## <ruby><rb>生腕</rb><rt>なまうで</rt></ruby>

探偵小説家の<ruby><rb>殿村昌一</rb><rt>とのむらしょういち</rt></ruby>は、その夏、郷里<ruby><rb>長野</rb><rt>ながの</rt></ruby>県のＳ村へ帰省していた。

Ｓ村は四方を山にとざされ、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど<ruby><rb>段畑</rb><rt>だんばたけ</rt></ruby>ばかりで暮しを立てている様な、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい寒村であったが、その<ruby><rb>陰鬱</rb><rt>いんうつ</rt></ruby>な空気が、探偵小説家を喜ばせた。

平地に比べて、日中が半分程しかなかった。朝の間は、朝霧が立ちこめていて、お昼頃ちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。

段畑が<ruby><rb>鋸型</rb><rt>のこぎりがた</rt></ruby>に喰い込んだ間々には、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に勤勉なお百姓でも、どうにも切り開き様のない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い<ruby><rb>触手</rb><rt>しょくしゅ</rt></ruby>みたいに<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い出していた。

段畑と段畑が作っている溝の中に、この<ruby><rb>太古</rb><rt>たいこ</rt></ruby>の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪な大蛇の様に、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起して汽車が通り過ぎた。黒い機関車が<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>に<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いで、ボ、ボ、ボと恐ろしい煙を吐き出した。

<ruby><rb>山家</rb><rt>やまが</rt></ruby>の夏は早く過ぎて、その朝などはもう冷々とした秋の気が感じられた。都へ帰らなくてはならない。この陰鬱な山や森や段畑や鉄道線路とも又<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くお別れだ。青年探偵小説家は、二月余り通り慣れた村の細道を、一本の樹、一<ruby><rb>莖</rb><rt>けい</rt></ruby>の草にも<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>を<ruby><rb>惜</rb><rt>おし</rt></ruby>みながら歩いていた。

「又淋しくなるんだね。君はいつ帰るの？」

散歩の道連れの<ruby><rb>大宅幸吉</rb><rt>おおやこうきち</rt></ruby>がうしろから話しかけた。幸吉はこの山村では第一の物持と云われる大宅村長の息子さんであった。

「明日か明後日か、<ruby><rb>何</rb><rt>いず</rt></ruby>れにしてももう長くはいられない。待ってて<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れる人はないけれど、仕事の都合もあるからね」

殿村は女竹のステッキで、朝露にしめった雑草を無意味に<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>いながら答えた。

細道は鉄道線路の土手に沿って、段畑の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>や薄暗い森を縫って、<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>か村はずれのトンネルの番小屋まで続いていた。

五<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>程向うの繁華な高原都市Ｎ市を出た汽車が、山地にさしかかって、第一番にぶッつかるトンネルだ。そこから山は段々深くなり、幾つも幾つもトンネルの口が待っているのだ。

殿村と大宅は、いつものトンネルの入口まで行って、番小屋の<ruby><rb>仁兵衛爺</rb><rt>にへえじい</rt></ruby>さんと話をしたり、暗いトンネルの<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>の中へ五六間踏み込んで、ウォーと<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>って見たりして、又ブラブラと村へ引返すのが常であった。

番小屋の仁兵衛爺さんは、二十何年同じ勤めを続けていて、色々恐ろしい鉄道事故を見たり聞いたりしていた。機関車の大車輪に<ruby><rb>轢死人</rb><rt>れきしにん</rt></ruby>の血みどろの肉片がねばりついて、洗っても洗っても放れなかった話、ひき殺されてバラバラになった五体が、手は手、足は足で、苦しそうにヒョイヒョイ<ruby><rb>躍</rb><rt>おど</rt></ruby>り狂っていた話、長いトンネルの中で、轢死人の<ruby><rb>怨霊</rb><rt>おんりょう</rt></ruby>に出逢った話、その<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>数え切れない程の、物凄い鉄道<ruby><rb>綺譚</rb><rt>きだん</rt></ruby>を貯えていた。

「君、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>はＮの町へ行ったんだってね。帰りはおそくなったの？」

殿村が<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>ぜか遠慮勝ちに尋ねた。道は薄暗い森の下に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っていた。

「ウン、少し……」

大宅は痛い所へ触られた様に、ビクッとして、<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し<ruby><rb>強</rb><rt>しい</rt></ruby>て何気ない<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を装った。

「僕は十二時頃まで、君のお母さんの話を聞いていた。お母さん心配していたぜ」

「ウン、自動車がなくってね。テクテク歩いて来たものだから」

大宅が弁解がましく答えた。

Ｎ市とＳ村を<ruby><rb>聯絡</rb><rt>れんらく</rt></ruby>するたった一台のボロ乗合自動車は、夜十時を過ぎると運転手が帰ってしまうし、Ｎ市といっても山国の小都会のことだから、営業自動車は四五台しかなく、それが出払ってしまうと、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に交通機関とてもないのだ。

「道理で顔色がよくないよ。寝不足なんだろう」

「ウン、イヤ、それ程でもないよ」

大宅は、事実異様に青ざめた頬を、手の平でさすりながら、照れ隠しの様に笑って見せた。

殿村は<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>の事情を知っていた。大宅はれっきとした同村の<ruby><rb>素封家</rb><rt>そほうか</rt></ruby>の<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>の娘を嫌って、Ｎ市に住む秘密の恋人と<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>を続けているのだ。その恋人は大宅の母親の言葉によると、「どこの馬の骨だか分らない、渡り者のあばずれ娘」であった。

「お母さんを安心させて上げた方がいいよ」

殿村は相手を恥かしがらせはしないかとビクビクしながら、<ruby><rb>置土産</rb><rt>おきみやげ</rt></ruby>のつもりで忠告めいたことを口にした。

「ウン、分っている。<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>しマアうっちゃって置いて呉れ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。自分のことは自分で<ruby><rb>仕末</rb><rt>しまつ</rt></ruby>をつけるよ」

大宅がピンとはねつけるように、不快らしい調子で答えたので、殿村は黙ってしまった。

二人は黙々として、薄暗くしめっぽい森の中を歩いて行った。

鉄道線路がチラチラ見えている位だから、<ruby><rb>無論</rb><rt>むろん</rt></ruby>深い森ではないけれど、線路の反対側は奥知れぬ山に続いていて、立並ぶ木立が、どれも一抱え二抱えの老樹なので、さながら大森林に踏み<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>った感じであった。

「オイ、待ち給え！」

突然先に立っていた殿村が、ギョッとする様な声で、大宅を押し<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めた。

「いやなものがいる。戻ろう。急いで戻ろう」

殿村は<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>え切っていた。薄暗い森の中でも、彼の顔色が<ruby><rb>真青</rb><rt>まっさお</rt></ruby>に変っているのが分った。

「どうしたんだ。何がいるんだ」

大宅も相手のただならぬ様子に引き入れられて、<ruby><rb>惶</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく聞き返した。

「あれ、あれを見給え」

殿村は逃げ足になりながら、五六間向うの大樹の根元を指さした。

ヒョイと見ると、その巨木の幹の蔭から、何ともえたいの知れぬ怪物が<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていた。

狼？　イヤ、なんぼ山家でも、こんなところへ狼が出る<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はない。山犬に違いない。だが、あの口はどうしたのだ。<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>も舌も白い牙さえも、生々しい血に濡れて、ピカピカ光っているではないか。茶色の毛の全身が、ドス黒く血の<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>だ。顔も血みどろのブチになって、その中から<ruby><rb>燐光</rb><rt>りんこう</rt></ruby>を<ruby><rb>放</rb><rt>はな</rt></ruby>つ丸い眼が、ジッとこちらを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでいる。<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>からは、まだポタポタと血のしずくが垂れている。

「山犬だよ。<ruby><rb>土竜</rb><rt>もぐら</rt></ruby>かなんかやッつけたんだよ。逃げない方がいい、逃げると<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>て危いから」

<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に大宅は山犬に慣れていた。

「チョッ、チョッ、チョッ」

彼は舌を鳴らしながら、怪物の方へ近づいて行った。

「なあんだ。知ってる<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>だよ。いつもこの辺をウロウロしているおとなしい奴だよ」

<ruby><rb>先方</rb><rt>むこう</rt></ruby>では大宅を知っていたのか、やがて血みどろの山犬は、ノソノソと樹の蔭を出て、二三度彼の足元を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いだかと思うと、森の奥へと駈込んで行った。

「だが君、土竜やなんか喰ったんで、あんな血みどろになるだろうか。変だぜ」

殿村はまだ青ざめていた。

「ハハハ……、君も臆病だね。まさかこんなところに、人喰いの猛獣はいやしないよ」

大宅は何を馬鹿馬鹿しいと云わぬばかりに笑って見せたが、実は案外そうでなかったことが、間もなく分った。

森を出離れて、<ruby><rb>蓬々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>と雑草の茂った細道を歩いて行くと、<ruby><rb>叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の中から、ムクムクと、又しても血みどろの大犬が姿を現わし、人に驚いたのか、一目散に逃げ去った。

「オイ、あいつはさっきの奴と毛色が違うぜ。揃いも揃って、この村の犬が土竜を喰うなんて変だぜ」

殿村は、犬の出てきた叢を分けて、その蔭に何か大きな動物の死骸でも横たわっているのではないかと、ビクビクもので探し廻ったが、別段猛犬の<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>らしいものは見当らなかった。

「どうも気味が悪いね。引返そうか」

「ウン、だが、ちょっとあれを見給え。又もう一匹やって来るぜ」

一丁<ruby><rb>計</rb><rt>ばか</rt></ruby>り向うから、線路の土手に沿って、雑草の中を見え隠れに、なる<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>又毛色の違う奴が歩いて来る。チラチラと草に隠れて、全身を見ることが出来ぬ<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>、非常に大きな動物の様にも、又、犬ではないもっと別な<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>の様にも感じられて、ひどく不気味である。

道はとっくに部落を出離れているので、あたりは<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>もない山の中、狭い<ruby><rb>草原</rb><rt>くさはら</rt></ruby>を挟んで、両側から迫る黒い森、刃物の様に光る二本の鉄路、遙かに見えるトンネルの口、薄暗くシーンと静まり返った、夢の中の景色だ。その叢を、ゴソゴソと近づいて来る妖犬の姿。

「オイ、あいつ何だか<ruby><rb>銜</rb><rt>くわ</rt></ruby>えているぜ。血まみれの白いものだ」

「ウン、銜えている。何だろう」

立止って、ジッと見ていると、犬が近づくに従って、銜えているものの形が、少しずつハッキリして来た。

大根の様なものだ。併し、大根にしては色が変だ。鉛の様に青白い、何とも<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えぬ色合だ。オヤッ、先が幾つかに分れている。五本指の大根なんてあるものか。手だ。人間の生腕だ。断末魔に<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだ、鉛色の人間の片腕だ。<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>の関節から喰いちぎられて、その端には、赤い綿の様な<ruby><rb>塊</rb><rt>かたま</rt></ruby>りがくッついている。

