Soranoha

おさん

おさん

山本 周五郎

一の一

これ本当のことなの、本当にこうなっていいの、とおさんが云った。それは二人が初めてそうなったときのことだ。そして、これが本当ならあした死んでも本望だわ、とも云った。言葉にすればありきたりで、いまさらという感じのものだろうが、そのときおさんは全身で哀れなほどふるえてい、歯と歯の触れあう音がしていた。世間にはありふれていることではあっても、それは人間が一生にいちど初めて口にする、しんじつで混りけのない言葉であった。おれはごく平凡な人間だった。職人の中でも「床の間大工」といわれ、床柱とか欄間らんま、または看板とか飾り板などに細工彫りをするのが職で、大茂の参太といえば相当に知られた名だとうぬぼれていた。行状だってちっとも自慢することはない、素人しろうとの娘、ひとのかみさん、なか(新吉原)には馴染なじみもいたし品川も知っている、酔ったときにはけころと寝たこともあるくらいで、ただ、しんそこ惚れた相手がなかった、というのが取り得といえばいえたかもしれない。としは二十四、仕事が面白くなりだしたときだから、女のことなどはどっちでもよかった。おさんは大茂の帳場で中なかどんを勤めていた。吉原の若い衆の呼び名のようであるが、「中ばたらき」というくらいの意味だろう、いってみれば奥と職人とをかけもちで、茶をはこんだり、弁当の世話をするくらいで、それほど親しく知りあってはいなかった。あとで聞くと、おさんのほうではまえからおれのことが好きで、自分の気持を知ってもらいたいために、いろいろじつをつくしたということだ。そう云われてもおれにはなにも思いだせなかった。ちょっときれいな女だな、くらいなことは思ったろうが、自分が好かれているなどということはまったく気がつかなかった。それが十月十日の晩、ひょっとしたでき心でそうなってしまったのだ。その夜は親方の家で祝いがあった。親方とおかみさんが夫婦になってから、ちょうど十二年めに男の子が生れ、お七夜に親類や組合なかまや、町内の旦那たちや、大茂から出た棟梁とうりょうたちが招かれた。派手なことの嫌いな親方だが、よっぽどうれしかったんだろう、おれたちはじめ追い廻しの者にまで、八百政やおまさの膳が配られ、酒が付けられた。おれはなかまでも酒に強いほうだから、いい気になって飲んでいるうちに酔いつぶれてしまい、眼がさめてみると側におさんがいた。おれが手を伸ばすと、おさんの躯からだはなんの抵抗もなくおれの上へ倒れかかってきた。そしてあれが起こったのだ、おれが抱き緊しめて、まだそれ以上になにをするつもりもなかったとき、おさんの躯の芯のほうで音がした。音とはいえないかもしれない、水を飲むときに喉がごくっという、音とも波動ともわかちがたい音、抱き緊めているおれの手に、それがはっきり感じられたのだ。おれはそれで夢中になった。おどろくほどしなやかで柔らかく、こっちの思うままに撓しなううぶな躯の芯で、そんなに強く反応するものがある、ということがおれを夢中にしてしまったらしい。そして、終ったとも思えないうちにおさんが云ったのだ。これ本当のことなの、本当にこうなってしまっていいの。全身でふるえ、力いっぱいしがみつきながら……。

二の一

行燈あんどんがまたたいた。油が少なくなったのだろう、行燈が生き物のように、明るく暗くまたたきをし、油皿で油の焦げる音がした。参太はたとう紙の上に並べた小判や小粒をみまもっていたが、油の焦げる匂いに気づいて振返り、手を伸ばして行燈を引きよせた。燈芯のぐあいを直し、油を注つぎ足すと、行燈は眼をさましたように明るくなった。

「二十三両」彼は向き直って、そこにある金を見やった、「二十三両と三分二朱か」

階段を登る足音が聞えた。参太はたとう紙の一方を折って、並べてある金を隠した。あがって来た足音は廊下をこっちへ近づいたが、そのまま通り過ぎていった。参太は胴巻と、革の財布さいふと巾着きんちゃくを取り、二十両を胴巻へ入れてまるめ、三両二分を財布、残りを巾着へ入れた。そうして胴巻は枕の下、財布は両掛の中、巾着を枕許もとへと片づけてから、太息といきをついて火鉢の鉄瓶を取ろうとした。鉄瓶は冷たかった。彼は鉄瓶に触れてみてから、火箸を取って火をしらべた。火は立ち消えになって、白い灰をかぶった炭だけしかなかった。

「茶が欲しいな」と彼は火箸から手を放して呟つぶやいた、「――来るのか来ないのか、すっぽかしだとすると、いまのうちに茶を貰っておくほうがいいかな」

廊下を足音が戻って来て、停とまった。

「起きてて」と障子の外で女の囁ささやく声がした、「もうすぐだから待っててね」

「茶が欲しいな」

「あら」と云って障子をあけ、女が覗いた、「そこにあるでしょ」

「水になっちまった、火が消えちゃってるんだ」

「持って来るわ」女は媚こびた表情で頬笑ほほえみかけた、「寝ないでね」

参太は膝の上の手をちょっと動かした。女は障子を閉めて去った。

彼はちょっと迷ってから、ふところ紙を一枚取ってひろげ、巾着の中から小粒を一つ出して包んだ。それを敷蒲団の下へ入れ、掛け夜具を捲まくって横になった。火鉢の火が消えていると知ってから、夜気の寒いことに気がついたのだ。夜具を顎のところまで引きよせて、参太は天床を見まもった。雨漏りの跡のある煤すすけた天床で、行燈の光がその一部分をぼっと明るく染めていた。――二つ三つはなれた座敷で、笑い声が聞えた。夕方に来た四五人伴づれの客である。この土地の者で、なにかの寄合の崩れだとか云ったが、みんな酔っていて、ばかな声で代る代る唄をうたっていた。一刻ばかりまえから静かになり、帰ったのかと思うと、ときどき笑い声が聞えて来る。参太はすぐに「やっているな」と直感した。どうせ友達同志の一文博奕ばくちだろう、こっちは鉄火場にも出入りするからだであるが、他人のこととなると、たとえ一文博奕でも背筋へ風がはいるような、不安な、おちつかない気分におそわれるのであった。

参太は眼をつむった。向うの座敷がまたしんとなり、眼の裏におさんの姿がうかんできた。顔かたちはどうしても思いだせないが、ぜんたいの姿と、そのときどきの身振り、泣き声や叫び声、訴えかける言葉などは、つい昨日のもののように鮮やかに、はっきりと記憶からよみがえってきた。

彼はびくっとして眼をあいた。障子を忍びやかにあけて、女がはいって来たのだ。女は派手な色の寝衣に、しごきを前で結び、髪の毛を解いていた。

「おおさぶい」女は火のはいった十能を持って、素足で火鉢へ近よった、「このうちのおかみさんがやかましいの、ゆうべのこと勘づいたらしいのよ」

「むりなまねをするなよ」

「来ちゃあいけなかったかしら」

「むりをするなって云うんだ」

「むりは承知のうえよ」女は火鉢へ火を移し、炭を加えてから鉄瓶を掛けた、「あたしこんなうちにみれんなんかないんだから」

「おれは明日ここを立つんだぜ」

「思ったとおりね」

「なにが」と参太は女を見た。

「あんたが立つことよ」女はしごきを解いてから行燈を消し、こっちへ来て、参太の横へすべり込んだ、「――冷たくってごめんなさい、ねえ、あたしお願いがあるの」

「断わっておくがおれは女房にょうぼう持ちだぜ」

「おかみさんにしてくれなんてんじゃないの」と云って女は含み笑いをした、「――ちょっとのまこうさせてね、すぐにあったまるから、あたしの躯ってあったかいのよ」

一の二

あたしおかみさんにして貰おうなんて思わないのよ、とおさんは云った。夫婦になろうと云いだしたのはおれのほうだ、あとでわかったのだが、おさんには親許で約束した男があり、その年が明けると祝言しゅうげんをする筈になっていた。おれは知らなかったからおさんを説き伏せたうえ、親方の許しを得て世帯しょたいを持った。牛込うしごめさかな町の喜平店だなといい、路地の奥ではあったが一戸建ての家で、うしろが円法寺という小さな寺の土塀になっていた。まだとしも若いし、かよいの職人で一戸建ての家は贅沢だが、おれにはそのほうがいいという勘があったし、二十日と経たたないうちに、自分の勘の当っていたことがわかった。それはそもそもの初めから、つまり、初めておさんを抱いたときからわかっていた、と云うほうが本当だろう。おれを夢中にさせたおさんのからだは、いっしょになるとすぐに、この世のものとも思えないほど深く、そして激しくおれを酔わせた。誰でもこんなふうになるの、恥ずかしい、どうしてあんなになるのかしら、女っていやだわ、とおさんが云った。それは自分で気がついたからだ、誰でもというわけじゃない、おまえのからだがそう生れついたんだ、とおれは云ってやった。たいがいの者がそれほどには感じないんだ、そういうからだはごく稀にしかないし、そう生んでくれた親を有難ありがたいと思わなければいけないんだ。いやだわ、恥ずかしい、あたし自分がいやになったわ、とおさんは云った。夫婦ぐらしもいちおうおちつき、気持にゆとりもできてからだ。ふしぎなことに、恥ずかしいと口ぐせのように云いだしてからあと、却ってそれが激しくなった。おさんの躯には、ぜんたいに目のこまかな神経の網がひそんでいた。その網の目は極微にこまかく、異常に敏感であった。躯のどんな部分でも、たとえ手指の尖端せんたんにでも、そういう気持でちょっと触さわれば、すぐ全身に伝わって、こまかな神経の網目に波動と攣縮れんしゅくが起こり、それが眼の色や呼吸や、筋肉の収斂しゅうれんや、肢指ししや脊椎せきついの屈伸に強くあらわれた。まったく意識しないものであり、いちど始まるとおさん自身にも止めることができなかった。正月になり二月になった。おれは一戸建ての家を借りてよかったと、つくづく思ったものだ。隣りが壁ひとえでもあったら、朝晩の挨拶にも困ったことだろう。幸いうしろは寺の土塀だし、長屋とは六七間もはなれていた。近所の者には気づかれずに済んだが、辰造たつぞうは勘のいいやつで、そのうえ道楽者だから女には眼が肥えていたようだが、或るとき普請場ふしんばでずけりと云やあがった。ひるの弁当のあとだ。まわりにはだいぶ職人がいて、辰造の云うことを聞いて笑った。意味をよくのみこめない笑いだが、おれはかっとなって辰造を殴なぐりつけた。怒りではなかった。云われた言葉に怒ったのではない、自分だけしか知らないおさんのからだの秘密を、辰造に勘づかれていたということの嫉妬だった。冗談だよ、気に障さわったら勘弁してくれ、と辰造はすぐにあやまった。ひとの女房のことなんかに気をまわすな、とおれは云ってやったが、図星をさされた恥ずかしさは隠しきれなかった。辰造はまたあやまったが、その眼は笑っていた。

