## 一

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は<ruby><rb>繁次</rb><rt>しげじ</rt></ruby>を想っていた。それは初めからわかっていたことだ。ただ繁次が小心で、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の口からそう云われるまで、胸の奥ではお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>を想いこがれながら、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は参吉を恋しているものと信じ、そのために心を磨り減らしているのであった。

「なんでもないよ、繁ちゃん」と参吉が云った、「大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」

これが繁次と参吉と、そしてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>をむすびつけるきっかけになったのだ。

繁次と参吉はおないどしであった。浅草黒船町の裏の同じ長屋で生れ、その長屋で育った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>はかれらより五つとし下で、やはり同じ長屋の、繁次の家と向う前に住んでいた。――三人は小さいじぶんお互いを知らなかった。長屋には子供が多いし、三人はめだつような子ではなかったからだ。そのうえ、繁次は七つのときに総持寺の末寺へ小僧にやられ、五年のあいだその長屋にいなかった。父の源次は<ruby><rb>古金</rb><rt>ふるかね</rt></ruby>買いをしていたが、繁次を坊主にするつもりだったらしい。こんな世の中では正直者は一生うだつがあがらない、どんな貧乏寺でも一<ruby><rb>寺</rb><rt>じ</rt></ruby>の住職となれば、人にも尊敬されるし食うにも困らないから、というようなことを、まだ七歳にしかならない繁次に云い聞かせた。

繁次が十二の年に父が死んだ。あとには<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>の弱い母と八つになる妹のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆり</span>が残され、くらしに困るので彼は長屋へ帰った。寺の小僧になって五年、繁次は読み書きや礼儀作法は覚えたが、坊主になる気にはどうしてもなれず、機会があったら逃げだしてやろうとさえ考えていたので、家へ帰るときまったときには、父の死んだことを悲しむよりも、うれしさのあまりとびあがりたいように思った。

こうして繁次が長屋へ帰った年、参吉は反対に、田原町二丁目の仏具師の店へ奉公にはいった。ちょうど繁次と入れ違いのようなかたちだったが、そのあいだ半年ばかりいっしょに遊んだ。五年ぶりの再会であったが、特に親しかったわけではないから、初めは同じ長屋の顔見知りというくらいのつきあいで、そこにもしお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>がいなかったら、二人は友達にさえならなかったかもしれなかった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は妹の友達としてすぐ彼に馴染んだ。妹のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆり</span>より一つとし下の七つで、躯つきも顔だちも貧相な、<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>とうもろこし</rt></ruby>の毛のような赤毛のしょぼしょぼと生えた頭の、まったく見ばえのしない子だったが、「繁ちゃんのあんちゃん」と云って、一日じゅう彼に付きまとった。

五月はじめの或る午後、――<ruby><rb>御蔵</rb><rt>おくら</rt></ruby>の渡しと呼ばれる渡し場の近くで、繁次はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>に<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>を捕ってやっていた。隅田川の石垣にしがみついて、石の隙間にいる蟹を捕るのだが、五つ六つ捕ったとき、近所の子供たちが五人ばかりやって来て、「坊主、坊主、――」とからかいだした。寺から帰ってまだ十日ほどにしかならず、彼の頭はまだ坊主だった。自分でもそれが恥ずかしいので、長屋の子供たちを避けていたくらいだから、繁次はふるえるほどはらが立った。かれらの中には鉄造、与吉などという乱暴者がいて、繁次をからかいながら、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の<ruby><rb>小桶</rb><rt>こおけ</rt></ruby>を取りあげて、中の蟹を川の中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り投げてしまった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の泣きだす声を聞いて、繁次は石垣をよじ登ろうとした。鉄や与吉は腕力が強い、とうていかなう相手ではないが、とびついていって指の一本も食い千切ってやろうと思ったのだ。

そのとき参吉があらわれた。

「おい鉄、よせよ」と参吉がおっとりした声で云った、「五人がかりで一人をいじめるなんてみっともねえぞ」

「あたしのもよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が泣きながら小桶を指さした、「あたしの蟹も逃がしちゃったのよ」

「いやなやつらだな」と云って、参吉は唾を吐いた、「いっちまえよ、鉄」

五人はぐずぐずとそこをはなれ、なにかあくたいをつきながら、<ruby><rb>駒形</rb><rt>こまがた</rt></ruby>のほうへ逃げていった。繁次は石垣にしがみついたままこのようすを見ていたが、参吉に感謝するよりも、自分が人に助けられたという、みじめな、やりきれない気持でまいった。

それから半月くらいあとに、長屋の路地で出会ったとき、参吉のほうから繁次に笑いかけて、将棋をささないかと云った。参吉は色の白いおも長な顔で、眉が濃く、いつも<ruby><rb>屹</rb><rt>きっ</rt></ruby>とひきむすんだような口つきをしてい、話しぶりや動作もおっとりと、ぜんたいが大人びていた。繁次は<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しいような眼つきをし、将棋は知らないんだと答えた。

「そんなら覚えればいいさ」と参吉が云った、「うちへ来ないか」

繁次は初めて参吉の家へいった。

参吉は両親がなく、<ruby><rb>茂兵衛</rb><rt>もへえ</rt></ruby>という祖父と二人ぐらしであった。ずっとあとでわかったことだが、参吉の父母は夫婦養子で、茂兵衛と折り合いが悪く、そのときから四年まえに、長屋を出て別居してしまった。繁次はその二人をうろ覚えに覚えていたので、どうしていなくなったのか不審に思ったが、なにかしら<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いてはいけないような感じがしたので、参吉にはなにも云わなかった。

茂兵衛の年はもう七十に近かった。背丈が高く<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せてはいたが、まだ足腰は達者で、酒もよく飲むし、しばしば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそび</span>にもゆくという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>があった。上り<ruby><rb>端</rb><rt>はな</rt></ruby>の三<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>に<ruby><rb>轆轤鉋</rb><rt>ろくろがんな</rt></ruby>を据え、一日じゅう椀の木地を作っているが、いい腕なのでかなりな<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎになるのだ、といわれていた。黙りやで殆んど口はきかないけれども、色の浅黒いおも長な顔や、六尺近い長身の躯つきに、どこかの<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>の隠居といったような品のよさがあり、武助という<ruby><rb>差配</rb><rt>さはい</rt></ruby>までが一目置いているようであった。

繁次は将棋を覚えてから、毎晩のように参吉の家へでかけていった。――彼は<ruby><rb>指物</rb><rt>さしもの</rt></ruby>職になるつもりで、浅草橋外の福井町にある「<ruby><rb>指定</rb><rt>さしさだ</rt></ruby>」という店へ弟子入りをしたが、母が病身なため住込みでなく、特にかよい奉公をゆるされ、朝八時から夕方の五時まで勤めるようになっていた。仕事は追い廻しか使い走りで、駄賃くらいの銭しか貰えなかったが、母と妹も内職をするので、親子三人どうやらくらすことができた。――参吉の家へゆくのは夕めしのあとで、茂兵衛老人はたいてい酒を飲んでいるが、繁次を見ると必ず茶を淹れたり、菓子を出してくれたりした。

老人はあまり口はきかないが、孫の参吉がひじょうに可愛いらしく、そのため繁次にもあいそよくするようであった。参吉はうるさそうな顔をするだけで、なにも云わないし、もちろん自分でやろうとすることもない。繁次と将棋をさしながら、平気でその茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り、菓子を喰べた。

参吉は十月の末に仏具屋へ奉公にいったが、そのちょっとまえの或る夜、繁次は怒って参吉を殴った。いつものように将棋をさしていて、繁次が二番負け、三度めに勝った。そして四番めの駒を並べるとき、参吉が「こんどはかげんなしにやるぜ」と云った。これが繁次にかちんときた。

「じゃあ」と繁次が訊き返した、「これまではかげんしてたのか」

「いいからやんなよ」と参吉がおうように云った、「待ったなしだぜ」

繁次はみじめに負けた。参吉のさしかたは<ruby><rb>辛辣</rb><rt>しんらつ</rt></ruby>で、それまでとは人が違うようにするどく、繁次は手も足も出なかった。

「ちぇっ」と参吉は駒を投げだしながら云った、「おめえはだめだな」

「だめだって」繁次はふるえた、「なにがだめなんだ」

「繁ちゃん」と参吉が云った。

「だめとはなんだ」と繁次はどなった、「なまいきなことを云うな」

そして彼は参吉にとびかかり、押し倒して<ruby><rb>拳骨</rb><rt>げんこつ</rt></ruby>で殴った。参吉は手向いもせず、されるままになっていた。繁次は相手が無抵抗なので、ちょっと気ぬけがし、同時に、相手の眉のところが切れて、血がふき出しているのを認め、ぎょっとしてとびのいた。

「怒らして悪かった」と起きあがりながら参吉が云った、「ごめんよ、繁ちゃん」

「たいへんだ、血が出てる」繁次は<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くなった、「おれかあちゃんを呼んで来る」

そのとき老人はいなかったので、彼は母を呼びにゆこうとしたが、参吉は「そんな大げさなことはよせよ」と云い、勝手へいって傷を洗った。左の眉のところが斜めに、一寸ばかり切れていた。殴ったとき<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>の爪が当ったのだろう、それほど深く切れてはいないが、上げ<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>どきとみえてなかなか血が止らなかった。参吉が洗った傷へ塩を<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>りこむのを見ながら、繁次はおろおろとあやまった。

