## 序の章

万治三年七月十八日。

幕府の老中から通知があって、<ruby><rb>伊達陸奥守</rb><rt>だてむつのかみ</rt></ruby>の一族伊達<ruby><rb>兵部少輔</rb><rt>ひょうぶしょうゆう</rt></ruby>、同じく<ruby><rb>宿老</rb><rt>しゅくろう</rt></ruby>の大条兵庫、<ruby><rb>茂庭周防</rb><rt>もにわすおう</rt></ruby>、片倉小十郎、原田<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>。そして、伊達家の親族に当る<ruby><rb>立花飛騨守</rb><rt>たちばなひだのかみ</rt></ruby>ら六人が、老中酒井<ruby><rb>雅楽頭</rb><rt>うたのかみ</rt></ruby>の邸へ出頭した。

酒井邸には雅楽頭のほかに、同じく老中の阿部<ruby><rb>豊後守</rb><rt>ぶんごのかみ</rt></ruby>と稲葉<ruby><rb>美濃守</rb><rt>みののかみ</rt></ruby>が列坐していて、左のような申し渡しがあった。

「伊達むつの守、かねがね不作法の儀、上聞に達し、不届におぼしめさる、よってまず<ruby><rb>逼塞</rb><rt>ひっそく</rt></ruby>まかりあるべく、<ruby><rb>跡式</rb><rt>あとしき</rt></ruby>の儀はかさねて仰せいださるべし」

こういう意味の<ruby><rb>譴責</rb><rt>けんせき</rt></ruby>であったが、

「但し堀ざらいの普請はつづけるように」

ということが付け加えられた。

堀ざらいとは、その年の三月から幕府の命令で、伊達家が担当していた、小石川堀の修築工事をさすものである。

申し渡しのあと、太田<ruby><rb>摂津</rb><rt>せっつ</rt></ruby>守が上使を命ぜられ、立花飛騨守と伊達兵部との三人で、伊達家の上屋敷へゆき、陸奥守<ruby><rb>綱宗</rb><rt>つなむね</rt></ruby>にその旨を伝えた。

綱宗はすぐに品川の下屋敷へ移った。

明くる七月十九日の夜。

伊達家の浜屋敷の内にある坂本八郎左衛門の住居へ、二人の訪問者があった。坂本は浪人から取立てられた者で、<ruby><rb>食禄</rb><rt>しょくろく</rt></ruby>は六百石、目付役を勤めていた。

坂本は二人に会った。

二人は密談があるようによそおい隙をみて坂本に襲いかかった。坂本は抜きあわせるひまもなく、その場で即死した。二人は坂本の家人に、「上意討である」と云って、たち去った。

同じ夜、同じ時刻。

やはり浜屋敷の内にある、渡辺九郎左衛門の住居に、二人の訪問者があった。渡辺も浪人から取立てられた者で、<ruby><rb>疋田</rb><rt>ひきた</rt></ruby>流の槍の名手であり、刀法にも非凡な腕があった。食禄は二百四十石、家中の士に<ruby><rb>槍術</rb><rt>そうじゅつ</rt></ruby>を教えていた。

渡辺は会うのを拒んだ。

訪問したのは渡辺金兵衛と渡辺七兵衛といい、二人とも<ruby><rb>小人頭</rb><rt>こびとがしら</rt></ruby>であるが、どちらも親しいつきあいはないし、そんな時刻に訪問されるような、用件があるとも思えなかった。

「いや、急用があるのです」二人は取次の者に云った。

「こんど御門札を新らしくするので、印鑑をいただきたいのです、明朝から新らしい御門札になるので、ぜひとも今夜のうちに印鑑をいただかなければならないのです」

まえの日に、藩主が幕府から逼塞を命ぜられて、品川の下屋敷へ移った。しぜん門札の更新ということもあり得るので、渡辺は二人に会うことにした。

<ruby><rb>常着</rb><rt>つねぎ</rt></ruby>の上へ<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはき、脇差だけ差し、印鑑の入った鹿皮の小さな袋を持って、渡辺九郎左衛門は客間へ出ていった。二人の訪問者は、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の前に帳面ようの物を置いて、坐っていた。渡辺はかれらを見たが、二人のようすに変ったところはなかった。

「――御苦労」と云って渡辺は坐った。

「夜分にあがりまして」と渡辺金兵衛が云った。そして七兵衛と共に両手をついて、低く辞儀をした。

渡辺は袋を膝の上に置いた。低く辞儀をした二人の右手は、それぞれの刀をつかんだ。

渡辺は袋の口の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をゆるめ、中から印鑑を出そうとした。そのとき金兵衛が片膝立ちになり、刀をすばやく取り直して、抜き打ちに渡辺へ<ruby><rb>斬</rb><rt>き</rt></ruby>りつけた。刀は渡辺の右の肩を斬った。

「なにをする」

渡辺は腰の脇差へ手をかけながら立った。その手には印鑑の袋が絡まっていた。袋の口の紐が指に絡まっていたのである、――渡辺が立ったとき、七兵衛が左から突を入れた。渡辺はとっさに脇差を抜いて横に払った。七兵衛の刀は渡辺の腰を刺し、渡辺の刀は七兵衛の肩を斬った。

「なんのためだ」と渡辺が叫んだ。

そのとき右から、金兵衛が踏み込んだ。そして、腰を刺されて体の崩れた渡辺の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を十分に斬った。渡辺は<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>へよろけかかり、襖といっしょに次の間へ転げこんだ。金兵衛は追っていって、もう一刀、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>から胸へかけて斬った。渡辺は「うん」と<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いた。七兵衛は肩の傷を押えながら客間のまん中に立っていた。

そこへ三人の若侍と、一人の若い女が走って来た。侍たちは廊下の左から、――女は奥のほうから走って来て、客間の前で<ruby><rb>立竦</rb><rt>たちすく</rt></ruby>んだ。

「騒ぐな、上意討だ」

金兵衛が云った。彼は渡辺九郎左衛門が死んだのを<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かめてから、客間のほうへ出て来た。

「あとから検視が来る、それまで<ruby><rb>死躰</rb><rt>したい</rt></ruby>に手を付けてはならない、家の中もそのまま、慎しんで待っておれ」

女が叫び声をあげた。

金兵衛が女を見た。女は十八九歳の、小柄な<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>つきで、勝ち気らしい、だが美しい顔だちをしていた。女は金兵衛の脇を走りぬけ、渡辺の死躰のところへいって、死躰にとり<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>った。そして声をあげて泣きだした。

「あれはなに者だ」と金兵衛が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

三人の若侍たちはすぐには答えなかった。しかしようやく、その中の一人が云った。

「<ruby><rb>側女</rb><rt>そばめ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>という者です」

金兵衛は刀を拭きながら七兵衛を見た。

「大丈夫、浅手だ」と七兵衛が云った。そして、二人はたち去った。

同じ夜の、ほぼ同じ時刻。

伊達家の桜田上屋敷内にある畑与右衛門の住居へ、三人の訪問者があった。畑は<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>役（禄高不明）で夫婦の間に<ruby><rb>宇乃</rb><rt>うの</rt></ruby>という十三歳の娘と、虎之助という六歳の男子があった。訪問者と聞いたとき、畑はふと不吉な予感におそわれた。漠然としたものではあったが、まったく無根拠ではなかった。彼は妻をよんで訊いた。

「子供たちは寝たか」

「はい、寝ております」

「すぐに起こせ」と畑は云った、「二人とも起こして、おまえ宮本へつれてゆけ、おまえがつれてゆくんだぞ」

「こんな時刻にですか」

「わけはあとで話す、いそいでゆけ」

妻女は立っていった。彼女は子供達を起こした。どちらもまだ眠ってはいなかった。虎之助はとび起きて、よろこんで云った。

「どうするの、また遊ぶの」

「静かになさいな」

宇乃がそう云った。宇乃は十三歳であるが、躯つきも大きく、顔もおとなびてみえ、気持もませていた。彼女は母親のようすで、なにかただならぬ事が起こったのだと直感した。それで着替えを終ったときには、もっとおとなびた顔つきになった。

「遊ぶんじゃないの」と虎之助が母親に訊いた。

母親は帯をしめてやりながら「静かになさいな」と云った。虎之助は姉の顔を見て、そして黙った。支度のできた二人をつれて妻女が裏から家を出たとき、客間のほうで高い叫び声と、足踏みをするような物音が聞えた。

「あれ、なに、お母さま」

虎之助が云った。妻女は<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えたように娘の顔を見た。宇乃はおちついた声で、母親をなだめるように云った。

「まいりましょう、お母さま」

妻女は歩きだした。外は暗かった。まっ暗で、爪先も見えないようであった。宇乃はしゃんとしていた、彼女には母親の怯えているのがわかり、自分がしっかりしていなければだめだと思った。

「お母さま、どこへゆきますの」

宇乃が訊いた。母親が答えた。

「え、ああ、宮本さまよ」

「ただゆけばよろしいの」

「あなた、いっておくれか」

母親は家へ戻りたいようすであった。それが宇乃にはよくわかった。宇乃は云った。

「ええ大丈夫よ、お母さま」

「ではそうしておくれ」

母親は握っていた虎之助の手を宇乃にわたした。そしてなにか云いたげに、娘のほうをすかし見たが、虎之助を押しやって云った。

「いっておくれ」

彼女は家のほうへ引返した。

宇乃は弟の手を握って、闇のなかを歩いていった。虎之助の手はふるえていた。彼も幼ないなりに、ようやく不安を感じだし、それをがまんしているのだということが、宇乃にわかった。

宮本又市は三百石の<ruby><rb>無役</rb><rt>むやく</rt></ruby>で、無役のまま藩主綱宗の側近に仕えていた。住居は小者長屋の近くにあった。姉弟が掃除井戸のところまでいったとき、向うから走って来た者があった。足袋はだしだったので、足音が聞えず、宇乃がそうと気づいて、よけようとしたとき、激しく突当られてよろめいた。

「お姉さま」と虎之助が叫んで、姉にしがみついた。

相手もびっくりしたらしい、脇のほうへよけながら、かすれた声で云った。

「誰だ、――」

宇乃はその声を知っていた。それは宮本又市の弟で、十六歳になる新八の声であった。宇乃は虎之助を抱きよせながら云った。

「わたくしと弟ですの」

「宇乃さんか」新八は<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いで、宇乃のほうへ近よった。

「宇乃さん、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>の家へゆくところだ」

「わたくしも」

「えっ、貴女も――」

新八が荒い息をした。宇乃が弟といっしょに出て来たことで、彼には事情がわかったらしい。新八は絶望したように云った。

「ではだめだ、外へ出よう」

「外へですって」

「大変なことが起こるらしい、兄は畑さんに知らせて、それから浜屋敷の渡辺さんのところへゆけと云った」

「わたくし弟といっしょですの」

「不浄門から出よう」

宇乃は弟をひきよせた。

「さあ虎之助さん、あたしに負ぶさるのよ」

「いやだ、自分で歩くよ」

虎之助は姉の手を<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>んだ。

新八がせきたて、いっしょに走りだしたが、すぐに五人の人たちにゆくてを<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がれた。かれらはお<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>のほうから来た。<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持った二人の小者と、ほかに侍が三人いた。かれらはとつぜんお厩のほうから現われて、こちらの三人をとり巻いた。

新八は畑姉弟をうしろに<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>った。虎之助は姉にしがみついた。

「こんな処でなにしている」と侍の一人が云った。

小者たちが左右から提灯をさしつけた。呼びかけた侍は三十歳ばかりで、<ruby><rb>固肥</rb><rt>かたぶと</rt></ruby>りの小柄な男だった。声は低く、穏やかであった。

「私は、私たちは、――」

新八は<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>った。すると侍が宇乃に云った。

「そちらは畑どのの御姉弟だな」

「ええそうです」と新八が吃りながら云った、「そして私は、宮本の新八です」

侍は宇乃を見、新八を見た。

「私は原田家の村山喜兵衛という者だが」とその侍は新八に云った、「こんな時刻にこんな処でなにをしているのだ」

「私にはわかりません」新八はふるえながら云った、「私は兄に云われて、客が二人来たのですが、兄は私に畑さんへ知らせにゆけと云ったのです、畑さんへ知らせて、それから浜屋敷へゆけと云われたので」

「こんな時刻にか」と村山喜兵衛が云った、「こんな時刻に御門を出られると思うのか」

「不浄門から出るつもりでした。不浄門に兄の知っている人がいるものですから」

「いったいそれは、――」ともう一人の侍が云った、「それはどういうことだ、なにがあったのだ、なんのために浜屋敷などへゆくのだ」

「わかりません」と新八はまた吃った、彼の声はいまにも泣きだしそうに聞えた、「兄のところへ客が来たのです、私にはわかりませんけれど、なにか大変なことが起こりそうでした、兄のようすではなにか尋常でないことが起こるように思えました」

「矢崎、――」と村山喜兵衛がもう一人の侍を見た。矢崎という若侍は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、小走りに向うへ走っていった。村山喜兵衛は新八に云った。

「こちらへおいでなさい」

「どうするんですか」

「いまようすを見にやったから、どんなぐあいかわかるまで、向うで待つがいいだろう」

村山喜兵衛は虎之助のほうへ歩みよった。

「坊、いっしょにおじさんのうちへゆこう」

虎之助は姉を見た。喜兵衛は<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>んで云った。

「抱いていってやろう」

「歩いていく」と虎之助は云った。

村山喜兵衛は、三人を、自分の小屋へつれていった。それは、宿老原田甲斐の住居に付属する、長屋の一と棟であった。

三人は部屋へあがった。新八はひどく<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>していた。顔色もまっ<ruby><rb>蒼</rb><rt>さお</rt></ruby>だし、唇も白く乾いて、そうして、絶えずぶるぶると躯をふるわせていた。灯のあかりでそのようすを見て、宇乃はまた自分はしっかりしていなければならない、と思った。

「おうちへ帰ろう」

虎之助がそっと云った。宇乃は弟の背中をさすった。

「おとなしくしていてね」

「おうちへ帰ろう」

「そんなことを云わないの、もうすぐお母さまが迎えにいらっしゃってよ」

「お母さまが来るのか」

「ええ、いらっしゃるわ」

村山喜兵衛は戸口にいた。

虎之助が云った。

「お母さま、ほんとに、迎えに来るのか」

「そうよ、だからおとなしく待ってるのよ」

「泣かないでか」

宇乃は聞き耳をたてた。

戸口にいた村山喜兵衛が、戸口から出ていった。矢崎という侍が戻ったらしい、小屋は狭いので、戸口の外で二人の話すのが、宇乃の耳にもあらまし聞えて来た。宮本新八は立とうとした。彼にも聞えたのか、それとも聞くために出ようとしたのか、立ちかけて、宇乃の顔を見た。

宇乃はそっと首を振った。

新八はそのまま坐った。

「二人とも斬られたって」

戸口の外で、村山喜兵衛が云った。

「どちらもです」

矢崎<ruby><rb>舎人</rb><rt>とねり</rt></ruby>が云った。彼は喜兵衛よりずっと若く、まだ二十一歳であった。

「宮本又市も畑与右衛門も斬られました、畑では妻女も斬られたそうです」

「妻女まで斬った」

「邪魔をしたので斬られたということです」

「なに者が斬ったのだ」

「わかりません」と矢崎舎人が云った、「畑どのへ来たのは三人、宮本へ来たのは二人、どちらも家人の知らない顔で、名もなのらなかったといいます」

「意趣も云わずにか」

「いや、上意討だと云ったそうです」

「上意討だって、――」と村山喜兵衛が訊き返した。

「たしかに、両家ともそう云ったといっています」

「ばかなことを」と喜兵衛が云った、「殿は昨日、御逼塞になった、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>といえるのは御幼君だけだ、まだお<ruby><rb>二歳</rb><rt>ふたつ</rt></ruby>の亀千代さまが、そんなことをお命じになるわけはない」

「かれらはそう申したということです」

「これは穏やかでないぞ」と村山喜兵衛が云った、「昨日の今日、上意を<ruby><rb>僣称</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>してこんな事が起こるのは尋常ではない、おれはすぐ御家老に申上げよう、あの三人をたのむぞ」

「承知しました」

「誰が来ても渡すな」

「承知しました」と矢崎舎人が云った。

村山喜兵衛はそのまま、原田家の住居のほうへ去った。部屋の中で、新八と宇乃はこれを聞いた。全部ではないが要点は殆んど聞きとれた。新八はまた宇乃を見た。宇乃はしずかな動作で、そっと弟の肩を抱きよせ、そうして、なだめるように云った。

「そうよ、泣かないでね」

虎之助は姉を見あげた。彼はすっかり眠そうな顔をしていた。

## 女客

七月二十五日の早朝。

原田<ruby><rb>甲斐宗輔</rb><rt>かいむねすけ</rt></ruby>は、自分の居間で手紙を書いていた。彼は六尺ちかい背丈で、色の浅黒い、温和な顔だちをしている。濃い眉はやや尻あがりであるが、静かな色を湛えた眼は尻さがりであった。おもながで、額が高く、その額に三筋の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>があり、その皺が四十二歳という年齢を示しているようであった。

甲斐は黙っていると四十五六にみえる。彼はあまりものを云わない、たいていのばあい黙って、人にしゃべらせている。話しをするときにも<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>ではないし、決定的な表現は殆んどしなかった。彼は<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にしか笑わないし、それも声をあげて笑うようなことはない。一文字なりの、かなり大きな唇と、その尻さがりの穏やかな眼で微笑するくらいであるが、<ruby><rb>眼尻</rb><rt>めじり</rt></ruby>に皺のよる眼のなごやかな色と、唇のあいだからみえるまっ白な歯とは、ひどく人をひきつける。そんなとき彼は、三十四五にも、また、三十そこそこのようにも若くみえた。

甲斐は手紙を書いていた。机は北向きの窓の下にあり、あけてある窓の外に、<ruby><rb>矢竹</rb><rt>やだけ</rt></ruby>が茂っていた。時刻は五時。戸外はかなり濃い霧で、矢竹の葉はびっしょりと濡れ、そよとも動かず、重たげに垂れていた。

――自分が江戸へ来たのは、去年の六月だから、この五月が御番あけであった。

甲斐はそう書いていた。

――御番があけて帰国したら、おめにかかって申上げるつもりだった。しかし御承知のような大変が起こって、まだしばらくは帰国ができないようである。そこで、こんど里見十左がくにもとへ使者に立つというので、それに託して近況をお知らせする。

甲斐はそう書いた。

彼が手紙を書いている居間の、ひと間おいた向うの座敷から、高い話し声が聞えて来る。一人は伊東七十郎であった。そのよくとおる、傍若無人な声で、伊東七十郎だということはすぐにわかった。

「いったい、なんだって決闘なんか申し込んだんだ」と七十郎の云うのが聞えた。

「このおれに意見をしおった」と相手の云うのが聞えた。

それは里見十左衛門の声であった。その声には、実直で頑固な性分がよくあらわれていた。

「へえ、あの新参者がか」

「あの新参者がだ」と十左が云った、「知ってのとおり、おれは堀普請の<ruby><rb>目付</rb><rt>めつけ</rt></ruby>役をしておる、坂本も相い役だったが、――おれのところへやって来おって、<ruby><rb>小日向</rb><rt>こびなた</rt></ruby>の普請小屋に、不取締りのことがあるから、注意するようにと申しおった」

「斬ってしまえばよかった」

「それでおれはどなった」

「おれなら、そのとき斬ってしまう」

七十郎のそう云うのが聞えた。甲斐は手紙を書いていた。

いま甲斐の書いている手紙は、<ruby><rb>茂庭佐月</rb><rt>もにわさつき</rt></ruby>に送るものであった。佐月は<ruby><rb>周防定元</rb><rt>すおうさだもと</rt></ruby>（現に国老）の父で、周防<ruby><rb>良元</rb><rt>よしもと</rt></ruby>といい、やはり国老を勤めていたが、いまでは隠居して、くにもとの志田郡松山の<ruby><rb>館</rb><rt>たて</rt></ruby>に、ひきこもっていた。

――七月十八日、酒井邸へ召されて、殿さま逼塞の沙汰があったこと、それから連日連夜の重臣会議や、十九日夜、坂本、渡辺、畑、宮本ら四人が刺殺されたことなどは、すでに御子息の周防どのから、使者で申上げたと思う。

甲斐はそのように書いた。ひと間おいた向うの座敷では、里見十左衛門がなお話していた。むきになったその声は、こちらの居間までよく聞えてくる、十左はこう云っていた。

「おれはどなりつけた、おれは<ruby><rb>忠宗</rb><rt>ただむね</rt></ruby>さま御代から二十余年、ずっと目付役を勤めておる、きさまのような新参者に意見されるほど、不鍛練な人間ではない」

「おれなら、その場で斬ってしまうよ」

「すると坂本八郎左、まっ赤になった、まっ赤になりおって、かように<ruby><rb>面罵</rb><rt>めんば</rt></ruby>されては男の道が立たぬ、と申した、そうか、とおれは云った、そうか、男の道が立たぬか、それなら男の道の立つようにしてやろう、とおれは云った、まず場所と時刻をきめよう」

「それで殿へ訴えたのか」七十郎のそう云うのが聞えた。

「やつめ、宿老に<ruby><rb>泣訴</rb><rt>きゅうそ</rt></ruby>し、殿のお袖にすがりおった」

「それでおしまいさ」

七十郎が笑った。十左はさらに云った。

「おれは怒ったのではない、彼を怒らせたかったのだ、そうして決闘へもってゆきたかったのだ、それをあの八郎左め」

「即座に斬ればいいんだ」と七十郎が云った、「坂本はむろんのこと、畑も宮本も渡辺も、もっと早く斬ってしまえばよかった、そうして君側の<ruby><rb>奸</rb><rt>かん</rt></ruby>を除けば、殿の御逼塞などということにはならなかったろう」

「そこもとは身軽だからそう云えるのだ」

「殿が御逼塞になってから斬るくらいなら、そのまえに斬るのが当然じゃないか」

「そこもとは身軽だから、そう簡単に云うことができる」

と十左が云った。すると七十郎が云った。

「ばかをいえ、もともと侍の身命は軽いものだ」

「おかしなことを云うぞ」

「なにがおかしい、義に当面すれば、身命を<ruby><rb>鴻毛</rb><rt>こうもう</rt></ruby>よりも<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>しとするのが、侍の本分ではないか」

「おかしなことを申す」と十左が云った、「それではおれが、身命を惜しんだように聞えるぞ」

「これは一般論だ」

「いやそうではあるまい」

十左の声が高くなった。甲斐はちょっと筆をとめた。筆をとめて、十左と七十郎の高ごえを聞き、あるかなきかに頬笑んだ。

「二人よればすぐに始まる」と彼は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「困ったお国ぶりだ」

そしてまた手紙に向かった。

――自分は<ruby><rb>筋目</rb><rt>すじめ</rt></ruby>の家柄ではあるが、まだ<ruby><rb>評定役</rb><rt>ひょうじょうやく</rt></ruby>でしかないし、それに考えることもあるので、重臣会議にはなるべく出ないようにしている。聞くところによると、会議は殆んど一ノ関（伊達兵部少輔宗勝）さまの自由にされているらしい。御承知のように一ノ関さまは、酒井侯と<ruby><rb>昵懇</rb><rt>じっこん</rt></ruby>のうえ、<ruby><rb>姻戚</rb><rt>いんせき</rt></ruby>関係にもあることだし、酒井侯はまた幕府閣老のなかでも権勢のさかんな人であるため、一ノ関さまの発言には、誰も正面から反対ができないもようである。

甲斐がそこまで書いたとき、向うの座敷の声がさらに高くなり、里見十左衛門のかん高くどなるのが聞えた。伊東七十郎の声も高いが、それは平然として動じない調子をもっていた。

「こらえ性のない男だな、なにをそう喚くんだ」と七十郎が云った。十左が喚き返した。

「そのもとはなんだ、そのもとは伊達家でどんな身分の人間だ、どれだけの身分でおれにそういうことを云うんだ」

「おれはどんな身分でもない」と七十郎が云った、「おれは小野の館の厄介者だ、隠れもない、おれは伊東新左衛門の厄介者だ、そんなことは誰でも知っているさ」

「その厄介者がおれにそんな口をきくのか」

「そう怒るな、まあそう怒るな、おれはつまりこう云いたかったんだ」

甲斐は書きつづけていた。

――自分が重臣会議に出ないようにしているのは、一門宿老の確執反目にまきこまれたくないのと、これが<ruby><rb>要</rb><rt>かなめ</rt></ruby>という大事をしっかり見ていたいためである。

たとえば七月十九日夜の、四人刺殺の件にしても、誰が命じたものかいまだにわからない。刺客は十人ないし十一人らしい、だが姓名のわかっているのは、渡辺金兵衛、渡辺七兵衛、そして小者の万右衛門、という三人だけである。かれらは「上意討である」と云ったそうでこれは明らかに僣称であるが、重臣会議では、結局この件はうやむやに終るらしい。理由は、刺殺された四人は殿さまに<ruby><rb>放蕩</rb><rt>ほうとう</rt></ruby>をすすめ、それがもとで御逼塞という大事にいたらしめた<ruby><rb>奸臣</rb><rt>かんしん</rt></ruby>だから、というのである。殿を誤らせた奸物。それだけの理由で、いちどの審問もなく、ふいに襲うて刺殺するという法はない。しかし会議の席で一ノ関さまはこう発言された。

――金兵衛らはよくやった。

それで重臣の人々は黙した。

――金兵衛らはよくやった。

一ノ関さまのその一と言に、誰も異議をさしはさむ人がなかった。坂本ら四人は討たれ損、刺客どもの責任は不問。そして宿老の一人は云った。

――<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>すればなにが出てくるかわからないし、こんな事で<ruby><rb>悶着</rb><rt>もんちゃく</rt></ruby>を起こすときではない。

この点に重要な問題がある。自分がいま一例として挙げたこの件にこそ、一門宿老の複雑な関係と、それが深い禍根をなしていること、また、ひいては綱宗さま逼塞という大事にも及んでいることの、もっとも端的なあらわれがあると思う。

甲斐がそこまで書いたとき、次の間でひくい<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>ばらいをし、申上げますという声が聞えた。

甲斐は「うん」といった。

襖をあけたのは、<ruby><rb>家扶</rb><rt>かふ</rt></ruby>の堀内<ruby><rb>惣左衛門</rb><rt>そうざえもん</rt></ruby>であった。甲斐は筆をとめて振返った。

「湯島がみえました」と惣左衛門が云った。甲斐は黙って惣左衛門の顔を見た。惣左衛門は云った。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>どのでございます」

「いまなん<ruby><rb>刻</rb><rt>どき</rt></ruby>だ」

甲斐はごく僅か眉をしかめた。すると額の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がはっきりあらわれた。

「やがて六時になります」

「用を聞いておいてくれ」と甲斐が云った。惣左衛門は当惑したように云った。

「おめにかかりたいと申しておられます」

「用を云わないのか」

「おめにかからなければ、と申しておられます」

甲斐は窓のほうへ眼をやり、それから云った。

「では待たせておけ」

惣左衛門は襖を閉めて去り、甲斐はまた書き継いだ。

――宿老の人達の、十余年にわたる権勢あらそいは、現に貴方の知っておられるとおりである。お国びとの忠誠に疑いはないが、その性の頑固一徹で、我執の激しさ、利己心の強さはかくべつである。そのために排他的な徒党がうまれ、それが離合集散をくりかえし、反目と<ruby><rb>誹謗</rb><rt>ひぼう</rt></ruby>がいりみだれて、事が起こっても、殆んどその是非の判断がつかないようなありさまであった。さらにそこへ、<ruby><rb>兵部少輔宗勝</rb><rt>ひょうぶしょうゆうむねかつ</rt></ruby>という人の存在が、大きく、重くのしかかって来た。これが宿老から家中一般の不和反目を、いっそう複雑にしたことは事実で、なにか事が起こるたびに、その弊害のはなはだしさが表面にあらわれる。こんど里見十左衛門が使者に立つのは、家督の君を選ぶために、在国の一門一家重臣に「入れ札」を求めるわけであるが、これまた一ノ関さまの主唱であり、異議なく一決したものであった。

――ここをよく記憶しておいてもらいたいのである。

甲斐はそうつづけた。

――一ノ関さまの存在が、このように重くなったのは、御先代（忠宗）の御他界このかたである。御他界のおり、みまいに来られた水府（水戸<ruby><rb>頼房</rb><rt>よりふさ</rt></ruby>）卿が、「つな宗どの若年なれば、兵部どのにはよくよく家中の取締りをたのむ」と仰せられたそうで、これが一ノ関さまの立場を決定的にした、といってもよいであろう。<ruby><rb>古内主膳</rb><rt>ふるうちしゅぜん</rt></ruby>（故国老）どのが御先代に殉死されるとき、「兵部さまのことが気がかりでならない、よくよく注意せよ」と遺言されたが、それから僅か二年、どうやらすでにその懸念があらわれはじめたように思われる。

――これまで自分は、幸いにして紛争の局外にいることができた。これからもできるだけ局外に立って、事のなりゆきを見まもっているつもりである。世継の君が決定しても、それで一藩が平安におさまるとは思えない。不測の事の起こる心配は、むしろそのあとにあると考えられるが、これについては、帰国のうえで申上げることにする。

甲斐はそこで筆をとめた。彼は初めから読み返し、結びの挨拶を書くと、筆を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、その手紙を封じ、それから、<ruby><rb>硯箱</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>の脇にある鈴を取って振った。

次の間に答えがあり、矢崎<ruby><rb>舎人</rb><rt>とねり</rt></ruby>が襖をあけた。

「里見どのをこれへ」と甲斐が云った。

舎人が承知してさがると、すぐに里見十左衛門が来た。年は四十六歳なのだが、五十以上にも老けてみえる、色の黒い、骨ばった、ごつごつした躯つきで、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>の強そうな顔をしていた。

「待たせて済まなかった」と甲斐が云った。十左は坐りながら、息張った口ぶりで云った。

「いま七十郎めを緊めてくれました」

甲斐は封書を渡した。

「では松山へこれを」

「ひと緊め緊めてくれました」

十左は封書を受け取りながら云った。甲斐は机の上を片づけた、十左はさらに云った。

「あいつ若輩にしては胆力もあり、頭も悪くはないらしいが、厄介者の分際をわきまえぬやつで、ずにのると暴慢無礼なことを申す、私は元来かれが好きなのですが」

「そうらしいな」と甲斐が云った、そして机の前から立ちあがった。

「ではあちらで、――」

「あの若輩者は手綱をしめておかねばいけません、こなたさまは寛容すぎる、こなたさまは誰に対しても御寛容すぎます、あまりさもない人間はお近づけなさらぬがよい」

「ではあちらで、――」

甲斐は次の間へ去った。十左もようやく立ちあがった。

甲斐は<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>へいった。そこには塩沢丹三郎が、着替えの支度をして待っていた。丹三郎は十五歳になる。成瀬久馬という同じ年の少年と二人、甲斐の身のまわりの世話をする役で、十日ほどまえに風邪をひき、小屋にさがっていたものであった。

「もういいのか」と甲斐が云った。

「はい、――」

「顔をあげてごらん」

丹三郎は顔をあげた。甲斐はその額と眼をみて、そして、頷いて云った。

「畑の子供を預けた筈だな」

「はい、――」

「親たちのことを聞かせたか」

「いいえ、聞かせないようにしておりますが、姉のほうは気づいているようすでございます」

「悲しがっているか」

「いいえ、そのようにはみえません」

丹三郎が帯をさしだした。甲斐は帯をしめながら云った。

「いずれ良源院へやるつもりだが、それまで面倒をみてやるようにと、母に申しておけ」

「はい、――」

丹三郎は暗い顔をした。甲斐はそれを認めて、「どうした」と云った。

「母が哀れがりまして」

甲斐は「うん」と眼をそらした。

「ふた親を亡くし、私どもで少し馴れましたのに、また知らぬ人の中へやるのは可哀そうだ、よろしければ、ずっと世話をしてあげたいと、申しております」

「袴は黒にしよう」と甲斐が云った。

丹三郎は<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>からその袴をとり出した。甲斐が云った。

「今朝の<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>は誰と誰だ」

「<ruby><rb>蜂谷</rb><rt>はちや</rt></ruby>さまと伊東さま、里見さまのお三人です」

「では湯島のも出してやれ」

丹三郎は「はい」と答えた。

甲斐はそのまま内客の間へいった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は茶菓を前にして、坐っていた。二十八という年よりは五つ六つも若くみえる。内庭の植込に、もうかなり高くなった朝の日光がつよくさしつけ、その反射で、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>のふっくりとしたおもながな顔が、緑色に染っているようにみえた。

「これから朝の飯だ」甲斐は立ったまま云った、「いっしょに食べよう」

「どうなすったのですか」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が云った。甲斐は穏やかに彼女を見た。

「いったい、どうなすったのですか」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は云った。

「もう十五日にもなるのに、お顔もみせて下さらないなんて」

「出られなかったんだ」

「まる十五日もですか」

「飯を食べよう」と甲斐が云った。

「お待ち下さい、そのまえに申上げたいことがございます」

「あとにしてくれ」

「あたしのことではないんです。お国から奥さまがいらしったんです」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が云った。甲斐の高い額に、はっきりと皺がよった、彼はけげんそうに、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の顔を見た。彼女は頷いた。

甲斐は訊き返した、「なんだって、――」

「ゆうべおそくお着きになったんです」

「奥がか、――」

「中黒さまがお供ですわ」

甲斐の額の皺が深くなった。彼はひくく「うん」といい、足もとへ眼をおとした。

「なんだろう、――」

「御病気の治療をするために、江戸の良い医者にかかりに来たのだ、と仰しゃっていらっしゃいます」

「供は<ruby><rb>達弥</rb><rt>たつや</rt></ruby>だけか」

「あたしの存じあげているのは中黒達弥さまだけですけれど、ほかにお二人、中年の御家来がごいっしょです」

甲斐は顔をあげた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は甲斐の顔を、ぎらぎらするような眼で見あげた。もう七八年も世話をしているが、彼女がそんな<ruby><rb>膏</rb><rt>あぶら</rt></ruby>ぎった眼つきをするのは、初めてである。

「あたしにはわかってます」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は云った、「ごぜんのお帰りが延びたので逢いにいらしったんですわ、御病気なんて嘘、御病気どころですか、お顔色もいいし、なが旅をしていらしったのに、ずいぶんお元気ですもの」

「なにを怒ってるんだ」

「怒ってなんかおりません」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は赤くなった。

「怒ってなんかいるもんですか、奥さまがあまりお若くてお美しいので、びっくりしているんです」

「あれはもう三十七だ」

「あたしは幾つだとお思いになって」

「いって飯を食おう」

「あたしが幾つだか御存じないんでしょ、あたしだってもう二十八ですよ、八年の余もお世話になっていて、ごぜんはまだいちども」

甲斐は襖のほうへ歩きだした。

「待って下さい」

「おまえどうかしているぞ」

「ええ、どうかしています」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はすばやく眼を拭いた、「初めておめにかかった奥さまが、あんまりお若くっておきれいなので、かっとしてしまったんです、堪忍して下さい」

「向うへゆこう」

「お客さまはどなたですか」

「伊東七十郎と、里見、蜂谷の三人、みんなおまえの知っている者ばかりだ」

「伊東さまは一昨日おめにかかりました」

「どこで、――」

「湯島へいらっしゃいました、お友達という方とごいっしょに」

そして「ちょっと顔を直してまいります」と云った。甲斐は襖をあけて去った。

## 朝粥の会

原田甲斐はよく朝の食事に人を招いた。

――<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>をさしあげたい。

と云って人を招待するのである。これは十年ほどまえからの習慣で、「原田の<ruby><rb>朝粥</rb><rt>あさがゆ</rt></ruby>」と、かなりひろく知られていた。もちろん粥を出すわけではない。<ruby><rb>正餐</rb><rt>せいさん</rt></ruby>ほどではないにしても、ひととおり椀や皿や鉢ものが並ぶし、殆んど例外なしに酒が付いた。

客は<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>っていなかった。原田は「<ruby><rb>筋目</rb><rt>すじめ</rt></ruby>」といって、国老になる家柄であり、柴田郡船岡で四千二百石ほどの<ruby><rb>館主</rb><rt>たてぬし</rt></ruby>である。つまり重臣のひとりだから、つきあいもひろいが、甲斐は誰にも好かれていた。

甲斐には敵がなかった。彼は自分ではあまり口をきかず、人の話を聞くほうであった。いつも穏やかで、感情を表にあらわさないし、乱暴な動作や、高い声をだすようなことも<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にしかなかった。甲斐と対坐していると、人はなごやかな、ゆったりとした気分になり、心のなかを残らずうちあけたくなる。どんな秘密なことを話してもこの人なら大丈夫だ、という気持になるらしい。そして、それがたしかであることは、すでに誰でもよく知っていた。

それが「朝粥の会」によくあらわれた。

客はさまざまであった。重臣たちも多いが、身分の軽い者も少なくなかった。甲斐はどちらとも公平につきあった。身分によって態度や言葉つきを変えるようなことは決してなかった。重臣たちのあいだには、いろいろな事情で、仲のよくない者や、反目しあっている者があり、ふだんは出会っても顔をそむけるか、すぐ口論になるかするのであるが、そんな人たちでも、ふしぎに「朝粥の会」には出るし、そこで声を荒げるような例は、殆んどなかった。

その朝の客は三人、――仙台へ使者に立つ里見十左衛門と、蜂谷六左衛門に伊東七十郎という顔ぶれで、それにお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が加わった。蜂谷は四百石の<ruby><rb>物頭</rb><rt>ものがしら</rt></ruby>で、去年から江戸<ruby><rb>定番</rb><rt>じょうばん</rt></ruby>になって来ていた。伊東七十郎は伊達の家臣ではなかった。

<ruby><rb>桃生</rb><rt>ものお</rt></ruby>郡小野に、二千七百石で、伊東新左衛門という館主がいる。やはり「筋目」であるが、七十郎はその新左衛門の妻の弟であった。彼はいま二十七歳になる。ずっとまえから、義兄の縁で、伊達藩の諸家へ出入りをしていた。ことに原田家はいごこちがいいとみえ、船岡の館でもそうだし、江戸のばあいでもしばしば原田家に滞在した。七十郎は多能多才で、弓、馬、刀、槍となんでもやる。また会津藩の<ruby><rb>小櫃</rb><rt>こびつ</rt></ruby>与五右衛門と、幕臣の山下甚五左衛門から兵学をまなび、そのほうでも一見識をもっていた。彼は奔放なたちで、ひとところにじっとしていない。仙台、江戸、京、大阪、また北は津軽から南部、越後あたりまで気がるに歩きまわるのであった。

甲斐が席についたとき、もうそこでは酒がはじまっていた。七十郎がそうしたらしい。成瀬久馬と、あとから塩沢丹三郎が給仕に坐った。里見十左衛門はむずかしい顔をして、まっ四角に構え、七十郎は蜂谷になにか話していたが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が来て坐ると「お」と云った。

「今日は客なんだ」と甲斐が云った、「たまには女客もよかろう」「お酌をいたしますわ」「いや坐っておいで」と甲斐が云った、「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は今日は客だ、七十郎などは酌をする義理があるんじゃないのか」「義理はともかく酌はよろこんでしますね」と七十郎が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は十左と蜂谷に会釈をした。二人はそれぞれ会釈を返した。かれらはみなお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>を知っていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の湯島の家で、しばしば馳走になっているので、甲斐とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>との片づかない関係もわかっていた。しかし、ここで彼女に逢うのは初めてであった。

「里見さん怒らないかね」と七十郎が云った、「藩家の大変で、重臣諸公は<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなり、会議、密議とごった返しているのに、ここでは朝から<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>をならべ、おまけに美人まで御臨席とある、これで里見老の怒らない道理はないと思うがね」

「それなら自分で怒ったらどうだ」と十左が云った、「私は昔から船岡どのをよく知っておる、会議だの寄合いだのと騒ぐばかりが能ではない、船岡どのがどういう人物であるかは、そこもとなどには理解の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>のことだ、いやなら退席するがいいだろう」

「私は里見さんが好きだ」と七十郎は云った、「里見さんは冗談がわからない、私はその冗談のわからないところが好きだ、いったい仙台藩には冗談のわからない人間が多いけれども、里見さんほど生一本で、混りけなしに冗談のわからない人は珍らしい、生死をともにするというのは里見さんのような人だと思うな」

「それも冗談か」と十左が云った。

するとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が成瀬久馬から<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を取って立ち、十左の前へいって坐った。

「失礼ですけれど、どうぞ」

「たのむ、救いの神だ」と七十郎が云った。

十左はそれを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけて、<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>のほうへ出した。七十郎は閉口するようすもなく、こんどは甲斐に向かって、新吉原へいって来ましたよ、などと話しだした。甲斐は聞くとも聞かぬともはっきりしない表情で、黙って静かに飲んでいる。七十郎は云った。

「京町の山本屋という店で、<ruby><rb>薫</rb><rt>かおる</rt></ruby>という名の、きれいな<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>を、御存じでしょう」

「それは、――」と蜂谷がおどろいたように云った、「それは殿のおかよいなされた遊女ではありませんか」

「原田さん御存じでしょう」と七十郎は云った、「年は十九だといっていますがね、本当は十六かせいぜい十七というところでしょうな、うれい顔で、しんとした、陰気な妓ですよ」

「つまり湯島へ寄ったのはその帰りですか」と甲斐が云った。

「はぐらかしますね」七十郎は微笑して云った、「これはまじめな話です、私は侯のおもいものというのが見たかった、なにしろ奥州六十万石の領主を棒にふらせた妓ですからね、どんな美人か拝見したかったし、侯の御執心ぶりも聞いてみたかった」

十左がまた彼を睨んだ、しかし七十郎は知らぬ顔でつづけた。

「ところが驚いたことに、妓は侯をまるで知らないんです。毎日かよって来る客はいくらもあるし、中国へんのなにがし侯などは二年もかよいつめているそうですがね、これが仙台侯と思い当るような人はいないというんです」

「そうだとすると」と十左が云った、「<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>などにも口の軽いものばかりはいないとみえるな」

「ああいうところでは」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>がいそいで云った、「お客さまのことは決して話さないものだそうです、ことに御身分のある方ならなおさらでしょう」

「そのくらいのことを知らずに、この私が<ruby><rb>曲輪</rb><rt>くるわ</rt></ruby>へいったと思うのかね、とんでもない、妓は本当に知らないんだ、ねえ、そうでしょう原田さん、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>はそれを御存じの筈だ」

甲斐は「う」といって彼を見た。

「なにか云ったか」

「貴方は、――」

七十郎は盃を置いた。甲斐は静かに彼の眼をみつめた。あたたかい光を湛えた、静かな視線であった。七十郎は眼をそらした。

「貴方にはかなわない」と彼は云った、「だが、これだけははっきりさせておきます、侯が幕府から逼塞を命ぜられた理由は、侯が薫という遊女にのぼせて、放蕩に身をもち崩したからだということです、しかし実際はどうかというと、侯が京町へかよわれたのは僅かに八日か九日、それもただ酒を飲んで帰られただけで、相手の妓は侯がたれびとであるかも知らず、お顔さえよく覚えてはいないんです。いったいこれが放蕩といえるでしょうか」

七十郎はすばやく十左の顔を見た。

「曲輪がよいをする諸侯はいくらでもいます」と七十郎は云った、「名をあげてもよろしい、五人や七人はすぐあげることができますよ、いま云った中国筋の、薫という妓にかよいつめている大名、それから<ruby><rb>榊原</rb><rt>さかきばら</rt></ruby>」

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>、酌をしてやれ」と甲斐が云った。

「よろしい、わかりました」七十郎はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に頷いた、「他家のことはやめましょう、ただ、諸侯のなかにも曲輪がよいをする人はたくさんあるし、珍らしい例ではないということを忘れないで下さい、――にもかかわらず、侯だけが譴責された、六十万石の、まだ二十歳そこそこの若い大守が、僅か八日か九日、お忍びで曲輪へかよったというだけで、放蕩とか身をもち崩したとかいうのはおかしい、しかも、十日目には早くも、老中の酒井<ruby><rb>雅楽頭</rb><rt>うたのかみ</rt></ruby>から注意が来ている、――十日目にですよ、いったい雅楽頭はどうしてそれを知ったんですか、雅楽頭は新吉原の目付でもしているんですかね」

甲斐が云った、「やっぱり七十郎は酒が足りないようだ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>、おまえ酌をしてやらないか」

「痛いですか原田さん」と七十郎は云った。

甲斐は穏やかな眼で彼を見た。

「痛いんですね」と七十郎は唇で笑った、「しかしもう少し云わせて下さい、侯にはたしかに酒癖がある、そのために酒を断っておられたし飲みはじめてからはだいぶ諸方から小言が出た、去年あたりは水戸家からも意見されたそうですがね、ではどんな御乱行かというとこれといって数えるほどのことはない、飲みはじめるとだらしがなくなるという程度でしょう、なにしろまだお若いのだし、おまけにそばからすすめる者さえあった、――なにか仰しゃいましたか」

七十郎は甲斐を見た。甲斐はよそ見をしたまま「いや」と首を振った。

「そうですか」と七十郎は頷いた、「私はまた口止めされたかと思いました」

「そう思ったらやめるがいい」と里見十左衛門が云った。

「あんたにも痛いのか」

「少ししゃべりすぎるというのだ」

「では里見さんが発言するか」

七十郎の顔が赤くなった。

「あんたは知っている筈だ」と七十郎は十左に云った、「禁酒しておられた侯に、誰が酒をすすめたか、誰が侯を曲輪へつれ出したか、こんどの大事で責任をとらなければならない人間が誰であるか、里見さん、あんたは知っている筈だし、その人間を憎んでいる筈だ」

「おれが誰を憎んでいるって」

「黒川郡吉岡の<ruby><rb>館主</rb><rt>たてぬし</rt></ruby>奥山大学どの、げんざい江戸家老の第一人者をさ」

七十郎の言葉は十左と蜂谷を驚かした。甲斐は眉も動かさなかったが、十左と蜂谷とはほとんど色を変えた。

いま江戸家老（伊達家では「奉行」といった）は四人いる。茂庭周防、奥山大学、古内肥後、大条兵庫であるが、そのうち奥山大学がもっとも年長であり、また強い権勢をもっていた。大学はもともと<ruby><rb>剛愎</rb><rt>ごうふく</rt></ruby>な独善家だったが、さらに藩家の一門である伊達兵部少輔から信任され、四国老のなかでは、誰よりも大きな権力と威勢を張っていた。

「ちがいますか里見さん」と七十郎は続けた、「もっともあんただけではない、これは御家中の多くのかたがたが知っていることだ、侯が悪いのではなく、責任は他にある、責任のある人たちが、侯のことをよそにして、各自の権力の拡張に没頭していた、各自の権力を拡張するために、侯を利用しさえした、もしも侯に、幕府から譴責されるほどの不行跡があったとすれば、それを傍観していた重臣のかたがたに責任がある筈だ、ところが、――雅楽頭から注意があると、まるでそれを待っていたかのように、すぐさま、重臣会議をひらいて、侯の隠居をきめてしまった、むつの<ruby><rb>守</rb><rt>かみ</rt></ruby>綱宗公は、おと<ruby><rb>年</rb><rt>とし</rt></ruby>、万治元年九月に家督されてから、まる二年にもならぬのに、早くも御隠居ときめられたのですよ」

里見十左衛門の四角に構えた<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>が、感情の激しい動揺のために、こまかくふるえだし、温和な蜂谷六左衛門は途方にくれたように、ぎごちなく持った盃に眼をおとした。

「それもいい、隠居願いがとおればまだしもだったが、幕府はそれをにぎりつぶして、なんと、逼塞という手を打って来た、――かねて不行跡のおもむき、上聞に達して、という、八日か九日の曲輪がよいが将軍家に知られたという、いかに形式とはいいながらあまりにばかばかしい、かてて加えて、渡辺、坂本、畑、宮本の四人が、侯に放蕩をすすめたという理由で暗殺された、それも上意討という名目でです」と七十郎はなお続けた、「かれら四人は忠臣ではなかったかもしれない、坂本八郎左などは、――さっき聞いたばかりだが、里見さんでさえ斬ろうとしたことがあるそうだ、おそらく、曲輪などへ供をしたのも事実でしょう、けれども、その罪を糾明もせずに、いきなり暗殺するという法はない、しかも暗殺者たちは上意討だと云ったそうです、上意とはいったい誰の意志ですか、侯が逼塞になり、まだ跡式のきまらない現在、上意といえる人がいるんですか、原田さん、暗殺者たちが上意と云った、その人が誰だか、聞かせてくれませんか」

「貴方は御存じでしょう」と七十郎はさらにたたみかけた、「その人は誰ですか、原田さん、伊達家六十万石の藩主に代って、上意と云うことのできるのは誰ですか、聞かせてもらえませんか」

甲斐の額に皺がよった。

「わかったよ」と甲斐は微笑した。やや尻下りの眼が細くなり、唇のあいだから、白いきれいな歯が見えた。いかにもなごやかな、温かい微笑である。「もうそのくらいでいい」と甲斐は云った、「七十郎が武芸の達者で、兵学にくわしくって、放浪癖があって、酒が強くって、女に好かれるということはよくわかっている、しかしもういい、――飲まないか」

七十郎は甲斐の顔をみつめた。その眼は刺すようにするどかったが、しだいに嘆賞の色をおびてきた。彼は<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をつき、甲斐に向かって微笑した。

「飲みますとも」と七十郎は盃を取った、「しかし、もうひと言だけ<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いていいですか」

甲斐は七十郎を見た。七十郎は云った。

「貴方はいったいなにを考えているんです」

「そうだね、――」と甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>を見た、「まずこのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>と、もう一人の女のことだろうかね」

「もう一人ですって」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が振返った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は甲斐が、出府して来た妻女のことを云うのかと思い、それは云ってはいけない筈だと、眼がおで注意した。

