## 一

「<ruby><rb>繁野</rb><rt>しげの</rt></ruby>という老職を知っているか」

「繁野、――」石沢金之助は筆を止めて、<ruby><rb>次永</rb><rt>つぐなが</rt></ruby>喜兵衛を見あげた、「老職には二人いるが、どうかしたのか」

「としよりの家老のほうだ」

「御家老なら兵庫どのだろう、むろん知っているが、それがどうした」

「おれはつくづく」と云いかけて、喜兵衛は石沢の机へ手を振った、「もう片づくんじゃないのか」

「そう思っていたところだ」

「じゃあ<ruby><rb>下城</rb><rt>げじょう</rt></ruby>してから話そう」と喜兵衛は云った、「中ノ口のところで待ってる」

そして足早にそこを去った。

老いぼれの、田舎者の、わからずやのへちゃむくれめ、次永喜兵衛は心の中でそう<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>っていた。中ノ口を出て、木戸のところまでいっても罵り続け、石沢が来るまで、通りかかる下役の者たちが挨拶をしてゆくのに、ろくさま<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>も返さず悪口を並べていた。

「家でいっしょに夕食をしてゆかないか」石沢は来るとすぐに云った、「このごろあらわれないので家の者たちが心配しているぞ」

「一杯やりたいんだ」歩きだしながら喜兵衛は云った、「むしゃくしゃしてやりきれない、どうしても今日は一杯やりたいんだ」

「そんな気持で飲んだってうまくないだろう、とにかく家へゆくことにしたらどうだ」

「迷惑ならここで別れるよ」

「そろそろ癖が出るな」石沢は頭を振った、「そういう約束ではなかった筈だ」

「あんなくそじじいがいるとも云わなかったぜ」

「どこへゆくんだ」

「雪ノ井のほかにいい場所があったら教えてくれ」と喜兵衛が云った、「おちついて飲めるうちといえば雪ノ井がただ一軒、<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>もいねえというんだからひでえ土地だ」そして吐きだすように付け加えた、「おれはまるでペテンにかかったような心持だぜ」

石沢金之助は黙って歩いていた。

大手門を出て<ruby><rb>堀端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>を右へゆき、<ruby><rb>蔵</rb><rt>くら</rt></ruby>町から横井<ruby><rb>小路</rb><rt>こうじ</rt></ruby>へぬけると馬場、その<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>に沿った片側並木の道を左にまわり、明神の森につき当って、門前を右に二丁ほどゆくと大きな池のふちへ出る。雪ノ井という料理茶屋はその池畔にあるのだが、そこへゆくまでずっと、喜兵衛は休みなしに悪口を云い、女中に案内されて座敷へとおってからも、まだ舌の疲れはみせなかった。

その茶屋は池に東面し、左右とうしろに松林がある。二人のとおされたのは西の端にある座敷で、二方に縁側があり、庭へおりる段が付いている。そこから池まで約二十尺、向うに小さな桟橋が出ていて、小舟は二はい<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いであった。――池の対岸は黒ぐろと樹の繁った丘で、それは城のある鶴ヶ岡と続いているのだが、その一部に<ruby><rb>鶴来八幡</rb><rt>つるきはちまん</rt></ruby>の社殿があり、そこは昔の<ruby><rb>砦趾</rb><rt>とりであと</rt></ruby>だといわれていた。

「江戸屋敷に<ruby><rb>熊平</rb><rt>くまへい</rt></ruby>という庭番のいたことを覚えているか」と喜兵衛が急に話を変えて訊いた、「右のこめかみのところに大きな<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>があったので、瘤平ともいわれたとしよりだ」

「<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷にか」

「梅林を受持っていた」

「覚えているようでもあるな」

「酒を早く」と喜兵衛は女中に云った、「<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>はいつものとおり、<ruby><rb>魚田</rb><rt>ぎょでん</rt></ruby>と塩焼と味噌椀、漬物をたっぷり頼む、へ、――」彼は右の肩をしゃくって唇を曲げた、「四万二千石の城下で、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>いのは漬物だけときている、いったいこの土地の人間には舌というものがあるのかい」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>という女中は笑いながら、喜兵衛に向って舌を出してみせた。

「ごめんなさい」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は云った、「この土地ではこれを舌と云いますけれど、お江戸ではなんといいますかしら」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じた</span>というんだ」喜兵衛は膝を打った、「そんな物はしまって早く酒を持って来い」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>るまねをして立っていった。

「悪い癖だ」と石沢が穏やかに云った、「こういうところへ来るとまるで魚が水へ帰ったようになる、まず酔わないうちに文句を聞こうじゃないか」

「熊平という庭番は疑い深いとしよりだった」と喜兵衛は云った、「この世にある物、この世で起こることをなに一つ信じない、たとえばいま雨が降っているとすると、その雨を信じない、現に自分の着物が濡れていても、それが雨の降っている証拠だとは云えない、と云うんだ」

