## 一

<ruby><rb>便室</rb><rt>べんしつ</rt></ruby>（<ruby><rb>老中</rb><rt>ろうじゅう</rt></ruby>が、城内で、親しい者と話をする小部屋）の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を開けると

「急用で御座りますかな」

と、口早にいって、<ruby><rb>越前守</rb><rt>えちぜんのかみ</rt></ruby>は、松平<ruby><rb>伊豆守信祝</rb><rt>いずのかみのぶとき</rt></ruby>（信綱の<ruby><rb>曾孫</rb><rt>そうそん</rt></ruby>）の前へ坐った。

「急用と申すほどで無いが――<ruby><rb>天一坊</rb><rt>てんいちぼう</rt></ruby>と申す者の噂を聞いたか？」

と、信祝は、<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>で微笑しながら、じっと越前守の眼をみた。越前守は、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くと

「何か、<ruby><rb>所司代</rb><rt>しょしだい</rt></ruby>より申越して参りましたか」

奥坊主が、廊下で

「お茶をもって参りました」

と、大声を出した。越前守が、手を叩くと、襖を開けて

「お寒う御座ります」

と、<ruby><rb>御叩頭</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>をして、二人の前へ、茶を置くと、<ruby><rb>淑</rb><rt>しとや</rt></ruby>かに出て行った。茶室好みの小部屋へは、もう夜が、<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>へ入っていて、<ruby><rb>沁々</rb><rt>しみじみ</rt></ruby>と冷たさが<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>んだ。

「<ruby><rb>御落胤</rb><rt>ごらくいん</rt></ruby>と称して、確かな証拠品も所持致す<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>、今、<ruby><rb>御上</rb><rt>おかみ</rt></ruby>へ、<ruby><rb>御覚</rb><rt>おおぼえ</rt></ruby>が御座りますか、と聞くと――」

信祝は、高声に、笑うと

「お上もあれで、若い時分には、<ruby><rb>中々</rb><rt>なかなか</rt></ruby><ruby><rb>御</rb><rt>お</rt></ruby>たっ<ruby><rb>者</rb><rt>しゃ</rt></ruby>だったのだのう。まだ、もう二人いるはずだが、と、そう現われて来られては<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らぬ。そこで、――もし、正真の御落胤であった場合には、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う処置してよいか」

信祝は、ここで言葉を切ると、じっと、唇を曲げながら、越前を見た。越前守は、黙っていた。信祝は、茶碗の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を置くと、熱い茶を<ruby><rb>口許</rb><rt>くちもと</rt></ruby>までもって行って

「<ruby><rb>偽者</rb><rt>にせもの</rt></ruby>と<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かになれば、申し分は無い。万一御落胤ときまった折には――何と申すか」

一口茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>ると

「大義<ruby><rb>親</rb><rt>しん</rt></ruby>を<ruby><rb>滅</rb><rt>めっ</rt></ruby>すとでもいうか、徳川家のために、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>、本物であろうとも、<ruby><rb>贋者</rb><rt>にせもの</rt></ruby>として処置しなければならぬ」

信祝は、茶を下へ置いて、朱塗火鉢を撫でながら

「その訳は――<ruby><rb>下世話</rb><rt>げせわ</rt></ruby>にいう、<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>より育ち、二十を越すまで、<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>卑しく育った者を、この城中へ入れることは、いろいろと<ruby><rb>弊</rb><rt>へい</rt></ruby>がある。二つには、この周囲には、浪人者の<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>な<ruby><rb>徒輩</rb><rt>とはい</rt></ruby>がいるらしい。この者の処分に万一口出しでもあって、そのままに附けておくと<ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>ると、<ruby><rb>患</rb><rt>わずら</rt></ruby>いの種を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>くことになる。御当家<ruby><rb>万代</rb><rt>ばんだい</rt></ruby>のためには、<ruby><rb>忠直</rb><rt>ただなお</rt></ruby>、<ruby><rb>忠長</rb><rt>ただなが</rt></ruby>、<ruby><rb>忠輝</rb><rt>ただてる</rt></ruby>と、いろいろの例もあり、この事は、お上も、よろしく取計らうようとの御言葉もあり、よし、本物であろうとも、贋者として、越前――処分してもらいたい、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うじゃな」

越前守は、<ruby><rb>俯</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたままであった。

「不和、不穏の<ruby><rb>基</rb><rt>もとい</rt></ruby>に相成るから、<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>であっても、厳重に処置する方策をもって臨んでもらい<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>い――と、いう相談じゃ」

「よく判りました」

と、越前守は、顔を上げた。

「とくと、<ruby><rb>勘考</rb><rt>かんこう</rt></ruby><ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>りますが、<ruby><rb>府内</rb><rt>ふない</rt></ruby>へ到着するまでには、<ruby><rb>未</rb><rt>ま</rt></ruby>だ未だ<ruby><rb>余日</rb><rt>よじつ</rt></ruby>もあること。到着の上にて――」

「それはそうじゃが、今申した事を忘れぬように――到着致したなら、すぐ<ruby><rb>召捕</rb><rt>めしと</rt></ruby>っての」

「とくと勘考致しまする」

越前守が

（とくと、勘考致しまする）

と、いったなら、その上、誰が、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うそれ以上の奥をいわせようとしても、いうものではなかった。越前守は、一人の<ruby><rb>勘定方</rb><rt>かんじょうがた</rt></ruby>を撰択する時に

「百を二つに割ると、いくらだ」

と、聞いた。五十――明かすぎる五十であるが、その人は、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>をもってきて、百と置き、二と置いて、一々<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>いてから