「ああ、もう一人」と甲斐は云った、「七十郎に云われるかと思ってはらはらしていたんだ、このあいださる人にさそわれて、新吉原へゆきましてね、偶然なんだが、それが山本屋という店だった」

「まあ、曲輪へいらしったんですか」

「人にさそわれたんだ」

「御用で出られなかったと仰しゃったじゃあございませんか」

「ひとつやろう」甲斐は盃をお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>にさした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は盃には眼もくれなかった。

「御用で出られなかったって、湯島へは半月もいらっしゃらなかったのに、曲輪へいらっしゃるひまはおありになったんですか」

「この話しはよそう」と甲斐は云った、「おまえの罪だぞ、七十郎、おまえがへんなことを訊いたからだ」

「貴方には負けます」

「飯にしようか」

「貴方には負けです原田さん、だがいいですか、私はいつか貴方から本音をひきだしてみせますよ、いつかはね、必ずですよ」

「飯にしよう、丹三郎」と甲斐が云った。

「それがようございましょう」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が云った、「ですけれど、曲輪へいらっしった話しは、これで済んだのでございませんからね」

「今朝の会は、充実した話しが多かったようですな」と甲斐が云った。

みんなが笑った。七十郎は笑いながら、しかし原田さんはみんなうまく<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>しましたよ、と云った。里見十左衛門は黙っていた。

蜂谷やお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>や、給仕の少年たちは、ぎらぎらするような話題から解放されて、みんなほっとしたような顔になった。だが十左だけは、暗く重苦しげな表情で、ひとりだけなにか思いつめていた。単直でいちずな彼の性分には、七十郎の言葉はあまりに重大すぎたし、その内容と、暗示するものとに圧倒された。

ことに、――貴方は奥山大学を憎んでいる、と云われたことが、十左の肝にこたえた。十左は奥山大学を憎んでいた、大学が兵部宗勝をうしろ盾にして、勝手な横車を押しとおすありさまは眼に余った。

――<ruby><rb>御家</rb><rt>おいえ</rt></ruby>を毒するやつだ。

十左はそう思っていたが、それは心の中のことで、誰に話したこともなく、また人に話すようなことでもない。それを七十郎はむぞうさに云い当てた。この男にはゆだんがならぬぞ、と十左は心の中で呟いた。

成瀬久馬と塩沢丹三郎が食事をはこんで来た。蜂谷は小鉢の味噌を味わって、これは珍らしいと声をあげた。

「これはくるみ味噌でございますね」

「そうです」と甲斐が云った、「味はどうですか」

「結構でございます、うもうございますね、久しぶりで故郷の味にめぐりあいました」

「湯島でも出ましたな」と七十郎がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>を見た。

「船岡で作るんだ」と甲斐が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>があとを続けた。

「船岡で作ってこちらへ送って来るのを、わたくしの実家の<ruby><rb>雁屋</rb><rt>かりや</rt></ruby>で売るんですの」

「売るんですって」

「しょうばいを始めたんだ」と甲斐が云った。七十郎が眼をみはった。

「どういうことです」

「湯島の家をまかなうんですね」

「からかってはいけません」

「そんな暇はないさ、七十郎などは世間がひろいから、見本を持ってひろめに廻ってもらうつもりだ」

「貴方という人は、――」と云いかけて、七十郎は首を振った。

その日の午後、甲斐は評定役の会議に出た。

## 断章（一）

――里見どのは立ちました。

「集まった顔ぶれは」

――伊東七十郎、十左どの、<ruby><rb>蜂谷</rb><rt>はちや</rt></ruby>六左衛門どの、それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>と申す女です。

「七十郎は泊っているのか」

――十日ほどまえから滞在しております。

「どんな話しがあった」

――伊東がこのような放言を致しました、ここに書いてまいりましたが。

「あとで読もう」

――速筆のままですから、御判読がむずかしいと思います。

「あとで読む、ほかにはないか」

――ございません、伊東の放言には誰も相手になりませんでした。もちろんあの<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>も同じことで、伊東がなにを申してもとりあわず、まったく知らぬ顔でございました。

「あれは賢い人間だ」

――ただ一つ、伊東の話しによりますと、数日まえに新吉原へまいり、山本屋へあがったということですが。

「それは知っている」

――あの方は人にさそわれたと云っておりました。

「おれが命じたのだ、おれが命じてつれてゆかせたのだが、彼はついに<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>を出さなかった」

――それだけでございます。

「畑の子供たちと宮本の弟はどうしている」

――宮本新八は里見どのがひきとり、畑の姉弟は塩沢丹三郎の家におります。

「動かしたら知らせろ」

――そのつもりです。

「裏をかかれるな、彼は賢いぞ」

――そのつもりでいます。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>のことは聞いている」

――湯島に家があります。

「彼のそばめだと思うか」

――それがはっきり致しません。

「はっきりしないとは」

――あの女は日本橋石町の、<ruby><rb>雁屋信助</rb><rt>かりやしんすけ</rt></ruby>という海産物問屋の妹で、八年ほどまえから、湯島に家をもち、あの方がそこへかよっておられるのです。

「雁屋の娘か」

――御存じでございますか。

「雁屋は<ruby><rb>石巻</rb><rt>いしのまき</rt></ruby>から出た筈だ」

――いまの信助は二代めでございます。

「雁屋は石巻から出て、石巻にも店を張っている筈だ」

――石巻の店は弟の政吉がやっているということです。

「そうか雁屋の娘か」

「いや待て、それでは雁屋の年間あきない高をしらべておけ」

――いそぎましょうか。

「気づかれてはならんぞ」

――すぐ手配を致します。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>という女はそばめではないと思うか」

――まだ契りはない、と女が自分で申しております。

「女が自分でか」

――八年にもなるのにと、うらみ言を申しておりました。

「真実そのようか」

――湯島の家へはあの方の知友もしばしばゆかれますが、みんなそれを知っており、それを不審に思っているようでございます。

「あの男らしいやりかただ」

――それに、湯島の家は雁屋で買い、<ruby><rb>数寄屋</rb><rt>すきや</rt></ruby>の増築や、庭の造り変えなど、ずいぶん金をつぎこんだうえ、四人の召使をいれた家計も、ずっと雁屋でまかなっているようです。

「彼はそういう人間だ」

――一家ぜんぶが心服しきってるようです。

「彼はそんなふうに人を深入りさせる男だ」

――それだけでございます。

「待て、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はなんの用があって来た」

――忘れておりました、昨夜あの方の御内室が出府されたということです。

「原田の妻がか」

――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はそれを知らせに来たのです。

「彼の妻がなんで出て来た」

――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の申すには、江戸で良医の治療をうけるためだと申しておられるが、病気のようにはみえないということでした。

「彼は知らなかったのだな」

――知っているようには思えませんでした。

「おれは彼の妻を知っている」

――はあ。

「あれはいまの<ruby><rb>玄蕃</rb><rt>げんば</rt></ruby>の姉に当っている、茂庭家の娘だ、おれは松山の<ruby><rb>館</rb><rt>たて</rt></ruby>で、まだ少女だったあれを見た、顔だちの美しい賢い娘だった」

――私はまだおめにかかったことはございません。

「どういう<ruby><rb>供立</rb><rt>ともだて</rt></ruby>だ」

――中黒達弥という若侍と、ほかに二人ということで、供立は略式のようでございます。

「もちろん無届けであろう」

――<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>しましょうか。

「みていよう、いそぐことはない、但し網の目からもれぬようにしろ」

――湯島へ人を増しましょうか。

「必要に応じてやれ、よほど気をつけぬとさとられるぞ」

――ほかにお申付けはございませんか。

「彼はまだ品川へゆくようすはないか」

――わかりません。

「品川へは必ず供をしろ」

――はい。

「密行するかもしれないが、彼はそうしないと思うが、密行するもようだったら三段の法をとれ」

――わかりました。

「これを<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わす」

――これは、めっそうもない。

「取っておけ、おまえは役に立つやつだ」

## 夕なぎ

評定役の会議は、思いがけなく<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>めて、それから四日もつづけて開かれた。甲斐はもっとも古参だったので、そのあいだぬけることができず、もちろん湯島へゆくひまもなかった。

会議の議題は、渡辺金兵衛ら三人を、どう処置するかという件であった。

七月十九日夜の暗殺事件には、少なくとも十人の刺客がいた筈であるが、なのって出たのは、渡辺金兵衛、渡辺七兵衛、そして小者の万右衛門だけであり、その三人は「自分たちだけで坂本、畑、渡辺、宮本らを仕止めた」と云い、ほかに参加した者はない、と主張した。

この事件はうやむやに片づけられそうであった。というのが、出来事のすぐあとで、重臣の評議があったとき、伊達兵部がまっさきに発言して、「かれら四人は<ruby><rb>侫奸</rb><rt>ねいかん</rt></ruby>な人間であった、金兵衛らはよくやった」と云ったからである。

綱宗は<ruby><rb>逼塞</rb><rt>ひっそく</rt></ruby>、跡目もまだきまらず、六十万石がどうなるかわからない。いまは全藩が一心同体となって、あらゆることを堪忍し、謹慎これつとめて幕命を待つときである。金兵衛らの行為は、藩家のおためをおもう「<ruby><rb>斬奸</rb><rt>ざんかん</rt></ruby>」であって、いささかの私心もないし、これを詳しく糾明すれば、どこまで累が及ぶかもわからない。ここは金兵衛らの忠志を認めることで打切り、紛争のひろがらぬようにすべきである。そういう意味のことを力説した。

つまり暗殺事件は不問に付そうというのである。

藩家興廃のせとぎわであった。世継の件について、誰を推すかということが全藩の懸案になっているところだし、それが決定したにしても、幕府がどう出るかわからない。現在もっとも大切なのは「諸事穏便」ということであった。重臣たちは、兵部宗勝に同調した。

――なにごとも堪忍しよう、<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>ぜんたいで謹慎の実を証明しよう。

そういう黙契が交わされたようであった。

したがって、評定役の会議も、それに準ずるかと思われた。仮にも異議をさしはさむ者があろうとは考えられなかったのであるが、その第一日で、新任の遠山<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>が、まったく予想もしないことを云いだした。

「――渡辺金兵衛ら三人の行為がしんじつ斬奸であるにしても、その手段が法を無視している点は、ゆるすわけにはいかない」勘解由はそう云った、「もしもこれを黙認すれば、第二、第三と同じような事が起こるおそれがあるし、藩家のおため――という名目が、不当に愛用される心配もある、これはぜひ審問にかけて、はっきりと裁きをすべきだと思う」

甲斐は黙って聞いていた。

勘解由の説に他の四五の者が反対した。根拠のはっきりした反対ではなく、重臣たちの意向を盾にとったもので、伊達家の浮沈とか、大事のまえの小事とか、すべて穏便になどという、当り触りのない言葉を並べるだけであった。その漠然とした反対意見を、かれらは辛抱づよく固執した。

勘解由もあとへひかなかった。

甲斐はなにも発言せず、両者の云い分を聞いていた。

遠山勘解由は、奥山大学の弟であった。大学はいま仙台にいる、勘解由が自説をつよく主張するのは大学の意志によるものと考えられた。仙台にいる大学から、勘解由になにか命じて来たに違いない。そうでなければ、新任早々の彼にそんな頑強な態度がとれる筈はなかった。

甲斐はそう推察していたが、他の者は気がつかないらしい。なぜ勘解由がそんなに強硬なのか、どうして彼だけが異説をたてるのか、まるで理解がつかないようであった。

四日目の午後になって、とつぜん兵部少輔があらわれた。――兵部宗勝は四十歳になる。おもながの、気品の高い<ruby><rb>相貌</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>で、いかにも政宗の<ruby><rb>末子</rb><rt>ばっし</rt></ruby>らしく、その<ruby><rb>眉間</rb><rt>びかん</rt></ruby>には威厳のあるするどさと、ねばり強い剛毅な性格があらわれていた。甲斐より二つ年下であるが、見たところは甲斐より老けている。しかし声は細く、女性的で、わかわかしい響きをもっていた。

兵部はまえぶれなしにその席へあらわれ、上座に坐ってみんなの顔を見た。

「評議がまとまらないそうだが、なにが問題になっているのか」と兵部が云った。

みんなは勘解由を見た。勘解由は自分の意見をのべた。兵部は半ばまで聞いて、勘解由の言葉をさえぎった。

「それはもう重臣会議で決定していることではないか」と兵部は云った、「評定役は三人の処置をきめればよいので、すでに重臣会議で決定したことを論評する権限はない」

「お言葉を返すようですが」と勘解由が云った、「かような出来事は、まず評定役が審問し、その決定をまって重臣がたの御裁決に移るのが順序ではございませんか」

「そこもとの名を聞こう」

「遠山勘解由でございます」

「いつ評定役になられた」

「当月の拝命です」

兵部は唇で笑った。それから云った。

「たしか奥山どのの身内ではなかったか」

「大学の弟でございます」

甲斐は黙って聞いていた。

兵部は他の人たちを見まわした。

「ほかにも同じ意見の者がいるのか」

みな黙っていた。兵部は甲斐を見た。甲斐は<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>のほうを見ていた。兵部は云った。

「ほかに同意見の者があるとしても、すでに重臣会議で決定したことを再評議する必要はない、この問題は打切って、処置の件にかかってもらいたい」

「失礼ですが暫く」と勘解由が云った、「一ノ関さまの仰せですから、それはまずそうと致しましょう、しかし評定役として、どうしても審問しなければならぬことがございます」

「よろしい、聞きましょう」

「金兵衛ら三名は暗殺のとき」

「暗殺ではない斬奸だ」と兵部がするどく<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。

勘解由は口をつぐみ、いどみかかるように兵部を見た、しかしすぐに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>き、怒りを抑えた声で云った。

「そのとき三人は、上意討であると申したそうですが、これは容易ならぬことで、ぜひ審問して事実かどうかをたしかめなければならぬと思います」

とつぜん座がしんとなった。六人の評定役も、兵部少輔宗勝も、その一瞬、呼吸をとめた。勘解由の要求は重大であった。いま家中ぜんたいの関心は、金兵衛らの行為よりも、「上意」と云ったことのほうに集まっていた。

<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>すればなにが出て来るかわからない。

誰もがそう思った。暗殺された四人が、近年ずっと綱宗の側近に仕え、<ruby><rb>寵遇</rb><rt>ちょうぐう</rt></ruby>されていた事実はよく知られていた。なかでも坂本八郎左衛門と渡辺九郎左衛門とは、新参であるのに傍若無人なことが多く、一部の者からは憎まれてさえいた。したがって、四人が刺殺されたことは、かれらが「藩主逼塞」という大事に致らしめた奸臣であるという理由で、それほど問題にすべきこととは考えられなかった。

だが「上意」という言葉は軽くはない。

綱宗が藩主の位地をはなれ、<ruby><rb>世子</rb><rt>せいし</rt></ruby>がまだきまっていない現在、「上意」という表現はもちいられない筈である。それをあえて呼称したからには、それだけの理由がある筈である。これについては、朝粥の席で伊東七十郎も指摘したが、伊達家中ぜんたいが同じ疑問をもっているといってもよかった。

――金兵衛らの背後になにかがある。

――だがうっかりそれに触れてはならない。

――なにが出て来るかわからないぞ。

だから表立っては、誰一人としてそのことは口にしなかったし、そうする者があろうとも思わなかった。だが、いま勘解由は正面から、それにいどみかかったのであった。

一瞬の緊張した沈黙は、やがて、甲斐の静かな<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>の声でやぶられた。兵部と勘解由とが振向いた。

「なにか意見がおありか」と兵部が甲斐に云った、甲斐は「いや」といってもういちど咳をした。

兵部は勘解由を見た。

「ぜひ、――というのだな」

「そうです」と勘解由は云った、「私は新任ですが、評定役としてかれらの審問を求めます」

「よかろう」と兵部は云った、「いいだろう、すぐに<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ呼んで調べるがいい、必要なら万右衛門とかいう小者も呼べ」

「両人だけで充分です」

甲斐は黙って、兵部の冷やかな、<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>するような声と、勘解由の年にもにあわず（彼はもう三十六、七であった）むきに<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>した声とを、聞いていた。

渡辺金兵衛と、渡辺七兵衛がよびだされて来た。同姓ではあるが親族関係はない。金兵衛は二十五歳、七兵衛は二十七歳、どちらも小者頭を勤めていた。

二人は縁側に坐った。<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこめ</rt></ruby>ちゅうなので、両者とも無腰であり、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>も<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>も伸びていた。それで、ぜんたいに<ruby><rb>憔悴</rb><rt>しょうすい</rt></ruby>して見えたが、肩を張って端坐した姿勢や、<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と額をあげた顔つきには、昂然とした意気があらわれていた。

勘解由は、自分が<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>に当っていいか、と甲斐にきいた。甲斐は他の五人の意向をきいてから、よろしいと答えた。勘解由は兵部を見た。

「うん、おれも立会おう」と兵部は云った、「おれは伊達一門、分家として審問を聞く」

勘解由は兵部に礼をし、座をすすめて、訊問をはじめた。

午後のつよい日光が、深い<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>をすべって、縁側の端に照りつけていた。仕切り<ruby><rb>塀</rb><rt>べい</rt></ruby>をまわした<ruby><rb>坪庭</rb><rt>つぼにわ</rt></ruby>には、高さ一丈ばかりの<ruby><rb>槇</rb><rt>まき</rt></ruby>の木が五本あって、庭の白く乾いたぎらぎらする裸の土の上へ、染めたように黒く影をおとしていた。

甲斐はその黒い木影を眺めていた。

――良源院へゆかなければならない。

彼はそう思った。

――畑の子供たちが今朝ついた筈だ。

――それから湯島へも。

彼はまたそうも思った。

――だが、<ruby><rb>律</rb><rt>りつ</rt></ruby>はなんで出て来たのだろう。

彼は審問には興味がないようであった。少なくともその態度はそのようにみえた。兵部の眼はそれとなく、そういう甲斐のようすを絶えずうかがっていたが、甲斐はそれにさえ気づかないふうであった。

坪庭の槇で<ruby><rb>法師蝉</rb><rt>ほうしぜみ</rt></ruby>がなきだした。法師蝉の金属的な声は評定所いっぱいにかんだかく反響し、渡辺金兵衛はちょっと答弁のでばなを<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>かれたようであった。

「どうした、――」と勘解由が促した、「はっきり云え、紛らわしい返答はゆるさんぞ」

「お答え申します」と金兵衛が云った、「上意を<ruby><rb>僣称</rb><rt>せんしょう</rt></ruby>いたしましたことは申し訳ございません、また、それはどなたの指図でもなく、私の一存でしたことですが、そうするよりほかに致しかたがなかったのです」

「――なぜだ」

「私どもはかの四人を討取るつもりでした、四人だけ討取ればよいので、そのほかに不必要な死傷者はだしたくなかったのです」

兵部の顔をなにかがさっとかすめた。それは<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>の色のようでもあり、賞讃の色のようでもあった。

「――それで」と勘解由が云った。

「まだ申上げるのですか」と金兵衛が反問した。

勘解由はなお云った、「ほかに死傷者をだしたくなかったから、というだけではわからない、もっと具体的に申してみろ」

「しかし現に、――」

金兵衛はちょっと言葉を切った。勘解由の頭がわるいのか、それともわざと<ruby><rb>諄</rb><rt>くど</rt></ruby>くいうのか、どちらにしてもばかげている、といったような眼つきをした。

「現に、御承知のとおり」と金兵衛はつづけた、「四人のほかには一人のけがにんもありませんでした、上意、というひと言に威服したのです、もし上意と申さなかったとしたら、かれらにも家従がおり、なかには斬って出る者があったでしょう、しぜんにほかにも死傷者が出ずには済まなかったと思います」

「よい思案だ、よい思案だ」と兵部が云った。まるでなにか飛び去るものを慌てて<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まえでもするような、ひどく性急な云いかたであった。

甲斐はそっと眼をつむった。

「上意の僣称は<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めなければならないが、斬奸という大事を決行するのに、それだけの用意をしたのはあっぱれだ、申すとおり、もし上意討の一言がなかったら、もっと多く不要の死傷者がでたに相違ない、その心懸けはあっぱれだ、余の一存ではあるが褒めてやるぞ」

勘解由は云った、「では、僣称したことは事実なのだな」

「それはもうわかっている」と兵部が云った、「僣称を咎めるより、そこまで思案した点をとりあげてやらなければなるまい、同時に、もう一つの大事なことがある」

こう云って兵部は甲斐を見た。

「これはいずれ重臣会議にも出るであろう、まず評定職の意見をきいておきたいのだが」と兵部は云った、「それは、斬られた奸臣四名の遺族のことだ、坂本には係累なし、九郎左衛門にはそばめが一人で、これも放逐すれば済むであろう、だが、畑与右衛門には子が二人おり、宮本又市には妻と弟があるという、評定職でもこれらの処置は考えておるであろうが、もしあったらいまきいておきたいと思う」

「しかし、それは」と勘解由が云った、「四人の者が奸臣であったという、たしかな証拠が認められてからのことではないでしょうか」

「たしかな証拠だと」

「そうです、一般の<ruby><rb>評</rb><rt>うわさ</rt></ruby>や漠然とした伝聞などでなく、現実にこれということのできる証拠です」

「そのほうはいまになって」と兵部が高い声をあげた。すると初めて、甲斐が静かに口を切った。

「遠山どの、まず、――」と彼は勘解由を抑えた。それから兵部のほうを見て云った。

「これはまだ評議にはかけておりませんが、畑の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は六歳の幼年、娘は十三歳とか申しましたが、私の一存で伜は出家させることにし、姉をつけて、とりあえず良源院へ遣わしました」

「なるほど、姉をつけてか」

「いちじに父母をうしなって哀れでもあり、まだ六歳では寺かたでも迷惑でございましょう、八歳になるまでと思って、いっしょに遣わしました」

甲斐は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上で扇子をひらいたが、べつに風をいれるでもなく、半ばひらいたまま膝に置いてつづけた。

「宮本の遺族は<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>へ<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこめ</rt></ruby>、畑の娘も弟が八歳になりましたら、国許のいずれかへ<ruby><rb>永預</rb><rt>ながあず</rt></ruby>けということにしたらいかがと思います、もちろん評議のうえでなければわかりませんけれども」

「うん、うん」兵部はじっと甲斐を見た、「それで評定職の意向もほぼ推察がつくようだが、奸臣の遺族に対する処理としては、少しゆるいようではないか」

「そうでございましょうか」と甲斐は云った、「私はまた厳しすぎるかと思いますが」

兵部の眼が光った。

「もし必要なら、あの夜、金兵衛ら三名が、親といっしょに仕止めたでございましょう、そう致さなかったのは、家族まで斬る必要がないと認めたからだと思います」

金兵衛と七兵衛は眼を伏せた。

「わかった、――」と兵部が云った、「その旨を覚えておこう、いらぬ席へ押掛けたようであるが、分家の身としてやむを得なかったのだ、ゆるせ」

そして兵部はまもなく座を立った。

六人の評定役は坐ったまま挨拶をした。遠山勘解由はまだ<ruby><rb>忿懣</rb><rt>ふんまん</rt></ruby>がおさまらないとみえ、<ruby><rb>肩肱</rb><rt>かたひじ</rt></ruby>を張ってむっとふくれていた。甲斐は兵部といっしょに立ち、いっしょに廊下を歩いていった。

「どうも困ったことができまして」と歩きながら甲斐が云った。

兵部は「うん」といった。兵部はほかのことを考えていたらしい、甲斐はそ知らぬ顔つきで、また<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くように云った。

「宇田川町のお屋敷へ、お願いにあがろうと思っていたのです」

兵部は振向いた。甲斐はつづけて云った。

「ほかにお願いする<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>もありませんので」

「なにをそんなに」と兵部はじっと、甲斐の表情を見た。

「船岡どのともあるものが、なにをそんなに困っておられるのか」

「お力を貸して頂けましょうか」

「勘解由のことか」

「それもありますが、――」

甲斐は微笑した。すると両の頬に一と筋ずつ、<ruby><rb>竪</rb><rt>たて</rt></ruby>に深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>が刻まれ、眼がやわらかく細められて、どんな人間をもひきつけずにはおかないような、温かい、魅力のある表情になった。

「それもありますが」と甲斐は云った、「じつは、国許から妻が出て来たのです」

「――――」

「私にも知らせず、どうやら藩庁にも届けずに来たもようで、まことに当惑いたしました」

「それはそれは」兵部の顔に「しまった」とでも云いたげなものが現われた。

――<ruby><rb>先</rb><rt>せん</rt></ruby>を越された。

という感じで、あらわれるとすぐに消えたが、それはいかにもはっきりと、彼の心の内部をあらわしているようにみえた。

「そのくらいのことで、船岡どのがお困りとも思われないが」と兵部は云った、「この私にできることなら、お役に立ちましょう」

「こなたさま以外にはお願いできません、無届け出府のことをよろしくおたのみ申します」

「いいでしょう」

「まことに、女というものには手を焼きます」

「いかにも」――と兵部は皮肉に云った、「ことに船岡どのはな」

「これはお言葉でございます」

「聞いておるぞ」

「私は人が<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>いものですから」と甲斐は云った、「他人の<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>ごとまでかぶせられるようで、いつもよく迷惑をいたします」

「さもあろう、さもあろう」

兵部はちょっと声をあげて笑った。甲斐は甲斐で、微笑していた。

## 揷花

その朝、――<ruby><rb>宇乃</rb><rt>うの</rt></ruby>は丹三郎に呼ばれて、これから良源院へゆくのだ、ということを聞かされた。

宇乃は「はい」といった。

「私は、母や私は」と丹三郎はせきこんで云った、「もっとながく、いつまでもお世話をするつもりだった、そのようにお願いもしたのだが、それでは<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>たちのために悪いらしい、此処にいては貴女たちのためにならないのだ」

「はい、わかりました」

「さぞ心ぼそいだろうが」と丹三郎はいそいで云った。

「しかし、良源院は芝の<ruby><rb>山内</rb><rt>さんない</rt></ruby>で、<ruby><rb>愛宕下</rb><rt>あたごした</rt></ruby>のお屋敷からはひとまたぎだし、此処からもさして遠くはない、母や私は、これからもできる限りお二人のちからになろう、どうかそう思って、向うへいっても心丈夫に辛抱して下さい」

「はい、よくわかりました」と宇乃は丹三郎を見あげた。

「わたくし大丈夫でございます」

丹三郎はなおなにか云いたそうだった。宇乃は心のなかでそっと呟いた。

――この方にはもう会えなくなるだろう。

塩沢の家に預けられてから、丹三郎はよく虎之助の面倒をみてくれた。丹三郎はひとり息子なのに神経質なよく気のまわる性分で、宇乃に対しても、うるさいほどしんせつにしてくれたが、虎之助のことになると、まるで親身の弟のように熱心で、そのために、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って虎之助は幼ないながら、すっかりあまくみるようになっている。

宇乃が支度をしていると、虎之助がみつけて叫んだ。

「あ、おうちへ帰るのか」彼はおどりあがった。

「静かになさいな」と宇乃が云った、「おうちへはまだ、今日はよそへゆくのよ、おとなになさらないと、おばさまの御迷惑になりますからね」

「おとなしくすれば」

「おえらいわ、皆さまが褒めて下すってよ」

「そして、おうちへ帰るのか」

「おとなにしていればね」

塩沢の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女に作ってもらった、二、三枚の着替えや、肌着などが一と包みあった。家のほうは「お<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めちゅう」ということで、表も裏も厳重に閉鎖され、まだなに一つ持出すことができなかったのである。――包みを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>え終ったとき、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女が来て、もう一つ小さく包んだものを渡した。

「この中に書いたものがあります」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は云った、「まだ御存じないようだけれど、もうまもなく、あなたのお躯に変ったことが起こるでしょう、そうしたらこれをあけて、書いたものを読んでごらんなさい」

「お手紙でございますか」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は首を振った。

「いいえ、手紙ではありません」

宇乃はじっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女を見た。

「手紙ではありません」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は云った、「お躯にこれまでになかったようなことが起こったとき、それがどういうわけで、どうすればいいかということが書いてあるのです、そして、必要な品も一と<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えはいっていますからね、それをよくみて、あとは御自分で作ってなさるんですよ」

「はい、おばさま」

「これは母親の役目なのです」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は云った、「たぶん、――そのときが来れば、わたくしにこんなことを教えられたことを、たぶんあなたは恥ずかしくお思いになるでしょう、でもしかたがなかったのです、あなたにはお母さまがいらっしゃらないのですからね、わたくしがしてさしあげるよりほかに、しようがないのですから」

云いかけて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は指でそっと、両の眼がしらを押え、それから気を変えるように云った。

「お支度ができたらまいりましょう」

三人で門を出るとき、宇乃は振返って、邸内をなつかしそうに眺めやった。もうこのお邸へも戻ることはないだろう。宇乃はそう思いながら、ちょっと眼をつむった。

――お父さま、お母さま。

虎之助さんを護ってあげて下さい。と宇乃は心のなかで云い、それから歩きだした。

良源院は増上寺の<ruby><rb>塔頭</rb><rt>たっちゅう</rt></ruby>で、伊達家の宿坊になっていた。増上寺で将軍家の年忌行事などのあるとき、それに列する藩主や重臣が、そこで装束を改めたり休息したりするのである。それで藩主のための客殿もあるし、重臣たちの部屋も<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>っていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女と畑姉弟は、<ruby><rb>方丈</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>と同じ棟にある客間へとおされ、そこで原田甲斐の来るのを待つことになった。風のない、残暑のつよい日で、なにもすることがないから、虎之助は姉にまといついては<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしていたが、午後の茶菓が出ると、辛抱がきれたように眠ってしまった。

そのあとで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女が、「お庭を拝見しましょう」と云い、二人で庭へおりた。

庭はかなり広く、<ruby><rb>鉤形</rb><rt>かぎがた</rt></ruby>になっていて、客殿の前には泉池があった。白い<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>をまわした、どちら側も塔頭だろう、左のほうから（法事でもあるとみえ）鉢鐘と読経の声が聞えて来た。

「こちらへいらっしゃい」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女が手招きをした。庭の一隅に井戸がある。彼女はそれを指さして云った。

「これが殿さまのお井戸です」

「はあ、これが、――」宇乃はそっと頷いた。

――これがそうだったのか。

その井戸は白木の低い<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>でかこまれ、青銅で<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた屋根が掛けられていた。柵には錠のおりた出入口があり、内部は石だたみで、井戸も石であった。伊達家では、その井戸の水だけを、藩主の用にあてている。煮炊きにも、飲料にも、藩主にはその井戸の水だけしか使わなかった。そのために定った足軽がいて、一日も欠かさず、水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>みにかようのであった。

「此処にも<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を預かったお役僧がいて、そのたびごとに錠をあけるのだそうです」

「お水を運ぶ方たちは、たいへんですのね」と宇乃が云った、「品川のお下屋敷まではずいぶん遠いのでございましょう」

「まさかお下屋敷へはね」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は苦笑した、「水を運ぶのは御本邸の殿さまだけですよ、陸奥守さまは御逼塞になられたのですから、いまは亀千代さまのいらっしゃる、桜田のお屋敷へ運ぶのです」

「――お可哀そうに」と宇乃は口の中で呟いた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女には聞えなかったらしい、振返って、増上寺の山門が見えると云った。振返ると、松林の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>をぬいて、意外なくらい近く、その山門が見えた。来るときには<ruby><rb>御成門</rb><rt>おなりもん</rt></ruby>から入ったので、いちどまぢかに眺めたのである。いまは高い屋根と、<ruby><rb>丹塗</rb><rt>にぬ</rt></ruby>りの掲額のある二重までしか見えないのに、ぜんたいを眺めたときよりは、よほど大きく、重おもしいように感じられた。

客殿のほうに近く、重臣諸氏の宿坊の並んだ棟がある。そのほぼ中央どころに、高廊下から庭へおりる階段があるが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女はその前で立停って、そこにある部屋を指さした。

「あれがわたくし共の御主人のお部屋です」

「原田さまのですか」

「そうです、それから」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は振向いた、「これが、船岡のお<ruby><rb>館</rb><rt>たて</rt></ruby>から御自分でお移しになった、<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>ノ木です」

「はあ、――」

宇乃はそれを見た。彼女には初めて見る木であった。根まわりは両手の指を輪にしたくらいの太さで、高さはおよそ八尺ばかりある。枝はみな上に向かって伸び、葉は<ruby><rb>榧</rb><rt>かや</rt></ruby>に似ていた。

「原田さまが、自分でお移しになったのですか」

「この木がお好きなのです」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女が云った、「北ぐにの木ですから、なかなかこの土地では根づかないのでしょう、これまでに二度も枯れてしまって、これが三度目なのです、お移しになってからもう五年経つので、こんどこそ大丈夫だろうということです」

「――お国の木なんですわね」と宇乃が呟くように云った。

「そうです」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女は頷いた、「船岡のお館のまわりには、この木が美しい林になっていますし、お館のお庭にもかなりあります」

「おばさまは船岡を御存じですの」

「わたくしは船岡で育って、塩沢へ嫁にまいったのです。もちろん亡くなった塩沢もあちらの者でしたわ」

宇乃はまた樅ノ木を見た。榧に似たその葉や、枝のなりは、いかにも寒さのきびしい土地の木らしく、性が強そうにみえるが、宇乃には、なんとなくさびしげな孤独のすがたをしているように思えた。

甲斐が来たのは、もう日の傾きかけるじぶんであった。供は村山喜兵衛と塩沢丹三郎の二人で、丹三郎が姉弟を呼びに来たが、宿坊へいってみると、甲斐はくつろいで扇子を使っていた。

姉弟が坐ると、喜兵衛も丹三郎もすぐに出ていった。

「もっとこちらへおいで」と甲斐は云った。

宇乃は虎之助の肩に手をかけながら、僅かに前へ出た。

「宇乃というんだね」

甲斐は微笑した。温かく包むような、云いようもなく人を魅する微笑であった。宇乃もわれ知らず微笑した。

「そちらが虎之助か」

虎之助はこくりと頷いた。

「お利巧らしいな、幾つになる」

虎之助は黙って片手の指をひろげ、それに片手の指を一本加えてみせた。甲斐は笑った。すると白いきれいな歯が見え、眼尻がやや下がった。

「どうした、坊、口では云えないのか」

「云わんない」

「虎之助さん」と宇乃が云った。

甲斐がよしよしと云った。それから、静かな眼で宇乃を見た。

「お父さんやお母さんのことは、いまはなにも云わない、いま話してもわかりにくいような、むずかしいゆくたてがあるのだ」

「はい」と宇乃は頷いた。

「そして、そのために、おまえたち二人、とくに男の子にはまだ危険がある」

宇乃は眼をあげた。

「もちろん心配することはない、私がまちがいのないように気をつけている。しかし、男の子はこのままではいけないのだ」と甲斐は云った、「虎之助に畑の家名を続けさせようとすると、どうしてもまた危険が伴う、それで、私は出家させたいと思うのだが」

宇乃は黙って甲斐を見ていた。

「出家すれば俗世の因縁も切れるし、<ruby><rb>非業</rb><rt>ひごう</rt></ruby>に亡くなられた両親の供養もできる、そのほうがいいとは思わないか」

宇乃はそっと眼を伏せた。

「それとも、出家させるのはいやか」

「いいえ」と宇乃は眼をあげて云った、「そうするほうがよいと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃるのでしたら、そのようにお願いしたいと思います」

「つぎにおまえのことだが」と甲斐はつづけた、「弟が八歳になるまでは、此処にいて世話をしてやるがいい、それからあとは、私の国の船岡へひきとるつもりだ、江戸にいては、いろいろと面倒なことが多い――両親を討ったものが誰だかということも、いつかはわかることだろうし」

宇乃の眼がきつく光った。甲斐はその眼に気づいて、そのきつい光をなだめるように、やさしく、ゆっくりと頷いた。

「この話しはあとにしよう」と甲斐は云った、「いまはまず、二人が無事に生きてゆくことを考えればいい、そのほかのことはすべてあとのはなしだ、わかるな」

「はい、おじさま」

そう云いかけて、宇乃ははっと、口を押えた。

「よしよし、おじさまでいい」甲斐は微笑した、「私が二人のおじさんになってやろう、虎之助、立ってこっちへおいで」

虎之助は姉を見た。

「宇乃もおいで、宇乃にはみせるものがある」

宇乃は弟の手を取って、立ちあがった。

甲斐は虎之助を抱いて立った。虎之助は躯をかたくして抱かれた。甲斐は高廊下へ出て左手を宇乃の肩にかけた。宇乃はぴくっとふるえた。甲斐は宇乃を静かにひきよせた。宇乃はやわらかくより添ったが、そのときまたぴくっとふるえた。

「向うに木が一本あるだろう、あの<ruby><rb>蘚苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>の付いた石の右がわのところに」

「樅ノ木でございますか」

「樅ノ木だ、宇乃は知っているのか」

「はい、塩沢さまのおばさまに教えていただきました」

「そうか」と甲斐は頷いた、「それでは船岡から移したことも知っているね」

宇乃は「はい」と云った。

「私はあの木が好きだ」と甲斐は云った、「船岡にはあの木がたくさんある、樅だけで林になっている処もある、静かな、しんとした、なにもものを云わない木だ」

「木がものを云いますの」

「宇乃は知らないのか」宇乃は甲斐を見た、甲斐はその眼を見返しながら云った、「木はものを云うさ、木でも、石でも、こういう柱だの壁だの、屋根の<ruby><rb>鬼瓦</rb><rt>おにがわら</rt></ruby>だの、みんな古くなるとものを云う」

宇乃は悲しげな眼をした。

「そのなかでも、木がいちばんよくものをいう」と甲斐はつづけた、「いまに宇乃が船岡へいったら木がどんなにものを云うか、私が教えてあげよう」

「はい、おじさま」

「この樅ノ木を大事にしてやっておくれ」と甲斐は云った、「この木は育つようだ、これまで移したのは枯れてしまったが、こんどはうまく育つようだ、宇乃が此処にいるあいだは、この木を大事にしてやっておくれ」

「はい、おじさま」

すると虎之助が云った、「坊も大事にする」

「坊も大事にするか」

「大事にする、坊は木を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>らないよ」

「えらいな――」

甲斐は微笑した。それから、左手で、またやさしく宇乃の躯をひきよせた。

「宇乃、この樅はね、親やきょうだいからはなされて、ひとりだけ此処へ移されてきたのだ、ひとりだけでね、わかるか」

宇乃は「はい」と頷いた。

「ひとりだけ、見も知らぬ土地へ移されて来て、まわりには助けてくれる者もない、それでもしゃんとして、風や雨や、雪や霜にもくじけずに、ひとりでしっかりと生きている、宇乃にはそれがわかるね」

「はい――」

「宇乃にはわかる」と甲斐は云った。彼はふと遠いどこかを見るような眼つきをした。

宇乃は思った。おじさまはお淋しい方なのだ。宇乃は甲斐の言葉をそのようにうけとった。自分に云ってくれた言葉とは思わず、甲斐が彼自身の心のなかを語ったのだというふうに。

「おじさま」と宇乃が云った、「宇乃はいつか、お国へつれていっていただけますのね」

「虎之助が八歳になったらね」

「宇乃はお国へつれていっていただきとうございますわ」

「二年たてばゆけるよ」

「坊もいっしょにか」と虎之助が云った。

甲斐は穏やかに笑った、「坊は重いな、これはずいぶん重いぞ」

「坊もいっしょにか」

「虎之助さん」と宇乃が云った。

甲斐は虎之助をおろした、「さあ、おじさんはもうゆかなければならない、また来るからな、坊、おとなしくしているんだぞ」

虎之助は黙っていた。甲斐は宇乃に云った。

「向うへつれておいで、また来るけれども、用があったら遠慮なく使いをよこすがいい、――ではあちらへおいで」

宇乃は弟の手をひいて、そこを去った。彼女はもっとそこにいたかった。甲斐のそばから離れずに、いつまでも彼と話していられればいいと思った。

まえにも、宇乃は甲斐を見たことがある。桜田の邸内で、いちどは着ながしのまま、一人で歩いていた。ほかのときは家従の人か、他の重臣の人たちといっしょだったが、それが原田甲斐だということは、いつもすぐにわかった。誰に教えられたのか、教えられた記憶はない。ずいぶんまえから、見かければその人だということがわかった。

甲斐は一人のときも、<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れのあるときも、なんとはなしに<ruby><rb>際立</rb><rt>きわだ</rt></ruby>ってみえた。背丈の高い躯を少し<ruby><rb>前跼</rb><rt>まえかが</rt></ruby>みにして、ゆっくりと歩く。顔つきは温かく穏やかで、微笑すると白いきれいな歯がみえた。

――宇乃は知っているわ、宇乃はまえからあの方を知っていることよ。

宇乃はよくそう思った。それは実感であった。ずっとまえからよく知っていたし、自分とは特に親しかった。いまでも、お互いがわかりさえしたら、まえのように親しくなれるのだ。宇乃はひとりでそう思っていた。

――思ったとおりだった。

弟と廊下をゆきながら、宇乃は心の中で呟いた。でもずいぶん淋しそうな方だわ、きっとなにか淋しい、悲しいようなことがあったにちがいない、まるでひとりぼっちなような話しぶりをなすっていたわ。

高廊下を曲ると、そこに塩沢丹三郎がいた。待っていたのだろう、宇乃に微笑し、すぐに虎之助を抱こうとした。

「歩いてゆく」と虎之助は拒んだ。

「いいじゃないか、もうしばらく<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>っこはできないよ」

「歩いてゆくんだ」

「なんだ、怒っているのか」

丹三郎は笑って、宇乃の顔を見た。それから二人で虎之助の手を左右から取って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>女の待っている部屋へ戻った。その途中、丹三郎は声をほそめて、宇乃にすばやく云った。

「あのことを<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いたか」

宇乃は答えなかった。丹三郎は<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに宇乃を見た。

「訊かなかったのか」

「はい」と宇乃は云った。

「両親の仇が誰だったか、討たせてもらえるかどうか、訊いてみなかったのか」

「訊きませんでした」

「どうして」

宇乃は答えなかった。丹三郎はじっと宇乃の顔をみつめ、それから気を変えるように、まあいいと云った。

「私が付いているからね、いつかは、私がきっと仇を討たせてあげるよ」

宇乃は振返って、庭の向うの樅ノ木を見やった。土塀をすべって来る午後の日ざしが、その木の上半分を照らしていた。

## 風のまえぶれ

良源院を出た甲斐は、そこから湯島へまわった。

その家は湯島台の、上野に近いほうにあった。<ruby><rb>和泉</rb><rt>いずみ</rt></ruby>橋を渡って、神田明神社の脇の坂をあがり、林<ruby><rb>大学頭家</rb><rt>だいがくのかみ</rt></ruby>の馬場（そこには後に聖堂が建てられた）から本郷通りへ出てゆけば、門口まで<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を乗りつけることができた。また、これは殆んど知られていないが、広小路のほうへぬける裏道もあった。それは<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>や松や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずなら</span>の深い林と、<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>や<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の繁った丘の斜面で、じめじめした、細い、危なっかしく折り曲った石段である。――のちに丘上の<ruby><rb>叢林</rb><rt>そうりん</rt></ruby>をひらいて天満宮が建てられ、そこから北よりに切通しができてからは廃絶してしまったが、それ以前からあまり登りおりする者はないようであった。

甲斐がいったときには、女たちはみな留守だった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が案内して、<ruby><rb>木挽</rb><rt>こびき</rt></ruby>町へ芝居見物にでかけたのだそうである。その年の三月に、木挽町五丁目は森田<ruby><rb>勘弥</rb><rt>かんや</rt></ruby>の芝居が建ったが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はそこへ律を案内したのであった。

中黒達弥は供をしたそうで、船岡から付いて来た他の二人、岡本次郎兵衛と松原十右衛門がいた。

甲斐は風呂の支度を命じて、二人に会った。妻の律も、かれら供の者たちも、江戸へ着いて以来五日、無届け出府のため、甲斐のおもわくを案じて、ずっと湯島の家から出ずにいたのである。

二人は恐縮していた。甲斐は小言らしいことは云わなかった。いつもの穏やかな調子で、船岡の人事や、農地のようすなどを訊いた。<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>には老母と、長男の<ruby><rb>采女宗誠</rb><rt>うねめむねもと</rt></ruby>がいる、留守家老は片倉<ruby><rb>隼人</rb><rt>はやと</rt></ruby>であるが、みな丈夫で変りがない、采女は来年十五歳になると元服する筈なので、いまからそれをたのしみにしている、ということであった。

「<ruby><rb>烏帽子親</rb><rt>えぼしおや</rt></ruby>は、松山のお<ruby><rb>祖父</rb><rt>じい</rt></ruby>さまにお願いするのだと、仰しゃっておられました」

松山の祖父とは茂庭佐月のことで、母親の律が佐月の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>であり、采女は佐月の外孫に当っていた。

甲斐は黙って聞きながした。松原十右衛門は、さらに農地のもようを語ったが、夏のはじめに低い気温が続いたので、米も麦も減収はまぬかれまい、という口ぶりであった。

「減収くらいで済みそうか」と甲斐は云った。かくべつ苦にしているふうはみせなかったが、十右衛門には主人がどんな気持でいるかわかった。

「少なくとも二割、これからの天候によっては、三割を越すかもしれぬということです」

「では今年もまた、<ruby><rb>館</rb><rt>たて</rt></ruby>の修理は延期だな」と甲斐は云った。

岡本も松原も、綱宗逼塞による藩家の興廃が知りたいらしい、それとなく、遠まわしに触れてみたりしたが、甲斐はなにも云わなかった。

女たちが芝居から帰ったのは、日が<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れてからであったが、そのまえ、ちょうど部屋に灯をいれているとき、銀座の<ruby><rb>鳩古堂</rb><rt>きゅうこどう</rt></ruby>から、<ruby><rb>手代</rb><rt>てだい</rt></ruby>の助二郎が筆を届けて来た。

鳩古堂は唐物商で、<ruby><rb>明</rb><rt>みん</rt></ruby>国と取引があり、書籍や紙、筆、墨、<ruby><rb>硯</rb><rt>すずり</rt></ruby>などを扱っていた。あるじは仁左衛といい、伊達家の御用もつとめていたし、甲斐とはまえから、親しいつきあいがあった。甲斐は自分で手代に会った。助二郎は「御注文の<ruby><rb>虎毛</rb><rt>とらげ</rt></ruby>がはいりましたので」と云って、箱のまま出してみせた。

甲斐は頷いた。そして、選ぶから待っておれと云い、立って自分の居間へいった。丹三郎がついて来て、すぐに灯をいれようとした。

「<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>をつけてくれ」と甲斐が云った。

丹三郎は燭台を出し、<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>に火をつけた。甲斐は手を振った。それで、丹三郎は次の間へさがった。

甲斐は机の前に坐った。机の上で箱をあけると、筆が五本、<ruby><rb>枠</rb><rt>わく</rt></ruby>に入って並んでいた。彼はそのまん中にある<ruby><rb>斑</rb><rt>ふ</rt></ruby>入りの軸の一本を取り、用心ぶかくその軸を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>った。するとその軸は、七三分のところで上下二つになった。つまり<ruby><rb>嵌込</rb><rt>はめこ</rt></ruby>み細工で、――軸の下のほうを振ると、その中から、細く筒に巻いた紙が出て来た。

甲斐は燭台をひきよせ、筒になったその紙をほぐした。その紙は上質の<ruby><rb>薄葉</rb><rt>うすよう</rt></ruby>で、細かい文字が五行ほど書いてあった。甲斐は読み終るとすぐに、燭台の火をつけて灰にした。それから筆を元のようにして箱へ戻し、べつの二本を取って机の上に置くと、丹三郎を呼んで箱を渡した。

「二本だけ求めた」と甲斐は云った、「あとは返すと云ってくれ」

丹三郎が去ると甲斐は机に両<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をつき、そのままじっと<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を支えていた。女たちが帰って来るまで、彼はそうして坐っていた。

やがて<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな声がし、女たちの帰ったことがわかったが、妻の律がそこへはいって来るまで、甲斐は机によりかかっていた。律はうしろから<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>を見た。彼女は三十七歳になるが、年よりはるかに若くみえる、眉と眼のあいだがひろく、鼻がかたちよく高い。口はやや大きいが、ひき緊った顎と、ゆたかな頬とで、ぜんたいがゆったりしたういういしさと、優雅ななまめかしさをもっていた。

律は良人のうしろ姿を、立ったまま、やや暫くみつめていたが、やがて、そっと近づいてゆき、身を<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、うしろから、そっと良人を抱いた。

「怒っていらっしゃるの」と律は<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「ねえ、怒っていらっしゃるのね、あなた」

「汗を拭いておいで」と甲斐が云った。

「怒っていらっしゃるのね」

「汗を拭いて来ないか」

「怒ってはいない、と仰しゃって下されば」

「怒ってはいないよ」

「怒っていらっしゃるわ」

甲斐は黙った。

律はやさしく、しかもすばやく、良人の耳に唇を触れ、そうして、<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>ぜんたいで、良人を包むようにした。甲斐は動かなかった。温かく、重たく、そして粘るように軟らかな妻の躯が、妻の躯の弾力のあるまるみや、厚みが、自分の背中にじんわりと押しつけられるのを感じながら、甲斐はやはり無抵抗に動かなかった。

「なんとか仰しゃって」と律が云った、「ねえ、わたくしどうしても出て来ずにはいられなかったんですのよ、一年だってがまんするのは辛いのに、こんどは一年半にもなるわ、それでもいつお帰りになるか、ということがわかればいいけれど、それもまるでわからないし」

「暑い、そっちへ坐らないか」

「怒っていらっしゃるんですもの」

「帰れなかったわけは知っている筈だ」

「知っていました、けれどもそれはよそから聞いたので、あなたはなにも知らせては下さいませんでしたわ」

「知らせてなんになる」と甲斐は云った、「ここにいる私にだってどうすることもできない、知らせれば母上やおまえに気をもませるだけではないか」

「<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>で聞くほうが、もっと心配だとはお思いになりませんの」

