Soranoha

妖虫

ようちゅう

江戸川 乱歩

青眼鏡あおめがねの男

熱帯地方に棲息せいそくする蠍さそりという毒虫は、蜘蛛くもの一種であるけれど、伊勢海老いせえびを小さくした様な醜怪な姿をしていて、どんな大きな相手にも飛び掛って来る、凶悪無残の妖虫である。そいつが獲物を見つけると、頭部についている二本の鋏はさみで、相手をグッと圧おさえつけて置いて、節ふしになった尻尾しっぽを、クルクルと弓の様に醜くそらせて、その先端の鋭い針で、敵の体内に恐ろしい毒汁どくじるを注射するのだ。この毒虫にかかっては、人間でさえも気違いの様に踊り出して、踊り狂って、遂には死んでしまうということである。

この奇怪な物語の主人公は、その蠍である。イヤ蠍にそっくりの人間である。彼はそのことを寧むしろ得意に感じていたと見えて、蠍が背中を曲げて敵に飛びかかろうとしている醜い姿を、彼自身の紋章もんしょうとして使用したのだ。しかも、もっと不気味なことには、世人せじんは蠍の紋章を見せつけられるばかりで、それを使用している極悪人の正体を全く掴つかみ得ないことであった。身も心もきっと蠍の様に醜怪な獰悪どうあくな奴やつに違いないとは想像しても、そいつの正体がまるで分らないものだから、目に見える蠍などよりは、幾層倍いくそうばいも気味悪く恐ろしく感じられた。新聞が「妖虫事件」という異様な見出しをつけて、この事件を報道したのも尤もっともであった。そいつは「妖虫」の名に価あたいする怪人物に相違なかった。

では「妖虫事件」というのは、一体どの様な出来事であったか、それを語るには、順序として、先まず大学生相川守あいかわまもるの好奇心から説とき起おこすのが、最も適当かと思われる。

相川青年は、多くの会社の重役を勤め事業界一方の驍将ぎょうしょうとして人に知られている相川操一そういち氏の長男であって、大学法科の学生なのだが、彼の妹の珠子たまこなどが「探偵さん」という諢名あだなをつけていた通り、人一倍好奇心が強くて、冒険好きで、所謂いわゆる猟奇の徒とであったことが、彼の長所でもあり弱点でもあった。ある晩のこと、日本橋区のある川沿いの淋しい区域にある、料理のうまいのと価の高いのとで有名なソロモンというレストランの食堂に、相川青年と、妹の珠子たまこと、珠子の家庭教師の殿村京子とのむらきょうことの三人が、食卓を囲んでいた。月に一度ずつ、珠子が兄を誘って、殿村京子をどこかへ案内して御馳走する慣ならわしになっていて、今夜はソロモン食堂が選ばれたのだ。

珠子はまだ女学生であったから、けばけばしい身なりを避けていたけれど、でも鶯色うぐいすいろのドレスが美しい身体からだによく似合って、輝くばかりの美貌は人目を惹ひかないではいなかったし、兄の守も、同じ血筋の美青年で、金釦きんボタンの制服姿も意気に見えたのに比べて、殿村京子だけは、服装も地味な銘仙めいせんか何かで、年輩も四十を越していたし、その上容貌は醜婦と云っても差支さしつかえなかった。額が広過ぎる程広くて、眉が薄く、平べったい鼻の下に、上唇が少しめくれ上って兎唇になっていた。それを、青白くて上品な顔色と、知識のひらめきとが救ってはいたけれど。

「マア、先生、何をそんなに見つめていらっしゃるの」

珠子がふとそれに気附いて声をかけた。

その時は、もう食事が終って、コーヒーが運ばれていたのだが、京子はそれを取ろうともせず、なぜか異様に緊張した表情で、食堂の向うの隅を、じっと見つめていた。

その隅には、二人の中年の紳士が向合むきあっていて、その一人の大きな青眼鏡をかけた口髭くちひげのある男の顔が、こちらからは真正面に見えるのだ。外ほかにも五組程の客があったけれど、それらは皆外国人の男女であった。

「先生、あの人を知っているんですか」

相川青年も妹の加勢をして訊たずねた。

「イイエ、そうではないんですけれど、ちょっと黙っていらっしゃいね」

家庭教師は、目はその方を見つづけたまま、手真似をして二人を黙らせたが、帯の間から金色をした小型のシャープ鉛筆を取出し、そこにあったメニュの裏へ、何か妙な片仮名かたかなを書き始めた。

「アスノバン十二ジ」

京子はその青眼鏡の男から視線をそらさず、手元を見ないで鉛筆を動かすものだから、仮名文字はまるで子供の書いた字の様に、非常に不明瞭であったが、兄妹はメニュを窺のぞき込んで、やっと判読することが出来た。

「何を書いているんです。それはどういう意味なのです」

相川青年が思わず訊ねると、京子はソッと左手の指を口に当てて、目顔で「黙って」という合図をしたまま、又青眼鏡の男を見つめるのだ。

暫しばらくすると、鉛筆がタドタドしく動いて、又別の仮名文字が記された。

「ヤナカテンノウジチョウ」

それからまた、

「ボチノキタガワ」

「レンガベイノアキヤノナカデ」

と続いた。メニュの裏の奇妙な文字はそれで終ったが、鉛筆をとめてからも、やや五分程の間、向うの隅の青眼鏡ともう一人の紳士とが、勘定を済ませて食堂を立去ってしまうまで、京子の視線は、青眼鏡の顔を追って離れなかった。

「どうしたんです。訳わけを云いって下さい」

京子のたださえ青い顔が一層青ざめていることと云い、この何ともえたいの知れぬ気違いめいた仕草と云い、ただ事ではないと思われたので、相川青年は、真剣な顔をして、ヒソヒソ声になって、きびしく訊ねた。

「守さん、あなた小説家を沢山たくさんご存知ですわね。今出て行った青眼鏡の人、小説家じゃありません?」

京子も声をひそめて、こんなことを云った。

「イイエ、そうじゃないでしょう。あんなきざな眼鏡をかけて、古ぼけたモーニングなんか着ている小説家なんてありませんよ」相川青年が答えた通り、その二人連れは、政党の下っぱか所謂会社ゴロという様な人種以上には見えなかった。

「そうでしょうか。でもおかしいわ。あれが小説の筋でないとすると……」

「あれって何です。何が小説の筋なんです」

相川青年は、もどかし相そうに、併しかしやっぱり囁ささやき声で促うながした。

「本当に恐ろしい事なんです。人を殺す話なのです。短刀で一寸だめし五分ぶだめし……ですって」

京子はゾーッと総毛立っている様な、寒々した表情であった。

「先生、夢でもごらんなすったのじゃありませんか。誰もそんな恐ろしい話してやいないじゃありませんか。こんな大勢人のいる場所で、……」

珠子が気違いをでもあやす様に云った。そういう彼女自身の美しい顔も、少し青ざめて見えた。

「イイエ、誰にも聞取れない様な、低い声で囁き合っていたのです。あなた方は、さっきの青眼鏡の二人連れが、給仕のすきを見て、ヒソヒソ話をしていたのを見なかったのですか」

そう云われると、なる程彼等は、如何いかにも人目をはばかる様に、顔を寄せて囁き合っていたに違いない。外の客からはずっと離れた隅っこであったし、外人達はてんでに大声で話し合っていたので、仮令たとえ内密話ないしょばなしでなくとも、彼等の会話を他人に聞かれる気遣きづかいはなかったのだが、それを更らにヒソヒソ声になって囁き合っていたのは、余程よほど秘密の相談であったとは想像出来る。だが、……

「では、あの二人がそんな恐ろしい相談をしていたとおっしゃるのですか」

相川青年が思わず訊ねる。

「エエ、そうなのです。私はそれをすっかり聞いたのです」

「聞いたのですって? あの遠方の囁き声を、それに、外ほかの人達がこんなにやかましく云っているのに。いくら先生の耳がいいからと云って、そんな馬鹿な……」

やっぱりこの人は頭がどうかしているのだ、幻聴に違いない。それをさも誠しやかに考えているのは、気でも狂う前兆なのではないかと、兄妹は寧ろそれが恐ろしく感じられた。

「ここに書いた通り、あの青眼鏡の男が喋しゃべったのです」と京子はメニュを指さして、「その前の言葉は、ここへ書くひまがなかったけれど、実に恐ろしい事なのです。先ず最初、あの男は(いよいよやってしまうのだ)と云いました。その時の表情が非常に恐ろしく見えたものだから、私はオヤッと思って、注意し始めたのです。すると、その次には、相手の、顔の見えない方の男が何か云ったのに答えて、あの男は(薬なんかじゃない、短刀だ)と云いました。それから少したって又(短刀で一寸だめし五分だめしだ)と、憎々しく口を枉まげて云いました」

「それが先生にだけ聞えて、あすこに立っているウェーターには聞えなかったとでもおっしゃるのですか」

珠子は腹立たしげであった。

「エエ、そうなのです。私に丈だけ聞えた、イヤ見えたのです。私は声は聞えなくても、唇の動き方だけで、言葉が分るのです。読唇術どくしんじゅつ、リップ・リーディング、あれを私知っていますのよ」

「マア、読唇術ですって?」

「エ、リップ・リーディング?」

兄妹が同時に、思わず高い声を出した。

「エエ、そうなの。マア静かにして下さい。私はずっと以前、生れつき唖で聾の小さいお嬢さんをお世話したことがありましてね。そのお嬢さんについて、聾唖学校へ行き行きしている内に、とうとう読唇術を覚え込んでしまいましたのよ。で、なければ、そのお子さんを本当にお世話出来ないのですものね」

京子が手短てみじかに説明した。

「アア、そうでしたか。それを知らなかったものだから、びっくりしてしまった。すると何ですね。さっきの青眼鏡の男は、最初短刀で一寸だめし五分だめしにすると云ってから、このメニュに書きつけてある日と場所とを云った訳ですね。つまり、(明日の晩十二時)(谷中天王寺町)(墓地の北側)(煉瓦塀れんがべいの空家の中で)と」

相川青年は、メニュの仮名文字を判読しながら云った。今度は彼の方が真剣になっていた。

「マア怖い。そこで誰が殺されるのでしょう。一寸だめし五分だめしなんて」

珠子もゾッと恐怖を感じないではいられなかった。

「ですから、私、小説の筋でも話し合っていたのではないかと思ったのです。こんな所で、あんまり恐ろしい話ですもの」

「僕も大方おおかたそんな事だとは思うけれど、併し小説の筋にしては少しおかしい所もあるし、それに、こんな大勢人のいる食堂などが、却かえってそういう秘密の相談には安全だとも云えるのです。若もしあの二人が、そこへ気がついて、本当に人殺しの相談の場所としてここを選んだとすると、実に抜け目のない恐ろしい悪党ですよ」

相川青年は珠子の所謂「探偵さん」の本領を発揮はっきして云った。そして、

「そんなことなら、もっと早く云って下されば、あいつらの跡をつけて見るのだったのに」

と如何にも残念そうであった。

彼は抜け目なくウェーターを呼んで、あの二人がここの常客かどうか、若し名前や職業を知らないかと訊ねて見たが、全く今夜初めての客で、名前など知ろう筈はずがないとの答えであった。

それから、三人はこのことを警察に告げたものかどうかについて、やや真面目に相談したが、結局それは思い止とどまることになった。京子と珠子とは、事ことなかれの女心から、余りに雲を掴つかむ様な拠より所のない話だから不賛成であったし、相川青年の方は、別にある下心があって、二人の中止説に同意したのであった。

恐ろしき覗機関のぞきからくり

相川守は、その翌晩の十一時頃、もう人影もない上野うえの公園の中をテクテク歩いていた。

昼間は外ほかの事に取りまぎれて、忘れるともなく忘れていたが、日が暮れて、夜が更ふけて行くに従って、彼の病癖と云ってもいい猟奇の心がムクムクと頭をもたげて、もうじっとしていられなくなった。彼は家人に云えば止められるに極きまっているので、それとなく家を出て、暫しばらく銀座ぎんざで時間をつぶしてから、バスで上野公園へやって来たのだ。

彼は暗い公園を歩きながら、彼のいささか突飛とっぴな行動を弁護する様に、こんな事を考えていた。

(どう考え直して見ても、あれは小説の筋ではない様だ。青眼鏡の男は「あすの晩十二時」と云ったが、小説の筋を話す時に「あす」なんて云い方をする筈はない。「その翌日」と云うのが当り前だ。それに、あいつは空家の町名や位置を詳しく云っていたが、小説にしては、あんまりはっきりしすぎているではないか)

(確たしかめて見れば分るのだ。若し青眼鏡が云った位置に、実際そういう煉瓦塀の空家があれば、もう疑う所はない。煉瓦塀の住宅は非常に珍らしいのだし、小説の中へそんな実際の空家を取入れるなんて、考えられない事だ。ただその空家が実在するかどうかが問題なのだ。それが凡すべてを決定するのだ)

相川青年は、今夜は態わざと制服をさけて、黒っぽい背広に黒ソフトという出立いでたちであったが、その黒い影が、公園を通りぬけ、桜木町から谷中の墓地へと、さも刑事探偵といった恰好かっこうで、歩いて行った。

谷中天王寺町の辺は、大部分が墓地だけれど、墓地に接して少しばかり住宅が並んでいる。その中に、小さな仮小屋の様な煙草店たばこみせがあって、まだガラス戸の中に燈あかりが明々あかあかとついていたので、そこで尋ねて見ると、

「アア、煉瓦塀の空家なら、この墓地を突き切った向側に、一軒だけポッツリ建っているアレのことでしょう。真直ぐにお出いでなさればじき分りますよ。尤も暗いには暗うございますけれど」

おかみさんが、丁寧に教えてくれた。

相川青年は半信半疑でいた空家が実在のものだと分ると、何かしらハッとして心臓の辺が妙な感じであった。

「その家うちは長く空いているのですか」

「エエ、もうずっと。私共がここへ引越して来る以前から、草茫々ぼうぼうの空家なんですよ。何だか存じませんけど、変な噂うわさが立っている位なのでございますよ」

「変な噂って、化物屋敷とでもいう様な?」

「エエ、まあね。ホホホホホホホ」

おかみさんは言葉を濁にごして、妙な笑い方をした。

(愈々いよいよそうだ。墓地と化物屋敷と人殺しと、なんてまあ巧みにも組合せたことだろう。サア守、お前はシッカリしなけりゃいけないぞ)

彼はこれからの冒険を考えると、何となく恐ろしくもあったけれど、恐ろしければ恐ろしい丈け、彼の猟奇心はこよなき満足を感じた。

煉瓦塀の空家までは、そこから墓地を通りぬけて二丁余りの距離であった。

彼は用心深く、他人が見たら、彼自身が黒い物ものの怪けの様に感じられる事だろうと思いながら、態とその物の怪の歩き方をして、破れた煉瓦塀の前にたどりついた。

眼が闇に慣れるに従って、星空の下の墓地や建物が、薄うっすりと見分けられた。

その煉瓦塀は、所々煉瓦がくずれていた上に、昔門扉もんぴがあったと覚しき個所が、大きく、何かの口の様に開いて、その内部は、一面に足を埋うずめる叢くさむらであった。

相川青年は、見張りの者でもいはしないかと、闇をすかして確めてから、まるで忍術使いの様に、物の蔭を伝いながら、叢のそよぎにも注意して、煉瓦塀の中へと辷すべり込んで行った。叢の中に、真黒な怪物が蹲うずくまってでもいる様に、和風の平屋が建っていたが、内部に人のいる様子もなく、物音は勿論もちろん、一点の光も見えなかった。

相川青年は、叢にしゃがんで、身体で覆い隠す様にして、ライターをつけ、その光で腕時計を見た。十一時四十分だ。

それから十二時までの二十分を、彼はどんなに長々しく感じた事であろう。彼は、叢の中の灌木かんぼくの蔭に身を隠して、煉瓦塀の口を開あいた個所と、正面の建物とを、若しそこから何者かが入って来はしないか、若し家のどこかから光が漏もれはしないかと、そればかりを待ち構えていた。

彼はそれ程真剣に凶事を待ち構えながら、何かしら夢を見ている様な、奇怪な遊戯に耽ふけっている様な気持で、心しんから、現実の人殺しなどを想像することは出来なかった。

彼が警察の助力によって、事を未然に防ごうという気になれなかったのは、一つは猟奇者として秘密を惜しむ意味もあったけれど、主としてこの非現実的な、夢見心地からであったに違いない。

一ヶ月程にも感じられた闇の中の二十分が、やがて経過した頃、正面の真黒な家屋に、縦に長い糸の様な線が三本、クッキリと現われた。

誰かが屋内に燈火をつけたのだ。それが雨戸の隙間すきまから漏れているのだ。

相川青年は、殆ほとんど這はう様にして、まるで一匹の黒犬の恰好で、その光を慕って近づいて行った。そして、注意深く内部の気配を窺うかがった上、一番太い雨戸の隙間に目を当てた。

雨戸の外ほかに障子もない荒屋あばらやなので、八畳程の部屋の向うの襖ふすままで見通しであったが、隙間の幅が狭い為ために、左右は限られた範囲しか見ることが出来なかった。

先ず目に入ったのは、裸蝋燭ろうそくらしい赤茶けた光に、チロチロと照らされている正面の襖と、その表面一杯に映っている、巨人の様な人間の、鳥打帽子とりうちぼうしらしいものを冠かぶって、眼鏡をかけている横顔であった。それが焔ほのおのゆれるにつれて、伸びたり縮んだりしながら、異様に大きな唇を動かして、物を云っていた。

「サア、繩を解いてやったんだから、そうビクビクしていないで、もっと真中へ出て来るがいいじゃないか。姉さん、お前寒いのかい。いやに震えているね。ハハハハハハハハ」

雨戸を隔てている為か、その声は異様に物凄く聞えた。

「オイ、それゃいけない。猿轡さるぐつわを取るんじゃない。返事はしなくってもいいんだ。ただ俺おれの云いつけ通り、こっちへ出て来りゃいいんだ。ヤイ、出て来ないか」

猿轡をはめられている相手は、一体何者であろうと、好奇心に燃えながら見つめていると、細く区切られた眼界の、古畳の上に白いものが現われた。手だ。それから裸の膝ひざだ。やっぱりそうだ。相手は若い女なのだ。手と膝小僧だけしか見えないけれど、この若い女は裸にされているのに違いない。

「オイ、山印やまじるし、これでよく見えるだろう」

巨人の横顔が、山印という仲間に呼びかけたものらしい。

「ウン、見えるよ。すっかり見えるよ」

それは一種名状めいじょうし難がたい、浪花節語りの様な嗄声しわがれごえであった。そいつが、どこにいるのかは、ちょっと見当がつかなかった。女が部屋の真中に出て来ないと、よく見えない様な場所に坐ってでもいるらしい。

「思う存分見てやるがいい。こいつはお前の敵かたきなんだから」

「ウン、見ているよ。だが、そんなに坐っていたんじゃ面白くないね。突転つっころばしてやりなよ」

「又お株かぶを始めやがったな。ヨイショ、これでいいか」

襖の横顔が突然消えて、黒いパンツを穿はいた一本の足が、雨戸の隙間を横ざまに閃ひらめいたかと思うと、白い大きなものが、ドタリと投出す様に、畳の上に横よこたわった。

今度は女の胸から腰にかけての胴体の一部が、区切られて見える事になった。その胴体が俯伏うつぶしになって、観念したものの様に、じっと動かないでいた。艶々つやつやとして恰好のいい身体だ。秋の初めではあるが、こう丸裸にされては耐たまらないだろうと、痛々しかった。

「ウフフフフフフフフ。気味がいいね。又歌おうか、あれを」

「歌うがいいよ」

すると、突然、嗄声が実に下手な節廻しで、安来節を歌い出した。

相川青年はそれを聞くと、脊筋せすじを虫が這う感じで、ゾーッとしないではいられなかった。文句こそありふれた安来節だけれど、それはこの世のものではない。地獄の底から響いて来る、悪鬼の呪いの歌としか聞えなかった。

(あの声は一体どこから来るのだろう。その辺に坐っている人の様には思えないが)

相川青年は不思議に耐えなかった。雨戸を隔てているばかりではない。その声と彼の耳との間には、何かもっと障害物があるらしい。その男には、女が部屋の真中へ出て来なければ見えないというのも、実に異様である。

(アッ、若しかしたらあの中にいるんじゃないかしら)

襖の隣に、何かの自然木じねんぼくの床柱とこばしらと、壁の落ちた床とこの間まの一部分とが見えているのだが、その床の間に、大型の支那鞄かばん程もある頑丈な木箱が置いてあって、その三分一ばかりが視線の中に入っている。若しやあの木箱の、ここからは見えない部分に穴があけてあって、山印という奴は、そこから覗のぞいているのではあるまいか。歌声は丁度その方角から聞えて来るのだ。

(イヤ、俺はどうかしているぞ。いくらなんでも、あんな窮屈な木箱の中に人間が入っているなんて、あんまり馬鹿馬鹿しい想像だ)

相川青年は、彼の突飛な空想を自みずから打消したが、あとになって分った所によると、彼は決して間違ってはいなかったのだ。その木箱の中には、やっぱり人間が入っていたに相違ないのだ。だが、それは一体全体何の必要があってであろう。

「サア、愈々日頃の恨みをはらす時が来た。姉さん、俺達の恨みが、どんなに深いものか、今見せてやるよ」

最初襖に横顔を映していた奴の声だ。

次の瞬間、何かしらサッと、稲妻の様なものが閃いたかと思うと、横わっていた肉塊にくかいが、非常な勢いきおいで飛上った。そして、どこかへ逃出そうとするものの様に、いきなり、丁度相川青年の覗いていた雨戸の隙間の方向へ二三歩よろめいた。殆ど一刹那せつなではあったが、女の全身を見る事が出来た。

相川青年はそれを見ると、思わずアッと叫び相になった。彼は女の顔を見たのだ。そして、その顔が決して彼の知らないものではなかったのだ。

赤い蠍さそり

(アア、あれは春川月子はるかわつきこだ。やつれてはいるけれど、スクリーンで顔馴染かおなじみの春川に違いない。春川がこんな所に押込められているんだな)

春川月子というのは、東京近郊にスタディオを持つ、M映画会社の大幹部女優で、この春、ある大新聞がミス・ニッポンの投票募集をした時、第一席に当選した程の美人でもあり、人気者でもあった。

その映画女王が、今から五日以前、突然行方不明となった。彼女は毎朝十時頃に起床する慣らわしであったが、その日は十一時を過ぎても、寝室のドアが閉まったまま、ヒッソリとしていたので、お弟子兼小間使こまづかいの少女が、不審を起して、寝室へ入って見ると、ベッドはもぬけの殻からであった。

ベッドの毛布は、ちゃんと裾すその方に畳たたまれ、真白なシーツが露出していたが、その真中に一点赤いものが見えた。おびえた少女は、一刹那それを血痕と思い誤ったが、気をおちつけてよく見ると、血ではなかったけれど、少女にとっては血よりももっと恐ろしい、ゾッとする様な一物が、そこにじっとしていた。

毒々しく真赤な色の大蜘蛛だ。イヤイヤ、こんな巨大な紅蜘蛛なんてあるものでない。少女は知らなかったけれど、それは、内地では見ることの出来ない、蠍という毒虫の死骸であった。あとで調べて見ると、何の意味か、その蠍のひからびた死骸には、一面に真紅の油絵具が塗りつけてあった。赤い蠍! それは一体何を象徴していたのであるか。

春川月子失踪しっそう事件は、忽たちまち家族近親、撮影所、警察、新聞記者と拡がって行った。それが新聞紙を通じて、世間一般に知れ渡ったことは云うまでもない。相川青年もその新聞記事の熱心な読者の一人であったのだ。

この事件には、不思議なことに「赤い蠍」という奇怪至極な遺留品を除いては、手掛りというものが全くなかった。自発的な家出であるか、何者かに誘拐された犯罪事件であるかさえハッキリしなかった。

恋愛問題からの家出ではないか、スター争奪戦の目標となってどこかに隠されているのではないか、それとも、撮影所の御念の入った宣伝策ではないのか、などと色々な臆測が行われたが、結局いずれの説にも、これという論拠も確証もなかった。そうして有耶無耶うやむやの内に五日間が過去すぎさったのである。

猟奇者相川守は、今、その全都猟奇心の焦点となっている映画女王春川月子を発見したのだ。しかも、どんな春川ファンも未だ見たことのない、彼女の全裸の姿を、どんなシナリオもまだ考え出したことのない、陰惨奇怪な場面を、彼は今見届けたのだ。

この時直ただちに、最寄もよりの派出所なり自働電話なりへ駈けつけるのが当然であった。併し、彼は再び機会を失してしまった。雨戸の隙間からの、この世のものとも見えぬ、恐ろしい覗機関のぞきからくりが、彼の目を膠着にかわづけにして離さなかったのだ。彼は殆ど夢と現実との見境がつかなくなってしまっていたのだ。

それから十分程の間、相川青年が何を見たかを、管々くだくだしく写し出すことは差控さしひかえるが、その間かん、例の床の間に安置された妙な木箱の中からと覚しき、嗄声の安来節は、これより下手には歌えないと思われる程まずい節廻しで、切れては続き、切れては続きしていたということ丈けを記しるして置く。

そして最後に、彼の目の前には、殆ど四五寸の近さで、異様に大きな鼠色ねずみいろの肉塊の山が立ち塞ふさがっていた。それは春川月子の左の肩であった。彼女は今、雨戸のすぐ前の縁側に、左の肩を上にして、妙な恰好で蹲うずくまっているのに違いなかった。その肩の一部分丈けが、丁度蝋燭の蔭なので、鼠色の山の様に、大写しになって見えているのだ。

鼠色の肉塊の表面には、一面に鳥肌が立って、そのザラザラした感じが、望遠鏡で見た月世界の景色を聯想れんそうさせた。又、そこに生えている薄黒い産毛うぶげも、一本一本算かぞえることが出来る程、ハッキリと眺められた。肉塊は早い息遣いと共に、まるで地震の様にゆれていた。

もう誰も喋るものはなかった。薄気味の悪い歌も聞えなかった。鳥打帽に青眼鏡の悪人は、雨戸の蔭の月子のすぐうしろに立ちはだかっている気配だが、彼はそこで何をしているのだろう。何か恐ろしい事が起るのだ。その前の一瞬の静けさなのだ。

(今にも! 今にも!)

相川青年の心臓は早鐘の様であった。冷い油汗が腋下わきのしたをツルツルと流れ落ちるのが分った。

肉塊の小山がグラグラと揺れた。圧おし殺した様なうめき声が、物凄く響いた。そして、鼠色の小山の表面を、ドス黒い液体が、産毛の林を倒しながら、ウネウネと、二本の枝河になって流れ落ちるのが、マザマザ眺められた。

肉塊は二本の赤い河を描いたまま、徐々に傾き始めた。そして、難破船が見る見る水面下に没して行く感じで、春川月子の肩先は、雨戸の隙間から消え去った。そのあとへ、やっぱり映画の大写しみたいに、ギラギラ光る金属の巨大な板が、ニュッと現われた。その金属の表面には、赤黒い液体が、恐ろしい叢雲そううんの様に漂っていた。それは、悪人が手にする兇器の短刀であったのだ。

アア、可哀相な春川月子。一世の人気を負った銀幕スクリーンの女王が、このみじめな有様は何事であろう。彼女は今殺されようとしているのだ。何者とも知れぬ凶悪無残の人物の為に、一寸だめし五分だめしにされているのだ。

相川青年は、思わず雨戸の隙間から顔をそらして、あたりを見廻した。暗闇の底から冷い風が彼の熱した頬を吹き過ぎて行った。夢ではないのだ。ここに、殺人事件が起りつつあるのだ。彼はやっと現実に帰ることが出来た。そして、今更の様に、この事を警察へ知らせなければならないと気がついた。

彼は相手に悟られぬ様、静かに雨戸の側から離れて、闇の叢くさむらを、塀外へいそとへと急いだ。

派出所は確か桜木町まで出なければならなかった筈だ。四五町はあるだろう。その間に可哀相な女優は殺されてしまうかも知れない。と云って、相川青年は、単身屋内に飛び込んで行く勇気はなかった。ただもう派出所へ急ぐ外に手はないのだ。彼は墓地の中を気違いの様に走った。

悪魔の紋章

派出所に居合わせた二人の警官が、相川青年の案内で、現場げんじょうに駈けつけたのは、それから十五分程後のちであった。

彼等は塀の中の広い叢を突切って、いきなり問題の部屋へと突進した。惨劇はその部屋で行われていたのだから、これは実に無理もない行動であったが、若し屋内に踏み込む前に、外の叢を一応調べて見る余裕があったなら、彼等は、その叢の闇の中に、異様な人影が蠢うごめいていたのを発見したに相違ない。そして又、如何に大胆不敵の兇賊でも、あの様な恐ろしい諧謔かいぎゃくを弄ろうする暇いとまがなかったことであろう。

それは兎とも角かく、一青年と二警官とは、さい前ぜんの雨戸の外に立って、内部の様子を窺ったが、もうその時には、隙漏すきもる明りも見えず、人の気配さえしなかった。

「逃げてしまったかな」

「ウン、そうかも知れん。戸を破って踏ふん込ごんで見よう」

一人の警官がいきなり肩をぶッつけると、大きな音がして、一枚の雨戸が倒れた。三人はその隙間から、警官が用意して来た懐中電燈の光をたよりに、部屋の中へと上り込んで行った。

「妙だね、なんにも居ないじゃないか」

「別に血のあともないし」

警官達はそんなことを呟きながらも、流石さすがは職掌柄しょくしょうがら、部屋から部屋へと、注意深く歩き廻って、押入は勿論、台所の上げ板の下まで覗き込んだが、不思議なことに、猫の子一匹発見することは出来なかった。

「オイ、君、どうも妙だね。人殺しがあるというから飛んで来たんだが、これじゃそんな形跡は少しもないじゃないか。君の頭がどうかしていたんじゃないのかい。ここは有名な化物屋敷だからね」

「大方夢でも見たんだろう」

警官達は腹立たしげに、相川青年を責めた。

「イヤ、決して夢やなんかじゃありません。確かに人殺しです。それも並々の犯罪事件ではなさそうなんです。この床の間に木箱があって、その中から妙な歌が聞えて……」

「どうも君の話は変梃へんてこだぜ。箱なんて何もないじゃないか。それに箱の中で歌を歌ったなんて、人殺しの最中にそんな馬鹿馬鹿しい真似をする奴があるもんか」

「常識では判断出来ないかも知れません。併しこれには何か訳があるのです。常識的でない丈けに、恐ろしく……ア、併し、あれは一体なんでしょう」

相川青年は弁じながら、ふと床の間の壁を見ると、そこに妙なものがあった。一人の警官の手にする懐中電燈が、丁度床の間の壁の真中を丸く照らし出していたが、その円光の中に、何かしら恐ろしい物の形が浮出しているのだ。

「ホウ、何か描かいてあるね」

警官もそれに気づいて、懐中電燈を近づけて調べて見ると、茶色の壁からにじみ出した様に、赤黒い色彩で、足の多い一箇の怪物が、そこに粘着へばりついていた。雨漏りと見違う程不明瞭な、併し不明瞭な丈け、ゾッとする様な何かの形であった。

「分りました。蠍です。赤い蠍です。ホラ、春川月子が誘拐された日に、ベッドの上に置いてあったアレと、同じ毒虫の姿です」

相川青年がとうとう、その怪しい絵模様の意味を発見した。

なる程、そう云えば、蠍の形に違いない。八本の足と、二本の鋏と、鋭い尻尾とが、ちゃんと描いてある。

一人の警官が、何を思ったのか、その絵に近づいて、指で壁を撫なでていたが、突然頓狂とんきょうな声を立てた。

「ヤ、血だ! この蠍は人間の血で描いてあるんだ」

アア、血で描かれた「赤い蠍」。何とふさわしい犯罪者の紋章ではないか、それにしても、奴等の不敵さはどうだ。これ見よがしに、床の間の正面に、署名を残して行ったのだ。

「何か布類にでも血を含ませて描いたのだろうが、これ丈け大きな絵を描くには、大変な分量だぜ」

警官が驚いて云った。

「ウン、恐らく殺人は行われてしまったんだね」

この異様な血痕を見せつけられては、もう相川青年を疑う訳には行かなくなった。

「それから、縁側をよく調べてごらんなされば、いくら拭き取ったにしても、血の跡が残っているに違いありませんよ」

相川は気負ってつけ加えた。

調べて見ると、これも亦また、彼の言葉が間違っていないことが分った。

「だが、死体をどう始末したんだろう。これ程証拠を残して置いて、死体丈け隠して見たところで仕方がないからね」

「ウン、もう一度探して見よう」

そして、又綿密に屋内の捜索が行われたが、結局、柱や畳の上に沢山の小さな血の斑点が発見されたのと、犯人が勝手口から出入ではいりしたらしいことが分った外には、何の得る所もなかった。

勝手口の外には、少しばかりの空地を隔てて、煉瓦塀をくり抜いた小さな裏木戸があり、朽ちた木製の扉が、形ばかり残っていた。そこを出ると、こんもりとした林があって、その林の向うは、省線を見下す断崖になっているらしかった。随したがって裏木戸からの細道は、直線ではなく、煉瓦塀に沿って、横の方へ這っているのだ。

二警官がその辺を調べていた時、本署から司法主任と二人の刑事探偵とが駈けつけて来た。派出所を出る時、電話で急を告げて置いたからだ。

司法主任は二警官の報告を聞取ると、流石に事件の重大性を理解したらしく、非常線の手配、警視庁への報告など、一人の刑事に云い含めて、手早く取運んだのち、更に現場の捜索を続けることにした。

屋内はもう十分じゅうぶん調べられた。余す所は煉瓦塀の内側の荒れ果てた空地だ。空地は家屋の正面と南側とを囲んで、百坪程もあったが、その大部分が、膝までもある雑草に埋まっていた。

詳しくは夜の明けるのを待って調べる外ないのだけれど、幸さいわい、本署からは暗中の捜索を予想して、光度の強い手提てさげ電燈を用意して来たので、それと三箇の懐中電燈によって、兎も角も一応、叢の中を歩き廻って見ることになった。

一同二組に分れて、叢の両方の端から始めたのだが、相川青年は司法主任の組に加わり、強力な手提電燈を振りかざす刑事のうしろから、まるで彼自身、日頃あこがれの探偵にでもなった気持で、猟奇心に燃えながら、ついて行った。

夜露の降りた叢の踏心地ふみごこちは、決して気味のよいものではなかった。電燈の光はほんの一局部しか照らさない。その影がチロチロと動いて行く下に、今にも血みどろの死骸が現われはしないかと思うと、何でもない木切れなどを踏みつけても、ゾッと身がすくむのであった。

「ひどい荒れかたですね。東京の真中に、こんな化物屋敷があるなんて、嘘みたいですね」

「不思議に買手がつかないらしいんだね。何でも自殺者があって、そいつの怨霊おんりょうが現われるって云うんだが。こんな物をこのままにして置いちゃ、碌ろくなことは起りゃしない。犯罪には持って来いの場所だからね」

司法主任と刑事とが、不気味さをまぎらす様に、そんな会話を取交とりかわしていた。

暫くすると、庭の奥の方から、黒い人影が矢の様に走って来た。ギョッとして一同が立ちすくんでいると、黒影こくえいが息をはずませて報告した。

「死体らしいものが見つかりました」

それは化物でも、犯罪者でもなく、警官の一人であった。

「見つかった? どこだ?」

「向うの台所の側そばの井戸の中です。懐中電燈で覗いて見ると、水面に白いものが浮いていたのです。黒い髪の毛がハッキリ見える位ですから、人間の死体に違いありません。ちょっと来て見て下さい」

警官はそれ丈け云うと、急ぎ足に元来た方へ引返して行った。

「アア、井戸があったのか。じゃ、そこへ行って見る事にしよう」

そして、三人の一組が、警官のあとを追って走り出そうとした時、チラチラ揺れる電燈の光が、つい目の先の叢の中に、実に異様なものを映し出した。

「ちょっと待って下さい。アレ、アレをごらんなさい」

相川青年がいち早く気づいて叫んだ。

電燈の斜ななめの光を受けた、陰影の多い雑草の中に、未だ曾かつて見たことも聞いたこともない様な、えたいの知れぬ生白い植物が、ニョッキリと生えていた。

「何だ、こりゃ」

司法主任がたまげた様な声を出した。

「いやだなあ。止よしましょうよ。こんなもの、どうだっていいじゃありませんか。早くあっちへ行きましょう」

刑事は脅おびえているのだ。そのえたいの知れぬお化け植物を見るに耐えなかったのだ。

「マア待ち給え。どうも変だぜ、こいつは」

司法主任は、迷信家ではなかった。彼は毒蛇どくじゃにでも近づく様に、用心しながら、その生白いものの側にしゃがんで、五本の白くて太い葉を、イヤ、指を見つめた。化物屋敷にふさわしくも、滑稽千万なことには、そこに雑草に混って、人間の腕が生えていたのだ。

「どうやら死骸は二人らしいぜ。向うの井戸に一人と、ここに一人と。……オイオイ君、どこへ行くんだ」

刑事はソッとこの場を逃げ出そうとしていたが、見とがめられて、仕方なく立止った。

「もう沢山です。僕等はみんな気でも狂ったんじゃありませんか。変ですぜ。草の中へ、まるで茸きのこみたいに、人間の手や足が生えているなんて、これや化物の仕業ですぜ。いやだ、いやだ、僕はもう見たくもありませんや」

刑事の云う通り、そこには、合計四本の、手と足との植物が生えていたに違いないのだ。

実にそれは、何か吐き気を催す様な、或あるいは、いきなり笑い出し度たい様な、余りにも度はずれな、珍妙で、おかしくて、しかも、ゾーッと腹の底から震えが来る底ていの、戦慄すべき諧謔であった。地獄の底のユーモアであった。

(アア、俺はやっぱり夢を見ているんだ。悪夢にうなされ続けているんだ。早く早く。誰かが叩き起してくれればいい)

相川青年は歯ぎしりを噛む様にして、手を握ったり開いたりしていた。

「イヤ、そうじゃなかった。被害者はやっぱり一人限きりだ。ここにあるのは、死体の一部分に過ぎない。悪党め、何て真似をしやがるんだ」

司法主任はそれを確めて、憤激の叫声さけびごえを揚げた。胴体は井戸に、手足は叢に。アア何という着想であろう。人ではない鬼だ。イヤ、鬼よりも気味悪い悪魔の国の赤蠍だ。

さて読者諸君、この恐ろしい着想は、化物屋敷という舞台から思いついた、悪魔の諧謔に過ぎなかったのであろうか。イヤイヤ、決してそうではなかったのだ。悪魔のカラクリには、凡て二重底、三重底の秘密があった。一見子供らしい悪戯あくぎの裏に、もう一つの意味が、見かけとは似ても似つかぬ、深讐綿々しんしゅうめんめんたる妖鬼の呪が隠されていたのだ。

毒虫の餌食えじき

相川守は一応近くの派出所まで同行を命じられ、この重大事件を予め知っていながら其筋そのすじに届け出いでなかった不都合を散々さんざんに責められたが、彼が知名の実業家の息子であったこと、事件が余りに異様でまさか本当とは思えなかった事情などが段々分って来たので、いずれ参考人として呼出しを受けるであろうが、今日は一先ずこれでと、帰宅を許されたのは、もう午前二時頃であった。

彼は余り尊敬出来ない様な刑事達から、乱暴な言葉で、散々に油をしぼられたことを、さして悔いてはいなかった。それよりも、今晩の恐ろしい経験で、一つ場数を踏んだという、猟奇者の喜びの方が大きかった。兎も角も、彼は大犯罪事件の渦中かちゅうに身を投じたのだ。それが、彼の探偵本能に一種異様の満足を与えた。

彼は自働電話を見つけて、じき帰るから心配しない様にと、家の者に伝えて置いて、寝静まった大通りの夜霧の中を歩いて行った。

霧を破って、時々空車あきぐるまのヘッド・ライトが眼を射たけれど、直ぐ呼びとめる気にはならなかった。彼は昂奮していたのだ。街燈とアスファルトばかりの空漠たる夜の大道が、彼を異様にひきつけたのだ。

彼は谷中の空家での激情を反芻はんすうしながら、足の向くままに、霧の中を靴音高く歩いて行った。

ふと気がつくと、大通りに面した広い空地に、大きなテントが薄白く聳そびえていた。曲芸の見世物みせものだ。すっかり電燈を消したテント張りが巨象の感じで押し黙っている様子が、守を吸い寄せないではおかなかった。

彼は又しても悪夢のもやに捲き込まれる様な気持で、そのテントの前に佇たたずんで、毒々しいペンキの絵看板を見上げた。丁度彼の前にあったのは、一人の醜い一寸法師の娘が、印半纒しるしばんてんを着て、鉢巻はちまきをして、手踊りを踊っている絵であったが、その娘の厚ぼったい唇が、遠くの街燈の光を受けて、薄気味悪く笑っていた。

今度空車が通ったら呼ぼうと考えながら、何となくその絵看板にひきつけられて立ちつくしていると、小屋の中に忍びやかな人の跫音あしおとがした様に思われたので、ギョッとその方角に目をやると、小屋の入口の幕がムクムクと動いて、一人の洋服を着た男がソッと忍び出して来た。

(オヤ、曲芸団の人達はこのテントの中で寝るのかしら)

と見ている内に、男はツカツカこちらへ来かかったが、そこに守が佇んで、じっと自分を見つめているのに気づくと、ハッとした様に、向きを変えて反対の方角へ歩き出した。

(あいつだ! 春川月子を殺した奴だ!)