「話したいのはそのことか」

「まあ聞けよ」と喜兵衛は云った、「彼は自分の住んでいる小屋を信じない、湯呑を信じない、池を信じないし池の中で泳いでいる鯉を信じない、もちろん自分を信じないし、地面も天も、太陽も月も信じない、すべてはただそうあるようにみえるだけだと云うんだ」

「つまらない話じゃないか」と石沢が云った、「としをとると変屈になる人間はどこにでもいるものだ」

「しかし熊平のはただの変屈じゃない、なにも信じないということは彼にとってりっぱな信念だったんだ、或るとき梅林の脇にひきがえるがいた、おれは熊平を呼んでそのひきがえるを見せたのさ、すると熊平はそれをひきがえるだと信じない、おれはそこで棒切れでもってひきがえるの<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を突っついてやった、ひきがえるはもちろんのそのそ歩きだし、おれは熊平にどうだと訊いた」

「おまえの口まねをするわけではないが」と石沢金之助が<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った、「そのひきがえると熊平をちょっと片づけてくれ、おまえがここへ来たのはおれに話すことがあるからだろう、その話というのを聞こうじゃないか」

「だからおれはいま、――」喜兵衛は<ruby><rb>上眼</rb><rt>うわめ</rt></ruby>づかいに天床を見上げ、唇を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めて、ひょいと片手を振った、「おい、よけえなことを云うから話のつなぎが切れてしまった、冗談じゃない、ええと」

「酒が来たよ」と石沢が云った、「一と口やったら思いだすだろう」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>が<ruby><rb>小女</rb><rt>こおんな</rt></ruby>と膳をはこんで来、喜兵衛はすぐに盃を取った。小女は去り、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は給仕に坐った。盃で三つ飲むまで、喜兵衛は頭をひねりながら考えてる、石沢はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>に話しかけた。この家の隠居は弓の稽古を始めて、石沢と知り合になったらしい。近ごろみえないがどうしたと石沢が訊き、丈夫でぴんぴんしていますとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>が答えた。ではもう弓はやめたのかな。そうでしょう、なにしろ飽きっぽい人ですから、と答えながらお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は喜兵衛に酌をした。

「どうなさいましたの、なにをそんなに考えこんでいらっしゃるんですか」

「ひきがえるだ」と石沢が云った、「繁野老職とひきがえるを結びつけるために、苦労しているんだ」

「じゃあ肝心なことだけは云おう」喜兵衛はみれんがましい口ぶりで云った、「熊平の話から持ってゆきたかったんだが、――まあいい、問題はあの老人だ」

「繁野さんのことだろうな」

「むろんあのじじいだ」

「口を慎め」

「話が先だ」と喜兵衛が云った、「おれはこの土地へ来てもう九十余日になる、まだ九十余日しかならないともいえるが、この九十余日という<ruby><rb>日数</rb><rt>ひかず</rt></ruby>を覚えておいてくれ」

おれは<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>で廃家になった次永の家名を継ぐためにこっちへ来た、と彼は続けた。次永の家を再興し、中老<ruby><rb>和泉</rb><rt>いずみ</rt></ruby>作左衛門の娘<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すみ</span>を<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>る約束で、郡代支配という役についた。和泉家の娘ともたびたび会い、大いに気にいっている。<ruby><rb>温和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しそうだし<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>もいいし、妻にするにはもってこいの娘だと思う。住居も悪くない。繁野のじじいが自分の控え屋敷をあけてくれたのだそうだが、庭もかなり広いし家の間取も気がきいている。家僕の仁兵衛夫妻もいい人間で、女房の<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>える食事も尋常だ。役所のほうもまず文句はない、下役はよく働いてくれるし、郡代たちにも反感を示したり、不服従なまねをするような者はいない。とにかく、いままではそういう者はいなかった。これを要するに、大体としておちつけるような条件がそろっているし、おれもおちつきたいと思っていた。本当におちつきたいと思っていたんだ、と喜兵衛は念を押すように云った。

「ところがだめだ」と喜兵衛は首を振った、「今日までがまんして来たが、あの繁野のくそじじいには手をあげた、おれは辞職して江戸へ帰るぞ」

「帰れやしないさ」と石沢が云った、「おまえはもう北島家の二男ではなく次永喜兵衛なんだ、まあ話してみろ、いったい繁野さんがどうしたというんだ」

「おれを眼のかたきのように小突きまわすんだ、老職部屋へ呼びつけてどなる、こっちの役所へ来てどなる、おまけに住居まで小言を云いに押しかけて来るんだ」

「繁野さんは温厚な人だぞ」

「郡代支配という役はむずかしい」と喜兵衛は酒を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>ってから云った、「それは説明するまでもないだろう、この土地に長くいて、土地の事情に通じていなければなかなか勤まらないものだ、ところがおれは江戸から来た人間だし、来てから九十余日にしかならない、二人の<ruby><rb>助役</rb><rt>すけやく</rt></ruby>やその他の下役たちに助けられて、どうやら事務に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ始めたところだ」

繁野兵庫はもちろんそれを知ってる筈だ。しかもまったく<ruby><rb>容赦</rb><rt>ようしゃ</rt></ruby>しない。役所に勤めだすとすぐから、どんな<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な誤りをもみのがさず、子供でも叱るようにびしびし小言を云う。助役の思い違いとか、下役たちの誤りまで、すべておれの責任にして叱りつけるのだ、と喜兵衛は云った。