「なんでもないよ、繁ちゃん」とそのとき参吉が云ったのだ、「――大丈夫だ、心配しなくってもいいよ」

その言葉がこたえたのはあとのことだ。

参吉はまもなく仏具屋へ奉公にゆき、すると茂兵衛はへんな女を家へ入れた。年は三十五六、小柄でひき緊まった躯つきにも、あさ黒い膚の、よくととのった目鼻だちにも、水しょうばいをした者に特有の<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>があり、<ruby><rb>日髪</rb><rt>ひがみ</rt></ruby>、<ruby><rb>日風呂</rb><rt>ひぶろ</rt></ruby>で、いつも<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>や香油の匂いをさせているため、たちまち長屋の女房たちの非難の的になった。――差配の武助が人別しらべにゆくと、親類の者で名はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みち</span>、年は三十二歳、暫く滞在するだけだ、と答えたそうであるが、両隣りの人たちはあざ笑った。昼間はもちろん、近所が起きているうちは静かであるが、夜半から明けがたまではひどいというのである。息をころし、声をひそめてはいるが、それが<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってなまなましく、深い実感に満ちていて、たとえば両手で耳を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでも、その手をとおして聞えてくるようだ、というのであった。

## 二

――参ちゃんはどう思うだろう。

おとなたちの話は、繁次には理解できなかったが、下町で育てばませるのが一般だから、おぼろげながらいやらしいということは感じた。暫くいて出てゆくのならいいけれども、あのまま女がいつくとすれば参吉の母ということになる。

――あんな女を母と呼べるだろうか。

おれならまっぴらだな、と繁次は思い、参吉が気の毒でたまらなくなった。

正月元旦の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>ころ、参吉はやぶいりで帰って来た。どうなることかと心配していると、暫くして、将棋をさそう、と迎えに来た。なにも変ったようすはなく、家へ来いと云うのを聞いて、繁次は安心すると同時にちょっとがっかりした。

「将棋はよしたんだ」と繁次は云った、「それより浅草へでもいかないか」

繁次の眼に気づいて、参吉は左の眉のところを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。そこにはあのときの傷が、薄く茶色の糸を引いたように残っていた。

「これが気になるのか」

「そうでもないけれど」と繁次は赤くなった、「でも、――将棋さえやらなければ、あんなことにはならなかったろうからね」

「なんでもねえのにな」と参吉が云った、「じゃあ浅草へいこう」

妹のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆり</span>と向うのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が、<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れていってくれとせがんだ。参吉は伴れていってもいいような顔をしたが、繁次はいつになく強い調子ではねつけ、参吉と二人だけででかけた。

繁次は小遣など持ってはいないので、見世物や芝居の看板を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めたり、大道<ruby><rb>野師</rb><rt>やし</rt></ruby>の口上を聞いたりしながら、折があったら、参吉にあの女のことを訊くつもりでいた。しかし参吉はきまえよく二人分の銭を出し、芝居を一つと<ruby><rb>軽業</rb><rt>かるわざ</rt></ruby>を見たのち、掛け茶屋であべ川餅を喰べた。五時までに店へ帰らなければならないというので、茶店を出るとまもなく帰ることにしたが、かみなり門をぬけたところで、繁次はそれとなくあの女のことを訊いてみた。参吉はやや暫く、なにも云わずに歩き続けてから、いつもの穏やかな、おとなびた口ぶりで云った。

「呼ぶのに困るんだ」と参吉は苦笑した、「おっ母さんじゃあねえし、おばあさんて呼ぶのは悪いようだしな」

十歩ほどいってから、繁次がまた訊いた、「参ちゃんは嫌いじゃあねえんだな」

「ねえな」と参吉が答えた、「――おれにゃあずっと、かあちゃんがいなかったから」

繁次は頭を垂れた。

「長屋の者が悪く云ってるってことは知ってるよ」と参吉が云った、「人のわる口を云うのに銭はかからねえからな、云いたい者には云わせておけばいいさ」

それからさらに云った、「そんなことを気にしてくれなくってもいいぜ、繁ちゃん」

繁次は黙って<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

おれとは段が違うんだな、とあとで繁次は思った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>に蟹を捕ってやっていたときのこと、鉄や与吉を追っぱらってくれたが、どなりもしなかったし<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>しもしなかった。

――いっちまえよ、鉄。

そう云った静かな声が思いだされた。まだこっちは坊主頭で遊び相手もないとき、将棋をやろうと云ってくれた。知らなければ覚えればいいさ、うちへ来ないか。そうして、覚えの悪いおれに、半年も辛抱づよくつきあってくれた。

――おめえはだめだな。

舌打ちをしてそう云われたとき、おれはのぼせあがるほど<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に障った。癪に障ったのは本当はあいつのほうだったろう、半年も辛抱づよく教えたのに、いつまで経っても手があがらない。誰だっていいかげん飽き飽きするさ、それをおれは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かっ</span>となって殴りつけた。左の眉のところが切れて、血がふきだしたときの驚き。だが参吉は怒らなかった、自分で傷の手当をしながら、なんでもない、心配しなくってもいいよ、と云ってくれた。

――人間の段が違うんだな。

繁次はそう思った。人の悪口を云うのに銭はかからない、とあいつは云ったが、長屋の人たちが悪く云うには理由がある。おれだってあんな女はいやらしいし、あいつだって好きにはなれない筈だ。朝っから白粉の匂いをぷんぷんさせて、だらしのない恰好をしている女なんぞ、あいつだってがまんがならないに違いない、けれどもあいつはそんなけぶりもみせなかった。

――ああいうのを十万人に一人っていう人間かもしれねえな。

繁次は十三歳の頭でそう思った。

田原町と黒船町はわりに近いので、月に三度か五度くらい、参吉は長屋へあらわれた。たいていは使いに出たついでのことで、繁次は「指定」へいっているから殆んど会わなかったが、妹のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆり</span>や向うのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>からよくそれを聞いた。ことにお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は、参吉のことになるとむきになり、彼の云った言葉や、どんな顔つきをしたか、などということまで、詳しく覚えていて繁次に告げた。

「あの人にお土産を持って来るのよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は云った、「いつでもよ、あたいちゃんと知ってるわ」

「あの人って誰だ」

「参吉さんちにいる女の人よ、わかってるくせに」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は彼を繁ちゃんのあんちゃんと呼ぶが、参吉のときは名前にきちんと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さん</span>を付けて呼んだ。

――こんなちびでも人の見分けはつくんだな。

繁次はそのころからそう思いはじめた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は参吉が好きなんだ、よせばいいのにな、あいつはいまにきっとえらい人間になる、おめえみてえなみっともねえ子なんか、見向いてもくれやあしねえ。あんまり好きにならねえほうがいいぜ、などと思うこともあった。

その年の秋ぐち、七月にはいるとすぐに、長屋で<ruby><rb>痢病</rb><rt>りびょう</rt></ruby>がはやりだし、妹のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆり</span>が五日病んで死んだ。激しい下痢が続き、しまいには血をくだしたが、蒲団から畳にとおるほどの血で、医者にも手当のしようがなかった。その長屋で子供がほかに三人、老婆が一人死に、隣りの町内でも幾人か死んだ。

「さぞ苦しかったろうね、可哀そうに」母はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆり</span>の死顔に化粧をしてやりながら、同じことを繰り返して云った、「あたしはこんなに躯が弱いんだもの、死ぬならあたしが死ぬ順じゃないか、あたしはもう先に望みはありゃあしない、おまえはこれからどんなにでも仕合せになれたのにね」

棺を出そうとしているところへ、参吉が悔みに来た。急に背丈が伸びたようだし、口のききようもいっそうおちついて、繁次にはちょっと近づきにくいようにさえ感じられた。近所の人たちのごたごた混みあっているなかで、参吉は悔みを述べ、香典の包を置くと、繁次にめくばせをして、脇へ呼んだ。

「おれは田原町をよすことにしたよ」と参吉は云った、「<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>職人になるつもりなんだ、おちついたらまた話に来るからな」

そのときお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>がこっちへ来て、参吉さん、と呼びかけた。参吉がそっちを見ると、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は繁次のうしろへ隠れて、恥ずかしそうに笑いかけた。参吉も<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>み返したが、なにもものは云わず、繁次に「じゃあまた」という手まねをして、たち去った。

妹に死なれたことは、繁次にとっても大きな痛手であった。しかし育ちざかりのことであるし、母がいつまでもくどくど嘆き続けるので、それがうるさいために、却って早く悲しさを忘れるようになった。――それよりまえ、九月の<ruby><rb>晦日</rb><rt>みそか</rt></ruby>に参吉が訪ねて来て、蒔絵師のところへ弟子入りがきまったと云い、ちょっと外へ出ようと誘った。それから隅田川の<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>へゆき、そこで半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかり話した。きまった先は日本橋横山町の島田<ruby><rb>藤兵衛</rb><rt>とうべえ</rt></ruby>といって、大名道具を扱う店だということだった。

「おれは名をあげてみせるよ」参吉は珍しく<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>した口ぶりで、なんどもそう云った、「金なんかいらねえ、一生貧乏でいい、たとえ屋根裏で飢え死にをしてもいいんだ、――その代り、これは誰それの作だと、百年さきまで名の残るような物を作ってみせるよ」

繁次は圧倒された。参吉がそんなようすをみせたのも初めてであるが、屋根裏で飢え死にをしてもいいとか、百年のちまで名の残るような仕事をする、などという言葉は、聞くのも初めてであるし、その意味もよくのみこめないので、参吉が自分の知らない世界にはいり、見あげるほど高く、えらい者になったように感じられたのであった。

