Soranoha

続銀鼎

ぞくぎんかなえ

泉 鏡花、泉 鏡太郎

一

不思議ふしぎなる光景くわうけいである。

白河しらかははやがて、鳴なきしきる蛙かはづの声こゑ、――其その蛙かはづの声こゑもさあと響ひゞく――とゝもに、さあと鳴なる、流ながれの音おとに分わかるゝ如ごとく、汽車きしやは恰あだかも雨あめの大川おほかはをあとにして、又また一息ひといき、暗くらい陸奥みちのくへ沈しづむ。……真夜中まよなかに、色沢いろつやのわるい、頬ほゝの痩やせた詩人しじんが一人ひとり、目めばかり輝かゞやかして熟じつと視みる。

燈ひも夢ゆめを照てらすやうな、朦朧まうろうとした、車室しやしつの床ゆかに、其その赤あかく立たち、颯さつと青あをく伏ふさつて、湯気ゆげをふいて、ひら〱と燃もえるのを凝然じつと視みて居ゐると、何どうも、停車場ステーシヨンで銭ぜにで買かつた饂飩うどんを温あたゝめ抱いだくのだとは思おもはれない。

どう〱と降ふる中なかを、がうと山やまに谺こだまして行ゆく。がらんとした、古ふるびた萠黄もえぎの車室しやしつである。護摩壇ごまだんに向むかつて、髯ひげ髪かみも蓬おどろに、針はりの如ごとく逆立さかだち、あばら骨ぼね白しろく、吐つく息いきも黒煙くろけむりの中なかに、夜叉やしや羅刹らせつを呼よんで、逆法ぎやくはふを修しゆする呪詛のろひの僧そうの挙動ふるまいには似にべくもない、が、我われながら銀ぎんの鍋なべで、ものを煮にる、仙人せんにんの徒弟とていぐらゐには感かんずる。詩人しじんも此これでは、鍛冶屋かじやの職人しよくにんに宛如さながらだ。が、其そにの煮にる、鋳いる、錬ねりつゝあるは何なんであらう。没薬もつやく、丹たん、朱しゆ、香かう、玉ぎよく、砂金さきんの類るゐではない。蝦蟇がまの膏あぶらでもない。

と思おもひつゝ、視みつゝ、惑まどひつゝ、恁かくして錬ねるのは美人びじんである。

衣絵きぬゑさんだ!

と思おもふと、立たつ泡あはが、雪ゆきを震ふるはす白しろい膚はだの爛たゞれるやうで。……園そのは、ぎよつとして、突伏つきふすばかりに火尖ひさきを嘗なめるが如ごとく吹消ふきけした。

疲つかれたやうに、吻ほつと呼吸こきふして、

「あゝ、飛とんでもない、……譬たとへにも虚事そらごとにも、衣絵きぬゑさんを地獄ぢごくへ落おとさうとした。」

仮かりに、もし、此これを煮にる事こと、鋳いる事こと、錬ねる事ことが、其その極度きよくどに到着たうちやくした時ときの結晶体けつしやうたいが、衣絵きぬゑさんの姿すがたに成なるべき魔術まじゆつであつても、火ひに掛かけて煮爛にたゞらかして何なんとする! ……

鋳像家ちうざうかの技わざに、仏ほとけは銅あかゞねを煮にるであらう。彫刻師てうこくしの鑿のみに、神かみは木きを刻きざむであらう。が、人ひと、女をんな、あの華繊きやしやな、衣絵きぬゑさんを、詩人しじんの煩悩ぼんなうが煮にるのである。

「大変たいへんな事ことをしたぞ。」

園そのは、今更いまさらながら、瞬時しゆんじと雖いへども、心こゝろの影かげが、其その熱ねつに堪たへないものゝ如ごとく、不意ふいのあやまちで、怪我けがをさした人ひとに吃驚びつくりするやうに、銀ぎんの蓋ふたを、ぱつと取とつた。

取とると、……むら〱と一巻ひとまき、渦うづを巻まくやうに成なつて、湯気ゆげが、鍋なべの中なかから、朦もうと立たつ。立たちながら、すつと白しろい裳もすそが真直まつすぐに立靡たちなびいて、中なかばでふくらみを持もつて、筋すぢが凹くぼむやうに、二条ふたすぢに分わかれようとして、軟やはらかにまた合あつて、颯さつと濃こく成なるのが、肩かたに見みえ、頸脚えりあしに見みえた。背筋せすぢ、腰こし、ふくら脛はぎ。……

卯うの花はなの色いろうつくしく、中肉ちうにくで、中脊ちうぜいで、なよ〱として、ふつと浮うくと、黒髪くろかみの音おとがさつと鳴なつた。

「やあ、あの、もの恥はぢをする人ひとが、裸身はだかみなんぞ、こんな姿すがたを、人ひとに見みせるわけはない。」

園そのは目めを瞑ねぶつた。

矢張やつぱり見みえる。

「これは、不可いかん。」

園そのは一人ひとりで頭かしらを掉ふつた。

まだ消きえない。

「第だい一、病中びやうちうは、其その取乱とりみだした姿すがたを見みせるのを可厭いやがつて、見舞みまひに行ゆくのを断ことはられた自分じぶんではないか。――此これは悪わるい。こんな処ところを。あゝ、済すまない。」

園そのはもの狂ぐるはしいまで、慌あはたゞしく外套ぐわいたうを脱ぬいだ。トタンに、其その衣絵きぬゑさんの白しろい幻影げんえいを包つゝむで隠かくさうとしたのである。が、疼々いた〱しい此この硬こはばつた、雨あめと埃ほこりと日光につくわうをしたゝかに吸すつた、功羅こうら生はへた鼠色ねづみいろの大おほきな蝙蝠こうもり。

一寸ちよつとでも触さわると、其そのまゝ、いきなり、白しろい肩かたを包つゝむで、頬ほゝから衣絵きぬゑさんの血ちを吸すひさうである、と思おもつたばかりでも、あゝ、滴々たら〱血ちが垂たれる。……結綿ゆひわたの鹿かの子このやうに、喀血かくけつする咽喉のんどのやうに。

