## 一

<ruby><rb>明和</rb><rt>めいわ</rt></ruby>九年（十一月改元「安永」となる）二月中旬の或る日、――殿町にある<ruby><rb>脇屋</rb><rt>わきや</rt></ruby>代二郎の屋敷へ、<ruby><rb>除村久良馬</rb><rt>よけむらくらま</rt></ruby>が訪ねて来た。

脇屋の家は七百石の老臣格で、代二郎は<ruby><rb>寄合肝煎</rb><rt>よりあいきもいり</rt></ruby>を勤めている。除村は<ruby><rb>上士</rb><rt>じょうし</rt></ruby>の下の<ruby><rb>番頭</rb><rt>ばんがしら</rt></ruby>で、久良馬は「練志館」の師範を兼ねていた。彼は代二郎より三歳年長の二十九歳、筋肉質の<ruby><rb>緊</rb><rt>しま</rt></ruby>った<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>で、色が黒く、はっきりと濃い眉や、いつも一文字なりにひき結んでいる唇や、またたきをすることの少ない静かな眼つきなどで際立って<ruby><rb>凛</rb><rt>りん</rt></ruby>とみえる。背丈は五尺七寸あまり、少ししゃがれてはいるが幅のある、よくとおる声をもっていた。――玄関に立っている久良馬の姿を見て、代二郎はちょっと息をのんだ。久良馬の着物の片袖から<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の一部へかけて、どす黒く血に染まっていたからである。

「小森鋎蔵を斬って来た」久良馬は云った、「――川端の網屋で三人が会食しているのをつきとめ、踏み込んでいって斬った」

「一人でか」

「一人でだ」と久良馬は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた、「――鋎蔵は討ちとめたが、落合と井関は逃がしてしまった。落合にも一刀あびせたが<ruby><rb>浅傷</rb><rt>あさで</rt></ruby>だったらしい、残念ながらとり逃がした」

「その血のりは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けが</span>か」

「いや返り血だ」と久良馬は云った、「――二人を逃がした以上このまま腹は切れない、これから屋敷にたてこもって、討手とひと当てやるつもりだ、久保貞造、板土友次郎、丸茂源吾らが来る」

「いっしょにたてこもるのか」

「断わったのだが承知しなかった、人数はもっと多くなるかもしれない、ここへ寄ったのはそれを断わるためだ」と久良馬は云った、「――脇屋は妹と婚約しているが、初めからおれの説には反対だった。もし脇屋が来れば、<ruby><rb>桃世</rb><rt>ももよ</rt></ruby>の縁にひかされたといわれる、それは脇屋にもおれにも迷惑だ、わかるだろう」

「考えてみるよ」

「いやその必要はない、おれははっきり断わる」と久良馬は云った、「――それから、妻と子はやむを得ないが妹は死なせたくない、桃世を引取ってもらいたいんだが、どうだ」

「もちろんだよ、云うまでもない」

「それで<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>った、頼むぞ」

こう云って久良馬は<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に去った。

代二郎はそのうしろ姿を見送った。去ってゆく久良馬の袴の裾のところが、横に五寸ばかり切り裂かれていて、そこから歩くたびに下の着物が見えた。久良馬は門を出るとすぐ右へ、振向きもせずに去っていった。――代二郎は居間へ戻った、<ruby><rb>家扶</rb><rt>かふ</rt></ruby>の小泉<ruby><rb>専之丞</rb><rt>せんのじょう</rt></ruby>や、三人の若い家士たちが、脇の間で不安そうに坐っているのが見えた。久良馬の話を聞いたのだろう、久良馬の声は高かったし、その調子も平常とは違っていたから、母の<ruby><rb>茂登女</rb><rt>もとじょ</rt></ruby>も聞いたとみえ、代二郎が居間へ入るのを追って来た。

代二郎は机の前に坐った。その部屋は六帖で、北側に窓がある。机はその窓に向っているので、あけてある障子の外に庭の一部が見える。隣りは空地を隔てて御竹蔵があるが、庭の樹立が繁っているので蔵は見えない。三本ある古い桜の木が、窓の近くまで枝を伸ばしていて、その枝にはふくらんで色づいた<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>がびっしりと着き、一と枝だけはすでに咲き始めていた。

「大変なことになりましたね」

茂登女は代二郎の脇へ坐った。代二郎は黙っていた。

「どうなさる」と茂登女が云った、「――すぐにいらっしゃるのでしょう」

代二郎は「さあ」といって、母とは反対の方へゆっくりと振向いた。床間には「碧山雲層層」と書いた軸が懸っている、その下に香炉が一つ。ほかにはなにもない、その軸は<ruby><rb>玉林寺</rb><rt>ぎょくりんじ</rt></ruby>の住職で、亡父唯右衛門と親しかった<ruby><rb>浣石和尚</rb><rt>かんせきおしょう</rt></ruby>の書いたものであった。

「<ruby><rb>一期</rb><rt>いちご</rt></ruby>の大事です、不参すれば臆したといわれますよ」と茂登女は云った、「――桃世さんやあとのことは母が引受けます、支度をしてすぐにいって下さい」

「少し考えてみます」

「考えるとはなにをですか」

「これは一藩の大事で、私一個の<ruby><rb>名聞</rb><rt>みょうもん</rt></ruby>とはべつの問題です」と代二郎は云った、「――お願いですから暫く一人にさせて下さい」

茂登女は代二郎の横顔をにらんだ。肥えた多血質の顔が白くなり、その眼は怒りのためにきらきらしていた。彼女は幾たびもなにか云おうとしたが、やがて<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めたように、立って廊下へ出ていった。

「碧山雲層層、――」代二郎は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた、「碧色というから遠い山だろう、遠く遠く、<ruby><rb>重畳</rb><rt>ちょうじょう</rt></ruby>と<ruby><rb>山脈</rb><rt>やまなみ</rt></ruby>が重なっている、その山脈をめぐって、動かない雲がじっとたなびいている、……<ruby><rb>悠久</rb><rt>ゆうきゅう</rt></ruby>といったけしきだ、千年不動というけしき、いまのおれにはこのけしきは苦手だ」