「そのために出て来たのか」と甲斐が云った。

律は黙って、ふと躯をかたくした。背中にぴったり接している妻の躯が、かたく硬ばったのが甲斐にわかった。

律は良人からはなれた。

「わたくし汗をながしてまいりますわ」

「うん」と云って、甲斐は振返った。

律はさりげなく、眼をそむけながら立ったが、その額が白くなっているのを甲斐は認めた。

――またか。

と甲斐は心のなかで云った。

――また起こったな。

出てゆこうとした律が、くるっと振向いて、良人の眼をまともにみつめた。なにか哀訴するようでもあり、挑むようでもある眼つきであった。甲斐は微笑しながら、頷いた。

「汗をながしておいで」と甲斐は云った。

律は眼を伏せながら云った、「今夜はゆっくりしていらっしゃれるのでしょう」

「そうらしいな」

「一年半ぶりですわ」

「いっておいで」

「きっとですよ」律はまた良人を見た、「きっと泊っていって下さいますわね」

甲斐は微笑した。

律の眼は、しばしば彼女の意志を裏切る。心のなかになにか動揺や変化が起こったとき、それを隠そうとすると、彼女の眼は隠そうとする意志とは反対に、その動揺や変化をあからさまに表白してしまう。結婚して十六年。甲斐はその事実を、幾たびかの経験でよく知っていた。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>さん、きれいな方ね」律はそう云って、良人に笑いかけ、それから部屋を出ていった。

甲斐は村山喜兵衛をよんで、本邸へ使いにゆくように命じた。腹痛が起こったから今夜は湯島で泊る、という届けをするためであった。喜兵衛はすぐに出ていった。

まもなく数寄屋で酒宴がひらかれた。日本橋から<ruby><rb>雁屋信助</rb><rt>かりやしんすけ</rt></ruby>と、その妻の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きわ</span>がよばれて来た。男芸者が三人、唄や踊りをする若い女芸者が五人。みんなよくこの家へよばれて来る者たちで、賑やかな酒宴になった。

雁屋信助は四十二歳。肥えた、背丈の低い、<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>な躯つきだし、眉の太い、眼や口の大きな顔にも、商人というには<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しすぎる、重厚な、つらだましい、といったものが感じられた。甲斐もあまり口はきかないほうだが、信助も無口らしい。なにか怒ってでもいるような、むっとした表情で黙ってぐいぐいと飲んでいた。

律は甲斐と並んでいた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>と信助の妻の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きわ</span>とが給仕に坐っており、律は<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>っていた。

なぜこんな賑やかな酒宴をはじめたのか、彼女にはまるでわからなかった。彼女は良人とふたりきりになるつもりでいた。ふたりだけで食事をし、ふたりだけで話したかった。それは良人にもわかっている筈だし、良人はふたりだけになるようにしてくれる筈であった。

――こんな酒宴はあまりお好きではなかったのに。

律は良人の注意をひこうとし、その眼をとらえようとした。けれども甲斐には通じないようであった。三味線も唄も、踊りも、<ruby><rb>軽口</rb><rt>かるぐち</rt></ruby>も面白くなかった。

――いっそ立ってしまおう。

律はそう思った。それはほぼ<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>くらい経ってからのことであるが、彼女がそう思ったのと符を合わせたように、甲斐がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>と呼びかけた。

「私はちょっと横になる、支度をさせてくれ」と甲斐は云った。

「お支度ですって」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はけげんそうな顔をした。甲斐は信助を見た。そして、信助がその眼で頷くと、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に向かって云った。

「私は腹痛を起こしたことになっているんだ。喜兵衛にそう届けさせたのでね、密告でもされたときの用心に、いちど横になっておくほうがいいと思うんだ」

「このうちにはそんな者はおりませんわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が云った、「どうしてそんなことを仰しゃいますの、このうちにそんな、密告なんぞするような者が、いるわけはないじゃございませんか」

「そうらしいな」

「らしい、ですって」

「気にするな」と甲斐は笑った、「そんな者がいないことはわかっている、いまのは冗談だ、しかしひと休みするから、向うへ支度をさせてくれ」

「本当にお横になるんですか」

「雁屋は待っていてくれる」と甲斐は云った。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>」と信助が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は振向いて、兄のきつい眼を見、それから立って出ていった。律は<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうに良人を見た。甲斐は芸者たちに休めと云い、信助に話しかけた。しょうばいのぐあいはどうだ。面白くありません。面白くないか。おもわしくありません、と信助が云った。<ruby><rb>唐船</rb><rt>からぶね</rt></ruby>が停ったも同様なありさまですから。どうしたのだ。明国の戦乱がまだ片づかないのです。明軍はまだもちこたえているのか。そんなようです、と信助が云った。五月に聞いた話では去年二月に明王は<ruby><rb>緬甸</rb><rt>ビルマ</rt></ruby>へ逃げたそうですが。それでまだ片づかないのか。そんなもようです。もう<ruby><rb>清</rb><rt>しん</rt></ruby>王の時代になるのではないか。どんなものですか、と信助が云った。まだ<ruby><rb>鄭成功</rb><rt>ていせいこう</rt></ruby>が暴れているようですし、なにしろ国土がおそろしく広大らしいですから。鄭成功が幕府へ援軍を求めて来たのは、あれは一昨年でございました。うん一昨年だった、と甲斐が云った。私は船岡にいて聞いたのだが、九州あたりでは密航しようとする者たちでだいぶ騒いだそうではないか。そんな噂でございましたな、と信助が云った。島原の乱から二十余年、浪人が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えるばかりで、この狭い島国では生きる方途のない人々がだいぶおりますから。むずかしいことだな。いろいろむずかしくなるばかりでございます、と信助が云った。いま唐船あきないが停ったかたちになっていますが、そこをつけこんで、<ruby><rb>媽港</rb><rt>マカオ</rt></ruby>あたりの英国商人がわれわれの荷を買占めにかかろうとしています。これにひっかかると交易の<ruby><rb>市場</rb><rt>しじょう</rt></ruby>をかれらに独占されかねません、それで英人商社には荷を<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>かないという協約をまとめにかかっているのですが、なにしろ金繰りに詰まってくると、そんなわけにもゆかぬ者が出て来ますから、と信助が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が戻って来たので、信助は話しをやめた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は硬い表情をしていた。

「お支度ができました」

「では雁屋」と甲斐は信助を見た。

信助はにこりともしないで云った、「お待ち申しております」

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>、松原たち三人を呼んで、雁屋の相手をさせてくれ、それから<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>だ」と甲斐が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はまた<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうな眼をした。甲斐は妻を見て立ちあがった。

「律、ゆこう」

律はしんなりと立った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はもの問いたげに、なお甲斐の眼を見まもった。「駕籠だ」という言葉が、聞きちがいではないかと思ったらしい。甲斐はその言葉をもういちど繰り返すかのように、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の眼を見返してから、座敷を出た。

<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の奥の、寝所とみえる八<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の間に、<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>をまわして、寝る支度ができていた。裏庭に面した腰高窓の、明り障子の左右があけてあり、<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>に<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>った風鈴が、ときおり、もの憂そうにリリと鳴っていた。

「狭いお寝間だこと」律は立ったままで云った、「夏でもこんな狭いお寝間でおやすみなさいますの」

「町なかはたいていこんなものだ」

「そうでしょうか」律は<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いこう</rt></ruby>のほうへゆき、掛けてある良人の寝間着を取った、「もういくらか馴れましたけれど、来たばかりのときはあんまりどのお部屋も狭いので息が詰まるような気持でしたわ、お着替えあそばせ」

「いま誰か来るよ」

「わたくし致しますわ」と律は云った、「<ruby><rb>館</rb><rt>たて</rt></ruby>ではこんなことはできませんけれど、ときには着替えのお世話くらい致しとうございますわ」

「館だってできるさ」

「あらそうでしょうか」

律は良人に着替えさせ、うっとりしたような眼で良人の顔を見まもった。ようやく二人きりになれたのと、芝居を観て来た<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>が、こころよい酒の酔いとともに、彼女の血を熱くするようであった。

「ねえ」律は微笑しながら、良人をやさしくにらんだ、「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>さんのこと、うかがってもよろしくって」

「こっちから頼みがある」

甲斐は坐って、窓の障子をあけひろげた。

「うかがってはいけませんの」

律がそう云ったとき、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の向うで声がし、若い小間使がはいって来た。律は良人からはなれた。小間使は礼をし、律の着替えを手伝うために坐った。

律の着替えが済むと、小間使はいちどさがり、つぎに、もう一人の小間使が、大きな水盤を運んで来て、夜具の枕もとのほうへ、三尺ほど離して置いた。その水盤には<ruby><rb>玉石</rb><rt>たまいし</rt></ruby>を敷いて水を満たし、若木の柳と<ruby><rb>葦</rb><rt>あし</rt></ruby>とが活けてあった。

小間使たちが去ると、律は<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>を持って夜具の上に坐った。

「私はでかけなければならない」と甲斐が云った。律は片方に団扇を持ったまま、両手を良人のほうへさしのべた。

「人が待っているんだ」

「おでかけになるのですって」

「松山が待っているんだ」と甲斐が云った。

律はさしのばしていた手をおろした、「松山って兄でございますか」

「<ruby><rb>周防</rb><rt>すおう</rt></ruby>どのだ」と甲斐が云った、「国から<ruby><rb>涌谷</rb><rt>わくや</rt></ruby>さまが来られた、藩邸にはまだ内密で、小石川の普請小屋に周防どのとおられる」

「普請小屋ですって」

「堀普請のことは知っているだろう、周防どのは総奉行で、三日にいちどずつ吉祥寺の支配小屋へ泊られるのだ」

「涌谷さまがそんなお小屋へいらしっているんですか」

「二人で私を待っておられる」と甲斐が云った、「それ以上にはなにも云えない、そして、私のでかけることは、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>のほかには誰にも気づかれてはならないのだ」

「では、わたくしは――」と律は良人を見た。そのとき床脇の三尺のひらきが、音もなくあいて、衣類をひと<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>え抱えたお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>がはいって来た。

「ここで寝ていてくれ」

と甲斐は妻に云い、立ってお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>のほうへいった。

「私が戻って来るまで、ここで寝て待っていてくれ」

「なにか大事な御用談があるんですのね」

「律には縁のないことだ」

「いいお役目だこと」と律が云った。

彼女は振向いて、甲斐に着替えさせているお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>を見た。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>さん、いつもこんなことがあるんですか」

「いつものことですわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が云った、「お泊りになるのはごくたまですけれど、そういうときにはたいてい、お忍びでおでかけときまっていますわ」

「ながく待たなければならないのでしょうか」

律が良人に訊いた。甲斐は紺染めの麻の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>に、黒い帯をしめ、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>は着けず、黒い足袋をはいて、腰には脇差だけ差した。

「一刻ほどで戻るだろう」と甲斐は云った、「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>、<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>だ、――」

裏木戸から外へ出た甲斐は、やはり紺染めの麻の布で顔を包み、白張りの小提灯で足もとを照らしながら、石段の坂をおりていった。稲妻型におりてゆく石段の一方は、<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>いかぶさるような<ruby><rb>叢林</rb><rt>そうりん</rt></ruby>で、やかましいほど虫が鳴きしきっていたし、ときどきその虫が、提灯をめがけて飛びついて来た。

石段をおりきって、その道を広小路に向かってゆくと、角から二軒手前に駕籠屋があった。「政右衛門」という店で、甲斐の姿をみつけると、あるじの政右衛門が自分で出て来た。

「吉祥寺橋だ」と甲斐は提灯を消しながら云った。政右衛門は黙って頷き、若い人足を三人呼んで自分も身支度をした。

政右衛門は三十五歳になる、不動の政といって、ひところは<ruby><rb>男達</rb><rt>おとこだて</rt></ruby>として暴れまわった。数年まえ、神田明神の祭礼のときに、五人づれの侍たちと喧嘩になり、危うく斬られようとしているところを、通りかかった甲斐が仲裁にはいって、彼を助けた。それ以来、政右衛門は甲斐に心服し、甲斐のためならいつでも命を捨てるつもりでいた。甲斐も政右衛門のひとがらを愛し、金を出して駕籠屋の店をもたせてやった。

――お屋敷で下郎にでも使って下さいませんか。

と政右衛門はせがんだ。

――いつもお側にいて御用を勤めたいんですが。

しかし甲斐は駕籠屋の店をもたせた。

むろん自分の都合ではない、いつか役に立てようなどとは考えもしなかった。彼を正業につかせ、妻を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>らせて、尋常な生活がさせたかったのである。だが、政右衛門は妻はもらわなかった。いまでは酒もあまり飲まないし、<ruby><rb>遊侠</rb><rt>ゆうきょう</rt></ruby>の群とのつきあいもせず、くそまじめなくらい堅く<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでいた。

去年から若い者も十五人になり、車坂のほうへ<ruby><rb>子店</rb><rt>こみせ</rt></ruby>も出した。そうして、店をもつとき甲斐の出してやった金を、少しずつ返すようになった。

――お返し申すのではございません、旦那の御恩はお返しできるものじゃあございません、この金は預かっていただくのです。

政右衛門はそう断わった。自分は自分が信じられない、と彼は云った。いまは堅気で稼いでいるが、どんな機会にまたぐれだすかもしれない。いつかまたぐれだすような気がしてしかたがない、そのときのために預かっておいてもらうのだ。そういうふうに政右衛門は云った。

甲斐に断わられるか、怒られるかと思ったからであろう。甲斐は「そうか」と云っただけで、その金はすなおに受取っていた。

今年の三月、幕府から伊達家に小石川堀の普請が命ぜられたが、それ以来、甲斐はときどき政右衛門の駕籠を使うようになった。それは人の眼を忍ぶ密会のためで、甲斐はなにも云わなかったが、政右衛門は敏感にそれと察し、必ず供についた。

政右衛門はその夜も駕籠の供についた。しりきり<ruby><rb>半纒</rb><rt>ばんてん</rt></ruby>に、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>ばきで、腰に木刀を差し、印のある提灯を持って、駕籠の先に立って駆けた。

普請小屋まで十七八町。お茶の水を越しておりると、まもなく吉祥寺の前へ出る。その寺はすでに駒込へ移ることになっており、境内の木などもおおかた<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>られていたが、そこにある橋は、まだ吉祥寺橋と呼ばれていた。

甲斐は寺の前で駕籠をおりた。

「お待ち申しますか」と政右衛門が訊いた。

「うん」と甲斐は<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた、「駕籠は隠しておこう、おまえは木戸まで来てくれ」

政右衛門は若い者たちに手を振った。甲斐は歩きだしながら、暗い道の左右にするどく眼をくばった。

一丁ばかりゆくと、小屋の柵があり、伊達家の<ruby><rb>定紋</rb><rt>じょうもん</rt></ruby>のある<ruby><rb>高張</rb><rt>たかはり</rt></ruby>提灯が見えた。それが表木戸である。甲斐は柵の手前を北に曲り、低い声で「望月」をうたいだした。政右衛門は提灯で足もとを照らしながら、甲斐の斜め前を歩いていた。

「……往き来の旅人を、とどめ申して、身命を継ぎ候」と甲斐はうたい続けた。酔った者の微吟というふうな、ごく低い声であった、「……今日も旅人の、御通り候わば」

そううたいかかると、柵の中から、これも低いさびた声で、こうつけるのが聞えた。

「おん宿を申さばやと、存じ候」

甲斐は<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をした。政右衛門は振返って、甲斐の手まねを見て、提灯を消した。すると柵の中に提灯が見えた。

「待っていてくれ」

右側に石置場がある、政右衛門はそっちへ隠れ、甲斐はさらに歩いていった。

柵の中を動いていた提灯が停り、そこにある<ruby><rb>小者</rb><rt>こもの</rt></ruby>用の木戸があいた。甲斐が木戸をはいると、中年の武士が一人、提灯を持って、無言のまま案内に立った。それは茂庭家の用人、紺野四郎兵衛という者であった。

<ruby><rb>仮屋</rb><rt>かりや</rt></ruby>造りの小屋の、坪庭へはいり、縁側へあがると、茂庭周防が待っていた。周防<ruby><rb>定元</rb><rt>さだもと</rt></ruby>は甲斐より三つ若い、背丈も甲斐より少し低いが、肉づきはよく、躯は<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい。濃い眉、きれあがった大きな眼、そしてひきむすんだ口つきなどに、意志のつよい性格があらわれているようであった。

「途中、大丈夫でしたか」

「だと思います」

「どうぞ、お待ちかねです」と周防が云った、「夕方の五時から酒で、まだ続いているが、酔ったような顔もなさらない、むかしからあんなにお強かったのですか」

「そういう噂ですね、私は酒のお相手をしたことはないが」

甲斐はかぶりものをとり、足袋をぬいだ。周防は奥座敷へ案内した。

<ruby><rb>伊達安芸</rb><rt>だてあき</rt></ruby>は酒を飲んでいた。給仕をしているのは、安芸の側用人の千葉三郎兵衛であった。千葉は甲斐を見ると、少しその座をさがった。

安芸<ruby><rb>宗重</rb><rt>むねしげ</rt></ruby>は白の<ruby><rb>清絹</rb><rt>すずし</rt></ruby>の着ながしで、あぐらをかいて、右手に扇子、左の手に盃を持って飲んでいたが、甲斐が坐ると、盃を持った手で「こちらへ」という動作をした。

甲斐は旅の無事を祝ってから、設けられた席へ坐った。

「久方ぶりだ、一つまいろう」と安芸が云った。甲斐は辞退した。

「人を待たせております、戻りをいそがなければなりませんので」

「こんな窮屈なことになっておろうとは思わなかった」と安芸が云った、「いつもこんなふうにして会わなければならぬのか」

「三月以来のことです」と周防が云った、「はじめは気がつきませんでしたが、密議に類することが、<ruby><rb>筒抜</rb><rt>つつぬ</rt></ruby>けに外へもれますので、注意してみると到るところに<ruby><rb>間者</rb><rt>かんじゃ</rt></ruby>が配ってあるようなのです」

「話しを聞こう」と安芸は甲斐を見た、「<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の<ruby><rb>中田宿</rb><rt>なかたじゅく</rt></ruby>で松山どのからの密使に会った、藩家の大事について申し告げたいから、江戸入りは内密にして、まず<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ来いということだ、それでゆうべ着いたのだが、そこもとが同席でなければ話しはできぬという」

「ひとり口では申し上げられないことでしたし、また船岡どのもまだ知らない、新たな秘事がわかったのです」

「話しを聞こう」

安芸はそう云って、盃を膳に置いた。

「五日まえのことです」と周防が云った、「<ruby><rb>久世</rb><rt>くぜ</rt></ruby>侯、御存じでしょうか、将軍家<ruby><rb>側衆</rb><rt>そばしゅう</rt></ruby>のひとりで、<ruby><rb>大和守広之</rb><rt>やまとのかみひろゆき</rt></ruby>と申され、綱宗さま御家督のときから、いろいろ便宜をはからって下さるのですが」

「そのことは聞いている」

「堀普請が始まって以来も、たびたび御周旋を願うことがございました」と周防は云った、「その久世侯から五日まえに、夜ぶんに忍びでまいれという使いがあったのです、その日はおりあしく、築き立てた堀堤が崩れまして、補強工事のため手があきません、それで夜が明けてからまいったのですが」

「久世邸は近いのか」

「西丸下にあります」と周防が云った、「時刻はずれでしたが、すぐに会うとのことで、そのまま寝所へとおされました」

「――寝所へとな」

「密談のためだったのです」と周防は云った。

甲斐はしずかに、扇子で蚊を追った。<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>の<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>があるためか、ひどく蚊が多かった。安芸や周防は扇子を使わなかった。二人は話しの重大さに気をとられて、うるさいほどの蚊にも気づかないようすであった。

たしかに周防の話しは重大であった。

それは、老中の酒井<ruby><rb>雅楽頭</rb><rt>うたのかみ</rt></ruby>（忠清）と、伊達<ruby><rb>兵部少輔宗勝</rb><rt>ひょうぶしょうゆうむねかつ</rt></ruby>とが結託のうえ、仙台六十万石を横領しようとして、その計画を現にすすめている、というのであった。

「不可能なことだ」と安芸が云った、「そんなことが実際にできるわけはない」

「しかしその第一はもう事実になりました」

「第一とは」

「殿の<ruby><rb>御逼塞</rb><rt>ごひっそく</rt></ruby>です」

安芸はぎらっと周防を見た。「――御逼塞が、その謀計の一つだというのか」

「第二は<ruby><rb>跡式</rb><rt>あとしき</rt></ruby>の件です」と周防は云った、「御存じのようにいま御継嗣について、<ruby><rb>入札</rb><rt>いれふだ</rt></ruby>がおこなわれることになっておりますが、その結果によっては、六十万石を二つに割り、三十万石を一ノ関さま、十万石を白石（片倉小十郎）どの、残余はしかじかに分配すると、数度にわたって談合があったというのです」

「久世侯が申されたのだな」

「しかも、所領分割のことは、すでにその人々にも通じているかもしれぬ、白石どのなどは十万石ということであるから、さもあるまいが特に注意するように、とのことでした」

安芸の躯が動かなくなった。甲斐は沈んだ眼つきで、しかし殆んど無感動に、黙って扇子を使っていた。

「六十万石を二つにか」と安芸が云った。

「六十万石を二つにです」と周防が云った。

安芸はしずかに顔をあげた。白いものの混っている髪が燭台の火をうけてきらきらと光り、いままで酔った色のみえなかった顔が、赤く充血していた。

「――そうはさせぬぞ」安芸は低い声で云った、「もしそんな謀計があるとしてもそうはさせぬ、だが、いったいそれはなにが原因だ、なにがもとでそんな謀計が始まったのだ」

「わかりません、しかし思い当ることはございます」

「それを聞こう」

「その一つは酒井家と一ノ関さまとの縁組です」

安芸はちょっと考えたが、すぐに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。去年、兵部宗勝の長子八十郎と、雅楽頭の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>とのあいだに、婚約が<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>ったことを思いだしたのであった。雅楽頭の女とはいうが、事実はそうではない。雅楽頭の夫人は<ruby><rb>姉小路公量</rb><rt>あねのこうじきんかず</rt></ruby>の女で、その夫人の妹を、雅楽頭の養女として八十郎と婚約したものであった。

また、八十郎は今年になって元服し、<ruby><rb>東市正宗興</rb><rt>いちのかみむねおき</rt></ruby>となのったが、年はまだ十二歳だった。

「<ruby><rb>姻戚</rb><rt>いんせき</rt></ruby>関係になるとすれば、一ノ関さまを諸侯の列にあげたい、そういうところから始まったのではないかと思うのです」

「しかし、現に一ノ関は一万石の<ruby><rb>直参</rb><rt>じきさん</rt></ruby>大名ではないか」

「それも<ruby><rb>厩橋</rb><rt>うまやばし</rt></ruby>侯の尽力によるものだったことを、御存じありませんでしたか」

安芸は答えなかった。

「私はこう思うのです」と周防はつづけた。

兵部と雅楽頭の関係は古い。兵部宗勝は政宗の第十子で、母は側室の多田氏であった。十六歳のとき父政宗が死んだあと、兄の忠宗の厄介になっていたが、正保元年、二十四歳のとき、兄にすすめられて江戸へ出て来、まもなく一万石の直参大名になった。直参大名とは譜代と同格の意味であって、明くる二年、従五位下の兵部少輔に任じ、同じ四年に<ruby><rb>立花</rb><rt>たちばな</rt></ruby>（<ruby><rb>左近将監</rb><rt>さこんしょうげん</rt></ruby>）<ruby><rb>忠茂</rb><rt>ただしげ</rt></ruby>の妹を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>った。

立花忠茂の夫人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なべ</span>姫は、兵部の兄忠宗の長女だから、つまり重縁になったわけであるが、これらはみな雅楽頭の好意と助言によるものだといわれた。

「私はこう思うのです」と周防は云った、「厩橋侯がしんじつ一ノ関さまを直参大名にとりたてるなら、所領は幕府から与えられなければならない、にもかかわらず、一万石は伊達領から分けられたもので、名は直参でも事実は仙台御一門でございましょう」

安芸は「うん」と頷いた。

「それと同じ意味で、こんどは仙台領を二分した三十万石を一ノ関さまに、という考えではないかと思います。なにしろ侯は当代ならびなき権門であり、性質もとりわけ剛毅<ruby><rb>豁達</rb><rt>かったつ</rt></ruby>で、思うことはとおさずにおかぬという人物のようですから」

「だがほかに人がいないわけではあるまい」と安芸が云った、「将軍家補佐として<ruby><rb>保科</rb><rt>ほしな</rt></ruby>（<ruby><rb>正之</rb><rt>まさゆき</rt></ruby>）侯もおり、川越の侍従（松平信綱）もおられる筈だ」

「保科侯は御病弱です」と周防が云った、「そして、お忘れではないと思いますが、<ruby><rb>外様</rb><rt>とざま</rt></ruby>大名をとりつぶすことにかけては、川越侯は名手といわれている人です、そうではなかったでしょうか」

安芸は答えなかった。伊達六十万石を寸断すると聞けば、信綱はむしろ歓迎するかもしれない。信綱だけではない、幕府そのものが歓迎するだろう、安芸はこう思って、われ知らず低く<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いた。

半刻ほどして、甲斐は小屋を辞去した。

木戸まで紺野四郎兵衛が送って来た。空はいつか曇って、星一つ見えない、木戸を出ると、外は闇であった。

政右衛門は、もとの処に待っていて、甲斐が近づくと、「<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>ですか」と云った。

「御前はよせ」と甲斐が云った、「変ったことはなかったか」

「ございませんでした」

「帰ろう」と甲斐は云った。

「すっかり曇っちまいました、足もとが危のうございますから、提灯をつけます」

「足もとは大丈夫だ」

「つけてはいけませんか」

「もう少し待とう」

二人は用心しながら歩いた。

注意しなければならないのは、来るときよりも帰るときである、と甲斐は思った。周防のまわりにも見張っている眼があるにちがいない、対談を聞かれる心配はないが、<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けられるおそれは充分にある、甲斐はそう思った。

<ruby><rb>堀端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>へ出て曲り、駕籠を待たせてある処へ来ると、そこでややしばらくようすをみた。そして、跟けて来る者のないことをたしかめてから、はじめて、甲斐は駕籠に乗った。

――雅楽頭か。

駕籠の中で彼は眼をつむった。

――これはむずかしいな。

ひどくむずかしい、と甲斐は思った。綱宗の逼塞に、兵部と雅楽頭の連絡のあることはわかっていた。綱宗の遊蕩を、雅楽頭に通じたのは兵部である。綱宗が新吉原へかよい始めて、僅か十日ばかりで雅楽頭から注意があった。酒井邸へ親しくでいりしているのは、兵部だけである。

伊東七十郎は云った。

――僅か八日か九日のことを、どうして酒井侯は知ったんですか、酒井侯は新吉原の目付でもしているんですか。

おそらく、七十郎は局外者だけに、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って兵部の通謀を見やぶることができたのであろう。明らかに、雅楽頭に通謀する者がいる、という口ぶりであった。

だがそれは済んだことだ。綱宗の逼塞はもはやどうしようもない。しかし、六十万石を分割するという陰謀は重大である。元和五年に福島<ruby><rb>正則</rb><rt>まさのり</rt></ruby>が除封されてから、<ruby><rb>蒲生</rb><rt>がもう</rt></ruby>氏、加藤氏、田中氏はじめ、除封削封された諸侯は十指に余っている。もちろん幕府の基礎と権威をかためるためだから、口実さえあれば伊達家だとて遠慮はしないだろう。

甲斐は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついた。

「なにか仰しゃいましたか」と駕籠の前から、政右衛門が云った。

「いや、なんでもない」と甲斐は云った、「少しいそいでやってくれ」

## 断章（二）

――ただいま到着しました。

「待っていた」

――仙台でひまをとりました、御城下はすっかり秋でございましたが、こちらの残暑のひどいのには驚きました。

「使いはまにあったか」

――まにあいました。

「ようすを聞こう」

――お使者をいただきましたので、一ノ関からすぐ仙台へとばしました。里見十左衛門はすでに江戸から到着しておりましたが、奥山どのが吉岡の<ruby><rb>館</rb><rt>たて</rt></ruby>へまいられたので、戻って来るまで会議が延びていたところでした。

「大学が館へいっていたと」

――そのように、うかがいました。

「この大事なときに、国老の身で城下を留守にする、奥山大学はそういう男だ」

――はあ。

「むかしから<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>な男だったが、おれが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>をかけてやるようになってからまるで<ruby><rb>摂関</rb><rt>せっかん</rt></ruby>きどりだ、しかし、まあよい、そこが彼の役に立つところでもある」

――はあ。

「ようすを聞こう」

――会議は七月三十日に城中お広書院でひらかれました、御老職、古内主膳どのは欠席でございます。

「古内は高野山へいった」

――義山（先代忠宗）さまの御法要とうかがいました。

「義山公の法要で高野山へいって、九月でなければ戻らない筈だ」

――<ruby><rb>弾正</rb><rt>だんじょう</rt></ruby>（伊達<ruby><rb>宗敏</rb><rt>むねとし</rt></ruby>）さま御出府のあとにて、<ruby><rb>安房</rb><rt>あわ</rt></ruby>（同<ruby><rb>宗実</rb><rt>むねざね</rt></ruby>）さまが御上座、まず老臣誓書のことが出ました。

御家の大変に当り、今後は一門老臣の和合協力が必要である。よって神文誓書して、なにごとによらず、互いに熟議相談しておこなうこと、独り主君にもの申すことあるべからず。また、互いにいかなる意趣あるとも、向後十年間は相互に堪忍して公用の全きよう勤むべし。

石川大和さまが、かように御披露なされ、安房さまはじめ御一同が了承のむねを述べられましたところ、奥山どのがその席から「いや」と反対の発言をなさいました。

「申したか」

――申されました。

「なんと云った」

――主君のためによきことならば、自分は独りぬきんでても申上げる、相談のうえなどという<ruby><rb>迂遠</rb><rt>うえん</rt></ruby>な<ruby><rb>誓言</rb><rt>せいげん</rt></ruby>はできない。

「思ったとおりだ」

――はあ。

「次になんと云った」

――また、向後十年間は相互に堪忍せよとあるが、これも堪忍ならぬ意趣があれば堪忍はならぬ、と申されました。

「そうか、堪忍ならぬ意趣があれば堪忍はせぬ、とな」

――はっきり云われました。

「思ったとおりだ」

――はあ。

「大学はおれの思ったとおりに増長する、このあいだ<ruby><rb>評定役</rb><rt>ひょうじょうやく</rt></ruby>の会議があった、そのとき、遠山<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>ひとりが異をとなえた」

――遠山と申しますと。

「大学の弟だ」

――さようでございますか。

「勘解由を評定役にしたのはおれだ、おれが大学にそうするよう暗示をかけた。大学はとびついた、弟を評定役にすることが、自分の地盤を固めると思ったのだ、そうして、まず弟に手柄をたてさせようとした」

――すると、異をとなえましたのは。

「大学のさしがねだ」

――仙台からですか。

「仙台から指図をしたのだ、おれは大学がなにか始めるだろうと思っていた、<ruby><rb>焚木</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>をくべて、火のおこるのを待っていたのだ」

――火はおこりそうでございますか。

「あとを聞こう」

――奥山どのの言葉を、石川大和さまがなだめられ、安房さまが強い意見を述べられました。その結果、奥山どのお一人は、べつに誓紙を出すということに決着いたしました。

「<ruby><rb>入札</rb><rt>いれふだ</rt></ruby>の件は」

――これまた奥山どのから異論が出ました。

「どう申した」

――綱宗さまには、亀千代君という紛れもなき<ruby><rb>世子</rb><rt>せいし</rt></ruby>があられる。されば、誰をお世継にするかなどという論の起こる筈もなし、まして入札などとは<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>てのほかのことだ。自分はさような不道理なことは断じてせぬ、と云われました。

「みな黙っていたか」

――いちじは座が白けかえり、会議は中止かとみえましたが、やがて安房さまが、入札の件は江戸にある一門老臣の合議で<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>ったことだから、自分はそれに従うことにするし、おのおのも不服がなければ入札をしてもらいたい、吉岡どのは近日ちゅうに出府される予定だから、その意見は江戸邸へいって述べられるがよかろう、こう申されました。

「大学はどうした」

――入札をしました。

「なんと」

――意見は江戸へまいってから述べるが、御一同が入札をなさるなら、自分もいちおう入札を致そう、ということでした。

「では無事に終ったのだな」

――さようでございます。

「結果の予想はどうだ」

――わかりません。

「およその形勢は」

――御一同、亀千代君、というように考えられますが。

「やはり、そうか」

――しかしこれは私の想像でございます。

「亀千代どのか、うん、たぶんそんなところであろう。およそそんなことだろうとは思っていた」

――はあ。

「だが公儀はそれではとおるまい。伊達ほどの大藩の跡目に、乳のみ児を申立てるとは、頭の古い者どもだ」

――はあ。

「在国の者と江戸の差だな、こっちではさすがに頭をつかう者がある。入札もいちようではなかった」

――おぼしめしにかなう入札がございましたか。

「いろいろあった、右京（伊達<ruby><rb>宗良</rb><rt>むねよし</rt></ruby>）どの、式部（同<ruby><rb>宗倫</rb><rt>むねとも</rt></ruby>）どの、に入れた者もある。二人は綱宗どのの兄に当るからだが、このおれに入れた者もあった」

――どなたでございましょう。

「誰だかな、はは、そんなみえ透いたことをやるやつはたいてい見当はつく。おれがそんな手に乗ると思うようなやつは、……よし、さがって休むがいい」

――はあ。

「待て、<ruby><rb>涌谷</rb><rt>わくや</rt></ruby>は出てまいるだろうな」

――涌谷さまはもうお着きのじぶんと存じますが。

「まだ着かぬぞ」

――入札を待たずに御出府なさいましたが。

「涌谷はまだ着かぬ」

――おかしゅうございますな、私はもう、とうにお着きのことと思っていました。

「途中で追いぬいたのではないか」

――まったく気づかずにまいりました。

「すると、いや、そんなことはあるまい、あれはただ頑固一徹だけで、裏から策謀するようなことのできぬ男だ、そのほうどの道をまいった」

――浜街道をまいりました。

「よし、さがって休め」

――はっ。

「誰だ、<ruby><rb>隼人</rb><rt>はやと</rt></ruby>か、まいれ」

――御免。

「いま国から<ruby><rb>大槻斎宮</rb><rt>おおつきいつき</rt></ruby>が着いた、仙台のようすはほぼ予想どおりらしい。大学がまいるとひともめあるぞ」

――申上げることがございます。

「なんだ」

――船岡どのが板倉侯と会われました。

「…………」

――伊東七十郎の手引きで、船岡どのは浜屋敷へあがり、その帰りに侯の下屋敷へまわられました。

「甲斐が、板倉侯とか」

――手作りのくるみ味噌を進上のため、ということで、おそらくそのとおりかと存じますが、報告してまいりましたので、念のため申上げます。

「わかった、おぼえておこう」

――これだけでございます。

「よし、さがってよし」

## 世間の米

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は、花川戸から仲町の通りへ出たところで、頭巾をかぶったまま、すばやく左右を眺めまわした。着物も帯も黒っぽい、地味なものだし、頭巾で顔を隠し、小さな包みを抱えた手に、数珠をかけている姿は、若い後家といった恰好にみえた。

午前の十時ころ、――仲町の通りは、<ruby><rb>浅草寺</rb><rt>せんそうじ</rt></ruby>へ<ruby><rb>参詣</rb><rt>さんけい</rt></ruby>する人で、かなり<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>わっていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は知った人はいないかと、左右に注意しながら、大川橋のほうへ曲ったが、そのとき、向うから来る、旅姿の若侍を見て、どきっとしたように立停った。

侍はごく若かった。笠をかぶっているので、年齢はよくわからないが、その顔だちや、骨ぼそな躯つきで、まだ少年だということが察しられた。

その若侍は<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>まみれであった。肩から埃にまみれ、草鞋をはいた足は泥だらけで、袴の裾にも、乾いた泥のはねがいっぱい付いていた。

「もし、あなた」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が呼びかけた。

侍はびっくりした。こちらが驚くほどびっくりして、顔色の変るのがみえた。彼は棒立ちになり、ついで逃げようとした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は追いすがりながら頭巾をとった。

「もし、待って下さいな」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「あなた、宮本さまの新さんでしょう、あたしですよ」

侍は振返った。

「あたし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>ですよ、ほら、お浜屋敷の渡辺にいた、――お忘れになって」

「お浜屋敷ですって」

「渡辺九郎左衛門のうちの者ですよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「あなたお兄さまのお使いで、御本邸から幾たびもいらしったことがあるじゃありませんか、お茶をさしあげたり、御膳の給仕をしてあげた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>をお忘れになったの」

「ああ、あなたですか」

彼は宮本新八であった。彼はようやく<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>したらしい。十六歳という年をあらわした、親しみとなつかしさの眼でお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>を見、ぶきように目礼をした。

「おみそれして失礼しました、いろいろな事があって気がせいていたし、それに……」

「恰好が変ったからでしょ」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はくすっと笑った、「こんな恰好では見違えるのはあたりまえだわね、あなたはどこかへいらしったんですか、お旅帰りのごようすだけれど」

「いや、私は」

新八はすばやく周囲を見まわした。そして、ごくっと唾をのみながら<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いた。すると、かぶっている笠のために、その顔が見えなくなった。

「私は、逃げて来たんです」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>もあたりに眼をやった。

「逃げて来たんですって」

「ええ、でもここでは云えません、追われているんです」新八は云った、「仙台へ送られる途中で逃げたんです、<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まったら命はないでしょうから、これで失礼します」

「お待ちなさいよ、それであなた、どこへいらっしゃるの」

「私は、私はこれから」

「たよってゆく知合いがおありになるの」

「わかりませんけれど」と新八はあいまいに云った、「でも、たぶん、大丈夫だろうと思うんです」

「歩きましょう」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は歩きだした。新八もそれに続いた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った。

「あたしの旦那も、あなたのお兄さんと同じような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>にあったから、事情はおよそわかります。だからうかがうんだけれど、めったなところへいらっしゃると、それこそ自分から<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>へはまるようなことになりますよ」

「それは考えているんです」

「それで、本当に大丈夫なんですか」

「わかりません、でも、いちど助けてもらったし、立派な人だということは、みんなが云っていますから」

「では御家中の方ね」

「ええ、評定役の原田さんです」と新八は云った。

「それはだめ、それはいけないわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「あたしも原田さまの評判は聞いているわ、評判ではずいぶんいい方らしいけれど、あたしの旦那は<ruby><rb>似而非者</rb><rt>えせもの</rt></ruby>だって云ってたことよ、あれは心の底の知れない人間だ、なにも知らないような顔をして、心のなかでどんな悪企みをしているかわからないやつだって」

「私はそうは思いません、死んだ兄も尊敬していたし、兄が殺された晩にも、私たちは原田さんに<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>まってもらったんです」

「その話はあとにして、あたしのうちへいらっしゃい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「この向うの、材木町の裏にあるの、それこそ汚ない狭っくるしいうちだけれど、兄と二人だけだから遠慮はいらないし、あなたの泊るところぐらいあってよ」

「しかし、私は、――」

「だって、原田さまを訪ねていって、大丈夫だっていう証拠はないんでしょ」

新八は黙っていた。

「あたしとあなたとは、そっくり同じような身の上なのよ、そうでしょ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「いらっしゃい、あなたのお年では世間がわからないから、自分だけの考えでなにかするのは危ないわ、あたしでよければお力になってあげてよ、ね、いっしょにいらっしゃいよ」

新八はようやく、だが不決断に頷いた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はちょっと迷った。新八を説きふせるまでは、どうかして家へ連れてゆこうと思ったが、彼が承知したとたんに、兄のことが頭にうかんだ。

――あの呑んだくれが。

とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は思った。

――きっと怒るにちがいない、怒って乱暴するかもしれないわ。

しかしお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は、すぐに<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>をきめた。兄の世話になるわけではない、自分が兄を食わせてやっているんだ。渡辺へ<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>奉公にあがっていたときも、月づき仕送りをしていたし、いまでは「かよいだいこく」とかいう恥ずかしいことをしながら、兄を食わせているし、酒も飲ませているのである。

――なにも恐れることなんかありゃあしないわ。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は新八を見た。

「さきに云っておくけれど」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「兄はちょっと酒くせが悪くって、なにか悪口を云うかもしれません、でもそれは酒が云わせるんですからね、酔っていないときは<ruby><rb>温和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい気の<ruby><rb>好</rb><rt>い</rt></ruby>い人間なんですから、なにを云われても悪く思わないで下さいよ」

「それは、でも、いいのですか」

「大丈夫よ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は笑いながら頷いた、「ながい浪人ぐらしで、出世の<ruby><rb>手蔓</rb><rt>てづる</rt></ruby>はなし、妹のあたしの世話になっているのが自分で辛いんでしょ、それでつい飲まずにはいられないし、飲めば八つ当りをするというわけなのよ」

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は武家出なんですか」

「ええそう、あら、ここの裏よ、<ruby><rb>泥溝板</rb><rt>どぶいた</rt></ruby>に気をつけて下さいな」

材木町の<ruby><rb>大川端</rb><rt>おおかわばた</rt></ruby>に面した家並の、細い路地をはいると、小さな二戸建の家があり、路地のつき当りは、すぐ大川になっていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はその二戸建の、大川に近いほうの家へいって、帰った挨拶をし、留守の礼を述べた。家の中の返辞は、若い女の声であった。

「かこい者なのよ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は新八に囁いた。それから自分の家の戸をあけた。さして古い家ともみえないが、安普請なのだろう、たてつけが悪く、戸はぎしぎしと<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>んだ。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はさきにあがって、中から勝手口をあけ、<ruby><rb>洗足</rb><rt>すすぎ</rt></ruby>の水を取ってくれた。

部屋は上り<ruby><rb>端</rb><rt>はな</rt></ruby>の三帖のほかに、六帖が二た間あり、入口と反対のほうに三尺の廊下、その戸をあけると板塀で、向うの家の庇が、その板塀の上にのしかかっていた。

新八があがってゆくと、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は裏の戸をあけ、障子もあけ放して、ちらかっている部屋の中を、手ばしこく片づけていた。

「ゆうべでかけたままなのよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「きっとまたどこかで酔いつぶれているんだわ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は休みなしに話した。彼女は浮き浮きしていた。柔軟な身ごなしや、なめらかで、抑揚たっぷりな話しぶりや、ときおり新八を見るながし眼などは、殆んど<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びるほどたのしげにみえた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は話しつづけた。

彼女の兄は柿崎六郎兵衛といい、年は二十七歳になる。父は五年まえ、母は七年まえに死んだ。父は八郎兵衛といって、大垣の戸田家に仕え、六百石ばかりの侍大将であった。父は若いころ島原の乱に出て、かなりな手柄をたてたが、主君の戸田<ruby><rb>氏銕</rb><rt>うじかね</rt></ruby>が亡くなってから、家中の折りあいが悪く、自分から身をひいて浪人した。――そのとき母はすでに死んだあとで、一家三人は江戸へ出て来たが、江戸へ来るとまもなく父も死んだ。母の墓は大垣の在にあり、父の遺骨はまだその家にある。いつか旅費と暇ができたら、父の遺骨を持っていって、大垣在にある母の墓へいっしょに埋めるつもりである。とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は話した。

兄の六郎兵衛は剣術が上手で、大垣でも評判だったし、江戸へ来てからも、諸方の道場へいって試合をしたが、負けたことは一度もない。しばしば道場から「師範になってくれ」とたのまれるが、六郎兵衛は承知しないのであった。

――自分の刀法は生活の手段ではない。

六郎兵衛はそう云うのである。主君に仕えて「いざ鎌倉」というばあい役立てるための刀法であって、食うために修業したのではない。六郎兵衛は頑固にそう云うのであった。

「あたしはじめのうちは兄の云うことを信用しなかったのよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「でも三年まえにいちど、……そのときは深川のほうにいたんだけれど、兄が五人の侍と喧嘩をして、五人とも刀を抜いたのに、兄は刀を抜かないで、五人ともやっつけるのを見たわ、それで兄はほんとうに強いんだなとわかってから、この兄のためなら苦労をしてもいいわって思ったのよ」

新八は聞いていなかった。

彼はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が渡辺九郎左衛門の妻でなく、<ruby><rb>側女</rb><rt>そばめ</rt></ruby>だということを知っていた。兄の使いで五度ほど渡辺を訪ねたことがあるし、茶菓や、食事を馳走されたこともあるが、そのときのようすでは、彼女は召使いのような印象であった。

「あたしが渡辺の旦那のところへあがったのも、兄にいい出世のくちがみつかるまでと思ったからよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った。それからふと話しを変えた。それ以上は話してはいけない、ということに気づいたらしい。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は取って付けたように「ごめんあそばせ」と云い、隣りの六帖で着替えをしながら云った。

「あなた、どこでお逃げになったの」

「片倉という処です」と新八は云った、「<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>の片倉という処で、護送者の隙をみて逃げたんです」

「そこは遠いの」

「江戸から三日かかりました、江戸を出たのが七月二十九日ですから」

「今日はもう八月七日よ」

「まわり道をしましたから」と新八が云った、「もとの道では捉まると思ったので、片倉の近くに<ruby><rb>巴</rb><rt>ともえ</rt></ruby>川という川があるんですが、その川にそって下って、霞ヶ浦という処へ出て、そこは湖なんですが、船で江戸崎という処へ渡って、それから」

「そんなこと云われてもあたしにはちんぷんかんぷんだわ」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は苦笑した。

着替えを済ませ、脱いだ物を掛けたり、たたんだりし、また茶の支度をしながら、彼女はつぎつぎと質問をした。

――だらしのないひとだな。

新八はそう思いながら、気のすすまない調子で、訊かれることに返辞をした。

――話しをするなら、坐ってすればいいのに、着替えもしないうちに話しかけたり、湯を沸かしながら話したり、訊きもしない身の上ばなしをしたり。

と新八は思った。

――武家そだちとは思えない、まるで町人のようだ。

彼はやはり原田を訪ねればよかったと思った。そう思いながら、返辞だけはした。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の兄の六郎兵衛は、日が<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れてから帰って来た。年は二十七だというが、新八の眼には三十四五くらいにみえた。<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた筋肉質の<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>で、顔は頬骨が高く、酔っているためだろうが、赤く充血した、するどい眼つきをしていた。なかなかしゃれ者とみえ、栗色の縞の着物に<ruby><rb>黄麻</rb><rt>きびら</rt></ruby>の羽折を重ね、白の足袋をはいていたが、帰って来るとすぐに、それらを脱ぎちらして、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>をびしびしと叱りながら、<ruby><rb>常着</rb><rt>つねぎ</rt></ruby>に着替えた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はなにを云われても口答えをしなかった。まるで<ruby><rb>仔猫</rb><rt>こねこ</rt></ruby>のような従順さで、手ばしこく兄の世話をした。

新八は固くなっていた。六郎兵衛はまったく新八を無視していた。新八のほうは見もせず、もちろん声もかけなかった。

「酒の支度はできているか」

坐るとたんに、六郎兵衛はそう云った。

「すぐにできますわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が答えた。

彼女は兄の脱いだ物を片づけながら、新八のほうを見て、「こちらの方は」と云いかけた。すると六郎兵衛は、聞きもせずに<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。

「うるさい、酒を早くしろ」

「はい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は口をつぐんだ。

六郎兵衛は黙って飲み、やがて飲み終ると、夜具をとらせて寝てしまった。

それまで新八には、食事が出されなかった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は兄の給仕にかかりきりで、新八には話しかける隙もなかった。六郎兵衛の酒は一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかりかかったが、そのあいだ、彼は少しも妹をはなさず、次から次と用を云いつけた。

――失礼な人だな。

新八はそう思った。厄介になっている、というひけめで、固くるしく坐っていながら、六郎兵衛の態度の無礼さに腹が立った。

――出ていってやろうか。

そんなふうにも思った。六郎兵衛の寝たあと、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はこちらの六帖へ食事の膳立てをした。兄の耳を恐れるように、忍び足で、殆んどもの音を立てずに支度をした。

「おそくなってごめんなさい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は囁いた。「おなかがすいたでしょ」

新八は首を振った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はもっと低い声で囁いた。

「酔っているときはむずかしいの、きげんの好いときもあるし、たいていきげんがいいんだけれど、そうでないときは雷さまみたようなの、気を悪くしないでね」

「失礼したほうがいいんじゃありませんか」

「朝になったら話すわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「酔がさめれば人が違ったようになるのよ、話しをすればわかるし、きっと力になってくれると思うわ、さあ、めしあがれ」

新八は食欲がなかった。朝食を早く<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べたままだから、空腹なことはたしかだが、空腹が過ぎたのと、六郎兵衛のいやな態度で、すっかり食欲がなくなっていた。

その夜、二人は同じ部屋で寝た。もちろん夜具は端と端へはなれていたが、新八は寝ぐるしかった。

「堪忍してちょうだい」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が夜具の中からそう囁いた、「兄は<ruby><rb>癇性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>で、人が同じ部屋にいると眠れないんですって、迷惑でしょうけれどがまんして下さいね」

新八は眼をつむったまま、黙って頷いた。女と同じ部屋で寝ることなどは初めてだし、なにやら気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるようで、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>のほうを見ることができなかった。

「おやすみあそばせ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が囁いた。

六郎兵衛と話しをしたのは、それから五日のちのことであった。それまでは起きるとすぐに飲み始め、酔うと出てゆき、帰るとまた飲み、酔っては寝てしまうのである。新八は無視したままだし、妹にも話しかける隙は与えなかった。

五日めの朝、彼は妹に云った、「こちらはどういう人だ」

それは朝食のあとであった。

珍らしく六郎兵衛は酒を飲まなかった。<ruby><rb>不味</rb><rt>まず</rt></ruby>そうに茶漬を喰べたあと、茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>りながら妹に話しかけたのである。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は新八の話しをした。