二

で、園そのは引掴ひつつかんで、席シイトをやゝ遠とほくまで、其その外套ぐわいたうを彼方むかうへ投なげた。

投なげた時とき、偶ふと渠かれは、鼓打つゞみうちである其その従弟いとこが、業体げふたいと言いひ、温雅をんがで上品じやうひんな優やさしい男をとこの、酒さけに酔払ゑひはらふと、場所ばしよを選えらばず、着きて居ゐる外套ぐわいたうを脱ぬいで、威勢ゐせいよくぱつと投出なげだす、帳場ちやうばの車夫しやふなどは、おいでなすつた、と丁ちやんと心得こゝろえて居ゐるくらゐで……電車でんしやの中なかでも此これを遣やる。……下したが黒羽二重くろはぶたへの紋着もんつきと云いふ勤柄つとめがらであるから、余計よけい人目ひとめについて、乗合のりあひは一時じに哄どつと囃はやす。

「何なんでえ、持もつてけ。」と、舞袴まひばかまにぴたりと肱ひぢを張はつて、とろりと一睨にらみ睨にらむのがお定さだまり……

と其それを思出おもひだして、……独ひとりで笑わらつた。

そんな、妙めうな間まがあつた。それだのに、媚なまめかしい湯気ゆげの形かたちは、卯うの花はなのやうに、微かすかに揺ゆすれつゝ其そのまゝであつた。

銀ぎんの鍋なべ一つ包つゝむ、大おほきくはないが、衣絵きぬゑさんの手縫てぬひである、其その友染いうぜんを、密そつと掛かけた。頸うなじから肩かたと思おもふあたり、ビクツと手応てごたへがある、ふつと、柔やはらかく軽かるく、つゝんで抱込かゝへこむ胸むねへ、嫋たをやかさと気きの重量おもみが掛かゝるのに、アツと思おもつて、腰こしをつく。席せきへ、薄うすい真綿まわたが羽二重はぶたへへ辷すべつたやうに、さゝ……と唯たゞ衣きぬの音おとがして、膝ひざを組くむだ足あしのやうに、友染いうぜんの端はしが、席せきをなぞへに、たらりと片褄かたづまに成なつて落おちた。――気きを失うしなつた女をんなが、我われとゝもに倒たふれかゝつたやうである。

吃驚びつくりして、取とつて、すつと上うへへ引ひくと、引ひかれた友染いうぜんは、其そのまゝ、仰向あふむけに、襟えりの白しろさを蔽おほひ余あまるやうに、がつくりと席せきに寝ねた。

ふわ〱と其処そこへ靡なびく、湯気ゆげの細ほそい角かどの、横よこに漾たゞよふ消際きえぎはが、こんもりと優やさしい鼻はなを残のこして、ぽつと浮ういて、衣絵きぬゑさんの眉まゆ、口くち、唇くちびる、白歯しらは。……あゝあの時ときの、死顔しにがほが、まざ〱と、いま我わが膝ひざへ……

白衣びやくえ幽かすかに、撫子とこなつと小菊こぎくの、藤紫地ふじむらさきぢの裾模様すそもやうの小袖こそでを、亡体ばうたいに掛かけた、其そのまゝの、……此この友染いうぜんよ。唯と其その時ときは、爪つめ一ひとつ指ゆびの尖さきも、人目ひとめには漏もれないで、水底すゐていに眠ねむつたやうに、面影おもかげばかり澄切すみきつて居ゐたのに、――こゝでは、散乱ちりみだれた、三ひら、五ひらの卯うの花はなが、凄すごく動うごく汽車きしやの底そこに、ちら〱ちらと揺ゆれて、指ゆびの、震ふるへるやうにさへ見みらるゝ。世よには、清きよらかな白歯しらはを玉たまと云いふ、真珠しんじゆと云いふ、貝かひと言いふ。……いま、ちらりと微笑ほゝえむやうな、口元くちもとを漏もるゝ歯はは、白しろき卯うの花はなの花片はなびらであつた。

「――膝枕ひざまくらをなさい。――衣絵きぬゑさん。」

園そのは居坐ゐずまひを直なほした。が、沈しづんだ顔かほに、涙なみだを流ながした。

あゝ、思出おもひだす。……

「いくら私わたし、堪こらへましてもね、冷つめたい汗あせが流ながれるやうに、ひとりでに涙なみだが出でるんですもの。御病人ごびやうにんの前まへで、此これぢやあ悪わるいと思おもひますとね、尚なほ堪たまらなくなるんですよ。それだもんですからね。枕許まくらもとの小ちひさな黒棚くろだなに、一輪挿りんざしがあつて、撫子なでしこが活いかつて居ゐました。その花はなへ、顔かほを押おしつけるやうにして、ほろ〱溢あふれる目めをごまかしましてね、「西洋せいやうのでございますか、いゝ匂にほいですこと。」なんのつて、然さう言いつて――あの、優やさしい花はなですから、葉はにも、枝えだにも、此方こつちの顔かほが隠かくれないで弱よわりましたよ――義兄にいさん。」

と衣絵きぬゑさんのもう亡なくなる前まへだつた――たしか、三度どめであつたと思おもふ……従弟いとこの細君さいくんが見舞みまひに行いつた時ときの音信たよりであつた。

予かねて、病気びやうきとは聴きいて居ゐた。――其その病気びやうきのために、衣絵きぬゑさんが、若手わかて、売出うりだしの洋画家やうぐわかであつた、婿君むこぎみと一所しよに、鎌倉かまくらへ出養生でやうじゆうルビの「でやうじゆう」はママをして居ゐたのは……あとで思おもへば、それも寂さびしい……行ゆく春はるの頃ころから知しつて居ゐた。が、紫むらさきの藤ふじより、菖蒲あやめ杜若かきつばたより、鎌倉かまくらの町まちは、水みづは、其その人ひとの出入ではいり、起居たちゐにも、ゆかりの色いろが添そふであらう、と床ゆかしがるのみで、まるで以もつて、然さしたる容体ようだいとは思おもひもつかないで居ゐたのに。秋あきの野分のわけしば〱して、睡ねむられぬ長ながき夜よの、且かつ朝あさ寒さむく――インキの香かほりの、じつと身みに沁しむ新聞しんぶんに――名門めいもんのお嬢ぢやうさん、洋画家やうぐわかの夫人ふじんなれば――衣絵きぬゑさんの(もう其その時ときは帰京ききやうして居ゐた)重態ぢうたいが、玉たまの簾すだれを吹ふきちぎり、金屏風きんべうぶを倒たふすばかり、嵐あらしの如ごとく世よに響ひゞいた。