「あんなひねくれた意地わるじじいは初めてだ」喜兵衛は唇を片方へぐっと曲げた、「あんなじじいを親に持った<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>が見たいくらいだ」

## 二

「いや」と石沢金之助が云った、「繁野さんには子供はないんだ」

「あの年で、――子供がないって」

「繁野さんは家庭でもさびしいほど静かな人だし、<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>で温厚な人だということを知らない者はない、これは少しも誇張のない事実だ」

「ではどうして、おれだけをこうひどく小突きたてるんだ」

「理由はいろいろあるだろう」と石沢が云った、「まずおまえ自身の行状だ、江戸屋敷で北島の二男といえば、乱暴と<ruby><rb>放蕩</rb><rt>ほうとう</rt></ruby>ぶりで第一に数えられていた、おれは七年まえまで江戸屋敷にいたし、<ruby><rb>従兄弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>どうしとしておまえのことはよく知っている、だからおまえがこっちへ来たとき<ruby><rb>諄</rb><rt>くど</rt></ruby>く意見を云ったんだ」

「おれはそれを守ったつもりだぜ」

「それは認めてもいい、しかし繁野さんは危ぶんでいるのかもしれない、ものごとは初めが肝心だというから、いまのうちに<ruby><rb>緊</rb><rt>し</rt></ruby>めるところを緊めておこうというつもりかもしれないだろう」

「向うにそんな気持があればこっちに通じない筈はない、おれにだって人の気持を感じとるくらいの能力はあるんだ」

「もう一つの理由は」と石沢は構わずに続けた、「これはおれの想像だけれども、繁野さんがおまえを好いてるということだ」

「なんだって」

「あの温厚な人がそれほどきびしくするというのは、おまえを好いているからではないか、そうだ」と石沢は大きく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた、「単に家老と郡代支配という関係なら、そんなにきびしく当るわけがない、おまえはいま子供でも叱るようにと云ったが、繁野さんはおまえを好いているため、親が子供にきびしくするようにきびしくするのではないか、それならおれにはよくわかるが、おまえにはそうは思えないか」

「そうだ」と喜兵衛は顔をあげた。

「そう思えるか」

「いや違う、ようやく思いだしたんだ」と喜兵衛は首を振って云った、「熊平のことを持ちだしたのはそのことが云いたかったからだ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は酒を取りに立っていった。

「あのとしよりはなんにも信じなかった」と喜兵衛は続けた、「おれもいまはなにも信じられない、たとえ繁野老職の口から、おまえを子供のように思っているとは云われても、おれは断じて信じないぞ」

「ひきがえるもか」と云って石沢は笑った、「だだっ子みたようなことを云わないでもう少し辛抱しろ、いやでも辛抱しなくてはならない立場だが、いやいや辛抱するのではなんにもならない、このへんで肚をきめて、もし不当な小言だと思ったら繁野さんにはっきり云ってみろ、自分の責任でないと思ったらそれもはっきりさせるんだ、不平や不服なことは胸にしまっておかず、じかに繁野さんにぶっつかってみるんだ、そのくらいの度胸がないことはないだろう」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は酒を持って来た。喜兵衛はまだ<ruby><rb>憤懣</rb><rt>ふんまん</rt></ruby>がおさまらないらしく、肴をつつき酒を飲みながら、なおぶつぶつ文句を云い続けたが、石沢はもう相手にならず、<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ほどすると先に<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りで帰っていった。石沢には正之助という六歳の子供がいて、<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>は必ずいっしょに喰べる約束だし、それをやぶると罰をくう、ということであった。

「諄いようだがやってみろ」と石沢は帰るときに云った、「<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めているだけでは笛の音もわからないからな」

喜兵衛は返辞をしなかった。

「辛抱しろか、へ」と石沢が去ったあとで喜兵衛は云った、「江戸にいたころはもっときりっとしていたのに、僅か七年でいやにおさまっちまやあがった、へ、田舎者め」

石沢を送って戻ったお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>が、それを聞きつけて咎めた。

「そんなことを<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃるものじゃありません、そんなわる口を云うなんてあなたはいけない方よ」

「おいおい、おまえまでが意見をするのか」

「石沢さまの仰しゃったことは本当なんです」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は彼に酌をしてから云った、「繁野さまはあなたをわが子のように思っているっていうこと、あれは石沢さまの当て推量ではなく、本当のことだと思うんです」

「でたらめなことを云うな」

「聞いてから仰しゃいまし」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は云った、「あたし十三から十七の年まで、繁野さまのお屋敷へ奉公にあがっていたんです」

喜兵衛は口まで持っていった盃を止め、そのままでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>の顔を見まもった。

「そのころお屋敷には、義十郎といって、繁野さまの一人息子がいました」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は続けた、「あたしより五つ年上で、男ぶりのいい神経質な方でしたが、十六七のころから酒の味を覚え、まもなく悪いなかまができて、女あそびや<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>まで手を出すようになったんです」