彼は机に左手の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を突いてゆったりと<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を支え、右手をふところに入れて眼をつむった。<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>かに遠く<ruby><rb>紺青</rb><rt>こんじょう</rt></ruby>色の山脈と、それをとり巻いて動かないたな雲が眼の裏にうかぶ。無限のように遠く、<ruby><rb>厳</rb><rt>おごそ</rt></ruby>かなほど<ruby><rb>寂</rb><rt>しず</rt></ruby>かに、――そこからこちらへ、幾千万里の距離をこちらへ、この国のこの城下町へ、五万二千石の藩政をめぐって、激しく<ruby><rb>狼火</rb><rt>のろし</rt></ruby>を打ちあげた人々の中へと、彼は自分の意識をひき戻した。

――無思慮も思慮の一つだ、脇屋は思慮にとらわれすぎる。

それは久良馬の言葉であった。つい五日ほどまえ、湯の山の扇屋の会合のときにそう云った。

「彼にはかなわない」と代二郎は眼をつむったまま呟いた、「――彼にはおれのかなわないところがある、紛れのない決断や実行力もそうだ、彼は自分が好んですることを恥じない、むかしから知らない屋敷の柿でさえ、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>そうにみえ<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べたいと思うと、堂々と入っていって柿を一つ下さいと云った、女が抱きたくなれば<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>なく湯の山へでかけていった。あれには到底かなわない」

代二郎は微笑しながら眼をあいた。

――<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>を抱くことは決して美徳ではない。しかし抱かないことも美徳ではない。売女を抱かないことはただ抱かないというだけのことだ。

久良馬のそう云った言葉がおもいうかんだのである。それは四年まえ、代二郎と桃世とのあいだに縁談のまとまった直後のことであり、またこんどの（後に「<ruby><rb>右京亮</rb><rt>うきょうのすけ</rt></ruby>さま騒動」といわれた）騒ぎの始まったときでもあった。

## 二

代二郎は十五歳の年に江戸へゆき、<ruby><rb>聖坂</rb><rt>ひじりざか</rt></ruby>の学問所へ通学するかたわら、<ruby><rb>柳生</rb><rt>やぎゅう</rt></ruby>の道場でも五年のあいだ修業した。久良馬は三年まえから柳生の道場へ入門していた。これは藩の「練志館」の師範になるための専門的な修業で、すでに門中でも上位者のなかにあり、まもなく業を終えて帰藩したが、江戸にいるあいだは親身になって代二郎の世話をしてくれた。少年じぶんからつきあいはあったけれども、その二年余日の江戸の生活で、互いに心をゆるしあうようになった。少なくとも代二郎にとってはそう思えた。

代二郎が江戸から帰ると、久良馬が来て「練志館」でもう少し仕上げをするようにとすすめた。代二郎は断わった、彼は武芸にはあまり興味がもてなかったのである。久良馬は失望したらしいが、むりにはすすめなかったし、それからもずっと親しい往来が続いた。久良馬はよく脇屋へ訪ねて来たし、代二郎もしばしば除村へ招かれていった。この期間に彼は桃世を知ったのであるが、帰藩して三年めの春、久良馬が結婚してからまもなく、彼も桃世と婚約をむすんだ。

桃世はそのとき十四歳であった。兄に似て膚は浅黒く、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて、小さな少女だった。眼のくりくりとした、賢そうな顔だちで、気質の明るい、よく笑う、いかにもすなおなところが、代二郎の気にいった。代二郎の母はもっと気にいって、彼の鑑識を褒めた。

――代二郎さんはなかなか眼が高いのね、気性がいいばかりでなく、あのひとはいまに<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>もよくなりますよ。

久良馬は妹のことをいつも「栗」と呼んでいた。色が黒くてちんまりしていたからであろう、そのことを話すと茂登女は笑ったが、縹緻よしになるという主張は曲げなかった。

婚約ができてからすぐ、久良馬は彼を湯の山へ遊びに<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れだした。

――泊って来ますが御心配なく。

久良馬は代二郎の父にそう断わった。父の唯右衛門はまだ存命ちゅうで、「泊りがけ」という意味がわかったのだろう、ひどく渋い顔をしたが、いけないとは云わなかった。湯の山というのは城下から北へ二里ばかり、峠を一つ越した山峡の湯治場で妓楼もあるし「<ruby><rb>湯汲</rb><rt>ゆく</rt></ruby>み」と称する女たちがいて、近国からも客の集まる繁昌な場所であった。

――脇屋のふっきれないのは女を知らないからだ、今日はおれが男にしてやるよ。

久良馬はそう云った。代二郎は「へえ」といった。

――自分の妹婿に売女を抱かせようというのか。

――妹婿になる人間だからさ。

こう云って久良馬はにやっとした。それから例の「売女を抱くことは、――」が始まったのである。代二郎は<ruby><rb>遊蕩</rb><rt>ゆうとう</rt></ruby>しないことが美徳だと思ったことはない。生理的に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おくて</span>というのか、幾たびか機会はあったが、いつも不潔感が邪魔をするし、それを押してそこまでゆく気持が起こらない、ただそれだけのことであった。……その夜、湯の山の妓楼に泊ったときも、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>に「いっしょに寝た」と云う約束をさせて、べつの部屋で一人で寝た。こんな嘘はすぐにわかるとみえ、朝になると久良馬はさも軽べつしたような眼で代二郎を見、大きく舌打ちをして云った。

――おれは脇屋が男になるまで<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ伴れて来るぞ。

代二郎は苦笑しながら黙っていた。

妓楼を出てから、久良馬は「新しい銀札が通用しない」と不審そうに云いだした。はっきり口では云わないが、明らかにその銀札をいやがるふうで、彼は<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に障ったが現銀で払った、というのである。久良馬はいかにも<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうであったが、代二郎には理由がほぼわかるので、つい頷きながら呟いた。

――そんなことになると思ったよ。

――それはどういう意味だ。

久良馬は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したように<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

