Soranoha

白髪鬼

はくはつき

江戸川 乱歩

(作者申す)この物語はマリイ・コレルリ女史の傑作『ヴェンデッタ』を、私流に改作したものです。『ヴェンデッタ』には已すでに黒岩涙香くろいわるいこうの名訳『白髪鬼』があるので、私は同書版権所有者の承諾を得て、態わざと同じ題名を用いることにしました。併し、内容は、原作とも涙香の訳とも、大分違ったものになる積りです。

「冨士」昭和六年四月号

異様な前置き

今わしの前には、この刑務所の親切な教誨きょうかい師が、わしの長物語が始まるのを、にこやかな笑顔で待受けておられる。わしの横手には、教誨師が依頼してくれた、達者な速記者が、鉛筆を削って、わしの口の動き出すのを待構えている。

わしはこれから、親切な教誨師の勧めによって、毎日少しずつ、数日に亙わたって、わしの不思議な身の上話を始めようとするのだ。教誨師は、わしの口述を速記させ、いつか一冊の本にして出版する積りだと云っておられる。わしもそれが望みだ。わしの身の上は、世間の人が夢にも考えたことがない程、奇怪千万なものであるからだ。イヤ、奇怪千万なばかりではない。これを世の人に読んで貰ったなら、幾分でも勧善懲悪かんぜんちょうあくのいましめにもなることであるからだ。

春の様になごやかであったわしの半生は、突然、歴史上に前例もない様な、恐ろしい出来事によって、パッタリと断ち切られてしまった。それからのわしは、地獄の底から這い出して来た、一匹の白髪の鬼であった。払えども去らぬ、蛇の様な執念の虜とりこであった。そして、わしは人を殺した。アア、わしは世にも恐ろしい殺人者なのだ。

わしは当然、お上かみの手に捕えられ、獄に投ぜられた。裁判の結果は、死刑にもなるべき所を、刑一等を減ぜられ、終身懲役ちょうえきと極きまった。死刑は免れた。併しかし、絞首台の代りに、わしの良心が、わしの肉体を、長い年月の間あいだに、ジリジリと殺して行った。わしの余命は、もう長いことはない。身の上話をするなら、今の内だ。

さて、身の上話を始めるに当って、二つ三つ、断って置かねばならぬことがある。少々退屈かも知れぬが、これは皆、わしの物語に非常に重大な関係を持っていることだから、我慢をして聞いて貰い度たい。

第一に云って置き度いのは、わしの生れだ。わしはこれでも、大名の家に生れた男だ。大大名ではないけれど、名前を云えば知っている人も多かろう。わしの先祖は九州の西岸のS市を中心として、あの辺一帯で、十何万石を領していた、小さい大名なのだ。名前かね。それをこんな場合に公表するのは、死ぬ程恥かしいし、先祖に対しても実に申訳がない。併し、わしは云ってしまおう。わしは大牟田敏清おおむたとしきよというものだ。とっくに礼遇を停止されているけれど、お上から子爵ししゃくの爵位まで頂いておった身分だ。それが、アア、皆さん大きな声で笑って下さい。わしは子爵の人殺しなのだ。

わしの先祖が、人種学上、純正の大和やまと民族なのか、それとも、もっと劣等な人種から出ているのか、よくは知らない。だが、つくづく考えて見るのに、わしの家には、どうも皆さん方日本人とは違った血筋が流れている様な気がするのだ。なぜこんな妙なことを云い出すかというに、わしの見聞きしている丈だけでも、祖父じいさんも、父親も、わしと同じ様に、ひどく執念深い男で、少しのことにも腹を立て、しかもそれを執拗しつように覚おぼえていて、大抵の人は忘れた頃になって、恐ろしい仕返しをする、非常に残忍な性質を持っていた。「目には目を、歯には歯を」という、あの蛇の様な復讐心だ。

御維新ごいしんまでは、だが、それでもよかった。仇討あだうちということが公許せられていた時代だ。併し、明治になってから生れたわしは、実に不幸であった。間接的な法律の力にたよる外ほかは、私怨しえんをはらす方法が、絶対になくなってしまったのだからね。

わしは不幸にも、そういう蛇の様な執念深い血筋に生れた男だということを、先ず第一に覚て置いて下さい。

第二にお断りして置き度いのは、わしの家の、風変りな墓地の構造だ。その地方の住民達は、無論普通の土葬どそうをしていたが、殿様であるわしの家丈けは、埋葬の方法なり、墓地の作り方なりが、まるで違っていた。今考えて見ると、幾代か前の先祖が、その頃あの辺によくやって来た、オランダとかイスパニヤとかの紅毛人こうもうじんから、外国風の墓地の構造を聞き伝えて、それを真似たのかも知れない。どうもそんなことに違いない。

その墓地というのは、S市郊外のある山の中腹を掘って、石垣を築き、漆喰しっくいで頑丈にかためた、二十畳敷程の、石室いしむろの様なもので、先祖代々の棺が、その中にズラリと並べてあるのだ。入口には厚い鉄の扉をつけ、厳重に錠前をおろし、十年に一度二十年に一度葬式の場合の外は、滅多に開かぬことになっていた。そんな風にして、死体を出来る丈け長く保存し、子孫のものは、いつでもそこへ行けば、先祖に逢えるという様な考えで、作られたものかも知れない。わしの地方では、それを「殿様の墓」と云って、名所の一つになっていた程だ。

それから、もう一つ丈け云って置き度いことがある。

もう二十年も前の話だから、皆さんは覚ても居ないだろうが、丁度わしの身の上に、恐ろしい変化がやって来た当時、黄海こうかい一帯の沿岸からあの辺の海岸や島々をかけて荒らし廻る、大仕掛けな支那人しなじんの海賊団があった。そのことは東京の新聞にさえのった程だから、記憶のよい人は、今でも覚ているかも知れぬ。首領の名は、朱凌谿しゅりょうけいと云って、関羽髯かんうひげを生やした雲つくばかりの大男であった。わしはそいつと物を云ったこともあるので、よく知っている。大きな帆前船を持ち、何十人という子分を養い、数年の間、巧たくみに支那日本の官憲の目をくらまして、莫大な金銀をかすめ取った、稀代きだいの海賊であった。その朱凌谿がまた、わしの物語に、なかなか大切な役目を勤めているのだ。あいつがいなかったら、わしもこの様な身の上にならなくて済んだかも知れない程だ。

今時海賊なんているものかと、本当にしない人があるといけないから、念の為にお断りして置く。今でも海賊がないことはない。風の便りに聞けば、何とやら云う日本人が、つい一二年前北の方の海で露西亜ロシア人を対手あいてに、海賊を働いて、刑務所につながれたということではないか。当時の朱凌谿という奴も、その何とやらいう日本人に劣らぬ、有名な海賊であった。朱凌谿のかすめ貯めた財宝は無尽蔵だと、支那の金持ちなどは、羨ましがっていたという位だ。

イヤ、前置きが長くなって、ご退屈じゃろう。それでは、これから愈々いよいよわしの恐ろしい身の上話を始めることにする。

極楽世界

あの事が起るまでは、わし程幸福な人間は、又となかったといっても、過言ではない。

先祖の居城がS市の真中に今でも残っているが、わしはそこで生れた訳ではない。わしの父の代に御維新が来て、子爵を頂く頃には、S市の港を眼下に見おろす、景色のよい丘の上に、立派な邸やしきを建てて、一家はそこへ引移っていた。今では、その邸も遠縁のものの手で管理されているが、そこで育った子供の時分を回想すると、何かこう春風でも吹いて来る様で、懐かしくて耐たまらないのだ。

わしは生れて間もなく母に別れ、十七の時まで父の訓育を受けて育ったが、その父も死んでしまって、わしは十七歳という若い身空で、金満華族と云われた、莫大な財産の持主となった。

お金はあり余る。父母は死んでしまった。兄弟とてもないという、呑気至極のんきしごくな身の上となったが、わしは外ほかの金持の息子の様に、酒色にふける様なことはなかった。父のきびしい教えが身にしみたのか、今思っても実に真面目な青年であった。

家は忠実な執事に任せて置いて、二十歳から二十八歳まで、高等教育を受ける為に、東京へ遊学した。その間の楽しさも忘れられぬ。わしには一人の賢い美しい男友達が出来た。わしは大学の哲学科に、彼は美術学校の洋画科に通っていたが、寄寓きぐうしている場所が近かったので、ふとしたことから友達になり、遂にはお互に離れられぬ、恋人同志の様な親友になってしまった。

川村義雄かわむらよしおと云って、わしよりは三つも年下であったが、貧家に育った為に、世間のことは、兄分のわしよりもずっと明るく、容貌の点でも、わしとは比べものにならぬ程美しかった。

学校を卒業すると、わしはその川村を伴って故郷のS市へ帰った。川村は学校は出たけれど、画えの方で生活するのは、なかなか難しかったし、それに、もっと勉強を続けたいという希望もあったので、画の勉強なれば、何も東京に限りはすまい。却かえって、景色のよい九州の海岸で、静かに絵筆に親しむがよかろうと、わしが切に勧めて、同伴したのだ。帰郷すると、わしは早速、彼の為に、丁度売りに出ていた、ある外人のアトリエを買入れて、わしの費用で、そこに住まわせることにした。

わしは毎日、S港を見はらす書斎で、好きな読書に耽ふけり、読書にうむと、川村を呼び寄せたり、こちらから出向いたりして、気のおけぬ会話に興じ、或は手を携えて近くの名所へ小旅行を催したりした。わしはそれで充分満足していた。外に楽しみを求める気は起らなかった。

わしらはよく、女というものについて論じ合った。わしは友達の間で、女嫌いの変物の様に云われていたが、川村は決してそうではなかった。寧ろ女性の讃美者であった。

川村が女のことを云い出すと、わしは苦い顔をした。

「女なんて、男のあばら骨一本にしか価しないのだよ。あいつらは高尚な思想も分らなければ、優美な芸術も理解しない、劣等種族に過ぎないのだよ」

わしは昔の哲学者達が、女性に加えた悪罵あくばの数々を、長々と弁じ立てるのが常であった。

ところが、ところがだ。

人の心程当にならぬものはない。その女嫌いの、変物の、このわしが、恋をしたのだ。フフフ……、恋をしたのだ。恥かしいことだが、その娘を一目見たばかりで、わしの哲学も、わしの人生も、何もかも朝日の前の雪の様に、あと方もなく溶けうせてしまったのだ。

名前は瑠璃子るりこというのだが、中国筋の零落れいらく士族の娘で、当時十八歳、咲きそめた紅梅の様に、匂やかにも美しい乙女であった。それが、女学校を卒業した記念か何かで、母親に連れられて、S市を見物に来ているのを、わしは散歩の途中で、深くも見染みそめてしまったのだ。わしは恥かしさをしのんで、執事の北川にこの縁談を取結んでくれる様に、頼み込んだ。調べて見ると、貧乏はしているけれど、家柄は悪くない。本人も誠に躾しつけの行き届いた、かしこい娘だ。子爵夫人として決して恥かしくはない。

親族の中には、不賛成を唱えるものもないではなかったが、何を云うにも、本人のわしが、あの娘を貰ってくれなければ、死んでしまうという見幕けんまくだから、結局無理を押し通して、結婚式を上げる運びとなった。そして、わしは生れて初めて女というものを知ったのだ。しかも、その名の如ごとく、瑠璃の様に美しい女をだ。

アア、今思い出しても、この老朽ちた胸が躍る様だ。それから二年の間というもの、わしはただもう、甘い薫の、あたたかい桃色の雲に包まれて、フワリフワリと天界を漂っている様な、何とも云えぬ楽しい月日を過したものだ。

大阪の伯父の所へ旅行していて、わしの結婚式に間に合わなかった川村義雄は、婚礼がすんで三日目の日に、わし達夫婦を訪ねてくれた。彼は外の誰より深くわしらの結婚を祝ってくれた。

「君は本統ほんとうに仕合せものだぜ。黙っている奴が曲者くせものとは君のことだ。今まで女嫌いを看板にしていた君が、東京や大阪の社交界にだって、滅多に見当らぬ様な、日本一の美人を妻にするとは。君、これでも、女は一本のあばら骨かね」

彼はわしの手を握りしめて、大はしゃぎにはしゃぐのだ。

「イヤ、僕は少し説を変えたよ」

わしは恥かしそうに答えたものだ。

「君がよく云っていた様に、美しい女と云うものは、どんな芸術も及ばぬ造化の偉大な創作だよ」

そう云ってから、わしはふと川村にすまぬ様な気持になった。男ながら、彼こそわしの唯一の伴侶ではなかったか。それが、瑠璃子というものが出来て見ると、何だか今迄の様な、隔意かくいない親しみが少しうすらいだ様な気がする。川村の前で妻をほめたりして、悪いことをしたと思った。アア、可哀相に、川村はまだ、美人を妻とする楽しさを知らぬのだ。この男にもどうか美しい娘を探し当ててやり度たいものだ。

わしはちょっと憂欝ゆううつになって、何気なく振向くと、そこへ、大輪の薔薇ばらの花が咲き出した様に、瑠璃子が入って来た。それを見ると、わしの憂欝はどこへやら、けし飛んでしまった。

この美しい顔さえ絶えずわしの目の前にあるならば、友達も要いらぬ。金も要らぬ。命も要らぬ。恋に酔うとは、これを云うのかしら、わしは人世じんせい嬉しさの絶頂に達し、痴人の如く、瑠璃子の顔を飽かず眺め入った。見れば見る程愛らしい。アア、世の中にこんな美しく愛らしいものがあったのかしら。瑠璃子がそこにいると、近くの品物がみんな美しく、楽しく見えて来る程だ。

皆さん笑って下さい。結婚後しばらくすると、わしは瑠璃子を湯に入れてやるのが無上の楽しみとなった。わしは三助さんすけの様に、我が妻の美しい肌をこすってやった。桃色にゆだった、水蜜桃の皮の様にきめが細こまかくて、眼にも見えぬ産毛うぶげの生えている、あれの肌から、モヤモヤと湯気の立つのを眺めるのが、わしは大好きであった。よれて出る垢あかまでが、わしには、こよなく美しいものに見えた。

わしは、召使めしつかい共の蔭口もかまわず、風呂の立つのを待ちかねる、痴漢となり果ててしまった。

わしがそんな風だものだから、瑠璃子の方でも、わし丈けには令夫人のよそ行きの作法を捨てて、なれ親しんだ。はては、熊使いの見世物師が、目くばせ一つで、荒熊を自由自在に動かす様に、彼女も目一つで、わしを意の如く動かすやり方を覚込おぼえこんでしまった。

二人切きりの場合には、わしは瑠璃子の忠実極まる奴隷であった。どうすれば彼女が喜ぶかと、それのみに心を砕いた。

彼女は、何か嬉しいことがあると、

「アラ!」

と云って鈴の様な目を見はり、それから、くすぐったい様な表情で、唇を何とも云えぬ愛らしい恰好に曲げて、嫣然にっこりと微笑するのが癖であった。わしは、その微笑を見る為には、どんな大きな犠牲を払うことも辞さなかった。なぜと云って、瑠璃子の方でも、この上もなくわしを愛していたのだから。

わしの家うちは俄にわかに賑やかになった。瑠璃子を喜ばせる為の、小宴が屡々しばしば行われ、知人という知人が招かれた。わしの妻はそういう席上で、美しい女王の様に振舞うのが好きであった。わしは又、それを見るのが好きであった。

中にも親友の川村はよく遊びに来た。彼は案内も乞こわず、わしの家へ入って来る程親しかった。わしの家を我家わがやの様にふるまった。瑠璃子とも大の仲よしで、三人鼎座ていざして、罪もなく笑い興じる日が多かった。

流石さすがに苦労した男丈けあって、川村は交際術にかけては、すばらしい腕前を持っていた。一度会ったばかりで、誰も彼も、彼に非常な親しみを感じる様に見えた。瑠璃子も例外ではなかった。川村は瑠璃子を喜ばせる術にかけては、確にわしよりも役者が一枚上であった。三人で話していても、川村と瑠璃子ばかり話がはずむ様なことも屡々あった。

だが、わしはそれが嬉しかった。妻を娶めとって、親友の心が離れて行くかと案じたのは、杞憂きゆうに過ぎなかったのを知って、わしは大満足であった。

皆さん考えて見て下さい。この様な幸福が又と世にあるじゃろうか。

名誉ある爵位を持ち、家は富み、日本一の、少くもわしの目にはそう見えた美人を妻とし、その妻には愛され、親友には親しまれ、しかも、わしはまだ若かったのだ。これが人間最上の幸福でなくて何であろう。極楽世界でなくて何であろう。わしはあんまりよすぎて、いっそ勿体もったいない様な、空恐ろしい様な気持さえした。

あれはいつであったか、何でも結婚してから一年以上もたった時分だと思うが、川村と二人切で、例によって女について論じあっていた時、わしが一年以前とは、まるでうらはらに、女性を褒ほめそやすものだから、川村はたじたじとなって、何なぜか少し陰気な顔をしながら、

「君は本当に善人だよ」

と溜息をつかぬばかりの調子で云った。

何だか変に聞えたので、

「どうして、そんなことを云い出すのだ」

と尋ねると、

「少しも疑いということを知らぬからさ」

と、益々妙なことを云う。

「疑いといって、誰も疑う人がなければ仕方がないじゃないか」

「イヤ、世間には、我妻を疑って、嫉妬しっとの余り、随分無駄な苦労をする奴もあるからさ」

「なんだって、嫉妬だって。だが君、嫉妬をしろと云っても、あの子供の様に無邪気な瑠璃子を、どう疑い様もないではないか」

わしがむきになって妻の弁護をすると、川村は他意もなく笑い出した。

「そうだね。本当にそうだね。瑠璃子さんは、雛菊ひなぎくの様に無邪気な乙女だね」

そして、彼はワーズワースの『雛菊の詩』を口ずさみ始めたものだ。彼は英詩の朗吟ろうぎんが巧であった。

わしはそれに聞き惚れた。そして、さい前の彼の変な言葉を、忘れるともなく忘れてしまったが、遠からず、あの会話をマザマザと思い出さなければならぬ様な、不吉な時がやって来るとは、神様でないわしに、どうして知ることが出来たろう。

二年の月日は、瞬く内にたってしまった。その間かん、これという変ったこともない。瑠璃子は益々美しく、わし達夫婦の仲は愈々いよいよ睦まじかった。凡すべて凡て、極楽世界の四字に尽きていた。

いまわしき前兆

皆さん、わしのその二年間の様に、何から何までよいことずくめの折には、夢々油断をしてはなりませんぞ。運命の鬼奴おにめは、甘い餌物えものを与えて、人の心をためすのだ。そして、ちょっとでも心に隙があったなら、大きな真黒な口を開いて、ガブリと人を呑んでしまうのだ。お多福たふくの面のうしろ側には、怖い鬼の面が隠れているのだ。

わしはあんまり幸福すぎた。それに殿様育ちのお坊ちゃんで、世間というものを、まるで知らなかった。

丁度結婚後二年目の終りに、わしはチフスを患わずらって、しかもそれがこじれて、三月というもの、病院生活をしなければならなかった。と云って、何もそれが、直接わしの幸福を奪ったというのではない。長びいたけれど病気は全快したのだ。全快したばかりか、チフスという病の有難いことには、それまで何となく弱々しかったわしの身体が、病後はめっきり健康になった。一度抜けた髪の毛も、前にもまして黒々と生え揃った。年までも、二つ三つ若返った様な気がした。

病中、妻の瑠璃子は毎日病院へ見舞いに来てくれた。川村も妻にまけぬ程、しげしげわしを見舞ってくれた。アア、かたじけないことだ。わしを愛していればこそ、いまわしい伝染病を気にもとめず、瑠璃子は、川村は、わしを慰めに来てくれるのだ。妻や親友が今までの幾層倍も有難いものに見えて来た。――考えて見ると、わしはまあ、何という鈍感なお人好しであったろう。

ここでまた、恥かしい打開け話をしなければならぬのだが、わしが退院をして二ヶ月余りたった時分のことだ。十日程瑠璃子の気分のすぐれぬことがあって、今日は少しよいと云うものだから、その晩は、久しぶりに彼女の部屋へ行って見ると意外にも、瑠璃子は身を堅くして、わしを拒むではないか。

「コレ、どうしたのだ。さてはお前は、僕をいとわしく思いはじめたのか」

と、冗談に怒って見せると、あれはさも悲し相そうな顔をして、

「今まで隠していましたが、わたしはもう、このお邸やしきに置いて頂く訳には参りません」

と、わしのど胆を抜く様な、飛んでもないことを云い出すのだ。

わしはもう、泣き相になって、何故そんなことを云うのかと、様々に尋ねて見ると、散々云いしぶったあとで、あれは、とうとうその理由を打開けた。打開けて置いてサメザメと泣き伏した。

だが聞いて見ると、若い女なんて、そんな下らないことで、これ程の騒ぎをやるのかと、おかしくなる程、些細ささいな事柄であった。瑠璃子は、数日前から身体に腫物できものが出来て、少しも直らないというのだ。

「どれ、見せてごらん。そんなこと何でもないじゃないか」

わしは、又しても甘い気持になったものだ。瑠璃子が些細な腫物さえ、それ程恥かしがるのは、つまりわしの愛を失うのが、死ぬ程つらいからだ。そんなにもわしを大切に考えているのかと思うと、甘い気持にならないではいられなかった。

又、散々てこずらせた揚句、彼女はやっと少しばかり胸を開いて、その腫物を見せてくれたが、見ると、わしもちょっと、びっくりした。大きな赤い腫物が胸一面に吹き出していたからだ。

「なんだそんなもの。甞なめろと言えば、甞めて見せるよ」

と笑いながら、尚なおよく見ようとすると、あれは、手早く胸を閉じて、陰気に沈み込んでしまうのだ。

無理もない無理もない。日頃から、瑠璃の様に美しい肌を誇っていた彼女にして見れば、世間普通の女と違って、美しい丈けに、その美が少しでもそこなわれると、これ程までに恥かしく、悲しいのだ。

わしは同情して、兎も角医者に見せる様に勧めたが、彼女はそれもいやだと駄々をこね、とうとう強情を通して、売薬の塗り薬かなんかで済ませてしまった。考えて見るのに、彼女は、醜くなった肌を見せる恥かしさばかりでなく、それが性質のよくない発疹はっしんであったら、藩主の家の外聞に関わるとでも考えていたらしいのだ。

売薬で治るかと思うと、なかなか頑強な腫物で、治るどころか、全身に広がり、ついには覆い隠すすべもない、あれの美しい顔にまで出来て来た。

無論瑠璃子は、一目でも、わしに汚れた肌を見せようとはしなかった。顔には切傷でもした様に、ガーゼを絆創膏ばんそうこうでとめて、それ丈けでは承知が出来ず、床についてしまって、わしが見舞に行っても、腫物のない鼻の上丈けを夜具の襟から出して物を云うという、いじらしい有様であった。

わしは駄々子だだっこの奥さんに、ほとほと困じ果て、川村を呼んで相談すると、彼も、余りに狭い女心を、おかし相に笑ったが、

「だが、無理もないよ。美人にとって、我が美しさが、どんなに大切なものだか、男などには分りゃしないよ」

と、彼自身並々ならず美しい顔に、同情の色を浮べて、

「いっそ君、温泉にでも転地させて上げたらどうだね。邸をはなれた温泉場の医者なら、診察を受けられるかも知れないし。……」

と名案を授さずけてくれた。

わしは、早速その説を採用した。幸いS市から汽車と人力車を併せて二時間程隔たった、Yという淋しい温泉場の近くに、空家になっているわしの持家があったので、それに手入れをして、妻を住まわせることにした。

