## 一

「伯父上お早うござる」

自慢の盆栽の手入れをしていた<ruby><rb>牧屋勘兵衛</rb><rt>まきやかんべえ</rt></ruby>はそう声をかけられて振返った。

「良いお日和でございますな」

調子のいい愛想笑いをしながら、<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>の<ruby><rb>直次郎</rb><rt>なおじろう</rt></ruby>がこっちへやってくる。勘兵衛は眼鏡越しにじろりと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで、

「――えへん」

と<ruby><rb>威</rb><rt>おどし</rt></ruby>の<ruby><rb>空咳</rb><rt>からぜき</rt></ruby>をした。機嫌執りをしてもその手は喰わぬと云う意味である、ところが相手はいっこう感じない様子で、

「やあ驚いた、あの枝はもう咲きますな、さすがにお手入れが良いだけあって、この<ruby><rb>臘梅</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>はいつも半月早い、――庭木では誰にもひけを取らぬと云う<ruby><rb>瀬沼</rb><rt>せぬま</rt></ruby>老が、この臘梅には音をあげていましたよ。いや実に見事だ」

「えへん、えへん」

<ruby><rb>瀬沼庄右衛門</rb><rt>せぬましょうえもん</rt></ruby>は藩の<ruby><rb>徒士</rb><rt>かち</rt></ruby>目付で、勘兵衛とは盆栽の自慢敵である、――勘兵衛危くつり込まれそうになって慌てて空咳にまぎらした。直次郎は方面を変える。

「おやおや、しばらく拝見せぬ内にだいぶ鉢が殖えましたな、あれは何でござるか」

「――――」

「葉の色と云い枝振りと云い、実に風雅なものだが、はてな、――<ruby><rb>芙蓉</rb><rt>ふよう</rt></ruby>かな」

勘兵衛は、ついに堪らなくなって、

「こいつ、でたらめをっ」

と振返った、「正月の十日に芙蓉が葉を出すか、考えてみい」

「すると<ruby><rb>葉牡丹</rb><rt>はぼたん</rt></ruby>ですか」

「貴様……この、――」

と眼鏡を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みとったが、恐ろしく太い鼻息を洩らすと、吐出すように<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>った。

「<ruby><rb>石斛</rb><rt>せっこく</rt></ruby>じゃ、石斛というんじゃ、よく見ろこれを、――芙蓉や葉牡丹などとは茎も葉もまるで違うわ、違い過ぎるわ馬鹿馬鹿しい」

「こっちは何ですか」

けろりとしている。

「――知らん」

「はて何だろう、――こうっと、ああ分った、これは御自慢の<ruby><rb>真柏</rb><rt>まがしわ</rt></ruby>です、今度は当りましたろう」

「それがどうした」

「してみると拙者にも植木の一つや二つは、満更分らぬ事もないと云う訳ですな、はっはっは、――時に、真柏で思い出しましたが、瀬沼老ひどく口惜しがっていましたよ伯父上」

「――何を？……」

「残念だが牧屋には<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬ、わしも真柏では苦心をしたが、とても牧屋ほど立派な花は咲かされぬと」

「馬鹿野郎！」

勘兵衛は喚いた、「誰がどう苦心をしようと真柏に花が咲くか」

「そ、それは不思議……」

「貴様の方がよっぽど不思議だ。これ、――こっちへ向いてみろ！」

勘兵衛は眼鏡をかけて、甥の顔を穴の明くほど<ruby><rb>瞶</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていたが、

「貴様、また何か<ruby><rb>強請</rb><rt>ねだ</rt></ruby>るつもりだな」

と云うのを<ruby><rb>隙</rb><rt>すか</rt></ruby>さず、

「伯父上、助けてやってください」

とすばらしい気合で切込んだ、「実に気の毒な身上の者なんです、生れ落ちるとから両親の顔も知らず、<ruby><rb>陋巷</rb><rt>ろうこう</rt></ruby>の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>にまみれて世にありとあらゆる辛酸を嘗め、今また泥沼の底へ沈もうとしているのです、ぜひ」

「駄目だ駄目だ、ならんぞ」

勘兵衛は大声に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った、「どうも先刻から変にごまを磨ると思ったら果してこれだ。ならん！　もう貴様には<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されん、理由の<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>を問わず<ruby><rb>鐚</rb><rt>びた</rt></ruby>一文出さぬからそう思え」