――新銀札には加印がないからさ。

代二郎はそう答えた。この土地では古くから、銀札には必ず領内に住む豪商らの加印があった。つまり表記の金額を藩と連帯で保証する意味であるが、去年の冬に発行したものには加印がなかった。それは、今年（明和五年）の二月、朝廷で立太子の大礼があり、幕府からも祝儀のため使者を<ruby><rb>差遣</rb><rt>さしつかわ</rt></ruby>した。そのなかに藩主の<ruby><rb>石見守康富</rb><rt>いわみのかみやすとみ</rt></ruby>も加えられたので、その費用をまかなう必要から、在国の右京亮<ruby><rb>康貞</rb><rt>やすさだ</rt></ruby>が急に発行を命じたものであった。加印がなければ発行高もわからないし<ruby><rb>濫発</rb><rt>らんぱつ</rt></ruby>のおそれもある。しぜんその価値が下るのは当然で、老臣たちはずいぶん反対した。筆頭家老の岡島<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>は「三老職、五奉行の合議によらずして政治をおこなうべからず、――」という藩祖の遺訓をあげて<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めた。藩祖の遺訓のなかでも、この一条は代々の藩主の守るべき第一としてあった。それにもかかわらず右京亮はきかなかった。

――このたびの御役は予期しないもので、調達は急を要するから、他の方法ではまにあわない、善後の処置はあとのことだ。

右京亮はそう云って押し切った。そのとき押し切らせてはいけなかった、そのときこそ右京亮を抑えるべきであった。そうでなくとも、すでに無謀な政治の弊害が、いろいろな方面に現われだしていたからである。

――おれには経済のことなどわからないが、そういうわけだとすると捨ててはおけないな。

城下へ帰る途中、「銀札」に関する代二郎の説明を聞いて、久良馬はじっと考えこんだ。妓楼などでは客のほうで世間<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>があるから、拒まれても表沙汰にはしないが、一般では拒むことはできない、藩の銀札を拒めば罰せられるからである。したがって、それを通用させるためには物の価格を上げるよりしかたがないし、それは他の銀札にも影響を及ぼすことになる。

――現に去年十月に比べると、一般の物価は一割ちかくも高くなっているよ。

と代二郎が云った。すると久良馬が訊いた。

――問題はやはり右京亮さまだな。

――そして御側近の三人だろうね。

――よし考えよう。

久良馬は濃い一文字眉をぴくっとさせた。

老臣たちが右京亮を抑えにくいのは理由があった。右京亮康貞は石見守の子ではなく、松平出羽家から養子に入ったものである。石見守康富が幕府の閣老として江戸常府だから、右京亮を<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>に置いて藩政を執らせているのであるが、まだ若くもあるし、大名育ちの向う見ずと、主我意識のひどく強い、そして神経過敏でぎらぎらするような性格のため、老臣たちはみな<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れ物にでも触れるような感じで接しなければならなかった。そのうえ側近に悪い人間がいた、井関藤也、小森鋎蔵、落合庄次郎という三人である。――井関は右京亮が実家から伴れて来たもの、他の二人は江戸邸から抜いて来たのであるが、小森は三十二歳になり、江戸では二百五十石の書院番。落合は二十八歳で、百五十石ばかりの中<ruby><rb>小姓</rb><rt>こしょう</rt></ruby>を勤めていた。これらが、井関と小森は<ruby><rb>側用人</rb><rt>そばようにん</rt></ruby>、落合は執奏として右京亮の側近をかため、殆んど独裁的に政治を動かしていた。

だいたい右のような事情だったのである。

## 三

それから約半年、久良馬はしきりに代二郎を湯の山へ誘いだした。どうしても彼を男にせずにはおかない、と云うのであるが、実際は同行者がしだいに<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えるし、湯治宿（もう妓楼には寄りつかなかった）では密談をするのが主になった。かれらは無謀な政治がどう行われ、いかなる弊害を生じているかということを調べ、それに対抗する方法を練るのである。代二郎は経済や政治の理論的な説明役のような立場で、初めから不即不離の態度をとり、むしろかれらの熱狂を鎮めようとさえした。

久良馬はその実行力にものをいわせて、老臣方面にもはたらきかけたらしい。だが、それは保守的な老臣たちに逆効果を与え、久良馬はひどく叱られた。

――政治に口を出すことは<ruby><rb>法度</rb><rt>はっと</rt></ruby>である。

<ruby><rb>妄動</rb><rt>もうどう</rt></ruby>は内紛のもとだからきっと慎め、と厳重に戒告されたのであった。

久良馬は沈黙した。そして、なおしげしげと代二郎を伴れて湯の山がよいを続けた。十五人ばかり集まっていた同志も解散したが、これは隠密に連絡がとられていたらしい。久保貞造、板土友次郎、丸茂源吾らの三人が、ごくときたま湯治宿でいっしょになった。代二郎が警戒するような顔をみせても、久良馬はいつも先手を打って話を避けた。

――いいから今夜こそ男になってみろよ。

などというのである。道楽は若いうちにすべきだとか、道楽の経験のない者は半人前の価値しかないとか、また代二郎が遊ばないのは、<ruby><rb>生娘</rb><rt>きむすめ</rt></ruby>が初夜をおそれるようなもので、そこを踏み越えればなんでもなくなるのだ、などというのであった。

――初夜といえば、おれは妻を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>るときに考えたのだが、女が嫁にゆく勇気というものはすばらしいな。

久良馬はあるとき卒然と云った。

――生れた家を出て、育てられた親や兄弟姉妹と別れて、殆んど見も知らぬ他人の生活の中へ入ってゆく、どんな運命が待っているかもしれない「初夜」の<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>の中へ、なんの経験もない少女がただ一人で敢然と入ってゆく、この勇気はすばらしいものだ。

代二郎は苦笑しながら云った。

――それは男だって同じことだと思うがね。

久良馬はにらみ返した。なんというだらしのない人間だ、とでもいうようなにらみかたであった。代二郎は知らないふりをして、そっぽを見ていた。

加印なしの銀札はいちど回収された。物価の高騰に対する不評を緩和するためであろう。事実それを機会に物価は下るけはいをみせた。しかし、回収するためには資源がなくてはならない。そこで右京亮は領内全般の田地に<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>入れを命じ、約五千石という石高を新たに計り出した。検地は七年まえにもいちどあったし、こんどの竿入れは特に徹底的で、余歩（検地するとき農民のために計り残す部分）も余さないというやりかたであった。しかし、それでも新銀札の全回収はできない、続いて家臣ぜんたいの食禄を、向う五年にわたって二割借上げという方法をとった。

