Soranoha

紅梅月毛

こうばいつきげ

山本 周五郎

一

慶長十年二月はじめの或る日、伊勢のくに桑名城のあるじ本多中務大輔なかつかさたいふ忠勝の家中かちゅうで、馬術に堪能といわれる者ばかり十六人が城へ呼ばれた。深谷半之丞もそのひとりだった、かれが登城して遠侍の間へはいると、そこにはもう殆んどみんな集って、さかんに馬のはなしをしているところだった、それでかれはいつものように片隅へ坐って、黙って人々のはなしを聴いていた。

「馬についてはわれらの殿にたくさん逸話がある」松野権九郎がそう云いだした、「小牧山の合戦のときだったが、永井与次郎どのが乗り損じて落馬した、馬はそれてとびあがりとびあがり敵のほうへと奔はしってゆく、永井どのはすぐ追いかけたが徒かちだちだからとても及ばない、と見るなり、殿は御乗馬にひと鞭むちあてて永井どのを追いぬき、それ馬をひっしと敵勢の中へ追いこんだうえ取り戻しておいでになった」「そうだ、あのときは敵兵も歯噛がみをして、憎き本多がふるまいかな、とずいぶん口惜しがったそうだ」「また関ヶ原のときにもある」権九郎はつづけて云った、「九月十五日の戦はお旗まわり四百騎の少数で先陣をあそばされたが、一戦のはじめに流れ弾丸で御乗馬が斃たおされた、お乗り替はない、どうなさるかと思ったら、殿には傍にあった石へ悠然とお腰をかけてしまわれた。箭弾丸やだまの飛んで来る戦場のまん中で、こう……悠然と石に腰をかけて待っておいでになる、そこへ井伊どのの老臣で木俣きまた土佐という者が馬を煽あおって来た、殿には大音に呼びとめて、――馬を貸し候えと仰せられたが、相手も合戦のまっただ中で馬をゆずるわけにはいかない、お貸し申すこと相かなわず、と答えていってしまった、五人までそうやってお呼びとめあそばしたそうだ、あとで将軍家(家康)が、足でも萎なえたか、とお笑いなされたら、『足は萎えませぬが平八郎忠勝ともあるものが徒だちの戦をしては御名にかかわりまするので』とお答え申上げられたとのことだ」「そのとき殿がお呼びとめあそばした者のなかに深谷半之丞もいたんだ」田中善左衛門という者がそう言葉を揷さしはさんだ、「かれも殿にその馬貸せと呼びとめられた、ところがかれは見向きもせず、御免候えと云ったきり駆け去ってしまった」「いや、あれにはわけがある、あのとき深谷は敵の侍大将を追い詰めていたんだ」「そうだ、鷲津対馬わしづつしまをひっしと追い詰め、馬を合わせたとみるなり一槍で突き落した、実にあざやかな突きだった、なにしろあれはお旗まわり随一の兜首だったからな」「そのとき深谷どのの乗っておられたのは名馬だったそうですね」若侍のひとりが下座のほうからそう訊たずねた、「たいそう珍しい毛並だったそうですが」「あれは紅梅月毛というのだ」渡辺弥九郎がひきとって答えた、「月毛というのは元来はつきという鳥の羽色からきたもので、今の鴇とき色のちょっと濃いのをいうのだが、深谷のはそれに紅をかけたような毛並だった、いまそこで云うように鷲津との一戦はみごとなものだったが、あの馬がまたとびぬけて良かった、こう突っ込んでいってのしかかった時のすがたはまるでそのまま敵を呑んでしまうかと思われた」「それでその馬はどうしたのですか」「惜しいことに深谷が鷲津対馬のしるしをあげているうちにそれてしまった、あれなどは正まさしく名馬というべきだったろうのに、残念なことをした」

はなしはひとしきり紅梅月毛に集った。それは半之丞が慶長五年二十二歳のとき関ヶ原の合戦に乗った馬で、かれはその戦に兜首二級のほか十余騎を討ち、当日の功名帳では上位につく手柄をたてたのであるが、馬は流弾にでもやられたものか、戦場の混乱のなかへそれたまま戻らずじまいだったのである。「いや、あれは名馬ではなかった」松野権九郎が頭を振りながら云った、「おれはよく知っているが、あれはごくあたりまえな平凡な馬だった、深谷は乗るのも抜群だが飼うのはさらに上手で、ごく平凡な馬だったのをあれまでに育てあげたのだ、しかしまず駿足しゅんそくというところだろう、決して名馬などではなかったよ」「それは深谷も自分で云っているな、われわれには駿足くらいが頃あいで、それ以上の馬は飾り道具だと、……だが紅梅月毛は名馬といってもそれほど不当ではなかったよ」

こうして一座の話題の中心になっているのに、当の深谷半之丞は隅のほうに坐ったまま黙っていた。かれの無口は名だかいもので、こういう座談などには決して加ったことがないから、まわりの者もしぜんと馴れてしまい、今ではかれがいてもいなくても、平気でかれの評判をするようになっていたのである。「ご一同お縁側へ」間もなく近習番の侍がそう伝えに来たので、かれらは衣紋をかいつくろいながら遠侍から出ていった。

