## 一

烈風と豪雨の夜だった。<ruby><rb>遠江</rb><rt>とおとうみ</rt></ruby>のくに浜松城の<ruby><rb>曲輪</rb><rt>くるわ</rt></ruby>うちに建ちならぶ将士の家屋敷は、すさまじい雨と風に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き叩かれていまにも<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されるかと思われた。なかでも榊原小平太康政の屋敷は大手門をはいったすぐ東がわにあり、ことに風当りがひどかったとみえてさんざんなありさまだった、三棟ある侍長屋のうちまず二棟が倒された、康政の住居も<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>をめくられ<ruby><rb>蔀</rb><rt>しとみ</rt></ruby>を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれた、<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>などはその跡もとどめないくらい吹きとんでしまった。家来たちは頭からずぶ濡れになり、闇をひき裂くような風に叩かれながら、<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り喚きつつ右往左往していた。……すると夜半すぎた頃になって「端のお長屋があぶないぞ」という叫びごえが聞えた。みんなが駈けつけてみると、なるほど風の<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>りで板屋根が波をうちだしているし、長屋ぜんたいがみちみちと悲鳴をあげながら揺れたっている、「早く誰か綱を持って来い」「いやうしろからつっかい棒をしろ」口ぐちに叫びたてていると、長屋の端にある家の戸がぎちぎちと<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>みながら内がわから明いた、そして中からぬっとひとりの侍が出て来た。

「や、や、なんだ」みんなびっくりしてとび<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた、あんまり思いがけなかったので、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を潰したのである。家の中から出て来た男はきわめて漠然たる眼つきでみんなを見まわした、胸の厚い骨組みのたくましいみごとなからだである、眼も口も鼻も大きい、耳も大きい、眉毛もあざやかに黒ぐろと太い、<ruby><rb>雑作</rb><rt>ぞうさく</rt></ruby>がなにもかも大きくできている、それが実に漠然たる感じでぬうっと立ちはだかったのは壮観だった。

「やあ孫七ではないか、おう孫七だ」ひとりがようやく相手を見わけてそう叫んだ、それがもういちどみんなを仰天させた、「本当に孫七だ、いったいきさまどうしたんだ」

「おれか、おれはどうもしないよ」

「どうもしないと云って、きさま今までこの中でなにをしていたんだ」

「<ruby><rb>寐</rb><rt>ね</rt></ruby>ていたのよ……」

「あきれたやつだ、みろ、もう潰れかかっているぞ」

「……だから出て来たのよ」とかれは事もなげに云った、「つまり、寐ているところへ長屋が潰れると、あぶないからな」それからかれは大きな眼で宙を見あげ、手を額に当てながらおもむろに云った「雨だね」と。これがわが柿ノ木孫七郎である。

榊原家の孫七に対して、酒井<ruby><rb>左衛門尉</rb><rt>さえもんのじょう</rt></ruby>忠次の家来に石原<ruby><rb>寸度</rb><rt>ずんど</rt></ruby>右衛門という人物がいた。元亀元年六月の姉川陣に、徳川家康は織田信長のたのみで先陣をつとめ、朝倉軍をひきうけて戦った。そのとき寸度は酒井忠次のさきてとして、朝倉軍の側面を衝くべく、稲田にはさまれた細い田道を一隊の兵とともに前進していった。するとそこへ信長がわずかな供をつれて馬で通りかかったが、このありさまを見ていきなり「なんだおまえたちは、じじばばが寺詣でもするように、田道を一列に並んでぶらぶらゆくやつがあるか、いま合戦のまっさいちゅうだぞ」とおそろしいけんまくでどなりつけた。

「おせきなさるな」寸度はびくともせずにおちつきはらって答えた、「合戦はこれからでおざる、いまから田へ踏みこんで泥まぶれになったところで、一刻はやく勝つわけでもおざらぬ、……織田どのの先陣は徳川、徳川のまた先陣は酒井、酒井のそのまた先陣はこの寸度でおざる、先陣のことは先陣におまかせあれ」つまりこれが石原寸度右衛門だった。

孫七郎と寸度右衛門はひとも知る無二の親友だった。孫七は顔の雑作がそうであるように、すべてが大まかでのんびりしている、決してせかせかしない、しかもそれがずぬけているので「孫七と<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れになるな」という通言さえもでき、とかく同輩のなかまはずれにされがちだった。寸度は親友としていちばんそれが口惜しい、「凡愚どもに孫七のねうちはわからぬ、あれはそこらあたりに転げている雑兵武者とは種が違うんだ、よくあの眼をみろ」<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>そう云うので、人々はつくづく孫七郎の眼を見なおすけれども、なにしろ漠然たるもので、どこにそんな値打があるのか見当がつかぬといった具合である。そこで寸度はますます躍起になり「孫七はいまにきっと大物になる、必ず竜となって昇天するときが来る、いまは土中に<ruby><rb>蟄伏</rb><rt>ちっぷく</rt></ruby>しているだけだ」などとりきみかえるが、当の孫七郎はどこを風が吹くかという顔つきなのではなはだ対照がおかしい「ははあ、土中の竜というとつまり<ruby><rb>土竜</rb><rt>もぐらもち</rt></ruby>だな」そう云ってみんなはまぜっ返すわけだった。天正元年二月のある日、寸度右衛門がふいと孫七郎の住居へたずねて来た。孫七郎は部屋のまん中に坐り、<ruby><rb>箭</rb><rt>や</rt></ruby>を二本そこへ置いてなにかしきりに首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>っているところだった。寸度があがっていってもとんと見向きもしない「なにをしている」と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いても「やあ」というだけだった、寸度は構わずはいっていってその前へ坐った「おい孫七、箭を二本前に置いてなにを思案しているんだ」