この藩に限らず、当時は諸侯ぜんたいが経済的に<ruby><rb>逼迫</rb><rt>ひっぱく</rt></ruby>していたのであるが、ここでは計画がゆき当りばったりで、生産の裏付けのない金融操作にはしったため、その状態はしだいに破局的なものになっていった。

――これは取返しのつかぬことになるぞ。

――根本的な改革をしなければだめだ。

そういう声が高くなった。

その声は右京亮を制するよりも、さらにその無謀さを<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>る結果になった。回収しきれなかった加印なしの銀札をそのままにして、新たに銀札を発行し、また<ruby><rb>運上</rb><rt>うんじょう</rt></ruby>の範囲を間口二<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>以上の家屋、土蔵、物品や売買、庭樹、井戸などにまでひろげた。しかも一方では、藩侯の<ruby><rb>別墅</rb><rt>べっしょ</rt></ruby>を造営するために、城下の東南にある田地（そこは領内屈指の<ruby><rb>沃土</rb><rt>よくど</rt></ruby>であった）を五万坪あまりもつぶすといいだしたのである。……老臣たちは江戸へ使者を送った。だが、石見守は多忙で詳しく検討する暇がなかったのだろう。同時に経済的ゆき詰りから生ずる紛糾は、大なり小なり各藩に共通する問題だったから、同じような例だと思ったのかもしれない。

――こんな事をわざわざ江戸まで申告げて来てどうする。国許に人はいないのか。

こう叱られて使者は帰った。

これは秘密にされていたが、いつ漏れるともなく評判になり、除村久良馬たちの耳にもはいった。そして湯の山の会合になり、側近の三人を斬ろうという結論が出た。苛酷な年貢（二回の検地竿入れによる）に耐えかねて、土地を捨てて去る農民が出はじめていた。銀札の濫発で物価はあがるばかりだし、商人にも倒産するものが相次いで出た。

――右京亮さまを動かしているのは側近の三人だ、責任のすべてが三人にあるとはいわないが、右京亮さまを老臣重職から隔離し、藩政をここまで<ruby><rb>紊乱</rb><rt>ぶんらん</rt></ruby>させたのはかれらだ、まずかれらを除かない限り藩政改革の策は立たない。

会合に集まったのは十七人、代二郎もその席にいた。三人を斬ろうという説は、代二郎をべつにして全部の者が賛成した。代二郎は反対だった。三人を斬ればこちらからも犠牲者を出さなければならない、それよりもっと穏便な方法がある筈だ。こう主張した。

――脇屋は思慮にとらわれすぎる、ときにはその思慮を捨てろ、無思慮も思慮の一つだぞ。

久良馬はそう云ったが、「こちらからも犠牲者を出さなければならない」という言葉で、その場の熱狂した空気はちょっと冷えたようにみえ、もういちど集まろうということで、そのときの会合は終ったのであった。

「彼は感づいたのだ、あのとき熱狂した空気が冷えたのを」代二郎は呟いた、「――そして彼は、自分がやろうと即座に決心し、今日それを実行したのだ、しかし、小森は討ちとめたが他の二人は逃がしてしまった……そうだ、このまま切腹できない気持はよくわかる」

そういう呟きとはべつに、彼の<ruby><rb>脳裡</rb><rt>のうり</rt></ruby>ではしきりに対策が立てられていた。

「代二郎さん、――」

廊下から茂登女の呼ぶ声がした。障子があいたので振返ると、母が除村の桃世を伴れて入って来た。桃世はもう十八歳になり、躯の小柄なところは変らないが、肌の色は白く、少し<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>かった髪の毛も<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>やかに黒くたっぷりとして、（茂登女の予言したほどではないが）縹緻もずっとひきたってみえた。

「除村から縁を切ってまいりました」桃世は手をついて云った、「――どうぞこれからお頼み申します」

「待っていたところです」と代二郎が云った、「――早速ですがこれから登城しますから、母に訊いて支度をして下さい」

「除村さんへいらっしゃるんでしょう」

茂登女がそう訊くと、代二郎はそれには答えないで桃世に云った。

「登城ですよ、<ruby><rb>麻裃</rb><rt>あさがみしも</rt></ruby>を出して下さい」

## 四

桃世はおちついて着替えを助けた。少し<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめてはいるが、<ruby><rb>動顛</rb><rt>どうてん</rt></ruby>したようすはどこにもなかった。代二郎は袴の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結びながら、<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>るように笑いかけた。

「除村が私を湯の山へ伴れていって、道楽をさせようとしたことを知ってますか」

桃世は「はい」と頷いて、代二郎を見あげながら、<ruby><rb>羞</rb><rt>は</rt></ruby>ずかしそうに微笑した。

「それではとうとう道楽ができなくて、彼に<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>されたことも知っているでしょう」

「はい」と桃世が答えた。

「<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>はどうです、やっぱり軽蔑しますか」

「いいえ」と桃世は赤くなりながら答えた、「――うれしゅうございましたわ」

「それは有難い」

代二郎はそう云いかけて振向いた。家扶の小泉専之丞が入って来た。彼は家士たちを<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってようすをさぐらせたのだろう、そこへ膝をついて家士たちの報告を伝えた。――それによると、除村では門をひらいて竹<ruby><rb>矢来</rb><rt>やらい</rt></ruby>を結い、すでに三十人ほど集まっているし、なおあとから駆けつける者が絶えない。また老臣重職のうち染谷<ruby><rb>靱負</rb><rt>ゆきえ</rt></ruby>、岡安益左衛門の二人は登城したが、他の人たちは門を閉めて、屋敷にひきこもったまま出ない。ということであった。

「よし、わかった」代二郎は桃世から扇子を受取りながら家扶に云った、「――私は登城するから、誰も外へ出さないように頼む」

そして彼は玄関へ出ていった。茂登女は来なかったが、桃世が式台まで送って出た。代二郎は刀を差しながら桃世を見た。桃世の眼は涙ぐんでいるように見えた。彼はその眼に笑いかけながら云った。