同おなじ日ひの夜よに入いつて、婿君むこぎみから、先さきむじて親書しんしよが来きて、――病床びやうしやうに臥ふしてより、衣絵きぬゑはどなたにもお目めに掛かゝる事ことを恥はづかしがり申候まをしさふらふ、女気をんなぎを、あはれ、御諒察ごりやうさつあつて、お見舞みまひの儀ぎはお見合みあはせ下くだされたく、差繰さしくつて申まをすやうながら、唯今たゞいまにもお出いで下くださる事ことを当人たうにんよく存ぞんじ、特とくに貴兄きけいに対たいしては……と此この趣おもむきであつた。

髪かみ一条すぢ、身躾みだしなみを忘わすれない人ひとの、此これは至極しごくした事ことである。

婿君むこぎみのふみながら、衣絵きぬゑさんの心こゝろを伝つたへた巻紙まきがみを、繰戻くりもどすさへ、さら〱と、緑みどりなす黒髪くろかみの枕まくらに乱みだるゝ音おとを感かんじて、取とる手ての冷つめたいまで血ちを寒さむくしながらも、園そのは、謹つゝしんで其その意いを体たいしたのである。

折をりから、従弟いとこは当流たうりうの一派ぱとゝもに、九州地しうぢを巡業中じゆんげふちうで留守るすだつた。細君さいくんが、園そのと双方さうはうを兼かねて見舞みまつた。其その三度どめの時ときの事ことなので。――勿論もちろん、田端たばたから帰かへりがけに、直すぐに園そのの家いへに立寄たちよつたのであるが。

「ね――義兄にいさん、……お可哀相かあいさうは、最もう疾とつくのむかし通越とほりこして、あんな綺麗きれいな方かたが最もうおなくなんなさるかと思おもふと、真個ほんとうに可惜あつたらものでならないんですもの。――日当ひあたりは好いゝんですけれど、六畳でふのね、水晶すゐしやうのやうなお部屋へやに、羽二重はぶたへの小掻巻こかいまきを掛かけて、消きえさうにお寝よつてゝ、お色いろなんぞ、雪ゆきとも、玉たまとも、そりや透通すきとほるやうですよ。東枕ひがしまくらの白しろい切きれに、ほぐしたお髪ぐしの真黒まつくろなのが濡ぬれたやうにこぼれて居ゐて、向むかふの西向にしむきの壁かべに、衣桁いかうが立たてゝあります。それに、目めの覚さめるやうな友染いうぜん縮緬ちりめんが、端たんものを解ほどいたなりで、一種ひといろ掛かゝつて居ゐたんです。――義兄にいさんの歌うたの本ほんをお読よみなさるのと、うつくしい友染いうぜんを掛物かけもののやうに取換とりかへて、衣桁いかうに掛かけて、寝ねながら御覧ごらんなさるのが何なにより楽たのしみなんですつて。――あの方かたの魂たましひの行いらつしやる処ところも、それで知しれます。……紫むらさきの雲くもの靉靆たなびく空そらぢやあなくつて、友染いうぜんの霞かすみが来きて、白しろいお身体からだを包つゝむのでせうね――あゝ、それにね。……義兄にいさんがお心こゝろづくしの丸薬おくすりですわね。……私わたしが最初さいしよお見舞みまひに行いつた時とき、ことづかつて参まゐりました……あの薬くすりを、お婿むこさんの手てから、葡萄酒ぶだうしゆの小ちひさな硝子盃コツプで飲あがるんだつて、――えゝ、先刻さつき……

枕許まくらもとの、矢張やはり其その棚たなにのつた、六角形かくがたの、蒔絵まきゑの手筐てばこをお開あけなすつたんですよ。然さうすると、……あのお薬包くすりつゝみと、かあいらしい爪取剪つめとりはさみが一具ひとつと、……」

従弟いとこの妻つまは、話はなしながら、こみあげ〱我慢がまんしたのを、此この時ときないじやくりして言いつた。

「……他ほかに何なんにもなしに、撫子なでしこと小菊こぎくの模様もやうの友染いうぜんの袋ふくろに入はいつた、小ちひさい円まるい姿見かゞみと、其それだけ入はひつて居ゐたんです。……お心こゝろが思おもひ遣やられますこと。

お婿むこさんが、硝子盃コツプに、葡萄酒ぶだうしゆをお計はかんなさる間あひだ――えゝ然さうよ。……お寝室ねまには私わたしと三人にんきり。……誰だれも可厭いやだつて、看護婦かんごふさんさへお頼たのみなさらないんだそうです。第だい一、お医師様いしやさまも、七ツ八ツのお小ちひさい時ときからおかゝりつけの方かたをお一人ひとりだけ……尤もつとも有名いうめいな博士はかせの方かたださうですけれど――

それでね、義兄にいさん。お婿むこさんが葡萄酒ぶだうしゆをお計はかんなさる間あひだに、細ほつそりした手てを、恁かうね、頬ほゝへつけて、うつくしい目めで撓ためて爪つめを見みなすつたんでせう、のびてるか何どうだかつて――凝じつと御覧ごらんなすつたんですがね、白しろい指ゆびさきへ瞳ひとみが映うつるやうで、そして、指ゆびのさきから、すつとお月様つきさまの影かげがさすやうに見みえました。それが、恁かう、お招まねきなさるやうに見みえるんですもの。私わたし、ぶる〱としたんです……」

聞きいて居ゐる園そのが震ふるへた。

「ですけれど、あの、お手てで招まねかれたら、懐中ふところへなら尚なほの事ことだし、冥土めいどへでも、何処どこへでも行ゆきかねやしますまい……と真個ほんとうに思おもひました。

其その手てを、密そつと伸のばして、お薬くすりの包つゝみを持もつて、片手かたてで円まるい姿見すがたみを半分はんぶん、凝じつと視みて、お色いろが颯さつと蒼あをざめた時ときは、私わたしはまた泣なかされました。……私わたしは自分じぶんながら頓狂とんきやうな声こゑで言いつたんですよ……

――「まあ、御覧ごらんなさいまし、撫子なでしこが、こんなに露つゆをあげて居をりますよ」――」

三

「私わたしとしては、出来できるだけの事ことはしました。――申まをしてはお恥はづかしいやうですが、実際じつさい、此この一月ひとつきばかりは、押通おつとほし夜よも寝ねませんくらゐ看病かんびやうはしましたが。」