わしも行って、看病しようと云うと、瑠璃子は、毎日一緒にいて顔を見られるのがいやだと、頑強に反対するので、仕方なく、彼女の里から連れて来ている、忠義者の婆ばあやをつけてやることに決めた。

何ということであろう。その腫物があと方もなく全快するのに、殆ど半年もかかったのだ。あの社交好きの瑠璃子が、その間かん、誰の訪問をも断り、ただ昔ものの婆や一人を話相手に、じっと辛抱していたというのは、よくよくの事である。

わしは、その長い間あいだ、愛しい妻と別居している淋しさに耐え兼ねて、度々たびたびY温泉を訪ねたが、瑠璃子は一間にとじこもり、かたく襖ふすまをしめて、襖越しに、やっと話をしてくれるばかりで、醜くなった顔を極度に恥はじて、どうしても会ってはくれなかった。

その中うちで、まだしも仕合せであったのは、彼女が、名を偽いつわってではあったが、土地の医者に身体からだを見せてくれたことだ。わしは、早速その住田すみだという医学士を訪ねて様子を聞いて見ると、別に悪い病ではないが、仲々頑強な腫物だから、気永きながに治す外ほかはない。それには、薬よりも、ここの温泉が非常に有効だとの答えであった。皆さん、この住田医学士の名をよく覚て置いて下さい。

わしは、瑠璃子に逢えぬ悩ましさに、毎日彼女を見ている医者に逢って、せめてもの慰めにしようと、よくその医学士を訪ねたものだ。そして、間接に瑠璃子の様子を聞き、少しずつはよくなって行くらしいことを知って、僅わずかに安堵の溜息をもらすという、果敢はかない身の上であった。

だが、さしも頑強な腫物も、遂には全治する時が来た。瑠璃子は腫物の薄い痕跡あとさえ恥かしがって、それが治るまで辛抱していたので、丁度六ヶ月ばかりかかってしまった。併し、治ったのだ。元の美しい瑠璃子になって帰って来たのだ。わしが、その久方振りの対面をどんなに喜んだか、くどくど説明するまでもなかろう。わしは、失った宝物を取戻した様な気がした。しかも、その宝物は、前よりも一段と美しく、愛らしく、光り輝いて戻って来たのだ。

さて、皆さん。わしがどういう訳で、チフスだとか、腫物だとか、つまらぬことをくどくどと喋ったのか、お分りじゃろうね。わしが入院してから瑠璃子の腫物が全快するまで、数えて見ると丁度一年の月日が経過しているが、その間かん、蔭の世界で、どの様な恐ろしい事柄が起っていたか。そのまる一ヶ年の月日が何を意味していたか。わしの話を聞いた丈けでも、敏感な人はすぐ気がつく筈だ。

それを、まるでうそみたいな話じゃが、わしは少しも気づかなかったのだ。瑠璃子に溺おぼれ切きっていたわしは、彼女のこととなると、もう盲目も同然で、カラ意気地いくじがなかったのだ。

それは兎とも角かく、このわし達夫婦の引続いての長患ながわずらいが、あの恐ろしい破局への不気味な前奏曲であった。わしの運命のけちのつき始めであった。瑠璃子の妙な腫物が全快して、ヤレヤレと思う暇もなく、今度は病気どころではない。前代未聞の地獄の責め苦が、わしの上に降りかかって来た。

生地獄

皆さん。今までその点に触れる機会がなかったが、わしはとっくに世を去った、一匹の幽鬼に過ぎないのだ。この世に籍のない死人に過ぎないのだ。なぜといって、わしは一旦は本当に死んでしまって、誰もそれを疑わなかったからだ。生き返りはしたけれど、わしは大牟田敏清と名乗って再び人前に出なかったからだ。

今のわしは、年齢としは左程でもないのに、濃い髪の毛が一本残らず、銀の針みたいな白髪しらがになっている。それはわしが、一度死んで、地獄の底から生き返って来た、一つのしるしである。つまりわしは、あの時以来、一匹の白髪の鬼と化し去ったのだ。

では、どうして死ぬ様なことになったのか。又しても大病にとりつかれたのか。イヤイヤそうではない。病気ならあきらめ様もあるけれど、わしのは、あきらめてもあきらめ切れぬ、余りに馬鹿馬鹿しいあやまちが死因となったのだ。

それを、これから話そう。

瑠璃子が邸に帰って間もなく、わしは何がなしにじっとしていられぬ嬉しさに、ある日川村の提議で、三人連れ立って、近郊の地獄谷という所へ、遠足を試みた。

地獄谷というのは、S市を訪ずれた人は一度は見物に行く名所で、S市の南を流れるG川の上流、都会近くには珍らしい、深山の趣きある谿谷けいこくだ。そそり立つ断崖の間あいだを、青々とした谿流けいりゅうが、様々の形の岩に激して、泡立ち渦巻きながら流れている。両側の山々には、春は桜、秋は紅葉が美しく、その季節には、瓢ふくべをさげた遊山客が、断崖の上の細道を、蟻の行列みたいに続くのだ。

わし達の行ったのは、桜の季節も過ぎた晩春の頃であったから、遊山客の影もなく、非常に淋しかったが、静かな谿谷の気分を味わうには、却かえって好都合であった。

両側の山にはさまれた、広い帯の様な空は、一点の雲もなく、底知れぬ青さに晴渡っていた。山道にはうらうらと陽炎かげろうがゆらぎ、若葉の薫りはむせ返る様。谷間に谺こだまする冴え返った小鳥の声も楽しかった。

地獄谷の最も景色のよい所に、地獄岩という恐ろしい岩が聳そびえていた。その岩に昇って、とっぱしから、下の谿流を覗き下した景色は何とも云えぬ美しさだが、その代りには、地獄岩の名称にそむかず、甚はなはだ危険なので、滅多に昇る人もない。

だが、わしと川村とは、結婚以前、ここへ遊びに来た折、地獄岩に昇ったことがある。昇って見れば、下から見た程危いこともなく、二人はその突端とっぱしに立って、向う側の山に向って、大声に万歳を叫んだものだ。

わし達三人は、その昔馴染の地獄岩の根元にたどりついた。

「君、いつかの様に、ここへ昇って見る元気があるかい」

川村は、妻の愛におぼれ切きっているわしを、冷かす様に言った。

「つまらない真似は止そう」

わしは瑠璃子の為に、臆病になっていた。

「ハハハ……、奥さんを貰うと、そんなになるものかねえ」

川村は笑って、単身岩の上にかけ上った。

「アア、実に美しい。奥さん、あなたも昇って見ませんか」

彼は、岩の頂から、ほがらかに呼びかけた。

「駄目よ。あたしなんか迚とても……」

瑠璃子は、羨うらやまし相そうに、空に突っ立つ英雄の姿を見上げて答えた。

わしは不愉快であった。瑠璃子は川村の勇気を賞讃し、昇りかねているわしを、ひそかに軽蔑している様に感じられたからだ。恋は人を愚にするとはよく云った。わしはただ、愛する瑠璃子の前で、川村に負けたくないという、子供みたいな競争心から、とうとう地獄岩に昇って見る気になった。

わしは、川村が降りて来るのと、引違いに、岩の頂いただきへよじ昇った。そして、そこに突っ立って、下の瑠璃子に、さも自慢らしく声をかけたものだ。アア、わしは何という馬鹿者であったろう。それが、彼女の見納めになろうとは、夢にも思わないで。

「そこから遠くを眺めるのもいいが、もっと突端とっぱなへ出て、下の流れを見下すと、又格別だぜ」

川村が、わしをそそのかす様に、呼びかけた。この何気ない言葉の裏に、どんな恐ろしい意味が隠されていたか、神ならぬ身のわしは知る由よしもなかった。ただ、川村奴め、自分では用心をして踏まなかった、突端の小岩の上へ、わしに出て見よとは、意地の悪い奴やつだと思ったが、そう云われて、尻ごみするのも癪しゃくであった。わしは、痩我慢で、さも平気らしく、突端につき出た小さな岩の上に歩み出た。

歩み出たかと思うと、わしは天地がひっくり返る様な衝撃を感じた。足の下の抵抗がなくなってしまったのだ。もろくなっていた小岩が折れて、砲弾の様な勢いで、数十丈の脚下へ落おちて行ったのだ。

わしは一瞬間、何もない空中に立っている様な感じがした。

無論悲鳴を上げたに相違ない。併し、わしの耳は已すでにつんぼになっていて、我声を聞く力もなかった。

空中に突っ立ったかと思う次の瞬間には、わしの身体は鞠まりの様に、崖にはずみながら転落していた。

皆さん、これはわしの実験談だから信用してもよい。死ぬなんて訳のないことだ。痛さも怖さも、ただ一瞬間で、その高い崖を落て行きながら、わしはもう夢を見ていた。あれが気が遠くなるというのじゃろう。目も耳も皮膚も、無感覚になってしまって、頭の中丈けで、墜落とは全く別の、薄暗い夢を見続けていた。

しかも一方では、底なしの空間を、無限に墜落して行く感覚が、幽かすかに幽かに残っているのだ。例えて見れば、我々が眠りにつく瞬間、人の話声を聞きながら、夢を見ていることがある。丁度あれだ。墜落の意識と頭の中の夢とが、二重焼付けの活動写真の様に、重なって感じられるのだ。

で、頭の中では、何を夢見ていたかと云うと、わしの生涯の主な出来事が、次から次と、フラッシュ・バックみたいに、見えて来るのだ。父の顔、母の顔、祖父の姿、自分の幼時のおもかげ、小学時代のいたずら、東京の学生生活、川村を初め親しい友達の影像、瑠璃子との愛の生活の数々の場面、おできの出来た彼女の顔の大写し、産毛の生えた瑠璃の様な肌の顕微鏡写真。という様な数限りもない夢の連続だ。

無論それは墜落中の数秒間の出来事だ。どうしてその短い間に、あんな沢山の夢が見られるのかと、今考えても不思議で仕方がない。

夢を見続けている内に、わしの身体が、何か地面の様なものに、ゴクンとぶつかったのを、幽かに幽かに感じたかと思うと、わしの意識は、漠々たる空に帰してしまった。一切合切いっさいがっさい、何もないのだ、自分もなければ、世界もない。第一存在の感じがない。ただ無、ただ空である。例えば我々が夢も見ず熟睡している時と同じことだ。

わしは死んでしまったのだ。

どれ丈けの時間が経ったかは、無論分らぬ。死人には空間も時間もありはしないのだ。だが、その漠々たる絶無の中に、何かしらある様な感じが生れて来た。わしは甦よみがえり始めたのだ。

初めは身体がなくて、ただ心丈けがある様な気持、次には何もないのに、ただ重さ丈けがある様に感じられて来た。この重い感じは一体何だろう。自分か他人か、考えようとしても考える力がまだないのだ。

暫くすると、心持が少しずつハッキリして来た。重い感じが益々重くなり、漸ようやく我が身体の内で、喉丈けはあることが分って来た。心も重さも喉にある。何物かがわしの喉をしめて、息をとめようとしている感じだ。

「放してくれ、俺の喉からその手を離してくれ」

心で叫び続けている内に、何か訳の分らぬ極微の分子が、四方八方から集まって来る様に思うと、それが段々に安定して、自分というものが、ハッキリ意識された。

だが、まだ何が何だか少しも分らぬ。あやめも分かぬ暗闇と、死の様な静けさの中に横たわっている一物は、わしの身体だ。縦か横か。どちらが上でどちらが下かも分らなかったが、やがて、背中に固いもののあるのが感じられて来た。

「アア、俺は仰向きに寝ているのだな。眼をパチパチやっても、何も見えぬ所を見ると、俺は、今真の闇の中に寝ているのだな」

そこで初めて、わしはありし次第を思い出すことが出来た。瑠璃子と川村と三人で地獄谷へ遠足したこと、わしが痩我慢を出して、地獄岩に昇ったこと、その突端へ出たかと思うと、突然足の下の抵抗がなくなったこと。

「すると俺は今、あの崖の下の岩の上に寝ているのかしら。いつの間に夜になったのだろう。いくら夜でも、星の光り位は見え相そうなものだが」

わしは不審に耐えず、先ず両手を触れ合って見るのに、手には温味がある。胸を探ると、張裂くばかりに動悸がしている。

「だが、この息苦しさは、どうしたというのだろう。誰かが口を押さえて、空気を入れぬ様にしているのかしら。アア、空気がほしい。空気がほしい。何とかして、空気を掴つかみとって、むさぼり啖くらわねば、死んでしまう。助けてくれ!」

わしはもがきながら、思わず手を伸ばしたかと思うと、余りのことに「キャッ」と叫ばないではいられなかった。

手に触ったのは堅い板であった。さぐって見ると、右も左も上も下も、狭い板で囲まれていることが分った。一刹那せつな、わしは何もかも悟ってしまった。悟りは悟りながら、それと我心に知らせるさえ恐ろしい程の、惨酷な事実だ。

皆さん。わしは埋葬されたのだ。生きながら埋葬されたのだ。四方を囲む板は棺であったのだ。

皆さんはポオの『早過ぎた埋葬』という小説を読んだことがありますか。わしはあれを読んで、生き埋うめの恐ろしさをよく知っていたのだ。

あの小説には、様々の不気味な事実が羅列られつしてあったが、中でもわしの記憶に残っているのは、土葬をした棺を、数年の後開いて見たところが、骸骨の姿勢が、棺に納めた時とまるで違っていた。その骸骨は足をふんばり、腕を曲げ、指の爪を棺の板に突立てて、無残にも、もがき廻った恰好をしていた。これは、死人が棺の中で蘇生そせいし、棺を破ろうと、苦しみもがいた跡でなくて何であろう。アア、世にかくの如き大苦悶が又とあるだろうか。という一節だ。

わしは又、別の本で、もっと恐ろしい記事を読んだこともある。

それは、姙はらみ女が埋葬されてから、棺内で蘇生し、蘇生すると間もなく、腹の子供を生み落したというのだ。想像した丈けでも総毛立つではないか。彼女は暗闇の中で、空気の欠乏と闘いつつ、再び世に出る望みはないと知りながら、悲しい母親の本能で、出もせぬ乳房を、その赤ん坊に含ませはしなかったか。アア、何という恐ろしい事実であろう。

わしは、棺内にとざされていることを自覚すると、咄嗟に、これらの恐ろしい先例を思い浮べ、身体中に油汗を流した。

だが、皆さん、その様に恐怖すべき生き埋ではあったが、その生き埋さえも、それから、わしが経験した、歴史上に嘗かつて前例もない様な、苦悶、恐怖、驚愕、悲愁に比べては、物の数ではなかった。さて、それが、どの様に恐ろしい地獄であったかを、これからお話しようとするのだ。

暗黒世界

皆さん、人間の本能というものは恐ろしい。棺の中にいると悟ると、わしの手足に、死物狂いの怪力が、湧くが如くに集まって来た。必死の時には、必死の力が出るものだ。今この棺を破らねば、折角せっかく甦ったわしの命は、一時間も、三十分も、いや十分でさえ保たぬ。棺内の酸素が殆どなくなっていたからだ。わしは、水を離れた鮒ふなの様に、口をパクパクやりながら、窒息して死んでしまわねばならぬからだ。

わしは頑丈な棺の中で、猛獣の様に跳ね廻った。だが、なかなか板は破れぬ。その内に空気は益々乏しくなり、息がつまるばかりか、目は眼窩がんかの外へ飛び出すかと疑われ、鼻から口から、血潮が吹き出す程の苦しさだ。

わしはもう、無我夢中であった。板を破るか、我身が砕けて死ぬかだ。空気の欠乏の為に、ジリジリと死んで行くより、一思いに砕け死ぬのが、どれ程ましか知れぬとばかり、わしは死物狂に荒れに荒れた。

すると、アア有難い。棺の蓋がメリメリと破れる音がしたかと思うと、刃物の様な鋭い空気が、スーッと吹入って、冷たく頬に当った。アア、その空気の甘うまかったこと。

あんた方は、空気がどんなにおいしいものだかをご存じあるまい。わしの様な目に会って見ると、それがハッキリ分るのだ。

わしは鼻も口も一杯に開いて、肺臓に吸い込める丈け、そのうまい空気をむさぼり吸った。吸うに従って、身も心もシャンとして来た。本当に蘇生したという感じがした。

そこで、わしは板の割目に手をかけて、力まかせに、推し破った。今度はもう大して骨が折れぬ。とうとう棺の蓋をはねのけてしまった。

無論わしは棺の中から飛び出した。飛出すと同時に、何とも分らぬひどい地響きがして、わしの頭から、何か固いものがバラバラと降って来た。棺を飛び出した拍子にどうかして砂か小石でも落ちて来たのであろうと、わしはさして怪しまなんだが、あとで考えて見ると、このひどい音を立てて落ちて来たものが、わしの生涯に実に重大な関係を持っていたことが分った。それがなかったら、わしもこんな重罪犯人にならないで済んだかも知れない程の、一物であった。

さて、外に飛出して見て、わしは意外な気がした。棺の中から易々やすやすと飛び出し得たことが、已すでに不思議なのだ、若し土の中に埋めてあったら、仮令たとえ棺を破っても、上から土が落ちて来て、推しつぶされてしまう筈だ。変だぞ。それではわしの棺はまだ墓場に埋めないで、どこかに置いてあったのかしら。うまいうまい、わしはとうとう助かったのだ。このまま家へ帰りさえすればよいのだ。

だが、この暗さはどうしたものだ。まるで空気そのものを墨で染めた様に真暗まっくらだ。

待て待て、手さぐりで、大体様子が知れるだろうと、わしは盲目の様に、両手を一杯に伸ばして、さぐり足で歩き始めた。

壁がある。だが、何という粗雑な壁だろう。まるで石垣みたいだ。壁を伝って暫しばらく行くと、ヒヤリと冷い鉄の板にぶつかった。さぐって見ると、どうやら扉らしい。非常に大きな、頑丈な扉だ。

変だぞ。わしは一体全体どこにいるのだろう。

アア、分った。わしは何という馬鹿な思い違いをしていたのだ。わしの家の墓場は、普通の土の中ではなくて、昨日もお話しした通り、その地方で「殿様の墓」と云われている、西洋風の石室だ。小山の中腹を掘って、石を積み重ね、漆喰で固めた、一種の穴蔵なのだ。そこに、先祖代々の棺が安置してあるのだ。

と悟ると同時に、わしは、余りの恐ろしさに、ゾッと身震いした。もう駄目だ。とても二度と娑婆しゃばの光を見る望みはない。

棺は破って破れぬものでない。だが、この穴蔵は一人や二人の力では、絶対に破る見込みがないのだ。コンクリートの地下室同然の穴蔵が、どうして破れるものか。たった一つの入口は、厚い鉄扉でとざされ、外には頑丈な錠前がついている。

だが待てよ。若しかしたら、錠をおろすのを忘れていないとも限らぬぞ。

わしは、その扉を力の限り押し試みた。身体全体でぶつかって見た。だが、ゴーン、ゴーンと不気味な反響が起るばかりで、扉はビクともしない。やっぱり錠がおりているのだ。

望みは絶えた。

わしの一家に死人でもない限りは、五年、十年、或は二十年、この扉が開かれる見込みは絶えてない。

アア、神様、あんたは何というむごいことをなさるのだ。なぜわしを甦らせて下すったのだ。一度生かせて置いて、更らに殺しなおすお積りですか。死の苦しみを二度甞なめさせてやろうという訳ですか。

しかも、今度の死は、崖から落ちる様な楽なものではない。飢え死だ、ジリジリと、一分ぶずつ、一寸ずつ、命をけずられるのだ。余りと云えば、むごたらしいなさり方だ。

わしの生前に、悪業があったのですか。わしは友達を愛した。妻を可愛がった。だが、人間は勿論、虫けらさえも、故なく苦しめた覚えはない。それに、それに、この様な、ためしもない地獄の呵責かしゃくを受けなければならぬとは。

わしはいやだ。一度の死は、悲しくとも苦しくとも、何人も免れぬ所だ。苦情は云えぬ。だが、一度死んだのでは足らず、人間最大の苦しみを、二度まで繰返さねばならぬとは。いやだ、いやだ。わしは迚とても我慢が出来ない。どんなことをしてでも、この穴蔵を出ないで置くものか。

わしは気違いの様に、出る限りの声をふり絞ってわめいた。わめき続けた。はては、子供の様にワアワアと泣き出した。鹽しょっぱい涙が、口の中へ流れ込んだ。

だが、わしの破われる様な叫声、泣声は、四方の壁に谺こだまして、二倍三倍の怪音となって、わし自身の耳にはね返って来るばかりだ。穴蔵は淋しい郊外の小山の中腹にあるのだ。そこの細道は、わしの家の葬式の外は、滅多に人の通らぬ所だ。いくら叫んだとて、誰が助けに来るものか。又仮令わしの声を聞きつけるものがあったとしても、その人はわしを助け出すどころか、却って、気味悪がって、一目散に逃げ出すに極きまっている。

泣いても、わめいても何の効果もないと悟ると、今度は、あやめもわかぬ闇の中を、棺につまずき、石壁に突き当りながら、滅多無性に走り廻った。どこかに、壁の隙間でもないかと、駄目とは分っていても、探し廻って見ないではいられぬのだ。

走り廻る内に、わしは方角を失ってしまった。出口はどちらなのか、さっき破った棺はどの辺にあるのか、探れども探れども、手に触れるものとてはない。わしは、よみじの様な暗闇の真中に、一人ポツンと取残された。

この闇が、どこまでも、永遠の彼方まで続いているのではないかと思うと、何とも云えぬ淋しさに、身がすくんだ。

わしは、音もなく、色もない暗黒世界の恐ろしさを、あの時程痛切に感じたことはない。

今までは、逃げ出そうと、夢中になっていたので、さ程でもなかったが、いざ、この暗黒世界から、永久に出られぬ運命と極きまると、闇の怖さが身にしみた。墓場とは云っても、そこに眠っているのは、わしの先祖の死骸ばかりだ。それは別に怖いとも思わぬ。ただ、なんにも見えぬということが、なんにも聞えぬということが、限りない恐怖となって、ひしひしと身に迫った。

アア、光がほしい。蛍火程の光でもいい。何か目に見えるものがなくては、我慢が出来ぬ。同じ死ぬなら、光の下で死にたい。こんな暗闇の中で死んだなら、極楽への道も分らず、まよまよと迷い歩いて、地獄に堕ちる外ほかはないだろう。アア、恐ろしい。

わしはじっとしていられなかった。といって、いくら走り廻ったところで、闇は尽きぬのだ。よみじの外へは出られぬのだ。

大宝庫

光、光、光、と、ただそのことばかり思いつめていると、ふっと、天の啓示の様に、わしの頭に閃ひらめいたものがある。

わしは、少年時代の不思議な記憶を思い浮べたのだ。

十七歳の時であった。わしは父の棺を送って、この穴蔵へ来たことがある。その時坊さんが、穴蔵の中で経を読んだ筈だ。何の光で読んだのだろう。そうだ、そうだ。あの時は奇妙な外国渡りらしい燭台しょくだいが、棺の前に立っていた。あれはお寺のものでない。わしの家うちのものだ。その癖わしは、あんな奇妙な燭台を家の蔵の中で一度も見たことがない。とすると、若しやあれは、いつもこの墓穴の中に置いてあるのではなかろうか。きっとそうだ。きっとそうだ。

