## 一の一

「もういけない、<ruby><rb>祐八郎</rb><rt>ゆうはちろう</rt></ruby>、下ろしてくれ」

「なにを云う」

<ruby><rb>大畑</rb><rt>おおはた</rt></ruby>祐八郎は、叱りつけるように叫んだ。

「ここまで来て、そんな弱音を吐いてどうするんだ、元気をだせ、佐和山まではどんなことがあっても行くと云ったではないか、いいか、石に<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>りついても頑張るんだぞ」

「いやだめだ、頼むから……下ろしてくれ」

ほとんど担ぐように、肩へ掛けている<ruby><rb>田ノ口義兵衛</rb><rt>たのぐちぎへえ</rt></ruby>の腕が急にぐにゃっと力をなくした。そして祐八郎が肩をつきあげるようにすると、義兵衛の体は、そのままずるずるぬけ落ちそうになった。

「おい田ノ口、おい！」

祐八郎は驚いて、左手にある<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>の中へ入って行って、友の体を肩から下ろした。……もう身を支えることもできないとみえて、濡れ雑巾のように倒れ伏すのを、祐八郎は<ruby><rb>援</rb><rt>たす</rt></ruby>け起しながら、なんども名を呼びたてた。

「しっかりしろ、おい、田ノ口！」

「……無念だ、おれは」

義兵衛は<ruby><rb>昏</rb><rt>くら</rt></ruby>みゆく意識のなかから、ふいにしゃがれた声で大きく叫んだ。

「おれは、忘れないぞ、<ruby><rb>金吾</rb><rt>きんご</rt></ruby>中納言、犬め、松尾山の裏切り、……無念だ、無念だ」

「義兵衛、声が高いぞ、声が」

肩を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで揺すりながら、祐八郎は、ふと藪の向うでなにか物音がするのを聞きとめた。……関ヶ原の敗戦からすでに三日、追及の手のきびしい関東軍の網の目のように張られた手配りのなかを、夜も日もなく逃げ廻って来た神経は、野獣の本能よりも鋭く、危険を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけることに馴れていた。

――誰かが、そこにいる。

かさッとも動かぬ藪のかなたに、じっとこっちを<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っている者の姿が、祐八郎にはありありと感じられた。……それで強く義兵衛の肩を掴んで引き起そうとした。

「田ノ口、もうひと頑張りだ、立ってくれ」

「…………」

返事はなかった。

「おい田ノ口、義兵衛！」

耳へ口を寄せて呼んだ。それから相手の<ruby><rb>口許</rb><rt>くちもと</rt></ruby>へ耳を押し当てた。……呼吸が絶えていた。祐八郎は慌てて腹帯を解き、<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>の胴をはずしてやろうとした。

すると、そのとたんに、藪を押し分けて来る人の気配がした。

――みつかった。

物音はすばやく近寄って来る。

「義兵衛、<ruby><rb>冥福</rb><rt>めいふく</rt></ruby>を祈るぞ、……さらばだ」

祐八郎はそう<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いて、静かに義兵衛の、もう生命の失せた<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>を横たえると、近寄って来る物音とは反対のほうへ懸命に逃げだした。

「気付かれた、そっちへ逃げるぞ」

うしろで叫びたてる声がした。

「外から廻れ！」

「鉄砲、鉄砲だ」

<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みつくような喚きが、うしろからと、左手から押し包むように響いてきた。そして、ぴしぴしと竹の折れる音に続いて、ふいに右手で銃声が起った。

だあん！　だあん！　だあん！

祐八郎は思わず足を止めた。そして、押し包んでくる物音の方角を計ると、とっさに身をひるがえして、藪の<ruby><rb>疎</rb><rt>まば</rt></ruby>らになっている一点へと走りだした。

だあん！　だあん！

めくら撃ちに射たてる銃声とともに、竹林を走る<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>の、からからという乾いた音が、祐八郎の左右を襲った。

――くそっ。

彼は夢中で駈けた。

藪が尽きて、畑地が現われた。それから雑木林の丘を越えると、ふたたび藪につきあたった。祐八郎は自分の体を叩きこむように、その藪の中へとびこんで行った。

どのあたりで敵をひきはなしたか分らないが、とにかく追跡の手を逃れたことはたしかだった。かなり遠く、それもずっと右のほうで銃声が聞えたきりで、あたりはひっそりと物音もない。

