## 一

六月中旬のある日、まだ降り惜しんでいる梅雨のなかを、本信保馬が江戸から到着した。

保馬は江戸邸の次席家老の子で、その名は<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>でもかなりまえから知られていた。俊才で美男で、学問も群を抜いているし、<ruby><rb>柳生</rb><rt>やぎゅう</rt></ruby>道場では三傑の一という、<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えたような評判であった。こんど来た目的がなんであるかは公表されなかった。じつは勘定吟味役だという説もあり、嫁えらびだという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>もあった。勘定吟味役だというのは限られた一部の説であったが、<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かな筋から出た情報のように云われた。そのためであろう、保馬が亀岡の宿所にはいると、旅装を解くよりも早く、いろいろな客が挨拶に来た。多くは藩の用達をはじめ商人たちであったが、各役所からの使者も少なくなかった。――勘定吟味役は（いうまでもないだろうが）現今の会計監査官に当り、それよりもさらに広範囲の権限をもっていた。またそのときは藩の財政が極度にゆき詰って、政策の大きな転換が予想されていたから、挨拶に来る人たちの「挨拶」の内容も単純ではなく、それぞれがなんらかの意味を含むものであった。保馬はかれらには会わなかった。保馬の供をして来た仲田千之助と堀勘兵衛とが応待に出た。そのうちに外島又兵衛という客が来ると、保馬はちょっと考えてから、客間へとおすように命じた。又兵衛は四年まえまで江戸邸にいた、中老佐藤市兵衛の三男であったが、こちらの年寄役、外島伊左衛門と婿養子の縁組ができて、以来ずっとこの宮津にいるのであった。――年は保馬と同じ二十六歳になる。<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>は小柄で、色が浅黒く、頬骨が<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>っていた。話しぶりも表情も才ばしって、なめらかで、少しも隙がないという感じだった。

保馬が入ってゆくと、又兵衛はにこにことあいそよく笑い、軽く目礼をして、ひどく親しそうに話しかけた。

「どうもしばらく、道中御無事でおめでとう」

保馬は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて坐った。又兵衛の<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れ狎れしさを承認するようでもなく、また拒むふうでもなかった。

「その後どうですか」保馬は巧みな無関心さで云った、「もう子供さんがあるのでしょう」

「それがまだ独身でしてね」又兵衛はすぐに答えた、「外島の娘が死んだんですよ、私が来て半年ばかり経ってからですが、それでいちどは江戸へ帰ろうと思ったんですがね、外島がどうしても放さないし、なにしろこっちは<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>なもんだから、それに、……じつを云うと見当をつけた娘もいたりするんでね」

保馬はほうと云ったきりで、自分の右の手をうち返し眺めた。彼は評判ほどではないが、色の白い、ととのった、品のいい顔だちで、眉と眼のあいだがかなりひろくあいていた。眉ははっきりと濃く尻上りであったが、眼はやさしく尻下りであった。ときどき唇をむすんで上へ<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>める癖があり、そうすると調和がこわれて、親しみのある顔になるが、すましているときは、あまりととのい過ぎていて、ちょっと近よりにくい感じを与えた。いま又兵衛には保馬の態度がよくわからなかった。うちとけていいようでもあるし、そうしては悪いようでもあった。そして、そんなばあいには、早く引上げるほうがいい、ということを又兵衛は知っていた。

「ちょっとお耳にいれたいことがあったんですよ」と又兵衛は調子を変えた、「お耳にいれておくほうがいいと思うんですが、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>が来られるというので、いろいろな噂が出ているのを御存じですか、例えば貴方が勘定吟味役として来たのだというような……」

保馬はにが笑いをしただけで、肯定もせず否定もしなかった。

「むろん私には関係のないことですが」と又兵衛は続けた、「その噂がいちばん信じられていて、事実とすれば当然ですが、ひじょうな反響をよび起しています、かれらは貴方が来たばあいに備えて、それぞれもう手段をめぐらしているくらいですよ」

「そうのようですね」保馬は云った、「もうだいぶ進物を貰いましたよ」

又兵衛は一種のすばやい眼つきで、保馬を見た。しかし、保馬の表情からは、なんの意味をもさぐり出すことはできなかった。

「どうか注意して下さい」又兵衛は少し声を低めて云った、「どこにどんな<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>があるかしれませんからね、よかったら私がお役に立ちますよ、狭い土地だし四年もいるので、たいていな事情には通じているつもりです、ことに商人関係のことならですね、……どうか不審なことがあったら遠慮なく呼びつけて下さい、なにを<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いてもとんで来ますよ」

「そんなことにならないように望みますね」保馬はあいまいに答えた、「もしそんなことがあったら、意見を聞かせてもらいますよ」

又兵衛はまもなく帰っていった。その夜、仲田と堀とは、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい進物の記録を作った。贈り主と品物の名数、中に金の入れてあるものはその金額など。ひどく念いりな記録であった。それが終ってから、はじめてみんな寝所にはいった。

明くる日、保馬は登城して、重臣の部屋へ挨拶にまわった。

もちろん形式だけであるが、城代家老の部屋には原田監物という筆頭年寄がいて、半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかりも保馬をひきとめた。城代の河瀬主殿は五十二歳、監物も同じくらいの年配で、どちらも北陸人らしくおちついた温厚な人柄であった。二人は保馬からなにか聞き出すつもりのようで、（特に監物が）話の合間にそれとなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かま</span>をかけるようなことを云った。

「べつにさしたることもありません」保馬は軽く答えた、「早く云えば、まあ見合に来たようなものです、むろん御存じでしょうが」

「いやそれはまだ」と主殿が少し慌てて云った、「まだはっきり<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>ったわけではないので、まだ誰にもその話はしていないのだ」

主殿はかなり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばつ</span>が悪そうであった。そうして、監物に向って釈明するように、まだ確定はしていないが娘の花世と保馬とのあいだに縁談が進んでいる、ということを語った。

「すると御息女は……」監物はちょっと<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに口ごもったが、すぐにそれを打消して祝いを述べた、「いや、それはそれは、少しも知りませんでしたが、それはまことにめでたいことで、ぜひ一日も早くそうありたいものでございますな」

「ともかくもう暫くのあいだ御内聞に」

主殿は煮えきらない口ぶりでそう云った。

保馬は主殿から<ruby><rb>晩餐</rb><rt>ばんさん</rt></ruby>の招待をうけて下城した。

## 二

河瀬の招待に続いて、重職の人々が次々に保馬を招いた。おそらく監物からもれたのであろう、みんな縁談のことを知っているようで、口には出さないがそれとなく祝いの言葉を述べた。

「いや遊びに来たんですよ」保馬はどこでもそう云うのであった、「こんなことを云うと怒られるでしょうね、江戸ではちょっと羽根を伸ばしてもすぐ眼につくもんですから、……どうか面白いところがあったら案内して下さい」

しかし人々は信じなかった。人々の頭には「勘定吟味役」という言葉がひっかかっていた。

――縁談というのは少しおかしい。

重職の人たちはそう話しあった。

――なるべく当らず触らずがいい。そしてじっさい、かれらは不即不離の態度をとった。江戸の家老の子であり、美貌の俊才であり、また城代家老の女婿になるかもしれない。そのうえ秘密の使命を帯びているという評もあるのだから、保馬の立場はまったく自由であり、殆んど不拘束といってよかった。