一室しつの、其処そこに五人にん居ゐた。著名ちよめいなる新聞記者しんぶんきしや、審査員しんさゐん――画家ぐわか、文学者ぶんがくしや、某子爵ぼうししやくの令夫人れいふじんが一人ひとり。――園そのが居ゐた。弔礼てうれいのために、香川家かがはけを訪おとづれたものが、うけつけの机つくゑも、四よつばかり、応接おうせつに山やまをなす中なかから、其処そこへ通とほされた親類縁者しんるゐえんじや、それ〲、又また他方面たはうめんの客きやくは、大方おほかた別室べつしつであらう。

園そのが、人ひとを分わけて廊下らうかを茶室ちやしつらしい其処そこへ通とほされた時とき、すぐ其その子爵夫人ししやくふじんの、束髪そくはつに輝かゞやく金剛石ダイヤモンドとゝもに、白しろき牡丹ぼたんの如ごとき半帕はんけちの、目めを蔽おほふて俯向うつむいて居ゐるのを視みた。

皆みな、暗然あんぜんとして、半なかば瞳ひとみを閉とぢて居ゐたのである。

「御当家ごたうけでも――実じつに……」

「全まつたくでございます。」

唯たゞ、いひかはされるのは、其そのくらゐな事ことを繰返くりかへす。時ときに、鶺鴒せきれいの声こゑがして、火桶ひをけの炭すみは赤あかけれど、山茶花さざんくわの影かげが寂さびしかつた。

其処そこへ婿君むこぎみが、紋着もんつき、袴はかまながら、憔悴せうすゐした其その寝不足ねぶそくの目めが血走ちばしり、ばう〱髪がみで窶やつれたのが、弔扎てうれいをうけに見みえたのである。

「やあ……何どうも。」

と、がつくり俯向うつむいた顔かほを上あげたのを、園そのに向むけると、

「お礼れいを申上まをしあげます、――あのお薬くすりのためだらうと思おもひます。五日か以上いじやう……滋養じやう灌腸くわんちやうなぞは、絶対ぜつたいに嫌きらひますから、湯水ゆみづも通とほらないくらゐですのに、意識いしきは明瞭めいれうで、今朝こんてう午前ごぜん三時じに息いきを引取ひきとりました一寸前ちよつとぜんにも、種々しゆ〲、細々こま〲と、私わたしの膝ひざに顔かほをのせて話はなしをしまして。……園そのさんに、おなごりのおことづけまで申まをしました。判然はつきりして、元気げんきです。医師いしも驚おどろいて居ゐました。まるで絶食ぜつしよくで居ゐて、よく、こんなにと、両りやう三日前にちぜんから、然さう言いはれましてな。……しかし、気きの毒どくでした。

江戸児えどつこは……食くひものには乱暴らんばうです。九死し一生しやうの時ときでも、鮨すしだ、天麩羅てんぷらだつて言いふんですから。蝦えびが欲ほしい……しんじよとでも言いふかと思おもふと、飛とんでもない。……鬼殻焼おにがらやきが可いいと言いふんです。――痛快つうくわいだ! ……宜よろしい、鬼おにを食くつ了ちまひなさい、と景気けいひをつけて、肥ふとつた奴やつを、こんがりと南京なんきんの中皿ちうざらへ装込もりこむだのを、私わたしが気きをつけて、大事だいじに毮むしつて、箸はしで哺ふくめたんですが、みでは豈夫まさかと思おもふんです。馴なれない料理人れうりにんが、むしるのに、幾いくらか鎧皮よろひがはが附着くつゝいて居ゐたでせうか。一口ひとくち触さはつたと思おもふと、舌したが切きれたんです。鬼殻焼おにがらやきを退治たいぢようと言いふ、意気いきが壮さかんなだけ実じつに悲惨ひさんです。すぐに唇くちびるから口紅くちべにが溶とけたやうに、真赤まつかな血ちが溢こぼれるんですものね。」

爾時そのときは、瞼まぶたを離はなして、はらりと口元くちもとを半帕はんけちで蔽おほうて居ゐた、某子爵夫人ぼうしゝやくふじんが頷うなづくやうに聞きき〱、清きよらかな半帕はんけちを扱しごくにつれて、真白まつしろな絹きぬの、それにも血ちの影かげが映さすやうに見みえた。

夫人ふじんは堪たへやらぬ状さまして、衝つと肩かたを反そらして、横よこを向むいて又また目めを圧おさへたのである。

「……えゝ、尤もつとも、結核けつかくは、喉頭かうとうから、もう其その時ときには舌したまでも侵をかして居ゐたんださうですが。鬼殻焼おにがらやき……意気いきが壮さかんなだけ何どうも悲惨ひさんです。は、はア。」

と、力ちからのない、笑わらひの影かげを浮うかべて、言いつて、悵然ちやうぜんとして仰あふいで、額ひたいに逆立さかだつ頭髪とうはつを払はらつた。

「あちらの御都合ごつがふで、お線香せんかうを。」

「一寸ちよつと、御挨拶ごあいさつを。」

園そのと審査員しんさゐんが殆ほとんど同時どうじに言いつた。

「それでは、何どうぞ……」

廊下らうかを二曲ふたまがり、又また半なかばにして、椽続えんつゞきの広間ひろまに、線香せんかうの煙けむりの中なかに、白しろい壇だんが高たかく築きづかれて居ゐた。袖そでと袖そでと重かさねたのは、二側ふたかはに居余ゐあまる、いづれも声こゑなき紳士しんし淑女しゆくぢよであつた。

順じゆんを譲ゆづつて、子爵夫人ししやくふじんをさきに、次々つき〲に、――園そのは其その中なかでいつちあとに線香せんかうを手向たむけたが、手向たむけながら殆ほとんど雪ゆきの室むろかと思おもふ、然しかも香かをりの高たかき、花輪はなわの、白薔薇しろばら、白百合しろゆりの大輪おほりんの花弁はなびらの透間すきまに、薄紅ときいろの撫子なでしこと、藤紫ふじむらさきの小菊こぎくが微かすかに彩いろめく、其その友染いうぜんを密そつと辿たどると、掻上かきあげた黒髪くろかみの毛筋けすぢを透すいて、ちらりと耳朶みゝたぼと、而さうして白々しろ〲とある頸脚えりあしが、すつと寝ねて、其その薄化粧うすげしやうした、きめの細こまかなのさへ、ほんのりと目めに映うつつた。