「アッ、<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>め」

大宅がわめきながら、<ruby><rb>石塊</rb><rt>いしころ</rt></ruby>を拾って、いきなり投げつけた。

「ギャン、ギャン」という悲鳴を上げて、人喰い犬は、矢の様に逃げ去った。小石が命中したのだ。

## 顔のない死体

「やっぱりそうだ。人間の腕だ。指の様子では、まだ若い女の様だね」

妖犬の捨てて行った一物に近より、<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>覗き込みながら大宅が判断した。

「どっかの娘さんが喰い殺されたのじゃあるまいか。それとも餓えた山犬が墓をあばいたのか」

「イヤ、この村には若い女の<ruby><rb>新仏</rb><rt>にいぼとけ</rt></ruby>はない筈だ。といって、山犬共が生きている人間を喰い殺すなんて、そんな馬鹿なことは考えられないし、オイ<ruby><rb>昌</rb><rt>しょう</rt></ruby>ちゃん、やっぱり君の云った通り、こいつは少し変な具合だね」

流石の大宅も目の色を変えていた。

「それ見給え。土竜やなんかで、あんな全身血まみれになる筈はないよ」

「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>調べて見よう。片腕があるからには、その腕のついていた<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>がどっかになければならない。君、行って見よう」

二人は、ひどく緊張して、何か探偵小説中の人物にでもなった気持で、さい<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>から妖犬のやって来た方角へと急いだ。

ポッカリと黒い、怪物の口の様なトンネルの入口が、<ruby><rb>段々</rb><rt>だんだん</rt></ruby>形を大きくして近づいて来た。番小屋の中で手内職の編ものをしている仁兵衛爺さんの姿も見える。

と見ると、その番小屋の<ruby><rb>小半丁</rb><rt>こはんちょう</rt></ruby>手前、鉄道線路の土手のすぐ<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときわ</rt></ruby>深い叢の中から、三本の、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は黒く或は白い<ruby><rb>牛蒡</rb><rt>ごぼう</rt></ruby>の様なものが生えて、それがピンピン動いていた。何ともえたいの知れぬ異様な光景であったが、やがて、草に隠れて身体は見えぬけれど、その三本の牛蒡は、御馳走に夢中になっている三匹の犬の<ruby><rb>尻尾</rb><rt>しっぽ</rt></ruby>であることが分った。

「あすこだ。あすこに何かあるんだ」

大宅は、先の例に<ruby><rb>慣</rb><rt>なら</rt></ruby>って、<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず小石を二つ三つ投げつけると、三匹の犬は、叢の中から、一斉にニョッと首をもたげて、血に狂った六つの目でこちらを睨みつけた。牙をむきだした真赤な口から、ボトボトとしずくを垂らしながら。

「畜生、畜生」

その形相にこちらはギョッとして、又も小石を拾って投げつける。それには犬共も敵し兼ねて、さも残り惜そうに逃げ去って行った。

そのあとへ、二人は大急ぎで駈けつけ、草を分けて覗いて見ると、草の根のジメジメした地面に、人間の形をした真赤なものが、黒髪を振り乱し、<ruby><rb>派出</rb><rt>はで</rt></ruby>な<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>の着物の前をはだけて、転がっていた。

二人が見た<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けでも六匹の大犬に喰い荒されているのだ。まだ生々しい死骸の、あばら骨が現われ、臓腑が飛び出し、顔面は跡かたもない赤はげになって、<ruby><rb>茶飲茶碗</rb><rt>ちゃのみぢゃわん</rt></ruby>程もあるまんまるな目の玉が<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>を睨んでいたとて不思議はない。

殿村も大宅も、生れてから、こんな<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>な、えたいの知れぬ、恐ろしいものを見たことがなかった。

犬の歯に荒されない部分の皮膚を見ると、よく<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>っていて病人らしくはない。さき程犬の銜えて来た片腕を除いては、五体がチャンと揃っている所を見ると、轢死人でもないらしい。すると、六匹の野犬が健康な一人の女を喰い殺してしまったのであろうか。イヤイヤ、それは考えられないことだ。人間一人喰い殺される騒ぎを、いくらなんでも、すぐ近くの番小屋の仁兵衛爺さんが気付かぬ筈はない。悲鳴を聞きつけて助けに駈けつけぬ筈はない。

「君はどう思う。犬共は、生きている女を喰い殺したのでなくて、とっくに殺されている死骸を<ruby><rb>餌食</rb><rt>えじき</rt></ruby>にしたのじゃないだろうか」

大宅幸吉が、やっとしてから物を云った。

「無論そうだね。僕も今それを云おうとしていたんだ」

青年探偵作家が答えた。

「すると……」

「すると、これは恐るべき殺人事件だよ。誰かがこの女を殺害して、例えば毒殺するなり、<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>め殺すなりしてだね。それからこの淋しい場所へ運んで来て、ソッと叢の中へ隠して置いたという考え方だ」

「ウン、どうもそうとしか考えられないね」

「服装が<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>めいているから、多分この附近の女だろう。停車場もないこの村へ、旅人がさまよって来る<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>はないからね。君この女のどっかに<ruby><rb>見覚</rb><rt>みおぼえ</rt></ruby>はないか。多分Ｓ村の住人だろうと思うが」

殿村が尋ねる。

「見覚えがないかと云って、見るものがないじゃないか。顔もなんにもない、赤い塊りなんだもの」

如何にも、頭部はあるけれど、顔と名づけるものは跡方もない赤坊主であった。

「イヤ、着物とか帯とか」

「ウン、それはどうも見覚えがないよ。僕は一体女の服装なんか注意しないたちだからね」

「じゃ、兎も角、仁兵衛爺さんに尋ねて見よう。あいつ近くにいて、ちっとも気附かないらしいね」

そこで二人は、トンネルの入口の番小屋へ走って行って、旗振りの仁兵衛を呼び出し、<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>へ引っぱって来た。

「ワア、こりゃどうじゃ。なんてまあむごたらしい。……ナンマイダブ、ナンマイダブ」

爺さんは赤い塊りを一目見ると、たまげて、<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声を立てた。

「この女は犬に喰われる前に殺されていたんだよ。<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゅにん</rt></ruby>がここへ<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで来て捨てて行ったんだよ。君、何か思い当る様なことはないかね」

大宅が尋ねると、爺さんは小首をかしげて、

「わしゃなんにも知らなかったよ。知ってれば山犬なんぞに喰わせるこっちゃないのだが。ハテネ、若旦那、これやてっきり昨夜の内に起ったことだぞ。なぜと云って、わしゃ昨日は何度もこの辺を歩いたし、夕方落しものをして、そうだ、丁度ここいらを探し廻った位だから、こんな大きな死骸がありゃ、気の附かねえ筈はねえ。てっきりこりゃ、昨夜真夜中に起ったこんだぞ」

と断定した。

「それやそうかも知れないね。いくら人通りがないといって、あんなに犬がたかっているのを、一日中気附かない筈はないからね。ところで、爺さん、君、この着物に見覚えはないかね。村の娘だと思うのだが」

「こうっと、こんな柔か物を着る娘と云や、村でも四五人しかないのだが、……アアそうだ、わしの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>のお<ruby><rb>花</rb><rt>はな</rt></ruby>に聞いて見ましょう。あれは若いもんのこったから、同じ年頃の娘の着物は、気をつけて見覚えてるに違えねえ。オーイ、お花やあ……」

爺さんの怒鳴り声に、やがて娘のお花が、

「ナーニ、お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>つぁん」

と番小屋を駈け出して来た。

彼女は叢の死骸を見ると、キャッと悲鳴を上げて逃げ出しそうにしたが、父親に引止められ、<ruby><rb>怖々</rb><rt>こわごわ</rt></ruby>着物の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の方を見て、たちまちその<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>を鑑定した。

「アラマア、この<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>は<ruby><rb>山北</rb><rt>やまきた</rt></ruby>の<ruby><rb>鶴子</rb><rt>つるこ</rt></ruby>さんのだわ。村中でこの柄の着物持ってるのは、鶴子さんの外にありゃしないわ」

それを聞くと、大宅幸吉の顔色がサッと変った。無理はない。山北鶴子と云えば、大宅が嫌い抜いている彼の幼時からの許婚の娘だ。その鶴子が時も時、結婚問題で<ruby><rb>悶着</rb><rt>もんちゃく</rt></ruby>の起っている今、かくも無惨な変死をとげたのだ。大宅が青くなったのは、別に不思議でない。

「間違いはねえだろうな。よく考えて物を云うがええぞ」

仁兵衛爺さんが注意すると、娘は段々大胆になって、死骸の全身を注意深く眺めていたが、

「鶴子さんに違いないわ。帯だって見覚があるし、そこに落ちている石の入ったヘヤピンだって、鶴子さんの外に持っているものありゃしないわ」

と断言した。

## アリバイ

お花の証言で、その惨死体が豪農山北家のお嬢さんと分ったので、すぐさま山北家へ急使が飛ぶ、駐在所へ自転車が走る、警察電話がけたたましく鳴り響く、家々からは、緊張した表情の人々が現場へ、現場へと駈け出す、暫くして係官を満載した警察自動車が本署から到着するという、物々しい騒ぎとなった。

綿密な現場調査が終り、解剖の為に死体がＮ市の病院へ運び去られると、関係者の取調べを行う為に、<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ変則ながら、臨機の処置として村の小学校の応接室が借り入れられ、そこへ、鶴子の両親の山北夫婦、同家の<ruby><rb>傭人</rb><rt>やといにん</rt></ruby>、発見者の大宅、殿村、仁兵衛爺さん、娘のお花などが次々に呼入れられた。

取調べには<ruby><rb>可成</rb><rt>かなり</rt></ruby>の時間を<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>したけれど、被害者鶴子の母親が提出した一通の封書の<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には、別段これという手掛りもなかった。

「娘の机の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>の手紙の中に、こんなものがございました。今そこへ入れたばかりという風に、手紙類の一番上にのって居りましたから、きっとあれがうちを出ます<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ前に受取ったものに違いございません。男の呼出状でございます」

母親はそんな風に云って、切手の貼ってない一通の封書をさしだした。

「<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>が持って来たのだね。誰がこの手紙を娘さんに渡したのか、傭人達を調べて見ましたか」

予審判事の<ruby><rb>国枝</rb><rt>くにえだ</rt></ruby>氏が、物やさしく尋ねた。

「ハイ、それはもう充分調べたのでございますが、妙なことに、誰も知らないと申すのでございます。ひょっとしたら、娘が門の所に出ていた時、直接手渡して行ったのかも知れませんでございます」

「フム、そんなことだろうね。ところで、あなたは、この手紙の主に心当りでもありますか」

「イイエ、親の口から申すのも何でございますが、あれに限って、そんなみだらなことは、これっぱかりもございません。この手紙の男も、決して前々から知っていたのではなく、上手な呼出文句に、ついのせられたのではないかと存じます」

で、その呼出状の文句というのは、<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>の様な<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>簡単なものであった。

