Soranoha

小僧の夢

こぞうのゆめ

谷崎 潤一郎

(一)の一

………己おれは名前を庄太郎しょうたろうと云って、今年十六歳になる商店の小僧だ。己の勤めて居る商店は、銀座三丁目の大通りにある、池田屋と云う洋酒店だが、京橋近辺に住んで居る人は大概知って居るだろう。日本橋の方から来て、京橋を渡って、五六丁行った左側に、あんまり立派でもないけれど、小綺麗なショウ、ウインドウの附いて居る、二階建て西洋造りの店があるだろう。その二階の窓から、夕方になると、十七八の、髪をハイカラに結った美しいお嬢さんが、時々うっとりと往来を眺めて居ることがあるだろう。池田屋と云って分らなければ、此このお嬢さんの住んで居る店だと云ったら、多分知らない者はあるまい。己の信ずる所によると、内のお嬢さんは、銀座街頭がいとう第一の美姫びきなのだから。

しかし、若もしも読者が、今後銀座の大通りを散歩する折があったら、二階の窓のお嬢さんを拝む序ついでに、店先の帳場の椅子いすに腰かけて居る、色の黒い、眼の窪んだ、極めて陰鬱な表情を持った一人の小僧に一瞥べつを与えてくれ給え。そうして、能あたう可べくんば其その小僧の貧相な顔つきと、哀れな服装と、見みすぼらしい境遇とに、一片ぺんの同情を寄せてくれ給え。

尤もっとも、己おればかりが小僧をして居る訳でもないから、従って己ばかりが諸君の同情を要求する権利は無いかも知れない。先まず此の銀座通りだけでも、門並かどなみの商店に奉公して居る丁稚でっちの数かずは、幾百人幾千人あるか分らない。己と同じくらいの年配で、自分の実家が貧しい為めに、中学へも行けず、親の傍そばにも置かれず、奉公に出された人間は定めし多勢あるだろう。内うちの店などは、主人夫婦も割合に親切だし、店員にも意地の悪い者は少いし、おまけに例のお嬢さんのお顔を、朝晩拝む事が出来るのだから、孰方どちらかと云うと、まあ己なんかは小僧の中で運のいゝ方なんだ。考えて見ると、己が自分の境遇を呪のろったりするのは、我わが儘まゝ過ぎる話なのだ………けれども或ある一人の人間の境遇が、幸福になり不幸になるのは、主として其その人の客観的の位地いちに依よって決するのではなく、寧むしろ彼自身の主観の状態に依って決するのだ。小僧の癖くせに生意気な事を云うようだが、世間には奉公人と云う、窮屈きゅうくつな不公平な、何等なんらの価値も意義もない地位や生活に満足して、せっせと働いて居る丁稚や番頭が沢山たくさんある。或あるいは又、奉公人のする仕事を無意味であり無価値であると知りながら、到底自分は其れ以上の身分に登れる資格がないとあきらめて、現在の地位に満足して居る人間もある。彼等かれらに取っては必ずしも其の境遇は不幸でなく、彼等は決して同情を要求する権利はないのだ。ところが己は、そう云う種類の人間と全く頭が違って居る。己は自分の能力や材幹ざいかんを、丁稚奉公に適当であると思った事は一遍もない。己は今でも、中学校の一年生や二年生には負けない積りだが、若しも順当に高等教育を受ける事が出来たら、どんなにえらい人物になれるか分らない男なんだ。それだけに、己がこんな小僧の境遇に堕おちて居るのは、外ほかの人間よりも一層勿体もったいない、一層残念な気がするのだ。

己が斯こう云うと、世間せけんの奴等やつらは恐らく冷笑するだろう。―――「其れはお前の己惚うぬぼれと云うものだ。誰だって小僧になるより学問をする方が、早く出世するにきまって居る。お前がほんとうに偉大な人間なら、奉公して居たってえらくなれる。学校に行かなければ学問が出来ないような、教育を受けなければ立身が出来ないような、そんな人間なら別段非凡ひぼんな能力や材幹があるのじゃない。」と云うだろう。

(一)の二

成なる程ほど其れも一と理屈ある。非凡な人物はいかなる境遇に育っても、遂に穎脱えいだつすると云う事は、多くの場合に於いて真理である。だが少くとも其の真理は、己の場合にだけは当て嵌はまらない。若しも己の材幹が、政治とか、実業とか、学問とか、宗教とか、云うような方面に発達する素質を持って居たなら、そうして其の素質が真しんに非凡なものであったら、己は決して現在の境遇にへたばりはしないだろう。己は必ずや、敢然かんぜんとして外界の壓迫に抵抗しつゝ、ぐんぐんと目的地へ猛進して行くだろう。然しかるに己の素質は、不幸にして政治家にも、学者にも、実業家にも、宗教家にも不適当なのである。己はたゞ、自分を未来の藝術家―――或は詩人として観察する時、其処そこに始めて非凡なる素質の閃ひらめきを感ずるのである。

己は勿論、詩だの歌だのと云うものをまだ一遍も作った事はない。況いわんや藝術とはどんな物だか、ハッキリとした考えなんぞある筈はずがない。けれども何なんだか己のような傾向を持った人間が、満足な境遇に育てられ、適当な刺戟を与えられたら、きっと偉大なる詩人とか藝術家とかになれるのだろうと、云うような気がしてならない。尤もっとも、己の心に斯こう云う自覚が生じたのは、つい近頃の事なのだ。此この間まで、己は自分の詩人的傾向を、寧むしろ忌いまわしい缺点だと信じて、私ひそかに警いましめたり嘆いたりして居た。どうして己の頭の中には、いつもいつも茫漠ぼうばくとした、取り止めのない空想ばかりが湧き上って来るのだろう。どうして己は世間一般の青年のように実着な仕事を真面目に働こうとしないで、夢のような美しさに憧れてのみ居るのだろう。己の耳には年中不思議な音楽が聞えて居る。乱雑な騒々しい往来の噪音そうおんの奥から、身も心も浮き立つようなメロディとリズムとが響いて来る。己の眼には始終微妙な幻影が映って居る。朝な夕な店頭に据わって眺め暮らして居る銀座通りの光景が、動やゝともすると燦爛さんらんたる宝石の羅列られつするように見えたり、房々ふさ〱とした女の黒髪ののたくるように見えたりする。或ある時などは、其れ等の音楽やら幻影やらが、多種多様な形式を取って、極めてハッキリと、現実の世界よりも遥はるかに確実に、己の魂たましいを占領し、己の全生活を吸収してしまう。之これを要するに、己は絶えず酔っ拂って居る。酒は飲まないが、何か知ら外ほかの物に酔っ拂って居る。そうして、現在の仕事や義務や身分などを悉こと〲く忘却して、想像の国に漂泊ひょうはくしながら、恍惚たる心境を持続して居る。

「おい、おい、庄しょうどん! お前めいは何処どこを見てるんだな。ちっとシッカリしないかい!」

こんな工合ぐあいに、己は時々とき〲番頭から叱しかり飛ばされる事がある。叱られると己はいつでもハッと思って、気を取り直す。「一体自分は、なぜ此このように了見りょうけんがふわふわして居るのだろう。愚ぐにもつかない事ばかり考えて居るのだろう。もっと心を入れ換かえて、沈着な、質実な人間になれ。それでないと、自分は到底立身出世をする事が出来ないぞ!」―――己は屡々しば〱斯こう云って、自分の心を鞭撻むちうったが、一向効果がないらしかった。己の精神は、アルコオルや揮発油きはつゆよりももっと蒸発力じょうはつりょくの強い気体きたいのようなもので、いくら壜詰びんづめにされても、キルクや封蝋ふうろうで密閉されても、纔わずかな隙間からどんどん上昇して行くのだった。己は漸ようやく、自分の缺点が、非常に重大な、根底の深いものである事を発見した。

(一)の三

心が、醜みにくい現実よりも美しい幻影の方へ、魂たましいが、生真面目きまじめな「冷静」よりも歓喜に充ちた「昂奮」の方へ、常に引き寄せられると云う、己の性癖せいへきは、いくら矯ためようとしても矯め切れない、先天的の素質であるとしか思えなかった。

「自分は何なんと云う不運な性分に生れついたのだろう。」―――こう考えて、己は幾度いくたびか自分の前途ぜんとを悲観した。なぜと云うのに、己が池田屋へ奉公に来たのは、商売の道を覚える為めであって、其その当時の己の希望は、云う迄までもなく将来偉大なる実業家として立つ事であった。にも拘かゝわらず、自分は実業家として成功するのに、最も不適当な、寧むしろ最も有害な素質を備えた人間だからである。

「己の此この傾向が、果して先天的の性癖に起因して居るなら、無理やりに其れを矯正しようとするのは、恰あたかも自然の不可抗力に刃向はむかうようなものではなかろうか。己が奇怪な幻を見たり、不思議な妄想に悩まされたりするのは、ちょうど桜の枝に麗うるわしい花が咲いたり孔雀くじゃくの体に絢爛けんらんな羽根はねが生えたりするのと同じく、自然の意志の純真なる発現ではあるまいか。」

そのうちに、己はふと、こんな理屈を考えるようになった。いや、己が考えたのではなくて、こんな思想が、何処どこからともなく、自分の耳へひそひそと囁さゝやかれるような気持ちがし始めたのだ。「お前は実業家なぞになる人間ではないのだぞ。お前の天職は外にあるのだぞ。お前が自分の缺点だと信じて居る性癖は、其その実じつ、幾百萬の人間のうちで、纔わずかに一人か二人しか持つ事の出来ない、貴たっとい珍しい能力なのだぞ。」―――と云う声が、折々微かすかに己の心に聞えて来た。己は何なんだか、自分の周囲を包んで居た暗澹あんたんたる雲の隙間から、遥かに天日てんじつの光を仰いだような心地こゝちがした。

そこで己は、更に考えを進めて行った。自分の天職が実業家でないとしたら、如何いかなる方面に其れを求めたらよかろうと、再三再四熟慮して見た。

断って置くが、己が最初に実業家たらんと志こゝろざしたのは、もと〱自ら撰えり好んだ訳ではないのである。自分が将来、従事し得る多くの職業の内うちから、特に実業家を選択したのではなかったのである。己には始めから、選択と云う事が許されて居なかった。己は小学校の尋常科じんじょうかを卒業すると、間もなく父親の命令に依って奉公にやられた。奉公にやられると云う事は、つまり実業の見習みならいをする事だから、其の時既すでに己の前途は、実業の一方面に限られてしまったのだ。否いやでも応おうでも、己は実業家になるより外に、道が開かれて居なかったのだ。金持ちの子供に生れて、中学から高等学校へ入学して、自分の好きな学科や職業を択び得る人々とは、大分育ちが違って居るのだ。