まだ納棺なふくわんの前まへである。

「香川かがはさん。」

袴はかまで坐ざを開ひらきながら、園そのは、堅かたく障子しやうじを背せにした婿君むこぎみを呼よんで言いつた。

「……一寸ちよつとお顔かほを見みたいんです。」

声こゑの調子てうしの掠かすれるまで、園そのは胸むねが轟とゞろいたのである。が、婿君むこぎみは潔いさぎよく、

「えゝ、何どうぞ――此方こちらへ。」

とづいと立たつと、逆屏風さかさびやうぶ――たしか葛くづの葉はの風かぜに乱みだれた絵ゑの、――端はしを引ひいて、壇だんの位牌ゐはいの背後うしろを、次つぎの室まの襖ふすまとの狭せまい間あひだを、枕まくらの方はうへ導みちびきながら、

「困こまりました。」

「…………」

「なくなられては困こまりましたなあ。」

と振向ふりむき状ざまに、ぶつきら棒ぼうに立たつて、握拳にぎりこぶしで、額ひたいを擦こすつたのが、悩乱なうらんした頭かしらの髪かみを、掻毮かきむしりでもしたさうに見みえて、煙けむりの靡なびく天井てんじやうを仰あふいだ。

「唯々たゞ〱、お察さつし申上まをしあげます。」

「は。」

と云いつて、膝ひざをついて、

「衣絵きぬちやん、――園そのさんです。」

と、白しろいものを衝つゝと取とつた。

眉毛まゆげを長ながく、睫毛まつげを濃こく、彼方むかふを頸うなじに、満坐まんざの客きやくを背せにして、其その背せなの方はうは、花輪はなわが隔へだてゝ、誰だれにも見みえない。――此方こなたに斜なゝめくらゐな横顔よこがほで、鼻筋はなすぢがスツとして、微笑ほゝゑむだやうな白歯しらはが見みえた。――妹いもとが二人ふたりある。其その人ひとたちの優やさしさに、髪かみを櫛巻くしまきのやうにして、薄化粧うすげしやうに紅べにをさした。

「衣絵きぬゑさん。」

と心こゝろで言いつて、思おもはず、直ひたと寄よつた膝ひざが、うつかり、袖そでと思おもふ掻巻かいまきの友染いうぜんに触ふれると、白羽二重しろはぶたへの小浪さゞなみが、青あをく水みづのやうに其その襟えりにかゝつた。

屈かゞみかゝつて、上うへから差覗さしのぞく、目めに涙なみだの婿君むこぎみと、微かすかに仰あふいだ衣絵きぬゑさんの顔かほと、世よに唯たゞ、此この時とき三人にんであつた。

「……お静しづかに、お静しづかに、然さやうなら……」

ハツと息いきして、立たつて、引返ひきかへす時とき、……今度こんどは園そのが云いつた。

「私わたしも困こまります。」

「…………」

「寂さびしくつて、世間せけんが暗くらいやうです。――衣絵きぬゑさんはおなくなりなさいました。」

「…………」

「香川かがはさん。――しかし、今いまでは、衣絵きぬゑさんを、衣絵きぬゑさんを、」

「…………」

「私わたしが、思お、思おもつても! ……」

愛あいも、恋こひも、憧憬あこがれも、ふつゝかに、唯たゞ、思おもふとのみ、血ちを絞しぼつて言いつた。

「……思おもつても、――貴方あなたは許ゆるして下くださいますか。」

仰あふいで言いふのを、香川かがはは、しばらく熟じつと視みたが、膝ひざをついて、ひたと居寄ゐよつて、

「衣絵きぬちやんが喜よろこびませう……私わたしも、……嬉うれしい。」

恋こひの仇あだは、双方さうはうで手てを取とつた。

「あ、お顔かほを。」

振向ふりむいて、も一度ど視みた。

其その、面影おもかげを、――夜汽車よぎしやの席シイトの、いまこゝに――

「さ、膝ひざを、膝枕ひざまくらをなさい、誰だれも居ゐません。」

園そのは、もの狂ぐるはしく、面影おもかげの白しろい、髪かみの黒くろい、裳もすその、胸むねの、乳ちゝのふくらみのある友染いうぜんを、端坐たんざした膝ひざに寝ねかして、うちつけに、明白めいはくに、且かつ夢ゆめに遠慮ゑんりよのないやうに恋こひを語かたつた。

四

「岩沼いはぬま――岩沼いはぬま――」

弁当べんたう、もの売うりの声こゑが響ひゞくと、人音ひとおと近ちかく、夜よが明あけたと思おもふのに、目めには、何なにも、ものが見みえない。

吃驚びつくりした。

園そのは掻毮かきむしるやうに窓まどを開あけた、が、真暗まつくらである。

「もし、もし、もし……駅員えきゐんの方かた、駅えきの方かた――駅夫えきふさん……」

とけたゝましく呼よんだ。

「何なんですか。」

「失礼しつれいですが、私わたしの目めは何どうかなつては居ゐないでせうか。」

「貴方あなた――何どうかして居ゐますね。……確乎しつかりなさらなくつちやあ不可いけないぢやあゝりませんか。」

独言ひとりごとして、

「何なにを言いつてるんだ。」

はつとすると、構内こうないを、東雲しのゝめの一天てんに、雪ゆきの――あとで知しつた――苅田嶽かつただけの聳そびえたのが見みえて、目めは明あきらかに成なつた。

はじめて一人ひとり乗込のりこんだ客きやくがある。

袖そででかくすやうにした時とき、鍋なべの饂飩うどんは、しかし、線香せんかうの落おちてたまつた、灰はひのやうであつた。

五

水源みなもとを、岩井いはゐの大沼おほぬまに発おこすと言いふ、浦川うらかはに架かけた橋はしを渡わたつた頃ころである。

松島まつしまから帰途かへりに、停車場ステーシヨンまでの間あひだを、旅館りよくわんから雇やとつた車夫しやふは、昨日きのふ、日暮方ひぐれがたに其その旅館りよくわんまで、同おなじ停車場ていしやばから送おくつた男をとこと知しれて、園そのは心易こゝろやすく車上しやじやうで話はなした。

「さあ、何なんと言いはうかな。……景色けしきは何どうだ、と聞きかれて悪わるいと言いふものもなからうし……唯たゞよかつたよ、とだけぢや、君きみたちの方はうも納をさまるまいけれども、何なにしろ、私わたしには、松島まつしまは見みても松島まつしまを論ろんずる資格しかくはないのだよ。昨日きのふも君きみに世話せわに成なつたと言いふから、知しつてるだらうが、薄暮合うすくれあひ、あの時間じかんに旅館りよくわんへ着ついたのだから、あとは最もう湯ゆに入はひつて寝ねるばかりさ。」

