で、先のお蝶はそれを真にうけて来る様子だったか」

「なんでも、昼は行きにくいが、夜なら行くと言っていました。それに、あのお咲っていう乳母によッぽど逢いたい様子なんでさ」

「――よく話してくれた。だが、言うなよ、この事を」

「へ？　へい」

「江戸の親分や法達に、おれがお蝶のことなんぞを聞き<ruby><rb>掘</rb><rt>ほ</rt></ruby>じッたというと承知しねえぞ」

「そんなことを、だれがしゃべるものですか、しゃべればかえってこの八助が頭からしかり飛ばされるに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っています。決して、厚木の親分に行き会ったということだって話しゃあしません」

「どうかそうしてくれ、それもこれも、みんな後になれば、仲間のためになるこったから」

「何が何だか、あっしには分りません」

「そうだろう、てめえは<ruby><rb>薬研</rb><rt>やげん</rt></ruby>にでも取ッつかまって、鼻のくすりを刻んでいるのがちょうどいい役だ。悪いことは言わねえから、法達なんぞのお先棒になって、あんまり深入りをしねえがいいぜ」

折角いい<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>で帰って来た八助の<ruby><rb>酔</rb><rt>えい</rt></ruby>をすっかりさまして、秦野屋の足はまた何処へ向ってゆくか、宙を飛んで寺町の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ消え去りました。

その晩の九兵衛の行動というものこそ、神出鬼没というやつでしょう、いま鼻寺を出たかと思うと、もうその姿が城下の<ruby><rb>高札場</rb><rt>こうさつば</rt></ruby>の辻に立っている。

たれが彼の怪しげな働き方に注目していても、おそらくこの短時間に九兵衛の姿を出没させた場所と時刻をかぞえることは不可能でしょう。

事ほど左様に秦野屋の<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>が、人の想像外な線を描いて、一夜に甲府を駆けずり廻ったにちがいありません。――そしてその目的には何か彼として、老後の思い出とするにたるような一働きを果そうとしているのではないかと思われます。

それはとにかく。

今、<ruby><rb>札場</rb><rt>ふだば</rt></ruby>の辻に立った九兵衛の胸板は、さすがにグッショリと汗を流している。

胸毛を押しぬぐった手拭を、風車のようにクルクル廻してあおぎながら、

「おい、ねえさん、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>ッこいのを一ぺいたのむぜ」

かたわらの<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>をのぞいて、そこに出ている縁台の端に腰かけました。

頭の上に――むぎ湯、ところてん、としてある<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>が風を吸って明滅している。

「お待ちどおさま」

「ほい、<ruby><rb>早</rb><rt>はえ</rt></ruby>えな」

持って来たところてんに箸を執って、かぶりつくようにチューと吸い出した時であります。さびしい<ruby><rb>導引</rb><rt>どういん</rt></ruby>の笛が、高札場から左のうす暗い片側町を流して通ります。

その笛のふきかたに約束の音があるものとみえ、九兵衛はふと聞きとめると、あわてて小銭を置いてそこを立ち、

「もし、導引さん、――おい、導引」

呼び止めると、<ruby><rb>座頭</rb><rt>ざとう</rt></ruby>は足をとめて、

「へ。およびですか」

と杖の先をうろつかせている。

それを、九兵衛はそばへ寄って、事もなげに笑いながら、

「眼をあきねえ、おれだよ」

「え」

思わず、眼を白くさせた導引は、ふところへ手をやりながら、そこの人影をすかして、

「おう、秦野屋か。おらあまた犬かと思った」

ほっと、気をゆるめたふうです。

それは、<ruby><rb>座頭頭巾</rb><rt>ざとうずきん</rt></ruby>にあたまをくるんだ四ツ目屋の新助で、城下にしきりとうごいている町方役人の目をくらます急場のしのぎと笑って話しました。

「そうよ、油断は禁物だ。それについて、何よりも心配なのは、親分の身だが」

「秦野屋、てめえは親分に逢って来たのか」

「今も今とて、この甲州から足を抜くようにといさめて来たところだが、そういうとあの気性で、頑として聞き入れてはくれねえし……」

「そして、そのかくれている場所は」

「きのうから鼻寺の<ruby><rb>方丈</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>に居るのだが、何しろ、あの和尚の法達というやつは、悪党仲間でも腹の知れねえ人間だから、いつ寝返りを打って、役人の方へ親分を売り込まねえとも限らない」

「じゃ、おれも早速行って、よく親分の胸を聞いてみよう」

「今夜は法達と飲んでいて、すこし機嫌のわるい様子だから、あしたの晩にしたらどうだ。おれも、もういちど親分に会って意見を言ってみるつもりだ」

「じゃ、そうするとして――ほかの者は」

「ついでに、雲霧や千束も誘いあわせれば何よりもいい都合だがな」

「じゃ、二人の方へも、おれから合図をしておくから、御苦労だが、兄貴もあしたの晩は出ばってくれるだろうな」

「そう顔がそろうなら、何を措いても行くことにしよう。だが四ツ目屋、おめえお粂のうちで今夜稲吉が飛んだ目にあったのを知っているか」

「さっき、それで逃げて来た手下のやつに聞いてびっくりしたんだ」

「相手が、おれのうけもちの金吾と聞いてギョッとしたが、何しろ、怪我が軽くっていい事をした。金右衛門がやられ<ruby><rb>尺取</rb><rt>しゃくとり</rt></ruby>が<ruby><rb>召捕</rb><rt>あげ</rt></ruby>られた上に、稲吉までがどうかしたひにはかたなしだからな」

「だが、相手の金吾に投げつけられたはずみに、ひどく腰骨を打ったとかで、今夜は例の家にもぐって寝込んだそうだから、ことによると、あいつだけは<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の晩は来られないかもしれない」

「そりゃあ何しても案じられる。じゃ、おれはこれから、奴の見舞に寄ってそのことも話しておくから、雲霧の方へだけ、今のことを知らしておいてくれ」

「承知した、それじゃ、あしたの晩」

「ウム、宵はまずいから、<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>ごろ」

「鼻寺だっけな」

「忘れちゃいけねえよ」

「はいはい」

笛を流して四ツ目屋は横町へ曲りました。

その立ち話の時間も入れて、四<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ともたたないうちに。

もう寝支度をしている飛脚組の土間へはいると、九兵衛は帳場の筆と巻紙を惜りて、即座に三ツの手紙をしたためました。

<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>箱をひきよせて、びたびたと三通の手紙を封じ、さてこれでいいという風に、

「番頭さんは居ませんか」

と帳場へよぶと、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>をつるのを待っている様子な<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>の黒い飛脚男が、

「店の者はみんな寝たよ」

「じゃ、すみませんが、こいつをひとつ」

「飛脚賃はそこに貼り出してあるから、それだけの銭を置いて、帳場の上へ乗せといておくんなさい」

「ところがひどく急用なんて、ぜひとも、今夜のうちにお願いいたしたいのですが」

「だっておめえ、飛脚組は<ruby><rb>六刻仕舞</rb><rt>むつじま</rt></ruby>いときまっているのに、そんな無理を言ったってだめだ」

「なに、遠方じゃございません、御城下のうちでございますから」

「それにしても、店が仕舞ったところだからな」

「そこを一つお頼み申します。飛脚賃は何ほどでもいといません、あいにくと、こまかいのがございませんから、これだけお使いの方に上げて下さいますように」

二分銀でも出すことかと思うと、目を射るような小判を一枚、三通の手紙の上に乗せました。

寝巻を着かえていた飛脚男も、月の給料にもあたる小判を見ては、このまま寝るのが<ruby><rb>冥利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>がわるくなって、店へは自分のふところから規定の飛脚料を出し、

「ようがす、じゃ私が一ッ走り参りましょう」

早くも足ごしらえや支度にかかって、早速にこの<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>をひきうけたのは、何といっても金の力。これだから、こういう魔力のある金に生涯をスリへらしてしまう泥棒渡世も絶えないわけだな、と九兵衛も少しイヤ気がさしました。

飛脚男は三通を手に取って、

「エエと、<ruby><rb>濁橋</rb><rt>にごりばし</rt></ruby>ぎわ<ruby><rb>蔦屋内</rb><rt>つたやうち</rt></ruby>、お蝶様。これが一通。……甲府お町方御役宅内、徳川万太郎様。……それから<ruby><rb>西小路</rb><rt>にしこうじ</rt></ruby>庄右衛門様方、稲吉殿。この三本でございますね」

「さようでございます」

「庄右衛門っていうのは<ruby><rb>文身庄</rb><rt>ほりしょう</rt></ruby>といって、あまり評判のよくない<ruby><rb>入墨師</rb><rt>ほりものし</rt></ruby>の親分ですが」

「さようで」

「三本ともずいぶん毛色の変った宛名人でございますね」

「へへへへ。どうかお早く」

「あ。返事は？」

「返事はみんないりません。置きっ放しで結構なんで」

「じゃあ手間はかかりませんから、早速これから届けてきますから」

「どうか、たしかに」

肩の荷でもおろしたように、九兵衛はそこの<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>を潜って外に出て来る。

これで、彼の今夜の意図は、のこらず済んだのかと思いますと、まだしのこした仕事があるふうで、その健脚らしくもない細い脛が、まだぴたぴたと夜更けの町を急いでいます。

そうして、とどのつまりに来た所は、宵にあの惨劇のあったお粂の家からわずか、一、二町ほどしか離れていない鍋屋小路の一角です。

そこに、陰気な<ruby><rb>黒塀</rb><rt>くろべい</rt></ruby>の屋敷がある。こんもりした門<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りの猫柳の木に、<ruby><rb>守宮</rb><rt>やもり</rt></ruby>一匹とッついている。

とん、とん、とん、とん、

「こんばんは。こんばんは」

そこでも飛脚組の戸を叩いたように、九兵衛が頻りと<ruby><rb>門扉</rb><rt>もんぴ</rt></ruby>をたたいて呼びましたが、もう時刻は<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>、それに、門と母屋の隔たりがあるので、最前の如くおいそれと、なかで答えはありません。

「うるさいやつじゃのう」

寝ぼけ眼をあいて、医者山田<ruby><rb>不孤庵</rb><rt>ふこあん</rt></ruby>のつぶやきです。

<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のなかから横に身を起して、次の間のまた次の間に寝ている<ruby><rb>薬研部屋</rb><rt>やげんべや</rt></ruby>の書生に向って言う、

「これこれ、起きんか、起きんか」

「は……はっ……」

同じく、医書生の寝ぼけ返辞はいたしますが、遂に起き出る<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>しきもないので、<ruby><rb>不孤庵</rb><rt>ふこあん</rt></ruby>はとうとうみずから蚊帳をくぐって、何かぶつぶつと<ruby><rb>口叱言</rb><rt>くちこごと</rt></ruby>をいいながら、玄関の戸を開けに出ました。

そこの戸締りをあける音がひびくと共に、どんどんたたいていた表門の音も止む。そして、その間、音も声もしないのは、やがて家人が門の<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>を抜いてくれるのを待つもののようです。

やがて、不承不承にそこを開けた不孤庵が、しぶそうな眼をして、

「御病家かな？」

とたずねると、

「いいえ、宵に伺いました者で」

と九兵衛が腰をかがめております。

「アア、お前さんか――」

「最前おあずけ願いましたお侍様、あれからどんな様子でございましょうな」

「こなたは、どうしたというこッちゃ。突然、わしの家の玄関先へ、正気のないお武家をかつぎ込んで来て、自分の言いたいことだけを言って、スタスタ行ってしまいなすッた」

九兵衛はとぼけた爺さんのように頭をかいて、

「はい、何とも先程は、申しわけのないことで。実はその、ほかにも連れがありまして、いろいろと急場な用をひかえていたものでございますから」

「いくらせわしない事があったにせよじゃ、あんな<ruby><rb>得態</rb><rt>えたい</rt></ruby>のわからぬ容体のお武家を、玄関先に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んで、逃げるように行ってしまうなんて怪しからん仁があるものではない」

「おそれいりました。まったく申し訳のないことで」

「ではすぐにでも戻って来ることかと思えば<ruby><rb>八刻</rb><rt>やつ</rt></ruby>になっても<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby><ruby><rb>過</rb><rt>す</rt></ruby>ぎになっても、一向やって来そうもない。で、しかたがなく、手当だけはして、一間に寝かせておきましたじゃ」

「有難うぞんじます。それでは早速、手当を加えてくださいましたか」

「医者の玄関に抛り込んで行ったものを、いくら見ず知らずじゃというて、手当をせんではおかれまい」

と、<ruby><rb>不孤庵</rb><rt>ふこあん</rt></ruby>は、よほどその時には不意を食ったものと見えて、返事がいちいち怒りッぽい。

九兵衛は徹頭徹尾あたまの下げどおしで、

「そして、お武家は正気がついたでしょうか」

「解毒を与えたが<ruby><rb>効</rb><rt>かい</rt></ruby>がない、どうもあれは妙な容体じゃ」

「じゃあ、あのままいまだに眠ったきりですか」

「で、やっと、<ruby><rb>蘭薬</rb><rt>らんやく</rt></ruby>のしびれ薬にあてられたものと診断がついてな、そのような手当を加え、なんのこともなく気がついておる」

「へえ、そうですか。イヤ大きに有難うございました。じゃあ夜中おそれいりますが、ひとつそのお武家の部屋へ御案内を願いたいもので」

「連れて帰らっしゃるか」

「そいつは大きに当惑します。何しろもう<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>の<ruby><rb>丑刻</rb><rt>うしどき</rt></ruby>、これからあの方を連れ出しても泊めてくれる宿屋はありません」

「それでは何としなさる気かの」

「お武家様にお目にかかって、夜明けを待っておいとまいたします考え」

「怪しからぬことを言わっしゃい、わしの屋敷は<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>ではござらぬぞよ。即刻、連れて帰るというのならば呼び起しても進ぜるが、さもなくば、明朝<ruby><rb>薬礼</rb><rt>やくれい</rt></ruby>を持って改めて出直して来さッしゃい」

と、相手はいよいよ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>をまずくして、取ってもつけない無愛想です。そして九兵衛が思案をしているまに、門の<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>をさッさとかって、奥に寝込んでしまったらしく見えました。

外に残された九兵衛は、やがて、薄ッぺらな黒堺へ、ゆがんだ笑いかたをして、

「いいお医者様だ。罪のねえ威張りかただ。ああいう人間からみると、このお爺さんなんざ人がわるすぎる」

門かぶりの木の枝へ、指をのばしたかと思うと、猫柳の葉も散らさず、ヒラリと黒塀を跳び越えました。

へいを越えた九兵衛は、広くもない医者の屋敷を悠々と一めぐり見て廻ってから、何かひとりうなずくと、スルスルと身をのばして、床下の奥へ這いこんでゆく。

土台の横木をひとつ<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで、この辺と睨んだところで、しばらくジッと耳をたてておりましたが、やがて道中差のこじりを上に向けて、床板の裏をコトンと突いてみる。

静かに、板のキシムのを感じました。たしかに、この上の部屋に居る者は目をさましている。

「金吾様。……金吾様」

<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>だらけな板へ顔をつけて呼ぶ。

「金吾様」

すると、上でかすかな返事がありました。まぎれもない聞きおぼえのある声で、

「だれだ？　……」と。

「九兵衛です。九兵衛めでございます」

「おうッ！」

おうというのだけはおそろしく近く聞こえました。

「――九兵衛か」

「お気がつきましたな」

「どうしたのじゃ……おれは？」

「魔薬に酔わされたのでございますよ。お粂のやつにうまうまと」

「……不覚だッた。おれとしたことが、恥かしい不覚だった」

「あなたはいつも、お粂の毒を忘れるからいけません。花を見ると、そのきれいなことだけ、誰しも心をうばわれますから」

「しかし、この屋敷はどこだろう」

「山田<ruby><rb>不孤庵</rb><rt>ふこあん</rt></ruby>という町医の家でございます」

「そこへたれが連れて来た？」

「この九兵衛が」

「そのお前は床下にいる」

「はい、床下に来ております」

「<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せんなあ、夢のようだ」

「わかるはずがございません。――あの時、お粂はあなたをあの家の奥に眠らしておいて、<ruby><rb>楽屋</rb><rt>がくや</rt></ruby>へ行ってしまいました。さだめし、小屋から帰って来たあとで、また手を変えて、ゆっくりいちゃつく考えだったでございましょう」

「…………」

「金吾様、聞こえますか」

「聞いておる」

「ところが」

「ウム」

「それを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけた千束の稲が、この九兵衛を出し抜いて、金吾を<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ったと親分へ手がら顔をする気かなんかで、お粂の留守におしかけました。あなたは魔薬にかかっている。寝首をかくよりもこいつア楽です」

「……して、それから？」

「ちょうどあっしも曲独楽の小屋にいて、その打合せを小耳にはさんだので、やつらが<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の森で<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>な支度をしているまに、お先に廻って、お粂の家からあなたの体をかつぎ出し、この医者様の玄関に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んで、すぐ取って返して押入にもぐっていたものです。――あとは出たら目な<ruby><rb>血煙</rb><rt>ちけむり</rt></ruby>騒ぎ、暗やみじゃあるし、先じゃあっしを、金吾様だとばかり思っているので、よっぽど勝目がありましたよ」

「おお、そうだったか……」

「それから、そいつをよいの口あけに、イヤ歩いたのなんのッて、こんな歩いた晩はねえ……」と、これは金吾に話すよりも、ここまで仕事をこぎつけたという、ほっとした気持が、自然に口から出て自分をなぐさめたつぶやきです。

「で、金吾様。……もし」

「おう」

「まだあります、よろこんでもらう事が」

「礼を申したい。今、ここの畳をめくるから、暫く待て」

「いえいえ、話は聞こえます。畳なんぞをあげて、もしほかの者が目をさまし、怪しいやつと騒がれては大変です。どうか、このまま聞いてください。……ようがすか。……<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>の晩、<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>ごろ、甲府の南、城下<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れ、荒川べりの寺町――分りましたか、そこの鼻寺というところの近くであっしを待っていてください。そのときくわしい話をします。……鼻寺ですよ。……鼻。鼻。……いいえ、顔の鼻」

と、思わず自分の鼻をおさえて、九兵衛はひとりでおかしがりました。

しかし、もし笑い声がきこえて、<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れと思われては大変と、なおもよく念を押してから、

「金吾様、まちがいなくお出かけ下さいよ。ただし、人目にふれるといけませんから、例の白い<ruby><rb>行者</rb><rt>ぎょうじゃ</rt></ruby>ごしらえはやめてください。そして、鼻寺の山門から、ズッと離れたところで待っていておくんなさい」

「おう、心得た」

「これで安心した。あとはあしたの仕事、夜が白むまで、おやじもここで一寝入りいたします」

「そこで？」

「自慢にはなりませんが、何処でも寝られる修行がついておりますから」

「では、拙者もここの明りを消そうか」

「どうかそう願いたいもんで」

「九兵衛。よろしいぞ、やすむがいい」

「へい。おやすみ……」

## やけのやん八

お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>は朝酒に酔っていました。

その朝酒も、<ruby><rb>目元</rb><rt>めもと</rt></ruby>を上気させて口三味線でも出るような調子ならば結構ですが、今朝のはすこし酔い方がわるい。

「なんだって、災難は災難としても小屋だけは勤めてくれなければ困る？　ふウン、そりゃ<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の災難だから、そちら様は痛くも<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>くもないだろうけれど、芸人が気が腐ったひには慾にも<ruby><rb>得</rb><rt>とく</rt></ruby>にも舞台には立てませんよ。もういやだいやだ、だれがなんと言ったッて御免だよ。きょうかぎり嵐一座は散り散りばらばらになるんだから、太夫元にもきっぱりと断っておくれ――。なんだい、じゃ前貸しの給金を返せっていうのかい、強慾も程におし、十日の小屋を七日まで割れるほど売ッていりゃ沢山じゃないか。それで不承知ならどうにでもしておくれ」

注いでは飲む茶碗酒の勢いが、あたるべからざるものと見て、太夫元を代表して<ruby><rb>懸合</rb><rt>かけあ</rt></ruby>いに来た遊び<ruby><rb>人</rb><rt>にん</rt></ruby><ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>の男も、<ruby><rb>啖呵負</rb><rt>たんかま</rt></ruby>けがしたようにほうほうのていで引きさがりました。

そこは、例のお粂の家ではなく、今日から看板を外すと騒いでいる掛小屋の楽屋であります。

それも、ゆうべ小屋がハネてからずっと泊っているわけではなく、夜更けてからお粂は常のごとく――。

いや常よりも機嫌よく女弟子や男衆を連れてぞろぞろと引揚げたのでありますが、帰ってみると留守中でのあの始末。

一同の驚きかたと、それから先の騒ぎは言わずもがなでしょう。町内の会所へ届け出るやら太夫元が来るやら、検視の役人や岡ッ引が調べに来るやらして、寝るどころではない一夜を明かしましたが、お粂はその間に<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>と元の楽屋へ帰って来て、はたの者が、

「太夫さん、疲れるといけませんから。疲れるとあしたの舞台にさわりますから」

と、なだめすかして寝せようとするのを振り払って、

「お酒を持っておいでよ、お酒をさ。酒でも飲まなけりゃ、生きちゃあいられないよ」

と、そろそろ<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>だかくなったのが初まりで、それから手酌の茶碗酒が、<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>のやん八とまでさせて来たものであります。

しかし今、太夫元の使いとして来た男を追い払ったことばは、決して、酒の上の<ruby><rb>駄々</rb><rt>だだ</rt></ruby>や<ruby><rb>手固摺</rb><rt>てこず</rt></ruby>らせではなく、お粂としてはほんとうにそう腹をきめたのでしょう、その後で、家からここへ移して来た、自分の着類、舞台の用具、衣裳一式、のこらずそこに積んで一座の者へ、

「気の毒だけれどお前たちは、ここにあるだけの物をいいように分けて、――がさ張るものは道具屋にでも何にでも売払ってお金にするさ、――そしてそれを路銀にどこへでも身のさんだんをつけておくれ、ああサ、今日から嵐一座はぶちこわしさ」

なんとなだめても、思い直しそうな脈はありませんが、それでも、男衆や、女弟子たちが、涙ぐんで、

「太夫さん、後生ですからそんな<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>をおこさないで。一座の者が懸命になれば、またいい芽を吹く時節もありましょうから」

と口を<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>くして頼むのを、お粂は耳をおさえぬばかりにかぶりを振って、

「金じゃない、金じゃない。私はなにも、百や二百の金を、馬春堂と、伊兵衛に盗まれたからッて、それで、<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>を起こすようなケチな女じゃないんだよ。私がいやになったのは、ほかに仔細のあることさ」

「じゃ、ゆうべの事に気が腐ってですか」

「災難ぐらいに気のくじけるお粂でもないけれど、ほかに、この胸を、えぐられている事があるのさ。ああ言うまい。お前たちに話したって、どうなるものじゃありゃしない。……さ、みんな勝手に身の振り方をつけて、早く私の肩を軽くしておくれ。元の岩井一座なら、とうに厚木か四日市で<ruby><rb>散々</rb><rt>ちりぢり</rt></ruby>になっている一座じゃないか。それが私のにわか芸で、どうやら今日まで寿命をのばして来ただけが<ruby><rb>見</rb><rt>め</rt></ruby>っけものだと諦めてね、早くこの小屋から別れておくれ。今にまた強慾な興行元がやって来ようし、その上お前たちに、ひもじそうな顔をならべていられると、私はいよいよ立つ瀬がない」

そう言って、茶碗へ酌ぐ手をのばしましたが、酒もきれて、涙ほどしかこぼれません。

お粂は舌打ちをして、よろよろと立ちました。そして、一同があぶながるのを睨んで、湯わかし場の手桶へすがりつき、<ruby><rb>水柄杓</rb><rt>みずびしゃく</rt></ruby>からガブガブと。

かなりな量を無理にあおったので、今になってその胸が、炎になってやけるのでしょう。

ひょろりと立つとすぐまた倒れて、積み上げてある座蒲団の山へ寄りかかったまま、肩に波をうたせて苦しげに寝入りました。

そのさまを眺めて、楽屋では、

「どうしたのだろう？　……」

と一座の男女が、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>からの生くべき途の心配です。はかないものよ、汝の名は旅芸人なりと、ふだんの<ruby><rb>道化役</rb><rt>どうけやく</rt></ruby>が道化たことばも出ないで、ふさぎ込んでいるさまも哀れです。

二、三人の古手屋が来て、値ぶみをした<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がらくた</span>や古着の類を、楽屋からかつぎ出して行ったのを、お粂はうすうす意識していました。

それから、その金を分配して、一座の男女が、それぞれの思うさきへ、落ちて行ったのも知っている。

小屋にはお粂ひとりとなりました。やけ酒がまわって、苦しみながら寝入ったとばかり思えたお粂は、積み上げてある座蒲団のくずれた上へより懸ったまま、いつかシュクシュクと泣いています。しゃくり上げて泣いていました。

だが、こういう場合に女が泣くのは、女それ自身が<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>するのか酒がすすり泣くのか分らない例がままあります。あるいは、お粂の今の場合は、折角、自分の術中におさめたと思ってよろこんだ金吾が、あの惨状に変って忽然と居なくなってしまったので、そのさびしさが<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>からこみ上げて来ているのかも知れませんが、それにしても、その泣きようが、あまり意気地なく、はしたなく、取乱しきっております。

やはり酒が泣かせるのでしょう。

で、涙がつきると、ほんとに酒の苦しみが来ました。その苦しみが薄らぐと、こんどはゆうべからの疲れが手伝って、ぼうとあたまに<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がかかる。

ぐッすりと深い寝息――

やけのやん八のあばれ仕舞はいつも狐つきのように寝るものと相場がきまっていますが、あとのさびしさが思いやられる。

何しろそれから長い時間、お粂を起こすものもありません。

だいぶ時刻が立ったのでしょう。<ruby><rb>掛</rb><rt>かけ</rt></ruby>小屋の西側に、<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の目を漏れる、暑い西陽が、さして来たころです。

「やい、起きろッ」

「起きねえか、ふてえ<ruby><rb>阿女</rb><rt>あま</rt></ruby>だ」

こういって、正体のないお粂の肩を不意に蹴とばした人間がある。

お粂は、座蒲団の山と一緒に蹴くずされて、そこに、しどけない自分の姿と、自分を取りまいて、<ruby><rb>筋文身</rb><rt>すじぼり</rt></ruby>の腕をまくり上げている土地の長脇差らしい五、六人を見出しました。

まだ赤い寝ざめの目尻をつりあげて、

「何をするのさ」

言うそばから、また一人が足をあげて、

「いいかげんにしやがれ、てめえのような旅烏に、土地の興行をいいようにかきまわされちゃ、おれ達のつらが立たねえ、どうするかみていやがれ」

と、いきなり髪の毛をつかもうとする。

そっとあのままで目がさめたら、さだめし、やけ酒のあとのさびしさが一時に襲って、ふたたび酒にでも走らなければ耐えられなかったのかも知れないのが、この唐突な暴力組のために、彼女はかえって強くなり得ました。

で、髪へのばして来た相手の腕を、薄い手のひらのこばで、こッぴどく払いつけて、

「しゃれたまねをおしでない。小屋の木戸口や楽屋裏へ来て、芸人の冷や飯をもらって歩くお前たちが、口出しをする幕じゃあるまいに」

「女のくせにしやがって、きいたふうな事を言やあがる。こう、気の毒だがおれ達は、太夫元から頼まれて、てめえの一座に前貸しの給料を取り返しに来たんだからそう思ってくれ」

「いくらがみがみ言われても、ない袖はふれないよ」

「よく捨てばちをほざいたな。よし、金がなければ、そのからだを<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>へでも何処へでも売りとばしてやる。さッ来やがれ」

一人は早くもうしろへ廻って、お粂のきき腕をねじ上げました。

無論、いくら相手が三文<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>でも、六人と束になって来られては、自分ひとりの力でどうにもならない成行きは分りきっておりますが、こうなると、弱くなれないお粂でした。

「ちッ！」

いやというほど、その男の頬をはりつけて、さらに一人の胸いたを突いて飛ばす。

「やったな」

「それ、半殺しにしてしまえ」

元より、その計画でやって来た手合ですから、かかるとなると気がそろッている。

襟がみをつかむ、腕をねじあげる、そして、蹴る、蹴倒す、ふみつける。

四方、<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>で囲ってある上に、人ッ子ひとり居ない掛小屋の中ですから、<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めてもなければ、人立ちもせず、こういう仕返しをやるには存分な場所です。

「さ、殺すなら殺しておくれ。殺せ。殺せ」

「おお、殺してやる」

「ただの女芸人と思っているのかい。これでも江戸では、丹頂のお粂といわれた<ruby><rb>姐御</rb><rt>あねご</rt></ruby>だよ。さあ、立派に殺してもらいましょう」

「おれたちも<ruby><rb>文身庄</rb><rt>ほりしょう</rt></ruby>の身内だ、鶴だか丹頂だか知らねえが、興行元から頼まれて、前貸も取れねえじゃ<ruby><rb>引退</rb><rt>ひきさ</rt></ruby>がるわけにはいかねえ。のぞみどおり殺してやるから、泣き声をあげるなよ」

五、六本の長脇差が、一時にぎらぎらと取り巻いて、お粂のからだを針差のように突いてしまうかと見えました。

その時です。

どこに居てこの様子を見ていたのか、そこへ飛んで来た一人の旅装いの男が、

「皆さん、つまらないじゃございませんか」

笠と片手をひろげて、お粂の身をかばいました。

## 螢の闇

見れば、紺のさめためくらの<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby><ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>に、やぼな身なりをした年寄ですから、

「なんだい、とっさん。つまらないところへ出しゃばって、怪我するとつまらねえぞ。早く小屋の外へ引っ込んでいるがいい」

長脇差を抜いたてまえにも、お粂を取巻いた、<ruby><rb>文身</rb><rt>ほり</rt></ruby>庄の身内が、こう息まいて押しのけようとすると、

「相済みません、<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>も様でございます」

と老旅人は腰を低くして、

「したが皆さん、金のことで、この女を殺すというのは、両損じゃないかと存じます。少々ですが、このおやじの持合せですむなら、何とか、お話し合いということにして、私にここをあずけてくれませんか」

といううちに、与市兵衛でも持ちそうな財布の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を解いて、

「五十両ございます」

一人の男の手をつかんで、その手へ重く握らせたものです。

目と目を見合せて、あっけにとられているのを、

「まあ、まあ、細かい勘定なしということで、あまったらあなた方で、一杯飲んでいただくし、不足だったら、その分だけは太夫元にまけてもらうという都合に」

まるで子供あしらいにして、苦もなく、五、六本の<ruby><rb>長脇差</rb><rt>ながどす</rt></ruby>をさやに納めさせた上、門外漢である風来の老旅人が、小屋の持主の代表者を、あべこべに小屋から追い出してしまったのは何といっても手際なものです。

さて、そうしてから老賊<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>九兵衛は、

「<ruby><rb>粂吉</rb><rt>くめきち</rt></ruby>さん、飛んだ目に会いなすったね。まあ、髪でもなでて……おう肩にも泥がついている……ついでに帯でもお直しなさい」

自分はそこのざぶとんを拾って、楽屋口に腰をおろし、黙ってたばこを吸いつけている。

お粂もまた、黙って、そのそばを馳けぬけて、自分の鏡台のある幕のかげへ飛び込みました。

が――そこにはもう、あると思う気がした鏡台も化粧道具も、そのほか衣裳つづらまで、一物として残っていない。

しかし、離散した者たちも、お粂の着がえ一通りは、そこに残して行きました。彼女は、ほころびた着物をそれに着かえ、ともかくも髪のほつれや涙のよごれをふいて、あらためて、九兵衛の前へ来て、

「どなた様か存じませんが、只今は、有難うございます」

「まあ、怪我がなくって、いいことをしたね」

「おかげ様で、命びろいをいたしました」

「そうさ、<ruby><rb>文身</rb><rt>ほり</rt></ruby>庄の身内といえば、命知らずがそろっているのだからかなわない」

「そして、あなたは」

「わしかね？　わしは江戸の大伝馬町に住む<ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かいき</rt></ruby>屋九兵衛というもんですがね、その<ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かいき</rt></ruby>の買出しにこの甲府へきております。それで荷元との話がつく間、この近くに宿をとっていたが、夜の気さんじにこの間うちから、時々、ここの掛小屋へおまえさんの<ruby><rb>曲独楽</rb><rt>きょくごま</rt></ruby>を見物に来ていました。で、そちらでは不意に思いなさるだろうが、私の方じゃ、これでも<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>の客のつもりさ。は、は、は、は」

と、銀歯をむいて笑いました。

では、自分をひいきにして、毎晩小屋へ見物に来ていた客だったかと、お粂はその老巧な話しぶりに少しの疑惑もはさみません。

九兵衛は、手にしている<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>の吸口を、カチと歯にのせながら、

「ところで粂吉さん、さっきから様子を聞くと、急に一座をくずして、この興行もおやめだという話だが、そして、お前さんは、一座の者をみんな押っ放して、これからどうしようというつもりなんだね」

「さあ……恥しい話ですが、さしあたって、どうという考えもなく、急に舞台がいやになったもんですから」

「といっても、困るだろうじゃないか。……それにお前さん、江戸弁だね」

「ええ、元より、江戸の生れですから」

「どうだろう、年寄の口から、ちといいにくい相談だが……」と、膝をすすめて「わしは女房もないし子もないからだで、店の方も買出し以外は番頭まかせ、いやらしいことをいうようだが、浜町の方の別宅に、ひとりくらいの女気がほしいと前から心がけていたところだ。<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>といっては気に染まないかも知れないが、当座の間なんとつかずに、まあ、わしの世話をしてくれる気で、<ruby><rb>甲斐絹屋</rb><rt>かいきや</rt></ruby>の別宅に来てくれないか」

お粂が考えこんでいる様子に、九兵衛はことばに熱を加えて。

「どうだな、粂吉さん」

「さあ？　……」

「いやといわれると面目ない。実のところ白状すると、ゆうべも、おとといも、先の晩も、お前さんの舞台姿に、どうもわしも迷わされて、一度は人を頼んでも、ぜひ相談を持ちかけてみるつもりでいたくらいなのだから――これを断わられると、わしも、がっかりせずにはおられませんので」

年寄の恋にことよせて、うつ向いて見せた秦野屋九兵衛は、なんと出るか、鋭い上目づかいに、お粂の返辞を待ちかまえているふうです。

あくまで金持ちの<ruby><rb>甲斐絹屋</rb><rt>かいきや</rt></ruby>、自分の舞台姿に<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>をよせた好色な老人と思いこませて、とうとう九兵衛の策は、お粂に対して成功しました。

「じゃ、承知してくれるというのかい」

「こんなあばずれでも、世話して下さるおつもりなら……」

お粂の考えとしては、無論一時の方便でしょうが、また、当座の身の落着きを、どこへというあてもない体。

生きてさえいれば、そのうちには、金吾に会えもしよう。

まだその深い未練から離れません。

彼女は、きのうの魔薬が薄かったために、金吾の眠りがすぐにさめて、姿を消したものとばかり思いこんでいました。そして、男の心は、自分の手くだ一つで、どうにでも変りうるものと信じている。

九兵衛はお粂を外に誘って、

「わしはこれから一軒の荷元へ寄って、<ruby><rb>秋繭</rb><rt>あきまゆ</rt></ruby>の相談をすまし、その話の都合次第で、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>にも江戸へ帰るとするから、どうだな、そこまで一緒に来てくれないか」

それにもお粂に異存がないので、

「では、支度でも直して」と、城下でも一流の料亭に<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>をぬぎ、風呂をわかさせてお粂にもすすめ、女中や帳場にも祝儀をおろして、随分<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>な旦那ぶりをみせました。

「うーム、おまえは舞台顔よりは、そうして湯上がりの薄白粉の方が遙かにいい。どうだな、小屋者の足を洗って、気が涼しくなりあしないか」

「ほんとに、これでせいせいしましたよ」

「そうだろう。さ、<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>いでくれ。おまえも<ruby><rb>一杯</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>……」

「え」

酒の顔を見て、お粂が急に眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めたのは、まだ今朝の悪い気分が<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいるものとみえます。

九兵衛はあしらいよく、

「それだからいけないよ。飲むさ。頃合に飲んでごらん。迎え酒というやつだ。だが、<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>はいけない、江戸へ行って、浜町の別宅に納まってもらっても、<ruby><rb>自棄酒</rb><rt>やけざけ</rt></ruby>は<ruby><rb>御法度</rb><rt>ごはっと</rt></ruby>ということにしてもらいたいね」

ふた口、三口<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>ると、胸につかえていた不快なかたまりもさがったような気がして、今朝のがぽっと目元へ出ます。

ちょうど軒にも灯がはいる頃。

九兵衛も程よく酔った顔をして、女中たちにざれ口をききながら、料亭の門へ送られて出て、

「かごは。かごはどうしたい」

「きております」

「ウム、二挺だよ」

「さ、お連れ様も、お召しなすって下さいまし」

お粂も何気なくそれへ誘われながら、前のかごに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐんにゃり</span>ともたれ込んだ九兵衛を覗いて、

「荷元とやらいう家へは、かごでゆく程遠いのですか」

「なあに、遠いといっても、城下はずれさ。歩いてゆけば、腹ごなしにちょうどいいが、途中の道がすこしさびしい。……それに、どうもわしは飲むと、一<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby>ほど眠くなってな」

口をきくのもものうそうに、

「ええ。いい心もちだ」

と、かごの背に寄りかかって、高いびきをかかないばかりな居眠りです。

杖をあげた二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>町駕籠</rb><rt>まちかご</rt></ruby>は、幾つもの辻を折れて、城下の灯をあとへ後へと送ってゆく。

人目のうるさい町中だけ、かごのすだれを下ろして来たお粂が、その時垂れを上げて外を見ますと右も左もいちめんな青田です。

かご屋の足拍子におどろいて、その青田の稲の波へ、紙のように散らかるのは白鷺です。

ツイ、ツイ、と流れて来ては、駕籠のすだれにとまったり、駕籠の中を通りぬけたり、自分の袖にこぼれて来たりするのは、螢の青い明滅です。

お粂は螢を一ツ手のひらに入れました。

その青い明滅が、自分の直前の運命を暗示しているものとは元より知らない気紛れに――です。

青田の道をきれると、森を廻っていくほどもなく、小高い土手の向うに、一条の幅のひろい河面が見えます。

「旦那、<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>へ来ましたぜ」

「お約束の<ruby><rb>信玄畷</rb><rt>しんげんなわて</rt></ruby>ですが」

肩をはずした駕籠かきが、居眠っている九兵衛の膝をゆすぶって言いますと、

「ウウーム……」

と中で伸びをして、

「もう<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>かい？」

「ごらんなせい、荒川が見えまさ」

「なるほど」

まだ眠たそうに駕籠をおりて、

「それ、<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>」

「ありがとう存じます」

かご屋の明りが遠く去るのを待って、九兵衛はゆるい足どりで先へ歩き出しましたが、

「時に粂吉、もう<ruby><rb>何刻</rb><rt>なんどき</rt></ruby>だろうな」

「さっき途中で、どこかの鐘が八ツ半をついていたようですよ」

「八ツ半かい。ちょうどよかろう」

「この辺には、あまり<ruby><rb>商人家</rb><rt>あきんどや</rt></ruby>もないようなのに、その荷元の家というのは、一体どの辺なんですえ」

「荷元といっても、大きな<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>さ。江戸者の考えで、商人家だと思うと大間違いで、それや大きな森のなかにある百姓だわな。だが、ここまで来て考えてみると、そういう固苦しい取引先へ、おまえのような<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>抜けのした女を連れてゆくのは、少しわしの信用にかかわります。はて、困ったものだ」

男が、しきりと腕をくんでいるのが、お粂にはばかげたものに見えました。

「弱ったなあ、これはわしの早計だった」

「何がそんなに弱っているんですよ」

「おまえがさ」

「私が居ちゃあ邪魔なんですか」

「飛んでもない、邪魔なんて、ひがんでくれては困るが、その荷元の<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>というのが、江戸の者とちがって、おそろしい堅人なのさ」

「じゃ、私は何処かで待っていますよ」

「でも一人でさびしかろうに」

「旅にはさんざんなれていますから」

「う。いやそうだッた。じゃ、なるべく早く話を切上げて来るから、向うの辻堂で待っていてくれないか」

「早く帰って来ないと、どこへでもいってしまいますからね」

あまり他愛のない男の甘さを見て、お粂もつい、からかって見たくなった。

「すぐだ。すぐ戻ってくるから」

うしろへ手を振りながら、九兵衛は<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>を駆けて、どこか横道へかくれました。

＊　　　＊　　　＊

<ruby><rb>鼻寺</rb><rt>はなでら</rt></ruby>の奥に灯がみえる。あの方丈の明りなのかもしれません。

そのともしびのほか、この辺の木立の奥に、遠く近くちらついている灯は、たいがい寺の灯であります。

その寺に<ruby><rb>有縁</rb><rt>うえん</rt></ruby>な、石屋、花屋、<ruby><rb>塔婆屋</rb><rt>とうばや</rt></ruby>などの俗家が数戸たちならんでいる所は、商売がら宵のうちから一軒も戸が開いている家はない。

青い編笠に紺かたびら、<ruby><rb>藁草履</rb><rt>わらぞうり</rt></ruby>の音を静かに<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>って、最前から、二度ほどその寺町を行き戻りしていた侍が、

「はてな、さっきの<ruby><rb>八刻半</rb><rt>やつはん</rt></ruby>は聞きちがえであったろうか」

つぶやきながら、とある所の<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の根に腰をおろして、

「――でなければもう<ruby><rb>九刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>、そろそろ見えてもよい時分だが」

と、くり返して、道のあなたをしきりと見ています。

と――近づいて来る人声がある。

「来たか」

と侍は、すぐ腰を立てましたが、その人影が期待とちがって、二人連れであったのに驚いて、急に自分の影を<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>のうしろへかくしました。

すると。

そこを通り過ぎたふたり連れの影は、何か、ヒソヒソとささやき合いながら、うっそうとした岡の森にある鼻寺の山門へ吸いこまれて行った様子です。

それをやり過ごして、欅のかげを離れた侍は、二ツのうしろ影へ<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>のつばを上げて、

「不思議だ！　今のやつは、四ツ目屋の新助に雲霧の仁三、たしかに、あの二人に相違なく思われたが？」

棒立ちになって、そこに小首をかしげておりますと、その姿を見つけたらしく、石屋のわきの石置場を抜けて大股に急いで来た秦野屋九兵衛が、<ruby><rb>屈</rb><rt>こご</rt></ruby>み加減に、さぐり声をひそめて、

「もし、そこに居るなあ、金吾様じゃございませんか……」

「お、九兵衛か」

かねて約束のある事です。金吾もすぐにこう応じて、

「そちの来るのを心待ちにしておった。して今夜、自分にここへ参れと言ったのは、何か、改まった用談でもあるのか」

九兵衛は寄り添って腰をかがめながら、

「そのつもりでございましたが、何しろ、両方に<ruby><rb>膳支度</rb><rt>ぜんじたく</rt></ruby>が出来てしまって、箸を取っていただくばかり、今ここで、細かい話をしているまもございません。とにかく、鼻寺の方はあと廻しにして、お粂を先に片づけてはどうでございますな？　いいや、そのお粂なら、九兵衛が口車にのせて、<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>の辻堂まで運んで来てありますから、なんの造作もない仕事で」

こう独り呑みこみに、彼がすぐあとの道へ取って返して行きますので、何を問うまもなく、金吾もまたそれに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて荒川の畷へ急ぎました。

暫く行くと<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、

「金吾様、あれに辻堂が見えましょう――あの松の木が二、三本見える下の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>に」

「うム」

「そこにお粂が待っているはずです。あっしが先にそばへ行って、逃げねえようにしますから、足元へ突き出すまで、あなたは黙って見ていておくんなさい」

と、言ううちに秦野屋は、もうスタスタと辻堂の前へ歩いて、そこに腰をおろしていたお粂へ、さあらぬ調子でことばをかけています。

「おおひどい、この汗だ。今帰って来ましたよ」

「たいそう早かったじゃありませんか」

お粂は辻堂に身を休めながら、あたりの<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>をさまよう螢の美しさに見とれていたので、待つ間も、永いともさびしいとも思っていなかったようです。

「何さ、先様でも、上がって行けの泊って行けのと、しきりに袖を止められましたが、こんな所へ、ひとりで残しておいたお前のことが心配でな。は、は、は、は、は」

お粂は、相手が笑いながら手を握って来たので、年甲斐もない好色と、心のうちでおかしく思っていましたが、

「おう、そこでなお粂さん」

と、九兵衛は引っ立てるように彼女の腰を立たせて、

「わしが、待っている者があるからとツイ口をすべらせたので、荷元の旦那がそこまで一緒に来ていらっしゃるのだ……何とでもいいから、ちょっと、あいさつをしてくれないか。なあに、まのわるい事があるものか」

「荷元の旦那が？」

「うム、それ、そこに立っておいでになるお方だ」

変なことを言う？

お粂の直覚が九兵衛の顔に鋭くうごいた途端です。彼の手はお粂の帯のうしろをトンと突いて、その体を金吾の前へよろめかせました。

「あ――」

不意を突かれて、彼女が前へ身を泳がせますと、そこには見馴れない<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>の侍が冷然と自分の前に待っている。

姿がきのうとは変っております。第一、秦野屋を江戸の<ruby><rb>甲斐絹</rb><rt>かいき</rt></ruby>商人とばかり信じているお粂にはまさかそれが、<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>だとは夢にも思いつく道理がない。

（誰だろう？）

すぐに彼女のあたまにうかんだのは日本左衛門の姿です。しかし日本左衛門にしては少し小づくりな骨格がどうも不審にたえません。

すると、編笠の影は、笠の前つばに手をかけました。

「おお！」

と言って、一歩前へ出て来ました。そして、お粂の疑心も、それと共に、思わず一足でもあとへ退がらずにはいられなかったのです。

見ると、そのまに、九兵衛はすばやく後ろへ廻って、<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>さぬような目くばりを見はっています。

事態はお粂にとっていよいよ変です。<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない九兵衛の挙動です。で、彼女は両方の間に気構えをとりながら、わざとさわがぬふうを装って、

「なんだいお前さんがたは。妙なそぶりをするじゃないか。さては私をだまして、どうにかしようという量見だね。……ふウん見くびっちゃいけないよ。丹頂のお粂さんを」

と、ゆがめた唇を糸切歯へかませました。

彼女の語句がとぎれたせつなに、金吾は、待ちかまえていたその編笠をサッと捨てて、

「お粂！　拙者だ」

叫ぶが早いか、おどろく彼女の胸元にとびついて、その腕を自分の小脇にしっかりとつかみ取りました。

のけぞりそうになったお粂の<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>が、どんなものであったかは、その顔色を紙の如くさめさせたのでも分ります。

「あッ……あなたは、相良さん」

「おお、金吾だ。よくもかさねがさね、魔薬の毒をもって、拙者に不覚をとらせたな。今宵こそはもう<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>さぬ。そちの一命は申しうけたから覚悟しろ」

「ちイッ、ひどいッ」

お粂は、奪われたきき腕を、もぎ取ろうとして身をもだえながら、

「相良さん、それはあんまりひどいでしょう。なんで私を殺そうというのか、私には少しも訳がわからない。私が、魔薬を使ったのは、ただ、お前さんを自分のものにしたいばかりじゃないか」

「だまれ、その毒手になやまされて、この金吾が、どれ程な苦しみをいたしたか、またどれ程身の生涯をふみ過ったか、いかに無智な女でも、それくらいなことは分っていようが」

「それは、悪いこととは知っていたけれど、そうしなければ、男が自分のものになっていない――その私のつらい気もちも察してください」

「たとえ、この<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>になってなんと言おうと、自分の武士を立てるためには、そちを生かしておくことはならないのだ」

「自分の武士を立てるためなら、どんなに思っている女だろうが、殺してもかまわないと言うんですか。もし相良さん。私とお前さんとは、たとえ十日でも二十日でも、あの熱海の湯治場で、夫婦も同じように暮していた仲じゃあないか。今さら、男らしくもない、そんな後悔をして私を斬ったところで、二人の縁が洗われるわけでもなし、あなたの名折れが世間へ立つわけでもないでしょうに」

「いいや、立つ。立派に立つ」

と、うしろで叫んだのは秦野屋です。

お粂は、いまいましそうに、九兵衛を睨んで。

「お前はまた、どこの<ruby><rb>化物</rb><rt>ばけもの</rt></ruby>さ」

「江戸の<ruby><rb>甲斐絹屋</rb><rt>かいきや</rt></ruby>と言ったなあ口から出まかせで、おらあ日本左衛門とつき合いのある、秦野屋九兵衛というおやじだ」

「えっ、じゃ、厚木の秦野屋かえ」

「とんだお役廻りを内職にやっているので、おめえが勘づかなかったのも無理じゃねえ。だが、そんな事はさておいて、丹頂のお粂ともあろうものが、あきらめの悪い泣き<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>はどうしたものだ。また、それ程までに男を思うというならば、なぜ金吾様のためになる自分の命を、<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んで投げ出さないか、おれには少し、おめえの真実が疑わしい」

「私が死ぬのが、どうして相良さんのためになる？」

「日本左衛門がそう言った。――お粂とのくされ縁がないという証拠を見せて来たならば、いつでも武士らしく、男らしく、果し合いをうけてやろうと」

「…………」

「先のことばも一理がある。おめえがあきらめをつけないうちは、金吾様からあいつに刃を向ける言い分が立たないのだ。言い分というのは武士の名分、主家に対しても同じことなら、世間へ対しても同じこと。また、こちとらなら知らぬこと、武士という気持に生きている金吾様自身の心もゆるすまい」

九兵衛がその老巧な弁にまかせて、<ruby><rb>諄々</rb><rt>じゅんじゅん</rt></ruby>として説いて聞かすものですから、お粂もはじめて、不自然に発足した自分の恋が、当然悲恋に終るべき運命にあるものと悟ったらしく、金吾の腕に力のない顔をうつ向けました。

金吾も、そうしている女の腕を、強く捕えているにも堪えないで手を離すと、お粂はそのまま草のなかにくずれて、声を出さずに肩で波を打っています。

「え、お粂さん。おめえの心も察しるが、金吾様の――侍というもののさ、苦しい立場も考えなくちゃいけねえ。それに、たとえおめえが助かったにしても、いつか一度は、日本左衛門が無事に見ているはずがない。きっとおめえは殺される。金吾様に殺されなければ、日本左衛門かその手下の者に<ruby><rb>闇打</rb><rt>やみう</rt></ruby>ちされるにきまっている体だ。――どっちがいい？　え？　どっちが自分の本望だか、こいつあ、考えてみるまでもねえじゃねえか」

と、九兵衛が彼女のそばにしゃがみ込むと、それにも返辞はなくて、ただ草のなかに顔を<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めたお粂の白い手足が、わなわなと指先にまで<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>を起こしてきています。

「おや？」

びっくりした九兵衛が、お粂のからだを抱きおこしてみますと、その硬ばった手のひらのうちに一個の小さな紫色の<ruby><rb>壜</rb><rt>びん</rt></ruby>を握って、顔は、なんともいえない白さを増し、スヤスヤと寝息のような呼吸をかぞえるにつれて、そのうつつなひとみも、黒い<ruby><rb>睫</rb><rt>まつげ</rt></ruby>にふさがれてゆきます。

抱き起してみた途端に、ぐッたりとしたお粂の<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>から、つーん……と異様なにおいが鼻をついて来ましたので、

「あっ、魔薬」

と、九兵衛はあわてて、自分の顔半分を袖口で掩いかくすことを忘れませんでした。

それを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐだけでも怖ろしい麻酔に落ちるものを、紫のビードロからこぼれた薬液は、お粂の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>から胸元をぐッしょりとぬらしていました。

「ウーム、とうとう<ruby><rb>自殺</rb><rt>やっ</rt></ruby>たわえ」

と、九兵衛は彼女の仮死のからだを膝に寄せたまま、

「やっぱり人間だ。江戸の女だ。悪党の<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>ッつらには染まっていたかも知れないが、お粂にもいいところがありましたよ」

つぶやくように、そう言いました。

金吾も白蝋をみるようなお粂の顔にジッと目を落として、

「ふびんなやつだ……」

思わず、ふびんということばを、この時彼の口からもらしました。それは恐らくまにあわせの歎声ではなかったでしょう。妖婦、毒婦、と今日までその呪いを憎みながら、また殺そうとまでしながら、半面には、そのふびんということばに現された心が、金吾自身も気がつかない心の一隅に、力づよく根を張って潜在していたのではないでしょうか。

今の年になって、悪行の生涯から<ruby><rb>翻然</rb><rt>ほんぜん</rt></ruby>と気もちの転じてきている九兵衛には、何だか、お粂の行為が、ひとしおあわれに見えました。

「この強い魔薬をあびたか飲んだかしたところをみると、死ぬ覚悟をきめたのでしょう。考えてみると、金吾様を思っていたことも、おそろしいほど真実だったのでございます。こういう女だけに、まったくおそろしい思いかたで」

「が、九兵衛、いつまでこうしてもいられまい」

「ヘイ、そのさいそくは、あっしの方からするところでした。これからすぐに、鼻寺の方へ行かなけりゃなりません」

「うむ、そこへは先程も、雲霧と四ツ目屋が連れ立って参ったようだが」

「そうです。甲府町方の目をくらますため、日本左衛門がこッそりとかくれている穴です。実あ、そこへあなたを<ruby><rb>手曳</rb><rt>てびき</rt></ruby>するつもりで、お粂もここまで誘い出しておきましたので」

「そうか。さてはあの寺内に、日本左衛門がひそんでおったのか。よしッ」

にわかに、金吾の眼底には激しい争闘心の前駆が血走ります。そして彼は、お粂のからだのそばに膝を屈して前差の小刀を抜くが早いか、その首を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>って左の手につかもうとしました。

「あっ、もし」

と、九兵衛はその手元を待たせて、

「どうなさいます、そいつを」

「星影の谷あいで誓った証拠だ。これを日本左衛門の前につきつけて、今宵こそ、有無をいわさず<ruby><rb>雌雄</rb><rt>しゆう</rt></ruby>を決するつもりである」

「そいつは少し時代過ぎましょう。何も、日本左衛門がああ言ったからって、そんな生々しいものを、土産にかかえてゆくこたアありゃあしません。首のかわりに、その髪の毛でも、たたきつけて見せれば沢山です」

「なるほど」

金吾の心も、何かしら、ほッと救われたようでした。

彼としても、すでに非を悟った上、魔薬の力をかりて自殺した女の首を、むざと、それこそまったくむざとです、掻き斬ッて、いい気持のする理由はありません。

で、九兵衛のいうがまま、首にかえて、お粂の黒髪をぶッつりと切り、くるくると懐紙に巻いて、それをふところに、

「さ、行こうか」

と、先を急ぎます。

「――<ruby><rb>南無阿弥陀仏</rb><rt>なむあみだぶつ</rt></ruby>」

立ちながら九兵衛はそこを片手で拝んで、

「じゃ、片づけているまもありませんから、死骸はこのままにして行くとしましょう……」と、五、六歩あゆみ出しましたが、ふとまた草の露に<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、

「あ、あれ。金吾様見てごらんなさい。ここから見ると、お粂の死骸に魔薬が青く光っていますぜ」

「いや、<ruby><rb>螢</rb><rt>ほたる</rt></ruby>だろう」

「え……な、なるほどそうか。は、は、は、は。九兵衛も少し凡眼ッてやつになりましたかな。だが、煩悩の仏さまだけに、螢もうつりがわるくねえじゃアありませんか。オオどれ」

あとは無言で、暫くの間、螢のやみを駆けました。

そして、鼻寺の近くまで来ると、

「おっと」

つまずいたように急に足を止めて、

「金吾様、まだもう一つ、断って置かなければならない事がありましたよ」

「なんだ」

「<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>です。いつか伺った……」

「おう、<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>」

「それを持っているお蝶という女も、今夜、この鼻寺へ何も知らずに来るはずです。――ですから金吾様、日本左衛門を討つという敵意にばかり気を走ッて、その大事な<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を持っている切支丹屋敷の娘を逃がしちゃあいけませんぜ」

あとは聞きとれない<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>でした。

そして、まもない<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>。

そこに、何か<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合っていた二ツの影がわかれると、金吾の方は、かたわらの雑木林をぬけて鼻寺の裏山へまわり、九兵衛はただひとりで、例の、弘法大師御夢想ぐすりの看板の光る山門へ向ってトントンと軽い足をはずませておりました。

## <ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を呼ぶ<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>

その時刻と前後して、城下のちまたから荒川へ流れ出る<ruby><rb>藍屋</rb><rt>あいや</rt></ruby>川の土橋の上に、ひとりの女性が立ちました。

<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>のようなものをかぶっております。<ruby><rb>褪紅色</rb><rt>たいこうしょく</rt></ruby>のうす絹です。

『<ruby><rb>女装考</rb><rt>にょそうこう</rt></ruby>』などを見ますと、女の被衣する風俗も<ruby><rb>元和</rb><rt>げんな</rt></ruby>寛永をなごりとして、正保の頃に至っては、三都ともにその<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>おとろえ、ことに江戸には見ることはきわめて稀としてありますが、地方の良家の子女の間には、まだその古風が残されていまして、今、土橋の上に立った女といわず、この辺では、女が夜行に被衣することは、さまで<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>とする姿ではありません。

が。

それは異とするに足らないとしても、これは異としなければならないのは、その褪紅色の被衣にくるまれた女の顔です。

川には、<ruby><rb>藍屋町</rb><rt>あいやまち</rt></ruby>の<ruby><rb>藍滓</rb><rt>あいかす</rt></ruby>が油のように浮いて、深淵のごとき深い色をドンヨリと流しています。その<ruby><rb>川面</rb><rt>かわも</rt></ruby>を見おろしている女の顔をごらんなさい。

耳まで裂け上がっているくちびるは、二本の<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>におさえられて、歯のあいだから血がしたたろうとしております。小鼻の両わきから青く深くえぐられた陰影は、怒れる<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>のようにも見え、泣きたいような皺にも見える。青い眉は<ruby><rb>瞋恚</rb><rt>しんい</rt></ruby>の<ruby><rb>炎</rb><rt>ほむら</rt></ruby>をなし、金色のひとみはあらゆる呪いを焼いているかとも思われますのに、なお<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>からは二本の人さし指のごとき角が<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>のかげにありありと見てとれるのです。

ここにも螢がとんでいました。

水を離れて、彼女の顔へ吹き上げられてくる螢も、その形相に近づくや、光を<ruby><rb>滅</rb><rt>めっ</rt></ruby>してあたりを去ります。

「……まだかしら？　<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>やのお寺は」

<ruby><rb>橋桁</rb><rt>はしげた</rt></ruby>にもたれたまま、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>がやがてつぶやいています。

「荒川の<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>から北へ四、五丁、そこの鼻寺というお寺にいると、乳母やの使いが言ったけれど、道を聞く<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>はないし、足はくたびれるし……こんなことなら、かごにでも乗ってくればよかった……」

でも、先に心を急いでいるとみえて、程なく、<ruby><rb>楚々</rb><rt>そそ</rt></ruby>と土橋を歩いてゆく。

時折つよく来る風が、被衣を奪って彼女の下をのぞこうとします。彼女はそれをとられまいとするらしく、両手を胸に組みあわせました。

そして、楚々と草履を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>ってあるく。

<ruby><rb>藍屋川</rb><rt>あいやがわ</rt></ruby>の川べりに添って、やや暫く西へくだると、また一つの橋がある。しかし、そこには一基の石が<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>の道を教えていましたから、彼女の足元はやや明るくなって、迷うところなく、右手ののぼりをうねりますと、程なくそうそうたる<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>のそよぎが耳につく。

「ここにちがいない――荒川の畷は」

真っ黒なやぶと青田の間をつづいている白い道に立って、お蝶は初めてほっとしました。

「灯が見える」

そこに立つと、寺町の灯が幾つかかぞえられました。お蝶はその三つ四つのまたたきのなかに、乳母のお咲がともした明りもあるのだろうと考えこみます。

折角、この甲府まで来てみたけれど、もうさがしあぐねて、とても逢われぬものとあきらめていた乳母のお咲から、思いがけない寺男が使いに来たのは、きのうの夕方。――お蝶は宿に払う路銀もとぼしくなって、どうしようかと、さすがに旅の心細さに、ふさぎ込んでいた時です。

使いに来た八助という寺男から、<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>のお咲の<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづて</rt></ruby>というのを聞いて、お蝶はおどりたちました。

で。行くと返辞を与えましたが、後で考えてみると、いやな予感がしないでもありません。

わずか二日まえに――あの<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>売りの久助の家に泊った晩――そこの<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>に書き残してあった日本左衛門の文字が、ともすると、お蝶の胸に、あぶり出しのようにういて出ます。

もしや？　……

そういう<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>に襲われます。

止めよう。あの寺男といって来た使いも、何だか知れたものじゃない。

感づいて、一度は断念したのを、にわかにまた、行くと決意をしてしまったのは、深夜宿へ届いた一通の無名の飛脚が、お蝶を気づよくしたためです。

無名の飛脚の内容は、数行につきていて、大略のところをつまめば――こんな意味。

明夜は鼻寺へ行った方がお嬢様の幸福ですよ。

何か不安がありましょう。それで迷っておいででしょう。たとえば日本左衛門のことなど。だが、さるお人のいいつけで手前がその方はよそながら守護しておりますから御心配なく。

くれぐれも御<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>は御無用。

迷わず鼻寺へおいでなさい。大事な<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ路をふみまちがえてはいけませんよ。行けば吉。行かねば凶。断じて大凶です。

今もたもとからその文がらを出してみて、これは、乳母のお咲の心くばりではなかろうか、などと考えながら行くうちに、お蝶は、何か触覚の異様なものに、足元をすくわれて、思わずそこによろけました。

はっとしたのは、目の前に仆れている黒いものを見たからです。人間です。露ッぽい草のなかに、短い髪の毛を散らばしてうツぶしている一個の死骸は夜目にも明らかな女であります。

「おや？」

お蝶が、死骸をみてつぶやいた声は、いかにも<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>ごとのようでした。

次には、そばへ寄って、

「どうしたのかしら？　……刀傷もないし締め殺された様子もない。そのくせ、死んでいるなんて」

おかしい事のように<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のなかで言いました。

そして、女の髪の毛が、短く切りとられてあるのを見くらべて、お蝶の好奇心は、死者を見る同情などを忘れている。

まったくその死顔は、死顔というべくあまりに凄艶です。むしろ作り物にしろ、生けるお蝶の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の方がどれほどすごいかわかりません。

「あらッ？」

そのうちに、お蝶はこう言って、やにわに顔につけている<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の上へめくりました。

「見たような<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>だ……見たことがある。おかしいね、たれだろう？」

しきりと考えていましたが、その身なりから推して、江戸で会った者だろうとだけは想像がつきましたが、にわかに、何処で会った誰ということまでは、どうしても思いあたらない。

と。

天を向いた<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>と、お蝶そのものの美しい顔とが、何に驚いたものか、キッと、うしろを振向きました。

「あっ……」

すッくと立って耳をすますと、まさしく<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>の<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>のやぶにあたります。風とも思えないしのびやかな音が、水のようにザワザワと流れて来る。

途端に――

一方の木立のなかに、ちらとうごく人影を見たので、お蝶は、仮面と顔とをヒラリと<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>にくるんで、風のごとく馳けだしました。

「それッ」

一陣になって追い慕ッたものがある。

御用――と黄色い明りを振れば、すぐに捕手とわかりますが、この一団の人影には一個の明りもたずさえられておりません。

やがて――

いたずらに、<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>の<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>や青田のあぜを馳けずり廻って、むなしく先の数人が引っ返して来てみますと、一方、お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>の死骸のまわりにも、幾人かの軽装な捕手が、それをとりまいていぶかしそうに小首をかしげている様子。

きりょうの<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い女だ。それに髪を切られているから、これはどこか城下の茶屋女が、痴情で殺されたものだろう――などと、いっぱしな目明し気取りで、鑑定をつける者がある。

いや、こんな女は、城下の茶屋じゅうで見かけたことがない。という異説も出たりします。

第一この死にかたがどうも怪しい。

評議まちまちの結果でした。

とどのつまり、やはり、これは一応誰か然るべき者か上役の者に来てもらわなければ、この死骸をこうして置いていいか、それともべつな処分をするか、どうにも去就がつかないということになります。

で、話がそうきまると、ひとりの捕手が、合点という風に<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>のやぶに飛びこみました。

しばらくすると、篠のそよぎの消えて行った<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の奥で、一声、二声、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まろび</span>音に吹かれた<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>が尾をひいてひびきます。

初めて、ぼっと<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が浮いてくる。それも人魂のごとくたった一つ。

どこかに伏せておいたのが、<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>に<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いて来るのでしょう。

まもなくだんだんそれが近づいて来ると、合図をした組子のひとりが、藪を分けて案内に立つ。

何かしきりとしゃべるのを、明りに添って来る三人が、うなずきながら聞き取っている。そしてザワザワと畷へすすむ。明りの先にバラバラと虫が飛ぶ。

提灯を手にしているのは、柳沢家の町方与力か、或いは同心程度の捕吏であろう。朱房の十手を前ばさみにしている。

そして、あとの二人というのは、徳川万太郎に目明しの釘勘でした。

## 大盗の恋

「おい<ruby><rb>法達</rb><rt>ほうたつ</rt></ruby>、いぶすのはもういい加減にしてくれないか。目に沁みてしようがねえ」

例の鼻寺の方丈に<ruby><rb>端居</rb><rt>はしい</rt></ruby>して、日本左衛門はしきりと<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をうごかしています。

<ruby><rb>榧</rb><rt>かや</rt></ruby>を折ってはくべていた法達は、煙の中から、<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>ぎった顔を振向かせて、

「そうですか。客人がそろったから蚊いぶしも馳走のつもりなのですが」

「もう充分だ。これ以上いぶされちゃ、どいつも、しッぽを出さずにいられまい」

「は、は、は、は、ちげエねえ。今夜の客人をいぶすのは禁物だったかもしれない」

最前ここへ訪ねて来て、そこに居合せた<ruby><rb>雲霧</rb><rt>くもきり</rt></ruby>と四ツ目屋も、声を合せて笑いながら、

「なあに、おれたちは極めつきの白浪だ。このほかに出すしッぽもねえが、御夢想ぐすりなんていういかもので世間様をごまかしている、鼻寺の<ruby><rb>和尚</rb><rt>おしょう</rt></ruby>がいっち先に<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>を出してしまやあしねえか」

「ひどいことをいうなよ。御夢想ぐすりでもばかにはならんぜ。なんなら、一服進ぜようか」

「もう売りつけにかかっていやがる。おあいにく様だ。ここには、人一倍鼻のきく人間ばかりそろっている」

ところへ、何かピチピチとはねる水桶をさげて、薄暗い庭先へ顔を出した寺男の八助が、

「方丈様、やっと<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>っけて来ました」

「あったか、鯉が」

「大きなやつを、三匹ばかり仕入れて来ましたが、なんに致しますかね、こいを」

「どれどれ」

と、法達も四ツ目屋も、縁先へ出て水桶をのぞきながら、

「なるほど、いい鯉だ」

「おことばに甘えて、あっしは洗いにねがいたいね」

と、新助がいうと、雲霧が、

「おれは鯉こくを注文するぜ」

「寺へ来て、お茶屋へでも行ったようなぜいたくを言いなさんな」

「じゃ方丈様、造作はありません。両方に振分けてつくりましょうか」

「ウム、御苦労だがやってくれ。そのまに、おれは膳の方を出しておくから」

法達が<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>の方へかけこむと、八助は庭先の流れへ、すぐ、<ruby><rb>出刃</rb><rt>でば</rt></ruby>とまな板を運んで来て、鯉の作り身にかかっています。

何を考えているのか、寺の水で鯉の血が洗われているのを眺めて、日本左衛門はひとりでクスクスと笑っている。

「おや、本堂の方で、人声がしやしねえか」

「そうだな」

新助が立って行ったかと思うと、程なくそこへ、千束の稲吉を伴って席へ帰って来ました。

「親分」

「お、稲か」

「秦野屋はまだ参っておりませんか。実あ、ゆうべおそく、話があるから<ruby><rb>此寺</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ来いという飛脚があったので、日の暮れるのを待ちかねてやって来ました」

「九兵衛もそのうちに見えるだろう。……だが、てめえ達は、なんの為に、今夜おれの前でガン首をそろえようというのか」

「それは今に、九兵衛が来てから言うでしょう」

「そうか。……まあいい、折角の久し振りだ。今法達が酒の支度をしているから、今夜はゆっくり飲むとしよう。ところで」

と、急に庭先を振向いて、

「おい、八助」

「へい」

「ゆうべの返事は、たしかに訪ねて来ると言ったのだな」

「まちがいなく来ることになっています」

聞きとがめて、そばの者が、

「親分、<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>のほかに、まだ誰かここへ来るものがあるんですか」

「だから、少し静かにしていてくれ」

「へ」

「本堂まで訪ねて来ても、もし、奥の方で荒ッぽい声が聞えては折角な<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を網から逃してしまう」

にわかにシンと声を沈ませて、

「たれですか。そいつは」

「お蝶」

「えっ、お蝶が」

「<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>のお<ruby><rb>咲</rb><rt>さき</rt></ruby>という<ruby><rb>女</rb><rt>あま</rt></ruby>が、尼になっているつもりで、今夜<ruby><rb>此寺</rb><rt>ここ</rt></ruby>へたずねて来る」

「うまい手はずにゆきましたね」

「だが、おれはすこし考え直した。どうもお蝶を殺してはまずい」

「で、どうするつもりなんで？」

「笑ってくれ」

「親分……」

「は、は、は、は。笑ってくれ」

「親分、何を笑っていいんですか」

「実あな」

「へい？　……」

「おれはお蝶を女房にしようと思うのだ」

雲霧と四ツ目屋は黙って顔を見合せたのみです。

余人なら知らないこと、日本左衛門が自分の口から、お蝶を女房にしようかと考えている――というのですから、ちょっと口が出しかねました。

「親分」

その時、方丈の横のふすまが、音もなく<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていました。

そこに突くばっている九兵衛を見て、

「おう、秦野屋か」

「よろしゅうございますか。今、裏の方へ廻ろうと思ったら、木戸が閉まっておりますんで」

「仲間うちだ。なんの遠慮があるものか」

「ごめんなすって下さい。お、稲吉も来てくれたか」

「ゆうべ、兄貴からくれた飛脚を見て、何はおいてもやって来たのよ」

「御苦労だなあ」

新助や<ruby><rb>仁三</rb><rt>にざ</rt></ruby>にも会釈をして、

「やれ、こうしてみんなと膝をくむのも、何か、たいそう久し振りのような気がする」

いかにも、心からくつろいだように、九兵衛はさりげなく<ruby><rb>煙草入</rb><rt>たばこい</rt></ruby>れを抜きとって、ゆうべからの暗中飛躍などは、みじんも顔にあらわしておりません。

<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて彼の行為を知っているものが、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>に彼を注意していれば、口へきせるをくわえた時、庭先で鯉を料理していた八助へ、ジロリと意味ありげな一<ruby><rb>瞥</rb><rt>べつ</rt></ruby>を投げましたが、それとて日本左衛門の<ruby><rb>烱眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>にさえ、少しも怪しげに見えなかったくらいなものです。

「時に秦野屋、ちょうどいい所へ来てくれた。実は今親分から、思いがけないことを打ち明けられて、おれ達のような若い者じゃ、相談相手になりそうもなく、弱っていたところなのだ」

日本左衛門は笑いながら、そばから語尾を引き取って、

「仁三のように、そうしかつめらしく聞かれては困る。実はな、九兵衛」

「へい」

「軽い気持で聞いてくれ――夜光の短刀をさがす上に、とかく邪魔になるやつを片づけてしまおうと、おめえをはじめ皆にも役割をきめて今日までだいぶ手をつくしたが、こいつあおれのしくじりだった。明らかに日本左衛門の心得ちがいに相違なかった。なるほど、盗賊としての四ツ目屋や雲霧は、どんな離れ業でもやってのける、たしかに一人前以上の才覚はあるが、さて、人を殺すという仕事は、すこし性質が違っている。で、尺取のやつのように、かえって向うのわなに<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちたりなんぞするというもの。おそらくは、おめえのような巧者にして、金吾を狙ってみるとなれば、物を盗む仕事とはだいぶ勝手が違うだろうと思うのだ」

「なるほど」

九兵衛は煙管を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃ</span>に持って、とっくりと耳を澄ましていた。

「で、おれのうけ持ったお蝶だが……。あれにしても、殺せるまでにこぎつけるにゃ、それ相応に骨が折れた。しかし、おれはたしかに、そこまではこぎつけた」

と、稲吉や新助の怪しむ顔を見廻して、

「――実をいうと、この間の晩、甲府の或る裏町で、おれはお蝶を殺すばかりにしたのだ。そこは、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>売りの久助というやつの家だった。その久助は、<ruby><rb>山岳切支丹</rb><rt>さんがくきりしたん</rt></ruby>族のなかまの一人で、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>か赤城のやつらの会堂へお蝶をつれて行こうというので、その晩こっそりと相談をしていた」

「親分、お話し中ですが……」

「ウム、何だ」

「その山岳切支丹族というのは、一体どういうものなんです」

「この世間では絶対に信仰のゆるされない切支丹。どうしてもその宗門を裏切れない信徒。寛永の<ruby><rb>邪宗門狩</rb><rt>じゃしゅうもんがり</rt></ruby>以来、山のなかに逃げこんで山の会堂に子孫をつくっている<ruby><rb>伴天連</rb><rt>ばてれん</rt></ruby>の血脈。そういうものの一団だ」

「じゃ、まったく世間の外に生きている人間どもですか」

「まあ、そんなものと思えばいい。だが、時には嵐のように世間へ出て、不思議な仕事をすることもある。たとえば、近ごろ江戸の切支丹屋敷の牢獄からヨハンの姿が消えたといううわさがある。また、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>売りの久助が、お蝶を山へ連れて行こうとした」

「そうして、何をやろうというのだろう」

「無論、やつらの目あても夜光の短刀にある」

「じゃ、あのお蝶と夜光の短刀とは、何かそんなに深いわけがあるんでしょうか」

「ある！」

「で親分も、お蝶を女房にしようと考えついたので？」

「それもあるが、いつわりのないところ、おれはお蝶に恋をしたよ。だから笑って聞いてくれと、前もって断ってある……」

そう言って、手のなかに<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を揉んでいる日本左衛門の姿を、兇猛無比な大盗とたれが見ましょう。

お粂を失った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の彼の胸の空虚に、堪えようのないさびしいものが生じたことは、彼がお粂をふみつけて、千鳥ヶ浜で言いました。それとしても年齢としても、日本左衛門が恋をする、それが、なんらの不思議でもないわけです。

「その晩、おれが夜ふけてから忍びこんで、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>売りの久助夫婦を殺しているのだ。だのになぜ隣の部屋に寝ているお蝶を殺さなかったろうか」

そう言って日本左衛門は、またあの口重そうなことばをつぐのでした。

「――おれはつくづくお蝶の寝顔をその時見た。ころびばてれんの娘だが、一種の高貴の相をもっている。そのくせ、<ruby><rb>朱</rb><rt>あか</rt></ruby>い唇は妖婦のようで、長い<ruby><rb>睫</rb><rt>まつげ</rt></ruby>はみだらな美しさと異国人の血を混ぜていることをあらわしている。何しろいい寝顔をして寝ているのだ。で、むざと殺すのが少し惜しい気がして、おれは、行燈へ一筆墨をぶつけて、ふいと帰って来てしまった。それから、自分の考えかたが変って来たのは事実だが、それも、恋だか慾だか、本心のところは自分でもよくわからない……」

と、ここで彼はまた、前にのべた<ruby><rb>山岳切支丹</rb><rt>さんがくきりしたん</rt></ruby>族のことに話をもどして、夜光の短刀とお蝶との関係にわたり、そのお蝶を失うことは、秘刀探索のやみに光る一点の灯をふき消してしまうようなものだと、その不利なわけを言って聞かせる。

では、日本左衛門がお蝶を生かしておいて、お蝶を利用すべく女房にしようという野心は、まったく野望のための野心であって、恋ではない。

そうも言えるじゃないか――と九兵衛は肚のうちで思いました。

しかし、九兵衛にはそれがどっちであろうと、大した問題ではありません。彼には彼の<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>がある。――こうしてお座なりのおつきあいしているのも、もう半刻か一刻。

そのわずかな<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に来るおそろしい運命の暴風を気づかずに、遠大な計をめぐらすつもりで、しきりとお蝶の生殺に考えを囚われているのは、やはり神ならぬ日本左衛門の気の毒なところだと、おかしく考えているのです。

と、そこへ法達が膳を運んで来ました。

<ruby><rb>納所用</rb><rt>なっしょよう</rt></ruby>の<ruby><rb>朱</rb><rt>あか</rt></ruby>い<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>に、手製の鯉こくの味噌のにおいや、八助が寺の<ruby><rb>小流</rb><rt>ささなが</rt></ruby>れで洗いあげた作り身などが添えられて出る。

そこで。

<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の手へ杯が分けられた<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に、九兵衛はここへ一同を集めた手前、この甲府にいることは危険だから、一日も早く、柳沢家の勢力外の地へ、足をぬいた方が得策であろうということを、あの老弁でいかにも日本左衛門の身を<ruby><rb>杞憂</rb><rt>きゆう</rt></ruby>するごとく、じゅんじゅんと説いて自分のお座なりの一役をすませました。

九兵衛の胸の底に、自分を裏切るおそろしい策がかまえられているとも知らずに、日本左衛門はだいぶ心をうごかされた様子。

では、どうせ土用の辰の日には、<ruby><rb>鹿野山</rb><rt>かのうざん</rt></ruby>で顔をそろえる約束のあること、ここをひきあげて、一先ず<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>の方へ足を抜こうか。

「どうだ、みんな」

一同へはかると、雲霧、四ツ目屋、稲吉にも、それには異存がないと言う。

「――じゃこうしよう。もうやがて、お蝶がここへ来る時刻だからそれを取ッちめたら<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>を待たず、今夜のうちに甲府境を出てしまおう」

「するとかごがいりますね。まさかお蝶をひッかついでも歩けますまい」

「あの女が、おれのことばに、なんというかあわからないが、もしジタバタするようだったら、<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>にかごという支度よりほか仕方があるまいな」

「無論、騒ぎ立てるにきまっております。じゃ法達、その用意をしておいてくれねえか」

「かごですか」

「そうだ、かご屋も真面目なやつはだめだぜ。<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>さえウンとにぎらせれば、どんな事でもやッてのけるというような、<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しいやつをさがしてくれ」

