そのとき千珠は、屋形の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>にいて、京から来た<ruby><rb>文</rb><rt>ふみ</rt></ruby>を読んでいた。建久二年の、正月もまだ中ごろのことだったが、伊豆のくには暖かくて、<ruby><rb>簀子</rb><rt>すのこ</rt></ruby>縁のさきにある<ruby><rb>蔀格子</rb><rt>しとみごうし</rt></ruby>から、やわらかい午後の光といっしょに、さかりの梅の香が<ruby><rb>噎</rb><rt>む</rt></ruby>せるほどもよく<ruby><rb>薫</rb><rt>にお</rt></ruby>ってきた。文のぬしは千珠にとっては義理の姉にあたり、<ruby><rb>讃岐</rb><rt>さぬき</rt></ruby>といって、二条院に仕えているひとだった。歌人としても名だかいひとだけに、やさしく巧みな手つきで「去年十一月に都へのぼった頼朝の、参内の儀のゆかしく美しかった」ことや、「その供をしてのぼった兄の<ruby><rb>駿河守</rb><rt>するがのかみ</rt></ruby>（広綱）にひさびさで逢えたよろこび」などを眼に見るように書きつらねたうえ「つたないもので恥かしいけれど」といって五六首の歌が添えてあった。千珠はそこまで読んできて、ふとその歌の中の一首につよく心をひきつけられた、それはふしぎなほど心をひく歌だったので、われ知らずそっと口のなかで繰り返してみた。

あと絶えて<ruby><rb>浅茅</rb><rt>あさじ</rt></ruby>が末になりにけりたのめし宿の庭の白露

いかにもはかなく寂しげな詠みぶりである。口ずさんでいると、荒涼とした秋の野末に、たった独りゆき暮れたような、かなしいたよりない気持になって、千珠は思わずほっと<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついた。そしてそのまま、内庭のほうへ眼をやってぼんやりしていると、中門のあたりでにわかに騒がしい物音が聞え、あわただしく廊を踏んで<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の有綱がはいって来た。つねには起ち居のおだやかな良人なのに、はいって来たようすも<ruby><rb>乱</rb><rt>ろう</rt></ruby>がわしく、顔つきもいくらか<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめているので、千珠はなにも聞かぬうちから胸がおどった。

「千珠、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こと</span>ができた」と有綱は低いこえで云った、「河越城へにわかに鎌倉から兵が寄せて、重頼どのをお討ち申したというぞ」

千珠の額がさっと蒼くなった、それはまことでございますか、そう<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>こうとしたけれど、舌が<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばってしまったし、訊くまでもないということがすぐに頭へひらめいた。

「急ぎの使者で、くわしいことがわからないから、すぐようすをさぐらせに人をやった、鎌倉へも使をだしたが、伊予守どののゆかりになってお討たれなすったとすれば……」

そこまで云いかけて、有綱はあとをつづけることができなくなり、「わが身もそなたも、心をきめておかなければ」とつぶやくように云って、対屋のほうへ出ていってしまった。

いよいよそのときが来た。千珠はそう思った。二年まえ、文治五年の夏に、伊予守義経がみちのくの衣川で討たれたときから、こうした日が来るのではないかと案じていた。そのときが来たのである。河越太郎重頼は義経の<ruby><rb>舅</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>にあたる、重頼の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>が義経の妻になっていたのだ、千珠は義経の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>である、舅が討たれたとすれば、女である千珠が無事である筈はない、良人の云うとおりで、まさしく心をきめなければならぬときだ。みぐるしいふるまいをしてはいけない、千珠はそう自分をたしなめながら、しずかに立って<ruby><rb>身舎</rb><rt>もや</rt></ruby>へはいった。

今にもと思っていたが、なにごともなく日が経っていった。河越へやった者も、鎌倉へやった者も帰って来たけれど、太郎重頼の討たれたことが<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しくわかっただけで、なんのためという理由はわからなかった、「たしかに伊予守どののゆかりに座したのだ」有綱もそう云うし、千珠もそれに違いないと思いながら、けれどもしやするとほかに理由があるのではないかという気持もして、いかにも落ちつかぬ日をおくっていた。十日ほどして、京から頼朝が帰って来た。日本総<ruby><rb>追捕使</rb><rt>ついぶし</rt></ruby><ruby><rb>征夷</rb><rt>せいい</rt></ruby>大将軍としての晴れの帰国だった。有綱は<ruby><rb>駿河</rb><rt>するが</rt></ruby>のくにまで迎えに出た。頼朝はきげんよく会い、ひきで物などあって、有綱はたいそうめんぼくをほどこした。それから供の中にいる筈の、兄の駿河守広綱に逢おうとすると、そこで思いがけぬことを知った。広綱はなにゆえか、帰国の途中でふいに姿を隠してしまい、どこへいったかゆくえがしれないというのである、

――河越の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こと</span>を聞いたからだ。

有綱はそう直感した。そこですぐにいとま乞いをして伊豆へ帰ると、屋形の内はいろめきたっていた、留守の間に鎌倉から「千珠どのを鎌倉へさしだすように」という使者が来たというのである。