守青年は冷水ひやみずをあびせられた様な感じがした。

そいつは鳥打帽を冠っていたのだ。見覚えのある青眼鏡をかけていたのだ。鼻の下には一文字に濃い髭があったのだ。

あとになって分ったのだが、そこは金杉の大通りであった。守はいつの間にか省線の陸橋ブリッジを渡って、自宅とは反対の方角へ歩いていたのだ。

金杉と云えば省線を隔てて、谷中とは目と鼻の間だ。犯人は兇行現場を逃げ出して、今までこの見世物小屋に身を潜ひそめていたのに違いない。

昼間は往来の烈はげしい大通りだけれど、今は人の影さえなく、流しタクシーもほんの時たま、通り魔の様に行き過ぎるばかりだ。それに、丁度その辺は何かの会社の長いコンクリート塀になっていて、助けを求める術すべもない。

守青年は少なからず躊躇ちゅうちょを感じたけれど、この大罪人を見逃してしまうのは、余り残念だったので、勇気をふるい起して、青眼鏡の跡をつけて見ることにした。

犯罪者の急ぎ足の靴音ばかりが天地に響き渡っていた。その三四間あとから、跫音を盗んでコソコソと歩いて行く、みじめな青年が彼であった。広い世界に、彼と犯人とたった二人限きりという様な、ひどく心細い感じがした。

青眼鏡は尾行者に気づいているのかいないのか、振向きもしないでサッサと歩いて行く。

異様に長く感じられたコンクリート塀が、やっと終ると、犯罪者はその塀に添って、ヒョイと暗い横町へ曲ってしまった。

見失ってはならぬと、一層急ぎ足になって、同じ角を曲ったが、一歩その暗闇に踏ふみ入いったかと思うと、守青年はギョクンと立ちすくんでしまった。

青眼鏡の黒い影が、正面を切って、そこに待ち構えていたのだ。

「静かにしろ。でないと……」

男は変に嗄れた声で云って、右手を動かして見せた。ピストルだ。

「相川君」

とその男が呼びかけた。守は余りの意外に、空耳ではないかと疑ったが、決してそうではなかった。

「フフフ……、驚いたか。よく知っているんだよ。さっきは色々御苦労様だったね。だが、つまらない真似はよすがいいぜ。お前なんかの手に合う俺じゃないんだ。サア、帰り給え。向うを向いて、おとなしくあんよをするんだ」

低い圧し殺した声で云いながら、右手のピストルが絶えずチロチロと威嚇いかくする様に動いていた。

相川青年は途方に暮れてしまった。おめおめと悪人の命令に従うのは、余りにみじめだ。と云って、この飛道具を持った命知らずを相手に、何をしようというのだ。

「どうして僕の名を知っているんだ」

とでも虚勢を張って見る外はなかった。

「ウフフフ……、知っている訳があるのさ。お前は、大切な俺の餌食の兄弟だからね」

守には咄嗟とっさに「餌食の兄弟」という意味が分らなかったので、黙っていると、相手はさもおかし相に又笑って、併しやっぱり圧し殺した声で、

「餌食というのはね、ホラ、今夜の春川月子みたいな美しい餌食のことさ。ウフフフ……、分ったかね」

アア、何と云う事だ。悪魔が餌食といっているのは、守の妹の珠子のことであったのだ。だが、余りと云えば突拍子とっぴょうしもない言草いいぐさではないか。一体全体何の理由があって、何の恨みがあって。

「僕の妹を知っているのか」

「ウン、よく知っている。東京の女学生という女学生の内で第一等の美人の珠子という娘を、俺はとっくから知っているんだ」

「どうしようというのだ」

「餌食にしようというのさ。ウフフフ」

「ウヌ」

余りの言草に、守はカッとのぼせ上って、いきなり相手に組みつこうとした。

「馬鹿ッ、命が惜しくはないのか」

グイグイとピストルの筒口をつきつけられては、流石にそれ以上手向てむかう勇気はなかった。守はただ拳こぶしを握りしめて、身体中から冷汗を流して、無念の歯噛はがみをするばかりであった。

「サア、そっちを向くんだ。そして、あんよは上手と」

肩を掴んでねじ向けられると、もうそのままにしている外はなかった。

忽ち背後に悪人の走り去る跫音が聞えた。そして、二三間隔へだたった声で、

「精々せいぜい用心したまえ」

という捨白すてぜりふが、囁くように聞き取れた。

殺人鬼は、今まで考えていたよりも、数倍も恐ろしい奴であった。守青年が今夜殺人現場を見せつけられたのは、偶然ではなかったのかも知れない。悪魔はそれをちゃんと予知していて、彼の所謂餌食の料理法を、態と見せびらかしたのかも知れない。すると、レストラン・ソロモンでの邂逅かいこうも、密談も、凡て悪魔の計画の内に含まれていたのだろうか。

守は悪人の跫音が聞えなくなると、性懲しょうこりもなく又跡を追おうとしたが、その横町は一度大通りからそれると、まるで迷路のように入組んだ細道になっていて、その上軒燈けんとうもない真暗闇まっくらやみなので、出来るだけ歩き廻って見たけれど、青眼鏡の行方をつきとめることは全く徒労に終った。

彼は仕方なく大通りに引返し、空車の通るのを待って、家に帰ったが、その途みちで、さい前の派出所へ立寄って、金杉での、恐ろしい出来事を報告するのを忘れなかった。

闇に浮く顔

翌日の夕刊社会面は、どの新聞も「妖虫殺人事件」で埋うずめられた。さまざまの犯罪記事に慣れた人々も、このずば抜けた事件には、胆きもを冷さないではいられなかった。

殺されたのが、この国の津々浦々にその名を知らぬものもない、映画界の女王春川月子なのだ。殺したのが、その形を想像した丈けでもゾッとする、妖虫蠍さそりの精とも云うべき悪魔なのだ。これが全国の話題となり、全国の恐怖とならない筈はなかった。

新聞は金杉の曲芸団に手入れが行われたことも書き漏らさなかった。

守青年の報告によって、所轄警察の人々は、翌早朝曲芸団を襲った。犯人は団中の一員ではないかと推察されたからだ。

併し、十数人の男女の曲芸団員中には、犯人の容貌風采ふうさいに似よりの者さえいなかった。昨夜テントの中に寝泊りしたのは、木戸番の六十歳に近い老人と、一座の売りものになっている一寸法師の小娘だけであったが、「青眼鏡の男がテントの中に入っていた」と聞いて、二人ともびっくりしている有様であった。外の団員達も、それぞれ木賃宿きちんやどとか、遊廓ゆうかくとか泊り場所が分っていて、残らずアリバイが成立した。

結局犯人はただ、無人を幸いに、曲芸団のテントを、一時の隠れ場所に選んだに過ぎないことが明かとなった。

兇賊の正体も、その行方も全く不明なことが、人々の恐怖を倍加した。あの醜怪な毒虫は、どこかの隅に、呼吸いきを殺して、じっと餌物えものを待っているのだ。と思うと、若い娘さんなどは、夜遊びの帰り途、暗い辻々を曲るのも、ビクビクものであった。

相川家の人々が、そういう局外者などよりは、幾層倍の恐怖に戦おののいていたことは云うまでもない。殊ことに彼等は、世間のまだ知らない犯人の予告を、相川珠子こそ第二の餌食と狙われているのだという恐ろしい予告を、聞かされていたのだから。

「いくら大胆な曲者でも、まさか人殺しの予告なぞをして、態々わざわざ相手を警戒させる筈はありませんよ。そいつはどうかして守さんを見知っていて、咄嗟にあんないやがらせを云ったのでしょうよ。いくら何でも、あんまり馬鹿馬鹿しい事ですもの」

家庭教師の殿村京子などは、そう云って青眼鏡の言葉を信じようともしなかったが、守青年は、あの悪夢の様な殺人の目撃者であった丈けに、一概に賊のおどし文句とは言切いいきれれない気がした。父親の操一氏も、大切な一人娘の事だから、兎も角念の為にと云うので、警官の巡回を増して貰もらうやら、二人いる書生の上に更に屈強な青年を一人傭入やといいれるやら、珠子の通学の往ゆき復かえりには書生を供ともさせるやら、出来る丈けの用心をした。

守、珠子兄妹の母は、数年以前世を去って、家族と云っては、独身を続けている父の操一氏と、兄妹の三人切りであった。三人の身の廻りの世話は長年勤めている老女中が引受けていたが、母に代って若い珠子を教え導く人がなかったので、操一氏は知合しりあいの牧師に頼んで、教養あるクリスチャンで、家庭教師の経験を積んだ殿村夫人を傭入れた。

夫人と呼ばれてはいるけれど、殿村さんは四十歳の未亡人で、十数年以前夫に別れてから、ずっと独身を通して、信仰と教育の仕事に一身を捧げている様な人であったが、この殿村夫人が、毎日午後から夜にかけて、相川家へ通勤して来るのだ。その外に三人の書生、三人の女中、これが広い邸やしきに住む相川家の全員であった。

それらの人々は、本人の珠子を除いては、皆殺人鬼の恐ろしい予告のことを云い聞かされ、警戒を申し渡されていた。

併し、仮令たとえ聞かされずとも、本人の珠子が、このただならぬ空気を感づかない訳はなかった。彼女は老女中の口から、なんなくその秘密を嗅かぎ出した。そして、身も世もあらぬ恐怖にうちひしがれてしまった。

家に居るのも怖かった。道を歩くのも怖かった。ただ学校で級友達きゅうゆうたちと机を並べて講義を聞いている間だけ、救われたように不安が消えた。

「なあに、本当に万一の用心なのですよ。そんな馬鹿馬鹿しいことが起るものですか」

殿村夫人がいくら慰めても、珠子の脅えた心は静まらなかった。今にも、今にも、あの暗い隅っこから、いやらしい毒虫が、ゾロゾロと這い出して来るのだと思うと、独り寝るのも恐ろしく、老女中の寝床を自分の部屋へ運ばせさえした。

谷中の事件があってから五日目の夕方のことであった。珠子は学校から帰って、殿村夫人の旧約聖書の講義を聞いたあとで、もう日の暮れに、疲れた身体を浴槽に浸していた。

女学生とは云っても、卒業期間近まぢかの十八歳の珠子は、仮令殿村夫人にでも、肌を眺められるのが恥しかった。どんなに怖くても入浴だけは一人でなければいやであった。それに浴室のガラス窓には、すっかり鉄格子てつごうしがはめてあったし、壁一重ひとえ向うの焚たき口ぐちには女中がいるのだし、窓の外は少しの空地を隔てて、高い塀が厳重に建てめぐらしてあったので、殆ど不安を感じることはないのだ。

珠子は、白タイル張りの浴槽の縁に、断髪の頭をもたせかけて、足を伸ばしてグッタリとなっていた。電燈の光に透いて見える湯の中に、恐ろしい程大人になった桃色の下半身が、異様に平べったく浮いていた。

我れと我が肌をじっと眺めていると、珠子はいつもの擽くすぐったい様な、甘いような、夢心地になって行った。

(人間って、どうしてこんなに美しいのだろう)

珠子は彼女自身の裸身に惚々ほれぼれとすることがあった。ある名も知らない赤雑誌に「東京女学生美人投票、第一席、ミス・トウキョウ」として、どうして手に入れたのか、珠子の写真までのせてあったのが、大評判になって、お友達から散々冷かされたことが、寧ろ誇らしく思い出された。

彼女は自分自身の美しさをよく知っていた。知っていればこそ、余計に今度の事件が恐ろしく思われるのだ。人の恨みを買った覚えは少しもない。犯人の目的が何であるかは、春川月子という第一の犠牲者を考えただけでも、分り過ぎる程分っている。

「オオ、青眼鏡さん! あたしの身体が、そんなにも欲しいの?」

彼女はふとそんなことを口走って、独りで赤くなった。兇悪無残の殺人鬼が、ゾッと総毛立つ程恐ろしければこそ、怪しくも懐しまれる刹那がないのではなかった。

彼女は目の前の透明な湯の中に、浮き上った桃色の肌の上に、水晶体凝視の魔術の様に、まざまざと、もつれ合うおぞましの幻まぼろしを描いていたが、その余りにも強烈な刺戟しげきに、真蒼まっさおになって思わず飛び出す様に浴槽を出た。

白タイルの洗い場に、すっくと立上った十八歳の処女の肉体は、何に比べるものもなく美しかった。

身体中に縞しまを作った湯の河が、桃色の曲面をツルツルと、戯たわむれる様に滑り落ち、それを柔かい電燈の光が、楽しげに愛撫していた。

ガラス窓と隣合せて、大きな姿見すがたみが懸かかっている。珠子はその前に立って、又しても我が裸身に見入りながら、手や足を色々に動かして見た。

それの作る種々様々の曲線と陰影。そこに、我身ながら、計はかり知られぬ神秘を感じないではいられなかった。

彼女は、その思いつきに真赤になりながら、あるかなきかの小声で、我れと我が名を呼びかけつつ、じっと乳房を抱きしめて、鏡の影に甘えるような微笑ほほえみを送って見たりもした。

そうして、あきずに鏡の中の自分自身と、無言の会話を取交していた時、彼女はふと、目の隅に、何かしら異様なものを感じた。

すぐ鏡の横の締切った窓の戸は、下の方は皆擦すりガラスであったが、上部の一駒丈けが透明なガラスになっていた。外は殆ど暮れ切っているので、その透明の部分だけが、真黒に見える、そこに異様な物の影が動いたように感じられた。

(見ちゃいけない。見ちゃいけない。きっと、きっと、あいつが覗のぞいているのだ)

と思うと、ゾーッと寒気がして、呼吸が苦しくなって、鏡の中の全身が見る見る青ざめて行くのが分った。

だが、見まいとすればする程、心とは離れ離れに、目だけが、恐ろしい力で、その方へ向いて行くのを、どうすることも出来なかった。

彼女は見た。

夢なのか、幻なのか、イヤイヤそうではない。恐れに恐れていたものが、とうとう現われたのだ。

そこには、透明ガラスの一駒一杯に、鉄格子の外から、悪夢にばかり見ていた顔が、現実となって覗いていたのだ。

闇の中に浮き上った、あの恐ろしい程無表情な顔。大きな青眼鏡をかけて、濃い口髭を生やして、鳥打帽をまぶかに冠った、あの顔。

珠子はその恐ろしい顔を見つめたまま、まるで見えぬ手に抱きすくめられでもしたように、じっと立ちすくんでいたが、やがて、彼女の真蒼な顔が、べそをかくように歪んで、下顎したあごがガクガクと震えたかと思うと、精一杯の力で口が開いて、「ヒーッ」というような、一種異様の甲高かんだかい悲鳴が、湯殿の壁に谺こだまして、物凄く響き渡った。

名探偵

この悲鳴を聞いて、真先に駈けつけたのは、兄の守と、殿村夫人と、一人の書生とであった。

誰が先にともなく、湯殿の中へなだれ込むように入って見ると、タイル張りの洗い場一杯に、珠子の白い身体が長々と横たわっていた。

「守さん、あれを、あれを」

珠子の身体に近寄りかけて、何なぜかハッと飛びのいた殿村夫人が、真蒼になって指さすものを見ると、守青年も書生も、ギョッと立ちすくんでしまった。

俯伏しになった珠子の、美しい背中に、ポッツリと赤い斑点はんてんがあった。最初は、それが珠子を殺した傷口かと思われたが、よく見ると、血ではなくて、血よりももっと恐ろしい、一匹の真赤な虫であった。赤く彩いろどられた蠍さそりであった。

珠子はこの毒虫に刺し殺されたのか。イヤイヤそんな筈はない。春川月子の場合と同じように、それは蠍の死骸に過ぎないのだ。悪魔の紋章に過ぎないのだ。

守は珠子の上にしゃがんで、その赤い虫をパッと払いのけた。やっぱり死骸であった。払い飛ばした毒虫は、湯殿の隅に、じっと動かないでいる。

「珠子、珠子」

守は妹の身体を抱き上げて、傷口を検しらべて見たが、どこにもそれらしい痕あとはない。

名を呼びつづけて、上半身を揺ゆすぶっていると、珠子がパッチリと目を開いた。アア殺されたのではなかった。ただ気を失っていたばかりなのだ。

「早く、早く」

彼女はひからびた唇を動かして、しきりと窓を指さしている。では、窓の外に何者かが忍び寄っていたのか。

それも検べて見なければならぬ。だが、珠子の手当ても肝要だ。それに第一、若い女の裸身をいつまでも人目に曝さらして置くのは心ない業わざだ。

「君はあっちへ行ってね、代りに婆やをよこしてくれ給え」

守は先ず書生を去らせて置いて、

「先生、僕は外を検べて見ますから、ここをお願いしますよ」

と、彼自身も湯殿の外に出た。

焚き口へ廻って見ると、受持の女中が、庭に出て、キョロキョロとあたりを見廻していた。

「オイ、今そこを誰か通らなかったか」

声をかけると、女中はギョッとした様に振向いて、

「アノ、お嬢さまがどうかなすったのでございますか」

とおずおずと訊ねる。

「ウン、気絶していたんだ。誰か窓の外から覗いた奴があるらしい。お前気がつかなかったかい」

焚き口の戸は開いたままになっていて、湯殿の窓に近づく為には、その戸の前を通る外ほかに道はないのだから、そこにいた女中の目をかすめることは出来なかった筈だ。

「イイエ、誰も、ここを通ったものなんかございません。わたくし、さっきから、ずっと戸口の方ばかり向いていたのですけれど」

「おかしいな。ではここから覗いたんじゃなかったのかしら」

守は問題の窓の所へ歩いて行って、すぐその前の板塀についている潜くぐり戸どをガタガタ云わして見たが、内部からの鐉かけがねに異状はなかった。すると、曲者は塀をのり越えて出入りしたとでも考える外はないのだが、いくら器械体操の名手でも、何か足場がなくては、この高い塀を越えることは出来ない。

「お前、珠子の叫び声を聞いて、すぐにこの庭へ飛び出したのかい」

女中を顧みて訊ねると、

「ハイ、すぐにでございます」

「誰もいなかったんだね」

「ハイ」

「この塀をのり越した奴を、お前気づかなかったんじゃあるまいね」

「イイエ、そんなこと決してありません。いくら暗くっても、塀をのり越すのが分らない筈はございませんわ」

この女中はなかなかしっかり者であったから、これらの言葉は凡て信用して差支なかった。

又、そのあとで、手提電燈を取寄せて、窓の外の地面を調べても見たけれど、そこは一面に固い土で、足跡らしいものも発見出来なかった。

こうしてあらゆる通路が否定されて見ると、結局、湯殿の窓に近づいたものはなかったのだと考える外はない。

それにも拘かかわらず、正気を取戻した珠子は、

「決してあたしの気のせいじゃありません。気のせいやなんかで気絶する人があるもんですか。確かに確かに、あの窓から覗いた奴があるんです。色眼鏡をかけて口髭を生やしていたことも、決して間違いはありません」

と主張してやまぬのだ。

その上、珠子が幻を見たのでない、れっきとした証拠が残っている。絵の具を塗った蠍の死骸などが、ただ訳もなく湯殿の中に落ちている筈がないではないか。青眼鏡の怪物でなくて、誰がこんな変てこな真似をする奴があるものか。

しかも、その曲者の侵入した形跡が少しもないのだ。ここに一つの不可能が為なしとげられたのだ。非常に滑稽こっけいな空想が許されるならば、青眼鏡は、軽気球の碇綱いかりづなにとりすがって、窓の所まで下くだって来た、とでも考える外には仕方がないのではないか。

珠子は医師の手当てを受けて、床についてはいたけれど、恐怖の余り失神したというだけであって、別に心配する容態ではなかったが、この出来事によって、悪魔の予告は決して出鱈目でたらめでなかったことが明かになった。彼奴きゃつの再度の襲来こそ気懸りだ。今夜は珠子の悲鳴の為に逃去ったとしても、このまま断念してしまう様な相手でないことは分り切っている。

相川操一氏は、丁度その時分、事業上のある晩餐会ばんさんかいに出席していたのだが、電話の知らせを受けて、急いで帰宅した。そして、守と殿村夫人とから、一伍一什いちぶしじゅうを聞取ると、直ちにこの事を警察に知らせて、一層の警戒を依頼することにした。

「でも、何だか心元無こころもとのうございますわね。相手が魔法使みたいな恐ろしい奴ですもの。警察にお願いする外には、もう方法はないものでございましょうか」

殿村夫人は、兇賊の予告を軽蔑していた丈けに、このまざまざとした事実を見せつけられては、もうじっとしていられないという風であった。

「僕もそう思いますね。こんなずば抜けた悪党と戦うには、ただ力だけでは駄目です。相手が魔法使なら、こちらも魔法使に加勢を願う外ありません」

守も「探偵さん」らしく主張した。

「お前が加勢を頼みたい魔法使というのは、例の三笠龍介みかさりゅうすけのことか」

操一氏はこの数日来、三笠龍介という私立探偵の名をうるさい程聞かされていたのだ。

「そうです。こうなったら、もうお父さんも不賛成ではないでしょう。あの人を依頼する外に手はないと思います」

「お前はその人を知っているのか」

「会ったことはありませんけれど、手柄話は色々聞いてます。日本のシャーロック・ホームズと云われている人です。警察の手におえない事件を、片っぱしから、この人が解決していると云ってもいい程です。ただ、非常な変り者で、余程気に入った事件でないと引受けない相そうですが、蠍の怪物なら相手に取って不足はないでしょう」

「若い人かね」

「ところが余り若くないのです。寧ろ老人といった方がいい位です。写真で見ると、モジャモジャと顎髭なぞ生やした、痩やせっぽちのお爺さんです」

「殿村さん、どうでしょう、そういう私立探偵を頼むことは」

操一氏は一応、老練な家庭教師の意見を訊ねて見た。

「わたくしも、御依頼になった方がいい様に思います。珠子さんの命にかかわる事ですもの、手を尽せる丈けは尽したいものでございます」

と云うことで、結局三笠氏を頼むことに一決したが、急ぐことだから、こちらから出向いて、詳しい事情を話す方がよい。それには犯人の顔まで見知っている守が適任だ。ということになり、電話番号を検べて、先方の都合を訊ねると、丁度今外出中で、十時頃にならなければ御帰りがないという返事であった。

守青年は、夜の更けるのを待ちかねて、この稀世きせいの名探偵との初対面を、寧ろ喜び勇んで出かけて行った。彼の行手に、どんなに意外な恐ろしい運命が、待ち構えているかも知らないで。

人罠

麹町区六番地の陰気な屋敷町やしきまちの中に、明治初期の様式の、実に古風な煉瓦造りの二階建てが、ポツンと取残された様に建っている。建物のまわりには、煉瓦造りとは凡そ縁遠い黒板塀が、厳重に建てめぐらされ、石の門に、赤さびた鉄の扉が閉まっている。これが老探偵三笠龍介氏の事務所兼邸宅なのだ。

三笠氏のやり口は、何につけても非常に風変りであったが、この邸宅などは、中にも著いちじるしい一例に違いない。この建物の異様なことは、ただ外観丈けではなく、内部の構造も、まるで犯罪者の巣窟そうくつででもある様に、様々のカラクリ仕掛けが施してあって、訪問者を面喰わせるという噂であった。

守青年は、その門前で自転車を降りて、鉄扉てっぴを押し試みると、なんなく開いたので、そのまま玄関の石段を上って、ベルを押した。

ベルを押したかと思うと、待ち構えていた様に、ドアが開き、拳闘選手みたいにいかめしい男が顔を出して、呶鳴どなる様に云った。

「相川さんですか。先生はさっきからお待ちしています。お通り下さい」

入った所はホールになっていて、その正面に、二階への階段の彫りもののある手欄てすりが大蛇の様にうねっていた。

「こちらです」

と、男は先に立ちながら、

「相川さん、今晩は用心しないといけませんぜ。先生はひどく不機嫌です。いつも余り機嫌のいい人じゃありませんがね。今晩は殊にひどいですよ。さい前帰ってから、書斎に閉籠とじこもったきり、お茶を持って行っても、僕をよせつけないんですからね」

と親切に注意してくれる。見かけによらない好人物と見える。

「この家うちには、先生とあなたと二人切りなんですか」

そういう噂を聞いてはいたけれど、建物が広過ぎる様に感じたので、訊ねて見ると、

「そうです。先生は女嫌いです。奥さんは一度も持たなかった相です。僕もまあ女嫌いですがね。ハハハ……」

変物へんぶつの先生には、変物の弟子がつくものと見える。この男、初対面の客に、色々な事をペラペラと喋るのだ。

薄暗い廊下を曲り曲って、やっと名探偵の書斎に来た。廊下の造り方さえ迷路の様だ。

男はドアをノックして、「相川さんです」と呶鳴った。

すると、中からドアが細目に開いて、鬚もじゃの顔がチラッと覗いたが、低い嗄声しわがれごえで、

「相川さんだけお入りなさい。お前はベルを鳴らすまで用事はない。あっちへ行っていなさい」

と云った。

(成程なるほど変りものだわい)と少しおかしくなったが、云われるままに中に入って見ると、まるで学者の研究室の様に、四方の壁が本で埋まっていて、部屋の真中に、大きな書きもの机が、ドッシリと据えられ、その両側に主客の椅子いすが向き合って置いてある。

机も椅子も非常に古風なもので、現代人の目には、いやらしい程彫刻が施してある。殊に椅子の背中の凭もたれは、腰かけた人の頭より一尺も高くて、十八世紀の英国へでも行った様な気がするのだ。

三笠氏は、客にお掛けなさいとも云わず、サッサと自分丈け、その椅子に腰を卸おろして、知らん顔をしている。

実に変なお爺さんだ。五十五六歳の様に聞き覚えていたが、見た所では六十以上にも思われる。頭も鬚も半白はんぱくで、それがどちらももじゃもじゃと、まるで叢くさむらの様に乱れ、その真中に巨大な鼈甲縁べっこうぶちの眼鏡がキラキラと光っている。

服装は、カラも何もない皺しわくちゃのワイシャツの上に、ダブダブした冬物のスコッチの背広を着ているのだが、非常に背が低くて痩せているので、まるで猿に洋服を着せた様な恰好かっこうだ。

守が一通りの挨拶あいさつをして、前の椅子に腰かけると、老人は正面からジロジロと彼の顔を眺めながら、

「どんな用件だね」

と、不愛想に訊ねた。

「実はこの頃新聞で騒いでます妖虫事件についてお願いに上ったのです」

妖虫事件と云えば、三笠氏はきっと興味を感じて、乗り出して来るに違いないと予想していたのに、一向そんな様子は見えぬ。

「ウン、それで?」

と先を促うながすばかりだ。

守は、谷中の空家での隙見から、今夕こんせきまでの出来事を、かいつまんで説明した。老人は何を聞いても少しも驚く様子はなく、ただ「ウン、ウン」と聞流している。実に張合のない態度だ。

「私達は妹の危険を除くことが第一の希望なのですが、犯人が逮捕されれば、これに越したことはありません。どうでしょう。この事件を引受け下さる訳には参りませんでしょうか」

守は言葉を切って、じっと相手の返事を待っていたが、老人は、やっぱりこちらをジロジロ眺めながら、何時いつまでたっても、何とも答えない。少々気味悪くさえなって来るのだ。

「どうでしょうか、先生。枉まげて御承知願いたいのですが」

「君は、それを僕に頼みたいと云うのかね」

三笠氏の声の調子が少し変った様であったが、守はそこまでは気附かず、ただ相手の質問の意味が分り兼ねて、答えに迷った。

「君に聞くがね、君は一体誰と話をしていると思っているんだね」

オヤ、変だぞ。この爺さん気でも違ったのじゃないかしら。

「無論、先生とです。先生に犯罪事件を御依頼しているのです」

「先生て、誰だね」

「三笠龍介先生です」

守は余り馬鹿馬鹿しい質問にムッとして、思わず声が高くなった。

「ホホウ、三笠龍介。僕がその三笠龍介だとでも云うのかね」

それを聞くと、守はギョッとして、腰を浮かさないではいられなかった。

(この親爺おやじが気違いか、でなければ、俺の方が気違いなんだ。それとも俺は夢を見ているのじゃないかしら)

「僕は三笠先生をお訪ねしたのです」

「ホウ、そうかね」

「じゃ、あなたは、この家うちの御主人じゃなかったのですか」

「マア、主人みたいなもんだ」

老人は鬚の中から、ニヤニヤ笑っている。

「それなら、三笠先生でしょう」

「そう見えるかね」

「エ、何ですって?」

「そう見えるかと聞いたのさ。俺も変装がうまくなったものだなあ。ハハハハハハ……」

守はピョコンと立上って、椅子を小盾こだてに取って身構えながら、えたいの知れぬ相手を睨にらみつけた。

「君は誰だ。なんだって、こんないたずらをするのだ」

老人は腰かけたまま、平気でニヤニヤ笑っている。

「いたずら? フフフ、いたずらよりゃ少し気の利いたことだよ。酔狂すいきょうにこんな下らない変装なんぞするものか」

「じゃ、なぜだ。なぜそんなことをして僕をだましたのだ」

「君を虜とりこにする為にさ。君は三笠の親爺の次に、俺達には邪魔っけな人間だからね」

「俺達だって? すると貴様は……」

「ハハハ……、やっと分ったね。云ってごらん、その次を」

「赤い蠍」

「ウン、その通り。君はなかなか頭がいいよ。ハハハ……」

あの鬚をむしり取って見なければ、こいつが青眼鏡の本人かどうかは分らない。併し殺人鬼の同類には極きまっているのだ。

さい前案内の男を室内に入れさせなかった理由が、今こそ分った。こいつは本物の三笠氏ではないものだから、初対面の守はごまかせても、弟子の前に顔を曝す程自信がなかったからだ。

「で、僕をどうしようというのだ」

「殺しはしない。安心し給え。ただちょっとの間、窮屈な思いをして貰もらおうというのさ。この家うちは、実にお誂向あつらえむきのカラクリ仕掛けになっているのでね」

併し守青年は、この毒舌を半分しか聞かなかった。アッと思う間に、彼の踏んでいる床板が、消えてなくなったからだ。

グラグラと眩暈めまいがして、世界が遠のいて行くのを感じたかと思うと、グンと脊骨せぼねが砕くだける様なショックを受けた。

「ハハハ……、マアごゆっくり」

遠くの世界から、そんな声が聞えて来た。痛さをこらえて見上げると、遙かの天井に四角な白いものがある。

(アア、あれが陥穽おとしあなの口なんだな。俺は敵の罠にかかってしまったのだな)

心のどこかで、そんなことを感じながら、半ば無意識にグッタリなっている内に、天井の穴はパッと閉じられてしまった。

見れども見えぬ、黒暗々こくあんあんの地底の穴蔵だ。

咄嗟には何の思案も浮かばなかった。ただ兇賊の底知れぬ魔力に、あっけにとられるばかりであった。

だが、段々心が静まるにつれて、打身の痛さと、地底の冷気が、身にしみて感じられた。それよりも、彼を取り囲む文目あやめも分わかぬ暗闇が、云うばかりなく心細かった。

こんな所へ落込んだら、誰かが助けてくれぬ限り、二度と日の目を見ることは出来ないかも知れぬ。俺はこのまま永久に闇の底に閉籠められたまま、飢えと寒さに死んで行く運命なのではあるまいか。守は心弱くも、そんなことさえ考えた。

ふと気がつくと、闇の中に、何かしら物の気配が感じられる。どうやら呼吸の音の様だ。誰だ。若しや敵が命を奪いにやって来たのではないかしら。それとも、この穴蔵には、何かの獣けだものが飼ってあって、そいつが、飢えた牙をむいて、ソロソロと餌物に近づいて来るのではあるまいか。

守は地面に横わったまま、首丈けをもたげて、じっと耳を澄ました。空耳ではない。確かに息遣いの音だ。何かしら生きものが、暗闇の中に蠢いているのだ。

闇を這うもの

相川青年はこの日頃、悪夢の世界をさまよい続けて来た。春川月子の虐殺、化物屋敷の壁に描かれた血の蠍、箱の中から聞える異様な歌声、叢に生えた生腕なまうで、闇夜の曲芸団のテントから現われた青眼鏡の怪物、名探偵三笠龍介氏に化けた殺人鬼、どれもこれも、凡てこの世の出来事とは考えられなかった。そして、今この穴蔵も亦、それらの奇怪な悪夢の続きなのではあるまいか。

彼は何も見えない闇の中に、人間程の大きさの蠍を幻想した。蜘蛛の様な八本の長い足を、互違たがいちがいに動かして、巨大な鋏をいからせ、鋭い毒針の尻尾を醜く歪まげて、隙もあらば一飛びに襲いかかろうと身構えながら、ゴソゴソと這い寄る、真黒な怪物を、幻想した。その妖虫が、犬かなんぞの獣けだものの様に、ハッハッと呼吸しているのだという、変てこな考えに、彼はワナワナと震え出す程の恐怖を感じた。

コンクリートらしい、冷たくてザラザラした床を、守青年は、身を縮める様にして、呼吸の音とは反対の方角へ、ジリジリといざりながら、

「シッ、シッ」

と激しく、見えぬ獣を叱しかりつけた。

すると、それに答える様に、闇の中にパッと光りものがして、ギラギラと輝く怪物の目が彼を睨みつけた。

「君は、相川君ではないかね」

意外にも、その光りものの奥から、獣が人間の言葉で呼びかけた。イヤ、獣でも、お化け蠍でもなく、それは一人の人間だった。この穴蔵には守の外ほかに、誰かしら先客があったのだ。光りものは、怪物の目ではなくて、その男が小型の懐中電燈を点火したのであった。

「誰です、僕の名を知っているのは?」

守は、声の主を敵とも味方とも計はかりかねて、用心しながら聞き返した。

「やっぱり相川君だったね。わしだよ」

相手の人物は、そう云いながら、懐中電燈の向きを変えて、我れと我顔を照らして見せた。

闇の中に、顎の下からの逆光線で、クローズ・アップされた老人の顔、モジャモジャした頭髪、顔を埋めた半白の鬚髯しゅぜん、まん丸なロイド眼鏡。

守は慄然として、息を呑まないではいられなかった。

いつの間に先廻りしたのだろう。何という素早さだ。そこに照らし出されたのは、正まさしく最前の三笠龍介の、不気味な顔ではなかったか。

「アッ、貴様は!」

(さては、悪魔奴め、穴蔵へ落したばかりでは安心出来ないものだから、俺の息の根をとめる為にやって来たんだな)

守は不思議な昏迷に陥って、死にもの狂いの身構えをしたが、相手は早くもそれと気づいたのか、再び懐中電燈をこちらへさし向けた。

「イヤ、感違いをしてはいけない。君をひどい目に合わせた奴は、まだこの上の部屋にいる。わしのこの髯はつけ髯じゃない。わしが君の訪ねてくれた三笠だよ」

穴蔵の名探偵! これはまあ何とした事だ。

「ハハハ……、わしも君と同じ目に合ったのだよ。わしの作った陥穽へわし自身がつき落されたのだよ」

「本当ですか。先生まで、あいつの為に、……」

守はあっけに取られてしまった。あこがれの名探偵の、このみじめな姿に、悲惨をさえ感じた。だが、罠にかかった老探偵三笠龍介氏は、不思議なことに、少しもうろたえていなかった。ジメジメした穴蔵の底が、まるで居間ででもある様に、異様に落ちつき払っていた。

「わしが外出から帰ると、助手のトムが、相川さんから電話があって、十時頃に息子さんの守という人が来られると云うので、例の妖虫事件だなと、わしは君に会うのを楽しみに思っていたのです。そして、君を待受ける為に書斎へ入って見ると、部屋の隅に、もう一人のわしが、つまりわしに変装した奴が隠れていて、不意に陥穽の釦ボタンを押して、このわしを罠にかけたという次第じゃ。ハハハ……、そういう訳で、わしは君の用件をまだ少しも聞いていないのだが、察するに、君が態々わしを訪ねて来たのは、妖虫事件の引続きに違いあるまい。今度は君の妹さんが毒虫に狙われているのではないかね」

「エ、先生は僕の妹を御存知ですか」

「ウン、噂を聞いていないでもない。君の妹さんのミス・トウキョウは、若い者の間では、なかなか有名だからね。君が訪ねて来ると聞いた時、わしはすぐ蠍を思い出し、その次には、君に有名な美人の妹さんがあることを思い浮べた。そして、君の用件が何だかということも、大方は推察していたのだよ。春川月子はミス・ニッポン、相川嬢はミス・トウキョウ。妖虫の奴、なかなか虚栄心が強いと見えるね」

暗闇の中の老探偵の声が、何かしら意味ありげに聞えた。流石は三笠龍介氏、守青年の用件を予知していたばかりか、彼の気づき得ない何かの秘密まで洞察しているかに感じられた。