「五十で御座ります」

と、答えた。越前、微笑して

「よろしい、勘定方は、そこまで、念を入れなければいけない。よろしい」

と、<ruby><rb>称</rb><rt>ほ</rt></ruby>めたが、その念入りの越前守が

「とくと、勘考致します」

と、二度までいったから、信祝は

「頼む」

と、いって、余談に移った。

## 二

低い<ruby><rb>灰空</rb><rt>はいぞら</rt></ruby>だ――雪になるか？　雨になるか？　<ruby><rb>沁々</rb><rt>しみじみ</rt></ruby>と冷たさの<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>む<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>だ。<ruby><rb>信祝</rb><rt>のぶとき</rt></ruby>は、<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>した<ruby><rb>黒漆</rb><rt>くろうるし</rt></ruby>の大火鉢へかけた金網の上へ、背中を<ruby><rb>丸</rb><rt>まろ</rt></ruby>めながら、唇を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めたり、眼を閉じたり――それから<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をしたり――咳は、<ruby><rb>寂莫</rb><rt>せきばく</rt></ruby>とした<ruby><rb>小書院</rb><rt>こしょいん</rt></ruby>一杯に反響して、けたたましかった。

「<ruby><rb>阪井右京</rb><rt>さかいうきょう</rt></ruby>、只今、立戻りまして御座りますが――」

と、廊下で足音が止まると、障子の腰の所で、澄んだ声がした。信祝は、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>を起すと

「これへ」

と、いった。

「<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>をもて」

と、去って行く足音へ声をかけると、炭火を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>き分けて、坐り直した。夜が、薄くかかってきた障子へ、灯の影が動いて、足音が近づくと

「阪井右京めに御座ります」

「戻ったか？　許す」

と、信祝は、微笑した。灯が、障子に近々と揺れると、右京の背後から、二人の腰元が、<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>を<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げて、入ってきた。その<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の下を右京は、二、三尺<ruby><rb>膝行</rb><rt>しっこう</rt></ruby>すると、平伏して

「つつがなき御尊体を拝し――」

と、いいかけると、信祝は、手を振って

「挨拶はよい。ここへまいれ」

と、いうと、燭台を置いた女中へ、眼で、早く去るように合図をした。

「見苦しき<ruby><rb>装</rb><rt>なり</rt></ruby>にて、<ruby><rb>御眼</rb><rt>おめ</rt></ruby>を<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>しまする」

「<ruby><rb>正</rb><rt>しょう</rt></ruby>か？　<ruby><rb>贋</rb><rt>にせ</rt></ruby>か？」

と、両手を膝へ置いて、俯いている右京へ問いかけた。

「御落胤に相違御座りませぬ」

信祝は、右京の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>をじっと<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めながら<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く黙っていた。

「越前から、誰か、調べにまいったような形跡はなかったか？」

「越前から？――と、<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せられますと」

「<ruby><rb>忠相</rb><rt>ただすけ</rt></ruby>じゃ」

「はっ、越前守からは、一向に、<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だ、そのようの様子も見受けませぬ」

「うむ――」

信祝は、火箸を灰へ突立てて押えながら

「残りなく、調べたのう」

「はっ、村役人、庄屋、近くの者共、<ruby><rb>郡</rb><rt>こおり</rt></ruby>奉行所へもまいりまして御座りまする」

と、懐中から、村役人、郡奉行<ruby><rb>在判</rb><rt>ざいはん</rt></ruby>の天一坊の身許についての、調査書を出すと、

「御覧下されまするよう」

と、前へ置いた。信祝は、燭台の方へ向くと、大判<ruby><rb>美濃紙</rb><rt>みのがみ</rt></ruby>を薄く<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>った書類を眺めて

「ふむ――存じ寄り申さず、が、多いの」

「はっ、<ruby><rb>澤</rb><rt>さわ</rt></ruby>の<ruby><rb>井</rb><rt>い</rt></ruby>と申される<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>も、その母親も、十数年前に死去致し、郡奉行、村役人とも、当時在勤の者がおりませず、ただ、近所の百姓共の申し分には、確かに、御落胤らしき<ruby><rb>小児</rb><rt>しょうに</rt></ruby>が、<ruby><rb>感応院</rb><rt>かんのういん</rt></ruby>におりましたが、いつの間にかいなくなったと、申すばかりにて、皆々天一坊を御落胤と心得ておりまする」

信祝は、書類を置くと

「大儀であった――<ruby><rb>近々</rb><rt>ちかぢか</rt></ruby>、もう一度行ってもらいたい」

「はっ」

「寒かったであろう、道中は――」

「<ruby><rb>左</rb><rt>さ</rt></ruby>ほどでも御座りませぬ。<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜん</rt></ruby>の御好物、<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>を持ち戻りまして御座りますが――」

「うむ、<ruby><rb>珍重</rb><rt>ちんちょう</rt></ruby>じゃの、この冬にない初物じゃ、ゆっくり休むがよい」

右京の去った後で、信祝は、もう一度書類を読み直したが、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の間から、革帯のかかった手箱を取ると、<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>を開けて、下の方へ<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しまい</rt></ruby>込んでしまった。

## 三

「<ruby><rb>伊賀</rb><rt>いが</rt></ruby>、よかったなあ」

と、越前守を送り出して、赤川<ruby><rb>大膳</rb><rt>だいぜん</rt></ruby>と、部屋へ入ってくると、天一坊は、しとねの上へ立ったまま、感嘆的に、だが、低い声をかけた。<ruby><rb>山内伊賀亮</rb><rt>やまのうちいがのすけ</rt></ruby>は、伏目のまま、黙って自分の座へ坐った。天一坊が坐りかけて、何かいおうとするのを眼で制していると、二人の女中が<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り足に入ってきて、眼も上げずに、越前守の坐っていた<ruby><rb>座布団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>をもって行った。天一坊の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にいた<ruby><rb>常楽院</rb><rt>じょうらくいん</rt></ruby>が