それに又、己は幼い時分から、極度に貧窮ひんきゅうな家庭の暮らしを見て居たので、生活難の問題が非常に鋭く頭を刺戟した。三度のおまんまが無事にたべられて、その日その日を安全に過して行ける境遇を獲得するには、可かなりの才能と力量とを要するように考えて居た。食うと云うこと、即ち金を得ると云う事が、生きて行くのに第一の必須条件であると思った。従って、実業家になれば物質上の富が作られる訳だから、己は商店に奉公する事を、必ずしも自分の為めに不利益だとは感じて居なかった。

(一)の四

けれども、飽く迄も着実性を缺いて居た己の心は、「偉大なる実業家」と云う目的に向って、一歩一歩適確に、辛抱強く進んで行くのに耐えなかった。己は巨萬の富を獲得するに必要な手段を研究し、或あるいは実行しようとしないで、ひたすら其その富を獲得した後の、歓楽に充みち幸福に充ちた光景ばかりを想像した。内のお嬢さんのような素晴らしい美人を細君に持ち、まるで上野の博物館のような廣大な宮殿に住居して、朝な夕な詩歌管絃しいかかんげんの宴楽えんがくを張り、酒池肉林しゅちにくりんの栄華を極める身の上―――ちょうど大昔の支那やロオマの王様のような境遇を、ぼんやりと脳裡に描いて楽んで居た。だから己の希望して居た実業家と云うのは、全くお伽噺とぎばなしの中うちに出て来る仕合せなプリンスに過ぎなかった。恐らくこんな馬鹿々々しい夢を抱いて、実業に志こゝろざした者は己より外に一人もないだろう。

おかしな事には、己はあの時分じぶん、其それ等らの荒唐無稽こうとうむけいな妄想を、決して妄想だとは思って居なかった。どんなに矛盾した、どんなに不可能な事柄でも、あまり熱心に考え詰めると、遂ついには其れが実現し得るような、気持ちになる事は随分ある。あの頃の己の心理状態が、やっぱり其の通りであった。「求めよ、さらば与えられん。」と云う言葉の真理を、己は宗教の方面にでなく、物質慾の方面に於いて信じようとした。斯かく迄まで熾烈しれつなる、斯く迄痛切なる物質慾が己の胸中に燃えて居ながら、其れが満足されずに終るという筈はない。真面目なる慾望の発する所には、必ず対象が生れなければならない。己はどうしても、そう考えずに居られなかった。

一体たい、己のように実世間じっせけんからかけ離れた空想に生きて居る者が、物質に対する旺盛な慾望を感ずるのは、いかにも道理に合わないようである。空想家たる以上は、物質の世界よりも心霊の世界に、より多くの交渉を持つべきであるが、どう云うものか己は生れつき、官能的刺戟に対して鋭敏な感受性を授かって居る。食物の味わいのうまいまずいや、着物の色合いろあいのよしあしや、甚はなはだしきは女の髪の結振ゆいぶりの恰好不恰好に至るまで、子供の癖くせに非常に精密な賞翫力しょうがんりょくを持って居る。而しかも其れが、趣味とか流行とかの問題に関して、何等なんらの教養をも受けた筈のない、貧乏人の子供なのだから一層特筆すべきである。それ故ゆえ己は、普通一般の子供に比べると、非常に生意気で、或る意味に於いては可なり世間智せけんちが発達して居た。

つまり己の性格の中うちには、互に相背馳あいはいちした二つの要素が備わって居たのだ。一面に於いて空想家であった己は、他の一面に於いて常識家であった事は争われない。趣味の問題を全く別にして考えても、己の常識家であった證拠しょうこはいくらもある。第一、己は小学校に居た時分に、算術が得意であった。先生ですら頭を悩ました複雑な四則応用問題を、己は一分か二分の間にすら〱と解決する程の能力を持って居た。己は実際、空想に耽ふける傾向さえなかったら、それこそほんとうに立派な政治家にでも実業家にでもなれたのだ。反対に又、官能的快楽に対する慾望さえなかったら、宗教家にでも哲学者にでもなれたか知れない。

(一)の五

こゝまで考かんがえを押し詰めて来た時、己は始めて、世の中に「藝術家」―――若もしくは詩人と云う職業(?)のある事に心付こゝろづいた。己のようなテンペラメントを持った人間が、撰ぶべき職業は、「藝術」の方面ではあるまいかと云う事に、いつか知ら行きあたった。

前にも述べたように、己は未いまだ嘗かつて、藝術とは如何なる物か、研究をしては居ないのである。己は今、「藝術家と云う職業」と書いたが、果して其れが職業と称し得るや否やも明瞭でない。「藝術とは一体どんな物でしょう?」誰かにこんな質問を試みて、説明を聴きたいとは思うけれど、生憎あいにく己の住んで居る社会には、信頼すべき解答を与えてくれそうな人間がない。店のお得意のお客様や、主人夫婦と交際を結んで居る紳士淑女連は、大概商人か藝者か奥様で、いくらか学問があるらしいのは、弁護士と代議士ぐらいなものである。外にもう一人、築地の教会から時々ジャムの罐詰を買いに来る英国人の宣教師が居るから、あの人ならば分るかと思って、此この間いきなり、

“What is Art”

と尋たずねてやったら、宣教師はにやにやと笑って、何なんだか早口にぺらぺらしゃべったが、己には一向聴き取れなかった。己はさすがに極まりが悪くなって、顔を真赤にした。

内のお嬢さんは麹町こうじまちの高等女学校へ通って居らしって、英語は勿論佛蘭西フランス語もお出来になるし、外国の文学だの音楽だのを嗜たしなんで居らっしゃるようだから、己の質問に解答を与え得る唯一のお方だと云ってもよい。ところが先達せんだって、独ひとりで帝劇の芝居を見物にいらしった時、帰りに己がお迎いに行ったので、一緒に丸の内の隍端ほりばたを歩きながら、

「お嬢様、私わたくしには藝術と云う言葉の意味がよく分りませんが、どう云う事なんでしょう。」

と、恐おそる恐る聞いて見た。其その時お嬢さんは「ふゝん」と、軽く鼻先でお笑いになったきりであった。「わたしにはちゃんと分って居るが、お前のような丁稚風情でっちふぜいに説明しても無駄だから。」と云わんばかりの態度を示された。外ほかの人間に此れ程軽蔑されたらば、己はきっと腹を立てるのだが、お嬢さんの斯う云う傲慢な素振そぶりを見ると、却かえってます〱頭が下るような気がした。

「ねえお嬢様、藝術と云うものは、どう云う人間がどう云う目的を以もって、作るのでしょう。」

己は押し返して二の矢やを放はなった。するとお嬢様は再び鼻先でせゝら笑って、

「庄太郎、お前は藝術家になる積りなの。」

と、冷やかすように仰おっしゃった。己は藝術家の何なんたるかを知らないのだから“Yes”とも“No”とも答える訳に行かなかった。それ程己は、お嬢様の冷ひやかし文句を、真面目に受け取って居たのである。

「お前のような人間が藝術家になるのさ。どら焼やきを焼くよりか餘っぽどいゝわ。」

と云って、お嬢様はおかしくて溜たまらないような眼めつきをなすった。己は又顔を真赤にした。

どら焼なる物は、銀座の大通りに売って居る屋台の駄菓子だがしの事だが、己の醜みにくい容貌ようぼうが其そのどら焼に似て居ると云うので、お嬢様がお附けになった仇名あだななのである。一体お嬢様は、非常に器量自慢の方で、どちらかと云えば意地の悪い、そうしてお転婆てんばな女学生であった。内の店員は、己ばかりでなく、悉こと〲くお嬢様から仇名あだなを頂戴して居る上に、度たび度たび愚弄ぐろうされたり嘲あざけられたりして居るので、誰も彼も蔭ではあんまりお嬢様をよく云わなかった。口にこそ出さないけれど、心から熱烈にお嬢様を崇拝し尊敬して居るのは、己おれ一人ひとりであった。少し話が横道へ外れたようだが、己が如何いかにファナティックな性質であるかを證しょうするために、ちょいと此この一事を書き加えて置くのである。

(一)の六

宣教師とお嬢様とに失敗して以来、己は藝術の何たるやを、他人に質疑する事を止めた。それで専もっぱら、自分の智識と、直覚と、理性とに依って、此この問題を解決せざるを得なかった。

智識と云っても、己は尋常小学を卒業したゞけであるから、大たいした学問がある訳ではない。尤もっとも池田屋へ奉公に来てから、一年ばかり英語の夜学校へ通って、非常に勉強したお蔭かげで、語学の方は中学の四五年生に負けないくらいな自信を持って居る。己は或る晩ばん、銀座の夜店の古本屋を漁あさって、シェエクスピアのオセロとハムレットの原書げんしょと文学藝術に関係のある日本文の古雑誌―――早稲田文学わせだぶんがくだの文章世界ぶんしょうせかいだのと云うものを五六冊買って来た。

己は其れ等の書物を見たら、藝術に就いての稍やゝ明瞭な概念が得られるだろうと云う希望を以て、片かたっ端ぱしから一生懸命に耽読たんどくした。最初に取り付いたのはハムレットであった。マクミラン会社出版の、精くわしい註釈を添えた書物であったから、理解するのに其れ程困難ではなかったが、しかし、正直に白状すると、己は彼あの一篇ぺんを読み終った時、少からず失望した。失望したばかりならよいが、己はひどく落胆らくたんした。

「おい、おい、庄どんがシェエクスピアを読んで居るぜ。どうも学者は違ったもんだね。」

などゝ云う冷罵れいばを、店員どもに浴びせられながら、一種の反抗心を以て繙ひもといたようなものゝ、己には実際、此この有名なる戯曲ぎきょくの妙味みょうみが、何処どこにあるのやら分らなかった。たゞ徒いたずらに冗漫じょうまんで饒舌じょうぜつで、愚ぐにもつかない事を仰山ぎょうさんにたどたどしく書いて居るとしか思われなかった。オセロに就いても、全く同様の感じがした。己は其の結果として、沙翁しゃおうの価値を疑うよりも、藝術家としての自分の素質を疑った。沙翁と云えば、古今ここん第一の大詩人として、世界に許された人物である。其その人の作った戯曲の面白さが分らないとすれば、罪つみは自分の方にある。残念ながら、自分は藝術の殿堂でんどうを窺うかゞう資格がないのである。