「簡単に話せ」と六郎兵衛は云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は「はい」といった。自分では簡単に話すつもりだったろう、しかしそれは<ruby><rb>諄</rb><rt>くど</rt></ruby>くて長かった。

「もっと要点だけにしろ」と六郎兵衛はまた云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の話しが終ってから、彼はぼんやりと壁を眺めたまま、ややしばらくなにも云わなかった。それからふと妹を見た。

「おまえでかけないのか」

「ええ、いいんです」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「なんだか<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>に用があるとかってでかけて、今月いっぱい帰らないんです」

「茶をくれ」と六郎兵衛は云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が茶を注ぐと、彼はそれには口をつけず、疲れたような眼で新八を見た。

「国許へ護送される途中ということだが、国許へいってからは、どうなる筈だったのか」

「永の預けということでした」と新八が答えた。

「これの主人も斬られた」と六郎兵衛が云った、「そこもとの兄と、ほかにも二人斬られたそうだ、陸奥守に<ruby><rb>放蕩</rb><rt>ほうとう</rt></ruby>をすすめたというかどで、いちどの糾明もなく、暗殺された、そして暗殺者は、上意討だと云ったそうだな」

「私は知りません」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が自分で聞いたんだ」と六郎兵衛は云った。新八は<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>とした顔で六郎兵衛を見た。

「私は信じません」と新八は云った、「もし本当にそう云ったとすれば詐称です、私は上意討などということは信じません」

「どうして」

「私は、私は知っているんです」

「なにを」

「それは、云えません」と新八は眼を伏せた。

六郎兵衛はじっと新八を見た。それから低い声で云った。

「江戸へ逃げ帰ったのは、そのためか」

「なんですか」

「兄の<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>を討つためだろう」と六郎兵衛が云った。新八は躯を固くし、黙って顔をそむけた。

「相手は誰だ」

新八は答えなかった。

「私が云おうか」と六郎兵衛が云った、「兵部少輔宗勝、――違うか」

新八はぴくっとふるえた。兵部少輔宗勝。まさか六郎兵衛が知っていようとは予想もしなかったので、その名を云われたときは、心のなかを<ruby><rb>見透</rb><rt>みすか</rt></ruby>されたように思った。

「伊達家に内紛があるということは聞いていたし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の話しであらまし察しがついたのだが、そこもとの考えはどうだ」

「私も、私も、そう思います」

「話してくれ」と六郎兵衛が云った、「なにかはっきりした根拠があるのか」

「初めからそうだったんです」と新八は云った、「渡辺さんや兄たちは、一ノ関さまに云い含められて、殿さまを新吉原へお<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れ申し、世間の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>になるようにしたんです」

「兄上が云ったのか」

「兄がいいました」

「理由はなんだ」と六郎兵衛が訊いた。

「御家の系譜を正しくするためだと聞きました」

「系譜を正すって」

「そうです」と新八は強く頷いた。

<ruby><rb>逼塞</rb><rt>ひっそく</rt></ruby>になった綱宗は、亡き忠宗の六男であった。長男の虎千代は七歳で<ruby><rb>夭折</rb><rt>ようせつ</rt></ruby>、二男の光宗は十九歳で死んだ。長男と二男と、そして立花（左近将監）忠茂に嫁した<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なべ</span>姫の三人が正夫人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふり</span>姫から生れた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふり</span>姫は池田<ruby><rb>輝政</rb><rt>てるまさ</rt></ruby>の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>で、徳川秀忠の養女として忠宗に嫁したのであった。

このほかに、三男亀千代、四男（夭折）五郎吉、五男辰之助、六男<ruby><rb>巳之助丸</rb><rt>みのすけまる</rt></ruby>（綱宗）という子たちがおり、これはみな側室から生れた。正保二年、光宗が十九歳で死んだとき、正夫人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふり</span>姫は、いちばん末子の巳之助丸（綱宗）を世継にするよう主張した。

それは、巳之助丸の生母が、<ruby><rb>櫛笥</rb><rt>くしげ</rt></ruby>左中将<ruby><rb>隆致</rb><rt>たかむね</rt></ruby>の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>だったからである。彼女は貝姫といい、その姉の<ruby><rb>逢春門院</rb><rt>ほうしゅんもんいん</rt></ruby>は後西天皇の御生母であった。こういう名門の出である母から生れたので、正夫人は彼を世継に推したらしい。そして、彼は二人の兄をさし越して、忠宗の世子に直った。

三男は田村家を継いで、いま<ruby><rb>右京亮宗良</rb><rt>うきょうのすけむねよし</rt></ruby>となのり、栗原郡岩ヶ崎、一万五千石の<ruby><rb>館主</rb><rt>たてぬし</rt></ruby>である。五男も分家して、式部<ruby><rb>宗倫</rb><rt>むねとも</rt></ruby>といい<ruby><rb>登米</rb><rt>とめ</rt></ruby>郡寺池、一万二千石の館主であった。

「すると、つまるところ」と六郎兵衛が云った、「上に二人の兄があるのに、末子が<ruby><rb>跡目</rb><rt>あとめ</rt></ruby>を継いだ、それが不当だということか」

「ひと口に申せばそうです」と新八が云った、「兄も<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しくそうだと云っていました」

「それは兵部の説だな」

「兄はそうだと云いました」

「あとを聞こう」と六郎兵衛が云った。

「私もそうかと思っていたのですが、殿さまが御逼塞になった日、兄は、はかられた、と申しておりました」

「はかられたって」

「そうです、ひどく<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>いらしたおちつかないようすで、はかられた、はかられたと申し、どうしたらいいか、などと、苦しそうに独り言を云っていました」

「その明くる晩、刺客が来たのか」

「その明くる晩でした」

六郎兵衛は茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>った。

「兵部のしごとだ」と六郎兵衛は云った、「兵部が四人をそそのかし、そそのかした事実を抹殺するために、四人を片づけたのだ」

「<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>もそうお考えですか」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の話で推察したんだ」と六郎兵衛は云った、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の話しでは、渡辺どのは食禄を加増され、重く用いられる筈だった、一ノ関が明らかにそう約束したと、酔ったまぎれに云ったそうだ」

「私は兄の恨みをはらします」

「まあおちつけ」

「私はおちついてはいられないんです」と新八は云った、「私はたよる親類もなし、親類はあってもこんな事情だからたよってはゆけないし、それに、それに私は」

「金のことか」

「そうです、私はもう、二三枚の銭しか持っていないんです」

「心配するな」と六郎兵衛が云った。

「そうよ、お金のことなんか心配することはないわ」

とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った。

「おまえは黙れ」と六郎兵衛が云った、「兵部をうらみたいのはそこもとだけではない、妹の主人を殺されたおれも、このまま手をつかねてはおらぬつもりだし、また、他の二人にも遺族があるだろう」

「はい、畑さんに二人、宇乃という娘と、虎之助という小さい子がいます」

「そこもと一人の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>ではない、そうだろう」

新八は<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いた。

――兵部め、搾ってくれるぞ。

と六郎兵衛は思った。

――骨の髄まで搾ってくれるぞ。

彼は茶碗を置いて、「着物を出せ」と云った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はすぐに立っていった。

「時期を待て、このおれが付いている」と六郎兵衛は云った、「いつか必ず、おれが討たせてやるぞ」

## こおろぎ

「もうよくってよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「着物はそっちで脱いでらっしゃい」

新八は「ええ」といった。彼は六郎兵衛の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着ていた。この家へ来てから十余日、肌着や下のものはお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が新調してくれたし、着物は六郎兵衛のお古を着せられていた。

「なにをしているの」と勝手でお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った。

新八は「いま」と云いながら、不決断に帯を解いた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が勝手口から顔を出した、「なにしてるの、あたしが脱がせてあげましょうか」

「大丈夫です」新八は下帯だけになった。

勝手はひどく狭い。そこに<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>が置いてあり、半分ほど湯が入れてあった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は手拭を渡しながら、新八と入れ換った。

「下帯をとりなさいな」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「今日は代りのがまだ乾いていないでしょ、それを濡らすと緊めるのがなくってよ」

「ええ、でもこれで」

「いいじゃないの、よそではいるんじゃなし人が見るわけでもなし、あたしだっていつもそうするのよ」

新八は頷いたが、両手を脇に垂れたまま立っていた。

「どうしたの、新さん」

「ええ、いま」

「あらいやだ、恥ずかしいの」

「あっちへいって下さい」

「恥ずかしいのね」

新八は黙っていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は上気した顔で、<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しそうに彼を眺め、それからわざと強い調子で云った。

「冗談じゃないわよ、新さん、男のくせになによ、そんなこと恥ずかしがるなんてだらしがないじゃないの、はっきりしなさいよ」

新八は下帯をとった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は彼の背中を平手で叩き、くくと笑いながら六帖のほうへ去った。

新八は盥の中へはいった。盥は小さくはなかったが、片方が壁、片方に<ruby><rb>釜戸</rb><rt>かまど</rt></ruby>があるので、躯をながすには窮屈であった。彼は<ruby><rb>片膝</rb><rt>かたひざ</rt></ruby>を立て、手拭をぬるま湯に浸しては、そろそろと躯をしめした。するとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。

「そうね、男が行水をつかうには<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>はちょっと無理ね」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った。

新八はびくっと身をちぢめた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はそばへ来た。

「あたしがながしてあげる」

「大丈夫です」と新八が云った。

「ながしてあげるわよ」

「よして下さい、大丈夫ですから」

新八は肩をすくめた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>がすばやく手拭を取りあげると、壁へ湯がはねた。

「ほらごらんなさい、湯がはねるじゃないの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「湯がはねるからながしてあげるっていうのよ、じっとしてらっしゃい」

新八は固くなった。

「ずいぶんしっかりした躯をしてるのね、裸になると十六だなんて思えやしないわ、ここのところなんて肉がこりこりしてるじゃないの」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は片手で彼の肩をつかみ、片方の手にまるめた手拭を持って、それで彼の肩や背中をこすった。新八の白い膚は、こするにしたがって赤くなった。まだ少年らしい柔軟な薄い膚であるが、育ちざかりの、新鮮な、活き活きした力の脈<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>っているのが、その膚の下に感じられた。

「あら、どうするのよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「そんなに逃げちゃあながせないでしょ」

「<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったいんです」

「子供のようなこと云わないの、しゃんと力をいれてなさいな、ずいぶん<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>がよれるわ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の顔は赤くなり、力をいれるので息も荒くなった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が立ったり<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>んだりするたびに、彼女のからだの匂いと香油の香が新八を包み、彼女の荒い呼吸が、うしろ<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>や、肩や、背中を熱く<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。新八は息ぐるしくなり、ますます固くなった。

「こんどはお手て」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は彼の右腕をつかんだ、「もっと伸ばして」

「もう自分でやります」

「伸ばすのよ、そんなに世話ばかりやかせるとぶってあげるから」

新八は右手をあげ、右手のあったところへ左手を置いた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の眼がすばやく動いた。彼女は脇へまわり、新八の腕をあげて、<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>のほうを洗った。新八は「あ」といいながら、左の手でお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の手をよけ、右手をふり放した。湯を打ったので湯がはね、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の顔にまではねかかった。そのときまた、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の眼がすばしこく動いた。

「まあひどい、乱暴ね」

「だって擽るから」新八は赤くなった。

「こんなに湯をはねかして」

「済みません」

そのとき戸口に人の声がした。

「うちかしら」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った。

その声は戸口でしていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は「はい」と答え、持っている手拭を絞って濡れたところを拭き、はしょっていた裾をおろすと、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をとりながら出ていった。

戸口にはみなれない侍が立っていた。

「柿崎さんのお住居はこちらですか」

「はい、柿崎でございます」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は膝をついて、相手を見あげた。

それは三十歳ばかりの、躯の<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた、おちくぼんだ眼のするどい、貧相な浪人者であった。

「私は野中又五郎という者ですが」とその侍は云った、「柿崎さんは御在宅ですか」

「ただいま留守でございます」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が答えた。

浪人は「はあ」といった。その顔に失望の色がつよくあらわれ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>から眼をそらして、溜息をついた。

――どういう人だろう。

とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は思った。兄のところへは訪ねて来る者は殆んどない、兄にもつきあう者はあるようだが、この家へ伴れて来ることはなかった。人とのつきあいは外だけに限っているのだろう、野中というその浪人も、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は初めて見る顔であった。

「なにか御用でしょうか」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が訊いた。

「困ったな」浪人は困ったなと繰り返した。いかにも途方にくれたという云いかたであった。

「お帰りはわかりませんか」

「昨日でかけたままですから、今日はたぶん戻るだろうと思いますけれど」

新八にもその問答が聞えた。

彼は戸口の声が侍だとわかったとき、伊達家の追手ではないかと思い、かっとなりながら、濡れた躯をよくも拭かずに、手ばしこく着物を着た。彼が着物を着てしまい、こちらの六帖でようすをうかがっていると、侍はまもなく帰ってゆき、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が戻って来た。

「誰ですか」

「あら、もう出ちゃったの」

「いまのは誰ですか」

「心配しなくっても大丈夫、兄のところへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むしん</span>にでも来たんでしょ、おちぶれた恰好をして、あたしも見たことのない人よ」

新八は坐った。

「あたしも汗をながそう」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「新さん済まないけれど<ruby><rb>蚊遣</rb><rt>かや</rt></ruby>りを<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いてちょうだい、わかるでしょ」

「わかります」新八は立ちあがった。

彼が干した<ruby><rb>蓬</rb><rt>よもぎ</rt></ruby>を火鉢で焚いていると、勝手でお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が、盥の湯かげんを直すのが聞えた。

それから彼女は六帖へ来て、着物を脱ぎ、裸になって勝手へ戻った。

「新さん」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が勝手から云った、「お使いだてして済まないけれど、そこに<ruby><rb>糠袋</rb><rt>ぬかぶくろ</rt></ruby>があるから取ってちょうだいな」

新八は「はあ」といったが、煙にむせんで<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>こんだ、「どこですか」

「鏡架けの脇に掛けてあるでしょう」

糸で<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>った糠袋が、鏡架けに掛けてあった。煙がしみて涙の出る眼をこすりながら、彼はそれを障子のところからさしだした。

「こっちへ来てよ、無精ね」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った、「そんなところからじゃ届きゃしないわ、こっちへはいって来てちょうだいな」

新八は勝手へはいって、眼をそむけながら糠袋を渡した。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はくくっと笑った。

「どこを見ているの、新さん」

「煙が眼にはいったんです」

「ちょっと」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が呼び止めた、「あんた、ずいぶん薄情ね、そのままいってしまうの」

「なんですか」

「あたしだってながしてあげたじゃないの、背中ぐらいながしてくれるものよ」

新八は向うを見たまま立っていた。

「ねえ、背中だけでいいわ」

新八は黙っていた。

「そんなにうしろ向きに石地蔵を置いたように突っ立ってないで、こっちを見てなにかお云いなさいな、ねえ新さん、あんたあたしの裸を見るのが恥ずかしいの、そうでしょ、あんたいろけづいたんだわ」

新八は<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>をにぎった。

「そうじゃなければ、背中ぐらいながせない筈はないことよ、だって、あたしたちきょうだいになるって約束したんですもの」

「蚊遣りが、消えますから」と新八がいった。

「いいわよ、たんとそうなさい、もう頼まないわ」

「済みません」

新八は六帖へ去った。うしろでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の、含み笑いが聞えた。

彼はついにお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>のほうを見なかった。しかし、もう薄暗くなりかけた勝手のそこに、脂肪ののった、白い、素裸な女の体のあることは、眼で見るよりも鮮やかに、なまなましく彼の感覚が見ていた。

――おれは堕落した。

新八は心のなかで思った。これまで、かつてそんな感情を味わったことはなかった。異性に対する漠然とした、あこがれの気持はあった。同じ年の友達のなかには、おとなぶったふりをして、ずいぶん露骨な話しをする者もある。なかには<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>と寝たなどといって、誇らしげにそのようすを語る者もいたが、新八には理解もできなかったし、そういうことに興味もなかった。

彼が身ぢかに知っていた女性は、母と一人の姉だけであった。母も姉も亡くなったが、母や姉のところに来る女客のなかに、好きなひとがいて、そのひとが来るとよく母たちの客間へいっては叱られた経験があった。おそらくそれも漠然とした興味、ごく単純な女性というものへの関心という程度であったろうが、それらの人たちには、母や姉とちがった、一種の胸のときめくような感じを、与えられたものであった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>のばあいは、そういう経験とはまったくかけはなれていた。彼はいま、毎日、自分が汚れてゆくように思えるのであった。

――おれはだんだん堕落する、堕落してゆくばかりだ。

新八はそう思った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>との生活はまだ半月くらいにすぎないが、彼を絶えず混乱と<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>で動揺させた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>といっしょにいると、これまで彼の知らなかった感情や感覚が、彼のなかにめざめ、つよい力で彼を支配しようとする。しかも彼は、自分がそれに抵抗できなくなるだろう、ということを感じ、そのために自分が不潔で、けがらわしく思われる。

――この家を出てゆこう。

出てゆかなければならない。幾十たびとなくそう決心した。しかし出てはゆけない、彼はその家を出てゆくことはできなかった。

――金も持ってはいないし、仙台藩の追手に<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まるだろう。

たしかに、そのとおりだった。それは決して「口実」ではない。口実ではないか。たしかに「口実」ではないか。新八は自分を恥じ、自分を不潔に思った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は浮き浮きしていた。<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の支度をしながら、あまえた声で新八に話しかけ、なにか楽しいことでもあるように、鼻唄をうたったりした。――二人が食膳に向かったとき、六郎兵衛が帰って来た。彼は酔っていた。そして、いつものように酒を命じ、奥の六帖で飲みだした。

六郎兵衛が飲みだすとまもなく、隣りのお久米が戸口へ来て、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>と何か話しだした。お久米は日本橋のほうの、回船問屋をしている老人のかこい者で、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の話しによると、六郎兵衛に想いをかけているのだという。

――ずっとまえからよ。

と新八に云ったことがある。

――でも兄はだめなの。ずいぶん辛抱づよく云いよるんだけれど、てんで見向きもしないのよ、見ていて可哀そうなくらいだわ。

いまもくどくど頼んでいるのは、なにか酒の<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を持って来て、酌をさせてもらいたい、とせがんでいるようであった。だがまもなく、六郎兵衛が「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>」と<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>った声で呼び、云いさとされたのだろう、お久米はそっと帰っていった。こちらにいる新八にも、お久米の落胆していることがわかるような、よわよわしく哀しげな挨拶ぶりであった。

「ああ、今日お客さまがみえましたよ」

給仕をしながらお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の云うのが聞えた。

「野口、いいえ、あらいやだ、なんていったかしら、野口じゃなかったわね」

「もの覚えの悪いやつだ」

「さっきまでちゃんと覚えていたのよ」

新八がこちらで咳をし、そして云った、「野中又五郎といっておられましたね」

「あら、そうかしら」

「野中又五郎といっておられましたよ」

「わかった」と六郎兵衛が云った、「野中ならわかっている、飯にしてくれ」

「あら、もういいんですか」

「飯にしよう」と六郎兵衛は云った、「すぐでかけなければならない」

「今夜もですか」

「茶漬で食おう」

食事を簡単に済ませると、もういちど着替えをして、六郎兵衛は出ていった。

「野中さんがみえたら、なんて云っておきますか」

「来はすまいが、来たら寺へいったと云っておけ」

「お寺ですって」

「云えばわかる」

そして彼は出ていった。

その夜半、新八は夢でひどく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うなさ</span>れた。<ruby><rb>断崖</rb><rt>だんがい</rt></ruby>の裂け目にはいったまま、どうしてもぬけだすことができず、断崖が両方から圧迫して来て、いまにも圧し<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されるかと思うほど苦しい。殆んどみしみしと骨のきしむ音が聞えるくらいだった。おそらくごく短いあいだのことだったろうが、苦しさのあまり彼は<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声をあげ、そして眼をさました。するとあまい香料がつよく匂い、自分が誰かに、上から抱きしめられていることに気づいた。まだ眠りからさめきらず、半ば悪夢のなかにいながら、彼は上から抱かれていることに気づき、その抱擁からのがれようとして、身をもがき、手を振ろうとした。しかし呻き声が出るだけで、身動きもできず、手は、まるで金縛りにでもされたように、まったく自由にならなかった。

「じっとしてて」と耳のそばで<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぐのが聞えた、「じっとしてらっしゃいね、新さん、じっとしてるの、わかって」

新八は首を振った。ねっとりとした、火のように熱いものが、唇を押え、耳たぶに触れ、また唇を痛いほど吸った。新八はようやく眼ざめ、殆んど恐怖におそわれながら、その腕をつかみ、身をよじった。相手は手と足とで絡みつき、押え、のしかかって緊めつけた。ぬめぬめとした火のように熱いものが、頬に頸に吸いつき、肩に歯を立て、そうしてあらあらしい喘ぎで彼を包んだ。

「いやです」と新八は手を払った、「よして下さい、いやです」

新八ははね起きた。相手は「痛い」といった。行燈が消えていて、部屋の中はまっ暗であった。

「ひどいのね」と闇のなかでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った。新八は坐ったまま、うしろへしさった。すると、背中が壁につかえた。

「ひどい新さん、あんまりよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った。

新八は立って、手さぐりで襖をあけた。彼は外へ出ようと思った。

「新さん、どうするの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の立つけはいがした、「どうするのよ、新さん」

「ちょっと、――」と新八が<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>った。その声はみじめにふるえていた。彼は三帖のほうへ出た。

「待って、待ってよ」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が追って来た、「堪忍して、あたしが悪かったわ、あやまるから堪忍して、ね、新さん、もうなんにもしないから、堪忍してちょうだい」

「来ないで下さい」新八が云った、声はまだおののいていた、「こっちへ来ないで下さい」

「ええいいわ、いかないわ、おとなしくするわ、だからあんたも戻って来て」

「私は<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にいます」

「もう決してなにもしないから、ねえ、お願いよ新さん」

「来ないで下さい」

「ゆきゃあしないことよ、ほら、こっちにいるじゃないの」

「構わないで寝て下さい、私は少しこうしています」

「だめよ、そんなこと、もうしないってあやまってるじゃないの、お願いだから戻って寝てちょうだい、お願いよ、新さん」

「私は少しこうしています」

新八はその三帖で坐った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はなおくどいた。新八はもう返辞をしなかった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は戻って行燈に火をつけ、ではあたしは寝ます、と云った。新八は黙っていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は本当にもうなにもしない、と誓い、あたしが眠って、もう安心だと思ったらあんたも寝てちょうだい、と云った。

新八は壁に背をよせて坐っていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は寝床の中へはいった。

――こんなことになるだろうと思った。

彼は心のなかで思った。寝しずまった夜半すぎの床下で、しきりにこおろぎが鳴いていた。新八はそっと手の甲で眼を拭いた。

新八の気のつかないうちに、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は、ひと夜ごとに夜具の間隔をちぢめて来た。やがて気がついたが、彼にはなにを云うこともできなかった。彼は自分が、そんなことで文句を云える立場ではない、と思った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は寝返りを打って、手や足を、新八の夜具へのせることもあったが、彼はそっと躯をずらせるだけで、押し返したり、よび起こして注意するようなことはしなかった。そして、とうとうこんなことになった。新八は寝衣の袖で、自分の唇や、顔や頸などを拭きながら、<ruby><rb>嘔吐</rb><rt>おうと</rt></ruby>の発作におそわれた。

「堪忍してね、新さん」六帖でお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた、「あたしあなたを、弟のように思っていたの、弟のように思っているうちに、情が移ってしまったのよ、辛いわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が囁いた。

「あたしもう決して、あなたのいやがるようなことはしないわ、だから、嫌わないでね」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の啜り泣くのが聞えた。新八はこおろぎの声に聞きいっていた。

## 石火

住居を出た柿崎六郎兵衛は、<ruby><rb>旅籠町</rb><rt>はたごちょう</rt></ruby>までまっすぐにゆき、二丁目を右へ曲って、西福寺という寺へはいった。

彼はそのまま出て来なかった。

明くる朝、その寺の<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>に付いたくぐり門から、二人の浪人者がはいってゆき、十時ころ、さらに三人の浪人者がはいっていった。

そして午後二時まえ、――六郎兵衛は一人の浪人者と、門から出て来た。その伴れは、あとからきた五人とはべつの男で、たぶん寺に泊っていたとみえるが、彼は野中又五郎であった。

旅籠町の通りへ出ると、そこで二人は別れた。野中は低頭して「では」と云った。六郎兵衛は目礼もしなかった、彼は野中には眼もくれずに歩いてゆき、片町の角のところで<ruby><rb>辻駕籠</rb><rt>つじかご</rt></ruby>に乗った。

「宇田川町へやれ」と彼は駕籠の中で云った。

駕籠が芝の宇田川町へかかると、そこで彼は駕籠をおり、宇田川橋を南へ渡って、伊達兵部邸の門をおとずれた。

名を告げると、わかっていたとみえ、番士が脇玄関へ案内し、そこで若侍にひきつがれた。若侍は彼を接待の間へみちびき、「しばらく待つように」と云って去った。

彼はながく待たされた。茶と菓子が二度出され、約二時間ちかく経ったとき、中年の侍があらわれて、自分は用人の只野内膳であるとなのった。六郎兵衛は黙って目礼した。

「御用のおもむきをうかがいましょう」と内膳が云った。六郎兵衛は黙っていた。内膳がもういちど、同じことを繰り返した。

「私は兵部少輔さまにおめにかかりたいと申し出てあります」と六郎兵衛は答えた。それはわかっている、と内膳が云った。

「それは承知しているが、いちおう御用のおもむきをうかがうのが、用人としての私の役目ですから」

六郎兵衛は相手を見、それから冷やかに云った。

「いち言で申せば、一ノ関侯の御首にかかわることです」

内膳は口をつぐみ、やがて、静かな声で云った、「それは一大事ですな」

六郎兵衛は黙っていた。

「しかし、ただそれだけではあまりに唐突で、取次ぎの申しように困ります、もう少し詳しいことをうかがえませんか」

「これでいけなければ帰るだけです」と六郎兵衛が云った。内膳はしばらく黙っていたが、六郎兵衛が承知しないとみたのだろう、「しばらく」と云って立っていった。

こんどもまた待たされた。

そして四半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ほどして、四十五六になる小柄な、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい躯つきの侍が出て来、「家老の<ruby><rb>新妻隼人</rb><rt>にいづまはやと</rt></ruby>である」となのった。

六郎兵衛は、無遠慮に、相手を眺めた。

新妻隼人も平静な眼で、六郎兵衛を見返していた。彼がなのったのに対して、六郎兵衛は目礼はしたが、なにも云わなかった。隼人がまた云った。

「用向きを聞きましょう」

「わかりの悪い人たちだな」と六郎兵衛が云った、「同じことをなんど云わせればいいんだ」

「私が用向きを聞きます」

「侯には会わせないというんですね」

「用向きを聞きましょう」

六郎兵衛は黙った。それから云った。

「私は非常な大事について、侯じきじきに会いたいと申しいれ、会うから来いという返事で来たのだ」

「その返事は私が出したのだ」

「侯は知らぬというんですか」

「かようなことを、いちいち殿の採否にまつくらいなら、家老や用人はなくて済む、そうは思われないか」

「これは尋常のばあいではない」

「どう尋常でないかを聞きたいのだ」

「侯に会って云いましょう」と六郎兵衛は云った、「さもなければ帰るだけだ」

隼人はするどく彼を見た。

「よろしい」と隼人が<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた、「それではやむを得ません」

六郎兵衛は眉も動かさずに、左手で刀を取って立ちあがった。

隼人が声をかけると、案内をするために若侍が出て来た。六郎兵衛はその若侍について、廊下を玄関のほうへと静かに歩きだした。そのとき、たぶんようすを聞いていたのだろう、用人の只野内膳が、すり足で追って来た。

「しばらく」と内膳がよびかけた。

六郎兵衛は黙って歩きつづけた。内膳は追いついて、「お上がお会いなされる」と云ったが、六郎兵衛は足を停めなかった。

「お待ち下さい、お上が会うと仰せられています、柿崎どの」

「いやだ」と六郎兵衛は歩きながら云った、「私は駆引きは嫌いだ」

「私どものおちどです、主人は知らぬことですから、どうぞ、どうぞしばらく」

六郎兵衛は立停った、「貴方がたのおちどか」

「役目上やむを得なかったのです、どうぞ御了解のうえお戻り下さい」

「手数をかける人たちだな」

六郎兵衛は冷笑し、そして頷いた。

「どうぞこちらへ」

内膳が接待の間まで伴れ戻した。そこでまたひともめあった。刀をそこで預かるという、六郎兵衛は拒絶した。刀を預かるというのは、さして不当な要求ではない。一万石あまりの小大名にしろ、その前へ出るには作法がある。脇差はともかく、刀は置いて出るのが礼儀だった。しかし六郎兵衛は拒絶した。自分は誰の<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>もうけていない浪人者である。兵部どのには警告をしに来たのだから、対等でなくては会わない、と云った。

そこにはすでに新妻隼人はいなかった。内膳は困って、いちど奥へ相談にゆき、戻って来て「ではそのまま」と承知した。

とおされたのは小書院であった。こんどは待たせなかった。六郎兵衛のそばには内膳がひかえ、兵部は小姓一人をつれて上段へ出て来た。六郎兵衛は軽く低頭した。

「――聞こう」と兵部が云った。六郎兵衛は大胆に、兵部の眼をみつめながら云った。

「人ばらいを願います」

兵部は黙って見返し、それから云った。

「それほどのことか」

「侯のおためです」

内膳がなにか云おうとした。兵部はそれを制止し、にっと微笑しながら云った。

「みなさがっておれ」

小姓は持っていた<ruby><rb>佩刀</rb><rt>はかせ</rt></ruby>を、<ruby><rb>刀架</rb><rt>かたなかけ</rt></ruby>にかけて去った。内膳はちょっと<ruby><rb>躊</rb><rt>ため</rt></ruby>らったが、しかしこれも<ruby><rb>入側</rb><rt>いりがわ</rt></ruby>へさがった。

「聞こう」と兵部が云った。

「隼人どのからお耳に達したと思いますが、侯のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しるし</span>を<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>っている者がございます」

「どういう人間だ」

「おわかりの筈だと思います」

「では、なんのために来た」と兵部が云った、「おれが知っていると思うのなら、そのほうが来る必要はなかろう」

「仰せのとおりです」

「ではなんのために来た」

「お役に立つかと思ったのです」

兵部は黙った。

「誰が侯を覘っているか、それは御自身で知っておられると思います」六郎兵衛はゆっくりと云った、「しかし、かれらが侯を覘う動機と、侯のお首を覘うだけでなく、べつに行動を起こすかもしれないということは――」

六郎兵衛は言葉を切った。兵部が笑ったからである。六郎兵衛が言葉を切ると、兵部は「気にするな」と云った。

「聞いておる、つづけるがいい」

「私の申すことがお信じになれないようですな」と六郎兵衛が云った。すると兵部が云った。

「おれは単直を好む、それだけのことだ」

「私は単直に申しています」

「よし、つづけるがいい」

六郎兵衛は心のなかで、舌打ちをした。

――これは相当なやつだぞ。

兵部が笑ったのは、意味があるのではなく、こちらの話しの腰を折るためである。こちらの話しの調子に乗らぬために、わざと話しの腰を折ったのだ。

「かれらは」――と六郎兵衛は云った、「自分たちの父や、主人や、兄たちが、誰の手によって<ruby><rb>抹殺</rb><rt>まっさつ</rt></ruby>されたか、その原因がなんであるかを、知っています」

「そのほうもか」

「私もです」

「<ruby><rb>妄想</rb><rt>もうそう</rt></ruby>ではあるまいな」

「それは侯が御存じの筈です」

「あとを聞こう」と兵部が云った。

六郎兵衛はずばずばと云った。さる人が渡辺ら四人に命じて、陸奥守に放蕩をさせ、綱宗が逼塞になったこと、そこで放蕩をさせた事実を<ruby><rb>湮滅</rb><rt>いんめつ</rt></ruby>するために、四人を暗殺させたこと。これらはみな「さる人」の方寸によって行われたことであるし、暗殺された遺族はみなそれを承知していることなど、まったく無遠慮に云ってのけた。

兵部は聞き終ってから、「そのさる人と申すのが、余だというのか」と云って微笑した。

六郎兵衛は答えなかった。兵部は微笑したまま云った。「それではさだめし、さる人がなぜそんなことをしたか、その理由もわかっておるだろうな」

「理由は表裏二面あります」と六郎兵衛が云った、「その一は、陸奥守どのが兄君お二人をさし越して家督を相続された、これを正しくするということ、その二は、陸奥守どのに代って、その人御自身が六十万石のあるじに直ろう、という御計画です」

「そして、それがこのおれだというのか」

「私はお役に立つつもりです」

「おれが六十万石のあるじに直るつもりだというのか」

「お断わり申しますが」と六郎兵衛は云った、「私がここへ参上するには、つかむだけのものをつかんだからのことです、御継嗣を誰にするかという<ruby><rb>入札</rb><rt>いれふだ</rt></ruby>のことも、その入札のなかに、一ノ関さまの御名のあったことも存じています」

兵部の顔がひき緊った。六郎兵衛はそれをしかと認めてそうして云った。

「私はお役に立つつもりです」

「――望みを申してみろ」と兵部が云った。

六郎兵衛は平然と答えた、「さしあたり五百金、そのあとは月づき三百金、臨時の入費はべつに頂戴いたします」

兵部は六郎兵衛に興味をもったようであった。興味をもったという以上に、共通した性格の一面が、つよく兵部をひきつけたといえるかもしれない。兵部は云った。

「おれは部屋住の苦いおもいを経験した」

「存じております」

「ひやめしの味も知っておる」と兵部は云った、「おれは金の価値を知らぬ大名そだちではない、欲しいものがあっても、値段によっては買わずにがまんするようにそだって来た」

「私は使える人間を五人やしなっております」と六郎兵衛は云った、「かれらは素姓も正しく、兵法武術にもひとなみ以上の心得がありながら、運の悪いために窮迫し、自分の命を売って食わなければならない者たちです」

「その男たちも事情を知っているのか」

「私は必要のないことを<ruby><rb>情</rb><rt>じょう</rt></ruby>にまかせてしゃべるような人間ではございません」

「そうらしいな」と兵部が頷いた、「金のことは隼人に申しつけよう」

「いや、侯御自身から頂きます」

「なぜだ」

「この契約は侯と私だけ、ほかには誰びとにも口だしをしてもらいたくないのです、お申しつけになる御用も侯じきじき、お手当も御自身のお手から頂きます」

「家来どもは信用せぬと申すのか」

「私は人に頭を下げるのが嫌いでございます」

「覚えておこう」兵部は微笑した、「呼び出すにはどうしたらよいのだ」

「御用人に申しておきます」

「役に立つという証拠は」

「宮本新八という者を、御存じでございますか」

「知っておる」

「国もと預けになった筈でございますな」

「送る途中で脱走したそうだ」

「それを押えてあります」

「新八をか」

「宮本新八を押えておきました」兵部は懐紙を出して唇をぬぐった。唇を懐紙でぬぐいながら、「どこへ」と云った。六郎兵衛は黙っていた。

「どこに置いてある」と兵部が云った。六郎兵衛は黙って、じっと兵部の眼をみつめた。兵部は懐紙を捨てた。そして頷きながら云った。

「よし、手当を遣わそう」

そして「これ」と振返った。

六郎兵衛が兵部邸を出たのは、宵の八時にちかいじぶんだった。

雨もよいの、ひどく蒸しむしする晩で、空には雲が低く道の上は暗かった。六郎兵衛は大通りへ出て、宇田川橋のほうへ曲ったとき、そこでふと立停った。

――来るな。

と六郎兵衛は思った。立停った彼は、振向きはしなかったが、うしろから人の<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来るけはいは、まちがいなく感じることができた。

それは兵部邸の、<ruby><rb>築地塀</rb><rt>ついじべい</rt></ruby>の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>に待っていたようである。そこで六郎兵衛をやりすごし、間あいを計って跟けて来た。これだけのことが、かなりはっきりと感じられたのである。斬るつもりか、それとも腕だめしか。いま尾行者は身を隠している。

――どっちだろう。

六郎兵衛は道の左右を見た。辻駕籠をひろうにはどちらへいったらいいかと、迷っているようなかたちだった。

彼はゆっくりと宇田川橋を渡った。道を左へはいると、伊達本家の中屋敷がある。そこは左右ともずっと武家屋敷だから、まだ宵のくちではあるが、灯も少ないし人どおりもなかった。

六郎兵衛はその道へはいっていった。尾行者は跟けて来た。伊達家の築地塀にかかり、門長屋の武者窓の灯が、ほのかな光を、道の上に投げていた。そこへ来たとき、「いまだ」と六郎兵衛は思った。彼の直感に紛れはなかった。それまでに間隔をちぢめて来た相手は、小砂利の路上をつつと詰め、低い、ちぎれるような掛声と共に、うしろから突っかけた。

的確な、みごとな<ruby><rb>突</rb><rt>つき</rt></ruby>であった。六郎兵衛は相手の刀の<ruby><rb>切尖</rb><rt>きっさき</rt></ruby>が、こちらの<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>に当る<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、<ruby><rb>燕</rb><rt>つばめ</rt></ruby>の返るように身を転じた。刀は六郎兵衛の脇を――着物を貫き裂いたが、身を転じた六郎兵衛の手に、きらっと刀が光ったとき、相手は<ruby><rb>毬</rb><rt>まり</rt></ruby>のように走りぬけて、敏速に向き直っていた。

相手はまだ若かった。黒っぽい着物に、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>股立</rb><rt>ももだち</rt></ruby>をとり、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をかけていた。汗止をする暇はなかったらしい、覆面もしていないし、足は足袋はだしであった。

「どうするんだ」と六郎兵衛が云った、「まだやるのか」

相手は間あいを詰めた。黙ったままで、くいしばった唇のあいだに、歯が見えた。

「仕止めろといわれたのか」と六郎兵衛が云った、「きさまには無理だぞ」

そのとき相手が斬りこんだ。真向から右胴へ、大きく跳躍し、くの字に身を沈めて。これもまたたしかな、呼吸も太刀さばきも水際立った打込みであった。

真向へ来るとみえた刀が右胴へ切り返されたとき、六郎兵衛はすっと爪先だちになり、刀を右に振りざま横へとんだ。相手は激しく膝をつき、その刀が地面を打った。刀は路上の石に当り、火花がとんだ。石を打った刀の音と、そこから発した火花とは、その勝負の終ったことを示すようであった。

六郎兵衛は相手の面上へ刀をつきつけていた。

相手は片方の膝をついたまま、はっはっと肩で息をしていた。六郎兵衛は上から、そのようすをしばらく見ていた。門長屋の武者窓の、灯のさしている障子に、人の影が写った。いまの物音を聞きつけたらしい、だが、障子をあけるようすはなかったし、その影もすぐに見えなくなった。

「云いつけたのは誰だ」と六郎兵衛が訊いた、「兵部少輔か」

「斬れ」と相手が云った。

六郎兵衛が云った、「兵部少輔の云いつけか」

「云うことはない斬れ」

「云わせてみせるさ」六郎兵衛は、相手の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>へ、刀の切尖をつきつけた、「云わなければ、きさまを縛ってこのまま、出る所へ出てみせる、きさまがその人間の名を云わなくとも、仙台六十万石の名は出ずにはいないぞ」

「おれを斬れ」と相手は云った、「おれを斬ることはできるが、生きたまま縛ることはできない、おれが自分で死ぬのをきさまが止めることはできないぞ」

「そうか、――」

云うとたんに、六郎兵衛は相手の胸さきを<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>あげた。彼は<ruby><rb>当身</rb><rt>あてみ</rt></ruby>をくれるつもりだったらしい、だが、そのとき、向うの暗がりから人が出て来た。

「もういい、そのへんでよしてやれ」とその男が云った。

六郎兵衛は脇へとびのいた。尾行者は躯を横にねじって路上に片手をついたまま<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいた。男はこっちへ近よった。「誰だ」、と六郎兵衛が云った。

「そんなことを気にするな」と男は云った、「おまえさんの知りたいのは、その男におまえさんを斬れと命じた人間だろう。そいつはあの屋敷の家老で、新妻隼人という者だ」

「新妻隼人、――」

「一ノ関家の忠臣さ」とその男は云った、「それから、そこにいる気の毒な男は、渡辺七兵衛という暗殺の名手だ」

「そこもとは誰だ」

「聞くことはそれだけか」

「そこもとは誰だ」と六郎兵衛が云った。

男はくすくすと笑い、振向いて、たち去りながら云った。「おれは伊東七十郎」

そしてなおくすくすと笑うのが聞えた。六郎兵衛は茫然と、みおくっていた。

## 柳の落葉

湯島の家の居間で、原田甲斐は机に向かって<ruby><rb>覚書</rb><rt>おぼえがき</rt></ruby>を書いていた。

その脇で、伊東七十郎が、酒を飲みながら、活発に話していた。午後四時すぎ。八月下旬の日はもう傾いて、あけてある窓の外には、塀の向うの黒ずんだ松林と、その上に高くかかった、<ruby><rb>茜色</rb><rt>あかねいろ</rt></ruby>の夕雲が見えていた。――七十郎は<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>の膳を前に、着ながしであぐらをかき、片手に<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を持って話していたが、ふと口をつぐんで、夕雲のかかっている空を見あげた。

座敷のほうから、唄や三味線の音が、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかに聞えて来る。そちらでは、甲斐の妻のために、別宴がひらかれていた。律は明日、船岡へ帰るので、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>があるじ役になって、小酒宴を催しているのであった。

「おかしいな、もうそんな季節かな」と七十郎が<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた、「あれは<ruby><rb>雁</rb><rt>がん</rt></ruby>でしょう」

七十郎は盃を持った手を、空のほうへあげた。甲斐は書きつづけていた。

――同じく八月十五日。

と甲斐は行を改めた。

――老中より使者あり、酒井邸へまいる。一ノ関どの、<ruby><rb>涌谷</rb><rt>わくや</rt></ruby>どの、<ruby><rb>弾正</rb><rt>だんじょう</rt></ruby>どの、<ruby><rb>周防</rb><rt>すおう</rt></ruby>、大条、片倉どの、おのれとも七人。立花侯、奥山大学は不参。

老中がたは酒井（<ruby><rb>雅楽</rb><rt>うた</rt></ruby>）侯、稲葉（<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>）侯、阿部（<ruby><rb>豊後</rb><rt>ぶんご</rt></ruby>）侯。またお<ruby><rb>側衆</rb><rt>そばしゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>久世</rb><rt>くぜ</rt></ruby>（<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>）侯であった。

酒井侯より試問、周防その答弁に当り、大略左のような問答があった。

酒、――むつの守が不行跡によって逼塞を仰せつけられ、さきごろ跡式の儀を申し出るようにとお沙汰があったところ、亀千代をもって家督を願い出たようであるが、これに相違ないか。

周、――亀千代をもって家督を願い出たに相違ございません。

酒、――亀千代は何歳になるか。

周、――去年（万治二年）三月の出生にて、当年二歳になります。

酒、――さような幼児に六十万石の<ruby><rb>仕置</rb><rt>しおき</rt></ruby>ができると思うか。

周、――この儀については伊達一門、一家宿老ども熟談し、<ruby><rb>入札</rb><rt>いれふだ</rt></ruby>のうえ決定したものでございます。

酒、――かような幼児に仙台六十万石の仕置はできない。<ruby><rb>故</rb><rt>こ</rt></ruby>、政宗公の血統にて、十五歳以上になる者を改めて願い出るがよかろう。

酒井侯の言葉こそ藩家の大事であった。涌谷どのは身をふるわせ、息を詰めておられた。酒井侯の言葉は、先夜、吉祥寺橋の普請小屋において、茂庭周防の語ったことと符を合わせるものである。

涌谷どのはじめ、一同たましいも消えるおもいであった。周防は願いを繰り返し、酒井侯は首を横に振った。

酒井侯は平然と、亀千代君の幼弱を盾にとり、もっと年長の者を願い出るように、と繰り返すばかりであった。そこで周防が云った。

周、――六十万石の仕置には後見を立てる法もありましょう、家督を相続する者は、むつの守の実子のほかにはありません。亀千代こそ、故、政宗の正統であって、もし亀千代に家督が許されないとなら、いっそ伊達家をとりつぶして頂きましょう。

酒、――仙台をとりつぶせと。

周、――正統でない者に家督を命ぜられるくらいなら、むしろ六十万石をとりつぶされるほうがましでございます。

周防の言葉には<ruby><rb>肺腑</rb><rt>はいふ</rt></ruby>を刺すおもむきがあった。周防がそういう調子で、それほど思いきったことを云おうとは、涌谷どのも予想しなかったらしい。また、さすがの酒井侯も、拍子五つほどがあいだ、口をつぐまれた。

そのとき久世侯が発言された。

久世侯が将軍側衆として、その席に臨まれたことは、大藩の相続問題であるため、当然の規式ではあったが、特にそれが久世侯であったということは、侯の周防に対する、並ならぬ好意とみなければなるまい。

久世侯は云われた。

久、――<ruby><rb>茂庭</rb><rt>もにわ</rt></ruby>どのの申されるところは、伊達家臣として道理にかなっていると思われる。

すると老中の阿部侯がすばやく云われた。

阿、――自分も茂庭どのの申すことに理ありと思う、……しばらく次へさがって待つように。

阿部侯は老中の先任である。侯の発言は救いであった。涌谷どのの深い<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>が聞え、硬くなった全身の、ほぐれるのが見えるようであった。待つこと約半刻、再びよび出されたうえ、阿部侯より「吟味するであろう」という沙汰があり、われわれは退出した。

甲斐はそこまで書いて、七十郎のほうは見ずに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた、「雁がどうしたって」

「いま雁が渡ったのです」と七十郎が云った、「まだ雁が来るにははやすぎるでしょう、しかしたしかにあれは雁でしたよ、いやな前兆だ」

「七十郎が縁起をかつぐのか」

「縁起じゃあありません。雁のはやく来る年は凶作だという、古くからの農民のいい伝えです」

「それでどうした」

「それで、つまり」と七十郎は甲斐を見、「ああそうか」といって、手酌で飲んだ。そして云った。

「それで終りです」

「その男はなに者だ」

「知りません」七十郎はまた手酌で飲んだ。

「知らないって」と甲斐が云った。

七十郎は「知りません」と云い、さらにつづけて云った、「私は<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>すぎに宇田川橋を訪ねて、酒を飲んでいるうちに寝てしまったのです、このうたた寝は私の特技でしてね、ごろ寝をしているといろいろなことが聞けるもんです」

「このうちでもやるか」

「だからこそ、ここに間者のいることも、貴方に知らせることができたわけです」

甲斐は笑った。七十郎はちょっと<ruby><rb>羞</rb><rt>はにか</rt></ruby>んで付け加えた。

「もっとも、貴方はもう知っておられた、そうでしょう」

「どうだかな」

「貴方にはかないません」

甲斐はまた書きはじめた。七十郎はつづけた。

「ごろ寝をしていると、あの渡辺七兵衛の声が聞えたんです、御家老といったから、相手は新妻隼人でしょう、単純なやつですからね、頼むといわれるとすぐ壮烈な気分になる、よろしい、というわけだったんでしょうな、――必ず仕止めてみせる、などと、たいそうりきんでいました、そこでこっちも眼をさまし、おいとまをしてあとを跟けたわけです」

甲斐は書いていた。

――同じく八月二十三日。

鳩古堂から筆を届けて来た。周防よりの秘信で、「久世侯によばれてまいった、家督のことは安心するように、とのことである、同慶これに及ぶものなし」とあった。

――同じく八月二十五日。

すなわち一昨日の朝、老中より使者あり、酒井邸へまいる。一ノ関さま、立花侯、太田（<ruby><rb>摂津守資次</rb><rt>せっつのかみすけつぐ</rt></ruby>）侯。大条、片倉、周防、おのれとも七人。涌谷どの、奥山大学は不参。

列座は、将軍家補佐、保科（正之）侯、酒井侯、阿部侯、稲葉侯、大目付、兼松（下総）どの、以上であった。

お沙汰は、――

一、亀千代をもって伊達家の相続をゆるす。

一、兵部少輔宗勝、田村右京宗良の両人を、亀千代の後見とすること。

一、兵部、右京の二人に加増、おのおの本知とも三万石を与えること。

右のとおりであった。

――同じく八月二十七日。

すなわち今日、亀千代君の家督と、両後見のことを、幕府より諸侯に通達された。

涌谷どの、周防はじめ、家中のよろこびはどれほど大きかったろう。周防は特に久世侯の周旋を謝するため、水戸（頼房）家より贈られた<ruby><rb>毛氈</rb><rt>もうせん</rt></ruby>十間に、酒肴をそえて届けたということである。

「まだ終らないんですか」と七十郎が云った、「今日は涌谷のじいさんの会もあるんでしょう、五時から涌谷のじいさんの会があると聞いていましたがね、そうじゃないんですか」

「七十郎も出るのか」

「あのじいさんだけは、苦手でしてね」

「そうらしいな」

甲斐はまた書いた。

――明日の朝、涌谷どのは帰国される。

そして彼は筆を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いた。

「一ノ関などへも平気でゆくのに、涌谷どのが苦手というのは七十郎らしい」

「弁慶にも泣きどころといいますよ」と七十郎がいった。

甲斐は覚書をしまい、片手で机の上を払った。あけてある窓から黄ばんだ柳の葉が、散りこんで来るのである。柳の木は裏木戸のほうにあるし、それほど風があるとも思えないのに、その枯葉は、しきりに窓から散りこむのであった。

