## 一

<ruby><rb>井住</rb><rt>いずみ</rt></ruby>のくに<ruby><rb>佐貝</rb><rt>さかい</rt></ruby>は中世日本における唯一の自由都市であった。永禄四年にキリスト教伝道のため佐貝へ来たヴィレラ師は、「――他の都市が戦乱によって惨害を受けている時、佐貝のみは平和と独立と特権と自由を保持し、共和政治の下に極めて安穏に富み栄えている。その状あたかもベニスのごとくである」と記している。しかり、佐貝は独立自由の市であった、巨万の富を擁し海外より舶載する豊かな物資があり、銃砲製造所もある。そこで勇猛なる戦国諸豪も、佐貝には<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を屈して軍用資材の融通を乞うくらいだった。

しかし自由とか平和とか独立などというやつは、人類の文化を阻害し毒するものに違いない、なぜならそれは朝顔の花のようにしぼみやすく、美人の容姿のごとくなが続きがしないからだ。佐貝市もその例外ではなかった、やがて叩かれる時が来た。織田信長がごっそり金と物資を運び去り、豊臣秀吉は市の三方にある<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>を埋め、会合衆（佐貝の倉庫業者で共和自治体の司政官）らを強制的に大阪へ移住させた。慶長十九年には大阪冬の陣で東西両軍の争奪地となり、夏の陣ですっからかんに焼き払われた。掛値なしの焦土となって徳川氏に直轄され、「佐貝<ruby><rb>政所</rb><rt>まんどころ</rt></ruby>」なる代官制が<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>かれた。――南欧ベニスに比せられたる佐貝の「自由都市」たる性格も、歴史の法則にしたがってかく解体され、<ruby><rb>淘汰</rb><rt>とうた</rt></ruby>の<ruby><rb>石車</rb><rt>いしぐるま</rt></ruby>によってきれいに<ruby><rb>地均</rb><rt>じなら</rt></ruby>しをされた結果、単なる幕府の代官所在地となり終わったのである。

焼野となって五年、埋められた濠も復活され、地割りも出来、家もだいぶ建った。佐貝は西が海に面し、三方に濠がある。外と往来するにはこの濠に架した橋によるほかはない、橋には番人小屋があって、禁制品の密交易を厳しく監視する、非常に厳重だから注意が願いたい。――南北に延びている町のほぼ中央、殿馬場という所に「佐貝政所奉行役所」が建っている、与力同心の住宅もある、北と南の広小路には、富裕な商人や倉庫業者たちの家倉土蔵、問屋、商舖などが建ち、海に面した大丁浜には<ruby><rb>廻漕</rb><rt>かいそう</rt></ruby>倉庫が並んでいる。またそこここに寺院の大屋根が五つも見えるが、……庶民どもの住宅街はまるでひどい、乞食部落というより焼け<ruby><rb>木杭</rb><rt>ぼっくい</rt></ruby>と<ruby><rb>繩蓆</rb><rt>なわむしろ</rt></ruby>をつくねた感じである。もちろんまだ焼跡のまま空いている地面がいたるところにあって、そこにはより貧しい人たちの小屋が散在している。<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>という辻には高札が立ち、そこにはこんな<ruby><rb>定書</rb><rt>さだめがき</rt></ruby>が<ruby><rb>貼</rb><rt>はり</rt></ruby>出してある。

一、米一日一人につき一合の事。

一、酒、菓子、煙草かたく禁止の事。

一、味噌、醤油、塩は時触れに従うべき事。

一、衣類、家具<ruby><rb>什器</rb><rt>じゅうき</rt></ruby>等、新調すべからざる事。

一、夜間にも燈火を禁止の事。

以上はおもなもので、他にも三十余カ条にわたる禁令<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>が列記されている。「魚は二十日にいちど」「野菜は十日に一人五匁」「草履は<ruby><rb>足半</rb><rt>あしなか</rt></ruby>」「帯は三尺」などの類で、犯す者は<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>申付くべしとある。つまりここでは生活を<ruby><rb>雁字搦</rb><rt>がんじがら</rt></ruby>めにして、<ruby><rb>手枷</rb><rt>てかせ</rt></ruby>、足枷、首枷をはめたうえ<ruby><rb>天床</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>へ<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>し上げたというかたちらしい。――しかし人間はちゃんと生きていますぞ、ごらんなさい底冷えのする宵の口、矢倉下の辻を三人の<ruby><rb>屈竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>な男が歩いてまいる、頭巾をかぶり刀を差して、だがどこやら寒そうな肩つきで、……肩の高い<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた男は「<ruby><rb>中将</rb><rt>ちゅうじょう</rt></ruby>」と呼ばれる、肥えた<ruby><rb>猪首</rb><rt>いくび</rt></ruby>のが「<ruby><rb>権頭</rb><rt>ごんのかみ</rt></ruby>」熊のように<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>だらけで、しかし声のばかげて優しい男が「<ruby><rb>杢</rb><rt>もく</rt></ruby>」という。彼らは大阪陣に抜刀斬込み隊で戦ったが、現在は夜道で抜刀をひけらかしたり、他人の家へ無断できり込んだりして地道に<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>いでいる。三人は歩きながら話す。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つんぼ</span>井戸の向こうよ、柳を左へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けち</span>臭く下れば鼻っ先だ、なあ杢」

権頭が胴震いをしながら云う、恐ろしく言葉が悪い、

「主じはまだずぶ<ruby><rb>若</rb><rt>わけ</rt></ruby>え銀流しで、老いぼれた死っ損ないの下男に飯炊きのしわくちゃ婆あがいるばかり、ぐるりは痩っこけた松林にかじかんだ大根畑てえぐあいなんだ」

「ふん、よかりそだ、な」

中将はまたばかに言葉を詰める、

「――が、もなるか」「物はあるかというんですね」

杢が女のような優しい声をだす、

「おほん、それは、たとえて云えばですね、――石山の石ですよ」

「杢は象徴派でいけねえ、だがそいつはちょっと<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>いつけるぜ、そうなんだ中将、石山に石のあるくれえたしかなんだ、……<ruby><rb>戎</rb><rt>えびす</rt></ruby>町に<ruby><rb>持木屋成助</rb><rt>もちきやなりすけ</rt></ruby>てえ両替<ruby><rb>店</rb><rt>みせ</rt></ruby>があるだろう、あれと西浜の<ruby><rb>来六屋出平</rb><rt>きろくやでへい</rt></ruby>てえ<ruby><rb>納屋貸</rb><rt>なやがし</rt></ruby>（倉庫業）とは、佐貝へ来てあっという間に土蔵の三棟ずつもおっ建てた、出来分限の両親玉だあ、――いま云った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つんぼ</span>井戸の向こうの銀流しめは、その持木屋成助んとこへ千両箱の二三十も預けてけつかる」

「信じられなければですねえ、中将」

と杢が指をひらひらさせる、

「ひとつ晩になってその家の外へいってみるんですよ、そっとね、そして静かに聞いていればわかります、――お寺の十二刻ですよ」

「ほいそいつも<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>えるぞ、そうなんだ中将、金の音がしやあがる、毎晩だぜ、毎晩のように小判を数えてけつかるんだ」

「もわかた、でじょぶだ、こんやろ」

市町の角に番所がある、その手前へさしかかったとき、後ろから三人を追い越して、一人の娘がばたばたと番所へかけ込んでいった。

## 二

「大変です来てください」

娘は狂気のように叫ぶ、

「いま<ruby><rb>押込</rb><rt>おしこみ</rt></ruby>がはいって<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>じゅうの物を持っていこうとしています。どうか早く、早く来てください」

番所の中には三人の番士がいた。土間の炉に火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて、干魚を焼きながら、ちょうど<ruby><rb>煮燗</rb><rt>あつかん</rt></ruby>で酒を始めたところである。「押込だって」と、番士の一人が云った、彼はむっとしたように<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をふくらませた。

「それはここじゃない、係りが違う、ここへそんな事を訴訟して来たって、――まるで係りが違う、冗談じゃない、押込だなんて」

「ではどこへ、どこへお願いしたらいいんでしょう」

娘は半ば狂乱して叫ぶ、

「もうこれで三度めなんです、みんな持っていかれてしまいます、どこへいったら助けてくださるでしょうか、お係りはどこでしょうか」

「そうさ、たしか、――広小路の<ruby><rb>札場</rb><rt>ふだば</rt></ruby>だったかな」

「札場のお番所へはもうゆきました」

「それじゃ西浜かも知れない」

番士はこう云いながら焼けた干魚を皿へ取った、

「このごろはよく係りが変わるから、そうさ、たぶん西浜だろう」

娘は西浜のほうへかけだしていった、「間に合うかしら、間に合うかしら」と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やきながら、こんどこそ狂人そのままの勢いで、――三人の悪漢は「へえお疲れさま」と、番所へ声をかけながら右へ曲がる、権頭が胴震いをして<ruby><rb>水洟</rb><rt>みずっぱな</rt></ruby>をひっこする。湯屋町を少しいったとき、左側の家で女と子供の悲しげに泣く声がした。立ちどまるとそれを圧して<ruby><rb>威猛高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>にわめくのが聞こえる。三人は思わず首を縮めた。なぜなら奉行所の役人の声だから、――それはこうわめいている。

「米は一人につき一日一合という御禁令だ、ええか。五人家族なら五合だろう、さすれば一回量は一合六勺六分六厘六毛となる、ええか、しかるにこの<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>の中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ら</span>をみろ、この中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ら</span>には三合以上あるぞ」

「なんとも申しわけございません」

女房の哀訴する声だ、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やど</span>は大浜へ荷揚げに出ますし、十五に十三の食べ盛りを抱えて、一日五合では生きてゆくこともできませんので、ない中から物を売っては」

「黙れこやつ、きさま下民の分際で御政治を<ruby><rb>誹謗</rb><rt>ひぼう</rt></ruby>するか」

役人は絶叫する、

「法というものは至上尊厳、いやしくも犯すべからざるものだ、第一、ええか、法はもとお上の御都合によって<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>るもので、なにも貴様ら下民どものためにあるんじゃない、貴様らはただ守ればよい、一日一合、法がそう命じたら一日一合、それで生きられるかどうかなんてことは、まったく問題が別じゃ、ええか、法は守れと命ずる、生きろなどとは命じやせん、――この飯は釜ごと没収だ、米もあれば残らず出せ、うろんなまねをいたすとひっくくるぞ」ところがその隣りの家でもやっている、こちらは役人が三人だ。そしてそのまた隣りでも。――三軒めの役人は酔っているとみえて<ruby><rb>呂律</rb><rt>ろれつ</rt></ruby>が怪しい、「おれをよく眺めろ」