――もう大丈夫だ。

そう思うと同時に、疾走して来た疲れと、胸膜をつきやぶりそうな息苦しさに堪えかね、彼はそこへあおむけさまにうち倒れた。そしてしばらくのあいだはただ、恐ろしい息苦しさと闘うだけが精いっぱいだった。

かなり長い<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>が経った。

呼吸が少しずつ鎮まってくるにつれて<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れるような全身の疲れが、うち勝ちがたい力で彼をとろとろと眠らせた。……しかし、<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>が落ちるより早く、鮮かな幻想が彼の<ruby><rb>脳裡</rb><rt>のうり</rt></ruby>に<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってきた。

それは今から三日まえ、すなわち、慶長五年九月十五日、関ヶ原に展開された合戦の、ある忘るべからざる一瞬の記憶であった。

## 一の二

眼もあけられぬほどもうもうと、渦巻きあがる土けぶりだった。夜明け前からはじまった合戦は、<ruby><rb>午</rb><rt>うま</rt></ruby>の刻にいたって、今その最高潮に達していた。

押し寄せ、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み返す人馬の叫喚が、撃ちあう太刀、槍、あらゆる武具の響音とともに、すさまじく山野を<ruby><rb>震撼</rb><rt>しんかん</rt></ruby>していた。敵味方の旗さしものが、まるで<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の穂波のように、土けぶりで茶色に<ruby><rb>暈</rb><rt>ぼ</rt></ruby>かされた戦場を、縦横にいりみだれ、押し返し、波をうちつつ、しだいに東へ東へと移動していた。

――味方の勝ち目だ。

――見ろ、徳川家康の本陣が崩れだしたぞ。

――最後のひと押しだ。

みんなそう信じた。事実、<ruby><rb>混沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby>としていた乱軍のかたちが、今やもっとも微妙な勝敗の<ruby><rb>分水嶺</rb><rt>ぶんすいれい</rt></ruby>に登りつめ、石田軍はまさに勝利の一瞬をわがものにしたと見えた。

じつにそのときであった。

味方の右翼から、眼に見えぬ一種の波動が、電撃のように全軍の上に<ruby><rb>脈搏</rb><rt>みゃくう</rt></ruby>ってきたと思うと、もっとも怖れていた叫びが人々の上で<ruby><rb>炸裂</rb><rt>さくれつ</rt></ruby>したのである。

――<ruby><rb>小早川</rb><rt>こばやかわ</rt></ruby>どのが裏切った。

――金吾中納言どのが裏切った。

松尾山に陣を張っていた小早川<ruby><rb>秀秋</rb><rt>ひであき</rt></ruby>の軍勢が、そのとき、騎馬隊を先頭に、味方の<ruby><rb>大谷刑部吉継</rb><rt>おおたにぎょうぶよしつぐ</rt></ruby>の陣の側面へ、なだれをうって殺到して来たのだ。

憎むべし！　金吾秀秋が裏切った、まさに勝利を掴もうとした時に、その時に。小早川秀秋が敵へ裏切ったのだ！

「ああ、……」

自分の口から出た<ruby><rb>呪咀</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>の<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きで、祐八郎ははっと<ruby><rb>仮睡</rb><rt>まどろみ</rt></ruby>から覚めた。

――秀秋の犬め、死んでも忘れんぞ！

臨終に叫んだ義兵衛の声が、なまなましく耳の奥から甦ってきた。……いや！　義兵衛ひとりの声ではない。<ruby><rb>石田三成</rb><rt>いしだみつなり</rt></ruby>の全軍の将士、生霊と亡魂とが声を合せて叫ぶ呪咀の叫びだ。

あたりは死んだように静かだった。

仰むけに倒れている祐八郎の眼は、枝をさし交わしている竹藪の上に、高く高く、星がまたたいているのを見た。

「ああ星が美しいな」

祐八郎はそっと<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「御主君はいま、どこでこの星を見ておいでなさるだろうか」

故<ruby><rb>太閤</rb><rt>たいこう</rt></ruby>の恩に酬ゆるため、義軍を起して一敗地にまみれ、味方はちりぢりばらばら、主将三成も身をもって戦場を落ちて行った。