「金子を頂こうとは申しません」

「――――？」

「屋敷へ引取って頂きたいのです」

勘兵衛は甥の顔を横目で見た。これまで度々この手で丸められているのだ、金は要らぬなどと云っても<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に安心はできない。

「屋敷へ引取れ……と云って、その、――相手は何者なんじゃ」

「その<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>は後のこと、いまは何より伯父上のお許しが出るか出ぬかが大事なのです、もしここで突放してしまえば、その人物は泥沼の底へ墜ち込んで、あたら一生を地獄の<ruby><rb>苦患</rb><rt>くげん</rt></ruby>に送らなければなりません。助けてやってください伯父上、人間一人を生かすも殺すも伯父上の方寸にあるのです、それも別に金が要るとか特別の世話をするとか云うのではなく、ただこの屋敷へ引取って、当分のうち面倒をみてくださればいいのです、決して御迷惑はかけませぬから」

## 二

「だが、――」

勘兵衛は気乗りせぬ調子で、「引取るとしても、どこへ住ませるんじゃ」

「私の<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>が明いております」

「あそこはわしの茶室に使っているではないか」

「なに、もう片付けさせました、お道具は数寄屋へ運んであります」

「そう云う奴だ」

勘兵衛舌打をして、「始めからわしを丸め込むものと<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>めてかかりおる」

「御承知くださいますか」

「仕様がないじゃないか、いかんと云えばなんだかわしがその男を泥沼の底へ突落すことにでもなりそうな口振りじゃからの――えへん、だが引取る前に一度呼んでこい、わしがあってから……」

「もう来ております」

「――――」

「お<ruby><rb>笛</rb><rt>ふえ</rt></ruby>どの、こちらへ」

振返って呼ぶと、中庭の生垣の蔭から一人の女が慎しくそこへ立現われた、――磨き込んだ小麦色の肌、切れ長のつぶらな<ruby><rb>眸子</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>、漆黒の余るような髪を武家風に結いあげた二十あまりの、眼覚めるように美しい女である。いや勘兵衛驚いた。

「な、直次郎！」

「お笛どの御挨拶をなさい」

直次郎は構わずに云った、「こちらがお話し申した伯父上です。お役目は福山藩十五万二千石の切盛をする国家老だが、お若い頃から江戸詰めで御苦労を遊ばしただけあって、酸いも甘いもずんと<ruby><rb>噛分</rb><rt>かみわ</rt></ruby>けておられる、この度もお<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>を引取って快く世話をしようと仰せられるのだ、よくお礼を申上げるよう」

「<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけの</rt></ruby>う存じまする」

女は韻の深い声で、低頭しながら云った、「<ruby><rb>不束者</rb><rt>ふつつかもの</rt></ruby>のわたくし、お慈悲に甘えてお世話さまになりまする、どうぞよろしゅう……」

「う、うん」

勘兵衛まごついて脇を向いたが、

「直次郎、ちっと来い」

と云って築山の方へ去った。直次郎は女へにこりと<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>み、心配するなと云う<ruby><rb>眴</rb><rt>めま</rt></ruby>ぜをしながら伯父の後を追った。――勘兵衛は近寄ってくる甥の面前へ<ruby><rb>華鋏</rb><rt>はなばさみ</rt></ruby>を突出しながら、

「この野郎！」

と喚きたてた、「ならず者め、又してもわしをはめおったな、あれは何じゃ、女ではないかこの――」

「別に私は女でないとは申しませぬ」

「ないと云わんでも女でないと思わせるような風に云い<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたで――ええ面倒臭い、だいたい未だ妻帯もせぬ身上で、どこの何者とも知れぬ女を」

「いや承知しております」

直次郎は逃げ腰になりながら云った、「彼女は新町の小笛と云う芸者です」

「な、な、なに――芸者？」

「芸者は芸者ですが血統は武家の出で、どこへ出しても恥しからぬ」

「この野郎――っ」

いきなり勘兵衛が掴みかかった。直次郎はひらりと<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>して、咲きはじめた老梅の向うへ廻り込んだ、勘兵衛は苛って追う。

「待ちおれ！」

「どうぞ、お願いです伯父上」

直次郎は素早く逃げながら、「可哀そうな身上の女なのです、屋敷へ置いても決して牧屋家の不為になるような事はありません、どうか面倒を見てやってください」

肥っている勘兵衛は顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>くいきませながら懸命に追いかける、しかし若い直次郎の足に及ぶ筈がない、築山を三遍ばかり追い廻すと、息苦しくなって眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んで、ぺたりと芝生の上へ尻餅をついてしまった。