「心配しなくてもいいよ」

そして静かに履物をはいた。

代二郎は父が生きていなくてよかったと思った。父の唯右衛門は去年の五月に病死し、そのため桃世との結婚も一年延びたのであるが、善良で小心な父が生きていたら、どんなに心痛し途方にくれるか、そうしておそらく桃世との婚約も破棄されるだろうということが、彼には眼に見るように想像された。……殿町の家から登城するには<ruby><rb>巽</rb><rt>たつみ</rt></ruby>門が近い、だが、そうすると、馬場下の除村家のそばを通らなければならないので、代二郎はまわり道をして、大手門へ向った。途中の町筋は色めき立っていた。早くも逃げだす人たちだろう、老人や子供をせきたてたり、家財を荷車に積んだりして、<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>町から<ruby><rb>檜物</rb><rt>ひもの</rt></ruby>町のほうへ、群衆が列をなして動いていた。

大手門には槍組の人数が出ていた。代二郎が通ると、かれらは異様な人間をでも見るように、眼をそばだて、また聞えがしに<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きあった。

「脇屋だ、除村の妹のあれさ」

「どうしたんだ」と云う声も聞えた、「彼は徒党に加わらないのか」

代二郎は聞きながして通った。

そこから中の口へゆき、中の口からあがって、中老の役部屋へ入るまで、ゆき交う人たちすべてがそういう眼で彼を見、不審そうに囁きあうのであった。……殿中はひっそりしていた。出来事の重大さと、どうなるかわからない不安のために、あらゆるものが息をころしている、といったような静寂さであった。役部屋には誰もいなかった。代二郎は支度を直して、老職の詰所を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたうえ、そこにも誰もいないのを見て広敷へいった。広敷には坊主や<ruby><rb>近習</rb><rt>きんじゅ</rt></ruby>番たちが集まって、みんな顔色を変え、うろうろと立ったり坐ったりしていた。彼は取次を待つまでもないと思い、そのまま長廊下を奥へいった。すると黒書院から染谷靱負の出て来るのが見えた。染谷は年寄肝煎で、右京亮の与党に数えられている。代二郎は靱負をやり過しておいて、すばやく黒書院へ入った。

右京亮は上段で叫んでいた。彼は二十七歳になる。痩せた肉の薄い躯つきで、おもながな顔に<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>った高い鼻と、両方から迫った濃い眉毛と、するどく光る大きな眼とが、いかにも<ruby><rb>癇癖</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>の強い性格をあらわしている。いまその顔は怒りのために<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>み、<ruby><rb>双眸</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>は殆んど逆上の色を帯びていた。

「ここでは余の意志はとおらないのか」と右京亮は叫んでいた、「――あのしれ者は小森を斬り落合を傷つけたうえに、徒党を集めて己れの屋敷にたてこもったというではないか、これは謀反だ、明らかに<ruby><rb>叛逆</rb><rt>はんぎゃく</rt></ruby>だぞ」

上段のすぐ下に岡安益左衛門がいた。岡安は末席の家老であるが、もう六十歳を越しているし、温厚篤実というだけの人で、ただもう低頭しながら、おろおろと云い訳めいたことを云うばかりであった。老人のすぐ脇に井関藤也と落合庄次郎の姿が見えた。うしろ姿でよくわからないが、落合は頭の半分を<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>し木綿で巻いている。たぶんそれが久良馬のあびせた一刀であろう。ほかに二十余人、小姓組の者と近習番、それに<ruby><rb>番頭</rb><rt>ばんがしら</rt></ruby>格の者も五人ばかりいた。

「討手を出せ、余の申しつけだ」右京亮は<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>で<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>を打ちながら叫んだ、「――弓、鉄砲を持って取詰めろ、手に余らば火をかけて焼き払え」

益左衛門は平伏し、染谷が戻るまでいま暫く、必ず御意のとおりに計らうから、とふるえ声で同じことを繰り返しなだめた。代二郎は人々のあいだを静かに<ruby><rb>膝行</rb><rt>しっこう</rt></ruby>し、席次どおりの位置で頭をあげた。

「申上げます、中老脇屋代二郎、申上げます」

高い声ではないが、よくとおった。右京亮がこちらを見た。他の人たちも振向き、多くの者があっという眼をした。

「御上意のように討手を差向けましては<ruby><rb>騒擾</rb><rt>そうじょう</rt></ruby>がひろがり、お家の大変になりかねません」と代二郎は云った、「――<ruby><rb>刃傷</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>の罪は除村久良馬ただ一人、彼に詰腹を切らせれば相済むことでございます、おそれながら一人のために大事を起こすようなことは<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>し違いかと存じます」

「刃傷の罪も罪、徒党を集めて家にたてこもるのは謀反だぞ」

「徒党を集めたと申すのは注進の誤り、事実は彼の暴挙を防ぐため、彼をとり鎮めるために親族縁者が集まったにすぎません」代二郎はひと膝進めて云った、「――おそれながら私に上使の役をお申しつけ下さい、すぐにまいって彼に詰腹を切らせます」

右京亮は井関と落合の顔を見た。二人がどういう反応を見せたかは疑うまでもない、除村久良馬は練志館の師範で、崇拝する門人も多いし、<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>ぜんたいの信望も<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>い。討手など出せばどんな騒動になるか、かれらにもよくわかっていたに違いない。右京亮の<ruby><rb>激昂</rb><rt>げっこう</rt></ruby>にもかかわらず、討手を出し渋っていたのはそのためで、代二郎の申し出は、かれらにとってむしろ渡りに舟のようであった。

「その言葉に間違いはないか」と右京亮がこちらを見た、「――間違いなく、彼に詰腹を切らせるか」

「御上意を頂ければ切らせます」

「よし、まいれ」と右京亮が云った、「――上使を申しつけるぞ」

## 五

「<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに、承知<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>りました、つきましては、――」

こう云って、代二郎は左右に眼をやり、佐藤喜十郎という番頭のいるのを認めた。喜十郎は三百二十石で、<ruby><rb>徒士</rb><rt>かち</rt></ruby>組総支配を勤めている、代二郎は右京亮に云った。