――主君に会いたい、主君の先途を見届けたい、そして佐和山城に入ってもうひと合戦。

そう思って、祐八郎と義兵衛は落ちのびて来たのだ。

「そうだ、こうしてはいられない」

彼は身を起した。

主君を捜さなければならぬ。佐和山城へ急がなければならぬ……。体は<ruby><rb>綿屑</rb><rt>わたくず</rt></ruby>のように疲れていた。骨の節々が砕けそうに痛む、<ruby><rb>饑餓</rb><rt>きが</rt></ruby>と渇きで、眼が昏むようだった。

彼は藪を分けて歩きだした。西へ、ただ西へ向って、歩いた。

うしろから出た月が、いつかしら前へ廻った。下枝や草の葉に、露が光りはじめた。林を通りぬけ、丘へ登り、畑を歩いた、<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>を<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>った。やがて空が白みはじめてきた。

祐八郎はふと、ぎょっとして足を停めた。すぐ眼の前に、木の香も新しい高札が立っているのをみつけたのだ。彼は近寄ってみた。

<ruby><rb>急度</rb><rt>きっと</rt></ruby><ruby><rb>申遣事</rb><rt>もうしつかわすこと</rt></ruby>

一、石田<ruby><rb>治部</rb><rt>じぶ</rt></ruby>、備前宰相、島津、三人、捕え来たるにおいては、御引物のためその所の物なり、永代無役に下さるべきむね御掟候こと。

一、右両三名とらえ候こと成らざるにおいては討果し申すべく候、当座の引物として金子百枚くださるべきむね、仰せ出でられ候こと。

一、その谷中差送り候に於ては、路次有りように申上ぐべく候、隠し候においては、その者のことは申すに及ばず、その一類、一在所、曲事に仰付けらるべく候こと。

右のとおりに候間おいおい御注進申上ぐべく候也

九月十七日

<ruby><rb>田中兵部大輔</rb><rt>たなかひょうぶだゆう</rt></ruby>

「もうこんな<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>まで！」

祐八郎は茫然とした。こんな処までもう手配が廻っているとすれば、主君の身上はどうなったことか分らぬ、佐和山へも行けるかどうか。

「いやここで<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けてはいかん」

彼は自分を<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>した。

「ひと眼でも御主君に会わぬかぎり死んではならん、どんなことをしても佐和山城へ入るのだ、どんなことをしても」

卒然として起った馬蹄の音に、はっと我に返った祐八郎の背後へ、

「落武者だ、みんな出あえ！」

と喚きながら三騎の武者が馬を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>って殺到して来た。祐八郎は本能的に太刀を抜いた。抜きながら、右手の、深い<ruby><rb>叢林</rb><rt>そうりん</rt></ruby>の丘へ、脱兎のように跳びあがって行った。

## 二の一

ひと息、丘を登ったところで、

「わっ」

というような叫びとともに、追い詰めて来た者が、うしろから槍を突きだした。穂先が外れた<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、うしろ手に切り払った祐八郎の太刀が、偶然にも相手の両眼をみごとに<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>いだ。……そのとき祐八郎は、ぎゃっと悲鳴をあげて転げ落ちる相手のうしろに、斜面を登って来る三人の武者たちの、大きく<ruby><rb>瞠</rb><rt>みひら</rt></ruby>いた眼と、なにか喚いているらしい口とが、なぜかしらひどくはっきり眼にうつった。

叢林に包まれた丘は、何段にもなって、次ぎ次ぎと高くひろがっていた。……祐八郎は茂みを茂みをと<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>ってしゃにむに登った。

追手の声はいつか遠くなった。

どのくらい駈けたであろう。段丘の頂へ出て、それを右へ、松林の中をしばらく走ったと思うと、左手に<ruby><rb>谿流</rb><rt>けいりゅう</rt></ruby>の音が聞えてきた、……水だと気付いたとたんに、昨夜からの渇きが恐ろしい力で<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>めつけた。

――水だ、水だ。

なかば夢中で、音のするほうへ丘を下りようとした。そこは熊笹の藪だった。浮足で下りるところを、その笹へ踏込んだので、ずるっと滑った。

――ああ。

と叫んで笹を掴もうとしたが、<ruby><rb>物具</rb><rt>もののぐ</rt></ruby>を着けている重みで、そのままずずずずと滑って行く、どうする間もなかった。体が宙に浮いたと思うと、<ruby><rb>断崖</rb><rt>だんがい</rt></ruby>の外へ<ruby><rb>毬</rb><rt>まり</rt></ruby>のように<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちていった。