こう云っている、

「どうだ、おれが死んでるか、ひっく、死人が歩いたり口をきいたり、ひっく、するかあー、おれは佐貝政所奉行役所の御役人だ、けれどもが、不正はしない、一日一合といえば、ありがたい、一日一合ですませる、嘘も隠しもない、神仏は、ひっく、すべて、へっく、これ見のがしだ、いや見透しだ。しかも生きてる、現の証拠だ、にもかかわらず下賤な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぬ</span>らが生きてるというのは怪しい、これはありえねえ、<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>だ、今そこにあるのは、ひっく、それあ水のような<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>だろうさ、だが朝か、昼には、不正があるに違いねえ、佐貝政所奉行役所の御役人たるおれが、一日一合で生きてるのに、下賤な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぬ</span>らが一日一合で生きられる道理がねえ、神仏は、なにもかも、見透しだ、そんな、ひっく、理屈は通らねえ、米を出せ家捜しだぞ」

「うーん」

権頭が感じ入ってうなる、

「役人なんてものは学があるもんだ、ちゃんと理の立ったことを云うぜ、ああ理詰めでこられちゃあぐうの音も出やしねえ、――うう寒い、つっ走ろう」

市町の中ほどに「<ruby><rb>御休処</rb><rt>おやすみどころ</rt></ruby>」と軒行燈の出た家がある、権頭の二人の盟友はそこへ入っていった。燈火禁制に軒行燈の出ているのもふしぎだが、中へ入るとそれどころではない、大きな<ruby><rb>八間</rb><rt>はっけん</rt></ruby>の吊り<ruby><rb>燈</rb><rt>あかり</rt></ruby>が幾つもあり、行燈、<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>で、家じゅうがまぶしいほど照り輝いている、土間の<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>は片付いているが、大小十幾つの部屋はいっぱいの客で、<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を凝らした魚鳥珍菜に、酒徳利を並べる者、<ruby><rb>精</rb><rt>しら</rt></ruby>げた飯を食いちらす者、唄う声はやす音、禁令法度などはどこ吹く風かという景色である。権頭が板場へ顔を出すと、二十七八になる女が現われた。眼と唇つきのみだらがましい、しかしずばぬけた<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>である、――彼女は土間へやって来て<ruby><rb>婉然</rb><rt>えんぜん</rt></ruby>と三人にうなずいた。

「寒かったろう御苦労だね、いま一杯つけさせるから飲んでておくれ、<ruby><rb>権</rb><rt>ごん</rt></ruby>、おまえその床几を下ろして、そう、隅のほうがいいね、――断わっておくがつぶれちゃあいけないよ、今夜は大事な頼みなんだから、いいかい」

「わかったよお杉の<ruby><rb>姐</rb><rt>あね</rt></ruby>さん、だがいいのかい」

権頭がまた胴震いをしながら座敷のほうを見た、

「あっちにだいぶ役人がいるようだぜ」

「役人だから安心じゃないか、例によって旦那衆の御招待さ、驚くにゃあ当たらないよ」

ここだけはうす暗い土間の隅で、三人はつつましく酒を飲み始めた。ではこの暇にちょっと奥の座敷を拝見しよう、いちばん奥の最も上等な座敷を。

## 三

そこには招待した旦那衆と、招待された役人の中の身分の高い連中が集まっている。旦那衆というのは米問屋の<ruby><rb>田丸屋益造</rb><rt>たまるやますぞう</rt></ruby>、呉服太物糸綿商の<ruby><rb>折屋伝内</rb><rt>おりやでんない</rt></ruby>、酒問屋の<ruby><rb>水尾屋割助</rb><rt>みずおやわりすけ</rt></ruby>、魚問屋、乾物問屋、……と、いやこれは、次にいる両替商の<ruby><rb>持木成助</rb><rt>もちきなりすけ</rt></ruby>をごらんあれ、なんと成木持助でござるぞ、保良郡の豪家たる<ruby><rb>権右衛門</rb><rt>ごんえむ</rt></ruby>殿のむすめ婿になりそこね、婚礼の席から逃亡した<ruby><rb>贋金</rb><rt>にせがね</rt></ruby>作り、闇七こと成木持助でござる。しかもその隣りに坐っている人間が、――いやはやなんたる奇遇であろう、倉庫業の<ruby><rb>来六屋出平</rb><rt>きろくやでへい</rt></ruby>とは<ruby><rb>出来六</rb><rt>できろく</rt></ruby>でござるぞ、あの<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>な下僕、旅先で哀れな少年八百助を脅し、金を奪って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けし</span>飛んだかの出来六でござる。さっき<ruby><rb>権頭</rb><rt>ごんのかみ</rt></ruby>の話によれば、彼らは出来分限の両親玉だという、一は両替商、一は倉庫業、佐貝へ来て幾ほどもなく、土蔵の三棟も建てる資産家になったという、なるほど二人とも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">りゅう</span>とした<ruby><rb>身妝</rb><rt>みなり</rt></ruby>だし、どこから見ても堂々たる旦那ぶりでござる。……客のほうも御紹介しよう、上座のまん中にいる<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>ったのが<ruby><rb>蓑賀参蔵</rb><rt>みのがさんぞう</rt></ruby>、これは奉行所の筆頭与力、左に<ruby><rb>皆疋太九郎</rb><rt>みなひきたくろう</rt></ruby>、次席与力、右に同じく<ruby><rb>矢土真平</rb><rt>やつちまへい</rt></ruby>、その脇が<ruby><rb>池名勘兵衛</rb><rt>いけなかんべえ</rt></ruby>、みんな歴々の奉行所幹部である。

「どうも近ごろは道徳がみだれとる」

蓑賀参蔵殿が苦々しげに盃をあおられた、

「幾ら御禁令を出しても守らん、他人の迷惑などそっちのけで、自分だけ腹の裂けるほど食い、隠れて酒を飲み、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬけ</span>買いをやる、しかもこそこそ御政治の悪口ばかり申す、こんなことでは佐貝の復興なぞ思いもよらん、実になんたる世相であるか」

「要するに人心の腐敗堕落ですな」

矢土真平が慨然として椀の蓋へ酒を注ぎ、ぐっとあおって眼を怒らす、

「これではだめです、まず準法の精神と社会道徳と良心を<ruby><rb>煥発</rb><rt>かんぱつ</rt></ruby>しなければならない。酒が禁止されたら、うーい、断じて酒を飲まない、これが秩序ですからな、しかるに下民どもは、おい酒がないぞ、――下民どもは禁を犯して飲む、これでは秩序が乱れるのは当然です」

「手ぬるいんだよ」

こう云って池名勘兵衛が鯛の塩焼をつつく、

「もっと絞め上げるんだ、ぎゅうぎゅうとね、下民どもにはその他に手はない」

「それでございます、もっと厳しくお取締りを願わぬといけません」

米問屋の田丸屋が申し上げる、

「貧民どもは夜にまぎれて濠を渡り、<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>領へ米の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬけ</span>買いにゆくそうです、なんでも当地の五分一ぐらいの安値だそうで、近ごろは私どもの裏口へ来る者がとんと少なくなりました、これでは商売のさきゆきが案じられてなりません」

「いやそれは綿も糸も呉服も太物も同じことです」

折屋伝内が出っ歯を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いた、

「なにしろみんな濠をぬけて外へ買いに出る、なんのためでしょう、――御禁令があればこそ手前どもではちゃんと裏口で商売をしております、それを<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>すぎるとか物が悪いとかぬかす、たしかに三日ですり切れる綿布もあるでしょう、糸なんぞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふけ</span>ていて物が縫えないかも知れない、……だがそれだからってなんでしょう、品物は品物なんですから、綿布三尺なら三尺、糸ひと巻ならひと巻、品物はちゃんと渡すんですからな、また<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>いと云ったって御禁制の品を裏で売ってやるんですから、<ruby><rb>高価</rb><rt>たか</rt></ruby>いのは当然のことじゃありませんか、この理屈がわからないで、野良犬どもはよそへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬけ</span>買いにゆく、彼らは御政治を<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>し私どもを破産させようとしているのです、この際どうしても」

「厳しいお取締りですな、もっと徹底的な」

魚問屋が<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>わしげに首を振る、

「やつらの中には自分で魚を釣って来て食べるのがいます、これでは二十日に一度という御禁令も無になり、御禁令によって成り立ってゆく私どもの商売もやってまいれません、どうかぜひとも厳重なお取締りを願います」

この<ruby><rb>真摯</rb><rt>しんし</rt></ruby>な懇談の席からちょっと失礼しよう。向こうでは下役人たちが盛大に飲んでいる、飲んで食ってまた飲みながら、互いに口角泡を飛ばして世の<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>を怒り、人心の堕落と無恥を<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しった</rt></ruby>している、「要するに彼らは猿だ、犬だ、豚だ」などとわめく。また片方では「おーいお杉はいないか」「お杉はどこへいった」などと景気をあげている、なかには当時はやった林<ruby><rb>不棹</rb><rt>ふさお</rt></ruby>先生の著書でも読んでいるのだろう、

「われらの姫、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まどんな</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のうとるだあむ</span>よいずこへいった」

と、<ruby><rb>亜剌比亜</rb><rt>アラビア</rt></ruby>語などひけらかす者もいる。当のお杉はというと、――これは離れた小部屋でなに猫とかいうやつ、……え、山猫は郵便局のサボで、海猫は<ruby><rb>鴎</rb><rt>かもめ</rt></ruby>でと、そうそう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しんねこ</span>をきめこんでいる、相手は誰だろう、これがふしぎなことに人間ではない、高さ三尺ばかりの木彫彩色をした若衆人形である。人形と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しんねこ</span>？　――いかにもお杉の<ruby><rb>姐</rb><rt>あね</rt></ruby>さんは<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>の<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>を前に、<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>をくの字にして人形に寄り添って、しきりにながしめを送りながら口説いている。

「ねえなんとかおっしゃいましな、若旦那、女のあたしにこんなことまで云わせて、可哀そうだぐらい思ってくだすってもいいでしょう」

## 四

「なにもあなたのお嫁さんにしてくれなんて云やあしませんわ」

お杉の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まどんな</span>はこう続ける、

「あたし結婚なんてもの<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>していますの、妻なんて名からして侮辱ですもの、だって刺身の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つま</span>という意味と同じことですからね、それよりあたし<ruby><rb>堕村胎次郎</rb><rt>だむらたいじろう</rt></ruby>先生のお説の賛成者ですわ、好きになってなにしたくなったらどこで誰となにしたっていい、それが人間性の解放だって、ずいぶんお新しい立派な理論じゃありませんか、このお説が出た以上はもう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けもの</span>みたいだとか<ruby><rb>婬奔</rb><rt>いんぽん</rt></ruby>だなんて云われる心配はありませんわねえ、若旦那、あたしたちも<ruby><rb>堕村</rb><rt>だむら</rt></ruby>式でいきましょうよう」