七つ道具

その時、突然、どこからとも知れず、人の声が聞えて来た。ラジオの様に、異様に響く声だ。

「探偵さん。気分はどうだね。淋しかろうと思って、一人友達を送って上げたが、お気に召したかね」

三笠氏の懐中電燈が、声する方へさし向けられると、その円光の中に、壁に仕掛けた黒い喇叭らっぱの口が照らし出された。老探偵は、そこへ近寄って、喇叭に口を当てて呶鳴り返す。

「ヤア、有難う。なかなか気に入ったよ。君の骨折りのお蔭で、わしは相川君から、君達のやり口を、色々と聞かせて貰った。だが、君はそこで何をぐずぐずしているんだね。僕達が気になると見えるね」

それは上の書斎と、この地下室とを聯絡れんらくする通話管であったのだ。あの異様に響く声は、まだ上にいるもう一人の三笠龍介に違いない。今、一本の管を通して、本物と贋物にせものと二人の三笠龍介が――稀代の殺人鬼と名探偵とが、まるで友達の様に話し合っているのだ。

地底の探偵が喇叭から顔を離すと、今度は上の贋ものの番だ。

「マア、仲よく話して居給え。君達は、僕の方の仕事が済むまで、そこから出られっこはないんだから。……それとも、その深い穴蔵から這い出す隙でもあるというのかい」

「ハハハ……、心配しなくってもいい。抜け道なんぞありゃしない。君もよく知っている通り、その上げ蓋ぶたを明けて、繩梯子でも卸おろしてくれる外には、梯子段はしごだんも何もないんだから。人間業では出られやしない。わしはこの罠で、命知らずの悪人を何度も痛い目に遭わせたが、そいつらが一人だって、ここから抜け出したためしはないのだ。安心したまえ」

「フフ……、罠にかかった猟師だね、君は。散々人を苦しめた報いだ。あきらめるがいい。じゃ、二三日我慢してくれ給え。饑ひもじいだろうが餓死うえじにする様なことはありやしない。あばよ」

そして、カチンという音が響いて来た。

「通話管の蓋をしてしまった。もう少しからかってやろうと思ったのに」

老探偵は舌うちをして、喇叭の側そばを離れた。

「だが、いいんですか、先生。あいつは僕達をここへ閉籠めて置いて、その間に妹をどうかするに極まっています。ここからは本当に出られないのですか。若しや敵の裏をかくカラクリ仕掛けがあるんじゃありませんか」

守は曲者の声が聞えなくなると、俄にわかに妹の事が気にかかって、老探偵を責めないではいられなかった。

「そんな仕掛けなんかありゃしない。今あいつに云った事はみんな本当だよ」

三笠氏はいやに落ちついている。そういう折には、ふとこの探偵が、耄碌もうろくしている様に感じられて仕方がなかった。

「じゃ、僕達はこのままじっとして、奴等の為なすに任せて置くのですか。それはいけません。先生、何とか工夫して下さい。妹の命にかかわることです」

「イヤ、そんなに急せき立てることはない。カラクリ仕掛けなんぞないけれど、わしはここを出るのだ。ホラ見給え、これが探偵の七つ道具だ。わしはどんな時でも、これ丈けは肌身離さず持ち歩いているのだよ。こんな穴蔵の中に、どうして懐中電燈があったか。君は不思議に思わなかったかね。わしの七つ道具の中には、懐中電燈もちゃんと揃っているのだよ」

老探偵は云いながら、ポケットから、小型のハンドバッグかと思われる革製の容器を取り出して、円光の中に拡げて見せた。

そこには七つどころではない、二十種に余る種々様々の形をした、非常に小型な、小人島の道具類が、出来るだけ嵩かさばらぬ様に、巧みな組合せになって、ズラリと並んでいた。

金庫破りの名人が持っている様な万能鍵束、小型だけれど倍率の大きい虫眼鏡、黒い絹糸を縒より合せて作った一握り程の繩梯子、鋸のこぎりのついた万能ナイフ、指紋検出の用具、手の平に入るライカ写真器、注射器、数個の薬品の小瓶等とう、等、等。

「これをごらん。何だと思うね。わしの魔法の杖つえだよ」

老探偵が取上げて示したのは、長さ二寸程のピカピカ光る金属の円筒であった。

「これと繩梯子があれば、こんな穴蔵なぞ、抜け出すのは訳もないことだ。探偵も時には手品師の真似をしなければならない。わしはこれで、奇術師に弟子入りしたこともあるのだよ」

守青年は、三笠氏の手から、万年筆程の小型懐中電燈を受取って、穴蔵の壁から天井を照らして見た。

天井までは二間けん余りもある。壁には何の手掛りもない。翼でもなくては、唯一の出入口の上げ蓋に手は届かぬ。その上、上げ蓋の下には頑丈な掛金がかかっているし、繩梯子を投げた所で、天井に鈎かぎのかかる箇所は全くない。

三笠探偵の手品とは一体どの様なことであろう。又、この小さな円筒形の金属が、穴蔵を抜け出すのに何の役目を勤めるのであろう。

妖虫の触手しょくしゅ

丁度その頃、妖虫の餌食と狙われた相川珠子の家には、又別様の激情が起っていた。

家庭教師の殿村夫人は、珠子が床についていたし、頼みに思う守青年が、三笠探偵を訪ねて不在になるので、その夜は相川家に泊ることにして、珠子のベッドの側に腰かけて、震え戦く少女を慰める役目を引受けていたが、守が出かけて間もなく、その殿村夫人が、何か顔色を変えて、慌あわただしく主人操一氏の居間へ駈け込んで来た。

「旦那様、ちょっと、早くいらしって下さいまし、お嬢様のお部屋へ」

日頃作法正しい殿村夫人が、こんなに取乱しているのはただ事でない。

「どうしたのです。珠子がどうかしたのですか」

操一氏も色を変えて立上った。

「ごらん下さい。これです。ふと気がつくと、お嬢様のベッドの下に、こんな紙切れが落ちていました。いつの間に、どうして、あのお部屋へ入って来ましたのか、わたくし、もう怖くって、じっとしていられなかったものですから、お嬢さまにはないしょで、こちらへ駈けつけたのです」

その紙切れには、赤鉛筆で、幼児の自由画の様なものが一杯に書きなぐってあった。ちょっと見たのでは、何の絵だか分らない程下手な、赤い蠍の形だ。アア、今は珠子の寝室までも、妖虫の触手が伸びて来たのか。

こうしている間にも、珠子の上に危険が迫っているのだと思うと、跫音あしおとの高くなるのも構っていられなかった。二人は先を争う様にして珠子の寝室に急いだ。

行って見ると、珠子には別状なく、却って彼女の方で、父と家庭教師のただならぬ気色を怪あやしんだ程であったが、操一氏はそのまま落ちついている気にはなれなかった。

彼は娘の部屋を出ると、書生や女中を呼び集めて、家中うちじゅうの電燈をつけさせ、あるだけの提灯ちょうちんに火を入れて、縁側や、庭園の要所要所へかけ並べ、その間を、手分けをして巡廻させることにした。

だが、六人の召使が邸内の隅から隅を見廻っても、怪しい人影はどこにもなかった。しかも不思議はそればかりではなかった。ゾッとした事には、目に見えぬ怪物は、その厳重な監視の中を潜くぐって、まるで無人の境を行くが如く、座敷から座敷へと歩き廻っていたことが分って来た。

操一氏が居間に帰って見ると、机の上に投げ出してあった夕刊に、同じ赤い鉛筆でデカデカと大きな蠍が書きなぐってあった。

間もあらせず、女中部屋に、死にもの狂いの悲鳴が聞えたので、駈けつけると、その四畳半の入口の障子に、やっぱり醜い赤蠍の絵が張りつけてあった。

一方では一人の書生が、庭園の樹の枝にかけてある提灯の上を、不気味な守宮やもりの様に這はっている、本物の蠍の死骸を発見して震え上った。

悪魔は面白がっているのだ。腕白わんぱく小僧の様にずば抜けたいたずらをして、どこかしら見えぬ場所から、手を叩いて笑っているのだ。

操一氏は、もう家中が殺人鬼で一杯になっている様な感じで、為なす術すべを知らなかった。珠子も、敏感にそれと気づくと、殿村夫人の制止も聞かず、ベッドを降りてウロウロと、部屋から部屋をさまよった。逃げても隠れても、怪物が身近に寄り添っている様で、広い邸内に彼女の落ちつく場所がなかった。

丁度その騒ぎの最中に、玄関のベルが鳴って、一人の客が訪れた。取次に出た書生が、名刺を握って、何かしら勢込いきおいこんで主人の居間に入って来た。見ると、その名刺には、待兼まちかねた「三笠龍介」の名が大きく印刷してあった。

操一氏は自みずから玄関へ走り出て、名探偵を歓迎した。

名探偵! これがあの名高い名探偵なのだろうか。そこに無作法に立ちはだかっていたのは、薄汚ない半白の頭髪と鬚髯しゅぜんに顔を埋め、ロイド眼鏡を光らせた、みすぼらしい背広姿の老人であった。だが、操一氏は咄嗟に守の言葉を思い出して、少しも疑念を抱かなかった。守は痩やせっぽちのお爺さんだと云っていたが、成程人物は見かけによらぬものだと感じたばかりであった。

彼は老探偵の手を取らんばかりにして、応接間に招しょうじ入れ、姿なき犯人の奇怪の示威運動の次第を語った。

「家中のものが見張っている目の前で、いたずらをして行くのです。しかも、曲者は煙の様に全く姿を現わさないのです。捉とらえようにも防ごうにも、まるで方法がないではありませんか」

「ウム、狂人か、でなければ、天才的犯罪者ですわい。犯罪を予告するなんて真似は、並々の者に出来る芸当ではありません。併し、お話では、事態は可成かなり切迫している様ですな。この際は、犯人を探し出すよりも、先ずお嬢さんを守ることが第一でしょうて。お嬢さんに会わせて下さらんか。わしが一刻も離れず側につき添っていたら、先ず大丈夫です。又、そうしていれば、態々探し廻るまでもなく、犯人の方から近づいて来ますよ。わしの張っておる網の中へ、先方から飛び込んで来ますよ」

三笠氏は慣れ切った調子で、事もなげに云った。

言葉に従って、操一氏が珠子を呼ぶと、青ざめた少女は殿村夫人に手を取られて入って来た。

「お嬢さん、オオ、大変おびえていらっしゃるな。ナニ、心配することはありませんよ。わしが守って上げる。わしがあんたの側についていれば、どんな悪人だって、手出しをさせはしませんよ」

三笠氏は、老人の優しさで、娘をいつくしむ様に、目を細くして珠子を眺め、彼女の白い手を取って、その甲こうをペタペタと叩いて力づけた。

珠子は本当におびえ切っていた。怖さに気も狂い相であった。青ざめた顔に、目ばかりが、恐怖の為に、異様に輝きをまして、手の指は絶間たえまなく、何かを掴む様にもがいている有様は、心なく見る者には、ゾッとする程の美しさであった。悪魔がこの餌食のうちひしがれた艶なまめかしさを見たならば、どの様に狂喜したことであろう。

三笠老探偵は、眼鏡の奥の細めた目で、いつまでも美しい珠子を目守まもっている。目守りながら、なぜか、彼の鬚に隠れた唇が、ニッと三日月型に微笑しているかに感じられた。この真剣な場合に、彼は何を笑っているのだ。稀代の犯罪者にぶッつかった嬉しさにか、保護を託された娘の美しさにか、それとも、それとも……

「だが、御子息の守さんは、どうなすった。さい前一足先にわしの家を出られたのだが、一刻も早く吉報を齎もたらすのだとか云って」

やがて、三笠氏は、ふと気づいた様に、その辺を見廻しながら訊ねた。

それを聞くと、操一氏の方でびっくりしてしまった。蠍騒ぎの昂奮から、つい守のことを訊ねるのがあと廻しになっていたが、守は三笠探偵と一緒の車で帰ったものとばかり思い込んでいたのに。

「イイエ、守はまだ帰りません。本当にあなたより先に出たのですか」

「そうですよ。待たせてある車で帰ると云って、非常に急いでおられたのだが、ハテナ」

老探偵は、じっと操一氏を見つめて、不安らしく小首を傾けた。

「ほかに寄り道をする筈はないし、車に故障が起ったとしても、こんなに遅れることはない。おかしいですね」

「御主人、これはただ事ではありませんぞ。守君は、なかなかしっかりした敏捷びんしょうな方だ。それに犯罪に深い興味を持っておられる程だから、仮令どんな故障が起ろうとも、女子供ではあるまいし、今まで音沙汰おとさたがないというのは実に妙ですて。電話もかからないとすると。若しや……」

「若しや、どうだとおっしゃるのです」

「お気の毒ですが、犯人の手が伸びたと考える外ありません。一種の復讐ですね。犯罪の邪魔立てをする小癪こしゃくな奴という訳でしょうて。殊に守君は珠子さんの兄さんじゃからね。又、春川月子の場合、警察に告げ知らせたのも守君じゃ。犯人の復讐ですよ、これは」

老探偵は、復讐という言葉に、不自然に力をこめて、彼自身が当の犯人ででもある様に、意地悪く断言した。

操一氏は、事業の上では恐れを知らぬつわものであったけれど、二人の子供が二人とも、妖虫の毒手にかかるのかと思うと、流石にうろたえないではいられなかった。

直ちに警視庁に電話をかけさせ、自身電話口に立って、この新たに突発した変事を知らせ、守青年の保護を依頼した。

「警察からも人が来てくれる相です。あなたにも御協力を願って、何としても犯人を探し出さなければなりません」

操一氏が席に戻って報告すると、誇りの高い民間探偵は、少し不快らしい表情になって、「警察も警察じゃし、守君も守君じゃが、それよりも、第一番にしなければならぬ事は、珠子さんの保護です。守君まで誘拐されたとすると、事態は益々ますます切迫したと考えなければならん。今は珠子さんを、この家に置くのは危険千万じゃ。相川さん、何処どこか適当な隠かくれ家がをお持ちではないかな。御親戚でもよい。兎も角、この家は敵の目標になっている。犯人は邸の様子をすっかり心得ている様じゃ。いや、彼奴きゃつは邸内のどこかに潜伏していまいものでもない。ここは危い。早く珠子さんを連れ出さなければ」

操一氏は、家に置くのも恐ろしいけれど、又外へ出すのも不気味だがと、暫く躊躇していたが、そういう事には慣れ切った老探偵が再三勧める上に、殿村夫人まで、今にも犯人が襲いかかって来る様に怖がって、探偵の説に賛成するものだから、遂に、三笠氏と一緒に操一氏自身が附添って、珠子を一時郊外の親戚へ預けることに決心した。

だが、読者諸君は、この三笠龍介と自称する男が、何者だかという事を、そして又、珠子連出しを勧める彼の底意が、どんな恐ろしいものだかを、とっくに気づいていられるに違いない。

アア、本物の三笠龍介は、何をしているのだ。彼は果して暗闇の穴蔵を抜け出すことが出来たかしら。若し抜け出したとしても、この危急に間に合うのだろうか。偽探偵の怪物は、まんまと相川操一氏をだましおおせて、今にも珠子を連れ出そうとしているではないか。妖虫は今や、その尻尾を醜くまげて、餌物に飛びかかろうとしているではないか。

魔法の杖

時間を比べると、偽物の三笠龍介が相川邸を訪れた少し前、穴蔵にとじこめられた、三笠探偵と相川守の間には、脱出の工作が進行していた。

「ですが、そんな小っぽけな道具で、どうしてこの地下室が抜け出せるのですか」

暗闇の中から、守青年の声がいぶかしげに訊ねた。

豆の様な、併し非常に光力の強い懐中電燈が、探偵の七つ道具の容器を照らしていた。その円光の中に三笠氏の皺くちゃな指が問題の銀色に光る円筒形の金属をおもちゃにしていた。

「種を明かせばナアンダという様なものさ。しかし、これがあるばかりに、全く不可能に見える穴蔵の脱出が、可能になるんじゃから、不思議じゃて」

老探偵は舞台の手品師の様に勿体もったいぶった。

「若しや、それはダイナマイトじゃないのですか」

「アハハハ――、爆薬なんか使ったら、わし達が木端微塵こっぱみじんじゃ。マアよく考えて見給え。ここを抜け出す唯一の手段は、わし達が落ちて来たあの天井の陥穽おとしあなの蓋を開くことじゃ。その蓋を内部から開く唯一の方法は、ホラ、あすこに見えている留とめ金がねを、グッと四十五度丈け廻すことじゃ。すると支えがなくなって、蝶番ちょうつがいになった板が、自然に下って、あとに出入口の穴があくという訳だよ。分ったかね」

「ですが、あの高い天井の留金をどうして廻すのです。その銀色の道具を投げつけるのですか」

「わしは石投げの名人じゃない。よし命中しても、そんなことで留金は廻らんて」

「じゃ、どうするのです」

守は、この一刻を争う場合、老探偵の余りの落ちつき振りに、もうイライラしていた。

「それはね、手品師の方で魔法のステッキと云われている、ごくありふれた道具なのだよ。これをごらん、僅か二寸程の筒が、引っぱれば引っぱる丈け、どこまでも伸びて来るのだ。一尺、二尺、三尺とね」

あっけにとられた守の前に、見る見る、闇にも光る一丈程の銀色の竿さおが出来上った。竿の先端さきには、股になった金属の角つのが生えている。それが指の代理を勤めようという訳だ。

だが、金属が飴あめの様に伸びる道理はない。それには仕掛けがあるのだ。ちょっと見たのでは小さな一箇の円筒に過ぎないが、その実は薄い鋼鉄の筒を幾十箇となく重ね合せたもので、筒と筒とにピッチリ締まる留め金がついていて、内側の筒を引き出すに従って留め金がかかり、元に戻らぬ仕掛けになっている。

「君は、写真器の三脚に、これと似た仕掛けのものがあるのを見たことがあるじゃろう。もっと手近な例では、旅行用の伸び縮みする金属のコップだ。登山家などが使っているあれだよ。この魔法の杖はあの仕掛けを極度に利用して、良質の鋼鉄を使い、微妙な細工を施したものに過ぎないのだ。ハハハ……、どうじゃね。何でもない思いつきが、ひどく調法するではないか。わしはこの様な魔法の道具を色々と工夫して用意しているのだよ。七つ道具さえあれば、三笠龍介の字引きに『不可能』という字はない訳じゃて、ハハハ……」

守が命ぜられるままに、懐中電燈を持って、天井の陥穽の蓋を照らしていると、老探偵は、支那の大道だいどう手品師の様な恰好で、銀の竿をあやつり、巧みにそこの留金を廻して、蝶番の板を開いてしまった。

それから、竿の先に絹糸の繩梯子の鈎を引かけると、又もや無類の器用さで、その鈎を天井の陥穽の縁へシッカリ喰い込ませた。

「サア、愈々穴蔵におさらばだ。わしが先に昇って様子を見るから、君はあとから来給え」

繩梯子と云っても、三笠氏のは普通の梯子型ではなくて、一尺置き程に、金属の環かんを結びつけて足がかりとした、一本の紐に過ぎないのだから、昇るのにもコツがあって、なかなかむずかしいのだが、老探偵は一匹の猿の様に、スルスルと、見事に昇って行った。

上から合図があったので、守も真似をして、やっとの思いでよじ昇ったが、見ると、探偵は書斎のドアを烈しく叩いている。曲者が外から鍵をかけて立去ったのだ。

暫く叩き続けていると、三笠氏の助手の拳闘選手みたいな男が、ドアを開いてくれたが、老主人を一目見て、頓狂な声を立てた。

「ヤ、ヤ、先生ですか。さっきお出かけになった先生が、どうしてこんな所に、それに、ドアには一体誰が鍵をかけたのでしょう。……先生ですか、本当に先生ですか」

彼は狐にでもつままれた様な顔をして、胡散うさんらしく三笠氏を見上げ見おろすのだ。

「馬鹿め」老探偵はいきなり呶鳴りつけた。「貴様の目はどこに着いているのだ。わしの顔を忘れたのか。さっき出て行った奴が本当のわしで、このわしが偽物だとでも云うのか」

「オヤッ、すると、さっきの奴は、先生の変装をしていたのですか。畜生め、それで読めた。あいついやに不機嫌で、僕の方を見ない様にばかりしていたが、変装を見破られるのが怖かったのだな」

「今更何をグズグズ云っているのだ。それにしても、お前はこの方を案内したって云うじゃないか。お客さんを置いてけぼりにして、主人が外出すると思うのか」

きめつけられた助手先生は、頭を掻かきながら、お人好しに笑った。

「イヤ、謀はかられたわい。偽物の奴が、出がけに、お客さまはさっきお帰りになった。なんて、嘘をつきやがったものですから、つい……」

「済んだことはいい。わし達はすぐ出かけるから、今度は十分注意して留守番するんだぞ。いいか」

老探偵は、まるで子供を叱る様に云いつけて置いて、守青年を促して外へ出た。

「これから、あいつを追っかけて、間に合うでしょうか」

守が不安らしく訊ねると、探偵はやっぱり落ちつき払って答えた。

「それは臨機応変じゃ。無論手遅れということはない。まだまだ最後の土壇場どたんばまでには、余る程時間がある。わしの智恵が七つ道具の考案ばかりだと思っては、大きな間違いですぞ。頭の中にも、智恵のカラクリや七つ道具が、ちゃんと用意してあるのじゃ。ナンノ、赤蠍如ごとき虫けらにひけをとってよいものか」

この年になってもまだ稚気ちきを失わぬ、それ故ゆえにこそ珍重すべき老人が、子供らしく見得みえを切った。

絶体絶命

相川邸の門前の暗闇に、一台の自動車が停っていた。偽探偵の怪人物が待たせて置いた車だ。

人目を憚はばかる様にして、コッソリと門を辷すべり出た三つの人影が、その自動車に乗り込む。主人の相川操一氏、偽物の三笠老探偵、珠子さんの三人である。行先は中野なかのにある操一氏の弟さんの住すまい、そこなれば、何の気兼ねもなく幾日でも滞在出来るというので。

自動車が走り出すと、操一氏は背後うしろの窓に顔をつけて、長い間うしろを眺めていたが、一台の車も、一人の人間も、あとをつけて来るものはなかった。殺人鬼はきっとまだ邸内に残っているに違いない。肝腎の珠子が邸を抜け出したことも知らないで。よしまた気づいていたとしても、多勢の見張りに、隠れ場所から這い出すことも出来なくて。

先ずこれで一安心というものだ。いずれは弟の家も敵に悟られようけれど、その時は又別の隠れ家を探せばよい。三笠探偵の助言のお蔭で、今夜失うかも知れなかった命を、一日でも二日でも延ばすことが出来たのだ。

守のことも心配ではあるけれど、まだ誘拐されたと極きまった訳ではなし、若しそうだったとしても、その方の捜索は、警察で十分手を尽してくれるだろう。警視庁の人が見えたら、よく事情を話して依頼する様にと、殿村夫人に云いつけて置いたから、うまくやってくれるに違いない。

いくら考えて見た所で、もうこれ以上何の方法もないのだ。あとは運命の神様に任せて落ちついているがいい。殊に味方には大探偵三笠龍介氏がついているではないか。

操一氏はそんなことを考えながら、気が落ちついて来るに随って、知らず識しらずに、袂たもとのシガレット・ケースをさぐっていたが、どこへ置き忘れたのか、袂には左右とも、それらしいものはなかった。

置き忘れたのではない。そのシガレット・ケースは、さい前自動車へ乗る時に、偽の三笠探偵が素早く袂から抜き取って、自分のポケットへ納めてしまったのだが、まさか探偵がスリに早変りをしようなどと、誰が気づき得たであろう。

「相川さん、煙草なら、これを一つやって見て下さらんか。わしは煙草丈けは贅沢ぜいたくをしておりますのじゃ。サア、御遠慮なく」

偽探偵は目早くそれと見て取って、ポケットから用意の葉巻を出して、相川氏に勧めた。

アア、危ない。その葉巻には、どんな仕掛けがあるかも知れたものではないのだ。併し、それとも知らぬ操一氏は、嬉し相に好物の葉巻を受け取って、吸口を噛み破り、火をつけてしまった。

「如何いかがですな、わしの好みは」

「イヤ、実に結構です。騒ぎにまぎれて、ずっと煙草を吸わないでいたものですから、又格別の味あじわいです」

車内には紫の煙が靄もやのように漂い、葉巻の先は刻々灰になって行った。

偽探偵は、煙草をふかし続ける操一氏を横目に注意しながら、死人のようにグッタリとクッションに沈み込んでいる珠子に、さも親切らしく、色々と慰めの言葉を囁いていたが、車が三十分も走った頃には、又しても彼女の柔かい手を取って、執拗に弄もてあそび始めた。

そぞろ心の珠子も、遂にはそれを悟らない訳には行かなかった。彼女の手に伝わる感触には、脅えた少女を力づけるというようなものではなくて、いやらしい一種の情熱があった。しかも更に異様なことには、それは決して老人のひからびた手ではなく、ニチャニチャと油っこい壮年者の手であった。

それとなく振りほどこうとしても、不気味な男の手は、吸盤でもついているように、変にからみついて離れぬばかりか、一層強い力で握りしめて来るのだ。手の平がピッタリ密着して、相手が力を加える度に、油汗にヌラヌラと辷るいやらしさ。

「お父さま、あたし何だか気分が……」

そうでもすれば手を離すかと、隣の父に声をかけたが、これはまあ、どうしたことだ。操一氏は葉巻を落して、ポカンと口をあいて、いぎたなく眠りこけていたではないか。

「お父さま、お父さま」

いくら揺り動かしても、何の反応もない。だらしなく開いた唇から涎よだれさえ流れている。お父さまのこんな寝相はあとにも先にも見たことがない。オオ、これは決してあたり前の眠りではないのだ。

「お父さま、お父さまってば」

珠子はもう泣き声になって、父に取り縋すがった。

「お嬢さん駄目だ駄目だ、いくら揺ゆすぶったって、お父とっつぁんは起きやしない」

老探偵が、突然若々しい声になって、ならず者のような口を利いた。

珠子はハッとして、三笠氏の髯むじゃの顔を凝視した。髯の中から、厚ぼったい唇がニヤニヤ笑っている。

「なぜです。お父さまはなぜ起きないのです。あなたがどうかなすったのですか」

「お父つぁん、余り葉巻を召し上ったもんだから、こんなになっちまったのさ。ハハハ……」

偽探偵が毒々しく云い放った。

「それじゃ、あの葉巻は……」

「ちゃんと、眠り薬が仕込んであったのだよ。お嬢さん、おとなにしていらっしゃい、もうあんた一人ぽっちになってしまったんだからね。ハハハ……」

「誰です。あなたは一体誰です」

珠子は色を失った唇をワナワナ震わせて、死にもの狂いの気力で叫んだ。

「アア、なんて美しいのだろう。あんたがそうして怖がっている顔は、実にたまらないですぜ、お嬢さん」

怪人物は、ソロソロと彼女の肩へ手を廻しながら、いやらしく笑った。

珠子はもう身体がすくんで、口は乾き切って、声を出す力もなく、捉えられた美しい小鳥のように、息遣い烈しく、うち震うばかりであった。

アア、もう絶体絶命だ。

珠子は妖虫の毒手を逃れようとして、却って当の赤蠍の手中に陥ってしまったのだ。老探偵に変装していた奴が、赤蠍の一味であることは云うまでもない。その外に、運転台には二人の屈強な男が頑張っている。運転手も助手も同じ仲間なのだ。そうでなくては、偽探偵がこんな大胆な振舞ふるまいをする筈がない。相手は三人だ。頼みに思う父の操一氏は麻酔に陥って死人も同然の有様。もう全く逃れる術はなくなった。

自動車はどこへ行くのか、郊外の真暗な道を、矢の様に走っていた。窓を開いて助けを求めようにも、両側はうち続く並木と生垣いけがきばかり、まれに人家が見えても、みな燈火ともしびを消して寝静まっている。

アア、本物の三笠探偵は何をしているのだ。彼の大言壮語はどうなったのだ。彼が保護を請合った珠子の命は風前の燈火ではないか。今こそ老探偵の力を揮ふるうべき時ではないのか。

併し、いかな手品師の名探偵も、風のように疾走するこの自動車を、どう止めることが出来るだろう。賊の自動車は一台きりだ。あとをつけている車などは全く見当らぬ。

藪やぶの中の美少女

白髪の鬘かつら、白髪のつけ髭をした、偽物の三笠探偵は、変装とは全く違った中年男のネットリとあぶらぎった手の平で、か弱い珠子の五本の指を、愈々強く握りしめながら、徐々に徐々に、もはや抵抗力を失った彼女の全身を、彼の厚い膝の上へと引寄せて行った。

珠子はもう目をつむっていた。

薄暗く狭苦せまぐるしい自動車の箱の中に、ムッとする男の体臭丈けが、熱い風の様に感じられた。とうとうその時が来たのだ。巨大な蠍は真赤な鋏で、彼女を圧おさえつけてしまったのだ。今にも、毒虫の尻尾がキュウッと醜く曲って来るのだ。そしてあの毒液が、人を気違いにする毒液が、彼女を殺してしまうのだ。

万が一にも、助かる見込みなぞありはしない。頼みに思う父の操一氏は、麻酔の夢さめやらず、車の烈しい動揺も知らぬげに、眠りこんでいるし、運転手と助手とは、神経のない自動人形の様に、広い二つの背中を見せているばかりだし、窓の外は、もう一時に近い夜更け、しかも淋しい生垣道、通りかかる人もない。

絶体絶命の苦悩を通り越して、珠子は気が遠くなって行く様に感じた。そして、不思議なことには、毒虫の厚ぼったい鋏の圧力が、そのネットリとあぶらぎった感触が、烈しい動物の体臭が、寧ろ甘く好もしいものにさえ感じられた。

彼女は夢を見はじめたのだ。とりかえしのつかぬ恐ろしい悪夢にうなされはじめたのだ。

「ウフフ……、お嬢さん、どうしたんだね。馬鹿におとなしくなってしまったじゃないか」

悪魔が歓喜に震える嗄声で云った。

彼の大胆な二本の腕が、不恰好に伸びて、しなやかな肉塊をしめつけた。そして、醜い悪魔の顔と、紙の様に血の気の失せた美しい顔とが、目と目とが、唇と唇とが、五寸の近さで真正面に向き合った。

アア、一転瞬にして、珠子の穢けがれを知らぬ、花びらの様な唇は、その気高い誇ほこりを失おうとしているのだ。

だが、神様はそれ程寛大ではなかった。かかる汚辱おじょくをそのままお見逃しにはならなかった。

丁度その時、運転台から、叱りつける様な慌しい咳払せきばらいの声が聞えた。仲間内には意味の通ずる警告の合図だ。

悪魔はギョッとして顔を上げた。すると、その醜く歪ゆがんだ顔を、ガラス越しに、まぶしい後光ごこうが照らしつけた。イヤ、この場合、光を恐れる悪魔に取っては、神様の後光とも見える、立並ぶ街燈の電光であった。車はいつしか、又もや明るい市街にさしかかっていたのだ。夜更けとは云えチラホラ人通りがないではない。気がつくと、向うには交番の赤い電燈さえ見えている。

偽探偵の悪魔は、珠子の唇を盗むどころか、今は、その唇を蓋することを考えなければならなかった。こんな町中で、彼女に叫び出されでもしては一大事だ。

だが流石に兇賊、慌てふためきながらも、手早くポケットから毛の手袋を取り出し、それを丸めて珠子の口へグイグイと押込み、上から大型ハンカチでしばりつけて、早速の猿轡さるぐつわをはめてしまった。

「チッ、なんてえドジな奴らだ。もうちっとばかし暗い町を走ってくれたって、よさそうなもんじゃねえか」

偽探偵がいまいまし相に舌打ちすると、運転手の男は、振向きもしないで、ぶっきら棒に答えた。

「だって親方、お指図通りの廻り道をして、もう三河島へ来てしまったんだぜ。もう五六町で目当ての場所だ」

「ウン、そうか。もう来たのか。じゃ仕方がねえ。早くあの幽霊屋敷へつけてくんな」

珠子は息苦しい猿轡に、悪夢から醒めて、現実の意識でこの会話を聞取った。そして、幽霊屋敷という言葉に、今までとは別様な、もっと子供らしい恐怖に脅えないではいられなかった。

彼女も窓の外を見ることが出来たが、そこはまばらに街燈の立並んだ、広いアスファルトの新道路であった。皆戸をたててしまっていたけれど、両側には場末らしい店屋が軒のきをつらねていた。

こんなゴタゴタした場末町の近くに、幽霊屋敷があるのかしら。幽霊屋敷なんてもっと荒涼とした野末か山の奥にふさわしいものではないだろうかと、世間を知らぬ少女にも、何とやらいぶかしく感じられた。

アア、幽霊屋敷。嘗かつて女優春川月子が、世にも無残な死をとげたのが、場所こそ違え、やっぱり化物屋敷と云われている空家の中ではなかったか。赤い蠍の怪物は、殊更にそういういまわしい場所を選んでは、犠牲いけにえを屠ほふるという、怪物らしい好みを持っているではないだろうか。とすると、今こそ彼女の最期さいごが来たのに違いない。一寸だめし五分だめしのむごたらしい死期が迫ったのに違いない。

若し猿轡がなかったら、珠子は恥も外聞もなく、死にもの狂いの叫び声を立てたことであろう。だが、それすら今は叶かなわぬのだ。もがこうにも、悪魔の腕が万力まんりきの様に引締めている。僅かに靴の先で、運転手の腰かけの背中を蹴るばかりだ。

自動車が速度をゆるめて、大きくカーヴしたかと思うと、今までチラチラと窓をかすめていた街燈の光が、パッタリ途絶とだえて、両側が真暗闇になった。そして、その闇の中を少し行くと、車は何か大きな建物らしいものの前に停った。燈火も何もない、黒い大入道おおにゅうどうの様な異様の建物だ。

「サア、お前達は二人で、このお嬢さんを運ぶんだ。手荒なことをしちゃいけないぜ」

偽探偵が指図をすると、運転台の二人は、黙々としてそれに従った。扉ドアを開閉する音も静かに、珠子の身体は軽々と車の外へ運び出され、一人は頭部を、一人は足を、二人の男手にしっかと支えられて、藻掻もがくにも藻掻かれず、彼女は闇の中をフワフワと漂って行く感じであった。

「サア、もうおろしてもよかろう。担かついで行ったんじゃ曲がない。お嬢さんにあんよをして頂くんだ。……お嬢さん、サアお歩きなさい。今に面白いものを見せて上げますぜ」

偽探偵が案内する様に先に立って、暗い建物の入口へと近づいて行った。

すると、珠子の足を持った小柄の運転助手が、手を離し、がっしりした大男の運転手が、異様に物やさしく彼女を立上がらせてくれた。なぜだろう。こいつまでが、彼女に野心を抱いていたのかしら。それとも……。

だが何を考える隙ひまもなく、偽探偵の悪魔の手が、闇の中にニュッと伸びて、やっと立上った珠子の手首を、しっかり掴むと、どこに用意していたのか、サッと懐中電燈を照らして、二人の部下の方にさし向けながら、命令した。

「お前は入口の見張番だ。いいか、変な気配がしたら、例の合図を忘れるんじゃねえぞ。それから、自動車の中でお寝やすみになっているお方も、よく気をつけているんだ。まだまだ容易に目を覚しやしめえけれど」

懐中電燈の狭い光がチロチロと動く中を、背の高い方の部下が、指図に従って外へ出て行くのが見えた。その大男は古びた背広の襟を立てて口辺こうへんを隠し、鳥打帽を思い切り深く冠って両眼までも隠す様にしていたので、咄嗟の場合、動揺する懐中電燈の光では、顔なぞ全く分らなかった。

では、もう一人の小男の方はと見ると、これはじっとそこに立っていたので、やや明瞭に見て取ることが出来たが、こうした悪者達のならわしでもあろう、やっぱり背広の襟と鳥打帽とで、顔を隠し、その上このちっぽけな男は、御丁寧にも、黒いスカーフで、丁度珠子の猿轡と同じ様に、鼻の上まで包んでいた。そして、鳥打帽のひさしとスカーフの間には、大きなロイド眼鏡がキラリと光っているのだ。

だが、懐中電燈の狭い光が照らし出したものは、この二人の男だけではなかった。珠子は同時に、彼等の背景を為なしている、打続く深い竹藪を見て取ることが出来た。彼等が動く度たびに、竹の葉がガサガサと鳴る音をも耳にした。

オヤ、変だ。今暗い建物の中へ担ぎ込まれたと思ったのに、では、やっぱりまだ外にいたのかしら。

それにしても、こんな町中に竹藪が続いているというのは、実におかしい。ひょっとしたら、さっきからの数々の恐ろしい出来事は、みんな夢なのじゃあるまいか。イヤ、今夜の事だけでなくて、そもそも赤蠍なんてお化けみたいな怪物が出現した最初からして、悉ことごとく長い悪夢のつづきなのではあるまいか。

珠子は闇の中の竹藪と、その前を影の様に動いている三人の悪党の異様さに、ふとそんな気やすめを考えたが、若しこれが悪夢であったとしても、その本当の恐ろしさは、まだまだこれからあとに、ウジャウジャと待ち構えていたのだ。

魑魅魍魎ちみもうりょう

偽物の三笠龍介は、珠子の手を引いて、懐中電燈で足元を照らしながら、竹藪の中をガサガサと進んで行った。そのあとからは、小男の同類が、逃がしはせじとついて来る。

両側を見通しも利かぬ深い竹藪に限られた細道が、曲りくねって、果しもなく続いている。曲り曲って、遂には地の底へでも迷い込んで行くかの様に。

「お嬢さん、ホラ、ここに面白いものがいる。よくごらんなさい」

懐中電燈が、ヒョイと右側の竹藪の中にさし向けられた。

アア、やっぱり悪夢にうなされているんだ。

だが、夢にもせよ、まだうら若い少女は、それを一目見て、ハッと立ちすくまないではいられなかった。

そこは竹藪が一間程の間途切とぎれて、その向う側に、枕木の見える汽車の線路が長々と横わっているのが眺められた。三河島と云えば、大宮おおみや方面への鉄道の沿線に当るのだから、突然レールに出くわしても、別に不思議はないのだが、珠子には、なぜかその鉄道線路さえ、現実のものではなくて、悪夢の中の光景の様に感じられた。

無論、彼女を恐れ戦おののかせたのは、鉄道線路そのものではなく、その線路の上に飛び散っている数個の白い物体であった。

電燈の丸い光が移動するにつれて、人間の手が、人間の足が、人間の腿ももが、その切口をドス黒い血潮に染めて、次々と彼女の脅えた眼に。

それから人間の胴体丈けが、大きな風呂敷包ふろしきづつみのようにグッタリと横わって、その下腹部からは、何というむごたらしさ、小腸が、数百匹の蛇と、もつれ出していた。胸部には、二つのふっくらとした乳房が見える。女だ。この無残な轢死者れきししゃはまだ若い女なのだ。

最後に、丸い光の中に入って来たのは、髪振り乱した娘の首、青ざめた唇の隅から、紅絲べにいとのような血を吐いて、一本の枕木の上に、チョコンと、獄門ごくもんの形でのっかって、半白の目でじっとこちらを見つめている。