二の二

「お湯が沸いたわ」と女が云った、「お茶を淹いれましょうね」

参太は黙ったままで手を放した。

「こら、この汗」衿を合わせながら起き直った女は、衿をひろげ、小さいけれどもこりっと緊まった、双の乳房のあいだを撫でた、「ごらんなさい、こんなよ」

「風邪をひくぜ」と参太が云った。

女は夜具の中からぬけ出し、しごきをしめて火鉢のほうへいった。行燈は消したままだが、すぐ近くにある廊下あかりで、茶を淹れるぐらいのことに不自由はなかった。あんた女房持ちだなんて嘘でしょ、と女が手を動かしながら云った。女房持ちだよ、と参太が答えた。嘘よ、独ひとり身とおかみさんのある人とはすぐにわかるわ、あたし昨日からちゃんと見ていたの、顔を洗うとき、ごはんを喰たべるとき、茶を飲むとき、それから寝るときもね、おかみさんのある人はやりっ放しだし、なんでも人にやらせようとするけれど、あんたは自分できちんとなんでもするし、手順もなめらかだわ、それは身のまわりのことを自分でする癖のついている証拠よ、と女が云った。参太は眠そうな声で、欠伸あくびをしながら云い返した。自分のうちにいるときと旅とは誰だって違うだろう。女は茶道具を持ってこっちへ来、枕許へ置いて、自分は夜具の上へ坐って茶を淹れた。

「どうしてそんなにおかみさんのあるふりをするの」と女が云った、「――はい、お茶」

参太はだるそうに腹這はらばいになり、女の手から湯呑を受取って、ゆっくりと茶を啜すすった。

「なにか女で懲りたことでもあるの」

「おだてるな」と参太が云った、「そんなにもてる柄がらじゃねえや」

「昔のことだけれど、あたし金さんって人を知ってたわ」と云いかけて、女は急にかぶりを振った、「ばかねえ、どうしてこんなことを云いだしたのかしら、――ねえ、お願いがあるのよ」

「女房持ちだって断わっておいたぜ」

「そんなことじゃないの、いっしょに江戸まで伴れてってもらいたいのよ」

参太は振向いて女を見た。

「迷惑はかけないわ」と女は云った、「自分の入費は自分で払うし、江戸へ着いたらすぐに別れるつもりよ、ねえ、お願い、道中だけおかみさんってことにして伴れていってちょうだいな」

「昨日はじめて会ったばかりだぜ」

「晩にどうして」女は眼に媚こびをみせた、「いくらこんな旅籠宿はたごやどの女中をしていたって、誰の云うことでもきくような女じゃあないわ、それともあんたにはそんな女にみえたの」

「どんな女ともみなかった、ただ、決して後悔はしないだろうと思ったな」

「させなかったつもりよ、そうでしょ」

「もう一杯もらおう」と参太は湯呑を女に渡した、「――どうして江戸へゆくんだ」

「田舎がいやになったの」

「帰る家はあるのか」

「友達が両国の近くにいるわ、料理茶屋に勤めているの」と女が云った、「まだ生きていればだけれど」

「生きていたって、女は身の上が変りやすいもんだぜ」

「その代り食いっぱぐれもないものよ」茶を淹れて参太に渡しながら、女は云った、「いいでしょ、伴れてってくれるわね」

「明日は早立ちだぜ」

「支度はできてるのよ」女が云った。

参太は興ざめたような眼で女を見た、「――よっぽどあまい男にみえたんだな」

「たのもしいと思ったの」と女が云った、「お茶と菓子を持ってはいって来て、初めてあんたの顔を見たとたんに、たのもしい人だなって思ったのよ」

「どこかで聞いたようなせりふだぜ」

「しょっちゅうでしょ、女ならみんなそう思うだろうとおもうわ」女はそっと彼へ倚よりかかった、「――よかった、これで安心したわ」

参太は湯呑を盆の上へ置いて横になった。女は掛け夜具のぐあいを直し、躯をすべらせて、参太に抱きつきながら喉で低く笑った。

そしていっときのち、――参太は女の顔を見まもっていた。女は眉まゆをしかめ、力をこめて眼をつむっていた。力をこめているために、上瞼うわまぶたにも皺がよっていた。ひそめた眉と眉のあいだの皺は深く、刻まれたようなはっきりした線を描き、そこに汗が溜たまっていた。半ばあいている口の両端は、耳のほうへ吊つりあがり、そこにも急に力をこめたり、またゆるめたりするさまが認められた。いまだ、と参太は思った。

「おい」と彼は囁いた、「おまえなんていうんだ」

女の激しい呼吸が止り、力をこめてつむっていた眼から、すうと力のゆるむのがみえた。上瞼の皺が平らになり、眉と眉のあいだがひらき、女は眩まぶしそうに眼をあいた。

「なにか云って」

「いま云ったとおりさ」参太は声に意地の悪い調子を含めた、「聞えなかったのか」

「名を訊いたんじゃなかったの」

「聞えたんだな」

「おふさよ」と云って、女は身悶みもだえをした、「いやだわ、こんなときに名を訊くなんて、どうしたのよ」

参太は「いい名だな」と云った。

一の三

初めてあんたにお茶を持っていったとき、あんたの顔を見るなり好きになったのよ、とおさんは云った。出仕事にいっていて、親方と打合せがあって帰り、店で話していたとき茶を持って来たのだという。こっちはまるで知らなかった。女に不自由しなかったというより、仕事で頭がいっぱいだったからだ。同じとしごろでも、友達なかまでは暇があるとそんな話ばかりする者があるし、いろごとなんぞにはまるっきり無頓着な者もいる。世の中に男と女がある以上、男が女をおもい女が男をおもうのは当然だろう。けれども、人間はそれだけで生きているものじゃあない、生きるためにはまず仕事というものがあるし、人並なことをしていたんでは満足に生きることはできない。いくらかましなくらしをしようと思えば、人にまねのできない仕事、誰も気づかないくふう、新しい手、といったものを作り出さなければならない。それはいつもたやすいことじゃあない、ほんの爪の先ほどのくふうでも、あぶら汗をながし、しんの萎なえるほど苦しむことが少なくない。だからこそ、一とくふう仕上げたよろこびも大きいのだろう。男にとっては、惚れた女をくどきおとすより、そういうときのよろこびのほうが深く大きいものだ。女との情事はめしのようだと云っては悪いか。人間が腹がへるとめしが食いたくなるが、喰べてしまえばめしのことなどは考えない。おれはわりにおくてだったが、それでもおさんと夫婦になるまえにかなりな数の女を知っていた。いろ恋というのではない、ちょうど腹がへってめしを食うようにだ。あとはさっぱりして、大部分の相手が顔も名も覚えてはいなかった。なかにいた女とは二年越し馴染なじんだけれども、ただ口に馴れたという気やすさのためだったと思う。そんなふうだから、おさんのことなども眼にはいらなかったのだが、夫婦になってからは、それがびっくりするほど変った。夫婦の情事は空腹を満たすものではない、そういうものとはまるで違うのだ。単に男と女のまじわりではなく、一生の哀楽をともにする夫婦のお互いをむすびつけあうことなのだ。そのむすびつきのうちにお互いを慥たしかめあうことなのだ。おれがそう気づいたとき、おれをあんなにのぼせあがらせたおさんの躯が、おさんをおれから引きはなすことに気がついた。おさん自身でも止めることのできない、あの激しい陶酔がはじまると、おさんはそこにいなくなってしまう。完全な譫妄せんもう状態で、生きているのはその感覚だけだ。呻吟しんぎんも嗚咽おえつもおさんのものではないし、ちぎれちぎれな呼びかけや訴えにもまったく意味がない。それはおれの知っているどんな女の場合にも似ていなかった。情事とはお互いがお互いの中に快楽を認めあうことだろう、与えることと受け止めることのよろこびではないか。おさんはそうではないのだ。初めはそうだったが、日が経つにしたがってそうではなくなった。よろこびが始まるとともに自分も相手もいなくなってしまい、ただその感覚だけしか存在しなくなる。男がもっとも男らしく、女がもっとも女らしくむすびあう瞬間に、むすびあう一点だけが眼をさました生き物のように躍動しはじめ、その他のものはすべて押しのけられるのだ。それは陶酔ではなく、むしろそのたびになにかを失ってゆくような感じだった。そうしてやがて、その譫妄状態の中で、おさんは男の名を呼ぶようになった。初めてそれを聞いたときの気持はひどいものだった。失神しているようなありさまの中で、一と言はっきりと人の名を呼んだのだ。おれはいきなり胸へ錐きりでも突込まれたように、ほかに男がいるなと思った。いまでもあのときの気持は忘れることができない、ほかの場合ならともかく、そういう状態のさなかなのだ。自制をなくしているから、ふだん心に隠していたことが口に出た、そう思うのがあたりまえだろう。おれはおさんに男ができたと思った。ほかのこまかい感情をとりあげるまでもない。おれはおさんの肩を掴んで揺り起こし、相手はどこの誰だと問い詰めた。おさんがはっきり意識をとり戻すまでにはいつも暇どる、おれはかっとなっていたから、引きずり起こして頬を打った。ごめんなさい、堪忍して、とおさんはまだはっきりしないままあやまった。おれはなお二つ三つ平手打ちをくれ、おさんは怯おびえたようになって眼をさました。どうしたの、なにか気に障るようなことをしたの、とおさんが訊き返した。おれは殺気立っていた。本当に殺してやりたいとさえ思っていたのだ。おさんはあっけにとられ、おれの気が狂いでもしたのではないかというような眼つきで、じっとおれの顔をみつめていた。それからにっと微笑し、固くちぢめていた肩の力を抜くと、大きな息をつきながら云った。ああ驚いた。なにごとかと思ったわ、いやあねえあんたらしくもない、あたしが殺されたってそんなことのできる女じゃないってこと、あんたにはちゃんとわかってるじゃないの。いいえ知らなかったわ、あのときになるとあたしなんにもわからなくなるの、とおさんは云った。なんにも見えないし聞えもしないし、自分がどうなっているかもわからないのよ。そうね、そんな名前には覚えがないわ、ええ、死んだお父っつぁんの名がそうだったわ、でもまさかあんなときに、お父っつぁんの名を呼ぶなんていうことがあるかしら、そしておさんは肩をすくめながら喉で笑った。なにかを隠しているとか、ごまかそうとしている、といったような感じはまったくなかった。うれしいわ、あんたにやきもちをやいてもらえるなんて、こんなうれしいことはないわ、おさんはそう云っておれに抱きついた。