二

本多忠勝はそのとき五十八歳だった。生涯に五十七たびも戦場に臨み、なんども生死の境をくぐって来たが、身にはかすり疵きずひとつ受けなかったという、近頃は自分でも「寸が詰った」と苦笑するとおり、ぜんたいの感じが枯れてきたようであるが、それが却かえって奥底の深いしみじみとした風格となって、どうかすると俗塵ぞくじんを超脱した老僧のような印象を人に与えるのだった。「これはまだ内聞ではあるが、ちかぢかうち将軍家において大切な御祝儀がある」忠勝は低いさびのある声で云った、「そのおり伏見城の大馬場において馬競べを催すゆえ、譜代の家中よりおのおの一騎ずつ選んで出すようにとの御内達があった、……それで当城からも一名だけ選びだすわけであるが、一代名誉の催しといい、此処ここに集った者はいずれも馬術堪能で、おれから誰とも指名がしにくい、そこで誰にも不平のないよう、そのほう共から札を入れて、最も数多く入った者をそれに当てようと思う、もしこれに異存のある者は遠慮なく申し出るがよい」

みんなにわかに膝ひざを固くした。近いうち家康が秀忠に世を譲るという噂うわさはかねて聞いていた、それは前年の六月はじめて西国諸侯が江戸へ証人を送った頃からの噂で、「大切な御祝儀」というからにはそれが事実となるに違いない、そうだとすれば正しく一代名誉の催しである、われこそ、と思わぬ者はなかったであろう、忠勝はそれを察して入れ札という方法をとったのだ。……誰にも異存はなかった、そこですぐ近習番の者が用意してあった筆紙を運び、十六人はそれぞれ順に札を入れた。すっかり済んで札が集ると、忠勝が自分でそれを読みあげた。「……深谷半之丞」まずはじめが半之丞だった、次ぎもそうだし三枚めもおなじだった。忠勝は苦笑しながら「だいぶ半之丞に人気があるな」そう云って読みつづけた。ところが松野権九郎に一枚はいったきりで、あとの十五枚はみんな半之丞だった。「ほう」みんな自分で入れながらやっぱりそうかと思った。忠勝も予想はしていながらそれほど気が揃そろおうとは考えなかったのでちょっと眼を瞠みはった。権九郎ひとりはなにやら腑ふにおちぬようすで、「わたくしのは一枚きりでございますか」と首を傾かしげながら訊きいた。「そうだ、なにか不審があるのか」「いや、不審ということはございませんが」そう云いながらなにか未練のありそうな眼つきをしているので「三枚や五枚あっても深谷とは勝負にはならんぞ」と云う者があり、みんなくすくす笑いだした。「……さて半之丞」忠勝はかたちを改めて云った、「これで馬競べに出るのはそのほうときまった、桑名一藩の名代ともいうべき役目だ、まだ時日はあるから充分に稽古をして置くがよい、それからもし家中の馬で気にいったものがあったら、誰の持馬でも遠慮なく乗ってよいぞ、その旨はすでに老職へ申し達してあるから」半之丞は平伏してお受けをしたが、さして感動したようすもなくしずかに、みんなと一緒に御前をさがった。

遠侍へ来るともう早速「おれの馬に乗って呉くれ」という申込みがはじまった。「拙者の背黒は南部産の五寸き(馬の丈を計るのに四尺より三寸までをスンで数え四寸より七寸までをキという)で駆けの速さは格別だ、是非とも拙者の馬に乗って呉れ」自分のは木曽産の逸物だ、おれのは三春の駿馬しゅんめだといって、聞き伝えた者がつぎつぎとせがんできた。一代晴れの競べ馬だし乗りてが半之丞だから、自分の馬で勝たせたいと思うのは人情に違いない、だが半之丞は漠然たる顔つきでうんともおうとも云わず、時刻になるとさっさと城を退出してしまった。

深谷の家は武家屋敷のはずれにあり、すぐ裏に揖斐川いびがわの流れが見えている、門をはいると正面が住居で、左へかなり広い庭がひらけ、一棟の家士長屋が建っている、その長屋と鉤かぎの手になるかたちで住居にくっつけて厩うまやがあった。……帰って来た半之丞は住居へははいらないで、庭を横切って厩のほうへいった。そこでは今しも十七あまりになるひとりの娘が、馬盥ばだらいにぬるま湯をとって馬のすそを洗っているところだった。「お帰りあそばしませ」近寄って来る半之丞をみると、娘は急いで裾をおろしながら立って会釈した。

襷たすきもはずそうとしたが、半之丞は手まねで制して馬のそばへ寄り、平首のあたりをそっと叩いた、それは二寸あまりの鹿毛で、どこという特徴もないごくありふれた馬だったし、十日ほどまえから腹を悪くしているので、眼の色も濁り毛並に艶つやがなく、ぜんたいにひどくみすぼらしい感じだった。「干葉ひばの湯ですそをしたらよいと伺いましたので、今ためしてみたところでございます」娘がそう云った。半之丞は黙って厩の中へはいってゆき、寝藁ねわらを掻かきまわしたり、排泄物はいせつぶつの匂いを嗅かいでみたりした。娘は片手で馬の脇腹を撫なでながら、吸いつけられるような眼で半之丞のうしろ姿をじっと見まもっていた。