「いや、山内殿の智弁には、今更ながら、つくづく恐れ入った。<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>の大岡越前守も、<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>もなく、尻っ尾を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いて<ruby><rb>引退</rb><rt>ひきさが</rt></ruby>って行ったがいや、感服感服」

伊賀は、黙って、両腕を組んだまま俯いていたが

「いいや――」

と、低く<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くと、首を振った。

「何か――」

と、大膳が、<ruby><rb>三宝</rb><rt>さんぼう</rt></ruby>の上の<ruby><rb>勝栗</rb><rt>かちぐり</rt></ruby>をつまみながら、伊賀の顔を覗くと

「越前の<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>が判らぬ」

「肚とは？」

「<ruby><rb>飴色</rb><rt>あめいろ</rt></ruby><ruby><rb>網代</rb><rt>あじろ</rt></ruby>の乗物へ乗った訳は？、とか、<ruby><rb>紫地</rb><rt>むらさきじ</rt></ruby>、<ruby><rb>花葵</rb><rt>はなあおい</rt></ruby>の<ruby><rb>定紋幕</rb><rt>じょうもんまく</rt></ruby>を打った訳は？、とか――それほどのことを、わざわざ聞くような越前ではない。<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>は、ちゃんと心得ていて聞いたのだが、聞かれると、返答せん訳には参らぬ。<ruby><rb>拙者</rb><rt>せっしゃ</rt></ruby>が答えると、じっと、拙者の顔を、ちらっと、天一坊殿の顔を――」

「左様、拙者へも、じろりと、薄気味の悪い眼を向けたが――」

「越前は、よく人相を見るというでないかのう」

と、常楽院が、<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>を<ruby><rb>捲</rb><rt>まく</rt></ruby>り上げて、<ruby><rb>長煙管</rb><rt>ながきせる</rt></ruby>へ<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をつめながら、口を出した。

「人相はともかく、問答に事よせて、<ruby><rb>顔色</rb><rt>がんしょく</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>いにまいった。御落胤か、<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>り者か、問答しながら、顔色を見ようと――うまうま<ruby><rb>篏</rb><rt>はま</rt></ruby>った」

と、伊賀亮は、俯いて、眼を閉じた、越前守が、伊賀亮へ

「飴色網代の<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>へ、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>、許しもなく御乗り召さる」

と、いった口調は、返答によっては、<ruby><rb>差置</rb><rt>さしお</rt></ruby>かぬぞ、という鋭さが含まれていた。人々はそれを伊賀亮が、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>くか？、この問答が一<ruby><rb>期</rb><rt>ご</rt></ruby>の浮沈であると、心臓を<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>がせながら、血を冷たくさせながら、全身的の緊張で、聞入ったが――天一坊が、御落胤ならば、飴色であろうと、三つ葉葵であろうと、そんな事は、<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>の話であった。

伊賀亮は、十分にそれを承知していたが、そう<ruby><rb>詰問</rb><rt>きつもん</rt></ruby>されて、答えない訳には行かなかった。だが、答えて、明快に説明していると、天一坊も、大膳も、常楽院も、少し顔を赤くし、全身を固くし、こめかみをふくらせて、微笑したり、目を見合せたり――そして、越前守は、伊賀亮の話を聞くよりも、四人の顔色の変化を、じっと伺っている方が多かった。少くも、伊賀亮には、越前のそうした態度がよく判っていた。

だが、越前が、皆の<ruby><rb>顔色</rb><rt>かおいろ</rt></ruby>を見ているから、表情を変えぬようにとはいえなかったし、中座して、それを一同に伝えて、越前守の眼を警戒させるには、既に遅くなりすぎていた。天一坊が、<ruby><rb>真正</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>の落胤であるという事に、疑いの無い以上、そういう問答によって、顔色を変える必要は無かったが、人々は――天一坊も、<ruby><rb>附人</rb><rt>つけびと</rt></ruby>も、越前を名<ruby><rb>判官</rb><rt>はんがん</rt></ruby>であると信じ、その証拠物の調べにより、この問答の<ruby><rb>巧拙</rb><rt>こうせつ</rt></ruby>により、もしかしたなら、何が<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う成るか、判らぬと考えていただけに、伊賀亮との一問一答には、汗を出したのであった。

「ふむ」

と、大膳は、かちかち音立てて<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んでいた<ruby><rb>干栗</rb><rt>ほしぐり</rt></ruby>を、頬の中へ<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>いながら

「<ruby><rb>成程</rb><rt>なるほど</rt></ruby>――」

「余を贋者にしようというのか」

と、天一坊は、口早に、額を蒼白くしながら、叫んだ。伊賀亮は、俯いたまま、首を振って

「そうでもない」

「そうでも無いと？――」

伊賀は黙っていた。一座の人々は、不安な空気に圧迫されて、いろいろな幻想を、急速に廻転させながら、伊賀の広い額をじっと<ruby><rb>凝視</rb><rt>みつ</rt></ruby>めていた。

## 四

<ruby><rb>淡彩</rb><rt>たんさい</rt></ruby>で、<ruby><rb>雁</rb><rt>かり</rt></ruby>を描いた老中の<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りの間にいた<ruby><rb>信祝</rb><rt>のぶとき</rt></ruby>は、越前が登城したと聞くと