園そのは昨日きのふの其それまでは、聊いさゝか達たす用ようがあつて仙台せんだいに居ゐたのであつた。

「夜よがあけたわ、顔かほを洗あらつたわ、旅館りよくわんの縁側えんがはから、築山つきやまに松まつの生はへたのが幾いくつも霞かすみの中なかに浮ういて居ゐる、大おほきな池いけを視ながめて、いゝなあと言いつたつて、それまでだ。――海岸かいがんへ出でたからつて、波なみが一ひとつ寄よるぢやなし、桜貝さくらがひ一ひとつあるんぢやあない。

しかし、無理むりだよ。……予かねて聞きいても居ゐるし、むかしの書物しよもつにも書かいてある。――松島まつしまを観みるのは船ふねに限かぎる。八百八島しまと言いふ島しまの間あひだを、自由じいうに青畳あをだゝみの上うへのやうに漕こぐんだと言いふから、島しま一つ一つ趣おもむきのかはるのも、どんなにいゝか知しれやしない。魚うをもすら〱泳およぐだらうし、松まつには藤ふぢも咲さいてるさうだし、つゝじ、山吹やまぶき、とり〲だと言いふ、其その間あひだを、船ふねの影かげに驚おどろいて、パツと群むれて水鳥みづとりが立たつたり、鴎かもめが泳およいで居ゐたり……」

「然そうで、然そうで、其その通とほりで……旦那だんな。」

と、車夫しやふは楫棒かじぼうに張はつた肩かたを聳そびやかした。

「船ふねでなけりや、富山とみやまと言いふのへ上のぼるだね。はい、其処そこだと、松島まつしまが残のこらず一目ひとめに見みえますだ。」

「ださうだね。何なにしろ、船ふねで巡まはるか、富山とみやまへ上のぼらないぢやあ、松島まつしまの景色けしきは論ろんずべからずと、ちやんと戒いましめられて居ゐるんだよ。」

「何どうでがすね、此これから、富山とみやまへおのぼりに成なつては、はい、一里りたらずだ、一息ひといきだで。」

「いや、それよりも、早はやく帰かへつて、墓参はかまゐりがしたくなつた。」

「へい。」

と言いつたが、乗のつた客きやくも、挽ひく男をとこも、妙めうに黙だまつた。

園そのは我われながら、余あまりつきもない言ことをうつかり言いつたのに、はつと気きが着ついたほどである。

車夫しやふは唐突だしぬけに、目めかくしでもされたやうに思おもつたらう。

陽ひが白しろく、雲くもが白しろく、空そらも白しろい。のんどりとして静寂せいじやくな田畠たはたには、土つちの湧出わきでて、装上もりあがるやうな蛙かはづの声こゑ。かた〱かた〱ころツ、ころツ、くわら〱くわら、くつ〱くつ。中なかでも大おほきさうなのが、土つちの気きの蒸むれる処ところに、高たかく構かまへた腹はらを、恁かう人ひとの目めに浮うかせて、があ〱があ〱と太ふとく鳴なく。……

俥くるまは踏切ふみきりを、其その蛙かはづの声こゑの上うへを越こした。一昨日おととひの夜よを通とほした雨あめのなごりも、薄うすい皮かは一枚まい張はつたやうに道みちが乾かはいた。

一方ぱうが小高こだかい土手どてに成なると、いまゝで吹ふいて居ゐた風かぜが留やむだ。靄もやも霞かすみもないのに、田畑たはたは一面めんにぼうとして、日中ひなかも春はるの夜よの朧おぼろである。薄日うすびは弱よわく雲くもを越こさず、畔くろに咲さいた黄蒲公英きたんぽゝ、咲交さきまじる豆まめの花はなの、緋ひ、紫むらさきにも、ぽつりとも黒くろい影かげが見みえぬ。朱しゆの木瓜ぼけはちら〱と灯ひをともし、樹きの根ねを包つゝむだ石楠花しやくなげは、入日いりひの淡あはい色いろを染そめつゝ、然しかも日ひは正まさに午ごなのである。道みちにさし出でた、松まつの梢こずゑには、紫むさらきの藤ふじかゝつて、どんよりした遠山とほやまのみどりを分わけた遅桜おそざくらは、薄墨色うすずみいろに濃こく咲さいて、然しかも散敷ちりしいた花弁はなびらは、散ちりかさなつて根ねをこんもりと包つゝむで、薄紅うすあかい。

其その傍そばに、二ツ三ツ境さかひのない墓はかが見みえる。

見みつゝ、俥くるまは、段々だん〱の田たを隔へだてゝ、土手添どてぞひの径こみちを遥はるかに行ゆくのである。

雲くもも、空そらも、皆みな白しろい。

其処そこへ、影かげのさすやうなのは、一つ一つ、百千と数かぞへ切きれない蛙かはづの声こゑである。

鳴なく、鳴なく。……

松まつ杉すぎ、田芹たぜり、すつと伸のびた酸模草すかんぽの穂ほの、そよとも動うごかないのに、溝川みぞがはを蔽おほふ、たんぽゝの花はな、豆まめのつるの、忽たちまち一所しよに、さら〱と動うごくのは、鮒ふな、鰌どぜうには揺過ゆれすぎる、――昼ひるの水鶏くひなが通とほるのであらう。

夢ゆめを見みて居ゐるやうである。

趣おもむきは違ちがふけれども、園そのは、名所めいしよにも、古跡こせきにも、あんな景色けしきはまたあるまいと思おもふ処ところを、前刻さつきも一度ど通とほつて来きた。

――水源みなもとを岩井沼いはゐぬまに発おこすと言いふ、浦川うらかはの流ながれの末すゑが、広ひろく成なつて海うみへ灌そゝぐ処ところに近ちかかつた。旅館りよくわんを出でてまだいく程ほどもない処ところに――路みちの傍そばに、切立きつたてた、削けづつた、大おほきな巌いはほの、矗々すくと立たつのを視みた。或あるひは、仏ほとけの御龕みづしの如ごとく、或あるひは人ひとの髑髏どくろに似にて、或あるひは禅定ぜんぢやうの穴あなにも似につゝ、或あるひは山寨さんさいの石門せきもんに似にた、其その岩いはの根ねには、一ひとツづゝ皆みな水みづを湛たゝへて、中なかには蒼あをく凝こつて淵ふちかと思おもはるゝのもあつた。岩角いはかど、松まつ、松まつには藤ふぢが咲さき、巌膚いははだには、つゝじ、山吹やまぶきを鏤ちりばめて、御仏みほとけの紫摩黄金しまわうごん、鬼おにの舌した、また僧そうの袈裟けさ、また将軍しやうぐんの緋縅ひおどしの如ごとく、ちら〱と水みづに映うつつた。

