## 一

彼は立停って、<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>み、草履の緒のぐあいを直す恰好で、すばやくそっちへ眼をはしらせた。

――間違いはない、<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来る。

その男はふところ手をして、左右の家並を眺めながら、<ruby><rb>悠</rb><rt>ゆっ</rt></ruby>くりとこちらへ歩いて来る。古びた木綿縞の着物に<ruby><rb>半纒</rb><rt>はんてん</rt></ruby>で、裾を端折り、だぶだぶの長い<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>に、草履をはいている。仕事を休んだ<ruby><rb>紙屑</rb><rt>かみくず</rt></ruby>買い、といった、ごくありふれた風態である。どこにこれという特徴はないが、とぼけたような眼つきや、ひどく悠くりと、おちついた歩きぶりには、隠すことのできない一種の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もの</span>があった。それは老練な猟犬のもつ、誤りのない判断と、<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけた獲物は決して<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>さない、冷静で<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>なねばり、という感じを連想させるものであった。

――こんな筈はない、ふしぎだ。

彼は歩きだした。どうしたってそんな筈はない、江戸へ入ってから、いちども知った者には会わないし、彼が戻って来るということを、感づく者もない筈である。

町角を曲るときそっと、眼の隅で見た。間合は少しひらいたが、男はやはりつけて来る。こちらへはまるで眼を向けず、依然としておちついた、きみの悪いほどせかない歩きぶりで、悠くりと跟けて来る。……そこは片側が武家屋敷、片側が町家であった。暖かかった冬の一日の、もうすっかり傾いた日ざしが、道の上に長く影をおとしている。<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>には間のある、ふと往来の途絶えるいっとき。街ぜんたいがひそかに<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>でもつくような、沈んだ、うらさびしい時刻であった。

――おじけがついてる、こんな感じは初めてだ、ことによると危ない、年貢のおさめどきになるかもしれないぞ。

しかし彼の表情は少しも変らなかった。歩く調子も決して乱れはしない、人の眼には平凡なお<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>者とみえるだろう、いくらか苦みばしった美男で、身だしなみのいい、若い手代といったふうに、……慥かに、これまで彼はついぞ、その自信を裏切られたことはなかった。それだけが、いまの彼には命の綱のようであった。――いつかはそうなる、誰だって、いつかいちどはそうなるんだ、が、今はいけない、少なくともあと一日、今夜ひと晩でもいい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あいつ</span>を片づけるまでは、それまではどんなことをしたって。

大きな寺の門が見えて来た。

上野の山内の森が、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しく夕焼けの光りをあびている。すると寺は根岸の大宗寺だ。彼は右手をふところへ入れた、腹巻の中の短刀へ触るまえに、ひとさし指の爪際が鋭く痛んだ。<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>を刺したのかと思って、出してみると、それは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ささくれ</span>であった。

そうだ、あの寺の墓地は広かった。

彼は指の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ささくれ</span>を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めながら、まっすぐに（初めからそれが目的であったかのように）門前の茶店へはいっていった。

暗くじめじめした、かなり広い土間に、<ruby><rb>茣蓙</rb><rt>ござ</rt></ruby>を敷いた腰掛が並び、壁によせて、<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れた菊や、<ruby><rb>樒</rb><rt>しきみ</rt></ruby>や、<ruby><rb>阿迦桶</rb><rt>あかおけ</rt></ruby>などが見える。十七八の娘が一人、土間に<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>をひろげて、せっせと小さな花の束を作っていた。

「花と線香を下さい」

娘はこっちを見た。色が黒くてまるっこい、田舎から出て来たばかりといったふうの、愛想のない顔だちであった。

「おまいりですか」ぶっきら棒に云って、いま作ったばかりの花束を、むぞうさに一つ取り、跼んだまま出してみせた、「こんなのでどうですか」

そして横眼でこちらを見たが、慌てて鼻の頭をこすった。

「もう少し大きいのにして下さい、そっちの大輪の菊を入れて、いいえその白いのがいい」

「これは<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>いけどいいですか」

彼は花を選ませながら、眼では巧みに表を見ていた。その男は悠くりと、いちど店の前を通り過ぎ、また戻って来て、元のほうへと、<ruby><rb>暢</rb><rt>のん</rt></ruby>びり通り過ぎた。<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>がうすく伸び、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>にも<ruby><rb>無精髭</rb><rt>ぶしょうひげ</rt></ruby>がみえた。年は三十五六、日にやけた肉の厚い頬に、眠たそうな、細い眼をもっていた。