大地に体を叩きつけられたとき、祐八郎はその衝撃をたしかに感じた。しかし、そのあとはまるで覚えがなかった。……<ruby><rb>陣鉦</rb><rt>じんがね</rt></ruby>や貝の音が、<ruby><rb>潮騒</rb><rt>しおさい</rt></ruby>のように遠く近く聞えた。……松尾山から押し下る中納言秀秋の軍勢の、旗さしものの<ruby><rb>飜</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>くのが見えた。……裏切り、裏切りという味方の者の絶叫が、耳を<ruby><rb>劈</rb><rt>つんざ</rt></ruby>くように響いてきた。

――金吾秀秋、犬め！

混沌とした意識の底から、<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby>よりも鮮かな幻の声が、またしてもなまなましく甦ってきた。その声で、祐八郎はふっと意識をとりもどした。

「もし、……もし、お武家さま」

声はまえよりもはっきりと聞えた、……白い顔と、美しい眉とが、祐八郎の眼にうつった、彼は夢のようにそれを見ていたが、やがて、自分の眼前に、一人の若い娘がいることを認めた。

――いかん。

気付いて、彼はがばとはね起きた、いや、はね起きようとして、背骨に伝わる鋭い痛みのために、呻き声をあげながら<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>した。

「危のうございます」

娘は誘われるように<ruby><rb>走</rb><rt>は</rt></ruby>せ寄って、祐八郎の肩を抱いた、……柔かく、温い娘の体は、祐八郎に分るほどわなわなと震えていた。

「お立ちあそばしてくださいまし、すぐそこにわたくしの家がございます、ここでは人眼にかかるといけませぬから」

「……拙者は石田軍の<ruby><rb>落人</rb><rt>おちゅうど</rt></ruby>だ」

「よく分っております」

「拙者に<ruby><rb>関</rb><rt>かか</rt></ruby>わっては、あなたに迷惑がかかる、もし……その気があったら、ここにいたことだけを、他言しないでください」

「よく分っております」

娘は聡明な<ruby><rb>眸子</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>に<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>さえうかべながら、優しく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて云った。

「でもお怪我をしておいでのようすですし、このままではどうあそばすこともできませぬ、わたしの家は里からも遠く、家には病気で寝たきりの父一人しかおりませぬ、けっして御心配あそばさずに、せめてお傷の手当なりとして行ってくださいまし」

「……かたじけない」

泪をうかべた娘の眼を、祐八郎は泣きたいような感謝の気持で見上げた、……はじめて見る眸子とは思えなかった、真実の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ったその声も、はじめて聞く声のようではなかった。

「では申しかねるが、御親切にあまえて……」

「さあわたくしの肩へお<ruby><rb>捉</rb><rt>つかま</rt></ruby>りくださいまし。いいえ、野良育ちでございます、どうぞ御遠慮なくお掛りくださいまし」

娘はまるい肩を、かいがいしく男の<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の下へ入れた。祐八郎は歯を喰いしばって立ち、云われるままに娘の肩へもたれかかった。

崖の下を少し行くと、<ruby><rb>谿流</rb><rt>けいりゅう</rt></ruby>に沿った岩の上に、水<ruby><rb>手桶</rb><rt>ておけ</rt></ruby>と担い棒が置いてあった。娘はそこへ水を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>みに来て彼をみつけたらしい。……それから右へ、爪先登りに二十間ほど行くと、<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>は<ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>畑の前へ出た。熟した果のみごとに<ruby><rb>生</rb><rt>な</rt></ruby>っている柿の木が十四五本、その間をぬけるとすぐ、高い<ruby><rb>風除</rb><rt>かぜよ</rt></ruby>けの木に囲まれて、貧しげな農家が一棟建っていた。

「ここでございます、むさ苦しゅうございますけれど、どうぞ我慢あそばして」

「とんだ<ruby><rb>御雑作</rb><rt>ごぞうさ</rt></ruby>をかけます」

「もうそんな御会釈はお止めくださいまし」

云いながら、娘はほとんど男を担ぎあげるようにして、庭へ向いた縁側へと掛けさせ、ふと祐八郎の眼を見て明るく微笑した。

――おや、この笑顔は？

祐八郎は、一瞬どきっと胸をつかれた。

――見た顔だ、どこかで見た笑顔だ。

そう思ったのである。

「すぐおすすぎを持ってまいります」

祐八郎の凝視にあって、娘は眉のあたりを染めながら、小走りに裏手のほうへ走って行った。

## 二の二

――そうだ。

闇のなかで、祐八郎は急に、夢から覚めたように眼を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みひら</rt></ruby>いた。