「便室へ」

と、奥坊主にいって、立ち上りながら、<ruby><rb>稲葉佐渡守</rb><rt>いなばさどのかみ</rt></ruby>へ

「頑固者じゃのう」

と、微笑すると、両手を突出し、腰を張って、延びをしながら

「<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うれ」

といって、廊下へ出た。うんげん<ruby><rb>縁</rb><rt>べり</rt></ruby>の<ruby><rb>畳敷</rb><rt>たたみじき</rt></ruby>で、天井の高い広廊下は、凍った風で寒かった。信祝は、急ぎ足に、一つ角を曲ると

「御待ちで御座ります」

と、薄暗い廊下に、坊主がうずくまって、平伏していた。信祝は、<ruby><rb>狩野正信</rb><rt>かのうまさのぶ</rt></ruby>の宝船の茶がけのかかっている床の間を背に

「存外、早かったのう」

と、坐った。

「取調べて参りました」

「ふむ、そして？」

「<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく、御落胤に相違御座りませぬ」

信祝は黙って、越前守の襟元へ眼をやっていた。

「御墨附、御短刀とも、正真の上は、御落胤と認めるより<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に、御座りませぬ。しかし、紀州においての取調べによって、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に相成りまするか！　早速人を<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わす所存で御座りますが、<ruby><rb>生国</rb><rt>しょうこく</rt></ruby>、<ruby><rb>生地</rb><rt>しょうち</rt></ruby>において、御落胤で無いという証拠の<ruby><rb>挙</rb><rt>あが</rt></ruby>らぬ限り、偽者として処置致すことは、越前の役儀の<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>として、出来兼ねまする」

「しかし――」

と、信祝は、おっかぶせて

「先ごろ申した通り大の虫を殺して、小の虫を生かす<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>だのう。あの附人の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>には山内伊賀亮などと申す、中々の<ruby><rb>強</rb><rt>したた</rt></ruby>か者がいるとの事だが――」

と、越前の顔をみた。

「中々、<ruby><rb>天晴</rb><rt>あっぱ</rt></ruby>れな者で御座ります――」

「司政者として、得体の知れぬ者を、よし正真の証拠品があろうとも、御当家の<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>に――」

「いいや、正真の証拠品が有らば、得体は知れておりまする」

「得体がよし知れておっても、この間申した<ruby><rb>如</rb><rt>ごと</rt></ruby>く――」

「なれど、司政の根本は、物を正すに御座ります。正しきを正しきとし、曲れるを曲れるとし――」

「それは、よく存じておる。越前が、判官として、そう申すのは、重々、信祝も<ruby><rb>解</rb><rt>かい</rt></ruby>せる。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>し天一坊の事は、重大で、時としては、司政の都合にて、法を<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げる事も――」

「いいや、法を枉げてよい司政は御座りませぬ。正しき証拠のある者を、罪にする事は、司政の根本を<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>す事で御座りまする。もし<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>ってとの<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せならば、越前に代って、南町奉行を余人に申しつけ下され<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>く、越前が、職におりまする限り、御老中の仰せ、<ruby><rb>公方</rb><rt>くぼう</rt></ruby>様の仰せで御座りましょうとも、罪無き者を罰する事はできませぬ」

信祝は、不機嫌となって、唇を<ruby><rb>痙攣</rb><rt>けいれん</rt></ruby>させていた。

「然し――未だ、紀州の調べも済まず、万事は、その上のことで御座りまするが、越前が職にある限り、法を方便には用いませぬ。このことが、もし庶民に判りました<ruby><rb>節</rb><rt>せつ</rt></ruby>は、天一坊を御城内へ入れましたことよりも、人心には危機が参りまする。人民が、司政者に依頼するは、司政者が法を枉げず、法は司政者によって<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めないからで御座りまして、罪なき者を罰したとあっては、一国の法も、司政者の権威も、その時より地に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちまする。天下の人心が、御司配を頼まなくなりまするのと、天一坊が、ここへ入りまするのと、<ruby><rb>何</rb><rt>いず</rt></ruby>れが重大か――」

「それは、判っておるがの。そっと処分して<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなければ――」

「判官としての越前の良心が許しませぬ。判官に、法を守るの良心が無ければ、法が乱れ、法の乱れは、政治を乱す<ruby><rb>基</rb><rt>もとい</rt></ruby>で御座りまする。判官は、洩れなければよい、と申すような心掛では勤まりませぬ。壁にも耳、<ruby><rb>徳利</rb><rt>とくり</rt></ruby>にも口と、<ruby><rb>寸分</rb><rt>すんぶん</rt></ruby>、間違いのないことを、法に照らして処断するのが<ruby><rb>務</rb><rt>つとめ</rt></ruby>に御座りまする」

「紀州へは、すぐ<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>を出すか？」

「取急ぎ打ち立たせまする」

「それでは、万事その上と致そう。いや――越前の――」

と、信祝は、朗らかに笑って

「そうなくてはならぬ」

と、幾度も頷いた。

「恐れ入りまする」

「世間で、評判のよいのも<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もだのう、とてもかなわぬわい、越前、あははは」

と、信祝は、便室一杯に笑った。

## 五

松平信祝からの火急の使者が来たので、紀州家<ruby><rb>附家老</rb><rt>つけがろう</rt></ruby>、安藤<ruby><rb>帯刀</rb><rt>たてわき</rt></ruby>は、自慢の<ruby><rb>南紀重国</rb><rt>なんきしげくに</rt></ruby>の脇差と、蜜柑<ruby><rb>一籠</rb><rt>ひとかご</rt></ruby>とを、家来に持たせて、<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を急がせてきた。

