## 一

お<ruby><rb>孝</rb><rt>こう</rt></ruby>はときどき自分が恥ずかしくなる。鏡に向っているときなど特にそうだ。

「――まあいやだ、いやあねえ」

独りでそんなことを<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて、独りで赤くなって、鏡に写っている自分の顔を、一種の<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>られるような気持で、こくめいに眺めまわす。全般的に見て、いやな言葉だけれども、<ruby><rb>膏</rb><rt>あぶら</rt></ruby>がのってきている。皮膚が<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>けるようなぐあいで、なにかの花<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びら</span>のように柔らかく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しっとり</span>と湿っていて、<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でると指へ吸いつくような感じである。

或る気分としては眼をそらしたい。<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>というものをもって半年あまりになるが、そのあいだに自分の<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>にあらわれた変化は、これには自分としても<ruby><rb>衒</rb><rt>て</rt></ruby>れて、頬の熱くなることがしばしばあった。

――いやあねえ。

こう思うのはそのままの実感である。<ruby><rb>胸乳</rb><rt>むなぢ</rt></ruby>のたっぷりした重さ、腰まわりのいっぱいな緊張感、痛いほど張った<ruby><rb>太腿</rb><rt>ふともも</rt></ruby>。そのくせ胴は細く緊って、手足も先端にゆくほどすんなりと細い。その膏の乗って肥えた部分と、反対に細く緊った部分との対比が、娘時代とはあきらかに違ったもので、つい頬が熱くなり、眼をそらしたくなるが、じっさいは胸がどきどきし、唆られるようなふしぎな気持で、いつまでも眺め飽かないのであった。

「――ふしぎだわ、女の躯って、……どうしてかしら、ほんとにいやだわ」

いやだと云いながら、しかも一方では、いくら眺めても眺め飽きないのである。

「――なにをしているんだ、またそんな恰好で、肌をいれたらどうだ、風邪をひくじゃないか」

父親に叱られて、はっとして、そのくせ自分でもわざとらしいほどおちついた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すま</span>しようで、ゆっくりと着物の袖へ手を入れる。毎々のことだがこれもじつは恥ずかしい。母親がはやく亡くなったせいだろう、まえには父親のほうで気にして、髪結いにゆけとか、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>きかたが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞんざい</span>だとかよく云われたものだ。

――母親がいないと娘はじじむさくなるって、世間ですぐに云われるんだから、……いっそ白粉を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>ないなら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>ない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>るなら娘らしくちゃんと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つけ</span>るがいい。

――今日はこれでいいのよ、今日は白粉の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のり</span>が悪いんだもの……それに天気がこんなでくさくさしているのよ、こんな、……白粉なんかどっちでもいいわ。

――それじゃあ済まないんだ、女の髪化粧というものは世の中の飾りといってもいいくらいで、うす汚ない<ruby><rb>饐</rb><rt>す</rt></ruby>えたような<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>でも、きれいに髪化粧をした女がとおれば眼の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たのしみ</span>になる、……いっときその饐えたような裏店が華やいでみえる、……つまり春になって花が咲くように、世の中の飾りの一つになるんだ、……化粧をするんならそのくらいの気持でするがいい、おまえのは自分本位で、そういう気持はなおさなければいけない。

この種の問答が幾たびかあった。

――まあいやだ、世間の飾りだとか人の眼を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たのしま</span>せるなんて、あたし聞くだけでも胸がむかむかするわ。

お孝は<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>のないところこう思っていた。それが<ruby><rb>時三</rb><rt>ときぞう</rt></ruby>を婿にとってから変った。父親の云ったことは本当らしい、髪をいじり化粧をするとき、ふと気がつくと時三の眼で自分の髪かたちや化粧の効果をみている。時三は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むくち</span>でなにも云わないが、髪化粧が気にいったときは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほう</span>という眼つきをする。

――あざやかだね、眼がさめるようだね。

そんなふうに云っているのがわかる。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くち</span>上手な者の百千言よりも、良人のそういう眼つきのほうが含みがあってよほどうれしい。またお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて買い物に出るときなども、人に振返って見られたりすると張合があった。……むすめ時代には自分の<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>にひかれるのだと思って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いや</span>でないまでも愉快な気分にはなれなかった。しかし今では自分が誰かの眼を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たのしま</span>せるということが、或る程度まで逆に自分をたのしくさせるようになった。そんなこともしぜん化粧が念入りになった原因かもしれない。

――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">げんきん</span>なものだ。

父親がそう思っているような感じである。気の勝ったお孝には恥ずかしいが、いろいろな面で云って恥ずかしいが、どうしたって鏡に向うことが多いし、その時間が長くなるのは、これは自分でもいまさらどうにもならない。――春が来て花が咲くようなもんだもの、いいじゃないの。などといっそ肚を据えたかたちであった。

「どうするの、お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>つぁん、夜釣りにゆくんならお弁当の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したく</span>をするけれど」

「――時三は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あした</span>休みじゃあないのか」

「いやよ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あした</span>は六<ruby><rb>間堀</rb><rt>けんぼり</rt></ruby>へ菊見にゆくんですもの、釣りになんぞさそいだしちゃだめよ」

「――まるっきり独り占めだ」

「いいじゃないの夫婦ですもの、お父つぁんの御亭主じゃあるまいし、……その代り今夜は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おいしい</span>物を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おご</span>ってあげるわ、お父つぁんの大好きな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おいしい</span>物、ね、いいでしょ」

## 二

<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>六間堀と<ruby><rb>森下</rb><rt>もりした</rt></ruby>にまたがって、<ruby><rb>植辰</rb><rt>うえたつ</rt></ruby>という大きな植木屋がある。そのころ菊は染井というのが一般的であったが、数年まえから植辰でも力みだして、一種の風格ある花壇を作って展観させた。大輪とか変り咲きとか<ruby><rb>懸崖</rb><rt>けんがい</rt></ruby>などの、人工の加わったものは少ない、ごくありきたりの種類をごく怠慢にそだてたふうである。その方面に眼のない者は多少失望した。出来そくないだなどと放言する者もあった。けれども文人雅客とか幾らか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひねった</span>趣向を好む人々は、つまり具眼の士は感服した。

――野のふぜいですな、よく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつ</span>しましたな、どうもなんとも云えぬふぜいですな。