木像はなんとも答えない。お杉の姐さんはもうぼっとしてしまって、木像の躯へ手をまわし、抱きしめるといっしょに顔を重ねた。――どうもうす気味の悪いことに相成った、姐さんは堕村理論に傾倒するの余り気が狂ったのだろうか、それともなにかに化かされでもしたのだろうか、ともかく気味が悪いから、ちょっと失礼して元の部屋をのぞいてみよう。……幹部役人と旦那衆の懇談は終わった、すなわち、主食副食をはじめ日用雑貨の割当を削減し、価格を倍に値上げする、そして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬけ</span>買いを厳重に取り締まる、犯した者は逆さ<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>にする。これ一に「貧しき者、正直者の生活を保証するための至上法であって、これにより庶民の社会的連帯観念と、自粛精神ならびに道徳的良心の自覚を促進するであろう」という結論である。その公明にして理路整然たること、かの権頭にでも聞かせたら狂喜したに違いない。――やがて飲むだけ飲み食うだけ食った役人たちは、旦那衆からの贈り物をふところにねじ込んで、たいそう機嫌よく席を立った。招宴は終わったのである。

みんなそろって出ていったが、間もなく三人だけ引き返して来た。筆頭与力の蓑賀参蔵に持木成助と来六屋出平である。戻って来た彼らは<ruby><rb>襖障子</rb><rt>ふすましょうじ</rt></ruby>を閉め、互いの膝を突き合わせるように坐った。蓑賀殿の肥えた円い顔が、こんどはきんと引きしまっているし、声も低く<ruby><rb>真虔</rb><rt>しんけん</rt></ruby>な響きをもっている。

「江戸から御使者があった」参蔵殿はこう申される、「来月初めに監察使が来る、それまでに仕事をしなければならない、来六屋の倉は大丈夫として、持木屋、金のほうはいいか」

「三千や五千くらいはすぐに出せます」

成助はにこりと笑う、

「もし足りなければ集めることにいたしますが」

「少なくとも二十箱は必要だ、あと二十四五日あるから、食糧物資の統制をぐっと締めれば、法定備蓄量はそれで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うく</span>だろう、十日すれば肥後と庄内から米がつく、それとこれまでの<ruby><rb>蔵匿物</rb><rt>ぞうとくぶつ</rt></ruby>をまとめてはたくんだ」

「田丸屋と折屋、この二人が難物ですな」

成助が分別ありげに云った、「彼らは自分たちで品を動かそうとしております、もし監察使の来ることがわかったら<ruby><rb>梃</rb><rt>てこ</rt></ruby>でも動かなくなるでしょう」

「もちろんすべて極秘だ、二人が品を出ししぶったら禁令品蔵匿で縛る手もある、とにかく金の手配を急いでもらおう」

そのとき突然「聞いたぞ聞いたぞ」という声がした。三人は仰天の余りほとんどとび上がりそうになった、蓑賀殿は刀をつかんで、「なに奴だ」と云いながら見まわしたが、部屋の中には彼らのほかになに者もいない、「はてふしぎ――」三人が思わず眼を見交わしたとき、

「おいここだここだ、眼の前だよ」

という声がした。

「ほら私だよ、見えないのかい」

こう云って食膳の上の燗徳利がぐらぐらと左右へ揺れた。三人はもういちど仰天し<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>としたうえ身震いをした。燗徳利はひとりでひょいと畳の上へとびだし、<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>するように左右へ揺れながら、恐るべきことをしゃべりだした。

「おまえたちのする事はわかった、官と商人と結託して消費禁令を出し、領民の生活を拘束してあらゆる物資を退蔵し、裏口商売による暴利をむさぼるのみか、退蔵物資を横に流して巨額の利を得てきた、今また幕府の監察使が来ると聞いて、その前に大量の蔵匿物を処理して<ruby><rb>大儲</rb><rt>おおもう</rt></ruby>けをやろうとしている、だがそれは不可能だ、隠匿されている物資はすべて領民に所有権がある、なぜならそれは領民の極端な耐乏生活と、支払わされた不当価格によって生じた余剰だからだ、返さなければならない、領民にすべてを返さなければならない、わかったかね諸君」

えいという絶叫と共に蓑賀殿が燗徳利に抜打ちをくれた。燗徳利はひょいと宙に浮き、蓑賀さんの上へ来て横にかしいだ、蓑賀氏は頭から酒を浴び、怒って刀を振り廻した。

「あははははまた会うよ」

徳利はこう嘲笑したと思うと、来六屋出平の上へ落ちて来て、その頭に当たってがちゃんと三つに割れた。三人は夢中になって徳利のかけらにとびかかり、一つ一つ手に取って念入りに調べた、だがそれらはいささかの<ruby><rb>瞞着</rb><rt>まんちゃく</rt></ruby>も<ruby><rb>機関</rb><rt>からくり</rt></ruby>もない単なる徳利のかけらで、<ruby><rb>妖異</rb><rt>ようい</rt></ruby>を証明するなにものも存在しなかった。――三人は茫然と顔を見合わせ、それから突然けらけらと笑いだした。激烈な精神感動は人間に笑いの衝動を与えるという、三人は<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い顔で、額に<ruby><rb>膏汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>を流しながら、けらけらと笑いに笑った。

「ばかばかしいこんな事はありえない」蓑賀殿は笑いながら断言した、「ありえない事は存在する道理がない。わる<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>だ、なにを<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れるか、子供だましだ、われわれは絶対に安泰だ」

## 五

「お立ちですよ、姐さん、御前のお立ちですよ」

こういう声が聞こえて、お杉の姐さんは<ruby><rb>恍惚</rb><rt>うっとり</rt></ruby>と身を起こした、

「うるさいのねえ、端下役人のくせに御前もないもんだ、――若旦那、ちょっとごめんなさいましよ」

こう云って抱いていた者に頬ずりをしたが、とたんに、

「きゃっ」

と恐ろしい悲鳴をあげてとび<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた。お杉の腕からごろりと転げ落ちたのは諸君御存じの木彫り人形である。若旦那でもなんでもない。正真正銘の木彫り人形だとわかったとき、姐さんは屈辱の余り歯がみをして、下賤きわまる言を口走られた、それはとうていここに紹介しがたき<ruby><rb>語彙</rb><rt>ごい</rt></ruby>に属する。そこへ女中の一人が走って来た、

「お杉姐さんどうなすって、御前の御帰りですよ」

「わかったようるさいね」

姐さんは落ちていた<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を拾って、やけに髪の根を突つきながら立ち上がった。

「若旦那はどうしたか知らないかい」

「あら御存じなかったんですか、もうさっきお帰りになりましたわ」

お杉は店へ出ていった。

蓑賀の御前を送り出したお杉の姐さんは、その足で小走りに表の土間へかけつけた。そこでは権頭に中将に<ruby><rb>杢</rb><rt>もく</rt></ruby>の三人が飲んでいる、だいぶいい機嫌とみえて鼻唄などを唄っていたが、姐さんの顔を見ると盃をおいた。

「いま脇の木戸から奉行所の役人が出ていった、蓑賀参蔵という肥った侍だよ、木挽町の与力屋敷へ帰るんだからね、三人でいって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しめ</span>ておいで、今夜はたっぷり持っているはずだ、ぬかるんじゃないよ」

「合点です」

三人はこう云うなり立ち上がり、互いにうなずき合って出ていった。

市町から大通りへ出て北へ、かなり更けた街を蓑賀殿がひとり歩いてゆかれる、材木町、神明町、九間町、柳町、……燈火はないがよい月夜だ、蓑賀殿にはなにか気がかりなことがあるとみえ、首をかしげたりひとり言を云ったりしながら、錦町の角を右へ曲がられた。その時である、後ろからつけて来た三人のうち、杢がすっと蓑賀殿を追い越して、

「つかぬことを伺いますが」

と<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に声をかけた。相手は反射的に刀へ手をやり、躰をひらいて、

「なに者だ」とわめかれる、その頭を中将が後ろから<ruby><rb>棍棒</rb><rt>こんぼう</rt></ruby>で殴った。ごつんというみごとな音がして、蓑賀殿は優しくうめき、前へつんのめって倒れると、さも<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>したような深い<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をもらして気をうしなわれた。

「今夜の酒は悪くなかった」

権頭と中将が被害者の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を解きながら云う、

「そだ、あならいっしゃちゃのこだ」

「ほい財布だ、かんかんはずっしりだぜ、嘘あねえ」「きもなよすか」

「いやそれはいけません」

と杢が女のような声を出す、

「やっぱり<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いでゆくほうがいいでしょう、ばか息子の<ruby><rb>放蕩</rb><rt>ほうとう</rt></ruby>ですよ」

「ほら始まった、どういう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おち</span>なんだそれは」

「つまりですね、裸になれば早く眼が覚める」

「<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえ、そいつも食いつけらあ」

こうして三人は蓑賀殿を裸に<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き、着物はひと丸めにして、さあずらかれと立ち上がった。が、同時に権頭がおい待てと二人を呼び止めた。

「この財布には百両ちかい金がへえってる、いいか、中将、杢も聞いてくれ、おれ達あなげえことお杉の姐さんの下で稼いだが、もうそろそろ一本立ちになってもいいころだ、大の男が三人で危ねえ橋を渡り、姐さん一人に八割も頭をはねられるんでは<ruby><rb>埋</rb><rt>うま</rt></ruby>らねえ、どうだ、このへんで姐さんと手を切ろうじゃねえか」

「それがいな、もたくさだ、おれもめもおとこだ、てきろ、そのこた」

「私も賛成ですよ」

杢もこう云って指をひらひらさせた、

「やりましょう、それはですね、つまり」

「まあ象徴派は取っとけ、それより相談が定ったら宵の口の話をやっつけよう」

権頭は歩きだした、

「例の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つんぼ</span>井戸の向こうの家よ、きっとまとまった金が握れるに違えねえ、そうしたらこの土地を売ろうじゃねえか」

「いかんげだ、すぎこすぎこ」

「杢もいいな、じゃ急ごうぜ、濠を越すんだ」

三人は道を西へ急いだ。

材木内久町の濠には夜になると小舟が待っている。これは市民たちが夜にまぎれて食糧物資を買い出しに出るのを、番所の小役人が内職稼ぎに渡してやるもので、取締りのある時など事前に教えてくれるから、この三人なども便利に使っているわけである。――彼らはこの舟で濠を渡った、そこから外はまったくの田園風景だった、青い月光を浴びて田と畑と森と、遠く近く農家がおぼろに<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>んでみえる。濠に沿って五六丁ゆくと、北の庄村の地端れに近く、首切地蔵というきみの悪い地蔵尊へゆく道があり、その脇に野井戸が一つある、どういうわけか「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つんぼ</span>井戸」と呼ばれているが、その井戸の向こうを右へだらだらと下り、松林の中へはいるとすぐに一軒の家がみえる。