信祝は、寒さに、鼻の頭を赤くしながら入ってきた帯刀をみると

「済まぬ」

と、軽く、御辞儀をした。

「大事かな」

と、六十をすぎた帯刀は、すぐ火鉢を引寄せると、口早に聞いた。

「手を、お借りしたい」

「さあさあ、いくらなりと」

「天一坊の一件じゃが――」

と、声を落すと

「越前が――」

と、大岡越前守の意見を話して

「それで、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の下役が、紀州へ行かぬ内に、何か、贋者だという証拠品を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えておいて、使が行ったなら、それを<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>ませて戻してもらいたいが、<ruby><rb>心</rb><rt>き</rt></ruby>の利いた、口の固い者を一人、二人――」

「うむ、御安い御用」

「そこで――」

と、信祝は、阪井右京の持って戻った書類を出して

「郡奉行に、村役人は、これは頭ごなしに、<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby><ruby><rb>不行届</rb><rt>ふゆきとどき</rt></ruby>、天一坊は贋者で無いか、こういう証拠があるのに、前任者へ責任を<ruby><rb>転嫁</rb><rt>てんか</rt></ruby>させるとは、不都合<ruby><rb>千万</rb><rt>せんばん</rt></ruby>と、叱ってもらえば、一も二もあるまい」

「<ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>る<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>」

「庄屋、百姓の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>には、<ruby><rb>流言</rb><rt>りゅうげん</rt></ruby>をふり<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いてもらえば、無智な<ruby><rb>徒輩</rb><rt>やから</rt></ruby>は、手もないて」

「うむ。万事承引、即刻、打ち立たせよう、越前の手とて、よも、今夜には、立つまい。これから戻って、早馬ならば四日<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>、町奉行<ruby><rb>手附</rb><rt>てつけ</rt></ruby>では、十日はかかろう、よしっ」

と、いうと、帯刀は立ち上って

「重国が、一本<ruby><rb>出来</rb><rt>しゅったい</rt></ruby>してまいった。御気に召さば、御<ruby><rb>差料</rb><rt>さしりょう</rt></ruby>に」

と、挨拶すると、老人は、信祝が合図の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を引いて、鈴を鳴らすのも待たないで、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>をあけた。<ruby><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby>へだたった所にいた侍が、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て立つと

「御帰館に御座りますか」

と、御辞儀をした。

## 六

「これは、御奉行様」

と、庄屋は、炉へ投出していた脚を、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て引込めると、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>を合せて、坐り直した。下男は、牛小屋へ引込むし、子供は、母親に引張られて、<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>しながら、<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>へ逃込んでしまった。庄屋は、<ruby><rb>不意</rb><rt>ふい</rt></ruby>の<ruby><rb>郡</rb><rt>こおり</rt></ruby>奉行の訪問に、心臓をしめつけられながら、炉べりで平伏した。

「少し、尋ねたい事がある」

「はい、はい」

と、両手を突いたまま平伏してしまっていた。

「<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>らしてもらうぞ」

「はっ」

と、いった庄屋は、<ruby><rb>洗足</rb><rt>すすぎ</rt></ruby>の水を取らせようと、家のものを見廻したが、誰もいないので

「これはこれは」

と、いって両手を突出している内に、郡奉行は上ってしまった。

「<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>に寒いのう」

と炉へ手をかざしていると、一人の侍が入ってきた。奉行は振向くと

「さ、こちらへ、むさい所で――」

と、いった。庄屋は

「誰か、早くお茶をもって来んかい」

と、怒り声で叫んだ。

「<ruby><rb>宇兵衛</rb><rt>うへえ</rt></ruby>、これだが――」

と、一人の侍のもってきた<ruby><rb>包</rb><rt>つつみ</rt></ruby>をあけると郡奉行は、<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>を取出した。

「はい、はい」

と、庄屋は、両手を突いた。二人の侍の背後を、庄屋の女房が、両手を膝まで下げながら、おずおずと通ると

「早うせんかい、馬鹿が」

と、庄屋が叱った。

「見覚えがあるか」

宇兵衛は、首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>けて、両手を膝へ置いてじっと菅笠を見ていると

「それ、<ruby><rb>宝沢</rb><rt>ほうたく</rt></ruby>と、そこに書いてあるの」

「はい」

「宝沢とは、誰の事か存じておるか」

「宝沢？」

と、宇兵衛は、首を傾けた。

「宝沢？――はてな、宝沢さん」

「感応院の小僧の宝沢を存じておるか」

「あっ」

と、宇兵衛は、右手を宙に上げると、笑顔になって

「あの、天一坊様」

「うむ」

「そうそう、あの方は、幼な名が宝沢、これは、あの天一坊様の」

「所で、あれが、とんだ贋者での」

「ええっ」

「江戸<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>から、取調べの役人がまいられて、この証拠の菅笠を御見付けになったが、それ――この黒い所は血じゃ」

宇兵衛は、頷いて、口を開けたままであった。

「宝沢を殺しておいて、御<ruby><rb>墨附</rb><rt>すみつき</rt></ruby>と、短刀とを奪取って、まんまと、贋者め、天一坊に成りすましておるのじゃ」

「はあ――」

と、宇兵衛は、血の跡だという黒い斑点と破れた所とを眺めていた。

「そこで、これは、宝沢の書いた字にちがいないと思うが、どうじゃ」

「はいはい、左様で御座いましょう」

と、宇兵衛が、首を曲げて覗いていると、一人の侍が

「偽りならば、偽りと申せ」

と鋭くいった。

「いいえ、<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく、宝沢さんの<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>で御座います、はい」