「つきましては検視役として、御側より井関藤也どの、またあれなる佐藤喜十郎をお差添え願います」

「よし、両名の者みとどけてまいれ」

井関藤也はびくりとした。

「私は辞退仕ります」藤也は云った、「――私は、私はそのお役には適しません」

「貴方は小森どのと親しかった」と代二郎が云った、「――除村久良馬の切腹をみとどけるのに、貴方ほど適した人はない筈です。それとも除村を怖れて辞退なさるのですか」

「井関、みぐるしいぞ」右京亮が叫んだ、「――余が申しつけるのだ、まいれ」

藤也は平伏した。代二郎は佐藤喜十郎を見て、それから静かに座を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>った。

井関藤也は臆していた。右京亮もそんなに激怒していなかったら、彼を検視役には出さなかったかもしれない。「除村を怖れてか、――」という代二郎の言葉は、右京亮の怒りを煽ったうえに、もっと強く藤也の拒絶を抑えたようであった。佐藤喜十郎もおちつかないようすだった、彼は徒士組総支配だから登城していただけで、この騒ぎには巻きこまれたくなかったし、もとよりそんな役は引受けたくなかった。

――これはただでは済まないぞ。

彼はそう思った。除村がおとなしく腹を切るとは考えられない、集まっている者たちが切らせもしないだろう。反抗された場合にどうするか、その点が心配でおちつかないようにみえた。

「警護の者を伴れていってはどうでしょうか」

長廊下をさがる途中で、佐藤喜十郎がそう云った。藤也はすぐに賛成しかけたが、代二郎はあたまからはねつけた。

「気の立った者が集まっているところへ、警護の人数など伴れてゆけば衝突が起こるに定っている、とんでもないことです」

代二郎はかれらに供を伴れることも許さず、「上使」の作法どおり、大目付の者五人の供立てで除村家へ向った。

除村の家は馬場下の角地にあった。辻町の通りを大馬場につき当った右の角で、こちらに倉沢重太夫という<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>奉行の屋敷があり、片方は<ruby><rb>小者</rb><rt>こもの</rt></ruby>長屋になっていた。倉沢家は門を閉めていたし、小者長屋もひっそりと鎮まって、道にも人の姿は見えなかった。……除村では門をいっぱいに開き、青竹のそいだもので矢来を結いまわして、門内には水を張った<ruby><rb>手桶</rb><rt>ておけ</rt></ruby>が、幾十となく並べてあり、また夜戦に備えるためだろう、ところどころに<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を組んで立ててあるのが見えた。

大目付の者は門からずっと離れた<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に待たせ、かれらは三人だけで屋敷の中へ入っていった。玄関の前に七八人、小具足を着けた若侍たちがいて、三人を見ると（刀をひきそばめながら）前へ立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がった。

「乱暴してはいけない、――私は右京亮さまから<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わされた上使だ」代二郎が云った、「――どうか除村にそう取次いでくれ」

そのとき玄関へ板土友次郎があらわれた。彼も<ruby><rb>桶皮胴</rb><rt>おけがわどう</rt></ruby>を着け、<ruby><rb>足拵</rb><rt>あしごしら</rt></ruby>えをしていた。代二郎を見てとび出そうとし、佐藤と井関がいるので、式台のところで踏み<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まった。

「いま上使と云われたのは貴方ですか」

板土がそう云った。代二郎がそうだと答えると、彼は<ruby><rb>嚇</rb><rt>かっ</rt></ruby>となって、ちょっと<ruby><rb>吃</rb><rt>ども</rt></ruby>りながら叫んだ。

「本当に貴方が、脇屋さんがですか」

代二郎は答えなかった。

「貴方は除村先生の立場を知っている」と板土友次郎が叫んだ、「われわれは貴方が、事を共にするために<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ来るものと信じていました、それを貴方は、上使として来られたというのですか」

「そのとおりだ」と代二郎が云った、「――どうか除村にそう取次いでくれ」

「まっぴらです」と友次郎がどなった、「私にはそんな取次ぎはできない、帰って下さい」

板土の声を聞きつけたのだろう、やはり武装した若侍たちが三人、どかどかとそこへ走り出て来た。その中に久保貞造がいて、なお板土のどなるのを聞きながら、烈しい敵意の眼でこちらを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけ、ついで井関藤也をそれと認めたのだろう、手をあげて「うしろを固めろ」と叫んだ。もちろん小具足を着けた七八人のなかまに云ったもので、かれらはすばやく代二郎たち三人の退路を塞いだ。すると久保貞造が、奥へ向って絶叫した。

「獲物がかかったぞ、出て来い、井関藤也だ」

井関は見えるほど震えだし、蒼白く硬ばった顔で、代二郎を横眼に見ながら、刀の柄に手をかけようとした。代二郎がそれと気づいて、その手を押えたとき、奥から五人ばかりの者がとびだして来た。先頭に丸茂源吾、ほかにも代二郎の知っている者が二人、みんな「練志館」の門人で、そしてあとから久良馬も来た。……除村久良馬は黒の紋服に仙台平の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはき、下は白で、<ruby><rb>鎖帷子</rb><rt>くさりかたびら</rt></ruby>を着けているのが見えた。彼は左手に刀をさげ、白足袋の足どりも鮮やかに前に出て来て、正面から井関藤也を見おろした。

「右京亮さまの上使として来た」と代二郎が云った、「――この二人は私から願った検視役だ、とおしてもらいたい」

久良馬の眼は井関から動かなかった。

「斬らないんですか」と貞造がどなった、「私がやりましょうか、先生」

その声でさっとみんなが殺気立った。電光のはしるように、三人を取巻いた全部の者が殺気立つのが感じられた。

「そうはしない筈だ」と代二郎が云った、「除村はそうはしない筈だ、除村は一藩の急を救うために小森鋎蔵を斬った、他の二人は討ち損じたが、小森を仕止めたことで<ruby><rb>奸悪</rb><rt>かんあく</rt></ruby>の所在をはっきりさせ、全藩に侍の本分と決意のほどを示した、除村は目的を達したのだ、城下に乱を起こし、多くの人を謀反の罪に巻きこむようなことはしないはずだ、断じて除村はそんな暴挙はしないはずだ」