――あいつはきっとそうなるだろう。

繁次はそれを確信した。そして、自分が彼の額を傷つけたときのことや、怒りもせずに、おちついた手つきで傷の手当をしていたことを思いだし、あんなところにも人にまねのできない性分があらわれていた、やっぱりえらくなるやつは違うんだな、と思った。

年があけて二月、繁次は「指定」の店へ住込みで奉公することになった。母のことは向うのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>のうちで面倒をみてくれるというし、かよいでは本当の仕事が覚えられない。それに年も十四になったので、思いきってそういうことにした。そして、住込みときまったとき、横山町の「島藤」の店へゆき、参吉を呼びだしてそのことを告げた。

「おれは参ちゃんのような能はねえけれど」と彼は別れるときに云った、「それでもいちにんまえの職人にはなるつもりだよ」

「おめえは腕っこきになるさ」と参吉は励ますように云った、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やぶいり</span>に会おう」

## 三

それから三年経った秋、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の母親が死んだ。

繁次が仕事で<ruby><rb>鉋</rb><rt>かんな</rt></ruby>を使っていると、女中が来て「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>っていう子が来ている」と告げた。名前だけではちょっと思いだせず、鉋<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>をはたきながらいってみると、勝手口の向うにある薪小屋の前に、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が立っていた。だが、それがお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>だとわかるまでにはちょっとひまがかかった。その年のお盆の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やぶいり</span>に会ってからそれほど日は経っていないのに、背丈も一寸くらい伸びたようだし、顔や躯つきにもどことなくまるみがついて、「みっともない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちび</span>」という感じとはすっかり変ってみえた。繁次が近よってゆくと、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は、いっぱいにみひらいた眼で彼をみつめたが、その眼から大きな涙がこぼれ落ちるのを繁次は見た。

「かあちゃんが死んだの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は前掛で顔を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>い、泣きだしながら云った、「かあちゃんが死んじゃったのよ」

繁次は口をあいたが、すぐには言葉が出なかった。彼はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の肩へ手をやり、するとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は躯ごと<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れかかった。前掛で顔を掩ったまま、彼の胸へ凭れかかって、うっ、うっと<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>びあげた。

「どうしたんだ、いつ死んだんだ」

「昨日が初七日だったの」

「知らなかったな、病気だったのか」

「十日ばかり寝ただけ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が答えた、「寝て二三日すると頭がおかしくなって、死ぬときにはわけがわからなくなっていたの」

「ちっとも知らなかった、たいへんなことになっちゃったな、それは」

おれはまぬけなことを云うぜ、繁次は自分に舌打ちをした。凭れているお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の躯が、触れているところだけ熱いように感じながら、悲しいような気分さえ起こらない自分が、恥ずかしくなるばかりだった。

「あたしどうしよう、繁ちゃん」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は咽びあげながら云った、「あたしどうしたらいいかしら」

「どうするって、なにを――」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は急に躯を固くした。繁次はその躯を押しはなして、顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこみながら、どうかしたのか、なにか心配なことでもあるのか、と訊いた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は暫くじっとしていたが、やがて小さくかぶりを振ると、涙で濡れた顔をよく拭いて、前掛をおろした。

「なんでもないの」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は微笑した、「かあちゃんに死なれて心ぼそくなっただけよ、ごめんなさい」

「そうだろうけれど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まあ</span>坊がいるからな」と繁次はぎごちなく云った、「おじさんはあんなだから、おめえがしっかりしなくっちゃ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まあ</span>坊が可哀そうだぜ」

「おかしいのね」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>はぼんやりと、独り言のように云った、「あの子ったらかあちゃんが死んでも泣かないのよ」

そしてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>で、しゃっくりのような泣きじゃくりの音をさせた。

その夕方、仕事を終ってから、繁次は親方にわけを話して、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の家へ悔みにいった。さきにうちを覗くと、母がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>と<ruby><rb>増吉</rb><rt>ますきち</rt></ruby>に夕飯を喰べさせているところだった。繁次は声をかけておいて、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の家へいった。姉弟の父は<ruby><rb>角造</rb><rt>かくぞう</rt></ruby>といい、今戸の瓦屋の職人だったが、酒癖が悪く、飲みだすと三日も五日も休みなしに飲み、もちろん仕事には出ないし、酒乱のようになった。そうかと思うとぴたっとやめて、二十日も一と月も一滴も飲まないことがある。そんなときは躯まで小さくなったかと思うほどおとなしく、ろくろく話もできないというふうになるが、飲み始めるとまた同じような結果になるのであった。

繁次が悔みにいったときも酔っていて、繁次の挨拶など耳にもはいらないようすだった。表のすり切れた古畳の上へ、片肌ぬぎになってあぐらをかき、飯茶碗を持って飲んでいた。まわりには食い荒した皿や<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>や小鉢物と、一升徳利が六七本も並んでおり、部屋の中は胸が悪くなるほど酒の匂いがこもっていた。

「子供は親のもんだ、そうじゃねえか」と角造は云った、「子供ってやつは親が生んで、親が苦労して育てたもんだ、そうじゃねえってのか、おい、そうじゃねえって云うのか」

繁次は立とうとした。

「おい待て、逃げるな」と角造はどなった、「帰るんならそこのところをはっきりさせてから帰れ、子供は親のもんじゃねえのか」

「そんなことわかってるじゃねえか」と繁次はなだめるように云った、「いったいなにを怒ってるんだい、おじさん」

「子供が親のものなら、どうして親の自由にしちゃあいけねえんだ、子供を育てるためには親はずいぶん苦労をしてる、てめえの<ruby><rb>食</rb><rt>しょく</rt></ruby>を詰めても子供に食わせ、飲みてえ酒もかげんして、暑さ寒さにひっぱる物の心配もしなけりゃあならねえ、そうやって育てた子供なんだから、親が困ってるとき親のために働くのはあたりめえだろう」

そこまで聞いて繁次はどきんとし、そうだったのか、と心の中で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

――あたしどうしたらいいかしら。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>がそう云いに来たのはこのためだ。一昨年のお盆に帰ったとき、彼は母から聞いたことがあった。例によって角造が飲み続けたあげく、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>を芸妓屋へ売ろうと云いだし、そのためひどい夫婦<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>げんか</rt></ruby>になった、というのである。あんなみっともねえ子をかい、と繁次は笑って聞いたが、女房に死なれた角造は、きっとまたそんなことを考えだしたに違いない。ひでえ人だな、と思いながら、やがて繁次は立ちあがって、自分の家へ戻った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は勝手で茶碗を洗ってい、母は行燈の側で、増吉の手の爪を切ってやっていた。繁次は低い声で角造のようすを話し、どういう事情なのかと訊いた。想像したとおり、女房が寝つくとすぐに、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>を芸妓屋へ売ろうと云いだした。女房は危ないと感じたのだろう、繁次の母と差配の武助に立会ってもらい、「どんなことがあってもお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>を売るようなまねはさせないでくれ」と頼んだ。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>もよく云い聞かせられたのだろう、母親が死んで五日と経たないうち、父がその話をもちだしたので、すぐに差配のところへ駆けこんだ。

「あたしは女だから口出しはしなかったけれど」と母は云った、「差配さんは<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>づめでかなり強いことを云ったらしい、それからずっと飲み続けで、あのとおりどなりちらしているんだよ」

乱暴をしそうで怖いというから、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>と増吉は母が預かった。おちつくまで預かるつもりだけれど、三人口を養うとなると、――と云いかけて母は口をつぐんだ。

「当分のことならなんとかなるよ」と繁次は云った、「だけど、差配が止めるだけで大丈夫なのかなあ」

「角さんがやる気になればだめらしいね」と母は云った、「芸妓屋へじかにしろ、<ruby><rb>女衒</rb><rt>ぜげん</rt></ruby>に頼むにしろ、親が金を取ってしまえば、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の力でもどうしようもないそうだよ」

「ひでえもんだな」と繁次は幾たびも首を振った、「ひでえもんだな」

勝手で物音がしなくなり、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣く声がかすかに聞えた。繁次がいってみると、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は流しの前に立ち、前掛で顔を掩って泣いていた。小刻みにふるえている肩に、赤い<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>のかかっているのが、繁次の眼にはひどくいじらしくみえた。

「泣くなよ、泣いてる場合じゃあねえじゃねえか」と繁次は云った、「いくら親だからって、立派に働ける躯を持っていて、自分が怠けたり酒を飲んだりするために、子供を売るなんて非道なまねができるもんか、そんな者は親じゃあねえぜ、そうだろう」

「でも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あき</span>ちゃんだって売られちゃったわ」と泣きながらお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が云った、「いやだいやだって泣いてたけれど、去年とうとう売られちゃったのよ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あき</span>ちゃんて誰だ」

「お札売りのうちの人よ」

「覚えてねえな」と繁次は首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>った、「それはその子が気が弱かったからだよ、本当にいやで、死ぬ気になってみな、にんげん死ぬ気になってやればできねえことはねえぜ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は顔をあげた。涙で濡れた眼を拭き、その眼でじっと繁次をみつめた。

「参吉さんもそう云ったわ」

「参ちゃんが、……いつ、――」

「今年の正月の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やぶいり</span>のときよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は云った、「江戸一番の職人になるんだ、死ぬ気になってやるつもりだって」

繁次は胸の奥に一種の痛みを感じた。どういうわけか理由はわからないが、重苦しいような痛みを、胸の奥に感じて顔をしかめた。

「それでわかるだろう」と繁次は乾いた声で熱心に云った、「職人になるんでさえ死ぬ気でやるっていうんだ、おめえは自分の一生と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まあ</span>坊のためだぜ、もう十二なんだからな、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まあ</span>坊のためにも自分の一生のためにも、死ぬ気になって頑張ってみな、その気になればきっと切りぬけられるぜ」