三

娘は名をお梶かじといい、この家の口取りの下僕で和助という者の妹だった、くりくりとよく肥えてはいるが肉の緊ったからだつきで、いつも頬に赤みのさした、明るい、命の溢あふれるような顔だちである。口取りをする兄のそばに育ったためか、お梶は馬の世話をするのが好きで、近頃では兄の和助さえ「おれより上手だ」というくらい、すべてが手にいったものであった。「どうもよくないな」厩から出て来た半之丞は、憐あわれみのこもった眼で馬をみつめながら、平首から鬣たてがみのあたりを撫でた、「せっかく晴れの馬場へ出られるというのに、……これではだめだ」「なにかお催しでもございますのですか」娘は耀かがやくような眼で半之丞を見あげた。お梶だけには半之丞はよく口をきいた、気が合うというのか、娘が控えめで諄くどいところがないためか、二人になるといかにも気がるに話をする。しかし今はなにかしらこころ重げで、うんと頷うなずいただけだった、そして間もなく住居のほうへ去っていった。

明くる朝はやく松野権九郎が訪ねて来た。「おまえひどいやつだぞ半之丞」相対して坐るといきなり権九郎がそう云った、「昨日の入れ札におまえは自分の名を入れたろう」

半之丞はまじまじと相手を見るばかりでなんとも云わない、権九郎はもくぞう蟹がにのように毛の生えた手で膝を叩いた。「おれにはちゃんとわかっている、十六枚の札が十五枚まで半之丞であるわけがない、断じてあり得ないことなんだ、なぜかといえばだな」かれはにやっと笑った、「なぜかといえば、一枚はいった松野権九郎の札はすなわちおれが自分で入れたんだ」半之丞はびくともしなかった。「おれの札をおれが入れたからには、おまえがおまえ自身に札を入れぬかぎり十五枚集るわけがない、どうだ、それに相違あるまい」「念を押すことはないさ」ようやく半之丞がそう云った、「百遍やれば百遍、おれは自分に札を入れるよ」「一言もない、おれもたぶんそうするだろう、だがそれはそれとしてたのみがある、ちょっと庭へ出て呉れ」権九郎はせかせかと座を立った、「さあ……ちょっと庭までだから」

半之丞はしぶしぶ立ちあがった。権九郎は自慢の馬を曳ひいて来たのである、つまり競べ馬には是非その馬に乗って貰いたいというのだ。しかし半之丞が庭へおりるとすぐ、表から新しい客が馬を曳いてはいって来た、「深谷どの、話ではわからぬから実物をごらんにいれ申す、この馬を見て頂きたい」「待て待て」権九郎がおどろいて立ち塞ふさがった、「おれが先着だ、おれの馬が済んでからにしろ、順番だ」そう云っているところへまた一頭、逞たくましい月毛を曳き入れて来る者があった。そしてすぐまた一頭、続いて二頭、あとからあとからと忽たちまち十四五頭の馬が庭いっぱいになった。葦毛あしげあり、鹿毛あり、白、栗毛、青など、とりどりの馬が犇ひしめきあい、朝の光りにつやつやとした毛並を競って、あっちでもこっちでも蹄ひづめで地を蹴けったり勇ましく嘶いなないたりした。「さあ、よく見て呉れ、こいつは風のようにとばすぜ」ひとりがそう云えば「まあこのすばらしい足を見ろよ」と別の男が云う、「そう眺めていたってしようがない、とにかくいちど乗ってみろ、ひと駆けすればこいつがどんな馬かわかるんだ」そんなことを口ぐちに叫びながら、みんな自分じぶんの馬をうまく心を惹ひくように曳きまわしたり、轡くつわを小づいて嘶かせたりした。

半之丞は黙って興も無い顔つきでその馬の群を見まわしていたが、やがてその眼が吸いつけられるように或る一点へいって止った。そのようすに気づいて人々がふり返ると、門をはいった隅のところに、濃い栗毛のすばらしい逸物が一頭いた。……首の伏兎ふくとというところから脊梁せきりょう、腰へかけての高く逞しい線、琵琶股から蹄へながれる緊った肉付きなど、見るからに逸物という感じである。これほどの馬は本多家中にもそう数多くはない。「ああ河内どのの馬だ」誰かがそう云うと追っかけて「見ろ、牡丹ぼたんがいる」「河内どのの牡丹だ」と云い交わす声がつぎからつぎへと伝わっていった。それは老臣松下河内の飼い馬だった。飛騨ひだの産で牡丹と号し、かつて京の二条城で徳川秀忠の眼にとまって所望されたが、河内はどうしても肯かなかったという由緒のあるものだった。……半之丞はしずかにそっちへ近寄っていった、そしてそばへ寄ってみておどろいた、その馬の口を取っているのは娘だった、くすんだ縞しまの布子ぬのこに葛布くずふの男袴おとこばかまを着け、余るほどの黒髪の根をきっちりと結んで背に垂れている、見かけがあまり質素なので気づかなかったが、こちらへふり向いた顔はまぎれもなく若い娘だった。しかも色のぬけるように白い、眉つきの秀抜な、少し眼もとに険はあるが、ぬきんでた美貌である。「これは御老職のお馬ですね」半之丞はそう問いかけた、「これを貸して頂けるのですか」

四

「はいそのつもりで曳いてまいりました」娘は大きく瞠いた眼で半之丞を見あげながら頷いた。響きの美しい澄んだ声である、「お気に召しましたらお乗り下さいまし」「貸して頂きましょう」かれはそう云うと、娘の手から手綱を受取り、目礼をしてしずかに厩のほうへたち去った。「つまりそういうわけか」松野権九郎が呻うなるようにどなった、「みんな帰ろう、馬はきまったぞ、相手が牡丹では文句も云えぬからな、たんぽぽやれんげは退散だ」皮肉とも諦あきらめともつかぬ言葉にみんな笑いだし、やがておのおの自分の馬を曳いて去っていった。

