## 一

紺野かず子さま。

この手記はあなたに読んでもらうために書きます。こういう騒がしい時勢であり、私は追われる身の一所不住というありさまですから、あるいはお手に届かないかもしれません。また、終りまで書くことができるかどうかもわかりませんが、もしお<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>に届いたばあいには、どうか平静な気持で読んで下さるよう、はじめにお願いしておきます。

いま私のいるところは、城下町から一里ほどはなれた山の中で、かなり近く宇多川の流れを見ることができます。西山での不幸な出来事、あの取返しようのない出来事があってから約十日、私はつぎつぎと隠れがを求めてさまよい歩き、三日まえからこの家の世話になっていますが、おそらく、またすぐに出てゆかなければならなくなるでしょう。いどころも、人の名もそのままは書きません。どういうことで迷惑をかけるかもしれないからです。しかしあなたにはおよそ推察ができるように<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>すつもりです。

季候はすっかり夏めいてきました。今朝はやく歩きに出たら、山の林の中で<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>が赤くふくらんでいるのをみつけ、胸の奥がせつなく、熱くなるように感じながら、暫く立停って眺めていました。聴力を失ってから、考えることが心の内部へ向くようになっていたためでしょうか、子供っぽい云いかたかもしれないが、赤くふくらんだ石楠花の蕾を見たとき、しんじつ胸の奥に火でも燃えだすような感じがしたのです。――ちょうど五年まえ、上町にあるあなたのお屋敷の裏を、私は杉永幹三郎と話しながら歩いていました。ご存じのように、私とは少年時代からの親友で、ものごころのつくじぶんから、片時もはなれたことがないといってもいいでしょう。年は同じで、生れ月は彼のほうが半年ほど早かったが、彼は私を兄のように扱ってくれました。二人だけのときはもちろん、他人のいるところでも。そして、それを言葉にも態度にもはっきりあらわすのです。思い返してみると、育英館の塾で三年いっしょでしたが、そのころから始まったようで、たぶん彼の人柄のためでしょう、いかにもしぜんなものですから、私のほうでも知らぬまにそれを受入れる習慣が付いてしまったようです。<ruby><rb>癸亥</rb><rt>みずのとい</rt></ruby>の年の密勅の件からはじまったこんどの事でも、杉永がつねに私の意見を支持したため、われわれ同志の者の行動はよく一致し、離反者などは一人も出さずに済みました。これは彼の人に愛される性格と、すぐれた統率力によるものと云うほかはありません。――上町のお屋敷の裏を歩いていたとき、私と彼は十九歳になっていました。私たちは法隆<ruby><rb>和尚</rb><rt>おしょう</rt></ruby>のことを話しながら歩いていたのです。ご存じのように和尚は、<ruby><rb>井桁</rb><rt>いげた</rt></ruby>、<ruby><rb>西郡</rb><rt>にしごり</rt></ruby>ら重職の懇請によって招かれた藩の賓客であり、経典はもとより儒学、政治、経済にも<ruby><rb>精</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく、なかなか非凡な人物なのですが、時勢に対する見識には<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>のいかないところがあるのです。一例だけあげますと、そしてこの問題こそ重要なのですが、さきごろ一派の若侍たちが<ruby><rb>攘夷</rb><rt>じょうい</rt></ruby>論を誤って解釈し、横浜港にある外人商館を襲撃しようとはかりました。幸い事前に発覚したので無事におさまったが、そのとき和尚はかれらを<ruby><rb>煽動</rb><rt>せんどう</rt></ruby>し、「<ruby><rb>斬夷</rb><rt>ざんい</rt></ruby>」の趣意を書いて与えたのです。この事情についてはあとで記すつもりですが、私は杉永に向って、法隆和尚を藩から遠ざけるがよい、ということを話していました。

二人はどこを歩いているかも忘れていたのですが、紺野家の裏へ来たとき、杉永がふと立停ってあなたに呼びかけたのです。そこは朝顔の絡まった四つ目<ruby><rb>垣</rb><rt>がき</rt></ruby>で、その垣の向うにあなたが立っていた。白地になにかの花を染めた<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>と、朱と青の縞のある帯をしめ、素足に草履をはいて、洗ったばかりの髪を背に垂れておられた。すぐ脇に石楠花の若木があり、ちょうど咲きはじめたところだったが、私はその花を見るようによそおいながら、杉永と話しているあなたの姿をぬすみ見て、云いようもなく深い心のときめきを感じました。――あなたは十四歳で、背丈こそ高いほうだが、まだほんの少女にすぎないということは、杉永と話している言葉つきにも、身振りや表情にもよくあらわれていました。色のくろい子だな、と私は思いました。あなたが笑うとき、鼻筋に<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>をよせるのを認めて、<ruby><rb>狆</rb><rt>ちん</rt></ruby>のような顔だなと思い、いまにのっぽな娘になるぞ、などとも思いました。もちろんこれは、生れて初めて感じた心のときめきに反抗するためだったでしょう。そんなふうにあなたの欠点を拾いながら、一方ではまた、この人のことは一生忘れられなくなるぞ、とも思っていたものです。

あなたに別れて歩きだすと、私が黙っていたことを不審そうに、どうして知らぬ顔をしていたのか、と<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きました。

「知らないからさ」と私は答えました。

「紺野の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かず</span>子だよ」と彼が云いました、「おれの家で二度か三度会っているだろう」

「覚えがないな」と私は首を振りました。

本当に記憶がなかったのです。

それから五年めの秋、明神の滝でおめにかかるまで、私はいつかあなたのことを忘れていました。変動の激しい、緊迫した時勢の中で、心のゆとりを失っていたためもあるが、うちあけて云えば、杉永とあなたのあいだに婚約がある、と聞いたからでしょう。明神の滝でおめにかかったときも、私の心は少しも騒がず、自分の耳がだめになったことなど、おちついて話すことができました。

それがいまはこんなに変ってしまった。私は今朝、歩きに出た山の林の中で、咲きかかっている石楠花の蕾を眺めながら、六年まえのあなたの姿をまざまざと思いだしたのです。滝で会ったあなたではなく、六年まえの、まだほんの少女だったあなたの姿をです。そうして、心の奥にひそんでいた胸のときめきが、燃える痛みのようによみがえるのを感じ、しかしなにもかも取返しがたく失われた、ということを改めて思い知ったのです。

私は杉永幹三郎を斬りました。たった一人の友、少年時代から誰よりも親しく、血のかよった兄弟よりも深く信じあっていた友を、この手にかけて斬ったのです。私がこの手記を書くのは、どうしてそんなことになったか、という理由を知ってもらいたいためです。ここには<ruby><rb>些</rb><rt>いささ</rt></ruby>かの弁解も<ruby><rb>歪曲</rb><rt>わいきょく</rt></ruby>もありません、現実にあったことをあったままに書きますから、どうかそのおつもりで読んで下さい。

## 二

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>」と治兵衛が<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた、「ちょっと起きろ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>」

揺り起こされてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は眼をさました。いつもついている行燈が消えて、家の中はまっ暗であり、枕許にいるらしい父の姿も見えなかった。

「声を立てるな」と治兵衛が云った。

「どうしたの」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は囁き返した、「どうかしたの、お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>っさま」