「ええ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は頷いた、「やってみるわ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まあ</span>坊さえいなければあたし死ぬつもりだったんだもの、やれるだけやってみるわ」

繁次は母に、金を届ける、と云って、まもなくいとまを告げた。年期奉公には、場合によって主人から金を借りることができた。繁次は借りなかったので、少しぐらいならどうにでもなった。

「参吉とそんな話をしたのか」店へ帰る途中で繁次はそう呟いた、「――おれにはそんなことは云わなかったがな、いつそんな話をする暇があったろう」

そのときまた、胸の奥にあの痛みが起こった。繁次はわけがわからず、立停ってそっと、片手で胸を押えた。

## 四

十九の年の十一月、繁次は初めて居酒屋へはいって、初めて独りで酒を飲んだ。それまでにも祭礼とか祝いごと、正月などに、兄弟子たちにしいられて<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めるくらいのことはあったが、<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>に二つもやると躯じゅう火がついたように熱く、いまにも心臓がとび出しそうになるので、酒と聞いただけでも逃げだすようにしていた。

だがその日は飲みたかった。人の酔うのは見ているから、そんなふうに酔えれば有難いし、酔えなくとも、ただ苦しくなるだけでもいい、思うさま自分を苦しめてみたい、というような気持であった。

神田川の河岸にあるその居酒屋は、小さくて<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ないうえに、荷揚げ人足や船頭など、川筋で働く人たちがおもな客だから、「指定」の職人などはもちろん、近所の者とかち合う心配はなかった。店は二十人もはいれるだろうか、暗くて湿っぽい土間に長い飯台が二つ、それを囲んで<ruby><rb>空樽</rb><rt>あきだる</rt></ruby>に薄い蒲団を置いたものが並べてある。――十五日の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>で、かなり混んでいる店の、いちばん隅に席をみつけ、繁次は壁へくっつきそうな恰好で、肩をすぼめながら腰を掛けた。

年は二十ちょっとぐらいだろうが、<ruby><rb>世帯崩</rb><rt>しょたいくず</rt></ruby>れのような、ひどく<ruby><rb>老</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてみえる女が注文を聞きに来て、おや、指定さんのにいさんじゃないの、と驚いたように云った。繁次は逃げだしたくなったが、やっとがまんして酒と<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を頼んだ。

「だらしがねえな」と繁次は口の中で呟いた、「そんなことわかってたじゃねえか、忘れちまえ」

<ruby><rb>佃煮</rb><rt>つくだに</rt></ruby>と目刺の焼いたのと、<ruby><rb>甘煮</rb><rt>うまに</rt></ruby>などが並び、繁次は二杯まで眼をつむって飲んだ。これまでとは違って、苦くもなく、匂いも鼻につかなかった。

忘れちまえ、と心の中で繰り返し、幾たびもぎゅっと眼をつむって頭を振った。だが、眼の奥に残った印象は深く強烈で、まるで刻みつけでもしたように、どうしても打ち消すことができなかった。――彼はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>と参吉が抱き合っているのを見たのだ。勝手口の外にある薪小屋の前で、背の高い参吉が上から<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>むようにし、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は背伸びをして、両方でお互いの躯を抱き緊め、そして唇を合わせていた。それはけんめいな、ひたむきな姿で、勝手口へ繁次の出て来た物音にも、まったく気づかないようであった。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は「指定」の女中をしていた。父親がなにをするかわからないので、繁次が親方夫婦に話したところ、三人いる女中の一人に嫁の話があり、その代りを捜していたところだそうで、すぐに相談がきまった。差配の武助がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の父と「指定」の親方とのあいだに立って、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の身売りなどはしない、という証文を入れ、年期七年で五両という金を貸した。受人はむろん武助で、残った増吉は繁次の母が世話をすることになった。

それから足かけ三年、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>も十四歳になるが、店でいっしょにくらし始めてから、繁次はいつもお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>に気をつけ、ほかの女中や職人たちにいじめられたり、わるさをされたりしないように<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ってやった。

――出しゃばるんじゃあねえぜ。

無用に気をきかせたり、才ばしったふうをしないほうがいい。あの子はまがぬけている、と云われるくらいのほうが<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>から憎まれずに済む。それをよく覚えておくように、などと、いっぱしおとなぶった口ぶりで、だが心からしんけんに、繁次は繰り返し注意したものであった。

このあいだずっと、休みの日にはたいてい参吉が訪ねて来た。そしていっしょに芝居や寄席や、季節によっては菊見、舟遊び、遊山などにもでかけた。横山町の店はやかましいとのことで、いつも参吉のほうから来るのだが、するとお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>のようすが目立って変った。参吉はそれまでどおり、一と言か二た言話しかける程度だが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は顔を赤らめ、返辞もろくにはできず、うるんだような眼で、気づかれないようにそっと見あげたりする。そのくせ参吉のいるあいだはそわそわとおちつかず、へまなことをして朋輩の女中に叱られる、といったようなことを繰り返した。

――まだ十三や十四で、いやだよこの子は、もういろけづいちゃったんじゃないの。

今年になってから、口の悪いお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つね</span>という女中にずけずけとそう云われ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は泣きだしたことがあった。

「いま始まったことじゃねえ」繁次は持った盃をみつめながら、独りでそっと呟いた、「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は昔から参吉が好きだった、それでいいじゃねえか、おい繁、てめえやきもちをやいてるのか」

盃を持つ手に力がはいり、指の節がぐっと高くなった。

――こんなことはざらにあるんだろうな。

いまのおれのように、こんなみじめなおもいをしている者が、この世の中にどれほどたくさんいるだろうか、と繁次は心の中で思った。

「どうしたの、にいさん」

こう云われて眼をあげると、さっきの年増女が前に来ていた。

「あたしお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>っていうの」女はにっと笑いかけながら<ruby><rb>燗徳利</rb><rt>かんどくり</rt></ruby>を持った、「あら、ちっとも減ってないじゃないの、お酌しましょう」

「自分でやるからいいよ」

「そんなに嫌わなくってもいいでしょ」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は酌をしながら繁次を見た、「あたしまえからあんたのことよく見かけていたのよ、今日はどうしてこんなとこへ来たの」

繁次は返辞ができなかった。

「飲みたかったからさ」とようやく云って、彼は思いだしたように盃をさし出した、「――一つやらないか」

「いただくわ」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は盃を受取った、「一つだけね、ありがと」

こんなところにいるとつい飲むようになってしまう。嫌いだったのがいまは好きになったが、酔うとだらしがなくなるから、店にいるあいだは飲まないようにしているのだ、とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は云った。言葉は乱暴だが、さっぱりとした中になんとはないあたたかみがこもっていて、繁次はいつかあまえたいような気分にひきこまれた。

「ちっとも飲まないじゃないの」やがてお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>が<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに云った、「あたしがいちゃあ邪魔」

「そうじゃない」繁次は眼をそらして、呟くように云った、「初めてだから、まだ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>の眼に、なんと云いようもない色が動いた。店の中は殆んど客がいっぱいで、皿小鉢の音や、話したり笑ったりする高ごえや、三人いる<ruby><rb>小女</rb><rt>こおんな</rt></ruby>たちの甲だかい呼び声などのため、繁次のいるその隅だけ、一とところ穴があいたように感じられた。

「あたし小さいときにね」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>が云った、「おみおつけの<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>へ踏みこんで、こっちの足に<ruby><rb>火傷</rb><rt>やけど</rt></ruby>をしたことがあるのよ、五つの年だったかな、火からおろしたばかりで鍋はぐらぐら煮たっていたの」

「あぶねえ――」繁次はきゅっと顔をしかめた。

「おっ母さんがうどん粉に酢を入れて練ったのを塗って、<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>しで巻いてくれるあいだ、あたし死んじゃいたい死んじゃいたいって、声っ限り泣いてたわ」

「痛かったろうな」

「痛いためばかりじゃないの、どう云ったらいいかな」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は機械的に燗徳利を持ったが、繁次の盃にまだ酒があるのを見て、それを下に置きながら続けた、「こんなたいへんなことになったら、もう生きてはいられないだろう、いっそ死んじまうほうがましだ、っていうような気持だわね、そうよ、そんなような気持だったわ」

同じような気持になったことは、それからあとにも三度ある。そして、「死んじまいたい」と思いつめるそのときの気持には、嘘も誇張もない。ぎりぎりいっぱい、死ぬよりほかにないと思うのだが、そのときが過ぎてしまうと気持もいつか変ってゆき、そんなに思いつめたことがばからしくさえなる、とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は云った。

「人間てそんなものらしいわ」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>はにっと微笑した、「悲しいことかもしれないけどね、おかげで生きていられるんでしょ」

なんのためにそんな話をするんだ。初対面なのに、なにか勘ちがいをしているな、繁次はそう思いながら、やはりあたたかな、母親の乳の匂いでも<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぐような、しんみりした気分に浸っていた。

「おれ、繁次っていうんだ」ふとそう云ってから、恥ずかしそうに彼は赤くなった。

「そう」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は頷いた、「繁さんね」

奥のほうでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>を呼ぶ声がし、小女がこっちへ来て「ねえさん」と云った。たぶん馴染の客なのだろう。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は繁次に手を出して云った。

「もう一つちょうだい」

繁次はうろたえた手つきで、持っていた盃を渡し、酌をしてやった。

「御馳走さま」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は飲んでから、そう云って繁次の顔を見た、「――よかったらまた来てね、くよくよするんじゃないのよ」