「偽りであるまいの」

「いいえ、<ruby><rb>貴下</rb><rt>あなた</rt></ruby>様――」

と、宇兵衛は、眉を歪めた。

「村方の者共、天一坊のことを、いろいろと<ruby><rb>取沙汰</rb><rt>とりざた</rt></ruby>致しておるが、並の噂とは、ことかわり、<ruby><rb>迂闊</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に、宝沢が天一坊などと申すと、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めに遭うぞ」

宇兵衛は、膝の上へ頭をすりつけるように<ruby><rb>叩頭</rb><rt>おじぎ</rt></ruby>した。

## 七

大岡越前守の手の紀州調べの<ruby><rb>使</rb><rt>つかい</rt></ruby>として、同心<ruby><rb>平田三五郎</rb><rt>ひらたさんごろう</rt></ruby>、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>一人の者が、平沢村へきた。そして、第一番に、<ruby><rb>郡</rb><rt>こおり</rt></ruby>奉行の所へくると

「重々、お詫び申上げねばなりませぬ」

と、郡奉行は、二人を客間へ案内すると、すぐにいった。

「お詫びとは？」

「以前、御老中松平<ruby><rb>信祝</rb><rt>のぶとき</rt></ruby>様より、御取調べの御使の参られました<ruby><rb>節</rb><rt>せつ</rt></ruby>、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわか</rt></ruby>のこととて、取調べも<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>らず、と、申しまするは、<ruby><rb>拙者</rb><rt>せっしゃ</rt></ruby>が当地へ赴任仕らぬ前のこととて、一向に何事も存じ申さず、その<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>を申上げておきました所、紀州家にてもいろいろの御詮議あり、先日、御落胤に疑い無き宝沢と申される方は、実は、何者のためにか、ここを去る三里余り、<ruby><rb>四方形</rb><rt>しほうかた</rt></ruby>峠の辻堂にて御殺害にお遭いなされたよし、その殺害者が、当時の天一坊と思われまするが――」

「して、その――証拠は？」

「ただ一つ。宝沢殿の<ruby><rb>御冠</rb><rt>おかぶ</rt></ruby>りなされた菅笠、只今これへ持参致させまする」

女中が、<ruby><rb>酒肴</rb><rt>しゅこう</rt></ruby>を運んできた。

「まず、<ruby><rb>一献</rb><rt>いっこん</rt></ruby>」

「いや、その儀は、取調べ確定の上にて」

と、三五郎は、強硬な口調でいった。郡奉行は、手を叩いて、下役を呼ぶと

「一件の菅笠をもて」

と命じた。土蔵へ<ruby><rb>仕舞</rb><rt>しま</rt></ruby>ってあった菅笠が二人の前へ置かれた。古びた、雨うたしになった、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かに、宝沢同行<ruby><rb>二人</rb><rt>ににん</rt></ruby>と読める、所々裂け目のついた菅笠であった。

「なるほど」

と、三五郎は、障子の方へ笠をやって、じっと眺めながら

「血で御座ろうな」

「左様、<ruby><rb>無残</rb><rt>むざん</rt></ruby>にも、頭から、ばっさり浴びせかけたと見えまする」

「御下役を一人、その辻堂まで、拝借を御願い致したい」

「かしこまりまして御座る。三里と申しても四里近く御座ろうが。道は<ruby><rb>左程</rb><rt>さほど</rt></ruby>でも――」

と、手を叩くと、案内を申しつけた。

三五郎は、それから、庄屋を、村方を、感応院を調べた。人々は宝沢という可愛い子供がいたが、いつの間にかいなくなった。多分殺されたらしく、今の天一坊は、贋者だ、多分宝沢を殺して、御墨附と、短刀とを奪取って、図々しく、御落胤と称しているのだろうと、噂した。

三五郎は、証拠品として、菅笠を、それから、人々からの聴取書を持って、江戸へ引返してきた。

## 八

<ruby><rb>数寄屋</rb><rt>すきや</rt></ruby>橋の<ruby><rb>唐金</rb><rt>からかね</rt></ruby>の<ruby><rb>擬宝珠</rb><rt>ぎぼしゅ</rt></ruby>は、通行人の手ずれで、<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>く光っていた。南町奉行所へ、対面についての心得をききに、天一坊が通るというので、人々は、橋だもとに集って、河を眺めたり、焼餅を食べたり、<ruby><rb>大道卦占師</rb><rt>だいどううらないし</rt></ruby>の口上を聞いたり、隣の人と話を<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>えたりしていた。

「<ruby><rb>下婢</rb><rt>おなごし</rt></ruby>をつまむのは、こちとらだけだと思っていたら、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うでえ――」

「何んしろ、暇だからのう、<ruby><rb>下々</rb><rt>しもじも</rt></ruby>様のように<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>と、のたくり、ほっつける訳じゃあなしさ――今だって、七人か、八人かの御子様だろう。それが、四<ruby><rb>腹</rb><rt>ふく</rt></ruby>か、五腹さ。その上に、<ruby><rb>今度</rb><rt>こんだ</rt></ruby>あ、恐れ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、御願い申上げ奉ります牛の骨、馬の骨と来らあ。どうでえ、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>できのいい女郎に、子供を生ませて――とこう眺めていると、鼻は<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>鼻、歯は<ruby><rb>乱杭</rb><rt>らんぐい</rt></ruby>、親の因果が、子に報いって<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>だなあ」

「へん、俺に似なくっても、あいつに似りゃ天神様みたいな<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>だ」

「と、知らぬは亭主ばかりなりっての」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ、手先が混ってやあがる」