厩の前に立ってさっきから庭のようすを眺めていたお梶は、半之丞が牡丹を曳いて来ると「まあ」といって大きく眼をみはった。「みごとなお馬でございますこと、伏見の競べ馬にお乗りあそばすのでございますね」「そうだ」半之丞はそう頷きながら手綱をお梶にわたした。そして前へまわって馬の矉みはりのところを指で撫でたり、口の糠付ぬかつきを押しつけてみたりした。馬は不安らしくびりびりと脇腹を震わし、首を振るかと思うと前足で地を掻いた。「癇かんが強そうでございますこと」「うん、少しこなさなければなるまい」「鹿毛は口惜しゅうございましょう」半之丞はふと娘を見た。お梶は妬ねたましそうに牡丹の横顔を見まもっていた。……病気でさえなければ鹿毛が出るところだ、晴れの催しに自分の丹精した馬がお役にたたない、口惜しいというのは寧ろお梶の気持だったろう、半之丞は黙って眼をそむけた。

その日の午後になって松下家から人が来た。会ってみるとその朝牡丹を曳いて来た娘だった。しかしこんどはあでやかに衣装を着替え、うす化粧さえしているので、すぐれた美貌が洗いだされたように耀いてみえた。侍女とみえる小女をうしろに、座へ就いて会釈をするとすぐ「どうぞこれをごらん下さいまし」といって娘は書状をさしだした。……それは松下河内から半之丞に宛てたものだった。披ひらいてみると「伏見の御前馬競べに牡丹を選んで呉れて珍重である」という書きだしで「……ついては催しの日までの飼い役としてむすめ阿市おいちを差遣さしつかわす、牡丹を今日まで飼い育てたのは殆んど阿市ひとりの丹精であるし、当人もたっての望みであるから、当日まで安心して任せて貰いたい」そういう意味のことが認したためてあった、読み終った半之丞は娘を見た。娘は両手をついて半之丞を見あげた、「わたくし阿市と申します、ふつつか者でございます」「すると……」半之丞は書状を巻きながら、「あなたが牡丹の飼い役というわけですね」「さようでございます」「そうする必要があるのですか」「わたくし自分で手がけまして、あの馬の性質も寝起きの癖もよく存じております、このたび伏見のお催しは大切なものと伺いました、もしその日までに調子の狂うようなことがございましては、せっかく選んで頂いた甲斐かいがございません、それで是非わたくしに世話をさせて頂きたいのでございます」はっきりと理のとおった言葉だった。半之丞はあっさり頷いた、「しかしごらんのとおりの狭い家で、あなたにいて頂く場所もありませんが」「あちらのお長屋を拝借いたします」阿市はうち返すように云った、「そのつもりで手まわりの物も持ってまいりました、わたくしと下女二人、お長屋さえ拝借ねがえましたらほかに御迷惑はおかけ致しませぬ、どうぞよろしくおたのみ申します」いかにも大身の育ちらしく、はきはきときめどこをきめてゆく態度は気持のいいほど爽快そうかいだった、半之丞はしばらく感嘆するように娘の顔を見ていたが、やがて「では支度をさせましょう」と云って立ちあがった。

長屋には三人の家士と和助兄妹が住んでいた。かれらはすぐに半之丞の住居のほうへ移り、そのあとへ阿市と二人の下女がはいった。手まわりの物というのが馬に三駄もあり、下女たちの持物さえ二駄あった。侍長屋とはまるでそぐわない大仰な荷おろしのありさまを見ていた家士のひとりが、「まるでお輿入こしいれのようだな」と呟つぶやいた。するともうひとりが、「本当にそうなるかも知れぬぞ」と笑いながら云った、「なにしろ当時うちのご主人は娘をもった親たちの覘ねらいの的だからな」「ではあの牡丹は婿ひきでか」そんなことを囁ささやきあい、三人ともわが事のように昂奮こうふんした眼を輝かしていた。……少しはなれて見ていたお梶は、家士たちの話を耳にするとさっと顔色を変えた、そして逃げるように厨口くりやぐちのほうへと去っていった。

五

深谷家の日常はがらりと変った。あるじの半之丞が無口なので、それまでは実にひっそりとした慎ましやかな明け昏れだったのが、阿市と下女たちが来てからにわかに活き活きとした空気が漲みなぎりだした。……毎朝はやく、殆んどまだ暗いうちに阿市が厩へあらわれる。あの朝のように、布子と男袴を着けた質素な身なりで牡丹を曳きだし、美しい手を惜しげもなく馬盥の水へ浸してすそを洗う。寝藁を干すのも、厩の中を掃除するのも決してひと手は借りなかった、飼葉を与え口を嗽すすぐまで、なにもかも独りでやる、「さあ廻って」「お足を挙げて」「ちょっと前へ」愛情のこもった、はきはきとした声で呼びかけながら、いかにも馴れた手つきで淀みなく始末してゆく、見ているだけでも気持のよい挙措だった。