あの燭台があれば、ひょっとしたら、蝋燭ろうそくの燃え残りがないとは云えぬ。

わしは、この一縷いちるの望みに奮い立った。今度は無見当に走り廻るのではない。壁を伝って、注意深く、穴蔵の中を一周して見ることにした。

わしはもう、ドキドキしながら、まるで富籤とみくじでも抽ひく様な気持で、ソロソロと歩き出した。そして、穴蔵を半周したかと思う頃、冷い金属の棒が手に触れた。

わしの嬉しさを察して下さい。あったのだ。燭台があったのだ。しかも、その上の蝋燭立てには、三本の燃え残りの蝋燭まで揃っていたではないか。

わしは夢中になって、惶あわただしく袂たもとに手をやった。いつもそこにマッチが入っているからだ。ところが、アア、何ということだ。神様、神様。わしはどうしてこうまで不幸なのだ。

だが考えて見れば、それに気附かず、夢中になって喜んだわしが馬鹿であった。普段着を着て棺に入っている死骸はない。わしは経帷子きょうかたびらを着せられていた。経帷子の袂にマッチなぞが入っている道理がないのだ。

だが、みすみす、蝋燭に触っていながら、たった一本のマッチがない為に、光を見ることが出来ぬとは、あんまりむごたらしい運命ではないか。

わしは腹立しさに、重い燭台を取って、力まかせに地上へ投げつけた。

と、燭台そのものの音の外に、カチャンという軽い物音が聞えた。オヤ、あれはなんだろう。燭台の上に何かのせてあったのではあるまいか。燭台に普通のせるものと云えば……オオ、マッチだ。マッチに違いない。蝋燭に火をつけたマッチを、そのまま燭台にのせて置くのは、誰でもやることだ。

わしは石畳みの地面を這い廻った。暗闇で小さな物を探すのは難しい。だが一念は恐ろしいものだ。とうとうそれを見つけた。イヤ、探り当てた。案の定マッチ箱だ。

わしは震える指で、それをすった。パッと火薬が爆発した様な、恐ろしい火光が目を射た。燭台を立てて、三本の蝋燭に点火した。穴蔵の中が、日の出の様に明るくなった。闇に慣れた身には、まぶしく目を開けていられぬ程だ。

わしはその光で、穴蔵の中を見廻した。壁に沿って十幾つの棺がズラリと並んでいる。皆わしの先祖だ。

だが、お話ししたいのは、棺のことではない。そんな陰気な話ではない。

仕合せは仕合せを呼ぶとはよく云ったものだ。一度燭台という仕合せにぶつかると、それが原因となって、矢つぎ早に第二の仕合せが押しかけ来た。しかもそれは、第一のものに比べて百倍も千倍も、イヤイヤ、恐らく百万倍もでっかい仕合せであった。

蝋燭の光は、さい前わしが破った棺も照らしていた。わしはそれを見た。すると、そのすぐ横に、もう一つ、蓋のとれた大寝棺が転がっているではないか。

オヤ、わしの外にも、生埋になった奴があるのかしらんと不思議に思って、目をこらすと、棺の中には、何やらウジャウジャと入っている。死骸ではない。キラキラ光るものだ。

地面にも、それがこぼれ落ちて、まるで金色の砂の様に、美しく光っている。

わしは「アッ」と声を上げて、駈け寄った。地面の砂金をすくい上げた。棺の中の光る物を手にとった。

金だ。金貨だ。日本のもの、支那のもの、どこの国とも分らぬもの、大小様々の金貨、銀貨、指環、腕環、種々様々の細工物、鹿皮の袋を開けば、目もくらむ宝石の数々。恐らく何十万円という財宝だ。ひょっとしたら、もう一段桁が違うかも知れない。

わしは、フラフラとめまいがした。嬉しいどころか、恐ろしかった。なぜといって、こんな場所に、その様な財宝が貯えてある筈がないからだ。穴蔵の恐怖に耐えかねて、わしの頭がどうかしたのだ。夢を見ているのだ。でなければ、気が違ったのだ。

わしは頬をつねって見た。コツコツと頭を叩いて見た。だが、別に異状はなさそうだ。おかしいぞ。わしの破った棺も、先祖の棺も、石の壁も、ちゃんとそのまま目に映っている。それに、その金貨の棺丈けが幻だとは、どうにも信じられぬではないか。

待てよ。

さっき棺を破った時、何か重いものが落ちた様な地響がしたぞ。それから、バラバラと固いものが頭の上から降って来たぞ。オオ、あれだ。あれがこの宝の棺だったのだ。

と気附いて、見上げると、案の定、壁の上部に棚の様なものがあって、その脚の丸太棒が一本丈け倒れている。

分った、分った。わしが棺から飛び出す勢いで、この丸太をつき倒したのだ。それで棚が傾いて、上にのせてあった宝の棺が落ち、その拍子に蓋がとれてしまったのだ。

こうまで辻褄のあった夢なんて、あるものでない。すると、やっぱり本当かな。それにしても、墓場にこれ程の財宝が隠してあるとは、何とも合点の行かぬことだが……と、ボンヤリ目を動かしていると、ふと注意を惹ひいたものがある。

宝の棺の側面に、一寸角程の、真赤な髑髏どくろが描いてある。それが何か紋章の様な感じなのだ。「紅髑髏」「紅髑髏」オヤ、どっかで聞いた覚えがあるぞ。ハテ、なんであったか。……アア、そうだ。海賊の紋章だ。十何年というもの、官憲の目をくらまし、支那海一帯に暴威を振っている、海賊王、朱凌谿だ。わしはそれを人にも聞き新聞でも読んで覚えていた。

さては、わしの家の墓穴が、あの有名な海賊の宝庫に使用されていたのか。不思議なこともあるものだ。併しかし、考えて見れば、必ずしも不思議ではないて。

いつ捕えられるか分らぬ海賊稼業には、こうした秘密の蔵が必要かも知れない。あわよくば刑期をすませて、その財宝を取出し、後生を贅沢に暮らすことも出来るのだからな。それには自国の支那よりも、日本の海岸が安全だ。しかも、墓穴の中なれば、十年に一度、二十年に一度しか人が入らぬし、入った所で、不気味な場所を、態々わざわざ調べて見るものもない。アア、墓穴を宝の隠し場所とは、流石さすがは賊を働く程の男、よくも考えついたものだ。

愈々いよいよわしの目に間違いはない。わしは生埋にされたばっかりに、巨万の富を手に入れることが出来たのだ。

わしは棺の側に蹲うずくまって、子供の様に金貨を弄もてあそんだ。金貨は皆小袋に入っていたのだが、棺の転落と共に、袋の口が破れて、一面に溢れ出したのだ。わしは丹念にそれを元の袋へ詰め込んだ。そして、まるで子供の様に、一つ二つと算かぞえながら、その袋を取出しては地面に積上げた。総計五十八個だ。しかもその上に、袋をのけた棺の底には、主として日本支那の夥おびただしい紙幣の束が、まるで紙屑の様に押しこんであったではないか。

嬉しさに算えて見ると、日本の紙幣ばかりで三万いくらあった。支那紙幣、金銀珠玉を通計したら、恐らく百万円は下らぬであろう。

餓鬼道がきどう

併し、これは賊とは云え、他人の宝ではないか。大牟田子爵ともあろうものが、賊の盗みためた財産を横取りする訳には行かぬ。そうだ、警察へ知らせてやろう。海賊には恨まれるかも知れぬけれど、これ丈けの財宝を、徒いたずらに埋もれさせて置くのは意味のないことだ。よしよし、それに極めた。

わしは自ひとりで合点しながら、その警察へでも出頭する気か、フラフラと立上って、歩き出そうとした。そして、ハッと我に返った。

馬鹿奴め、何を考えているのだ、警察どころか、一歩だって、この穴蔵から出ることは出来ぬではないか。

「金ならいくらでもやる。助けてくれ」

若もしこれが人里離れた穴蔵でなかったら、一言叫びさえすれば、四方から救いの手が集まって来るだろう。

「わしは、百万円持っている。これをみんなやるから、ここから出してくれ」

若しこの穴蔵に主人があって、わしが監禁されているのであったら、その一言ひとことで、たちまち自由の身となることが出来るものを。

と思うと、巨万の富も、この様な場所では、石ころ同然であることが分って来た。百万金よりも、一片きれのパンの方が有難い。一杯の水の方が望ましいとは、何という変てこな立場であろう。事実、わしはペコペコに腹が減っていたし、痛い程喉が乾いていたのだ。

まるで夢か、お伽噺みたいな、莫大な財宝の発見に、一時は有頂天になった丈けに、それが、ここでは石ころ同然だと分ると、わしは、ガッカリしてしまった。

何という運命のいたずらであろう。失望させて置いて喜ばせ、喜ばせたかと思うと、今度は又もやさか落しに奈落の底だ。その度毎たびごとに、わしの苦しみは、恐れは、悲しみは、二倍になり三倍になって行くのだ。

わしは、百万円の棺に凭もたれて、グッタリとしたまま、長い長い間、身動きもしなかった。他人が見たならば、きっと「絶望」という題の彫刻そのままであろう。絶望の極、智恵も力も抜けてしまったのだ。

と、その虚きょに乗じて、女々めめしい感情が群がり起る。わしの無表情な空うつろの目から、涙ばかりが、止めどもなく流れ出した。

瑠璃子! 瑠璃子! あれは今頃、どうしているだろう。彼女もやっぱり、あの美しい頬に涙を流して、いとしい夫の死を悲しんでいるのかしら。アア、懐しい泣き顔がありありと見える様だ。

瑠璃子! 瑠璃子! 泣くのじゃない。泣いたとて帰らぬことだ。生き残ったお前には、やがて楽しい日が廻って来るだろう。何も泣くことはない。サア、涙を拭いて。笑っておくれ。お前の可愛らしい笑顔を見せておくれ。

アア、瑠璃子が笑った。あの笑顔。百たびも、千たびも、その美しい額に、頬に、唇に、胸に、口づけをしてやり度い。

だが、今は、永遠にそれのかなわぬ身の上だ。わしはよよと泣き伏した。泣いても泣いても泣き足りなかった。

たった壁一重だ。鉄扉一枚だ。その外には、暖かい娑婆の風が吹いている。日も照り月も輝いている。そのたった一重の障害物を突き破り得ないかと思うと、人間の無力がつくづくなさけなくなった。

わしはふと、嘗つて読んだ大デュマの『巖窟王がんくつおう』という小説を思い出した。その主人公のダンテスは、十何年というもの地下の土牢へ押込まれていたのだ。

わしはつい、あのダンテスと自分の身の上を比べて見た。一体どちらが不幸だろう。ダンテスには恐ろしい獄卒ごくそつの見張りがあった。だが見張りがある方がまだしも仕合せだ。ひょっとして、頼みを聞いて、自由を与えてくれまいものでもないからだ。このわしには頼もうにも獄卒がいないではないか。

獄卒がいなければ、三度の食事を運んでくれるものもない。ダンテスは餓死する心配がなかったのだ。従って、あの固い漆喰壁を掘って、気長な脱獄を企てることも出来たのだ。

わしだとて、十日二十日もかかれば、この石壁を掘り破ることも出来るであろう。だが、わしには弁当を運んでくれる人がないのだ。

アア、何というみじめな身の上であろう。あの恐ろしい物語の主人公ダンテスさえ羨ましく思わねばならぬとは。

併し、かなわぬまでも!

わしはふとダンテスの古智を学んで見る気になった。蝋燭を地上に立てて、鉄製の燭台を武器に、石壁にぶつかって見た。わしは、汗みどろになって、泣きながら、唸うなりながら、燭台をふるった。休んでは始め、休んでは始め、一時間程も、石壁と戦った。

だが、アア、何のことだ。わしは蝋燭の尽きることを勘定に入れていなかった。漆喰に五六分程の深さの穴が出来たと思う頃、又しても穴蔵の中は真の闇に包まれてしまった。

手探りでは仕事が出来ぬ。ダンテスには窓の光があったのだ。光もなく、食もなく、どうして仕事が続けられるものか。しかも、石壁は決して一重ではない。厚さ一尺以上もある頑丈なものだ。

わしは、地上へ倒れ伏してしまった。もう泣かなかった。泣こうにも、身体中の水分が、一時間の労働で出尽してしまったのだ。涙の源がかれ果てたのだ。

数時間の間、わしは死んだ様に動かなかった。わしはウトウトと夢を見ていた。甘うまそうに、ホカホカと湯気の出ている饅頭まんじゅうの山を見た。えましげに、わしによりそって来る瑠璃子の姿を見た。なみなみと水をたたえた池を見た。食慾と愛情とが、交互にわしを責めさいなんだ。

やがて、空腹は遂に肉体的な痛みとなって現われて来た。胃の腑ふがえぐられる様に、キリキリと痛み出した。

わしは、しわがれた声をふり絞って、のたうち廻った。死に度い、死に度いと叫び続けた。死にまさる苦しみに耐え得なかったのだ。

では、自殺をすればよいではないか。

事実、わしは自殺を企てた。刃物がないので、例の燭台の先で胸を突こうとした。だが、皆さん。いくら苦しいからと云って、ピストルか、刃物なら兎とも角かく、燭台などで自殺が出来ると思いますか。あんまりむごたらしい話ではありませんか。

わしはとうとう自殺を思い止まった。そして、その代りに、自殺よりも恐ろしいことを考え出した。

アア、わしはこれ丈けは云いたくない。死ぬ程恥かしいのだ。しかし、嘘があっては告白にならぬ。思い切って云ってしまおう。

わしはね、暗闇の中を、燭台を手にして、ノソノソと這い出したのだ。

少し這うと、並んでいる先祖の棺の内一番手前の一つにぶつかった。

それがわしの目的物であった。わしはいきなり燭台をふり上げて、その棺の蓋の上に打ちおろした。一振り、二振り、やがて、メリメリと音がして、蓋の板が破れた。

皆さん、わしは愈々気が違ったのだ。遠い遠い先祖の野獣に帰ったのだ。わしは、その棺を破って、一体全体、何をする積りであったと思います。

肉食獣

わしはとうとう自殺をあきらめた。そして、自殺をする代りに、実に今思い出しても身の毛もよだつ恐ろしいことを考えついた。

昨日もお話した通り、その墓穴の中には、わしの一家の先祖代々の棺が、ズラリと並んでいた。奥の方から順番に並べて行く慣例だから、一番手前の棺が、一番新しい死人を葬ったものに相違ない。

わしは、十七歳の折父の葬式に列したきり、この墓穴へ近づいたこともないけれど、ここへはわしの分家のものなども、埋葬されることになっていたから、一番手前の棺には、存外新しい死骸が入っているかも知れぬ。エエと、わしの親戚で、ごく最近なくなったのは誰であったか。

オオ、そうだ。分家の娘のお千代が死んでいる。分家といってもわしの家とは永らく仲たがいになっていて、日頃余り行来をせぬけれど、墓場丈けは、先祖からのならわしで、ここへ葬ったのをちゃんと覚えている。

それを知ると、わしはもう、耐らなくなった。本当に腹の減った気持を知らぬみなさんには、この時のわしの喜びを想像することは出来まい。まさか、なんぼなんでもと、みなさんはきっと顔をしかめるだろう。

だが、浅間しいことに、わしはニヤニヤと笑い出したのだ。肉食獣が獲物を見つけた時の様に、我を忘れて、鼻をヒクヒクさせ、舌なめずりを始めたのだ。

わしは金属製の燭台を握ると、ゴソゴソとその新しい棺の方へ這い寄って行った。どうして蓋をこじ開けたのか、もう無我夢中であった。

わしは、ムチムチと肥え太った、若い娘の肉体を幻に描いていた。それが非常な魅力で野獣の食慾をそそった。わしは恐ろしい肉食獣になり果てていたのだ。

蓋をこじ開けると、片手をさし入れて、中を探り廻った。先ず指に触れたのは、冷い房々とした髪の毛であった。わしはもう、喉をグビグビ云わせながら、嬉しさに夢中になって、その髪の毛を握りしめ、グイと持上げようとした。

持上げようとした拍子に、わしは力余って、うしろへ倒れてしまった。髪の毛の根元には何にもなかったのだ。肉が腐って、抜け落ちたのであろうと、更らに手を入れて探って見ると、いきなりゴツゴツした固いものに触った。なで廻して見ると、乾き切った頭蓋骨だ。洞穴ほらあなの様な二つの眼窩がんかだ。唇のないむき出しの歯並だ。

胸にも腹にも、カラカラの骨の外には、柔かいものは少しもない。肉も臓腑も、蛆虫うじむしの為に食い尽され、その蛆虫さえ死に絶えてしまったものであろう。

アア、その時のわしの失望はどれ程であったろう。若い娘のふくよかな肉体を幻に描いて、夢中になって、僅かに残っていた最後の精力を使い果してしまったのだ。絶望の極、もう身動きをする力もなかった。棺の中へ手をさし入れたままの姿勢でグッタリとなってしまった。だが今から思うと、それがわしにとっては非常な仕合せであった。

あの時、棺の中に少しの腐肉でも残っていたら、わしはきっと、その蛆のわいた人肉を、手掴みにして、ムシャムシャやっていたに違いないからだ。人として人の肉を啖くらう。世にこれ程罪深く、浅間しいことがあるだろうか。わしはもう、ただそれ丈だけの理由で、二度と世間に顔を曝さらす勇気が失せてしまったであろう。

併しかし、それはあとになって考えること、当時は心がひもじさで一杯になって、良心もなにも、どっかへ押し出されてしまっていたので、仕合せに思うどころか、絶望の極、メソメソと泣き出したものだ。泣いたとて、もう涙も流れぬ。声も出ぬ。顔の筋肉を出来る丈けしかめて、泣いている表情をするばかりだ。

暫くは、そうしてグッタリとなっていたが、何となくあきらめ切れぬ心が湧いて来た。人間の生きようとする執念深さはどうだろう。わしは又燭台を握って立上った。筋肉に立上る丈けの力が残っていた訳ではない。ただ生きよう生きようともがく本能力が、わしを動かしたのだ。

わしは最早や人間ではなかった。野獣でさえもなかった。謂わば胃袋のお化けであった。不気味にも執拗なる食慾の権化であった。

どこからあの様な力が出たのであろう。わしはまるで機械の様に、順序正しく、十幾つの棺を、蓋をこじ開けては中を探り、こじ開けては探りして行った。若しや、何かの間違いで、その中に新しい死人の棺が混っていはしないかと念じながら。

だが、無論、それは空頼みに過ぎなかった。どの棺も、どの棺も、中にはカサカサにくずれ干からびた骸骨ばかりであった。

そうして、わしはとうとう、墓穴の一番奥の棺に達した。恐らくこれが、この呪わしい洞窟を考案した先祖の棺であろう。蓋を開いて見るまでもない。骸骨に極きまっている。わしはよっぽど開かないで置こうかと思った。併し、わしの執念は、理性を超越して、自動機械みたいに依怙地いこじになっていた。わしは、その最後の棺さえもあばき始めた。

あとになって考えて見ると、その棺の中に眠っていた、異国風の墓地を考案した先祖の霊が、この様なむごい目を見せた詫び心に、気力の尽きたわしを励まして、その最後の棺に導いてくれたのかも知れない。

若もし一つ手前の棺であきらめてしまって、最後の棺を開かなんだなら、わしはこうして、仮令たとい牢獄の中にもせよ、今まで生き永らえていることは思いもよらなかったであろう。その最後の棺が、わしの救主であった。

わしは棺の蓋をこじ開けた。イヤ、こじ開けたのではない。この棺丈けは、不思議なことに燭台の先を、ちょっと当てたばかりで、釘が打ってないのかと思う程、手答えもなく、易々と開いた。わしはどうせ骸骨に極っているとあきらめ果てた気持で、片手を中にさし入れ、探り廻して見た。

ところが、いくらなで廻しても、どうした訳か、中には何もないのだ、骸骨は勿論、棺の底さえガランドウで、どこまで行っても手先にぶつかる物がないのだ。

わしはギョッとして、思わず手を抜き出すと、そのままじっと身をすくめていた。この棺には確に底がないのだ。底がないばかりか、その下に漆喰の床も、土さえもないのだ。気がつくと、棺の上によりかかったわしの顔へ、下の方から、冷い風がソヨソヨと吹き上って来る。

思考力の衰えていたわしは、急にはその意味を悟ることが出来なかった。棺の底がなくて、下から風が吹いて来るという、不思議千万な事実が、わしを怖がらせた。若しや、本当に気が違って、こんな不合理な錯覚を感じるのではあるまいかと、我身が恐ろしくなった。

だが、間もなくチラッとわしの頭に閃いたものがある。海賊朱凌谿は、あの宝物をどうしてこの墓穴の中へ運び込んだかという疑問だ。正面の扉は特別の鍵がなくては開く筈がないし、四方の壁は、どこに一箇所隙間もない。

どこかに彼等丈けの知っている秘密の通路がある筈だ。アア、どうしてわしは、今までそこへ気がつかなかったのであろう。早くその秘密の入口を探せばよかったのだ。

イヤイヤ、探したとて、見つかる筈がない。先祖のお導きがなかったら、永久にこの通路を探し当てることは出来なかったであろう。それにしても、何という巧な思いつきだ。棺の底を掘って、秘密の出入口を拵こしらえて置くとは。上から見たのでは何の異状もないのだから、わしの様な特別の場合の外ほかは、先祖の棺をあばく不孝者はない筈だ。随って、賊のこの秘密の出入口は永久に安全なのだ。流石さすがは海賊王、実にうまいことを考えたものではないか。

わしが今日、こうして皆さんにお話が出来るのも、全く海賊朱凌谿のお蔭だ。彼が作って置いてくれた抜け穴のお蔭だ。

わしのその時の嬉しさを察して下さい。絶望の極、神を呪い、自殺さえしようとしたわしだ。苦しみがひどかった丈けに喜びも亦また大きかった。

わしはもう自由の身だ。いとしい妻にも会える。親友の川村と話をすることも出来る。元の楽しい生活がわしを待っているのだ。わしは余りの幸福に、何だか嘘みたいな気がして仕方がなかった。夢ではないかしら。夢ならさめるな。この歓喜のあとで、もう一度絶望が来たら、わしはたちどころに死んでしまうだろうから。

わしは嬉しさに、ガタガタ震えながら、両手を棺のふちにかけて、中のほら穴へ足を入れ、ソッと探って見ると、あった、あった、土を掘った階段の様なものに足の先が触った。もう間違いはない。わしは愈々いよいよ助かったのだ。

白髪鬼

棺の底の階段を降りて、真暗な狭いトンネルを這って行くと、ポッカリ山の中腹へ抜出すことが出来た。入口は灌木の茂みに覆われ、外からは全く気づかれぬ様になっている。

先ず頬に当るは吹馴染の海の風だ。その風を懐しく吸い込みながら、茂みを分けて這い出して見ると、中天に皎々こうこうたる月が懸り、見おろす海面には、美しい銀波が躍っている。サテは夜であったか。有難い有難い、この異様な経帷子の姿を、人に見られなくても済み相だ。