二の三

宿を出たのはまだ暗いうちだった。

九月にはいったばかりだが、山が近いので気温も低いし、濃い霧が巻いていて、すぐまぢかにある筈の山も見えなかった。早川の流れも眼の前にありながら、白く砕ける波がおぼろげに見えるだけで、瀬音も霧にこもって遠近の差が感じられなかった。魚や野菜の荷を背負って登るあきんどたちと、すれちがいながら、三枚橋まで来て参太は立停った。おふさという女が、そこで待っていてくれ、と云ったのだ。

参太はなにも事情は訊かなかった。江戸までいっしょにゆくということ、江戸へはいったらすぐに別れること。それだけの約束であった。おふさという女にはしっかりとしたところがあるし、世間のことにも馴れているようだ。旅に必要な手続きなどはもちろん、こっちの負担になることをするような心配もないらしい。参太のほうでも、旅の道伴れという以上の気持は少しもなかった。

振分の荷と、仕事道具の包を肩に、橋の袂たもとで立停ると、うしろで「おじちゃん」と呼びかける声がした。見ると、九つばかりになる子供がふところ手をして、半ば逃げ腰になったまま、きげんをとるように笑いかけた。

「よう」と参太が云った、「どうした、坊主、まだこんなところにいたのか」

「おじちゃん乃里屋に泊ってたね」

「おめえ藤沢へいったんじゃねえのか」

子供はさぐるような眼つきをし、低い声で答えた、「おれ、腹がへっちゃったんだよ」

「いまでもへってるのか」

子供はこっくりをし、すばやい眼つきであたりを見た。

「ここじゃどうしようもない、いっしょにゆこう」と参太が云った、「どこかに茶店でもあったらなにか食うさ」

子供はうわのそらで頷うなずいた。銭が欲しいんだな、と参太は思った。その子供とは沼津で会った。道を歩いているとうしろから来て呼びかけ、「おじちゃん、おれ腹がへっちゃったんだよ」と云った。着てるのは腰っきりのぼろ、顔も手足もまっ黒に陽やけして、垢あかだらけで、髪の毛はぼうぼうと逆立さかだったままだし、もちろんはだしで、繩の帯をしめていた。そのときは銭を与えたが、箱根の宿でまた呼びとめられた。また腹がへっていると云うので、茶店で饅頭まんじゅうでも食わせようと思ったら、いそいで藤沢までゆかなければならないと答え、茶店へはいろうとはしなかった。そこでも銭を幾らかくれてやったのだが、三日経ったいま、この湯本の宿のはずれにいて、同じように「腹がへった」と呼びかけられた。しかも乃里屋に泊っていたことを知っているとすれば、自分のあとを跟つけて来たのかもしれない。哀れっぽくもちかければすぐに銭を呉くれる、うまい鴨かもだとあまくみたか。たぶんうしろに親が付いているのだろう、と参太は推察した。

「お待ち遠さま」と云いながら、おふさが小走りにやって来た、「待たせちゃって済みません、忘れ物をして戻ったもんだから」

「おひろいでいいのか」

「歩くのは久しぶりよ、ああいい気持」と云っておふさは子供のほうを見た、「――おや、おまえはまたこんなところでうろうろしているのかい」

子供はあとじさりをした。

「その子を知ってるのか」

「ついて来ちゃだめ、あっちへおいで」おふさは子供にそう云って歩きだした、「三年くらいまえからああやって、この街道かいどうをうろついては人にねだってるのよ、初めは乞食こじきの子かと思ったんだけれど、そうでもないらしいのね、家や親がないのか、自分でとびだしちゃったのかわからないけれど、ああやってうろうろしているのが好きらしいわ」

「まだ八つか九つくらいだろう」

「三年まえにそのくらいだったから、もう十一か二になるんでしょ、子守りか走り使いにでも雇ってやろうという者があっても決して寄りつかないの、あんな性分に生れついても困るわね」

参太は歩きながら振返ってみたが、子供の姿は霧に隠れて見えなかった。おふさは手甲てっこうをし脚絆きゃはんを掛け、裾すそを端折はしょった上に塵除ちりよけの被布ひふをはおっていた。荷物は小さな風呂敷包が一つで、頭は手拭のあねさまかぶり、いかにも旅馴れたような軽い拵こしらえであった。

「宿帳はどういうことになるんだ」と参太が訊いた、「兄妹とでもするか」

「霧が晴れるわ、今日はいいお天気になってよ」と云っておふさは参太を見あげた、「――きまってるじゃないの、あんたのおかみさんよ」

「切手はどうする」

「あたしのほうをそうしておいたから大丈夫、迷惑はかけないって云ったでしょ」

礼でも云おうか、と云いかけて、参太は口をつぐんだ。この女とは今日で三日めのつきあいでしかないのに、どういうものかついこっちの口が軽くなる。彼は江戸の大茂の帳場でも、ぶあいそと無口でとおっていたし、大阪で二年半くらしたが、そこでも同じように云われたし、友達のような者は一人もできずじまいだった。それが乃里屋で泊った初めの夜半、ごくしぜんにおふさとそうなり、そして自分でいやになるほど、つい軽口が出てしまうのであった。

「ねえ、ほんとのこと聞かしてよ」とおふさが云った、「あんた独り身なんでしょ」

「諄くどいな、会いたければかみさんに会わしてやるぜ」

「あたしが押しかけ女房になりたがってるとでも思うの」

「除よけろよ、馬が来るぜ」と参太は云った。

一の四

上方かみがたに仕事があるからいって来る、とおれが云いだしたとき、おさんはどうぞと答えた。おまえは待っているんだがいいか、と訊いたら、ええ待っています、と頷いた。上方に仕事があるということが口実であり、このまま夫婦別れになるのではないか、と直感したようであった。いつ立つんですか。向うの都合でいそぐから、この二十五日に立つ予定だ。そう、では三日しかないのね、と云いながら眼をそむけた。そのままなにも変ったようすはみせなかった。あんまり変らなすぎるので、おれのほうが却っておちつかず、心が痛んだものだ。そして、明日いよいよ立つというまえの晩、おさんはがまんが切れたように、泣いてくどいた。あんたは別れるつもりでしょう、ごまかしてもだめ、あたしにはわかってるの、あんたは別れるつもりなのよ、とおさんは云った。おれは黙るよりしかたがなかった。どうしてなの、あたしのどこがいけないの、云ってちょうだい、なにが気にいらないの、まさか、あのひるがおのことじゃないでしょうね、と云っておさんは、涙の溜まった眼でおれをみつめた。ひるがお、雨降り朝顔ともいう、あのつまらない花のことだ。そう云われて思いだしたのだが、夏の終りごろだったろう、茶箪笥ちゃだんすの上におれはその花をみつけたことがあった。朝顔に似ているがもっと小さな、薄桃のつまらない花を、古い白粉壺おしろいつぼに活いけてあるのだ。その花を摘むと雨が降るって、子供のじぶんからいわれていた。迷信にきまってるが、誰でも知っていることだし職人は縁起をかつぐものだ。雨はおれたち職人にとって禁物だから、こういうことはよせと云った。ところがおさんはよさない、ひょいと気がつくとその花が活けてある。叱ってやると、おれの眼につかないところに活けておくというしまつだ。どういうつもりだ、とおれは問い詰めた。

――ごめんなさい、あたしこの花が可哀かわいそうでしようがないの、とおさんは云った。ほかのたいていな花は大事にされるのに、この花は誰の眼もひかない、地面に咲いていれば、人は平気で踏んづけていってしまう、それが可哀そうだから、つい摘んで来て活けてやりたくなるのよ。

おれはそれっきり小言は云わなかった。おさんはそのことが原因ではないかと思ったらしい。おれはあいまいに口を濁した。そうだとも、そうではないとも云わなかった。本当のことが話せたらいいのだが、口に出して云うわけにはいかなかった。夜のあのとき、おさんといっしょになるたびに、二人がそこから押しのけられ、おれが自分の中からいつもなにかを失うように感じる、という事実をどう説明することができるか。また幾たびか失神状態になるとき、おさんの口からもれる人の名を、いちいち訊き糺ただすことの徒労(さめてから聞くと、それはたいてい幼いころの友達とか父の友人とか、少女時代に住んでいた長屋のこわい差配、などというたぐいだったし、おさんに隠した男などがないことはもうはっきりしていた)が、どんなにみじめであり、しかも、やはり平気には聞きのがせない、という気持を云いあらわす言葉をおれは知らなかった。仕事が終れば帰って来るよ、とおれは繰り返した。きっとね、待ってるわよ、とおさんは云い、すぐにまた泣きだした。あんたにいなくなられたら、あたしはすぐだめになってしまう、すぐめちゃめちゃになってしまうわ、とおさんは云った。一年か二年はなれてみよう、おれは心の中でおさんに云った。そのあいだに事情が変るかもしれない、おさんの癖が直るかもしれないし、おれ自身がもっとおとなになって、おさんの癖に付いていけるようになるかもしれない。口には出さず、心の中でそう云った。しんじつそう思っていたからである。おれは家主やぬしの喜平におさんのことを頼み、急な場合のために幾らか金も預けて、江戸を立った。すると、五十日と経たないうちに、喜平から来た手紙で、おさんが男をひき入れているということを知った。男は辰造であった。

二の四

「海が荒れてるのかしら」とおふさが云った、「あれ、波の音でしょ」

「酒がないんじゃないか」

「いまそう云ったところよ、あたしにもちょっと飲ませて」

「なんだ、すすめたときは首を振ったくせに」参太は燗徳利を振ってみてから、それをおふさに渡した、「自分でやってくれ」

「あら、薄情なのね」

「おれは酌がへたなんだ」

「そのお猪口ちょこでいただきたいわ」

「そっちにあるじゃないか」

「そのお猪口でいただきたいの」と云ってからおふさはいそいで指を一本立てた、「あ、大丈夫、あんたは女房持ち、わかってますよ」

参太は自分の盃をやった。そう海が近いとも思えないのに、波の音がかなり高く聞えて来た。まもなく、三十四五になるぶあいそな女中が、甘煮うまにと酒を持ってあらわれた。箱根と違って、この大磯の宿しゅくは気温も高く、湯あがりの肌には浴衣ゆかた一枚で充分だった。女中が去るのを待って、おふさは新しい盃を参太に取ってやり、酌をした。