――菊はこう作るのが本筋である、乱菊、これが自然である、染井のなどは邪道であって、あれなどは花を片輪にしたものである、おれとしてはこれなら飲める。

菊を飲むわけではない。菊を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さかな</span>にして酒をやろうというのである。そこで植辰<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がわ</span>では花壇の要所とおぼしき処々へ茶店を設けた。そのうちに四つ五つ小座敷のあるのも建て、そこではちょいとした女などもいるし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きどった</span>ような料理などもできる。……お孝は時三といっしょにその茶屋のひと間を借りて、持って来た重箱を開いたり、またその<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の料理など注文したりして、二人で菊を眺めながら半日を過した。

「あたしこのごろ死ぬのが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こわ</span>くてしようがないの、ねえ、あんたそう思わなくって」

「――躯のぐあいでも悪いのか」

「そうじゃないの、死ねばあんたと別れ別れにならなくちゃならない、顔も見られないし話もできなくなるわ、そう思うと死ぬのが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こわ</span>くて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こわ</span>くて、胸のここらへんに固い石のような物が詰ってくるのよ」

「――だっていつかは、……そいつばかりはしようがないだろう」

「だからそう思うの、いつかは死ぬんだから、せめて生きているあいだ、生きてこうしているあいだだけは、紙一重の隙もない夫婦でくらしたい、これまでのどの御夫婦にもできなかったくらいに、……あたしあんたにできるだけのことをするわ、ねえ」

お孝は良人の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を片方の手で、上から強く押しつけながら、じっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ながし</span>眼に見あげた。

「身も心もあんたの思いのままよ、あんたのためならどんなことでもしてあげてよ、ねえ、だからあんたもいつまでも変らないであたしを可愛がってね、よそのひとに気をひかれたり、あたしに隠れて浮気なんか決してしないでね、ねえ、よくって」

「――私にはそんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はたらき</span>はないらしい、だいいち先方で相手にしないよ」

「うそうそ、あんたにはおんな好きのするところがあるわ、あんたを見ているとなにか世話をしたくなるの、男ぶりだけじゃなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひとがら</span>がそうなんだわ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>だってあんたを見るときの眼つきは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べつ</span>なんだもの」

「――ばかなことを」

時三は眉をしかめ、顔をそむけた。

「あら本当よ、<ruby><rb>槇町</rb><rt>まきちょう</rt></ruby>にいたじぶんだって、近所の娘さんたちに騒がれたってこと知ってるわ、<ruby><rb>歌沢</rb><rt>うたざわ</rt></ruby>のお師匠さんのことだって、……いやよあたし、これからもしそんなことがあったらあたし生きちゃいないわ、ねえ、いいこと」

「――いったいどうしたんだ、今日は」

時三はこんどは不審そうにお孝を見た。

「――へんなことばかり云って、本当にどこかぐあいでも悪いんじゃないのか」

「ぐあいなんか悪くはないわ、それにちっともへんなことなんて云やしなくってよ、あんたにはあたしの気持がわからないからそんなふうに聞えるんだわ、そうよ、あたしのことなんて、……あんたはちっとも思って呉れてやしないんだわ」

「ばかなことばかり云って、わけがわからない」

こう云いかけるまにお孝は<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で顔を押えて、時三の膝へ泣き伏してしまった。もちろん悲しいのではない、むやみに切ないような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もどかしい</span>ような気持で、泣いてしまうよりほかに自分で自分の始末がつかなかったのである。

結婚してから約半年めのその日が、お孝の気持にかなりはっきりと一種の転機を与えた。それは良人が自分にとって絶対にかけがえのないひとだということ、もし良人がよその女に心をうつしでもしたら、本当に自分は死んでしまうだろうということであった。……結婚した女ならそう思わない者はないだろう、ごく普遍的な感情であるが、お孝のばあいはそれがやや極端であった。

下町そだちはいったいに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ませ</span>るものだが、お孝は珍しいくらい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おく</span>で、その年の三月、二十歳で時三を迎えるまで男などに気をひかれた覚えは殆んどなかった。家は三代続いた袋物商で、<ruby><rb>采女町</rb><rt>うねめちょう</rt></ruby>の「田村」といえば一流の店でとおっていた。田村から出て店を持ったものが七軒あり、これを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たなうち</span>といって、親類同様に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でいり</span>しているが、この人たちがはやくからお孝に縁談をもちだしてきた。それはお孝がひとり娘だからどうせ婿を取らなければならない、「<ruby><rb>本店</rb><rt>ほんだな</rt></ruby>」がおちつかないと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たなうち</span>も安心できないという公式論であった。……その裏には「本店」をめぐる親類や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たなうち</span>の、一種の競争のようなものもあったらしいが、それはべつとして、お孝もうすうす感じていたのは、父親の伊兵衛の問題であった。

お孝の母は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>といって、お孝の九つの年に亡くなったが、家<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つき</span>の娘で、伊兵衛は店で育って婿になおったのである。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>はお孝よりずっと<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>よしだった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なにがし</span>とかいう<ruby><rb>絵草紙屋</rb><rt>えぞうしや</rt></ruby>が、一枚絵にしたいと云って交渉に来たこともあるそうで、これはもちろん謝絶したが、そのくらい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きれい</span>だった代りに躯が弱く、医者のでいりの絶えることがなかった。……そんなところから、気性の知れた温和な、酒も煙草ものめない伊兵衛が選ばれたものらしい。……予想どおり伊兵衛はいい良人だった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いね</span>はお孝を産んでから一年の半分は寝ているというふうで、小田原町の大川に近いこの家も、彼女の療養のために建てられたものであるが、伊兵衛はその小田原町の家と店とを往復する以外には、横丁へも曲らないというくらいに、忠実に妻に仕えとおした。

妻が亡くなってから、当然<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あと</span>のはなしがいろいろ出た。しかし伊兵衛は柔和にうけながすばかりで、どうしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あと</span>を貰おうとはしなかった。……お孝にはやく婿を取らせようという、周囲の人たちの気持には、そうしたあとで伊兵衛を隠居させ、しかるべき<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のちぞえ</span>を持たせようという、含みがあったのである。

――ねえお父つぁん、どうしておっ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんを貰わないの、ねえ、おっ母さん貰ってよ。