「向うに里見がいるのだろう」と甲斐が云った。

七十郎は手酌で飲んだ、「むろん来ています」

「ぬけて来たのは、いまの話しをするためか」

「なに、ひと口論やって、うるさくなったからです、この盃で一杯どうですか」

「あとにしよう」

「貴方は酒のみではない」

「酒は好きだよ」

「貴方は酒のみではない、よく酒を飲むし、酒好きのようにみえるが、貴方は酒のみではない」

「そんなにいきまくな」

「貴方は女好きでもない」と七十郎は云った、「貴方はよく女に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れられる、ふしぎなほど女に惚れられるし、御自分も女にはあまいようなふうをしているが、貴方は決して女好きではない」

「いきまくことはない」と甲斐が云った、「私は酒も女も好きだ」

「伊東七十郎は、ごまかせませんよ」

「どうだかな」

「では云いましょうか」

「ゆこう、好きな酒と女のところへゆこう、里見のほかに誰が来ている」

「後藤孫兵衛、真山<ruby><rb>刑部</rb><rt>ぎょうぶ</rt></ruby>の二人です」

「真山と後藤だって」

「堀普請の奉行です」と七十郎が云った、「貴方が慰労をしようといわれたと、十左衛門が云ってましたよ」

「それは云ったが」

「奥方の別宴とかち合ったので、十左衛門はひどく恐縮していたようです」

「涌谷どのは五時だな」

「席は松山さんです」

「五時か、――いいだろう」

甲斐は机の上の鈴を鳴らした。そしてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が来ると「着替える」と云った。七十郎は盃だけ持って、立ちながら云った。

「時間になったら、私がそう云います」

客は男四人、里見十左衛門と伊東七十郎、後藤孫兵衛、真山刑部という顔ぶれであった。後藤と真山とは、小石川堀普請の奉行で、ほとんど現場の小屋に詰めきりであったし、その精勤ぶりを十左衛門がしばしば話すのでいちど慰労しようと云っていたが十左衛門は今夜まねかれたのを、律のための別宴とは知らずに、二人をさそって来たものであった。

それで主賓の律は、しぜん主人役にまわり、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>とともに、客の接待をしなければならなかった。芸人は男女とも七人いて、いかにも律の好みらしく、鳴りもの、唄、踊りと、賑やかな酒宴になっていた。

甲斐は自分の席に坐って、客に挨拶をし盃に三つほど飲むと、「涌谷どのの別宴があるから」と断わって、その席から去った。すると律が追って来た。

「戻って来て下さるわね」と律が訊いた。

「そのつもりだ」

「戻って来て下さるわ」と律はつよい調子でいった、「だってまだ、いちどだってしみじみお話しもしないし、このまま帰るなんていやですわ」

「戻って来るつもりだ」

「わたくしお話しなければならないことがあるんです」

「船岡へ帰ってから聞こう」

「それではまにあわないかもしれませんわ」

「およそわかっている」と甲斐は云った。

律はどきっとしたように<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>を見た。

「わかっていらっしゃるんですって」

「わからないと思うのか」

「わかる筈がありませんわ」

「それならそれでいい」と甲斐は云った。

「待って下さい」

「もう時間がないんだ」

「ひと言だけ聞かせて下さい」と律が云った、彼女の顔は硬くなり、眼がきらきらした、「あなた本当にわかっていらっしゃるんですか」

「私はおまえの良人だ」

「本当にですか」

「こんどだけではない、このまえのときも、そのまえのときもだ」と甲斐が云った。

律は<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなった。そして、なにか云おうとしたが、唇がふるえただけで、言葉は出なかった。

「お<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>がまいりました」と<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の向うでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の云うのが聞えた。すると律は「待たせておおき」と答え、良人に向かって云った。

「それはどういうことですの、こんどとかこのまえとか、そのまえのときとかって」律の声は怒りのためにふるえた、「<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃって下さい、いったいそれはどういうことなんですの」

「船岡へ帰ってから話そう」

「いいえいまうかがいます」

「時間がないんだ」

甲斐はゆこうとした。律はその前へまわり、両手で良人の腕をつかんだ。

「あなたの考えていることを仰しゃって下さい、今夜も戻っていらっしゃらないことはわかっています、わたくしをこのまま船岡へ帰らせるなんてあんまりですわ」

「私はこんな性分なんだ」

「そうよ、あなたはそういうかただわ」と律はふるえながら云った、「あなたは冷淡で、無情で、残酷なかたよ、十五年の余も夫婦でいて、ただのいちども本心をおみせになったことがない。いつも御自分のなかにとじこもって、誰ひとり近よせようとなさらない、ひとが苦しんだり悩んだりしていても、ただじっと眺めていらっしゃるだけです、あなたはそういう残酷な、いっそもう男らしくないかたですわ」

「おまえの眼は正しいようだ」と甲斐は頷いた、「しかし、私はもうこの性分を直すわけにはいかない、それについては、船岡へ帰ってから話すことにしよう」

「帰ってからなにを話すと仰しゃいますの」

「断わっておくが」と甲斐は云った、「十五年以上も夫婦でくらしたのは、おまえだけのことではない、私も同じ年数だけ、おまえと夫婦でいたのだ」

「そんなことうかがうまでもありませんわ」

「それなら結構だ」

「だからどうだと仰しゃるんですか」

「それなら結構だというのだ」

甲斐はそう云って、つかまれていた手を、しずかにふり放した。律はうしろへさがった。「一つだけお願いがあります」と律は低い声で叫んだ、「中黒達弥にいとまをやって下さい」

「なんのためだ」

「理由は云えません」

甲斐は眼をそらした、「親の代から仕えている者を、理由なしにいとまがだせるか」

「ですから一つだけのお願いと申しているんです」

「そんなことはできない」

「どうしてもですか」

甲斐は襖のほうへゆき、襖をあけて出た。うしろから、律が、「あなた」と訴えるように呼んだ。

甲斐は振返って云った。

「母上によろしく伝えてくれ」

「あなた、――」

甲斐は玄関へ出ていった。

玄関には、松原十右衛門、岡本次郎兵衛、中黒達弥の三人が控えていた。甲斐が出るのを待っていたように、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が杉戸のほうから、刀を持って送りに出て来た。律の来るようすはなかった。

「私は今夜は戻れないと思う」と甲斐は三人に云った。「十右衛門、奥は持病が出ているようだ、途中よく気をつけてやってくれ」

「承知つかまつりました」

「達弥、――」と甲斐は彼を見た。

手をついて見上げた中黒達弥の端正な顔が、きっと、するどくひき緊った。

「おまえは江戸に残れ」と甲斐は云った。

達弥は眼をそらさずに答えた、「おくち返しをするようですが、母親が病んでおりますので、できることなら帰国させて頂きとうございます」

「いや、おまえは残るのだ」と甲斐は云った、「正月に柴田（<ruby><rb>内蔵介</rb><rt>くらのすけ</rt></ruby>）どのがのぼられれば私も帰国する、達弥はそれまで江戸にいるのだ」

達弥はなにか云おうとしたが、黙って頭を垂れた。

甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>から刀を受取って、玄関へおりた。駕籠のそばには、矢崎<ruby><rb>舎人</rb><rt>とねり</rt></ruby>と成瀬久馬が待っていた。駕籠は二<ruby><rb>梃</rb><rt>ちょう</rt></ruby>あり、うしろの駕籠を見ると、伊東七十郎がにやっと笑い顔を見せた。「考え直しましてね」と七十郎は云った。

「涌谷のじいさんに会うことにしました、里見の頑固おやじよりましですからな」

「むずかしいぞ」

「なにがですか」

「涌谷どのもそうだが、松山（茂庭周防）もきちんとした人だ、七十郎が招かれているならべつだが、さもないと席へとおるのもむずかしいぞ」

甲斐は駕籠に乗った。駕籠は二ついっしょにあがった。

「なに大丈夫です」と七十郎がうしろの駕籠で云った。

「じいさんは格式と儀礼を第一にしますからね、私はそこが嫌いなんだが、懐柔するにはやさしい相手ですよ」

「それは結構だ」

「貴方は信じないんですか」

「そんなことはないよ」

「よろしい、まあ見ていて下さい」と七十郎が云った、「きれいにまるめてみせますからね、まあ見ていて下さい」

甲斐は返辞をしなかった。

茂庭周防の住居は浜屋敷の中にあった。甲斐は約束の時間にややおくれて到着した。客間ではもう、酒宴がはじまっていた。

## 菊

その夜、<ruby><rb>茂庭</rb><rt>もにわ</rt></ruby>家には、八人の客が集まっていた。

主賓は<ruby><rb>伊達安芸</rb><rt>だてあき</rt></ruby>、つぎに現職の家老、奥山大学、大条兵庫、古内主膳。また「<ruby><rb>一家</rb><rt>いっか</rt></ruby>」の格式である片倉小十郎。ほかに原田甲斐、富塚<ruby><rb>内蔵允</rb><rt>くらのすけ</rt></ruby>、遠藤又七郎、この三人は「<ruby><rb>着座</rb><rt>ちゃくざ</rt></ruby>」といって<ruby><rb>宿老</rb><rt>しゅくろう</rt></ruby>であった。

酒は定刻よりも早くはじまったらしい。

甲斐はわずかに遅刻しただけであるが、座はもう賑やかになり、奥山大学はもう酔って、高い声でなにかきえんをあげていた。

甲斐は古内主膳に挨拶した。主膳重安は五十二歳で、すでに老境にはいった人のように、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた蒼白い顔だちの、声の低い、柔和な男であった。彼の亡父、主膳重広は、故忠宗に殉死した人である。こんど彼は忠宗の法事のため、高野山に使いし、三日まえに帰ってきたものであった。

挨拶が済むと、主膳が声をひそめて云った。

「どうやら無事におさまったようで、さぞ<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>なすったことでしょう」

甲斐はあいまいに微笑した。

「周防どのにあらましのことを聞きました」と主膳は云った、「<ruby><rb>久世</rb><rt>くぜ</rt></ruby>侯の話しも聞きました、周防どのは、これで伊達家も壊滅かと、覚悟をきめたと申しておられました」

「周防どのはみごとでした」と甲斐が云った、「酒井侯に向かって、亀千代さまに家督がゆるされないなら、いっそ六十万石をとりつぶしてもらいたい、と申された、あの一言がお家を救ったのです」

「そのことは大条どのから聞きました、たしかにそのひと言は効果があったでしょう」と主膳は頷いて、「しかし」と低い声でつづけた、「しかし周防どのの申されるには、そのひと言が云えたのは、その座に久世侯がおられたからであるし、また久世侯が列席されたかげには、板倉（<ruby><rb>重矩</rb><rt>しげのり</rt></ruby>）侯の奔走があったからだということでした」

甲斐は眼をそらしながら頷いた。

「誰か板倉侯に窮状を訴えた者があるのではないか、と周防どのは申されていました、久世侯のくちぶりでは、たしかに誰かが板倉侯に窮状を訴えにいった、というふうであったと云っていました」

「そうかもしれません」と甲斐は眼をそらしたまま云った。「私はどうとも申せませんが、こんどの事はかなりひろく諸侯のあいだに知られているようですから、板倉侯は自分だけのお考えで、お骨折り下すったのではないかと思います」

「原田さん、貴方はなにか」

「失礼ですが」と甲斐は主膳を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って云った、「ちょっと<ruby><rb>涌谷</rb><rt>わくや</rt></ruby>さまに挨拶をしてまいります」

甲斐は立って、安芸のところへ挨拶にいった。そして、こんどは自分の席についた。

彼の席は三人の宿老の中央で、古内主膳とは少しはなれていた。主膳は自分の席から、ときどきさりげなく、甲斐のほうを見た。「岩沼どの（主膳）は知っている筈だ」奥山大学が云っていた、「亡き主膳どのは、殉死をするに当って、一ノ関さまの御聡明は、お家のために力づよいことであるが、しかし、あまりに御聡明すぎるのが案じられる、あまりに御聡明であり、あまりにお知恵がまわりすぎる、それがいかにも案じられる、そうではなかったか、岩沼どの」

「そういう意味でした」と主膳が云った。その声も、言葉の調子もよわよわしく、彼はつづけた、「しかしそれほど強い言葉ではなく、明敏でいらっしゃるのは心づよいが、お家のためには案じられるように思われてならない、と申したようにおぼえています」

「同じことだ」と大学は盃の酒を飲んだ。

奥山大学は主膳より若く、そのとき四十六であった。彼は黒川郡吉岡、六千石の<ruby><rb>館主</rb><rt>たてぬし</rt></ruby>で、そこは仙台領のうちもっとも<ruby><rb>肥沃</rb><rt>ひよく</rt></ruby>の地であり、したがって勝手向きも豊かであった。彼の性質は<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>で、みずから直情径行を誇り、いかなるばあいにも、自分で「よし」と信ずることを<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げたためしはなかった。

「同じことです」と大学は云った、「亡き主膳どのは禍根がどこにあるのか、すでにみぬいておられた、私はその証拠を見たのです」彼は安芸を見て云った、「私が出府してすぐ、宇田川橋へ挨拶にいったときのことですが、そのとき一ノ関さま御自身から入札の話しが出て、右京どの、式部どのに入れた者もあるし、また、おかしなことに、このおれに入れた者もある、と申された」

「たしかにそうらしゅうございますな」と富塚内蔵允が云った、「二三の人が、一ノ関さまに<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>を入れたということは、私も聞いております」

「私は<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>がにえました」と大学は云った、彼は富塚の言葉をまったく無視して、安芸に向かってつづけた、「それで、いかなる人が一ノ関さまに札を入れたのですか、とたずねました、そう訊かずにはいられなかったのです」

「それで」と片倉小十郎が訊いた、「一ノ関ではなんとお云いなされた」

「一ノ関さまはにが笑いをなされ、事が済んだあとだ、無用なせんさくをすることはあるまい、と申されました。そこで私も云いました、事の済んだあとで無用ならこんな話しはなさらなければよい、聞いた以上は私もその名を知っておかなければなりません」

大学の口ぶりは激しく、<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>としたものであった。みんな黙って、聞いていた。大学はつづけた。

「私は国老として、その名を知っておく必要がある、と申しました、すると、一ノ関さまは<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もらしく頷かれ、ではおれに入れた者の名だけ云おう、それは<ruby><rb>弾正</rb><rt>だんじょう</rt></ruby>（安敏）どのだ、と云われたのです」

「札の交換ですかな」富塚が云った、「弾正さまは一ノ関さまへ、一ノ関さまは」

そのとき安芸が咳をした。から咳で富塚をさえぎり、そして云った。

「吉岡（大学）どのはいつ帰国されますか」

「私ですか、私は、――」と大学は持っている盃を見た。

安芸はしずかに云った、「すぐ江戸番になるのだが、在国が解けておらぬのだから、いちおう帰国しなければならぬでしょう、この老人といっしょにお帰りなさらぬか」

「有難うございますが、所用がございますので、四五日のうちに帰ろうと思います」と大学は答えた。

彼はむっとしていた。自分の話したことには重大な意味がある、伊達家の将来のために、ここでぜひはっきりさせその対策をたてておかなければならないことだ。大学はそう思った。ましてその相手は後見という役についた、これまでも藩政に干渉するふうがみえたのだから、今後はそれがもっと激しくなるだろう。<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby>後見の田村右京は温厚だけの人だし、周防にしても、主膳にしても、大条はむろんのこと、一ノ関を抑えることはできまい、大学はこう思った。

――かれらに一ノ関を抑えることはできない、周防も主膳も兵庫も、おそらく一ノ関に操縦されるのがおちだろう。

と大学は思っていたのであった。

「船岡どの」と安芸が云った、「久方ぶりで、一つまいろう」

甲斐は目礼した。

給仕の少年が、安芸から盃を受取って立ち、甲斐の前へ来た。甲斐が盃を取ると、侍していた若待が酒を注いだ。甲菱は盃の中を見、その眼で安芸を見た。

「それは私が焼いたものだ」と安芸がいった、「涌谷でなぐさみに焼いたものです、船岡どのは酒好きだそうだから進呈しようと思って持って来た、お気にいらぬかもしれぬが、持って帰って下さい」

甲斐は「頂戴いたします」と云い、酒を飲むとすぐ、その盃を懐紙に包んで、ふところへ入れた。

奥山大学がまた話しだした。甲斐はしばらくして、手を洗いに立ったが、戻ってくると、しきりに飲みはじめ、やがて酔いつぶれてしまった。甲斐が酔いつぶれるまで、奥山大学はきえんをあげつづけた。

大学は誰をも好かない、ことに茂庭周防とは仲がわるかった。家老として、茂庭周防は首座である。七つも年下の周防が、自分より上位にいるので、気にくわないということもあろう。しかし、同じ席にいる大条兵庫や、古内主膳とも、うまが合わなかった。

安芸がいたからよかった。さすがの大学も、伊達安芸に盾をつく勇気はないらしく、同じいきまくにしても、ふだんよりずっと毒が少なかった。

甲斐が酔いつぶれると、周防は自分で立ち、若侍三人をよんで、寝所へ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れてゆかせた。伴れてゆくというより、殆んどかついでいったというくらいの、酔いぶりであった。

そして夜明け前、寝所へはいって来る人のけはいで、甲斐が頭をあげて見ると、茂庭周防であった。

「まいろう――」と周防が云った。

甲斐は起きあがった。袴はぬいでいるが、着たままである、周防も<ruby><rb>常着</rb><rt>つねぎ</rt></ruby>の着ながしであった。

「四時ちょっと前だ」と周防が云った。

廊下へ出てゆきながら、甲斐が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた、「供のなかに内通者がいる、こういうことはよくない」

「やむを得なかったのだ」

「盃を使うなどは乱暴すぎる」と甲斐は云った、「私はこういうやりかたは好まない、筆の軸もそうだが、盃へ<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>で書いて知らせるなどということは、危険をもてあそぶようなものだ」

「それがやむを得ないということは、わかっている筈だ」と周防が云った、「隠れた伝言や人使いなどでは、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってかれらに<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけられてしまう、人の面前でやるほうが、かれらの眼を<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>ます、もっとも安全な手段なのだ」

「私は好まない」と甲斐は云った、「私はこういうことには不向きな人間だ」

「此処だ」と周防が立停った。

そこは八帖ほどの、書院窓の付いた部屋で、周防の<ruby><rb>常居</rb><rt>つねい</rt></ruby>の間という感じだった。二人がはいったとき、安芸のうしろにいた一人の若い女が、立って、こちらへ目礼をして、静かに出ていった。

安芸は白の寝衣に白の<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り帯。出ていった女も寝衣で、解いた髪を背中でむすんでいたのと、<ruby><rb>扱帯</rb><rt>しごき</rt></ruby>のはなやいだ色と、そうして、裾をさばく素足の、しなやかな美しさが甲斐の眼に鮮やかに残った。安芸が寝所から出て坐り、女がうしろから、安芸の髪を直していたものらしい、周防は<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>を近よせた。

「みごとな酔いぶりだった」と安芸が云った。

いま女が出ていったことなど、まったく関心のないようすで、二人が坐るとすぐ、甲斐に向かって云った。甲斐は黙って低頭した。

「わしは本当に酔いつぶれたのかと思った、飲むことも相当に飲んだようだが、これは本当につぶれたなと思ったくらいだ」

「もう少しお低く」と周防が注意した。

「田舎者は声が高いな」

安芸は苦笑し、敷物の上で坐り直した。それまでは右の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を立て、その上に右手の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をのせて、割れた寝衣の裾から、日にやけた、毛深い<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>をみせていたが、坐り直すとともに、両手を膝の上にそろえた。

「さて、――」と安芸は声を低めて云った、「どうやらこれで、当面のことは切りぬけた、六十万石を寸断される危険は、いちおう去ったといってもよかろう、しかし終ったのではない」

甲斐は床の間を見ていた。

周防がじまんの、青磁の壺に、白い菊がいちりん<ruby><rb>揷</rb><rt>さ</rt></ruby>してあった。燭台の光からはなれた、暗い床の間で、そのいちりんの菊が、ひっそりと白く、この場の話しに聞きいっているようにみえた。

――もう菊が咲くのだな。

甲斐は心のなかで呟いた。

「岩ヶ崎（田村右京・このとき栗原郡岩ヶ崎一万五千石）さまはともかく、一ノ関を後見に据えたのは酒井侯の主張であろう、右京さまは篤実温順なお人で、とうてい一ノ関の敵ではない、六十万石を分割寸断する陰謀は、いちおう危機を避け得ただけで、決して消滅したのではない、決して」と安芸は云った、「外に酒井侯があり、一ノ関は伊達家のまん中へ、後見役という実権をもって坐った、問題はまぎれもなくこれからだ、しかも、老臣どもの多くが、いずれを敵ともわかち難く、信じて事を計りうる者は極めて少ない、困難なのはこの点にある」

安芸は二人を交互に見た。

「内と外と呼応する、敵の力の強大であることよりも、<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>に信じうる者の少ない事実のほうが、われわれにとっては困難であり、むずかしいところだ。このことを、初めによくたしかめておく、われわれが今後なにをするにせよ、忘れてならぬのはこの事実だ」

「そのことのほかに」と周防が云った、「涌谷さまとわれら、私と船岡とも、従来どおり疎遠の関係をつづけなければならぬと思います」

「むしろ不和な仲のようにだ」

「不和であるように致しましょう」

安芸は頷いて、云った、「では相談にかかるとしよう」

三人の相談は、半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>あまりかかった。

甲斐はなにも意見を云わず、二人の話しを聞き、打合わせた条件を認めただけであった。それが終って、もとの寝所へ戻ったとき、<ruby><rb>連子窓</rb><rt>れんじまど</rt></ruby>がほのかに白んでいた。寝所まで送って来た周防が、帰ろうとするのを、甲斐が呼びとめた。

「ちょっと坐ってくれないか」

「もう人の眼につく」

「ひと言だ」と甲斐は云った、「かれらが、特に松山と私に眼をつけていることは、わかっているな」

周防は頷いた。

「いま相談したことをやってゆくには、これまでのように単に不和をよそおっているだけではだめだ、もっとはっきりと、互いに離反しているかたちを、とらなければならないと思う」

「たとえば」

「ここでは云えない」と甲斐は云った、「手段を話したうえでやれば、計った離反だということは、かれらにもすぐわかってしまう、松山は松山で考えてくれ、私には私で手段がある」

「そこまでやる必要があるだろうか」

「私はどちらでもいい」と甲斐は云った、「なんども云うとおり、私はこういうことは好かない、一ノ関さまの陰謀にしても、その陰謀に対抗する、こんどの計画にしても、私にとっては興味もなし、むしろ迷惑なくらいだ、私は誰にもかかわりなしに、そっとしておいてもらいたいのだ」

「それは本心か」と周防が反問した。

「松山には本心が云える」

「ではなぜ、板倉侯のところへいった」と周防が云った、「そういうやりかたを好まないなら、すすんで板倉侯に会い、継嗣問題に助力をたのんだのはなぜだ」

「誤解しないでくれ」と甲斐は苦笑した、「あれはただ茶に招かれただけだ、まえから七十郎が板倉侯の知遇を得ている関係で、新らしい席が出来たから来い、という伝言を下すった」

「忍んで来いとか」

「忍んでゆくものか、私が板倉侯を訪ねたことは、一ノ関さまのほうにもとっくにわかっている、松山がいまそんなことを云うのはおかしいくらいだ」

「わかった、それはそうとしよう」周防は云った、「では船岡はこの問題から手をひきたいというのか」

「ひいてよければだ」

「よければ手をひくか」と周防はつめ寄った。

甲斐は静かに周防を見た。

「もし涌谷さまやおれが、手をひいてもいいと云ったら、船岡は手をひくか」

「そのほうがいいね」

「たしかだな」周防は唇を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めた、「その言葉にまちがいはないな」

「まちがいはないよ」

「原田、――そこもとは、そんな人間だったのか」周防の声はふるえた、「いや、信じられない、そんなことがあるわけはない、おれはそこもとを知っている。そこもとが小四郎といっていた時代から、口には出さなかったが、心から敬服し頼みに思っていた、それがいまお家の大事に当って」

「ああ」と甲斐は静かにさえぎった、「そう誇張するのはよそう、誰だって少年時代には、近い親族の年長者をたのもしく思うものだ、まして松山と私とは重縁になっているし、年も三つちがいで、そこもとには男きょうだいがなかった、だから、少年時代の感情がいまでも消えずに残っている、敬服されるのも頼みに思われるのも有難いが、そういう誇張した感情で見ることだけは勘弁してくれ」

「私がなにを誇張したというのだ」

「なにもかもだ」甲斐はそう云って、じっと周防の眼をみつめ、それから肩をゆりあげた、「私は帰ることにしよう」

「このままでか」と周防が云った。

甲斐は立ちあがった、「このままでだ、もう話すことはない」

「いや、まだ話しは済んでいないぞ」

「久馬、いるか」と甲斐が呼んだ。

周防はさっと色を変えた。次の間に誰かいた、ということに気づき、殆んど水をあびせられたような表情で、口をあけて、甲斐を見た。甲斐はまた呼んだ。

「久馬、まいれ」

こんどは答える声がした。ひと間おいた向うで答える声がし、すぐに成瀬久馬が来た。

「袴――」と甲斐が云った。少年はすぐに、次の間から袴を持って来、甲斐がそれをはくのを手伝った。

「眠れたか」と甲斐が訊いた。

久馬は「はい」と答えた。

「うたたねをしておりましたので、お呼びになったのが聞えませんでした」

「聞えなかったか」

「二度めのお声で、やっと眼がさめました」

「そうか」と云って、甲斐は周防を見た。

周防は眼を伏せた。

「舎人に乗物をまわせと云え」

久馬が去ると、周防が眼をあげた。甲斐は刀を取りながら云った。

「床の間の菊はみごとだった」

## 断章（三）

――<ruby><rb>涌谷</rb><rt>わくや</rt></ruby>さまはお立ちになりました。

「そうか」

――船岡どのの御内室がいっしょです。

「もう帰ったのか」

――なにかもめごとがあったそうでございます。

「夫婦でか」

――そう申しておりました。

「二人は仲がいい筈だ」

――御内室が船岡どのに向かって、あなたは冷酷で無情なかただ、と云われていたそうでございます。

「それは初めて聞く評だな」

――はあ。

「これまで原田は、情の<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>い、心の温かい人間だといわれて来た、彼だけは敵がなく、みんなに好意をもたれて来たそうではないか」

――さように存じます。

「しかもその妻は、冷酷無情だと申したのか」

――あなたとは十五年以上もいっしょに暮して来たが、と云われたということです。

「まさか<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>ではあるまい」

――湯島の家では<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>という女といっしょでございます。

「そんなことはない、あれは<ruby><rb>側女</rb><rt>そばめ</rt></ruby>などに嫉妬するような、ふたしなみな女ではない、おれは娘時代のあれを知っているが、おうようで<ruby><rb>暢</rb><rt>のん</rt></ruby>びりした、とうてい嫉妬などをするような性質ではなかった」

――はあ。

「たぶん、冷酷無情というのにはなにか意味があるのだろう、十五年もともに暮した妻の口から、原田甲斐が冷酷な人間だと云ったとすれば、よし、覚えておこう」

――別宴のことを申上げます。

「集まったのは誰だ」

――四家老、三宿老、それに片倉どのでございます。

「大学もいったか」

――奥山どのお一人で、<ruby><rb>声高</rb><rt>こわだか</rt></ruby>に云いつのっておられたそうです。

「なにを申した」

――近よることができず、内容は聞きとれなかったそうですが、奥山どのお一人だけの高ごえが聞えた、と申していました。

「原田はどうした」

――酔いつぶれて、途中で寝所へ移られたといいます。

「しめし合わせたな」

――酔いつぶれたのは事実のようで、彼は眠らずにようすをうかがっていたと申しました。

「なにもなかったのか」

――明けがたまでなにごともなく、彼がうとうとしていると、松山どのの声が聞えたそうです。

「しめし合わせたのだ」

――そうでしょうか。

「涌谷もいっしょだ」

――いや、松山どのだけで、涌谷さまの声はしなかったと申します。

「周防はなにを云った」

――船岡どのと口論になり、船岡どのは手をひくと云われたそうです。

「手をひくとは」

――こういうことは好まない、自分はやりたくない、と船岡どのが申され、板倉侯には新らしい茶室の<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>びらきに招かれたので、ほかになにも意味はない、と云われていたと申しておりました。

「原田が周防にか」

――まちがいなしとのことでございます。

「あの<ruby><rb>狸</rb><rt>たぬき</rt></ruby>が」

――はあ。

「周防は<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されてもおれは騙されぬ、だがまあよし、みていてやろう」

――それだけでございます。

「隼人にもまいれと云え」

――お召しにございますか。

「西福寺のことはどうした」

――不首尾でございました。

「聞こう」

――六人とも、柿崎六郎兵衛に心服しているもようで、こちらの申し出を拒絶いたしました。

「<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>を受けぬというのか」

――われらは身命を柿崎に預けてある。進退生死とも柿崎の命にしたがう約束だ、いかなる条件でも彼にそむくことはできない、と申しました。

「六人の姓名は」

――蒲生浪人　　野中又五郎。

同じく　　　島田市蔵。

肥後浪人　　石川兵庫介。

和州浪人　　砂山忠之進。

中国浪人　　藤沢内蔵助。

同じく　　　尾田内記。

以上でございます。

「みな困窮していると申していたな」

――野中、尾田、砂山の三人には家族があり、他はみな独身ですが、それぞれみな窮迫しているとのことです。

「それでなお扶持を拒むのか」

――よほど柿崎にほれこんでいるものとみえます。

「六人にはそのほうが会ったのだな」

――そういうお申しつけでございました。

「七兵衛の刀で失敗し、隼人の説得で失敗した、しかも、七兵衛のときには伊東七十郎に見られている、これはおれの負けだな」

――取詰めましょうか。

「使うことにしよう」

――仰せではございますが。

「いや、使ってみよう、あいつは役に立ちそうだ、ましてそこまで心服している六人を抱えているとすれば、これからいくらも使いみちはあるだろう」

――はあ。

「手当は求めて来たら<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れてやれ、申しつけたぞ」

## 孤燈のかげ

伊達安芸といっしょに、妻の律が帰国したあと、甲斐はかるい風邪にかかって、四五日<ruby><rb>籠居</rb><rt>ろうきょ</rt></ruby>した。

九月二日に、仙台へ派遣される幕府の国目付（幕府から諸国へ出される監察使で、仙台は毎年二人、任期は半年であった）が、将軍の墨印を持って、伊達家の桜田本邸へ来た。国目付は津田平左衛門（幕府使番）<ruby><rb>柘植</rb><rt>つげ</rt></ruby>兵右衛門（同）という二人。墨印は将軍家綱の<ruby><rb>花押</rb><rt>かおう</rt></ruby>で、朱印より重いものである。亀千代は<ruby><rb>抱守</rb><rt>だきもり</rt></ruby>にかかえられて、<ruby><rb>表広書院</rb><rt>おもてひろしょいん</rt></ruby>で二人に会い、墨印を受取った。これは、幕府が公式に、亀千代を伊達家の当主と認めたことになるので、伊達家では一藩こぞって安堵するとともに、祝いの宴を張った。

甲斐は「墨印受領」の席へも出なかったし、祝宴にも出なかった。

柴田内蔵介は早ければ十二月、おそくとも正月には出府する筈で、そうすれば甲斐は船岡へ帰ることができる。彼は松山の茂庭佐月に、そのむねを手紙で知らせ、また、同じ意味の手紙を二通書いた。一は船岡で山守りをしている与五兵衛、一は青根の<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>の宿へあてて、どちらも、在国ちゅうの甲斐にとっては、身のいこいに欠くことのできない相手であった。

九月五日の夜。中黒達弥が自殺しようとした。達弥は江戸に残されてから、ひと間にこもったきり、人と話しもせず、なにかひどくおもい悩んでいた。

彼は七歳のとき父に死なれ、いまは母が船岡にいるだけで、二十二歳になるが、まだ妻はなかった。亡父の代からの家従で、住居も館の内にあり、四年まえまでは、ずっと甲斐の側に仕えていた。達弥は色が白く、眉が濃く、おもながで、端麗な顔だちだった。口かずの少ない、潔癖な、気のつよい性分で<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>とのつきあいはあまりないほうであった。

五日の夜十時ころ、甲斐が覚書を書いていると、侍部屋のほうで、ざわざわと人の騒ぐ声がした。甲斐は筆をとめて、しばらくようすを聞いていたが、ふつうの騒ぎとは思えないようすなので、机の上の鈴を鳴らした。

すぐに塩沢丹三郎が来た。

「茶をくれ」と甲斐が云った、「なにを騒いでいる」

丹三郎は「みてまいります」と答えて去った。するといれちがいに、堀内惣左衛門がはいって来た。

「どうした」と甲斐が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「中黒達弥が切腹しようとしております」

「達弥が」

甲斐は眉をあげた。すると額に深く<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がよった。惣左衛門が云った。

「矢崎がみつけて押止めましたが、どうしても腹を切らなければならぬ、武士のなさけだ、切らせてくれと申してききません」

甲斐は筆を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いた。

「ここへ伴れて来てくれ」と甲斐は云った、「力ずくでもいいから伴れて来てくれ」

惣左衛門は去った。

丹三郎が茶道具を持って来た。甲斐はそれを膝の前へひきよせ、静かな手つきで、自分で茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れた。丹三郎がさがると、惣左衛門につきそわれて、中黒達弥がはいって来た。彼は<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の着ながしに、無腰で、髪毛が乱れ、蒼ざめた硬い顔をしていた。

「堀内はさがってくれ」と甲斐は云った、「呼ばぬうちは誰も来ないように、丹三郎も小屋へさがるように云ってくれ」惣左衛門は承知して去った。

甲斐は静かに茶をすすった。かなり冷える夜で、壁のどこかに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かねたたき</span>が一匹、それから床下に二匹ばかりの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こおろぎ</span>が、とぎれとぎれの声で、互いに、なにかを嘆き交わすかのように、ほそぼそと鳴いていた。

「どうしたのだ」と甲斐が云った。

達弥は黙って、膝の上の両手を、こまかくふるわせていた。

「なんのために死ぬのだ」

「申上げられません」と達弥が云った。

甲斐はまたゆっくりと茶をすすった。それから、茶碗を持った手を、膝の上におろし、低い静かな声で云った。

「奥が、達弥にいとまを<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってくれ、と云ったことを知っているか」達弥は頭を垂れた、「なぜいとまを遣れと云ったか、その理由がわかるか」

「はい」達弥の声は低かった。

「そのために、死のうというのか」達弥は黙っていた。

「その理由のために、おまえは死のうとしたんだな」

「――はい」

頭を垂れた達弥の眼から、涙がこぼれおちた。彼は手の甲でそれをぬぐった。

「達弥、おまえは、このおれをなんとおもう」

「三世までの、ただ一人の、御主人とおもいます」

「そのおれがゆるさぬのに、おまえはなぜ死のうというのか」

「おゆるし下さい」達弥は崩れるように、両手を畳について泣きだした、そして、泣きながら云った、「理由も申上げず、お心にそむいて死ぬのは不忠のかぎりですが、どうしても生きてはいられないのです、どうしても、生きてはいられないわけがあるのです」

「わけは知っている」と甲斐が云った。

達弥はびくっとし、涙で濡れた眼で、見あげた。甲斐は云った、「理由はおれが知っている」

甲斐を見あげた達弥の顔は、疑いと<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れのために硬ばった。

「だから、おまえが自殺しようとする気持も、およそ察しがつく」と甲斐は云った、「ほかの者なら、べつの手段をとるだろうが、おまえは自分で死ぬ覚悟をきめた、おまえは自殺するのがもっともいい方法だと考えたのだろう、おれはおまえの性分を知っている、そう思いつめた気持もよくわかる、できることなら死なせてやりたいが、おまえには生きていてもらわなければならない」

甲斐は茶碗を下に置いた。

「どんなばあいでも、生きることは、死ぬことより楽ではない、まして、いまのおまえは死ぬほうが望ましいだろう、しかし、達弥、おれはおまえに生きていてもらわなければならぬ、単に生きているだけでなく、死ぬよりも困難な、苦しい勤めを受持ってもらいたいのだ」

達弥は両手を膝に戻した。

「もしこのおれを、しんじつ三世までの主人とおもってくれるなら、おれのたのみもきいてくれる筈だ、こう云っては無理か」

「私にできることでございますか」

「それはおまえの<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>ひとつだ」

「私はもう死んだ人間も同様です」

「話しを聞くか」

「はい」と達弥は答えた。

「ではもっと寄れ」と甲斐が云った。

達弥は涙をぬぐい、膝で前へとすすみ出た。

話しは半刻あまりかかった。甲斐はうちあけて語った。達弥は初め<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>した。甲斐は、おまえのほかにたのむ者はないと云い、達弥は哀訴した。それだけはできません。むしろいま自殺させて下さい、と云った。甲斐は辛抱づよかった。藩家の将来にかかっている複雑な問題と、自分の立場の微妙な困難さを語り、彼に助力を求めた。

侍にとって「忠死」が本望であることにまちがいはない。しかし侍の「道」のためには、ときに不忠不臣の名も甘受しなければならぬばあいがある。自分もその覚悟だから、おまえも自分に助力してくれ。甲斐は、繰り返してそう云った。

達弥はついに承知した。

「おれを憎め」と甲斐は云った、「おれのたのみは無法なものだ、しかし、どうしてもそうしなければならない、ということはわかってくれるだろう」

「はい」と達弥は頭を垂れた。

「おまえのほかにも、幾人か、同じような役を受持ってもらわなければならぬと思う、こういうとき侍に生れあわせ、おれのような主人を持ったのが不運だった、おれを憎め、おれを恨め、だが、役目だけは果してくれ」

達弥は「はい」といってさらに低く頭を垂れた。短い沈黙をぬって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こおろぎ</span>の音が、たえだえに聞えた。甲斐はしずかに云った。

「ではさがって寝るがいい」

達弥は静かに去った。

風邪が治って、甲斐が出仕した日に、小石川の普請場で事が起こり、評定役に検分を求めて来た。朝から雨が降っていたが、甲斐は上席なので、他の五人と共にでかけていった。

普請場には総奉行の茂庭周防が待ってい、自分で六人を案内してまわった。事というのは、工事の終った堤の一部が、五十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>ばかり崩れて、初めからやり直さなければならなくなったのである。これは命ぜられた期日に遅れるばかりでなく、費用の<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>む点で、一藩にとって大きな打撃であった。

堀普請は伊達家にとってたいへんな重荷だった。

神田川の<ruby><rb>筋違</rb><rt>すじかい</rt></ruby>橋から、西へ<ruby><rb>遡</rb><rt>さか</rt></ruby>のぼり、お茶の水の堀、吉祥寺橋、小石川橋を経て、牛込御門、土橋に至るあいだ。それまで堀形のあったのを、<ruby><rb>浚</rb><rt>さら</rt></ruby>って深く掘り下げ、船の<ruby><rb>運漕</rb><rt>うんそう</rt></ruby>ができるようにするのだが、この長さ六百六十間。幅三十間。深さ二間半。掘りあげた土で、両岸の<ruby><rb>土堤</rb><rt>どて</rt></ruby>を築くという、大きな工事であった。

高一万石について、土工人夫百人という積りだから、六十二万石で六千二百人。幕府は人数だけの扶持米を支給しあとはぜんぶ伊達家の負担だった。それで、全藩士に加役金が課されたが、難工事のために、人夫の賃銀をつぎつぎに増さなければならなかったし、すでに三回も堤が崩れたりして、工費の予算はもうぎりぎりになっていた。

そこへまた、五十間余も堤が崩れたのである。案内してまわる普請奉行、茂庭周防はじめ、後藤孫兵衛、真山刑部、そして目付役の里見十左衛門や北見彦右衛門など、誰一人ものを云う者がなかったし、六人の評定役も嘆息するばかりであった。

検分のあと、吉祥寺橋の小屋場で、一刻ほど話しあった。――会談が終って、出ようとしたとき、小屋の表で、真山刑部と里見十左衛門とが、人夫頭と見える男たち五人と、こわだかに云い<ruby><rb>諍</rb><rt>あらそ</rt></ruby>っていた。

甲斐が立停ったのを見て、里見十左衛門がよって来た。

「人足どもが賃増しを求めて来たのです」と十左が云った、「寒さに向かうし、水にはいる仕事で、現在の賃銀では人夫に出る者がない、一日金一分にしてくれ、などと無法なことを云うのです」

「四日で小判一枚か」と甲斐が云った、「辛いところだが、結局は出さなければならぬだろう」

「一日一分ですか」

「かれらは賢いからな」と甲斐は云った、「工費の嵩むほど幕府はよろこぶだろうし、人足どもはそれをよく知っている。こちらの負けとわかっていることに肚は立てぬものだ」

そして甲斐は、非番の日に<ruby><rb>朝粥</rb><rt>あさがゆ</rt></ruby>をたべに来い、と云って、そこを去った。

雨は三日つづけて降った。そして雨のあがった午後、綱宗に伺候するため、甲斐は品川の下屋敷へいった。

綱宗は酒を飲んでいるということで、下屋敷の家老、大町備前（<ruby><rb>定頼</rb><rt>さだより</rt></ruby>）は、甲斐の伺候を拒もうとした。公儀から<ruby><rb>逼塞</rb><rt>ひっそく</rt></ruby>を命ぜられているので、現職の老臣が会うことは、違法に問われはしないか、というのであった。

甲斐はおだやかに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>き、ごくさりげない調子で、亀千代君に家督のゆるしが下り、将軍の墨印まで受領したのだから、綱宗侯は「隠居」ということになった筈である。改めて沙汰はなくとも「逼塞」は解かれたとみてよいと思うが、と云った。

すると備前は話しを変えた。綱宗がいま酒を飲んでいること、このごろは酔うと狂暴になる癖があるから、酔っていないときに会われたらどうか、と云った。甲斐はやはりさからわずに、酒はたびたび飲まれますか、と訊いた。殆んど連日連夜です、と備前が答えた。それでは貴方もたいへんですね、そのたびに乱暴をなさるのですか。いやそのたびとも限りませんが、なにか気にいらぬことがあるとか、常に会わない人に会ったりすると、昂奮して狂暴になるようです、と備前が云った。

「私はちかく御番あきで、国へ帰ることになるようです」と甲斐が云った、「そういうごようすでは、またといってもいい折はなさそうですから、おいとま乞いのために、今日おめどおりを願うとしましょう」

「たってと云われるならやむを得ません」

「どうぞお取次ぎ下さい」と甲斐は云った。

備前はやむなく立っていったが、殆んどいれちがいに、一人の若侍がその部屋へはいって来た。備前がいるものと思ったらしく、はいって来て甲斐の姿を見ると、おどろいて目礼しながら去ろうとした。

「待て、善太夫」と甲斐が声をかけた、「今村善太夫ではないか」

若侍は「は」といってそこへ膝をついた。

それは目付役の今村善太夫という者であった。甲斐は珍らしい物でも見るような眼つきで、じっと彼の顔をみつめた、善太夫は顔を伏せた。

「そのほう役替えにでもなったのか」と甲斐が云った。

善太夫は両手をおろし、ふるえ声で「そうではない」と答えた。

「では使者にでも来たのか」

「はい」と善太夫は口ごもった。

「使者に来たというのか」と甲斐は問い詰めた。

善太夫は答えなかった。そこへ大町備前が戻って来、このようすを見て、ちょっと色を変えた。

甲斐は備前を見た。

「どうぞ、御前へ、――」と備前が云った。

どうぞ御前へ、という大町の口調には、明らかにその場をとりつくろう響きがあった。

甲斐は立ちあがった。今村善太夫のほうには眼も向けなかったし、まったく気にもとめていない、という態度であった。備前はするどく、善太夫に一<ruby><rb>瞥</rb><rt>べつ</rt></ruby>をくれて、甲斐の案内に立った。廊下へ出たとき、なにか云いたそうに甲斐を見たが、どうやらすぐには舌が動かないようすであった。

――善太夫のいたことを弁明するつもりだな。

と甲斐は察した。

――それだけで充分だ。

と甲斐は心のなかで思った。

この下屋敷には、大町備前のほかに、侍が七人いるほか、男は小者だけで、あとは奥女中十三人、お<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>や<ruby><rb>端下</rb><rt>はした</rt></ruby>四十七人という、女ばかりの生活であった。

大町備前が品川の家老に選ばれたのは、綱宗がこちらへ移った直後であり、選んだのは兵部宗勝である。また、今村善太夫が本邸詰の目付になったのも、ごく最近のことであるし、これまた兵部の選であることは、甲斐にはよくわかっていた。

――低いところから、水がしだいに土地を浸してゆくように、じりじりと、一分、二分ずつ、眼につかぬちからで、兵部はその手をひろげてゆく。

いま甲斐には、それが眼に見えるように思えた。

錠口には藤井という老女が待っていた。甲斐は立停った。どうやらそこで老女にひきつがれるらしい。とすれば、綱宗は奥にいるのであろう。表と奥の区別はひじょうに厳重だから、さすがに甲斐も少し迷った。

「どうぞ御遠慮なく」と備前が云った、「召されるのですからどうぞ」

老女も「こちらへ」と会釈をした。甲斐は錠口から、奥へとはいった。

綱宗は数寄屋にいた。

そばには三沢<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span><ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>がい、五人の侍女が給仕に坐っていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女は綱宗と同じ年の二十一歳であるが、去年亀千代を産んでいるので、年よりはかなりふけてみえる。また、あとでわかったのだが、そのときは懐妊していたためだろう、しもぶくれの、おっとりした顔も、血色がよかったし、<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>も健康そうに肥えていた。

「よく来た、さあ、これへ」綱宗は手で招いた、「おれは隠居だから、無用な辞儀はいらない、もっとこれへ寄れ、よく来てくれた、甲斐は酒がつよい、まず盃をやれ」

綱宗はせかせかと云った。いかにもうれしそうで、そのうれしさが抑えられないというようすだった。

甲斐は盃を受けた。綱宗は云った。

「重ねるがいい、おれも飲む、よく来てくれた、飲みながら話そう、久しぶりだった」

綱宗はひとりで話し、よく飲んだ。

甲斐は黙って聞き、云われるままに盃を重ねた。綱宗のうれしそうなようすを見ると、酒を辞退する気にもなれなかったし、話しの腰を折ることもできず、知らぬまに一刻あまりも経ってしまった。やがて、綱宗はしだいに昂奮し、まるく肉づきのいい顔がいつか白く硬ばってきた。

「おれは哀れな人間だ、どんなにおれが哀れな人間だか、甲斐は知っているだろう」と綱宗は云った、「父上はおれを憎んでいた」

「おそれながら」

甲斐はとめようとした。話しが先君（忠宗）に及ぶことだけは、避けなければならぬと思った。しかし、綱宗は頭を振って云った。

「いや、おれは云う、おれが云わなくとも、誰でも知っていることだ、父上はおれを憎んでいた、おれがこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>を知るまで、父上はおれに妻えらびもしなかった、六十万石の世子でありながら、二十歳になるまで婚約者もないということがあるか、そんなことがほかにあると思うか、甲斐」

甲斐は自分の盃を見た。

「この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>ったゆくたても、甲斐はよく知っているだろう、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>はおれの妻になる約束だった、これの叔母の紀伊は、正室ならばと云い、父上はよしと仰しゃった、そうではなかったか」と綱宗は云った。

甲斐は静かに眼をあげた。綱宗の云うとおりである。それが誇張でも誤りでもないことを、甲斐は知っていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女の父は美濃の浪人で、三沢権佐といい、母は朽木氏であった。鳥取で生れたが、江戸へ出て、十三歳のときから叔母の紀伊に養われた。紀伊は初め江戸城の大奥に仕えていたが、池田輝政の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>、<ruby><rb>振姫</rb><rt>ふりひめ</rt></ruby>が、将軍秀忠の養女として忠宗に嫁したとき、その侍女として伊達家へ来た。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女はその<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>でそだてられたもので、綱宗が妻にほしいと求めたとき、紀伊は「御正室ならば」とはっきり云った。綱宗はそれを父に告げ、忠宗は承知して、二人は祝言をした。だが、祝言の盃を交わしただけで、正式な披露はなく、結局<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女は側室ということになった。

「そればかりではない」と綱宗はつづけた、「父上は亡くなる直前まで、家督の決定をなさらなかった、周防（茂庭定元）が病床へ幾たびもまいり、<ruby><rb>切諫</rb><rt>せっかん</rt></ruby>を重ねたうえで、ようやく承知をなすったのだ、これも甲斐は知っているだろう、父上はおれを憎んでいた、憎まぬとしても<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>んじておられた。またそのことが、おれをこの哀れな境遇に追いやったのだ、わかるか、甲斐」

「おそれながら、感仙殿（忠宗の<ruby><rb>廟号</rb><rt>びょうごう</rt></ruby>）さまについて、これ以上うかがうことはできません」と甲斐が云った、「これ以上なお仰せられるなら、私はおいとまを頂戴いたします」

「いや帰さぬ、帰れもしない筈だ」と綱宗は云った、「おれが心をうちあけて話せるのは、周防と甲斐の二人だけだぞ、逼塞になって以来、周防にもそのほうにも会えない、呼ぶこともできず、手紙をやるたよりもない、いま久方ぶりに会って、この胸に<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っているおもいを聞いてもらおうとするのに、耳をふさいで帰ることはできない筈だ、甲斐にはそうはできない筈だぞ」

綱宗の声がふるえ、甲斐をみつめる眼は、うるみを帯びてきらきらと光った。甲斐は眼をそむけた。

「それでも帰るというか」と綱宗が云った、「そのほうまでがおれからそむくなら、もうなにも云うことはない、帰るなら帰れ」

「原田さま」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女が云った。

甲斐は頷いた。

「御機嫌を損じて申し訳ございません」と甲斐は云った。

「感仙殿さまのことさえ仰せられなければ、よろこんでお話しをうけたまわります」

「事実であってもか」

「いかような事実があろうともです」

「そのほう怖れているな」と綱宗は云った、「そのほうは事実を知っている、おれがなぜ逼塞になったか、その裏にどんな策略があったか、その策略が誰の手から出たものか甲斐にはよくわかっている筈だ」