「ようがす」

と法達は、のみこんで手のあいた八助にそれをいいつけて、

「急にこの酒がお別れとなりましたね。じゃあ手前もひとつ、お流れをもらいましょうか」と車座のなかへ割りこみます。

――すると、法達にいいつけられて、かごをさがしに行こうとした八助が、すぐにそこへ引っ返して来て、

「親分――」と低い声を落しながら、本堂の方を指さしました。

「来ましたぜ……例のが」

「え？　お蝶が」

「そうらしゅうございます。今、<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>から草履をはいて出ようと思うと、ちょうど山門のところに立って、何か、こうそこらを見廻している影が見えました。たしかに、あの娘にちがいありません」

「そうか」

日本左衛門がきっぱりとうなずくと、方丈の酒もりは、にわかに、無人のようにシンとなって、白い眼と眼がけわしく動きました。

四ツ目屋は身をのばして、

「で、親分」

と、ささやくような小声で訊く。

「お蝶が来たら、どういう手都合にします？　およそ段どりを極めておいた方がいいでしょう」

「ウム、耳を貸せ」

大きく投げられている人影が、すすけた壁に重なりました。

## 鼻寺炎上

<ruby><rb>雀羅</rb><rt>じゃくら</rt></ruby>を張った<ruby><rb>破風</rb><rt>はふ</rt></ruby>から鬼の腕でものびそうに思われる、――その朽ち<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>いだ山門の、顔をなでられてもわからないような<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>のなかに、チラリと、<ruby><rb>銀簪</rb><rt>ぎんかんざし</rt></ruby>の光がうごきました。

さらに見れば、チラチラする銀簪のほかに、あの濃い<ruby><rb>睫</rb><rt>まつげ</rt></ruby>をもったお蝶の特徴のある目が、太い柱のかげから、そこまで走って来てうしろの暗をジッと見ています。

「びっくりした……。何だろう？　いま私を追いかけて来たやつは」

暫くはそこで、息のハズむのをしずめている。そして、帯の間から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たとう</span>を出しました。櫛を抜いて髪を直し、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>を合せてキチンと帯のうしろをしめる。

はばの広い階段の前に立ちました。そこは本堂と思われますけれど、ほかに、寺僧の居そうな明りも見えないし、どこが<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>だか方丈だか見当もつかないので、

「今晩は……」

おかしいような気がしましたが、ともかくも、そこに立って、こう訪れてみたのであります。

「……こんばんは」

と、もういちど。

<ruby><rb>洞然</rb><rt>どうぜん</rt></ruby>とした<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>のやみに、高くないお蝶の声が、気味のわるいほど妙な音波をひろげました。しかしいつまでも、返辞もないし、明りの影がうごいて来ません。

「居ないのかしら。……それに、お<ruby><rb>咲</rb><rt>さき</rt></ruby>ひとりで留守をしているという<ruby><rb>尼寺</rb><rt>あまでら</rt></ruby>が、こんな大きなお寺なのかね？　……」

立ち迷って、しばらくそこに腰をおろしておりますと、やがて何処かで、ガラリと重い<ruby><rb>欅戸</rb><rt>けやきど</rt></ruby>でもあいたような音がひびきました。

「どなたでござる」

誰か、こういう者があります。

振向いてみると階段の上に、ひとりの法衣の人影が見えますので、

「うかがいますが」

と、お蝶が小腰をかがめました。

「はい」

と、ジロリと見おろしているのは法達の目です。――なるほどこいつア美しいヤ、と腹のうちでつぶやいている。

「見ればお女中のようだが」

「ええ、あの……、こちらは、鼻寺というお寺ではないんでしょうか」

「左様、<ruby><rb>西蓮寺</rb><rt>さいれんじ</rt></ruby>といいますが、俗に、鼻寺でも通っております」

「じゃあ、やっぱりここかしら」

「何か、人でもおたずねかな？」

「尼寺だというて、聞いて来たのでございますけれど、尼寺じゃないようだし……」

「ああ、それでは娘御は、江戸のお蝶どのという方ではないのかな」

「はい、そのお蝶でございますが」

「では、待ちかねている<ruby><rb>仁</rb><rt>じん</rt></ruby>がございますぞ。さ、上がるがいい。……いや、そこから」

もっと念を押そうと思うまに、法達はスススと本堂の畳を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>って、内陣の<ruby><rb>暗</rb><rt>くら</rt></ruby>やみから、一個の<ruby><rb>網雪洞</rb><rt>あみぼんぼり</rt></ruby>をとって、それへ明りを磨りつけている。

――まだ半信半疑の気もちで、階段の上に立っているお蝶を振りかえって、

「いま案内をしてあげる。さ、そこに居て、すこし足でも休めなさるがいい」

「お咲は、こちら様に、居るのでございましょうか」

「只今、裏の庵室で、ちょっと、おつとめをいたしていますじゃ」

「そうですか、それじゃあ……」と、お蝶は初めてホッと気をゆるしました。そして、暗いのを幸いに、本堂のなかほどへ足を横にして坐りながら、

「アア、ほんとにくたびれた。……じゃお咲が来ますまで、ここに休ませておいてもらいます」

そう言って、内陣の方を振向きましたが、そこには今、人がともして行った一個の<ruby><rb>網雪洞</rb><rt>あみぼんぼり</rt></ruby>が、<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>の<ruby><rb>螺鈿</rb><rt>らでん</rt></ruby>や古びた<ruby><rb>金泥</rb><rt>きんでい</rt></ruby>の物体を、メラ、メラと、あやしげに明滅させているのみで、法達の姿はどこへ行ったか見当りません。

そのまま、いつまで待っても音沙汰がないので、

「ちッ、どうしたの」

お蝶はすこしじれだしました。

「自分から、来てくれといって使いをよこしておきながら、人をばかにして――。帰っちまうよ私は。いいかい<ruby><rb>乳母</rb><rt>ばあ</rt></ruby>や」

<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から出した<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を膝にのせて、誰にも言い<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>のない<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>を<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>に聞かせておりました。

すると。

ひとみの中に火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>かれたように、般若の<ruby><rb>金瞳</rb><rt>きんどう</rt></ruby>がトロトロと燃えて、キバに裂かれた青<ruby><rb>隈</rb><rt>ぐま</rt></ruby>まで、急にすごく浮いて出ましたから、彼女が、アッと、それを投げようとしますと、

「お蝶、来たか」

と、うしろの声です。

仰ぐと、そこに<ruby><rb>白上布</rb><rt>しろじょうふ</rt></ruby>を着流した日本左衛門の影が水のごとく立っていました。そして、彼女の肩の上に、網雪洞の細い<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をかざしてニンマリと笑みをゆがめている。

<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>にのせていた般若のひとみがトロトロと燃えたと見えたのは錯覚ですが、そこに日本左衛門が立ったのは現実です。

お蝶はぶるぶるッとすくんでしまう五体をどうしようもありません。日本左衛門の目は冷ややかにそれを眺めて笑っている。

彼女は、一尺二尺と、あとへ体をずらせました。

が――立つ隙がありません。――逃げる隙がありません。腕も<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>もつかまれていはしませんが、のがれることのできない<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>み。

「よく来たなあ。おれは待っていたんだ。乳母のお咲という使いは、この日本左衛門が出したのだ」

こう言って、相手が膝をまげて、ぼんぼりを下へ置こうとしたせつなに、彼女は、飛鳥のように立ちました。

と――

「お蝶ッ」

日本左衛門が鋭く言います。

「だめだ！　廊下を見ろ、うしろの内陣をよく見ろ。白いものが見えないか、あれは人の骨ではない。短刀だ、おまえが逃げるところを待っている短刀だぜ」

その時には、明らかに人の気配が四方のやみにうごいていました。

すると、日本左衛門はその<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>へ向って、

「雲霧――」

と、まず呼びます。

「へい」

「<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>」

「へい」

「稲吉」

「オオ」

「四ツ目屋――。もうここはいいから、方丈でゆっくり飲んでいてくれ。ウム、用があったらいつでも呼ぶ」

姿の見えない跫音が、静かにそこを去ってゆくと、

「まあ坐るがいい。そうしていてもしかたがねえだろう」

お蝶の袖をおさえました。

極端なおびえから極端な落着きにうつる気持が、自分でもわかるように、お蝶は、体のふるえが止まっていました。度胸というのか、<ruby><rb>不貞腐</rb><rt>ふてくさ</rt></ruby>れというのか、処女のような恐怖の度をとおり越すと、いつも、お蝶は怖いものを知らないような女です。

で、引かれた袖の方へ、黙って横に坐りこむ。

そして、<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>や<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>を見廻して、そこに日本左衛門の居ることすら度外したような顔でいますと、自分の帯から二寸ばかり上の胸元に、<ruby><rb>樋</rb><rt>ひ</rt></ruby>へ流したような刀のみねが、ピタリと突きつけられて来ました。――ちょうど刀の神経で心臓の音を聞こうとでもするように。

「なんですか、これは」

そういったものです。朱いくちびるが。

「切れることに類のない備前の<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>もの」

「まあ、きれいな<ruby><rb>鉄</rb><rt>かね</rt></ruby>の色ですこと」

「おとといの晩、お前にたしかに預けておいたものがある。その命をな」

「私の命は、盗賊の借りものなんかではありはしない。……ですけれど、今夜は逃げもかくれもしませんよ」

「逃げようとしても、逃げられない」

「いいえ、逃げようとすれば、きっと逃げられるけれど、お前さんみたいな、しつッこい、根気のいい、そして、やたらに変な子分の多い人に見こまれては、私も助からないものと覚悟をきめましたわ」

「そうだ、お前のいうとおり、おれは<ruby><rb>執着</rb><rt>しゅうじゃく</rt></ruby>と根気の人間だ。あきらめたか」

「で、私を殺すつもりなんですか」

「いやと言えば、それよりほかにしかたがない」

「え、何をいやと言えばなの？」

「女房になれ。おれの女房になるとここで誓いをしろ。そして、おれが幾年かたずねている夜光の短刀を、共々、一緒になって、探索するということを、きっとおれに約束するのだ」

「――夜光の短刀のあるところですって。私、何にも知りゃあしないのに」

お蝶のことばは、胸元へ来ている刀に自分の体のうごきを止められているようでもなく、だんだん常の調子になって、

「それだのに、そんな誓いを立てたってしようがないじゃないの」

と、流し目に言って、相手の顔色をジッと見ました。

「いいや、お前はそのありかを知らなくても、おまえにそれを教えようとしている人間がある」

「たれ」

「ヨハンだ。<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>の者だ」

「だって私、そんなことを、誰にも頼んでありゃしませんよ」

「ともあれ、お前は夜光の短刀の秘密をひらく一つの鍵だ。おまえという<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>王家の血すじを伝えている人間があればこそ、死んでは渡り、絶えては代り、この日本へ海を越えて来る<ruby><rb>伴天連</rb><rt>ばてれん</rt></ruby>がある」

「だから、私と切れない縁をむすんで、その夜光の短刀をさがす手先に使おうとするの？　そしてその短刀を羅馬へ売りつけようとするの？　……ホホホホホ、なるほどあなたは虫のいい泥棒ね」

「が、お蝶。もうすこしおれの話をきけ。おれがそう言ったら、お前を慾の手先にだけするようだが、実あ、いつぞやの晩もお前を殺しかねたほど、おれの気持が変っているのだ」

「変っているッて、どう変っているんですか。私には、何だかさッぱりわからない」

「おれはお前に恋をしている」

「刀でおどかして、口でだますの？」

「日本左衛門、うそは言わない」

「…………」

「いやか！」

お蝶は、手にしている洞白の仮面を指でもてあそびながら、恥しそうに首を曲げて、

「わからないわ……私」

不意に、鞘は刀を吸いました。日本左衛門はそれをうしろへ置いて、ずっとそばへ膝をすすめるなり彼女の体を寄せて、

「お蝶、いやではあるまいな」

抱えあまる腕のなかに、彼女の肩を仆しました。

腕のなかで、銀の<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>がサラサラ鳴って、

「知らない……知らない……私、そんなこと」

言ったかと思うと、彼女の手の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>から、不意にひらめいた細手な短刀が日本左衛門の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>へと走ったのを、さッとかわされて、その<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の下を一文字に突きのめりました。

「その<ruby><rb>策</rb><rt>て</rt></ruby>かッ」

と、<ruby><rb>平手</rb><rt>ひらて</rt></ruby>打ちに、刃物をたたき落とそうとしましたが、計って立ったことなので、お蝶は、すばやく返した短刀を逆手に斬りつけました。

飛びさがって、うしろの大刀をつかんだ日本左衛門は、その<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>を向けて、お蝶へ<ruby><rb>体当</rb><rt>たいあて</rt></ruby>をかけましたが、しかし、それよりも早く、彼女は本堂の<ruby><rb>廻廊</rb><rt>かいろう</rt></ruby>を目がけて逃げ走っています。

そして、ヒラリと<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>ぼうとしましたが、もう両方から駆け出していた雲霧や、秦野屋や、千束の稲吉が、そうはさせずに抱きとめて、

「静かにしろッ」

ひとりが<ruby><rb>喉輪</rb><rt>のどわ</rt></ruby>へ腕をかけて締めつけると、ひとりは逸早く手ぬぐいを取って猿<ruby><rb>轡</rb><rt>ぐつわ</rt></ruby>をかける。

「それ、かごへ」

「オオ、八助」

法達が本堂の蔭へ手を振りました。

ねじ抱えられたお蝶の体が、どたどたと板縁を運ばれてゆくうちに、その両足を抑えていた秦野屋九兵衛は、彼女の袖にひそめてあった洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を抜き取って、すばやく自分のふところへ移している。

が、彼の動作に気がつくものは誰もなく、お蝶をかごの中へほうりこむや否や、<ruby><rb>各〻</rb><rt>めいめい</rt></ruby>は高飛びの足ごしらえに急であります。

<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>の紐、わらじの緒、手早く結び終えますと、千束の稲吉、雲霧の仁三、秦野屋九兵衛、それに四ツ目屋の新助と都合四人。

お蝶のかごを取り巻いて、

「じゃ親分。<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>の方へ一足お先に」

一文字の笠をそろえて会釈しました。

日本左衛門は廻廊の端まで出て、<ruby><rb>蝋色鞘</rb><rt>ろいろざや</rt></ruby>の大刀を板縁に突いて手を置きながら、

「城下<ruby><rb>境</rb><rt>ざかい</rt></ruby>を出るまでは、人目につかぬよう、なるたけちりぢりに分れてゆけよ」

と、見送っている。

棒鼻にゆらゆら揺れる明りにもつれて、かごと人との影は、一散に、鼻寺の本堂をあとにして、山門の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>まで走り出ました。

途端です――

その行き足を食い止めて、わッという波のような人声。と共に、霜柱を蹴ちらしたような銀みがきの十手の一ツ一ツから、御用、御用、御用、御用！　果てしもない人数の喚きです。

「しまッた！」

ドンと板縁に<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>をついて、その大刀を横に提げ直した日本左衛門が、ばらばらと方丈の奥へ駆け込もうとすると、内陣の宝燈、<ruby><rb>経机</rb><rt>きょうづくえ</rt></ruby>をくずして、忽然とおどり立った一人のものが、

「日本左衛門待てッ」

と鋭く呼び止めました。

内陣からおどり出して、待てと、自分の前に立ちふさがった侍、日本左衛門は、それも<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>役人のひとりかと思いましたが、意外です。<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾でありました。

こんな際また、この、場所へ、金吾が姿を見せたことは、彼にとっては<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なからぬ驚きであったらしく、

「オオ」

と、跳び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて、ひっさげた<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>の<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>りを小脇に、

「金吾だな！」

という言下に、その体は、すでに自然な身構えを持しています。

待てといい、オオと答えたことだけで、もう双者は一髪を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れぬ<ruby><rb>対峙</rb><rt>たいじ</rt></ruby>となって、かれの<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>と金吾の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>の一刀はなんどきでも、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を脱して敵の血を吸わんとする用意を怠っておりません。

金吾は、彼を広い本堂の中央へ<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>うために、じりじりと身を移しながら、

「かねて、小仏の谷<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>で誓ったことばを――その時の広言をば、おのれ、よもや忘れてはおるまいな」

「ウム、それがどうした」

「日本左衛門！」

五体に力をみなぎらして金吾が叫びます。

「こよいこそ、おのれの一命を申しうけに来たぞ。卑怯に、逃げかくれをいたすなよ」

「<ruby><rb>性懲</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>りもなくまたやッて来たか。して、約束の貴様の名分はどう立てる？」

「この金吾が、お粂の色におぼれている武士であるかないかは、これを見て知るがいい。お粂の生首の代り、<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>として貴様にくれてやるから、取っておけ」

一つかみの黒髪は、やにわに、彼の面上へ投げられました。

<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>に投げられた妖婦の黒髪は、煙のように散らかって、ひとすじひとすじ、愛慾の息をつき、悲恋の呪いを描くものの如く、日本左衛門の顔や肩にまつわりました。

「えい、うるせえッ」

その黒髪を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>つが如く、<ruby><rb>颯然</rb><rt>さつぜん</rt></ruby>と鳴った大刀は、白光の火を縦に曳いて、金吾の真ッ向へ落ちてくる。

と。

一宮流の抜刀法――金吾の刀は抜く手の音もさせません、かれの憤然たる初剣をかわして、<ruby><rb>来</rb><rt>らい</rt></ruby>の<ruby><rb>了戒</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>のあざやかな<ruby><rb>鉄</rb><rt>かね</rt></ruby>色が、静かに、そして鋭く、眼光刀光が一すじになって詰め寄ろうとしています――<ruby><rb>平手</rb><rt>ひらて</rt></ruby><ruby><rb>青眼</rb><rt>せいがん</rt></ruby>のかたちに。

「むッ」

と、気をふくんだ日本左衛門。

「…………」

ミリミリと手にしている刀身に、彼の殺気がシビれて来るように感じたでしょう。金吾はいちだんと精をあつめて、らんらんたる双眸を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎすまし、彼の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>をうかがいました。

――が、そうしているまに、早くも本堂の階段や、そこ、ここには、山門の方から手分けをした捕手が、土足で廻廊にふみ上がって、逃げまわる和尚の法達と八助を追って、御用、御用、という声を暴風のようにわめかせております。

――ともすればその十手に、うしろを襲われそうなのが、いちじるしく日本左衛門の不利でもあり、彼の気をいらだたせていました。で、眼前の邪魔者を、早く片づけようとするあせり気が、カッカと燃える毒焔のように、長船の先からほとばしッている。

金吾は一<ruby><rb>途</rb><rt>ず</rt></ruby>です、死に身です。積日の怨みをこの機会にすすがなければ、彼の立場はありません。生きて<ruby><rb>何人</rb><rt>なんびと</rt></ruby>に会わせる顔もない。こう死を期している彼でした。

この気持の相違は、いやでも双方の剣の上にあらわれなければなりません。

日本左衛門が、つけ入ろうつけ入ろうとするほど、金吾は堅実味のある<ruby><rb>平手構</rb><rt>ひらてがま</rt></ruby>えをくずさず、容易に<ruby><rb>絃</rb><rt>つる</rt></ruby>を切って放たないのは、いつもの金吾とだいぶちがいます。すくなくも、あの<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>一徹なあぶな気が、今夜だけはないようです。或いは、それを自分の短所と知って、大いに<ruby><rb>戒</rb><rt>いま</rt></ruby>しめているのかも知れない。

ですが。

場合による双方の気もちの変化はともかく、根本の実力に於いて、金吾の巧者が日本左衛門の剛質な剣法に及ばないことは、千鳥ヶ浜の場合でも証拠だてられているとおり、うごかすことのできない事実です。

やがて、金吾の堅実にとった<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>青眼も、彼のすばらしい圧倒的な上段に、割りこまれはしないだろうか、その危ぶみが、ないとは言えません。

と――案に相違して、どういう虚を見たか、やがて、かえって金吾の方から少しずつ攻勢をとってゆきました。と言っても、三、四寸ずつ――<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>の尾を振るように、了戒の<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>が微光を発しながら、相手の胸板へ迫ったに過ぎませんが、今、おそるべき殺気を<ruby><rb>撓</rb><rt>た</rt></ruby>めきッている彼の剣下へ、一尺と迫ることは、半ば、死のふちへ足をかける覚悟でなければなりますまい。

とたんです――<ruby><rb>眠龍</rb><rt>みんりゅう</rt></ruby>の髯に触れたように、彼の気合が耳をうッたかと思うと、相良金吾のからだは斜めに走ッた日本左衛門剣風の先に跳んでおります。

が、むしろ、それは金吾としてあざやかなかわしかたでした。彼の気合を空刃に<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らしたところで、金吾はおそろしい速度で斬りかけました。左刃、右刃、息もつかせぬ攻勢です。

タタタタと五、六歩の<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>、日本左衛門もまったく受け身にならざるを得なかったくらい。

「オオッ」

いずれの声だったかわかりません。

日本左衛門が剣勢を改めて踏み<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まったとたんに、当然、両方の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>が火を<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>りました。まッ暗な<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>のなかに、異様の鉄のにおいが流れる。

御用、御用。

<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>や方丈の方で<ruby><rb>騒擾</rb><rt>そうじょう</rt></ruby>たる人の足音が絶えません。そして、そこから見れば、山門の方は火を焚いたような<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の明りです。

（お蝶のかごはどうしたろうか？　雲霧や秦野屋やそのほかのものは無事にこの寺を切りぬけて出たろうか）

こう思うと日本左衛門、おのれの身より、子分の上が案じられてならない。お蝶のかごが、気づかわれてならない。

「ええ、青二才」

面倒と思ったのでしょう。それはむしろ、暴ともいうべき<ruby><rb>鍔競</rb><rt>つばぜ</rt></ruby>りをしかけて、いきなり金吾を押して来ました。場なれのした彼の大胆と、その<ruby><rb>上背</rb><rt>うわぜい</rt></ruby>から押してくる圧倒です。

「ムム」

と、いやおうなく、<ruby><rb>鍔押</rb><rt>つばお</rt></ruby>しに押されてゆく金吾。

一歩――二歩――気をくだけば彼の剣がズバリとそのまま欲するところを割りこむに違いない。

「あっ……」

よろめきました。

さっき、そこへ置かれた手燭です。手燭を離れた<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>をふんで、金吾の体が意外なよろけ方をしたので、互いに、蛇舌を吐いてかみ合っていた二刀の銀蛇は、不意をくッて、意志のない光を描いて離れます。

せつなに、日本左衛門はこことばかり斬ッてさげる。身を起こせば斬られたでしょう。あやうくも金吾、ぱッと、畳に伏して足元を<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぎつけていました。

――その寝打ちの払いが届いて日本左衛門が<ruby><rb>片脛</rb><rt>かたずね</rt></ruby>を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>たれたか、彼の振下ろした大刀が金吾の背すじを割りつけたか？　……その結果を見ぬうちに、突然、内陣の一方から、真っ赤な火光がカッとあたりを染めました。

火光が<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>して初めて知れたのは、いつのまにか、もうもうとした黒煙りのうずが、本堂の伽藍いッぱいに立ちこめていたこと。

その、まっ黒な濃煙が、ゆるい運動をえがいているなかに、金吾と日本左衛門の影は、すでに法や格を無視したところの殺剣を交ぜて、<ruby><rb>鏘々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>たる火花をちらし合っている。

もう、眼を向けられない煙です。いずれが金吾か、いずれがこれか、その識別もつかないまでに。

ふと見ると、内陣の深くは、赤い<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣がかがやいている。そして、<ruby><rb>剥落</rb><rt>はくらく</rt></ruby>した<ruby><rb>金泥</rb><rt>きんでい</rt></ruby>の<ruby><rb>薬師如来</rb><rt>やくしにょらい</rt></ruby>か何かの仏像の足元から、朱金の焔がメラメラと<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>の一角をなめ上げているのでした。

火事！　と誰やら絶叫して騒ぎ出すうちに、紅蓮は厨子から円柱をつとうて縦横に本堂の<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>へ。

「おのれッ」

「法達ッ、法達」

すさまじい物音が、その時、内陣のうしろにあたって響きました。

本堂の裏に火を放って、その騒ぎにまぎれて逃げのびようと計った和尚の法達は、自分のそそぎかけた油の煙と炎に追い出されて、潜伏していたそこを走り出したとたんに、

「それッ、法達だ」

「御用」

と、八方から呼ばわる捕手に追い廻され、とどのつまり、僧房の一<ruby><rb>隅</rb><rt>ぐう</rt></ruby>に袋づめにされて、十手の乱打に気をうしない、高手小手にしばりあげられる。

そこで、

「法達<ruby><rb>召捕</rb><rt>めしと</rt></ruby>った」

と<ruby><rb>凱歌</rb><rt>がいか</rt></ruby>があがった時、<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>の隅でも、寺男の八助が<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>についた様子であります。

が――一方、山門までお蝶のかごをやって、そこで、わっと捕手の一群に出っくわした雲霧や四ツ目屋の一組の方はどうしたでしょうか。

無論、殺到した人数におどろいて度を失うような連中ではありません。

「おっ、来やがったな」

と、まず精悍なる雲霧が、<ruby><rb>大刀</rb><rt>どす</rt></ruby>をかまえてかごの前におどり立ち、千束の稲吉も手に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をくれて、

「よし、ここはおれと雲霧とで食いとめるから、秦野屋と四ツ目屋の兄貴は、一足先に出かけてくれ」

叫ぶや否、抜いたる刀をふりかぶって、御用と声のかかるを待たずに、むらがる捕手のなかへ斬って入りました。

「裏山から<ruby><rb>阿弥陀街道</rb><rt>あみだかいどう</rt></ruby>へ抜けろ。でなければ、<ruby><rb>木賊</rb><rt>とくさ</rt></ruby>の奥から<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の道へ」

四ツ目屋へ向ってこう言いながら、雲霧もまた寄りつくものを斬って払う。

「合点だ。あとをたのむぜ」

と、こう四ツ目屋の新助。

「それ、かご屋！　裏山へ、裏山へ」

と言ったのは秦野屋九兵衛です。――九兵衛はまごつくかご屋の先達になって、すばやく境内を引っ返し、八十八ヵ所の小路が縦横にある鼻寺の裏山へ向って、無二無三に、お蝶のかごをのしあげました。

そこにも、樹間をチラチラする<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の幾つかが、狐火のように<ruby><rb>浮遊</rb><rt>ふゆう</rt></ruby>して、しきりと行く手行く手の先を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>け廻しましたが、裏山を越えて、次の<ruby><rb>木賊谷</rb><rt>とくさだに</rt></ruby>へのぞむと、もう逃げる天地は自由なものです。

ほっと息をついて新助が、

「兄貴、ここまで来りゃあもう大丈夫だ。それにしても、親分はどうしたろうな」

と、秦野屋の姿をふりかえりますと、いままで、かごのわきに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた九兵衛の姿が見当りません。

「おや」四方をすかして、

「秦野屋――おい、秦野屋――」

こう呼ぶと、四、五間うしろで、

「おお」

九兵衛がわらじをおさえて、かがみ込んでいるのが分りました。

「どうしたんだ」

「踏み抜きをしてしまッた。……ア<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>、ア痛。と、とんでもねえ物を踏みつけて」

「えっ、釘でも踏み抜いたのか」

「まっ暗で、何をふんだのかわからねえが、右の足が、ち、血だらけだ……。ウーム、どうにも痛くって立つことができねえ。おめえは先へ行ってくれ、早く先へ」

「でも、兄貴を捨てて」

「なアに、おれはまた、どうにでもして後から追いついてゆく。だがおめえは、これから落ちてゆく道をどう取ってゆくつもりだ」

「<ruby><rb>雁金峠</rb><rt>かりがねとうげ</rt></ruby>の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を縫って、<ruby><rb>奥秩父</rb><rt>おくちちぶ</rt></ruby>から中仙道へ出ようと思う。そして親分との約束もあるから、ひとまず、<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>の木更津あたりで、みんなの来るのを待ち合せている考えだが」

「じゃ、おれも、きっとそこで落合うから、かまわず先を急いでくれ。何しろ、足に怪我をしちゃ、かえっておめえの足手まといだ」

そう言われても、まだ新助は去りかねていましたが、そのうちに、<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>の提灯と人影が近づいて来ても、まだ秦野屋が腰を上げようとする気振りもなく、

「さ、かまわずに行ってくれ。おめえと一緒に居ちゃ、かえっておれも逃げにくい」

と手を振っていなむので、ではとぜひなく、後日の会合を約して、四ツ目屋の新助とお蝶のかごは、<ruby><rb>木賊</rb><rt>とくさ</rt></ruby>谷をくだって山つづきの深くへ影を消しました。

あとで九兵衛は、ケロリとした顔で立ち上がって、ふところから、手拭でくるんだ<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を出して見ながら、

「さアて、これからどういう寸法にしようか」

と峰を辿って、もと来た方へ引き返して行く。

だが、べつだん足を痛めたような様子も見えません。

「オオ、火が上がったぞ」

そして。

鼻寺の<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>が、すぐ真下に見えるところまで来ると、彼は、手にしていた<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の鬼女<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を顔につけて、そこに仆れてある石仏の背なかへ腰をかけ、

「ウム、こいつア美しい」

と、両方の手へ、仮面をかぶった顔をのせて、<ruby><rb>熾</rb><rt>さかん</rt></ruby>に、火の粉を吹きあげて来る修羅のさわぎを、<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>のように見下ろしていました。

九兵衛が頬杖をついて見ている目の下のながめは、なるほど、きれいと言えばきれいです。壮観といえば壮観です。

何が美しいと言って世に大きな炎が物を焼きつくしてゆくほどの変化のある美はありません。

ですが、その美観は、それを対岸の火災視することのできる、冷たいひとみにだけ映るもので、ひとたび、その<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>を身にかぶるなり、その火の粉に追われるなりする時は、人間は決して、火を美しいとは言いますまい。

今も、鼻寺の炎上を、九兵衛は山の上から、頬杖にあごをのせて見物していますが、その火の粉の舞うところ、その炎のうずまくところ、その黒煙りの底は大変です。文字どおりな修羅の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>です。

たれが苦行して<ruby><rb>開山</rb><rt>ひら</rt></ruby>いたか、あたらこの一刹も、弘法大師を売り物に御夢想ぐすりの看板をかけられ、狐狸のすむ以上な人間の巣となって、今は、不浄役人の駆けずり廻る間に、惜しまれもせずバリバリと焼けています。

かりに、こういう寺にも、仏心のある<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>の<ruby><rb>像</rb><rt>すがた</rt></ruby>がすえられていたならば、むしろ、焼けた方がよいと、<ruby><rb>大紅蓮</rb><rt>だいぐれん</rt></ruby>の<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>のなかで、あざ笑っているかもしれません。

何しろ、炎は、ない風を呼びあつめて、鼻寺の境内、そのほか一町四方の木立のなかまで、夕焼のような明るさです。そして、<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の<ruby><rb>大廂</rb><rt>おおびさし</rt></ruby>から吐き出す黒煙りの影が、赤い大地を、むらむらとうごいてゆく。

雲霧と稲吉のふたりは、あまたの十手にへだてられて、わかれわかれに捕手の人数をなやましているようです。それも二手になって働いている黒い人影と<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>の光に察しられることで、いずれが稲吉やら雲霧やら、このあわただしい爆音と黒煙りとでは、とても、その行動を見てとることができません。

しかし、しばらくすると、一方の争闘が止んで、捕手の影が一団に<ruby><rb>蝟集</rb><rt>いしゅう</rt></ruby>したので、それが千束の稲吉を囲んでいたのだと知れました。さすがの稲吉も、遂に、力が尽きたのでしょう、折り重なった<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>の下になって、

「さわぐな。こうなりゃ<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しい真似をする稲吉じゃねえ」

いさぎよく脇差を投げ出しました。

で、わッという声をあげて、

「稲吉を捕ッたぞ」

と捕手たちが叫んだものですから、それが雲霧の耳へもとどいたとみえて、

「よし、おれが<ruby><rb>大刀</rb><rt>どす</rt></ruby>と命がつづくかぎり、いらざるまねをしやがった柳沢家のやつらを、斬ッて斬ッて斬りまくしてやるから、見ていやがれ」

さながら、悪鬼のさまとなりました。脇差の刃もそれをとる手も、血みどろです。

おまけに、<ruby><rb>赫々</rb><rt>かっかく</rt></ruby>と燃え上がっている焔の色が、彼の、死にもの狂いな<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>にすごみを加えていますから、その姿だけでも二十や三十の捕手を<ruby><rb>畏怖</rb><rt>いふ</rt></ruby>して寄せつけないには充分でした。で、ここの方は、彼を遠巻きにする霜の如き十手が、御用御用といたずらにさわぐばかりで、雲霧の<ruby><rb>就縛</rb><rt>しゅうばく</rt></ruby>、いつとも果てしが見えません。

時に。

その雨と降る火の粉と人数のなかを、<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>で疾駆しているひとりの貴公子がある。

また、もしその人に怪我をさせてはと、絶えず影について火をくぐり、煙をしのいで、あとから駆け歩いているもう一人の目明していの男がある。

「<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>ッ、なんでそちは、わしのあとにばかりついて廻る？　手分けをして、日本左衛門を探し出せ。わしは、お蝶の姿を見つける」

そのお蝶は、あのかごの中にかくされていたのだとは知らずに、こう、かんぺきの高い声で罵ッたのは、徳川万太郎です。

釘勘も、ここへ踏ん込むと共に、それは気が気でないのですが、何しろ、この自力を顧みない奔放な若殿を、ひとりで、修羅のなかへほうり出すことは、とてもあぶない気持がして、

「でも、万一若様に、まちがいでもありましては、この釘勘が、後日申しわけが立ちませぬ」

と言うと、万太郎は、いやが上に、かんしゃくを起こして、

「ばか、ばか。このような場合に、私を足手まといにしているやつがあるか。見くびるな、この徳川万太郎を！　万太郎だからとて、火や剣をおそれはしない。鼠賊の一人や二人、斬ッてすてるに何の造作があるか。――お前は裏山の方をさがしてみろ。わしは、炎をくぐって、この本堂のなかを見届けてみる」

と、意気<ruby><rb>軒昂</rb><rt>けんこう</rt></ruby>です。

さあその調子ですから、釘勘は、なんとも、ハラハラさせられて、この人のそばを離れることができません。

やや説きおくれておりますが、万太郎と釘勘が、柳沢家の捕手をかりて、ここへ襲撃して来たことは、相当な筋道のあることで、決して偶然ではありません。

二、三日前から、鼻寺の附近には、充分、さぐりがはいっていました。ですが、一挙に今夜の決行をうながしたのは、前夜、しかも深更になって、柳沢家の甲府町方役宅へ、徳川万太郎<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby>にとどいた、無名の飛脚からです。

<ruby><rb>深更</rb><rt>しんや</rt></ruby>をおどろかした手紙は、それより少し前の時刻に、町の飛脚屋を叩き起して、かの秦野屋九兵衛が投じたものであることは、かさねて、説明に及びますまい。

無名ですから何者が投じたものかわかりませんが、とにかく、内容には、明夜御城下外の鼻寺で、日本左衛門とそのほかのものが、必ず落ち合うことになっているということ。

また、尾州家の秘蔵<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を持つお蝶も、同じ時刻に、そこへ姿を見せるでしょう――として、意外な秘密があばいてある。

なか一日の余裕がある。で、手配はみッちりつきました。すでに、この近傍には、非人などに変装した者が、今日の夕刻を期して、ちらほらと立ち廻ってその間違いのないところを、彼へ<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせが飛んでいました。

前もって、柳沢家とは了解のあること、人数は、望み次第町方与力から繰り出すというので、万太郎の意気ごみは鋭い。

そして、寺まで来ないうちに、荒川<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>ではお蝶らしい者の影を見つけ、また、そこに倒れていた、丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>のふしぎな死骸をも見出しました。

その時、彼をよく知っている釘勘が、お粂のからだをあらためてみると、何とも腑に落ちない点があるし、かすかに呼吸もあり、体温もあるので、二、三の<ruby><rb>組子</rb><rt>くみこ</rt></ruby>に言いつけて、ひとまず、お粂の体は、そこから役宅の方へ運んでおくように言い残し、<ruby><rb>枚</rb><rt>ばい</rt></ruby>をふくんで、鼻寺へ近づいたものです。

ところが。

第一に何よりの手ちがいを見たのは、人数が、しのびやかに山門へ近づくやいな、計らぬかごと人とが、向うから、何も知らずに出て来て、手配のととのわぬうちに、そこで、いやでも物音をあげなければならなかった不測の事です。

不意だったので、先も驚いたでしょうが、<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>の方も行動が一致しない。

とこうするうち、本堂から火があがる。人数はいたずらにちりぢりになる。そして、かんじんなお蝶の姿と日本左衛門が、いつまでも見当りませんから、万太郎たるもの、青筋を立てるいわれは多分にあります。

釘勘はまた、この人あるがため、自分の<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>を欠いているのを知っていますが、口にはいえないで、

「じゃ、本堂の方は、手前が見届けますから、若様は、裏山をひとつ……」

と、それとなく、無難な方へ彼を避けさせようとしましたが、何がさて、人のさしずなどをうけて、そのとおりに動く万太郎ではありません。

「いや、裏山へはそちが行け。あの火の手をあやぶんで、捕手どもは、<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>のうちからみな飛び出しておるではないか。ふがいないやつめ」

<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の上にのぞんで、煙の立ちこめた真っ暗な本堂の階段へ、もう、一散に走っております。

「ちッ」と、釘勘は舌うちをしましたが、さりとて、持てあました若殿を、持てあましたまま見すててもおけず、つづいて、炭のように焦げた本堂の板縁へ、十手をさか手にひらりと跳びあがりました。

むッと、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を吹いてくる、熱風と熱気に、

「あッ、万太郎様」

と彼は、思わず袖口で息をおさえながら、

「<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>のある所へ、足を踏んごんではいけませんぜ。畳の上へ――」

向う見ずな万太郎も、おそらくそれは感知したでしょう。柱、うつばり、暗澹たる焦熱のやみの中にすべてチラチラと火をハゼておりますが、畳ばかりは一見なんの異状もないように見えます。が、それへ身を乗せたが最後、やわらかに焦げきっている<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の火と共に、どすんと焦土の底へ<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ち込んでしまうことは明らかであります。

と――

板縁を廻って、奥と持仏堂の境まで来た時。

突然、一方の長廊下に当って、バリバリッという凄い物音です。

と同時に、何者か、煙をくぐッて、駆け出したような<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を聞きました。

「やっ？」

いったん、そこを駆けぬけた万太郎が、不審と、きびすを返して飛んで来ると、今しも一室の源氏窓を蹴破ッて、火の粉と共におどり出した、<ruby><rb>大童</rb><rt>おおわらわ</rt></ruby>な男の影。

「日本左衛門！」

喉のうちで、こう叫んで、万太郎は一<ruby><rb>跳足</rb><rt>ちょうそく</rt></ruby>に、煙を払って追いました。

先の影は引ッさげ刀で、庭廊下をドドドドッと駆けだしてゆく。

「おのれッ」

そのうしろへ万太郎が、気いッぱいに斬りつけた抜き打ち。

「あっ！」――というと彼の刀は、青龍刀のような<ruby><rb>空鳴</rb><rt>からな</rt></ruby>りをさせて、徳川万太郎そのものの体と共に、相手の肩を越して方丈の庭先へもんどり打って捨てられています。

あやしげな人影を追って、万太郎が奥へ駆けこんだ様子に、釘勘は<ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>やりとしながら、同じ廊下を<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>と飛んで来ますと、その心配もまにあわないで、あッ――というまに、先の相手に、彼は気味よく庭先へ投げ出されている。

松や<ruby><rb>楓</rb><rt>もみじ</rt></ruby>などの庭木にくるまれているため、まだこの一棟には、たいして火が廻っていなかったのが、せめてもの<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>でした。

万太郎を投げすてた者は、それに見向きもせず、なおすすんで、最後の一室へ馳け込みました。そして、そこの<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>掛け窓へ足をかけて、外へ飛ぼうとするところを、釘勘が、

「野郎ッ」

と、たすきに組みつきました。

釘抜きといわれた勘次郎が、うしろから好みをつけて、こう組んで締めた以上は、たとえ日本左衛門でも、めったにこれを振りほどかせはしない――と彼には自信がありました。

「ええッ」

と、相手はもがいて、ハタき捨てようとする。

そして、その手にする大刀が、耳の近くを幾たびか<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を斬ってうなりました。

が――餅のようにねばり付いた釘抜きの体は、容易に離れないで、そのまま、よろよろとうしろへ引き戻しましたが、やにわに、相手が膝をついて、肩をすかしたからぜひもありません。はッと思うとたんに、<ruby><rb>柔術</rb><rt>やわら</rt></ruby>の無双ほどき、ずでんと、前へうッちゃられる。

「くそうッ」

と、仆れながら釘勘の十手が、いきなり横に払って、敵の片<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>をびゅッと打つと、

「あっッ」

跳ぶというよりは落ちるように、相手はうしろへ捨て刀をくわして、窓の下へ地ひびきを打たせました。

ところへ、先に庭先へ投げすてられた万太郎が、跳ね起きてそこへ来るなり、最前の相手と見ましたから、

「おっ、居たかッ」

とおめきながら、前の手痛い目も忘れて、無二無三に斬りつけてゆきます。まことに、この若殿の剣法なるものは、しばしば実例が示すとおり、釘勘の目でさえハラハラするものでありますが、長袖の<ruby><rb>大名</rb><rt>だいみょう</rt></ruby>そだちに似合わない、その無二無三流な意気だけは、愛すべきものであるやもしれません。

果たして、一方の者は、万太郎としては烈々な気込みで斬ッてかかった刃を、二、三合ほどチャリンと軽くはねつけたばかりで、まッしぐらに、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>へ向って駆け出すのを、彼はまた得意となって、

「おのれ、待てッ」

と、追いかけたものであります。

五、六間ほど、脱兎の如く身を跳ばしてから、先の相手も、窓を越える時、十手で払われた<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>の痛手が、にわかにこたえて来たものと見えて、よろりと前へのめりかかる。

「得たり！」と万太郎。

そこを、背割りにと浴びせかけましたが、のめりながらも、相手の体は、素早く横にかわっております。

で、二度までも、

「しまッた」

と斬りすべって、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を切って泳いだまま、体の取り返しもつかないところを、先の腕がその<ruby><rb>柄手</rb><rt>つかで</rt></ruby>を抑えて、ムズと手元へ抱きこみました。

すわ、若殿の危急。

と、仰天して釘勘は、駆けるいとまもありません。やっという声の下に、手を離れた早ほどきの捕り繩、五、六<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の宙に分銅を躍らして、

「うぬッ」

と、投げた繩の端を、グッと睨んで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うねり</span>を引きます。

繩の手加減、あざやかに効を奏して、<ruby><rb>飛繩</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>は万太郎の手首をつかんだ敵の左腕をグルグルッと巻きつけました。

が、<ruby><rb>左腕</rb><rt>さわん</rt></ruby>を捕っても何になりましょう。右手の<ruby><rb>閃刃</rb><rt>せんじん</rt></ruby>が横なぐりにそれを払うと、繩は唐竹を打ったように、カラリッと鳴って二ツに断られている。

しかし、先にそれだけの隙を作らせたので、釘勘が、手元へつけ入る余裕はできたわけです。

<ruby><rb>隼</rb><rt>はやぶさ</rt></ruby>のように、彼のふところへとび込む。

そして、振り込んだ十手。

同時に、サッと上がった敵の剣と、持ち直した万太郎の刀とが、そこに三角線の白い光を曳いたせつな！

「やっ、あなたは？」

<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として、相手はそこへ身を屈して、あとのことばもなく、ガバと、大地に顔をうつ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶ</rt></ruby>せてしまいました。

万太郎は気技けがしたように、自分の前へひれふした男の姿を、不審そうに見つめていましたが、釘勘はせつなに膝を折って、

「もしやあなたは、金吾様じゃございませんか」

と、その手をすくい取って握りしめると、

「おお、釘勘」

かすかに<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を上げて、おそるおそる彼と万太郎を見あげるまなざし、それは、まぎれもない金吾であります。

と、万太郎も愕然として驚きの目をいっそう見張りながら、

「えっ――相良金吾だと？　おうそちが、おお、金吾か……」とばかり、ただあきれたように自失している。

彼として、金吾の姿をここに見たのは、まったく思いもうけぬ突然でした。その意外さと共に、突然な<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>が涙ぐましい感激をつきあげて、暫くは言うことばをすら知りません。

が――やがて万太郎の口から出たことばは、常々、金吾が<ruby><rb>恐懼</rb><rt>きょうく</rt></ruby>していたような冷たいものではなかったのです。

「どうしたのじゃ、相良」

と、彼の肩へ手をのせました。

「かねて、釘勘からそちの消息は聞いていたが、なぜ、わしのところへ戻って来ぬのじゃ。この万太郎にあいそが尽きたか」

以前と少しも変りのない主従のことばです。いや、そういう階級意識を超えた愛熱がことばのうちに溢れていました。

「滅相もない仰せです。<ruby><rb>不肖者</rb><rt>ふしょうもの</rt></ruby>の金吾、ただ申し訳もござりませぬ」

彼には、そういうだけの答えしかありません。もっとつけ加えれば、まだここで万太郎と会うのは何としても面目がないということを言いたかったでしょう。

けれど、万太郎はこの奇遇に何ものも忘れたような満足をあらわしている。そして、釘勘と共に、どうしてここへ来合せたかとたずねましたが、彼は、熱海以来の経過や秦野屋九兵衛の助力のことなどを、ここでくわしく話すには、あまりに心がせいているので、簡単にその要点だけを言って、すぐに、日本左衛門のあとを追おうとして立ち上がりました。

で、釘勘も万太郎も、にわかに奇遇のよろこびから醒めて、彼と共に、鼻寺の庭から<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の小道をわけて、日本左衛門が逃げのびたとおぼしき裏山へ駈けあかって行きます。

その頃ちょうど本堂の方で、<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>たる炎の音響が地鳴りをして天地に狂いました。建物の中心が焼け落ちたのでしょう、一瞬の後は、黒煙りと火の粉ばかりがその辺りにたちこめて紅蓮の勢いはやや下火です。

で、夕焼の<ruby><rb>灼光</rb><rt>しゃっこう</rt></ruby>が滅したように、裏山の一帯が急に暗くなったと思うと、そこの頂上に頬杖をついていた<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の顔も薄れて消える。

姿は薄れてしまいましたが、そこで、九兵衛のつぶやきだけは聞こえました。

「……あ、とうとう焼け落ちてしまいやがった。しかし、どうしたろうな、金吾様の方の首尾は」――と。

ところへ。

数歩の距離にガサガサと人の来る<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がしたので、九兵衛はあわてて<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をはずし、ぽんとうしろの草むらへ飛び込みましたが、先もその物音を怪しんだと見えて、急に足を止めた様子です。そして暫くの間双方が、そのままの距離を保ってさぐり合っていましたが、やがて、乱びん蒼白な<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をなし、抜き<ruby><rb>刀</rb><rt>み</rt></ruby>をひッさげたその人影は九兵衛のすぐ目の前を抜けて、<ruby><rb>木賊谷</rb><rt>とくさだに</rt></ruby>の方角へ風のごとく駆け過ぎてゆきました。

「いけねエや」

そのあとで、姿を見せた九兵衛は、腰かけていた石仏を踏み台にして、

「うまく網の目を抜けやがった。今なあ日本左衛門だ」

と、舌打ちをしてのび上がったものです。

間もなくそこへ、息をせいて追って来たのは、彼が、今夜の首尾いかにと、案じていた金吾です。そして、釘勘も来る、万太郎も勢い込んで追いついて来ます。

しかし、すでに長蛇は遠く逸しているので、その意気込みのやり場もありますまい。

そこで。

待ち設けていた秦野屋九兵衛は、自分の手に収めておいた洞白の鬼女<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を金吾に手渡しました。

久しかりし<ruby><rb>流転</rb><rt>るてん</rt></ruby>の<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>は、よろこびにふるえる金吾の手にかかえられながら、改めて、万太郎の手許へ返される。

日本左衛門という<ruby><rb>呑舟</rb><rt>どんしゅう</rt></ruby>の大魚は、遂にその晩、それ以上の追捕をつくすべくもありませんでしたが、ともあれ、<ruby><rb>聖天</rb><rt>しょうでん</rt></ruby>の<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby>穴以来、一同の心をなやましていた<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>だけでも、無事に還る人の手へ返って来たのは、まず、上乗とまでは行かなくっても、首尾よく運んだものと言わなければなりません。

このてがらは一に秦野屋の奇策にあるところ、金吾は万太郎のよろこびをうける前に、その礼を先に彼へ述べなければならないと思いました。

しかし、九兵衛はそんな面倒な礼などをうけている顔つきもなく、もう菅笠を引っ<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、

「じゃ相良様、いろいろお話もございましょうから、手前は一足お先に仲間の者を追いかけます。え？　何処へって仰っしゃいますか？　<ruby><rb>木賊</rb><rt>とくさ</rt></ruby>を越えて秩父の奥、秩父をすぎて中仙道、それから<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>の鹿野山で落合おうというのが仲間の約束でございますから、日本左衛門もいずれその方角で……。じゃ、また秩父か何処かで、お目にかかる事になりましょう、何しろあっしのような日蔭者には禁物な親方がそこにおいでですから、ひとまず御遠慮いたします」

と、釘勘の方を向いて笑いました。

あっ……

気味のわるい薄笑いを自分に向けられて、釘勘は初めてハッと感づきました。こいつは日本左衛門と<ruby><rb>秤量</rb><rt>はかり</rt></ruby>に掛けてどッちともいえない凶状持ち、秦野屋という老賊ではないかと。

けれど、九兵衛はそのとたんに、器用にどこかへ立ち去っていました。

こう砂も立てない器用な逃げかたをされると、目明しとしての釘勘も、さまで口惜しい気持にもなれませんでした。ただ、金吾と彼との関係を不審と思って見送ったのみであります。

その疑点は、やがて金吾の口から解いて話し出されました。――彼がもと金吾の父に仕えていた者であること、また報恩的な行為に出た老賊の気持など、その動機から今夜までの経過をつぶさに聞くと、万太郎は一も二もなく感激して、

「そういう者であってみれば、繩にかけるのは痛ましい。なあ釘勘、日本左衛門は捕えても、秦野屋だけはゆるしてやるがよいぞ」

と、彼の顔色を察して言いました。

しかし、釘勘はそれに対して、承知したとは言いません。幕府から<ruby><rb>法繩</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>をあずかる自分の立場から見れば、賊と名のつくものは、日本左衛門だろうが、九兵衛だろうが変りはない。たとえばそれが血縁のものであろうと、見のがすことは出来ないのです。

で、何とも答えなかったものだから、その問題にはふれないで、話はその先の相談にすすんでゆく。

さし当って、何よりの当惑は、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の処置です。それは一刻も早く市ヶ谷上屋敷の尾張<ruby><rb>義通</rb><rt>よしみち</rt></ruby>――万太郎の兄なる人、および憂苦に閉じられているであろう父の尾張中将の<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>へ送り届けなければなりません。

だが、万太郎には、それを江戸<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>に<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて行って、屋敷の勘気を解いてもらおうなどという、素直な考えは毛頭ない。

おれの跳躍はこれからだ！

今までのことは、ほんの序曲でしかない。夜光の短刀をさがそうとする途中の一波瀾でしかありはしない。

こう考えている彼です。

気がかりだったこの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>さえ江戸表へ届けておけば、もうなんらの後顧なく、夜光の短刀の捜索に歩くことができる。

義通の身も父の中将も、秘蔵の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>さえ元の屋敷へ還ってくれば、安泰なものである。一個の万太郎は、一個の放縦児とゆるしてもらって、勘当のまま初一念どおり、これから先こそ羽根の伸ばしたい放題に振る舞うのだ。やがて、夜光の短刀を手に入れる、そして南蛮船に身を投じる、そしてあこがれの海のかなた、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都府を訪れる――

「愉快だ」

万太郎の胸はおどる。

それはいいが、とにかく、目前の使いに困りました。誰にこの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を託して江戸表へやったものだろうか。

元より釘勘のからだにはひまがない。金吾はこれから秩父の道へ日本左衛門を追跡してゆくと言う。

いや、自分も釘勘も、一刻も早くここの始末を切り上げて、同じあとを追わねばならぬ。――あの切支丹お蝶の<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を追って。

とすると、さしずめこの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を江戸表へ届ける使いはない事になります。そうかと言って、心のわからぬ者に持たせてやるのも不安心だが……と考え込んでいるうちに彼の胸底から、ニコリと笑った小童の顔がうかびました。

「そうだ、次郎！　<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村の次郎！」

横手を打って、万太郎は二人を連れ、ひとまずそこの裏山を降りました。

焼け落ちた鼻寺の<ruby><rb>余燼</rb><rt>よじん</rt></ruby>のなかには、まだ柳沢家の人数が、右往左往して動いている。

## <ruby><rb>鶏血</rb><rt>けいけつ</rt></ruby>の秋

<ruby><rb>花梨</rb><rt>かりん</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に白い花がうごく。<ruby><rb>山葡萄</rb><rt>やまぶどう</rt></ruby>の葉がペルシャ<ruby><rb>更紗</rb><rt>さらさ</rt></ruby>のように染まる。

秋のあゆみは目にも見えてきました。

やがて武蔵野の<ruby><rb>碧空</rb><rt>へきくう</rt></ruby>にも、赤とんぼの潮流が、旅人の笠の上に流れて来ましょう。ことに峡谷の山ふところ、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>高麗村の部落は、もう何もかも秋めいています。

そしてこの秋を、部落の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人は、ひどくさびしく閉じこめていました。

「おわずらいなさらなければいいが……」

家付きの郷士たちはうわさしている。

「あまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のんき</span>らしく、大きな声で、<ruby><rb>臼挽</rb><rt>うすひき</rt></ruby>歌などうたうなよ」

部落の土民たちも気がねして、盆の踊り、石神の燈籠祭りさえも、今年はひッそりと済ましたくらい。

「おりん、そこを開けてくれ」

その千蛾老人が言いました。

例の宏大な屋敷――御隠家の奥ぶかき一室です。老人は、鶴のような<ruby><rb>痩躯</rb><rt>そうく</rt></ruby>を<ruby><rb>鎌倉彫</rb><rt>かまくらぼり</rt></ruby>の小机によせかけて、

「秋だな。……もう秋だぞよ」

と、<ruby><rb>庭面</rb><rt>にわも</rt></ruby>の障子をあけた小間使いのおりんに向って、二度ばかり同じことばをもらしました。

「秋でございます」

おりんは、そこへ三ツ指をついて、

「障子をあけますと、<ruby><rb>木犀</rb><rt>もくせい</rt></ruby>のにおいがお部屋へ流れてまいります。陽に<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>れて、むせるようではございませんか」

「気のせいか、今年は木犀の花も薬のような<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いに感じる。この冬は、わしは<ruby><rb>病床</rb><rt>とこ</rt></ruby>につくかもしれない」

「まあ、御隠家様が、常にもないことを仰せ遊ばす。そんなことがあってよいものでございましょうか、今日は、ほんとにお顔色がよくていらっしゃいます」

「いや、それはさっき、少しばかり酒をふくんだせいじゃろう」

「いつぞや、お<ruby><rb>酒蔵</rb><rt>さけぐら</rt></ruby>の掃除の時、蔵の底からたいそう古い、<ruby><rb>苔桃</rb><rt>こけもも</rt></ruby>の銘酒を見つけたと<ruby><rb>侍衆</rb><rt>さむらいしゅう</rt></ruby>が珍重がっておりました。なんでしたら、その<ruby><rb>苔桃</rb><rt>こけもも</rt></ruby>の古酒を少々持ってまいりましょうか」

「<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めておこう、酒もわしには慰めにならない」

「ごもっともでございます」

「おりん、もう、秋だぞよ」

「はい……」

老人の心をなぐさめることばに窮して、おりんもついうつ向いてしまいました。

「――どうしたろうな、月江は」

遂に、<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>の口から、いつもの嘆息が出はじめます。

「夏ではないか、まだ暑いころではなかったか、月江が屋敷に戻らぬのは。――それがいまだに帰って来ない、手を分けてさがしてみても、姿も見せぬ」

「ほんとに、どう遊ばしたのでございましょう。いつか、うまやの馬を曳きだして、久米川の辺へお遊びに出たまま、とうとうお帰りなさいませぬ」

「わしは考えておる。だれか、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>に遺恨をもつ者に、<ruby><rb>殺</rb><rt>あや</rt></ruby>められたのではあるまいかと」

「おめおめと、そんな策にかかる、お嬢様でもございませぬ」

「では、甘言をもって、かどわかされたか」

「それとしても、何か、便りぐらいは聞こえそうなものと存じますが」

「そうだの、生きたか死んだか、風の知らせぐらいはあってもいい。それが、これほど手をつくしても、行方も知れねば安否も知れぬ」

「さかしい振りをするようでございますが、おりんが考えますには、これはきっと、お嬢様の御気性から、次郎殿をさがしにおいでになったに違いないと存じます」

「次郎をさがしに？」

「はい。お嬢様は、次郎殿がお屋敷から見えなくなったことを、たいそう悲しんでおいでなさいましたから」

「<ruby><rb>浅慮</rb><rt>あさはか</rt></ruby>なやつじゃ」

老人の顔には、ひとりの<ruby><rb>愛娘</rb><rt>まなむすめ</rt></ruby>を思いやる愛着と怒りとが、抑えがたなく見られます。

おりんは、千蛾老人のその苦悩に、心から同情をよせている。ほんとに今の御隠家様としては、月江様ひとりをこの世の楽しみとしていらっしゃる。その月江様にもしもの事があったら、このお方のあらゆる希望は霧のように散ってしまう。

今はすこやかでお美しいが、やがて良人をもつ年齢になると、必ず若くして死ぬという怖ろしい遺伝の血筋を断とうとして、幾年か御隠家様が苦しまれたのも、月江様が可愛いため、――そうしてその薬とする<ruby><rb>胆血</rb><rt>たんけつ</rt></ruby>をとるために、家付きの郷士に命をふくませて、幾多の旅人の生き胆をとられたのも、お嬢様が<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の一つぶ種であるため。また、夜光の短刀をたずねておいで遊ばすのも、その愛児のために、より多くの幸福を残しておこうというお心なのに。

思えば、困ったことになったものです。

また、御隠家のおやしきには、いわゆる家の子と称する、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby><ruby><rb>手飼</rb><rt>てがい</rt></ruby>の郷士たちも、何十人と居ることは居ます。

けれど、いずれも半農そだちの野武士であって、一朝の変に、野火をあげたり兇器をとるにはすぐれて役に立ちますが、今のような場合に、老人の心の話し相手となるようなものは、一人としてに見当らない。

おりんは、それも歯がゆく思われて、

（せめて、こんな時には、あの久米之丞でもたずねて来たら……）

と、ふだんは持つ、あのいやな性質に対する<ruby><rb>嫌忌</rb><rt>けんき</rt></ruby>も忘れて、その久しく訪れて来ないことをさびしく思う。

「そういえば御隠家様、あの<ruby><rb>関久米之丞</rb><rt>せきくめのじょう</rt></ruby>はどうしたことでございましょう」

「久米之丞か」と、老人は気がなさそうに、

「久しく見えんのう」

「お嬢様がいらっしゃるうちは、毎日、うるさいように訪ねて来ておりましたが、近頃は、あのお人もすっかり姿を見せませぬ」

「わしが、彼に約束したことがあるから、その方で夢中になっているのじゃろう」

「それは、どんなお約束でございましたか」

「月江を妻にくれと言う――あれがな」

「<ruby><rb>僭越</rb><rt>せんえつ</rt></ruby>な。だから、私はあの男を好みませぬ。それで御隠家様もお断りなさいましたか」

「やると言うたよ。――ただし、夜光の短刀をさがし求めて来い。その上には、月江をくれようと申したのじゃ。すると久米之丞、たいそう自信があるように、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>と誓って帰ったが、それからすっかり音沙汰がない」

「御隠家様、私がひとつ、行って見てまいりましょうか」

「どこへ？」

「久米之丞の<ruby><rb>拝島</rb><rt>はいじま</rt></ruby>の家へ」

「そして」

「お嬢様のご消息をただしてまいります。ことによると、あの男が、何かそれにかかわりがありはしないかと思われますので」

「そうか。だが、拝島まではだいぶあるぞ。女ひとりでは夜に入ってさびしかろう」

「いいえ、おりんにとっても、大事なお嬢様、じっとこうしている方が、かえって心苦しゅうございます。」

「では、だれか郷士を連れてゆくがよい。<ruby><rb>喬介</rb><rt>きょうすけ</rt></ruby>でも三五兵衛でも」

「ひとりが結局よろしいかと存じます。それに、もしそこでも手懸りがなかったら、心当りをたずねたいと存じます故、どうか、四、五日の間、おりんにお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をくださいますように」

午後でした。

染屋の宿の実家へ<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>にゆくという<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で、おりんは高麗の<ruby><rb>峡谷</rb><rt>きょうこく</rt></ruby>から武蔵根の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>へ降りてゆきます。

山を出て平野の一端に来てみますと、見渡すかぎりの武蔵野の原は、尾花の<ruby><rb>銀鼠</rb><rt>ぎんねず</rt></ruby>いろの一色にぼかされている。そして、その尾花の波のなかを、<ruby><rb>紺土佐</rb><rt>こんとさ</rt></ruby>の日傘に赤い帯のうしろを見せたおりんの姿が、

（お嬢様。月江様）

心のうちで呼びかけて探してゆく。

峡谷のお屋敷を出て、ここの広い秋の天地をながめますと、おりんはもうすぐ<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>らで、月江と会うような気がしてなりませんでした。

ぽーんと<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の中から<ruby><rb>蹴鞠</rb><rt>けまり</rt></ruby>が空へとび上がって、あの軽快なお嬢様の姿が両手をあげて自分の名をよぶような気がする。

見るまにあなたから一頭の駒が近づいて来て、駒の上から、下げ髪の月江が野菊を投げて――おりんやこッちだよ――そう言って駆けすぎて行くような意外が、今にも目の前に現われそうな気がするのでした。

けれど、それは尾花の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>に幻をえがいているおりんの白日夢です。歩けど歩けど月江はおろか、逢う人とてはありません。

なんと静かな武蔵野の昼でしょう。

彼女はすこしくたびれました。まだ久米之丞の家のある拝島までは、そこから一里半はたしかにある。

汗ばんだ額ぎわの白粉を<ruby><rb>小菊紙</rb><rt>こぎく</rt></ruby>でたたいて、日傘をたたみながら暫くそこに休んでいますと、どこかでかすかな人声が流れました。

「次郎や――次郎やア……」

それは肉声です、人が人をよぶ声です。

ふと、その遠い所に、おりんが四方をのび上がって見ますと、彼方の<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の道を分けて、土民の女房らしい年増の女が、

「次郎やア……」

と、哀傷的な声を長くひいて、しきりとその辺りを見廻しています。

やがて、おりんも日傘を手に小走りに駆けだしていました。近寄って、年増の女を見ると、彼女の想像にたがわず、それは<ruby><rb>野鍛冶</rb><rt>のかじ</rt></ruby>の半五郎の妻――かの<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎の母親です。

「お常さんじゃありませんか」

声をかけると、女はびっくりしたように、取り乱した姿を気まりわるげに、

「あ。おりん様でしたか」

そこへ<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んでしまいます。

「次郎さんを探しているんですか」

「はい。次郎の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>を知っていたら、おりん様、どうか教えてやってくださいまし」

お常は<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>によごれた袖口を目に当てて、さめざめとそこに泣いている。

「私もお嬢様の居所をさがしに出て来たところなんです。じゃ次郎さんも、どこへ行ったか分らないのですね」

「あんな不孝者はございません」

口説くようにお常はおりんへ話しだします。

「その帰らないのも、もう十日や二十日ではないのでございますよ。どこを飛んで歩いているのか、親の心配も知らないで、ちッとも顔を見せません。で、毎日、今日は帰るか、あしたは来るかと、鍛冶小屋の軒に立って見ていますと、さっき、甲州路から来た一人の旅の人が、なんでも久米川の辺で、野槍を持ったそんな小僧がウロついていたと教えてくれたので、急いで探しに来たんですけれど……」

「見つからないのでございますか」

「足も声も疲れてしまって」

「それはまア……」とおりんは、お常の素足から血のにじんでいるのを痛々しそうにながめながら、

「人違いだったのでございましょう。あの子がこの辺にいるものなら、何で家に帰らずにいるものですか」

「そうすると、あれは他国へ行ったのでしょうか」

「さア、それは分りませんが」

「大それた子でございます。ほんとに末おそろしいようなやつで」

「いいえ、狛家のお嬢様まで、同じ頃に行方知れずになっているのですから、これには何か、ふかい<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるに違いございませぬ。私はそれについて、拝島の<ruby><rb>関久米之丞</rb><rt>せきくめのじょう</rt></ruby>の所へ様子をただしにゆくところですから、ことに依ったら、そこで仔細が分るかも知れません。そうしたら、すぐにお宅へも知らして上げましょう」

お常が、一緒に来るというのを無理に帰して彼女は、そこから久米川に沿って歩みだしました。

すると、間もなく、また彼女を追いかけて来た男があります。お常が帰るとすぐに駆けて来たものらしく、野鍛冶の半五郎が、拝島まで送ってゆくと言って、おりんのあとにつきました。

次郎はすきな子だし、お常は質朴な女だしするが、おりんは前から片目の半五郎の性質の悪いのを聞いているので、その親切もなんとなく気味わるく思われて、

「帰って下さい。ひとりで行きますから」

たって断りましたけれど、半五郎は帰る<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりもありません。黙々として<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来ます。

しかし、そうして半里ばかり歩くうちに、おりんの懸念も薄らいできました。半五郎がついて来たのは、決して、ほかの邪心をかくしているのではなく、彼もまた、次郎の身を案じて、一刻も早く、その安否が知りたいためだという事が、動作やことばのうちに、正直にあらわれて見えたからです。

「半五郎のような<ruby><rb>破落者</rb><rt>やくざ</rt></ruby>でも、わが子の心配には、あんな素直な人間になって、しおれ返って心配しているものを」

おりんは御隠家様の憂うつを、いとどお気の毒に思いやりました。そして、久米之丞の浪宅を訪れたら、そこに、何かの手懸りがあるようにと、次郎の親のためにも念じずにはおられません。

程なく七ツ下りも少しすぎて、拝島の岡にたどりつきました。

岡の上の<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>の林が、うすずく陽に赤く染められて仰がれます。関久米之丞の浪宅の屋根は、そこより低い所の真ッ黄色な雑木の葉がくれに黒く見える。

例の荒れはてた岡の屋敷。

くずれた土塀には<ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるくさ</rt></ruby>の葉が縦横に這い、骨ばかりな<ruby><rb>冠木門</rb><rt>かぶきもん</rt></ruby>は、あらかた雑草に<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>められております。

そこを通ったおりんと半五郎は、いくら郷士の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>でも、これはあまりな荒れようとあきれながら、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の前にかかりましたが、いくらおとずれても久米之丞の返辞がないので、

「留守であろうか」

と、がっかりして辺りを見廻しました。

されば、いくら訪れても、返辞がないのは当然でした。この荒れ屋敷に住む関久米之丞は、いつかここへ駒をよせた月江と共に八王子の町に向い、あれから小仏越えにかかって自分の野望を遂げようとしたため、かえって、月江を谷底へ失い、おのれは通りすがった日本左衛門と<ruby><rb>先生</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>金右衛門のために殺害されてしまっている。

その死骸さえ断崖へ蹴込まれて、たれひとり彼の死を里へ伝えたものもありませんから、骨ばかりの冠木門と朽ちはてた<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の住居は、落葉や秋草の<ruby><rb>離々</rb><rt>りり</rt></ruby>たる岡に、今もって帰らぬ<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>に待ちぼけをくッています。

ただひとり、ここの台所に働いていた老婆も、いつか姿が見えなくなって、<ruby><rb>団栗</rb><rt>どんぐり</rt></ruby>の木の物干しに、洗濯ものの懸ることもなくなりましたから、この分でゆくと晩秋の月夜には、<ruby><rb>女狸</rb><rt>めだぬき</rt></ruby>が子を生みに来るかも知れないほどな<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷なのです。

返辞のあろうはずはありません。

でも、そうとは知らないおりんは、念のためにと、半五郎をうながして、家の裏手へ、廻って見ました。

と、そこに。

あるべからざる人影が三人、真ッ赤なものを取りかこんで、じッと腕ぐみをし合っている。

真ッ赤なものとは鶏の血のような、葉とも花ともつかない植物が、そこに群生していたのです。今思えば、それは<ruby><rb>鶏頭花</rb><rt>けいとうか</rt></ruby>の種属ではないかと想像されますが、まだその時代には、<ruby><rb>葉鶏頭</rb><rt>はげいとう</rt></ruby>も<ruby><rb>花鶏頭</rb><rt>はなげいとう</rt></ruby>も日本の土に輸入されてなかったはずですから、おそらくそれは誰の眼にも奇怪な植物と見るよりほかの知識しかなかったものに違いない。

「ウーム、妙な花だ」

「燃えつきそうな色だ」

そう言いながら見つめています。その植物を、その三人の男達が。

で、おりんはハッと足を止めて、後ろの半五郎を手で制しました。そして二人が、庭木の蔭に身を沈めながら、暫く、その男どもの行動を見ておりますと、いろいろ腑に落ちない点がかぞえられる。

第一は、三人の風ていです。

一人は<ruby><rb>蓑直</rb><rt>みのなお</rt></ruby>し、一人は針売の旅商人、またもう一人は、小さなカラクリ人形の箱を首にかけている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くぐつ</span>師であるのです。

「こいつだよ、こいつだよ」

やがてその人形師が、おそろしい昂奮的な口ぶりで、花の根元にかがんで言う。

「どうもこいつに違いない。ごらんよ、この色を。……ええ、どう見たッて鶏の血ッてえ色だ。<ruby><rb>鶏血草</rb><rt>けいけつそう</rt></ruby>にちがいないよ」

「鶏血草かなあ？　この花が」

「そうさ。まあこの色を見るがいい」

「それをじッと見つめていると、ほかの物が黒く見える」

「おそらくこんな植物が日本のどこにもありはしまい。<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>のバチカノに咲いていそうじゃないか。ペトロ院の庭にうつりがよさそうな花じゃないか。強い信仰、殉教の血、愛の聖火、それらをしのばせるようなこの植物の色は、まったく、わしたち山岳<ruby><rb>切支丹族</rb><rt>きりしたんぞく</rt></ruby>の遠い聖祖、羅馬の王族ピオ様のこのみに合いそうな花ではないか」

「――とすると、これこそ、今ヨハン様がたずねている、鶏血草にちがいないと言うのだね」

「そうだよ。わしはたしかにそうと信じている。それで、お前たちにも見てもらったのだが、ただ不思議なのはこの家で、だれが住んでいたのかその由来がわからない」

と、人形師の梅市、<ruby><rb>蓑直</rb><rt>みのなお</rt></ruby>しの安蔵、針屋の<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>二郎、そう三人がぐるりと向きを変えて、またその古屋敷を不審そうに見直しました。

もの蔭に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいたおりんは、この屋敷には不審はないが、その人間が不審にたえません、その言語がいぶかしい。なんとしてもただの人形師や蓑直しとは思われません。

「とにかく、山の会堂へこのことを<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせて、ヨハン様に来てもらおうじゃないか」

こういったのは針屋の丁二郎です。すると蓑直しの安蔵が、

「いや、これが鶏血草と極まれば、何もヨハン様の御苦労をかけるまでもなく、おれ達三人でその下を掘り返してみたが一番早い」

「そうさ」と、人形師の梅市も同意の顔で、

「山の会堂へ報らせに行ったり、ヨハン様を連れて来たりするうちに、どんなやつが横合から出て、掘り返してしまわないとも限らない」

「じゃあ一つ、掘って見るか」

「<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>があるか？　<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>もほしいが……」

「あるだろう、物置に」

「なにさ、道具は手近に揃っているよ」

と、梅市は<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んだ声で、

「それ安蔵、<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>二郎。どれでも一丁ずつ手に持ったり」

と、縁下へもぐり込んで、そこにほうり込んであった鍬や鋤を投げ与えました。

「おっと。手頃だ」

首にかけていた針の荷や、人形箱などを肩からはずすと、三人はひとしく<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を握って、向い合せてきっと立つ。

まず、鍬をもった安蔵が、<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>な植物の根元を目がけて、勢いよくパッと一掘り入れる。

サクッ、サクッ……、

つづいて梅市の<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>や丁二郎の鍬も、土に刃を磨いて太陽にひらめきだす。キメのこまかい黒土の感触のよさは、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>園芸家も武蔵野の土を措いて他国にない味だと言っております、まるで菜根の肉を切るようにみるまに、六尺四方ばかりの土壌がくつがえされて、土の<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いが<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のように立つなかに、怪奇な赤色の葉や花が捨て土のなかに埋まってゆきました。

三人は、ようやく無言の境に入って、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に汗をうかめてくる。

一尺、二尺――三尺。

ボクリ、ボクリと土の音がするたびに、何か出て来やしまいか、何か手ごたえがして来るだろうと、眼も心も鍬の先にあつまって、他念のない<ruby><rb>有様</rb><rt>ありさま</rt></ruby>です。

<ruby><rb>淋漓</rb><rt>りんり</rt></ruby>とたれてくる汗、汗にたかる土のハネ。

一坪ばかりの花の根を滅茶滅茶に掘返して、やがて四尺も掘下げてくると、キメの細かい黒土は粘質的な赤に代って、なかなか<ruby><rb>捗</rb><rt>はか</rt></ruby>が進まなくなりました。

「暑いぞ」

丁二郎は肌をぬいで、

「なんにも出ないな」と、ホッと息をつく。

「まだまだ、こんな事じゃ分らない」

「そうとも、まだ分るもんか」

安蔵も鍬を休めません。

で、<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>二郎もつりこまれて、また必死に鍬を持つ。

「信念をもって掘れ。信念をもって掘れ」

「そうだ、これもひとつの信仰だ」

「きっと夜光の短刀が出ると！」

「ヨハン様が仰っしゃった。――鶏血草のあるところ、必ず夜光の短刀がある場所だと。――根気だ根気だ、根気のつづくかぎり掘れ。いつも山の会堂で、ヨハン様が読んで聞かせる<ruby><rb>羅馬王庁</rb><rt>ローマおうちょう</rt></ruby>の文をくり返しながら掘ろうじゃないか――」

１　日本にて客死せる王族ピオ、かれの最後の地は関東江戸市に近き<ruby><rb>僻地</rb><rt>へきち</rt></ruby>なるべし。

２　ピオは世襲の夜光珠の短刀をもてり。

３　ピオは日本政府の追捕をおそれて人跡なきところに餓死せしならんか。

４　ピオは自然をこのめり。生前バチカノの草原の風趣を愛せり。あるいは江戸市西北の未開の<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>にかくれて天寿を<ruby><rb>全</rb><rt>まっと</rt></ruby>うせしか？

５　またピオは花をこのみ、ことに鶏血草の<ruby><rb>深紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>を熱愛する癖あり。かれが日本渡航の理想は、バチカノの野に似たる平和の自然に、鶏血草を移植して学林の庭とし、日本における聖カトリック<ruby><rb>羅馬教</rb><rt>ローマきょう</rt></ruby>の教会を建設するにありき。

６　またピオの通信は千六百〇三年――日本慶長八年の記号を最終として絶えたるも、絶対にかれは日本政府に捕われたるものにはあらず、そは、後の<ruby><rb>天草</rb><rt>あまくさ</rt></ruby>支会の報告書を綜合するもすべて一致すればなり。

彼等は懸命に掘りつづける。その王庁の文章をくり返しながら掘りつづけます。いつか文章に音律がついて歌のようにうたわれながら、根気をつづけているのです。

が――

土の色は黒から赤に変じましても、石の<ruby><rb>櫃</rb><rt>ひつ</rt></ruby>も出て来なければ、ピオの<ruby><rb>木乃伊</rb><rt>みいら</rt></ruby>もあらわれません。

いうまでもなく、この三人は山岳切支丹族の信徒です。さすがに夜光の短刀をさがすにも、この者たちは慾ばかりでなく、ひとつの信仰が伴っていますから、土にまみれ、汗につかれて来ても、容易にその信念を曲げそうもありません。

懸命はおそろしいもの。

遂に、その信念が何か掘りあてました。

丁二郎の鍬の先に、カチッと、異様な手ごたえがあったのです。

カチッと鍬の刀先に触れたものがあるので、

「おや、何かあったぞ」

と丁二郎が叫ぶと、さてはと眼色を変えて、二人も気早にそこを掘り返してゆく。

土の底ふかく食い込むように<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>まっていたのは、うツ伏せになった一個の人体です。背中のような部分が梅市のすくッた土の下から現われました。

「オオ」という<ruby><rb>蓑</rb><rt>みの</rt></ruby>直しの安蔵、道具を投げて無我夢中に、手をもって土をかき分けます。その努力やあたかも<ruby><rb>土龍</rb><rt>もぐら</rt></ruby>のように必死でした。

そこで、梅市や安蔵の手に、掘り出されたものは何でしたろうか？

見ると、背の短い、片足のない人体です。王朝風の結髪に、<ruby><rb>高麗模様</rb><rt>こまもよう</rt></ruby>の服装をまとい、指のない手が胸元に組んである。そして、髪、衣服、顔だちなどを考え合せても、男女の区別がつきかねる人体です。

また、その人体は、人間の化した<ruby><rb>死蝋</rb><rt>しろう</rt></ruby>でも<ruby><rb>木乃伊</rb><rt>みいら</rt></ruby>でもありません。生まれながら霊魂も肉体も持たない<ruby><rb>素焼</rb><rt>すやき</rt></ruby>の<ruby><rb>土偶</rb><rt>でく</rt></ruby>で、きわめて原始的な工法で焼かれた赤土の<ruby><rb>埴輪</rb><rt>はにわ</rt></ruby>であります。

で、がっかりしたのはその三人。

「なんだい、これは」

と顔を見合せて、

「<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>埴輪</rb><rt>はにわ</rt></ruby>じゃないか」

「そうさ、千余年も前に高麗のコクリ族が、この武蔵野に移住して来た当時の品物だよ」

「つまり、高麗のコクリというのは、今高麗村の奥に住んでいる、あの部落の衆の先祖ッていうわけだね」

「その当時日本へ移住してきた、コクリの王族というのが、あの<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>とも御隠家様ともよぶ屋敷の血筋だということを聞いていたが」

「すると、ずいぶん古い家がらだな」

「だからこの武蔵野の草分けは、江戸太郎でもなし、<ruby><rb>太田道灌</rb><rt>おおたどうかん</rt></ruby>でもないし、徳川家康でもないということになる。文化の江戸ッ子はべつものとして、単に血すじだけの上からいうと、真の江戸ッ子の生えぬきというのは、高麗のコクリつまり朝鮮人ということにもなる」

「なるほど」

「が、どうする？　この<ruby><rb>埴輪</rb><rt>はにわ</rt></ruby>を」

「そうだ」

と、話のわき道からわれに返りました。

「そんな物は、自分たちのさがす、夜光の短刀に縁はない」

「いや、まんざら縁がないでもないぞ」

「どうして？」

「聞けば高麗村のやつらも、御隠家様とやらの命をうけて、密々に夜光の短刀をたずねているというではないか。さすれば、こッちの<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>がたきだ」

