## 一の一

「こう親爺、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>はもうこれっきりか、一人あたま五匁と張込んであるんだぜ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のこ</span>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬた</span>に<ruby><rb>鱈</rb><rt>たら</rt></ruby>昆布はひどかろう」

「鱈昆布もいいが見ねえ、おいらのはまるっきり昆布昆布だ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">や</span>組の<ruby><rb>喜三</rb><rt>きさ</rt></ruby>兄哥が一世一代の奢りなんだ、一度あって二度とはねえ公方様の御参内ってえところだぜ、刺身ぐれえ気張ったらどうだ親爺」

本所北詰橋の河岸にある居酒屋『鶴七』の店はいっぱいの客であった。なかにも八間の燈の下に陣取った町火消とみえる七八名の若者たちは、もうだいぶ酔が廻った様子で<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに店の主人をからかっていた。

「驚かしちゃあいけねえ」

主人の<ruby><rb>鶴七</rb><rt>つるしち</rt></ruby>は鍋前から、

「この<ruby><rb>不漁</rb><rt>しけ</rt></ruby>に刺身だなんてお大名の沙汰だ、鶴七は手妻遣いじゃあねえよ」

「嘘をつけ、この酒なんざあ相当の手妻物だぜ」

「<ruby><rb>濁酒</rb><rt>にごり</rt></ruby>じゃあねえからな喜三さん、こっちに云わせりゃあ一人あたま五匁とはずんだおめえのほうがよっぽどいかがわしいや」

「おっ、云やあがったな親爺」

喜三郎という、頭に白く<ruby><rb>晒木綿</rb><rt>さらしもめん</rt></ruby>を巻いたのが<ruby><rb>腕捲</rb><rt>うでまく</rt></ruby>りをする、――と側にいた一人が、

「いかがわしいといえば」

と急に身を乗出した、

「<ruby><rb>霙河岸</rb><rt>みぞれがし</rt></ruby>の西脇道場の火事のとき変なことがあったのを知っているか」

「また<ruby><rb>銀太</rb><rt>ぎんた</rt></ruby>の御<ruby><rb>神輿</rb><rt>みこし</rt></ruby>が始まったぜ」

「担ぐんじゃあねえ<ruby><rb>本当</rb><rt>ほん</rt></ruby>のこった、兄哥たちゃあ知らねえだろうが、西脇先生は焼死んだんじゃあねえぜ、本当のこった、おらあ<ruby><rb>死骸</rb><rt>しげえ</rt></ruby>を掘出したから知ってるがな、――肩から胸へかけてこう刀傷が……痛えッ」

ぴしッと頬を殴った者がある、右側の一人おいて隣にいた男だ。銀太は頬を押えながら<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしそうに、

「なんでえ<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>兄哥、打つこたあ」

「なんでえじゃあねえ、詰らねえことをべらべらしゃべりあがって、<ruby><rb>頭梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby>はじめ組中の迷惑を考えてもみろ、もし関合いにでもなったらどうするんだとんちきめ、――みんな、いまのは銀太の御神輿だ、忘れてくんねえ」

「そんなこったろうと思ったよ」

喜三郎が<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>って、

「だがなんだぜ、西脇道場も師範代がやりてだから、焼けて六十日足らずというのに立派なものが建ったぜ、両側の地面を買って以前の倍にゃあなったろう」

「あの師範代は切れるからなあ」

「男振は良いし如才はなし、おれっちにまで腰が低いんだからできた人だ。それにお嬢さんがまた美人ときていらあ――いまに二人が御夫婦になりゃ霙河岸の名物夫婦だぜ」

話している右手に一段高くなって小座敷がある、<ruby><rb>対立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>を仕切にして五六組の客が飲んだり食ったりしていたが、その片隅から急に大きな喚声が起った。

「金は無い、金は無いと申すのだ」

<ruby><rb>落魄</rb><rt>おちぶ</rt></ruby>れた浪人者が一人、小女を尻眼にしてよろよろと立上るのが見えた。

<ruby><rb>垢染</rb><rt>あかじ</rt></ruby>みた<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の重着によれよれの<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>、<ruby><rb>鬢髪</rb><rt>びんぱつ</rt></ruby>も、濃い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>も茫々と伸びて、悪酔いをしたらしい大きな眼だけがぎらぎらと光っている、――<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなった小女は恐ろしそうに主人のほうへ走って行った。しかしそれより先に、