今夜七時、お宮の<ruby><rb>石燈籠</rb><rt>いしどうろう</rt></ruby>のそばで待っています。きっと来て下さい。誰にも云ってはいけません。非常に非常に大切な用件です。

Ｋより

「この筆蹟に見覚はありませんか」

「一向心当りがございません」

「鶴子さんは、大宅村長の息子の幸吉君と<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>になっていた<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>ですね」

国枝判事はそれとなく気を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。手紙の差出人のＫというのが、幸吉の<ruby><rb>頭字</rb><rt>かしらじ</rt></ruby>に一致するし、許婚からの手紙なら、娘が<ruby><rb>直様</rb><rt>すぐさま</rt></ruby>その呼出しに応じたのも無理ではないと思われたからだ。

「ハイ、わたくし共も、そうではないかと思いまして、さい前本人の<ruby><rb>幸</rb><rt>こう</rt></ruby>ちゃんに尋ねて見ましたのですが、僕がそんな呼出しなぞかける訳がない。その時間にはＮ市へ行っていたのだから。……それに第一、<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>さんも御存知の通り、僕はこんな下手な字は書きません。又、鶴子さんに逢いたければ、不自由らしく手紙で呼び出したりなんかしないでも、僕がじかに誘いに行く筈じゃないか。って申すのでございます。アノ、これは<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しや、誰か悪者が、幸ちゃんからの手紙の様に見せかけて、鶴子をおびき出したのではございますまいか」

判事と被害者の母親との問答は、それ以上進展しなかった。そこで、国枝氏は真先に取調べた大宅幸吉を、もう一度その調べ室に呼入れる必要を感じた。同席の警察署長を始め同意見であった。

大宅幸吉は問題の呼出手紙を見せられると、さっき鶴子の母親が申述べたのと大体同じ様な答えをした。

「君は昨夜Ｎ市へ行っていたのだね。ハッキリした<ruby><rb>現場不在証明</rb><rt>アリバイ</rt></ruby>だ。で、Ｎ市では誰かを訪問したのでしょうね。別に君を疑う訳ではないが、重大事件のことだから、一応は先方へ聞合わせる程度の手数はかけなければなりません」

予審判事は何気なく尋ねた。

「別に誰も訪ねなかったのです。会って話した人もありません」

幸吉は苦し相に答えた。

「では、買物にでも出掛けたのですか。それなら、その店の番頭なり主人なりが覚ているかも知れない」

「イイエ、そうでもなかったのです。ただ町へ出たくなって、Ｎの本町通りをブラブラ歩いて帰ったのです。買物と云えば、通りがかりの煙草屋でバットを買った位のものです」

「フム、そいつは<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>いな」

国枝氏は<ruby><rb>胡散</rb><rt>うさん</rt></ruby>らしく、相手の顔をジロジロ眺めながら、暫く思案していたが、やがてヒョイと気がついた様に元気な声を出した。

「イヤ、そんなことはどうだっていいのだ。君はＮ市の往復に乗合自動車に乗ったでしょう。無論運転手は君の顔を見知っている筈だ。その運転手を調べさえすればいいのです」

判事がホッとした様に云うと、意外にも幸吉の顔にハッと<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>の色が浮んだ。青ざめて急には口も利けない程だ。

判事は唇の隅に奇妙な微笑を浮べて、併し目は相手の心を突き通す鋭さで、ジッと幸吉の表情を見つめていた。

「偶然だ。恐ろしい偶然だ」

幸吉は妙なことを<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、救いを求める様に、国枝予審判事のうしろに立っている人物を眺めた。

そこには幸吉の親友の探偵小説家殿村昌一が、気の毒そうな顔をして<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた。彼がどうして、この調べの席に、しかも調べる人々の側に列していたかというに、昌一は国枝予審判事と高等学校時代の同級生で、現在も文通を続けている友達であったからだ。作者は物語の速度をにぶらせまい為に、この両人の偶然の<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>の場面を<ruby><rb>態</rb><rt>わざ</rt></ruby>と省略したのである。

両人がそんな間柄であったから、判事は取調べに際して、何かと好都合であったし、又探偵作家の殿村にとっては、犯罪事件の実際を見学する好機会となった。彼は事件の証人として、友達の予審判事から一応の取調べを受けたが、それが済んでも退席せず、人々の暗黙の了解を得て、その場に居残っていた訳である。

で、今大宅幸吉が、Ｎ市へ往復した自動車について質問を受け、顔色を変えて妙なことを呟いたのを聞くと、殿村はハッとしないではいられなかった。彼は幸吉の苦しい立場を<ruby><rb>大方</rb><rt>おおかた</rt></ruby>は推察していた。昨夜はＮ市に住む恋人に逢いに行ったのに違いない。幸吉はそれを隠す為にアリバイを<ruby><rb>犠牲</rb><rt>ぎせい</rt></ruby>にしようとさえしているのだ。

「まさか乗合自動車に乗らなかった訳ではありますまいね」

国枝氏は相手の<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>をあやしんで、やや皮肉な口調で催促した。

「ところが、乗らなかったのです」幸吉は苦し相に云って、なぜかひどく赤面した。青ざめていた顔が突然パッと紅潮したのが、人々をギョッとさせた。

「僕が嘘をついている様に聞えましょうね。併し本当なんです。偶然にも、僕は昨夜に限って乗合自動車に乗らなかったのです。村の発着所へ行った時、丁度Ｎ市行きの最終の乗合が出たあとで、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に車もないものですから、僕はテクテク歩いて行ったのです。汽車と違って近道をすれば一里半程のみちのりですから」

「君はさっき、Ｎ市へは何の目的もなく、ただ賑やかな町を散歩する為に出掛けた様に云ってましたね。何の目的もないのに、一里半にもせよ、<ruby><rb>態々</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>歩いてまでＮ市へ行かなければならなかったのですか」

判事の追及<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>急である。

「エエ、それは、田舎者には一里や二里の道は何でもないのです。村の者はＮ市へ用事があっても、自動車賃を倹約して歩く位です」

だが、幸吉は村長の若旦那だ。一里や二里が平気な程<ruby><rb>丈夫</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>相にも見えぬ。

「では、帰りはどうしました。まさか往復とも歩いた訳ではないでしょう」

「それが歩いたのです。おそかったものですから、乗合はなく、賃自動車を探しましたが、<ruby><rb>折悪</rb><rt>おりあ</rt></ruby>しく皆出払っていたので、思い切って歩きました」

このことは、朝鶴子の死体を発見する前、幸吉と殿村との会話によって、<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に読者の知る所である。

「フム、すると、君のアリバイは全く消えてしまった訳ですね。犯罪の行われた当夜、君がこのＳ村にいなかったという証拠は、一つもない訳ですね」

判事の態度は段々冷やかになって行く様に見えた。

「僕自身でさえ妙に思う程です。せめて往復の道で、誰か知人に出会っているといいのですが、それもないのです」幸吉は不運をかこつ様に言った。「併し、アリバイがないからと云って、その偽手紙で、僕に嫌疑がかかる訳ではないでしょうね、まさか。ハハハ……」

彼は不安らしく、キョトキョトしながら、無理に笑って見せた。

「偽手紙といっても、これが偽物であるという証拠は何もないのです」

判事は振り切る様に、冷淡に云ってのけた。

「君の筆蹟と似ていないからといって、故意に字体を変えて書くことも出来る訳ですからね」

「そんな馬鹿な。何の必要があって字体を変えたでしょう、僕が」

「イヤ、変えたとは云いません。変えることも出来るといったまでです。……よろしい。では引取って下さい。併し、家へ帰ったらなるべく外出しない様にして下さい。又お尋ねしたいことが出来るかも知れませんから」

幸吉が引下ると、国枝氏は警察署長と何かヒソヒソ<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていたが、やがて一人の私服刑事が、署長の命令でどこかへ出かけて行った。

## <ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>人形

「殿村君、これで一先ずおしまいだ。小説と違って大して面白いものではないだろう」

手すきになった国枝予審判事が、昔の学友探偵小説家を廊下へ誘い出して云った。

「おしまいだって？　そんなことを云って、僕を追払おうというのかい。おしまいどころか、これからじゃないか」

「ハハハ……、イヤ、そういう訳じゃないが、今日はもう調べることもあるまい。あす解剖の結果が分る筈だから、何もかもそれからだよ。僕はＮ市に宿を取っているから、二三日はそこから村へ通うつもりだよ」

「仲々熱心だね。誰でもそんな風にするのかい。署長に任せて置いてもいいのだろう」

「ウン、だが、この事件はちょっと面白そうなのでね。少しおせっかいをして見る<ruby><rb>積</rb><rt>つも</rt></ruby>りだ」

「君は大宅君を疑っている様だが……」

殿村は友達の為に、判事の気を惹いて見た。

「イヤ、疑っている訳じゃない。そういうことを<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めてかかるのは、君がいつも小説に書いている通り、非常に危険なんだ。疑うといえば<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての人を疑っている。君だって疑っているかも知れない」

判事は冗談の様に云って、殿村の肩を叩いた。

「君、今手がすいているのだったら、見せたいものがあるんだ。トンネルの<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の番小屋まで一緒に散歩しないか」

殿村は相手の冗談を黙殺して、さい前から云おうとしていたことを云った。

「仁兵衛爺さんの番小屋かい。一体あすこに何があるの」

「藁人形があるんだ」

「エ、何だって」

国枝氏はびっくりして、殿村の<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>な顔を眺めた。

「現場を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べている時、君にそのことを云ったのだけれど、耳にも入れて呉れなかった。藁人形なんぞあとでいいと云った」

「そうだったかい。僕はちっとも記憶しないが、で、その藁人形がどうかしたのかい」

「マア、何でもいいから、一度見て置き給え。ひょっとしたら、今度の事件を解決する鍵になるかも知れない」

国枝氏は<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>千万なこの<ruby><rb>申出</rb><rt>もうしい</rt></ruby>でを、真面目に受取る気にはならなかったけれど、殿村の熱心な勧めを退ける理由もなかった。彼は「小説家はこれだから困る」と呟きながら、殿村のあとについて小学校の門を出た。

番小屋に着くと、今小学校へ呼ばれて帰ったばかりの仁兵衛親子は、又取調べを受けるのかと、オドオドしながら二人を迎え入れた。

「<ruby><rb>小父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さん、さっきのホラ、藁人形を見せてほしいのだよ」

殿村が云うと、仁兵衛爺さんは妙な顔をして「アア、あれですかい」と裏の物置小屋へ案内して呉れた。

ガタピシと板戸を開けると、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>や炭を積んだ小暗い物置の隅っ子に、人間程の大きさの藁人形が、いかめしく<ruby><rb>突立</rb><rt>つった</rt></ruby>っていた。

「ナアンだ、<ruby><rb>案山子</rb><rt>かかし</rt></ruby>じゃないか」

国枝氏があきれた様に云う。

「イヤ、案山子じゃない。こんな立派な案山子があるもんか。仲々重いのだよ、呪いの<ruby><rb>人型</rb><rt>ひとがた</rt></ruby>だよ」

殿村はあくまで生真面目だ。

「で、この藁人形が、今度の殺人事件にどんな関係があるというの？」

「どんな関係だか、僕にも分らない。併し無関係でないこと<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けは<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>だよ。……小父さん、この人形を見つけた時のことを、もう一度、この人に話して上げてくれないだろうか」