「あれだよ」

権頭が中将にこうささやいた、

「静かにいってみよう、またきっと金勘定をしているにちげえねえ、杢、この着物を持ってくれ」

三人は大根畑のほうから足音を忍ばせて近寄った。――家はまだ建てたばかりで新しいが、二十坪余りの隠居所といった感じのものだ、権頭は先に立って、かすかに<ruby><rb>燈明</rb><rt>ひあ</rt></ruby>かりの漏れている部屋の外へ近寄った。中将に「聞いてみろ」という手まねをする、中将は耳を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。なるほど聞こえる、ちん、ちん……紛れもなく小判の音である、中将はごくりと唾をのんだ、そして<ruby><rb>蔀戸</rb><rt>しとみど</rt></ruby>へすり寄って中をのぞいた。家の中には<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>をかかげて、一人の若者がいま金を数えている。権頭のいわゆるずぶ<ruby><rb>若</rb><rt>わけ</rt></ruby>え銀流しなる者だろう、すばらしい美男だし、<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>も<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>を尽くしている、ああ顔をあげましたぞ諸君、御覧あれわれらの主人公、かの玉造八百助でござる。

## 六

三人は凍てる大根畑にしゃがんで、襲撃の方法を打ち合わせた。三人はいま息をはずませている、彼らはその眼で見た、部屋の中に積んである千両箱の山を、それは間もなく三人の所有に属するだろう。王者の富、快楽と安逸と自由の保証、なんたる幸運の<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>であるか、彼らはわくわく<ruby><rb>勢</rb><rt>きお</rt></ruby>い立った、

「小田原評定はたくさんだ」

<ruby><rb>権頭</rb><rt>ごんのかみ</rt></ruby>が立ち上がった、

「相手はあの若僧ひとりあとは老いぼれの<ruby><rb>爺婆</rb><rt>じじばば</rt></ruby>だけだ、こっちは大阪陣に抜刀斬込み隊で戦った豪傑だぞ、押し込もう」

「そだそだ、むずかしいことね、やっけろ」

中将もこう云って腕をまくった。――杢は蓑賀殿から剥いで来た物を背中へ縛りつけ、三人それぞれに身ごしらえをした、そして大根畑から出てかの家の裏口へ忍び寄った。

<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>と思える戸を明ける、暗い土間だ。向こうに燈明かりの漏れる戸がみえる、「――いいか」

こう云って権頭が刀を抜いた、杢も中将も刀を抜いた、呼吸を合わせた。そして権頭がいきなりその戸を押し明けた、誰か人がいるだろうと思ったら、そこもまっ暗な土間である。そしてこんどは左側に燈の漏れる戸がみえる、「ははあここだよ」こう権頭が云った、なるほどそこに上り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>があった。権頭は土足のままそこへ上がり、戸へ眼を押しつけて中をうかがった。だがそこもうす暗くてよく見えない、そっと戸を明けて中へ入ってみた、とたんに権頭は宙を踏み、もんどり打ってどこかへ墜落した、彼は<ruby><rb>千仭</rb><rt>せんじん</rt></ruby>の<ruby><rb>空谷</rb><rt>くうこく</rt></ruby>へおちたと信じ「助けてくれ」と叫んだ。中将と杢がびっくりしてのぞきこむと、千仭の谷ではなく単なる土間へ落ちたに過ぎなかった。

「ああ胆をつぶした」

権頭は口から泥を吐き出しながら、腰をなでなで立ち上がった、

「どっちへいっても土間ばかりありやがる、わけがわからねえ」

「よし、おれやてみる、わけねさ」

中将はじっと周囲を見まわし、右へ見当をつけて足を進めた。すぐに戸へ突き当たった。要慎に<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはない。じっと耳を澄ますと人声が聞こえる、「ここだ」中将はこうささやき、刀を持ち直してがらりと戸を明けた。ところがやはりまっ暗な、そして、――土間である、三人は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かっ</span>と怒った。脱兎のごとく戸という戸へとび掛かり、それを押し明けては踏み込んだ、しかしどこを明けてもまっ暗な土間だった、四方八面ゆけどもゆけども暗い土間で、それ以外のどんな部屋もなかった。

「やいこの家の野郎、出て来い」

三人は土間から土間へこうわめき歩いた、

「この刀が見えねえか、あり金残らず出しあがれ、四の五のぬかすと命あねえぞ、やいどこにいる、出て来やあがれ」

「出て来なければ命はないですぞ、われわれは抜刀斬込み隊くずれ命知らずですぞ」

「やいふざけると承知しねえぞ、みな殺しだぞ」

だが誰もなんとも答えない、どっちへいっても暗い土間だし、人のいそうなけはいもない。やがて三人とも歩きくたびれ、わめき疲れた余り<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になってきた。

「こりゃだめだ、始末にいけねえ」

権頭がやがて立ち止まった、

「今夜はやめにして出直すとするか」

「それがい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もら</span>つかれた」

中将もうんざりしたように首を振った、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もら</span>ねむくなた」

じゃあ出ようということで、三人はくたびれた足をひきずりながら後へ引き返した、こんども土間から土間への旅だ、幾らいっても同じこと、暗い土間から土間続きである。権頭はたまらなくなってどなった。

「やい、罪なまねをするな、出口はどっちだ」

夜が明けるときれいに晴れた朝になった。玉造の家から八百助が出て来た、例のきらびやかな着付けに黄金作りの太刀を<ruby><rb>佩</rb><rt>は</rt></ruby>き、笠はかぶらず、絵からぬけ出たような美男ぶりを見せながら、右手に扇を持って<ruby><rb>寛濶</rb><rt>かんかつ</rt></ruby>に歩いてゆく。松林を出て、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つんぼ</span>井戸の手前へさしかかると、そこに半分ぶっこわれた物置小屋がある、八百助はそちらへちょっと振り返った。――その小屋の中に三人の男がいる、中将と権頭と杢である。彼らは手さぐりで、小屋の中を右往左往しながら、「もう大丈夫だ、出口は近い」などと云っている。

「離れるなよ、もうちっとの辛抱だ、元気をだせ」

そして狭い小屋の中をぐるぐる廻っている。八百助はにこっと笑い、晴れあがった空を眺めながらゆったりと通り過ぎた。

彼が佐貝へ来て三十日ほどたつ、すでにこの市の不正と<ruby><rb>偽瞞</rb><rt>ぎまん</rt></ruby>と悪徳の所在を調べ、飢と寒さと物資欠乏に泣く市民の実情を知った。一方ではかの<ruby><rb>下僕</rb><rt>げぼく</rt></ruby><ruby><rb>出来六</rb><rt>できろく</rt></ruby>をここへ追い込み、贋金作りの闇七にも必要な位置を与えた。――かの<ruby><rb>下松</rb><rt>さげまつ</rt></ruby>における成木持助の出現のごとく、ここでもまた彼は重要な役割を果たすに違いない。さて、八百助はまず両替商持木屋成助の店へ立ち寄った。

「なに玉村の若旦那だって」

成助はとび上がった、八百助はここではそう呼ばれているらしい、成助にとっては伝説的な恩人、黄金的条件の金主である、彼は店へとびだしていった、

「これはこれは玉村の若旦那ようこそ、昨夜はとうとう<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>が袖へおみえになりませんでしたな」

「いったよ」

八百助は奥へ通りながら、

「いったけれど、お杉につかまってね、離れへつれ込まれてどうしても放さないものだから、それで今朝は早く来たというわけさ、用というのはなんだい」

## 七

「ふむ、あと二十箱ね」

八百助は相手の話しを聞いてうなずいた、

「それはいいが、合わせるとこれで五十箱になるね、持木屋、おまえ<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>は持ってるんだろうな」

「失礼ながら私も商売です、これだけの金を動かすのに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めど</span>のないところへ手は出しません、実申しますと、――いま云った奉行所の役人ですな、若旦那は恩人だから申し上げますが、<ruby><rb>蓑賀</rb><rt>みのが</rt></ruby>さんというこの役人と、納屋貸の<ruby><rb>来六屋</rb><rt>きろくや</rt></ruby>、この三人でこしらえた仕事なんですが、底をばらせば二人には棒をかつがせるだけで、どたん場には私ひとりがさらってしまいます。五十箱の御出資に少なくとも二十箱の利はつけてお返し申しますよ」

「そんなことを云って、おれにも棒をかつがせるくちじゃあないのか」

「冗談じゃございません、商売は眼っぱりっこですが出資主は命の親です、かりにもそんなことをしたら持木屋は二度と世間へ出られなくなりますよ」

「世間へね」

八百助はからからと笑った、

「じゃあそれを信用して二十箱すぐ届けよう、だが合わせて五十箱となるとただじゃあいけない、十日期限で額面一万両の手形を五枚書いてくれ」

「手形でございますか」

「なに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かたち</span>だけだ、まるで形なしというわけにもいかないだろう、いやなら」

「とんでもない結構でございます」

成助はちょっと苦い顔をした。なぜなら、持木屋の手形はいま慶長大判と同じ信用がある、――もっともそれは玉村の若旦那の存在によるのだが、――したがって慶長大判で支払うのと同じ場合でない限り、絶対に手形は振り出したことがない。ふむ、自己保存の本能から成助はちょっと戸惑った、しかし相手は唯一の金主である、商売は地面を弓で射るほど確実である、

「結構でございます、すぐ書いてまいりますからしばらく」

こう云って成助は立っていった。

ほどなく持木屋を出た八百助は、広小路の通りをまっすぐにいって、穀物町にある米問屋の<ruby><rb>田丸屋益蔵</rb><rt>たまるやますぞう</rt></ruby>を訪ねた、極秘の話しだからと云うと、蔵座敷へ案内され、そこで主じの益蔵と対談した。――八百助の話しは益蔵にとってもさして意外ではなかったらしい。

「おそらくおっしゃるとおりでしょうて」老人はこう云って手をもんだ。

「蓑賀さんと来六屋と持木屋、この三人は油断がならない、私どもでもそう見ていたのです、が、それについてなにかぬけ道がございますかな」

「いったい米はどのくらいあるんです」

八百助が返問した、

「奉行所の<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>で定められた貯蔵米の他に、いまある米はどのくらいです」

「さよう、正確なところはわかりませんが、およそ三千俵あまりでございますかな」

「じゃあ私がそれを買いましょう」

「あ、なた、が、――」

「私がね」

八百助はむぞうさにうなずいた、

「今夜のうちに西浜へ三<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>ばかり船をつける、それへ夜明けまでに積んでください、値はこれで買います」

八百助は持木屋の手形を一枚そこへ出した、三千俵で一万両、百俵六十両という当時の相場としては、現在いかに闇値が高いとしても法外である、蓑賀殿の不当な横流しは目前に迫っているし、手形は金と同じ信用のある持木屋の振出しであった。

「それとも三人に儲けさせてやりますか」

八百助にこう微笑されたとたんに田丸屋の決心はついた。取引は定り、今夜の荷積の手はずもついた、そして田丸屋を出た八百助は、その足で呉服太物糸綿商の<ruby><rb>折屋伝内</rb><rt>おりやでんない</rt></ruby>を訪ね、酒問屋の<ruby><rb>水尾割助</rb><rt>みずおわりすけ</rt></ruby>、海産問屋の<ruby><rb>美那屋古蔵</rb><rt>みなやふるぞう</rt></ruby>を歴訪した。――遍歴の終わりは<ruby><rb>来六屋出平</rb><rt>きろくやでへい</rt></ruby>である、西浜の一劃に堂々たる店構えと、三戸前の大きな倉庫を持ったこの家の前に立って、八百助はしばしふしぎな微笑をうかべていた。