「あ、危い！」

直次郎は駈寄って、「お怪我はありませんか、どこか痛めはなさいませんか」

「う、うるさい」

「<ruby><rb>水</rb><rt>ひや</rt></ruby>を持って参りましょうか」

「放せ、ひ、<ruby><rb>水</rb><rt>ひや</rt></ruby>など、要るか」

勘兵衛は肩で息をつきながら、「これまで、これまでにも、散々と苦いめを見せおって、また今度は、芸妓を引取れ……福山十五万二千石の国老たるわしに、芸妓を引取れとは、貴様どこまで、どこまでわしの胆を冷やす気だ、この次はぜんたい何を持出してくるんじゃ」

「実はそれなんです」

「な、なに――？」

「拙者このたび、殿の御<ruby><rb>参覲</rb><rt>さんきん</rt></ruby>に江戸表へ御供を仰付かりました。ついては一年の在番中お笛をお預けいたしますゆえ、お<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>にて<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と性質を御覧くだされ、拙者帰藩のうえ御得心が参りましたら妻に<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>って頂きとう存じます」

「む――っ」

勘兵衛はいきなり眼鏡を<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>りとった、そして両手で頭をひっ掴みながらそこへ<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>みこんでしまった。

## 三

牧屋勘兵衛は、備中福山の城主<ruby><rb>阿部伊勢守</rb><rt>あべいせのかみ</rt></ruby>の国家老で七百石、頑固一徹なところから家中の者に、

「牧屋の頑兵衛どの」

と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>されているが、一面また実に分りの良いところがあって、ことに若い連中には好い人気を持っていた。

数年前、妻のお<ruby><rb>信</rb><rt>しん</rt></ruby>に先立たれ、また子がなかったので、江戸邸に留守居役を勤めている弟、<ruby><rb>牧屋伝兵衛</rb><rt>まきやでんべえ</rt></ruby>の二男直次郎を引取り、行く行くはこれに跡目を継がせようと云うので、ずっと手許で育ててきた。――ところでこの直次郎がひと通りの青年でなかった、色白の美男で武芸もでき、学問にも秀でているが、なにしろ眼から鼻へ抜けるような性質で、――十五万石をぐわんと圧えている勘兵衛が、直次郎のためにはいつも見事な背負い投げを喰わされる。

「今度こそはごまかされんぞ」

と思うがそのたびにいけなかった。

そして、――このところしばらく<ruby><rb>痛事</rb><rt>いたごと</rt></ruby>がないと思っていたとたんに、又しても「お笛引取り」と云う<ruby><rb>大罠</rb><rt>おおわな</rt></ruby>に引懸ったのである。しかも……芸妓あがりの女を、嫁に娶ってくれというのだ。

「――何と云う面の皮の厚い奴だ」

勘兵衛も今度ばかりは茫然となった。茫然となったがしかし、どこまでも「いかん」とは云わなかった、それには訳があるので――その訳は後に記すこととしよう。

直次郎は正月二十八日、主君伊勢守に従って江戸へ発足した。――出立する時、直次郎はたったひと言、

「伯父上、お預け申しましたぞ」

と云ったきりだった。勘兵衛は、

「よし預った、だが預った以上、万一不始末でも仕でかしたら、断りなしに斬って捨てるから承知しておれ」

と云った。

勘兵衛のつもりでは、どうせ若い直次郎のことだから、妓の甘言に迷わされて、当座の熱をあげているのだろう、ぐらいにしか思っていなかった。妓もまた直次郎が牧屋家の跡継ぎであるというところに眼をつけたので、あわよくば国家老七百石の奥に直ろうと云う魂胆に相違あるまい、――とすれば一年の江戸在番を幸い、そのあいだに充分前後の処置をする事ができると考えたのだった。

お笛は屋敷内の西隅にある直次郎の住居の、茶室造りになっている離室に起き<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>ししていた。――そこは前庭が四条流の風雅な泉石で、中庭の方の茶席とは別に、勘兵衛が時折自分一人の茶をたのしむ場所にしていたのである。

直次郎が発足して二三日たった、――ある日のこと、勘兵衛が盆栽いじりをしていると、離室の方からお笛が静かにやってきて、

「失礼ながらお手伝い仕ります」

と云った。見ると<ruby><rb>甲斐</rb><rt>かい</rt></ruby>甲斐しく袖をからげ、<ruby><rb>水桶</rb><rt>みずおけ</rt></ruby>を携えている、――何をするかと思って黙っていると、盆栽の鉢を一つ一つ丁寧に洗いはじめた。