すると仁兵衛爺さんは、予審判事に小腰をかがめて、話し始めた。

「丁度五日前の朝でございました。村へ<ruby><rb>用達</rb><rt>ようた</rt></ruby>しがあって、あの<ruby><rb>大曲</rb><rt>おおまが</rt></ruby>り……ホラ、鶴子さんの死骸が倒れていた線路のカーヴのところを、わしら『大曲り』と申しますだが、そこを通りかかりますと、線路わきの原っぱに、この藁人形がころがっていましただ」

「丁度鶴子さんの倒れていた辺だね」

殿村が口をはさむ。

「ヘエ、だが、鶴子さんの死骸は線路の土手のすぐ下でしたが、この人形は、線路から十間も離れた、原っぱの中にころがっていました」

「胸を刺されてね」

「ヘエ、これでございますよ。藁人形の胸の辺に、こんな<ruby><rb>小刀</rb><rt>こがたな</rt></ruby>が突きささって居りましただ」

爺さんは、小屋へ這入って、藁人形を抱え出して来た。見ると、なる程、胸の辺の藁がズタズタに斬りきざまれて、そこに小型の<ruby><rb>白鞘</rb><rt>しらさや</rt></ruby>の短刀が、心臓をえぐった形で、突き立ててあった。

「呪いの人型だ。……しかもそれが、丁度殺人事件の四日前、殺人現場の附近に捨ててあったというのは、何か意味があり相じゃないか」

「フーム、なる程」

国枝氏もこの二つの殺人事件の（人形と人間との）不思議な一致を無視する訳には行かぬ。いやそれよりも、胸をえぐられた藁人形の死骸が、何とも云えぬ妙な、ゾーッと寒気のする様な感じを与えたのだ。

「それで、君はどうしたの？」

「ヘエ、わしは、村の子供達がいたずらをしたのだろうと、別に気にもとめないで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たきつけ</span>にする積りで、この小屋へ放り込んで置きましただ。短刀も抜くのを忘れて、ついそのままになっていたのでございます」

「で、この藁人形のことは、誰にも話さなかったのだね」

「ヘエ、まさかこれが今度の事件の前兆になろうとは思わなかったもんでね。アア、そうそう、一人丈けこれを見た人がありますよ。外でもねえ山北の鶴子さんだ。あの方が丁度藁人形を拾った翌日、ひょっくり番小屋へ遊びにござらっしてね、わしの娘がそれを話したもんだから、じゃア見せてくれってね、この小屋を開けて中を覗いて見なすったですよ。<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>ごとだね。お嬢さんも、まさかこの人形と同じ目に会おうとは知らなかったでございますべえ」

「ホウ、鶴子さんがね、君の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ。……よく遊びに来たのかね」

「イイエ、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>にないことでございます。あの日は、娘のお花に何か呉れるものがあると云って、それを持って、久しぶりでお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でなさったのですよ」

さて、一応聞取りをすませると、国枝氏は藁人形はのち程警官に取りに来させるから、大切に保管してくれる様頼んで置いて、番小屋を引上げることにした。

「偶然の一致だよ。恐らく爺さんの云った様に、村の子供達のいたずらに違いない。犯人が、実際の人殺しをやる前に、藁人形で試験をしたというのもおかしいし、又、その人形を同じ場所へ捨てて置くなんて、実に<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>な仕業だからね」

実際家の予審判事は、探偵小説家の神秘好みに同意出来なかった。

「そんな風に考えれば、犯罪事件とは無関係の様に見えるかも知れない。併し、もっと別な考え方がないとは云い切れまい。僕は何かしら分りかけて来た様な気がする。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に、鶴子さんが藁人形を見に来たという点が非常に面白い」

「見に来た訳じゃないだろう」

「イヤ、見に来たのかも知れない。爺さんの口ぶりから考えても、これという用事があったのではないらしいから、鶴子さんがお花を訪ねた本当の目的は、案外藁人形を見る為だったかも知れない」

「何か突飛な空想をやっているんだね。併し、実際問題は、そんな手品みたいなもんじゃないよ」

予審判事は殿村の妄想を一笑に附し去ったが、それが果して妄想に過ぎなかったかどうか、やがて分る時が来るだろう。

## 恐ろしき<ruby><rb>陥穽</rb><rt>おとしあな</rt></ruby>

その翌日も、国枝判事は、警察署長と連立って、小学校の臨時捜査本部へやって来たが、彼が例の調べ室へ這入った時には、一夜の間に、刑事達の奔走によって、実に重大な証拠物件が取揃えられてあった。

その証拠物件によって、事件は急転直下、あまりにもあっけなく終結したかに見えた。恐るべき殺人犯人は確定したのだ。のっぴきならぬ確証が上ったのだ。

間もなく、調べ室のテーブルの前には、大宅幸吉が呼び出され、昨日と同じ様に国枝判事と対坐していた。

「本当のことを云って下さい。あの日君はＮ市へなぞ行かなかったのでしょう。<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとえ</rt></ruby>行ったとしても、七時までには村へ帰って、それからずっと村内のどこかにいたのでしょう。君があの夜帰宅したのは十二時頃だというから、それまで、どこかお宮の<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>とか、森の中とかで過したのでしょう」

予審判事は昨日と違って、確信に充ちた態度で、落ちつき払って取調べを始めた。

「何度お尋ねになっても同じことです。僕はＮ市から<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に徒歩で帰宅したのです。お宮や森の中にいる筈がありません」

幸吉は、平然として答えたが、青ざめた顔色に、内心の苦悶を隠すことは出来なかった。彼は<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に予審判事の握っている証拠物件に気附いていたからだ。そののっぴきならぬ証拠を、如何に言い解くべきかと、心を<ruby><rb>千々</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>に砕いていたからだ。

「アア、君にお知らせして置くことがあったのです」判事は全く別のいとぐちから入って行った。

「鶴子さんは細身の刃物で心臓をやられていたのです。多分短刀でしょう。つい先程、解剖の結果が分ったのです。で、つまりですね。この犯罪には血がある。被害者は血を流して<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れた。従って、加害者の衣服などに、血痕が附着したかも知れないと考えるのは極めて自然なことですね」

「そ、そうでしたか。やっぱり他殺でしたか」

幸吉は絶望の表情でうめいた。

「ところで、加害者は、若し衣服などに血痕が附着したとすれば、それをどんな風に処分するでしょう。君だったら、どうしますか」

「よして下さい」

幸吉は気でも違ったのではないかと思われる様な、<ruby><rb>突拍子</rb><rt>とっぴょうし</rt></ruby>もない声で叫んだ。

「そんな問い方はよして下さい。僕は知っているのです。刑事が僕の部屋の縁の下から這い出して行くのを見たのです。僕は少しも<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼえ</rt></ruby>がないけれど、縁の下に何かがあったのでしょう。それを云って下さい。それを見せて下さい」

「ハハハ……、君はお芝居が上手ですね。君の部屋の縁の下に隠してあった物を、君は知らないと云うのですか。よろしい。見せて上げよう。これだ。これが君の常用していた<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>であることは、ちゃんと調べが届いているのだよ。サア、この血痕は何だ。これが鶴子さんの血でないとでも云うのか」

判事は<ruby><rb>威丈高</rb><rt>いたけだか</rt></ruby>に云って、テーブルの下から、もみくちゃになった一枚の浴衣を取出し、幸吉の前に差出した。見ると、浴衣の袖や裾に、点々として黒い血痕が附着している。

「僕には全く訳が分りません。どうしてこんなものが僕の部屋の縁の下にあったのか。浴衣は僕のものの様です。併し血痕は全く覚がありません」

幸吉は追いつめられた<ruby><rb>獣物</rb><rt>けだもの</rt></ruby>の様に、目を血走らせ、やっきとなって叫んだ。

「覚がないではすむまいよ」判事は落ちつき払って「第一はＫの署名ある呼出状、第二は実に不思議なアリバイの不成立、第三はこの浴衣だ。君はその一つをも言い解くべき反証を示し得ないじゃないか。これ程証拠が揃って、しかも弁解が成立たないとしたら、<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>や犯罪は確定したといってもいい。私は君を、山北鶴子殺害の容疑者として<ruby><rb>拘引</rb><rt>こういん</rt></ruby>する外はないのだ」

判事が云い終ると、署長の目くばせで、二人の警官が、ツカツカと幸吉の側に近づき、左右からその手を取った。

「待って下さい」

幸吉はゾッとする様な死にもの狂いの表情になって絶叫した。

「待って下さい。君達の集めた証拠はみんな偶然の暗合に過ぎない。そんなもので罪に<ruby><rb>陥</rb><rt>おと</rt></ruby>されて<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>るものか。第一僕には動機がないのだ。僕が、何の恨みもない許婚の少女を、なぜ殺さなければならないのか」

「動機だって？　生意気を云うな」署長が堪りかねて怒鳴った。「君は情婦があるじゃないか。そいつと切れるのがいやさに、せき立てられる結婚を一日延ばしに延ばして来たんじゃないか。併し、もうこれ以上は延期出来ない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はめ</span>になっていた。君の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>と山北家との複雑な関係から、この結婚をもう一日も延ばし得ない状態になっていた。若しこの結婚が不成立に終ったら、君の一家は山北家は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、村中に対して、顔向けも出来ない事情があったのだ。君はせっぱ詰った窮境に立った。そして、とうとう、鶴子さんさえなきものにすればと、無茶な考えを起したのだ。これでも動機がないというのか。こちらではなにもかも調べ上げてあるのだよ」

「アア<ruby><rb>陥穽</rb><rt>おとしあな</rt></ruby>だ。俺は恐ろしい陥穽にはめられたのだ」

幸吉は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に返す言葉もなく、半狂乱に身もだえするばかりであった。

「幸ちゃん、しっかりし給え。君は忘れているんだ。もうこうなったら、本当のことを云い給え。ホラ、君にはちゃんとアリバイがあるじゃないか。Ｎ市に住んでいる女の人に証言して<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>えばいいじゃないか」

人々のうしろから、殿村昌一が躍り出して、叫んだ。彼は友達の苦悶を見るに見兼ねたのだ。

「そうだ。判事さん、Ｎ市×町×番地を調べて下さい。そこに僕の恋人がいるんです。僕は事件の<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>、ずっとそこにいました。散歩したなんて嘘です。その人の名は<ruby><rb>絹川雪子</rb><rt>きぬがわゆきこ</rt></ruby>って云うんです。雪子に聞いて下さい」

幸吉は遂にひそかなる恋人の名を隠して置くことが出来なくなった。

「ハハハ……、何を云っているんだ、君の情婦の証言なんか当てになるか。その女は君の共謀者かも知れんじゃないか」

署長が一笑に附した。

「イヤ、その女の証言をとる位の手数は何でもありません。あんなに云っているのだから、警察電話で、本署へ至急取調べて返事をしてくれる様にお命じになっては<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>です」