己は沙翁にあきらめをつけて、今度は日本の文学雑誌をひっくり返した。すると奇怪きかいにも、其処そこに現れた藝術品や藝術論から受ける印象は沙翁の其れにくらべると、飛とんでもない相違のある事を発見した。中には堂々と、沙翁の作品を批難して居る評論家さえあるらしかった。而しかも彼等の創作なり主張なりが、沙翁に依って得られなかった満足と自信とを、己に与えてくれたかと云うに、決してそうは行かなかった。彼等はたま〱、沙翁に価値を認められないと云う点に於いて、己と一致したゞけなのである。彼等の説き且かつ教えるものが、真の藝術であるとしたら、己はやっぱり失望落胆せざるを得ない。

彼等は、その雑誌の中で、頻しきりに自然主義と云う事を唱となえて居る。藝術とは自然の再現であって、創作家が材料を集める所の世界は、科学者が研究の対象とする世界と、同一でなければならない。創作家が、自分の主観で、勝手に空想し捏造ねつぞうした虚構きょこうの事件は、それを表現しても真しんの芸術とは称しょうし難い。自分がほんとうに観察し、実験し、生活して来た自然界の出来事、若しくは現象を、何等なんらの私心ししんなく正直に厳粛に描写するのが、藝術の任務である。―――自然主義とは、大凡おおよそそんな主義であるらしい。だから彼等に従うと、実際此の世の中にない事を書くのは、藝術でも何でもないのである。そう云われて見ると、己は成なる程ほど尤もっともだと云うような気にもなった。そうして己が考えて居た「藝術」と云うものは、いよ〱間違って居るのだった。

(一)の七

だが、己がいかに無教育な少年であっても、一概がいに彼等の所説に盲従もうじゅうし、信頼する気にはなれなかった。己は元来、学問こそないが、頭の働きは可なり明敏な方であるから、他人の議論の是非善悪を、直覚的に判断するくらいの能力は持って居る。自然派の文学者が金科玉条きんかぎょくじょうとする所の、主観排斥の議論や、平面描写主義や、無技巧主義などに、絶対的の権威を認める価値のない事は、己にも直ぐに分ってしまった。

己はその時こんな風に考えた。―――己のような素質を持った人間の頭に宿やどって居る、美しい幻影や空想の世界の中に、藝術が存在するのではなくして、何等の主観をも想像をも交えずに、たゞ自然界の現象の上面うわっつらばかりを模倣した、所謂いわゆる自然派の小説がほんとうの藝術であるとしたら、藝術と云うものは撰ばれたる少数の天才の事業ではなくて、寧むしろ卑いやしい、誰にでも出来る凡人の職業であると。或あるいは藝術が凡人の職業であっても一向差支えないかも知れないが、己おれはどうしても藝術の位置を、そんなに安やすっぽく見たくなかった。藝術と云えば、何なんだか人間の仕事の内では、一番神様の仕事に近い、高尚な、幽玄な、云わば現象の底を流れて居る宇宙永遠の実在とでも云うようなものを、暗示するに足る貴たっとい事業だと思いたかった。己の信ずるように解釈してこそ、藝術は天才の主観の奥から生れて来るのだと云う事が出来る。斯くて始めて、真しんの天才は想像の翼つばさを搏うって人間の住む地上から高く高く、白雲の裡うちに舞い上り、オリンプスの神々と共に、永遠の美を語り合う資格があるのだと云う事が出来る。

己は、自分の頭の中うちに、斯う云う信仰がいつの間にか形作られて居たことを発見した。己の云い草が、小僧としては如何いかにもえら過ぎるから、多分生なまかじりの哲学の受け売りをして居るのだろうと、疑がう人があるかも知れないが、そんな訳では決してない。己が哲学の本を読むようになったのは、ズット後のちの事で、此この信仰は全く自分の直覚に依って得たものなのだ。

そこでもう少し、己は自分の直覚した事を説明して見る。―――一体、自然派の文学者は、経験だの真理だのをいやに重大視して居ながら、「美び」と云う事に就いては一言も費ついやして居ない。要するに、彼等と己との意見の相違は、藝術の目的が、「真しん」にあるか「美び」にあるかと云う点だろうと思う。己は彼等に議論を吹きかけて、へこましてやるだけの素養のないのが残念だけれど、少くとも彼等の所謂いわゆる「真しん」なるものが、科学的の真理にもせよ倫理上の真理にもせよ、極めてアヤフヤな、不安定な性質のものである事はたしかである。人間の智慧で拵えた、若しくは発見した真理なんかに、永遠の生命があろう筈はない。「真理」なんて云うものは、「約束」に毛けの生はえたもので、或る一時代の人間社会や自然現象を、支配し、若しくは支配するように見える、間に合わせの規則に過ぎない。之これに反はんして「美び」には永遠の生命がある。いや、ありそうに信ぜられる。「何故なぜ?」と聞かれるとちょいと困るが、兎とに角かく己は、そう信じないでは生きて居られない。

(一)の八

人はめいめい固有のテンペラメントを持って居るから、そう一概にも云えないだろうが、兎に角、「善ぜん」とか「真しん」とか云うものには、人間の魂を酔わせるだけの力がない。人間の魂を酔わす事の出来るのは、唯ただ「美び」あるのみである。たとえば、あの妖艶な内うちのお嬢さんの容貌を眺める時、己おれはいつでも、普通の人間の目鼻や肉体を見て居るような気持ちはしない。恰あたかも晴れ渡った深夜の大空に、きらめく星を打ち仰ぐと、人は誰でも「永遠」を想い無限を予感する如く、己はお嬢さんの崇厳すうごんな輪廓りんかくや、端正な額ひたいや、清浄な瞳ひとみの奥を視詰めると、己の全人格が何となく其処そこへ吸い込まれて行くような、恐怖と恍惚とに襲われる。お嬢さんと云う女は、一つの卑しい人間であっても、お嬢さんに備わって居る気高い顔だちには、「人間」以上の或る物が暗示されて居る事を感じる。勿論、お嬢さんの持って居る肉体の美は、此これから二三十年も過ぎて、彼かの女じょが老おい惚ぼれて来ると同時に、何処いずこともなく消え失うせてしまうには違いない。しかし、それだからと云って、お嬢さんの肉体に現れて居る「美び」は、一時的のものだと断ずる訳には行かない。成る程、お嬢さんが示して居る容貌の美は、形態の美は、永遠の生命を持たないかも知れないが、その容貌なり形態なりの裏に隠れて居る美の精神、美の理想はたしかに永遠である。己の信仰に従えば、天はたま〱妙齢のお嬢さんの肉体を借りて、其処そこに永久不滅の美のシンボルを見せたのである。お嬢さんの肉体に永遠の美を認めることが出来ない者は、月の光が太陽の反射である事を知らないようなものである。月が缺けても太陽の光は立派に存在して居る如く、お嬢さんの容貌が衰える時はあっても、嘗かつて其処に表現された美の理想はちゃんと存在して居るのである。

己が先さっき、「酔わされる」と云ったのはつまり或る一定の現象を凝視する事に依よって、その底に潜ひそんで居る永遠の実在を豫覚し、自己の生命が宇宙の生命の中へ流れ込んで行くような、不思議な気持ちへ誘われる心理作用を意味したのである。人間にこう云う気持ちを起させるものは、「善」や「真」ではなくて、「美」だと云うのである。

己の奉公して居る池田屋の店の筋向すじむこうに、「宝商会たからしょうかい」と云う蓄音器屋ちくおんきやがある。主に西洋音楽のレコードを売る家だと見えて、毎日毎日、晩になると往来へ大きなラッパを向けてピアノだのヴァイオリンだの、騒々しい楽隊などの音譜を掛けて鳴らして居る。己は何だか初めのうちはチンプンカンプンでさっぱり面白いと思わなかったが、だんだん聞き馴れて来るうちに、折々うっとりと耳を傾けるようになった。いつであったか、己は帳場の火鉢ひばちにあたりながら英語の本の復習をやって居ると、何とも云えない流麗な、微妙な声音こわねが、電車の響ひゞきだの下駄げたの音おとだので濁にごらされて居る、雑沓ざっとうの夜の巷ちまたの噪音を押し拭ぬぐうようにして、ふいに己の耳元へ伝わって来た。己はその時、自分の眼は本の上へ落ちて居ながら、自分の魂は風を孕はらんだ帆ほの如く、奏楽が齎もたらす快感に膨ふくれ上って飄々ひょう〱と虚空に舞い上りつゝあるのを発見した。己は明あきらかに酔わされて居る事を意識した。

やゝ暫くして、奏楽が止んだ時、漸ようやく我に復かえったように、本を閉じて顔を擡もたげた己は、意外にもお嬢さんが己の鼻先に据わって、じっと柱に凭もたれたまゝ、己と同じく一心に聞き惚れて居らしったのに心付いた。

「あゝよかった。もう一遍聞きたいものだ。」

さも惜しそうに斯こう仰しゃったお嬢さんは、まだ幾分か夢心地から醒さめ切れない様子であった。

「あれは一体たい、何なんと云う音楽です。」

己が斯う尋たずねると、

「あれかい、あれはタンホイゼルのシンフォニーだよ。」

と、お嬢さんが仰しゃった。

(一)の九

己にはタンホイゼルが何だか、シンフォニーが何だか、そんな事は分らなかったが、兎に角、己の敬愛するお嬢さんが己と一緒にあの音楽に聞き惚れたと云う事実が、此この上もなく嬉しかった。少くとも己に音楽の耳を開けてくれたのは、その時のタンホイゼルとお嬢さんの言葉とであった。

その後毎晩のように、宝商会のラッパが鳴り出すのを楽しみにして、己はしんみりとレコードの音色を味わった。声の美しさとか、節の巧うまさとか云うような、細かい点を賞翫しょうがんする事は出来ないまでも、己は何か知ら、一種不可解な感銘に魅せられて、恍惚とせずには居られなかった。恍惚? どうも度たび度たび「恍惚」と云う字を使うようだが、実際音楽から受ける快感は、「恍惚」の二字を用うるより外に、適当な形容詞がない。その快感をもう少し詳しく解剖して説明するとしたら、まあ何と云えばいゝのだろう。たとえて見ると、其それは恰も、人間が子供の時分から胸に抱いて居て、どうしても口に云い表す事の出来なかった情景を、極めて流暢に、極めて精緻に、語り聴かされて居るような気持ちである。だから誰でも美しい音楽を耳にすれば、その中に現れて居るものは、自分の胸に昔から潜ひそんで居たような心地がする。自分が云おう云おうとして云えなかった物が、其処に滾々こん〱として泉いずみの如く流れて居るのを会得する。或あるいは又、自分が前さきの世で出遇であった覚えはありながら、此この世へ生れて来た瞬間にすっかり忘れてしまったものを、今改めて囁かれるような感じを起す。もっと簡潔に云い換えれば、魂たましいが自分の故郷へ帰ったような歓びに打たれる。