十二三のお孝はそんなことをよく云った。それから暫く経つと、<ruby><rb>常磐津</rb><rt>ときわず</rt></ruby>やお針の稽古へいって、そこで聞く世間ばなしが、しばしば男女間の<ruby><rb>艶聞</rb><rt>えんぶん</rt></ruby>に属し、ことに男というものが浮気で悪性だという定説になっていることを知り、こんどは父親に対する不信と疑惑に苦しめられた。……伊兵衛はその前後から釣り道楽をおぼえて、ときどき夜釣りなどにいって朝帰ることがあった。そんなときお孝は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>推量で、父親がよそに愛人を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かこ</span>っていて、その人のところへ泊りにゆくに違いないと思い、胸が半分に縮まるような、呼吸困難に近い苦しい気持におそわれるのであった。

――ねえ、本当に釣りにいったの、よそへ泊ったんじゃないの、ねえ、本当に釣りにいったの。

こんなぐあいにうるさく云って、しまいにはいっしょに付いていったことも幾たびかあった。伊兵衛はその頃からお孝と小田原町の家へ移り、飯炊きの老婆と女中を使って、<ruby><rb>父娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>二人さし向いの生活を始めた。……妻と娘とが交代したかたちである。店と小田原町とを往復するほかには、やっぱり横丁へも曲らないといったふうで、夜釣りも近くの<ruby><rb>寒橋</rb><rt>さむさばし</rt></ruby>のあたりで満足した。

寒橋というのは小田原町から<ruby><rb>築地明石町</rb><rt>つきじあかしちょう</rt></ruby>へ渡したもので、京橋堀と見当堀が大川へおちる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おちくち</span>にあった。<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>に大きな石のごろごろした、吹きさらしの、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さむさ</span>橋」という俗称のぴったりする観景である。……伊兵衛はそこで釣りをした。寒い季節には<ruby><rb>布子</rb><rt>ぬのこ</rt></ruby>を重ねたうえから<ruby><rb>羅紗</rb><rt>らしゃ</rt></ruby>の古い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みちゆき</span>を着て、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もうろく</span><ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>をかぶって、崩れた石垣の上に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つくねん</span>と糸を垂れている。お孝はそんな恰好をしばしば見にいった。

家から近いので、眠れないときなどは、熱い湯茶を持ってゆき、父のそばに身を<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、暗い大川の水を眺めながら、ながいこと時を過すこともあった。

――躯のぐあいのいいときには、おっ母さんも茶や弁当を持って来て呉れたもんだ。

伊兵衛はときにそんな話もした。

――目黒から来たお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とり</span>という女中がいて、それに持たせて来るんだが、……おまえが今そうしているそこんところに跼んで、いつまでも私の釣るのを見ている、……お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とり</span>は眠いさかりだから迷惑なはなしだ、よくいねむりをしたっけ、……そうするとおっ母さんも笑いながら、しかたなしに帰ってゆくんだが、……その笑い声がまだ耳にのこっているようだ。

お孝にもそのようすが見えるようだった。病弱な母と温和で実直な父との、互いに<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>りをこめた静かな愛情、初冬のやわらかい日ざしのような、透明な暖かい愛情、それがお孝にだんだんとわかってきた。

――お父つぁんが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あと</span>を貰わないのも、よそに好きな人を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つく</span>ったり、浮気をしたりしないのも、亡くなったおっ母さんが忘れられないからだ、二人はそんなにも愛しあっていたんだ。

お孝はそう思った。世間では男は浮気で悪性と定説になっている、そういう事実も見たり聞いたりする。父のような人はおそらく<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>だろう、とすれば男なんていやらしい、どんなことがあっても結婚なんかしない。……こんなふうに一つの信条さえもつようになった。躯のほうも発育がおそかったらしいが、父親のほかには男など<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まっぴら</span>という気持だった。

結婚して半年<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>ぐらいからの、良人に対する激しい愛着心は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うがって</span>云えばその反動でもあろう、発育のおくれていた躯や心が、にわかに生き生きと成長し始めたためもあろう。いずれにせよ、男と女の愛情というものが、身を<ruby><rb>灼</rb><rt>や</rt></ruby>くように楽しく、一面にはこんなに苦しく哀しいものかということを、お孝も自分で体験する時期になったのである。

## 三

一年と経ち二年と経った。

時三が来てまる二年めの五月、父の伊兵衛がとつぜん吐血して倒れた。医者は胃に<ruby><rb>潰瘍</rb><rt>かいよう</rt></ruby>が出来たという診たてで、そのまま九月まで寝とおした。この期間ずっと、伊兵衛の世話は女中のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が独り占めでやった。まず喰べ物を作るのが手間と時間をくうし、温石を当てるとか胃部を冷やすとか、薬を<ruby><rb>煎</rb><rt>せん</rt></ruby>じるとか便器のめんどうをみるとか、動くことを禁じられている病人なので、看護にはたいへん手数と努力が必要だった。……お孝も傍観していたわけではない、つとめて世話をしようとするのだが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が先へ先へと奔走するし、当の病人からしてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>にかかりたがった。

「それはお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>にさせるからいい、おまえはそっちにすることがあるんだろう、構わないからそっちのことをして呉れ」

こんなふうに云って、なるべくお孝の手を避けようとした。

「へんねえ、なんだかへんだわ、まさかと思うけれど……どうしたのかしら」

「へんなことはないさ、おまえは私のこともしなくちゃあならないし、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>ならかかりっきりになれるからさ、……動けない病人には看病の手の替ることがいちばんいやなものらしいよ」

「それはそうかもしれないけれど、でも……」

お孝は良人とそんなことを話しながら、ひとつ頭にひっかかるものがあった。それは去年お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>に縁談があって、又とないくらい良縁だったのをお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が断わった。……お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>は南千住に家があり、十五の年から奉公に来ている。お孝より一つ下で、気はしもきくし縹緻も悪くない、いわゆる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おかめ</span>型のぽっちゃりした、躯つきも小柄な<ruby><rb>愛嬌</rb><rt>あいきょう</rt></ruby>のある娘だった。……それまでにも幾たびか縁談があったが、いつもまだ年が若いからと首を振っていた。