国枝氏のとりなしで、兎も角雪子という女を取調べさせることに決した。雪子はどうせ一度は調べなければならない人物なのだから。

待遠しい一時間が経過して、駐在所から電話の返事を持って、一人の刑事が駈けつけて来た。

「絹川雪子は、一昨夜大宅は一度も来なかった。何かの間違いでしょうと答えたそうです。幾度尋ねても同じ返事だったそうです」

刑事が報告した。

「それで、雪子は当夜ずっと在宅していたかどうかは？」

「それは雪子が二階借りをしている<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の婆さんを取調べた結果、確に在宅していたことが分ったということです」

若し雪子が当夜外出したとなると、彼女にも鶴子殺しの疑いがかかる訳だ。彼女も<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>幸吉と同じ動機を持っていたからである。併し、外出した模様もなく、恋人の幸吉にとっては最も不利な証言をした所を見ると、雪子は何も知らぬらしい。全然この事件の圏外に置いて<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えない訳だ。

国枝氏は再び幸吉を面前に呼出して、刑事からの報告を伝えた。

「サア、これで君の為に出来る丈けのことをした訳だ。もう異存はあるまいね。君の情婦さえアリバイを申立てては呉れなかったのだ。観念した方がいいだろう」

「嘘だ。雪子がそんなことを言う筈がない。会わせて下さい。僕を雪子に会わせて下さい。あれがそんな馬鹿なことを云う道理がない。君達はいい加減のことを云って、僕を<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れようとしているのだ。サア、僕をＮ市へ連れて行って下さい。そして雪子と対決させて下さい」

幸吉は地だんだを踏まんばかりにして、わめいた。

「よしよし、会わせてやる。会わせてやるからおとなしくするんだ」

警察署長は見えすいた<ruby><rb>猫撫</rb><rt>ねこな</rt></ruby>で声をしながら、ギロリと鋭い目で部下に合図をした。

二名の警官が、よろめく幸吉の手を掴んで、荒々しくドアの外へ引ずり出してしまった。

大宅村長の若旦那幸吉は、果して恐ろしい殺人犯人であったか。若しや彼は何者かの為に、抜き差しならぬ陥穽に陥れられたのではあるまいか。ではその真犯人は、一体全体どこに隠れているのであろう。探偵小説家殿村昌一は、この事件に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て、如何なる役割を勤めるのか。彼があの様に重大に考えていた藁人形には、<ruby><rb>抑々</rb><rt>そもそも</rt></ruby>どんな意味があったのか。

## 雪子の消失

Ｓ村の村長の息子である大宅幸吉が、その<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>山北鶴子惨殺犯人の容疑者として拘引せられた。

幸吉はあくまで無実を主張したが、第一のっぴきならぬ血染め浴衣という証拠品があり、犯罪当夜の<ruby><rb>現場</rb><rt>げんじょう</rt></ruby>不在証明が成立たず、その上彼には許嫁を殺害しかねまじき動機さえあったのだ。

幸吉は鶴子を嫌い抜いていた。彼にはＮ市に絹川雪子という秘かなる恋人があって、その恋を続ける為には、結婚を迫る許嫁は、何よりの邪魔者であった。しかも、幸吉一家には、鶴子の家に対して、この許嫁を取消し得ない、苦しい浮世の義理があった。幸吉が結婚を承知しなければ、父大宅氏は、村長の栄職を<ruby><rb>抛</rb><rt>なげう</rt></ruby>って、Ｓ村を退散しなければならない程の事情があった。

一方、山北家では、その事情をふりかざして、矢の様に婚礼の日限を迫って来る。従って、大宅氏夫妻は、泣かんばかりに幸吉を責め<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>く。恋に狂った若者が、こんな羽目に陥った時、その許嫁の女を憎み、呪い、はては殺意をさえ<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>くに至るのは、至極あり相なことではないか。というのが、予審判事や警察の人々の意見であった。

動機あり、証拠品あり、アリバイなし。最早幸吉の有罪は<ruby><rb>何人</rb><rt>なにびと</rt></ruby>もくつがえすことが出来ない様に見えた。

だが、ここに、幸吉の両親大宅氏夫妻の外に、彼の有罪を信じない一人の人物があった。それは、幸吉の親友で、Ｓ村に帰省中たまたまこの事件にぶッつかった探偵小説家殿村昌一だ。

彼は幼年時代からの幸吉の友達で、その気心を<ruby><rb>知悉</rb><rt>ちしつ</rt></ruby>していたから、如何に恋に狂ったとはいえ、彼が罪もない許嫁の鶴子を殺すなどとは、どう考えても信じられないのであった。

彼は今度の事件について、一つの不可思議な考えを抱いていた。それは殺人の行われた四日前に、殆ど同じ場所に、等身大の藁人形が、しかも短刀で胸を刺されて倒れていたことを出発点とする、誠に突飛千万な幻想であった。そんなことを、国枝判事などに話せば、小説家の空想として、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち一笑に附し去られるは知れ<ruby><rb>切</rb><rt>きっ</rt></ruby>ていたから、彼はそれについて、何事も口にしなかったけれど、親友の幸吉が無実を主張しながら拘引された上は、親友を助ける意味で、彼は彼の幻想に基いて、一つこの事件を探偵して見ようと決心した。

ではどこから始めるか。経験のない殿村には、一寸見当がつき兼ねたが、何はさて置き、先ずＮ市の絹川雪子を訪問して見なければならない様に感じられた。

幸吉は犯罪当夜、雪子の所へ行っていたと主張し、雪子は警察に対してハッキリそれを否定している。この奇妙な矛盾は一体何から来ているか。先ずそれを解くのが先決問題だと思った。

そこで、幸吉が拘引された翌朝、彼はＮ市への乗合自動車に乗った。無論雪子とは初対面である。この恋人のことは、幸吉が誰にも打あけていなかったので、Ｓ村の人は勿論、幸吉の両親さえも、雪子を知らず、予審判事の取調の際、幸吉が告白したので、初めてその住所なり姓名なりを知った程であった。

殿村はＮ市へ着くと、<ruby><rb>直</rb><rt>ただち</rt></ruby>に停車場に近い雪子の<ruby><rb>住処</rb><rt>じゅうしょ</rt></ruby>を訪問した。ゴタゴタした小工場などに挟まれた、くすぶった様な二階建ての長屋の一軒がそれであった。

案内を乞うと、六十余りのお婆さんが目をしょぼしょぼさせて出て来た。

「絹川雪子さんにお目にかかり<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いのですが」

と来意を告げると、老婆は耳に手を当てて、

「エ、どなたでございます」

と顔をつき出す。目も悪く、耳も遠いらしい。

「あなたのところの二階に、絹川という娘さんがいらっしゃるでしょう。その人にお目にかかり度いのです。僕は殿村という者です」

殿村は老婆の耳に口を寄せて大声にどなった。

すると、その声が二階に通じたのか、玄関から見えている階段の上に、白い顔が覗いて、

「どうか、こちらへお上り下さいませ」

と答えた。その娘が絹川雪子に違いない。

真黒にすすけた<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>を上ると、二階は六畳と四畳半の<ruby><rb>二間</rb><rt>ふたま</rt></ruby>切りで、その六畳の方が雪子の居間と見え、女らしく<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に飾ってある。

「突然お邪魔します。僕はＳ村の大宅幸吉君の友達で殿村というものです」

<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をすると、雪子は、<ruby><rb>叮嚀</rb><rt>ていねい</rt></ruby>におじぎをして、

「わたし絹川<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>でございます」

と云った切り、恥かしそうにうつむいて、黙っている。

見ると、雪子の様子が少し意外である。殿村は、幸吉があれ程に思っていた娘さんだから、定めし非常に美しい人であろうと想像して来たのに、今目の前に、ツクネンと坐っている雪子は、どうも美しいとは云えないばかりでなく、まるで<ruby><rb>淫売婦</rb><rt>いんばいふ</rt></ruby>の様な感じさえするのだ。

髪は洋髪にしているが、それが実に下手な<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>い方で、額に波打たせた髪の毛が、眉を隠さんばかりに垂れ下り、顔には<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>や紅をコテコテと塗って、その上虫歯でも痛いのか、右の頬に大きな<ruby><rb>膏薬</rb><rt>こうやく</rt></ruby>を張りつけているという始末だ。

殿村は、幸吉が何を物好きに、こんな変てこな女を愛したのかと疑いながら、兎も角も、幸吉の拘引せられた<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を語りきかせ、犯罪の当日、彼は本当に雪子を訪問しなかったのかと<ruby><rb>訊</rb><rt>ただ</rt></ruby>した。

すると、何という冷淡な女であろう、雪子は恋人の拘引をさして悲しむ様子もなく、言葉少なに、その日幸吉は一度も来なかった<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>を答えた。

殿村は話している内に、段々変な気持になって来た。雪子という女が、感情を少しも持たぬ、人造人間か何かの様にさえ思われて、一種異様の不気味さを感じないではいられなかった。

「それで、あなたは、今度の事件をどう思います。大宅君が人殺しなぞ出来る男だと思いますか」

少々<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触って、<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>りつける様に云うと、相手は相変らずの無感動で、

「あの人が、そんな大それたことをなさるとは思われませんけれど……」

と実に煮え切らぬ返事だ。

この女は恥かしがって感情を押し殺しているのか、<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>からの冷血動物なのか、それとも若しかしたら、幸吉をそそのかして鶴子を殺害せしめた張本人である為に、その罪の恐怖に<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>え切て、こんな様子をしているのか、全くえたいの知れぬ、不思議な感じであった。

彼女が何かにひどく脅えていることは確で、丁度その家の裏が停車場の構内になっているものだから、絶えず機関車の<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き<ruby><rb>来</rb><rt>き</rt></ruby>する音が聞え、時々はすぐ窓の外で、鋭い汽笛が鳴り響くのだが、そんな物音にも、雪子はビクッと身を震わせて驚くのだ。

雪子はこの家の二階を借りて、一人で暮しているらしい。調度などが何となく職業婦人を思わせる。

「どこかへお勤めなんですか」

と尋ねて見ると、

「エエ、少し前まである方の秘書を勤めていましたが、今はどこへも……」

と口の中でモグモグ云う。

何とかして本音を吐かせようと、なお色々話しかけて見たが、雪子は黙り勝ちで少しも要領を得ない。絶えずうつむいて、目をふせて、口を利く時も、殿村を正視せず、まるで<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>と話しをしている様な<ruby><rb>鹽梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>だ。

結局、殿村は、この雪子の<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>な沈黙をどうすることも出来ず、一先ずその家を辞去することにしたが、いとまを告げて、階段を降りかけても、雪子は座敷に坐って頭を下げているばかりで、下へ送って来ようともせぬ。