珠子は猿轡の奥で異様な唸り声を立てて、いきなり元来た方へ逃げ帰ろうともがいたが、悪魔は咄嗟に彼女を抱きすくめて、その顔を轢死人の方へねじ向けた。

「お嬢さん、サア、よくごらん。そんなに目をつむってしまっちゃ駄目だ。折角せっかく面白いものを見せて上げようと云うのじゃないか。目々めんめを開あいて、ホラ、よくごらん。可哀相にあの娘さんも、丁度お嬢さんと同じ位の年恰好としかっこうだね。オヤ、そう云えば、この死人しびとの顔はお嬢さんにそっくりじゃありませんか。エ、そうは思いませんかい」

珠子は死しにもの狂いに目をつむっているつもりでも、恐ろしければ恐ろしい丈け、怖いもの見たさの薄目がひとりでに開いて来る。すると目の前の丸い光の中に、草のように青い顔が今にもニッコリ笑いそうに、宙に浮いて見えるのだ。

ヒョイと目と目がぶッつかる。生きた珠子の目と、死んだ首ばかりの娘の目とが、何か話し合ってでもいるように、お互にいつまでも視線をそらさないで、睨み合っている。珠子は目をそらそうにもそらせない程の、烈しい恐怖に捉われてしまったのだ。

それにしても、どうしてこの轢死体はそのままになっているのだろう。夜更けの出来事であった為に、誰も警察へ知らせる者がなかったのだろうか。この悪人達が最初の発見者であって、珠子を怖がらせる為に、態と元のままにして置いたのかしら。

何故だろう。何故こんなものを無理に見せようとするのだろう。ただ怖がらせる為か。それならいいけれど、若しかしたら、アア若しかしたら、この奥底の知れない悪党どもは、珠子も今にこの通りの目に遭あわせてやるぞと、その予告をしているのではないだろうか。

「お嬢さん、轢死人というものはね、汽車が通り過ぎてしまったあとで、離ればなれになった胴体や手足にね、ちょっとの間生気が残っているものと見えて、この線路の上を、その胴体や手足が、まるで操あやつり人形みたいに、ピョコピョコと踊り狂うって云いますぜ。苦しまぎれにですよ。バラバラになってしまっても、まだ苦しさだけは残っているんですね。エ、お嬢さん、恐ろしいじゃありませんか」

なんという残酷な悪魔であろう。暗闇の中で、ボソボソと、一体いつまでいやがらせを云い続けるのだ。うら若い少女の神経が、この上の責苦に耐え得るであろうか。

「ワハハハ……」

突如として、珠子をギョクンと飛び上らせるような笑い声が、闇に谺して爆発した。

「面白くもねえ。子供だましのお芝居は、いい加減によすがいいや。お嬢さん、何もそんなに怖がることあねえ。みんな生き人形の拵こしらえもんだよ。八幡の藪知らずといってね、こりゃお化の見世物なんだよ」

運転助手を勤めた小男が、さもおかしそうに種明しをしてしまった。

アア、そうだったのか。これは見世物小屋の中だったのか。竹藪の迷路を作って、その所々へ不気味な生人形を据え、お客さんを怖がらせて渡世をする、あの古めかしい興行物だったのか。

現代娘の珠子は、話には聞かぬでもなかったけれど、こんな一世紀も昔の見世物を一度も見た事がなかった。それが都会の場末や田舎には、今も余命を保っていようなどとは思いも及ばなかった。

何かしら本当らしくないとは感じていた。だから、悪夢にうなされているのだと極めていたのだが、では、悪夢でもなかったのか。

「間抜けめ、余計なお喋りをするんじゃねえ。折角お嬢さんが面白がっていなさる所じゃねえか。とんちき、これから無駄口を叩くと承知しねえぞ」

小男は偽探偵の一喝いっかつに遭って、一縮みに黙り込んでしまった。

「サア、お嬢さん、こちらへいらっしゃい。この先にまだまだ面白いものがあるんですよ」

グイグイと邪慳じゃけんに手を引かれるままに、珠子はよろけながら、なおも竹藪の細道を辿たどって行ったが、そう聞いて見ると、如何にも見世物小屋の中に相違ないことには、暗闇ながら、戸外のような風のそよぎもなく、空には星も見えないのだ。さい前までは、それ故にこそ、一層夢の中の景色らしくも感じられたのだが。

轢死人は生人形と分った。これから先の面白いものというのも、どうせ似たような拵えものに極きまっている。だが、それだからと云って、珠子の恐怖は増しこそすれ、決して薄らぎはしなかった。人形はもう怖くはないけれど、人間が恐ろしいのだ。彼女の右手をネットリと握りしめている怪物の、計り知られぬ心が恐ろしいのだ。

それから竹藪の迷路の中心に達するまで、人形は怖くないと云うものの、ガサガサと藪をゆすって飛び出すからくり仕掛けのお化人形、幽霊人形に、珠子は幾度いくたび胆を冷したことであろう。本来ならば、足元の見える程度に、薄暗い電燈がついているのだが、悪党達は態とそれを点火せず、ただチロチロ揺れる懐中電燈の光丈けをたよりに、竹藪のアーチをくぐって行くのだから、その不気味さは一入ひとしおであった。

ある箇所では、足下にポッカリ口を開いた古井戸があって、その底に溺死人できしにんのドロドロにくずれた顔が浮いているかと思うと、ある箇所では、頭の上から、サッと風を切って、振り乱した白髪しらがに藍色あいいろの顔、まん丸に飛び出した片眼、耳まで裂けた血みどろの口で、痩せさらぼうた老婆の幽霊が襲いかかる。又ある箇所には、真赤な腰巻一枚の裸体の女人形が、藪の中から美しい顔でニタニタと笑いかけているのだ。

それらの妖怪共を、一々記していては際限がない。兎も角も、ありとあらゆる魑魅魍魎の中を潜って、珠子等らは場内中央の広場に達した。

そこは、四方を竹藪で囲まれた、十坪程の円形の空地であったが、悪党共が予あらかじめ用意をして置いたものか、ここ丈けは、片隅の柱の上に、小さな電燈が一つともって、空地全体が霧の中の景色のように、陰惨にぼかされていた。

「お嬢さん、どうですい。面白かったでしょう。この野郎があんな無駄口を叩いて種明しをしなけりゃ、もっともっと面白かったでしょうがね。まことに気の利かねえ奴で、申訳がありませんよ。ところで、とうとう目当ての場所へ来ましたぜ。ねえお嬢さん、お前さんの最期の場所へ来たんですぜ。しっかり目をあいてごらんなさい。アレだ。アレがつまりお前さんの運命なんだ」

悪魔の指ゆびさす所、おぼろに霞む竹藪の中に、ニョッキリ聳そびえた、異様な人影があった。又してもお化人形かと見れば、そうではなくて、殆ど全裸体の若い娘が、頑丈な十字架に、手を拡げ、股を拡げて括りつけられ、両の乳房のあたりに、二つの黒い穴があいて、そこから流れ落ちた血潮が、下半身をあけに染め、苦悶の形相ぎょうそう物凄く、歯を喰いしばって息絶えている。磔刑はりつけ人形なのだ。

「分ったかね。やがて二三十分もすれば、お前さんが、この人形とそっくりの、むごたらしい有様になるんだぜ。ハハハ……、怖いかね」

アア、何という悪魔。これが彼奴等あいつらの本音であったのだ。長い道中を、散々怖がらせ、いじめ抜いて置いて、最後には、今の世に聞いたこともない磔刑の目論見もくろみとは。

すると、偽探偵のその言葉が合図ででもあったように、突如、十字架の側そばの竹藪がザワザワと鳴って、そこから一人の男が姿を現わした。まぶかく冠った鳥打帽子、大きな青眼鏡、濃い口髭、黒の背広姿……彼奴だ。赤い蠍だ。嘗て谷中の空屋で春川月子を惨殺した青眼鏡。近くは相川家の湯殿の窓に現われて、珠子を気絶させた青眼鏡。珠子は思い違いをしていたのだ。彼女を誘拐した偽探偵は悪魔の首領ではなく、真しんに恐るべき妖虫赤蠍の怪物は、もうちゃんと先廻りをして、さい前からこの藪蔭に、彼の美しい餌食を、今や遅しと待ち構えていたのである。

罠と罠

青眼鏡の現われた竹藪の根元に、芝居の小道具みたいな張りぼての青い岩が据えてあったが、彼はその岩に片足をかけ、身じろぎもせず、長い間、丁度餌食を狙う蛇の身のこなしで、こちらの隅の珠子を、じっと見つめていたが、ややあって、例の異様に嗄れた陰惨な声が、地の底からのように聞えて来た。青眼鏡は物を云う時、殆ど唇を動かさぬものだから、声の源みなもとがハッキリせず、殊に斯様かような薄暗がりでは、ゾッとする程物凄く聞えるのだ。

「オオ、珠子さん、よく来て下すったね。俺はさっきから、しびれを切らして待ち兼ねていたんだぜ」

言葉が途切れたかと思うと、古沼の底のような沈黙の中に、キリキリと歯ぎしりの音が聞えて来た。確かに青眼鏡の口からだ。これが癖なのであろうか、それから後にも、彼は物を云いながら、ふと言葉を切っては、歯ぎしりを噛むのであったが、その幽かすかなきしりの音が、この怪物を一入ひとしおいやらしく不気味に感じさせないではおかなかった。

「今もそこの男が云った通りだ。俺は今度はこの幽霊屋敷を舞台に極めたんだよ。珠子さん聞いているかね。この磔刑人形だ。これを十字架からおろしてね、その代りにお前さんを縛りつけてね、生身のお前さんに磔刑人形の代役を引受けて貰おうって訳なんだ。エ、なんとすばらしい思いつきじゃねえか。明日になれば何百人という見物がおしかけて来るんだ。そしてね、生身の身体とは知らねえで、本物の血のりだとは知らねえで、何とまあ美しい人形だろう。何とまあむごたらしい殺され方なんだろうと、口をあんぐり開いて、感にたえて眺めて下さろうというものだ。千両役者だぜ。ヤンヤの御喝采だぜ。エ、珠子さん、嬉しいだろうね。ゾクゾクと嬉しいだろうね。ハハハ……」

青眼鏡は我とわが言葉に感動して、さもおかしそうに、陰いんにこもった笑声を立てたが、ふと気がつくと、聞手の珠子は、もうさっきから、彼の云い草なぞ聞いてはいなかった。彼女は堪こらえ堪こらえた最後の気力を失って、その場にぐったりとくずおれて、可哀相に気絶してしまったのだ。

「ちっと薬が利きすぎたね」

偽探偵が、くずおれた珠子を顎でしゃくって、首領の青眼鏡に笑って見せた。

「却って世話を焼かせなくってよかろうぜ。柱に括りつけてしまってから、目を醒まさせる方がいい」

青眼鏡は云いながら、張子はりこの岩のうしろへ手を突込んで、スルスルと一丈程もある黒い棒のようなものを引っぱり出し、それを立ててトントンと地面を突いた。見上げる棒のてっぺんには、キラキラと銀色のものが光っている。槍やりだ。おもちゃではない本物の槍だ。これで珠子の胸を抉えぐろうというのだろう。

青眼鏡はその槍を使って、十字架上の磔刑人形の手足を縛った繩を、プツリプツリと切り離した。人形はガサガサと大きな音を立てて、竹藪の底へ落ち込んでしまった。あとには、頑丈な十字の柱が、珠子の身体を待ち兼ね顔に、白々と立っている。

「サア、手伝ってくんな。この柱を倒して、娘を括りつけてから、元の通りに立てるんだ」

青眼鏡の命令だ。

「合点がってんだ……オイ、お前何をボンヤリしているんだ。早くこっちへ来て手伝わないか。馬鹿だな。ここへ来てまで顔を隠している奴があるものか」

偽探偵は手下の小男を呶鳴りつけた。自動車の運転手を勤めていたこの少し薄のろらしい男は、さい前から、この場の有様を、芝居でも見物するように、暗い隅っこに身をよけて、ボンヤリと立ちつくしていたのだ。

「そんなにポンポン云わなくっても、今手伝うよ。だが親方、仲間はこれっ切りなのかい」

小男が隅の方から、ノロノロと訊ねた。

「極っているじゃねえか。俺達三人限きりよ。のっぽは入口の見張番をしているんだから、残る所は三人じゃねえか。三人では不足だとでもいうのかい。何をつまらねえことを聞いているんだ」

偽の三笠探偵が叱りつけた。

「本当かい。俺おらあ又、もっと外ほかの仲間が、その辺の藪の中に隠れているんだと思った」

それを聞くと青眼鏡が陰気に笑った。

「ハハハ……、変な野郎だな。俺達の人数がそんなに気になるのかい。どうしてもお前の手を借りなけゃ、外には手伝いなんかいやしねえよ。よく見るがいい、娘の外には、三人限きりじゃねえか。この張子の岩とでも四人限りだ。ハハハ……」

青眼鏡は変な洒落しゃれを云いながら、その小道具の青い岩をポンポンと叩いて見せた。

「大丈夫かい。たった三人ぽっちで、若しお巡りでも踏込んだらどうするつもりだい」

小男はまだ執念深く訊ねている。

「チェッ、なんてのろまな野郎だ。だから入口に見張番がつけてあるじゃないか。よし又万一のことがあったところで、この暗闇の藪知らずだ。逃げるに事は欠きやしねえ」

偽探偵が癇癪かんしゃくを起した。

「だがね、用心には用心をするがいいぜ。どんなところに手抜てぬかりがあるまいものでもねえ。早い話がこの俺がだよ。鳥打や背広だけお前達の仲間で、中身は存外ぞんがい敵かも知れないからね」

「オヤ、こいつ乙おつにからんだことをぬかしやがるな」

偽探偵は、白髪の鬘に、白髪のつけ髯を振り立てて、肩を怒らせながら、小男の方へ詰め寄って行った。

「イヤ、ちょっと待ちな」

青眼鏡はなぜかそれを制して、キッとなった。

「ヤイ、そこの小っぽけな奴、帽子と襟巻を取って顔を見せろ。貴様は一体何者だ」

「ハハハ……、やっと気がついたと見えるね。エ、赤蠍の大将。じゃ手を挙げて貰おうか。二人とも手を挙げるんだ。手を挙げろッ。身動きでもするとぶっぱなすぞ」

いつの間にか、小男の右手に黒いピストルが握られ、その筒口が今にも火を吐きそうに気味悪く、青眼鏡と偽探偵の間を、素早く行ったり来たりしていた。

不意を打たれた両人は、小男の烈しい気勢に押されて、思わず両手を挙げてしまった。

「ハハハ……、神妙に手を挙げなすったね。ところで、俺を誰だと思うね。分るかね。そこな三笠龍介さん。どうだね。この声に聞き覚えはないかね」

小男の声音は突如として全く違った調子を帯びて来た。

「アッ、貴様、あの老いぼれ探偵だな」

「イヤ感心感心、わしの声を覚えていたと見える。如何にもわしはその老いぼれ探偵だよ。ホーラ見るがいい。どうだい。本物の方が、そこな偽物よりも、ちっとばかしいい男だろうが」

小男は背広の襟をくつろげ、鳥打帽子とスカーフをかなぐり捨てた。その下から現われたのは、読者も大方推察されていた通り、名探偵三笠龍介氏の白髪頭と白髯しらひげとであった。

実に異様な光景であった。そこには、おぼろげな電燈の光の中に、白髪はくはつ、白髯はくぜん、ロイド眼鏡、寸分違わぬ二人の三笠龍介が、一間とは隔たぬ距離で向き合っていた。縞柄こそ違え色合は殆ど同じ背広服、偽探偵も、頑丈作りの壮年ではあったけれど、背は並より小さい方だから、二人がヒョイと入れ替って位置を換えたら、もうどちらがどちらだか、見分けがつかぬ程であった。

流石の悪漢青眼鏡も、この不思議千万な光景には、あっけにとられて、咄嗟に採るべき手段も思い浮ばぬ様子である。

「わしはお前さんの為に地下室へとじこめられた。全く抜け出す術はない様に見えた。だが、その不可能な所を抜け出して見せるのが、三笠龍介の家いえの芸でね」

三笠老探偵は、抜目なくピストルの狙いをあちこちと動かしながら、うわべは呑気らしく話し始めた。

「抜け出すと云うと、わしはすぐ様相川家へ駈けつけたが、その時には、もうお前さんがわしに化込んで、相川さんを説きつけ、珠子さんをどっかへ連れ出そうとしている所じゃった。無論お前さんを警察へ引渡すのも心のままであったが、わしはそれをしなかった。なぜか。わしはお前さんの外に、本当の張本人がいると考えたからじゃ。つまり、そこな青眼鏡の大将にお目にかかりたかったからじゃ。

その為には、わしは随分と犠牲を払っとる。若しわしが赤蠍の張本ちょうほんを捕え、その殲滅せんめつを目的とするのでなかったら、可哀相な珠子さんに、これ程怖い思いもさせず、相川さんが麻酔薬で眠らされる様なことも起らなかったであろう。随分の犠牲じゃ。そこな青眼鏡の大将、わしはそれ程お前さんに会いたかったのじゃよ。まるで恋人の様にお前さんをこがれていたのじゃよ。

オオ、そうそう、犠牲と云えばまだある。わしは虎の子の百円札を二枚も奮発したのだ。わしは珠子さんがどこへ連れられて行くか、あとをつけて見ようと思った。そうすれば自然赤蠍の首領にも会えるのだからね。それには丁度よいことがあった。オイ、そこな偽物のお爺さん、手下の奴らにはもっと気を配らんといかんね。飼犬に手をかまれるということもある。あの自動車の運転台にいた、お前さんの二人の部下は、実になっちゃいないぜ。百円札一枚ずつで、わしに買収されて、行先は教えてくれるし、服装まで取替えてくれたではないか。つまりわしはお前さんの部下になりすまして、運転台にのっかっていたという訳なんだよ。

それにしても、自動車の中でも、ここへ来てからも、幾度わしはこの目論見を放棄しようと思ったか知れん。珠子さんがあんまり可哀相だったからじゃ。だがいくら可哀相でも、この機会に張本を捕えて置かにゃ逃げられてしまう。手下ばかり捕えたのじゃなんにもならん。わしは歯を食いしばって我慢をした。それでもあんまり見兼ねたものだから、自動車の中で咳払いをしたり、轢死人形の種明かしをしたりして、珠子さんの苦痛をいくらかでもやわらげてやったのじゃ。……まあざっとこういう訳だよ。そして、わしはとうとう目的を達したのさ。恋こがれる青眼鏡の大将をとって押えることが出来たという訳さ。ハハハ……」

偽探偵はこの長話の間、絶えず「畜生め、畜生め」と呟つぶやきながら、口惜くやしさに地だんだを踏まぬばかりであったが、青眼鏡の方はと見ると、流石に猛虫蠍を以て自任する怪物、発砲をさける為めに手こそ挙げていたけれど、老探偵の手柄話など、どこを風が吹くかと、色をも変えず聞流していた。

「お爺さん、御託ごたくはそれでおしまいかね」

彼はやっぱり地の底からの様な声で、憎まれ口を叩くのだ。

「ウン、おしまいだよ。わしの御託が終ると、さてお前さんに繩をかける順番だね」

「繩を? ヘエ、その老いぼれ一人でかね。お爺さん、こっちあ大の男が二人だぜ。繩なんかかけている隙ひまに、こっちはそのピストルを叩き落して、あべこべに、お爺さんを縛っちまうぜ。年寄りの冷水は止よしにした方がよくはないかね。向う見ずなお爺さんだ」

「ワハハハ……、そいつはちっと自惚うぬぼれが強過ぎる。向う見ずか見ずでないか、よくあたりを見廻してから物を云って貰いたいね。わしがさい前から、長話を続けていたのは、なぜだと思うね。自慢がしたい年ではない。本当の目的はもっと外にあったのさ。わしはお前達を話で釣って、待っていたのだよ。ホラ、うしろをごらん。そこへ来た人達を待っていたのだよ」

これには流石の青眼鏡もギョッとして、云われた通りうしろを振向かないではいられなかった。偽探偵も同様、二人は首を揃えて背後の竹藪を振返った。

動く岩

すると、アア、これはどうだ。彼等が振返るのを合図の様に、竹藪がザワザワと鳴って、掻き分けられた竹の葉の間から、人間の顔が一つ二つ三つ四つ……合計五人。その中の一人は真先に藪を飛び出すと、いきなり倒れている珠子の側へ駈け寄って、抱き起しざま、正気づける様に、その名を呼び続けるのであった。彼女の兄の相川守青年だ。彼が老探偵と一緒に悪漢の服を着て、運転手と化ばけていたことは、読者も既に気づかれた通りである。

竹藪から現われたあとの四人は、云うまでもなく、守青年が急を知らせて同行した警察署の人々だ。私服が二人、制服が二人、いずれも捕物に年期を入れた、老練の警官達である。

「ヤア、警官方、待ち兼ねました。早くこの二人を押えて下さい。ピストルを持つ手がしびれ相ですわい」

老探偵の挨拶に、四人の警官は物をも云わず、銘々めいめい右左から、青眼鏡と偽探偵の側へ駈け寄って、彼等の両手に飛びついた。青眼鏡の手を離れた長い槍が、音を立てて竹藪に倒れかかる。

「なんとうまく行ったことじゃ。これでさしもの妖虫事件も大団円という訳だね」

老探偵は、二人の悪漢が完全に繩にかかるまでと、なおもピストルの狙いをゆるめず、言葉を続ける。

「守さん、ご苦労でした。お父さんの様子はどうじゃったね」

守は珠子を抱いたまま振返って、

「有難う大丈夫の様です。意識だけは取戻しましたので、通りへ出て自動車を拾い、宅へ送らせて置きました」

と答えた。

「イヤ、あんたの機敏な働きが、非常に役に立ちましたわい。わしがこの偽龍介の隙を見て、たった一言耳打ちしたのを、ちゃんと呑み込んで、素早く立廻ってくれたお蔭で、この大捕物に成功しました。それにお父さんや妹さんの危難を目前にして、よく我慢を続けて下すった。流石は『探偵さん』じゃ。ハハハ……、今度の捕物ではあんたが第一の殊勲者しゅくんしゃと申してもよいですぞ」

そんな問答が取り交されている間、二人の悪漢は、未練千万にも、この期ごに及んで、繩をかけられまいともがき廻っていた。両手は警官に掴まれているので、逃げ出すことは思いも及ばなかったが、繩だけはかけられまいと必死の努力をしていた。

「オイオイ、みっともないじゃないか。大悪党にも似合わぬ、未練な真似はよしたらどうだ」

老探偵は単純に悪人共の未練と解して、叱りつけたが、それはただ未練からの抵抗に過ぎなかったであろうか。もっと別の理由があったのではなかろうか。二人の悪人が、最初警官に手を取られた時、妙な目くばせをしていたのを、誰も気づかなかったが、彼等には何か深い考えがあったのではないかしら。

しかも、誰も気づかなかったのは、彼等の目くばせばかりではなかった。実を云うと、さい前から、もっともっと変てこなことが起っていた。無生物が生物いきものの様に動いていたのだ。先刻青眼鏡が「この岩を混ぜて四人だ」と意味ありげにいった、あの張子の岩が、ジリリジリリと、一匹の奇怪な亀の様に這い出していたのだ。匍匐ほふくする岩石! なんと前代未聞の椿事ちんじではないか。

暗さは暗し、まさか小道具の岩が這い出そうなどと、常識では想像も出来ない事柄なので、それがいつの間にか竹藪の根元を離れて、老探偵の背後に位置を換えてしまったのを、絶えて知るものもなかった。

高さ三尺、径二尺程の、小さな張りぼての岩は、今や三笠探偵の足もとにくッつく程接近していた。そして、オオ、実に驚くべきことには、そのてっぺんの貼紙を押し破って、ニョッキリと、人間の腕が現われたではないか。しかも、その手にはドキドキ光る小型の短刀を握りしめているのだ。

真蒼まっさおに塗った泥絵具の岩から白い手が生えたのだ。そして岩が短刀を振り上げて、今や将まさに、我が三笠老探偵に危害を加えようとしているのだ。

危い、危い。だが、如何な名探偵も、無生の岩石が、殺人罪を犯そうなどとは知る由もなく、ただ前方の二兇漢を見つめて、抜目なくピストルを構えているばかりだ。

キラリ、短刀が閃めいたかと思うと、この張りぼての岩には目がついているのか、狙いもあやまたず、老探偵の腰のあたりを、したたか刺し通した。

流石の老武者おいむしゃも、この不意打ちには、アッと悲鳴を立てないではいられなかった。痛手に思わず取落すピストル。

「ソレッ!」

青眼鏡が烈しいかけ声を発した。今か今かと、そればかりを待構えていたのだ。

すると、腕力優れた偽探偵が、いきなり警官の虚をついて、握られた腕を振り離すと、竹藪に倒れかかっていた例の槍を拾うが早いか、一方の柱にとりつけられた唯一の電燈めがけて、発止はっしとばかり叩きつけた。

パチンと電球の割れる音、わめき騒ぐ人々の声。

唯一の電燈を奪われた見世物小屋は、今やあやめも分かぬ闇と化した。他の電燈を点じようにも、スイッチのありかが急には分らぬ。

だが幸いにも、警官達はてんでに懐中電燈を用意していた。入口からここへ来るのにも、その懐中電燈をソッと照らして、竹藪の迷路を辿って来たのだ。

「逃がすなッ」

「誰か入口へ廻れッ」

「電燈のスイッチはどこだ」

などの怒号が暗闇に交錯した。懐中電燈の光芒こうぼうが小さな探照燈の様に入り混みだれた。

燃える迷路

アッと思う間に、短劒が一閃して、老探偵の腰のあたりを、したたかに撃った。三笠龍介氏は痛手に耐え兼ね、賊に擬していたピストルを取落し、うめき声を立てて、その場に倒れる。

二人の賊は、得たりとばかり、警官の手を振りもぎって、いきなり、たった一つの電燈を叩き割ってしまった。広い竹藪の迷路は、文目あやめも分かぬ闇となった。

守青年と四人の警官とは、懐中電燈の光をたよりに、竹藪の中を走り廻って賊を追ったが、昼間さえ人を迷わす八幡の藪知らずだ。それを、この闇の中、慌てる程方角を失って、捕えて見れば味方同志の鉢合はちあわせであったりして、どこへもぐり込んでしまったのか、賊は容易に逮捕出来なかった。

それに、一番いけなかったのは、三笠探偵がなぜ倒れたのか、その原因を誰も知らないことであった。突然うめき声を聞いた。探偵の倒れる姿を見た。かと思うと、もう電燈が叩き割られて、忽ち真の闇であった。何を考える隙ひまもなかった。この不意の下手人げしゅにんが張子の岩だなどとどうして気が附くものか。

誰しも賊に援兵が現われたものと思った。相手はどうせ飛道具を揃えているに違いない。味方は守青年のピストルがただ一挺だ。何よりも生命の危険が警官達を脅おびやかした。その中で、老探偵の介抱かいほうはしなければならず、闇の迷路に逃げ込んだ賊を追わなければならなかったのだ。彼等が戸惑ったのも決して無理ではない。

併し、それだけならば、まだよかった。やがてもう一つ、非常な妨害が起ったのだ。

重なり合った闇の竹藪を通して、まるで怪談の人魂ひとだまのように、チロチロと揺ぐ光り物が見えた。賊の照らす懐中電燈かしら。それにしてはいやに赤茶けた陰気な色だがと思っていると、あちらにも、こちらにも、チロチロチロチロと、異様な光り物は、見る見るその数を増して行った。

火の玉程の赤いものが、ユラユラと限りもなく、闇の中を拡がって行く。そして、パチパチと竹のはぜる音。火だ。迷路の藪が燃えているのだ。

逃げ出した殺人鬼共が、手早くも竹藪に火をつけて、この見世物小屋を焼き払おうと企てたのだ。罪跡をくらます為か、逃亡を容易にする為か、迷路の中の探偵や警官達を苦しめる為か。無論そういう事も含まれていたであろうが、彼等の真の目的はもっと別の所にあった。あくまで執念深い妖虫は、餌食の珠子を、彼女の無残な殺害を、このまま思い切ることが出来なかったのだ。火事の騒ぎに乗じょうじて、彼女を奪い返そうと企てたのだ。

枯れ切った竹藪は、パチパチと威勢のいい爆竹の音を立てて、忽ち燃え拡がって行った。闇は見る見る追いのけられて、不気味な紅くれないの一色ひといろに染め替えられて行った。渦巻く焔ほのおは、数知れぬ巨獣の赤い舌であった。それが今や、幾重いくえの竹藪を嘗なめ尽して、恐ろしい速度で、こなたへこなたへと迫って来る。

もう賊の逮捕などに未練を残している場合でない。先ず我身の安全を計らねばならぬ。追い縋る焔と駈けっこで迷路を抜け出さねばならぬ。

「三笠さんを、頼みましたよ」

守青年は警官達に大声にわめいて置いて、自分は、失神からさめたばかりで、まだグッタリしている妹の珠子を抱き起すと、いきなり肩に担いで走り出した。

火のない方へ、火のない方へと、竹藪の幾曲りを、もどかしく、走り続けた。行手に敵が待伏せしていようなどとは、思い廻めぐらす余裕もなく。

ハッとすると、何かしら柔かい物が彼の足を掬すくった。不意をうたれて、みじめにぶっ倒れた。冷い土が鼻面に、口の中に。

痛さに暫くは身動きも出来ないでいると、背中に負ぶさっていた珠子の身体が、スーッと宙に浮いて、その代りに、チクチクと肌を刺す竹藪の一塊かたまりが、彼の上にドッと倒れかかって来た。

咄嗟に珠子を奪われたことを気附いたが、もがけばもがく程、覆いかぶさった竹藪がこんがらがって、加勢を求めようにも、その辺に味方の影もなく、兎角とかくする間に、珠子を奪い取った賊は、遙かの闇に逃げ去ってしまった。

やっとの思いで、彼が竹藪の下から這い出した時には、珠子は勿論、賊の姿も見えず、味方もどこへ行ったのか、三笠探偵の安否さえ分らぬままに、目を圧して迫って来るのは、ただ紅蓮ぐれんの焔であった。殺人鬼の執念を象徴するかの如き、数知れぬ大蛇の真赤な舌であった。

八裂やつざき蝋ろう人形

守青年はそれからどうしたか。痛手を負った三笠老探偵は、果して無事に火中を脱することが出来たか。彼を傷つけた張子の岩の中の人物は抑そも何者であったのか。いや、それよりも気がかりなのは珠子さんの身の上だ。可哀相な彼女は、又しても、妖虫の毒手に落ちて、どこへ連れ去られ、どんな恐ろしい目に遭っていることであろう。だが、それらの疑問は暫くソッとして置いて、お話の舞台を一転して、全く別の方面から、それらの疑問を解きほぐして行くのが便宜のように思われる。

さて、前章の出来事のあった翌日の午後、東京市内のあちこちに、じつに変てこな事件が続発した。

第一の事件は、午後三時頃、大川の浜町河岸はまちょうがしに近いある倉庫の岸に舫もやっていた伝馬船てんまぶねの船頭の女房が、舟の艫ともから紐つきバケツをおろして、河水を汲くんでいると、そのバケツの中へ、肘の所から切断された、白っぽい人間の腕が入って来たのだ。

「ワア、大変だア」

という頓狂声に、亭主の船頭が近づいて見ると、バケツの中に浮いているのは、確かに人間の、しかも水々みずみずしい女の腕に相違ない。

「飛んだものを掬い上げちまったなア。だが捨てる訳にも行くめエ、そこへソッとして置きな。今に水上署のランチが通るだろうから」

女房は云われるままに、バケツを船の上に置いて、「オオ、気味が悪い」と遠くへ逃げてしまう。亭主の方も、存外臆病者と見えて、近寄って調べて見ようともしない。

そうしている所へ、折よく、川上から水上署の旗を立てた小型ランチがやって来た。それが近づくのを待って、船頭が声をかけると、「人間の腕」という言葉に、ランチの人々は気色けしきばんで、船を近寄せ、ドカドカと伝馬船に乗移って来た。

船頭と違って、水上署の人達は、土左衛門なんかに驚きはしない。二人のお巡りさんが、先を争う様にして、バケツに近づき、その指のついた白っぽいものを、最初はそれでも、少々無気味そうに、靴の先でチョイチョイ突つついていたが、二人が目を見合せて、「こりゃ変だぞ、」という表情になったかと思うと、その一人が馬鹿に勇敢に、いきなりバケツの中へ手を突込むと、その生腕を、ヒョイと掴み上げた。

掴み上げて二三度、目の前でクルクルと廻していたが、やがて我慢が出来ないというように、突拍子とっぴょうしもない笑声が爆発した。

「オイオイ、お前、これを何だと思っているんだ。こんなもので青くなってどうするんだ。よく見ろ。蝋細工じゃないか。人形の腕だよ馬鹿馬鹿しい」

如何にもそれは人騒がせな人形の腕に過ぎなかった。だが、流石の水上署員も、一目見た時には、本物の若い女の片腕だと思い込んでしまった程、実によく出来た蝋細工であった。色と云い、形と云い、切口のグジャグジャになった所と云い、触って見てコツコツ音がするまでは、誰の目にも本物の生腕としか見えなかった。

それと殆ど時を同じうして、陸上では、木挽町の裏通りに、似た様な騒ぎが起っていた。

ある料理店の勝手口に、黒く塗った大型の塵芥箱ごみばこが据えてある。一人の老ルンペンが、犬の様にその箱の中へ首を突込んで、屑問屋くずどんやへ持込めそうな代物を猟あさっていたが、ジメジメしたごもくの中から、ニョッキリと現われたのが、やっぱり蝋細工の一本の腕であった。

ルンペンは、船頭の場合とは違って、目に見るよりも先に、指で触ったものだから、その手触りで、蝋細工だということがすぐ分った。

「だが、なんてマアよく出来た蝋細工だろう」

彼はそれを掴み出して、左見右見とみこうみして感にたえている中うちに、見れば見る程、今死骸の二の腕から切離されたとしか思えない余りの生々しさに、段々不気味になって、ポイと道端へ放り出してしまった。

すると、なぜそんな突拍子もない事が起ったのか、通り魔の様に異様な出来事であったが、その辺を嗅ぎ廻っていた一匹の野良犬が、いきなり蝋細工の女の生腕を銜くわえると、往来の真中を真一文字に走り出したのだ。

道行く人々も、怪奇小説の銅版挿絵さしえにでもある様な、この異様な光景に、思わずハッと立止って、野犬の姿を見送らないではいられなかった。

御用聞きの小僧さん達は、見送ったばかりでは済まさぬ。何かその辺に落ちていた棒切れを拾って、わめきながら追っかける。

「ヤア、人間の腕だ。人間の腕を銜えてやがる」

そんな叫び声が口々に繰返されるものだから、両側の商家から、主人も、おかみさんも、小僧さんも、飛出して来て見送る。中には追手に加わって走り出すのもいる。

大げさに云うと、町中の人が、一隊をなして、まるで暴動ででもある様に、黒く折重なって走り出した。てんでに手や棒切れを振りながら、訳の分らぬ事をわめきながら。そして、その先頭に立って、彼等の一隊の司令官の様に、とりすまして、スタコラ走っているのは一匹の野良犬。その口には、今切離したばかりの様に生々しい人間の腕。実に何とも形容の出来ない変てこな光景であった。

この騒ぎがお巡りさんの耳に入らぬ訳はない。やがて、制服いかめしいお巡りさんの野犬追跡の一場面があって、結局問題の蝋人形の腕は、附近の交番の土間の片隅に落ちつくことになった。

あとで分ったのだが、大川で水上署員が目撃したのは女の右腕、木挽町で犬が啣くわえたのは同じ様な女の左腕であった。

それから少したって、今度は銀座裏のとある横町に、いつとはなく黒山の人だかりが出来ていた。狭い町を通行止めにして、ギッシリ詰った群集が、一様に仰向けになって、ドンヨリと曇った空を見上げていた。

「一体なんですい。飛行機ですかい」

新しく加わった一人が前の男に訊ねている。

「イヤ、そうじゃねえんで。飛行機なんかで、今時こんな人だかりが出来るもんですか。ごらんなさい。ホラ、もっと下だ。あの煙突のてっぺんだ」

云われて見ると、そこには、旭湯あさひゆと書いた銭湯の煙突が聳そびえているのだが、なる程、そのてっぺんに、何だか変なものが引っかかっている。

「しばらく見つめていないと分らない。じっと見ててごらんなさい」

白いものが二本、斜に煙突の口から、空に向って突出つきだしている、オヤ、変だぞ。あの先で折曲っている恰好は、確かに、確かに、

「ワア、足だ。人間の足だ。しかも裸体はだかの真白な足が二本、……」

その人は思わず大きな声を立てないではいられなかった。

「どうしたんでしょう。まさかああして煙突掃除をしている訳でもありますまい。煙突掃除屋の足にしちゃ、あんまり綺麗きれいすぎらあ」

「そうですよ。それに、さっきから見ているのに、ちっとも動かないのが変ですよ。あんなことをして、煙突の中へ首を突込んでいちゃ、下では火を焚いているんだから、さぞ熱いでしょうにね」

「イヤ、熱かあないんですよ。あれは死骸ですよ。ああして自殺をしたんですよ」

別の一人が口をはさむ。何てまあ変てこな会話であろう。

「自殺ですって。フフ、奇抜な自殺もあったもんだなあ。併し、なぜ裸体はだかでいるんでしょう。いやにムチムチした綺麗な足じゃありませんか。あれは女ですぜ、しかもきっと若い女ですぜ」

「イヤ、自殺じゃありませんよ」群集の真中から一人の青年が反駁はんばくした。「これはきっと他殺ですよ。あの女は、あすこで殺されたんですよ。僕は最初から見ていたんですが、誰もまだ気が附かない時分に、あの煙突の鉄梯子を、猿の様に駈け降りて行った奴がある。黒い服を着た男でした。今考えるとあいつが下手人ですよ。煙突の上で殺人罪が行われたんです」

「ハハハ……、そんな馬鹿な話ってあるもんじゃねえ。態々煙突の上まで昇って、人殺しをする奴もねえもんだ」

誰かが笑い出す。

「ア、誰か梯子を昇って行く。お巡りさんだ。お巡りさんだ。今に正体が分りますよ。あれがどこの娘だか」

如何いかにもその時、報告に接して駈けつけた一人の警官が、靴を脱いで、慣れぬ煙突昇りをやっていた。彼も亦、何かしら突飛な犯罪事件に相違ないと考えたからだ。

警官がやっと頂上に昇りつくと、びっくりする程美しい女の足が、大空を背景にして、実に不作法な恰好で、すぐ目の前にニュッと突出していた。

その裸体はだかの足をかすめて、薄い煙がモヤモヤと立昇っていた。ムッと鼻をつく火気が感じられた。

「俺一人じゃ迚とてもおろせないぞ。町内の仕事師でも頼まなくっちゃあ。だが、兎も角様子を見て見よう。まだ助かるかも知れない」

彼は用心深く、熱い煙突の縁につかまって、煙をよけながら、ソッと中を覗いて見た。

そこには、二本の脚に続いて、娘の胴体が、多分真裸体まっぱだかの胴体が、ある筈であった。ところが、実に不思議なことには、いくら見直しても、煙突の内部は、真黒な煤すすばかりで、あるべき筈の娘の胴体は、何かの幻術でかき消しでもした様に、全く見えないのであった。