それにしても一体何時頃かしら。町の方を眺めると、燈火がイルミネーションの様に美しく輝いている。ザワザワと盛り場を歩く人声さえ聞える様だ。まだ宵の内に違いない。

小山の麓に、糸の様な小川が、月の光に、チロチロと輝きながら流れている。アア、水だ。今こそ幻でない本物の水にありついたのだ。

わしは転がる様に、小山を下って、小川の縁へ這い寄った。何という美しい水だ。何という冷い水だ。何というおいしい水だ。

両手で掬すくうと、手の中で月が躍った。わしはその銀色の月もろとも、甘露の様な水を飲んだ。掬っては飲み掬っては飲み、胃袋が冷たく重くなる程、何杯でも何杯でも飲んだ。

あきるまで水を飲むと、わしは両手で口を拭きながら、川縁にシャンと立上って、遠く町の火を眺めた。

アア、何たる歓喜! わしは今こそ、元の大牟田子爵に返ったのだ。美しい瑠璃子の夫なのだ。才人川村の友達なのだ。そして町第一の名望家として、市民の尊敬を受ける身の上だ。

わしは嘗つて、地獄岩から落ちるまでの、新婚生活の二年間を、この世の極楽だと云ったけれど、今の喜びに比べては、あんなものは何でもない。あれが極楽なら、今の気持は極楽の極楽の極楽だ。

わしは中天の月に向って、胸一杯の歓喜の叫びを上げた。嬉しさに、何かしら怒鳴らないではいられなかったのだ。神様許して下さい。墓穴の中で、あなたを呪ったわたしの罪を許して下さい。神様はやっぱりわたしを見守って下さったのだ。オオ、神様、わたしはあなたに、何と云ってお礼を申し上げたらよいのでしょう。

サアこうなると一刻も早く瑠璃子の顔が見たい。あれはわしが生き返ったのを見て、どんな顔をするだろう。いつもの笑顔を十倍も嬉しそうにくずして、いきなりわしの胸へ飛びついて来るに違いない。そして、わしの頸くびを両手でしっかりしめつけて、嬉し泣きに泣き出すことだろう。それを思うとわしはもう、胸がワクワクして来るのだ。

併し待てよ。まさかこの身なりでも帰れまい。町の古着屋で兎も角着物を着換えて行くことにしよう。それから食事だ。邸やしきに帰るなり妻の前でガツガツ飯を食うのも、極りが悪い。服装をととのえた上、どこか場末の小料理屋でコッソリ腹を拵こしらえて帰ることにしよう。

妻に何遠慮があろう。経帷子で帰るのが世間体が悪ければ、使をやって、妻に着物を持って迎えに来させればよいではないか。みなさんはそうお考えなさるかも知れぬ。理窟はそれに違いない。だが、わしは恥かしながら妻に惚れていたのじゃ。腹が減って痩せおとろえ、土まみれの経帷子の姿では、どうにも逢いたくなかったのだ。せめて湯にでも入って、髭でもあたって、日頃の大牟田子爵になって帰り度かったのだ。

わしは、そう心を極めると、もう一度墓穴に取って返し、例の海賊の財宝の中から、日本の紙幣を少しばかり抜き出して、それをふところに入れて、町の方へ歩き出した。

仕合せなことには、わしは町の入口で、一軒のみすぼらしい古着屋を発見した。

いきなり、ツカツカとその店へ入って行くと、薄暗い電燈の下で、コクリコクリ居眠りをやっていた老主人は、ハッと目を覚し、わしの異様な姿を見て、あっけにとられた体だ。

白木綿の経帷子は、襦袢じゅばんだと云えば、それでも通る。わしは舟からおちて、着物を濡らして困っているのだと、妙な云い訳をして、古着を売ってくれる様に頼んだ。

海岸の古着屋には、そんな客が間々あるものと見え、相手はさまで怪しまず、一枚の古袷ふるあわせを出して呉くれた。

「それはお困りでしょう。一時の間に合せなら、この辺の所で如何いかがでしょう」

わしはその着物を見ると、情なくなった。

「なんぼ何でも、それじゃ、あんまり地味すぎるよ」

と云うと、亭主は妙な顔をして、ジロジロわしを眺めていたが、

「アハハハハハ、地味じゃございませんよ。あなたのお年配なれば、丁度この辺の所がお似合いです」

わしはそれを聞くと、びっくりした。古袷は五六十の爺さんの着る様な縞柄しまがらだ。それがわしに似合いだとは、あんまり失敬な云い草ではないか。

よっぽど叱り飛ばしてやろうかと思ったが、この親爺おやじがあんなことを云う所を見ると、ひょっとしたら墓場の中の苦しみで、わしの相好そうごうが変り、年寄りじみて見えるのかも知れぬと気づいたので、鏡はないかと尋ねると、土間の突当りに古ぼけた姿見が懸っているのを、教えてくれた。

わしは何気なくその鏡の前へ歩いて行って、そこに映る我姿を眺めると同時に、ゾッとして立ちすくんでしまった。

鏡に映っているのは、わしではない。見るも恐ろしい怪物だ。わしは、若しやどこかにその様な怪物が立っていて、それが鏡へ映っているのではないかと、思わずあたりを見廻したが、無論誰もいる筈はない。

わしは試しに右手を上げて、頭に触って見た。すると、どうであろう。鏡の中の怪物も、同じ様に手を上げたではないか。アア、その怪物こそわしの変り果てた姿であったのだ。

二つの洞穴の様に、物凄く落ち窪くぼんだ目、痩せ衰えて、頬骨が飛び出し、醜い筋だらけになった、むごたらしい容貌、そこへ持って来て、何よりもゾッとするのは、日頃自慢の濃い黒髪が、一本残らず銀線を並べた様な白髪はくはつに変っていたことだ。何のことはない。地獄の底から這い出して来た、一匹の白髪しらがの鬼だ。子供が見たら泣き出すであろう。町を歩いたら、往き来の人が逃げ出すであろう。アア、この恐ろしい白髪の鬼が、わしの顔であろうか。

思い出されるのは、昔ナイヤガラの大瀑布だいばくふを、小さな鉄製の樽に入って流れ下った男の話だ。莫大な賭金を得る為の命がけの冒険であった。彼は首尾よく滝を下って、賭金をせしめたが、瀑布の下流で、救いの舟に拾い上げられた樽の中から、ヘトヘトになって這い出して来た男を見ると、人々はアッと驚きの叫声を立てないではいられなかった。ついさっき滝の上流で樽へ入る時までは、房々ふさふさとした赤毛の若者であったのが、滝を落ちる一瞬間に、すっかり、白髪になってしまっていたからだ。

世の常ならぬ恐怖が、瞬く間に人の髪を白くする一例として、わしはその話を読んだことがある。

それだ。わしの場合がやっぱりそれなのだ。あの墓穴の中での、わしの苦悶恐怖は、決して決して、ナイヤガラを飛下った男のそれに劣るものではない。実に歴史上に前例もない様な、恐ろしい経験であった。相好の一変したのも無理ではない。髪の毛が真白になってしまったのも尤もっともだ。

それにしても、アア、何という情ない姿であろう。これが昨日までの大牟田子爵その人かと思うと、あまりのみじめさに、泣かずにはいられぬのだ。

さっき墓穴を抜出した時の喜びは、忽たちまちにして、底知れぬ絶望と変ってしまった。わしはこの顔で、この姿で、瑠璃子に対面する勇気はない。彼女は一目見てあいそをつかすだろう。イヤ怖がって側へよりつかぬかも知れぬ。仮令又、彼女の方ではあいそをつかさずとも、この醜い老人が、あの美しい瑠璃子の夫として、平気で同棲していられるものか。それでは、あれがあんまり可哀相だ。わしが鏡の前に立ったまま、いつまでもじっとしているものだから、古着屋の主人はもどかしがって、

「お客さん、どうですね。この袷じゃ気に入りませんかね」と声をかけた。

わしはハッとして我に返って、どぎまぎしながら、

「いいとも、丁度わしに似合いだよ。それで結構だよ」

白髪の老人が、あの縞柄を地味だと不平を云ったかと思うと、わしは気恥かしくなって、泣き出し度い様な気持で答えた。

主人から古袷を受取って、経帷子の上に重ね、序に帯も一本出して貰って、それを締めると、わしはもう一度鏡の前に立った。まるで刑務所から放免されて、差入れ屋で着換えをしたという恰好だ。アア、この姿では、どんな親しい友達だって、わしを大牟田子爵と思うものはあるまい。川村でも、妻の瑠璃子さえも、よもやこの老人がわしだとは見破り得まい。

わしはふと試して見る気になって、老主人に尋ねた。

「お前さん、大牟田子爵をご存じかね」

すると老人は、やっぱり以前のわしを知っていたと見え、

「知らないでどうしましょう。元の殿様の若様ですからね。大変評判のよい方でしたが、惜いことをしました」

と答えた。

「惜いことと云って、どうかなすったのかね」

わしは何食わぬ顔で尋ねて見た。

「地獄岩から落ちて、おなくなりなすったのですよ。あなたは他国の方と見えますね。それとも新聞をごらんなさらないのですか。それは大変な騒ぎでしたよ」

「ヘエ、そうかね。で、そのなくなられたのは、いつのことだね」

「今日で五日になります。アア、ここにその日の新聞が取ってあります。これをごらんなされば、詳しく分りますよ」

老人は云いながら、一枚の地方新聞を取って呉れた。見ると驚いたことには、三面の半分ばかりわしの記事で埋っている。妻と並んで写した大きな写真ものっている。アア、何ということだ。わしの死亡記事を、わしが読んでいるのだ。しかも、そこにはわしの写真がデカデカとのっているのに、古着屋の主人は、その写真の主がこのわしであることを、少しも気づかぬのだ。こんな不思議な境遇が又と他にあるだろうか。

わしは悲しかった。イヤ、あんまりみじめな我が境遇が、おかしい位だった。

「ですが、大牟田さんも、今お死になすったのが、結句仕合せかも知れませんよ。永生ながいきすれば奥様が奥様ですからね。いいことはありますまい。このわたしと同じ様に、世をはかなむ様なことになったかも知れません」

主人は、何か述懐めいたことを云って、商人にも似合わずうちふさぐ様子だ。

わしはそれを聞くと、実に異様な感じがした。聞捨ききずてならぬ言葉だ。

「奥様が奥様とは何の事だね、エ、御主人」

わしは強しいて何気ない声で聞返した。

「高い声では申せませんが、大牟田の若様は申分のない方でしたが、それに引きかえ、奥様の方は、どうもちと、……」

と言葉をにごす。

奥様とは云うまでもなく、我が妻瑠璃子のことだ。あのいとしい瑠璃子を「奥様がどうもちと」とはけしからぬ云い草だ。こいつ気でも違ったのではないかと、腹立しく思ったが、先を聞かねば、何となく気になるものだから、

「奥様がどうかしたのかね」

と尋ねると、主人は待ってましたと云わぬばかりに喋り出す。

「どうもせずとも、あの美しい顔がいけないのです。男の目には、天女の様にも見えましょうけれど、天女だって油断が出来ませんからね」

益々ますます異様な言葉に、わしはもう目の色を変えて、

「それはどういう訳だ。お前さん何か知っているのか」

と主人につめよった。

アアこの老人、我が妻瑠璃子について、抑そも何を語ろうとするのであろう。

恐ろしき笑顔

「あの笑顔がくせ物ですよ。私の家内も丁度あんな風な笑い方をしたものです」

と古着屋の主人は益々妙なことを云い出す。

「お前さんのお神かみさんがどうかしたのかね」

「家内ですか。家内は私がこの手で殺してしまったのです」

亭主は薄暗い電燈の下で、影の多い顔を不気味に歪めて陰気な口調で答えた。

わしはギョッとして、相手の顔を見つめたまま二の句が出なかった。

「ハハハハハハ」主人は力なく笑って「イヤ、驚きなさることはありません。私は人殺しですが、もうちゃんと年貢を納めて来たものです。前科者ですけれど決して悪者じゃございません。敵討かたきうちをしたまでです。私に煮湯を呑ませた女房の奴に復讐をしてやったまでです」

「復讐?」

わしは思わず、ひからびた様な老主人の顔を眺めた。

「ハハハハハハ、笑って下さい。私は若かったのです。もう二十年の昔話です。今なら決してあんな真似はしやしません。あの時分は、この老いぼれの胸にも、若々しい血が燃えていたのです。お恥しい身の上話ですが、世間様も皆御承知のことだ。別に隠すにも当りません。懺悔ざんげ話です。聞いて下さいませ」

妙なきっかけから、わしは老主人の恐ろしい身の上話を聞くことになった。あとで分ったのだが、古着屋の親爺は、誰彼の見境もなくこの懺悔話を始めるので、近所でも評判の変り者であった。

老人の話をかいつまんで云うと、二十年以前、彼がまだ三十代の壮年であった頃、彼の美しい女房が情夫を作って、夫の留守を窺っては、その男を引入れていることが、ふとしたことから分った。

そこで彼は、その日旅に出ると偽って、姦夫かんぷ姦婦かんぷが媾曳あいびきをしている現場を押え、いきなり用意の短刀で、男を一突きに突き殺してしまった。

「女房の奴、それを見ると、何だかえたいの知れぬわめき声を立てて、私に飛びかかって来ましたが、手向いでもするのかと思うと、そうではなくて、卑怯な奴ではありませんか、例の嬌態で私にあまえて、自分丈だけ命を助かろうとするのです。

その時のあいつの顔! アア、今でも目に見える様です。恐れの為に飛出した両眼、青ざめひき歪んだ顔、それでいて、無理に笑おうとするのです。艶なまめかしく笑いかけて、私をなだめようとするのです。笑えば笑う程、見るも気の毒な泣き顔になるのです。

あいつは冷い手で、私の首に抱きついて、ほんとうはあんたが一番好きなのよ。忘れて――忘れて! 堪忍して! とうわずった声で、わめく様に云うのです。

併しかし、なんで私がその手に乗りましょう。私はあいつをはねのけ、姦夫の血に染まった短刀を、まだ温い血がダクダク流れている短刀を、女房の顔の前につきつけて、サア、これがお前の色男のかたみだ、生涯お前の肌身を離れぬ様に、ふところへ入れてやる。と云いながら女房の胸へズブリと突き刺したのです。ハハハハハハ」

老主人は乾いた低い笑い声を立てた。

「私はすぐ様自首して出ました。そして、刑期を勤め上げて、やっと二年前に娑婆へ出て来たのです。前科者の素性は、隠していても、いつとはなく知れ渡るものです。それと分ると今まで挨拶をしていた人も、向うから顔をそむけて通る様になります。親戚なども見向いてもくれません。友達もなく、女房は勿論、一人の子供もないのです。

何の生甲斐もない身の上です。一層死んだがましだろうと、自殺を思立ったことも度々たびたびありますが、今もって死にもえせず、こうしてしがない暮しを続けて居ります。旦那、本当に女は悪魔ですよ。大牟田さまなども、あの奥方を持っていれば、末にはこんなことになるのだと、私は蔭ながら御気の毒に思って居おった様な訳ですよ」

わしはこの恐ろしい身の上話を聞いて、何とも云えぬいまいましい気持になった。人もあろうにその様な姦婦と、あの無邪気な瑠璃子とを比べるなんて、こいつ失敬千万な気違い親爺だ。

「だが、お前さんのお神さんが、そんな悪い女だったからといって、何も大牟田の奥方をそしることはなかろう。噂に聞けば瑠璃子夫人は、非常に貞節な方だというではないか」

と、わしがとりなすと、親爺はかぶりを振って、

「ところが、どうして噂と真実とは大変な違いです。私は丁度あの日町を通りかかっていて、バッタリ大牟田様の葬式の行列にぶッつかったのですが、物のはずみで、奥方の乗っている車の梶棒が私の腰にあたって、私はそこへ転がされてしまったのです。行列の側そばにウロウロしていたのが悪いと云えばそれまでですが、老人としよりが倒れたのを見れば、一言位挨拶があっても然るべきではありますまいか。車夫は気の毒そうに私を見て、車を止めようとした位ですが、奥方は、あの美しい顔でニッコリ笑って、車を止めさせず、そのまま行ってしまいました。

私が倒れて、痛さに顔をしかめているのを、車の上から見おろして気味がいいとでも云う様に、ニッコリ笑ったのです。アア、あの笑顔。私はゾッとしました。私の女房も丁度あの通りの笑顔をする癖があったのです。まるで女房の幽霊に出会った様な気がしたものです」

老主人は云いながら、さもさも恐ろし相に、身震いをした。

わしはもう、このいまわしい気違い親爺の話を聞くに耐えなかったので、そのまま古着屋を飛出したが、どうも気になって仕様がない。

今まで世間に誰一人瑠璃子を褒めぬ人はなく、一点非のうち所もない女だと信じていたのに、この様な社会の下層階級に瑠璃子を罵ののしる敵があろうとは、実に思いもよらなかった。

「ナアニ、そんな馬鹿なことがあるものか、気違いだ。あいつは気違いなのだ。瑠璃子に限って、外の男に思いを寄せる様な、そんなみだらなことがあってよいものか」

と一笑に附したつもりでも、何とやら気がかりで仕方がない。

「エエ、いまいましい。つまらぬ話を聞いてしまった。早く邸へ帰ろう。帰って瑠璃子の笑顔を見れば、そんな気がかりなんか、忽たちまちふっ飛んでしまうのだ。サア、早く帰ろう」

わしはもう、空腹もなにも忘れ果てて、よろめきよろめき邸へと急いだ。衰えた足がもどかしい。羽があれば飛んでも行き度い思いだ。あいにくなことには、その辺に人力車くるまも見当らぬ。わしは、今にもぶっ倒れ相な身体を、妻見たさの気ばかりで、ひきずる様にして歩いて行った。

二重の殺人

町の端から端まで歩いたとて、高の知れた小都会のことだから、半病人のわしにも、程遠からぬ邸にたどりつくのに、さして暇はかからなかった。

来て見ると、大牟田邸の表門はピッタリと閉され、昼の様な月光が、大きな檜ひのきの扉を白々と照らしていた。門内には何の物音もなく、如何いかにも主人を失った喪中の邸といった感じだ。瑠璃子は、定めし一間にとじこもって、あの美しい顔を涙にぬらし、わしの位牌いはいとひそひそ話をしていることであろう。アア可哀相に、だが、わしが、生き返ったと知ったら、どんなに喜ぶだろう。きっと泣きわめきながら、わしにすがりついて来るに違いない。

別人の様に変りはてた、わしの姿を見て、さぞかしびっくりするだろう。歎くだろう。しかし、顔や形が変ったとて、あれ程愛し愛された心まで変るものでない。瑠璃子はわしの恐ろしい顔を見て驚きこそすれ、怖がったり、いやに思ったりする筈はない。あれは決してそんな薄情な女ではないのだ。

とは云え、このまま表門から這入ったのでは、あんまり不意打ちだし、この身なりが召使達に恥しい。裏門から庭伝いに瑠璃子の居間に忍び寄り、ソッと障子しょうじを叩いてやりましょう。どんなにびっくりするだろう。そして、どれ程喜ぶことだろう。

わしは高い生垣に沿って裏の方へよろめいて行った。裏に行く程木が茂って、月影をさえぎり、道も分らぬ暗さだ。裏門の戸を押すと、いつもの様に何なく開いた。よく川村が遊びに来て、夜ふかしをすると、この裏門を開けさせて置いて、ここから帰ったものだが、すると、彼は今夜も瑠璃子を慰める為にやって来ているのかしら。

裏門を這入ると、両側にコンモリとした灌木の茂みが並んで、昼も小暗い小径になっている。わしは暑い日など、愛読の哲学書を携え、この小径をさまよって、先哲と物語をした仙境である。

わしは夢の如く現うつつの如く、よろめきよろめき進んで行ったが、小径が尽きて広い庭へ出ようとする所まで達すると、茂みの向側からふと人の声が聞えて来た。

アア皆さん、それを誰の声だったと思います。わしは耳を澄さぬうち、早くも脳天をうちのめされた様に、ハッとして立ちすくんでしまった。

瑠璃子だ。瑠璃子の声だ。五日間の生埋の間あいだ、一瞬たりとも忘れなかった、わがいとしの妻の声だ。

わしは破れ相に高鳴る心臓を押えて、ソッと茂みの間から覗いて見た。

いる。いる。確に瑠璃子。我妻瑠璃子。白っぽい着物を着て、嬉しげに微笑した美しい顔を、惜げもなく月光にさらして、しずしずとこちらへ歩いて来る。

わしは思わず「瑠璃さん」と叫んで、茂みを飛び出そうとした。危い危い。すんでのことで声を立て、姿を現わすところだった。

その咄嗟とっさの場合、うしろからわしを引止めたものがある。人間ではない。わし自身の心が――一種異様な疑いの心が、わしを引止めたのだ。

というのは、夫を失って悲歎に暮ていなければならない筈の瑠璃子が、さも呑気らしく、微笑さえ浮べて、月夜の庭園にわのそぞろ歩きをしているとは、ちと変ではないか。夢にも予期しなかった体たらくだ。

イヤ。待てよ。悲しみが極まると、人は一時狂気に陥ることがある。か弱い瑠璃子は、若しかしたら、わしを失った悲しさに、気でも違ったのではあるまいか。

愚おろかにも、わしはそこまで気を廻した。

気が違ったのなら、いと安いことだ。わしが茂みから飛び出して、しっかり抱きしめてやったなら、嬉しさに、元の瑠璃子に返るは必定だ。

と、わしは隠れ場所から身を現わそうとしたが、その時又も目に留まるは、瑠璃子の側そばに、搦からみつく様にして歩いて来る我が弟、イヤ弟よりもなお親しい、わしの唯一人の親友、川村義雄の姿であった。

川村は一方の手で瑠璃子の手を握り、残る片手を瑠璃子の腰に廻して、夫婦でさえ人目をはばかる程の有様で、さも睦むつまじく歩いて来るのだ。

わしが如何に馬鹿者でも、これを見て、川村と瑠璃子と二人共、気が違ったのだと考える程愚ではない。彼等は愛し合っているのだ。わしが変死をとげたのを幸、不義のちぎりを結んでいるのだ。

皆さん、その時のわしの気持を察して下さい。今でもあのくやしさは忘れられぬ。こうしていても、ひとりでに拳が握られて来る程だ。

アア、こんなことと知ったなら、何苦しんで墓穴を抜け出して来ようぞ。あのまま地中の暗黒界に飢え死んだ方が、どれ程ましであったか知れぬ。穴の中の恐ろしさ苦しさも、今妻の不義を見せつけられた術せつなさに比べては、物の数ではなかった。

あの時、わしの怒りが半分も軽かったなら、わしはきっと、我を忘れて「不義者奴め」と叫びさま、茂みを飛出し、彼等両人ふたりを掴み殺しもしたであろう。

併し、わしの怒りは、その様な世間一般の怒りではなかった。真の怒りは無言である。物云うことも忘れ、身動きすることも忘れ、我身がそこにあることさえ打忘れて、わしは化石した様にほし固まってしまった。

わしは最早人間ではない。怒りの塊であった。彼奴等きゃつらここで一体何をしようというのかと、息もせず、瞬きもせず、静まり返って控えていた。

不義の二人は、誰よりも恐ろしい大牟田敏清が、一間と離れぬ木蔭に身を潜めているとは夢にも知らず、いつかわし達夫婦の為に作らせたベンチに腰をおろし、肌と肌とを押しつける様にして、ひそひそと睦言を交し始めた。まるで夫婦だ。イヤ夫婦よりも親しい情人と情人だ。