「オオ。たたき<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>してやれ、その<ruby><rb>土偶</rb><rt>でく</rt></ruby>を」

「こうか！」

というと安蔵が、手に持っていた<ruby><rb>埴輪</rb><rt>はにわ</rt></ruby>を、力まかせに彼方の樹の幹へ向ってなげつけました。

<ruby><rb>素焼</rb><rt>すやき</rt></ruby>の<ruby><rb>土偶</rb><rt>でく</rt></ruby>は粉になって、四方へ破片を飛ばしたのです。すると、その樹のうしろあたりから、あっと言って姿を見せた男女がある。

それは、彼等のいぶかしい行動に目をみはりながら、そこに潜んでいたおりんと半五郎です。――その二人がにわかにバラバラと駆け出すのを見て、

「やっ！」と、辺りに人なきものと安心していた三人も、愕然として飛び上がりました。そして、

「きゃつら、高麗村の廻し者ではないか」

「いずれにしろ、今の秘密を聞いたやつ、逃がしては一大事だ」

言うが早いか、風を切ッて走った人形師の梅市は、いきなりおりんの<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみをつかんで、

「や、てめえは<ruby><rb>狛</rb><rt>こま</rt></ruby>家の女中だな」

さてこそとばかり、ねじ仆して、裏の方へ引きずり戻してくる。

「逃がすなッ、そいつも！」

こう叫んだのは針屋の<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>二郎で、<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>み打ちに廻った<ruby><rb>蓑直</rb><rt>みのなお</rt></ruby>しの安蔵と共に、野づちのように逃げ廻る<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>の半五郎を追い廻しましたが、半五郎はいち早く、土べいのくずれた所を越えて、岡の中腹へと飛び降ります。

と――追いかけて行った安蔵と丁二郎も、黄色い木の葉を舞わせながら、姿は見えないで<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の傾斜をザザザザと下へそよがせて行きました。

山岳<ruby><rb>切支丹族</rb><rt>きりしたんぞく</rt></ruby>は、もとより秘密の集団です。禁制の宗教を奉じて、山から山を移り棲む、<ruby><rb>漂泊</rb><rt>さすらい</rt></ruby>の民です。

世に交わりを絶って、山や<ruby><rb>渓</rb><rt>たに</rt></ruby>にばかり生きているこの仲間が、兇暴なのは申すまでもありません。

かれらの信奉するデウスの聖典にも、殺人の罪悪なことは教えてありましょうが、為政者の迫害に追われて、世間なみの<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>があたらぬ深山に<ruby><rb>漂泊</rb><rt>ひょうはく</rt></ruby>生活をしてくるうち、いつか子孫へ原始人的な性質をそだてて来たのは、まことに当然なわけで、生物進化の逆行とも言えますし、また、彼等に言わせれば、

（幕府がおれたちをこうさせたのだ！）

と、まなじりを裂く理由であるかも知れません。

とにかく、かれらは兇暴です。殺人の<ruby><rb>誡</rb><rt>かい</rt></ruby>だけを、その宗門の聖典から、けずり去っている集団です。

ことにそれが、仲間の秘密を知られた場合に、いっそう強く、盲目的であったようです。

――おりんは生きた心地もなかったでしょう。うわさに聞いている切支丹族！　ひそかに<ruby><rb>狛</rb><rt>こま</rt></ruby>家を敵視している山間漂泊族の仲間！

それに捕まったのですから、最後です。けれど、彼女もさすがに、月江にかしずいていたくらいな女、めめしい悲鳴はあげません。相手のなすがまま、ずるずると前の場所へ引きずられて来ました。

「やい！」

丁二郎の目には、争われぬ血のすじが走ってみえます。身なりは世間を歩く都合で、おとなしい行商人となっていますが、殺気立ったその全身が、動物的な屈伸をして、山男の兇暴さを思わせます。

「てめえはたしか、高麗村の人間だろうが」

彼女をそこへ突っ放して、責めだしました。

おりんはわるびれずに、

「はい。御隠家様の召使いでございます」

「聞いたろうが、今おれたちが話していたことを」

「べつに……」

「うそをつけ、うぬは、狛家の廻し者にちがいない」

「いいえ、用事があって来たのですから」

「人の居ないこの<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷へ、なんの用事があって来た？」

「関久米之丞をたずねて参りました」

ところへ、息をせいて戻って来たのは、安蔵と梅市で、

「残念なことをしたよ」

来るなり言って、<ruby><rb>野鍛冶</rb><rt>のかじ</rt></ruby>の半五郎を逃がしたことを、いかにも口惜しげに告げました。

その腹いせもおりんの身にかかって、

「こいつ、どうしてくれようか」

と、二人が彼女の両手をつかむと、

「<ruby><rb>埴輪</rb><rt>はにわ</rt></ruby>の身代りに埋めてやれ」

梅市がカラカラと笑って言う。

「おう、穴も人がたに掘れている。安蔵、声をだすとうるさいから、何か女の口へ」

「猿ぐつわか」

「そうよ、早くしろ」

「よし！」と言うと、羽がい締めにしたおりんの口へ、むごい布が廻されました。

自分の呼吸がつまりかけたせつな、おりんは初めてヒーと懸命な救いをよびましたが、もうだめです。鳥飼の腕へ小鳥が爪を立てるよりも、効果のない反抗でした。よしやその悲鳴が生き<ruby><rb>霊</rb><rt>りょう</rt></ruby>のように武蔵野の宙を馳けめぐるとも耳にとめる往来の人がありますまい。

彼女の体は、鶏血草を掘り返した<ruby><rb>坑</rb><rt>あな</rt></ruby>の中へ突き落とされて、忽ち土をもって<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>められようとする。生ける<ruby><rb>埴輪</rb><rt>はにわ</rt></ruby>は生きながら埋められてゆく身をもがくのみです。

すると。――誰も人の住んでいないはずの<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷の中で、何か変な物音がしました。

「おや？」

と切支丹族の三人は、耳をすまして振向きましたが、気がついてみると、たそがれの<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がうッすらと流れて来ていて、いつか辺りは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あいろ</span>も分かぬ暮色であります。

それきりの事で、べつに変ったこともない。

家の中の物音は、野猫か鼠であったかも知れません。

その野猫のひとみのような四日月が、紺の深い夕空に懸っているのを仰いで、

「おお、思わず遅くなった」

「帰ろうぜ、山の会堂へ」

針屋の<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>、人形箱など、あたふたと身につけると、彼等は風のごとく岡の空屋敷から消えました。

…………

あとには、四日月の白い光が水のようです。土とも草とも分らぬ狼藉なそこらに、雨のような虫の声。

松虫、すず虫、くつわ虫、かんたん、こおろぎ、かねたたき、あらゆる虫の音が、わが秋の夜ぞとばかり啼きすだいています。

と――<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷の中でポッと一つの<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がともりました。そして、さっきは閉まっていた<ruby><rb>盲目窓</rb><rt>めくらまど</rt></ruby>が半分ばかり<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いている。

不思議です。

そこに居るはずもない人間が居たのはとにかく、生ける<ruby><rb>埴輪</rb><rt>はにわ</rt></ruby>とされた土中のおりんをなぜ助けてやらないのか。

時々、虫の音がハタと止む。

根こそぎにされた鶏血草がうごきます。わずかに、土がうごいています。それが止むとまた虫が啼きすだく……。

なぜあれを助けてやらないのか。屋内の細い<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>はあまりに冷酷ではないか。ごらんなさい、奥をのぞくと<ruby><rb>古簾</rb><rt>ふるすだれ</rt></ruby>を垂れて、じっと虫の音を楽しむごとく手枕で横になっている人間が見えますのに――。

## <ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の口笛

同じ日の夕方のこと。

八王子の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>を遠いうしろにして、満目、<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>と露ばかりな武蔵野の一路をたどって来る<ruby><rb>佳人</rb><rt>かじん</rt></ruby>があります。

ところどころのゆるい小川は、観世水のような紋様を流し、空には、<ruby><rb>蒔絵師</rb><rt>まきえし</rt></ruby>の指で<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>いだような細い夕月がある。

「次郎や」

<ruby><rb>下</rb><rt>さ</rt></ruby>げ髪の人が言いました。

「はい」

「なんて<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い虫の音だろう。どんないい楽器を持って、どんな声のいい歌い手が集まっても、こんなわけにはゆくまいね。おまえも口笛を吹かないの」

「おいらの口笛なんか、ちッともいい声でありゃしないもの。折角ないい虫の声が濁ってしまうでしょう」

「そうでもないよ。おまえが退屈まぎれに、毎日<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>で吹いていた口笛は、なんともいえない上手だったよ」

「あれはねお嬢さん。<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の<ruby><rb>臼挽</rb><rt>うすひ</rt></ruby>き歌をやっていたんです」

「臼挽き歌を口笛で吹いていたの」

「ええ」

「やってごらん」

「やってみましょうか」

手に野槍を持ち、顔に般若の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をかぶっていた高麗村の次郎は、その<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をヒョイと<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の上へめくりあげると、おかしな諧調で臼挽き歌の一節を吹き出しました。

それが済むと、すぐに<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を元のとおり顔へつけ直し、野槍を杖に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したり</span>顔して月江の供について行く。

聞き澄ましてから月江はまた、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したり</span>顔のうしろの仮面を振り向きました。

「次郎や」

「なんですか、お嬢様」

「最前から、おまえは面白そうに、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を顔へつけて歩いているようだけれど、なぜふところに仕舞っておかないの」

「もしか、落とすといけないからです。ハイ、手に持って歩くよりも、ふところに入れて歩くよりも、顔につけて歩いていれば一番大丈夫ですからね。決して、面白がってかぶっているわけではありません。顔でお<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をさげてあるいているだけなンです」

「おまえはほんとに言い抜けがうまいわ」

「だって、ほんとにそうなんですから］

「手で持って歩いても、顔で持って歩いて行ってもいいから、落としたりキズにしたりしないようになさいよ」

「はい、それは次郎も合点していますよ」

「何しろ、尾州様の御秘蔵<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>、万太郎様からくれぐれもお頼みをうけて来た大事な品、市ヶ谷の上屋敷とやらへお届け申してあげるまでは、おまえに大変な責任があるのですよ」

「分っております。ですから顔から離しません。早く高麗村へ帰って、御隠家様にこれを見せ、次郎の<ruby><rb>粗相</rb><rt>そそう</rt></ruby>をおわびした上に、改めてお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をいただいて江戸の尾州様へこれを届けるつもりです」

「ほんとに、早くそうして上げなければ、万太郎様の御好意に対してすまないわけ」

「いつかあの人が<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>小屋へ泊った時、おいらと約束したことを忘れないで、わざわざ小仏までこれを持って来て、次郎よ、仮面が手にはいったから、おまえはこれをもって主人のわびをかなえてもらえ――こう仰っしゃって下さいました」

「お……河原へ出て来たね」

「熊川の岸でございますよ。ここを越えると拝島の裾でしょう」

川幅はかなりありますが、水は浅く、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をくくり上げてジャブジャブと<ruby><rb>渡渉</rb><rt>としょう</rt></ruby>するには手頃な流れです。

月江が草履をぬいで着物の裾を折りかけると、

「お嬢様、おぶってあげましょうか」

と、野槍を杖に、次郎が背なかを向けました。

ちょうど、時刻にするとその頃でした。

かの切支丹族の三人が、おりんを生き<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>めにしてその岡の家から、スタスタと拝島の裾へ降りて来たのは。

しかし、まだ熊川の岸までは、十数町の距離がある。また、野を縫う道も西へ東へ、或いは秩父へ甲州路へ、幾すじとなく走っている。<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れている。

彼等がもしその道を、熊川の方へとって来たらいやでも出会うのは必然です。

またもし、彼等がほかの道へ去れば、次郎と月江は事なくそこを通りすぎる代りに、おりんの運命も、あのまま誰にも顧みられないことになるでしょう。

いずれを祈るべきでしょうか。ただ草のみしげる草原のわずかな距離にも、大きな運命の岐路がある。

――あの鼻寺炎上の事があって後、万太郎は小仏の甘酒茶屋へ使いを立てたものとみえます。

そこには、まだ月江が体を養っていました。無論次郎もあれ以来、彼女のそばを離れていない。

万太郎の使いが次郎にもたらして来たものは、すなわち尾州家の秘蔵<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby><ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>です。かねて彼が約したとおり、それをいったん次郎の手に貸し与えるかわりに、<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人にわけを話してその了解を得た後は、江戸表市ヶ谷の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷に届けてくれるように――という希望が添えられてある。

次郎のよろこび、言うまでもありません。

彼は、一刻も早く、それを持って高麗村へ帰り、千蛾老人に<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を見せて、さらに江戸へ行くべく心をせきましたが、月江の打身が容易に<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えないので、それからも空しく一月あまりの日を、小仏の茶屋に過ごしていたのでした。

また。

万太郎はそれを次郎へ託した後、金吾や釘勘と共に、即日、甲府から秩父路へ向っています。

日本左衛門のあとを追い、かたがた切支丹屋敷のお蝶の行方を知るためであることは、言うまでもありません。

けれど、次郎と月江が小仏の茶屋に足をとめている間は、その後の万太郎を初め金吾や釘勘の消息はさらに聞かなくなりました。――甲府から奥秩父にはいる道は、<ruby><rb>甲武信</rb><rt>こぶし</rt></ruby>の山脈の折り重なっている有名な嶮路で、不便は元よりのこと、めったに便りをもたらす飛脚の往来とてもない山地ですから、三人はいよいよ山また山の深くへわけ入ったものと想像されています。

谷間へ落ちた時のかすり傷や打身も、秋の立つ頃にはすっかり<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えて、月江の体は元の月江に<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>りました。で、次郎と共に、夏から五十日あまりの日を過ごした甘酒茶屋へ別れを告げて、小仏の秋を惜しみ、高麗村の秋をしのびながら、この武蔵野まで帰って来ました。

もう、なつかしい高麗村はすぐそこです。

今夜、月江は八王子の宿に泊って、あしたの朝早く、馬を雇って武蔵野を横切ろうといったのですが、次郎が、

「いいえお嬢様、夜の旅もいいものですよ。秋の晩はなおいいものでございますよ。高麗村だって、もう半夜も歩けば行き着くじゃございませんか。歩きましょうよ。歩きましょうよ、ここまで来て一晩泊るなんてばかばかしい。それに、決して道に迷うことはありゃしません、武蔵野といえば次郎の巣のようなものですからね」

<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>ってそういうものですから、彼の意にまかせて、宿をとる時刻の千人町を通り越して来ました。

そして、一歩武蔵野へはいると、秋草のしおらしさ、虫の音のおもしろさ、足のつかれも、たそがれのさびしさも忘れるほどですから、次郎の言に従って来て決して後悔がありません。

「ほんとに、夜の旅もおもしろいね」

次郎の背なかにおぶさりながら、月江がこういって興がりました。

彼は、その月江を背におぶって、熊川の浅瀬をえらびながら、

「昼間だったら、いくら人がいない所でも、きまりが悪くって、こんなことはできやしないでしょう」

と、ザブ、ザブと<ruby><rb>清冽</rb><rt>せいれつ</rt></ruby>へ足を入れて行きます。

「そう……」月江はホホ笑みながら、次郎の肩へやわらかい手を廻して、

「おまえ、私をおぶうときまりがわるいの」

「だって、お嬢様は、女だもの」

「でも、主従だから、人が見てもおかしくはないはずだろう」

「だって女だもの。お半長右衛門みたいだ」

「あら。おまえお半長右衛門なんてことを知っているの」

「<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>にいた時、おりんさんが貸本屋から借りたのを、読んで聞かせてくれたんです」

「まあ。おりんはあんな本ばかり好きなんだね。そしておまえは、そのお半長右衛門の話が分ったかえ？」

「分らない」

「分らないくせに覚えているの」

「絵が描いてあったんで、なんだか、お嬢様をおぶって川を渡っていると、おいらが絵になったような気がしたんですよ」

「ホホホホ、じゃ、その絵にあった長右衛門も、次郎みたいに、<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をかぶっていたかえ」

「ううん、もッと、きれいな男でした」

「女も、私よりずッと美しい、京<ruby><rb>鹿</rb><rt>が</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の帯をしめた娘でしょう」

「でも、女の方は、その絵よりもお嬢さんの方がなお美しい」

「嘘ばッかり」

と、月江が次郎の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をしめるようにしますと、彼の胸は激しい<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>が打って、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の中の顔が火のように燃えました。そして、その動悸が月江の指に感じられはしないかと、恐ろしいような心地もするのです。

鬼面をかぶッた年下の長右衛門と、油気のない下げ髪のお半。

二人は、見たことのない夢をみるように、熊川の浅瀬を渡ってゆきます。

<ruby><rb>祭文</rb><rt>さいもん</rt></ruby>に歌われた信濃屋お半の夢は、死という夢を美しくみながら川にはいりましたが、この二人はあくまで強く生きようとする体と体を重ねながら、水を踏んでゆくのであります。

祭文のお半の夢と、今みている自分の夢と、どっちがあぶないだろうか――とも、ことさら考えてみる二人ではありません。

月江は、少女のようにハシャいで、

「次郎や、口笛をお吹きよ、口笛を」

「そんなことを言ってもむりではありませんか。川を越えてから歌います」

「私は、おまえの背なかで聞きたいの。そして、このまま寝てしまいたいの」

「寝てしまッちゃいけませんよ。しッかり肩につかまっていなければ、川へはまッても、おいらの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せい</span>じゃないからいい」

「ああ、落としてごらん、おまえも一緒に抱きこんで上げるから」

「じゃ、落としてもかまわない？」

「ああいいとも……」

そうして二人は、もう一足か二足しかない岸へ近づいたのを惜しんでいます。もっと、この川幅が広ければ――と胸に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うず</span>いているらしいのです。

ふざけているうちに、遂に次郎は手をはずして、月江を水へ落としました。しかし、岸は近いし水も浅い所なので、二人濡れもせず、石を投げられた<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>みたいに、パッと向う岸へ飛び上がって、

「あはははは」

「ホホホホ」

と、何がおかしいのか、手をたたいて笑いこけました。

その笑い声が、あまり時ならぬものでしたから、びッくりしたのは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんたん</span>や<ruby><rb>螽蟖</rb><rt>きりぎりす</rt></ruby>ばかりではありません。野伏かなんぞのように、<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の根元へ身をかがめていた男が、

「あっ」と言って、のび上がりました。

そして男は、近づいてくる人影を、いぶかしそうに見透かしておりましたが、やがてのこと、牛のように歩き出して、自分からも歩を近づけ、

「次郎じゃねえか」

こう言いました。

「えっ」

「月江様じゃございませんか」

「オオ、誰だえ、お前は」

「野鍛冶の半五郎でございますよ」

そう<ruby><rb>濁</rb><rt>ど</rt></ruby>す声で言って半五郎は、アアお父っさんかと澄ましている<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>の顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけて、

「この小僧め、いい加減にしやがれ。無断で家を飛びだしたまま、どこをホッつき廻っていやがッたのだ。おっ母アを見ろ、おっ母アを。毎日、目を泣きはらして心配しているじゃねえか」

「半五郎や、次郎に<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいっておくれでない。いろいろわけがあるのだから」

「そうだ、こっちもそんな場合じゃなかった。お嬢さん、今日おめえ様をさがしに来たお屋敷の小間使いが、切支丹族の男たちに捕まって、生埋めにされてしまいましたぜ」

「えっ、おりんが」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>、それはほんとうかい」

次郎と月江とは、道々もうわさをして来たそのおりんが、生埋めという、<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>な<ruby><rb>奇禍</rb><rt>きか</rt></ruby>に会ったと聞いても、にわかに信じかねました。

しかし、事実は半五郎の口からつぶさに語られて、二人の心を<ruby><rb>動顛</rb><rt>どうてん</rt></ruby>させたのです。そして、半五郎自身は、かれらが拝島の岡を立ち去った<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、おりんの身を助けてやろうというつもりで、姿をひそめていたところだという話です。

「だが、その切支丹族のやつらが、まだこの<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ路へかかって来ねえから、悪くするとそこらで<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つからないとも限らない。何しろ、あいつらの眼に触れたら命があぶのうございますぜ、お嬢様、どこかそこらで、暫くの間かくれていた方がようがしょう」

彼のことばが終るが早いかです、次郎は野槍の先ッぽを拝島の岡に向けて、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>、おいらがおりんさんを助けて来るから、おめえはお嬢様のそばを離れないでついていてくんねえ」

「生息気なことをいうな、小僧のくせにして」

「いいかい、ほんとに、お嬢様に<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>でもさせると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>だッて後でおいらが怒りつけるぜ」

「ど、どこへ行くんだ」

「知れているじゃねえか。おりんさんを助けによ！」

「ばかッ。あぶねえぞ」

「くそうッ、切支丹族のやつなんかに、高麗村の者がおそれていてたまるものか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>は臆病だから、<ruby><rb>尻</rb><rt>し</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尾</rb><rt>ぽ</rt></ruby>をまいて逃げて来たんだろう」

「このばか！　このばか！　命知らず――」

半五郎の目でみれば、どうしたって、まだ乳の香のうせない子供でしかありません。彼のような<ruby><rb>無頼者</rb><rt>ならずもの</rt></ruby>のおやじでも、その子が危難へ向って<ruby><rb>挺身</rb><rt>ていしん</rt></ruby>してゆくのを見ると、狂気のような声を出さずにはいられない。

だが、次郎は耳もかしません。野槍をすぐッて駆け出しました。彼が真に<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>る時には、般若の<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>も怒りをおび、その赤ッちゃけた童髪はうしろに逆立って、さらぬだに凄い<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の神作に、生ける魂をぶちこむのが常です。

## 秋の蚊帳

向う見ずな次郎の血相を心配して半五郎があとを追いかけましたから、月江もそこに残ってはいられない。

彼女もつづいて駆けました。

「ばかよ。ばか野郎よ」

と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りながら、次郎のかるはずみを止めにゆく半五郎の声も、いつか聞こえなくなりますと、三人の影は一町ぐらいな間隔を置いて、ただ駆けんがために駆けているようにしか見えません。

一陣の野分が吹いて過ぎる、――ザアッと満目の<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>が白い波を寝かす。

「ほい、しまった」

ところで切支丹族の三人づれ、岡を降りて来たところで、ホイと言ったのは梅市です。

「どうかしたのか？」

「忘れ物をしやがった」

「だれが」

「この<ruby><rb>頓馬</rb><rt>とんま</rt></ruby>が……」と自分の頭をたたきました。

「なんだい品物は」

「腰に差していた<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>入れ、<ruby><rb>丹波革</rb><rt>たんばがわ</rt></ruby>の安物とはいいながら、中には大事なものがはいっている。あいつを忘れて来ちゃあ大変だ」

「そんな中へ、入れておくからわるいじゃないか」

「さっき<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を持った時、邪魔になるので腰から抜いて、人形箱のそばへほうッて置いたのが不覚さ。実はあの中に、ヨハン様から渡された<ruby><rb>王庁</rb><rt>おうちょう</rt></ruby>の文の<ruby><rb>写</rb><rt>うつ</rt></ruby>しがはいっているんで……」

「そいつはいけない。あんな物が人手に渡ると一大事だ。おれ達も一緒に行ってさがしてやろう」

「いや、置いた場所はわかっているから、おぬしたちは、暫くここで待っていてくれ。すぐ一走りで戻って来る」

そこで梅市が道を取って返そうとして、<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>二郎安蔵のふたりに別れかけた時です。

どんと、何物かに肩を押されて、あっと安蔵がよろけたかと思いますと、ほかの者をも突き飛ばすようにして、ひとりの小僧が目の前を駆け抜けてゆく。

「やっ」

「待てッ」

と、こッちで彼を呼びとめると同時に、<ruby><rb>盲滅法</rb><rt>めくらめっぽう</rt></ruby>にすれちがッた<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎も、はッと思い当ったことがあるらしく、彼等が追って来るのを待たないで、

「やい！」

と、野槍を廻して踏み<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まりました。

「おや？」

向うから逆に、ヤイ！　と食ッてかかって来たのにも驚きましたが、その<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にかがやいている<ruby><rb>爛々</rb><rt>らんらん</rt></ruby>たる双眸にも<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をひしがれて、思わずタジタジと二の足をふんでいると、

「やい。てめえたち三人は、今、<ruby><rb>拝島</rb><rt>はいじま</rt></ruby>から<ruby><rb>降</rb><rt>お</rt></ruby>りて来た<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>の仲間のやつらだろうが」

さてはこいつ、どこかで様子を聞きかじって来たな――と思いましたから、三人は同じように山刀の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をつかんで、バラバラと次郎の前に立ちふさがりました。

「小僧、うぬも<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の人間だな」

「おおよ。おいらは高麗村の次郎ッてんだ」

「そして、さっきの女を助けに来たのか」

「あたりまえだ！」

「どッこい、そういう用ならここを通すことはできない。まごまごすると、おのれも<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>だぞ」

「なにを、こいつら。おいらの<ruby><rb>胆剌</rb><rt>きもざし</rt></ruby>の味をなめたいか」

と、やおら次郎は、鋭利な刃物のすげてある<ruby><rb>牛蒡</rb><rt>ごぼう</rt></ruby>のような黒い棒を横に持って、三方に立った三人の人間を、どいつから先に突こうかと見廻しました。

その一足あとから、半五郎につづいて、月江が息をせいて来てみた時には、次郎は血ぶるいをしていました。

すでに、野槍の穂さきは<ruby><rb>血糊</rb><rt>のり</rt></ruby>をなめ、足元には、ひとつの死骸が草をつかんでうツ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶ</rt></ruby>している。

仲間のひとりが、いわゆる次郎の言うなるキモサシの槍玉にあげられたので、あとの二人、<ruby><rb>蓑直</rb><rt>みのなお</rt></ruby>しの安蔵と梅市は、でなくてさえ兇暴な目をつりあげて、山刀をふッて次郎を挾撃している最中。

それを見ると半五郎は、わが子の大胆さにあッとあきれました。<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>にかれは、本能的な怒りを発して、

「この野郎」

いきなり梅市と安蔵に打ってかかります。

「やっ、てめえは」

と、相手の狼狽に、いよいよ勇をました高麗村の次郎は、手に馴れきッたキモサシを、槍にも棒にも刀にも使いわけて、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>！　あぶないから<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いていなよ」

と、かえって半五郎の身を子供のようにあやぶんで叫びました。

たかのしれた小僧と思いきや、<ruby><rb>稀代</rb><rt>きたい</rt></ruby>な野槍の鋭さに、彼ひとりでさえタジタジでいた安蔵と梅市は半五郎にうしろを襲われて、もう一堪りもありません。

「うぬ、おばえていやがれ」

「山岳切支丹族の名を忘れるなッ」

いつも、捨て<ruby><rb>台詞</rb><rt>ぜりふ</rt></ruby>と<ruby><rb>凄文句</rb><rt>すごもんく</rt></ruby>は、弱者の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>かくしと極まっている、そこで雲を<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>という文字どおりに、二人は一散に逃げ出しました。――逃げるに逃げいい武蔵野の原を。

そのあとで、ほッとしながら半五郎は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんがら</span>童子のように突っ立っている次郎の姿をながめて、

「こン畜生はまあ。こン畜生はまア……」

褒めていいのか、怒ッていいのか分らないで、

「末おそろしい<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>だ」

と、今さら、舌を巻きました。

彼の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>は舌を巻いたりなどして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がっかり</span>しておりましたが、次郎はまだ今の張りつめた気込みを少しもゆるませないで、

「さあ、早くおりんさんを」

と、すぐに野槍を持ち直します。

「まア、待てッたら」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>も来るのかい」

「第一、どこでどうしたのか、その見当もよくついてやしまいに」

半五郎の口ぶりは、最前からみると、だいぶ子供の実力を認めてきました。

「拝島の岡だって言ったろう。え？　そうじゃないの」

「べらぼうめ、拝島といったって、ずいぶん広いじゃねえか。だからおれが案内してやるからそう<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くなよ」

「じゃあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>が先へ歩きなよ。――お嬢様、次郎のそばへいらッしゃい」

前ほどではありませんが、それから十数町の間も、月江にはかなり辛いほど急いで行く。

と、半五郎が、

「あれッ？」

岡の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>から上を見上げて、不思議そうな声を出す。

「なに？　なに？」

次郎は、事こそあれと、寄って来ました。

「変だなあ……」

「なにさ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>」

「この上の関久米之丞の屋敷には、ついさっき来た時には、たしか、誰も人が住んでいなかったはずなのに、今見ると、チラと、明りが<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いている」

「久米之丞は殺されたよ」

「へえ、どこで」

「甲州境の<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>の山で――。だもの、空屋になっているのは当りまえだよ」

「それだのに、明りが<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いているのは妙だと言うんじゃねえか」

「何処に見える？」

「も少し、おれの方へ寄って見な」

「……見えないやあ、なんにも見えないや」

「そんなはずはねえ、今、チラチラと木の間に光って見えた」

「お嬢様には見えますか。久米之丞の<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷に明りが点いているんですって」

「見えないねえ、私にも」

「それごらんな。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>の眼は少しどうかしているぜ。見えたとすれば狐火か、それでなけりゃ、小仏で殺された久米之丞の<ruby><rb>人魂</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>かも知れない」

そう言って、次郎は事もなげに笑いました。

とにかく三人は、岡の空屋敷へ急ぐことにしました。そこに<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がさしているか否かも、近づいてみれば解決がつく。

が、この押問答は半五郎の負けでした。行き着いてみると、例の<ruby><rb>古家</rb><rt>ふるいえ</rt></ruby>は昼間よりシンとしていて、少しも変ったふうはなく、また半五郎の見たという<ruby><rb>灯</rb><rt>ともし</rt></ruby>のもれている様子もありません。

次郎と月江は、彼のあとについてすぐ草深い裏庭へ廻ってゆきました。おりんの身はどうしたろうか？　近づくに従って、予感の教える、いやな恐怖におどおどするのが、自分でも制しきれない足どりです。

すると、雑草の折れ敷いたところを目あてに、ガサガサ歩き廻っていた半五郎が、

「この辺だ」

と、有り合わせた<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を持ちはじめました。

そこで、次郎もあわてて手伝おうとしましたが、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を泥だらけにしてはと気がついて、ふところから風呂敷を出し、仮面をくるんで<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>の代りに肩から斜めに背負いこみます。

そして半五郎と一緒に、セッセと土の下をさぐりましたが、どうもその土の当り具合が少し不審です。

「おかしいなあ」

「不思議だ」

<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をのんでじッと立っていた月江は、こわごわと寄って来て、

「どうしたの？」

たずねますと、半五郎も次郎も、一緒に<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を投げだして、

「居ませんよ。おりんさんは」

「えッ」

この驚きは、ホッとしたよろこびでもありました。

けれどまだ、それで彼女の生命に保証がついたとはいわれません。逃げたのであろうか？　場所が違っているのじゃないか？　と三人の迷いはかえってふかくなる。

「逃げたとすれば、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>村へ帰って行ったにちがいない」

こう月江が気休めをつぶやきますと、半五郎は首を振って、

「いやいや。どうしたッて、ひとりで逃げ出せるわけがない」

と頑固に否定してしまう。

「じゃあ、おりんはどうしたの」

「さあ、それは分らねえが」

こんな会話をつづけ合っていると、どこからともなく、柴をいぶすような白い煙が、自分たちの足元へ低く這ってきたので、

「や。この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にはたれか人が住んでいるぞ」

そこで半五郎は、さっき途中でチラと見た<ruby><rb>灯</rb><rt>あかし</rt></ruby>が、決して自分の錯覚でなかったのだと気がついて、にわかに、<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>小屋とおぼしい屋敷の横手へばらばらと駆けだしました。

そこも納屋だか物置だか分らないほど荒れています。綿のような白い煙は、たしかにこの近くから流れている。

と。――彼や次郎の足音を耳に入れたのでしょう、立てかけてあった風呂場の戸をはずして、ひょいと外をのぞいた女があります。それが意外にもおりんだったのです。

おりんは、湯をわかして、髪や手足を洗っていたところでした。半五郎は呆然とするし、次郎や月江は手をとって狂喜しました。

なおさらのこと、おりん自身の驚きは申すまでもありません。探しぬいていた月江と次郎が、その戸の外に立っていようとは夢にも予想しない事ですから、胆をつぶして、にわかに会話を合すこともできない。

だんだん事情をたずねてみますと、おりんは気を失って、自分が土の下になった意識もなかったそうです。彼女が気がついてみた時には、この<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷の縁がわにあげられていて、板の間の冷たさに身ぶるいをすると共に、口の<ruby><rb>唾液</rb><rt>だえき</rt></ruby>に丹薬のにおいが胸までひろがって、<ruby><rb>清々</rb><rt>すがすが</rt></ruby>としたそうです。

そうして、彼女が何気なく立とうとすると、奥の方で、こういう男の声が聞こえたといいます。

（お女中、べつに怪我もないようだから、もう安心するがいい。手足を洗うならば、風呂場に<ruby><rb>火打石</rb><rt>ひうち</rt></ruby>も<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>もある、ともあれ、<ruby><rb>夜中</rb><rt>やちゅう</rt></ruby>では里へも出られまいから、今夜はこの空家にやすんでゆくとするさ。どこでもすきな部屋へはいって、有合せのものを着てやすむがよい。ただ、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>や火の気は禁物、用がすんだらすぐ消しておくことだぞ）

そう聞こえたのは、三間も四間もへだてた薄暗い奥の座敷で、ことばの<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>の姿は見えない、ただほのかに、青い<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の波がよれていたそうです。

明りがないので、どこの部屋も厚ぼッたい<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>が四角に区ぎられてあるのみです。おりんは、足の裏にねばりつく畳の音を忍んで、幾間もある奥の一室をさぐッて来ました。

かすかな寝息が聞こえます。

そこには静かというよりも、むしろ気味わるい<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の布目がうッすらと青くよれている。

もう夜は肌寒い秋ですから、いかにやぶ<ruby><rb>蚊</rb><rt>か</rt></ruby>の多いこの辺でも、蚊帳をつるべき気候ではありませんが、何しろ、雨戸やふすまも不備なため、枕元にキリギリスが啼き、寝顔をコオロギに踏みつけられるおそれもあるので、蚊帳は夜の虫ふせぎにつるものとみえます。

かりにも、男の寝息がしている部屋なので、おりんは中の一間を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、それ以上は進みかねながら、

「最前、お救いくださいましたのは、多分あなた様と存じますが」

そう言って、畳に両手をつきました。

「――只今ちょうど、高麗村の者と、お<ruby><rb>主</rb><rt>しゅ</rt></ruby>のお嬢様とがたずねてまいりました。まことは、明日を待ってゆるゆるお礼を申すのが道でございますが、お嬢様が先を急いでいる場合なので、私も御一緒に今から高麗村へお供をいたします。――ついては、また日を改めてお目にかかりたいとは存じますが、どなた様でございましょうか、お名前だけを、伺わせてくださいませ。……もし、お寝みのところを恐れいりますが、おさしつかえなければ、あなた様のお名前なりと……」

幾たびとなく、礼をくり返していましたけれど、蚊帳はソヨともうごきませぬし、寝返りを打つ<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶ</rt></ruby>りもしません。

心残りの様子でしたが、おりんはぜひなく立ち上がりました。

外には、月江をはじめ、次郎、半五郎の三人が待ちぬいている。

やがて彼女はその人々と共に、夜更けにかけて高麗村の道をたどっていました。<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ってみると拝島の岡が、悪夢の影みたいに黒く見える。

「だれだろうね？」

当然、四人の話題は、おりんの口から話された<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷の<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>に好奇をもち合って、しきりと詮索を試みましたが、遂に、おりん自身にも思い当るところがありません。

ほぼ小一里も歩いたかと思うころ、一行の前に、数頭の馬首と数点の<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>があらわれました。近づいてみると、高麗村の郷士たちです。

何者が報じたのか、この夕べ、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の山岳切支丹族の者が里へ下りたという風聞が御隠家の耳にはいったので、おりんの帰りのおそいのを案じて様子を見に来た面々でした。で、月江はその明りに導かれ、意外に早く高麗村の屋敷に帰りつきました。

狂喜したのは<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人です。オオ、オオ。ただそう言いつつ部屋へ連れこんで<ruby><rb>愛娘</rb><rt>まなむすめ</rt></ruby>の手に涙をこぼす。居ならぶ郷士たちもその劇的な場面を見まもって共々に涙ぐましい情感にうたれました。

次郎の勘気も、この折からのこととて、一も二もなくゆるされました。何物より欲していた老人は石神の<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>から失った洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>にも大して執着をもちませんでした。それは即刻、万太郎殿とやらの希望どおり、江戸表の尾州家へ届けてやれ、と至ってさっぱりした次郎へのいいつけです。

「ありがとうございます。では、近いうちに、これを持って、江戸へ行ってまいります」

次郎も、これでほんとに安心したというものです。で、またもや事故の起らぬうちと、彼はそれから二、三日目に、ふたたびわらじをはいて高麗村を出る。

<ruby><rb>峡谷</rb><rt>きょうこく</rt></ruby>の樹々は一日ましに<ruby><rb>朱</rb><rt>あか</rt></ruby>く、秋の陽はきょうも高く澄んでいます。

御隠家様のゆるしをえて、江戸の尾州家へ<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をとどけるべく次郎が武蔵野へ下りた時、おりんも二人の郷士をつれて、また、拝島の岡へ出直しました。

「もう、行かぬがよい」

と月江にも言われましたが、あのまま礼をしないのは心苦しいと言って、<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷の蚊帳をたずねてみたのです。

そこは、相変らずヒッソリとしていて、奥をのぞくと、昼だのに、<ruby><rb>萌黄</rb><rt>もえぎ</rt></ruby>の色あせた<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の吊り手が<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>所はずれたまま、ダラリと陰気な姿をしている。

けれど、そこに寝ていた人間は、きょうは影も姿も見当りません。やはりあれはこの空屋敷を巣にしていた者ではなく、折よくあの日だけ、行き疲れか何かして、この空屋敷に一夜を過ごしていた通りすがりの旅人に相違なかった……。

## 秩父異教国

<ruby><rb>金峰</rb><rt>きんぷ</rt></ruby>の<ruby><rb>嶮</rb><rt>けん</rt></ruby>を避けて<ruby><rb>木賊</rb><rt>とくさ</rt></ruby>をめぐると、同じ山越えの道でもよほど楽であります。――その木賊と金峰を前にひかえて、甲州を落ちて来た四ツ目屋の新助と雲霧の仁三の一行が足をとめておりました。

そこに、信玄の隠し湯という言い伝えのある、自然の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いで</span>湯と、かたちばかりの小屋がある。

しかし、湯治をしているほどのんきな道中ではありません。あの<ruby><rb>鼻寺</rb><rt>はなでら</rt></ruby>の炎の下から、お蝶を山かごにのせて、命からがら落ちのびて来たのですから、一刻も早く、危険率のすくない<ruby><rb>秩父路</rb><rt>ちちぶじ</rt></ruby>から中仙道へ抜けて行くべきです。

それを、悠々とここに足を止めたのは、もうここまで来れば安心という見込みがついたのと、やがて自分達のあとから、日本左衛門や千束の稲たちも、同じこの道を来るにちがいないと、それらを待ち合す心もありました。

果たして、あとから一行へ追いついて来たものがある。それは秦野屋九兵衛です。なお、九兵衛の話によると、日本左衛門も同じ夜に山越えの方角をさして落ちたというので、つい一日のばしに待っていたわけです。

ところが、九兵衛が一行に加わって以来、稲吉も日本左衛門も、遂にこの信玄の隠し湯に追いついては来ませんでした。

「稲は<ruby><rb>召捕</rb><rt>あげ</rt></ruby>られたな」

雲霧はこう<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>りました。

「だが、親分はどうしたろうか。秩父へ越えるとすれば、当然ここを通るはずだが」

と、四ツ目屋は、時折つぶやいて、小屋の前に半日も立っていることがある。けれど、この往還ばかりは、一日立っていても、ひとりの旅人を見ることさえない日が多いのです。そして、<ruby><rb>金峰</rb><rt>きんぷ</rt></ruby>や<ruby><rb>木賊</rb><rt>とくさ</rt></ruby>に冷たい霧がながれてくるたびに、山は秋に染められてゆきます。

「九月のなかばになると、もう金峰の上には<ruby><rb>霙</rb><rt>みぞれ</rt></ruby>が来るッていうぜ。いつまで待ち合していても果てしがねえから、明日あたりは、立とうじゃねえか」

「そうさ、親分のことだから、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おっとり</span>とした様子で、わざと本街道へ出たのかも分らねえ」

「それとすれや、もうとうの先に、江戸か<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>へ行きついて、あべこべに、おれ達の遅いのを案じているかも知れないな」

「どっちにしても、もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほとぼり</span>もさめたろうし、長居は無用だ、立つとしようぜ」

「よかろう！」と、相談のまとまった翌日です。一同はまた山かごにお蝶をのせて、信玄の隠し湯から木賊の奥にはいりました。

登りや渓谷にかかると、お蝶は時々かごを降りて、素直にあるいておりました。無理に<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>をねらッて逃げようとする様子もさらに見えません。その運命のあるところによって、生命をたもつことだけを条件に、彼女は煩悶をしない女です。

もっとも、秦野屋という策士が、あとから一行にまじっていますから、どういう隙に、四ツ目屋や雲霧の目をぬすんで、お蝶にことばをかわしているか、その辺のことは察しかねます。

とにかく、山から山へ、幾日かの初秋の旅がつづきました。

「気楽だなあ、ええおい」

雲霧は、連れの者へ笠を向けて、

「天下の<ruby><rb>兇状</rb><rt>きょうじょう</rt></ruby>もちが、こんなにお<ruby><rb>練</rb><rt>ね</rt></ruby>りであるいていても、見るやつはなし、追いかけて来る犬もない。女のあるく道だけに、関所を設けて頑張っている役人なんてえやつは、まったくいつも居眠りばかりしている道理だよ」

「だが、中仙道へ出ると、まさか、こう気楽にはゆくまいぜ」

「そうさ」

と、四ツ目屋は、お蝶のかごへ目をやって、

「第一、あいつに油断がならなくなる」

聞こえたでしょうが、お蝶は横を向いて笑っていました。

翌日も同じ山の旅。

次の日もおなじ山の旅でした。

その間に、左右の空に見た山をかぞえてみますと、<ruby><rb>源次郎岳</rb><rt>げんじろうだけ</rt></ruby>、<ruby><rb>大菩薩</rb><rt>だいぼさつ</rt></ruby>、<ruby><rb>鈴庫</rb><rt>すずくら</rt></ruby>、<ruby><rb>倉掛</rb><rt>くらかけ</rt></ruby>、<ruby><rb>乾徳山</rb><rt>けんとくさん</rt></ruby>、みな一見識をもって、甲武のあいだに山脈をなしています。

こうして、一行が、この往来で難所の名のある、<ruby><rb>雁坂峠</rb><rt>かりさかとうげ</rt></ruby>を越えてほっとした日の午後であります。

「おや、煙が見える」

「めずらしいな、人間が居るんだぜ」

と、雲霧と四ツ目屋が、顔を見合せて意味もなく笑っている。

ずいぶん、人を人と思わない雲霧なども、こんどの旅ではまったく人間が恋しくなっていました。あの信玄の隠し湯を出てからでさえ、まだ飛脚屋や炭焼などにも、ひとりも出会っておりません。そこで暫くの間は、あなたの空に立っている煙が、ひとつのたのしみとなって、部落があるのか、それとも炭焼のたむろか、<ruby><rb>猟師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>の小屋か、などとしきりに皆の空想の目標になる。

「久しぶりで、今夜は、あったかい蒲団で、あったかい御馳走にありつけそうだ」

と、雲霧が早くもそれを当てにするものですから、四ツ目屋の新助は、からかい半分に、

「だが雲霧。もしかして、山目付なんていう、役人などが居たひには、とんでもねエ御馳走を食うだろうぜ」

「はははは。そいつは、あやまるよ」

と雲霧が笑えば、かごかきや秦野屋も、一緒になって笑いました。

ところが、次第にそこへ近づいて行くと、一種異様なにおいが人々の鼻にさとられて来ました。猟師だろうか、人家だろうか、さまざまに空想して来た煙も、誰の想像もあたッておりません。

<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>の樹によりかかりながら、車座になって、焚火をしていたのは十人ばかりの男どもです。火にかざしている手や、その着ている衣服が、どれもこれも、黒光りなよごれかたをしていて、鼻をうつような異臭はまさしくその一団から発している。

かごと旅人が、そこへ通りかかるのを見うけると、焚火のまわりにいた連中は、一様に首をこッちへ向けて、

「ご苦労さんでござんす」

「えらいこッてごす」

「ご苦労さんで……」

ひとりひとりあたまを下げて、長途の山の旅をねぎらうのでありました。まったく、人気のない山の中でふと出会った土地の者に、このあいさつをうける時ほど、郷土人のあたたかみと親しみを感じる場合はありません。

四ツ目屋、秦野屋、雲霧なども、人間の群れ争う都会のなかへはいると、それぞれものすごい<ruby><rb>兇賊</rb><rt>きょうぞく</rt></ruby>と化しますが、さすがに、こんな平和な人たちを見ると、自分の暗い影も忘れて、

「よう、御連中、たいそう仲よくおそろいだね」

と、<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>に話しかけて、

「すまねえが、一服やらしておくんなさいな」

と仲間にはいって、そこらへ腰をおろしました。

「さあ、旅の衆、火のそばによるがいい」

「なあに、せこせこ歩いて来たやつで、すこしも寒かアありません。……時に、変なことをきくようだが、おまはん達ゃ、なんだね？　へへへへ。なんだネっていう聞き方も不作法だが、御商売は何でござんす。どうも、<ruby><rb>猟人</rb><rt>かりゅうど</rt></ruby>ではなし、お百姓さんとも思われねえが」

「あ、わしたちの、仕事かね」

「そうよ」

「わし達は、この辺の山から、<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>を採っておりますんで」

「そうかい。じゃ、おまはん達は、うるし掻きというやつだね。いや、やつじゃねえ、御商売なんだね」

「へえ、うるし掻きでございます」

「道理で、変なにおいがしたよ」

「お客さん、そこらの桶にさわるとかぶれますぜ」

「なにさ、みんな<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>の皮のあつい手合いだから、そのことなら心配はねえ」

「皆さん、江戸の衆とみえるね。面白いことばかり言う」

「しばらく<ruby><rb>他人様</rb><rt>ひとさま</rt></ruby>とお話をしねえから、やたらに無駄口がたたきてえのさ」

「で、旅の衆、お前さん方は、何を御商売で、こんなところを歩きなさるのか」

「え。おれたちの商売かい？」

と、これには、ちょっと返辞に困って、ただニヤニヤと笑っていると、焚火の仲間に割りこんで、じょうだん口をたたいていた雲霧の前で、突然、ポーンと火薬でも投げ込んだような音がしました。

「あっ」

と、四ツ目屋までびッくりして飛び上がると、<ruby><rb>漆掻</rb><rt>うるしか</rt></ruby>きは、いちどきに笑って、

「旅の衆、栗だよ、栗をくべてあったのだよ」

雲霧の仁三ともあろうものが、<ruby><rb>焼栗</rb><rt>やきぐり</rt></ruby>におどろかされて飛び上がるなどは、近ごろの大出来だと、かれも共に、自分で自分を囃したいような苦笑にくすぐられました。

「焼けた、さ、旅の衆、栗をたべねえか、この辺の栗は、つぶは小さいが甘みがある」

と、漆掻きの男どもは、人にもすすめ、自分たちも灰の中から栗をかき出して、皮をむき合っている。

「ひとつ、御馳走になろうか」

四ツ目屋の新助も手を出して、

「ウム、こいつは甘い」

と、<ruby><rb>他愛</rb><rt>たあい</rt></ruby>がありません。

その間に、秦野屋はどうしたろうかと<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ってみると、かれは、お蝶のかごの側で、鼻寺の<ruby><rb>法達</rb><rt>ほうたつ</rt></ruby>に頼んで雇って来た四人のかごかきと、何かしきりにいい争っている様子に見える。

一<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>のかごに四人のかごかきがついて来たのは、山越えには、是非その予備として必要な肩代りです。このかごかきどもは、鼻寺の法達や寺男の八助と知り合で、充分、腹蔵のない者たちだと聞いて来ておりますから、今日までかなり心をゆるして、仲間同様に待遇して来たのですが、それが、何を言い出して、九兵衛を手こずらしているのだろうかと、四ツ目屋の新助が立って行ってみますと、

「こんな所へ来て、困ったことを言い出しやがる」

と、九兵衛は舌うちをして、そのいさくさを新助に代ってもらいたい顔つきです。

「何をゴネているんだ、てめえたちは」

新助が問いただすと、

「なに、べつにゴネているわけじゃございません。ただ、あまり日数がたちすぎたから、ここらでおひまを貰いたいと、今、旦那にお聞き申してみたところでさ」

「そんな約束じゃねえはずだが」

「旦那の方じゃそういうけれど、こちとらの方じゃ、元々こんな遠方へ、それもたしかなあてもなく、やって来るつもりじゃなかったんです」

そこに<ruby><rb>漆掻</rb><rt>うるしか</rt></ruby>きが大勢居合すので、すこし足もとを見ていうらしい苦情です。

もっとも、かごかきどもの考えでは、信玄の隠し湯あたりで、とうに引っかえしたい算だんであったのですが、帰るといえば、<ruby><rb>大刀</rb><rt>どす</rt></ruby>に手のかかる<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>であることは分り過ぎていたので、今日まで、折を待ちながら、いやいや<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来たものです。

「ちッ。面倒な」

雲霧は目ですくって、

「おい四ツ目屋、<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>をくれてけえしてしまうがいいじゃねえか」

「だって」

「秩父の町へ行きゃあ、どうかなるさ」

「その町まで、まだどのくらいあるかもわからねえのに」

「お蝶だって、観念している、何も、あとの道ぐらいは自分で歩くだろう。どっちみち、ふた心のあるやつを連れてあるくのは、あとあとの為にもならねえことだ」

それも一理ある言葉ですから、新助は<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>を折って、四人のかごかきに相当な賃銀を与え、かれらの望みどおり、そこで放してやることにしました。

秦野屋は<ruby><rb>可</rb><rt>か</rt></ruby>とも<ruby><rb>否</rb><rt>ひ</rt></ruby>ともいわず、きせるをくわえて、帰って行くかごかきの影を見送っている。

かれのそばへ、かごを降ろされたお蝶が足を休めました。お蝶の目が、何か九兵衛に話しかけたいようにうごくのを、彼は気のつかない顔をして、ぷッと、たばこの火玉をてのひらに吹きました。

そのお蝶の美しさは、<ruby><rb>漆掻</rb><rt>うるしか</rt></ruby>き達に少なからぬ驚異だったとみえて、彼等は最前から、鳴りをしずめてマジマジと気をとられていましたが、そのうちに、

「旦那がたはよいけれど、あの、かご屋を帰しては、その<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>が可哀そうだ。おまけに、<ruby><rb>栃</rb><rt>とち</rt></ruby>の沢までゆかないと、泊る小屋がないところだのに」

と、案じられるように、ささやき合っています。

雲霧は気軽に、

「どうだろう、今夜はおめえたちの部落へ行って泊めて貰えまいか」

「だが、わしらのいる部落は、すこし横道へはいる所だから」

「何里ぐらい？」

「一里ほどはありましょうよ。だが、そこへ来れば、あしたは秩父の町へゆく馬があるから、その<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>だけでも乗せてあげたらようがしょう」

とにかく雲霧たちは人里に餓えている。部落と聞いても恋しい気がする。で、<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>の森にそいながら、<ruby><rb>漆掻</rb><rt>うるしか</rt></ruby>きの導く道について行きました。

深林から深林へ、道はいくたびとなく折れ曲がって行きます。

西へ向いているのか東へさしているのか、この辺の地理になると<ruby><rb>漆掻</rb><rt>うるしか</rt></ruby>きででもなければ、少しも見当がつきません。

そのうちに、行く手に明るい空がひらけました。森を離れたとたんに道は急落していて、その下に四方山にかこまれた盆地があります。

「わしたちの村は、あの盆地の底でございますよ。旅の衆、先へ下りたがいい」

こういって、指さす所を見ると、そこは足がかりもない絶壁で、頼りとするのは、一すじの<ruby><rb>繩梯子</rb><rt>なわばしご</rt></ruby>が下がっているばかり。

しかし、新助も雲霧も秦野屋も、身の軽いことにかけては漆掻きに劣らぬ<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>です。するするとつづいて降りる。お蝶はひとりの漆掻きの背なかに負われて降りました。

「おや？」

一同が下へ着いたかと思うと、今降りて来た繩梯子が、カラカラと上へ手繰り上げられたので、新助は雲霧にささやいて、

「兄貴、すこし油断がならねえぜ」

「ウム……」と、彼の目もこの辺から<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>ぶかく働いていました。

「あしたの朝になれば、秩父の町へゆく馬があるといったが、こんなスリバチの底のような所から、どうして馬が通えるものか」

「それに、<ruby><rb>繩梯子</rb><rt>なわばしご</rt></ruby>を巻き上げたりなどしやがって、どうも<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶ</rt></ruby>りが<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちねえ」

「だが、ここまで来てしまっちゃ追いつかねえことだ。行くところまで行ってみるよりほかはない」

が――泰野屋は平然と黙りこくッて歩いていました。むしろ好奇の目をもって、盆地の風物をながめている。流れに添って部落へはいると、やがて大きな水車があります。水車のそばには自然木で組まれた、非常に頑固で原始的な小屋があり、小屋には小さな<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き窓が鳩の家のように切ってある。そしてそういう建物は、一戸ならず十数戸、樹木を隔て水をへだてて散在しております。

一戸の小屋の中からは、シューッと物を摺るような音が洩れる。また一戸の家の窓からは、意味のくめない<ruby><rb>郷土歌</rb><rt>さとうた</rt></ruby>が、ふしおもしろく聞こえてくる。どうもこの盆地には、少なからぬ人口がおるようです。まだ目に見えない人家も大分あるらしく感じられました。

いよいよ不審に思ったので、

「おい、あの小屋にも、おめえ達の同職が住んでいるのかい」

と、新助が案内のひとりに問いますと、漆掻きが答えますには、

「あれですか。ありゃみんな<ruby><rb>細工場</rb><rt>さいくば</rt></ruby>でございますよ」

「細工場……へえ？」

「今あるいて来た所に、大きな水車がございました。あれから水の力をとって、<ruby><rb>轆轤</rb><rt>ろくろ</rt></ruby>の歯車が廻っています。小屋のなかには大勢の者が、板を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたり、<ruby><rb>木地</rb><rt>きじ</rt></ruby>を轆轤にかけたり、磨きをしたり、仕上げをかけたり、そうして、彫るものは彫りをつけ、塗るものは<ruby><rb>砥</rb><rt>と</rt></ruby>の粉をすッて<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>を拭きます。――そういう細工場なのでございます」

「はてね、そうして、何をこしらえるんだね」

「何ということはございませんので。盆、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>、箱物、<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>のようなもの。クリ物も出来れば<ruby><rb>漆器</rb><rt>しっき</rt></ruby>も作ります。そうしてこの辺にドッカリと雪のある間は、作り溜めておくのでございますよ。つまり、これからがその季節で。それから春夏の間になると、わし達も旅支度をして、諸国へ売りにあるきます」

話は分っておりますが、雲霧も新助も、その説明を聞いてから、よけいに疑惑がふかくなって、見るもの聞く物、いちいち<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>でないものはありません。

そのうちに一人の漆掻きは、かなり広い流れのふちに立って、

「おぅ――い。川番」

と、何か向うへ、合図をよびかけました。

川番――とよばれると、一人の男が、流れの向うに姿を見せて、釣橋の仕掛けへ歯止めを<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>ませた様子です。

あぶねえ。あぶねえ。

無断で、うかと足をのせようものなら、下の流れへ、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>返しというからくりにちがいない。

（油断をするなよ）

（気をつけろよ）

四ツ目屋と雲霧は、時々、目にものをいわせて警戒しあいましたが、秦野屋ばかりは相かわらずの黙々です。そしてお蝶も、あたりの物にばかり気をとられている。

「おい、旅の者、こっちだよ」

<ruby><rb>漆掻</rb><rt>うるしか</rt></ruby>きはスタスタと<ruby><rb>桟橋</rb><rt>かけはし</rt></ruby>を渡ってゆく。その揺れる橋を渡るのが、お蝶には面白そうで、秦野屋には用心がありそうで、雲霧と新助には不安そうです。

<ruby><rb>桟橋</rb><rt>かけはし</rt></ruby>は十間に足りない短いものでした。渡ってみると<ruby><rb>其処此処</rb><rt>そこここ</rt></ruby>に、さらに数戸の人家が目につく。

織物を織るのか、粉をつくのか、機械的な木音が、コトンコトンと何処からか洩れてくる。モンペをはいた若い女が、何かの壺を頭にのせて通りますし、<ruby><rb>石魚</rb><rt>いわな</rt></ruby>らしい魚をさげてゆく男も見かける。

部落とはいえ、<ruby><rb>宛</rb><rt>えん</rt></ruby>たる山の小都会です。なおごらんなさい、突きあたりの形のいい山の裾にかかって、雲霧などの目には、一種不思議なともいえる、三角形の建物がたっています。

「さあ、この小屋が空き物だ。御苦労御苦労、よくお<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>なさいました、ろくな御馳走もありませんが、今夜はここでゆッくりとお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みなさい」

自然木の横組み<ruby><rb>建</rb><rt>たて</rt></ruby>で、熊の出はいりしそうな戸をあけて、

「さ、どうか御遠慮なく」

と、促します。

新助は二の足をふんでいました。たれより先に、お蝶がものめずらしそうに<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行きましたので、

「じゃ」と、いや応はありません。

這入ってみると、そんなビクついたものではなく、草を編んだ敷物もあれば、毛皮、夜の<ruby><rb>具</rb><rt>もの</rt></ruby>も片すみに積んである。なおのこと、炉には火ダネもはいっていて、くべる<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>にも湯茶の道具にも、少しも不自由はないふうです。

「不自由はありがてえ、まるで何かこう、立派な宿屋にでもついたような気がするぜ」

とりあえず、疲れた足をのばし、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>をとき、それぞれここに一夜を楽しむことを忘れません。

「おい、旅の衆、お湯におはいり」

湯まであるのは勿体ない気がすると、なかば怖れながら、裏の風呂にゆくと、それも真っ黒な荒小屋ですが、野天風呂ではありませんし、次に来た食事の膳も、なかなか器用なものを食べさせるには驚かされる。

「だが一体、ここの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>には主人がないのかしら」

「さあ、分らねえ」

「<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、山の方に見えた、三角の屋敷はなんだろう」

「分らねえな、どうも」

「そして、何という所だい」

「なお分らないよ。何もかも分らねえ。おれもずいぶん旅をしたが、こんな山奥に、こんな土地のあるのを聞いたためしがない。――秦野屋の兄貴などは、相当に年をとっているんだから、何か、見当がつかねえかな」

黙りがちな九兵衛へ、新助がこう尋ねますと、九兵衛は初めて口をひらいて、

「ウーム、最前から、わしもずいぶん考えていたんだが、ここへ着いてからやっと分った。何しろ、ちょッと鬼門へ向いて来たよ」

「えっ。じゃ、何か<ruby><rb>凶</rb><rt>わる</rt></ruby>いところへ踏み込んで来たのかな？」

その時です。

どこかで、カアーン……という鐘の音が、夢幻的な尾をひいて永く鳴りました。谷のような地形では、木の実の落ちる音さえ高く聞こえるのに、四方、山ばかりに囲まれた盆地の鐘、なんともいえない<ruby><rb>余韻</rb><rt>よいん</rt></ruby>です。

すると、ワラワラ、小屋の外を、人の足音が流れてゆきます。

その足音の流れもひとしきりで、内窓のひさしに白い星を見出すと、四方の山も一色に黒ずみだして、盆地は夜の底に沈んでゆく。

鐘が聞こえる――湖水の底にでもいて聞くような音響です。

小屋の炉の火はトロトロと赤いしずかな火になっていました、あたりが暗くなるほど、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のなかの灰が白く、火の赤味がましてくる。

はッと気がついたように、雲霧はその火の色に目をこすりました。見ると、秦野屋も話をやめ、四ツ目屋の新助も膝をかかえたまま、うッとりと、いい気持に居眠っているので、

「お……」

何か言いかけようとしましたが、口に<ruby><rb>唾液</rb><rt>だえき</rt></ruby>がわいて、物を言うのもだるい気がしました。

そして、ごろりと炉べりに横になって、目をとじる、火の色がチラつく。また、目をあいてみると、秦野屋も横になり新助もそこに寝てしまう様子です。――お蝶は？　……と思ったが、<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ってみるのも気だるい。

「眠い……」

雲霧はただもう眠くってたまらない。

カアーンと遠い鐘音が聞こえる。

「ああ、さっきの鐘だ」

そう思ううちに、その鐘も、だんだん耳に遠くなりました。

「寝ちゃあいけねえ。何しろ、油断のならない妙なところだ。寝るな、寝るな、寝入ってしまってはいけないぞ……」と、しきりに眠気をこらえていましたが、いつのまにか、彼の意識も霧のように、ぼやッと、わからなくなったまま、前後の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けじめ</span>を知りません。

トロ、トロ……と炉のなかの暗紫色の火が、それからの、うごかぬ景色を明滅させておりました。時間にして、約、半刻ばかりの間……。

「寝た振りをしているのかと思ったら、ほんとにヘタばってしまやがった。……おや、お蝶も」

やがて、むっくり起きたのは秦野屋九兵衛です。炉を離れて、これも他愛なく寝入っているお蝶をながめて、自分は、足へ脚絆をつけ初める。

彼は、この盆地の小屋に落ちつく前に、万一の場合を思って、ひそかに用意の解毒を<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>んでおきました。これは当然な心がけで、その用意を忘れて、あてがわれた馳走を遠慮なくたべながら、油断するな、油断するな、と言い合っていた新助や雲霧は、まだまだ彼の目から見れば若いものだと言いたいでしょう。

<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>わらじをつけると、九兵衛は、小屋を出てどこかへ姿を消しました。

＊　　　＊　　　＊

かれらの呼ぶ「山の会堂」では、鐘に集まった人々が、夜の<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>を終えて、広い一堂のむしろに、すきなことを語り、すきなように足をくずして、拘束なく、くつろいでいる。

その人々に取り巻かれて、おぼつかない日本語をつづり、何か楽しげに話しているのは、黒い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を身にまとったひとりの異国人でありました。

堂の正面には大きな黒い<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>を垂れ、切石をたたみ丸木を組み、<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>を作ってさまざまな祭器をならべた前に、赤い百目<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>がともされてあって、その聖壇の中央に、マリヤの像がほほ笑えんでいます。

と。そのマリヤの上に懸け渡されてある、<ruby><rb>鳴子仕掛</rb><rt>なるこじかけ</rt></ruby>の綱がゆれると、聖堂のすみの銅鈴がガランと鳴る……。

「お。こんなにおそいのに、誰か来たようです。開けてやってください」

黒い裾をひいた異国人の手が、会堂の<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>を指さしました。

「山の会堂」を司祭するひとりの異国人は、永い間、切支丹屋敷の牢獄にいた、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の使い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばてれん</span>ヨハンでありました。

ヨハンはある夜その牢獄から、風のごとき人間の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>にすくい出されて、山また山の奥にさらわれて来ました。いうまでもなく、<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>のもののやった仕事で、この盆地の開拓は、多くヨハンの知識と見える。

ヨハンは、建築を教え、水の力の利用を教え、歯車の組織をさずけ、附近の樹木によって製産する小工芸を与えました。

こうして、まず凶暴な切支丹族の掠奪性を<ruby><rb>撓</rb><rt>た</rt></ruby>めようとしましたが、もうひとつの<ruby><rb>剽悍性</rb><rt>ひょうかんせい</rt></ruby>は、しばらく、ヨハンのために利用することがあるので、ある程度までは、その野性、獣性の<ruby><rb>萎縮</rb><rt>いしゅく</rt></ruby>しないようにも心がけておるようです。

ガラン――と今聖壇のそばの銅鈴が鳴ったので、ヨハンが一つの<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>へ指をさしますと、切支丹族の男のひとりが、

「誰だ？」

と、そこへ寄って念を押す。

何か、声が聞こえます。うなずいて<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>をあけると、ひとかたまりの人間が、ヨハンの方へゾロゾロと歩いてくる。

皆、すこしきれいになっていますが、昼間、お蝶や雲霧を盆地へ誘って来た<ruby><rb>漆掻</rb><rt>うるしか</rt></ruby>きの人々です。

「ヨハン様、首尾よく、何もかも済みました」

「御苦労さま」

ヨハンは深いひげのなかに笑い<ruby><rb>皺</rb><rt>じわ</rt></ruby>をよせて、

「お蝶さんを、傷つけないように、ここまで連れてくるのはなかなか骨折りだったろうと思います」

「お察しのとおりですよ。あの方に怪我をさせたくないばかりに、信玄の隠し湯からこっちへ来るまで、ずいぶん気の永い網を張っていました。だが、荒療治をせずにうまく行った仕事も、いい気持なものでございます」

「それから、どうしていますか――お蝶様は？」

「みんな、ひとまず寝かしておきました」

「眠り薬で？」

「え。夕がたの御馳走のついでに」

「では、お蝶様だけを、この会堂のうしろの<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>へ、ひとまずお迎え申そうか」

「そうそう、あの方は、ヨハン様のお話によると、羅馬王家の血をつないだものの、今では、たった一人の御子孫だそうで」

「母は日本の女ですが、父親はわしの御主人にあたる――王家の立派な血統です」

「この会堂に、その王家の血すじのお蝶様をむかえ、そして、御司祭はヨハン様がする、これで、日本に切支丹の禁制さえなければ、まったく天国でございますな」

「いえ、幕府の禁制がありましても、ここは天国にちがいありません、どこをどう通っても、政府の目付がこの盆地へは来られないでしょう」

「おお、じゃわし達は、お蝶様をあちらへお移し致しましょう」と、切支丹族の者十数人、明り木の火を先に立てて、以前の小屋へ引っ返して来ます。

程なくそこから、こわれ物でもかかえ出すように、お蝶の姿が運び出されてゆきましたが、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に残った者は、その時になって、初めてこう騒ぎ出しました。

「おや頭かずがひとり不足だぞ。ここに薬にあてられているのは、雲霧と、四ツ目屋の新助」

「あっ、九兵衛という老いぼれめだ」

「逃げたな」

「さがし出せ。さがし出せ」

獲物を取った者や、<ruby><rb>光木</rb><rt>ひかりぎ</rt></ruby>をふり照らす者や、例の川添いをワラワラと駆け乱れました。

ヨハンの起き伏しする<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>というのは「山の会堂」の裏の森で、森の中にぼやッと<ruby><rb>橙色</rb><rt>だいだいいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がともっている窓がそれです。

窓のそばには<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>の葉が、サヤサヤと寒そうな音をさせて揺れております。また、この家も用材のほとんどが、皮つきのままな丸太組みでありますが、屋根の曲線や窓の形に、どこか異国的な様式が見えるのは、やはりヨハンが建て方をさしずして、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の<ruby><rb>田舎家</rb><rt>いなかや</rt></ruby>でも写したのでしょう。

「お<ruby><rb>姫様</rb><rt>ひいさま</rt></ruby>、わたしを誰だと思いますか。おわかりですか？　……私の顔が」

ヨハンはこう言って自分の椅子を、お蝶の仰向いている寝台のそばへ寄せてゆきました。

ガバと、お蝶は起き上がって、

「あら？」

と、天井を見たり、窓を見たり、そして最後に、ヨハンの顔を、穴のあくほど見つめている。

「びッくりしたでございましょう。私はヨハンでございます。あの切支丹屋敷の牢にいた……」

「ここは何処？」

「秩父の奥の<ruby><rb>天童谷</rb><rt>てんどうだに</rt></ruby>という盆地でございます」

「じゃ、やっぱり、漆掻きの男たちに案内されて来た所じゃないの」

「その切支丹村でございます。私はこの夏の初めごろから、この天童谷の司祭者になってくれと頼まれて、ここに住んでいるのでございます。――しかしお<ruby><rb>姫</rb><rt>ひい</rt></ruby>様、あなたと私と会ったのは、あれから今夜が初めてではございませんね」

「私が甲州へゆく途中で、やはり、こんな深い谷あいで、大勢のものが集まって、<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>をあげていたのを見たことがあるわ」

「その群のなかに、私の姿は見ませんでしたか」

「ヨハンさん――と、あの時、思わず谷へ呼んだけれど」

「まさかと、お信じなさらなかったでしょう、どう考えても、小石川の牢にいる私が、あんな所に<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>をあげているなどという理屈はありませんからね」

「だけれど、あれから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、甲府の町で、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>売りの久助という者から、いろんな話をすっかり聞いていたのだよ」

「アア、久助。あれもこの切支丹村のひとりでございます、あなたを村へ連れてくるようにと私の<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けをうけて、甲府へ行ったのでございましたが、日本左衛門に寝込みを襲われて、<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>な死にかたをしたそうで」

「じゃ、お前はこの山にいても、何もかも知っているんですね」

「ええ、何もかも存じております。……ですが、お<ruby><rb>姫</rb><rt>ひい</rt></ruby>様」

「ヨハン」

「はい」

「さっきから私の事を、お<ruby><rb>姫</rb><rt>ひい</rt></ruby>様、お姫様なんて呼んでいるけれど、人を茶化すのも好い加減にしておくれね」

「なぜでございますか」

「このお蝶は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ころびばてれん</span>の娘じゃないの、どこにお姫様づらがあるもんじゃない、ホホホホホ……そんな事をいうと、私、真面目になれなくなるわ」

お蝶は、朱い<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>へ手をやって笑いました。そして、つるりと寝台からすべり降りると、そこにある、デスクのようなもの、ソファのようなもの、カーテンのようなもの、異国的な部屋のいろを、なつかしそうに眺めまわして、空いている一つの<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>へ、ふわりと腰をかけましたが、ふと、この部屋からうける感じに、亡父のことを思いうかべて、その影のふかい眼もとを、じっと<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>所に伏せました。

お蝶の沈み込んだ心が読めているように、ヨハンは暫くその静思の時間を与えておいて、おもむろにまた話しかけました。

「私が、お姫様とお呼びするのは当りまえなことでございます。いつか、切支丹屋敷の牢の前でも話しました。あなたは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ころびばてれん</span>の娘だなどと、身をいやしんでおいでになるが、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>王家の立派なお血すじなのです。自覚なさいませ。自己の尊い血を、お悟りなさいませ」

「だってねえ、ヨハンや」

「はい、はい」

「わたし、そんな貴族の血をうけた娘だなどとは、どうしても、思ええないんだもの……この自分が」

「どうしてな？　……ヨハンには分りませぬが」

「わたしは、悪い事が好きなんだよ」

「美しい<ruby><rb>悪魔</rb><rt>サタン</rt></ruby>――二官様もそれを苦にして死なれました」

「お父さんの事を言ッちゃあ嫌よ」

お蝶は打つ真似をしましたが、その目はたまらなく悲しんでいます。そして、明りの届かない部屋の隅に、<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>が立ってやしないかなどと、今夜はしきりに責められている。

「あー、そういうお心が尊いものです。いくら悪事がおすきでも、きっと、救われるに違いありません」

「生れつきの性質は、直らないというじゃないか。私は、お前みたいな窮屈な人が嫌いで、たとえて言えば、日本左衛門みたいな、あんな人間が好きでしょうがないんだよ」

「怖ろしいことを仰っしゃいます。あれは盗賊の巨頭ではございませんか。そして、夜光の短刀を狙っている、お姫様や、ヨハンの強敵ではございませんか」

「そんな事はべつにして、ただ私の性質を話すのだよ。……実を言うとね、ヨハンや」

「はい、何か秘密なお話で」

「私は今迷っているの」

「話しておしまいなされませ。ヨハンがそのお迷いをとって上げます」

「こんどの山の旅にかかる前にね、鼻寺という所で、こういうことを囁かれたんだよ」

「誰にですか？」

「日本左衛門にさ……お前にはまだ日本語のよく分らないところがあるとみえる」

「いいえ。もう海を越えて来てから七年になります。お<ruby><rb>姫</rb><rt>ひい</rt></ruby>様、もすこし、ゆっくりと話していただきたいと思います」

「あのネ。……分って」

「はい。そして」

「日本左衛門が私に言ったのだよ、この手を、こう強くにぎりしめて……」

「無礼な悪魔でございますな。そして、なんと申しましたか」

「――女房にならぬかと言ったのだよ。恋をしていると言ったのだよ。あの大盗でも恋をするとみえてね……」

「えっ、お姫様に向って、恋を、あの妻にならぬかと」

「その時は、ゾッとして突き放したけれど、永い間の山駕のなかで考えてみると、そのくせ私は、あの人がすきらしい……それで迷ってしまったの」

「…………」

「ねえ、ヨハン、私はどっちが幸福になるだろう」

がたんと、ヨハンは不意に<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>から立って、フウとうしろへ後さがりに身を引きました。

「お寝みなさいまし。今夜はもうお話をいたしますまい。そのベッドへ寝て、二官様の顔つきでも夢の中でごらん遊ばせ。そして、今のことは、お父上の二官様にきいてみるが、よろしゅうございましょう。……では明りを消しますよ。とにかくお姫様、ヨハンはあなたの血の全部が、王家の御息女に洗い返されるまで、あなたのお体をこの天堂谷へお預り申しているつもりでございますから、それだけをおふくみ下さいまし」

ふッと明りが消えました。

ヨハンの顔もお蝶の影も塗りつぶされて、ただ白いシーツの上に、窓越しにうごく白樺の葉の影がほの青く見えるばかりであります。

ギイ……と<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>の音をさせて、ヨハンが小屋を外へ出ると、そこに誰やら二人の男がじっとたたずんで彼を待っていました。

「オオ、梅市と安蔵――」ヨハンはあとの<ruby><rb>扉</rb><rt>と</rt></ruby>を閉めて、外の影法師へ手招きしながら、白樺の森へ歩き出しました。

「お前たちが交わる交わる旅から帰って来るのが楽しみだ。そして何かよい手懸りはなかったか」

「ありましたよ」と<ruby><rb>蓑</rb><rt>みの</rt></ruby>直し安蔵が「ヨハン様、とうとう王庁の文に書いてある<ruby><rb>鶏血草</rb><rt>けいけつそう</rt></ruby>の花を見つけましたぜ」

「えっ？」と、ヨハンの目は森の闇の<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>のように大きくみはりましたが、安蔵のことばを容易に信じないように、

「ほウ……」と言ったばかりです。

「そこはやはり武蔵野でございます。<ruby><rb>拝島</rb><rt>はいじま</rt></ruby>の岡と申しましてね、誰がもと住んでいたのか、今じゃ<ruby><rb>狐狸</rb><rt>こり</rt></ruby>の巣みたいになっている<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷がございますんで」

と梅市が、そこで出会った事や見届けたことを<ruby><rb>逐</rb><rt>ちく</rt></ruby>一告げておりますと、「山の会堂」の横から十数人の者が明り木の炎を振ってワラワラと馳け寄って来るのが手にとるように見える。

何事かと、ヨハンの方からも近づいて行ってみますと、今日お蝶と共に連れて来た三人のうち、九兵衛という老賊だけが、巧みにいッぱい食わせて逃走したので、手分けをしてそれを探しているところだと口々な騒ぎかた。

そしてまた、八方へ明り木の光を振って別れて行きましたが、ヨハンは急に思いついて、梅市と安蔵に何事かを言いつけた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、自分は眠りにつくべき小屋へ影のように消えこみました。

また安蔵と梅市とは、それから教えられた小屋へ急いで来てみますと、成程、ヨハンが言ったとおり、二人の人間が正体なく<ruby><rb>炉辺</rb><rt>ろべり</rt></ruby>に長くなっている。間もなく仮死状態の二個の人間は、ヨハンの命令をうけた梅市や安蔵たちの手によって、永遠に逃走のおそれがない生ける墓場へ片づけられました。

生ける墓場はまッ暗です、どこからほうり込まれたものか、明暗の境を知らずに飛び込まされた雲霧の仁三と四ツ目屋の新助には、後でいくら考えても分らない。

正気がついた時にはそこに居たのです。夢から<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めて、夢より不可思議な暗やみにいる自分を発見して、今が夢か前が夢か、その判断もつかない気持です。

何しろそこは地底にはちがいない。音と光のない世界です。しかし決して窮屈なせまさでもなく、立って歩くに不自由はなく、横に進んで鼻がつかえる程でもない。いったいどれくらいな広さがあるのか、光と音響がないのでそれも暫く想像がつきません。

ところが、時間にして約一夜も過ぎたかと思われるころ、初めて、墓場の空に薄い光の穴があきました。見ると、その一道の丸くさした光線の中へ、ポーンと何か落ちて来たかと思うと、光の穴はすぐ閉じられて、また前にまさる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うばたま</span>の暗やみ。

すこし<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>がヘンになったか、雲霧も四ツ目屋も、茫然としたまま膝をかかえて、その見えない暗にひとみを据えていたのです。――するとどことなく、不思議な空気のうごめきを感じました。何か力のないものが、上から落としたものを探って這い集まってくるような感じです。そして、ムシャムシャと食物を<ruby><rb>咀嚼</rb><rt>そしゃく</rt></ruby>するうるさい音です。無論ひとりや二人とは思われません。うるさいと思うくらいですからそれはどれほどな数の集合だか、ちょッと想像もつかないのです。

それから、これと同じ事件は、約十二時間目ぐらいに一回ずつくり返されました。墓場の空から丸い光線がボヤッとさして来ること、途端に何か落ちてくる事、そしてすぐ暗くなること、妙な空気が動揺しだすこと、うるさい咀嚼がはじまること、寸分もたがわぬ約束の履行でありました。

初めは、なんだろうと驚いて、すくみ込んでいた雲霧も四ツ目屋も、その三回目からうごめくものの一つとなって、手にさわった物を無考えに口へ押しこんでおりました。

十二時間目ぐらいに一回ずつ上から落ちて来るのは食物です。食物はまず目と鼻の感覚に訴えてはじめて味覚の乗りだすものですが、その目が用をなさないので、何を与えられているのか分らない。

想像するに、それは切支丹村の切支丹族たちが、食べあました残物かも知れません。山の会堂の祭壇に供えたあとの物や、ヨハンの台所の料理クズなどもあるかも知れません。

――何しろ、それによって生ける墓場にうごめく者が、ここには雲霧、四ツ目屋ふたりのほかに、なお幾十人居るのだかわからない。

また、不思議なことには、そこに居る無数の人間は、光のない沼の目なし魚みたいに、ウヨウヨうごめいておりながら、話しもしなければ笑いもしない、また同じように、泣きもしません。