「お線香は火をつけるんですか」

花の束が出来ると、娘はそう云って、一種の眼つきでこちらを見た。それは好意のまなざしかもしれないが敵意を含むように思えた。

阿迦桶を持って、ついて来ようとする娘を断わって、彼はその店を出た。

## 二

寺の門をくぐるまで、そして、鐘楼の脇を通って墓地へ入るまで、彼は息苦しいほど緊張した。

――かかるなら墓地へ入るまえだ。

そして、墓地へ入ってしまえば、慥かにとはいえないが、脱走の機会があるかもしれない。彼は<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゅうの神経で、うしろのけはいに注意した。

その男は跟けて来る。振返ってみるまでもない。その男は眠たそうな（しかし少しも紛れのない）眼でこっちの背中を<ruby><rb>瞶</rb><rt>みつ</rt></ruby>めながら、迷いも焦りもない、拾うような足どりで、跟けて来る。それはちょうど、眼にも見えず切ることもできない糸で、しっかりと結びつけられてでもいるような感じだった。

だが彼は墓地へ入った。

――東の端へ、まっすぐにゆけ、そこから入谷へぬけられる。

線香の煙に<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せて、<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>が出た。石敷の道を左に曲り、右に曲る。墓は<ruby><rb>豪奢</rb><rt>ごうしゃ</rt></ruby>な区域から、しだいに簡素となり、貧しくなる。一方は金に飽かして造り、絶えず手入れをして、拭き清めたようにきれいになっているが、片方では古びて、欠けて、<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>いだり倒れたりしたのや、また竹垣もなく墓石もなく、ただ数枚の卒塔婆を立てたばかりのものもある。

――貧乏人は死んでもこんなものだ。

彼は唇を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めた。幾曲りかすると、もう道にも石は敷いてない。下駄の歯の跡の付いた、裸の<ruby><rb>赭土</rb><rt>あかつち</rt></ruby>つづきで、安い線香と土の、気の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めいる</span>ような匂いが漂っていた。墓はどれもささやかで小さい、古いのも新しいのも、みな狭いところへごたごたと<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>り合って、<ruby><rb>恰</rb><rt>あたか</rt></ruby>もかれらが生きていたときのように、慎ましく控えめに、じっと肩をすぼめているようにみえた。

彼は足を停めた。

右がわに新しい墓があった。それはごく新しく、まだ十日とは経たないのだろう、盛上げた土も乾かず、白木の墓標の表の名号を書いた字も、墨の香が匂うようであった。……彼は墓標のうしろへまわってみた、俗名お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>、年は二十六歳、命日は十三日まえの、霜月七日と書いてあった。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>ちゃんていうんだね」彼はそっと<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた、「――縁のない人間が花なんぞあげて、迷惑かもしれないが、のっぴきならぬばあいだから勘弁して貰うよ」

そして前へ戻った。

青竹の筒の片方に、線香を立てる。二三本折れて、折れたのは土の上で煙をあげた。花は大輪でもあるし多すぎた、竹筒へ<ruby><rb>揷</rb><rt>さ</rt></ruby>せるだけ揷して、余ったのは墓標の前へ、横に置いた。それから、そこへ跼んで、眼をつむりながら合掌した。

あの男はこっちを見ている。そう遠くない物蔭から、辛抱づよく、あの細い眼で、じっとこっちを<ruby><rb>覘</rb><rt>うかが</rt></ruby>っている。

「二十六というと、おれとは三つ違いだったんだな、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>ちゃん」口の中でそっとこう<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた、「娘のままだったのか、それともお嫁にいったのか、この墓のようすじゃあ、あんまり楽な暮しでもなかったらしいが、死んでほっとしているか、それともやっぱりみれんの残ることがあるか……」

傷心を装うために、そう呼びかけたのであるが、つむっている眼の裏へ、ふっとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>の姿がうかんできた。