そこで己は、こう云う事が云えると思う。もし藝術が自然の模倣、現象の再現であるとしたら、経験の世界から最もかけ離れて居る音楽は、畢竟ひっきょう藝術でなくなる訳である。音楽の世界には、われ〱が日常目撃する所の、樹木だの人間だの、空だの雲だの、橋だの家だのと云う物が一つもない。音楽は全く、自然主義者の所謂拵こしらえ物、空想の産物である。それにも拘らず、昔から音楽は立派な藝術の一つとされて居る。そうして見ると自然主義者の云った事は、出鱈目でたらめに違いない。事に依ると彼奴等あいつらは、「一概に藝術と云っても、文学と音楽とは条件が違う。」などゝごまかすかも知れないが、己はなかなか其の手は喰くわない。条件が違っても藝術の目的は一つな訳だ。文学だけがそんな窮屈な、そんな卑しい職分しょくぶんに甘んじる必要はない。―――己はとうとう、斯う云う意見に到達した。己が今迄、自分の独断で極めて居た藝術観は、音楽を知るようになってから、始めてほんとうに誤りのない事を発見した。己が宝商会の蓄音器に負うところも、甚はなはだ多いと云わなければならない。

調子に乗って大分だいぶ勝手な熱ねつを吹いた。小僧にしては少し云い草がえら過ぎるから、多分何かの受け売りだろうと、疑う読者があるかも知れないが、以上は全く正真正銘の己の直覚から出た議論である。我が輩がいかに早熟な、いかに鋭利な頭脳を所有して居るかは此れで大概合点が行くだろう。

(一)の十

己がいろいろの文学や哲学の書物を読むようになったのは、己の藝術観が確定してから後の事で、つい近頃の話なのだが、今になって考えて見ると、あの時分の自然主義者の文学論は、いよ〱ますます馬鹿々々しいような気がしてならない。

此の間、夜店の古本屋を冷やかしたら、英訳のモオパッサンの小説が二三冊目についたから、早速買って来て、目下己は熱心に耽読たんどくして居る。モオパッサンと云えば、日本の自然主義者が自分たちの本家のように云い囃はやして居る文豪だから、いくらか彼等の作品に似て居るのかと思ったら、読んで見ると大変な相違である。どうして〱、モオパッサンは彼等のような融通ゆうずうのきかない、平面描写や無技巧主義むぎこうしゅぎの小説なんぞを書いては居ない。「女の一生」とか、「ベラアミ」とか、云う、彼かの傑作と称しょうせられて居る作品を、誰が見たって、正直なる「自然の再現」だと感ずる者はありゃしないだろう。其処には山沢山の、素晴らしい大仕掛けの芝居が演ぜられて居て、日本の自然主義者の所謂「拵え物」である事は、一目瞭然として居るじゃないか。第一、モオパッサンの文章は彼等の書くようなボキボキした、味も塩気そっけもない、カンナ屑見たいな悪文とは、まるきり質が違って居る。何処となくアクが抜けてスッキリとして居ながら、飽く迄も流麗で光沢に富み、美しい、独特のリズムを持って居て、さすがに瀟洒なフランス人の書く物だと頷かせる。己の解釈を以てすると、モオパッサンのえらい所は、自然主義者の云うような、忠実な、馬鹿正直な、むやみにだら〱した自然の描写にあるのではなく、やっぱり彼の構想の偉大と、行文こうぶんの暢達ちょうたつと、其れ等に依って生き生きと表現されて居る人間の肉欲生活の葛藤とにあるのだろうと思う。全体、あれ程立派な藝術的作品の、影響を受けて居る筈はずの自然派の作家に、どうしてあんな土つちッ臭くさい、野暮やぼッたらしいまずい小説が書けるのか、己には実際不思議でならない。

日本の自然主義者は、学問は己よりあるか知れぬが、頭は己より遥かに劣って居るらしい。彼等には文章のうまみを味わう感受性もなく、技巧の使い道を会得する理解力もなく、何処までが「自然」で、何処までが「想像」であるかを、区別する能力が全然缺如して居るのだ。つまり彼等には、藝術家に必要なる素質が、一つも備わって居ないのだ。

あんまり気炎を上げ過ぎて、議論が長びいたようだから、好い加減に打ち止めとしよう。………結局、上述のような次第で、己は自分こそ、藝術家たり得る資格のある人間だと、堅く堅く信ずるようになった。今となっては、誰が何と云ったって、己の信念は挫けはしない。

しかし、己に藝術家の素質があると云う事と、己が将来藝術家の経歴を作るかどうかと云う事は、自おのずから別問題である。素質があっても、修養の如何いかんに依っては、必ずしも満足な経歴を生む訳には行かない。そうして悲しい哉かな、己にはどうも其の修養が缺けて居るように思う。いくら修養したくっても、小僧の身分では、到底充分な機会が与えられて居ないのである。

(一)の十一

「修養」と云う言葉にも、さま〲な意味がある。身体の修養をするとか、学問の修養をするとか、技術の修養をするとかならば、小僧の分限でも、必ずしも不可能な事ではない。しかし藝術家となると、勿論学問も技術も大事であるが、それよりもっと大事な修養の方面がありそうである。

己の想像力をもっと豊富にし、己の人生観をもっと深く鋭くする為めに、己は何よりも先ず、世間と云うものを廣く知り、廣く観察したい。藝術は自然の摸倣でない迄も、自然を見ずには、藝術を作る事は出来ない。然るに奉公人の周囲を取り巻く自然なり世間なりは、極めて色彩の乏しい一小局部に限られて居る。此これが己は一番残念で溜たまらない。

それから第二に、己はもう少し金と時間との餘裕が欲しい。単に学者になるだけの事なら、苦学をしても成し遂げられるが、藝術の方はそうは行かない。貧乏な家に生れて、立派な詩人や畫家になった人間も随分あるけれど、己のような素質と傾向とを持つ、一種の藝術家には、或る程度以上の貧乏は絶対に禁物である。或る程度以上の貧乏とは、つまり労働者として稼がなければ、生活して行かれない程の貧乏をさすのである。何処の商店でも同じように、われ〱ぐらいの年配の小僧は、体ていのいゝ労働者であって、日がな一日、体を激しく使う事は、車夫しゃふや馬丁ばていと殆んど択ぶ所はない。車夫や馬丁が、車を挽ひいたり馬を追ったりしなければ、飯めしが喰えないと同様に、われ〱も重いビールの箱を担かついだり、自転車を走らせたりしなければ、直に主人から暇ひまを出される。暇を出されても、親の家へ帰って、安楽に暮せるくらいなら、初めから奉公なぞを勤めはしない。貧乏も適当な程度だと、却って神経を鋭敏にする利益があるが、労働となると、寧むしろ神経を頑丈にし、遅鈍にさせるばかりである。その證拠には、華族や富豪の若旦那の神経と、人足や立ん坊の神経とを比べて見れば直ぐに分る。労働の為めに体の疲れるのは忍ぶ事が出来るけれど、神経の鈍るのは全く恐ろしい。そうなったら藝術家はもうおしまいである。

だから己は、どんなに学問がしたくっても、牛乳や新聞の配達をして、労役を犯してまでも、苦学する気には毛頭ならない。そんなセカセカした心持ちで居たら、大切な瞑想の時間がなくなる。折角起りかけた美しい想像だの幻影だのが、頭の外へ飛んで行ってしまう。

こう考えて来ると、己はつく〲運の悪い人間だ。己は藝術家になると云う希望を、全然抛なげうった訳でもないが、しかし此この儘まゝ進んで行けば、商人にもなれず詩人にもなれず、虻蜂あぶはち取とらずで終る事は分り切って居る。分り切って居ながら、どうする事も出来ないのだから、しみ〲厭いやになってしまう。

「あゝ、己が世間並の家に生れて、大学へ行く事が出来たらなあ。」

と、いつでもくよくよ嘆息して居る。どうせ藝術家となれないくらいなら、死んだ方が増しなくらいだ。

(二)の一

己おれの頭の中うちに湧わき上る想像なり幻影なりは、藝術的には非常に美しいが、どう云うものか道徳的には甚はなはだ不善ふぜんなものが多い。此れは近頃気が付いた事なのだが、事に依ったら、己は反道徳的の傾向を持つ藝術家若しくはそう云う藝術家になれる筈の人間かも知れない。己が考えるのに、人間の心の奥底には、道徳的の要素が潜むと同じ深さに、非道徳的の要素も潜んで居るに違いない。若しも宇宙に永遠の「善」の精神が存在するなら、一方に於いて、永遠の「悪」の精神も、必ず存在して居るだろう。そうして、人間の中うちの「善」の魂が輪廻する如く「悪」の魂も輪廻するだろう。

然るに、今日こんにちの文明国の人間は「善」を実行に移す事を許されて居ながら、「悪」を実行する事を許されて居ない。「悪」が許されるのは、たゞ想像の世界に於いてのみである。換言すれば「悪」はたゞ藝術に於いてのみ許される。従って、生れつき「悪」の魂の強く燃えて居る人間が、悪人のまゝで、地獄へ墜おちずに天へ昇ろうとするには、どうしても藝術の路を行くより外はない。なぜ藝術は悪人を天へ昇らせる事が出来るか。―――と云うに、藝術的境地へ這入れば善も悪もなくなって、たゞ美があるからである。そうして、美は人間に解脱の方法を教えるからである。

ところが、己のような悪人が、若もし藝術家になる事を禁ぜられるとすれば、その生涯は極めて危険である。己は己の頭の中うちにある想像を、藝術的作品に発表する事が出来ない結果、勢い実生活の方面に吐き出さざるを得なくなる。己おれはいろ〱の犯罪をやる。社会的に堕落する………しまいには何をやり出すか分りゃしない。

生活其その物を藝術にする。などゝ云う考えは、云うべくして容易に行われ難いものだ。人間は長い間の習慣に依って、良心と云うものを持って居る。藝術の世界で許されて居る「悪」を、一旦実行の方面に移すと、われわれはすぐに良心の苛責かしゃくを受ける。良心と云う奴は、今では殆ほとんど先天的の不可抗力を以て、人間の胸に喰い込んで居るから、その桎梏を破壊する事は、到底出来ない。強いて破壊しようとすれば、ます〱苦悶が加わって来て、懊悩の極きょくは発狂するような始末になる。技巧を以て、実生活を藝術に一致させようとしても、既に実生活である以上は、やっぱり道徳律の制裁がある。われ〱の心は、生れ変って来ない限り、否いやでも応でも「浮世の義理」に拘束されるように運命付けられて居る。浮世が斯くの如く不自由な、窮屈なものであればこそ、われ〱は別に藝術の天地を作る必要があったのではないか。