## 二

「石原寸度右衛門か」そう云ってようやく孫七郎はこっちを見た「実はいかにもわけのわからない事があってな、この四五日というもの考えあぐねているところだ」

「なにがそんなにわからないんだ」

「ここに箭が二本ある」かれはいつものゆっくりした調子で、一語ずつ念をいれてそう云いだした、「つまりこれは二という数だ、三でもないし、また一でもない、縦から見ても横から見ても二だ、なあ石原寸度右衛門、そうじゃないか」

「たしかに箭が二本、それがどうしたんだ」

「算法では二を二で割ると一になるという、この二本の箭をこう両方へ割る、いいか、一本をこっちへ、また一本はこっちへ、……ところが見ろ、やっぱり箭は二本ある、一にはならない、このとおりちゃんと二だ、これは算法が誤っているのかそれとも……」

「今日は話があって来たんだ」寸度は黙って二本の箭をそっちへ押しのけながら云った、「いや算法なんかうっちゃって置け、話というのは先日も申した嫁のことだが、おまえ考えてみたか、どうだ」

「……うん」孫七郎はみれんらしく二本の箭のほうへながし眼をくれながらうなずいた、「考えてみたよ、だが石原寸度右衛門、あれはなかなか大きな問題だ」

「なにが大きな問題だ、たかが嫁をとるかとらぬか、世間ありふれた話じゃないか」

「おまえはむやみに嫁をとれ嫁をとれと云うけれども、よく考えてみると、嫁をとるということは、つづめて云えば妻をもつことだ、つまり云ってみれば独り身でなくなるわけだ」

「そんなことはわかりきっているよ」

「いやそうじゃない、これはそう簡単なわけのものじゃないぞ、たとえば<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に箭が一本ある」そう云ってかれは寸度が押しのけた箭をまたひき寄せた、「これを柿ノ木孫七郎とする、いいか石原寸度右衛門、そこへだな、もう一本この箭を持って来るとする」

「どうしてそう箭にちょっかいを出すんだ」寸度はその二本をひったくって隅のほうへ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りだし、むずと坐り直して云った、「はっきり云うがおまえは嫁をとらなくちゃいかん、いいか、嫁をとるんだ、妻をもつんだ、身をかためるんだ、わかったか」

「おまえは<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>え性のない男だなあ石原寸度右衛門、もう怒ったのか」

「なにも云うな、今日おれが晩飯をするから来い、そのときまたよくわかるように話してやる、いいか晩飯だぞ」寸度は叩きつけるように云うと急いで出ていってしまった。

どうかして孫七郎を世に出してやりたい、それが寸度のねがいだった。かれはまた不運なめぐりあわせで、二十七歳にもなるのにまだいちども戦場へ出たことがない、いつも留守の番にまわされる、あたりまえの者なら是が非でもいちどやにどは出陣をねがい出るだろうが、かれは命ぜられたら命ぜられるとおり、おっとりなんの不平もなく与えられた役目をこつこつと守っている、寸度にはそれが<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>くてならない、なんとかしてかれの存在をはっきりさせ、世間の軽侮の眼をおどろかしてやりたい、「なるほどそうだったか」と感嘆のこえをあげさせてやりたいと思った。そこで考えついたのが嫁をもたせることだった、妻を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>れば人がらも変るであろう、そして子供でも生れたら少しは<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>も出るに違いない、これはなんとしても結婚させなくてはならぬと思いきめたのであった。

その日の<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れがたであった、孫七郎はいつものゆったりとした足どりで寸度の住居へやって来た。寸度右衛門は酒井家の番がしら格で、家士も十人いるし馬も三頭もっている、やって来た孫七郎は玄関へはあがらないで、脇のほうから<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>の前へまわっていった。そしてそこに<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いである三頭のなかでも、ひときわ<ruby><rb>逸物</rb><rt>いちもつ</rt></ruby>と思える背黒の前に立ちどまって、<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れ<ruby><rb>惚</rb><rt>ぼ</rt></ruby>れとわれを忘れたように眺めはじめた。石原家の家士がみつけなかったら、たぶんそのままなん時間でもそうしていたことだろう、「これは柿ノ木どのではございませんか」通りかかった若い家士がびっくりして呼びかけた、「あるじが先刻からお待ち申しておりますが、どうなすったのでございますか」孫七はゆっくりふり返った、そして感に堪えたという顔つきで「良い馬だな」と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>き、いかにも心残りらしくのっしのっしと厩の前をはなれていった。寸度はもう<ruby><rb>膳部</rb><rt>ぜんぶ</rt></ruby>を前にして坐っていた。「どうしたんだ待ちかねたぞ、いま迎えをやろうと思っていたところだ、まあいいから坐れ」孫七郎は坐った、寸度はすぐに、「酒を持ってまいれ」と呼びたてた。