「そんな事をやったことがあるのか」

「いいえ――」

慎しく頭を振りながら微笑する、とても芸妓などしていた者とは思えぬあどけなさだ。勘兵衛はむっつりとしたまま、

「したくもない事を、機嫌執りのつもりでするなら止めにせい、わしはおべんちゃらが大嫌いだぞ」

「あのう、ここに真柏の植わっております鉢は、白磁とか申す品でござりますか」

勘兵衛の高調子には構わず、お笛は静かに振仰いで<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。――勘兵衛は依然むっつりと外向きながら、

「白磁とか青磁とか、そう<ruby><rb>大雑把</rb><rt>おおざっぱ</rt></ruby>に云われては敵わん、それは白磁の内でも『<ruby><rb>饒州</rb><rt>じょうしゅう</rt></ruby>の白』と云って唐来の珍物じゃ」

「饒州の白……有難う存じました」

「こっちのを見い、これは古備前物で了心の作と伝えられるが、比べて見ると違いが分るであろう、――どうじゃ」

「拝見仕りまする」

お笛は勘兵衛の手から<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の鉢を受取って、しげしげと眺めていたが、

「やはり饒州の方が、同じ白でも色に深く澄んだところがござりまする」

「それを『白の秘色』と云う」

「肌目の密な、手触りにじっくりと厚味のあるところも、やはり饒州の方が優れているように思われまする」

白魚を伸べたような指で、飽かず鉢の肌を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でている様は、どうやら軽薄な機嫌執りでもないらしい、勘兵衛はいつかすっかり誘いこまれていた。

「こっちへ参れ、<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>の<ruby><rb>青瓷</rb><rt>せいじ</rt></ruby>を見せる」

「どうぞお願いいたしまする」

それからおよそ一刻あまり、勘兵衛は熱心に庭中お笛を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れ廻っていた。

## 四

「どうもおれは人が好い」

その夜勘兵衛は後悔していた。

「<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>め焼物が分りそうな振りをするものだから、つい<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うか</rt></ruby>とひっかかった。こんな事ではとても性根を掴むことはできん――今度からはごまかされぬ要慎をしてかかるぞ」

ひそかに固い決心をした。

その明くる日、下城した勘兵衛が庭へ下りてゆくと、お笛が小庭の方からやってきて、

「お帰り遊ばしませ、お疲れでござりましょう」

「――うん」

「お恥かしゅうござりますが粗茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れました、どうぞお立寄りくださいませ」

<ruby><rb>羞</rb><rt>はじら</rt></ruby>いを含んで微笑しながら云う、勘兵衛は不機嫌に唇を結んだまま黙ってお笛の後から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いていった。

部屋の内は塵ひとつ留めず、きちんと片付いた床に、古風な<ruby><rb>錆着</rb><rt>さびつ</rt></ruby>きの鉄鉢に鮮かな「つるもどき」の紅と黄がはぜていた、――心憎い手並だ。

「――お口汚しでございます」

茶を淹れて出す、――見ると盆の上に香の物が添えてある。

「これは香の物だな」

「はい……」

勘兵衛は苦々しげに、

「町家は知らぬこと、武家では茶うけに香の物などと云う事はないぞ、他人が見たら牧屋の恥になる、そのくらいの所存はありそうなものではないか」

「心付かぬ事をいたしました、今後は注意仕りますゆえ、どうぞ御免くださりませ」

「折角じゃ、今日は引かずともよい」

そう云いながら<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>を執る、一切口へ入れて勘兵衛が驚いた、恐ろしく<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>いのである、妻が生きていた頃にも、かつて一度――これは旨いと思ったことのない香の物である、ことにこの数年はまるで漬物などに興味も持たなかったが、その一切は全く舌を驚かした。

「これはそちが漬けたか」

「はい、ほんの真似事に……」

勘兵衛は茶を代えながら、無理に気むずかしく空咳をして、

「話は違うが、いったいその方は直次郎をどう考えておるのか」

「――と仰せられますと？」

「直次郎はわしにその方を娶ってくれと申した」

お笛の頬にさっと紅がさした。

「察してはおろうが、武家と云うものは諸事格式の厳しいものだ。近来は商家から嫁を迎えるものもないではないが、それさえきわめて<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>なこと、――ましてその方のように、一度芸妓勤めなどした体では、正式の婚姻などなかなかむずかしい話だ。しかし……それとても神かけてできぬと云う訳ではない、ないけれども――直次郎はわしの跡目を継ぐ体、万一血統でも濁るような事があると先祖に対して申訳けがない」