この生ける墓場の<ruby><rb>新米</rb><rt>しんまい</rt></ruby>である雲霧は、初めのうちはそれを妙に思っていましたが、日が経つに従って、身をうごかすことも、考えることも嫌になって、まったく話をする意慾などは、日ましにどこかへ薄れてゆく自分自身に気がつきました。

その証拠には、第一、こんな時には一心同体な気持になって、互いに励まし励まされる唯一の対象となり合わなければならない筈の四ツ目屋の新助とも、だんだん口数をきかなくなりました。

新助もまた口をきいて来ない。そばにいた体がさわる事があっても、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐんにゃり</span>として身をよけるだけです。

どうもこんな暗やみに息だけを吸わせて人間を生かしておくと、精神的にも生理的にも、おそろしい退化がからだの内部に起ってくるようです。すべての意慾は眠ってしまい、思判力は失われ、視覚は無能になり触覚は<ruby><rb>魯鈍</rb><rt>ろどん</rt></ruby>になり、脳の<ruby><rb>中枢</rb><rt>ちゅうすう</rt></ruby>はやがて支配する神経に気をつかう必要がなくなって、ただ頭のなかに詰まっている不用物体となってどろんとしておるだけのようです。

また、かすかに生命の保持をいとなんでいる胃ぶくろの方でも、十何時間目に一回送られるわずかな食物を原則として、当然、生理経済をやってきますので、なるべく肉体の所持者に身うごきをいましめ、ムダな口をきくなと命令し、多量なカロリーを消耗するすべての考えごとなどは、最も不生産的なものとして一番早く衰えてくるようです。

雲霧などがしばしば経験している、あの伝馬牢とよぶ獄舎などは、ここから見れば、まだまだ立派な人間世界です。ともかくあそこなどでは、夜の果てには明けがあり、昼間になれば夜に入るという変化がある。貨幣の力も行われれば、性慾のもだえもあれば希望もある。

ところが、ここにはすべてがない。

光明、希望、金力、争闘、邪智、愛慾、それがありません。喜怒哀楽、失意得意、それらの生活の変化もあろうとしてもありません。まったく無音無色のなかに無神経な冬眠をジッとつづけている<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひきがえる</rt></ruby>みたいなものです。蟇といわなければ神様のような人間になっている。

――だが。

雲霧はまだそんなでもない。

彼と新助とは新米なので、多少の<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>をもったり不安をもつだけの余裕を残しておりますが、いつかしら、

「もう助からねえ」

駄目だ――という観念の方が濃くなって、逃げ出そう、助かろう、とする焦躁や気力は、日ましに燃えとぼれて来たのは事実です。

気力が枯れて、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めの世界にはいると、退化的な解脱がはじまる。寝ても寝てもスウスウと眠りつづけられて、その状態があたりまえになってくる。

ふと眼をさました時です。雲霧の足もとに、大きな<ruby><rb>海鼠</rb><rt>なまこ</rt></ruby>のようなものがグンニャリとしている。

「新助……か？」

「お」とも「ううん」とも言わないので、足を上げると転がりました。で、雲霧がさわってみると、やはりこいつもよく寝ています。

「誰だろう？」

そう思ったが、見るよしもありません。

「この中には、おれ達のほかにも、まだ随分人間が居るようだが……」と、何気なく<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で廻してみると顔がある。

顔があるのにふしぎはないが、新助の顔ではありません。かさかさとしたあぶらけのない顔。

雲霧の手が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こくめい</span>になで廻しても、その人間は一向さしつかえなく寝ています。まず<ruby><rb>輪郭</rb><rt>りんかく</rt></ruby>をさぐッてみると、頭には髷がなく、総髪らしい形です。頬骨が高く、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぎと</span>が出っ張って、並よりは長い顔の真ンなかに、段のついた<ruby><rb>羅馬鼻</rb><rt>ローマばな</rt></ruby>というようなのが、かすかな寝息を呼吸している。

「このあんばいでは四十以上の人間だな。……だが、大きな鼻だな。長い顔だな……」

いくら退化した冬眠人間でも、そういじられてはうるさいとみえて、やがて、雲霧の手をつかまえたと思うと、目をさまして起き上がったふうです。

「おい。おい。おい……」

雲霧はその人間の肩をゆすぶって、彼の知覚を試みました。――自分の方を振り向いた様子です。この暗やみでも眼だけがかすかに光って見える。

「おい、大将」

どう呼んでいいか思いつかないので雲霧はこうよびました。しかし、起き上がった大将はさらに刺激されないと見えて、またぐンにゃりと寝ようとするので、彼はあわてて抱きとめて、

「誰だい、お前は？　え？　お前はだれだよ」

ほとんど、つんぼにものを言うようにくどく聞きますと、やっと気のない口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、

「お前は誰かね」

と、初めて、人語をもらしました。

自分のことばを<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>されたようなものでしたが、それでも、ひとりの話し相手を見つけたと思うと、雲霧は、この生ける墓場が少し明るくなったような気がして、

「おれかね。おれは江戸の者だが、おめえはやはり山の衆かい」と、答えると相手は俄かに<ruby><rb>嗜眠</rb><rt>しみん</rt></ruby>状態の神経をゆりさまして、

「ほ……江戸、お前さん、江戸の者……」

「そうだ、ことばつきでも分るだろう」

「アア、久しくその江戸弁も聞いたことがなかった」

「――と言うと、おまはんも、江戸の人かい」

「うむ」と、がっくり首を下げたふうです。雲霧は、また寝入られてはと、手首をつよく握りしめて、

「なつかしいなあ。江戸は何処だい」

「<ruby><rb>溝店</rb><rt>どぶだな</rt></ruby>」

「溝店だ？　……へええ、いよいよなつかしい。<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>だね、そうすると」

「…………」

「そして、<ruby><rb>渡世</rb><rt>とせい</rt></ruby>は」

「<ruby><rb>卜</rb><rt>うらな</rt></ruby>い」

「え。何の商売？」

「易者だよ」

「はーて、こいつは<ruby><rb>益〻</rb><rt>ますます</rt></ruby>いぶかしい。下谷の<ruby><rb>溝店</rb><rt>どぶだな</rt></ruby>で<ruby><rb>売卜者</rb><rt>ばいぼくしゃ</rt></ruby>というと、おれにも心当りがあるんだが、そしておまはんは、何という者だね」

「梅花堂流」

「ふム、梅花堂流」

「馬春堂」

「ひぇッ。ば、馬春堂だって」

と、雲霧が思わず大声で仰天しますと、うそか、ほんとか、馬春堂と称したものは彼の手を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もぎ</span>離して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のろま</span>な動物のように四つンばいに這って逃げだしました。

一寸先は<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>ということがあるが、この中こそは<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の中から真っ暗です。ひょいと手を離したその男は、もうどこへ這ったかわかりません。――すると近くに四ツ目屋の声がして、

「雲霧、何をしているんだ」

「おう、新助か。今な、そこでひょいと鼻を合わした人間が馬春堂だっていうので、びっくりして話をきこうと思っているまに、どこかへ這い込んでしまったんだ」

「馬春堂が居たって。……嘘だろう、まさか、いくら易者の身上知らずでも、あいつがこんな所にいるとは考えられない」

「ところが、何も知らずにその寝ている顔をなで廻したんだが、今になって思い合してみると、やっぱりあれの<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>にちがいない」

それから二人が、気永にそこらをなで廻して探しますと、変り果てた――と言ってもその姿は見えませんが、実に意外と言えるその馬春堂が、二人の四、五<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>うしろにおののいていました。

思いがけない馬春堂先生をそこに見出したり、暗やみにも眼がなれて来て、新米の雲霧と四ツ目屋にも、生ける墓場の実相なるものが、次第にうすうす分って来ました。

そこはちょうど「山の会堂」の真下であって、この穴蔵と会堂とはどこかに通路の階段があるのだそうです。そして今この地底には、およそ三、四十人の眼なし魚が冬眠状態になっている。

その人間達の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を洗ってみると、幕府の山役人もあり百姓もあり、旅の武士もあれば岡ッ引もある、また馬春堂の如き何にも知らない<ruby><rb>売卜者</rb><rt>ばいぼくしゃ</rt></ruby>までが居るのだとは、先生自身が、ものうげに説くところであります。

どうしてそういう人達が、こんな所へ墜ちたかというと、その<ruby><rb>無辜</rb><rt>むこ</rt></ruby>な者は危険を知らずに<ruby><rb>天童谷</rb><rt>てんどうだに</rt></ruby>へ迷って来た旅人で、その罪ある者は、切支丹村のうわさを聞いて、われ見届けんと暴虎の勇で、自分から飛びこんで来た者や、或いは、職のために探りにはいッて、<ruby><rb>見現</rb><rt>みあら</rt></ruby>わされた山役人や岡ッ引であると言います。馬春堂などは、その前者の方でした。――先生は例の道中師の伊兵衛と組んで、お粂の家から一座の<ruby><rb>有金</rb><rt>ありがね</rt></ruby>をさらって逃亡した後、<ruby><rb>御岳口</rb><rt>みたけぐち</rt></ruby>から山街道へ走りましたが金を持った伊兵衛には途中で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どろん</span>をきめられ、途方には暮れる。道には迷う、その揚句にいい泊り場所を見つけたと、よろこんではいって来たのが、この天童谷の切支丹村。

かりにも、この秘密郷の生活をのぞいた者は、その故意であるとないとにかかわらず、彼等はふたたびその人間を里へ帰すことはしません。しかしまた、それを殺す事もしないで、「山の会堂」の底へ抛りこんで置くには、或る理由があるのでした。

切支丹族の者たちが、もっとも心細く感じていることは、年ごとに自分たち種族の数が、<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>りつつある現象です。

それは、女の生む数が少ないのと、絶えず世の迫害と闘いつつある結果として、里で捕らわれたり殺されたり、当然な犠牲を多く出すためによりましょう。

で――その補充をしなければならない。彼等は、この穴にほうり込んで、ある期間の冬眠状態を経過させた人間を、やがて「山の会堂」へ呼び出します。

そこには、剣と十字架と、二つのものが用意されてある。そして、どっちでもその一つを選ぶにまかせる。

剣をのぞむ者には死。

十字架をのぞむ者には、洗礼を与える。

そこで反抗をみせた人間はかつてないそうです。十人が十人、洗礼をのぞまないものはありません。<ruby><rb>流涕</rb><rt>りゅうてい</rt></ruby>の歓喜にひたって洗礼をうけます。そして、厳かな誓いをむすびます。初めて、切支丹族の仲間入りをしたわけです。

そうして、種族にはいった人間は、もう、どんな事をしても、村に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>いて元の国や家へ帰らないという事も、彼等は信じているのです。おそろしい催眠術的な魔法ですが、また、彼等の生活にも、何か人知れぬ魅力があるのかも知れません。

「じゃあ馬春堂、お前も今に、会堂へ呼ばれて、洗礼をうける日をたのしみに生きているのかい」

雲霧がこう聞きますと、馬春堂先生は、

「うむ……」と、うなずいて、また<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のろま</span>な動物のように、隅の暗やみへ<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>いこんでしまいました。

「そうすると？」

「おれも。おめえも……か？」

四ツ目屋と雲霧は、眼と眼をさぐり合って、変な顔をしていました。さても変な暗やみがこの宇宙にもあればあるものです。

――が、彼等がそうしている間に、太陽のかがやく世間はどう動いているでしょう。

地球はまるいはずでした。

＊　　　＊　　　＊

きょうは月並の祭日か、日本三大<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の一つに数えられている、三峰神社の太鼓が<ruby><rb>山蔭</rb><rt>やまかげ</rt></ruby>にとどろいて聞こえてくる。

そこから、谷ひとつ隔てた妙法岳の中腹に、今、足を止めて、満山の<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>にまぶしげな手をかざしたのは、武士と町人、三人づれの旅の者です。

## <ruby><rb>神楽舞</rb><rt>かぐらまい</rt></ruby>

<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに小さく見えたその三人が、やがて妙法の谷を渡って三峰の社前へ来たのを見ると、徳川万太郎に<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>で、連れの町人は目明しの<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>でありました。

三峰神社の<ruby><rb>神楽殿</rb><rt>かぐらでん</rt></ruby>では、今、<ruby><rb>湯立</rb><rt>ゆだて</rt></ruby>の舞の鈴と笛が太鼓につれて<ruby><rb>古雅</rb><rt>こが</rt></ruby>な調べを合せておりましたが、三人はそれを杉木立の横にながめて、社家の玄関へ、頼む――と静かにおとずれます。

<ruby><rb>刺</rb><rt>し</rt></ruby>を通じて、やがて三人は奥へ通される。

「にわかな<ruby><rb>御遊行</rb><rt>ごゆぎょう</rt></ruby>、前もってお<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせがございますれば、せめて、大宮の宿までお迎えをさし出しましたものを」

と、あいさつに出た神官は、尾州の若殿の来臨は、何か祈願のすじであろうと思った様子です。

「いや、不意にお訪ねいたしたのは、御参詣の為ではなく、この<ruby><rb>奥秩父</rb><rt>おくちちぶ</rt></ruby>の地理について、お聞き申したい事があるので」と、金吾が簡潔に来意を話し出しました。

「ほう……」と神官は意外らしい顔をして、

「では各〻には、甲州から<ruby><rb>雁坂</rb><rt>かりざか</rt></ruby>を越えておいで遊ばしましたか」

「或る<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>を追いかけて、山の奥まで踏み入りましたが、遂に、その行方を知ることが出来ず、当惑のあまり伺った次第でござる」

「成程、この奥秩父へ逃げ込んだものとすれば、それは容易にお分かりはありますまい」

「道々、炭焼の者などにも問い<ruby><rb>訊</rb><rt>ただ</rt></ruby>したなれど、大宮の宿へ出た様子もないとの事、そこでもう一応、尋ねたいと存じますが、誰ぞ山案内をしてくれる者はござるまいか」

「おやすい御用でございます。しかし、そのおたずねなさる曲者と申しますのは」

「一名は日本左衛門という兇賊、またもう一組は山駕に若い娘を乗せた彼の手下で、四ツ目屋の新助、雲霧の仁三などと申す手輩でござる」

神官はそういう名を聞いただけでも戦慄を禁じ得なかったようです。折から祭日で、山へは里の男女が大勢参詣にのぼって来ているところなので、そんな風聞だけでも穏やかでないという風に、

「では、お疲れをお休めになって、<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>ここでおくつろぎ下さいますように」

と、<ruby><rb>蒼惶</rb><rt>そうこう</rt></ruby>として奥へはいり、社家の<ruby><rb>雑掌</rb><rt>ざっしょう</rt></ruby>や<ruby><rb>舎人</rb><rt>とねり</rt></ruby>を集めて、何か鳩首して相談をこらしているらしく思われる。

神官の察しのとおり、万太郎はかなり疲れておりました。何しろここ一ヵ月あまり、悠々と暖かい家屋に体を横たえたことがない。

しかも、日本左衛門の逃げた先は、<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>として分りません。同じようにお蝶の駕の行方もわからない。――と言って、秩父の諸方を探し廻った釘勘の断案では、どっちもこの奥秩父より先には、逃げていまいと言うのでした。

何を相談しているのか、神官の返辞はなかなか参りません。万太郎は火鉢を抱えて、思わずウットリと<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れの居眠りが出る。

その間のすることなしに、ふと耳にはいって来たのは神楽殿の古雅な楽のしらべです。さっきは<ruby><rb>湯立神楽</rb><rt>ゆだてかぐら</rt></ruby>の静かな鈴楽でしたが、今は序破急な大太鼓のとどろきに<ruby><rb>鎌倉舞</rb><rt>かまくらまい</rt></ruby>の笛<ruby><rb>囃子</rb><rt>ばやし</rt></ruby>がいとおかしげに<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>じって、楽天的な神代の明るさが山にあふれるかと思われるようです。

「おう……たいそうな人だな」

何の気なしに、釘勘と金吾が、そこの<ruby><rb>肘掛</rb><rt>ひじか</rt></ruby>け窓をあけて、あなたの群衆に目をやりました。

群衆の上には、舞台が見える。舞台の板には舞人や楽人の姿が見えます。――と釘勘はその笛吹きのなかに、一人の奇怪なる男を見つけました。

吹いてる！　吹いてる！　夢心になって吹いている！　鎌倉舞の笛を吹いている！

その男は、道中師の伊兵衛に相違ありません。伊兵衛は例の阿佐ヶ谷組の<ruby><rb>神楽師</rb><rt>かぐらし</rt></ruby>の仲間にまじって、いかにもいい気持そうに、また得意げに、笛の高音を張りあげております。

「ほ……伊兵衛が居る」

「なるほど、道中師の伊兵衛ですね。あの野郎、妙な所で笛を吹いていやがるが、何しにこんな所へ舞い込んで来たのだろうか」

釘勘と金吾の二人は、腕をこまねいて社家の窓から彼の挙動を注視しておりましたが、神楽堂の上の伊兵衛自身は、笛に熱しきッていて、今は、笛以外何ものも知らない顔つきでした。

「うむ、そうだ」

不意に釘勘が席を立ったので、金吾は彼の身ごなしに、早くも察したものがあって、

「止せ止せ、釘勘。あんな者をこの場合に、召捕ったとて始まるまい」

「目にとまらなければそれまでの事、べつに気にもなりませんが、大勢の頭の上で、しゃあしゃあと笛を吹いているのを見ると、どうも目明しの職分として虫が納まりません」

「それゆえ、伊兵衛を召捕って来ようというのか」

「ひとつ、不意をついて、お手当を食らわせてまいります」

「つまらん話だ。止せ止せ、この金吾も彼のためには、一時難儀をこうむったが、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が手に返った今日となって見れば、縁も怨みもない、他山の石だ」

「どうして、どうして、この釘勘の役儀から言えば、姿を見たのが百年目というやつで、決して、見のがせない<ruby><rb>兇状持</rb><rt>きょうじょうも</rt></ruby>ちの大物でございます」

「その筆法で往来を歩くと、見る者、<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>れちがう者、皆そちの目には、何か兇状の影がついて見えない人間はあるまい。――あまり<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>の中の微虫まで見るものはそれだから困る。まあ、坐るがいい」

「どうも相良様、今日はひどく目明しをこきおろしますなあ」

「万太郎様を初め、おれ達二人は、日本左衛門とお蝶の落ちた先をつきとめるほか、しばらくは決して何へも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わき</span>目を触れてはならぬ場合だ」

「じゃ、伊兵衛のやつは、今日のところは見のがしてやるとしますが、何と<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby>のいい奴だろう、御覧なさい、あのとおりお天気な顔をして夢中で笛を吹いていますぜ」

「しかし、自分にはよく分らんが、盗賊の隠し芸にしては、上手なものではないか」

「そのはずでございます、あいつは元、阿佐ヶ谷<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の笛師の方が本業なのでございますから」

「ウーム、それで甲府から、この地方に逃げ込み、昔の<ruby><rb>神楽師</rb><rt>かぐらし</rt></ruby>仲間にはいって、姿をかくしているのだな」

「何しろ、抜け目のない野郎でございますよ。……したが、あいつと絶えず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つるん</span>で歩いていた馬春堂の姿が見えないのはどうしたものでしょう……」などと釘勘は、その手出しを思い<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まっても、まだ目明し<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>な気ばたらきはやまないと見えて、じっと、眼も放たずに見ておりますと、突然、群衆と神楽堂の空間を、針のような白い光が、一本の筋を描いて飛びました。

「あっ――<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>」

と釘勘が、思わず声を発した時です、――<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がかり</span>のように熱して笛を吹いていた舞台の上の伊兵衛が、きゃッと悲鳴を上げて仆れたかと思うと、そこに<ruby><rb>鉾</rb><rt>ほこ</rt></ruby>を持って舞っていた<ruby><rb>猿田彦命</rb><rt>さるだひこのみこと</rt></ruby>もお<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>の<ruby><rb>鼓師</rb><rt>かわし</rt></ruby>や笛吹きもみな総立ちに乱れ立って、わッと、一時に騒ぎくずれた模様です。

たしかに<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>の光が見えた。群衆の中にひそんでいた何者かが、伊兵衛の命を狙ッて放ったものに違いない――

はっとした<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、職業がら、釘勘の目だけは、多くの見物がせつなに気を奪られた所とは、見るところが違っていました。

彼は、伊兵衛が笛を持ったまま仰向けに仆れた、神楽堂の上の騒ぎよりも、その堂の下に人浪を押している群衆に目をつけて、小柄を投げた人間をじいっと物色しておるらしい眼ざしです。

しかし、不意の事件におどろいた群衆の動揺は、ただ口々に何か騒いで、かんじんな自分たちの中に潜んでいる<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>の投げ<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>を忘れている。

と――その見物のなかに、ただひとり挙動のちがう人間が見出されました。それは、編笠に顔をかくした浪人体の男です。そしてその男が、神楽堂の騒ぎや周囲の<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>を冷ややかに見やって、何処かぜ吹くかというように、人浪の中をふところ手で抜けてゆく姿が、<ruby><rb>飴屋</rb><rt>あめや</rt></ruby>の傘にかくれました。

「やっ？　――似ている」

と、釘勘がそれに身のびをして、金吾の袖を引いた時、折<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しく、最前の<ruby><rb>神主</rb><rt>かんぬし</rt></ruby>がうやうやしくふすまを開いて、

「おかまいも申さず、長時お待たせいたしまして、まことに失礼仕りました」

と、それへ出て、いんぎんに改まりましたので、二人は、不作法に窓を開けて覗き見をしている訳にもゆかず、外へ心を残してそこを閉めきりました。

で、坐り直ると、<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>をかかえて、うつらうつらと居眠っていた万太郎も、さっぱりと疲れの癒えたように冴えた顔をして、

「いや、自分達こそ、祭典の忙しいところを、突然邪魔をして気の毒に思う。……して、先程頼んだ山案内の者は見つかったであろうか」

「お話を<ruby><rb>承</rb><rt>うけたまわ</rt></ruby>り他の者とも凝議いたしましたところ、案内の者はお易い御用でござりますが、おたずねになる先の者は、ことによると、天童谷の<ruby><rb>切支丹村</rb><rt>きりしたんむら</rt></ruby>へでも迷い込んだのではあるまいかと申す者が多数にござります」

「なに……切支丹村？」

例の万太郎の<ruby><rb>猟奇心</rb><rt>りょうきしん</rt></ruby>は、その村の名を聞いただけでも、何か伝奇的な空想に心を<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われた様子に見えます。――で、にわかに<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>をのりだして、

「この奥秩父に、そういう村があるのじゃな」

「あるといううわさは誰でもしておりますが、まだそこへ足を踏み入れた者はございませぬので」

「この地方の者が知らぬ程な奥と申すと、よほど<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい所であるな」

「山の嶮しさより、その辺へ迷い込んで、一人として帰った者がないのでございます。――で山案内の申しますには、ほかの所なら、たとえ<ruby><rb>甲武信</rb><rt>こぶし</rt></ruby>のような嶮しい所でも<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>みはせぬが、どうも、奥秩父の方だけは……と誰も彼も、しりごみをいたしまして、御用に立つべき胆気の者がござりませぬので……」と、そこで神官は、返辞の遅くなった事情を<ruby><rb>婉曲</rb><rt>えんきょく</rt></ruby>に詫び入りました。

「では、案内に立つ男がないと言うのか」

と、万太郎の声が少し<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>りますと、神官も恐れ入って、否とも言いませんあるとも答えません。今の切支丹村の話をくり返して、そこへ行くのでなければ――という意味を口裏にほのめかせましたが、元より、聞いたが囚果で、万太郎の意志は何処よりも、その切支丹村を探ってみることに、<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>ッております。

さるにても金吾の意中では、今の表の騒動に、釘勘が、「似ている――」と叫んだのは、誰に似ているのかと気になって、一刻も早く、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まどろ</span>い神官との対座をのがれたいものだと、腰を浮かしておりました。

もらいうけた一枚の山絵図をふところに納めて、万太郎主従と釘勘は、ひきとめる神官に別れて、外へ出る。

「釘勘――」と、金吾はすぐに、「只今そちがあの窓で、似ていると申したのは、一体誰をさしたのじゃ」

「私の気のせいかも知れませんが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちら</span>と、人浪をくぐって逃げた<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>の男が、どうも日本左衛門のように思われたんです」

「えっ、奴がおッたと？」

金吾の眼ざしがすぐ何ものかへ<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>るのを制して、

「と申したところで、今言ったように、ほんの瞬間は、似ているなと見ただけで、まだ確かにそうとは分りませんが」

「ともあれ、その姿はどう向いて行ったか？」と万太郎のひとみも、参詣の群衆を物色しつつ、釘勘のあとに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、急ぎ足に、随身門の外へ出ました。

その辺の森に添うて、<ruby><rb>土産物</rb><rt>みやげもの</rt></ruby>の店をならべている里人たちに訊ねてみると、その編笠の浪人らしい者は、大宮へは下らずに、間道をとって、<ruby><rb>芦</rb><rt>あし</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>久保</rb><rt>くぼ</rt></ruby>へ抜けたらしいという話。

――試みに、今もらいうけて来た山絵図をひらいて見ますと、そこは裏秩父の山の背を越えて、武蔵の<ruby><rb>入間</rb><rt>いるま</rt></ruby>方面へ出る正丸峠と、<ruby><rb>山伏峠</rb><rt>やまぶしとうげ</rt></ruby>を経て鳥首から天目山へわかれる山路と、また一方、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>高麗村の峡谷へ出る幾つかの道の追分になっている。

「はて、どうしたものか？」

と万太郎は迷わざるを得ない面もちです。

「彼を追って行くとすると、天童谷の切支丹村の方角とはだいぶ道が違うのじゃ」

「しかし若様、その切支丹村とやらには、参ってみた上でなければ、お蝶の手懸りがあるかないかも、疑問な土地でございましょうが」

「うム、それは疑問であるが、何となく予感がする――お蝶のことが分らねば、夜光の短刀の<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りでもありそうな……」

「と言って、釘勘のみとめた者が、日本左衛門であるとすれば、みすみすそれを見遁すのも残念千万」

「では、ともあれ<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>を追う所まで追いつめてみよう！」と意を決めると、釘勘も、

「そうなすッて下さいまし、あいつさえ片づければ、あっしも肩の荷が下りますので、あとは若様の為に、夜光の短刀でも何でも一<ruby><rb>途</rb><rt>ず</rt></ruby>になって、お力添えいたします」

「おお、それでは、急ごう」

「と仰っしゃって、今からそう意気込むと、山道はすぐ疲れてしまいます。どうせ横道のない間道のことですから、方角さえつけば、息を切って駆けだす必要はございませんよ」と、釘勘は山馴れているので、足ごしらえを直し、万太郎主従もそれにならって、妙法の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>から、東南の山地へ、わけ入りました。

その日の夕刻はゆるゆると、<ruby><rb>芦</rb><rt>あし</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>久保</rb><rt>くぼ</rt></ruby>の山村に着いて、東光寺という僧房に一泊をたのむ。

それとなく訊ねてみると、一人旅の浪人風の男は、たしかに、自分達より一刻半ばかり前にこの山村を過ぎている。しかし、それから、山伏峠か正丸越えの追分はやがて一里弱にすぎない所で、それから先は、どうしても夜旅にはあるけない所だということも確かめましたから、釘勘は、双者の距離を胸算にとって、すっかり、安心しているふうです。

朝を待って、僧房の<ruby><rb>芋粥</rb><rt>いもがゆ</rt></ruby>をすすり、<ruby><rb>焼飯</rb><rt>やきめし</rt></ruby>の<ruby><rb>糧</rb><rt>かて</rt></ruby>は釘勘の腰につけて、三人はまた<ruby><rb>芦</rb><rt>あし</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>久保</rb><rt>くぼ</rt></ruby>の山村を立ちました。

山に入るほど、山の深さと秋の深さが身にせまります。すばらしい<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>の鮮紅も、今では目になれて路傍のものでしかありません。

「オオ」

と、釘勘が叫んだのは、ちょうど山伏峠の上に立った時で、

「見えましたぜ、先の影が」

「えっ、追いついたか」

と、万太郎主従が、彼の指さす先に目を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>らすと、なるほど、そこから遙か峠裏に見下ろされる沢辺の道を、一箇の<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>すがたが、孤影を風に吹かせて歩いて行きます。

## 秋の夜<ruby><rb>双紙</rb><rt>ぞうし</rt></ruby>

その時その姿は、<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>か遠くにしか見えませんが、編笠のうしろ姿が、日本左衛門に違いないと見たので、

「それッ、急げ」

というが早いか、金吾も万太郎も一散に峠の下りを駆け出していました。

しかし、<ruby><rb>左程</rb><rt>さほど</rt></ruby>にもない距離に思われても、歩いてみると案外、<ruby><rb>紆余</rb><rt>うよ</rt></ruby>曲折のあるのが山道の常で、日本左衛門の<ruby><rb>飄々乎</rb><rt>ひょうひょうこ</rt></ruby>たる姿を、<ruby><rb>沢辺</rb><rt>さわべ</rt></ruby>の向うに見ていながら、三人がそこへ降り着くまでにはかなりな時間がたっている。

沢の渓流に沿って、最前、日本左衛門を見たあたりに来て見た時には、もうその影は行手の山蔭にかくれて先に見当りません。

「万太郎様、万太郎様。あまり急いでおいでになると、先へ行って息がつづかなくなりますぜ」と、釘勘はしきりに落着こうとしますけれど、

「いや、もう一息急げば追いつくに違いない。金吾つづけ」と彼の足どりは、容易に平調に返ろうとはしない。

ぜひなく、釘勘も大股になる。

山伏峠の<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>は、東のふもとにかけてずっと道が楽になります。そこから<ruby><rb>双子山</rb><rt>ふたごやま</rt></ruby>の間にはいる数十町は、山を忘れる高原の平地で、肩まで没しそうな<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>と野草がじょうじょうと秋風に白くなびいている。

「あっ……」

そこを望む所に立って見下ろした時、三人は一様に呆れました。自分達はかなりな速度で急いで来たと思ったのに、今見ると、日本左衛門との距離は、最前から少しも短縮されておりません。

では気がついて、先でも<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>を飛んでいるのかと思うと、決してそうではないようです。彼は相変らず、その高原の一すじ道を、急ぎもせぬ足どりで<ruby><rb>双子</rb><rt>ふたご</rt></ruby>の<ruby><rb>山間</rb><rt>やまあい</rt></ruby>へ向っています。

「おゥ――い、日本左衛門」

たまらないで、金吾は遂に手をあげて、先へ向って叫びました。

彼とは、星影の<ruby><rb>谷間</rb><rt>たにあい</rt></ruby>で、互に約したことばがあります。金吾から果し合いを言い込む場合には、いつでもそれを拒むまいとは、日本左衛門が男として断言してある言質でした。

「お――い。おおゥ……いィ」

呼んでは走り、呼んではまた駆け出してゆく。

けれど、絶えず高原をさわがす風にさまたげられて、その声は、まだなかなか先方の耳には届かない様子であります。

すると、不意に三人の行く前へ、四、五人の小娘の――いずれも山家者らしい者たちが、<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>い<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>に何かの荷物をつけて、賑やかに笑って来ました。――それが、出会いがしらの驚きに、急に口をつぐんで、そこから<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れている道を、逃げるように、南の方へ曲ッて行ってしまいましたが、万太郎は、ふとその娘たちの髪に不思議なものを見たのです。

一本ずつの銀のかんざしです。<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>て、銀のかんざしの珍しかった訳ではありませんが、それが十字のかんざしであったのが、せつなの瞳にはッとした懐疑をもたせました。

――東、双子山ヲ経テ<ruby><rb>高麗郷</rb><rt>コマゴウ</rt></ruby>二至ル。西、天目山、<ruby><rb>鳥首</rb><rt>トリクビ</rt></ruby>ヲ越エテ天童谷ヨリ甲州路――

駆けながら見て通った岐れ道の道しるべには、どうやらこう記してあったように読まれましたが……今は何を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>っているいとまもない。

「お――いィ」

と、金吾は声をからして手をあげているし、釘勘も今は口もきかずに、彼に添って疾風を衝いて急いでいる。

――と声が届いたか、先にゆく編笠の影がやがて高原の真っただ中に、笠の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つば</span>を抑えてクルリとこっちへ振り向きました。

空には<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い灰色の雲が、絶えず北から東南へうごいています。

<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人は早寝の早起で、もう奥の間の<ruby><rb>燭</rb><rt>しょく</rt></ruby>を消してやすんでいますが、月江とおりんは、この静かな、そして長夜の秋を、寝ようとしても惜しまれて寝られぬふうです。

と言って、あの<ruby><rb>道化</rb><rt>どうけ</rt></ruby>の次郎が居ないでは、カルタも喧嘩にならないし、<ruby><rb>投扇興</rb><rt>とうせんきょう</rt></ruby>もさっぱり興味がのりません。――で、こんな時には久しく手をふれてみない八雲<ruby><rb>琴</rb><rt>ごと</rt></ruby>でも弾いてみようかと、おりんに琴台とよぶ小机を出させて、それに白い指をまろばせてみる。

われと吾が指先から弾き出る琴の音にうっとりとして、月江の横顔はいと<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけて見えました。

と、不意に、それもやめて、

「ねえ、おりんや」

「はい」

「次郎はもう江戸表へ着いて、今頃はあの<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を、無事に尾張様のお上屋敷にお届けしている時分だろうね」

「あの子のことですから、抜け目なくお役目を仕終わせて来るに違いございませぬ。そして、御用がすんだらその帰りに、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>、浅草の観音様やら、両国の盛り場やら、お膝元の町々を、のん気になって、見物しているでございましょうよ」

「まあ、そんな事を言っていたかえ」

「ええその方が楽しみで出かけたのでございますもの。それに御隠家様からも、ゆっくりお暇を頂戴してゆきましたから、羽ネをのばして見て歩いていることでございましょう」

「そんなくらいなら、私も次郎について行けばよかった」

「でも、お嬢様を出すことは、もう御隠家様が、<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りておいでになりますから、おゆるしにはなりますまい」

「また来年の春になったら、熱海の海辺へ行って、駆け出してみたい」

「あの<ruby><rb>汐鳴</rb><rt>しおな</rt></ruby>りを耳にうかべると、おりんもいつでも、行って見とうございます。それにしても、<ruby><rb>相良様</rb><rt>さがらさま</rt></ruby>は、どうなすったでございましょうね」

「りんや……」と月江は琴のそばを離れて、

「お前もまだ、あの方のことを覚えておいでかえ」

「ええ、折にふれて、思い出すのでございますよ。御病気はなおったかしら？　あの御一緒の部屋にいた、美しい伝法な<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>はどうしたろうかなどと」

「ああ、あの下町風な……」と月江は憂鬱になって、暫く<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>をおいてから、「――お粂とかいう女だろう」

「お嬢様とは、顔を見合わせても、口もきかないような<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>で、いつでも私たちを、じろりと切れの長い目で見て通りました」

「あの女は、いったい金吾様の何なのだろうね、<ruby><rb>御姉弟</rb><rt>ごきょうだい</rt></ruby>ではないようだし」

「夫婦にしては似合いませぬし、まったく妙な道づれでしたが、あの騒ぎが起った最後の晩には、とうとう、金吾様は女を捨てて姿をかくす、また女は、夜ッぴて金吾様を追って海辺を叫んで歩いておりました」

話のうちに、<ruby><rb>両女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は当夜の波風を思いだして、思わず、襟元をぞっとさせています。

ちょうど、そうした話の切れた時です、奥まった庭の深い暗に、竹でも裂けるような物音がひびいて、一瞬の<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>を破りました。

「おやっ？」

と、つい十日程前の奇禍におびえている魂が、新しい身ぶるいを起して、おりんのひとみを<ruby><rb>悸</rb><rt>すく</rt></ruby>めました。――そして思わず、彼女の唇が、

「誰か来てください！」

と、叫ぼうとした時、内玄関にある訪鐘が、誰かこの<ruby><rb>夜中</rb><rt>やちゅう</rt></ruby>の訪問者の手によって、静かに二つ三つ鳴り揺れて聞こえます。

この<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>に、滅多に夜の来訪者などはあった事がないので、門の訪鐘が鳴りおとずれても、郷士たちは奥深い<ruby><rb>詰部屋</rb><rt>つめべや</rt></ruby>に寝込んだものか、即座にオオと出てゆく取次もありません。

で、そこに訪鐘がありながら、

「お頼み申す。おたのみ申す」

と、来訪者の声が幾たびか、繰返されているようなので、最初は、耳を疑っていたおりんも月江も、

「おや、この夜中に、誰かお客様のようだが」

「侍たちを起しましょうか」

「とにかく、ちょッと出て行ってごらんよ」

「はい」と、おりんは今しがたの庭の物音に、まだ幾分か胸の鼓動を感じながら、手燭をともして玄関前の杉戸をひらきました。

そこの式台へ明りの影がさすと、訪れた人々は、会釈をもって待ちながら、

「夜分、御静居をおさわがせ申して、まことにぶしつけではござるが……」と、<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>に小腰をかがめる。

「どちら様でいらっしゃいましょうか」

と、おりんも、手燭と共に、しとやかに式台へ指先をつかえます。

「秩父より越えてまいった旅の者でござるが、土地不案内な上に、御近辺には宿屋も見当らず、当惑して一宿の御無心に参ったのでござりますが……」

「まあ、それは<ruby><rb>御難渋</rb><rt>ごなんじゅう</rt></ruby>でございましょう。では只今、主人にその由を伺ってまいりますから、暫時、そこへお腰をかけて、足なりとお休め遊ばしませ」

と、おりんが灯影を顔にゆらめかせて立ちかけると、そこに立った三人のうちで、応対していた前の武士が、

「や？　……あなたは」と、<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>としたことばにおりんを驚かせました。

「オウ」と、おりんも美しい目を丸々と見張って、

「あなた様は、この春先の頃、<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>の湯で私たちと一つ宿においで遊ばした、相良金吾様ではございませんか」

「いかにも、その時の金吾ですが、これはまた何という奇遇でござろう……」

「まあ、夢ではございますまいか、今も今とて、お嬢様とその頃の、うわさをしていたところでございますのに」

「すると、おたずね申すまでもなくこちらは<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>の<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>でござるな……と、すると手前のうしろにいる連れのお方、万太郎様や釘勘とは、お嬢様も、また当家の小僕次郎にも、前からの御知己があるはずじゃ」

「これはいよいよ御珍客ばかりのおそろい、さ、どうぞそれへ、只今すぐに月江様にこの事を申し伝えてまいります」

おりんは手燭をそこへ残して、まろぶが如く奥の方へ駆け込んでゆきました。

かの高原で振返った日本左衛門が、あれから<ruby><rb>双子</rb><rt>ふたご</rt></ruby>の<ruby><rb>山間</rb><rt>やまあい</rt></ruby>へ姿を消したので、それを追いつつ来るうちに、いつかこの高麗の郷へ下って来た三人でしたが、その土地も家も気づかずに訪れた屋敷が、月江や次郎の住む所であろうとは、万太郎にも釘勘にも同じような偶然でありました。

ところへ、月江がにこやかな顔を見せる。

小仏で難を救われた娘の恩人である釘勘や、また、尾州の若殿の来訪と聞いて、千蛾老人も衣服をあらためて出迎えに出る。

いつか、式台には、幾ツもの明りや、幾人もの郷士たちが座列を作って、さすがに豪族の<ruby><rb>名残</rb><rt>なご</rt></ruby>りをとめた応接ぶりです。そして、奥の一<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ通される。

人知れず、月江の胸に思い出として棲んでいた相良金吾が、前に変ったりりしい姿をして、わが<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の一室に坐ったかと思うと、彼女の胸はふしぎなうれしさに騒がされています。

意外な客と貴公子を迎えて、冷寂としていた<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の夜は、燭に燭をついで夜の更けるまで<ruby><rb>戸閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>すことを忘れています。

さて、酒の<ruby><rb>興</rb><rt>きょう</rt></ruby>も、およそな頃、

「折入って、万太郎様に申し上げたいことがござるが、暫時、別室までお越しを願えましょうかの」

と、気がねをしながら、千蛾老人が金吾へまで申し出る。

それくらいな事なら、至って気軽な若殿です。金吾の取次も待たず、即座に席を立って、彼の案内について別の間にうつります。

人の来る前に、すでに、<ruby><rb>丁字香</rb><rt>ちょうじこう</rt></ruby>の煙が<ruby><rb>縷々</rb><rt>るる</rt></ruby>と薫っていました。ぴたりと、ふすまを閉め切って、老人の膝は改まる。

「話とは？」

万太郎は正座の敷物を少し片寄せて、微酔のからだを竹の床柱にもたせかける。

「夜光の短刀のことにつきまして……」と老人の<ruby><rb>痩躯</rb><rt>そうく</rt></ruby>が<ruby><rb>厳</rb><rt>おご</rt></ruby>そかにそびえると、万太郎もやや態度をひきしめて、

「お。その儀は、自分からも問いたいと思うていたところじゃ。当家と、あの短刀の持主ピオと申す異国の貴人とは、深い縁があったそうな」

「さればでございます、浅からぬ奇縁があって、当家歴代の者も、夜光刀の捜索には、心をくだいておりますが」

「実は、自分もそれを手に入れようとしているのだが」と、万太郎がすばやく<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>んだ一言には、どことなく挑戦的な語気が走りました。

が、千蛾は軽く、その語の切ッ先を避けて、

「まず、お聞き下さいませ」

「ウム、短刀の詮議は止めよとあるか！」

「何で左様な自由をこの老人が持ちましょうか」

「いかなる危害が身にかかるとも、余は夜光刀の捜索を思い止まらぬ覚悟じゃ」

「千蛾も共に、御成功をお祈り申しあげまする」と、<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>のように、老人の<ruby><rb>白髯</rb><rt>しらひげ</rt></ruby>の先は膝につきました。

「では、そちには、野心がないのか。われらよりは、必ず多くの手懸りもあろう其方が、思い<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>まったとは心得ない」

「御意のとおり、家の宝としても<ruby><rb>稀代</rb><rt>きたい</rt></ruby>な名品、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の王家へ戻しやれば、多大の<ruby><rb>報酬</rb><rt>ほうしゅう</rt></ruby>のある品物でございます。狛家歴世の遺志をついで、この千蛾も、手に入れたいは山々でございますが、仔細あって、それは徳川万太郎様に、おゆずり申しあげたいと存じます」

「わしに譲る？　……」と、彼いよいよ不審そうに千蛾の顔を見つめて――「と申しても<ruby><rb>糠欣</rb><rt>ぬかよろこ</rt></ruby>びであろう、今もって、皆目手がかりのないものを」

「いやいやそうでもござりませぬ。<ruby><rb>奥秩父</rb><rt>おくちちぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>切支丹谷</rb><rt>きりしたんだに</rt></ruby>に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む者や、日本左衛門などという盗賊たちの手さぐりが、次第に迷宮のくらやみを縮めておりまする。必ずや、遠からぬうちに、幾本かの手さぐりの指先に、秘密の鍵がつかまれましょう」

「ふーム、では、万太郎の如き、<ruby><rb>迂遠</rb><rt>うえん</rt></ruby>なまねをしていては駄目だの」

「おそれながら、今のままでは、御失望が目に見えております。しかし、お案じ遊ばすな、及ばずながら、千蛾ができうる限りの、御助力をいたしましょう程に」

「ほ。そちがわしを助けて、夜光の短刀を身のものにして見せるというのか」

「ついては、千蛾が折入って、お願い申す一儀がござります。あえて、御尊体を別室までお運び願いました次第、なんと、お聞き届けを願われましょうか」

そういうと、千蛾はさらに畳をすべって、<ruby><rb>白扇</rb><rt>はくせん</rt></ruby>を寝かしたように平伏しました。常に、村の将軍家と<ruby><rb>異名</rb><rt>いみょう</rt></ruby>されるほど、見識の高い御隠家様自身が、かくも、身をへりくだって頼むというのは只事とも思われません。

ことに、夜光の短刀の望みさえすてて、それにも代えようという頼みは何でありましょうか？

昼のようだった<ruby><rb>庭面</rb><rt>にわも</rt></ruby>の月が、うすい雲の<ruby><rb>膜</rb><rt>まく</rt></ruby>につつまれて、<ruby><rb>月蝕</rb><rt>げっしょく</rt></ruby>の晩のようなほのぐらさでした。

その頃、例の奥まった所にある石神の拝殿に腰かけていた一つの人影が、名月や池をめぐりて夜もすがら――そんなふうに、ふところ手をして、秋草の間をあるいていたかと思うと、いつか、千蛾の部屋の窓明りをぬすんで、その雨落ちの下に、<ruby><rb>盲蜘蛛</rb><rt>めくらぐも</rt></ruby>のようにかがみ込んでいました。

――がしかし、その一室をうかがっていた者は、ひとり、窓の外の盲蜘蛛の如き人影ばかりではありません。

廊下口の杉戸の外にも、<ruby><rb>脇差</rb><rt>わきざし</rt></ruby>をかかえた一人の武士が、じいっと、室内の衣ずれをも聞きのがすまいとして、身を<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらせている。

それは、酒席を抜けて来た金吾でありました。金吾なれば、彼の行為にうしろ暗いところはない。彼が、大切な若殿の身を護衛するために、かく、側ぢかく侍しての根気は、まことに当然な<ruby><rb>振舞</rb><rt>ふるまい</rt></ruby>であります。

部屋のうちでは、いよいよひそかな二人の対坐です。――暫くすると万太郎らしい声で、

「なんの願いかは知らぬが、それ程の誓いをたて、きっと違背をせぬというならば、そちの頼みを聞いてやってもよいが……」と言う。

「ははっ」と、千蛾はおののくような感激をあらわして、

「お快く御承諾、かたじけない儀に存じまする。この上は、千蛾が骨身をけずりましても、必ず、夜光の短刀をお手に入れて、若殿の思召しに<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>わずにはおりませぬ」

「それはうれしいが、しかし、老人。いったいそちの願いとは何ごとじゃ」

「ふつつかな、ひとりの娘の事にござります」

「あの月江とよぶ女子か。して、それがどうしたのじゃ」

「かなしや、恋に陥ちておるのでござります」

「かなしむことはあるまい。恋をする年ごろの女、なんで不思議があろうか」

「それ故に、<ruby><rb>老</rb><rt>お</rt></ruby>いの目から見れば、ふびんに見えてなりませぬ。自体が吾まま育ち、それに、人には明かされぬ短命な病気がござります。――もっとも、その<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>の方は、或る、秘薬を見出して、よほど見直しておるとは存じますが、この老人でも<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>い後は、たれが、手に入れ難いその秘薬をつづけてくれましょうか」

老人の声がほろりと哀れをふくみました。頬の落ちたところに燭の影が濃く、涙をこらえる顔のすじが、びくりとうごいて見られます。

――声をのんで、また平調に、

「で、当家の世つぎに選ぶ<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>がねさえ、めったにはないものを、そんなこんなの思慮はなく、好きなものを自由に恋したのでござります。それと察した時は、実もって、千蛾は当惑いたしました。……お察しくださいませ、ひとつぶの<ruby><rb>愛娘</rb><rt>まなむすめ</rt></ruby>、恋をかなえてやりたいのは山々で、しかも、短命な遺伝のある娘、恋はかなえてやりがたい事が、初めから分っているのでございます」

「分った」

と、万太郎は同情のあるうなずきを与えて、

「そこで、恋の相手は、誰か」

「御家来、相良金吾様を、熱海の入湯中に恋したようにございまする」

「金吾？」

その声が、おそらく大きく聞こえたので、杉戸の外に<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んでいた当の金吾は、思わず<ruby><rb>居耐</rb><rt>いたたま</rt></ruby>らない気もちに駆られて、無意識にそこに立ち上がったのでした。

――すると、折もわるく、

「おいで遊ばすのは、相良様ではございませんか」

と、暗がりをすかして、おりんがそこへ近寄って来たようです。

しッ……と目顔で制したい程でしたが、おりんは何も知らないので、

「若様の御用のないおひまに、ちょっとこちらへおいで下さいませ。いいえ、あちらのおひとかたは、郷士達と、まだ賑やかにお話しでございます。……あのちょっとでよろしゅうございます程に、お顔を……。ホホホホ、お嬢様が、しきりと、お待ちかねでございますのよ。……あれ、なぜでございますか、お嬢様、お嬢様、金吾様は逃げておしまいなさいます」

おりんのうしろには、月江のすがたが、おぼろげに見えていました。金吾は、決して逃げるというような気持ではありませんでしたが、とにかく、そこにいるには耐えないで、有り合う庭下駄をはいて外へ出てしまったのです。

ばッさりと、床下の暗をふさいでいる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やつで</span>の葉蔭から、その足もとを見ていた二つの目は、金吾にもつれて行った<ruby><rb>両女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>をやり過ごすと、また元の<ruby><rb>窓際</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>へ背をのばして、屋内の話に聞き耳をたてていました。

しゅくしゅくと千蛾老人がうれし泣きにすする声が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やつで</span>の窓にまでもれてから、暫くして後――

「心配いたさぬがよい。必ず金吾を説いて、当家の月江と添わせてやるであろう程に」

万太郎が、誓言をくり返していますと、老人はいくたびか彼の姿を拝して、やがて、次に聞こえたのは、ガチリと、刀<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>の錠前をあける音でした。

あとで、違約のないように、早速にも、何か自分へ誠意を示そうというのらしい。――万太郎はそう思いながら、千蛾の手元を黙然とながめていました。

えび<ruby><rb>鞘</rb><rt>ざや</rt></ruby>の脇差が出る。<ruby><rb>柳鞘</rb><rt>やなぎざや</rt></ruby>の大小が取り出される。さめ<ruby><rb>柄</rb><rt>づか</rt></ruby>のよろい<ruby><rb>貫</rb><rt>どお</rt></ruby>し、あずき塗りの野太刀、白鞘、巻絵鞘、見ていると幾腰出るかわかりません。忽ち、刀箪笥から山になって、千蛾のそばに移されます。

そして最後に、空<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひきだし</span>をスッと抜いて、底に敷いてある、花模様を浮かした<ruby><rb>鍋島織</rb><rt>なべしまおり</rt></ruby>の<ruby><rb>厚布</rb><rt>あつぬの</rt></ruby>をめくると、その下から、ぷんと<ruby><rb>樟</rb><rt>くす</rt></ruby>のにおいが部屋じゅうにひろがりました。

取り出したのは、尺二、三寸の虫<ruby><rb>蝕</rb><rt>く</rt></ruby>い防ぎの樟の薄板です。旧家の刀<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>や書画入れの<ruby><rb>長持</rb><rt>ながもち</rt></ruby>には、よくこの<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>を底へいれておくものですが、今、老人が手に取ったそれには、黒光りの板の片面に、何やら細密な絵図がひいてある。

取り出した刀を、また一腰一腰、元のとおりに納めて、千蛾は<ruby><rb>燈芯剪</rb><rt>とうしんき</rt></ruby>りを取って<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>をつまみました。

目がさめたように、明りがさえます。それを二人の間に引きよせると、樟板の図面をそこにおいて、

「さて、万太郎様。これこそ、当家の代々の者が、筆に筆を加えた、夜光の短刀の捜索図でございます、――おそらく、あの短刀をたずねる者は、皆、さまざまな空想をたどって、そのありかの空想図を作っておるに相違ございません。しかし、当家のものこそ、三代四代と世をついで、ようやくこれまでの完成しかけた、間違いのないもの、まず、よく御覧下さいませ」

そういって、図の正面を、万太郎の方へ向け直しました。

老人はまた問わず語りに――

「拝島の<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>で、<ruby><rb>関久米之丞</rb><rt>せきくめのじょう</rt></ruby>というものがございました。これなども、夢中になって尋ねておりましたが、気の毒なもので、やはり猟奇家のよくやる<ruby><rb>迷宮彷徨</rb><rt>めいきゅうほうこう</rt></ruby>に終って、遂に、落命いたしました。その男などのおかしい事には、あっぱれ、何か一つの手懸りでもあると、もう手に入れたつもりかなんぞで、娘をくれるかの、聟にするかのと、厚かましい事を申しております。で、からかッてやった事もございましたが、案のごとく、何も耳新しいことは持ってまいりは致しません」

「老人老人……」と万太郎はもう千蛾の話などはうわの空で――

「これはどうやら御本丸を中心とした江戸絵図らしく思われるが」

「左様、まず町絵図にそっくりでございます。しかし、そのなかで、所々に<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>がございましょう」

「おお、あるな、朱点、黒星、そのほかさまざまじゃ」

「朱は、当家の前代が、ピオの日誌を手がかりとして、掘返してみた跡でござります。また黒点は、ピオの足跡、また、＋の印は謎の土地、そうした諸方、<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>な考証、あらゆる研究を積みました結果、ピオの死所までは、ほぼ<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>がついておるのでございます」

「えっ、そこまでの事が分明いたしておるのか」

「ところが」

と、千蛾は首を横に振って、

「やんぬるかな。それもやはり、諦めものでございました」

「なぜじゃ。それまでの苦心が現在むくわれておりながら」

「実は手前も、ピオの最期の地と分っている場所を、生涯に一度はあばいてみたいと願っておりましたが、それは、所詮及びもない大望に過ぎませぬ。<ruby><rb>痴人</rb><rt>ちじん</rt></ruby>の夢でございました。――がしかし、若殿、あなた様ならそれを実行してみることは、決して夢ではございませぬ。立派にその場所へ近づき得るのでございます。……でなければこの千蛾は、不可能なことを売りつけて、若殿に無理なお願いを<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いたことに当りますわけで」

千蛾老人の説いてくるところは、決して怪力乱神ではないように聞かれます。

――千蛾老人などには寄りつけない所であるが、万太郎ならば<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>と行ける場所とは、何処でしょうか？

ピオの秘密と彼の最期の歴史が<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>もれている地はそこであるという。

「ウーム……」と万太郎は腕ぐみをしたまま、<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の秘図から目も離たずに考えこむ。

「だが老人……今日まで自分が探ったところによると、ピオの最期の地は武蔵野のうちであって、この絵図面にしるしある場所とは、だいぶ違っておるように心得るが」

「それが、誰しも考え違えをし易いところで、武蔵野とは申しますが、今の江戸市中も、慶長の昔には、武蔵野の一部であったに相違ございませぬ」

「ふム、成程な」

「よくよくその絵図面を見ているうちには、老人が説明するまでもなく、自然と、何かが胸に解けてまいります筈で」

「して、この三つの、流れのような線は何か？」

「間道のしるしでございます」

「ほ。間道」

「江戸の三孔と申しまして、<ruby><rb>太田持資入道</rb><rt>おおたもちすけにゅうどう</rt></ruby>の頃からある長い地底の抜け穴でございますが、いつか、その上に御府内の市街が立ちならんで、今では人家や往来にかくれたまま、絶えて知る人もございませぬ」

「その三孔とやらも、そちの先代が調べだしたものであるな」

「いえ、それを疾くから調べていたのは、兵学家の<ruby><rb>素行</rb><rt>そこう</rt></ruby><ruby><rb>山鹿</rb><rt>やまが</rt></ruby>先生でありました。そして、<ruby><rb>山鹿素行</rb><rt>やまがそこう</rt></ruby>はその三孔のことを、講義の席でちょッと口を洩らしたがため、ついに幕府から罪を得て、配所へやられたとも伺ッておりまする」

「また、この三孔の線が結び合っている所に、嵐山という地名が書いてあるが、江戸の市街に嵐山などという所はない。何かの間違いであろう」

「いえ、間違いではございませぬ。たしかに、その三孔の中心が嵐山なのでございます」

「はてな。京都ならば聞いておるが、江戸の嵐山とは何処であろうか」

「若殿などは、お歩きになった事もある筈でござりますが」

「いや、江戸の嵐山などとは、見たこともない」

「何せよ、この図面だけでは、難解な<ruby><rb>箇所</rb><rt>かしょ</rt></ruby>も多く、実際の手がかりとするには、御困難でございましょうから、こよいのうちに、手前が要所へ解字を書きいれておきまする」

「オオ、そうしてもらえば、何よりである」

「で、何とぞ、千蛾の<ruby><rb>微衷</rb><rt>びちゅう</rt></ruby>をおくみとり遊ばして娘月江のこと、くれぐれお力ぞえ賜わりますよう」

「その儀は、今も言ったとおり、決して心配いたさぬがよい」

「では、夜も更けます故、どうぞあちらの<ruby><rb>寝間</rb><rt>ねま</rt></ruby>で御休息を。……手前はよいに早寝をいたしました故、家人どもの寝しずまっている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、この絵図に註を入れておくことにいたします」と、老人は、机の上に<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の図面をのせて、<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>や細筆を調べはじめました。

万太郎が元の席へ帰って来た時に、ちょうど、金吾も庭先からそこへ来合しておりましたが、何か、いつもの落着きを乱されている様子が彼に見えました。

で、万太郎は最前の廊下のささやきを思いうかべて、

「金吾も月江に恋をしているのであろう。月江も金吾を恋している。さすれば、千蛾のたのみをかなえてやる事は、なんでもない事だ」

ひとりのみ込みに合点して、案内された一室の夜具に身をいれると、夢はもう夜光の短刀を手にいれた気で<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>に渡る日の波音を聞いております。

金吾は、その次の間へ。

釘勘はその縁向うの部屋へ。

そして狛家の郷士たちも、それぞれ<ruby><rb>燭</rb><rt>しょく</rt></ruby>を滅して、奥の<ruby><rb>詰部屋</rb><rt>つめべや</rt></ruby>に引きとり、やがてグッスリと寝入った様子です。

ひとり、やつでの窓に灯をかかげて、樟板の秘図に注釈の筆をコツコツといれていたのは千蛾老人で、シーンと<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>の寒さが身に迫ってきたせいか、時々、彼の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しわぶき</span>がそこから漏れて来る。

「お泣きなさいますな、お嬢様。あなたがお泣き遊ばすと、おりんも共に悲しくなってまいります」

千蛾老人が夜を徹している一室のほかは、どこの棟も、すべて寝しずまったであろうと思われましたに、

「りんや、ほっておいて下さい。私はなんだか、こうして夜明けまで泣いていたい」

庭の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あずま</span><ruby><rb>亭</rb><rt>や</rt></ruby>に女の声がする。

「滅相もないことをおっしゃいます。この冷えびえする<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に、いつまでこうしておりますと、御病気のためにも……」

と言いかけて、あわてて口をつぐみ、

「おからだの為にようございませぬ。さ、お<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みなさいませ」

うかつに出たことばを言い直しながら、月江の手を取って、無理にそこを引き立てました。

「だって、りんや、おまえ私の気もちを知っておいでだろう」

力なくおりんの手にもたれて、月江はまだ泣きたらないように、ほろほろと、歩みと共にに泣いている。

「分っております。……ですから、おりんが今に、きっとあの金吾様に」

「だめよ」

月江は、駄々に身を振って、

「おまえがお呼びして来ても、さっきのように、あんなに素気なくして、奥へ馳けこんでおしまいなされたじゃないか」

「でも、それは若殿の御用があるお体ゆえ、仕かたがないではございませぬか。……またよい折を見て、このおりんから必ずお話いたしましょうから、そんなに取越し苦労をして、お泣き遊ばすものではございませぬ」

しかし、月江は泣きたいのでした。泣く理由があると否とにかかかわらず、ただ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばく</span>とした恋というものに、あるだけの涙をそそいで泣きたい。

はたから悲歎にみえるその涙は、彼女に、甘い味がする。

（これが、遺伝とやらいう、わるい御病気のきざしでなければよいが）とは、ひそかにおりんが一番<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>えているところで、恋を得た<ruby><rb>熱海</rb><rt>あたみ</rt></ruby>にいた頃の月江から見ると、まるであの軽快な姿態やほほ笑みはあとかたもなく失われています。

「おやすみ遊ばせ。くよくよとお思いなさらずに」

――とにかく寝せつけて、

「おりんも、休ませていただきまする」

と、彼女が月江の部屋をそッとさがってきたのは、庭から影をひそめて、なお、半刻も<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のことでありました。

屋の<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>も三寸さがると俗にいう刻限、ことに旧家のおそろしく長い廊下の暗やみを足をこごえさせて歩くほど、不気味で、寒いものはありません。

そよそよと、通りぬける風があるので、おりんは一度自分の寝間へはいってから、

「あ、雨戸を」

と、気がつきました。無理に月江を引き入れた時に、閉め忘れた庭向きの一枚です。

折角、寝巻に着かえたのを、また着なおすのもおっくうな気がして、昼ならば、眼を射るであろう<ruby><rb>派手</rb><rt>はで</rt></ruby>やかな<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>に帯を巻いて、スルスルと、白いその素足が氷のような板の間をすべってゆく。

「まあ、降るような――」

銀河を眺めて呟やきながら、ぶるッと、身ぶるいをして、そこを閉めかけましたが、どうしたのか、うごきもしない。

「おやっ？」

と見ると、動かない筈です、自分が手をかけた少し下に、五本の指が戸に掛って押えているのです。――自分の指は自分の指、それはいくらながめても、自分以外な者の指です。

ぎょッとして、おりんは、雨戸にかけた手を引っこめようとしましたが、蛇のように、するすると雨戸の<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>を這って追いかけて来たその指が、ムズと、おりんの指先を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みました。

「あっ……」

と、身をねじ曲げたのは、何か、黒い見上げるような影が、さっと、廊下におどり上がったので、人を呼ぼうとしたのですが、もう一方の薄べったい<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>が、自分の口をおさえていて、どうする事もできません。

「しッ。……驚くことはない」

耳のそばで、こう低く言ったのは男の声です。しかも、どこかで覚えのあるような声がらなのです。

相手が、<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>を切るばかりに用意しているのを見て、おりんはいたずらに騒ぐことの非を悟りましたから、じっと、眼を閉じて相手のなすままにこらえている。

と。

「おい」

気がついてみると、自分は決して、相手の力に束縛されているのではない。身を締めているのは、胸に結んでいる自分の腕で、今見た人影は、戸を閉めて、もうろうと廊下の中に立っています。

「おりん、なんでそんなに驚くのだ。……忘れたのか、おれの姿を。この声を」

「あっ、あなたは」

彼女が、よろめく背を、あやうく柱にささえて踏みとまると、目の前のもうろうとした影も、ゆらりと迫って、

「命の親を忘れるやつがあるものか。しかも、自分の肌までゆるした男を……」

白い歯が見える。

声をぬすんで笑ったらしい。

おりんは、総毛だつおののきをこらえるのに全力で、とても、救いを呼ぶ気力もなく、そこを逃げ去る足もすくんでいました。

と――相手はさらに寄って来て、

「どうだな、あれ以来、からだの工合は」

と、やさしい声でいう。

「もしッ……」

おりんは口惜しさに、やっと、反抗的に出ない声をわななかせて、

「な、なにをおっしゃるんです、あなたは」

「何を言うって」

「ええ。なにを言ってるんですか。だまって聞いていれば、私が不義でもしたような……」

「したじゃあないか。ふふふふ」

相手の語尾が、ゆがんだ笑いにかすれたので、おりんは、あの事だけに、かっと熱い血が頬へのぼって、怖ろしいことすら忘れかけました。

「じょうだんを言うのも、よい程にしてください。なるほど、拝島の<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷で、<ruby><rb>切支丹族</rb><rt>きりしたんぞく</rt></ruby>の三人の男に、私が生き埋めになったところを、あとで、あなたが助け出してくださったのは、<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>でございますが……、肌をゆるしたの、からだの工合はのと、そ、そんなことを、私は知りはいたしませぬ」

――相手は黙って聞き入って、すぐに澄んだ返辞をしてきます。

「知らない？」

「し……知りません」

「その知らないのが証拠だとも言えるが、じゃ話してやろう。あの誰も居ない空屋敷の奥の<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>に、おまえはおれの腕をまくらに、一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>のよも寝かされていた。ちょうどおれもただ一人で、何とはなく、あの陰気な昼の蚊帳に、寝ころんでいたところだったから、ついでもなく、手が出たのはあたりまえなことだった。……やがて、口うつしの……薬や、水や、それから先はお前にもおぼえがあろう」

静かで<ruby><rb>明晰</rb><rt>めいせき</rt></ruby>で、しかも何か強い力をふくむ彼のことばは、聞くまいとしても、どうしても、耳に<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>むことができない。

そうしておりんは、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>をのんだように、全く色を失っているのみでした。

嘘だ、嘘だ、と心で強く否定していながら、おりんはこの間うちからの肉体の変化を、おののきの奥に、思い出さずにはいられません。

「そして、あの翌日だが」――と相手はなお身ぶるいの出るような<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>をつづけて、

「おれは<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>へ出て行ったのさ。少し、たずねている者があってな。――そのあとで、おまえは多分、あの<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷へ礼に出かけたろうと思う。しかしその時は、おまえとおれと、ふしぎな夢をむすんだ、あの昼の<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>があったばかりで、誰もあそこには居なかった筈だ」

「もう……そんな口から出まかせは、言わないでください。けがらわしい」

「というて――見た夢を、おまえは何で<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>い消すか」

「知りません、そんなこと！」

涙も出ない口惜しさにちがいありません。けれど、彼に向ってそう激しくいい返したことばも、忌わしい疑いにくるまれて真っ黒なものを胸に抱いてしまった彼女には、なんとしても、泣くに泣けない、弱々しい反抗であるのをどうしようもないのです。

「まあ、その話は、打ちきるとしよう。おれの恋はほかにある。あの空屋敷の<ruby><rb>昼蚊帳</rb><rt>ひるがや</rt></ruby>は、おれにも解せない夢だった」

「……そ、そしてあなたは一体、だれなんです？」

「おれか。――おれは日本左衛門というものだ」

「…………」

おりんの顔色は紙のように白くなって、そのまま柱の下へよろめきそうになりますのを、日本左衛門の手がやんわりと支えて、

「驚いたのか」

と、耳へ口をつけました。

「なにも驚くことはねえ、ただ少し頼みたいことがあって、さっきからここに<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んでいたのだ。――奥廊下へ渡る<ruby><rb>錠口</rb><rt>じょうぐち</rt></ruby>のカギを貸してくれ」

「…………」

「いやか」

……ぱたッと、何か物音がそこで聞こえたかと思うと、それっきりです。

それから暫くして、ズズズズと廊下を向うへ<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>ッてゆくような音がしたのは、どうも日本左衛門の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>でもないようでした。

何しろ古い様式の建物で、中の<ruby><rb>屋</rb><rt>おく</rt></ruby>、北の屋、東の屋、と棟もべつに、中庭から<ruby><rb>橋廊下</rb><rt>はしろうか</rt></ruby>をへだてているので、これ以上なことがあっても、滅多に客間や<ruby><rb>詰</rb><rt>つめ</rt></ruby>侍の部屋までは分るはずがない。

まして、千蛾老人の部屋は、一番奥まった北の屋の一室で、そこへゆくには、ひとつの橋廊下と、二ヵ所の厳重な杉戸がある。

約束のとおり老人は、窓もふすまも閉めきって、<ruby><rb>燭</rb><rt>しょく</rt></ruby>を机の左に寄せ、例の<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の絵図面へ筆をとって、丹精な解字をそれへ書きこむことに、夜の深沈たる寒さも、身にせまりつつある禍いの影も、まったく心にない様子です。

――と、<ruby><rb>切燈台</rb><rt>きりとうだい</rt></ruby>の<ruby><rb>燈芯</rb><rt>とうしん</rt></ruby>が、ボッと、赤い焔を横に寝かしましたので、オヤと、老人が筆を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めて横を見ると、そこが、三、四寸ほど<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いている。

「誰じゃ」

激しくいったが、答えがない。

「誰じゃ、そこを開けたのは」

立って、ふすまの外をあらためようとした時です。自分のうしろにさした人影に、ヒョイと<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ってみると、黒々と装った頭巾の男が、冷然と、自分の上から樟板の絵図面をながめ澄ましている。

<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>の刀、尺二、三寸の短いもの、それを抜いて、いきなり老人が、

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>ッ」

と、のどを破ッていった短いことばも、語尾は血煙の中にかすれて、皆まで聞こえなかった程です。

床をうしろに立っている日本左衛門、その手は柄を握って待っていました。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かッ</span>といったかと思うと、振り向いた老人の肩先へ、抜き打ちに落ちて行った冷刃！　彼の手に馴れた<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>です。深く、<ruby><rb>肋</rb><rt>あばら</rt></ruby>へかけたその切ッ先は、ななめに通った<ruby><rb>床框</rb><rt>とこがまち</rt></ruby>の一端にポトッ――と赤い糸をひいていました。

ふすまへ走ッた血潮の細粒が、<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>を吹いたようにパッと冴えて見えた途端に、千蛾老人のからだは前に俯伏して、

「ううムッ――月江ッ……月江……」と二声ほど、悲痛なうめきをもらすなり畳に爪の音を立てて、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の霜の毛に断末のあえぎを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そそけ</span>立てていました。

老年であり、日本左衛門の腕ではあり、ただの一刀でも、たまろうはずはありません。ビクと、最期のけいれんを両の拳にふるわしたかと見ると、もう横顔はサッと死色に変って、まったく絶息した様子です。

血<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>をふいた<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を、そろりと鞘にいれると、日本左衛門の手は机の上にある<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の図面へのびて、それを横に持つと同時に、ふッ……と<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をふき消して、その一<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>から音もなく踏み出しました。

そして――

長廊下をさぐり長廊下を忍んで、最前の戸口から外へ出ようというつもりであるらしい。

ところが、折<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しく、その向うの一室から、手燭を取って起きて来た武士があります。……まずいと、舌打ちをして、日本左衛門が身をかがめて眺めていると、北の屋の物音を怪しんで目をさましたらしい相良金吾が、

「はてな？　……」というような様子で、彼の居る方へ足を早めて来ました。

途端に――日本左衛門の影は<ruby><rb>鼠走</rb><rt>ねずみばし</rt></ruby>りに、中廊下の横へかくれました。もう、金吾にはそれが感じられたので、彼は、手燭をそこへ置いて、

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>ッ」

と、一<ruby><rb>跳足</rb><rt>ちょうそく</rt></ruby>に、飛んで来ました。

「なに、曲者？」

同時に、彼の起きて出た隣の部屋で、こういったのは万太郎です。――遠ざかる廊下の足音を耳にするが早いか、同じく、おッとり刀という構えで、

「金吾ッ、何ごとじゃ」と色をなして駆けつけて来ました。

「おお、若殿。お目ざめでございましたか」

こういいつつも、なお八方へ眼をうごかしている金吾の様子に、

「曲者はいかがいたした？」

「見失ったようにございますが、まだ屋外へ逃げ出した様子は見えませぬ」

「家族たちを起こしたらどうじゃ、<ruby><rb>物盗</rb><rt>ものと</rt></ruby>りであろう」

「気がかりなのは、千蛾殿のいる、北の<ruby><rb>屋</rb><rt>おく</rt></ruby>の一室です。――あの辺りで、何かふしぎな物音が聞こえましたので、それで目をさましましたので」

「千蛾の部屋に妙な音が聞こえたと。それは気がかりだ。万一、あの……」といいかけたまま、万太郎は思い当った不安に駆られて、一散に彼のいる北の屋へ走り出しました。そして、そこの橋廊下を渡って、境の<ruby><rb>錠口</rb><rt>じょうぐち</rt></ruby>でドンという音をさせると共に、

「あっ、<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いておる！　開いておるぞ、ここの杉戸が！」と、金吾を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、事こそあれと叫んだものです。

さては、と金吾も胸のとどろきを覚えました。しかし、万太郎についてそこの異変を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めにゆくのはよいが、その間に、この辺でたしかに見かけた曲者に、逃げる機会を与えてはならない。

「金吾！　……金吾」

と奥ではしきりと万太郎の呼ぶ声がして来ますが、彼は、そう考えて、断じてそこをうごかずにいます。

そして――なおも油断のない目で、中廊下の曲り角から、そこの天井をズウと見上げていますと、覆面をしたひとりの男が、片手を<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>にかけ、片手を柱にグッと伸ばして、あたかも、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>のようにペタリと体を貼りつけたまま、<ruby><rb>鴨居</rb><rt>かもい</rt></ruby>の上から、自分をじいっと見おろしているのでした。

<ruby><rb>梁上</rb><rt>りょうじょう</rt></ruby>の曲者に気がついて、金吾があっとおどろいた途端に、彼の肩先を<ruby><rb>鴨居</rb><rt>かもい</rt></ruby>の上からぽんと蹴った相手は、軽いからだにその弾力を加えて、ひらりと廊下の向うへ飛び降りました。

そのすばやい<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を肩に与えられて、うしろへよろめいた金吾は、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に向うへ跳んだ<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>の影をみとめるなり、あまりな意外さに度胆を抜かれた形でした。

それこそ、自分たちが、秩父の<ruby><rb>神楽堂</rb><rt>かぐらどう</rt></ruby>の下から<ruby><rb>双子</rb><rt>ふたご</rt></ruby>の高原まで追いつめて行って、遂に迫ることのできなかった日本左衛門ではないか。

無論、それと気がついて<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>む金吾ではありません。おのれッとおめいて、うしろへとびつくが早いか、<ruby><rb>上背</rb><rt>うわぜい</rt></ruby>のある相手の体へ組みついて、

「拙者は相良金吾だ。うしろを見せては約束がちがうであろう」

耳も破れよと怒鳴りました。

日本左衛門はあわてもしないで、肩から胸元へ廻している金吾の腕に自分の手をかろく重ねて、

「今夜はすこし都合が悪い。またそのうちに会おうじゃねえか」

ジロリとうしろへ瞳を流してあいさつしました。――がしかし、金吾はこう組止めた大きな仇敵をどうしてめったに離すことではありません。

「だまれ。小仏の谷間でなんと言った、この<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>拙者から果し合いをのぞまれた場合は、なん時でも、必ず逃げかくれはせまいと言ったことばを、よも忘れてはおるまい。<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>であろうッ」

「いや、卑怯ではない。おれは今自分の渡世を働いているところだ。稼業のなかでそんな道草を食ッちゃいられねえ。おれに会いたくば、<ruby><rb>拝島</rb><rt>はいじま</rt></ruby>の<ruby><rb>空</rb><rt>あき</rt></ruby>屋敷まで改めて出直して来い」

という言下に、肩を落として、組みついている金吾を前に振り捨てようとしましたが、金吾もウムと踏みこらえて、<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>とそうはさせません。

受身になった日本左衛門と組みついた金吾と、ふたつの体が一つによじれ合って、どんと壁の腰にぶつかるなり大きな震動をたてましたが、その途端に、日本左衛門のかかえていた<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の絵図が、彼の左の脇の下で、バキッと二つに折れたかと思うと、金吾の足元にその半分の板がカラリと落ちます。

しかし、金吾はそれをどれ程大切な物ともまだ知っていないので――また知っていてもそれを拾い取っているような余裕は無論なかったので、ただ、彼の<ruby><rb>喉輪</rb><rt>のどわ</rt></ruby>にかけた腕を死すとも離すまいという懸命をこめて、さらに相手の体をあとへねじる。

でんと、そこへ同体になって仆れたせつなでした。変を知って飛び起きた釘勘、その他、<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の<ruby><rb>飼侍</rb><rt>かいざむらい</rt></ruby>たちが、一時にドドドッと馳け集まって来た気配です。

吠えるように耳をうった日本左衛門の一息が、足<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>にかけて金吾の体にもんどり打たせたのもその瞬間でした。――そしてそこへ真っ黒に見えた郷士たちへ不意を衝いて、一方のふすまをサッと開けたかと思うと、彼の姿は、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と一室の暗に呑まれてしまいました。

血眼になった金吾と釘勘が、すぐそのあとへ駈け込んでみると、もう次の間のふすまが開いている、そこへ入るとまた次の部屋へ、次の室へはいるとまたその先に、十方の通路は彼の行くままに口を開いていて、人数ばかりいたずらにふえても、彼の姿はふたたびそこらの<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>の上にも見つからない。

「<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>しを。灯しをつけろ」

「曲者をのがすな。庭先へ出合え、庭先へ出合え」

そんな騒ぎが八方を駆けずり廻る間に、まだほんとに眠りついていなかった月江は、おそろしい胸騒ぎを抑えて<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いこう</rt></ruby>の小袖を肌着の上にまとい、歯の根に寒さを噛みながら帯を締め廻しておりました。

そして、真っ先に、おりんの寝間へ駈けこんで行ってみると、おりんは<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>に両腕を縛られて絹糸のように身をねじったまま、仆れた体をもがいております。

暴風的な驚きのなかに、千蛾老人の横死が人々の口に叫ばれ出すと、その乱迷な廊下を狂わしい勢いで、北の屋へと駈けこんで行った月江とおりんの姿が見えました。

とたんに、声を惜しまずにわッと泣きふしたような、若い女の哀声がその一室から洩れて来る。

表の方ではさらに激しい騒音と喚きがなおも度を加えておりましたが、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>はその混乱に乗じて<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>よく姿をかくしたものらしく、やがて疲れた人々の顔に空しい色がありありと読まれています。

いつか、夜は<ruby><rb>白々</rb><rt>しらじら</rt></ruby>と明けている。

暴風のあとの家には重苦しい哀寂が満ちて、密閉された千蛾老人の部屋から絶えなく洩れるすすり泣きに、家の子の郷士たちも胸をつかれて、皆その板縁の外にうずくまるなり暗愁な涙をのんでひれ伏しました。

とにかく、この際善後の処置を執らなければならない立場の者は万太郎でした。深い因縁というものか、ゆうべ千蛾が万太郎に<ruby><rb>苦衷</rb><rt>くちゅう</rt></ruby>を打ち明けてすがった言葉は、彼の<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆいごん</rt></ruby>となったわけです。

曲者は日本左衛門と明らかに分っている。その目的も<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の紛失したことで万太郎には読めていました。――しかし彼は迷わざるを得ません。千蛾の遺言を一同へここで発表したがよいか、悪いかということ。

それを話すには順序として、ぜひとも月江の恋に及ばなければなりません。一族悲しみ傷んでいる席で、それを語るのは、誰よりも嘆きの深い月江をして、いっそう悲痛な思いを加えさせるものではあるまいか。

機会がある。それを語るには語る機会があるであろう。

万太郎はかく思案をして、取りあえず月江に代って一同へ<ruby><rb>喪</rb><rt>も</rt></ruby>をのべ、向後の処置やあと始末などを計って、それから約七日程の間は、ほとんど狛家の遺族同様な立場になって暮らしていました。

――と或る日のことです。

程離れた山腹の<ruby><rb>禅刹</rb><rt>ぜんさつ</rt></ruby>に、千蛾の霊をとむらう鐘がものさびしく鳴っていた昼のこと。

その日、月江や万太郎を初め、すべての人々は寺へ行って、留守となった狛家の屋敷には、わずかな召使いだけがさびしい塵を掃いているのみでしたが、そのうちに、いつも台所の隅に、黙々と働いている唖の<ruby><rb>水汲男</rb><rt>みずくみおとこ</rt></ruby>が、妙な物を抱えて、こっそりと裏門から高麗川の谷間へ降りて、やがて<ruby><rb>奥秩父</rb><rt>おくちちぶ</rt></ruby>へ通う<ruby><rb>峡</rb><rt>かい</rt></ruby>の奥へ逃げこみました。