保馬はそれを慥かめた。そうして、ひとわたり招待が済むと遊びに出はじめた。

初めて天の橋立へいったときのことであるが、切戸文珠の内海がわにある「掬水亭」という料亭で休んだ。もう梅雨はきれいにあがって、風のない暑い日が続いていた。堀には命じた用があり、仲田千之助だけ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れていたが、少し酒を飲んだあとで妙なまちがいが起った。――与佐の内海の<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>に建っているその料亭には、水の上へ張出した床があった。屋根を掛け、<ruby><rb>手摺</rb><rt>てすり</rt></ruby>をまわして、一部には（舟に乗るためだろうか）<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>が付いていた。保馬はそこへ出ていった。彼は酒に弱いたちで、<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>に五つばかり飲むと酔ってしまう、ちょうど千之助が給仕の仲居と話し始めたので、一人で風をいれに出たのであった。

日が落ちたばかりで、油を流したように<ruby><rb>凪</rb><rt>な</rt></ruby>いでいる内海の上は、いちめんに鬱陶しく<ruby><rb>靄立</rb><rt>もやだ</rt></ruby>っていた。帰ってゆく<ruby><rb>漁舟</rb><rt>いさりぶね</rt></ruby>の影もかすんでいたし、帯のように延びている天の橋立も、薄墨でぼかしたほどにしか見えなかった。保馬は床の端のところに<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>んでぼんやりと下の水を眺めていた。水は浅く、底の砂地が見え、なにかの稚魚らしい小さな透明な魚の群が、水面すれすれに泳ぎまわっていた。

そのとき彼のうしろへ、娘が一人そっと忍び寄った。十七か八であろう、おもながのすっきりした顔だちで、背丈が高く、胸も腰もまだ少年のように細かった。少し酔っているらしい、うるみを帯びた眼のまわりや頬のあたりが赤く、忍び寄って来る動作にも、浮き浮きした<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>っぽいようすがみえた。保馬は片手に扇子を持って、跼んだまま水を眺めていた、娘の来たことにはまったく気がつかなかった。娘は笑いたいのをけんめいに<ruby><rb>堪</rb><rt>こら</rt></ruby>えながら、そっと保馬のそばへ近寄るなり、「わっ」と叫んで背中を叩いた。おどかすつもりだったのだろうが、足もとが慥かでなかった、背中を叩いた手に力がはいり過ぎて、あっと云ったが、まにあわなかった。前のめりになる保馬を止めようとして、絡みあったまま、水の中へと転げ落ちてしまった。

保馬はすぐ起きあがった。水は腰までしかなかったが、さかさまに落込んだので頭からずぶ濡れになった。驚くよりもわけがわからず、どなりつけようとする眼の前へ、これも水浸しになった娘が起きあがった。そうして、顔へ垂れてくる水を両手で拭きながら、さも<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しそうに声をあげて笑いだした。

「やりそこなっちゃったわ」と笑いながら云った、「もう少しで心中するところだったわねえ」

しかし娘は眼をまるくした。相手をまちがえたらしい、あらと云って口をあけた。保馬は黙っていた。娘はおろおろし、べそをかいて、濡れている保馬のほうへ手を伸ばし、<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>のところを<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でた。

「済みません、堪忍して下さい、人違いなんです。こんなに濡らしてしまって、ほんとに済みません、あたし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>抜き代を出しますから」

保馬は黙って梯子のあるほうへ歩きだした。娘は慌てて呼びとめた。彼の半開きにした扇子が、そこに浮いていたのである。

「あのう、これをお忘れになりました」

そして扇子をひろげてみせたが、ひろげるにしたがって紙と骨とがばらばらに<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれてしまった。娘はすっかりまごついて、そのばらばらになったのをさし出しながら、おじぎをした。

「こんなになっちゃいましたわ」

保馬はちょっと見たばかりで、手を出そうともせずに床へあがった。――話しこんでいた千之助と仲居（お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たけ</span>という名であったが）とは、保馬の姿を見て<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。保馬はただ水へ落ちたとだけ云った。お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たけ</span>はすぐに風呂の支度をしに立った。

「八幡屋の連中だそうです」

お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たけ</span>が去ると千之助がそう云って、別棟になっている座敷のほうへ眼をやった。そちらでは二人があがるまえから騒いでいる客があった。三味線や太鼓をいれて、相当はでに騒いでいたのである。

「外島さんが客だそうです」

千之助はそう付け加えた。濡れた帷子を脱ぎ、躯を拭いていた保馬は、千之助の言葉を聞いていたのかどうか、ふと<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>でくすくす笑いだした。千之助は不審そうに保馬を見た。

「いやなんでもない」保馬は首を振った、「あんまりばかなことを云うものだから、いや、いいんだ、べつの話なんだ」

千之助は戸惑ったように保馬を見ていた。

保馬は殆んど毎日のように出て歩いた。たいてい堀か仲田を伴れて出たが、一人のこともあった。二人には<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すべき仕事があるので、だんだん一人で出るほうが多くなり、そのうち商人たちとの交渉が始まった。――初めに知りあったのは能登屋伊平という者で、湖月という料亭で偶然いっしょになり、それから伊平の紹介で角屋仁右衛門、作間忠太夫、渡島屋六兵衛などを知った。かれらは四人共同で、また一人ずつべつに、保馬を招いて酒宴をひらいたり、舟遊びをしたりした。それが暫く続くと、こんどは藩の用達をする商人たちが近づいてきた。

これよりまえ、外島又兵衛がしきりに保馬を訪ねて来た。ときには日に二度もやって来たが、保馬はずっと会わなかった。家にいるときでも居留守をつかった。すると或日、又兵衛のほうで<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>ったらしいが、湖月で角屋仁右衛門と飲んでいるとき、廊下で彼と出会い、強引に彼の席のほうへと誘ってゆかれた。そこには八幡屋万助と青木重右衛門がいて、日の<ruby><rb>昏</rb><rt>く</rt></ruby>れるまで付きっきりで接待した。又兵衛は明らかに仲介役らしく、しきりに座を取持っていたが、暗くなってくると、独りで承知して<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を命じ、橋立楼というのへ席を移した。おそらく知らせておいたのだろう、そこには米穀商の島屋真兵衛が待っていて、これも一座になり、夜の十時ころまで<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかに騒いだ。

## 三

八幡屋は海産物、青木は<ruby><rb>廻船</rb><rt>かいせん</rt></ruby>と問屋を兼ね、島屋とともに藩の御用商人であり、各自の業で独占株を許されていた。したがって、その利権と富の点で他を抑え、料亭なども掬水亭は島屋、望湖庵は青木、橋立楼は八幡屋と、それぞれが経営するものであった。

能登屋、角屋らの四人は、かれらに対抗する新しい勢力であり、かれらの独占株を開放させるため、ひそかに江戸の重臣へはたらきかけていた。このことは三人の御用商人にもだいたいわかっていた。独占株を許されたかれらは、しぜん藩との財政的つながりが深く、藩に対する貸金は巨額なものになり、殆んど限度に達するほどであった。これはかれらの位置を安全にするようでもあるが、同時に極めて危険な状態でもあった。むずかしいことを云うまでもない、江戸幕府でも数回にわたって、「借上げ」という手を打った。在来の借財を棚上げにすることで、そのために倒産する者さえ少なくなかった。――宮津のように地方の藩では、重臣と商人とのあいだに個人的な<ruby><rb>情誼</rb><rt>じょうぎ</rt></ruby>もあるから、幕府でするほど非情にはできないであろう、しかしそれも程度によるので、ぬきさしならぬ場合となれば問題はべつであった。

保馬はこういうときに来たのである。対立する両者がなにを考えたか云うまでもあるまい、両者はそれぞれの立場から、保馬を<ruby><rb>籠絡</rb><rt>ろうらく</rt></ruby>し、宮津へ来た理由を知ろうとした。保馬のほうはいっさい無抵抗であった。相手が誰であろうとも、招かれればゆくし、どんなにはでな遊びでも拒まなかった。いかにも大身の育ちらしく、おっとりと任せきって遊び、進物を出されれば黙って受取った。

七月になった或日。島屋の手代に伴れられて望湖庵へいった。

「誰か一人きまった者のいたほうが宜しゅうございましょう」

手代の弥吉はそう云って、六人ばかり若い女を呼んだ。<ruby><rb>粒選</rb><rt>つぶよ</rt></ruby>りの仲居たちで、たいていもう<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>であったが、そのなかの一人が、保馬の顔を見てあっと声をあげ、袂でさっと顔を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>った。

「あらあら、ごらんなさいよ」とほかの女たちがみつけて<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>したてた、「珍しいことがあるじゃないの、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>さんが顔を隠したわ」

「きっとなにかわけがあるんだわ」

「これはただでは済ませません」お春という女が<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>ばらいをして云った、「衆人の前でそういう振舞いをするからには」

「ええ、いいわ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>るわ」

顔を掩った女がそう叫び、袂を放して、女たちのほうへ向き直った。

「今日は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が奢るから、みんな好きな<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>をして頂戴、今日は一世一代よ」

女たちはきゃあと声をあげ、手を叩いた。保馬もわれ知らず苦笑した。はじめて気がついたのだが、それはいつか掬水亭で誤って彼を水へ突落したあの娘であった。

「この望湖庵の養女の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>という者ですが」と手代の弥吉が云った、「本信さま御存じなのでございますか」

うんと保馬が頷くと、娘はこっちへ向いて、顔を赤くしながらおじぎをした。

「なまいきなことを云ってはいけない」保馬が云った、「客がいるのに奢るということがあるか、<ruby><rb>僭上</rb><rt>せんじょう</rt></ruby>というものだぞ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したような眼で保馬を見て、はいと云って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こくん</span>と少年のように頷いた。

「済みません、取消します、堪忍して下さい」

保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>て赤くなった。そんなつまらないことを云った自分に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>たのである。彼は少なからずあがりぎみで、持っていた盃を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>にさした。その手つきがぎこちなかったし、受ける<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>のほうもへどもどしていたので、またしても女たちがやかましく囃したてた。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>さまに云いつけるわよ」

などと云う者もあった。すると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は眼尻をさげ、唇をだらしなくあけてへへへと笑い、<ruby><rb>斜交</rb><rt>はすか</rt></ruby>いに保馬を見た。

「<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>をしめろ、なんというだらしのない顔だ」保馬が云った、「まるで<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>がほどけちゃってるじゃないか」

「ごめんなさい」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が云った、「でもこれでいいって云う人もいるんですの」

女たちが<ruby><rb>嬌声</rb><rt>きょうせい</rt></ruby>をあげた。保馬はしげしげと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>め、それからゆっくりと云った。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>抜き代はその人が出すのかい」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>ははっとし、急に赤くなったと思うと、また袂で顔を掩った。女たちはますます騒ぎだし、お春が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の肩を打った。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>抜き代ってなんですか、さあ勘弁しませんよ、人の眼のまえで二度も顔を隠したりして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>抜き代とはいったいなんのことですか」

「話してやろうか」

保馬が云うと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はきゃっと叫び、顔から放した手を合せて、躯をよじった。

「ごめんなさい、このとおりです、どうかあのことだけは<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃらないで下さい、本当にあのことだけは」

むきな表情であった。女たちのやかましい声のなかで、保馬は笑いながら黙った。

「本当にないしょにして下さいましね」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>くように云った、「一生の御恩に<ruby><rb>衣</rb><rt>き</rt></ruby>ますわ」

保馬は頷いた。

誰か一人きまった者を、という弥吉のはなしはそのままになったが、それ以来、保馬の席には必ず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が出るようになった。――望湖庵は青木重右衛門が経営しているので、養女といえば重右衛門の娘分であろう。料亭を切廻しているのはお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かね</span>という名の、肥えた五十歳ばかりの女であるが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は彼女からも他の仲居や雇人たちからも、いちように愛されていた。望湖庵の者だけでなく、知っている者はみんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>を愛しているようであった。――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は明るくさっぱりした、そして思い<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りの深い性分だった。不自由のないせいもあろうが、仲居や雇人で困っている者などには、<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>へまわってよく面倒をみた。それも年に似合わない巧者なやり方なので、世話をされた当人がそれと知らず、あとで気がつくといったようなことが多かった。

むずかしい客、酒癖の悪い客などは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>がさばくものにきまっていた。酒も飲ませればかなり飲むし、少し酔うと笑い上戸になって、

――ようし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が奢る。

と云うのが口癖であった。保馬にも三度ばかり云ったが、そのたびに保馬は手厳しくはねつけた。

「あら、どうしてですか、あたし奢りたいんですもの奢らして下すってもいいでしょう」

保馬は「あまくみるな」などと云ってとりあわなかった。

七月から八月へかけて、殆んど三日に一度ぐらいずつ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>と会った。能登屋や角屋たちと飲むときは、湖月か田川屋という料亭であるが、酌に出る仲居たちから聞くのだろう、「あとで来てもらいたい」などという手紙を使いに持たせてよこした。

「よさないか、みっともない」保馬はいつもにがい顔をした、「わけもなにもないのに、人がなんだと思うじゃないか」

「あら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はちっとも構いませんわ」

「いい人に聞えてもか」

「もちろんですわ」云いながら赤くなる、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は信用があるんですもの」

眼尻が下り、唇がゆるんで、ばかばかしいほどあまったるい顔になる。すると保馬は舌打ちをし、にがにがしげに云うのであった。

「なんというだらしのない顔だ、紐を緊めろ」

保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>にだけは荒い口のきき方をした。遠慮なく悪口を云い、ぴしぴしとやっつけた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に向うとしぜんにそうなるのであった。彼女に末の約束をした恋人があるということは、みんなが知っていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>自身でもときに失言することがあり、赤くなって顔の紐を解くのだが、それが少年のようにすなおな<ruby><rb>嬌羞</rb><rt>きょうしゅう</rt></ruby>で、まわりの者の気持をなごやかに楽しませるのであった。

八月中旬の或日、もう燈のつくじぶんであったが、保馬が酒に<ruby><rb>労</rb><rt>つか</rt></ruby>れてふと庭へ出ると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が追って来てそっと囁いた。

「お願いですから掬水亭へ伴れていって下さいまし、ね」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はいつもとは違う眼つきをしていた。保馬は頷いて、脇の木戸から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>といっしょにぬけだした。

「駈落ちみたいですわね」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は嬉しそうに囁いた。

## 四

望湖庵は玄妙ヶ岡の中腹にあった。文珠へは裏道づたいにゆくことができる、北陸は秋が早いのだろうか、松や雑木林のある山道には、もう<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>が穂を出しはじめ、栗の木の下では<ruby><rb>熟</rb><rt>う</rt></ruby>れた実のはぜて落ちる音がした。

「このまま、こうして」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が低い声で云った、「どこまでも、どこまでもゆけたら、どんなにいいでしょう」

「逃げだしたくなったのか」

「ごいっしょにいたいんですの」

「人違いは一度でたくさんだ」

「またそんなふうに」そう云いかけて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は眼を伏せた、「でもそうですわね、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>には大事な人がいるし、本信さまは御城代のお嬢さまを迎えて、江戸へお帰りなさるのですものね」

保馬は声をださずに笑った。

「城代の令嬢は嫁にゆけない躯なんだろう」

「あら」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は眼をみはった、「そのことはご存じだったんですか」

保馬は逆に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>き返した。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>のいい人というのは誰なんだ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は口ごもった。

保馬はすぐにうち消した。

「いや、いいよ、ちょっと口が<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>ったんだ」そして足を早めた、「早くゆこう、夜になってしまう」

掬水亭へ着くと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は例のとおりはしゃぎだした。いつかの床の上へ席の支度をさせ、今日はこっそり<ruby><rb>逢曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>に来たのだ、などと云って仲居たちを遠ざけ、二人だけで<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に向った。

「あれからもう二た月になりますわね」

「心中のしそこないか」

「あのときはお客に伴れられて来て、いい気になって飲んだもんですからすっかり酔ってましたの、さもなければ間違える筈はなかったんですけれど」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はこう云って、床の端のところをなつかしそうに見やった、「――そこの処でしたわねえ、貴方はこんなふうにしゃがんで、なにか考えごとをしていらっしゃいましたわ」

「水を眺めていたんだ、小さな魚がつながって泳いでいたよ」

「こんなふうにしゃがんでいらっしゃいましたわ」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は続けた、「あたしまったく人違いをして、おどかしてあげるつもりで、そっとうしろから忍んでいったんですの、それが酔っているものだからつい」

そう云いかけて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は自分でふきだした。

「つい力がはいり過ぎて、よろめいちゃって」

そう云いながら身を跼めて笑いだした。そしてとつぜん保馬の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>へ<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>したと思うと、笑いがそのまま泣き声に変り、背をふるわせて泣きはじめた。保馬は黙って、片方の手でその背中を撫でてやった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はなにかを訴えたいようであった。保馬にも云ってやりたいことがあった。しかしどちらも、口にだしてはなにも云わなかった。泣き声はしだいに鎮まったが、そうしていることがいかにも楽しいようすで、かすかにしゃくりあげながら、なお<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くのあいだ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は膝に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れたままでいた。

「これで<ruby><rb>願</rb><rt>がん</rt></ruby>がかないましたわ」

やがて起き直った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は、袂で涙を拭きながら微笑した。

「いちど思いきり泣いてみたかったんです、なんにもわけはないんですけれど、……これでさっぱりしましたわ」それからいつもの明朗な表情で保馬を見た、「人間って悲しくなくっても、ときどき泣かないと躯に悪いんじゃないでしょうか」

保馬は黙ったまま、<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わるように頷いた。

その夜（だけではないが）宿所へ帰った保馬は、仲田や堀たちと夜半過ぎまで調べものをした。二人の分担していた仕事は、この六十余日のあいだにめざましく進んでいた。――それは八幡屋以下三人の御用商人の実態調査であって、その取引状態や、年間の利潤や、資産について、（これには能登屋ら四人の商人たちの助力があったが）詳細な事実があげられていた。むろん、保馬への進物や、接待の費用なども、そのつど入念に計算されているので、今その明細書を見ながら、保馬は頭を振って苦笑した。

「この分は返さなければならないんだからな、江戸でなくって幸いだよ、江戸だったら破産してしまうぜ」

「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>でも財布が空になるそうじゃありませんか」堀勘兵衛がそう云ってから、ふと眼をあげて、「あのお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>という娘ですね、あれは注意なさらないといけませんよ」

「――なにかあるのか」

「外島又兵衛です」と勘兵衛が云った、「あれは青木重右衛門の養女ですが、もとは加賀藩の浪人の遺児だそうで、外島と結婚する約束ができている……どうかなさいましたか」

「いや、なんでもない、続けてくれ」

「縁組の裏には八幡屋、島屋、青木の三人連合の契約があるんですね、かれらは外島を勘定奉行か、できれば筆頭年寄に据えて、自分たちの位置を確保しようとしているんです」

「外島には無理だな」

「どうせ操り人形でしょう」

表向きには不可能のようであるが、じっさいには有り得ることであった。かれらは財政の実権を握っているといってよかった。藩そのものが借財に苦しんでいたし、家臣たち（例外はべつとして）も、多かれ少なかれ借があった。独占株の開放とか、政策の転換などがもし実現すると認めたら、かれらはきっと対抗手段をとるであろう。そのために外島を必要な椅子に据えるくらいのことは、かれらにとってさして困難ではなかった。時代は金力が政治を動かす段階にはいっていたのである。

「あの娘は外島に云い含められて、貴方の役目の本当の目的をさぐろうとしているんです」

「まさかね」保馬は脇へ向いた、「だって、かれらにはもうわかっているんだろう」

「それがそうでないんですよ、貴方のために見当がつきかねているようです、進物も<ruby><rb>賄賂</rb><rt>まいない</rt></ruby>も受取るし、宴会にもどんどん出るし、またあの娘とは浮名が立ちますしね」

「ばかなことを云っちゃいけない」

「むろん私たちは知ってますがね」堀が笑うと仲田も笑った。堀が続けて云った、「もし貴方が吟味役なら、これほど無抵抗ではないだろうと思うんですね、いや、そうなんですよ、現に八幡屋の手代がそう云っていたそうです」

「掬水亭のお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たけ</span>さんかね」

「外島とお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>とのことも彼女が話してくれました、外島というのはいやな奴で、二人のあいだには約束があるだけなんですが、すっかりもう情人気取りで、小遣なんかせびるだけせびっているということです、<ruby><rb>夫婦</rb><rt>めおと</rt></ruby>になったらさぞ泣かされるだろうと云っていましたよ」

「外島は八幡屋たちに貢がれてるんじゃないのか」

「足りないんですね、縞の財布が空になる土地ですから」堀は顔をしかめた、「来たときから女にだらしのないやつだったそうです」

保馬は勘兵衛の顔を見た。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たけ</span>女史は信用できるのか」

「私は浮名は立てませんがね」

「するとつまり、<ruby><rb>辣腕</rb><rt>らつわん</rt></ruby>なんですな」保馬はそう云って調書を見まわした、「――だいぶ<ruby><rb>出揃</rb><rt>でそろ</rt></ruby>ったが、そろそろ役所のほうと突合せにかかるかな」

「気づかれないうちのほうがいいですね」

「いやな役目だ」保馬は眉をひそめた、「誰かがしなければならない。藩ぜんたいの浮沈に関するので、やむを得ないことはわかるけれども、こんな仕事はじつにやりきれない、早く片づけて帰りたいものだ」

堀や仲田はなにも云わなかった。

その夜は保馬にとって寝苦しい夜であった。それに続く数日も、彼は引立たない気分ですごした。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>と外島又兵衛との関係は、思いがけなかった以上に、傷手であった。勘兵衛の忠告は事実と思わなければならない、外島は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に保馬の任務をさぐれと命じたであろう、なぜなら、初めのうち外島はしつっこく保馬に近づこうとした。彼が御用商人たちと特別の関係をもっていることは宮津へ来るまえからわかっていた。

――こいつさぐりに来たな、と思っていたのであるが、保馬が遊びだすと、まもなく姿を見せなくなり、代って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>との交渉が始まった。つまり彼女に肩代りをした、と考えることができるだろう。

――そうは思いたくない。

保馬は否定したかった。しかしもう否定することはできなかった。そうして、自分がどんなに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけられていたかということに気づいて、激しく顔をしかめるのであった。

## 五

仕事が終るまでは、行動を変えるわけにはいかなかった。保馬はそれまでと同じように、料亭へでかけ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>と会った。自分では平静なつもりでいるが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>にはなにか変化がわかるとみえ、ときどきじっと保馬を見つめた。

「なにをそんなに見るんだ」

「この頃なんだか浮かないごようすですから」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は云う、「いつものお癖がちっとも出ませんし、来てもすぐお帰りになりますわ」

「いつもの癖ってなんだ」

「こういうお顔をなさるわ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は唇をむすんで上へ<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めてみせた。保馬はちょっとどきっとした。自分ではその癖が出ないことには気がつかなかった。

「澄ましていらっしゃると怖いけれど」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はあまえるように云った、「こういうお顔をなさると、それはやさしくみえて、わって云いたいくらい嬉しくなるんです」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>のいい人もそうするのか」

「いやですわ、どうして話しをおそらしなさいますの」

「おまえが隠してばかりいるからさ」

と保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の顔を見た。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は少しもいい人のことを話さないじゃないか」

「だって<ruby><rb>関</rb><rt>かか</rt></ruby>わりのないことなんですもの」

「関わりはあるさ」

保馬の声に<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>があったのか、それとも自分の心に<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めたのか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>ははっとしたような眼で保馬を見た。それが保馬を逆に打った、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に咎はない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は不当な役を負わされているだけだ。保馬はしいて笑ったが、歪んだ笑いだということが自分にもわかった。

「おれは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が好きだ」と彼は云った、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が誰よりも仕合せであるようにと、いつも願っている、本当にそう願っているんだ、だからその人が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>を仕合せにすることのできる人間かどうかを知りたいんだ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>も微笑したが、それは保馬のそれよりちからがなかった。殆んどべそをかくのに似ていた。

「その人は好い人なんです」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は弁護するように云った、「いろいろ失敗をしますし、世間でもいやな評判がありますけれど、根は気が弱くって、悪い事なんかできる人じゃないんです、それに、殿方は誰でも、若いうちはしようがないんじゃないでしょうか」

「どんなふうにだ」

「どんなふうにもですわ」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は眼を伏せた、「あの人のように気が弱くって、つい失敗ばかりする人は、なおさら、……あたしあの人が可哀そうでしようがないんです、あたしが付いていてあげなかったらどうなるかと思うと、本当に可哀そうでしようがなくなるんですの」

保馬は脇へ向いた。

「あたしが<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>だということを御存じでしょうか」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は続けた、「あたしの父は加賀さまの浪人で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は五つの年に孤児になりましたの、十五のとき青木の<ruby><rb>養父</rb><rt>ちち</rt></ruby>に引取られたのですけれど、それまでずいぶん辛いことがありました、……十三の年のことでしたわ、もうもう辛抱ができなくなって夜中に二階の窓から逃げだしたことがありました、二階の窓から帯をつないで下げて、霜でいっぱいな屋根を踏んで」

「もういい、たくさんだ」

保馬は乱暴に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したように黙った、保馬は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くしんとしていたが、やがて低い声で云った。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が不仕合せだったことなど、おれは知りたくはない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はこれまでも仕合せだったし、これからも仕合せであってもらいたいんだ」

「ええ、もちろんです、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はこのとおり仕合せですわ」

そして、こんどは明るく笑うことに成功した。けれども保馬にはやっぱり哀れにしかみえなかった。それは珍しく二人だけのときで、望湖庵のその座敷から見える切戸のあたり、すっかり暗くなった海の上に、<ruby><rb>漁舟</rb><rt>いさりぶね</rt></ruby>の火が一つゆっくりと動いていた。まもなく、島屋と八幡屋の手代が来、いつもの仲居たちが<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>ってから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は少し酔ったような調子で、

「本信さまの御縁談はどうなさいましたの」と云いだした、「もうお<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>りになったんですか、それともまだ……」

「だめのようだな」保馬はそっけなく、答えた、「あんまりばか遊びばかりしているんであいそを尽かされたんだろう、いちど招かれたがお顔も見せてくれないし、その後は来いとも云われないよ」

「なにか、御病気らしゅうございますな」島屋の手代が云った、「<ruby><rb>脊髄癆</rb><rt>せきずいろう</rt></ruby>とか聞きましたが、もう長くおやすみになっているのではございませんか」

保馬は知らない顔をしていた。

「それではもう」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が云った、「江戸へお帰りになりますのね」

「――どうして」

「だって、御縁談のほうがそんななら」

「それだけではない、かもしれないじゃないか」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>と二人の手代の顔に、（それぞれの）すばやい表情の動くのがみえた。保馬は乾いた声で笑った。

「たとえばお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>を口説きおとす、というような野心がさ」と彼は意地の悪い口ぶりで云った、「せっかく江戸から来たのに、手ぶらで帰るのはまのぬけたはなしだ、お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はうんと云わないかね」

「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にも女がおりますのよ」並んでいる仲居たちがやかましく声をあげた、「なにもお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>さんに限らなくったって、たまにはわたしたちを口説いて下すっても罰は当りませんわ」

「罰が当らないだけか、つまらない」

「悪いお口になったこと」いつも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>のそばにいるお春が云った、「初めはあんなにお人柄だったのにすっかり悪くおなりなすったわ、ぶってあげようかしら」

「罰は当らない筈じゃないか」

華やいだ<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り声のなかで保馬はにがにがしく顔を歪めた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれる気持は強くなるばかりであった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が外島に云い含められて彼に近づいている、という事実も頭から去らないが、いっしょに水へ落ちたときからの二人の心のあゆみよりには、そんなことのはいる隙のない、しぜんなものがあるように思えた。そのうえ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>と外島との関係が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の重荷であり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>を不幸にするだろうと思うと、保馬の愛着はいっそう深くなるのであった。

――このままでは危ないぞ、このままでは。彼はまじめにそう思い始めた。今のうちにどうかしないとばかげたことになりかねないぞ。

仲田と堀とは仕事を進めていた。九月になると江戸から、城代家老に宛てて墨付の密書が届き、それによって、諸役所の帳簿が（極秘のうちに）検閲された。そうして、それまでに調べあげたものと突合せ、両者の記録の差違や、<ruby><rb>糊塗</rb><rt>こと</rt></ruby>された部分を挙げてゆくと、御用商人と重臣たちとのつながりが、意外なほど深く大きいのに驚かされた。

「これはひどいことになっているものですね」

「どこの藩でも同じらしいぞ」保馬は苦笑して云った、「幕府そのものが音をあげているんだから、もう侍の政治ではやってゆけなくなってるんだろうな」

「しかし、これを表面に出さずに済みますか」

「むずかしいところだね」

保馬は太息をついた。これまで苦心してやってきたのは、財政の転換を穏やかにやるためであった。不正な事実があっても、それを摘発するよりは武器にして、できるだけ円満に事をおさめる。犠牲者は出さないように、というのが、藩主はじめ江戸重職の意向であった。

「――なんだ」

仲田千之助の声でふと見ると、庭さきに下僕の一人が花を持って立っていた。

「唯今これを届けてまいりましたので」

白いみごとな<ruby><rb>芙蓉</rb><rt>ふよう</rt></ruby>の花であった。千之助が立っていって受取った。

「すぐ帰りましたが、若いきれいな娘でございました」

「わかっている」千之助は戻って来て、保馬の机の上にそれを置いた、「――来いとのたよりでございますな」

保馬は黙ってその花に見いった。

## 六

それ以来、きちんと一日おきに、花が届いた。もちろん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>からであろう、大輪の菊のこともあるし、<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>や<ruby><rb>女郎花</rb><rt>おみなえし</rt></ruby>や<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>など、野山の花のこともあった。手紙もことづけもなく、花だけを届けてよこすのだが、そのほうが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の気持をよく伝えるようで、保馬の心に深くしみいった。

保馬は半月ちかく出る暇がなかった、そのあいだに準備もほぼととのい、江戸から知らせのあるのを待つばかりになった。正式の勘定吟味役が江戸から来るのである、むろん初めからの予定であるが、それが宮津へ着くまえに、保馬が商人たちと会談することになっていた。つまり財政改革の<ruby><rb>下拵</rb><rt>したごし</rt></ruby>らえで、必要なばあいには準備した調書をかれらに示し、拒否できないように抑えるという計画だった。

――そのために保馬の来た理由はぼかされてあった。河瀬主殿の娘が<ruby><rb>病臥</rb><rt>びょうが</rt></ruby>ちゅうで、結婚できない<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>だということもわかっていたが、宮津へ着くまえに、（江戸の父から）求婚の手紙が届くようになっていた。勘定吟味役かもしれない、という評判も、じつはわざと<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>められたものだったのである。

――どうやら無事にこぎつけた。

保馬も、堀や仲田も、肩の荷をおろしたような気持だった。

――これで会談をうまく切抜ければ。

そう思ったのであるが、じっさいはそうではなかった。保馬が宿所にこもりだしてから、御用商人たちは<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけたのであった。かれらも手を<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねていたわけではなく、こちらの動きには油断なく眼を光らせていた。こちらが肩の荷をおろしたと思ったとき、かれらは事のあらましをさぐり当て、その対抗策のため色を変えていたのであった。

十月にはいって五日めの午後、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>から保馬へ手紙が来た。

――お返し申したい品があり、ぜひ話したいこともあるから。

そういう文面で、すぐ来てもらいたい、という意味が哀訴のように繰り返してあった。

「私たちの顔を見ることはないですよ」堀がにやにや笑った、「花の礼もしなければならないんでしょう、どうぞいっておあげなさいまし」

「馬でも申付けましょうか」

仲田もからかうように云った。

「それはいい、すぐ云いつけてくれ」保馬は手紙を巻きながら立った、「久しく<ruby><rb>籠居</rb><rt>ろうきょ</rt></ruby>したから、馬でとばすのは思いつきだ、頼むよ」

「冗談から馬ですな、やれやれ」

仲田は口をすぼめて苦笑した。よく晴れた午後で、海からしきりに風がふいていた。保馬はその風のなかを<ruby><rb>爽快</rb><rt>そうかい</rt></ruby>にとばしていった。望湖庵へ登る山道では、落葉が雨のように舞っていた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は珍しく濃い化粧で、紫色の地にぼかしで千草を染めた<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の小袖に、薄茶色の<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>に菊の模様の帯をしめていた。濃い<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>のためか、顔が<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばっているようにみえるし、紅をさした唇はむしろ暗い感じであった。

「嫁にでもゆくようだな」保馬は<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しそうに眼をそらした、「まるで人が違ったようにみえる」

「お気に召さないでしょうか」

保馬は微笑しながら、「いいよ」というふうに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は嬉しそうに肩をすくめた。

「今日はお願いがありますの、一生にいちどのお願い」廊下の途中で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は保馬をおがんで云った、「いちどだけでようございますから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>らせて頂戴」

「――どうするんだ」

「二人だけでゆっくりしたいんです、今日はでかけてみんな留守なんです、ねえ、お願いですから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と仰しゃって」

保馬は承知した。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は保馬を自分の部屋へ案内した。それは<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>と棟のべつになった、隠居所ふうの建物であった。海は見えないが、東と南があいていた。庭は松林で裏山へ続き、<ruby><rb>筧</rb><rt>かけひ</rt></ruby>で引いた山水が、縁先の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つくばい</span>にしずかな音を立てて落ちていた。――望湖庵の者はお<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かね</span>の先達で、内海の対岸にある<ruby><rb>籠神社</rb><rt>こもりじんじゃ</rt></ruby>へ、一夜お籠りにでかけたのだという、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>のほかには下男の老人と、下働きのお梅が残っているだけであった。

六<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の部屋の、障子はあけたまま、支度のできた膳を前にして、二人は坐った。

「なんだか改ったようで、へんですわね」

「自分でこうしたんじゃないか」

「それはそうだけれど」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は恥ずかしそうに<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を持った、「あんまりごらんにならないで」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の云うとおり、なんとなく改った感じで、すぐには話がはずまなかった。会わなかったあいだの消息、花の礼など、ぎこちないやりとりが暫く続いた。

「返したい物があるってなんだ」

銚子が代ったとき保馬が<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。

「もう少し酔ってから」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は眼で笑った、「それでないと出せない物ですわ」

保馬に酌をしながら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は自分でもしきりに飲んだ。なにかはずみをつけるように、要もないことを云ってはいさましく飲んだ。まもなく急に酔いだしたようすで、うるんできた眼をきらきらさせ、まともに保馬を見て口を切った。

「あたし今日はほんとのことを云いたいんですけれど、いいでしょうか」

「云わなければならないのか」

「それでないと苦しくって」<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を持つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の手が震えた、「もう苦しくって、がまんができなくなったんです」

保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に酌をしてやった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はそれを<ruby><rb>呷</rb><rt>あお</rt></ruby>るように飲み、こんどは頭を力なく垂れた。

「でもあたし、云えないかしら」

「云わなくってもわかるよ」

「でもあたし云いたいんです」

保馬は黙った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は盃を置いた、なかなか言葉が出ないとみえ、荒く息をつきながら、絡み合せた両手の指を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みしぼった。

「初めはなんでもなかったんです」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は低い声で云いだした、「ただ掬水亭のことがあるので、遠慮のない気持でいました、それがおめにかかるたびに、だんだん好きになってきて、そうなってはいけないのに、しまいには一日じゅう、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>のことばかり考えるようになってしまいました」

「そう聞いたって驚きゃしないよ」

「ええ、――」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は頷いた、「それもわかっていましたわ、保馬さまも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>を好いていて下さる、そう思っても<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れではないだろうって……だからよけいに苦しかったんです、貴方も好いていて下さるし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は貴方を死ぬほども好きなのに、……ええそうです、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は保馬さまが死ぬほど好きなんです、けれどもこの胸の、ここのところに」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は自分の胸を押えた。

「もう一人さきにはいっていた人がありました、今でもその人は、ここにいるんです、その人はどいてくれないし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の胸はこんなに小さくって、こんなに……保馬さま」がまんがきれたように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は云った、「どうして貴方はもっと早く来て下さいませんでしたの」

日が傾いて、いっとき庭がしらじらと明るくなった。土地が高いためだろう、風がかなり強く松の枝をふき鳴らしていた。

――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は眼と頬の涙をぬぐい、銚子を代えるために立っていった。

## 七

戻って来た<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は銚子を二つ持っていた。その一つを自分の脇に置き、もう一つの銚子で保馬に酌をすると、

「覚えていらっしゃるでしょう」

と云って、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から扇子を出して彼に渡した。それは骨と紙が<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がれていて、ちょっとまよったが、もちろんすぐにわかった。

「こんな物を取って置いたのか」

「一生持っているつもりでした」

「――返すというのはこれだね」

「持っているとみれんが残りますから」

保馬はじっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の眼を見た。

「どうして今日返すんだ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は自分の脇に置いた銚子を取り、自分の盃にそれを注いで、保馬を見返しながら答えようとした。そのとき、お梅がいそぎ足にこっちへ来た。

「お客さまのお家来の方がおいでなさいました」お梅は立ったままで云った、「急な御用だと仰しゃってでございます」

「いないと云っておくれ」<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>がそう遮った、「あたしといっしょに出ていらしったって」

保馬は立った。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は手を伸ばして、彼の袂を<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>もうとした。

「保馬さま、お願いですから」

彼はすばやく廊下へ出た。急用という言葉に不吉な予感を感じたのである。玄関には仲田と堀が待っていた。走って来たのだろう、まだ<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいたし、二人とも汗だらけだった。保馬は予感の当ったことを知った。

「嗅ぎつけられました」と勘兵衛が云った、「能登屋が知らせてくれたんですが、かれらは宿所を襲う手筈だといいます」

「しまったな、そいつはしまった」

保馬はおちつこうと努めた。

「だが<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かなんだろう」

「間違いないようですね、時刻までわかっているんですから」千之助が云った、「もちろんめあては調書だと思いまして、ともかく此処へ持って来ました」

彼は抱えている大きな包を叩いた。

「押掛けて来るのはどういう連中だ」

「外島が指揮をするそうで、浪人やならず者が十五、六人ということです」

「外島が――」保馬は<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>った、「それでは慥かだ、彼は足もとに火が付くんだから、しかしその時刻というのはいつなんだ」

「四時ということですから、もう押込んでいるかもしれません、残っている者には、来るのを見てから逃げるようにと云っておきました」

そうすればそれだけ、追跡の時が延びるに違いない。保馬は頷きながら、すばやく考えを<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>めた。かれらが次の手を打つまえに、こっちからかれらを押えなければならない。それも騒ぎを最少限にくいとめるには、できるだけ敏速にやらなければならなかった。保馬は<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>をきめた。

「堀はこれから御城代の邸へいってくれ」

「どうします」

「河瀬殿にはお墨付がいっているからわかる筈だ、事情を話して人数を出してもらい、八幡屋、青木、島屋の三人を城中へ護送する。これは町奉行に預けるがいいだろう、それから人数の一部を<ruby><rb>辻々</rb><rt>つじつじ</rt></ruby>に配って警戒に当るよう」

「少しやり過ぎはしませんか」

「責任はおれが負うよ」保馬は云った、「おれの乗って来た馬があるからあれでゆくがいい、それだけの手配が済んだら戻って来てくれ。仲田は此処にいてもらう」

堀はすぐとびだしていった。

千之助を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて戻ると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はまだ独りで飲んでいた。そして、二人がはいってゆくと、盃を持ったままにっと微笑した。千之助に会釈したらしい、が、その微笑を見たとたんに保馬はどきっとした。

――外島……お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>。

二つの名がつながった。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>」と保馬が云った、「おまえ知っていたんだな」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の唇の間から歯が見えた。

「今日四時になにがあるかを知っていて、それでおれを呼びだしたんだな、そうなのか」

「――あの人は、あの……」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の舌がもつれた。そして唇の端から<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>が垂れ、両方の眼の<ruby><rb>眸子</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>がつりあがった。保馬は声をあげて、走り寄って、倒れかかる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の躯を支えた。

「お<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>、どうしたんだ」

そのまに千之助が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の手から盃を取り、その匂いを嗅いだ。それから脇にある銚子の匂いも、――そして低く叫び声をあげた。

「いけません、毒酒のようです」

保馬は色を変えた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は<ruby><rb>跼</rb><rt>かが</rt></ruby>んだ。

「このまま、お願いですから」

舌がもつれるので殆んど言葉にならない、保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の躯を抱きあげ、「水を頼む」と云いながら縁側へ出た。千之助は走っていった。保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>を<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きにし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みぞおち</span>へ自分の<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>を当てておいて、背中を叩きながらどなった。

「吐くんだ、吐いてしまえ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は身もだえ、激しく頭を振った。保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の口の中へ指を入れた、くいしばった歯には非常な力がこもっていた。保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の髪を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>み、首の折れるほど仰向かせた。すると<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>があいて、指が中へすべり込んだ。保馬は乱暴にその指を押入れ、力任せに舌を圧した。

「水です」千之助が戻って来た、「なにか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くわえ</span>させましたか」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の躯が<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>を起し、すぐに<ruby><rb>嘔吐</rb><rt>おうと</rt></ruby>が始まった。形容しようのない不快な（それが毒物なのだろう）匂いがあたりにひろがり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は<ruby><rb>悶絶</rb><rt>もんぜつ</rt></ruby>するかのように<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いた。

「そうだ卵白を忘れていました」千之助が云った、「卵の白身を持って来ます、それから医者を呼びますか」

「あとにしよう、外島のことがある」

千之助は走り去った。保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の頭を横にして、口移しに水を飲ませた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は飲んだ、<ruby><rb>諦</rb><rt>あき</rt></ruby>らめたのか、それとも力が尽きたのか、保馬の飲ませるだけ飲んだ。

「さあ吐け」保馬はどなった、「すっかり吐きだしてしまうんだ、その胸の中にはいっている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やつ</span>もいっしょに、残らず吐いてしまうんだ、残らずだぞ、わかるか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は頷いたようであった。そしてまた嘔吐した。保馬の眼から涙がこぼれた、彼は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の背を叩きながら、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の詰ったような声で云った。

「ばかなまねをして、なんというやつだ、死ぬと命がなくなるんだぞ、これで死ぬと命がないぞよって、芝居のせりふにもあるじゃないか、おまえ知らないのか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>」彼は笑おうとした、しかしむろん笑えはしなかった、「そうだもっと吐け、もっと、その胸からなにもかも出してしまえ、そうすればさっぱりする、おれからも褒美をやるよ」

千之助が戻って来た。大きな茶碗を二つ、そこへ置くとすぐ、彼はまた水を取りに引返した。保馬は続けて卵白を飲ませ、そして強引に吐かせた。

「――どうぞ、お口から……」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れたような声で云った。慥かにそう云ったように、保馬には聞えた。口移しにしてやると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の唇は保馬のにつよく吸いついた。――暗くなってきた庭の、松林の中で、なんの鳥か、けたたましく鳴きだした。

## 八

堀勘兵衛は七時ごろに帰って来た。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は眠っていた。小<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>をまわした夜具の中で、仰向きに寝て、片手でしっかりと保馬の手を握っていた。<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の光が届かないので、おどろくほど顔が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やつれ</span>てみえる。熟睡しているらしいが、ふとすると眼をあけて、不安そうに保馬を見た。そして彼の手を握っている指も、ときをおいて強くひきつり、彼の指を緊めつけた。

勘兵衛の役目はうまくいった。外島と十六人の暴徒は宿所を襲ったが、留守をしていた下僕たちは巧みに逃げた。又兵衛は失敗したことを知ると、宿所に火を放って焼き、そのままどこかへ逃亡した。暴徒のうち五人の者は捕えられたが、あとの十一人と又兵衛とは行方が知れなかった。――八幡屋万助、島屋真兵衛、青木重右衛門の三人は、それぞれ手代と共に城中へ移され、暴徒に加担したという疑いで、そのまま軟禁された。

この報告を聞くあいだも、保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>から離れることができなかった。彼がちょっとでも動くと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の手は激しい力で絡みつき、<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えたように眼をあけて、彼を見た。

「大丈夫だ、どこへもゆきゃあしないよ」

保馬は顔を寄せておちつかせた。

「此処にいてやるから眠るんだ、もうなんにも心配することはないんだよ」

勘兵衛は<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き声で報告し、終るとすぐに部屋から出ていった。その少しあとで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>がかなりはっきりとうわ言を云った。

「――ええいいわ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が奢るわ」

低いかすれ声であったが、言葉ははっきり聞きとれた。保馬はそっと微笑し、それに答えるように頷いた。――夜半ごろだったろう、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はふっと眼をさまして、喉が渇いたから水が欲しいと云った。飲ませてやると、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>そうにたっぷり飲んだ。

「気分はどうだ、なんともないか」

「――ずっと、いて下すったのね」

「これだからね」保馬は握られている手を振ってみせた、「ずっと放さないんだぜ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は唇で笑った。保馬はそっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の胸を指して云った。

「まだここになにか残っているかい」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は保馬を<ruby><rb>訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しそうに見た。それからゆっくりと頭を振り、かすれた低い声で、保馬をじっと見つめながら云った。

「――みんな出ちゃいました」

「残ってるものはないんだね」

「――ええすっかり……からっぽです」

保馬は頷いてみせた。すると<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の手に力がはいって、彼の指を痛いほど緊めつけた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の眼から涙がこぼれ落ちた。

――外島が来るかもしれない。

こう思ったので、堀と仲田に警戒を命じた。外島がどこへ逃げるにしても、いちどは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>のところへ来るに違いない。必ず来るだろうと思った。しかしその夜はなにごともなく、静かに明けていった。

朝になってから、外島のことがわかった。彼は三人の浪人者といっしょに「えびす丸」という船を奪って逃げたのである。それは八幡屋の持ち船であったが、外島ら四人は刀を抜いて船頭を<ruby><rb>威</rb><rt>おど</rt></ruby>し、そのまま海へ逃げたそうである。舟子の一人が、途中からうまく海へとび込んでのがれ、泳ぎ帰ってそう話したということであった。

――それなら大丈夫だ、彼はもう決して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>のところへ来ることはないだろう。

保馬は安心して仕事を始めた。

多忙な日が続いた。保馬は江戸へ督促の急使をやり、重職と会った。町奉行に捕えてある暴徒たちの<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>もし、三人の御用商人とたびたび話しあった。宿所を襲ったのは外島の独断だということがわかった。彼は商人たちと役所とのあいだで、収拾のつかないくらい不正を重ねていた。たとえ保馬の手から調書を奪うことができたとしても、それだけではもう、罪を免れるわけにはいかない状態であった。――御用商人たちとの会談はうまくいった。かれらと外島との関係はあまりに深かったので、暴挙のことがかなり負担になったらしい。同時に、財政改革ということが、いつかは避けられないという現実もわかっていた。かれらは商人であった、破滅より損失を選ぶくらいの賢さを、かれらがもっていない筈はなかった。

――外島のやった事が逆効果になった。

これで無事におさまるだろう。保馬はそう確信することができた。慥かにそのとおりだった、江戸から勘定吟味役が来たのは、その月の下旬のことであるが、持って来た改革案はすらすらと通った。ほんの僅かな修正はあったけれども、原案の主要なものは故障なく受入れられた。

保馬は首尾よく役目をはたしたのであった。

「さあ終った、今日はひとつ三人で飲もう」

十一月はじめの或日、保馬はそう云って、堀と仲田を伴れて掬水亭へいった。自分の金で飲むのはいい心持であった。酔ってくると二人ともうたいだしたので、顔なじみの仲居をぜんぶ呼んだ。もちろん望湖庵からも来たし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>もあらわれた。

「これは縞の財布ですな」勘兵衛がまっ赤になった顔で保馬を見た、「どうか空にならないように頼みますよ」

旅費だけでも頼みますよ、などと千之助もつまらないことを云った。

三味線がはいり太鼓がはいって、ばかばかしく<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな騒ぎになった。すると、それまで遠慮していたらしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>が、

「あたしおそばへ坐らして頂こう」

と云って保馬のそばへ来て坐った。しかし誰も気がつかないようすだった。保馬は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に眼くばせをして、そっとその座敷から逃げだした。

「あそこは寒すぎるだろうな」保馬がそう云った、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は風邪をひきゃあしないか」

「風邪なんかひきません、あたし大丈夫です」

「これをひっ掛けるといい」

保馬は羽折を脱いで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>に着せた。二人は廊下から床へ出ていった。

思ったほどではないが、寒さは強かった。空が曇っているので、海は暗く<ruby><rb>漁火</rb><rt>いさりび</rt></ruby>も見えなかった。保馬の手は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の肩を抱いた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>の手は保馬の躯に巻かれていた。寒さがきびしいので、お互いの躰温がいっそう温たかく感じられるようであった。

「もう四五日すると江戸へ帰る」と保馬が云った、「はなしは聞いたろうね」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はこくんと頷いた。躯がひどく震えだしたので、保馬はきつく抱き寄せた。

「でもあたし、わたくし、とても……」

「いやだというのかい」

「いいえ」強く首を横に振った、「とても本当とは思えないんです、今でも本当とは思えませんの、夢でもみているような気持ですわ」

「それでいいじゃないか、一生さめない夢にすることだってできる」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>は躯をすり寄せた。巻きつけた腕に力をこめ、保馬の胸へ顔を伏せた。

「あのお扇子を返して下さいましね」

「返すよ」

「本当に江戸へゆけますのね」

「もちろんだよ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はくくと<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>びあげた。

「じゃああたし、ずいぶん<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>かっちゃいますわね」と咽びあげながら云った、「――もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>抜き代を払わなくってもよくなるんですもの、ねえ、そうですわね」

保馬は黙ったまま強く抱き緊めた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いし</span>はすっかり<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れかかってあまやかに泣きはじめた。