「それからどうした」

「やっぱり半年そこそこ」とおふさが答えた、「その男とも別れちゃったわ」

「浮気性なんだな」

「そうじゃないとは云えないわね、自分ではいつも本気だったし、一生苦労をともにしようと思うんだけれど、どの男もすぐに底がみえて退屈で、退屈でやりきれなくなっちまうのよ」

「みれんは残らずか」

「そんなのは一人もなかったわ」おふさはそっと酒を啜った、「――浮気性っていうより、男みたいな性分に生れたんじゃないかと思うの、自分でよく考えるんだけれど、あたしには女らしい情あいというものがないらしいのね、女のする仕事も好きじゃないし、男の人にじつをつくすとか、こまかしく面倒をみてあげる、なんていう気持になれないのよ」

「そうでもないようだぜ」

「どうして」と云ってから、おふさは片手で頬を押えながら参太を見て、急に眼のまわりをぼうと染めた、「いやだわ、あんたはべつよ、こんなこと初めてなの、よすわ」

「なにを」

「きざだもの」おふさは酒を啜ったが、眼のまわりはいっそう赤くなった、「それよりあんたのことを聞かせてよ、おかみさんてきれえな人、子供さんはなんにん」

「話すようなことはないが、子供はないし、かみさんだって、――」

「どうなの、ねえ」とおふさはからかうような眼をした、「きれいじゃないっていうの」

「病人のある家へいって寺の話をするなって云うぜ」

「なにが寺の話よ」

「なんでもないさ、めしにしよう」

「怒らしちゃったかしら、気に障ったらあやまるわ、ごめんなさい」おふさはちょっと頭をさげた、「あたしどうかしちゃったみたいよ、自分で諄いことが嫌いなのに、こんなに諄いことばかり云うなんてわけがわからないわ」

「酔ったせいだろう、めしにしないか」

おふさは右手を畳へ突いた。膝の上にあった手の右のほうだけ、すべるように畳へ突き、俯向うつむいて口をつぐんだ。急に酔が出たのだろう、参太が呼びかけようとすると、おふさはすばやく立ってゆき、廊下へ出て障子を閉めると、小走りに去る足音が聞えた。――参太はおふさのいなくなった膳の向うを、気ぬけのしたような眼でぼんやりと見まもった。行燈あんどんの灯がまたたき、膳の上にある食器の影が動いた。波の音が際立って高く、一人っきりになった座敷の、しんとした空気をふるわせるように響いて来た。

「女があり男がある」参太は手酌で注ついだ酒を、ゆっくりと啜りながら、呟つぶやいた、「――かなしいもんだな」

彼は両親のことを思った。父の弥兵衛やへえは大工の棟梁とうりょうだったが、吝嗇りんしょくなくせに人の好い性分で、いつも損ばかりしていた。普請ふしんを請負うたびに損をするか、たまに儲けたと思うとうまく騙だまされて金を貸し、相手に逃げられてしまう。酒は殆んど飲まないし女あそびもしなかった。参太が五つのときと、八つのときと二度、その父親が深川あたりの芸妓と逃げたことがあった。詳しい事情はわからないが、母親のぐち話から推察すると、二度とも妓おんなに騙されたらしい。どっちの場合もかなり多額な金を使っているのに、三十日そこそこで父親は帰って来たようだ。華やいだ話はその二度だけで、あとはつきあい酒もろくに飲まず、下駄げた一足を買うのにさえ渋い顔をするといったような、およそ大工の棟梁という職とはかけはなれた、けちくさいくらしかたをしていた。母親は蔭でこそぐちを云うが、良人おっとにさからったり、意見がましいことを云ったりするようなためしは一度もなかった。食事のおかず拵えをするのが好きで、銭を使わずにびっくりするほど美味うまい物を作ってくれた。人の好いところは良人に似ていて、頼まれるといやと云うことができない。頼まれなくとも、人が困っているなとみると金や物を運んでやる。それに気づいたときの、父親の渋い顔を参太はよく覚えていた。

――二人はどういう縁で夫婦になったのか。

二人はお互いに満足していたのだろうか。参太はじっと思い返してみた。母は彼が十七のとしに死に、父親は二年おくれて死んだ。父のかけおちということはあったが、平生の生活は変化のないおちついたものであった。参太はいまでも忘れずにいるが、死ぬまえの年に、母は出入りの左官屋の女房と話していて、――たしか亭主が道楽ばかりして困る、と左官屋の女房が訴えていたのだと思う。それに対して母親はこう云ったものだ、――うちの人のように堅いばかりでも張合がない、あたしだってたまにはやきもちの一つもやいてみたいわ。左官屋の女房を慰めるつもりもあったろうが、十六歳になっていた参太には、母親の口ぶりに本心が含まれていることを知ってすっかり驚かされた。

「ちょうどいい夫婦だったのかもしれないな」参太はそう呟いた、「世間のたいていの夫婦が似たようなもので、似たりよったりの一生を送るんだろう、おさんとおれのような場合はごく稀なことに違いない」

おふさが戻って来た。燗徳利を二本持っていて、これを貰もらって来たの、と云いながら元の席へ坐った。参太は女の顔を見ないようにしながら、おれはもうたくさんだと云った。そんなこと云わないで、機嫌を直して飲んでちょうだい、とおふさが云った。

「怒ってなんかいやしない、おかしなやつだな」と参太は苦笑した、「よし、それじゃあと一本だけ飲もう、おれはそんなに飲めるくちじゃないんだ」

「ありがと」とおふさは微笑した、「いまつけるわね」

一の五

家主から知らせがあったあと、殆んど半年ちかく経たって、おさんから手紙が来た。おさんは字が書けない、誰かに頼んだのだろう、女の手で、仮名文字だけ並べてあるが、判じ読みをしても意味のわからないところがたくさんあった。おさん自身が、自分の気持をどう云いあらわしていいかわからない、というところだろう、三尺以上もある手紙を要約すれば、「あなたのことを忘れるためにいろいろの人とつきあってみた、けれど、どうやってもあなたを忘れることができなくって苦しい、わたし自身は二度とあなたに会えない躯からだになってしまった、それでもわたしには後悔はない、あなたと三日でも夫婦になれたら、それで死んでもいいと思ったのだから」そして終りに、江戸へ帰っても自分のゆくえは捜さないでくれ、と書いてあった。おれはその手紙を引裂いて捨てた。おれのことを忘れるためにだって、いいかげんなことを云うな、おまえのからだが承知しなかったんだろう、そのことなしでは一と晩もすごせないから男をこしらえたんじゃないか、わかってるぞ、とおれは云ったっけ。これでけりはついた、江戸へ帰っても捜すようなことはないから心配するな。そしてまもなく、家主の喜平から二度めの手紙が来た。おさんが次つぎに男を伴つれ込むので、長屋の女房たちがうるさいから家を明けてもらった、店賃たなちんの残りは預かってある、という文面だった。男は辰造だけではなかったんだ。おさんの手紙では要領を得なかったが、どうやら二人や三人ではないような感じだ。こいつは牛込へは帰れないな、とおれは思った。長屋の人たちにはもちろん、家主にだって合わせる顔はない。どうともなれ、当分は上方ぐらしだ、とおれは肚はらをきめた。おれはおさんを憎んだ。手を出したおれも悪いが、おさんが首を振ればなにごともなかったんだ。あとで聞くと、おさんには縁談のきまった相手がいたというし、おれはべつにむきになってたわけじゃない。酔いつぶれたあとの、ほんの出来ごころだった。眼がさめたら側にいたから、ひょいと手を出した。くどこうなんて気持はこれっぽっちもなかった。それがわからない筈はない、わかっていておさんは身を任せた。あいつはまえからおれが好きだと云った。これでもういつ死んでもいいとさえ云った。その気持に嘘がなければ、一年や二年、待っていられないということはないだろう。おれが博奕場ばくちばへ出入りするようになったのは、そのあとのことだった。それまでは花札はなふだにも賽さいころにも、手を触れたことさえなかった。おやじが嫌いだったし、博奕のために身をあやまった人間をいくたりも知っていたからである。おれはそれを忘れなかった。仕事があがって手間賃がはいると、それを三つに分ける、一つはくらしの分、一つは雑用、残った分だけ博奕をした。負ければそれっきり、他の二つの分には絶対に手を付けないし、勝ち目にまわったときでも倍になったらそこでやめる。どんな鉄火場でもそれでとおした。死んだ親たちの気性が伝わっているのか、それ以上の欲もかかなかったし、ぼろをだすようなこともなかった。仕事のほうも案外うまくいってた。床の間の仕事は上方のほうが本元で、いい職人も少なくないが、型にはまったことしかしないためだろう、おれの江戸ふうな仕上げはかなり評判になった。噂に聞いたとおり、女もよし酒も喰べ物もうまい。このまま上方に根をおろそうかと思ったくらいだが、二年めになったころからおちつかなくなった。魚も野菜も慥かにうまいし、料理のしかたもあっさりと凝っている。だがおれは、鯛の刺身さしみより鰯いわしや秋刀魚さんまの塩焼のほうが恋しくなった。酒だって江戸のあっさりしたほうが口に合うし、初めはやさしいと思った女にしても、馴れてみればべたべたした感じで、江戸の女たちのさらっとした肌合はだあいにはかなわない。おまけに仕事の交渉の面倒なことだ。飾り板一枚でもとことんまで値切られる、勘定払いはいいけれども、注文がきまるまでのやりとりにはうんざりさせられた。それが番たびのことだからだんだんいや気がさして来た。そこへ宗七から手紙が来た。宗七はおれの弟分で、年は二十一、まだ大茂に住込んでいた。手紙は大茂の没落の知らせだった。年の暮になって店が火事で焼け、みんな着物一枚で逃げた。おかみさんと子供は危なく死ぬところだったが、親方はそのことでしんから怯えてしまったらしい。せっかく授かった子を二度とこんなめにあわせたくないと云って、八王子在の故郷へ引込んでしまった、ということであった。自分は浅草駒形こまがたの「大平」に住込んでいるが、とあって終りに、おさんのことが書いてあったのだ。京橋二丁目に普請場があり、かよい仕事にいっていたとき、おさんの姿を認めたので、跟つけていってみると炭屋河岸がしの裏長屋へはいった。近所でそれとなく訊いたところ、作次という男といっしょだとわかった。男はすぐ近くの大鋸おおが町に妻子があり、どこかの料理茶屋の板前だそうだが、どうやらくらしは楽ではないようにみえた。よけいなことかもしれないが、辰あにいとのことは知っていると思う。辰あにいとはすぐ別れて、そのあと続けざまに幾人か男をつくったらしい。さかな町の家を出てからのことは知らないが、こんどの作次という男とも長いことはないだろう。参太あにいはいいときに別れたと思う、そういうように書いてあった。おれの気持はぐらつきだした。みれんは少しもないが、おさんが哀れに思えてきた。自分が上方へ来たのは、厄やくのがれをしたようなもので、その代りにおさんが独ひとりで厄を背負った、というふうな感じがし始めたのだ。江戸が恋しいのと、おさんをどうかしてやりたいという気持が、結局こうしておれを帰すことになった。関東の人間には上方の水は合わないという、慥かにそのとおりだ。おれはもう上方へは戻らないだろう、おさんがどんな事情になっているかわからないが、もしできることなら引取って、もういちどやり直してみてもいい。憐あわれみや同情ではなく、傷つき病んでいる者に手を差出すように。やれるかどうか、やれるだろうか。幾人もの男から男へ渡った女を、また女房にすることができるか。いまは遠くはなれているから、哀れだという気持が先になる。現にその顔を見て、幾人もの男に触れた女だ、ということを思いだしたらどうだ。おさんが幾人もの男に抱かれたという事実は、生涯二人に付いてまわるぞ。それでも夫婦としてくらしてゆけるか。はやまるなよ、いちじの哀れさに負けるな。自分ではいいつもりでよりを戻しても、いつかがまんできなくなって、また別れるようなことにでもなったら、こんどこそ取返しがつかないぞ。まあおちつけ、そうがたがたするな、おれも二十六になったんだ。えらそうな口をきくようだが、二年まえのおれとは少しは違っていると思う。おさん、この勝負はおまえとおれでつけるんだ、わかったな。おれはきっとおまえを捜しだしてみせるよ。