半之丞が朝食まえにいちど午後にいちど、牡丹をせめに出て戻ると、すぐにまた阿市が受取って揉もみ藁で汗を拭きすそを洗う、そして夜になり、厩に入れて寝せるまで、まったく影のかたちに添うような世話ぶりだった。……半之丞はかくべつなにも云わなかったが、家士たちも和助も、お梶さえもそれには感嘆の眼を瞠った。「とても大身のご息女とはみえぬ」「生えぬきの博労ばくろうでもあれほどはできまい」そう云いあいながら、しぜんとこの家の席を譲るかたちで、いつか深谷家の生活は阿市主従と牡丹を中心に動くようになっていった。馬の世話をするときのほかは、美しく着替えた阿市の姿が庭を往来した。娘らしい華やかな声で、なにか命じたり笑ったりするのが終日たえない、どこともなしに香料の匂いが漂い、月の澄んだ宵などには琴の音が聞えたりする。三人の家士たちもなんとはなく気に張りがでたようすで、起ち居が眼だってきた。……こうした変化のなかで和助兄妹だけが、とり残されたかたちだった。病馬を裏の厩へ移してから、お梶は一日じゅうそちらで暮した。前庭のほうで賑にぎやかに話したり笑ったりするのが聞えると、かの女は耳を掩おおいたいという風に眉をひそめ、唇を噛かみながら独りひっそりと病馬の背を撫でている、そしていつかしら口の重い、笑うことの少ない娘になっていった。

徳川家の祝儀というのが公表されたのはその年三月上旬のことだった。予期したとおり、家康が隠居して秀忠が世を継ぐのである、そして将軍宣下が秀忠にくだったのは四月十七日のことだった。徳川譜代の人々のよろこびは云うまでもない、恩顧外様の諸侯も京の二条城と伏見の城へ、ひきもきらず祝賀のために詰めかけた。正式の祝賀は五月一日からはじまることにきまっていた、一日に諸侯諸士の登城。二日に猿楽、饗宴きょうえん。三日に勅使奉迎。四日に再び猿楽と饗宴、そして馬競べの催しは五日ということだった。……その知らせが桑名へ来たのは四月はじめのことである。改めてまた深谷半之丞と牡丹とが家中の関心を集めだした。「おい深谷、きっと勝てよ」「牡丹の調子はどうだ」そんなことを云ってようすを見に来る者が多くなったが、こちらは例のとおり漠然たる態度で、うんともおうとも云わなかった。

或る朝のこと、牡丹をせめに出た半之丞は、四日市までいった戻りに、薪を積んでゆく一頭の駄馬をみとめてふと馬を停めた。「これ暫しばらく待て」なにを思ったか半之丞はその駄馬の口を取っている男に呼びかけた、「そこに曳いているのはそのほうの馬か」「はい、さようでござります」農夫とみえる男はびっくりして頬冠りをとった、半之丞は牡丹からおりてその駄馬のそばへ歩み寄った。それはもうかなり老いているらしい、毛並の色も褪あせ、四肢も骨だち、絶えず重い荷を負わされるためか、背筋脇腹などに擦すり剥むいた痕あとのある、なんともみじめな馬だった。半之丞は前後へまわって、ながいことしげしげと見やっていたが、やがて男のほうへふり返って、「この馬を譲って呉れぬか」と云いだした、「金三枚まで遣わす、ぜひ譲って呉れ」あまり思いがけなかったのだろう、「へえ」といったきり男は返辞に窮した。どんな愚か者でもこの馬と金三枚との比較はできる、おそらくからかわれるものと思ったに違いない、疑わしそうにこっちの顔を見まもるばかりだった。半之丞は面倒といいたげに、金嚢から金一枚とりだして男に握らせた。「桑名の深谷半之丞という者だ、馬を曳いてまいればあと二枚遣わす、なるべく早く、できるなら今日のうちにまいれ」そう云い残すと、返辞は聞くまでもないという風に、再び牡丹へ乗って駆け去った。

男がその駄馬を曳いて来たのは、もう日の昏れかかる頃だった。まだ半分は疑わしげだったが、金二枚を受取るとはじめて「夢ではなかった」といいたそうな笑顔になり、自分のところ名前などを述べていそいそと帰っていった。

六

半之丞はその駄馬の口を取って、裏の厩へまわっていった。お梶はちょうど、もう恢復かいふくの望みの無くなった病馬の寝藁をとり替えてやっていたが、近寄って来た主人と、主人の曳いているみすぼらしい馬を見てけげんそうに眼をみはった。「この馬を飼ってみて呉れ」半之丞は持っている手綱をお梶に渡した、「今はこんなになっているが、以前はこれでも乗馬だった、飼いようによってはまだ乗れると思うから……」「はい」お梶はちょっと臆したようすで、「でも、わたくしに飼えますでしょうか」と眩まぶしげに主人を見あげた。「おれも面倒をみるよ」そう云って半之丞は踵きびすを返した。

お梶はそのうしろ姿を見送りながら、ぱっと花でも咲いたように顔を輝かした。もう忘れられてしまったと考えていた主人が、この駄馬を乗馬に飼いたてるという、むずかしい仕事を自分に選んで呉れた。「ご主人はお梶を忘れてはいらっしゃらなかったのだ」そう思うと今日までの悲しい辛いおもいが一遍に消え去って、生甲斐のあるよろこびがはげしく胸へ溢れてきた。日蔭ばかりの裏庭さえ、急に明るく灯が点ともったように感じられた。「おまえは仕合せ者ですよ」お梶は浮き浮きと駄馬に話しかけた、「おりっぱなご主人に拾って頂いて、いまに御登城のお供もできるんですよ、でもそうなるにはおまえ自分でもしっかりしなくてはだめね、お百姓の家にいたときとは違うのだから、……でも大丈夫、きっとあたしが凛りんとさせてあげます、あの牡丹にも負けないようにね」話しながら、お梶は寧ろ自分のほうがよろこびに酔っているようであった。