――そうだ、妻の顔だ、あの<ruby><rb>眼許</rb><rt>めもと</rt></ruby>、眉のあたり、<ruby><rb>若菜</rb><rt>わかな</rt></ruby>の顔に生写しだった。

家のなかは暗く、物音もない、外には風があるとみえて、さらさらと粟の葉ずれの音が聞えてくる。もう夜半を過ぎたであろう、傷の手当にも、作ってくれた<ruby><rb>胡桃</rb><rt>くるみ</rt></ruby>入りの<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>にも、温い愛情と真実とが痛いほど感じられた。眼許や眉が似ているばかりではない、その愛情のこもったとりなしの端々が今は亡き妻の若菜をまざまざしく思いださせる。

「ああ、……若菜、おまえだった」

祐八郎は久しく口にしなかった妻の名を、胸の震えるような懐しさで呼んでみた。

<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>がすっと開いた。

ほのかに燈火の光が流れてきた。そして、娘が<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>を忍ばせながら入って来た。

「もし、……どうかあそばしましたか」

「いやべつに、大丈夫です」

「なにかおっしゃったように存じましたけれど、もしお苦しゅうございましたら……」

「なんでもないのです、ただ」

あなたが、死んだ妻のように思えたので、……そう云いかけて、口を<ruby><rb>噤</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んだ祐八郎のようすを見て、娘は去りかねたように、そっとそこへ坐った。

「お眠りなされませんのですか」

「ひどく疲れているのだが、眼が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えて眠れないのです。……落人の身でこんな親切な御介抱を受けようとは思わなかった、まるで夢のような気持です」

「そんなにおっしゃっていただくと、かえって恥しゅうございますわ」

娘は健康な<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上へ、肉付のみずみずしい手を重ねながら云った。

「まだ申上げませんでしたけれど、わたしに兄が一人ございますの」

「お兄さんが」

「それが三年まえ、大阪へ上って武士になるのだと申し、父やわたくしの<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めも<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かず家出を致しました。……こんどの関ヶ原の合戦に、もしや兄が加わっているのではないか、加わっているとすれば石田さまがたであろう、そしてあのお気の毒な敗け戦に遭って、生きて落ち延びることができたろうか、それとも討死をしてしまったか。……父も、わたくしも、その心配で夜も眠れませんでした……わたくしあなたさまを見ましたとき、すぐ石田さまがたのお侍だと存じました、そして」

と、娘は申訳のないことをうちあけるように、少し口籠りながら続けた。

「すぐに兄の身上を思いだしたのでございます」

「そうですか、……そうでしたか」

「でも、そう申上げましても、お怒りくださいませぬように……」

「とんでもない、そう伺って、あなたの御親切がなおのこと身にしみるばかりです。……して、お兄さんのお名前はなんとおっしゃる」

「うちには<ruby><rb>柏山</rb><rt>かしやま</rt></ruby>という、古くからの姓がございますの、兄は条助と申しますけれど。でも、……武士になったとしましたら、名を変えていることだと存じますわ」

「柏山条助。……柏山」

なんども口の中で呟いてみた。しかし、まったく聞いたことのない名だった。……もし娘の考えるとおり、彼が西軍にいたとして、そして、もしあの戦場から落ち延びることができたとしたら、そのままここへ来ていなければならぬはずだ、今日まで姿を見せぬとすれば、……あるいは関ヶ原の露と消えたのかも知れぬ。

「あなたさまは、これからどちらへお越しあそばします」

「治部の殿（三成）のおゆくえをたずね当て、佐和山の城へ入って、さいごのひと合戦をするつもりです」

「まあ、それは！」

と、娘は思わず驚きの声をあげた。

「それでは、あなたさまはまだ、御存じありませんのですか」

「知らぬとは、なにをです」

「佐和山のお城は<ruby><rb>陥</rb><rt>お</rt></ruby>ちました」

「……陥ちた」

祐八郎は<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>と声をあげた。

「それは、本当ですか」

「はい井伊、脇坂、小早川の軍勢が攻めかかり、昨日の朝とうとう落城したと、見て来た人の話でたしかに聞きました」

「……そうか。……ついに佐和山も、落城か……」

絶望と悲憤とで、祐八郎は身も心もうちのめされてしまった。……たった一つの希望、残された唯一の死場所がなくなったのだ。

祐八郎の絶望をそれと察したのであろう、娘はそっとすり寄って、

「もしあなたさまさえおよろしかったら」

と心を籠めた調子で云った。

「この家でお怪我の養生をあそばしませぬか、そのうちには治部少輔さまのお<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>も知れましょう。それからお駈けつけなさいましても遅くはないと存じますが」