繁次はまもなくその店を出た。

思いがけないことだが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>という女と話したあと、彼は参吉に悪かったな、と思った。その日はいっしょに寄席へゆく筈だったが、薪小屋の前のことを見て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かっ</span>となり、「今日は躯のぐあいが悪いから」と断わってしまった。

「二人のことはわかってたんじゃねえか」と彼は自分を責めた、「どっちも古い友達同志なんじゃねえか、――繁公、てめえきざなやつだぜ」

## 五

いまにお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は参吉といっしょになるだろう、参吉はきっと江戸に何人という職人になるだろうし、そうすればお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>も仕合せになれる、二人はそうなるようにきまっていたんだ。――繁次はそれを納得した。小さいじぶんからのことを思い返してみろ、二人がそうなるのは当然のことじゃないか、と彼は幾たびも自分に云った。

そこまではっきりしているのに、薪小屋の前の二人の姿を思いだすと、そのたびに胸が裂けるような痛みを感じた。いつだったか、繁次の家の勝手でお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が泣いていて、「参吉さんもそう云った」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の口から聞いたあと、胸の奥にわけのわからない苦痛が起こった。そのときの痛みに似ていて、もっとするどく深く、息ができなくなるほどの痛みなのだ。

「おれだけじゃあねえんだな」と繁次はよく独り言を云った、「あのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>っていう人だって、女の身でずいぶん辛いおもいをしたらしいからな」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>とはなるべく顔の合わないようにしたが、同じ家にいるのでまったく見ないわけにはいかないし、なにか話しかけられれば返辞もしなければならない。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>のようすにはなんの変化もなく、これまでどおり彼を頼みにし、つまらないようなことでも、いちいち彼に相談するというふうであった。

――十四ぐらいでも、女ってものはたいした度胸があるんだな。

男と抱きあい、唇を吸いあう、などということはたいへんな出来事の筈だ。云ってみれば一生がきまるようなことだろうのに、なんの変化もみせないというのは、よっぽどの度胸があるに違いない、と彼は思った。

繁次はやがて、自分の気持を隠すことを覚えた。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>にも参吉にも、できる限りそれまでと同じような態度をとり、自分の感情を表へあらわさないようにつとめた。こういう努力には卑屈感が伴わずにはいない。繁次はときどき自分がみじめで、やりきれなくなることがあった。そんなことはたびたびではないが、どうにもがまんのできないようなときには、いつかの居酒屋へいって気をまぎらわした。そういうときは参吉にもわかるらしく、<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>におちないような眼で、しげしげと彼の顔を見ることがあった。

「おめえどうかしたのか」と或るとき参吉が訝しそうに訊いた、「このごろなんだかようすのおかしなときがあるぜ」

「そうかな」と繁次は首をかしげた、「自分じゃあ気がつかねえがな」

だらしのないはなしだが、そのとき繁次はうれしいような気持になった。

――やっぱり友達なんだな。

心にやましいことがあればそんなことを訊きはしない、と繁次は思った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>とのことがやましければ、おれのようすで気がつく筈だ。おれがこんなに用心しているのに、おかしいなと勘づくのは、おれを友達として心配してくれるからだし、心にやましさがないからだ。

――いいやつだな。

あいつは思いやりのあるいいやつだ。あいつに比べるとおれはみみっちい、くだらねえ人間じゃねえか。あいつは頭もいい、自分で云うとおりきっと偉い職人になるだろう。おれなんかには過ぎた友達だ、と繁次は思った。

<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>になったころから、参吉の訪ねて来るのが少なくなった。店の手があかないんだ、と云ったことがある。「島藤」では腕っこきの一人になったようすで、大名屋敷や金持の家へ、直し物にかようこともあり、休みの日にも、遊ぶより仕事をするほうが面白い、というふうであった。

繁次は兄弟子にすすめられて、端唄の稽古を始めたが、どうしてもうまくならないし、声が悪いので「落葉に雨の」というのを半分やりかけたままよしてしまった。或る夜、また河岸の居酒屋へいったとき、少し酔ったのだろう、自分でも気づかないうちに、その唄をうたいだした。――参吉があまり来なくなってからだから、二十の年の冬のかかりだったろうか、雨が降っていて客もあまりなく、彼はいつもの隅に腰を掛けて、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>の酌で飲んでいた。飲むといっても、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>に<ruby><rb>助</rb><rt>す</rt></ruby>けてもらってせいぜい一本というところだし、それもたいてい三分の一は残るのが例であった。その晩もよけいに飲んだわけではないが、珍しく客が少ないのと、気のめいるような雨の音とで、なんとなくそんな気分になったのだろう、稽古したところだけを低い声で、そっとうたった。

「あら、いいわね」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>が云った、「<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な文句じゃないの、あとをうたってよ」

「よせよ恥ずかしい」繁次は赤くなった、「われながらこの声にはうんざりしているんだ」

「あんたのおはこだよ、それ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>が云った、「なにかっていうと自分を<ruby><rb>貶</rb><rt>けな</rt></ruby>すんだ、よくない癖だよ、繁さん、あんたはいい人だけれど、それだけは直さなくちゃいけないよ」

繁次は黙った。

「あとを聞かして」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は気を変えるように云った、「あたし好きだわ、その唄」

繁次は首を振った、「これっきりしきゃ知らないんだ」

「そんなこと云わないで」

「本当に知らねえんだ」と繁次が云った、「ここまでやってみたけれど、自分でも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おかし</rt></ruby>くなってよしちゃったんだ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>はじっと繁次を見ていて、「かなしい性分だね、あんたって人は」と<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>でもつくように云った。そして、そこまででいいからもういちど聞かせてくれ、とせがんだが、繁次はすっかり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>てしまい、この次にしようと断わった。

その次の次あたりだろう、やはり客の少ない晩に、繁次はなにげなくその唄をうたった。もちろん張った声ではない、無意識な、呟くような声であった。そのときもお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は向うに腰掛けていたが、こんどはなにも云わず、燗徳利を持ったまま眼をつむって、しんと聞いていた。うたい終ってから、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>のそのしんとした表情を見、自分がうたったことに気づいて、繁次は赤くなった。

「いい唄だよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>は眼をあいて云った、「かなしくって、せつなくなるようだ、すっかりならっちまえばよかったのに」

「ああ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>はすぐに頭を振った、「そうじゃない、それだけのほうがいいかもしれない、あとの切れちまってるほうが情が残っていいかもしれないよ」

「いろんなことを云うんだな」繁次は苦笑いをした、「おれなんかにゃあ文句の意味もわからねえや」

「もうすぐだよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>が云った、「そういう気持を覚えるには学問もいらず、てまもかからないからね」

そんなことを云われたのが、心のどこかに残ったのだろうか。それともほかに知った唄がないためか、仕事をはなれて、とぼんとしているときなどに、ふと気がつくとその唄をうたうのが癖になった。

「おかしなやつだぜ」と端唄のうまい兄弟子が云った、「唄ってものはしまいまできっちり覚えてからうたうもんだ、半端な唄はうたうな」

繁次は一言もない。なるべく気をつけるようにしたが、つい忘れて、ときどきわれ知らずうたい、独りで赤くなるようなことがあった。

二十二の年の春、参吉は長屋へ戻って、「島藤」の店へかよいの職人になった。店では一番の腕だそうで、大名や富豪の屋敷へは、もっぱら彼がゆくのだということであった。その年の夏、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>も暇を取って家へ帰った。父親の角造が中気で倒れ、そのまま寝こんでしまった。増吉は神田白壁町の質屋へ奉公にいったばかりだし、どうしてもお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が帰らなければならなかったのである。

「休みには家へ帰ってね、繁ちゃん」と暇を取って出てゆくときお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が云った、「このごろあんまり帰らないんでしょ」

「帰らなくはねえさ」

「たいてえ芝居かどっかへゆくじゃないの、知ってるわよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が云った、「でもこれからはなるべく帰ってね」

参吉がいるぜ、と口まで出かかったが、繁次は「うん」と頷いただけであった。

母親のくらしを助けるために、繁次は親方から三度金を借りているし、月づき幾らかずつは仕送らなければならないので、二十三で年期のあける筈が、なお一年延びることになっていた。彼は手のおそいほうだし、<ruby><rb>見栄</rb><rt>みば</rt></ruby>えのするような仕事はできなかった。それできょうだい弟子たちからは軽くみられていたが、みてくれに構わず、いそがない品なら誰にも負けない物を作るので、特に<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>などは名ざしで来る注文が少なくなかった。

繁次は晦日だけは家へ帰った。しかし母に幾らか渡すと、茶も啜らずにとびだしてしまう。参吉やお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>に会いたくなかったし、ぐちっぽくなった母の繰り言を聞くのも、気が重かったのだ。

「そういう年ごろになったんだね」と母はたびたび云った、「男の子が二十を越せば、自分の家なんか気ぶっせいになるんだろう、いいよ、おまえだけじゃないんだから」

「注文の仕事が<ruby><rb>閊</rb><rt>つか</rt></ruby>えてるんだ」と繁次は眼をそらしながら答える、「名ざしの注文なんだから、休みだからって遊んでるわけにはいかないんだよ」

そんなふうに上り<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>で云って、そのまま出てしまうことが多かった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は父の看病をしながら、仕立て物の賃仕事をしているそうで、ときには母のところへ、わからないところを訊きに来ていて、繁次と顔の合うこともあったが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>のほうが先に眼をそらすようで、話をする機会は殆んどなかった。