けんめいなお梶の努力がはじまった。半之丞も絶えず見に来て、飼葉の選み方や量の案配をしたり、排泄物の具合をしらべたりした。馬は半之丞を見るとよく嬉しげに嘶いた、そばへ寄るとなにか訴えでもするように首をすりつけたり、やさしく手を噛んだりする、自分には示さない馬のそういう愛情の表現をみると、お梶はつい嫉ねたましい気持を唆そそられた。そうされる主人への嫉みか、そんなに甘えられる馬への嫉みか、どちらともなくついかっと胸が熱くなるのだった。「拾って頂いたのが嬉しいのでございましょうか、まるで十年も飼われたような懐き方でございますね」お梶がそう云うと、半之丞はふとふり返ってなにか云おうとした、しかしすぐ思いかえしたようすで、うんと頷いたきりしずかに馬の平首を撫でていた。

半月ほど経つと牡丹をせめる合間合間に、半之丞はその駄馬を曳きだしてまず庭内から乗りはじめた。みんなびっくりした。牡丹を見馴れている眼にはあんまり違いすぎるので、なんのために半之丞がそんな馬を飼いたてようとするのか見当がつかなかった。阿市もあっけにとられたように眼を瞠ったし、二人の下女はくすくす笑いながら、「あれは百姓馬ですよ」とか「あれでも馬かしら」などと耳こすりをした。そんなありさまを見たり聞いたりするたびに、お梶は自分が嗤わらわれているような屈辱を感じて身が顫ふるえた、しかし半之丞はまるでどこを風が吹くかという態度で、少し経つと屋敷の外までその駄馬をせめに出るようになった。

その月の末に半之丞は桑名を立った。しゅくん本多忠勝はもう四月はじめに伏見へのぼっていたのである、かれは家士二名と和助をつれてでかけた、自分は例の駄馬に乗り、牡丹は和助に曳かせて、……門まで送って出た阿市はあでやかに着飾り、濃い化粧をした耀くばかりの美貌にいっぱいの微笑を湛えていた。「どうぞお勝ちあそばしますように、めでたい知らせをお待ち申しております」美しく澄んだ声でそう挨拶をする阿市のうしろから、お梶は身を隠すようにしてじっと主人の姿を見まもっていた。半之丞はなにも云わないで、黙々と駄馬を駆って立っていった。

伏見へ着いたのは五月二日だった。本多家の屋敷へはいると、先着して待ちかねていた家中の人々が早速かれをとり巻いた。「牡丹の調子はどうだ」「榊原では日根野が出るぞ」「外様諸侯にも評判の催しだ、きっと勝てよ」「桑名一藩の面目がかかっているぞ」そんなことを口々に云いたてた。半之丞はいつものとおり石のように黙って、漠然とあらぬ方を眺めているだけだった。……競べ馬に出るのは、酒井、榊原、井伊、本多の四家をはじめ、水野、大久保、鳥居、戸田、牧野、板倉、小笠原など合わせて十一家で、乗り手も「ああ、あれか」と世に名の知れた者が揃っていた。……祝賀の催しとはいうものの、まことは外様諸侯や、大阪方に対する示威の意味が主だった。したがってその方法も疾駆しながら槍をつかい、銃射、弓射をし、水を渉わたり、壕ほりを跳ぶなど、実戦に則したものだったのである。「負けたら詰め腹だぞ」当日となるとみんなはげしい言葉で激励した、「関ヶ原の腕まえをもういちど見せて呉れ、たのむぞ深谷」けれどやっぱり、かれは黙々と口を緘かんしていた。

七

大馬場には桟敷が幾段にも設けられ、譜代、外様の諸大名や、その家臣たちが、幕張りの外まで溢れるように居並んでいた。本多忠勝は正面桟敷で、家康、秀忠に陪侍して競技を見た。……だが定めの時刻になり、鳴りわたる太鼓の音につれて、十一人の騎者が馬場へ出て来るのをみるとまずおどろかされた、深谷半之丞の乗っているのは牡丹ではないのだ。牡丹でないばかりか、毛並の色も褪せた四尺そこそこの、いやに四肢の骨ばった、なんともみすぼらしい老馬である、しかもほかの十騎が逸物ぞろいなので、そのみじめさは滑稽感をさえ唆った。

「なんだ、妙なものを乗りだしたぞ」そういう囁きがおこり、桟敷のそこ此処に笑いごえがひろがった、「どこの家中だ」「本多どのだそうだ」「どういうつもりだろう」そんな声も耳についた。しかし忠勝ははじめのおどろきが去ると、こんどはなにか急に興味をおぼえだしたようすで、まわりの嘲笑ちょうしょうなどは耳にもかけず、じっと半之丞の動作を見まもっていた。十一騎は位置についた、騎者はおのおの背に銃を負い、大身の槍をかい込んでいる、やがて合図の太鼓が鳴り響くと、さっと馬場に土煙りが巻きあがった。