「ありがとう……できればそうしたいのだが」

祐八郎はそう云いながら娘の眼を見上げた。

## 三の一

娘の眼は、朝のときのように泪をためていた。眉のあたりに、男を<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れみいとしむあたたかい愛情が、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れるように<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいた。

――若菜。

祐八郎はそう呼びたかった、しかしようやくそれを抑えつけた。やがて娘は夜具の隅を押えてから、そっと次の間へ去って行った。

明けがたと思われるころだった。

さすがに連日の疲れが出て、ぐっすり眠っていた祐八郎は、異様な人の叫び声にはっと眼覚めた。声は家の裏手でしていた。<ruby><rb>暴々</rb><rt>あらあら</rt></ruby>しい男の喚きに交って、この家の娘の必死に押し<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>める声がする。

「嘘です、家には父が寝ているだけです」

「黙れ、この干し物はなんだ、百姓の家にこのような品があるか」

「それは、……ひ、拾った品です」

「面倒だ、踏込め！」

「あれ、父は重病で寝ております、あれっ」

だだっと戸を押し破る音に続いて、人の踏み込んで来る気配がした。

このあいだに床をぬけ出していた祐八郎は、太刀をひっ掴んで、縁側の雨戸を<ruby><rb>蹴放</rb><rt>けはな</rt></ruby>しざま、前庭へだっととび下りた。

「ああ、逃げた」

「庭へ廻れ」

そういう声と、娘の悲鳴とが、鋭く彼の耳を打った。

外は深い朝霧だった。祐八郎は<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れている片足を<ruby><rb>引摺</rb><rt>ひきず</rt></ruby>りながら、懸命に粟畑の中へとび込んで行った。

しかし遅かった。追い詰めて来た一人が、やっと叫びさま、体ごと、うしろから跳びかかる、<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>そうとしたが、浮いていた腰が砕けてのめる、その勢いをそのまま、三転して脱出しようとしたが、続いて走せつけた一人が、獣のように<ruby><rb>咆</rb><rt>ほ</rt></ruby>えながら跳びかかった。

――<ruby><rb>八幡</rb><rt>はちまん</rt></ruby>！

彼は身を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>って太刀を抜こうとした。しかしそれより<ruby><rb>疾</rb><rt>はや</rt></ruby>く、体の上へ二人の力がのしかかって来た。祐八郎のはねあげた足は、一人を六尺あまりも飛ばした。一人の手首を噛んだ、それが精いっぱいの反抗であった。

――もういけない。

祐八郎は『そのとき』がきたと悟った。それで反抗することを止めた。

繩を掛けられて引き起されたとき、なによりもさきに彼は、そこに立っている娘の姿を認めた。娘は彫像のようにかたく硬ばった顔で、わなわなと総身を震わせていたが、立ちあがった祐八郎を見ると、ひき裂けるような悲鳴をあげながら、地面の上へ崩れ落ちてしまった。

「貴公たちは誰の組だ」

祐八郎は振返って訊いた。……具足を着けた三人の武士は、まだ肩で息をついていた。

「我らは田中兵部大輔どのの家臣だ」

「そうか、……では念のために申しおくがこの農家に罪はないぞ、拙者がこの娘を太刀で<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>し、訴えたら病父を殺すと云って、無理に一夜を押しかけて泊ったのだ」

「そんなことは本陣へ行って云え、我らは狩り出すだけが役目だ」

「飢えた野良犬どもの犬狩りだ、わはは」

三人は声を合せて笑った。

「そこの、……娘」

祐八郎は静かに振返って、

「迷惑を掛けて済まなかった、おまえに罪のないことは、陣所へまいって固く陳弁してやる、……雑作をかけた<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びを云うぞ」

娘は答えなかった。そして地面に膝をついたまま、大きく<ruby><rb>空虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>に瞠いた眼で、喰入るように祐八郎の眼を見上げていた。

「別れるまえに<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたいことがある、おまえの名を聞かせてくれ」