「外に人がいるようだ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は急に眼がさめ、<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>の帯をしめ直そうとしたが、手がふるえて思うようにゆかなかった。

「本当に誰か来たの」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>が訊いた、「谷川さまを捜しに来たのかしら」

「わからない」と治兵衛が答えた、「だがこんなよるの夜中に来るとすれば、ほかに考えようはないだろう」

「どうしたらいいの」

「おちつけ」と治兵衛が云った、「着替える暇はないかもしれない、そのままで<ruby><rb>釜戸</rb><rt>かまど</rt></ruby>の蔭に隠れていろ、もし人が来たらおれが応対をするから、隙をみて隠居所へ知らせにゆくんだ、わかったか」

「それからどうするの」

「こっちを押えているあいだに、谷川さまを案内して逃げるんだ、忘れたのか」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>が答えようとすると、治兵衛の手がさぐるように肩を押えた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は黙り、戸の外で人の声がするのを聞いた。

「おちつけよ」と治兵衛が囁いた、「釜戸の蔭で待つんだぞ、慌てるな」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は息が詰りそうになった。

「ちょっと起きてくれ」と、表の戸の外で男が云った、「坂下の茂七だ、人しらべに城下からお役人がみえている、ここをあけてくれ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は釜戸の蔭へ身をひそめてから、父がなぜそこに隠れろと云ったか、という理由に気がついた。戸外の人は表だけでなく、裏のほうにもいるらしい。裏の洗い場のところで物の倒れる音がし、「しっ」と制止する声が聞えたのである。――治兵衛は行燈に火を入れてから、土間へおりて<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸をあけた。すると<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持った茂七を先に、侍が一人はいって来た。茂七は、この村の名代名主であるが、家の中をひとわたり見まわしてから、土間をぬけて裏戸をあけ、提灯を振ってなにか云ったが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>にはよく聞きとれなかった。

「変った事はない」と外で答える声がした、「出て来た者もない」

そしてすぐに、茂七のあとから若い娘と、下僕とみえる男がはいって来た。裏戸はあけたままであった。

「どうしたことです名主さん」と治兵衛が云った、「なんのおしらべです、盗賊でも逃げこんだのですか」

「かみさんや娘がいないようだな」と茂七が訊いた、「二人はどこにいるのかい」

「女房はさとへゆきました、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>もいっしょですが、あいつらを<ruby><rb>御詮議</rb><rt>ごせんぎ</rt></ruby>ですか」

「捜しているのは侍だ」と茂七のうしろにいた若侍が初めて云った、「谷川<ruby><rb>主計</rb><rt>かずえ</rt></ruby>という者だが、知っているだろうな」

「大手先の谷川さまなら知っております」治兵衛はおちついて答えた、「私が若いじぶん下男奉公にあがっていましたから」

「その谷川がいる筈だ」と若侍が云った、「訴人する者があったし証拠も<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かめて来た、隠さずに云え、谷川はどこにいる」

「治兵衛さん」と茂七が云った、「へたに隠しだてをしないほうがいいよ、おまえの家の裏に北寄貝の殻がたくさん捨ててあるし、毎日米のめしを炊くこともわかっている、そんな<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>をするおまえさんじゃあない、誰かよっぽどの人が来ているに相違ないんだ」

「ええ客はありました」と治兵衛が答えた、「女房のおふくろさんが十日ばかりまえに来て、今日帰ってゆきました、女房とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>はそれを送って<ruby><rb>姥沢</rb><rt>うばざわ</rt></ruby>までいったのです」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>はそこまで聞いて、裏の戸口からぬけ出した。

かれらは治兵衛の前に集まり、提灯をつきつけて、問答が激しく、互いに声も高くなっていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は釜戸の蔭から、土間を<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>って戸口までゆき、外へ出てから立ちあがった。家の中で父が「家捜しをして下さい」と云うのが聞え、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は闇の中を走りだした。洗い場の池をまわって、柿畑の脇から、いまは使っていない<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>のうしろへ出、一段ほど高い台地を登って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこい</span>小屋の戸口へ近よった。春から秋までは蚕を<ruby><rb>養</rb><rt>か</rt></ruby>い、そのあとは甘露柿をかこうのに使うのだが、今年は蚕をやらないので<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>いていた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は潜り戸をあけてはいると、泥足のまま階段を登った。

谷川主計は眠っていた。暗くしてある行燈の光りが、蚊屋の中にある小机と、薄い夜具を掛けて<ruby><rb>仰臥</rb><rt>ぎょうが</rt></ruby>している彼の寝姿を、ぼんやりとうつし出していた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は蚊屋をくぐり、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>ですり寄って彼を揺り起こした。主計はすぐに眼をさまし、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>を見て起きあがった。

「お侍が来ました、逃げて下さい」

そう云ってから、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は急に口を手で<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎ、ゆっくりした身振りで、その意味を伝えた。その動作を二度やってみせると、「わかった」と云いながら立ちあがった。

「来たのは大勢か」

「いいえ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は首を振り、二本指を出してから、ちょっと考えて自分を指さした。娘が一人と云うつもりだったが、主計にはわからない。彼は手早く着替えながら、不審そうな眼をした、「おまえがどうした」

「いいえ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は手を振り、こんどは指を三本立ててみせた。

「三人か」と主計が訊いた。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。主計は<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をはきながら、机の上の物をまとめてくれと云った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は云われたとおりにし、書き物や、筆などを片づけて包み、脇にあった<ruby><rb>旅嚢</rb><rt>りょのう</rt></ruby>へ入れた。そして、主計が刀を取るのを見て蚊屋を出、階段をおりて、そっと戸外のようすをうかがった。虫の音が聞えるだけで、風のない夏の夜気は、露を含んでひっそりと重たげに眠っていた。

――はだしでは山道は歩けない。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>はそう気がつき、暗い土間をさぐって草履をみつけた。主計の<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>は板壁の<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>に掛けてある。二階で行燈が消え、主計がおりて来た。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>が草鞋をはかせようとしたが、彼は自分で取ってすばやく結いつけた。

「外は大丈夫か」

「大丈夫です」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は主計の手を取り、自分の顔へ当てて頷くのを触らせた、「いそぎましょう、あたしがご案内します」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は手を引くことでその意味を知らせた。主計は旅嚢を背に結びつけて立ち、戸口から外へ出た。すると急に左と右に提灯があらわれた。かれらはうまくやったのだ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこい</span>小屋のことは茂七が知っていたであろう、しかしそこへ踏み込むより、外へおびきだすほうが安全だ。かれらは治兵衛が知らせに来るのを待っていたのだろうか、それともお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>がぬけ出したのを知っていたのかもしれない。

――突然くら闇の中からあらわれた提灯を見て、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は悲鳴をあげ、主計は一歩うしろへさがった。左には茂七と若侍、右にはあの娘と下僕らしい男がいた。提灯は茂七と下僕が持っていた。

「<ruby><rb>吉川</rb><rt>きっかわ</rt></ruby>だな」主計は若侍を見て云い、娘を見て<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したように云った、――「紺野、かず子さん」

吉川と呼ばれた侍は、ふところから折りたたんだ紙を出し、それをひろげて、提灯の光りにかざしてみせた。<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>紙を二枚<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>り合せたものに、大きな字でなにか書いてあり、吉川はそこからこれを読め、という手まねをした。主計は娘のほうを見、それから二歩ばかり進んで、紙に書いてある文字を読んだ。

――そのもとは杉永幹三郎を闇討ちにした。紺野かず子どのは祝言こそあげていないが、杉永とかねてから婚約の仲であり、そのもとを<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>として討つ覚悟でおられる。自分は紺野どのの<ruby><rb>介添</rb><rt>かいぞえ</rt></ruby>として来たが、ばあいによっては<ruby><rb>助太刀</rb><rt>すけだち</rt></ruby>をすると思ってもらいたい、吉川十兵衛。

およそこういう意味の文言であった。読み終った主計は振返って紺野かず子を見た。かず子は<ruby><rb>塵除</rb><rt>ちりよ</rt></ruby>けの被布をぬいで下僕に渡した。下は<ruby><rb>白装束</rb><rt>しろしょうぞく</rt></ruby>で、<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby>、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>、草鞋をはき、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>を掛けていた。

「待って下さい、紺野さん」と主計は呼びかけた、「これは間違いだ、杉永を斬ったのは事実だがそれには<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>がある、私はいま」

かず子は<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>ごとかいこんでいた脇差を、ゆっくりと抜いた。提灯の火をうけてその刀身が冷たい光りを放ち、かず子は鞘を下僕に渡した。

「私はいまその仔細を書いている」と主計は続けていた、「書きあげたらあなたに読んでもらいましょう、そのうえでなお私をかたきと思うならいさぎよく討たれます」

「吉川」と主計はこちらへ振向いた、「杉永とおれのことはおまえもよく知っている筈だ、なにか事情があるくらいのことは想像がつくだろう」

「谷川さんは耳が聞えないから、なにを云ってもむだだろうが」と吉川が云った、「<ruby><rb>家中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>の情勢がこう<ruby><rb>混沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby>としていては、釈明も弁解も役には立ちません、事実あったことで是非の判断をするほかはないでしょう、残念だが死んだ杉永さんのためにも、私は紺野さんに助勢をする、さあ、抜いて下さい」

そう云って吉川も刀を抜いた。

「だめか、私の云うことは、聞けないのか」主計は吉川を見、かず子を見た、「どうしてもだめなのか、どうしても」

紺野かず子が前へ出た。

「お父っさん」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>が絶叫した。

「動くな」と吉川がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>に刀を向けた。

そのとき主計が吉川へ抜き打ちをかけた。かず子が踏みこんで来、吉川は大きくうしろへとびしさった。主計は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこい</span>小屋の戸口へ引くとみえたが、そのまま板壁を背中で<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>るようにして、小屋のうしろへ廻りこんだ。

「こっちは引受けた」と吉川が喚いた、「そっちを塞げ、紺野さん」

喚きながら、吉川は小屋の反対側へまわり、かず子は主計のあとを追った。茂七と下僕も、提灯をかざして走ってゆき、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は家のほうへではなく、小屋の背後にある丘の松林の中へ駆け登っていった。

## 三

紺野かず子さま。

あの夜からちょうど十二日経ち、どうやら気持もしずまってきました。あの夜のことはまったく思いがけなかったし、心外で、くちおしくてならなかった。吉川十兵衛は杉永や私たちの同志です、あなたが誤解されるのはやむを得ないとしても、彼が事情を察しようとしないのはなさけなかった。あのとき私は、いっそ十兵衛も、斬ってくれようか、とさえ思ったくらいです。しかしいまはそうは思いません、私はここへおちつくまでに、いろいろな世評を聞きました。私があなたにおもいをかけていて、恋の恨みで杉永を闇討ちにした、というのです。ばかげた<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>だが、情痴の話となると人は信じやすい。おそらく、あなたも十兵衛もその噂を信じ、そのため私を杉永の仇と思いこんだのであろう、だとすれば、あなたや十兵衛を責めるわけにはいかない。そう考えてから、ようやく私は気持がおちつきました。

私はいま山の中にいます。治兵衛の娘のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>が付いていて、身のまわりの世話をしてくれますから、べつに不自由なことはありません。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>には家へ帰れと云うのですが、どうしてもはなれようとはしません。うちへ帰ってもお父っさんが、どうなっているかわからない、と云うのです。私にもそれがなにより気懸りです、治兵衛は昔の恩義のために私を<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>ってくれただけで、彼には些かも<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>められる筋はない。もしも治兵衛や妻子が罰せられたりするようなら、あなたからとりなしていただきたい、あなたならそうして下さると思うので、折入って私からお願いしておきます。

手記を続けるに当って、密勅をめぐる家中の論争は省略します。そこにこんどの出来事の原因があるのですが、要約すれば勤王か佐幕かということで、あらましのことはあなたにもわかっていると思うからです。

私と杉永とは初めから王政復古、開国の方向に動いていました。そうして吉川十兵衛、<ruby><rb>梓</rb><rt>あずさ</rt></ruby>久也、田上安之助らのほか、二十余人の同志を集め、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>と連絡をとって、全藩の意見を<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>めるために、手分けをして裏面工作をやっていたのです。――なぜ裏面工作をしなければならなかったかというと、仙台藩がつねに警戒の眼をそらさず、重職がたに絶えず圧力をかけていましたし、同時にまた、法隆和尚に煽動された佐幕派の者たちにも、よほど用心しなければならなかったからです。――こういう大事なときに、私は奇禍のため聴力を失い、同志の人たちから脱落してしまいました。たぶんご存じでしょう、一昨年の二月、<ruby><rb>磯部</rb><rt>いそべ</rt></ruby>の砂浜で大砲の試射をしました。それまで藩には張抜きの砲しかなかったのだが、<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>の某公から初めて鋳鉄の大砲を譲り受けた。これはわれわれ同志の奔走によるもので、譲り受けたことは極秘であり、試射もまた極秘に行われました。重職がたの一部は、もちろん承知だったが、これも直接にはかかわりを持たず、見て見ぬふりをしていたのですが、これも仙台藩の耳目をおそれたからで、わが藩がいかに左右の勢力の中でもがいていたかという、例証の一つだと思うのです。

その日、磯部へゆくまえに、私は杉永とこんな話をしました。

「どうしてあの人と祝言をしないんだ」と私が訊きました、「婚約してからもうあしかけ三年くらいになるじゃないか」

彼は口笛でも吹くように唇をまるくしました。なにか云いよどむときの、少年時代からの癖で、そうするとひどく子供っぽい顔になるのです。

「親たちにもそれを云われるんだが」と彼は答えました、「いまはそういう気持になれないんだ」

「なにか故障でもあるのか」

「故障というわけじゃない」こう云って暫く口をつぐみ、それから私の眼を避けるようにしながら続けました、「――こんな時代だし、結婚をいそいで、かず子に不幸な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>をみせたくないんだ」

私は黙って杉永を見返しました。

「このあいだから考えていたことなんだが」と彼はゆっくり云いました、「おれはいっそ京へのぼろうかと思う」

「京へいってなにをする」

「王政復古は開国を伴わなければならない、これはかねてから谷川が主張していたし、おれもそのとおりだと思う、だが現に尊王をとなえている者の大部分は、攘夷問題を親柱のように信じこんでいる」

下田条約がむすばれて以来、すでに欧米諸国の多くと通商関係をもつようになった。現実にはもう開国しているのだし、これは国家と国家との公約である。にもかかわらず、王政復古の中に攘夷論が強い軸となっていることは危険だ。井伊大老を斬り、安藤閣老を斬ったような暴力が、王政復古の勢いに乗って攘夷を実行するとすれば、国家の信義を失うばかりでなく、欧米諸国の同盟によって、日本ぜんたいの存亡にかかわるような、非常な事態を招くかもしれない。

もっとも重大なことは、朝廷において攘夷親征が議せられたという点で、それがもし事実だとすると容易ならぬことになる。

「おれは自分でその実否が慥かめたい」と杉永は云いました、「はいって来る情報はそのたびに変転し、どれが真実かどれが<ruby><rb>虚妄</rb><rt>きょもう</rt></ruby>か、だんだん区別がつかなくなるばかりだ、そうは思わないか」

「話をはじめに戻すが」と私は云いました、「杉永はひとり息子だ、もし上方へゆくとしたらなおさら、祝言を早くするほうがいいじゃないか、杉永にもしものことがあれば家名が絶えてしまうぞ」

「万一のことを思うから祝言をする気になれないんだ、おれは家名のためにかず子の一生を奪おうとは思わない」

「祝言をしろよ」と私は云いました、「上方へゆくことは賛成できない」

「どうしてだ」杉永は眼を細めました。

「攘夷論は民心を統一する手段の一つだ、これはまえにも繰り返し云ってある、攘夷という名目は、それに対立するこの国、日本と日本人ぜんたいの存在をはっきりさせる、これまでかつて持ったことのない、共通の国民意識というものがそこから初めて生れるだろうし、すでに生れていると云ってもいいだろう、したがって王政復古が実現すれば攘夷論は撤回されなければ、杉永の云うとおりこの国は亡びるかもしれない、そのくらいの見識を持たない人間はないと思う」

われわれにとって当面の問題は、藩論を王政復古へ纒めることだ。というようなことを話しあいました。話の内容はともかく、こんなに<ruby><rb>諄</rb><rt>くど</rt></ruby>く記したのは、それが杉永と話しあい、彼の声を聞いた最後だったからです。私たちはそれから磯部へでかけました。

## 四

その場所は磯部から北へ、十町ばかりいった砂丘の下で、集まった者は十一人。私と杉永、吉川、梓、田上らはご存じでしょう。他の六人の名はその必要もなし、まえに述べた理由から、ここでもやはり省略します。大砲は一貫目玉のモルチールというもので、急造の砲架の上に据えてありました。砲手は二人。一人が火薬を<ruby><rb>填</rb><rt>つ</rt></ruby>め、砲玉を入れ、他の一人が射手の位置につきました。

私たちは五間ばかりはなれたところに立ち、仕様書に注意してあるとおり、両手で耳を押える用意をして見ていました。私の右に梓久也、左に杉永、次に吉川がいたようです。少し風のある日で、長い<ruby><rb>汀</rb><rt>なぎさ</rt></ruby>には寄せ返す波が白く<ruby><rb>泡立</rb><rt>あわだ</rt></ruby>ち、はるかな沖に漁をする舟が幾つか見えていました。

「大丈夫かな」とうしろで誰かが云いました、「あの舟に当りゃあしないかな」

すると二人ばかり笑うのが聞えました。それはその冗談が<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しかったからではなく、あまりに緊張していたための反作用だということが、あからさまにわかる笑いかたでした。

射手は火繩を火口に移し、<ruby><rb>撃鉄</rb><rt>うちがね</rt></ruby>をおとしました。詳しい説明は書きません、モルチール砲はその二つの操作で発射するのです。私たちは両手で耳を押えました。――だが砲は発射しません、二人の砲手は<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>したようすで、火口や撃鉄をしらべていましたが、突然、なにか云いあったとみると、耳を塞ぎながらこちらへ逃げて来ました。

私は大砲の火口から煙が立っているのを見、こちらへ走って来る二人の、灰色にひきつった顔を見ました。失敗したのだ、このままでは砲身が破裂してしまう、と思いました。

――あの砲を失うことはできない。

そう思いながら、私はもう走りだしていたのです。それを手に入れるまでの苦心と、再び手に入れることの困難さとが私をそうさせたのでしょう。

「よせ、谷川」と杉永の叫ぶのが聞えました、「危ない、戻れ、戻れ」

私は火口の火を消すつもりだったのでしょう。はっきりそう思ったわけではない、ただもうその砲を失ってはならないという気持で、火口から立ちのぼる薄い煙をみつめながら、けんめいに走り、もう一と足というところで、砂に足を取られて倒れました。

そのとき砲身が破裂したのです。どこに手違いがあったか、大砲そのものが粉砕してしまったので、原因はわかりません。私は倒れると同時に、<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>ぜんたいを大きな板で殴られたように感じ、殆んど失神してしまいました。倒れなければ破片にやられて即死したことでしょう、幸い躯にけがはなかったが、両耳の聴力を失ってしまいました。

自分のことを語るのはいやなものです。けれども、杉永を斬るというあやまちをおかした理由は、この二年余日にわたる私の心の状態にあったので、どうしても知っておいてもらわなければならないのです。――夏の終りになって、耳がまったくだめだということがわかりました。それまでは一時的なものだと思い、医者にかかりながら、久しぶりに静養だ、などと<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>なことを云っていました。そのあいだにも、同志の会合があれば必ず出ていたのですが、話すことはできても耳がだめですから、議題はいちいち字に書いてもらわなければならない。それを読んでから自分の意見を述べるわけで、面倒でもあり時間もむだにするため、やがては、そのとき出た結論だけ読む、ということになったのです。

「そう長いことではないだろう」と私は云ったものです。「おれは暫くつんぼ桟敷にいるよ」

もちろん、そんな暢気なことを云っているばあいではなかった。密勅があって以来、<ruby><rb>禁裡</rb><rt>きんり</rt></ruby>付きの下房どのと、国許にあるわれら同志とのあいだで、絶えず情報の交換があり、それについての急を要する合議が繰り返されていたのです。奥羽連合の監視はますますきびしくなり、同志が集まるのにも、そのたびに場所や時刻を変えたり、三組に分れて集まり、あとで代表だけが結果を討議する、などということもありました。こういう大事なとき「つんぼ桟敷」にいなければならなかったのです。どんなに<ruby><rb>苛</rb><rt>いら</rt></ruby>だたしくやりきれない気持だったか、おそらく他人には推察もつかないでしょう。それでもまだ<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>する望みのあるうちはよかった。もう暫くの辛抱だと、自分をなだめすかしていたのですが、六月下旬になって、医者から不治だと宣告されたとき、私は気が狂うかと思うほどの絶望におそわれました。

七月いっぱい、私は家にこもったきりで、杉永が訪ねて来ても会わず、家族とも没交渉にすごしました。みれんがましいはなしですが、気持がややおちつくまでに、三十余日もかかったわけです。

「これで同志から脱落だ」と私は自分に云いました、「こうなってはなにもできない、いさぎよく脱退しよう」

私は杉永を訪ねて、同志から脱退すると告げました。みんなの足手まといになるばかりではなく、進退緩急の機をあやまって事のやぶれを招くおそれもある。残念だがこれで身をひくと云いました。杉永もがっかりしたようすで、暫くは<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたままでしたが、私の耳が不治だということはもう知っていたのでしょう、ひきとめるようなことは云わず、――今後も思案に窮したときはゆくから相談にのってもらいたい、と書いて示しました。

私は父を説きふせて、家督も弟の格二郎に譲り、長く空いていた隠居所へ移りました。父母にも、弟や妹にも顔を見られたくない。食事も召使にはこんでもらって、一人きりの生活を始めたのです。躯に故障はないのですから、早朝の<ruby><rb>沐浴</rb><rt>もくよく</rt></ruby>も欠かさず、朝と夕方の二回、くたくたになるまで組み<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の稽古もしました。あとは読書と習字で、よけいなことを考える暇のないよう、晴雨にかかわらずきちんと日課を守っていたのです。――冬になってからですが、私はうしろの物音を感じとることができるのに気がつきました。物音でなくとも、人の近よるけはいでも、ふしぎなほど敏感にわかるのです。人間が生れつき備えている自己保護の本能とでもいうのでしょうか、誇張して云うと、蝶が舞いよって来るのも感じとれるくらいでした。

「うしろに勘がはたらくというのはふしぎだ」と私は自分で苦笑しました、「どこかが不具になると、それを補うように、躯の機能が変るんだな」

躯そのものが不具者になる用意を始めた。苦笑するどころですか、私はそのときもいちど、医者から不治を宣告されたときよりも深く、激しい絶望に押しひしがれました。

杉永は十日に一度ぐらいのわりで訪ねて来、たいてい半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>か一刻、まどろっこしい筆談をいとわず話してゆきました。われわれ同志のあいだでは、ともかく私と杉永とが中心になっていたため、彼の責任はひじょうに重くなり、同志のあいだに起こる異論を纒めるだけでも、かなり苦心しているようにみえました。こうして年があけ、去年の秋になって、私は思いがけなくあなたに会ったのです。

## 五

紺野かず子さま。

私はいま山を歩いて来ました。ここへ移ってから初めての外出で、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>が心配し、ずっといっしょに付いていました。初めてこの手記を書きだしてから、かれこれもう三十日になるでしょうか、和田村にいたとき蕾のふくらみはじめた石楠花が、ここではもう咲きさかっていますし、林の中では早朝から<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>がやかましく鳴き交しています。むろん耳に聞えるのではありません、林に反響するのが後頭部に感じられるのです。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>」と私は振返って訊きました、「いま蝉が鳴いているだろう」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は微笑しながら頷き、手をあげてまわりの<ruby><rb>樹立</rb><rt>こだち</rt></ruby>をぐるっと指さしましたが、それからふと驚いたように、自分の耳を摘んで、聞えるのか、というしぐさをしました。

「いや」と私は首を振りました、「聞えるんじゃない、感じるだけだよ」

ここでね、と云って頭のうしろを叩いたのです。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>はいそいで顔をそむけ、前掛で眼を押えるのが見えました。

いまこの手記を書き続けながら、いつも石楠花が付いてまわることに気づいて、かなしいほどむなしい思いにとらわれました。年々咲く花は変らないが、――という古い詩の句などが頭にうかび、上町の屋敷の裏庭で、石楠花の下に立っておられたあなたの姿と、それから六年経ったいまの状態とを比べて、人のめぐりあわせの頼みがたさ、というおもいで、ただ<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をつくばかりです。

私が明神の滝へかよいだしたのは、去年の夏のはじめからのことでした。母がどこかで聞いて来て、霊験があるそうだからとすすめたのです。滝に打たれるなどということは、信仰心があってこそ効果も望めるでしょうが、私にはそんな気持もないし、むしろ神仏を憎んでさえいたときですから、母の言葉もそのままききながしていました。けれども心のどこかには、やはり治りたい、という思いがひそんでいたのでしょう。四月下旬になり、青葉が強い日光にきらめくさまや、夏草が風にそよぐけしきなどを見ると、気ばらしになるだけでもいいと思い、初めて明神の滝へでかけていったのです。

そこへは少年のころ、二度か三度いったことがあります。<ruby><rb>粟津</rb><rt>あわづ</rt></ruby>明神の裏に立つと、谷間にかかる滝が眼の下に見え、秋になると紅葉が美しいので、城下から見物に来る者も少なくなかった。いまではそんな人も<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>なようで、滝も昔よりずっと水量が減っていました。

滝に打たれるといっても、ご存じのとおり細いものですから、<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>の水を浴びるくらいにしか感じません。けれども、人影もないあの狭い谷間で、ひとりきままにすごす時間はたのしく、心ものびやかになるように思われるため、雨さえ降らなければ欠かさず打たれにいったものです。――このあいだにも、藩の情勢は複雑な変化を続けながら、尊王か佐幕か、いずれかに決定すべき時期が迫って来つつあり、杉永ははやり立つ同志をしずめるのに困っているようすでした。

あなたに会ったあの日、――まえの晩に杉永が来て、藩論を纒めるには、どうしても除かなければならぬ者がいると云って、真壁綱の名をあげました。真壁は故君の側用人で、仙台の強いうしろ盾があり、老臣の中でもっとも頑固に佐幕を主張している人間です。杉永がそう決心した気持はよくわかりますが、私は反対しました。水戸藩における<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>党の騒動のように、一人の暗殺から、家中が血で血を洗うようなことになりかねない。どうしても他に手段がないとしても、いまはまだそのときではない、と私はきびしく云いなだめました。――そんなことのあったあとで、あの日は滝に打たれながら、いつものように気分がおちつかず、杉永が思い止ってくれたかどうか、杉永が思い止っても同志の者たちはどうか、承服しない者があって無謀なまねをやりはしないか、などと繰り返し考えていました。

滝をあがったのはいつもより早かったでしょう、着物を着、袴をはき、両刀を差すと、急に胸騒ぎがするように感じました。たぶん同じ問題を考え続けていたため、気持が不吉なことのほうへ傾いたのでしょう。自分では否定しながら、なにか事が起こったような、不安な思いにかられて、ついいそぎ足になっていました。すると、ちょうど明神の下あたりへ来たとき、うしろへなにかが襲いかかるのを感じました。人の出て来る筈はないので、それはわかっていながら、そんな気分でいたからでしょう、われ知らず刀を抜いて、抜き打ちにうしろをひっ払い、大きく三歩とんで振返りました。

刀に軽い手ごたえがあったので、刀を構えながら振返ると、女持ちの扇が二つに切られて、ひらっと地面に落ちるところでした。人の姿はどこにもありません、気がついて<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>の上を見あげると、あなたがこちらを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いておられたのです。

「失礼しました」と私は云いました、「いまそちらへまいります」

刀を鞘におさめて私は扇を拾いました。それは薄く墨でぼかした地に夕顔の花が描いてあり、三分の一のところで二つに切れ、<ruby><rb>要</rb><rt>かなめ</rt></ruby>でつながっているだけでした。自慢の腕が臆病の<ruby><rb>証</rb><rt>あか</rt></ruby>しをしたか、私はそう思って苦笑しました。――それからあなたのところへいって、耳が聞えないために、<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>をしたことを<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>び、自分の名を名のって切れた扇を差出したのです。あなたは笑ってかぶりを振り、扇を受取ってからなにか云いたそうに、侍女の顔をごらんになった。それで私は矢立と手帳をあなたに渡したのです。

「耳がだめになってから、いつも持って歩いているのです」と私は云いました、「よろしかったらどうぞそれへお書き下さい」

あなたは会釈をして、扇は落した自分が悪いこと、詫びは自分のほうで云うべきであると書いて、手帳を戻されました。私はそれを読み、紺野かず子という署名を見て、初めてあなただということに気づき、思わず声をあげてしまいました。

「これはこれは、ふしぎなところでおめにかかりますね」私はうきうきするような気分になって云いました、「あなたはご存じないだろうが、私はあなたを知っているんですよ」

するとあなたはまた手帳を取って、杉永から聞いて自分もよく知っていると書かれ、また、耳のぐあいはどうかと書かれた。私はどうして失聴したかを話し、耳は一生治らないだろうこと、家督も弟に譲ったし、これからは耳なしでも生活できるような仕事を考えている、などということを話したと覚えています。――あなたは<ruby><rb>面変</rb><rt>おもがわ</rt></ruby>りをして、たいそう美しくなっておられた。色も白く、のっぽでもなく、どちらかというとむしろ小柄なほうで、鼻筋へ<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>をよせる癖もなくなったようでした。

「杉永はなにを考えているんですか」と別れるまえに私は云いました、「あなたからもそう<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃって、早く式をあげるほうがいいですよ」

あなたは唇に微笑をうかべたが、なにもお書きにはならず、矢立と手帳を返されたので、私は別れを告げて帰ったのです。

## 六

滝でおめにかかったのが八月。十二月には孝明天皇が崩御され、年があけると<ruby><rb>今上</rb><rt>きんじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>践祚</rb><rt>せんそ</rt></ruby>された知らせがあり、二月には征長軍が解かれるなど、幕府の勢力の衰退と、王政復古の気運の増大とが、もはや避けがたい時の来たことを示すように、はっきりとかたちをあらわし始めました。

杉永からこれらの事情を聞くたびに、私はまた自分の耳を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いました。事を起こす時が迫っているのに、自分は脱落者として、ただ傍観していなければならない。前生にどんな罪があったのだろうか、などと思い、磯部の浜のときの、とびだしていった無分別さ、しかもそれが徒労だったことに、改めて自分を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り、救いようのない後悔に身をさいなまれる思いをしました。

三月下旬だったでしょうか、杉永が訪ねて来て、同志の者が七人、藩吏に<ruby><rb>捕</rb><rt>とら</rt></ruby>われた、ということを告げました。田上安之助の組で、会合はいつもどおり極秘におこなわれた。その場所がどうして探知されたかわからない、七人は城中に監禁されているらしい、ということでした。

「明らかに真壁のしごとだ」と杉永は云いました、「形勢が悪転で真壁が動きだしたに相違ない、領境には仙台の兵が詰めかけて来たし、このままではわれわれは<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>されてしまうぞ」

こう書いて示す文字も、いつになく筆が走っていて、ことの重大さをよくあらわしているようにみえました。

「やはり真壁は除かなければならない」と彼は続けました、「あのときやっておくべきだった、こんどこそやらなければならないと思う」

私は暫く考えていました。

「真壁のうしろには仙台の力がある」と私は念を押しました、「ほかに手段がないとしても、真壁をやったばあい仙台がどう出るか、奥羽連合が黙っているかどうか、その点のみとおしはどうなんだ」

「わからない」杉永は答えました、「しかし近いうちに討幕の勅命が出るという噂もあり、奥羽連合の結束もぐらつきだしたようだ、真壁を失ったぐらいで、仙台が直接行動に出るとは思えない」

「それは確実なことか」

「こういう情勢の中では、確実だと云えることなどは一つもないだろう、いずれにせよ、ここはまず断行することが先だと思う」

私は立ちあがって縁側へ出ました。

――どうする。

心の中で私は自分に問いかけました。<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>とその隠居所のあいだに<ruby><rb>槇</rb><rt>まき</rt></ruby>の生垣があり、槇の枝には白っぽい黄色な若葉が、そろって活々と伸びている。また夏が来るな、ぼんやりそう思いながら、私は心をきめ、元の席へ戻って坐りました。

「それはおれがやろう」と私は云いました、「真壁を斬るのはおれの役だ」

「いや」と私は手をあげ、なにか書こうとする杉永を制しました、「真壁をやったら名のって出なければならない、<ruby><rb>私怨</rb><rt>しえん</rt></ruby>だと云って自首して出れば、罪はその一人に限られるし、仙台も干渉することはできないだろう、おれはこんな不具になってほかの役には立たないが、この役なら間違いなくやってみせる、これはおれの役だ」

杉永は口笛でも吹くように、唇をまるくつぼめ、庭のほうを見たまま考えていました。癖というものは直らないものだな、私はそう思うと、緊張した気分のほぐれるのを感じました。

「考えることはない、もうきまったことだ」と私は云いました、「帰ったらみんなにそう伝えてくれ、但し真壁の動静はおれだけではつかめない、みんなで手分けをして、いい機会があったら知らせてもらおう」

「みんなにも意見はあるだろう」と杉永がいいました、「相談したうえでもういちど来る」

杉永を送って出ながら、私は明神の滝であなたに会ったことを話しました。そのときまで、ふしぎに話す機会がなかったのです。彼はあなたから聞いて知っていたとみえ、頷きながら陰気に微笑しました。それとわかるほど、陰気な微笑だったのです。

「早く祝言をするほうがいいよ」と私は云いました、「もうあの人も二十になるんだろう、なにをぐずぐずしているんだ」

杉永は私の顔を見て、なにか云いたそうにしましたが、思い返したようすで、そのまま帰ってゆきました。

それから三日めの夕方です。母屋のほうの風呂へはいって戻ると、梓久也が訪ねて来ました。ちょうど妹が食事の<ruby><rb>膳立</rb><rt>ぜんだ</rt></ruby>てをしているところでしたが、私は妹を去らせ、食膳を押しやって筆談の用意をすると、梓は「まず食事を済ませて下さい」と書いてみせました。それで私は膳に向ったのですが、梓の顔色で、これは真壁の件だな、と直感しました。食事をしているあいだ、梓はしきりになにか書いてい、私が膳を片づけてから、梓と自分に茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れて坐ると、書いたものを私に渡しました。思ったとおり真壁綱のことです。

「真壁はあなたに任せると、一同の意見がきまりました」とそれには書いてあった、「――彼は今夕六時から、西山の<ruby><rb>隈川別墅</rb><rt>くまがわべっしょ</rt></ruby>で仙台藩の者と密会します、あまりに早急であなたには不都合かもしれません、しかし密会には供を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れず、一人でゆくということですから、やるとすれば絶好の機会ですが、やるやらぬはもちろんあなたしだいです」

私は読み終ってから梓を見ました、「隈川さんは変節したのか」

隈川<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>は老臣の中でも、われわれが頼みにしていいと信じていた一人なので、私にはちょっと不審に思えたのです。

「そうではありません」と梓は書きました、「西山の別墅はずっと留守で、家僕のほかに人はいません、真壁はそこを<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>ったのでしょう、隈川別墅ならわれわれの監視もあるまい、そういう<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>ではないかと思います」

「それはみんなの意見か」

「杉永さんもそう云われました」と梓は続けた、「どうなさいますか、私は見張り役で、これから西山へゆかなければなりません」

私は頷きました、「やろう」

では打合せをしますと云って、梓は別墅付近の図を書きました。ご承知のように、西山は城下のほぼ西南に当り、重職がたの控家や別墅のある閑静なところです。町とのあいだに田畑や林などがひろがってい、道は一と筋、見とおしもよくききます。梓はその道の一点に印をつけて待伏せるところはここがいいと思うと云いました。そこからは隈川別墅の門が見えるので、合図をするにも都合がよく、また邪魔のはいるおそれもないだろう、というのです。

「いいだろう」と私は頷きました、「それで、合図はどういうふうにする」

「私が提灯で知らせます」と梓はいいました、「これから西山へいって、真壁が慥かに来るかどうかを見さだめ、来たら帰るまで見張っています、そして彼が帰るのを慥かめたら、提灯で円を三度かきましょう」

「円を三度だな」

「人の違うときは提灯を見せません、まるく三度振ったら真壁ですから――」そして梓は書き加えました、「できたら私も助勢するつもりです」

「そんな必要はない、おれ一人で充分だ」と私は首を振りました、「それより見張りに誤りのないようにしてくれ」

梓は筆を置いて、静かに低頭しました。

## 七

夜の十時を過ぎていたでしょうか、私は約束の場所にいて、提灯の光りがゆっくりと三度、円を描くのを認めました。

そこは西山から来る道が、細い流れに架けた土橋を渡り、城下のほうへと、やや北に曲っている角で、道傍には松が二三本と、<ruby><rb>灌木</rb><rt>かんぼく</rt></ruby>の茂みがありました。私は八時ころそこへいったのですが、梓が待っていて、別墅のほうを指さしながら頷いてみせました、真壁が来ているのかと訊きますと、もういちどはっきり頷き、火のついていない提灯を三度、まるく振ってみせました。

「わかった」と私は云いました、「あとは引受けたからいってくれ」

梓は会釈をして去りました。

それから約一刻、農家の若者が二た組ほど通ったほかには、人のけはいもしませんでした。月はなく、星空だが雲があるので、あたりは殆んど闇です。眼が馴れてからも、乾いた道がほの白く、ぼんやりと見えるだけでした。――風が少し吹いていて、どこからか笛の音が聞えて来るようです。村ざとではおそらくもう祭の稽古を始めていることでしょう、暗い野づらの向うを見ていると、現実に笛の音が聞えて来るように思われました。

提灯の火は隈川別墅のあたりにあらわれ、打合せたとおり三度、ゆっくりと大きく円を描きました。私は深い呼吸をし、右手を眼の前へあげて、指をひらいたり<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を握ってみたり、それから空を見あげました。――提灯の合図を見てから、初めて気持がおちついたようで、全身にこころよい力の充実を感じました。

「おい、せくなよ」と私は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きました、「一の太刀が大事だぞ」

<ruby><rb>下緒</rb><rt>さげお</rt></ruby>を取って襷に掛け、汗止めをし、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>股立</rb><rt>ももだち</rt></ruby>をしぼりました。これらはできるだけ入念に、時間をかけてやり、それから灌木の茂みのうしろへ隠れました。――別墅との距離は五六町くらいでしょう、まもなく、道の向うに提灯が見え、小さく揺れながらこっちへ近づいて来ます。

「供がいっしょかな」

提灯は供が持っているのではないか、と思ったのですが、姿が見えるようになると、一人だということがわかりました。私は草履をぬいで足袋はだしになり、刀を抜いて二度、三度素振りをくれ、呼吸をととのえて待ちました。――真壁は足ばやに近づいて来、土橋を渡って、すぐ前を通り過ぎました。

二間ほどやりすごしておいて、私は道へ出、うしろからすばやくまを詰めながら叫びました。

「真壁どの御免」

そして振向くところを首の根へ一刀、返す二の太刀で存分に胴を払いました。相手は提灯をとり落し、なにか叫びながら、片手を振り、よろめいてがくっと<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を突きました。

「藩ぜんたいのためです」と私は云いました、「どうぞお覚悟を願います」

相手はなおなにか叫び、手を振り、そうして、その手で頭巾を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎ取りました。そのとき道の上で提灯が燃えあがり、頭巾をぬいだ相手の顔が見えました。そうです、それが杉永幹三郎だったのです。

「杉永、――」私は刀を投げだして駆け寄り、彼の肩をだき抱えました、「どうしておまえが、これはどうしたことだ、真壁綱ということだったぞ」

杉永はなにか云っています。私が斬りつけたときも、人違いだと叫んだのでしょう、おれだ、杉永だ、と叫んだ。なにか叫ぶのを私は見たのですから。もちろん彼には私がわかったでしょう、だからこそ抜き合せることもできず、おれだ、杉永だとけんめいに叫んだに違いありません。

「梓と打合せたんだ」と私は<ruby><rb>動顛</rb><rt>どうてん</rt></ruby>しながら云いました、「真壁が密会するということで合図まできめてあった、いったいどうしてこんなことになったんだ」

杉永はなにか云っています。だが私には聞えません、私は彼の肩を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み、天を見あげながら叫びました。

「私の七生を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けます、もし神仏がおわすなら、一と言だけでいい、杉永の云うことを聞かせて下さい」

だが皮肉なことに私の刀はあやまたず、充分に深く急所に達してい、杉永はそのまま絶息しました。私は彼を抱きしめて泣き、謝罪をしました。少年時代からのたった一人の友、もっとも信じあった友を、こんなふうに自分の手で殺した。耳さえ不自由でなかったら、――この気持はあなたにもわかっていただけると思う、私はすっかりわれを失い、絶息した彼を抱いたまま泣き続けました。

しかし長い時間ではなかった。ふと気がついて振返ると、西山のほうから提灯が五つ六つ、こちらへ向って走って来るのが見えたのです。梓久也なら一人の筈ですが、提灯の数から察するとかなりな人数らしい。ここで捕えられてはならない、そう思ったので、杉永の<ruby><rb>死躰</rb><rt>したい</rt></ruby>に別れを云い、刀を拾い草履を捜して、泣きながらそこを逃げ去りました。

――どういう手違いだろう。

闇の中を走りながら考えました。考えるまでもなく、梓久也の裏切りだということは、初めからのことを思い合せればすぐにわかる筈です。けれども逆上している私には、そんな明白なことさえ見当がつかず、ただ「家へは帰れない」ということと、「真壁を討つまで死ねない」と思うばかりでした。

どこをどう逃げまわったかは書きませんが、和田村の治兵衛のところへおちついたときにはようやく裏切りだということに気がついていました。

――田上ら七人を売ったのも彼だ。

それも疑う余地はないでしょう。私は皮を剥いだ梓久也の正体を前にして、改めて時勢の複雑さと、その複雑な渦中に生きる人間の、それぞれの心のありかたを思って嘆息するばかりでした。