「血が濁ると仰せられまするは？」

「稼業がらその方の体が、今まで潔白であろうとは思われぬ、と申すのだ」

「――潔白でござります」

お笛は静かに眼をあげた、「十四で座敷勤めに出ましてから六年のあいだ、のっぴきさせぬ危い折も両三度はござりました、――けれど、わたくし体だけは清浄に護り通して参りました、どうぞお信じくださいませ」

「だが、こればかりは証拠がないでの」

お笛はきゅっと唇をひき緊めたが、

「失礼ながら」

と<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ手を置いて云った、「貴方さまには、お上を毒害してお家を横領しようと云う御野心がござりましょう」

「な、なにを云う」

突然の事に勘兵衛は仰天して、「冗談も事によるぞ、この牧屋勘兵衛に逆心ありとは、ど、どこを指して申すのだ」

「では、――逆心なしと申す御証拠がござりましょうか？」

お笛は悪びれぬ調子で、「女の操とても同じこと、この通り潔白と云ってお眼にかける証拠はござりませぬ、けれど卑しい勤めをしていたからと云うだけで、そのお疑いは悲しゅうござりまする」

「もうよいもうよい」

勘兵衛は驚いて、「顔に似合わぬ理窟屋だなその方は、いずれにしても真偽は顕われずにおらぬものじゃ、それまでその方の言葉を信じておるとしよう、――や、邪魔した」

茶椀を置いて起つ、――気がついてみると、いつか小鉢の中の香の物をすっかり平げていた。勘兵衛はぶっきら棒に、

「この次も茶うけは香の物を頼む」

と云い捨てて照れ臭そうに立去った。

向うの気持を試みるつもりが逆に一本突込まれて、見事にやられた形である。それにしてもあの場合一寸も隙かさず、即妙に応待した智恵は芸妓育ちの女などに似合わぬ鋭さ、――生れながらに目はしのきく性質か、あるいは世間ずれのした悪智恵か、「まずそれを突止めてやろう」

勘兵衛は何やら<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

## 五

雨の日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>さがりだった。

お笛の部屋から爪弾きの三味の音に合せて、一中節の渋い唄声が<ruby><rb>嫋々</rb><rt>じょうじょう</rt></ruby>と聞えていた、――珍しや、寛いだ勘兵衛がお笛に唄わせながら、さっきから独り<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をあげているのである。

勘兵衛に強いられて二三杯<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めたお笛は、<ruby><rb>眼蓋</rb><rt>まぶた</rt></ruby>のあたりをほんのり染め、どことなく体つきに<ruby><rb>嬌</rb><rt>なま</rt></ruby>めかしさが匂っていた。

「まあ一杯<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あい</span>をせい」

「もう頂けませぬ」

お笛は三味線を置いて、「こんなに頬が熱くなりましたもの、お酌をさせて頂きまする」

「そう云わずと呑め、わしも久方振りで快く酔ってきた、もう唄は止めにしてこっちへ参れ」

「――はい」

素直に膝を寄せてくる、勘兵衛は酔眼を向けながら、

「芸妓の頃は小笛とか――云ったの」

「はい本名のお笛をそのまま」

「武家風に堅く粧ってこのくらい美しいのだから、その頃はさぞあでやかであったろう。どれ……もっとこっちを向いてみい」

羞いながら、すこしも悪びれずに笑顔を向けるお笛。勘兵衛はつと手を伸ばすと、女のしなやかな手首を握って、

「遠慮はいらぬ、ずっと寄れ」

そう云いながら引寄せた。拒むかと思ったが、相手はそのまま――嬉しそうにさえしながら膝をすり寄せる、むっと、鼻を撫でる温い肌の香。とたんに勘兵衛が、

「お笛！」

と鋭く云った、「人眼のない離室で酒をかこみ、例え直次郎の伯父ではあれ男のわしに、こう手を執られて拒まぬのみか、嬉しそうに体を寄せてくるその方の様子、――それが今まで潔白に身を持してきた女の態度か」

ぎくりとしたお笛が、慌てて引こうとする手首を、勘兵衛は力任せに突放して、

「二三杯の酒に本性を出しおって、もう言訳は通るまいぞ、どうだ！」

「――――」

お笛はそこへ両手を突き、面を伏せたまましばらくは身動きもしなかったが、やがて静かに顔をあげて、

「恐入りました――」

と息詰るような声で云った、「始めからお<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>り遊ばしたものなれば、今更何を申上げてもお取上げはなさりますまい、――けれど、ひと言だけ申上げまする」