わしが隠れている所からベンチまではほんの三尺程しか隔っていない。月光は冴え渡っている。わしの眼には、見まいとしても、彼等の顔の筋肉の一筋までも、ありありと見えるのだ。彼等の低い囁き声も、百雷の様に聞えるのだ。

彼等は子供の様に両手を取り合い、顔と顔とを向け合って、じっとしている。マア何て可愛いんだろうと、お互の顔をあかず眺め合っているのだ。

瑠璃子の顔が丁度真正面に見える。アアあの嬉しげな顔、あの溶ける様な笑顔、わしが死んでから一滴の涙も流さず、顔に悲しみの一筋をもよせなかったことが、一目で分る。

この笑顔こそ、さい前古着屋の主人が云った「悪魔の笑顔」に違いない。だが、何という美しい、あどけない悪魔だろう。生れたての赤ん坊の様に無邪気な、この笑顔の奥に、あの様な悪念が潜んでいようと、どうして信じられるものか。わしは憎みは憎みながらも、嘗ての愛妻の余りの美しさに、ついうっとりしないではいられなかった。

手を取り合って、遠くから見交わしていた二人の顔が、溶ける様に笑みくずれながら、やがて徐々に接近して行った。

川村の顔は見えぬけれど、いやらしく弾んだ息が聞える。瑠璃子は、顔を心持上に向けて、眼を細め、口辺に何とも言えぬ嬌羞を含みながら、花びらの様な唇を、ソッとさし出している。

わしは見るに耐えなかった。だが、見まいとしても、目が釘づけになって、云うことを聞かぬのだ。

四つの唇が固く合わさって離れなかった。

わしはそれを目で見、耳で聞いた。

川村の背広の背中を、両脇から、しなやかな白い指が中心へと這い寄っていた。艶かしき虫の様に、五本の指の関節に力がこもって、がりがりと服地を掻く様にして、両人の呼吸と共に、その指が近寄り、遂に、指と指を握り合せてしまった。

唇を合せながら、瑠璃子の両手が、川村の背中を抱きしめているのだ。

川村とても同様である。彼等は今や、両頭の獣の如く、全く一体になったかと疑われた。

わしはギリギリと奥歯を噛んだ。掌に爪がささる程拳を握った。冷いあぶら汗が額からも、腋の下からも、気味悪く流れた。そしてしゃがんだ身体全体が、おこりでも患った様に、ワナワナ震い出すのをどうすることも出来なかった。

若し彼等の狂態が、もう一秒長く続いたならば、わしは気が違って、前後の分別もなく其場へ躍り出したかも知れない。或は気を失って、そこへ悶絶してしまったかも知れない。

その瀬戸際でやっと彼等は身を起した。そして、激情に目の縁を赤くして、又してもニッと、溶ける様な笑顔を見合わした。

「ねえ、義よっちゃん」

暫くすると、瑠璃子の口の花びらがほころびて、先ず川村を呼びかけた。

たった五日前までは、川村さん、川村さんと呼んでいた相手を、もう義っちゃんだ。一通りの親しさではない。

「ねえ、義っちゃん、あたし達地獄岩に感謝しなければいけないわね。もし、あの岩が割れてくれなかったら、今時分、こんなことしてられやしないもの」

アア、わしの愛妻は、わしの変死を感謝しているのだ。

「フフン、地獄岩なんかより僕を褒めて貰いたいね。あの岩がうまい具合に割れて落たのを、瑠璃ちゃんはまさか偶然だと思っているんじゃないだろう。アア、考えて見ると恐ろしいことだ。僕は君の愛を独占したいばっかりに、大罪を二つも重ねてしまった。僕は二重の人殺しだ。こうまで尽している僕を、君はまさか捨てやしまいね。若しそんなことがあろうものなら、第三の殺人事件が起ることを、覚悟しておいでよ」

川村は、月の外ほかには聞くものもないと気を許し、恐ろしい打開話をしながら、又しても、瑠璃子の背中へ手を廻した。

わしは、それを盗み聞くと、ギクンと、心臓が喉の所へ飛上る様な気がした。アア、わしは怪我で辷り落たのではない。川村のしかけて置いた陥穽かんせいに陥ったのだ。わしは殺されたのだ。一度殺されて再び甦ったのだ。

その下手人は、川村であった。無二の親友として、妻の次に愛していた川村であった。誰のお蔭で紳士面がしていられるのだ。みんなわしが生活を保証してやった為ではないか。その恩義を仇あだにして、妻を盗むさえあるに、このわしを殺そうとは。

アア、わしは妻にそむかれ、友に裏切られ、友の為に殺害され、しかも彼等の手によって身の毛もよだつ生埋めにされたのだ。世の中に又と二つ、かくも残酷な責め苦があるだろうか。恨むが無理か。憤いきどおるが無理か。責め苦が烈しければ烈しい丈け、怒りは深いのだ。怒りが深ければ深い丈け、復讐心は燃えに燃えるのだ。

皆さんは記憶なさるだろう。わしの家は代々恨みを根に持って、いつまでも忘れぬ血筋だ。復讐心の人一倍に強い血筋だ。わしは已すでにして、復讐の鬼に化した。不義の両人をまのあたりにして、掴みかかって行かなかったのは、実にこの根強い復讐心の為であった。その場ですぐ様さまわめきちらす様ような浅い恨みではない。じっとこらえて、徐おもむろに計画をめぐらし、丁度わしが受けたと同じ苦しみを、先方に与えるのが、真の復讐というものだ。

それは兎も角、わしは川村のこの驚くべき告白を聞いて、ギョッとしながらも、やっぱり化石したまま身動きもしなかった。そして、全身を耳にして、次の言葉を待った。どんな些細ささいな一言も、聞きのがすまいと、耳をそばだてた。

彼は今二重の人殺しをした様に言った。一人はこのわしに違いない。もう一人は一体全体何者であろう。わしはそれがひどく気がかりであった。その憐むべき被害者というのは、やっぱりわしの血筋のものではあるまいかと直覚的に感じた。

だが一体誰だろう。わしの知っている限りでは、わしの一族に殺されたものは勿論、最近死亡したものすらない。

事実は正にその通りだ。併し、事実以上の何ものかがわしの心臓を脅かした。誰とも分らぬ、非常に親しいある人の見るも無残に傷けられた、血みどろの幻が、ボンヤリと目の前に浮んで来た。

美しき獣物

皆さん、一つ考えて見て下さい。姦夫姦婦がふざけちらしている現場を、彼等の為に裏切られ、殺されてしまった男が、じっと見ているのだ、こんな残酷な立場が、いつの世、どこの世界にあったでしょう。

わしは、目の前で、いきなり天地がひっくり返る様な驚愕きょうがくにうたれた。三千世界にたよるものもない孤独と悲愁にうちのめされた。わしは殆ど思考力を失って、茫然と立ちつくしている外はなかった。

姦夫姦婦の私語は綿々として尽きなかった。聞くまいとしても、その一語一語が、毒の針の様にわしの鼓膜に突き刺さった。

「大牟田が死んでしまったのは嬉しいけれど、でもね、義ちゃん、あなた当分の間遠のかなければいけないわ。召使達の口から世間に知れては拙まずいから。ホホホホ、あたしまだ、旦那様の喪中なんですものね」

「フン、それはそうだね。その点では、大牟田が生きている方が仕易かったよ。あいつは他人を追払う二人の番人も同然で、我々の仲を自分も疑わず、知らず知らず他人にも疑わせぬ役目を勤めてくれたのだからね」

「ホホホホホホ、生ている間は、あんなに嫌っていた癖に……」

「無論、あいつがいない方がいいのさ。でなくて、地獄岩に仕掛けなんかするものかね。僕はあいつが君の唇から、絶えず接吻を盗んでいるかと思うと、どんなにいやな気持がしたか知れやしない」

アア、皆さん何という言い草であろう。この世がさかさまになったのか。夫たるものがその妻と接吻するのが、接吻を盗むことになるのか。盗まねば接吻が出来ぬのか。

オイ川村、君を兄弟の如く愛していたこのわしを、貴様は盗賊の様に思って交っていたのか。

貴様は幸福そうだな。邪魔者のわしをなきものにして、さぞのうのうしているだろうな。だが、オイ、人非人、その美しい顔を、チョイとねじ向けて、貴様のうしろに息も絶え絶えに怒り悲しんでいる白髪しらがの鬼を一目見ないか。どんなことがあろうとも、この恨みを返さずに置くものかと、復讐の一念に燃えるわしの目を見たら、にやけ男奴め、貴様は余りの恐ろしさに気を失って倒れてしまうかも知れまいぞ。

それから長い間、ベンチに腰かけた二人は、わしの復讐心をはぐくみ育て、油をそそぎ、燃え立たせる為の様に、痴話痴態の限りを尽した。わしは怒りの像の様にほし固まって、じっとそれを聞いていた。見ていた。どんな些細ささいな動作も、どんなつまらない一言も、わしは今に至るまで一つ残らず覚ている。だが、それをくどくど喋っていては、皆さんも飽きるだろう。姦夫姦婦の睦言はこれ位にして、話を先に進めよう。

さて、一時間程も楽しい睦言を続けていた姦夫姦婦は、やがて手を引きつれて屋内へと帰って行った。そして、間もなく、以前はわしと瑠璃子の寝室であった西洋館の窓に、パッと明るい光がさした。黄色いブラインドに黒い影法師が二つ。云わずと知れた瑠璃子と川村だ。

わしはもうこれ以上彼等の痴態を見るに耐えなかった。恐ろしかった。だが、恐ろしければ恐ろしい程、わしの足は、その場を立去りはしないで、却かえって、抜足さし足彼等の影法師へと近づいて行った。

影法師は、みだりがわしき影芝居の様に、ついたり離れたりして、わしの頭をかき乱した。

わしは歯ぎしりをしながら、こぶしを握りしめながら、窓へと近づき、浅間しくもブラインドの隙間から、寝室の中を覗き込んだ。

そこで何を見たかは云うことが出来ない。皆さんの御想像に任せる。二匹の世にも美しいけだものが、絵の様にもつれ合っていたのだ。

心は醜いけだものの癖に、彼等の顔や身体の輝くばかりの美しさはどうだ。愛らしさはどうだ。そんなにされても、わしには、瑠璃子が日本一の美人に見えた。相手の川村義雄もそれに劣らぬ美しい男だ。天は何ぜなれば揃いも揃った極重悪人に、かくも美うるわしき肉体を附与し給うたのであろう。

彼等の美しさに引かえて、窓の外から覗いていたわしは、まるで別世界の生物のように、醜く、恐ろしく、みじめであった。アア何ということだ。悪人共のこの美しさ、お人好し過ぎる程善人なわしのこの汚さ。

やがて、わしは浅間しさにガタガタ震え出した。美しきけだもの共の歓喜がわしを気違いにしたのだ。わしは声なき声を上げて泣いた。闇の大空に拳をうち振って、じだんだを踏みながら、神を呪った。

朱凌谿

その翌日、わしは長崎通いの定期船に乗り込んで、S市を離れた。

一夜を泣き明かし、呪い明かし、考えあかして、わしは遂に復讐の大決心を立てたのだ。

悪人共は悪人なるが故に、益々美しく、愈々幸福だ。わしは善人なるが故に、益々醜く、しかも不幸のどん底に突きおとされた。こんな不合理なことがあるものか。最早もはや神も頼むには足らぬ。わしはわしの力で彼等に天罰を加えてやるのだ。それも、決して並々の天罰ではない。

ただ彼等を罰するのなら、ちゃんと国家の法律というものがある。わしは裁判所に申出て、彼等を罰し、わしの財産を取戻すことが出来るのだ。

だが国家の刑罰というものは、如何なる極重悪人に対しても、なるべく痛くない様に首を絞めて、くびり殺すのがせいぜいだ。それ以上の刑罰はない。わしが墓穴の五日間に味った様な、僅な日数の間に漆黒の頭髪が一本残らず白髪しらがになる様な、そんな残酷な刑罰があるものではない。

それではわしの心がいえぬ。わしは先祖代々の気性通り、受けた丈けの苦しみを、先方に返さないでは承知が出来ぬのだ。目をくり抜かれたら、わしもまた相手の目の玉をくり抜き、歯を抜かれたら歯を抜いて返さないでは、この胸がおさまらぬのだ。

わしは姦夫姦婦の為に、家庭を奪われ、財産を奪われ、容貌を奪われ、命まで奪われた上、あの地底の墓穴での、歴史上に前例もない様な、むごたらしい生地獄の責苦を味あじわわされた。これが国家の刑罰などで、つぐなわれてたまるものか。

わしは自分でやるのだ。神も頼みにはならぬ、法律も不満足だ。思う存分この敵かたきをとる為には、わしが自身で計画し、自身で実行する外ほかはない。

わしは最早人間ではない。人間大牟田敏清は死んでしまったのだ。残っているのは復讐の一念ばかりだ。文字通りわしは復讐の鬼となり終った。復讐鬼にはこの恐ろしい白髪の老人が何と似つかわしいことであろう。

わしは夜明け前に、再びあの墓穴に忍び込んで、朱凌谿の宝庫の中から、持てる丈けの金貨紙幣を取り出して、風呂敷包にし、それを携え長崎通いの船に乗った。よくも勘定出来なかったが、大凡おおよそ二十万円もあったであろうか。外に宝石類も幾つか風呂敷包の中へ忍ばせて来た。

他人の財宝とは云え、相手は盗賊だ。しかもわしの家の墓地で発見したものだ。気はすまぬけれど、返せというものもなかろう。それに私慾で盗むのではない。天に代って復讐の使命を果す為に借用するのだ。侠盗朱凌谿もわしを許してくれるであろう。

長崎に上陸すると、市内第一の洋服店で、出来合ではあったが、最上等の洋服を買い求め、なお附近の雑貨店でシャツ類、帽子、靴、鞄に至るまで取揃え、上流紳士の身なりをととのえた。

身なりが出来ると、わしはその日の内に上海行きの大汽船の一等船客となった。

上海では第一流のホテルを選んで宿泊し、ボーイなどにも充分の祝儀を与えて、贅沢な部屋を借り受けた。南米帰りの大金持で、日本への帰途、この地に立寄ったというふれ込みだ。

名前も大牟田ではない。里見重之さとみしげゆきと改めた。これはわしの母方の親戚に実在した人物で、家柄は仲々よかったのだが、非常な貧乏で、親族つき合いも出来ぬ所から、わしの子供の時分奮発をして単身南米に渡り、それ切り音信が絶えて、彼の地で死亡したと信じられている人だが、それは実は死んだのではなくて、莫大な財産を作り上げ、故郷へ帰って来たという筋書である。里見重之には兄弟もなく、その家は跡が絶えて、位牌などもわしの家の仏壇に飾ってあった程だから、生きていて帰って来たといっても、誰一人怪しむものはない訳だ。

ホテルの部屋が極きまると、先ず第一に上海一と言われる洋服裁縫師を呼び寄せて、数着の贅沢な着替えを註文した。それから鞄に一杯の大金を銀行に持参して、里見重之の名で預け入れた。

さてこれからは、わしの姿を変える仕事だ。わしの容貌や声音から、大牟田敏清の影を完全に追い出してしまう仕事だ。

無論わしは昔日の大牟田敏清ではない。いつか古着屋の親爺が、わしを前に置いて、他人のことの様にわしの噂をしたのでも分る様に、変り果てた白髪の老人だ。のみならず、わしは已に死亡して、葬式まで行われた人間だ。誰もわしを大牟田子爵のなれの果てと疑うものはないかも知れぬ。

併しそれは、一般世人に対してのこと。我妻瑠璃子、我親友川村義雄をあざむくには、用心の上にも用心をしなければならぬ。彼等の心に少しでも疑いを起させては、折角のはかりごとも水の泡だ。

そこでわしは、頬から顎にかけての特徴を隠す為に、口髭と顎髯をのばすことにした。髭も頭程ではないが、殆ど白くなっていたので、それをのばせば、わしの健康が恢復して、顔の肉づきがよくなったとしても、まず見破られる気遣いはない。

だがただ一つ心配なのは、最もよく個性を現わす両の目だ。しかもわしの目はごらんの通り人並より大きくて、一度見たら忘れられぬ様な特徴を持っているのだ。瑠璃子や川村には、この目丈けでわしを見分けるに充分であろう。これを何とか隠す工夫をしなければならぬ。よしよし、黒眼鏡をかけることにしよう。南米の暑い日に照らされて眼病にかかり、直接日の光を見るに耐えぬといってごまかせばよい。

わしは眼鏡めがね屋に命じて、金縁の大きな黒眼鏡を作らせ、それをかけて鏡に向って試して見たが、これならば大丈夫だ。髪を見れば七十にも近い老人だが、皮膚がそれ程でもないから、まず五十前後の中老人という年配だ。殊に黒眼鏡が顔全体を、何となく不気味な相好に見せているのもお誂え向きだ。

さて、形はこれで整ったが、次には、声や言葉つき、その他平常ふだんの振舞も、出来る丈け変えてしまう必要がある。一体わしは日本人にしては喜怒の色に現われ易いたちで、一寸ちょっとしたことにも大袈裟に嬉しがったり、悲しんだりする方だが、先ずこれを改めなければならぬ。すぐに心を顔に出す様では、復讐の大事業がなしとげられるものではない。

で、わしは声も陰気な含み声にし、言葉の訛りも変え、態度は出来る丈け冷淡に、物に動ぜぬ練習を始めた。

芝居を見ても、小説を読んでも、さもさも退屈らしく、「ナアンだこんなもの」という顔をする様に力つとめ、人に物を云うにも出来る丈け簡単に、形容詞や間投詞を省いて、ぶっきらぼうに云う様にした。

えらいもので、そうして十日二十日とたつ内には、わしは以前とは打って変った、無感動な陰気臭い男になって行った。勿論これは練習丈けではなく、生きながらの埋葬というあの大苦難を経て、その上復讐の悪念にこり固った為に、自然と心の底から、かたくなな陰気な性質に変って来たものに違いない。遂には、初めの内はチヤホヤしたボーイ達まで、「あんな気難しい客はない」と蔭口を利く程になった。

サア、これで愈々いよいよ里見重之の仕上げが出来たと云うものだ。故郷のS市へ帰って大復讐に着手する時が来たのだ。一ヶ月あまり上海滞在中、練りに練った復讐計画を実行に移す時が来たのだ。

だが、この地を出発する前に、一つ丈けして置くことがある。それは大牟田子爵の親族の里見重之が、二十何年ぶりで、故郷に帰るという前ぶれだ。それについては、うまい思案があった。わしは九州のある大新聞の編輯局にいる、旧大牟田領の家臣であった男に当てて高価な贈物と共に一通の手紙を送った。

首を長くして待っていると、わしの計画は美事みごと図に当って、間もなくその新聞の社会面に、麗々しく、大体こんな風な記事が掲載された。

「近頃羨むべき成功美談がある。その主人公は旧S藩主大牟田子爵家の親族で里見重之という人物であるが、今から二十余年前単身南米に渡航し、其後杳ようとして消息を絶った為に異郷に死せるものと信じられていたが、実はあらゆる艱難辛苦かんなんしんくを嘗めて大身代を作り、余生を楽しく送らんが為に、莫大な財産を携えて帰って来た。途中上海に立寄り、今は同地××ホテルに滞在中であるが、近日S市に帰って永住の計を定めるとの事故ことゆえ、知ると知らざるとを問わず、交際社会の人々は双手そうしゅを上げてこの大成功者を歓迎することであろう」

という様な意味であった。その記者は、掲載紙二部に、鄭重な挨拶の手紙をつけて、わしのホテルへ送って来たものだ。

この新聞記事は意外の利目があった。S市は勿論附近の名のある人々から、喜びの手紙を送って来るものもあり、旅館商店などの案内状も舞い込んで来た。わしは習い覚た冷淡な態度で、そんな手紙に驚きもせず、極ごくあたり前のことの様に、平然として読み下し、平然として屑籠くずかごに投げ込んだ。

ただ少々不満であったのは、当の瑠璃子から何の反響もないことだが、こちらから手紙をやった訳ではないのだから、新聞記事を読んでも例の負け嫌いで、態とそしらぬ振りをしているのかも知れない。それとも、川村との逢う瀬に忙しくて、新聞に目を通す暇さえないのであろうか。

だが、そんなことはどちらでもよい。瑠璃子から挨拶状がこないからといって、わしの計画には何の影響もないことだ。

さて準備はすっかり整った。愈々明日にもこの地を出発しようかと思っている所へ、実に意外な事件が降って湧いた。

午後のことであったが、お茶を持って来た給仕が何か非常に昂奮した様子で、

「旦那大変です」

というのだ。

わしは例の口調で少しも驚かず、

「騒々しいじゃないか。大変とはどうしたのだ」

と聞返した。

「この先の公園で、海賊が捕われたのです。大変な騒ぎです」

「ハハハハハ、賊が捕われるのは当り前の話だ。わしはそんなものに興味はない」

「イイエ、それが大変な賊なのです。旦那もご存知でしょう、ホラ例の有名な朱凌谿が捕まったのです」

朱凌谿と聞くと、流石にわしもびっくりした。今ではこの大賊とわしとは、満更まんざら他人でないのだ。イヤ、それどころか、わしの命が助かったのも彼のお蔭、こうして復讐事業に着手出来たのも、彼の盗みためた財宝があったればこそだ。

仮令よそながらにもせよ、一目彼の姿を見て、この恩を謝し度いものだ。わしはそう思ったので、すぐ様公園へ行って見た。

公園は黒山の人だかりであった。見るとその群集の中に、一際目立つ大男が支那警官に縄尻を取られて、こちらへ歩いて来る。如何にも海賊の首領らしい面魂だ。関羽かんうの絵を見る様にいかめしい頬髯を生やし、濃い眉の下にギョロギョロした目を輝かせ、口は一文字に結んで、悪びれもせず、群る見物を睨み廻している。服装は胸に紋章のついた立派な支那服であった。

彼の周囲まわりには、賊の風采に比べて甚だ見劣りのする警官達が十数名、帯剣の柄を握って警戒している。

朱凌谿は、不敵の面魂で群衆をねめ廻しながら、悠然と歩いて来たが、ふとわしの顔を見ると、ハッとした様に足を止めて、異様に目を輝かせ、わしの本性を見破ろうとでもするかの如く、鋭くわしの顔を睨にらみつけた。

無論朱凌谿がわしを見知っている筈はないのに、この異様な凝視は一体何が為であるか。わしは薄気味悪くなって、その場を立去ろうと思っていると、賊はじっとわしを見つめたまま、突然太い声で、しかも流暢りゅうちょうな日本語で叫んだ。

「オオ、お前の姿は実によく変っている。俺の目でも見破ることが出来ぬ程だ」

わしはこの異様な怒鳴り声を聞くと、脳天をぶちのめされた様なショックを感じて、思わず顔を赤らめ、身がすくんでしまった。「お前」というのは無論わしのことに違いない。彼の目は刺す様にわしの黒眼鏡を見つめているのだから。