「ちょっと待て、繁野には子がいないと聞いたぞ」

「ええ、みなさんそう仰しゃいますわ、繁野さまに遠慮して、そんな方がいたことは口にする人もないでしょう」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>が云った、「義十郎さまは小さいときから<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>がお弱くて、なにか気にいらないことがあるとか、ちょっとでも叱られたりするとすぐにひきつけを起こし、医者だ薬だという騒ぎになったそうです、なにしろ結婚なすってから九年めとかに生れた一人息子で、<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>さも可愛かったでしょうけれど、そういうわけでうっかり叱ることもできない、<ruby><rb>我儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>いっぱいに育ったんですね、道楽が始まったらもう手もつけられない、お屋敷の金や品物を持ち出す、お茶屋に泊って十日も帰らない、博奕場で喧嘩をするという始末で、とうとう繁野さまもがまんが切れたのでしょう、いまから八年まえに勘当なすってしまいました」

喜兵衛は酒を啜り、からになった盃をぼんやり眺めていた。

「それだけならまだいいのですが」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>はなお続けた、「勘当になってここを<ruby><rb>立退</rb><rt>たちの</rt></ruby>くとき、博奕場で<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れて三人に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けが</span>をさせ、中の一人は片輪になったということです、勘当したあとのことですから、べつにお咎めの<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>はありませんでしたけれど、繁野さまはたいそう心配なすって、その三人を<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びを云い、お金もたくさんお<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>いになったうえ、半年ばかり閉じこもって謹慎をなさいましたわ」

喜兵衛は盃を出し、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>が酌をすると、黙って飲んでから、ふと顔をあげて訊いた。

「その義十という息子はどうした」

「知りません、それっきり音沙汰なしで八年も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ったんですから、生きていて真人間になったら、とっくに帰っているじぶんでしょう、いまだに帰らないとすると」

「酒がないぜ」と喜兵衛が遮った、「こんどはちょっと熱くして来てくれ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かや</span>は立っていった。

「すると、ずいぶん<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>いめにあったんだな」と彼は口の中で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた、「ただひねくれた意地わるじじい、というだけじゃないかもしれないな、うん、そうじゃないかもしれない」それから少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ま</span>をおいて呟いた、「ひとつ眼をあいて見直してやろう」

医者嫌いな人間が悪い風邪にかかり、くしゃみと<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>と熱で苦しみながら、<ruby><rb>頑</rb><rt>がん</rt></ruby>として医者を呼ばず薬ものまずにいる。そしてやがてがまんの<ruby><rb>角</rb><rt>つの</rt></ruby>を折って売薬などをのむと、ふしぎに病状の軽快することがある、これは<ruby><rb>治</rb><rt>なお</rt></ruby>る時期が来ていたので、薬の代りに糠味噌をのんでも同じことであろう。次永喜兵衛が忍耐しきれなくなって、従兄の石沢金之助に不平をぶちまけたのも、同じように、その状態の転換する時期が来たということ、しかもそれは単独ではなくて、二つのものがかちあうめぐりあわせになった。という結果を伴っていたようであった。

雪ノ井で飲んだ日から十日ほどのち、城中の長廊下で、喜兵衛は石沢金之助に声をかけられた。

「その後どうだ」と石沢が訊いた、「辛抱ができそうか」

「うん」喜兵衛は<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうな眼つきをし、ちょっと口ごもった、「まあ、大丈夫だろう」それからぽつりと云った、「あの老人は気の毒な人らしいな」

石沢は<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに眼を細め、喜兵衛は顔をそむけながら、いそぎ足に去った。それは正月下旬のことであったが、二月にはいってまもなく、喜兵衛は石沢家へ夕餉に呼ばれていった。和泉<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すみ</span>との<ruby><rb>祝言</rb><rt>しゅうげん</rt></ruby>が近づいたので、その打合せもあり、喜兵衛は珍しく上機嫌に酔った。そのうちにふと、彼は急に首を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れながら「<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうな人だ」と呟いた。

言葉は簡単であるが、心から<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>み出るような、感情のこもった口ぶりで、石沢は思わず彼に振向いた。そして、彼が誰のことを云っているか、すぐに理解した。

「おい石沢」喜兵衛は顔をあげた、「江戸屋敷に時岡八郎兵衛という足軽がいたのを覚えてるか」

「知らないな」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けい</span>さん」と喜兵衛は石沢の妻に呼びかけた、「酒をもう少し頼みます」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けい</span>は<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>の顔を見た。石沢が頷き、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けい</span>は立っていった。