「――お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>」

ふしぎに目鼻だちははっきりしない。色の浅黒い、ひき緊った顔も、肩の細いしなやかな躯つきも、すべてが小づくりで、ふんわりと軽く、柔らかそうであった。

――あたしを<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて逃げてお呉れ、お父さんは金次を婿にする気よ、もう逃げるほかにどうしようもないわ。

両手で肩を抱き緊め、頬へ頬をつけて、身もだえするように云った。熱い呼吸と抱いた手の烈しい力が、まざまざと、現実のように<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってくる。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>の父親は「橋場の七兵衛」という、かなり名を売った<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>打である。こっちは仕立職からぐれて、自分ではいっぱしのやくざ気取りでいた。……お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>は一人娘、想いあって、ゆくすえの約束までしたが、橋場一家にとっては、彼などは<ruby><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>の一尾にすぎなかった。

――逃げるのはいいが苦労するぜ。

――いっしょなら、どんな苦労だって。

そして<ruby><rb>牒</rb><rt>しめ</rt></ruby>し合せたがぬけ出すところをみつかって、取巻かれた。

――半さん、死なないでお<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ。

<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まったお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>の叫びが聞えた。眼の<ruby><rb>昏</rb><rt>くら</rt></ruby>むような気持だった。夢中で短刀を抜き、とびかかって来た金次を、刺した。左の脇腹だった。そのぶきみな手ごたえに、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>が消えた。

――生きてて呉れ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>。

喚きながら逃げた。

桐生という処で一年半仕立職をしながら、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>を呼びよせる折を待った。

――死なないでお呉れ。<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を絞るような女の絶叫が、いつも耳の奥にあった。死なないでお呉れ、半さん、死なないで。

月に一度ずつ、江戸へゆく<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>の手代に、橋場のようすを探って貰った。金次の傷は浅かった、しかし婿縁組を延ばす役には立った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>も首を振りとおし、七兵衛の気持も変った。事情は少しずつ好転し、二人の運がひらけるように思えた。けれども、半年まえに七兵衛が卒中で倒れ「代貸」だった金次の位地がはっきりと一家を押えた。……そして五日まえ、機屋の手代が金次とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>の結婚を知らせて来た。もちろん金次の無理押しだろう、じっさいにはもう、四五十日も以前に、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>は金次のものにされていたという。

桐生に住んで以来、堅気の職人でとおした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>と一緒になったら、生涯、仕立屋で暮すつもりだった。

――汚れた紙は白くはならない。

短刀をふところにとびだして来た。そのさきがどうなるか、まず金次を片づけて、後はなりゆきに任せようと心をきめて、今朝、千住の宿から市中へ入ったのである。

## 三

静かな足音が近づいて来る。

――さあ、勝負だぞ。

手を合わせたまま、つむっていた眼をそっとあける。跼んだ足の指先が、きっちりした足袋の中で<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れている。足音はなお近づく。なにかを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るように、……用心ぶかく、殆んど忍び足で。そうして、それは彼の脇まで来て、静かに停った。

――どうしようというんだ。

彼はごく自然に、片手をそっとふところへ入れた。指の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ささくれ</span>が痛んだ。そのときうしろで、その人間の動くけはいがした。彼の手は短刀を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだ。

「――あのう、失礼でございますが」

<ruby><rb>躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>いがちに、女の声でこう云った。振返ってみると、五十歳ばかりの女が、そこにいた。彼は立ちあがって、ぼんやり黙礼しながら、ずっと向うの、墓石の蔭に、あの男がいるのをちらと認めた。

「わざわざおまいり下さいまして、有難うございます、越後屋さんのお店の方でいらっしゃいますか」

「ええ……そうです」

彼は眼を伏せる。彼女は<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せていて、顔色が悪い、黒っぽい着物を着た躯も、しなびたように小さく、髪毛には白いものが多かった。阿迦桶の中に花があり、片手に持った線香から煙が立っていた。

――うまくやれ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>と出るかもしれないぞ。

あの男が見ている。絶好の機会だ。

「ああ、これはどうも」

彼は自分が墓の前を塞いでいることに気づいて、愁いに囚われた者のように、頭を垂れながら、そっと脇へ身をよけた。

老女は礼を述べて、墓の前へ進んだ。彼のあげたもので竹筒は<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がっている、まだ柔らかい盛り土を掘って線香の束を立て、花は彼の供えたのと並べて置いた。それから阿迦桶の水を、墓標の前の（死んだ仏の使っていたらしい）茶碗に注いだ。これらのことを、彼は黙って、放心したように、脇から眺めていた。