しかし境遇に依って藝術の天地を封ぜられて居る者や、境遇はよくても天性想像力の乏とぼしい者は、見す見す堕落をすると知りながら、悪を実行に齎もたらさずには居られない。己なんぞも、近頃は大分焼け糞になって来た。どうせ藝術家になれないくらいなら、せめて空想の世界の一部ぶをなりとも、実現したいと云うような了見が起る。堕落をしようが、罪人になろうが思い切り放縦な生活を送って太く短く世を渡りたいと考える事が往々ある。実はもう、此の間から内證ないしょうで、酒や煙草をポツポツと飲み始めて居る。

(二)の二

もし人間が、暫しばしなりとも良心の苛責から逃れ得る事があるとすれば、其れは酔って居る時だけだ。酔ってさえ居れば、浮世が直ちに藝術の世界のように感ぜられる。そうして、刹那の昂奮のうちに、永劫の歓楽を掴む事が出来る。実際酒と云うものは、人間の発明した物の中うちで一番の傑作けっさくだ。藝術家が空想の世界を作って此この世の苦患くげんを超越するように、凡人は酒の力に依って辛かろうじて救われるのだ。酒は凡人の藝術だ。

己はこんな口実を設けて、近頃頻々と酒を飲む。どうして己に、其れ程の小遣いがあるかと云うと、大きな声では云えないが、帳場の金を少しずつ誤魔化ごまかして居るのだ。買い物にやられる度毎に、己はこっそりと頭をはねる。店の商品を内證で売って代価を自分の懐ふところへねじ込む。此の間も番頭が、棚にあったシャンパンの壜びんが一つ足りないと云って、大騒ぎをして居たが、正直を云うとアレは己がちょろまかしたのだ。だが幸いにも、己は非常に智恵を働かせて、店員の眼を晦くらます事が上手じょうずなので、未だ一遍も馬脚ばきゃくを露あらわした例ためしがない。みんな己を正直な、学問好きな小僧だと思い込んで居る。此この調子だと、己はいよ〱図に乗って堕落だらくする一方だ。

酒を飲むにも、銀座のカフェエは人に見られる憂うれいがあるから、絶対に足を踏み入れない。いつも自転車で用足しに出るついでに、下町ならば人形とか浅草の公園とか、山の手ならば神楽坂かぐらざかとか、わざ〱遠廻りをして、一品料理の洋食屋やおでん屋の暖簾のれんをくぐる事にきめて居る。尤も、日本酒を飲むと臭においで感づかれるから、大概ウイスキーにきめて居る。アルコオル分の強い奴を二三杯ぐっと引っかけて、暇があると芝居の立見や活動の小屋をのぞいて、店へ帰って来る迄には好い加減酔いが覚めてしまう。

けれども、二つのWのうち、己おれは Wine の味を知ったゞけで、まだ Woman の味を知らない。此この点になると、己よりも外の店員の方が内々で遠征を試みて居るらしい。時々、番頭だの手代だのが、眠ねむそうな顔つきをして、昨夜ゆうべは持てたの振られたのと、こそ〱話をやって居るのを聞く事がある。彼等は毎週に一度ぐらい、主人が寝てしまってから何処かへ出掛けて、朝早く帰って来るのである。己も満更好奇心が起らぬ事はないのだが、何だか恐ろしいような気がするし、格別其の方面には激しい慾望も起らないので、とうとう今日こんにちまで童貞どうていを守って居る。異性に対するイリュウジョンが破こわれると困るから、まあもう少し辛抱して見よう。

今のところでは、やっぱり浅草の公園へ行って、あの辺をうろつき歩くのが一番面白い。活動写真だの、連鎖劇れんさげきだの、玉乗たまのりだの、手品つかいの見せ物などを覗いて廻ると、己は一日居ても飽きない。時々歌舞伎座や市村座いちむらざあたりの、高級な芝居を立見するけれど、浅草の見せ物に比べると役者がいやに上品ぶって、味もそっけもないマンネリズムを繰り返して、不愉快なこと夥おびたゞしい。此れに反して、公園の見せ物は、やゝともすると殺伐に流れ、野蛮やばんを発揮するが、其処に何とも云われない空想の世界が暗示されて居る。哀愁と歓喜との織り交った、エキゾティックな情調が潜んで居る。云わば、デカダンの音楽を聞くような心地がする………

己の前途は全く真暗だ。己は此の先どんなキッカケで、どんな恐ろしい人間になるか分らない。

(二)の三

五月十三日。己は今日から、当分の間、時々日記を附けて見る事にした。此れから先の己の生活に、非常な変化、―――どうせロクな変化ではないが、―――があるとして、今のうちから斯う云う記録を留めて置くと、後のちになって、堕落の経路を判然と指摘する事が出来る。それは単に己一人にんに興味があるばかりでなく、大方読者諸君にも、有益な参考となるであろう。天才を持った一つの魂が、環境の宜しきを得ない結果、いかに傷つき破れて行くかを證明する、恰好な資料を提供するだろう。

それに己は、五月と云う月が一年中で一番好きだ。草木の葉が、素晴らしい勢いきおいで、一度に新芽を吹くと同時に、己の体にも何だか生き生きとした気力が漲みなぎり溢れて来るようだ。殊ことに今日こんにちのような、カラリと晴れ渡った上天気に、往来を歩くうら若い女が、みんな柔かい、フワフワしたふらんねるの単衣ひとえを着て、白い素足すあしを露あらわして、ケバケバしいパラソルを翳かざして行くのを眺めると、己はほんとうに溜たまらなくなって来る。今しがた、店の前を俥くるまで通った新橋の藝者の、白粉おしろいの濃い長い襟足をくっきりと日に光らせながら、女王のように気取って行った後ろ姿が、いまだに己の眼の前にちらついて居る。

今時分の陽気になると、此の世はやっぱり美しいと云うような気がする。その頭の中に浮ぶ妄想のようなものが、此の世の中にも有あり得うるかも知れない。

明日あしたはどうしても浅草へ行きたい。今日の新聞の広告に出て居た、「露国ろこく美人メリー嬢の魔術まじゅつ」と云うのを見に行きたい。幸い明日は十四日で、上野の廣小路までカケ取りに行く用があるから、なんとか時間を工夫してやろう。

今日きょうはお嬢さんが上野の音楽会へ出かけて、一日お留守だった。お嬢さんが居ないと、己は非常に淋さびしい。まるで家の中うちが落寞らくばくとする。池田屋にお嬢さんさえ居なかったら、己はもっと悪い事をして、追い出されても構かまわないのだが、………

五月十四日。晴。

今日は何と云う不思議な日だったろう。何と云う愉快な、そうして怪しい日だったろう。こうやって日記を附けながらも、己は猶なお名状し難い胸騒ぎを感じて居る。今日の出来事は、たしかに己が生れてから未だ嘗て経験した事のない、奇しく恐ろしい快感を己に味わせてくれた。今日の午後四時から五時までの間、己は全く此の世の物としも思われない夢の国に居た。其れは今考えても、体中が戦慄する程に芳かんばしい、甘い想像の世界であった。大方おおかた己おれ以外に、あんな世界を見た人間は沢山居ないだろう。

その出来事と云うのは、己が浅草の「世界館」の、ミッス、メリーの魔術を見に行った時に起こったのだ。己は此この一大事実を、成るべく詳しく記述して置く必要がある。

ちょうど今日の午後の二時頃であった。己が内々浅草行きの機会を窺って居ると、番頭が、「庄どんや、御苦労だが此の書き付けを持って、廣小路の森田屋まで勘定を取りに行って来ておくれ。」

と云った。己は腹の底で「しめた」と思いながら、直すぐに自転車へ乗って、店を飛び出した。

出ると間もなく、己は和泉橋いずみばしから自働電話をかけて、店の番頭を呼び出した。

「まことに申し訳がありませんが、今途中で女の子に突きあたって、交番へ引っ張られて行くところですから、事に依ると一二時間手間が取れるかも知れません。」

こう断って置いて己は廣小路へ行かずに雷門かみなりもんへ駆けつけた。

(二)の四

メリーの魔術のかゝって居る世界館と云う小屋は、公園の六区の池の傍にある。己は毎々まい〱、外出中の時間を有効に使用する事に馴なれて居るので、自転車を小屋の木戸番きどばんに預けると、直に切符の売り場へ行って、「魔術は何時から始まるのですか。」と、其処の少女に聞いて見た。

「今ちょうど、一回の終りで魔術が済んだところです。此これから写真になりますから、まだ魔術には二時間ぐらい暇がありましょう。」

少女は例の早口で、己の気も知らずにこんな事をぺらぺらとしゃべった。もう三十分も早かったら間に合ったろうに、惜しい事をしたと己おれは思った。しかし決して、己は其の儘まゝあきらめる気にはなれなかった。魔術の興行は半月も続いて居るのだから、今日でなければ見られないと云う心配はないのだが、一旦こうと思い詰めると、どうしても中途で止せない性分であった。

「そうかい、そんなら後あとで見に来よう。」

己は斯う云って、いろいろな魔法の演技が、面白そうに畫いてあるペンキ塗りの絵看板を恨めしそうに見上げながら、再び木戸から自転車を曳き出して其れに跨またがった。こう云う事もあろうかと考えて、若もしも時間に余裕があったら、その間に先へ廣小路の方へ行って来ようと、豫あらかじめ手筈てはずを極きめて置いたのである。

今日も昨日と同じように爽やかな、身も心も軽々かる〲とする天気であった。公園の出口の、千束町せんぞくまちの溝とぶルビの「とぶ」はママの前から自転車に乗って、紺碧こんぺきの空の下に霞かすんでいる上野の森を目標に、坦々たん〱たる一本路を一直線に走って行く己は、何なんだか体に羽根が生えて、地面から二三尺も高い所を飛んで居るような心地がした。己は無性に両足へ力を入れて、目まぐるしい通行人の間を分けながら、真っしぐらに突き除け駆け除けて行った。こんな天気とこんな気分とがいつ迄も続いたら、己は恐らく地球の果てまで駆けて行っても疲れないだろう。

しかし、森田屋へ着いた時には息をせいせい弾はずませて、汗をびっしょり掻いて居た。

「どうしたい池田屋さん、大分だいぶんせかせかして居るが、ひどく忙しそうじゃないか。」

と、帳場に控えて居た其処の旦那がお世辞を云った。

「えゝ、今日は方々ほう〲を廻らなけりゃならないんで………」

と云いながら、己おれは二十六圓五十銭の書き付けを出した事迄覚えて居るが、それから後のちはすべて上うわの空そらであった。己の魂はとっくに浅草の公園へ、遊びに行って居るのであった。

貰った金をロクロク改めもせずに、直すぐ公園へ取って返したのは、大方一時半ごろであったろう。ちん屋やのバアへ立ち寄って、ブランデエの強烈なのを二三杯ぐいと引きかけて、己は早速世界館へ舞い戻った。