「その時岡という足軽だが」と喜兵衛は続けた、「もう六十くらいのとしよりで、妻もいたし伜夫婦もいて、貧乏なもんだからなにかの内職をやっていたっけ」

「おまえは庭番だの足軽だのと、妙な人間ばかり知ってるじゃないか」

「そのとしよりが若いとき」と喜兵衛は構わずに続けた、「貰ってまもない女房が、同輩の足軽と密通している現場をみつけた」

## 三

八郎兵衛は怒った。まだ若かったし、新婚の妻に裏切られたのだから、<ruby><rb>五躰</rb><rt>ごたい</rt></ruby>が消えてしまうかと思われるほど絶望し、怒った。しかし彼は思案した。たとえここで二人を殺しても、自分の面目が立つわけではなし、死んでしまう二人には一瞬の苦痛しかない。それよりも生かしておいて、じりじりと長い時間をかけ、自分の受けた絶望と苦しみを二人に返してやろう、と決心した。そこで、「現場を見たぞ」という意味を二人に悟らせただけで、なにもせずに放っておいた。――一年経ち、二年経った。二人の関係はその一度だけだったらしく、妻は哀れなほど従順に身を慎んでいたし、相手の男はやがて出奔した。八郎兵衛は妻を<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>さなかった。けれども三年めに女の子が生れ、一年おいて男の子が生れた。

「私はいまでも妻をゆるしてはいません、と八郎兵衛はおれに語った」喜兵衛は云った、「娘は嫁にやりましたし、伜にも妻子ができました、貧乏だけはどうにもなりませんが、まあまあ平穏無事にくらしています、――どうしてだ、とおれは訊いてみた、殺そうと思ったほど憎み、いまでもゆるせないというのに、それでなおこんなに長いあいだ夫婦ぐらしができるのか、とね、――すると八郎兵衛は答えたよ、人間とはそういうもののようです、どんなに激しい憎みでも、憎むことだけでは生きてはゆかれない、愛情だけで生きることができないように、一つ感情だけで生きとおすことはできないようです」

石沢がなにか訊き返したように思い、喜兵衛は首を振った。

「いやおれは」と彼は云った、「そのとしよりのことが云いたいんじゃない、繁野さんがいまどんな気持でいるか、六十に手の届く年になって、勘当した放蕩息子のことをどう考えているか、ということが云いたいんだ」

石沢がまた義十郎のことでなにか云った。よく聞きとれないので、面倒くさくなり、「もういい、義十なんか知ったことか」と云い返したが、そう云う自分の声で眼がさめた。

――こまった、酔い潰れたな。

そう思って頭をあげると、枕許に暗くした<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>があり、自分は<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>になって、ちゃんと夜具の中に寝ていた。<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに石沢と話しているつもりだったが、いつか帰って寝たものらしい。話し終ってから帰ったのか、それとも酔ったので話し終らずに帰り、夢の中で話し続けたものか、まだはっきりしない頭ではどちらとも区別がつかなかった。

「そんなに酔ったのかな」彼は腹這いになって水を飲もうとした、「だらしのないやつだ」

そして急に口をつぐんだ。

勝手のほうで人声がし、誰かどたばた暴れる音と、「義十郎だ」と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>くのが聞えた。夢の中で石沢が云ったように思ったのは、じつは勝手で喚いたその声だったのだろう。喜兵衛はあらあらしい物音とその喚き声とで、はっきり眼がさめると同時に、なにごとが起こったかを悟り、すぐに立ちあがって着替えをした。

勝手では家僕の仁兵衛が、一人の男と<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みあっていた。脇に置いてある手燭の光で、喜兵衛はまず男のようすを見た。年は三十二三、痩せた貧相な顔に<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>が伸び、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>も伸びていた。揉みあっているうちに着崩れたものか、<ruby><rb>縞目</rb><rt>しまめ</rt></ruby>もわからないような古<ruby><rb>布子</rb><rt>ぬのこ</rt></ruby>の前がはだけ、平べったい胸や、<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>し<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>を巻いた腹があらわになっていた。「おれがこの<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>のあるじだ」と喜兵衛は呼びかけた、「そのほうはなに者だ」

男は家僕を押し放した。

「あるじだって」と男が云った、「嘘うつけ、これはおれの家だ、これは繁野家の控え屋敷、おれは繁野義十郎だ」

江戸の深川でこういう男と喧嘩をしたことがあった。三年か四年まえ、新大橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>のところだったな、と喜兵衛は思った。

「なんの話かわからないが、とにかくあがったらどうだ」と喜兵衛が云った、「仁兵衛とおしてやれ」

「しかし旦那さま」

「心配するな」と喜兵衛は家僕に頷いた、「おれは大丈夫だからとおしてやれ」

そして彼は寝間へ戻り、行燈を持って客間へはいった。男は家の中を知っているようすで、家僕の先になってやって来、床ノ間を背にしてあぐらをかいた。男の躯から汗と<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>と、強い酒の匂いとが入り混った、胸の悪くなるような臭さが漂ってき、われ知らず喜兵衛は顔をしかめた。

「おい、酒があるだろう」男は振返って、襖を閉めようとする家僕に云った、「<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>でいいからあるだけ持って来い、あるだけ持って来るんだぞ」

「持って来てやれ」と喜兵衛が云った、「肴はいるまい、盃も大きいのがいいだろう」

家僕は去った。

「話はわかるらしいな」男は汚ない歯を見せて<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>した、「おれさまと同様、江戸では道楽者でとおったそうだから、やぼな人間じゃあねえと思った、おめえのことはすっかり吟味済みだからな、へたに恰好をつけようったってむだなこったぜ」