「……まつ、……まつと申します」

「……まつ。済まなかった」

祐八郎は娘の眼を見返しながら、心へ刻みつけるように呟くと、振返って、

「さあ<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて行け」

と高く<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をあげた。

もうなにも考えることはなかった。行き着くところへ行き着いた者の、澄んだ、快いほどに澄んだ気持だった。……石山の陣所でひととおり<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>され、三成の家臣だということが分ると、そのまま大津へと運ばれた。

――御主君はどうあそばしたか。

なによりもそれが知りたかった。それで大津へ曳いて行かれる途中も、警護の者の言葉から耳を離さなかった。しかし、結局は安否を知ることができずにしまった。

石山から大津までのあいだは、おびただしい関東軍の人馬で埋ったようだった。勝軍にめぐまれた人々の、元気いっぱいな、明るい談笑がいたるところで<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>きかえっていた。……佐和山が落ちて、石田一族が炎上する城に殉じたことも、その人々の声高な話のなかから聞いた。

大津に着いたのは深夜を過ぎていた。

## 三の二

その翌日、ようやく日の昇った頃、本陣の幕営へ曳き出された彼は、一瞬おやっと思った。……幕営のようすがあまりに物々しい。

――誰の陣だろう。

そう思っていると、やがて、三ツ<ruby><rb>葵</rb><rt>あおい</rt></ruby>の紋を打った幕張りの内へ入った。三ツ葵は徳川の紋である。それでは<ruby><rb>秀忠</rb><rt>ひでただ</rt></ruby>の陣かと思った。しかし、ほどなく正面へ現われた人物は、髪毛の半ば白くなった、<ruby><rb>赭顔</rb><rt>あからがお</rt></ruby>の肥えた老人であった。……同時に、左右に<ruby><rb>扈従</rb><rt>こじゅう</rt></ruby>して来た部将の中に、見覚えのある<ruby><rb>本多忠勝</rb><rt>ほんだただかつ</rt></ruby>の顔をみいだして、祐八郎はさすがに驚いた。

――家康だ、家康だ。

それはまさに徳川家康だった。

旗本の部将たちに護られて、設けの<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>へ静かに腰を下ろした家康は、瞼のたるんだ細い眼で、しばらく祐八郎の顔を<ruby><rb>見戍</rb><rt>みまも</rt></ruby>っていたが、……やがて低い柔かな声で呼びかけた。

「そのほうは治部少輔の家来だそうじゃな」

「……いかにも」

祐八郎は<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>と顔をあげた。

「ならば、治部少輔のいどころを知っておるであろうが、どうじゃ」

「……いかにも」

御主君はまだ御無事だった！　祐八郎はとびあがって歓呼したい大きな欲望を感じた。……御主君は無事なのだ、どこかにまだ生き延びて<ruby><rb>在</rb><rt>おわ</rt></ruby>すのだ、……そう思うと、一瞬まえまでの絶望の中に、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かながら一筋の光がさしてくるのを感じた。

「いかにも」

と彼は声高く答えた。

「主君、治部少輔の殿の御在所は知っております」

「それを聞きたいのじゃ」

「……ほう」

「五日や十日生き延びられようとて、しょせん覆水は盆にかえらぬ、治部どのの名のためにも、早く始末をつけるほうがよかろうではないか。……治部どのはどこにおらるるの」

「さぞお知りになりたいでございましょうな」

「聞かずにはおかぬじゃ」

「さて、……どうありましょうか」

老人の細い眼が、そのとき、かすかにきらりと光を放った。……そして、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>をたたんだ丸い指で、静かに膝を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でながら、

「あれを見い、あの幕の側にあるものを」

と右手を顎でしゃくった。……そこには、一見して拷問道具と分る物が、乾いた血の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>をどす黒く滲ませて、並んでいた。祐八郎はつくづくと見てから振返った。

「責め道具でございますな」

「体は弱いものじゃ」

家康は柔かい撫でるような声で云った。

「心はどのように固くとも、人間の体が苦痛に堪えられる限度は知れたもの、今までに何十人となくその証拠を見せている、……どうじゃ、試してみるかの」

「試していただきましょう」

祐八郎は正面あげて家康を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけながら云った。

「いまより四日まえ、関ヶ原の合戦に、わたくしは金吾中納言どのの裏切りを見ました、秀秋どのの裏切りの軍勢が、味方の側面へなだれ込むのを、……この眼ではっきりと見ました」