「言訳なら聞くまでもないぞ」

「――ただお聞捨てくださりませ」

お笛は面を伏せて続けた、「直次郎さまからお聞及びかと存じまするが、わたくしは生れ落ちるとから父母の顔を知らず、元……屋敷に仕えていた<ruby><rb>松造</rb><rt>まつぞう</rt></ruby>と申す男の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>で育てられました。父は越前家で馬廻りを勤めていましたとか、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>のほどは存じませぬが殿の御勘気を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>って切腹、母も共に自害いたしたと――松造の話に聞くばかり、その後事情あって卑しい世界に身を堕しましても、一日<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>として亡き父母を思わぬことはござりませんでした」

お笛はつきあげてくるものを抑えるように、しばらく声を呑んでいたが、

「武士の娘だ、父の名を汚してはならぬ、――どんな必至の場合にもこれだけは忘れず、そのために数えきれぬ苦しさ辛さを味いながら、操だけは汚さずに参りました。――こちらへ引取って頂きました日、お庭で貴方さまにお眼にかかりますると、……どうしてか知らず、不意に貴方さまが父親のように思われ、今日まで良く清浄に身を守ってきたな――褒めてやるぞ……と云われるような気がいたしまして、思わず嬉し涙に<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>んだのでござります」

「…………」

「御迷惑とは存じながら、盆栽のお手入れのお邪魔をいたしましたのも粗茶にお出でを願って手作りのお笑草を差上げましたのも、<ruby><rb>不躾</rb><rt>ぶしつけ</rt></ruby>ながら――ひそかに父と存じあげていたしましたこと、できることならお膝に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、たった一度でも父上さまと……甘えてみとうござりました。それがつい<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしなみ</rt></ruby>を忘れさせ、いまのお戯れをそうと知る暇もなく、真の父に手を執られたように覚えて、前後も忘れた嬉しさ、思わず、思わず……」

それまで云うとお笛は、ついに堪らずそこへふっと泣伏してしまった。――勘兵衛はいつか坐り直していたが、くすんと鼻を鳴らすと、急いで妙な空咳をしながら、

「泣くな、泣くやつがあるか」

と執成すように云った、「酒興の冗談を本気にされては困る、もういいから泣くのは止めにせい――そして、面倒でなかったら又あの漬物を出してくれ、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>の口を直してもう<ruby><rb>一盞</rb><rt>いっさん</rt></ruby>馳走になろう、すっかり<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたぞ」

「は、はい――」

咽びながら手をつくお笛の、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>える肩先を見やった勘兵衛の胸に、覚えて以来かつて感じたことのない、ふんわりと甘く温い愛情が強く強くふくれあがってきた。

――またしてもわしの負けじゃ。

勘兵衛は独り明るく<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

## 六

「――あれっ」

お笛は<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>と振向いた。――<ruby><rb>有明行燈</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>の灯を細くしていま寝衣に着換えようとしていた時、横手の小窓が外から引外されて、一人の男がぬっと跳込んできたのだ。

「誰、誰ですっ」

「騒ぐな、静かにしろ」

男は端折っていた裾を下ろし、顔の手拭を脱ると、

「おれだ、驚いたか」

と云いながらどかっと坐った。

「ま！　<ruby><rb>伝吉</rb><rt>でんきち</rt></ruby>さん」

「それでも忘れずにいてくれたかい、へっへ……、おらあずいぶん探したぜ」

色の浅黒い、眉の上に<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>のある、眼つきの卑しい男だ、福山城下で、「疵の伝吉」と云えば<ruby><rb>無頼仲間</rb><rt>わるなかま</rt></ruby>でも通り者である。お笛が芸者に出た時分から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けつ廻しつ云い寄っていたのだ。

「おめえの為にゃあ三年というあいだ、爪を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がねえばかりにして貢いでいたぜ、仲間にゃあ<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>われる世間は狭くする、あげくの果てにおめえはどろんときた。へ！　全くいい面の皮、鯉の滝登りだ」

男はぐいと膝を立てて、「だがの小笛、仲間の手前にもおらあ黙ってすっ込んじゃいられねえのだ、こうして探し出したからには、例え三日でも女房にしなけりゃ承知ができねえ、おめえだってこんな堅っ苦しい武家屋敷で、肩身の狭い妾暮しをするよりゃ、無頼でもれっきとした女房になるのが結句仕合せと云うものだ、まあ――そう<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まねえでこっちへ」