二の五

「外は白んできたわ」と云いながら、おふさがはいって来た、「眠ってるの」

参太は枕の上で振向いた。おふさは掛け夜具を捲まくって、彼の横へ身をすべらせ、頬ずりをしてから顔をはなした。

「朝顔が咲くのを見たわ」おふさは夜具の中で参太の手を引きよせた、「手洗鉢ちょうずばちの脇の袖垣そでがきに絡からまってるの、なにか動くようだからひょいと見たのよ、そうしたら朝顔の蕾が開くところだったの」

「九月に朝顔が咲くのか」

「小さいの、これくらい」おふさは片手を出し、拇指と食指で大きさを示した、「それがまるで生きてるみたいに、いやだ、生きてるんだわね」おふさはくすっと笑った、「くるくるっと、こういうふうにほぐれるの、巻いている蕾がくるくるっとほぐれて、先のところにほころびができるの、着物のやつくちみたいに、ひょっとほころびができたと思うと、それがぱらぱらっとほどけて、ぽあーっと咲くの、――なにが可笑おかしいのよ」

「初めがくるくる、中がぱらぱら、そしてぽあーか、まあいいよ」

「かなしかったわ」とおふさは溜息ためいきをついて云った、「――九月の朝顔、時候はずれだから見る人もないでしょ、花も小さいし、実もならないかもしれないのに、蕾であってみればやっぱり咲かなければならない、そう思ったら哀れで哀れでしようがなかったわ」

参太は二た呼吸ほど黙っていて、「人間のほうがよっぽど」と云いかけたまま、寝返りを打っておふさに背を向けた。

「ねえ」暫くしておふさが云った、「こっちへ向いて」

「一と眠りするんだ」

おふさは彼の背中へ抱きつき、全身をすりよせた。

「だってもう今日で別れるのよ」

「神奈川の宿で約束したろう、江戸にはかみさんがいる、今夜が最後だって」

「女房の待っている土地では浮気はできないって、そうよ、約束はしたわ」とおふさは囁ささやいた、「もし本当におかみさんが待っているなら、ね」

参太はじっとしていた。

「あんたあたしのこと嫌いじゃないでしょ」

「いまなんて云った」

「あたしのこと嫌いじゃないでしょって」

「そのまえにだ」と参太は遮さえぎった、「――おまえなにか知ってるのか」

「だれ、あたし、――」おふさは彼の肩から顔をはなした、「知ってるってなにをよ」

「おれのかみさんのことだ、本当にかみさんが待っているならって、妙なことを云ったようだぜ」

「どこが妙なの、いやな人」おふさは含み笑いをした、「本当に待ってるかどうかって、そのくらいのこと訊いたっていいじゃないの、あたしあんたが好きなんだもの」

「あとを云うな」参太はまた強く遮って云った、「初めから女房持ちだと断わってある、いっしょに旅をするのも江戸まで、江戸へはいったらすぐに別れるって、自分の口から云った筈だぜ」

「あたしは覚えのいいほうよ」

「ここは芝の露月町だ」

「この宿は飯田屋、よく覚えてるでしょ」とおふさは云った、「あんたこそ思いだしてよ、あたしいま、今日でお別れだって云ったじゃありませんか」

参太は黙った。

「ほんとのことを云うと、あたし男嫌いだったの」おふさはそっと参太の躯からはなれながら云った、「何人もの男と世帯を持ったような話をしたけれど、あれはみんな嘘、――十六のとし嫁にいって半年でとびだしたっきり、男はあんたが初めてだったのよ」

参太はなにも云わなかった。

「あたしが口で云うより、あんたのほうでそれを勘づくと思ったわ」とおふさは続けた、「あんたはずいぶん女を知っているんでしょ、だからあたしがどんな話をしても、あんたにはからだで嘘がみぬけると思ったのよ」

参太はちょっとまをおいて訊いた、「どうしてそんなことを云いだすんだ」

「ほんとのことを聞いてもらいたかったの、これっきり別れるんですもの、ほんとのあたしを知っておいてもらいたかったのよ」

「親きょうだいのないのも嘘か」

「兄が一人いるわ、調布というところでお百姓をしているの」

「そこへ帰るんだな」

「あたし嫁にやられた家からとびだしたのよ、そんな土地へのこのこ帰れると思って、――まっぴらだわ、そんなこと死んでもごめん蒙こうむるわ」

参太は口をつぐんだ。宿の者が起きたのだろう、表をあける音がし、勝手と思われるあたりで、人の声が聞え始めた。

「大磯で泊ったときのこと、覚えてる」とおふさが囁いた、「あたしが、こんなこと初めてよ、って云ったこと、あんたを怒らせたのが悲しくなって、廊下へ泣きに出ていったこと、――恥ずかしい、ばかだわあたし、こんなこと決して云うまいときめていたのに、どうしたんでしょ、ああ恥ずかしい」そして参太の背中へ顔を押しつけながら云った、「お願いだから聞かなかったことにして、ね、いまのこと忘れちゃってちょうだい、お願いよ」

参太がやわらかに云った、「覚えていろの忘れちまえだの、おまえはむずかしいことばかり云うぜ」

「あんたのせえよ」夜具の中から云うため、おふさの声は鼻にこもったように聞えた、「あんたに会うまではこんなことはなかったわ、本当に、こんなだらしのないところを見せたことはなかったのよ」

「早くいい相手をみつけるんだな」背中を向けたまま参太が云った、「おまえはいいかみさんになるよ」

「あんたはだめなのね」

「もういちど云うが」

「女房持ち」とおふさが云った、「――あたしこうみえても芯の強いほうよ」

「大事にするんだな」と参太が云った、「おれはもう一と眠りするぜ」

二の六

炭屋河岸の小助店だなという長屋から出て来ると、子供が駆けよって「おじちゃん」と呼びかけた。振向くと子供はにっと笑い、逃げ腰になりながら「おれ腹がへっちゃったんだよ」と云った。

「よう、どうした」と参太が云った、「おめえこんなところにいたのか」

塔の沢からさがった、三枚橋のところで会った子供である。あのときと同じぼろを着、繩の帯にはだしで、乞食というよりも、山から迷い出て来た熊の仔こ、といった感じだった。

「あの女の人いっしょじゃないね」

「腹がへってるって云ったな」

子供は首を振った、「そんなでもない」

「箱根でもそう云ってたぜ」

「誰にでもってわけじゃないさ」と云って子供は参太を見あげた、「おじちゃん、捜す人がいなかったらしいね」

「いなかった、――おめえ、おれが人を捜しに来たってことを知ってるのか」

「おじちゃんが訊いてるのを聞いちゃったんだ、これからまた大鋸町へ戻るのかい」

「きみの悪いやつだな、大鋸町のときから跟けていたのか」

「ずっとだよ、沼津からずっとさ、おじちゃん気がつかなかったのかい」

参太は子供の顔をみつめた、「大磯でも、藤沢でもか」

「神奈川じゃ柏屋かしわやで泊ったね」

「おどろいたな、どうして声をかけなかったんだ」

女の人がいたもの。女は嫌いか、と参太が訊いた。嫌いさ、女はみんながみがみ小言ばかり云うし、ひとを子供扱いにしやがる、女には近よらねえことにしているんだ、と子供は云った。

作次は長屋をひきはらった。今年の三月だという、おさんに男ができて、作次は酒びたりになり、おさんがいなくなった。作次は狂ったようにおさんを捜しまわったが、みつけだしたのかどうか、彼もまた長屋をとびだしてしまった。日本橋の魚河岸で軽子かるこでもしているらしい、そのあたりで酔いつぶれているのをよく見かける。長屋の者はそう云っていた。――初めに大鋸町を訪たずねたが、作次の女房はなにも云わなかった。そこも一と間きりの長屋で、これという家財道具はなく、がらんとした薄暗い部屋の中で、作次の女房は鼻緒作りをしていた。もとは縹緻きりょうよしだったろう、眼鼻や顔だちはととのっているが、哀れなほど窶やつれて、頸や手などは乾いた焚木たきぎのように細かった。作次は炭屋河岸の小助店にいる、そう云うだけで、あとはなにを訊いても返辞をしなかった。七つと五つくらいの女の子に、よちよち歩きの男の子がいた。三人きょうだいなのだろう、三寸ばかりの竹切を使って遊んでいたが、誰かにないしょでやっているように、動作も静かだし、なにか云うのもひそひそ声であった。女房も三人の子供たちも、しまいまで参太を見ようとはしなかった。

「東は、――東だろうな水戸は」と子供は歩きながら話していた、「江戸から見ると北かな、おじちゃん東かい北かい」

「なにが」参太はわれに返ったように振返った。「うん水戸か、そうさ、東北かな」

「そっちは水戸までしかいかなかった、西は須磨すまってところまでいったけどさ、こんどはおれ仙台せんだいまでいってみようと思うんだ」

「うちや親たちはどこなんだ」

「いま話したじゃねえか、聞いていなかったのかい」子供は舌打ちをした、「丑年うしどしの大水でみんな死んじゃっただろう、おれは七つでさ、町預けになったけれどつまんねえから、きっぺと二人で逃げだしたんだ」