胴体は勿論、顔も、手も、なんにもなくて、ただ太腿からの両脚だけが、煙突の縁を支えにして、斜ななめに突込んであるばかりであった。

ちょん切られた二本の、ムチムチとよく太った女の脚、――煙の立昇っている煙突のてっぺん、――見る限り何もない白い空。

日常生活から余りにかけ離れた、この一種異様の光景に、若い警官は眩暈めまいを感じて、フラフラと足場を失いそうになった。だが、このまま手足を離してしまっても、彼の身体は普通の落体らくたいの早い落ち方をしないで、フワリフワリと、丁度夢の中での様に、空中を漂って行くのかも知れない。ふと、そんな変てこな事さえ考えられた。

地上の群集は、中には双眼鏡などを持出して、熱心にこの有様を眺めていた。あの勇敢なお巡りさんは、今にも裸体の娘の死骸を肩に担いで、鉄梯子を降りて来るに違いないと、激情的な光景をまざまざと眼底に描きながら。

併し、群集の期待は、実に突拍子もないやり方で裏切られてしまった。

見ていると、お巡りさんは、一本の脚に手をかけたかと思うと、それを、スポンと抜取ってしまった。そして、何だかゲラゲラ笑っている様子で、その脚をヒョイと空中に投出したのだ。次には、残りの一本の脚も、同じ様にして、空中へ。

白い二本の太腿が、相前後して、異様な降ふりものとなって、スーッと屋根の向うへ消えて行った。群集の間から、まるで花火をでも褒める様な「ワーッ」という歓声が揚がった。

読者がとっくに想像された通り、その二本の脚が、やっぱり蝋細工であった。流石に今度は笑って済ます訳には行かなかった。警察はこのご念の入った悪戯者いたずらものをきびしく捜索することになった。

群集の中の一青年の主張する所によると、昼日中ひるひなか人形の脚を持って、煙突を昇った奴があると云うのだ。煙突の昇り口には、別に番人がついている訳ではないから、そういうことも全く不可能ではないが、何者の仕業にもせよ、余りに大胆不敵、殆ど信じ難いことである。

それよりも、見物の中のある老人が、分別らしく主張した次の説の方が、何となく本当らしく思われる。

「あの足は、今朝っから煙突の上に生えていたんですよ。それを誰も気づかなんだ。イヤ気づいても、人間の足とまで見定めるものがなかったのでしょう。こんな騒ぎになったのは、つい先頃、誰かが足だ足だと叫び出してからですよ」

つまり、それは昨夜の内に、何者かが煙突の上へ運んで置いたというのである。

だが運んだ時が夜であれ昼であれ、この出来事の不思議さには、少しも変りがなかった。一体全体何を目的に、こんな途方もないいたずらが行われたのであろう。ただ人騒がせの悪戯あくぎにしては、余りにご念が入り過ぎているではないか。

それは兎も角、椿事はこれで終ったのではない。「煙突に生えた足」にも劣らぬ奇怪事が、殆ど時を同じうして、やはり銀座通りの、新橋しんばしに近いとある横町に起っていた。

一人の工夫が、下水の故障を調べる為に、そこの道路の真中に開いているマン・ホールの鉄の蓋を取りのけて、四ん這いになって、暗い地下道を覗いていたかと思うと、何なぜか真青になって、ヨロヨロと立上り、近くにいた同僚の工夫をさし招いた。

「オイ、ちょっと見てくんな。俺の目がどうかしているのかも知れない。変なものがいるんだ、こん中に」

「なにがよ」

「なにがって、マア覗いて見な。とてもシャンだからよ」

「シャンだって? お前めえ夢でも見ているんじゃないか。下水だぜ、ここは」

あとから来た工夫は、こいつ気でも違ったのかと、変な顔をして、そのマン・ホールを覗いて見た。

小さい穴から射し入る空の光が、底を流れる黒い水を、薄ぼんやりと照らしている。その水の上に、覗いている工夫自身の顔が写っているのかと疑われる、一つの顔が、美しい女の顔が、流れもせずに浮んでいた。

四ん這いになってマン・ホールを覗き込んでいる男の顔と、黒い水に浮ぶ夢の様な女の顔とが、上下うえしたでじっと目を見合せていた。

白昼の銀座近くの人通りだ。覗き込む工夫の眼の隅には、忙しそうに歩いて行く人影がチラチラと映っている。地上の世界は、何の変りもなく、昨日も今日も同じ様に運転しているのだ。その慌しい現実世界から、ヒョイと頭こうべをめぐらして、この暗い地底の流れを覗いて見ると、そこには、地上とは全く縁のない、青白く美しい別世界が開けていた。

その薄汚い闇の中からじっと見上げている女の顔の、この世のものとも見えぬ美しさ。もう一人の工夫がシャンだと云ったのは嘘ではなかった。夢にもせよ、幻にもせよ、よくもまあ、これ程美しい女がと、彼は首をマン・ホールに突込んだまま、飽かず眺め入いるのであった。

だが、ふと夢見心地から醒めて見ると、徒いたずらに地底の美女を観賞している場合でないことが分った。これはただ事ではない。まさか生きた女が下水道に潜り込んでいる筈はない。いくら美しくても、生々としていても、この女は死骸に極まっている。アア、ひょっとしたら、……

「オイ、こりゃ人殺しかも知れないぜ。殺した死骸を、こうしてマン・ホールから投込んで置いたのかも知れないぜ」

「ウン、何しろお巡りにそう云って来よう」

一人が駈け出して、附近の交番から警官を引っぱって来る。忽ち人だかりだ。

それから、二人の工夫はかかり合いで、警官に頼まれるまま、散々不気味な思いをしながら、下水の中から問題の死骸を引っぱり上げたのだが、読者も大方お察しの通り、その死骸には胴体も手足もついていなかった。つまり、それは一個の実によく出来た蝋人形の首に過ぎなかったのだ。人形の首に重りをつけて、流れぬ様に浮かせてあったのだ。

銀座の案山子かかし

そういう一聯いちれんの出来事が、銀座街を中心に継起して暫くの後、やっぱり銀座通りのRという大洋服店のショウ・ウインドウの前に、妙な男が立止っていた。

型のくずれた黒ソフト帽、画家の様に長く伸した髪、青ざめた顔、ひどい近眼と見えて厚いレンズの二重眼鏡、ピンとはね上った口髭、三角型の顎髯、羊羹色ようかんいろの丈たけの短いインバネス、その下から二十年も昔流行した、荒い柄の、薄汚れた縞ズボン、破れ歪んだパテント・レザーの礼装靴が見えているという、怪奇映画の主人公みたいな人物だ。

その人物が、さい前から、R洋服店のショウ・ウインドウの大ガラスの前に、じっと立ち尽したまま、まるで案山子の様に身動きもしないのだ。

ドンヨリと薄曇うすぐもりの天候であったし、日の短い頃なので、附近の時計店の屋根の大時計は、まだ四時少し過ぎたばかりだけれど、道行く人の顔もおぼろに、火ともし前の、最も陰気なひと時であった。

インバネスの男は、ショウ・ウインドウから三尺程離れた道路の真中に立って、ガラスの向う側の何かを、凝然ぎょうぜんと見つめている。五分、十分、二十分、彼の姿勢は生人形の様に不動であったし、彼の視線は見えぬ糸で結びつけた様に微動だにしなかった。

初めの程は、道行く人も、邪魔っけな奴だと、よけて通るばかりで、さして怪しみもしなかったが、時がたつにつれて、彼の凝視のただならぬ熱心さに、ふと好奇心を起して立止る人があると、それからは、二人立ち、三人立ち、瞬またたくひまに、恐ろしい黒山の人だかりとなった。

その癖くせ、その夥おびただしい人立ちの中に、インバネスの男が見つめている品物を、ハッキリ知っている人は、一人もいなかった。人々はこの古風な服装をした怪人物の、ただならぬ様子を、烈しい好奇心で、ただ眺めているに過ぎなかった。

若しこの男が香具師やしであったら、彼の人寄せの手段は、実に見事に成功したと云わねばならぬ。又若し彼が、R洋服店に雇われた一種の宣伝係であったとすれば、通行者の注意を、かくもショウ・ウインドウに集め得たことによって、これ亦また非常の成功であったと云わねばならぬ。だが、この男は、香具師でも宣伝係でもなかったのだ。

「ちょっとお尋ねしますが、さっきから何を見つめていらっしゃるのですか。何か面白いものがあるんですか」

一人の洋服紳士が、たまり兼ねたのか、慇懃いんぎんに言葉をかけた。

「アア、何をとおっしゃるのですか」

インバネスの怪人物は、びっくりした様に振返って、紳士の顔を見、それから彼の背後の夥しい群集を眺めた。

「僕は一種の銀座人種でしてね。銀座の事には可成かなり詳しいつもりですが、今このショウ・ウインドウの前を通りかかって、ふと気がつくと、いつもの蝋人形がいなくなっているのです。見知越みしりごしの蝋人形がですよ。美しい奴でした。まだ若い娘でね」

インバネスが妙なことを云い始めた。彼の声は異様に甲高くて、隣に立っている紳士に話しかけているのが、群集のうしろの方まで聞きとれた。

「この洋服店のものが飾り替えたのではありませんか、そこに立っている女人形と」

如何にも、ショウ・ウインドウの正面には、一人の美人人形が、派出はでな洋装をして、長椅子に腰かけているのだ。

「ですからね、僕はここの番頭に聞いて見たんですよ。人形を取替えたかって。すると番頭は、一週間程前に飾り替えたばかりで、まだ二三日はこのままだと答えました。先生、人形がいなくなったことを知らないのですよ。ハハハ……、おかしいじゃありませんか」

彼の笑い声は、気違いの様に不気味であった。

「じゃ、君の思い違いだ。あすこに腰かけているのが、その人形ですよ、君の好きだっていう。……君の目がどうかしているのだよ」

紳士が少し軽蔑した口調で云った。うしろから圧おし殺した様な笑い声が聞えた。

「アア、あなたは僕を気違いかなんかだと思って、馬鹿にしていますね。フフフ……それもいいでしょう。だが、今に後悔しますよ。マア、僕の云う事をおしまいまでお聞きなさい」

そこで、怪人物の不思議な演説が始まった。表面は紳士に話しかけているのだが、その実、背後の夥しい群集を意識しての演説であった。誰も立ち去るものはなかった。それどころか、奇妙な男の一言ずつに好奇心をまして、まるで大道芸人をでも見物する様に、耳を澄まして聞入っていた。

矢面やおもてに立った紳士は、少なからず迷惑そうであったが、つい立去るしおを失って、そのまま聞き役を勤めた。

「僕がなぜあんなに熱心にこの人形を見ていたか。その理由が分りますか。僕の顔をごらんなさい。ひどく青ざめてやしませんか。実を云うとね、僕は今、ブルブル震え出す程怖いのですよ。我ながら余り恐ろしい空想にゾッと総毛立っているのですよ」

怪人物は、怪談でも始める様に、話し出した。夕暗ゆうやみに眼鏡ばかりが、白っぽく光って見える。

「僕はね、このショウ・ウィンドウの知合しりあいの人形が、消えてなくなったことと、今日この附近に起った妙な事件とを結びつけて考えて見たのですよ。分りますか。僕がどんなに怖がっているか。あなたは平気ですね。今に平気でいられなくなりますよ」

「今日この附近に起った事件というのは?」

紳士がてれ隠しの様に口をはさむ。

「きっと旭湯の煙突の事件だぜ」

「それからマン・ホールの事件も」

銀座ボーイの囁き交すのが聞えた。

「そうです。その事件です。皆さんはあの事件の全体を知っていますか。恐らく御存じありますまい。

僕は目撃した訳ではありませんが、噂を尋ね廻って、すっかり知っています。マン・ホールから蝋人形の首が出た。湯屋の煙突に女の足は生えていた。それから、浜町河岸で女の右腕が掬い上げられたのです。木挽町では、犬が女の左腕を銜えて走ったのです。

ネ、分りましょう。首、二本の足、二本の腕、これを組み合わせると、ちゃんと一人の美人人形が出来上るじゃありませんか。御承知の通りマネキンには胴体というものはないのですからね。

これは非常に明らかなことです。僕は断言してもいいのです。このショウ・ウインドウの、僕の大好きな人形が、何者かの為に惨殺されました。憎むべき下手人は、人形の死骸を幾つにも切離して、方々へ捨てて歩いたのです。隠す為にではなくて、見せびらかす為に。……見せびらかす為にですよ」

蠍の胸飾むねかざり

「だがね、君、ここのマネキンがそんな目に合ったとすれば、番頭が気づかない筈はないじゃないか。それとも、その人形殺しの犯人は、換玉かえだまの人形を用意していて、ここへ据えつけて置いたとでも云うのかね」

紳士が、からかい顔に訊ねた。

すると、インバネスの怪人物は、待ってましたと云わぬばかりに、ポンと膝を叩いて、

「アア、実に、あなたはうまい質問をしてくれましたよ。図星です、図星です。僕もそれを考えたのです。でなければ、ここに、いつもの通りの服装をした別の人形が飾ってある道理がありませんからね。

そうです。ここに座っている人形は換玉です。併しね、あなた、一つよく考えて見ようではありませんか」

彼はここで、さも一大事らしく声を落した。

「犯人の奴は、なぜそんな、色々面倒な手数をして、人形の死骸を見せびらかさなければならなかったか。この点が実に重大なのですよ。分りますか。いたずらには違いないのです。だが、ただ単純ないたずらじゃありませんよ。これには深い深い、ゾッとする程残忍な企らみが隠されているのです。

犯人はね、東京中の人を、このショウ・ウインドウの前へ集めたかったのです。ああして蝋人形の顔や手足を方々へばらまいて置けば、誰かしら、それがここに飾ってあった人形だと気附くに違いない。気づけばきっとここへ来て、ショウ・ウインドウを覗き込んで、この謎の研究を始めるであろう。一人立止ればもうしめたものだ。二人、三人と加勢が加わって、やがて黒山の人だかりになるだろう。そして、犯人が企らんで置いた、恐ろしい秘密を看破してくれるだろう。というのが、彼奴あいつの気違いめいた論理なのです。

僕は、さい前から、三十分程、このショウ・ウインドウを見つめて、それを考えていたのです。どうしても、そうとしか思えないのです」

「一体君は何を云おうとしているんだね。僕は少し用事もあるのだが」

紳士が逃げ腰になると、怪人物はそれを引とめる様にして、

「イヤ、用事なんかいいです。この事件の方がどれ程重大か知れません。サア、これをごらんなさい。僕がさい前から、云おう云おうとしていたのは、これなんです」

と云いながら、インバネスのポケットから細く折った新聞紙を取出して、バリバリと拡げて見せた。

「サア、これです。ここに大きく出ている写真は誰だかご存知ですか。さっき買ったばかりの夕刊です。もう読んでいる方もあるでしょう。昨夜夜更け恐ろしい事件が起りました。

『赤蠍あかさそり』。『赤蠍』を知らん人はありますまい。あの妖虫が、又ゴソゴソと這い出して来たのです。

三河島の見世物小屋で、活動写真みたいな活劇が演じられたのです。そして、相川珠子という美しいお嬢さんが、妖虫の為にさらわれてしまったのです。ごらんなさい。これがそのお嬢さんの写真ですよ」

赤蠍と聞くと、今までざわめいていた群集が、ピッタリと静まり返った。それ程彼等は妖虫事件の新聞記事に脅えていたのだ。

この男はまんざら気違いではなかった。喋る事に筋道が立っている。併し、アア、併し、蝋人形の殺人事件と、赤蠍との間に、一体全体どんなつながりがあるというのだろう。

「これは凡て赤蠍の仕業です。僕にはそうとしか考えられないのです。蝋人形の惨殺は、単なる遊びごとではありません。その裏に恐るべき寓意ぐういがひそんでいました。悪魔の人形芝居は、人形ではない本当の人間の運命を、実に無残な運命を、巧みに象徴していたのです。

僕はもう、それを信じて疑いません。併し、事が余りに異様なので、僕は自分の目を疑います。サア、あなた、あなたのよい目で、比べて見て下さい。この新聞の写真と、あのショウ・ウインドウの中の人形の顔とを」

群集の間に、ドッとどよめきが起った。

アア、これが怪人物の云おうとしていた事であったのか。それにしても、まあ何という恐ろしい幻想なのだろう。若しも、若しも、あのマネキン人形の顔が、この新聞の誘拐された令嬢の顔とそっくりだったら、一体それは何を意味するのだろう。

紳士はこの結論に、異様のショックを感じないではいられなかった。彼は殆ど反射的に、その夕刊を掴み取ると、ツカツカとショウ・ウインドウに近づいて、ガラスに鼻の頭をすりつけんばかりにして、新聞の写真と、長椅子の上の人形とを見比べ始めた。

群集も、今はたまり兼ねて、ドッと津浪つなみの様にガラス板の前に押しよせた。

すると、丁度その時、歌舞伎芝居の月が出る様に、パッとショウ・ウインドウの照明が点じられた。店内の人達も、この騒ぎを知って、マネキン人形の正体を確めて見ようとしたのだ。

ショウ・ウインドウの前面には、数も知れず群がる顔、背後からは、ガラス戸を開あけて、二人の店員が飾場かざりばへ入って行く。

明々と照らし出されたショウ・ウインドウの中央、赤い紋織もんおりのソファに寄りかかって、襞ひだの多い毒々しく派出な洋装に包まれたマネキン人形。

オ、似ている。イヤ、そっくりだ。瓜うり二つだ。

皆が皆、心の中でそう思った。併し、誰も物云う者はなかった。水を打った様にシーンと鎮しずまり返っている。

マネキンの顔には、壁の様に厚化粧が施してある。恐らくは、死顔しにがおを隠す為の、犯人のさかしらであろう。だが、似ている。こんなにも実在の人物によく似た人形のあろう道理がない。

二人の店員は、暫くの間、まるで、彼等自身が男のマネキン人形ででもある様に、立ちすくんでいたが、やがて、おずおずと人形の側そばに近附き、洋装の上から、ソッと手足に触って見た。

外部からも、その一瞬間、彼等の表情がサッと変るのが眺められた。

一人の店員は、何を発見したのか、大きく口を開いて叫びながら、マネキンの――相川珠子の死体の――胸を指さしている。

群集の視線が、その一点に集中された。

アア、蠍だ。真赤な蠍だ。

もう一点の疑うところもない。殺人鬼はここにも、彼等の紋章を残して行くことを忘れなかったのだ。

二人の店員は、そそくさと店内に姿を消した。そして、暫くすると、パッと照明が消えて、ショウ・ウインドウの前面の重い鎧戸よろいどが、ガラガラとおり始めた。

今まで鎮まり返っていた群集が、俄かにざわめき出した。あらゆる驚きの形容詞が、百千の口をついてほとばしった。そして、群集は刻一刻その数を増して行った。電車線路を横切って、殺到する人々が、暫くはあとを絶たなかった。

だが、奇怪なのは、この騒ぎの発頭人ほっとうにんであるインバネスの男であった。彼は洋服紳士に夕刊を渡すと、コソコソと群集の間をすり抜けて、いつか人垣の外へ出ていた。そして、ショウ・ウインドウの鎧戸が閉まる頃には、何かニヤニヤと薄笑いを浮べたかと思うと、小走りに暗い横町へ、逃げるように消えて行った。インバネスの袖をヒラヒラと、夕闇の蝙蝠こうもりみたい、不気味にひらめかせながら。

第三の犠牲者

銀座街頭ショウ・ウインドウ死体陳列事件が犯罪者の虚栄心からであったとすれば、彼は完全に成功したと云っていい。なぜと云うのに、その事があってから、妖虫殺人団の名は、一躍して全国的になったからだ。その翌日は、九州や北海道の地方新聞さえ、社会面の殆ど全面を、この銀座の怪事件に費した。人々はこの怪談めいた出来事に、賊の所業しわざを憎むことも忘れて、あきれ返ってしまった。これが一体人間の仕業であろうか。鬼ではないか、魔ではないかと、心の底から震え上らないではいられなかった。当の相川家の驚愕と悲歎は云うまでもなかった。殊に、不思議な因縁で妖虫事件に結びつけられている相川守青年は、愛する妹を失った悲しみ以上に、戦いに敗れたものの、名状し難い悲憤を感じた。悪魔を八裂きにして、その肉を啖くらってもあきたりない憤いきどおりを感じた。

だが、敵は眼にも見えぬ幽霊の様な奴だ。警視庁の全能力を以てしても、どうにも出来ない相手だ。二日三日は、珠子の葬儀などにとりまぎれて、知らぬ間に過ぎ去ったが、五日十日と日がたつにつれて、守青年はどうにも出来ない焦躁しょうそうを感じ始めた。

警察は一体何をしているのだ。あの完備した大組織の力でも、たった一人の繊細かぼそい青眼鏡の怪物を探し出すことが出来ないのか。

アア、三笠探偵が丈夫でさえいてくれたら、今頃はもう、賊が捉まっていたかも知れないのに。その頼みに思う三笠龍介氏は、三河島の見世物小屋で、張子はりこの岩の中に潜んでいた賊の一味の為に傷きずつけられ、まだ病院生活を続けているのだ。

守青年は、ただイライラするばかりで、何の考えも浮ばなかった。こうしてはいられないと思いながらも、自宅にとじ籠っている日が多かった。

その日も、彼は書斎の机によりかかって、両手の指で頭の毛を掻き乱しながら、徒いたずらに思い悩んでいたのだが、そこへ、ひょっこりと、珠子の元家庭教師殿村京子が入って来た。

この醜いけれど上品な未亡人は、我子の様にいつくしんでいた珠子の死に遭って、病気になるのではないかと案じられる程、歎なげき悲しんで呉れたのだが、やがて初七日しょなのかも済んだとき、彼女の方から解職を申出もうしいでたので、相川操一氏は、丁度珠子の学校友達の、あるお嬢さんの家から話があったのを幸い、殿村未亡人を、そこの家庭教師に世話をして、今日はそのお目見めみえの日であった。

「アア、殿村さん」

守青年はドアの音に振返って、元気のない声で云った。

「まだ考え事をしていらっしゃるの? いけませんね、そんなにくすぶっていらしっちゃあ」

殿村さんは、気がかりらしく眉を寄せて守の顔を覗き込む。

「どうでした。桜井さくらいの家うちは、お気に入りましたか」

青年は、てれかくしのように、別の事を訊ねた。桜井というのは、今度殿村未亡人が勤めることになった家の名なのだ。

「エエ、大変結構ですわ。それに、お嬢さんがすなおな、それはそれはお美しい方で、……アラ、こんなことあたしが云わなくても、守さんはよく御存知でしたわね。ホホ……、お嬢さんから、よろしくとおっしゃいました」

からかわれて、守青年はドギマギと目のやり場に困った様子であった。少しばかり赤面さえした。すると、彼は桜井のお嬢さんに、ただ妹の学友として知合いである以上に、何かの感情を抱いていたのであろうか。

「でも、あたし、桜井さんへ上ることは止そうかしらと思いますの。実はそれについて、守さんの御意見を伺うかがいに参りましたのよ」

突然、殿村未亡人が妙なことを云い出した。

「どうしたんです。やっぱり気に入らないことがあるのですか」

「イイエ、そうじゃないのですけれど、……守さん、あたし、いやなものに魅入みいられているのではないかと思いますの」

そして、彼女は俄かに非常に真劒な表情になって、じっと守の眼を見つめながら、聞えるか聞えないかの囁き声になって云うのだ。

「あいつが、また現われ始めたのですよ。あたしが桜井様のお嬢さんと二人きりで、さし向いでお話していました時、ヒョイと気がつくと、マア、ゾッとするじゃありませんか。お嬢さんの着物の肩の所に、……アレが、エエ、アレよ。赤い蠍! いつかの珠子さんの時とおんなじ奴が、お嬢さんの肩にとまっていたじゃありませんか。……」

「殿村さん、それ本当ですか」

守青年は、ギョッとして、彼も妙に低い声になって、思わず聞き返した。

「お嬢さんをビックリさせてはいけないと思って、黙っていたのですけれど、あたしの怖がっている目つきで、お嬢さんにもそれが通じたと見えて、サッと青くおなりなすって、思わず立上って身震いなさると、あの赤い虫の死骸が、ポトリと床へ落ちたのです」

「ウン、それで?」

「お嬢さんは、余程怖かったのでしょう、叫び声を立てて、いきなりあたしにすがりついてお出いでなさる。あたしもつい年甲斐としがいもなく、大きな声を出してしまったものですから、それからお邸中やしきじゅうの大騒ぎになったのです」

「で、何時いつその蠍が、品子しなこさんの肩にくッついたのか、分りましたか」

品子さんというのは桜井令嬢の名だ。

「それが分りませんの。気味が悪いではありませんか。お嬢さんは、着換えをしてから、一度も外出もなさらず、又外からのお客さまに会ってもいないとおっしゃるのです。アア、又目に見えない幽霊がうろつき始めました。その蠍が何所どこをどうしてお嬢さんの側へ近づいたのか、いくら考えて見ても、まるで見当もつきませんの」

「じゃ、あなたが品子さんに最初会った時はどうでした」

「無論最初からあの虫はくッついていたのですわ。それを迂濶うかつにも、あたし暫しばらく気附かないでいたのです。そうとしか考えられません。でなければ、あたしが見ている前で、誰かがお嬢さんの側へ近づいたことになりますが、いくら何でも、それを見逃す筈はありませんもの」

「じゃ、あの畜生め、今度は品子さんを餌食にしようっていうのだな。アア、どうすればいいんだ。で、警察へは届けましたか」

「エエ、あちらの御主人がお電話をかけていらしったようでした。あたし、それから直じきお暇いとましたものですから、……ねえ、守さん、あの悪魔は、あたしに魅入っているとしか思えませんわ。あたしの行く先々へつき纒まとって、そこのお嬢さんを恐ろしい目に合わせるのだとしか思えませんわ」

「では、あなたは、品子さんが、あいつの為に殺されると思うのですね」

「エエ、恐ろしいことだけれど、そうとしか……」

そして、二人はうそ寒い曇り日の、窓の光の中で、黙ったまま、異様に目と目を見合わせた。お互の瞳の中に、何かゾッとする魔性のものが潜んででもいるように、恐怖にわななきながら、

「三笠さんは御容体どうなんでしょう」

やっとしてから、殿村さんが、ふと気を変えて、別の事を訊ねた。

「まだ急に退院出来相そうもないということです。実は今日あたり、一度訪ねて見ようと思っていたところですよ。何でしたら、あなたも一緒にいらっしゃいませんか」

「エエ、でも、今日は少し差支がありますから、……あなたから、よく今度のことをお話し下さいませんか。あたし、三笠さんには、いずれゆっくりお目にかかって、よく御礼申し上げたいと思っているのですけれど……」

殿村さんはそう云って、なぜかニッコリ笑った。守は彼女のこういう笑顔わらいがおを今まで一度も見たことがなかったので、このおばさんにも、こんな表情があったのかしらと、何か発見でもしたような感じであった。それに、言葉と笑顔との間に、全く何の聯絡もないのが、一層変な感じを与えた。殿村さんは一体何がおかしくて、あんな盗み笑いをしたのであろう。

だが、一瞬間「オヤッ」と思ったばかりで、殿村さんの笑顔が素早く消え失せると同時に、彼もその事を、つい忘れてしまったのだけれど。

病探偵

その晩、夕食後に、守青年は、父操一氏にも話をした上、病床の三笠老探偵を訪ねた。

三笠氏は、そこの院長と懇意な関係から、自宅に近い麹町外科医院という、小さい病院へ入院していた。

余り立派でない西洋館の玄関を入ると、消毒剤の、どっか身内のうずくような匂においが鼻をついた。そして、ベルの音に、その不快な匂の中から、四角な顔の事務員が現われた。

「三笠さんに御面会ですか。あなたは……」

彼は、守をジロジロ見ながら、何か警戒する様なうさんな口振りで訊ねた。

「相川守というものです。三笠さんに御伝え下されば分ります」

守は少しムッとして答える。

「余程御懇意な方ですか。でないと、実は、面会は禁じられているのですが」

事務員は奥歯に物のはさまった様な、妙な云い方をする。

「じゃひどく悪いのですか」

「エエ、今朝から病勢が悪化しているのです。それに、少し事情がありますので……」

「いずれにしても、一度取次いでくれませんか。どうしても面会出来ない様なら帰りますから」

事務員は、又しても、守の姿を、頭のてっぺんから、足の先までジロジロと眺めてから、不承不承ふしょうぶしょうに奥へ消えて行った。

何だか変だ。もう余程よくなっていなければならない時分なのに、突然悪くなった様なことを云う。そして、あの警戒ぶりはどうしたというのだろう。何かあったのではないかしら。

異様な不安を感じながら、佇たたずんでいると、暫くして引返して来た事務員が、今度は俄かに愛想よくなって、

「御面会なさるそうです。どうかこちらへ」

と先に立った。

「病勢が悪化したと云うのは、どんな風なのですか。傷口が化膿かのうしたとでもいうような……」

守が彼のあとについて歩きながら訊ねると、事務員は、少し声を低くして妙なことを云った。

「イイエ、傷の方は、もう殆ど治っていたのですが、実は思いがけないことがありましてね。三笠さんはひどい目に遭われたのです。御商売柄敵の多い方ですからね」

敵という言葉に、守はすぐ「赤蠍」を思い浮べた。若しやあいつが、探偵の病床へまで魔手を伸ばしたのではないだろうか。

だが、それを確める間もなく、もう病室であった。事務員はそのドアをソッと開けて、お入りなさいという目くばせをした。

病室というのは、病院の裏手に当る、階下の十畳程の洋間であったが、態と薄暗くした電燈の下に、白いベッドの中から、さも苦しげなうめき声が、不気味に漏れていた。

守が入って行くと、附添いの看護婦が、病人にそれを告げて、ソッと頭の向きを変えてやった。真白なシーツの中から、年取った探偵の白髪白髯の顔が、物憂ものうげにこちらを見た。

その顔を一目見ると、守青年は、ギョッとしないではいられなかった。アア、何という変り方であろう。三笠氏は元々痩せてはいたのだけれど、それが一層ひどく頬骨が出て、顔の皮膚は青いのを通り越してまるで藍色あいいろに見え、眼鏡を脱はずした両眼は、日頃の突き通す様な光が全く消え失せて、トロンと力なく濁り、口は、死人の様に顎が落ちて、下歯がむき出しになり、そこから覗いている黒い舌が、ひからびた様になって、ゼイゼイと喉にからんだ唸り声が漏れているのだ。

「三笠さん、相川です。ひどく元気がない様じゃありませんか。一体どうなすったのです」

守は痛々しく病人の顔を覗き込みながら云った。

老人は、見舞人を認めた様子で、少し眼を動かしたが、物を云うのが一通りならぬ骨折りらしく、

「アア、ま、もる、君くんか。わしは、ひ、ひどい、めに遭った」と、もつれる舌で、やっとそれだけ云うと、ガッカリと疲れた様に、目を閉ふさいで、又幽かすかに唸り始めた。

「どうしたのです。何かあったのですか」

守は看護婦を傍そばへ呼んで、小声で訊ねて見た。

「エエ、わたくし詳しいことは存じませんが、何でも、誰かから送って来た品物に毒薬が仕掛けてあって、それが三笠先生の身内みうちに入ったのだそうでございます。早く手当をしましたので、やっとお命だけは取止めましたけれど、でも、……」

と看護婦は不安らしく云う。

「いつの事です、それは」

「今朝程でございます」

「その品物っていうのは、郵便で来たのですか。そして、差出人は誰だか見当はつかないのですか」

「エエ、それが、何ですか、……」

彼女は口留めされているのか、知ってはいるけれど答えられないという様子だ。

「若しや、例の『赤い蠍』じゃありませんか。それなら僕も少しかかり合いの者なんだが」

「エエ、実は、三笠先生もそうおっしゃるのでございます」

彼女は「赤い蠍」という言葉に、サッと顔色を変えて、さも恐ろしそうに身をすくめた。

そうして彼等が、隅の方でボソボソと囁き合っていた時、突然、ゾッとする様な恐ろしい叫び声が聞えた。叫び声というよりは、寧ろ野獣の咆哮ほうこうであった。

「アラ、いけませんわ、そんなに御動きなすっては」

看護婦がベッドへ飛んで行って、もがく病人を押鎮おししずめようとしたが、瀕死ひんしの老探偵は、まるで気違いの様に身もだえをして、苦しさに耐えぬものの如く、わめき続けるのだ。一匹の痩せさらぼうた狂犬の様に、吠ほえつづけるのだ。

アア、その形相のすさまじさ。額には静脈がムクムクとふくれ上って、昂奮の余り顔色は紫に変じ、両眼は飛び出すばかり見開かれ、口は真夏の日中の犬の様にだらしなく開いて、涎よだれをたらしながら、悲鳴とも怒号ともつかぬ、一種異様の唸り声がほとばしる。そして、身もだえをする度たびに、骨ばかりの様に痩せた両手の指が、断末魔の形で空くうを掴むのだ。

「君、ここは僕がいるから、早く院長を呼んで来てくれ給え」

守もしがみつく様にして、病人の起き上ろうともがくのを押えながら、看護婦に叫んだ。

「では、ちょっとお願いいたします」

彼女は室へやの外へ駈け出して行った。

三笠探偵の恐ろしい苦悶は、二三分間程続いたが、その間中、彼の目は、裏庭に面している窓のガラス戸へ釘着けになっていた。

守はふとそれに気づいて、思わずその方を見ると、真暗な窓の外に、何かしらチラと動いたものがある様に感じられた。ほんの一刹那ではあったけれど、彼の網膜もうまくはそれを捉えた。二つの目が、ガラス戸の外から覗いていたのだ。姿は闇に隠れて、ただ二つの目だけが、室内の光にキラキラと光って見えた。だが、ハッと思って見直した時には、もうそこには闇があるばかりであった。

幻影かしら。イヤ、幻影なれば、病人が同じ様に窓のその箇所を見つめている筈がない。何者かは知らぬが、窓の外から、ジッと室内を覗き込んでいた奴があったのだ。そして、妖星の様に光るあの二つの目が、奇怪な呪いの力を持っていて、三笠探偵をかくも狂わせているのだとしか考えられなかった。

そう思うと、四角に区切られた、窓の外のうそ寒い闇が、異様にもの恐ろしく、押えても押えてもはね返す病人の狂乱が、ただ事ならず不気味であった。彼は何かしら目に見えぬ理外の力と争っている様な、一種異様の恐怖を禁じ得なかった。

老人の解し難い発作は、守青年には非常に長く感じられたが、実は二三分程で、ケロリと納まった。突然、瘧おこりがおちたという感じで、あれ程うめき苦しんでいた三笠老人が、グッタリと死人の様に動かなくなってしまった。

そこへ、やっと院長の医学博士はかせと看護婦とがやって来た。守は病人を二人に任せて置いて、急いで窓の所へ行って、ソッとガラス戸を上げ、闇の中を覗いて見た。だが、別に人の隠れている気配もない。やっぱり幻影だったのかしら。それとも、魔性ましょうの奴は、素早くも逃げ去ってしまったのだろうか。

やがて、窓をしめて、ベッドの所へ戻って来ると、院長は別に詳しく診察した様子もないのに、もう病室を引上げそうにしていた。

「心配した事はないのでしょうか。素人にはひどく悪い様に見えるのですが」

守は簡単に挨拶したあとで、訊ねて見た。

「イヤ、悪いと云えばひどく悪いのだが、併し、御心配なさる事はありませんよ。マア、ゆっくり話して行って下さい」

赭顔あからがおの快活らしい院長は、消毒衣の太った腹の前で、両手を柳やなぎの様に、シナシナと二三度振って見せて、ニコニコ笑いながら病室を出て行ってしまった。看護婦もそのあとについて、ドアの外に姿を消した。

何だか変な具合だ。この重態の病人を放って置いて、冗談らしく笑いながら出て行くとは、この医者はどうかしているのではないかしら。

ベッドの病人を見ると、やっぱり瀕死の形相物凄く、今にも絶え入り相にうめいている。

「三笠さん、苦しいですか。もう少し先生にいて頂く方がよくありませんか」

三笠探偵のしなびた顔を覗き込んで訊ねると、老人は幽に首を振って、

「イヤ、き、きみに、すこし、話したい、ことがあるので、あの、ひとだちに、座を、はずしてもらったのだ」と、息切れしながら、やっと云った。

それから、骨ばっかりの様な手を挙げて、例の窓の方を指さしながら、

「カーテンを……」

と云う。

「カーテンをしめるのですか」

ああ、やっぱりあの人影に気づいていたのだ。あの二つの目が怖いので、カーテンをしめよという意味に違いない。

守は立って行って、二つの窓のブラインドをおろし、その上にカーテンを注意深く引き合せて、元の椅子へ戻った。

「すき間のない様に、だれも覗かない様に」

病人が念を押すので、もう一度立って、どこにも隙間のないことを確めて帰った。そして、病人に話しかけようとした時である。

「ウフフフ……」

実に突然、ベッドに埋うずまった瀕死の病人が笑い出した。痩せた頭部をガクガクさせて、おかしくて堪たまらない様に、声を殺して笑い出した。

何ということだ。可哀相な老探偵は、とうとう気が狂ってしまったのかしら。

秘密函ばこ

「三笠さん、三笠さん、しっかりして下さい。どうしたのです」

守は思わず、老人の上に顔を寄せて、叫ぶように云った。

「ウフフフ……」

病人はなおも笑い続けながら、実に驚いたことには、まるでたっしゃな人の様に、ムックリ起上ると、いきなりベッドをおりて、守の前に立ちはだかった。

白いダブダブの寝間着ねまきを着た骸骨がいこつが、今墓場の中から甦よみがえって来たという恰好で、そこにヒョッコリ立っているのだ。守青年は、ギョッとして、思わずタジタジとあとじさりしながら、

「いけません、いけません、そんな無茶をしては、……」

と叫ぶ。

「シッ、大きな声をしちゃいけない。壁に耳ありじゃからね。だが、安心し給え。わしはこの通り、なんともないのだよ。ハハ……、わしはお芝居もなかなか上手じゃろうが」

云いながら、老人はラジオ体操の様に、手を動かして見せた。

だが、いくら活溌かっぱつに動いて見せたところで、これが健康な人と云えるだろうか。あの顔色はどうだ。目のまわりを薄黒く隈取くまどっている死相はどうだ。

「フフフ……、これかね」老人は自分の顔を指さして、「これは絵の具だよ。ここの院長さん絵心があってね。わしの顔をメーク・アップしてくれた。これは院長とわしと二人だけのお芝居でね、看護婦も事務員も、誰も知らないのだよ。でないと、どこに敵のまわし者がいないとも限らんのでね」

非常に痩せて見えたのは、負傷の為に本当に痩せてもいたのだし、それに、目をドロンとさせたり、口をだらしなく開いたり、上手なお芝居が、一層老人の形相を物凄く見せたのであった。