「…………」

「弓矢とる身にとって、見るべからざるものを見たのです。わたくしの五体は、そのとき<ruby><rb>八千</rb><rt>やち</rt></ruby>にひき裂けました」

祐八郎の全身が<ruby><rb>痙攣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>るように震えた。彼は<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>も割れるかと思える声で叫んだ。

「そのときわたくしの五体は、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いと<ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>のために八千にひき裂けたのです、この体のどこにも、もう痛むところは残っておりません。お責めなさるがよい、徳川どの、わたくしは治部の殿の御在所を知っておりまするぞ」

彼の叫びは高く、幕張の内に昂然と響きわたった。

家康の表情は少しも動かなかった。いやむしろ、そのたるんだ瞼の下にある細い眼が、いつか力を無くして閉じられさえした。

――金吾中納言の裏切り。

その一言が、家康の太い胆玉に、わずかながら鋭い痛みを感じさせたのである。……老人は間もなく眼をあげた。

「あっぱれ申しおるのう」

家康は低く呟くように云った。

「そこまで心を決められては、いかな責め道具も歯がたつまい。……誰ぞ、その繩を解いてやれ」

みんな<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうに眼をあげた。

「繩を解いて逃がしてやれと申すのじゃ」

そう云って、家康は床几から立ち、

「祐八郎とやら」

と振返って、

「治部どのに会ったらそう申しつたえてくれ、おひとがらには惜しい家来を持たれる、<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいことじゃと」

そして幕のかなたへ去って行った。

陣所から曳き出され、木戸の外へと解き放された祐八郎が、石山のほうへ歩きだしたとき、……うしろから名を呼んで追って来る者があった。

「大畑さま、お待ちあそばして」

振返ると、意外にも、あの農家の娘まつであった。

「まつどの、どうしてここへ」

「大畑さま！」

娘は側へ走せ寄ると、泣き<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>らした眼をいっぱいにみひらいて、祐八郎の眼を見上げながらすがりつくように云った。

「わたくしも曳かれてまいりました」

「あなたも、……ではやはり拙者の言訳は通らなかったのか」

「でもいま許されましたの、あなたさまがお調べをお受けあそばすようすも、幕を隔てて伺っておりました、……おめでとう存じます」

「重ね重ね迷惑をかけて、詫びの申しようがありません、どうか許してください」

「わたくし本当にはらはら致しました」

娘は男と並んで歩きながら詫び言をうち消すように云った。

「あなたさまは、治部の殿さまのお行方を御存じないはずでございましょう……それなのに、あんなに幾度も知っているとおっしゃって。もし、拷問などにかかったらどうあそばすおつもりでございました」

「……ああ云うほかに言葉がなかったのです」

祐八郎は苦く笑いながらいった。

「さむらいともある者が、しかも戦場で、自分の主君をみうしなった、ゆくえを知らぬと云うことができますか。……たとえ責め殺されても、知らぬとは云えないことです」

「まあ……わたくし、気付きませんでした」

娘は武士の生きかたの厳しさに、いまさらながら驚きと尊敬とを感じた。

「そのお立派なお覚悟が、こうして無事に出ておいでになる元だったのですね。もうこれで安心でございますね、お約束どおり、わたくしの家へおいでくださいますでしょう？」

「あなたの家へ？」

祐八郎は振返ったが、すぐ元気な声で、

「そうです、まいりましょう」

と云って笑った。

「この傷では動きがとれません、しばらく御厄介になって、百姓のお手伝いでもするとしましょう」

「まあ、本当でございますか」

娘は満面に、つきあげるような歓喜の表情をうかべながら、男の顔を仰ぎ見た。

「本当です」

祐八郎はそう答えた。……早くも彼は、自分のうしろに、家康から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けてよこした、隠密の眼が光っているのを感付いたのである。……彼が行くところへはどこまでも跟いて来る眼だった。――いま御主君を捜しに出ることはできない。いずれにしても、こうなる運命だ、娘の親切にまかせて、当分はようすをみるほかに<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>はない。

「本当ですとも」

祐八郎は、跟けて来る隠密に聞けとばかり云った。

「拙者は、このまま百姓になろうかとまで考えていますよ」

「まあ大畑さま」

娘の明るい声が、松並木に快い反響を呼び起した。……湖畔の道は、清らかな秋の日ざしを浴びて、白々と石山の里へとのびていた。