――あたし一生お孝さんのそばにいたいんです、お嫁にゆくのなんかいやなこってすわ。

こう云い張っていた。しかし去年のときはもう二十にもなるし、断わる理由がどうにもわからなかったのである。お孝は冗談のように、

――あんたが好きだからよ。

などと良人に云ったことがある。それには時三が婿に来てから、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>のようすがどことなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまめか</span>しくなり、時三になにか云われたりするとふと顔を赤くしたり、また<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しお</span>のある眼つきで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と見たりした。……いつか六間堀へ菊見にいったとき、思わずそのことを良人に云って、不愉快そうにそっぽを向かれたことがあるが。……父が病気になってからのようすを見ると、やはりそこにあたりまえでないものがあるような感じで<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だった。

「いいじゃないか、お父つぁんが気にいってるんだから、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>だっていやいやしているんじゃあないし、気を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>むことはないじゃないか」

「あたしってやきもち<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やき</span>なのかしら」

「あっさりしているほうじゃあなさそうだな」

「――憎らしい、あんたのせいよ」

「またそれか、よく飽きないものさ」

「だって本当なんですもの、あんたといっしょになるまえには夢にもこんな気持は知らなかったわ、こんな気持って、……本当に自分でもいやよ」

あんたのせいよと云う言葉は無根拠ではなかった。時三は日本橋槇町の「松葉屋」という、やはり袋物商をしている家の二男で、男ぶりもいいし職人はだで、近所の娘たちにずいぶん騒がれたというし、稽古にかよっていた歌沢の若い女師匠とは、かなり深いつきあいがあったということを聞いている。……もちろん結婚するまえにきれいに片がついていたらしいが、いっしょに生活してみると、そういう事実があったろうということが、お孝にはよくわかった。

時三は田村へ来てからも、店に坐るよりは仕事をするほうを好んだ。店は他吉という番頭に任せて、自分は一日じゅう仕事場にこもっている。あいそっけはないし口数は少ないし、いつも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むっ</span>としたような顔をしているが、そこにちょっと説明のつかない強い魅力があった。……一手にひきうけて世話をしてやりたいとか、思いっきり<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>めてやりたいとか、薄情な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>にあって泣かされてみたいとか、それそれ気性によって違うだろうが、いずれにせよ彼を見ているとなにか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまっ</span>てみたくなる、要するにほうっておけない気持になる。

――これがおんな好きのするっていう型なんだわ、いちばん危ない型だわ。

お孝は自分の身にしみてそう思った。

結婚してまる二年も経ち、疑わしいようなことはいちどもなかった。良人が誠実であるということは<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>からしい、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>などする余地は少しもない。こう安心していながら、一方ではそんな筈がないという気持がぬけず、ついすると良人をうるさがらせ、自分でもいやになるようなことを云ってしまう。

――みんなあんたのせいよ。

お孝としてはこう云うよりほかに立つ瀬がなかったのである。

## 四

伊兵衛は九月の下旬に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とこばらい</span>をした。

そのちょっと前のことであるが、或る夜ふっと眼がさめると、いつも点いている<ruby><rb>有明行燈</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>が消えていた。油でもきれたのかと思って、そのまま眠ろうとしたが、どうしてか眼が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えてしまって眠れない。暫くしてそっと起き、音を立てないように気をつけて手洗いにゆこうとした。……すると廊下の向うで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっ</span>と<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の明く音がし、ひと言、低く誰かの<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>く声が聞えた。父がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>になにか云ったのだろうと思い、廊下へ出ると、足音がこっちへ来た。高い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">れんじ</span>窓はあるが夜中のことで、まっ暗でわからない。お孝は用心して、

「――だあれ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>かえ」

と声をかけた。ぶっつかってはいけないと思ったからだ。すると向うは気がつかなかったとみえ、よほどびっくりしたようすで、

「――私だ、……どうしたんだ」

へんにうわ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずっ</span>た声で時三が答えた。

「あんたなの、暗くってわからなかったわ」

「――どうしたんだ、そんなところで、……なにをしているんだ」

「ばかねえ、こんな時刻になにをするわけがないじゃないの」

お孝は低く笑いながら、

「ああ気をつけてね、行燈が消えててよ」

こう云って良人とすれ違った。もういちどはもとの常磐津の師匠が病気だというので、四五人の稽古友達と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みまい</span>にゆくことになった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>の手がはなせないので、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みまい</span>の品を持って独りででかけたが、帰りにはみんなで夕飯をすることになっていたから、念のため采女町の店へ寄った。

「たぶん日本橋の花川だと思うの、お文ちゃんも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よん</span>ちゃんもいける口だから少しおそくなるかもしれないけど、……もし早かったら槇町へちょっと顔出しして来ますからね」

良人にこう断わっていった。

師匠の家は<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>三丁目にある。もう五十六七になる陽気な人で、腰の筋を違えたというだけの、病気とはいえない軽い故障だった。集まった友達はみんな結婚していたし、下町で育って下町ぐらしの、それぞれ<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きのいい者ばかりだから、いっそ花川などはやめて<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>で<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかにやろうということになり、たちまち受持をきめて必要準備をととのえ、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく賑やかに酒宴を始めた。

音頭取りはお文ちゃんであった。お孝とは隣りづきあいの幼な友達で、家は佐野庄という大きな足袋屋、お孝より二年はやく婿を取って、もう三人の子持ちだった。

――亭主なんてのさばらしちゃだめ、暴れ馬を扱う<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こつ</span>でやるのよ、がっちり<ruby><rb>轡</rb><rt>くつわ</rt></ruby>を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>ませてぎゅうぎゅう手綱を緊めておくの、あたしなんか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐっ</span>とも云わせやしないわ。

こんなふうに威勢がいい。女中のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>もお文ちゃんが世話をして呉れたものだ。……なにがさてみんな二十二三の若い世帯持ちで、いっぱし世間の味を知ったつもりでいるのだから、少し酒がはいると一座は壮観を呈してきた。お孝もいくらか飲める口ではあるが、あまりにみんなの話が<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>的なのと、いつもより少し過したせいかまもなく気持が悪くなり、とうていつきあいきれないと見込みをつけ、うまくごまかして独りだけ先にぬけだした。

時刻はまだ早かった。外へ出て風に当ってみるとさしたることもない、槇町へゆこうかと思ったが、それも<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>で、店へも寄らず家へ帰った。……すると、――もともと寮<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふう</span>に造った家で、かなりな庭に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふじつぼ</span>の<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>の付いた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しび</span>の垣根をまわし、萩を編んだ折戸の小さな門があるが、――その門をはいるとすぐそこの、袖垣の蔭のところに時三とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が立ち話をしていた。