「お帰り‼」

お笛はすっと身を退いて叫んだ。

「身を剥ごうと爪を剥ごうと貢いだのはそっちの勝手、わたしの知った事ではありませぬ、このまま帰ればともかく、――さもないと人を呼びますよ」

「面白え呼んでくんな」

伝吉はにやりと<ruby><rb>冷笑</rb><rt>わら</rt></ruby>った、「おいらが<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>がけで<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れた女を、横取りした奴の面が見てえ、呼びねえな、ええ呼んでみろ。――この女は<ruby><rb>私</rb><rt>あっし</rt></ruby>の<ruby><rb>情人</rb><rt>いろ</rt></ruby>でござんすと、そいつの前で立派に名乗ってやらあ、さあ呼ばねえか」

喚きながら、手を伸ばして抱きすくめようとする、お笛は危く<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れて、

「あ、あれ！」

と起った。とたんに、

「見苦しいぞ」

と叫びながら、意外にも縁先の雨戸を突外して、左手に大剣を提げた勘兵衛が現われた。――お笛はびっくり、とっさの言葉もなく立ちすくむ、

「貴様は何者だ」

勘兵衛はずいと踏込んだ。伝吉は太々しく坐り直して、

「私はその小笛の亭主でございます」

「なに亭主――？」

「亭主と申上げて悪ければ、まあ情人とでも申しましょうか、もう三年このかた夫婦同様の仲でございます、へい」

「嘘、嘘です！」

お笛は必死に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った、「これはわたくしが勤めに出ておりました頃、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>がるものを跟け廻していただけの人、何の関係もございませぬ」

「冗談じゃねえ、今更そんな事を云ったって通るものか。現に旦那――こうして寝所へ忍んでくるのも今夜が初めてじゃありやせん、実はこの小笛の手引で三日にあげず逢いにきているのでございますよ」

「まあ、よくもそんな空々しい」

「そういうおめえの方がいけっ太えや。なんだろう――そろそろ金のねえおいらに厭気がさしたので、こっちへ寝返りを打とうと」

「黙れ、黙れ！」

勘兵衛は大声に遮って云った。

「お笛、わしはその方を信じている、だが、――この場合はそれだけでは済まぬぞ、その方はやがて直次郎の妻にもなるべき躰じゃ。相手は例え<ruby><rb>落破戸</rb><rt>ならずもの</rt></ruby>にもせよ、不義があったと申すからには、武士の妻としてただないとだけでは通らぬ……よく落着いて所存を決めい」

「――はい」

お笛はじっと勘兵衛の眼を見上げた。

勘兵衛の心は烈しく痛んでいた、あの酒の日からこのかた、勘兵衛は実の娘を一人<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けたように思われて、老いの身の朝夕、お笛を見るのが何よりの娯しみになっていたのだ、――しかし、嘘にもせよかかる無頼の徒に不義ありと云われて、虚実が判然せぬとすれば、一藩の国老を勤める家の嫁に娶る事はできない。

「どうだ！」

と面に強くは云ったが、勘兵衛の心はいじらしさで燃えるようだった。

「申上げまする」

お笛は静かに答えた、「これはどのような事があっても他言はすまいと、かねてから誓っていたことでござりまするけれど、女が一生に一度の大事、恥を忍んで申上げまする」

伝吉は何を云うかと息を呑んだ。

## 七

「わたくしが不義をせぬ証拠は、直次郎さまとお馴れ申して半年近く夫婦の約束までしながら未だ一度も<ruby><rb>閨</rb><rt>ねや</rt></ruby>を共にした事がございませぬ――それは」

と言葉を切った。勘兵衛も伝吉も聞き遁さじと耳を傾けている。

「それは、わたくしの右の胸の、ちょうど乳房の下のところに腫物がござります、子供の頃から医者も薬も届く限りは手を尽しましたが、どのようにしても治らず、肌着が荒く触れても刺すように痛みまするし、自分にも耐えられぬようなひどい臭みを放ちまする、――そのため今日まで直次郎さまともひとつ閨に<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>したことはござりませんでした、ましてこのような人と……」

「へっへへへへ何かと思ったら」

伝吉はせせら笑って、

「何かと思ったら腫物の事かい、そんな事なら改めて聞くまでもねえ、生命までもと惚れ合った仲で、腫物の臭みぐれえが何だ。旦那え――こいつあ大した内証事のように云ってますが、私あ今日までその腫物の薬塗りから、当て綿、巻き木綿の世話までしてきやしたよ」