玄関の土間に降りると、それでも、例のお婆さんが見送りに出て来たので、殿村は、念の為に、その耳に口を寄せて、

「今日から三日前、つまり<ruby><rb>一昨々日</rb><rt>さきおととい</rt></ruby>ですね。絹川さんの所へ男のお客さんはなかったですか、丁度わたし位の年配の」

と尋ねて見た。二階の雪子に<ruby><rb>気兼</rb><rt>きがね</rt></ruby>をしながら、二三度繰返すと、やっと、

「サア、どうでございましたかね」

という返事だ。だんだん聞いて見ると、この家はお婆さん<ruby><rb>独暮</rb><rt>ひとりぐら</rt></ruby>しで、二階を雪子に<ruby><rb>貸</rb><rt>かし</rt></ruby>ているのだが、身体が不自由な為、一々取次などはせず、雪子のお客様は、勝手に階段を上って行くし、夜なども、客がおそく帰る時は、雪子が表の戸締りをすることになっているらしい。つまり、二階と下とが全く別々のアパートみたいなもので、仮令あの日幸吉が雪子を訪ねたとしても、このお婆さんは、それを知らないでいたかも分らぬのだ。

殿村はひどく失望して、その家を出た。そして、考え込みながら、足元を見つめて歩いていると、

「ヤア、あなたもここでしたか」

突然声をかけたものがある。

びっくりして見上げると、Ｓ村の小学校の取調べ室で知り合った、Ｎ警察の警官だ。<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>い奴に出くわしたと思ったが、嘘を云う訳にも行かぬので、雪子を訪問したことを告げると、

「じゃ、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいるんですね。そいつはいい具合だ。実は、あの女を取調べることになって、今呼出しに行く所です。急ぎますから失敬します」

警官は云い捨てて、五六間向うに見えている雪子の下宿へ走って行った。

殿村は、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>かそのまま立去る気にはなれず、そこに佇んで、警官の姿が<ruby><rb>格子戸</rb><rt>こうしど</rt></ruby>の中へ消えるのを見送っていた。

警官に引連れられた雪子が、どんな顔をして出て来るかと、ちょっと好奇心を起して待っていると、やがて、再び格子戸の開く音がして、警官が出て来たが、雪子の姿は見えぬ。そればかりか、警官は殿村がまだそこに立っているのを見つけると、怒った様な声で、

「困りますね、<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>をおっしゃっては。絹川雪子はいないじゃありませんか」

と云った。

「エ、いないって？」殿村は<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくら</rt></ruby>らって「そ、そんな筈はありませんよ。今僕が逢って来たばかりですからね。僕がたった五六間歩く間に、外出できっこはありませんよ。本当にいないのですか」

と信じられぬ様子だ。

「本当にいないのです。婆さんに尋ねても<ruby><rb>不得要領</rb><rt>ふとくようりょう</rt></ruby>なので、二階へ上って見たんですが、猫の子一匹いやしない。じゃ、裏口からでも外出したのかも知れませんね」

「サア、裏口といって、裏は停車場の構内になっているのだが。……兎も角僕も引返して調べて見ましょう。いない筈はないのだがなあ」

そこで、二人はもう一度その家の格子戸を開けて、婆さんに尋ねたり、<ruby><rb>家探</rb><rt>やさが</rt></ruby>しをしたりしたが、結局絹川雪子は、煙の様に消え失せてしまったことが確められたばかりであった。

さい前警官が這入って行った時、婆さんは殿村を送り出して、まだ玄関の、しかも階段の降口に立っていたのだから、いくら目や耳のうとい老人でも、雪子がその階段を降りて来るのを気附かぬ筈はなかった。

なお念の為に、<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>を調べさせて見たけれど、雪子のは勿論、婆さんの履物も、一足もなくなっていないことが分った。

雪子が外出しなかったことは、最早疑う余地がないのだ。ではもう一度二階を調べて見ようと、梯子段を上り、押入れの中や、天井裏まで覗いて見たが、やっぱり人の気配はない。

「この窓から屋根伝いに逃げたんじゃないかな」

警官が窓の外を眺めながら口走った。

「逃げたって？　何かあの人が逃げ出す理由でもあるのですか」

殿村がびっくりした様に聞き返した。

「若しあの女が、共犯者であったとすれば、僕の声を聞いて逃げ出さぬとも限りませんよ。併し、それにしても……」

警官はその辺の屋根を眺め廻して、

「この屋根じゃ、どうも逃げられ相もないな。それに、すぐ下の線路に、多勢<ruby><rb>工夫</rb><rt>こうふ</rt></ruby>がいるんだし」

如何にも窓の下は、すぐ駅の構内になっていて、何本も汽車のレールが並び、その一本は、修繕中と見えて、四五人の工夫が<ruby><rb>鶴嘴</rb><rt>つるはし</rt></ruby>を揃えて仕事をしている。

「オーイ、今この窓から、線路へ飛び降りたものはないかあ」

警官が大声に、工夫達に尋ねた。

工夫達は驚いて窓を見上げたが、無論雪子がそんな人目につく場所へ飛降りる筈はなく、彼等は何も見なかったと答えた。又、雪子が屋根伝いに逃げたとすれば、工夫達が気附かぬ訳はないから、これも不可能なことだ。

つまり、あのお化けの様に白粉を塗った、妖怪じみた娘は、気体となって蒸発したとでも考える外には、解釈の仕様がないのであった。

殿村は狐につままれた様な、夢でも見ている様な、何とも云えぬ変てこな気持になって、<ruby><rb>空</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろな目で窓の外を眺めていた。

頭の中に無数の微生物が、モヤモヤと入り乱れて、その間を、胸に短刀を刺された藁人形や、壁の様に白い雪子の顔や、赤はげになった顔の中から、まん丸に飛び出していた鶴子の目の玉などが、スーッスーッと現われては消えて行った。

そして、頭の中が闇夜の様に、あやめも分かぬ暗さになった。その暗い中から、徐々に異様な物の影が浮き上って来た。何だろう。棒の様なものだ。鈍い光りを放っている棒の様なものだ。それが二本並行に並んでいる。

殿村はその棒の様なものの正体を掴もうとして、<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え苦しんだ。

すると、突然、パッと、頭の中が真昼の様に明るくなった。謎が解けたのだ。まるで奇蹟みたいに、凡ての謎が解けたのだ。

「高原療養所だ。アア、分ったぞ。君、犯人のありかが分りましたよ。国枝君はまだこちらにいますか。警察ですか」

殿村が気狂いの様に叫び出したので、警官は面喰らいながらも、国枝予審判事が丁度今警察署に来ている旨を答えた。

「よろしい。じゃあ君はすぐ帰って、国枝君に僕が行くまで待っている様に伝えて下さい。殺人事件の犯人を引渡すからといってね」

「エ、犯人ですって。犯人は大宅幸吉じゃありませんか。あなたは何を馬鹿なことをおっしゃるのです」

警官が仰天して叫んだ。

「イヤ、そうじゃないのです。犯人は外にあることが、今やっと分ったのです。想像も出来ない邪悪です。アア恐ろしいことだ。兎も角、国枝君にそう伝えて下さい。僕がすぐあとから行って説明します」

殿村が気狂いの様に、繰返し繰返し頼むので、事情は分らぬながら、<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>にまかれてしまって、警官はアタフタと署に帰って行った。国枝判事の親友である殿村の言葉を、<ruby><rb>無下</rb><rt>むげ</rt></ruby>にはねつける訳にも行かなかったのだ。

途中で警官に別れると、殿村はいきなり停車場にかけつけ、駅員をとらえて、奇妙なことを尋ねた。

「今日午前九時発の上り貨物列車には、材木を積んでいましたか」

駅員は、びっくりして、ジロジロ殿村の顔を眺めていたが、何と思ったのか、親切に答えてくれた。

「積んでました。材木を積んだ<ruby><rb>無蓋</rb><rt>むがい</rt></ruby>貨車が、確か三台あった筈です」

「で、その貨物列車は、次のＵ駅には停車することになっているのですか」

Ｕというのは、Ｓ村とは反対の方角にある、Ｎ市の次の停車場なのだ。

「エエ、停車します。Ｕではいくらか<ruby><rb>積卸</rb><rt>つみおろ</rt></ruby>しがあった筈です」

それ丈け聞き取ると、殿村は駅を走り出して、駅前の自動電話に飛込み、Ｕ町の郊外にある、有名な高原療養所を呼出して、何か入院患者のことをしきりと尋ねていたが、これも満足な答えが得られたと見え、通話が終ると、そのまま、勢い込んで警察署へと駈つけた。

国枝氏は署長室にただ一人、ぽつねんと腰かけていたが、突然殿村が取次もなく飛び込んで来たので、あっけにとられて立上った。

「殿村君、君の<ruby><rb>酔狂</rb><rt>すいきょう</rt></ruby>にも困るね。お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>のことはお上に任せて置き給え。小説家の<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>刑事なんかが成功する筈はないのだから」

国枝氏は苦り切て、きめつけた。

「イヤ、俄刑事であろうと何であろうと、この歴然たる事実を知りながら、黙っているのは、<ruby><rb>寧</rb><rt>むし</rt></ruby>ろ罪悪だ。僕は真犯人を発見したのだ。大宅君は無罪だ」

殿村は昂奮の余り、場所柄をもわきまえず絶叫した。

「静かにしてくれ給え。お<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>は気心を知り合った友達だからいいけれど、警察の連中にこんな所を見られては、少し具合が悪いのだから」

国枝氏は困り切て、気違いの様な殿村をなだめながら、

「で、その真犯人というのは、一体何者だね」

と尋ねた。

「イヤ、それは君自身の目で見てくれ給え。Ｕ町まで行けばいいのだ。犯人は高原療養所の入院患者なんだ」

殿村の言い草は益々<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>である。

「病人なのかい」

国枝氏はびっくりして聞き返した。

「ウン、マア病人なんだ。本人は仮病を使っている積りだろうが、その実救い難い精神病者なのだ。気違いなのだ。そうでなくて、こんな恐ろしい殺人罪が考え出せるものか。探偵小説家の僕が、これ程驚いているのでも分るだろう」

「僕には何が何だかサッパリ分らないが、……」

国枝氏は、殿村こそ気が違ったのではないかと、心配になり出した。

「分らない筈だ。どこの国の警察記録にも前例のない事件だよ。いいかい。君達は実に飛んでもない思い違いをしているのだ。若しこのまま審理を続けて行ったら、君は職務上実に取り返しのつかぬ失策を<ruby><rb>仕出</rb><rt>しで</rt></ruby>かすのだよ。だまされたと思って、僕と一緒に高原療養所へ行って見ないか。信用出来なかったら、予審判事としてでなく、一個人として行けばいい。仮令僕の推理が間違っていた所で、ホンの二時間程浪費すれば済むのだ」

押し問答を続けた末、結局、国枝氏は旧友の熱誠にほだされ、<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>わば気違いのお<ruby><rb>守</rb><rt>も</rt></ruby>りをする気で、療養所へ同行することになった。無論警察の人々にはそれと云わず、一寸私用で出掛ける<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>にして、自動車の用意を頼んだ。