久良馬が初めて代二郎を見た。それまでじっと（またたくことの少ない眼で）井関をにらんでいて、<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えあがった井関が全身で震えているのを慥かめて、その眼をようやく代二郎に向けた。代二郎もその眼を静かに見返した。

「それで」と久良馬が云った、「――おれにどうしろというのだ」

「まずこの人たちを解散させてくれ」

「われわれは御免です」と丸茂源吾が云った、「われわれは生死ともに先生といっしょです」

すると全部の者が口ぐちにどなりだした。久良馬は<ruby><rb>大喝</rb><rt>だいかつ</rt></ruby>した、少ししゃがれた、よく徹る声で、玄関の天床がびんと反響した。

「脇屋の言葉はもっともだ、おれの目的は十分に達した」と久良馬は云った、「――二人を討ちもらしたうえに、討手を向けられると思ったからひと当てやるつもりだった、しかし脇屋が上使として来た以上もうすることはない、みんなその男を見ろ」久良馬は井関を指さした、「息もつけないほど怯えあがって、がたがた震えているその男を見ろ、そいつはもう死んだも同然だ、われわれが手を出すまでもない、そいつも落合もやがて自分で逃げだすだろう、おれの目的はもう達した、みんなこのまま引取ってくれ」

## 六

集まっていた者たちは解散した。

久良馬の翻意が動かないのと、久良馬が処罰でなく切腹だと聞いたからである。かれらの多くは泣きながら、竹矢来を除き、水手桶や夜戦の支度を片づけた。家の中も、あげてあった畳を直し、障子や<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を立て、土足で汚したところをすっかり拭き清めた。丸茂源吾が代表で、切腹に立会いたいと申出たが、これは代二郎が拒絶した。

「それより丸茂に頼みがある」と代二郎は源吾に云った、「除村が切腹すればこの家は没収されるから、妻女と市松どのを私の家へお伴れ申してくれ、それから久保と板土は残って、遺骸の始末をてつだってもらおう」

その他の者はすぐ解散するようにと、代二郎は隙を与えない口ぶりで云った。

丸茂、板土、久保の三人が残り、十帖の客間に切腹の支度をした。畳一帖を裏返して、晒し木綿を張り、それを部屋の上段に据えた。久良馬はそのあいだに奥へ入って白装束に着替え、髪を水で結い直して戻った。……代二郎たち三人は、隣りの六帖に坐って見ていた。久良馬が置き畳の上に直ると、妻の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>が短刀をのせた<ruby><rb>三方</rb><rt>さんぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて来た。そのあとから三歳になる市松が（召使たちがみんな立退いたからだろう）吃驚したような顔でついて来、母親といっしょに、久良馬の前へちょこんと坐った。

母子は簡単な別れの言葉を述べて、すぐに奥へ去った。代二郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>が男まさりで、気の勝った性分だということをよく知っている。また今日は親子もろとも死ぬ覚悟で、もう<ruby><rb>水盃</rb><rt>みずさかずき</rt></ruby>なども済ましていたのかもしれないが、それにしてもその別れようはあまりにみれんげがなく、あまりに凛として非情にさえみえた。代二郎は丸茂にめくばせをした。源吾は頷いて、母子のあとを追ってゆき、板土と久保がこちらの六帖へ来て坐った。

代二郎はまだ黙っていた。奥のほうで人の出てゆく物音がし、それが聞えなくなると、家の中は急にひっそりと鎮まった。そのとき、井関藤也がまた震えだした。急にひろがった沈黙のなかに、再び危険を感じたのであろう、代二郎には彼の震えだすのがはっきりわかった。

「脇屋――」と久良馬が云った。

代二郎は頷いて立ち、久良馬の脇へいって坐った。そうして、久良馬が短刀を抜くと、静かに振向いて云った。

「井関どの、みとどけられたか」

藤也は眼をあげた。佐藤喜十郎もそちらを見たが、藤也は短刀のぎらぎらする光りと、<ruby><rb>衿</rb><rt>えり</rt></ruby>をくつろげる久良馬の姿を見て、ひとたまりもなくその眼を伏せた。

「慥かにみとどけましたな」と代二郎が云った、「――では御帰城のうえ、御前へその旨を申上げて下さい、私は除村の友人として、遺骸の処置をして帰ります」

佐藤喜十郎がなにか云おうとした。けれども代二郎は気もつかぬようすで、久保貞造と板土友次郎に云った。

「御検視が帰られる、お見送り申せ」

井関藤也はすぐに立った。喜十郎はちょっと<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>するふうだったが、井関が立ってゆくので、これもあとから座を立った。

<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れてきた部屋の中に、久良馬の取り直す短刀が、きらりと冷たく光って見えた。

代二郎はそれから一刻ちかくもおくれて城へ帰った。右京亮はすぐに、黒書院へ彼を呼びつけた。さきに帰った二人のどちらが報告したか、切腹の現場を見せなかったというので、右京亮はすっかり怒っていた。……代二郎は平然と聞いていた、そのとき黒書院には染谷靱負と岡安益左衛門の二老職に、小姓と近習番とで五人。井関も落合の姿も見えなかった。

「申せ、代二郎」と右京亮が叫んだ、「検視役に見せずして、久良馬の切腹を誰が慥かめた、切腹の現場を見せずしてなんの検視役だ」

「おそれながら」と代二郎が答えた、「除村久良馬の切腹は、御上使として私がしかと慥かめました」

「証拠はそれだけか」

「彼はみごとに致しましたし、遺骸は玉林寺に葬りました、私は御上使として、この眼で慥かにその始終をみとどけてまいりました」

「もういちど<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねる、検視役に見せなかったのはどういうわけだ」

「彼を武士らしく死なせるためです」と代二郎は云った、「――申すまでもなく、検視役が立会うのは罪死のばあいです。彼は罪人ではございません、藩家の危急を救うためにその身も家も捨て、妻子と絶縁してその本分を尽しました、重ねて申上げますが彼は罪人ではございません、私は彼を武士らしく、心しずかに死なせてやりたかったのです」

「その言葉を余に信じろというのか」

「検視役の御両名も証人の筈です」と代二郎が云った、「――万一にも御疑念があってはと存じて、私は自分から検視役をお願い申しました、御両名はその場を見、彼が切腹の座につき、衿をくつろげ、短刀を取るまでみとどけられたのです、もしそこに<ruby><rb>些</rb><rt>いささ</rt></ruby>かでも<ruby><rb>胡乱</rb><rt>うろん</rt></ruby>があれば、検視役たる御両名が帰られる筈はありません」