やっと仮病人けびょうにんの次第わけが分ったので、守青年は俄かに安堵あんどを感じながら、彼の口辺にも、思わず笑いが浮かんだ。

「そうでしたか、僕はどうなることかと、実に心配しましたよ」

「イヤ、失敬失敬、敵をあざむくには、先ず味方からという訳でね、つい驚かせて済まんかった。君には、もう大体分ったじゃろうが、赤蠍の奴、今度はわしを狙い始めたのでね。危くて仕方がない。傷の方もすっかり治っているのだけれど、敵をあざむく為に、懇意な院長に頼んで、いつまでもここに置いてもらっている訳さ。フフフ……」

探偵は注意深く、決して大きな声を出さなかった。

「では、さい前、あんなに苦悶されたのも、……」

「ウン、ウン、あれが実は今晩のお芝居のクライマックスでね。君は丁度よい所へ来合せたというものじゃ。イヤ、失敬失敬。ところで、君はさっき、わしが大騒ぎをやっている最中、あの窓の外を見なかったかね」

アア、やっぱりそうであったのか。

「エエ、見ました。誰かが覗いていたのでしょう。あいつの正体を御存知なのですか」

「ウン。知っている」

「若しや……」

「その通り、赤蠍じゃ。恐らく青眼鏡の部下の奴じゃ」

「どうしてこの庭へ入って来たのでしょう」

「そんなこと、あいつらには朝めし前の仕事じゃろう。塀をのり越すなり、図々しく表門から入り込んで、裏手へ潜入するなり」

「そうまで分っていたら、なぜあいつを捉えなかったのです。僕もお手伝いしましたのに」

「肝腎かんじんの張本ちょうほんを逃がしてしまうからさ。やッつける時には、一網打尽じゃ。今はまず、奴等の罠にはまったと見せかけ、油断をさせておけばいいのじゃ。あいつ、このわしが余程邪魔になると見えて、毒殺しようとしおった。わしはその毒にやられた体ていに見せかけて、瀕死の病人を装っているのだよ。あいつ、今晩あたりきっとわしの様子を見に来ると思ったので、それを待ち構えて、さっきの大げさなお芝居を演じて見せたという訳なのじゃ」

「じゃ、何か毒のある品物を送って来たというのは本当なのですね」

「ウン、本当だ。わしはすんでのことに、やられる所じゃった」

「アア、それで思い出しましたが、僕も実は、新しく起った事件を御知らせに来たのですよ」

守は騒ぎにまぎれて、つい忘れていた桜井家の出来事を思い出した。

「第三の犠牲者のことかね」

探偵は、待構えてでもいた様に、図星を指すのだ。

「そうです、併し、あなたはどうしてそれを、……」

「桜井のお嬢さんじゃろうが」

余りのことに、守はこの名探偵の藍色の顔を見つめたまま、二の句がつげなかった。

「ハハハ……、それを知らん様では、探偵とは云われん。驚くことはないよ。四五日前から、わしは毎晩この病院を抜け出して、東京中をうろつき廻っていたんだからね。赤蠍の奴が次に何を企らむか位は、ちゃんと目星がついているのさ」

「今度は未然に防げましょうか」

「ハハ……、気掛りと見えるね。君はあのお嬢さんとは仲よしだったね。大丈夫、今度こそわしが引受けた。この白髪首しらがくびを賭けてもいいよ。わしは生れてからこの方かた、同じ失敗を二度繰返さないという、固い信念を持っているのじゃ。妹さんのことは、何とも申訳もうしわけがないと、胆に銘じている。それなればこそ、こんな偽病人の苦労までしているのじゃ。今度しくじる様なことがあったら、無論、この白髪首、胴にはつけて置かん決心じゃよ」

「それを伺って、僕も気持が軽くなりました。ですが、探偵という仕事もつらいですね。賊に傷つけられて入院なすったそのことを、すぐに又探偵の手段に逆用しなければならないなんて」

「ハハハ……、君にはつらい様に見えるかね。わしは愉快なんじゃよ。軍人以外の職業で、探偵程戦闘的なものはありやしない。命がけの戦いだ。智恵という智恵を絞しぼりつくし、力という力を出しつくしての闘争じゃ。世の中にこんな面白い仕事があるもんか」

「ワー、おじさんの元気には、僕顔まけしますよ。ハハハ……」

とうとう冗談が出た。守青年はそれ程気が軽くなっていたのだ。この老いぼれ探偵のたのもしさはどうだ。すばらしさはどうだ。

話は段々陽気になって行ったけれど、彼等は非常に用心深く、声の加減をしていたので、仮令たとえ万一、賊が窓の外に潜んでいても、そこまで聞える心配はなかった。実はそんな心遣こころづかいをしなくとも、守がさい前窓の外を見た時、もうその辺に人影さえなかった程だから、賊はとっくに逃げ去ってしまったに違いないのだけれど。

気持がほがらかになると、今まで目にもつかなかった品物が、ふと守の注意を惹ひいた。

「これ何なんです?」

枕元の小卓の上に、美しい寄木細工よせきざいくの小函こばこが置いてあった。彼は何気なく、それを手に取って訊ねた。

「秘密函さ。開あけられるかね」

老探偵の口辺に、ちょっと悪戯子いたずらっこの様な表情が浮んだ。

例の「探偵さん」の守青年のことだから、秘密函と聞くと、つい開けて見ないでは気が済まなかった。彼はその函をあちこちと向きを変えながら、指先でひねくり廻していたが、暫くすると、パチンと幽な音がして、函の蓋がパッと開いた。と同時に、

「アッ」

という守の叫声きょうせい。

何かしら、函の中から赤いものが飛び出して来て、彼の顎にぶッつかり、そこの皮膚をチクリと刺ついた。それはおもちゃのビックリ函と同じ仕掛けになっていたのだ。

思わず函を放り出して、よく見ると、長く伸びたゼンマイの先に震えている赤く塗った金属製のものは、何と驚いたことには、例の悪魔の紋章「赤い蠍」ではなかったか。

守はそれと気付くと、刺された顎を押えながら、青くならないではいられなかった。賊が探偵に送った品物というのは、この小函であったのだ。すると、今チクリと刺した蠍のとげには、立所たちどころに人命を奪う猛毒が塗られていたのではないか。

「失敬失敬、ちょっと実験をして見たのだよ。成程、この奇抜な注射法は百発百中だわい。秘密函を開けようと熱中すると、自然に顔が函の上へのしかかる。そこへパッと蓋が開あくものだから、蠍のとげは必ずその人の顔面へ命中するっていう訳じゃ。うまく考えよったわい」

「じゃ、このとげには、毒が……」

「ハハ……、そんな危いものを、大切だいじな君になぶらするものかね。安心したまえ。毒は院長が完全に洗い取ってくれたのだよ」

「おじさん、人が悪いや。すっかり驚かされてしまった」

「だがね守君、よく考えて見ると、この小函は、ただ毒薬注射器という以外に、何かしら犯人の思想を象徴している様な気がして仕方がないのだよ。ホラ、君が最初谷中で隙見したという、あの変な木箱ね。その中にはどうやら人間が入っていたらしく、そいつが妙な流行歌はやりうたを歌ったのだね。それから、この間の三河島だ。あれは張はりぼての岩だったけれど、何かを包み隠している点で、やっぱり一種の箱と云ってもいい。その箱の中から、短剣が飛出したのじゃ。丁度今この秘密函から蠍が飛出した様にね。どうだね。こう考えて来ると、今度の犯人には、箱というものが、不思議につき纒っているじゃないか。これは一体何を暗示していると思うね」

探偵は、非常に真面目な表情になって、じっと守青年を見つめた。

「なる程、おっしゃれば、そうですね。そう聞くと、何だかひどく不気味な気がしますけれど、僕にはその意味がよく分りません」

「イヤ、わしにもハッキリ分っている訳ではない。じゃが、その箱に包み隠されているものが、どうやら、この犯罪の根本原因を為なしている様に思われてならぬのじゃ。若し、わしの想像が当っているとすると、これは実に容易ならぬ事件だよ。前代未聞と云ってもいい。だが、それ程の邪悪の魂が、果してこの世に存在するものだろうか。想像も出来ない。アア、何という気違いだ。何という悪魔だ」

白髪白髯の名探偵は、我れと我が言葉に、段々昂奮しながら、つい知らず声高こわだかになって行くのであった。

螯はさみが! 螯が!

妖虫殺人団が第三の餌食と狙う桜井品子さんは、富豪代議士桜井栄之丞えいのじょう氏の一人娘で、死んだ珠子と同じ女学校の卒業生、珠子よりは二年上級のお姉さんであった。在学中は、双方の父親が親しい間柄であったというばかりではなく、何となくお互に引きつけられる感じで、級は違ったけれど、学校でも評判の仲好し、品子も珠子に劣らぬ美しい娘さんであった所から、この二人は「美貌の友」という、女学生らしい渾名あだなで呼ばれていた程であった。

桜井品子は、その様に美しさでもズバ抜けていたけれど、その上彼女は美貌以上の才能に恵まれていた。品子は楽壇にも聞えたヴァイオリンの名手であった。少女時代既すでに天才をうたわれ、さる独逸ドイツ人音楽教授の愛弟子まなでしとなって、年と共にその技ぎは進み、今では懇望こんもうされてステージに立つ事も屡々しばしばであった。洋楽を解する程の人にして、ヴァイオリニスト桜井品子の名を知らぬ者はなかった。

品子が愛友相川珠子の惨死を歎き悲しんだことは云うまでもないが、悲しみは忽ちにして恐れと変らなければならなかった。赤蠍襲来の不吉な予報が、既に彼女を襲い始めたからである。ある日、彼女の新しい家庭教師殿村夫人が、真蒼になって品子の肩の辺りを見つめた。ゾッとして振ふるい落すと、彼女の肩から、例の悪魔の象徴赤い蠍の死骸が、ポトリと床に落ちたのであった。

品子はこの奇妙な出来事が何を意味するかを、よく知っていた「赤い蠍」は殺人鬼の白羽しらはの矢やであった。世にも恐ろしい死の宣告であった。

彼女の繊細な神経は、恐怖の余り、変調を来たさないではいられなかった。品子はその夜から、えたいの知れぬ悪夢にせめさいなまれた。

見る限り灰色の大空に、何かしら途方もなく巨大な生きものが、朦朧もうろうと覆いかぶさって、不気味なスロー・モーションで蠢うごめいていた。

そいつの身体は、大空の果はてから果まで伸びて、天日を遮さえぎりながら、黒雲の如く横わり、八本の曲りくねった巨大な脚が、モゾモゾと蠢きながら、豆粒の様に小さい品子の上に、掴みかかって来るかと思われた。

そいつの胴体は、沢山の関節から出来ていて、その関節の一つ一つが、大戦闘艦程の大きさを持っていた。

海底の生きものの様にボンヤリとしか見えなかったけれど、そいつには、馬鹿馬鹿しく大きな顔があった。顕微鏡で拡大した毒蜘蛛の頭部の様な、醜怪極きわまりなき顔があった。そして、その頭部から、平家蟹へいけがにの螯はさみが二本、ニョッキリと、遙かの地平線へ伸びて、呼吸をする様に閉じたり開いたりしていた。

そいつには又、太古の生物恐竜そっくりの、見るも恐ろしい尻尾があって、それがいまわしい黒い虹の様に醜く彎曲わんきょくし、その先端に、実物を千倍に拡大した程の槍の穂先が、ドキドキと鋭く光って見えた。

蠍だ。空一杯の黒雲の様な蠍だ。歯ぎしりの出る程いやらしい蠍の腹部だ。それが、今にも品子をおしつぶさんばかりに、目を圧して迫って来るのだ。

何とも形容の出来ない、恐ろしい悲鳴を発して、彼女は目覚めた。見廻すと、そこは白い寝室であった。ベッドの枕下まくらもとの小さい卓上電燈が、天井に丸い光を投げていた。

品子は、全身油汗あぶらあせにまみれて、恐る恐る寝返りをした。そして、庭に面したガラス窓を見た。

カーテンが半なかば開いて、その向むこうに真暗な夜があった。

品子の寝室は洋館の階上に在あったので、梯子でもかけなければ、その窓へ忍び寄る事は出来なかった。その上ガラス戸には、内部から厳重な締りがしてあった。

「大丈夫、大丈夫、窓の外には人間のよじ昇る足場なんてありやしないのだから」

彼女は、高鳴る心臓をおし静める様に、自分自身に云い聞かせた。

だが、人間はよじ昇れなくても、虫なれば、蠍なれば、苦もなく這い上って来るかも知れない。

ふと、そんなことを考えて、彼女は思わず身震いした。

窓の外を、非常に大きな虫類が、ゴソゴソと這い上っている幻想が、今の悪夢の続きの様に、彼女を戦慄させた。

「どうかしているんだわ、あたし。そんな馬鹿馬鹿しい事があっていいものですか」

品子は我れと我が幻想を笑い消そうとした。

併し、あれは何だろう。木の枝かしら、木の枝が、あんな窓の近くにあったのかしら。

黒いガラス窓の下隅に、何かしら目触めざわりな一物があった。

「木の枝に違いない。何でもありゃしない」

本当に木の枝かしら。それが夜風に揺れているのかしら。でも、風があんな風ふうに動くものかしら。それは、何か生き物の意志で動いている様に見えるではないか。

その物は、徐々に大きくなって行く様に見えた。窓の下端したはしから、スルスルと伸びて、ガラスの外を這い上って行く様に見えた。

赤黒い棍棒こんぼうの様なものであった。その棍棒の尖端せんたんがパックリ二つに割れて、内側にギザギザした鋸のこぎりの歯みたいなものがついていた。

品子は金縛りに逢った様に、もう身動きする力もなかった。心臓丈けが、全く別の活いきものみたいに、彼女の胸の中で跳おどり狂っていた。

「きっと気のせいだわ。あたしは幻を見ているのに違いない」

気安めを云って見ても、彼女の直覚が承知しなかった。こんなハッキリした幻なんてあるものか。何かしら窓の外を這い上っているのだ。現にあの棍棒の様なものが、ガラスの面おもてをこすって、キーキーと幽な物音さえ聞えて来るではないか。

やがて、そのものは、それと分る程の姿を現わした。二つに折れ曲った関節、ゾッとする程巨大な平家蟹の螯、ガラス板にぴったり吸いついた赤黒い螯、それがワクワクと物を噛む形で開閉しているのだ。

赤い蠍!

アア、夢ではない。夢がそのまま現実となって現われたのだ。悪夢の谺こだまの様に、突如として、信じ難き怪物が、人間程の大蠍が、闇の窓の外に這い寄って来たのだ。

夢ならば醒めることもあろう。だが、現実には全く救いがない。螯の次には、あいつの醜怪な顔が、ソッとこちらを覗き込むに違いない。それから、針の様な毛の生えた全身が、目まぐるしく動く沢山の脚が、醜くひん曲った尻尾が……。

余りの恐怖に、品子の五体のあらゆる機関が活動を停止して、全身が底知れぬ深海へ落込んで行く様に感じられた。青黒い水の層の中を、スーッと沈んで行く。沈むに従って水の層は益々暗くなって行く。そして、遂には文目あやめも分かぬ真しんの闇にとじこめられてしまった。……彼女は極度の恐怖に気を失ってしまったのだ。

怪しの物

だが、その翌朝よくあさ、朝の物音と太陽の光とが、彼女の意識を呼び戻した。ふと目を覚ますと、品子は別段の異状もなく、昨夜のままベッドの中に横わっていた。不気味な怪物の蠢いていた同じ窓から、昨夜とはうって変って、晴れやかな朝の太陽が覗いていた。

彼女は、ベッドを降りて、ソッと窓を開いて見たが、外には何時いつに変らぬ庭園の常緑木ときわぎが、青々と茂っているばかり、何の異常も認められなかった。

やっぱり、あれは夢の続きだったのに違いない。でなくては、あんな大きな蠍なぞが、現実に棲息せいそくする筈はないのだから。

「マア、よかった」

太陽の光が、悪夢の魑魅魍魎をすっかり払い落してくれた感じで、彼女はすがすがしい気持になれた。ひどく疲れて、頭がフラフラしていたけれど、気を引立てて身じまいをして、いつもの通り朝の食堂へ出て行った。

「マア、品さん、どうなすったの、あなたの顔色は? どっか身体の具合が悪いのじゃありませんか」

母夫人が、驚いて訊ねた程、彼女は蒼ざめていた。

「イイエ、別に。きっと、ゆうべよく眠らなかったせいよ」

品子は何気なく答えた。昨夜の怪物の事など、明るい太陽の下では、馬鹿馬鹿しくて話し出せなかった。話せばきっと笑われるに極まっていた。

「品子はあの虫のことを気に病んでいるんだよ。だが、心配しなくてもいい。お前のことは警視庁の捜査係長が、すっかり引受けて、警戒していてくれるんだから。家には腕っぷしの強い書生共がゴロゴロしているんだし、門長屋にはお巡りさんががんばっている。外出さえしない様にしていれば、ちっとも恐れることはないんだよ」

父桜井氏が、政治家らしく磊落らいらくに笑いながら、娘を力づけた。

品子はそれを聞くと、益々昨夜の事が話し出せなくなってしまった。

警視庁の蓑浦みのうら捜査係長が父と親しい間柄で、例の蠍の死骸の出来事を通知すると、早速さっそく出向いて呉れて、色々取調べもし、警戒の手配も講じてくれたのは事実であった。普通の犯罪なれば、これで十分安心出来たに違いない。だが、魔法使いの様な妖虫殺人鬼が、こんなことに恐れを為して、手を束つかねているであろうか。

その午後、相川守青年が訪ねて来た。そして、彼も亦また品子の蒼ざめた顔色に驚かされ、何かあったのではないかとくどく訊ねた。悪魔の犠牲となった珠子の兄だけに、妖虫の恐ろしさを知り尽している彼だけに、その質問は急所に触れていた。

品子はとうとう、それを打明けないではいられなかった。

「多分、あたし夢を見たんですわ。でも、あんまり馬鹿馬鹿しい事ですもの」

そう照れ隠しの前置きをして、彼女は前章の出来事を詳しく物語った。

「夢ですよ。君がその事ばかり気にしているものだから」

守青年は品子の父と同じ様な意見を述べたが、それは相手を安心させる口先ばかりであって、内心ではある恐ろしい疑いを抱いだいていた。桁けたはずれの悪魔を、常規じょうきで律することは出来ない。それが信じ難い出来事であればある程、却って用心しなければならないのだ。

彼は帰りがけに、品子に気づかれぬ様に注意しながら、ソッと庭に降りて、彼女の寝室の窓の下へ行って見た。

「探偵さん」の彼は、そこの地面に何かの痕跡を予想していたのだが、行って見ると、果して果して、そこには余りに明白な悪魔の足跡そくせきが残っていた。

丁度問題の窓の下の辺りに、棒の先でつけた様な穴が二つ、一尺五寸程の間隔を置いて、ハッキリと地面に残っていた。

梯子はしごを立てかけた跡だ。

蠍が梯子を使用したのだろうか。あの巨大な妖虫は、まるで人間の様に、梯子を登って寝室の窓を覗いたのであろうか。

守青年はいつか、その庭園の一隅いちぐうの物置小屋の中に、梯子が入れてあるのを見たことがあった。ふと「あの梯子かも知れない」と気づいたので、その物置に入って調べて見ると、案あんの定じょう、梯子の脚に、まだ生々しい土が附着していた。

品子は決して夢を見たのではなかった。彼女を襲った怪物は実在のものであった。それは悪魔の殺人遊戯の前奏曲であったかも知れない。犠牲者を思う存分怖がらせ、脅えさせて楽しもうとする、殺人鬼の途方もない稚気ちきであったかも知れない。

守青年は、悪魔のからくりが分った様に思った。お化けの正体を見た様に思った。

大胆不敵の賊は、このすばらしい遊戯を、たった一夜で中止する筈はない。怪物は今夜も亦、品子の寝室に這い上って、彼女の恐怖を楽しむ積つもりかも知れない。

絶好の機会だ。図に乗りすぎた悪魔を捕える絶好の機会だ。この機会を逃がしてなるものか。

だが、この事を家人に告げてはいけない。警察にも知らせない方がいい。下手に騒ぎ立てて、機敏な賊に悟られては、もうおしまいだ。怪物は再び姿を現わさないであろう。

味方は三笠探偵一人で沢山だ。早くこの発見を老探偵に知らせなければならない。そして、今夜こそ、恨み重なる赤蠍を手捕りにしなければならない。

彼は桜井家を辞すると、その足で三笠探偵が入院している麹町外科医院を訪れた。

だが、探偵は不在であった。表向きは重態でベッドに呻吟しんぎんしている様に見せかけ、病室の窓のカーテンを閉とざし、ドアには鍵を掛け、病院の召使さえも近寄らせない用心深さで、この秘密は院長自身の外は誰も知らなかったけれど、その実病室はもぬけの空からであった。老探偵は、敵を油断させて置いて、その虚に乗じて、妖虫事件の探偵に従事しているのに違いなかった。

守青年はガッカリした。三笠探偵の助力もなく、独りぼっちで怪物と戦うのは、何となく不安であった、けれど、今更ら警察の加勢を頼む気にはなれなかった。騒ぎ立ててぶち毀こわしになることも虞おそれたし、それに、彼にはこのすばらしい発見を独占したいという素人探偵気質かたぎがあった。独力で、恨み重なる悪魔の正体をあばいてやり度たいという、稚気の様なものがあった。

その夜更け、守青年は真黒な背広に身を包み、父の書斎からソッと持出したピストルをポケットに忍ばせ、桜井家へ出かけて行った。

誰にも知らせず裏庭へ忍び込まねばならない。それには塀を乗り越す外に手段はなかった。彼はまるで泥棒の様に、裏の板塀をよじ登って、庭内の樹立こだちの闇に身を潜めた。

樹立を通して、洋館の二階の品子の寝室が眺められた。問題の窓には今夜は用心深くカーテンが引いてあったが、室内の電燈にそのカーテンが赤黄色く透いて見えた。

召使達ももう就寝したのであろう、邸内は森しんと静まり返っていた。空には一面の星明り、少しも風のない、異様に物静かな夜であった。

闇の中にじっと踞しゃがんでいると、靴の底から寒さが這い上って来る。寒さの為にか、恐ろしさにか、身体がガクガクと震えて来るのを、彼は歯を噛みしめて、じっと堪こらえながら、実に長い長い時間を、一つの黒い石ころの様に、身動きもしないで待構えていた。

やがて、彼が庭内に忍び込んでから二時間程もたった時分、彼の予想は恐ろしくも適中して、さい前彼が乗越した板塀の上の星空に、何ともえたいの知れぬ物の姿が、ニュッと現われた。

星の光と、闇に慣れた視力で、その物の姿を、やや明瞭に見て取ることが出来たが、如何にもそれは、驚くべく巨大な一匹の蠍に相違なかった。

そいつは、実に不器用な恰好で塀を乗り越すと、転がる様に地上に飛び降りて、そこの闇にじっと横わったまま、邸内の気配を窺うのか、暫くは身動きもしなかった。

守は今、その全身を朧おぼろに眺めることが出来たが、毒蜘蛛を千倍に拡大した様な、醜怪兇悪な妖虫の姿に、思わずゾッと総毛立たないではいられなかった。

無論こんな怪物が東京の真中に棲息している筈はない。子供だましの作り物に極まっている。だが、それとは承知しながらも、闇の中に蠢く、余りに突飛な物の形に、脅えないではいられなかった。

それに、妖虫の姿は仮令縫ぬいぐるみであっても、その中に隠れている人間こそは、蠍にもまして恐ろしい悪魔なのだ。

見つめていると、巨大な虫は、ソロソロと地上を這い始めていた。ニョッキリと聳そびえた二本の螯はさみは、案の定庭の隅の物置小屋に向っている。彼は先ずそこの梯子を取り出す積りであろう。

守は少なからず躊躇を感じた、いっそ手捕りにすることは諦あきらめて、こいつのあとを、気長に追跡してやろうかとも考えた。だが、敵は縫いぐるみに包まれた不自由な身体だ。力では引けを取らない自信がある。それに、万一の場合には大声にわめきさえすれば、邸内の書生などが助けに来てくれるであろう。この絶好の機会を、見す見す退のがすのは如何にも残念だ。

「エエ、やっつけろ!」

彼は咄嗟に決心すると、スックと立上り、黒い風の様に駈け出して、物をも云わず怪物目がけて飛びかかった。

幸、相手は腹這はらばいになっている。彼はその上に馬乗りになって、グイグイと圧おさえつけさえすればよかったのだ。

彼の計画は見事に成功した。巨大な蠍は、彼の下敷になって、奇妙なうめき声を発しながら、もがいた。もがきにもがいて、怪物はやっと身体の向きを仰向あおむきに変え、例の螯を振って抵抗した。

だが、守は怪物を圧えつけたまま、ふと妙な不安に襲われないではいられなかった。何となく変な具合であった。

こいつは一体何者だろう。なんて力のない奴だ。それに骨格と云い、身体の恰好と云い、まるで子供みたいにちっぽけな奴じゃないか。こいつは首領の青眼鏡ではないのだ。だが、賊の仲間にこんな子供がいたのかしら。

蠍の縫いぐるみの中で蠢いている奴は、疑いもなく子供であった。彼はみじめな泣声になって、さも苦しそうにうめいていた。

何といういやな声だ。オヤッ、この声はどっかで一度聞いたことがあるぞ。…………アア、そうだ。谷中の化物屋敷で、映画女優が惨殺された時、箱の中で歌を歌った奴の声だ。異様に嗄しわがれた浪花節語りの様なあの声だ。

守はそこまで考えると、思わずゾッとして、圧えていた手を離してしまった。何ともえたいの知れぬ、水母くらげの様に無力な怪物が、彼を怖がらせたのだ。

ふと、昨夜の三笠探偵の言葉が思い出された。谷中の殺人事件では、小さな木箱の中に潜んでいた奴、三河島の八幡の藪知らずでは、張りぼての岩に潜んでいて、老探偵を傷きずつけた奴、そして、今は又、蠍の縫いぐるみの中に隠れて、品子さんを脅かそうとしている奴、こいつこそ、妖虫殺人事件の底に潜む不気味な秘密ではないか。若しかしたら、今まで首領とばかり信じていた青眼鏡は首領でなくて、このちっぽけな奴が、恐るべき殺人団の張本人なのではあるまいか。

気がつくと、手を離していた間に、怪物は力を恢復かいふくして、やっぱり不気味な泣声を立てながら、手足をもがいて、一生懸命に起き上ろうとしていた。

「畜生! 逃がすものか」

守は俄かに燃え立つ憎悪を、もう無我夢中になって、怪物の喉のあたりを締めつけた。拇指おやゆびに力を入れて、グイグイと締めつけるにつれて、嗄れた泣声が、苦し相に衰えて行った。

怪物は、守の手の下で、窒息しそうになっているのだ。もう一分間、この圧迫を続けたら、彼は死んでしまったかも知れない。

だが、丁度その時、どこからともなく庭の樹立をくぐって、物ものの怪けの様な黒い人影が、守青年の背後にソッと忍び寄って来た。

その黒い影の手には、白布はくふを丸めた様なものが握られていた。それが矢の様な素早さで、青年の顔の前に飛びついて行った。

守は突如として、異様な臭気を発する柔い物体が、口と鼻を覆うのを感じた。振り払おうとすればする程、その物体は、益々固く密着して来た。

叫ぶこともどうすることも出来なかった。グラグラと眩暈めまいを感じたかと思うと、目の前の暗闇が、忽ち灰色にぼやけて行って、何もかも分らなくなってしまった。彼は麻酔剤の為に意識を失ったのだ。

守は薄れて行く意識の中で、幽に彼の身体が宙に持上げられるのを感じた。持ち上げられたまま、フワフワと漂って行く様に感じた。

事実、意識を失った彼の身体は、黒い人影によって、どこかへ運ばれて行ったのだ、この人影が何者であったかは、読者の容易に推察される所であろう。

守青年は功を急いだばっかりに、遂に悪魔の手中に陥ってしまった。彼はどの様な場所で再び目醒めることであろう。そして、どの様な恐ろしい光景を目撃しなければならなかったことであろう。

いつも何かに包み隠されている、ちっぽけな、不気味な怪物とは、抑々そもそも何者であったか。そいつは果して殺人団の真の首領であったのか。若しそうだとすれば、この力のない子供みたい奴が、残虐極きわまりなき数々の殺人を思い立った動機は、一体何にあったのであろう。

ビルディングと蠍

その翌日、帝都の二ヶ所に、常識では判断も出来ない奇怪事が突発した。一ヶ所は丸の内のオフィス街の真中に、一ヶ所は桜井邸の二階大広間に。

我々は順序として、先ず丸まるの内うちの椿事について語らなければならぬ。

初春しょしゅんの午前八時、丸の内オフィス街はまだ夜明けのヒッソリとした感じであった。片側には八階のSビルディング、片側には六階のYビルディング、空を隠してそそり立つ白堊はくあの断崖にはさまれた深い谷底に、電車線路のない坦々たるアスファルト道路が、白々と続いていた。

その妙にうそ淋しい、ガランとしたアスファルト道どうを、恐らく当日第一の出勤者であろう一人の勤勉らしい事務員がSビルディングを目ざして、コツコツと靴音を谺こだまさせながら歩いていた。

時たま、眠そうな顔をした運転手の空自動車が、スーッと通り過ぎて行く外ほかには、殆んど人通りはなかった。

起きているのは、ビルディングの地階に住んでいる管理人や小使こづかいの家族丈けで、彼等は入口の扉を開き、朝の掃除を済ませて、朝食の膳に向っている頃であった。

事務員は半町程先から、Sビルディングの入口の前に横わっている、一種異様の物体に気づいていた。

酔っぱらいが寝ているのかしら。それとも行路病者かしら。だが、変だな。あいつ真赤な着物を着ているぜ。

堂々空を圧する白堊の建築物と、美しく掃き清められたペーブメントと、凡て直線的な均整の中に、これは又ひどく大時代おおじだいな、赤い着物を着た酔っぱらいなんて、何となく気違いめいた対照であった。

やがて、歩ほ一歩、近づくに随って、そのものの形態がハッキリと分って来た。

それは人間ではなかった。何かゾッとするようないやらしい、一種の生物であった。一口に云えば、茹ゆでた海老を千倍に拡大したような、嘗かつて見た事もない怪動物であった。

事務員は立ちすくんでしまった。昨夜ゆうべの夢がまだ醒め切らないのかしらんと、我れと我目を疑わないではいられなかった。

その怪物は生きているのか死んでいるのか、じっと横わったまま、少しも動かなかった。巨大な螯がニューッと頭の上に突き出し、光沢のない、べら棒に大きな両眼が、こちらを見つめているけれど、別に飛びかかって来る様子はなかった。

事務員は立ちすくんだまま、いつまでも、そいつと睨にらめっこをしていた。じっと見つめていると、眼界が夢のようにぼやけて、八階の大ビルディングが、箱庭のおもちゃの家のように小さくなって行った。

それは、建物の前に横わっている怪物と、寸法を合わせようとする、心理的錯覚であった。ビルディングがおもちゃみたいに縮小された時、それに比例して怪物を一匹の虫のように小さく考えた時、初めてそのものの正体が明瞭になったのだ。

事務員は今度こそ、心底からびっくりしないではいられなかった。

「蠍だ! 赤い蠍だ!」

しかも、並々の蠍ではない。千倍万倍に拡大して、人間程の大きさを持った、化け蠍であった。

タ、タ、タ、タ、……丁度その時、一人の足袋たびはだしの新聞配達夫が、うしろから走って来て、何の気もつかず、彼を追い抜いて行こうとした。

「オイ、君、ちょっと待ち給え」

事務員は配達夫を呼びとめて、さも恐ろしそうに、怪物の方を指して見せた。

「ワーッ、何だい、あれゃ?」

若い配達夫は、ギョッと立止って、臆病を隠すように、頓狂な声を揚げた。

「よく見給え。あれは蠍という毒虫の形をしているじゃないか」

「エッ、蠍ですって? アア、そうだ。真赤な蠍だ」

二人は脅えた目を見合せて黙ってしまった。彼等はこの頃世間を騒がせている、恐ろしい殺人鬼の紋章について、知り過ぎる程知っていたからである。

ふと見ると、Sビルディングの小使の爺さんが、何気なく入口に現われて、そこの石段を降りようとしている。

「いけない、おじさん、そこをごらん。変なものがいるぜ」

配達夫が大声に叫んだ。

小使は注意されて、ヒョイと目の前を見ると、びっくりして、いきなり入口の中へ二三歩逃げ込んで行ったが、やっと踏み止とどまって、遠くから及び腰に、怪物の姿をじっと眺めた。

つい先程、その辺を掃除した時には、何もなかったのに、忽然として天から降ってでも来たように、出現した怪物に、小使さんはあっけに取られているのだ。

やがて、二人三人とやって来る早い出勤者や、その辺の地階に住んでいる人達が、怪物を遠巻きにして、円陣を作ってしまった。

いくら騒いでも、怪物が微動さえしないので、人々は段々大胆になって、一歩一歩円陣が狭せばめられて行った。

「ナアンダ、拵こしらえもんですぜ。こいつあ」

威勢のいい若者が、いきなり怪物に近寄って、その頭部をコツコツ叩きながら叫んだ。

「科学博物館の動物標本室にこんなのがあったっけ。あいつを盗み出して捨てて行ったんじゃないか」

誰かが、うまい想像説を持出した。

「ともかく、どっかへかたづけてしまう方がいい。邪魔っけで仕様がない」

事務員の一人が命令するように云うと、二人の小使が、オズオズと巨大な虫のそばへ寄って行ったが、まだ手をつける勇気はなく、足を使って、道路の隅の方へ転がそうとした。

「なんだか、べら棒に重うがすぜ」

ウンと力を入れて、一蹴ひとけりすると、今まで俯伏せになっていた怪物が、グニャリと仰向きになって、何とも云えぬいやらしい形の腹部を見せたが、それと同時に、実に驚くべき事が起った。

怪物の二本の巨大な螯は、転がされた反動でブルブル震えていたが、その震えがいつまでたってもやまなかった。やまないばかりではない。螯は明かに怪物の意志によって動き始めたのだ。

やがて、二本の螯が、頭の上で、大きく半円を描いたかと思うと、今度は、巨大な虫の全身がモゾモゾと動き出して、まともに起き返ろうと身悶みもだえするかに見えた。アア、この怪物のような大蠍はやっぱり生きていたのだろうか。

忽ち「ワーッ」という叫び声と共に円陣がくずれた。気の弱い連中は、顔色を変えて、向う側の建物の中へ逃げ込んでしまった。

「生きている! 生きている!」

人々の間に、驚愕の呟きが拡がって行った。

熱帯国には様々の巨大な生物が棲息するという事だ。雀すずめを取って餌食にする大蜘蛛さえ棲すんでいる。だが、ここは熱帯国ではない。東京の真中のビルディング街だ。ラッシュ・アワには何十万という群衆が往来する雑沓ざっとうの地だ。そこに人間大の蠍が蠢いているなんて、余りに荒唐無稽こうとうむけい、余りに信じ難いことではないか。

「アア、分った。あれは人間だぜ。人間があんな変てこな虫の衣裳を着ているんだぜ」

誰かがやっとそこへ気がついて叫んだ。

云われて見ると、外側は確かに拵えものの衣裳に相違ない。動いているのは中の人間なのだ。巨虫の殻を被った人間なのだ。

「T劇場でこんな芝居をやっているんじゃないのかい」

一人の若い事務員が、そんなことを云った。

近くにあるT劇場の楽屋から、扮装のまま這い出して来たというのは、面白い想像であった。だが、T劇場にはそんな昆虫劇など演じられてはいなかったのだ。

人間と分って安心した小使さん達が、再び怪物に近づいて行った。よく調べて見ると、蠍の胸の所が割れるようになっている。そこを押し開いてみると、黒い背広服が現われて来た。

「やっぱり人間だ。若い男だ」

やっとの事で虫の衣裳を脱がせると、病人のように元気のない一人の洋服青年が、ペーヴメントの上にグッタリとなった。いくら呼びかけても、まだ返事をする気力がなかった。

「病人だぜ。早く医者へつれて行かなきゃ」

「それよりもお巡りさんに引渡した方がいいぜ」

呼びに行くまでもなく、騒ぎを聞きつけて、そのお巡りさんがやって来た。

「オイッ、しっかりし給え。どこが悪いんだ。君は一体どこからやって来たんだ」

警官に背中をぶちのめされると、若者はやっと目を見開いて、不安らしくあたりを眺めた。

「君はどこのもんだ」

再び訊ねると、若者はモグモグと口を動かして、幽に答えた。

「相川守っていうんです。……赤蠍にやられたんです」

「エッ? じゃあんたは、あの相川操一さんの、……」

「そうです。……珠子の兄です」

立並ぶ人々は、それを聞くと、ハッとして思わず目と目を見合わないではいられなかった。

相川珠子と云えば、殺人鬼「赤い蠍」の第二の犠牲者として、無残にもその死体を銀座街頭に曝さらされた娘さんではなかったか。今日又、その兄さんが、怪犯人の紋章と云われる、赤い蠍の衣裳を着せられて、丸の内の真中に行き倒れていようとは。

「詳しいことはあとで聞きます。兎も角、あなたのお宅へ電話をかけて、この事をお知らせしましょう」

警官はひどく緊張した面持で、小使を案内に立てて、電話を借りる為に、Sビルディングの中へ駈け込んで行った。

蛻脱もぬけの殻から

同じ日の午前十時頃、四谷よつやの桜井品子の家には、又別の椿事が突発していた。

品子を初め桜井家の人達は、その朝の丸の内の怪事件をまだ耳にしていなかった。又前夜同家の庭園内で行われた相川青年と曲者との挌闘のことも、少しも気附かないでいた。

品子は、昨夜は少しばかりいやな夢に悩まされはしたけれど、一昨夜のように、窓から覗く恐ろしいものの姿を見ないで済んだことを、喜んでいた。

やっぱりあれは気のせいだったに違いない。皆に話をしなくっていいことをしたと、ホッと胸なでおろす気持だった。

午前九時半には、新しい家庭教師の殿村夫人がやって来た。

「今日は大変お顔色がよござんすわね」

殿村夫人は昨日に変る品子の顔色を見て云った。

「エエ、昨夜はよく眠れましたのよ」

品子もほがらかに答えた。たった半時間あとに、どのような恐ろしい運命が、待ち構えているかも知らないで。

暫く話している内に、女中が朝のお風呂が沸いたことを知らせて来た。

「先生、一寸失礼しますわ」

「エエ、どうか御ゆっくり、わたくし階下したでお母さまとお話していますから」

そうして、品子は湯殿へおりて行ったが、風呂をすませて、手早くお化粧をすると、元の二階の居間へ帰る為に、裏階段を上って、そこにある大広間の前の廊下を歩いていた時、彼女はふと、障子の嵌込はめこみガラスの向うに、異様な物の姿を認めて、思わず立止った。

そこは二十畳程の大広間なのだが、滅多に使わない座敷だものだから、北側の窓などは両方をしめたままになっていて、部屋の中は陰気に薄暗かった。その薄暗い床とこの間まの前に、何かしら見なれぬ大きなものが置いてあるのだ。