断って置くが、己は大抵浅草の見せ物を見る時には、前以って少量のアルコオル分を飲む事にして居る。そうすると写真や魔術の奇怪なる舞台面と、自分の頭の中うちに漂たゞよう妄想とが、互いに錯落さくらくし、縺もつれ合って、事実とも幻像とも付かない、不可思議極まる線状が、瞳の前に暴れ廻るように感ずるのである。

(二)の五

たった十分か十五分で、廣小路まで往復したのだから、魔術が始まる迄には、まだ餘程の時間があった。己は二階の一等席の前列へ陣取って敷島しきしまを吹かしながら、「岩見重太郎いわみじゅうたろう武勇伝ぶゆうでん」と云う俗悪極まる活動写真を、長い間見物せねばならなかった。

館内は、土間どまも二階も三階も、ぎっしりと客が詰まって居るらしく、蒸むし暑い人いきれで濛々もう〱と煙って居た。それでなくても、己の体にはブランデエの酔いが循まわって来て、襟元から汗がびっしょりと泌しみ出て居るので、己は暫しばらく眩暈めまいのするような、息の詰まるような気持ちに襲われたが、その気持ちが又、何とも云えず愉快であった。ぬるぬると脂あぶらの湧いた掌てのひらを、髪の毛へなすり着けたり、胸板むないたで押し拭ぬぐったりしながら、己はとろんとした眼つきで、彼方此方あっちこっちを見廻して居た。

「岩見重太郎」は随分長く続くらしかった。全部で七十八場ばと云う長尺ちょうじゃくだが、まだまだやっと三十場しか済んで居ない。酔って居るのでどうやら辛抱が出来るものゝ、しらふであんなものを一時間も見せられたら、実際やり切れたものじゃない。不断はあんまり気が附かないが、斯うやって写真にして見ると、己はつく〲、日本人の容貌の醜悪なのに愛憎が盡きる。彼等の歪んだ低い鼻はな、妙みょうにトゲトゲした頬骨、蟹かにの足のように曲って居る脛すね、お盆のように扁平でいびつな顔面、何処を捜したって、一つとして人に快感を与えるような特徴なんかはありはしない。そうかと云って南洋や亜弗利加アフリカの蛮人ばんじんのような、精悍な活気と体力とがあるのでもない。此この卑いやしい汚い矮小わいしょうな人種が、己の同胞であるかと思うと、そうして自分もあんな姿をして居るのかと考えると、己は全く情なさけなくなる。事に依ったら、内のお嬢さんのような美人は、日本人として例外の部に属するのだろう。

やっとの事で、「岩見重太郎」が大団圓だいだんえんを告げると、今度は西洋物の映畫が始まった。(“The Circus of Death”)―――死の曲馬きょくばとか何とか云う、伊太利イタリーの冒険写真であるが、しかし此の方は可なり面白く見て居られた。

「己はどうして西洋に生れなかったのだろう。欧羅巴ヨーロッパに生れさえすれば、たとえ商店の小僧であっても、今よりはもっと幸福だったに違いない。」

などゝ云う気が、しみ〲と起った。それから己の連想は、廣大無辺に擴がって行って、自分の過去や将来の運命を、次ぎから次ぎへ果てしもなく胸に描いた。

かりに己が此のフィルムの製造せられる北部伊太利イタリーのミラノの近傍、―――或あるいはアルプスの山の麓ふもと、或いはコモの湖水の滸ほとりに生れたとする。そうして、幼い時からドニゼッチやロシニの音楽を耳に聴き、ボッカチオやダンヌンチオの美しい言葉を口にして成長したなら、定めし己の少年時代は、あの「即興詩人」の主人公のような、懐しい追憶を以て充たされて居た事であろう。己は何も、貴族や富豪の家に生れたいのではない。たとえジプシィの群に育って、旅から旅へ漂泊して歩こうとも、亜細亜アジアの隅すみっこの日本に生れるより、どんなに仕合わせだか分らない………

(二)の六

何も伊太利イタリーとばかりは限らない。佛蘭西フランスでも、英国でも乃至ないしは印度インドだの波斯ペルシャだの埃及エジプトだの亜剌比亜アラビヤだのと云う国でも、まだ日本よりは遥かに増しのように感ぜられる。いっそ己は今からでも遅くはないから、乞食か労働者の群に這入はいって、日本を後に、そう云う国々を流れ歩いたらどうであろう。先ず順序として、最初に池田屋の店で不都合ふつごうを働いて暇ひまを出される。それから、実家へ帰って親父やおふくろと衝突する。次ぎには東京を出奔して、神戸か長崎辺へ行って、婦女子の誘拐を目的とする悪辣な移民業者の手先となる。支那へ密航し、南洋へ押し渡り、南米北米の大陸へ流れ込む。社会の最下層へ身を堕しさえすれば、何処へ行っても、飯を喰うには差支さしつかえがなく、面白い目が見られるだろう。日本人の奴隷どれいになって虐待ぎゃくたいされるのは真平まっぴらだが、白人や黒人に使われるなら一向構わない。桑港サンフランシスコあたりのチャブ屋のボーイになるのもいゝ。アフリカの熱帯地へ行って、酋長の娘に仕えるのもいゝ。欧羅巴ヨーロッパの場末の軽業師の仲間に投じて、女優の小使いや男衆になってもいゝ。サルタンの国の、回々フイ〱教徒の乞食に化けて、メッカ、メジナの霊場へ巡礼するのもいゝ。そうして結局、巴里パリーの大道で野たれ死じにをしようとも、ナイル河の鰐わにに喰われて死のうとも、己は少しも恨めしいとは思うまい。………

こんな工合に、際限なく展開して行く己の連想は、映畫が消えてパッと明るくなった瞬間に、頭の中で働きを止めた。己の意識は現実に復かえって自分の身が世界館の一等席にある事を心付いた。見ると舞台の右の端に、「メリー嬢出演魔術」と云う張り札が掲げられて居る。

「いよ〱来たな。」と思って、己は胸をときめかせつゝ居ずまいを直した。何処かでチリチリンとベルが鳴ると、下手しもての海老色えびいろの幕の蔭から、金縁の眼鏡をかけてフロックコオトを着た、年の若い、赤ッ面つらの気障きざな弁士べんしが舞台へ歩いて来て、見物一同へ馬鹿丁寧なお辞儀をした後、長い間メリー嬢の演技の紹介をやった。

「えゝ、今回は餘興といたしまして、露国ろこく美人メリー嬢の出演にかゝる、巧妙にして奇怪なるマジックを御覧に入れます。しかし、こゝにちょいと御断おことわり申して置きますのは、魔術と申しましたところで、世間普通の手品などゝは違って居りまして云わば、最新の学理に基き、廿世紀の心理学を応用いたしましたるところの、高尚なる、複雑なる催眠術の一種でござります。そも〱此の催眠術と申しますのは、いかなるものでございましょうや、此れは無学なる手前共が今更喋々ちょう〱致しまする迄もなく、皆様方がとっくに御承知の筈でございまして、普通の手品などゝは異なり、種も仕掛けもない、全く霊妙不可思議なる精神の作用に依るものだそうでございます。………」

弁士がこんな事を云って居る間に、見物席へはいやが上にも客が詰め込んで来るらしかった。

(二)の七

やがて、弁士が引込むと、入れ違いに現れたのはメリー嬢であった。其の一刹那せつな、己が彼女から真先に受けた印象は、彼かの女じょの体中に星の如く附着してピカピカと光って居る、無数の宝石類ほうせきるいであった。新ダイヤだかガラス玉だか何だかよくは分らないが、兎とにも角かくにも、すらりとした、背の高い彼の女の総身は、栗色くりいろの髪の頂辺てっぺんから純白の絹の靴の先まで、鱗うろこのようにきらきらと閃めく物が鏤ちりばめてある。腕と肩とを露わにして、纔わずかに乳房から下の胴体と両脚とを包んで居る真黒な服の地にさえも、其れ等が一面に縫い込んであると見えて、体を捻ひねらせる度毎たびごとに、光りの玉が彼方あっちに消きえたり此方こっちに殖ふえたりする。

彼かの女じょは活発な足どりで、つかつかと舞台の前面に歩み出で、しなやかな襟頸えりくびから肩の筋肉を、蛇へびに化ばけようとする人間のように、妙にくるくると波打たせながら、怪しい嬌態しなを作って、にこやかに見物席を見渡した。その時己は彼の女の顔に、更に二つの素的すてきに大きい黒い宝石が輝くのを一瞥べつした。二つの大きい黒い宝石と云うのは、それは彼の女の眼球めだまのことである。己は生れてからまだ一遍も、あんな不思議な、底の知れない愛嬌と魔力と鬼気ききとを湛たゝえて居る眼球めだまと云う物を見た事がない。なる程人に催眠術を施ほどこそうと云う女の、瞳ひとみの光は違ったものだ、と己は直すぐに感心した。事に依ったら、己は最初ちらりと彼の女に見られた時に、もう術じゅつを施されて居たのかも知れない。

「これから私わたくしは、皆さんに催眠術を御覧に入れます。………」

と、彼の女は突然、アクセントの外れた、突拍子もない鋭い声で、明瞭な日本語を囀さえずった。

「私わたくしの弟子でしに三人の黒人ニグロが居ります。私わたくしは今その弟子を呼び出して、魔術にかけて御覧ごらんに入れますが、若しもあなたがたの内うちで、弟子を信用なさらない方がありましたら、誰方どなたでも御遠慮なく、舞台へ上ってお試し下さる事を望みます。」

彼の女がこんな事をしゃべる間、己おれは時々とき〲恐くなって下を向いた。なぜと云うのに、彼の女の瞳は、いやに己の方ばかりを頻繁ひんぱんに見るような気がしたからである。

「彼処あすこに一人ひとり、十六七の小僧が居る。あの小僧なら訳なく魔術にかゝりそうだ。」―――

彼の女が斯う考えながら、己の方をちらちらと睨にらめて居るように見えたからである。

ピリ、ピリ、と、彼の女が呼子よぶこを吹くと、三人のニグロが其処そこへやって来て、見物席へお辞儀じぎをした。唇くちびるが毒草どくそうの花のように紅あかい、煙草たばこの葉のような皮膚の色を持った、恐ろしく背の高い蛮人ばんじんである。真鍮しんちゅうのボタンのべたべたと附いた、サフラン色の軍服のような服を着て、真黒な濃い髪の毛を頭のまん中から分けて居る。

メリー嬢は最初に二人の黒ん坊の手を握らせた。そうして、片手を自分の腰の上にあてがい、片手を長く二人の方へさし出して“One, two, three!”と気合いをかけると、握り合った二つの手は、黒ん坊がいくら放そうともがいても放れない。