代二郎はこう云い切って、相変らず平然と面をあげていた。右京亮の拳は（脇息の上で）わなわなと震えていた。彼は刺すような眼で代二郎を睨みながら、<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>の言葉に詰ったようであった。代二郎は静かに低頭し、ずっとさがってから染谷と岡安の二人を見た。

「御老職おふた方に一言申上げます」と云った、「――除村久良馬は存念を残しております、藩家の危急が打開され、万事安泰となるまでは死にきれますまい、また、われら家臣一統も彼の存念の残るところを忘れは致しません、そのことをよくよくお含み下さるよう、お願い申しておきます」

そして右京亮に向って平伏した。右京亮は憤然と立ち、黙ってさっさと奥へ去った。二人の小姓が（一人は刀を取って捧げながら）そのあとを追った。

## 七

久良馬の初七日に当る夜、玉林寺でひそかに法事が行われた。まだ世間を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るので、参会したのは遺族母子と代二郎夫妻、その他には一人も呼ばなかった。玉林寺では（亡父と親しかった）浣石和尚が健在であった。和尚は右京亮の不興を承知の上で、久良馬の遺骸を引受けてくれたし、その夜の法事にも脇僧五人のさきに立って、自ら供養の導師を勤めてくれた。

<ruby><rb>読経</rb><rt>どきょう</rt></ruby>が終り、焼香が済んだとき、市松はもう母の膝で居眠りを始めた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>はその子の肩を袖で包みながら、初めて代二郎に話しかけた。七日まえに脇屋家へ来てから、口をきくのはそれが初めてであった。僧たちはすでに去ったが、本堂の<ruby><rb>須弥壇</rb><rt>しゅみだん</rt></ruby>には灯が明るく、大きな香炉からは、香の煙がまだ濃くたちのぼっていた。

「わたくし残念です」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>は云った、「――あなたのなされかたは道理にかなっているかもしれません、けれどわたくしは、除村を男らしく死なせてやりとうございました」

「男らしくですって」

「除村は思い切ったのです」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>は云った、「――侍の義理も名も捨て、妻子もろとも斬り死にをしよう、そう思い切ったのです、男がそこまで思い切ったものを、どうして望みどおりに死なせてやって下さらなかったのですか」

「なるほど、その意味ですか」

代二郎はちょっと当惑した。いかにも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>らしいが、そういう苦情をそんなにはっきり、しかも面と向って云われようとは思いがけなかった。

「しかし私はこう思うのです」代二郎は云った、「――彼が小森を斬ったのはどこまでも藩の安泰を守るためで、決して破壊するのが目的ではなかったでしょう、彼が小森を斬ってくれた、その決断があったからこそ、私があと始末を買って出たのだし、その始末もうまくいったので、これはみな彼の男らしい決断のたまものだと思いますがね」

「それはあなたのお道理です、わたくしは道理を申してはおりません」

そのとき向うの暗がりで声がした。

「そうだ、おまえの云うとおりだ」

三人は声のしたほうへ振向いた。すると、光りの中へ一人の僧が現われ、苦笑しながらこっちへ来た。それは頭をまるめ法衣を着た、<ruby><rb>僧形</rb><rt>そうぎょう</rt></ruby>の除村久良馬であった。

「まあ」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>が叫んだ、「あなた――」

彼女は殆んどとびあがって、抱いている市松を危うく落しそうになった。

「おまえの云うとおり、脇屋は文弱だからおれたち夫婦の気持などはわかりゃしない」久良馬は近づいて来ながら云った、「――これを見てくれ、彼は斬り死にをさせなかったばかりでなく、おれをこんな姿に化けさせてしまったぞ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>は茫然として、口をあけ、肩で息をしながら、またたきもせずに<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>をみつめていた。久良馬はそこへ坐り、これも吃驚してなにも云えない桃世に向って、さも軽蔑に耐えないというように、法衣の袖を摘んでみせた。

「もっと云ってやれ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>」と久良馬は続けた、「――脇屋は文弱なだけではない、むしろ悪知恵に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けたやつだ、悪知恵に長けたうえに、あのどたんばでこんな策略をして、平気でいるという不敵なやつだ、おれが許すから云いたいだけのことを云ってやれ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>は代二郎を見た。顔が歪み、眼から涙がこぼれ落ちた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>は涙のこぼれるままの眼で、くいいるように代二郎をみつめ、それから眠っている子の上に頭を垂れた。

「堪忍して下さい、脇屋さま、――」

しかしあとは<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>のため、言葉にならなかった。

「私は除村を死なせたくなかった」と代二郎が云った、「――小森のような人間と、命の引換えをさせたくなかったのです、右京亮さまもめがさめればわかって下さるでしょう、除村には出家してもらいましたが、時が来れば必ず家名の立つようにします、よけいなことをしたかもしれませんが、その時の来るまで辛抱して下さい」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いつき</span>は嗚咽に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られて、答えることができなかった。しかし彼女はその全身で、感謝の情を表白していた。代二郎は桃世にめくばせをし、帰る支度をしながら久良馬を見た。

「今夜はお二人を此処へ泊める」と代二郎は彼に囁いた、「――<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>へはそう云ってあるからね、私たちはこれで帰らせてもらうよ」

久良馬はむっとした顔で頷き、「桃世」と妹に呼びかけた。桃世は包み物をしていたが、その手を止めて兄を見た。

「脇屋に嫌われるな」と久良馬は云った。

桃世は黙って低頭した。眉を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>り<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に結った顔が、そのときぽっと赤くなった。

「姿だけは妻らしいがね」と代二郎が微笑しながら云った、「――実を云うと祝言は今夜なんだ」

久良馬はけげんそうな眼をし、そして口ごもった。

「するとつまり、二人は今夜が」

「そうなんだ」と代二郎が云った、「――こちらは<ruby><rb>名残</rb><rt>なご</rt></ruby>りの夜で、われわれは……というわけだ、ではこれで帰るよ」