唖の男が手に抱えて行ったのは、あの騒動のあった翌日、彼がふと廊下の一隅で拾い取った<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の半分です。それを持って一散に、彼は奥秩父へはいって行きます。ふだん<ruby><rb>耄</rb><rt>ぼけ</rt></ruby>ている男に似ず、その足の早いことといったらまるで<ruby><rb>猿</rb><rt>ましら</rt></ruby>かなんぞのように。

察するところ、この<ruby><rb>水汲男</rb><rt>みずくみおとこ</rt></ruby>は、唖を装って住み込んでいた「山の会堂」の<ruby><rb>諜者</rb><rt>ちょうじゃ</rt></ruby>であったのではないだろうか。どうも彼の走って行く道が、例の<ruby><rb>天童谷</rb><rt>てんどうだに</rt></ruby>の方角へ向っているような気がされてなりません。

前に見えるのは、<ruby><rb>鳥首峠</rb><rt>とりくびとうげ</rt></ruby>です、左の山<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>に肩をそびやかしているのは天目山のようです。どうやら三峰の社前へ出る秩父街道の高原とはガラリと四<ruby><rb>囲</rb><rt>い</rt></ruby>の山容が変っている。

するとまた、その山ふところの霧の中から吹いて出されたような一人の男が、<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>をひらひらさせて、唖の男の駈けてゆく<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>から、これも山馴れたわらじばきで、スタスタと急いで来る姿が見えます。

<ruby><rb>飄々</rb><rt>ひょうひょう</rt></ruby>と風に吹かれて飛んで来た<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>の男を見ると、偽唖の男は、<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の絵図の半分をあわてて小脇に隠して、顔をそむけながら道のわきへ身を避け、彼の行過ぎるのを待とうという素振りに見える。

ところが、そこへ来た<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>は、彼を見るや、わざわざ顔をそむけている前へ廻って来て、

「もし、もし。<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>へ下るにゃ、どう出たらようございましょうか。あっしは甲州路からはいって来たんですが、信玄の隠し湯からずっとこっちで、変な方角へ踏み込みましてね、どこへ向いてもこの通りの山、今日で十日も道に迷っているんですが……」

と、腰をかがめて訊ねましたものの、相手に一向感応がなく、ぽかんとして、無表情に、いつまでそういう自分を見つめているのに間拍子を失って、

「へへへへ……」と意味もなく笑って見せました。そしてまた改めて、

「<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の大宮か、武蔵の高麗村へ抜けたいと思うんですが、どっちが近うございましょうね」

と、<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>る畏る問い直してみる。

この<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>は、<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>九兵衛でした。かの天童の切支丹村からあぶないところを脱出して来て、いまだにこんな所をウロウロしている様子ですと、今彼の言ったように、この<ruby><rb>際涯</rb><rt>さいがい</rt></ruby>のない山中を数日歩き迷っているという事は、嘘ではないかも知れません。

「え、もし。これから人里へ出るにゃどう行ったが一番近いでしょうね。お前さんは何処から来てこれから何処へ行くつもりだえ？　エエおい、不愛嬌な男じゃねえか、なんとか返辞をしたっていいだろう。……おやおやこいつは情けない、たまたま人間に出会ったと思ったら、さてはおめえは唖だとみえる。こいつが役に立たねえだろう、こいつが」

自分の口を指さして言うと、偽唖の男は、初めて一つうなずいて見せましたが、九兵衛がからからと打笑うのを、おかしくもなさそうに睨んで、すたすたと先へ行ってしまう。

そこで九兵衛もしかたがなく、彼と別れて、あてのない道を急ぎ出して行く。

するとやがて何処かで遠い鐘の音が聞こえて来たので、

「こいつは脈がある」

と九兵衛の足は急に勇気づいて来ました、そして例の疲れを知らない足どりで、<ruby><rb>峡谷</rb><rt>きょうこく</rt></ruby>の細道をひたすら急ぐうちに、だんだん人里くさい景観がひらけて来る。

ふと見ると、今しも彼が登りきって行った峡谷の上に、赤松の植林された<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>い小山があって、その中腹にある寺の石段から、一列の人がうつ向きがちに降りて来ました。

最前の鐘の音と思い合せて、これは誰かの野辺送りか、忌日の供養に詣でた人々であろうと、久しぶりに世間らしいものを眺めた九兵衛が、もの珍しそうに見ていますと、ひとりの侍女に助けられつつ一番先に降りて来たのは、<ruby><rb>白綸子</rb><rt>しろりんず</rt></ruby>の衣装に下げ髪をすべらした姿のいかにも処女らしく<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>らかな十九か、二十歳ぐらいと見える女性です。

手に手に、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>を持って、うしろに黙々と<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来るのは、高麗村土着の郷士たちで、約四、五十人は居るかと見えます。

さて、九兵衛が驚いたのは、その供養の列の一番最後に、山門を出て来た徳川万太郎と釘勘と、そして金吾の姿を見たことであります。

金吾も目ざとく九兵衛を見つけて、意外な顔をしながら万太郎に何やらささやいていました。――しかし、この路傍では<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られるので、ちょっと彼に目まぜを与えたままで通り過ぎる。

で、九兵衛も神妙にそこでは声をかけずに、列の一番おしまいにのそのそと歩き出して、遠く白壁の土塀が見える<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の屋敷へ<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いてゆきます。

さて、一方の偽唖の男が、天童谷の切支丹村へ<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の絵図を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>してから、そこでは大きな変動が起りました。

「山の会堂」の司祭者たるヨハンの姿が<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と村から消えて見えなくなったことです。――同時に、<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>の森の家に押し込められていたお蝶が隙を見てその檻から逃げ出したことです。

ヨハンの姿をかくしたのは、何か、<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せの上の事とみえて、村の切支丹族達はみな素知らぬ様子をしておりましたが、その翌日、お蝶が逃げたということで、ひどく狼狽して騒ぎ廻った朝のこと、そんな空気も<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけようのない「山の会堂」の地底から意外な事件が勃発して、ここに人獣争闘の原始劇をそのままな惨鼻が白日の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に演じられました。

外部に裏切者がいたのかも知れません。――でなければ、あの生ける墓場の穴蔵へ外の消息がわかるはずもなし、また、そんな<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>のある機会に、彼等目なし魚同様なものの神経をさまして、その脱出を企てさすような、強い刺激のある光線が流れこむはずがない。

とにかく、村の者が、お蝶の逃げたことに騒ぎ合っている頃に、誰か、山の会堂から地底へ通じる隠し口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けた者があって、そこから外部の光線が千年目に夜明けの来た太陽の如く、さッと生ける墓場にさし入ったかと思うと、ワーッという悲壮な声がその下から湧き揚がりました。

まるで、<ruby><rb>蛆</rb><rt>うじ</rt></ruby>のように這い出して来た囚われの人間と、それに驚いて駈けつけて来た<ruby><rb>切支丹族</rb><rt>きりしたんぞく</rt></ruby>の者との間に、忽ちおそろしい活闘が起ったことは当然です。

猛然と、死から生へおどり帰った人間と、兇猛な切支丹族たちとの争闘は、そこに<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>く血を惜しまずに戦いました。その結果は<ruby><rb>累々</rb><rt>るいるい</rt></ruby>たる犠牲者の死体を積んで、双方が最後のただ一人となり終るまで、勝負の果てしはあるまいと見えましたが、そんなばかな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしていない人間が五、六人ほど、いい汐時を見計らって、盆地の先の絶壁に取ッ付いております。

――雲霧の仁三、四ツ目屋の新助、そのほか二人の百姓ていの男と、もう一人は、これも同じ地底に永らく陽の目を見ずにいた馬春堂先生。

彼等はいち早く、死地を逃げ出して来ました。――逃げて来る前に、「山の会堂」の祭壇にあった燈明でも仆して来たのか、<ruby><rb>蔦葛</rb><rt>つたかずら</rt></ruby>をよじ登って断崖の上に立ってみると、盆地の底からまっ黒な煙が渦をまいて<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き揚ッている。

――<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に馬春堂が人に話して、そこまでの事は何が何やら分らなかったと言ったそうですが、無理はありません。

「ここは陽の照っている世間の一部だ。おれの上には太陽がある……」

そう考えただけで先生は、不甲斐なくもそこでまた、生命意識をボウとさせてしまったものとみえます。

――気がついてみると、傍にはもう誰も居ない。

雲霧も、四ツ目屋も、また一緒に逃げて来た二人の墓場の友達も、いつのまにかそこにはおりません。彼は彼ひとりで、ボウとした意識のままで、何処か分らない山の中を歩いている。決して、そこが何処だろうか、この道の行先は何処かなどと、そんな事を考えてもいなければ、知ろうともしないのであります。

先生は、ただそうして、歩いている。

かくて、盆地の底から<ruby><rb>揚</rb><rt>あが</rt></ruby>る黒煙は、その日の夕刻になってもやみません。その翌日もいちめんな煙が雨雲のようにひろがって、<ruby><rb>金盥</rb><rt>かなだらい</rt></ruby>を灼いたような太陽がドンヨリとこの山中に存在していました。

いわゆる、火の性質は山火事というものに変って行ったのでしょう。それから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、幾夜も幾夜も、この奥秩父と裏天目の北にあたる空の上に真ッ赤になって見えている。

しかし、やがて里よりは一月も早く、そこへサラサラと降って来た雪みぞれに、さしもの火勢も衰えて、秩父あたりで怪し火と騒いだ噂もやみました。

それから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>――約十数日。

里へ着いた秦野屋九兵衛の話したところによって、釘勘から甲府の柳沢家へ人数のくり出しを頼み、日どりを<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せて、甲府と高麗村から<ruby><rb>挾撃的</rb><rt>きょうげきてき</rt></ruby>に<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>を出し、寒さを冒し天童谷をうかがってみた事がありました。――けれど日はすでに遅く、そこはいちめん真っ白な八寒の盆地でありまして、その<ruby><rb>雪渓</rb><rt>せっけい</rt></ruby>の底から人骨の如く腕を空へ伸ばしている<ruby><rb>焼木</rb><rt>やけぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に、一羽の雷鳥が雪をちらして飛んだのを目撃したほか、人はおろか、生物と名のつくものは虫一匹見あたらなかったと申します。

## <ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>異変

早いもので、と言うのは誰もが口癖に出る師走のことばで、その年も暮れると、明くる翌年は<ruby><rb>正徳</rb><rt>しょうとく</rt></ruby>五年です。

市中の初春気分はいうまでもありませんが、江戸城の正年行事は元朝から始まって、登城の大小名の<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>は大手の<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>を<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>め、松の内の城内は諸礼諸儀式の吉例ずくめで日ごと型どおりな繁忙で暮れている。

「実に何年ぶりでございましょうな」

その厳かな千代田の大玄関に立って、こう珍しげに言ったのは、兄の<ruby><rb>尾張中納言義通</rb><rt>おわりちゅうなごんよしみち</rt></ruby>と共に登城した徳川万太郎でありました。

「この江戸城の<ruby><rb>多門</rb><rt>たもん</rt></ruby>をくぐりましたのは、自分が元服した折に、父に連れられてお目見得に登城いたした以来のことで、実に久しぶりでございますよ」

御三家の登城なので、格式どおり<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>付の<ruby><rb>表坊主</rb><rt>おもてぼうず</rt></ruby>が、すでにそこに控えているのに、まるで往来でも見て歩くような万太郎の放言が、兄の<ruby><rb>義通</rb><rt>よしみち</rt></ruby>にはいちいちハラハラされてたまりません。

松の内の登城ですから、無論式服、<ruby><rb>熨斗目</rb><rt>のしめ</rt></ruby>の<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>に<ruby><rb>長袴</rb><rt>ながばかま</rt></ruby>、袴の<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>りは大玄関の板敷へ上がるとすぐに下ろして<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を曳くのが通例でした。

同時に、刀も、大広間<ruby><rb>溜</rb><rt>だま</rt></ruby>りの供の者に持たせ置くことになっているので、作法どおり義道は召連れた近侍の手へ、万太郎は連れてきた相良金吾に、自身の脇差を預けて、曳き馴れない長袴を曳いて本丸の奥へ通りました。

三家の<ruby><rb>詰部屋</rb><rt>つめべや</rt></ruby>は大廊下御休息の間と<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>える所です、そこに万太郎だけを控えさせておいて、義通はひとりで手に一個の塗りの箱をかかえて静かに白書院へ通って行く。

白書院には、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>の青々とした若き新将軍吉宗が微笑をもって彼を待っていました。

まず、義通から年頭の御慶をのべます。

吉宗は<ruby><rb>潤達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>に、「目出度い」と辞をうけてから、ここ約半年あまり引籠っていた義通に、その病状などをたずねておりましたが、ふと彼のたずさえて来た、<ruby><rb>砂子塗</rb><rt>すなごぬり</rt></ruby>の立派な箱へ、怪しむような目を向けて、

「尾州殿、それへ持参いたされた品物は何であるな？」と率直にたずね出しました。

義通はその質問の出ることを待ちかまえていたように、

「は。これは、すでにお聞き及びのとおりな仕儀で、上屋敷の秘蔵より盗み出された<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の鬼女<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>にござります」

「おウ。昨年の<ruby><rb>七夕能</rb><rt>たなばたのう</rt></ruby>に使用するところであったのを、何か紛失したとやら申して、遂に間に合わなかったあの品であるか」

「文照院殿様から拝領いたしました神品で、毎年、二の丸の能お催しの場合は、必ず持って登営いたすことになっていたものを、昨年だけは不慮の禍いのため、遂に不面目ながら差出すことがならず、<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>今日まで、どれ程心痛いたしたか分りませぬ」

「はははは。それで尾州殿の引籠りでござったか。しかし、無事に手に戻ってまいったとあれば目出度いこと。新春早々の吉事、これで病気も本復であろう」

「就いては、春は例の年始御答礼の勅使に御<ruby><rb>馳走能</rb><rt>ちそうのう</rt></ruby>がござりまする」

「お、あれは二月じゃ」

「その折には、ぜひまた御使用の栄もある事と存じますし、<ruby><rb>旁〻</rb><rt>かたがた</rt></ruby>、こういう神品を私人の<ruby><rb>塵蔵</rb><rt>じんぞう</rt></ruby>にまかせておきましては、折角の名作もその光を放たず、また<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>不慮の事がないとも限りませぬ故、手に戻ったのを幸いに、今後は柳営の御宝蔵に永くお預りを願いたいと存じて持参いたしましたが、如何にございましょうか」

と、畏る畏る顔色を見る。

「鬼女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>だけに<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>りでもするか、尾州家には、ひどく洞白に懲りられたようじゃな」

吉宗は軽い<ruby><rb>諧謔</rb><rt>かいぎゃく</rt></ruby>にまぎらして笑いました。

まったく拝領品の光栄も、頂戴だけで済むならばよいが、能催しのあるたびに持参して登営しなければならない責任付きの品物などは、義通にとって有難迷惑な光栄に違いはありません。

で、これを<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に、将軍家へ返納してしまった方が、肩の荷が下りることだという彼の考えは、明敏な吉宗にもすぐ読めていたに違いない。

それは、彼の任意と認めておいて、さて吉宗は思い出したように、

「時に尾州家には、万太郎と申す愉快な男があったが、その万太郎は健在であるか」

と話題を変えて問い初めました。

吉宗が大統をうけてから、万太郎はまだ一度も新将軍に<ruby><rb>謁</rb><rt>えつ</rt></ruby>を賜っておりませんので、<ruby><rb>義通</rb><rt>よしみち</rt></ruby>は、今日の拝賀をよい<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に彼を<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>って来ております。

その万太郎が、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の放浪を最後にして、にわかに、勘気をうけている江戸表の上屋敷へ帰って来たのには、何か<ruby><rb>目企</rb><rt>もくろ</rt></ruby>みがある事にちがいないが、上屋敷ではその前に、<ruby><rb>洞白</rb><rt>どうはく</rt></ruby>の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>が届いておりましたので、勘気も不問の形でそのまま、春を迎えました。

また、彼や金吾が高麗村を出る際、共に江戸表に連れて来た月江とおりんは、それより前に、洞白の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を持って江戸へ上っていた次郎と共に、今では根岸の下屋敷の方へ預けてあって、その身辺のことは一切釘勘にまかせてあるのですが、それやこれやの経過を察するに、万太郎の胸には今、何か一つの画策が立って、そのため暫くの神妙を装っているのではないかと思われます。

「なに彼を同道してまいったというか。なぜ目通りへ連れて来ぬのじゃ」

と、吉宗は聞くと共に、即座に義通をうながしました。

間もなく、召呼ばれた万太郎は、笑みを作って新将軍の前へ出ます。

「やあ、久し振りであるの」

と、吉宗の会釈は、青年らしい当時の調子から少しも変っておりません。

万太郎と吉宗とは、ちょうど同じように三家の<ruby><rb>庶子</rb><rt>しょし</rt></ruby>で、一方は紀州家の三男、一方は尾州家七男坊として、互いに弓の馬場で騎射を競ッたり、悪<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>を言い合ったりした竹馬の友でありますが、今では、彼は<ruby><rb>廟</rb><rt>びょう</rt></ruby>に大統をうけた八代将軍であり、これは相変らず無為に父や兄の<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>をかじっている一個の放浪児でしかありません。

「昨年の春、大手の外濠でお目にかかりましたな」

と万太郎も将軍家とは思いながら、急に元の友人的な調子を改めることができないで言うと、

「そうそう」と、吉宗はそれにふさわしく快活に<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打って、「あれは先将軍の御不例で、身が柳営に馳けつける日であった。気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いておる場合ゆえ、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>とは承知しながら馬腹に<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をくれて行き過ぎたことであった。……でそれ以来久しく消息を聞かずにおったところ、先頃、川越の<ruby><rb>秋元但馬守</rb><rt>あきもとたじまのかみ</rt></ruby>から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちら</span>と妙な噂を耳にしてな……」と、何かひとりでおかしがる。

「ははははは」と万太郎も思い出して、将軍家の微笑に哄笑を交ぜました。

彼は、川越の城下での事が、吉宗の耳にはいっていたと思うと、何か愉快に思われて来るのでした。あの「おやじ」と呼んでいた秋元家の家老や用人の<ruby><rb>河豚内</rb><rt>ふぐない</rt></ruby>などが、万太郎の記憶の前に道化た顔を描いて見せる。

「<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましい御身分じゃ」

と、吉宗は笑ったあとでこう<ruby><rb>追</rb><rt>つ</rt></ruby>け加えました。そして、また義通の方へも等分に向って、

「しかし尾州の七男殿も、いつまでそうしてはいられまい。水戸殿を介して越前家から養子に欲しいという話があるが、どうでござるな」

「養子ですか。ハハハハ」と二の句も聞かずに笑い流して、

「養子の口などはどうか<ruby><rb>御用捨</rb><rt>ごようしゃ</rt></ruby>に願いたい。<ruby><rb>不肖</rb><rt>ふしょう</rt></ruby>ですが万太郎は、ほかに<ruby><rb>些</rb><rt>いささ</rt></ruby>か志もございます故、その辺は紀伊殿にも、いや、将軍家にもどうか御放念願いたいものです」

そばではらはらしていた義通は、いくら元の友人的な気持が失せない弟と吉宗の仲にしても、余りな放言に、座に耐えないで、<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>よく<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ引退がりました。

若い二人は、話に熱して、そこには一介の放浪児と将軍家の隔てもない様子に話し込む。

「養子はいやか。成程、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>の気性としてはそうであろう。しかしいつまでも、部屋住みでいるわけにも行くまいが」

「いや、部屋住みの境遇で結構です。そのうちに折を見て、また遠方へ出かけてみたいと思っておりますから」

「<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>の<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>や、武蔵野や甲府や秩父や、ずいぶん歩き廻られたのに、まだこの上何処へ行こうと言われるのじゃ」

「や、よく御存知で……」

「柳営には、お庭番という密偵の者が居る」

「伊賀者ですな」

「左様、それが時折いろいろな事を<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせてまいる。それを聞くのは、お駕台の下で、只今万太郎殿は五日市より<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>を越えて、峠の甘酒茶屋に着きました、などという事まで手にとるように教えてくれるのじゃ」

「ははア……」と万太郎は少し<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた顔をする。

「しかしまだこれから遠方へ行くということは初耳であるが、一体どこへ行くつもりであるな？」

「<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>へ渡ろうと思っています」

「羅馬へ？」

「如何でしょうか」

「よかろう。羅馬はよかろう。いかにも<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>のような自由児には、この吉宗の政治を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>く日本には窮屈で居たたまれまい」

「そこで、折入ってお願いがあるのですが」

「船の便なら、長崎<ruby><rb>奉行</rb><rt>ぶぎょう</rt></ruby>に申しつけて、蛮船の都合万端、よきように取計ろうて進ぜよう」

「いや、その前に」

「何であるか、申されてみるがよい」

「当江戸城のお庭を拝見させていただきたいのですが」

会話は、軽く進んでいますが、吉宗の腹にも一物、万太郎の胸にも一物、或る反感を隠し合っています。

吉宗は思っています。

「万太郎の胸は<ruby><rb>鬱々</rb><rt>うつうつ</rt></ruby>とした不平で燃えているであろう」と。

万太郎は観ております。

「吉宗は飾り物に祭り上げられた得意な気持から、おれをみじめな者に見下しているな。それで養子の口があるなどと自分を<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>して誇るのであろう」と。

前の将軍家が歿した時、紀伊と尾張の間に激しい暗闘があったといううわさが、誰の口からともなく<ruby><rb>巷間</rb><rt>こうかん</rt></ruby>にひろがって、尾張は新将軍の令に伏すまいなどというような事さえ吉宗の耳にはいっておりますので、彼は万太郎の素行も、昔からの性格とは知りつつ、やはり好意のある理解は持てなかったとみえます。

しかし、表面はどこまでも、竹馬の友である紀伊の<ruby><rb>庶子</rb><rt>しょし</rt></ruby>と尾張の庶子とが打解けたさまで、

「何の頼みかと思うたら、江戸城の庭を観せてくれとはいと易い望みじゃ、幾日なりと滞在して御覧あるがよろしかろう」

と、吉宗は彼の深慮のあるところを知ってか知らずか、簡単に笑って承認を与えました。

「早速の御許容で」

万太郎はまず先に礼をのべておいてから、

「ではおことばに甘えて、当分、当城の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に泊めておいて戴くとする」

「いや、隅でなくとも、大奥以外の場所ならば、何処にでも自由に」

「御好意は分りますが、しかし、いくら自由にと言われても、<ruby><rb>帝鑑</rb><rt>ていかん</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>で昼寝をしているわけには行かず、鏡の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>で<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>もできず、評定の間でお<ruby><rb>茶漬</rb><rt>ちゃづけ</rt></ruby>をたべているわけにもまいりません。自然と、どこか老中若年寄などの目ざわりにならぬ、隅のお数寄屋でも拝借いたすことになるでしょう」

「そこが気楽なら其処もよかろうし、また<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の庭の方へ参ると、梅の茶屋、菊の茶屋などと申して、樹林や池泉のほとりに、小さな茶座敷の棟がぽつぽつと建っている、あれなどもよろしかろう」

「<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby><ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れている万太郎のことでござる。その辺は如才なく、後ほど貸家を見つけてまいる」

「はははは、江戸城の中の貸家さがしは神君御開府以来始めての珍事であろうな」

「家主は新将軍の吉宗公、いずれ新統治の御善政ぶりを<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれる上に於いても、きびしい家賃の御催促はありますまい」

とすぐに万太郎の口から針が出る。

吉宗は鋭敏にその皮肉を感じましたが、彼また決して、すぐ顔色に出すような練れない人間でもありません。

「しかし万殿、仰せのとおり自分はまだ新世帯の持ちたてで多忙な体、滞在は随意じゃがおかまいは出来ないかも知れぬ」

「御念までもないこと、お側衆だの表役人だの申す<ruby><rb>手輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>に、いちいち付かれていては窮屈至極、空家を見つけて入ったら一切おかまいない事に願いたい。そこで、ちょっとおたずねいたすが、当城苑内にあるという嵐山と申すのは、本丸の庭であろうか、それとも二の丸の方でござろうか」

「さあ、嵐山とはどこであろうか。江戸城の庭と申しても、紀州や尾張殿の城内とは少し広いので、まだこの吉宗さえ足を踏まぬ所ばかり」

「成程」

「しかし、山の多いのは三の丸から二の丸の間の<ruby><rb>火庭</rb><rt>ひにわ</rt></ruby>と思う。紅葉山、山里、吹上の諸苑のうちには、<ruby><rb>狐狸</rb><rt>こり</rt></ruby>もすめば、<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>山鳥の群棲する千古<ruby><rb>不伐</rb><rt>ふばつ</rt></ruby>の森林がある。……いずれにしても一人では迷子になられる怖れがあるから、<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の者でも案内に立てて行くがよろしかろう」

黒鍬の者に案内させたがよかろうという吉宗の好意に、万太郎はその日は大人しく<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>にさがって、翌日、それの来るのを待ちうけましたが、さて何とも<ruby><rb>音沙汰</rb><rt>おとさた</rt></ruby>がない。

何事も、おいそれとは行かない柳営の事なので、どうしたと催促してみるわけにも行かず、ひとりでその辺を散歩して退屈をまぎらわせている自由もききません。そこらに時々見受けるのは、池田候とか、伊達候とか、松平<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>とか、いずれも<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>付けになったような<ruby><rb>長袴</rb><rt>ながばかま</rt></ruby>の静粛な去来のみです。

はて、<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>が出る。

紀州の<ruby><rb>吉公</rb><rt>よしこう</rt></ruby>め、おれを、困らすつもりかな？

御三家の間の<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>に万太郎が<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れをきらしていると、やっと、三日目のこと。

<ruby><rb>側用人</rb><rt>そばようにん</rt></ruby>松平源次郎と<ruby><rb>近藤外記</rb><rt>こんどうげき</rt></ruby>の両名が来ておそるおそる万太郎に向って言う。

「<ruby><rb>上様</rb><rt>うえさま</rt></ruby>のおいいつけによって、御庭案内といたして<ruby><rb>黒鍬組頭</rb><rt>くろくわくみがしら</rt></ruby>小早川<ruby><rb>剛兵衛</rb><rt>ごうべえ</rt></ruby>、只今、竹の間のお<ruby><rb>沓石</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>にてお待ちうけ申し上げておりまする」

「大儀だ」

「お支度は……せめてお<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>だけでもお改めがよいかと存じますが」

「元よりのこと。<ruby><rb>供部屋</rb><rt>ともべや</rt></ruby>に、相良金吾と申す者が控えておる故、それへ申しつけてくれい」

「はッ」

程なく支度を更えて、万太郎が竹の間の<ruby><rb>沓石</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ出ると、廊下には金吾、庭先には黒鍬の<ruby><rb>組頭</rb><rt>くみがしら</rt></ruby>小早川剛兵衛が平伏しております。

無論、肩衣は<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>って、羽織に<ruby><rb>結城木綿</rb><rt>ゆうきもめん</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>、それで<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>が万太郎好みの紺足袋でさえなければ、どうやら将軍家の遊歩と見違えそうな<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>でした。

金吾は万太郎に従い、万太郎は黒鍬の剛兵衛に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて本丸の棟を離れ、富士見番所の宝蔵を左に見、<ruby><rb>西桔梗門</rb><rt>にしききょうもん</rt></ruby>を通って清冽な<ruby><rb>道灌堀</rb><rt>どうかんぼり</rt></ruby>の流れに沿いながら、<ruby><rb>的場曲輪</rb><rt>まとばぐるわ</rt></ruby>の<ruby><rb>高麗芝</rb><rt>こうらいしば</rt></ruby>をふみしめて行くこと十数町、やがて、満山<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の木ばかりで埋ずまっている<ruby><rb>紅葉山</rb><rt>もみじやま</rt></ruby>の裾まで来ました。

「秋は鮮紅なお山の風情が得もいわれぬ美観でございますが、冬は、<ruby><rb>御霊廟</rb><rt>みたまや</rt></ruby>の玉垣が神々しいばかりで、<ruby><rb>楓樹</rb><rt>ふうじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>には一葉もござりませぬ」

と剛兵衛はそろそろ案内役の説明をしはじめて、

「これより登りましても、船見山、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>、山里の方へ、丘つづきに参られますか、それともお広芝を通りぬけて、山里から吹上の方へ出てお戻りなさいまするか、如何でございましょう」

万太郎は剛兵衛のことばをうつつにして、

「広い。――さすがは広い」

と暫く感に耐えて眺めている。

「はい、御城内の広さと言っては、とても一口ではお話にはなりません」

彼は足を躍らせて、紅葉山の高所にのぼり、<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>の森の一端からふたたび四方を見廻しました。

そこに立てば、さながら深山の中腹から<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>たる谷や流れや、峰を見る思いがあります。お庭方の古参である<ruby><rb>剛兵衛</rb><rt>ごうべえ</rt></ruby>の説くところによりますと、江戸城総面積の三十万六千七百六十坪のうち<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の庭だけでも十三万坪、堀の坪だけでも数万、崖地だけでも、二万四千坪からあるというので万太郎も想像外に思いました。

そして、天守閣、<ruby><rb>白堊</rb><rt>はくあ</rt></ruby>の御宝蔵、西丸、<ruby><rb>山吹丸</rb><rt>やまぶきまる</rt></ruby>、<ruby><rb>出丸廓</rb><rt>でまるぐるわ</rt></ruby>などの<ruby><rb>狭間</rb><rt>はざま</rt></ruby>が高く見えるほかは、諸門殿閣、みな樹林の底に埋ずまって、その上は模糊たる<ruby><rb>冬霞</rb><rt>ふゆがすみ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっすら</span>と流れているのが、どうしても此処が江戸市街の中とは思えぬ程であります。

「江戸の中の嵐山。開府以前の武蔵野の原――そして<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の貴族ピオが最後の秘密を埋ずめた土地――」

しきりと四方を見ていた万太郎には、今、四隣夜更けた一室で<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>千蛾老人</rb><rt>せんがろうじん</rt></ruby>の<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いたあの声が、耳の底からありありとよみがえって聞こえて来るのでした。

「まだこの辺は御本丸の<ruby><rb>出端</rb><rt>ではず</rt></ruby>れ、風趣が浅うござります。さ、この鷲の森を抜けて、もう少々<ruby><rb>幽邃</rb><rt>ゆうすい</rt></ruby>な深山へ御案内いたしましょうか」

と、剛兵衛は先に立って歩き出す。

<ruby><rb>紅葉山</rb><rt>もみじやま</rt></ruby>から西北に、丘となり<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>となり、山となり渓谷となる所は、有名な吹上の大園で、林間<ruby><rb>堂濤</rb><rt>どうとう</rt></ruby>の響きをなすものは、こんな所にと誰もが意外に思うであろうところのすばらしい大きな瀑布の落下でありました。

千代田の城内には古くから三ツの滝が落ちている。

吹上のお茶屋の近くにあるのが作兵衛滝、船見山の森林を水源とする三筋滝、もうひとつは<ruby><rb>寛政滝</rb><rt>かんせいだき</rt></ruby>、それは<ruby><rb>華厳</rb><rt>けごん</rt></ruby>の<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>があるとのことです。

とにかく万太郎、<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の剛兵衛に案内されて、幾つの山、幾つの橋、幾つの森林を抜けたことでしょうか。足の疲れたあんばいで、十里も歩いた気がします。四方の嵐気が身に迫るのを感じては、遠い山地へ踏み迷ってきた心地がする。

「ああ、ここがどうして江戸なのだろうか」

不思議な<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>さえ起こって来ます。

案内役の剛兵衛は、自分のものでも見せるように得意になって、

「どうして江戸でない事がございましょうか。<ruby><rb>内濠</rb><rt>うちぼり</rt></ruby>、外濠、幾つもの御門を通らなければ、江戸城の外へは出られませぬ」

「それは分っておる」

「はっ」と、剛兵衛は言い過ぎたかと、少し冷やりとして金吾の方を向いた。

「若殿にもお疲れでござりましょう故、今日は、このくらいにしておいては<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>で？　山里やその奥の方はまた明日御案内いたしまする」

「そうじゃの、日もだいぶ暮れてまいった。剛兵衛がああ申しますが、若殿には如何なさいますか」

「剛兵衛、この辺に家はあるか」

「お茶屋のことを仰せ遊ばすので？」

「そうじゃ」

「ならば、こうおいでなさいませ」

と剛兵衛は針葉樹帯の<ruby><rb>山間</rb><rt>やまあい</rt></ruby>を<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>って、少し、道を西へ下がってゆく。

松と松との林間です。見るからに静かそうな、一戸の寒亭が<ruby><rb>戸閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>してある。古びた<ruby><rb>戸額</rb><rt>とがく</rt></ruby>の文字を仰ぐと、船板に<ruby><rb>白緑青</rb><rt>びゃくろくしょう</rt></ruby>、題して「<ruby><rb>錦霜軒</rb><rt>きんそうけん</rt></ruby>」と<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>してある。

その林間から、江戸の市街がすいて眺められます。山を北にした東南向きの建て工合、冬のお茶屋と見えまして、そこへ来る風当りがバッタリ違う。けれど間数は至って狭く、一の間、床の間、中の間、後ろ納戸、次の間、<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>の間、お<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>の間、それに水屋が付いていて、黒竹の葉がのぞいている小さな忘れ窓が一つ。

「手頃じゃないか、金吾」

万太郎は方々を開けて見ながら、

「ここでいい。ここなら至って気楽そうじゃ」

と、<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで決めてしまいました。

「しかし、お食事は如何なさいますか」

と、これは剛兵衛の心配。

「<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>はいらぬ。朝と夕だけ連んでくれい」

「は。は……」驚いたらしいが、否やは言えずに「御膳部のものへそう申し付けておきまする」と、自分には責任のちがう事を断るように釈明しておきました。

「では今夜から、早速そう申しつけておけ。もうお前には用はない。帰れ」

「はっ。お暇申しあげまする」

「いや、ちょっと待て、つい聞きそびれたが、この<ruby><rb>錦霜軒</rb><rt>きんそうけん</rt></ruby>のそばの山は何と申す」

「古くは船見山、または<ruby><rb>望岳台</rb><rt>ぼうがくだい</rt></ruby>とも申しまする」

「<ruby><rb>嵐山</rb><rt>あらしやま</rt></ruby>というのは」

「それよりずっと山の<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>から、向うへ峰をなしております、桜樹の多い所でござります」

「よしよし、もう用はない」

剛兵衛が立ち去ると、万太郎は疲れた足を長々と伸ばして、腹んばいから仰向けに引っくり返る。

そして、一方の膝へ一方の足を組み重ねて、

「さて金吾、これで手順はすべて首尾よく行ったが、これからが難問題、<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>に<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>いものでも来たらうんと食べて、宵のうちにグッスリと一寝入りしておくことだな」

さて、その夜からの異変です。

将軍家そぞろ歩きの折の休み茶屋である錦霜軒から、夜になると<ruby><rb>黒装束</rb><rt>くろしょうぞく</rt></ruby>の影が二つ、船見山の蔭から<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の方へ出かけてゆく。

それが毎夜のこと。

昼は錦霜軒の炉べりに寝て、夜になると眼をさましては活動するらしいのです、――徳川万太郎と相良金吾であります。

目的は、ピオの遺跡を探すにあること勿論で、彼が、この城地で最期をとげたものか、或いは捕らわれていたものかは分りませんが、とにかく、<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人の言った、江戸の嵐山というのはここの以外にはありません、また、常人には近づけぬ場所、万太郎なれば行き得る所、と言った事なども、すべてこの吹上一帯を意味するものと見て間違いのないことでありましょう。

それにつけても、今になって惜しくも残念でならないのは、あの時の<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の図面を、奪われたことでした。

けれど、あれがたとい日本左衛門の手に入ったにしても、それがこの吹上を中心とした図解であったとしたら、彼の力も及ばぬことで、定めし失望したであろうと、その点は安心もし、あとで苦笑を催しました。

ところが、或る夜のことです。

相変らず金吾と万太郎の二人が、春先の寒さをしのぎながら、あっちこっちをしずかに歩き廻っていますと、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の最も奥にあたる嵐山の西の松山を、ザワ、ザワ、と微かな音をさせて、通ってゆく者がある。

――思わず足を<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めて、

「あ……誰か人が参ったようですぞ」

金吾が注意すると、万太郎は暫く耳をすましておりましたが、

「この吹上の奥を、自分たち二人のほかに夜半歩いている人間のあろうはずはない。この城地の奥には<ruby><rb>狐狸</rb><rt>こり</rt></ruby>や<ruby><rb>河獺</rb><rt>かわうそ</rt></ruby>のたぐいが多く棲むと申すこと故、何かそのような獣類などがうろつくのであろう」

「しかし若殿、それにしては少し歩調が違います」

と、金吾は大地へ耳を付けて、じいっと夜陰の地音を聞きすましながら――

「どうも獣類とは思われませぬ。……人です、確かに人間の歩行に相違ございません」

「ふーむ、人とすれば怪しい奴だ、この上に登って見届けてやろう、静かに来い」

<ruby><rb>野州石</rb><rt>やしゅういし</rt></ruby>の大岩石が、造庭の奇工をこらして畳み上げてある所をよじ登って、その上の<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い松の蔭に身をひそめておりますと、やや暫くして後、あなたにぼやっと黒い一つの影が見えて来ました。

「……うーむ、なるほど人間だわえ」

万太郎は怪しみました。

無論、要害堅固な江戸城のこと故、寝ずの番もあろう、<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の者の夜廻りもあろう。けれどあの古参な剛兵衛でさえ昼も滅多に来たことがないと言ったこの辺りに、夜半<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>している人間はありえぬはずで、あるとすれば奇怪きわまる話ではないか。

とまれ彼は、息を殺して見つめていると、その人影は<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>るゆっくりした足運びで、すぐ二人の目と鼻の先を通りかかります。

ひとみをこらして<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うと、暗夜なので充分に容貌は見えませんが、中肉中背のどっちかというと優形な男。なお、万太郎がいぶかしく思ったのは、黒の覆面に黒の<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>をはいて、自分や金吾とほとんど同じ身ごしらえをしていることで、ちょうど夢遊病にでもなった自分の分身がそこを通って行くような気がする。

「不思議だ」

思わず、彼が身をのび出したので、手をかけていた樹の枝からばらばらと夜露が落ち、下を通る男の影に降りこぼれたので、その影は冷やりとしたように立ち止まって、覆面の顔を仰向けに振り上げました。

はっと、二人は息をのみましたが、せつなチラリと見たその顔の輪郭が、夜目のせいかクッキリと白い。

先でも気がついたものか、はっと思うまに、その不思議な人物は、フイと何処へやら消えうせていました。

――次に出会ったのは、それから四日目の同じように月もない闇の<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>。

例のごとく、万太郎と金吾の二人が、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の<ruby><rb>赤壁渓</rb><rt>せきへきけい</rt></ruby>に沿うて、<ruby><rb>鵲橋</rb><rt>かささぎばし</rt></ruby>とよぶ唐橋の手前へかかろうとすると、その橋上で動いてみえる人影がある。

「や？　……金吾あれを見たか」

「オオ、また先夜の奇怪な者がやってまいります」

「身を隠しておれ、何者であるか、今夜は<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と見届けてくれねばならぬ」

二人が左右の暗がりに身を伏せているところへ、橋を渡って来た者は、先夜の如く、<ruby><rb>黒装束</rb><rt>くろしょうぞく</rt></ruby>に全身をつつんでおりましたが、背丈や肩幅のまるで違っているばかりでなく、腰に横たえた大刀も身なりにふさわしく頑丈で、足どりも大股に来る様子。

この間の晩見かけた覆面とは、たしかに、人物が違っている。――するとこの吹上を夜な夜な<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>する者は、前夜の曲者ひとりではないのだろうか？

相手の正体が分るまでは、決してうかつに手出しをするなと、固く金吾に<ruby><rb>誡</rb><rt>いまし</rt></ruby>められていた万太郎も、余りの不審さに思わず隠れていた樹木の蔭からザワと躍り立ちますと、その曲者の投げ<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>に違いありますまい、一個の小石が勢いよく風を切って来て、彼の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>をかすりました。

「あっ……」

「若殿、どうなさいました」

「きゃつ<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、わし達の居ることを、先に気取っておったらしい」

「今の礫に、何処ぞお怪我はありませんでしたか」

「いや心配するな。頭巾の端を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>ったのみじゃ」

「前にも御注意したこと、滅多に御油断はなりませぬ。先夜の男と只今の者とは、まったく別人でござりますぞ」

「しかし、何とも不思議なわけじゃ。この城内にどうしてあのような異装の<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>が出入りいたす<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>があるのであろうか」

「その儀は金吾にも殆ど思い寄りございませぬ。城外の者か？　城内のお人か？」

「まさか城内の者が深夜あのような異装を作って徘徊いたすはずもなし、そうかと申して、<ruby><rb>要害無双</rb><rt>ようがいむそう</rt></ruby>なこの千代田城のあの<ruby><rb>幾重</rb><rt>いくえ</rt></ruby>の<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>や石垣や諸門を越えて入り込むことは<ruby><rb>人間業</rb><rt>にんげんわざ</rt></ruby>ではできないことじゃ」

「何にしても不思議な人物」

「<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>だ……これは」

「若殿、御自重なさらんといけませぬ」

「ウム、気をつけることにしよう」

それ以来、二人は<ruby><rb>居所</rb><rt>きょしょ</rt></ruby><ruby><rb>進退</rb><rt>しんたい</rt></ruby>に気を配っておりましたが、例の不思議な人影を見ることは、その後も一度や二度ではありません。

<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の嵐山を中心として、幽鬼の如く、夜ごと何物かを探して歩く人影は、万太郎と金吾と、そして<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の覆面と肩幅のある背の高い覆面の男と、時には、どれが誰とも分らないように、千代田の深夜を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>うのでありました。

かかるうちに、錦霜軒の前の<ruby><rb>臥龍梅</rb><rt>がりょうばい</rt></ruby>には、ぼちぼちと白い花のほころぶ頃となって、月も<ruby><rb>如月</rb><rt>きさらぎ</rt></ruby>と変って行く。

## 怖い誘惑

少し時日をさかのぼって、話はここに切支丹屋敷のお蝶の事にうつるとする。

――そこでは彼女が、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby><ruby><rb>天童</rb><rt>てんどう</rt></ruby>の盆地を脱出してから、行く先々の宿場や街道の辻で、口の悪い馬方だの百姓の子らに、容貌の<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>うところを気がつかれるたびに、

「<ruby><rb>碧眼</rb><rt>あおめ</rt></ruby>の女よ」

「<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>のむすめよ」

と指さされて、食に困り、宿に迷い、浮世の悲雨<ruby><rb>惨風</rb><rt>さんぷう</rt></ruby>にたたかれ通して、みじめな<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>いを続けた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>流れ流れて、元の江戸へめぐり帰って来た<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せ<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた姿が、歳晩の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に見出されます。

「私はほんとに、お馬鹿ちゃんだわ」

江戸へはいると、<ruby><rb>草市</rb><rt>くさいち</rt></ruby>よ<ruby><rb>羽子板市</rb><rt>はごいたいち</rt></ruby>よと、あわただしく雑沓している都会の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>が、<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>い気持に彼女をつつんで、四囲の人の目も冷ややかに光る、地方を追われ通して来たお蝶をほっと息づかせて、

「――なぜ私は、甲州へなど逃げたんだろう。やはり江戸が何処よりも一番いい。通る人だって、口をきく人だって、私の<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>や眼の底なんか見ていやしないもの……」

ただ怖いのは宗門役人です。それと辛いのが、帯や<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>のほころびている今の着物です。

「アアお金が欲しい。着物だって下駄だって……これじゃ町が歩けやしない」

帯や裾を振向いて、お蝶はそれのみ苦になりました。そして、飢えている境遇は忘れて、何よりも着物と<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>が欲しくてたまりません。つまり、それを求める金が欲しい！

故郷へ帰省したものが第一に、生れた家を訪れるように、お蝶は江戸へ着いた日に、もう浅草へ行っていました。

<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>のお婆さんでも<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りそうな、<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>のぬけた小紋の古い頭巾を、眉までかぶって<ruby><rb>裾綿</rb><rt>すそわた</rt></ruby>のはみ出している着物に、薄よごれのした帯を大きく結んで――。

そして、羽子板店の市に立ったり、呉服屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の前に見とれていたり、暮の買物をしてゆく女の髪や身づくりを<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>ったりなどして、やがて、奥山の<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>へぶらついて来ましたが、あの<ruby><rb>瓢箪池</rb><rt>ひょうたんいけ</rt></ruby>から<ruby><rb>裏田圃</rb><rt>うらたんぼ</rt></ruby>まで軒をならべている安芝居や見世物などは、今のお蝶には、あまり魅力のないものでした。

「……お金、お金、お金」

……一心にこう思いつづけていると、誰か、お蝶の五本の指をそッとつかんで、真っすぐになった手のひらを、じいっと見ている人がある。

オヤこの人は、私の手相でも見るというのか、それとも私が、あまり可愛らしい手をしているので、いやらしい事でもするのかと思っていると、……一枚二枚三枚四枚と、その手へチャラチャラと小判を読みながら<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>り落としてくれる。お蝶の胸は一枚ごとにオドオドと躍り立つ。

……四枚、五枚、六枚、七枚、おお拾両、拾五両。

「うれしい！」

と思わずその男の顔を見る。男は意外にも日本左衛門だったので、彼女は、恥しそうに顔を隠しました。

すると日本左衛門の人さし指が、横を向いたお蝶の、ちょうど<ruby><rb>笑窪</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>の辺りを軽く押して、

「お蝶、しばらくだったなあ。あれ以来、おれはお前を忘れかねているのだよ。お前は？　エ？　お前は？」

こう言って、男らしい幅のある胸と腕が、じりじりと息づまるまで抱きしめて来たので、お蝶はきまり悪さに身を縮めましたが、その<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、手に乗せていた<ruby><rb>小判</rb><rt>こばん</rt></ruby>がチャランと寒い響きを散らして足元にこぼれました。

その音に、ぶるッと身ぶるいをして、お蝶は<ruby><rb>眼瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>をハッと開く。

夢でした。

そこはお蝶が夜に入ってから、宿る所がなく身を休めていた観音堂の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下で、彼女は今、歩き疲れた体を氷のような板縁に縮めたまま、とろとろと居眠っておりましたので、<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めて見れば、日本左衛門のすがたも小判の色もなく、あるのは、<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えと寒さにガタガタふるえている深夜の我が身一つであります。

「寒い！　……」

とろとろと眠った<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の寒さはかくべつで、お蝶は知覚のないわが身をひしと抱きしめます。

けれど、今坐っている観音堂のこの廻廊が、氷の上でも石の上であっても、そこを立つ勇気はない。

夜はだいぶ更けていると見えて、奥山の小屋の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>も、吉原通いの人どおりも、ばったりと<ruby><rb>途</rb><rt>と</rt></ruby>絶えて、<ruby><rb>傘</rb><rt>からかさ</rt></ruby>のような<ruby><rb>御堂</rb><rt>みどう</rt></ruby>の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>をのぞいた以外な所は、霜に<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて、真ッ白に見えるばかり。

すると最前から、<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の裏に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって、じいっとお蝶の方をながめていた三十前後の町人がありました。八丈の襟をかけた<ruby><rb>藍縞</rb><rt>あいじま</rt></ruby>のはんてんに、<ruby><rb>虱絞</rb><rt>しらみしぼ</rt></ruby>りの<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>で<ruby><rb>頬被</rb><rt>ほおかむ</rt></ruby>りをしているので人相は分りませんが、ふいと腕ぐみを解いてそこへ寄って来ると、

「姉さん、眼がさめなすッたようだが、そんな所で夜を明かしていると、風邪をひくだろうぜ」

と、じろじろとお蝶の<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>を見廻している。

「有難う。ほんとにブルブル慄えてしまった、どこか、火の気のある所はないかしら」

「こんな所に寝るから悪いや、ここは、煙草の火も禁断だよ」

「だって……」と何か言いかけましたが、お蝶はその時になって、男の<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>が気味悪く思われて来たので、ぷいと横を向くと、白い指を膝の上で躍らせながら、小声で、何かの唄をうたい出しました。

口のうちで唄っているので、よく聞きとれませんが、それは、<ruby><rb>手毬唄</rb><rt>てまりうた</rt></ruby>でもなし、琴唄でもなし、三味線にのる<ruby><rb>花街</rb><rt>いろまち</rt></ruby>の唱歌でもありません。

切支丹屋敷の吉野桜の下で、父の二官がよく口笛に吹いていたのを、薄ら覚えに記憶していた<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の唄――。

お蝶の心は、その意味のわからない唄で、<ruby><rb>虱絞</rb><rt>しらみしぼ</rt></ruby>りの町人を煙に巻いてしまおうという軽い<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>な気持か、飢えと寒さを、それによって忘れようとする情けない気持か、どっちとも分りませんが、しきりと、膝に指を躍らせています。

「あれ、もしやおめえは、切支丹屋敷に居たお蝶っていう娘じゃねえのか」

「えっ？」

「そうだよ……道理で何処か見たことのある娘だと思ったが」

町人は<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>をとって、

「――似ているはずだ、二官の娘のお蝶じゃないか。おれはおめえといい仲だった山屋敷の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の龍平の所へ、よく遊びに出かけた、本所の<ruby><rb>鶴吉</rb><rt>つるきち</rt></ruby>という<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>よ、お忘れかい」

「……知らないわ、私」

わざとらしく首を傾げるお蝶の顔を指さして、

「知らねえことはねえじゃねえか。ほれ、いつかおめえと龍公が、山屋敷の仲間部屋で、何か寝そべッて話している所へ、おれが不意に戸を開けて、びっくりさせたこともある」

「じゃ、知っているとして置くわ」

「アー成程、そうそう、まさかおめえも、気のゆるせない人間には、滅多に知っているとは返辞のできない身の上だったな。だが、安心するがいい、髪結の鶴吉は決して、宗門役人などに懇意はねえんだから」

彼が独りでベラベラと<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っている間に、お蝶は眉をよせながら、帯の間に手を差し入れて、じっと<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>み込んでしまっている。

「おや、どうしたんだね」

「もう話すのはいやですから、あっちへ行って下さいよ」

「どうもおめえは素ッ気ねえ人だな、何も、口説いているわけじゃなし、断ることはないだろうに。……おや、腹でも痛むのかい」

<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>の鶴吉とかいうこの男を、お蝶はよく覚えておりませんが、しきりと馴れ馴れしく話しかけて来て、

「とにかく、家へおいでよ、相談にも乗って上げようし、悪いようにはしないから」

親切そうに誘うので、お蝶もその気になりました。

行ってみると鶴吉の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は、お<ruby><rb>厩河岸</rb><rt>うまやがし</rt></ruby>に近い<ruby><rb>露路裏</rb><rt>ろじうら</rt></ruby>で、ちょっと<ruby><rb>小綺麗</rb><rt>こぎれい</rt></ruby>な格子づくりです。

「おや、お帰りかえ」

長火鉢には鶴吉より年上らしい四十前後の<ruby><rb>大年増</rb><rt>おおどしま</rt></ruby>が、しどけない<ruby><rb>伊達巻</rb><rt>だてまき</rt></ruby>に丹前をひっかけ、<ruby><rb>燗銅壺</rb><rt>かんどうこ</rt></ruby>に入れるばかりの銚子を猫板にのせ、<ruby><rb>寝白粉</rb><rt>ねおしろい</rt></ruby>をつけて待っているといったふうな家庭でありました。

「さあ、お蝶さん、ずっと火鉢のそばへ寄んな、誰も遠慮はねえ家だから。……どうだいお千代、この娘は」

「まあ、いい<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>だねえ、<ruby><rb>上玉</rb><rt>じょうだま</rt></ruby>だよ」

「おれの兄弟分の龍平と懇意だった或るお屋敷の娘さんだから、そのつもりでよく面倒をみてやってくれ」

「アアいいとも。そのうちに、ほかの友達も帰って来るから、すぐみんなと馴れちまわアね。きまりの悪いのは初めのうちだよ」

猫板をチャブ台にして、鶴吉とお千代という年増が、<ruby><rb>相酌</rb><rt>あいじゃく</rt></ruby>でちびちび飲んでおりますと、この夜更けだというのに、ここの家はそれからが繁昌で、妙な女がぞろぞろと帰って来る。

「オオ寒。姐さん、只今」

「兄さん今帰りましたよ」

「寒い、寒い。今夜はばかみた<ruby><rb>寒鴉</rb><rt>かんがらす</rt></ruby>」

一人一人、いろんな事を言いながら、格子の内へ駈けこんで来るのが、どれもこれも、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を厚く塗りたてて、<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>に吹かれたようなよごれた髪に、<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>のぬけた<ruby><rb>安縮緬</rb><rt>やすちりめん</rt></ruby>の裾綿という姿です。

その白粉首が五つ六つ火鉢をかこんだ時に見ると、飛んでもない四十<ruby><rb>面</rb><rt>づら</rt></ruby>もあれば、十六、七に足らない小娘もあり、頭の頭巾をとらない<ruby><rb>比丘尼</rb><rt>びくに</rt></ruby>さんもある。

<ruby><rb>鍋焼</rb><rt>なべや</rt></ruby>き<ruby><rb>饂飩</rb><rt>うどん</rt></ruby>の熱いのをフウフウ吹いて食べ終ると、今夜の客はどうだったの、目明しがどうしたのと、お蝶には意味の分らない会話がベチャクチャ交わされていましたが、そのうちにべつの部屋で、お千代を中心に銭の音をさせて、<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>も鶴吉夫婦も、それぞれ枕について寝入りました。

「なんだろう？　ここの家は」

床に入ってから、お蝶は不審に考えましたが、食物に<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>まった体が、風もない寝床を得たので、その晩は、不安も迷いもなく、ぐっすりと寝ついてしまう。

翌る日になると、

「お蝶さん、これを着てごらん、そして、この帯をしめてお見」

お千代が一重ねの衣裳をそろえてくれる。

古着らしいが、いい<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>でした。お蝶はそれが何の為という結果も考えずに、言われるまま体に着けて見せると、

「ああ寸法もちょうどいい……それにお前さんには、ばかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつり</span>がいいじゃないか」

お蝶はいい気持になって、

「おばさん、私に、似合って？」

「少し目立ち過ぎるくらいだよ。あとでお<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>さんと銭湯へ行って、すっかり<ruby><rb>襟足</rb><rt>えりあし</rt></ruby>をお<ruby><rb>化粧</rb><rt>けしょう</rt></ruby>してごらん、ほかの女達はみんな影が薄くなっちまうよ」

「あら」

何しろお蝶は、永らく<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いていた着物の慾が少しでも満たされたので、その時は、ただお千代の好意に甘ッたれておりましたが、やがて灯ともし頃になると、お<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>という薄あばたのある中年の女が、お蝶に負けないほど厚ぼッたく白粉を塗りこくって、

「ねえや、あたいがお<ruby><rb>師匠</rb><rt>ししょう</rt></ruby>さんになってあげるから、今夜から一緒においで」

と、何処へ何しに行くのか分りませんが、お蝶は外に連れ出されました。

<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行くと、お角はお<ruby><rb>厩河岸</rb><rt>うまやがし</rt></ruby>を五、六<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>ほど下って、鳥越川が大川に<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎ出る<ruby><rb>丁字形</rb><rt>ていじがた</rt></ruby>の<ruby><rb>河岸縁</rb><rt>かしぶち</rt></ruby>に立ちどまりました。

川風が強く吹きつける川口には、土橋があって、枯れ柳があって、少し向うに砂利置場がある。ちょうど殺し場の<ruby><rb>書割</rb><rt>かきわ</rt></ruby>りにでもありそうな所、<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>の暮らしい、人通りもさッぱり稀です。

「――お蝶さんあぶないから、<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>をおぬぎよ」

そこへ来るとお角はこう言って、自分も着物の裾を端折る。そして、お蝶が意外な顔をしてためらっている間に彼女は、<ruby><rb>砂利場</rb><rt>じゃりば</rt></ruby>の<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>につないである綱を引いて、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>をかぶった一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>の小舟をぐいと岸へ寄せます。

「びっくりしているのかいお前さん。――大丈夫だよ、舟の中には、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>もあるし、お酒もある。こんな岡より、いくら<ruby><rb>暖</rb><rt>あった</rt></ruby>かいか知れないんだよ」

手を取られて、苫の中に入りましたものの、お蝶は屋根の低い小舟の中の<ruby><rb>世帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>をながめて、<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>、腑に落ちない顔つきです。

お角は早速、中の<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の火をほじッて、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>のそばに酒を置き、あられもない手酌で飲みながら、

「呑気なものだよ、こうしていると。だからなかなか足が洗えないのさ」と、お蝶の顔を見てげらげらと笑っている。

「ねえさん、これから何処へ行くんですか？」

「何処へも行きゃあしないさ。こうしてね、ぼつぼつ商売を始めるんだよ。そのうちに、<ruby><rb>亡者</rb><rt>もうじゃ</rt></ruby>がやってくるから、そしたら、私のいう通りにすればいい」

商売？　亡者？　お蝶にはだんだんお角の言う事が分らなくなりました。――しかしお角の言ったとおり、<ruby><rb>苫舟</rb><rt>とまぶね</rt></ruby>の中の<ruby><rb>置炬燵</rb><rt>おきごたつ</rt></ruby>は、辛く当る風もなく、ぴちゃりぴちゃりと船底をうつ川波の音を聞きながら、手足を蒲団に<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めていると、ほんとに呑気で、いつまでもここを出たくない気がする。

すると、そのうちに上の土橋を踏んで行く人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がする<ruby><rb>度</rb><rt>たび</rt></ruby>に、お角は、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の中から片手をのばして、苫の横から顔を出します。そして、

「ちッ。……二本差の<ruby><rb>浅黄裏</rb><rt>あさぎうら</rt></ruby>だよ」

舌打ちをして、何か、じれッたそうに首を振りながら、

「引き<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>の大川みたいに、年の暮は人の足が早くッてしようがないね」とお蝶に向って言いましたが、これもお蝶には、何の意味だか分りません。

けれど、いくら切支丹屋敷という別世間に育ったお蝶にでも、それから夜更けにかけて、橋の上から声をかける男だの、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>の下から<ruby><rb>鼠鳴</rb><rt>ねずみな</rt></ruby>きをするお角のことばだのが、幾度となく繰返されるうちには、この<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>舟の世帯が、何を<ruby><rb>営</rb><rt>いとな</rt></ruby>むものだかという事を<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>らぬわけはありません。

これは、いわゆる岡の岡場所と対立して、江戸の風紀を<ruby><rb>紊</rb><rt>みだ</rt></ruby>している、「船まんじゅう」と俗によぶ売笑婦の<ruby><rb>巣船</rb><rt>すぶね</rt></ruby>でした。江戸ではまたこの種類の売笑婦を「お<ruby><rb>千代舟</rb><rt>ちよぶね</rt></ruby>」と言っています。

いつの頃か、お千代という<ruby><rb>眉目</rb><rt>みめ</rt></ruby>のすぐれた売笑婦が、浜町の<ruby><rb>菖蒲河岸</rb><rt>あやめがし</rt></ruby>に舟をつないで、<ruby><rb>嫖客</rb><rt>ひょうきゃく</rt></ruby>を招くに水上から、

「お千代、お千代」と、啼くように呼んだのが初まりとなって、それから<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたほかの<ruby><rb>船饅頭</rb><rt>ふなまんじゅう</rt></ruby>をも、すべてお千代舟とよぶようになったのであると申します。

何せよ、今思い合してみると、あの<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>の鶴吉というのは、売笑婦の<ruby><rb>置屋</rb><rt>おきや</rt></ruby>であったり、また世間見ずの女を<ruby><rb>騙</rb><rt>たぶら</rt></ruby>かして来るぽん引きと呼ぶ渡世の人間です。――で、お蝶をその道のあばずれ者であるお<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>に預けて、永く金の<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>れそうな、いい客を見つけて今夜彼女に当てがおうという相談が、あったものにちがいない。

そのせいか、お角はだいぶ客の<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>り好みをしていましたが、そのうちに<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>の陰と橋の上とで、何か下相談の出来たらしい様子で、

「お蝶さん、ちょっと待っておいで、すぐ来るから」

と、彼女を置いて、岡へ上がってしまいました。

好色そうな宗匠頭巾の隠居をつかまえて、そこの<ruby><rb>砂利場</rb><rt>じゃりば</rt></ruby>の隅で、お角がしきりと何か交渉している声が、お蝶の耳にも、時々、みだらな笑い声に<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>じって聞こえて来る。

好色隠居の<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>顔が、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>の間からジロジロとのぞいたり、お角を相手に、お蝶の貞操の代価に露骨な<ruby><rb>懸引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>をかわしたりしておりましたが、やがて人肉の取引ができると、

「じゃお蝶ちゃん。私はちょっと、蔵前まで<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>に行って来るからね」

と、お角はそこをはずしてしまいました。

入れ交わってゴソゴソと苫舟の中に入って来たのは、お蝶を買った狒々隠居です。

無遠慮に<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>のなかへ手を差しこみ、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>をのせて、むさぼる如くお蝶の目元、<ruby><rb>唇元</rb><rt>くちもと</rt></ruby>、<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>の白さなどを、<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め廻すように見ておりましたが、

「なるほどお前は<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>らしい。可愛い<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>だ、わしはな、佐賀町の<ruby><rb>穀問屋</rb><rt>こくどんや</rt></ruby>で、そして<ruby><rb>大</rb><rt>たい</rt></ruby>した金持の隠居さ。もう吉原だとか<ruby><rb>辰巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>だとか、あんな尋常な所では遊び飽いたので、わざと売女などを見て歩いているのさ」

この隠居のエヘラ笑いが、お蝶には他愛なく見えました。そして、売女を買いに来ても、おれは金持なんだぞという所を見せたいような気持も露骨に分ります。

お蝶は、お角がお食べといって置いて行った<ruby><rb>金玉糖</rb><rt>きんぎょくとう</rt></ruby>を口に入れて、クスッと笑いながら、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の上へ顔を横にする。

「きれいな髪だな、よく<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>えているねえ」

と、隠居は指を出して猫の<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>にさわるように、お蝶の髪の毛を<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>と<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>っています。

「もう<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>、<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>、ふた晩寝るとお正月だな。<ruby><rb>初春</rb><rt>はる</rt></ruby>には何か買ってやろうか」

「ええ、買って頂戴」

「何がいい、<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>かかんざしか？」

「<ruby><rb>繻珍</rb><rt>しゅちん</rt></ruby>の帯にお召の着物、<ruby><rb>玳瑁</rb><rt>たいまい</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>にギヤマンのかんざし、さんごの<ruby><rb>帯留</rb><rt>おびどめ</rt></ruby>に<ruby><rb>鹿</rb><rt>か</rt></ruby>の子の<ruby><rb>帯揚</rb><rt>おびあげ</rt></ruby>、そして<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の下駄を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>かせて、塗りのお<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>に男芸者をたくさん付けて、<ruby><rb>堺町</rb><rt>さかいまち</rt></ruby>の勘三郎芝居へ連れて行って頂戴」

「とんでもない望みをする<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>だぞ、そんな真似をしたひには、吉原の<ruby><rb>太夫</rb><rt>たゆう</rt></ruby>をひとり身受けする程かかってしまう」

「だって、お爺さんは、金持でしょう」

「お爺さんなんて、色消しなことを言うものではない、<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>とお言いよ、旦那とね」

「だって、何も買って貰いもしないのに」

「おれは、お角に二両渡しているよ。舟まんじゅうといえば、たいがい、安いところが二百五十文、高いところで一歩どまり、二両なんていう大枚を投げ出す旦那様は<ruby><rb>鉦太鼓</rb><rt>かねたいこ</rt></ruby>でさがしたってあるもんか」

「じゃ、私の体は、二両なの」

「松の<ruby><rb>位</rb><rt>くらい</rt></ruby>の太夫と同じ値だよ」

「知らないわ、そんなこと」

「何しろゆっくり遊んで行こう」

「沢山遊んでおいでなさいね」

「お前はなかなか愛嬌のいい<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>だ。お角は初めてだと言ったが、そうじゃあるまい、何処か岡場所に居たこともあるんだろう」

「知らないわ」

「じゃ、年は幾ツ？」

「知らないわ」

「自分の年を知らない者があるもんか。ほんとにお前は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あどけ</span>ないところがある。だけれど、こういうことは知っているだろう」

<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の中で、お蝶の手を握りました。

お蝶はおかしさをこらえながら、死んだ父親とこの隠居との年齢を比較して考えていました。手を握られてもその手ざわりよりは、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の火に<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>まった木の方が、どれ程お蝶の<ruby><rb>抱擁</rb><rt>ほうよう</rt></ruby>をそそるか知れません。

「いやよ、お爺さん」

指を<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>いて、金玉糖をまた一ツ口に入れる。

「何がいやなことがあるものか。お前はまだきまりが悪いとみえる」

<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>の動作が初まりました。いきなり体へ抱きついて来たので、お蝶がきつく突き飛ばすと、舟の世帯は<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>ぐるみ、ダブリと大きく揺れ返る。

「これ、舟が揺れるわ、じっとしておいで、じっとして……、怖いことも何もありはしない」

「嫌ッ……嫌ッ……。ええうるさいッ」

「わしはお角に二両渡してある」

「嫌だッてば、この人は！」

<ruby><rb>平手</rb><rt>ひらて</rt></ruby>で<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>の横顔をなぐりました。

<ruby><rb>宗匠頭巾</rb><rt>そうしょうずきん</rt></ruby>をハネ飛ばして、尻もちをついた好色隠居は、それがお蝶の<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>ではなく明らかな<ruby><rb>憎悪</rb><rt>ぞうお</rt></ruby>の反抗だと知ったので、にわかにムッとなって飛びかかって来る。

お蝶は、隠居の指に<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みついて、彼が、痛いッと悲鳴をあげた<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>に、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>をハネて岡へ逃げ上がろうとしましたが、はっと、顔色を変えて足を<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>ませました。

争い合った動揺で、<ruby><rb>纜</rb><rt>もやい</rt></ruby>の綱が解けたのでしょう、舟は知らぬ間に<ruby><rb>砂利場</rb><rt>じゃりば</rt></ruby>の岸を離れて、鳥越川の川口から満々たる大川の中流に押し出されて、<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>へ下へと流されていつつあるのでした。

途端に、お蝶が川の中へでも飛び込むと思ったのか、<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>隠居は彼女のうしろから抱きついて、

「これ、何処へ行く」

と船底へ引き戻しました。

こんな事なら早く隙を見て逃げ出すのであったのにと、お蝶は自分の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に過ぎた心を悔いましたが、岸を離れたその小舟が何処かへ流れつくまでは、飛び出すことも出来ません。

お蝶が逃げ廻ったり<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>む力は、かえって<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>の獣情に油をそそぎかけたようです。隠居は<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>に似気ない力で、お蝶を船底に押し<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>すと、

「さあ、打つがいい、打つがいい。もっとその爪を立てるがいいよ。何、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばら</span>掻きになってもかまわない。そうだそうだ、力まかせになぐッておくれ」

甘んじて、お蝶の<ruby><rb>打擲</rb><rt>ちょうちゃく</rt></ruby>を受けながら、眼を細くしてこらえている。

自分の手が<ruby><rb>火熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>ッて来るほど打ッてやると、お蝶は胸がスッとすいて、同時に急におかしくなって、

「<ruby><rb>気狂</rb><rt>きちが</rt></ruby>い！　<ruby><rb>色情気狂</rb><rt>いろきちが</rt></ruby>い！」

と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りながら、キャッキャッと笑ってしまいました。

そしてまるで、盲目的になって寄って来る<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>隠居を、力まかせに突き飛ばして、

「私は<ruby><rb>夜鷹</rb><rt>よたか</rt></ruby>じゃないんだからね、誰がいつ、おまえなんぞに買われると言ったの。知らないわよ。ばか！」

と、<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>の光を振って、怒りました。

「何だと、この<ruby><rb>阿女</rb><rt>あま</rt></ruby>め」

<ruby><rb>性懲</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>りもなく、また飛び起きて来た好色なおやじは、猫が小鳥へかかるように、ぬッと舟べりへ出て来ましたが、同じ怒り<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>るにしても、彼がそうして追い廻すことは、かえって強い興味であるらしいのです。

けれどお蝶は必死でした。

女色を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>り飽いたこの隠居の変態的な獣情を解していたなら、彼女もさほど<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>はしないでしょうが、彼の眼色、彼の血相、これは本気に自分を殺す気ではないかと、怖れをなして逃げ廻る。

隠居の手にはいつのまにか、短い刃物が握りしめられています。それとて彼には、実は興味を助ける一つの小道具でしかないのですが、霜夜の川の波明りをうけて、凄い光をギラギラと持っています。

「逃げると殺すぞ。さ。中へはいれ。逃げると殺すぞ」

そう言いながら、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>を伝わって舟べりを追い廻すと、お蝶も同じように逃げ廻って、彼が<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>に来れば<ruby><rb>舟尾</rb><rt>とも</rt></ruby>の方へ、<ruby><rb>舟尾</rb><rt>とも</rt></ruby>へ来れば舳の方へ、<ruby><rb>鼬鼠</rb><rt>いたち</rt></ruby>ごッこにかわしていました。

そして、<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>い出たその小舟は、大川の<ruby><rb>汐足</rb><rt>しおあし</rt></ruby>に乗って、木の葉のように揺れながら、小気味よく流れて行く。

――すると、これは<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>からのぼって来た一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>の<ruby><rb>猪牙船</rb><rt>ちょき</rt></ruby>。

今、脚の高い両国橋の暗い陰から、ギイッ、ギイッと<ruby><rb>櫓臍</rb><rt>ろべそ</rt></ruby>を鳴らしてこぎ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>って来ましたが、代地手前の河心から<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>を左に曲げて、神田川の口へはいろうとした所で、

「あ……あの声は女じゃねえか」

と、<ruby><rb>猪牙船</rb><rt>ちょき</rt></ruby>の中の人影が、黒頭巾の半身を伸ばして、向うから流れて来る苫舟の上を、じっと見つめている様子でした。

すぐと彼の<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>のなかへ、波明りに<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>された奇怪な男女が飛びこんで来たことでしょう。

「率八率八。早くあれへ<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ寄せて見ろ、若い娘が手込めにでもされている様子だ」

「やりますか、あの船へ」

「そうよ、屋根舟の中の<ruby><rb>睦言</rb><rt>むつごと</rt></ruby>なら、こッちも<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けて通るけれど、どうやら女が逃げ廻っているらしいぜ」

「合点です！　あれ――というところへ、宮本武蔵という格ですね」

「ええ、またくだらねえお<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りをしているな」

「おッと、案の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>だ」

「どうした？」

「待っておくんなさい、<ruby><rb>櫓臍</rb><rt>ろべそ</rt></ruby>がはずれてしまったんで」

「ちぇッ、しかたのねえ奴だ、それ、早く漕げ」

率八と呼ばれた<ruby><rb>舟尾</rb><rt>とも</rt></ruby>の男が、櫓をしなわせてギッギッと漕ぎ寄せて行ったかと思うと、近づく間もなく、舟べりに<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をついていた黒頭巾の男が、

「しまった！」

と、唇を破って胴の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に立ちました。

同時に、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の方から直線に流れて来た小舟のそばで、ドボーンと白い水煙が揚ったのです。

ダブリ――と大きな波紋が、次第に大川の両岸へひろがって行くのを眺めて、

「親分、間に合いませんでしたよ」

と、がッかりしたように、櫓の力を抜いたのは、<ruby><rb>舟尾</rb><rt>とも</rt></ruby>に立っている率八という男です。

「ちぇッ、だから早くしろと言ったのだ。だが、飛び込んだのは、男か、女か」

「それがネ親分、あっしの見た見当じゃ、女の方が野郎を川の中へ突き飛ばしたように見えたんですが……」

「おれもそう思ったが、それにしては少し妙だ、おお、娘は<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>の蔭に立っている」

「じいッと川の中を見つめていますよ、何だか凄い娘じゃありませんか。……オヤ、こッちの舟に気がついたと見えて、急に、舟底へ姿を隠しましたぜ。――かまわねえからあの舟を取ッ捕まえて見ましょうか」

「待て待て。向うで影を隠したのは、おれの舟に気がついたためじゃねえ、<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>の方からお船手の見廻り船がやって来たのだ」

「あっ……成程」

「と言って、あわてて逃げ出すなよ、逃げるとあいつは二挺櫓で追いかけて来る。いつもの通りにしていればよいのだ」

「じゃ、親分」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ……」と、目で叱ると、黒い頭巾の侍は、その上から一枚の<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、ぺたりと舟板に身をつけて寝てしまいました。

二<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>づれで下って来た、伊奈半十郎配下の水上見廻りの舟は、忽ち、そこに<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>う船影を見つけると、二手に分れて、一艘はお蝶の乗っている<ruby><rb>苫舟</rb><rt>とまぶね</rt></ruby>へこぎつけ、また一艘は矢のように率八の舟へ寄って来ます。

そして、船手の同心でしょう、<ruby><rb>朱文字</rb><rt>しゅもじ</rt></ruby>の<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を水の上にあげて、

「何処だ？」

と不意に声をかける。

<ruby><rb>川合図</rb><rt>かわあいず</rt></ruby>というやつで、それにまごつくと<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち川番所まで引ッ張って行かれるのが通例でした。

「へい、<ruby><rb>辰巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>の<ruby><rb>金田屋</rb><rt>かねだや</rt></ruby>でございます。<ruby><rb>紅梅河岸</rb><rt>こうばいがし</rt></ruby>までお客を迎えに参りますところで」

「船の<ruby><rb>焼印</rb><rt>しるし</rt></ruby>は」

「丸に金の字」

「よし、行け」

「御苦労様でございます」

ギイーとわかれて、一方は両国橋の<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>の蔭へ、率八という男の<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>は、そこから<ruby><rb>舳</rb><rt>へさき</rt></ruby>を曲げて幅の狭い神田川の中へすべり込んで行く。

「親分もうよろしゅうございますよ」

「寒いからこのまま手枕で寝ていよう」

「それも工合がいいかも知れません。じゃ風邪をひくといけませんから」と、ちょっと櫓を放して、隅に丸めてある<ruby><rb>掻巻</rb><rt>かいまき</rt></ruby>を、<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>と<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えてかけます。

そして、その<ruby><rb>猪牙船</rb><rt>ちょき</rt></ruby>は柳原の土手の間を漕ぎのぼって、やがて<ruby><rb>紅梅河岸</rb><rt>こうばいがし</rt></ruby>まで来ましたが、そこで岸へ寄せる様子もなく、なおグイグイと漕ぎ進めてまいります。

そこは、上れば上る程、両岸が高くなって、<ruby><rb>水際</rb><rt>みずぎわ</rt></ruby>は<ruby><rb>芦草</rb><rt>あしぐさ</rt></ruby>に<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>もれ、空は高々と立つ左右の樹木につつまれて、葉の落ちている冬木の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>にも一つぶの星さえ見えないほどな暗い谷間。

<ruby><rb>猪牙船</rb><rt>ちょき</rt></ruby>がそのお茶の水の真ッ暗な水上をすべって行くと、寝ていた黒い頭巾の男は、やおら<ruby><rb>掻巻</rb><rt>かいまき</rt></ruby>を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねのけて、ふッ……と<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>の<ruby><rb>舟行燈</rb><rt>ふなあんどん</rt></ruby>を吹き消しました。

チョロチョロと何処かで水の湧く音がするほか、<ruby><rb>上流</rb><rt>かみ</rt></ruby>にも<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>にも、ここら辺りを通う舟はありません。

そして、朽ち木の枝を手懸りに、一方の岸へ<ruby><rb>徐々</rb><rt>じょじょ</rt></ruby>と舟脚を寄せておりましたが、<ruby><rb>繋綱</rb><rt>もやい</rt></ruby>を取りながら覆面の男が、真ッ暗な中でこう呟いたのが水の<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>に響いて大きく聞こえました。

「なあ率八、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>じゃねえが、この頃は、すっかり<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>に眼が馴れて来たような気がするじゃあねえか……」

＊　　　＊　　　＊

ところでその晩、川見廻りの役人に怪しまれて、<ruby><rb>永代橋</rb><rt>えいたいばし</rt></ruby>の川番所へ、繩に曳かれて行ったのは、お蝶を乗せた<ruby><rb>苫被</rb><rt>とまかぶ</rt></ruby>りの売女舟です。

「<ruby><rb>吟味</rb><rt>ぎんみ</rt></ruby>は明日いたすから、今夜はここで神妙にいたしておれ」

若い娘だけに、手荒なことはしませんが、無論、風紀を<ruby><rb>紊</rb><rt>みだ</rt></ruby>す闇の女と思われたのは当り前で、川風の洩れる番所の一間へぽんと抛り込まれたまま夜具も枕もあてがわれません。

<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>られたり打たれたり、昼は<ruby><rb>股火</rb><rt>またび</rt></ruby>をして退屈している川番所の番太郎や船手の同心に、さんざん売女扱いに調べられた上、お蝶が永代の番屋を放たれたのは、その翌日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎでした。

相手が、役人や番太郎では、彼女も<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>として見せるより表情がない。

首尾よく自分の素性もばれずに、外へ出されるとお蝶はほっとした顔です。けれど、悲しいのは、再びその体をいじめて来る<ruby><rb>餓</rb><rt>う</rt></ruby>えと<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>ッ風で、こんな事なら、あの<ruby><rb>狒々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>隠居をもっと手玉にとって、お金でも貰って置けばよかったなどと浅ましい後悔もわく。

しかし考えてみると、あの<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>を大川の中へ突き飛ばしたのは、少し罪な事とも思い出されました。どうしたろうか今頃は？　あの年だから死んでしまッたかもわからない。

「死んだ人の身なんかを考えてやるどころじゃないよ。困ったねえ、どうしようかしらこの私は、いッそのこと、<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>の鶴吉の家へ帰ってやろうか、そして、あの女たちの仲間になってしまおうか？　……」

お蝶の思案は後ろから来る空ッ風に、<ruby><rb>千断</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>れ千断れに飛んで行く。

着物だけは、どうにか<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>を落としたものの、今夜の宿の当てはないし、二度とふたたび観音様の縁がわにお慈悲を仰ぐ勇気もありません。

町は押しつまる年の暮で、<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>の人達は、誰も自分を怪しまない代りに、誰も自分に温かいことばをかけてくれてもない。

<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>は親切だが<ruby><rb>猜疑</rb><rt>さいぎ</rt></ruby>ぶかいし、都会はうるさくない代りに素ッ気ない人ばかりと、お蝶はぼんやりと暮の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>を見廻しましたが、はッと、その顔色を変えました。

「畜生ッ、あんな所に」

「あら、居てよ、お蝶ちゃん」

不意に、こういう声を筒抜けにさせて、お蝶を目がけて駆け出して来た者がある。――と、彼女はもう袂をひるがえして逃げ出していました。

「畜生」

「お蝶ちゃん、お待ちッてば」

売女宿の鶴吉と船まんじゅうのお角が、腰弁当で探してでもいたように、声をあげながら追いかけて来る。

何処という方角も知らずに、横丁から横丁へ逃げ廻って、そして逃げながらお蝶は考えているのでした。「<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まろうか、捕まるまいか」と。