このときは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どきり</span>とした。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>は泣いているらしい、良人は腕組みをし、うなだれて、なにか低い声で話していた。ほんの一瞬のことだったが、お孝は足が<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みそうになった、しかしそれより早く良人がこっちへ振返った。……門のあく音で気がついたのだろう、こっちへ振返って、おちついた眼つきで、

――いいから家へあがれ。

というような合図をした。そのおちついた眼つき、少しも慌てたようすのないそぶりでお孝はほっとし、黙って家へはいったが、着替えをするときもまだ胸がどきどきしていた。

「お父つぁんに叱られたんだ、おまえは知らないつもりでいるほうがいい」

あとから来て時三はそう云った。

伊兵衛が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とこばらい</span>をしてから、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>のようすがどことなく変ってきた。いつも浮かない顔をしていて、これまでついぞないことだが皿小鉢を<ruby><rb>破</rb><rt>わ</rt></ruby>ったり、腹ぐあいが悪いといって四五日も黙って寝ていたり、また夜中にお勝手で<ruby><rb>嘔</rb><rt>は</rt></ruby>こうとして、いやな声をだしていたりした。

そうしてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>は十月の末になって、躯の調子が悪いからと、急に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひま</span>を貰いたいと云いだし、ひきとめる手を振切るようなぐあいに実家へ帰っていった。

「どうしたんでしょ、七年もいて家の者も同様にくらして来たのに、なにが気に障ってあんなふうに出ていったのかしら」

「――急に嫁のはなしでもあったんだろう」

時三はこう云っていた。

「――どうせ死ぬまでいる者じゃなし、いつかは出てゆくんだから、私の病気もおちついたところだしいいじゃないか」

伊兵衛もこう云うだけだった。お孝は多少<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にくらしい</span>と思ったが、そのままにしておけないので、嫁にゆくゆかぬはともかく、かねて予算していただけの品物を買い<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>え、それ相当の金も包んで、南千住の実家というのへ届けてやった。

半月ばかりして女中のはなしが出たが、子供でも生れるまでは用もないので、お孝は自分でやってゆくことにきめた。

「それにしてもへんねえ、あたし赤ちゃんが出来ない躯なのかしら」

「子供なんか急ぐことはないよ」

「だっていやなのよ、友達に会うときまってからかわれるんですもの、……あんまり仲がよすぎるんだとか、お迎えが激しすぎるんだとかって、ねえ、本当にそんなことってあるのかしら、仲がよすぎると、……あらいやだ、へんなこと云いだしちゃって、あたしどうかしてるわ」

「独りで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はしゃい</span>で独りで赤くなってりゃあ世話あねえや」

「いいじゃないの、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>がいなくなってから初めてしみじみした気持になれたんですもの、初めて夫婦さし向いって気持なんですもの、これで早く赤ちゃんが出来れば申し分ないんだけれど、……あたしどこか信心してみようかしら」

年があけて正月の二十日に、常磐津の師匠の総<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざらい</span>があった。毎年の例で、三十間堀の「<ruby><rb>半勝</rb><rt>はんかつ</rt></ruby>」という貸席でやる。当日は古い弟子もみんな集まって景気をつけるのだが、そこではごく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>にしか会えない人に会い、いろいろ情報も聞けるので、古顔は一種の親睦会のように心得ていた。……ここでも経済的な意味ばかりでなく、性来の世話やき好きでお文が<ruby><rb>采配</rb><rt>さいはい</rt></ruby>を振り、総<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざらい</span>が終るなり師匠を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して来て、

「さあこれからお師匠さんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とこあげ</span>祝いよ」

などと気勢をあげた。弟子たちの家からも祝いのお重や<ruby><rb>広蓋</rb><rt>ひろぶた</rt></ruby>がたくさん届いている。そのうえ近所の仕出し屋から<ruby><rb>酒肴</rb><rt>さけさかな</rt></ruby>を取って、去年の病気<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みまい</span>どころではない、華やかで大掛りな宴会が始まった。……こんどは男もかなりまじっているので、女たちの騒ぎには限度があったが、それだけどことなく色っぽい空気がただよい、いい年のおかみさんふうの人までが気取って笑い声をたてたりした。

「お孝さん、ちょっと」

<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>がまわりだしてからまもなく、お文が来て坐って、うす笑いをしながらこっちを見た。

「どうした、あんたの旦<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つく</span>、この頃はおとなしくしている」

お文はわざとそういう口をきく、奮闘したあとで酒がはいって、酔ってもいるらしい、白粉の<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>げた頬が<ruby><rb>巴旦杏</rb><rt>はたんきょう</rt></ruby>のように赤く光っていた。

「この頃っていったって、うちじゃあいつも同じことよ、たいしたこともなしだわ」

「そんなこと云ってるからいけないんだ、あんたは旦<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つく</span>に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れちゃってるんだから、ねえいいこと、夫婦であろうとなんであろうと、男と女のあいだじゃ惚れたほうが負けよ、向うに惚れさせなきゃだめよ、……そりゃあ時さんはいい男でしょ、あたしだってちょいと浮気がしてみたくなるくらいだけど、だからよけい弱味を見せちゃいけないの、……それをあんたはあけっ放しなんだから、あけっ放しで惚れきってるからあんな事になるんだ、なによ、……相手が<ruby><rb>吉原</rb><rt>なか</rt></ruby>とか<ruby><rb>柳橋</rb><rt>やなぎばし</rt></ruby>あたりで、だれそれといわれる<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんならともかく、女中に亭主をとられるなんて女の恥じゃないの」

お孝はあっけにとられた。お文がそんなに酔っているのかと、つい笑いながら顔を見なおした。お文はそれをどう取ったものか、ひどくいきごんで云い続けた。

「おまけにお孝さんときたら、あとから着物や、<ruby><rb>小箪笥</rb><rt>こだんす</rt></ruby>なんぞ買って、お金まで付けて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ったというじゃないの、いまに赤んぼが生れたら引取って育てるなんて云うんでしょ、あたしだったらお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>なんかびりびりに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっちゃぶい</span>てやるわ、しっかりしなさいよお孝さん」

「――お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>って、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>がなにか……」

「あたしに隠してどうするの、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>を世話したのはあたしじゃないの、あたしお孝さんに申しわけがなくって、だからよけい肚が立って、南千住までいってそ云ってやったわ、……もう決して若旦那には会いません、赤ちゃんを産んだら田舎へひっこんでくらしますって、……神妙な顔で泣いてたけど、心のなかでなにを考えてるか知れたもんじゃないわ、いつも云ってるでしょ、旦<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つく</span>にはがっちり轡を噛ませて、手綱をぎゅうきゅう緊めていなければいけないって、……あんたは甘いから……」

お孝はもう聞いてはいなかった。躯がぐらぐらして、倒れそうな気持で、やがて激しい嘔き<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">け</span>におそわれて座を立った。

## 五

それから五日五晩お孝は思い惑った。

お文の話しぶりはずばりとしていて、思い違いではないかという隙が少しもなかった。要約するもしないも、良人とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>がそういう仲になり、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>がみごもったので実家へ帰った。それだけの事実をはっきり事実として語っている。南千住の家まで訪ねてゆき、そこでさんざん怒って、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が泣いて<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びたという。なかでも――もう若旦那には決して会わない、という言葉は<ruby><rb>辛辣</rb><rt>しんらつ</rt></ruby>であった。それは疑いもなく二人の仲を立証する言葉だった。

――本当だろうか、……いやそんな筈はない、あのひとがお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>にそんなことをする筈がない。

そう思えば思うほど、お孝にも幾つか疑わしい記憶がよみがえってきた。有明行燈の消えていた夜のこと、袖垣の蔭で良人と二人きりでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が泣いていたこと、それから良人が来てからのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なまめい</span>たようすや、じっと良人をみる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しお</span>のある眼つきなど。

そうしてとうとう耐えかねて、六日めの夜になって、お孝は良人にそのことをきいた。この瞬間に自分の生き死にがきまるという気持であった。

「本当のことを云って頂戴、あたしおちついて聞くから、……ねえ、決して騒いだりなんかしないから、本当のことを聞かして頂戴」

時三は黙って自分の膝を見ていた。こころもち額が白くなったようである、それからやや暫くして、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くように云った。

「――済まない、勘弁して呉れ」

「いいわよ勘弁して呉れなんて、いいのよそんなこと」

お孝は慌てて笑いながら<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。自分でもふしぎなくらい明るい笑いかたで、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うきうき</span>した調子でさえあった。

「本当のことがわかればいいの、それで、……お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>はいつごろお産するの」

「――今年の五月だったと思うが……」

「そう、五月ね、それを聞いておかなくっちゃあ、……だって知らん顔をしているわけにはいかないでしょ、お産するとなればいろいろ、……あたしとしたって、してあげなければならないことがあるし、……でもわかってよかったわ、あたしちっとも知らなかったんですもの、よっぽどばかでぬけてるのね」

「――お孝、おれが悪かった」

時三は顔をあげてお孝を見た。きれいな澄んだ眼に涙が<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まっていた。

「――魔がさしたんだ、……まちがいだったんだ、本当に悪かった、勘弁して呉れ」

「いいわよ、もういいのよ、誰にだってまちがいということはあるわ、あたしだって、……あら、お父つぁんが呼んでるんじゃないかしら」

お孝はあたふたとそこを立った。

良人の前ではとうとう泣かずに済んだ。恨むこともできなかった。そしてそれから二三日は気分も明るく、ふだんと同じように笑ったり、陽気にお<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りをしたりした。……だが或る夜、良人が自分の夜具へ手をかけたとき、その瞬間、お孝は激烈な嘔き<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">け</span>を感じ、お勝手へいって、嘔こうとして、こんどはとつぜん胸をずたずたにひき裂かれるような、非常な<ruby><rb>苦悶</rb><rt>くもん</rt></ruby>と絶望におそわれ、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声をあげてそこへ倒れた。

「お孝、どうした、どうしたんだ」

こう呼ばれて我にかえると、自分が良人に抱き起こされていた。お孝は頭を振り、笑おうとした。なんでもないのよ、こう云おうとして、抱いている良人の手のぬくみを肩に感じたとき、蛇にでも触ったように、総身を震わせ、叫び声をあげて良人の手をすりぬけた。

「――お孝、いったいどうしたんだ」

「あっちへ、……あっちへいって、……なんでもないの、あたしだいじょぶよ、……あっちへいって」

全身の震えで揚板ががたがたと鳴った。時三は暗がりのなかでじっとこちらを見つめていたが、やがて黙ってお勝手を出ていった。

それからお孝の苦しみが始まった。その苦しさは<ruby><rb>肉躰</rb><rt>にくたい</rt></ruby>的なもので、まず嘔き<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">け</span>が<ruby><rb>起</rb><rt>お</rt></ruby>こり、ついで胸を<ruby><rb>搾木</rb><rt>しめぎ</rt></ruby>にかけられるか、ひき裂かれでもするような気持になる。眼の前が急にまっ暗になり、息ができなくなり、そのまま気が狂ってしまいそうな感じにおそわれる。

「――ああ、……ひどい、……あんまりひどい」

肩で<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎながら呟いて、身もだえをして、誰にも見られないところへいって泣く。

「――なによ、このくらい、ざらにあるこっちゃないの、平気じゃないの」

泣きながらこんなことも云ってみる、しかしそう云いながらまた身をもだえ、転げまわって、絶叫したいような衝動に駆られるのであった。

その日は朝から南風が吹いて、気持の悪いほど暖かかったが、風がおちてからも気温が高く、花でも咲きそうな陽気だった。このところまた胃の調子がいけないらしく、沈んだ顔色をしていた父が、その夜は気分がいいとみえて、夕食のときには久しぶりに釣りの話などした。

「こんな晩は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あなご</span>が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くう</span>んだがな、……しかし海ばかりやって来たから、今年はひとつ<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>をやってみようかと思う、……槇町じゃあ<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かそのほうの<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>だったな」

「親父のは口ばかりですよ、釣りにゆくんじゃなくって酒を飲みにゆくんですから」

「いや釣ったものをそこで作って飲むのが釣りの<ruby><rb>本味</rb><rt>ほんあじ</rt></ruby>だというくらいなんだ、私は飲めないからだめだが……」

お孝は二人の話を聞きながら、寒橋の夜の<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>を思いだしていた。

父が寝て、良人が寝てから、暫く解き物をしていたお孝は、ふいと誰かに呼ばれるような気持で、膝の物を押しやって立ち、音を忍ばせて裏口から外へぬけだした。……十一時ごろだろう、近所は戸を閉めて寝ていたが、ところどころ灯がもれ、楽しそうな話し声の聞える家もあった。まっすぐに河岸へぬけ、寒橋の、いつも父の坐る崩れた石垣のところへいって<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ。

川上の<ruby><rb>佃島</rb><rt>つくだじま</rt></ruby>のほうに、舟で燃す火がぼっと<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>んで、点々と五つ六つ見えた。<ruby><rb>白魚網</rb><rt>しらうおあみ</rt></ruby>だろう、そのあたりから水面を伝って、人の声がとぎれとぎれに聞えて来る。

「――おっ母さん」

お孝はそっと呼んだ。父親がそこに釣糸を垂れている、母が女中に茶や弁当を持たせて来て、父のそばへいって跼む。

――来なくってもいいのに、風邪でもひいたら困るじゃないか。

――でも寂しくって、……寝られなかったから来てみたのよ、お茶をあがったら。

――済まないな、ちょうど欲しいところだった、おまえそうしているならこれをちょっとひっかけているがいい。

――あらいいのよ、それじゃああんたが寒いわ。

父と母とのこんな会話が、現にそこでとり交わされているように、ありありと聞える気がした。父と母との穏やかな、まじり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">け</span>のない温かな愛情、お互いに劬りあい相手に誠実であった愛情、……それがそのまま、寒橋の岸のその石のところに、そのまま現に残っている、二人の愛情は今でもそこに生きている、そこに、その石の上に、……お孝にはそれが眼に見えるように思えた。

「――おっ母さん、あたし苦しいの、生きているのが辛いのよ、ねえ、……おっ母さん、あたしどうしたらいいの」

お孝は暗い水を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんで云った。

「――こんなに苦しいのに、あのひとが憎めない、憎いんだけれど離れられない、まえよりもあのひとが恋しくって、それでそばへ寄られると鳥肌の立つほどいやで、……独りになると死ぬほど苦しくなるの、ねえ、どうしたらいいの、教えて、おっ母さん、ねえ、あたしどうしたらいいの」

たぷたぷと岸を打つ波の中から、母の顔がすっと浮きあがり、手招きをしながらこう云った。

「――おいで、お孝、こっちへ、おっ母さんのほうへおいで……」

お孝はぞっと総毛立った。あまりにはっきり聞えたからである。そして後ろへさがろうと思いながら、ふらふらと逆に足が前へ出たとき、強い力で激しく肩を抱き緊められた。

「ばかなまねをするな、お孝」

耳もとでこう叫ばれ、はっとして、身をもがいてその手を振放した。

「なによ、なにがばかなことよ」

お孝は髪へ手をやりながら云った。

「むしむしして頭が痛いから、ちょっと川風に当りに来たんじゃないの」

「――お孝……」

時三は大きく喘ぎながら、ごくっと唾をのみ、片手を妙なぐあいに振って、それからしゃがれたような声で云った。

「すぐ帰って呉れ、お父つぁんが悪くなったんだ、おれはこれから医者へいって来る」

「――お父つぁんが、どうしたんですって」

「また血を吐いたんだ、まえよりたくさん吐いた、すぐ帰って、濡れ手拭で胃のところを冷やしていて呉れ、医者を呼んで来るから」

「――お父つぁんが」

こう云いながらお孝はもう駆けだしていた。

良人がなにか叫んだようだった。けれどもお孝はなかば夢中で走り、家へ着くまでに二度も転んで、片方の膝をひどく<ruby><rb>擦剥</rb><rt>すりむ</rt></ruby>いた。……父は仰向けに寝て。胸の下まで夜具を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>って、枕から頭を外していた。顔はきみの悪いほど<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>く、頬がこけ、汚れた口をあけて、急速な浅い呼吸をしている。拭くひまもなかったのだろう、そのあたりはまだ汚れたままだった。お孝はできるだけおちついた動作で枕もとへいった。

「お父つぁんどう、……苦しい、いま<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>でお医者へいったからすぐ来るわ、少しの辛抱だからしっかりしててね」

「――大丈夫だ、もう苦しくはない」

伊兵衛は眼だけをこちらへ向けた。

「――それよりお孝、おまえに話がある、もっとこっちへ寄って呉れ」

## 六

「だっていま話なんかしちゃだめよ、お医者の来るまで静かにしていなくっちゃ」

「いや聞いて呉れ、いま話さなくっちゃあ話すときがないんだ、……私は、お孝、……おまえにも済まない、時三にも済まない、……いいか、うちあけて云うが、お孝、……お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が産むのは私の子なんだ、時三のじゃあない、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>はこの伊兵衛の子を産むんだ」

ああとお孝は息をのんだ。

「時三は私を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>って呉れた、親の恥を身に<ruby><rb>衣</rb><rt>き</rt></ruby>て呉れたんだ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>にもそう云い含めたらしい、……おまえにも決して云うなと、あれは私にそう約束させた、……だから黙っていたんだ、けれど、もうこんどは私もいけないという気がする、このままでは死ねないからうちあけたんだ、お孝、……わかったか」

「――お父つぁん」

お孝はとつぜん父の手を握り、その手に頬ずりをしながら泣きだした。

「――うれしい、お父つぁん、うれしいわ、あたしうれしい」

そしてまるで笑うような声で遠慮もなく泣いた。伊兵衛は眼をつぶって、そっと<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら云った。

「おまえが苦しんでいることは、私はよく知っていた、……さぞ辛かったろう、身も世もない思いだったろう、……だが事情がわかってみれば、私のあやまちだということがわかれば、もうその苦しさもなくなる筈だ」

お孝はまだ泣きながら、自分の涙で濡らした父の手の上で頷いた。

「人間は弱いもんだ、気をつけていても、ひょっと隙があれば、自分で<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れるようなまちがいをしでかす、……だれかれと限らない、人間にはみんなそういう弱いところがあるんだ、……ここをよく覚えておいて呉れ、いいか、……そんなこともあるまいが、長いあいだには、時三も浮気ぐらいするかもしれない、……そのときは堪忍してやれ、夫婦のあいだのまちがいは、お互いに堪忍しあい、お互いに劬り、助けあってゆかなくちゃならない、それが夫婦というものなんだよ」

父の言葉をはっきり聞きとめようとしながら、お孝はもう幸福とよろこびで頭がいっぱいになり、躯が溶けるような思いで泣き続けた。

「――約束だから、この話は、おまえの胸ひとつにしまっておいて呉れ、……みんながそのつもりでいるんだから、時三にも云っちゃあいけない、わかったな」

伊兵衛はこう念を押して口をつぐんだ。

それからほんの僅かして医者が来た。けれども手当てにかかる暇もなく、また大量な吐血があり、<ruby><rb>昏睡</rb><rt>こんすい</rt></ruby>状態になって、日本橋のほうの<ruby><rb>蘭方医</rb><rt>らんぽうい</rt></ruby>を呼ぼうと、使いを出してまもなく、伊兵衛は昏睡したままついに息をひきとった。

<ruby><rb>三七日</rb><rt>さんしちにち</rt></ruby>が済むまでは、お孝は身も心も自分のもののようではなかった。時三が心配して、坐っていればいい、なにもするなと庇って呉れ、じっさいまたそう働くこともなかった。それでいて絶えず追いたてられるように、そわそわとおちつかず、夜も熟睡することができなかった。

「そんなことはないよ、ゆうべなんか<ruby><rb>鼾</rb><rt>いびき</rt></ruby>をかいて眠ってたぜ、私が二度も起きたのを知らないだろう」

良人はそう云って笑ったが、自分ではそうは思えない、慥かに一晩じゅう眠れなかったようで、昼になると疲れて眠くてしかたがなかった。

三七日には寺で法事をしたあと、金六町の「菊屋」で客に接待をした。みんなで三十人ばかりだったが、諸事<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たなうち</span>の者が奔走するので、お孝は坐って挨拶だけしていればよかった。……接待が済んで、いちど店へ寄り、小田原町へ帰る頃にはすっかり<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れて、家にはあかあかと灯がはいっていた。

留守番の者もかえし、二人だけになって、ほっと息をついて顔を見合せたとき、お孝は<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>のある眼で良人に頬笑んだ。

「たいへんだったわね、疲れたでしょ、なにもかもあんた一人にして貰って、……本当に悪かったわ、……ごめんなさいね」

「自分の親のことじゃないか、おまえに礼を云われることはないさ」

「お父つぁんうれしかったと思うわ、なんにも心残りはないし、こんなにして貰って、生みの子にだって出来ないことをして貰って、本当に安楽に死ねたと思うの」

「そんなことがあるもんか」

怒ったようにこう云って、時三はふと脇へ眼をそらした。二十日あまりの心労が出たものだろう、頬が少しこけて顔色も悪い。彼はいったん脇へそらした眼を伏せ、湿ったような低い声で呟いた。

「私は心配のかけっ放しだった、これから少しは孝行のまねごともしようと思っていたんだ、……いま死なれちゃあどうしたって気持が済まない、おれは<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めきれないんだ」

「いいえそうじゃない、あたしみんな知ってるの、お父つぁんはあんたにお礼を云ってるわ、あたしだってどんなにうれしいかわからない、うれしくって、……どうお礼を云っていいかわからないわ」

お孝は<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>の袖でそっと眼を押えた。時三は不審そうにこっちを見て、まるで傷口にでも触れるように云った。

「――みんな知ってるって、……いったい、なにを知ってるんだ」

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>の産む子が誰の子だかっていうこと、あの晩あんたがお医者へいったあとですっかり話して呉れたの、あんたがお父つぁんの恥を身に衣て、自分のまちがいのようにとりつくろって、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>にまでそう云い含めて呉れたということをよ、……あたしばかだから、そうとは気がつかずにあんたを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んだわ、苦しくって悲しくって、……生きているのが辛かったわ、……だからうれしかった、うれしくって、あんまりうれしくって、……もういつ死んでもいいと思ったわ」

「――お父つぁんが、そう云ったのか、お父つぁんが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>の産む子は、……お父つぁんの子だって」

「あんた、堪忍して」

お孝は良人の胸にしがみついて、ふるえながら頬を良人の胸にすりつけた。

「あたし自分のことしか考えなかった。可愛がられることばかり思って、あんたの身になってみる気がなかったの、お父つぁんがそ云ったわ、……人間は弱いもんだって、夫婦はお互いに許しあい、劬り助けあってゆくもんだって、……あたしようやく大人になったような気がするの、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>のことがもしあんたのまちがいだったとしても、こんどは、その半分はあたしの責任だと思うことができるわ、ねえ、……あたしこれからいい妻になってよ、だから堪忍して、……これまでのことは堪忍して頂戴」

そうして甘く<ruby><rb>噎</rb><rt>むせ</rt></ruby>びあげるお孝を、時三は黙って抱き緊め、その頬へ自分の頬を押しつけた。涙に濡れて火のように熱い頬である、時三は眼をつむり、抱いた妻の躯を、子供でもあやすように、静かに揺すった。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が子を産んだら、うちへ引取って育てさせてね、……あんたには済まないけれど、あんたの子にして、……そうすれば、貰い子をすれば、子供が出来るというから、あたしにも赤ちゃんが出来るかもしれないわ」

「――もしお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>が放したらな」

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たみ</span>はこれから嫁にゆく躯ですもの、わけを云えば放すわよ……ふふ」

お孝は泣き声で含み笑いをした。

「お文ちゃんがむくれるわね、いつか云ってたとおりになるんだもの、……あんたはいまにその赤んぼも引取るっていうんでしょって、……これだけは本当のこと云えないんだから、あのひときっとまっ赤になって怒るわよ」

その晩は絶えて久しく、そして二人がいっしょになってから初めて、夜具は一つしか敷かれなかった。……桃の節旬も近いというのに、春寒というのだろう、珍しく冷える夜で、火の番の<ruby><rb>柝</rb><rt>き</rt></ruby>の音が遠く冴えて聞えた。

夜半をずっと過ぎてから、時三がそっと起きて来て、物音を忍ばせて仏壇の前へゆき、そこへきちんと坐って、頭を垂れた。

「――有難う、お父つぁん」

彼は低い声でこう囁いた。

「――もうこれっきりです、決してもうあんなことはしません、見ていて下さい、……私はきっとお孝を仕合せにします」

彼は腕で眼を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>った。<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び泣きの声が彼の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>をついてもれた。ずっと遠くで、火の番の柝の音が冴えて聞えた。