## 一

「社長、又<ruby><rb>脅迫状</rb><rt>きょうはくじょう</rt></ruby>です」

ドアが<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>庶務</rb><rt>しょむ</rt></ruby>の<ruby><rb>北川</rb><rt>きたがわ</rt></ruby>が入って来た。株式会社<ruby><rb>西村</rb><rt>にしむら</rt></ruby>電気商会主の西村<ruby><rb>陽吉</rb><rt>ようきち</rt></ruby>は、灰皿の上に葉巻を置いて、クルリと廻転<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>を<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>し<ruby><rb>笑顔</rb><rt>わらいがお</rt></ruby>を向けた。

「又かい。<ruby><rb>根気</rb><rt>こん</rt></ruby>のいいものだね」

彼はものうげに、北川のさし出す書状を受取ると、チエッと舌打ちをしながら、開封した。

「<ruby><rb>慣</rb><rt>な</rt></ruby>れっちまいましたね。封筒を見れば、これは脅迫状だなんて、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに分る様になりました」

「ウン」

西村は<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にうなずいて、封筒の中味を読み始めた。北川はそのうしろから、さも主人の身の上を気づかう<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>で、手紙を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている。

「ワハハハハハハハ、<ruby><rb>大分</rb><rt>だいぶ</rt></ruby>手ひどい。<ruby><rb>暗夜</rb><rt>やみよ</rt></ruby>を気をつけろだって、うっかりすると命があぶないぞ」

西村は椅子の上でそっくり返って笑った。

「ここだよ、ほら」

北川は社長の指さす文面を、小声で読んで見て、さも<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>な表情を作りながら、

「無智な奴って、<ruby><rb>仕様</rb><rt>しよう</rt></ruby>がないものだね。個人としての社長を<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>むなんて、飛んでもない見当違いじゃありませんか。恨むなら会社全体を恨むがいい、会社をして事業縮少を余儀なくさせた経済界を恨むがいい。何も社長の御存知のことじゃないのですからね」

「<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>はそんなものだがね。まあ奴等にしちゃ無理もないさ。<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>から路頭に迷うのだ。<ruby><rb>世迷事</rb><rt>よまよいごと</rt></ruby>も<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>くなる。だが、何が出来るものか。<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かしだよ。こんなことをして<ruby><rb>涙金</rb><rt>なみだきん</rt></ruby>をせしめようという、さもしい根性だよ」

「残った連中を<ruby><rb>煽動</rb><rt>せんどう</rt></ruby>して、同盟<ruby><rb>罷業</rb><rt>ひぎょう</rt></ruby>をやらせようと、<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>に<ruby><rb>説</rb><rt>と</rt></ruby>き廻っているということですが」

「それよ。お<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>りだあな。そこに<ruby><rb>手抜</rb><rt>てぬか</rt></ruby>りがあるものか。こっちには<ruby><rb>桝本</rb><rt>ますもと</rt></ruby>のおやじが抱き込んである。あいつにたんまりくらわせてあるからね。あれの人望で<ruby><rb>圧</rb><rt>おさ</rt></ruby>えつけりゃ、ナアニ、びくともするこっちゃない。<ruby><rb>解雇</rb><rt>かいこ</rt></ruby>された奴等の脅迫よりは、桝本職工長の眼玉が<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>いさ」

「それにしても、<ruby><rb>此際</rb><rt>このさい</rt></ruby>社長のおからだに万一のことがあっては、それこそ大変ですから、充分御注意が肝要だと思います」

「有難う。だが、僕はこう見えても、まだ職工なんかにやっつけられる程<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>はしないつもりだ。そんなことより、大分手紙がたまっている。タイピストを呼んで<ruby><rb>呉</rb><rt>く</rt></ruby>れ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>え。<ruby><rb>瀬川</rb><rt>せがわ</rt></ruby>だよ。あの子供は感心に速記がうまい」

北川は<ruby><rb>上目遣</rb><rt>うわめづか</rt></ruby>いに社長の顔を眺めた。そして、五十<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>の<ruby><rb>口辺</rb><rt>くちべ</rt></ruby>に<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>恥し<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>な<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>のきざまれたのを見ると、一種の満足を感じて、ニヤニヤ笑いながら答えた。