アア、何という恐ろしい奴だ。この海賊は、誰知るまいと思っていた、わしの大秘密を、たった一目で見破ってしまったのかしらん。

奇妙な遺産相続

だが、警官も群集も、日本語を解せぬらしく、又賊が群衆の内の誰に話しかけたのかも分らぬらしく、

「何だ、何だ。どうしたのだ」

と怪しむばかりだ。

警官の隊長とも覚しき人物が、朱凌谿の肩をこづいて、何か支那語でペラペラ怒鳴った。賊の不謹慎を叱ったのであろう。

すると賊はやっとわしの顔から目をそらし、さりげない体で空を眺めながら、

「オイ、お前は実にうまく姿を変えたなア。俺もそんな変装が出来たら、ムザムザと捕まることもなかっただろう。併し今となっては仕方がない。お前はもう大丈夫だよ。外ほかのものは皆夫々それぞれ他国へ逃げたから、こうして逢えるのはお前一人だ。俺が所刑されたら、あとを弔とむらってくれよ」

と、やっぱり日本語で独言の様に呟いた。

わしは益々気味が悪くなった。賊はわしが彼の財宝を盗みとったことを知っているのかも知れない。それで、こんないやみを云っているのかも知れない。

だが待てよ。彼の口ぶりでは、どうやらわしを手下の一人と思い込んでいるらしいぞ。でなくて、あとを弔ってくれなんて頼む筈がない。日本語で話しかけたのは、海賊のことだから、部下の内にも、日本語に通じているものが多く、わしにもそれが分ると思って、警官や群集の手前、他国の言葉を使ったものに相違ない。

とすると、このわしの変装姿に、何か彼等一味のものと見誤る特徴でもあるのだろうか。わしは思わず、自分の服装を見廻した。そして、忽ち思い当る所があった。

真珠だ。わしのネクタイ・ピンについている稀代きだいの大真珠だ。

それは、わしが例の墓穴の棺の中から持出して来て、当地でピンに作らせたもので、茄子型なすがたをしたすばらしい大真珠であったが、その辺の宝石商などは滅多に持合せていない逸品で、光沢つやといい形状かたちと云い、一目見たら忘れられない様な宝石であったから、朱凌谿はこれを見て、早くも彼の盗み貯めた品であることを悟り、それを身につけているからには、わしは彼の手下の一人に違いないと信じ込んでしまったのだ。そこで、流石の彼も、わしの変装の巧さに、感嘆の声を漏らさないではいられなかったのだ。

だが、実はわしは賊の手下でもなんでもないのだから、彼にわしの本性が見破れぬのは当り前のことである。

わしがそんなことを考えている間あいだに、警官達もやっとそこへ気がついたと見え、何かペラペラと喋りながら、見物達を一人一人うさん臭く眺め廻した。あとで人の話を聞いて分ったのだが、彼等は、

「誰か紅髑髏の印をつけた奴が、この中にまぎれ込んでいるに違いない。探せ探せ」

と怒鳴っていたのだそうだ。警官達は無論「紅髑髏」が海賊一味の記号であることを知っていたのだ。

だが、賊がわしを見分けたのは「紅髑髏」でなくて、ネクタイ・ピンの真珠によったのだから、いくら探したとて、分る筈がない。

わしはもう、愚図愚図していて掛り合いになっては大変だと思い、コッソリその場を立去ろうとしていると、わしの頸筋へギョッとする様な賊の怒鳴り声が降りかかって来た。

「コレ曲者、ここへ来い。俺はまだ貴様などに欺あざむかれる程耄碌もうろくはしないぞ」

恐らくわしの顔は真青に変ったに相違ない。ハッと立ちすくんだまま、動けなくなってしまった。

賊は空を睨んだまま、さもくやしげに怒鳴りつづける。

「俺は人の物を盗むけれど、貴様の様に持主の留守を窺い、こっそりと盗む様な卑怯な真似はしない。昼日中ひるひなか堂々と押しかけて、相手の鉄砲がわしを狙っているその前で、物を盗む。力ずくの戦いだ。盗むのではない。力ずくで奪うのだ。サア、けちな盗人奴め、ここへ来い。貴様に言い聞かせることがある」

流石名を売った賊程あって、云うことが大きく、芝居がかりだ。併し、わしはそれどころではない。愈々運の尽きだと、震え上ってしまった。

賊は誰も返事をせぬものだから、癇癪かんしゃくを起して、又怒鳴りつけた。

「コレ、そこに隠れている奴。取って食おうとは云わぬ。貴様の好きな俺の女房からことづけがあるのだ。サア、ここへ出て来い。山田、ビクビクしないで、ここへ来い」

オヤ変だぞ、わしを山田という手下と間違えているのかしらんと思いながら、ふとかたわらを見ると、わしから二三人向うに、支那服を着た日本人らしい男が立っている。その男がいやな笑いを浮べて、ソロソロと朱凌谿に近づいて行くではないか。

さてはこの男が山田という日本人で、賊に呼びかけられていたのかと、わしはホッと安堵の胸をなでおろした。朱凌谿の部下には各国の人種が混っていて、中に数名の日本人も加わっていると聞いていたが、この山田という男は多分その一人なのであろう。

山田は賊の前に進んで、

「オオ泥棒さん、とうとう捕ったね。貴様なんかに聞くことはないが、あんまりうるさいから出て来てやった。サア云うことがあれば早く話せ。俺は逃げも隠れもしないのだ」

と、さも憎々しげに云い放った。

朱凌谿は近づいた山田の姿を見、その声を聞くと、満面朱しゅを注いで、いきなり相手の顔に、パッと唾をはきかけた。

「畜生ッ」

山田は憤怒して飛びかかろうとする。警官達は、言葉は分らぬながら、スワ一大事と駈け寄って、彼を制し止めた。

「ワハハハハハハ、貴様俺に手向う気か。やれるならやって見ろ。俺はこの通り縛られて自由の利かぬ身体だが、ナアニ、貴様の様な卑怯者の一人や二人、蹴殺すのは訳もないぞ」

賊は先ず一喝して置いて、ひるむ山田をねめつけながら、喋り出した。

「コレ人非人。貴様は俺の手下の癖に、俺の女房を口説いて手に入れようとしたな。女房がウンと云わぬものだから、俺をなきものにすれば思いがとげられると考え、首領を裏切って、警察の奴等を俺の隠れ家に案内し、この通り俺を捕えさせたのだ。それ位の事が分らぬ俺だと思うか。

オイ、山田、貴様さぞ満足だろうな。政府の奴からは褒美を貰うし、俺の女房は天下晴て口説けるし。……だがな、オイ、俺の女房が貴様みたいな人非人になびくと思っているのか。女房のルイズは目色毛色の変った他国の娘だが、貴様みたいな人非人ではないぞ。サア、なびくかなびかぬか、これからルイズの所へ行って見るがいい。あれは定めし美しく化粧をして貴様の来るのを待っているだろう。身体中紅べにに染って、胸には美しい短剣を突き立てて、貞女の死顔を貴様に見せ度いと云っていたぜ。これがあいつのことづけだ」

「ア、貴様、それじゃルイズさんを殺したんだな」

山田は思わず唸った。

「なんの俺が殺すものか。あいつは俺と別れた上に、貴様なんかに手ごめになる位なら、死んでしまう方がましだと云って、俺の目の前で自害をしたのだ。海賊の女房だって操みさおというものは心得ているのだ。サア、早く行って見るがいい」

それを聞くと、山田は真青になって、その場に居たたまらずコソコソとどこかへ立去った。

わしはこの有様を見て、実に何とも云えぬ感慨にうたれた。山田の振舞は、日本人の面汚しで甚はなはだ不愉快だったが、朱凌谿の態度は、賊ながら流石に立派なものだ。殊にその妻のルイズという女が、あだし男をはねつけて、夫に殉じゅんじて自害したというのは、何と見上げた心持であろう。見れば山田という男は、朱凌谿に比べて年も若く、のっぺりとした美男子であったが、若し賊の妻がルイズでなくて、瑠璃子であったらどうだろう。果してこの様な見上げた振舞が出来たであろうか。と思うと、わしは何とも云えぬいやあな気持になった。そして、あのいまわしい姦夫姦婦の俤おもかげが、憎々しくわしの頭に浮上った。

それはさて置き、賊が罵ののしったのは山田という手下であったことは分ったが、その前に「お前の姿は俺にも見破れぬ」と感心したのは、山田ではなくて、確たしかにわしのことであった。此上また賊から何か云いかけられては困る。早く立去るに越したことはないと、朱凌谿の方を眺めたところが、賊の目は又わしの顔に釘着けになっていることが分った。しかも、何か物云いたげに、しきりと目配せをしているではないか。

エエ、いっそのこと、大胆にわしの方から賊に近づいてやれ。そうした方が却かえって警官達の疑いをはらすことが出来ようと、わしは、ポケットから四五枚の紙幣を取出して、ソッと警官に握らせ、習い覚おぼえた簡単な支那語と手真似とで、少しこの男と話をさせてくれと頼んで見た。

警官はジロジロとわしの風体を眺めていたが、物好きな紳士もあるものだという様な顔つきで、不承不承に許してくれた。当時の支那巡査なんて、袖の下次第で、大抵のことは融通を利かしてくれたものだ。

「わたしに云い残すことがあるなら、聞いて置きましょう」

わしは、彼の手下かどうか、どちらとも解釈出来る様な曖昧な調子で話しかけた。

「フン、分らん。どうも分らん。その黒眼鏡を取ればきっと分るのだがなあ。併しまあいい。その眼鏡はこんな場所で迂闊うかつにもはずせまい。それよりはお前に聞き度いことがある。お前あの秘密を知っているだろうな」

賊は周囲まわりに気を配りながら、グッと声を低めて尋ねた。

秘密とは何のことか、彼の手下でないわしには分る道理がない。察するに、賊はこの一言でわしが真の手下かどうかを試そうとしているのだ。危い危い。

だが、わしはふとあることを思いついたので、大胆に云って見た。

「知ってます。大牟田の墓穴でしょう」

すると、賊はさも満足の体で、

「よしよし、もう云うな。あれを知っているからには、お前は確に俺の味方だ。あれをあのまま地の底で腐らせてしまうのは惜しいものだと思っていたが、お前が知っていればそれでいい。ソッと取出して、お前の勝手に使ってしまえ」

賊のこの一言で、わしは彼の大資産を口ずから譲り受けた訳だ。もう何の気兼ねをすることもない。わしはあの無限の財宝を、大復讐の費用として、思う存分使うことが出来るのだ。わしは余りの嬉しさに、思わず相好がくずれ相になるのを、やっとのことで食いとめた。

「だが、あんまり巧くばけているので、どうも俺には分らぬ。お前は一体誰だ」

賊は又小声になって、恐ろしい質問を発した。

「名前を云わなくても、わたしの外にあの秘密を知っているものはないのだから分っているじゃありませんか」

わしは実に大胆不敵な返事をしたものだ。

「ウン、そうか。俺も多分お前だろうと思っていた」

仕合わせにも、賊は少しも疑念を抱かず、しきりと肯うなずいて見せた。

その内に立話が余り長引くものだから、しびれを切らせた警官が、わし達を引分けて、賊を連れ去った。わしはホッと胸なでおろして、遠ざかり行く海賊大首領のうしろ姿をぼんやり眺めていた。

さて、その翌日、わしは愈々上海をあとにして、故郷のS市へと出発した。上海滞在の一ヶ月半に、練りに練った復讐計画によって、憎むべき姦夫姦婦の上に世にも恐しき地獄の刑罰を科する為に。

わしの復讐計画がどの様に戦慄すべきものであったか。わしは果して、姦夫姦婦に見破られることなく、この大事業を為しとげることが出来たであろうか。

皆さんは、わしが瑠璃子を溺愛し、彼女の美しい笑顔の前には、何の抵抗力もない無能力者同然であったことを記憶されるであろう。そのわしが、その瑠璃子を敵に廻して、うまく目的を果し得たであろうか。

わしの懺悔話はこれから眼目がんもくには入いる訳だが、今日はもうくたびれたから、この続きは明日にしましょう。

アア、一つだけ申して置き度いことがあります。わしは昨日きのうの話の終りに、川村義雄が二重殺人罪を犯したことを、一寸ほのめかして置いた。彼の殺人罪の一つは、このわしを殺したことで、これは云うまでもなく分っているが、もう一つの殺人罪とは、一体何を指すのであろう。被害者はそもそも何者か。という御不審がおありじゃろうと思う。

今日はそこまでお話する時間がなかったけれど、そのもう一人の被害者というのは、実に意外な人物で、わしはS市に帰って暫くしてから事の真相を確めることが出来たが、それが又、わしの復讐事業に思いがけぬ手だてを与えてくれることになった。姦夫姦婦を苦しめる絶好の手段となったのじゃ。

川村の第二の殺人とは抑々そもそも何であったか。わしの今迄の話をよく吟味すれば自然分って来ることじゃが、それについては、間もなくお話する時が来るだろう。

五つのダイヤモンド

さて、わしはS市に上陸すると、市中第一等の旅館Sホテルに宿を取った。そして、べら棒な宿料を奮発して、いつも高貴の方がお泊りになるという三部屋続きの洋室を占領した。南米で大金儲けをして帰った、成金紳士里見重之という振込みだ。

さて、宿が極きまると、先ず着手しなければならぬ仕事が三つあった。第一は姦夫姦婦と懇親を結び、大復讐のいとぐちを作ること。わしは、わしがされた通りを、彼等にして返さねばならぬのだから、それには彼等の甘心かんしんを得て、無二の親友となることが何よりも必要であった。

第二は、住田医学士と懇意になる事だ。皆さんは住田医学士の名を覚ていますかね。ホラ、わしの妻瑠璃子が身体中に妙な腫物が出たといって、Y温泉のわしの別荘へ湯治に行っていたことがある。その時瑠璃子を見ていたY町の医者が住田医学士なのだ。なぜそんな医者と懇意になる必要があったか。それには深い仔細がある。やがて皆さんに分る時が来るだろう。

第三は、忠実なる一人の従者を傭入れ、色々復讐事業の手伝いをさせることであったが、これは到着早々、ホテルの支配人の世話で、恰好のものを手に入れることが出来た。志村という元刑事巡査を勤めたこともある三十男で、使って見ると、極ごく正直な上に、仲々探偵的手腕もあって、実に適当な助手であった。

無論志村にわしの身の上や復讐のことを打開けはしなかった。わしは非常な変り者で、理解し難い命令を下す様なこともあろうが、それを少しも反問せず、唯々諾々いいだくだくとして遵奉じゅんぽうするという約束で、その代り給金は世間並の倍額を与えることにした。

志村を傭入れて一週間もすると、わしは彼を大阪へやって、奇妙な品物を買求めさせた。当時日本に幾つという程珍らしかった実物幻燈機械――皆さん御存知じゃろう、生きて動いている蜘蛛くもなら蜘蛛が、そのままの色彩で、畳一畳敷程の大きさに写る、あの不気味な幻燈機械だ。もう一つは、大きなガラス壜の中にアルコール漬になっている、嬰児の死体――どこの病院にもある、解剖学の標本だ。一体全体、何の目的でそんな不気味な品々を買い求めたか。皆さん、試みに推量してごらんなさい。フフフ……。

ところで、話は少し先走りをしたが、元に戻って、Sホテルに着いた翌日のことだ。わしはホテルの談話室で、運よく姦夫の川村義雄を捕えることが出来た。イヤ、そればかりではない、もっと意外な人物にさえ会うことが出来た。が、まず順序を追ってお話しよう。

Sホテルの談話室は、S市上流紳士が組織するクラブの会合場所になっていた。クラブ員達は夕方そこへやって来て、球を撞ついたり、カルタを弄もてあそんだり、碁を囲んだり、煙草の煙の中で世間話にうちくつろいだりするのだ。

その夕方何気なく、わしが談話室へ入って行くと、広い部屋の向うの隅で、雑誌を読んでいる男が、ギョット「ギョット」はママ目についた。外ほかならぬ川村義雄であった。仇敵との初対面。わしは心を引きしめて、黒眼鏡めがねの位置を直した。

見ると川村奴め、以前に引かえて、なかなか立派な服装をしている。二月ばかり見ぬ間に、男ぶりも一段と立ちまさって、どこやらユッタリと落ちつきが出来ている。悪運強く、わしの財産と、美人瑠璃子を我物として、すっかり満足し切っている証拠だ。あの立派な洋服も、どうせ瑠璃子が拵えてやったものに極まっている。と思うと、わしは今更の様に、はらわたが煮え返った。

わしは川村の傍らのソファに腰を卸して、部屋の中をアチコチしていた一人のボーイをさし招いた。

「オイ、君は大牟田子爵を知っているだろうね。あの人はこのクラブの常連ではないのかね」

わしは、川村に聞える様に、大声で尋ねた。

「ハ、大牟田の御前様は、二月余り前、おなくなり遊ばしました。飛んだ御災難でございました」

ボーイはわしが当の大牟田子爵と知る由よしもなく、わしの死にざまを手短に話して聞かせた。

「フン、そうか。それは残念なことをした。わしは大牟田子爵とは子供の時分の馴染なじみでね、あれと面会するのを楽しみにしていたのだが……」

聞えよがしに残念がって見せると、案の定川村の奴わしの手に乗って、見ていた雑誌を置き、わしの方に向直った。

「失礼ですが大牟田子爵のことでしたら、僕からお話申上げましょう。僕は子爵とは非常に親しくしていた川村というものです」

川村奴めわしの顔をジロジロ見ながら、自己紹介をした。無論、わしの正体が見破られるものではない。奴のことだ、何となく裕福らしい紳士につき合って置いて損はないと考えたのであろう。

「そうですか。わしは二十年も日本を外に暮して、やっと昨日この地に帰って来た、里見重之と申すものです。大牟田敏清とは親戚の間柄で、あれの父とごく親しく行来していたものですよ」

わしは例の老人らしい作り声で、落ちついて答えた。

「アア、里見さんでございましたか。よく承知致して居ります。いつ御帰りなさるかと、実は心待ちにしていた位です。子爵夫人も、このことを伝えましたら、定めしお喜びでしょう。瑠璃子さんとは、度々たびたびあなたのお噂をしていたのですから」

川村は例の新聞記事を読んでいたと見えて、この白髪の成金紳士にさも親しげな口を利いた。

「エ、瑠璃子さんといいますと?」

わしは小首を傾けて見せた。ナニ知らぬものか、わしの帰郷の最大目的は、過去の妻瑠璃子の息の根をとめることであったのだもの。だが、大牟田敏清ならぬ里見重之は瑠璃子を知ろう筈はない。

「イヤ、ご承知ないのはご尤もです。瑠璃子さんといいますのは、なくなった子爵の夫人で、当地の社交界の女王といってもよい方です。若くて、非常に美しい方です」

「ホウ、そうですか、大牟田はそんな美しい奥さんを持っていたのですか。わしも是非一度御目にかかって、故人のことなどお話ししたいものですね」

「如何いかがでしょう、一度子爵邸をご訪問なさることにしては? 僕ご案内致しますよ。瑠璃子夫人はどんなに喜ばれるでしょう」

「イヤ、それはわたしも願う所です。併しかし、まだ旅の疲れもあり、永年の異国住いで、貴婦人の前に出る用意も出来て居りませんから、訪問は二三日あとに致しましょう。併し、その前に、川村さん、あなたに一つご厄介を願い度たいことがありますが、承知して下さるでしょうか」

「何なりとも……」

「イヤ、別に難しいことではありません。わたしは実は、あちらで買い溜めた少しばかりの宝石を、大牟田へ土産として持ち帰ったのですが、当人が死んだとあれば、それを、さし当り奥さんへのお土産にしたいのです。大牟田が生きていたところで、宝石などは、さしずめ奥さんの装身具となる訳ですからね。ところで、ご無心というのは、その宝石を、あなたから夫人に届けて頂き度いのですが、どんなものでしょうか」

「オオ、そんな御用なら、喜んでさせて頂きますよ。宝石好きな瑠璃子さんの笑顔を見る役目ですもの、誰だってこんなご用を辞退する者はありませんよ」

川村の奴、宝石と聞くと目を細くして、ホクホクものだ。瑠璃子への贈り物とあれば、恋人の彼にとって、我が財産がふえるも同然なのだから、ホクホクするのは無理もない。

わしはそうして姦夫川村と話しながら、同じ談話室の向うの椅子に、誰かと話し込んでいる一人の人物を、目の隅で捕えていた。何という幸運だろう。わしは少しも労せずして、川村に逢い、今又この人物を発見するとは。

「川村さん、あの向うの椅子に前こごみになって話し込んでいられる紳士は、どなたでしょう。わしは何だか、あの横顔に幽かな見覚がある様に思うのですが」

わしは川村の顔色を注意しながら、尋ねて見た。すると案の定、彼はいやな顔をして、

「あれは、住田という医学士です、近頃Y温泉の方から町へ出て開業している男です」

と不承不精に答えた。

「アア、お医者さんですか、それに住田という名前は記憶にありません。人違いです」

口ではそう云いながら、わしはこの住田医学士に近づき度くてウズウズしていた。それには川村がいては邪魔になる。こいつには、土産の宝石を持たせて、早く追帰すに如しくはないと考えついたので、わしは川村をわしの部屋へ誘い出し、用意の小凾こばこに納めた宝石を手渡しした。

「拝見しても差支ありませんか」

すると、川村奴め目を光らせて尋ねるのだ。

「いいですとも、どうかごらん下さい。お恥しい品です」

わしの言葉が終らぬ内、彼はもう小凾の蓋を開いていた。そして、一目その中の宝石を見るや、アッとばかり感歎の叫び声を発した。

「この大きなダイヤモンドを、五つともみんなですか。みんな瑠璃子さんへの贈物ですか」

「そうです。智慧のない贈物で恐縮しているとお伝え下さい」

わしは事もなげに答えたが、この高価な贈物には、川村ならずとも驚かずにはいられぬだろう。わしは予め上海の宝石商に見せて大体の値頃を鑑定させたところ、五つで三万円なら今でも頂戴するとの答えであった。いくら二十年振りの帰朝者とは云え、妻でもない女に三万円の贈物とは、少し大業だが、姦夫姦婦にわしの成金振りを見せびらかす為には、この位の奮発はしなければならぬ。

ちょっとした土産にもこれ程のことをするわしの全財産は、一体まあどの位あるのだろうと、川村の奴定めしたまげたことであろう。彼奴きゃつ等の度胆を抜くのがわしの目的なのだ。

そこで、川村は宝石の小凾をしっかり抱えて、コロコロと喜んでホテルを立去った。

これでよし、これでよし、仇敵川村と瑠璃子の両人に懇意をむすぶいとぐちはついたと云うものだ。

奇妙な主治医

さて次に住田医学士の番だ。

わしはそそくさと元の談話室に取って返し、きっかけを作って住田と言葉を交し、先ずホテルの食堂で一献いっこん、それから住田の案内で町でも有名な日本料理屋へと、車を飛ばすまでにこぎつけた。見ず知らずの男と旧知の如く酒を汲くみ交すなんて、以前の大牟田敏清には迚とても出来ない芸当だが、一度地獄を通って来たわしは、最早もはや昨日のお坊ちゃんではなかった。

わしは相手の程よく酔った頃を見はからって、話を大牟田子爵の愛妻瑠璃子のことに落して行った。何かと話す内、住田は果してわしの謀はかりごとに乗って、Y温泉湯治時代の瑠璃子について喋りはじめた。