「用はなんだ」と喜兵衛が訊いた。

「せくなよ、いま酒が来るんだろう」男はぼりぼり頭を掻いた、「もう一つ断わっておくが、おめえおれのめえで大きな面あしちゃあいけねえぜ、おめえはおれの屋敷を取り、おれの<ruby><rb>許婚者</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>まで横取りしたんだ、許婚者のほうはまだこれからだろうが、<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>によると祝言の日取まできまってるらしいからな、大きな面あしちゃあいけねえ、さもねえと高いものにつくぜ」

家僕が酒徳利と盆を持って来た。盆の上にはなにかの<ruby><rb>佃煮</rb><rt>つくだに</rt></ruby>と漬物の皿、それに椀の蓋くらいある盃がのせてあり、喜兵衛が頷くのを見てから、家僕は去っていった。

「おめえやらねえのかい」男はすぐに盃を取り、徳利を持ってみながら云った、「おれのような人間と飲むのはいやか」

「今夜は少しやり過ぎたんだ、いいから独りで飲んでくれ」

「大きなことを云うない、五合徳利に七分目もありゃあしねえぜ」男は盃を置き、徳利の口からじかに飲んだ、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の骨が上下に動き、喉でごくごくと音がした、「悪かあねえ」と云って男は大きく息を吐いた、「腹の焼けるときにゃあ冷に限るってな、躯の隅ずみまでしみとおるぜ」

憎みや怒りの中だけでは生きられない、と喜兵衛は心の中で思った。時が経つうちには、どんなに深い憎悪も怒りも、やわらげられ、いやされてゆく、時岡八郎兵衛が現にその事実をみせてくれた。

――繁野さんもそうではないだろうか。

六十歳近くなって養子も取らないのは、いつかわが子が帰って来る、<ruby><rb>性根</rb><rt>しょうね</rt></ruby>が直り、侍らしい人間になって帰るだろう、そう思って待っているのではないか。勘当したときの怒りや憎みはすでにやわらいで、ただわが子の帰るのを待っているのではないだろうか、そう考えて八郎兵衛の話をしたのだが、そうだとすると待ち甲斐がなかった。これでは帰って来ないほうがよかった、と喜兵衛は思った。

「おれがこんな人間になったのは、おれのせえじゃあねえ、わかるか」と男は<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っていた、「おい、聞いているのかよ」

男はさっきから饒舌っていたのだ。

「聞いている」と喜兵衛は答えた。

「人間はな、<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>より育ちっていう」男は手の甲で口を横撫でにした、「親の育てかたしだいでよくもなれば悪くもなるんだ、そうだろう、おれの親はなっちゃなかった、てめえたちには一粒だねだから、可愛くって大事な子だったろう、まるで飴ん棒のように甘く、我儘のし放題に育てた、小言を云うのも<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れ物に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>るようなあんべえ式だ、そんなこって子供が満足に育つかってんだ」

男は指で佃煮を<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>み、口へ放り込んで噛みながら、徳利へ口を当てて飲んだ。

「ごらんの如く」と男は片手で胸を押えた、「おらあこんな人間になった、牢屋のめしこそ食わねえが、ぬすっと同様なこともし、女を売りとばしたことも五たびや六たびじゃあねえ、大阪では<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>のでいりで、人を二人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>たことさえあるんだ」そして急に声をひそめ、喜兵衛の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながら云った、「おめえ、人を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あやめ</span>るってことを、知ってるか」

「自慢されたのは初めてだ」と喜兵衛が云った、「もう要件を持ち出してもいいだろう」

「金五十両」と男が云った、「あさっての朝までに都合してもらおう」

「どういう理由だ」

「この屋敷と和泉の娘の代銀だ」と男は云った、「おれはこの城下へ半月めえに帰ったが、ここでもまたまちげえをやらかして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふけ</span>なきゃあならねえ、町にもいどころがねえから、鶴来の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>に隠れてるような始末だ、あさっての朝までに金五十両、それでおめえも厄介ばらいができる、安いもんだぜ」

「<ruby><rb>草鞋代</rb><rt>わらじだい</rt></ruby>として小粒一枚、それ以上は<ruby><rb>鐚</rb><rt>びた</rt></ruby>一文もいやだ」

「小粒一枚、と、一分か」

「草鞋代には多すぎるだろう」

「おいおい」男は片ほうの<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>って、裸になって膝がしらを叩いた、「おめえおれの云ったことを聞いていなかったのか、おれは九寸五分の義十といって、海道筋に人相書の廻っている男だぜ、五十両とは急場だから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まけ</span>たんだ、取る気になれば百両、二百両でも取ってみせるぜ」

「面白いな」と喜兵衛が云った、「できるなら取ってみろ」

男の顔が<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>と<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばり、唇が一文字になった。喜兵衛は躯の筋をゆるめ、さあ来い、と相手の眼をみつめた。すると男は歯を出して笑い、裸の膝を叩いて「負けたね」と云った。