「ハ、承知致しました」

なにもかもこの私が<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>み込んで居ります、御気づかいなくという意味をこめて、一寸腰をかがめると、北川は社長室を出て、隣の事務室へ帰った。

<ruby><rb>二室</rb><rt>ふたしつ</rt></ruby>を打抜いた広間には、一列にデスクが並んで、十数名の男女が事務を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っている。北川は、その一方の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>のタイピスト達の席を眺めた。「<ruby><rb>奴</rb><rt>やっこ</rt></ruby>さん又やっているな」会計係の<ruby><rb>野田幸吉</rb><rt>のだこうきち</rt></ruby>とタイピストの瀬川<ruby><rb>艶子</rb><rt>つやこ</rt></ruby>とが、席を並べてヒソヒソ話し合っているのを見ると、北川は意地の悪い<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>を浮べて、その方へ近づいて行った。

「瀬川さん」

野田と艶子とは、ハッとした様に話をやめて顔を上げた。北川は二人の顔をジロジロ眺めながら、

「お話中で何だけれど、瀬川さんに社長さんが御用ですって」

「社長さんが」艶子は<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をしかめて「社長さんお一人でしょう。いやだわあたし」

「<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>ぜさ」北川はからかい顔に聞返す。

「だって、何の御用でしょう」

「極っているじゃないか、手紙の速記さ。<ruby><rb>兎角</rb><rt>とかく</rt></ruby>美しい人は御用が多いのさ」

「アラ、覚えてらっしゃい。この間のこと社長さんに云いつけて上げるから」

「コラッ」

北川が<ruby><rb>態</rb><rt>わざ</rt></ruby>と怒った顔をして、つかみかかるのを、<ruby><rb>巧</rb><rt>たく</rt></ruby>みに避けて、それをきっかけに、艶子は社長室へと逃げて行く。なまめかしき笑い声が、ドアの外へ消える。

「何だい、君」

野田は艶子の<ruby><rb>後姿</rb><rt>うしろすがた</rt></ruby>を目で追いながら、北川に話しかける。

「ナアニ、妙な所をあいつに見られちゃったのさ。二人づれで歩いてる所を」

「<ruby><rb>赤坂</rb><rt>あかさか</rt></ruby>かい。お安くないね」

「どうして、そんなんじゃないよ。お安くないといえば、君の方がよっぽどお安くないや」

「何が」

「隣同志でよ、しょっちゅうヒソヒソと<ruby><rb>内証話</rb><rt>ないしょうばなし</rt></ruby>がさ」北川は一段と声を低めて云った。

「何が」

「<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>を切るない。野田と瀬川艶子の語らいがよ」

「馬鹿ッ。いい加減にしろ」

「だが、用心するがいいぜ。社長は馬鹿に御気に入りなんだからね。あの子供はなかなか速記が上手だなんて、目を細くしているよ、おやじ」

「そうかい」

「なんて、平気相な顔をするなよ。お察し申しますよ。御心配なことだ」

「いいじゃないか。社長がどうしようと、僕に関係したことじゃない」

さも<ruby><rb>申訳</rb><rt>もうしわけ</rt></ruby>めいて、重々しく云うのを、北川はよくも聞かないで、もうその事は忘れて<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>ったかの<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く、別のタイピストの背中へ、指先でいたずらをしながら、自席の方へ歩いて行った。

野田幸吉は、もう一度艶子の出て行ったドアの方へ、<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>な<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>を投げると、<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく前の<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>の玉をいじくっていたが、何となく落つかぬ様子で、やがて、ふと立上ると、なるべく人の顔を見ない様に、目のやり場に困るといった恰好で、ソロソロと<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を出た。廊下には人の影もない。彼は<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>のしない歩き方で、<ruby><rb>隣室</rb><rt>となり</rt></ruby>の方へ二三歩進み、社長室のドアの所で、一寸立止り相にしたが、思い直してサッサと洗面所へ歩いて行った。広い洗面所の中を、どうしたものか、彼は別段用をなすでもなく、四五回、コツコツと行ったり来たり歩き廻った。何だか妙にイライラしていた。

洗面所を出ると、彼はやっぱり音のしない歩き方で廊下を戻り、もう一度社長室の前に来た。そして今度はもう<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>しないで、ヒョイと腰をかがめ、ドアの鍵穴から内部を覗き込むのであった。