## 六

二十四の年の三月に、繁次はようやく年期があけて、黒船町裏の家へ帰った。店と縁が切れたわけではなく、かよいでもう二三年仕事をすれば、親方が店を分けてくれる約束であった。

こうなれば避けるわけにはいかない。朝でかけるときなど、しばしばお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>と出会った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>も十九で、すっかり女らしくなってい、朝の挨拶をするときなど、ちょっとした微笑や、おじぎのしかたなどに、ほのかな媚が感じられた。そんなことが眼につくと、繁次の胸はまた痛みにおそわれ、一日じゅうその痛みの続くこともあった。

参吉ともよく会うが、彼は泊りこみで修理物にでかけることが多く、またお互いの仕事が違うためもあろうが、以前ほど親しい往き来はしなかった。

――どうして二人はいっしょにならねえんだろう。

繁次はそれが訝しかった。参吉にも祖父とその女がいるし、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>には寝たっきりの父親がある。たぶんそれが障りになっているのだろう、と思ったけれども、参吉は男であり、祖父は丈夫で女もいる。その気になればお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>と夫婦になって、病人ひとりくらい養ってゆけるではないか、などと思ったりした。

夏になってから、――浅草寺の四万六千日のすぐあとのことだが、繁次が晩めしを済ませたところへ、参吉が訪ねて来た。

「おばさん今晩は」そう云いながらさっさとあがって来、<ruby><rb>爪楊枝</rb><rt>つまようじ</rt></ruby>を使っている繁次の脇に坐った、「おめえに見せてえものがあるんだ、こいつを見てくれ」

あっけにとられている繁次の前へ、二尺に三尺ほどの紙をひろげた。母がちゃぶ台を持ってゆき、参吉は行燈を引きよせた。その紙には一脚の<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>の絵が、<ruby><rb>極彩色</rb><rt>ごくさいしき</rt></ruby>で描いてあった。

「おれにはよくわからねえが」と繁次が云った、「見たことのねえもんだな、文台ってやつか」

「<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>二階の厨子っていうんだ」

「大名道具だな」

「紀州さまから出たんだそうだ」と参吉は昂奮して云った、「いまは本町二丁目の小村屋のもので、この下の段、下層っていうんだが、ここのところの<ruby><rb>螺鈿</rb><rt>らでん</rt></ruby>がいけなくなったんで、おれが五十日がかりで繕ったんだ」

小村屋という名は繁次も聞いていた。日本橋本町二丁目の<ruby><rb>唐物</rb><rt>からもの</rt></ruby>商で、長者番付にも載るほどの富豪だという、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の喜左衛門は茶人としても名高く、歌、<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>なども堪能だという評判だった。――その厨子は先代の喜左衛門が紀伊家から賜わったのだが、作られたのはおよそ七百年まえであり、<ruby><rb>関白</rb><rt>かんぱく</rt></ruby>藤原のなにがし家の調度だった。そういう由緒のある品だから外へは出せない、参吉は小村屋へかよって修理をし、終りの七日ばかりは泊りこみでやった、ということであった。

「この青貝の脇を見てくれ」参吉は指で五カ所をさし示した、「これは鈴虫なんだ、こことここに五<ruby><rb>疋</rb><rt>ひき</rt></ruby>いるだろう、それで鈴虫の厨子という名が付いているんだ」

そして漆や蒔絵の図柄や、螺鈿のこまかい技巧について、蚊にくわれるのも知らず、熱をこめた口ぶりで、熱心に説明した。

――やっぱりたいしたやつになったな。

繁次はそう思ってたじろいだ。彼にはその厨子が、そんなに貴重な品かどうか見当もつかない。もちろん実物を見たわけではない、参吉の描いた絵と、その説明を聞いただけであるが、それだけでも実物を見るような感じがした。しかし彼がたじろいだのは、厨子に対する参吉の態度であった。彼のまわりにもずいぶん凝り性な者や、変った性質の者がいる。それは職人かたぎといって、どんな職にも一風変った、名人はだの人間がいるものだ。参吉もそういう一人なのだろうが、それらよりもっと大きな、底の知れない才能、といったものが感じられた。

「いけねえ、<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りすぎた」参吉はふと繁次を見て、苦笑した、「すっかり退屈さしちゃったようだな」

「退屈なもんか、戸惑ってるだけだ」

「七百年か」参吉は絵をたたみながら、独り言のように云った、「――こいつはきっと千年以上も残るぜ」

参吉の<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いような眼つきを見て、繁次はずっと以前のことを思いだした。

――金なんかいらない、一生貧乏で、たとえ屋根裏で死んでもいい、百年さきまで名の残るような物を作ってみせる。

参吉はそう云ったことがあった。たしか二人とも十三だったろう、仏具屋をやめて「島藤」へはいるまえのことだ。それからまる十年の余も経ち、繁次は忘れていたが、参吉の心の中にはいまでもあのときの火が燃えている。十年以上ものあいだ休みなく燃え続いていたのだろうし、いまではもっと激しくなっているようだ。やっぱり参吉は何万人に一人っていう人間なんだな、と繁次は思った。

その前後から、参吉の家がうまくいっていない、というような噂を聞くようになった。祖父の<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れこんだ女はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みち</span>といい、もう四十を越していた。はじめ「一年も続くかどうか」といわれたくらいで、こんな裏長屋にはそぐわないようなあだっぽい女だったが、茂兵衛との仲もいいし、四十を越したとは思えないほど、いまでも若わかしいいろけをもっていた。噂のたねはそのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みち</span>で、参吉とあやしいから茂兵衛がやきもちをやくとか、参吉がお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みち</span>を追い出そうとしているとか、まったく反対な陰口が<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>まっていた。

「茂兵衛さんはもう八十だろう」という者があった、「女のほうは四十を出たといっても、あのとおりいろけたっぷりだからな、おまけに参吉のやつがまたいい男ときてるんだから、無事におさまってくわけがねえや」

「あのひと毎晩のようにせっつくんですってよ」という女房もいた、「それではおじいさんの躯がたまらないだろうって、参吉さんが出てゆけがしにするのよ、なにしろおじいさん孝行な子だったものね」

繁次はどっちの噂も信じなかった。

――参吉にはお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>がいる。

あんな女に関心を持つ筈はない、あいつの頭は仕事のことでいっぱいなんだから。そう思っていた。そのころ繁次はようやく酒の味がわかるようになり、休みの日や、気持のふさぐようなときには、居酒屋とか<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>屋などで一杯やる癖がついた。飲むといっても一本がいいところで、それを一刻もかけて舐めるように飲む。たまに二本めを取ったりするが、どうしても半分は残るのであった。

神田川の河岸のあの居酒屋は馴染のようになった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>という女はもういなかった。繁次の年期が終るちょっとまえにその店をやめてしまい、どこへいったかわからなくなった。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつ</span>という女中の話によると、<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>打ちの男があり、その男といっしょに<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>のほうへいったらしい。ということであったが、べつの女中は「からだがわるくなったので<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>へ帰ったようだ」と云っていた。故郷がどこだかは店の主人も知らず、どっちの話が事実かもわからなかった。――繁次は暫く淋しかった。それほど好きというのではない、初めてのときに感じた、あたたかい<ruby><rb>劬</rb><rt>いたわ</rt></ruby>り、男のような言葉つきの中にあるうら悲しいようなひびきなど、向きあっていると<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>から慰められるように思えた。ほかにも馴染の客が少なくないらしいのに、繁次がゆくとすぐに寄って来て、帰るまで相手をしてくれる。いろ恋とはまったくべつな、姉と弟という感じだったろう。いなくなられたあとも、好きな姉を失った、というふうな気持であった。

九月の十五日の休みに、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>を芝居へ伴れていってやれ、と母に云われた。

「いやだよ」と繁次は断わった、「みっともなくって、そんなことができるかい」

「なにがみっともないのさ」

「長屋のみんなにへんな眼で見られるじゃねえか」そして殆んど呟くように云った、「芝居なら参吉につれてってもらえばいいさ」

「参ちゃんがどうしたって」

「なんでもねえよ」と繁次は云った、「――二三日まえに縫ってた参吉の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>も、ちょうど仕上ったんじゃねえのか」

母は口をつぐんだ。

三日まえの夜、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が縫いかけの袷を持って来て、ひとところどうしてもうまくいかないからと、母の手を借りていた。こりこりするような<ruby><rb>紬縞</rb><rt>つむぎじま</rt></ruby>で、母は針を動かしながら「参吉さんにぴったりの柄じゃないか」と云っていた。繁次は木綿のほかに着たことはないが、参吉は渋い絹物を好んで作った。多くは紬で、色も柄も渋いものだし、光るような生地は決して使わないから、絹物といっても、着たところにいやみはなかった。

――酒でも飲むか。

繁次はぼんやりそんなことを思った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は参吉のもの、と自分でもはっきりきめているのに、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が参吉の着物や羽折などを縫っていたりすると、いつものように胸が痛くなる。以前のように耐えがたいというほどではない。いっとき経てば消えてしまうが、その痛みを感じたときの、頼りないような淋しさのほうが、心に残るようになった。

明るいうちから飲みにもゆけず、浅草の奥山へでもいってみようかと思い、着替えをしているところへ参吉が来た。

「ちょっと相談があるんだが」と云って参吉は繁次のようすを見た、「――でかけるのか」

「用じゃあねえんだ、あがってくれ」

「うちへ来てくれないか」と参吉が云った、「ここじゃあ話しにくいんだ」

## 七

参吉はそわそわしていた。いっしょに家へいってみると、老人も女も留守だった。

「茶でも<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れようか」と参吉が云った、「ちょうど湯が沸いてるが」