次ぎに第三の黒ん坊の両手を、後手うしろでに組ませて、又同じような気合いをかけると、その手はさながら鎖で縛られた如く、どんなに振っても暴れても解ほどく事が出来ない。

三人の黒ん坊は、うんうんと苦しそうに呻うめきながら、一生懸命に魔術に反抗しようとして居る。

「そんな事なんか誰にでも出来らい! 詐欺さぎ! 大騙おおかたり!」

突然観客席の隅の方から、大きな声で罵しった者があった。

(二)の八

しかし、メリー嬢はたゞにやりと笑ったゞけで、構わずに演技を続けて行く。

今度は三人を椅子に腰かけさせて、片っ端から順々に催眠術をかける。一歩を前へ踏み出して左の手を自分の胴脇どうわきにあて、右手の親指をぐっと黒ん坊の鼻先へ突きつけたまゝ、

“Sleepy, sleepy, sleepy, ………”

と、三度くり返す間に、もう黒ん坊は首をぐたりと椅子の背中に乗せて、口をあーんと開いて了しまう。

「馬鹿!」とか、「詐欺!」とか云う悪罵あくばの声は、だんだん観客席の隅々から頻発されるようであった。黒ん坊が嬢の暗示にかゝって、げらげらと止め度もなく笑い出したり、めそめそと悲しそうに泣き出したりした時分には、もう見物は一面に騒ぎ立ち、舞台の音などは聞えないくらいになった。

最後に、彼の女は一人の黒ん坊に面と向って、爛々らん〱たる瞳で睨みつけながら、右手の人差指と親指とをビシッと鳴らすと、彼の五体は忽たちまち鉄棒かなぼうのように硬直してしまった。其それを縁台えんだいのように横よこたえて、彼の女は上に腰を掛けたり踏み歩いたりしたが、黒ん坊の体は折れもしなければ曲りもしない。………

その時、見物人の喧囂けんごうは絶頂に達して、罵詈ばり、嘲笑、憤怒の言葉が場内に漲みなぎり溢れた。

「引っ込め! 毛唐! 馬鹿野郎!」

「黒ん坊と馴れ合って居やぁがる! ちゃんと知ってるぞ!」

「八百長やおちょうだぞ! 分ってるぞ!」

口々くち〲に喚わめき立てる野卑やひな叫びが、雨の如く降って来るのを、舞台の正面に屹然きつぜんと立って聞いて居る嬢の顔には、微かすかに紅くれないが潮ちょうして来るようであった。

「皆さん………」

やがて、場内が少し静まるのを待って、彼の女は徐おもむろに唇くちびるを動かした。

「皆さんは今、わたくしの催眠術を信用しないと仰しゃるようです。………」

「あたり前めえよ!」

と又何処どこやらで交ぜっ返した者があった。

「私わたしと此この黒人ニグロとの間に、何か約束があるように考える。それは当り前です。皆さんがそう考えるのは普通です。しかしほんとうに約束があるか、どうか、其れは皆さんが自分で舞台へ出て、私の魔術を試ためして御覧になれば分ります。私に対して、唯今いろ〱の悪口を仰しゃったお方は、どうぞ一遍私の術を試して下さい。試してから悪口を云って下さい。………いかゞですか。どなたかありませんか。」

「さあ、どなたかありませんか。どうぞ遠慮なく上って下さい。」

と、三人の黒ん坊は彼の女の言葉の尾に附いて、こう云いながら観客席の方へ勧誘にやって来た。

中にも一人の黒ん坊は、忽たちまち二階の一等席へ現れて、見物人の間へ割って入いりながら、

「誰か此の辺に、先さっき悪口あっこうを云った者はありませんか。云った人はどうぞ試して見て下さい。」

などゝ、薄気味の悪い目を輝かして、頓狂とんきょうな声で云ったが、一人も応ずる者はなかった。

己は自分の隣に座を占めて、頻りに怒罵どばを浴びせて居た一人の酔漢が、黒ん坊の姿を見ると、首をちゞめて小さくなってしまったのに心付いた。

(二)の九

黒ん坊と云う者を、傍そばへ寄ってつく〲と観察したのは其の時が始めてゞあるが、全く気味のわるい面つきである。舞台に立って、メリー嬢の催眠術にかけられて居る時は、いかにも哀れな、弱小にして滑稽な人間のように思われたけれど、今いましも、自分の目と鼻の先へ迫って来た彼の容貌を見ると、哀れとか滑稽とか云う感じなどは少しもない。ケバケバしい洋服の外へ出て居る、松脂まつやにのような手や首の皮膚はだの色、磁器のような白い眼球がんきゅう、上端が鼻の先へ喰着くっつきそうに反そって居る厚い唇、其処そこから洩れて来る不思議な日本語、―――凡てが底知れぬ恐ろしさを以て己の魂を脅かすようであった。おまけに彼は、舞台ではいろ〱の道化役を勤めて居たのに、見物席へ現れると別人の如く真面目になって、不愛嬌ぶあいきょうを極めて居る。

「どうです、あなた舞台へ出ませんか。」

こんな事を云われて、腕を取られた見物人は、にやにやと怯えたような薄笑いをして、臀込しりごみをしてしまう。

大人おとなの方は駄目だと悟さとった黒ん坊は、やがて十五六から十七八ぐらいの子供に眼をつけて、小僧や学生を勧誘し始めた。

「あなた方、何も恐いことはありません。出て御覧、出て御覧。」

こう云って、少年の肩を撫なでながら、じっと凝視すると、大抵の子供は身動きが出来なくなって、べそ掻かき掻かき承知をする。

手分けをして廻った三人の黒奴こくどは、二十分程の間に六七人の少年を狩り出した模様である。彼等のうちの四人は、小学校の制帽を冠かぶった十三四の生徒である。あとの二人は、いずれも己と同年配の丁稚でっちのような服装をして居る。隣の酔漢の蔭かげに身を屈めて、一生懸命に姿を隠して居た己はもう大丈夫だろうと思って、ほっと安堵の胸をさすった。そうして、こわごわながらそっと顔を揚げると、意外にも黒ん坊はまだ其処そこにつッ立って居る。彼は子供を引きつれて、舞台の方へ赴おもむこうとする瞬間であったが、咄嗟とっさに己の憶病らしい瞳が、彼の視線にかち合ったのである。己は直ぐに、「もうだめだ、もう助からない。」と、思った。

案の定、彼はじーッと己を睨みつけたまゝ寄って来た。

「あなたも来る。さああなたも。」

と云って、彼は軽く顎あごをしゃくって、ぽんと己の肩を叩いた。

己はいつの間にか、すっかり覚悟がついて居た。「そんなに恐ろしい筈はない。どんな真似をされるか試してやれ。」と云うような気にもなって居た。己の胸には、慟悸どうきが激しく鳴って居たが、それは恐怖の為めよりも寧むしろ好奇心の為めであった。

七人の少年は、己を最後にして、舞台の下手へ一列に並ばせられた。己は此この時の、生れて始めて舞台と云う物へ登った感想を、記録に留めて置きたいと思うのだが、実を云うと何も彼かも夢中で、どんな事を考えたり見たりしたか、更にハッキリとした記憶がない。己はたゞ目の眩くるめくようなフット、ライトが、自分の前に炎々えん〱と燃えて居て、其の向うに、満場の見物人の無数の顔が、非常に微かに、霞かすみのかゝった空の如くちらちらしたのを覚えて居る。それから、自分の踏んで居る舞台の床が、軽気球けいききゅうのようにフラフラして、何となく自分の足元がうわついて居たのを覚えて居る。

(二)の十

それから先の事は、己には猶更よく分らない。己の頭には、まだブランデエの酔よいが残って居て、煌々こう〱たる舞台の光明を浴びると同時に、それが再び、強く激しく体内に燃えくるめくようであった。その刹那から、己の目の前には、現実の世界が消えてしまって、燦爛さんらんたる色彩と、妖艶ようえんなる女神めがみと、甘美かんびなる空気との世界ばかりが見えて居た。

何なんでも己は、メリー嬢の所へ引き出される前に、背景の黒幕の蔭かげへ呼び込まれて、例の黒ん坊から談判された事を、ぼんやりと記憶して居る。

「私あなたに此この金かねを上げる。」

と、黒ん坊はズボンのポッケットから二十銭銀貨を出しながら、己の耳元へ口をつけて唆そゝのかすように云った。

「あなた、もし催眠術にかゝらなくっても、どうか寝たふりをして下さい。その代りに此の金かねをあなたに上げる。いゝですか、分りましたか。」

「いらない、そんなものはいらない。」

こう口へ出して云ったかどうだか、兎とに角かく己は首を振って、金を断る意志を示した。

「なぜいらない?」

こう云った時の黒ん坊の眼には、正視するに堪えぬ程猛悪な、残忍な表情が漲って居た。己は白刃はくじんを胸に擬ぎせられたと同様の脅喝きょうかつに襲われた事を感じた。

「あなた馬鹿です。あの子供たちは毎日舞台へ上って、私から金かねを貰います。あなたは今日が始めてゞす。しかし此これから毎日来れば、いつでも二十銭儲もうかります。あなたはなぜいやですか。ちっともいやな事はありません。」

「いやではない。」

と、己は譫語うわごとのように云った。そうして彼が無理に握らせた二十銭銀貨を大人おとなしく懐ふところの蟇口がまぐちの中へ入れた。

「外の子供達がよく知って居ます、あなたは何でも、あの子供達のする通りにして居ればいゝのです。」

彼の口吻は、二十銭の報酬に対して、さながら己の命までも要求するが如くであった。

己はあの時、たとえ命を要求されても、きっと否いやだとは云えなかったろう。どんな厳しい、どんな苦しい命令を受けても、己には到底あの黒ん坊に反抗するだけの勇気はなかった。一言げん一句く唯々諾々いゝだく〱として、黒ん坊の御機嫌を伺って居るばかりであった。

己は二人の子供と一緒に、舞台の中央の椅子にならんだ。そうして、二人が順々じゅん〱に眠ねむらされて、自分の番が廻って来るのを待って居た。―――待って居たと云うと、己の意識はいかにもハッキリして居たようだが、その実一切さい渾沌こんとんとして、霧の中うちに包まれて居るのだった。昔、磔刑はりつけになる人間は、十字架じかの上へ乗せられると、既すでに半分正気しょうきを失って居たと云うが、己は椅子に腰こしをかけたとたんにもう、催眠術にかゝッて居た。黒ん坊から二十銭貰った義理などを考える暇いとまはなかったらしい。