## 二

「アノ、御用でございましょうか」

瀬川艶子は、社長室に入って、<ruby><rb>後手</rb><rt>うしろで</rt></ruby>にドアをしめると、非常にとりすました表情で、<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し同時に、彼女が男性に対する時はいつもする<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>の、一種の<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>が<ruby><rb>眉間</rb><rt>びかん</rt></ruby>に置き忘れてあったけれど、しとやかに腰をかがめた。

「アア、一寸手紙を書いて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>い<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いのだが」

西村陽吉はチョッキの両脇へ左右の<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>をはさんで、残りの指をヒラヒラさせながら、椅子からヒョイと立上ると、文案でも考える恰好で、室内を散歩し始めた。<ruby><rb>傭人</rb><rt>やといにん</rt></ruby>の小娘なんか、眼中にないといった<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>で、<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>やみじめにたるみはじめた口辺の<ruby><rb>皮膚</rb><rt>ひふ</rt></ruby>を、精一杯緊張させ、さも生真面目なへの字を作り、艶子の方は見向きもしないで、コツリコツリと歩いている。

艶子は、引続き取りすました態度で、社長の大机の脇の小さな角テーブルの前に腰を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>し、持って来たメモを拡げると、鉛筆を<ruby><rb>斜</rb><rt>ななめ</rt></ruby>に構えてさしうつむいている。

西村は大して急ぎの用件でもなさそうに文意を口述しながら、<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>の曲線を描いて、その辺を歩き廻っていたが、<ruby><rb>恰度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>艶子のかけている椅子のうしろまで来ると、ごく自然に立止り、椅子の<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れに両手をかけて、次の文句を考える<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>か、目を天井にやって、しばらくじっとしていた。その様子は、手紙の文句をねるのではなくして艶子の息遣いを<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っている様にも見えた。

「エーと、右の事情につき、御示しの条件にては、残念ながら<ruby><rb>貴意</rb><rt>きい</rt></ruby>に添い<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>きかと……」

そんなことを、ゆっくりゆっくり<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りながら、目は<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り天井を見つめたまま、彼の指先だけが、奇妙な昆虫の触角の様に、何物かを求めて動いた。それは、椅子の凭れを離れると、<ruby><rb>徐々</rb><rt>じょじょ</rt></ruby>に艶子の娘々した肩先へと<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って行き、遂にその上にフワリと置かれた。

艶子は少しも気づかぬ風で、速記を続けていた。背を曲げて一心に鉛筆を走らせている彼女の横顔は、他意もなく仕事に没頭している様に見えた。

西村の<ruby><rb>厚顔</rb><rt>こうがん</rt></ruby>な指先は、更らに少しずつ少しずつ前進して、肩先から腕の方へと<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>って行った。それらの指先はとりすました西村社長とは別物の、不思議な<ruby><rb>生物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>の様に見えた。それでもまだ艶子が動かぬので、増長した指共は、<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>と安心と半々の足どりで、遂に艶子のえくぼの入った手先まで伸び、アッと思うまに、それを握り締めた。そして、不思議なことには、その時になっても、西村の目は天井を<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み、彼の口は手紙の文句を喋っていた。

「いけません」

艶子はやっと気づいた様に、低い<ruby><rb>叱責</rb><rt>しっせき</rt></ruby>の声と共に、握られた手を引込めて、併しまだ逃げ出そうともせず、鉛筆を動かしていた。その調子が、妙に<ruby><rb>軟</rb><rt>やわら</rt></ruby>かく、<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>だらけに見えた。

西村の<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた顔が、変に赤らんで来た。彼はもう手紙の口述をしなくなった。そして、目は天井への<ruby><rb>虚勢</rb><rt>きょせい</rt></ruby>を忘れ、少女のなめらかな首筋へ食い入っていた。

艶子は、背後に恐るべき<ruby><rb>抱擁</rb><rt>ほうよう</rt></ruby>の気配を感じたらしく、つと立上って、二三歩窓の方に身をかわした。彼女の<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>は<ruby><rb>憤激</rb><rt>ふんげき</rt></ruby>の為に赤らみふくれていた。彼女ははしたなく<ruby><rb>叫声</rb><rt>きょうせい</rt></ruby>など立てないで、その代りに<ruby><rb>冷</rb><rt>つめた</rt></ruby>い<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>に<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>をゆがめて見せた。

それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、西村陽吉は、いつでも<ruby><rb>戯談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>にまぎらせる<ruby><rb>丈</rb><rt>だ</rt></ruby>けの余裕を残して<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>彼女に迫って来た。机にせばめられた通路の一方に男が<ruby><rb>立</rb><rt>たち</rt></ruby>はだかっている為、窓の方へ逃げる<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>はなく、彼女はじりじりとその窓枠へおしつけられて行った。

西村の醜く<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ顔丈けが、艶子の眼界一杯に<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろが</rt></ruby>った。年にも似ないで、いやに黒々とした髪の毛が、汗ばんだ顔にたれかかり、短くせまった眉の下に、充血した両眼が、ギラギラと光っていた。薄黒い唇が<ruby><rb>淫</rb><rt>みだら</rt></ruby>がましく開いて、そこから<ruby><rb>脂</rb><rt>やに</rt></ruby>に染まった長い歯が覗いていた。

「いけません、いけません」

艶子は<ruby><rb>最早</rb><rt>もは</rt></ruby>や怒れる女王のお芝居を続けている訳には行かなかった。とうとう悲鳴を上げた。だが、それは西村を<ruby><rb>思止</rb><rt>おもいと</rt></ruby>まらせる程、高い声ではなかった。そのことが一層彼の野心をつのらせた様に見えた。

男の手が肩にかかったのを感じると、艶子はクルリと彼に背を向けた。開いた窓の窓枠にしがみついた。うしろから生暖い息が頬をかすめた。彼女の上半身が出来る丈け窓の外へ曲った。

窓の外には、<ruby><rb>遙</rb><rt>はる</rt></ruby>か目の下に、谷間の様な街路が流れていた。Ｓビルディングと倉庫の<ruby><rb>棟続</rb><rt>むねつづ</rt></ruby>きとに挟まれた、狭い<ruby><rb>敷石道</rb><rt>しきいしみち</rt></ruby>は薄暗くかげって、人影も見えなかった。

## 三

新聞記者の<ruby><rb>山本次郎</rb><rt>やまもとじろう</rt></ruby>と探偵小説家の<ruby><rb>長谷川弴</rb><rt>はせがわとん</rt></ruby>の二人が、Ｓビルディングに近いあるカフェを出たのは、午後の四時頃であった。冬の日はもう暮れかけていた。<ruby><rb>四辻</rb><rt>よつつじ</rt></ruby>の広告塔のイルミネーションが、青黒い空にクッキリと浮出しているのが、妙に物悲しく見えた。

二人は少しばかり酔っていた。夕暮の風の寒さに、人通りの少い敷石道を、彼等はコツコツと靴音を響かせ、高声に話しながら歩いていた。時々砂を<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>えた<ruby><rb>空風</rb><rt>からっかぜ</rt></ruby>が、二人の<ruby><rb>外套</rb><rt>がいとう</rt></ruby>を<ruby><rb>飜</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して通り過ぎた。

「この辺を歩いていると、日本という感じがしないね。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にこんな人通りの少い日は」

小説家の長谷川は、両側に立並んだ西洋館を眺めながら云った。

「君なんか、<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>にこの辺を歩かないからだよ」

新聞記者の山本が答えた。

「地下室なんてものがあるね。見給え、あすこで弁当を食っている<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんの頭は、恰度僕等の足と同じ地平線にある。変な気がするね」

小説家は足下に開いた地下室の窓を覗きながら歩いていた。ある地下室では、白い帽子を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ったコック達が、<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>の<ruby><rb>立籠</rb><rt>たちこも</rt></ruby>った中で、せっせと働いていた。ある地下室では、バタンバタンと印刷機械が動いて、一人の子供が忙し相に紙をはさんでいた。それらの人間の頭が、皆足の下にあるのだ。

ふと建物が切れて、建物と建物との間の<ruby><rb>路次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>の様な所へ来ると、極った様に鉄の非常<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り口が見えた。そして、その奥の方は薄暗く、何かゴミゴミしたものが積み上げてあった。

「地下室だとか非常梯子だとか、そんなものを見ると、益々異国という感じだね。探偵小説の世界だよ。何かしら、恐ろしい犯罪でも起り相な気がする」

「小説家らしいことを云うね。そりゃ犯罪は盛んに行われているさ。だが、活動写真や探偵小説にある様な、激情的な奴は一寸ないね。住んでいるのがやっぱり日本人だから」

「そうかなあ。その辺の曲り角から、覆面のホールダップでも出そうな気がするがなあ」

「ハハハハハハ、そんなものが出て呉れれば、面白いのだけれど」

二人はいつの間にか細い道に入っていた。Ｓビルディングの裏手に当る所で、一方には大きな倉庫が立並び、道幅は自動車がやっと通れる程の狭い<ruby><rb>谷合</rb><rt>たにあい</rt></ruby>だった。

「君何だろう」

小説家がふと立止まって、行手を指さしながら言った。

「変だね。人が寝ている様だね。病人かな」

新聞記者も気味悪そうに立止った。

薄暗い敷石道に、黒い洋服を着た男が長くなっていた。その様子が、病人や<ruby><rb>酔漢</rb><rt>すいかん</rt></ruby>ではなくて、どうやら死人ではないかと思われた。

二人は、こわごわその<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄って行った。

「アッ、血だ」

小説家が<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声を出した。

「落ちたんだよ、きっとこのビルディングの上からだ。頭が<ruby><rb>滅茶滅茶</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>にやられている」

記者は物慣れた様子で、死体を覗きながら云った。

「まだ暖い。落ちて間がないのだ。どこからだろう」

死体の真上に五つの窓が重っていた。冬のことで窓は皆密閉されている中に、最上の五階の窓丈けが広く<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて、白いカーテンがヒラヒラと動いていた。

「五階らしいね」

新聞記者はそういいながら、一階の窓の所へよじ上って、外からトントンと<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて見た。併し、中には<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>もなく、ブラインドが卸され、人の気配がなかった。

「<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>も<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>知らせてやろうじゃないか」

そこで二人はＳビルディングの表口へ走った。玄関に入ると、正面にエレベーターの出入口が二つ並んでいる。その前にかけ寄ってあわただしくベルを押していると、一方のエレベーターがスーッと<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>って来て、鉄の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>がガラガラと<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>き、中から一人の男が出た。<ruby><rb>鳥打帽</rb><rt>とりうちぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>眼深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>にかぶり、古ぼけた将校マントに身を包んだ、三十前後の下品な男だ。彼は鉄の箱を飛び出すと、<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>の音をペタペタさせて、走る様に表の<ruby><rb>薄暗</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>に消えた。

「君、電話はないか。大変なんだ。裏通りに人が死んでいるのだ」

記者はエレベーター・ボーイを<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えて叫んだ。

「電話って、ビルディングの事務所は五階にあるのですが」

「じゃ大いそぎで五階だ」

「誰が死んだのです」

「誰だか分らない。どうも五階からおちたらしいのだ。兎も角警察へ知らせなきゃ」

「今出て行った男ね」小説家は箱の中へ入りながら聞いた。「何階からおりて来たの」

「四階です」

「<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>だい君」新聞記者が不審を打った。

「何だか様子が変だったからさ。ね、ボーイさん。あなたは変に思わなかったかい」

「ちっとも見かけない人ですよ」ボーイは<ruby><rb>昇降機</rb><rt>しょうこうき</rt></ruby>のハンドルを廻しながら答えた。

五階につくと三人は事務所へ飛び込んだ。新聞記者は<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>電話器を取って、警察と社とを呼んだ。

たった一人残っていた事務員は、小説家の説明を聞くと、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて裏通りに面した部屋へかけつけた。小説家はそのあとに続いた。エレベーター・ボーイは、もう一人の仲間と一緒に、再び箱の中へ飛び込むと、死体の現場へと急いだ。

五階の裏通りの部屋は、全部西村電気商会が借り切っていた。全部といっても、社長室と、応接室と、二室を打抜いた事務室と、洗面所切りなのだが。

ビルディングの事務員と小説家の長谷川とは、そのとっつきの事務室へかけつけ、残っていた数人の社員に事の次第を告げた。一同は期せずして窓の所へ<ruby><rb>集</rb><rt>あつま</rt></ruby>り、それを開いて遙か下の街路を見下した。

夕闇の街路には、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>のエレベーター・ボーイを始め数人の人々が死体を取り囲んでいた。その真中に、ひしゃげた様な黒いものが<ruby><rb>横</rb><rt>よこたわ</rt></ruby>って、暗い中にも、生々しい<ruby><rb>血潮</rb><rt>ちしお</rt></ruby>がハッキリ見えていた。

「オイ、うちの社長じゃないか」

社員の一人が叫んだ。

「まさか」他の一人はそれを打消しながら、「オーイ、誰だか分らないかなあ」と下に向って呼んだ。

「西村さんだよう」

下から返事が来た。それを聞くと社員達は<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに色めき立った。社長の宅へ工場などへ電話をかけるものもあった。死体の所へかけつけるものもあった。

庶務の北川は二三の社員と共に社長室を調べた。ドアは異常なく開いた。室内にも窓があけはなっている<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>には別に変った所はなかった。

「ここから落ちたんだね。併し、まさか社長自身が飛びおりた訳ではなかろうが、おかしいね。誰かにつきおとされたのだろうか」

社員達は青ざめた顔を見合せて、<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き合った。

エレベーターが忙しく上下して、西村商会の社員ばかりでなく、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の部屋の人達も五階に集って来た。一方街路の死体の所には、刻一刻<ruby><rb>人数</rb><rt>ひとかず</rt></ruby>が増して行った。山本の新聞社の記者が写真班をつれてかけつけた。

「死体を一枚撮って置いたよ」

彼等は五階にやって来ると、山本の側に寄って手柄顔に報告した。

やがて、警察の連中が到着した。それと見ると、人々は我先にと現場の方へ急いだ。山本を始め新聞社の人達もその中に混った。一通り検死が済むと、死体はビルディングの一室に担ぎ込まれ、警官達は五階へ上った。群集はまたその後に従った。

## 四

西村商会の応接室の<ruby><rb>円卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>を囲んで、数名の人々が厳粛な会話を取交していた。裁判所と警察の人達は、西村商会の<ruby><rb>重立</rb><rt>おもだ</rt></ruby>った社員、それに新聞記者の山本も事件の発見者として同席を許されていた。小説家の長谷川はどこへ行ったのか姿を見せなかった。

「ここ一時間以内の出来事らしいのですが、誰も気がつかなかったのは変ですね。物音はしなかったのですか」

検事と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しき一人が<ruby><rb>訊問</rb><rt>じんもん</rt></ruby>を続けた。答弁は主として庶務の北川が引受けていた。

「部屋は密閉しているものですから、少し位の物音は聞えないのです。<ruby><rb>皆</rb><rt>みんな</rt></ruby>に尋ねて見ましたが誰も気のついたものはない様です」

「社長室に最後に入ったのは誰でしょう」

「それは私です。ほんの今しがたのことです、書類に判を貰うものがあったものですから、それを持って、社長室へ行って見ますと、誰もいないのです。帽子や外套は残っているし、ドアに鍵もかかっていませんので、一寸その辺に出られたのだと思って、そのまま事務所へ<ruby><rb>引</rb><rt>ひっ</rt></ruby>かえしたのです」

「その前に社長室へ入ったのは」

「多分タイピストの瀬川だと思います、もう先程帰宅しましたが、瀬川艶子という娘です。これが手紙を速記する為に社長の所へ呼ばれていました。三十分程で事務室へ帰り、それから又三十分もすると、規定の時間が来たものですから、帰宅致しました」

「変った様子はありませんでしたか」

「イイエ、別段」

「そのタイピストが社長室を出たのは何時頃でした」

「ハッキリは覚えませんが、三時半頃だと思います」

「すると、三時半から死体の発見された四時半頃まで、約一時間の間に事件が起った訳ですね。ところで、この裏通りは人の余り通らない所ですか」

「御覧の通り向うの倉庫の裏と、ビルディングの裏との、ほんの空地といってもいい場所で、滅多に人通りはありません」

「そうでしょう。でなければ、もっと早く死体が発見されていたかも知れません。そこで、何か御心当りはありませんか。もし他殺だとすればですね」

「別に心当りと云う程でもありませんけれど、最近社長の所へは、<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>脅迫状が来ているのです。<ruby><rb>御入用</rb><rt>ごにゅうよう</rt></ruby>でしたら<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>めて差出しますが」

「誰からです」

「工場を解雇された職工達からです。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も<ruby><rb>匿名</rb><rt>とくめい</rt></ruby>ですから、差出人は分り兼ねますけれど」

「危険なのがありますか」

「そりゃ解雇された内には、<ruby><rb>随分</rb><rt>ずいぶん</rt></ruby>乱暴者もいますから」

「あとで、解雇職工の名簿と、その脅迫状を拝借しましょう」

「工場の職長に聞けば、危険な奴の名前は分ると思います」その場に来合せていた技師長が口をはさんだ。

「併し、職工などが、いきなり社長室へ入ることが出来ますか、廊下に受附なんかいないのですか」

「受附けはいませんけれど、来客は皆事務室の方へ来る様になっています。そこに商会の看板も出ていますし、エレベーターから来ればとっつきの部屋ですから」

「では、すぐ社長室へ行くことが出来るのですね」

「出来ないことはありません」

「事務室の中から廊下は見えないのですか」

「窓はスリガラスになってますから、この<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>ですと見えません」

「すると、事務室の前を通り抜けて社長室に<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>したものがないとも限りませんね」

「でも、社長の<ruby><rb>卓上</rb><rt>テーブル</rt></ruby>にはベルもあるのですから」

「ベルがあった所で、押す余裕のないこともあるでしょう。それから社長室ですね、我々としては多少<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べた所もありますが、あなた方が見て、何か変った所はないでしょうか」

「キチンと片づいていて、格闘の跡なんかありませんし、別にこれといって」

「社長の<ruby><rb>折鞄</rb><rt>おりかばん</rt></ruby>がなくなったといいますね」

「ハア、それは確かに私が見たのですが、どう探してもありません」

「何が入っていたのです」

「詳しいことは分りませんが、<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>現金二千円を御渡ししてあります。財布にない所を見ると、どうもそれが折鞄に入れてあった様です」

「どうした金です」

「<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>い<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>は分りません。社長の命令で会計から渡したのです。私共の店では、社長の個人用の金も、命令次第で名目をつけて会計から支出することになっています。株式会社と云い<ruby><rb>条</rb><rt>じょう</rt></ruby>、実は個人商店みたいなものですから」

そこで検事は、折鞄の外形から、紙幣の種類などを<ruby><rb>聴取</rb><rt>ききと</rt></ruby>って、かたえの書記に控えさせた。そして、なお暫く<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>な問答がくりかえされ、やがてその夜の訊問は一段落を告げた。

## 五

山本はその場で原稿を書いて、応援の記者に持たせてやると、もう用済みだった。彼は待合せていた小説家の長谷川と一緒にビルディングを出ると、この興味ある見聞について話し合う為に、又もや近くのカフェーに立寄った。

「驚いたね」<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>っ<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>を選んで腰を卸すと山本が云った。

「驚いた」長谷川はがっかりした様に、ホッとため息をついた。

「他殺に相違ないが、あの調子では一寸犯人は出まいね。一つも証拠がないのだから」

「刑事がいたね、私服の」

「いたよ」

「あいつが、大分熱心に調べていたようだが、何か見つけたかも知れないね」

「それは分らない。併し検事の口調では、大した発見もなさそうだった」

「嫌疑者は」

「ない。まあ<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて云えば、工場を解雇された職工なんだが、それも何十人とあるのだから、なかなか分るまい」

「脅迫状が来てるとか云ったね。その<ruby><rb>筆蹟</rb><rt>ひっせき</rt></ruby>で見当がつくかも知れない」

「さあどうだか。それよりも、君はあの訊問の間どこへ行っていたのだい。姿を見せなかったじゃないか」

「四階三階屋上などをぶらついていた」

「どうして」

「何か<ruby><rb>手掛</rb><rt>てがか</rt></ruby>りはないかと空想しながら」

「どうして、四階や三階に手掛りがあるのだい」

「皆五階から墜落したと極めている様だが、それが少し独断ではないかと思ったのさ」

「だって、五階の窓が開いていた」

「窓はあとから閉めることが出来るよ。死体の垂直線上には一階から五階までの五つの窓と、屋上の広場のあることを考えて見る必要がある。一階二階は余り<ruby><rb>低</rb><rt>ひ</rt></ruby>く過ぎるから除くとしても、三階以上四つの落ち場がある。それを一応調べて見るのは、決して無駄ではないよ」

「それで、何か手掛りがあったのかい」

「いや、何もない。分ったことは、あの社長室の<ruby><rb>直下</rb><rt>すぐした</rt></ruby>の四階は、<ruby><rb>石垣</rb><rt>いしがき</rt></ruby>という建築師の事務所、その下の三階は空き部屋だ。両方とももう戸が<ruby><rb>閉</rb><rt>しま</rt></ruby>っていて、調べようにも方法がない」

「君も物好きだな。それ丈けのことで、どうしてあんなに長くかかっていたのだ」

「エレベーター・ボーイだとか、<ruby><rb>小使</rb><rt>こづかい</rt></ruby>の親爺だとか、色々なものを<ruby><rb>捉</rb><rt>と</rt></ruby>らえて、話を聞いていたのさ、お蔭であのビルディングのことは大分詳しくなった」

「何か<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>る所があったかい」

「まあ、あった様な、なかった様な。これからの僕の腕次第だな」

「じゃ君は、もっとあの事件に深入りして見る気なんだね」

「出来ればね。併し案外つまらない事件かも知れない」

「面白い。危険のない程度でやって見給え。僕も応援するよ、こっちは商売だからね」

「あの最初エレベーターで出会った男ね。あれは確かに嫌疑者の一人だよ。ひょっとしたら解雇された職工かも知れない。誰も知らないのだ。<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>る時は階段から行ったらしい。あのエレベーター・ボーイが四階から乗るのを見た切り、他には一人も出会った人がないのだよ。よっぽどこっそりと上って行ったものに相違ない」

「なる程、そう云えばあいつは確かに怪しい。大あわてで逃げ出して行ったからね」

それから二人は、何度もコーヒーのお代りを命じて、長い間話し合った。それからそれへと犯罪談は尽きなかった。冬の夜はいつしか更けて、彼等がカフェを出たのは、もう九時を過ぎていた。

これは大正十五年『新青年』に連載した合作小説の発端です。このあとを順に<ruby><rb>平林</rb><rt>ひらばやし</rt></ruby>、<ruby><rb>森下</rb><rt>もりした</rt></ruby>、<ruby><rb>甲賀</rb><rt>こうが</rt></ruby>、<ruby><rb>國枝</rb><rt>くにえだ</rt></ruby>、<ruby><rb>小酒井</rb><rt>こさかい</rt></ruby>の諸氏が書きつがれて完結した訳です。

千変万化の曲折があって、様々の人物に嫌疑がかかります。瀬川タイピストや北川庶務係は勿論、瀬川に恋していた野田もきわどい一役を演じています。エレベーターから飛出して行った男は瀬川タイピストの実の兄で、兼ねて労働争議の張本人であり、無論最後まで残った濃厚な嫌疑者です。

ところが小酒井氏担当の完結篇は実に意外な結末を見せました。犯人はなかったのです。殺人罪は犯されなかったのです。西村社長は当時事業上非常な苦境にあり、五万円の<ruby><rb>贋造紙幣</rb><rt>がんぞうしへい</rt></ruby>を買入れたりした程で（折鞄の中の二千円もその贋造紙幣でした）<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>に煩悶を重ねていた所へ、争議が起り、黒マントの人物が侵入して来たりして、心痛の<ruby><rb>極</rb><rt>きょく</rt></ruby>一時的狂気の<ruby><rb>発作</rb><rt>ほっさ</rt></ruby>を起し、窓から飛降りる様なことになったのです。飛降りたのは五階ではなく、黒マントの男と会見した三階の空部屋の窓でしたから、それ丈けでは命を失う程のこともなかったでしょうが、西村は<ruby><rb>動脉瘤</rb><rt>どうみゃくりゅう</rt></ruby>の患者であって、<ruby><rb>衝戟</rb><rt>しょうげき</rt></ruby>の為にその患部が破裂し、大動脉出血が死因となったのでした。