「マア、あんなもの、いつの間に、誰が持込んだのでしょう」

品子さんは、いぶかしさの余り、障子を開けて、二足三足ふたあしみあし、その床の間の方へ近づいて行った。

近づいて行ったかと思うと、彼女は電気にでも打たれたように、ハッと立ちすくんでしまった。飛出すばかり見開かれた両眼が、釘づけになったように、その物体に注がれたまま動かなかった。

突如として、絹を裂くような悲鳴が、彼女の口をほとばしった。そして、身体は水母くらげのように力なく、クナクナとくずおれて行った。

悪夢とばかり極きめていたものが、まざまざとした現実となって、彼女の前に現われたのだ。そこの床の間の前には、あの人間程の真赤な大蠍が、品子さんを睨みつけるようにして、今にも飛びかからん姿勢で蹲うずくまっていたのだ。

悲鳴を聞きつけて真先に駈けつけたのは、殿村夫人であった。

「みなさん、お嬢さまが大変です。早くいらしって下さい」

夫人の金切声が、家中の人々を大広間に呼び集めた。折よく居合せた父栄之丞氏を初め、母夫人、書生達から女中までが、先を争うようにして、集まって来た。

人々はそこに、世にも異様なすさまじい光景を目撃しなければならなかった。

床の間の前には、嘗て見たこともない怪しいものが、醜怪極まる姿勢で蹲まっていた。そして、その畳二枚程手前には、品子さんが歯を喰いしばって気絶していたのだ。

ここにも亦、今朝の丸の内の場合と同じような事が繰返された。最初の内は、生けるが如き怪物の形相に、誰一人そこへ近づくものはなかったが、やがて、それが恐るるに足らぬ拵えものに過ぎないことが分って来た。

手に取って検べて見ると、大蠍の正体は、薄い金属を芯にして、布を張り絵の具を塗った、鎧よろいのような感じのものであった。

頭と尻尾とを持って押えつけると、小さく折り畳むことも出来るようになっていた。

この大蠍は皮ばかりで中は空っぽであった。按おもうに賊はこの異様な衣裳を二つ以上用意して、一つは相川青年に被せて丸の内へ、一つは空っぽのまま桜井家の広間へ運んで置いたものに相違ない。

「オヤ、蠍の螯の間から、こんなものが出て来ました」

書生の一人が、白い一物を発見して、栄之丞氏に差出した。それは小さく畳んだ一枚の紙片であったが、開いて見ると左さのような恐ろしい文言もんごんが認したためてあった。

我々は本日中に品子さんを頂戴に上る予定だ。随分用心なさるがよろしい。だが、貴下きかはやがて、如何なる警戒も我々の前には全く無力であることを悟られるであろう。我々は一度思い立った事は必ず為なしとげる習慣ならわしである。

文の末に例の赤い蠍の紋章が鮮かに描かれていた。

品子さんは直ちに寝室に運ばれたが、殿村夫人の事に慣れた甲斐甲斐かいがいしい介抱で、やがて彼女は正気づいた。ただ驚きの余り気を失ったまでの事、安静にさえしていれば、別に心配する程の容態ではない。

云うまでもなく、この出来事は、直ちに警視庁に報告された。栄之丞氏自身電話口に出て、知合の蓑浦捜査係長を呼び出し、不気味な予告文のことも詳しく伝えて、至急適当の処置を執とって頂きたいと依頼した。

蓑浦警部はこの電話を聞くと、非常に驚いている様であったが、すぐ様捜査課のものを四人程さし向ける、蓑浦氏自身も少しおくれてお伺いするという返事であった。

待つ間ま程なく、門前にけたたましい警笛の音がして、自動車を駆ってかけつけた二人の制服警官と二人の私服刑事とが、ドカドカと入って来た。

彼等は主人から委細を聞取ると、大蠍の衣裳を綿密に取調べた上、目ざましい邸内捜索を開始した。忽ちにして、庭園の足跡、挌闘の痕跡、品子さんの寝室の下の梯子の跡などが発見された。だが、それらの痕跡が何を語るものであるかは、流石の警官達にも、明瞭な判断を下すことが出来なかった。

次に家中うちじゅうの人々の個別訊問が行われた。主人から召使の末まで、階下の応接室に呼集められ、一人一人質問を受けた。

「これでお宅の方は全部ですか。ここへ来ていない人はありませんか」

警部補の肩章をつけた制服の一人が訊ねると、主人の桜井氏が答えた。

「イヤ、この外に娘の家庭教師と女中がいるのですが、二人は今娘の寝室に附添っていますので」

「アア、そうですか。よろしい、こちらから出向いて訊ねる事にしましょう。どうせお嬢さんからも伺い度いことがあるのですから」

警部補はそう云って、二人の刑事に目くばせすると、刑事達は急いで二階へ上って行った。

間もなく取調べは終ったが、これという発見もないらしく見えた。

「女中さんが、今朝大広間を掃除した時には、何もなかったというのですから、その掃除の終った七時半頃から、お嬢さんがあれを発見なさる十時頃までの二時間半の間に、何者かがあれを広間へ運び込んだということになります。恐らくそいつは庭から梯子をかけて忍び込んだのでしょう。その頃お嬢さんの寝室には誰もいなかった上に、窓は明けはなしてあったのだから、多分賊はそこから入って、廊下伝いに広間へ行ったものと思われます。庭にちゃんと梯子を立てた跡があるんですから、この推定は間違いありますまい」

警部補はそんな風に判断した。だが、それ以上の事は何も分らなかった。

そうしている所へ、品子さんの寝室へ取調べに行った二人の刑事が、広間に残してあった例の大蠍を抱きかかえて降りて来た。

「お嬢さんの話では、一昨日の夜更けに、寝室の窓から、この蠍が覗いたって云うんです。夢を見たんだと思って、誰にも云わなかったのだそうです。そういう事があったあとだものだから、今日こいつを見られた時、一層驚きがひどかったのだろうと思います」

刑事が報告した。

「ホウ、そんなことがあったのですか。わたしはちっとも知らなかった」

栄之丞氏も初耳であった。

「いずれにしても、相手が並々の奴じゃないのだから、余程用心しないといけません。……これでお宅の調べは終りました。我々は今度はお庭の塀の外や隣近所の人達を調べて見たいと思います。なお僕の方も警戒は厳重にする積りですが、あなたの方でも、十分注意して下さい。何よりもお嬢さんを絶対に一人ぼっちにしないことが肝要ですね」

警部補は注意を与えて置いて、

「では外そとを調べますから」

と三人の部下を従えて、邸内を立去って行った。例の作り物の大蠍は、賊の予告状と共に、証拠物件として警察に保管する為に、そのまま二人の刑事が抱きかかえて、門前に待っていた自動車へ運び込んだ。

「あなた大丈夫でしょうか。相川さんのお嬢さんのことを考えると、あたしもう、生きた心地が致しませんわ。それに、あなた、あの賊の予告はいつも間違いなく実行されると申すじゃございませんか」

夫人は泣き出さんばかりのオロオロ声であった。

「ナアニ、そんな取越苦労をして見たって始まらんよ。用心さえすればいいのだ。これからは三人の書生を夜昼絶え間なく品子の側へつけて置くことにしよう」

「あたし達もあの子の側で寝ることに致しましょう」

「ウン、それもいいだろう。……じゃ、一つ品子を見に行ってやろうじゃないか。警察のお蔭で、肝腎の病人の方がお留守になってしまった」

そこで、桜井氏夫妻は、可哀相な品子さんを慰める為に、階段を上って、その寝室へ入って行ったのだが、……

ドアを開けるや否いなや、流石の桜井氏も、「アッ」とのけぞらんばかりに驚かないではいられなかった。

女中が気を失って倒れている。殿村夫人は猿轡をはめられ、手足を縛られて転がっている。ベッドはと見ると、これはまあどうしたことだ。品子さんの姿は煙の様に消えてなくなっていたではないか。

夫人は余りの事にそこの椅子にヨロヨロと腰かけたまま、茫然として物を云う力もない。

「オーイ、誰か来てくれ。早く早く」

桜井氏は廊下に飛び出して大声に怒鳴った。

バタバタと書生共が階段を上って来る。

「今の警官達がまだその辺にいる筈だ。早く呼び戻してくれ。お嬢さんが見えなくなりましたと云って」

書生達が駈け出すあとについて、桜井氏も階段を降り、電話室に飛び込むと、受話器をガチャガチャ云わせて、性急に交換手を呼んだ。

だが、いくら待っても交換手は出て来なかった。どうも変だ。受話器の中は死んだ様に静まり返って、電流が遮断されているとしか思えなかった。時も時、電話に支障が起るとは。

電話を諦めて玄関へ飛び出して行くと、外から帰って来た書生達とぶッつかった。

「どうだ。さっきの人達はまだいたか」

「どこを探してもいないんです。第一あの自動車が見えません。警視庁へ帰ったのじゃありませんか」

「そうか。仕方がない。君、お隣の電話を借りてね、(家の電話は故障らしいんだ)この事を警視庁へそう云ってくれ給え。早くし給え」

一人の書生がお隣りの門内へ駈け込んで行く。桜井氏はそれを待つのももどかしく、

「イヤ、俺がかけよう」と口走りながら、書生のあとを追って行った。

大魔術師

「アア、モシモシ、蓑浦捜査係長は居られませんか。僕は桜井というもんです。桜井と云えば分ります」

そこの家の電話室へ飛び込んで、警視庁を呼び出すと、彼は送話口にしがみつくようにして呶鳴った。

「アア、蓑浦君ですか、僕桜井。大変なことが起ったんだ。君がよこしてくれた人達が取調べを済ませて帰ったすぐあとでね、娘が見えなくなったんだ。ベッドに寝させてあったのだがね。そのベッドが空っぽになっちまったんだ」

すると先方は妙なことを云い出した。

「アア、モシモシ、あなた桜井栄之丞さんですね。なんだか話が喰い違っているようですが。私からだと云って誰かがそちらへ行ったんですか」

「何を云ってるんだ。今から三十分程前に、君に電話をかけたじゃないか。その結果君が四人の警官をよこしてくれたんじゃないか」

「待って下さい。それゃ変ですね。私はあなたから電話を頂いた覚えはありませんよ。一寸待って下さい。尋ねて見ますから。……アア、モシモシ、今尋ねて見ましたがね、捜査課からは誰もあなたの方へ出張したものはありませんよ。確かに警察のものだったのですか」

「そうですよ。制服が二人に私服が二人だった。中に警部補がいてね、斎藤さいとうという名刺をくれましたよ」

「エ、斎藤? 斎藤ですか。桜井さん、こりゃ困ったことになりましたね。僕の方には斎藤なんて警部補は一人もいないんですよ。その警官というのが賊の変装だったかも知れん。兎も角大急ぎでお邪魔します。詳しいことは、そちらで伺いましょう」

そして、ガチャンと受話器をかける音がして電話が切れた。

桜井氏は、この途方もない錯誤の意味をどう解いていいのか、全く昏迷こんめいに陥ってしまった。

先程電話は確かに警視庁へ通じたのだ。そして蓑浦氏らしい声が電話口へ出たことも間違いない。いかな赤蠍の怪腕でも、電話局のつなぐ相手を、外部からどうすることが出来よう。全く不可能な話だ。

それが第一の不思議。第二の不思議はいつの間に品子を誘拐したかという点だ。四人の者は、衆人環視の中を、堂々と退出したではないか。そこには何等なんらトリックを弄する余地はなかった。とすると、彼等の外に別働隊があって、裏庭から例の梯子を利用して、品子の寝室の窓によじ登ったとしか考えられない。そして殿村夫人と女中とをやッつけて置いて、同じ梯子によって、品子を担ぎ出したとしか考えられない。

だが果してそんな余裕があっただろうか。刑事達が寝室の取調べを終って降りて来てから、桜井氏夫妻が上って行くまで、精々長く見て十分しかなかった。

たった十分の間に、梯子をかけ、それを登り、窓から闖入ちんにゅうして、女中を殴打おうだ昏倒せしめ、殿村夫人を縛り上げて猿轡をはめ、それから品子を無抵抗にして置いて窓を担ぎ出し、梯子をどこかへ隠した上、裏の塀を越えて逃げる。それが品子という重い荷物を担ぎながらだ。仮令二人ふたり三人力を合せたとしても、十分で出来る仕事ではない。殊に塀の外には、往来の人もあり、その目をさける為には更に一層の時間を要する訳だ。これも亦全然不可能な話ではないか。

だが、いかに不可能ばかり重なっていようとも、品子を奪い去られたという事実は、厳として存するのだ。

魔術師だ! 赤蠍の怪賊が魔術師とは聞いていたが、これ程の大魔術師とは知らなかった。

桜井氏はもうガッカリしてしまって、トボトボと自宅に帰ったが、帰ると怪我人をその儘ままにしておく訳にもゆかないので、それぞれ指図を与えて殿村夫人と女中とを、階下したの一室に床とこに就かせ、医者を呼びむかえたのであるが、女中の方は可なりの重態で昏睡を続けているし、殿村夫人も別段傷はうけていなかったけれど、恐怖のあまり熱病やみのようになって、囈言うわごとなどを口走る有様で、なんのたよりにもならなかった。

軈やがて間もなく蓑浦氏が二人の刑事を伴って来着した。桜井氏は早速応接室に招じ入れて、挨拶もそこそこに、今朝からの出来事、品子さんの消失の不審の数々を、かいつまんで物語った。

無髯むぜんの浅黒い顔、豹のように精悍せいかんな体躯、テキパキと無駄のない会話、見るからに頼もしげな蓑浦係長は、委細を聞終ると、管々しい事は何も云わず、

「第一に電話を検べて見ましょう」

と、もう立上っていた。

検べて見ると電話は依然として不通である。

「何か細工がしてあるかも知れん。君達この電話線を外へたどって見てくれ給え」

彼は二人の刑事に命じた上、自分も素早く庭に出て、空中線をアチコチと見廻っていたが、忽ち裏庭の隅から、彼の歓声が聞えて来た。

「桜井さん、ちょっと来てごらんなさい。これですよ。この中に私設交換局が出来ていたのですよ」

呼ばれるままに行って見ると、係長は庭の隅の小さな物置小屋の戸を開いて、しきりとその中を指している。

見ればなる程、小屋の屋根から二本の電話線らしいものが、床の上まで垂れている。

「どうした訳です。これが交換局というのは?」

桜井氏にはまだよく呑込めない。

「ホラ、この二本の線を逆にたどってごらんなさい。向うの母屋の屋根の所から、ここへ引込んであるでしょう。本来は、この二本の端がそこに立っている電柱に繋つながっていなければならないのです。事実昨日までは繋がっていたのです。ごらんなさい。ちゃんと切断したあとが見えている。

つまりですね。犯人は昨夜の内に、この線を切って、小屋の中へ引込み、そこへ電話器を持って来て接続して置いたのです。そして多分一人の奴が、この小屋につい今しがたまで潜んでいて、あなたが警視庁へ電話をかけるのを待ち構えておったのです。

お分りでしょう。あなたが聞いた交換手の声も、警視庁の交換台の声も、それから、この僕の声も凡てここにいた奴が、この電話器によって、女になったり男になったり、一人三役を勤めたって訳ですよ。

そして、目的を果してしまうと、奴さん電話器丈けを取はずし、それを担いで裏木戸かなんかから、スタコラ逃げ出したっていう順序です。だが、敵ながらあっぱれですね。実に簡単なうまいトリックを考えたものですよ」

「フーン、」桜井氏は思わずうめき声を発した。「そいつの合図で、あの四人の奴がやって来たんだな。だが、蓑浦君、まだ一つ肝腎な点が、僕にはどうしても分らないのだが、……」

「お嬢さんがいつ、どうして誘拐されたかという点でしょう」

係長は落ちつき払っている。彼はシガレット・ケースをパチンと云わせて、煙草を銜えると、火をつけて、煙を吐きながら、庭をブラブラと歩き出した。桜井氏も自然そのあとに従う外はない。

「そうだよ。僕には全く不可能にしか見えんのだが」

「この電話のトリックを考えついた奴と、同じ程度の頭になって、観察しなければなりません。僕もさい前からそれをいろいろ考えて見たのですが、やっと分った様な気がするんですよ」

「ヘエ、分ったって? じゃ一つ説明して貰いたいもんだね」

「やっぱりごくごく簡単なことです。手品の種という奴は簡単な程成功するもんですよ。ただ一つの事を思い出しさえすればいいのです。その偽刑事の奴等は、蠍の衣裳を、姿のままの形で、小脇に抱きかかえて行ったといいますね。何ぜそんな無駄骨を折ったのでしょう。

さい前のお話では、その大蠍は関節と関節の間に可成の隙間があって、押えつけると随分小さくなり相だという事でしたね。無論そうあるべきです。犯人があれをここへ運んで来る時も、原形のままじゃかさばって、人目について仕様がなかったでしょう。その縮めれば持ち易くなる品を、態々原形のまま抱えて行ったという、この矛盾が何を意味するか、……」

「分った、分った。僕はどうしてそこへ気がつかなんだろう。アア、残念なことをした」

桜井氏は突如として凡てを理解した。

「あの二人の奴は、娘を取調べると云って、寝室へ上って行った。そこには繊弱かよわい女ばかりだった。二人の力で、女中をなぐり倒し、殿村夫人を縛る位のことは訳はなかったろう。そして置いて、品子も、アア可哀相に、娘も縛ったのだ。猿轡をかませたのだ。そして、大蠍の殻の中へ無抵抗の品子を封じ込め、実は重い品物を、さも軽々と抱きかかえて、表の自動車まで運んで見せた、という訳だね。畜生め! なんという悪がしこい奴だ。なんという悪魔だ」

桜井氏は地だんだを踏む様にして、くやしがった。

一見まことに子供らしい大蠍の道化衣裳にも、かくして三重の意味がこもっていた。第一は餌食の品子さんを脅え怖がらせ、責めさいなむ為、第二は邪魔者の探偵青年相川守をして丸の内の真中で赤恥をかかせる為、第三は品子さんをその中に隠して、少しも怪しまれることなく、邸内から持出す為。それを助けるに、私設交換局のトリックと、変装警官のトリックとを以てして、殺人鬼のお芝居気たっぷりな計画は、実に見事に成就じょうじゅされたのであった。

さて、桜井品子さんは、あらゆる警戒の甲斐もなく、賊の大奇術によって、遂に誘拐されてしまった。ただ誘拐したばかりで満足する賊ではない。彼は次には、如何なるお芝居と、如何なる残虐とを用意しているのであろうか。

それにしても、麹町外科医院を抜け出した三笠龍介探偵は、一体どこで何をしているだろう。彼のことだ、いずれは常人の思いも及ばぬ神算鬼謀しんさんきぼうを以て、一挙にして怪賊の正体をあばき、その連類を一網打尽し、相川青年に今度こそはと誓った、品子さん保護の任を果すべく、どこかしら意表外の場所に身を潜めて、機会の来るのを、今や遅しと待構えているのかも知れないのではあるが。

怪老人とトランク

慌てるだけ慌て、騒ぐだけ騒いだあとの桜井邸は、その午後になって、俄かにシーンと鎮まり返ってしまった。怒鳴ったとて仕方がない。泣いたとて仕方がない。一番いいのは、一同が冷静になって、ある限りの智慧を絞って、善後の処置を考究する事だ。そこへ気のついた桜井栄之丞氏は、関係者一同を階下の洋風客間に集めて、異様な協議会を開いたのだ。

閉め切った西洋館の電気ストウヴを囲んで、桜井氏夫妻や書生達、その頃になってやっと気力を恢復した家庭教師の殿村夫人、桜井家出入りの重だった人々などが、令嬢取戻しの手段方法について、議論を闘わしていた。

或者あるものは、身代金によって品子さんを買戻すことを提案した。或者は、犯人捜索に多額の懸賞金をつけることを発表せよと説いた。ある者は警察の無能を罵ののしり、東京中の私立探偵を総動員せよと論じた。

そうしている所へ、数日前ぜん同じ妖虫殺人団の為に、無残の最期をとげた珠子の父相川操一氏と、彼女の兄守青年とが連立ってやって来た。

前に記した通り、相川守青年は、彼の愛人である桜井品子さんの危難を救おうとして、却って賊の術中に陥り、麻酔薬に身の自由を奪われた上、恐ろしい赤蠍の衣裳に包まれて、早朝のオフィス街に捨てられていたのであるが、巡回警官の急報によって駈けつけた父操一氏に連れられて自宅に帰り、医師の介抱にやや元気を恢復した所へ、桜井家から、品子さんが誘拐されたとの電話を受けたのであった。

「畜生! とうとうやりやがったな。……お父さん、僕はもう大丈夫です。すぐに桜井さんへお見舞いに行こうじゃありませんか」

守は非常に昂奮して、床とこからはね起きると、いらだたしく父操一氏をせき立てた。

操一氏は桜井栄之丞氏とは私交上でも事業関係でも、此上このうえもない親密な間柄であったから、守に云われるまでもなく、見舞いに駈けつけなければならなかった。そこで、相川父子は直ちに車を命じて、桜井家を訪ねたという次第であった。

同じ様に最愛の一人娘を奪われた中老の父親、相川氏と桜井氏とが、どの様な感情を抱き、どの様に目と目を見合わせ、どんな挨拶を取り交したか、ここにその一々を記すまでもないことである。

相川父子に踵くびすを接して、警視庁の蓑浦捜査係長が再び訪れて来た。異様な会議室の人数は段々殖ふえて行くばかりであった。

「蓑浦君、待ち兼ねていた。手掛りは? 賊の手掛りは?」

桜井氏が、警部の顔を見るより叫ぶ様に訊ねた。

「賊の自動車が発見されたのです」

係長は、一向浮かぬ顔付で、そこの長椅子に腰かけながら答えた。

「で、品子は、娘は生きていましたか?」

「イヤ、そうではないのです。賊の乗り捨てた空っぽの自動車が見つかったばかりです。奴等はこの区内のKというガレージから、タクシーを借り出して使用していたのです。運転手も賊の仲間で、ちゃんと免許証を用意していて、それをガレージの主人に見せて、車を借り出したと云うことです」

「その空車からぐるまは、どこにありました」

「渋谷しぶやの向うの三軒家の淋しい傍道に乗り捨ててあったのです。ただ自動車だけなれば、こんなに早く知れる筈はないのですが、赤蠍の奴、又例のいたずらをやっているのです。その空自動車の客席には、あの真赤な大蠍が、螯を振り立てて、傲然ごうぜんと腰かけていたっていうんですからね」

「品子を隠して連れ出したあの鎧みたいな大蠍が?」

「そうです。だもんだから、忽ち附近のいたずら小僧共に見つかってしまったのです。自動車の中にえたいの知れない真赤な動物がいるというんで、大変な騒ぎになったのだそうです。間もなく警察にもその事が知れて、我々の方へも電話の通知があったものだから、課の者が行って見ると、やっぱりあの大蠍だったのです」

「で、その中には、大蠍の中には?」

「空っぽでした。そして、外ほかには全く手掛りがないのです。無論捜査は引続いて行われています。捜査課の全員が、東京中を走り廻っていると云ってもいい位です。僕はこの事を御報告旁かたがた、もう一度お宅の人達に、色々お尋ねして見たいと思って、やって来たのですが」

「併しもう手遅れではあるまいか。品子は今まで安全でいるだろうか」

桜井氏は非難の調子を含めて、強く云った。蓑浦氏は渋い顔をして沈黙する外はなかった。

「併し、ここに一縷いちるの望みがあります。それは御承知の三笠龍介氏です。今も家うちを出る時電話で確かめて見たのですが、あの老探偵は昨日入院中の病院を抜け出したまま、今以て行方不明なのです。若しかしたら、賊の本拠を襲っているのではないでしょうか」

突然、部屋の隅から相川守青年が口をはさんだ。

「アア、あの評判の奇人ですね。併し、いくら老人が頑張っても、個人の力では、この大敵をどうする事も出来ないでしょう。東京中の何千という警察官が、血眼ちまなこになって探していても見つからない奴ですからね」

蓑浦氏は一笑に附した。

すると、相川操一氏がそれを受けて、

「こいつは、三笠氏の心酔者でしてね。一にも二にも、三笠龍介なんだが、珠子の場合でも分る通り、流石の老探偵も、赤蠍には参っている様です。僕なども最初はあの老人を信頼して万事を任せていたのですが、今となって考えると、少し買被かいかぶっていたのですね。何か奇人らしい珍妙な手段を考えては、賊の裏をかこうとするのだが、その度毎たびごとに賊の為に又その裏をかかれて、失敗を繰返しているといった調子でね」

「でも、今度こそは、白髪首をかけても、賊を捕えて見せると、大変な意気込みでしたが、……」

守青年は諦め切れないのだ。

「当てにはならないよ。珠子の折もその調子だった。そして、まんまとしくじったではないか」

「わたくしも、あの方はお恨みに思って居ります」

殿村夫人もその尾について、三笠探偵非難の声を揚げた。

「私立探偵など手頼たよらないで、警察にお任せして置いた方が、どれ程よかったかと思います。あの方が色々と活動なすったので、賊を刺戟して、却ってお嬢さんの御最期を早めたのではありますまいか」

一座の人々は大部分この意見に賛成して、口々に私立探偵の頼むべからざる事を云い立てるのであった。

気の毒な三笠老探偵は、今や悪罵嘲笑あくばちょうしょうの的であった。

丁度その時、桜井家の門前に、一台の自動車が停まって、その中から二人の異様な人物が降りて来た。

前に立つのは、印半纒しるしばんてんに、鼠羅紗ねずみらしゃの半ズボン、深ゴム靴、土木請負師うけおいしといった風体ふうてい、だが、こんな老いぼれ請負師ってあるものだろうか。その爺さんは、皺くちゃの顔を白髪白髯に埋め、曲った腰でよぼよぼと歩いて来るのだ。

そのあとから、やっぱり同じ印半纒を着た屈強の大男が、鉄板張りの大トランクを、背中にのせて、従っている。何とも珍妙なお客様だ。

二人は門内の砂利道を玄関につくと、そこの呼鈴ベルを押して案内を乞うた。すると、一人の女中が扉ドアを開いて、顔を出したが、時も時、この異様の訪問者に、不気味らしく顔をしかめて、

「どなたでしょうか。只今少しとりこんで居りますので、……」

と門前払いの気勢を示した。

白髯の老請負師は、女中の渋面じゅうめんには取合わず、落ちつきはらって、一枚の名刺をさし出しながら、

「イヤ、君では分らん。御主人の桜井さんに、こういうものが訪ねて来たと取次いで下さい。相川操一さんもここへ来ておられる筈じゃ。又、わしの親友の相川守君も、いる筈じゃ。みなさんに、わしが来たと伝えて下さい」

と横柄おうへいな口を利く。

女中は老人の勢いきおいに圧倒されて、渋々名刺を受取って、奥へ入って行ったが、間もあらせず、守青年が、その玄関へ飛出して来て、怪老人を歓迎した。

「ヤア、先生ですか。どうかお上り下さい。多分もう御承知でしょうが、ここのお嬢さんが、又あいつに誘拐されてしまったのです。それについて今みんなが集まって相談していた所です」

老人は三笠龍介氏であった。何の為の変装かは分らぬが、半纒姿の老探偵に相違なかった。トランクを担いでいる大男にも見覚えがある。いつか守青年を龍介氏の書斎に案内してくれた、三笠探偵事務所の豪傑書生だ。

この部屋に犯人が

「ウン、わしもそのことを小耳にはさんだので、急いでやって来たのじゃ、今丁度善後策の相談会が開かれていることも承知している。一つわしをその席へ案内して下さらんか」

守青年はそれを聞くと、ガッカリした。老探偵は賊の本拠をつくどころか、今頃になって、やっと品子さんの誘拐を聞知り、慌てて駈けつけて来たのだ。やっぱり皆の云う通り、この老いぼれは、見かけ倒しのボンクラ探偵だったのかしら。

「承知しました。桜井さんも是非御通ししてくれということでしたから」

彼はガッカリしながらも、一縷のよもやに引かされて、洋室へと先に立った。

「アア、お前はこちらへ来ちゃいけない。そこの書生部屋を拝借して、わしが呼ぶまで待っていなさい。さっき云いつけた事を忘れない様に、抜かりなくやるんだぞ」

老探偵は、一緒について来そうにする豪傑書生を制して、例のトランクごと玄関傍わきの書生部屋へ入れて置いて、守のあとに従った。

二人が洋室に入ると、そこには又、新しい奇怪事が突発していた。老探偵は、人々と挨拶を交す隙ひまもなく、慌しい会話にまき込まれて行った。

「守さん、あんたがさっき立って行った椅子の上に、こんなものが乗っかっていたんだ。まさか君が落したのじゃあるまいね」

桜井氏が、一枚の紙片をさしつけて訊ねた。見ると、それには鉛筆の走り書で左さの様な一文が認したためてある。

きょう午後三時諸君の目の前に一つの惨劇が起るであろう。品子の赤い血が流れるであろう。

文句の終りには、例によって赤蠍の紋章だ。

無論守に覚えがあろう筈はなかった。

「ちっとも知りません。僕が最初腰かける時には、確かにそんなものは落ちて居なかったのですが」

「例によって賊の魔術じゃ。今まで何もなかった椅子の上に、忽然として一枚の紙片を現わしてお目にかけまアす。ウフフフ……、けちな手品使だて」

新来の土木請負師、実は三笠老探偵が、ジロジロと一座を見廻しながら、傍若無人ぼうじゃくぶじんに笑った。

「だが、笑いごとじゃありませんよ。今迄いままでの例によると、賊の予告は必ず実行されるのです。この紙切れがどういう径路を取って舞い込んで来たにもせよ。書かれてある文句は恐らく信用していいでしょう。我々は、余事はさて置き、この惨劇を防がなければなりません。三笠さん、あなたには、何かうまい手段でもおありですか」

相川操一氏が、珠子を失った恨みをもこめて、三笠探偵を叱責しっせきするように云った。

「手段にもなにも、わしはまだ桜井令嬢の誘拐されなすった事情を、詳しく聞いていません。誰か話して下さらんか。うまい手段はその上のことですよ」

守青年は又してもガッカリしないではいられなかった。何というノロマ探偵であろう。この慌しい際に、悠長な質問を始めるとは。

「併し、午後三時と云えば、あと一時間半程しかありませんが、……」

彼は思わず口走った。

「一時間半、少し長過ぎる位じゃ。まだ慌てることはない。サア、どなたか、当時の模様をお話し下さらんか」

老人は益々ノロマ振りを発揮する。

「それじゃ、守さん、三笠さんを別室に御案内して、あんたから詳しく話して上げて下さらんか。僕達は今それどころではないのだから」

桜井氏が、イライラして、うまい敬遠策を持出した。

「ウン、それはわしも望む所です。では一寸守君を拝借しますよ」

老探偵はこの侮辱を別に怒る様子もなく、寧ろそれを幸の様に、相川青年を促して会議室を立出たちいでるのであった。

守は渋々ながら、老探偵を伴って、案内知った洋館傍の小部屋に入ると、彼自身の危難の次第から、品子さん誘拐の顛末を、かい摘つまんで物語った。

老探偵は聞終ると、両眼をとじて、殆ど五分間ほども、身動きさえせず、黙り込んでいたが、守青年がしびれを切らせて、その部屋を立去ろうとした時、突然パッチリ目を開いて、又しても悠長なことを云い出した。

「わしは一度娘さんの誘拐された部屋を見たいのだが、誰にも知らさず、こっそりそこへ案内してくれまいか」

相川青年は、今更になって、そんな部屋を検べたとて手遅れだとは思ったが、この老人には何となく威圧される感じで、ついその申出を承諾してしまった。

「よござんす。女中達もみんな会議室のお客さんに気を取られているので、誰に見つかる心配もありません。では御案内しましょう」

だが、階段を上って、品子さんの部屋にたどりつくと、老探偵は、又変なことを云い出した。

「暫くわし一人で検べて見たいから、君は先に下へ降りてくれ給え」

一体この老人は、こんな所に一人残って、何をしようというのだろう。品子さんはとっくに誘拐されてしまったのだ。そして、もう一時間余りもすれば、どこかで惨殺されようとしているのだ。それを、今頃になって、こんな所をウロウロ検べて見て、何になるのだろう。全く無意味ではないか。三笠老人、頭がどうかしているのではあるまいか。

だが、守はさい前から、洋間の会議が、どの様に進行しているかと、そればかり気がかりになっていた際なので、老探偵の奇妙な申出をこれ幸と、云われるままに、元の会議室へと取って返した。

会議は別段の進捗しんちょくを示さず、これという名案も浮ばぬ様子であった。人々は段々口数が少くなっていた。三時には余す所一時間少しだ。誰も彼も不安と焦慮に青ざめて、目ばかりギラギラ光らせていた。

蓑浦捜査係長の姿が消えていた。訊ねて見ると、賊の予告状を掴んで、慌しく警視庁へ引返して行ったとのことであった。

こうしている内に、時は刻々経過して行く。やがて間もなく殺人が行われようとしているのだ。しかも、その殺人者も、被害者も、人々から全く手の届かない、どこかの隅に姿をくらましたまま、全市の警察力を以てしても、遂に探し出すことが出来ないのだ。桜井氏夫妻は、手をつかねて、愛嬢の死を待つ外に、如何いかんともせん術すべがないのだ。

人々は、瀕死の病人の枕頭ちんとうに坐して、刻一刻呼吸の絶えて行くのを、どうすることも出来ないでただ眺めていなければならない時の、あの名状し難い悲痛な惨酷な感じにうちのめされていた。

やがて、室内に悲しみに耐えぬ嗚咽おえつの声が起った。桜井夫人が、両手に顔を埋めて、声を殺して泣いているのだ。殿村夫人も、泣き声こそ立てなかったけれど、ハンカチを丸めて、頻しきりと目をこすっていた。

「相川君、警察なんて、あってもなくても同じ様なもんだね。一人の人間が、今殺されようとしているんだ。それをハッキリ知っていながら、我々はどうすることも出来ないのだ」

桜井氏が泣きそうな顔になるのを、堪こらえ堪え、棄鉢すてばちな調子になって云った。

相川氏は答えることが出来なかった。彼も亦、ついこの間同じ悲痛を味わったばかりなのだ。二人の不幸な父親は、声を揃えて、神様を呪いでもする外はないのであった。

幾度となく警視庁へ電話がかけられた。併し、その度毎に何の吉報が齎もたらされるでもなく、失望を新たにするばかりであった。

「守さん、さっきの私立探偵はどこにいるんです。あの爺さんは、一体ここへ何をしに来たんだ。お悔くやみでも云いに来たんですか」

絶望の極、桜井氏の八ツ当りであった。

「僕にもそれがよく分らないのです。なにしろ有名な奇人ですから……」

守さえも、老探偵を弁護する勇気はないように見えた。

丁度その時、入口のドアが開いて、印半纒の三笠探偵がヒョッコリ入って来た。見ると、パンツの膝の所が、泥にまみれた様に汚れている。右手の甲に掻き傷が出来て、ひどく血が流れている。

「あれは品子さんの飼猫ですかい。ひどくやられましたわい。捕つかまえようとすると、いきなりここを引掻きおった。じゃが、まんまと虜とりこにしてしまいましたがね。ハハハ……」

愈々気違いの沙汰である。この危急の場合、この悲歎のさ中に、老探偵は猫をからかって遊んでいたのであろうか。

「三笠さん、マア御掛けなさい。一つあなたの御意見を伺いたいものですね。猫のことではなく、娘を救う手段についてですよ」

桜井氏が激怒を圧えて、皮肉たっぷりに云った。

「承われば、あなた様は、白髪首をかけても、賊を捕とらえて見せるとおっしゃいましたそうですね。その御約束は一体どうなったのでございましょうか」

殿村夫人も、堪えかねて、老人を睨みつけながら、つめ寄った。

白髪白髯の土木請負師は、これらの攻撃に答えようともせず、そこに空いていた一脚の椅子に腰をおろしたが、ふと妙な顔をして、身体をモジモジさせながら、お尻の下から、一枚の紙片を引っぱり出した。

「ホホウ、何だか書いてある。又赤蠍奴めの下手な手品が始まったのかな。イヤ、そうでもなさそうじゃ。ごらんなさい。こんなことが書いてある」

人々は又しても出現した奇怪の紙片を無視する訳には行かなかった。十いくつの顔が、テーブルの上に集まって、そこに投出された紙片の文字を読んだ。

午後二時三十分、憎むべき賊は逮捕されるであろう。そして、桜井品子は無事救い出されるであろう。三笠龍介

何と、その紙切れには、当の老探偵三笠龍介の署名があったではないか。

「冗談をしている場合ではない。三笠さん、少しお慎つつしみ下さらんと困る」

相川氏が苦り切って、頓狂な老人を叱りつけた。

「イヤ、御免御免、つい賊の真似をして、手品を使って見たまでじゃ。併し、そこに書いて置いた事は間違いありません。そういうことになるのです」

老人は落ちつき払っている。

「八卦見はっけみじゃあるまいし、こんなことがどうして分るのです。それとも、あんた自身が、丁度この時間に、賊を逮捕して見せるとでもおっしゃるのですか」

「そうですよ。つまり、そういう結果になるのですわい」

何だか変な具合であった。まるで誇大妄想狂を相手に物を云っている感じだ。この親爺おやじ全くの気違いか、それともズバ抜けたえら物ぶつかどちらかに相違ない。

「でも、二時三十分と云えば、丁度今ですが、まさか、今すぐに犯人を捕まえることは、……」

殿村夫人が腕時計を見て、嘲るようにさし出で口をする。

「今すぐに捕まえるのです。……なにしろ、わしはこの大切だいじな白髪首をかけていますのでな」

老人の言葉は益々気違いめいて来る。

「マア、今すぐにでございますって? ホホホ……、では、あの赤蠍の賊が、この部屋にいるとでもおっしゃいますの?」

「そうです。憎むべき怪物は、今、この部屋におるのです」

老探偵はズバリと云ってのけた。彼の好々爺こうこうやの表情が忽ち緊張して、その鋭い両眼は、刺す様に輝き始めた。

冗談ではなかったのだ、この妙な老人には、何かしら成算があるらしい。それにしても、あの恐るべき兇賊がこの一座の中に隠れているとは、何という突拍子もない断言であろう。

一同顔を見合わすばかりで、誰も急に物を云うものはなかった。一瞬間死の様な静寂が一座を占領した。

怪しの者

「三笠さん、まさか冗談ではありますまいね。今あんたのおっしゃった言葉は、実に容易ならん事柄ですよ。何か確たる証拠でもあって、そういう事をおっしゃるのですか」

やっとしてから、相川操一氏が、詰問するように云った。

「証拠ですかい。……その証拠を掴む為に、わしは昨日から一睡もせず苦労しておりましたのじゃ。ナニ、証拠などなくっても、わしの推理に間違いはないのだが、犯人が一通りや二通りの奴ではありませんのでね。大事を取って、動きの取れぬ確証を手に入れたという訳です。……守君、すまんが、書生部屋に待っているわしの家来を呼んで下さらんか。ここへトランクを持込む様にね」