もう支度をしてあったとみえ、すぐに<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>があいてひとりの若い娘が<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げてはいって来た。しもぶくれのふっくらとした、<ruby><rb>撮</rb><rt>つま</rt></ruby>んでみたいようなくくれ<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の愛くるしい顔だちである、からだつきも柔かくすんなりした線で包まれ、白い素足の<ruby><rb>爪尖</rb><rt>つまさき</rt></ruby>が桃色に潤んでいる、美人ではないが、美人を十人集めたなかでも可愛いと思わせる類のむすめだった。寸度はじっと孫七郎のようすを<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていた、孫七郎は娘を見ていた、それがうっとりとした、どこやら<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>のぬけたような眼つきだった。……こいつ眼をつけたぞ、寸度はそう察して思わずにやっと微笑した。娘はぽっと頬を赤くし、髪も重げにふかく<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せていた。孫七郎のうっとりとした視線がいつまでもくいついているので、眼のやりばもないし、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しくてしかたがないのである、……なんとまあぶ遠慮にごらんなさるのだろう、娘は赤くなりつつ少しむっとした。かの女は寸度の知己にあたる田井六郎兵衛という者の妹で、名をお初といった、孫七郎のことは面識こそないがいろいろと<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>に聞いていたし、今宵の<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>の給仕にたのまれた意味もおよそわかっている。だがそれにしても、……あんなにぶしつけにごらんなさるということがあるだろうか、あんなしげしげとしたお眼で。そう思うとついには、<ruby><rb>羞</rb><rt>はず</rt></ruby>かしさで身が縮むようにさえ感じられてきた。

孫七郎は、手にした<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をさえ忘れたようだったが、やがて<ruby><rb>太息</rb><rt>といき</rt></ruby>といっしょに「実に、すばらしい」と呟いた。

## 三

その明くる日、寸度右衛門はすぐ話をきめるために孫七郎をおとずれた。かれは昨日とおなじように箭を前に並べて思案していた。違うのは二本の箭が四本になっているだけで、坐り場所も、腕組みをした恰好も、昨日からじっとそうしていたもののように寸分も変っていなかった、寸度は<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて眼をみはった。

「またそんな面倒くさいことをやっているのか」

「こんどは倍にしてみたんだが」とかれは真剣な調子で云った、「つまり二を四にしてみたんだが、というのは四を四で割ると」

「まあいいからおれの話を聞け」寸度はいさい構わずそこにある箭を押しやり、むずと坐って孫七郎の顔をまともに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。睨んでおいてやがてにっと笑った。すると孫七郎もなにか合点したとみえ、大きな眼を細くしてにやりとした、寸度はへっへっへと<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を揺すった。

「どうだ孫七、気にいったか、ゆうべの佳麗お気にめしたかどうだ」

「やあどうも」孫七郎は<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へなにか詰ったような声をだした、「いやどうも……」

「文句はないだろう、とろけるような眼つきをしおって、こっちが恥かしくなったぞ、しかしむろん気にいれば結構、おれも嬉しいというものだ、貰うだろうな」

「<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れるのか」孫七郎はそう云ってぽっと顔を赤くした。

「だからこそ呼んで見せたので、おまえが正直にそう乗り気になって呉れればおれとしても張り合がある、そこで相談だが、貰うときまれば早いほうがいいだろう」

「それは早いほどいいさ石原寸度右衛門、なにしろおれもながいこと欲しい欲しいと思っていたんだからな、今日これからではどうだろう」

「おい待て、おまえあんまりあけすけ過ぎるぞ、いくらなんでもそれはひどかろう」

「そうか、そんなにひどいかな石原寸度右衛門」

「日頃の孫七にも似あわぬ、むろんそれほど気にいったのなら申し分はないが、こういうことには順序というものがあるからな、向うだってそれ相当に支度もあるし、そう猫の<ruby><rb>仔</rb><rt>こ</rt></ruby>を貰うようなわけにはいかんよ」

「けれどもどうせ呉れる気になったのなら、なあ石原寸度右衛門、そう支度だの順序だのと面倒くさいことはぬきにしてあっさり呉れたらどうかね、おまえとおれとの仲じゃないか、それにまだほかに二頭も持っているんじゃないか、え、石原寸度右衛門」

「なんだほかにまだ二頭とは」寸度は首をかしげた、「おい孫七、ちょっと待て、なんだか話が少しへんだぞ、おまえなんの話をしているんだ」

「なんだってむろん背黒の話だろう」

「なに背黒だ、おまえ馬の……」寸度はまるで闇討ちをくったような眼をした、「冗談じゃないぞ孫七それは話が違う、さっきからおれが云っているのは縁談だ、嫁を貰うかどうかという相談をしているんだぞ」

「そんな<ruby><rb>猜</rb><rt>ずる</rt></ruby>いやつがあるか、いまさらになってそんなばかなことを」

「それはこっちの云うことだ、よく聞けよ孫七、いったい昨日の娘は気にいったのかいらんのか、それからさきに返辞をしろ」

「昨日の娘……」こんどは孫七が首をかしげた、「それはいったいどの娘かね」

「どれもこれもない、ゆうべ見せた娘さ、晩飯のとき給仕に出た娘があるだろう、おまえとろけそうな眼で見ていたじゃないか」

「知らんぞそんな者は、そんな者がいたかね石原寸度右衛門、冗談じゃない」

「冗談じゃないじゃない、おれは怒るぞ」

「ばかなことはぬきにしよう」孫七郎は逆に詰め寄った、「順序があるの、猫の仔の支度だの、給仕の娘だの嫁だのと、おまえの云うことはわけがわからない、いいか石原寸度右衛門、おれはごたごたしたことは嫌いだ、すべて物事はきまりをはっきりさせなくてはいけない、はっきりと、いいか、そこで改めて<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くが背黒をおれに呉れるのか呉れないのか、否か応か、ひとつそれだけ聞かせて貰おうじゃないか、余計なことはぬきだ、それだけはっきり聞かせて呉れ、わかったか石原寸度右衛門」