「お部屋さま」と甲斐は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女を見た。

人ばらいの必要はないか。という意味である、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女は淋しげに微笑し、「どうせ同じことです」という意味のことを云った。

「もちろんだ、聞くなら聞け」と綱宗はたか声になった、「おれは身を慎しんでいた、酒もずっと飲まなかった、それがどうして酒を飲みだしたか、誰が飲むきっかけを作ったか、甲斐は知らない、甲斐はそのとき船岡だった」

「私も聞いております」

「浜屋敷のことをか」

「お席から遠い端に、里見十左が詰めておりました」

「遠くでわかるか」と綱宗はつよく云った、「浜屋敷は普請祝いであった、祝宴が設けられて、おれが盃を三つで置くと、大学が飲めとすすめた、もう家督もすんで六十万石のあるじになったのだ、いまこそ誰に<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>ることもない、充分に飲めとすすめたのだ、十左はそれを知っていたか」

「彼はそのように申しました」

「おれは弱い人間だ、特に、酒に対して弱い人間だということは、おれ自身がよく知っている、だから慎しんでいたのだ」綱宗は云った、「だからずっと慎しんでいたんだぞ、それを大学は飲めと云った、いまは家督も済み伊達家のあるじである、もう誰に遠慮もないのだから飲めと――だからおれは飲んだ」

綱宗は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女に手を伸ばした。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女は大きな盃を取って渡し、侍女が、なみなみとその盃に酌をした。綱宗はひと息に<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>り、そして云った。

「おれは飲んだ、大学はみごとだと褒めた、おれは大盃を重ねた、大学はますます褒めたし、誰ひとりとめる者はなかった、これを十左が知っているか」

「そのあとで」と甲斐が云った、「十左は奥山どのを責めた筈でございます」

「甲斐ならどうする」と綱宗が云った、「甲斐もやはり大学を叱るか」

甲斐は黙っていた。

「十左にはわからない、誰にもわからないかもしれない、しかし、その席に一ノ関がいて、大学の隣りに坐っていたと聞けば、少なくとも甲斐には事情がわかる筈だ」

綱宗はまた酒を注がせて飲み、侍女たちに手を振って「なぜ船岡に酌をしないか」と云い、そして、片手を膝に突いて肩を張った。

「大学は単純な<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>もちにすぎない」と綱宗は云った。「あいつは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかのぼり</span>（紙凧）だ、自分の意志ではなく、操つる者の糸によってどうにでも動かされる、現にいまでは、浜屋敷で酒をすすめたのは<ruby><rb>茂庭周防</rb><rt>もにわすおう</rt></ruby>だと、しきりに悪声を放っているそうではないか」

「私はまだ聞きません」

「ではすぐに聞けるだろう、ここに<ruby><rb>押籠</rb><rt>おしこ</rt></ruby>められているおれの耳にも聞えたのだ、甲斐にも聞える筈だからよく聞くがいい、彼はいま周防を<ruby><rb>誹謗</rb><rt>ひぼう</rt></ruby>することでやっきになっている、糸に操つられる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかのぼり</span>だということは気がつかずに」

そして綱宗は笑った。かさかさと乾いた、自分をあざけるような笑いであった。

「もっとも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いかのぼり</span>は大学ひとりではない、ほかにもずいぶんいる、ずいぶんいるぞ甲斐」と綱宗は云った、「おれが逼塞になったこともそうだ、おれは幕府から<ruby><rb>譴責</rb><rt>けんせき</rt></ruby>された、なぜだ、どうして幕府から譴責されたか、逼塞を命ぜられるような、なにをしたか、おれがなにをしたか、なるほどおれは<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>へかよった、僅か十日あまり、それも普請小屋の見廻りを終ったあとで、……しかも自分から望んだのではない、京の<ruby><rb>伯母上</rb><rt>おばうえ</rt></ruby>（綱宗の母の姉で逢春門院。当時の今上、後西天皇の生母）から暑気みまいが来たとき、そう精勤しては躯にこたえる、少しは気ばらしをするがよいといって、四人の者におれを伴れださせた者がいる、むりにおれを伴れださせ、そして廓へ案内をさせた、そいつが誰だか、甲斐は知っているだろう、――一ノ関だ、糸を操つっているのは一ノ関だ、これまでのことはすべて、兵部少輔宗勝の策略だ」

綱宗の顔はすっかり蒼くなり、充血した眼がきらきらと光りだした。彼は盃を持っていることも忘れたとみえ、その手で膝を打ちながら叫んだ。

「しかも誰ひとり抑える者がない、すべて兵部の策略だと知っている者でも、手を<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねて傍観している、ただ黙って、なに一つせずに見ているだけだ」

「おくち返しを致すようですが」

「おまえもだ、甲斐」と綱宗は叫んだ、「おまえもその一人だぞ、原田甲斐」

「原田さま」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女が云った。

甲斐は「大丈夫です」というように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女に頷いた。

「おくち返しを致すようですが」と甲斐は静かに云った、「私にはお言葉の意味がよくわかりません」

「なにがわからない」

「仰せになることのすべてです」と甲斐は云った、「すでに若君が御家督あそばされ、伊達家御安泰となったいま、なんのためにさようなことを仰せられますのか、さような酔余のお言葉から、もし騒動でも起こったらいかがあそばす、せっかく御安泰となった御家に、万一のことがあったらいかがあそばしますか」

「黙れ甲斐、仙台六十万石はおれのものだ」と綱宗は叫んだ、「兵部の陰謀にはまって、このまま一生ひかげの身になるくらいなら、六十万石はいっそ<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れるほうがいい」

甲斐は悲しげな眼で綱宗を見た。

「おれは潰すぞ」と綱宗は叫んだ、「なんの六十万石、おれがみごとにとり潰してみせる、こんな<ruby><rb>無道</rb><rt>むどう</rt></ruby>なことを黙っているほど、綱宗が<ruby><rb>木偶</rb><rt>でく</rt></ruby>だと思ったらまちがいだ、おれはきっと潰してみせるぞ」

「ええわかっております」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女が云った、「殿さまの御心中は、原田さまもよくおわかりです、もうおやめあそばせ、小浪に踊らせましょうから御機嫌を直して」

「黙れ、甲斐になにがわかる」

綱宗は「こいつに」と云い、持っている盃を甲斐に向かって投げつけた。甲斐は<ruby><rb>除</rb><rt>よ</rt></ruby>けなかった、盃は彼の胸に当り、それから膳の上に落ちて音をたてた。

「こいつも一味だ」と綱宗は怒号した、「甲斐も兵部の一味だ、おれが成敗してくれる、佩刀をもて」

「原田さま」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女が叫んだ。

綱宗は立ちあがり、うしろにあった刀架から刀を取って抜いた。

「原田さま、どうぞ早く」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女が叫んだ。

甲斐は動かなかった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女に「大丈夫です」と頷いたまま、片手に盃を持って坐っていた。

綱宗は抜いた刀を持って、上段からおりて来た。逆上のために眼はつりあがり、乱酔しているので足もとがきまらなかった。

「殿さま」と老女の藤井が叫んだ。そして綱宗を追って来て、その腕にすがりついた。綱宗はふり放した。

「甲斐、動くな」

「殿さま」藤井が再びとりすがった。

綱宗は激しく突きとばした。藤井はよろめいて膝をつきながら、「原田さまお逃げ下さい」と悲鳴をあげた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女は泣いていた。上段の自分の席に坐ったまま、彼女が両手で顔を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>っているのを、甲斐は見た。

甲斐が動かないので、綱宗は斬りつけた。もちろん斬るつもりはなかったろう。甲斐は上体を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>って、むぞうさに綱宗の右手をつかんだ。綱宗は身をもがいた。

「おしずまり下さい」と甲斐が云った。

綱宗が叫んだ、「手向いするか」

「おしずまり下さい」

綱宗は「おのれ」と云って足をあげた。<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>ろうとするのを、甲斐は僅かに避け、綱宗の腕を逆にねじあげ、刀を奪い取って、突き放した。

綱宗はうしろへ倒れた。

「藤井どの」と云って、甲斐は刀をさしだした。

老女は両袖を重ねて受取り、すばやく上段のほうへいった。綱宗は尻もちをついたまま、苦しそうに「はっはっ」と<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ、両手を前について、頭を垂れた。

「おれは、まだ、二十一だ」と綱宗は云った、「おれはまだ、二十一だぞ、甲斐、わかるか、おまえにわかるか、世に出たのは僅か二年たらず、この年で、これからさき、ずっと、ひかげの身でくらさなければならない、この気持がわかるか」

甲斐は黙っていた。

綱宗は顔をあげて甲斐を見た。綱宗の眼は濡れていた。甲斐はじっと、その濡れている綱宗の眼をみつめた。

「ゆるせ、悪かった」と綱宗が云った、「また来てくれるか」

「正月には船岡へ帰ります」

「また来てくれるな」

「御番であがりましたら伺候いたします」

「待っているぞ」綱宗は顔をそむけ、片手をうしろへ伸ばしながら云った、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>、手をかせ」

綱宗は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女に支えられて、奥へ去った、数寄屋の中は、すでに暗く、手燭を持った侍女が、二人の先に立ち、老女を残して、他の侍女たちも、うしろを護っていった。

甲斐はそれを見送った。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつ</span>女に支えられた、綱宗の姿を、手燭の光が、ぼうと、いかにも心もとなくうつし、そして上段の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>のかなたへ、<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>と去っていった。甲斐はしんと、それを見送っていた。綱宗の姿が見えなくなると、彼は静かに眼をつむり、ややしばらく、黙って坐っていた。それはあたかも、いまの綱宗の姿を、記憶にきざみつけようとしているかのようにみえた。

ふと<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣きの声が起こった。老女の藤井が泣きだしたのであった。彼女は低く、<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くような声で、云った。

「おいたわしいと、お思いになりませんか」

甲斐は答えなかった。

「お酔いあそばすと、いつもあのとおりでございます、なにか手だてはないのでしょうか」

「さて――」と甲斐は眼をあげた、「私もおいとまをいただくとしましょう」

「原田さま」と藤井がふるえ声で云った、「あなたは、いまのごようすを、おいたわしいとは、お思いにならないのですか、なんとか手だてはないのですか」

「なにをです」

「殿さまを御本邸へお迎えするということです、このまま御隠居おさせ申すのは、あんまりおいたわしすぎます、なんとかお<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めを解く手だてはないのですか」

「私は評定役にすぎない」と甲斐は穏やかに云った、「そういうことには不案内でもあり、また口を出す立場でもありません」

「ああ、原田さま」

「これでおいとまをいただきます」

そして彼は立ちあがった。

<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に乗ってから、甲斐はふところ紙を出し、それで眼を押えた。駕籠が下屋敷の門を出て、すっかり<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れた街を、四五町ばかりゆくあいだ、懐紙で眼を押えたまま、彼はじっと息をひそめていた。

その月の末に、船岡で留守をしている家老の、片倉隼人から手紙が届いた。

――案じられた秋の収穫が思ったよりよく、年貢米もそろそろ集まりだしている。気温はいつもより低いが、ずっと晴天つづきで、白石川の<ruby><rb>鰍</rb><rt>かじか</rt></ruby>も肥えた。

数日まえ、山から与五兵衛が来て、山の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けもの</span>の動きぐあいでは、この冬は雪が多いだろう、ということであった。また百姓たちは、麦の作も例年より豊作になる、と云いあっている。

幕府から国目付が来るので、自分は仙台へいって来た。

到着したのは十一日で、当日は、御一門、御家老、町奉行までが、麻上下で河原町まで出迎え、自分もそれに加わった。宿所へ案内したのは、柴田（<ruby><rb>内蔵介</rb><rt>くらのすけ</rt></ruby>）どの、富塚（<ruby><rb>内蔵允</rb><rt>くらのすけ</rt></ruby>）どのであった。

明くる十二日。国目付の招きで、御一門、御一家、御一族が宿所にゆき、国目付から、将軍家墨印、奉書の披露があったが、これには御家老がたは出なかった。

二十二日。奥城二ノ丸において、両目付の<ruby><rb>饗応</rb><rt>きょうおう</rt></ruby>があり、自分も接待に出た。<ruby><rb>御相伴</rb><rt>おしょうばん</rt></ruby>は涌谷（伊達安芸）さま。両目付に随行して来た中里<ruby><rb>道朔</rb><rt>どうさく</rt></ruby>という医者と、兎玉玄程とで、<ruby><rb>囃</rb><rt>はやし</rt></ruby>の座興があった。宴のあと、両目付を本丸へ案内し、それで饗応は終った。

涌谷さまは二十三日に領地へ帰られ、自分はそれを見送ってから、船岡へ帰った。

お留守はほかに変りもない、奥方はじめ小四郎さまも御息災であるし、万事平穏にいっている。

隼人の手紙はそうむすんであった。

その月は事が多かった――兵部少輔宗勝と、<ruby><rb>右京亮宗良</rb><rt>うきょうのすけむねよし</rt></ruby>の二人に、亀千代の後見役として、所領加増のことが決定した。兵部は一万石あまりのところ、三万石に増され、宇田川橋の本邸のほかに、飯倉かわらけ町に中屋敷、麻布新堀に下屋敷をもらい、その子の<ruby><rb>東市正</rb><rt>いちのかみ</rt></ruby>は土器町の中屋敷へ移った。

田村右京はもと栗原郡岩ヶ崎で、一万五千石だったが、名取郡岩沼にところ替えして、やはり三万石となり、<ruby><rb>愛宕下</rb><rt>あたごした</rt></ruby>に屋敷をもらった。右京は綱宗の庶兄で、年も三歳上であった。

両後見の加増が決定したあと、家老の任命について、兵部と右京から提案が出た。主唱者は兵部で、右京はそれにひきずられたらしい。柴田内蔵介と富塚内蔵允が候補にあがり、「三千石ずつ加増」という条件を、兵部から付けて来た。

そこで三家老と四評定役のあいだに、合議があり、立花飛騨守に相談のうえ、二人を家老に加えることが<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>った。柴田内蔵介は承知した。彼は<ruby><rb>登米</rb><rt>とめ</rt></ruby>郡<ruby><rb>米谷</rb><rt>まいや</rt></ruby>三千石の館主であったが、これで六千石の家老となり、名も<ruby><rb>外記朝意</rb><rt>げきともおき</rt></ruby>と改めた。

富塚内蔵允からは、任命は受けるが加増は辞退する、と断わって来た。自分の知行は二千石を越え財用は充分に足りている、もし加増されるなら、幼君が御成人のうえで頂戴したい。ということであったが、しかし結局は加増も承知し、二人は家老に就任した。

そして十月になった。

## 霜柱

よく晴れた朝の九時、――浄妙院の裏門から出て来たお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は冬空に高く棟を張った、浅草寺の本壁の屋根や、五重塔を眺めるようすで、すばやく道の左右に眼をはしらせながら、伝法院の脇を歌仙茶屋のほうへぬけていった。

黒っぽい小紋の小袖に、<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>色の<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>をかさね、やはり納戸色の<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>をしている。小さな包みを抱えた手に、水晶の数珠をかけ、袖に入れた右手で、その包みを押えた姿は、このまえと同じように、寺まいりに来た若い後家というふうにみえた。

「お福茶をあがってらっしゃいまし、お福茶をめしあがれ」

並んでいる茶店では、もうしきりに客を呼ぶ声がしていたし、<ruby><rb>参詣</rb><rt>さんけい</rt></ruby>する人たちもかなり出ていた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は端から五軒めの茶店へ、「おばさん、お早う」と云いながらはいっていった。腰掛けの並んだ店の奥に、「お吉」と染めた色<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>が掛けてあり、そこから五十歳ばかりになる肥えた女が、こちらを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。

「おや、お帰んなさい、今朝は早いのね」

「法事があるんですって」

「そう、まあこっちへおいでなさいな、まだ誰も来ていないのよ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は奥へはいった。奥には茶釜や器物の棚や、<ruby><rb>水瓶</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>などの置いてある土間の片方に、三帖ばかりの小部屋があり、茶釜からは湯気が立っていた。

「いま火を取るからね」

「あたしすぐに帰りますわ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はその小部屋の、あがり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>に腰をかけ、持っていた包みを解いた。

「まあいいやね、この時間に帰ると近所がうるさいんでしょ、いまお茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れるよ」

女は<ruby><rb>釜戸</rb><rt>かまど</rt></ruby>から、焚きおとしを<ruby><rb>十能</rb><rt>じゅうのう</rt></ruby>に取り、小部屋の<ruby><rb>火桶</rb><rt>ひおけ</rt></ruby>に入れて、炭をついだ。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は包みの中から、なにがしかの金を出し、紙に包んで、女の前へさしだした。

「おばさん、これ、いつもの」

「あらそう、済まないね」

女はすぐに取って<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ入れ、十能を持って茶釜のほうへ戻った。

「頭巾はぬがないほうがいいよ、今朝はめっぽう冷えるからね」

「もう十一月ですものね」

「十一月だよ、本当に、そうするとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>さんは、浄妙院へはもう幾月になるかしら」

「八月からですから」

「四つきだね、へえ」と女は茶を淹れながら云った、「うっかりしてたけれど、四つきも続くなんて、おまえさんが初めてだよ」

「あらそう」

「あの<ruby><rb>和尚</rb><rt>おしょう</rt></ruby>さんときたら、はいお茶」

女はこっちへ来て、茶碗をのせた盆を置き、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>にすすめながら、自分も取った。

「あの和尚さんときたら、これまで一と月と続いた人がないんだから」

「あらそうかしら」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は茶を啜った。

「そうかしらって、おまえさん思い当ることはないの」

「いいえ、べつにそんなことはないわ」

「へえ、それじゃあ合っているんだね」と女は云った、「これまでは和尚さんのほうで気にいらないか、和尚さんが気にいれば女の人のほうで逃げだすかで、ほんとのところ一と月と続いたためしがなかったのよ」

「だって、どうして逃げだすのかしら」

「わる好みをするっていうじゃないの」

「いやだわ、おばさん」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はにらんだ。

「そうじゃないの」

「いやだ、おばさんったら」

「ひどくつよいうえに、わる好みをするっていうじゃないの」と女は云った。女は茶碗を置き、<ruby><rb>莨盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby>をひきよせて、いっぷく吸いつけた、「いちど<ruby><rb>花魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>をひかせたことがあったけれど、廓づとめをしたその人でさえ、躯がもたないって逃げだしたくらいよ」

「そうかしらねえ」

「思い当るでしょ」

「わからないわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「あたしは親切で思い遣りのある、いい人だと思うけれど」

「だからあたしが合ってるって云うんだよ」と女が云った。

女は唇を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めながら、あけっぱなしな口調で、露骨なことをずけずけと云った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はさして恥じるようすもなく、頬を赤くしながら、これも興ありげに、なんでも答えた。女は乾いた声で笑い、眼をぎらぎらさせた。

「相当なもんだ、おまえさんて人も」

「あらどうして」

「まえの武家の旦那っていうのに仕込まれたんだね」

「ぶつわよ、おばさん」

やがて表てから、雇いの茶<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>み女がはいって来た。

「おそくなって済みません」

「いまじぶんよく来られたもんだね」と女は険のある声で云った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はそれをしおに立ちあがった。

「あたし帰りますわ」

「まあいいじゃないの」

「でもそうしてはいられませんから」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は包みを抱えた。

茶汲み女は「母親のぐあいが悪いので」と云いわけを云っていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は女に挨拶をして、その茶店を出た。

材木町の家へ帰り、隣りへ声をかけると、お久米が慌てたように出て来て、「ちょっと」と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きながら、手まねきをした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は土間へはいった。

「あの人があんたのあとを<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けてったらしいわよ」

「あの人って」

「新八っていう人よ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はどきっとした。

「ちょっとあがらない」とお久米が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は首を振り、声をひそめて訊いた、「あたしのあとを跟けたんですって」

「そうだと思うの」とお久米が云った、「ゆうべあんたがでかけると、すぐにあの人も出ていったわ」

「そして、――」

「帰って来たのは十二時ちかいころよ」とお久米は云った、「まさか女あそびにゆく筈はないし、帰って来てからもようすが変だったわ」

「どんなふうに」

「いつまでも寝ないで、家の中を歩きまわったり、ぶつぶつなにか独り言を云ったり、ずいぶん変なようすだったわ」

「いま、いるのね」

「いる筈よ、あの調子だと朝まで寝なかったかもしれないし、いま静かなのは寝ているのかもしれないわ」

「有難う、いってみるわ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>ちゃん」とお久米が囁いた、「あんた、あの人と、できたんでしょ」

「まあ、お久米さんたら」

「とうとうものにしちゃったのね、にくらしい」

「そんなんじゃないのよ、まだ十六のまるっきり子供じゃありませんか」

「隠してもだめ、壁ひとえよ」とお久米はにらんだ、「あたしのほうは旦那も足が遠のくばかりだし、あんたのお兄さんは見向いてもくれないし、よく眠れない晩のつづくときもあるんですからね、あんまり聞かせるのは罪だよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>ちゃん」

「ずいぶん云うわね」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は冷淡に云った、「<ruby><rb>旱</rb><rt>ひでり</rt></ruby>のお百姓は、砂が飛んでも雨だと思うっていうけれど、そんな邪推はあんたらしくないことよ」

「いいからいらっしゃい」とお久米は云った、「あたしあんたを怒らせるつもりはないわ、でもおかしいわねえ、あんたって人はずいぶんすご腕なくせに、まるでうぶなところもあるのね」

「あたしがすご腕ですって」

「いいからいらっしゃい」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の唇が片方へひきつった、お久米はやさしく云った、「さもないと、あんたの可愛い子に、もっといやなことを聞かれるかもしれなくってよ」

「あとで来るわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は眼を伏せた、「怒らないでねお久米さん、あたし今朝はどうかしているのよ」

お久米は黙っていた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はもういちど、あとで来るわねえと云い、お久米に別れて自分の家へはいった。

新八はごろ寝をしていた。こっちの六帖で、着たなりで、一枚の夜具にくるまって、ちぢまって寝ていた。

雨戸が閉めてあるので、部屋の中は暗く、あけた襖からの片明りで、新八の顔はみじめなほど<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れてみえた。もとからひよわそうな顔だちであったが、このごろは<ruby><rb>色艶</rb><rt>いろつや</rt></ruby>もめだってわるく、頬もこけたし、唇も乾いて、いつもかさかさしていた。お久米の云うとおり、ひと晩じゅう寝ずに待っていたのかもしれない。いまは眠っているのに、おちくぼんだ眼が少しあいており、額には深い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がよっていた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は身ぶるいした。浄妙院の住持との、飽くことを知らない、<ruby><rb>膏</rb><rt>あぶら</rt></ruby>ぎった時間のあとで、新八の<ruby><rb>憔悴</rb><rt>しょうすい</rt></ruby>した姿が、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>を強く<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>った。

彼女はおののきながら、手ばやく下衣ひとつになり、襖をしめて、新八のくるまっている、夜具の中へすべりこんだ。新八は<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いて躯を伸ばした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は彼にしがみついた。新八はまだよく眼がさめず、呻きながら首をぐらぐらさせたが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の足が絡まったとき、

「あ」といって眼をあいた。

「眼がさめて、新さん」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は荒い息をした。

新八は彼女を突きのけ、なおしがみついてくる手足を乱暴にふり放して、立ちあがるなり手で唇を拭いた。

「けがらわしい、たくさんだ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は起き直った。裾が<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>れて、<ruby><rb>太腿</rb><rt>ふともも</rt></ruby>まで見えるのにも気がつかず、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はびっくりしたような眼で、茫然と新八を見あげていた。

「私は<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されていた」彼は手の甲でまた唇を拭き、ふるえ声でつづけた、「でも、もう騙されやしない、私はすっかり聞いてしまった、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は、みだらな、けがらわしい人だ」

「けがらわしいですって」

「けがらわしいさ」

「なにがけがらわしいの」

「自分で知らないのか」

「大きな声をしないでちょうだい、隣りへ聞えるじゃないの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「ちょっと坐って、新さん、あたしあんたに話さなければならないわ」

「たくさんだ」と新八は首を振った。

「坐ってちょうだい、あたしあんたを騙したおぼえもないし、あんたにけがらわしいなんて云われるおぼえもないことよ」

新八は「それじゃあ」と<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>りながら云った、「あの浄妙院はいったいなんだ」

「浄妙院がどうしたの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が訊き返した。

新八は口ごもった。

浄妙院がどうした、というお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の反問は、あまりに平静で、いささかの恥も、うしろめたさもなかった。

「浄妙院のことはあんたに云ってある筈よ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った。

「いや、ちがう」

「なにがちがうの」

「貴女は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おこもり</span>にゆくのだと云った、お父上の遺骨を預けたから、供養のために、ときどき<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おこもり</span>にゆくのだと云った」

「まあ、新さん」

「私はそう信じていた」

「まあ聞いてちょうだい」

「けれども嘘だった、私はゆうべ浄妙院へいって、寺男にすっかり聞いたんだ」

「なぜそんなことをしたの」

「お父上の遺骨が納戸の中にあったからだ」と新八は云った、「お父上の俗名と戒名の付いた遺骨の壺が、隠しもせずに置いてあった、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おこもり</span>というのは嘘だと、私の感づいたのがむりか」

「まあ聞いてちょうだい」

「たくさんだ」

「聞いてちょうだいったら、新さん」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「あたしはそう云ったわ、たしかに云ったことよ、でも嘘をついて騙すつもりじゃあなかったわ」

「これが嘘じゃないって」

「そんなつもりはこれっぱかりもなかった、ほんとよ、もしあんたを騙すつもりなら、お<ruby><rb>骨</rb><rt>こつ</rt></ruby>をあんなところに置いときゃあしない、いくらあたしだってそのくらいの知恵はあってよ」

「ではいったいどういうことなんだ」

「あたし新さんが察してくれると思ったのよ」

「察しるって」と新八は<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>をふるわせた、「貴女が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かよいだいこく</span>といって、あの寺の住持のところへ身を売りにいくことをか」

「新さんには無理だったのね」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った。捲れていた裾を直し、弱よわしくうなだれながら、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はゆっくりとつづけた、「あたし初めの日に、あんたに云ったでしょう、兄のために苦労する決心をしたって、兄は呑んだくれの<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>者だけれど、それでも苦労してあげていい値打があるし、そのうえ新さんって人まで<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたでしょう」

「それも嘘だ」と新八が云った。

「あら、なにが嘘なの」

「私はいつか柿崎さんが貴女に云っているのを聞いた、もう稼ぐ必要はない、金はおれが遣るって、柿崎さんははっきり云ったし、貴女が金を貰っていることも知っているんだ」

「あんたって子供ねえ」

「まだ私を、ごまかせると思うのか」

「まあ聞いてちょうだい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は坐り直した、「それは新さんの云うとおり、兄は月づきのお金を呉れるようになったわ、あたしにはどういうお金だかわからないけれど、とにかく暮しに不足しないだけのお金は呉れるわ、けれどね、新さん、世の中はそれで済むっていうものじゃなくってよ」

新八は黙っていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はつづけた。

「兄のお金がどんな性質のものかわからない、いつまでも続くのか、ほんの当座だけのものかわからない、もし兄のほうがだめになったら、またあたしが稼がなければならないでしょ」

「それなら、もしそれが必要なら」と新八が云った、「そんな恥ずかしいことをしなくったって、私だって人足ぐらいの仕事はやりますよ」

「その躯で、――」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は首を振った、「ねえ、聞いてちょうだい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「あたしに渡辺の旦那を世話してくれたのも、浄妙院を世話してくれたのも同じ人なのよ、その人にはずいぶん厄介になっているし、これからのことはべつとしても、こっちの都合がよくなったからといって、ではおさらばというわけにはいかないわ」

「私は自分で稼ぎます」

「世の中はそう簡単じゃあなくってよ」

「私はこの家も出ます」と新八が云った、「御厄介になったことは忘れません、しかし私がここへ来たのはまちがいでした、私はもっと早く出てゆかなければならなかった、自分でもそれを知っていたのに」

「新さん、あんたそれ本気で云ってるの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が云った。

新八は腕で顔を押えながら、壁へよりかかって泣きだした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は「新さん」と云い、はね起きて、新八にすがりついた。新八の泣きだしたことが、彼女の躯に新しく火をつけたようであった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は狂ったように新八を抱きしめ、頬ずりをし、そして声をふるわせて云った。

「あんたはゆきやしない、ゆけやしないわ、外には伊達さまの追手の眼が光ってるのよ、あんたはお兄さんの仇を討たなければならないでしょ、あたしの兄だってあんたを放しゃしないし、あたしだって放しゃしないわ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の言葉はしどろもどろだった。新八は啜りあげながら、しかしもう、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>からのがれようとはしなかった。

「あたしを捨てないで、新さん」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は云った、「あんたはあたしにとって初めての人よ、躯はよごれてるかもしれないけれど、あたしの心はきれいよ、あたしは娘のままの、汚れのない心であんたに恋したのよ、わかるでしょ、わかるわね、新さん」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は泣きだした。

「あたしを捨てないで、もし新さんに捨てられたら、あたしもう生きてはいられないわ、お願いよ、わかるわね、新さん」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は彼を抱きしめた、「わかってね、ね」

彼女は新八をひきよせた。新八は不決断に反抗した。けれどお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は力まかせにひきよせ、殆んど狂暴にしがみついた。二人はよろめき、絡みあったまま、そこにある夜具の上へ倒れた。どうなるんだ。新八は自分をつなぎとめようとした。きさま、それでも、武士の子か。恥を知れ。だが、彼は包まれてしまう。

綿のように軽く、温かく、柔軟な重みが彼を包み、彼を押え、緊めつけ、<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れさせてしまう。彼は落ちてゆき、舞いあがり、快楽のなかでひき裂かれる。

――おれは逃げるんだ、逃げてみせる。

新八は放心のなかで叫ぶ。逃げなければならない。しかし彼は落ちる。彼には自分をつなぎとめることはできない。その単調な動作の繰り返しは、彼を縛りあげ、彼をばらばらにしてしまう。

――逃げるんだ、早く早く、逃げだすんだ。

そうして彼は、まったく、自分をみうしない、溶けて、地面のなかへ吸いこまれてしまう。新八は、自分の躯が自分で支配できなくなってゆくことに、気がついていた。一と月ほどまえに初めて経験し、それ以来ずっと繰り返されてきたその習慣は、彼の躯を縛りつけるばかりでなく、考える自由をさえ縛りつけるようであった。

「しかしおれは逃げだすぞ」と新八は口の中で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の、陶酔のあとの、やすらかな寝息を聞きながら、彼は、自分が逃げだすだろう、と思った。必ずここから逃げだしてみせる、おれにもまだそのくらいの力はある、彼はそう信じた。

どのくらい経ってからか、新八はふと眼をさました。するとそこに人が立っていた。彼は痺れるような眠りのなかで、眼をさまし、そこに立っている人を見た。その男は新八を見ていた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>、起きろ」とその男は云った。

新八ははっきり眼をさました。しかし動けなかった。その人は柿崎六郎兵衛であった。六郎兵衛は冷やかな表情で眠りこけているお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>の肩へ足をかけて揺すった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はねぼけ声をだした。新八はぞっとして眼をつむり、吐きそうな気持におそわれながら、寝返りをうった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>のねぼけた声は、無知と、卑しさそのものであった。自分のそんな姿を見られた、救いようのない汚辱感のなかで、新八はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>を呪った。

「新八も起きて来い」と奥の六帖で六郎兵衛の呼ぶ声がした、「きさまにも話すことがある」

その家へ六郎兵衛の帰って来るのは、ちかごろでは珍らしいことであった。

まえにも帰らないことはよくあったが、十月はじめあたりからは帰って来るほうが<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>であり、帰って来ても、用事を済ませるとすぐに出ていくのであった。それでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はゆだんしていたのであるが、六郎兵衛の話しを聞くと、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はすっかり戸惑いした。

彼は妹に、屋敷奉公にゆくのだから、すぐに支度をしろと云った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はいやだと云った。自分にはもうかたくるしい武家勤めはできない。ならん、おれが命ずるのだ。どうしてですか。それはおまえの知ったことではない、すぐに支度をしろ。新さんはどうなるんですか。宮本はここに残る。一人でですか。野中又五郎と妻子が来る。では新さんはその人たちといっしょに暮すんですか。そうだ。なにか不服があるか、と六郎兵衛が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はすぐに<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めた。兄に反抗することなどは不可能である。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は新八と別れたくない、新八とそういうわけになってから、いっそう別れることは辛い。しかし兄の意志にはさからえないだろう、「この呑んだくれの悪性者は」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は心のなかで思った。もし反抗でもしたら片輪になるほど自分を<ruby><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby>し、そうしてやはり、思いどおりにするだろう。とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は思った。六郎兵衛は妹を「すぐに支度しろ」とせきたて、こんどは新八に向かって、畑与右衛門の遺族のことを訊いた。

新八は宇乃と虎之助のことを話した。

「親しくしていたのか」と六郎兵衛が訊いた。

新八はそうだと答えた。

六郎兵衛はさらに訊いた、「姉弟とも、おまえの云うことを信ずるくらいにか」

「それはどういう意味ですか」

「あらゆる意味でだ」と六郎兵衛は云った。

「わかりません」と新八は眼を伏せた、「私たちは家族どうしでつきあっていましたし、あの晩はいっしょに逃げて、原田さんに助けられたのです」

「それはもう聞いた」

「ですから、信じてくれているとは思いますが、どれほど信じてくれるかは、事と次第によると思います」

「よかろう」と六郎兵衛は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

新八は不安そうな眼で、六郎兵衛の顔を見た。

「あの二人に、なにかあったんですか」

「救い出すんだ」と六郎兵衛は云った。「その姉弟も、救い出さぬとなにをされるかわからない、そうだろう」

「そうでしょうか」

「そう思わないのか」と六郎兵衛は不審そうに見た。

「はい」と新八ははっきり云った、「あの姉弟は原田さまに保護されています、原田さまはどんなことがあっても、きっと二人を保護して下さると思います」

六郎兵衛は新八を見まもった。

「おまえは、護送される途中で脱走し、江戸へ戻って来たときに、原田どのを頼るつもりだと云っていたな」

「――そうです」

「そんなに信頼できる男か」

「そうだと思います」新八は唾をのんだ。

六郎兵衛はさらに不審そうな眼で、新八の表情を見まもった。

「そう思うというのは、自分で直接知っているわけではないのだな」

「直接には知りません、原田さんは<ruby><rb>着座</rb><rt>ちゃくざ</rt></ruby>といって、家老になる家柄ですし、私の家とは身分がちがいますから」

「ではどうして、信頼できるということがわかるんだ」と六郎兵衛が云った。新八はちょっとためらった。六郎兵衛は冷笑するように云った。

「家中の<ruby><rb>評</rb><rt>うわさ</rt></ruby>か」

新八は「そうです」と云った。

「ばかなやつだ」

六郎兵衛の顔に、冷笑と、するどい怒りの色があらわれた。

「きさまはばかなやつだ」と六郎兵衛は云った、「おれも原田甲斐の評判は知っている、彼は誰にも好かれ、信頼されている、反感をもつ者も少ないし、憎んだり、敵対するような者は一人もないようだ、そうだろう」

新八は頷いた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しれ</span>者だ」と六郎兵衛は毒のある調子で云った、「そういう男を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しれ</span>者というんだ、人間というものは一方から好かれれば、一方から憎まれる、好評と悪評は必ず付いてまわるものだ、あらゆる人間に好かれ、少しも悪評がないというのは、そいつが<ruby><rb>奸譎</rb><rt>かんけつ</rt></ruby>で<ruby><rb>狡猾</rb><rt>こうかつ</rt></ruby>だという証拠のようなものだ」

「でも原田さんは」

「黙れ、きさまになにがわかる」と六郎兵衛は云った、彼の表情には、怒りの色がもっと強くあらわれた、「きさまはいま、着座だとか家老になれる家柄だとか、軽輩だとか身分がちがうなどと云った、なにが身分だ、身分がなんだ、原田が着座かなにか知らぬ、柴田郡船岡で四千百八十石の<ruby><rb>館主</rb><rt>たてぬし</rt></ruby>かしらぬが、伊達の家臣ということではきさまと同格だぞ、なんのためにそう自分を卑下するんだ」

「私は卑下なんかしません」

「卑下でなければ卑屈だ」と六郎兵衛は云った、「食禄を多く取り身分が高いということは、奸知と策略に長じた、成りあがり者だということだ、しかも、他の多くの人間から<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>め取ってだ」

六郎兵衛は唇を曲げた。彼はいま、憎悪と敵意のために、自分を抑えることも忘れたようであった。

彼は安穏に暮している家族や、権力や名声のある者、富貴で人望のある者などにがまんができない。それらの条件は、かれらが不当に手にいれたものである。奸知と策略とで、他の多くの人間から掠め取ったにすぎない。それらの身分や富や権力は、六郎兵衛のものであったかもしれないし、少なくとも他の多くの者の所有だった筈だ。

そのことが、絶えず六郎兵衛を、敵意と憎悪に、駆りたてるのであった。

「もっと額を高くあげろ」と六郎兵衛は云った、「この世はなにもかも闘いだ、相手をたたきふせるか自分がたたきふせられるか、どちらか一つだ、自分を信じ、自分を強くしろ、世評などに惑わされて人を信ずるのは、それだけですでに敗北者だ、しっかりしろ」

「それでは」と新八は不安そうに云った、「原田さんは、信頼できない人なのですか」

「それは事実をたしかめたうえのことだ、事実をたしかめるまでは、なに者も信頼することはできない」と六郎兵衛は云った。

「ではやはり」と新八は六郎兵衛を見た、「やはり畑姉弟を救い出すんですか」

「ぜひともだ」

「いつですか」

「それはおれがきめる」と六郎兵衛は云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が出て来て「支度ができた」と云った。髪化粧を直し、着替えをし、包みを持っていた。六郎兵衛は顔をしかめて、妹の姿をためすように眺めた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>はもじもじしながら「これでは派手かしら」と訊いた。

六郎兵衛は新八を見た、「あとで野中の家族が来る、夫婦と子供が一人だ、妻女は病身らしいから、これまでのように客のつもりでいてはいかんぞ」

そして「おれは二三日うちに来る」と云って立ちあがった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は新八をみつめた、「では新さん」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>、ぐずぐずするな」と六郎兵衛が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は泣きそうな眼で新八をみつめ、おろおろと云った、「あたしいきますからね、あなたはそんなにお丈夫ではないんだから、よく躯に気をつけて下さいよ」

新八は「ええ」と云った、彼はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>のほうは見なかった。

「<ruby><rb>宿下</rb><rt>やどさが</rt></ruby>りにはきっと来ます、不自由でしょうけれどがまんしてね、そのうちにはまた」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>」と六郎兵衛が云った。

「ではさよなら、新さん」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>は指で眼がしらを押えながら、包みを持って立ちあがった。新八は顔をそむけ、黙って、弱よわしく頷いた。

<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れがたになって、野中又五郎と、その妻子が来た。このまえ訪ねて来たときは、新八は声だけ聞いたので、会うのはそれが初めてだった。

又五郎は三十二歳、自分でなのるところによると、<ruby><rb>蒲生</rb><rt>がもう</rt></ruby>家の浪人で、妻の名は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さわ</span>、九歳になる娘はお市といった、浪人生活がながかったのであろう、夫婦とも<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて、膚の色が悪いし、着ている物も貧しく、荷物も包みが三つしかなかった。又五郎も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さわ</span>も、礼儀ただしく新八に挨拶をし、「よろしく頼む」と云って、挨拶が済むとすぐに、又五郎は妻を横にならせた。

新八は奥の六帖をとり、かれらは勝手に続いているほうの六帖をとった。

――客のようなつもりでいてはいかんぞ。

と六郎兵衛は云った。新八はこれまで、客のようなつもりでいたこともないし、そういう扱いをうけた覚えもなかった。しかし、野中の人たちの、生活に疲れきったような姿を見ると、自分にできる限りのことはしよう、と思ったのであるが、さてなにをしたらいいかとなると、まったく見当がつかなかった。

「なにか用があったらそう云って下さい」と新八は、繰り返した。

又五郎は礼を云い、迷惑をかけて済まない、なにも頼むような用はない、どうか心配しないでもらいたい、と云うばかりであった。

お市も静かな子で、なにか用事をするときのほかは、母の側に坐ったまま、黙ってしんとしていた。あとでわかったのだが、そういうときその少女は、読書か習字をしているのであった。素読は父の又五郎が教え、母が習字や針の使いかたなどを教えていた。しかし素読のときのほか、教える声も答える声も低く、殆んど囁くようで、うっかりすると、誰もいないかと思われるほどであった。

妻を寝かせてから、又五郎はお市をつれて買い物にゆき、帰って来ると、勝手で炊事を始めた。――新八はそのもの音ではじめて気がついた。食事ごしらえなどということはしたこともないし、しなければならないと考えたこともない。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が去ったので、これからは自分で煮炊きをしなければならない。当然そこに気がつく筈であったのに、又五郎が始めたのを知って、ようやく気づいたのであった。

「いや大丈夫です」又五郎は米をとぎながら、微笑をうかべて云った、「妻が弱いので、いつのまにかこんなことが上手になりました、手数は同じことですから貴方のもいっしょに作りましょう、どうか坐っていて下さい」

新八は押してどうとも云えなかった。

寝ている妻女の<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>と、勝手でお市の「はい、はい」と答える声と、燃えだした釜戸の、<ruby><rb>焚木</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>のはぜる音を聞きながら、新八はぼんやりとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>のことを想っていた。

移って来た翌日は、又五郎は一日うちにいて、自分たちの部屋をととのえたり、娘をつれて買い物に出たりした。

新八はなんとなく居づらかった。食事ごしらえなどは、年からいっても当然、自分がしなければならないだろう、する気持はもちろんあるのだが、又五郎が先へ先へとやってしまうし、どう手を出したらいいか、彼にはまったくわからなかった。

それで<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>は外で喰べようと思い、又五郎が買い物にいったあと、なにも云わずに家を出た。彼が出たとき、隣りの家では、ちょうどお久米が帰って来たところで、格子をあけながら、新八のほうへ笑いかけた。

「あら、おでかけ」新八は「ええ」と頷いた。

「あなたのとこ、誰かお客さまらしいわね」

「移って来たんです」と新八は低い声で答えた。

「移って来て、いっしょに住むわけ」

「そうです」

お久米はへえ――といい、ふと思いついたように、「ちょっとお寄りなさいな」と云った。

「昨日<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>ちゃんが寄ってったわ、どこかお屋敷へ奉公にあがるんだって、あんた淋しいでしょ」

新八は赤くなった。お久米は彼が赤くなったのを見て、さらに「寄ってらっしゃい」と云った。

「あたし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>ちゃんからあなたのこと頼まれたのよ、ほんとよ、隣りどうしだから面倒をみてあげてくれって、あたしあのひとみたようにいろんなこと上手じゃないけれど、でもあんたのお世話くらい大丈夫よ」

「ちょっと用がありますから」

「いいじゃないの、ねえ、寄ってらっしゃいよ」

お久米は首を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かし</span>げ、<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びた笑いをうかべながら、じっと新八の眼をみつめた。

新八はもっと赤くなり、逃げるように路地を出ていった。すると通りへ出たところで、帰ってくる野中又五郎と会った。買い物の包みを持って、娘といっしょに来た又五郎は、新八を見ると、いそぎ足に近よりながら、首を横に振った。

「いけませんね、外へ出てはいけません」又五郎が云った、「柿崎さんからそう云われているのでしょう、なにか用事でもあるのですか」

「ええ、ちょっと」新八は口ごもった。

「あるなら云って下さい、私がいって来てあげます」

新八はあいまいに首を振り、それほどいそぐことでもない、と口の中で云った。

「では戻りましょう」と又五郎は云って歩きだした、「これからはどうか無断でお出にならないようにして下さい」

その次の日、つまり移って来て三日めには、又五郎は午前八時ころ家を出てゆき、夕方の、もう暗くなるじぶんに帰って来た。高価な品ではないが、羽折、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をきちっと着けた野中の姿は、清潔でりりしくみえた。柿崎は着る物もぜいたくだし、顔だちも美男のほうであるが、又五郎のように清潔な感じもないし、「りりしい」などというところは少しもみえない。

――野中さんは志操の正しい人なんだな。

と新八は心のなかで思った。夕餉が済むと、又五郎が「ちょっとでかけましょう」と云った。新八は彼を見た、「柿崎さんのところです」と又五郎が云った。

新八は着替えをした。着物も帯も袴も、みなお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>が新調して呉れたものである。又五郎は娘に向かって、戸じまりと火のもと、母の世話などを注意した。「今夜は帰れないかもしれない」そういって、新八といっしょに出た。

隣りの前をとおるとき、お久米が障子をあけて、こちらを見ているのが、新八の眼の隅にはいった。彼が一人なら、呼びとめようとしたらしい、路地を出てゆきながら、新八はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みや</span>とのひめごとを思いだしていた。

二人は半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ちかく歩いた。新八には、浅草御門をぬけたことだけはわかったが、それからさきは、どの町をどう曲ったのか見当がつかなかった。

――駿河台のほうへ来ているのかな。

そんなことを思っていると、裏通りの新らしい家の前で、又五郎が<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>ですと云った。門柱に「菅流柿崎道場」という看板が掛けてあった。新八はあっけにとられた。

――柿崎さんの道場。

妹にあんな<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しい<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎをさせておいて、自分はこんな立派な道場を持つとは、なんという人だろうと新八は思った。

又五郎は正面の玄関でなく、横へまわって、住居のほうの玄関からはいった。道場のほうは灯もついていず、人のいるけはいもなかった。

六郎兵衛は居間で酒を飲んでいた。若い女が三人、ひどく派手な<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えで給仕をしていた。十七か八くらいの、きりょうのいい女たちで、髪かたちも着ている物も、立ち居、身ぶりや言葉つきも、まるでいろまちの者のように<ruby><rb>嬌</rb><rt>なま</rt></ruby>めいていた。

「向うへ向うへ」と六郎兵衛は手を振った。

新八がはいって、坐ろうとするとたん、手を振ってそう云った。又五郎は立って、新八にめくばせをし、その部屋を出た。

暗い廊下をいって曲ると、右側に灯で明るい障子があった。「石川うじ」と又五郎が呼びかけ、中から答える声が聞えた。又五郎は障子をあけてはいった。

中年の待が一人、そこに寝ころんでいた。

## こがらし

<ruby><rb>宇乃</rb><rt>うの</rt></ruby>は朝の食事をしていた。

まだ部屋の中は暗かった。<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>いをした行燈の光が、寝ている虎之助の顔を、頭のほうから照らしている。宇乃はときどきそっちを見ながら、歯の音もさせまいというようにひっそりと食べていた。

宇乃の顔には疲れがみえる。彼女はまる二日のあいだ眠っていない、虎之助は七日ほどまえから風邪ぎみであったが、一昨日になって、医者が<ruby><rb>麻疹</rb><rt>はしか</rt></ruby>であると診断した。

――すっかり<ruby><rb>発疹</rb><rt>はっしん</rt></ruby>してしまうまでは風に当てないように。

医者はそう念を押した。宇乃は九つの年に麻疹を済ましていた。ちょうど夏の暑いさかりで、幾日も幾日も、閉めきった部屋で寝かされていた苦しさを覚えている。いまは幸い冬だから、閉めきっていてもさして辛くはないだろうし、虎之助はききわけがよく、姉のいいつけをよく守った。

良源院へ来てからずっと、寺男の弥吉と、その妻のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きわ</span>が、二人の世話をしてくれていた。――食事は三度とも運んで来るし、縫いものや洗濯や、そのほかこまごました雑用も、すべて弥吉夫婦がやってくれた。もちろん原田家から頼まれた責任もあるだろうが、かれらに子がなかったし、うすうす姉弟の身のうえを聞いて、同情のあまり大事にしているようであった。

宇乃が食事を終りかけているところへ、弥吉が廊下から声をかけた。

「原田さまからお使いの方がみえました」

宇乃は「はい」といった。

昨日、虎之助のことを、手紙に書いて甲斐に知らせた。麻疹はいのち定めという、そんなこともないだろうが念のために、そう思って簡単に知らせたのである。――それにしても、こんなにまだ時刻が早いのに、と思いながら、宇乃は<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を置いて立った。

虎之助はよく眠っていた。宇乃は<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>や障子のあけたてに注意しながら、高廊下のほうへ出ていった。曇っているのと、時刻が早いのとで、あたりはまだうす暗く、かなり強く風が吹いていた。

刺すような冷たい風に、<ruby><rb>衿</rb><rt>えり</rt></ruby>をかき合わせながら、宇乃はちらと庭の向うを見た。高廊下へ出ると、必ずそうするのが癖になったようである。<ruby><rb>樅</rb><rt>もみ</rt></ruby>ノ木は静かに立っていた。そこは風が当らないのだろうか、かなり強く吹いているのに、甲斐の樅は枝を張ったまま、しんと、少しも揺れずに立っていた。

「宇乃さん、こちらです」と呼ぶ声がした。

庭へおりる踏段のところに、宮本新八がこっちを見ていた。身なりが変っているだけでなく、どこか顔ちがいがしたようで、すぐには彼だということがわからなかった。宇乃は静かに近よっていった。

「しばらくでございました」と宇乃が云った。

宇乃はそう云って会釈しながら、なつかしそうに新八を見た。新八の顔は<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめて硬ばり、寒さのためだろう、色をなくしたような、乾いた唇がふるえていた。

「原田さまからと仰しゃったのは、あなたでしたの」

「そうです」と新八は唇を舐めた、「もちろん、私です」

「わたくしまた、あなたは仙台へいらしったものとばかり思っていましたわ」

「いちどいったんですが」

「たしか国もと預け、ということだったとうかがいましたけれど」

「ええ、そうです」新八はすばやく、背後のほうを見た。

「それで」と宇乃は云った。

新八はまた唇を舐め、ふるえながら、せかせかと云った、「仙台へ送られる途中で、原田さんに救ってもらい、それからずっと<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>まわれているんですが」