「それからずっとそうやってるのか」

「結構おもしろいぜ」と子供は続けた、「寝たくなれば好きなところで寝るし、行きたいところがあればどこへでもゆけるしさ、小言を云われる心配はねえし、使いや用をさせられることもねえんだから」

「腹はいつもへってるんだろう」

「あれはたんかだよ、これと見当をつけた人があるとあれをやるんだ、腹なんかへっちゃあいねえ、銭が欲しいときだけさ」そこで子供は仔細しさいらしく太息といきをついた、「――きっぺのやつはしっこしがねえのよ、三年めになったらくたびれちまったって、畳と蒲団が恋しくなったなんて、駿河するがの府中ってとこでふけちまやがった、ふん、いまごろはどこかで樽拾たるひろいか子守りでもやらかされてるんだろうさ、こっちは一人になって却ってさばさばしたけどね」

「そんなことをしていて、役人に捉つかまりゃあしないか」

「悪いこともしねえのにかい」子供は小さな肩を揺りあげ、ふんと鼻をならした、「たいてえの役人とはもう顔馴染なじみなんだぜ、箱根の関所なんぞ役人のほうから挨拶してくれるよ」

「たいした御威勢だな」

「大名なみとはいかねえさ」子供は舌を出したが、急に立停った、「おじちゃん、飯田屋へ帰るのか」

「荷物が預けてあるんだ」

「女の人が待ってるんだね」

「いやあしない、あれとは今朝いっしょに出て別れたよ」

ほんとかい。本当だ。またいっしょになるんだろう。どうして、と参太が訊いた。だってそんな気がするもの、あの女はくっ付いてはなれねえと思うな、と子供は云った。

「そんなことが気になるのか」

「おれは女が嫌いだって云ったじゃねえか」

「だからどうだっていうんだ」

子供は暫く黙って歩いた。そして、よく考えていたというような口ぶりで、恥ずかしそうに云った。

「おれもね、もしなんだったら、ねえ」

だが参太はもう聞いていなかった。

作次のところから出ていったとすると、おさんを捜す手掛りはないと思った。しかしそうではない、作次はきちがいのようになって二人を捜しまわったという。それから仕事もせずに酒びたり、ついには長屋へも帰って来ず、魚河岸で軽子のようなことをしているということだ。ことによると、作次はおさんのいどころを知っているかもしれない。そうだ、捜し当てたとみるほうが筋がとおる、二人のいどころを突止めたが、おさんを伴れ戻す望みはなかった。それですっかりぐれだした。おそらくそんなところだろう、とにかく作次に当ってみることだ、と参太は思った。

「おまえなんていう名だ」

「おれのか」子供はさもうんざりと云いたげに首を振った、「おじちゃんはなんにも聞いてねえんだな、さっきそ云ったばかりじゃねえか、伊三だよ、伊三郎ってんだってば」

「悪かった、そうか伊三だったけな」

「もう一つのほうも忘れたんじゃねえのか」

「なんのことだ」

「あれだ、どうもおかしいとは思ったよ、あんまりよしよし云うもんだから、――子供だと思ってばかにしてたんだな」

「怒るなよ、考えごとをしていたんだ」と云って参太は立停った。「おめえおれに頼まれてくんねえか」

「自分のことで頭がいっぱいなんだな」

「そっちの話も聞くよ、もういちど云ってみてくれ」

「おれのほうはあとだ」と伊三は小なまいきに片手を振った、「おじちゃんのほうを先にするから用を云ってくんな」

二の七

その夜の十時すぎ、――参太は魚河岸の外はずれにある「吉兵衛」という居酒屋で飲んでいた。まえの年に、飲食店の時間にきびしい制限が布令ふれだされ、もちろん裏はあるにはちがいないが、この魚河岸はまるで別格のようで、表もあけたまま、軒提灯のきぢょうちんも掛けたまま、客は遠慮のない高ごえで、笑ったりうたったり、囃はやしたてたりしていた。

「どうするのさ」と脇に腰掛けている伊三が、囁き声で訊いた、「なにを待ってるんだい」

参太は左手でそっと、伊三の腕を押えた。伊三は黙った。

作次はまだしらふのようにみえた。伊三が半日がかりで訊きまわり、毎晩、必ずこの「吉兵衛」へあらわれて飲みつぶれる、ということをさぐり出したのだ。参太は八時ころにここへ来て酒を注文し、伊三はめしを喰べるととびだしていった。作次の来るのを見張るのだそうで、彼は自分の頼まれたことに、大きな責任と誇りを感じているようであった。参太はあまり飲めないほうだが、この賑やかな広い店の中では、舐なめるような彼の飲みかたもそれほど眼立たず、ようやく二本めに口をつけたとき、伊三が戻って来て作次のあらわれたことを告げた。

「おれ外へ出てるよ」と伊三が云った、「こういうところはおれにはまずいんだ、みんな見やあがるからね、いいだろう」

参太は頷うなずき、伊三は出ていった。

作次は壁際に並べた飯台はんだいの端に、独りはなれて腰を掛け、突出しの小皿を二つ前にしたまま、ゆっくりした手つきで飲んでいた。年は三十六七、膏あぶらけのぬけた灰色の顔に、眼と頬が落ち窪くぼんでいた。古びた印半纒しるしばんてんに股引ももひき、緒のゆるんだ草鞋わらじを素足にはいていた。――この店には女けはなかった。十二三から四五くらいまでの小僧たちが六人、いせいのいい声で注文をとおしたり、すばしこく酒肴さけさかなを運んだりしている。作次はいい客ではないらしく、見ていると、幾たびも呼ばなければ、小僧たちは近よらなかったし、注文を聞いてもあとまわしにされるようであった。

作次が燗徳利をさかさまに振り、酒をしたむのを見て、参太は立ちあがった。近くにいた小僧を呼んで、向うへ移りたいと云うと、小僧は首を振った。店の定さだめで知らない客同志が盃のやりとりをすることは断わると答えた。いや、あの男は知り合いなんだ、久し振で飲むんだから頼む、これは駄賃だと云って、幾らかの銭を握らせた。そして酒と肴の追加を命じ、作次の脇へいって声をかけた。

「そうだ」と答えて作次は眼をあげた、「おらあ作次だが、なにか用か」

「ちょっと訊きたいことがあるんだ」と参太は穏やかに云った。「飲みながらにしよう。ここへ掛けてもいいか」

作次は顎をしゃくった。参太は腰を掛け、小僧が参太の酒肴を持って来た。作次は無表情に、ぼんやりと前を見やっていたが、新しい酒が来、参太が酌をしてやると、飢えたもののように、四つ五つたて続けに飲んだ。それから初めて、いま飲んだ酒に気づいたというようすで、参太の顔を見て云った。

「おらあからっけつだぜ」

「たいしたことはないさ」と参太は酌をしてやりながら云った、「まずくなかったらやってくれ、ちっとは持ってるんだ」

「この店は夜明しやるんだ」

「そうだってな、おれは強くはないが、おめえのいいだけつきあうぜ」

「おめえの酌はへただな」と作次が云った、「徳利を置いてくれ、手酌でやるから」

「じゃあめいめいにしよう」

駄賃が効きいたのか、小僧が肴を二品ずつに、酒を四本持って来た。それを見たとたん、作次の眼が活いき活きと光を帯び、落ち窪んだ頬にも赤みがさすように感じられた。いいのか、親方、と作次が云った。これはたけえほうの酒だぜ。大丈夫だ、心配はかけないから飲むだけ飲んでくれ、と参太は答えた。こんなことは久し振だ、いや肴はいらない、このうちで食えるのは塩辛しおからだけだ、この店の鰹かつおの塩辛はちょっとしたものだが、この酒には合わない、肴はこの新香だけで充分だ。作次はそんなことを云いながら、香の物にも箸はつけず、いかにもうまそうに酒だけを飲み続けた。――訊きたいことがある、と参太が話しかけたことは忘れていたらしい。二合の燗徳利を四本あけるまで、参太にはわけのわからないことを、休みなしに独りで饒舌しゃべり、独りで合槌あいづちを打っていた。そして、五本めに口をつけたとき、初めて思いだしたように、盃を持った手で参太を指さした。

「おめえ、さっきなにか訊くことがあるって云ったようだな」

「たいした話じゃあねえ、おさんのことだ」と参太は云い、云ったことを打ち消すように酒をすすめた、「まあ一ついこう、たまに一度ぐらいは酌をさせてくれ」

「親方とどこで会ったっけ、柳橋か」

「親方はよしてくれ」と参太が云った、「としからいったっておめえのほうがあにきだ、作あにいと呼んでもいいか」

「としのことを云ってくれるな」作次は左手で頬杖を突き、顔を歪ゆがめた、「おさんか」と作次は遠い俤おもかげを追うような眼つきで呟つぶやいた。

「あんな女はこの世に二人とはいねえな。可愛かわいいやつだった、頭のてっぺんから足の爪先まで、可愛さってものがぎっちり詰ってた、ほんとだぜ、この世でまたとあんな女に会えるもんじゃあねえ、一生に一度、おさんのような女に会ったら、それでもう死んでも思い残すことはねえと思う、ほんとだぜ」

作次の全感覚に、おさんの記憶がよみがえってくるのを、参太は認めた。一升ちかい酒の酔で感情も脆もろくなったのだろう、作次の落ち窪んだ眼から、突然、涙が頬を伝ってこぼれおちた。彼は初めておさんと会ったときのことを話した。雪の降る日、九段坂の途中で、おさんが足駄あしだの鼻緒を切って困っていた。作次は自分の手拭を裂いて鼻緒をすげてやり、それから淡路あわじ町の鳥屋で、いっしょにめしを喰べた。時間にすれば半刻はんときくらいだが、鳥屋を出たときには、二人はもう互いにのぼせあがっていた。

「あたしをあんたのものにして、と初めての晩おさんは云った」作次は頬杖を突いていた手で、ぎゅっと顎を掴んだ。「身も心も、残らずあんたのものにして、決してあたしをはなさないでちょうだいって、こっちの骨がきしむほど、手足でしがみつきながら云った」

作次は眼をつむった。参太は黙っていた。作次は自分の回想に全身で浸ひたってい、そこに参太が聞いていることなどは、まったく意識にないようにみえた。まわりの客は絶えず変っていた。腰を据えて飲んでいるのは二た組か三組で、ほかの客はあっさり飲んですぐに引きあげる、「さあ、なかへとばそう」とか「そろそろ川を越そうか」などと云う声も聞えた。入れ替って来る客もたいてい同じようで、遊びにゆく下拵したごしらえに飲む、というふうであった。