寸度右衛門は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついた、「そうだ」とかれは<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>のなかで呟いた、昨日こいつは厩の前にくいついていたそうだ、きっとまえから欲しがっていた背黒にみとれていたのだろう、つまり頭の中が背黒でいっぱいになっていたわけだ、娘を見せたって見わけのつく道理がなかったのである……寸度はぬっと座を立った。

「おれはもう帰る」

「帰るといって、背黒はどうなのかね」

「やらないよ」寸度は叩きつけるように云った、「背黒だろうが肚黒だろうがまっぴら御免だ、ながいあいだ欲しかったの、今日のうち貰いたいだの、どうも妙なことを云うと思った、おまけに顔まで赤くしやがって、……まさか馬とは……」まさか馬とは、と呟きながら、寸度はぷんぷんして帰りかけたが、ふとふり返ってどなるように叫んだ、「ついでだから云っとくが、おまえはいつもおれを呼ぶのに石原寸度右衛門という、なあ石原寸度右衛門、やあ石原寸度右衛門、たくさんだ、人の名というものはあまりきちょうめんに呼ぶとかえっておかしくなるものだ、まるでからかわれているような気さえするぞ、これからは名だけ呼べ、いいか孫七」

「むつかしいことを云うじゃないか」孫七は困ったように眼をしばしばさせた、「姓をぬきにして名だけ、……つまりただ寸度右衛門というんだな、寸度右衛門、ずんどえもん、寸度……なんだか谷間で大砲でも射っているようじゃないか」

寸度はなにも云わずにたち去った。

## 四

腹をたてて帰ったものの、寸度はむしろよけい孫七郎が好きになった。あれだけの娘を見せられても馬のことしか眼につかない、武士なら当然そうあるべきで、怒るほうがまちがっている、やっぱり孫七は孫七だと思った。――よし、こうなればなんとしてでも嫁を持たせなければならん、しかし問題はなかなか容易ではない、なにかうまい手段を考えないとただではうんと云わぬやつだ、なにかこれは必至という策はないかしらん。そう考えてしきりにその折を<ruby><rb>覘</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていた、しかしそれよりまえに思いがけぬ合戦がはじまり、そんなことはいっぺんに吹き飛ばされてしまったのである。

遠江のくに<ruby><rb>周智</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>郡に天方という城がある、三倉川の中流で<ruby><rb>谷峡</rb><rt>たにかい</rt></ruby>に臨んだ要害の地を占め、武田信玄の旗下でも勇名の高い久野弾正宗政が、三千の精兵をもって守備についていた。これは浜松城を北からねめおろして、徳川氏の<ruby><rb>北漸</rb><rt>ほくぜん</rt></ruby>をくいとめる第一線に当っているし、またそこを根拠として、隙さえあれば侵略の手を伸ばそうと虎視<ruby><rb>眈々</rb><rt>たんたん</rt></ruby>たる構えをもっていた。家康はまえから眼上の<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>ともいうべきこの<ruby><rb>城砦</rb><rt>じょうさい</rt></ruby>を除くべく機を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていたが、おりから信玄が<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>の北条氏と開戦したので、にわかに軍議をまとめて天方城攻略の兵をあげたのだ。

出陣の命をうけた石原寸度右衛門はすぐさま孫七郎の住居へとんでいった。孫七は<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>さきへ<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>をとりだして、ひどくのどかに金具の<ruby><rb>清拭</rb><rt>きよぶ</rt></ruby>きをしていた。

「どうした孫七、榊原どのでも兵を出すと聞いたが、いよいよおまえも出陣か」

「ああ石原寸度右衛門か」孫七郎はこっちを見てにやっとした、「いい<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>が続くな、そんなところに立っていないで、とにかくこっちへあがったらどうだ」

「そんなひまはない、おまえ出陣するのかしないのか」

「まだなにも聞かないがね、なんにも……」

「そんなのんきなことを云って、ちょっ、すぐいって願え孫七、おれもいってやる、こんどこそ出陣してひとはたらきするんだ、さあ一緒にゆこう」

「おまえ無理なことを云うな石原寸度右衛門」

「どうしておれが無理なんだ」

「だって考えてみろ」鎧の金具をゆっくりと拭きながら孫七は<ruby><rb>諄々</rb><rt>じゅんじゅん</rt></ruby>と説いた、「いくさというものはな、戦場でたたかうだけが全部じゃない、もちろん合戦の場も大切だ、大切だけれども、誰もかれも戦場へ出てしまってどうするんだ、なあ石原寸度右衛門、そういう簡単なわけのものじゃないだろう、留守城のかためもある、<ruby><rb>糧秣</rb><rt>りょうまつ</rt></ruby>の輸送もある、武器弾薬の補給もなかなか大変だ」

「たくさんだ、たくさんだ孫七」本当にたくさんだというように寸度は手を振った、「それよりおまえ戦場へは出たいのか出たくないのか、武士としていちどは出陣したくないのか」