「此処こゝも海うみではなかつたか――いまの松島まつしまの。……此この巌いはは、一つ一つ、あの島しまのやうに――」

一方ぱうは、ひしや〱とした、何処どこまでも蘆原あしはらで、きよつ〱、きよつ〱、と蘆あし一むらづゝ、順じゆんに、ばら〱と、又また飛々とび〱に、行々子ぎやう〱しが鳴なきしきつた。

それから、しばらくは、まばらにも蘆あしのある処ところには、皆みな行々子ぎやう〱しが鳴ないて居ゐた――

こゝに、蛙かはづの鳴なくやうに……

まだ、其その頃ころは、海うみある方はうに雲くもの切きれた、薄青うすあをい空そらがあつた。それさへいまは夢ゆめのやうである。

園そのは、行々子ぎやう〱しの鳴なく音ねにおくられつゝ、蛙かはづの声こゑに迎むかへられたやうな気きがした。

……水鶏くひなが走はしるか、さら〱と、ソレまた小溝こみぞが動うごく。……動うごきながら其その静寂しづかさ。

唯と、遠とほくに、行々子ぎやう〱しが鳴なきしきつて、こゝに蛙かはづがすだく――其その間あひだを、わあーとつないで、屋根やねも門もんも見みえないで、あの、遅桜おそざくらの山やまのうらあたり、学校がくかうの生徒せいとの、一斉いちどきに読本とくほんの音読おんどくを合あはす声こゑ。

園そのは心こゝろも気きも懵ぼうと成なつた。

ピイ、キリ〱と雲雀ひばりが鳴なくと、ぐらりと激はげしく俥くるまが揺ゆれた。

「あゝ、車夫わかいしゆ。」

酷ひどい道みちだ。

「降おりやう、――降おりやう。」

「何なに、旦那だんな、大丈夫だいぢやうぶで、昨日きのふも此処こゝを通とほつたゞね、馴なれてるだよ。」

「いや、昨日きのふも、はら〱したつけが、まだ濡ぬれて居ゐたから、輪わをくつて、お前まへさんが挽ひきにくいまでも、まだ可よかつた。泥濘ぬかるみが薬研やげんのやうに乾かはいたんぢやあ、大変たいへんだ。転ころんだ処ところで怪我けがもしまいが、……此この咲さいてる花はなに極きまりが悪わるい。」

道みちのゆく手てには、藁屋わらやが小ちひさく、ゆる〱畝うねる路みちに顕あらはれた背戸せどに、牡丹ぼたんを植うゑたのが、あの時ときの、子爵夫人ししやくふじんのやうに遥はるかに覗のぞいて見みえた。

「はゝゝ、旦那だんな、御風流ごふうりうだ。」

それから、歩行あるきながら、

「東京とうきやうから来いらつしやる方かたは、誰方どなたも花はながお好すきだアなあ。」

「いろんな可愛かあいいのが、路傍みちばたに咲さいて居ゐるんだ。誰だれだつて悪わるくはあるまい。」

「此人方等こちとらは、実みの成なる奴やつか、食くへるんでなくつては、黄色きいろいのも、青あをいのも、小ちつこいものを、何なんにすべいよ。」

と笑わらつた。が、ふと、汗あせばんだ赤あから顔がほの、元気げんきらしい、若わかいのが、唇くちびるをしめて……真顔まがほに成なつて、

「然さうだ、然さうだ、思おもひつけた。旦那だんな、あなた様さま、とこなつと言いふ草くさは知しつてるだかね。」

「常夏とこなつ。」

「それよ。」

「撫子なでしこの事ことぢやあないか。」

「それよ――矢張やつぱり……然さうだ――忘わすれもしねえ。……矢張やつぱり同おなじやうな事ことを言いはしつけが、私等わしらにや其その撫子なでしこが早はや分わかんねえだ。――何なにね、今いまから、二三年ねん、然さうだねえ、彼かれこれ四年ねんには成なるづらか。東京とうきやうから来きなさつたな、そりや、何どうも容子やうすたら、容色きりやうたら、そりや何どうも美うつくしい若わかい奥様おくさまがな。」

「一人ひとりかい。」

「へゝい、お二人ふたりづれで。――旦那様だんなさまは、洋服やうふくで、それ、絵ゑを描かく方かたが、こゝへぶら下さげておいでなさる、あの器械きかいを持もつて居ゐらしつけえ。――忘わすれもしねえだ、若奥様わかおくさまは、綺麗きれいな縫ぬひの肩掛かたかけを手てに持もつてよ。紫むらさきがゝつた黒くろい処ところへ、一面めんに、はい、桜さくらの花はなびらのちら〱かゝつた、コートをめしてな。」

園そのはゾツとした。

「丁ちやうど今頃いまごろだで――それ〱、それよ矢張やつぱり此この道みちだ。……私わしと忠蔵ちうざうがお供ともでやしたが、若奥様わかおくさまがね、瑞巌寺ずゐがんじの欄間らんまに舞まつてる、迦陵頻伽かりようびんがと云いふ声こゑでや、

――あの夏なつになると、此この辺へんに常夏とこなつが沢山たくさん咲さきませうね――

へい、其その常夏とこなつを知しらねえだ。

――まあ、撫子なでしこの事ことなんだよ――

其そのさ、撫子なでしこを知しらねえだ。私わしは汗あせを流ながしたでなあ。……

折をりがあつたら、誰方どなたぞ、聞きかう聞きかう思おもつて、因果いんぐわと因縁いんねんで三年ねん経たつたゞ。旦那だんな、花はながお好すきだで、な、どんな草葉くさつぱだかこゝ等らにあつたら、一寸ちよつとつまんで教をしへてくらせえ。」