「妙なことがありますよ。僕には名を隠していたけれど、あとで聞いて見ると、あれは確に大牟田子爵夫人でした。夫人は身体に妙な腫物できものが出来たといって、温泉の別荘へ来て居おられた。それは確です。僕はその変名婦人の主治医ということになっていました。それも確たしかです。ところが里見さん、不思議なことには、主治医の僕は一度だって夫人の病気を見舞ったことはなかったのですよ。ハハハ……、何と不思議じゃありませんか……」

さては、さては、大牟田子爵ばかりではない、この住田医学士さえ瑠璃子の身体を見ることを禁じられていたのだな。

「それでね、これもあとから分ったことだが、子爵が心配をされてね。僕を訪ねて、色々と奥さんの容体を聞かれたのだが、僕の返事はいつも一つです。大分およろしい様です。間もなく御全快でしょう。とね。ハハハ……」

酒の為に異様に饒舌になった医学士は、前後の考えもなく喋るのだ。

「では、あなたは、無報酬の主治医を勤めた訳ですか」

「どういたしまして、僕は主治医としての謝礼は決して辞退しなかったですよ。僕は奥さんを診察するというのに、奥さんの方で見せないのですから、仕方がないじゃありませんか。それに、川村画伯の事を分けてのお頼みもありましたしね」

川村と聞いてわしはギョッとしないではいられなかった。やっぱりそうだ。瑠璃子の奇病の蔭には川村奴めの悪智慧が働いていたのだな。アアわしは何という馬鹿者だったろう。

「ホウ、川村画伯というと、若もしや川村義雄君のことではありませんか。大牟田の親友だったという」

わしはさりげなく聞き返した。

「そうです、そうです。あの川村さんです。あの人が僕に頼むのです。この方は、さる良家の奥さんだが、身体のおできをひどく恥かしがっていられる。それを、旦那様に見せるのが、いやさに、こうして湯治とうじに来ているのだ。併し、旦那様にはお医者の診察を受けている体ていにして置かないと、迚とてもやかましいので、甚はなはだ御迷惑だけれど、名前丈だけの主治医になってくれ、そして若し旦那様から容体を尋ねに来る様なことがあったら、よろしく答えて置いてくれ。という注文なんです。奥さんは見ず知らずの開業医にさえ、醜い肌を見せるのはいやだと、駄々だだをこねたんですね。美人という奴は実に難儀なものではありませんか。ハハ……」

アア、住田医学士も大牟田子爵に劣らぬ馬鹿者だ。彼は医者の癖に、まんまと瑠璃子の口車に乗ってしまったのだ。

腫物だって? ハハ……、なんて恐ろしい、でっかい腫物だったろう。

わしは、上海シャンハイ滞在中にその事を考え抜いて、やっと一つの結論に到達したのだ。皆さんは瑠璃子のY温泉への転地療養がたっぷり半年もかかった事を記憶されるだろう。しかもその三月程前まで、わしはチフスで入院していた。その入院期間が又殆ど三ヶ月であった。通計すると約十二ヶ月の間、わし達の夫婦生活が妙な具合になっているのだ。

わしは幾度も指を折って数えて見た。そしてとうとうある恐ろしい秘密を感づいた。この長い別居生活と、いつかの晩川村と瑠璃子とが囁いていたもう一つの殺人と結びつけて見て、わしはゾッとしたのだ。瑠璃子をY温泉へやることを、わしに勧めたのは川村だったではないか。しかも今住田医学士に聞いて見ると、医師が瑠璃子を診察せぬ様に説きつけた男が、やっぱり川村だったという。これらの一聯の出来事には、偶然なんて一つもなかったのだ。凡すべて凡て姦夫川村義雄の恐ろしい悪智慧の企んだ仕事だった。

住田医学士の言葉を聞くと、もう一刻も我慢が出来なかった。その翌日、わしはY温泉の元のわしの別荘へ行って見ることにした。今頃そこへ行ったとて、何がある訳ではないけれど、あの山の中の淋しい一軒家に、恐ろしい罪悪が隠されているかと思うと、じっとしていられなかったのだ。

地中の秘密

暑い時分だったので、わしは朝早く、一番汽車に乗って、Y温泉地に出掛けたが、ここでまた、思いもかけぬ幸運に廻めぐり合った話だ。墓穴の五日間では、わしをこの様に醜い老人に変えてしまう程残酷であった神様も、流石さすがに可哀相に思召おぼしめしたのか、今度は反対にわしの復讎計画は、実にトントン拍子に進捗しんちょくして行く。神様はわしの恨みを尤もっともに思召、わしの味方をしていらっしゃるのだ。わしは神の御旨みむねに従って、悪人共に天罰を与える使命を担っているのだ。

好運というのは外ではない。そのY温泉行きの汽車の中で、意外な人物を発見したことだ。問題の湯治中瑠璃子に附添って世話をしていた婆やの豊とよが、一人ぽっちで、わしと同じ箱に乗っていたではないか。先方では変り果てたわしの姿を気附く筈はないけれど、わしの方ではどうして見逃すものか。お豊は瑠璃子の里から附添って来た姦婦の腹心の召使なのだ。わしはS市に帰ってからまだ瑠璃子に逢っていないが、このお豊を見ると、美しい瑠璃子の幻や匂を、身辺に漂わせている様で、何とも云えぬいまわしい気持になった。

だが、それにしても、婆やのお豊が今時分こんな方角へ、一体何をしに行くのであろうと、汽車が止まるたびに、今度は降りるか、今度は降りるかと、絶えず気を配っていたが、なかなか降りる気配はなく、とうとう終点のY駅まで来てしまった。

さてはと、胸を躍らせながら、わしはお豊のあとに廻って、彼女を尾行したのだが、やっぱり想像に違わず、お豊の行先は例の山の中の大牟田家の別荘であった。

お豊は別荘の少し手前で車を捨て、細い坂道を別け昇って行く。左には谷川、右は見上げるばかりの欝蒼うっそうたる大森林、その山道を幾曲りした奥に、暗い森に囲まれた空別荘が淋しく物凄く荒れ果てて建っている。

別に厳重な塀がある訳ではなく、押せば開く枝折戸しおりどをあけて、不思議なお豊は、雑草の茂るに任せた別荘の庭へと這入って行く。

わしはそれを見届けて置いて、ソッと廻り道をして、庭に連なる森林の、とある大樹の蔭に身を隠し、じっと婆やの様子を見守っていた。

深い森蔭は昼間も薄暗く、どこかで鳴き始めた蝉の声の外には、物音一つせぬ淋しさ。そこに取残された廃屋の庭を、異様な老婆がゴソゴソと歩いて行くのだ。わしはふと何とも云えぬ恐怖に襲われて、真暗な大樹のうしろで、ワナワナと震えていた。

庭の雑草の真中に、一本の紅葉が立っている。お豊はそこへたどりつくと、紅葉の根元にしゃがんで、手を合せ、しきりと何かを拝み始めた。

爪先立てて覗いて見るが、そこには別に礼拝する様なものはない。まさか紅葉の木を拝んでいるのではあるまい。それともこの婆や、気でも違ったのかしらん。

イヤイヤ、そうではない。お豊の頬には涙が流れている。よっぽど悲しいことがあるのだ。それに、あの様子は、どうやら誰かの墓をでも、拝んでいる様に見えるではないか。やっぱりそうだ。あの紅葉の根元に、何か恐ろしい秘密が隠されているのだ。

絶好の機会だ。今お豊を捕えて白状させなければ、いつ又こんな機会が来るか分りはしない。そこでわしは、非常な危険を冒して、ある思いつきを決行することにした。薄暗い森の下蔭、廃屋の庭の丈たけなす雑草の中だ。わしの思いつきはきっと成功するに違いない。

わしはその時、白麻の背広に、白靴、パナマ帽という出立いでたちであったが、そのパナマをまぶかくし、大型のハンカチで鼻から下をスッポリと覆面して、例の黒眼鏡をはずした。つまり全身真白な中に、ただ両眼丈けが、パナマ帽のひさしの下にギロギロ光っているのだ。

わしはその風体で、抜足差足お豊の背後に近づいた。そして突然昔の大牟田敏清の声になって、

「お豊ではないか」

と呼びかけた。

お豊は確にわしの声を記憶していた。その証拠には、向うむきにしゃがんでいた彼女が、わしの声を聞くと、ビクッと身震いして、オズオズこちらを振向いた時の、恐怖に引歪んだ顔といったら、却かえってわしの方がギョッとした程であった。

お豊が振向くと、そこには大牟田敏清の目丈けが、じっと彼女を睨にらみつけていたのだ。帽子と覆面で、白髪白髯はくはつはくぜんを隠し、変装の部分をすっかり覆って、その代りに、これ丈けはわしの素姓をまざまざと語っている両眼丈けを現わしたのだから、お豊ならずとも一目で大牟田子爵と悟ることが出来たに相違ない。

可哀相な老婆は、わしの目を見ると、えたいの知れぬ叫び声を発して、矢庭やにわに逃げ出そうとした。人里離れた森の下暗したやみで、突然白装束の故人に出会ったのだ。幽霊と思うのも無理ではない。

「お豊お待ち、怪しいものではない。わしだよ」

再び声をかけたが、おびえ切ったお豊は身を縮めて、容易に近づこうとはせぬ。

「どなたです。その覆面を取って下さい」

甲高い震え声だ。

「イヤ、これを取らずとも、お前にはわしが誰だか分る筈だ。この目をごらん。この声をお聞き」

わしはジリジリと婆やに近づいて行った。

「イイエ、わたくし、分りません。そんな筈がございません」

お豊はまるで悪夢にうなされている様に、死にもの狂いだ。

「そんな筈がないといっても、こうしてわしがここに立っているのが、何より確な事実ではないか。わしはお前の主人だ。大牟田敏清だ。サア、白状しなさい。お前はここへ何をしに来たのだ」

お豊はまるで死人の様に青ざめて、石になったかと息さえもせぬ。

「白状しないのだね。よろしい。それではそこを動かないで、わしのすることを見ているのだ。いいかね、わしが何をするか、よく見ているのだよ」

わしは別荘の物置小屋へ走って行って、一挺の鍬くわを持ち出して来た。そして、アッとたまげる婆やを尻目にかけながら、矢庭に紅葉の根元を掘り始めた。柔かい土がゴソリゴソリととれて、見る見る穴は深くなり、その底から、何か白い板の様なものが現れて来た。

「いけません。いけません。そればかりはお許しなすって下さい」

耐たまり兼かねたお豊が、泣き声になって、わしの手に縋すがりついた。

「では貴様、何もかも白状するか」

「します。します」

お豊奴めとうとう泣き出してしまった。

「では尋ねるが、この土の中の白木の箱には何が入っているのか」

「それはアノ、……イイエ、わたくしがしたのじゃございません。わたくしはただ見ていたばかりでございます」

「そんなことはどうでもいい。ここに何が入っているかと尋ねるのだ」

「それは、それは……」

「云えないのか。ではわしが云ってやろう。この土の中の小さな棺桶には、生れたばかりの赤ん坊の死体が入っているのだ。しかも、その赤ん坊は実の父親と母親の為に、殺されたのだ。そして、ここへ埋られたのだ。母親というのは瑠璃子だ。父親は川村義雄だ。いいか、瑠璃子は不義の子を生みおとす為に、病気でもないのに、この別荘にとじこもって、人目を避けたのだ。わしが三月も病院住いをしている間に、宿った子だ。いくら悪党でも、それをわしの子と云いくるめることは出来なかったのだ。腫物できものなんて嘘の皮さ。ただ甘い亭主をだます悪がしこい手段に過ぎなかったのさ。オイ、お豊、わしの推察に少しでも間違った所があるか。あるなら云って見るがいい。それとも、この土の中の箱を掘出して、中を更あらためようか」

グングン押しつめられて、せっぱ詰ったお豊は、いきなりガックリ大地に膝をついて、サメザメと泣いた。泣きながら途切れ途切れに喋り出した。

「アア、恐ろしい。わたしは悪い夢を見ているのでしょうか。それともこの世の地獄に落ちたのでしょうか。おかくれ遊ばした旦那様が、こうして生きていらっしゃる。その上、誰知るまいと思っていた、この土の中の秘密をあばいておしまいなすった。アア、天罰です。これが天罰でなくて何でしょう。だから、だから、わたしは云わない事ではないのです。……

お生れ遊ばすとからお育て申した瑠璃子様が、こんな大それたお方とは、この乳母うばは、あまりのことに空恐ろしうございます。旦那様の御承知ないやや様を、こっそり産み落す丈けでも罪深いことですのに、その生れたばかりのやや様を、押殺してこの淋しい庭へ埋めてしまうとは。……

わたしは、奥さまにも、川村さんにも、やや様を里子におやり遊ばす様、どんなにお勧めしたかしれません。でも、お二人様はそんな事をしては、発覚のおそれがある。殺してしまうのが何より安全な手段だとおっしゃって、止める婆やをつきのけて、とうとう、こんなむごたらしいことをなすってしまったのです……。

忘れも致しません。丁度三月前の今日でございました。今日はやや様の御命日なのです。こんなとこに、葬うものもなく一人ぽっちでいらっしゃるやや様がおいとしくて、わたしはコッソリお詣まいりに来たのです。……

旦那様、イイエ、旦那様ではない、旦那様によく似たお方、婆やを可哀相だと思召して下さいませ。わたしは、もう一月も前に、瑠璃子さまからお暇が出たのでございます。正直者の婆やが、あの方達のお気に召さぬのでございましょう。国へ帰れといって旅費を頂いているのですけれど、ここに眠っていらっしゃるやや様がお可哀相で、つい一日延ばしに今日までグズグズ致して居りました。でも、そうそうは宿屋住いも出来ませんので、今日はお暇乞いとまごいにお詣りをしたのでございます」

語り終って、お豊はよよとばかり、地べたに泣き伏した。

アア、そうであったか、忠義者のお豊でさえ、見限る程の悪党だ。何で天が見逃して置くものか。神様はわしという人間の心に宿って、恐ろしい天罰を下し給うのだ。

そこでわしは、罪を悔いているお豊を慰め、持っていた財布をはたいて、国へ帰る旅費なり、帰ってからの生活費なりにしてくれと多額の金を与え、一日も早くこのいまわしいS市を立去る様悟さとして、彼女と別れた。

お豊はわしが大牟田敏清であることは信じていない様子だ。その人は確に死んでしまったのだし、仮令どうかして生きていたとしても、本当の大牟田なら、何も覆面などする必要はない筈だから、彼女が小暗い森の下蔭で、人間ではない、大牟田の死霊かなんぞに出会ったと迷信していたのは決して無理ではない。わしの目的にとっては、却ってその方が好都合なのだ。

さて、わしは愈々いよいよ姦夫姦婦の大秘密を握った。土の中の赤ん坊。何というすばらしい武器だろう。わしはこの絶好の武器を思うさま利用して、憎みても余りある二人の大悪党を、こらしめなければならぬ。

わしが志村を大阪へやって、例の奇怪な実物幻燈と、壜詰の赤ん坊を手に入れる様に命じたのは、それから三四日あとのことであった。

二匹の鼠

今や、わしの前代未聞の大復讐計画は全く成ったのである。アア愉快愉快。愈々思いをはらす時期が近づいて来たぞ。「可愛さ余って憎さが百倍」という俗言がある。実にその通りじゃよ。わしは瑠璃子を、川村を、あれ程愛していたからこそ、信じていたからこそ、彼等に裏切られた憎しみは、その愛情に百倍するのだ。イヤ、千倍、万倍するのだ。

わしの立場は、例えば逃げ道のない袋小路へ、二匹の鼠を追いつめた猫の様なものだ。全身銀色の古猫じゃ。ウフフフフフフフ。皆さん、猫が鼠を殺す時の、残酷な遊戯をご存じじゃろう。わしは丁度あの猫の気持であった。

最後には、どの様な恐ろしい目にあわせてやるか、それは細い点までも、ちゃんと計画が出来上っていたが、直様すぐさまそこへ持もって行ったのでは、余りにあっけない。わしの恨みはそんなあっさりしたものではなかったのじゃ。

で、順序を追ってジワジワと楽しみながら復讐事業を進めて行くことにしたが、先ず第一着手として、為しとげねばならぬ三つの事柄があった。その一つは、川村義雄との交りを深くして、彼の心からの信頼を得ること、第二は川村の瑠璃子に対する情熱を陰に陽に煽あおり立て、わしが嘗かつて瑠璃子に抱いていた以上の狂恋に溺れさせること、第三には、このわしがひそかに瑠璃子の心を捉え、瑠璃子を我物として置いて、最も適当な機会に、その事を川村に知らしめ、彼奴を絶望のドン底につき落してやること。

無論これは、わしの復讐事業の最後の目的でなく、ちょっとした前芸に過ぎないのだが、その前芸丈けでも、わしの蒙こうむったと同じ、或はそれ以上の心の痛手を、川村に負わせてやることが出来るというものだ。

さて、Y温泉の別荘で、あの恐ろしい発見をしてから、一週間ばかりは別段のこともなく過去った。無論その間に、川村義雄が、数回訪ねて来て、わし達の間柄は計画通り段々うち解けて行ったのだが、彼はわしの顔を見る度たびに、大牟田瑠璃子の伝言を伝え、さも自慢げに彼女の美しさを褒めたたえるのであった。

「夫人はあなたからの贈物を大変喜んで、近日中是非御礼に伺うけれど、呉々くれぐれもよろしく申上げてくれという事でした。それから、夫人はあなたの方からも、どうかお訪ね下さる様にと、繰返し伝言を頼まれているのです。どうですか、一度大牟田家をお訪ねになっては」

川村が勧めるのを、わしは首を振って、

「イヤ、その内お訪ねしますよ。敏清こそ懐かしいが、瑠璃子夫人は全く知らぬ人ですからね。それに、わしはこの年をして、妙にはにかみ屋で、婦人の前へ出ることを余り好みませんじゃ。その婦人が美しければ美しい程困るのです。併しかし礼儀としても一度参上しなければなりません。いずれ其内そのうちとよろしくお伝え下さい」

と、先ずぶっきら棒な返事をして見せたものじゃ。すると、川村奴めやっきとなって云うことには、

「それは残念ですね。併し、若しあなたが、瑠璃子さんを一目ごらんなすったら、いくらご老人でも、なぜこの様な婦人にもっと早く会わなかったかと、後悔なさるに違いありませんぜ。それに、いくらあなたの方で訪問を見合せても、あの調子だと夫人の方からやって来ます。あなたを驚かせにやって来ます」

「ホホウ、そんなに美しい人ですか」

とわしが水を向けると、川村はもう有頂天になって、弁じ出すのだ。

「死んだ大牟田君は、常に日本一の美人だと誇っていました。僕もそう思いますね。生れてからあんな女性を見たことがありません。顔の美しさは云うまでもありませんが、言葉つきといい、声の調子といい、物腰といい、その上社交術の巧さというものは、何から何まで一点非の打ちどころもない、本当にその名の通り瑠璃の様な麗人です」

こいつめ、よくよく瑠璃子に溺れているな。我が情人を、こんなにほめそやす様では、流石の悪人も、恋には我を忘れるものと見える。わしに取っては思う壺というものじゃ。

「それは危い、そんな美しい未亡人が社交界なぞに顔出ししていては、実に危険千万ではありませんか」

「イヤ、その点はご安心下さい。及ばずながら、故子爵の親友の僕がついています。夫人の行動はすっかり僕が見守っています。貞節な夫人がそんな誘惑にまける筈はありません」

「成程成程、あなたの様な立派な保護者がついていれば安心です。イヤ保護者というよりも、あなたなれば、夫人の夫としても恥かしくはありますまい。ハハハハハハハ、イヤこれは失礼」

冗談らしく誘いかけると、川村奴直様すぐさまその誘いに乗って来たではないか。

「ハハハハハハハ、僕なんか。……併し、僕は変な意味ではなく、心から瑠璃子さんを愛しています。イヤ、尊敬しているといった方がいいかも知れません。夫人を守る為には、昔の騎士の様に、身命を賭としても惜くありませんよ。ハハハハハハハ」

と、まあこんな話から、川村の訪問が二度三度と重なるに従って、段々無遠慮になって、

「実は僕、ある婦人と婚約しようかと思っているのですが」

などと、大胆な事を云い出す様になった。

「それは結構です。相手のご婦人も、どうやら想像出来ぬではありません。双手を上げて賛成しますよ。こうして御懇意を願っているからには、及ばずながら、わしも大いにお祝いさせて貰いますよ」

と、おだてると、奴め相好をくずして、ホクホクしながら、

「本当にお願いします。あなたのお力添えは僕にとって百人力です」

と、わしの手をとらんばかりだ。喜ぶ筈である。大牟田家の親戚に当る、しかも大成金のわしといううしろ盾だてがあれば、彼の野望も満更ら夢とばかりは云えないのだ。

巨人の目

さて、Y温泉を訪ねてから、一週間目の話である。瑠璃子は、いくら誘ってもわしが訪問せぬものだから、じれて、その夜彼女の方から川村と連れ立ってわしのホテルを訪ねて来た。

わしは毒婦の顔を見てやり度たくて、ウズウズしていたのだ。瑠璃子の様な姦婦を手なずけるには、態わざと冷淡に見せかけて、相手をじれさせるのが一つの骨こつである。(アア、大名華族の若さまが、こんなさもしいことを考える様になったのだ。それも誰故であろう)案の定彼女はじれて、待ち切れなくて、先方からわしが拡げた網の中へ這入って来た。

電話でこちらの都合を聞合せて来たので、お待ちしますと答えてちゃんと用意(それがどんな用意であったと思います)をととのえて置いたのだけれど、併し、いざ対面となると、流石に胸が踊った。

美々しく飾った専用の客間で待っていると、仕立て卸しの洋服を着た川村義雄を先に立てて、愈々いよいよ嘗つてのわしの愛妻瑠璃子が這入って来た。しずしずと這入って来た。

川村の紹介の言葉につれて、彼女はしとやかに挨拶した。

見覚のある、わしの好きな柄の和服姿、頭に指に、光り輝く宝石、薄化粧の匂やかな頬、赤い唇。アア、何たる妖婦であろう。夫を殺し、我が産み落した子供をさえしめ殺して悔くゆる所なき極悪人でありながら、このなよなよとした風情はどうだ。この顔の美しさはどうだ。美しいよりも、寧ろ艶なまめかしいのだ。

わしは思わずゾッと身震いを禁じ得なかった。この愛らしい顔をした女が、果して最後まで憎み通せるだろうか。如何いかなる鉄石心もこの妖婦にあっては飴あめの様にとろけてしまうのではあるまいか。ドッコイ狐につままれてはならぬぞ。しっかりしろ、お前は復讐の神に捧げた身ではないか。

わしはグッと心を引きしめ、例の練りに練った作り声で適当に挨拶を返した。

瑠璃子は無論このわしが、嘗つての夫であろうとは少しも気がつかぬ。変り果てた白髪白髯、それに肝腎の両眼は黒眼鏡で覆われているのだ。いくら昔の女房だとて、これが見分けられるものではない。

三人は思い思いにソファや肘掛椅子に腰を卸して、お茶を啜すすりながら、よも山の話を始めた。

瑠璃子は、やがて子爵家の跡目相続をした近親のものが邸やしきへ乗り込んで来ること、そうなれば親族会議の結果定められたあてがい扶持で別邸に住まねばならぬこと、それにつけても、あなたは子爵家の遠い縁者に当るのだから、何分のお力添えが願い度いなどと、しんみりした打開話さえしたものだ。高価なわしの贈物が、よくよく彼女の心を捉えたものと見える。