「なめた野郎だ」

と云いながら喜三郎が立上った。そして今しも草履をはこうとしている浪人者の前へ、

「おう浪人さん、ちょいと待ちねえ」

と<ruby><rb>立塞</rb><rt>たちふさ</rt></ruby>がった。

「なんだ貴様は」

「おらあ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">や</span>組の<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>で喜三郎てえ者だ、口幅ってえがこの<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>で変な真似をするやつがありゃあ取仕切りをするのがおいらの役なんだ。――浪人さん、飲んで食っただけの銭を置いてったらどうだい」

「いま持合せが無い」

「ではお宅まで供をしようか」

「その家も無いよ」

「じゃあどうするんだ」

喜三郎はくるっと片肌を脱いだ。――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すわ</span>とばかり、店いっぱいの客は一斉に立上る、喜三郎の<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れの若者たちも、いつか浪人の左右を遠巻にしていた、

「どうすると云って」

浪人は静かに草履をはいた。

「また都合のついた時に持って参る」

「ふざけるな！　金もねえ家もねえ、それじゃあてめえは食逃げだな、初めっから踏倒すつもりでへえって来ゃあがったんだろう」

「無礼なことを申すと、承知せんぞ」

## 一の二

「承知しねえなあこっちだ、さんぴん！」

ぱっと<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>が飛んだ。よほど<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>に馴れた者とみえて身ごなしも呼吸も<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>だった、――浪人者は危く、拳だけは<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>したが、泥酔している体がぐらりと崩れて、だっと<ruby><rb>仰</rb><rt>のけ</rt></ruby>さまに小座敷へ倒れた。

「野郎、たたんじまえ」

ばらばらと鳶の者が四五人、駈寄ろうとしたとき、――隅のほうから<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>風の中老の男が、

「待ってください、皆さん待ってください」

と叫びながら割込んできた。

「なんだ、佐渡庄さんじゃあねえか」

「危ねえから引込んでてくんな」

「いいえ待っておくんなさい」

<ruby><rb>佐渡屋庄兵衛</rb><rt>さどやしょうべえ</rt></ruby>といって、向う河岸で道具屋をしている男だった、――いきり立つ若者たちを押隔てながら、

「このかたは私が少し知っているんだ、勘定は私が払うからもうこのくらいで勘弁してあげてください。さあこれで……たんとは無いが払いをして、余ったらみんなで一杯やっておくんなさい」

「だってそれじゃああんまり」

「まあいいから、鶴七さん頼みますよ」

一分銀を押付けて、すばやく佐渡庄は浪人者を抱起すと、ほとんど担ぐようにしながら店を出て行った。

春とはいっても二月の夜寒。

川面を吹いて来る風は肌を刺すようだ、庄兵衛は北詰橋の袂まで来ると、浪人者の脇へ廻していた手を外しながら、

「<ruby><rb>秋山</rb><rt>あきやま</rt></ruby>先生、これはまあどうなすったというのです」

と声を励まして云った。

「佐渡屋だったな、……面目ない」

「面目ないではございません、御修業に出たまま五年というもの音も沙汰もなく、今になってこんなお姿で帰っていらっしゃるなんていったい……どうなすったんです」

「じつに、なんとも、面目ない」

「あなたは御存じないだろうが、去年の十二月はじめ道場から自火が出て、大先生はお気の毒にも焼死をなすってしまいましたぜ」

「うん、その話も、帰って来て聞いたよ、だが。……<ruby><rb>横井</rb><rt>よこい</rt></ruby>がいたので、道場も立派に建ったし、門人も<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたようだし、先生も地下でさぞ――悦んでいらっしゃるだろう」

「道場が建って門人衆が殖えたら、それで先生はお悦びなさるとおっしゃるんですか。冗談じゃない、私はただお出入りのしがねえ道具屋だが、大先生には別懇にして頂いてました、佐渡屋にだけは話すとおっしゃって、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を割ったお話もたびたび伺っています。――秋山先生」

庄兵衛は低く力を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めて云った、

「大先生はね、あなたが立派に御修業を果して帰っていらっしゃるのを、ただそれだけを待っておいでなすったんですよ、――大先生ばかりじゃあありません、お嬢さまだって」

「佐渡屋、もう<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>してくれ」

「大先生やお嬢さんの気持があなたに分るまでは止しません、横井さんはなるほど利巧者だ、金の工面もお上手だし御指南振りも如才がねえ、おっしゃるとおり道場は以前の倍もお盛んでございます。けれどもあんなに望みを懸けていらしったあなたがこの有様では、亡くなった大先生は浮ばれませんぜ、……いまだにあなたを待っていらっしゃるお嬢さまはどうなるんだ」

「大丈夫だ、そう心配するな佐渡屋、拙者だってこれで」

「あ、危い！　後は川ですぜ」

よろめく相手を抱止めて、

「お酒などは一滴もあがらなかったあなたが。これじゃあ先生が生きていらしったらお泣きなさるだろう、――さあ、肩へぐっとお<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りなさい、<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>が悪いから気をつけて」

「どこへ連れて行くのだ」

「私の家へ行きましょう、酔が<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めてからとっくりお話を致します」

川風が烈しく二人の裾を払った。

## 二の一

本所清水町の河岸、俗に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みぞれ</span>河岸と呼ばれている片側町に、木の香も新しい三十間四面ほどの剣術道場がある。

源流兵法指南　<ruby><rb>西脇五郎左衛門</rb><rt>にしわきごろうざえもん</rt></ruby>

という看板が掲げてあるが、師範五郎左衛門は去冬死し、現在では代師範横井<ruby><rb>千之助</rb><rt>せんのすけ</rt></ruby>が教授をしている。――松江侯が故人を愛していたそうで、いまの普請もその御手許金でできたものだという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>であるし、事実また門人の中には松江藩士が多かった。

朝から烈しい稽古の行われている道場とは、別棟になっている母屋のひと間で、亡き五郎左衛門の一人娘<ruby><rb>松枝</rb><rt>まつえ</rt></ruby>が、客の老人とさっきから静かに対坐している。

老人は松江侯の用人で<ruby><rb>分部半兵衛</rb><rt>わけべはんべえ</rt></ruby>といい、五郎左衛門の生前から親しくしている人物であった。

「――嫌いというなら仕方がない」

半兵衛は娘に云うような口調で、

「しかし嫌いでないならば考えてもらいたい、――横井は源流師範としての腕も<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かだし、門人たちの気受も好い、去年の御不幸のあとがこのとおり立派に再興したのも、むろん五郎左衛門殿の徳ではあろうが横井の手腕にもよると思う。……どうだ、あの男なら西脇の跡目として恥しからぬ人物と思うが、婿にとる気はないか」

「色々と、御心配をお掛けしまして、申訳ございませぬ」

松枝は静かに低頭しながら、

「お話はよく分りましたけれど、わたくしにとっては一生のことゆえ、しばらく考えさせて頂きとうございます」

「むろん五郎左衛門殿の一周忌でも済まぬうちは祝言もなるまい。今日はそのもとの気持を訊いてみたいと思ってきたのだ、よく考えてみて、承知なれば仮の<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をする運びにしたいと思う」

「いつも御深切に、ありがとう存じます」

そう云って松枝は静かに眼をあげた。

「それからあの、唯今のお話は分部さまお独りのお考えでございましょうか、それとも横井からお願い申したことでございましょうか」

「この話をするにはべつに頼まれた訳ではないがの」

半兵衛は笑いながら膝をあげた。

「しかし横井がそのもとにしんそこうちこんでいるのは事実じゃろ、酒も飲まず悪所通いもせぬ堅物のあれが、<ruby><rb>儂</rb><rt>わし</rt></ruby>の前で顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くしながら、――ははははは、いやこれは口止をされていることであったよ、半兵衛も<ruby><rb>老耄</rb><rt>もうろく</rt></ruby>の気味じゃ、ではまた折をみて参るとしよう」

「いまいっぷく、粗茶を……」

「いや公用の途中じゃ、雑作をかけたの」

「――お帰りでございますか、失礼をいたしました」

松枝は半兵衛を送りに立った。

ややしばらくして戻って来たときは、横井千之助が一緒だった。――彼は色の白い眉の秀でた美男で、澄んだ<ruby><rb>眸子</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>には<ruby><rb>犀利</rb><rt>さいり</rt></ruby>な光が<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れている、着物にも袴にも凝った渋味を見せ、言葉つきにも動作にも寸分の隙が無かった。

「老人なにか熱心にお話の様子でしたな」

千之助は微笑しながら、

「先生の御在世中からお世話にもなっていますし、また真実この道場のためには本気で心配してくださるのだが、どうも老人の独り合点が多くて迷惑なこともございます、――今日はなにを話しておられました」

「あなたは御存じのはずでしょう……」

「拙者の知っていること、というと数寄屋を建てるお話ですか」

「――――」

松枝は黙って千之助を見た。――千之助の眼は眩しそうに庭のほうへ外れた。

「ああ、もう梅もおしまいですね」

内門人の<ruby><rb>相良伝十郎</rb><rt>さがらでんじゅうろう</rt></ruby>というのが顔色を変えて走って来た。

「御師範代――ちょっと」

「なんだ」

「いま玄関へ……」

耳へ口を寄せてなにか<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くと、千之助の秀でた眉が険しく寄った。

そして二人は足早に去った。

松枝はそれに眼もくれず、黙って庭へ下りて行った。すると、待っていたように、水屋へ通ずる袖垣の陰から女中のお<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>が現われ、

「お嬢さまとうとうお話が出ましたですね」

と側へ寄って来た。

「おまえ聴いていたのかえ」

「様子が変でしたからきっとそうだろうと思ってここで聴いていました、まさかお嬢さまは御承知遊ばすのではございますまいね」

「――それはそうだけれど」

松枝は梅の枝を見上げながら、

「お断り申す口実がないのよ、これが町家であったら、嫌いだからで通せるかも知れないけれど、あたしは西脇源流の家柄を立てなければならぬ体ゆえ、ただ嫌いだからでは断れないわ」

「訳はございませんですよ」

お繁は意気込んだ口調で云った。

「秋山さまのことをおっしゃいまし、亡くなった旦那さまの思召でこの道場を継ぐのは秋山さまと定っていましたものを、なんの<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るところがございましょう」

「でも<ruby><rb>省吾</rb><rt>しょうご</rt></ruby>さまは五年もお便りがないし、いつお帰りかそれも分らないではないの、ことによるともうこのまま……」

「いえそんなことがあるものですか、秋山さまはきっとお帰りなさいますわ、お便りがないのも御修業一念のせいに相違ございません、あのかたに限ってそんな」

お繁は急に言葉を切った。

道場のほうから恐ろしく大声に叫びたてる声が聞えてきたのだ。気がつくと稽古の竹刀の音も絶え、ひっそりとしたなかにその喚声だけが大きく反響している、――その声をしばらく聞いていたと思うと、松枝はさっと頬を蒼くしながら縁側へあがって行った。

## 二の二

「声が高い、奥へ聞えるぞ」

「聞えたって構わん、手を放せ」

「放すから鎮まれ、秋山！」

千之助は相手を<ruby><rb>羽交</rb><rt>はがい</rt></ruby>締めにした。

「貴公の頼みは承知した、しかしここで騒いではお嬢さんに聞える、こんなところをお見せしてはいけないのだ、<ruby><rb>温和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しくしてくれ」

「ええ放せと云うのに、くそっ」

泥酔している力で、ぐいと身を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>ると、千之助の腰に差していた脇差の柄に手が触れる、そのままぎらりと引抜いた。

「危い！　秋山――」

驚いて千之助は跳退いた。

秋山省吾は脇差を手にしたまま、よろよろとよろめいて道場のまん中へ坐りこんだ。――鶴七の店で鳶の者たちから危く<ruby><rb>手籠</rb><rt>てご</rt></ruby>めにされようとした、あの時のままの、尾羽うち枯らした姿である。

「ほほう、良い物を差しているじゃないか」

省吾は脇差を見ながら、

「町道場の代師範などには<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないぞ横井、百両貸すのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>ならこれをもらって行こうか」

「いけない！　秋山、それは先生から頂いたものだ、金は都合をする、いますぐと云われても困るが今夜のうちには半分でもなんとかする、だからここはいちど温和しく帰ってくれ」

「<ruby><rb>逐</rb><rt>おい</rt></ruby>出そうというのだな、御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>る」

省吾は脇差を投出して、

「きさまが代師範ならおれだって代師範だ、別に先生から破門された訳ではないんだぜ、三年と約束した修業が五年に延びただけの話だ、これだけの門人、以前の倍もある道場、――こいつをきさま独りにせしめられて堪るか」

「それは違うぞ秋山」

千之助は、隅のほうへかたまっている門人たちの眼があるので、努めて穏かな調子を失わなかった。

「貴公が云うまでもなく、先生亡きあとは貴公と拙者とで守立てなければならぬ道場だ、むしろ拙者としては貴公こそ」

「うるさい、口先でなんと云おうがきさまの肚は分っているんだ」

省吾は血走った眼を<ruby><rb>剥出</rb><rt>むきだ</rt></ruby>して喚いた。

「きさまはおれを逐出してこの道場を乗取るつもりだろう、そんなことは分りきってる、だがおれは黙って指を<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えているような甘い男じゃないぞ、だいたい先生はこのおれが御<ruby><rb>贔屓</rb><rt>ひいき</rt></ruby>だったんだ、この道場は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>お嬢さまの婿も」

「お黙りなさい！」

卒然と叫んで、上段へ松枝が現われた。――顔色は蒼く、唇はぶるぶると<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えている、さすがに省吾は慌てて、

「こ、これは、お嬢さま」

と坐り直す省吾へ、

「これを持ってすぐお立去りなさい！」

怒りの声とともに金包を投出した。

「――これは？」

「お望みの百金です、それを持ってここを出て行ってください、亡き父に代って御破門申します、再び姿をお見せくださるな」

「お嬢さま！」

ひと膝乗出したが、松枝は見向きもせず奥へ去ってしまった。――みんな無言だった、そして省吾はしばらくその後姿を見送っていたが、やがて金包を引寄せてふらふらと立上る。

「おい、<ruby><rb>松原</rb><rt>まつばら</rt></ruby>――」

と門人たちのほうへ<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

「百両頂戴だ、<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>ってやるから来い、<ruby><rb>村上</rb><rt>むらかみ</rt></ruby>に<ruby><rb>吉本</rb><rt>よしもと</rt></ruby>も来い、きさまたちはまだ秋山省吾の飲みっぷりを見たことがないだろう、――金は、こうして遣うものだというところを見せてやる」

「――――」

「なにを吃驚しているんだ、きさまたちがどうやら棒千切れを振廻せるようになったのもみんなこの秋山先生のお蔭じゃないか、それとも……厭だというのか、厭ならこっちにも覚悟があるぞ」

三人は千之助の<ruby><rb>眴</rb><rt>めくば</rt></ruby>せを見て、

「お供をします」

と道具を脱ぎにかかった。

「お供を致しますからしばらくお待ちください」

「表で待っていてやる、千之助」

省吾は振返って、

「いずれまた来るぞ、百両ぽっきりで縁が切れたと思うなよ、今度来る時はもう少し大きくもらうぞ――覚えておけ」

そう云って玄関のほうへ出て行った。

最後のその喚声は、松枝の胸を刺すように響いた。……それまで杉戸の蔭に立って様子を見ていたのである。――破門と云ったら少しは本性にかえるかと思ったのだ。

――もう駄目、駄目。

松枝は胸いっぱいに叫びながら、走って行って自分の居間へ泣き伏した。

――なんという変りようであろう、五年振りで帰るのにあの泥酔、父の仏前を訊ねるでもなく、いきなり金を無心して乱暴<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>するなどと。

――なんとしたことか、なんとした。

松枝は身もだえして泣沈んだ。お繁も慰める言葉を知らず、ただ茫然と<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みながら<ruby><rb>立竦</rb><rt>たちすく</rt></ruby>んでいた。

## 三の一

「ど、どうか、命ばかりは」

「――斬りはせん、こちらへ来い」

「このとおり、へえ、風呂の<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>りで、<ruby><rb>鐚銭</rb><rt>びたせん</rt></ruby>も持っちゃあいねえんで、どうか御勘弁を」

「金ならこちらからくれてやる、来い」

まっ暗がりの四つ目河岸である。――二三日まえからめっきり春めいてきたいい陽気に、風呂帰りを川風に吹かれて、鼻唄なんぞを唄いながら通りかかった闇の中から、いきなり白刃をつきつけて現われた浪人者があった。

「用があるから来いと云うのだ、下手に騒ぐと斬るぞ！」

「へえ、へえ<ruby><rb>参</rb><rt>めえ</rt></ruby>ります、参りますから」

「そこの原へ入るんだ」

抜身で追いながら空地へ入ると、

「そこらでよし」

「――へえ」

「おまえ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">や</span>組の鳶で銀太という者だな」

「さようで、銀太って者でござんす」

「これから拙者の<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねることに正直な返辞をしろ、嘘や隠しがあると斬るぞ、いいか！　正直にはっきり云うんだぞ」

「へ、へえ」

「去年の冬、霙河岸の西脇道場から火事が出た、道場の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>西脇先生は焼死をなすった、しかしその死躰には不審なことがあった、肩から胸へかけて刀傷が……動くな！」

急に逃出そうとするやつを、

「えイッ」

後から背筋へ峰打をくれた。

「あっ、助けてくれ」

悲鳴をあげながら、斬られたと思ったのかのめって行って<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>する。浪人は走寄って<ruby><rb>衿髪</rb><rt>えりがみ</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>むと、

「おのれ、斬捨てるぞ」

と引起した。

「わ、わ、わ、わ」

「云え！　きさまはそれを見たはずだ」

「申、申します、申上げます」

銀太は生きた色もなくしゃべりだした。

「申上げますが、どうかあっしがしゃべったなんて云わねえでおくんなさい、実は先生の<ruby><rb>死骸</rb><rt>しげえ</rt></ruby>を掘出してみると、水浸しになった蒲団の下で、着物の裾が焦げたくれえなもんでした、あっしは念仏を唱えながらこう引起したんで、すると左の肩から胸へかけて恐ろしい傷でした」

「刀傷に相違なかったのだな」

「あっしはたしかにそう見たんで、けれどもあっと思って手を離すところへ頭梁と一緒に代師範の横井先生が見えまして、――これは<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>にお打たれなすったのだと、そうおっしゃってすぐまた蒲団を掛け、先生の御遺骸は自分のほうで始末をするからと、……頭梁はじめあっしたちに、金を十両くださり、そのままあっしは焼跡を出てしまいましたから、刀傷と思ったのは間違いで本当は焼落ちた梁に打たれた傷かも知れねえと」

「もうよい」

浪人はそこで銀太の言葉を<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。

「それだけ聞けば用はない、ここに一分あるから気を変えて一杯飲んで行け」

「な、なにそんな御心配はいりません」

「遠慮をする柄でもあるまい、その代りいまこんなことを訊かれたなんて<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>に話すなよ、話すと首が飛ぶぞ」

「めっそうな、あっしこそ頭梁から口止をされているんで、しゃべるこっちゃあありません」

「よし、もういいから行け」

銀太は小粒を握って風のようにけし飛んだ。

浪人は覆面を脱った、むろん秋山省吾である、闇を睨んだ両眼は憎悪の光に燃えるようだ、拳を握った手は激しく震えている。――けれどそれは束の間のことで、すぐに北詰橋のほうへ歩きだした。

橋を渡って二三丁、八千町へかかると右手に佐渡屋庄兵衛の店がある。省吾はすっと中へ入って行った。

店で刀の手入れをしていた庄兵衛が、

「お帰んなさい、また酔ってますね」

「省吾は酔って<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>のごとし、――佐渡庄は相変らず鈍刀の磨きか、つまらぬ世の中だ」

「鈍刀はないでしょう」

庄兵衛は打粉を叩きながら、

「見てください、あなたも御存じの金銘<ruby><rb>則重</rb><rt>のりしげ</rt></ruby>、大先生のお差料ですぜ」

「則重の脇差、あれをお売りなすったのか」

「買ったんじゃありません、お取替え申したんですよ、手前のほうは仮名銘<ruby><rb>兼元</rb><rt>かねもと</rt></ruby>でした、これより五分ほど短かったが、金三十枚という折紙つきの立派な物でしたぜ」

「そうか、あれは兼元だったのか」

「仮名銘兼元を御存じですか」

「五六日前に見た。――道理で立派な品だと思ったよ、そういえばあの刀相はたしかに兼元だな」

「何を感心していらっしゃる」

庄兵衛はにやにや笑いながら、

「あなたがあの兼元を御覧になる道理がありませんよ、あれは焼けちまいましたぜ」

「――焼けたとは」

省吾はそこへむずと坐った。

## 三の二

「大先生の亡くなったあの晩、惜しいことに一緒に焼けてしまったんです。というのが」

庄兵衛は刀に拭いをかけながら、

「あの晩は横井さんはじめ御門人衆は、向島で野試合を催したあと植松でお泊りなさいました、大先生が御酒をお嫌いなので、野試合を兼ねた年忘れの宴会という訳でしょう、みなさん植松で夜明しの騒ぎだったそうです」

「その留守で火事、それは聞いた」

「大先生はお風邪気味で、お留守をなすっていると聞いたものですから、ちょうどその前日手に入った仮名銘兼元の脇差を持ってお邪魔にあがりました、晩飯のあとですから、七時ぐらいでしたかな。……兼元を御覧に入れると大層なお気入りで、是非買いたいとおっしゃるんです」

庄兵衛はひと息ついて続けた。

「実を云うと私はその兼元でひと<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けするつもりでした、<ruby><rb>他処</rb><rt>よそ</rt></ruby>様なら否も応もないんだが、大先生に儲けてお売りすることはできませんからね、そこでお差料のこの則重とお取替えならと申上げたんです」

「それで取替えたのだな」

「へえ、私はそれから十時頃までお話をして帰りましたが、その夜更けに火事で、大先生はあんなことになる、兼元だってむろん駄目でございました、焼跡を捜してもらったんですが、めちゃめちゃになった欠身が出たっきりで、どれがどれやら見当もつかずじまい、まったく惜しいことを致しましたよ」

「そうか、――それで横井たちが帰って来たのはもう焼落ちた後だったんだな」

「そうですね、女中のお繁さんと下男二人でお嬢さんを外へお伴れしたそうですが、私が駆けつけた時はもう一面の火で、どうも大先生の姿が見えないという騒ぎなんです、それからすぐ植松へ使を走らせたんですが、みなさんが帰っていらっしゃったのは明けの四時頃でもございましょうか」

「みんな<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っていたか」

「横井さんはじめみなさん御一緒でした」

省吾は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて立った。――庄兵衛は手入れの終った則重を<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に納めながら、

「そういう訳ですから、仮名銘兼元は御覧になるはずがありませんよ」

「拙者の眼違いかな、――まあいい」

省吾は奥へ入りながら、

「明日なあ佐渡屋、ちょっと一緒に行ってもらいたいところがあるからそのつもりでいてくれ」

「なにか御用ですかえ」

「一緒に来れば分る、寝るぞ」

省吾は<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に奥へ去った。

明る日、庄兵衛が起きてみると省吾の姿が見えなかった。家の者に訊くと、夜のひき明けにどこかへ出掛けたという。

「なんだい、用があるから一緒に来てくれと云いながら」

ぶつぶつ云っていると、朝食をしまって<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ばかり経ってから、省吾が見違えるような姿になって帰って来た。

<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>も青々と、髭も<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>り、漆黒の髪を<ruby><rb>大髻</rb><rt>おおたぶさ</rt></ruby>に結って、衣服もすっかり新しく変っている、浅黒い切<ruby><rb>殺</rb><rt>そ</rt></ruby>いだような頬に濃い眉、――つい<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>までの尾羽うち枯らした様子に比して、生れ<ruby><rb>更</rb><rt>かわ</rt></ruby>ったような<ruby><rb>凛然</rb><rt>りんぜん</rt></ruby>たる男ぶりである。

「や、どうも、これは……」

庄兵衛は眼を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いた。

「どうだ、満更でもあるまい」

「驚かしっこなしにしましょう先生、どうなすったんですこれは」

「なに、ちょっと訳があって昨日まで茶番をしていたんだ、しかしもう用が済んだから衣装を脱いで来たところだ、――さあ支度をしてくれ、これから一緒に出掛けよう」

「どうもまるで訳が分りません」

「なにおいおいと分るさ」

「いったいどちらへ参るんです」

「霙河岸の道場だ、早くしてくれ」

庄兵衛は狐につままれたような顔で支度に立った。

道場の人々がどんなに驚いて迎えたかは云うまでもあるまい、先日の<ruby><rb>落魄</rb><rt>らくはく</rt></ruby>しきった酔漢ぶりを見た人々には、まったく人が違ったかと思われるくらいだった。――知らせを聞いて現われた千之助も、

「おお、――これは……」

としばしは自分の眼を疑う様子であった。

「先日のお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びに参った」

省吾は静かな口調で、「先生の御<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>に焼香を仕りたい、お嬢さまにそう申上げてくれぬか、<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げてお<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>しを願うと、――佐渡屋、おまえ一緒に行って口添えを頼む」

「へえ、……では御免を蒙ります」

千之助があいだで邪魔をせぬようにと、あらかじめ先手を打ったのである。

省吾は仏間へ通された。

## 三の三

師の霊前にしばし<ruby><rb>黙祷</rb><rt>もくとう</rt></ruby>していた省吾は、やがて座をすべって松枝の前へ両手を突いた。

「お嬢さま、先日の無礼は幾重にもお赦しを願います、その節頂きました百金は、そのまま手をつけずにこれへ持参致しました、――破門をするとおおせられたお言葉と一緒に、どうぞお納めを願います」

松枝はただ頷いた。

省吾の物腰態度、言葉つきまでがらりと変った様子に、相手の心を計り兼ねて、乙女の胸は深い疑惑の渦に巻込まれたまま身動きならぬ感じだった。

省吾は向直って、

「横井、改めて貴公に礼を云う」

とやはり静かな声で云った。「三年の約束で出た修業が五年に延び、留守中はなにかと貴公一人の世話を煩わした、<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>く礼を云う」

「恐縮だ、貴公の他行中に先生は御不慮なことに遭われ、留守を預った拙者実に申訳がない」

「あの夜貴公は向島の植松に泊っていたと聞いたが」

「左様、例年の野試合のあと、お許しを得て門人どもと年忘れの酒宴を催した。拙者も酒はならぬが、強いられて二三杯重ねたのが悪く利いて、早くから別間で寝込んでしまった、――使の者の知らせで驚いて駆けつけたが、……とうとうあの始末で――」

「ではあの夜、誰も道場へは帰らなかったのだな」

「拙者だけでも帰っていたらと、今になっても残念に耐えない」

省吾は頷いて、

「拙者もいま一年、いや半年早く帰って来たかった。そうすればこんな――いや！　修業してきた腕を見て頂けたものを、なによりそれが残念だ。……横井、せめて御霊前に修業の御報告を申上げたいと思う、ひと手立合ってもらえまいか」

「いいとも、久しぶりで教えて頂こう」

「ではお嬢さま」

省吾は松枝に向って云った、

「御位牌を道場へお移しください」

そして立上った。

松枝はお繁とともに、父の位牌を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて道場の上段へ飾った。――そのあいだに省吾と千之助は身支度をする、素面素<ruby><rb>籠手</rb><rt>こて</rt></ruby>に木剣。……門人たちは一隅へ退って列座した。

二人は位牌に礼拝すると、

「――いざ」

と云って左右へ離れた。

その時である、省吾は木剣を青眼に構えたまま、大きな声で、

「佐渡屋！」

と呼んだ。

「佐渡屋、……そこに横井の脇差がある、――抜いて<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきき</rt></ruby>をしろ」

「――へえ、へえ」

庄兵衛は訳の分らぬ顔で隅のほうへ行った。省吾の木剣は千之助の眼前鼻梁をぴたりと押えたまま動かない。

「――あ！」

という庄兵衛の声。

「佐渡屋、兼元であろう」

「か、か、兼元でございます、あの晩の兼……」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なかご</span>を<ruby><rb>検</rb><rt>み</rt></ruby>ろ」

千之助の木剣がゆらりと揺れた、呼吸が早くも乱れ始めた。五年の修業で省吾の腕は段違いになっている、千之助の額にじりじりと脂汗が浮きだした。

「先生、秋山先生」

庄兵衛がおろおろと叫んだ。

「か、仮名銘です、仮名銘兼元です」

「よし引込んでいろ」

省吾の眼がきらりと光った。

「千之助、あの脇差は先生から頂いた、と云ったな。……馬鹿者！　あれはきさまたちが野試合に出たあとで佐渡屋が持参したものだぞ、あれは先生と一緒に焼けたはずのものなんだ、それがどうしてきさまの手にある？」

「…………」

千之助の顔が紙のように白くなった。

「あの夜ここへ戻らぬきさまが、どうして兼元を持っているんだ、千之助ッ、きさま――先生を斬ったな！」

かっと喚んで千之助が打込んだ。しかし省吾が左へ体を開いたと思うと、千之助は烈しく床の上へ転倒する。――はね起きようとする首筋を、省吾は力任せに踏みつけながら、

「動くな！」

と絶叫した。「先生ほどの人物が火に巻かれてお果てなさるはずはない、拙者はそう思ったから身を<ruby><rb>俏</rb><rt>やつ</rt></ruby>し、酔いどれと偽って<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>を聞き歩いたのだ、――計らずも鳶の者が酒に酔って先生の御遺骸に刀傷があったと口を滑らせたのを聞き、ゆうべそやつを<ruby><rb>取糺</rb><rt>とりただ</rt></ruby>したのだ、きさまが梁に打たれた傷だと十両与えて鳶の口を塞いだことも聞いた、……だが動かぬ証拠は兼元の脇差だぞ」

千之助は獣のように<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きながら身をもだえた。――省吾はなおも力を籠めて踏みつけ、

「きさまはみんなの寝鎮るのを待って植松を脱出し、先生を斬って火を放ったのだ、そのとき兼元に眼をつけたのが悪運の尽きだったんだ。他の刀ならまだしも、この兼元だけは持出してはいけなかったんだぞ」

省吾は足を放した、

「起て、起て千之助！」

「…………」

「先生の御霊前だぞ、お嬢さまも門人たちも見ている、できるならその木剣で身の<ruby><rb>耻</rb><rt>はじ</rt></ruby>を<ruby><rb>雪</rb><rt>そそ</rt></ruby>いでみい！」

「くそっ」

<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>も裂けるような叫びとともに、千之助はがばとはね起きざま打込んだ。――省吾は二歩、三歩と退きながら、

「なまくら、それで西脇道場の代師範と云えるか、来い！　命<ruby><rb>賭</rb><rt>が</rt></ruby>けで来るんだ」

「うぬ！」

だっと床が鳴った、必死必殺の突きである、疾風のように襲いかかったが、省吾は軽く右に<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>し、さっと木剣をのめる相手の後頭部へ入れた。――突いて行った体勢のまま、千之助は前のめりに顛倒したきり絶命してしまった。

人々はただ茫然と息をのんだ。

松枝は震える胸をかたく抱緊めながら、燃えるような<ruby><rb>双眸</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>で省吾の姿を見上げていた。宝暦九年二月十二日のことである。