(二)の十一

二人を眠らせたメリー嬢は、やがて己の椅子の前へ来て、ちょうど子供が睨にらめっくらをするように、じっと己の瞳ひとみの奥を凝視ぎょうしした。そうして、

“Sleepy, Sleepy, Sleepy”

と云いながら、変なめくばせをした。その時、己とメリー嬢との顔は、僅わずかに五寸ぐらいの間隔を置いて、向い合って居た。己は彼の女の美しい容貌が殆んど虫眼鏡で見る如く擴大されて、眼球めだまの中うちを一杯に塞ふさいでしまったのを感じた。彼の女の青い瞳ひとみは海よりも廣く深く、眼瞼まぶたの縁ふちに生はえ揃った睫毛まつげは鯨鬚くじらひげよりも長く、その周囲には鉛筆の粉こに似た黒い物で、月の暈かさのような隈取くまどりが施されて居る。遠くから望むと、いかにも水々しく若やいで居た血色のいゝ両頬には、胸をむかむかさせる濃い白粉おしろいと頬紅ほゝべにとがペンキのように塗ぬってあった。ところ〲に細こまかい縮緬皺ちりめんじわが寄って居る。鼻はなの下だの、眉毛まゆげの辺だのには、逞たくましいむく毛げが茫々ぼう〱と生えて、人間の顔のような感じはしない。殊ことに驚いたのは、彼の女の肉体や頭髪や軽羅けいらの凡すべてに鏤ちりばめて居る金銀宝玉きんぎんほうぎょくが、近くで見ると大概たいがい真鍮しんちゅうか、ブリキだか、ガラス玉で出来て居る。………

その一刹那せつな、己は彼の女に対して著しいディスイリュウジョンを感じた。………しかし、そのディスイリュウジョンは、決して彼の女を軽蔑けいべつする所以ゆえんにはならなかった。今迄は女神めがみの如く貴たっとく、人形の如く美しく見えた彼の女が、忽たちまち一変して、あの黒ん坊よりも一層恐ろしい、気味の悪い魔女まじょに見え出したゞけであった。

「魔女だ、魔女だ、此この女は全能ぜんのうの力を備えて居る悪魔あくまだ。己は此奴こいつの命令に対して、絶対的に服従しなければならない。」

そう思った時、彼の女は恰あたかも呪文じゅもんを唱となえ終って、素晴らしい見幕けんまくでぴしッと右手の親指を鳴らした。

有体ありていに云うと、己はまだ充分に催眠術にかゝっては居なかった。強いて彼の女に反抗したければ、必ずしも反抗出来ない事はなかった。にも拘らず、彼の女の態度には相手を無理やりに服従させなければ已やまない意気いきが籠こもって居た。己は、たとえ催眠術にかゝって居なくても、かゝった真似をせずには居られなかった。己は彼の女の欲する通りに、外ほかの二人の子供と同じくあんぐりと口を開いて、仰向きに椅子いすへぶっ倒れてしまった。

「いかゞでございます。見物の中から選び出した三人の子供は、この通り訳なく睡ねむってしまいました。この子供たちは、今、私の自由になったのです。鼻を摘つまゝれても耳を引ッ張られても、何も知らずにスヤ〱と睡って居ります。」

見物に向って、こんな説明をするメリー嬢の声が、己の耳にもボンヤリ聞えた。

(二)の十二

すると、黒ん坊が又こんな事を云った。

「皆さん、どうぞよく御覧下さい。メリー嬢は詐欺さぎでも騙かたりでもありません。此の通り、此処ここに居る子供たちは、すっかり魔術にかゝって居ります。睾丸きんたまを取られても知らずに居るのです。可哀かあいそうなものです。」

見物人はどっと笑った。そうして、以前の怒罵の声に引き換えて、始めて彼の女の魔力を承認したような拍手の響きが盛んに起った。

己はその時、自分は決して本当に眠っては居ない、眠った真似をして居るのだと感じつゝあった。己の耳には、メリー嬢の得々とく〱として語る説明の言葉も、黒ん坊の無礼極まる冗談も、見物人の哄笑こうしょうも、残らず聞えて居る。少くとも己は、自分が今何処どこに居て、何をしているかと云う意識だけは失わずに居る。自分が浅ましい真似をして、満座の中で辱はずかしめを受けて居る事も知って居る。見物人が声を揃えて、どっと笑いどよめいた時、

「馬鹿にして居やがる。己は眠って居やしないのだぞ。睾丸を取られても知らずに居るような頓馬とんまでは無いのだぞ。」

こう云って、己は椅子から跳はね起きて、怒鳴どなってやろうかとさえ思った。跳ね起きようとすれば、いつでも跳起はねおきられる、怒鳴ろうとすればいつでも怒鳴り得ると思った。にも拘かゝわらず、己はどうしてもそうする事が出来なかった。どうしてもそうする事の出来ないような、不思議な力が、一方に於いて己の心を抑えて居た。

己はメリー嬢に反抗し得る事を知りながら、大人しく彼の女の犠牲になって、椅子に倒れて居る事が、たまらなく愉快であった。ちょうど己の全精神は、あのワグネルのタンホイゼルを聞いた時のような、恍惚とした、得も云われぬ歓喜と昂奮とに充たされて居た。己は始めて自分が今迄夢みて居た甘い美しい想像の国へ、つれて来られたような気がした。そこには浮世うきよの時間もなく空間もなく、たゞたゞ永劫無窮えいごうむきゅうの愉悦ゆえつと光明とが溢れて居る許ばかりであった。なろう事なら、己はいつ迄もいつ迄も、メリー嬢の魔術に縛しばられたまゝ、明めい煌々こう〱たる舞台のまん中に、口をあんぐり開いて、観客の嘲笑を浴びて、昏々こん〱と眠って居たかった。………

…五月十五日晴、

昨日きのうの事があってから、己は銀座の店に居ても仕事がまるきり手につかない。それで午後から用事にかこつけて又世界館へふらふらと出かけた。そうしてふらふらと舞台へ登って、メリー嬢の魔術にかゝった。………

五月十七日 晴

今日も己は出かけて行った。昨日一日、どうしても外へ出られないので、己は帳場に控えて居ながら、メリー嬢のあの魅力のある瞳ばかりを考えて居た。今になって見ると、内うちのお嬢さんなんか、彼かの女おんなの美しさにくらべたらまるで比較にも何なんにもならない。内のお嬢さんのは、あれは人間の美しさだ。メリー嬢のは神か悪魔の美しさだ。己は何だか、メリー嬢の傍そばに居ないでは、生きて居られないような気がする。事に依ったら、彼かの女おんなにかけ合って、黒ん坊と同じ弟子の仲間へ入れて貰おうか知らん。

(二)の十三

五月廿日 雨

メリー嬢の魔術もとうとう今日きょうでおしまいである。新聞で見ると、今日かぎり世界館の興行を終って、これから神戸を巡業して、上海シャンハイの方へ出かけるのだそうである。己は何だか居ても立っても溜たまらないような心地がする。せめて別れを惜しむ為めに、今日は何とか都合して浅草へ行きたいのだが、生憎表へ出る用事がない。おまけに朝から雨がビショビショ降って居る。何と云う悲しい、恨うらめしい日であろう。

今夜か明日のうちには、メリー嬢はもう東京に居なくなるのだ。そうして、あと一週間か二週間の後のちには、此この日本から遠く上海へ去ってしまうのだ。上海から何処どこへ行くか、恐らく彼の女おんなと黒ん坊とは、世界の果てまでも怪しい魔術を提ひっさげて流浪るろうして行く事であろう。己はもう、生きて再び恋いしい彼かの女じょと黒ん坊の姿を見る事は出来ないだろう。

世界館の舞台の上で、彼の女の犠牲となって暮らした過去の四五日は、恐らく己の一生のうちでの、最も貴い、最も楽しい時間であったろう。己は先さっき、「恋いしい彼かの女じょ」と書いたが、正直を云うと己の彼の女おんなに対する感情は普通の意味の恋愛でないかも知れない。それは恋愛と云うよりも、もっと激はげしい、もっと神秘しんぴな、憧憬どうけいの情じょうである。己は今迄、ぼんやりと自分の脳裡のうりに描いて居た、「詩し」だとか、「美び」だとか、「藝術げいじゅつ」だとか云うものが、彼の女おんなに具体化されて居たのを認めたのである。年ねんが年中ねんじゅう己の頭に浮かんでいる不思議な幻まぼろしがメリー嬢となって現れたように感じたのである。メリー嬢の持って居る「美び」は、己が明け暮れ憧あこがれて居るものゝ凡すべてゞあったのである。

彼の女の魔術にかけられて椅子に眠って居る時、己の魂たましいはたしかに微妙な幸福な天国へつれて行かれた。其れは酒よりも音楽よりも、ずっと強烈に己の心を陶酔とうすいさせた。己の精神に歓楽極まる絶対境ぜったいきょうを味わせた。………

五月三十日 雨

あゝ、つまらない、つまらない。己は何とかして、もう一度メリー嬢に会いたい。メリー嬢に会えない迄も、メリー嬢の魔術にかけられた時のような光景と快感とにめぐり会いたい。詩を作ったり、絵を畫いたりする事の出来ない己は、せめてもそう云う方面で、己の藝術慾を満足させたい。………今日の三面記事を見たら、三枝光子さいぐさみつこと云う二十はたちばかりの不良少女が、十五六歳の不良少年の親分になって、盛んに悪事を働いて居る記事が出て居る。己も一番、店を逃げ出して、その少女の子分に入れて貰おうか知らん。………(完)

底本 / Source edition

底本:「潤一郎ラビリンス※[#ローマ数字5、1-13-25]――少年の王国」中公文庫、中央公論新社
1998(平成10)年9月18日発行
2007(平成19)年5月30日再版発行
底本の親本:「季刊文学 第一巻第二号」岩波書店
1990(平成2)年4月10日
初出:「福岡日日新聞」
1917(大正6)年3月4日~4月11日
※「藝術」と「芸術」、「疑う」と「疑がう」、「模倣」と「摸倣」、「智慧」と「智恵」、「以て」と「以って」、「起こった」と「起った」、「或は」と「或いは」、「光」と「光り」、「成る程」と「なる程」、「跳ね起き」と「跳起き」、「引っ張られ」と「引ッ張られ」の混在は、底本通りです。
※「私」に対するルビの「わたくし」と「わたし」、「大分」に対するルビの「だいぶん」と「だいぶ」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:しりかげる
校正:岡村和彦
2023年7月2日作成
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TEI
/works/057344_001383/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/057344_001383/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/057344_001383/

谷崎 潤一郎「小僧の夢」(新字新仮名)、底本『潤一郎ラビリンスⅤ――少年の王国』中公文庫、中央公論新社、1998年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057344_001383, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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