「まあ、原田さまに」

「それで今朝、ここへ来たのは」彼は口ごもった。いそいで云おうとするのだが、舌がよく動かない、というようすであった。彼はまたすばやく左右を見た、「じつは、貴女をお<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れする、ためなんです、貴女と虎之助さんをです」

「どこへですの」

「わかりません」と新八は云った、「原田さんの御家老で堀内惣左衛門という人を知っているでしょう、あの人が<ruby><rb>青松寺</rb><rt>せいしょうじ</rt></ruby>のところで待っているんです、それからさきはどこへゆくのか、私は聞いていません」

「でも、どうしたのでしょう」と宇乃は<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた、「そんなに急に、ここを出なければならないようなことでも、できたのでしょうか」

「危なくなったからです」と新八はせきこんで云った、「私も同様ですが、貴女や虎之助さんも危ないんです、いま詳しいことを話している暇はないが、兵部どの一味が、われわれを<ruby><rb>掠</rb><rt>さら</rt></ruby>おうとしているんです」

「なぜでしょう」と宇乃が云った、「わたくしたちには、もうちゃんと御処分がきまったのではございませんか」

「陰謀なんです、ええ」と新八が云った、「兵部どの一味の陰謀なんです、詳しいことは原田さんが話すでしょう、一刻を争うばあいだそうですから、早くしてください」

「でも困りますわ」と宇乃は新八を見た、「原田さまからお聞きではなかったでしょうか、弟は一昨日から麻疹で寝ておりますの」

「しかし、<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>が待たせてありますから」と新八は云った、「麻疹くらいなら駕籠でゆけば大丈夫ではありませんか」

「原田さまがそう仰しゃいましたの」

「もちろん、そうです」と新八は云った。宇乃はなお訊いた。

「麻疹を御承知ですのね」

「貴女はなにか疑っていらっしゃるんですか」

「いいえ、疑ってなんかおりません、ただお医者さまに、すっかり発疹してしまうまでは、風に当ててはいけないといわれておりますの、そして弟はまだ発疹し始めたばかりなのですから」

「それはそうでしょうが」と新八は<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>いらと云った、「駕籠があるし、なにかでよくくるんであげて、貴女が抱いてゆけばそんなに風に当ることもないと思いますがね」

「そうでしょうか」

「かれらに掠われれば、まちがいなく命にかかわるのですから、どうかできるだけ早くお支度をなすって下さい」

宇乃は「ええ」と頷いた。

彼女は迷った。新八は追われる者のような眼つきで、左右やうしろに、絶えず眼をはしらせながら、せきたてた。宇乃にはそれが、危険の迫っている証拠のように感じられた。それでようやく決心し、奥へはいっていった。新八は唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み、がたがたとふるえた。

<ruby><rb>宿坊</rb><rt>しゅくぼう</rt></ruby>の高い屋根をかすめて、さっと風が吹きおろして来、彼の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>や<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をたたいた。新八はちぢみあがった。

「とうとうやった、おれはとうとうやってしまった」彼の呟きはふるえていた、「しかも、宇乃さんを騙した、おれは、いやそうじゃない」

彼は首を振った。彼は口の中で「そんなばかなことがあるか」と呟いた。どうしてこんなことを思ったのだろう、騙しただなんて。おれは騙しなんかしやしない、おれは畑姉弟を救い出すんだ。そうだろう。柿崎さんは一ノ関の陰謀を知っている、おれたちの<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>を討たせてくれる、宇乃さんたちも、此処に置いては危ないから救い出すんだ。そうじゃないか、と彼は思った。

「そうだ、おれは二人を救い出すんだ」と新八は口の中で云った。

しかし、まもなく宇乃が出て来たとき、彼は<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>が地につかぬほどふるえだし、殆んど恐怖におそわれたような眼つきになった。宇乃のうしろに、着物でよくくるんだ虎之助を弥吉が抱き、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きわ</span>が包みを持ってついて来た。

「いま駕籠を呼びます」新八は門のほうへ走っていった。

塩沢丹三郎が良源院へ来たのは、宇乃たちの駕籠が、門を出たすぐあとであった。彼は虎之助のみまいに来たのであった。

昨夜、甲斐から虎之助が麻疹で寝ていると聞き、明日はみまいにいってやれ、と云われた。そのとき、みまいの品を持ってゆくようにと、幾らかの金も渡された。もちろんこんな時刻に来るつもりはなかったが、眼がさめると、にわかに気がせきたって、すぐにも宇乃に会い、虎之助のようすが知りたくなった。

――さぞ困っているだろう。

宇乃はまだ十三歳にしかならない。いくらおとなびていても、病気の弟をかかえては途方にくれるにちがいない。丹三郎には、宇乃の途方にくれた、悲しそうな顔が見えるようであった。

――みまいの品はあとでいい。

彼はそう思った。母親は「早すぎる」と云い、朝食をたべてからゆくように、と云った。まだ御門もあきはしないでしょう。いや、不浄門へいって頼みます。そんな問答をしながら、さっさと身支度をして、家を出て来たのであった。

良源院へ着くと、彼は横から裏へまわり、寺男の小屋を訪ねた。弥吉は薪を割っていた。丹三郎が近よってゆくと、弥吉は<ruby><rb>鉈</rb><rt>なた</rt></ruby>を持ったまま、けげんそうにこっちを見た。

「畑さんへみまいに来ました」と丹三郎が云った、「虎之助さんが病気だそうで」

弥吉は「へえ」となま返辞をし、左手の甲で鼻をこすった。風が吹きつけて、彼の半ば白くなった髪毛が、はらはらっと顔にかかった。

「その」と弥吉は云った、「畑さまの御姉弟は、お迎えが来て、いま出てゆかれたところですがな」

「迎えが来た、どこから」

「それはその、お屋敷からでございます」

「屋敷とはどこの」

「それはもう、原田さまにきまっております」

丹三郎は不安になり、しかし弥吉がなにか勘ちがいをしているのだ、と思った。だが弥吉は間違いではないと云った。事情はわからないが、たしかに原田家から迎えが来、宇乃は虎之助といっしょに、たいそう慌てて出ていった。迎えの者は駕籠を待たせていて、姉弟をその駕籠に乗せていった、と弥吉は云った。

丹三郎は色を変えた。

「そんな筈はない」と彼は云った、「屋敷から迎えの来る筈はない、そいつは偽せ者だ」

「なんでございますって」

「駕籠はどっちへいった」と丹三郎は叫んだ。

話し声を聞きつけたのだろう、勝手口からお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きわ</span>が覗いた。

弥吉は「出るな」というふうに、片手を振りながら、丹三郎に向かって、駕籠はおなり道のほうへいった、と答えた。

「私どもは門までお見送りしたのですが、たしかに御本邸のほうへゆきました」

「私は追いかける」と丹三郎が云った、「済まないが中屋敷へ知らせてくれ、いや待て」彼は唇を噛んだ。

誘拐者が誰だかわからない、<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>な者には知らせられないぞ。そう気づいて彼は首を振った。

「よし、その必要はない」

「わしもまいりましょう」と弥吉が云った。

丹三郎はもう走りだしていた。

<ruby><rb>御成門</rb><rt>おなりもん</rt></ruby>を出ると馬場があり、そのさきは武家屋敷がつづいている。真向から吹きつける風のなかを、丹三郎はけんめいに走った。けれども駕籠は見えなかった。その道はまっすぐ東へ通じているので、ゆく駕籠があれば見える筈である。切通しかもしれない、と丹三郎は思った。それとも芝の通りか、彼は立停った。すると、うしろで叫ぶ声がした。こちらです、と叫んでいた。

「塩沢さまこちらです」

振返って見ると、弥吉が切通しのほうを指さしていた。丹三郎は駆け戻った。

「いま<ruby><rb>愛宕下</rb><rt>あたごした</rt></ruby>のほうへ曲るのをみました」と弥吉が云った。

「付いている人数は」

「二人いたようです」

丹三郎はけんめいに走った。

まばらに往来する人たちが、走ってゆく丹三郎を見ると、慌てて脇へよけたり、不安そうな眼で見送ったりした。突風の来るたびに、道の上で<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>がまいあがった。――青松寺の前を少しいったところで、丹三郎は駕籠に追いついた。駕籠のうしろに、黒い羽折で、頭巾をかぶった侍が一人、前のほうに、まだ少年らしい侍が一人付いていた。

左は寺、すぐ向うに愛宕山が見える。右側は武家屋敷で、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>たちが門前を掃いているのが見えた。丹三郎は駕籠を追いぬいて、絶叫しながら前へ立ちふさがった。

「駕籠を停めろ」

そして「あっ」と眼をみはった。相手もあっといった。駕籠は停った。

「宮本ではないか」と丹三郎が云った。

新八はさっと蒼くなった、大きく眼をみはり口をあいたが、声は出なかった。

丹三郎は向うを見た。駕籠のうしろにいた侍が、こっちへ進んで来た。それは柿崎六郎兵衛であった。

丹三郎は新八に云った、「どうしたんだ、宇乃さんをどうするんだ、これはどういうわけだ」

「そこもとはなんだ」と云いながら、六郎兵衛が近よった。

丹三郎は相手の眼を見て危険を感じた。頭巾のあいだにあるその眼は、ぶきみな、殺気に似た光をおびていた。

「宇乃さん」と丹三郎は叫んだ、駕籠の中で、はいと答える声がした、「貴女は騙された、駕籠から出て下さい」

「駕籠をやれ」と六郎兵衛が云った、「小僧、邪魔をすると危ないぞ」

「宮本、この人は誰だ」

「おれは畑姉弟を救うのだ」と六郎兵衛が云った、「この姉弟の身が<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>われているから、安全な場所へ匿まってやるんだ」

「貴方は誰です」

「なのる必要はない」と六郎兵衛は云った、「早く駕籠をやれ」

「そうはさせぬぞ」

丹三郎はとびさがって刀を抜いた。新八はがたがたとふるえていた。

風がさっと埃を吹きつけた。丹三郎は片側が武家屋敷で、門前に<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>のいるのを見た。門前を掃いていた二人の仲間は、なに事かというように、こちらを眺めていた。弥吉も五六間はなれた処に立っていた。六郎兵衛は刀の柄へ手をかけ、「新八、駕籠をやらぬか」と叫びながら、丹三郎のほうへ近よって来た。

丹三郎は刀を<ruby><rb>青眼</rb><rt>せいがん</rt></ruby>に構えたまま、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>いっぱいの声で絶叫した、「お願いです、助勢して下さい、お願いします」

まばらな往来の人たちが立停り、向うで見ていた二人の仲間のうち、一人が屋敷の門の中へとびこんでいった。眼の隅でそれを認めながら、丹三郎はなお叫びつづけた。

「私は伊達陸奥守の家来です、どうか助勢して下さい、これはかどわかしです」

「黙れ小僧」六郎兵衛が詰めよった。

丹三郎は脇へまわりながら叫びつづけた。向うで弥吉も同じことを喚きたてた。

駕籠は走りだした。丹三郎は六郎兵衛を避けながら、絶叫しつつ駕籠の先へ先へとぬけていった。だが、六郎兵衛はすぐに丹三郎を追いつめた。そこは愛宕山の下で、左に男坂の高い石段が見える。丹三郎は<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>に架かった一間ばかりの石橋をとび、境内にはいりながら、「弥吉どの」と叫んだ。

「こっちは大丈夫だ、駕籠を追ってくれ」

弥吉の返辞が聞え、六郎兵衛が踏みこんで来た。

丹三郎は頭がかっとなった。踏み込んで来る六郎兵衛の体が、おそろしく<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きく、しかも圧倒的にみえた。斬られる、と丹三郎は思った。

六郎兵衛は彼を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだまま、ぐい、ぐいと近よりつつ、<ruby><rb>間合</rb><rt>まあ</rt></ruby>い二間ほどになると、刀の柄に手をかけた。丹三郎は動けなかった。おれは斬られる、ともういちど思った。

だが、そのとき、五人の侍が、こっちへ駆けつけて来た。さっきの仲間が知らせて、そこの武家屋敷から、助勢に来てくれたのであろう。

「伊達家の方はどちらだ」とかれらの一人が呼びかけた。

「私です」と丹三郎が云った、「大事な預け<ruby><rb>人</rb><rt>びと</rt></ruby>をかどわかされたのです。向うへゆく駕籠がそれです、どうか御助勢を願います」

「心得た」と云って、五人のうち二人は駕籠のあとを追い、三人はこっちへ来た。かれらは叫んだ。

「われわれは松平<ruby><rb>隠岐守</rb><rt>おきのかみ</rt></ruby>の家臣だ、助勢するぞ」

六郎兵衛は向き直っていた。彼は刀の柄へかけた手を放し、冷やかに三人を見た。その冷たい眼光と、おちついた隙のない身構えを見て、松平家の三人は、さっと左右にひらいた。

六郎兵衛は事が失敗したのを認めた。

彼は松平家の三人を、一人ずつ順に眺め、それから丹三郎を見た。

「小僧――」と六郎兵衛は云った、「うまくやったな」

丹三郎はまだ刀を青眼につけていた。

六郎兵衛は頭巾のぐあいを直し、両手をふところに入れて、ゆっくりと通りの方へ歩きだした。ゆっくりと、一歩、一歩、ためすような足どりで、ふところ手をしたまま。丹三郎も松平家の人たちも、じっと息をつめて、それを見送るばかりだった。

六郎兵衛が通りへ出たとき、松平家の他の二人と、弥吉とで、宇乃と虎之助を伴れ戻して来た。弥吉が虎之助を抱いていた。六郎兵衛はそれには眼もくれずに、薬師小路へと曲っていった。

丹三郎は刀をおさめ、松平家の人たちに礼を述べると、宇乃のほうへ走っていった。

「宇乃さん、けがはないか」

「はい」と宇乃は彼を見あげた、「弟を風に当てたのが心配です、まだ発疹しきらないものですから」

「いそいで帰りましょう」

「宮本さまは、わたくしをどうしようとなすったのでしょうか」

「わかりません、しかしやがてわかるでしょう」

丹三郎はもういちど、松平家の人たちに礼を述べた。そして四人は、風のなかを、良源院へと帰った。

## 断章（四）

――仙台の奥山（大学）どのから、また密訴の書面がまいりました。

「二度めだな、なんといって来た」

――茂庭（周防）どのの弾劾です。

「なんと申しておる」

――綱宗さまの不行跡は茂庭どのがすすめたものである、小石川の堀普請がはかどらず、多額の失費を重ねて藩の財政を窮迫せしめ、なお臣下一統を加役金にて苦しめながら、いつ普請を終るとみえぬのも、総奉行としての茂庭どのの責任である。

「初めて具体的なことを挙げて来たな」

――ほかにも三カ条ありますが、重要ではございません。

「要求はなんだ」

――辞職を求めております。

「辞職だと」

――茂庭どののような、悪心ある人とともに、御用を勤めることはできない、茂庭どのを罰し、国の仕置をぜんぶ自分に任せてくれるならいいが、さもなければ辞職するほかはない、と書いてあります。

「岩沼（田村右京）へも出したようか」

――同文の訴状をさしあげたとあります。

「では相談に来るだろう」

――岩沼さまがですか。

「気が弱いからな、とうてい握りつぶしにはできまい、きっと相談に来るだろう」

――どうあそばします。

「隼人ならどうする」

――茂庭どのをしりぞけるには、もっけの機会と存じます。

「浅慮だな、周防は堀普請の総奉行だぞ、幕府の公用を勤めている者を、そうやすやす動かせると思うか」

――これはあやまりました。

「たとえ動かすことができるにしても、このままでは動かしがいがない、もっと大学を怒らせるのだ」

――はあ。

「この密訴も握りつぶす、岩沼がまいったらきめつけてくれよう、後見の任にある身で、公私のけじめもつかぬか、大学の訴状など一顧の要もないとな」

――奥山どのは辞職なさらぬでしょうか。

「するものか、彼は周防を逐って国老首席になろうと、のぼせあがっている、辞職したいと申すのが本心なら、こんな密訴をよこすまえに辞職している筈だ」

――すれば、怒ること必定でございますな。

「他の三カ条とはなんだ」

――殿の御好意を願っております。

「泣きごとか」

――万治元年、殿に御加増の案が起こったおり、茂庭どのは三千石と申したが、自分は七千石御加増を主張し、同じ十二月の御加増には自分の主張どおり決定した、ひとえに頼む御方と信じたからであって、このたびの件については、格別の御好意を得たいと思う、こういう意味のことをしたためてございます。

「もうよい、ばかなことを申すやつだ」

――他の二カ条も申上げましょうか。

「もうよい、その訴状はしまっておけ」

――かしこまりました。

「周防から知らせはないか」

――なにもございません。

「将軍家へ、亀千代どの家督の礼として、献上品の相談がある筈だ」

――茂庭どのからはまだなんの知らせもございません。

「それだけか」

――比野仲右衛門がまいっております。

「会おう」

――お召しによって伺候つかまつりました、私、比野仲右衛門でございます。

「隼人はさがっておれ」

――はあ。

「人ばらいだぞ」

――かしこまりました。

「仲右衛門、寄れ」

――御免。

「そのほうさきごろ、亀千代どの<ruby><rb>抱守</rb><rt>だきもり</rt></ruby>の役を命ぜられたであろう」

――御意のとおり、大松沢甚左衛門、橋本善右衛門、両名とともに仰せつけられました。

「<ruby><rb>大役</rb><rt>たいやく</rt></ruby>ということを知っておるか」

――存じております。

「いや知ってはおるまい、知っておる筈はないぞ」

――はあ。

「橋本と大松沢のなかに、抱守としてそのほうを加えたのはおれだ、それは、そのほうのつらだましいを見込んだからだ」

――私は能のない人間でございます。

「おれが欲しいのは、不退転の忠志だ」

――うけたまわりましょう。

「亀千代どののために死ぬことができるか」

――御念には及びません。

「よく聞け、亀千代どのは安泰ではない、いつどんな事が亀千代どのの身に起こるか、わからないのだ」

――思いもよらぬことをうかがいます。

「そのほうは知る筈がないと云った」

――<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>をお聞かせ下さい。

「品川の下屋敷には、大町備前が家老として詰めておる、おれは後見役であって、下屋敷のことにも責任があるが、備前からの報告によると、綱宗どのは隠居が不服で、いまいちど陸奥守として世に出たい、と望んでおられるとのことだ」

――御本心からですか。

「いつか船岡（原田甲斐）が伺候したときなどは、いかにもしていまいちど世に出る、自分を隠居させたのは陰謀だと、佩刀を抜いて暴れたそうだ」

――御乱酔のことはうかがっています。

「綱宗どのに同情し、心をよせる者も少なくない、誤った同情から、どんなことを企む者があるかも計りがたい、事実、すでに不審なことが二三あったのだ」

――私には信じかねます。

「信じろとは云わぬ、信ずる必要もない、そのほうは一身を棄てる覚悟で、抱守の役をはたしてくれればよいのだ」

――その覚悟はできています。

「それでよい、呼んだのはその覚悟を聞くためだった、おれの眼に狂いはなかった、さがるがいい」

――ひと言うかがいます。

「なんだ」

――綱宗さまに心をよせる者があり、綱宗さまを世に返そうと計っているのは、事実でございますか。

「おまえは信じなくともよい」

――では、亀千代ぎみの御身辺に、なにごとかすでにあった、と仰せられるのも、事実なのでございますか。

「おれは信じろとは云わぬ、おれがそのほうに頼むのは、そのほうにとって抱守が大役であり、他の二人の同役とはべつに、幼君守護の責任をもつということだ」

――よくわかりました。

「おれが頼みにしていることを忘れるな」

――御期待にはそむかぬつもりです。

「さがってよい、また会おう」

「隼人か、なんだ」

――いまかの者がまいり、宮本新八が江戸にいると申しました。

「新八とは、うん、わかった」

――昨日早朝、良源院にあらわれ、お預けの畑姉弟を誘拐しようとしたと申します。

「新八は柿崎の手で匿まわれている筈だ」

――さようでございますか。

「柿崎がそう申しておった、新八がおれを<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>と覘っている、それで自分が押えてあると申した」

――では誘拐を命じたのは、六郎兵衛でございますな。

「成功したか」

――いや、塩沢と申す者が来あわせ、いま一歩というところで、奪い返されたと申すことです。

「新八はどうした」

――そのまま逃亡したそうでございます。

「柿崎め、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みそ</span>をつけたな」

――畑姉弟を手に入れるつもりだったのでしょうか。

「彼は<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けないやつだ、また隙をみてやるに相違ない、そして畑の姉弟もおれの首を覘っているということだろう」

――六郎兵衛を呼びつけましょうか。

「好きなようにさせておけ、いまに彼には申しつける役がある、彼に支払っただけのものは、必ずおれは取上げてみせる」

――九時でございます、<ruby><rb>厩橋</rb><rt>うまやばし</rt></ruby>（酒井忠清）さまへお越しあそばしますか。

「周防から知らせはないか」

――まだまいりません。

「では厩橋へまいろう、周防から来たら、おれに構わず相談をしろと云え」

――承知つかまつりました。

## 貝合せ

その日、――原田家の<ruby><rb>朝粥</rb><rt>あさがゆ</rt></ruby>の会には、いつになく珍らしい客があった。

国もとから出府して来た、柴田<ruby><rb>外記</rb><rt>げき</rt></ruby>と古内志摩（<ruby><rb>義如</rb><rt>よしゆき</rt></ruby>）、そして片倉小十郎である。柴田外記はさきごろ国老に就任したものであり、古内志摩は、国老の主膳重安の子で、年は三十、評定役を勤めていたが、父の主膳が、亡君忠宗の法要のため高野山に使いし、役をはたして国もとへ帰ったので、いれ替りに出府したものであった。

片倉小十郎（景長）は、<ruby><rb>刈田</rb><rt>かった</rt></ruby>郡白石城、一万七千石あまりの<ruby><rb>館主</rb><rt>たてぬし</rt></ruby>で、家格は「一家」に属し、小石川堀普請の奉行を勤めている。そのほかに老女の<ruby><rb>鳥羽</rb><rt>とば</rt></ruby>、里見十左衛門、伊東七十郎という顔ぶれであった。

老女の鳥羽は、浪人<ruby><rb>榊田</rb><rt>さかきだ</rt></ruby>六郎左衛門の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>で、十七歳のとき故忠宗の夫人の侍女にあがり、いまはこの本邸で、亀千代の守をしている。年は四十になるし、<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>もよくはないが、表情の多い眼つきや、やわらかな身ごなしなどで、ふと<ruby><rb>濃艶</rb><rt>のうえん</rt></ruby>な<ruby><rb>嬌</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしさをあらわす若さと、賢さをもっていた。伊東七十郎は二三日うちに帰国する筈で、話題はそのことから始まったが、七十郎はいつもの<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>を忘れたかのように、黙って酒ばかり飲んでいた。

十左衛門はそれが気になるようすで、しきりに七十郎のほうへ眼をやっていた。

――すぐ口論を始めるくせに。

と甲斐はおかしく思った。

上座では志摩と小十郎が話していた。陸前にある<ruby><rb>金山</rb><rt>きんざん</rt></ruby>の件である。あらたに兵部宗勝に加えられた領分の中に、伊達家の金山が含まれている。その鉱山から産する金は、兵部に属するか伊達本藩に属するか、という話であった。

「それはむずかしい問題だ」と片倉小十郎が云った。

「むずかしい問題です」と志摩が頷いた。

これは早く帰属をきめておかぬと、やがて<ruby><rb>諍</rb><rt>あらそ</rt></ruby>いのもとになると思う、と志摩が云った。柴田外記は黙っていた。志摩と小十郎の話がとぎれたとき、十左が辛抱をきらしたようすで、七十郎に呼びかけた。

「伊東どの、どうかしたか」

「うん」と七十郎が振向いた。

「ひどくふさいでおるようではないか」と十左が云った。「なにか気懸りなことでもできたのか」

「七十郎は<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>を折ったらしい」と甲斐が云った、「このまえ涌谷さまの別宴のときにな、そうではないか七十郎」

「別宴のとき、――なんですかそれは」

「云わぬほうがよかろう」と甲斐は微笑した。

柴田外記はにがい顔をした。金山の帰属をどうすべきかについて、いま片倉と志摩とが重要な話しをしているのに、甲斐は益もないことを云い始め、どうやら話題をそらそうとするらしい。たしかに、その話しを避けようとするようすなので、外記はあからさまに、ふきげんな顔をした。また、当の七十郎も十左も、甲斐の口ぶりで、甲斐が話しを変えたがっている、ということを察した。

「云ってもらいましょう」と七十郎は甲斐を見た、「私が茂庭家でどうしました」

「七十郎が、涌谷さまに会うのだ、と云いはりましてね」と甲斐は鳥羽に云った、「彼は招かれてはいないんです、松山（茂庭周防）は御承知のとおりの気性だし、涌谷さまは<ruby><rb>規矩</rb><rt>きく</rt></ruby>を<ruby><rb>紊</rb><rt>みだ</rt></ruby>さない方ですからね」

「それはいつの事ですの」と鳥羽が訊いた。

そう訊きながら、彼女は情をこめた眼つきで、甲斐をじっと見た。

「涌谷さまが帰国されるので、松山の家で別宴が設けられたときです」

「それでどうなりまして」

「私はとめたのですがね、七十郎はしゃれたことを云いました、じいさん、というのは涌谷さまのことですが、じいさんは格式や儀礼にはやかましいが、懐柔するぶんにはたやすい人です、というわけです」

「伊東さまらしいこと」

鳥羽は微笑し、片手で頬を押えながら、またじっと、甲斐の眼をみつめた。

「たぶんなにか懐柔する策があったんでしょう、大いに自負していたようですが、茂庭家ではむろん奥へとおしはしません、こちらで、と控えの間へいれられたまま、ついにめどおりかなわずです」

「原田さまもお人の悪い、どうしておとりなしをしてあげなかったのですか」

「そんなことをすれば、七十郎は怒りますよ」

「お怒りになるんですって」

「怒りますとも」と甲斐は云った、「彼は立派に自負していたんですからね、私がよけいな口をきいたりすれば、彼の誇りを傷つけることになるでしょう」

「伊東さまもむずかしいことね」

「私はわる酔いをして泊ってしまったので、彼がいつ帰ったか知りませんでしたが、まさしく彼はその角を折ったと思いますね、そうではないか、七十郎」

「私は自分に角があったとは思いません、したがって、ない角を折ることもできないと思うんですがね」

「里見どのの感想はどうですか」と甲斐が云った。

十左は当惑して、なにかぶつぶつと口ごもった。

「話しの途中だが」と柴田外記が云った。

つとめて感情を抑えているらしいが、五十二歳の彼の眼や、その声の調子には、隠しようもなく怒りがあらわれていた。一座はしんとなった。

「船岡どのは、いまの金山を、どう思われるか」

甲斐は当惑したように「さて」と云った。

「新たに一ノ関へ加えられた領内に、金の<ruby><rb>鉱山</rb><rt>やま</rt></ruby>がある、それから産する金は、本藩のものか、一ノ関のものか、船岡どのはどちらが至当と思われるか」

「失礼ですが」と甲斐は穏やかに云った、「この朝粥の会では、政治むきの話しはいっさい禁物、ということにしてあります」

「わしは聞きたいのだ」と外記は云った、「そのほかにも不審なことがある、一ノ関では藩の御用船を<ruby><rb>気仙沼</rb><rt>けせんぬま</rt></ruby>にまわし、<ruby><rb>御蔵米</rb><rt>おくらまい</rt></ruby>と称して自分年貢の米を江戸へ<ruby><rb>回漕</rb><rt>かいそう</rt></ruby>している、これはたしかな事実だが、これらについても、江戸の重職の意見が聞いておきたいと思う」

「私はまだ評定役にすぎませんので」

「いやそうではあるまい」と外記がするどく云った、「船岡は<ruby><rb>着座</rb><rt>ちゃくざ</rt></ruby>の家柄であり、一ノ関のあと押しで、近く国老に任ぜられるそうではないか」

「これは、これは」と甲斐は苦笑した、「どこからそんな<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が出たか知りませんが、私はいまうかがうのが初めて、それは意外でございますな」

「わしは意外とは思わぬ」と外記は云った、「わしだけではない、涌谷でも意外とは思っておられぬようだ、しかしいまそのことは措こう、わしの問いに答えてもらいたい」

「では申しましょう」と甲斐は頷いて云った、「私は詳しいことは知りませんが、御領内の金山は、政宗公が豊家から拝領したとき、いかほど金を産するとも、自分に処理して、公儀に召しあげられることなし、という証判が付いておりました」

「わしはそんなことを訊いてはいない」

「以来、――御領内には」と甲斐はつづけた、「金山本判持という者が置かれ、これが鉱山を経営して、毎年それぞれ役金を藩におさめております」

「だからどうだというのか」

「もし仮に、本藩で公儀へ、産金のいくばくかを献納するとすれば、その金山は本藩に属するでしょう、そうでないとすれば、鉱山は土地に付いたものですから、その土地を領する人に属するのが当然ではないでしょうか」

「それが、そこもとの、意見なのだな」

外記は辛うじて喚くのを抑えた。外記が喚くのをがまんしたことは、その顔が赤く怒張し、唇が見えるほどふるえるのでわかった。

「なるほど」と外記は云った、「それで船岡どのに、一ノ関さまの<ruby><rb>御贔屓</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>のかかっている理由がわかった」

「これはどうも」と甲斐は目礼して云った、「たって意見を述べろとのことで、思いつくままを申し述べたのですが、<ruby><rb>米谷</rb><rt>まいや</rt></ruby>どのにはお気にいらぬとみえますな」

「わしは頑固な田舎者だ」と外記が云った、「融通のきく頭も持たぬし、人のきげんをとることも知らぬ、だが、義不義、正邪黒白の判断ぐらいはできる、そのくらいの眼は持っている、ということを覚えていてもらいましょう」

「これは困りました」と甲斐は片倉小十郎に云った、「すっかり米谷どののきげんを損じたようです、白石どの、おとりなし下さらぬか」

「わしは帰る」と外記は座を立った。

小十郎や鳥羽がなだめたが、古内志摩も立ちあがり、「では私もごいっしょに」と帰り支度をした。甲斐は辛抱づよく<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びを云い、堀内惣左衛門に二人を送らせた。

座はすっかりしらけてしまい、それからは話しもはずまず、やがて小十郎が盃を伏せ、給仕の成瀬久馬に、「食事を」と云うと、老女の鳥羽も、里見十左衛門も食事を求めた。すると初めて、伊東七十郎が顔をあげ、十左に向かって云った。

「まだ飯は早い、里見さんはまだだめだ」

「いや、飯をいただこう」

「まあいい、一つまいろう」七十郎は盃をさした、「今日は気がふさいでしょうがなかったが、船岡の館主がきめつけられるのを見て、きれいに<ruby><rb>溜飲</rb><rt>りゅういん</rt></ruby>がさがった」

「伊東さま」と鳥羽が向うから<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。

「なんですか」

「少し口をお慎しみあそばせ」

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>にはその眼を慎しんでもらいたいですね、貴女のそのにらみかたは不謹慎だ、柴田老は気がつかなかったらしいが、さっきから私はひやひやしていたんですぜ」

「あら、なんでひやひやなすったんですか」

「そらその眼だ」と七十郎は云った、「その眼でね、貴女は休みなしに、誰かの顔を眺めていたんだ」

「まあ、伊東さまったら」

「<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>と、溶けるような眼つきでね、そうでしょう原田さん」

鳥羽は平然と<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を取った。十左がさも不快そうに云った、「ばかなことを云う男だ」

七十郎は笑った、「里見老などにはばかなことだろうさ、しかし米谷の館主が気づいたら、面白かったんだがな」

「教えてやればよかった」と甲斐が云った、「そうすれば誰がきめつけられたか、わかっただろうにな」

「まあいいですよ」

七十郎はにやりとし、十左に向かって「盃を返してくれ」とうながした。そして、塩沢丹三郎に酌をさせながら、十左に云った。

「とにかく、これで原田さんも万全ではなくなったわけさ、なにしろ温和で<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>で、<ruby><rb>情誼</rb><rt>じょうぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>くて、かつていちども人に憎まれたり<ruby><rb>貶</rb><rt>そし</rt></ruby>られたりしたこともなし、そういう隙をみせたこともない人だったからな」

七十郎は自分で「うん」と頷き、ぐっと盃を<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>ってつづけた。

「ところでここに敵があらわれた、しかも面と向かって、真正面から挑戦の矢を射かけた、発止とね、万全の座が崩れた、これで原田さんも人間だったということがわかったわけさ、面白くなるぞ」

「船岡どのは」と十左が、七十郎には構わず甲斐に向かって云った、「さきほど米谷どのに御意見を述べられましたが、あれは御本心でございますか」

「そら、二ノ矢だ」と七十郎が云った。

「そこもとは黙ってくれ」と十左が云った。

「その話しはよそう」と甲斐が云った、「朝粥の会に政治の話しは困る、米谷どのにぜひと云われて、やむを得ず当座の思案を述べてしまったが、私はその職でもないし、むずかしいことはわからない」

「しかし金山の帰属ということが問題になれば、御評定役としてその衝に当らなければなりますまい」

「それは御一門、御一家の意見による」

「御評定役の係りではないと仰しゃるのですか」

「もういちど云うが」と甲斐が穏やかに云った、「そういう重い問題については、御一門、御一家の意見がさきで、国老がその判定をするか、評定役の当番になるかは、その意見によってきまるのでしょう」

「では御評定役がその衝に当るとして、お考えのほどをうかがいましょう」

「その話しはよそう」

「うかがえませんか」

「云えないでしょうね」と甲斐は微笑した、「まだ問題が起こってもいないのに、起こったらどうするかと云われても返辞のしようはない、この話しはよしましょう」

小十郎は黙って、食事をつづけていた。十左は顔を硬ばらせ、不満そうな、そして<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>るような眼で、甲斐の横顔をみつめた。原田どのはこんな人ではなかった、と十左は思ったようであった。

七十郎はそらとぼけた眼つきで、甲斐と十左を眺め、また、そ知らぬ態で食事をたしている小十郎や、箸をはこびながら、気遣わしそうに、ちらちらと、甲斐のようすをうかがっている鳥羽の表情を、ひそかにぬすみ見ていた。

「惜しいところで幕か」と七十郎は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた、「もうひと<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み揉んでもらいたいんだがな、丹三郎、酒だ、原田家の朝粥は、なまぬるいふやけたような会だったが、こうなると捨てたものではない、原田さん、ひとつこれからは政治ばなしの禁制を解こうじゃありませんか」

「私も食事にしていただきましょう」と十左が云った。

それに対して、七十郎がまたなにか云おうとしたが、堀内惣左衛門が来て、甲斐に「鳩古堂がまいっております」と告げた。甲斐は頷き、待たせておけと云って、盃を伏せた。それはこの会の終ったことを示すように、客たちにはみえた。

「どうかお構いなく」と七十郎は云った、「私はまだこれからですから、皆さんはどうかお構いなくやって下さい、丹三郎、酒をもっと云いつけておいてくれ」

甲斐は茶を命じた。

七十郎は腰を据えて飲みだしたが、まもなく片倉小十郎が立ち、鳥羽が立ち、里見十左衛門も立った。三人が去ってから、甲斐も座を立つと、七十郎がにっと笑いながら云った。

「みごとでしたよ、原田さん」

甲斐は振向いて、静かな眼で七十郎を見た。七十郎はもういちど笑った。

「私は貴方が好きだ」

「あれだけ私をへこませてか」と甲斐が云った。

七十郎は肩をすくめた、「冗談でしょう、貴方をへこませるかどうか、貴方の<ruby><rb>詩</rb><rt>うた</rt></ruby>をひきたてるために、私がへたな琴を弾いたことはわかっている筈です」

「わからないね、いっこうにわからない」

「私を舐めてはいけません」と七十郎は云った、「私は少なくとも耳が聞えるし眼も見えるし、わりに正確な勘も持っていますからね」

「それは知らなかったな」甲斐がゆっくりと云った、「覚えておこう」

「いつも云うが、貴方にはかなわないところがある、原田さんには負けます、しかし私だって伊東七十郎ですからね、ほかのつんぼやめくら共と同じに考えないで下さい」

甲斐は「覚えておこう」と云った。

甲斐が居間へはいると惣左衛門が鳩古堂の箱を持って来て渡した。

「米谷さまのお言葉にはおどろきました」と惣左衛門が云った。甲斐は「うん」と頷きながら、箱をあけて、<ruby><rb>斑入</rb><rt>ふい</rt></ruby>りの軸に、虎毛の穂の付いた筆を取った。

「あの噂は私なども初耳ですが、どこから出たものでしょうか」

「噂とは、――」

「一ノ関さまに推されて、国老になられるということです」

甲斐は筆の軸を静かに抜き、その軸の中から、小さく巻いた<ruby><rb>薄葉</rb><rt>うすよう</rt></ruby>紙を取出すと、注意ぶかく机の上でひろげながら、当然のことのように云った。

「むろん、涌谷さまだ」

惣左衛門は<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>におちない顔をした。甲斐は密書を読み、それをすぐ、<ruby><rb>火桶</rb><rt>ひおけ</rt></ruby>の火にくべながら、ふと<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついた。

「米谷どのは上府するまえに、涌谷へ寄られたのだろう、そのとき涌谷さまが話されたのだと思う」

「そう致しますと」

「<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>かれたらしいな」と甲斐は云った。

惣左衛門はようやくわかったとみえ、いたましそうに主人のうしろ姿を見た。甲斐は机に<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>で<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れた。

「いよいよ、御苦労が始まるのですか」と惣左衛門が云った。

「なに、さしたることはない、さしたることはないだろう、あまり気を病まぬがいい」

「私は、お側に仕えるのが、辛うございます」と惣左衛門が云った、「隼人をお召しになって、私にお国もと勤めを願えませんでしょうか」

「おまえはそうはしないだろう」

「私はお側にいるのが耐えられそうもございません」

「おまえにはそうはできない」と甲斐が云った、「たとえおれがそう云っても、おまえは国もとへは帰らないだろう。また国もとには国もとで、やがて辛いことが起こる、隼人にも苦労をかけなければならない、惣左衛門は江戸で勤めてくれ、惣左は江戸では欠くことのできない人間だ」

「私は、ただ、――」と惣左衛門は云いかけて、あとは云わずに頭を垂れた。

「湯島へゆく」と甲斐が云った、「供は喜兵衛に舎人、それから久馬だ」

「成瀬でございますか」

「うん、久馬だ」と甲斐が云った、「たぶん泊ることになるだろう、届けておいてくれ」

惣左衛門は消えるように「は」と答えた。

## あやめもわかず

湯島の家へゆくと、甲斐は寝間の支度をさせて横になった。

「灯を入れる頃に起きる」と甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に云った、「<ruby><rb>雁屋</rb><rt>かりや</rt></ruby>と、いつもの芸人たちをよんでおいてくれ」

「お話しがあります」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は云った。

甲斐は「あとだ」と云って眼をつむった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は枕もとに坐り、低い声で<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「御老中の酒井さまがいらっしゃいました」

甲斐は眼をあいた、「――酒井さまが来たって、ここへか」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は頷いた。いつだ、と甲斐が訊いた。昨日です、とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が云った。甲斐は眼をつむった。

「話してくれ」

「家の前でお<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を停め、気分が悪くなったから休ませてもらいたい、と仰しゃいました」

「酒井侯となのってか」

「あとでお供の方が、内密だが、といって知らせて下さいました」

「座敷へあげたのか」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は「はい」と答えた。

甲斐の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>に<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がよった。彼は掛けた夜具を、胸から下のほうへと、静かにずらし、それからまた「話してくれ」と云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は話した。<ruby><rb>雅楽頭</rb><rt>うたのかみ</rt></ruby>は五人の供をつれていた。寛永寺へ<ruby><rb>参詣</rb><rt>さんけい</rt></ruby>の戻りだそうで、座敷へとおると<ruby><rb>白湯</rb><rt>さゆ</rt></ruby>を求め、懐中薬をのんだ。気分が悪いというふうにはみえなかったし、しばらくすると酒が欲しいと云いだした。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はむっとした。――無礼なことを云う人だ、いかにも身分の高い人らしいが、そんなことを云うのは、こちらを町家の人間とみくびったのであろう。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は断わりを云った。

――自分には浪人ではあるが武家の主人がいる。いまその主人が留守だから、酒の接待はできない。

すると相手は笑って、その浪人の名はなんというぞ、と訊いた。

――<ruby><rb>八十島主計</rb><rt>やそしまかずえ</rt></ruby>と申します。

――たしかにそうか。

――わたくしはそう聞いております。

――まあいい、酒を飲もう。

相手はまた笑った。そのとき、供の一人がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>を脇へ呼び、その人が老中の酒井侯であり、自分は用人の松平内記であること、御主人のためにも悪くは計らわないから、酒の支度をしてくれるようにと云って、金を包んでさし出した。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は金を返して、<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>の<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>をととのえた。雅楽頭は半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ほどきげんよく飲んだ。

――その八十島という男は、よほど果報な生れつきとみえるな。

雅楽頭はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>をそんなふうにからかった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は相手にならなかったが、雅楽頭はなおつづけた。

「待て」と甲斐が云った、「そこをどう云ったか、もっと詳しく話してくれ」

「あたしの口からは云いにくうございますわ」

「云いにくいところは略してもいい」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は考えて、よく思いだすというふうにつづけた。

云いにくいというのは、自分が褒められたことらしい。こんなきれいな女と、こんな静かな隠宅を持っているとは、よほど果報めでたい男であろう。自分もあやかりたいものだ、ぜひ近いうちにその八十島と会いたい、屋敷へ遊びに来るように伝えろ。そちらで屋敷へ来なければ、自分の方でまたこの家へ来る。必ずそう申し伝えろ、と云ったそうである。

甲斐はややしばらく黙っていたが、やがて<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、「わかった」と云った。

「あなたが伊達家の原田さまと知って、いらっしたのでしょうか」

「どうだかな」

「あたしにはそう思えました」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は云った、「あなたを原田さまと知っていて、なにかわけがあっていらしった、というふうに思えましたわ」

「どうだかな」と甲斐は云った。

「なにか思い当るようなことはないんですか」

「私は酒井侯とはなんのかかわりもない」と甲斐は云った。そのとき、彼の眉間にまた皺がよった、「むろん、ここへ訪ねて来られるような覚えもないし、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が心配することは少しもないよ」

「そうでしょうか」

「少し眠らせてくれ」

「でも、こんどいらしったらどうしましょう」

甲斐は答えなかった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は彼の寝顔を見まもっていたが、やがて、そっと立って出ていった。

――なんの<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>だ。

甲斐は眼をつむったまま思った。

――どんな<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の直感は当っている。その口ぶりから察すれば、雅楽頭がこの家を訪れたのは、原田甲斐の隠宅と知ったうえでのことである。そして、「屋敷へ遊びに来い」と云い、「来なければ自分がまた来る」と云ったという。

――どうするつもりなのか。

老中でも、めきめき威勢を高めている雅楽頭忠清が、自分のような陪臣に、なぜそんな興味をもつのか。兵部少輔宗勝と、雅楽頭との関係はわかっている。伊達家において兵部がいまなにを計画しているかということも、その背後に雅楽頭の支持があることもわかっている。だが、雅楽頭その人が、どうして甲斐に手を伸ばすのか、という点になると、彼には理解しがたいのであった。

甲斐が起こされたとき、もう日は<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れて、部屋には灯がはいっていた。彼は知らぬまに眠った。その眠りが彼の気力を<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>させたようである。雅楽頭がこの家へあらわれたことも、いまではさして軍荷とは感じられないし、数日来の心労も軽くなったようであった。風呂にはいり、<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>り、着替えをして出てゆくと、その座敷には<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>が並び、<ruby><rb>雁屋信助</rb><rt>かりやしんすけ</rt></ruby>も、芸人たちもすでにそろって、酒肴の膳を前に坐っていた。甲斐が<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を取ると、信助が話しだした。

船岡では気候に変調があり、五月ころのような陽気がつづいたため、<ruby><rb>麹屋</rb><rt>こうじや</rt></ruby>では<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるみ</span>味噌を十幾<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>かだめにしたそうである。だめにしたとは腐らせたのか、と甲斐が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。いや、味噌のことですから腐りはしないでしょうが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるみ</span>が混っているために味が変って、売り物にならなくなったということです。十幾樽とは大樽だな。もちろんそうでございましょう。それは損害だな、と甲斐は苦笑した。

「では麹屋はもう作るまい」

「そうでしょうか」

「彼は初めから気がすすまなかった」

甲斐は苦笑しながら云った。

彼が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるみ</span>味噌を作らせたのは、土地の名産の一つにしたかったからである。そして麹屋又左衛門に相談した。麹屋は古くから船岡で醸造を営んでいたし、原田家の金御用をも勤めていた。相談をうけた又左衛門は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるみ</span>を味噌に<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>き混ぜることは、保存がむつかしいし、風味の点で一般的とはいえない。売れてもさしたる利益はないだろう、と難色をみせた。甲斐は大きな利益を期待したのではなくそれを名産として、うまく販路をひろげることができればたとえ利率は少なくとも、将来一定の年収に加えられるかもしれない、と思ったのであった。

――損をしたら原田家が償う、利益があったらこれこれの割で分配しよう。

甲斐はそういう約束で、ようやく又左衛門を承知させたのであった。それから約一年、雁屋信助に販売をさせる一方、甲斐も知友にその味をこころみさせてきた。そして、それは<ruby><rb>嗜好品</rb><rt>しこうひん</rt></ruby>としてはかなり珍重されるが、大量に売れるものではないということが、しだいにはっきりして来たのであった。

「年貢だけに頼っていては、武家の経済はやってゆけなくなる。なにか他に年収のみちを計らなければならない、そう考えた手始めにやってみたのだが」甲斐は<ruby><rb>自嘲</rb><rt>じちょう</rt></ruby>するように云った、「やはり素人の商法はうまくゆかぬらしいな」

「どうでございますかな」

「――なにを笑う」

「失礼いたしました」雁屋信助は低頭して云った、「あまりまじめに仰しゃるので、つい<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しくなったのです」

「まじめにとは」

「お叱りをうけるかもしれませんが」と信助は云った。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるみ</span>味噌が御経済のために、考案されたかどうか、ほかの者は知らず、この信助だけはよく存じております」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるみ</span>味噌か」と甲斐は苦笑しながら、眼をそむけた、「その話しはやめにしよう」

信助は黙って低頭した。

しょうばいはどうだと、甲斐が訊いた。まずまずというところです。幾らか好転したのか。もう少し待ってみないとわかりません。じつは<ruby><rb>唐船</rb><rt>からふね</rt></ruby>が相変らず停ったも同様なので、自分で船を二<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>もってみました。株を買ったのか。いや、と信助は口をにごした。

甲斐は信助を見た。信助はその眼を避けるように、芸人たちに向かって「始めろ」と合図をした。<ruby><rb>鳴物</rb><rt>なりもの</rt></ruby>が<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかに始まり、若い男と女太夫の二人が立って、猿若を踊りだした。甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に酌をさせながら、なんの屈託もなさそうに、ゆっくりと飲んでいた。

成瀬久馬は甲斐のうしろに坐っていたが、ときどき眼の隅で右のほうを見た。そちらの<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>ぎわに、二人の小間使が控えている。一人はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うら</span>、一人は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みやぢ</span>という。どちらも十七歳であるが、久馬の視線が動くたびに、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うら</span>の表情にも敏感な変化があらわれた。二人の小間使は、膳の上の酒肴を、さげたり運んで来たりするため、そこでじっとしているわけではないが、坐っているときには、久馬とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うら</span>とのあいだに、その眼つきや僅かな表情で、なにかを（互いに）通じあっているようであった。

半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかりすると、甲斐は盃を置き、そこへ横になって「久馬、足をさすれ」と云った。だが久馬は答えなかった。鳴物の音もあるし、甲斐の声も低かったが、久馬はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うら</span>に気をとられていて、まったく耳に入らなかったのであった。

甲斐は振向いて彼を見、もういちど「足をさすれ」と云った。久馬ははっとし、自分をみつめている甲斐の眼に気づくと、殴られでもしたように、うしろへしさって手をついた。

「なにをうろたえている」甲斐は静かに云った、「おれの云うことが聞えなかったのか」

久馬は「は」と平伏した。

久馬のようすが唯ならぬので、芸人たちは鳴物をやめ、踊り手も踊りをやめた。甲斐はそちらへ手を振り、「なんでもない、続けろ」と云い、穏やかな眼で、久馬をじっと眺めた。芸人たちはまた芸を始めた。

「久馬」と甲斐が静かに云った、「いつも<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そこつ</rt></ruby>なくやって来たのに、今日はどうした、そんなことでは大事な勤めがはたせまいぞ」

久馬は平伏したまま息をのんでいた。甲斐の言葉には二重の意味がある、久馬はそう感じたようであった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>がそばから云った、「もう堪忍してあげて下さいまし、きっと疲れておいでなんでしょ、あたしがお<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みしますわ」

「いや大丈夫です」と久馬は顔をあげた、「私は疲れてはおりません、うっかりしていてついお申しつけを聞きはぐったのです、お腰を揉むのですか」

「よし、もういい」と甲斐はもの憂げに云った、「そうむきになるほどのことではない、さがって休め」

「私は疲れてはいません」

「さがって休め」と甲斐が云った。

久馬は甲斐を見た。甲斐は<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を立て、手で頭を支えながら、うっとりと眼をつむっていた。

――久馬は座をしさりそれから立って出ていった。甲斐はそのままうとうとしているようであった。いつものことなので、芸人たちは代る代る芸を演じたり、信助にすすめられて酒を飲んだりした。

そして八時ごろになると、甲斐はさりげなく立って、ちょっと信助の顔を見てから、そこを去って寝間へはいった。寝間にはさっきのまま夜具がのべてあった。甲斐のあとから来たお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が、「おでかけでございますか」と訊いた。

甲斐は首を振った、「松山が来るんだ」

「茂庭さまがですか」

「うん、木戸をあけておいてくれ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は出てゆこうとして、どこへ客をとおすのか、と訊いた。