<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まれば目前に食物と寝床は与えられますが、売女宿の食い物となる覚悟がなければなりません。捕まるまいとすればそれと反対に今夜の<ruby><rb>餓</rb><rt>う</rt></ruby>えをしのぐ工夫もない。

けれど心と足は別物のように、迷いにかまわず足は速度を加えています。遂に鶴吉とお角を、何処かの辻へまいてしまったようです。そしてお蝶は「もう追いついて来ない」と知って振向いてみましたが、べつにアアよかったという安心もありません。むしろ何かを取逃がした気がする。

金。金。金。

お蝶は足のつま先に物欲しい目を落としながら当てのない心を抱いて歩きました。と――其処の曲り角に、黒髪を束ねた<ruby><rb>髱</rb><rt>かもじ</rt></ruby>の看板と「おん<ruby><rb>小間物類</rb><rt>こまものるい</rt></ruby>」とした<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>がふッと目につきました。

「あ……」

何か胸を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めたものがあるように、お蝶は立ち止まって、小間物屋の奥を覗きましたが、そこを小刻みに通り抜けると、人影のない<ruby><rb>河岸縁</rb><rt>かしぶち</rt></ruby>へ出て、物の蔭にひそみながら<ruby><rb>帯揚</rb><rt>おびあげ</rt></ruby>を解いてその中へ手を入れました。

匂い袋のような小さな袋の中に、一粒の<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の珠があったのです。今の小間物店を見て、彼女はそういう所へ、幾度も物を売った経験をよび起して、

「ああ、あったわ、あったわ、これを売れば……」

と、珠を手のひらに転がしてニッコリしました。

<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>もなくそれを握って、お蝶は小間物屋へ駆けこみましたが、暫くしてそこを出て来た彼女の顔は、また前にも増して<ruby><rb>悄</rb><rt>しお</rt></ruby>れ返って、出るとすぐに、<ruby><rb>発止</rb><rt>はっし</rt></ruby>とそこの切石へ珠を<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つけて砕いてしまう。

そして後も見ずに、かもじの釣り看板の下を小走りに駆け走りました。

<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>を刺す寒風がやんだかと思うと、夕方からチラチラと白いものが降って来る。

そして少し<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けた頃に、高台から雪の下町を見ると、真っ白な江戸の全市に火の見<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が幾つも年の暮を見張るように<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>されてあります。

「<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に降ること……」

飢えた眼にも美しい雪。

お蝶は湯島の<ruby><rb>額堂</rb><rt>がくどう</rt></ruby>でふるえていました。

たった一粒身に着いていた<ruby><rb>珊瑚珠</rb><rt>さんごじゅ</rt></ruby>も、小間物屋に見せれば、それは<ruby><rb>練玉</rb><rt>ねりだま</rt></ruby>という<ruby><rb>紛</rb><rt>まが</rt></ruby>い物だと分って、お金にはならず、腹が立つやら悲しいやらで涙も出ません。

「もし、お嬢様」

彼女が、寒々と<ruby><rb>額堂</rb><rt>がくどう</rt></ruby>の隅にうずくまっていると、最前から、蛇の目の<ruby><rb>傘</rb><rt>からかさ</rt></ruby>を手にさげて、雪に見とれていた一人の女が、側へ寄って来てこう声をかけました。

お嬢様――と呼ばれたので、お蝶は間が悪そうに、

「はい」と、伏し目に返事をすると、女はいろいろな事を訊いて来ます。そしてお蝶のいい加減な作りごとにホロリとさせられて、

「じゃ、私の家へおいでなさいな、小間使いが欲しいと思っているところですから、辛抱してくれる気なら、永く居てもらってもようございますが」

弓町の近くに住む、<ruby><rb>挿花</rb><rt>はな</rt></ruby>の師匠だという話なので、お蝶は、ワラでもつかみたいところですから、そのまま女に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行きました。

成程、門には池の坊の小さい札が出ていましたが、翌晩になって分ったことは、それは弓組<ruby><rb>与力</rb><rt>よりき</rt></ruby>の松下という男の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>で、その松下が来て遅くまで飲んでいる。

ちょッと酒屋へ行っておくれでないか、帰りに八百屋へ寄っておくれ、それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てん</span>屋へ何を<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えて来ておくれと、お蝶はいい<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>に使われて、寝たのもだいぶ更けてからです。

「人をばかにしている！　親切ごかしに」

彼女は腹が立って寝られない。

こういう屈辱は彼女の耐えうることではありません、――と言って<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>を出れば行く先もない。まして、今夜は除夜です、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>はもう人の着飾る元日です。

今夜も<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>の女主人が、松下という旦那から、春の小遣を貰ったり仕立て上がった春着を見せたりしていたのを、お蝶もチラと見ていましたが、彼女に来る春は何の幸福も<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>しません。

「ああ、つまらない」

<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついて寝返りを打ちました。しかし、それからそれへ、悶々とした不平が数えられて、たまらない空虚が若い心をいじめつけます。

と。

お蝶は何か怖ろしいことを思い決めたように、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に起き直りました。そして、きのう<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の珠を探した時に、捨てようとして取って置いた、匂いのない匂い袋を取り出してみる。

その中に、もう一つ残っていた品物があるのです。

何かというと、それは銀いろをした一箇の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>でした。<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の二官が公儀から役目の上に預かっていた<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷の官庫の鍵です。

その鍵は、お蝶の飢えるたびに、

（官庫へおいで、官庫へおいで、切支丹屋敷のある<ruby><rb>庫</rb><rt>くら</rt></ruby>を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>ければ、無限に<ruby><rb>金目</rb><rt>かねめ</rt></ruby>な物があるじゃないか、そこはお前もよく勝手を知っている場所じゃないか）

と怖ろしい誘惑を囁きます。

だが、怖ろしい。お蝶はあそこへ近づく事が何となく<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くて、今日まで、その誘惑と恐怖の闘いに幾度迷っていたか知れません。

――帯を固く締め、<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>を<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>にかぶって、水口の戸をソッと開けてみると、昨日から小やみもない雪がまだサラサラと落ちている。

そこにある蛇の目の<ruby><rb>傘</rb><rt>からかさ</rt></ruby>を開いて、お蝶は遂にその家から忍び出ました。

もう人通りもあるまいと思ったのは、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の中の考えで、通りへ出ると、<ruby><rb>掛取</rb><rt>かけと</rt></ruby>りの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が、雪の中をめげずに<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しそうに歩いています。

しかし、塗りの下駄に<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>の目傘のお蝶を怪しむものはなく、やがて彼女は、小石川の切支丹坂を下りて獄門橋まで一息に歩いて来ました。

そこまで来ると、龍平の<ruby><rb>獄門首</rb><rt>ごくもんくび</rt></ruby>がくわッと眼を見ひらいて、お蝶！　と橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から呼び止めるような気がする。

ヒューッと吹き<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>る<ruby><rb>雪颶</rb><rt>ゆきつむじ</rt></ruby>に、彼女は傘を取られそうになって、思わずそこに立ち竦む。

それも風の力とは思えません。あの時、血みどろにさせた三人、山屋敷の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>が<ruby><rb>吹雪</rb><rt>ふぶき</rt></ruby>の中からおどり立って、肩や蛇の目を抑えて離さないような気がする。

彼女は目をつぶって駈け抜けました。そして切支丹屋敷の高塀へどんと<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかって、その傘も体も雪の中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出すように仆れてしまう。

「ああ、怖かった……」

前後を見廻して立ち上がると、彼女は、投げ出した、傘も下駄もそのまま、暫く塀を見上げておりましたが、やがてのこと、崖に寄った樹木の雪を落として、ヒラリと山屋敷の内へ飛び降ります。

雪明りの明るさに、お蝶が物蔭から物蔭へ小走りに忍んで行く姿は、餌をあさる<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>のように、ひらひらする袂の色や帯の色まで夜目に映る。

やがてその姿は、例の官庫の前に立ちました。帯の間から取り出した<ruby><rb>合鍵</rb><rt>あいかぎ</rt></ruby>をもって、一心に其処を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けようとする様子。

そこを開ければ、彼女の心を満たすさまざまな物がある。官庫は彼女の<ruby><rb>打出</rb><rt>うちで</rt></ruby>の<ruby><rb>小槌</rb><rt>こづち</rt></ruby>であり、彼女の物慾を満たす殿堂です。お蝶は寒さも怖ろしさも忘れている。

けれど、官庫は<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かない。――どうやっても絶対に開きません。それもそのはずで、あの日本左衛門の手下が荒して以来、<ruby><rb>蔵</rb><rt>くら</rt></ruby>の戸前は厳重に釘づけとなっているし、四方の<ruby><rb>塗籠窓</rb><rt>ぬりごめまど</rt></ruby>にも太い鉄の柱が打ちつけてある。

とこうするうち、<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>畑の木蔭にポチと明りが見えたかと思うと、

「やっ、官庫の前に、怪しげな人影が見える」

「オオ<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>」

と、雪を蹴って来る足音。

山屋敷の同心と見廻りの<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>です。

お蝶は驚いて走り出しました。しかし、この切支丹屋敷の中で生れている彼女のことなので戸惑いをすることなどはありません。

「<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>れ、足痕を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けてゆけば逃げた先が分る」と、同心はやや暫くの間、根よく雪の上のくぼみを見歩いておりましたが、そのうちに、自分達の足痕にも<ruby><rb>錯覚</rb><rt>さっかく</rt></ruby>を起こして、遂にあきらめたように、役宅の方へ引揚げて行った様子です。

その<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で、<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の木立から、ザワッと雪を落として姿を出したのはお蝶で、

「ちいッ、骨折り損をした上に、あぶなく捕まってしまうところ……。ああ、着物は濡れるし、髪はこわれるし、こんな事なら来るのではなかったのに」

空しく、元の所へ帰ろうとすると、突然、低いけれど鋭い声で、

「お蝶様ッ……もしお蝶様」

と、すがり付くように、呼ぶ声がします。

はッとして<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見ましたが、大きな<ruby><rb>牡丹雪</rb><rt>ぼたんゆき</rt></ruby>が降りしきっているのと、雪をかぶった樹木の枝と、ヨハンの居ない石牢の鉄の格子が見えるばかり……。

「お蝶様。お蝶様。ヨハンをお探しでございましょうが。そのヨハンはここにおりまする」

「えっ、ヨハンだって？」

二度目のことばに驚いて、彼女がそこへ駆け寄って見ると、ああ意外です、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby><ruby><rb>天童谷</rb><rt>てんどうだに</rt></ruby>で会った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばてれん</span>ヨハンは、昔のままな姿で、石牢の中にじっと坐っております。

「まあ、ほんとにヨハンだね。ヨハン、お前はまた<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まって来てしまったのかえ？」

お蝶は石牢の中の人影を一時は幻影ではないかと怪しみながら、それが真実のヨハンだと知ると、あわれむ如くこういいました。

しかし、ヨハンはかえってお蝶の姿をこそ、哀れむような眼で見ながら、

「お蝶様、あなたは天童谷をなぜ抜け出して来ましたか」

「江戸が恋しくなったから」

「でも、世間はあなたを<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れてはくれますまい。天童谷以外な所で、あなたを容れる所は、この切支丹屋敷があるばかりです。……オオ雪が吹きかけます。お蝶様、ここへおはいりなさいまし」

「だって、そこは<ruby><rb>牢舎</rb><rt>ろうや</rt></ruby>じゃないか。どうしてこの鉄格子の境を越えてはいれるものじゃない」

「いいえ、この鉄棒の二本はいつでもとれるようになっています。切支丹族の者は絶えずこの鉄窓の中と秩父の山の間を往来しているのでございますよ。ですから、私は何度捕まっても、決して自由を縛られてはおりません」

そういっているうちに、ヨハンはいつのまにか鉄窓の一部に二尺四方ぐらいな口を作って、お蝶をそこへ引き入れました。

<ruby><rb>石室</rb><rt>いしむろ</rt></ruby>の中は八畳ぐらいな広さで、横に黒布の<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>を垂れ、帳の奥は二坪ばかりな板敷で、ヨハンが八年間使い馴らした椅子、食器、寝具などのほかに、<ruby><rb>馬糧小屋</rb><rt>まぐさごや</rt></ruby>のようなワラがいっぱい敷いてある。

ただ明りだけはありませんが、それも外から<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>す雪明りで、さのみ不自由はなく膝を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れる事ができる。

ヨハンはお蝶の<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えきッた手を自分の人肌に暖めて、

「もう此処を出ては危険です、ヨハンのそばを離れてはいけません。あなたの身には、宗門役人の眼、怖ろしい凶賊の眼、野心の眼が光っています」

「じゃヨハン、私はいつまでもここに居てかまわないの」

「石室の奥に居れば、山屋敷の役人でも、気のつく気づかいはありません。欲しい物は、時折ここへ忍んで来る切支丹族の者にいいつけてやれば、何でもととのえてまいります」

ヨハンの母性的な<ruby><rb>慈愛</rb><rt>いつくしみ</rt></ruby>は、<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の苦しみと寒さに凍えていたお蝶の心に情けの温みを知らしめたようです。彼女はもうヨハンに甘える気持は出ても、反逆的な心は持てなくなりました。

除夜も元日もない石牢の奥に、そうして幾日か<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>われている間に、ヨハンはお蝶がいやがらない程度に、聖書を読んで聞かせ、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都の話をして聞かせ、ひたすら彼女の心の<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>から善を呼び起こそうと努めたのです。ローマ王家の血を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けている彼女の自覚を醒まそうとするのでした。

ヨハンのその努力は、天童谷の時では厳父が説き<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>す形になって現れ、ここでは慈母の愛をとって教えました。そうして、この頃ではようやくその真心がお蝶の心にもしみ入って来たか、時折は、彼の読んで聞かせる聖書の声をじっと聞いているうちに、お蝶の頬を涙が流れることもある。

そういう時に、ヨハンは殊に力をこめて、

「あなたの大きな幸福は、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の都に待っています。夜光の短刀をお探し遊ばして、海の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>へお帰りなさい。そして、絶えかけている王家の家名を興すことができれば、二官殿の霊もどんなに満足か知れません。いいえ二官殿ばかりでなく、日本へ渡って鬼となった羅馬の<ruby><rb>使徒</rb><rt>しと</rt></ruby>の幾十人の霊が、みな天国でどよみをあげて欣びましょう」

噛んでふくめるように説いて教えます。

かくしている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、世間の松の内も過ぎた時分。

お蝶はこの頃になって、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>ごと、或いはどうかすると真昼にも、山屋敷の見廻りの隙を狙って、江戸の町へ出て行くようです。――しかし前と違って、明け方か、或いは二、三日目には、母を慕う子のように必ずヨハンの石牢へ帰って来ないことはありません。

## <ruby><rb>変化双六</rb><rt>へんげすごろく</rt></ruby>

竹の柱に風呂敷ほどな<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>一枚の<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>いでは、寒さを防ぐ足しにもならない。薄氷の張っている<ruby><rb>三味線堀</rb><rt>しゃみせんぼり</rt></ruby>から吹き上げて来る風にもふるえ上がッて、

「ええ、<ruby><rb>堅気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>は辛い、金の<ruby><rb>有難味</rb><rt>ありがたみ</rt></ruby>が身に沁みるぞ」

と、<ruby><rb>算木</rb><rt>さんぎ</rt></ruby>のほこりを口で吹いて、ザラザラと<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>の空鳴りをさせていた露店の<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>は、近ごろ古巣の江戸へ舞い戻って、<ruby><rb>三味線堀</rb><rt>しゃみせんぼり</rt></ruby>に長い顔をさらしている梅花堂流の馬春堂先生でした。

「<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>ですな」

「<ruby><rb>亡者</rb><rt>もうじゃ</rt></ruby>も初春は休みとみえる」

「<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>はすなわち吾々さ」

その辺の川ぞいには、同じ<ruby><rb>売卜者</rb><rt>ばいぼくしゃ</rt></ruby>の露店が三、四軒、名ばかりの机をならべ、各〻<ruby><rb>水洟</rb><rt>みずばな</rt></ruby>をすすッていたので、<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>ら出る愚痴のつぶやきに、自ら答えて来る哀れな声があります。

ところへ、<ruby><rb>鼠木綿</rb><rt>ねずもめん</rt></ruby>の宗服に尺八を持った二人づれの<ruby><rb>虚無僧</rb><rt>こむそう</rt></ruby>が、今そこの前を通りぬけたかと思うと急に引っ返して来て、<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ったまま、馬春堂の机の前に立ち、

「ふーム……」と何か笠の中で笑っているらしい。

勿論、こういうのは銭になるお客ではありません。のみならず中には、多少<ruby><rb>易経</rb><rt>えききょう</rt></ruby>の端を読みかじッている<ruby><rb>手輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>などもあって、<ruby><rb>素見</rb><rt>ひやかし</rt></ruby>のうちでも<ruby><rb>売卜者</rb><rt>ばいぼくしゃ</rt></ruby>たちには<ruby><rb>苦手</rb><rt>にがて</rt></ruby>な部類の者と見たので、

「お通んなさい、店の邪魔になる」と、馬春堂が長い<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を横に振りました。

「そう言うなよ、馬公」

おやと思うまに、二人の虚無僧は、尺八の端で幕をめくり上げて、御免とも言わず中の空箱に腰をおろし、

「こいつは焼け過ぎる」と言いながら、先生が折角あんばいよく<ruby><rb>摺鉢</rb><rt>すりばち</rt></ruby>の火鉢で焼いていた餅を取って、口へ持って行きそうにしましたから、<ruby><rb>用捨</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>はならんという血相で、

「これこれ、無作法なまねをするな」と先生がムキになってその手を抑える。

二人はクスクス笑いながら、

「いいじゃねえか」

「よくはない、これはわしの弁当じゃ」

「おごってやるよ、後で」

「誰だい、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>たちは」

「まだ分らねえのか、この声でも」

そう言いながら、<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>を仰向けにして見せたので、ひょいとのぞき込むと、片目を白い布でしばった雲霧の仁三と、ひとりは四ツ目屋の新助なので、

「あッ兄弟か」

と、先生が思わず、ばかでかい声を出す。

「しッ……」と雲霧はその声を制して、

「どうだ、<ruby><rb>拵</rb><rt>こし</rt></ruby>らえはうまかろう」

「まったく、それじゃ分る筈がない、しかし、何時から江戸へ戻っていたのじゃ」

「おめえと同じ時に、天童谷から這い上がって、あれから中仙道を<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の方へ突ッ走っていたのだが、どうも弱ったことになったよ」

「へえ、何をそんなに弱っているので」

「親分の身だ」

「日本左衛門様の？」

「ウム、甲州で打合せをした事が、あれ以来、すッかり行き違いになって、<ruby><rb>鹿野山</rb><rt>かのうざん</rt></ruby>へ行ってみても、親分の立廻った様子はねえんだ。そこで、こうして探しているわけだが、馬春堂、おめえは何かうわさを聞いていねえだろうか」

「存じませんなあ。何ならひとつ、易をたてて見ましょうか」

「親切はありがてえが、おめえの<ruby><rb>易占</rb><rt>うらない</rt></ruby>なら勘弁してもらおう、分る探し<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>も分らなくなってしまう」

「いや、そうばかにしたものでもない、信じると信じないとはそららの勝手として、とにかく一<ruby><rb>筮</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を試みて、<ruby><rb>伏義秦王</rb><rt>ふっきしんのう</rt></ruby>の御意見を伺ってみようじゃないか。……つまりその、親分日本左衛門の生死と居所をたずねるわけだな」

頼みもしないのに呑み込み顔の先生が、<ruby><rb>筮竹</rb><rt>ぜいちく</rt></ruby>を額につけてパチと指を入れた時です。

「やっ兄貴、向うへ行く女を見たか」

と、不意に四ツ目屋が立ち上がって、折角馬春堂の無念無想に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>ろうとするところを破りました。

「おっ、あの娘か」

「お蝶だッ」

と、<ruby><rb>河岸沿</rb><rt>かしぞ</rt></ruby>いの易者の露店から、不意に駈け出して来た虚無僧二人が自分を目がけて来るのだと知ると、つい、その前を通りすぎた<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>の娘は、飛鳥のごとく走り出して、忽ち人混みの中に姿を紛れ込ませてしまいました。

見失って、探しあぐねた雲霧と四ツ目屋は、半刻ほど経つと、再び空しい顔をして馬春堂の露店へ帰って来て、

「残念なことをした、確かに、お蝶の奴に違いなかったものを」

と、何か小声に囁き合っています。

やがて一息休むと、雲霧は小判一枚、馬春堂の机の上にチリンと<ruby><rb>薄金</rb><rt>うすがね</rt></ruby>の音をさせて、

「ほれ、<ruby><rb>見料</rb><rt>けんりょう</rt></ruby>じゃねえ、商売の邪魔料だよ」

「えっ、これを」と先生は、処女の如くぽっと赤くなって、有難う、有難う、と幾たびも押しいただいて財布の中にしまい込む。

「ところでな、馬公」

「はいはい」と一両の手前、馬公でも豚公でもこの際は腹が立ちません。

「親分の身やお蝶のことで、何か耳に入れたらおれの宿まで知らして来てくんねえか。宿は例の<ruby><rb>音羽</rb><rt>おとわ</rt></ruby>の<ruby><rb>筑波屋</rb><rt>つくばや</rt></ruby>だ。頼むぜ」

と、なお何か言い残して、仁三と新助はそこを立去りました。

「さあ、今日は<ruby><rb>早仕舞</rb><rt>はやじまい</rt></ruby>として、久しぶりで一つ、正月らしく怠けようか」

忽ち、空箱の机や日月<ruby><rb>星晨</rb><rt>せいしん</rt></ruby>の幕をおろして、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に<ruby><rb>水洟</rb><rt>みずばな</rt></ruby>をすすッている同業の先生達へ、

「お先に――」と言いながら好い気持で、ぶらりと<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>へ帰って行く。

住居というのは、やはり以前のどぶ<ruby><rb>店</rb><rt>だな</rt></ruby>の近くと見えます。<ruby><rb>三味線堀</rb><rt>しゃみせんぼり</rt></ruby>に沿ってあれから、<ruby><rb>稲荷町</rb><rt>いなりちょう</rt></ruby>の方角へ足を向けて行くと、

「あら、暫く」

と、あざやかな笑い顔をもって、彼を待っていた頭巾の女があります。

「やあ……これは」と馬春堂は仰山に、

「お前は、切支丹屋敷のお蝶じゃないか」

「ええ、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>きのう</rt></ruby>ちょっと三味線堀を通ったら、馬春堂という幕が下がっているので、まあ珍しいとのぞいてみると、あなたの姿が見えないので、今日も通りがけに、そっと覗いて見たんですよ」

「ああそうかい、寄ればいいのに」

「だって、変な虚無僧が居たじゃありませんか。そして私を追いかけて来たので<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して逃げ出しちゃッたの」

「ウウム、よく捕まらなかったな」

「あれは一体だれだったの」

「あれかい？　……」と馬春堂が口を<ruby><rb>濁</rb><rt>にご</rt></ruby>している間に、お蝶は先に立って歩みながら、

「とにかく往来じゃ話ができないから、先生の家まで行きましょうよ」

「えっ、わしの家へ来るッて言うのかい」

「そのつもりで、<ruby><rb>手土産</rb><rt>てみやげ</rt></ruby>のかわりに、少しばかり御馳走を買って待っていたのよ」

「こいつはどうした風向きだろう」

先生は酔わないうちから<ruby><rb>陶然</rb><rt>とうぜん</rt></ruby>と鼻毛を伸ばしてしまいました。

細い露地のドブ板を踏んでいると、二枚の板戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てた先生のねぐらが、何事もなく待っていて、そこに<ruby><rb>掃溜</rb><rt>はきだめ</rt></ruby>へ鶴のような若い女を迎え、何はなくとも春のようで、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の明りまでがいつもの晩より明るい気がする。

お蝶が、たすきをかけて、酒の支度をしてくれるのを見ると、先生は感極まって、幾日も<ruby><rb>掃</rb><rt>は</rt></ruby>いた事のない<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>を持ち、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の酒の<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>さを夢みながら、

「正月め、おれを驚かそうと思って、不意討にやって来やがった」

どうもいつもの<ruby><rb>不性</rb><rt>ぶしょう</rt></ruby>に似ず、働くことと言ってはない。

その有様を格子の外に立って眺めながら、

「おや、馬春堂の家へお嫁が来たのかしら？」

と、はいりかねている様子の男は、以前からここへは時折遊びに来るお人好しの<ruby><rb>率</rb><rt>そつ</rt></ruby>八であります。

馬春堂の家の常にない空気をのぞき込んで、率八は例の<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な口調です。

「先生、今日はたいそうお宅の中が明るいね」

「おう率八か、上がって一服吸って行くがよい」

「エヘヘヘ、お邪魔になりゃしませんか」

「なぜだい？」

「でも、いつもお見かけした事のない、<ruby><rb>美麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>なお客様が働いているようじゃありませんか」

「居たってよいじゃないか、余人と違って、お前ならば邪魔にはならんよ」

「人間が甘いからでございますか。どうも驚きましたね、先生も見かけによらない色男だな」

「うふ……」と馬春堂は妙な笑い方をして箒を掛け、「率八、きょうは一杯飲ませるぜ」

「ところが、これから野暮用に行く途中なんで」

「じゃ帰りに寄るがいい、支度をして待っているから」

「ヘエ、ばかに景気がいいんですね、それにひきかえて、うちの<ruby><rb>所帯</rb><rt>しょたい</rt></ruby>は相変らず火の車で、今もこの先の七ツ屋へ駈けつけるところなんです」

質草のはいっている小風呂敷を差し上げて見せると、率八は抜け露地を駈け出して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたふた</span>と<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>に急いで行く。

「どれ、これで春風一掃じゃ」

<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>では馬春堂先生、久しぶりの<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>を<ruby><rb>掃</rb><rt>は</rt></ruby>き終えると、脚のあぶない<ruby><rb>茶卓台</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>をすえ、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>と<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の配置よろしくあって、

「これ、お蝶さんや、早くここへ来て手でも暖めないか。なに、お<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>はわしがここで<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>けながら<ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>るとしようよ」

と、斜めならぬ機嫌顔で、まず一、二杯のところを手酌で試みる。

「驚いたでしょう、不意に来て」

お蝶は、炬燵向うへフワリと坐って、その<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>な<ruby><rb>姿態</rb><rt>しな</rt></ruby>を甘えるようにくずしながら、

「私ほんとに困っている事があるの。……で、お願いにやって来たのよ」

「聞いてやろうじゃないか。わしは、人にすがられると、元来が涙ッぽくって、いやと言えない性分でな」

「じゃあ聞いて下さる」

「うむ、どんな事か、話してごらん」

「でも最前、雲霧と四ツ目屋の二人から、私の姿を見つけたら宿へ知らせてくれと言って頼まれた時も、先生はうんと承知していたじゃありませんか」

「ほウ、お前はあれを見ていたのか」

「幕のうしろに立っていて、すっかり話を聞いちゃッたわ」

「そいつはいかん」と先生は毛の薄い頭へ手を乗せましたが、少しもテレる様子はなく、

「だがお蝶さん、それは心配にも及ぶまい。なぜかと言えば、あの雲霧や四ツ目屋の輩には、何の好意をもつ理由もないが、わしは元からお前さんには深い同情をよせておる」

「ほんとに？」と力をこめて――「実はね先生」と言い<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>そうにもじもじする。

馬春堂は眼を細くして、片手に杯を運び、片手を<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の中のお蝶の手へ重ねて、

「窮鳥ふところに入れば何とやらいうたとえもある、決して他言はしないから、どんな事か言ってみるがよい」

「私はほんとにその窮鳥なのよ。宗門役人には<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>け狙われるし、世間の者はみんな<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>のようだし、それに何より困るのは、楽々と寝る家がないことなの。……ねえ馬春堂さん、可哀そうだと思って、私を当分の間ここの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に泊めてくれない？　……その代りには、お金なら勝手を知っている切支丹屋敷の官庫から、幾らでも私が<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に持ち出して来て上げるわ」

これは窮鳥どころか願ってもない<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>がかかって来たわい――と馬春堂は一も二もなく承知して、思わずその晩の酒を過ごしました。

率八が帰りに寄ってみた頃には、先生はもう他愛なく酔って<ruby><rb>醜態</rb><rt>しゅうたい</rt></ruby>を究めております。ただお蝶と率八があまり仲よく話し込む時に、とろんと睨みつける<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>らしい眼だけは、多少本性にたがわぬところがないでもない。

思わずグッスリと寝込んで――その明くる朝。

「おや、お蝶は？」

と彼はムックリ起きに、何より先に家の中を見廻しました。しかし、馬春堂なるもの安んじて可なりであります、お蝶はこの家の世話女房になりすまして、<ruby><rb>小忠実</rb><rt>こまめ</rt></ruby>に勝手で働いている。

盆と正月がいっぺんに来た気で、馬春堂はすっかり若返ってしまったようです。今日は顔を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>ろうの湯にはいろうのと、ついうかうか遊び暮して、虎の子にしていた一両は、またたくうちに消えてしまう。

そこで、また<ruby><rb>三味線堀</rb><rt>しゃみせんぼり</rt></ruby>の<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>ッ<ruby><rb>風</rb><rt>かぜ</rt></ruby>に幕を張らなければならないかと、少し酔の醒めた顔をしていると、その夕方です。

「もうお金がないんでしょう。いいわ、心配しないで寝ていらッしゃいよ」

こう言って、お蝶はその晩、身支度をして出て行きそうにした。

その身支度を見ていると、いつのまに持って来てあったのか、黒の男小袖に薄木綿の<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>を穿き、同じ黒の頭巾を<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>にかぶって大小を差して行く様子ですから、先生も一驚を<ruby><rb>吃</rb><rt>きっ</rt></ruby>して、

「これこれ、そんな<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>で何処へ行くのじゃ」

と、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>を飛び出して目をみはりました。

「何処へ？」と、馬春堂が怪しむのを聞き流して、お蝶は男装の上に覆面したおのれの姿をしきりと見廻しておりましたが、

「どう？　似合って？」

と、袖口を胸で合せながら、<ruby><rb>朱</rb><rt>あか</rt></ruby>い唇をつぼませて、男らしからぬ<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>の眼をする。

思わず釣り込まれて、馬春堂も、

「よく似合うな、そうしていると、路考とか伝九郎とかいう役者絵のようだ」

「じゃあ外を歩いていても、男に見えるわね」

「だがその<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>が少し変だよ、それじゃ第一、<ruby><rb>草履穿</rb><rt>ぞうりば</rt></ruby>きでは<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>がつかない」

そう言われるとお蝶も気がついて、またその上に並の平袴を二重に<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、

「これならいいでしょう、スラリとして――」

「ウム、それならばどう見ても、旗本の御次男が、夜遊びにでも行くようだ」

「じゃ先生、ちょッと行って来ますから、<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>しく家に待っていらっしゃいネ」

「おい、おい、お蝶さんや」

呼び止めるまに、すっと格子の音がして、お蝶は変ったその姿のままで、<ruby><rb>宵暗</rb><rt>よいやみ</rt></ruby>の露地へ出て行った様子です。

「あれ、もう行ってしまった」

馬春堂は格子の前まで出て来ましたが、急にソワソワとそこらを巡り歩きながら、何か考えていたかと思うと、戸<ruby><rb>閉</rb><rt>じ</rt></ruby>まりもせずに続いて長屋を飛び出しました。

<ruby><rb>徒士町</rb><rt>かちまち</rt></ruby>の四つ辻あたり、幾つもの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を棒鼻にブラ下げて、

「<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>ウ――、駕ウ」

と白い息を吐いている駕かきの溜りがある。

「おい、駕を一挺」

「旦那、何処へ向けますか」

と馬春堂を乗せた駕屋が肩を入れかけます。駕の垂れには春らしく輪飾りが下がっていて、寒いうちにも春らしい夜風がさらさらとそれに<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>る。

「あの、今向うへ行った、仲間のあとを<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けておくれ」

「じゃ今ここで、黒頭巾を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ったお武家を乗せたあいつですね」

「そうそう、切通しの方へ真っすぐに駆け出した」

先の足どりが早いとみえ、やがて暫くの間は激しく揺れに揺れて、駕の中の先生は舟にある思いをしています。

ぎッと、駕の足が止まったかと思うと、

「旦那、先のお武家が下りましたが、どうなさいますか」

「なに、下りたかい？　それではわしも此処から歩くとする」

駄賃を払って、そこの曲がり角から暗い坂をスタスタと下って行く。彼の先には、<ruby><rb>覆面</rb><rt>ふくめん</rt></ruby>をしたお蝶の姿が見えました。そして、そこは例の<ruby><rb>切支丹坂</rb><rt>きりしたんざか</rt></ruby>――

お蝶の足は坂へ向って、加速度に早くなりました。歩調が激しくなるにつれて彼女の影も男性的な活溌の度を増して見える。

いや、活溌どころの沙汰ではありません、獄門橋の先まで尾けて行った馬春堂は、次の瞬間に、あッと言ったきり、掌中の玉を失ったように、やや暫くというものは其処で開いた口がふさがらない。

もうお蝶の姿は、彼の視界の届かぬ所に逸していました。<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の大木の梢から丈余の<ruby><rb>高塀</rb><rt>たかべい</rt></ruby>を跳び越えて、切支丹屋敷の中へ紛れ込んでしまったのです。

「なるほど、お蝶の言ったのは嘘ではない。おれが金に困っているので、切支丹屋敷の官庫の中から、何か持ち出して来ようという気だろう。イヤハヤ、娘心のひとすじと言うやつは怖ろしいものだテ」

天下の色男はわしかしらと、長い<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を抑えてニヤリと<ruby><rb>悦</rb><rt>えつ</rt></ruby>に入った先生は、買物に入った女房を店の外で待っている男のように、そこで再び彼女が出て来るのを待っている。

ところが、<ruby><rb>豈</rb><rt>あに</rt></ruby>計らんやです、お蝶はその頃、宗門方の若侍が役宅から出て行くように、通用口の門番に<ruby><rb>門鑑</rb><rt>もんかん</rt></ruby>を示し、山屋敷の表からサッサとそこを立ち去っていたのであります。

で、それから先の彼女の行動は、遂に先生の知るよしもない事。

先生はその翌日、銭はないが大道へ稼ぎにゆく勇気もなく、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>に狸をきめていましたが、いつかトロリとしたところへ、

「あら、寝ているの？」

お蝶の嬌笑が障子を開ける。

何だか狐につままれたような気持で、馬春堂は眼をこすっています。

「これは約束のお金、少しですけれど、当座のお小遣いにして下さい。またなくなったらいつでも、切支丹屋敷から持ち出して来て上げますからね」

馬春堂の寝ぼけ眼をハッと覚ましたのは、お蝶が、無造作にそこへ置いた二十両ばかりの小判の色。

先生は驚き<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ欣びましたが、彼女が前夜山屋敷へ忍びこんだ実際を見届けていますので、その金の出所については、何の懸念も持ちません。

同時に、お蝶に対しては、色と慾の両天をかけて、彼女の事を頼まれた雲霧に密告するどころか、下へも置かぬようにして、気随気ままに任せています。

そこで、拘束のない<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>を得たお蝶はどうかと言いますと、彼女は、例の黒頭巾に男拵えの<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>で、毎日、夕暮となると何処かへ出て行く事が、雨の降る時以外は、一日も欠かしたことがありません。

「面白かったわ、ゆうべは男になって、吉原へ行って来たのよ」

そんな話を持ち出して、なにがしと呼ぶ青楼に何という馴染が出来たとか、或いは、そんな社会で知り合になった茶屋の<ruby><rb>女将</rb><rt>おかみ</rt></ruby>と、<ruby><rb>博戯</rb><rt>ばくぎ</rt></ruby>をして夜を明かしたとか、時によると、昨夜はなつかしい切支丹屋敷へ忍んで、一晩、昔の家で寝て来たとか、とにかく、夜は帰らないことに極まっている。

それだけは馬春堂も、甚だ不平に思いましたが、いつか習慣のようになって、その不平や不審にさえ慣れてしまう。

「先生、お蝶さんていう娘は、いつ来ても昼寝をしているね。今日も隣の部屋に寝ているんですか」

<ruby><rb>足忠実</rb><rt>あしまめ</rt></ruby>に、今日も馬春堂の家へ立ち寄った率八が、こう言って不審がると、訊かれた方は、至って当然のように、

「この娘は、<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>のように、夕方になると起きて出る。まったく、夜遊びの好きな性分でな」

「へえ、家にいる親分と、よく似ていますね」

「お前の家にも、誰か居るのか」

「え……」と率八は、あわてて口をつぐみましたが、

「なに居候のこってすよ」

「だって今、親分と言ったではないか。この間うちから、わしも少し腑に落ちないと考えているのだが、率八、お前は日本左衛門を<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>っているな」

馬春堂が睨みつけて言うと、果たして、率八の顔色が変って来ました。

「じゃ先生には、もうそいつが分っているんで……」

「分らないでどうするものか。わしも梅花堂流の易者だよ、それくらいなことは、とうに心のうちで<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>を立てて観抜いている」

「じゃあ先生にだけ話しますけれど、<ruby><rb>極内</rb><rt>ごくない</rt></ruby>にしていておくんなさいね」

「誰がそんな事をツベコベと<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るものか。居るんだろう？」

「へい、実は師走の中頃から、あっしの家に隠れていますが、その親分もお蝶さんと同じように、毎晩家を外にしちゃ、昼になると寝ているんです」

「そりゃあ何も不思議はないさ、<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>の昼寝というやつ、毎晩<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎに出かけるのだろう」

「ところがそうじゃありません」

お人好しの率八は、いつのまにか、馬春堂の口車とも気がつかずに、膝を進めていましたが、それと共に、障子を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てた隣の部屋に微かに寝息をかいていたお蝶も、ふッと眼をさまして、枕から顔をもたげました。

時の移るのも忘れて、お<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りをしていた率八が、障子に蔭る<ruby><rb>陽脚</rb><rt>ひあし</rt></ruby>に驚いて、蒼惶と馬春堂の家を辞して帰るとすぐに、お蝶も外へ急ぎました。

隣の部屋で、率八の話に聞き耳をたてていた間に、<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>も作っていたものとみえ、いつもの黒頭巾に<ruby><rb>男袴</rb><rt>おとこばかま</rt></ruby>、腰に細身の大小を落としている。

町を歩いてゆくうちに、案外油を売っていた時間が長かったことに気がついた率八は、にわかに<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てた足どりで、三<ruby><rb>筋町</rb><rt>すじまち</rt></ruby>から<ruby><rb>新堀端</rb><rt>しんほりばた</rt></ruby>に沿い、<ruby><rb>蔵前</rb><rt>くらまえ</rt></ruby>の通りをまっすぐに出て、見付から横山町の抜け道にはいります。

やがて、<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついた所は、浜町の<ruby><rb>片端</rb><rt>かたはず</rt></ruby>れ、その辺りまだ空地や空井戸や古池などが多く、大川端をすぐ前にして、四、五軒の<ruby><rb>紙漉</rb><rt>かみすき</rt></ruby>小屋と、<ruby><rb>漁師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>の家などが散在しているその中の一軒家。

そこが率八の家とみえて、

「おっかあ、今<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ったよ」

声をかけると、井戸端で<ruby><rb>炊</rb><rt>かし</rt></ruby>ぎの米を磨いでいた彼の女房らしい女と、その女の周囲に寄りたかッていた<ruby><rb>幼</rb><rt>おさな</rt></ruby>い子供達が、一斉に彼を迎えました。

「親分はどうしている？」

「さッき眼を覚まして、この井戸端で顔を洗っていましたよ」

「じゃあ、<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>の方だな」

彼の家族が住む二<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>ほどな狭い<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>と離れて、夏ならば、屋根には一八の花が咲き、秋には夕顔のつるでもからみそうな、一棟の納屋が見える。

一同が<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にはいって、破れ障子に明りをともすと、まだ<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>色に暮れ残っている大川の空から、バタバタと白い千鳥が降りて来て、井戸の流しに<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>ぎこぼしてある米粒を争ってついばみます。

「親分、只今帰りました、ツイどうも遅くなりまして済みません」

十能に炭を<ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>ったのを持ちながら、率八が納屋の戸口へこう言うと、<ruby><rb>配流</rb><rt>はいる</rt></ruby>の人でも居そうな小さな切窓に、今<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をついて<ruby><rb>川洲</rb><rt>かわす</rt></ruby>の方へ横に立って千鳥を眺めていた一人の男が、

「おう火を持って来てくれたか、<ruby><rb>水際</rb><rt>みずぎわ</rt></ruby>の家は、日が暮れると急に寒いものだな」

側の火鉢の灰を掘る。

それへ移す炭火の火で、赤く映って見える鼻すじや頬骨の線には、日本左衛門の特徴が線香で描いたようにハッキリと見えました。

「今日は遅くなったので、お支度をなさるにも、少し暗うございましょう」

「いや、そう急ぐことはない、毎日の事なので、舟の支度も馴れて来たし、最前夕食もしたためた」

「気のつかない<ruby><rb>嬶</rb><rt>かか</rt></ruby>あなので、あっしがいないと、何のおかまいも致しません」

「いや、こうしている間は、かえってかまってくれぬ方が自分も気楽だ。そちの用意がよかったら御苦労だがまたいつもの所まで送って貰おうか」

「それじゃすぐにお出かけなさいますか」

「ウム、明りを<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>すにも及ぶまい」

膝の傍の大刀を寄せて、腰にたばさむと、あたりの物を片づけて、静かに、そこを立上がった様子です。

立ってみると、着流しではありません、足元を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>った<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>に、土間へ降りてわらじを<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>く。そして、彼が黒頭巾の<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>を結んで納屋の外へ出る間に、率八の方は大川の<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>に一艘の<ruby><rb>猪牙舟</rb><rt>ちょき</rt></ruby>を解いて、

「親分、あとは嬶あが戸を閉めに来ますから、どうか、そのままにしておいておくんなさい」

と、<ruby><rb>櫓支度</rb><rt>ろじたく</rt></ruby>をして待っている。

ぽんと、それへ日本左衛門の影が没して、ギイッ、ギイッ、という<ruby><rb>櫓韻</rb><rt>ろいん</rt></ruby>が大川の<ruby><rb>夜霞</rb><rt>よがすみ</rt></ruby>に遠くなって行った頃です――やがて入れちがいに、二人が去った納屋の中に、ぽっと明りの影が射して、男姿のお蝶が黙然と坐っていました。

一<ruby><rb>閑張</rb><rt>かんば</rt></ruby>りの小机があります。お蝶は覆面のまま前に坐っておりましたが、思いついた風に、<ruby><rb>硯筥</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をとり、有合せの江戸川紙へこんな文字を幾つもうつつに書き散らしてみる。

日本左衛門様、日本左衛門様、恋しい日本左衛門さま、恋、恋、恋、恋、恋、恋、恋。

――恋という字が虫のようにならびました。

ビリビリとその一枚を破って捨てると、筆の端を白い頬へ突いて、暫く首を傾げておりましたが、やがて思い切った様子に、こんどはこんな風に書いてゆく。

<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>、鼻寺以来でございますね、日本左衛門様。

どうしたのでしょう、私は怖ろしいはずのあなたが、あれ以来、何だか忘れ得ないで悩んでおります。

あの鼻寺の本堂で、私に<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いたおことばが嘘でなければ、お蝶はほんとに救われますけれど、もしやあれは当座の嘘ではなかろうか、それとも真実のおことばかしら、と娘心は、他愛もなく、いまだに判断がつきませぬ。

お留守のあとへ参って、心残りの一筆、あわれとお読み下さいませ。またのお訪ねの折に、それが<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>ならば久しぶりの笑顔を、また、それが嘘ならば、お蝶の命を召されるなり、何と遊ばされるなり、御意のままに。

こう書き流して自身の名を<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>す所へ、文字の代りに、一筆描きに一羽の蝶の<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>を書きかけていますと、<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>の小窓の外へ、誰か人でも近づいて来たらしい気配に、ハッとしながら筆を置いて、側の<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を吹き消しました。

微細な注意と身構えを持って、そッと、納屋から外へ抜け出ようとすると、案の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>、外には一箇の人影が屈伏していて、じっとお蝶の挙動に目をつけている様子。

彼女はギクとして、宗門役人の手先を連想しましたが、さり気ない<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>を作って、率八の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の裏手から浜町の屋敷地の方へスタスタと足を早めだします。

――と、それを遣り過して十二、三<ruby><rb>間</rb><rt>げん</rt></ruby>の隔てを置いてから、

「お蝶だ！」

ムックリと身を起こしたのは案外体の小さい小童で、その影が飛躍すると共に、彼の手にある棒先の<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>が、水を振るようにキラキラと闇に<ruby><rb>閃流</rb><rt>せんりゅう</rt></ruby>する。

と、思うと、一足飛びに、

「待てッ」

と、その刃物の穂先が、追いつきざまに<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を走って、お蝶の肩を貫こうとしましたが、彼女も察していたことなので、身を沈めると共に<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、

「何をするのさッ、あぶない！」

帯の間からつかんだ物を少年の顔へぶつけて走り去りました。

「あっ……」と、顔を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた小童は、不思議な快感をもつ匂いにくるまれて、暫くは目が開けませんでしたが、やがてよくよく<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めてみると、それは桃花粉とやらいう<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>のはいった袋を目<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>しに投げつけられたものだと覚りました。

「臭い、臭い、女臭いぞ。これをみても、今のは女にちがいない。男に化けた切支丹屋敷のお蝶とかいう女にちがいない。そうだ、早くこの事を」

真っ白になった顔や手を、そこらの<ruby><rb>水溜</rb><rt>みずたま</rt></ruby>りで<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しげに洗うと、刃物の付いた短い棒を小脇にして、あたかも風を呼んだ孫悟空が急な<ruby><rb>用達</rb><rt>ようたし</rt></ruby>にでも出かける時のように、大川端から下谷方面へ、<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を飛ばして駈け出しました。

<ruby><rb>辰巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>でもなく、北でもなく、夜ごとに何処へ通うのでしょうか、日本左衛門を乗せた<ruby><rb>猪牙舟</rb><rt>ちょき</rt></ruby>は、隅田の本流から神田川をさかのぼります。

そして、朝になっては帰ってくる。

今朝も、まだ<ruby><rb>川洲</rb><rt>かわす</rt></ruby>の砂に千鳥の<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>さえない夜明け方に、率八の舟は、<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の中からゆうべの岸へ戻って来て、

「ほイ」と、揚げ<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>のしずくを撒いて、<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>を<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>の上へ乗り上げます。

ひらりと飛び上がると、率八は駆け出して、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の床下から炭俵や<ruby><rb>芋俵</rb><rt>いもだわら</rt></ruby>を抱えて来て、

「親分、今ひと<ruby><rb>燻</rb><rt>く</rt></ruby>べ<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>きますから、体を暖かくしてお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みなさいまし」と空地の一端で、ドカドカと<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>の焔を揚げ初めました。

「ああ人心地がついて来た」と、日本左衛門も背中をあぶる。

焚火に<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>らされた眼で見ると、枯れ草の霜の屋根の白さが一倍<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて真ッ白に見えます。

火のそばを離れ難く、そこであたりながら、頭巾や<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>を脱ぎすてた日本左衛門は、それを<ruby><rb>一括</rb><rt>ひとから</rt></ruby>げにして、

「いい気持になった、もう少しここで暖まっているから、これを納屋へ抛りこんで、ついでにおれの<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>入れを持って来てくれねえか」

と、率八に渡して言う。

すぐ納屋の中へ飛び込んで行った率八は、それを置いて、いいつけられた煙草入れと一緒に巻紙の切れ端を持って、読みながら歩いて来ました。

「親分、親分」

「なんだな、それは」

「机の上にこんな物が置いてありましたが、誰でしょう？」

「どれ……」

と、<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>のそばに腰を下ろして、彼は二、三度読み返しておりましたが、それを焔の舌先へ持って行って、赤くなって舞いあがる灰の<ruby><rb>蝶々</rb><rt>ちょうちょう</rt></ruby>へひとみを吊り上げました。

そして、呟くように、

「今日は来るかも知れない」

と、頬へ手をやる。

「親分」

「うム？」

「誰が来るんですえ？」

「お蝶という切支丹屋敷の<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>さ」

「ヘエ、じゃ親分は、あのお蝶という娘をとうから御存じなんてすか」

「あの女にゃいろいろな<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>があって、江戸へ戻る前までは血眼で探したもんだが、ここへ来てからは、そんな事もしていられないので、忘れるともなく過ぎていたのだ」

「そうですか、それなら早く親分にも話せばよかった。実は、馬春堂の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ三、四度寄って見るたびに、いつもあの娘が寝ているんで、変に思っておりましたんで……」

「そこで何か<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったのだろう。……それでなければお蝶がおれの居所を知って来るはずがない」

率八はドギマギしながら頭を掻いて、

「つい、口を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>らしまして、親分とは言いませんが、その……家に客が居るッていう事を話したもんですから」

「まあいいよ、口止めされても、つい<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ってしまうところが、おめえの値打ちのあるところだ」

「お人好しの率八でございますからね」

「そのお人好しの家へ<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>になって、おめえに質草まで入れさせているのは済まない話だが、いずれそのうちには、たんまりと恩返しに儲けさせるから、どうか暫く辛抱してくれ」

「ど、どう致しまして、親分に恩返しなんかして貰う覚えはありません。あっしの方こそ、以前の御恩があると思えばこそ、及ばずながら、こうしているんでございますもの」

「てめえの心持ちはよく分っている。だから、何かいい<ruby><rb>機</rb><rt>おり</rt></ruby>があったら、生涯食えるだけの金を持たせて、おれと結んだ悪い渡世の縁を切ってやりたいと考えているのだ。……おお陽がさして来たな」と、話を切って、火のそばを立ち上がりました。

乳色の<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>の空から穏やかな川波が、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光を反映して来ると、そこらをスイスイと飛ぶ白い小鳥が、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ったあたりの泊り舟へ朝を告げて飛び廻る。

「親分、もう少し<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き木を見つけて来ましょうか」

「いや充分に暖まったから、おれは納屋で一休み寝るとしよう。……そしてな、率八」

「ヘイ」

「もしかすると、お蝶が来るかも知れねえから、訪ねて来たら起してくれよ」

と頼んでおいて、小屋へはいる。

大川の空には、春風に乗った二枚半の<ruby><rb>字凧</rb><rt>じだこ</rt></ruby>や武者絵が、のどかなウナリを揚げております。

一方、野槍を小脇にもって、下谷の方へ駈け去った小童は、あれから何処へ行き着いたか？

そこは<ruby><rb>東叡山</rb><rt>とうえいざん</rt></ruby>の北裏にあたる根岸村――土地に住む<ruby><rb>雅人</rb><rt>がじん</rt></ruby>が呼んで<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>の里となす閑静な所でした。――手入れをせぬのがかえって風趣を増して見せる茶寮風の下屋敷、今は<ruby><rb>廃屋</rb><rt>はいおく</rt></ruby>にしてありますが、元は尾州侯のまま見えた<ruby><rb>園亭</rb><rt>えんてい</rt></ruby>に、近頃は誰か住んでいる。

その茶寮の縁先からは、遠からぬ所の<ruby><rb>御行</rb><rt>おぎょう</rt></ruby>の松が、夜の空を摩してのぞまれますし、広い庭は、<ruby><rb>雪見燈籠</rb><rt>ゆきみどうろう</rt></ruby>も<ruby><rb>空堀</rb><rt>からぼり</rt></ruby>の<ruby><rb>那智</rb><rt>なち</rt></ruby>石も、落葉に<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>まって冬ざれの霜の荒れにまかせてあります。――がしかし、南隅の<ruby><rb>寒紅梅</rb><rt>かんこうばい</rt></ruby>一枝、月<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>く<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>む夜を待つもののように、やはり何処か<ruby><rb>下萌</rb><rt>したもえ</rt></ruby>の季節らしく、寒いうちにも春意を含んでふくらんでおります。

「お嬢様、こんどはあなたの番じゃございませんか」

「あら、そうかえ」

「考え事ばかりしていては、折角こうしてお<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>みのお相手をしていても、何にもなりは致しません」

「だって、何をしても、気が<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れないのだからしかたがないよ。私も、お祖父様のことは、忘れよう、忘れようと、心では努めているのだけれど……」

玉の如き<ruby><rb>佳人</rb><rt>かじん</rt></ruby>の涙が、<ruby><rb>双六盤</rb><rt>すごろくばん</rt></ruby>にこぼれました。

「おりんや、もう止しましょう」

「そうですか……」と、小間使いのおりんも、慰めることばに困りながら、双六盤を床脇へ片寄せて、

「では、お気が晴れますように、おりんが田舎娘の手前を一服たててさし上げましょうか」

<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けて、隣の茶室の<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>べりに坐りました。

ところへ、裏門の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸を音させて、ガサガサと落葉を踏んではいって来た<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎が、

「おりんさん、月江様は？」

「おや次郎かえ、よい所へ帰って来てくれました、お前が居ないので、お嬢様も淋しがっていたところですよ」

「今夜、<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>のおじさんが来ると言ってたね」

「そうそう、何処やらのおいしい<ruby><rb>最中</rb><rt>もなか</rt></ruby>を買って来ると、この前帰る時に、約束をして行きましたが」

「まだ来ない？」

「ええ、まだ」

「どうしたんだろう、じれッたいなあ」

「早く上へおあがりな、何を独りして、そんな所で<ruby><rb>力</rb><rt>りき</rt></ruby>ンでいるの」

「金吾様や釘勘のおじさんが、前々から探している、<ruby><rb>混血児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>のお蝶を今日見つけて来たんだよ。だから、早く知らして欣ばしてやりたいと思って来たのに、何を愚図愚図しているんだい」

「そんな事を言ったって、金吾様と万太郎様は、当分この根岸にはお帰りがないというお<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづて</rt></ruby>だし、また、釘勘も、知らないでいるものを、そんな事を言ってじれたッて、無理というものじゃありませんか。……ま、そのうちに、お見えになるかも知れないから、上へあがって、お嬢様の御機嫌でも直るようにしてあげてください」

「うム、おいらの顔を見れば、月江様の泣き顔はすぐに直る」

「ほんとに、お嬢様の機嫌を直すのは、お前が一番名人だわ」

「なんかって、人をおだてるから、おいらは<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>だ」

「おだてはしない、この通り、次郎や、頼みます、頼みます」

茶を立てながら、おりんが片手で拝む真似をすると、次郎はその辺へ野槍を立てて、

「お嬢様、次郎でございます。只今！」

と、わざと元気な声で、次の間の縁先へ這い上がる。

「あ、帰ったの……」

泣いていたのでしょう、窓へよってうつ向いていた月江は、あわてて袂を離した顔を、明りにそむけて答えました。

次郎は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょこ</span><ruby><rb>然</rb><rt>ねん</rt></ruby>と、月江の前に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこま</rt></ruby>って、

「お嬢様、あなたは<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で何をベソベソ泣いていたんですか」

「あら、何も泣いてなんかいやしないのに」

「だって眼のふちが赤くなっているじゃありませんか」

こう、ぶッ切ら棒に詰問されて来ては、絹糸のように細い佳人の哀傷も、思わず、破顔せずにはいられません。

その泣き笑いの笑くぼを指さして、

「ほーら笑って来た、今泣いた<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>がもう笑った、おりんさん、お嬢様のごきげんが直ったよ」

そこへおりんも薄茶を一服立てて来て、

「やはりお前に限りますね。さ、お嬢様、次郎も帰って来ましたから、お気持を直して、また<ruby><rb>双六盤</rb><rt>すごろくばん</rt></ruby>か<ruby><rb>投扇興</rb><rt>とうせんきょう</rt></ruby>でも」

と言うのを、次郎はあわてて手を振って、

「いや、おいらは今も言った通り、今夜は遊んではいられないよ。釘勘のおじさんが来なければ、これから浅草まで急いで行って、あの事を早く知らして来なければならない」

「あの事と言うと、何なの？　次郎」

月江も思わず彼の眼色につり込まれました。

そこで次郎が<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>を話す。次郎はその以前に釘勘や金吾の口から、お蝶のことを耳に挾んでいて、暇あるごとに江戸見物に出歩くついでに、それとなく注意をしていたものと見えます。

偶然、彼はそれより数日前に、お蝶が狭い横丁から出て来る姿に行き逢いました。しかし、その後気をつけてみると、まるで服装が違っているので、男か女かの判断に迷いながら、今日、浜町へ帰る率八に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いてゆくお蝶を、またその後から尾けて行って見たのでした。

そしてまた、この根岸の下屋敷に、千蛾老人が亡い後の月江を引取ったのは、万太郎の計らいで、機を見て、彼が老人の生前に誓った約束を果たそうとする準備であるとも考えられるし、或いは、この家族に金吾を協力させて、千蛾老人を殺害した<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>を討たせんとする支度であるようにも思われる。

ともかく、月江はここに移されて、或る機運の巡転をじっと待つ境遇に置かれています。

しかし、金吾からも万太郎からも、この正月以来、さっぱり音も沙汰もない。

時折、釘勘が浮かない顔をして月江の様子を見舞に来ますが、その釘勘にも、以後の消息はさらに窺うべくもありません。――つまり夜光の短刀を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>るお蝶と日本左衛門とにからむ探索の手がかりも、<ruby><rb>渦紋</rb><rt>かもん</rt></ruby>がこの江戸表へ移ってから一層迷路の霧につつまれてしまった様子で、さすがの目明し釘勘も、近頃はこの事件に<ruby><rb>匙投</rb><rt>さじな</rt></ruby>げ気味になったのではないかとさえ、<ruby><rb>他目</rb><rt>よそめ</rt></ruby>には思われました。

「来ないなあ、釘勘のおじさんは――」と、次郎はしきりと待ち<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れて、

「もう来そうもないから、これから浅草の釘勘の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>まで一走り行って来よう。いいでしょうお嬢様」

と、再び庭へ下りかけます。

「もうだいぶ夜更けらしいから、明日にしてはどうですね」

おりんが止めるのを、かぶりを振って、すでに野槍を持ちながら、

「行ってまいります。遅くなったら、泊まって来るかも知れませんよ」

彼時代の元気というものは、自分にも他人にも<ruby><rb>抑止</rb><rt>よくし</rt></ruby>することを許しません。次郎は深夜の<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>の里を、再びタッタと駆け出しました。

釘抜きの勘次郎の手先部屋は、以前は京橋のお<ruby><rb>竹蔵</rb><rt>たけぐら</rt></ruby>でありましたが、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に南の附属となってから浅草千束村の桐畑に移っていました。

その桐畑は観音堂のお火<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>け地で、葉のない坊主木が、霜明りの大地に<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>を植えたように冴え返っている。

僧院のものらしい法衣の人達が、<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をさげて行くのを追い越して、やがて次郎は、荒格子を<ruby><rb>戸閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>した一軒の家の前に立ち、

「今晩は。――今晩は」

勢いよく、<ruby><rb>其家</rb><rt>そこ</rt></ruby>の表を叩き初めました。

訪れてみますと、折角彼が不眠で告げに来た甲斐もなく、

「どちら様ですか。もう<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>んでおりますが」

と、よそよそしい女の返辞が奥の方でするばかりで、釘勘の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の戸は、彼へ冷淡に閉まっているままです。

でも、次郎はなお<ruby><rb>其家</rb><rt>そこ</rt></ruby>をたたく手を止めないで、

「こんばんは。今晩は。――ここを開けて下さい。私は根岸の方からやってまいりました高麗村の次郎というもんですが……」

「今晩は<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と、部屋の衆はみな留守で一人もおりませんから、また明日来て下さいな」

「いえ、部屋の者は留守でも、釘勘親方にさえ会って、たった一ことお話すれば用は済むんですから、どうぞ、ちょっとここを開けておじさんに取次いでくれませんか」

そう言っている間に、奥の方でする女の声は、一向立って来そうもなく灯影も<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>してまいりません。

「お気の毒様だけれど、その親方もこの四、五日の間、ちッとも<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ顔を見せないんだから、また出直して来て貰うよりしかたがないね」

「困ったなあ」

次郎はそう呟いて、また奥へも聞こえるような声で、

「困ったなあ、そいつは」と繰り返しながら、いつまでもそこに<ruby><rb>嗟嘆</rb><rt>さたん</rt></ruby>を洩らしていました。そして、もう先では帰ったものと思っている時分にまた戸をたたいて、

「もしもし、それでは、釘勘親方が帰って来るまで泊まらして貰いますが、何処から這入ったらようございましょうか」

内と外で、なお二、三度押問答をしておりましたが、とうとう、根気負けがしたように、

「私は留守居の者で、何の御用事か知らないけれど、じゃあ裏の方へ廻ってごらん」

と、<ruby><rb>見当</rb><rt>けんとう</rt></ruby>違いな方で、やっと雨戸を開ける音がします。

次郎は家の横を廻って、裏口の明りを目あてに近寄って行きました。見ると、ことばの通り、もう戸締りをして寝ていたものに相違ありません、髪を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞんざい</span>結びにした二十四、五の肌の白い女が、二尺ほど明けた戸の隙に<ruby><rb>妖冶</rb><rt>ようや</rt></ruby>な姿を細長く見せていて、

「泊って待っていると言っても、親方はいつ帰るか分りませんよ。何しろ、商売がらだからね」

「でも、しかたがありません」

「それに私は、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>の家内でもなし雇い人でもなしするから、滅多な者を、泊めていいか悪いのかも分らないんだよ」

「決して、御心配には及びません、私が参ったのは初めてですが、釘勘親方とはとうから御懇意で、根岸のお下屋敷へは、時々訪ねて下さいます」

「根岸のお屋敷だって？」

「はい、前には徳川万太郎様が押し込められていた<ruby><rb>窮命</rb><rt>きゅうめい</rt></ruby>屋敷で、先頃からそこに御<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>になっている<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の召使い次郎と申す者でございます。或る急な事をお知らせしたいと、わざわざそこから飛んで来たんですから、お留守なら帰るまで待たして置いてくれませんか」

「何か知らないが、じゃ寒いから、内へ上がっているがよい」

「どうも有難うございます。ここから上がってもようございますか」

「今、<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>を上げるから、それで足を拭いて上がっておいで」

「折角、お寝みのところをすみません」

「さ、ここへ置くよ、雑巾を」

「はい、はい」

「そして、真っ暗だから、ちょっと其処に待っておいで、今、明りを持って来て、部屋へ案内して上げるから……」と、縁座敷の障子を開けて、奥に細く灯っている<ruby><rb>丸行燈</rb><rt>まるあんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>燈芯</rb><rt>とうしん</rt></ruby>をかき立て、それを左にさげながら、寝巻の<ruby><rb>小褄</rb><rt>こづま</rt></ruby>を取ってスルスルと出てきました。

円い<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>の輪が、女の白い<ruby><rb>腮</rb><rt>あご</rt></ruby>から面長な顔を逆さまに撫でて、暗い天井を<ruby><rb>海月</rb><rt>くらげ</rt></ruby>のようにふわふわとうごいて来る。

すると、次郎は初めて<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として、

「やっ、おめえは熱海で逢ったことのある、江戸のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>さんという<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>じゃないか」

明りを提げた凄艶な寝巻すがたへ、目をみはって叫びました。

意外です。それは<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく、熱海の隠居藤屋に泊まっていた丹頂のお<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>に相違ありません。

けだし次郎ならずとも、お粂の素性を知る者ならば、彼女が今こうして、目明しの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に留守居をしているなどという事は、あり得べからざるものと否定して、信じないかも分らない。

しかし、事実はどこまでも事実で、

「おや、それじゃお前は、あの時、何処とかいう御大家のお嬢さんについていたお供だったのかえ」

と、彼女もひとしく驚いた顔をした様子を見ますと、それは他人の<ruby><rb>空似</rb><rt>そらに</rt></ruby>ではなく、やはり丹頂のお粂であります。

「それじゃまんざら知らない仲でもなかったね。さあ、早く後ろを閉めて、こっちへ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったがよい」

お粂は親切に、火鉢に火を取って与えたり、寝るべき夜具を押入れから出して、自分も再び寝間へはいって、そこの明りを消しました。

「変だなあ、あのお粂というのは、金吾様をたぶらかしていた女賊だという話を聞いていたけど、どうして、釘勘のおじさんの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に隠れているのだろう？　目明しのおじさんが、そんな悪党の女を<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>っていていいものかしら」

次郎はもっとお粂と話を交わしてみたいと思ったのですが、彼女がそれを避けるように、すぐ明りを消して寝てしまったので、自分も寝るよりほかはありません。

で、疲れた足を<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の中にのばしながら、その疑惑に、寝入りばなの空想を囚われておりましたが、いつか、邪気のない<ruby><rb>高鼾</rb><rt>たかいびき</rt></ruby>をかいて、ぐっすりと寝込んでしまった様子です。

と――同じように、お粂もさまざまな考えに迷ったことでしょう。

どうしてあの高麗村の次郎が、根岸の下屋敷にいるのか？　また、何の急用をおびて<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ来たのだろうか？

いや、それよりも、彼女とすれば、すでにこういう境遇に<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かれて在る自分自身の現在からが、前から大きな疑問なのです。

去年の夏――

彼女の眼の先には、青い螢のようなものが明滅して見えてくる。

うまうまと<ruby><rb>秦野屋</rb><rt>はたのや</rt></ruby>に誘い出されて、あの甲府の信玄<ruby><rb>堤</rb><rt>づつみ</rt></ruby>の<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>で、突然、相良金吾に出会った時、どういう気持か後では自分でも分らない心理ではあったが、帯の間に秘めていた魔薬を自分の顔に浴びて、死のうとしたお粂です。

彼女は、そうして自殺を果したものとのみ思っていました。……ところが、誰かに介抱されて気がついてみると、おのれの身は柳沢家の町方役所の<ruby><rb>仮牢</rb><rt>かりろう</rt></ruby>に、牢医の手当を受けていた。

吐き気をつづけて、半日ほどは苦しみましたが、<ruby><rb>解毒</rb><rt>げどく</rt></ruby>を<ruby><rb>服</rb><rt>の</rt></ruby>まされて体が<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ると、<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>なく、おきまりの<ruby><rb>軍鶏籠</rb><rt>とうまるかご</rt></ruby>に乗せられて、甲府表から江戸町奉行へ差立てになり、<ruby><rb>阿弥陀</rb><rt>あみだ</rt></ruby>街道から笹子、小仏を揺られて来ました。

三尺高い獄門の台が、もうお粂の目には近づいていたのです。彼女も、相応な覚悟はきめて、<ruby><rb>軍鶏籠</rb><rt>とうまるかご</rt></ruby>の中では<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る神妙に返っておりましたが、夜中、江戸表へ着いたと思うと、意外にも、自分はこの観音堂裏の桐畑の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に運ばれて、

「そのうちに吟味があるかも知れないが、暫く養生をするがいい」

と、釘勘に言い渡されて、夢とも謎とも考えつかない数ヵ月を<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>に送っていたものであります。

洗えば、<ruby><rb>凶状</rb><rt>きょうじょう</rt></ruby>の多い自分の体を、町奉行から公然と、そんな寛大な起居をゆるされるはずもないし、第一、外出がちな釘勘が今夜のように留守な例は<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>ですから、逃げようとすればいつなん<ruby><rb>刻</rb><rt>どき</rt></ruby>でも逃げられないという事もない。

けれど、人間いつでも逃げ得られる境遇からは、逃げようとする衝動も起こらないし、また、どうして釘勘が自分をこうして置くのかという疑問も、お粂の心を一日のばしに此の<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>に引き留めて、ついつい、立去る気持も起こさせません。

## 浅草<ruby><rb>艶語</rb><rt>えんご</rt></ruby>

枕元で、釘勘らしい声がしたので、次郎がふと眼をさましてみますと、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>は三<ruby><rb>竿</rb><rt>かん</rt></ruby>、すでに翌日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>近い刻限です。

「あ……おじさん」

「どうしたい？　次郎」

「寝坊しちゃッた、お帰んなさい」

「鼻から提灯を出していたぜ、随分よく寝ていたようだな」

と、彼は次郎の寝ぼけ眼を笑いながら、今外から帰って来たばかりらしく、羽織を壁にかけて火鉢の前に坐り込んでいます。

「おじさん、急用があるんだぜ、今話すから待っていておくれ」

次郎はその間に、元気よく、夜具を押入れの中へまるめ込むと、流し元へ走り出して、ほんの<ruby><rb>真似事</rb><rt>まねごと</rt></ruby>だけに顔を洗って来て、

「何と言ったッけ……そうそうお蝶だ、切支丹屋敷のお蝶という<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>だ」

「それがどうかしたというのか？」

「おじさんはあの娘を、去年から血眼で探し歩いているんじゃないか」

「おめえも小耳に挾んでいたろうが、お蝶と日本左衛門の隠れた先が、皆目知れないので弱っているのだ」

「ところがそのお蝶に、おいらが昨日出会ったんだよ。それで、もう<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>だったけれど、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで急いで知らせに来たところが、部屋の者もおじさんも留守なのでガッカリして寝てしまったのさ」

「ほんとうか、次郎」

「ウソなんか言うものか」

「そいつが<ruby><rb>真実</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>なら有難い話だが」

「お蝶ばかりでなく、おじさんが今言った日本左衛門の隠れ家も、おいらはちゃんと突き止めて来ているよ」

「えっ……」と、釘勘も目明しの本業をこの少年に出し抜かれた驚きよりも、意外な吉報に思わず膝を立てて、彼がつぶさに話すところの率八の家の位置や、そこに現れた覆面異装のお蝶の行動を物静かに聞き取っていました。

やがて、<ruby><rb>茶箪笥</rb><rt>ちゃだんす</rt></ruby>をかき廻して、有合せの<ruby><rb>菜</rb><rt>さい</rt></ruby>で茶漬をかッ込むと、

「じゃあ、すぐに手配にかかるとしよう」

羽織を着直して外へ出ました。

次郎も捕手の仲間に加わる気か何かで、例の野槍をたずさえて、彼と共に飛び出しましたが、桐畑から千<ruby><rb>束</rb><rt>ぞく</rt></ruby>の用水堀まで駆けて来ると、

「おっと、お前はこの辺で待っていてくんな」

と、<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>る足を止められて、

「<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>頃になると、上野の方から一人、茶屋町の方から一人、草履ばきで、十手を持った男が来るだろう。それはおれの部屋に冷や飯を食っている岡ッ引だから、訊いてみて、もしそうだったら、灯ともし頃を合図に、大川と浜町の<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>から、例の所へ人数をよこすように親方が言い残して行きましたと、<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづて</rt></ruby>をしてくれないか。――でその時には、御苦労でも、お前がそこへ案内をして来てくれればなお有難いが」

無論、次郎に否やはありません。

「承知いたしました」

「じゃ頼んだよ」

「あ。――親方親方」

「なんだい？」

「その時は、おいらも<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>と一緒になって浜町へ行くよ。ちょうど明りの<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>く時分に」

「うまくこッちの方寸どおりに行くかどうか、とにかく、部屋の者に、上手にやれと言ってくんな」

次郎をそこに<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めて置いて、釘勘は大股に何処ともなく立去りました。

「あ。……忘れた」

後ろ姿を見送って、用水堀のふちに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽつねん</span>と立っていた次郎は、その後で、何か悔むようにこう呟きました。

「忘れた、忘れた。……自分の教える事ばかり<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ッていて、ツイ、ゆうべから訊こうと思っていたお粂の事をたずねてみるのを忘れてしまった」

<ruby><rb>霜解</rb><rt>しもど</rt></ruby>けの千束村の<ruby><rb>畦</rb><rt>あぜ</rt></ruby>を、梅の枝を持って通る人や、のろのろと歩む<ruby><rb>空駕</rb><rt>からかご</rt></ruby>の人影がいかにも春先の点景らしく、うららかに動いて見えます。

<ruby><rb>紙漉</rb><rt>かみすき</rt></ruby>職人の働いている紙干し場の原の手前で、一つの駕が止まりました。

「おい、すてきもねえ<ruby><rb>美女</rb><rt>たぼ</rt></ruby>が通るぜ。<ruby><rb>天降</rb><rt>あまくだ</rt></ruby>りでなくて、駕降りの天女だ」

「ほウ、成程、こいつは素晴らしい眼の保養だ」

「何処へ行くんだろう。行く先が気にかかる」

「あれ、<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>にそって大川の方へ歩いたぜ。あの流れが越せないので、橋を探しているんじゃねえかしら、それなら手を取って渡してやりたいものだが」

などと干し場の<ruby><rb>紙漉</rb><rt>かみすき</rt></ruby>職人が仕事の手をやめて騒いでいる彼方を見ますと、今、小川の縁で駕を捨てた押絵のような娘が、その声に顔を<ruby><rb>反向</rb><rt>そむ</rt></ruby>けて、小川の水<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>を<ruby><rb>大川河岸</rb><rt>おおかわがし</rt></ruby>の方へ、<ruby><rb>朱塗</rb><rt>しゅぬ</rt></ruby>りの<ruby><rb>木履</rb><rt>ぼくり</rt></ruby>を<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>ばせて行きます。

と――其処から小半町、

「あ。お蝶さんで」

その流れの水に屈み込んで、<ruby><rb>目笊</rb><rt>めざる</rt></ruby>に<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>み入れていた<ruby><rb>芹</rb><rt>せり</rt></ruby>の根を洗っていたお人好しの率八が、木履の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を見上げて声をかける。

「あら、今日は」

と、お蝶がこッちの岸から笑い返すと、率八は腰をのばして、

「見違えちまッた――今日は馬鹿に綺麗にお化粧して、それに、素晴らしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おめかし</span>じゃありませんか。それじゃまるで、瀬川<ruby><rb>路考</rb><rt>ろこう</rt></ruby>大家のお嬢様のようですよ。そこで、どちらへ？」

「あの……お前のうちに居る人へ、少し用があって来たんだけれど」

「親分も、お蝶が来たら起こしてくれと言っていました」

「じゃ、ゆうべ書いて置いた物を、読んでくれたのね」

「とにかく、こッちへお渡りなさい」

「あら、怖い……」

二間ばかりの小川の丸木橋を、<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>りのお染のように、<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>と木履で越えて来る娘らしさは、前の夜の男装覆面の彼女とはどうしても同一人とは思われません。

「親分、来ましたよ」

率八に揺り起こされて、眼をさました日本左衛門も、今まで幾度となく見たお蝶よりも、今日のお蝶の思い切った濃艶な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おめかし</span>に、思わず眼を奪われて、

「おう、上がるがいい」とは言ったものの、殺風景の<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>の隠れ家に、多少テレない訳にはゆきません。

「どうぞ、ごゆるりと」

率八が出て行こうとすると、

「おい」

「何か御用で？」

「面倒だろうが、あとで酒の支度をしておいてくれ。それと、ぬかりはなかろうが、納屋のまわりを時折見張っているようにな」

「よろしゅうございます。安心して、お話なさいまし」

どんと、戸を閉められると、納屋の中の光線は、わずかに明り取の切窓一つで、お蝶の<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>も日本左衛門の姿も、程よく室内にぼかされて二人の気持も落着いて来る。

――まず何から話そうか。

彼と彼女の間に、或る心の経過があったとしても、茶屋町の四ツ目屋の帰りからずっと今日まで、彼が追えばのがれ、彼が迫れば蛇の如く<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>んで逃げていたお蝶が、自分からここへ来てから真向きに坐る気持は、何としても、唐突で、にわかに言葉の<ruby><rb>緒口</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>が見つからない。

が――そういう時には、女にはモジモジしているという受身の<ruby><rb>姿態</rb><rt>しな</rt></ruby>が助けます。お蝶もそこで、娘らしい<ruby><rb>羞恥</rb><rt>はにか</rt></ruby>みを作って、男の言い出す声を待つばかりでした。

「…………」

けれど日本左衛門も暫くは無言で、彼女の<ruby><rb>襟脚</rb><rt>えりあし</rt></ruby>を眺めながら、彼女の心を読もうとするものの如き眼<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざし</span>であります。

外では率八が、見張りの眼を光らしながら、酒の<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>にしようとして、そこらの枯れ草で有合せの<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>でも焼いているものとみえ、明り取の窓からその煙と、こうばしい汐の焼ける匂いがぷんと流れて来る……。

暫くの間、ひそかだった納屋の中で、やがて<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の低い<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き――

「お蝶。それに<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りはあるまいな」

日本左衛門の低いうちにも力のある言葉です。

「考えてみると私ほど、世の中に頼りの薄いものはありませんもの……。いつかの晩、鼻寺の暗やみで、女房になれと、あなたに言われた時は、ただ怖い一心でしたが、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>になってみると、ほんとに自分の生涯を託すお方は、あなたよりほかにない事が分りました」

「そうだろう、お前は<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷を脱出した、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ころびばてれん</span>の娘だ。お前を容れる世間はなく、お前を<ruby><rb>狙</rb><rt>つ</rt></ruby>け廻す宗門役人があるばかりだ」

「ほんとに私はその通りなの。今日は<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>で来ましたけれど、外へ出るには、油断も隙もならないので、男姿で役人の目を<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ましているくらいなんです。……可哀そうな女だと思って下さい」

「おれも孤独だ。孤独のおれはそういう薄命な女をいつも心でさがしているらしい」

「じゃ今でも、鼻寺で言ったことばに変りはないのでございますね」

「あのお粂に裏切られた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>は、一層、愛というものに飢えて、孤独なおれは、しきりと恋の相手を探していたが、おれは常に運命の尺前に、十手と獄門台を見ている大盗だ。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、人情の温かみにめぐまれる日はないものと、淋しい覚悟を持っていたが……」

「私の悩みと似ておりますのね」

「お前というものがいつかそれに選ばれたのだ」

「ほんとに嬉しゅうございます」

「女房になれ」

お蝶の腕を引寄せて、その肩を抱えました。

「なりますわ。いつまでも、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>……」と、引寄せられたまま、抱擁の力を求めるように<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>の謚るる目をあげて男の顔を見上げました。

「親分、何にもありませんが」

と、そこへ率八の声がして、戸口から射し込む光線の中に、酒と膳とを運んで来た彼の姿が立ちました。

「お蝶さん、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ置いて行きますから、お酌はよろしく頼みますよ」

「あい」と、彼女はいそいそと受けて、

「まあ、なかなか御馳走が」

「率八も可愛い奴、あいつだけは、早く足を洗わして、矢来の中の往生はさせたくねえものだ」

お蝶は、彼の杯へ一つ<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>いで、

「私も死ぬのはいやですわ」

「それや誰だってそうに違えねえが、人間には、何の力も及ばぬ運命がある」

「どんな運命が向って来ても、私は<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>生きて抜けます」

「お前は、おれより気が強そうだな」

「弱い気持では、とてもこの世間に、生き通して行けませんもの。それに、あなたという人があれば、一層私は気を強くして、少しでも永くこの世に居てみたいと思います」

そう言いながら二人共に、何となく、寸前の運命に<ruby><rb>儚</rb><rt>はかな</rt></ruby>い予感を持ち合っているらしく、酒にも深く酔えませんでしたが、思慕の情はかえって濃密な気持を双方に起こさせました。