「私が来六屋の主じでございます」

訪れた八百助の顔を、出平は<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>にじろじろ眺めまわした、

「なにか御用でございますか」

「倉は明いているかい」

八百助は立ったままぶっきら棒に云った、

「五六日うちにこれだけの荷が入るんだがね、ちょっと見てくれ」

出されたものをみると船荷証券が七枚、米五千俵、呉服太物四千反、糸綿千二百貫、海産物千二百貫、酒五百<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>、醤油味噌八百樽、油三百樽という巨額な荷だ。出平は眼をむいてこの若者の顔を見直し、それからまたあわててその船荷証券を見た。兵庫の<ruby><rb>菱垣船</rb><rt>ひしがきぶね</rt></ruby>で有名な和田屋忠兵衛の証券である。

「これはあなたの荷でございますな」

出平の態度がぐっと変わった、態度ばかりではない眼つきも顔つきも変わった、「で、なんでございますか、こういう荷にはたいてい御融通をすることになるのですが、そこのところは……」

「その証券だけじゃ無理だろう、これをつけるから五千両ばかり融通してもらえないかね」

八百助はこう云って、持木屋の手形を差し出した、

「四五日の小遣いがほしいんだ、ほんの五箱でいい」

四五日の小遣い五千両と聞いて、出平はひそかに舌を巻き同時に<ruby><rb>貪欲</rb><rt>どんよく</rt></ruby>の知恵を巻いた。この若僧めなんにも知らねえな、持木屋の手形なら金も同様だ、よし五千両で額面そっくりふんだくってやれ、貸す五千両は船荷証券で持木屋から借り出せばいい、こいつは近来にない福の神だ、こう思ってひざを乗り出した。

## 八

出平が船荷証券で持木屋から五千両借り、馬に積んで北の庄村の家へ届けたとき、入れ替わりに八百助の家から<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>が袖のお杉さんが、とび出して来た。――この<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>なる女は眼をつり上げ、血相を変えて怒っていた。

「なんという図う図うしい青二才だろう」彼女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つんぼ</span>井戸のほうへ急ぎながら、歯がみをしてから<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶ</rt></ruby>やいた、「人にさんざん気をもませておいて、ゆうべは<ruby><rb>木偶</rb><rt>でく</rt></ruby>を抱かせるし、今日はまたあんな、――ああくやしい、どうしてやろう」

今日はまた、――とはなにごとがあったのであろう、拝見する機会のなかったのは残念であるが、わざわざ本宅まで押し掛けながら、恐らくまた若衆人形と同一の手を<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>わされたに違いない。彼女は<ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>し<ruby><rb>瞋恚</rb><rt>しんい</rt></ruby>に燃えて小走りにゆく、……と、向こうにみえる百姓家の馬小屋の脇から、とぼんと出て来る三人の男が眼にはいった、おや見たような、――こう思って立ち止まると、相手もぎょっとして立ち止まった。

「<ruby><rb>権頭</rb><rt>ごんのかみ</rt></ruby>じゃないか」

姐さんは眼をみはってからこう叫んだ、

「杢に中将、――どうしたんだい」

「へえ、これはどうも、姐さん」

「姐さんじゃないよ」

こう云いながら姐さんは三人のほうへ寄っていった、

「三人はゆうべ出たっきり梨の<ruby><rb>飛礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>だし、けさ聞けば蓑賀はたしかに剥がれてる、てっきり謀反気を起こしてずらかったと思うから、こっちは三人の名を番所へ訴えちまったよ、全体どうしたことなんだい」

「それがその、なんです」

権頭はまだぼやっとして首を振る、

「なにしろ狐に化かされちまったもんでして、実を云えば、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほし</span>をつけた家があったんで、事のついでにそっちも稼いで、姐さんに喜んでもらおうと思ったんですよ、なあ杢」

「つまりですね」

と杢もまだよく眼が覚めないという顔つきで云う、

「私たちとしてはですね、この、あれです」

「杢の<ruby><rb>謎々</rb><rt>なぞなぞ</rt></ruby>は結構だよ、それで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほし</span>をつけた家というのがどうしたのさ」

「ついそこなんで」

権頭が指さしをする、

「ついそこの松林の中にある一軒家なんで、主じはまだずぶ若え銀流しですし、老いぼれた爺婆が二人いるだけで。しかも毎夜ちりちりと金を」

「ちょっとお待ち」

姐さんはきゅっと唇をひきしめた、

「それは大根畑の向こうに見えるあの家じゃないのかい」

「へえあの家なんで、ところが姐さん」

権頭はぐらりと首を振り、手まね身振りで足らぬところを補いながら、土間から始まって土間に終わる、艱難辛苦を極めた体験をつぶさに物語った、

「――で、気がついてみたら朝でさ、三人で向こうの物置小屋ん中をうろうろしてた、ところを百姓たちに助けられて、狐に化かされたんだろうって、今まであの百姓家で寝かされていた、と、こういうわけなんでさ、どうも、なんとも面目ねえ」

お杉の姐さんは女である、女の中でもぬきんでて女らしい女である、彼女の唇には<ruby><rb>狐族</rb><rt>こぞく</rt></ruby>にみる<ruby><rb>奸智</rb><rt>かんち</rt></ruby>と<ruby><rb>嗜虐</rb><rt>しぎゃく</rt></ruby>の微笑がうかんだ。

「もういちどやるんだね」

姐さんは冷やかにこう申された、

「三人の名はあたしが番所へ届けちまった、もうおまえ達は佐貝を売らなくちゃあならない、今夜もういちどおやり、あの家にゃあ金がうなってる、いまも来六屋から五千両届けて来た、今夜は<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>をしめてひと稼ぎするんだ、そして土地を売るがいいね、さもなければ、――」

「だって姐さん、あの家はもう」

「抜刀斬込み隊の意気でおやり」

姐さんはきっと眼を光らせた、

「裏口からこそこそいったりするから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どじ</span>を踏むんだ、斬込み隊の意気で玄関から踏み込むがいい、たかが若僧ひとりじゃないか、おまえたちも男だろう、しっかりおしな、金はうなってるんだよ」

しかりしこうして三人は濠端に坐り、夜の来るのを待った。たしかに、裏口からお伺いするようなことだから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どじ</span>を踏むんである、こっちは抜刀斬込み隊ではないか、男子はすべからく堂々とやるべしだ。――蓑賀殿から剥ぎ取った物は姐さんに召し上げられた、しかし弁当代だけは置いていってくれたので、腹ごしらえは出来た。

「やっぱり姐さんは姐さんだな」

権頭はなんどもこう云って溜息をついた、

「――堂々とおやり、男だろう、こういかなくちゃあいけねえ、おい、今夜こそやろうぜ」

「おてからな、どどとな、またなしだ」「要するにですね、つまり、――滞納した税金ですよ」

「それおはこが出た、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おち</span>は杢なんとつくんだ」

「遠慮なく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はたる</span>というわけです」

「うん悪くはねえ、ひとつその意気で踏ん<ruby><rb>込</rb><rt>ご</rt></ruby>もうぜ」

夜は初更に及んだ、すなわち十時の鐘が鳴って間もない時刻、三人は堂々と基地から出て、大根畑をつき抜け、かの家の玄関へ押し込んでいった。――今や抜刀斬込み隊の勢いである、遠慮は無用、杉戸をがらりと明けて、襖は土足のままこれを<ruby><rb>蹴放</rb><rt>けはな</rt></ruby>してずかずかゆく、非常に壮快だ、無人の野を<ruby><rb>席捲</rb><rt>せっけん</rt></ruby>する概がある、

「どうだ」

三人は互いに顔を見交わした、そのまま各自は豪雄<ruby><rb>不羈</rb><rt>ふき</rt></ruby>の士である、そしてそこが主じの部屋だ。

「――いいか」

権頭は盟友にこう云って、その襖をぱっと蹴倒した。みよ、部屋には八百助がいる、例のとおり<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>を側に置いて、山吹色の小判を数えている、権頭は刀の柄に手を掛け、天床も裂けよと絶叫した。

「やいそこな男、おれたちは大阪陣で抜刀斬込み隊と怖れられた命知らずの生残りだ、有金そっくり出してしまえ、四の五のぬかすとぶった斬るぞ」

「やあ、――」

八百助は静かに顔をあげた、

「たいそう元気ですな、なにか御用ですか」

「おちついたことを云やあがる、うむ、これを見ろ」

権頭は刀をぐいと抜こうとした、

「この、二尺八寸だんびら物を、――この、びっくりして腰を抜かすな、この二尺……」

顔をまっ赤にして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いきん</span>だが、刀はいっかな抜けないのである、権頭は焦った、満身の力をこめ、躯を曲げてけんめいに引っ張った。

「待ってろ、いまこのだんびら物を、――なにくそ、もうひと息だ、――この二尺八寸、びっくりするな」

杢と中将が心配して寄って来た。八百助はにこにこ笑いながら、平然とまた小判を数え始めた。

## 九

二尺八寸だんびら物、ずらりと抜いて、――<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>や冗談ではない、権頭も杢も中将も本気である。この若僧をすてっぺんからおどかして存分に黄金をかっさらうはずだ。しかるにえいと力んだが刀は抜けない、だんびら物は<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>へ<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りついたようにびくっとも動かないのである、「おれやてみる」と中将が手を出した、「それはですね、つまりこうして、――」杢ものぞきこんだ。

八百助は平然と小判を数えている。

「いけねらし、おれのやろ」中将があきらめて自分のを出した。だがこれも抜けなかった、杢の刀はどうだ、三度めの正直「えい」とやったが、こいつも全然いけなかった。

「どうしたんです」八百助が手を休めてそっちを見る、「抜けないんですか、――どこかぐあいが悪いんですね」

八百助は立って来る。どれと云って権頭の刀を取る、三人は疑わしげにのぞく、こちらは右手で柄を握ってぐいと引いた。だんびら物はすらりと抜ける、いちどおさめてもういっぺんやってみた。こんども楽にすらりと抜ける、「このとおり抜けますよ」ぴたりとおさめて権頭に渡し、八百助はまた自分の席へ帰った。――権頭は改めて刀を持ち直し、ぎっくりと<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>みをきかせて叫んだ。

「さあこんどこそ覚悟をしろ、われらは抜刀斬込み隊、強い相手は避けて通るが弱いとみたら容赦なしの強盗さまだ、四の五のぬかせば伝家のわざ物、ずぶらずぶらと――えい」

腰をひねって抜き<ruby><rb>放</rb><rt>はな</rt></ruby>……いや待て、えい、もうひと息――八百助は気の毒そうにきいた。

「どうしたんです、また抜けなくなりましたか」

「なに、こんなもの」だが権頭は<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を起こした、「ええくそ、今は抜けないけれども、今は抜けないが抜けば伝家の二尺八寸、ずばりずばりとめった斬りだ」