おまえの寝間がいい、と甲斐が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が出てゆくと、甲斐はそのまま夜具の中へ横になった。座敷では、鳴物や唄の声が、高くなり低くなり、賑やかに続いていたし、ときには信助のうたう、<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>びたお国ぶりも聞えて来た。

<ruby><rb>周防</rb><rt>すおう</rt></ruby>の来たのは十時すぎであった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の狭い寝間に<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>をまわし、灯をくらくして、<ruby><rb>火桶</rb><rt>ひおけ</rt></ruby>を中に二人は坐った。

「風邪をひいてしまった」周防は頭巾をとりながら、こう云って袖で口を押えて<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をした。周防は顔色が悪く、灯がくらいためか、頬がひどくこけたようにみえた。

「どうしてもこの咳が止まらない、夜もよく眠れないのでまいっている」

「私のほうからいってもよかったのに」

「場所がない」と周防が云った、「小石川の小屋場からはなれられないし、小屋場では会う場所がなくなった。どんな隅にも眼と耳が配られているようだ」

甲斐は頷いて云った、「話しを聞こう」

「吉岡（奥山大学）から両後見に密訴があった」と周防が云った。

甲斐はうんと頷いた、「そうらしいな」

「知っているのか」

「つい先日、耳にはいった」

「内容も知っているのか」

「まず聞こう」

「私の弾劾だ」と周防が云った、「いろいろと無根の罪状を並べたうえ、一日も早く処罰するよう、そして国の仕置を自分一人に任せてくれるように、さもなければ辞職すると書いてあったそうだ」

「二度か、三度目だ」と甲斐が云った。

周防は充血した眼で、<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しげに甲斐を見た。甲斐はまた云った。

「これまでに幾たびか、そういう訴状を一ノ関の手へ送っているらしい」

「同じ意味のものか」

「そういうことだ」

「私はこんどが初耳だ」と周防は云った、「船岡が聞いていたのなら、どうしてひと言そういってくれなかったのだ」

「知らせてどうする」と甲斐は穏やかに云った、「堀普請が故障つづきで、吉岡でもこの点をつよく追求しているらしいが、工事を完成させるために松山は精根をつくしている、そのうえ密訴のことなど、どうして私に知らせることができるか」

「堀普請とそれとはべつだ、吉岡が私を弾劾しているとすれば、私もそれに対抗する手段を講じなければならぬではないか」

「なんのために」

「なんのためだって」

周防の落ち<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>んだ頬が、ぴくっとひきつった。彼は袖で口を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>って咳をし、息をととのえてから、低い声でするどく云った。

「奥山大学と一ノ関とは特別な関係がある、かつて一ノ関に加増の議が起こったとき、吉岡ひとり<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>を張って、加増の高を増した、一ノ関はそれを徳としているし、吉岡はそれを手掛りに一ノ関と組もうと計っている、自分一人に国の仕置を任せよというのは、そうすれば一ノ関の思うままの政治をしようという意味なのだ」

甲斐の額に皺がよった。横に三筋、くっきりと深く皺をよらせ、片手で静かに、火桶のふちを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。

「一ノ関はまた訴えを利用するだろう」と周防はつづけた、「無根の条目を<ruby><rb>牽強付会</rb><rt>けんきょうふかい</rt></ruby>して、私の罪状をつくりあげ、私を国老の席から放逐するに相違ない、これでも対抗策をたてる必要がないと思うか」

「松山は疲れている」

「私は首席国老に坐っていなければならない、藩家を犯そうとする勢いをくい止めるために、第一の堤防として、この席を動くことはできないのだ」

「松山は疲れている」と甲斐はまた云った。

周防は<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>をしずめるように、袖で口を押えて咳をした。甲斐は静かに眼をあげた。

「吉岡が一ノ関と組もうとしていることは、あるいは事実かも知れない、しかし、それが本心でないことは、一ノ関がよく知っている」

「本心でないとは」

「吉岡の本心は、むしろ一ノ関を押えることだと思う」

周防はまた訝しそうな眼をした。甲斐はゆっくりと云った。

「七月の評定役会議で、遠山<ruby><rb>勘解由</rb><rt>かげゆ</rt></ruby>がひとり異をとなえ、渡辺金兵衛ら三名を<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>にかけた」

「それは聞いている」

「遠山勘解由は吉岡の弟で、彼を評定役に推したのは一ノ関だ、それにもかかわらず、勘解由は一ノ関に盾をついた」

「盾をついたとは」

「渡辺金兵衛らには一ノ関の息がかかっている、あの七月十九日夜の暗殺事件は、一ノ関が糸をひいたものだ」

周防は頷いた。甲斐は静かに続けた。

「勘解由が三人の訊問を主張したのは、むろん吉岡の指図によるものだし、吉岡がなぜそんなことをしたかといえば自分の存在を一ノ関に知らせるためだと思う」

「反対者としてか」

「向背両面の意味でだ」

「というと」

「吉岡はまじめなんだ」と甲斐は云った、「奥山大学という人物は、まじめに藩家のおためをおもっている、自分こそ藩家の柱石となる人間だと信じている」

「それは船岡の見かただ」

「まあ聞いてくれ」甲斐は火桶のふちを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でながら、いかにも穏やかな調子でつづけた、「こんどの事では、一ノ関をべつにして、すべての人がまじめに、藩家のおためをおもっている、渡辺金兵衛ら三人の暗殺者も、一ノ関に糸をひかれているとは気がつかず、心から藩家のおためと信じて暗殺を決行した、吉岡もそのとおり、自分ひとりで国の仕置をすることができれば、必ず藩家を安泰にしてみせる、そのほかに万全なみちはない、と確信しているんだ」

「私にはそうは思えない」

「彼が一ノ関と手を握りたがっているのは、自分の権勢欲のためではなく、首席国老になるための方便なのだ」

「それは船岡の思いすごしだ」

「もう少し聞いてくれ」と甲斐は云った、「大学という人はそういう人物なのだ、そして、一ノ関はそれをよく知っている、一ノ関がそれを知っているところに、むずかしい点があるんだ」

周防はじっと甲斐を見た。

「つづめて云えば」と周防が訊いた。「暗殺の件についての評定のときに、私は気がついた」と甲斐は云った、「一ノ関は<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>に紛争を起こさせようとしている、知ってのとおり、仙台<ruby><rb>人</rb><rt>びと</rt></ruby>は<ruby><rb>我執</rb><rt>がしゅう</rt></ruby>が強く、排他的で、藩家のおためという点でさえ自分の意を立てようとする、綱宗さま隠居のとき、御継嗣<ruby><rb>入札</rb><rt>いれふだ</rt></ruby>のとき、老臣誓詞のとき、いちどとして意見の一致したことがなかった」

周防は頷いた。

「現にこんど亀千代さま御家督の礼として、将軍家へ献上する金品についても、老職の意見がまちまちで、いまだに決定しない」と甲斐はつづけた、「それも妨害するつもりではなく、それぞれが伊達家のためをおもい、しんじつ忠義のためと信じている、そして、もし自分の意見がとおらなければ、すぐにも切腹しかねないようなことを云う、奥山大学などは、その典型的な一人といっていいだろう」

「すると、密訴のことはどうなると思う」

「わからない」と甲斐は首を振った、「ただ推察されることは、一ノ関が吉岡を怒らせて、松山とのあいだに紛争を起こさせるだろう、ということだ」

「率直な意見を云ってくれ」と周防が云った、「私はどうしたらいい、<ruby><rb>歪曲</rb><rt>わいきょく</rt></ruby>された無根の罪状を、黙って甘受すべきなのか」

「いかに歪曲し牽強付会しても、無根の事実で人間を罰するわけにはいかない、たって係争すれば黒白は明白になる、しかし、それは一ノ関の思うつぼだ、国老間に紛争が起これば、一ノ関は後見として、幕府老中の裁決を乞うだろう、そうは思わないか」

周防は眼を伏せた。

「いつか松山の家で、涌谷さまと三人で話した」と甲斐はつづけた、「一ノ関には、伊達六十万石を分割し、その半ばを取ろうという野心がある、うしろ盾は酒井雅楽頭、――家中紛争をもちだせば、雅楽頭の手で必ず老中にとりあげられる、それだけはまちがいなしだ」

「そうだ、おそらく、それはたしかだろう」

「松山は辞職すべきだ」と甲斐は云った、「堀普請が終りしだい辞職するがいい」

「すれば吉岡が代るぞ」

「火は燃えきれば消える」

周防は暫く考えていて、やがて頷き、「但し条件がある」と云った。

「私が辞職する代りに、船岡が国老になってくれるか」

「もうその<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が出ている」と甲斐は苦笑した。

「噂が出ているって」

「<ruby><rb>米谷</rb><rt>まいや</rt></ruby>から今日そのことを云われて、殆んど面目を失ったかたちだった」

「どういう意味だ」

周防はまた袖で押えながら咳をした。それがしずまるのを待って甲斐は云った。

「一ノ関のしり押しで、近いうち国老になるそうではないか、と云われた」

周防は「ほう」といった。

「私は初めて聞くし、思いもよらぬことだと云った、すると米谷が、自分は意外とは思わぬし、涌谷さまも意外とは思っておられぬようだ、と云った」

甲斐は静かな眼で周防を見た。周防はそっと頷いた。

「――涌谷さまか」

「ほかにはあるまい」と甲斐も頷いた、「米谷は口のかたい篤実な人だ、世間の噂やかげぐちなどに乗せられる人ではない、しかし、涌谷さまから聞かされたとすれば信ずるだろう」

周防は「うん」といった。

「涌谷さまはみごとに人を選んだ、柴田どのはまったく信じていたようだ」

「そうか」と周防が低い声で云った、「では船岡にも、敵ができたわけだな」

「七十郎は一ノ矢だと云った」

「彼もいたのか」

「<ruby><rb>朝粥</rb><rt>あさがゆ</rt></ruby>の会に招いたのだ」と甲斐は微笑した、「古内志摩と白石（片倉小十郎）、それに老女の鳥羽どの、里見十左、七十郎という顔ぶれだった」

「それは、それは」

「効果はてきめんだった、米谷と古内が立ったあとで、里見十左がさっそく詰問し、七十郎はそれを二ノ矢だと<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>した」

「すると、一ノ関の耳にも、すぐ伝わるな」

「もう伝わっているだろう」と甲斐は云った、「眼と耳に不足はないからな」

周防はしみいるような眼で甲斐を見た。それは自分も斬りむすびながら、傷つき倒れようとする友を見やる、戦士の眼にも似ていた。

「それでは」と周防が云った、「いずれにしても国老のはなしが出るだろうが、船岡はもちろん受けてくれるだろうな」

「いちおう辞退したうえでだ」

「辛いことだ――」と周防は云った、「たのみあう友を、敵の陣へ承知でおくるのは、辛いことだ」

「私は役に立たぬかもしれない、幾たびも云うとおり、私はこういう事には向かない人間だ、私にできるのはほんの僅かなことだけだと思う」

周防は「わかった」と首を振った。

「私は船岡をよく知っている」と周防は云った、「できるなら、こんな事に船岡をまきこみたくなかった、しかしやむを得なかったということもわかってくれ」

「ぐちにしてしまった、話しを変えよう」甲斐は懐紙を出しながら云った、「昨日ここへ厩橋侯（酒井忠清）が来たそうだ」

「雅楽頭が」と周防は訊き返した。

「不快だから休みたいという口実で、座敷へとおって酒を命じたということだ」

「雅楽頭が」と周防は眼をみはった、「それは、どういうことだ」

「わからない」

「ここを船岡の隠宅と知ってのことか」

「そう思う」と甲斐は頷いた、「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は教えてあるとおり、八十島主計といったが、侯は笑っておられた、そして、おれに屋敷へ遊びに来いと云ったそうだ」

「<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>だな」

「屋敷へ来なければ、自分のほうでまたここへ来る、とも云ったそうだ」

「それは罠に相違ない」

「おれにはわからない」甲斐は懐紙で顔を拭いた、「侯が一ノ関のうしろ盾だということは明白だが、この原田などに眼をつける理由がわからない」

「それはたぶん一ノ関の」と云いかけて、周防は急に口をつぐんだ。

襖の外は廊下になっている。このお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の寝間は、甲斐の寝所とひと間へだてた、中廊下のつき当りにあるのだが、その廊下でとつぜんお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の声がし、同時にあらあらしい足音が聞えた。

なにをなさる、とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が叫び、「立ち聞きをしていたのだ」と久馬の声が云った。このひとがそこで立ち聞きをしていたから<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まえたんです。いいえ嘘です、と若い娘の声が叫んだ。あたし立ち聞きなんかしません、<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>んだのは足袋の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をむすんでいたんです。静かになさい、静かに、とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の云うのが聞えた。それらの声は低くなり、廊下の向うへ去っていった。

「――やるな」と甲斐が云った。

周防は甲斐を見た。甲斐はまるめた紙を、<ruby><rb>塵籠</rb><rt>ちりかご</rt></ruby>へ入れて云った、「うまく仕組んだ、おれたちを<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>からさそい出すつもりだったろう、この部屋の客が誰だかわからなかったのだ」

「するといまのは」

「小間使の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うら</span>と久馬、馴れあいだ」

周防は低く息をついた。

二人はそれまでの話しをもういちどたしかめあい、やがて周防は立ちあがった。甲斐は周防の支度を眺めて、「それでは寒かろう、待ってくれ」と云った。

「いまくび巻を出させよう」

甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>を呼んで、<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>のくび巻を持って来させた。周防は頭巾をした上からそれを巻き、<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>をはおりながら訊いた。

「船岡へはいつ立たれる」

「米谷が出て来たからいつでも立てるが、酒井侯のことがあるので、もうしばらくいようと思う」

「年を越すことになるか」

甲斐は「さて」といった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は、なにか甲斐に問いかけたいような、そぶりをみせた。久馬とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うら</span>のことだろう、甲斐は気づかないような顔をしていた。

「帰国したら涌谷さまと会うだろう」

「どうなるだろう」と甲斐は首を振った、「涌谷さまが米谷を通じて云われたことは、私がもう一ノ関に組しているという宣告とみなければなるまい、そうとすれば、おそらく涌谷さまのほうで私には会わないだろうと思うが」

「しかし訪ねてゆかないわけにもいかぬだろう」

「どうなるか」と甲斐は云った、「そこもとが帰国したら松山の<ruby><rb>館</rb><rt>たて</rt></ruby>を訪ねよう、松山からなら涌谷へも近いし、なにかの機会があるかもしれない」

「それがいいかもしれぬ」周防は頷いて云った、「私は堀普請が終ったら国老を辞任する、それからは松山の館にこもるから、どんな役にも立てるだろう」

「その必要があればな」と甲斐は云った。

周防は甲斐を見た。甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に手を振った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は襖をあけて、廊下を見、誰もいないことをたしかめて、頷いた。

二人は<ruby><rb>妻戸</rb><rt>つまど</rt></ruby>口から裏へ出た。

暗闇の中に、茂庭家の従者二人と、村山喜兵衛がいた。風はないが、ひじょうな寒さで、もう地面が凍っているとみえ、従者たちが歩くと、足の下でみしみしと、<ruby><rb>凍</rb><rt>し</rt></ruby>みた土の鳴る音がした。

「ではここで」と甲斐が云った。

周防の従者が、合羽で包んで<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持っていた。その、合羽からもれる<ruby><rb>仄明</rb><rt>ほのあか</rt></ruby>るい光のなかで、周防がじっと甲斐を見た。甲斐はその眼を避けながら云った。

「風邪をこじらせないように」

「うん、ではこれで」

「暗いな」と甲斐が云った。

周防が低く云った、「まるでいまわれわれの置かれた立場のように暗い、あすの日なにが起こるか、どこにどんな落し穴があるかわからない、この闇には灯が一つあればいいけれども、われわれにはその一つの灯さえないのだ」

「松山は疲れている」と甲斐が云った、「別れよう、大事にしてくれ」

## 雪

十二月二十五日、――伊達家では亀千代の家督の礼として、<ruby><rb>基近</rb><rt>もとちか</rt></ruby>の太刀、棉五百<ruby><rb>把</rb><rt>ぱ</rt></ruby>、銀五百枚を将軍家に献上した。

この使者は原田甲斐であった。甲斐を使者に選んだのは後見役の伊達兵部と田村右京であり、二人は正使の甲斐とともに千代田城の白書院に出、老中の酒井<ruby><rb>雅楽頭</rb><rt>うたのかみ</rt></ruby>に目録を披露した。

役目をはたして帰邸すると、一門、一族、老臣らの祝宴があったが、甲斐は中座して、いちど帰宅したうえ、夕方ちかくに湯島の家へいった。柴田<ruby><rb>外記</rb><rt>げき</rt></ruby>が上府したので、彼の江戸番の任期はすでに終り、<ruby><rb>定日出仕</rb><rt>じょうびしゅっし</rt></ruby>の勤めも解かれたのである。

原田では家政が詰まっていた。江戸番は一年交代であるがこんどは任期が延び、二年ちかくにもなるため、ひどく出費が<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>んで、これ以上の滞在は困難になっていた。

使者に選ばれたときも、家老の堀内惣左衛門は、辞退するように、と云った。それは両後見へ謝礼をしなければならないからで、そんな費用は出しようがない、というのである。甲斐は笑って、その必要はないと云い、この役は借銀をしても勤めると云った。

惣左衛門は黙った。それは甲斐が、兵部との関係をしぜんに接近させようとしているのだ、ということがわかったからである。――惣左衛門はまた、江戸で正月をされては困る。一日も早く帰国されるように、とも云った。甲斐も「そうしたいものだ」と云った。なるべくそうしたいと思う。それはどういう意味ですか、と惣左衛門が訊いた。そこで甲斐は初めて、湯島へ雅楽頭のあらわれたことを話した。惣左衛門は頭を垂れた。主人の甲斐が、しだいに黒い<ruby><rb>禍</rb><rt>まが</rt></ruby>まがしいものに包まれてゆくのを見るおもいがして、眼をあげることもできない、というようすであった。

その日、湯島へは矢崎<ruby><rb>舎人</rb><rt>とねり</rt></ruby>と中黒達弥、それに塩沢丹三郎が供をした。

「お客さまはどなたですか」甲斐を見るとすぐに、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が訊いた。甲斐は微笑しながら「客はない」と云った。

「まあ、うれしい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は眼をかがやかせた、「では久しぶりでゆっくりとお話しができますわね、ずいぶん久しぶりだわ、お客なしでいらっしゃるなんて」

「まだよろこぶのは早いよ」と甲斐が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は眼をそばめた、「あら、どうしてですか」

「客は来るかもしれない」と甲斐が云った。

「かもしれないって」

「いつか留守に来た客さ、酒井侯だよ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は「まあ」といった。

その夜は珍らしく、他人の混らない<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>をとった。舎人、達弥、丹三郎らにも膳を並べさせ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は甲斐の脇に坐った。甲斐はきげんよく酒を飲み、船岡へ帰ったら鹿を狩るのだ、と楽しそうに云った。

おととし甚次郎（山の名）で射損じた鹿がある、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くびじろ</span>というやつで、もう何年も追っているのだが、そのときも五昼夜追ったあげく、江尻で逃がしてしまった、と甲斐は云った。与五兵衛は付いていなかったのですか、と矢崎舎人が訊いた。与五は決して鹿を殺さない、と中黒達弥が云った、ほかのけものはとる、熊をとらせたら名人だが、決して鹿はとらないと云った。

去年は鹿を見なかったか達弥、と甲斐が訊いた。私は知りません。話しも聞かなかったか。私は聞きませんでしたと達弥は答えた。

「鹿は阿武隈川の向うから、小坂の瀬を渡って来る」と甲斐は云った、「このまえ、明暦二年だったか、二十二貫もあるのを射とめたが、あれも小坂の瀬を渡って、正覚寺（山）へはいるところでやったのだ」

「あの<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>はみごとでございました」

「みごとだった」

「あんなみごとな角は珍らしゅうございます」と舎人が云った。

丹三郎は黙って聞いていて、ふと「私もそんな狩のお供がしてみとうございます」と云った。だめだ、と舎人が云った。狩はいつもお一人でなさる、供のできるのは与五兵衛だけだ、と云った。しかし私はまだ船岡を知りません、せめてお国へお供だけでもしとうございます、と丹三郎が云った、「いつか<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れてゆこう」と甲斐は頷いた。

「今年お供ができないでしょうか」

「今年はだめだ、おまえは良源院にいる姉弟をみてやらなければならぬ」

丹三郎は眼を伏せた。それで思いだしたように、甲斐は虎之助のようすを訊いた。丹三郎は、まだはっきりしないようだ、と答えた。寝ているのか。いや、寝たっきりではありませんが、まだ床上げを致しません。<ruby><rb>麻疹</rb><rt>はしか</rt></ruby>は済んだのだろう。はい。では余病でも出たのか。よくわかりませんが、腸をこわしたようで、下痢が止まらないということですと丹三郎は云った。

甲斐の眉間に皺がよった、「いつかみまってやろう」と甲斐は低く呟いた。

その夜半、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が甲斐の寝間へ来た。白い寝衣に、派手な色のしごきを緊め、髪を解き化粧をしていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は甲斐の夜具の中へはいった。

「おとなしく寝るんだぞ」と甲斐が云った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は甲斐により添い、<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>を固くしてわなわなとふるえた。甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の肩へ腕をまわした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はその腕を枕にし、もっとぴったりと、甲斐のふところへすり寄った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の躯は燃えるように熱く、ふるえはなかなか止まらなかった。ものを云おうとすると、歯がかちかちと鳴った。

「さあ、眠るんだ」と甲斐が云った。

そして、まわしている手で、そっとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の肩を叩いた。彼女はそうされるうちに、やがて、声を忍ばせて泣きはじめた。甲斐は叩くのをやめた。

「私を憎むがいい」甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に囁いた、「私はこんな人間だ、八年まえに、私と会ったのがお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の不運だったのだ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は泣きながら、激しく頭を振った。甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の肩を静かに撫でた。

「あなたが悪いのじゃありません、悪いのはあたしです」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は云った、「あなたはなんとも思っていらっしゃらないのに、あたしが勝手に、好かれていると思ったんです」

「私はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が好きだ」

「あたしばかりじゃなく、兄もそう思いこんでいました」

「私はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が好きだよ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はううと泣いた。

八年まえ、――雁屋が原田家の回米を受持つことになり、信助は日本橋石町の家へ、甲斐を招待した。そのとき給仕に出たお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は、ひと眼で甲斐にひきつけられ、信助はまた、妹が甲斐に気にいられたと思いこんだ。

――保養のために控え家を持ってはどうか。

信助は甲斐にそうすすめ、自分の費用で、湯島の家を手にいれた。そして、「お側の用をさせて下さるよう」と云って、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>を付けたのであった。

「好きだけれども、私はこのままでいたい、このままでいなければならないのだ」と甲斐は云った、「これ以上にすすむと、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>をもっと不幸にし、悲しい思いをさせるからだ」

「あたしどんな不幸だって、いといはしませんわ」

「おまえは知らないからだ」

「なにをですの」

甲斐はちょっと黙った。それから、はぐらかすように、男心というものをさ、と云った。

「本当のことを仰しゃって下さい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は泣きじゃくりながら云った、「あたしがもっと不幸になるようなことがなにかあるんですか」

「もういい、ねるとしよう」

「お願いですから仰しゃって」

「もう眠ろう」と甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>の肩を撫でた、「うるさくすると追いだすぞ」

甲斐は湯島に二日いた。

二十九日には船岡へ立つことにきめ、惣左衛門に支度を命ずる使いを出した。すると二十八日の朝、――まだ九時ころのことであるが、酒井忠清が五人の供をつれて、騎馬で乗りつけて来た。

その日、甲斐は本邸へ帰るつもりで、食事も早く済ませ着替えも終ったところだったが、知らせを聞くとすぐに<ruby><rb>雅楽頭</rb><rt>うたのかみ</rt></ruby>だろうと察し、羽折をぬいで、自分で出迎えに出た。町住居だから式台はない、甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>と共に、玄関の四帖に坐ってかれらを迎えた。雅楽頭はそのとき三十七歳であった。背丈はさして高くないが、やや肥えた<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい躯つきで、下ひろがりの角張った顔は肉づきがよく、書いたようにはっきりと濃い眉と、ひきむすんだ唇のあたりに、自意識のつよい、きかぬ気性があらわれていた。

二人はそれまでに二度、顔をあわせていた。いちどは綱宗に<ruby><rb>逼塞</rb><rt>ひっそく</rt></ruby>の沙汰の出たとき、一度はつい三日まえ、亀千代の家督の礼で、献上品の披露に登城したとき。これは甲斐が正使として、城中の白書院でじかに言葉を交わした。

玄関へ入って来た雅楽頭は、笠と<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を供の少年に渡しながら、その大きな眼でまっすぐに甲斐を見た。甲斐は<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に手を置いて、静かに低頭し、やはりまっすぐに、だが極めて穏やかな眼つきで、雅楽頭を見あげた。

「あるじか」と雅楽頭が云った、「<ruby><rb>八十島主計</rb><rt>やそしまかずえ</rt></ruby>と申すそうだな」

甲斐は黙って目礼した。

「先日は留守にまいって馳走になった、今日はひと馬せめに出た途中で、ふと思いついてたち寄ったのだが」

「ようこそ」と甲斐は会釈した。

そして、どうぞとおるようにと云い、雅楽頭は頷いた。<ruby><rb>扈従</rb><rt>こじゅう</rt></ruby>の少年がゆいつけ草履をぬがせると、雅楽頭はあがって、さっさと奥へとおった。座敷には敷物と火鉢が出ていた。雅楽頭は腰から刀を<ruby><rb>脱</rb><rt>はず</rt></ruby>しながら、敷物の上にあぐらをかいて坐った。

他の従者は玄関に残ったが、少年はすぐ来て、雅楽頭のうしろに、その刀を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて坐った。甲斐はずっとさがって、敬礼をした。雅楽頭はもっと寄れと云った。甲斐は動かずに、身分が違うからこれで勘弁していただきたい、と辞退した。

「おれを知っているのか」と雅楽頭が云った。

甲斐は穏やかに、女どもから聞いていたし、厩橋侯であることは、江戸の市民なら誰でも知っているであろう、と答えた。

雅楽頭は唇で笑った、「おれもそのほうを見たように思う」と雅楽頭は云い、するどい眼で、じっと甲斐の眼をみつめた、「たしかに、どこかで会ったように思う」

雅楽頭は明らかに、その一瞬をたのしんでいた。その一瞬をたのしむために来た、といってもいいほど、彼の眼には期待の色がみえた。

甲斐の左の頬にふかい<ruby><rb>竪皺</rb><rt>たてじわ</rt></ruby>がよった。甲斐はかすかに唇で笑い、ごくさりげなく、それは光栄であると云った。老中のなかでも、いま御威勢高き厩橋侯にそういわれることは、一代の面目であると云った。

そこへ酒肴の膳がはこばれた。

雅楽頭だけの膳である。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が自分で雅楽頭の前に据え、給仕をするために坐った。雅楽頭は盃を取って飲み、「<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わそう」と甲斐にさしだした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が取次ごうとすると、寄って取れ、と雅楽頭が云った。甲斐はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に「頂戴してくれ」と云い、やはりそこを動かなかった。

「ゆるす、寄って取れ」と雅楽頭が云った。

甲斐は黙っていた。

「どうした」と雅楽頭が云った、「足でも<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えたか」

甲斐は「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>」と云った。

「おまえの接待がお気にめさぬようだ、御機嫌の直るように、よくお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びを申すがいい」

「寄れというのだ、寄れ」と雅楽頭が叫んだ。

甲斐は額をあげて相手を見た。そして、殆んど微笑するような、静かな表情で、ゆっくりと云った。

「失礼ですがここは私の住居でございます。たとえ<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>が従四位下の少将で、十余万石の御城主かは存じませんが、<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>をいただいておらぬ限りは対と対、私は自分の住居では自分の好ましいように致します」

「ではおれの盃は受けぬというのだな」

「お<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>ではおそれ多いと申上げるのです」

「どうしてもか」と雅楽頭が云った。

甲斐は目礼し、微笑した。雅楽頭の顔が赤くなった。そのときお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が、その盃を自分がいただきたい、と云って両手を出した。雅楽頭は盃をお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>に与えた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は盃を額まであげ、唇をつけて、懐紙にくるんだ。それから、雅楽頭が次の盃を取ると、<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を持って給仕した。

「どうやらおれは、よろこばれぬ客のようだな」と雅楽頭が云った。

甲斐は<ruby><rb>一揖</rb><rt>いちゆう</rt></ruby>した、「それこそおぼしめし違い、浪人のことでお歴々にふさわしいもてなしはできませんが、おたち寄り下さればこの上もなき名誉、よろこんで御接待をつかまつります」

「覚えておくぞ」と雅楽頭は云った。そして盃を置いて立ちあがった、「また会おう、ぞうさであった」

そして雅楽頭はさっさと出ていった。扈従の少年が刀を捧げてつづき、甲斐とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>も送っていった。

酒井忠清を送りだすと、甲斐もすぐに帰り支度をした。

「どうしてあんなに、強情をお張りなさいましたの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が不審そうに訊いた。

「強情だって」

「お<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>ですわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>が云った、「どんなときにもこだわるようなことはないのに、どうしてあのお盃をお受けにならなかったんですの」

「べつに<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>はない」と甲斐は云った、「前へ出るのが面倒だっただけだ」

「それだけで酒井さまを怒らせておしまいなすったんですか」

「侯は怒りはしない」

「お怒りになりましたわ、お顔がぱっと赤くなって、あたしあの盃をお投げになるかと思いました」

「えらいな」と甲斐は微笑した、「侯は怒りはしなかった、しかしあの盃は投げたかもしれない、おれも投げるかなと思った」

「ですからあたし、いそいで頂戴したんですわ」

「いい呼吸だった」

甲斐は頷いて、おかげで侯は命びろいをしたよ、と云った。

「命びろいをしたですって」

「<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>はまだか」と甲斐が高い声で云った。すると次の間ですぐに、「まいっております」と丹三郎の声がした。

「どういうわけですの、どうして酒井さまが命びろいをなすったのですか」

「<ruby><rb>舎人</rb><rt>とねり</rt></ruby>と丹三郎がいるのを忘れたのか」と甲斐が云った。「私が<ruby><rb>辱</rb><rt>はずかし</rt></ruby>められれば二人は黙ってはいない、必ず侯に斬ってかかる、もっとも、私がそれを待ってはいないがね」

「恐ろしいことを」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は身ぶるいをした、「そんな恐ろしいことを、本当に考えていらしったんですか」

「私の命と引換えで済むならな」と甲斐は声をたてずに笑った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はもういちど身ぶるいをし、では自分が盃をもらってよかった、と<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をつきながら云った。

甲斐は頭巾をかぶりながら立ちあがった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はにわかに別れが惜しくなったようすで、甲斐の羽折の袖や<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の裾などを直しながら、涙ぐんだ声で旅中の無事を祈り、留守の辛さをくどき、また会うことの約束をせがんだ。甲斐は辛抱づよく受け答えながら、丹三郎に声をかけ、玄関へと出ていった。刀を袖で抱えて、うしろからついて出たお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は、玄関で刀を甲斐に渡すと、ふいに、両手で顔を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>って泣きだした。

玄関には支度をした舎人が控えていた。

「矢崎さま」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>は泣きながら云った、「どうぞ<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>をおたのみ申します」

舎人は黙って低頭した。

甲斐は右手に刀を持ったまま、玄関を出て駕籠に乗った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くみ</span>はおろおろと涙を拭き、その眼でひき止めようとでもするように、甲斐のうしろ姿をじっと見まもっていた。

丹三郎が脇について、駕籠があがった。

「良源院へ寄ろう」と甲斐が云った。

乗ってゆくあいだずっと、甲斐は腕組みをし、眼をつむっていた。ときどき眉をしかめたり、額に皺をよせながら唇を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んだりした。雅楽頭との対面が、彼の気分を重くるしくしていた。

――理由はなんだ。

なんの必要があって、二度も自分を訪ねて来たのか。対談ちゅうにさぐり当てようとしたが、終りまで、いとぐちもつかめなかった。一ノ関と相談のうえか。わからない。兵部にそんな必要があろうと思えないし、そのために湯島などを訪ねるような、雅楽頭とも思えなかった。

盃のことは笑止であった、あの盃をじかに受けたら、「主従のかためだぞ」ぐらいのことは云ったであろう。こちらは浪人の八十島主計でとおしたし、雅楽頭のほうでは、原田甲斐と云わせたかったようだ。もちろんいやがらせにすぎないが、盃を受けたら、「主従のかためだ」などと云いそうであった。

「そうだ、いけなかった」と甲斐は口の中で呟いた、「あの盃は受けたほうがよかった、雅楽頭がもしそう云ったとしたら、そこから、訪ねて来た意図がさぐりだせたかもしれない」

甲斐の額に深く皺がよった。だが、そうせくことはない、と甲斐は思った。雅楽頭は怒った、たしかに、いくらかは怒ったようにみえた。おそらくこのままでは済まないだろう、わがままで<ruby><rb>癇癖</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>の強い性質のようだ。必ずまたなにか仕掛けて来るにちがいない、必ず。甲斐は眼をつむったまま、微笑した。

「お気の毒ながら厩橋侯」と彼はまた口の中で云った、「貴方には従四位下の少将と、幕府閣老という<ruby><rb>枷</rb><rt>かせ</rt></ruby>がある。この甲斐をしめるにはその枷が邪魔になるでしょう」

そして彼は微笑した。

良源院へ着くと、玄関で柴田<ruby><rb>外記</rb><rt>げき</rt></ruby>と出あった。伊達式部（<ruby><rb>宗倫</rb><rt>むねとも</rt></ruby>）といっしょで、二人とも麻上下だった。いま帰るところらしく、住職や僧たちが出ていたし、従者たちが式台の下に控えていた。外記は目礼をしたまま去っていったが、式部が呼びかけたので、甲斐は謙遜に<ruby><rb>久濶</rb><rt>きゅうかつ</rt></ruby>を述べた。

式部宗倫は、故忠宗の五男で、綱宗には腹ちがいの兄に当り、年は同じ二十一歳。登米郡寺池で一万二千石を領していた。綱宗とは違って、躯も<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せているし、顔つきも<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>って、神経質な、おちつきのない眼と、女性的な、ねばるような話しぶりに特徴があった。

「近いうち国老になるそうですね」と式部が云った。

甲斐は微笑しながら、さて、いかがなものですか、と答えた。式部はとりいるような調子で、愛宕下（中屋敷）ではもっぱらの評判です、いつごろ就任ですか、と訊いた。

「今日はなにごとのおはこびですか」と甲斐は話しをそらした。

式部はそれには答えずに、国老就任は機密らしいですね、と云い、白い歯をみせた。甲斐は穏やかに微笑して云った。

「そんなことはありません、私はまだなにも知らないのです」

「知らないんですって」

式部は皮肉な眼つきをし「ははあ」と頷いた。しかしそこで急に思いついたように、帰国されるそうだが、それはいつか、と訊いた。たぶん明日帰れると思う、と甲斐は答えた。帰ったら涌谷と会われるでしょう。さていかがなものでしょうか。涌谷と会われたら伝言してもらいたいことがあるのです、と式部が云いだした。

「<ruby><rb>谷地</rb><rt>やち</rt></ruby>の境について、紛らわしいことを云って来るんです。寺池領の者が、地境を無視して涌谷領へ<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>をいれる、というんですが」と式部は云った、「しらべさせたところではそんな事実はないし、むしろ涌谷領のほうで、地境を越しているらしいんです、それで、どうかそんなことのないように、御自分領の者によく申しつけられたい、とそう伝言して下さい」

「もしおめにかかったら、そう申し伝えましょう」と甲斐は答えた。

式部を見送ってから、いちど住職と方丈へゆき、そこでしばらく話した。品川の下屋敷から、綱宗夫人の使いがあり、伝来の<ruby><rb>香木</rb><rt>こうぼく</rt></ruby>で持仏を彫らせてくれ、という注文があった。その香木はことによると、政宗公が豊太閤からもらったものではないだろうか。もしそうだとしたら、仏像などに彫ってしまうのはいかがかと思うが。などと住職は話した。

甲斐は聞くだけ聞いて、なにも意見は述べなかった。そして自分は帰国するから、畑姉弟を頼むと云い、方丈を辞して、自分の宿坊へいった。

丹三郎がさきに知らせたからだろう、<ruby><rb>宇乃</rb><rt>うの</rt></ruby>も虎之助も、着替えをして待っていた。虎之助は夜具の上に坐り、小さな膝をきちんとそろえて、姉といっしょに挨拶をした。

「どうした坊、まだよくないか」

甲斐はそう云いながら坐った。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のぞ</span>が痛い」虎之助は<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をあげて、自分の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を指さしながら云った。声はひどくしゃがれていたし、あげた顎は痩せて、尖ってみえた。

甲斐は眼で微笑しながら、頷いた。その表情には、微笑しているにもかかわらず、するどい苦痛の色がうかび、しかしすぐに消えた。

「そうか、喉が痛いか、私も喉が痛い」と甲斐は云った、「坊は喉が痛いと、泣くか」

「――泣かない」

虎之助は横眼で姉を見た。甲斐は微笑した。唇のあいだから、白いきれいな歯が見え、左の頬に竪皺がよった。

「それはえらいな、おじさんも泣かないが、あんまり痛いと、泣きたいと思うことがある、それでも、男は泣いてはおかしいから、がまんして泣かない、坊もそうか」

虎之助はまた横眼で姉を見た。そして、膝の上で両手の指を動かしながら、ごくっと頷いた。母親がいたら、あまえて泣く年だ。と甲斐は思った。麻疹の予後が悪く、ながびいて、躯のちからも弱っている、苦しいとき、泣かずにがまんすることは、辛いだろう。

甲斐は「さあ横におなり」と云った。

「起きていてはよくない、寝ていて話しをしよう」

「では失礼してやすみましょうね」と宇乃が云った。

虎之助は横になり、眼をあげて甲斐を見ながら「おじさま帰るのか」と訊いた。いや帰りはしない、もう少し話しをしよう、と甲斐は云った。坊は熊を知っているか。知っているか、と虎之助は姉を見た。

「知っているでしょう」と宇乃が云った、「いつか<ruby><rb>御伽草子</rb><rt>おとぎぞうし</rt></ruby>で見たことがあるわ」

「うん、見た、島渡りだ」

「そうかしら」

「島渡りだ、坊、知ってるよ」虎之助はいきごんで云った。

それでは鹿はどうだ、と甲斐が訊いた。鹿も知っている、草子の絵には鹿もいた、熊も鹿もいたし、兎もいたか、と虎之助は姉を見て云った。宇乃は微笑しながら頷き、弟の掛け夜具の端を直した。

「おじさんのお国には、そういうけものがみんないる」と甲斐は云った、「熊も大きいのがいるし、<ruby><rb>仔熊</rb><rt>こぐま</rt></ruby>も、みごとな<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>のある鹿も、兎もいる」

「熊の仔もか」

「熊の仔もだ」と甲斐は頷いた。

お母さんといっしょに歩いて来る、そう云おうとして甲斐は口をつぐみ、それから「坊もいつかいってみよう」と云った。おじさんのお国には、山もあるし川もある。山にはけものがいるし、川には魚がいる、川では魚をとることもできる、と云った。

甲斐は鹿の話しをした。鹿が阿武隈川を渡ることや、岩だけの山の急斜面でも、風のようにすばやく、登ったりおりたりすることや、敵に向かうときは頭をさげて、そのするどい角で突っかけ、敵をはねとばしたり、角で突刺したりすることや、ひじょうに用心ぶかくて、針を落したくらいの音でも、すぐにはねあがって逃げてしまう、などということを話した。

虎之助はすぐに疲れるようであった。

鹿の話しのあとで、甲斐は山と川のことを話した。蔵王山の雪、青根の<ruby><rb>温泉</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>、青根の宿から見える野や、川や、海や島の景観。川は二つあって、一つは白石川、片方は阿武隈川という。どちらも魚がたくさんいる、秋ふかくなると<ruby><rb>鮭</rb><rt>さけ</rt></ruby>ののぼって来ることもある。

「坊も大きくなったらいってみよう」と甲斐は話した、「山へも登ろう、川で魚をとろう、熊や鹿や兎を見るんだ、坊は熊の仔が欲しいか」

「雪が降ってるね」

「冬になると、蔵王のお山から雪になる」

「雪が降ってるよ」と虎之助が云った。

聞き疲れてうっとりとなった彼の眼が、庭のほうを見ていた。その眼はすぐに、力なく閉じたが、宇乃はそっと立っていって、障子を一枚あけた。

「まあ、雪でございますわ」と宇乃が云った。

甲斐はそちらへ振向いた。曇り日の、ひっそりと暗い庭に、こまかな雪が舞っていた。甲斐は虎之助を見た。彼は眠っていた。

「坊が寒いからお閉め」と甲斐が云った。

宇乃は「はい」といって、廊下へ出て、あとを閉めた。甲斐は虎之助の寝顔を、じっと眺めていた。おまえは仏門にはいるんだ、お坊さんになるんだよ、と甲斐は心のなかで云った。そんな幼ない年で、いちどに両親に死なれるという、悲しみを経験した、私にはその悲しみがわかるんだ坊、私はおまえより小さいとき、五つの年に父に死なれた、私には母があったし、所領もあり、家従もおおぜいいた、けれども、父のない淋しさがどんなものか、いまでもよく覚えている。

私は父に死なれただけだが、おまえと宇乃は両親に死なれた。家もなく、たよる親族もない。幼ないおまえにも、どんなにこころぼそく、どんなに悲しいかは私にわかる、と甲斐は心のなかで云った。――けれどもそれで終るのではない、世の中に生きてゆけば、もっと大きな苦しみや、もっと辛い、深い悲しみや、絶望を味わわなければならない。生きることには、よろこびもある。好ましい住居、好ましく着るよろこび、喰べたり飲んだりするよろこび、人に愛されたり、尊敬されたりするよろこび。――また、自分に才能を認め、自分の<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>したことについてのよろこび、と甲斐はなおつづけた。生きることには、たしかに多くのよろこびがある。けれども、あらゆる「よろこび」は短い、それはすぐに消え去ってしまう。それはつかのま、われわれを満足させるが、驚くほど早く消え去り、そして、必ずあとに苦しみと、悔恨をのこす。

人は「つかのまの」そして頼みがたいよろこびの代りに、絶えまのない努力や、苦しみや悲しみを背負い、それらに耐えながら、やがて、すべてが「空しい」ということに気がつくのだ。

――<ruby><rb>出家</rb><rt>しゅっけ</rt></ruby>をするがいい、坊。

と甲斐は心のなかで云った。生活や人間関係の煩らわしさをすてて、信仰にうちこむがいい、仏門にも平安だけがあるとは思えないが、信仰にうちこむことができれば、おそらく、たぶん。

甲斐の心の<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きはそこで止まった。仏門にはいり信仰にうちこむことができれば救いがある、彼はそう云うつもりであった。眠っている幼児を、心のなかで慰めようとしたのだ。誰に聞かれるわけでもないのだが、やはりそう云いきることはできなかった。彼は眉をしかめ、顔をそむけながら立ちあがった。

甲斐は障子をあけて、廊下へ出た。するとそこに宇乃が<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。ずっとそこにそうしていたらしい、両袖を胸に重ねて、身動きもせずに、雪の舞いしきる庭の、ひとところを見まもっていた。

「なにを見ている」と甲斐が訊いた。

「あの樅ノ木に、雪がつもっています」と宇乃が云った。宇乃はこちらを見ずに云った。甲斐も黙って<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

樅ノ木は雪をかぶっていた。雪はこまかく、かなりな密度で、鼠色の空から殆んどまっすぐに降っていた。しはらく乾いていたために、地面はもう白く掩われ、庭の樹木や石<ruby><rb>燈籠</rb><rt>どうろう</rt></ruby>なども白くなり、境の土塀の陰も、雪の反映で、暗いままに寒ざむと青ずんでみえた。

「私は明日、船岡へ帰る」と甲斐がいった。

すると宇乃が、彼のほうへくるっと向き直り、大きくみひらいた眼で、まっすぐに彼を見あげた。その眼は、みひらいたままで、たちまち涙でいっぱいになった。

「おじさま」

宇乃はそう云って、衝動的に、両手で甲斐に抱きついた。甲斐は少女の肩へ手をおいた。宇乃の手に力がこもり、柔軟な躯をぴったりと彼にすり寄せた。甲斐は、宇乃の躯の柔らかさを、自分の膚で感じた。宇乃の胸や、腹部や、<ruby><rb>太腿</rb><rt>ふともも</rt></ruby>が、二人の着物をとおして、直接、ぴったりと触れあった。甲斐はほんの一瞬、たじろいだ。

その接触はほんの一瞬のことであった。そして、宇乃自身まったく無意識ではあったろうが、甲斐の腿を大胆に、あるいは無心に、圧迫したその部分の、あたたかい、弾力のあるまるみは、四十二歳になる甲斐をたじろがせるのに充分であった。その一瞬の接触は、甲斐を深く動揺させた。それは彼の心の中心にしみとおり、全身にひろがって、しっかと彼をとらえた。そのとき彼は、自分と宇乃とが眼に見えない<ruby><rb>絆</rb><rt>きずな</rt></ruby>で、固く、しっかりとむすびつけられたように感じた。

「おじさま、死んではいや」と宇乃は云った。それは十三歳の少女ではなく、成熟した娘の声のようであった、「生きていらしって、おじさま、死んではいや」

宇乃は甲斐に頬をつよく押しつけた。

甲斐はさりげなく、その接触から身をひき、宇乃の背を静かに撫でた。宇乃は息をつめた。泣きそうになるのを耐えたようである。甲斐は頷いて云った。

「うん、生きているよ」

宇乃はじっとしていた。甲斐の体温とその声のなかへ、自分を浸しきってしまおうとするかのように。それからやがて、そっと顔をあげた。

「来年はいつごろ出ていらっしゃいますの」

宇乃はそう云いながら、ようやく甲斐から身をはなした。

「よくわからない」と甲斐は答えた、「今年は春に帰る筈だったのが、いろいろなことでいままで延びてしまった、だから本当なら来年の春に出府する順序だけれども」

「では再来年になりますの」

「たぶんそうなるだろう、しかし来年また出て来なければならなくなるかもしれない、どうなるか」と甲斐は太息をついた、「どういうことになるか、いまここではなんとも云えない」

宇乃はまた樅ノ木のほうを見て、それからおちついた声で訊いた。

「なにか宇乃でお役に立つことはございませんの」

「ないだろうね」と甲斐は微笑した、「そんなことのないようにしたいものだ」

「宇乃はまだそんなに子供でしょうか」

「そういう意味ではない、宇乃には弟がいる、虎之助をしっかりみてやるのが宇乃の役だ、それも決して楽な役ではないだろう、このあいだのような事もあるしね」

宇乃は頷いた。

「さあ、寒いから中へおはいり、私はもうゆかなくてはならない」

宇乃は甲斐を見あげた、「わたくし、今日のお話しをよく覚えておきますわ、蔵王のお山や、青根の湯泉や、白石川や阿武隈川のことを、――宇乃はいつかそれをみんな見ることができますのね」

「そうだ」と甲斐は頷いた、「宇乃はそれを見ることができる、もう少し経ったらね」

「虎之助が、八つになれば、ですわね」

「そうだ、虎之助が八つになればね」

そして甲斐は「丹三郎」と呼んだ。すぐに返辞が聞え、次の間から塩沢丹三郎が出て来て、廊下へ膝をついた。甲斐は「乗物」と云った。丹三郎は玄関のほうへ去った。

「もういちど坊をみよう」

甲斐は障子をあけた。宇乃は彼のあとから部屋へはいり障子をしめた。甲斐は虎之助の枕元に坐った。虎之助の頬は赤く、呼吸は短く、不規則であった。眠りが浅いのか、頬や<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>が絶えず<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>し、なにかものでも云おうとするように、ときどき唇も動いた。

「下痢は止まったのか」と甲斐が低い声で云った。

宇乃は「いいえ」と答えた。

「医者を変えるように云おう」

「玄庵さまはよくして下さいますわ」

「医者を変えてみよう」と甲斐は云った、「惣左衛門にそう云っておく、丹三郎もこれまでどおり此処へよこすが、用があったら待っていないで、すぐに屋敷へ使いをやるがいい」

宇乃は「はい」と頷いた。甲斐は振向いて宇乃を見た。

「宇乃は大丈夫だな」

「はい、大丈夫でございます」

甲斐はそっと立ちあがり、もういちど虎之助の寝顔を見てから「送るには及ばない、そこにおいで」といって廊下へ出た。

「どうぞお大事に」と宇乃が云った。

甲斐は振返らずに出ていった。

良源院を出た甲斐は、そこからすぐに、後見の伊達兵部邸を訪ね、さらに田村右京から、茂庭周防の留守宅、片倉小十郎、柴田外記とまわって、それぞれに帰国の挨拶をした。桜田邸の自宅へ帰ったのは午後おそくで、家の中はまだ混雑していた。

その夜、うちわだけで別宴が催され、下男<ruby><rb>下婢</rb><rt>かひ</rt></ruby>たちにも酒肴が出された。伊東七十郎は甲斐とは逆に<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>へゆくそうで、さかんに飲んで毒舌をふるった。上方へゆく目的は、熊沢<ruby><rb>蕃山</rb><rt>ばんざん</rt></ruby>の門を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>くためだという。蕃山といっても経学をきくためではない、笛をまなびたいのだ、などと<ruby><rb>気焔</rb><rt>きえん</rt></ruby>をあげた。甲斐は頭を振って「七十郎にこれ以上も吹かれては堪らない」と云い、みんな声をあげて笑った。

明くる朝、――御殿へあがって、幼君に帰国のいとまを乞い、それから戻って江戸に残る家従たちと簡単に別れの盃を交わしてから、船岡へと出発した。

雪はまだ降りつづいていた。