「怒りっぽい男だなあ石原寸度右衛門、おまえどうしてそうすぐに逆上するんだ」

「おれは……」そう云いかけて、寸度右衛門はとびついて<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みつきそうな眼をした。むろん実際にはとびつきも噛みつきもしなかったが、かれは顔を赤くふくらして「勝手にしろ」と云うなり、くるっと<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を返して走り去った。

それから間もなく、天方城攻撃の兵馬は浜松を進発した。主将は平岩親吉、これに家康旗下の精兵をすぐって千五百余騎、天竜川に沿って上流へさかのぼり、東へ<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>って本宮山を越え、直ぐに天方城の<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>を衝く策戦だった。ときは春三月……山は木の芽立ちの季節で、あらゆる樹々の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>がそれぞれの新芽の色で<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろに彩られていた。誰かが<ruby><rb>讃歎</rb><rt>さんたん</rt></ruby>しているとおり、それは紅葉の山よりも美しく、まことに眼も<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>なる景観であった。<ruby><rb>叢林</rb><rt>そうりん</rt></ruby>のあいだには桜が咲き、さかりの桃がみえた、日だまりには山吹の鮮かな黄が燃えるようで、谷峡のあたりにしきりと老鶯の<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>りが聞える、いってみればつまり、ぜんたいとしては遊山にでも歩くような楽しい進軍だったわけである。……けれども天竜の渡河点へ着くと、そこでにわかに予定の策戦を変えなければならなくなった。<ruby><rb>牒者</rb><rt>ちょうじゃ</rt></ruby>を放って探知したところによれば、敵の防備は<ruby><rb>二俣</rb><rt>ふたまた</rt></ruby>の<ruby><rb>出城</rb><rt>でじろ</rt></ruby>を中心にすっかり迎撃の用意ができていたからである。そこで渡河点を三里ほど上へあげ、夜陰に乗じていっきに渉ると、小荷駄は残したまま、すぐに本宮山の裾へとりついた。そして兵をふた手に分け、一は山越えをして搦手に当て、一は<ruby><rb>山麓</rb><rt>さんろく</rt></ruby>を南へまわって大手を衝く、<ruby><rb>挾撃</rb><rt>きょうげき</rt></ruby>の軍配でひしひしと攻め寄せた。

浜松を出てから三日めの早暁、城兵の銃撃をもって合戦の火ぶたは切られた。石原寸度右衛門は大久保新十郎と共に大手の先陣をつとめていた。槍組百騎をひっさげ、<ruby><rb>箭弾丸</rb><rt>やだま</rt></ruby>のなかを無二無三に突っ込んでいったが、これはむろんそのまま城へ乗っかけるわけではなく、いわば敵の勢力をさぐるのが目的なので、まっしぐらに二段ばかり突っ込むと、兵をまとめてひとまず土地の<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>みへ退避した。あまりに敵の斉射がはげしいので、それ以上は無理にも進めなかったから、……かれらは窪地へとび込むと胸苦しいほど<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいた、鎧や具足の下はみんなぐっしょり汗だった。

「これはどうも……」ふと頭の上でのんびりした声が聞えた、「あぶないもんだな」寸度はびっくりしてふり返った、するとついそこに、柿ノ木孫七郎が立っていたので、こんどは本当にびっくりした。孫七は<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>をはねて<ruby><rb>高紐</rb><rt>たかひも</rt></ruby>にかけ、槍を片手に持って、大きな眼を糸ほども細くしてじっと敵陣のほうを見まもっている、寸度はわれを忘れて「やあ孫七か」と叫んだ。

「おまえ来たのか、やっぱり来たのか孫七」

「ああ来たよ」孫七は見向きもしなかった、「つまり来たから、しぜん此処にいるわけだ」

「いつ来た、どうして、どこで追いついた、よく来られたな、どうしたんだ」

なにもかも一遍に訊きたい気持でそうたたみかけたが、孫七郎は返辞もしないで敵陣を見まもっていた。箭が飛んで来たり弾丸が土をはねかえしたりするたびに、かれは大きな眼を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いてひょいとその行方を見送る、それはまるで理解しがたい物の正体をつきとめようとでもするような、好奇心とおどろきのいり混った眼つきだった。二十七歳にして初めて戦場へ出たかれには、あらゆる事物がなまなましく鮮かで、そのぬきさしならぬ実感がどうにも<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>にこたえるとみえる、やがて孫七はゆらりと頭を振った。

「いやどうも」とかれは感に堪えたような声で呟いた、「これは危険しごくなものだ」

「なにがそんなに危険なんだ」

「なにがって石原寸度右衛門、おまえにはこれが見えないのか、むやみにこう弓箭だの、<ruby><rb>鉄炮</rb><rt>てっぽう</rt></ruby>だまなんぞが飛んで来てさ、戦場というところは危険しごくなものじゃないか」

寸度は眼を剥いた、そしてなにかどなろうとしたが、そのとき右翼から「城兵が討って出るぞ」と喚く声がした、「突っ込め」わっという<ruby><rb>鬨</rb><rt>とき</rt></ruby>のこえが起るのを合図に、寸度は孫七をそのままにして、窪地からいっさんにとび出していった。

## 五

まさしく敵は城門をひらいて斬って出た。寄せ手の兵も鬨をつくって突込んだ、ゆるやかな丘の起伏と、かすかに青みはじめた草原のつづく<ruby><rb>屈竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>の戦場である、両軍の兵は剣と槍をひらめかして、濁流のあい寄るように衝突した。ちょうどその戦場の中ほどに、一本の八重桜が立っていた、淡い<ruby><rb>牡丹色</rb><rt>ぼたんいろ</rt></ruby>の花がまっさかりで、<ruby><rb>樹蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>が暗くみえるほど団々たる花毬を重ねている、そのまわりで槍や刀がきらきら光り、敵も味方もごちゃごちゃになって戦っていた。奇妙にその桜のまわりがいちばん激しい、少し脇のほうへ移るかと思うと、まるで相談したようにすぐまた集って来る。