井伊家の馬が先を切った、板倉がそれにつぎ、さらに榊原の日根野外記が続いた。半之丞は……かれはしんがりについていた。馬も乗り手も悠々たるもので、いちばんあとからとことこと駆ってゆく、それはまさにとことこという感じだった、疾駆し去る十騎の後塵を浴びながら。……桟敷から幕張りの向うまでどっと哄笑こうしょうがわきあがった、二代将軍秀忠の顔にも苦笑がうかぶのを忠勝は見た。出発点から三段ばかりのところに、具足を着せた藁人形が騎者の数だけ立っている。乗り手はその藁人形に槍をつける、次ぎに幅二十尺深さ三尺の水場があり、それを渉ると、一丈ばかりの急勾配こうばいの丘を越したところで弓と矢をわたされ、五十歩の距離にある懸け垜あずちの的を射る、そこから二段ほどさきで幅六尺ばかりの壕を跳び、いちばんさいごが銃射だった、これは二十間ほど離れた鉄板張りの盾を射うつのである。……先を切っていた井伊家の騎者は、藁人形へ槍をつけたとき乗り損じて落ちた。「ああ、先頭が落馬した」という叫びごえと共に、人々の眼はようやく先頭のはげしい競りあいに集った。水場では二番と四番の馬が転倒し、騎者は二人とも水浸しになった。丘を越して弓射のときには榊原家の日根野外記が先頭だった。ついで壕を跳ぶところでは又しても二騎が乗り損じ、一騎は壕へ墜ちた。かくて銃射をして無事に出発点まで戻ったのは五騎だけであった、……一番は酒井家の馬、日根野外記は二番、そして三番は、……とことこと半之丞の馬が三番めにはいって来た。「おお見ろ、本多どのの馬が三番をとった」「あの老馬が三着についたぞ」駆けだしたときとおなじ調子で、とことことはいって来た半之丞の馬を見ると、桟敷いっぱいにどよめきの声が揺れわたった。

「……乗るものだな」そういう言葉が聞えたので、忠勝がそっとふり返ってみると、家康が頷き頷き笑っていた。やがて技の書上げが披露された、具足を着けた藁人形では半之丞ひとりがまさしく急所を突止めた、弓射では日根野外記が正中、銃射はこれまた半之丞だけが鉄張りの盾を射抜いていた。つまり技では深谷半之丞が筆頭だったのである。……湧わきあがる喝采かっさいをあびながら五人の騎者は正面桟敷へ召され、将軍秀忠からひきでものを賜たまわった。それが済んだあとで、家康が半之丞をそば近く呼び寄せた。「そのほうだいぶ老耄ろうもうの馬に乗ったようだが、本多家にはあのような馬しか飼っておらぬのか」「恐れながら御側まで申上げます」「ゆるす、即答でよいぞ」「本多家には名馬逸物の数が少なくございません、あのような老馬を持っておるのはわたくし一人でございます」「それでは今日の催しになぜ逸物に乗らなかった」柔和な眼がそのとき鋭く半之丞の面をみつめた、「このような場合には、その家ずい一の馬を出すのが普通ではないか、ことさら老耄の馬を選んだには仔細しさいがあろう、申せ」半之丞は平伏したまま黙っていた。忠勝はかれの無口を知っている、ここで日頃の癖を出されてはならぬと思ったので「半之丞、お答え申上げぬか」と促した。それでようやく半之丞は面をあげた、「恐れながら御側までお伺い仕ります、今日のお催しは馬の良し悪しを較べるのでござりましょうか、乗りこなす技くらべでござりましょうか」「…………」家康の眉がきゅっと歪ゆがんだ。

八

「本多家の家風といたしまして」と半之丞はしずかに続けた、「名馬逸物を飼うは申すまでもございません しかし「ございません しかし」はママ第一には、馬術の鍛錬が大切と戒められております、いかなる名馬駿足も、戦場に臨んでは敵の箭弾丸やだまにうち斃たおされる場合がございます、さようなときには有り合う放れ馬の良し悪しにかかわらず取って乗る、たとえ小荷駄の馬なりとも乗りこなしてお役にたつ、これが本多家の馬術の風でございます、今日のお催しが名馬較べでありましたならわたくしの誤り、もし馭法ぎょほうくらべでございますなら、馬についての御不審は……」「わかった、もうそれでよい」家康は頷きながら微笑を含んだ眼で忠勝をかえりみた。「忠勝どのお羨うらやましいご家風じゃな」「若輩者の過言でございます、お聞き捨てのほどを」「いやいや忠勝どのらしいお心掛け、珍重でござる、まことに、今日の催しは名馬較べではおざらなんだ、馬咎とがめは筋が違いましたぞ」

家康はそう云ってくくと喉のどで笑った。人も嗤わらうような駄馬に乗って、到着こそ三番ながら技では筆頭を占めた、しかもその功を本多家の家風だと申したて、おのれの腕を誇るようすは些いささかもなかった、それが家康のこころにかなったのだろう、明くる日かれは改めて衣服ひとかさねを賜わった。