「おう、暮れて来た」

日本左衛門はふと<ruby><rb>切窓</rb><rt>きりまど</rt></ruby>の夕星を見て、何かにわかに気を<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かれて来たらしく、

「夜になると、出かけなければならない用事があるんだが……お蝶、また折を見て訪ねて来てくれ」

今日の首尾を惜しみながら、お蝶も夜になると切支丹屋敷にいるヨハンの姿が目に見えて来て、じっと落着いていられない気持に<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>かれて来るのでした。

「じゃ、またそのうちに」

と眼で誓って、彼女が先に男のそばを立った時です。――慌ただしい率八の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が、どどどどッと来て納屋の外へ<ruby><rb>衝</rb><rt>ぶつ</rt></ruby>かったかと思いますと、

「親分ッ、手が廻った！」

と<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>に火のついたような彼の絶叫であります。

さてはと、さすがに胸をギクとさせて、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>が顔を見合わせたまま<ruby><rb>佇立</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいますと、途端に、そこの戸を開けた率八が、

「親分、今のうちです、早く舟の方へ」

と顔色もなく、舌をふるわせて<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き立てました。

――と共に、飛鳥のように外へ走ろうとするお蝶を後ろに制して、

「騒ぐな。捕手か」

「え、そんなあんばいです。最前からこの辺へ、うさん臭い男がウロついていましたので、<ruby><rb>嬶</rb><rt>かか</rt></ruby>あにも油断をするなと言っていますと、案の定、向うの<ruby><rb>紙漉場</rb><rt>かみすきば</rt></ruby>へ人数が集まって、いつのまにか八方を塞いでしまった様子です。もう逃げ口は、大川よりほかにはございません」

「よし、よし。それくらいの事はかねての覚悟だ」

「だが私はどうしたらいいのかしら？　……」

「案じる事はない。率八の言うとおり、八方は<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>の遠巻き、滅多に駈け出しては、かえって危なかろう」

「そうです、愚図愚図していると一大事ですよ。……さ親分、お蝶さんも、早くここを」

「とにかく、おれと一緒に舟へ乗るさ」

「ああ、それなら私も気が強いわ」

男の腕にすがりついて、お蝶が外の夕暗をのぞくと共に率八は、大川の<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>へ走り出して、<ruby><rb>猪牙舟</rb><rt>ちょき</rt></ruby>の小べりに寝ている櫓柄を取り上げています。

今だ！　と直覚したので、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>がそれへ目がけて疾風のように駆け出した時は、すでにその逃げ口にも、危機のワナが懸っていました。――走り出して七、八間、あッと筒抜けの声が夕暗を流れたかと思うと、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の姿は、地に張られていた一本の繩に<ruby><rb>諸足</rb><rt>もろあし</rt></ruby>を<ruby><rb>拯</rb><rt>すく</rt></ruby>われて、

「しまッた！」

と叫びざま、左右へ離れて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のめり</span>ました。

耳をつンざく<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>の音が、一息のうちに律を刻んで四方へ響きを伝えますと、相手の足をすくッた繩の左端から、

「日本左衛門、御用」

と呼んだのは、まぎれもない釘勘の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どす</span>声であり、同時に繩の右端から、

「お蝶、待てッ」

と野槍を持って躍り立った人影があります。それはここに捕手を導いて来た<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の怪童次郎に相違ありません。

次郎が鋭い勢いをつけて、お蝶へ野槍を向けて来たのを見ると、率八は驚きながら、有り合う舟の<ruby><rb>鈎棒</rb><rt>かぎぼう</rt></ruby>を持って、

「お蝶さん、舟へ、舟へ」

と、おのれが代って彼の相手に立ちました。

<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>、あぶなかったのは釘勘の<ruby><rb>頭蓋骨</rb><rt>ずがいこつ</rt></ruby>でした。<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>を口から放した途端に、鬼神のごとく怒った日本左衛門が、身を<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>めかせた反動を抜き打ちにかざした<ruby><rb>長船</rb><rt>おさふね</rt></ruby>の大刀に乗せて、

「釘抜き。まだ生きていたかッ」

と、飛躍と共に、斬り下げて来たのです。

何の尺二、三寸の十手がそれを支え得ましょう。ガッキと受けたら長船の刃はこぼれて飛んだかも分りませんが、その代りには釘勘の脳骨がたしかに二つに割れたでしょう。

元々、目明しや捕手などは、武芸をほこる武芸者ではありませんから、どう<ruby><rb>穢</rb><rt>きたな</rt></ruby>い逃げ方をしようが、逆トンボを打とうが、要は、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をしないに限ります。そこでこんな場合に、その切ッ先に当って行くような<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>な目明しはありません。

「おッと！　あぶねえ」

ひらりと横ッ飛びに逃げ<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた釘勘は、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、手元に近づき難いものと見て、十手を口に預けるが早いか、前の<ruby><rb>捕繩</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>を輪に<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>って、その分銅の先を、<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>の尾のように微かに振りながら、機を見ています。

がしかし、日本左衛門は二度とは寄って来ませんでした。

彼は片手の長船を少しずつ手元に納めて、一歩一歩と後<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>がりにお蝶のそばへ寄って行きますと、

「<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てることはねえ。日本左衛門が付いている」

囁きながら、彼女の手首を右腕の脇へ抱き込みました。そして、片手の切ッ先は、いつか、釘勘と次郎の野槍へ等分な注意を配りつつ、なおジリジリと川波の白い洲の方へ退がッて行くのです。

そのうしろには、<ruby><rb>猪牙舟</rb><rt>ちょき</rt></ruby>がある。

しかしその時――深川河岸の方からと永代の川番所の方から、紺色に黒ずんだ宵の大川に<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をかざして、早くも漕ぎ迫ッて来る<ruby><rb>幾艘</rb><rt>いくそう</rt></ruby>かの櫓声がします。無論、釘勘の手配による捕手を乗せた小舟でしょう。

けれどもまた不思議なのは、紙干し場の原やその辺の小屋の蔭に、合図を待っている人数です。

今の<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>が聞こえないはずもなく、次郎と釘勘が苦闘に<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちて、すでに長蛇を逸しそうに見えるこの場合になっても、何処からも、一人も駈け寄って来ないというのは何とも合点が行きません。

そのくせ、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の<ruby><rb>紙漉</rb><rt>かみすき</rt></ruby>小屋の附近では、何かわめき合う声も聞こえ、乱れ飛ぶ提灯の影もただ事ならず見えますのに――。

ちょうどその前後に、<ruby><rb>菖蒲河岸</rb><rt>あやめがし</rt></ruby>から浜町附近の露地を流して来た二人連れの<ruby><rb>虚無僧</rb><rt>こむそう</rt></ruby>がある。

ちらと、笠の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>をのぞいた岡ッ引がそれを認めて、

「やっ、雲霧と四ツ目屋だ！」

折から張込んでいた捕方にそれを伝えたから堪りません。

彼方の納屋で合図があったら一度に動き出す手配をして、幾段にも構えている捕手の伏せ勢が、何気なくその危地へ懸って来た虚無僧の二人をつつんで、

「それッ」と、声を揚げてしまいました。

不意を<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれてギョッとした虚無僧が、「何をッ」と<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>をハネたのをきッかけにして、二本の白刃へ向って集まる十手の疾風が、まず<ruby><rb>紙漉場</rb><rt>かみすきば</rt></ruby>の裏あたりから凄まじい乱戟の渦紋を起こして、遂にそれから間もなく<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>の前で、釘勘がけたたましく吹いた<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>の音にも、手を分けて駈け向うことができなかったのであります。

驚いたのは、雲霧と四ツ目屋でしょう。

二人は、この遭難を偶然とは思いません。

江戸表へはいり込んで以来、<ruby><rb>偽普化僧</rb><rt>にせふけそう</rt></ruby>の姿で、暫くうるさい岡ッ引の眼から離れたものと安心していた矢先ですから、当然、自分達を待ちうけて張られていた捕手の網と思ったらしく、<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>と狼狽と死に物狂いとで、寄りつく人数を滅茶苦茶に叩き斬ッてあばれ廻る。

この向う見ずな二人には、多勢の捕手もスッカリ手を焼いた形で<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の川洲、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>の露地、或いは狭い横丁から浜町の屋敷地にまで引き<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>り廻された揚句、果ては組々の人数もちりぢりになって、とうとうどこかへ取逃がしたのは、諦められない<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさでしょう。

その頃はもう、とっぷりと陽が暮れて、大川を隔てた深川の屋根の上から、黄色い宵月が顔を出しています。

その反映が箱崎川の<ruby><rb>枝河</rb><rt>えだがわ</rt></ruby>にまで射し込んで、脚の高い女橋の<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>の裏まで<ruby><rb>仄明</rb><rt>ほのあか</rt></ruby>るく見えたかと思いますと、<ruby><rb>守宮</rb><rt>やもり</rt></ruby>のように、橋の裏に取ッ付いていた二人の男が、

「驚いたなあ、雲霧」

「まったく不意を食らわしゃアがった。前から気振りでもあれば、少しは覚悟のしようもあるのに」

「どうだろう、もうボツボツ出かけて見ようじゃねえか」

こんな事を言い合っていたかと思いますと、<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>を伝わって、石垣から、橋の袂へそっと顔を出して、

「いいか？」

「よし」と一方に眼くばせしながら、ひらりと<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ飛び上がりました。

「困ったなあ、天蓋を吹ッ飛ばしてしまった」

「おれは尺八を何処かへ落としてしまったぜ」

「どうせ偽者だからしかたがねえや」

「おい、待ちねえ。……誰か向うから駆けて来やがった」

「成程……だが犬じゃねえようだが」

「何処かで見たような男だぜ」

「誰か探しているんじゃねえか。ふらふらしながらこっちへ来る」

枯れ柳の蔭に身をかわして、通る男をやり過ごそうと見ていると、それは、少し度を失った様子で、眼色を変えてよろけて来たお人好しの率八でした。

四ツ目屋の新助は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>して、

「やっ、あいつは率八だ。オイ、率八じゃねえか。率八、率八」

呼び止める声に、駈けて来て、

「おっ……四ツ目屋の」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ」

「オオ雲霧の<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>もここに……」

「静かにしろッて言うのに、わからねえ奴だ、どうしたんだその<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>は？」

肩を叩かれてそう訊かれると、率八は、クスッと一つ肩でしゃくり上げて、遂にワッと手放しで泣き出しました。

新助と仁三は驚いたり<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てたりして、

「やいやいやい。泣く奴があるか、泣くやつが？」

こんな所へ捕手でも来られては――と<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻して、大急ぎで、率八を柳の下にしゃがみ込ませる。

「ばか野郎め。大きな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>をしやがって、人の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を見る途端に、ベソをかく奴があるものか。泣いていたんじゃ話が分らねえや、一体何がどうしたんだ、ハッキリと口を利きゃアがれ」

<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>くもあるが実際腹も立って、思わず雲霧が怒鳴りつけました。

雲霧に叱られて、率八はやっと泣き黙りました。そして、話すのではなく、訴えるが如く言うのを聞き取ると、四ツ目屋と彼は顔を見合って、

「それじゃ親分は、お蝶と一つ舟で大川へ逃げたと言うのか。なんのこった、おれ達は足を棒にして探していると言えば、飛んだ<ruby><rb>道行</rb><rt>みちゆき</rt></ruby>と<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>ていたんだぜ」

「そんな親分じゃなかったが、鼻寺以来、お蝶に少しどうかしているな」

「何しろ率八がいい災難だ」

「可哀そうに、てめえを捨てて、お蝶を連れて逃げた親分の心が、おれは憎い」

<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>として、不平を言葉に鳴らしました。

「とにかく、落ちた先を探そうじゃねえか」

「親分のか？」

「そうよ」

「また、お手軽にゃ分るめえぜ。甲州でドジを踏んでから、仲間の連絡も<ruby><rb>支離滅裂</rb><rt>しりめつれつ</rt></ruby>だ」

「その心棒になる親分が、眼色の<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>った小娘の<ruby><rb>擒人</rb><rt>とりこ</rt></ruby>になってしまったんだから、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>にすりゃ散々な敗北だな」

親分が悪く言われるのを、率八は辛い顔をして聞いておりましたが、そのままにして置くと、何処まで辛辣になるか知れないので、

「ねえ、四ツ目屋の<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>、親分に会おうと思えば、いつでもじきに会われますぜ」

二人の間へ、横から顔を伸ばして言う。

「ふウむ、何処で？」

「お茶の水の底へ降りて、夜になるのを待っていれば、きっと親分がやって来ます、今日まで毎晩、そこへ行く事を欠かした事はありません」

「何しに行くんだ、そんな所へ」

「何しに行くのか、俺にも分らねえが、毎晩舟で送って行くと、あの谷間にある<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>へはいって行きます。そして、帰って来るのは明け方なんで」

「へえ、そいつは初めて耳にした」

「だけれど、親分も今夜からは、俺が居ないで不自由だろうな。きっと暫くは、そこへ行くのも止めるかも分らない」

「何しろ、そのうちに、折を見て一つ行って見ようじゃねえか。その時は、案内だぜ」

二人に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩きながらも、率八はうろうろと後ろばかり振返っている。逃げるからには、人通りのない方へ行くのだろうと考えていた彼の想像は違って、雲霧と四ツ目屋は、<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>の<ruby><rb>渡舟</rb><rt>わたし</rt></ruby>から<ruby><rb>茅場町</rb><rt>かやばちょう</rt></ruby>まで一息に急いで、それから先の縁日の人<ruby><rb>混</rb><rt>ご</rt></ruby>みに交じると、初めて足を緩めました。

「おい率八、空き腹だろう、食いたい物は何がいい？」

「ありません、沢山です」

「意気地のねえ奴だ、元気を出せ」

「縁日を歩いていると、みんな女房や子供を連れて、楽しそうに歩いていますね」

「盗ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>がそんな事に気を取られているようじゃ脈はねえ。率八、悪くすると、てめえは近いうちに獄門へ顎を乗せそうだぜ」

「な、なぜですか」

「いやに哀れッぽい声を出しゃあがって、仏心があり過ぎるもの」

「これでも随分我慢をしているつもりなんで……実アさっきから、<ruby><rb>嬶</rb><rt>かか</rt></ruby>アや<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>がどうしたろうかと、それが心配で、足が前へ進みません」

「そうそう、てめえには、<ruby><rb>女房</rb><rt>にょうぼう</rt></ruby><ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>があったんだっけな。第一、よろしくねえ男だ、泥棒のくせにして、女房を持ったり子をでかす奴があるものか」

「こんなつもりで持ったんじゃありません。そのうちに子が出来て、食えなくなったから、始めたんです」

「そして、てめえの罪が、女房子にかかって行けば、元々になるじゃねえか。そんなに案じられるなら、もう一度<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>へ戻って、見届けて来い。その代り、すぐ捕まるぞ」

「お、おどかしちゃ、いけません」

「ははははは。<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>をからかッていると<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りがねえ。どれ、飯でも食おうか」

薬師の横丁をのぞくと、<ruby><rb>菜飯</rb><rt>なめし</rt></ruby>、奈良茶飯、木の<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby><ruby><rb>田楽</rb><rt>でんがく</rt></ruby>、<ruby><rb>蒲焼</rb><rt>かばやき</rt></ruby>など、軒並びの八<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>が<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>をハタかせて、春の淡雪のような灰を綺麗な火の粉の流れる往来へ叩いております。

## <ruby><rb>梅香鬼</rb><rt>ばいこうき</rt></ruby>

朝飯前に百射の弓と<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>のそぞろ歩きは、若い新将軍の習慣となっていました。

今朝も<ruby><rb>的場</rb><rt>まとば</rt></ruby>で一汗しぼって、本丸の<ruby><rb>道灌堀</rb><rt>どうかんぼり</rt></ruby>からお<ruby><rb>駕台</rb><rt>かごだい</rt></ruby>の附近へ、早咲きの梅を見ながら歩いてきた吉宗、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごつい</span>木綿の平服に<ruby><rb>結城</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をつけ、

「源次郎、そちの歩き方を見ると、まるで締まりがないぞ。それだから弓も剣道も上達しない筈じゃ」

<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いている小姓番の松平源次郎に、元気よく話しながら戻って来ます。

「左様でございましょうか。しかしお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の歩き方もべつに変った所はないように存じますが」

「いや、わしには心得がある。屋内では禅坐、戸外では歩心、一歩でも、不用意には歩いておらん。それに引きかえて、そちの足は、<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>を前に出す為にしか動いておらぬ」

「元々、足を動かすのは、体を前に出す為のものと心得ますが」

「いや、足は体を運ぶ道具だけではいけない。世の中を踏み上げてゆく心がなくては」

「難かしゅうございますな、考えますると、どう歩いてよいのか、分らなくなりました」

「<ruby><rb>不及</rb><rt>ふきゅう</rt></ruby>先生の歩術でも習え」

「歩術、ははあ、どこかで承りました」

「<ruby><rb>屋内禅坐</rb><rt>おくないぜんざ</rt></ruby>、<ruby><rb>戸外歩心</rb><rt>こがいほしん</rt></ruby>、両道を合せて味わうとなかなか面白い。おお、咲いたな、梅が」

「この附近は、南向きのせいか、早咲きにござりますが、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の方のは、まだつぼみも固うございましょう」

「<ruby><rb>錦霜軒</rb><rt>きんそうけん</rt></ruby>の<ruby><rb>臥龍梅</rb><rt>がりょうばい</rt></ruby>もまだ早いかな？」

「あれは、わけても遅い方で」

「お、錦霜軒で思い出したが――」と吉宗はふと足を<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めて、

「<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の<ruby><rb>小早川剛兵衛</rb><rt>こばやかわごうべえ</rt></ruby>はその辺に見当らぬか」

「お召とあらば、見てまいりましょう。近頃、<ruby><rb>山吹</rb><rt>やまぶき</rt></ruby>のお茶屋の手入れにかかっております故、あの附近に居るかと存じます」

庭を駈け出した源次郎は、やがて黒鍬の<ruby><rb>組頭</rb><rt>くみがしら</rt></ruby>剛兵衛を連れて戻って来ました。時ならぬ場所で、不意のお召に、剛兵衛は何事かと、吉宗の前にひざまずき、

「何ぞ、お庭の手入れに、悪いところでも、お目に触れましてござりましょうか」

と、<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>る畏る顔色を仰ぎ見る。

「そういう咎め立てをするのではない」

と、吉宗はまず古参の老庭師が心配顔を<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>させて、

「呼んだのはほかでもないが、過日、そちが案内に立って吹上へ参った尾州の万太郎の事じゃ」

「おう、あのお方の事でござりますか。それについて、剛兵衛からも、いつぞや、お側衆まで申し上げておきましたが、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>のお耳には」

「いや、何も聞いておらぬ。尾州家の気まま者ゆえ、誰も、なるべく噂を避けているのであろう。――ところでその後、彼は如何いたしているな」

「相変わらずにござります」

「相変わらずと言うと？」

「錦霜軒で寝てばかりおいで遊ばします」

「江戸城の庭が拝見したいなどとは、元々、口から出任せの口実と思うたが、寝てばかりいるとは、合点がゆかぬ」

「時折、あの前を通りまして、それとなく声をかけてみまするが、いつも、御家来金吾様と共に、戸を<ruby><rb>閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>した<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りでございます。そうかと思うと、夜中錦霜軒に<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りを見る事などもあり、未明に煙をあげている時などもござります。吹上は、火気厳禁のお定め、それとなく、御注意申したくは存じますが、何せい、御三家の若殿、剛兵衛<ruby><rb>直々</rb><rt>じきじき</rt></ruby>には恐れ多い儀と、その由、お側衆にまで申し上げておきました次第でございます」

「そりゃ無益じゃ。近習の中にも、万太郎へ苦言をするほど勇気のあるものはあるまい。よし、よし。そのうちに、吉宗自身から申してくれよう」

なお二、三、万太郎の行動について、剛兵衛に問い<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>した吉宗は、しきりと、小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げながら、講書の時刻、書院の方へ足を向けてゆく。

その頃から、妙なうわさを、吉宗はちらちら耳に入れました。

深夜、船見山の方角に怪し火が走った。また<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、大奥の女中達七、八人<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の梅林に暮れて帰ると幽鬼に出会って気を失った。また曰くです、四<ruby><rb>更</rb><rt>こう</rt></ruby>の頃になると<ruby><rb>作兵衛滝</rb><rt>さくべえだき</rt></ruby>の<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>りが止まって陰々たる人の囁きが聞こえる事があると。

そんな噂の出所はいつも<ruby><rb>長局</rb><rt>ながつぼね</rt></ruby>ときまっていて、さすがに、表方では真顔にうける者もないが、大奥の夜ものがたりでは、もっぱらそれに尾ヒレを付けて、遂には、<ruby><rb>御中﨟</rb><rt>ごちゅうろう</rt></ruby>などの口を経て吉宗の耳にもはいって来るものとみえます。

もっとも大奥にこんな噂の立つことは、珍しいことではありません。大奥と怪力乱神とはつきものです。<ruby><rb>華美豪奢</rb><rt>かびごうしゃ</rt></ruby>をつくしている彼女たちの生活も、女ばかりの国はどことなく陰気で、常に妖説が信じられる。

しかし、それを聞くと、吉宗も信じました。

無論、口では笑っていたでしょうが、心の裡では、

（万太郎だな）と、あるべき事とうなずいたのです。

その万太郎の所為にしても、彼には二様の解釈がある。一つは、ちょうど自分と同じ三家の<ruby><rb>嫡子</rb><rt>ちゃくし</rt></ruby>にあった彼が、天下の大統を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けて将軍に坐った自分に対して一種のそねみと反感を持ち、新将軍の代がわり早々何かこの江戸城に不吉な妖兆を起こそうとする故意な<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>であること。

また一つは、別な目的をもって、<ruby><rb>錦霜軒</rb><rt>きんそうけん</rt></ruby>に<ruby><rb>起伏</rb><rt>きふく</rt></ruby>しながら夜中何かの策動をやっているのであろうという想像。

そのいずれか一つに違いないと見たのが吉宗の信ずるところでありましたが、将軍継承問題では、水戸とも暗闘があったところなのに、<ruby><rb>継職</rb><rt>けいしょく</rt></ruby>早々、またまた尾州家と確執を起こすのは苦しい事であり、水戸派、紀州派の諸臣に対しても面白くない成行きを見そうなので、まず聞き流しにしております。

けれど妖聞はなかなかやまない。

「狐狸の仕業であろう？」「いや黒鍬の者の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>ではないか」などという取沙汰はまだしもの方で、そのうちに誰が言い出したことか、<ruby><rb>紛々</rb><rt>ふんぷん</rt></ruby>たる<ruby><rb>臆説</rb><rt>おくせつ</rt></ruby>を排して、

「いえ、いえ、狐狸や<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の者の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ではありません、たしかにあれは幽鬼が出るのじゃ――幽鬼――異国人の幽霊が出てこの江戸城を呪うのに違いありますまい」

と、その存在性を肉づけるために、さらに臆説が臆説を生じ、うわさが噂を作り出す。――仮に火のない所に煙が立たないものとすれば、異国人の幽鬼とは、何を根拠として起こった説か、けだし大奥の異聞のうちでも、今度のうわさは徳川八世のうちでは新しい怪異でありましょう。

儒官、筑後守新井白石は、前々将軍家時代から久しく<ruby><rb>営裡</rb><rt>えいり</rt></ruby>に権勢をふるッていましたが、お代がわり以来、風向きがよくないので、早くも身を退く<ruby><rb>汐時</rb><rt>しおどき</rt></ruby>と感じて、中野<ruby><rb>桃園</rb><rt>ももぞの</rt></ruby>に隠邸をしつらえて、その日、新将軍に別辞をのべるため、最後の登城をしていました。

<ruby><rb>講書</rb><rt>こうしょ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>で、吉宗と白石と会う。

これが初めての<ruby><rb>賜謁</rb><rt>しえつ</rt></ruby>で、初めての<ruby><rb>別謁</rb><rt>べつえつ</rt></ruby>です。

吉宗は紀州の屋敷元にいた時代からこの<ruby><rb>老儒</rb><rt>ろうじゅ</rt></ruby>があまり好きでなかったので、今官を去る彼にも何の愛惜はありません。二つ三つ雑話の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、彼はふと、

「時に<ruby><rb>君美</rb><rt>きみよし</rt></ruby>、そちならば存じているかとも思われるが、当江戸城の内に於いて、異国人で<ruby><rb>誅殺</rb><rt>ちゅうさつ</rt></ruby>された者の例があるであろうか」

「君美御奉公中には心得ませぬが」

「いや、近い世の事でなくともよい。<ruby><rb>大猷院殿</rb><rt>だいゆういんでん</rt></ruby>時代、或いは、<ruby><rb>台徳院殿</rb><rt>たいとくいんでん</rt></ruby>の治世、また神君御開府の当時にでも……」

「宗門役の御制度、切支丹屋敷の御設置などが開かれました<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>ならば知らず、<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>御創始当時には、左様な例もないとは限るまいかと存じられます」

「ひとつ調べてくれぬか。奉公じまいじゃ」

「数日の<ruby><rb>御猶予</rb><rt>ごゆうよ</rt></ruby>を願わしく存じまする」

「急がいでもよい」

「取調べました<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>、文書をもって<ruby><rb>取次衆</rb><rt>とりつぎしゅう</rt></ruby>まで差出しておきます」

「いや、<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>の<ruby><rb>書態</rb><rt>しょてい</rt></ruby>では、老中どもが見まいとも限らぬ。小姓組松平源次郎<ruby><rb>宛</rb><rt>あて</rt></ruby><ruby><rb>取次</rb><rt>とりつぎ</rt></ruby>をもって、よこしてくれい」

「かしこまりました」

「もはや登城の折もあるまい。余生安楽に暮らすがよいぞ」

「<ruby><rb>洪恩</rb><rt>こうおん</rt></ruby>の大、老生が世を<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>きました<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>も、忘れは仕りませぬ」

<ruby><rb>君美</rb><rt>きみよし</rt></ruby>は<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を受けて退きましたが、異国人の幽鬼が出る――そんな噂を心得ない彼は、吉宗が何のためにそんな例を調べよというのか、<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないで下城しました。

急がずともよい、とは言いましたものの、吉宗は心のうちで、今日は来るか、明日は届くかと、新井<ruby><rb>君美</rb><rt>きみよし</rt></ruby>の調べのつくのを待ち久しげでありました。

<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>は日にまして、春めいてくる。

下向して在府中であった年頭の勅使、<ruby><rb>広幡</rb><rt>ひろはた</rt></ruby>、<ruby><rb>梅渓</rb><rt>うめだに</rt></ruby>の二<ruby><rb>卿</rb><rt>きょう</rt></ruby>が帰った後は、<ruby><rb>饗応</rb><rt>きょうおう</rt></ruby>の混雑やおびただしい<ruby><rb>供人</rb><rt>ともびと</rt></ruby>も去って、江戸城がにわかに広くなったような気がしました。

それが、<ruby><rb>如月</rb><rt>きさらぎ</rt></ruby>の初め、千代田の内外、やっと落着いた春日がつづきそうです。

御錠口にかかる手前の<ruby><rb>廻廊</rb><rt>かいろう</rt></ruby>の梅、南殿の梅、三の丸の梅庭、ぽちぽちと<ruby><rb>胡粉</rb><rt>ごふん</rt></ruby>を打ったような花をつけ初めて、<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>む夜は、大奥の明りも笑いさざめいて来ましたが、妖鬼のうわさは止みません。

「<ruby><rb>上様</rb><rt>うえさま</rt></ruby>、御覧あそばしましたか」

松平源次郎は、紀州家に在った時から吉宗に仕えていた小姓です。その源次郎には、君美から書状のくるのを含ませてありますので、ふと、こう言われた途端に、

「参ったか」

と、吉宗はそれと早合点をした様子でした。

「いいえ、あれではございませぬ」

<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>した様子で、

「何じゃ」と、改まる。

「今朝ほど、黒書院のお庭先にある梅の木へ、<ruby><rb>短冊</rb><rt>たんざく</rt></ruby>がついておりましたそうな」

「誰ぞ、まずい歌でも<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めたか」

「どなたの筆やらわかりませぬが、女文字で、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の妖鬼のことに寄せて、不吉めいた歌が書いてあったとやら申します」

「そうか……」と吉宗は苦ッぽい微笑を頬にのぼせて、「女のしたことでは取るにもあたらぬ。捨て置け」

「<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の間御用人<ruby><rb>鳥居外記</rb><rt>とりいげき</rt></ruby>様が初めにお見つけになって、そのままどうかなされました」

「それでいい、何事も、聞き流しにしておくがよかろう。いずれ、水戸か、尾州か、吉宗に心よからぬ大奥<ruby><rb>雀</rb><rt>すずめ</rt></ruby>の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>じゃろう」

寛容に笑ってみせましたが、<ruby><rb>世継</rb><rt>よつぎ</rt></ruby><ruby><rb>早々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>の、三家の<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>や、大奥と表方との執拗な暗闘など、少しでも、その<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>の消息を聞きかじッている源次郎の目には、やはりその日の吉宗に、多少<ruby><rb>沈鬱</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>の気のあったことは見のがせません。

「吹上の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>は万太郎の<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>じゃ。そして、それを不吉の<ruby><rb>兆</rb><rt>ちょう</rt></ruby>らしく、尾ひれをつけて言いふらすものは、紀州家にそねみをもつ気の小さい大奥の女どもじゃ」

吉宗はこう思って、しきりとそれへの対策を考えておりましたが、いわば内政の醜いこと、明るみへ出して争うのは、新将軍の威厳にかかわる。

そこに辛さがありました。

「憎むべき万太郎の悪戯――さて何としてくれようか」

じりじりと思いつめた揚句、ふと、こうもしようかと案に浮かんだ一策、源次郎に旨をふくませて、ついにある夜のこと、本丸の寝所からこっそりと外へ忍んで出ました。

本丸の<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>は、夜がすみに汗をかいて、おぼろな春の夜更けた月が、<ruby><rb>紅葉山</rb><rt>もみじやま</rt></ruby>の森にぼんやりとありやなしやの光です。

「源次郎」

「<ruby><rb>上様</rb><rt>うえさま</rt></ruby>……」

目と目にうなずき合って、番士の眼をおそれながら、ひらりと<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>へか影を消しました。

その支度は、二人とも黒の頭巾、そして総身黒の<ruby><rb>扮装</rb><rt>いでたち</rt></ruby>に軽装していたようです。――その用意と時刻とを思い合せますと、吉宗はいよいよ<ruby><rb>忍耐</rb><rt>がまん</rt></ruby>ならないで、自身、徳川万太郎の憎むべき行為の実相を突き止めようと思い立ったものに相違ありません。

しかしながら、彼と小姓が、あんな姿で、この<ruby><rb>朧夜</rb><rt>おぼろよ</rt></ruby>を<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>へさまよい出して行くと、かえって風説は将軍家それ自身の影までを、妖鬼と見てしまいはせぬでしょうか。

こよいも錦霜軒から起き出して、吹上の奥をさまよい歩く覆面の人影が二つ。

<ruby><rb>長局</rb><rt>ながつぼね</rt></ruby>の女たちが取沙汰の種となったのはその影ではありますまいか。そうとすれば、妖鬼すなわち、徳川万太郎と<ruby><rb>相良金吾</rb><rt>さがらきんご</rt></ruby>であります。

「夜更けになっても、一頃と違って楽になった。春だなあ、金吾」

「早いもので、もう二十日余り、よく御根気がつづきました」

「根岸に残しておいた月江や次郎、そして<ruby><rb>釘勘</rb><rt>くぎかん</rt></ruby>なども、さだめし、どうした事かと消息を案じておろうな」

「釘勘へは、先日、黒鍬の剛兵衛殿に手紙を頼んで、近況を知らせておきました故、まず、御無事の点だけは、安心いたしているだろうと存じます。……しかし若殿」

金吾は前後の木立を見廻して、万太郎に<ruby><rb>切株</rb><rt>きりかぶ</rt></ruby>の根を<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>にすすめ、自分は土へじかに<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>の腰をおろしました。

<ruby><rb>作兵衛滝</rb><rt>さくべえだき</rt></ruby>の水の音が、<ruby><rb>疎林</rb><rt>そりん</rt></ruby>の裏あたりに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どうとう</span>と夜気をゆすって鳴る。

夜は三更か四更か、とにかく深々たる<ruby><rb>丑満</rb><rt>うしみつ</rt></ruby>の前後にはちがいありません。しかし、気候もすでに<ruby><rb>如月</rb><rt>きさらぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>中旬</rb><rt>なかば</rt></ruby>、風はぬるく、<ruby><rb>樹肌</rb><rt>きはだ</rt></ruby>は汗ばみ、月は湯気に蒸されたように<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼろ</rt></ruby>な晩――有情の天地が人に与える感じも、二十日前の霜針を立てていた頃とは、だいぶ違ってまいりました。

しかし若殿――と声をひそめた金吾は、四隣の気配を探ってから、

「意気地のない事を申すのではありませんが、ここ二十日余りの間に、夜ごと、船見山、<ruby><rb>嵐山</rb><rt>あらしやま</rt></ruby>、<ruby><rb>赤壁渓</rb><rt>せきへきけい</rt></ruby>の附近、ずいぶんと<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく捜索いたしましたが、いまだに、ピオの遺蹟というような<ruby><rb>石碑</rb><rt>いしぶみ</rt></ruby>一つ見当りませぬ」

「ウム、今のところでは、殆ど何らの得るところもない」

「金吾が愚考いたしますには、恐らくこれは、徒労に終るのではないかと存ぜられますので」

「なぜじゃ」

と万太郎は少し色を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>す。

「いや、さりとて決して、<ruby><rb>千蛾</rb><rt>せんが</rt></ruby>老人の<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆいごん</rt></ruby>が<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りであると申す次第ではなく、事実、慶長の昔、ピオがこの城内に刑罰をうけて、その<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>もこの<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の、奥に埋め隠されたものとしても、さる異国人の亡骸を埋めたあとに、<ruby><rb>墓碑</rb><rt>ぼひ</rt></ruby>とか御堂などの、印を遺して置くまいと考えまする」

「だから、どうせいと申すのか」

彼の一念を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>すような言葉は、いつでも彼の不機嫌を誘うものである、とは金吾も知りぬいておりましたが、

「将軍家の御不審を求め、またまた、御本家へ迷惑を及ぼさぬうちに、御断念なされた方が賢明ではないかと心得まする」

と、ツイ<ruby><rb>諌言</rb><rt>かんげん</rt></ruby>を試みました。

案の如く、万太郎は取ッてもつけない<ruby><rb>頭</rb><rt>かぶり</rt></ruby>を振って、

「金吾、そちは精が切れたとみえる。嫌なら去れ、わしは突き止めるまでここを去らぬ」

「精が切れたとは、お憎いおことば、左様な金吾ではござりませぬ」

「ならば、なぜ左様なことを言い出して、わしの捜索に励みをつけぬか」

「もしや将軍家の御不審もやあると、ただ、尾州家のおん為に、それのみを<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れます」

「そちは、何かにつけて将軍家将軍家と、吉宗に<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>ってばかりおるが、彼とわしとは、<ruby><rb>部屋住時代</rb><rt>へやずみじだい</rt></ruby>から竹馬の友じゃ」

「いや、その心持は違います」

「大事はない、前もって、彼の諒解も得てあることだ」

金吾は黙ってしまいました。

「……是非のないこと」と独り思い<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めた様子がその沈黙に読まれましたが、万太郎は見て見ぬふりをしております。

――やがて、金吾は前の<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>を払って、

「若輩者の<ruby><rb>小悧巧</rb><rt>こりこう</rt></ruby>な<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めだて、お聞き流し願います。もう御諫言はいたしません」

「するな！　万太郎は思い立った事を、<ruby><rb>貫</rb><rt>つらぬ</rt></ruby>かずには済まさぬ<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>じゃ」

そうした主従の話の間に、カサコソと、疎林の中を踏んでうしろへ近づいて来る者がありましたが、作兵衛滝の水音に二人の神経はそれとも知りません。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どうとう</span>と鳴る水の音に、四囲のものの<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>に気がつかなかったのは、万太郎主従ばかりではありません。

近づいて来る足音を、二人が少しも知らなかったように、疎林の中をカサコソと歩いてきた何者かの黒い影も、そこに万太郎と金吾が腰を下ろしていた事をば、さらに意識もなく足をすすめてまいりました。

樹と樹の枝にせばめられた細い小道からヒョイと一足踏み出した途端に、当然、不意にその姿を見合った両者は、

「あっ！」

と、<ruby><rb>猟師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>が鹿の足を踏んだような驚きをして飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>きました。

「何者だッ？」

金吾は伏せ身になって白眼を射向け、万太郎は素早く立ってその人形の横を挾む。

ギョッとしたらしい相手の影は、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>なことに逃げ道を失って、樹幹をタテに身を隠しながら、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と、一方の手は刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に行っている。

おお、その手の白いこと！　夜目にも綺麗な手をしている！　そしてその手は抜き打ちの閃光を吹かんとして、刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>にかかっている。

（違いない、いつぞや会った<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の男だ！）

<ruby><rb>凝視</rb><rt>ぎょうし</rt></ruby>をもって両方からはさみ撃ちに迫った万太郎主従は、彼の黒頭巾が隠している星のような二つの瞳と、その<ruby><rb>仄白</rb><rt>ほのじろ</rt></ruby>い<ruby><rb>顔容</rb><rt>かおかたち</rt></ruby>と、その黒い曲線とで、すぐにも思い当ったでしょう。

いつか、<ruby><rb>赤壁渓</rb><rt>せきへきけい</rt></ruby>の小道で見かけて、たたみ上げた野州石の上に身を隠し、主従して這い松の蔭からのぞき下ろした時、ふと、上と下で、顔を見合せるなり風の如く去ッた覆面の白い顔はこの男に違いありません。

また、その前後、二、三度影を見かけた肩幅の広い覆面も、二人には常から解けない疑問でありましたが、計らずも、重ねてここで<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかッたのは、願ってもない<ruby><rb>僥倖</rb><rt>さいわい</rt></ruby>です。

「金吾、逃がすな」

いいつけると、一方も、

「心得ております」

と、すでにその気で、手捕りにしようとするものらしく、先の<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>へそろそろと<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>のように這い詰めて行く。

相手は進退に窮しています。

うしろは松や<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の林です。低い<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の枝が手をつないで拒止している。一方の横は乱岩<ruby><rb>叢竹</rb><rt>そうちく</rt></ruby>、作兵衛滝の水がその下を通っているのです。

前には、手に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>して寄って来る挾撃の敵二人。――どうすることも出来ません。

「柳営の者か、外から忍び込んだ賊か、名を言え、名を申せ、次第に依ってはゆるして遣わさぬものでもない」

念のために、万太郎がもう一応こう言ってみましたが、相手が立ち竦んだまま返辞もせぬので、さてこそ、<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>うさんくさい曲者と、いきなり相手へ向って飛びかかりました。

「あっ、若殿！」

先を制せられて、金吾が思わずこう叫んだのは、あながち敵に<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>んでいたわけではなく、その時、幹の蔭から白い光が水を振るように走ったので、無手の暴虎を危ぶんだのです。

案のごとく万太郎は、相手を<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>と見くびッて、<ruby><rb>手捕</rb><rt>てど</rt></ruby>りにする気でかかりましたが、ハッと気がついて途中からさらにうしろへ飛び<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、

「おのれ」

と、自分も<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を鳴らして鯉口をのばしました。

ところが、その一瞬です。

ザザザザッ――と嵐山の上の方から、風の神でも降りて来るように、あわただしく<ruby><rb>熊笹</rb><rt>くまざさ</rt></ruby>の<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>きが聞こえたかと思いますと、程さらぬ崖の方から同じ道へ、ぽんと飛び降りた一人の男がある。

<ruby><rb>倔強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>な体躯に、<ruby><rb>大反</rb><rt>おおぞ</rt></ruby>り打った大小、<ruby><rb>覆面黒装束</rb><rt>ふくめんくろしょうぞく</rt></ruby>というこしらえも、この男こそふさわしく見えます。

――と、その山猫のように<ruby><rb>捷</rb><rt>はし</rt></ruby>ッこい男の嵐が、そこをサッと吹いたかと思うまに、

「ああッ……」と、身をよろめかしたのは万太郎で、突然来たその男に、肩を突き飛ばされたものと見えました。

と言って男は、そこを一顧もするでもなく、何に慌てているのか一目散に、そのまま<ruby><rb>鵲橋</rb><rt>かささぎばし</rt></ruby>の方へ疾風のように身を飛ばそうとするのを、

「待てッ」

一飛躍して追いかけた金吾が、その長反りの刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>を、力まかせに引止めました。

鐺をつかまれた相手の男は、慌てもせず、ガッシリしたその体躯をひねって、

「ちぇッ」

舌打ちを鳴らしながら、金吾の襟がみをつかんで無造作に振回そうとしかけました。

小兵なりといえど金吾、さはさせじとあるべきところです、その手をパッと払い上げると、両々の体が相迫っている機をすかさず、<ruby><rb>雷霆</rb><rt>らいてい</rt></ruby>の早さで体当て一本、

「えいッ」

と試みましたが、空を<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>って、手ごたえはない。

相手は<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>、<ruby><rb>鵲橋</rb><rt>かささぎばし</rt></ruby>を一足とびに、その黒い影は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どうとう</span>の水の<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶ</rt></ruby>く、流れの<ruby><rb>彼岸</rb><rt>ひがん</rt></ruby>に躍っている。

逃がした！　残念――と彼もつづいて走ろうとした刹那です、ふと忘れてしまった万太郎の声で、

「金吾、金吾ッ」

と、助勢を求めるらしく、何かしきりと慌ただしい。

「オオ」

気がつけば一方にも、今二人して立ちすくませた、異装<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の曲者が残っています。助勢を呼ぶ様子では、万太郎ひとりで手にあましていると見える。

両兎を追うもの一兎を得ず、逸早く、金吾はきびすを巡らして前の所へ戻って来ましたが、もうその時は万太郎の方も、優形の覆面を取逃がして、<ruby><rb>地団駄</rb><rt>じたんだ</rt></ruby>を踏んでいるあとでありました。

「その林の中へ逃げこんだのじゃ。こよいこそ、追詰めて、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>が何者であるか、その正体を見てくれねばならぬ」

<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の男の没した木立の奥へ、彼はこう言いつつ駆け込みました。で金吾も、両兎を追う愚を思い止まって、彼につづいて雑木の枝を掻き分けて行く。

しかし、奥へ奥へとすすむうちに、林の小道は幾筋にも分れ、或いは渓泉に切れ、或いは丘の上下にうねり、遂に逸した優形の男の影は見つかりません。

その間に一刻の余も費やしたと見えて、ぼやっとした<ruby><rb>朧月</rb><rt>おぼろづき</rt></ruby>も、いつか江戸城の西の方――<ruby><rb>紅葉山</rb><rt>もみじやま</rt></ruby>の襟筋へ隠れかかって、どこともない有明の色が、四林の梢に仰がれて来ました。

その<ruby><rb>仄明</rb><rt>ほのあか</rt></ruby>りを頼りにして、針葉樹帯の小道から二つばかりの丘を越えてダラダラと下りて来ると、目の前は広い山芝の平地です。

「意外な所へ出たな、ここは何処であろうか」

「やはり吹上の一部でございましょうが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんと</span>覚えがございませぬ」

「思い出した、お<ruby><rb>広芝</rb><rt>ひろしば</rt></ruby>じゃ。本丸の<ruby><rb>的場</rb><rt>まとば</rt></ruby>のある<ruby><rb>平庭</rb><rt>ひらにわ</rt></ruby>じゃ。向うを見い、弓小屋があり、茶亭があり、そして的場の土手が見える……」と指さしているうちに、その手をすくめて、

「やっ、最前の奴があれに居るぞ」

「えッ、どこに？」

金吾もひとみを<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らしました。

「身を隠せ」

「はっ」

ばらばらと、横に駆けた二人は、芝生の平庭に、臥牛形に寝そべっている巨石のうしろに体を<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて、

「あの弓小屋の裏から歩いて来る者を見ろ」

「オオ、なるほど、二人連れで……」

「察するところ、最前は別々であったが、あの優形の者と体の大きな男とは、同類なのに相違ない」

「ウーム、或いは、そうかも知れません」

「今度こそ逃がさぬように。よいか」

「金吾にお任せ下さいませ、きっと、一名だけは捕り押えてごらんに入れます」

「いや、相手が連れ立って来た以上、そち一人では手にあまる。わしは一方の、優男を組みふせるから、そちはもう一人の者へ<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかッて行け」

腕をさすッて、<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せているうちに、彼方の的場から来た二ツの姿は、目早くそこの人影を見たか、はッと足を止めて立ち止まりました。

機先を制するつもりで、万太郎、

「うごくな！」

ぬッくと立って両手をひろげると、金吾も<ruby><rb>臥牛</rb><rt>がぎゅう</rt></ruby>の蔭を立って、今度こそはと飛びかかって行く。

しかし相手は前とちがって二人組なので、意を強くして出直して来たものか、今度は逃げ腰も見せず待っていたぞと言わないばかりに、

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>ッ」

かえって、万太郎と金吾へ曲者呼ばわりをしながら、猛然と、逆に攻勢を取って来ました。

曲者の曲者呼ばわり、沙汰の限りな図々しいやつではある。今に、その覆面を引っ<ruby><rb>剥</rb><rt>ぱ</rt></ruby>いでやるから見ておれよ。

――万太郎は勇敢でした。

彼が勇敢なる<ruby><rb>故</rb><rt>ゆえ</rt></ruby>は、その<ruby><rb>柔術</rb><rt>やわら</rt></ruby>も刀法も、いわゆる<ruby><rb>大名育</rb><rt>だいみょうそだ</rt></ruby>ちでして、真に世の中の怖い者に会った例が少ないからでもありましょうが、近頃は、多少社会の浅瀬を踏んで、少しばかり命がけな経験にもなれて来たので、いよいよその性行が<ruby><rb>放胆</rb><rt>ほうたん</rt></ruby>に出て来た形でありました。

それと見て、

「あっ……早い」

と注意をしたのは金吾です。――金吾は何しろ万太郎のその無鉄砲が見ていられません。

相手の身構えには、立派な用意が備わっております。

で――思わず、金吾がアッと言いましたが、もう万太郎は<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>をとばして、敵の<ruby><rb>喉輪</rb><rt>のどわ</rt></ruby>へ拳法の一手をはげしく突いている。

と思うと案の定です。

「えいッ」

鋭い一喝！

しまッた――と叫びながら万太郎、敵の矢筈にかけられて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でん</span>と大地へ投げ捨てられました。

金吾は金吾で、べつな覆面の男と対して、互いに機を計っておりましたが、それを見ると、万太郎の危険を感じて、不意に、彼を役げた男の方へ助勢に駆ける。

「卑怯」

逃げると見たか、こういうのです。

そして、一方の覆面が、彼の帯<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>を食い止めて、ズルズルとうしろへ引戻す。

「何をッ」

「曲者！　神妙にいたせ」

こいつ、いよいよ法外もない言い草と、金吾はむッと怒りながら、

「だまれ、おのれこそ怪しいやつ、その<ruby><rb>黒布</rb><rt>くろぬの</rt></ruby>をひん剥いてやるから覚悟しろ」

つかみ止めている、彼の腕くび、それを<ruby><rb>拯</rb><rt>すく</rt></ruby>ってグッと身を沈める。もつれて二、三歩、二人の体がよろけ合ったかと見ると、軽く身を寝かした金吾が、敵の体を<ruby><rb>足業</rb><rt>あしわざ</rt></ruby>に乗せて、ストンと猫<ruby><rb>回</rb><rt>がえ</rt></ruby>りに乗りかかって、手もなくそこへ捻じ伏せました。

もがく敵の腕を膝下に敷いて、<ruby><rb>垂剣</rb><rt>すいけん</rt></ruby>というおや指一本、仰向けになっている喉へグッと押すと、

「うう……」と、彼の下の者は、くちびるに歯を当てたまま、もうちょっとの身うごきもなりません。

さて、こッちはこれで片づいたが、

「どうなすったろう？　万太郎様の方は」と、そのまま、<ruby><rb>首</rb><rt>こうべ</rt></ruby>をうしろへ、見廻して見ると、彼と<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の覆面とは、今や対峙の形を改めて、くんず、ほぐれつ、互いに手捕りにせんものと、人<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜもせぬ肉闘の最中です。

それへ助勢に向おうとして、金吾は一人の敵を<ruby><rb>膝下</rb><rt>しっか</rt></ruby>におさえながら、口と片手で脇差の<ruby><rb>下緒</rb><rt>さげお</rt></ruby>を解いて、この邪魔者を<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>りつけて置こうとします。

しかし、それにも及ばなかったことは、ここを先途と善戦した万太郎が、最後の鋭い<ruby><rb>気当</rb><rt>きあて</rt></ruby>と共に、見事相手を倒したのでした。

そして、金吾と同じように、

「しめたぞ」

と叫びながら馬乗りになり、さらに、その得意そうな顔を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>らせて、

「金吾、組み伏せた！」

「オオ、お<ruby><rb>出来</rb><rt>でか</rt></ruby>しなさいました。――が油断をしていると、<ruby><rb>足業</rb><rt>あしわざ</rt></ruby>にかけられますぞ」

「なんの、案外もろい奴じゃ」

万太郎はこう言いながら、そも何者か、正体をただしてやろうと組み伏せた男の覆面をムズとつかんで、その<ruby><rb>黒布</rb><rt>くろぬの</rt></ruby>を剥ぎかけましたが途端に、眼でも射られたように、アッと――頭巾の布をつかんだまま身を<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>かせたかと思いますと、

「いけない、いけない！　金吾ッ帰れ」

二人の巣としている<ruby><rb>錦霜軒</rb><rt>きんそうけん</rt></ruby>――船見山の山蔭さして、後をも見ずに駈けだしました。

「あとを閉めておけ。戸を。戸を……」と息をきって錦霜軒の中へ駆け込んだ万太郎の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりは、何ともタダ事ではありません。

「どうなさいました、若殿」

金吾は合点がゆかないので、座に着くとすぐにこう訊ねましたが、

「水を……」

と、彼の色は紙より白い。

裏の流れへ出て、<ruby><rb>掛樋</rb><rt>かけひ</rt></ruby>の水を<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>にうつして来ますと、万太郎はそれをグッと飲んで、

「ああ、驚いた」

と、初めて人らしく呟きました。

「実に、意外でございましたなあ、折角、組み伏せた怪しいやつの面を見てやろうとした途端に、いきなり若殿が駆け出されたので、金吾には、何が何やら一向理由がわかりませぬ」

「いや、そちの驚きはまだしもの事よ、この万太郎は、生れて以来、あのような意外な目に会った覚えはない」

「とはまた、一体どうした<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>で」

「力闘して、やっとわしがねじ伏せたあの覆面じゃ」

「はい」

「そも、何者かと、そちは思う？」

「分りませぬ」

「吉宗じゃ」

「げッ、……将軍家」

と言ったまま、金吾も色を失って、さすがに二の句もありません。

まさか――と疑いたい程ですが夜目に<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして見たなどというあいまいな話ではなく、彼をねじ伏せ、馬乗りに<ruby><rb>跨</rb><rt>またが</rt></ruby>って、その覆面までめくり返して見た上の事ですから、いくら瞬間の場合とはいえ見違うなどというはずもありますまい。

「すると先頃から、嵐山の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>、赤壁の水辺などで、時折出会った怪しい者は、将軍家とその侍臣であったのでございましょうか」

「どうも、そうであったと見える」

「しかし……」と、金吾は少し小首をかしげて、

「拙者の組み伏せた男の方は、どうもいつもの男とはやや違う気がいたしまする」

「どう違うというか」

「第一肩幅、体のこなし、そしてつかんだ腕のもろくもねじ得た事などが、あのウワ<ruby><rb>背丈</rb><rt>ぜい</rt></ruby>がある敏活な<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>とは、まるで手ごたえが相違しております」

「すると、初めの覆面の男とは、別人であると申すのじゃな、だが待てよ……そういたすと、吹上の深夜に、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>をさぐる者達は、わしとそちと、あと、幾人おるか分らぬ事になるではないか」

「まさか、そう幾名もおるわけはございませぬが、とにかく、別人には相違ござらぬ」と金吾は、それだけを断定しましたが、何としても胸づまりなのは、将軍家へ対しての失策です。<ruby><rb>強腹</rb><rt>ごうふく</rt></ruby>な万太郎にしても、これだけは気持がわるいと見えて、しきりと、吉宗の心を臆測したり、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の気まずさを考えて、このまま黙って押し通しているか、それとも本丸へ<ruby><rb>伺候</rb><rt>しこう</rt></ruby>して、自分の目的を打明けてその過失をわびようかなどと、その日は、不快な迷いに暮れていました。

「なんの！　吉宗の新将軍づらに、わびをするなどは<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しい。わしも尾州の徳川万太郎だ、彼が日本の将軍として納まるなら、自分は海を蹴って、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の王座を占めて見せる」

夜になると、かれの眼は冴え、心はしきりと<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>げました。

金吾が案じるのを、

「捨ておけ！」

言い放って外へ出る。

――いつもの支度、<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き馴れたわらじの音もさせぬ忍び足で。

それから約七日ばかりの間、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>には何の出来事もありません。

すると、その晩は、春にはめずらしく、水気のない空に、常よりは明るい月がかさもにじませずにヒッソリとさえていた夜半でした。

型のごとく、錦霜軒を出た二人が、その晩に限って、嵐山から山里の<ruby><rb>苑</rb><rt>にわ</rt></ruby>へ足を向けて曲がりかけると、山蔭の畑地の中に、一つの人影がチラと見える。

そこは、千代田のお<ruby><rb>薬草園</rb><rt>やくそうえん</rt></ruby>で、俗に、<ruby><rb>人参畑</rb><rt>にんじんばたけ</rt></ruby>とも呼ぶ地域です。養生所と薬草園の係り以外のものは、足入れを厳禁してあって、その囲いと防風林をかねた<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>が、垣のように畑の北がわを取巻いている。

「やっ？」

足を止めた万太郎は、もう<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>見ているので、月明りの遠目にもその薬草園の人影を、いつぞや取逃がした<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の覆面と見て、

「金吾、あれはよもや、吉宗ではあるまい」

姿を隠してささやきました。

前の失敗にこりているので、金吾も充分に注意しながら、藪の蔭を這って近づいてみると、どうもいつぞや広芝で組伏せた者とは、その柔軟な輪郭が違っています。

「あっ……」

途端に、勘のするどい<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の男は、藪の枯れ葉がカサリと鳴ったかすかな気配に驚いて、忽ち、飛鳥のように人参畑を横に切って逃げ出しました。

が――そこは枯れ木の柵があり、柵の外には万太郎がひそんでいたので、

「待っていた！」とばかり、彼がそこをつき破って出て来るところを、大手をひろげて飛びかかる。

――と思うと一閃の流刃が、月光を切って彼の真ッ向へ鳴って来ました。かわしましたが万太郎は、その切ッ先に手の甲を掠められて、ピッと散った冷たいものに、はッと気をすくめると、そのせつなに、艶めいた<ruby><rb>梅花香</rb><rt>ばいかこう</rt></ruby>の<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>りがプンと鼻先を一過して、相手の影は風を残して疾走している。

「ええ、またしても！」

今は、意地です。

指の先から血を散らしながら、追おうとすると、十歩ばかりの間隔の先で、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と、<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った覆面の白い顔が、自分の方を睨むかと思われた途端に――

「やッ」

声と共に、飛んで来た<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>――キラッと白い光を引いて、彼の耳をあやうくも掠めました。

「たしかに、吉宗とは別人。きゃつこそ曲者！」

金吾も追う。万太郎も飛ぶ、

いつかの夜とは違って、<ruby><rb>月明</rb><rt>げつめい</rt></ruby>の晩、それに身を隠す樹林も少ない嵐山の裏です。

かなたこなたと追い廻された優形の男は、かなり狼狽した様子で、やがて、息をせきながら、裏山の一端まで逃げ込んで来ると、厚ぼったい<ruby><rb>熊笹</rb><rt>くまざさ</rt></ruby>の茂みから身を<ruby><rb>跳</rb><rt>おど</rt></ruby>らして、古びた<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の扉を押して飛びこみました。

「もう袋の鼠だ。あの堂の中へ逃げ込んだのが運の尽き」

「のがれぬところと、観念したものと見えまする」

<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>の外へ寄って、堂の破れびさしを仰ぐと、<ruby><rb>北辰</rb><rt>ほくしん</rt></ruby>石神という<ruby><rb>額</rb><rt>がく</rt></ruby>があります。<ruby><rb>江城</rb><rt>こうじょう</rt></ruby><ruby><rb>鎮護</rb><rt>ちんご</rt></ruby>の石神として、<ruby><rb>太田持資</rb><rt>おおたもちすけ</rt></ruby>が築城以前からあったのをそのまま江戸城の最も奥まった所に<ruby><rb>祠</rb><rt>まつ</rt></ruby>ってあるというのは、こんなお粗末なものかと万太郎には思われました。

それと、ふと頭を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めたのは、石神という額の文字です。

目白の丘の石神堂、<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の月江の屋敷の庭にある石神堂、そのほか、武蔵野のおちこちに限りなくあるという石神堂が、この江戸城の奥にもある？　……

この江戸城も、遠い昔は、やはり武蔵野の一部であったことを思えば、なんのふしぎもありませんが、彼には、ふしぎな奇遇のように感じられてならない。

何はともあれ、彼は金吾と共に、その<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>を開けて、中に潜んだ<ruby><rb>優形</rb><rt>やさがた</rt></ruby>の男を引きずり出そうと意気ぐみました。

しかし、そこにはもう誰も居ません。二坪ばかりの<ruby><rb>鞘堂</rb><rt>さやどう</rt></ruby>の中には、魔術師の箱のように、優形の男が変ったかと思われる一体の石像が立っているばかりです。

「不思議な」

茫然と、二人は顔を見合せて、

「居ない」

と、さらに言葉を同時にしました。

「たしかに、この堂の内へ逃げ込んだと見たが、金吾、そちの眼にはどう見えた」

「拙者も、<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>とそう認めましたが」

「おらんとは不思議千万、もしや……」と天井から床板へひとみを落とした時、万太郎はハッと足をひらいて、

「ここだ！　床を上げて見い」

「オオ」と膝を折った金吾が、喜連格子を洩れる月光に、よくよくそこをすかしてみると堂の一隅の床板が一枚、こころもち浮いています。

ぽんと、その床板を払って見ると、<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>の底へ落ち込んでいる石段らしいものが見える。さてはと、二人はそれへ降りて行きます。――ふた段、五ツ段……十二、三段、存外に深いなと思いながら、とにかく手さぐりで一歩一歩と降りてゆきますと、やっと、地に足が着くまでにはおよそ二十四、五歩の階段を下りました。

「どこだろう？　ここは」

「築城には秘密として、知るものはございませぬが、これこそ、うわさに承る、汀戸城の間道ではございませぬか」

「ウム、或いはそうかも知れぬ。――金吾、火をすってみい」

「はっ」

金吾は<ruby><rb>燧打</rb><rt>ひうち</rt></ruby>ぶくろを解いて、青白い火花をチカチカとすっていましたが、やがて、それを<ruby><rb>附木</rb><rt>つけぎ</rt></ruby>に移して、

「オオ、土肌に<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>があります」

と万太郎の前へそれをかざす。

燃え尽きると、すぐあとの<ruby><rb>附木</rb><rt>つけぎ</rt></ruby>へまた火を移して、そこらを照らして見ますに、やはり金吾の察しにたがわず、そこは何処の城にも必ずあるべきはずの間道で、殊に、<ruby><rb>開鑿者</rb><rt>かいさくしゃ</rt></ruby>の名とおぼしく、岩壁面の一端に、こういう文字が彫られてあるのを見出しました。

<ruby><rb>江城</rb><rt>コウジョウ</rt></ruby>ノ<ruby><rb>秘孔</rb><rt>ヒコウ</rt></ruby>、二道<ruby><rb>有</rb><rt>アリ</rt></ruby>、一道ハ西丘ヲツラヌイテ走ルコト里余、<ruby><rb>白丘</rb><rt>シロオカ</rt></ruby>ノ一道ニ通ズ。一ハ北道、マタ東折シテ十余丁、スナワチ<ruby><rb>渓水</rb><rt>ケイスイ</rt></ruby>、<ruby><rb>袖海</rb><rt>シュウカイ</rt></ruby>ニ通ズベシ。

越後三徳流<ruby><rb>後学</rb><rt>コウガク</rt></ruby>村上<ruby><rb>能登守</rb><rt>ノトノカミ</rt></ruby><ruby><rb>之</rb><rt>コレ</rt></ruby>ヲ<ruby><rb>拓</rb><rt>ヒラク</rt></ruby>。

<ruby><rb>開鑿者</rb><rt>かいさくしゃ</rt></ruby>の年代はありませんが、徳川家お抱えの軍学家に三徳流の系統も村上姓もありませんから、これは、家康の移る以前――上杉、太田<ruby><rb>持資</rb><rt>もちすけ</rt></ruby>時代にひらいたもののように考えられる。

「読めた」

附木の火の燃えつきたのを、ふッと捨てて、

「ここが<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>の出入口にちがいない」

「しかし、これには、二道ありと<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>してありますが……」

「まあよいわ、とにかく急げ」

無音、無明の間道です。いかに何でも、月光の下を飛ぶようには行きませんが、とにかく迷わずに進みました。

すると、岩壁の誌文にたがわず、間道は途中から二股にわかれています。そこで、二人は、そのいずれへ行こうかについて、しばらく案じ合いましたが、結局、万太郎は北方の一道へ向い、金吾は西へ向ってその出る所をつき止めることに一決しました。

西道は白丘に通ずと言い、また、北道は渓水より<ruby><rb>袖海</rb><rt>しゅうかい</rt></ruby>に達すとあります。――さてそこで、ふた手にわかれた二人の行く先に、各〻どんな視界が開けて来たでしょうか。

## <ruby><rb>夜光</rb><rt>やこう</rt></ruby><ruby><rb>朝光</rb><rt>ちょうこう</rt></ruby>

この二筋の間道――分れて何処へ出るものやら知れませんが、とにかく外部へ出るものと仮定して、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に落合う所を約束し、金吾は西へ、万太郎は北方へ、各〻方角をべつに急ぎました。

暫く<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>をたどると、万太郎のとった行く手の先に微かな明りが見えだして来ます。

「意外、ここはお茶の水の谷底だ」

そうです、やがて彼が出た所は、<ruby><rb>茗渓</rb><rt>みょうけい</rt></ruby>の底で間道の口は、青黒い水が波紋を描いてヒタヒタと流れている。

のぞいてみると、水の色がかなりに深い。流れの幅は七、八間ばかりで、すぐ向うに岩壁が見えますが、とても足で渡り得るような浅瀬ではありません。

「はてな？　……」と当惑して、樹木の枝がふさいでいる間道の上を仰ぎましたが、そこからも、猿でない以上は、何処へも登る足がかりがないので、しばらく、<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しい時を過ごしております。

月明りとのみ思っていた水面の明るさは、いつか夜明けであったとみえて、彼が、当惑しているひとみの前は程なく輝かしい<ruby><rb>朝陽</rb><rt>あさひ</rt></ruby>の色に染められて、さまざまな小鳥が水辺を飛び<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わし初める。

と――茗渓の上の方から、

「あぶねえ、あぶねえ、おれがやるから<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>を貸しな」

「なに大丈夫だよ」

「だって、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つけてばかりいるじゃないか」

「臆病だなあ、おじさんは」

「何も怖がるわけじゃないが、物見遊山じゃあるまいし、舟が廻ってばかりいちゃしかたがねえや」

人声がする――一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>の小舟が見え出す――そして矢のように、万太郎の目の前へ流れて来ました。

「オオ、そこへ行く舟の者、ちょっと向うまで渡してくれい」

彼があわてて呼びかけると、

「おッと！　舟を止めろ」

一人の持っていた<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>を引っ<ruby><rb>奪</rb><rt>た</rt></ruby>くって、<ruby><rb>蓑笠</rb><rt>みのかさ</rt></ruby>を着けた男がすばやく彼の前へ小舟の先を着けて来る。

「<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>い」

と、万太郎が、ぽんとそれへ飛び込んだ途端です。

「やっ、あなたは！」

<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>とした声で、舟の二人は着ていた笠と<ruby><rb>蓑</rb><rt>みの</rt></ruby>とをかなぐり捨てました。

「オー、そちは釘勘と、高麗村の次郎ではないか」

「万太郎様とは少しも気がつきませんでした。して、どうしてこんな所に？」

「いや、仔細は<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に話そう。――それよりはこの舟で、そち達はどこへ行こうという考えじゃ」

「実は少し心当りがあって、ゆうべから夜通し、このお茶の水を漕ぎ廻っていたのですが、夜が明けたので、桐畑の家へ帰ろうとして参ったところです」

「では、わしと一緒に、根岸の方へ来てくれぬか。そこへはやがて金吾も落合う約束になっている」

「いろいろ申し上げたい事もございますから、すぐにお供を致しましょう」

「だが、舟は」

「紅梅河岸の番屋へ預けてまいります」

互いに聞きたいことも積っていますが、そこでは要談もムダ口も制して、舟から上がると駕を<ruby><rb>雇</rb><rt>やと</rt></ruby>って根岸の<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>屋敷へ急がせました。

そこへ着くと、次郎は誰より真っ先に、屋敷の庭へ駈け込んで行く。そして、

「お嬢様！　お嬢様！　万太郎様がお帰りでございますよ」

ありッたけな声で月江の部屋へ向って<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>る。

そう聞くと、われを忘れて、障子の内から<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>ぶように立って来た月江とおりんのふたりが、

「えっ、万太郎様が、お戻り遊ばしたって？」

「次郎や、ほんとにかえ？」

「嘘ではございません。嘘だと思うなら、玄関の方へ廻ってごらんなさい。……だけれど、お気の毒様なことには、お嬢様の大好きな、金吾様は御一緒ではございません」

「まあ。次郎があんな事を言って！」

「オヤオヤ、お嬢様が今にも泣きそうな眼をして来た。だが、お笑いなさいまし、御一緒じゃありませんが、金吾様も、今日は後から此処へ来るそうです」

次郎が<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>うその顔へ<ruby><rb>紙礫</rb><rt>かみつぶて</rt></ruby>をぶつけて、おりんは月江と共に玄関へ駈け出しました。

万太郎を主座にして、月江、釘勘、次郎、おりん、こう五人が何かの話に時刻のうつるのを忘れていると、

「<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>にございます。只今到着いたしました」

と、ここで落合う約束のあった金吾が、遅れ<ruby><rb>走</rb><rt>ば</rt></ruby>せに顔を見せて、同じ席に加わります。

万太郎は、待ちかねていて、

「そちの向った間道は何処へ出たか」

と、何よりも先に、それを訊く。

そして、自分が出た地点と、釘勘や次郎に出会った理由を話します。

金吾は膝をすすめて、

「拙者が歩みました西道は、行くこと暫く、やがて、空井戸のような所に突き当ったのでございます。四方は削り立った岩面、上へのぼる手がかりもないので、<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>をもって、一段一段足掛けを掘りこの通り……」と、赤土にまみれた衣服を示して、

「やっとの事で、這い上がってみますと、そこは古びた一宇の堂内……<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の石神堂と同じように、やはり一個の石神が<ruby><rb>祠</rb><rt>まつ</rt></ruby>ってあります」

「ウム、その堂内に抜けていたのか」

「されば……出て見ますと、人も通らぬ森の中で、何処かの丘と思われました。で、坂を下ると、程なく例の切支丹屋敷の門前に出ましたので、ほぼ地点の見当もつきあれから急いで参った次第です」

「ヘエ、するとそこは、あの切支丹屋敷の近くなんですか」

釘勘はかつて見た、目白の丘の石神堂を思い合せて、ふしぎな念に<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれていました。万太郎は話頭をかえて、釘勘に向い、

「して、そちが今日、次郎と共に、お茶の水を下って来たのはどういうわけじゃ」

「それも、ただ今細かにお話しようと思っていたところでございます」と話は釘勘の方に移って、彼の口から、その後、次郎が突き止めたお蝶の行動や、日本左衛門を大川端の隠れ家から逸したことなどを語って来て、

「――すると、前夜のことでございます。神田川の土手下から妙な侍がお茶の水の崖へ這い込んだという、番屋からの知らせがありましたので、それを探しに参ったところが、夜ッぴて、舟で見て廻りましたが、何の<ruby><rb>手懸</rb><rt>てがか</rt></ruby>りもなく引っ返して来たところを、万太郎様に呼びとめられたのでございました」

「では、番屋の者が認めたという、その侍の<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>が、日本左衛門に似ておったのか」

「そういう知らせがあったのは、一度や二度の事ではなく、あのお茶の水の崖上にある、<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の番屋からも、同じような事を知らせて来たことがあるんです」

「ふウム？　――」と万太郎は金吾と眼を見合せて、自分の踏んで来た径路に<ruby><rb>符節</rb><rt>ふせつ</rt></ruby>を合して考えこみました。

「どうじゃ金吾……わしは何か一<ruby><rb>縷</rb><rt>る</rt></ruby>の曙光が見えて来たような気がするが」

「拙者にも、おぼろげながら、吹上に出没する曲者の輪廓が、心に浮んでまいりました」

御隠家様の殺害された当夜、彼の部屋から失われた<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の秘図――そしてその割れたる半分の行方など、釘勘が、その後極力さぐり集めた考査の料を心のうちでつぎ合せて、じいっと黙想してみますと、彼にも、黒い二つの影が浮んで来ました。――それは万太郎の考える者や金吾の考えとは違っているかも知れないが……。

疲れているので、一同はそれから一<ruby><rb>睡</rb><rt>すい</rt></ruby>の休息をとって、夜に入ってから、また何か重大な<ruby><rb>凝議</rb><rt>ぎょうぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby>を<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>め切っていました。

そして、その密議がまとまると、万太郎と金吾は、ふたたび例の間道から江戸城へ戻り、釘勘は次郎を連れて、お粂ひとりの留守をしている桐畑の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰って行く。

――お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>。あの丹頂のお粂。

彼は<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>すがら、その女の身の上にも、さまざまな黙想をめぐらせている。

奉行所へ送り込めば、死罪をまぬかれない凶状のあるお粂を、目明しの自分が、ひそかに家に隠しているのは、まったく相良金吾の頼みをうけてしたことです。

金吾は、お粂には怨みもあるが、また再生の恩義もある。ことに、あの螢の飛び<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>う甲州の夏の夜自分に責められて、みずから毒を顔に浴びて自殺しようとした彼女であってみれば、悔悟の状は充分に見えています。怨むところはありません。

で、甲州から差立てられる時、金吾がひそかに、その助命の工夫を、釘勘に頼んでおいたものとみえます。しかし、いつまで現在のままでも置けますまい。

この処分は、彼の胸の宿題でした。

やっとそこらの<ruby><rb>額風呂</rb><rt>がくぶろ</rt></ruby>の戸があいて、<ruby><rb>紅殻</rb><rt>べにがら</rt></ruby>いろや浅黄のれんの下に、二、三足の女下駄が行儀よくそろえられ、<ruby><rb>盛塩</rb><rt>もりじお</rt></ruby>のしたぬれ石に、<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかい春の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>が<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>しかける<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>少し前の刻限になると、<ruby><rb>丁字風呂</rb><rt>ちょうじぶろ</rt></ruby>の裏門から、すっと中に消え込む十八、九の<ruby><rb>色子</rb><rt>いろこ</rt></ruby>がある。

<ruby><rb>曙染</rb><rt>あけぼのぞめ</rt></ruby>の小袖に、細身の大小をさし、髪は<ruby><rb>髻</rb><rt>たぶさ</rt></ruby>に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>い、前髪にはむらさきの布をかけ、更にその上へ青い<ruby><rb>藺笠</rb><rt>いがさ</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って顔をつつみ、丁字屋の<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>たちにも<ruby><rb>羞恥</rb><rt>はにか</rt></ruby>ましそうに、奥の離れ座敷へ燕のように身を隠します。

そこの小座敷には、初期の浮世絵師が<ruby><rb>日永</rb><rt>ひなが</rt></ruby>にまかせて丹青の筆をこめたような、お国<ruby><rb>歌舞伎</rb><rt>かぶき</rt></ruby>の図を描いた二枚折りの屏風が立て廻されてあって、床には、<ruby><rb>細仕立</rb><rt>ほそじたて</rt></ruby>の<ruby><rb>乾山</rb><rt>けんざん</rt></ruby>の水墨物と香炉には冷ややかな<ruby><rb>薫烟</rb><rt>くんえん</rt></ruby>が、糸のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">るる</span>とのぼっていました。

「おうお蝶か。きょうは来ぬかと思うていたが」

ふと見ると、屏風の蔭に、<ruby><rb>友禅</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>小蒲団</rb><rt>こぶとん</rt></ruby>をかけて、枕元に<ruby><rb>朱羅宇</rb><rt>しゅらお</rt></ruby>のきせるを寄せ、黒八を掛けた丹前にくるまッていた男がある。

日本左衛門です。――むっくりと起きて、

「一風呂浴びて来るから、待っていてくれ」と、手拭をとる。

「ええ、ごゆっくり」

お蝶はニッコとしながら、袴腰の若衆すがたで、何もかも打解けた世話女房のように、あたりの物を片づけます。

この額風呂の庭には、植込みもかなり多いので、離れの一棟も<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>からは<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>されません。<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を持った日本左衛門は、軽い庭下駄の音を飛び石に遠退かせて、向うに白い湯気をあげている風呂場の中へかくれました。

それを、濡れ縁の端から見送っていたお蝶は、彼の姿が隠れると、キッと眼くばりを変えて、部屋の四方を見廻しました。

しかし――<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いこう</rt></ruby>にかかっているのは、常に彼の身につけている黒の衣服と一すじの白博多で、そのほかは、床の<ruby><rb>幅</rb><rt>ふく</rt></ruby>であり、乱れ<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>であり、これと言って変った品も目にとまりません。

が――やがてうしろを見廻しながら、お蝶が隅の地袋へ屈み寄って、その袋戸を開けますと、一個の包がかくしてある。

「オオ……」と、彼女はすぐに、解いてあらわれた品物へ目を見張ったのです。

ちょうど書物でもくるんである程な大きさに見える包の中には、薄絹で作った、忍びの<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>に、土のついた伊賀流の布わらじが一足、そして、その下に<ruby><rb>秘</rb><rt>かく</rt></ruby>してあったのは、<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の秘図の半分であります。

その欠けたる方は、たしかヨハンの手に渡っているはずで、今は、ヨハンからお蝶の手に与えられている。

完全なものが両分して、完全な秘図の用をなさない以上、各〻その一方を求めているのは想像に難くないことで、お蝶も日本左衛門も、口にも色にもそんなことは微塵も現しておりませんが、心の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>では疾くから探り合っていた品物にちがいない。

（そうだ！　今のうちに）

彼女のひとみに、そういうような意志のうごきが険しく見えたかと思うと、お蝶の手はすばやくそれを元の通り包み込んで、自分の、袖の下へ抱えようとしかけます。

すると、不意に濡れ縁の障子が開きました。

「おやっ？　……」

「あっ……」とお蝶はあわてて地袋の中へそれを戻して、何気ない顔を作ってひとみを上げますと、日本左衛門ではありません。

「こいつはいけねえ、座敷ちがいをしてしまった。へへへへ、つい酔っているもんですから、飛んだ失礼をして、ごめんなすっておくんなさい」

無論、<ruby><rb>額風呂</rb><rt>がくぶろ</rt></ruby>の客にはちがいありますまいが、作り笑いをした眼元に一癖のある町人が、ヒョコヒョコ頭を下げながら、ぷいと縁先から姿をかくしました。

ですが、町人の去ったあとも、いつまでもお蝶の胸は動悸が納まらないように、あの<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の濃い眼を見ひらいたまま。

「ああ、よかった……」

と暫く胸騒ぎをおさえています。

こうして、ある時は女のまま、ある時は若衆の男姿で、恋に寄せて、彼に近づいておりますが、もし今の挙動を、あのけい眼な日本左衛門にちょっとでも見られたならば、もう彼女の運命も長くは無事でいられません。

すると、すぐその後へ、濡れ<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>をさげた日本左衛門が戻って来て、

「アア、さっぱりとした」

だるそうに湯上がりのした両足を、畳の上へ投げ出しました。

彼の姿を見た途端に、お蝶の<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしはさりげなく鋭さを消して、

「すこし髪がくずれましたのね、私が、<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>いてあげましょうか」と、鏡台から取出した櫛を<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで、甘えるように、背なかへ寄る。

しなやかな白い指が、自分の髪の根へこころよい櫛の歯をくり返すのに任せながら、

「おれが風呂場から出て来ると、この離れの植込みから、飛び出して行った男があるが、座敷をのぞいて行きはしなかったか」

「何ですか、座敷ちがいをして来たと言い訳をしていましたが妙な素振りだッたんですよ」

「犬だろう。またここにも長居はできねえ」

「でも、きょう一日ぐらいは大丈夫でしょう」

「まあ日の暮れねえうちはやって来まいが、油断をしていると、この前の時のように、飛んだ泡を食わなければならねえ、明日は少し方角を変えて、山の手の<ruby><rb>白梅亭</rb><rt>はくばいてい</rt></ruby>あたりへ宿<ruby><rb>更</rb><rt>が</rt></ruby>えをしよう」

「じゃ、わたしが、また<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の今頃に、そっちの方へ行きましょうね」

いつのまにか、櫛はどこかに姿を隠して、白蛇のようなお蝶の両腕が、うしろから日本左衛門の肩にからんでいます。

で、その肩越しに、お蝶の頬が彼の頬へすり合うように寄りついて、その髪の香、肌の香、ものを言う息のかおりまでが、<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せるばかり直接に感じられる。

「ね、行きますよ、白梅亭へ」

「同じ<ruby><rb>額風呂</rb><rt>がくぶろ</rt></ruby>でも、あそこならば人眼が少ない。だが……」と日本左衛門は、胸に来ているお蝶の白い手の甲へ自分の手を重ねて、

「お前は、なぜ一つ宿に、泊まっていないのだ。そうすれば、滅多に犬に嗅ぎつけられることもないのだが」

「だって、日が暮れると、あなたこそどこかへ出て行ってしまうんですもの」

「そりゃ白浪の世渡りには当り前だ。おれたちが、夜をムダに過していちゃ、飯の食い上げになるだろうじゃねえか」

「だから、私も<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ帰るのよ」

「家へ？　……」と、男の眼が自分へ来ると、お蝶はあわてて打消して、

「家と言っても、わたしに家なんかありゃしませんけれど、そッと、切支丹屋敷へ寝に帰るのよ」

「それが、おれには少し、合点がゆかない」

「なぜ？」

と、お蝶はまぎらすように、男の体をゆすぶりましたが、彼の面持ちはやや真面目です。

「なぜというまでもない話だ。あの切支丹屋敷は、お前にとっては、怖ろしい<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>だぜ」