「すっかり覚えが悪くなってしまいまして」老女は会釈をして云う、「失礼でございますが、初めてお眼にかかるのでございましょうか」

「ええ、……そうです、たぶん」

「わたくしお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>の母でございます、このたびはお店の皆さまに、いろいろと御厄介をおかけ致しまして……」

彼女はくどくど礼を云う。あの男はさっきの場所にはいない、だがあの眠そうな眼は、こっちを見まもっている。飽くことなく、じっと、どこかついその辺から。……彼はうなだれて、無気力に溜息をつき、ふところの手をだらっと下げる。

このあいだに、老女の声は少しずつ変ってきた。それがふと途切れて、なにかを探るような<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうな眼で、彼を見あげた。

「あのう、こんなことをお<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねしては、失礼かもしれませんが、もしや貴方は、……あの繁二郎さんと<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃるのではございませんか」

彼はどきりとする。すぐには返辞ができない。ええと口ごもるのを、老女は自分の思いどおりに受け取った。

「お手代の繁二郎さまでございますのね」

「ええ、そうです、……繁二郎ですが」

「やっぱりそうでしたか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>からお名前だけは伺っておりました、あれは御存じのように口の重い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>でございます、詳しいことはなにも申しませんでしたけれど、でも、……病気がいけなくなってから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うわごと</span>によくお名前をお呼び申しておりました」

彼は顔をそむけた。老女の声はふるえ、その眼はにわかに強く、期待と哀願の色をこめて、彼を見あげた。

「仰しゃって下さいまし、貴方はあれと、なにか約束をして下すったのではございませんか」いたましいほどおろおろと云った、「――あれは息をひきとるまで、貴方がおいで下さるのを待っていたようでございます、なにか、二人のあいだになにか、約束をして下すったことがあるのではございませんか」

彼は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く答えない。顔をそむけたまま、じっと息をひそめている。それからやがて、静かに、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いてみせた。

「――ああ」

老女は手で口を押えた。

いつのまにか<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>がたって、墓地はうすい鼠色にたそがれてきた。彼は老女の語るのを聞きながら、頭はやはりあの男から放れない、耳も眼も、絶えずそのほうへひきつけられている。

「わたくしが今どんなに嬉しいか、とてもわかっては頂けないでしょう」

老女は眼を拭き拭き、しどろもどろに、こうかきくどいていた。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>は御存じのように、<ruby><rb>温和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しい気だてのやさしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>でございました、ずいぶん早くから縁談もあったのですが、一人娘のうえ、父親があれの十七の年から中風で寐ついて、暮しの苦しいことを知っていたのでしょう、――婿に来るような人は嫌いだ、と云いまして、自分からさっさと、越後屋のお店へ奉公にあがったのでございます」

父親はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>の二十四の年に死んだ。母親は家へ帰って婿を取るようにすすめたが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>は笑って首を振った。こんな年になっては、嫁にゆくにしても相手は知れている。自分は一生独身でとおすことにきめた。もう少しお店で働いて、なにか小<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あきない</span>でもするだけ貯めたら、おっ母さんと二人で気軽に暮したい、と云うのであった。

「わたくしはこう思いました」と老女は<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>びあげた、「――わたくしがいなければ、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>独りなら、<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>まる縁談があったのです、わたしがいるために、纒まるはなしも纒まらず、やがてあんな病気になって……死んでしまいました」

老女は面を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>って泣いた。

「貧乏人の子に生れて、苦労の絶えなかったことは、運不運と<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて貰えます、けれども二十六という年まで、華やいだことも、浮気めいたこともなく、とうとう、夫婦の味も知らせずにしまったかと思うと、可哀そうで、可哀そうで、それだけは諦めがつきませんでした、どう考えてもそのことだけが……」

彼女はまた激しく泣いた。そして、<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>によろめく声で、自分自身を納得させるかのように、続けた。