「いずれひと合戦と存じまして、その支度をしているところでございます」

留守の侍たちはいきごんでそう云った。庭には<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>が運び出されていた。弓を張る者、矢を<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>える者たちが右往左往している、<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>のあたりから遠侍へかけて、<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>を着ける物音や叫び交す侍たちの、けたたましい声があふれていた。よしと云って有綱は奥へはいった。有綱は屋形の内をそこ<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>とたずねまわったうえ、ようやく持仏の間にいる妻をみつけた。

「千珠いよいよ時が来た」

そう云って有綱が坐ると、千珠はしずかに向き直って、「御前のごしゅびはいかがでございましたか」と訊いた。有綱は気ぜわしくそのときのことを語った、頼朝が案外きげんよく会ったこと、ひきで物のこと、そして兄広綱のことなど。……千珠はしずかにうなずきながら聞いていたが、やがて「あらためてお話し申したいことがございます」とかたちを正して云った。

「わたくしを鎌倉へやって下さいませ」

有綱はおどろいて眼をみはった、千珠は良人のおどろくさまをかなしげに見あげながら、「このたびのことは千珠ひとりにかぎり、お屋形にはなんのおかかわりもないのでございますから」

「ばかなことを云ってはいけない」

「いいえお聞き下さいまし」

千珠はしずかに押し切って云った、「鎌倉の大殿（頼朝）が父伊予守をお討ちあそばしたのは、御自分の小さなおにくしみだけではございません。平氏は武家でありながら、都に住み、公卿ぶりに染まって、あらぬ栄華に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>ったため、亡びました。大殿にはそれを前車の戒めにあそばして、征夷の府を鎌倉に置き、武家が天下の守護人であること、身を質素に持し、倹約をまもり、心をたけく男々しく、武士らしき武士となることをきびしくお示しあそばしました」

父のことを<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>としてあげつらうのは申しわけないがといって、千珠は眼を伏せながらつづけた、「父伊予守はもと京に育ち、また木曽殿（義仲）の変には都にあって、<ruby><rb>内裏</rb><rt>だいり</rt></ruby>へものぼり、公卿がたとも往来して、おふるまいもとかく華美になりました。そのうえ合戦のみごとさは世に隠れもなく、下人の末までがはなやかに評判をするありさまでした、これは大殿の、武士はあくまで質実剛直でなくてはならぬ、武家の本分をまもって世の模範となれという、きびしい御政治とは合わぬものです、御勘気のおお根はそこにありました、しかも世の人々はみな父伊予守のはなばなしさに心をひかれています、新しい質実な政治をおこない、乱れた天下を泰平にするためには、衣川のかなしい戦は無くてはならなかったのだと存じます」

「それはよくわかった、けれどもそのおにくしみがなぜ千珠にまで及ぶのだ、河越殿はなぜ討たれたのか」

「伊予守のゆかりでもし反旗でもあげるようなことがあってはならぬ、そうおぼしめしてでございましょう、それが禍の根を刈ることになって、世の中がおさまり、天下が泰平になるのでしたら、河越さまの御さいごもあだではなく、千珠も死ぬことはいといませぬ、わたくしは覚悟をきめました、どうぞ鎌倉へおやり下さいまし」

そう云って千珠は、心のきまった、いかにも爽やかな眉をあげて良人を見、いつぞや京の<ruby><rb>義姉</rb><rt>あね</rt></ruby>から来た文をとりだして「このお歌を読んで下さいまし」とそこへひろげた。それは「あと絶えて浅茅が末になりにけり……」というあの一首だった。

「わたくしはお歌の意味をこうだと存じました」

「兄ぎみ駿河守さまはおゆくえ知れず、今またあなたさまが千珠の縁にひかされて、鎌倉へ弓をひかれるようなことになりましては、世の中を騒がす罪も大きく、故三位（頼政）さまのお血筋も絶えて、まったく浅茅が末のあさましい終りとなってしまいます」

妻への情に負けて、多くの人を傷つけ、世を騒がし、ひいては家を廃絶するような、みれんなことはして呉れぬよう、自分ひとりの命はもういずれとも覚悟をきめているから、千珠は心をこめてそうねがった。有綱には妻の心がよくわかった、その言葉にも誤りはない、今はなにごとをおいても天下を統一し、世を泰平にしなければならぬときである、そして妻はおおしくもおのれの覚悟をきめているのだ、

――だが、そうだからといって、みすみす妻ひとりを死なせにやれるだろうか。

有綱は苦しくかなしく、胸いっぱいにそう叫びたかった、おそらくその気持がわかったのであろう、千珠は涼しげに微笑さえうかべながら云った、

「千珠は命をめされるかも知れません、けれどもそれは、世のために大きく生きることだとおぼしめして下さいませ」

有綱は眼にいっぱい涙をため、やさしく妻を見まもりながらうなずいていた。それから数日して、或晴れた日の朝、千珠は迎えの<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>に乗って鎌倉へと去った。

附記　千珠という名は仮のものである、義経の<ruby><rb>女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>というだけで名が伝わっていないため、筆者がかりにそう呼んだにすぎない。またその生死のほども、明らかに記した書をまだ見ない。駿河守広綱は、のちに<ruby><rb>醍醐寺</rb><rt>だいごじ</rt></ruby>へはいって出家したそうである。二条院の讃岐という人は「沖の石の讃岐」といわれて、新古今集などにも多く歌を載せられている。