「これは面白いな」孫七郎は丘の上から見ていて、さも興ありげに呟いた、「どういうわけであんなに桜のまわりへ集るのだろう、もっと脇へ寄れば足場も広いのにさ、あれはつまり、合戦をするにも花蔭などのほうが景気がいいというわけかしらん」

そのひと合せが終るまでかれは丘の上から動かなかった。それはまださぐりいくさだった、敵は城のほうへひき寄せようとするし、味方は城兵をおびきだそうとする、いつでも決戦の含みはありながら、まだ相互にちからの度合をはかっている、そういう戦だった。だからぬきさしならぬ一瞬の来るまえに両軍は巧みにさっと相別れた。寸度右衛門も手兵をまとめて後退した、そしてさっきの窪地のところまでさがって来ると、そこの丘の上に立っている孫七郎を認めて駈け寄った。

「無事だったか孫七、けがはないか」

「けがだって……」孫七は<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れむような眼で友達を見た、「なぜおれがけがをするんだ」

「なぜって、つまり、おまえいま斬り込んだんじゃないのか」

「斬り込みゃしないさ」

「じゃあ……」寸度は唾をのんだ、「じゃあさっきからそこにそうやって立ったままか」

「ああこうやって立ったままさ」

「どうして斬り込まなかった」寸度は<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しった</rt></ruby>した、「せっかく戦場に恵まれて眼の前に合戦を見ながら、どうして阿呆のように突っ立っているんだ、おまえおじけがついたのか」

「ではもう合戦はおしまいなのかね、石原寸度右衛門」

「ばかなことを云え、合戦はこれからだ、今のはさぐりいくさというくらいのもので、本当の戦いはこれから始るんだ」

「そんならなにもそう、せかせかすることはないじゃないか」孫七郎はむしろたしなめるようにそう云った、「おれにはまだいくさの気合がのみこめない、それでまあ此処からようすを見ていたというわけだ、ものには順序があるからなあ」

寸度右衛門はさっさと陣へさがっていった。

その日は昏れがたにもうひと合せあった、孫七郎はそれにも出なかった、「どうもまだ合戦の気合がわからない」というのである、相手になると<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>が立つばかりだから、寸度右衛門は恐ろしい眼で睨みつけ「どうとも自分の好いたようにしろ」そう云ってもう孫七郎のことは投げだしてしまった。……明くる早朝、搦手の攻撃がはじまると同時に、大手の兵もいよいよ決戦を挑んで陣を進めた。城の主将久野弾正は全兵をふた手に分け、よく防いでしばしば寄手を苦戦に追いつめた。およそ午前十時頃であろう石原寸度右衛門が左翼から中央へ突っ込もうとしていると、ふと向うに柿ノ木孫七郎の姿がみえた。いよいよやるか、そう思って見ていると、孫七は例のゆったりとした足どりで、ずっかずっかと合戦場のほうへ歩いてゆく、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>が重くてしようがないとでもいいたげな足どりである、そしてようやくかの八重桜の下へたどり着いたとみると、槍をそこへ置いて、やおら桜の枝のひとつへ跳びついた。――なにを、あいつ気でも違ったのか、寸度は眼を剥いた。まわりでは押しつ返しつ、敵も味方も必死になって闘っている、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と<ruby><rb>土埃</rb><rt>つちぼこり</rt></ruby>が舞いたち、太刀や槍がきらきらと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>き飛んだ、わあんと耳を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>う叫喚、ありとあるものが沸騰し<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み返す、まさに修羅場ともいうべき決戦のさなかで、孫七郎ひとり悠々と桜の枝を折っているのだ、二ど、三ど、跳びあがり跳びあがりして、ようやく<ruby><rb>毬</rb><rt>まり</rt></ruby>のように花をつけたひと枝を折りとると、かれはひどく上機嫌でそれを自分の鎧の<ruby><rb>箙</rb><rt>えびら</rt></ruby>へと<ruby><rb>揷</rb><rt>さ</rt></ruby>しこんだ、そこへ堪りかねて寸度が駈けつけて来た。

「なんの真似だ、いいかげんにしろ孫七、きさまこの合戦のまん中で、ちょっ、そんなことをしていると<ruby><rb>雑兵</rb><rt>ぞうひょう</rt></ruby>の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>になるぞ」

「ああ、石原寸度右衛門、おまえか」孫七はさも嬉しそうに叫んだ、「おれはおまえを捜していたんだ、ひじょうに大事なはなしがあるんだ、ちょっとそこへ掛けないか」

「突っ込め」と寸度は喚いた、「突っ込め孫七、きさま初陣だぞ、せめて<ruby><rb>兜首</rb><rt>かぶとくび</rt></ruby>の一つも取らんと浜松へは帰れないぞ、突っ込むんだ孫七」