と、一人は、<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>て、袖を引いた。

「何処に？」

「そら、身なりを変えて」

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>かい、あはははは、うっかり、将軍助平などといおう物なら、来た来た、うまく化けてやがらあ、商売々々だ」

「天一坊が、贋者だって噂もあるじゃあねえか」

「うむ、事によったら、橋の上で大捕物になるかの」

町人達が、橋の上で、<ruby><rb>濠端</rb><rt>ほりばた</rt></ruby>で、話している真中を、徒歩で、馬上で、侍が行きかかっていた。

「<ruby><rb>元和</rb><rt>げんな</rt></ruby>、<ruby><rb>慶長</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>に<ruby><rb>兜首</rb><rt>かぶとくび</rt></ruby>を取って二百五十石、それ以来、知行が上ったことがない。<ruby><rb>式目</rb><rt>しきもく</rt></ruby>の<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>では、<ruby><rb>士分</rb><rt>しぶん</rt></ruby>の者三人を召抱えていなくてはならぬが、妻子五人が食べ兼ねるでのう。それが、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>、手がついて、男の子だと申せば、天一坊も、少くて五万石」

「いや、部屋<ruby><rb>住</rb><rt>ずみ</rt></ruby>であろう」

「部屋は部屋でも、部屋がちがう」

と、大声に話しながら、二人の国侍が、<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に通りすぎた。

「いくら、御落胤だって――」

「然し、仕方がない」

「だって、お前」

と、いうような会話が、口々に取かわされていた。

## 九

玄関を通って、廊下へ出ると、左右の部屋部屋には人々が居並んで、頭を下げていた。天一坊は、得意と、満足と、それから、こういう厳粛さに慣れない興奮とから、ぼんやりしながら、歩いて行くと、正面に、板戸のある<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>り口があった。その二、三<ruby><rb>間</rb><rt>げん</rt></ruby>前まで行ったとき、板戸が、後方へ開かれると、大岡越前守が、上り口の正面の上に突立っていた。天一坊は、心臓を圧迫されて、眼で微笑しながら、軽く御辞儀をして、近づいて行くと

「天一坊」

と、越前が、大声でいった。そして、一人の侍の差出した菅笠を、左手に、天一坊へ突出して

「見覚えあるか」

と、<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい口調であった。すぐ、後方につづいていた赤川大膳は、全身の神経で、四方にいる越前の手先達を眺め廻した。天一坊は<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>か判らなかったが、越前守の言葉が烈しいので、首を差出して、菅笠を覗き込むと

「宝沢とは偽り者めッ、それッ」

と、叫ぶと、右手で、胸を突いた。天一坊は、よろめきながら、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>ういっていいか？、何うしていいか？、判らなかった。自分が、本当に御落胤か、ちがっているか？、山内伊賀亮に、そういわれると、そういう気もしたが、越前守に

「宝沢」

と、呼ばれると、<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>も、<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>もない宝沢という気もした。母親は、彼の生れた時に死んだし、彼としては、自分で、落胤だと信じていい何の証拠も無かった。

「偽り者めッ」

と、いわれたから、それを否定しようと思ったが、一年半近く、御落胤と信じていて、とっくに、宝沢の生活を、自分の記憶から捨てていた天一坊にとって、二つの生活が、余りにちがっているが為、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>てが――今、胸を突かれた事も、誰かが、両腕を押えていることも、赤川の叫びも、常楽院の号泣も、騒がしさも、一切が、夢のように感じられた、極端な二つの生活が、混乱して、頭の中で、素早く廻転し、明滅すると共に、

「いいえ」

と、叫んで、首を振ったが、越前守はもういなくなっていて、縄が手首へ食い込んでいた。

「立ちませ」

と、耳許で誰かが叫んで、背を突いた。大膳も、両腕を上げながら、五六人の役人に、食い下がられていた。左右の部屋々々には、多勢の人々が、<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をかけて立っていた。

伊賀亮が、落胤だといった時、それから後の生活、それから、今――それらは総て、感応院の宝沢としての<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れた生活からみると意想外の<ruby><rb>夢話</rb><rt>ゆめばなし</rt></ruby>であった。天一坊は、こうして縛られたのも夢で、又すぐ、思いがけない事が起って、今度は、将軍の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいるようになるかも知れぬ――何が何んだか、ここ一年余り、自分では<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う考えても、訳の判らない事ばかりだ。

「どうにか、又、成るだろう」

と、思いながら、動かすと、しめつけて痛む程に、<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りを感じながら

「世の中って――妙ですな」

と、役人へ、笑った。

「不敵者ッ」

と、一人が睨んだ。

「大胆者めが」

と、一人が、いった。

## 十

「只今、阪井右京殿よりの、火急の御口上、申上げにまいりましたが」

と、御使番、<ruby><rb>進藤才五郎</rb><rt>しんどうさいごろう</rt></ruby>が、老中溜り間の次から、信祝へいった。

「それにて申せ、大事ない」

老中は、三人、火鉢を真中にして、何か笑っていたが、

「只今、南奉行御役宅におきまして、天一坊常楽院、赤川大膳以下を召捕りまして御座りまする。供の者一同も、数寄屋橋を固めて<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>の者まで残りなく――」

「山内と申す奴は」

「品川の旅宿にて、切腹との儀に御座ります。以上、口上に御座ります」

「御苦労」

才五郎は、平伏すると、そのまま二三尺<ruby><rb>後方</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>って、もう一度平伏して、立上ると、出て行った。