「おらあ女房子を捨てた、おさんもそれまでいっしょにくらしていた男を捨てた」と作次は続けていた、「おれがしんけんだったのは断わるまでもねえ、おさんもしんじつおれが好きなようだった、――だが、あのときになると、いざっという間際まぎわになると、おさんは夢中で男の名を呼びはじめる、おれの知らねえ男の名をだ、――それを聞くと、とたんにおれは、躯からだぜんたいが凍っちまうように思った」

新しい酒が来た。参太が作次の前へ置いてやると、彼は汁椀を取って、中の物はすっかり土間へあけ、酒をその汁椀へ注ついで呷あおった。

「男にとってこれほど痛えことがあるか、おらあかっとなって、叩き起こしておさんを責めた、悪党が」と作次は呻うめき声をあげ、左手で髪の毛を掴みしめた。「この悪党が、おさんを殴なぐり、叩き倒し、足蹴あしげにかけた、――可哀そうに、おさんはあやまるばかりだった、自分ではなにも知らない、そんな男の名は知らない、夢中でわけがわからなくなっただけだ、あんたのほかにみれんのある男などはいない、どうか堪忍してくれって」

やっぱりそうだったのか、と参太は心の中で呟いた。あのたまゆらぐ一瞬のありさまが、こまかい部分まで鮮やかに思いだされる。おさんのからだにあらわれる異常な陶酔や、激しい呼吸や叫び声などが、そこにあるもののようにはっきりと感じられる。それをこの作次も味わったのだ、作次のその手や肌が、おさんの肌を愛撫あいぶし抱き緊め、思うままにしたのである。そう考えながら、参太の気持には憎しみも嫉妬も起こらなかった。おさんも哀れであり作次も哀れだった。ことに作次は男同志だから、深く傷ついた心の耐えがたい苦痛、というものがよくわかり、できるなら手を握って慰めてやりたいという衝動さえ感じた。

「いつ、どうしてそんなことになったのか、おらあ知らなかった」作次は話し続けていた、「或る日おれが帰ってみると、おさんはいなかった、百日足らずのくらしで、着物も二三枚、帯も二本作ってあった、もちろんほかにもこまごました物があるのに、みんなそのままで、なに一つ持ち出してはいない、だがおれには、おさんが家出をしたなとすぐにわかった、仕事が板前だから、帰りのおそくなるのはふつうだが、その日は宵の八時まえだった、まっ暗な家の中へはいって、行燈あんどんに火を入れたとき、きちんと片づいた、人けのない部屋を見まわしたとたんに、ああ出ていったな、とおれは思った」

そこまで話して、急に作次は参太のほうを見た。いま眼がさめた、といったような眼つきで、自分の持っている汁椀を見、また参太の顔を見た。

「おめえ誰だっけ」と作次は訊いた。

「おさんの兄だ」と参太が答えた、「おさんのいどころを捜しているって、さっき云ったじゃあねえか」

「そうか、――」作次は頭を垂れ、垂れた頭を左右に振った、「おさんなら山谷の棗店なつめだなにいるよ、男の名は岩吉、まむしという仇名あだなのある遊び人だ」

「どうして捜し当てた」

「忘れちまった」作次は汁椀の酒を飲んだが、酒は口の端からこぼれて、股引の膝を濡らした、「忘れちまったが、おさんのような女の肌を知った男なら、誰だってきっと捜し出さずにゃあおかねえだろう、現に、――そうよ、現に炭屋河岸の長屋へも男が捜しに来た、牛込のほうでおさんとくらしていた男がな、まるっきり白痴こけみてえになってたが、それでもどこをどう手繰たぐったものか捜し当てて来た、おさんはそういう女なんだ」

「それであにいは、伴つれて帰らなかったのか」

「ああ」と作次は眼をつむり、殆んど聞きとれないくらい低い声で云った、「おれを見たおさんの眼で諦めた、男が邪魔をしたら、叩っ殺してもおさんを伴れ戻すつもりだった、ふところに刃物を隠していったんだが、――おさんの眼は他人の眼だった、おれを忘れたんじゃあねえ、覚えてはいるが、まったく縁のねえものを見る眼つきだった、――いっしょになって三四十日経たってから、ときどきそういう眼つきをすることがあった、おれの顔をじいっとみつめている、どこの人だろう、といったような眼つきで、そこにおれという人間のいることが腑ふにおちない、といったような眼つきだった、――山谷のうちでは、それよりもっとよそよそしい、あかの他人を見るような眼つきなんだ、薄情も情のうちと云うが、そんなものさえ感じられなかった、それでおれは帰って来ちまったんだ」

参太は彼に酌をしてやり、それから静かな声で云った。

「大鋸町のうちへ帰るほうがいいな」

作次はゆっくり参太を見た、「大鋸町がどうしたって」

「おかみさんや子供たちが待ってる、そっちのけりがついたんなら、いいかげんにうちへ帰るほうがいいと思うがな」

「死人しびとにうちがあるか」と作次は云った、「おれは死んじまった人間だ、ここにいるおれは」と彼は右手で自分の胸を掴んだ、「このおれは、死骸しがいも同然なんだ、それがおめえにわかるか」

「とにかく、大鋸町ではみんなが待っているぜ」

「おめえ、なんてえ名だ」ふっと作次の眼が光った、「さっき誰だとか云ったっけな」

「あいつの兄きだよ」

作次は突き刺すような眼で、参太の顔を凝視ぎょうししてい、それから歯を見せて冷笑した。

「云うことは同じだな」と作次は歯のあいだから云った、「――何番めの男だ」

参太は自分の盃に酒を注いだ。

「おめえはおさんの何番めの男だ」と作次がひそめた声で云った、「おい、聞えねえのか」

「聞いてるよ、酒がこぼれるぜ」

作次は汁椀を見、ふるえる手でそれを持つと、七分がたはいっている酒を一と息に飲みほした。参太はしおどきだと思い、小僧を呼んで勘定を命じた。作次は口の中でなにか呟きながら、ふと立ちあがって、土間の奥のほうへふらふらと歩いていった。参太は勘定を済ませたうえ、作次がもっと飲みたがったら飲ませてやるようにと云って、幾らかの銭を渡した。

「あの人はどうせ朝まで動きませんがね」と小僧は云った、「でもこんな時刻になって、親方はうちへ帰れるんですか」

「銭が口をきくからな」と参太は云った、「あの男を頼むよ」

参太は外へ出た。小網町までゆけば知っている船宿がある、そこで泊ってもよし、舟でまわって飯田屋へ帰ってもいいと思った。「吉兵衛」を出て、ほんの四五間歩いたとき、うしろから作次が追って来て呼びかけた。

「おいちょっと待ってくれ、話してえことがあるんだ」

参太は立停って振向いた。作次は喘ぎながら近よって来た。すると、すぐ右手のほうで「おじちゃん危ねえ」と伊三の叫ぶ声がし、作次が参太におそいかかった。参太の眼にはその動作が、枯木でも倒れるようにぎごちなく、ひどく緩慢なものに見えたが、実際には非常にすばしこく、無意識にひょいと身を捻ひねるとたん、作次の手が参太の半纒はんてんを引き裂き、その肩が激しくぶち当って来た。参太はその力に打たれてよろめき、よろめいたまま横へとんだ。そのとき、作次の顔へ小石がばらばらと投げつけられ、「おじちゃん逃げなよ」と伊三の叫ぶのが聞えた。作次は左手で小石をよけながら右手をあげた。その手に出刃庖丁でばぼうちょうがあるのを見、投げるつもりだと直感した参太は、すばやく身を跼かがめながら走りだした。いまか、いまかと、背中へ庖丁の突き刺さるのを予期しながら、雨戸を閉めた家並の暗い軒下づたいに、彼は夢中で走った。うしろで二度ばかり、作次の喚わめき声がし、相当に距離ができたとわかったが、それでもなおけんめいに走り続けた。

「ばかなやつだ」と走りながら参太は呟いた、「なんて哀れなやつだろう」

二の八

小網町の河岸にあるその船宿「船正」を出たのは、明くる日の九時ころであった。参太の知っていた女主人はおととし死んだそうで、おとよという娘が婿をとり、まえより繁昌しているようすだった。

「大茂を継ぐ人はいないんですか」朝めしのあと、裂けた半纒を繕いながらおとよがそう云った、「ひいきにしていただいたみなさん、どなたもおみえにならないんですよ、どうぞ参ちゃんだけはまたいらしってね」そこで慌あわてて口へ片手を当て、肩をすくめながら羞はにかみ笑いをした、「ごめんなさい、いい親方になったのに参ちゃんだなんて、つい小さいときの癖が出ちゃったんですよ」

「参ちゃんか、なつかしいな」と参太は微笑した、「長いことそう呼ばれたことはなかった、それを聞いて初めて、江戸へ帰ったという気持になったよ」

「まさか怒ったんじゃないでしょうね」

「参ちゃんか」と彼はまた云った、「おちついたらやって来るよ、親方なんてえ柄がらじゃあねえ、これからもずっとそう呼んでもらいたいな」

山谷へゆくと云ったら、おとよは舟にしろとすすめた。しかし参太はそれを断わって「船正」の店を出た。時刻が九時過ぎなので、道にはあまり人どおりがなかった。参太は両国橋のほうへ歩いてゆきながら、ときどきうしろへ振返った。伊三が出て来るかと思ったのであるが、伊三もあらわれないし、作次の姿も見えず、浜町の手前で戻り駕籠かごをひろい、そのまま山谷へ向った。

棗店なつめだなは山谷町ではなく、ずっとはずれの、山谷浅草町にある長屋だった。そこから先は家がなく、茶色に実った稲田のあいだを、乾いた道が千住せんじゅのほうまで続いてい、仕置場や、火葬寺の林などが眺められた。長屋は八棟あり、岩吉のいた家はすぐにわかったが、そこにはべつの者が住んでいた。その女房はなにも知らず、差配を教えてくれたので通りへ戻り、小さな荒物屋をやっている太助の店を訪ねた。――差配の太助も留守で、五十六七になる女房が袋貼りをしていた。岩吉のことを訊くと、女房はぎょっとしたようすで、袋貼りの手を休め、疑わしげに参太の顔を見まもった。