たぶんあなたは、私が梓に報復するだろうとお考えでしょう。私もいちじはそう思いました。こんな<ruby><rb>無慚</rb><rt>むざん</rt></ruby>な裏切りはない、どれほど非情な人間にも、こういう酷薄なまねはできないだろう、杉永のためにも生かしてはおけない。そう思ったのですが、治兵衛の住居に移ってから、それは違うと考え直しました。

――方法こそ残酷きわまるものだが、梓も自分の利欲でやったことではない、彼は彼の立場で、もっとも効果のある手段をとっただけだ。

私たちが私たちの信念によって行動するように、彼もまた彼の信念にしたがったまでだ。憎むとすれば梓その者ではなく、梓を動かした「佐幕」という観念だ。梓などは問題ではない、藩の大勢を王政復古にもってゆくことが第一だ。杉永にとってもそれが本望に違いない、と思ったのです。――これで私の手記は終ります、ここにはあったことのすべてを、できる限りあったまま記しました。幸いにしてお手許へ届いたとき、お読みになったあとでなお、私を杉永の仇だと思われるかどうか、めめしいようだが、それをうかがえればと願わずにはいられません。

## 八

かれらの来たとき、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は煮物をしていた。油で菜をいため、干した<ruby><rb>河鯊</rb><rt>はぜ</rt></ruby>をちぎって入れ、水と少量の砂糖と醤油で味付けをしてから、<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>に蓋をし、<ruby><rb>焚木</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>のぐあいをみた。そこへ、あけてあった勝手口から、二人の侍がはいって来て、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>を左右からはさんだ。

「騒ぐな」と侍の一人が云った、「黙っておれの云うとおりにしろ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>はその侍を見た。

「おまえには関係のないことだ」とその若侍は云った、「なにもなかったつもりで煮物を続けろ、いいか、騒ぐんじゃないぞ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>は口をあけ、なにか云おうとしたが、言葉にはならなかった。侍の一人は土間を表のほうへゆき、表の戸口からまた三人はいって来た。かれらは部屋へあがり、なにか捜しているようすだったが、一人が刀を持って土間へおりて来た。

「大丈夫ここにいる」と一人が云った、「この刀があるから慥かだ」

「まる腰ででかけたんだな」

「<ruby><rb>暢</rb><rt>のん</rt></ruby>びりと山歩きか」とべつの一人が云った、「風雅なことです」

他の一人が戸口へゆき、手を振りながらなにか叫んだ。すると答える声がして、まもなく五人の若侍がはいって来、狭い土間はかれらでいっぱいになった。

「朝めしの支度をしているから、まもなく帰って来るだろう、どうする」

「刀を取りあげればこっちのものだ、ここでやるか」

「いや、大事をとるほうがいい、二人は中にいてその娘を動かすな、ほかの者は外に隠れて帰りを待とう」

「梓は用心ぶかいな」

「谷川主計には、どんなに用心してもしすぎるということはないんだ」

「梓は用心ぶかいよ」

そんな問答をしながら、二人をお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>の側に残して、他の八人は戸外へ出ていった。残った二人は土間の隅へさがり、一人は刀を抜いて、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>に見せた。

「騒ぐとこれだぞ」とその若侍が云った、「いつものとおりやっていろ、谷川が帰って来てもへんなそぶりをするなよ」

そのとき戸外で叫び声がした。

「谷川だ」と一人が云った、「押えたぞ」

そして二人はとびだしていった。

この家の表に、三十坪ばかりの狭い空地がある。片側は低い<ruby><rb>赭土</rb><rt>あかつち</rt></ruby>の崖、片側は<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>で、長いこと人が住んでいなかったのだろう、夏草の茂った中に、踏みつけ道が一と筋、赭土の崖のほうから空地へ通じている。谷川主計はその空地の中央で、かれらに取巻かれていた。

――まったく思いがけなかったらしい、主計は左の手を腰にやり、刀のないことに気づいて、かれらを見まわしながら右手をあげた。

「待て」と主計は云った、「おれはまる腰だ、そうでなくともこれだけの人数では<ruby><rb>逭</rb><rt>のが</rt></ruby>れることはできない、みれんなまねはしないからおれの云うことを聞いてくれ」

「そんな必要はない」と梓と呼ばれた侍が叫んだ、「理非は明白だ、やれ」

「梓久也」と主計は手を伸ばして、まっすぐに相手を指さした、「いまおまえはなにか云った、おれの耳は聞えないが、なにを云ったかは察しがつく、おれに口をきかせるな、このまま斬れと云ったろう、そうだろう梓」

「こいつにものを云わせるつもりか」と梓が叫んで刀を抜いた、「おれはやるぞ」

主計は両手をひろげて、かれらの中の一人に呼びかけた。

「吉川十兵衛、おまえはこのままおれを斬らせていいのか、このままおれを斬って、それでなにか得るものがあるのか」

「こいつ」と梓久也が叫んだ。

「待て」と吉川十兵衛が手で制した、「もう逃がすおそれはない、聞くだけは聞こう」

「なんのために」と梓が叫んだ。

「吉川、みんなも聞いてくれ」と主計が云った、「みんなはおれが杉永を斬ったことでおれを斬ろうというのだろう、慥かに、おれは杉永を斬った、しかし、おれが杉永を斬ったということをどうして知った」

梓久也が踏み出そうとした。吉川十兵衛が「止めろ」と叫び、二人が左右から梓を押し止めた。

「おれが杉永を斬ったことは、たった一人しか知ってはいない」と主計は続けていた、「その男がおれを<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>にかけて、おれの耳の不具を利用して杉永を斬らせた、真壁綱だと手引きをして、おれにとってはかけ替えのない友を斬らせた、梓久也がその男だ」

「こんなやつの云うことを聞くつもりか」と梓久也が叫んだ、「おれたちはこんなでたらめを聞くためにここへ来たのか」

「云え、云え」と主計はまた梓をまっすぐに指さした、「おれはきさまの罠にかかった、無二の友を手にかけたおれが、きさまを憎まなかったと思うか、梓久也、おれはきさまを斬りたかった、きさまの五躰を寸断してやりたかった、――だが思い直した、きさまがおれを罠にかけたのは利欲のためではない、佐幕という信念のためにやったことだ、梓久也その者の罪ではないと思ったからだ」

谷川主計はそこでかれらを見まわした、「これ以上くどいことは云わない、あとはみんなの判断に任せる、久也の眼とおれの眼を見比べてくれ、いま云ったおれの言葉に対して、久也がなんと云うか聞いてくれ、そしてもし彼の云うことが正しいと思ったらおれを斬るがいい、また、おれの云うことが信じられるなら刀を貸してくれ、おれはここで梓を斬る、――さあ、梓久也に云わせてくれ」

みんなは吉川十兵衛を見た。

「梓、――」と十兵衛が云った、「なにか云うことがあるか」

梓久也は刀を取直した。

「よし」と十兵衛が<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた、「谷川さんの刀を返せ」

一人が家の中へ走ってゆき、主計の刀を持って戻った。主計は十兵衛の顔をみつめ、受取った刀を腰に差してから静かにそれを抜いた。

――梓久也を残して、他の九人はずっとうしろへさがり、家の戸口にはお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すえ</span>が<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えたような顔でこちらを見まもっていた。