「それはわかっているよ、だが大切なはなしが……」

寸度はもういちど「突っ込め」と絶叫したまま、槍をとり直してまっしぐらに敵のなかへとびこんでいった。……孫七郎は、<ruby><rb>歎</rb><rt>なげ</rt></ruby>かわしいという眼でそれを見送ったが、こんどは首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ向けて、箙へ揷した桜の花枝の具合をみた、かなり満足だったのであろう、やがて手をはたき、そこに置いた槍をとりあげると、ではひとつ……といった身ぶりで前へと歩きだした。

前後左右どこもかしこも、斬りむすぶ敵味方の兵でいっぱいだった。ちょっと見るとどれが味方でどれが敵だかわからない、みんな眼を血ばしらせ歯をくいしばって、おのが相手と<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>もふらず斬りむすんでいる、あらゆる神経がその限度まで緊張しきっているとみえるのに、案外その動作は緩慢でぎくしゃくしたものに思える、ところがいざ自分で槍をとり直してみると、緩慢どころか呼びかける隙さえない、誰も彼もが当の相手におのれの全身をうちこんでいた、五感のほかに六感というものがあるとすれば、いや七感であろうと八感であろうと、すべてをあげて相手を<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>すという一点に集中しているのだ。

「みんな忙がしそうだな」孫七郎はあたりを見まわしながら呟いた、「まるで手の<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いたやつはいないじゃないか、ああひとりあすこにいるのが……いや、あれも相手がある」

まったく相手がなかった、四方八方いたるところで戦っているが、孫七郎に注意を向けて呉れる者はみあたらなかった。できるだけ箙の桜を敵の眼につくように、からだの角度をいろいろ案配しながら進んでいったが、どうしてもわれこそと名乗りかける相手がない、これでは合戦にならないのである、孫七郎はほとほと困惑した、それで思いきって、

「やあやあ」と大音をあげて叫んでみた、「やあやあ……」

## 六

合戦はまさに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たけなわ</span>だった、「やあやあ」ぐらいの叫びごえが聞える道理はない。だいたい戦場の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>には絶えずひとすじの流れがあって、たるむ時はたるむなり、また緊まる時は緊まるなりに、全戦場をつらぬいて共通する一種の反射神経に支配される、たとえば敵と味方とが顔を合せた時、その一瞬に喰い合う眼、「応」という呼吸の合致があってはじめて戦いになる、敵を求める心と心とがぴたりと噛みあうところに勝負が始るわけだ。ところが孫七郎にはそれがない、全戦場をつらぬく闘志のながれがかれのなかには無いのだ。ちょうど油の中へ水を一滴たらしたように、どうにも周囲と密度が合わない、かれはまえの日「気合がわからない」と云ったが、つまりその気合に乗ることができないのだ、いってみれば<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れこんだ人間だったのである。

「やあやあ……」かれは困惑して、どうにもしようがなしに漠然と歩いていった、「弱ったなこれは、やあやあ、……やあやあ」

そのうちには相手があるだろう、誰かひとりくらいは突っかけてくるだろう、そう思いながら、なるべく箙の花枝の眼だつように、ずっかずっかと歩いていった。こうしていつか知らん白兵戦のなかを通りぬけ、やがてのことに敵の城門の前へゆき着いてしまった。冗談じゃないそんなばかなことが、……そう思ってつくづく見まわしたが、まさしく敵の城門の前に違いない、

「これはたいへんなことをした」孫七は思わずそう呟いた、「どうしよう……」

なんだかたいそう無作法なことをしでかしたような気持である、かれは<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くなって<ruby><rb>衒</rb><rt>て</rt></ruby>れ、途方にくれて<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついた、それからひき返そうとして向き直ったとき、合戦場のほうからばらばらと敵兵が崩れたって来た。孫七は左右を見た、味方は自分ひとりである、今こそ相手を横取りされる心配はない、つまり向うから崩れたって来る敵はぜんぶ自分ひとりのものだ、そう思うとかれは身内が<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>くように感じた。かれは城門を背にぬっくと立ち、槍を高くつきあげながら叫んだ、

「やあやあ、これは榊原小平太康政の家来、柿ノ木孫七郎正吉なり、われと思わん者は」

すばらしい大音でそこまで叫んだ、するとそこで事態はいっぺんに変った。崩れたって来た敵兵と、それを追い詰めて来た徳川軍の先手とがこれを聞いたのである、そして城門の前に槍をあげて立っている孫七の姿を見た、味方は「おお孫七が一番乗りをしたぞ」と喚きあい、敵兵は「もう城を乗られた」と<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>した、それで城へははいらないでそのまま横へと算を<ruby><rb>紊</rb><rt>みだ</rt></ruby>して敗走した。味方の兵はもうそんなものは捨てて「城を乗れ」「城へ城へ」と<ruby><rb>怒濤</rb><rt>どとう</rt></ruby>のように城門へ殺到して来た。……われと思わん者は、そう云いかけたまま棒立ちになっていた孫七は、どっと押して来る味方の兵のなかへそのまま揉みこまれてしまった。

天方城はそのとき搦手をも破られていた。寄せ手の挾撃がみごとに功を奏したのに反し、城将久野弾正は要害をたのみ過ぎて<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>を誤った、敗れた兵は敗れたまま散り散りになり、陣容をたて直す機をうしなった。これはもういけないと思ったのだろう、大手の城門が破られるよりさきに弾正宗政はさっさと城から脱出してしまった。もちろんそれで合戦は底をついた、敵の残兵は城将のあとを追って総崩れとなり、天方城は攻撃二日めで陥落したのである。