「でも今はもう、幾らか諦めがつきます、貴方に<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>でお眼にかかって、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>にも貴方のような方があった、……たとえ夫婦にはなれなかったにしても、貴方という方がいて下すったと思うと、……嬉しくって、嬉しくって」

「もうやめて下さい、どうかもう」彼は呟くように云った、「あの人が、恥ずかしいでしょうから、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>さんが、あの人はいつも、恥ずかしがりやでしたからね」

「ああそうでございます、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>はいつもそうでございました」老女は涙を拭いた、「――小さいときからそんなふうで、たまにいい玩具でも貰ったりしますと、恥ずかしがって友達にも見せられない、よその子ならみせびらかすところを、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>は<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って隠すという性分でございました、そうでございます、……貴方という方のいることも、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>にはやっぱり恥ずかしくて、わたしに話すことができなかったのでございましょう」

彼はふと、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>という娘の姿を想像した。越後屋といえば江戸いちばんの呉服屋で、番頭手代だけで何十人といる筈だ。そういう店にいて、二十六になるまで、ついに結婚の機会もなかったとすれば、あまり<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>もよくなかったことだろう。友達よりも良い玩具を持つと、恥ずかしくて見せられなかったという、内気で温和しい娘。……いつも他人を立てて、自分はひっそりと蔭に坐っている。繁二郎という手代とはどんな関係だったのか、息をひきとるまで、うわごとに名を呼んでいたというが、死んでも訪ねて来ないようすから察すると、片想いだったと考えられる。

「私はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>さんと夫婦約束をしていました」

彼は衝動的にこう云いだした。いけない、ばかなことを云うなと、抑える気持もあったが、口をついて出る言葉はもう止めようがなかった。

「もう少し待てば、店を出して貰えるんです、五年まえから好きあって、末は夫婦と約束をしてからも、二年経ちます」

「まあ、……そんなにまえから」

「あと半年、せいぜい半年もすれば、店が出せる、そうしたらおっ母さんにうちあけよう、私には親きょうだいがありません、祝言をしたらおっ母さんにも来て貰って、三人いっしょに暮そう、そう話しあって、楽しみにしていたんです」

「そうでしたか、そんなふうに云って下すったんですか、わたしまで引取って下さるって」老女は頷いた、「――それをうかがえばもう充分です、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こ</span>がどんなに喜んでいたかがわかります、わたくしもこんな嬉しいことはございません、貴方、有難うございました」

そして、老女は墓に向って、こう囁いた。

「よかったねえ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>、おまえは仕合せだったんだねえ」

彼も心のなかで、墓の主に云った。

――嘘を云って済まないが、おまえのおっ母さんが喜んでるんだ、勘弁して呉れるだろうな、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>ちゃん。

だが彼はあっと云った、とつぜん右の腕を掴まれたのである、強い力で、右の二の腕をぐっと掴まれ、ふり向くと、あの男がそこに立っていた。

「橋場身内の半七だな、騒ぐなよ」

男はこう云いざま、こっちのふところへ手を入れて、短刀をさっと取りあげた。みごとな手並である。老女は茫然と眼をみはっていた。

## 四

老女との話に気をとられていた。相手がそこへ来たのも知らなかったし、短刀を取られてはっとしたが、すぐには口がきけなかった。

「な、なんですか、貴方はどなたですか」

「とぼけちゃあいけない」

その男は眠たそうな眼で、側であっけにとられている老女をちらと見、それから皮肉な冷笑をうかべながら云った。

「おまえが金次をやりに来たということは、ちゃんと知らせが届いてるんだ、桐生の機屋の店から、といえばわかるだろう」

「なにを、なにを仰しゃるんだか、私にはてんでわかりません」

「おれにもわからないことがある」男は云った、「――金次が橋場一家を押え、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>という娘の押掛け婿になったことは、あくどいやり方だ、普通の世間ならまわりが許してはおかないだろう、しかし、やくざの世界はべつだ、腕と度胸がものを云う、やくざ仲間では、無理でもあくどくっても勝つ者が勝つんだ、……おまえは堅気に戻った、そのことは機屋の番頭からよく聞いている、想いあった女を横取りされて、口惜しいだろうが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>はもともと博奕打の娘だし、そうなってしまえばそれで、しぜんとおさまってゆくものだ、おれも現に見ているが、どうやら波風の立つようすもない、そこへ今おまえが乗込んで、金次を刺すことができたとしても、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>の躯が娘に返るわけでもなし、金次に代って、いきなりおまえが橋場を背負って立てもしない、悪くこそあれ、善くなることは一つもありゃあしない、どうしてそんなつまらない量見を起こしたか、おれにはそれがわからないんだ」