「嘘です、腫物のある事さえ知る筈のないおまえに、薬の手当ができる訳はありません」

「だって現に世話を焼かしたじゃねえか」

「いいえ嘘です、おまえは愚か直次郎さまにも見せたことのない秘密です、何と云っても嘘に違いありません」

「強情だな、あの臭い<ruby><rb>膿</rb><rt>うみ</rt></ruby>の始末までさせておいて、今になって嘘はひどかろうぜ、おらにあ着物の上からでも見えるくれえだ」

お笛はきっと勘兵衛の方へ振返って、

「伯父上さま、この男のいまの言葉――確とお耳にお止めくださりましたか」

「それでどういたすのだ」

「――御免くださりませ」

会釈をしたと思うと、右手を袖から内へ入れる、意外にもいきなりするりと片肌を脱いだ。――血のような紅絹裏をぬいて、雪かと紛う柔肌が現われた。<ruby><rb>喉元</rb><rt>のどもと</rt></ruby>から胸へ流れる、嬌めかしい丸みの極まるところに、梅の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>のような乳首をつけてふっくりと固く盛上る乳房――どこに一点の塵もなく、<ruby><rb>絖</rb><rt>ぬめ</rt></ruby>のように<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>とした皮膚は、有明行燈の灯を受けて<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>いばかりに輝いた。

「御覧くださいませ、女が生涯の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>に<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げる大事な体、蚊にも刺させず大切にしてきました、腫物は愚か針で突いたほどの傷もない筈、――伯父上さま、御得心くださいましたか」

「見届けた、この痴者――」

勘兵衛が叫んで大剣を掴むのと、伝吉が<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>のように跳上るのと同時だった。

「待てっ」

喚いて勘兵衛が足を出す、伝吉は、だ！　と<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いたが、<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>した余勢で自分から庭へ転げ落ちた、勘兵衛は縁先へ出て、

「生命<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby>な奴め、明日とも云わず今宵の内に立退きおれ、さもないと眼につき次第斬捨てるぞ、ここな<ruby><rb>白痴者</rb><rt>たわけもの</rt></ruby>っ」

と闇に向って元気に呶鳴りたてた。――いや驚いたのなんの、さすが無頼の伝吉も胆を消して、<ruby><rb>飛礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>のように屋敷外へ逃去ってしまった。

「あっぱれじゃ、よく機転が利いたぞ」

勘兵衛は座へ戻ると大機嫌で、「どうなる事かとはらはらしていたが、あそこまで引込んでゆく手際は立派な判官じゃ、じつのところわしまでが<ruby><rb>篏</rb><rt>はま</rt></ruby>りそうになったわい」

「お恥しゅうござります」

衣紋をつくろったお笛は、羞いに耳まで染めながらそこへ手を突いて、

「女だてらに肌を顕わし、何とも申訳ござりませぬ、どうぞお忘れ遊ばして――」

「いいとも、外の時ならとにかく、女の操を証す必至の場合、武士なれば腹を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けるところじゃ、――あいつめ、びっくりして煙のように消えおったわ、もう再び邪魔にはこまい、手柄じゃ手柄じゃ」

勘兵衛は眼を細くして褒めたてる。お笛はますます身を縮めながら、わきあがってくる<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>を持て余していた。

「お笛を娶る事承知いたし候」

と勘兵衛は江戸の甥に手紙を書いた、「そこもと帰藩までには親許も定め置く<ruby><rb>可</rb><rt>べ</rt></ruby>く、挙式は来春二月と予定仕り候。お笛こと、そこもとはただ若気の熱にて引取りしならんが、国老職を継ぐ可きそこもとの妻として二なき女たること、そこもとより拙者の方よく見抜きおり候――」

鑑識のあるところを示しておかぬと圧しが利かぬ。

「また、そこもとはおのれ独り粋な妻を持つなりと<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れているやも知れねど、そは馬鹿の独り良がりに候。今こそ打明け候、（驚くなよ）拙者の亡き妻、即ちそこもとの伯母お信こそ、拙者若くして江戸詰の折、執心にて娶りたる柳橋の名妓に候。えへん――に御座候」

勘兵衛はどうだと云わんばかりに、つるりと額を撫でて結びにかかった。

「されど伯父、甥二代続いての芸妓妻、もうこの辺で打止める可く、そこもとの子には決して決して罷り成るまじく候……」

明けてゆく庭前で、<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>が<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>きはじめた。