深谷半之丞は伏見に数日滞在した。そのあいだに松下河内が牡丹をひき取った、家中の評判は褒貶ほうへんあいなかばしていた、褒める者は「本多家の名をあげた」と云い、謗そしる者は「腕に慢じて異を好む仕方だ」と云った。当の半之丞はどんな評判にも知らぬ顔で、ゆるしが出るとすぐ例の老馬に乗って桑名へ帰った。……留守宅へ着くと、残っていた家士とお梶とが出迎えた、阿市や下女たちはもうみえなかった。「松下どののご息女は一昨日おたちのきあそばしました」と家士が告げた。「お帰りまでお待ちなさるよう申上げたのですが、なにかたいそうご立腹のようすでございまして」わかっているというように半之丞は手を振った、そしてお梶に馬の手綱をわたして、「すそをかってやって呉れ」と云った。

お梶は老馬を裏へ曳いていって揖斐川の流れへいれた。云いようのないよろこびで胸がいっぱいだった、伏見の競べ馬の始末は、一昨日ここへも伝わっていた、半之丞が駄馬に乗って三着になり、技では一番をとったという、その知らせを聞いたときからお梶は浮きたつようなよろこびに包まれた。……牡丹ほどの名馬を措いてあの馬に乗って下すった、たとえひと月足らずでもお梶の飼った馬に。それはなにかしらん自分に対する主人の心をつきとめたような感じだった。「そんなことを思ってはいけない、そんなばかなことがある筈はない」自分でそう叱るあとから、抑えようのない幸福感がつきあげてくるのだった。「おまえ天下第一の仕合せ者ですよ」流れのなかですそを洗ってやりながら、お梶は浮き浮きとその馬に話しかけた、「おまえのような者が御二代さまの御前へ出られるなんて、夢にも考えたことはないでしょう、牡丹をごらん、……あんなりっぱな馬でも乗っては頂けなかったのに、うちのご主人だからこそおまえを選んで下すったんですよ、おまえ嬉しくはないの、……牡丹のお飼い主はたいへん怒っておいででしたよ」

「そんなに怒っていたか」とつぜんうしろでそう云う声がした。お梶はあっといいながらふり返った、半之丞がそこへ来て立っていた、お梶は耳の根まで赤くしながら、「はい」と眼を伏せた。「阿市どのはそんなに怒っていたか」「はい、わたくし……よくは存じあげませんのですけれど……」「怒るだろう」半之丞は頷いて云った、「怒るのがあたりまえだ、おれが悪かったのだから」「まあ、旦那さま……」「おれは」と云いさして、半之丞はつと馬の鬣たてがみへ手を伸ばした、馬は甘えるような声をだして首をすりつけた。「おれはこの馬へ乗ってやりたかった」としばらくしてかれは呟くように続けた、「毛並の色も褪せ、重荷の稼かせぎに傷つき痩やせた、みじめなこれの姿をみたとき、おれは一生の晴れに御前の馬場が踏ませてやりたかった、勝敗はどうでもよい、一代誉れの競べ馬に花を咲かせてやりたかったのだ」心にしみいるような調子だったので、お梶は思わず半之丞をふり仰いだ、かれは眼に泪なみだを湛えながら云った。

「これは紅梅月毛なんだ」とかれは云った、「関ヶ原の戦にそれたまま、行方の知れなかったあの馬だ、こんなみじめな姿にはなったがおれにはひと眼でわかった、これは幾戦場おれを乗せて戦ったあの紅梅月毛なんだ」お梶は大きく瞠った眼で半之丞を見あげた。……今にして思い当る、はじめて伴つれて来られたとき、この馬は半之丞を見ると訴えるように嘶いたり、さも懐かしそうに首をすりつけたりした、お梶はただ嫉ましいと思って見ていたけれど、あれは五年ぶりで会うことのできた主人への愛情の訴えだった、言葉をもたぬ馬の精いっぱいの愛情の表現だったのだ。……大きく瞠ったお梶の眼からはらはらと泪が溢れ落ちた、川波は音もなく老馬の脚を洗っていた。

付記 慶長十年五月、伏見城でおこなわれた秀忠への将軍宣下の祝宴に就いては、内藤耻叟ちそう氏編次「徳川十五代史」に、……五月朔日ついたち、諸大名諸士登城して将軍宣下を賀す、二日猿楽あり、諸大名に饗宴を賜う、三日、勅使二卿を伏見城に饗し、各黄金五十枚、時服三十領を贈る、四日猿楽あり、諸大名饗応。云々とその盛んなありさまを記しているが、これはそのこと自体よりも、かかる祝宴が伏見城において催されたこと、ならびに天下の諸侯がきそって祝賀に集ったことのほうに深い意味がある。すなわち当時の記事の一に、「……秀忠公拝賀の時、家康公みやこにありしかば、豊臣家に御対面のため、上洛のこと催させ給いしに、淀殿おん憤り深くして、豊臣家におん腹めさせ、おん身もうせ給うべきやなど聞えて、京、大阪の間もっての外に物騒しくなる、これも上方の大名の中に内々申しすすむる人ありと聞えし。此程より西海、南海、山陰、山陽の大名ども、城を高うし池を深くして、戦艦おびただしく作り出す、なんとなく騒がしくなりゆきぬ」としるしてある。淀君の忿懣ふんまんはいかにもよく衰運に向いつつある豊臣家の状態をあらわしていて興が深い、その意味において伏見の祝宴は注目すべきものであろう。

底本 / Source edition

底本:「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」新潮社
1983(昭和58)年10月25日発行
初出:「富士」大日本雄弁會講談社
1944(昭和19)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2026年1月31日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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山本 周五郎「紅梅月毛」(新字新仮名)、底本『山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜』新潮社、1983年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057605_001869, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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