石原寸度右衛門は城の本丸の塁のところで孫七を捜し当てた。孫七郎は石に腰をかけてひどく衒れていた、なにしろいま軍目附が来て、かれの一番乗りを功名帳につけていったところなのだから。いくら説明しようとしても誰も耳を<ruby><rb>藉</rb><rt>か</rt></ruby>さなかった。「あっぱれだな柿ノ木」「孫七やったな」「初陣で一番乗りとはさすがだ」「帰ると番がしらだぞ」知る者も知らぬ者もやって来てそう<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>する、それがひとわたり済むとすぐまたあとから押しかけて来て「孫七やったな」「あっぱれだな柿ノ木」とおなじことを聞かされる、そうじゃないと云おうとしても決してとりあって呉れない、しようがないのでただ頭をかしげて、弱って、衒れていたところだったのだ。

「なあ石原寸度右衛門」とかれはすっかり事情をうちあけて云った、「そういうわけで、おれはなんにもしやしなかった、ただ歩いているうちに城門の前へ来てしまったんだ、嘘も隠しもないただ歩いて来たんだ、誰かひとりくらい相手があるだろうと思ってさ……」

「それでいいんだ、それが戦なんだ」寸度はふと顔をひきしめて云った、「開戦の第一弾で<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れる者もある、満身<ruby><rb>創痍</rb><rt>そうい</rt></ruby>となっても兜首ひとつ取らぬ者もある、またおまえのように、ただ歩いていって一番乗りの功名をすることもある、これが合戦だ。……いいか孫七、合戦とは功名手柄にあるんじゃない、それも結果のひとつではあるが、<ruby><rb>要</rb><rt>かなめ</rt></ruby>はたたかう心だ、味方を勝利にみちびくために生命も名も捨ててかえりみない、その心さえたしかなればあとは神の<ruby><rb>知食</rb><rt>しろしめ</rt></ruby>すままだよ、孫七は孫七なりに戦った、それでいいんだ、なにもそう衒れることはないよ」

「それにしてもさ」孫七郎はうんとうなずいたあとからしかしいかにも具合が悪そうに云った、「この箙へわざわざ桜まで揷して、なるべく眼につくようにくふうをしたのだぜ、ところが誰もみつけて呉れないんだ、……いったいどうして敵はおれをあんなに嫌ったのかね、いちどなぞはおれが『やあやあ』とどなったら敵兵のひとりがこちらを見た、こういう眼つきで……」かれはそういう眼つきをしてみせた、「こういう眼でこっちを見た、しめたと思った、この機をのがしてはならんと思ってもういちど『やあやあ』と叫んだ、するとその敵兵が『なんだ』とどなり返した、なんだと……とこれには言句に詰まった」

「またどうして言句に詰まるんだ」

「どうしてだって」孫七は<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>とした、「どうしてって、べつに用があるわけじゃないじゃないか、なんだと云われたって『これこれだから』とか『実はこれこれの事で』とか、そういう場合じゃないじゃないか」

「それはたぶん、なんだろう」寸度は面倒くさくなって遮った、「きっとその相手が孫七と伴れになるなということを知っていたんだろう」

「おまえもう怒るのか石原寸度右衛門」

「いいから立とう、馬寄せだ」そう云って寸度は踵を返した。

本当にそのとき<ruby><rb>勢揃</rb><rt>せいぞろ</rt></ruby>えの<ruby><rb>法螺</rb><rt>ほら</rt></ruby>がびょうびょうと大きく鳴りわたった。孫七郎はやおら石から腰をあげたが、さきへゆく寸度のうしろ姿をみると、急に「ああそうだ」と手をあげた。

「おい石原寸度右衛門ちょっと待って呉れ、おれはおまえに大事なはなしがあった、おれは嫁を貰わなくちゃならないんだ」

「なに、なんだって孫七」と寸度はびっくりしてふり返った、「嫁がどうしたって」

「嫁を貰うんだよ」孫七は熱心に云った、「つまり誰かおれにふさわしい娘があったら、それを女房にして身をかためたいんだ、つづめていえば妻帯するわけだ」

「それは本当か」寸度は駈け戻って来た、「それは本心か孫七、本気でそう思うのか」

「本気だとも、それともおまえまだ早いとでもいうのかね」

「なにを云うものか、早いどころかおそすぎるくらいだ、しかしまたどうして、急にそんな殊勝な気持になったのかい」

「おれはたまげた」孫七はゆらりと頭をゆすった、「戦場がこんなに危険なものだということは知らなかった、初めて見てたまげたんだ、これじゃ危ない、戦場がこんな危険なものだとすると独身ではいられないじゃないか」

「おまえまた面倒くさいことを云いだすんじゃないのか」

「面倒くさいことはないさ、物の道理を考えてみればわかる、だってそうだろう、独身ということは妻がないということだ、してみれば、順序として世継ぎの子もないという勘定になる、そうすれば、おれがもしこのつぎ戦場に出て、武運めでたく討死をした場合に、いったい誰が柿ノ木の家名を継ぐと思うのかね……」

寸度はもうそこにいなかった、我慢を切らして駈けだしていた。孫七郎はそのうしろ姿を見送りながら「おい石原寸度右衛門」と呼びかけた、「おまえはなしはわかったのか」すると寸度はふり向きもしないで、「わかった」と叫び返した、嫁のことひきうけたよと。孫七郎はいかにも憐れみに堪えないという眼つきで見やり、ゆっくりとこう呟いた。

「あれもこらえ性のない男だ」