「エエほんとに、怖ろしい故郷ね、あそこの憶い出に、一つだッて、いい<ruby><rb>過去</rb><rt>むかし</rt></ruby>はありゃしません」

「まして、宗門役人のいる場所だろう、それを、所もあろうに、毎晩そこへ寝に帰るというのは少しおかしい話だ」

「ところが、今のような、岡ッ引や何かが絶えず<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>け廻る外よりも、あの広い山屋敷の方が、どれほど私には安心なのか知れないのよ。……なぜかと言うと、あの山屋敷の中には、犬の目も光らなければ、宗門役人だって、まさか私が、切支丹屋敷の中に寝に来ているとは気がつきゃあしませんもの……」

いかにも、その合理的な事は、日本左衛門にもうなずけます。しかし、いわゆる敵の営中に眠って敵を眠らせぬというような大胆な<ruby><rb>所業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>は、日本左衛門や雲霧ぐらいに<ruby><rb>甲羅</rb><rt>こうら</rt></ruby>を経た大盗でも、容易に行えない離れ<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>で、まだ十九や<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>の小娘が口にするさえあまりに不敵であり過ぎる。

理にうなずいても、やはりその点では、彼はお蝶に油断ができないと思っています。

けれど、いくら心を許すまいと思いつつも、こうして、自分の愛撫を求めてやまない<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>な彼女の両の手をどう振り離しましょうか。ともすると、危険な四囲におかれてある身をも忘れさせそうなお蝶の艶な媚態をどうして憎めましょうか。

まして、日本左衛門という男には、愛といい情けという形だけのものにすら、常に<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いている弱点がある。そして、自分もそれを知っている。

率八の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>から、二人して、大川へ舟で逃げてから数日の間――江戸の額風呂や<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>を転々として、あぶない逢う瀬をつづけて来ましたが、まだ二人の恋は、あの納屋で囁いたことば以上には、一歩もすすんでおりません。盲目的な相愛のものまでには燃えてまいりません。

そのくせ、日本左衛門の悩ましそうな態度や、お蝶が、危険を冒して毎日訪ねてくる様子などを見ると、表面いかにも熾烈で、他愛のない<ruby><rb>睦言</rb><rt>むつごと</rt></ruby>に過ごす半日の二人の仲には、どんな恋の飽満が<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されたかと思われるのですが、そうしつつ、恋は一歩もすすみません。

その矛盾は、夕方になると、二人の顔いろにあらわれます。

お蝶が来る――障子が閉まる――二人のささやきが甘そうにもれる――姿も見せないで半日が暮れる。そして、夕方が迫る。

こういう順序が、額風呂の離れへ来てからも、毎日<ruby><rb>判</rb><rt>はん</rt></ruby>で押したようにつづきましたが、<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>風呂の二階に、ぽッと春の灯が<ruby><rb>橙色</rb><rt>だいだいいろ</rt></ruby>にともるころになりますと、お蝶も、日本左衛門も、期せずして<ruby><rb>酔</rb><rt>えい</rt></ruby>のさめたようなひとみに変り、二人の心に冷やかな<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>と刃が闘いはじめる。

<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>を嫌う妖精のように、離れへ<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>が運ばれると、その明りのはいる先に、<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>風呂の裏門をスウと帰ってゆくのはお蝶です。

「やっ？　……誰かこの袋戸に手をふれたな」

彼女が去るとすぐ後で、こう気がついて<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>とした日本左衛門が、そこの包みを解いてみると、<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>ごとに使う<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の類は残されてありますが、その下に秘めておいた<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の半分は何処にか失せて見当りません。

「ちッ、――さてはお蝶が……」

嫌疑はお蝶に走るよりほかはない。

まだ宵ですが、いつもそうする事なので、離れの雨戸を閉めきると、寝につくように見せかけて、中で<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しく身支度をすると、横の小窓から身をひるがえして、ひらりと裏木戸の外へ走り出し、お蝶のあとを追いました。

彼は、神田川の<ruby><rb>火除</rb><rt>ひよ</rt></ruby>け地まで駆けると、脛のききそうな辻駕を拾って、

「切支丹坂の下までやってくれ」

<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>をハズんで一気に急がせ、例の獄門橋の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>だたみに身を隠して、お蝶の通るのを、待ち伏せている。

――と、知るか知らないか、やがて、あの急な暗やみを、ヒタヒタと小走りに降りてくる姿をすかしてみると、<ruby><rb>藺笠</rb><rt>いがさ</rt></ruby>に振袖、まぎれもない<ruby><rb>色子姿</rb><rt>いろこすがた</rt></ruby>のお蝶であります。

「待て！」――とその前へ、大手をひろげて立とうとしましたが日本左衛門は、今夜というこの機会に常に<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せないでいる彼女の行動を突きとめてみる必要もあると考えて、その姿をやり過ごし、見え隠れに、お蝶の後を尾けました。

見ていると――かつて、自分が官庫に忍びいる時、足がかりにした見覚えのある塀際のムクの木から、その姿が苦もなく山屋敷の中へ飛び越える。

「あっ……あの高い塀を」

驚くべき敏活な動作を見せつけられて、日本左衛門すら、その姿を追うのに心を<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いた程です。そして毎日会っているお蝶とは、まるで別人の気さえしました。

「ヨハンや……ヨハンや……」

敏捷に忍びやかに、榎の下の石牢まで寄って行ったお蝶は、

「ヨハンや、今帰ったよ」

極めて低い声でその鉄窓をほとほととたたきました。

「オオ、お<ruby><rb>姫様</rb><rt>ひいさま</rt></ruby>ですか」

陰静な答えが暗で応じます。

「入口をこしらえておくれ」

「ただ今」

<ruby><rb>黒豹</rb><rt>くろひょう</rt></ruby>のようなヨハンの影が、鉄窓の下の一部の<ruby><rb>桟</rb><rt>さん</rt></ruby>をはずしますと、お蝶は忽ちその中へ影を消して、うしろの木蔭まで尾けて来た日本左衛門をして茫然とさせました。

「ああ、これはどうした事だろう？　……」

さすがの彼も、この奇異な事実を目のあたりに<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、何の想像も判断も及びません。

<ruby><rb>石室</rb><rt>いしむろ</rt></ruby>の中では、ほんの微かに、茶色の鈍い光線が<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>したように思われましたが、それは一瞬で、依然たる冷たい<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>と沈黙があるのみです。

ほとんど、地をはうようにして、鉄窓の外に耳を付けてみると、黒い<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>を垂れたヨハンの寝床で、お蝶とヨハンとの話声が、木の葉のささやきぐらいな低声で彼の<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎすます聴覚へ触れて来る。

「どうなさいました、その後の首尾は？」

こういうのはヨハンの声のようで――

「この頃は、ここへも<ruby><rb>稀</rb><rt>たま</rt></ruby>にしかおいでがないので、何か変った事でもないか、それとも、いよいよあの方が分明したかと、いろいろ想像ばかりしておりました」

「ヨハンや、よろこんでおくれ」

「では、私の想像があたりましたか」

「まだそこまではゆかないけれど、近いうちに、私はきっと、夜光の短刀を手に入れてみせる」

「オオ、定めし、御苦心でございましょう、お体もお疲れでございましょう。……けれど屈してはいけませぬ。私が使いにやった切支丹族の者も、もう長崎に着いていましょう。そして、<ruby><rb>敦賀</rb><rt>つるが</rt></ruby>の港に、船を廻して待っていましょう。もうお<ruby><rb>姫様</rb><rt>ひいさま</rt></ruby>が幸福の御生涯は船出の支度をととのえて彼方に待っているのでございます」

幸福の船出といい、<ruby><rb>敦賀津</rb><rt>つるがづ</rt></ruby>に船が待つといい、またお蝶をさしてお姫様と呼ぶことなど、途切れ途切れにもれてくるヨハンの言葉は、日本左衛門には少しも綜合がつきません。

ただ、その言葉のうちの端的な意味に、ふしぎな耳をそばだてるのみです。

ヨハンの囁きが切れると、さらに低いお蝶の声で、

「じゃ、敦賀津の港へゆけば、私を乗せて行ってくれる、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の船が待っているのね」

「はい、夜光の短刀さえ手に入れて参りますれば、すべてのことは、船のカピタンが心得ていてくれます」

「夜光の短刀の方のことは、もう私の物になったのも同じだよ。なぜかってヨハン、これを見ておくれ……」

「おっ……これは<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の半分」

「私の手にある図面と合せて、これでピッタリと<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の何処にかピオの遺品が<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>めてあるかが分るだろう」

「図面がそろえば、一目で<ruby><rb>分明</rb><rt>ぶんみょう</rt></ruby>しなければならないはずです。ど、どれ、お見せなさいませ……」とお蝶の<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>したそれと、<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>にある半分とをつぎ合せて、二人が眼をこらし合っているらしく、<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>の隙から弱い<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>がそこに声もなく揺れている。

「ウーム、おれは何という愚か者だろう。お蝶のような小娘の手くだに、今日までうまうまと乗せられていたのだ」

鉄窓の外に体を屈していた日本左衛門は、思わず心のうちでうめきました。先には、お粂に苦い経験をなめさせられ、今またお蝶に首尾よく<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたばかりか、<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の秘図まで彼女にシテやられたのです。

元々、彼はお蝶というものを、一個の不良少女ぐらいにしか思っていない。それが、夜光の短刀を目がけていたり、牢の中のヨハンが糸をひいていようなどとは、今初めて投げつけられた驚愕です。

恋と慾を両<ruby><rb>天秤</rb><rt>てんびん</rt></ruby>にかけて、彼女の愛と短刀を<ruby><rb>併</rb><rt>あわ</rt></ruby>せて手にいれようとした日本左衛門の計画は、そッくりそのまま、反対に、お蝶の方から<ruby><rb>致</rb><rt>いた</rt></ruby>された形になってしまいました。

「おのれ、どうしてやろうか」

<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えんとしても彼の四<ruby><rb>肢</rb><rt>し</rt></ruby>は、髪の根のしまるような<ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>のために、身ぶるいを刻んで手の痛くなるまで鉄格子の下に握りしめている。

石室の奥では、ツギ合せた<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>に依って、何か明確な地点を見出したものらしく、

「これだ。オオここだ……お<ruby><rb>姫</rb><rt>ひい</rt></ruby>様、この薬草園の東の方に、妙な<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>があると思いましたが、今、一方の板をみると、その印が解いてある」

「ではやっぱり、あの薬草の中には違いなかったのねえ」

「そうです。ま、お待ちなさい……。ウム、判りました。一方の符号と一方の解を考え合せてみますと、つまり、薬草園のうちの北の境から九十六歩、東の崖から四十四歩、その三角線の中心にあたる所に、一基の石を乗せた古塚がある」

「塚？　……あったかしら？　……そんなものが」

「塚は<ruby><rb>土饅頭</rb><rt>どまんじゅう</rt></ruby>に<ruby><rb>堆</rb><rt>も</rt></ruby>れ上がって、四方に大きな<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木がそびえ、秋となると、<ruby><rb>鶏血草</rb><rt>けいけつそう</rt></ruby>が血を流したように咲き出るので、薬園奉行や<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の小者は、そこを、江戸城の<ruby><rb>血塚</rb><rt>ちづか</rt></ruby>とよんで、足ぶみ禁断の地としてあるという」

「まあ、そんなことまで<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>してあるの？」

「場所が江戸城の奥のこと故、ここまで突き止めた<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の先代も、どうする事もできなかったのでしょう」

「だけれど、それも江戸城だけの伝説じゃないかしら？」

「伝説かもしれません。おそらく現在の江戸城に棲むものは、何でそんな所に奇異な塚があるのか、疑ってみることも忘れているのでしょう。けれど、あながち世の伝説は、みな架空なりとも申されますまい」

「そうね、きっと、その塚かも分らない」

――暫くそこで言葉がとぎれる。

何か、帯を解くような音がする。そして、<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>の蔭の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が消えました。

「じゃあ……ヨハン」

お蝶が立って来るのかと、日本左衛門が身をすくめ込むと、

「お蝶様、聞くことを忘れておりましたが」

「なアに」

それから、少し改まったような、ヨハンの声音でした。

「あなた様はこの<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の一方を、一体、どこからお持ちになりましたか」

「日本左衛門に近づいて、やっとの思いで手に入れて来たんだよ。……ヨハンや、お前はそれが何かふしぎなの？」

「いいえ、不審とは存じませんが、あなた様は、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>でも、この石牢へ来た時も、初めのうちはこのヨハンに向って、こんな事を平気で言っておられました」

「どんなことを？」

「――私は日本左衛門が忘れられない……と」

「ああ、私は、そう言っていた」

「あの男が恋しいと仰っしゃいました。あの男の妻になりたいとも言ったことがございます」

「アア、私は、そう言ったよ」

「では伺いますが、あなた様は、今でもそのお心でございますか？」

お蝶は黙りこみました。しばらく返辞が洩れません。

<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>なく、彼女が口にまで出していた恋が、嘘か<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>か、という点は、今以てヨハンの気がかりであるとみえます。

答えに窮したものか、お蝶は暫く黙しておりましたが、

「……分らないわ、今の私には」

そして、ヨハンがまだ何か問い詰めようとする先に、<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>をふわりとあげて、ほの白い顔の端をのぞかせたかと思いますと、

「私のすることを見ていておくれ、永い目でとは言わないのよ、ここ二晩か三晩のうちだから」

ヨハンは暝目しながら十字を切って、彼女の足元へ<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>を投げました。

「お<ruby><rb>姫様</rb><rt>ひいさま</rt></ruby>！　あなたをお信じ申します」

――が、その途端に、彼女の白い<ruby><rb>腕</rb><rt>かいな</rt></ruby>はハラリと<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>を落として、「ヨハンや、後を閉めておくれ」

鉄柵の一端に<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を作ると、猫のように身をすぼめて、音もなく外へ抜け出しました。

ハッとして、物蔭へ身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きながら、息を殺した日本左衛門は、途端に目の前をススと通ってゆくお蝶の影を見上げて、

「ウーム……」と思わず出る唸き声が、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>を破りそうになる。

ヨハンの石<ruby><rb>室</rb><rt>むろ</rt></ruby>から出て来たお蝶は、前のお蝶の<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>とはまるで姿が変っていました。<ruby><rb>紫巾</rb><rt>しきん</rt></ruby><ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>の<ruby><rb>艶冶</rb><rt>えんや</rt></ruby>の色子すがたは、黒ずくめの覆面と小袖の<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>にくるまれ、足さえわらじばきの軽々しい身ごしらえです。

飛鳥という形容は、それから刹那の先に見た、お蝶の行動にこそふさわしいことばでしょう。

その足が、以前の<ruby><rb>塀際</rb><rt>へいぎわ</rt></ruby>へ向ったかと思いますと、すぐに姿は塀のミネに止まって、椋の梢に白い手が伸びるや否、ちょうど黒描が跳んで降りたように、大地へ降りた地ひびきもしない間に、彼女はもう山屋敷の外をスタスタと向うへ歩いている。

長い高塀の角を横に曲って、<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>屋敷の表門を過ぎる頃から、さらにその足どりは加速度になって、<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り足から小走りに、小走りから<ruby><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>を飛ぶ如く変って行く。

こんもりとした森と森の間を抜けると、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>に胸つきの<ruby><rb>急勾配</rb><rt>きゅうこうばい</rt></ruby>になって、やがて鼠坂を上がりきると、また一方の森へはいる。

「はてな。どこへ行くのか？」と、後を慕ってゆく日本左衛門は、さながら彼女のために五里霧中を引き廻されているような気がしています。

――すると、その足音を聞きとめたか、四方の樹の蔭から、ぽかと、四ツ五ツの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が螢のように飛び出して、それに幾人もの人影を加え、ぱらぱらとお蝶の周囲に集まって来るのでした。

見ると、提灯には一つ一つ、明らかに「御用」と記してありますから、さてはと、日本左衛門はギョッとして笹むらの中へ身を伏せましたが、意外なことにはお蝶はすこしも驚いた様子が見えない。

いや、驚かないばかりではありません。

「あら、<ruby><rb>梅市</rb><rt>うめいち</rt></ruby>、安蔵、そのほかみんな、山の者達じゃないか、何しにこんな所へ来ているの？」

「ヨハン様のお申し付けで、石神堂を見張っているのでございます。どうやらこの間道は、誰やら一度通ったらしい形跡があるので」

「あるとすれば、いつぞや私を追いかけて来た、相良金吾かも知れない。先でも、この頃は薄々覚ってきたようだからね」

「そこへ足を踏み込むのは、虎の穴へはいるのも同然で、ずいぶん危なッかしい仕事だと思いますが……」

寄り集まった明りの中には、かの<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>の人形師の梅市の顔や、<ruby><rb>蓑直</rb><rt>みのなお</rt></ruby>しの安蔵の顔などが、憂わしげに見出されました。

「あぶない事は、素足で刃渡りをするようなものさ。だけれど私は行かなければならない……もし、三日のうちに、ここへ帰って来なかったら江戸城の土になったものと思っておくれ」

「みんな！」

突然、梅市が「御用」と書いてある<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の灯を消すと、一同もそれに<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>って、ふッ、ふッ、と一瞬のまに残らず消して、彼の次のことばを森として待ちすくみます。

「――お姫様のために、お<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>をささげてくれ、これが、最後のお別れになるかも知れない。イヤ、そんなことのないように、夜光の短刀を抱いて、ふたたびここへ帰って来るお姿が見られるように、みんなして、お<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>をあげようぜ」

ゾロゾロとひざまずくと、一団の人影が、やや暫く、声なく、身うごきなく、じっと、首を垂れている。

――その<ruby><rb>黙祷</rb><rt>もくとう</rt></ruby>をうけながらお蝶が一歩うしろへ<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>って、石神堂の扉をギイと押したかと思いますと、掻き消すごとく、姿を堂の中へ隠しました。

カランと堂の中でひびいたのは、<ruby><rb>木桟</rb><rt>もくさん</rt></ruby>の<ruby><rb>繩梯子</rb><rt>なわばしご</rt></ruby>でも<ruby><rb>空洞</rb><rt>からどう</rt></ruby>へ<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>ろしたような木の音です。

醒めたる如く、それに首を上げた切支丹族の者たちは、火のない御用提灯をふところに畳んで何処ともなく立ち去りました。

後は、ごうッ――と、空を<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>ける春の木がらし。

御府外<ruby><rb>雑司</rb><rt>ぞうし</rt></ruby>ヶ谷の薬草園、芝の<ruby><rb>魚籃坂</rb><rt>ぎょらんざか</rt></ruby>における薬草園、小石川養生所の薬草園、こう三ヵ所が幕府経営の城外薬園地でありました。

中で最も古いのは雑司ヶ谷の西お薬園で、そこの奉行をかねながら、閑役の余暇に本草の研究に没頭しているのは小野<ruby><rb>暁台</rb><rt>ぎょうだい</rt></ruby>という篤学な人です。

暁台、今も屋敷の書斎にはいって、何か<ruby><rb>虫蝕本</rb><rt>むしくいぼん</rt></ruby>をくりひろげていると、

「桃園の筑後守様がお見えでございますが」

と、門人の取次でした。

中野桃園の人といえば新井<ruby><rb>白石</rb><rt>はくせき</rt></ruby>です。近ごろ役を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたとは聞いたが、あの権勢家が何しにこの薬園などへ訪れて来たのかといぶかしく思いながら、取敢えず立ってゆくと、

「おお、<ruby><rb>暁台殿</rb><rt>ぎょうだいどの</rt></ruby>、御無事か」

筑後は門外に駕を待たせて、もう式台へ来ております。

「おめずらしい事ではある。さあ、こちらへ」

自身案内に立って書院へ通る。

<ruby><rb>久濶</rb><rt>きゅうかつ</rt></ruby>のあいさつが終って、世情のうわさから、新将軍吉宗の人となり、或いは、政治のこと、<ruby><rb>鳩巣</rb><rt>きゅうそう</rt></ruby>、<ruby><rb>徂徠学派</rb><rt>そらいがくは</rt></ruby>の悪口など、それからそれへ話が熟したころに至って、

「時に、今日伺ったのは」

と初めて要件をもちだしました。

「なんぞ折入ったことでも？　……」と暁台も膝を改めます。

「ほかでもないが、近ごろ<ruby><rb>閑</rb><rt>かん</rt></ruby>を得て、古書類を整理しておるうちに、御城内の<ruby><rb>人参畑</rb><rt>にんじんばたけ</rt></ruby>にある血塚について、妙な記録を見出したのでござるが、それについて、二、三疑問の点を御垂示願いたいと存じて、参ったわけでござるが」

「人参畑の薬園は、手前の祖父小野<ruby><rb>蘭岳</rb><rt>らんがく</rt></ruby>のひらきましたもの故、聞き覚えもないではござりませぬ」

「そこの人参畑の血塚は、一体、徳川御開府以前のものであろうか、以後であろうか」

「祖父の蘭岳が、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の命をうけて、人参を移植いたした当時に、慶長<ruby><rb>甲寅</rb><rt>こういん</rt></ruby>という年号を<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>した石がその塚より出たと申しておりました。いつかそれも埋没して近頃では見当りませぬ」

「慶長の甲寅は十八年、大坂攻めを遊ばした冬の陣の当年で、神君の御発令により、大久保<ruby><rb>忠隣</rb><rt>ただちか</rt></ruby>が京都の<ruby><rb>耶蘇教会堂</rb><rt>やそきょうかいどう</rt></ruby>を取り<ruby><rb>毀</rb><rt>こわ</rt></ruby>し、諸国に邪教禁止のおふれを<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれてから三、四年後にあたる」

「塚もその当時に建てたものではあるまいかと心得ます」

「して、以来あの塚について、何か変った話は残っておるまいか」

「と申せばあの塚の附近で、よく下役の耕作人が怪我をいたす事で、それと、秋になると、塚の<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りに限って、<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>な植物が芽を出します。またその草は蛮草であろうという想像のみで、祖父も父も名なし草としておりました」

「ほう？」

「しかるに、数年前に、手前が長崎表へ公用で参りましたせつ、その<ruby><rb>捺草</rb><rt>おしぐさ</rt></ruby>を所持いたして同地の蘭人に示して<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>しましたところ、それは南蛮の地では、鶏血草とよぶ植物であると申すこと。……がしかしどうして左様な蛮地の野草が江戸城の奥庭などに咲き出るものか、その儀ばかりは、この暁台にも、とんと想像が参りません」

「なるほど、それで自分にもおよそながら<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>りがついた。まだお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>へ復命せぬうちは、ちと他言を憚るが、いずれ<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>の御不審については、後日白石よりお話いたすこともござろう」

彼は要件をすまして中野の隠邸へ帰りました、

当代の<ruby><rb>碩学</rb><rt>せきがく</rt></ruby>を以て任じ、<ruby><rb>西洋紀聞</rb><rt>せいようきぶん</rt></ruby>の著者でもある彼は、吉宗から依頼された例の調べ事にかかって自身でも多少の興味をおぼえないではありません。

数日前から、諸書の記述や諸方の考証を<ruby><rb>蒐</rb><rt>あつ</rt></ruby>めた白石は、いよいよ案成って、ここに吉宗へ復命の筆をとり始めます。

――近ごろ、大奥にかしましい妖説は是か非か、<ruby><rb>江城</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>の深秘、人参畑の血塚の真相は何でありましょうか。

<ruby><rb>蒐</rb><rt>あつ</rt></ruby>め得た考証を材料にして、彼の<ruby><rb>該博</rb><rt>がいはく</rt></ruby>なあたまがその<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>をどこまで突き究めたかは、最も興味ある問題で、将軍家でも首を長くして待ちあぐねているところであります。

果たして、白石の探究によっても、そこがピオの最後の地と見極めがつけば、ピオの通信が本国へ絶えた紀元千六百〇三年以来、ローマの人々が千里を遠しとせず探しぬいて来た王家世襲の宝刀、夜光の剣も、意外なところから、この世の朝光を浴びることになるかも知れません。

## <ruby><rb>煙草色</rb><rt>たばこいろ</rt></ruby>の船

そこは、城内御薬園の一部。

北の境から九十六歩、東の崖から四十四歩、三角線をえがいて中心にあたる所、<ruby><rb>人参</rb><rt>にんじん</rt></ruby>畑の血塚です。

四方をかこむは、高々とした<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木で、赤い芽ざしの浅く染められているのみですから、梢を透いてあたる太陽の<ruby><rb>木漏</rb><rt>こも</rt></ruby>れ陽は、地上に美しい光線の<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>を描いて、あるかないかくらいな樹上の微風も、地に<ruby><rb>燦々</rb><rt>さんさん</rt></ruby>とうごいている。

「ところで、他言を禁じるぞ」

こういったのは若き吉宗、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>をすえて、そこに<ruby><rb>野立</rb><rt>のだて</rt></ruby>をしております。

「はっ」とその左右、指先を土について、居流れたのは近側の旗本、土屋<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>、水野弥一兵衛、<ruby><rb>庄司</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>仙三郎、近藤<ruby><rb>幹雄</rb><rt>みきお</rt></ruby>、<ruby><rb>中坊陽之助</rb><rt>ちゅうぼうようのすけ</rt></ruby>、長坂血槍九郎、本田龍平、こう七人で、吉宗の弓馬の相手に近ごろ選び出された<ruby><rb>倔強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>の者たちでした。

また一方には、<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の小早川<ruby><rb>剛兵衛</rb><rt>ごうべえ</rt></ruby>、小姓組の松平源次郎、<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>をさげて<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>としております。

吉宗は平服、それも例の素服、旗本たちは<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>着を下にのぞかせ、いずれも、的場の弓からこっちへ立ち寄った様子に察しられる。

「突然、その方たちをここに集めて、塚をあばけと申せば、いかにも吉宗が怪を好むやに思うであろうがこれには仔細があることじゃ、源次郎、筑後守からまいった調べを一同に読み聞かせてつかわせ」

命をうけて、松平源次郎は、黙念と一礼して、ふところから一<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じ物を取り出して読む。

白石が復命した調べ書です。

――原文はあまり長きに失しますし、本篇の筋には関係のない部分もありますから、ここに概要だけをつまんで申しましょう。それはつまりピオの生涯記です。

……………………………………

<ruby><rb>耶蘇紀元</rb><rt>やそきげん</rt></ruby>一五九五年は、日本の文禄四年で――吉宗の代をさること百二十余年前、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の貴族ピオは、日本へ渡った。

彼は、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>十二王家のうちの首座の家すじであった。しかもピオは、王家の世襲とする宝剣と「鶏血草」の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>だけを持って、海を越えた。

その動機は、首都における王族間の内乱と、失恋であると想像される点があった。

ピオは初め、<ruby><rb>天草支会</rb><rt>あまくさしかい</rt></ruby>に身を寄せて、やがて、普通の伝道者のように、京都へのぼった。

それは、慶長八、九年前後であった。

当時は、秀吉歿後、いくらか、異教徒の往来もあり、伝道も黙認されていた。ピオの目的は、関東京坂の<ruby><rb>貴顕</rb><rt>きけん</rt></ruby>の間にとり入って、徐々と曙光を見、晩年には実行の端緒にはいった。

天下は二勢力に分れていた。彼は大坂の秀頼の許しと、関東の大御所の印可とをあわせて得て、日本に一大<ruby><rb>耶蘇会堂</rb><rt>やそかいどう</rt></ruby>をたてる目的の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、地を捜すための旅に出た。

そういう通信は、故国の<ruby><rb>王庁</rb><rt>おうちょう</rt></ruby>へも通じられていたから今までにも明瞭である。彼が、不明の人となったのは、慶長十七年、旅先で、不慮の<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いに会って、関東の山へ姿を隠してからであった。

なぜ、ピオが山へ隠れたかというと、当時すでに、関東大坂の交渉は風雲険悪になりはじめて来て、その<ruby><rb>間</rb><rt>かん</rt></ruby>に、やはり一人の耶蘇会の異国人が、密偵を働いて、関東の<ruby><rb>機密</rb><rt>きみつ</rt></ruby>を、大坂へ通じた事件が発覚した。

その事件が関東方の神経を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>り立てていた時なので、ピオも忽ち嫌疑をうけて、<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の<ruby><rb>刺客</rb><rt>せっかく</rt></ruby>に狙われた。

つづいて、関東の老将軍家康は、突然禁教令を発し、多くのばてれんを斬り、教会堂を<ruby><rb>毀</rb><rt>こわ</rt></ruby>し、年ごとに迫害の度を強めた。

ピオの山岳生活は知るよしもない。しかし、彼は三年目に、もうほとぼりも<ruby><rb>冷</rb><rt>さ</rt></ruby>めたろうという気持からであろう、武蔵の高麗村に姿をあらわした。

<ruby><rb>狛家</rb><rt>こまけ</rt></ruby>の祖先は、彼を優遇した。

けれどピオはそこにも長くいられなかった。忽ち、徳川家の武士の知るところとなって、<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>から赤城の山へ走ったが、途中、<ruby><rb>安中</rb><rt>あんなか</rt></ruby>の城下で、井伊直政の家中の手に捕われてしまった。

江戸城へ送られたその年が慶長十九年。ちょうど関東大坂手切れとなって、大御所の<ruby><rb>息</rb><rt>そく</rt></ruby>右大臣秀忠は、関東の兵をすぐって大坂へ発向しようという間際であった。

そういう際であったせいか、ピオは深い吟味をうけた様子もなく、出陣の血祭に、江戸城の庭で斬られたらしい。死骸は小者の手に渡って、無造作に<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けられた。また「<ruby><rb>慶長</rb><rt>けいちょう</rt></ruby><ruby><rb>甲寅</rb><rt>こういん</rt></ruby>」の塚石は、その死骸を扱った小者が、ピオの死後、その土壌から鶏血草が咲いたため、迷信をおこして、病むものが多くひそかに計らって建てたものであった。

どうして、鶏血草がそこに咲くか、それは想像であるが、恐らく、ピオの所持していた<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>が、ピオ自身の血汐を肥料として狂わしき鮮紅の葉を伸ばすのではあるまいか。

迷信は迷信を生む。以来、江戸城の三代、四代、五代、とかく奥庭で怪我をすると、塚のせいにしたがった。

……………………………………

白石一流の文章と<ruby><rb>引証</rb><rt>いんしょう</rt></ruby>で、つぶさに<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めた書を読み終ると、松平源次郎は目礼して、それをふところに納めました。

「以上、聞いたとおりな次第であるが、そこでじゃ」

と吉宗は、ズウと一同の顔を見渡します。

「そこで……」と語をつづけた吉宗は、先頃から忌むべき噂にのぼっている吹上の妖について、最後の断案を下して言います。

「――察するところ、<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>、<ruby><rb>猟奇</rb><rt>りょうき</rt></ruby>の<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>など、夜行の鬼を躍らすものは、ピオと申す異国の貴人が地下に抱いていると伝えられる宝刀の<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>す<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と思う」

頭を垂れて聞き入っていた一同は、黙然として頷き合いました。微風にうごく梢の陽蔭は、幾つもの顔や肩や塚のあたりを<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のように浮遊して、その人々の視覚をもてあそんでおります。

それから、どんな秘命が吉宗の口から出たものでしょうか、やがて、旨を含んで、「はっ」と立った一同は、<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の剛兵衛を先にして、春秋百余年の秘密をつつむ血塚の地底をあばきかかりました。

まず<ruby><rb>土饅頭</rb><rt>どまんじゅう</rt></ruby>の上の<ruby><rb>苔石</rb><rt>こけいし</rt></ruby>は、剛兵衛とその下役の手によって取りのぞかれ、七人の旗本と、小姓の松平源次郎は、各〻、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>と<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>とを手にして、塚の周囲から円陣になって掘りはじめる。

太陽の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>、振り下ろす<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>の下には、いかなる<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>も秘密もつつみ得ません。

七尺の地底――あばかれた白骨はそも何を<ruby><rb>齎</rb><rt>もたら</rt></ruby>すでしょうか？

＊　　　＊　　　＊

夜になりました。

山里、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>、船見山、嵐山、すべて<ruby><rb>寂</rb><rt>せき</rt></ruby>とした暗の底に沈みこんで、春の星ばかりが、<ruby><rb>模糊</rb><rt>もこ</rt></ruby>として美しい。

ギイ……と石神堂の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>が開く。

白い顔の端が外の赤松の林をのぞきました。

お蝶です。――小石川の石神堂の穴から江戸城の<ruby><rb>秘孔</rb><rt>ひこう</rt></ruby>を抜けて、そこに顔を出した彼女でした。

大丈夫――と見ると、お蝶の姿は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むささび</span>のように松林から船見山を越えて行きます。すると、すぐまたその後から、同じ石神堂を飛び出したのは、日本左衛門の憤怒に燃えている姿です。

一陣、二陣、吹き去る風の<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>に返るのを待って、

「よかろう！」

何処かで、こう言った人声がする。

――と共に、堂の裏手や、四方の木蔭などから、<ruby><rb>熊笹</rb><rt>くまざさ</rt></ruby>をザワつかせて、影を起した八、九人の中に、松平源次郎と<ruby><rb>黒鍬組</rb><rt>くろくわぐみ</rt></ruby>の剛兵衛の顔が見えました。

「早くいたせ、こういう場合は神速でなくてはならん」

四、五の人間は剛兵衛の使っている黒鍬の男と見えて、彼がこう指図をすると、「はっ」と<ruby><rb>答</rb><rt>いら</rt></ruby>えながら堂の中へ飛び込み、間道へ通じるそこの床板を釘付けにし、さらに、堂の<ruby><rb>喜連格子</rb><rt>きつれごうし</rt></ruby>も外から厳重に釘を打って、テコでも<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かないようにしてしまう。

「これでよろしゅうございましょうか」

見張りに立っていた剛兵衛と源次郎は、一応、その入口をゆすぶって試みながら、

「よし！」

そして、相顧みて、ニッコと笑い合いました。

「こうしてしまえば、袋の鼠じゃ」

「では、手前は<ruby><rb>錦霜軒</rb><rt>きんそうけん</rt></ruby>の方へまいりますから」

「御苦労にぞんじます。後刻また……」と予定のように、軽く左右へ別れてゆく。

松平源次郎はただ一人で、裏山づたいに、例の万太郎主従が根城としている錦霜軒の方へ足を運んでいる。――刻限は、ちょうど八ツか九ツ時分でしょう、遙かな、本丸、二の丸の深殿の灯も消えて、富士見番所のお<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の灯だけが宙にボッとにじんでいます。

彼が、暫く附近に身を隠していると、やがて錦霜軒の戸があいて、例によって身軽にいでたちをした万太郎主従の影が、忍び足にそこを出て行こうとする気配でした。

ばらっと、<ruby><rb>物蔭</rb><rt>ものかげ</rt></ruby>をとび出した源次郎は、不意に、二人の前にあらわれて、

「尾州様、しばらくお<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>りを」

小膝を折って、いんぎんに申します。

ぎょッとしたらしい万太郎は、足をひいて、

「誰じゃ？」

と鋭い目を<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て暗をさぐる。

「小姓番の松平源次郎にござります」

すかして見た彼の背丈や輪郭、ははア、さてはいつぞやの明け方、広芝の先で、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>と誤って組み仆した一方のはこの男であるな――と思い当りましたが、万太郎は空うそぶいて、

「なに、小姓番の松平源次郎と申すか。その源次郎が、何用があってここへ参った」

「お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の御口上をうけまして」

「ふーむ、この万太郎に、将軍家から？」

「はい」

「何じゃ。承ろう」

「上意、戸外にては、申しあげかねます」

危げな沙汰とは思いましたが、いつぞやの気がかりもあり、将軍家の旨といえば、まさか、立話にも聞かれません。

「こちらへ来い」

あごで招いて錦霜軒へ引っ返します。

先に戻って、戸をあけた金吾は、さてこそ万太郎の行為がたたって、何か、尾州家に対する吉宗の凶命、いよいよやって来たかと予感をもちました。

銀泥のふすまに<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>りこむような<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が更けております。水の底かと思われるばかり<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>とした本丸の深殿に、吉宗はまだ起きている。

「お……参ったか」

音もなく開いた一方のふすま。

「はい、お供仕りました」

身を伏せたのは松平源次郎です。――それを目でうなずいて、

「尾州殿、私見でござる。昔の友として会いましょう。遠慮はいりませぬからどうぞこれへ」

こういった吉宗のことばは、将軍家の格式をのぞいて、紀伊の息子である元に返った口ぶりでした。

「では」と、源次郎のうしろから、つかつかとはいって来た者は、何かお召しというので、錦霜軒から導かれて来た徳川万太郎で、それを見届けた後、金吾は<ruby><rb>畳床</rb><rt>たたみゆか</rt></ruby>から板廊下へ身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>きます。

「源次郎、遠慮いたせ」

吉宗は、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で侍側を払っておいて、ひとしお懐しげにくだけました。

「お呼びしたのはほかでもないが、昼間、公の格式で会うては、親しい話もしにくいので、今夜は、すこし<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ごうという所存……。時に、<ruby><rb>万殿</rb><rt>まんどの</rt></ruby>、お探し物は見当りましたかな」

過日の、広芝の件は<ruby><rb>噯</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも出さないで、真っ向へこう探りを入れてみましたが万太郎もここへ来る間に、相当の応酬の用意をもっていたとみえ、

「いや、なかなか、雲をつかむに等しい手懸りで、何の端緒もつかめません。このあんばいでは、あるいは飛んだくたびれ儲けかも分らない」

何の前提もなく、彼の単刀直入に対して、こっちも底をぶちまけてしまい、その後の空虚をふさぐ為のように、ハハハハハと音響の返る天井へ高い笑い声を投げました。

「ところが万殿、偶然といおうか、きょう何心なく<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>を歩くうちに、この吉宗が、奇異な短刀を手に入れたのだが、<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきき</rt></ruby>をしていただけようか」

「刀の<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきき</rt></ruby>は、たしか、そちらの方が先輩であったと思う」

吉宗の皮肉を、万太郎は逆手に出る。しかし、さすがの彼も、昼のうちにピオの遺蹟があばかれているとは夢にも気づきません。

「いや、それが目の届かない品物、日本の<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>が打った物なら、わざわざ<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>をよぶこともないが、どうやら異国の短刀らしく思われるので」

「異国の……」と、万太郎は目を<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えさせて、「異国と申しても、<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>、<ruby><rb>明</rb><rt>みん</rt></ruby>のものか、<ruby><rb>高麗</rb><rt>こま</rt></ruby>のものか、あるいは<ruby><rb>呂宋刀</rb><rt>るそんもの</rt></ruby>でござりますか」

「何か分からぬが、短剣じゃ、<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>は夜光珠にちりばめられ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なかご</span>は<ruby><rb>直身</rb><rt>じきしん</rt></ruby>、<ruby><rb>切羽</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>の上に<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>がある。<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>をこらしてよく見ると、青金、<ruby><rb>赤金</rb><rt>しゃっきん</rt></ruby>、黄金の三色の金であらわした南欧の少女の顔が浮いている」

「おっ……」

「御記憶があるか」

ないとはいえません、夜光の短刀！　万太郎は彼に対する意地も忘れて、思わず膝を乗り出させる。

「見せてください！　その短刀を」

「見てもらおうと思って呼んだこと。さ、こちらに置いてあるから、御案内申そう」

吉宗は先に立って、サッと廊下を開けましたが、そこに、うずくまっている人影を見て、

「何者じゃッ」

と、将軍家らしい<ruby><rb>威凜</rb><rt>いりん</rt></ruby>をもって叱りつけます。

万太郎は彼のうしろに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来て、

「あ、それは手前の家臣です」

「なに、万殿の家来とか」

「<ruby><rb>相良</rb><rt>さがら</rt></ruby>金吾と申します」

「主人思いなやつ、叱って、気の毒であった」

白い足袋の裏が鏡のような大廊下をそのまま踏んでゆく。

その姿を遙かに過して、金吾は<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>む足をしずかに急がせました。――何ともふしぎな吉宗の話、主人の身も気づかわれてならない。

と――先に行った吉宗は、鉄のような厚い<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の階段を踏んで、本丸の<ruby><rb>望楼</rb><rt>ぼうろう</rt></ruby>に<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったようです。

金吾は、それ以上に進み得ず、望楼の下に身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、ひたすら事なきことを祈っておりましたが、この深夜に、将軍家自身が望楼の上に万太郎を誘って行くなどという行動は、何としても腑に落ちません。

「もしや？　……」彼の想像は彼の肉と血を凍るようにひきしめました。吉宗は、望楼の上に刺客を伏せて、主人を亡いものにしようというのではあるまいか？

そういう例が、支那の歴史などにもないとはいえない。天下の大統をうけついだ吉宗にとって、万太郎の存在は、決して<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>いものでないことは分り過ぎております。

案じる程のものではありません。上を見ない金吾の杞憂は、あまりにも主人思いな、思い過ごしです。

吉宗に導かれて、望楼の上へあがった万太郎は、太い柱のみで、四壁のない<ruby><rb>櫓</rb><rt>やぐら</rt></ruby>の床に立つと共に、その一方の柱の下に、一灯の明りと、一個の<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>と、一個の<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>とが、星でも祭るように据えてあるのに目をとめました。

「何であろう？　あれは」

「白骨を祭ってあるのです」

と、吉宗は微笑をふくむ。

白骨――と聞いて万太郎は、何となく霧でも吹かれたような寒さを感じました。<ruby><rb>寥々</rb><rt>りょうりょう</rt></ruby>とした星ばかりならいいが、消えなんとする燈心の細い<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>が、いやな陰気の這い廻るのを目に見せます。

万太郎はいぶかしげに、また、ことばかず少なく。

「白骨……誰の白骨？」

「白骨に名はござらぬ。想像で申そうならば、<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の貴人、ピオのであろうか」

「…………」

初めて彼は、ここに至って、吉宗がいつか自分の目的を知り、その目的の線を越して、鼻をあかせてみせるのかと気づいたらしく、口を<ruby><rb>緘</rb><rt>かん</rt></ruby>して、彼の横顔をちらと<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めました。

「塚をあばいた時は、その土を祭るものじゃそうな。で、一緒に出た夜光珠の短刀と共に、ここに、こうして霊を祭っておいた」

いわれて、彼がふと見ると、なるほど、白骨の<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>のそばに、白絹をもって包んだ横笛ぐらいな長さのものがおいてある。

初めは、<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>まででなかった万太郎も、その白絹にに包まれたものを思うと、矢も楯もなく、吉宗をつきたおしても、それを奪って、<ruby><rb>天</rb><rt>そら</rt></ruby>へかけ去りたいような衝動を抑えきれませんでした。

だが、相手はこうしておれの羨望をながめてひとりで愉悦を感じているのだ、と心づくと、彼の気性は、意地でもそれを見たいなどという気振りを出させない。

「それは飛んだお拾い物だ」

こういって、苦ッぽい笑みをかすめたのみです。

「どうじゃ、手に取って一見されては」

「そのうち、昼でも、ゆるりと拝見いたしましょう」

「左様――この<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>では、奇異な装剣も、<ruby><rb>切羽</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>の<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>も、よく見ることはできなかろう。おう、時に万殿、<ruby><rb>何刻</rb><rt>なんどき</rt></ruby>であろう」

今度はふいと話を<ruby><rb>更</rb><rt>か</rt></ruby>えて、望楼の<ruby><rb>欄</rb><rt>らん</rt></ruby>から<ruby><rb>北斗</rb><rt>ほくと</rt></ruby>の位置を仰ぎました。

「何せい、だいぶ更けましたな」

「もう見えてもよい時分だが……」

「え、何が？」と問いかけて、万太郎は理由のない後悔を軽くおぼえる。

「見えるであろう。<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の奥が。――いや見えるといっても、黒い樹木と、黒い山と、そしてあとは星明りに光る流れの水が分るのみだが、やがてあの辺に見えてまいる」

再度、何がといってたずねたいところを、黙って聞いておりますと、吉宗も口をつぐんで、根気よく西北の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>を見つめています。

ふと、万太郎が顔を上げたのは、流れ星に目をひかれたのでした。しかし、吉宗は<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>たたきもしません、心耳をすまして、吹上の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>と対峙している。

四半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>もたったでしょうか、そうして、二人は無言のまま、望楼の欄に手をかけていましたが、なんの別条もあらわれない。

「さて、どうしたであろうか、こんなはずはないのだが……」

と吉宗はつぶやきながら、

「万殿、今宵はここで、白骨の<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>をなさらぬか」

と、すえてある<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>へ腰をおろします。

元より、万太郎とても、このまま吉宗に<ruby><rb>愚弄</rb><rt>ぐろう</rt></ruby>されたような形では寝つけない。殊にまだ、吹上の方に、何か見えて来るはずだといった彼の言が、うわべにこそ出しませんが、心の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>では気にかかっている。

「望楼の<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>は風変りじゃ。春のこと故、風邪もひきますまい、おつきあいするといたそう」

彼とならんで、同じ角度に胸を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>に体をあずけますと、

「いやいや、万殿の体は、風にも夜露にも、だいぶお馴れになっておろう」

またしても吉宗が、ちくりと刺すようなことばでしたが、それに不快を抱いているまもなく、

「あっ！　あの火？」

と、万太郎の<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>った眼は、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>の一方へ、何のためらいもなく奪われてしまいました。

――お蝶、お蝶、お蝶、お蝶。

お蝶のかげを追い慕って、吹上の丘を越えつめぐりつ、日本左衛門は息をきりました。

彼女の今夜の<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>なことは、かつて、<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>の甘酒茶屋から暗夜の険路を追って行ったその夜の迅さにも劣りません。

殊には、幾夜となく、探り歩き、さまよい廻っているところなので、深山<ruby><rb>大沢</rb><rt>だいたく</rt></ruby>を思わすような吹上の道の曲折も、自分の庭を歩くように、忽ち例のお薬園まで、迷いもなく駆けつけました。

ヨハンがいった<ruby><rb>人参畑</rb><rt>にんじんばたけ</rt></ruby>――、継ぎ合せた<ruby><rb>樟板</rb><rt>くすいた</rt></ruby>の絵図によって明確に教えられたピオの<ruby><rb>遺蹟</rb><rt>いせき</rt></ruby>はそこの血塚！

場所が分っても、その地底を見るには、幾尺の土を掘る努力がいるだろうとか、または、ピオの遺物死体があった場合も、それが石棺にはいっていたらどうしようとか、そんな場合の第二策は、彼女の念頭にありません。

「夜光の短刀は、もうわたしのものだ！」

歓喜のほかは何ものもない、希望のほかに何物も持たない、一念一途のお蝶であります。

その懸命は彼女をして、彼女が生れて初めて知る、熱と大胆をもたせました。

パリッと響いたのは枯木の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>です、いつもは息さえ殺して歩くのに、もう、夜光の短刀はあそこにある、余人に<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>を越されてはならない、そういう性急に張りつめているお蝶は、美しい猛獣のように、何ものも破る勢いで、一瞬の<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>をもそこへ<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>ッたのです。

「――<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われてなろうか、夜光の短刀。ここまで事を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎつけて来ながら、日本左衛門ともあろうものが、お蝶のような小娘ずれに、<ruby><rb>横奪</rb><rt>よこど</rt></ruby>りされたと言われちゃあ、末世末代、緑林仲間の笑われぐさ」

彼はさすがに音もさせず、<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>を躍って越えますと、すばやく薬草畑を走って、<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木蔭へ身を入れました。

青い星明りの下、お蝶は、ほっと息をついている。

息を休めながら、彼女の鋭い目くばりは始まりました。そして<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>と、しきりと探し歩くうちに、昼間、吉宗が旗本たちにあばかせた血塚の前でハタと足を止めると、

「オオ、これだ……これにちがいない」と呟やきました。

見ると、夏草の伸びる頃には、その中に隠れてしまいそうな低い塚石がある。が、ふしぎなのは、その日の昼、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を入れた形跡もなく、踏みにじった痕も消えて、やわらかい枯れ草と山芝が少しの不自然もなく土をかくしていることです。

しかし、元よりお蝶は何事も知りません、確かにそれ！　と飛びつくように寄って、石の肩を抱くように手をかけました。どうしてこの石の下を探ったものかと、そこで思案につき当ったものか、この石こそ血をうけた祖先の姿かと懐かしく思ったものか、とにかく、暫くそうしておりましたが、やがてその手が石の抵抗を試みるように、力をこめて向うへ押す。

案外にも、据えられてある石の根はもろく動いて、ごろッと向うへ倒れましたが――と思った途端です。

「お蝶ッ！」

<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木立から、叫んだ日本左衛門が、餌に飛びかかる豹のように、彼女の姿を目がけて身を躍らせました。

どんな激情もめッたに顔に出さない彼が、そう叫んだ<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>と怖ろしい勢いといったら、かつて見ない程でしたが、その瞬間に、何ということでしょう、彼の目の前――およそ七尺四方ほどの大地が、ザッ――と突然くずれ込んで、真暗な巨口を開いたかと思いますと、お蝶の姿も倒れた石も、せつなに地上から消えております。

「やっ、これは？」

と、すんでのことに、彼もその<ruby><rb>陥穽</rb><rt>かんせい</rt></ruby>に<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら飛びこむ<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みだったのを、ハッとして足を食い止めましたが、濛々とあがった<ruby><rb>砂塵</rb><rt>さじん</rt></ruby>と<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>に、中をのぞく隙もなく、

「<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>！」

四方の<ruby><rb>暗</rb><rt>やみ</rt></ruby>を破って、彼一身をばらばらッと取り<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>んだ数人の武士がある。――それは吉宗の旨をうけて、宵からここに手ぐすねひいていた、長坂、近藤、中坊、本田、そのほか倔強な旗本七名でした。

驚愕に重なる驚愕、意外にかさなる意外な強敵の計策です。――危地に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちたお蝶、重囲にかこまれた、日本左衛門、ああ遂に夜光珠の夢は<ruby><rb>惨憺</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる破れをここに告げました。

どう<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れましょう、この<ruby><rb>陥穽</rb><rt>かんせい</rt></ruby>を。

合図はさかんに火を呼びました。<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>をしてひびく<ruby><rb>呼子笛</rb><rt>よびこ</rt></ruby>につれて、あなたの樹林やこなたの山蔭から、狐火のごとく殺到するのは、番士や<ruby><rb>黒鍬</rb><rt>くろくわ</rt></ruby>の者の手に振る明りです。

望楼の上で万太郎が、アッと驚いたのはこの火光のうごいた刹那でした。

それと共に側にいる吉宗の片頬にニッとゆがむ<ruby><rb>北叟笑</rb><rt>ほくそえ</rt></ruby>みが、目に見えるような気がします。

<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>につぐ跫音。

知らせにつぐ何かの報告。

やがて集まる提灯や<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>の明りは、下から<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>しまに望楼の柱を染めました。

とんとんとんとそこへ誰やら駆け上がって来る。

きっと、吉宗が振返ってみますと、<ruby><rb>革襷</rb><rt>かわだすき</rt></ruby><ruby><rb>股立</rb><rt>ももだ</rt></ruby>ちのまま、旗本の<ruby><rb>中坊</rb><rt>ちゅうぼう</rt></ruby>陽之助がそこに小膝を折って、

「捕り押えました曲者、かねてのお指図どおり、ただ今不浄駕籠にのせて、<ruby><rb>平河口</rb><rt>ひらかわぐち</rt></ruby>から宗門役人の手へさし渡しまするが、それにてよろしゅうございましょうか」

「一人か？　曲者は」

「もう一名のものは、なかなか手<ruby><rb>強</rb><rt>ごわ</rt></ruby>く、後より加勢をやって追い詰めておりますから、程なく<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>についてくることと存じます」

吉宗と万太郎が、やがて望楼を降りてゆきますと、今しも、一挺の<ruby><rb>不浄駕籠</rb><rt>ふじょうかご</rt></ruby>は江戸城の番士に固められて、<ruby><rb>平河口</rb><rt>ひらかわぐち</rt></ruby>へ送られようとする矢先でした。

見ると、その中には、黒装束を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれた、一人の女が、高手小手に<ruby><rb>縛</rb><rt>いま</rt></ruby>しめられて、息さえあるかないかの様子、苦悶の白いうなだれ顔へ、ガクリと黒髪をくずしている。

「若殿」

そッと袖をひいて知らせる金吾に、返辞もなく、万太郎は、

「ウーム、お蝶だ……」

茫然たるばかりでした。

「万殿、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>は法によって、役人の手に処分を委すが、それで御異存はなかろうな」

吉宗のことばのうちに、すでに<ruby><rb>中坊</rb><rt>ちゅうぼう</rt></ruby>陽之助は先に立って、<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>についた切支丹のお蝶を本丸から不浄門へと運び去って行く。

しかし、吉宗はまだ寝所へは戻りません。<ruby><rb>武者溜</rb><rt>むしゃだま</rt></ruby>りとよぶ望楼下の大床の間に<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>をすえて、次々に来る、<ruby><rb>吹上</rb><rt>ふきあげ</rt></ruby>の報告を待っています。

すでに四<ruby><rb>更</rb><rt>こう</rt></ruby>を感じる時刻です。

一<ruby><rb>番鶏</rb><rt>ばんどり</rt></ruby>がどこかで鳴く。

「どこに姿を隠したものか、日本左衛門の姿は一<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>見当りませぬ」

――最後の報告は吉宗を失望させました。しかし、石神堂の間道もあのとおり<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がせてありますから彼に翼のない以上、ふたたび江戸城の外へ逃げ出す気づかいは絶対にない。

彼は、注進の侍に、わざと声を激しくして、

「<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがい</rt></ruby>ない旗本どもである、水野<ruby><rb>弥</rb><rt>や</rt></ruby>一<ruby><rb>兵衛</rb><rt>べえ</rt></ruby>は何をしておる、長坂血槍九郎はおらぬのか、土屋、本田、近藤のともがら、常に武をほこる者たちが寄って、ただ一人の<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>を捕え得ぬという法やある。早く行ってそう申せ、そち達の手や才覚にあまるならば、自身吉宗が出向くであろうと」

言わず語らず、万太郎をそばに据置いて、手厳しく<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らしめている吉宗は、この機に<ruby><rb>峻厳</rb><rt>しゅんげん</rt></ruby>たる彼の半面を見せました。

注進の者は、将軍家の<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>に会って、ハッと恐れ驚いたまま吹上の方へ引返して行きましたが、その後の<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>け渡った無言の<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>が、刻一刻と過ぎてゆくうちに、不意な方角で、バリバリッという物音がひびきました。

「やっ？　……」

ひとしく、吉宗や万太郎の眼は、望楼の上へつり上がりました。早、暁に近い<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>を破って、異様な音がきこえた所は、たしかに高い楼上に違いありません。

一同の胸に、何か知らず、ハッと不意を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたような<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>が走った途端です――

「御免！」

と叫びながら、将軍家と万太郎のうしろから、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>股立</rb><rt>ももだち</rt></ruby>を引ッからげて、櫓の階段を駆けのぼッて行ったのは、相良金吾でありました。

「ヤ、ヤ？　……あの音」

つづいて将軍家も<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>を立つ。

万太郎も<ruby><rb>辺</rb><rt>あた</rt></ruby>りの動揺につり込まれずにはおられません、<ruby><rb>素破</rb><rt>すわ</rt></ruby>と立って、言い合せた如く、金吾のあとから望楼へ向って駆け上がる。

真っ先に、その頂きに駆けつけて来た金吾は、そこに立つ<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、実に驚くべき不敵者を見ました。

何処をどう逃げて、どこから此処へ伝わって来たものでしょうか、まさしく、そこに立っていた人影は日本左衛門です！　ピオの白骨の祭られてある白木の<ruby><rb>壇</rb><rt>だん</rt></ruby>から、夜光の短刀をつかみ取って去ろうとする刹那に、天運の尽きるところか、<ruby><rb>黒衣</rb><rt>くろご</rt></ruby>の袖を白木の台の端に引ッかけて、それをたおした様子です。

「オオ、おのれッ」

叫ぶが早いか、金吾がパッと飛びかかッて行きますと、咄嗟に身を沈めて、相手の体を泳がせた日本左衛門は、白絹にくるんだままの短刀を、<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>の如く口にくわえて欄にヒラリと足をかけると、

「めずらしいな！　金吾」

「おぼえておッたか、日本左衛門」

「オオ夜が明けそうだ。――おさらばだぜ」

「待てッ」

「おれの年貢の<ruby><rb>納</rb><rt>おさ</rt></ruby>め時は、まだちッと早そうだ」

言うかと思いますと、望楼の一<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>の柱をすべッて、四層目の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>まで、スルスルと、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>のように<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>ッて行きました。

あっ！　何たる離れ<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>でしょう。

そこで一つよろめけば、四<ruby><rb>重層</rb><rt>じゅうそう</rt></ruby>から<ruby><rb>櫓下</rb><rt>やぐらした</rt></ruby>まで落ちて<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>となる五体を、咄嗟、猫足のごとく納めたかと思いますと、日本左衛門の影は風を割ッて、<ruby><rb>扇廂</rb><rt>おうぎびさし</rt></ruby>の腕木から天守番役所の屋根の一端へと、ヒラリと躍っておりました。

「今だッ」

逃がしてなりましょうか、相良金吾として、与えられたこの再会を逸して、ふたたびこんな機会というものが巡ッて来るかどうか分りません。

無論のこと、彼もつづく。

<ruby><rb>豹躍</rb><rt>ひょうやく</rt></ruby>！　また豹躍！

先の影は、すでに天守番長屋から<ruby><rb>銅塀</rb><rt>どうべい</rt></ruby>のミネへ移って、本丸の大屋根へと必死によじ登っているのです。

「あれよ！」

思わず叫んだのは、望楼の上の吉宗と万太郎でした。

天地は暁闇。

遠い<ruby><rb>辰巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>の海の境が、かすかに<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>いろの一線をひいているばかり。

そこから見れば、目の下は、御本丸大奥から大本丸の表方まで、海のごとき<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>の波です。万余の坪もあろうかと思われるこの大屋根、天下、ここより壮観な屋根というものはありますまい。

<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>は露に濡れていて、<ruby><rb>徐々</rb><rt>じょじょ</rt></ruby>に白む暁闇の明りが、そこを、脱兎と駆ける一人の男をあざやかに見せている。

われを忘れた吉宗は、<ruby><rb>欄</rb><rt>らん</rt></ruby>を打って側にいる松平源次郎に叱咤しました。

「助勢をよべ！　旗本どもを呼び返せッ」

しかし、ここに至って万太郎は、やや自分の立場を盛り返しました。彼は溜飲をさげつつそれをこう言って制したのです。

「あいや、あまりお騒ぎなさらぬ方が得策でしょう、かりそめにも天下の首城が、一盗賊に<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>を<ruby><rb>印</rb><rt>しる</rt></ruby>された事さえ名誉ではありません。まして、あなたが大統をうけて以来日も浅いうちに、かようなことが華やかに世間の語り草となっては、新将軍の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かなえ</span>の<ruby><rb>軽重</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>を問わんとする者がないとも言えません。――まずどうなるか、<ruby><rb>愚臣</rb><rt>ぐしん</rt></ruby>金吾にまかせてお置きなさいまし、金吾が追ってまいりました」

そうです。彼は金吾に手がらをさせたい。この機会を完全に、金吾ひとりの力に授けてやりたい。――でなければ、よいのうちから随分と吉宗に<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>されていた自分の<ruby><rb>鬱勃</rb><rt>うつぼつ</rt></ruby>もやり場がありません。

吉宗の聡明は、たやすく彼のことばをうけ容れて、

「ウーム、それもそうか」

無言と冷静の<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>に返りました。

されば、日本左衛門を追って行った金吾には、彼ひとりの宿怨のほかに、「どうかやッてくれ、吉宗に見せてくれ、頼むぞ」と望楼の上で力こぶを入れている主人の期待が多大にかけられている。

元より金吾も<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>みません。

彼が本丸の屋根によじれば、金吾もすばやく大屋根にのぼって、彼と十二、三間の間隔を、一<ruby><rb>跳</rb><rt>ちょう</rt></ruby>、一歩にちぢめてゆく。

四方へ富士形にながれている屋根<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>は、追わるる者と追うものとの影を、見え隠れにさせましたが、やがて、表方の方へ、坂を下るように走った日本左衛門は、さすがに少し、その方角にも迷ったのでしょう、車寄せの<ruby><rb>破風</rb><rt>はふ</rt></ruby>から足を回して、ふたたび大屋根の浅瀬を駆けながら、当番所、納戸前、<ruby><rb>御台所</rb><rt>みだいどころ</rt></ruby>の上まで伝わって来ますと、<ruby><rb>御広敷</rb><rt>おひろしき</rt></ruby>の<ruby><rb>橋廊下</rb><rt>はしろうか</rt></ruby>という屈強な渡りを見つけて、二の丸御門につづくお留守居部屋と<ruby><rb>賄</rb><rt>まかな</rt></ruby>い方の屋根をふみこえて走りつづける。

そこまで来ると、もう目の下に水が見えます。<ruby><rb>平河門</rb><rt>ひらかわもん</rt></ruby>、三の丸、<ruby><rb>丑寅櫓</rb><rt>うしとらやぐら</rt></ruby>のこう三ツで、カギの手を作った<ruby><rb>内濠</rb><rt>うちぼり</rt></ruby>の水です。

「しめた！」

彼の心は叫んだでしょう。

初めてそこで、ヒラリと大地へ降りました。ちょうど梅林門の地先です。

土をふむが早いか、彼はさらに自由な足どりで、<ruby><rb>梅林櫓</rb><rt>ばいりんやぐら</rt></ruby>の芝土手へ向って疾風のごとく駆けだして行く。ただし、そこにはお手先番所と進物番の寝小屋がありますが、彼の目にはそんなものは、脱兎の前の枯れ草にも足りません。

番所の間を駆けぬけて、小松の植えられてある<ruby><rb>芝土手</rb><rt>しばどて</rt></ruby>へかかると、夜光の短刀は咄嗟にかれのふところが呑む。

逃げて来た道は誤りません、およそ江戸城の十重二十重のかこみから出るにはここよりほかに逃げ口はない。なぜといえば、この梅林櫓の土手から水のかなたの竹橋御門の間にかぎッて、幅は広いが、濠は一重になっています。

が、しかし――彼がそこから躍ろうとしたせつなには、金吾もすでに、彼の姿をそこに見つけて、

「おのれ――ッ」

疾呼して日本左衛門を捕えました。

どぶ――ん……と凄まじい水煙を、<ruby><rb>暁闇濠</rb><rt>ぎょうあんぼり</rt></ruby>の水面に見たのは、まさしくそうした途端であって、本丸の望楼に身伸びをして見つめていた吉宗と万太郎のひとみには、もうその影が二つとも、一<ruby><rb>沫</rb><rt>まつ</rt></ruby>の白いものとなって消えていました。

時ならぬ水煙です。しかもまだ薄ぐらい明け方。

そこへわらわらと飛んで来た人数は、折よく竹橋御門の外を通りかかった宗門奉行井上河内守とその配下でした。

忽ち、濠の水面へ、<ruby><rb>分銅繩</rb><rt>ふんどうなわ</rt></ruby>が飛ぶ、<ruby><rb>刺又</rb><rt>さすまた</rt></ruby>がさぐる。そうして、組み合ったままの二つの人体を、陸へ引揚げました。

金吾と日本左衛門です、二人ともに気を失っている、そしてぬれしずくな<ruby><rb>乱鬢</rb><rt>らんびん</rt></ruby>と、蒼白になった顔や腕の傷を見ますと、二人がいかにはげしい水中の格闘をやったかが想像されて、見るものの眼を慄然とさせる。

来合せた井上河内守は、この遭遇が、折よくもあり折<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しくもありました。なぜかというに、彼は前日から命をうけて、切支丹屋敷のお蝶の体を、平河口の<ruby><rb>不浄門</rb><rt>ふじょうもん</rt></ruby>でうけとることになっていました。

この未明に、早出のくり出しはそのためです。しかし、そこで<ruby><rb>約</rb><rt>やく</rt></ruby><ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ほどの時間を費やしてしまったのは、事情まったくやむを得ないと言わなければなりません。

＊　　　＊　　　＊

それより少し前に、中坊陽之助を先にたてて、本丸を出たお蝶の<ruby><rb>不浄駕</rb><rt>ふじょうかご</rt></ruby>が、平河口の犬くぐりから<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>へ来たのは、まだ人の顔もさだかに見えない頃でした。

「まだ宗門方の者は来ておらぬようだ、約束よりは、少しこっちの方が時刻が早かったかも知れぬ」

陽之助は、<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>の番小屋の前に駕をおろさせて、明けの空と四方の暗を等分に見交わしておりましたが、向うの木立に、チラ、チラ、とうごく<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の幾つかを見たので、

「おう、あれへ来た」

と自分からも提灯を振って、早くと合図を送りました。

すると、さしまねく<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に応じて、足なみシトシトと近づいて来たのは、宗門役所の印をつけた幾ツもの提灯と、<ruby><rb>菌</rb><rt>きのこ</rt></ruby>を植えならべたような<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>の一列で、いずれも露よけの合羽に、あられ小紋の<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>、ぞろぞろと地上に指先をついて屈みこむと、

「昨日の<ruby><rb>御飛札</rb><rt>ごひさつ</rt></ruby>により、井上河内守の<ruby><rb>名代</rb><rt>みょうだい</rt></ruby>として、山屋敷<ruby><rb>与力</rb><rt>よりき</rt></ruby>佐脇仙十郎、お蝶の身がら受収りに参上いたしました」

と、列の中から一人の武士が、こう言いながらいんぎんに、中坊陽之助に会釈をしました。

「大儀でござる。――がしかし、河内殿御自身は？」

「病中のため、御舎弟<ruby><rb>主水</rb><rt>もんど</rt></ruby>殿をあれに付き添わせましてござります」

「ウム、お風邪のことは前日承っておったが、大事な<ruby><rb>囚人</rb><rt>めしゅうど</rt></ruby>、ずいぶん手落ちのないように召され、何かの処置は、追ってお沙汰が下がるであろう」

「では、たしかに」

「御苦労でした」

お蝶の体は、繩のまま<ruby><rb>駕付</rb><rt>かごつ</rt></ruby>きで差渡しになる。

で、陽之助は役目が済んだわけですから、平河口から城内へ引っ返しましたが、ここに奇怪きわまる事には、それから約半刻を経て、ふたたび平河口へお蝶をうけ取りに来た人数があります。

それが<ruby><rb>偽物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>か前のが偽物か、宗門方と陽之助の間に、目まぐるしい紛争がありましたが、ともあれ一騎の使いを山屋敷へ飛ばせてみると、お蝶の駕は着いていません。

落度の争いは<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のこと、さては前の一列こそ、何者か企んだ<ruby><rb>偽役</rb><rt>にせやく</rt></ruby>にちがいないと、中坊陽之助と宗門方の役人は、八方行方をさがし求めて、その追跡にあせりましたが、江戸三十六見付、何の手懸りもありません。

その早朝、根岸の里にも飛報がありました。

息をきって知らせに来たのは、この四、五日、ここへも帰らなかった<ruby><rb>高麗村</rb><rt>こまむら</rt></ruby>の次郎で、

「おりんさん、おりんさん、お嬢様はどうしたい？」

と、声のありッたけを出して、今起きたばかりの耳を驚かしました。

縁先で、小鳥の<ruby><rb>摺餌</rb><rt>すりえ</rt></ruby>を作っていたおりんと、庭先の<ruby><rb>吹井戸</rb><rt>ふきいど</rt></ruby>で髪をなでていた月江は、

「まあ……」と、両方から彼の突拍子もない現れに目をみはって、

「次郎じゃありませんか、どうしたの？」

「あ、お嬢様ですか、どうもこうもありません、早く支度をして、私と一緒に、お<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>まで来てください」

「お濠端へ？　何をしに」

「くわしいことは話していられませんが、何しろ、大変なさわぎ、あの、日本左衛門がネお嬢様、天運つきて、とうとう<ruby><rb>蠅</rb><rt>なわ</rt></ruby>にかかったんです」

「えっ、ほ、ほんとかえ次郎」

「ほんとですとも！」

「いつ？」

「きょうの明け方――たった今です。だが、もっと驚くことがありますよ、その日本左衛門を捕まえるために、金吾様も組みついたまま濠に落ちて、気を失ったままどうしても息を吹っ返さないと騒いでいました。――で私が来る時に、御城内から万太郎様も駆けつけて来たり、釘勘のおじさんも飛んで行きましたが、何しろ早く、私はお嬢様にこのことを知らせようと思って、息をきって飛んで来たんです」

おりんは鳥籠をほうり出して、奥の<ruby><rb>塗箪笥</rb><rt>ぬりだんす</rt></ruby>から月江の帯や衣類を乱れ<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>にもいれずにかかえて来ました。

「さ、お嬢様、ここで次郎の話を聞いているより、少しも早くそこへおいでになるのが<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>でございましょう、お支度を遊ばせ、早く、早く」

「おりんや、着物などはこれでいいよ、それより早く、駕を頼んで来ておくれ」

「おっと！　駕ならば、おりんさんのと都合二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>、ここへ来るついでに連れて来てあります」

「じゃ、私の護り刀を」

「ハイ」

「それと、お祖父様の<ruby><rb>紙位牌</rb><rt>かみいはい</rt></ruby>を」

「ハイ、ハイ」と、おりんはくるくる舞いをして、彼女と自分の草履を二足、庭の<ruby><rb>沓石</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ移しました。

裏門の木戸から、ふたりが乗物に身を入れると、次郎は例の野槍を小脇にかかえて、月江の駕わきに付きながら、

「ねえ、お嬢様」

タッタ、タッタと、駕屋の足と速度を合せて駆けながら、中の月江に話しかけます。

「ねエ、お嬢様、うれしいでしょう」

「私は、何だか胸がワクワクして、嬉しいのだか、悲しいのだか分らない」

「金吾様は、そのまま死んでしまいはしないかと、それを心配しているのでしょう。……だが、それは大丈夫ですよ、水を飲んだだけですから」

「私は、駕の中で、今もじいっと祈っているんだよ」

「だが、胸が<ruby><rb>晴々</rb><rt>はればれ</rt></ruby>するじゃありませんか。御隠家様を斬った日本左衛門が、やがて、獄門に首をさらすんだと思うと、<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討ったような気がします」

「やはり、お<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>様が、金吾様の蔭身について守っていて下すったんだね」

「そうかも知れません、金吾様は、今にお嬢様のお<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>様になるお方ですから」

「何をいうの、次郎は」

「ホイ！　また石のやつに<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>きました」

<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っていると、道の遠さも分りません。

汗をしぼった二挺の駕は、またたく間に神田橋から<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>に沿って、金吾と日本左衛門が引き上げられた場所まで駆けつけました。

だが、そこに<ruby><rb>矢立</rb><rt>やたて</rt></ruby>と手帖を持って立っていたのは、大番組の侍四、五名と、町奉行の与力同心と、<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>の番小屋の小者や<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>などで、もう金吾も見えなければ、日本左衛門も倒れておりませんでした。

「もし、お伺いいたしますが、これにおりました釘勘という目明しと、徳川万太郎様たちは、どちらへお移りになったでしょうか」

次郎がその内の一名にこう尋ねてみますと、

「オオ、そちは、万太郎様の召使いか」

「はい、召使いでもございませんが、日本左衛門と一緒に、お上の御介抱をうけました相良金吾様に会いたいお人がございますので」

「それならば、呉服橋御門内の南町奉行のお役宅へ伺ってみるがいい」

「有難うぞんじます……。お嬢様、聞いたでしょう」

駕の中へこういうと、次郎はまた先に立って、飽きもせずに駆けだしました。

呉服橋門内の役宅では、その日の早朝から総出役で、奉行所始まって以来の物々しさと混雑を呈しております。

<ruby><rb>仮吟味</rb><rt>かりぎんみ</rt></ruby>の準備のために、与力や同心が<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>するかたわらには、奉行中山<ruby><rb>出雲守</rb><rt>いずものかみ</rt></ruby>が三家の若殿万太郎が不時の訪れに、その応接にも狼狽し、一方、役宅へ迎び入れた日本左衛門と金吾とには、<ruby><rb>養生所</rb><rt>ようじょうしょ</rt></ruby>のお<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え医小川<ruby><rb>笙船</rb><rt>しょうせん</rt></ruby>がかけつけて、その手当にもいそがしい。

折も折です。

そのただならぬ混雑のところへ、また新しい入牢が三人、釘勘の組のものに<ruby><rb>繩尻</rb><rt>なわじり</rt></ruby>をとられて、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>つなぎに門内へはいって来ました。

見ると、<ruby><rb>鼠木綿</rb><rt>ねずもめん</rt></ruby>の宗服を着たのが、虚無憎とみえますが、蠅をうけた以上、無論、<ruby><rb>掛絡</rb><rt>けらく</rt></ruby>も<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>も<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎとられているので顔はさらしている。

それは、雲霧の仁三と四ツ目屋の新助で、一番<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どんじり</span>に、<ruby><rb>屠所</rb><rt>としょ</rt></ruby>の羊のように引っ張られて来たのはお人好しの率八です。

「入牢です。入牢です」――釘勘の組のものは、<ruby><rb>揚屋</rb><rt>あがりや</rt></ruby>の境でしきりと怒鳴っておりましたが、右往左往のとりこみかたで、暫くそこで身動きもなりません。

「あっ、親分……」

と、率八が、右側の板じきの上に、医者の手当をうけて仰臥していた日本左衛門を見て、いと悲しげに叫びました。

「おう、率八か」

日本左衛門も気がついて、ガバと向うで身を起こしながら、

「や、雲霧も四ツ目屋もか」

「親分……」涼しそうに二人は目礼して、

「とうとう、来る時節がやってまいりました。小塚ッ原へ着くまでは、どうかお達者でお暮らしなさいまし。いずれ、お話は獄門の上で寝もの語りにいたしましょう」

「ばかを言え、おれはまだもう少し生きのびるつもりだ。いろいろ<ruby><rb>娑婆</rb><rt>しゃば</rt></ruby>に未練があって、どうもこのままじゃ往生ができねえ」

こう言って、ニッと笑うと、聞きつけた同心が駆けて来て「これッ」と双方を裂いて、引っ立てました。

果たして日本左衛門の放言は後日、うそでなかった証拠を見せました。やがて<ruby><rb>揚屋</rb><rt>あがりや</rt></ruby>入りとなった吟味中に、かれは四、五度破牢をくわだてましたが成功せず、遂に、あしたは小塚ッ原の露となるにきまった前の夜、嵐に乗じて<ruby><rb>牢舎</rb><rt>ろうしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>を破り、白雨黒風の夜を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いていずこともなく消えうせました。

そして、<ruby><rb>紫紐</rb><rt>むらさきひも</rt></ruby>の<ruby><rb>丹三</rb><rt>たんぞう</rt></ruby>、赤星<ruby><rb>重兵衛</rb><rt>じゅうべえ</rt></ruby>などと、第二の<ruby><rb>緑林</rb><rt>りょくりん</rt></ruby>の徒を<ruby><rb>糾合</rb><rt>きゅうごう</rt></ruby>して、東海に白浪の悪名をほしいままにしたのは、それから彼が二十九歳に刑刀をうけるまでの<ruby><rb>短</rb><rt>たん</rt></ruby>生涯の話で、ここでは語る時機ではありません。

一方――金吾の方は、充分手あつい介抱をうけ、根岸から急いで来た月江や次郎も、共々、その枕辺に寄って、あらゆる心づくしを捧げている。

ところへ、桐畑の自宅から、釘勘の手へ一通の手紙が届きました。辺りの者が立った時、彼は金吾の手へそッとそれを見せて、

「金吾さん、あとでよく読んでください、お<ruby><rb>粂</rb><rt>くめ</rt></ruby>もとうとう、自分で身の処置をつけました。――鎌倉へ行って松ヶ岡（<ruby><rb>尼僧院</rb><rt>にそういん</rt></ruby>）へはいるそうです。あそこへ駆け込めば、どんな<ruby><rb>兇状</rb><rt>きょうじょう</rt></ruby>のある女でも、決してお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>では手をつけません」

そうこうしている間にも、奥へは、<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>と、江戸の四方の番所や諜者からの密報がはいって来る。

「釘勘、やっと目ぼしがついたぞ」

<ruby><rb>出雲守</rb><rt>いずものかみ</rt></ruby>と対談していた万太郎は、やがて明るい顔をして、月江や金吾に何か言いおくと、<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>として奉行所の外へ出ました。

<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>です。まったく<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>です、彼は釘勘と共に、奉行所の前の<ruby><rb>石豆腐</rb><rt>いしどうふ</rt></ruby>（<ruby><rb>差入</rb><rt>さしい</rt></ruby>れ茶屋）で軽い旅支<ruby><rb>度</rb><rt>たく</rt></ruby>をすると共に、遠く江戸を離れたのです。

いや、病気というものほど怖ろしいものはありません、彼の持ちまえの猟奇病は、この最後に至ってもお蝶の先途を見届けないでは、まだ何か宿題が残っているような気がして、なんとも気が済まなかったものと見えます。

＊　　　＊　　　＊

中仙道から北国路、<ruby><rb>善光寺平</rb><rt>ぜんこうじだいら</rt></ruby>も過ぎました。道中は、加賀の藩のさる貴人というふれ込みで、前田家の<ruby><rb>関手形</rb><rt>せきてがた</rt></ruby>も持っている。その、<ruby><rb>菅笠合羽</rb><rt>すげがさがっぱ</rt></ruby>の一行が、ひとりの美少女を駕にのせて、急いだ早さといったらありません。

これなん実は<ruby><rb>山岳切支丹族</rb><rt>さんがくきりしたんぞく</rt></ruby>の変装でした。救われたのがお蝶であることは申すまでもないこと。

ヨハンは山屋敷の石牢で自殺しました。前の夜、事の破れたのを知ったからです。そして、彼女はヨハンの遺命によって、その行くところへ運ばれているのです。

真ッ<ruby><rb>青</rb><rt>さお</rt></ruby>な北越の海が目の前にひらけました。沖に、<ruby><rb>煙草色</rb><rt>たばこいろ</rt></ruby>の帆を張った、一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>の<ruby><rb>南蛮船</rb><rt>なんばんせん</rt></ruby>がかかっている。

<ruby><rb>敦賀津</rb><rt>つるがづ</rt></ruby>の港でもありません、三国港でもありません、甚だ<ruby><rb>漠</rb><rt>ばく</rt></ruby>としていますが、確かにあの辺の海浜です、煙草色の帆を張った南蛮ぶねは、お蝶をのせて白い海波の果てに消えたのです。――それを見送ってから、山岳切支丹族のともがらも、<ruby><rb>祈祷</rb><rt>いのり</rt></ruby>の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、附近の山へちりぢりばらばら<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の子のように立ち去りました。

「どうだ釘勘、追いかけては」

「ウーム、もう目明しの繩じゃ届きません」

「だが、ふしぎにわしは気が軽くなった。もう夜光の短刀も欲しゅうない。帰りにはひとつ、信州路の<ruby><rb>大名</rb><rt>だいみょう</rt></ruby>を訪ねて、何かまた、タネになるような秘密を拾ってやろうか」

「およしなさいまし、また三年も苦労をしちゃ、あなたはともかく、この釘勘がたまりません」

砂山の砂をくずしながら、ふたりの旅人は、その晩の宿をさがしに帰りました。