## 真犯人

高原療養所へは、国道を飛ばして、四十分程の道のりだ。雪子の家を家探しして一時間以上つぶしたのと、国枝判事を説きつける為に手間取ったので、彼等が療養所へ着いたのは、もうおひる過ぎであった。

療養所は駅の少し手前、美しい丘の中腹に、絵の様に拡がっている<ruby><rb>白堊</rb><rt>はくあ</rt></ruby>の建物だ。車を門内に入れて、受附けに来意をつげると、<ruby><rb>直様</rb><rt>すぐさま</rt></ruby>院長室に通された。

院長の<ruby><rb>児玉</rb><rt>こだま</rt></ruby>博士は、専門の医学の外に、文学にも<ruby><rb>堪能</rb><rt>たんのう</rt></ruby>で、殿村などとも知り合いであったから、さい前殿村からの電話を聞いて、彼等の来るのを待ち受けていた程である。

「さっき電話で御尋ねの人相の婦人は、<ruby><rb>北川鳥子</rb><rt>きたがわとりこ</rt></ruby>という名で入院してますよ。御言葉によって、それとなく見張りをつけて置きました」

挨拶がすむと院長が云った。

「あの女がここへやって来たのは、何時頃でしょうか」

殿村が尋ねる。

「そうです。<ruby><rb>今朝</rb><rt>こんちょう</rt></ruby>九時半頃でしたか」

「で、病状はどんな風なのですか」

「マア、神経衰弱でしょうね。何かショックを受けて、ひどく昂奮している様です。別に入院しなければならない程の症状ではありませんが、御承知の通り、ここは病院と云うよりは一種の温泉宿なんですから、本人の希望次第で入院を許すことになっているのです。……あの人が何か悪いことでもしたのですか」

院長はまだ何も知らぬのだ。

「殺人犯人なのです」

殿村が声を低めて云い放った。

「エ、殺人犯人ですって？」

「そうです。御承知のＳ村の殺人事件の下手人です」

院長は非常な驚きにうたれ、あわただしく医員を呼んで、北川鳥子の病室へ案内させてくれた。

国枝氏も殿村も、その病室のドアを開く時には、流石に心臓のただならぬ鼓動を感じないではいられなかった。

思い切て、サッとドアを引くと、入口の真正面に、絹川雪子が、脅えた目を、はりさけんばかりに見開いて突っ立っていた。北川鳥子とは、外ならぬ絹川雪子であった。イヤ、少くとも絹川雪子と称する女であった。

彼女は今朝逢ったばかりの殿村を忘れる筈はない。その<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に立っている国枝予審判事は知らなかったけれど、この慌しい<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>が好意の訪問であろう筈はない。彼女は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の間に凡てを悟ってしまった。

「アッ、いけない」

突然殿村が雪子の身体に飛びついて、その手から青い小さなガラス瓶をもぎ取った。彼女はどこで手に入れたか、万一の場合に備えて毒薬を用意していたのだ。

毒薬を奪われた娘は、最後の力尽きて、くずれる様に倒れ<ruby><rb>伏</rb><rt>ふし</rt></ruby>、物狂わしく泣き<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>った。

「国枝君、今朝絹川雪子が、部屋の中で消え失せてしまったことを聞いているだろう。あの部屋から姿を消したこの女は、素早くも、療養所の入院患者になりすましていたのだよ」

殿村が説明した。

「だが、待ち給え。それは少しおかしいぜ」

国枝氏は何か<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ぬらしく、絶え入らんばかりに泣き入っている女を見おろしながら、

「絹川雪子は犯罪の行われた日は一度も外出しなかった筈だ。それに、被害者の山北鶴子は、雪子にとって恋の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>でも何でもない。大宅は完全に雪子のものだったのだからね。その雪子が何を好んで、命がけの殺人罪などを企てたのだろう。どうもおかしいぜ。この女は、神経衰弱の余り、変な幻想を起しているのではないかしら」

と妙な顔をする。

「サア、そこだよ。そこに非常な<ruby><rb>錯誤</rb><rt>さくご</rt></ruby>があるのだ。犯人のずば抜けたトリックがあるのだ。君は犯人を大宅幸吉と極めてかかっている。それが間違いだ。君は被害者を山北鶴子と極めてかかっている。そこに重大な錯誤があるのだ。被害者も犯人も、君達には少しも分っていないのだ」

殿村が奇怪千万なことを云い出した。

「エ、エ、何だって？」

国枝氏は飛上らんばかりに驚いて叫んだ。

「被害者が山北鶴子ではないって？　じゃ一体誰が殺されたのだ」

「あの死骸は犬に食い荒される以前、恐らく顔面を<ruby><rb>滅茶滅茶</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>に傷つけてあったに違いない。そうして人相を分らなくした死骸に、鶴子の着物や装身具をつけて、あすこへ捨てて置いたのだ」

「だが君、それじゃ鶴子の行方不明をどう解釈すればいいのだ。田舎娘が親に無断で、三日も四日も帰らないなんて、常識では考えられないことだ」

「鶴子さんは絶対に<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>に帰る訳には行かなかったのだ。僕はね、大宅君から聞いているのだが、鶴子さんは非常な探偵小説好きで、英米の犯罪学の書物まで集めていたそうだ。僕の小説なんかも残らず読んでいたそうだ。あの人は君が考えている様な、単純な田舎娘ではないのだよ」

殿村は必要以上に高い声で物を云った。国枝氏ではない誰かもっと別の人に話しかけてでもいる様に。

国枝氏は益々面喰らって、

「何だか、君は鶴子さんを非難している様に聞えるが」

と反問した。

「非難だって？　非難どころか、あいつは人殺しなんだ。極悪非道の殺人鬼なんだ」

「エ、エ、すると……」

「そうだよ。山北鶴子は君が信じている様に被害者ではなくて加害者なんだ。殺されたのではなくて殺したのだ」

「誰を、誰を」

予審判事は、殿村の興奮につり込まれて、慌しく尋ねた。

「絹川雪子をさ」

「オイオイ、殿村君、君は何を云っているのだ。絹川雪子は、現に僕等の目の前に泣き伏ているじゃないか。だが、アア、それとも、若しや君は……」

「ハハハ……、分ったかい。ここにいるのは絹川雪子の仮面を冠った山北鶴子その人なんだ。鶴子は大宅君を熱愛していた。両親を責めて結婚をせき立てたのも鶴子だ。この人が大宅君の心を占めている絹川雪子の存在を、どんなに呪ったか、全く自分からそむき去った大宅君をどれ程恨んだか。想像に<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>くはない。そこでその二人に対して恐ろしい<ruby><rb>復讎</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>を思い立ったのだ。恋の敵の雪子を殺し、その死骸に自分の着物を着せて、大宅君に殺人の嫌疑がかかる様に仕組んだのだ。一人は殺し、一人には殺人犯人として恐ろしい刑罰を与える。実に完全な復讎ではないか。しかもその手段の複雑巧妙を極めていたこと、流石は探偵小説や犯罪学の研究家だよ」

殿村はそこで、泣き伏ている鶴子に近づき、その肩に手を当てて話しかけた。

「鶴子さん、聞いていたでしょうね。僕の云ったことに何か間違いがありますか。ありますまい。僕は探偵小説家です。君のすばらしい思いつきがよく分りますよ。今朝絹川雪子の部屋で逢った時は、君の<ruby><rb>巧</rb><rt>たくみ</rt></ruby>な変装にだまされて、つい気がつかなんだけれど、君と<ruby><rb>分</rb><rt>わか</rt></ruby>れてから、僕はハッと思い出したのです。Ｓ村でたった一度話しをしたことのある山北鶴子の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を、その<ruby><rb>不恰好</rb><rt>ぶかっこう</rt></ruby>な洋髪や、厚化粧の白粉の下から、ハッキリ思い浮べることが出来たのです」

鶴子は<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>や観念したものか、泣きじゃくりをしながら、殿村の言葉をじっと聞いている。その様子が、殿村の推察が少しも間違っていないことを、語っている様に見えた。

「すると、鶴子は絹川雪子を殺して置いて、その殺した女に化けていたのだね」

国枝氏が<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>の表情をおし殺す様にして口をはさんだ。

「そうだよ。そうする必要があったのだ」殿村がすぐ引取って答える。「<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>雪子の死骸の顔を<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けて鶴子と見せかけても、当の雪子が行方不明になったのでは、疑いを受ける元だ。そればかりではなく、鶴子が殺された<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>を装う為には、鶴子こそ行方をくらまさなければならぬ。そこで、鶴子が一時雪子に化けてしまえば、この二つの難題を同時に解決することが出来るじゃないか。その上、雪子に化けて、大宅君のアリバイを否定し、いや応なしに罪に<ruby><rb>陥</rb><rt>おと</rt></ruby>してしまう必要もあったのだからね。実にすばらしい思いつきだよ」

<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>、成程、雪子が恋人である大宅のアリバイを否定するのは変だと思ったが、それで<ruby><rb>辻褄</rb><rt>つじつま</rt></ruby>が合う訳だ。

「それにはね」殿村が説明を続ける。「あの雪子の下宿というものが、実にお<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え向きに出来ていた。下には目も耳もうといお婆さんたった一人だ。外出さえしなければ、化けの皮がはげる<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>いはない。又<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとえ</rt></ruby>人違いを<ruby><rb>看破</rb><rt>かんぱ</rt></ruby>するものがあった所で、まさかそれが、惨殺された筈の山北鶴子だなどと誰が思うものか。広いＮ市に鶴子を知っている人は、ほんの数える程しかない筈だもの。

つまり、この女は、我身を一生<ruby><rb>日蔭者</rb><rt>ひかげもの</rt></ruby>にし、親子の縁を切てまでも、恋の恨みをはらしたかったのだ。無論永久に絹川雪子に化けていることは出来ない。大宅君の罪が決定するのを見定めてから、どこか遠国へ身を隠す積りであったに相違ない。アア、何という深い恨みだろう。恋は恐ろしいね。このうら若い娘を気違いにしたのだ。イヤ鬼にしたのだ。<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>に燃える一匹の鬼にしたのだ。この犯罪は決して人間の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ではない。地獄の底から這い出して来た悪鬼の所業だ」

何とののしられても、哀れな鶴子は、<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶし</rt></ruby>たまま石の様に動かなかった。余りの打撃に思考力を失い、あらゆる神経が麻痺して、身動きをする力もないかと見えた。

国枝氏は、小説家の妄想が、ピシピシと適中して行くのを、非常な驚きを<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て、寧ろ空恐ろしくさえ感じながら聞いていたが、併し、まだまだ腑に落ぬ点が色々あった。

「殿村君、すると大宅幸吉は別に嘘を云う必要もなく、又云ってもいなかったことになるが、思い出して見給え、大宅は犯罪の当夜おそくまで絹川雪子の所にいたと主張している。つまり雪子はその夜少くとも十一時前後まではＮ市にいた筈だね。ところがその雪子が、同じ晩に遠く離れたＳ村で殺されていたというのは、少し辻褄が合わぬじゃないか。仮令自動車が<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>えたとしても、そんなに遅く若い女が一里半もある山奥へ出かけて行くというのは、実に変だ。それにいくら<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>した婆さんだといって、雪子がそんな<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けに外出するのだったら、一言位断って行くだろうし、それを忘れてしまう筈もなかろうじゃないか。ところが、婆さんは、あの夜雪子は決して外出しなかったと証言しているのだぜ」