## 四

「いい呼吸だ、負けたよ」男は卑屈に笑って徳利を取り、それを口へ持ってゆきながら云った、「さすがに江戸育ち、本場で鍛えただけのことはあるぜ」

徳利の口から飲むとみえたが、いきなり<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を返して徳利を投げつけ、喜兵衛が<ruby><rb>躰</rb><rt>たい</rt></ruby>を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>すところへとびかかった。かなり酔っている筈なのに、その動作は的確ですばやかったし、とびかかるとき右手で<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>が光った。喜兵衛は投げられる徳利は見ずにその匕首を見、自分から仰向けに倒れながら、突込んで来る相手の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>き腕をつかみ、足をはねた。男は喜兵衛の上でもんどりを打ち、投げとばされた勢いで障子の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>まで<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>っていった。はね起きる隙はあったのだろうが、あまりきれいにきまったのでぼっとしたらしい。気がつくより先に、喜兵衛が馬乗りになっていた。

「きさまは人間じゃない」喜兵衛は匕首をもぎ取って投げ、片手で男の首を押えながら、片手で顔を殴りつけた、「畜生にも劣ったやつだ」

彼が殴るたびに、男の頭が右へ左へと揺れ、唇が切れて血が出た。

「わかったよ、おめえは強いよ」男はなだめるように云った、「おれの負けだ、みっともねえからもうよそう」

「きさまなどにものを云ってもむだだろうが、よく聞け」喜兵衛は男の喉を押えた手に力を加えながら、云った、「きさまは親が甘く育てたからこんな人間になったと云った、きびしく育てればきびし過ぎたと恨むだろう、<ruby><rb>臆病者</rb><rt>おくびょうもの</rt></ruby>、<ruby><rb>卑怯者</rb><rt>ひきょうもの</rt></ruby>はみんなそれだ、自分で悪いことをしておきながら、その責任を人に背負わせようとする、なにより恥知らずな、きたならしい卑劣な根性だ」

男の顔がどす黒くふくれ、眼球がとびだしそうになった。男の躯から力がぬけ、手足がだらっと畳の上で伸びた。喜兵衛は喉の手をゆるめ、もう一つ平手打ちをくれてから、男を放して立ちあがった。

「けがらわしいやつだ」と喜兵衛は云った、「出てゆけ」

男は喉を撫でながら咳をし、仰向きに伸びたまま喜兵衛を見た。

「すると」と男はしゃがれ声で云った、「五十両はだめか」

「出てゆけ」と喜兵衛が云った。

「たった五十両、安いもんだがな」男は咳きいり、喉を撫でながら、ゆっくりと起き直った、「おう痛え、喉ぼとけが潰れるかと思った、おめえおっそろしく強えんだな」

喜兵衛は黙って立っていた。

「こうとは知らなかった、どうやら相手をまちげえたらしい、おめえなら話はわかると思ったんだが、おう」と男は喜兵衛を見て、わざとらしく首をすくめた、「そんなおっかねえ顔をするなよ、足がふるえて立てなくなるじゃねえか、いますぐに出てゆくよ」

男は掛け声をして立ちあがり、大げさによろめいて、また喉を撫でた。

「しようがねえ、もう運の尽きだ」男は<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をついて云った、「じたばたしても始まらねえからおやじの名を出すとしよう」

喜兵衛はなお黙っていた。

「勘当されても血はつながってる」と男は続けた、「当藩の家老、繁野兵庫の子だ、義十郎だと<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>をあかせば、まさかやつらも手は出せめえ、これからは繁野義十郎を看板に、大手を振って歩いてやるぜ」

「この城下のことはそれで済むかもしれない、だが海道筋に人相書の廻っているという、凶状のほうはどうだ」

「人のこった、<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぺい</rt></ruby>しなさんな」男はせせら笑った、「どうせいつかはお<ruby><rb>仕置</rb><rt>しおき</rt></ruby>になる躯だ、この土地でお繩になれば親の名に<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>がつく、和泉の娘にも箔がつく、なにしろ子供じぶんからの許婚者だったからな、おめえも嫁にもれえ甲斐があるぜ」

喜兵衛は<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>なく肚をきめた。

「きさまの勝ちだ」と喜兵衛は云った、「<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>をぬいだ、金は都合しよう」

「五十両だぜ」

「あさっての朝早く、鶴来八幡へ届けよう、但し、金を受取ったらその足で城下を立退いてもらおう、その約束ができるか」

「口約束でいいのか」男はまた嘲笑した、「それとも証文でも書こうか」

「約束も証文もいらない、立退くか立退かないかだ」

「金を見てからだな」男はまわりを眺めまわし、落ちている匕首を拾った、「じゃあ、あさっての朝、――待ってるぜ」

袂から<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を出し、匕首をおさめてふところへ入れると、汚ない歯を出して笑ってみせ、痩せた肩を突きあげながら、勝手のほうへ出ていった。

喜兵衛は立ったまま、裏戸のあいて閉る音を聞き、それから「仁兵衛」と家僕の名を呼んだ。家の中はしんとして、答える声も、物音も聞えなかった。彼は行燈を持って、寝間へはいった。――明くる朝、喜兵衛は家僕に向って、昨夜のことを口外するなと、固く命じて登城した。石沢に相談しようとも思わなかった。相談することはない、手段はたった一つなのだ。