「あの失礼でございますが」脇から老女がおそるおそる云った、「貴方は町方の親分さまでございますか、もしもそうなら、これはとんでもないお間違いでございます」

男は悠くりと振返った。老女は微笑して、気の毒そうに頷きながら云った。

「こちらは駿河町の越後屋のお手代で、繁二郎と仰しゃる方です、わたくしは山崎町の藤兵衛<ruby><rb>店</rb><rt>だな</rt></ruby>にいる、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かね</span>という者ですが、この方は、死んだわたくしの娘の墓まいりに来て下すったところなんです」

「するとおまえさんは、この男を知っているのかえ」

「存じておりますとも、よけいなことを申上げるようですが、この方と死んだ娘のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>とは夫婦約束ができていたのですから」

「だが、墓まいりに短刀はおかしかあないか」

「それは」と老女が口ごもった、「――この方のようすでお察し申すのですけれど、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>に死なれて、思いつめたあまり、……」

その男は彼のほうを見た。彼は眼を伏せたまま、そっと頷いた。男はそれを細い眼で眺めながら、穏やかな口ぶりで云った。

「この人の云うことに相違ないか、おまえ本当に堅気の、越後屋の手代か」

彼はまた頷いた。

「そうか、おれの眼ちがいか」

その男は初めて、掴んでいた腕を放した。それから取りあげた短刀を、ゆらゆらと揺りながら、

「そいつはとんだ迷惑をかけた」と低い声で云った、「――桐生の機屋にいるのが、おれの友達で、そいつがまた半七という男を好きなんだ、まちがいのないように頼むと、急飛脚をよこしたので、千住で見張っていたところおまえを見かけ、てっきりこいつと思いこんだわけさ、半七という男は仲間を斬って逃げたんで、捉まればお繩になる、もちろん、こんな話はおまえさんには関係のないことだろう」

そして、持っている短刀を見せ、

「だがひとつお節介をさせて貰おう、想う娘に死なれたからって、思いつめて死ぬなんざあみれんすぎる、そのくらいなら、こうしてあとに残った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おふくろ</span>さんの面倒をみてあげたらどうだ、そのほうが、死んだ娘のためにも功徳になるぜ」

「まあとんでもない、どうかそんな、わたしのような者のことなんぞ」

「なあにこいつはただ云ってみただけのことさ、……迷惑をかけて済まなかった、この危ないものはおれが預かってゆくぜ」

その男は短刀をふところへ入れた。かちりと音がしたのは、十手があったからだろう。じっと細い眼でこちらを見つめて、それから悠くりと去っていった。夕靄……が濃くなって、墓地の向うはおぼろにかすんでいる。男の姿はその靄の中へと、静かに消えていった。

「あの人はまあなにを勘違いしたんでしょう」

老女はこう云って<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>をついた。

「似ていた私が悪いんですよ」彼はなだめるように云った、「――貴女がいて呉れたので、早く疑いが解けて助かりました、しかしああいう職の人間にしては、思い遣りのありそうな人でしたね」

解放されたように、気が楽になった。桐生から此処へ来るまでの、どす黒い、歪んだ感情。泥まみれに汚れた途の、すぐ脇に、こういう静かな、無事な世界があった。そのつもりなら、いま云われたように、この老女を伴れて桐生へ帰ることもできる。

――そいつはあんまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きざ</span>だ。

そして、幾らか不自然でもあるがそうすることができれば、自分も仕立職としておちつくことができるかもしれない。

「暮れてきましたね」彼は阿迦桶を持ちながら云った、「――帰るとしましょうか」

「あら、それはわたくしが」

「いいえ私が持ちます、ついでにお宅まで送ってゆきますよ」

なにか云いたそうな老女の背へ、彼はそっと手をかけ、<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>るように並んで、歩きだした。……夕靄をゆすって、鐘が鳴り始めた。