Soranoha

白菊

しらぎく

伊藤 左千夫

茅野停車場の十時五十分発上りに間に合うようにと、巌いわおの温泉を出たのは朝の七時であった。海抜約四千尺以上の山中はほとんど初冬の光景である。岩角に隠れた河岸かしの紅葉も残り少なく、千樫ちがしと予とふたりは霜深き岨路そばみちを急いだ。顧みると温泉の外湯の煙は濛々もうもうと軒を包んでたち騰のぼってる。暗黒な大巌石がいくつとなく聳立しょうりつせるような、八ヶ岳の一隅から太陽が一間半ばかり登ってる。予らふたりは霜柱の山路を、話しながらも急いで下るのである。木蘇きその御嶽山おんたけさんが、その角々しき峰に白雪を戴いただいて、青ぎった空に美しい。近くは釜無山それに連なる甲斐の駒ヶ岳等いかにも深黒な威厳ある山容である。

予らふたりはようやく一団の草原を過ぎて、麓ふもとを見渡した時、初めて意外な光景を展望した。

諏訪一郡の低地は白雲はくうん密塞みっさいして、あたかも白波はくは澎沛ほうはいたる大湖水であった。急ぎに急ぐ予らもしばらくは諦視ていしせざるを得ない。路傍の石によろよろと咲く小白花はすなわち霜に痛める山菊である。京で見る白菊は貴人の感じなれど、山路の白菊は素朴にしてかえって気韻きいんが高い。白雲の大湖水を瞰下みおろしてこの山菊を折る。ふたりは山を出るのが厭になった。

底本 / Source edition

底本:「長野県文学全集 〔第※[#ローマ数字2、1-13-22]期/随筆・紀行・日記編〕 第2巻 明治編〈※[#ローマ数字2、1-13-22]〉」郷土出版社
1989(平成元)年11月18日発行
底本の親本:「左千夫全集 第二卷」岩波書店
1976(昭和51)年11月25日発行
初出:「國民新聞」國民新聞社
1908(明治41)年11月3日
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
※初出時の署名は「左千夫」です。
入力:高瀬竜一
校正:きりんの手紙
2020年6月27日作成
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リリース / Release
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書誌 / Bibliography
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伊藤 左千夫「白菊」(新字新仮名)、底本『長野県文学全集 〔第Ⅱ期/随筆・紀行・日記編〕 第2巻 明治編〈Ⅱ〉』郷土出版社、1989年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057334_000058, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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