喜兵衛は胸の中で怒りを育てた。怒りが少しでも軽くなったり、決心した気持がにぶったりすることをおそれ、絶えず義十郎の言葉や態度を、ことこまかに思い返していた。

「石沢の云ったことは本当だ」彼は下城しながら呟いた、「繁野さんは子の育てかたを後悔して、おれには必要以上にきびしくしたんだ、ぶきような人だな、正直すぎてぶきような人だ、育てかたで人間の性分がきまるなら、世の中に悪人なんか出やあしないのに、うん、おれを好いているというのも本当らしい、たぶんおれが、あいつのようになることを恐れたんだろう、いい人だな」

「あんないい父親を持ちながら」とまた彼は呟いた、「ひとでなしめ」と云って唾を吐いた、「きれいに片をつけてやるぞ」

その夜、喜兵衛は差替えの刀を出して、手入れをした。常の<ruby><rb>差料</rb><rt>さしりょう</rt></ruby>は使いたくなかった。犬を斬るよりけがらわしい、済んだらそのまま捨ててしまおう、と思っていた。――家僕に起こす時刻を告げ、彼はいつもより早く寝間へはいり、なにも考えずに熟睡した。

翌朝、家僕が知らせに来るまえ、喜兵衛はもう起きて着替えをし、井戸端へ洗面に出た。東は白んでいるが、あたりはまだ暗く、地面は霜で白く<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>われていた。洗面が済むとすぐに、「ちょっと歩いて来る」と云い、食事をせずに家をでかけた。――鶴ヶ岡までは約二十町ある、町はまだ殆んど眠っていたが、農村から車で野菜を運ぶ農夫たちが、霧の中を近づいて来てはすれちがっていった。空が明るくなるにつれて、霧が濃くなり、鶴ヶ岡の下までいったときには、岡の樹立も見えなかった。

八幡社へゆくには五十段の石段と、その先は稲妻形になった坂道を登らなければならない。その左右は苔の付いた崖で、僅かながらいつも水が湧き出ているため、石段は薄く氷に掩われてい、喜兵衛はそこで三度も<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>った。

「おい、しっかりしろ」と三度めに彼は舌打ちをした、「だらしがねえぞ」

石段が終って坂道になった。

<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>はゆるやかであるが、<ruby><rb>赭土</rb><rt>あかつち</rt></ruby>のその道は霜柱が立っていて、浮いた土が<ruby><rb>雪駄</rb><rt>せった</rt></ruby>の裏にねばり着くため、歩くのにひどく骨が折れた。初めに左へ登り、次に右へ登る。その二た曲り曲ったところで、喜兵衛はさっと刀へ手をやりながら、立停った。

上からおりて来る者があった。

――義十郎か。

そう思ったのだが、霧の中をおりて来たのは繁野兵庫であった。喜兵衛は口をあき、兵庫がよろめくのを<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と眺めていた。極めて短い時間だったろうが、兵庫の姿が夢の中で見る人のように感じられたのである。――だがすぐに、喜兵衛はそっちへ駆け登った。霜柱のために滑って膝を突き、立ちあがってまた膝を突き、両手も泥まみれになった。

兵庫は彼の見ている前で倒れ、低い<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声をもらした。二十尺にも足りない距離を、喜兵衛は泥まみれになりながら、殆んど這うようにして登った。

「御家老」と彼は<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ、兵庫を覗きこんで呼びかけた、「どうなさいました、御家老」

「済ませて来た」と兵庫が歯と歯のあいだから云った、「おれは自分の手でやりたかった、人の手に掛けたくはなかったのだ」

喜兵衛はぎゅっと顔をしかめた。兵庫の躯から血の匂いがたち、見ると、脇腹を押えている手が赤く染まっていた。

「傷をみましょう」と喜兵衛が云った。

「大丈夫、深手ではない」と兵庫がしっかりした声で云った、「あの臆病者は、霧の中からとびだして来て、いきなり刺した、深くはない、急所も外れている、――ばかなやつが、おれだとわかったら、ふるえだして、人違いだと云った」

「血を止めなければいけません、傷をみせて下さい」

「医者を呼ぶほうが早い、こうしているから、済まないが馬場脇の<ruby><rb>祐石</rb><rt>ゆうせき</rt></ruby>を呼んで来てくれ、いっしょに<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>も頼む」

「しかしお一人で大丈夫ですか」

兵庫は微笑してみせた、「次永、――仁兵衛を叱ってはならんぞ、彼はおれの申しつけを守っただけだ、いいか」

やっぱりそうだったのかと思い、喜兵衛は「はい」と答えて立ちあがった。

「あの臆病者が」と兵庫が呟いた、「――ふるえながら、人違いだと云った、……哀れなやつだ」

兵庫のかたくつむった眼尻から、涙のこぼれ落ちるのを、喜兵衛は見た。彼はすぐに顔をそむけて、滑りやすい道をおりていった。