「どうしたんだい」繁次は不審そうに参吉を見た、「茶だなんて、珍しいことを云うじゃねえか」

「おれだって茶ぐらい淹れるさ、まあ楽にしないか」

「それはおめえのほうだろう」と繁次は云った、「なんだか今日はようすがおかしいじゃねえか、相談てなあなんだ」

「まあとにかく茶を淹れよう」

繁次は口をつぐんだ。

――なにかあったな。

そう思いながら、ふと脇にある机のような物に、<ruby><rb>片肱</rb><rt>かたひじ</rt></ruby>を突いて<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかった。唐草の風呂敷が掛けてあるからわからないが、倚りかかった感じは机のようであった。

「あ、ちょっと」とすぐに参吉が云った、「そいつはいけねえ、そいつに触るのはよしてくれ」

繁次はすぐにはなれた、「うっかりしてた、机のようだな」

「机じゃあねえんだ、いま見せるよ」

参吉は茶を淹れて来て坐った。

茂兵衛の好みだろうか、小ぶりな茶碗も高価な品のようだし、茶の味も繁次には初めての、びっくりするほどうまいものであった。こんな裏長屋などで茶らしい茶を飲む家はない、もちろん高価だということが第一だが、食うことに追われている生活では、おちついて茶をたのしむなどという心のゆとりがなかった。茶といえばふけたような匂いのする安い番茶で、それを色の出なくなるまで淹れて使うから、<ruby><rb>白湯</rb><rt>さゆ</rt></ruby>を飲むのとさして変りがなかった。

参吉は茶を一と口啜ると、机のような物に掛けてある風呂敷を取った。

「おれが作ったんだ」と参吉は云った、「――どう思う」

繁次は坐り直した。

二段になっている文台のような道具で、青貝入りの金蒔絵がみごとに仕上っている。下段は四枚の扉があり、中央の二枚が左右に開くのだろう、合わせめに小さな銀の錠前が掛っていた。蒔絵は暗い朱色の地に、金でこまかく秋草が散らしてあり、ところどころに青貝が光っていた。

「たいそうなもんだな」繁次は手を伸ばして、そっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こば</span>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でながら云った、「おれなんぞにはよくわからねえが、こりゃあたいそうなもんだ」

「なにか気のつくことはねえか」

「どういうことだ」

「これを見てくれ」参吉は指で、青貝の部分をさし示した、「ここと、ここと、これだ」

「うん」繁次は眼を近づけた、「――虫のようだな」

「鈴虫だよ、忘れちゃったか」

繁次は「鈴虫」と口の中で呟いた。

「いつか絵図を見せたろう」

「ああ」と繁次は云った、「口まで出かかってたんだ、小村屋の文台だったな、たしか」

「厨子っていうんだ、鈴虫の厨子だ」

「だっておめえいま、自分で作ったって云やあしなかったか」

「頼まれて写しを作ったんだ」

「へええ」繁次はもういちど熱心に見直した、「そういえば、あのとき見せてもらった絵図とそっくりのようだな、いつのまにやったんだ」

「ふつうなら一年くらいかかるだろうが」と参吉が云った、「おれはまえから早漆といって、漆の重ねかたや乾かしかたのくふうをしていた、まだ誰も知らねえんだが、それでやるとふつうの三分の一で仕上るんだ」

「<ruby><rb>保</rb><rt>も</rt></ruby>ちはどうなんだ」

「これが初めてだから<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かなことは云えねえが、一年かけてやったのと違いはない筈だ」と参吉は云った、「だがそれはまたのことにして、おまえにひとつ頼みがあるんだ」

「おれにできることか」

「親方に話してもらいてえんだ」参吉はちょっと口ごもった、「指物職だから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とくい</span>先にこういう道具を欲しがっている客はねえか、もしあったら売ってもらいてえと思うんだが」

「わからねえな」と云って繁次はふと眼をあげた、「しかしおめえいま、頼まれて写しを作ったって」

「そうなんだ」と参吉はせきこんで云った、「或る道具屋から頼まれて、代金まできまってたんだが、その道具屋が急に<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れちまって、おれは金が要るし、途方にくれちゃってるんだ」

繁次はちょっと考えてから訊いた、「値段はどのくらいなんだ」

「道具屋との話では五十両ということだったが、事情が事情だから、現銀なら三十両でいいんだ」

「金はいそぐのか」

「いそぐんだ」と参吉は云った、「じつは嫁を貰うことになって、いい家があったもんだから手付けを打ったんだが」

「嫁を貰うって」繁次はどきっとした、胸の中でどきんと音がしたような感じだった、「そうか、そりゃあよかった、そいつはいいや、そういうことならすぐ親方に話してみるが、値段のところがどうなるかな」

「自慢するようだが、これは鈴虫の厨子でとおる品だぜ、時代の色までそっくり写したんだ、腕のいい道具屋なら鈴虫の厨子で、金二百枚には売れるくらいなんだ」

繁次は妙な顔をしたが、「うん」と頷いてまた参吉を見た、「――いま家へ手付けを打ったって云ったが、世帯を持つのはここじゃあねえのか」

「ここじゃあまずいんだ、相手の育ちが育ちだからな、いくらなんでも」

「育ちが育ちって」繁次が<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った、「それはどういうことだ」

「それを云わなかったっけ」と云って参吉はてれ隠しに笑った、「初めに云うつもりだったんだが、相手は小村屋の娘なんだ」

繁次は口をあいたが、言葉は出なかった。

「おれがあの厨子の繕いにかよってたことは話したな」と参吉は続けた、「そのあいだずっとその娘、――お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すが</span>っていうんだが、茶や八つの世話をずっとしてくれていたんだ、年は十八、<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>もちょっとずばぬけているが、おっとりした娘で、そうだな、坐っていろと云えば一日じゅう坐っている、っていうようなところがあるんだ」

修理にかよっているうちに、この娘を妻に貰えれば、おれは立派な仕事ができると思った。問題は向うが富豪で、こっちが<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>の職人だということだが、しかし蒔絵師としてのおれは、人におくれをとらない腕がある。向うは金、こっちは腕だ。とにかく当ってみろと、まず娘に自分の気持をうちあけた。娘はべつに驚いたようすもなく、あっさり「ええいいわ」と答えた。

「そのへんのおうようなところが、なんとも云えずお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すが</span>らしいんだ」と参吉が云った、「それで勇気がついたから、すぐ旦那に話してみた、ちょっとごたごたしたが、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すが</span>がゆくというので結局はなしがまとまった」

「ちょっと、話の途中だが」と繁次が舌のもつれるような口ぶりで遮った、「そうすると、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>はどうなるんだ」

参吉は<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうな眼をした、「どうなるって、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>ちゃんがどうかしたのか」

「あの子は昔からおめえが好きだった、おめえだって好きだったじゃあねえか、おらあいつも見ていてよく知ってるんだぜ」

「そりゃあ好きなことは好きだったさ、しかし好きだっていうことと夫婦になるならねえってことは」

「しらばっくれるな」と云ってから繁次は声を抑えた、「おい、おれはこの眼で見たんだぜ、おめえとおれが十九、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が十四の年だ、おれの<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>へ訪ねて来たおめえは、勝手口の外にある薪小屋のところで、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>と抱きあってた、どんなふうに抱きあってたか、おれの眼にはいまでもはっきり残ってるんだ、あれが、ただ好きだっていうだけでできることか」

「待ってくれ」参吉は額を横撫でにした、「――うん、覚えてる、思いだしたが、それはおめえの思いすごしだ」

「どこが思いすごしだ」

「おめえの云うとおりおれは十九、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>ちゃんは十四だぜ」と参吉が云った、「好きだというほかになんの気持もありゃあしねえ、子供同志のちょっとしたいたずらで、そのくらいのことは誰にだって覚えがあるだろう」

「ちょっとしたいたずらだって」繁次の顔から血のけがひいた、「あれがちょっとしたいたずらだってえのか、野郎」

繁次は片手で参吉を殴った。参吉の顔がぐらっと揺れたが、避けもせず抵抗もしない。それでさらに繁次は逆上し、とびかかって馬乗りになると、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>で相手の<ruby><rb>横鬢</rb><rt>よこびん</rt></ruby>を殴った。

――いけねえ、またやった。

心のどこかでそう叫ぶ声がし、そこへお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が駆けこんで来た。

「よして繁ちゃん、危ない」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は繁次にしがみついた、「ごしょうだからよして、危ない、よしてちょうだい」

繁次は殴るのをやめ、参吉の眉のところにある（昔の）薄い<ruby><rb>傷痕</rb><rt>きずあと</rt></ruby>を見た。

「穏やかに話そう」と参吉が平べったい声で云った、「近所へみっともねえから」

「繁ちゃん」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が泣き声で云った。

繁次は<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>をどけ、参吉は起き直って、着物の<ruby><rb>衿</rb><rt>えり</rt></ruby>を合わせた。

「もういい大丈夫だ」と繁次は<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎながらお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>に云った、「これから男同志で話すことがある、もう乱暴なまねはしねえから、おめえはうちへ帰っててくれ」

## 八

半刻ばかりのち、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が晩めしの支度をしていると、勝手の障子をあけて、繁次が<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。

「六つが鳴ったら渡し場のところへ来てくれ」と彼は<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた、「話があるんだ」