「淡紅色ときいろの、優やさしい花はなだが、此この辺へんには屹きつとあるね。あるに違ちがひない。葉はだけでも私わたしにも分わかるだらう。」

と、のつかゝつた勢いきほひで、溝みぞを越こさうとして、

「お待まち。」

園そのは、つと俥くるまに寄よつた。

バスケツトを開あけて、其その花はなが、色いろのまゝ染そまつた、衣絵きぬゑさんの友染いうぜんを、と思おもつた……其時そのときである。車夫くるまやが、

「あつ。」

と口くちを開あけて、にやりとして、

「へ、へ、転ころぶと、そこらの花はなに恥はづかしい。……うつ、へ、へ。御尢ごもつともだで。旦那だんなは目めが早はやいだやあ。」

「何なんだ。」

「へ、へ、私わしあまた。真個ほんとうの草葉くさつぱの花はなかと思おもつたゞ、」

「何なんだよ……」

「なんだよつて、へ、へ、へ。そこな、酸模すかんぽ、蚊帳釣草かやつりさうの彼方むかうに、きれいな花はなが、へ、へ、花はなが、うつむいて、草くさを摘つまんで居ゐなさるだ。」

「え。」

「や――旦那だんな、――旦那だんなでがせう。其方むかふを見みながら。招まねかつしやるは。」

「これ。」

「や、私わしで、――へい、私わしで。」

と、きよろりとしながら、

「へい、へい。」

俥くるまを横よこに、つか〱と、田たの畔くろへ、挽ひいて乗掛のつかけると、白しろい陽ひに、影かげもなく、ぽんと立たつて、ぺこ〱と叩頭おじぎをした。

「へい、其それが、へい、成程なるほど、其それが、常夏とこなつで、へい。」

とまた叩頭おじぎをした。が、ゑみわれるやうに、得えもいはれぬ、成仏じやうぶつしさうな笑顔ゑがほを向むけて、

「旦那だんな、旦那だんな、旦那だんな……」

「何なに。」

「あなた様さまにも、御覧ごらんなせえと……若奥様わかおくさまが。」

園そのは、魂たましひも心こゝろも宙ちうを踏ふんで衝つと寄よつた。

空そらに一輪りん、蕾つぼみを添そへて、咲さいたやうに、其その常夏とこなつの花はなを手てにした、細ほつそりと白しろい手てと、桜さくらぢらしの紫紺しこんのコート。

「衣絵きぬゑさん……」

品ひんのいゝ、藤紫ふぢむらさきの鹿子切かのこぎれの、円髷まげつやゝかな顔かほを見みた時とき。

「ぎやツ。」

と喚わめくと、楫棒かぢぼうをたゝき投なげて、車夫しやふは雲雀ひばりと十文字もんじに飛とんで遁にげた。

寂寞ひつそと成なる。蛙かはづの声こゑの小をやむだ間まを、何なんと、園そのは、はづみでころがり出だした服紗ふくさの銀ぎんの鍋なべに、霊れいと知しりつゝ、其その霊れいの常夏とこなつの花はなをうけようとした。

然しかり、銀ぎんの鼎かなへを捧さゝげた時とき、園そのは聖僧せいそうの如ごとく、身みも心こゝろも清すゞしかつた。

襟えりをあとへ、常夏とこなつを指ゆびで少すこし引ひいて、きやしやな撫肩なでがたをやゝ斜なゝめに成なつたと思おもふと、衣絵きぬゑさんの顔かほは、睫まつげを濃こく、凝然じつと視みながら片手かたてを頬ほゝに打招うちまねく。……撓しなふ、白しろき指先ゆびさきから、月つきのやうな影かげが流ながれた。

寄よらうとすると、其その手ても映うつる、褄つまも映うつる、裳もすそに真蒼まつさをな水みづがある。

また招まねくのを、ためらうと、薄雲うすぐものさすやうに、面おもてに颯さつと気色けしきばんで、常夏とこなつをハツと銀ぎんの鍋なべに投なげて寄越よこした。

其その花はなの影かげも映うつつた。が、いまは、水みづも火ひもと思おもつた。

「御免ごめんなされや。」

背中せなかに、むつとして、いきれたやうな可厭いやな声こゑ。此これは、と視みると、すれ違ちがつて、通とほり状ざまに振向ふりむいたのは、真夜中まよなかの雨あめに饂飩うどんを食くつた、髪かみの毛けの一筋すぢならびの、唇くちびるの爛たゞれたあの順礼じゆんれいである。

見みる端はしに、前歯まへばの抜ぬけた、汚きたない口くちでニヤリとした。

車夫くるまやが、其その道みちを、小ちひさく成なつて、遁にげる、遁にげる。

はや、幻影まぼろしは消きえつゝ、園そのは目めの前まへに、一坐ざ、藤ふじつゝじを鏤ちりばめた、大巌おほいはの根ねに、藍あいの如ごとき水みづに臨のぞむで、足あしは、めぐらした柵さくを越こえたのを見出みいだした。

杵きね(キネ。)が池いけと言いふ、人ひとを取とる水みづよ、と後のちに聞きく。

衣絵きぬゑさんに、其その称となへの似通にかよふそれより、尚なほ、なつかしく、涙なみだぐまるゝは、銀ぎんの鍋なべを見みれば、いつも、常夏とこなつの影かげがさながら植うゑたやうに咲さくのである。

底本 / Source edition

底本:「新編 泉鏡花集 第十巻」岩波書店
2004(平成16)年4月23日第1刷発行
底本の親本:「新柳集」春陽堂
1922(大正11)年1月1日
初出:「国本 第一巻第八号」国本社
1921(大正10)年8月1日
※表題は底本では、「続銀鼎《ぞくぎんかなえ》」となっています。
※初出時の署名は「泉鏡花」です。
※「灯《ひ》」と「燈《ひ》」の混在は、底本通りです。
※「触」に対するルビの「さわ」と「さは」の混在は、底本通りです。
※「藤」に対するルビの「ふじ」と「ふぢ」の混在は、底本通りです。
※「藤紫」に対するルビの「ふじむらさき」と「ふぢむらさき」の混在は、底本通りです。
※「入」に対するルビの「はひ」と「はい」の混在は、底本通りです。
※「香」に対するルビの「かほり」と「かをり」の混在は、底本通りです。
入力:日根敏晶
校正:門田裕志
2016年9月2日作成
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/057488_000050/

泉 鏡花、泉 鏡太郎「続銀鼎」(新字旧仮名)、底本『新編 泉鏡花集 第十巻』岩波書店、2004年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057488_000050, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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