流石に国枝氏は急所を突く。

「サア、そこだよ。僕がどこの国の警察記録にも前例がないというのはその点だよ」

殿村はこの質問を待ち構えていた様に、勢いこんで<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り始めた。

「実に奇想天外のトリックなんだ。殺人狂ででもなければ考え出せない様な、驚くべき方法なんだ。この間僕は仁兵衛爺さんが拾って置いた藁人形に関して、君の注意を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して置いた筈だね。ホラ、あの短刀で胸を刺されていた奴さ。あれは何だと思う。犯人がね、その突飛千万な思いつきを試験する為に使用したものだよ。つまり、あの藁人形をね、貨物列車にのせて置いたなら、一体どの辺で車上から振り落されるものだかを試験して見たのだよ」

「エ、何だって？　貨物列車だって？」

国枝氏は又しても面喰らわざるを得ないのだ。

「手取り早く云うとね、こういう訳なのだよ。探偵小説愛読者である犯人は、犯罪というものは、どんなに注意をしても、現場に何かしら手掛りが残ることをよく知っていたのだ。で、自分は少しも現場に近寄らず、ただ被害者の死骸丈けがそこに転がっている。という、一見全く不可能なことを<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>しとげようと企てた。

鶴子がどうしてそんな変なことを考えついたかと云うとね、この女は、恋人の敏感で、いつの間にか絹川雪子の住所をかぎつけ、雪子の留守の間に、あの二階の部屋へ上ってさえいたのだ。ね、そうですね、鶴子さん。そして、実に驚くべき発見をしたのだ。というのは、御承知の通り、雪子の部屋はすぐ停車場の構内に面していた。窓の真下に貨物列車専用のレールが走っている。で、そこを列車が通ると、レールの地盤が高くなっているものだから、貨物の箱が窓とスレスレに、一尺と隔たぬ近さで、雪子の部屋をかすめて行く。僕は今朝あの部屋を訪ねて、この目でそれを見たのだ。しかも、構内のことだから、貨物列車は貨車のつけ<ruby><rb>替</rb><rt>かえ</rt></ruby>の為に、丁度雪子の部屋の窓の外あたりで停車することがある。鶴子さん、君はあれを見たのですね。そして今度の恐ろしい犯罪を決行する気になったのですね」

殿村は時々泣伏ている鶴子に話しかけながら、複雑な説明を続けて行った。

「そこで、この人は、やっぱり雪子の留守を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い、例の藁人形を持込んで、丁度窓の下に停車している無蓋貨車の材木の上へ、（この辺を通る無蓋貨車は殆ど例外なく材木を積んでいるんだよ）屋根伝いにその人形をソッとのせたのだ。<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>りもどうもしないのだから、汽車の動揺で、人形はどっかへ振り落されるに極まっている。それがどの辺だか、大体の見当をつけようとした訳だ。

長い貨物列車のことだから、それにＳ村のトンネルまでは道が上りになっているから、速力は非常にのろい。人形は仲々落ないのだ。そして、例のトンネルの近くまで進むと、勾配が終って少しスピードが出る。丁度その時、俗に<ruby><rb>大曲</rb><rt>おおまがり</rt></ruby>と称する急カーブにさしかかるのだ。列車がひどく動揺する。自然人形はそこで振り落されることになる。

好都合にも、人形の落た所が、Ｓ村のはずれの淋しい場所と知ると、犯人は<ruby><rb>愈々</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>殺人の決心を固めた。そして、大宅君が雪子を訪問する日を待ち構えていて、彼を尾行し、彼が雪子に別れて帰るのと入れ違いに、二階の部屋へ闖入して、相手の油断を見すまし、<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>なく雪子を刺し殺してしまう。それから顔を滅茶滅茶に傷つけて、着物を<ruby><rb>着替</rb><rt>きかえ</rt></ruby>させ、ちゃんと時間を調べて置いた夜の貨物列車が、窓の外に<ruby><rb>停</rb><rt>とま</rt></ruby>るのを待って、屋根伝いにそこへ抱きおろす。という順序なのだ。鶴子さん、その通りでしたね。

死骸は目算通り、トンネルの<ruby><rb>側</rb><rt>かたわら</rt></ruby>へ振り落された。その上なお好都合にも、あの辺の山犬が、全く見分けのつかぬ様に皮膚を食い破ってしまった。一方犯人の鶴子は、そのまま雪子の部屋に居残って、髪の形を変え、白粉を塗り、頬には膏薬を貼り、雪子の着物を着、作り声をして、まんまと雪子になりすましていたのだ。

国枝君、これは君達実際家には、全く考えも及ばぬ空想だ。しかし、若い探偵小説狂の娘さんには決して空想ではなかった。この人は無謀千万にもそれを実行して見せたのだ。大人には出来ない芸当だよ。

それから、今日この人があの二階で消え失せてしまった秘密も、君には説明する<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>もなかろう。やっぱり同じ方法で、今度はＳ村とは反対の方角へ、無蓋貨車のただ<ruby><rb>乗</rb><rt>のり</rt></ruby>をやったのだよ。サア、鶴子さん、若し僕の推察に間違った点があったら訂正をして下さい。多分訂正する必要はないでしょうね」

殿村は語り終って、再び鶴子に近づき、その肩に手をかけて引起そうとした。

とその瞬間、俯伏ていた鶴子の身体が、電気にでも感じた様に、大きくビクッと波打ったかと思うと、「ギャッ」という様な身の毛もよだつ<ruby><rb>叫声</rb><rt>さけびごえ</rt></ruby>を発して、彼女はガバとはね起きた。はね起きて、いきなり、断末魔の気違い踊りを踊り出した。

それを一目見ると、殿村も国枝氏も、余りの恐ろしさに、思わずアッと声を立ててあとじさりをした。

鶴子の顔は、涙の為に厚化粧の白粉が、不気味なまだらにはげ落て、目は血走り、髪は逆立ちもつれ、しかも、見よ、彼女の口は<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>の様に耳までさけて、かみ鳴らす歯の間から、ドクドクとあふれ出る真赤な血のり。それが唇を毒々しく彩り、網目になって顎を伝って、ポトポトとリノリウムの床へしたたり落ているではないか。

鶴子は遂に舌を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>み<ruby><rb>切</rb><rt>きっ</rt></ruby>たのだ。自殺せんとして舌を噛み切たのだ。

「オーイ、誰か来て下さい。大変です。舌を噛み切たのです」

意外の結果に狼狽した殿村は、廊下に飛び出して、声を限りに人を呼んだ。

×　　　　　×　　　　　×

かくしてＳ村の殺人事件は終りをつげた。舌を噛み切た山北鶴子は、可哀相に死に切れず、永らく療養所の厄介になっていたが、傷口は快癒しても狂気は治らず、<ruby><rb>呂律</rb><rt>ろれつ</rt></ruby>の廻らぬ口で、あらぬことをわめきながら、ゲラゲラと笑う外には、何の能もない気違い女となり果ててしまった。

だが、それは<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のお話。その日、舌噛み切た鶴子を院長に託し、鶴子の実家へは長文の電報を打って置いて、一先ずＮ市へ引返す汽車の中で、国枝予審判事は、親友の殿村に、こんなことを尋ねたものだ。

「それにしても、僕にはまだ呑み込めない点があるんだがね。鶴子が無蓋貨車に隠れて、逃げ出したのは分っているが、その行先が高原療養所だということを、君はどうして推察したんだね」

鶴子の自殺騒ぎで、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>事件を解決した楽しさを、滅茶滅茶にされた殿村は、苦い顔をして、ぶっきら棒に答えた。

「それは午前九時発の貨物列車が、丁度療養所の前で、操車の都合上ちょっと停車することを知っていたからだよ。材木の間に隠れたままＵ駅まで行ったのでは、貨物積卸しの人夫に発見されるおそれがある。鶴子さんはどうしてもＵ駅に着く前に貨車から飛び降りる必要があった。それには療養所の前で停車した折が絶好の機会ではなかろうか。しかも、降りた所には、高原療養所が建っている。病院というものは、犯罪者にとって、実に<ruby><rb>屈強</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>の隠れがなんだよ。探偵小説狂の鶴子さんがそこへ気のつかぬ筈はない。僕はこんな風に考えたんだ」

「なる程、聞いて見ると、実に何でもない事だね。併し、その何でもない事が、僕や警察の人達には分らなかったのだ。エーと、それからもう一つ疑問がある。鶴子が自宅の机の抽斗に残して置いた、Ｋの署名のある呼出状は、無論鶴子自身が偽造したものに違いないが、もう一つの証拠品、例の大宅君の居間の縁の下から発見された血染めの浴衣の方は、一寸解釈が難しいと思うが」

「それも、なんでもないことだよ。鶴子さんは大宅君の両親とは親しい間柄だから、大宅君の留守中にも、自由に遊びに来たに違いない。そうして遊びに来ている間に、機会を見て大宅君の着古しの浴衣を盗み出すのは造作もないことだ。その浴衣に血を塗って、丸めて、犯罪の前日あたりに、あの縁の下へ放り込んで置くというのも、少しも難しいことではない」

「成程、成程、犯罪のあとではなくて、その前に、<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>め証拠品を作って置いたという訳だね。成程、成程。しかし、あの夥しい血のりはどこから取ったものだろう。僕は念の為にあれを分析して貰ったが、確に人間の血なんだよ」

「それは僕も正確には答えられない。併しあの位の血をとることは、さして困難ではないのだよ。例えば一本の注射器さえあれば、自分の腕の静脈からだって、<ruby><rb>茶呑</rb><rt>ちゃのみ</rt></ruby>茶碗に一杯位の血は取れる。それをうまく塗り拡げたら、あの浴衣の血痕なぞ造作なく<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えられるよ。鶴子さんの腕を<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べて見れば、その注射針のあとが、まだ残っているかも知れない。まさか他人の血を盗む訳にも行くまいから、恐らくそんなことだろうよ。この方法は探偵小説なんかにもよく使われているんだからね」

国枝氏は感じ入って、<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>も<ruby><rb>肯</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて見せた。

「僕は君にお詫びしなければならない。小説家の妄想などと軽蔑していたのは、どうも僕の間違いらしい。今度の様な空想的犯罪には、僕等実際家は、全く手も足も出ないことが分った。僕はこれから、実際問題についても、もっと君を尊敬することにしよう。そして、僕も今日から探偵小説の愛読者になろう」

予審判事は無邪気に<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>を脱いだ。

「ハハハ……、そいつは有難い。これで探偵小説愛読者が一人ふえたというものだね」

殿村も一倍の無邪気さで、<ruby><rb>朗</rb><rt>ほがら</rt></ruby>かに笑った。