何となく老人の旗色がよくなって来たので、守青年はいそいそと指図に従った。やがて、例の黒い大トランクを背負った豪傑書生が、ノコノコと部屋に入って来た。

「それを、ここへ卸おろすのじゃ」

命令に従って、トランクはドッシリと床の上に据えられた。何が入っているのか、ひどく重そうな鹽梅あんばいである。

「妖虫事件がどんなに恐ろしいものであったか、今更わしが云うまでもない事じゃが、併し、諸君はまだ事の表面しか見ておられんのじゃ。この犯罪の裏面には、世間が知っているよりも、更に一層恐ろしく、無気味なものが潜んでおるのです」

老探偵は今や一座の立役者であった。非難、攻撃のまなざしは、いつの間にか、驚異、讃嘆のそれに変りつつあった。もう誰も物を云うものはなかった。人々は云い知れぬ不安と焦躁の内に、怪老人の口元を見つめるばかりであった。

老探偵は、一種奇妙な雄弁を以て、彼の推理を語りつづけた。

「この犯罪には最初から、何とも云えん変てこな、薄気味の悪い事柄がつき纒っておった。谷中の空家で女優春川月子が惨殺された折、空家の床の間に、大型支那カバン程の木箱が安置してあって、血みどろな殺人遊戯が行われている最中に、その木箱の中から、嗄れた声で下手な安来節を歌うのが聞えて来た。これは相川守君が見聞された所であって、無論皆さんも御承知の事と思います。

ところで、それと同じ様な事が、二度目も起っていますのじゃ。相川珠子さんが誘拐されて、三河島の見世物小屋へ連れ込まれた。あの時わしと守君とは、うまく敵の自動車の運転手に化ばけて、珠子さんを取戻す予定で、九分通りまで成功したのじゃが、見世物小屋の中に置いてあった張り子の岩が、知らぬ間に這い出していた。イヤ這い出したどころではない。その岩の中から、ニュッと短刀を持った人間の手が出て、わしの腰に斬りつけた。この岩さえ這い出さなければ、珠子さんは殺されずとも済んだのじゃ。

申すまでもなく、張り子の岩の中に何者かが潜んでおったのです。だが、あの岩は高さ三尺程で、囲まわりも極く狭かった。あんな小さな岩の中へ、一人の人間が隠れられるとは思えんのじゃ。それにも拘らず、そこには確かに人間が入っている。

わしは、こいつこそ、今度の殺人事件の原動力となっているのではないかと考えた。その奴は、支那カバン程の箱の中へも、三尺の張り子の岩の中へも、ゆっくり隠れられる程小っぽけな人間に違いない。しかも、その性質たるや残虐無類なのじゃ。わしは、そこまで考えた時、背中に水をあびせられた様に、ゾーッとしましたよ。

ところで、今聞くと、昨夜ここの庭で、守君が大蠍の怪物と組討ちをやった時、その蠍の衣裳の中に入っている奴の手応えが、実に異様であった。まるで子供みたように小ちっぽけな奴であったというが、考えて見ると、こいつがやっぱり、あの岩の中からわしを傷けた奴と同じ怪物に違いないのですじゃ。

こやつは、いつの場合も、必ず何かに包まれておる。そして、包まれたままで、色々な業をやりおる。実にえたいの知れん、薄気味の悪い化物ではありませんか。だが、この曲者は、何故何時いつも極った様に、何かに包まれておるのか。無論正体を見られまい為じゃ。併し、こういう場合に、犯罪者というものは、顔にメーク・アップを施すとか、覆面をするとか、衣裳を替えるとかして、変装をするのが普通になっておる。何も窮屈な箱の中なぞへ入る必要はないのじゃ。それがこの犯人に限って、必ず全身を何かの中へ隠しているというのは、何ぜであるか。

こんな風に考えて来ると、それに対する答えはたった一つしかない事に気づきますのじゃ。外でもない、この曲者は、顔面を隠しただけではその目的を達し得ない様な奴なのです。つまり、全身の形に普通の人間と違った著いちじるしい特徴を持っておる。その姿を見た丈けで、何奴かと直ちに分る様な人間なのじゃ。つまり不具者なのじゃ。

さて、そういう小っぽけな不具者と云えば、忽ち聯想されるのは、例の豆蔵まめぞうじゃ。所謂一寸法師じゃ。よいかな。そこで、一寸法師というものは、普通どんな所におる。無論家庭にもおるに違いない。併し、奴等は家庭から、いつとはなく、見世物小屋に集まって来るのじゃ。因果物師に高い金で買われるのじゃ。

皆さん、ここまで云えば、何か思い当る節がありはしませんかね。見世物じゃ。考えて見ると、今度の犯罪と見世物とは、妙に縁があったではありませんか。珠子さんが誘拐されたのが三河島の八幡の藪不知じゃった。それから、谷中の事件のあとで、守君が青眼鏡の怪物と出喰わしたのが、やっぱり見世物の、曲芸団の前じゃった。青眼鏡はその見世物小屋の中から出て来たというではありませんか。

ところで、守君の話によると、その曲芸団の前に、一寸法師の娘が手踊りをしている大看板おおかんばんが出ていたという。わしはハタとそれを思い出したのです。岩の中に隠れて、わしを刺した奴は、その一寸法師の娘ではなかったかと、ふと考えついたのです。

わしはそのことを、麹町外科医院のベッドの上で考えついた。その頃もう傷の方は殆どよくなっていたが、わしはいつまでも重態の体ていを装って、入院を続け、夜な夜な病院を抜け出しては、守君の見たという曲芸団の所在をつき止める為に、奔走しておりましたのじゃ。間もなくその所在が分った。だが、一寸法師娘が果してあの曲者かどうかを確めなければならない。わしはその為にひどい苦労をしましたのじゃ。

結局わしの想像は適中しておった。今朝になって、やっとそれが分ったのじゃが、分るが否や、わしはその曲芸娘を虜にした。今そやつを、みなさんにお目にかけようという訳なのじゃ。

こうして、わしはとうとう敵かたきを討った。わしを傷けた怪物を捕えることが出来た。こいつこそ、妖虫殺人事件の謂わば原動力であったのじゃ。併し、その片輪者が、賊の首魁しゅかいという訳ではない。凡てを画策し、凡てを実行した所の張本人は外にある。わしがそんな苦労をして、片輪娘を虜にしたというのも、実はその主犯を一撃のもとに打砕く、一つの手段に過ぎなかったのじゃ」

老探偵は雄弁にやっと一段落を告げた。人々は彼の委曲を尽した説明によって、妖虫殺人事件の真相の一部を理解することが出来た。だが、それはただ一部に過ぎなかった。まだ明かされぬ疑問が山の様に残っているのだ。

これらの残虐極まる殺人の動機は、抑そもそも何であったか。あの突飛千万な死体の陳列には如何なる意味があったのか。全く不可能としか思われぬ様々の出来事、妖虫団の魔術と云われたそれらの奇怪事を、どう解釈すればよいのか。イヤイヤ、そんな事よりも、肝腎の悪魔の首魁というのは、一体全体何者であったか。三笠探偵は、その主犯者がこの桜井家の洋室に隠れていると断言した。そいつはどこにいるのだ。世にも憎むべき残虐の毒虫は、今どんな顔をして、どの辺に腰かけているのだ。

彼等はお互に、隣席の人達の横顔を、ソッと盗見ぬすみみないではいられなかった。残らず知合いの間柄だ。その中にたった一人だけ、恐ろしい奴が隠れているという。果してそんなことがあり得るのだろうか。

人々があれこれと考えめぐらしている間に、老探偵はズボンのポケットから鍵を取り出すと、傍かたわらのトランクに近づいて、その錠前をガチャガチャ云わせていたが、やがて、重い蓋が徐おもむろに開かれて行く。

人々の目は一斉に暗いトランクの内部に注がれた。

何者かが蠢いている。蓋が開くにつれて、その者が、せり出しの様に、段々頭をもたげて来る。そして、遂にその全形が暴露された。

お化けみたいな奴が、トランクの中に、チョコンと立上っていた。身みの丈たけ三尺に足らぬ小人島だ。その五六歳の幼児の胴体に、これは又べら棒に大きな顔が乗っかっている。髪は銀杏返いちょうがえしに結ゆって、赤い手絡てがらをかけて、その下に、鉢はちの開いた静脈の透いて見える広い額、飛び出した大きな両眼、平べったい鼻、口には猿轡がはめられ、派出なメリンスの着物の上から、グルグル繩を巻いて、うしろ手に縛られている。

三笠探偵は手早く、その縛いましめと猿轡を解いてやった。

猿轡の下からは、真赤な厚ぼったい唇の、大きな口が現われた。その口が、ギャッと開いたかと思うと、何とも形容の出来ない、異様な嗄れ声が響き渡った。

哀れな片輪者は子供みたいに泣きわめきながら、一座の人々を見廻していたが、やがて、何を発見したのか、恐ろしい叫び声を立てながら、矢庭やにわにトランクを躍り出すと、室へやの一方に向って走って行った。短い足で、チョコチョコと走って行った。

彼は何を発見したのか。外でもない。一座の内にその仲間の顔を見つけ出したのだ。そして、低能者の悲しさに、何を顧慮こりょする暇いとまもなく、懐しきその者の膝へと飛びついて行ったのだ。

悪魔の正体

一寸法師の小娘が、駈けて行って抱きついたのは、……オヤ、これはどうしたのだ。何かの間違いではないのか。……謹厳そのものの如き家庭教師殿村夫人の膝であった。

「マア、この子は何をするんです。私お前なんか見たこともありませんよ」

殿村夫人が狼狽して叫び声を立てた。

「オッ母かちゃん! 早くお逃げよ。サア、早く逃げようよ」

一寸法師が、相川青年には聞き覚えのある、例の浪花節語りみたいな、不気味な嗄れ声で泣き叫びながら、殿村夫人の袂たもとを引っぱって離そうともせぬ。

「マア、いやだ。この人は何を感違いしているんでしょう。お離しなさいったら」

殿村夫人がなおも白しらを切ろうとするのを見ると、三笠老探偵は、憤然として立上るや、ニューッと腕を伸ばして、夫人の顔の真正面を指さしながら、力強い声で云い放った。

「お前さんが犯人じゃ。……殿村夫人、もう観念したらよかろう。いくら低能な片輪者でも、自分の母親を間違える奴はない。その可哀相な子供は、お前さんの娘じゃろう」

すると、殿村夫人は、妙に顔を歪めて笑い出した。

「ホホホホホ、マア、何をおっしゃっているんです。こんなものの云う事が当てになるものですか。きっと気でも違っているのでしょう。それに、この私が、赤い蠍の首領でございますって? ホホホホホ、いくらなんでも、そんなことが、第一相川珠子さんにせよ、桜井品子さんにせよ、私にとっては大切な御主人なり、可愛い生徒さんじゃございませんか。それをどうして私が、……」

「お黙りなさい。お前さんがその二人の家庭教師であったという事が、とりも直さず犯人である証拠じゃ。上べは行いすました教師となって、餌食の身辺を離れず、ありとあらゆる手段を弄していたのじゃ。よいか。先ず第一に、春川月子の殺人を予告したのは誰じゃった。お前さんが読唇術で誰かの話を聞取ったのではなかったか。そして、守君を現場へやって、恐ろしい場面を覗かせたのではないか。あの時レストランで話し合っていた二人連れの男は、犯人でも何でもなかったのかも知れん。それからじゃ、谷中の事件があってから五日目に、相川珠子さんが、湯殿のガラス窓に青眼鏡の犯人の顔を見た。あれはお前さんじゃない。お前さんは、その時相川さんの邸内に居って、湯殿へかけつけたのだからね。その時の窓の外の顔は、このお前さんの娘の変装だったに違いない。悪事を悪事とも思わぬ低能児じゃから、母親の云いつけとあれば何でもする。それに、あの時の不思議は、窓の外の塀が非常に高いので、どうして曲者が入って来たかということじゃった。だが、曲者がこのちっぽけな娘と分れば、何でもない。あの塀の裾には、子供なれば潜れる程の隙間があったのだからね。

あの時、誰も入った筈のない、窓を閉め切った湯殿の中に、蠍の死骸が落ちていて、大騒ぎをやったのじゃが、それなどは、殿村夫人、お前さんが犯人でないとすると解釈がつかんではないか。そうじゃろう。あの時お前さんが真先に駈けつけて来て、倒れている珠子さんの側へ、用意していた蠍をソッと投げ出して置いたのじゃ。……どうです。相川さんも守君もよく思い出してごらんなさい。こういう風に考えたら、妖虫団の魔術なんて、たわいもないものじゃありませんか。

それから、わしの宅で、わしと守君とを地下室へ落した、あの偽探偵じゃ。あいつがどうして、守君の訪問を予め知っていたか。外でもない、殿村夫人がちゃんと手配をして置いたからじゃ。守君がわしの留守へ電話をかけて、それから夜の十時にやって来るまでには、たっぷり時間があった。その間に殿村夫人が外部の手下と打合せをするのは訳もない事じゃからね。

同じ晩に、相川さんのお宅では、珠子さんのベッドの下に赤蠍を描いた紙切れが落ちている、新聞の夕刊に赤鉛筆で蠍の絵が描いてある、女中部屋に同じ様な絵が貼りつけてあるという騒ぎじゃった。あれなども、殿村夫人が、先へ先へと廻って、赤鉛筆であんなものを描いて置いたとすれば、何の変てつもないことじゃ。第一、珠子さんのベッドの下の紙切れを発見したのが殿村夫人その人じゃなかったかね。ハハハハハ。何という鮮かな手品じゃ。種も仕掛けもない。いつも犯人自身が、ちゃんと現場におったのじゃ。そして、さもしとやかに、お嬢さんの守護をしている様な顔をしておったのじゃ。

まだあるぞ。偽探偵の奴が、珠子さんを三河島へ誘拐した時じゃね、あれは珠子さんを自宅へ置いては危険だから親戚へ送って行くという口実じゃった。そして、お父さんの相川さんが珠子さんに附添って行かれた。それに、家庭教師ともあろうものが、その場に居合せながら、どうして珠子さんをお送りしなかったのじゃ。解げせぬ話ではないか。外でもない。お前さんはその間に、例の青眼鏡の男に変装して、三河島へ先廻りをしなければならなかったからじゃ。

わしはあの時、三河島の見世物小屋の中で、初めて青眼鏡の首領という男に面会した。その声も聞いた。わしは思ったことじゃ。なんてほっそりとした小男じゃろうとね。無理はない、あの青眼鏡は、実はお前さんという女の変装だったのじゃからね。変装の証拠には、第一に目の特徴を隠す色眼鏡じゃ。第二に、お前さんのその欠唇を隠す濃いつけ髭じゃ。それから第三に、あの地の底からでも湧いて来る様な陰気な作り声じゃ。地声で話したんじゃあ一ぺんに女と知れてしまうからね。その苦しまぎれの作り声が、陰々たる妖気を漂わして、思いがけない効果を上げておったのじゃよ。

今度は桜井さんでの出来事だが、先ず最初、お前さんがお目見えに来て、品子さんとたった二人でいた時に、突然品子さんの肩へ蠍の死骸がからみついた。そんな魔法みたいな事が起って堪るものではない。これも種を割って見れば、至極つまらんお笑い草じゃ。つまりお前さんが話をしながら、ソッと品子さんの肩へ手を廻して、あの虫をくッつけて置いたという訳さ。ハハハハハハ。

さて、今朝の出来事じゃが、品子さんが誘拐された時、なぜ女中だけが殴打されて、殿村夫人が手数のかかる猿轡なぞはめられていたか。この点に誰も気づいていない様子じゃが、ここにトリックがあった。殿村夫人は賊の為にひどい目に遭ったと見せかけなければならぬ。と云って、部下のものが、首領をなぐる訳には行かない。そこで、手数のかかる猿轡という事になったのじゃ。尤も、少しも手向いなんぞしない。却ってお手伝いをして縛られたに違いないから、手数と云っても大したことはなかったがね。賊の首領が被害者になって見せるなんて、実にうまく考えたものじゃ。こうして置けば万一にも疑いをかけられる気遣きづかいはないからね。

殿村夫人、お前さんは、昨夜から今朝にかけて、まだ色々と仕事をしておる、守君が一寸法師の入った蠍のお化けと取組あっていた時、後うしろから現われて麻酔剤を嗅がせたのもお前さんじゃ。それから電話線を切って、物置の中へ臨時の交換局を拵こしらえて置いたのもお前さんじゃ。又、今朝品子さんを気絶させた二階の広間の大蠍も、やっぱりお前さんが、小さく畳んでソッと持込んだものじゃ。

こうして邸やしきの中に、被害者のすぐそばに、賊の一味が、――イヤ一味どころか首領その人がいて、色々と細工をしたんだから、どんなきわどい芸当だって、自由自在に演じて見せる事が出来ようじゃないか。

つい今し方、魔法の様にこの席へ現われた、午後三時云々うんぬんの紙切れだって、その通りじゃ。お前さんでなくて、誰があんないたずらをするものがある。わしはそのお前さんのやり方を、ソックリ真似て見せたという訳じゃよ。ハハハハハハ、どうじゃ、これ丈け詳しく説明しても、お前さんにはまだ腑ふに落ちないというのかね」

三笠探偵は一語は一語と語気を強めて、ジリジリと殿村夫人に詰め寄って行った。夫人は色蒼ざめ、欠唇の唇が異様に開いて、聞える程の烈しい息遣いをしていた。が、強情我慢にも、まだ白状しようとはしない。黙ったまま、血走った目で、探偵をじっと見返している。

「お前さんはまだ云いのがれが出来るとでも思っているのかね。そんな事はみんな情況証拠で取るに足らんとでも云うのかね。それじゃ、これを見るがいい。これはお前さんが頼みに思う手下共が、首領に自白を勧める勧告書じゃ。この筆蹟には見覚えがあろう。お前さんは因果物師いんがものしの中の悪党共を手なずけて手下にしていたのじゃ。その手下共がもうすっかり白状してしまったのだよ。それでなくて、この片輪娘をここまで連れて来られるものかね。そして、この娘がお前さんの実の子だなんて、わしに分るものかね。ハハハハハ、どうじゃ、お前さんは一人ぼっちになってしまった。もう誰も助けてくれるものはない。袋の鼠なのじゃ。潔いさぎよくわしの前に降伏してはどうじゃ」

それでもまだ、殿村夫人は黙っていた。黙ったまま立上って、憎悪に燃える目で、白髪の老探偵を睨みつけていた。やがて、実に不思議なことには、その蒼ざめた顔が、異様に歪んだかと思うと、突如として甲高い笑い声が、室内に響き渡った。おかしくておかしくて堪らない様に、いつまでも笑いやまなかった。

滴したたる血潮

アア、この女はとうとう気が違ったのではないかと、一座の人々がギョッと目を見はるのを、殿村夫人は小気味よげに眺め廻しながら、左手首の腕時計を、一同に見せびらかす様にして、恐ろしいことを云い始めた。

「三笠さん、あなた一度時計をごらんなすっては如何いかがですの。犯人のことばかりやっきとなってて、一体お嬢さんの方はどうなるのでしょう。ホラ、もう三時じゃありませんか。犯人は予告を実行しないとでも考えていらっしゃいますの? ホホホホ」

彼女は人も無なげに笑うのだ。アア、何という不敵の曲者であろう。最後の土壇場に追いつめられても、ひるむどころか、無援孤立の身で、強敵三笠探偵に逆襲しようとしているのだ。併し、彼女自身も相棒の一寸法師も捕まってしまった。因果物師の手下達も巣窟をあばかれてしまった。それでいて、予告の殺人をどうして実行しようというのだろう。そこに何か、流石の老探偵さえ気づき得ない深い企らみが隠されているのではあるまいか。

「ウン、如何にも丁度三時だ。三時がどうかしたのかね」

三笠老人は落ちつき払っている。

「三時には、品子さんが殺されるのです。それも皆さんの目の前でですよ」

殿村夫人は、血走った目を、悪念に燃え立たせ、果合はたしあいをする様な調子であった。

「目の前? ハハハハハハ、何を云ってるんだ。ここには品子なんぞいやしないじゃないか。そんな馬鹿なことが起ってたまるものか」

桜井氏が、蒼ざめた顔で虚勢を張った。その実、彼は殿村夫人が犯人であったという意外千万な事実にうちのめされ、品子さん殺害の予告も、何か奇想天外なやり方で、実現されるのではないかと、内心はビクビクものでいたのだけれど。

「ホホホホホ、あなたはそれがごらんになりたいのでごさいますか。お嬢さまの無残に殺される有様が。……では、お目にかけましょう。三笠さんも、皆さんも、私のあとへついてお出でなさいませ、イイエ、決して逃げたりなんかしやしません。私だって、それが見たいのですもの。……無論このお邸の中ですのよ」

殿村夫人は、あっけにとられている人々を尻目にかけて、ツカツカと応接室を出て行った。三笠探偵は飛びつく様に、夫人の左の手首を掴んで、逃げ出さぬ用心をしながらついて行く。一座の人達も、じっとしている訳には行かない。これからどんな恐ろしい事が起るのかと、胸をしめつけられるような気持で、オズオズとそのあとに従った。

殿村夫人は階段を上って、二階の広間へ――今朝大蠍が横わっていたあの広間へ入って行った。

「みなさん、赤蠍は決して約束を忘れませんでした。ごらんなさい、あれ、あれ、あの天井の赤いものをごらんなさい」

殿村夫人は三笠探偵に掴まれていない方の手で、広間の格天井ごうてんじょうの真中を指さしながら、さも嬉し相な、気違いみたいな笑顔で、一同を見廻すのであった。

人々はそれを見た。その音を聞いた。

豪奢ごうしゃな白木の格天井の真中に、方ほう二尺程のいびつな円形を作って、真赤な液体がベットリと滲み渡り、その中程と一方の隅との二ヶ所から、雨垂あまだれの様に、赤い雫しずくが、ポトリ、ポトリと、青畳の上に滴って、畳の上にも、小さな赤い池が出来ていた。ポトリ、ポトリ、……云うまでもなく血だ。天井裏で何者かが殺害されて、その血潮が滴っているのだ。

誰も物を云うものがなかった。余りの恐怖、余りの悲痛が、人々を異様に押し黙らせてしまったのだ。桜井夫人がこの場に居合わせなくて仕合せであった。彼女は気味が悪いからというので、女中達と一緒に階下に残っていたのだ。

「ホホホホホ、赤蠍はちゃんと約束を守りましたわね」

殿村夫人の気違いめいた上ずった声だけが、甲高く響いた。

「みなさん、あの血を誰の血だと思召おぼしめす。云うまでもありませんわね。で、如何でございますの。時間が一秒でも違いましたでしょうか。三笠さんはお偉い探偵でいらっしゃいますけど、これ丈けは防げませんでしたわね。赤蠍はやっぱり勝ちましたわね。ホホホホホ」

言葉丈けはいやに鄭重ていちょうであったけれど、その言葉の内容は悪魔の呪いそのものであった。そればかりでなく、殿村夫人の容貌は、僅かの間に、まるで別人のように変っていた。彼女は今や正体を暴露した妖魔そのものであった。顔中に何とも云えぬ醜悪な皺が刻まれ、殊にその欠唇は異様なけだものの様に醜く見えた。

それにしても、何という奇妙な殺人手段であったろう。大蠍の鎧に包んで、品子さんを誘拐したと見せかけた、その又裏があって、実はあの蠍の中は空っぽであったのだ。そして、縛り上げ、恐らくは猿轡をはませた品子さんを、御丁寧にも天井裏へ運んだのは、あの二人の偽刑事の仕業に極まっているが、今品子さんを惨殺して血を流した曲者は、一体何奴であろう。又、どこから忍び込んだのであろう。イヤ、そんな事はあり得ない筈だ。三笠探偵は赤蠍の部下の者共をすっかり捕えてしまったと云うではないか。その網の目を逃れて、何奴がこの天井裏へ忍び込んで来たのであろう。

人々は臆病な耳をすます様にして、じっと天井の血痕を見つめていた。その血痕のある板を通して、屋根裏の暗闇を見つめていた。そこに何かしら黒い怪物が蠢いているに違いないのだ。そいつの呼吸の音が、幽に聞えて来る様にさえ幻想された。

「ホホホホホ、みなさんは、あの天井裏に誰かが潜んでいて、品子さんを殺したのだと思い込んでいらっしゃるのでしょう。そして、三笠さんは、そのもう一人の曲者を捕えてやろうと、目を光らせていらっしゃるのでしょう。ホホホホホ、それは無駄ですわ。あすこにはだあれもいやあしないんですもの」

そんなべら棒な話があるものか、誰もいないのに、人間一人殺されて、あの夥おびただしい血潮が流れるなんて、いくら魔法使の赤蠍でも、そんな真似が出来そうな筈はない。

「みなさんは、人間が人間を殺したんだと思っていらっしゃるのでしょう。ところが、殺されたのは確かに品子さんですけれど、殺した方は人間じゃないのですよ、ホホホホホ、一挺の大きな大きな肉斬り庖丁なんです。手品師が使う支那のダンビラ、あれのよく切れる業わざものが、身動き出来ないお嬢さんの首の上に、紐で吊るしてあったのです。その紐の先が、梁はりに打った釘を通して、特別の仕掛けのある目醒し時計に繋いであって、カッキリ三時になると、紐が断ち切られる仕掛けだったのですよ。これならば、予告の時間と一秒だって違う筈はありませんわね。ホホホホホ」

憎むべき悪魔は、さも心地よげに高らかに笑った。

あとで調べて分ったのだが、そのダンビラは柄の先を木製の台に固定して、上下にだけ動く仕掛けになっていた。そして、ダンビラの背には重い石がしっかりと括りつけてあった。

その時、「アッ」と云う悲鳴が聞えたかと思うと、殿村夫人が三笠探偵の手を離れて、そこに尻餅しりもちをついていた。激昂した桜井氏が、お嬢さんの敵かたきを突き飛ばしたのだ。突き飛ばして置いて、倒れた上から、拳骨げんこつの雨を降せようとしていたのだ。

「お待ちなさい。慌てることはない。わし達は、こいつの云うことが本当かどうか、もっとよく吟味して見る必要がありますのじゃ」

三笠老探偵は相変らず落ちつき払っている。

「オイ、殿村、お前は今、品子さんが殺されたと云った様だね。ウハハハハハハ、こいつはおかしい。本当にそう信じているのかね」

老人が頓狂な声で笑ったので、当の殿村夫人は勿論、一座の人々はハッとした様に、その顔を眺めた。

「ではお前に見せるものがある」

探偵は、何か訳の分らぬ事を云いながら、次つぎの間まとの間あいだの襖ふすまに近づき、それをサッと開いた。

「どうじゃ、殿村、これでもわしは赤蠍に負けたかね。白髪首を懸かけても助けるといった約束を守らなんだかね」

老探偵の勝利

実に意外なことが起ったのだ。開かれた襖の向うには、天井裏で殺された筈の桜井品子さんが、いくらか蒼ざめてはいたけれど、それでもニッコリ笑いながら立っていたではないか。

一目それを見ると、流石の妖魔殿村夫人も、アッとのけぞらんばかりに驚いて、物を云う力もなく、ヘタヘタと坐り込んでしまった。

驚いたのは殿村夫人ばかりではない。一座の人々はアッと驚喜の叫びを立てないではいられなかった。中にも父桜井氏は、夢中に駈け出していた。駈け出して品子さんに縋すがりついた。イヤ縋りつかんばかりにしてその手を握った。品子さんが堪こらえ堪えていた感動を一時に現わして、父親に手を取られたままそこに泣き伏したのも無理ではなかった。

アア、よかった。第三の被害者は命拾いをしたのだ。品子さんはかすり傷一つ受けないで、ちゃんと生きていたのだ。だが、それではどうもおかしいではないか。その夥しい天井の血潮は一体どこから流れたのだ。若しかしたら、品子さんではない別の人物が、屋根裏で惨殺されているのではないだろうか。それについて、第一番に不審を抱いたのは、赤蠍の殿村夫人であった。彼女は夢でも見ているのではないかと疑う様に、キョロキョロとあたりを見廻していたが、やがて、堪りかねたのか?

「信じられない。私には分らない。一体何が起ったのだろう」

とうつけの様に呟くのであった。

「信じられんかね」

三笠探偵は、赤蠍の狼狽を小気味よげに眺めながら揶揄やゆした。

「ハハハハハハ、魔術師が魔術にかかったという訳じゃね。流石の手品使いも、他人の手品の種は分らんと見えるね。お前は気づかなんだのかね、さい前わしが、品子さんの飼猫に引掻かれたと云って、手首から血を流していたのを。あれが手品の種なんじゃよ。わしはその猫をとっ捕まえたのだ。そして紐で縛りつけた上、可哀相じゃが、ちょっと息の根を止めて置いたのだよ。これはあの時、猫めが死にもの狂いで引掻きよった傷じゃ。それから、その猫をどこへやったと思うね。ハハハハハハ、やっと気がついたか。その通りじゃ。品子さんを天井裏から助け降おろしたあとへ、身代りとして転がして置いたのじゃよ。だから、この血は人間の血じゃない。猫の血じゃ。猫めダンビラで以てスッポリと首を斬られていることじゃろうて。可哀相ではあったが、人の命には換えられん。猫めも御主人の品子さんの身代りに立って、満足に思っとるかも知れんからなあ」

アア、そうだったのか。三笠探偵が最初相川守と別室で話をした時、誰にも知らせず二階へ上って、品子さんの部屋を見に行ったが、その時既すでに、広間の天井裏の秘密を感づいていて、品子さんを助け降し、身代りの猫を置いて来たのに違いない。探偵のパンツの膝がひどく汚れていたのは、その為であったのだ。

「さい前、午後三時云々の予告状を見た時に、わしは品子さんが、この邸内のどこかに隠されているに違いないと睨んだ。でなければ、『諸君の目の前で』という文句が意味を為なさないではないか。では、どこに隠されているか。下な筈はない。偽刑事達が人目にかからぬ様に仕事が出来たのは二階丈けじゃからね。そこでわしは二階中を見廻った。すると廊下の隅の天井板に隙間があるのを発見した。調べて見ると、その天井板の上のほこりが乱れている。てっきり屋根裏だと見当がついた。そうして、わしは品子さんと、妙な仕掛けのダンビラとを見つけ出したのじゃよ」

三笠探偵が説明した。

丁度その時、階段にバタバタと跫音あしおとがして、ちっぽけなお化けみたいなものが、部屋の中に駈け込んで来た。一寸法師が探偵の書生の監視の目をかすめて上って来たのだ。彼女は例の嗄れ声で、

「おッ母ちゃん」

と叫びながら、母の殿村夫人の膝にしがみついて行った。

だが母の方は、そこどころではなかった。苦心に苦心を重ねて手に入れた獲物が、罠を抜け出して目の前に笑っているのだ。悪魔の正体はあばかれるし、獲物は取逃がすし、殿村夫人はもう半狂乱の体であった。

彼女は縋る娘を振り離して、スックと立上ると、憤怒ふんぬの形相物凄く、いきなり次の間の品子さん目がけて飛びかかろうとした。だが、いくら魔術師だと云って、女の力で何が出来るものではない。忽ち相川守青年に抱きすくめられてしまった。

「アア、くやしい、くやしい。離して、離して」

殿村夫人は髪ふり乱し、目は赤く、顔は青く、唇は紫色となって、空くうを掴みながら身もだえした。地獄の底から今這い出して来た妖婆の形相である。

「品子さんは危いから、早く下へお降りなさい。それから、桜井さん、一つ警察へ電話をかけて下さらんか。赤蠍を捕えたからと云ってね」

探偵の指図に従って、桜井氏は品子をいたわりながら、階下へと降りて行った。

「殿村、往生際おうじょうぎわの悪いやつだな。もう観念したらどうじゃ。品子さんをどうする事も出来はしないのだ。いや、それどころか、お前自身がこうして捕えられているのじゃないか。逃げようと云っても、もう逃げられるものではない。観念しなさい」

妖魔も今は凡てを諦める外はなかった。彼女はグッタリとそこに坐って、縋り寄る一寸法師をもう振り離そうとしなかった。

犯人が逃げる様子もないので、人々は二人を遠まきにして、警官来着を待つ間の放心状態にあった。ここは、裁判所ではないのだから訊問する事もない。仮令訊ねて見ても、この昂奮状態では満足な返事を得られ相にはない。イヤ、態々聞かなくても、大方の事情は想像がついている。ただ、二人を逃がさぬ様にさえ気をつけていればよいのだ。

殿村夫人は娘を抱きしめる様にして、激情の余り泣き出す力さえなく、空ろな目で空間を見つめたまま、長い長い間身動きもしなかったが、やがて、彼女の右手が、内ぶところの中でモゾモゾやっていたかと思うと、何かしら小さな丸薬の様なものを取出して、膝に凭もたれていた一寸法師の口へ持って行って、「サこれを呑み込むのよ」と囁きながら、その口に含ませた。可哀相な低能児は、まるでおいしいお菓子ででもある様に、それをゴクリと呑みこんだが、すると、今度は今一つの粒を、手早く彼女自身の口へ、……それが極わめて何気なく、ごく静かに行われたので、人々が意味を悟る隙ひまがない程であった。無論見ていないのではなかった。見ながらも、妙なことをするなと感じたばかりで、誰もそれをとめる者はなかった。

「オイ、何か呑んだな。それは何だ、まさか、……」

三笠探偵がびっくりして叫び出した時には、もう手遅れであった。烈しい薬物の利目ききめは忽ちであった。さしたる苦悶もなく、何事を云い残すでもなく、この異様な親子は、見る見る蒼ざめて行って、しっかりと抱き合ったまま、いつしか冷いむくろと化していた。

「アア、しまったわい。こいつは、まさかの時に、自分を殺す毒薬を、ちゃんと用意しておったのじゃ」

探偵は、この失策をさして悔む様子もなく、独りごとの様に云った。彼は内心では、殿村親子の世にも異様な境遇に、幽な同情を感じていたのかも知れない。そして、彼女等らの自殺を、実は見て見ぬ振りをしたのかも知れない。

かくして妖虫殺人事件は、意外に簡単な結末を告げた。ただ残っているのは、殿村親子の犯罪動機の穿鑿せんさくであったが、それは後日、殿村夫人が止宿ししゅくしていたアパートの室の手文庫の中から、厳封された一通の手記が発見され、詳細に判明したのである。

その手記というのは、殿村夫人自身が半紙五十枚程に細々こまごまと認したためたもので、その内容は複雑、悲痛な人間記録であって、優に一篇の物語を為す程のものであったが、ここにはそれを詳記する必要はない。ただ要点丈けをかいつまんで記して置けば、

殿村夫人の母なる人が、世にも不幸なる醜婦であった。結婚をして殿村夫人を産んだのではあるが、醜婦の為に夫や夫の周囲の人々から虐遇ぎゃくぐうされ、離縁となってからも云い尽せぬ数々の不幸を味わって、遂に世を呪い人を呪い、ある夜自家の庭の木にくびれ死んだのであった。

殿村夫人はその母の呪いの中に育った。「お前は決して結婚するでない。この母がよい見せしめだ。結婚したらきっと恐ろしい事が起るのだから」と云い聞かされながら大きくなった。母の死後は親切な身寄りとてもなく、少女にして既に世の味気なさを知ったのであるが、生れついての醜貌と欠唇とが、同年輩の少年少女は勿論大人達までの嘲笑の的となって、くやしさ恥しさに幾度自殺を考えたか知れなかった。

醜貌に引かえて聡明そうめいであった彼女は、小学校の各年級を通じて抜群の成績を示したので、校長先生などの好意で給費生となって、高等教育も受けたのであるが、その間醜さの為に、どれ程深い悲痛と烈しい苦悩を味わったか、手記にはその当時のやるせない、呪わしい心持が実に細々と記してあった。

この苦悩は、彼女の成熟と共に、加速度を以て増大して行った。男というものが彼女の目に映る様になり、人生というものがハッキリ分ってしまって来るに従って、悶々もんもんの情じょうは巨大な化物の様に生長して行った。そして、遂に恐ろしい破綻はたんが来たのだ。彼女はふと魔がさして、山窩さんかの様な浮浪の男と一夜を共にし、あの恐ろしい片輪娘を生みおとしたのであった。しかも、その娘は因果物師いんがものしに売り飛ばされ、あまつさえ、彼女はそんな乞食同然の男にすら、弊履へいりの如く捨てられてしまったのだ。

この比類もない不幸が、彼女を気違いにした。母親から受け継いだ呪咀じゅその血が、醜い肉体の中で、地獄の業火ごうかに湧きたぎった。それからの十幾年、彼女は最早もはや人間ではなかった。鬼であった。呪いの化身であった。彼女は一方修めた学問をたよりに様々の職業について復讐の資金を貯蓄すると同時に、一方では我子の世界である因果物師の仲間に入って行って、いざという時の手助けを作ることに腐心した。

ただ訳もなく美しい女が彼女の仇敵であった。この世界から美しい女という女を亡ほろぼし尽すという妄想が、彼女にとりついて離れなかった。十何年の年月としつき、寝ても覚めても、ただその事ばかりを考え暮らした。そしてあらゆる計画、あらゆる準備が、少しの手落ちもなく完成された。

呪いの妖魔は、なるべく世間に知れ渡った美貌の娘を物色した。春川月子が選ばれたのも、相川珠子、桜井品子が選ばれたのも、そういう意味からであった。月子が余りにも有名な女優であったことは云うまでもない。珠子はミス・トウキョウであったし、品子は美貌のヴァイオリニストとして世の視聴を集めている娘さんであった。彼女等が妖魔の餌食と狙われたのは、偶然ではなかったのだ。

長々しい殿村夫人の手記の内容は、概略すればこの様な意味であった。無理もないと云えば云えぬこともなかった。併し、如何に深刻な悲痛からとは云え、あの惨虐は到底許さるべくもない事だ。彼女の計画が遂に失敗に帰し、親子諸共もろとも毒を仰いで自滅しなければならなかったのは、当然と云わねばならぬ。

白髪の老探偵三笠龍介は、その激情的な事件によって、一段と有名になった。その事があってから、守青年と品子さんの愛情が、一層固く結ばれたことは云うまでもない。相川操一氏は、守青年のフィアンセとしての品子さんを、新しく生れた我娘と考えることによって、愛嬢珠子さんを失った悲しみを、幾分慰めることが出来た。

素人探偵相川守の名は、大変世間的になった。だが守青年はもう懲々こりごりしていた。探偵小説は面白い、併しそれが一度ひとたび現実の事件となると、面白いどころではなかった。彼は妖虫殺人事件に於て、あらゆる苦しみと悲しみとを味わった。もう沢山だ。探偵小説なんて呪われてあれ! そこで、彼は沢山の探偵本の蔵書を、一纒めにして、屑屋に売払ってしまったということである。

底本 / Source edition

底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年6月20日初版1刷発行
底本の親本:「黒蜥蜴・妖虫」新潮社
1934(昭和9)年12月24日
初出:「キング」大日本雄弁会講談社
1933(昭和8)年12月~1934(昭和9)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ありやしない」と「ありゃしない」、「啣《くわ》え」と「銜《くわ》え」、「真剣」と「真劒」、「一人ぼっち」と「一人ぽっち」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:金城学院大学 電子書籍制作
校正:入江幹夫
2021年9月27日作成
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TEI
/works/057522_001779/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/057522_001779/

江戸川 乱歩「妖虫」(新字新仮名)、底本『江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪』光文社文庫、光文社、2004年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057522_001779, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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