「それはすごそうですね、ひとつお手並みを見せてもらいましょう」

「だから云ってるじゃあねえか、今は抜けねえんだ、それになるべくなら手荒いまねはしたかあねえ、さあ黙ってあり金を出してしまえ、じたばたすると」

「ちょっと待ってくれ」八百助は振り向いた、

「誰だ、――帰ったのか源兵衛」

へえと答えながら、襖を明けて老人が出て来た。権頭のいわゆる「死っ損ないの老いぼれ」であろう、名を源兵衛と呼ぶこの<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の老僕だ、――彼は急いで来たとみえて汗をかいている。

「たしかに船は着きました、二百石ばかりのものが四艘、さっそく荷積みを始めております」

「やいやい」権頭がわめく「こっちをどうするんだ」

「ちょっと待ってくれ急がしいんだ」八百助は見向きもしない、「それで番所のほうへあれは届いたんだな、よし、ではいいから寝てくれ、寒いところ御苦労だった」

老僕は挨拶をして奥へ去った、八百助は脇に置いてある文庫を明け、中から半紙を取り出しながら三人を見た。

「すまないがちょっと手を借りよう、ここに金が並んでいるね、これを五枚ずつ紙に包んでもらいたいんだ、手間賃は出すよ」

「ふざけるな」権頭が精いっぱいどなりたてた、「おれ達は家庭内職をしに来たんじゃねえ強盗だ、待つだけ待ったからには文句はあるめえ、金はもらってゆくからそう思え、さあ杢、中将、そこにあるったけ集めてくれ、おらあこの銀流しを押えてる、早いとこやってくんねえ」

「ぞさね」中将が叫ぶ、「いしやまの石切りだやっけろ」

杢と中将は仕事にかかった。そこらいちめん小判だらけである、燈火を映して黄金色に光っている、なんのぞうさがあろうとびかかってかき集めて、いな、――かき集めようとして手を出したが、とたんに二人とも「あっ<ruby><rb>熱</rb><rt>つ</rt></ruby>つつ」と悲鳴をあげた。火でもつかんだように、悲鳴をあげて指を振りながらとび上がった。

「びくらした、あちあち、火だ」

「これはですね、つまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふき</span>たての小判ですよ」

杢が指をひらひらさせる、「少しあおいでさませばいいわけです、<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>はないですかな」

「おらふく、こなもなけね」中将は四つん<ruby><rb>這</rb><rt>ば</rt></ruby>いになってふうふう吹きだした、

「まて、もすぐだ」

八百助は依然として小判を数えている、五枚ずつに重ねてそこへ並べる、もちろんちゃんと手で持ってやっている。中将は眼をむいて、「やい、あつくねか」ときいた。八百助はにこりともしないで「そうさな」と云った。

「熱くないこともないが、なれているからまあ我慢ができるだろう、なにさしたることはないよ」こう云うと彼は静かに立った、「――さあ数は出来た、あとはおまえさん達が包むだけだ」

「やい動くな」権頭が刀の柄をひねくる、「坐ってじっとしてろ、承知しねえぞ」

「私のほうはすんだんだ、お付合いに見ていたいが、まだ用がたくさんあるからね」八百助は三人を見る、「あとは任せるよ、五枚ずつ紙に包んで向こうにある箱へ詰めといてくれ、三日もあれば出来るだろう」

そしてふいと消えた。ぜんぜん消えてしまったのである。三人は五秒ばかり石にでもなったように黙っていた、それからとつぜん笑いだした。笑いながらよくよく互いの顔を眺めあい墜落的に笑い止むと同時に、三人ともそれぞれの背後を振り返って見た。

「なんでもねえさ」権頭がそうっと云った、「なんにも起こりゃあしなかった、眼の迷いだ、――へっ」

## 十

「まったくです、眼の迷いですよ」と杢も声をひそめて<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見まわした、「それに、つまりは邪魔者がいなくなったわけですからな、<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>の留守の若夫婦ですよ」

「またくだ、おかめなしにやれるか、さやろ、もへなにちげね」中将はこう云って、しかし不安そうに小判へそっと手をやった、が、とたんにあっちちちと手を振りながらとび上がった、「あちあちあち、また手をやいた、火だ」

権頭が肚を立て足袋<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>の足で蹴散らかした。いな、力任せに蹴飛ばすがいなや権頭は「あ痛ててて」と爪先を持ち上げてちんちんをした、大磐石でも蹴ったように、骨のしびれるほど痛かったが小判はびくとも動かない、「ええ畜生」かっとなって刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>で突っついたら、刀は鞘ごとぽきりと折れ、小判はやはり微動もしなかった。――三人は憤激してのぼせあがり<ruby><rb>嚇怒</rb><rt>かくど</rt></ruby>のあまり<ruby><rb>敦圉</rb><rt>とんぎょ</rt></ruby>してあらゆる手段と方法をもって小判奪取の努力を続けた。かくて約半刻……この黄金色に光る無生物との格闘に、身も心もへとへとになったとき、杢の知恵によってからくも活路が発見されたのである。

「つまりこれは徒労ですな、ちょっと待ってください」彼はこう云って指を立てた、「あのぺてん師は五枚ずつ紙に包めと云いました、ということは、五枚ずつ紙に包むことならできる、という理屈ではないでしょうか」

「おめうめ」中将が叫んだ、「そのこた、またくだ、いちえだ、すぎやてみよ」

中将は直ちに紙を取った。そしておそるおそる五枚ずつ重ねてある小判へ手を出した、熱くない、紙へ載せて包む、ちゃんと包める、中将は盟友の顔を見た、「こんてだ、へへへ、ばんぜだ」権頭も杢も坐り込んだ、「もでじょぶだ、こやて、あとさらてけばい、へへへばんぜだばんぜだ」三人は勇気千倍して包み始めた。

彼らの純一熱心な作業はまる三日続いた。この七十二時間は他の場所においても貴重な意味ふかい七十二時間であった。すなわち奉行役所の筆頭与力である蓑賀参蔵殿は、例の「誰が袖」のひと間でしばしば商談をした、相手は大阪のさる富商の手代で、両者の取引には虚々実々の応酬があり、お互いにお互いを「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はめ</span>てくれた」と思うところで手がうたれた。手代は内金として壱万両の為替を切り、蓑賀殿は引き渡すべき物資の品数と倉出し証明書を呈出したうえ、商談成立を祝って盛大な酒宴を張った。

持木屋成助が蓑賀殿の私宅へとび込んだのは、実にその盛大な酒宴の翌々日のことである。彼は死人のように<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおざ</rt></ruby>め、狂人のように眼を血走らせ、奔馬のように鼻嵐を吹いていた、「先手を打たれました、すっからかんです」彼は苦しそうにあえいで水をくださいと悲鳴をあげた。――蓑賀殿は水をおやりなされたが、成助の話を聞くなりふるえだし、眼をつり上げ歯をくいしばってうめかれたうえ、あわてて御自分もその水をお飲みなされた。

「そ、それは本当か、いや、いや馬鹿な、……そんな、はははは、そんな馬鹿な事が」

「調べてごらんなさいまし」成助はもうひとくち飲む、「田丸屋の米倉、折屋の土蔵、水尾の酒庫、美那屋……どれもこれもすっからかんです、なんにもありません、からっけつのすかんぴんのがらんどうです」

「だがそんなはずはない、そんなべらぼうな」参蔵殿は憤然とひざを叩かれた、「わしは信じない、だって彼らにそんな事が出来る道理がない、なぜなら」

「彼らは感づいたのです、あなたと私どもとの密約を内偵したのです。それで先手を打ってやった仕事に違いありません」

「もしそれが事実とすれば」蓑賀殿は思いだされた、大阪のさる富商との取引を、その取引がまとまったことを、まとまった代償として内金を受け取ったことを、しこうしてその壱万両の内金をすでにしかるべく割り振ってしまったことをこれらの個条は明々白々であって、いささかも否定しがたくかつ一条として取り返しのつかぬ事実である。「あの、あの豚ども、わしは破滅だあの虫けらの泥棒のいかさま師のごろつきの破廉恥漢めら、ああわしは破滅だ」蓑賀殿は<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>で空をたたきめされる、「――今日まで奴らを儲けさせてやったのは誰だ、この蓑賀参蔵さまではないか、無慈悲な統制を設け、市民を飢え凍えさせたのはなんのためだ、物価のつり上げと裏口営業、公然たる密売によって彼らに不当な利得を与えるためだったじゃないか、それはおれも眼くそほどの<ruby><rb>賄賂</rb><rt>わいろ</rt></ruby>を取ったさ、だが彼らはどうだ、奴らは、……あああのこそ泥めら、<ruby><rb>詐欺師</rb><rt>いかさまし</rt></ruby>の卑劣漢の裏切り者の<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>やろうの獄門ども、日ごろの恩を仇にしてこのどたん場におれの首を絞めるとはうぬどうしてくれよう」

「どうぞ落ち着いてくださいまし」成助は逆に気の毒にさえなった、「そんなにおっしゃることはございますまい、蓑賀さまはただ御<ruby><rb>計劃</rb><rt>けいかく</rt></ruby>がはずれたというだけで、破滅とか首などという――」

「いやだめだ、おれは取引をしてしまった。倉出し証書をみんな渡し、壱万両という内金を取ってつかってしまった」

「なんとおっしゃいます」成助は眼をむいた、

「もう取引をなすった、あの、あなたが――」

## 十一

<ruby><rb>厖大</rb><rt>ぼうだい</rt></ruby>なる<ruby><rb>蔵匿</rb><rt>ぞうとく</rt></ruby>物資を商人どもから召し上げ、横へ流して巨利を占めようという計劃は、蓑賀殿と持木成助と来六屋出平の三者合議によるものだった。もっとも成助は成助で、ひそかに自分が独占するはずだったが、その先を蓑賀殿に越されたと知っては驚かざるをえない。だが――さよう、結果がこうなってみれば、へっ、成助としてはいささかも敵意は持たない、敵意どころか今や蓑賀殿は彼にとっての「<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>」であった。

「それはどうも」成助は同情の太息をつき、暗然と眼をつむった、「――なにしろ莫大な量の物資ですからな、たとえ内金を返したところで、商人は決して取引解消には応じますまい」

「やむをえなければ法定備蓄の分を吐き出させよう、米だけは肥後と庄内から間もなく着く」

「あれ、……まだ御存じないのですか」成助は口をあけた、「けさ早く浜へ知らせがありましたが、肥後の船も庄内も難破したそうです」

「な、な、なん、なんだと」

蓑賀殿が身ぶるいをなされたとき、奉行役所から池名勘兵衛がとんで来た。成助の言葉を証明するために、すなわち「片方は豊後水道、片方は明石沖で、両船ともきれいさっぱり沈没した」

という急報がもたらせられた。

「おれは破滅で、間違いなしに二重の大破滅だ」参蔵殿は<ruby><rb>白眼</rb><rt>しろめ</rt></ruby>を出した、「もうだめだ、救いようがない、逃亡だ」

「いやむしろこれからですよ」成助はそろそろ鴨へ網を掛け始める、「蓑賀さんともある人物が、こんなことで弱音をあげる手はありません、お側に持木成助という人間のいることをお忘れになったのですか」

「おおおまえ持木屋、おまえなにか――」

「とにかくこれを見ていただきましょう」

成助は七枚の証書を差し出した。参蔵殿は手をふるわせてそれを見た、なにを隠そうかの船荷証券である。米五千俵、呉服太物四千反、糸綿千二百貫、海産物千二百貫、酒五百樽、醤油味噌八百樽、その他なになにという巨額な物資で、<ruby><rb>菱垣船</rb><rt>ひしがきぶね</rt></ruby>の和田屋忠兵衛の振り出しにかかる<ruby><rb>歴</rb><rt>れっき</rt></ruby>とした証券だ。諸君は御存じであろう、これは八百助から来六屋へ渡され、来六屋が八百助に貸す五千両の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かた</span>に持木屋へ渡したものだ――蓑賀殿は夢かと思った、次いで死地からよみがえり、よみがえって本性を取り戻した。これだけあれば取引をすませても余る。

「和忠の証券ならたしかだが」参蔵殿はぐっと威厳を示された、「しかしこれをどうにかできるのか」

「来六屋から私が五千両の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かた</span>に預かったのですが、日ごろの御恩返しにこれを御融通したいと思います、――これだけあればお間に合いになりますでしょう」

「それは間に合うが、しかしなにかその、これにはその、代償がなくてはなるまい」

「なに私の御恩返しですから」成助はごくあっさりと云った、「ただもし<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>しがありましたら、法定備蓄の倉出し指令書をいただきたいので」

「よかろう」参蔵殿は早くも証券をおしまいなされる、「どうせ商人どもにはひと<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>ふかせてくれなければならん、では一緒に役所までまいれ」

狐と狸はうちつれて出かけた。――これと同じとき、八百助の住居では三人の悪漢が助けを呼んでいた。彼らは七十二時間の労働によって、身のまわりいっぱいに金包みを積み上げたが、さてそれをさらって逃げようという段になって困惑した。金包みが動かないのである。包むときには平気で手に持てたのが、またしても<ruby><rb>磐石</rb><rt>ばんじゃく</rt></ruby>のごとく動かなく相成った。つづめて云えば、彼らは自分らの努力奮闘によって、自分自身の周囲に不動の鉄壁を築き上げたのである。……三人にとって問題はすでに生死にかかっていた。

「もらあらへた、こなだ」中将は自分のぺしゃんこになった腹部をなでた、「こなだ、なんもね、からからだ、めくらむ」

「やあいこの家の野郎」権頭はじだんだを踏み、絶叫する、「おれ達をどうする気だ、ぺてんにひっかけやがって、とうとう人に家庭内職みてえなまねをさしあがって、おまけに出も引きもならねえようにするなんて、訴えてくれるぞ銀流し、なんとかしろ、出て来い、罪なことうするないっ」

「云ってみればですね」杢は細くなった指をそれでもかろうじてひらひらさせる、「これはですね、つまり、どうやらその、――失敗だったですなあ」

「もらたってらね、だみだ、めまたまもぐらぐらだ」中将はくたくたとぶっ坐った、「もなくいて、しんそだ」

権頭は暴れた、金包みの山へ躯を叩きつけ、押しこくり、とびかかった。あれほどの執着をもって押し込み、家人をみな殺しにしても強奪する決心だった金、現在眼の前に山と積まれたその「金」が、今や三人には身の仇であり生命の敵となっている。……幾百たびもへたばり、幾百たびも奮い立って脱出を試みた結果、三人とも力つき精根消耗してぶっ倒れた。

「かりにもし、子供があったら、ですね」杢はもうひらひらさせられない指をあげて、きわめて柔和にこう云った、「私はこう<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆいごん</rt></ruby>をしますよ、――決して眼をくれるな、金はかたきだ」

## 十二

右のごとくしてついに、三人はついに「助けてくれ」と叫び始めた。抜刀斬込み隊の勇士、三人組みの凶猛なる悪徒も自分の命は惜しい、死ぬか生きるかとなればやっぱり「生きたい」とみえる。

「助けてくれ、なんにもいらねえ、金もなにもほしくはねえ、命だけは勘弁してくれ」権頭が悲しげな声をあげた、「本当に死んじまう、おねげえだ、助けてくれ」

その悲鳴と同時に、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と、――まさに忽然とそこへ八百助が現われた。彼は彼でその七十二時間を正味七十二時間に使って帰ったのだ。

「どうした、金を盗んでいかないのか」

「かにあいらね」中将が気息えんえんとして頭を振った、「そなもな、みるせやだ、まぴらだ、もなくいて」

「つまりです、――われわれと、しましてはですね」「助けてくれ、食わせてくれ」権頭もぐらぐら頭を揺らかした、「なんでもする、眼が見えねえ、死んじまう」

「いや死にはしないよ、大丈夫だ」八百助は微笑しながら云った、「おまえさん達にはまだ仕事が残っている、仕上げはこれからだ」

物語はポコ、ア、ポコよりアレグロに変わり申す。

<ruby><rb>佐貝</rb><rt>さかい</rt></ruby>の港へ前触れもなく五艘の船が入った、前触れはなかったが、入港と同時に大変な触れが出た、「加賀、<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>、仙台の三大藩主から、佐貝市民に贈る<ruby><rb>救恤</rb><rt>きゅうじゅつ</rt></ruby>物資の到着」という知らせだ。虚報ではない、荷下しが始まった。米俵が、酒樽が、衣料が、海産物が、味噌醤油が、油の樽が、あらゆる物が浜へ積まれた。――これを聞いて奉行役所から蓑賀参蔵殿が出張した、果たして事実とすれば市の主脳部にとっては大恐慌である、かかる厖大な物資が放出されるとすれば厳酷な統制によって維持しきたったインフレ経済は破壊されてしまう。蓑賀殿は精細に調査なされた。しかし事実は現実であった。伊達、前田、島津、大藩ちゅうの大藩たる三侯の墨付があり、江戸幕府の許可書まであった。……蓑賀殿は血涙をのんで感謝の辞を述べ、配給に当たってはできるだけの便宜を計ろうと約束をし、もういちど血涙をのんで役所へ帰られた。

浜には小屋が設けられた、そして直ちに救恤物資の配給が始まった。市民は歓呼し<ruby><rb>凱歌</rb><rt>がいか</rt></ruby>をあげた、みんな一家総出で米を衣料を味噌を油を、その他のあらゆる物を運ぶのに三日のあいだ浜と家とを往復した。それだけではない、最後には小判五枚ずつの包みが配られた。なんと、それを配る人間をごらんあれ、かの三悪人、権頭に中将に杢、彼らでござる。

「押してはいけません、順々に、静かにしてください」杢が云っている、「さあどうぞ、はいあなたにも、お次はそちら、立ちどまらないでください」

「おらっちは受難者だ、犠牲者だ」権頭は金包みを渡しながらなげいていた、「飲まず食わずで骨を折って金包みをこしらえ、死にそこない、汗みずたらしてここへ運び、あげくの果てにこうやって人に配っている、一文にもならねえ、――ただばたらきだ、受難者だ」

「わけしれね、むちゃくちゃだ」中将もぼやく、「はなしなんね、おたまげだ」

他の場所でも時間はいきいきと動いていた。まず奉行役所をのぞいてみよう、――そこではいま急使が来て、江戸幕府の監察使が予定より早く、すなわち「明日佐貝へ到着する」という報知をもたらせた。すわこそ一大事、直ちに高札<ruby><rb>触書</rb><rt>ふれがき</rt></ruby>を撤去しなければならぬ、かの酷烈無比を極めた生活の<ruby><rb>枷</rb><rt>かせ</rt></ruby>、あらゆる食糧物資の統制と制限令を、もし監察使に見られたら最後だ。全役人は市中へとびだした、<ruby><rb>辻々</rb><rt>つじつじ</rt></ruby>の高札場をはいでまわり、市民に諭告をくれてまわった、「もし誰かにきかれたら答えろ、当市の生活は安穏であり満足である、衣食住はすべて潤沢であり、政治は公明である、いささかも不平はない、――誰にきかれてもこう答えろ、もしこれにそむく奴があれば逆さ<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>にして<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>びきだぞ」こう諭告をくれてまわった。――その一方、筆頭与力の蓑賀殿はその役所に<ruby><rb>於</rb><rt>あ</rt></ruby>って一人の客と対談していた。まぎれもない、かの大阪のさる富商の手代である。彼は倉出し証書をそこへ置いて、蓑賀殿を執達吏のごとく追求している、「これは<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>りですな、詐偽ですな」こういきまく、「どの店にも品物はありません、倉という倉はがらがらです、私は断言しますが、――」などと云っている。

「手違いです、ほんのちょっとした手違いです」参蔵殿はうろうろ手文庫の中をかきまわしておられる、「お知らせしようと思ったのだが、待ってください、荷はあるんです、たいへんな物資です、船荷証券、菱垣船の和忠の振り出しです、はてどこへいったか、待ってください、きっとびっくりするでしょう、もうすぐです」

同じとき持木屋の店先でも<ruby><rb>悶着</rb><rt>もんちゃく</rt></ruby>が起こっていた。<ruby><rb>田丸屋益造</rb><rt>たまるやますぞう</rt></ruby>、<ruby><rb>折屋伝内</rb><rt>おりやでんない</rt></ruby>、<ruby><rb>水尾割助</rb><rt>みずおわりすけ</rt></ruby>など五人の旦那が、それぞれ額面壱万両の持木屋の手形を出して「すぐ現金に替えてもらいたい」と請求したのだ。寝耳に水だ、がよろしい払いましょう、持木屋の手形は慶長大判と同じ信用がある。千両箱が運び出された、ところで商人ほどみみっちく要慎ぶかいものはない、「念のために拝見しますよ」こう云って田丸屋の旦那が千両箱の一つを明け、金をあらためた。

## 十三

「これは、――」封を切って小判を出すなり益造旦那は汽笛のようにほえた、「これはどうだ、いやいけない、<ruby><rb>贋金</rb><rt>にせがね</rt></ruby>だ」

「なあんですって、なんとおっしゃった」

「贋金です、皆さん調べてごらんなさい、これはくわせ物です、まっかな贋金ですぞ」

旦那連は驚倒し仰天した。箱は片端からこじ明けられ封印はすべてはがれた、まさにさよう贋金も贋金、正真正銘いつわりなし掛値なしの贋金である。当の成助は旦那連よりも<ruby><rb>動顛</rb><rt>どうてん</rt></ruby>し<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>となった、「お静かに、どうかお静かに」彼は両手を振って懇願した、「これはなにかの間違いです、すぐに取り替えます、御存じのように私には玉村の若旦那という金主がついていますから、私のためには何千万両でもすぐ融通してくれる旦那ですから、ひとつ一緒に来てください、決して御迷惑はかけませんから」そして彼は旦那方と一緒にでかけていった。

ちょうどその時刻である。玉村の若旦那、つまりわれらの八百助は、なんと誰が袖のお杉姐さんをつれて来六屋の店にいた、彼は馬に積んで来た六千両の金を、店先へ運ばせながら出平にこう云っている。

「いやおかげで小遣いの不自由をしずにすんだよ、利息として千両、少ないが取ってくれ」

「これはどうも、これは」出平はもみ手をした、「多分の御心配で、へえ、たしかに六千両、たしかにお受け取り申しました」

「それから例の預け物さ」八百助はおうように振り返った、「例の持木屋の壱万両の手形と和田屋の船荷証券七枚、あの二つはここにいるお杉さんに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったからな、――なに、口説かれて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と云わなかった<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びの印さ、お杉さんわかったな、両方ともおまえのものだ遠慮なく受け取っておいで、私はひと足さきに帰るよ」

「まあ若旦那、なんてまあ、若旦那」<ruby><rb>姐</rb><rt>あね</rt></ruby>さんは夢のような贈り物に恍惚となり両手に胸を抱いて身もだえをした、

「あたしもう、もう……」

だが八百助はもう店から出ていった。――あとが騒動である、来六屋は初めから手形も証券も<ruby><rb>騙取</rb><rt>へんしゅ</rt></ruby>するつもりだった。あの若僧は世間知らずでお坊ちゃんで知恵才覚がない、ちょうどいつか中国筋で金をまき上げて逃げた、あのびっこで背むしで眼っかちの八百助少年と同様だ、ぞうさはない、いざとなったら手玉に取ってくれる。こう勘考思量したのである、ところが権利は他人に譲渡された。しかもそれは男にとって最も強敵たる女性であり女性の中でも最も<ruby><rb>奸譎</rb><rt>かんけつ</rt></ruby>なる妖婦であった。……もはや手はござらぬ、出平が<ruby><rb>十言</rb><rt>とこと</rt></ruby>と口をきかぬうちに妖婦は叫びだしわめきたてた。

「文句はいらないんだ文句は」姐さんは目じりをつり上げてどなる、「持木屋の手形と船荷証券この二つをもらえばそれでいいんだ、へん、誰だと思う誰が袖のお杉姐さんだよ」

そして店先でくるりと裾をまくり、あられもない弁天小僧を<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めこんだ。――なにもいちどきに崩れだしてござる、こう急がしくなっては<ruby><rb>筆</rb><rt>ペン</rt></ruby>が折れ申す、ひと休みして明日のことにいたそう。

早朝まだほの暗い時刻に、「監察使到着」の報が佐貝全市に伝わった。いつ誰がしたものか、辻々に高札が立って、「政治向きに不正不義あれば訴訟せよ、監察使みずから奉行所においてきくべし」という<ruby><rb>触書</rb><rt>ふれがき</rt></ruby>がはられた。――日の出から半刻、監察使は馬に乗り、三名の従者をつれて乗り込んで来た。しかしよく見られよ、監察使はわれらの八百助にそっくりだし、従者の三人も<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>こそ違うが、権頭と中将と杢に瓜二つでござる、一行は威容堂々と南広小路を進み、大通りを埋める群衆の歓呼にこたえつつ、ゆっくりとうたせて奉行役所へ着いた。――役所では佐貝奉行たる笠間六郎兵衛が病中なので、筆頭与力の蓑賀参蔵が責任者として応接に当たった。監察使は幕府の尽印のあるたしかな「監察命令書」を示し、自分は玉村八百之丞であると名乗った。蓑賀は役人たちを紹介し、旅の無事を祝ってから、すぐに広間へと案内した。

広間には<ruby><rb>饗応</rb><rt>もてなし</rt></ruby>の支度が出来ていた。なにより盛りつぶしである、酔わせて食わせて艶色を与えて金を握らせる、これが監察使に対する不変の礼儀であり、唯一にして欠くべからざる作法である。「粗略ではござるがまずお<ruby><rb>寛</rb><rt>くつ</rt></ruby>ろぎください」蓑賀殿は玉村使節を上座に請じて云った、「当市は治安経済民生すべて申し分がなく、民は鼓腹して泰平を<ruby><rb>謳歌</rb><rt>おうか</rt></ruby>しております。その状まさに楽土天国とも申すべく、われら牧民たる者も満足恐悦に耐えぬしだいです、ま、どうぞお<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らに、されば――御監察の要はいささかもこれなく、これ<ruby><rb>膳部</rb><rt>ぜんぶ</rt></ruby>を差し上げ申せ、――ただゆるゆる御滞在あって、お心まかせに御保養ご休息を願いまする」

「ははあ、佐貝は楽土天国ですかな」使節は<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を取られた、「私はまるで違う評判を聞いて来たが、いやそれは結構――」

使節は酒をひと口すすられたが、すぐ苦い顔をして盃をおいた。蓑賀殿は手酌で飲み、能弁に佐貝市政の公明について述べられる。

「どうぞお重ねくだされ」使節が盃を置いたのを見て彼はすすめる、「<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>より取り寄せた銘酒でござる、どうぞ御遠慮なくお過ごしくだされ」

「いやたくさんだ、それより探索がそこへ戻って来た。――ひとつ公務から先に片つけるとしよう」

## 十四

なるほどそこへ<ruby><rb>権頭</rb><rt>ごんのかみ</rt></ruby>、<ruby><rb>杢</rb><rt>もく</rt></ruby>、<ruby><rb>中将</rb><rt>ちゅうじょう</rt></ruby>の三人が入って来た。参蔵殿はじめ役人どもの<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>はみるも気の毒であったが、使節は厳粛に威儀を正して云った。

「申し付けたことは調べて来たか」

「取り調べてまいりました」権頭によく似た従者が答える、「食糧衣料日用雑貨、なんにもございません、御定法の備蓄までなに一つ残らず売られております」

「よし、さもあろうと思った」使節はうなずいて、「杢右衛門、訴訟にまいった市民があろう、許すから庭へ呼び入れろ、蓑賀参蔵そこ動くな」杢右衛門が出てゆくとすぐ、役所の庭へどっと人波があふれ込んで来た。あらゆる不法がさらけだされ、なにもかも<ruby><rb>曝露</rb><rt>ばくろ</rt></ruby>に及んだ。――持木屋成助は贋金をつかったゆえに五人の旦那から訴えられ、五人の旦那は物資隠匿と不当利得のかどで訴訟された。来六屋は手形と証券の騙取でお杉の姐さんに訴えられ、お杉の姐さんは強盗教唆と密営業の件で訴訟された、なにがさて急がしい、成助が縛られ五人の旦那が縛られた、お杉の姐さんは縛られた肚いせに役人達の収賄と<ruby><rb>涜職</rb><rt>とくしょく</rt></ruby>を告訴したので、こんどは役人達がお互いを縛りだした。<ruby><rb>矢土真平</rb><rt>やつちまへい</rt></ruby>は<ruby><rb>皆疋太九郎</rb><rt>みなひきたくろう</rt></ruby>を縛って<ruby><rb>池名勘兵衛</rb><rt>いけなかんべえ</rt></ruby>に縛られ、<ruby><rb>小松太造</rb><rt>こまつたぞう</rt></ruby>は池名勘兵衛を縛ったうえ自分が縛られた。おまけに大阪の富商の手代が蓑賀参蔵を<ruby><rb>詐欺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>犯人であると証言するや、ごうごうがくがくと蓑賀殿の悪事醜行が並べられ、ついにこの筆頭与力殿も縛られなされた。――あらゆる物語の定例によって、<ruby><rb>汚吏穢商</rb><rt>おりわいしょう</rt></ruby>の類はかくのごとく検挙され、善良<ruby><rb>無辜</rb><rt>むこ</rt></ruby>の市民には平和が回復した。

だが待ちたまえ、あれへ来六屋が逃げてまいる、この<ruby><rb>痴者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>はどさくさまぎれに法廷をぬけ出し、雲を<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>と逃亡でござる、それ走れ、もうひと息、――彼は濠を渡り申した。そして足も宙に河内街道を走っていったが、島多村の辻へ来たとき、向こうから走って来た三人づれの男と、出合いがしらに衝突し、眼から火をとばしてすっ転んだ。いや珍しい、三人づれは杢に中将に権頭でござる、彼らもまた役割の恐ろしさにおじけづき、かくは脱出ずらかって来たのだ。「早く早く」権頭はころんだ杢を引き起こした、「追手が掛かったらおしまいだ、あんなに洗いざらい、誰も彼も悪事がばらされる、さあかけろ、日本の果てまで逃亡だ」そして三人の悪漢は、土ぼこりといっしょにかなたへ消えていった。

「ああ痛え、ひでえめにあわしゃあがる」出平は額をさすりさすり起き上がった、「まるでつむじ風みてえな奴らだ、ああ<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>が出来た」

「でも私の背中の瘤より小さいよ」

突然うしろでそう云う者があった。出平はひえっと叫んで振り向いた。そこに誰か立っている、誰か――眼っかちで背むしで<ruby><rb>跛</rb><rt>びっこ</rt></ruby>の少年が、……出平はだらりと唇をたらした。

「どうしたい出来六、私だよ、忘れたのかい」

「ば、化物だ」出平、すなわちかの<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>なる下僕出来六はがたがたとふるえだした、「――幽霊だ」

「いや幽霊じゃない、化物でない、よくごらんよ足がある、跛の足がね、背中の瘤へさわってみないか、ずいぶん久し振りだったね、八百助だよ、まだわからないかい」

「ははははは」出来六は眼を恐怖におののかせながら笑った「こりゃあ面白い、ちょっとした冗談だ、なかなかの洒落だ、はははははさあ踊るぞ」

そして「うー」とうめくなり<ruby><rb>仰反</rb><rt>あおのけ</rt></ruby>さまに道の上へ<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>した。八百助はやおら背伸びをし、手を振り足踏みをした、姿はくるりと<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>け変わり、輝くような美丈夫に返った。――彼は懐中から折った紙を取り出し、出来六の胸の上へひろげて石で押えをした。それには出来六の罪状がくわしく書いてあり、発見した者はすぐに縛って奉行所へ届けよと注をしたものだ。

「踊りたいだけ踊るがいい、牢舎の仲間にさぞ<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>されるだろう」八百助はこう云って振り返った、「さて帰ろう、故郷の山へ、吹矢村のなつかしい安息所へ」

蛇足を加えれば、そのとき奉行所へは本物の監察使が到着し、八百助の後をうけて仕上げの最中だった、――三悪人はまだ走っている、懸命に走っている、土ぼこりをあげて……どうやら彼らは永久に走るつもりらしい。