「あなたはどなたです」と女房は咎めるように訊き返した、「親類の方ですか」

「まあそんなところだが、――おさんというかみさんがいたでしょう」

「いましたよ、いいおかみさんでした、岩吉なんていう男にはもったいないくらいいいおかみさんでしたよ」

「二人で引越したんですか」

「引越しですって」女房は吃驚びっくりしたような眼つきになった、「じゃあ、あんたはなにも知らないんですね」

女房の口ぶりに、参太は不吉なものを感じて、すぐには言葉が出なかった。

「おかみさんは殺されましたよ」と女房は云った、「ええ、岩吉のやつにね」

参太は唇を舐なめた。

「殺された」と彼はねむそうな声で、ゆっくりと反問した、「おさんが、殺されたっていうんですか」

「七月中旬でしたかね、おかみさんが男をつくったとかなんとか、やきもちのあげくってことでした、匕首あいくちで五ところも刺されて外へ逃げだしたところを、追って出た岩吉のやつにまた刺されて、井戸のところで倒れたまんま死んだんです」

参太はするどく顔を歪め、右手を拳こぶしにして太腿ふともものところへ押しつけた。

岩吉はすぐに自首して、いまは石川島の牢にいるらしい、やがて八丈へ送られるという噂である。おさんは身寄の者がわからないで、真慶寺しんけいじの無縁墓へ葬った。――女房がそう話すのを、黙って頷きながら聞き終り、まもなく、参太はその家から出た。まったく思いがけないことでもあり、また、そんな結果になるだろうと、心のどこかで予想していたようにも思えた。

「結局、おさんは独りで厄を背負ったんだな」歩きながら彼は呟いた、「おれはこうして生きている、おれはいつも逃げた、おさんからも逃げたし、ゆうべは作次からも逃げた、――みんなは逃げなかった、おさんは殺されるまで自分から逃げなかったし、作次はあんな姿になるのもいとわなかった、そして岩吉はいま牢にいるというし、牛込のほうの男は白痴こけのようになってしまったそうだ」

参太は立停った。駕籠がゆき、馬に荷を積んだ馬子がゆき、浪人ふうの三人伴づれが、彼を不審そうに見ながら通りすぎた。

「しんけい寺とかいったな」暫くしてそう呟き、その自分の声で参太はわれに返った、「――慥たしかしんけい寺と聞いたようだ」と彼は自分を慥かめるように、声を出して云った、「この近くだろうな、訊いてみよう」

真慶寺はそこから四五丁先にあった。そこは寺と寺にはさまれていて、あまりいい檀家だんかがないのか、小さな黒い山門も片方へかしいでいたし、境内けいだいには雑草が伸び、墓地には石塔の倒れたままになっているのが眼立った。庫裡くりへ寄るつもりだったが、死んでから供養するのもそらぞらしいし、そんなことでおさんがうかばれもしまいと思い、そのまま墓地へはいっていった。――無縁墓は隅のほうにあった。土饅頭どまんじゅうだけで墓標もなく、卒塔婆そとばがざっと五六本立っていた。参太は墓を一とまわりしたが、ふと足もとの地面に、なにか眼を惹ひくものがあるようなので、注意して見ると、小さな花が咲いているのに気がついた。そして、それがひるがおの花だとわかったとき、彼はどきんと胸を突かれたように感じ、かなり長いあいだ、口をあいたままでぼんやりとその小さな花を見おろしていた。

一の六

ありがとう、覚えていてくれたのね。おれは無縁墓の前にしゃがみ、摘み取ったひるがおの花を一輪、黒い土の上に置いた。あんたがその花で怒ったんじゃないってこと、いまのあたしにはわかるのよ、でもあんたはいっちまったわね。おれは合掌しようとしたが、できなかった。ただ頭をさげ、眼をつむって、勘弁してくれと心の中であやまった。あんたはいてくれなくっちゃいけなかったのよ、あたしそう云ったでしょ、あんたに捨てられたらめちゃくちゃになっちまうって、あたし泣いてあんたに頼んだ筈よ。覚えてるよ、しかしおれはおまえを捨てたんじゃあない、きっと帰って来ると約束したし、帰って来るつもりだったんだ。あんたはあたしを放しちゃあいけなかったのよ、あたしのからだの癖を知っていたでしょ、あんたはあたしがこういうからだに生れついたことを、仕合せなんだって云ったわね、こういうからだに生んでくれた親たちを、有難ありがたいと思わなければならないって、そうでしょう。そうだ、おれはそのとおりのことを云った。けれどもよく考えてみればそうではない、そういうからだ癖は却って不幸の元になった。おさん自身でもどうにもならないそのからだが、おさんをほろぼすほうへ押しやったのだ。あんたがいてくれれば、こんなことにはならなかったのよ。いや、それはわからない、しんじつおれはがまんができなかったんだ。あんたがよ、あんたはがまんができなかった、なぜがまんができなかったのか、あたしにはわからなかったわ、なぜわけを云ってくれなかったの、はっきり云ってくれれば、あの癖を直すことだってできたかもしれないじゃないの、どうして云ってくれなかったの、どうして。おれには答えようがない、ことがことだけに、どうにも口には出せなかった、一年か二年はなれていれば、どうにかおさまるんじゃないかと思ったんだ。あたし辛つらかったわ。うん、よくわかるよ。わかるもんですか、あんたはそのとおり丈夫で生きている、これから好きな人をおかみさんに持って、親方とか棟梁とうりょうとか云われるようになるんでしょ、あたしがあんたを忘れようと思って、男から男をわたり歩き、それでもあんたのことが忘れられないで、また次の男にすがってみてもだめ、自分もめちゃめちゃになるし、相手の男たちもみんなだめにしてしまったのよ、この辛さ苦しさがあんたにわかってたまるものですか。そうだ、そのとおりかもしれない、勘弁してくれ。おれはようやくおさんと会っているような気持になれた。生きていたおさんよりも、もっとおさんらしいおさんと会っているように。するとおさんはやさしくなった。あたし、あんたを怨んではいないわ、あんたといっしょになったとき、これでもう死んでもいいと云ったでしょ、あたしあんたのおかみさんになって、一年たらずだったけれど夫婦ぐらしをしたんですもの、それで本望だったし、そのあとのあたしはもうこのあたしじゃあなかったのよ、死んだからもういいだろうけれど、生きていたらあんたには会えなかったわ、江戸へ帰って来ても捜さないでちょうだいって、いつか手紙をあげたわね、生きていたとすれば、たとえあんたがどう云おうと、あたしは決して会わなかったわ。おれはそうはさせないつもりだった、むりにでもおまえを引取って、もういちど二人でやり直す気でいたんだ。いいえだめ、このほうがいいの、あたしはこうなるように生れついていたのよ、二十三で死んだけれど、人の三倍も生きたような気がするの、たのしさも、苦しさも辛さもよ、おまいりに来てくれてありがとう、うれしかったわ。おれはもっと頭をさげ、堪忍してくれ、と声に出して云った。おさんはもうなにも云わないようであった。

二の九

参太が墓地を出ようとすると、傍かたわらの雑木林の中から伊三があらわれた。

「びっくりさせるな」参太は本当に驚かされた、「どうした、どこから跟つけて来たんだ」

「ずっとさ」伊三は鼻をこすった、「飯田屋までいってみて、いないんで今朝はやく引返して来たんだ」

「飯田屋へ泊ったのか」

「宿屋なんかに泊りゃあしねえさ、寝るところなんざどこにでもあるよ」

参太は歩きだしながら云った。ゆうべの男はどうした。酔いつぶれて道ばたへ寝ちまったよ。どうしておれをみつけだした。引返して来て小網町まで来ると、うしろ姿が見えたんだ。声をかければよかったのに、おれもおまえが来るかと待っていたんだぞ。迷ったんだよ。なにを迷った。黙っていっちゃおうか、それとも別れを云ってからにしようかってさ。おまえゆうべなにか云ったな、なにか頼みがあるっていうようなことを云やあしなかったか。もういいんだよ、忘れちゃってくれよ。話すだけ話してみろ、ゆうべは危ねえところをおまえのおかげで助かった、礼と云うときざだが、おれにできることなら力になるぜ、話してみろよ、と参太は云った。

「話してもむだなんだがな」と伊三は考えぶかそうに云った、「おれねえ、ほんとのこと云うともう十二になるし、いいかげんにおちつこうかと思ったんだ」

「そう気がつけばなによりだ」

「おじちゃんのこと好きだしさ」と伊三は続けた、「できるなら弟子でしにしてもらってさ、半人なみでもいいから職人になりてえって思ったんだよ」

「それが本気ならよろこんで」

「いけねえんだ」と伊三は首を振って遮さえぎった、「それがだめなんだ、おれが女は嫌いだって云ったのを覚えてるだろ」

「聞いたようだな」

「女がおじちゃんを待ってるんだ」

参太はぞっと総毛そうけ立った。おさんが待っている、というふうに聞えたからだ。参太は立停って伊三を見た。

「誰が、――待ってるって」

「箱根からいっしょに来た女さ」と伊三は逃げ腰になりながら答えた、「飯田屋へいって訊いてみたらさ、おじちゃんは帰らねえかって、番頭が云っているところへあの女の人が出て来たんだ」

「あれとはちゃんと別れたぜ」

「おれを見てあの女の人はどなりつけた、おまえまだあの人にくっついてるのかい、承知しないよってさ」伊三は黄色い歯をみせて、おとなびた含み笑いをした、「あたしたちに近よるんじゃない、わかったかいってさ、おっかねえ顔だったぜおじちゃん」

「あの女とは初めから話がついてるんだ、これから帰ってはっきりきまりをつける、あいつのことなんか心配するなよ」

「だめだな」伊三はまた首を振った、「おれはずっと街道ぐらしをしてきたから、人間の善し悪しはわかるんだ、なまいき云うようだけどさ、あの人はおじちゃんからはなれやあしねえよ、みててみな、どんなことをしたってはなれやあしねえから」

「ちょっと待て、まあ待てったら」

「おれ、やっぱり仙台へいってみるよ」伊三はうしろさがりに遠のきながら云った、「そのほうがまだ性に合ってるらしいからね、あばよ、おじちゃん」

参太は黙って見ていた。伊三はもういちどあばよと云い、くるっと向き直って、千住のほうへ駆けだした。彼の足もとから、白っぽい土埃つちぼこりが舞い立ち、小さなその躰はみるみるうちに遠ざかっていった。

「おふさが待っているか」と参太は口の中で呟いた、「――にんげん生きているうちは、終りということはないんだな」

底本 / Source edition

底本:「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」新潮社
1982(昭和57)年6月25日発行
初出:「オール読物」文藝春秋新社
1961(昭和36)年2月号
※「頬笑」と「微笑」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2022年5月27日作成
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リリース / Release
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TEI
/works/057537_001869/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/057537_001869/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/057537_001869/

山本 周五郎「おさん」(新字新仮名)、底本『山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう』新潮社、1982年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057537_001869, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite