## <ruby><rb>斑鳩宮</rb><rt>いかるがのみや</rt></ruby>

  


## <ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の祈り

推古天皇の<ruby><rb>御代</rb><rt>みよ</rt></ruby>、<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>が<ruby><rb>摂政</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>として世を治めておられた飛鳥の頃は、私にとって最も<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しい歴史の思い出である。私ははじめ史書によってこの時代を学んだのではなかった。<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>への旅、わけても法隆寺から夢殿、中宮寺<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>へかけての<ruby><rb>斑鳩</rb><rt>いかるが</rt></ruby>の里の遍歴が、いつしか私の心に飛鳥びとへの思慕をよび起したのである。海岸を思わせる白砂と青松、そのあいだを<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>に区ぎっている法隆寺の<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>、この整然たる秩序を保った風光の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、千三百年のいにしえ、新しい信仰をめぐってどのような<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>と苦悩と、また法悦が飛鳥びとをとらえたか。私は法隆寺の<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>観音や中宮寺の<ruby><rb>思惟</rb><rt>しゆい</rt></ruby>の<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>に、幾たびかその<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>をさぐってみた。頬に軽く指先をふれた柔軟な思惟像に彼らの<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>の深さを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>び、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は百済観音のほのぼのとした清純な姿に法悦の高い調べを思ったりした。これらみ仏そのままの<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>で、飛鳥びとはこの辺を<ruby><rb>逍遥</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>していたのであろうか。そこには永遠の安らいがあったに相違ない。はじめて法隆寺を訪れた頃は、私はこうした思いで心が一杯になり、夢中で斑鳩の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>をめぐって歩いた。私の心にも<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く新生の<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>が訪れそめた頃であった。

しかしみ仏が次第に私を導いて行ったところは、必ずしも平穏な天国ではなかった。春風<ruby><rb>駘蕩</rb><rt>たいとう</rt></ruby>たる時代でもなかった。仏像の美にひかれるままに経文を読み、また日本書紀や上宮聖徳法王帝説に接するにおよんで、私の眼ははじめて飛鳥の地獄にひらかれるようになったのである。とくに日本書紀を読んだことは、私にとってよろこびであるとともに非常な驚きでもあった。対外的のことは<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>くとしても、国内的にみれば<ruby><rb>欽明</rb><rt>きんめい</rt></ruby>朝より推古朝にいたるおよそ五十年のあいだは、眼を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>わしむる<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な戦いの日々である。<ruby><rb>蘇我</rb><rt>そが</rt></ruby>・<ruby><rb>物部</rb><rt>もののべ</rt></ruby>両族の争いにとどまらず、<ruby><rb>穴穂部皇子</rb><rt>あなほべのおうじ</rt></ruby>や<ruby><rb>宅部皇子</rb><rt>やかべのおうじ</rt></ruby>の悲しむべき最期があり、物部氏の滅亡についで、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>には<ruby><rb>崇峻</rb><rt>すしゅん</rt></ruby>天皇に対する<ruby><rb>馬子</rb><rt>うまこ</rt></ruby>等の大逆すら起っている。しかもこれらの争闘は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く親しい骨肉のあいだに起った悲劇であった。上宮太子が御幼少の頃より<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたり見られたことは、すべて同族の<ruby><rb>嫉視</rb><rt>しっし</rt></ruby>や陰謀、血で血を洗うがごとき<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>な戦いだったのである。一日として安らかな日はなかったと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>っていい。

仏法はいまだ漸く<ruby><rb>現世利益</rb><rt>げんぜりやく</rt></ruby>か<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は迷信の域を脱しない。さもなくば政略の具であった。諸家の仏堂は<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に血族の<ruby><rb>屍</rb><rt>しかばね</rt></ruby>の上に<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>されたかにみえる。書紀にしるされた全般をいまここに詳述は出来ないが、現今の斑鳩の里がもたらす<ruby><rb>和</rb><rt>なごや</rt></ruby>かな風光からは想像も及ばぬ。<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>のみ仏の大らかに美しいのが不思議なほどである。百済観音の<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>に消え行くごとき絶妙の姿も、思惟の像にみらるる微笑も、かの苦悩の日のひそかな<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れであったのだろうか。凄惨な生の<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>から、飛鳥びとの心魂をこめて祈った、祈りのあらわれでもあったろうか。

それにつけてもかかる時代に成長され、難局に処せられた上宮太子の憂苦とはいかばかりのものであったか。書紀をとおして私はまずそのことを思わざるをえなかった。大陸文明の伝来に当って、これを厳正に摂取されたのはむろん大事に相違ないが、そういう外的状勢乃至文化論からのみ太子を論じることに私は同じ難い。最も親しき人々の流血の惨事――この大悲痛からの脱却を身命を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して祈念された<ruby><rb>勁</rb><rt>つよ</rt></ruby>い信念、何よりもまず私はそこへ参入したいと願うのである。これが書紀を読んだ後の私の感銘であった。

夢殿の地は太子の<ruby><rb>御邸</rb><rt>おやしき</rt></ruby>だった斑鳩宮の址といわれる。太子<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>の後、御遺族は悉く<ruby><rb>蘇我入鹿</rb><rt>そがのいるか</rt></ruby>のため滅ぼされ、斑鳩宮もむろん<ruby><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby>に帰したのであるが、およそ百年後の奈良朝にいたって再建された夢殿が、幾たびかの補修を経て現在に伝わったのだという。もとは斑鳩宮寝殿の近く、隔絶された太子内観の道場であり、ここにこもって深思されたと伝えられる。いずれにしても太子の<ruby><rb>御霊</rb><rt>みたま</rt></ruby>は、いまなお<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>うことなく<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>すであろう。夢殿に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>む<ruby><rb>救世</rb><rt>くせ</rt></ruby>観音の<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>の光りは、太子の<ruby><rb>息吹</rb><rt>いぶき</rt></ruby>を継ぎ宿しているかにみえる。百済観音のほのぼのとした<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>の調べとも、また中宮寺思惟像の幽遠の微笑とも異なり、むしろ野性をさえ思わしむる不思議な生気にみちた像である。慈悲よりは<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>を、<ruby><rb>諦念</rb><rt>ていねん</rt></ruby>よりは荒々しい<ruby><rb>捨身</rb><rt>しゃしん</rt></ruby>を<ruby><rb>唆</rb><rt>そそのか</rt></ruby>すごとく<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>している。太子はかの<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>の日に、外来の危機を<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>い、また血族の<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>や争闘にまみれ行く姿を御覧になって捨身を念じられたのであったが、そういう無限の思いを救世観音は微笑のかげに秘めているのではなかろうか。

今となってみれば、太子の一身をもって具現されたものは大乗の悲心であった。しかし仏法が伝来したが故に太子は大乗を修得されたというだけでは何事も語らぬにひとしい。仏法を宗派的なものに限定したり、乃至は外来の思想体系として知的に対したりするとき、歴史の根本は<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>められるのである。たとい仏法は伝来せずとも、生の凄惨な流れに身を置かれた太子は、おのずから人生苦の深みに思いを傾け、真の救済について祈念せざるをえなかったということが大事なのである。

＊

十七条憲法は治世のための律法でもなく、単なる道徳訓でもない。それらの意味をふくめてはいるが、むしろ太子自身の率直な祈りの言葉なのである。私はそう解する。あるいは同族<ruby><rb>殺戮</rb><rt>さつりく</rt></ruby>の日において民心に宿った悲痛の思いと願いを、一身にうけてあらわされたのだと申してもいいであろう。かくあれかしと衷心より念じ<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うた言葉であって、その一語一語に、太子の苦悩と体験は切に宿っていると拝察される。ここに十七条中でもとくに肝要な最初の三カ条について、私は御祈りの一端になりともふれてみたいと思う。

一に<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>く、<ruby><rb>和</rb><rt>やはらぎ</rt></ruby>を以て貴しと<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し、<ruby><rb>忤</rb><rt>さか</rt></ruby>ふこと無きを<ruby><rb>宗</rb><rt>むね</rt></ruby>と為せ。人皆<ruby><rb>党</rb><rt>たむら</rt></ruby>有り、<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby><ruby><rb>達</rb><rt>さと</rt></ruby>れる者少し。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を以て、或は<ruby><rb>君父</rb><rt>きみかぞ</rt></ruby>に<ruby><rb>順</rb><rt>したが</rt></ruby>はずして<ruby><rb>乍</rb><rt>ま</rt></ruby>た<ruby><rb>隣里</rb><rt>さととなり</rt></ruby>に<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>ふ。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>れども<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>和ぎ、<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby><ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>びて、事を<ruby><rb>論</rb><rt>あげつら</rt></ruby>ふに<ruby><rb>諧</rb><rt>かな</rt></ruby>ふときは、<ruby><rb>則</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち<ruby><rb>事理</rb><rt>ことわり</rt></ruby>自らに通ふ、何事か成らざらむ。

二に曰く、<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>く三宝を敬へ、三宝は<ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby><ruby><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby><ruby><rb>僧</rb><rt>ほふし</rt></ruby>なり、則ち<ruby><rb>四生</rb><rt>よつのうまれ</rt></ruby>の<ruby><rb>終</rb><rt>つひ</rt></ruby>の<ruby><rb>帰</rb><rt>よりところ</rt></ruby>、万国の<ruby><rb>極宗</rb><rt>きはめのむね</rt></ruby>なり。<ruby><rb>何</rb><rt>いづれ</rt></ruby>の世何の人か<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>法</rb><rt>みのり</rt></ruby>を貴ばざる。人<ruby><rb>尤</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しきもの<ruby><rb>鮮</rb><rt>すくな</rt></ruby>し、<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く教ふるをもて従ひぬ。<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>れ三宝に<ruby><rb>帰</rb><rt>よ</rt></ruby>りまつらずば、何を以てか<ruby><rb>枉</rb><rt>まが</rt></ruby>れるを<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>さむ。

三に曰く、<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>を承はりては必ず謹め、<ruby><rb>君</rb><rt>きみ</rt></ruby>をば則ち<ruby><rb>天</rb><rt>あめ</rt></ruby>とす。<ruby><rb>臣</rb><rt>やつこら</rt></ruby>をば則ち<ruby><rb>地</rb><rt>つち</rt></ruby>とす。天<ruby><rb>覆</rb><rt>おほ</rt></ruby>ひ地載せて、<ruby><rb>四時</rb><rt>よつのとき</rt></ruby><ruby><rb>順</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り行き、<ruby><rb>万気</rb><rt>よろづのしるし</rt></ruby>通ふことを得。地、天を覆はむと<ruby><rb>欲</rb><rt>す</rt></ruby>るときは、則ち<ruby><rb>壊</rb><rt>やぶ</rt></ruby>るることを致さむのみ。是を以て君<ruby><rb>言</rb><rt>のたま</rt></ruby>ふときは臣承はり、上行ふときは下<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>く。故に詔を承はりては必ず慎め、謹まずんば<ruby><rb>自</rb><rt>おのづ</rt></ruby>からに敗れなむ。

この三カ条は、熟読すればするほどその思慮と憂いの深さに驚嘆するのである。第一条の「以和為貴」の一句の背後には、前述のごとく蘇我氏の専横や同族間の絶えざる争いがあり、おそらく太子の切なる祈念であったのであろう。――みな仲よくせよ。人は党派を組み<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いもので、ほんとうに達者といえるものは少いのだ。里や隣人と仲たがいせず、上のものが仲よくし、下のものが睦みあって、互に和して事を論ずるなら、一切はおのずから成就するだろう。そうしたならば何事も出来ないことはあるまい。――実に当然の<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>であるが、かく述べられた太子の心底には、醜怪な政争や人間の無残な<ruby><rb>慾念</rb><rt>よくねん</rt></ruby>が、地獄絵のごとく映じていたのでもあろうか。「以和為貴」の一語にこもる万感の思いを推察しなければならぬ。書紀に接した人はこの言葉が血涙をもってかかれたことを悟るであろう。

さればこそ第二条において信仰の問題を示されたのである。大乗の悲心は一切を摂取して捨てない。いかなる凡俗の裡にも<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の生命の光りを求めて、これを機縁として高きに導入せんとするのである。「人尤だ悪しきもの鮮し」と観ぜられたところに、太子の博大な悲心が偲ばれるであろう。そしてこの第二条で最も大切な一句は、冒頭の「篤敬三宝」である。太子は「篤く三宝を敬へ」と仰せられたけれど、「必ず三宝を信ぜよ」とは云われなかったのである。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し律法において、一信仰を強制し、仏法を必ず信ぜよとしたならばどうであろうか。信仰はその自発性を失い、或は政治的党派性を帯びるであろう。蘇我と物部との争いはよき教訓だったに相違ない、然るに太子は「必信」でなく「篤敬」という文字を用いて、信仰をあくまで国民の自発的な<ruby><rb>求道心</rb><rt>ぐどうしん</rt></ruby>におかれたのであった。深い思慮というべきである。仏教伝来以後、さきには蘇我氏のことあり、また奈良朝における藤原氏の専断、更に下っては<ruby><rb>道鏡</rb><rt>どうきょう</rt></ruby>のごとき僧すら出たのであるが、わが仏法の<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>を告げた太子の御本心はかくのごときものであった。

ところで次の第三条、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち、詔勅に対するときは「承詔必謹」と、はじめて「必ず」という言葉を用いておらるる。詔勅を「篤く敬へ」とは申されなかった。至高の権威を、詔勅におかんとしたのが太子だったのである。当時これはいかなる意味をもっていたであろうか。一言で云うならば、勢力ある氏族の専横を深く<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>された上での決断であった。蘇我馬子は皇室に対しても、また太子御自身にとっても、最も血肉的に親しい<ruby><rb>外戚</rb><rt>がいせき</rt></ruby>であり、それだけに彼一統の<ruby><rb>暴虐</rb><rt>ぼうぎゃく</rt></ruby>を抑えることは容易ならざることだったに相違ない。太子は日々この危機の上に政事を執られたのである。武力による抑圧が、再び同族間の流血の惨事をもたらすであろうことは、太子の最も憂えられたところと拝察さるる。

即ち、太子の大乗の愛は、人間に関する深き観察、煩悩具足の凡夫の在りのままの姿に発し、しかも必ず仏性をみとめてこれを捨てず、すべての人を抱擁し、この和の根本の教として三宝を敬い、そして最後にこれら一切を傾けて護国のために<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げられんとしたのであった。飛鳥の精神は、ただ美しい古仏や寺院にのみあらわれているのではない。それを支える根源には想像を絶した苦闘があったのだ。むしろ現世の地獄より、ひそかに祈念し<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>したところに、諸々の菩薩像が立ちあらわれたのだといってよかろう。大なる悲痛と、それゆえの慈心は、太子の御心から光りのごとく発したのであった。

＊

上宮太子の御歌は今日あまり知られていないようであるが、万葉集巻三<ruby><rb>挽歌</rb><rt>ばんか</rt></ruby>のはじめに、上宮聖徳皇子出遊竹原之井之時見竜田山死人悲傷御作として、次の一首が記載されている。

家に在らば　<ruby><rb>妹</rb><rt>いも</rt></ruby>が<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby><ruby><rb>枕</rb><rt>ま</rt></ruby>かむ　<ruby><rb>草枕</rb><rt>くさまくら</rt></ruby>　旅に<ruby><rb>臥</rb><rt>こや</rt></ruby>せる　<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>旅人</rb><rt>たびと</rt></ruby>あはれ

<ruby><rb>竜田山</rb><rt>たつたやま</rt></ruby>の死人をみてふとつぶやいた言葉に、おのずから調べが乗ったような御歌である。ただ「妹が手枕かむ」という現世的情感の表現は、太子においては一見めずらしくも思われようが、家庭生活を史について拝するとき、太子もまた古事記から万葉の諸歌にみらるるような鷹揚ないとなみに終始された方であることが了知されよう。死に面して生ま生ましく生の愉悦をふりかえられたところにあの時代の面影がつよく偲ばれる。またそれ故に、死という厳しい運命について深く思索されたことも察せらるる。そういう<ruby><rb>悲愍</rb><rt>ひびん</rt></ruby>の思いを更につよくあらわされた御歌、並びにそれにまつわる一篇の物語が日本書紀に載っている。

<ruby><rb>級</rb><rt>しな</rt></ruby>照る　<ruby><rb>片岡山</rb><rt>かたをかやま</rt></ruby>に　<ruby><rb>飯</rb><rt>いひ</rt></ruby>に<ruby><rb>飢</rb><rt>ゑ</rt></ruby>て　<ruby><rb>臥</rb><rt>こや</rt></ruby>せる　<ruby><rb>彼</rb><rt>そ</rt></ruby>の<ruby><rb>旅人</rb><rt>たびと</rt></ruby>あはれ　<ruby><rb>親無</rb><rt>おやなし</rt></ruby>に　<ruby><rb>汝</rb><rt>なれ</rt></ruby><ruby><rb>生</rb><rt>な</rt></ruby>りけめや　<ruby><rb>剌竹</rb><rt>さすたけ</rt></ruby>の　<ruby><rb>君</rb><rt>きみ</rt></ruby>はや<ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>き　<ruby><rb>飯</rb><rt>いひ</rt></ruby>に<ruby><rb>飢</rb><rt>ゑ</rt></ruby>て　<ruby><rb>臥</rb><rt>こや</rt></ruby>せる　<ruby><rb>彼</rb><rt>そ</rt></ruby>の<ruby><rb>旅人</rb><rt>たびと</rt></ruby>あはれ

日本書紀によれば「十二月<ruby><rb>庚午</rb><rt>かのえうま</rt></ruby><ruby><rb>朔</rb><rt>ついたち</rt></ruby>、皇太子片岡に<ruby><rb>遊行</rb><rt>いで</rt></ruby>ます。時に飢ゑたる<ruby><rb>者</rb><rt>ひと</rt></ruby>道の<ruby><rb>埀</rb><rt>ほとり</rt></ruby>に<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>せり。<ruby><rb>仍</rb><rt>よ</rt></ruby>りて<ruby><rb>姓名</rb><rt>かばねな</rt></ruby>を問ひたまふ。而して<ruby><rb>言</rb><rt>まを</rt></ruby>さず。皇太子<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>て<ruby><rb>飲食</rb><rt>をしもの</rt></ruby>を与へたまふ。即ち<ruby><rb>衣裳</rb><rt>みけし</rt></ruby>を脱きて飢者に覆ひて<ruby><rb>言</rb><rt>のたまは</rt></ruby>く、安く<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>せよ。則ち歌よみて曰く」とあってこの御歌が出ているのである。推古天皇二十一年の冬十二月のことであった。太子は片岡山においでになった折、道のほとりに飢えた者が臥しているのを御覧になって、親しく姓名を問われたが、答える気力もない。そこで太子は飲食を与え、また自らの衣をぬがれて、これを飢えた者の上に覆い、安く臥せよと申されて、さきの歌をよまれたというのである。太子の慈心を物語る美しい状景であり、またこの御歌も、古事記の諸歌と同じように<ruby><rb>古樸</rb><rt>こぼく</rt></ruby>典雅にして、しかもあふるるがごとき慈心が憂いの調べとともに流れ出て美しい。「級照」「剌竹」ともに<ruby><rb>枕詞</rb><rt>まくらことば</rt></ruby>であるが、他は解を要するまでもなかろう。十七条憲法や<ruby><rb>義疏</rb><rt>ぎしょ</rt></ruby>の根底にひそむ精神の発露と申していいであろう。

なおこの物語のつづきは次のようにしるされている。

「<ruby><rb>辛未</rb><rt>かのとひつじ</rt></ruby>、皇太子、使を<ruby><rb>遣</rb><rt>また</rt></ruby>して飢者を視しむ。使者<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>り来て曰く、飢者既に<ruby><rb>死</rb><rt>まか</rt></ruby>りぬ。<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>に皇太子<ruby><rb>大</rb><rt>おほい</rt></ruby>に<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>を悲しみ、則ち<ruby><rb>囚</rb><rt>よ</rt></ruby>りて以て<ruby><rb>当処</rb><rt>そのところ</rt></ruby>に<ruby><rb>葬</rb><rt>ほふり</rt></ruby><ruby><rb>埋</rb><rt>をさ</rt></ruby>めしむ。<ruby><rb>墓</rb><rt>つか</rt></ruby><ruby><rb>固</rb><rt>つき</rt></ruby><ruby><rb>封</rb><rt>かた</rt></ruby>む。<ruby><rb>数日之後</rb><rt>ひをへて</rt></ruby>、皇太子<ruby><rb>近習者</rb><rt>つかまつるもの</rt></ruby>を召して、<ruby><rb>謂</rb><rt>かた</rt></ruby>りて曰く、先の日、道に臥せる飢者は、其れ<ruby><rb>凡人</rb><rt>ただびと</rt></ruby>に<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>じ、必ず<ruby><rb>真人</rb><rt>ひじり</rt></ruby>ならむ。使を遣して視しめたまふ。是に<ruby><rb>於</rb><rt>お</rt></ruby>いて、使者還り来て曰く、墓所に到りて視れば、<ruby><rb>封</rb><rt>かため</rt></ruby><ruby><rb>埋</rb><rt>うづ</rt></ruby>めるところ動かず。<ruby><rb>乃</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち開きて<ruby><rb>屍骨</rb><rt>かばね</rt></ruby>を見れば、既に<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しくなりたり。<ruby><rb>唯</rb><rt>た</rt></ruby>だ<ruby><rb>衣物</rb><rt>きもの</rt></ruby>畳みて<ruby><rb>棺</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>の上に置けり。是に於いて、皇太子<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>た使者を返し、其の衣を取らしめ、常の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く<ruby><rb>且</rb><rt>ま</rt></ruby>た<ruby><rb>服</rb><rt>き</rt></ruby>たまふ。時の人大に<ruby><rb>異</rb><rt>あや</rt></ruby>しみて曰く、聖の聖を知ること、其れ<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>なる哉。<ruby><rb>逾</rb><rt>いよいよ</rt></ruby><ruby><rb>惶</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まる。」

飢えたる者に自らの衣を脱いで親しく掛けられ、更にその者の死後、棺の上に畳みおかれた衣を再び平然と<ruby><rb>著</rb><rt>ちゃく</rt></ruby>されたという。この一節は後に様々の伝説を生んだようであるが、太子の悲心と生死の境なきがごとき挙措が当時の人々にも異様の感動を与えたことはこの文章からも察せらるるであろう。

私は法隆寺から夢殿、夢殿から中宮寺へかけて巡拝するたびごとに、この斑鳩の里に<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて太子の歩まれたことを思い、一木一草すら懐しく、在りし日の面影を慕いつつ佇むのを常とする。春、法隆寺の土塀に沿うて夢殿にまいり、ついで庭つづきともいえる中宮寺を訪れると、その直ぐ後はもう一面の畑地である。法輪寺と法起寺の塔が眼前にみえる。<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のたちのぼる野辺に<ruby><rb>坐</rb><rt>ざ</rt></ruby>して、<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>の空たかく<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>るのをきいたこともあった。嘗つてここに飛鳥びとが様々の生活を営んでいたであろうが、彼らの風貌や言葉や<ruby><rb>粧</rb><rt>よそお</rt></ruby>いはどのようなものであったろうか。

太子の摂政時代は内外ともに多事であったが、それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず鷹揚に深い瞑想は、この野辺のあたりにもなされていたのであろうか。いかに昏迷と騒乱があったにせよ、そこには、一つの出来事、一つの問題に向っての、しずかな凝視と<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>いと沈思と――かかる<ruby><rb>悠久</rb><rt>ゆうきゅう</rt></ruby>の時間というものはあったに相違ない。嘆きのある折も、その嘆きは虚空の<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>にまで漂い行くような、切に深遠なものだったろうと思う。人間の煩悩を深く省察された太子は、それゆえ人間への悲心と凡夫の自覚とをもって飛鳥の野を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>われたであろうが、その御姿が、そのまま聖者の気高さをおのずから具現していたと想像されないであろうか。

たとえば御著「<ruby><rb>維摩経義疏</rb><rt>ゆいまきょうぎしょ</rt></ruby>」のなかで「道法を捨てずして凡夫の事を現ずる是を宴坐と為す」という維摩の言葉に対し、次のように感想を述べておらるる。

「道法とは<ruby><rb>謂</rb><rt>いは</rt></ruby>く聖法なり。言ふこころは、聖法を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くすと<ruby><rb>雖</rb><rt>いへど</rt></ruby>も、亦俗法の中に凡夫の事を現じて、機に<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>ひて物を化するを乃ち真宴と名づく。<ruby><rb>汝</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>凡夫を捨つべく、聖道は取るべしと存せば、則ち分別を<ruby><rb>成</rb><rt>じやう</rt></ruby>ず。<ruby><rb>那</rb><rt>いづくん</rt></ruby>ぞ宴と為すことを得ん。この句は凡聖の二境を<ruby><rb>平</rb><rt>ひと</rt></ruby>しくすること<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>はざるを<ruby><rb>呵</rb><rt>か</rt></ruby>するなり。」

この大意を述ぶれば、維摩の<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う道法とは<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>の道である。維摩の真意はこうだ。たとえ聖の道に熟達しても、また凡俗の道の中に身を投じて、凡夫の事を現じ、そのすべてを機縁として教え導くのがほんとうの<ruby><rb>坐禅</rb><rt>ざぜん</rt></ruby>である。若し凡人は捨て去れ、聖道ならば取れという風に心を用いるならば、<ruby><rb>事毎</rb><rt>ことごと</rt></ruby>に分別が生ずる。さかしらな分別によって是非判断するなどどうして真の坐禅といえよう。この句は凡聖一如の境に入ることの出来ないのを<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>っているのだ、というほどの意であって、大乗の根本を示された御言葉である。

太子の教が、仏法求道者に<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>みらるるごとき固くるしい戒律臭を帯びず、大和の春野のように、のびのびとした<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>で発揚されたことは、私に限りない感銘と<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びをもたらすのである。<ruby><rb>惨澹</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる争いの後、いかばかり切実な祈念が、かかる鷹揚の信仰を開顕したか。そこには太子の心労のみならず、古事記にもみられるような<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい原始力があって、それが仏法をも貫いて発揚されて行ったと云えないだろうか。凄愴な悲劇からの脱出、いわば神々から追放された日の苦悩から、再び新生を求めて、ついに<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな黎明を招いた、そういう光栄を飛鳥びとは<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>っている。

――昭和十七年秋――

  


## <ruby><rb>救世</rb><rt>くせ</rt></ruby>観音

上宮太子の<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>は、推古天皇の三十年二月二十二日夜半であった。時に御年四十九歳、当時の人々が、太子の薨去をいかに深く<ruby><rb>悼</rb><rt>いた</rt></ruby>んだかは日本書紀にもしるされているとおりである。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち「諸王、諸臣、及び天下の百姓、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>に<ruby><rb>長老</rb><rt>おきな</rt></ruby>は愛児を失ふが<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く、<ruby><rb>塩酢之昧</rb><rt>あぢはひ</rt></ruby>口に在れども<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めず、<ruby><rb>少幼者</rb><rt>わかき</rt></ruby>は<ruby><rb>慈</rb><rt>う</rt></ruby>める<ruby><rb>父母</rb><rt>かぞ</rt></ruby>を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしな</rt></ruby>ふが如くて、<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>泣</rb><rt>いさ</rt></ruby>つる声、<ruby><rb>行路</rb><rt>みち</rt></ruby>に満てり、<ruby><rb>乃</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち<ruby><rb>耕夫</rb><rt>たがやすもの</rt></ruby>は<ruby><rb>耜</rb><rt>すき</rt></ruby>を止め、<ruby><rb>舂女</rb><rt>つきめ</rt></ruby>は<ruby><rb>杵</rb><rt>きおと</rt></ruby>せず。皆<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>く、日月<ruby><rb>輝</rb><rt>ひかり</rt></ruby>を失ひて、天地既に崩れぬべし。今より<ruby><rb>以後</rb><rt>のち</rt></ruby>、誰か<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>まむ哉。」――この一節によってみるも、太子の威徳の高きはうかがわれるのであるが、同時にその政事が容易ならぬ危機の上に<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>されていたことも推察されるであろう。

幾多血族の悲しむべき<ruby><rb>相剋</rb><rt>そうこく</rt></ruby>の後、太子は<ruby><rb>摂政</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>として立たれた方である。<ruby><rb>蘇我</rb><rt>そが</rt></ruby>家の<ruby><rb>擅権</rb><rt>せんけん</rt></ruby>と陰謀は、度かさなる流血の惨事をもたらしたのであったが、摂政の位につかれて後は、しばらくはこの争いもおさまったようにみえる。人間<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>のすさまじさを幼少の頃より<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたり見られた太子の、衷心祈念されたところは、前述のごとく「以和為貴」であり、「篤敬三宝」であり、「承詔必謹」であった。長い苦難を経て、魂の<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>いは<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の野にも訪れたかに思わるる、そういう<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>時代を太子は築かれつつあったのである。

しかし禍根は必ずしも除かれていたわけではない。<ruby><rb>外戚</rb><rt>がいせき</rt></ruby>として蘇我家の勢力は更に隠然たるものがあり、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>その野望があらわれるか期し難かった。太子は何故これに徹底的な抑圧を加えなかったか、<ruby><rb>馬子</rb><rt>うまこ</rt></ruby>の<ruby><rb>兇暴</rb><rt>きょうぼう</rt></ruby>を何故黙視しておられたか――後世史家の<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>問題としたところであるが、太子の憂悩もまたそこにあったと拝察される。それは単に蘇我家の政治軍事力の強大ゆえとのみは断じ難い。作戦の問題ではない。

系譜をみても明らかなごとく、<ruby><rb>欽明</rb><rt>きんめい</rt></ruby>天皇より太子に至るまでの皇室には、蘇我一族の血統が最も親しくむすばれている。<ruby><rb>武内宿禰</rb><rt>たけのうちすくね</rt></ruby>以来の名門として<ruby><rb>稲目</rb><rt>いなめ</rt></ruby>が<ruby><rb>輔弼</rb><rt>ほひつ</rt></ruby>の大任を背負ったことも無視出来ない。太子の御父母も、御祖父母も、すべて蘇我家と親密な<ruby><rb>間柄</rb><rt>あいだがら</rt></ruby>にあり、太子の妃たる<ruby><rb>刀自古郎女</rb><rt>とじこのいらつめ</rt></ruby>もまた馬子の娘であった。同族をもって戦う悲痛はすでに青年の日に身をもって知っておられた。馬子、<ruby><rb>蝦夷</rb><rt>えみし</rt></ruby>、<ruby><rb>入鹿</rb><rt>いるか</rt></ruby>等の兇暴を国家のために黙視されなかったとはいえ、彼らの<ruby><rb>内奥</rb><rt>ないおう</rt></ruby>よりの「和」をまず祈念されたのは当然でなかろうか。信仰が、剣をもって<ruby><rb>誅伐</rb><rt>ちゅうばつ</rt></ruby>することを最後までゆるさなかったのではなかろうか。あるいは「我れ必ずしも聖に<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>ず、彼れ必ずしも愚に非ず、共に<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>れ凡夫のみ」（憲法十条）という自覚ゆえに、一切の罪禍を自らに<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>って、ひたすら耐えられたのであろうか。

剣よりも悲心によって、人為の政略よりも神仏の加護によって、魂の根源からの「和」を祈念された。この<ruby><rb>高邁</rb><rt>こうまい</rt></ruby>な精神にも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、薨去後に悲劇は起っている。憂悩を<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に抱いたまま、太子の<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>は殉教の生涯だったと申してよい。

「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬべし。今より以後、誰か恃まむ哉」――この言葉は、当時の民草の偽らぬ述懐だったに相違ない。太子の強烈な信念が、わずかに時の<ruby><rb>静謐</rb><rt>せいひつ</rt></ruby>を保っていたのであったろう。威徳の前には諸王はむろんのこと外戚たる馬子達もひたすら<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ慎しみ、常に翼賛申していたという。だが危機はいたるところにひそんでいたのだ。薨去が、やがて乱世の再来を予測せしむるごとき事情は、誰の<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>にも明らかであったと思われる。薨去の後、なお七年のあいだ推古天皇は皇位に在り、三十六年の春三月に崩御された。蘇我家も馬子は死し、蝦夷入鹿父子の代となった。太子のあれほど祈念された「和」の精神は再び<ruby><rb>群卿</rb><rt>ぐんけい</rt></ruby>によって<ruby><rb>蹂躪</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>されはじめた。仄かに輝き出た飛鳥の黎明も太子の薨去をもって終ったかにみえる。のみならず太子の遺族の上には大なる悲惨事が起った。

推古天皇崩御の後をうけて<ruby><rb>舒明</rb><rt>じょめい</rt></ruby>天皇位を継ぎ、ついで<ruby><rb>皇極</rb><rt>こうぎょく</rt></ruby>天皇の御代となるのであるが、この間において蘇我入鹿の専横はいよいよ激しくなる。しかも一方においては太子の御遺族たちが父君の精神を<ruby><rb>護</rb><rt>まも</rt></ruby>って厳然と存在していたのであった。<ruby><rb>山背大兄王</rb><rt>やましろのおいねのみこ</rt></ruby>は、太子と刀自古郎女とのあいだに長子として生誕され、よく先王の遺訓をまもられた方である。舒明天皇より皇極天皇にいたる間の行動は、書紀に<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびらか</rt></ruby>に示されているとおりである。蘇我入鹿はこの<ruby><rb>王</rb><rt>みこ</rt></ruby>を憎んだ。「<ruby><rb>蘇我臣</rb><rt>そがのおみ</rt></ruby>入鹿<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り、<ruby><rb>上宮</rb><rt>かむつみや</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>みこ</rt></ruby><ruby><rb>等</rb><rt>たち</rt></ruby>を<ruby><rb>廃</rb><rt>す</rt></ruby>てて、<ruby><rb>古人大兄</rb><rt>ふるひとおひね</rt></ruby>を立てて、天皇と為さむとすることを<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>る。」「蘇我臣入鹿深く上宮の王等の<ruby><rb>威名</rb><rt>いきほひな</rt></ruby>あり、天下に振ふを<ruby><rb>忌</rb><rt>にく</rt></ruby>みて、独り<ruby><rb>僭立</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>を謀る。」等の言葉が書紀にみえる。太子以前の争闘は再びくりかえされる。

<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に皇極天皇の二年十一月、入鹿は軍勢をして<ruby><rb>斑鳩宮</rb><rt>いかるがのみや</rt></ruby>を襲わしめこれを<ruby><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby>に帰した。山背大兄王は一族とともに<ruby><rb>胆駒</rb><rt>いこま</rt></ruby>山に隠れたが、それより更に東国へ逃れ軍を起して<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>り戦わんという侍臣<ruby><rb>三輪文屋君</rb><rt>みのわのふむやのきみ</rt></ruby>の進言に対し、山背大兄王の<ruby><rb>対</rb><rt>こた</rt></ruby>えられた次のごとき言葉がある。

「<ruby><rb>卿</rb><rt>いまし</rt></ruby>が<ruby><rb>道</rb><rt>い</rt></ruby>ふ所の如くば、<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の勝たむこと必ず<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らむ。<ruby><rb>但</rb><rt>た</rt></ruby>だ<ruby><rb>吾</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>情</rb><rt>こころ</rt></ruby>に<ruby><rb>冀</rb><rt>ねが</rt></ruby>ふは、十年百姓を<ruby><rb>役</rb><rt>つか</rt></ruby>はず、一身の故を以て、<ruby><rb>豈</rb><rt>あ</rt></ruby>に<ruby><rb>万民</rb><rt>おほむたから</rt></ruby>を<ruby><rb>煩</rb><rt>わづら</rt></ruby>はし<ruby><rb>労</rb><rt>いたは</rt></ruby>らしめむや。又後世に於て、民の、吾が故に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>りて、己が<ruby><rb>父母</rb><rt>かぞ</rt></ruby>を<ruby><rb>喪</rb><rt>ほろぼ</rt></ruby>せりと言はむことを欲せじ。豈に其れ戦勝ちての後に、<ruby><rb>方</rb><rt>まさ</rt></ruby>に<ruby><rb>大夫</rb><rt>ますらを</rt></ruby>と言はむ哉。夫れ身を<ruby><rb>捐</rb><rt>す</rt></ruby>て国を固くせむは、<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby><ruby><rb>大夫</rb><rt>ますらを</rt></ruby>ならざらむや。」

その頃の政情をかえりみるとき、この決断は<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>のことであったと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えよう。外戚の専横に由る皇位の問題は国家の大事である。蘇我馬子はそのため既に一帝二皇子を<ruby><rb>弑</rb><rt>しい</rt></ruby>している。同族の<ruby><rb>嫉視</rb><rt>しっし</rt></ruby>陰謀がいかに悲しむべき流血の惨事を招いたか、上宮太子の信仰はその切なる体験に発したものであることはすでに述べた。御父君の心を継いで、山背大兄王は自らその一因たることを拒絶されたのである。万民への配慮も深く、一身の犠牲において忍び難きを忍ばれたのであった。それは信仰の決意であった。

山背大兄王は胆駒を<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で、<ruby><rb>従容</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>として<ruby><rb>斑鳩寺</rb><rt>いかるがのてら</rt></ruby>（法隆寺）に入られる。やがて入鹿の軍勢が寺を包囲したとき、侍臣をして「吾が一身をば入鹿に<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby>ふ」と告げられ、一族とともに<ruby><rb>自頸</rb><rt>じけい</rt></ruby>されたのである。子弟<ruby><rb>妃妾</rb><rt>ひしょう</rt></ruby>十五人時を同じゅうして悉くこれに殉じた。太子薨去後二十年余にして遺族すべて非運に倒れたのである。「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬべし」の予感はかように悲惨な姿となってあらわれた。上宮王家へのひそかな思慕と愛惜の声が、<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>にみちていたであろうことは、書紀にしるされた<ruby><rb>童謡</rb><rt>わざうた</rt></ruby>によってもうかがわるる。しかもあれほど太子を<ruby><rb>讃仰</rb><rt>さんぎょう</rt></ruby>した<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の諸臣の<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>どすべてが、遺族の全滅に直面してはただ<ruby><rb>拱手</rb><rt>きょうしゅ</rt></ruby>傍観、入鹿の<ruby><rb>暴虐</rb><rt>ぼうぎゃく</rt></ruby>を黙視していたのみであった。人心は無常である。

＊

斑鳩宮は灰燼に帰し一片の<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>と化してしまった。その後いくばくもなくして蘇我一族も滅亡し、<ruby><rb>中大兄皇子</rb><rt>なかのおおえのおうじ</rt></ruby>と<ruby><rb>中臣鎌足</rb><rt>なかとみのかまたり</rt></ruby>によって大化の改新がなされたことは周知のところであろう。しかし太子の祈念は必ずしも<ruby><rb>全</rb><rt>まっと</rt></ruby>うされたとは言えない。外戚の弊が除かれ血族相剋の日が<ruby><rb>終焉</rb><rt>しゅうえん</rt></ruby>したわけでもない。上宮王家滅びて三十余年にして<ruby><rb>壬申</rb><rt>じんしん</rt></ruby>の乱起り、漸く平定した後の奈良朝時代には、蘇我に代って藤原一族の擅権がはじまっている。太子生誕の頃より奈良平安朝にいたる歴史をみるとき、それは血族の間に生じた悲痛な犠牲の歴史である。人間の<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>の深さ、人心の無常に驚く。しかしかかる<ruby><rb>悽惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な生の流れにおいてこそ、はじめて太子の御姿が幾度もふりかえられ、その祈念は人心に復活したといえるのではなかろうか。

荒廃のままに放置された斑鳩宮<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>は、<ruby><rb>聖武</rb><rt>しょうむ</rt></ruby>天皇の<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>十一年、<ruby><rb>行信</rb><rt>ぎょうしん</rt></ruby>法師の<ruby><rb>奏聞</rb><rt>そうもん</rt></ruby>によって漸く復活した。現存する夢殿は幾度の補修を経てはいるが、このときの創建に成ったものといわれる。私がはじめて夢殿にまいったのは、昭和十二年の秋であったが、その頃夢殿は修理中で、周囲には厳重な<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>がめぐらされ、私はその間から、ちょうどお仕置を見物する昔の人のような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>で<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めなければならなかった。円柱はとり外され、土台は高くもちあげられて、あたかも宙につるされた<ruby><rb>骸骨</rb><rt>がいこつ</rt></ruby>のようであった。御堂の内部はうつろなまま暗黒にとざされてみえない。千三百年の<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>、太子が<ruby><rb>寵</rb><rt>こも</rt></ruby>らせ<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うた御姿を想像し、あの<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>たる日に美しい黎明を祈念された太子が、長身に剣をしかと握りしめ、<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>な<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>をあげて<ruby><rb>虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>な御堂からいまにも立ち現れ給うごとく感じたのであった。

斑鳩宮を夢殿と呼ぶようになったのは、「太子<ruby><rb>伝暦</rb><rt>でんりゃく</rt></ruby>」に、「太子斑鳩宮に在って夢殿の内に入りたまふ。<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>殿は寝殿の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に在り。諸経疏を製するに及んで、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し義に滞る有れば、即ち夢殿に入りたまふに、堂に東方より金人到り、告ぐるに妙義を以つてす。」あるいは「法王帝説」に、「太子問ひたまふ所の義、師（<ruby><rb>慧慈</rb><rt>ゑじ</rt></ruby>）も通ぜざる所有り。太子夜の夢に金人の<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>りて不解<ruby><rb>之</rb><rt>の</rt></ruby>義を教ふるを見たまふ。太子<ruby><rb>寤</rb><rt>さ</rt></ruby>めて後即ち<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>を解す。乃ち以て師に伝へたまふに、師も亦領解す。是の如の事、一二に非ず。」等に由る。つまり夢殿は太子の<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>と内観の道場であった。ひとたびは灰燼に帰したとはいえ、太子の御思いの永久に<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>るところであろう。

いま秘仏としてここに安置されている救世観音は、太子等身の像であるが、それが製作された年代は、飛鳥の頃であるにしても、太子在世の時か或は薨去直後か詳にしえない。私は近来このみ仏を太子の念持仏として、あるいは前にひいた「金人」として拝することを心に<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>うものとしていた。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も太子に対し後世の仏家が附会した伝説は実に多く、中には仏教徒の自己弁護のためと思われるものも<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>くない。しかし伝説のすべてを<ruby><rb>無稽</rb><rt>むけい</rt></ruby>とし迷信とするのは誤りであろう。何故なら、そういう言い伝えの裡に、民心に宿る愛と信仰とは厳存するからである。信仰は過去のものを過去のものとして合理的にあげつらうことをゆるさない。信じる者にとって神仏はつねに現存である。太子への思慕が激しく民心に宿ったとき、その祈念が眼のあたり太子の<ruby><rb>御霊</rb><rt>みたま</rt></ruby>にふれ、金人を夢みたとしても不思議はあるまい。

＊

ところがそういう私も、はじめて救世観音を拝した頃は、ただ彫刻としてみようとする態度を捨てきれなかった。拝するというのではない。美術品として観察しようという下心で「見物」に行ったのである。むろん救世観音は<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>にして私のかかる態度を破砕した。あの深い神秘はどこから由来するのか――美術的鑑賞によって答えられる問題でないことは直ぐわかった。しかし私は戸惑いした。信仰と歴史について思いをいたすことも浅かった。いきおい私は自分の文学的空想に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れて行ったようである。

夢殿が修理中のため、その前の礼堂に安置されていた頃の救世観音について、私は<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて次のような印象を述べたことがある。

老僧はしずかに<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>をひらいた。立ちあらわれた救世観音は、くすんだ黄金色の肉体をもった<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しい野人であった。<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>のない<ruby><rb>銀杏</rb><rt>ぎんなん</rt></ruby>形の眼と部厚い<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>、その口辺に浮んだ魅惑的な微笑、人間というよりはむしろ神々しい野獣ともいえるような御姿であった。静謐な姿勢をとっているが、どこかに兇暴な面影を秘めて、何かを懸命に耐えているような趣がある。正面から間近に御顔をみると悟達の静寂さは少く、<ruby><rb>攪乱</rb><rt>かくらん</rt></ruby>するような魔術者の面影が濃い。山岳や<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>たる<ruby><rb>沙漠</rb><rt>さばく</rt></ruby>や<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>の大海を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>った原始の血であろうか。<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は南方の強烈な光りによって鍛えられた血であろうか。しかし側面から眺めると、この原始の肉体は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せて植物性の柔軟な姿に変ってしまう。胸が平板で<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>猫背であるため<ruby><rb>体躯</rb><rt>たいく</rt></ruby>が柔い感じを帯びてくる。原始の肉体に植物の<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>を与えたところに、神々しい中性が生じたのでもあろうか。礼拝はおそらく側面からするのであろう。――これが礼堂で救世観音を拝した折の、私の最初の印象であった。

私はまたこのみ仏に接して、唐突ながらポール・ゴーガンの「タイチ紀行」を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い出したりした。<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の夢を失い、数多の努力に疲れ果て、道徳的にも精神的にも疲弊している社会の悪を、長いあいだ運命的に受け継いで来た殆ど老人といってもいい人間――彼は自分をそう語っている。<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>して行くヨーロッパを逃れて、彼は南海の孤島に土人の娘とともに原始の生活をつづけた。<ruby><rb>赫熱</rb><rt>かくねつ</rt></ruby>する太陽の光りと強烈な色彩につつまれて裸体の生活に還った。それは十九世紀末葉に一ヨーロッパ人が試みた文明からの悲しい逃亡であった。この病み衰えた人間は、南方の土民の間に混り、彼らの血液を吸うて再生を<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>ったのである。次のような記述を私は忘れることが出来ない。

「タイチに於ては、太陽の光線が、男女両性へ同じように光りを投げかけるように、森林や海岸の空気が、皆の肺臓を強健にし、肩や腰、ひいては海浜の砂までも大きくするのである。女たちは、男と同じ仕事をやる。男達は女たちに対して<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>なものだ。――だから、女たちには男性的な<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>があり、男達には女性的な処がある。この両性の近似は彼らの関係を安らかにする。そしてその生涯の裸体生活を清純に保って行くのだ。……この『野蛮人』間における両性の差異の減少は、その男女達をまるで恋人同士のような親しい友達にし、彼らから罪悪の観念さえもなくして<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>っているのだ……」

これが頽廃した文明から逃れんとした一ヨーロッパ人が、東洋の孤島で夢みた<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>だったのである。そしてゴーガンは<ruby><rb>奇</rb><rt>く</rt></ruby>しくも<ruby><rb>仏陀</rb><rt>ぶつだ</rt></ruby>の<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>をひそかに<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れているのである。観世音がもつ、あの男でもない女でもない不思議な魅惑を、私は東洋の南方にむすびつけて考えたりした。私もまた文明の汚血よりの<ruby><rb>恢癒</rb><rt>かいゆ</rt></ruby>を祈っていたひとりだった<ruby><rb>故</rb><rt>せい</rt></ruby>もあろう。救世観音の<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>は、最初こんな風に私の空想を<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>したのであった。

周知のごとくこのみ仏は、明治時代になってフェノロサによって<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>されるまで、数百年の間、全身に白い布をまかれ、秘仏として<ruby><rb>開扉</rb><rt>かいひ</rt></ruby>されずにあった。人々はこの観音の<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いを畏れていたという。フェノロサがいよいよ白布を解くときは、寺僧達は悉く逃げ去ったと伝えられる。それは何故であったろうか。幾千年の<ruby><rb>甲羅</rb><rt>こうら</rt></ruby>を経たような怪物じみた<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>の故であろうか。美術の様式論によっても、他の仏像との比較によってもむろん説明は出来ない。ゴーガンの感慨になぞらってみたところで私の心はやはり満ち足りなかった。

その後このみ仏に接するたびに起る不思議な感銘のままに、私はやがて上宮太子の御生涯に思いをいたすようになった。古美術通たることはもとより私の望むところではない。末期文明よりの恢癒の象徴としてみるだけでもむろんもの足りなく思えてきた。救世観音の私に与えた<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>は、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>その背後に遠く深く漂う歴史の<ruby><rb>深淵</rb><rt>しんえん</rt></ruby>にひそむのではなかろうか。私には歴史への信仰が欠けていたのだ。上宮王家の悲願と無念の思い――私は次第にここへ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついて行ったのである。

＊

太子の一生、その事業や著作を折にふれて拝するたびに、太子への讃仰と思慕の念は深く私の心に起った。太子の心労や生涯を通して念願されたところは、必ずしも同時代によって報いられなかった、のみならず上宮王家一族の滅亡は前述のとおりである。云わば太子の信仰は、己が一切を犠牲とし、そうすることによってはじめて不朽の悲願を残すごとき無償の行であった。太子は申すまでもなく、山背大兄王やその若き御子達には、果さんとして果しえなかった無念の思いがあり、<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふにょい</rt></ruby>のいのちの嘆きは最後の日まで<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>むことはなかったであろう。高貴なる血統に宿った凄惨な悲劇を、御一族は身をもって担い、倒れたのであるが、この重圧からの<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>と<ruby><rb>歔欷</rb><rt>きょき</rt></ruby>の声は、わが国史に末長く余韻して尽きない。後代人はこれに触れ、<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として更に激しく太子を慕うのである。

その後、新装成った夢殿の、新しい八角の厨子に救世観音を拝するたびに、私はそこに陰翳する上宮王家の無念の思いと悲願を感ぜずにはおれないのである。私が前に述べた原始人のごとき不思議な生気は変らないが、金色の<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>の光りは、ほの暗い御堂に在って更に異様であった。たとえば<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>の底に<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>ってかすかに息づいている<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>、或は<ruby><rb>猛虎</rb><rt>もうこ</rt></ruby>の発散するエネルギーと香りを感じさせる。私にはそれが<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>の息吹のごとくにも思われ、また荒々しい<ruby><rb>捨身</rb><rt>しゃしん</rt></ruby>への<ruby><rb>示唆</rb><rt>しさ</rt></ruby>のごとくにもみえた。しかしすべてを超えて、その口辺に浮んだ微笑は太子の御霊の天寿国に安らい給うしるしなのであろうか。永遠の慈心のごとく、同時に無念の情を告ぐる<ruby><rb>怨霊</rb><rt>おんりょう</rt></ruby>のごとく、いずれとも分明し難い。救世観音を拝するにつれて、次第に私はその姿や風貌を正視出来なくなってきた。一切の分別を放下し、ただ<ruby><rb>瞑目</rb><rt>めいもく</rt></ruby>していて、しかも身にひしと迫ってくるものがある。金色の微光を<ruby><rb>被</rb><rt>こうぶ</rt></ruby>ること、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち太子の祈りの息吹にふれることのようにも思われ、御一族の悲願が、いよいよ私の心に刻印されてくるのであった。フェノロサがこの観音の白布を解くとき寺僧達が逃げ去ったというが、逃げ去った寺僧の方にも道理はある。フェノロサがいかに立派な美術史家であり、救世観音に驚嘆の声を放ったにしても、この秘仏の真の無気味さについては、一介の寺僧ほどにも通じていたとはいえまい。すべて古仏にふれるには、あつかましさが必要かもしれない。あつかましさの故に、今は我々も拝観料を払って見物しうるのかもしれぬ。

歴史に対する私の態度は、いつまでも動揺を免れなかったが、次の三原則だけは動かすべからざるもののように思われてきた。

一、廃墟と壊滅――即ち死に対する無限の愛惜の情、死のみが人間の生の意義を<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>に語る。換言すれば彼が生存のとき、果さんとして果しえなかった<ruby><rb>内奥</rb><rt>ないおう</rt></ruby>の願、祈念、これを死が明確に語ってくれるのである。灰燼と絶滅から人間の生命は<ruby><rb>久遠</rb><rt>くおん</rt></ruby>となるであろう。歴史に参入するものは、まず廃墟に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで己が愛を傾けるべき人間と<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>しなければならぬ、それは史実への<ruby><rb>智的</rb><rt>ちてき</rt></ruby>好奇心によっても、自由選択によっても与えられない。我に<ruby><rb>求道</rb><rt>ぐどう</rt></ruby>の志あり、その労苦の果に、天意のごとく与えられた邂逅でなければならない。

二、言い継ぎ語り継ぐとは歴史の根本心情である。何を言い継ぎ語り継ぐのか。邂逅した人物の悲願を、その無念の思いを察して、これを再び<ruby><rb>顕</rb><rt>あらわ</rt></ruby>そうとすることである。史上における偉大な人物から、我々の肉親や身近な友人にいたるまで、愛の在るところ、死とともにこの願いは必ず起るであろう。そしてこの願いの在るところ、死者は死者でなく、過去は過去でなく、永久の現存となるであろう。

三、殉ずる決意の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にのみ歴史は生命を得る。讃仰と思慕の情は、廃墟の灰からさえ生ける人間を形成するであろう。そしてその思いを、語り継がんとする我が身において具現しなければならぬ。語り継ぐとは、祖先の悲願にわが一身を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げることであり、殉じて悔いざるの情である。それが自身を何処へ導くか、再び徒労と灰燼へ導くか、或は現世の栄光へ導くか。自ら問うべき<ruby><rb>事柄</rb><rt>ことがら</rt></ruby>ではない。史上の悲願が現世において成就するか<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>か、その実証性はただその無償性にのみ在る。語り継ぐ人間が、再び彼の死によって一切の意味を語るであろう。

救世観音の作者が何びとであるか明らかではない。またこのみ仏に接するとき作者を<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>する心など起らぬ。ただ私にとっては歴史の真情と思われる右のような思いを、救世観音は暗黙の裡に示唆してくれたのである。

秋、<ruby><rb>斑鳩</rb><rt>いかるが</rt></ruby>の址を巡り、夢殿に

上宮太子を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>びまつりて<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>める。

高光る　<ruby><rb>日嗣</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>皇子</rb><rt>みこ</rt></ruby>　<ruby><rb>厩戸</rb><rt>うまやど</rt></ruby>の　<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>の<ruby><rb>王</rb><rt>おほぎみ</rt></ruby>　<ruby><rb>険</rb><rt>けは</rt></ruby>し世に　<ruby><rb>生</rb><rt>あ</rt></ruby>れましまして　はらからと　<ruby><rb>憑</rb><rt>たの</rt></ruby>む<ruby><rb>臣</rb><rt>おみ</rt></ruby>らが　由々しくも　惑へるなかに　いかさまに　嘆きませるか　<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>くも　斑鳩の里　うち日さす　<ruby><rb>宮居</rb><rt>みやい</rt></ruby>さだめて　飛ぶ鳥の　<ruby><rb>明日香</rb><rt>あすか</rt></ruby>のみ代ゆ　あかつきの　道うちひらくと　夢殿に　ひとりこもらせ　夕されば　<ruby><rb>法</rb><rt>のり</rt></ruby>のきはみを　明けくれば　国のかためを　身もあらに　<ruby><rb>瞑想</rb><rt>おも</rt></ruby>ひこらしつ　<ruby><rb>天皇</rb><rt>すめらぎ</rt></ruby>の　ま<ruby><rb>幸</rb><rt>さき</rt></ruby>く<ruby><rb>坐</rb><rt>ま</rt></ruby>せと　<ruby><rb>臣</rb><rt>おみ</rt></ruby>なべて　和ぐ日をや　民なべて　<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>らふ時をや　いつくしく　祈りたまへる　<ruby><rb>憲法</rb><rt>のり</rt></ruby>みれば　尊きろかも　<ruby><rb>史</rb><rt>ふみ</rt></ruby>よめば　涙しながる　すべなきは　世のうつろひや　<ruby><rb>吾</rb><rt>われ</rt></ruby>はも　<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>びまつりて　青によし　奈良山を越え　<ruby><rb>千年</rb><rt>ちとせ</rt></ruby><ruby><rb>経</rb><rt>ふ</rt></ruby>る　宮居が址に　なづさへば　<ruby><rb>念</rb><rt>も</rt></ruby>ひのことごと　よろづ代に　<ruby><rb>念</rb><rt>も</rt></ruby>ひ<ruby><rb>告</rb><rt>の</rt></ruby>らすごと　<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのくら</rt></ruby>の　高どのぬちに　<ruby><rb>霊</rb><rt>くす</rt></ruby>しくも　光りいませる　<ruby><rb>救世</rb><rt>くせ</rt></ruby>のみほとけ

反歌

秋ふかみ　みやの玉がき　よりそへて　<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の子らの　<ruby><rb>徘徊</rb><rt>たもとほ</rt></ruby>るらし

皇極天皇<ruby><rb>弐</rb><rt>に</rt></ruby>年の秋、入鹿斑鳩の宮を焼く。

太子の御遺族<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く難に殉じたるを<ruby><rb>悼</rb><rt>いた</rt></ruby>みて。

いや果の　ひたふる<ruby><rb>念</rb><rt>おも</rt></ruby>ひ　<ruby><rb>父王</rb><rt>かそきみ</rt></ruby>の　<ruby><rb>垂訓</rb><rt>のり</rt></ruby>たがはじと　賜ひし身はや

玉きはる　いのちのうめき　<ruby><rb>炎</rb><rt>ほむら</rt></ruby>して　<ruby><rb>彩</rb><rt>あや</rt></ruby>なす雲と　<ruby><rb>群立</rb><rt>むらた</rt></ruby>ちにけむ

しぬび<ruby><rb>哭</rb><rt>な</rt></ruby>く　<ruby><rb>采女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>が髪の　みだれより　<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の月の　<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えわたるかも

<ruby><rb>歳月</rb><rt>としつき</rt></ruby>は　かなしきかなや　<ruby><rb>麗</rb><rt>うるは</rt></ruby>しの　み子らほろびて　<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>あきつ</rt></ruby>ながるる

――昭和十七年秋――

  


## 書簡

――古都の友へ――

君とともに<ruby><rb>斑鳩</rb><rt>いかるが</rt></ruby>の里を巡ってからもう三年の月日が流れた。その後も春と秋には<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>を訪れ、夢殿に<ruby><rb>詣</rb><rt>もう</rt></ruby>でたいと願っていたが、空襲は激しくなり、やがて終戦したものの旅は一層窮屈となって、昨年と今年はとうとう古寺巡礼を中止せざるを得なかった。この間、僕は東京郊外の<ruby><rb>茅屋</rb><rt>ぼうおく</rt></ruby>に<ruby><rb>蟄居</rb><rt>ちっきょ</rt></ruby>して、息づまる思いで世の激しい転変を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていた。東京はおおかた<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>と化した。昨日までは栄華を極めていたものが、<ruby><rb>劫火</rb><rt>ごうか</rt></ruby>に家を失って<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち路頭に迷い、権勢を誇った武将達は、今日は捕われの身となって都大路を引かれて行く有様をみると、さながら平家物語の世界に在るような気がする。終戦後の僕の感想は、「夢かと思ひなさんとすれば<ruby><rb>現</rb><rt>うつつ</rt></ruby><ruby><rb>也</rb><rt>なり</rt></ruby>、現かと思へば又夢の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>し」という言葉につきる。全く諸行無常だ。しかしさすがに自然は有難い。暴風と豪雨の<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>われた幾日かをすぎて、いま<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く透明な秋空があらわれてきたところだ。<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>の飛びかう空を眺めていると、まるで何事もなかったかのように平和である。そぞろ旅を思い、大和がなつかしく回想される。斑鳩の里の刈入は終ったろうか。はるかに君を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>び、こんなとりとめのない手紙をかくのである。

＊

空襲が激化し、朝に夕に我が都市が崩壊して行った頃、奈良も<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>はこの運命を免れまいと僕は観念していた。夢殿や法隆寺や多くの古寺が、爆撃のもとに忽ち<ruby><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby>と帰す日は間近いと思われた。戦いの終った後、その廃墟に立ち、わずかに残った<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずえ</rt></ruby>の上にいかなる涙をそそぐであろうか。そういう日に、何に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って悲しみに堪えようか。自分の悲歌の調べを予想し、心の中であれこれと思いめぐらしてさえいたのであった。国宝級の仏像の<ruby><rb>疎開</rb><rt>そかい</rt></ruby>は久しい以前から識者の間に要望されていた。東大寺や薬師寺の本尊のごとき大仏は動かしえぬにしても、<ruby><rb>救世</rb><rt>くせ</rt></ruby>観音や<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>観音等は疎開可能であろう。しかし僕は仏像の疎開には反対を表明した。災難がふりかかってくるからと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>って疎開するような仏さまが古来あったろうか。<ruby><rb>災厄</rb><rt>さいやく</rt></ruby>に殉ずるのが仏ではないか。歴史はそれを証明している。仏像を単なる美術品と思いこむから疎開などという迷い言が出るのであろう。そう思ったので僕は反対したのである。

<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の東大寺は<ruby><rb>平重衡</rb><rt>たいらのしげひら</rt></ruby>の兵火にかかって、けなげにも焼けて行った。大仏も観音も<ruby><rb>弥勒</rb><rt>みろく</rt></ruby>も劫火に身を投じた。これが仏の運命というものではなかろうか。何を惜しむ必要があろう。惜しむのは人の情であるが、仏は失うべき何ものをも有せざるが故に仏なのだ。夢殿や法隆寺に蔵されている多くの尊い古仏が、爆撃の犠牲になるのは実に痛恨事にちがいないが、だからと云って疎開を考えるのは、信仰にとって感傷的なことではなかろうか。仏の心に反する行為にちがいない。そう思って、僕はただ堪えることを考えていた。<ruby><rb>無慙</rb><rt>むざん</rt></ruby>な壊滅に堪えうるかどうか、それはわからない。しかし一心に念じて、惨禍の日を忍ぼうと覚悟していたのである。

今となればこうした思いも<ruby><rb>杞憂</rb><rt>きゆう</rt></ruby>にすぎなかったが、しかしこの思いを僕はいまなお捨てない。同じ思いで平和の日も貫きたいのである。幸いにして大和の古寺は残った。だが「幸いにして」という言葉はいまの自分にはいささか複雑だ。そこを訪れる僕らの心は、<ruby><rb>昔日</rb><rt>せきじつ</rt></ruby>にもまして重いであろう。敗戦の悲傷は、厳然と残った<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>に<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って痛ましいものを感ずるのではなかろうか。祖宗の霊は安らかに眠ることは出来ない。国民の道義はすたれ、信仰の日は去ろうとしている。神々の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>が来て、ただ無信仰の眼に好奇的にさらされるであろう<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>たる古寺の姿を僕は想像するのである。

戦争は終った。斑鳩の地をはじめ大和一帯は、やがて観光地として世界の客人を招くであろう。観光地としての再生――僕らはかかる再生を喜んでいいのか、悲しむべきであるか。僕は近頃になってハイネの「<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>紀行」の一節を再び思い出している。彼はこの古典の地を訪れ、「悲歌的に夢みながら廃墟の上に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている」伊太利人をしきりになつかしんでいる。目は病的に白く、<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>は病的にかよわいが、高貴な<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を失わぬ伊太利人に、ハイネは近代における真の文明人をみた。というよりはそういう文明人の末路の姿に感傷の思いを寄せたと云った方がよかろう。これに反しここに観光地として訪れる漫遊の客人達は、たとい純白の高価なシャツを身につけ、すべてを現金で景気よく支払っても、廃墟に夢みる伊太利人に比べるなら一個の野蛮人にすぎぬではないかと断じている。成り上り者の「<ruby><rb>賎民</rb><rt>せんみん</rt></ruby>的な健康」をハイネは<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>したのである。

こうした状景は今日の僕らにとって他人事ではあるまい。観光地としての大和に、飢餓に衰えた無気力な同胞と、満腹の異邦の客人とが、悲しく行きかう有様を想像してぞっとするのだ。たとい高貴な面影を宿そうとも、古寺のほとりに悲歌的に夢みる日本人として<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>りたくない。ハイネの同感をえようとも、滅び行くものとしての美しさに安んじているわけにはゆかない。また異邦の客人に劣らず札びらを切って豪遊するのも無風流なことだ。観光地としてではなく、聖地としての再生――これこそ僕らの念願ではなかったろうか。観光地として繁栄する平和の日などは<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>しよう。日本を世界に冠絶する美の国、信仰の国たらしめたい。そのためにはどんな<ruby><rb>峻厳</rb><rt>しゅんげん</rt></ruby>な精神の訓練にも堪えねばならぬと僕は思っている。一切を失った今、これだけが僕らの希望であり、生きる道となった。そういう厳しい心と、それに伴う生々した表情を古都にみなぎらすことが大事だ。かかる再生が日本人に可能かどうか、大なる希望と深い<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>の念をもって僕はいまの祖国を眺める。

＊

この一二年というもの、僕は自分の死期の切迫を常に感じて生きてきた。激しい空襲にさらされながら、文字どおり明日知れぬいのちを<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いつつ生き永らえてきたわけだが、そのとき僕は、<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>のしるしになるような作品を書き残したいと発願した。いつ死ぬかもしれぬ身であるならば、せめて自分が天職とも信じて選んだ職場で、それも自分の情熱を傾けつくした<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に倒れたい。云わば遺言をかくような気持で仕事をしたいと思い立ったのである。こんな気持は、筆にすると大げさではずかしいのであるが、この一二年の僕の仕事中に、こうした気持がいつも底流していたことはたしかだ。僕には年来心にとめてきた二つのテーマがあった。一つは、歴史上自分の最も敬愛する人物の伝記をかくこと、いま一つは自分の精神の自叙伝をかくことであった。僕はまず第一の仕事からはじめた。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち聖徳太子伝の執筆である。

十九年の初夏から始めて、終戦の日までつづいたが、その間、自分の身辺にも様々のことが起った。家中に病人が出た。妻の老いた両親は空襲に家を焼かれて、身一つで我が家へ逃れてきた。近くの友人の家が至近弾で倒れかかって、友人は数日間僕の家に避難してきてまるで宿屋のような騒ぎもあった。<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>るときは敵機が超低空で機銃掃射を加え、そのガソリンの煙と<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いが室内に流れこんできたこともある。十数発の時限爆弾が近所で爆発して家は地震のようにゆれた日もある。待避の刹那まで、僕は<ruby><rb>鉄兜</rb><rt>てつかぶと</rt></ruby>のまま机の前に坐ってもみた。今度こそ家が焼かれるか、死ぬか、そんな思いで暮しつづけた。

原稿はこのあわただしさの<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に出来あがって行った。出版する<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の書店はむろん焼失して、出版の予想などは出来ない。僕は印刷術というものから次第に遠ざかって行く自分を感じ、それが著作家として健全な姿であることを改めて思い知った。原稿は厳重に包装して、寝るときは<ruby><rb>枕元</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へ置く。空襲のサイレンとともに背負って<ruby><rb>壕</rb><rt>ごう</rt></ruby>へ入る。いざというときはこれだけを持って<ruby><rb>火焔</rb><rt>かえん</rt></ruby>の中を逃れようと覚悟していた。むろん最後の場合には、原稿は僕の肉体とともに消え去るであろう。太子伝がどういうものであるか、批評は人々に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねよう。ただこれを書いていた日の生き<ruby><rb>甲斐</rb><rt>がい</rt></ruby>に対して、僕は感謝したくなる。太子の御精神が、空襲に堪えさして下さったのである。

＊

太子の生涯を書き終えた後の僕の感想を端的に云うならば、恐ろしいの一語につきる。恐怖の念は今もなおつづいている。僕は太子の生涯に何の解決も悟りも求めなかった。ただ悲劇に堪えられた姿だけを出来るかぎり<ruby><rb>如実</rb><rt>にょじつ</rt></ruby>に描きたいと念じたのである。「悲劇からの誕生」という言葉を借りるならば、太子の信仰とはまさにそれであった。のみならずこの時代前後の天皇の博大な信仰は、すべて偉大な悲劇を母胎としていることを改めて痛感したのである。僕は太子の威徳を美しく伝えようとしたが、結果としてあらわれたところは壊滅の歴史であった。<ruby><rb>悽愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>な殉教の歴史であった。信仰は何故かように果のない血を<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>ぶのか。僕の恐怖感もこの点に発している。言説をもって解明出来ぬ。<ruby><rb>深淵</rb><rt>しんえん</rt></ruby>を長く<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>えば、深淵もまた<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>を窺うであろうということが恐ろしいのである。

「以和為貴」とは周知のごとく十七条憲法冒頭の言葉である。僕は戦争中この言葉を奉じて生きてきたと云っていい。太平洋戦争が始ったとき、或る雑誌から覚悟を問われたとき、僕は「以和為貴」を<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>って回答とした。戦争二年目にして再び同じ問いが発せられたとき、再びこの言葉を以って答えとした。三度問われてもやはり同じように答えたであろう。一国の敗北は、必ずしも外敵のために敗れるのではない。真の敵は常に内部にある。国内同族の<ruby><rb>相剋</rb><rt>そうこく</rt></ruby><ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>が致命傷となることは歴史の常識と云ってよい。太子の言葉も切実な体験に発していることは前に述べたとおりである。「以和為貴」とは、国家に対する最大の危険信号であった。

しかし「和」は、政治的平和だけを意味しているのではむろんない。太子の念じ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>える「和」とは超政治的な「和」、<ruby><rb>究竟</rb><rt>くっきょう</rt></ruby>「<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>」であったと思う。僕はこの一語に宿る深い夢を思いつづけた。それは万民の祈りを基石としてうち立てらるべき無形の理想国にちがいなかった。「世間虚仮、唯仏是真」と言われたときの「真」の国、浄土であり天寿国であったと申してもよいであろう。「和」とは<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>の見果てぬ夢だ。だが太子にとって、「和」は超政治的観念であるとはいえ、それは政治という現実の中の最も<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>な現実の<ruby><rb>只中</rb><rt>ただなか</rt></ruby>に実証されねばならぬものであった。涅槃は地上の悪を回避せる彼岸に求めらるべきでなく、地上の酸鼻そのものの裡に念ぜられる云わば誓願なのだ。「以和為貴」とは憲法の条文となる前にまず端的な祈りであり、仏の前、民の前に言い継ぎ語り継ぐべき誓願であったろう。その現実性を失うまいとしたところに、太子の異常な努力があったように思われる。

一切衆生は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く仏となる筈だが、しかし悉く仏となる時は来ない。人間の<ruby><rb>迷妄</rb><rt>めいもう</rt></ruby>は無限、地獄は永遠である。しかもその故にこそ誓願は絶えず、菩薩の夢は永遠なのではないか。これが太子の追究された大乗の急所であったと僕は信じている。太子が救世菩薩として仰がるる<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>は、救いや解決を現世に与え<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うたからではない。現世の<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>に身を投じ、救いも解決もなく、ただ不安に身を<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>えられたその<ruby><rb>捨身</rb><rt>しゃしん</rt></ruby>故にこそ菩薩として仰がるるのである。死ぬまで地獄と対決し、忍耐した、その救いのない深い憂苦の姿が、即ち後世の僕らにとっては生々とした救いとなるのではなかろうか。「以和為貴」という思想が、太子の心に何らの安心をももたらさなかったということが肝心だ。むしろ時代の<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>から出た<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>の言葉であった。大切なのはその解釈ではない。それを発言された折のあらゆる表情<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>を如実に想像する宗教的想像力である。僕は太子時代の歴史をかきながら、かかる想像力のいかに<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>至難であるかを痛感した。

太子の生涯を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りつつ、僕は今の世に生きて行く上での勇気を深く<ruby><rb>示唆</rb><rt>しさ</rt></ruby>された。仏教教義や憲法論と云ったものではない。時代に真向からぶつかって、時代に深く傷つくということだ。時代の深傷を生ま生ましく刻印され、その<ruby><rb>傷痕</rb><rt>しょうこん</rt></ruby>をして聖痕たらしめよ。これが太子の示唆されし最大の教訓であった。戦争に深く傷ついた人間は、平和にも同様に傷つくであろう。つねに適当な距離を保っている傍観者ほど憎むべきものはない。「自由」の名のもとに様々の批評が出てきた。他人の罪禍を列挙することも自由だ。あらゆる<ruby><rb>誹謗</rb><rt>ひぼう</rt></ruby>の声を放つことも可能だ。しかし何びとが深傷に<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いているだろうか。その呻きに僕は真の再生の声を聞きたい。

敗れた者は一切の重荷を背負わされる。この重荷の当否については弁解してみてもはじまらぬ。罰せらるることに小心翼々としているよりは、いっそ世界のあらゆる罪を自発的にひきうけた方がよい。侵略、<ruby><rb>残虐</rb><rt>ざんぎゃく</rt></ruby>、殺人、圧制、強奪――地上の罪禍を悉く背負って、日本は世界一の悪者となり、この自覚において再生の道を求めるがいい。こうした<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>の決意を僕は欲する。太子の開顕された大乗とは、かかる勇気をもたらすものではなかったろうか。日本人がもし偉大な民族であるならば、偉大な悲劇に堪えらるる筈だ。

＊

戦争の最中、僕は宗教的<ruby><rb>帰依</rb><rt>きえ</rt></ruby>心について考えっづけてきた。唯一者への全き帰依――この情熱が遺憾ながら僕にあっては不安定なのである。太子<ruby><rb>讃仰</rb><rt>さんぎょう</rt></ruby>の念に偽りがあるとは思っていないが、しかしそれを<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一筋の道として進むことを<ruby><rb>阻</rb><rt>はば</rt></ruby>むものがあるのだ。僕は時々陶器<ruby><rb>蒐集家</rb><rt>しゅうしゅうか</rt></ruby>として著名な或る友人を訪れ、様々の陶器をみせて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>うのだが、僕はそれらを比較し鑑賞する。必ず比較するのだ。この比較癖が<ruby><rb>頑固</rb><rt>がんこ</rt></ruby>な習性となって、僕らの信仰や愛情を知らず知らずの裡に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めているのではなかろうか。一つの<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>を熱愛し、この唯一つにいのちを傾けるだけの時間をもたぬ。他の二三の茶碗を手にとって、素早く比較し、比較において<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>うという態度には、近代人の致命的な弱点がひそんでいるのではなかろうか。

僕は近頃、博物館について<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>疑惑を抱くようになった。便利といえばこれほど便利なものはない。<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの時間で尊い遺品の数々に接することが出来る。しかし僕らは博物館の中で、何かしら不幸ではないか。東京の国立博物館でも、奈良博物館でも、法隆寺宝蔵殿でも、ふっと空虚な<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しさを感ずることがある。病院の廊下を歩いているような淋しさだ。僕ははじめそれが何に由来するかわからなかった。古仏が本来その在るべき仏殿から離れて、美術品としてガラスのケースに幽閉された時の淋しさはむろんある。だがケースに陳列してそれほど不自然にみえない筈の工芸品にしても、博物館にあると急に白々しくなる。この空虚とは何か。淋しさとは何か。僕は近頃になって、それが愛情の分散であることにはっきり思い当った。つまり博物館とは、愛情の分散を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いるようにつくられた近代の不幸なのではなかろうか。

僕らはこの不幸を、信仰の上にも思想の上にも、おそらく恋愛の上にも<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>っている。比較しつつ信仰する人間の信仰を信用出来るだろうか。比較しつつ愛する人間の愛情を信じうるだろうか。大和に散在する古寺を、僕らはいつのまにか博物館の一種として感じるようになったのである。僕らはもはや昔の人が感じるように古寺を感じてはいない。僕らの感じているのは、実は寺でなくて博物館ではないか。この無意識の<ruby><rb>変貌</rb><rt>へんぼう</rt></ruby>を僕は最も<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れる。信仰にとっては致命的だ。云わば神と仏の博物館を巡るといったような状態に知らず知らずの間に<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちて行くのではなかろうか。僕が戦争中に太子伝をかこうとした気持の中には、この状態に対する意識的な戦いがあった。自分の心中に唯一つ不抜の仏殿を<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>したいと願ったのである。

唯一者への全き帰依を阻むものとして、近代の知性を挙げてもよい。信仰という分別を超えた問題に面すると、僕の知性は猛烈な抵抗を開始するのだ。すべてを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界を心得ている筈だ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明しつくそうという欲求にかられるのである。現代人にとっては、こうした知的動きは<ruby><rb>賞讃</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>さるべきものらしいが、僕にとっては「罪」なのだ。比較癖とともにいつも自分を苦しめるのである。太子を仰ぎ、太子の生涯を究めながら、知性はそこに帰依することを妨げ、何かもっといいものが別の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>にたくさんあるように絶えず誘う。

知性は博物館の案内者としては実に適任であろう。だが信仰の導者としては「<ruby><rb>無智</rb><rt>むち</rt></ruby>」が必要だ。「無智にぞありたき。」と述懐した鎌倉時代の念仏宗のお坊さんの苦しみがわかるような気がする。人は<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>に、幾多の道を分別して進むことが出来る。しかし愚に、唯一筋の道に殉ずることは出来難い。冷徹な批判家たりえても、愚直な殉教者たりえぬ。そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではなかろうか。宗教や芸術や教育について、様々に<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>する自分の姿に<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>を感ぜざるをえない。「愚」でないことが苦痛だ。それともこんなことを言っている僕が、愚にみえるだろうか。

＊

平安末期から鎌倉時代へかけては、太子讃仰の念の<ruby><rb>勃興</rb><rt>ぼっこう</rt></ruby>した時代であるが、この頃の人の信心をうかがうと、実に「愚」で熱烈で真直ぐだ。今日からはとうてい信ぜられないような伝説を信じ、そこに一心<ruby><rb>帰命</rb><rt>きみょう</rt></ruby>して悔いなかった。僕らはいま太子に関する正確な史料を所有している。あらゆる考証はゆきとどいている。太子に関する知識では古人に数倍する筈だが、それに比例して「拝む」ことからは益々遠ざかって行くのは何故だろう。僕は夢殿への道を歩きながら、古人と僕らとの間にあるこの深い相違について<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>考えた。古人の太子奉讃は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">感謝</span>に始って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">帰依</span>に終っているが、僕らの太子奉讃は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">研究</span>に始って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">教養</span>に終る。古美術の本を携えて夢殿見物に出かける人は多いが、たとえば<ruby><rb>親鸞</rb><rt>しんらん</rt></ruby>の太子奉讃の和讃を心に<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えつつ<ruby><rb>参詣</rb><rt>さんけい</rt></ruby>する人は<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>であろう。

仏智不思議の誓願を、<ruby><rb>聖徳皇</rb><rt>しやうとくわう</rt></ruby>のめぐみにて、<ruby><rb>正定聚</rb><rt>しやうじやうじゆ</rt></ruby>に帰入して、<ruby><rb>補処</rb><rt>ふしよ</rt></ruby>の<ruby><rb>弥勒</rb><rt>みろく</rt></ruby>のごとくなり。

救世観音大菩薩、聖徳皇と示現して、多々のごとくすてずして、<ruby><rb>阿摩</rb><rt>あま</rt></ruby>のごとくそひたまふ。

無始よりこのかたこの世まで、聖徳皇のあはれみに、多々の如くにそひたまひ、阿摩の如くにおはします。

聖徳皇のあはれみて、仏智不思議の誓願に、すすめいれしめたまひてぞ、住正定聚の身となれる。

他力の信をえんひとは、仏恩報ぜんためにとて、如来二種の<ruby><rb>廻向</rb><rt>ゑかう</rt></ruby>を、十方にひとしくひろむべし。

大慈救世聖徳皇、父のごとくにおはします、大悲救世観世音、母のごとくにおはします。

<ruby><rb>久遠劫</rb><rt>くをんごふ</rt></ruby>よりこの世まで、あはれみましますしるしには、仏智不思議につけしめて、善悪・<ruby><rb>浄穢</rb><rt>じやうゑ</rt></ruby>もなかりけり。

和国の教主聖徳皇、広大恩徳謝しがたし、一心に帰命したてまつり、奉讃不退ならしめよ。

上宮皇子方便し、和国の有情あはれみて、如来の悲願を<ruby><rb>弘宣</rb><rt>ぐせん</rt></ruby>せり、<ruby><rb>慶喜</rb><rt>きやうき</rt></ruby>奉讃せしむべし。

<ruby><rb>多生曠劫</rb><rt>たしやうくわうごふ</rt></ruby>この世まで、あはれみかぶれるこの身なり、一心帰命たえずして、奉讃ひまなくこのむべし。

聖徳皇のおあはれみに、護持養育たえずして、如来二種の廻向に、すすめいれしめおはします。

この十一首は親鸞の太子奉讃和讃として伝えられるものだが、感謝と帰依を一心に述べている以外何もない。むろん今日の「理智」を満足せしめる<ruby><rb>底</rb><rt>てい</rt></ruby>のものではない。正直なところ、僕にしてもこの和讃を馬鹿らしく思ったことがある。しかし僕は、ここにかかれた言葉よりも、こういう思いを述べざるをえなかった親鸞の気持や<ruby><rb>人柄</rb><rt>ひとがら</rt></ruby>について、考えてみないわけにゆかなかった。愚に熱烈に、何が彼をしてかかる一筋の道を歩ましめたか。

この和讃を読んでいると、人世を渡るに<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>い人の深い苦悩が浮び上ってくるようである。僕は現代人を<ruby><rb>対蹠</rb><rt>たいしょ</rt></ruby>的に考えてみた。保身術にかけては、現代人ほど巧みに素早いものはおそらく過去になかったであろう。時代苦や人生苦から、素早く身をかわす術に、実に熟達しているようにみえる。しかし鎌倉人は鈍重であった。時代苦に打ちひしがれつつ、滅びるかにみえて滅びず、苦痛の底を無器用に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>いずり廻って、やがてのそのそと立ちあがる、おそろしくのろまでしかも<ruby><rb>強靱</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>な力があったようだ。苦悩に対する持続的な忍耐力をもって、云わば心ゆくまで時代に傷ついたのだ。決して器用な世渡りなぞ出来なかった。堕ちたるものの呻きが、はじめて<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>をよび、感謝と帰依に一切を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>すのは当然ではなかろうか。親鸞の和讃のごとき一種の<ruby><rb>相聞</rb><rt>そうもん</rt></ruby>と云ってよい。「<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして<ruby><rb>已</rb><rt>すで</rt></ruby>に聞くことを得たり。」（<ruby><rb>教行信証</rb><rt>きょうぎょうしんしょう</rt></ruby>）といった邂逅の歓喜は、苦悩の長い漂泊なくては得られないであろう。美術の本をかかえて夢殿へ行くためには何の苦悩もいるまい。

――昭和二十年秋――

  


## 法隆寺

  


## 初旅の思い出

この数年のあいだ幾たびとなく法隆寺を訪れたが、はじめての日の印象ほど感銘ふかいことはなかったようだ。私はいつもその日を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い起す。昭和十二年の晩秋、夕暮近く、木津川の奔流に沿うて奈良へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついたが、これが<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>への私の初旅であった。それまで大和の風光や古寺の美は聞いていたけれど、容易に訪れようとはしなかった。北国に育った私は東北地方や津軽海峡を渡るのをさして<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>に思わぬが、まだみぬ南の古都は、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かにとおく雲に<ruby><rb>隔</rb><rt>へだた</rt></ruby>った異郷のように感ぜられ、また早い青年時代の自分にとっては、古仏などあまり心にとめなかったのである。むしろ西欧の古典美術に<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れ、<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>へだけは是非とも行きたいと思っていた。<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシャ</rt></ruby>やルネッサンスの彫刻の方がはるかに私の心をひいたのである。

<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそれらの彫刻や像は、写真で知っているのみだったから、判断も<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>なものには相違なかったが、正直なところ、私は仏像にどうしても親しみえなかったのである。その主な理由は、仏像は人間を行為に誘う<ruby><rb>溌剌</rb><rt>はつらつ</rt></ruby>たる魅力にとぼしいということであった。仏像に対していると、彼は自らは語らず、私にのみ多くを語らせようと欲する。私は自分の生存について、環境について、苦悩について、限りなく彼に訴え問うことが出来るが、仏像の表情は何事も答えない。半眼にみひらいたこのものは、人をみているのか、人の背後の<ruby><rb>漠々</rb><rt>ばくばく</rt></ruby>たる空間をみているのか不分明である。人間を無視したような腹だたしいまでの沈黙が私を<ruby><rb>疎遠</rb><rt>そえん</rt></ruby>にさせた。仏は人間の行為をすべて無為に誘うのであろうか、その眼を見ていると、私はそこに<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>人間の神秘よりも野獣の神秘を見るのであったが、たとえばアポロ像に比して、これがより原始に、より自然に、母なる大地にむすびついている<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>なのでもあろうか。対自然的ではなく、即自然的に、行為よりは直観に依存して自得した人間の着座でもあろうか。希臘彫刻には対自然的に争闘し、行為し、時に敗北した人間の悲哀が宿っているように思われる。我々は彼と<ruby><rb>偕</rb><rt>とも</rt></ruby>に肩を組んでオリムポスの峰々を歩むことが出来る。そういう親しさが仏像にはない。あまりの沈黙と<ruby><rb>静謐</rb><rt>せいひつ</rt></ruby>、<ruby><rb>尨大</rb><rt>ぼうだい</rt></ruby>で奇怪な生命力――それに対すると、私は抱擁せずむしろ<ruby><rb>狐疑逡巡</rb><rt>こぎしゅんじゅん</rt></ruby>し警戒するのを常とした。生の<ruby><rb>讃歌</rb><rt>さんか</rt></ruby>を否定するのではないか――これが私の仏像への<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>であった。

奈良へ来てはじめてわかったことであるが、自分のこの感じは主として座像に関係していたようである。はじめどのような座像にも心をひかれなかった。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に巨大であればあるほど。しかし立像と<ruby><rb>半倚</rb><rt>はんい</rt></ruby>像の美しさは言語に絶した魅力をもって私を圧倒した。わけても法隆寺金堂に<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>する<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>観音は、仏像に対する自分の偏見を一挙にふきとばしてくれた。このみ仏の導きによって、私は一歩一歩多くの古仏にふれて行くことが出来たと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ってもいい。

はじめて法隆寺を訪れた日は、<ruby><rb>俄雨</rb><rt>にわかあめ</rt></ruby>の時折襲ってくる日で、奈良の郊外は見物人も少くひっそりと静まりかえっていた。雨の晴間には、透明に高い秋空があらわれ、それに向って五重の塔は鮮かな輪郭を示していた。金堂の内も外もこの日は落着いてみえた。私は塔をみあげながら金堂の後を<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>って、案内人に導かれつつ慎んで<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>の内へ入ったのである。<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>い堂内には<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の仏像が佇立し、<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>には無数の天人が奏楽し、周囲には<ruby><rb>剥脱</rb><rt>はくだつ</rt></ruby>した壁画があった。私はその一つ一つを丁寧にみようともせず、いきなり百済観音の前に立ったのである。<ruby><rb>橘</rb><rt>たちばな</rt></ruby>夫人念持仏の<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>を中心にして、左側に百済観音、右側に<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の<ruby><rb>聖観音</rb><rt>しょうかんのん</rt></ruby>が佇立していたが、それを比べるともなく比べて<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めながら、しかし結局私は百済観音ただ一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>に<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としていたようである。

仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>のように真直ぐ立っているのをみた<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔――いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも<ruby><rb>四肢</rb><rt>しし</rt></ruby>にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらのすべてを通った彼岸の、イデアリスティクな体躯、人間の最も美しい夢と云っていいか。殊に胴体から胸・顔面にかけて剥脱した白色が、<ruby><rb>光背</rb><rt>こうはい</rt></ruby>の<ruby><rb>尖端</rb><rt>せんたん</rt></ruby>に残った朱のくすんだ色と<ruby><rb>融</rb><rt>と</rt></ruby>けあっている状態は無比であった。全体としてやはり焔とよぶのが一番ふさわしいようだ。

これを仰いでいると、遠く<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の世に、はじめて仏道にふれ信仰を求めようとした人々の清らかな<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐな<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>を感じる。思索的で観念的であるが、それが<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だ内攻せず、ほのぼのと夢みているさまがおおらかである。他の推古仏と同じように、その顔も<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>下ぶくれで、<ruby><rb>古樸</rb><rt>こぼく</rt></ruby>端麗、少しばかり陽気で、天蓋の天人にもみらるる一種の童話的<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を宿している。顔面の剥脱して表情を失っているのも<ruby><rb>茫乎</rb><rt>ぼうこ</rt></ruby>として<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しい。同時に無邪気であり、生のみちあふれた<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びと夢想の純潔を示す。<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に佇立しているようだが、体躯は絶えず上へ上へとのびあがり、今にも歌い出さんばかりである。飛鳥びとの心に宿った信仰の焔を、そのまま結晶せしめたのだろうか。――私が長い間失っていた合掌の気持を、このみ仏がしずかによび<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましてくれたのであった。

私はまた千三百年前の民たちが、かような仏像をどんな心で拝したかを想像しないわけにはゆかなかった。<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>された当時の金堂は、目を奪うばかり<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる光彩を放っていたであろう。壁画も鮮かな色彩のままに浄土の<ruby><rb>荘厳</rb><rt>しょうごん</rt></ruby>を現出していたであろうし、百済観音も天蓋の天人も、おそらく極彩色で塗られ、ことによるとしつこいほど華麗なものだったかもしれぬ。民たちは新しい<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>に驚異し、<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>と恐怖と、あるいは懐疑の念をもってこの堂内にぬかずいたであろう。しかし、ふと頭をもたげて、<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>と香煙のたちのぼる間に、あのすばらしい観音の姿を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>したときの驚きはどんなであったろうか。彼らは我々のように無遠慮な批評がましい観察などしなかったにちがいない。合掌のあいまに、彼らもまた<ruby><rb>仏陀</rb><rt>ぶつだ</rt></ruby>のごとく半眼にひらいて陶酔したのではなかろうか。すべてが剥落し崩れて行くこの御堂に在って、<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>のそういう荘厳を私は幾たびも心に描いてみた。今はすべてが寂しく崩れようとしているが、後代に附与された一切の解説は<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しい。

＊

初めて奈良へ旅し、多くの古寺を巡り、諸々の仏像にもふれた<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>なのに、結局私の心に鮮かに残ったのは百済観音の姿だけであった。云わばこのみ仏を中心として、他の多くが群像としておぼろげながら眼に浮んでくる、そういう状態であった。私の初旅の思い出はつまりは百済観音の思い出となるのである。その頃夢殿は修理中であり、折あしく<ruby><rb>救世</rb><rt>くせ</rt></ruby>観音は拝することが出来なかったが、中宮寺の<ruby><rb>思惟</rb><rt>しゆい</rt></ruby>像も、薬師寺の聖観音も、三月堂も、高畑の道も、香薬師もみた。いずれも美しく、驚嘆と悦びの連続ではあったが、何故か初旅の後に、筆をとればつい百済観音の讃歌のみをかいてしまうような有様だった。その後、屡々大和を訪れるようになってから、次第に自覚してきたことであるが、多くの古寺、諸々の仏像を同じような態度で見て廻り観察することは、つまり自分の心にそぐわぬのだ。一度の旅には、ただ一つのみ仏を。そこへ祈念のために一直線にまいるという気持、私はいつのまにかそれを正しいとするようになった。尤もついでに（ついでにと申しては他のみ仏に失礼であるが）多くをみるけれど、その旅に念ずるものは<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一つ。現在の私はそうである。

初旅の思い出を百済観音の思い出とする私は、また次のような感想をかいたこともある。昭和十三年の春、雪に埋れた自分の故郷で、前年はじめてみたこのみ仏を思い出しながら。

＊

百済観音の前に立った刹那、<ruby><rb>深淵</rb><rt>しんえん</rt></ruby>を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>うような不思議な旋律がよみがえってくる。仄暗い御堂の中に、<ruby><rb>白焔</rb><rt>はくえん</rt></ruby>がゆらめき立ち昇って、それがそのまま永遠に凝結したような姿に接するとき、我々は沈黙する以外にないのだ。その白焔のゆらめきは、おそらく飛鳥びとの苦悩の旋律でもあったろう。美術研究のために大和を訪れるなどは末のことで、仏像は拝みに行くものだと、そのときはじめてこの単純な理を悟った。私は信仰あつい仏教徒ではない。しかし茫然と立って、心の中ではつい拝んでしまうのである。

私は小さい時からカソリック教会堂の隣りで育った。長崎や下田とともに日本で一番古い開港場だった北方の私の故郷は、早くから雑多な外人の居留地であった。したがって様々の教会がいまなお残っている。隣りがローマ・カソリックで、その隣りがロシア系のハリストス正教会、その前に英国系の聖公会があり、少し坂を下るとアメリカ系のメソジスト教会があると云った風で、私は幼少年時代をかような環境で過した。それで屡々近隣の教会へ遊びに行った。カソリック教会堂の裏庭は<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>になっていて、そこに<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>があり、等身より稍々小さいマリアの像が安置されていた。<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>受苦聖母という像で、<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>をあわせながら眼を天へ向けて祈っている姿である。そのすらりとした姿態や、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の長くのびた衣のひだの美しさなどは、子供心にも神々しく感じたものである。

百済観音を眺めながら、私はふとこの受苦聖母を想い出した。肩から腕、胸から胴へかけての清らかさや、下肢に添うて柔かに垂れている絹布のひだなどは、<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>るよく似ていた。しかし百済観音は何ものにも祈っていなかった。これは受苦観音ではない。おおらかな微笑を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて地上を<ruby><rb>闊歩</rb><rt>かつぽ</rt></ruby>しそうな姿態である。神韻<ruby><rb>渺茫</rb><rt>びょうぼう</rt></ruby>たる一の精神が、人間像に近接しながら、しかも離れて何処へとなくふらふらと歩いて行くような姿だ。天蓋の天人にもみられる童話的挙措である。顔の<ruby><rb>面長</rb><rt>おもなが</rt></ruby>な天人が、<ruby><rb>琵琶</rb><rt>びわ</rt></ruby>をかかえている姿をみると、「行く春やおもたき琵琶の抱きごころ」という<ruby><rb>蕪村</rb><rt>ぶそん</rt></ruby>の句を思い出す。有難く近よりがたいが、同時に春風<ruby><rb>駘蕩</rb><rt>たいとう</rt></ruby>として楽しいのである。

マリアの像にはかような<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>は絶無だ。<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>教徒は、受苦聖母の前でどんな祈りを<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げるのであろうか。文学の上で私の知っているところでは、「ファウスト」第一部にグレエトヘンのささげる美しい祈りの言葉がある。「<ruby><rb>痛</rb><rt>いたみ</rt></ruby>おおきマリア様、どうぞお<ruby><rb>恵</rb><rt>めぐみ</rt></ruby>深く、お顔をこちらへお向け遊ばして、わたくしの悩みを御覧なされて下さいまし」という句に始まる<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>は哀調にみちた美しい祈りであると思う。実際、洞窟の中に天を仰いで佇立しているマリアを眺めると、何かしら心が痛んでくる。受苦聖母はその運命のゆえに、人間を<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>と悲哀に誘うのだろうか。<ruby><rb>磔刑</rb><rt>たっけい</rt></ruby>になったキリストの像はみていて気持のいいものではない。ああいう激烈さ、残酷さ、あらわな受難の表情を和げるために、中世はマリア像を<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら礼拝し、マリアを通してキリストを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>んだと、<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る本で読んだことがある。磔刑を眺める人間は祈りを忘れて殺気だつのかもしれぬ。そうした危険は、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>はマリアによって悲しく静められたのでもあろう。しかしその代り、マリア像は、人間に内攻する精神をもたらしたのではなかろうか。

百済観音をみて心<ruby><rb>愉</rb><rt>たの</rt></ruby>しくなる理由のひとつは、近代に激しい内攻症を根絶してくれる点にある。私はそう思う。これを忘却の精神と呼んでもいい。百済観音は、異邦の神々にもましてレエテの河の水浴に通達していたのかもしれぬ。私の勝手な空想ではあるが、ともあれこのみ仏は一切を忘れさせる力をもっている。マリアは一切を思い出させる力をもっている。既に<ruby><rb>恢癒</rb><rt>かいゆ</rt></ruby>したはずの傷までがまた<ruby><rb>疼</rb><rt>うず</rt></ruby>き出しそうだ。言うまでもなく私にとっては忘却の方が有難かった。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しこの世に大慈大悲というものがあるならば、それはすべての苦悩を、罪禍を、いな人生そのものをさえ忘れさせてくれる力にちがいあるまいと思う。

はじめて法隆寺にまゐり、

百済観音を拝して<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>める。

いづくより　来ませし仏か　敷島の　大和の国に　<ruby><rb>廬</rb><rt>いほり</rt></ruby>して　<ruby><rb>千年</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>へにける　けふ日まで　<ruby><rb>微笑</rb><rt>ゑみ</rt></ruby>たまふなり　床しくも　立ちたまふなり　ほのぼのと　見とれてあれば　長き日に　思ひ積みこし　<ruby><rb>憂</rb><rt>うれひ</rt></ruby>さり　安けくなりぬ　<ruby><rb>草枕</rb><rt>くさまくら</rt></ruby>　旅のおもひぞ　ふるさとの　わぎ<ruby><rb>妹</rb><rt>も</rt></ruby>に告げむ　青によし　奈良の都ゆ　玉づさの　文しおくらむ　朝戸出の　旅の門出に　送りこし　わがみどり<ruby><rb>児</rb><rt>ご</rt></ruby>も　花咲ける　乙女とならば　友禅の　<ruby><rb>振袖</rb><rt>ふりそで</rt></ruby>着せて　率ゐ行かむぞ　このみ仏に

反歌

<ruby><rb>現世</rb><rt>うつしよ</rt></ruby>は　めでたきみ代ぞ　<ruby><rb>平</rb><rt>たひら</rt></ruby>けく　<ruby><rb>微笑</rb><rt>ゑみ</rt></ruby>て<ruby><rb>在</rb><rt>お</rt></ruby>はせな　<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>みほとけ

――昭和十二年秋――

  


## 金堂の春

旅に出ると、自分や周囲のものの生命が平生にもまして不安に感ぜらるる。旅の前には様々の計画もたてるが、いざ<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>へ行って古仏に接すると、美術の対象として<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびらか</rt></ruby>に観察しようという<ruby><rb>慾</rb><rt>よく</rt></ruby>など消えてしまって、ただ黙ってその前に礼拝してしまう。拝んで一瞬すべてを忘却出来れば、それでいいではないか――私はそう思うことが多い。そうしている間だけ生の<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>たる不安から逃れられるような気がするのだ。しかしこの<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>がすぎると、今度は際限のない怠惰な気持におちいり、古寺巡りなどもう<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>になってしまう。その折の自分に、好ましく思われた野辺や、一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>の<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>像の前に<ruby><rb>坐</rb><rt>ざ</rt></ruby>して、ただわけもなく、うつらうつらと一日を遊び過していたい――そういう気持になる。身のおきどころもないような春の大和では、とくにこんな状態になる。

この春、ちょうど夕方であったが、木津川へさしかかる前、菜の花の咲き乱れた遠い<ruby><rb>涯</rb><rt>はて</rt></ruby>に、伊賀の古城が<ruby><rb>夕映</rb><rt>ゆうばえ</rt></ruby>をうけて紫色に燃えているのを見た。それは人の心を無限の虚無に誘うような状景であった。私は観世音菩薩の姿をぼんやり心に浮べてみたり、信仰のことなど考えていたが、それを押しのけるように、この風景は残忍な寂しさをもって迫って来た。夕暮の一きわ鮮かな色彩は、いまはいのちの燃焼のようにみえ、長く私の心に<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>った。

翌日法隆寺を訪れたときは、風がつよく金堂の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く閉ざされ、うす暗い堂内は一層暗くて壁画などは<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>どみえないような状態であった。私は一番先に<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>観音の前に立ってみた。妙に白っぽい姿が<ruby><rb>薄闇</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>のなかにすらりと立っていて、昨年の秋感じたようなほのぼのとした暖さがみられない。私は全く無感動のまま、これはどうしたことだろうと自分の心を疑ってみた。春のけだるさのためかもしれない。私の心は空虚であった。何かの信念を求め、過去から脱却しようとしてこの御堂に急ぎまいるときの心にのみ、百済観音が最初の救いとなるのであろうか。<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る情熱にとらわれているとき、はじめてあの漂うような精神の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>は、そのまま天啓ともなるのであろうか。だがきょうの私は怠けものであった。

ところがそういう私にとって、念持仏<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>の右側に立つ天平の聖観音像が、何となく親しみふかくみえてきたのである。百済観音に比すれば、天平のこのみ仏は、成熟した女体をうつしたように生ま生ましく人間に近い。顔は推古仏の<ruby><rb>面長</rb><rt>おもなが</rt></ruby>に比しまる昧を帯びているし、眼ははっきりと<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>んだ<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をもつ。胸も胴も腰部も、<ruby><rb>現身</rb><rt>うつせみ</rt></ruby>のようになまめいて、薄闇のなかに<ruby><rb>艶麗</rb><rt>えんれい</rt></ruby>な姿で立っている。あたかも金堂の壁画から抜け出してきたようにもみえる。この作者は、天平の美女に遠い<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>を祈念したのでもあろうか。信仰の心において<ruby><rb>創</rb><rt>つく</rt></ruby>りつつも、ふとそれを離れて、思わず美へ<ruby><rb>惑溺</rb><rt>わくでき</rt></ruby>した人のひそかな愉悦を、また<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>を、私は思わないわけにゆかなかった。夕暮の菜の花の色と、紫色に燃える伊賀の古城が再び思い出された。それがもたらす無気味な生の<ruby><rb>懈怠</rb><rt>けだい</rt></ruby>と<ruby><rb>頽唐</rb><rt>たいとう</rt></ruby>とを。そういう感じをどうあらわしたらいいものか。私の最も愛する東洋の詩人オーマア・カイアムの<ruby><rb>箴言</rb><rt>しんげん</rt></ruby>がこのみ仏にも余韻しているのではなかろうか。

「右手に<ruby><rb>聖典</rb><rt>コーラン</rt></ruby>をとり、左手に<ruby><rb>酒盃</rb><rt>しゆはい</rt></ruby>を持ち、正と邪との間に戦慄せよ。そのごとく我らは全く信仰の徒ともまた全く不信仰の徒ともならずして<ruby><rb>蒼穹</rb><rt>さうきゆう</rt></ruby>の下に坐すべきなり」

「我らは無窮を追ふ無益の探究を捨てなむ。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>うして我らの身を現在の歓楽に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねむ。<ruby><rb>竪琴</rb><rt>たてごと</rt></ruby>のこころよき音にふるふ長き黒髪に触れつつ」

「<ruby><rb>汝</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>は地の上を<ruby><rb>逍遥</rb><rt>さまよ</rt></ruby>ひ歩きぬ。されどすべて汝の知りしところのものは無なり。すべて汝の見たるもの、すべて汝の聞きたるものは無なり。たとへ汝は世界の涯より涯まで歩めばとて、すべてのものは無なり。たとへ汝の家の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に止まりたればとて、すべて在るものはみな無なり」

堂内はひっそりしていて、私以外には拝観者もいなかった。紫衣をまとった一人の老僧が、厨子にはたきをかけていたが、ぼんやり立っている私を見て、壇の上にあがってもいいという。私ははじめて多くの古仏を、その背後から触るるばかりに<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めることが出来た。聖観音の背から胴体にかけてのなめらかな美しさは、指でさわるとそこがはじけそうに思われるほど<ruby><rb>如実</rb><rt>にょじつ</rt></ruby>であった。<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて光悦作と伝えらるる船橋<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby><ruby><rb>硯筥</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>をみたときも、私はそれを指で押してみたい誘惑を禁じえなかった。あの漆黒のふっくらともりあがった硯筥が<ruby><rb>羊羹</rb><rt>ようかん</rt></ruby>のように柔くへこむ、その触感をためしてみたかったのであるが、いまもそうであった。木彫のくすんだ色彩は生身の肉体を感じさせる。そして永遠の沈黙がある。

老僧は壇の上をゆっくり歩みながら、私に色々説明してくれるのである。私は自分を囲む古代の像に<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としているのみだった。ふいに老僧は、「汝の敵もまた汝の恩人であると申しましてな」と言い出した。老僧は玉虫の厨子に描かれた「捨身飼虎図」を指さしているのだった。その言葉が私の心をときめかした。私の敵は私の恩人であったろうか。何が私をいまこの御堂へひきよせているのだろうか。自分の過ぎし方を一つ一つ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って行けば、苦りきってしまうより他にないのであるが、いまは何も考えたくなかった。昨年ここへ来た折は一つの願いがあった。自分は自分を忘れる必要があったのである。一切忘却の果にくる無上歓喜を百済観音は私に与えてくれた。私はそのことを感謝の念をもっていつも思い出す。しかし今日の私には何の願いもない。春のけだるさのままに、いささか億劫な気持で金堂へやって来たのである。怠惰な旅人には百済観音は何の恵みも与え<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>わぬのであろうか。だが天平の聖観音は、怠惰の日の私にとって、怠惰そのものが一つのふしぎな生命であることを語ったように思う。

――昭和十三年春――

  


## 宝蔵殿にて

古寺を巡るごとに、諸仏に対する私の感慨も次第に変ってくる。はじめての日のような素直な感動は少くなって、へんにいらだたしくなったり、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は不安を覚ゆるようなことが多い。どれほど美しく尊いものも、度重ねてみているうちには日常茶飯事になってしまうのだろうか。いつの間にか慣れてしまって、自分の感受性も鈍くなるのだろうか。しかしそうとばかり言えないものが私の心にわだかまってきた。古寺とはそもそも何だろう。たとえば大和の古仏が、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>自分の心にもたらした感銘とは一体何であったか。私は何のために古典の地をうろつき<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>っているのか。秋晴れの<ruby><rb>斑鳩</rb><rt>いかるが</rt></ruby>の里を歩みながら、ふと私はかような疑念にとらえられるのである。<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つては悦びであったものが何故私に不安な気持を抱かせたりするのだろうか。

はじめて古寺を巡ろうとしていた頃の自分には、かなり明らかな目的があった。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち日本的教養を身につけたいという願いがあった。長いあいだ芸術上の日本を<ruby><rb>蔑</rb><rt>ないがしろ</rt></ruby>にしていたことへの<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>に似た気持もあって、改めて美術史をよみ、<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシャ</rt></ruby>・<ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>からルネッサンスへかけての西洋美術とどう違うかということや、仏像の様式の変化とか、そういうことに心を労していたのである。仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ず希臘彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加をもくろんでいたのである。私においては、日本への回帰――転身のプログラムの一つに「教養」の蓄積ということが加えられていた。己の再生は、未知の、そして今まで顧みることのなかった古典の地で行われねばならなかった。古美術に関する教養は自分を救ってくれるであろうと。

だがはじめてみた<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の古仏は、「教養」を欲する乞食に見向きもしなかったということ――これは私のつねに感謝して想起するところである。美術品を鑑賞すべく出かけた私にとって、仏像は一挙にして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">唯仏</span>であった。半眼にひらいた<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざし</rt></ruby>と深い微笑と、悲心の挙措は、一切を放下せよというただ一事のみを語っていたにすぎなかったのである。教養の蓄積というさもしい性根を、一挙にして打ち砕くような<ruby><rb>勁</rb><rt>つよ</rt></ruby>さをもって<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>していた。本来人間は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く仏性をもつはずだ。<ruby><rb>迷妄</rb><rt>めいもう</rt></ruby>やまず罪禍にまみれようとも、むしろそれを縁として、本来具有する仏性を自覚することに一大事因縁がある。――何事も<ruby><rb>畏怖</rb><rt>いふ</rt></ruby>する<ruby><rb>勿</rb><rt>なか</rt></ruby>れ。――この深い秘義を身にひそめた仏像は、私にとってもはや美術品でなく、礼拝の対象となった。拝むということが見るということなのだ。かような思い出は他にも<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>記したところである。

＊

この秋法隆寺へ行って新たに完成した大宝蔵殿を拝観した。金堂の壁画は模写中であり、修理もはじまるとみえて、堂内の諸仏は多く宝蔵殿に移され、その他の仏像とともに<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く整備陳列された頃だった。しかしこの宝蔵殿ほど現代人の古仏に対する心理状態をあらわに示しているものはないように思われる。そこにまず看取されたことは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">仏と美術品との妥協</span>であった。美術品として鑑賞出来るように、つまり博物館式に陳列してあるが、同時に仏としての尊厳も無視しえないとみえて、まさに仏として拝することの出来るようにも並べられてある。この妥協から実にぎごちない構想が生れる。

たとえば<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>観音は仕切った一室にただひとり安置されてある。新しい<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>と<ruby><rb>蓮台</rb><rt>れんだい</rt></ruby>もつくられた。すべては美々しく<ruby><rb>粧</rb><rt>よそお</rt></ruby>われ、花も<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げられてある。このみ仏の崇高を思うものは、これほど手をつくして大切に保存されているのを当然と思うだろう。しかし<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>い金堂の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に佇立して、<ruby><rb>白焔</rb><rt>はくえん</rt></ruby>の燃え立ったまま結晶したようなあの時の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>はみられない。金堂の内部では何の手も加えられず、実にそっけなく諸仏のあいだに安置されてあった。ただ一体安置されるにしても、おそらく一切の装飾を去って、<ruby><rb>薄闇</rb><rt>うすやみ</rt></ruby>の中にすらりと立たしめるのが最もふさわしいであろうと私は考えていた。かような構想はむろんむずかしい。とくに宝蔵殿のような場所では<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>である。それにしても、いまのこの<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>り方は、あまりに人工的に過ぎはしないだろうか。尊ぶ気持はわかる。しかしそれが露骨に<ruby><rb>蕪雑</rb><rt>ぶざつ</rt></ruby>で、つまりは見てくれという示威的な要素が多分にふくまれているようだ。現在の法隆寺は自己の伝統にうぬぼれて、何事にも<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>をつけようとするあさましい寺になっている。その半面には見物人に<ruby><rb>阿</rb><rt>おも</rt></ruby>ねる卑屈な根性もみられる。これは法隆寺を訪れるたびに私のいつも感じる<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>だ。

百済観音のみならず、ガラスのケースの中にも多くの古仏は並べられ、造花が添えられ、<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>められているようにみえるが、また見世物式であることも否定出来ない。寺僧は必ずやこれらみ仏の前に礼拝するだろう。心から保存を念じているかもしれぬ。礼拝しつつ、だが一方では、古仏を美術品として鑑賞に来る「教養ある人々」の勿体ぶった顔にながし眼を使っているのだろう。これは私の邪推だろうか。「古典の復活」時代であるから、誰しも法隆寺を口にする。法隆寺は当代の人気を得ている。法隆寺の方では、その声に応じるがごとくすべてがアトラクション的になる。おそらく無意識の裡に異邦人の、<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は異邦人的な眼をもった教養ある日本人の好奇心と鑑賞を予定しているのだ。法隆寺は寺であるかショウであるか、私は疑わざるをえなかった。

宝蔵殿は新築されたばかりで木の香りも高い。設備も実に至れり尽せりである。そういう新しさが、千年を経た金堂の<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>になずんだ私にこんな思いをさせたのかもしれない。しかし根本は、仏像をそれが本来在るがままのものとして拝せんとする心を失った点に在るのではなかろうか、私にはそうとしか思えなかった。たとい宝蔵殿であっても、金堂や講堂におけるとひとしい雰囲気を努めて保存しなければならぬ。法隆寺が次第に見世物化して行く罪は誰にあるのか。私は自分も経過した一時期を悲しく思い浮べた。

古寺の美しさは、それが荒廃のまままさに崩れんとして行くところにあるというのは真実だ。荒廃を悲しむ心は誰にでもある。保存や再建を思うのは当然であろう。だがそれに手を加えることの重大さを我々はつい忘れ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い。崩れゆく文物を、崩れるままにしておくべきか、或は補修を加え博物館に陳列すべきか、私にはそういう経験がないが、いつも迷う。これはむずかしい問題である。崩れるままにしておけばやがて朽ち去るであろう。再び人の眼にふれることもない。しかし、掘り出して近代的設備の全き宝蔵や博物館に陳列保存されると、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちガラス張の<ruby><rb>牢屋</rb><rt>ろうや</rt></ruby>にとじこめられ、名札を添えられ、写真をとられ、批評され、胴上げされて見世物になり易い。やむをえぬことではあろうけれど、名もない荒寺の奥に千年の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>をかぶってひそむ<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>は失われる。そういう風情を失わずに、何げなく保存するには<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>い信仰と繊細な心が必要なのだが、そういう心もいまは途絶えがちである。これは当今すべての古典の扱い方について言いうるところではなかろうか。ひとり法隆寺のみの問題ではない。古仏を語ることすらいかに至難であるか。私は宝蔵殿の見世物式陳列ぶりをみて内心<ruby><rb>疑懼</rb><rt>ぎく</rt></ruby>たるものがあった。

＊

大和の古仏に接してから、経文をよみ、信仰について思いめぐらすようになったのも事実である。私はそれを有難いことと感謝している。<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>いくたびもこの地を訪れるであろう。だが一方において、信仰が、この美しい古典の地に遊ぶことによって深められるかという疑念が起ってきた。つまり私にとってそこが天国であるということが、何となく不安に感ぜらるるようになったのだ。崇高なものに絶えずふれておれば、おのずから人の心も崇高になるではあろう。古典を学ぶことによって、我々の心もひらかれるであろう。しかし、そのひらかれた<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の心が、自らを高しと感じ、古典の権威を自己の権威と錯覚するようになったらどうか。遺憾ながらこの錯覚から免れている人は<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>い。古典や古仏を語る人間の口調をみよ。<ruby><rb>傲慢</rb><rt>ごうまん</rt></ruby>であるか、感傷的であるか、勿体ぶっているか、わけもなく甘いか。これら一切を自分の心から放下すること、換言すれば古典によって与えられた自己への幻想を<ruby><rb>根柢</rb><rt>こんてい</rt></ruby>から打ち破ること、私の心はそういう方へ傾いて行ったのである。

私は今まで大和の古寺を巡りながら、追放された自己を感じたことなぞ一度もなかった。いつも何かによって救いあげられ、高められる己だけしか感じなかったのであるが、これは仏恩というものなのか、それとも仏に対する私の<ruby><rb>阿諛</rb><rt>あゆ</rt></ruby>であるのか。後者の心がなかったとはいえない。古典が救いになる、などとはかりそめに<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えぬことだ。人間は出来るだけ早く安心や救いがほしい。そういう人間自身の弱さに古典が<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の化粧となり、しかも徹底してこの惑いから<ruby><rb>脱</rb><rt>のが</rt></ruby>れるのは至難なのである。誰しも古典の<ruby><rb>峻厳</rb><rt>しゅんげん</rt></ruby>について言う。だがその峻厳さはつねに無言である。かりそめの世評には気も転倒せんばかりの我々も、古典の無言の峻厳さには、つい<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れを忘れて甘えがちなのである。

この秋の大和の旅で、真実のところ私の心から離れなかったものはシベリアの<ruby><rb>流刑人</rb><rt>るけいにん</rt></ruby>達の姿であった。或はサガレンまで行ったチェーホフや、奥の細道という殺風景きわまる<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>を歩いて行った<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>の姿や、また越後に流された<ruby><rb>親鸞</rb><rt>しんらん</rt></ruby>のことなどであった。私は政治的意味で云うのではないが、彼らは追放された人々であった。自分で自分を追放した人と云ってもよかろう。云うまでもなく彼らは古典を極めた人々であったが、何故<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>に極北の地へ向ったのであるか。心の旅として考えれば、人間の業の極まる処へ自ら求めて行った人のごとくにも思える。つまり天国をとらず地獄へ赴いたのだ嘗つては斑鳩の里も「極北の地」であった。そこに流された人生苦の血はいまいずくぞ。――<ruby><rb>明媚</rb><rt>めいび</rt></ruby>な風光と新式の宝蔵殿は一切を居心地のよい観覧地と化してしまった。これが人生の常なのかもしれないが、私にとっては何となく不安なのである。

大和古寺を巡るにしたがって、私の心に起った<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いとはつまりこうだ。代々の祖先が流血の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>を見て廻るものの不安と云ったらいいか。何故こんなに多くの仏像が存在するのだろう。三千年のあいだ、諸々の神仏あらわれて、人々の祈りに答え、また美しい祈願の果の姿となって佇立している。かくも見事な崇高な古仏がたくさん<ruby><rb>列</rb><rt>なら</rt></ruby>んでいて、しかも人間はいつまでも救われぬ存在としてつづいてきた。どちらを向いても仏像の山、万巻の経典である。古来幾百人の聖賢は人間のため道を説き血を流した。いま我々はその墓場を訪れ、どうかしてこの現世の大苦難を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けきる道を示し<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>えと祈るのであるが、そして素晴しい啓示や<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>に接し、日々その言葉を用いるのであるが、苦難は更に倍加し人間は何処へ行くべきかを知らない。古典を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>け継ぐとは、つまりは地獄を承け継ぐことなのか。はじめ古典はその甘美と夢によって我らを誘うであろう。だが、汝等固有の宿命に殉ぜよという追放の宣言がその最後の言葉となるのではなかろうか。

かくも無数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、更にまた苦しんで行く。仏さまの数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう。一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>の像、一基の塔、その<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずえ</rt></ruby>にはすべて人間の悲痛が白骨と化して埋れているのであろう。久しい歳月を経た後、大和古寺を巡り、結構な美術品であるなどと見物して歩いているのは実に<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>なことである。

――昭和十六年秋――

  


## 鳥仏師

法隆寺の金堂の本尊は<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うまでもなく正面に安置せられてある<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>像であって、作者が<ruby><rb>鞍作鳥</rb><rt>くらつくりのとり</rt></ruby>（又は<ruby><rb>止利</rb><rt>とり</rt></ruby>）なることは<ruby><rb>光背</rb><rt>こうはい</rt></ruby>銘文によって明らかである。現在その右方に<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>す薬師<ruby><rb>如来</rb><rt>にょらい</rt></ruby>像も鳥の作と推定されているが、元来このみ仏が本尊であったのを、<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>への思慕と釈迦像の荘厳の故に後世置きかえられたと云われる。しかしいずれにしてもこの二体は、<ruby><rb>飛鳥仏</rb><rt>あすかぶつ</rt></ruby>の典型たるのみならず、法隆寺創建の由来と太子<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>を正確に伝える無比の記念として、光背銘文とともに<ruby><rb>周</rb><rt>あまね</rt></ruby>く認められているところである。

薬師像の銘文は次のごとくである（訓読及び主旨は高島米峰氏に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>る）。

<ruby><rb>池辺</rb><rt>イケベ</rt></ruby>大宮<ruby><rb>治</rb><rt>シロシメス</rt></ruby><ruby><rb>天下</rb><rt>アメノシタ</rt></ruby>天皇。<ruby><rb>大御身</rb><rt>オホミミ</rt></ruby><ruby><rb>労</rb><rt>ヤミ</rt></ruby>賜時。<ruby><rb>歳次</rb><rt>トシハヤドレル</rt></ruby>丙午年。召於大王天皇<ruby><rb>与</rb><rt>ト</rt></ruby>太子而誓願賜。我大御病太平欲坐。故将造寺薬師像作仕奉詔。然当時崩賜。造不堪者。<ruby><rb>小治田</rb><rt>ヲハリダ</rt></ruby>大宮治天下大王天皇及東宮聖王。大命受賜而。歳次丁卯年仕奉。

〔池辺天皇、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち太子の御父用明天皇が御悩重らせ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>いしとき、それは<ruby><rb>丙午</rb><rt>ひのえうま</rt></ruby>の年、天皇の元年（紀元一二四六、太子十三歳）のことであったが、大王天皇即ち推古天皇と、太子すなわち聖徳太子とを親しく召されて「我が大御病の太平ならんことを<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>うために、寺と薬師如来の像とを造り奉仕せよ」と仰せられたが、その翌年崩御あり、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に造立することが出来なかったので、小治田の大王即ち推古天皇と東宮の聖徳太子とが、この大命を奉じて、<ruby><rb>丁卯</rb><rt>ひのとう</rt></ruby>の年、即ち推古天皇の十五年に至って、造立の御志を果された。〕

釈迦像の銘文は次のごとくである。（同上）

法興元卅一年。歳次辛巳十二月。鬼前大后崩。明年正月廿二日。上宮法王枕病<ruby><rb>弗</rb><rt>ズ</rt></ruby><ruby><rb>念</rb><rt>ヨロコバ</rt></ruby>干食。王后仍以労疾。並着於床。時王后王子等及与諸臣。深懐愁毒。共相発願。仰依三宝当造釈像寸王<ruby><rb>身</rb><rt>ナルモノヲ</rt></ruby>。蒙此願力。転病延寿。安住世間。若是定業。背世者。往登浄土。早昇妙果。二月廿一日癸酉。王后即世。翌日法王登遐。癸未三月中。如願敬造釈迦尊像並挟持及荘厳具竟。乗斯微福。信道知識。現在安穏。出生入死。随奉三主。紹隆三宝。遂共彼岸。普遍六道。法界含識。得脱苦縁。同趣菩提。使司馬鞍首止利仏師造。

〔法興元三十一年、即ち推古天皇の二十九年十二月の某日に、太子の御母<ruby><rb>間人</rb><rt>はしひと</rt></ruby>太后が崩御になり、その明年即ち推古天皇の三十年正月二十二日に、太子が御病気になられて、食事を<ruby><rb>念</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び給わず、太子の正妃、<ruby><rb>膳大刀自</rb><rt>かしわのおおとじ</rt></ruby>（<ruby><rb>菩岐々美郎女</rb><rt>ぼききみいらつめ</rt></ruby>）が心労のあまりまた同じく重い病の床につかれた。重ねがさねの悲しむべき御事情に、他の三人の太子妃や諸王子達が、国の臣等と<ruby><rb>倶</rb><rt>とも</rt></ruby>に深い哀愁を<ruby><rb>懐</rb><rt>いだ</rt></ruby>き、諸共に発願して、三宝に祈念し、一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>の釈迦如来の像――太子と等身なるを作り、その<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>を以て、御病<ruby><rb>平癒</rb><rt>へいゆ</rt></ruby>、長寿安泰なるよう<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しまた<ruby><rb>定業</rb><rt>じょうごう</rt></ruby><ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>むなく薨去遊ばされるとしても、<ruby><rb>速</rb><rt>すみやか</rt></ruby>に仏の浄土に往生せられ、無上の仏果<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>に登られるようにと願った。しかし御二人とも御回春を見ずして、一カ月後の二月二十一日に膳大刀自が<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなられ、その翌二十二日には太子が薨去せられたのである。そして越えて三月中に、発願の如く釈迦<ruby><rb>牟尼</rb><rt>むに</rt></ruby>如来とその<ruby><rb>脇士</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>（薬王、薬上の二菩薩）と、三尊の像が完成し<ruby><rb>荘厳</rb><rt>しょうごん</rt></ruby>安置せられた。この功徳に乗じて、「信道知識」即ち同信同行の一類<ruby><rb>眷属</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>も、現世安穏、来世には生死を<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>して三尊に<ruby><rb>随</rb><rt>したが</rt></ruby>いまつり、不生不死なる<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>の彼岸に<ruby><rb>逍遥</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>せられ、しかも尽きざる功徳により、<ruby><rb>普</rb><rt>あまね</rt></ruby>く六道三界の衆生も諸共に苦縁を脱し、共に菩提に転向せしめられるであろう。この尊像は、司馬<ruby><rb>鞍</rb><rt>くらつくり</rt></ruby>の<ruby><rb>首</rb><rt>おびと</rt></ruby>、止利仏師をして造らしめたのである。〕

即ちこの二つの銘文によって、法隆寺が用明天皇勅願の寺であり、その御心を継いで推古天皇と太子の<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>されたところであることが明白となるとともに、太子薨去前後の事情も正確に知らるるわけである。わが国最古の金石文字として、歴史的に重要なことはむろんである。しかし同時に、造仏の動機はただ悲願あるのみという根本を告ぐる点で更に重大ではなかろうか。造仏における第一義の道はここに確定しているのである。

美的関心あるいは様式技術論のみをもって仏像に対することの不可は、誰しも一応認むるのであるが、悲願を体得するという困難のゆえに、つい我々は美術品としてのみこれをあげつらい<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い。そこに一見学問的にしてしかも無意味な比較研究が起る。<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby><ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の諸仏に比して、飛鳥仏の稚拙と固定性は美術家のすべてが論ずるところである。釈迦像にしても薬師像にしても、形式から云えば<ruby><rb>北魏</rb><rt>ほくぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>磨崖</rb><rt>まがい</rt></ruby>の像に起源していることは今日の定説と云っていい。浮彫であるから彫刻として未だ完全な立体性をもたず、ただ正面からのみ拝されるよう限定され、そこに堅くるしい制約の生じたことも<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もであろう。この磨崖から抜け出したものが、多くの歳月と国土を経て、わが国に伝わり、鳥によって多少の変更を加えられたのが本像であるという。後世の<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う彫刻性あるいは写実性を固執すれば、この二像のごとき決して<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>とはいえないのかもしれぬ。

しかし私は仏像における彫刻性あるいは写実性とは何か――今日美術家の説くところに対して多大の疑問をもつ。白鳳天平となれば、仏像は完全に立体性をもち、つまりは人体に近くなる。人体に近いほど我々に親しさをもたらすのも事実である。飛鳥の釈迦像よりも天平の聖観音の方が我々を喜ばしてくれる。更に三月堂や戒壇院の四天王像となれば益々面白い。この面白さとは、結局彫刻としての面白さであり、そこに写実性<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>人間性に立脚する古美術論が成立つ。これに接したときの我々の情感も、体躯の柔軟なくねりに応じて自由になるように思われる。これは仏像の進歩というものなのだろうか。信仰の発展というものなのだろうか。

だが私は最も始源の意味に――即ち第一義の道に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>りたい。仏師が仏を彫る<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>のものは、さきに述べた人間の悲願に発するのである。まずその根本へ還りたい。写実といったときの「実」とは即ち「仏」であって「像」ではない。仏像とは彫刻ではなく、一挙にただ仏である。これは大事な根本でなかろうか。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに現在用いられている写実という言葉は、人間性と<ruby><rb>聯関</rb><rt>れんかん</rt></ruby>した、言わば人間の「実」を写すという意味が非常につよい。人間の「実」を求めて、遂にそれを超えた仏の「実」に達したところを見るならば私も一応納得するけれど、古人が「仏」の「実」として写したものを、人体にひきおろして鑑賞する態度は果して正しいだろうか。「私」の美的<ruby><rb>恣意</rb><rt>しい</rt></ruby>に<ruby><rb>基</rb><rt>もとづ</rt></ruby>く鑑賞によって仏像を解しうるだろうか。信仰の上から云って<ruby><rb>冒涜</rb><rt>ぼうとく</rt></ruby>であるのみならず、あらゆる点から云ってそれは虚偽ではなかろうか。造仏本来の意味に反する。現代の古美術論の多くはこの虚偽の上に成立っているように思われてならない。

正直なところ私も長いあいた金堂の本尊に親しみをもてなかった。同じ飛鳥仏でも<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>観音や中宮寺の<ruby><rb>思惟</rb><rt>しゆい</rt></ruby>像のごとく、人体に近づいてくる仏像ほど心をひかれた。しかし仏が人体に近づくということは、我々人間が仏に近づくための一機縁であって、人体に落着くためではない。この自覚が<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>なとき、私は文学的空想に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れて行ったようである。つまり人体の彫刻というものは、それのみでは実に甘いものにすぎず、また自分も甘え易いのである。仏像をここまでひきおろして<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>める危険――要するに私はこれと戦ってきたようなもので、今でもそうである。金堂の本尊に親しみを感じえなかったのは、本尊の美的稚拙に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>るのではなく、自分の信心の幼稚に基くのであることが最近<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くわかった。厳粛なものは避けてとおりたかったのである。

鳥仏師は決して独創的な仏師ではなかったし、飛鳥時代の代表的彫刻家というような意識で造仏したのでもなかった。彼は驚くほど誠実に勅願を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>け、また太子の御心に服従した人である。御悲願を正しく心にとめて、北魏伝来の形式にそれを刻まんとしたのである。鳥の偉大さは、彼の全き<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>と服従にあると私は思っている。像においてはひたすら先人の作を模倣した。厳格に一つの手本を学び、自己の何ものをもつけ加えようとしなかった。彼はただ御悲願の完璧に盛られることを念じつつ<ruby><rb>創</rb><rt>つく</rt></ruby>ったのであって、あらゆる点で絶対服従のみが彼の最大美徳だったのである。法隆寺金堂釈迦像はそういう心情を見事に示しているのではなかろうか。

銘文にみらるる諸王諸臣の祈念に、おそらく鳥は全責任を感じたに違いない。その驚くべき緊張と畏敬と臣従と――「無私」が彼の名を不朽ならしめたと私は思っている。今日謂う彫刻性とか写実性とかいう言葉には全く無縁だったのだ。そういう純潔と厳しさは彼において頂点を示している。即ち造仏の根本動機における純粋性が彼のすべてであったのだ。信仰に段階はない。むろん進歩もない。それはいついかなる時代でも、一挙に頂点を示すものなのである。

鳥がこうした仏像をつくるに至った所以は、極めて明らかである。彼がいかに皇室の親任を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>っていたかは日本書紀からもうかがわれるのであるが、そこに一切の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>がある。

推古天皇の十四年五月、天皇親しく鳥に<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby>わった次のような<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>がある。

「<ruby><rb>朕</rb><rt>あ</rt></ruby>れ<ruby><rb>内典</rb><rt>ほとけのみのり</rt></ruby>を<ruby><rb>興隆</rb><rt>おこ</rt></ruby>さむと<ruby><rb>欲</rb><rt>おも</rt></ruby>ふ。<ruby><rb>方将</rb><rt>まさ</rt></ruby>に<ruby><rb>寺刹</rb><rt>てら</rt></ruby>を建てむときに、<ruby><rb>肇</rb><rt>はじ</rt></ruby>めて舎利を求めき、時に、汝が祖父<ruby><rb>司馬達等</rb><rt>しばたちと</rt></ruby><ruby><rb>便</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち舎利を<ruby><rb>献</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>りき。又国に<ruby><rb>僧</rb><rt>ほふし</rt></ruby>尼無し、是に於いて汝が父<ruby><rb>多須那</rb><rt>たすな</rt></ruby>、<ruby><rb>橘豊日</rb><rt>たちばなのとよひの</rt></ruby>天皇（用明天皇）の為に<ruby><rb>出家</rb><rt>いへで</rt></ruby>し、仏法を<ruby><rb>恭</rb><rt>つつし</rt></ruby>み<ruby><rb>敬</rb><rt>ゐやま</rt></ruby>ひたり、又汝が<ruby><rb>姨</rb><rt>をば</rt></ruby><ruby><rb>島女</rb><rt>しまめ</rt></ruby>初めて出家して、諸尼の<ruby><rb>導者</rb><rt>みちびき</rt></ruby>として、<ruby><rb>釈教</rb><rt>ほとけのみのり</rt></ruby>を<ruby><rb>修行</rb><rt>おこな</rt></ruby>ふ。今、朕れ、丈六の仏を造りまつらむが<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>に、<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>き仏の像を求む。汝が<ruby><rb>所献</rb><rt>たてまつれる</rt></ruby>仏の<ruby><rb>本</rb><rt>ためし</rt></ruby>、即ち朕が心に<ruby><rb>合</rb><rt>かな</rt></ruby>へり。又仏の像を造ること既に<ruby><rb>訖</rb><rt>をは</rt></ruby>りて、堂に入るることを得ず、<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の<ruby><rb>工人</rb><rt>たくみ</rt></ruby>計ること<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>はず、<ruby><rb>将</rb><rt>まさ</rt></ruby>に堂の戸を<ruby><rb>破</rb><rt>こぼ</rt></ruby>たむとせり。然るに汝、戸を<ruby><rb>破</rb><rt>こぼ</rt></ruby>たずして入るることを得つ。此れ皆汝が<ruby><rb>功</rb><rt>いさをし</rt></ruby>なり。」

これによって明らかなように、鳥は帰化人司馬達等の孫にあたるが、祖父より代々朝廷に仕えて仏法のためにつくした<ruby><rb>家柄</rb><rt>いえがら</rt></ruby>である。その臣従を<ruby><rb>嘉</rb><rt>よみ</rt></ruby>し、鳥の功を賞して、この詔とともに<ruby><rb>大仁</rb><rt>だいにん</rt></ruby>の位を賜わり、また<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>国坂田郡の水田二十町を下された。鳥はその田を私せず、天皇のために更に金剛寺を建立したと伝えられている。金堂の釈迦像もかような心情を無視しては真に解することは出来ないであろう。推古天皇と上宮太子、及び鳥仏師との間の信仰に結ばれた君臣の情が、あの無比の畏敬となってあらわれたのであろう。しかし、釈迦像には感傷的な何ものもない。おそらく鳥の、「私」を滅却した全き帰依が然らしめたのである。

――昭和十七年秋――

  


## 中宮寺

  


## <ruby><rb>思惟</rb><rt>しゆい</rt></ruby>の像

<ruby><rb>夢殿</rb><rt>ゆめどの</rt></ruby>をめぐって中宮寺の庭へさしかかると、あたりが一層森閑としてくる。法隆寺に群る<ruby><rb>参詣人</rb><rt>さんけいにん</rt></ruby>達もここまでは足をのばさぬのであろう。<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のたちのぼる暖かい春の日で、何をみてもけだるく疲れ<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>かったが、ひっそりしたこの庭に行ったとき、はじめて心のひきしまるのを覚えた。中宮寺はもと太子の御母君<ruby><rb>間人穴穂部</rb><rt>はしひとのあなほべの</rt></ruby>皇后の宮であり、皇后崩じ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>いし後尼寺にしたという。今に残る中宮寺は古建築物一つなく、寺というよりは高貴な方の邸宅にも似た新しい御堂があるばかりである。遠い<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>時代に、四天王寺や法隆寺が<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>されるまでは、おそらく仏像は各氏族の邸内にこのようにして<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>られたのであったろうと<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しく思われた。玄関までの玉砂利も<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に掃き清められて、尼寺にふさわしく、<ruby><rb>楚々</rb><rt>そそ</rt></ruby>たる感じにあふれていた。

玄関の呼鈴を押すと、ずっと奥の方から娘らしい<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な声がつたわってきた。<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く待っていたけれどなかなか出てこない。耳をすますと、ずっと奥の方で鈴をふるような音が聞えるので、<ruby><rb>勤行</rb><rt>ごんぎょう</rt></ruby>の最中でもあろうかと思ったが、それは中宮寺の後の野辺から立ちのぼって頭上はるかに<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>っている<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>の声であった。空高くかすかに鈴を振るような<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>き声をきいていると、ふと童話の国へ来たように思う。やがて十六・七のずんぐり太った尼僧があらわれ、<ruby><rb>脇</rb><rt>わき</rt></ruby>のくぐり戸をあけて本堂の方へ導いてくれた。白砂を敷きつめた堂前の庭は、春の光りを一杯に吸って美しく輝いていた。冷酷なほどの静けさのなかに、<ruby><rb>木蓮</rb><rt>もくれん</rt></ruby>の花が白く咲き乱れている。私ははじめて有名な<ruby><rb>如意輪</rb><rt>にょいりん</rt></ruby>観音の思惟の御姿をみたのであった。

深い<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>の姿である。半眼の<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざし</rt></ruby>は夢みるように前方にむけられていた。<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>うつむき加減に腰かけて右足を左の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上にのせ、更にそれをしずかに抑えるごとく左手がその上におかれているが、このきっちりと締った安定感が我々の心を一挙に<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めてくれる。厳しい法則を柔かい線で表現した技巧の見事さにも驚いた。右腕の方はゆるやかにまげて、指先は軽く<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にふれている。指の一つ一つが<ruby><rb>花弁</rb><rt>はなびら</rt></ruby>のごとく繊細であるが、手全体はふっくらして豊かな感じにあふれていた。そして頬に浮ぶ微笑は指先がふれた<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>おのずから<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き出たように自然そのものであった。飛鳥時代の生んだ最も美しい思惟の姿といわれる。五尺二寸の像のすべてが比類なき柔かい線で出来あがっているけれど、弱々しいところは<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>もない。指のそりかえった<ruby><rb>頑丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な足をみると、生存を歓喜しつつ大地をかけ<ruby><rb>廻</rb><rt>まわ</rt></ruby>った古代の娘を<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>せしむる。その瞑想と微笑にはいかなる苦衷の<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>もなかった。

一切の惨苦を征服したのちの永遠の微笑でもあろうか。いま春の光りが<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>とこの姿を照らして、漆黒の全身がもえあがらんばかりに輝いてみえる。私は飛鳥より大化改新を経て<ruby><rb>壬申</rb><rt>じんしん</rt></ruby>の乱にいたる<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>たる時代を顧み、その頃の人のひそかな祈念と<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>をこのみ仏に思わないわけにゆかなかった。この微笑に伏して悔いることなかったものこそ、或る意味で真の勝利者ではなかったろうか。

＊

中宮寺の如意輪観音は、実は<ruby><rb>弥勒菩薩</rb><rt>みろくぼさつ</rt></ruby>であろうという説を読んだことがある。その有力な根拠として、たとえば<ruby><rb>野中寺</rb><rt>やちゅうじ</rt></ruby>の同じ形式の<ruby><rb>半跏</rb><rt>はんか</rt></ruby>像に「奉弥勒菩薩也」と銘記されていることが指摘されている。また<ruby><rb>太秦</rb><rt>うずまさ</rt></ruby>広隆寺の同じ形式の像も、寺の旧記には弥勒菩薩とあるそうで、中宮寺のこの本尊もしたがって同じ名で呼ばれはじめているようだ。この問題は美術史家にとっては常識なのだが、私は植田寿蔵博士が「夢殿」第十七<ruby><rb>輯</rb><rt>しゅう</rt></ruby>に発表された研究を面白く思っている。菩薩像の姿態は、その菩薩の説く<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>の意義を何らかの形であらわそうとしていることは当然であって、弥勒の頬に指先をふれている挙措はむろんこの菩薩の願を語る。しかし如意輪観音にもまた同じような挙措があり、博士は「第一手思惟、<ruby><rb>愍念</rb><rt>びんねん</rt></ruby>有情故」という如意輪菩薩観門義注秘訳の一句をあげ、中宮寺の像が必ずしも弥勒と断定し難い<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>を述べておらるるのである。如意輪観音本来の姿は、<ruby><rb>六臂</rb><rt>ろっぴ</rt></ruby>如意というとおり腕が六本あるが、そのうちの一手が軽く頬にふれていることは観心寺の像をみたとき私もはじめて知った。この頬にふれた一手の意味を、本質的なものとして含め強調したのが中宮寺の思惟像だという。そう断定する確実な資料はないが、精神においてはそうに違いないと博士はいう。私が博士の研究文に感心したのは、この間の考証自体よりも、考証をとおして語られたこの像への<ruby><rb>讃嘆</rb><rt>さんたん</rt></ruby>がいかにも柔軟に美しかったからであるが、私自身は観音さまが大好きであるという単純な理由のもとに、なおさら同感したのであった。

野中寺の弥勒菩薩も一度拝観したいと思っていたが、その後偶然の機会にみることが出来た。しかしこの像には感心しなかった。頬にふれた指が、中宮寺の如意輪観音のごとくつつましく内側にむかっているのではなく、ぎごちなく外面にむいている。したがって<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>全体がむきだしになり、そのため思惟の心が浅いものにみえるのである。作者の信仰が粗放であることを語っているように思えた。また観心寺の如意輪観音も拝観したけれど、その奇怪さには、面白くは感じたが、有難いとは思わなかった。六臂如意の意味をそのまま忠実に具体化して、六本の腕を与え、各々の威神力を示そうとした結果<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って感銘が薄くなったのではなかろうか。成程<ruby><rb>均斉</rb><rt>きんせい</rt></ruby>はとれているが、なまめかしい<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>をみるようで尊厳さがない。この像を拝した人の心理は私には不可解である。ところが中宮寺の像は、かような観音のもつ一つの面だけを美しく柔軟に理想化したのであろう。そこに輝いた作者の<ruby><rb>叡智</rb><rt>えいち</rt></ruby>を、私も植田博士と同じく讃美したい。

私はまた奈良帝室博物館でみた岡寺の小さな如意輪観音像を思い出した。豊かな頬と、夢みるような<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>や<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>をもったこのみ仏は、実に可憐で、小仏中の傑作と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>わるるのも当然であろう。瞑想をとおり越して、あどけなく眠っているようにみえる。その前に伏して念ずるよりも、平生机の上にでも安置して、時々頬を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてあげたい――そう思うほど親しい印象をうけた。そうしているうちに童心を与え給うのが、このみ仏の慈悲なのかもしれない。だが思惟の像としては、あまりに<ruby><rb>可愛</rb><rt>かわい</rt></ruby>くて、いまにも絶えいるばかりのはかなさを感じさせる。

中宮寺の像は、その大いさにもよるが、うける感じが<ruby><rb>勁</rb><rt>つよ</rt></ruby>く<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しいのである。つまり思惟は眠れるごとくみえても、直ちにそれを実践に移しうるような頑丈な<ruby><rb>下肢</rb><rt>かし</rt></ruby>によって支えられていること、逆にいえば、大地に根をおろして、その上で<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>の果までも漂い行かんとする思惟、この調和が私にはすばらしく思われたのだ。前にも述べた下半身の安定感――これがなかったならば思惟の挙措は決してその深みをあらわすことが出来なかったであろう。広隆寺の同じ形式の像が実に美しいことは私も認めるが、あの思惟にどこか弱さが感ぜられるのは、下半身の安定感に欠くるところがあるからではなかろうか。とくに右足を左の膝の上にのせ、更にそれを抑えるように置かれた左手がぎごちなく思われる。抑える力――静かだが<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>もきっちりと締める微妙な一点――あの大事な左手を刻みそこなったのである。信仰ではなく、却って彫刻家意識がこの誤りを招いたのかもしれない。

私は様々の仏像を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>し<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>って品さだめするなどは、実に堕落であり恐縮であると思っているが、中宮寺思惟像の無比なる所以を語ろうとしてついこんなことになってしまった。

＊

ところで西洋人がつくった様々の彫刻のなかで、とくに思惟の像とも云いうるのは何か。それは比較しうべきものなのであろうか。私はふとロダンの「考える人」を思い出した。そしてこの二つをいつとはなく比べて考えるようになった。如意輪観音が「男にも<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>ず女にも非ざる」一切諸法を具現しつつ、なお清純な乙女を彷彿せしむるのに対し、ロダンの「考える人」は男性中の男性である。中宮寺の思惟像はわずかにうつむいているが、「考える人」は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど倒れるばかりに面を伏せて、頑健な右腕が<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をぐっと支えている。身もだえするごとく右肩を内側にひきしめ、全身の筋肉がふしくれだってそのまま凝結したようにみえる。あの写真をみて私のうけた感じを一口に云えば、思惟の<ruby><rb>苛烈</rb><rt>かれつ</rt></ruby>さということだった。これが思想というもののもつ受難の相であろうか。顔面は極度に緊張し、思惟の重圧に額が破れるかと思われるばかりだ。右のこぶしで下からぐっと抑えられた顎の二重の筋肉には、何か強烈な苦悩が宿っているように思われる。これが西洋の思索する姿の典型というものだろうか。ほのぼのと<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>うがごとき瞑想の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>はどこにもみられぬ。<ruby><rb>峻厳</rb><rt>しゅんげん</rt></ruby>な論理を追求して身も世もあらぬ苦しみの<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>だ。しかし飛鳥の思惟像には、思惟することによる受難の表情は微塵もない。<ruby><rb>豊頬</rb><rt>ほうきょう</rt></ruby>をもつ美少女のごとく、口辺には微笑すら浮べている。この差異はどこから来るのだろうか。思惟の対象に深浅があるわけではない。どちらもその眼差の前方に<ruby><rb>流転</rb><rt>るてん</rt></ruby>しているのは<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な地獄である<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ。

「我を過ぎて憂愁の都へ、我を過ぎて<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごふ</rt></ruby>の憂苦へ、我を過ぎて滅亡の民へ……一切の希望を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てよ、<ruby><rb>汝</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>等ここに入る者」――この地獄篇の歌が「考える人」に余韻しているとすれば、わが如意輪観音の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にも「<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の子等は<ruby><rb>火宅</rb><rt>ひのいへ</rt></ruby>の内に<ruby><rb>嬉戯</rb><rt>きぎ</rt></ruby>に楽み<ruby><rb>著</rb><rt>なづ</rt></ruby>みて、覚らず、知らず、驚かず、怖れず。<ruby><rb>火</rb><rt>ほのほ</rt></ruby>来りて身に<ruby><rb>逼</rb><rt>せま</rt></ruby>り、苦痛<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>を<ruby><rb>切</rb><rt>せ</rt></ruby>むれども、心に<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>ひ<ruby><rb>患</rb><rt>うれ</rt></ruby>へず、<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でんことを求むる<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>無し」という火宅無常の<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いの声はひそんでいる筈である。しかも西洋は、その思索に全身を焼く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">人間</span>をそのままに追求するのに対し、わが古人は、むしろこれを内に抑えて、人間を超えた<ruby><rb>悲愍</rb><rt>ひびん</rt></ruby>の微笑をもって有情の救いの手をさしのべる仏を念じたのである。この像を拝したであろう飛鳥人が必ずしも幸福でなかったことを思うとき、私は東洋の<ruby><rb>深淵</rb><rt>しんえん</rt></ruby>を感嘆せずにおれない。

<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>末期から鎌倉へかけては、ロダンのごとき名手がわが仏師の中に幾人も輩出したことは明らかである。三月堂や戒壇院の四天王、あるいは興福寺の八部衆、傑僧の諸像、また<ruby><rb>仏弟子</rb><rt>ぶつでし</rt></ruby>の像や鎌倉の諸像をみるとき、私はこの方が比較に都合よいように思う。とくに彫刻という観念の確立したのは鎌倉である。運慶の<ruby><rb>世親</rb><rt>せしん</rt></ruby>、<ruby><rb>無著</rb><rt>むじゃく</rt></ruby>像に至ってはじめてルネッサンス以来の巨匠が対比されると言っていいのではあるまいか。しかし<ruby><rb>仏陀</rb><rt>ぶつだ</rt></ruby>と菩薩像の深さは、飛鳥<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>天平前期において世界に冠絶すると考えないわけにゆかないのである。彫刻という観念では律しられないのである。

中宮寺思惟像の思惟は、思索という言葉を用いるよりも、瞑想あるいは夢<ruby><rb>三昧</rb><rt>ざんまい</rt></ruby>と云った方がふさわしい。ロダンの「考える人」には論理のきびしさが感ぜらるる。精密な分析力や体系を組織する力が、あの筋肉の一つ一つに宿っているようだ。如意輪観音の思惟にはそうした面影はない。ではこのみ仏は現世の地獄を<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>とみず、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに夢三昧に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていたのだろうか。<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>、この菩薩にとっては見るということは直ちに<ruby><rb>捨身</rb><rt>しゃしん</rt></ruby>を意味した。地獄のあらゆるものの身に即して<ruby><rb>化身</rb><rt>けしん</rt></ruby>する。化身即捨身即観世音であることは<ruby><rb>普門品</rb><rt>ふもんぼん</rt></ruby>をみるとき明らかであろう。したがって苦悩の表情は当然予想される。だがそういう表情は、即身化身捨身を通して貫通する永遠の法身の裡に吸収され摂取されてしまうのだ。そして摂取の上で、むしろ摂取の刹那に、間髪をいれずあの幽遠の微笑が頬に浮びあがるのである。しかもなお救いつくされぬ悲心をもこめて。かかる摂取の微妙さはいかなる西洋彫刻にもみられない。ルネッサンス以来、人間に終始した西洋彫刻のついに及ばなかった大事の一点でなかろうか。

わが国人がかような仏像を拝し念じたとすれば、おそらくここにちがいない。経文によっても証明される。法悦の至境はおのずからなる摂取にある。摂取不捨の姿に身も心も投げすててぬかずいたのだ。仏陀の哲学をはじめてうけとったときの飛鳥人を私は想像しないわけにゆかなかった。彼らは<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐな心でこの<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>に陶酔したのであろう。理詰の思索よりも、<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>して彼らはこの仏体に抱擁される自己を感じたに違いない。殉教者らしく悽惨な面影も、狂信者のもつ独善的姿もない。あたかも春の丘に腰をおろして雲雀をききながら、恋人を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶように遠い<ruby><rb>印度</rb><rt>インド</rt></ruby>の聖者を偲んでいるかのようだ。多くの悲劇のうちに在って、なおこのうららかな心を失わしめない、思惟像はそういう<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>において成立つ。現世の悲哀を思惟する眼差が、同時に浄土のはるけさへの郷愁を語るのである。私はロダンを退けようというのではない。西洋の彫刻をつまらぬとは思わない。ただ比較を絶したものがあるのだ。このみ仏に接していると、おのずから故郷へ<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>ったような安らいを覚ゆるのである。尼寺の本尊であることも意味深い。

このみ仏は元来木彫であるから、広隆寺の思惟像のように、いまよりもっと柔かく美しい姿を現わしていたであろう。後になって保存のため漆で真黒に塗りつぶしたので、いまは鋼鉄のような感じを与える。これは私の想像であるが、今より百年あるいは二・三百年経った後、この漆が<ruby><rb>剥脱</rb><rt>はくだつ</rt></ruby>して、もとの木肌があらわれたとき、その色彩と<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>はいかばかりすばらしいであろう。私はこのみ仏に、そういう将来を期待しているのだ。そうなる頃はむろん私は生きていない。拝することが出来ないのは残念であるが、その代り私自身も仏さまになっている。

――昭和十四年春――

中宮寺に思惟の像を拝して

いにしへの　飛鳥をとめと　<ruby><rb>慕</rb><rt>しの</rt></ruby>ばるる　尼のみ寺の　みほとけや　幾世へにけむ　玉の手の　光りふふみて　<ruby><rb>幽</rb><rt>かそ</rt></ruby>けくも　<ruby><rb>微笑</rb><rt>ゑま</rt></ruby>せたまへる　<ruby><rb>頬</rb><rt>ほ</rt></ruby>にふれつ　朝な夕なに　<ruby><rb>念</rb><rt>おも</rt></ruby>はすは　<ruby><rb>昨</rb><rt>きそ</rt></ruby>の嘆きか　うつし世の　常なき<ruby><rb>愁</rb><rt>うれひ</rt></ruby>か　頬にふるる　指のあはひに　春ならば　くれなゐの<ruby><rb>薔薇</rb><rt>ばら</rt></ruby>　秋日には　白菊<ruby><rb>一枝</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>　ささげなば　君がおもひぞ　いや<ruby><rb>清</rb><rt>さや</rt></ruby>に　<ruby><rb>薫</rb><rt>かを</rt></ruby>りめでたく　深まりぬらむ

――昭和十七年秋――

  


## 天寿国<ruby><rb>曼荼羅</rb><rt>まんだら</rt></ruby>

諸王諸臣の厚い御看護と祈願にも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>は推古天皇の三十年二月二十二日夜半<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>された。その前日には太子の正妃<ruby><rb>膳大刀自</rb><rt>かしわのおおとじ</rt></ruby>が<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなられ、前年の暮には母后が崩御されたのであるから、上宮一家の悲嘆は申すまでもない。一般民草に与えた深甚の影響についてはすでに述べたとおりである。いま中宮寺<ruby><rb>思惟</rb><rt>しゆい</rt></ruby>像の傍に断片のまま残っている天寿国曼荼羅は、太子の御<ruby><rb>冥福</rb><rt>めいふく</rt></ruby>を祈って、妃のひとりである<ruby><rb>多至波奈大郎女</rb><rt>たちばなのおおいらつめ</rt></ruby>が侍臣や<ruby><rb>采女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>とともに<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>された繍帳銘である。原形は全く散逸してしまってうかがうべくもない。<ruby><rb>真紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の布片や金色の刺繍の跡に、わずかに往時の荘厳な美しさが<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばるるのみである。

総じて古い布片の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>は、古仏とちがって何かしら<ruby><rb>悽愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>な感じを与えるものだが、天寿国曼荼羅も、華麗な<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>にも拘らずよく<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていると次第に薄気味わるくなる。つまりそこへ懸けた思いが、古仏のごとく吸収摂取されず、いつまでも生ま生ましく残っているのだ。<ruby><rb>血痕</rb><rt>けっこん</rt></ruby>のついた古い布を思わせる。金銅や木材に比べて一番弱そうな布地に、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って人間の執念は消え難く<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>るのであろうか。おそらく太子の妃や侍女達が、日夜念じつつ縫ったのであろうが、その一針一針に女の愛情と信仰が<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつよう</rt></ruby>にこもっているようにみえる。執念のこまやかなあらわれには、一種のもの狂わしささえ宿って薄気味がわるい。悲哀のために透きとおるように細く鋭くなった指が、この刺繍にまつわりついていたのであろう。真紅の布地の上を、白い炎のごとく<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>う指を私はいつも想像するのである。

天寿国曼荼羅の由来については、「上宮聖徳法王帝説」に次のごとく記載されてある。

「（前略）<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby><ruby><rb>辛巳</rb><rt>かのとみ</rt></ruby>十二月廿一日<ruby><rb>癸酉</rb><rt>みづのととり</rt></ruby>の日、<ruby><rb>穴穂部間人</rb><rt>あなほべはしひと</rt></ruby>の母后崩じ、明年二月廿二日<ruby><rb>甲戌</rb><rt>きのえいぬ</rt></ruby>の夜半に太子<ruby><rb>薨</rb><rt>こう</rt></ruby>ず。時に、<ruby><rb>多至波奈大郎女</rb><rt>たちばなのおほいらつめ</rt></ruby>、悲哀嘆息し、<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>みて、天皇の前に<ruby><rb>白</rb><rt>まを</rt></ruby>して<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>く、<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>を<ruby><rb>啓</rb><rt>まを</rt></ruby>さむは<ruby><rb>恐</rb><rt>かしこ</rt></ruby>しと<ruby><rb>雖</rb><rt>いへど</rt></ruby>も、<ruby><rb>懐</rb><rt>おも</rt></ruby>ふ心<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>み難し。我が<ruby><rb>大王</rb><rt>おほきみ</rt></ruby>が母王と<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>するが<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く従遊したまひ、<ruby><rb>痛酷</rb><rt>いたま</rt></ruby>しきこと<ruby><rb>比</rb><rt>ひ</rt></ruby><ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>し。我が大王の告げたまふところに、世間は<ruby><rb>虚仮</rb><rt>こけ</rt></ruby>、<ruby><rb>唯</rb><rt>た</rt></ruby>だ仏のみ<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>れ真なりと。<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の法を<ruby><rb>玩味</rb><rt>ぐわんみ</rt></ruby>するに、我が大王は<ruby><rb>応</rb><rt>まさ</rt></ruby>に天寿国に生れまさむ。<ruby><rb>而</rb><rt>しか</rt></ruby>も彼の国の形は眼に<ruby><rb>看叵</rb><rt>みがた</rt></ruby>き所なり。<ruby><rb>悕</rb><rt>ねが</rt></ruby>はくは図像に<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>りて大王が往生の状を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>むと欲すと。天皇之を聞こしめして、<ruby><rb>悽然</rb><rt>せいぜん</rt></ruby>として告げて曰く、<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>へに我が子の啓す所有り、誠に以て然りと<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>すと、<ruby><rb>諸</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の<ruby><rb>采女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>等に勅して<ruby><rb>繍帷</rb><rt>ぬひかたびら</rt></ruby>二<ruby><rb>張</rb><rt>はり</rt></ruby>を造らしめ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>ふ。（後略）」

曼荼羅には<ruby><rb>亀甲</rb><rt>きっこう</rt></ruby>形が縫いつけられているが、そのひとつ<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に、この文章（原文は四字ずつの漢文）をあらわしたのだという。母后についで背の君を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>った多至波奈姫が、太子生前の教を思い、推古天皇の御ゆるしを得て、太子の<ruby><rb>御霊</rb><rt>みたま</rt></ruby>の赴くであろうパラダイスを悲しみつつ描いたのである。天寿国とは、「法王帝説」証註（<ruby><rb>狩谷望之</rb><rt>かりやもちゆき</rt></ruby>）によれば「<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち無量寿国にして、釈氏の<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>はゆる無量寿仏の国なり、又<ruby><rb>阿弥陀</rb><rt>あみだ</rt></ruby>浄土と称す。」――即ち太子の説かれたという「世間虚仮、唯仏是真」の「真」の世界に入り<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うた御姿を図像によって追慕されたのである。太子近親の悲しみを伝えた尊いしるしである。

なお太子薨去のとき<ruby><rb>巨勢三杖大夫</rb><rt>こせのみつえのまちぎみ</rt></ruby>の奉ったという<ruby><rb>挽歌</rb><rt>ばんか</rt></ruby>三首が「法王帝説」に載っている。

<ruby><rb>斑鳩</rb><rt>いかるが</rt></ruby>の富の小川の絶えばこそ我が<ruby><rb>大王</rb><rt>おほきみ</rt></ruby>の<ruby><rb>御名</rb><rt>みな</rt></ruby>忘らえめ

みかみをすたばさみ山のあぢかげに人の申しし我が<ruby><rb>大王</rb><rt>おほきみ</rt></ruby>はも

斑鳩のこのかき山のさかる<ruby><rb>樹</rb><rt>き</rt></ruby>のそらなることを君に申さな

巨勢三杖大夫の伝はもとより<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびらか</rt></ruby>にしえないのであるが、「法王帝説」註記に、<ruby><rb>扶桑</rb><rt>ふそう</rt></ruby>略記の<ruby><rb>欽明</rb><rt>きんめい</rt></ruby>天皇十三年条に「或記云、信濃国善光寺阿弥陀仏像則此仏也。<ruby><rb>小治田</rb><rt>をはりだの</rt></ruby>天皇御時<ruby><rb>壬戊</rb><rt>みづのえいぬ</rt></ruby>年四月八日令秦巨勢大夫奉請送信乃国云々」と。

欽明天皇の十三年、仏像を難波の堀江に<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てたことは書紀に明らかであるが、その後、推古天皇のみ代になって、巨勢大夫をしてその仏像を<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>わしめ、善光寺に安置した様子がうかがわれる。巨勢大夫の身分や人物はむろん不明だが、太子側近の侍臣というよりは、御威徳を<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに慕い<ruby><rb>奉</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>った信仰の厚い民草としてみた方が、右の歌から<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ってもふさわしいのではなかろうか。当時の人々が太子の御面影を思慕し、ひそかに語り伝えた様が歌から感ぜらるるのである。最初の一首は、「斑鳩宮」に述べた片岡山の餓人の詠という伝説もあるが、後代の附会といわれる。しかしかかる伝説の生じたところから考えると、巨勢大夫の歌にみらるる<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>と哀惜の情は、当時のすべての民草の抱いたところだったのであろう。誰の歌であってもよかったのだ。天寿国曼荼羅とともに、太子薨去当時の悲痛をいまに伝えた記念としてここに述べたのである。

――昭和十七年秋――

  


## 微笑について

中宮寺の庭は、誰にもかえりみられない平凡な庭だが、私はいつも不思議に心をひかれる。造園術と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ったものからはおよそ縁遠いように思われる無造作な庭で、何の奇もないが、あの清浄で柔軟な感じはどこから出てくるのだろう。法隆寺境内と同じ地つづきであるから、砂まじりの地質に相違ないが、その上に改めて白砂を敷きつめたのである。この効果が大きい。<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>ひとつ<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めぬ、掃き目の正しい白砂の庭は、尼寺の純潔と優しさに<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>と輝きを添えているようだ。誰の思いつきか知らないが、日光をこれほど適切に、柔かくうける方法は他にあるまい。海岸の砂地ならば日光は強烈すぎる。また大庭園ならば<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らにきらきらして下品な感じを与えるだろう。しかし中宮寺のような狭く薄暗いほどの庭では、実によく調和して、春の夜明のような<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かでおっとりした光線を生み出してくる。これは期せずして得られた無類の芸術的光線だ。

砂の光りと日の光りが、ゆるやかにもつれあって遊戯しているようにみえる。だから砂の上を歩むのがためらわれる。つい忍び足になる。足跡を残すのは罪悪のように感ぜられるのだ。翼がほしい。光りの<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れの中を軽く飛んで<ruby><rb>思惟菩薩</rb><rt>しゆいぼさつ</rt></ruby>のもとにまいりたい。こんな思いを抱かせる庭はおそらく他にないであろう。しかし人々は平凡な庭として気にもとめないでいるのだ。だから<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>いい。

私はこの庭をどう形容したらいいか考えてきたが、結局、「微笑の庭」と呼ぶのが最もふさわしいようだ。中宮寺の庭はたしかに微笑している。微笑なるがゆえに誰も気づかない。それは思惟菩薩の口辺に浮ぶ、有るか無きかの微笑の余韻かもしれない。<ruby><rb>恩寵</rb><rt>おんちょう</rt></ruby>かもしれない。また白砂の庭にふりそそぐ日光が、ほどよく中和され、それが堂内に反射して思惟の姿に一層の柔軟性を与えていることも考えられる。思惟像はおそらくこの光りを滋養として吸収してきたであろう。

<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>中宮寺を訪れているうちに、私はこんな感想を抱くようになったが、しかし遠く離れて、心の中でこの尼寺を思い浮べるとき、とくに微笑のことが一番つよく思い出される。菩薩像も庭もすべてをふくめて、中宮寺全体が微笑の光りのなかに浮びあがってくる。そしてそれが次第に一つの思想に結晶して行くのである。私は戦争の終った秋この文章をかいている。二年間というもの<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>を訪れる機会はなかった。硝煙と飢餓の都に住んで、最も<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>したものは何かと問われるならば、私は微笑だと答えよう。それは戦争の現実の中で得られたかと問われるならば、遺憾ながら<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>と答えねばならぬ。更に日本の敗戦の理由を問われるならば、微笑の喪失にあったと答えたいのだ。私はこの言葉によって何を求めていたか。必ずしも口辺に浮んだ微笑のみではない。精神の<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る健全な姿を求めていたのだ。おのずから、繊細な心、深い思いやり、隠れた愛情、慈悲、柔軟性、様々の表現を微笑という一語にふくめて、これを戦乱の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>に求めていたのであった。そういう日の自分の念頭には常に中宮寺の思惟像があり、光りの庭が夢幻のように浮びあがっていた。私にとってそれは微笑の泉のごときものであった。

＊

古仏の微笑は云うまでもなく慈悲心をあらわしたものにちがいないが、これほど世に至難なものはあるまい。微妙な危機の上に花ひらいたもので、私はいつもはらはらしながら<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めざるをえない。菩薩は一切<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゅじょう</rt></ruby>をあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もし慈悲と救いをあからさまに意識し、おまえ達をあわれみ導いてやるぞと云った思いが<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>でもあったならばどうか。表情は<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち誇示的になるか教説的になるか、さもなくば<ruby><rb>媚態</rb><rt>びたい</rt></ruby>と化すであろう。大陸や南方の仏像には時々この種の表情がみうけられる。大げさで奇怪で、奥床しいところは少しもない。これは仏師の罪のみでなく、根本を云えば大乗の<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>の至らざるところからくる。思想の不消化に関連しているようである。

我が思惟像が、あの幽遠な微笑を浮べるまでには、どれほどの難行苦行があったか。そこには思想消化の長い時間があり、また生硬で露骨な表情に対する激しい<ruby><rb>嫌悪</rb><rt>けんお</rt></ruby>があったにちがいない。古人のそうした戦いを、私は思惟像の背後に察せざるをえないのだ。美的感覚の問題もむろんあるが、その成長の根には信仰の戦いが必ずあったであろうと思う。微笑は必ずしも心和かな時の所産でなく、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>に憤怒をかさねた後の孤独な夢であったかもしれない。

私は戦時中それをつぶさに感じた。粗野な感覚、誇示的な表情の横行に対して、つねに武装していなければ精神は死滅するかに思われた。真勇は必ず微笑をもって事を断ずる。真の勇猛心は必ず柔軟心を伴う。だがこれは求めて得られざるところであった。常に正しいことだけを形式的に言う人、絶対に非難の余地のないような説教を垂れる人、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>指導者なるものが現われたが、これは特定の個人というよりは、強制された精神の<ruby><rb>畸形</rb><rt>きけい</rt></ruby>的なすがたであったと言った方がよい。精神は極度に動脈硬化の症状を呈したのである。言論も文章も微笑を失った。正しい言説、正しい情愛といえども、微笑を失えば不正となる。正しいことを言ったからとて、正しいとはいえないという微妙な道理をいやになるほど痛感したのである。

＊

微笑はおのずから<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>く泉のごときもの、「我」ならぬもの、そして根源に必ず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なつかしさ</span>がなければならぬ。なつかしさの感情はいかに自ら人工しても出てこない。在りのままの飾らざる人間に、ふとあらわれる後光のようなものだ。人と別れた後、もしそこになつかしさがあるなら必ずふりかえって別れを惜しむであろう。そうさせる力が後光なのだ。人間の心は、眼や表情にもあらわれるが、後姿にはっきりあらわれることを忘れてはならぬ。人は後姿について全く無意識だ。そして何げなくそこに全自己をあらわすものだ。後姿は悲しいものである。無常の世に生きるものの悲哀、生の疲れ、無限の嘆きを宿しているように思われる。例外なく、何かしら人生の重荷を背負っているからであろう。だからこそなつかしいのではなかろうか。微笑をもって別れるものは美しい。

菩薩とは、かかるなつかしさに常住するものにちがいない。慈悲とは、高所よりの同情心や博愛ではなく、もっと身につまされた生の嘆きであろう。善をのみなつかしむのではない。悪をもなつかしむのだ。いっそ善悪を分別せぬ人間の在りのままの相に身を沈めて行くのだと云った方がよい。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち<ruby><rb>化身</rb><rt>けしん</rt></ruby>の所作である。化身とは<ruby><rb>捨身</rb><rt>しゃしん</rt></ruby>である。苦痛にちがいない。慈悲の根底にある無限の忍耐、云わば人生を耐えに耐えたあげく、ふとあの微笑が湧くのかもしれぬ。<ruby><rb>救世</rb><rt>くせ</rt></ruby>観音や中宮寺思惟像の微笑は極度に内面化されたものだ。あの口辺をみていると、何かを言おうとして口ごもっているように感ぜらるる。それは微笑の寸前であるとともに、<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>の寸前でもあるようにみうけられる。菩薩の微笑とは、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は慟哭と一つなのかもしれない。<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な人生に向って、思わずわっと泣くほんの少し前に浮び出る微笑であるかもしれない。

我々はただ口辺に気をとられているが、口辺の微笑とは、おそらく余韻だ。菩薩の<ruby><rb>心奥</rb><rt>しんおう</rt></ruby>には七転八倒の苦悩があり、言うに言われぬ思いがあり、どうにも致し方がなくて、あたかも波紋のように浮べてみたのが微笑なのかもしれない。それは瞬時にして憤怒の相ともなり、慟哭の表情とも変るであろう。救世観音や思惟像の微笑は永遠なるものとして刻まれているが、それは同時に<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>だ。有るか無きかに、忽ち消え<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せるかもしれぬほんの一瞬を止めたのだ。人間のこうした力はどこから出てくるのであろうか。微妙で至難な刹那を、よくぞ菩薩像の口辺に止めたものだ。実に<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしい驚嘆すべきことである。

＊

芸術は常に恐るべき危さに生きるものだ。この恐怖を自覚したとき、芸術の使徒は宗教の使徒ともならざるをえないだろう。思惟像の微笑をみていると、そのことがはっきり感ぜらるる。仏師は実に危いところに生きている。一手のわずかの狂いが、微笑を忽ち醜怪の極へ転落さしてしまうだろう。その一手はいのちがけだ。空前にして絶後なのだ。仏師はおそらく満足というものを知らなかったであろう。一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>の像を刻むことは、一つの悔恨を残すことだったかもしれぬ。多くの古仏の背後には、どれほどの恨みが宿っているか。微笑のために死んだ仏師を私は思わないわけにはゆかない。

＊

日本人はみな職業によって様々の守護神や守り本尊をもっている。たとえば船乗は<ruby><rb>船魂</rb><rt>ふなだま</rt></ruby>神社を<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>り、大工左官は聖徳太子を<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>め、魚屋は<ruby><rb>恵比須</rb><rt>えびす</rt></ruby>を、裁縫師は<ruby><rb>伎芸天</rb><rt>ぎげいてん</rt></ruby>を、三味線や琴の師匠は<ruby><rb>吉祥天</rb><rt>きっしょうてん</rt></ruby>を祭ると云ったように、それぞれの職域を神聖なものとして、自分の芸や仕事を<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>いてきた。これは世界に例のない床しい習慣だと思う。芸の危さを本能的に知っている職人<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らしむるところだ。ただ不思議なことに、近代の作家と評論家にこの風習が欠けていた。或る意味で近代の性格を示す興味ふかい現象ともいえる。私は評論を業とする自分にも当然守り神があっていい<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ、いや必ずなくてはならぬと考えたのはつい二、三年前からであった。文学全体の守り神としては、はじめて歌をおよみになった<ruby><rb>須佐之男命</rb><rt>すさのおのみこと</rt></ruby>など最もふさわしいであろうが、評論の神さまとなるとちょっと気づかない。そのとき自分の念頭に浮んだのが、古事記にあらわるる<ruby><rb>思兼神</rb><rt>おもいかねのかみ</rt></ruby>と、中宮寺の思惟菩薩だったのである。

思兼神というのは、<ruby><rb>天照大御神</rb><rt>あまてらすおおみかみ</rt></ruby>が岩戸へ隠れたとき、岩戸開きの総計画をお考えになった神様で、「数人の<ruby><rb>思慮</rb><rt>おもいはか</rt></ruby>る<ruby><rb>智</rb><rt>ち</rt></ruby>を一つの心に兼<ruby><rb>持</rb><rt>もて</rt></ruby>る意なり」といわれる智の神である。岩戸の前に集った<ruby><rb>八百万神</rb><rt>やおよろずのかみ</rt></ruby>が、「思兼神に思はしめて」、はじめて岩戸開きも可能であったわけで、光りを仰ぐにはこの神の力が絶対に必要だったのである。私は自分の思想にもまたかかる力を授けたまえと祈り、評論の守り神として仰ぐのである。

中宮寺の菩薩には、思想の芸について念ずる。微笑に宿る至難微妙の芸、体躯にみなぎるあの無類の柔軟性を念じつつ、私は仕事にたずさわるのである。ただ一字の置き方、てにをはのほんのわずかの差異、そんなことが思想を根本的に変えてしまう。思想の美醜を決定する。同じ主義を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いている故に、表現されたものも同じであると考えるのは<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しい<ruby><rb>迷妄</rb><rt>めいもう</rt></ruby>である。芸術にあっては、党派というものは最も拙劣な空想だ。人は身をもたせかけるところもなく、暗黒の橋をただひとり渡らねばならぬ。危さに生き、いつでも転落の可能性を有し、絶えず転落し、七転八倒し、或る刹那に、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて或る均衡を保って美は生れる。その地獄とも<ruby><rb>醍醐味</rb><rt>だいごみ</rt></ruby>ともいえるところに静かにあぐらをかき、守り本尊を念じつつ微笑を<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>って仕事する、そういう職人気質こそ私の理想とする人格なのだ。思惟像の微笑は、それを刻んだ仏師にとっては<ruby><rb>奇蹟</rb><rt>きせき</rt></ruby>であったろう。しかし奇蹟とは職業的なものだ。長い歳月の、正確に熟達した修練のみがよく奇蹟を生む。それは突然変異的なものと正反対の現象であって、目にみえぬ努力のうちにつみかさねられ、自他容易に気づかぬゆえに、突然変異的なものにみえる。思惟像の微笑もそうしてあらわれたであろう。仏師も菩薩であった。そして菩薩とは一種の職人気質にちがいない。

＊

微笑は肉体の奥深く根を張り、そこからほころびそめようとする花のようなものだ。言論や文章が微笑を失うのは、たしかに思想の消化不良に基因している。肉体化された思想というものは今日では益々<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>になった。現代人は、思想でなく思想の<ruby><rb>鑵詰</rb><rt>かんづめ</rt></ruby>を食って生きているようにみうけられる。国産の配給品もあれば、外国製のもある。急いで鑵詰を食いちらしている状景は、戦前も戦後も変らない。自分で畑を耕し、種子をまき、あらゆる風雨に堪えて、やっと収穫したというような思想に出会うことは稀だ。たとい貧しく拙劣でも、自ら額に汗してえた思想を私はほしい。そういう勤労の観念がいまどこにあるだろうか。勤労者の味方をもって自任する政党の思想が、最も鑵詰臭いのは不思議なことである。私はそういう<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>を好まない。自分が耕した思想の菜園から得た収穫を、我が守り本尊の前に<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて、ささやかながら収穫の祭りを祝いたい。

＊

微笑を失った菩薩というものは本質的には存在しない。飛鳥仏にみらるる微笑は、<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby><ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>となるにしたがって消え去って行くが、これは何故だろうか。微笑は更に内面化し、菩薩の姿態そのものに<ruby><rb>弥漫</rb><rt>びまん</rt></ruby>して行ったのだと私は思う。白鳳天平の仏像が次第に人体に近づき、柔軟性を帯びてきたのは、ただ彫刻家意識の発達に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>るのみではあるまい。微笑を肉体化し、菩薩の口辺のみならず全姿に宿すまでに信仰は消化されたのだとみなすべきではなかろうか。菩薩とは人心の機微のあわいを遊行してゆくもの、云わば微妙さに身を<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>えているものだ。信仰にとって最重大事は、微妙な心に精通することである。生硬な信仰は無信仰よりも罪悪的だ。人に<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>を<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>い、告白を聞いて裁断し、触るべからざる悲しみに触れて、一層人の心を傷つけるような信仰者がある。たとえば中宮寺の庭を<ruby><rb>泥足</rb><rt>どろあし</rt></ruby>で歩むようなものだ。人間の心に粗暴な足跡を印することは最大の罪悪だ。

信仰の敵はいつでも信仰そのものの<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にある。外からの迫害は決して恐るべきものではない。法難とは信仰の拙劣な自己弁解にすぎない。自由とは、何ものをもっても抑圧すべからざるものなるがゆえに、自由なのではなかろうか。いかなる圧制の下にも自由はある。あたかも恋愛と同じように。いかなる権力も恋愛を奪うことは出来ない。そして自由とは本質的に孤独なものだ。自由が与えられた故に、何事でも自由に表現出来ると思うのは、人間の<ruby><rb>儚</rb><rt>はか</rt></ruby>ない空想であろう。私は政治的な意味で云っているのではない。宗教や芸術のごとく精神を追究する仕事においては、政治的自由の有無などは問題にならない。表現の困惑について、芸の至難について、言葉のもどかしさについて、私は悲しいほど思い迷うのである。

何事でも自由に表現出来るか。たとえば信仰や恋愛のように、人間の最も微妙な心に属することを、我々は滞りなくあらわすことが出来るか。はっきり言いきってしまうことが可能か。たとい言いきっても、なお万感の思いが残るのが信仰や恋愛の実相であろう。我々はここで表現の不自由を感ぜざるをえないのだ。人間の限界と云ってもいい。これを感じたところに、祈りの微妙な世界が始る。人間の言説絶えたところに、神仏の世界がある。誰にも理解して<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>えないが、なお我独り生きて行かむという孤独者の強烈な祈りがある。菩薩のもつ微妙心はそこに通うにちがいない。

＊

菩薩は群衆を拒否する。群衆として<ruby><rb>詣</rb><rt>もう</rt></ruby>でても、菩薩はそれを一人一人に切り離し、孤独者としてのみ迎えるであろう。孤独者のみが微笑の真義を知る。そして孤独者を微笑せしむるものこそ菩薩と云える。

――昭和二十年秋――

  


## 法輪寺

  


## 荒廃

中宮寺<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の小さな村落を過ぎて北へ二丁ほど歩いて行くと、広々とした田野がひらけはじめる。法隆寺の北裏に連なる丘陵を背にして、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに<ruby><rb>三笠</rb><rt>みかさ</rt></ruby>山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>にいたる、<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の平城京をもふくめた大和平原の一端が展望される。<ruby><rb>大和国原</rb><rt>やまとくにはら</rt></ruby>という言葉のもつ豊かな感じは、この辺りまで来てはじめて実感されるように思う。往時の状景はうかがうべくもないが、田野に働く農夫の姿は、古の奈良の時代とさして変ってもいないだろう。春は処々に菜の花が咲き乱れて、それが<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>んだ三笠連山の麓までつづいているのが望見される。<ruby><rb>畔道</rb><rt>あぜみち</rt></ruby>に咲く紫色の<ruby><rb>菫</rb><rt>すみれ</rt></ruby>、淡紅色の<ruby><rb>蓮華草</rb><rt>れんげそう</rt></ruby>なども美しい。おそらく<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>や<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の人たちも、この道を<ruby><rb>逍遥</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>したことであろう。<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のたち昇る春の日に、<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>の<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>りをききつつ、私のいつも思い出すのは、「春の野に菫摘まむと来し<ruby><rb>吾</rb><rt>われ</rt></ruby>ぞ野をなつかしみ一夜<ruby><rb>宿</rb><rt>ね</rt></ruby>にける」という万葉の歌である。この歌の気分がここで一番しっくりあうように思う。

しかし大和国原の豊かさを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶという点では秋の方が更にふさわしい。今年はとくに豊作の故でもあったろうが、眼のとどくかぎり一面に実った稲の波である。透明な秋空の下に、寸分の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もなく充実していて、黄金の脂肪のような濃厚な光りを放っていた。稲穂が畔道に深々と垂れさがって、それが私の足もとにふれる<ruby><rb>爽</rb><rt>さわや</rt></ruby>かな音をききながら幾たびもこの辺りを<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>した。豊作というものがこんなに見事なものとは知らなかったのである。心からの<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びが<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>きあがってくる。<ruby><rb>舒明</rb><rt>じょめい</rt></ruby>天皇が<ruby><rb>香具山</rb><rt>かぐやま</rt></ruby>に登り国見された折の御製の末尾に、「うまし国ぞ　あきつ島　大和の国は」という御満悦の言葉が拝されるが、その言葉がふと思い出され、何となく心浮き立ちながらこの道を歩いたのであった。

夢殿や中宮寺へまいる折は、私はいつもここまで来て春秋の景色を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>める。平原の豊かさもいいが、しかし法隆寺の北裏から東方へきれぎれに連なる丘陵の側も、また別の趣があって捨て難い。丘陵の間には白壁の映ゆる古風な人家が散在し、それをめぐって小さな森が点々としている。法輪寺と法起寺の三重の塔がその森のあいだに望見される。大和国原を右手に眺めつつ、この丘陵の間をつたわって次第に平城京<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>へ近づいて行く途中の風光は実に和やかで美しい。法隆寺から夢殿へ、それから中宮寺を巡って法輪寺へ、法起寺を過ぎて慈光院に至り、石州の茶室でお茶を<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になってから小泉の駅へ出る道は、西の京から薬師寺と<ruby><rb>唐招提寺</rb><rt>とうしょうだいじ</rt></ruby>へ行く道とともに、私の最も好ましく思ったところである。<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>法輪寺を訪れるようになったのも、一つにはこうした道筋の美しさのためであるらしい。法隆寺に群る<ruby><rb>参詣人</rb><rt>さんけいにん</rt></ruby>たちも、中宮寺を過ぎると全く途絶えて、ここばかりは<ruby><rb>斑鳩</rb><rt>いかるが</rt></ruby>の址にふさわしくひっそりと静まりかえっている。

＊

だが私には法輪寺を訪れるもう一つの理由がある。それはこの寺がいかにもみすぼらしく荒廃の状景を呈しているからである。私は荒廃に心をひかれるのだ。まずこの寺の沿革について述べよう。法輪寺大鏡に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>る案内抄をみると、法輪寺は法琳寺あるいは法林寺ともかき、また<ruby><rb>生駒</rb><rt>いこま</rt></ruby>郡富郷村三井の土地名に<ruby><rb>因</rb><rt>ちな</rt></ruby>んで三井寺、御井寺ともいうそうである。草創に関しては二つの説があって、「聖徳太子伝暦」及び「太子伝<ruby><rb>補闕</rb><rt>ほけつ</rt></ruby>記」によると<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>開法師、<ruby><rb>円明</rb><rt>えんめい</rt></ruby>師、<ruby><rb>下氷新物</rb><rt>しもついのにいもの</rt></ruby>等三人合力して<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>したことになっているが、「御井寺勘録寺家財雑物等事」及び「古今目録抄」によれば太子の<ruby><rb>御子</rb><rt>みこ</rt></ruby><ruby><rb>山背大兄王</rb><rt>やましろのおいねのみこ</rt></ruby>と由義王の創建されしところと伝えられる。そのいずれであるかはいまなお決し難いという。しかし<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の配置は法隆寺式であり、飛鳥の原形をとどめる三重塔をはじめ、鳥仏師作と伝えらるる薬師<ruby><rb>如来</rb><rt>にょらい</rt></ruby><ruby><rb>坐像</rb><rt>ざぞう</rt></ruby>及び<ruby><rb>虚空蔵菩薩</rb><rt>こくうぞうぼさつ</rt></ruby>の二体が現存し、発掘品にも飛鳥の<ruby><rb>古瓦</rb><rt>こがわら</rt></ruby>が<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>されるので、草創が飛鳥時代であることはたしかだ。平安朝から室町時代へかけて寺運隆盛を極めたらしいが、徳川の<ruby><rb>正保</rb><rt>しょうほう</rt></ruby>二年、大風のため堂宇<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く倒壊し、およそ百年後の元文二年再建補修されたものが現在の伽藍であるという。この再建補修も決して<ruby><rb>堅牢</rb><rt>けんろう</rt></ruby>なものでなく、伽藍の配置だけを往時に復して、他はすべて小ぢんまりと<ruby><rb>安普請</rb><rt>やすぶしん</rt></ruby>したことはいまの法輪寺をみれば明らかであろう。伽藍というよりは仮の<ruby><rb>廬</rb><rt>いおり</rt></ruby>と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った方がふさわしいくらいだ。三重塔のみがわずかに飛鳥の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>をとどめる。

中宮寺から北へ三丁、前述の風光を眺めながら行くと、松の大樹の間にささやかな山門と三重塔がみえる。法隆寺の堂々たる威容と、その至れり尽せりの修理保存ぶりをみた眼には、この寺はあまりに痛々しい。金堂も講堂も天井は破れ、壁は<ruby><rb>剥落</rb><rt>はくらく</rt></ruby>し、<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>は傾いたまま風雨にさらされている。昼間でも<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>が走りまわっている。法隆寺のすぐ近くにあるだけ、その対照がきわだって一層貧しくみえるのである。朽ち果てて惜しむべき建物ではないかもしれぬが、しかしこの置き忘れられたような<ruby><rb>蕭条</rb><rt>しょうじょう</rt></ruby>たる<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>のゆえに、大和古寺のなかでも異彩を放っていると私は思うのだ。いかにも古寺らしい古寺である。つまり在るがままなのだ。古寺の運命を如実に語っているような姿に私は心ひかれるのである。

<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つては法隆寺も東大寺もかくのごとくであったろう。わずかに心ある人のみが荒廃の址に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>み、涙しつつ往時の壮麗を偲び拝して立ち去ったのであろう。すべて古典に対する真の愛情は<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>への感傷に始まる。世の中から忘れ去られて、なかば埋れたまま荒廃しているところへ赴き、人しれずその生命を求める――そういう労苦と<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>に耐えてはじめて古典の復活はあるであろう。神社仏閣のみならず、文献もまたそうだ。現在あまねく<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>している万葉集も、今日のごとく整備されるまでにはどれほど先人の孤独な労苦を経たか云うまでもなかろう。<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど一生を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して復興をはかったのだ。信仰が彼らを導いたのだ。我々はいま簡便に入手出来て読み<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>くなっているので、ついそういう先人の労苦を忘れがちだ。法隆寺にしても、一切が整備保存されて居心地のいい観光地となり、美術研究が容易に出来るような現在になると、愛惜の情に深く身を<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねることは<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>むずかしい。仏像も宝物も、堂宇もいまの我々は悉く見物出来る。拝観料を払った当然の権利のように思って見物する。しかし荒廃の法隆寺を<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>うた<ruby><rb>昔日</rb><rt>せきじつ</rt></ruby>の人は、一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>の仏像さえみることは出来なかったのだ。堂前に佇んで拝する以外のことはしなかったのである。しかもそういう人々の方が、我々よりも<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってみるべきものをみていたと云えないだろうか。愛惜の情と信心とが、荒廃の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にひそむ<ruby><rb>久遠</rb><rt>くおん</rt></ruby>のいのちを一挙に感得したといえないだろうか。

荒廃の<ruby><rb>遺址</rb><rt>いし</rt></ruby>を補修再興していつまでも保存しておきたいという願いを私は<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>ものことと思うし、そういう人の信心も疑わないけれど、これは前にも述べたごとく至難の業である。「技術の進歩」といううぬぼれが、屡々古人の精神を忘却しかねない。復興のつもりで却って<ruby><rb>冒涜</rb><rt>ぼうとく</rt></ruby>するような結果を招く例は、今日の古典取扱いの中にいくらでも指摘出来るだろう。

法隆寺金堂の壁画は朝に夕に一片ずつ崩れて行く。模写してみたところで<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>ははかない希望にすぎまい。今更どうにも補修出来かねるらしい。<ruby><rb>拱手</rb><rt>きょうしゅ</rt></ruby>傍観してその崩壊を眺めているより他に<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>はないのだ。しかしこれが壁画の運命であろう。この運命を直視したとき、はじめて念仏の声がおのずから心に湧くのではなかろうか。人間の死と同じである、人は死によって生の意義を<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>に語るごとく、壁画も崩壊しつつ全<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>の壮麗をあきらかに我々に刻印するのではなかろうか。その生命は死をとおして我々につたわるのではなかろうか。だが一方では、崩壊をどうかして止めようとする願いも否定出来かねる。やがて消滅するであろうが、消滅の日を一日なりとものばしたいと念ずる。つまり我々は称名しながら<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の壁画と格闘しているようなものだ。保存とはかかる格闘を意味するのかもしれない。

ところで法輪寺の御堂をみてまわると、かような格闘の跡さえ殆どみあたらぬ。気力を失ったごとく敗残の姿である。案内の寺僧に問うと、「いずれ何とかしなくてはなるまいと思っては居りますけれども、どうも……」という返事であった。この寺の住職も懸命であるらしい。今の言葉で<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う「宣伝」も大いに心がけているようで、格式の高い法隆寺や東大寺に比べて、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>経営の心労のほどが察せられる。しかし私のひそかな願いは、この寺はこのままで静かに荒廃して行ってほしいということである。寺僧の立場に立てば、かかる願いは実に身勝手なことに違いない。荒廃して廃寺となることはまずあるまいが、徐々に崩れて行くのを寺僧は傍観しているわけにゆくまい。そうかと云って華美な改修はふさわしくない。全く崩壊しない程度で、しかし崩壊して行くようないまの姿をそのままとどめてほしい――これは無理な言い草かもしれぬ。危きに遊んでいてほしい――これも至難の業である。いっそ<ruby><rb>乾坤一擲</rb><rt>けんこんいってき</rt></ruby>の壮麗な復活を願ってはと思うが、所詮は夢に終るだろう。――私はこんなことを考えながら法輪寺を巡るのである。

荒廃に対するこうした思いは、感傷にちがいないが、しかし古寺を巡る最初の心はこれを経なければならぬのではなかろうか。完備された美術館や仏閣で仏像をみるのは、初心にとって邪道であろう。古寺を訪れる初心とは、つまりは<ruby><rb>発心</rb><rt>ほっしん</rt></ruby>であり、祈りの心の湧きおこるときでなければならぬ。荒廃という死に近き<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、千年の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた<ruby><rb>端厳</rb><rt>たんげん</rt></ruby>のみ仏を拝し、愛惜の情に身を委ねるにしくはない。

法隆寺へまいるたびに、年々この寺が見世物式に整備され、<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ぶっている様を眺め、またそれゆえについ安易な気持で見物しがちな自分を省みて、私は<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>法輪寺の貧しい荒廃を慕うのである。法隆寺も東大寺も、明治維新の頃に比すれば、たしかに復活したといえるかもしれない。しかし私にとって大事なのは建造物の復活ではなく、荒廃を前にして涙した人の祈念の復活なのである。私はこれを願いとし、これを初心としたいと思っているので、いつも不断に初心に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>ることを努めるのである。古寺巡礼の<ruby><rb>玄人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>にはなりたくないものだ。法輪寺をみることが、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち私に初心を思い出させるというわけである。

――昭和十七年秋――

  


## <ruby><rb>虚空蔵菩薩</rb><rt>こくうぞうぼさつ</rt></ruby>

南にひらいた山門を入ると、右に重層の金堂があり、左に三重の塔を仰ぐ。塔と金堂の間を北へすすむと講堂があり、講堂の右側には鐘楼がある。<ruby><rb>廻廊</rb><rt>かいろう</rt></ruby>こそないがこの配置は法隆寺と全く同一である。しかし寺域は法隆寺の十分ノ一ぐらいのものであろうか。前述のごとく、金堂も講堂も名ばかりと云っていいほど荒れ果てている。寺域を囲む<ruby><rb>築地</rb><rt>ついじ</rt></ruby>もむろんわずかしか残っていない。松の大樹と雑草につつまれて<ruby><rb>蒼然</rb><rt>そうぜん</rt></ruby>たる有様である。

金堂の内部には本尊の薬師如来<ruby><rb>坐像</rb><rt>ざぞう</rt></ruby>を中心に、<ruby><rb>弥勒</rb><rt>みろく</rt></ruby>、<ruby><rb>吉祥天</rb><rt>きっしょうてん</rt></ruby>、<ruby><rb>毘沙門</rb><rt>びしゃもん</rt></ruby>、地蔵の仏体が並んでいるが、四<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>とも平安時代の木造である。装飾らしいものは何もない。冷い石畳の台座の上に、わずかに風雨をしのぐと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>った有様でそっけなく安置されてある。本尊の薬師如来は、<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>時代の<ruby><rb>鳥</rb><rt>とり</rt></ruby><ruby><rb>仏師</rb><rt>ぶっし</rt></ruby>作と伝えらるる木造のみ仏であるが、その両眼が真白い。<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>もなくただ真白い眼というものは不思議だ。彩色が<ruby><rb>剥脱</rb><rt>はくだつ</rt></ruby>して、底の白い色のみが残ったのだという。法隆寺金堂の<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>三尊とちがって、木造の故か、鳥の作としても柔い感じを与えられる。いかなる人の念願がこのみ仏に宿っているのであろうか。病気<ruby><rb>平癒</rb><rt>へいゆ</rt></ruby>の願に発したものに相違ないが、私ははじめその純白の眼のゆえに、眼病平癒の祈りをこめたみ仏であろうかと想像していたのであった。むろんそうではない。しかし私はやはり眼から離れられない。薄暗く荒廃した堂内に、その白い眼だけがくっきり浮びあかっているのは異様である。金堂の本尊とは、仏体ではなくこのたった二つの眼だけであるようにさえ思える。千三百年のあいだ、何を見、何に耐えてこの白眼を現出したのであろうか。如来自ら眼を病んでおいでになるのか。

法輪寺というところには、荒廃のゆえか不思議な仏体がある。たとえば三重塔の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、平安時代の釈迦如来像一躯が安置されているが、<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゅじょう</rt></ruby>に向って挙げたその右の御手は中指が一本残っているだけで、他の指は<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く<ruby><rb>腐蝕</rb><rt>ふしょく</rt></ruby><ruby><rb>剥落</rb><rt>はくらく</rt></ruby>してしまっている。指を一本だけたてているようにみえる。指が一本だけになってもなお衆生に悲心を垂れ給うことを<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めないのか。また同じ塔内に天平の原体を補修した<ruby><rb>夢違</rb><rt>ゆめたがい</rt></ruby>観音立像が一躯<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>しているが、原体はもはやうかがうことは出来ない。殆ど崩壊しているのであろう。粘土をもって遠慮なく全身を固めてしまった。粘土のギプス<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>を全身にはめているようにみえる。また講堂の本尊たる十一面観音立像は、おそらく一丈余もあろうが、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>古寺の諸仏のうちでもこれほど大きな眼をもっている菩薩像を私は知らない。どうしてあんなに大きい眼玉なのであろう。その他多くの諸仏が安置されているけれど、いずれも<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>にまみれ、気のせいかがっかりしているようにみうけられる。長い歳月における負傷そのままに、荒廃の堂宇に風雨を<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>いでいるのである。

ところで飛鳥仏の裡でも最も風格をそなえた美しい虚空蔵菩薩立像は、いまはこの寺にはない。奈良帝室博物館に出張して留守中なのである。このみ仏を往時のごとく荒れ果てた金堂に安置してみたいというのが私の願いなのだ。何処より伝来したみ仏かむろんわからない。印度仏ともいう。<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は<ruby><rb>聖</rb><rt>しょう</rt></ruby>観音ともいわれる。すべての飛鳥仏のごとく下ぶくれのゆったりした<ruby><rb>風貌</rb><rt>ふうぼう</rt></ruby>、<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>とした表情のまま左手に<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>をさげて<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>直立している。不動のみ姿ではあるが、いまにも浮々と遊び出るような春風<ruby><rb>駘蕩</rb><rt>たいとう</rt></ruby>たる風格も<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれる。そういう<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しさがあって、たとえば法隆寺金堂<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>に奏楽する天人達の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>に近い。しかし不動である。つまり動くようで動かない。そういう微妙をこの仏体はあらわしているのだ。このみ仏について志賀直哉氏の「早春の旅」にしるされた次のような感想がある。

「……推古朝といえば今から千三百年前、この像はその時から日本の歴史のあらゆる<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>を見て来ている。<ruby><rb>平重衡</rb><rt>たいらのしげひら</rt></ruby>や松永久秀の南都炎上も法輪寺からならば<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたり望み見たわけである。そして、今はまたこの像は<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>の国難を見ているのだ。<ruby><rb>元</rb><rt>げん</rt></ruby>兵が九州を犯した国難も知っていれば、法華堂の<ruby><rb>執金剛神</rb><rt>しつこんごうしん</rt></ruby>が<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>になって救いに出たという<ruby><rb>将門</rb><rt>まさかど</rt></ruby>の乱も知っている。千三百年来のよき時代も苦しい時代も<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て経験しているのだ。この像は今の未曾有の時代も<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>かは必ず過ぎ、次の時代の来る事を自身の経験から信じているに違いない。が、同時にその時代もどれだけ続くか、又その先にどんな時代が来るか、そんな事も思っているかも知れない。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる時代にもこの像は<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>このままの姿で立っている。執金剛神のように蜂になって飛出すわけには行かない像である。この世界がいつ安定するか分らないが、その理想をこの仏像は身を<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>って暗示しているかのようである。」

おそらく仏の身をもって示す窮極は、すべてかくのごとくであろう。限りある身の我々にとっては、死がはじめてかかる永遠の安定をもたらすともいえよう。不動のなかの動は、その<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>への<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな誘いなのかもしれない。千三百年間、ついぞ安定を知らなかった現在まで、こうして佇立しているのである。不安動揺の人間の悲劇が<ruby><rb>凝</rb><rt>こご</rt></ruby>って、この無比の菩薩像が立ちあらわれたに違いないが、あの駘蕩としてのっぺりした御顔を仰いでいると、「まあ、我慢したまえ。地獄は永久につづくぞよ」と平気で<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>っているようにみえる。

――昭和十七年秋――

  


## 薬師寺

  


## 春

武蔵野にも<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く春の訪れが来た。遠くにみえる<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の山の雪も消えて<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>の梅はいま満開である。庭さきへ<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>が来てしきりに<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>って行く。暖かい水蒸気が大地からのぼって、その中に<ruby><rb>水仙</rb><rt>すいせん</rt></ruby>の黄色い花が鮮かに浮び上ってみえる。縁先で陽の光りを浴びながら、この頃になると、私は自分の半生に経験した様々の春を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い出す。幼年の頃、少年の頃、早い青年時代、この数年のこと、そういう時分に記憶にとどまっている春の姿を、比較するともなしに回想するのである。

私は北海道の南端に生れた。この北国では、春の訪れは関東地方よりもまる一カ月半ほど遅い。三月の末から四月にかけて雪どけ、それから若葉の山野が望まれ、五月になると急に暖かさが加わって、梅や桜や桃が<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど同時に咲きはじめる。津軽海峡を渡って<ruby><rb>函館</rb><rt>はこだて</rt></ruby>へ上陸したことのある人は知っていると思うが、連絡船が港に近づくと、下北半島に相対した<ruby><rb>恵山</rb><rt>えさん</rt></ruby>方面の丘に、トラピスト女子修道院の<ruby><rb>白堊</rb><rt>はくあ</rt></ruby>の塔がみえるであろう。湾内に入りかけると、津軽半島に相対した松前方面へつらなる丘の上に、トラピスト男子修道院の赤<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の建物がみえる。この二つの修道院をつなぐ線が、幼少年時代の私の散歩区域であった。

とくに女子修道院のある上湯の川の丘は、一面の<ruby><rb>鈴蘭</rb><rt>すずらん</rt></ruby>畑で、六月のはじめ、あの<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な花がひらきはじめると、よく友人とその草原へ出かけて行って、鈴蘭の畑の中に仰むけにねそべりながら、<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>のさえずりをきいたものだった。この丘からは津軽海峡の暗緑色の流れや、浜辺にくだける白い波が望見されるが、その波うちぎわから丘の間は、なだらかな草原となっていて、牛が放牧されてあった。いまもなお記憶に残るのは、鈴蘭の花の香りと、空高くひびく雲雀の声である。五月から六月へかけてであって、<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>わばこの頃が私の故郷における最も春らしい季節なのである。故郷を離れてから十数年になるので、その頃の詳しい記憶はかなり消え去ってしまったが、この丘に漂う早春のむせるような香りだけは、春くるたびに身近に感ぜられる。

私の早い青年時代、つまり高等学校の頃は山形で暮した。それまで朝夕海を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてくらしてきた私は、この山国へ来て、はじめて山岳のもつ美しさ、威容、圧力などを感じた。山形は盆地である。近くで最も高い山は、樹氷で有名な蔵王山であるが、それから北へ連なる<ruby><rb>雁戸</rb><rt>がんど</rt></ruby>山、もっと近くて低い<ruby><rb>千歳</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>山、丘と云っていい<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>山、また西方には<ruby><rb>朝日岳</rb><rt>あさひだけ</rt></ruby>連峰がつらなり、それから北方へかけて、<ruby><rb>月山</rb><rt>がっさん</rt></ruby>、湯殿山、羽黒山などが望見された。春は三月、四月、その頃になると私はよく盃山へ登った。この小山の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を<ruby><rb>馬見</rb><rt>まみ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>崎</rb><rt>さき</rt></ruby>川（<ruby><rb>最上</rb><rt>もがみ</rt></ruby>川の上流）が流れているのだが、それを眼下にみおろし、山形の街、桜桃畑、野、田畑とひろびろとした盆地を眺めつつ、柔い春風のなかで昼寝したものである。海のないのがはじめの間実に不思議であった。山岳の重苦しい圧迫を感じた。しかし緑の美しさをほんとうに<ruby><rb>昧</rb><rt>あじわ</rt></ruby>えたのは、やはりこの山国であったろう。故郷の山も、春は若葉に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われるのだが、海があり、白砂があり、砂丘や牧場があって、その若葉はさしてめだたなかったのである。ところが山形へ来ると、眼のとどくかぎり山また山で、春になると一面の若葉、まるで頭から若葉をかぶったような感じで、鮮かな緑色が私には驚きであった。

この地方では蚕を飼うので桑の木が多い。北海道では桑畑は全くみられない。山形で一番さきに春の訪れるのを感じるのは、この桑の若芽の<ruby><rb>萌</rb><rt>も</rt></ruby>え<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>ずる頃である。<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>の低い、ふしくれだった<ruby><rb>頑丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>なその幹と枝ぶりはゴッホの筆触を思わせた。そこから実に可憐な小さな若葉が出て来る。雪が消えて、道路のぬれたところを歩きながら、ふとこの桑畑に眼をやると、ああ春が来たのだと心から感じるのであった。また、これは晩春であるが、桜桃畑の眺めも忘れ難い。その花はさして美しくはないが、桜桃の実の熟するときは、すべての木々に小さな<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をつるしたようで、一面に周囲が<ruby><rb>朱</rb><rt>あか</rt></ruby>い点々となり、眼と<ruby><rb>食慾</rb><rt>しょくよく</rt></ruby>とを同時に誘惑したものである。平生の散歩道であるし、桜桃の枝は肩のあたりまで垂れているので、つい手が出る、というより口が出る。つまり<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の辺に、桜桃の朱い実がたわわにぶらさがっているのだ。春がくるたびに、私はいつも<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にふれたその柔い感触を思い出す。

山形には三年住んで、それから東京へ移ったまま現在に及んでいるが、市内での春の思い出というものは殆どない。むしろ季節に無関心で過したと云っていいほどだ。いまの武蔵野に住むようになってから、この平原の林に訪れる春の微光を、漸く<ruby><rb>蘇生</rb><rt>そせい</rt></ruby>の思いで眺めるようになった。

しかしそれよりも私に鮮かな感銘を与えたのは、この数年来の<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の春の旅である。私の故郷ではむろんのこと、東北でも武蔵野でも味うことの出来なかった全く別の春を、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち古典の春を私ははじめてそこで知ったのである。故郷の海辺も山国の若葉も忘れられないが、春がくるとつい大和へ旅立つようになった。塔と<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>と<ruby><rb>築地</rb><rt>ついじ</rt></ruby>と、その奥に<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>する<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>のみ仏が私を<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしに招くのだ。美への<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>ればかりでなく、何か信心のようなものが次第に芽ばえてきて、一年に一度は礼拝しないと気にかかる。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も最初のうちは尢もらしい名目を捨て去ることは出来なかったが、近頃ではそういう気持もなくなった。<ruby><rb>殊更</rb><rt>ことさら</rt></ruby>に何かを考えるということもなく、ただ散歩の延長のようなつもりで、旅の誘いのまにまにぶらりと家を出る。<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>なひとりの旅人であればそれでいいと思うようになった。とくに春はこの気持がつよい。<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>るようなつもりで古典の地へ行きたくないものだ。その時その折の<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐな心でみ仏に対すれば、仏像は何の<ruby><rb>拘</rb><rt>こだわ</rt></ruby>りもなく抱擁してくれる。つまり私の春のアルバムには、仏という新しい光りがさしはじめたのである。

＊

奈良近郊でも私のとくに好ましく感じたところは薬師寺附近の春であった。西の京から薬師寺と<ruby><rb>唐招提寺</rb><rt>とうしょうだいじ</rt></ruby>へ行く途中の春景色にはじめて接したとき、これがほんとうの<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>正しい春というものなのかと思った。このような松の大樹や、木々の若葉や麦畑はどこにでもみられるかもしれない。しかしその一木一草には、<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の奈良の都の余香がしみわたっている。人間が長きにわたって思いをこめた風景には<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>いがあるのだろう。塔と伽藍からたち昇る千二百年の幽気が、この辺りのすべてに漂っているように思えた。

薬師寺は由緒深い寺であるにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、法隆寺などと比べて荒廃の感がふかい。当事者もこの寺の保存については何故か無関心であるらしい。金堂内部の背後の壁は崩れたままになっているし、講堂にいたっては更に腐朽が<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しい。近くの唐招提寺とともに古の平城京の右京に位して、あたり一帯はいまは農家と田畑のみ。周囲にめぐらした<ruby><rb>土塀</rb><rt>どべい</rt></ruby>も崩れ、山門も傾き、そこに<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>がからみついて<ruby><rb>蒼然</rb><rt>そうぜん</rt></ruby>たる<ruby><rb>落魄</rb><rt>らくはく</rt></ruby>の有様である。だが法輪寺のような小さな寺とちがって、その荒廃ぶりにはどこか堂々たるところがあって、みすぼらしい感じは少しも与えない。<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>にとどろくような壮大な嘆きを具現しているところに私は心をひかれる。かような状景のままに放っておくところに、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は寺僧のひそかな思いやりがあるのかもしれぬ。崩れた土塀に沿うて歩いて行くと、<ruby><rb>天平人</rb><rt>てんぴょうびと</rt></ruby>たちの亡霊がふいに現われて来そうに思う。彼らの衣の香り、<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの音までがふと聞えてくるようだ。肉体は滅びたが、彼らの霊魂はなお深い郷愁をもってこの辺りを<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っているのであろうか。霊魂の不滅を私は薬師寺のあたりで信ずるのである。荒廃した寺の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って不思議な生命を感じさせるものがあるのだ。

土塀といえば、私は大和をめぐってはじめてその美しさを知った。北海道に育った私は、白壁とか土塀には全く縁がなかったのである。北方のこの開拓地では、都会の家屋には急造の洋風が多く、農村地帯の民家は、厳寒に耐えるように頑丈な木で堅く組みあわされている。塀などはなく、大抵は牧場にみらるるような<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>をたてているか、<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は<ruby><rb>白楊</rb><rt>ポプラ</rt></ruby>の並木を植えているだけだ。石狩の大平原につらなる白楊の木と、牛の飼料を貯蔵しておく石造の塔の眺めは<ruby><rb>広漠</rb><rt>こうばく</rt></ruby>としていい。ああいう荒涼たる風景はもとよりここではのぞまれない。しかし私は山形へ来て、はじめて白壁の美しいのに驚いた。とくに春ともなれば、その純白な壁に桑の若葉が映って、互に鮮かさを競っているようにみえる。山形の白壁は桑の葉を映すためにあるようにさえ思われた。

大和古寺の土塀や奈良近郊の民家の築地は、そう鮮かなものではなく、赤土のまじった、古びた地味な感じのするのが多い。よくみると繊細な技巧の跡がうかがわれる。そして崩れたままにしてあるところに、古都の余香が、或は古都のたしなみとも云うべきものが感ぜられる。かような塀にふさわしいものは何であろうか。薬師寺の辺りを歩いていたとき、私はふとそれを<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>した。朝鮮服をまとうたひとりの貧しい老婆であった。黒い<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>に白い<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>をきて、<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を大きく胸のあたりにむすんだのが、歩くたびにゆらりゆらりとゆれる。右腕に古びた<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>を一つ抱えている。その<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しい姿が、<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のまつわる崩れた土塀に沿うてとぼとぼこちらへ歩いて来たとき、私ははじめて<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>の<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>な姿に出会ったように思った。これは古の<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>の民の亡霊なのであろうか。<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて我が国に数多く帰化し、我々の祖先とともに大伽藍を<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>した人々の<ruby><rb>末裔</rb><rt>まつえい</rt></ruby>――。大和の春を思うたびに私の心に浮ぶのは、このかなしい零落の姿である。

＊

「月日は<ruby><rb>百代</rb><rt>はくたい</rt></ruby>の<ruby><rb>過客</rb><rt>くわかく</rt></ruby>にして、行きかふ年も又旅人なり。船の上に<ruby><rb>生涯</rb><rt>しやうがい</rt></ruby>をうかべ、馬の口とらへて<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>をむかふる者は、日々旅にして、旅を<ruby><rb>栖</rb><rt>すみか</rt></ruby>とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず……」

周知のごとく<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>の「奥の細道」の冒頭であるが、これは大和古寺巡礼の際における私の御詠歌として選んだのである。この一節を心のなかにつぶやきながら行くと、不思議にすべての邪念が晴れるのだ。古寺に関する予備知識や美術的関心や、乃至は古寺巡りにつきまとい<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>い一種の虚栄とダンディズム、それら一切を捨てて、ひたすら旅に身を<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ね、何ものかに誘わるるごとく自然にみ仏のもとへまいる、そういう思いを身にしっくりさせたいと念じて私はこれを御詠歌としたのである。

薬師寺東院禅堂の聖観音立像は、<ruby><rb>天武</rb><rt>てんむ</rt></ruby>天皇の時代、百済王より献上せる<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>期最高の霊像といわるるみ仏である。私ははじめて薬師寺を訪れたとき、何げなくこのみ仏一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>だけを拝して辞し去ったのであった。その頃都会では、古典に関する論議がしきりに行われ、日本美の伝統と再発見は誰の口にものぼっていた。私もまた伝統を思ってここへ来たひとりであったが、しかし私のまず驚嘆したことは、薬師寺の聖観音は、そうした議論とは、全く別に、黙然として佇立しているということだった。千年の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>に蔽われたまま、まことにさりげない様子で、崩れた御堂もいとわず深い沈黙をつづけている。我々のさかしらな論議は、この沈黙の前で何ものであったろう。

聖観音の<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>はあわれむごとく半眼にひらいている。六尺ゆたかの堂々たる体躯ですらりと立ちながら、<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>胸を張り、気高い額を正面に向けたまま永遠の沈黙の姿である。左手を静かに上に挙げて<ruby><rb>施無畏</rb><rt>せむい</rt></ruby>の印をむすび、右手は下方ゆるやかにさげたまま施満願の印をむすんでいる。観音経の中の、「諸々の善男子よ、恐怖する<ruby><rb>勿</rb><rt>なか</rt></ruby>れ、<ruby><rb>汝</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>等まさに一心に観世音菩薩の名号を<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>ふべし。<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>は<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く無畏を以て<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゆじやう</rt></ruby>を施し<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>ふ。」――をあらわしているのであろう。印をむすんだその指の一つ一つが花びらのように美しく繊細である。崇高な<ruby><rb>尊貌</rb><rt>そんぼう</rt></ruby>と森厳重厚の体躯から咲き出たようなこの無比の指が、沈黙の奥深くにひそむ観音の慈心をわずかに示しているのだ。即ち一切を摂取して捨てず――。

――昭和十四年春――

  


## <ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>の光

西の京の駅をおりると、すぐ眼前の松林のあいだに薬師寺の東塔がみえる。塔の<ruby><rb>九輪</rb><rt>くりん</rt></ruby>頂上にそそり立つ<ruby><rb>水煙</rb><rt>すいえん</rt></ruby>が、澄みわたった秋空にくっきり浮び上っている。<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>のとびかう<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の<ruby><rb>径</rb><rt>みち</rt></ruby>をとおって、荒廃した北大門をくぐり、直ちに金堂へまいる。本尊の薬師<ruby><rb>如来</rb><rt>にょらい</rt></ruby>と<ruby><rb>脇侍</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>の日光<ruby><rb>月光</rb><rt>がっこう</rt></ruby>両<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>を、きょうはゆっくり拝したいと思ってやって来たのである。いままでも薬師寺を訪れたことは<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>あるが、堂内の拝観を<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>うことは<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>であった。私はいつもこの附近の風光を愛し、平城京の余香の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に散歩するにとどめていたのである。

薬師寺はもと大和<ruby><rb>高市郡</rb><rt>たけいちのこおり</rt></ruby>岡本郷に草創された<ruby><rb>天武</rb><rt>てんむ</rt></ruby>天皇勅願のみ寺であるが、その後、<ruby><rb>元明</rb><rt>げんめい</rt></ruby>天皇平城<ruby><rb>遷都</rb><rt>せんと</rt></ruby>さるるに伴い、いまの右京六条の地に移されたのだという。金堂と講堂は、奈良朝以後屡々の災禍を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>り、現存の御堂は後代の再建になるものだから、<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の結構はむろんうかがうことは出来ない。しかし本尊と脇侍の三<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>は、あらゆる災禍と風雨に耐えて、いまもなお白鳳の威容そのままに安置されてある。とくに本尊薬師如来は、白鳳期のみならずわが古仏のすべてを通して最高の傑作とさえいわるるみ仏である。

荒廃した<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>暗い金堂の<ruby><rb>須弥壇</rb><rt>しゅみだん</rt></ruby>上に、<ruby><rb>結跏趺坐</rb><rt>けっかふざ</rt></ruby>する堂々八尺四寸の金銅<ruby><rb>坐像</rb><rt>ざぞう</rt></ruby>であるが、私は何よりもまずその<ruby><rb>艶々</rb><rt>つやつや</rt></ruby>した深い光沢に驚く。千二百年の歳月にも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、たったいま降誕したばかりのような生々した光りに輝いているのである。何処からこの光りが出てくるのであろう。あたかも漆黒の体躯の底に光りの泉があって、絶え間なく<ruby><rb>滾々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>とあふれ出てくるように思える。そして再び重厚な体内に吸いこまれ、不断に循環しながら、<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>わば光りの柔軟なメロデーを<ruby><rb>奏</rb><rt>かな</rt></ruby>でているようだ。この循環のメロデーがそのまま仏体の曲線であり、また仏心の動きをも示しているといえないであろうか。<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>仏の口辺にみられた微笑は消え去っているが、その代り全身が微笑しているといった感じである。

台座の下に立って仰ぐと、<ruby><rb>尊貌</rb><rt>そんぼう</rt></ruby>高く、下弦の月のように細長く弧をひいた<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>が拝される。その眉のあたりに漂う<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな光りが、半眼にひらいた<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざし</rt></ruby>に沿うて流れ、やがて豊かな頬と堅く結ばれた口辺に及んで<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>深く輝き出ている。この光りは重厚な二重の<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>のところで<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>ひきしめられる。そして再び<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しいなだらかな肩のあたりを漂いながら、腕において強烈となり、更に印をむすんで挙げた右手の、繊細な指において微光となって散る。左手は結跏趺坐した<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上にゆるやかにおかれているが、おそらくその上に薬壺を載せていたのであろう。

体躯をめぐるかような光りの流れに、伴奏のごとくまつわっているのは、云うまでもなく衣の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>である。<ruby><rb>偏袒右肩</rb><rt>へんたんうけん</rt></ruby>、――つまり右の<ruby><rb>片肌</rb><rt>かたはだ</rt></ruby>を脱いでいるみ姿であるから、衣は左の肩から斜に右の胴下にまかれ、その<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>は結跏趺坐した円い膝を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うて台座に垂れさがっている。左の肩から台座に及ぶこの衣の線が、体躯の光りに応じて縦横に弧線を描き、ここに光りの循環に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>るメロデーは完成されるのである。仏体自身が飛鳥仏（とくに法隆寺の<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>三尊）のように浮彫式ではなく、完全に円味を帯びているので、光りの流れは滞るところを知らない。上から下方へ、また下から上方へ、絶えず<ruby><rb>楕円形</rb><rt>だえんけい</rt></ruby>を描きつつ<ruby><rb>流転</rb><rt>るてん</rt></ruby>しているわけだ。同様のことは小仏ながら、<ruby><rb>橘</rb><rt>たちばな</rt></ruby>夫人念持の白鳳仏にもうかがわれると思う。しかもこの流麗な線は、<ruby><rb>剛毅</rb><rt>ごうき</rt></ruby>で重厚な仏体によってひきしめられ、いささかも繊弱な感じを与えない。円満という言葉はこのみ仏のためにあるようにさえ思われる。いかなる念願が、かかる<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>のみ仏を現出せしめたのであろうか。いままで我々は、彫刻の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>写実性によってのみこれを解せんとした。だが前にも一度ふれたように、仏体における写実の「実」とは、仏自身であって、人間像への近接の度合によって推測さるべき<ruby><rb>事柄</rb><rt>ことがら</rt></ruby>ではない。たとい近接してもこれを超えたところに、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>ひとえにそこにのみ仏の「実」が、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち仏の仏たる<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>がある。人間の願と仏の慈心の相寄る<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>であり、すでに祈念の事に属する。かかる光りのみ仏を現出せしめた祈念を私は歴史の上に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>ってみたい。

＊

前述のごとく薬師寺はもと天武天皇勅願の大寺である。日本書紀によれば天皇の九年冬十一月「<ruby><rb>癸未</rb><rt>みづのとひつじ</rt></ruby>、皇后<ruby><rb>体不予</rb><rt>みやまひ</rt></ruby>したまふ。<ruby><rb>則</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち皇后の<ruby><rb>為</rb><rt>た</rt></ruby>めに<ruby><rb>誓願</rb><rt>こひねが</rt></ruby>ひて、初めて薬師寺を<ruby><rb>興</rb><rt>た</rt></ruby>つ。<ruby><rb>仍</rb><rt>よ</rt></ruby>りて一百の僧を<ruby><rb>度</rb><rt>いへで</rt></ruby>せしめたまふ。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>に由りて<ruby><rb>安平</rb><rt>たひらぎ</rt></ruby>たまふことを得たり」とある。即ち皇后御病気<ruby><rb>平癒</rb><rt>へいゆ</rt></ruby>を願って<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>された寺であるが、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち<ruby><rb>霊験</rb><rt>れいげん</rt></ruby>あって皇后は御<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>になった。<ruby><rb>叡感</rb><rt>えいかん</rt></ruby>のあまり薬師三尊を鋳造されたと伝えられているのである。皇后は後の<ruby><rb>持統</rb><rt>じとう</rt></ruby>天皇である。

<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに薬師三尊の<ruby><rb>鋪金</rb><rt>ほきん</rt></ruby><ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だ遂げぬうちに、朱鳥元年九月<ruby><rb>丙午</rb><rt>ひのえうま</rt></ruby>、天武天皇は<ruby><rb>浄御原宮</rb><rt>きよみはらのみや</rt></ruby>に崩御された。持統天皇はその御願を継いで即位二年<ruby><rb>無遮</rb><rt>むしゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>大会</rb><rt>だいえ</rt></ruby>を設け給い、同十一年「<ruby><rb>癸亥</rb><rt>みづのとゐ</rt></ruby>、<ruby><rb>公卿</rb><rt>くぎやう</rt></ruby>百寮、<ruby><rb>仏眼</rb><rt>ほとけのまなこ</rt></ruby>を<ruby><rb>開</rb><rt>あら</rt></ruby>はしまつる。<ruby><rb>会</rb><rt>をがみ</rt></ruby>を薬師寺に設く」（書紀）。ここに薬師三尊は天武天皇発願されてよりおよそ十八年にして完成したわけである。しかし薬師寺の諸堂<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の工が一応整ったのは次の<ruby><rb>文武</rb><rt>もんむ</rt></ruby>天皇即位二年であり、造薬師寺司を置いて全く完備するには更に十年の歳月を要したのであるから、前後実に三十年に近き歳月を、三代の天皇が相継ぎ完成に力をそそがれたのである。

その後元明天皇平城京<ruby><rb>遷都</rb><rt>せんと</rt></ruby>とともに現存の地に移されたが、旧都の伽藍をそのまま移動せしめたのではない。だから現存の薬師三尊も元明天皇の<ruby><rb>御代</rb><rt>みよ</rt></ruby>、即ち白鳳の末期<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>に近き頃の造顕であろうといわれている。しかしこのみ仏に宿る御念願の、すでに天武天皇に発することには変りはないであろう。白鳳時代は<ruby><rb>天智</rb><rt>てんじ</rt></ruby>天皇より、元明天皇平城京遷都までを<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う。その盛期が天武天皇の御代にあることは云うまでもない。即ち白鳳の祈りとはいかなるものであったか――飛鳥の祈りを継ぎつつ、更に天平の開花にまで及ぶこの間の信仰を私は推察したく思うのだ。薬師如来の<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>の光りを、根源において<ruby><rb>湧出</rb><rt>ゆうしゅつ</rt></ruby>せしめたものは、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>白鳳の祈りに他ならないであろうから。

天武天皇が位につき給うたのは、<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby><ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>されてより五十二年の後である。私はさきに「飛鳥の祈り」の中で、上宮太子の憂悩と悲願について申し上げ、それにも拘らず太子遺族の遭遇された悲運についても語った。<ruby><rb>蘇我</rb><rt>そが</rt></ruby>一族はまもなく<ruby><rb>中大兄皇子</rb><rt>なかのおおえのおうじ</rt></ruby>と<ruby><rb>藤原鎌足</rb><rt>ふじわらのかまたり</rt></ruby>によって滅ぼされ、天智天皇大化改新を断行されて、わが国家がはじめて諸制度を整えたことは史に明らかである。国外交通の隆盛、国富の<ruby><rb>膨脹</rb><rt>ぼうちょう</rt></ruby>、各氏族の強大、あるいは人口増殖等によって国力は充実するとともに、<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>ある氏族ならびに諸民の思想と生活を<ruby><rb>統</rb><rt>す</rt></ruby>べることは容易ならぬ困難を伴ったであろう。

天武天皇は天智天皇の同じ母君の御弟、即ち皇太弟である。<ruby><rb>大海人皇子</rb><rt>おおしあまのみこ</rt></ruby>と申し上げた。天智天皇に皇子がなかったので早く東宮となられ、<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみの</rt></ruby>朝廷のもとに、長い間大和の施政に尽力された練達の政治家であった。天智天皇の大化改新の諸制を実際に運用し、奈良朝にいたるまでの最も多難な政局に処されたのは、天武天皇御自身に他ならなかったのである。しかし上宮太子の、憂悩のあまり祈念されたところは、後代において必ずしも<ruby><rb>全</rb><rt>まっとう</rt></ruby>うされたとはいえない。更に<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>なる悲痛の裡に、天武天皇は位を継ぎ、憂悩を深めたのである。

天智天皇御病<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>きとき、次の皇位をめぐって再び野心ある<ruby><rb>群卿</rb><rt>ぐんけい</rt></ruby>の謀議がひそかに行われた。左大臣<ruby><rb>蘇我赤兄臣</rb><rt>そがのあかえのおみ</rt></ruby>、右大臣<ruby><rb>中臣金連</rb><rt>なかとみのかねのむらじ</rt></ruby>、<ruby><rb>蘇我果安臣</rb><rt>そがのはたやすのおみ</rt></ruby>、<ruby><rb>巨勢人臣</rb><rt>こせのひとおみ</rt></ruby>、<ruby><rb>紀大人臣</rb><rt>きのおおひとのおみ</rt></ruby>等は<ruby><rb>大友皇子</rb><rt>おおとものおうじ</rt></ruby>を擁して誓盟した。この事情を当時東宮であった天武天皇――大海人皇子は早くも気づかれて、自ら皇位を辞されたのであった。即ち「天智天皇東宮に勅して、<ruby><rb>鴻業</rb><rt>あまつひつぎ</rt></ruby>のことを授く。<ruby><rb>乃</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち<ruby><rb>辞</rb><rt>いな</rt></ruby>び譲りて曰く、<ruby><rb>臣</rb><rt>やつがれ</rt></ruby>、<ruby><rb>不幸</rb><rt>さいはひなき</rt></ruby>、元より<ruby><rb>多</rb><rt>さはの</rt></ruby>病有り。何ぞ<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く<ruby><rb>社稷</rb><rt>くにいへ</rt></ruby>を保たむ。願くは<ruby><rb>陛下</rb><rt>きみ</rt></ruby>、天下を挙げて皇后に附けよ。<ruby><rb>仍</rb><rt>よ</rt></ruby>りて大友皇子を立てて、<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しく<ruby><rb>儲君</rb><rt>まうけのきみ</rt></ruby>と<ruby><rb>為</rb><rt>し</rt></ruby>たまへ。臣は今日<ruby><rb>出家</rb><rt>いへで</rt></ruby>して、<ruby><rb>陛下</rb><rt>きみ</rt></ruby>の為めに<ruby><rb>功徳</rb><rt>のりのこと</rt></ruby>を<ruby><rb>修</rb><rt>おこな</rt></ruby>はむと<ruby><rb>欲</rb><rt>おも</rt></ruby>ふ。天皇<ruby><rb>聴</rb><rt>ゆる</rt></ruby>したまふ。<ruby><rb>即日</rb><rt>そのひ</rt></ruby>出家して<ruby><rb>法</rb><rt>ころも</rt></ruby>を<ruby><rb>服</rb><rt>き</rt></ruby>たまふ。」と日本書紀のしるすごとくであった。

然るに群卿は、東宮の威徳を<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ、すでに出家して吉野山に入られた後を襲わんとしたのである。ここに<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て一旦出家された大海人皇子は軍勢をととのえ、敢然として近江朝の軍と対された。さきに上宮太子の御子<ruby><rb>山背大兄王</rb><rt>やましろのおいねのみこ</rt></ruby>は、蘇我入鹿の軍に襲われたとき、御一身のため万民を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わすを慎しみ給い、「身を<ruby><rb>捐</rb><rt>す</rt></ruby>て国を固くせむは、<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby><ruby><rb>丈夫</rb><rt>ますらを</rt></ruby>ならざらむや」と法隆寺に<ruby><rb>自頸</rb><rt>じけい</rt></ruby>されたのであったが、大海人皇子はすすんで難に<ruby><rb>挺身</rb><rt>ていしん</rt></ruby>されたのである。

書紀によれば、大海人皇子は「<ruby><rb>生</rb><rt>あれ</rt></ruby>まししより<ruby><rb>岐嶷</rb><rt>いこよか</rt></ruby>なる<ruby><rb>姿</rb><rt>みすがた</rt></ruby>有り、<ruby><rb>壮</rb><rt>をとな</rt></ruby>に及びて<ruby><rb>雄抜</rb><rt>をを</rt></ruby>しく<ruby><rb>神武</rb><rt>たけ</rt></ruby>し」とある。即ち剛毅<ruby><rb>英邁</rb><rt>えいまい</rt></ruby>の君であらせられたことがわかるが、同時に激しき熱情と、またその影のごとく深き<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いを伴うておられたことは、万葉集の名歌によっても明らかであろう。天智天皇、<ruby><rb>蒲生野</rb><rt>がもうの</rt></ruby>に遊猟し給える時、<ruby><rb>額田王</rb><rt>ぬかたのおおきみ</rt></ruby>の歌った、「あかねさす紫野行き<ruby><rb>標野</rb><rt>しめの</rt></ruby>行き野守は見ずや君が袖振る」という歌に対し、東宮の大海人皇子の答えた有名な<ruby><rb>相聞</rb><rt>そうもん</rt></ruby>がある。

<ruby><rb>紫草</rb><rt>むらさき</rt></ruby>のにほへる<ruby><rb>妹</rb><rt>いも</rt></ruby>を憎くあらば<ruby><rb>人嬬</rb><rt>ひとづま</rt></ruby>ゆゑに吾恋ひめやも

また天皇となられて後の御製に次のごとき名歌もある。

み<ruby><rb>吉野</rb><rt>よしぬ</rt></ruby>の　<ruby><rb>耳我</rb><rt>みみが</rt></ruby>の<ruby><rb>嶺</rb><rt>みね</rt></ruby>に　時なくぞ　雪は降りける　<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>なくぞ　雨は降りける　その雪の　時なきがごと　その雨の　<ruby><rb>間</rb><rt>ひま</rt></ruby>なきがごと　<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>もおちず　思ひつつぞ来し　その山道を

この長歌はいついかなる時の御製であるか明らかではないが、右の短歌の激しい熱情に対し、憂いの調べの幽遠にこもっている名歌として私の愛唱するところである。即ち天武天皇は、「雄抜しく神武」くあらせられたのみならず、万葉前期の歌人として卓抜な手腕も有しておられたのである。前記群卿の陰謀による近江の軍を向うにまわして、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は山野に逃れ、軍を集め給い、実に言語に絶した労苦の後、これを平定して皇位につき給うた、この間の事情は書紀に<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびら</rt></ruby>かである故くりかえさない。また<ruby><rb>高市皇子尊</rb><rt>たけちのみこのみこと</rt></ruby>の城上の<ruby><rb>殯宮</rb><rt>ひんきゅう</rt></ruby>の時に<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>める<ruby><rb>柿本人麻呂</rb><rt>かきのもとのひとまろ</rt></ruby>の長歌（万葉集巻二）によって更に有名であろう。<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し<ruby><rb>壬申</rb><rt>じんしん</rt></ruby>の乱は、わが国史において未曾有の異変だった。乱の後、天武天皇として登位あそばされたのであるから、再びかかることのなきよう堅く御心に誓われたであろう。即ち天皇の信仰は、少くともこの乱の<ruby><rb>淵源</rb><rt>えんげん</rt></ruby>を深く顧みたときの憂悩に発すると私は推察申し上ぐるのである。

「以和為貴」の太子の御祈りは、ここに於て再び強くかえりみられたであろう。国威の<ruby><rb>昂揚</rb><rt>こうよう</rt></ruby>する偉大な時代を背景としつつ、一方では<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な地獄絵は幾たびか展開されていたのであった。さきにしるした万葉の長歌とともに、私の深く感銘した状景を、次に日本書紀から引いておきたい。壬申の乱平定して八年の五月、皇后ならびに諸皇子を召して、<ruby><rb>久遠</rb><rt>くおん</rt></ruby>の和を誓盟された有様がしるされてある。即ち、

「五月<ruby><rb>庚辰</rb><rt>かのえたつ</rt></ruby>朔<ruby><rb>甲申</rb><rt>きのえさる</rt></ruby>、<ruby><rb>吉野宮</rb><rt>よしののみや</rt></ruby>に<ruby><rb>幸</rb><rt>みゆき</rt></ruby>したまふ。<ruby><rb>乙酉</rb><rt>きのととり</rt></ruby>、天皇皇后及び<ruby><rb>草壁皇子尊</rb><rt>くさかべのみこのみこと</rt></ruby>、<ruby><rb>大津皇子</rb><rt>おほつのみこ</rt></ruby>、<ruby><rb>高市皇子</rb><rt>たけちのみこ</rt></ruby>、<ruby><rb>河島皇子</rb><rt>かはしまのみこ</rt></ruby>、<ruby><rb>忍壁皇子</rb><rt>おさかべのみこ</rt></ruby>、<ruby><rb>芝基皇子</rb><rt>しきのみこ</rt></ruby>に<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>して<ruby><rb>曰</rb><rt>のたまは</rt></ruby>く、<ruby><rb>朕</rb><rt>あ</rt></ruby>れ今日<ruby><rb>汝</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>等と<ruby><rb>倶</rb><rt>とも</rt></ruby>に<ruby><rb>庭</rb><rt>おほば</rt></ruby>に<ruby><rb>盟</rb><rt>ちか</rt></ruby>ひて、千歳の後に事無からむと<ruby><rb>欲</rb><rt>ほり</rt></ruby>す。<ruby><rb>奈之何</rb><rt>いかに</rt></ruby>。<ruby><rb>皇子</rb><rt>みこ</rt></ruby><ruby><rb>等</rb><rt>たち</rt></ruby>共に<ruby><rb>対</rb><rt>こた</rt></ruby>へて<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>く、<ruby><rb>理実</rb><rt>ことわり</rt></ruby><ruby><rb>灼然</rb><rt>いやちこ</rt></ruby>なり。則ち草壁皇子尊<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>づ進みて盟ひて<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>く、<ruby><rb>天神</rb><rt>あまつかみ</rt></ruby><ruby><rb>地祇</rb><rt>くにつかみ</rt></ruby>、及び<ruby><rb>天皇</rb><rt>すめらみこと</rt></ruby><ruby><rb>証</rb><rt>あきら</rt></ruby>めたまへ、<ruby><rb>吾</rb><rt>おの</rt></ruby>れ兄弟長幼、<ruby><rb>并</rb><rt>あは</rt></ruby>せて十余の<ruby><rb>王</rb><rt>みこ</rt></ruby>、<ruby><rb>各</rb><rt>おのおの</rt></ruby><ruby><rb>異腹</rb><rt>ことはら</rt></ruby>より<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>づ。然れども<ruby><rb>同</rb><rt>おなじき</rt></ruby><ruby><rb>異</rb><rt>ことなること</rt></ruby>を別たずして、倶に天皇の<ruby><rb>勅</rb><rt>みことのり</rt></ruby>の<ruby><rb>随</rb><rt>まま</rt></ruby>に、相<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けて<ruby><rb>忤</rb><rt>さか</rt></ruby>ふること無からむ。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し今より<ruby><rb>以後</rb><rt>のち</rt></ruby>、<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>盟</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>の如くならずば、<ruby><rb>身命</rb><rt>いのち</rt></ruby><ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>び、<ruby><rb>子孫</rb><rt>うみのこ</rt></ruby>絶えむ。忘れじ<ruby><rb>失</rb><rt>あやま</rt></ruby>たじ。<ruby><rb>五</rb><rt>いつはしらの</rt></ruby><ruby><rb>皇子</rb><rt>みこ</rt></ruby>次を以て相盟ふこと先の如し。然して後に天皇<ruby><rb>曰</rb><rt>のたまは</rt></ruby>く、朕が<ruby><rb>男</rb><rt>こども</rt></ruby><ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>各異腹にして生る。然れども今<ruby><rb>一</rb><rt>ひとつ</rt></ruby><ruby><rb>母同産</rb><rt>おもはらから</rt></ruby>の如くて<ruby><rb>慈</rb><rt>めぐ</rt></ruby>ましむ。則ち<ruby><rb>襟</rb><rt>みそのひも</rt></ruby>を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>きて、<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby>六皇子を抱きたまふ。<ruby><rb>因</rb><rt>より</rt></ruby>て以て盟ひて<ruby><rb>曰</rb><rt>のたまは</rt></ruby>く、若し<ruby><rb>茲</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>盟</rb><rt>ちかひ</rt></ruby>に<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>はば、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちまち</rt></ruby>に朕が身を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしな</rt></ruby>はむ。皇后の盟ひたまふこと<ruby><rb>且</rb><rt>ま</rt></ruby>た天皇の如し。<ruby><rb>丙戌</rb><rt>ひのえいぬ</rt></ruby>、<ruby><rb>車駕</rb><rt>すめらみこと</rt></ruby>宮に<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>り給ふ。<ruby><rb>己丑</rb><rt>つちのとうし</rt></ruby>、六皇子共に天皇を<ruby><rb>大殿</rb><rt>おほとの</rt></ruby>の前に拝みたまふ。」

日本書紀全巻を通して、私の最も感動した状景の一つである。この一節によって、天武天皇が何を憂い、何を祈念されたか、はっきり了知さるるのではなかろうか。「千歳の後に事無からむと欲す」と、久遠の和を念じ給い、各皇子盟約の後、自ら<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をお<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>きになって皇子達を抱かれた。そのときの憂悩の深さを思うべきである。外においては、唐との外交、あるいは各<ruby><rb>群卿</rb><rt>ぐんけい</rt></ruby>の統治と大化改新の<ruby><rb>累積</rb><rt>るいせき</rt></ruby>する諸問題を処理し給いつつ、内においては、血族の和をひたすら祈られたのであるが、上宮太子の御代より壬申の乱にいたる半世紀をかえりみるとき、実に衷心よりの念願だったと拝察さるる。剛毅雄武と激しき情熱の半面にかかる憂いをひいておられたところに、白鳳の光りは<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに輝き出たのではなかろうか。

＊

薬師三尊は、前記のごとく皇后全快を叡感されて造顕した勅願の仏体である。しかし<ruby><rb>円</rb><rt>まろや</rt></ruby>かな<ruby><rb>相貌</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>と全躯にみなぎる深い光沢を仰ぐとき、天武天皇が<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>にわたって心奥に<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>されたあの久遠の和の光輝を思わないわけにゆかない。皇后の御病を縁として信仰の一切がこのみ仏に念じこめられたのだと申してもいいのではなかろうか。更に皇后の御生涯をしのぶとき<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>この感は深い。

皇后は御幼名を<ruby><rb>前野讃良皇女</rb><rt>うののさららのひめみこ</rt></ruby>と申し上げ、天智天皇の御二女であらせられる。<ruby><rb>斉明</rb><rt>さいめい</rt></ruby>天皇の三年に大海人皇子の妃となり、皇子が東宮の頃はむろん壬申の乱のさ中に在っても、つねに御身近くたすけ、苦難を<ruby><rb>偕</rb><rt>とも</rt></ruby>にされし方であった。書紀にも「<ruby><rb>旅</rb><rt>いくさ</rt></ruby>を<ruby><rb>鞠</rb><rt>やしな</rt></ruby>ひ衆を<ruby><rb>会</rb><rt>つど</rt></ruby>へて、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に<ruby><rb>与</rb><rt>とも</rt></ruby>に謀を定めたまふ」と壬申の乱における内助の功を<ruby><rb>讃</rb><rt>たた</rt></ruby>え、また大海人皇子登位して天武天皇となられて後、崩御さるるまで、「天皇を<ruby><rb>佐</rb><rt>たす</rt></ruby>けて天の下を定めたまふ。<ruby><rb>毎</rb><rt>つね</rt></ruby>に<ruby><rb>侍</rb><rt>つかへ</rt></ruby><ruby><rb>執</rb><rt>まつり</rt></ruby>たまふ際に於いて、<ruby><rb>輒</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>政事に及びて、<ruby><rb>毗</rb><rt>たす</rt></ruby>け補ふ所多し」と記してある。天武天皇崩御の後位を継ぎ、持統天皇と申し上げたことは前に述べたとおりである。即ち皇后は御生涯にわたって、天武天皇の最もよき<ruby><rb>伴侶</rb><rt>はんりょ</rt></ruby>であり、一切の労苦を偕に忍ばれたのであった。九年、皇后御病いの折の、天武天皇の憂いは申すまでもない。薬師寺建立の勅願も、この史実をふりかえってはじめて<ruby><rb>明瞭</rb><rt>めいりょう</rt></ruby>となるであろう。

薬師三尊は、かような数々の祈念のもとに現出したみ仏である。たとい造仏の完成は後年であろうとも、天武天皇の信仰は、持統、<ruby><rb>文武</rb><rt>もんむ</rt></ruby>、元明の三朝を通して、語り継ぎ言い継ぎ<ruby><rb>擁</rb><rt>まも</rt></ruby>られて行ったに相違ないと思う。薬師三尊に仰がるる白鳳の光りは、天武天皇の信仰を源泉とし、これを受け継がれた三帝が御祈りによって<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>きあげたものと申していいであろう。

だが悲しむべきことには、「千歳の後に事無からむと欲」された念願は、後代の群臣によって必ずしも<ruby><rb>遵奉</rb><rt>じゅんぽう</rt></ruby>されなかった。天武天皇崩御されし直後、皇后が政治を執られていた間に再び悲劇は起った。即ち大津皇子の最期である。日本書紀によれば

「冬十月<ruby><rb>戊辰</rb><rt>つちのえたつ</rt></ruby>朔<ruby><rb>己巳</rb><rt>つちのとみ</rt></ruby>、皇子大津<ruby><rb>謀反</rb><rt>むほん</rt></ruby><ruby><rb>発覚</rb><rt>あら</rt></ruby>はれぬ。皇子大津を<ruby><rb>逮捕</rb><rt>とら</rt></ruby>ふ。<ruby><rb>并</rb><rt>あは</rt></ruby>せて皇子大津が為めに、<ruby><rb>詿誤</rb><rt>あざむ</rt></ruby>かれたる<ruby><rb>直広肆八口朝臣音橿</rb><rt>ぢきくわうしやくちのあそみおとかし</rt></ruby>、<ruby><rb>小山下壱伎連博徳</rb><rt>せうせんげいきのむらじはかとこ</rt></ruby>と、<ruby><rb>大舎人中臣朝臣臣麻呂</rb><rt>おほとねりなかとみのあそみおみまろ</rt></ruby>、<ruby><rb>巨勢朝臣多益須</rb><rt>こせのあそみたやかす</rt></ruby>、<ruby><rb>新羅</rb><rt>しらぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>沙門行心</rb><rt>ほふしぎやうじん</rt></ruby>、及び<ruby><rb>張内礪杵道作</rb><rt>とねりときのみちつくり</rt></ruby>等卅余人を捕ふ。<ruby><rb>庚午</rb><rt>かのえうま</rt></ruby>、皇子大津を<ruby><rb>訳語田</rb><rt>をさだ</rt></ruby>の<ruby><rb>舎</rb><rt>いへ</rt></ruby>に<ruby><rb>賜死</rb><rt>みまか</rt></ruby>らしむ。時に年廿四。<ruby><rb>妃皇女山辺</rb><rt>みめひめみこやまべ</rt></ruby>、<ruby><rb>髪</rb><rt>みくし</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>くだ</rt></ruby>し<ruby><rb>徒跣</rb><rt>すあし</rt></ruby>にして、<ruby><rb>奔赴</rb><rt>はしりゆ</rt></ruby>きて<ruby><rb>殉</rb><rt>ともにし</rt></ruby>ぬ。見る<ruby><rb>者</rb><rt>ひと</rt></ruby>皆<ruby><rb>歔欷</rb><rt>なげ</rt></ruby>く。皇子大津は<ruby><rb>天渟中原瀛真人</rb><rt>あまのぬなかはらおきのまひと</rt></ruby>天皇（天武天皇）の第三<ruby><rb>子</rb><rt>みこ</rt></ruby>なり。<ruby><rb>容止</rb><rt>みかほ</rt></ruby><ruby><rb>墻</rb><rt>たかく</rt></ruby><ruby><rb>岸</rb><rt>さかしくて</rt></ruby>、<ruby><rb>音辞</rb><rt>みことば</rt></ruby><ruby><rb>俊</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れ<ruby><rb>朗</rb><rt>あきら</rt></ruby>かなり。<ruby><rb>天命開別</rb><rt>あめみことひらかすわけの</rt></ruby>天皇（天智天皇）の為に<ruby><rb>愛</rb><rt>めぐ</rt></ruby>まれたまふ。<ruby><rb>長</rb><rt>ひと</rt></ruby>となるに及びて<ruby><rb>弁</rb><rt>わいわい</rt></ruby>しくて<ruby><rb>才学</rb><rt>かど</rt></ruby>有り、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も<ruby><rb>文筆</rb><rt>ふみつくること</rt></ruby>を<ruby><rb>愛</rb><rt>この</rt></ruby>む。<ruby><rb>詩賦</rb><rt>しふ</rt></ruby>の<ruby><rb>興</rb><rt>おこり</rt></ruby>、大津より始まれり……。」

大津皇子はさきに天武天皇の前に誓盟された六皇子の一人である。いかなる心境ゆえにかかる不幸を招かれたのか。ここにも群臣の様々な謀略があったと思われる。天武天皇の深き念願にも拘らず、天皇の御一代は壬申の乱に始まって大津皇子の最期に終らねばならなかった。

<ruby><rb>蘇我馬子</rb><rt>そがのうまこ</rt></ruby>以来、勢力ある氏族の野心は、<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>宮廷を悩ましたのであるが、壬申の乱及び大津皇子の悲劇は、そのあらわれは激しかったが比較的短日月にて<ruby><rb>収攬</rb><rt>しゅうらん</rt></ruby>された。しかしこれに代って、持統天皇の御代より、藤原鎌足の子<ruby><rb>不比等</rb><rt>ふひと</rt></ruby>の一族、或は<ruby><rb>橘三千代</rb><rt>たちばなのみちよ</rt></ruby>、橘<ruby><rb>諸兄</rb><rt>もろえ</rt></ruby>等の諸勢力が、徐々に宮廷のうちにのびて行った。彼らの<ruby><rb>擅権</rb><rt>せんけん</rt></ruby>が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くあらわになったのは天平に入ってからであるが、その種子は既に根づよくこの時代に<ruby><rb>胚胎</rb><rt>はいたい</rt></ruby>していたのであった。またこの頃のわが国内は、書紀から<ruby><rb>続紀</rb><rt>しょっき</rt></ruby>へうつるところによってみるに、氏族諸民の膨脹<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しく、他方では下層の民の生活苦よりくる種々の犯罪増加を伴い、これを取締ることは為政の苦衷であったらしい。

しかもこのような激しい世に、聖観音や薬師三尊のごとき、或は橘夫人念持仏や香薬師のごとき稀有のみ仏が次々と現出して行ったのである。唐文化の流入はすさまじいものがあったし、来朝する僧学者諸々の技術家乃至は留学生もおびただしい数にのぼっていたのであるから、この間において造仏の<ruby><rb>工</rb><rt>たくみ</rt></ruby>が一段の進展をみたことは否定出来ない。然しあの深い光沢、円満のみ姿は、ただこれによってのみ可能だったとは思われぬ。真実の安らいを求めて人々は更に深く憧憬し、祈念の<ruby><rb>音声</rb><rt>おんじょう</rt></ruby>は激しく仏体にまつわりついていたであろう。

＊

薬師<ruby><rb>如来</rb><rt>にょらい</rt></ruby>の流麗な光りの線をみると、祈念の音声が何の抵抗もなくなだらかに調和して、おのずから吸いこまれて行くように思われる。鳥仏師の釈迦三尊の厳格な威容は、人間の祈念を厳しく直角に吸いこむようにみえるが、<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>の薬師如来は、すべての祈りの声を、声のままにいつとはなし自己の光りのメロデーと融合せしむるごとくである。このことを私は音楽の隆盛にむすびつけて考えざるをえなかった。

大化改新より奈良朝へかけて、唐僧と留学生の力によって、<ruby><rb>読経</rb><rt>どきょう</rt></ruby>も漸く荘厳な調べを<ruby><rb>奏</rb><rt>かな</rt></ruby>でるようになったであろうし、また寺の大会に伴う様々の音楽と舞踊も急速に発達したであろう。仏教音楽、舞踊、読経、これら一切をふくめた<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>るすばらしい調べが、白鳳期において開花したのではなかろうか。流麗な音声と楽なくしては、薬師像の光りと線は磨かれなかったに相違ない。即ち天武天皇より三代の朝にわたる祈念は、音楽の<ruby><rb>洗煉</rb><rt>せんれん</rt></ruby>を伴ってはじめて壮麗な調べを得たと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>えないだろうか。白鳳の貴人達は深甚微妙の楽の音と数百の<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>の読経と、この壮大な交響の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に仏を拝する妙味を心ゆくまで<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>った最初の人々であったに相違ない。少くともかかる情緒が、三尊を造顕した仏師の身についていたと云わねばならない。

正面に<ruby><rb>結跏趺坐</rb><rt>けっかふざ</rt></ruby>する本尊を中心に、右に日光<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>、左に<ruby><rb>月光</rb><rt>がっこう</rt></ruby>菩薩が<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>しているが、この二<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>はあくまで本尊と調和を保って、云わば三尊そろって一つの<ruby><rb>綜合</rb><rt>そうごう</rt></ruby>的な曲線を描き、<ruby><rb>渾然</rb><rt>こんぜん</rt></ruby>たるメロデーを奏でるようつくられてある。それは意識的にそうなのだ。右なる日光菩薩は、胴体から腰をかすかに本尊の方へくねらせ、右足は<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>遊び足となってわずかに前方へ出ている。右手を挙げて印をむすび、左手はさげたまま施満願の印をむすんでいるが、その軽くむすんだ指先が、三尊一体として仰いだ折の、右端に終る光りとなっているのだ。左方の月光菩薩は、同じ挙措を対照的に示す。左手を挙げて印をむすび、右手はさげたまま日光菩薩と同様の印をむすびつつ、その指先は左端の光りとなって終る。

飛鳥の御代を過ぎて白鳳までくると、仏体はかくも自在な動きを示しはじめるのである。祈念は祈念を微妙に<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>る音楽を随伴しはじめた。若しそう言ってよければ、飛鳥仏にこもる祈りは厳しく思索的であり、白鳳仏にこもる祈りは柔軟に音楽的なのだ。そして天平仏となるとこれに舞踊的要素が加わる。ともあれこの時代になると、人間の悲願は音楽として表現されるにふさわしくなってきたのだと云ってもよかろう。情感は洗煉され、また装飾的にもなったろう。柿本人麻呂をはじめ万葉集前期の諸歌人が輩出した時代であることを思えば更に興深い。

薬師三尊のごとき光りと曲線の仏体を他に求めるならば、前述の橘夫人念持仏であるが、しかし私はむしろ法隆寺金堂の西大壁に描かれた<ruby><rb>阿弥陀</rb><rt>あみだ</rt></ruby>三尊を挙げたい。薬師三尊をもし壁画に写すならば、法隆寺のこの三尊に最も近いものとなるであろう。結跏趺坐した阿弥陀如来の豊かに流麗な像や、<ruby><rb>脇侍</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>たる観音<ruby><rb>勢至</rb><rt>せいし</rt></ruby>両菩薩の、本尊に調和せんとする<ruby><rb>優婉</rb><rt>ゆうえん</rt></ruby>な腕と胴体の動きなどは、薬師三尊に酷似している。祈念の音楽はここでは壁画として表現されたのだ。

しかし私の最後に憧憬するのは、天平時代に入ってから、聖武天皇の造顕されし東大寺の大仏である。いまは既に崩壊して名残をとどむるのは台座の<ruby><rb>蓮弁</rb><rt>れんべん</rt></ruby>のみであるが、若しこの大仏にして現存するならば、<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し空前絶後の壮麗を現出していたであろう。<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>なら、この大仏は、いままで述べ<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>った薬師如来像を<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに大きく継いだものと推察されているからである。

――昭和十七年秋――

  


## 塔について

古寺の風光のなかでもとりわけ私の愛するのは塔の遠望である。奈良から法隆寺行きのバスが出ていた頃は、いつもそれに乗って出かけることにしていた。豊かな大和平原をゆられながら、次々とあらわれてくる塔を望見するのがこの上もなく楽しかったからである。いまは田園と化した平城京<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>を過ぎて行くと、まず薬師寺の東塔がみえはじめる。松林の、緑のあいだにそそり立つその端麗な姿が、次第に近づいてくる有様は実にすばらしく、古都へ来た<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びが深まるのであった。また小泉のあたりを過ぎるとき、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かな丘陵の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の<ruby><rb>森蔭</rb><rt>もりかげ</rt></ruby>に法起寺と法輪寺の三重塔が<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>んでみえ、やがて法隆寺の五重塔が鮮かな威容をもって立ちあらわれる状景には、いつも心を躍らされる。何故あのように深い悦びを塔は与えるのであろう。

「ああ塔がみえる、塔がみえる」――そう思ったとき、その場で車をすてて、塔をめざしてまっすぐに歩いて行く。これが古寺巡礼の<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>というものではなかろうかと思う。おそらく古人も、遥かに塔を望みながら、誘わるるごとくひきよせられて行ったに相違ない。塔にはふしぎな吸引力がある。<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>と歓喜を与えつつ<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしに我々をひきよせるのだ。その下に<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>があり、<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>のみ仏が<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>す。朝夕多くの善男善女が祈願を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げている。そういう<ruby><rb>息吹</rb><rt>いぶき</rt></ruby>が炎のようにもつれあって、静かに<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>へ立ちのぼる相をそのままに結晶せしめたのが塔なのであろうか。いつの春だったか、小泉の辺りでバスを降りて、<ruby><rb>畔道</rb><rt>あぜみち</rt></ruby>に腰をおろしながら、法起寺と法輪寺の塔を望見したことがあったが、<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のなかに二つの塔が<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに震えているのをみてこの感を深うした。私はさきに<ruby><rb>百済</rb><rt>くだら</rt></ruby>観音を白炎の塔として仰いだことについて述べたが、大和平原はるかに塔を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めるとき、私にはそれらが<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>立像にみえるのである。

薬師寺を訪れるには、西の京から直ちに境内へ入る道筋もいいが、バス街道から田畑のあいだを通りぬけ、塔を望みながらゆっくり歩いて行く途中も捨て難い。この秋は、夕暮近く薬師寺を訪れた。夕暮から夜へかけての塔の姿をみたかったのである。塔の<ruby><rb>尖端</rb><rt>せんたん</rt></ruby>についている九輪のあたりに、浮雲が漂っていて、それに<ruby><rb>夕陽</rb><rt>ゆうひ</rt></ruby>が映ってくれないに染まった、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby><ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>雲を背景とした塔を仰ぎたい、というのが私の長い間の願望であった。東塔は周知のごとく三重の塔ではあるが、各層に<ruby><rb>裳層</rb><rt>もこし</rt></ruby>がついているので六重の塔のようにみえる。そしてこの裳層のひろがりが塔に音調と<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>を与えている。<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>の祈念に宿る音楽性はここにもうかがわるるであろう。この日は空がよく晴れていて、天平雲は望むことは出来なかったが、松林の緑を透して<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>しこむ夕日に、塔が紫色に映えて、裳層の陰翳も<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>深く仰ぎみられた。

だがそれにもまして驚嘆したのは夜の塔であった。月光を浴びて<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>は黄金の光りを放ち、各層は細部にいたるまで鮮かに照り映えて、全体が銀の塔と見まちがうばかりである。満天の<ruby><rb>星屑</rb><rt>ほしくず</rt></ruby>を背にそそり立つ荘厳の姿は、私がこの世の中でみた最も美しい状景であった。九輪の尖端には<ruby><rb>水煙</rb><rt>すいえん</rt></ruby>と称する網状の金属の飾りがついているが、この水煙には<ruby><rb>飛行</rb><rt>ひぎょう</rt></ruby>奏楽する天女の一群が配してある。月光のため白銀の炎のようにみえるその頂上のあたりには銀河がゆるやかに流れていた。天女の<ruby><rb>奏</rb><rt>かな</rt></ruby>でる楽の音が聞えたという伝説を残してもよかろう。夕暮の塔をはるかに慕いつつ、やがてその下に立って月夜の姿を仰ぐまでのこの時間を、私は人生の幸福とよんでもいい。少くとも私の半生において最も幸福な<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>であった。人間の祈りが結晶して、月のある天上に向ってそそり立つなどということはこの世の出来事とは思われない。

塔は幸福の象徴である。悲しみの極みに、仏の悲心の与える悦びの<ruby><rb>頌歌</rb><rt>しょうか</rt></ruby>であると云ってもいい。金堂や講堂はどれほど雄大であっても、それは地に伏す姿を与えられている。その下で人間は自己の苦悩を訴え、<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ祈った。生死の悲哀は、地に伏すごとく建てられた伽藍の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にみちているであろう。しかし塔だけは、天に向ってのびやかにそそり立っている。悲しみの合掌をしつつも、ついに天上を仰いで、無限の虚空に思いを<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せざるをえないように出来あがっているのだ。人生苦のすべては金堂と講堂に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねて、塔のみは一切忘却の果に、ひたすら我々を天上に誘うごとく見える。しかも塔の底には仏の骨が埋められてあるのだ。

大和古寺には様々の塔がある。法隆寺の塔のもつ<ruby><rb>巍然</rb><rt>ぎぜん</rt></ruby>たる威容は、<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>の御人格そのままと申していいほど立派なものである。鳥仏師の<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>三尊にみらるるような絶対<ruby><rb>帰依</rb><rt>きえ</rt></ruby>に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>る厳格さを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>んでもよかろう。また法起寺と法輪寺の三重塔は飛鳥の小仏のごとく<ruby><rb>古樸</rb><rt>こぼく</rt></ruby>で<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な一面をもつ。二上山を背景に、中腹に立つ<ruby><rb>当麻寺</rb><rt>たいまでら</rt></ruby>の東西両塔の典雅な有様、あるいは<ruby><rb>室生寺</rb><rt>むろうじ</rt></ruby>の大杉の間に立つ五重塔の華麗な姿も忘れられない。しかし私は結局、薬師寺の東塔に最も感心するのである。法隆寺の塔のもつ森厳な風格に比すれば<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby><ruby><rb>華</rb><rt>はなや</rt></ruby>かではあるが、同時に雄大な落着をそなえていて<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>の不安も与えない。西塔はすでに崩壊して、わずかに<ruby><rb>土壇</rb><rt>どだん</rt></ruby>と<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずえ</rt></ruby>を残すのみであるが、東塔はよく千二百年の風雨に耐えて、白鳳の壮麗をいまに伝えている。某という僧が<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>に入って夢みた竜宮の塔を、うつつに現出したものといわれるが、かような様式はわが国にも<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>一つこの東塔あるのみ。

――昭和十七年秋――

  


## <ruby><rb>唐招提寺</rb><rt>とうしょうだいじ</rt></ruby>

  


## 秋

薬師寺から北へ三丁ほど歩いて行ったところに唐招提寺がある。この道筋には古風な民家が散在し、その破れた<ruby><rb>築地</rb><rt>ついじ</rt></ruby>のあいだより、秋の光りをあびて<ruby><rb>柿</rb><rt>かき</rt></ruby>の実の赤く熟しているのが<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>められた。<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>んだ黄色い壁と柿のくれないとがよく調和して美しい。また辺り一帯には松の<ruby><rb>疎林</rb><rt>そりん</rt></ruby>があり、樹間をとおして広々とした田野がみえる。刈入れのすんだところは稲束が積みかさねられ、<ruby><rb>畔道</rb><rt>あぜみち</rt></ruby>には<ruby><rb>薄</rb><rt>すすき</rt></ruby>が秋の微風をうけてゆるやかになびいている。すべて<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の平城京の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>である。

唐招提寺も薬師寺と同じく右京に位しているが、<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>された年代からいえば、薬師寺よりおよそ四十年の後である。東大寺の大仏<ruby><rb>開眼</rb><rt>かいげん</rt></ruby>の日からかぞえると七年目、<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>もすでに末期の宝字三年、<ruby><rb>鑑真</rb><rt>がんじん</rt></ruby>が<ruby><rb>聖武</rb><rt>しょうむ</rt></ruby>天皇の御<ruby><rb>冥福</rb><rt>めいふく</rt></ruby>を祈りつつ草創した寺と伝えられる。したがって、東大寺や新薬師寺の後に語るのが順序ではあろうが、ここでは私の巡礼の道順によって述べる。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち薬師寺における<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>の威容から一足とびに天平末期へ移るわけだ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も私はこの寺の歴史と仏像にはさほど心をひかれない。法隆寺や薬師寺や東大寺に比べると格式もちがうし<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>も深いとはいえない。しかし唐招提寺には他のどんな古寺にもない独特の美しさがある。<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>配置のかもし出す整然たる調和の美しさであって、私はそれをみたいためにやってくるのだ。奈良朝の建築の精華はここにほぼ<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>な姿で残っていると<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ってもよかろう。

<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシャ</rt></ruby>の神殿を<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>せしむるような円柱の立ち並んだ金堂、平城京の朝集殿と伝えらるる講堂、及びその西側に細長く建っている舎利殿、小さく<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>な二階造の鼓楼、この四つの伽藍が秋の光りを一杯にうけて粛然と静まりかえっている状景は無比である。燻んだ御堂の柱や横木の間に塗られた白壁が、秋には一層映えて、全体として明るい<ruby><rb>華</rb><rt>はなや</rt></ruby>かな感じにあふれ、寺院というよりは宮殿といった方がふさわしいくらいだ。金堂の右側にある案内所の辺に立つと、四つの堂を一望に眺めることが出来る。この四つの堂が<ruby><rb>奏</rb><rt>かな</rt></ruby>でる壮麗な調和にいつも感心する。その一つ一つを切り離しては考えられないのである。

金堂は奈良時代の大寺の金堂の形式を伝える<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいいつ</rt></ruby>の遺構といわれる。<ruby><rb>元明</rb><rt>げんめい</rt></ruby>天皇平城京に<ruby><rb>遷都</rb><rt>せんと</rt></ruby>されてより、興福寺、<ruby><rb>元興寺</rb><rt>がんごうじ</rt></ruby>、薬師寺、大安寺等が次々と建立され、聖武天皇の御代にいたって<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に<ruby><rb>宏大</rb><rt>こうだい</rt></ruby>無双の東大寺が創建される等、この<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>は大寺造営の盛んな時代であったが、しかし現在に伝わるものは極めて<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>である。東大寺の<ruby><rb>転害</rb><rt>てがい</rt></ruby>門と三月堂、正倉院の勅封蔵、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は夢殿を除けばわずかに唐招提寺の金堂が代表的遺構であるにすぎない。その他にもいくつか挙げられるけれど、この金堂ほど壮麗に現存しているものはない。講堂も同じ時代の造営であるが、後代の補修<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しく、古の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>は<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれないという。舎利殿と鼓楼は鎌倉時代の造営である。こうして一つ一つをとってみると様々な考証や<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>はつくが、しかし四つ<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>ったところを眺めると、時代の相違を忘れるほど見事な調和を示しているのが不思議だ。

伽藍配置の美については、誰しもまず法隆寺を想起するであろう。伊東忠太博士が指摘しているように、「右に金堂の大を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>、左に塔の高きを仰ぎ、更にその間から中央に講堂の広きを望むことが出来、得も云われぬ<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>がある。左右同形は厳格ではあるが情味に乏しい。法隆寺伽藍は左右不同形ではあるが、金堂と塔とは量において、力において、姿において均衡を保っており、その間に無限の情味がある。要するに法隆寺伽藍は左右同形を捨てて、左右均衡を取ったものである」（「法隆寺」より）――この卓抜な着想は、上宮太子の<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>されしところで、ここからあの無比の威厳があふれ出たのであろう。法隆寺伽藍の配置はただ美しいとだけいえるものではない。金堂と塔と講堂と、それぞれの信仰上の意味を深く省察されて、一切は唯信の祈念と<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>から建立された。全体としての森厳たる威容は、やはり鳥仏師の<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>三尊にこもる精神にも通じているであろう。<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の伽藍も、飛鳥の古仏のごとく思索的なものである。

ところで唐招提寺になると、かような配置への顧慮は一見なげやりにみえる。金堂の前に立つと、その威圧的な大屋根のうねりと円柱に圧倒されて、他の何ものもみえない。塔はないし、講堂は真うしろにかくれてしまう。鼓楼と舎利殿がわずかに右方に望見される。そこには均衡に対する顧慮が全くないようにみえる。しかし一歩ずつ歩みをすすめて、これら伽藍の周囲をめぐりはじめると、急にその優しい美しさがあふれ出てくるのだ。

金堂だけであったならば、あまりにいかめしく重厚であろう。講堂のみを眺めると唐の宮殿のように華麓で、寺としての<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>に乏しい。鼓楼はそれ一つを離すとあまりに<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>であり、舎利殿は整備されすぎて古典の重味に欠ける。ところがこの四つの堂が揃うと、互に不足なところを補いあって、遂に欠点を<ruby><rb>見出</rb><rt>みいだ</rt></ruby>せない、という不思議な効果をもった配置なのである。金堂のいかめしさは、舎利殿の整然たる姿と鼓楼の華奢な面影によって和げられ、云わば側面から適度の反射光を投げかけられたように柔軟な相を帯びてくる。そして金堂自身のもつ<ruby><rb>蒼然</rb><rt>そうぜん</rt></ruby>たる陰翳は、後の講堂に反映し、講堂のもつ<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>浮いた明るさに適切な重厚味を与えている。つまり<ruby><rb>各々</rb><rt>おのおの</rt></ruby>異った光りをもつ四つの堂が、互に光りを交しながら全体として壮麗な美を現出するという、不思議な効果をもっているのだ。鑑真の率いた弟子達がかような効果を当初から念願したのであろうか。或は大唐の文化に学び、数々の寺院を建てて、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く円熟自在の境に入った天平建築家の感覚が、おのずからこうした状景をつくり出したのであろうか。<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>はもっと後代の作為なのか。それとも秋の光りの<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れなのか。

ともあれ私はこれら伽藍の周囲をめぐりながら、様々の方角から眺めつつ、そのたびに変化する建築の妙味に陶然とするのである。これは伽藍の交響楽だ。透明な秋空にひびきわたるかと思われるほど鮮かな輪郭をもってそびえている。

――昭和十七年秋――

  


## 円柱と翼

<ruby><rb>唐招提寺</rb><rt>とうしょうだいじ</rt></ruby>の金堂を訪れた人は、誰しもその見事な円柱に心をとめるであろう。円柱が全姿をあらわに並列しているのは、大和古寺のなかでもこの寺以外にはない。私は写真の上で、遠い<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシャ</rt></ruby><ruby><rb>羅馬</rb><rt>ローマ</rt></ruby>の神殿の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>にそそり立つ円柱をみたことがあるが、ああいう石造の感じはどんなものであろうか。おそらく冷厳に、しかし月光などが照らし出したならば異様な光りを放つのではなかろうか。わが古寺の円柱は<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>うまでもなく木造であるから、光りを反射することは少い。むしろ光りを吸収して、柔くその木目のあいだに<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えると云った方がいいようだ。月光の下で<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めたならば、<ruby><rb>一旦</rb><rt>いったん</rt></ruby>吸いこんだ光りが<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かににじみ出るといった風に輝いているのではなかろうか。またこの円柱は光りばかりでなく、千二百年のあいだ、金堂に<ruby><rb>詣</rb><rt>もう</rt></ruby>でた人々の<ruby><rb>息吹</rb><rt>いぶき</rt></ruby>や体臭や衣の香りまでも吸い込んでいるにちがいない。感触が柔く、どこかに暖かさがこもっている。その深部にはいまなお血液が脈うっているようにさえみえる。私は円柱について専門的な知識をもちあわせないが、古寺の柱をみると、何となく人臭い感じがするのである。生ま生ましいのだ。これはどんな理由に基くのであろうか。

元来、柱というものは人がもたれかかるものである。もたれかかるために柱を建てるわけではないが、自然にそうなるのは我々の日常経験するところであろう。私はこの<ruby><rb>素朴</rb><rt>そぼく</rt></ruby>な日常経験を基として唐招提寺の円柱に対するのである。

金堂におまいりして、仏前に祈りを<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げた後、おそらく多くの人は何げなくこの円柱にもたれかかって、ほっとしたのではなかろうか。<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は<ruby><rb>遥々</rb><rt>はるばる</rt></ruby>この寺を訪れた旅人が、仏前へまいる前に、しばし身を寄せかけてあたりの風光をめでたのではなかろうか。<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>はこの<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>に身をひそめて恋人を待つ平城の男女があったかもしれぬ。念願は心の緊張の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に行われる。仏前に在っては我々は<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>のため慎しみふかくしていなければならない。しかし円柱はそうした緊張の後や、旅の疲れの後や、また相慕う思いのまにまにと身を寄せるに実に都合よく、親しみ深く立っているのである。円形ということも大事なことである。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ちそれは巧まずして設けられた小さな<ruby><rb>憩</rb><rt>いこ</rt></ruby>いの場所なのだ。

ここで我々は様々の思いをめぐらしたり、平生の気楽な状態に<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>ったりすることが出来る。その証拠には各寺院の円柱をみよ。落書がある、身をすり寄せた<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>もみえる、子供達は手をつないで鬼ごっこをしている。また遠慮なくお<ruby><rb>呪</rb><rt>まじな</rt></ruby>いの札がはりつけてあるのも円柱である。法隆寺や東大寺の屋内の円柱はさほどではないが、唐招提寺のごとくむき出しになっているところではこの傾向は甚だ顕著で、それがまた何ともいえない親しみを与えてくれるのだ。俗にみえることもあるが、この俗をも摂取してそれがそのまま寺の<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しさと化している点が私には有難い。人臭いと云ったのもかような意味である。

しかし八本の太柱の並んだ金堂を稍々<ruby><rb>遠眼</rb><rt>とおめ</rt></ruby>にみるときは、また別の美しさを感ずる。この出張った柱のあるため、金堂がどれほど深い<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>を与えられているか、想像がつくであろう。<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>が波のようにうねる大屋根の重くるしさも、この円柱のためどれほどやわらげられているか。南の光りを浴びて、円柱が影を石畳の上にうつしているのをみると、ふと懐しい気持が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いてくる。<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>を懐しむのだ。この懐しさのなかには、さきに述べたようにささやかな憩いへの<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れがこもっている。疲れた旅人が路傍の大樹のもとに<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>しの休らいを求めるように、柱というものは寄りかかるためにあるものだ。また路傍の大樹を遠くからみると、旅人の有無に<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らずそれ自身の美しさでそびえているように、円柱も離れて仰げば人臭さに関係なく荘厳にそそり立っているのだ。人為の果がかく自然を思わせるのも木造円形の故であろうか。屋根を支えるために建てた柱が、こんな美しい陰翳や習いを生ずるのを私はいつも感嘆して思うのである。

しかし柱にばかり感心しているわけにゆかないので、私は御堂へ入る。<ruby><rb>光背</rb><rt>こうはい</rt></ruby>に千体の小仏をもつ<ruby><rb>廬舎那仏</rb><rt>るしゃなぶつ</rt></ruby>と千手観音がまず眼をひく。<ruby><rb>鑑真</rb><rt>がんじん</rt></ruby>の率いて来た唐仏師の影響下に造顕されたと伝えられるが、それは別として、私はいつも千手観音を拝するたびに起す一つの疑問をここで述べておこう。千手観音は文字どおり千本の腕としたがって五千本の指とをもっている。<ruby><rb>体躯</rb><rt>たいく</rt></ruby>の左右に五百本ずつ、大きいのから小さいのまで、無数といっていいほど手がのびている。云うまでもなく千変万化<ruby><rb>如意</rb><rt>にょい</rt></ruby>救済の願いをあらわしているのだが、しかし経文や願そのままのリアリズムに私は疑問をもつ。千手観音なるがゆえに千手あるのは当然かもしれないが、何となく奇怪で薄気味わるい。こうしてまでも千手にする必要があるのであろうか。<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>や<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>期には絶無と云ってよく、<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>も末期からこの観音が造顕されはじめたようだ。たとい仏であり<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>であろうと、また私のひそかな願いが唯信をもって対することであろうと、私はやはり美しさに<ruby><rb>拘泥</rb><rt>こうでい</rt></ruby>せざるをえない。美を無視して信心のみから仏を仰ぐことは出来かねるのだ。美しくなければ私はその信仰を疑う。

しかし私はこの千手観音を無視していいとは夢にも思わない。いま少しのところで美しくなる<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ。私は自分の念願のなかで、千手観音をひそかに補うのである。つまり想像の裡だけでも美しい菩薩として仰ぎたいのだ。私はこのみ仏の前に立って、眼をほんのかすかにひらいて眺める。全体の姿がおぼろげにみえてくる。千手はもはや千手ではない、全体の輪郭だけが幽かにうつってくる。すると驚くべきことに、千手はそのまま翼と化すのだ。翼をひろげた観世音がまさに<ruby><rb>飛行</rb><rt>ひぎょう</rt></ruby>の姿で<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>している。

この想像はしかし<ruby><rb>基督</rb><rt>キリスト</rt></ruby>教的であろう。カソリック教会堂でみた天使の姿がこのみ仏に通じたのかもしれない。このことはまた一つの疑問を私に与える。何故仏像には翼がないのであろう。一つぐらいありそうなものだ。仏像とは限らぬ。法隆寺<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>の天人をみても、薬師寺東塔水煙の天女を仰いでも、或は宇治平等院<ruby><rb>鳳凰堂</rb><rt>ほうおうどう</rt></ruby>の雲上<ruby><rb>供養仏</rb><rt>くようぶつ</rt></ruby>に接しても、翼はみあたらない。翼がなければ飛べないというのは西洋風の<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>であって、東洋の神仏も天人も生身のまま大空に遊行するのであろうか。その方が神仏としてふさわしいことはたしかだ。あるいは翼をもつほどならいっそ鳥と化してしまう。白鳥となって飛び立つ美しい伝説がある。また仏法には転生が<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>説かれている。

だが千手観音をみると、やはり翼があった方がいいように思う。千本の腕まで写実するくらいならばむしろ翼を与えよと云いたい。円柱に寄りそって一息ついた善男善女が、やがて純白の翼をひろげた観世音菩薩を御堂に仰いだときの思いを私はふと想像したのである。

――昭和十七年秋――

  


## 東大寺

  


## <ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の<ruby><rb>花華</rb><rt>はな</rt></ruby>

<ruby><rb>佐保山</rb><rt>さおやま</rt></ruby>に<ruby><rb>鎮</rb><rt>しずま</rt></ruby>る<ruby><rb>聖武</rb><rt>しょうむ</rt></ruby>天皇ならびに<ruby><rb>光明</rb><rt>こうみょう</rt></ruby>皇后の御陵に参拝したのは昨年の秋であった。いまの奈良市の、郊外と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ってもいい、静かな田野のひらけはじめたところに、この有名な丘陵が横たわっている。なだらかな玉砂利の道を登って行くと、まず聖武天皇の御陵がある。これと並んでほんの二・三十歩離れたところに光明皇后の御陵がある。<ruby><rb>御二方</rb><rt>おふたかた</rt></ruby>そろって、あたかも<ruby><rb>比翼塚</rb><rt>ひよくづか</rt></ruby>と申してもいいような有様の下に眠らせ<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うておらるるのである。<ruby><rb>玉垣</rb><rt>たまがき</rt></ruby>をめぐらしたその小高い御陵は、<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>たる雑木に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いつくされ、昼なお暗い樹間には、<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の<ruby><rb>栄耀</rb><rt>えいよう</rt></ruby>を思わすごとく<ruby><rb>蔦葛</rb><rt>つたかずら</rt></ruby>の美しく紅葉して垂れさがっているのが仰ぎ見られた。往時の造営はどのようであったか、その名残はもとよりうかがうことは出来ない。千二百年の歳月は一切を自然と化してしまったのであろう。<ruby><rb>嘗</rb><rt>か</rt></ruby>つて背の君とともに心をつくして<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>された東大寺を、また今は<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>となった平城京を<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに望見しながら、天平の花華とも仰がるる光明皇后は、佐保山の紅葉のもとに何を夢みておらるるだろうか。

さほやまのこのしたがくりよごもりにものうちかたれわがせわぎもこ

この一首、佐保山の御陵を詠じた会津八一博士の歌である。この感慨は現前の状景に対してもふさわしいが、その背景たる遠い古を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばしむる点で私にとっては一層なつかしい。御二方が<ruby><rb>統</rb><rt>す</rt></ruby>べ給うておられた天平のみ代は、云うまでもなく我が民族の生命力が思いきって開花<ruby><rb>爛熟</rb><rt>らんじゅく</rt></ruby>したような時代であった。現存の<ruby><rb>正倉院</rb><rt>しょうそういん</rt></ruby>御物と万葉集と仏教美術を想起しただけでも驚くべきであろう。そこにはあらゆる美と荘厳と、また悪徳の<ruby><rb>深淵</rb><rt>しんえん</rt></ruby>が<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずま</rt></ruby>いていた。光明皇后はこれらのただなかに在って、つねに聖武天皇により添われ、愛と信仰をともにされた方であったから、胸中に万感の思いを抱いておられたに相違ない。「ものうちかたれわがせわぎもこ」の句に、私はその一切を偲ぶのである。たとえば万葉集巻八には、皇后が、聖武天皇に<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げた次のような<ruby><rb>相聞</rb><rt>そうもん</rt></ruby>がのっている。

<ruby><rb>吾</rb><rt>わが</rt></ruby><ruby><rb>背子</rb><rt>せこ</rt></ruby>と二人見ませば<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくばく</rt></ruby>かこの<ruby><rb>零</rb><rt>ふ</rt></ruby>る雪の<ruby><rb>懽</rb><rt>うれ</rt></ruby>しからまし

一首の意は解を要するまでもなく簡明であろう。<ruby><rb>寧楽</rb><rt>なら</rt></ruby>の都に雪のふりしきる日、高殿に在って背の君と肩をならべ、その雪を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていたならばどんなに<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいことであろうと、何らの技巧粉飾を用いず歌われているのである。<ruby><rb>調</rb><rt>しらべ</rt></ruby>が清らかで、愛情の<ruby><rb>濃</rb><rt>こま</rt></ruby>やかに滞るなく流れている名歌である。光明皇后の美しい御歯並さえしのばるるではないか。高貴な血統に育った方の気高さがおのずからにじみ出ている。会津博士の歌のはるか奥に、この一首の<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに余韻していることを私はなつかしく思うのである。

＊

天平の美は、正倉院御物と万葉集と仏教美術によって代表されることは周知のところであろうが、とくにこのみ代の仏教を語るものにとっては、聖武天皇ならびに光明皇后の御名は、忘れ難いであろう。東大寺――わけても今日「奈良の大仏」として親しまれている<ruby><rb>毘廬舎那仏</rb><rt>びるしゃなぶつ</rt></ruby>鋳造や、<ruby><rb>法華</rb><rt>ほっけ</rt></ruby>滅罪寺の建立は御二方の名を不朽ならしめた。御二方なくしては天平仏教の開花はありえなかったであろう。何故かくも信仰が深かったのだろうか――。<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>の<ruby><rb>義疏</rb><rt>ぎしょ</rt></ruby>のごとく、仏教について<ruby><rb>内奥</rb><rt>ないおう</rt></ruby>の思念を直接語られたような文書はもとより伝わっていない。我々は主として<ruby><rb>続日本紀</rb><rt>しょくにほんぎ</rt></ruby>にしるされた詔勅や御挙措や伝説をとおして、み心を偲ぶ以外にない。深き信仰を抱かせらるるに至った様々の要因を、私は<ruby><rb>続紀</rb><rt>しょっき</rt></ruby>にあらわれた時代の相にふれつつ推察申し上げようと思うのである。

上宮太子が<ruby><rb>薨去</rb><rt>こうきょ</rt></ruby>されてからおよそ九十年、<ruby><rb>元明</rb><rt>げんめい</rt></ruby>天皇が平城京に都を定められた頃は、内外の紛争も<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く下火となり、わが国富と<ruby><rb>諸々</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の芸文は<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>増大充実してきた頃であった。この九十年間には<ruby><rb>蘇我入鹿</rb><rt>そがのいるか</rt></ruby>の専断と横死あり、ついで<ruby><rb>中大兄皇子</rb><rt>なかのおおえのおうじ</rt></ruby>と<ruby><rb>鎌足</rb><rt>かまたり</rt></ruby>による大化改新の断行、わが国礎の漸く定ると思われた間もなく、<ruby><rb>壬申</rb><rt>じんしん</rt></ruby>の大乱が起るといったように、云わば危機の連続であったが、奈良朝に入るとともにひとまずこれも<ruby><rb>終焉</rb><rt>しゅうえん</rt></ruby>したかにみえる。

持統、<ruby><rb>文武</rb><rt>もんむ</rt></ruby>、元明、<ruby><rb>元正</rb><rt>げんしょう</rt></ruby>の四帝三十五・六年の間は、主に母后の帝位を<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>がれた時代で、聖武天皇はかような状態の後をうけ、久しぶりに男子として帝位に就かれた方である。すでに仏教はわが国の上層にあまねく行きわたり、また唐との交通も益々<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>くなったので、優秀な<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>や博士やその他様々の専門家が渡来し、皇室に重用されたことはここに一々挙げるまでもない。とくに隣邦僧侶の、芸文あるいは政治経済にも及ぶ指導力はこの時代一層つよいものがあった。聖武天皇が幼少の頃より、<ruby><rb>未曾有</rb><rt>みぞう</rt></ruby>の「文明開化」の影響のもとに生育されたことは申すまでもなかろう。

しかし御信仰を、ただ外部よりの影響とのみ断ずるのは不当である。まことの信仰は、必ず内奥の苦悩より発する。天平仏教が単に唐文化の模倣であり、東大寺建立が国富の大浪費であるとなすのは正しい見解ではない。あの豪華荘厳の背景ふかく、ひそかに宿るであろう天皇の信仰をまず考えないわけにゆかない。天皇の御<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>を偲ぶとき、私は一層その感を深くする。<ruby><rb>小野老朝臣</rb><rt>おぬのおゆあそん</rt></ruby>が「あをによし<ruby><rb>寧楽</rb><rt>なら</rt></ruby>の都は咲く花の<ruby><rb>薫</rb><rt>にほ</rt></ruby>ふがごとく今盛なり」と詠じたように、天平のみ代はたしかに<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>の黄金時代であったろう。<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby><ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>を通じて興隆し<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>った文化の、更なる<ruby><rb>昂揚</rb><rt>こうよう</rt></ruby>があったであろう。だがそういう開花の根底には、必ずしも天国のごとき平和が漂っていたわけではない。

私は日本書紀や続日本紀を読みつつ、後代より慕わるる美しい時代が、その底につねに<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>とした苦悩を、悪徳の深淵を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えているのをみて驚く。平和とはそもそも何だろう。平和とは内攻した血の創造の日々である。対外的には<ruby><rb>静謐</rb><rt>せいひつ</rt></ruby>であろうと、一歩国内の深部に眼をむけると、そこには相変らぬ氏族の<ruby><rb>嫉視</rb><rt>しっし</rt></ruby>と陰謀と争闘があり、<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>にまみれた人間の<ruby><rb>呻吟</rb><rt>しんぎん</rt></ruby>がある。ひそかに流された血のいかに多いことであるか。歴史は私に平和の何ものであるかを教えた。飛鳥のみ代がそうであったし、天平といえどもこの例に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れない。そして激烈な信仰や美しい<ruby><rb>詩歌</rb><rt>しいか</rt></ruby>や<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>たる美術は、すべてこの暗黒を土壌として生育しているようである。

嘗て蘇我氏が、皇室の<ruby><rb>外戚</rb><rt>がいせき</rt></ruby>として権をほしいままにしたこと、上宮太子の御労苦の一半はその抑制にあったことに就ては私は前に述べた。蘇我は滅びたが、代って天平のみ代にあらわれたのは藤原<ruby><rb>不比等</rb><rt>ふひと</rt></ruby>の一族である。大化改新の功労者たる鎌足の息として、彼の漸く勢望を固め得たのは、聖武天皇の時代であった。青年不比等と妻賀茂姫とのあいだに生誕された宮子は、やがて文武天皇に<ruby><rb>入内</rb><rt>じゅだい</rt></ruby>し、聖武天皇を生みまいらせた。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち帝にとって不比等は最も親しい外戚にあたる。のみならず後に聖武天皇の皇后となられた<ruby><rb>光明子</rb><rt>こうみょうし</rt></ruby>も、晩年近き不比等と<ruby><rb>橘三千代</rb><rt>たちばなのみちよ</rt></ruby>とのあいたに生誕された方であって、聖武天皇とは同じ御年配であった。不比等の妻は他に<ruby><rb>娼子娘</rb><rt>しょうじのいらつめ</rt></ruby>や<ruby><rb>五百重娘</rb><rt>いおえのいらつめ</rt></ruby>がいるから、その兄弟姉妹子孫の繁栄は驚くべきであり、末になるにつれて同族間の争いもまた多かった。かかる一族がそれぞれ高位にのぼり政治の各分野に参与したのであるから、この間に処せられた聖武天皇の御心労は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなはだ</rt></ruby>しかったであろう。藤氏専横のあいだに在って、<ruby><rb>帝</rb><rt>みかど</rt></ruby>の御生涯は必ずしも安穏ではなかったようである。かかる危機感が、信仰の根底に、少くともその大きな要因としてひそんでいたと思われる。

＊

他方、当時の思想状態もまた混乱を極めていた。異国との交通が<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>になるにつれて、様々の教義が流入し、国内に様々の説を<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>するものが続出するのはいつの世も同じである。国運隆盛は半面に必ずこうした危険を伴わねばならない。奈良朝時代には、仏教のみならず諸々の漢学、法、算、暦、易、<ruby><rb>陰陽</rb><rt>おんみょう</rt></ruby>、方術、医学、<ruby><rb>呪禁</rb><rt>じゅごん</rt></ruby>等が唐より流入したのであるが、それは<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>神秘不可思議な思想として、<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は迷信として人心に作用した。たとえば後にもふれる<ruby><rb>長屋王</rb><rt>ながやおう</rt></ruby>の変のごとき、その理由は「<ruby><rb>私</rb><rt>ひそか</rt></ruby>に左道を学んで国家を傾けんとす」というのであるが、「左道」とは何か、今もって史家の見解は定らない。またその後まもなく、天平元年四月百官に<ruby><rb>賜</rb><rt>たま</rt></ruby>われる<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>には「有学習異端、蓄積幻術、<ruby><rb>厭魅</rb><rt>えんみ</rt></ruby><ruby><rb>咒咀</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>、害傷百物者、首斬従流」と戒められている。異端を学び、幻術を蓄積し、厭魅咒咀して百物に害を及ぼす者は、首謀者は<ruby><rb>斬罪</rb><rt>ざんざい</rt></ruby>に、連類者は<ruby><rb>流刑</rb><rt>るけい</rt></ruby>に処すというのであるが、今日で<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う思想取締乃至は邪教処断を思わしめて興深い。いずれにしても天平精神の<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>を示すものといえよう。万葉後期の諸歌人がこの間に処して、<ruby><rb>言霊</rb><rt>ことだま</rt></ruby>を<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>したのも大きな戦いであった。

その他続日本紀を読むと、この時代には盗賊や殺人や<ruby><rb>掠奪</rb><rt>りゃくだつ</rt></ruby>も多く、人心不安だったことがうかがわれる。これに対する禁令が屡々みうけられるし、聖武天皇は御心配になって、<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に重罰を科すことを戒められ、法の適正な運用にみ心をつくされていることが拝されるのである。要するに天平時代は、今日考えられているような平穏の日ではなかった。<ruby><rb>仏陀</rb><rt>ぶつだ</rt></ruby>の教えを真に学び信じた者は、当時の一部上層の人々に限られ、一般国民には未だその感化は及ばなかったのである。聖武天皇の御念願はそういう事情から発せられたのである。私は徒に天平の暗黒面を指摘しているのではない。かかる暗黒の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にこそ信仰の光りは輝き<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>ずるのであり、聖武天皇と光明皇后の信仰も、<ruby><rb>泥中</rb><rt>でいちゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>蓮華</rb><rt>れんげ</rt></ruby>のごとく咲き出でたのである。この点については後節「<ruby><rb>不空羂索</rb><rt>ふくうけんじゃく</rt></ruby>観音」で更に詳しくふれたい。

民草のすべてが仏陀の教えにめざめ、国内<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く平穏に、云わばわが国そのものが浄土の荘厳を現出するよう御二方は祈念された。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">地上天国の樹立</span>――これこそ御二方の描かれた壮大な夢であったのである。東大寺を総国分寺とし、法華寺を総<ruby><rb>国分尼寺</rb><rt>こくぶんにじ</rt></ruby>として、全国各地方に分寺を建立せしめられたのも、また東大寺というよりは我が国分寺すべての本尊として大仏鋳造の念願を発せられたのも、すべて以上に述べた事情に基く。

何よりもまず理想を実行に移されようとした。<ruby><rb>乾坤一擲</rb><rt>けんこんいってき</rt></ruby>ともいうべき途方もない壮大な計画を実現された情熱には、凡情のとうていうかがい知れぬ激しさがある。同時に、天平の深淵の<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じさも推察される。

天平十五年十月に発せられた、大仏鋳造に関する詔に、私がいままで述べたような帝のみ心はよくあらわれていると思うので左に記する。

「<ruby><rb>粤</rb><rt>ここ</rt></ruby>に天平十五年歳次<ruby><rb>癸未</rb><rt>みづのとひつじ</rt></ruby>十月十五日を以て、<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>の大願を発して<ruby><rb>廬舎那仏</rb><rt>るしゃなぶつ</rt></ruby>の金銅像一<ruby><rb>躯</rb><rt>く</rt></ruby>を造り<ruby><rb>奉</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>る。国銅を尽して象を<ruby><rb>鎔</rb><rt>とか</rt></ruby>し、大山を削りて以て堂を構へ、広く<ruby><rb>法界</rb><rt>ほつかい</rt></ruby>に及ぼして朕が<ruby><rb>智識</rb><rt>ちしき</rt></ruby>となす、<ruby><rb>遂</rb><rt>つひ</rt></ruby>に同じく<ruby><rb>利益</rb><rt>りやく</rt></ruby>を<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>りて共に<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>を致さしめん、<ruby><rb>夫</rb><rt>そ</rt></ruby>れ天下の富を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり、<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>の富勢を以て此の尊像を造ること、事成り<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>くして、心至り難し、<ruby><rb>但</rb><rt>ただし</rt></ruby>恐らくは徒らに人を労する有りて<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く聖を感ずる無く、或は<ruby><rb>誹謗</rb><rt>ひぼう</rt></ruby>を生じ、反て<ruby><rb>罪辜</rb><rt>ざいこ</rt></ruby>に<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>ちんことを。<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>の故に智識に預る者は<ruby><rb>懇</rb><rt>ねもごろ</rt></ruby>に至誠を発して<ruby><rb>各介福</rb><rt>おほいなるさきはひ</rt></ruby>を招かば、<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しく毎日三たび廬舎那仏を拝し、自ら念を存し各廬舎那仏を造るべし、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し人の一枝の草一把の上を持ちても像を助け造らんと情願する者あらば<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>に<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>を<ruby><rb>聴</rb><rt>ゆる</rt></ruby>せ、国郡等司此の事に<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>りて百姓を<ruby><rb>侵擾</rb><rt>しんぜう</rt></ruby>して強ひて<ruby><rb>収斂</rb><rt>しうれん</rt></ruby>するなかれ」

これをみるに、帝の造仏の決意がいかに深く、<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ雄大細心なるかをうかがうことが出来るであろう。国民すべてとともに<ruby><rb>恩寵</rb><rt>おんちょう</rt></ruby>を蒙り、菩提を致さしめんと、何よりもまず民草の上に<ruby><rb>御心</rb><rt>みこころ</rt></ruby>を垂れ給い、ついで「夫れ天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり」と帝王の尊厳を雄大な言葉で述べておられる。またかような大規模の造営に際して、役人が民草を強いて働かしめることなきよう細心の注意を告げられ、たとい一枝の草一把の土でも、助けようと欲するものにはこれをゆるせと仰せられている。即ち天皇の祈念されたところは、全国民が一致して、自発的にこの壮大な地上天国をうちたてることであった。信仰を導きとして、豪壮無比の大芸術品を地上に構想されたのである。上宮太子の「和」の精神をも、必ずや大<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の上に夢みておられたであろう。

この詔が発せられて、大仏殿が実際に建立され、大仏の<ruby><rb>開眼供養</rb><rt>かいげんくよう</rt></ruby>が行われたのはおよそ九年の後、天平勝宝四年の四月であった。これよりさき聖武天皇は出家されたので<ruby><rb>太上</rb><rt>だじょう</rt></ruby>天皇と申し上げ、光明皇后は皇太后と申し上げた。すでに<ruby><rb>孝謙</rb><rt>こうけん</rt></ruby>天皇に位を譲られた後であるが、開眼供養の当日には三方おそろいにて出御され、文武百官、一万二十六人の僧侶が大仏殿に参集したと伝えられている。堂上堂下は花をもってうずめられ、五色の<ruby><rb>幡</rb><rt>ばん</rt></ruby>がひらめき、放鳥と空中より降らす花のあいだに諸々の音楽と舞踊が行われ、<ruby><rb>読経</rb><rt>どきょう</rt></ruby>の声は潮のごとく奈良の山々にひびいたといわれる。また東大寺の門前には数万の民草がひしめきあいながらこの盛儀を拝していた。このとき大仏殿の上にあらわれた光明皇后の御姿は、輝くばかり美しく崇高であったであろう。

＊

光明皇后の御生涯は、かくのごとく聖武天皇と信仰をともにされた美しい生涯であったが、しかし皇后もまた帝にもまして時の苦悩を負われた方であった。前にちょっとふれたように、光明皇后は不比等と橘三千代とのあいだにお生れになったのだが、この橘三千代は天平の背後に躍った<ruby><rb>稀代</rb><rt>きだい</rt></ruby>の<ruby><rb>辣腕</rb><rt>らつわん</rt></ruby>家であった。血族国家において女権の伸長するのは、とくに女帝のみ代において甚しい。持統、元明両帝は女帝であったが、次の文武天皇を養育申し上げるためには当然乳母を要した。三千代ははじめ<ruby><rb>県犬養連</rb><rt>あがたいぬかいのむらじ</rt></ruby>三千代と云い、三野王の女房であったが、その後長く宮廷に仕え、とくに乳母として大功があった。女帝の信頼も厚く、文武天皇の<ruby><rb>妃</rb><rt>きさき</rt></ruby>を選ばれる折にも、必ずや絶大な発言権をもっていたであろうといわれている。かように宮廷の事に参与する女性が、ひとたびそこに野心を生じたとするならば、その害毒たるや実に大きいといわねばならない。

文武天皇が成長され、不比等の娘宮子を妃とされた後、三千代は不比等の妻として再縁した。すでに外戚たるゆえの威望漸く高まった不比等の夫人となったことは、さきの乳母としての功とあいまって、三千代の勢力をいよいよ増長せしめたことは云うまでもない。彼女は自家一統の繁栄をはかるとともに、政治にも<ruby><rb>容喙</rb><rt>ようかい</rt></ruby>し、諸臣の進退に言をはさみ、自家に不利なるものはおとしいれた。いま法隆寺に伝わる彼女の念持仏が白鳳の比類ない荘厳を具現しているのは不思議である。あのように崇高なみ仏を拝した人とは思われない。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も崇仏と政治謀略は別であったことは、<ruby><rb>馬子</rb><rt>うまこ</rt></ruby>以来の伝統かもしれない。

光明皇后はこの辣腕の夫人を母として生れたのである。<ruby><rb>神亀</rb><rt>じんき</rt></ruby>元年三月御年十六歳のとき光明子として聖武天皇の妃となられ、天平元年八月に皇后として立たれた。臣下の姫にして皇后となるのは稀有であり、まして不比等一族の背景あることを思えば、当時群臣に与えた衝動の大きかったことは云うまでもない。長屋王の自尽は<ruby><rb>讒言</rb><rt>ざんげん</rt></ruby>に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>ると伝えられるが、若しこの王在世ならば、光明子立后の事もなかったであろうと言わるるところからみても、長屋王の変の背後に介在する魔手は想像がつく。光明皇后は誕生とともにすでに暗澹たる運命を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>われていたのだ。

しかも光明皇后御自身は、無比の<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>と端麗の挙措を以て、私心なく帝を愛され、帝とともに信仰の道に入って行かれた。藤原不比等の娘として、おそらく最高の教養をうけられたであろうし、この名家にふさわしい誇りと気品を備えておられたであろう。続日本紀巻二十二（<ruby><rb>淳仁</rb><rt>じゅんにん</rt></ruby>天皇紀）には、天平宝字四年六月、皇后崩ぜられし時の追悼の記がみられるが、「幼而聡慧、早播声誉、勝宝感神、聖武皇帝、儲弐之日、納以為妃、時年十六、摂引衆御、皆尽其歓、雅閖礼訓、敦崇仏道」としるされている。若く美しい妃として、<ruby><rb>群卿</rb><rt>ぐんけい</rt></ruby>に臨まれ、つねに優雅な振舞いをもって接したもうたことが推察される。母君たる三千代夫人にも無心の孝養をつくされたであろう。しかも一方において、御自身に注がれる<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんぼう</rt></ruby>と反感の眼をも、鋭敏な御心は必ずや感じておられたに相違ない。皇后に関する伝説はすべて熱烈な信仰を物語っているが、血につながる一切のものの罪禍を、自らそれとなく悟られ、観無量寿経の<ruby><rb>韋提希</rb><rt>いだいけ</rt></ruby>夫人のように仏前に祈られたのではなかろうか。ともあれ光明皇后は、女性の身として、時の最も苦しい立場に立たれたことは歴史をみるとき明らかである。

＊

皇后に関する伝説のうちで、今日最もひろく知られている二つの事について次に述べよう。そのひとつは<ruby><rb>文答師</rb><rt>もんどうし</rt></ruby>の、皇后をうつして三躯の観音像を彫ったという伝説。

北<ruby><rb>天竺</rb><rt>てんじく</rt></ruby>の<ruby><rb>乾陀羅</rb><rt>けんだら</rt></ruby>国の見生王という王様がいたが、どうかして生身の観世音菩薩を拝みたく思い、<ruby><rb>発願</rb><rt>はつがん</rt></ruby><ruby><rb>入定</rb><rt>にゅうじょう</rt></ruby>して祈りをささげた。するとやがて、生身の観音を拝みたくば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝せよというお告げが下った。見生王は自身かような遠国へ渡ることはとても不可能なので再び入定して祈ると、今度は彫刻師を派遣して光明皇后の御姿を彫らせ、それを拝せよとお告げがあった。そこで王は文答師という名匠をはるばる日本へよこすことになった。文答師は<ruby><rb>難波津</rb><rt>なにわのつ</rt></ruby>に着いて、この<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>を奏上したが容易にゆるされない。ただ皇后御自身の願い――即ちその頃<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなった母君のために御堂に安置する仏像をつくってくれるならば、望みをかなえようということになって、文答師は皇后の御願とおり<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>像をつくった。その代り漸く光明皇后を写しえて、三躯の観音像をつくることが出来たという。一躯は見生王のため本国にもちかえり、他の二躯はわが国にとどめた。いま奈良の法華寺に安置されている十一面観音立像は、その御姿であるという伝説である。

むろんこれは伝説であって厳しい考証に堪えないのであるが、しかしこうした伝説の裡には、当時の人々の、光明皇后に対するひそかな<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>が宿っているのではなかろうか。前述のとおり皇后は無比の美貌であり、<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>わば天平の美の象徴として思慕の的であった。その端麗にして気高い御姿が、かかる美の伝説を生んだともいえよう。

いまひとつは皇后の熱烈な信仰に関する伝説である。続紀にもしるされているように、「太后（光明皇后）仁慈志在救物、創建東大寺及天下国分寺者、本太后之所勧也、又設悲田施薬両院、以療養天下飢病之徒也」――皇后は慈心ふかく、諸寺建立のために力をつくされたのみならず、皇后宮<ruby><rb>職</rb><rt>しき</rt></ruby>に悲田と施薬の両院を設け、天下の病者や飢えたる者を救い養われたのは事実である。志、物を救うに在りと続紀のしるせるとおりである。

ところで法華寺の境内には、光明皇后施浴の「から風呂」がある。皇后が病者のために建てられた浴室であるという。伝説によると、<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>るとき皇后は、自ら千人の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>を流してやろうという<ruby><rb>誓</rb><rt>ちかい</rt></ruby>を立てられた。そこで、日々ここに集まる汚れた肉体に、自ら御手をさしのべられて、九百九十九人までの垢を流してやった。ところがいよいよ最後のひとりになったとき、それは身体の崩れかかった<ruby><rb>癩者</rb><rt>らいしゃ</rt></ruby>であった。臭気は湯殿に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちて、さすがの御誓いもこの最後の一人で破れるかと思われた。しかし癩者は、自分の体から流れ出る<ruby><rb>膿</rb><rt>うみ</rt></ruby>を吸って下さるならば必ず<ruby><rb>快癒</rb><rt>かいゆ</rt></ruby>するにちがいないと申し立てた。いかに深い慈心といえどもこれだけは<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>されたであろう。しかしこの一歩において誓いを破ることは信仰がゆるさなかった。遂に皇后はやむをえず、その美しい<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を癩者の<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>にふれ、膿を吸いつつ全身に及んだという。すると癩者の身体は急に<ruby><rb>麗</rb><rt>うるわ</rt></ruby>しく光りを発し、仏の姿と化して立ち去ったというのである。

むろんこれも伝説であるが、しかしさきの場合と同じく、ここにも皇后に対する当時の民草の思いはひそんでいるであろう。全く根拠のないところには伝説はない。浴を賜わったことへの感謝の思い出でもあろうか。或は皇后の御手を、自らの身体にうけた病者達の激しい感動と謝念が、こうした伝説を生じたとも考えられようか。文答師の場合は美の伝説であり、これは信の伝説である。皇后が、<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の美と信仰を代表さるる<ruby><rb>花華</rb><rt>はな</rt></ruby>として仰がれていた証拠でもあろうか。かように<ruby><rb>奇</rb><rt>くす</rt></ruby>しく美しい伝説のまつわっておらるる方は、わが国史でも皇后以外にはない。なお法華寺十一面観音や浴室を通じて皇后を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>んだ歌が、会津八一博士の「<ruby><rb>鹿鳴</rb><rt>ろくめい</rt></ruby>集」にある。

ふぢはらのおほききさきをうつしみにあひみるごとくあかきくちびる

ししむらはほねもあらはにとろろぎてながるるうみをすひにけらしも

からふろのゆげたちまよふゆかのうへにうみにあきたるあかきくちびる

からふろのゆげのおぼろにししむらをひとにすはせしほとけあやしも

ここに「あかきくちびる」と歌っておられるのは、法華寺十一面観音の唇が生身のように朱に染められているからである。ふくよかな肉体をもった<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>的な像である。右手をすっと伸ばして、衣の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をゆびで軽くつまみあげているが、人指しゆびと小ゆびのかすかにそりかえっているのが実に美しい。右足をそっと斜に出して、まさに蓮華の花の上を渡ろうとしている御姿である。

＊

聖武天皇は前述のごとく出家し、譲位して太上天皇となられるとともに、皇后も位を退かれ光明太后とよばれた。しかし次の孝謙天皇登位とともに、皇后宮職は<ruby><rb>紫微中台</rb><rt>しびちゅうだい</rt></ruby>と改められ、不比等の子武智麻呂の次男たる仲麻呂がここにあって<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら内政のことに当った。孝謙天皇は女帝であらせられたので、いきおい光明太后が<ruby><rb>摂政</rb><rt>せっしょう</rt></ruby>され、紫微中台より<ruby><rb>令旨</rb><rt>りょうじ</rt></ruby>は発せられるようになった。この間、藤原氏の勢力一層はびこり、時に<ruby><rb>内訌</rb><rt>ないこう</rt></ruby>はあったが、仲麻呂を中心とする一族はいよいよ強固に政治の<ruby><rb>中枢</rb><rt>ちゅうすう</rt></ruby>をかためた。太上天皇は<ruby><rb>剃髪</rb><rt>ていはつ</rt></ruby>して<ruby><rb>沙弥</rb><rt>しゃみ</rt></ruby>勝満と名のられ、<ruby><rb>政</rb><rt>まつりごと</rt></ruby>の中枢より離れたわけであるが、藤原氏一族による<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふにょい</rt></ruby>の事もあったように後世史家は語っている。聖武天皇の厚い祈念にも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、その後も外戚の専断おさまらず、国民の状態また不安にして、御念願のとおりでなかったことは、史に明らかである。光明太后摂政とはいえ、もとより実権は藤原氏に在った。

太上天皇は御年五十六歳にしておかくれになったが、それより四年の後、淳仁天皇のみ代（天平宝字四年六月）光明太后は御年六十歳であとを追い<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うた。十六歳のとき妃となられてより実に四十年あまりのあいだ、太后は藤氏の勢力の裡に在って、不如意のいのちを嘆かれつつ信仰と国政のためにおつくしになったのである。国政についてはもとより太后の御手腕を云々すべきではない。また生前の<ruby><rb>讃歌</rb><rt>さんか</rt></ruby>が、藤原一門なるゆえとのみ断ずるのも不当であろう。いま親しくそのお<ruby><rb>人柄</rb><rt>ひとがら</rt></ruby>を偲ぶべきよすがともなるものは続紀や伝説であるが、私は冒頭にひいた御歌も忘るることは出来ない。かような歌にこそ、光明皇后の親しい音声が、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ちいのちの<ruby><rb>息吹</rb><rt>いぶき</rt></ruby>がこもっていると思うからである。

また今日正倉院に伝える多くの御物には、聖武天皇と光明皇后の御調度品が多いことは周知のところであろう。紀元二千六百年祝典の日に、上野帝室博物館で私も御物を拝観したが、あの華麗な工芸品の中には、光明皇后が愛蔵され、日夜身近く備えられて、にこやかにめでられた品もあったであろうと、皇后の余香を偲んだのである。また御物中には、皇后直筆の<ruby><rb>楽毅</rb><rt>がっき</rt></ruby>論も残っているということである。私は写真版によって拝見しただけであるが、たっぷりした力づよい筆致のうちに、<ruby><rb>一抹</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の稚拙美もうかがわれ、皇后の<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>な御性質が偲ばれて興味ふかかった。

私は奈良を訪れ、あの壮大な東大寺伽藍を仰ぎみるたびに、在りし日の栄光を思い、また今日からは想像も及ばぬような規模雄大の大仏殿<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>に生命を傾けられた聖武天皇と光明皇后を偲びまつるのである。御二方の<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>は、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>そのため燃焼しつくされたのだと申しても過言であるまい。地上天国という壮麗な御夢のために、身命を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>してつくられた無比の芸術品だったのである。出家後の天皇の消息をうかがうにつけても、私はそこに、至尊にして且つ一代の宗教芸術家とも申し上ぐべき御方の、残夢<ruby><rb>寂莫</rb><rt>せきばく</rt></ruby>たる晩年を思わないわけにゆかない。光明皇后またもろともに同じ道に従われた。千二百年の歳月を経て、<ruby><rb>佐保山</rb><rt>さおやま</rt></ruby>の御陵に眠り給う御二方、寂莫たる夢の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>に何を思はしておらるるであろうか。

――昭和十七年秋――

  


## 大仏殿にて

東大寺の歴史は大仏の歴史であり、大仏の歴史はやがて大仏寂滅の歴史である。<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>十五年<ruby><rb>聖武</rb><rt>しょうむ</rt></ruby>天皇親しく鋳造の<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>を発し、天平勝宝四年<ruby><rb>開眼供養</rb><rt>かいげんくよう</rt></ruby>の盛儀が行われてより、現在にいたるまでおよそ千二百年になるが、この間さしたる異変なく当初の姿を保っていたのは治承四年までである。およそ四百三十年の期間であった。治承四年の冬、<ruby><rb>平重衡</rb><rt>たいらのしげひら</rt></ruby>の兵火によって<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の大部分が焼失したことは周知のところであろう。仏頭もむろん<ruby><rb>熔</rb><rt>と</rt></ruby>け<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちてしまった。その後も<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>災禍を<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>って、いまに残る大仏は江戸時代の再建に成るもので、往時の威容はもとよりうかがうべくもない。わずかに台座の<ruby><rb>蓮弁</rb><rt>れんべん</rt></ruby>が天平の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>をとどめるのみである。

我々はいまの東大寺を訪れてもその大きいのに驚くが、<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>当初の規模は更に比較にならぬほど巨大であり、言語を絶した荘厳華麗を現出していたと伝えられる。私も屡々あの境内に立って、そういう<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の姿を想像してみるのだが、ちょっと見当がつかない。様々の資料や研究をとおして予想される復原の光景を、たとえば北川桃雄氏は次のように語っている。

「天平時代に<ruby><rb>創</rb><rt>つく</rt></ruby>られた当時の大仏殿は、もちろん今の大仏殿の比ではなかった。奥行は変らないが間口は<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに大きく、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど二倍位の感じがあった。堂々とした長い反りをもった重層の大屋根。それを支える正面十何本の太い円柱と大きな<ruby><rb>斗栱</rb><rt>ときょう</rt></ruby>、この雄大な金堂を囲む<ruby><rb>廻廊</rb><rt>かいろう</rt></ruby>も今のような単廊ではない、壮麗な複廊である。この前面の広場、<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち正面に当る南大門との間には、左右にそれぞれ東西の七重塔が高々と青空に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた。三百三十余尺というその高さは実に法隆寺の五重塔の三倍、興福寺五重塔の二倍に当る。大仏殿の背後には、これにふさわしい大講堂や食堂が建っていた。更にこれを囲んで鐘楼、戒壇院、大門その他の堂宇が幾十となく、三笠山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>、方八町、二十四万余坪の境内に新しい<ruby><rb>甍</rb><rt>いらか</rt></ruby>を陽に輝かしていた。のみならず、一切の建物が美しい朱や緑に塗られ、<ruby><rb>透彫</rb><rt>すかしぼ</rt></ruby>りの金具や軒の<ruby><rb>風鐸</rb><rt>ふうたく</rt></ruby>や<ruby><rb>箜篌</rb><rt>くご</rt></ruby>がきらびやかに相映った」と。

また本尊大仏の<ruby><rb>尊貌</rb><rt>そんぼう</rt></ruby>も、現在とは同日の談ではなく、薬師寺に現存する白鳳の薬師<ruby><rb>如来</rb><rt>にょらい</rt></ruby>、<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は三月堂の<ruby><rb>不空羂索</rb><rt>ふくうけんじゃく</rt></ruby>観音等の傑作から想像する以外にないとのことであるから、その崇高壮麗は<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>し空前であったであろう。かような本尊を中心に、左右に三丈の高さをもつ如意輪観音と<ruby><rb>虚空蔵菩薩</rb><rt>こくうぞうぼさつ</rt></ruby>の<ruby><rb>坐像</rb><rt>ざぞう</rt></ruby>が並び、それをまた身丈各四丈もある金色の四天王が彩色華かな<ruby><rb>甲</rb><rt>かぶと</rt></ruby>に身を固めて四隅を護持し、内陣の東西に懸けた五丈にあまる<ruby><rb>帳</rb><rt>とばり</rt></ruby>には、「光容円備、不異神功」と旧記の<ruby><rb>讃嘆</rb><rt>さんたん</rt></ruby>せるような大観世音菩薩が<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>されていたという。北川氏のこうした叙述によって、私は夢幻のごとく<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて当初を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶことが出来たのであったが、空前おそらく絶後の豪華<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>ぶりを現出していたことが推察される。

境内の広さについては、<ruby><rb>田沢坦</rb><rt>たざわゆたか</rt></ruby>、<ruby><rb>大岡実</rb><rt>おおおかみのる</rt></ruby>両氏<ruby><rb>編纂</rb><rt>へんさん</rt></ruby>の「図説日本美術史」によって往時の復原平面図をみることが出来たが、中門以内だけの寺域を目算によって比較してみても、東大寺は法隆寺のおよそ十倍、薬師寺のおよそ六倍、興福寺のおよそ五倍あったことがわかる。南大門以内の寺域をいれると、前記のように二十四万余坪となり、更に<ruby><rb>桁</rb><rt>けた</rt></ruby>はずれに大きい。東西の七重塔を囲む廻廊の地域だけで、ちょうど法隆寺の中門以内のすべてに相当するのだから、いかに大規模の伽藍であったかが想像されるであろう。

建立の前、この一切を夢のように思い浮べ、そして実現を決意した人格とはいかにすばらしい<ruby><rb>浪曼家</rb><rt>ろうまんか</rt></ruby>であったろう。かかる雄大な発想の可能なるはただ天皇のみ。私はそう思わざるをえなかった。即ち聖武天皇の熱烈な信仰と壮大豊麗の御夢とを、いま更のごとく驚嘆したのである。わが皇統においては、周知のように代々の天皇は歌をお<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>みになる。大歌人と申すべき方も<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>くない。その御製の雄大なるは万葉集によっても明白であるが、そういう精神が大伽藍造営にあらわれた例としては、聖武天皇を第一人者と申していいのではなかろうか。

むろんその背景として天平の芸文興隆や国富の充実を挙げることは出来る。<ruby><rb>行基</rb><rt>ぎょうき</rt></ruby>や<ruby><rb>良弁</rb><rt>ろうべん</rt></ruby>のごとき名僧が側近に<ruby><rb>輔</rb><rt>たす</rt></ruby>けたことも見逃しえないが、しかしここに感得さるるのは、そういう外的事情のみではない。<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby><ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>を通して次第に<ruby><rb>爛熟</rb><rt>らんじゅく</rt></ruby>し<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>った民族の生命力が、聖武天皇において満ちあふれ、結晶し、思いきって咲き乱れたということ、この生命力を自らのいのちとし、<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>をつくして顕現された――そこに<ruby><rb>宿業</rb><rt>しゅくごう</rt></ruby>のごとき強烈さを私は感ずるのである。わが国土のすべてを地上天国たらしめようと発願され、その象徴として大仏と伽藍を建立されたのであるが、信仰の深大なること<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>と申す以外にない。それは悲劇の深さと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ってもいいであろう。かかる夢を具現された天皇を、それゆえ私は天才的な宗教芸術家とも申したいのである。至尊にしてはじめて可能な発想であることは、天平十五年の<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>によっても明らかであろう。

前記の復原図、あるいは大仏開眼までの史実をみるにつけても、天皇の御風格は徹底して奔放<ruby><rb>無碍</rb><rt>むげ</rt></ruby>だったと推察申し上げないわけにはゆかない。信心においても強烈、国民すべての不幸を一身に<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>われて、行くべき<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>まで行く激しい情熱の御方だったと思われる。大仏鋳造終ってなお塗金不足だったとき、<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>の国から黄金を献上したことは、<ruby><rb>大伴家持</rb><rt>おおとものやかもち</rt></ruby>の長歌によって有名である。その折どんなに御喜びになったか。さっそく大仏の前に、皇后太子並に群臣百僚を率いておまいりになり、左大臣<ruby><rb>橘諸兄</rb><rt>たちばなのもろえ</rt></ruby>をして奏文を読ませ<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うた。

「三宝の<ruby><rb>奴</rb><rt>やつこ</rt></ruby>と仕へ<ruby><rb>奉</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>れる天皇の命を大前に奏す」という言葉をもって始まるこの奏文は、我が<ruby><rb>古神道</rb><rt>こしんとう</rt></ruby>を絶対とする心からは、とかく非難されてきたものである。しかし、何故「三宝の奴」とへり下った表現をとられたのか。思うに聖武天皇は次節に述べるごとく、罪の意識の強烈な方であった。<ruby><rb>御身</rb><rt>おんみ</rt></ruby>を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して国家の安泰を祈られたのである。次第に実現して行く豪華絢爛の殿堂を<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりにして、身も世もあらず没入されたそのひたぶるな御心に、私は信仰ある芸術家の執念を偲ぶのである。何ものとも知れぬ<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>のごとき力が作用していたとさえ感ぜらるる。飛鳥白鳳を通して満ちあふれ来った仏法の生命力は、ひとたびは<ruby><rb>乾坤一擲</rb><rt>けんこんいってき</rt></ruby>の強烈な表現を得なければ<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>まなかったのだ。私はそう思う。しかもそこに聖武天皇の悲劇も生じたのではなかろうか。

大仏開眼の供養の折は、すでに出家され、皇位も譲っておられたのだが、この間の詳しい事情は<ruby><rb>続日本紀</rb><rt>しょくにほんぎ</rt></ruby>には記載されてない。藤原氏の、<ruby><rb>外戚</rb><rt>がいせき</rt></ruby>としての勢望<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>盛んだった時代であるから、藤原氏との間に不如意の事もあったようである。<ruby><rb>不覊</rb><rt>ふき</rt></ruby>の夢を抱かれた帝は、宗教を<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>もすれば経済の側から限定し、一族栄華の手段とするごとき臣とは、根本において相いれず、美と信仰に殉ぜられんとしたのであろうか。それとも当時の思想的<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>が政略とむすびついて、この徹底した御挙措を政変の因たらしめたのであろうか。<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は理想と現実との<ruby><rb>相剋</rb><rt>そうこく</rt></ruby>――いつの世にもみらるる現実家の、狂熱的夢想を<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>つける策謀を私は想像してもみた。晩年近く、全く時代の<ruby><rb>中枢</rb><rt>ちゅうすう</rt></ruby>を離れ、<ruby><rb>寂寥</rb><rt>せきりょう</rt></ruby>の日々を送られたという帝は、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>生涯を大伽藍のために燃焼しつくし給うたのであろう。思いきって純粋に、まさに乾坤一擲の大創作に生命を傾けられたのであったろう。私はそこに大浪曼家の孤高を偲ぶのである。

＊

ところでかく身命をつくして造営された大伽藍が、一朝にして<ruby><rb>灰燼</rb><rt>かいじん</rt></ruby>に帰したのは、治承四年十二月二十八日のことである。すでに四百三十年の歳月が流れ、<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>は源平合戦の平安末期に移る。<ruby><rb>平清盛</rb><rt>たいらのきよもり</rt></ruby>の専横に抗して、<ruby><rb>頼政</rb><rt>よりまさ</rt></ruby>をはじめ、伊豆の<ruby><rb>頼朝</rb><rt>よりとも</rt></ruby>、木曾の<ruby><rb>義仲</rb><rt>よしなか</rt></ruby>等源氏の一党が、<ruby><rb>以仁王</rb><rt>もちひとおう</rt></ruby>の<ruby><rb>令旨</rb><rt>りょうじ</rt></ruby>を奉じて<ruby><rb>一斉</rb><rt>いっせい</rt></ruby>に挙兵した年である。この前後は東大寺の性質もむろん変っていた。<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>ての総国分寺たる権威と、四天王護国寺たる理想はすでに失われ、その伝統と時勢はむしろ南都の位置を政治的権力たらしめていた。<ruby><rb>比叡山</rb><rt>ひえいざん</rt></ruby><ruby><rb>延暦寺</rb><rt>えんりゃくじ</rt></ruby>の山法師、興福寺の奈良法師、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いわゆる</rt></ruby>僧兵の<ruby><rb>兇暴</rb><rt>きょうぼう</rt></ruby>ぶりは周知のとおりであり、事毎に争乱の<ruby><rb>渦中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>にあった。

そして諸国の源氏<ruby><rb>蜂起</rb><rt>ほうき</rt></ruby>に際しては、清盛の日頃の専横に対し、奈良法師は公然の<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>をもって示威したのであった。たとえば大きな<ruby><rb>毬杖</rb><rt>ぎっちょう</rt></ruby>の玉をつくって、これを清盛の頭になぞらい「打て、踏め」と云ってみたり、また奈良の伝統を尊重して、わざわざ武装せずに、狼藉を静めるべく赴いた<ruby><rb>瀬尾太郎兼康</rb><rt>せのおたろうかねやす</rt></ruby>の郎党六十余人を<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>めとって、一々首を斬って<ruby><rb>猿沢</rb><rt>さるさわ</rt></ruby>の池畔に懸けならべたり、僧兵大衆まことに殺気だっていたのである。これに対してむろん清盛も怒った。「さらば南都を攻めよや」とて、大将軍には<ruby><rb>頭中将重衡</rb><rt>とうのちゅうじょうしげひら</rt></ruby>、副将軍には<ruby><rb>中宮亮通盛</rb><rt>ちゅうぐうのすけみちもり</rt></ruby>、都合その勢四万余騎で南都へ発向す。――この間の状景を最も見事に伝えているのは、云うまでもなく「平家物語」巻第五であろう。

南都の方では、大衆老少すべて七千余人が<ruby><rb>甲</rb><rt>かぶと</rt></ruby>の緒をしめ、奈良坂と<ruby><rb>般若</rb><rt>はんにゃ</rt></ruby>寺の二個所に防備を施してこれによったのであるが、もとより四万の軍勢には敵せず、夜に入って、二個所の<ruby><rb>防砦</rb><rt>ぼうさい</rt></ruby>も破られ、多くはここに討死し、一部はなお抗戦しつつ次第に落ちて行った。ところで東大寺炎上の悲劇はこの夜に起ったのである。次に「平家物語」の壮絶な描写を掲げよう。

「<ruby><rb>夜軍</rb><rt>よいくさ</rt></ruby>に<ruby><rb>成</rb><rt>なり</rt></ruby>て、<ruby><rb>暗</rb><rt>くらさ</rt></ruby>は暗し、大将軍頭中将重衡、般若寺の門に<ruby><rb>打立</rb><rt>うちたち</rt></ruby>て『火を出せ』と<ruby><rb>宣</rb><rt>のたま</rt></ruby>ふ程こそ<ruby><rb>在</rb><rt>あり</rt></ruby>けれ。平家の勢の中に<ruby><rb>播磨</rb><rt>はりま</rt></ruby>国の住人福井庄の<ruby><rb>下司</rb><rt>げし</rt></ruby>、次郎太夫<ruby><rb>友方</rb><rt>ともかた</rt></ruby>と云ふ者、<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>を<ruby><rb>破</rb><rt>わ</rt></ruby>り<ruby><rb>続松</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>にして、在家に火をぞ懸けたりける。十二月二十八日の夜なりければ、風は<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく、<ruby><rb>火本</rb><rt>ひもと</rt></ruby>は一つなりけれども、<ruby><rb>吹迷</rb><rt>ふきまよ</rt></ruby>ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。恥をも思ひ、名をも惜む程の者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて<ruby><rb>討</rb><rt>うた</rt></ruby>れにけり。<ruby><rb>行歩</rb><rt>ぎやうぶ</rt></ruby>に<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>へる者は、吉野十津川の方へ落ゆく。<ruby><rb>歩</rb><rt>あゆみ</rt></ruby>もえぬ老僧や、尋常なる修業者、<ruby><rb>児</rb><rt>ちご</rt></ruby>ども<ruby><rb>女</rb><rt>をんな</rt></ruby><ruby><rb>童部</rb><rt>わらんべ</rt></ruby>は、大仏殿、<ruby><rb>山階</rb><rt>やましな</rt></ruby>寺の内へ我先にとぞ<ruby><rb>迯</rb><rt>にげ</rt></ruby>行ける。大仏殿の二階の上には、千余人昇り上り、<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>の続くを<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せじと<ruby><rb>階</rb><rt>はし</rt></ruby>をば<ruby><rb>引</rb><rt>ひい</rt></ruby>てけり。<ruby><rb>猛火</rb><rt>みやうくわ</rt></ruby>は<ruby><rb>正</rb><rt>まさし</rt></ruby>う<ruby><rb>押懸</rb><rt>おしかけ</rt></ruby>たり。<ruby><rb>喚叫</rb><rt>をめきさけ</rt></ruby>ぶ声、焦熱、大焦熱、<ruby><rb>無間</rb><rt>むげん</rt></ruby><ruby><rb>阿鼻</rb><rt>あび</rt></ruby>の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのほ</rt></ruby>の底の罪人も、是には過じとぞ見えし。

興福寺は<ruby><rb>淡海</rb><rt>たんかい</rt></ruby>公の御願、藤氏<ruby><rb>累代</rb><rt>るいだい</rt></ruby>の寺なり。東金堂に<ruby><rb>坐</rb><rt>おはし</rt></ruby>ます仏法最初の釈迦の像、西金堂に坐ます<ruby><rb>自然</rb><rt>じねん</rt></ruby><ruby><rb>湧出</rb><rt>ゆしゆつ</rt></ruby>の観世音、<ruby><rb>瑠璃</rb><rt>るり</rt></ruby>を並べし四面の<ruby><rb>廊</rb><rt>らう</rt></ruby>、朱丹を交へし二階の楼、九輪空に輝きし二<ruby><rb>基</rb><rt>き</rt></ruby>の塔、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち煙となるこそ悲しけれ。東大寺は<ruby><rb>常在不滅</rb><rt>じやうざいふめつ</rt></ruby>、<ruby><rb>実報寂光</rb><rt>じつぱうじやくくわう</rt></ruby>の生身の御仏と<ruby><rb>思</rb><rt>おぼし</rt></ruby>めし<ruby><rb>準</rb><rt>なずら</rt></ruby>へて、聖武皇帝、<ruby><rb>手</rb><rt>てづか</rt></ruby>ら<ruby><rb>親</rb><rt>みづか</rt></ruby>ら<ruby><rb>琢</rb><rt>みが</rt></ruby>き<ruby><rb>立</rb><rt>たて</rt></ruby>給ひし金銅十六丈の<ruby><rb>廬舎那仏</rb><rt>るしやなぶつ</rt></ruby>、<ruby><rb>烏瑟</rb><rt>うしつ</rt></ruby>高く<ruby><rb>顕</rb><rt>あらは</rt></ruby>れて、半天の雲にかくれ、<ruby><rb>白毫</rb><rt>びやくがう</rt></ruby>新に<ruby><rb>拝</rb><rt>をがま</rt></ruby>れ給ひし満月の尊容も、御頭は焼落ちて大地に有り、御身は<ruby><rb>鎔合</rb><rt>わきあひ</rt></ruby>て山の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>し、八万四千の相好は、秋の月早く五重の雲に<ruby><rb>掩隠</rb><rt>かく</rt></ruby>れ、四十一地の<ruby><rb>瓔珞</rb><rt>やうらく</rt></ruby>は、夜の星<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく十悪の風に漂ふ。煙は中天に<ruby><rb>満々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>て、炎は虚空に<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>もなし。<ruby><rb>視</rb><rt>まのあた</rt></ruby>りに見奉れる者、更に<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>を<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>ず、遥に<ruby><rb>伝聞</rb><rt>つたへき</rt></ruby>く人は、<ruby><rb>肝魂</rb><rt>きもたましひ</rt></ruby>を失へり。<ruby><rb>法相</rb><rt>ほつさう</rt></ruby>三論の法門聖教、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て一巻も残らず。我朝はいふに及ばず、<ruby><rb>天竺</rb><rt>てんぢく</rt></ruby><ruby><rb>震旦</rb><rt>しんたん</rt></ruby>にも<ruby><rb>是程</rb><rt>さほど</rt></ruby>の法滅有るべしともおぼえず、<ruby><rb>優填</rb><rt>うてん</rt></ruby>大王の<ruby><rb>紫磨金</rb><rt>しまごん</rt></ruby>を<ruby><rb>瑩</rb><rt>みが</rt></ruby>き、<ruby><rb>毘首羯摩</rb><rt>びしゆかつま</rt></ruby>が<ruby><rb>赤栴檀</rb><rt>しやくせんだん</rt></ruby>を<ruby><rb>刻</rb><rt>きざみ</rt></ruby>しも、<ruby><rb>纔</rb><rt>わづか</rt></ruby>に等身の御仏なり。<ruby><rb>況</rb><rt>いはん</rt></ruby>や是は<ruby><rb>南閣浮提</rb><rt>なんえんぶだい</rt></ruby>の中には、唯一無双の御仏、長く<ruby><rb>朽損</rb><rt>きうそん</rt></ruby>の<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>あるべしとも覚えざりしに、今毒縁の塵に<ruby><rb>交</rb><rt>まじはり</rt></ruby>て、久く悲を残し給へり。<ruby><rb>梵釈</rb><rt>ぼんじやく</rt></ruby>四王、竜神八部、<ruby><rb>冥官</rb><rt>みやうくわん</rt></ruby><ruby><rb>冥衆</rb><rt>みやうしゆ</rt></ruby>も、驚き<ruby><rb>騒</rb><rt>さわぎ</rt></ruby>給ふらんとぞ見えし。法相<ruby><rb>擁護</rb><rt>おうご</rt></ruby>の<ruby><rb>春日</rb><rt>かすが</rt></ruby>大明神、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>なる事をか<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しけん。されば春日野の露も色変り、三笠の山の嵐の音、<ruby><rb>恨</rb><rt>うらむ</rt></ruby>る様にぞ聞えける。」

東大寺炎上の状景、この一節によって<ruby><rb>完璧</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>であろう。壊滅の壮麗を叙し、炎の熱気をさえ感じさせる文章である。大仏殿はじめ各堂宇殆ど灰燼に帰し、聖武帝御願の大仏もここに<ruby><rb>終熄</rb><rt>しゅうそく</rt></ruby>したのであった。わずか一夜の出来事である。この伽藍が空前絶後の華麗を<ruby><rb>顕</rb><rt>あらわ</rt></ruby>していたごとく、この炎上もおそらく史上に比なき壮観を呈したことであろう。私は東大寺を訪れるたびに思うのは、天平の威容とともに、それが無残に焼けおちて行った治承のこの日のことである。<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の炎のなかに<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>する諸々の像が、まさに熱火に崩れ落ちんとして、最後の荘厳を現出したであろう日を思う。三百三十余尺の七重塔が火を噴き、大仏殿は<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>につつまれ、如来の金色の姿、観世音の華麗な瓔珞、あるいは四天王の朱丹の<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>、それらが炎を映じて、いまを最後と輝き出した<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>は、聖武天皇も想像されなかったであろう。救いを求むる千余人の<ruby><rb>阿鼻</rb><rt>あび</rt></ruby>叫喚――「猛火は正う押懸たり」と平家の作者は<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い筆致で語っているが、仏も<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゅじょう</rt></ruby>もろとも滅びて行ったこの地獄の日に、或は夢想だにせぬ浄土荘厳が現出したのかもしれぬ。

佐保山の御陵に眠る聖武天皇ならびに光明皇后のみ<ruby><rb>霊</rb><rt>たま</rt></ruby>、中天を<ruby><rb>焦</rb><rt>こが</rt></ruby>す炎の<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずまき</rt></ruby>をいかなる御心にて観ぜられたであろうか。御二方の身命を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げられた大伽藍は、一朝にして滅びて行ったのである。むろん東大寺はその後重なる災禍の後再建されて、江戸時代のものが<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>くいまに残っていることは前述のとおりである。当初の壮麗を慕って、幾度かこれを再建補修した人々の信心を私は有難く思うけれど、<ruby><rb>昔日</rb><rt>せきじつ</rt></ruby>の面影はうかがうべくもない。治承四年十二月二十八日をもって一切は終ったのである。御夢の跡に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>みつつ、天平の開眼の日と、治承の寂滅の日と、このたった二日間を、私は千二百年の歳月の上に偲ぶのである。

――昭和十七年秋――

  


## <ruby><rb>不空羂索</rb><rt>ふくうけんじゃく</rt></ruby>観音

大仏殿の前をよぎって<ruby><rb>手向山</rb><rt>たむけやま</rt></ruby>八幡宮への坂路を登って行くと、その中腹を左へ入ったところに有名な三月堂がある。この辺は杉の大樹が<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>とそびえていて、同じ東大寺の境内でも底冷えがするほど涼しい。御堂の両側は鎌倉時代につぎ足した礼堂になっており、北面は壁、東側は手向山の<ruby><rb>崖</rb><rt>かげ</rt></ruby>に接しているので、堂内は非常に暗い。西方からの光りだけがわずかに群像を照らし出す。周知のごとく、東大寺を襲った幾たびかの災禍を免れて、いまになお<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の姿をとどめる<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいいつ</rt></ruby>の御堂である。天平五年<ruby><rb>聖武</rb><rt>しょうむ</rt></ruby>天皇が<ruby><rb>良弁</rb><rt>ろうべん</rt></ruby>僧正に勅して<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>せしめ給うところと伝えらるる。一に金鐘寺または羂索院とも呼ぶ。大仏鋳造の<ruby><rb>詔</rb><rt>みことのり</rt></ruby>が発せらるる十年前の造営であるから、今日まで実に千二百十一年の<ruby><rb>星霜</rb><rt>せいそう</rt></ruby>に堪えた東大寺最古の<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>なのだ。そして不空羂索観音はこの御堂の本尊であり、天平随一の傑作といわるるみ仏である。

私はこのみ仏を拝するたびに、いつもその合掌の強烈さに驚く。<ruby><rb>須弥壇</rb><rt>しゃみだん</rt></ruby>上に立つ堂々一丈二尺の<ruby><rb>威躯</rb><rt>いく</rt></ruby>は実に荘厳であり、力が充実しており、また<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>暗い天井のあたりに仰がれる<ruby><rb>尊貌</rb><rt>そんぼう</rt></ruby>は沈痛を極めている。慈悲の暖かさも悟達の静けさもみられない。口を堅くむすんで何かに耐えている悲壮な表情である。その一心の願が、<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい肩と<ruby><rb>両臂</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>をとおして、やがて胸の上に堅く合わされた強烈な合掌となるのであろう。<ruby><rb>飛鳥仏</rb><rt>あすかぶつ</rt></ruby>にみられる微笑は全く消え去っている。<ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby>の温容もない。むしろ受難の<ruby><rb>相貌</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ってもいいものがうかがわれる。私には、このみ仏が身をもって天平の<ruby><rb>深淵</rb><rt>しんえん</rt></ruby>を語っているように思われる。何に耐え、何を念じているのであろうか。

当今の古美術研究家はこの大事について何事も語ってはくれない。美術の様式論をもって仏像を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">鑑賞する</span>という当世流行の態度が、一切を誤ったと云えないだろうか。仏像は彫刻ではない。仏像は仏である。仏像を語るとは、仏を語るという至難の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>である。そこには仏の本願のみならず、これを<ruby><rb>創</rb><rt>つく</rt></ruby>り、<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>り、いのちを傾けて念じた古人の魂がこもっている<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>だ。それに通ずるためには我々もまた祖先のごとく、伏して祈る以外にないであろう。この祈りの深まるにつれて、仏像は<ruby><rb>内奥</rb><rt>ないおう</rt></ruby>に宿る固有の運命を、悲願を、我々に告げるのであろう。この唯一の根本が忘れ去られたところに、現代の古美術論が成立っている。ルネッサンス以来の西洋美術に関する知識が流入してから、仏は人身にひきさげられ、美術館のガラス箱に陳列され、「教養ある人士」の虚栄となった。彼らは古仏を目して彫刻とよび、微に入り細を<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>って様式を論じ、比較研究し、無遠慮にこれを写して公衆の面前にさらす。伝統からいえば奇怪事である。

私の大和古寺巡礼は、一面からいえばかかる状態からの脱却でもあった。そのための修練を私はひそかに自分に課した。むしろ仏像が私に迫ったと云った方がいい。そして<ruby><rb>唯信</rb><rt>ゆいしん</rt></ruby>に面して、道のいよいよ遠いのを嘆かないわけにゆかなかったのであるが、いま不空羂索観音の前に立ってやはり同じ嘆きを覚ゆる。天平といえばわが史上の黄金時代である。「咲く花の<ruby><rb>薫</rb><rt>にほ</rt></ruby>ふがごとく今盛なり」と歌われたみ代に、何故このみ仏は受難の相貌を呈しているのであろう。何故、口辺の美しい微笑は消え去ったのか。あの強烈な合掌にこもる願いを、またそこに祈念した天平人の思いを、私は正しく身に<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けたいと思う。そういうとき私は一切の美術書を棄てて歴史と経文へ赴くのである。<ruby><rb>即</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち人間の悲願の存するところへ。それのみが仏にいたる唯一の道であろう。

＊

三月堂は天平五年の建立といわれるから、不空羂索観音の創られたのもおそらくこれより後であろう。天平十九年と推定する説もあるが確実ではない。東大寺伝によれば良弁作となっている。良弁僧正は<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>の人、姓は<ruby><rb>漆部</rb><rt>ぬりべ</rt></ruby><ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>、<ruby><rb>持統</rb><rt>じとう</rt></ruby>天皇の三年<ruby><rb>己丑</rb><rt>つちのとうし</rt></ruby>誕生、<ruby><rb>義淵</rb><rt>ぎえん</rt></ruby>僧正の弟子となり、晩年は東大寺別当に任ぜられた人であるから、聖武天皇の御親任も<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>厚かったと思われる。聖武天皇の勅をうけてこの道場をひらいた僧正は、必ずや天皇の御信仰を心に銘じ、一身を傾けて不空羂索観音にそれを宿さんとしたのであろう。私は<ruby><rb>続日本紀</rb><rt>しゃくにほんぎ</rt></ruby>をひもとくたびに驚くのは、そこにしるされた<ruby><rb>凄惨</rb><rt>せいさん</rt></ruby>な天平の地獄図である。あの美しい芸術が生れた背景には、前にも述べたとおり幾多流血の惨事があり、天変地異が起り、人心また<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ不安であった。このことについては既に一度ふれたが、ここでは天平五年後の有様を概観してみよう。

長屋王の変の後、<ruby><rb>光明子</rb><rt>こうみょうし</rt></ruby>立后のことが行われたのは天平元年である。藤原氏の専権はいよいよ強固になった。しかし唐文化の流入やこの専権に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>る思想的混乱は依然として激しく、他方において盗賊がいたるところにはびこって、為政の苦悩は極度に達していたと推察される。加うるに天平四年から六年にかけては諸国が<ruby><rb>飢饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>に襲われ、百姓の労苦甚しく、その上地震も<ruby><rb>屡々</rb><rt>しばしば</rt></ruby>起きて寺社家屋の倒壊したことが<ruby><rb>続紀</rb><rt>しょっき</rt></ruby>にみられる。仏教はむろん一般民草のあいだに浸透していたわけではない。<ruby><rb>行基</rb><rt>ぎょうき</rt></ruby>や良弁のごとき人々が<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く教化の<ruby><rb>門立</rb><rt>かどだち</rt></ruby>にのぼろうとしていた頃である。こういう状態を最も端的に示しているのは聖武天皇詔勅であって、その核心は、民情に心悩まされた悲心の御言葉にみちている。のみならずこれら一切の災禍と<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>を、天皇は自らの上に<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>われ、身を<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>して国内の平穏を祈られているのである。詔勅はすべて祈念の言葉であり、御信仰の深まり行く有様ともみられる。

たとえば天平四年の夏<ruby><rb>陽旱</rb><rt>ひでり</rt></ruby>に際して、雨を<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>わしめられたときの詔の一節。

「春<ruby><rb>従</rb><rt>よ</rt></ruby>り<ruby><rb>亢旱</rb><rt>かうかん</rt></ruby>にして夏に至るまで雨ふらず。百川水を減じて五穀<ruby><rb>梢</rb><rt>やや</rt></ruby>に<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>めり。<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>に朕が不徳を<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>て致す所なり。百姓何の罪ありてか、<ruby><rb>憔萎</rb><rt>せうゐ</rt></ruby>せる事の甚しき。<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しく京及び諸国をして<ruby><rb>天神地祇</rb><rt>てんしんちぎ</rt></ruby>名山大川には<ruby><rb>自</rb><rt>みづか</rt></ruby>ら<ruby><rb>幣帛</rb><rt>へいはく</rt></ruby>を致さ<ruby><rb>令</rb><rt>し</rt></ruby>むべし。」

また天平六年の大地震に当って、使を京及び<ruby><rb>畿内</rb><rt>きない</rt></ruby>に遣わし、百姓の疾苦を問わしめられた折の詔の一節。

「<ruby><rb>比日</rb><rt>このころ</rt></ruby><ruby><rb>天地</rb><rt>てんち</rt></ruby>の<ruby><rb>灾</rb><rt>わざわひ</rt></ruby>、常に異なる事有り。思ふに朕が<ruby><rb>撫育</rb><rt>むいく</rt></ruby>の<ruby><rb>化</rb><rt>け</rt></ruby>、<ruby><rb>汝</rb><rt>なんぢ</rt></ruby>百姓に於きて<ruby><rb>闕失</rb><rt>けつしつ</rt></ruby>せる所有らむか。今<ruby><rb>故</rb><rt>ことさら</rt></ruby>に使者を<ruby><rb>発遣</rb><rt>ほつけん</rt></ruby>して<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>の疾苦を問はしむ。宜しく朕が<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>を知るべし。」

更に同年の秋再び詔して、次のごとき深い憂苦を述べておらるる。

「朕<ruby><rb>黎元</rb><rt>れいぐわん</rt></ruby>を<ruby><rb>撫育</rb><rt>むいく</rt></ruby>する<ruby><rb>事</rb><rt>こと</rt></ruby><ruby><rb>梢</rb><rt>やや</rt></ruby>に<ruby><rb>年歳</rb><rt>とし</rt></ruby>を経たり。<ruby><rb>風化</rb><rt>ふうくわ</rt></ruby><ruby><rb>尚</rb><rt>なほ</rt></ruby><ruby><rb>壅</rb><rt>よう</rt></ruby>して、<ruby><rb>囹圄</rb><rt>れいご</rt></ruby><ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だ<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しからず。<ruby><rb>通旦</rb><rt>よもすがら</rt></ruby><ruby><rb>寝</rb><rt>しん</rt></ruby>を忘れて<ruby><rb>憂労</rb><rt>いうらう</rt></ruby><ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>り。<ruby><rb>頃者</rb><rt>このごろ</rt></ruby><ruby><rb>天</rb><rt>てん</rt></ruby><ruby><rb>頻</rb><rt>しきり</rt></ruby>に<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>を<ruby><rb>見</rb><rt>あら</rt></ruby>はし、地<ruby><rb>数</rb><rt>しばしば</rt></ruby>震動す。<ruby><rb>良</rb><rt>まこと</rt></ruby>に朕が<ruby><rb>訓導</rb><rt>くんだう</rt></ruby>の<ruby><rb>明</rb><rt>あきらか</rt></ruby>ならざるに<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>りて、民多く罪に入れり。<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めは<ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>に在り。<ruby><rb>兆庶</rb><rt>てうしよ</rt></ruby>に<ruby><rb>関</rb><rt>あづ</rt></ruby>かるに<ruby><rb>非</rb><rt>あら</rt></ruby>ず。宜しく<ruby><rb>寛宥</rb><rt>くわんいう</rt></ruby>を存せ令めて<ruby><rb>仁寿</rb><rt>にんじゆ</rt></ruby>に<ruby><rb>登</rb><rt>のぼら</rt></ruby>せ、<ruby><rb>瑕穢</rb><rt>かゑ</rt></ruby>を<ruby><rb>蕩</rb><rt>たら</rt></ruby>して<ruby><rb>自</rb><rt>みずか</rt></ruby>ら<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>にする事を許すべし。天下に<ruby><rb>大赦</rb><rt>だいしや</rt></ruby>す<ruby><rb>可</rb><rt>べ</rt></ruby>し。」

聖武天皇位を継がせられてからおよそ十年、国内に盗賊絶えず天変地異の激しきを、すべて<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>自らの事として<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>い、「朕が不徳を以て致す所」と仰せられているのである。また犯罪については、<ruby><rb>峻厳</rb><rt>しゅんげん</rt></ruby>な取締の詔を発せらるる一方、事ある<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に大赦を命じ、天平三年十一月の紀には「<ruby><rb>車駕</rb><rt>しやが</rt></ruby>京中に巡幸して<ruby><rb>道</rb><rt>みち</rt></ruby><ruby><rb>獄</rb><rt>ひとや</rt></ruby>の<ruby><rb>辺</rb><rt>ほとり</rt></ruby>を<ruby><rb>経</rb><rt>ふ</rt></ruby>る時、<ruby><rb>囚</rb><rt>めしびと</rt></ruby><ruby><rb>等</rb><rt>たち</rt></ruby>が<ruby><rb>悲吟</rb><rt>ひごん</rt></ruby><ruby><rb>叫呼</rb><rt>けうこ</rt></ruby>する声を聞きたまふ。天皇<ruby><rb>憐愍</rb><rt>れんみん</rt></ruby>して使を遣して犯状の軽重を<ruby><rb>覆審</rb><rt>ふくしん</rt></ruby>せしむ。是に於きて、恩を<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>して<ruby><rb>咸</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くに死罪<ruby><rb>已下</rb><rt>いげ</rt></ruby>を<ruby><rb>免</rb><rt>ゆる</rt></ruby>し、並に衣服を賜ひ、其れを自ら新にせ令む。」――のごとき有様もうかがわれる。

しかも更に十年、国内の平穏は容易にもたらされず、憂悩の詔は幾たびか発せらる。<ruby><rb>藤原広嗣</rb><rt>ふじわらのひろつぐ</rt></ruby>の反乱さえ起るに及んで遂に意を決し、東大寺はじめ諸国分寺造営の大悲願を起されたのであった。大仏鋳造は仏法<ruby><rb>流布</rb><rt>るふ</rt></ruby>という外的事情のみに基くのではない。天皇心奥の深き祈りに発した<ruby><rb>乾坤一擲</rb><rt>けんこんいってき</rt></ruby>の願であって、天平十三年の詔のごとき、その悲痛な思いと壮麗な御夢とを率直に述べてあますところがない。即ち、

「朕薄徳を以て<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>く<ruby><rb>重任</rb><rt>ぢゆうにん</rt></ruby>を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けたり。未だ政化を<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>めず<ruby><rb>寤寐</rb><rt>ごみ</rt></ruby>にも多く<ruby><rb>慚</rb><rt>は</rt></ruby>づ。<ruby><rb>古</rb><rt>いにしへ</rt></ruby>の明主は皆先業を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くして<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby><ruby><rb>泰</rb><rt>やすら</rt></ruby>かに人楽しみ<ruby><rb>災</rb><rt>わざわひ</rt></ruby>除かれ<ruby><rb>福</rb><rt>さきはひ</rt></ruby>至れり。何の政化を修め能く此の道を<ruby><rb>臻</rb><rt>いた</rt></ruby>さむ。<ruby><rb>頃者</rb><rt>このごろ</rt></ruby><ruby><rb>年穀</rb><rt>ねんこく</rt></ruby>豊かならず、<ruby><rb>疫癘</rb><rt>やくらい</rt></ruby><ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに至り、<ruby><rb>慙懼</rb><rt>ざんく</rt></ruby><ruby><rb>交</rb><rt>こもごも</rt></ruby>集りて、<ruby><rb>唯</rb><rt>ひとり</rt></ruby><ruby><rb>労</rb><rt>らう</rt></ruby>して<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>を罪す。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を以て広く<ruby><rb>蒼生</rb><rt>さうせい</rt></ruby>の<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>に<ruby><rb>遍</rb><rt>あまね</rt></ruby>く<ruby><rb>景福</rb><rt>けいふく</rt></ruby>を求む。故に前年<ruby><rb>駅</rb><rt>はゆま</rt></ruby>を<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せて天下の神宮を<ruby><rb>増</rb><rt>ま</rt></ruby>し<ruby><rb>飾</rb><rt>ととの</rt></ruby>へ、<ruby><rb>去歳</rb><rt>こぞ</rt></ruby><ruby><rb>普</rb><rt>あまね</rt></ruby>く天下をして<ruby><rb>釈迦牟尼仏</rb><rt>しやかむにぶつ</rt></ruby>の尊像高一丈六尺なるもの各<ruby><rb>一鋪</rb><rt>いちふ</rt></ruby>を造り並に大般若経一部を写さ令めき。<ruby><rb>今</rb><rt>この</rt></ruby>春<ruby><rb>自</rb><rt>よ</rt></ruby>り<ruby><rb>已来</rb><rt>このかた</rt></ruby><ruby><rb>秋稼</rb><rt>しうか</rt></ruby>に至り風雨<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に<ruby><rb>順</rb><rt>したが</rt></ruby>ひて五穀豊かに<ruby><rb>穣</rb><rt>みの</rt></ruby>れり。此れ<ruby><rb>乃</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち誠を<ruby><rb>徴</rb><rt>あらは</rt></ruby>し願を<ruby><rb>啓</rb><rt>ひら</rt></ruby>くこと、<ruby><rb>霊貺</rb><rt>りやうきやう</rt></ruby>答ふるが如し。<ruby><rb>載</rb><rt>すなは</rt></ruby>ち<ruby><rb>惶</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ、載ち惶れて以て<ruby><rb>自</rb><rt>みづか</rt></ruby>ら<ruby><rb>寧</rb><rt>やす</rt></ruby>みするとき無し。経を考ふるに云はく、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し国土に<ruby><rb>講宣</rb><rt>かうせん</rt></ruby><ruby><rb>読誦</rb><rt>どくじゆ</rt></ruby>、<ruby><rb>恭敬</rb><rt>くぎやう</rt></ruby><ruby><rb>供養</rb><rt>くやう</rt></ruby>して此の経を<ruby><rb>流通</rb><rt>るつう</rt></ruby>せる<ruby><rb>王</rb><rt>きみ</rt></ruby>有らば、我等が四王常に来りて<ruby><rb>擁護</rb><rt>ゆご</rt></ruby>し、一切の<ruby><rb>灾障</rb><rt>さいさう</rt></ruby><ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby><ruby><rb>消殄</rb><rt>せうでん</rt></ruby>せしめむ。<ruby><rb>憂愁</rb><rt>うしう</rt></ruby><ruby><rb>疫疾</rb><rt>やくしつ</rt></ruby>も<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>除き<ruby><rb>差</rb><rt>いや</rt></ruby>さしめむ。願ふ所心に<ruby><rb>遂</rb><rt>したが</rt></ruby>ひて<ruby><rb>怛</rb><rt>つね</rt></ruby>に歓喜を生ぜむ、と。されば宜しく天下の諸国をして各々七重塔一区を敬ひ造り、並に金光明最勝王経・妙法蓮華経各十部を写さしむべし。朕又別に金字もて金光明最勝王経を<ruby><rb>擬</rb><rt>なら</rt></ruby>ひ写して塔毎に各一部を置か令む。<ruby><rb>冀</rb><rt>こひねが</rt></ruby>ふ所は<ruby><rb>聖法</rb><rt>しやうはふ</rt></ruby>の盛なること天地と共に永く<ruby><rb>流</rb><rt>つたは</rt></ruby>り、擁護の恩<ruby><rb>幽明</rb><rt>ゆみやう</rt></ruby>に<ruby><rb>被</rb><rt>かがふ</rt></ruby>りて恒に満ちむことなり。其れ<ruby><rb>造塔</rb><rt>ざうたふ</rt></ruby>の寺は兼ねて国の<ruby><rb>華</rb><rt>け</rt></ruby><ruby><rb>為</rb><rt>た</rt></ruby>り、必ず<ruby><rb>好処</rb><rt>かうそ</rt></ruby>を<ruby><rb>択</rb><rt>えら</rt></ruby>びて<ruby><rb>実</rb><rt>まこと</rt></ruby>に長久すべし。」

国分寺建立の詔の一節であって、聖武天皇の御信仰が何に発し何を念願されたのであるか、はっきり了知さるるであろう。登位以来およそ二十年の間、一日として安き日のなかった思いは、「載ち惶れ、載ち惶れて以て自ら寧みするとき無し」の御言葉にもうかがわれるであろう。東大寺伽藍に身命を傾けられたのは、実に必死の事であったと拝察される。登位以来の数々の詔を読んで行けば、信仰の次第に強烈になって行く有様、云わば精神の自叙伝に接するがごとき心持さえするのである。

いま不空羂索観音を仰ぎみるに、その受難の相貌も、合掌の強烈さも、すべて詔にみらるるごとき大憂悩と大悲心の然らしめたところと申す以外にないであろう。その憂いを、心魂に徹して承けた側近の僧等が、念じつつ創りあげた仏体であろう。この観音に近づく道はこの思いをとおしてより以外になさそうだ。むろん奈良朝における経文の流布や、仏師の<ruby><rb>彫塑</rb><rt>ちょうそ</rt></ruby>的手腕、芸術的表現力も見逃しえないのであるが、それらを<ruby><rb>渾然</rb><rt>こんぜん</rt></ruby>と融合せしめ導いて行った力は、天平の人生苦悩と、そこからの祈念である。不空羂索観音の堂々たる威躯の立つ<ruby><rb>蓮座</rb><rt>れんざ</rt></ruby>の下に、天平の地獄がある。これを懸命に踏まえて、そびゆるごとく<ruby><rb>佇立</rb><rt>ちょりつ</rt></ruby>したところに強烈な信仰の力があらわれている。聖武天皇の信仰の自伝の一節をそこに拝すると申しても過言ではなかろう。

＊

この本尊を中心にして、<ruby><rb>両脇</rb><rt>りょうわき</rt></ruby>には周知のごとく日光<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>と<ruby><rb>月光</rb><rt>がっこう</rt></ruby>菩薩とが佇立している。いずれも鮮かに彩色されていたそうだが、いまは<ruby><rb>剥落</rb><rt>はくらく</rt></ruby>して灰白色になってしまった。私は不空羂索観音の合掌の強烈さに驚くが、この両菩薩の合掌の美しさもまた無比であろう。それは本尊のように、力をこめて双方の掌をぴったり合わしていない。指先がふれるだけで、実に柔く、ふくらみを帯びて合掌している。この静かな暖かい合掌は何に由るのであろうか。また何故かように温和な菩薩を本尊の<ruby><rb>脇侍</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>としたのであろう。この親しみふかい菩薩の手を通して本尊の峻厳にまで人間を導こうとするのであろうか。事実、不空羂索観音を拝した人は、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>ひとりこのみ仏に対座し、その精神に耐えるのは容易でないことを気づくと思う。乾漆<ruby><rb>鍍金</rb><rt>めっき</rt></ruby>ではあるが、いまはその金色も剥落して、鋼鉄のような強い威力を示している。日光月光の両菩薩は、そうした重厚を和げ、云わばその<ruby><rb>陰翳</rb><rt>いんえい</rt></ruby>あるいは余韻として、三尊一体としての荘厳を現出するために、当初から念願されたものなのであろうか。<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は後代の偶然なのか。

薬師寺金堂の白鳳の如来と脇侍は、互に渾然たる調和を示し、美しい調べを<ruby><rb>奏</rb><rt>かな</rt></ruby>でていることは前に述べたが、三月堂の三像は、はるかに内面的だと思う。形の上で意識的に調和を求めたような<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>はみられない。胴体のくねりも遊び足もない。それぞれが<ruby><rb>古樸</rb><rt>こぼく</rt></ruby>に佇立しているだけである。しかもそこに、互に心の光りを投げかけ、心の光りがまつわりあって、一つの深淵を具現しているのだ。「心の光り」と云ったものを、合掌と云い換えてもいいであろう。渾身の力をこめた本尊の合掌は、日光月光に余韻し、両菩薩は更にその合掌に対して合掌するといったような内面の交流がみられないだろうか。或はまた、両菩薩のさりげなく手をあわせつつ、次第に深まって行くその漸進的な力が、本尊に集結して、極点のごとくここで高度の強烈さを具現したとも考えられないだろうか。私は三像を拝しつつ、合掌による対話を思った。この対話はそのまま天平人の信仰の音階を示しているのかもしれない。白夜のごとき<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>と<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>への<ruby><rb>憧憬</rb><rt>どうけい</rt></ruby>、その静かな思いが、脚下の地獄にふれて<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち炎のような祈念の合掌となり、その悲痛から、今度は再び柔く和かな思いに帰る。つまりこの往還のメロデーを三像は奏でているのだ。これは長い年月が、自然に現出した宗教的演出と云ってもいいであろう。

三月堂を訪れるたびに私は不空羂索観音と両菩薩の荘厳に感嘆し、正面よりこれを拝して辞し去るのであるが、その他大勢の群像にはついぞ心をひかれることはなかった。四隅に護持する<ruby><rb>増長</rb><rt>ぞうじょう</rt></ruby>、<ruby><rb>持国</rb><rt>じこく</rt></ruby>、<ruby><rb>広目</rb><rt>こうもく</rt></ruby>、<ruby><rb>多聞</rb><rt>たもん</rt></ruby>の一丈の四天王をはじめ、この間に佇立する<ruby><rb>梵天</rb><rt>ぼんてん</rt></ruby>、<ruby><rb>帝釈天</rb><rt>たいしゃくてん</rt></ruby>、<ruby><rb>密迹王</rb><rt>みっしゃくおう</rt></ruby>、<ruby><rb>金剛王</rb><rt>こんごうおう</rt></ruby>、<ruby><rb>不動明王</rb><rt>ふどうみょうおう</rt></ruby>、地蔵尊、弁才天、<ruby><rb>吉祥天</rb><rt>きっしょうてん</rt></ruby>、及び北面する秘仏、<ruby><rb>執金剛神</rb><rt>しゅうこんごうじん</rt></ruby>等、いずれも天平の精華といわるる像であるが、その安置のしつこさは後代の無精に由るのであろうか。一つ一つは実に立派だが、この並べ方では、仏像の<ruby><rb>剥製</rb><rt>はくせい</rt></ruby>博物館といった感じがある。

四天王の美は、戒壇院を頂点とする。この系統のものとしては、他に興福寺の<ruby><rb>阿修羅</rb><rt>あしゅら</rt></ruby>像だけを私は美しいと思う。新薬師寺の十二神将に至っては、もはや信仰が病的状態に入ったことのあらわれとしか思えないのである。人心の狂乱と苦悩を<ruby><rb>深奥</rb><rt>しんおう</rt></ruby>に抑え、ひたすらな合掌と半眼に一切を耐えてこそ仏と菩薩の像は成立つ。不空羂索観音の有難さもそこにあることは既に述べたとおりである。熱烈な夢や<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>や悲哀に耐え、祈る、その昇華の<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>にのみ仏は<ruby><rb>在</rb><rt>いま</rt></ruby>すのであろう。人間感情の露骨な表現を仏体にもとめて、そこに彫刻美を<ruby><rb>云々</rb><rt>うんぬん</rt></ruby>するのは邪道でなかろうか。しかもこの一切を黙ってひきつれて、なおゆるぎなく合掌する不空羂索観音の威容は、天平のあらゆる苦悩と錯乱の地獄から立ちあらわれた姿として、<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby><ruby><rb>光芒</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>を放つのだ。

――昭和十七年秋――

  


## 講堂の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>

わづかに残る<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずゑ</rt></ruby>に寄せて<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>める

ひまなくぞ雨はふりけり

<ruby><rb>足曳</rb><rt>あしびき</rt></ruby>の三笠の山のふもとなるこの<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆふべ</rt></ruby>はも

松が<ruby><rb>枝</rb><rt>え</rt></ruby>のしづくにぬれて

秋草に　<ruby><rb>黙</rb><rt>もだ</rt></ruby>し伏す<ruby><rb>巨</rb><rt>おほ</rt></ruby>きいしずゑ

遠つ代の<ruby><rb>聖</rb><rt>ひじり</rt></ruby>の<ruby><rb>帝</rb><rt>みかど</rt></ruby>が<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby><ruby><rb>夢</rb><rt>ゆめ</rt></ruby>を　うつつに<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶしるしかな

いのちあらば語れ

<ruby><rb>汝</rb><rt>な</rt></ruby>が背にそびえしくれなゐの　<ruby><rb>円</rb><rt>まろ</rt></ruby>き柱はいかに

<ruby><rb>願</rb><rt>ねがひ</rt></ruby>ひそめてそが<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>に寄りし<ruby><rb>貴</rb><rt>あて</rt></ruby>の<ruby><rb>女人</rb><rt>おみな</rt></ruby>の

<ruby><rb>玉裳</rb><rt>たまも</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>のゆらぐまに

<ruby><rb>汝</rb><rt>な</rt></ruby>が背にひびきつたはりし

かそけき祈りのつぶやき

はた尊きみ足の<ruby><rb>跫音</rb><rt>きょうおん</rt></ruby>！

げに<ruby><rb>寧楽</rb><rt>なら</rt></ruby>びとが<ruby><rb>念</rb><rt>おもひ</rt></ruby>に耐へて　<ruby><rb>汝</rb><rt>なれ</rt></ruby>は<ruby><rb>千年</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>ぬるかな

われなづさへて

柔き<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>の<ruby><rb>微光</rb><rt>ひかり</rt></ruby>に　かすかなる<ruby><rb>息吹</rb><rt>いぶき</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ひぬ

いのちなきものかは

いのちなきものかは

ひまなくぞ雨はふりけり秋のくれ

<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く鹿の声のしみわたるかな

――昭和十七年秋――

  


## 新薬師寺

  


## 高畑の道

新薬師寺を訪れた人は、途中の高畑の道に一度は必ず心ひかれるにちがいない。はじめて通った日の印象は、いまなお私の心に一幅の絵のごとく<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>っている。寺までのわずか二丁たらずの距離であるが、このあたりは<ruby><rb>春日山麓</rb><rt>かすがさんろく</rt></ruby>の高燥地帯で、山奥へ通ずるそのゆるやかな登り道は、両側の民家もしずかに古さび、崩れた<ruby><rb>築地</rb><rt>ついじ</rt></ruby>に<ruby><rb>蔦葛</rb><rt>つたかずら</rt></ruby>のからみついている荒廃の様が一種の情趣を添えている。古都の余香がほのかに漂っている感じであった。私は平原はるかにそびゆる塔をめがけて古寺へまいるのを好むが、高畑のものさびた道筋も捨て難いと思っていた。最初に奈良を訪れたときなどは、わけもなく感動してこの道を<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>したものだ。古都に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついたという思いは、ここへ来て深まった。この第一印象はずっと最近までつづいていたのである。

いまの奈良市街は雑然とした観光地であって、ただ<ruby><rb>処々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>にこうした古さびた<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>を残しているにすぎない。<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>の平城京はすでに<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>と化して一面の田畑である。古寺をのぞけば、普通の民家で古の姿をとどめているのはまず<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>っていいであろう。高畑の道にしても決して平城京の名残ではない。当時の外京にさえ入らぬ、ほんとうの郊外であったのであろう。現存の民家と云ってもむろん最近の建築で、その一つ一つをみれば何の<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>もない住宅と商店にすぎないが、しかも全体として荒廃の典雅な情緒を漂わしているのは、崩れた築地のゆえか、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は春日山麓の自然の<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らしむるところでもあろうか。

私ははじめて高畑の道を通った日の感銘が忘れられぬままに数年を過した。ところでこの秋は、一体どういうところが美しいのかもっとよく<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めようと思いながら、ゆっくりこの道を登ってみた。民家の一軒ずつを眺め、また築地の有様や立木の姿や路傍の石にまで眼をとめて、その雅致ある<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>を改めて心にとめたいと思ったのである。

ところが高畑の道筋は、注意してみればみるほどだんだん感心しなくなるように出来あがっているようだ。どこかに薄汚い場末の感じがある。昔はこの辺に<ruby><rb>癩者</rb><rt>らいしゃ</rt></ruby>など住んでいたのではなかろうか。築地の破れのひまよりは、秋草のしずかにゆらぐ様などみえるのを期待したが、予期に反しておむつの乾してあるのがみえた。民家でこれはと思う風情をそなえたものはむろん一軒もない。不空院の門前から新薬師寺の東門を望むあたりの築地は古さびていいが、あまりに小さく<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しすぎる。往還ともに同じように観察して歩いたが、どういうわけかこの秋は感銘がうすかったのである。何故だろう。

古都への感傷のままに、なかば夢み心地で通るときが一番美しくみえるのかもしれない。或は春日の森から伝わってくる森厳の気に、ふと陶酔したときがいいのかもしれない。それとも度重って通ううちに、私の感覚もいつしか新鮮味を失ったのか。写真にうつして眺めていた方がよさそうだ。<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>は最初の印象を、思い出として心のなかで<ruby><rb>慈</rb><rt>いつくし</rt></ruby>んでいるのがほんとうかもしれぬ。改めて観察しようというのが不心得なのであろう。

私は高畑路の箱庭式よりやはり平原の方が好ましく思われた。細々と<ruby><rb>寂</rb><rt>さ</rt></ruby>びた風景よりは<ruby><rb>豁然</rb><rt>かつぜん</rt></ruby>とひらけた荒廃ぶりの方が心に<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>う。中宮寺から法輪寺・法起寺・慈光院への道、西の京のあたり、結局私はそちらへ心をひかれるのだ。新薬師寺附近でいえばむしろ南大門の前に立ったときの、豊かな田園のひらけた有様が好きである。旧<ruby><rb>聯隊</rb><rt>れんたい</rt></ruby>の敷地を越えて、はるか<ruby><rb>生駒</rb><rt>いこま</rt></ruby>連山の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>にいたるまで、西南にのびた<ruby><rb>大和国原</rb><rt>やまとくにはら</rt></ruby>をしのぶ方がいい。或は春日山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>近くをめぐって、<ruby><rb>白毫寺</rb><rt>びゃくごうじ</rt></ruby>へ行く道筋も美しい。稲が深々と実って、<ruby><rb>稍々</rb><rt>やや</rt></ruby>低地に建てられた農家を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>うばかりである。それが<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>たる<ruby><rb>森蔭</rb><rt>もりかげ</rt></ruby>にまでつづいた豊かなしかも<ruby><rb>寥々</rb><rt>りょうりょう</rt></ruby>たる風景を私は好む。<ruby><rb>寧楽</rb><rt>なら</rt></ruby>の盛時には、貴人はむろんかような風景をみつつ南大門から堂々と<ruby><rb>参詣</rb><rt>さんけい</rt></ruby>したのであろう。

ともあれ現存の民家や道筋は、つぶさに眺めるものではないらしい。<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>ある古寺や城郭や茶室は、みるほどに深さをますのであるが、高畑の民家も築地も道筋も、みるほどに索然とする。これはみない方がいい。みないでただ何となく古さびた感じを心にだけ抱いて、黙って寺へまいるにしくはないようだ。さもなくば夜あるいた方がいいだろう。

道筋や民家とのみ限らぬ、古寺巡りも結局は夜の方がいいように思われてきた。高畑の路上でふと、自分は夜の古寺巡りを忘れていたことに気づいたのである。さきに述べた大寺にしても、後代の子細ありげな装飾や補修や、<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>をつけた有様や、また時には<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>な坊さんや意地わるの案内人がいて、とかく気をくさらすことがあるのだ。そういう状景を一々気にとめず、ひたすら仏を拝すればいいに相違ないが、人工人事にとかく<ruby><rb>容喙</rb><rt>ようかい</rt></ruby>しがちなのは批評の習い性となった故でもあろうか。わずらわしいと思ったら、いっそ人間もおらず、<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>もさだかにみえぬ夜中に、こっそり忍び訪れた方がましだろう。考えてみると、大抵の古寺記は<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど昼の印象である。そういう自分もこの秋はじめて薬師寺の塔を仰いだ以外には、<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だ<ruby><rb>曾</rb><rt>か</rt></ruby>つて夜の寺を歩いたことはなかった。昼でなければ古寺を訪れてはいけないというわけはなかろう。いつか折があったら、夜の古寺のみをかいてみようと思い、早くそこに気づかなかったのが、非常に残念に思われたのである。

何も<ruby><rb>好事癖</rb><rt>こうずへき</rt></ruby>からではない。高畑の道筋が偶然こんな感想をもたらしたのではあるけれど、根本を考えてみるに、やはり私の不信心のためであるらしい。ひそかな祈りよりも、仏像見物の心の方がまさっていたからであろう。後ほど<ruby><rb>徒然草</rb><rt>つれづれぐさ</rt></ruby>をひらいてみた折、兼好法師の次のような言葉に出会った。

「神仏にも、人の<ruby><rb>詣</rb><rt>まう</rt></ruby>でぬ日、夜まゐりたる、よし。」

――昭和十七年冬――

  


## 薬師信仰について

新薬師寺の「新」は、新しいという意味ではなく、霊験あらたかなるの意である。縁起によれば、<ruby><rb>昔時</rb><rt>せきじ</rt></ruby>この附近に<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>創建と伝えらるる香薬師寺とよぶ寺があった。その後<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の<ruby><rb>御代</rb><rt>みよ</rt></ruby>となって、<ruby><rb>聖武</rb><rt>しょうむ</rt></ruby>天皇が眼病を<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>い<ruby><rb>給</rb><rt>たも</rt></ruby>うた折、<ruby><rb>光明</rb><rt>こうみょう</rt></ruby>皇后がこの寺に御<ruby><rb>平癒</rb><rt>へいゆ</rt></ruby>を祈念されたところ、幸にして<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>され、<ruby><rb>叡感</rb><rt>えいかん</rt></ruby>のあまりその香薬師<ruby><rb>如来</rb><rt>にょらい</rt></ruby>を胎内仏として、<ruby><rb>丈六</rb><rt>じょうろく</rt></ruby>の薬師如来を<ruby><rb>行基</rb><rt>ぎょうき</rt></ruby>をして造顕せしめた、<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って現在の寺が草創されたという。胎内には、聖武天皇<ruby><rb>宸筆</rb><rt>しんぴつ</rt></ruby>の薬師本願経、法華経一部、皇后筆の金剛<ruby><rb>般若経</rb><rt>はんにゃきょう</rt></ruby>、法華経一部、ならびに仏舎利五粒をともに奉納したと伝えられる。ところで<ruby><rb>孝謙</rb><rt>こうけん</rt></ruby>天皇即位の頃には、<ruby><rb>太上</rb><rt>だじょう</rt></ruby>天皇（聖武帝）は七堂<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>東西両塔を<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>され、善美をつくした伽藍が現出し、つねに一千の<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>を住せしめた。現在の南大門前の田畑及び旧<ruby><rb>聯隊</rb><rt>れんたい</rt></ruby>の敷地はおおむね当時寺域の一部であったといわれる。その後、<ruby><rb>宝亀</rb><rt>ほうき</rt></ruby>十一年大雷雨によって伽藍の大方は炎上し、いまに残る御堂としてはわずか金堂のみ、胎内の香薬師も現在は別の堂に安置されてあり、金堂の本尊も<ruby><rb>弘仁</rb><rt>こうにん</rt></ruby>初期の造顕、ただ十二神将だけが天平の<ruby><rb>面影</rb><rt>おもかげ</rt></ruby>をとどめているにすぎない。

香薬師は<ruby><rb>白鳳仏</rb><rt>はくほうぶつ</rt></ruby>と称されているので、上宮太子の祭られたみ仏であるかどうかはむろん不確かであり、香薬師寺のことも伝説であろうと思う。だが由来はともかくとして、現存する香薬師如来の<ruby><rb>古樸</rb><rt>こぼく</rt></ruby>で<ruby><rb>麗</rb><rt>うるわ</rt></ruby>しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感ずるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金銅立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>、細長く水平に切れた半眼の<ruby><rb>眼差</rb><rt>まなざし</rt></ruby>、微笑していないが微笑しているようにみえる<ruby><rb>豊頬</rb><rt>ほうきょう</rt></ruby>、その優しい典雅な<ruby><rb>尊貌</rb><rt>そんぼう</rt></ruby>は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の単純な曲線も限りなく美しい。さきに述べた岡寺の如意輪観音を<ruby><rb>彷彿</rb><rt>ほうふつ</rt></ruby>せしめるが、しかしあれほど豊麗に<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>ではなく、どこかに<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>の<ruby><rb>楚々</rb><rt>そそ</rt></ruby>たる面影を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて、小仏ながら崇高な威厳を保っている。<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し類似を求めるならば、関東随一の白鳳仏といわるる<ruby><rb>深大寺</rb><rt>じんだいじ</rt></ruby>（東京都下）の<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>如来<ruby><rb>坐像</rb><rt>ざぞう</rt></ruby>に近いであろう。

深大寺は私の家からさほど遠くないので、時折拝観することがあるが、ちょうど兄妹仏のような感じをうける。香薬師が兄仏で、釈迦如来像は妹仏である。立像と坐像の差はあるが、面影が実によく似ているのには驚く。香薬師の<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゅじょう</rt></ruby>に向って挙げられた右手は、中指の先が少し欠けているが、釈迦如来の同じく挙げた右手も、やはり中指の先が同じほど欠けている。香薬師の場合は、往時盗難に遭ったとき破損したのだと寺僧が教えてくれたが、釈迦如来の方はどうして欠けたのか知らない。明治の頃は堂の床下にころがっていたといわれるから、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は荒廃の折の破損かもしれない。こういう偶然なところまでこの二つの仏像は似ている。ただ釈迦如来像の方は、香薬師のもつ優しい面が更に強調され、あどけない少女と<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ってもいいほどの清純さがあり、その上全体の姿も流麗なので、私はふと妹仏とよびたくなったのである。

香薬師はもともと胎内仏であるから、誰も直接拝することは出来なかったわけだ。現存の金堂本尊のような丈六の仏体<ruby><rb>深奥</rb><rt>しんおう</rt></ruby>に秘められて、ひそかに思慕されていたのであろう。ところで金堂の薬師如来は、前述のごとく弘仁時代のみ仏であるが、眼病平癒を記念するため、とくにその眼は大きく<ruby><rb>創</rb><rt>つく</rt></ruby>られてある。まるで異人のようだ。半眼に宿る仏願の深さはない。眼病平癒された故に仏眼も大きくしなければならぬというのは、後代僧侶と仏師の理におちた解釈なのではなかろうか。霊験を人為的に誇張するのは、信心のゆかしさとは云えまい。

更にこの本尊をめぐる十二神将は、天平の作ではあるが、戒壇院の諸像に比するとき格段に品くだれるものとなっているのは意外なくらいだ。経文の粗放な解釈、渡来文化の拙劣な模写、或は小乗仏教によくみられる民心へのコケおどし的要素などが看取される。信仰は健全な祈りと<ruby><rb>憧</rb><rt>あこが</rt></ruby>れを失って、<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く<ruby><rb>狂譟</rb><rt>きょうそう</rt></ruby>的な迷信に堕しはじめた徴候でもあろうか。意味ありげなその露骨な姿態には、何か陰惨なものさえ感じる。要するに金堂本尊と十二神将群像は私にはグロテスクに思われる。

＊

薬師如来は、云うまでもなく衆生の病気平癒を本願の一とする如来であるから、ここにはつねに<ruby><rb>現世利益</rb><rt>げんぜりやく</rt></ruby>の観念が伴う。自分の病を治したいという願いそのものに不純はあるまい。だが願いが極めて実際的なだけ、ともすれば信仰は即刻の効果をめざすようになり<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>いであろう。即刻の効果はむろん仏自らの慈心の<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らしむるところで、我々のあげつらうべき<ruby><rb>事柄</rb><rt>ことがら</rt></ruby>ではない。人間に可能な窮極のことは無私の祈りのみである。しかし願いが実際的なだけ、薬師信仰には我々の「はからい」や霊験誇示が入り易いのだ。眼病平癒すれば仏眼も大きくするなどその一例ではなかろうか。若し平癒しなければ盲目の仏を造顕するつもりだろうか。霊験の有無はひとえに仏心のこととして、これを人為の業にのせて<ruby><rb>濫</rb><rt>みだ</rt></ruby>りに公示教説せぬのが、信心の床しさであろうに。

<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby>白鳳天平のわが仏教の<ruby><rb>黎明</rb><rt>れいめい</rt></ruby>期には薬師信仰は極めて盛んであった。いな薬師信仰はどんな時代でも病のある限りは不滅であろう。すでに法隆寺の飛鳥の薬師如来像、また薬師寺の白鳳の薬師如来像について述べたが、上古より盛んなこの信仰の本質について考えてみたい。経典あるいはいままで語ってきた仏体を通して、祖先の祈念の真実にふれたいと思う。

病気に対する恐怖――これは<ruby><rb>永劫</rb><rt>えいごう</rt></ruby>に尽きないであろう。いかなる時代においても病気と犯罪は<ruby><rb>発心</rb><rt>ほっしん</rt></ruby>の二大機縁である。薬師信仰を医術の発達せぬ時代の迷信と思っては間ちがいだ。唐文明の流入は、その頃として最高の医術をもたらしたことは書紀<ruby><rb>続紀</rb><rt>しょっき</rt></ruby>にも明らかである。たとい医術がどれほど発達しても、生命の不安は去らぬ、死の到来は必至である。この冷厳な事実を直視して祈念の世界に入り、永遠の生命を憧れる至情――古人はこの大事について思いをこらしたのだ。生命の何ものであるかを知っていたのだ。むろん恐怖や<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>や絶望もあったであろうが、その惨苦からはじめて<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>を夢みたのである。つまり病気平癒の願――身に即したこの切実な願を機縁として、生命の本質に味到し、個々のいのちを最後に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねて悔いざる<ruby><rb>久遠</rb><rt>くおん</rt></ruby>の大生命に参入せんとする。これが薬師信仰の根本であろう。薬師なる故にむろん直接には病気平癒を祈る。だが病気平癒そのものが最終の目的なのではない。これを縁として仏国土に一切衆生を導入せんとする――かかる如来の本願を仰がねばならぬわけである。このことは仏典にも明白である。

薬師とは詳しくいえば薬師<ruby><rb>瑠璃</rb><rt>るり</rt></ruby>光如来と云い、東方浄瑠璃世界の教主である。このみ仏は自ら十二の大願を起したことが薬師如来本願経に語られてある。十二の大願とは、

第一願、自他の身光明<ruby><rb>熾盛</rb><rt>しじょう</rt></ruby>ならんの願。

第二願、威徳<ruby><rb>巍々</rb><rt>ぎぎ</rt></ruby>衆生を<ruby><rb>開暁</rb><rt>かいぎょう</rt></ruby>するの願。

第三願、衆生をして欲する所を飽満し、乏少なからしむるの願。

第四願、一切衆生をして大乗に安立せしむるの願。

第五願、一切衆生をして<ruby><rb>梵行</rb><rt>ぼんぎょう</rt></ruby>を行じ、<ruby><rb>三聚戒</rb><rt>さんじゅかい</rt></ruby>を具せしむるの願。

第六願、一切の不具者をして諸根、眼、耳、鼻等をして完具せしむるの願。

第七願、一切衆生の衆病を除き、身心安楽にして無上<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>を証得せしむるの願。

第八願、女身をして男身ならしむるの願。

第九願、<ruby><rb>諸</rb><rt>もろもろ</rt></ruby>の有情をして天魔<ruby><rb>外道</rb><rt>げどう</rt></ruby>の<ruby><rb>纏縛</rb><rt>てんばく</rt></ruby>、邪思悪見の<ruby><rb>稠林</rb><rt>ちょうりん</rt></ruby>を<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>せしめ、正見に<ruby><rb>引摂</rb><rt>いんじょう</rt></ruby>せしむるの願。

第十願、衆生をして悪玉、劫賊等の横難を解脱せしむるの願。

第十一願、飢渇の衆生に上食を得しむるの願。

第十二願、貧乏にして衣服なき者に妙衣を得しむるの願。

これによって明らかなように、我々の<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う病気恢復は十二願の一部にすぎず、他にも諸々の現実的救済を願としているが、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>本願のめざすところは、第四願に要約されていると云ってもよかろう。また病を必ずしも肉体的に限定せず、心の迷いや精神の病をもふくめてすべてを根源から安穏ならしめんと望んでいるのである。云わば薬師如来という面にあらわれた<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>道であって、一切衆生の病<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えざる限り、如来の悲願もまた尽きず、本願を拝し祈るものは、<ruby><rb>各々</rb><rt>おのおの</rt></ruby>現実的利益を動機とするけれど、最後はこの無限の本願に摂取されて、大乗に安立しなければならぬというのである。病気の平癒<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>に<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、むしろ病気をさえ忘れて本願にひれ伏したとき、薬師信仰は全しといえるのではなかろうか。

かかる薬師信仰本来の<ruby><rb>綜合</rb><rt>そうごう</rt></ruby>的面目は、法隆寺の薬師如来、薬師寺金堂の本尊、あるいは香薬師を拝して充分<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばるるであろう。利益の一面のみを仏体にあらわに表現するのは後世の堕落ではなかろうか。これが更に転落すれば邪教的迷信ともなろう。<ruby><rb>推古</rb><rt>すいこ</rt></ruby>天皇ならびに上宮太子、あるいは<ruby><rb>天武</rb><rt>てんむ</rt></ruby>天皇、聖武天皇、光明皇后の信仰を拝しても明らかなように、決して御一身のみの利益と平安をめざされたものでなく、すべては国民の和と救いのために<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げられたところであった。わが大乗の<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>をはじめて具現されたのは天皇にてあらせられた。天皇信仰という独自のものがわが史上には存在していたのである。

とくに上宮太子が病者貧民の身上を思うて設けた四天王寺四個院のごとき、また光明皇后の悲田施薬院<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>施浴の風呂の<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>き、すべて薬師如来の本願を思わする悲心の然らしめたところであった。かかる信仰あって、はじめて無双の仏体も造顕されたことは既に述べたとおりである。

――昭和十七年冬――

  


## あとがき

私の<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>古寺巡礼は、まず夢殿に<ruby><rb>上宮太子</rb><rt>じょうぐうたいし</rt></ruby>を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>び、ついで法隆寺、中宮寺、法輪寺、薬師寺、<ruby><rb>唐招提寺</rb><rt>とうしょうだいじ</rt></ruby>、東大寺を巡って、最後はいつも新薬師寺で終るのであるが、これで<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>あすか</rt></ruby><ruby><rb>白鳳</rb><rt>はくほう</rt></ruby><ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の主なる古寺はひととおり歩いたことになる。私がはじめて大和に古寺を訪れたのは、昭和十二年の秋であった。それから毎年春と秋には年中行事のようなつもりで出かけて行ったわけだが、戦争の最も激しかった二年間を除けば、これは今でも続いている。古寺巡りも、今年で足かけ十五年になったわけだ。その間、古寺古仏に対する私の気持にも様々の変化があった。私はそれをそのまま旅日記のようにして書きつけてみた。昭和十七年冬に一応まとまったので、大和の養徳社から出版したが、それがこの本の初版本である。

毎年新たな感想が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>くたびに書きつけて、この本の増刷されるたびに、年代順に添えて行く、というのが私の楽しみであった。この本には十七年秋執筆のものが多いが、古くは十二年の初旅の思い出、戦後に添えたものとしては「書簡」（斑鳩宮）「微笑について」（中宮寺）などがある。今度新潮文庫に入れるに際し、読みかえしてみたが、十年前の文章など<ruby><rb>稚</rb><rt>おさな</rt></ruby>く<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>い。しかし、これもその時期の記念と思ってそのままにしておいた。ただ重複している点や、不必要に装飾的なところなど若干削って、出来るだけ簡潔を<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>としたつもりである。

私は古美術の専門家ではない。当然語らねばならぬ多くの<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>や古仏にふれてない様式等に関しても精密ではない。そういう研究書なら他にいくらもあると思った。私は古寺を巡りながら、そういう研究書を参考にしながらも<ruby><rb>反撥</rb><rt>はんぱつ</rt></ruby>を感じたのであった。仏像を語るということは、古来わが国にはなかった現象である。仏像は語るべきものでなく、拝むものだ。常識にはちがいないが、私はこの常識を第一義の道と信じ、ささやかながら<ruby><rb>発心</rb><rt>ほっしん</rt></ruby>の至情を以て、また旅人ののびやかな心において、古寺古仏に対したいと思ったのである。仏像が私にそれを迫ったと<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>っていい。つまり私は<ruby><rb>菩提心</rb><rt>ぼだいしん</rt></ruby>を誘発されてしまったわけだ。したがってこの本は、自分にとっては求信過程の一産物というようなかたちにもなっている。

また大和の旅で、私は日本歴史というものを、はじめて身に実感した。主として上代だが、この旅を縁として、私は歴史に深く入ってみたいと思うようになった。歴史とは祖先の悲願の宿っているところだ。その願が古寺や古仏にどんな風にあらわれているか、仏教をうけ入れたときの上代人の<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いや、法悦や、云わば歴史と宗教は一緒になって、私を<ruby><rb>唆</rb><rt>そその</rt></ruby>かしたのである。日本書紀、<ruby><rb>続日本紀</rb><rt>しょくにほんぎ</rt></ruby>等を夢中で読みはじめたのもこの頃からで、それが後に「聖徳太子」「<ruby><rb>親鸞</rb><rt>しんらん</rt></ruby>」などの著作となってあらわれた。この本の発展したものと云ってもいいだろう。

そんなわけで、この本は歴史書のようなところもあるし、宗教的でもあるし、美術として考えている個所もあるし、また旅行記として書かれた文章も入っている。歌やら詩やら、その折々の心のままに雑然と書いたもので、そこに特徴があるかもしれない。読者は、大和への旅の途上でも、<ruby><rb>或</rb><rt>あるい</rt></ruby>は家の中ででも、自由に勝手なところから読んで頂きたい。広い古典の世界に遊び、我々の遠い祖先達の苦闘の跡や遺品に接し、日本の深さに幾分なりともふれて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>えれば幸いである。

この十数年間にも、大和古寺には二三の変化があった。たとえば法隆寺の壁画は焼けてしまったし、<ruby><rb>斯</rb><rt>この</rt></ruby>集の法輪寺にかいてある三重塔も、昭和十九年雷火のため焼失して今はない。新薬師寺の香薬師像は盗難に遭ったまま、今もって発見されない。十年前の筆だから、その他にも今日と変っているところがあると思う。これからも何が崩壊するか、焼失するか、予測し難い。遺憾だが、これは古寺古仏の運命というものかもしれない。今のうちに出来るだけ見ておくことだ。ほんとうの美しさ深さは、とても筆や写真では伝え難いのである。

昭和二十七年晩秋

著者