「六つね」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は頷いた、「いいわ」

繁次は障子を閉めて去った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が<ruby><rb>御蔵</rb><rt>おくら</rt></ruby>の渡しへいったとき、繁次は河岸っぷちに<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、暗くなった隅田川の水面を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていた。あたりはもうすっかり昏れてしまい、向う岸の灯がまばらに、ちらちらとまたたくように見えた。その渡しは六時が刻限なので、渡し<ruby><rb>小舎</rb><rt>ごや</rt></ruby>も戸を閉めてい、河岸沿いの道にも通る人は殆んどなかった。

「ちょっと飲んでいたんだ」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>を見ると繁次はすぐに云った、「臭かったらはなれていてくれ」

「さきに云っとくわね」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は繁次の言葉に構わずそう云った、「あたし悪いけれど、あんたたちの話を聞いちゃったのよ」

「鈴虫の厨子のこともか」

「ええ、頼んだ道具屋さんが潰れたってことも」

「あれは<ruby><rb>贋作</rb><rt>がんさく</rt></ruby>だ」と繁次が云った、「写しだと云ったが、道具屋と結託して鈴虫の厨子の<ruby><rb>偽物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>を作ったんだ、あいつはもうだめだ、参吉はいい腕を持っているが、その腕のいいのが<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>になった、いまっから道具屋と組んで、名物の偽作なんぞするようじゃおしまいだ」

「だってあの人、お金が要るんでしょ」

「作りだしたのはそのまえっからだ」と繁次は怒りを抑えかねたように云った、「おめえが帰ってからおらあ云ってやった、そんな無理なことをして嫁に貰ったって、おんば日傘で育った金持の娘に、おめえの稼ぎでやりくりのできるわけがねえ、また贋作、偽物を作るということになるぜって」

「あんたは昔っからあの人が好きだったわ」

「好き以上だ、おれはあいつこそ万人に一人っていう職人になると思ってた」と繁次は云った、「――人間てもなあわからねえ、おらああいつを、おれなんぞとは段違いなやつ、いまに必ず偉くなるやつだと信じこみ、あいつがおれの友達だっていうことが自慢だった、あいつのためならどんなことをしてもいいと思い、……云っちまうが、おめえのことさえ<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めたくらいなんだぜ」

「知ってるわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が囁き声で云った、「あたし知ってたのよ」

繁次は顔をそむけ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>からはなれて、河岸っぷちを石垣すれすれに五六歩ゆき、そこで川のほうに背を向けてしゃがんだ。――男が二人、御蔵のほうから高ごえに話しながら来、繁次とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>を認めたのだろう、通り過ぎてゆきながら、「ようおたのしみ」と云った。どうやら酔っているらしかったが、それ以上からかうようすもなく、はずんだ声で話しながら去っていった。

――おたのしみ、か。

繁次は強く奥歯を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み合せた。

――ここで蟹を捕ってやったことがあったっけな。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>がこっちへ歩み寄って来た。

「あたし繁次さんが好きだったわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は低い声で云った、「こんな小さいじぶんから、ずっとあんたが好きだったわ、そのことを知ってもらおうと思って、ずいぶん小さい知恵をしぼったのよ、――でもあんたは勘づいてはくれなかった、あんたは一人ぎめに、あたしが参吉さんを想ってるって、自分だけで思いこんでいたわ、あたしが口やそぶりで、どんなにそうじゃないってことを知らせようとしても、あんたは気づいてもくれなかったのよ」

繁次はしゃがんだまま、両手を固く握り合せ、それを額へぐいと押しつけた。

「それがほんとなら」と繁次はよく聞きとれない声で云った、「――いや、いまでもそう思っていてくれるのか」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>は答えなかった。呼吸五つほど数えても答えのないことで、繁次にはお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>の気持がおよそわかった。

「参吉はもうだめだぜ」と繁次が云った、「あいつは小村屋の娘を貰うだろう、だが、それも長続きはしないだろうし、職人としても立ち直ることはできやしないぜ」

「だめなことはあたしも同じよ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が云った、「――薪小屋の前であの人に抱かれたとき、あたし、これが繁ちゃんなら、って思ったわ、あんなふうに抱かれるなんて夢にも思わなかったし、抱かれるとすぐに、これが繁ちゃんだったらいいのにって思った、おかしいようだけれど、いまでもそのことは覚えているのよ」

「おれには、とても」と繁次が口の中で呟いた、「とてもそんな勇気はありゃあしねえ、けれどもおれは」

「いいえだめ、もうだめなの」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>はそっとかぶりを振り、なんの感情もない声で遮った、「繁次さんがあたしのこと、あの人が好きだと思いこんで、いつまでもそう思いこんでいるのを見ているうちに、あたしあの人のことが本当に好きになってしまったの」

「しかしおめえもわかっている筈だ」

「あんたが悪いのよ」むしろ明るい口ぶりでお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が云った、「こんなにあの人のことが忘れられなくなったのは、あんたのせいよ、――あたしもうだめなの、本当にだめなのよ」

繁次は黙った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>も口をつぐんだ。

「あたしわかってるわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>がやがて云った、「あんたの云うとおり、あの人は小村屋からおかみさんを貰っても、きっと長続きはしないでしょ、そればかりじゃない、男のあんたにはわからないようだけれど、あの人はいまがゆき止りよ、万人に一人なもんですか、女には女の勘があって、男のことは案外よく見えるものよ、あの人はもうゆき止りだわ、これからはただ落ちるだけよ」

繁次がきっと振向いた。すると、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>はなにかを避けるように、繁次の顔をみつめながらあとじさりをした。

「あんたは仕合せになれるわ」あとじさりをしながらお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>が云った、「うちの町内にだって二人も、あんたのことを好きな人がいるわ、もうすぐあんたは店を持つんだし、どんないいおかみさんだって貰える、あんたはきっと仕合せになれてよ」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひさ</span>はついに泣かなかったし、泣き声も出さなかった。

## 九

「どうしたの」と女が云った、「ちっともあがらないじゃないの、お口に合わないんですか」

「おめえに一ついこう」

「あたしだめなの」と女が云った、「このうちはやかましいのよ」

繁次は盃を出し、女は酌をした。

――本所らしいな、ここは。

彼は注がれた盃を持ったまま、店の中を眺めまわした。天床に<ruby><rb>八間</rb><rt>はちけん</rt></ruby>が二つ、木口の新しい、小ぎれいな店の造りを明るく照らしている。白磨きのがっちりした飯台が四つ、二列に並べてあり、腰掛も樽ではなく、よく枯らした杉の厚い板で、一人ずつ座蒲団が置いてあった。もうおそいのだろう、客はまばらで、板場へ通じる<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の奥も静かになっていた。

「ここは本所か」と繁次が訊いた。

「その次はあたしの名でしょ」と女は云った、「あたしお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きぬ</span>、どうぞごひいきに」

「本所のどのへんだ」

そのとき向うで「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きぬ</span>ちゃん」と呼んだ。三人の客の相手をしていた女中である、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きぬ</span>は「ちょっと待ってね」と云って、そちらへ立っていった。

繁次は盃を口へ持っていったが、眉をしかめて口からはなした。

「本所のどこだろう」彼は自分の考えをそっちへそらすように呟いた、「――あれから一軒、二軒、ここが四軒めだな」

盃を持つ手がふらふらし、盃の酒がこぼれた。繁次は肱を突いた左の手で顔を支え、なにかを耐え忍ぶように唇を噛んだ。

「――落葉に雨の音を聞く」

三人伴れの向うの客の一人が、いい声でうたいだし、その伴れがやじを入れたので、唄はそれっきり聞えなくなった。

「なつかしいな」繁次は眼をつむった、「あの人はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>といったっけ、――もうすぐよって、こういう気持がわかるようになるには、学問も金もいらないからねって」

そうだ、学問もいらず金をかけなくっても、いつかはみんなそういう気持を味わうときが来るんだ。いまから思うと、おれはもうあのとき、ああいう気持がわかっていたらしい、だからあの唄ばかりうたってたんだ。へ、だらしのねえやつだ、と彼は思った。

「もう忘れちゃったなあ」繁次は眼をつむったまま、さぐりさぐり、口の中で低くうたいだした、「――落葉に雨の音を聞く、隣りは恋のむつごとや……」

彼はつむった眼にぎゅっと力をいれた。

「あたしその唄だい好きよ」と女が云った、「あとを聞かして」

女が戻って来たのを知らなかったので、繁次は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>し、盃の酒をまたこぼした。女は布巾で台の上を拭き、燗徳利を取りあげた。

「あらいやだ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きぬ</span>が云った、「ちっとも減らないじゃないの、どうなすったの」

「この唄を知ってるのか」と繁次が訊いた。

「文句はよく知らないのよ、でも好きな唄だわ」とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きぬ</span>が云った、「はいお酌、――冷たいわね、お燗を直して来ましょうか」

「それより水を貰いてえな」

「おひやね、はい」お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きぬ</span>は立っていった。

あとの文句はうたわないほうがいい、とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぎ</span>が云った。あとの切れているほうが情が残るようだって、と繁次は思った。

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きぬ</span>が湯呑に水を持って来た。彼は一と息に飲みほそうとして<ruby><rb>噎</rb><rt>む</rt></ruby>せ、激しく<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>きこんだ。

「勘定」と彼は呟きながら云った。

「いまのあとを聞かしてくれないの」

「この次だ」と彼は云った、「こんど来たときにな」

「きっとよ、きっといらしってね」

「きっと来るよ」と彼は頷いた。

勘定をして外へ出ると、街はひっそりとしていて、辻燈台のほかには一つの灯も見えず、かなり強い風が吹いていた。繁次は立停って、左右を見まわした。

「どっちへゆくんだ」まっ暗な街を眺めながら、彼は途方にくれたように呟いた、「――これからどっちへいったらいいんだ」