「やったの」

と、信祝は微笑した。

「越前め、又、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>ういう所存になったやら」

と、稲葉が、呟いた。

「ここだけの話」

と、信祝は、声を低めた。

「あいつは、<ruby><rb>融通</rb><rt>ゆうずう</rt></ruby>の利かぬ男じゃから、<ruby><rb>帯刀</rb><rt>たてわき</rt></ruby>と談合の上、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>、感応院の蔵の中に、宝沢の笠のあったのを幸い、犬の血をつけて、切り目を作っての、越前の下役共の先廻りをして、これを贋者の証拠品にしておいたのじゃ。越前めそれを探し出して、贋者と考えたらしいが、とんだ手品をさせられたものじゃ、あははは」

と、朗らかに、得意そうに、笑った。

「判官としては、古今無類の仁じゃが、政治の<ruby><rb>妙機</rb><rt>みょうき</rt></ruby>は判らぬでのう。法は<ruby><rb>活物</rb><rt>いきもの</rt></ruby>、臨機応変に妙味があるが、越前のは<ruby><rb>理非曲直</rb><rt>りひきょくちょく</rt></ruby>、ただ法を<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げない事に<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>らで――」

「と、申しかけると、あいつ又、いろいろこねるでのう」

「法は、<ruby><rb>時世</rb><rt>じせい</rt></ruby>と共に、移るもので不変ではない。わしの考え、わしが越前なら、天一坊の処分は、菅笠が無くとも、こう考えてよかろうのう。つまり、その時代の人心に、司政者に<ruby><rb>利</rb><rt>り</rt></ruby>のある時には、法を枉げてもよい、と。天一坊の場合は、<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かに、かかる者を御落胤として認める事は、天下人心によろしくも無く、御当代の為にも<ruby><rb>不為</rb><rt>ふため</rt></ruby>じゃ。こういう時には、<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとい</rt></ruby>、証拠品が無くとも、贋者として処断する、つまり、法の活用じゃ」

「至極――至極」

と、信祝は、稲葉へ頷いた。板倉が、

「それでは、処分は、五手がかりと致そうか」（五手がかりは、南北町奉行、寺社奉行、お目付、老中総立合いの裁判である）

「よろしかろう。世間にもいろいろと取沙汰のある<ruby><rb>折柄</rb><rt>おりから</rt></ruby>、処断を明かにするのは利益であろう」

「それでは、月番の<ruby><rb>足下</rb><rt>そこもと</rt></ruby>に、御頼み申そう。ああ、肩の荷が降りた。そこでさきの話のつづきじゃが、その女が？」

と、信祝は、板倉の顔をみた。

## 十一

天一坊の処刑が済んでから、暖かい一日、安藤帯刀老人が、越前守を訪ねた。そして、話の末に、

「あの菅笠は、<ruby><rb>真正</rb><rt>ほんとう</rt></ruby>で御座るか」

と、自分の計画が、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>の程度大岡を<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>き得たかを知りたさに、と同時に、それは、越前守の器量を試す事にもなるという意味から、聞くと、越前は、微笑して、

「ははは。御老人は？」

と、じっと瞳をみた。越前に軽くこういわれて、瞳をみられると、帯刀は、看破しているのかな、とさえ考えて、軽く狼狽したが、

「<ruby><rb>足下</rb><rt>そこもと</rt></ruby>の判断に間違いはあるまいが――」

「いかにも、笠の真偽でなく、判断の当、不当」

「と、申すと？」

「笠は、誰かの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>かも知れませぬが――」

と、いって越前は俯いた。

「越前が、紀州を調べ、証拠品を押えて戻り、贋者と断じて、処分したとなれば、よし天一坊が、<ruby><rb>真正</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>の御落胤であろうとも、人民の心には揺ぎがまいりませぬ。信祝殿は、当代の発明者にて御座りまするが、拙者の如く、<ruby><rb>尽</rb><rt>つく</rt></ruby>すべき事を尽して後に処断するのでなく、ただ大局論として、奉行所の職分を無視して居られる如く心得られまする。調べるべきを調べ、求むべきを求めて<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の処刑ならば、よし、後日あの菅笠が、信祝殿の御<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>によって、造られたものと判りましたにせよ、越前が、うまく一杯かかっただけにて、その不明な点に責任はあろうとも、人心はそこまで調べた奉行所へは、<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り信頼をもちまする。調べもせず、つまり、奉行所がありながら、その職務を、<ruby><rb>御上</rb><rt>おかみ</rt></ruby>の都合にて、<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>ようにも左右されると、庶民に思い込ませるよりは、越前も失策した、然し、よく調べはしたと、庶民に思われる方が、司政者としては、<ruby><rb>政</rb><rt>まつりごと</rt></ruby>に忠なるものと、心得まする、天一坊を<ruby><rb>嗣子</rb><rt>しし</rt></ruby>とすることの人心への影響は、越前とても十分に心得ておりまするが、<ruby><rb>某</rb><rt>それがし</rt></ruby>、奉行として、法を守る限り、飽くまで、法に従って、庶民が安心して、法によるように致したいと存じまする」

帯刀は、暫く俯いて黙っていたが、呟くように、

「あれは、わしが作らせた」

と、いった。

「<ruby><rb>素人細工</rb><rt>しろうとざいく</rt></ruby>で御座りますな」

と、越前守は、笑った。帯刀は、顔を上げると、涙を浮べていた。

「頼む、越前、家の宝、国の宝」

と、いうと、感激し易い老人は、涙を、頬へ伝わしながら、

「そう無くてはならぬ、<ruby><rb>恥入</rb><rt>はじい</rt></ruby>る、恥入る」

と、両手を膝へ突いて、着物の上へ、涙をぽたぽた落した。