それにしても、おかしいのは、あの慾ばりの瑠璃子が、恋の為とは云え、子爵家の財産を棒に振ってしまったヘマなやり口だ。わしを殺す前になぜ相続者を産んで置かなかったのだ。そこへ気のつかぬ女でもあるまいに。

イヤ、産むことは産んだ。川村との間の隠し子を産んだ。併し、流石の姦夫姦婦も大手違いをやって、わしの病気入院中に子供を拵えてしまったものだから、如何に図々しい彼等でも、それをわしの種だと云いくるめる術すべはなく、全身の腫物という奇想天外の口実を作って、やっとわしの目を逃れ、Y温泉の別荘でその子を産み落した。そして殺してしまった。何も殺さなくても、外ほかに手段もあったろうが、そこは鬼の様な姦夫姦婦のことだ。我子に対する愛着など微塵みじんもなく、ただ自分達の罪の発覚を恐れたのだ。

折角産みは産みながら、飛んだ手違いで、あわよくば、子爵家のあと取りにもなれる子を、あと取りどころか、命さえも奪わねばならなかったとは、悪事の報いは、わしの復讐を待たずとも、早はやそこにも現われていたというものだ。

それから又、相続者のことも考えないで、なぜこのわしを殺す様なヘマをやったか。これは恋に狂った川村のあと先考えぬ独断であったのだ。そのことでは、姦夫姦婦の間に悶着もんちゃくが絶えぬということが、あとで分った。瑠璃子にしては、いやな大牟田敏清を殺してくれたのは有難いが、その為に子爵家の実権を失うのが口惜しかった。あの財産を我がものにして、栄耀栄華が出来ぬのが残念だった。

だが、何が幸いになるか、姦夫姦婦の間にこの悶着があったればこそ、瑠璃子が子爵家の財産を失ったればこそ、わしの復讐計画があんなにも見事に成功したのだ。何ぜといって、瑠璃子が若し、元の様に子爵家の実権を握っていたなら、仮令わしがどれ程の資産を以て誘惑したところで、あの様にたやすくなびかなんだであろうから。

それはさて置き、そうして話し合っている内に、定めの時間が来た。午後八時という定めの時間が近づいて来た。誰と誰との間に定めた時間だか、それは今すぐ申上げる。

そこで、わしは洗面所へ立つ振りをして、次の室へ這入った。無論そこもわしの借り切りになっているのだ。そして、ドアを締めると鍵穴に眼を当てて、今か今かと事の起るのを待ち構えた。

見ていると、その僅の間にさえ、離れているに耐えないのか、川村の奴はコソコソと瑠璃子のソファへ席を換え、彼女にすりよってその手を取った。

「およしなさい。里見さんが帰っていらっしゃるわ」

瑠璃子は満更らいや相でもなく、小声で男をたしなめた。

「ナアニ構うもんか。里見さんも薄々は感づいているのだ。先生僕等を似合いの夫婦だと云ってたぜ」

川村は美しい顔に似合わぬ図々しさで、ギュッと女の手を握りながら、

「だが、大丈夫かい。僕は少し気がもめるぜ」

と、早ややきもちを焼き始めた。

「アラ、何なの」

瑠璃子が空とぼけると、川村はわしの覗いているドアの方を顎でしゃくって、

「あの先生さ。君はどうも慾ばりだからね。子爵にさえ惚れたんだから、子爵の何倍という金持の里見さんは、いくら老人でも危いよ。君の様な虚栄女は、どうも不安で仕様がない」

アア何という口の利き方だ。これがS市社交界の紳士とあがめられる人物の言い草だろうか。

「まさか。……それにあの方は女嫌いだって云うじゃありませんか。さもしい邪推はお止し遊ばせ」

瑠璃子はちょっと川村を打つ真似をして、あでやかに笑った。

と、その時、突然部屋が真暗になってしまった。

「アラ」という瑠璃子の軽い叫び声。

「停電の様だね」と川村の声。

フフン、何が停電なものか。わしの秘書役の志村が、約束通りホテルの配電室に忍入り、そのスイッチを切ったのだ。Sホテル内丈だけの人工停電だ。わしがさっき定めの時間といったのは、このことであった。

わしは急いで、部屋の一方に仕掛けて置いた小型の機械の側そばへ走って行った。すると間もなく、隣りの客間から、たまぎる様な女の悲鳴が聞えて来た。瑠璃子の声だ。

なぜ彼女は悲鳴を上げたのか。

それは無理もないのだ。停電で真暗になった客間に、いとも不思議な妖怪が現われたのだ。

暗闇の中に、薄ぼんやりと、何かモヤモヤしたものが二つ現われたかと思うと、徐々にそれが恐ろしい物の形に変って行った。闇の空間に二つの目が、各々が畳半畳もある、ギョッとする程巨大な二つの目が、ジッとこちらを睨んでいたのだ。

川村も瑠璃子も、幻影だと思ったに違いない。併し、幻影にしては、いつまでたっても消えぬのが少し変ではないか、しかも、その巨人の目は、決して初対面ではなかった、見ている内に、それが、嘗つて実在したある人物の目に似て来るのだ。オオそうだ。死んだ大牟田敏清の目だ。それが百千倍に拡大されて、今姦夫姦婦の前に浮上り、闇の中から彼等を睨み据えているのだ。

流石の毒婦もそれと悟ると、余りの恐ろしさに、思わず悲鳴を上げて、川村にしがみつき、川村も叫び出し相になるのをグッと噛みしめて、巨人の目を見つめたまま、腋の下と額とから、冷たい油汗を流した。

と想像するのだ。わしが見た訳ではない。見ようにも見られないではないか。なる程わしの目は千倍の大きさになって彼等の前にあったけれど、それはわしの目の影に過ぎなかった。本物のわしは、隣りの部屋に仕掛けた実物幻燈の中へ、黒眼鏡をはずした顔をさし入れて、屋外の電燈線につないだ二百燭光の電球とすれすれに、まぶしいのを我慢しながら、瞬きもせず目を見はっていたのだ。つまりお化の様な巨人の目は、わし自身の両眼を実物幻燈の仕掛けによって、客間の壁に写したものなのだ。

種を割ればあっけないが、当時実物幻燈なんて誰も知らなかったのだ。姦夫姦婦は、死者の亡魂がなせる業か、心の呵責から起った幻かと、迷いながらも、極度の恐怖に脅え、その効果は予期以上のものがあった。

瑠璃子の悲鳴を合図の様に、パッと電燈がともった。云うまでもなく、配電室の志村が頃を見はからってスイッチを入れたのだ。

電燈がつくと、わしは何食わぬ顔でドアを開き、客間に戻った。

「オヤ、どうかなすったのですか」

予期したことながら、余りにも覿面てきめんな効果に、わしは思わず声をかけた。

瑠璃子も川村も、真実幽霊を見た人の様に、空ろな目でキョトキョトと部屋を見廻し、額には玉の汗を浮べ、唇は乾き、青ざめた顔色は彼等こそ幽霊ではないかと怪しまれるばかりであった。

「イヤ、別に。突然暗くなったので、ちょっとびっくりしたのですよ」

川村は弁解する様に云って、ソッと唇を嘗めた。

ワハハハハハハ、愉快愉快、わしは先ず小手調べに成功したのだ。この分だと、前芸もうまく行き相だぞ。ではボチボチ取りかかることにしようかな。

不思議なる恋

それから又数日が経過した。

その間にわしは一方では川村を手なずけ、このわしを無二の親友と思い込ませること、又一方では瑠璃子に接近し、彼女の心を得ることに、全力を尽した。

その甲斐あって、今では川村はわしを実の父の様に思い、何もかも打開けてわしの意見を求め、はては悪い相談まで持ちかける程になった。

わし達は車を連ねて、よく料理屋へ行ったものだ。そこではいつも、土地の売れっ子芸者をすぐって、弾けよ歌えよの乱痴気騒ぎが始まった。呑み助の川村は、酔っぱらうと優しい顔に似げなき狂態を演じた。

わしはそのグデングデンに酔っぱらった川村をそそのかして、よく瑠璃子の住まいへ送ってやったものだ。女が酔っぱらいを好く筈はない。

瑠璃子の心は、この狂態を見せつけられる度毎たびごとに、川村から離れて行く様に見えた。

川村を離れてどこへ行く。云わずと知れたわしへ来るのじゃ。瑠璃子め、嘗ては嫌い抜いたこのわしを愛し始めたのじゃ。女の心程えたいの知れぬものはない。白髪白髯のこの親爺のどこがよくてか。云わずと知れた金である。栄耀栄華と一緒にこのわしの白髪頭までが尊く見えたのかも知れない。

「あなたは、年寄りだ年寄りだと、一人で老込んでいらっしゃいますけれど、お見受け申した所、決してそうでございませんわ。その艶々したお顔色、立派なご体格、まるで三十そこそこの青年でいらっしゃいますわ。おぐしだって、見事に混りけのない真白で、赤茶けたのなんかよりは、どんなに美しいか知れやしませんわ」

彼女はそんな風に、このわしを褒めたたえるのだ。

わしは彼女と親しくなるにつれて、父親が娘をいたわる様に、時として彼女の身体に触ることもあれば、手を握ることさえあった。そんな時、瑠璃子は、何気なくわしの手を握り返して、ニッと艶めかしい笑顔を向けるのだ。

その度毎に、わしはまるで背筋へ氷でも当てられた様に、ゾーッと身の毛がよだった。うっかりしていると、復讐のことなぞ忘れて、真から身も心もとろけてしまう様に思われた。

彼女はその頃はもう、あてがい扶持ぶちの別邸住いになっていたが、そこから川村の目を忍んで、独ひとりでわしのホテルへ遊びに来ることもあった。

ある月のよい晩に、ホテルのバルコニーへ出て、瑠璃子と二人きりで、話をしたことがある。わしは今もその時の何とも云えぬ変な気持を忘れることが出来ない。

わしは月の光りを全身にあびて、籐椅子に凭もたれていた。瑠璃子は、うしろから、椅子の肩によりかかって、肩越しにわしの顔を覗き込む様にして、あの悩ましい微笑を見せていた。

月光が彼女を夢の国の妖精の様に美しく見せた。わしはウットリと彼女に見入り、覚めながら夢見ていた。

お前はこれでも不満足なのか。仮令嘘にもせよ、これ程の女の愛情を買うことが出来るのだ。お前には使い尽せぬ財宝もある。その財宝とこの美女とを我がものとし、平和に余生を終る気にはなれないのか。

恨みというのか。恨みがなんだ。仮令一夜にしてお前の髪の毛を白くした程の恨みにもせよ。いずれ浮世の道化芝居の一幕に過ぎないではないか。

月光の魔力であったか、美女の魔力であったか、一刹那、わしは心弱くもそんなことを考えた。併し、先祖以来伝わった復讐心が、忽ちにして、束の間の夢心地を追い退けてしまった。「目には目を、歯には歯を」この外ほかに真理はないのだ。

わしは所詮、地獄の底から這い出した、白髪の復讐鬼の外のものではなかった。

瓶詰めの嬰児

さて、愈々復讐劇の序幕を開く時が来た。ある日わしは次の様な招待状を発して、ホテルへ三人の客を集めた。

老生此度このたび郊外にささやかなる別荘を買求め候そうろうについては来る十五日別荘開きの小宴を催し度たく当日午後一時Sホテルまで御光来を得ば老生の喜び之これに過ぎず候尚なお別荘へはホテルより自動車にて御同道申上ぐる予定に有之これあり候。

わしの招待状によって当日集まった客というのは、川村義雄、大牟田瑠璃子、住田医学士の三人であった。住田医学士は、莫大な礼金をせしめて瑠璃子の仮病を見て見ぬ振りでいた、元のY温泉の開業医である。

人数が揃うとわし達主客は、当時全市にたった三台しかなかった自動車に同乗して目的地に向った。

「僕達は三人とも、まだその別荘の所在地を伺っていない様ですが。妙ですね、里見さんは、態わざとそれを隠していらっしゃる様に見えるではありませんか」

自動車が市街を出はずれる頃になって、川村がふとそれに気づいて変な顔をして尋ねた。

「あなた方をびっくりさせて上げようと思ってね。アハハハハハハ」

わしはさもおかし相に笑った。

「アア、その別荘はきっと意外な場所にあるのですわ。若もしかしたら私達の知っている家かも知れませんわね。里見さん、一体誰からお買取りなさいましたの」

瑠璃子が興がって尋ねた。

「誰からですか、わしはよく存じません。秘書役の志村が万事取計らってくれましたのでね」

わしは余り笑ってはいけないと思いながら、つい唇の隅に妙なニヤニヤ笑いを浮べないではいられなかった。

自動車はでこぼこの田舎道を揺れながら進んで行った。進むにつれて、岐路えだみちがなくなり、段々我々の進路がハッキリして来た。

暫くすると、川村が頓狂とんきょうな声で、

「オヤ、この道はY温泉へ出る街道じゃありませんか」

と叫んだ。

「なる程、おっしゃる通りだ。では、御別荘はY温泉の近くにお求めなすったのですね」

住田医学士が合槌を打つ。

「当りました。その通りですよ。わしの新別荘はY温泉のはずれにあるのです」

わしの答えを聞くと、川村と瑠璃子とが不安らしくチラと目を見交わした。二人ともそれからは黙り込んでしまって、顔色も何となく優れぬ様に見えた。

「サア皆さん、わしの買入れた家というのはここですよ」

自動車がとまったのは、外ほかならぬ例の大牟田家の小別荘の前であった。瑠璃子が長らく湯治に来ていた家だ。つい近頃その庭に不義の子の死骸が埋めてあることを発見した家うちだ。

わしは莫大な費用を使ってこの家を手に入れた。大牟田家では是非なければならぬという程の別荘でもないので、とうとう手離すことになった。瑠璃子は今ではあてがい扶持の別邸住いなので、ついそのことを知らずにいたのだ。

案の定、姦夫姦婦の驚きは見るも気の毒な程であった。彼等は車を降りると、真青な顔をして何かヒソヒソ囁いている。

「ナアニ偶然だよ。まさか里見が例の一件を知っている筈もなし。しっかりなさい。ここで妙なそぶりをすれば、却って疑いを受ける元だ。平気でいなければいけない」

川村は多分そんな風に瑠璃子を励ましているのだろう。

「サア皆さん、どうかお這入り下さい」

わしは先に立って門内へ這入って行った。玄関には先着の志村が新しい女中達を従えて出迎えている。もうこうなったら、川村も瑠璃子も、引返す訳には行かぬ。ビクビクしながらも、まさかあの恐ろしい嬰児えいじ殺しの秘密がばれていようとは知る由よしもなく、たかを括くくって客間に通った。

客間は襖ふすまから畳からすっかり新しくなって、見違える様に美しく飾られている。志村がわしの命令通り計らったのだ。

「里見さん、実に奇縁です。あなたはご存知なかったかも知れませんが、この別荘はもと大牟田家の持家だったのですよ。ここにいらっしゃる瑠璃子夫人なぞも、この家いえに長い間滞在されたことがあります」

住田医学士が何の気もつかず、お世辞のつもりで痛いことを喋り出した。

「エエ、そうですわ、わたくし、この別荘を売りに出したことを少しも存じませんで。……それにしても不思議なご縁でございますわね。わたくしが病を養って居りました部屋もついこの向うにございますわ」

流石は妖婦、いつか顔色をとり直し、平然と応対している。

「オヤオヤ、そうでしたか。こいつは大縮尻おおしくじりだ。志村の奴わしに何も云わないものですから、非常に失礼しました」

わしが白々しく詫びて見せると、相手もさるものじゃ。

「イイエ、同じ人手に渡るにしましても、あなたがお求め下さいましたので、こんな仕合せはございません。いつでも見たい時には見せて頂けますもの」

とバツを合せて来る。

「それでは、座敷をお見せするにも及びませんが、併し、中には模様替えをした部屋もあり、少しも手をつけないで元の風情を残した部屋もあり、いく分は様子が変っているかも知れませんから、一通りご案内致しましょう。瑠璃子さんのご病室なども、思い出深いものがあるでしょう」

わしは何気なく云って先に立ち、部屋から部屋へと見て廻った。どの部屋も、瑠璃子が湯治に来ていた時分とは、すっかり模様が変っていた。何ぜそうしたか。ある一室の陰惨な感じを引立てる為であった。明るい部屋部屋の間あいだに、たった一間、少しも手を加えぬ、しめっぽい古部屋が残っているのは如何にも効果的ではないか。いうまでもなく、それは瑠璃子の使用した病室だ。彼女が不義の子を生み落した罪の部屋だ。

わしはその部屋を最後に残して置いた。よく子供がする様に、一番おいしいご馳走はあとまで残して楽しむのがわしの流儀だ。だがとうとうその部屋へ来た。わしは襖の引手に手をかけながら客達を振向いて云った。

「あなた方は怪談をお好みではありませんか。若しおいやなればよしてもいいのですが、実はこの部屋は怪談の部屋なのですよ」

瑠璃子も川村も、この不気味な言葉にギョッとしたらしかったが、弱みを見せてはならぬと思ったのか、つけ元気で、是非見たいものだと答えた。

それではお見せしましょう、とわしは襖を開いた。赤茶けた畳、くすんだ襖、すすけた障子、陰気な茶色の砂壁、古めかしい掛軸、見るからに曰いわくのあり相そうな六畳の部屋だ。障子の外は縁側になって、庭に面しているのだが、曇り日の為か、軒が深いせいか、室内はまるで夕暮れの様に薄暗い。

「どうしてこの部屋丈け手入れをしなかったかと云いますとね。この陰気な味が妙にわしの心を惹いたからですよ。そうは思いませんか。まるで薄暗い世話狂言の舞台でも見る様な、何とも云えぬ味わいがあるではありませんか」

三人の客は、皆この部屋をよく知っている。住田医学士はただわしの奇妙な趣味を不思議に思っている様子だったが、あとの二人は、つまり姦夫と姦婦とは、これが恐れないでいられようか。瑠璃子の如きは唇の色を失って、立っているのもやっとの様に見えた。

川村は川村で、これも真青になって、床の間の一物を、不思議相に見つめている。彼が見つめるのも無理ではない。そこには、この古めかしい部屋にふさわしからぬ、新しい桐の箱が置いてあったのだから。

住田医学士もそれに気づいたと見えて、

「あれは何です。お茶の道具でもなし、人形箱でもなし、どうやら因縁のあり相な品ですね」

と尋ねた。

「因縁ですか。いかにも恐ろしい因縁のこもった品ですよ」

わしは不気味に答えた。

「ホホウ、益々怪談めいて来ましたね。是非拝見したいものです」

住田医学士はそう云いながら、併し、うそ寒く肩をすぼめた。

「マアお待ちなさい。これについては一条の物語があるのです。事実怪談ばなしなのです。殆ど信じられない程恐ろしい事柄なのです。ホラ、そこの畳をごらんなさい。大きな薄黒い斑点が見えるでしょう。何だと思います」

わしは講釈師の様に思わせぶりに話を進めて行った。

「なる程、ボンヤリと、何かのこぼれたあとがありますね。これが血痕ででもあったら、本当の怪談ですね」

住田医学士が独ひとりで応対する。姦夫姦婦は云いしれぬ不安に戦おののいて、口を利く元気もないのだ。

「ところが、どうもこれは血痕らしいのですよ」

わしはズバリと云った。

「エ、エ、血、血ですって」

医師は商売柄にも似げなく驚いて見せる。

「わしはこの家の修理を終ると、秘書の志村に命じて庭の手入れをさせたのです。あれは器用な男で庭のことも少々は心得ているのでね。志村は一人でコツコツ土いじりをやっていましたが、紅葉の木を植え替えようとして、その根元を掘っていた時、実に驚くべき一物を発見したのです。ホラ、あれです。あの紅葉です」

わしは障子を開けて、一同に庭を見せた。そこの中程に、いつかこのわし自身が根元を掘った紅葉の木が立っている。わしが老婢ろうひお豊と妙な問答をした場所だ。

「それが何であったと思います。皆さん、びっくりしてはいけませんよ。生れたばかりの赤ん坊の死骸が、小さな木箱に入れて埋めてあったのです。何者かがこの空別荘に忍び込んで死児を産み落したのかも知れません。それとも、生かしては置けない不義の子かなんかで、生れるとすぐ、実の親の手でしめ殺したのかも知れません。サア、こう考えて来ると、この畳の斑点が何であるかも、薄々分る様な気がするではありませんか」

誰も答えるものはなかった。薄暗い室内に、青ざめた三人の顔が、物ものの怪けの様に浮いて見えた。瑠璃子川村の恐怖は云うまでもないが、お人好しの住田医学士も、ここまで聞いては、さてはと一切の秘密を悟らぬ訳には行かぬ。

誰もわしが故意にこの秘密をあばいたとは思わぬ。ただ偶然に発見したのだと思っている。それがまだしも仕合せというものだ。この大秘密をあばいている男が、実は、死んだとばかり思い込んでいた大牟田子爵のなれの果てと知ったら、姦夫姦婦は、そのまま息の根も絶えてしまったかも知れない。

「で、その子供は、どうしました。警察へお話しになりましたか」

やっとして住田医学士が不安らしく尋ねた。

「イヤ、警察へ届けたところで、徒らに母親を苦しめるばかりです。済んだことは致し方ありません。その母親も恐らくはこれにこりて、二度と不義いたずらはしないでしょう」

だが瑠璃子よ、安心してはいけないぞ。警察沙汰にしないのは、その実わしの慈悲心からではなく、法律などの企て及ばない大復讐を為しとげる為の方便にすぎないのだから。

「で、子供は? 子供は?」

たまり兼ねた川村が初めて口を利いた。その声のみじめに震えていたことは。

「不思議なこともあるものですよ。その赤ん坊はまるで生れたばかりの様に、少しも腐敗せず、死んだ時のままの姿で、箱の中に眠っていたではありませんか。執念ですよ。小さいものが生きよう生きようとする精気でしょうか。イヤ、それよりも、恐らくは、姦夫姦婦の為にあざむかれた男の恨みに燃える執念の為せる業ではありますまいか。恐ろしいことです」

「で、その子供は? その子供は?」

川村が同じ言葉を、上の空で繰返した。

「ごらんなさい。ここにいるのです」

わしはツカツカと床の間に近づいて、例の桐の箱の蓋をとり、中から大きなガラス瓶を取り出して、一同の前に置いた。

と同時に、「クウー」という様な異様なうめき声がしたかと思うと、瑠璃子が、紙の様に青ざめた瑠璃子が、目をつむって、川村の両手の中に倒れかかっていた。流石の姦婦も、この恐怖には、最後の力も尽きて失神したのであった。

ガラス瓶の中には、手足をかがめ、顔も何も皺くちゃになった、灰色の赤ん坊が、白い目で、じっとこちらを睨んでいたのだ。

黄金の秘仏

皆さん、わしの異様な身の上話は指を折って見ると、もう一週間も話し続けた。獄中に月日はないと云うものの、話し手のわしは兎も角、聞き手の皆さん、殊にわしの話を速記して下さるお方は、随分ウンザリなさったことじゃろう。

だが、わしの恐ろしい復讐談は、愈々いよいよこれから大眼目だいがんもくに這入るのじゃ。もう暫く我慢をして聞いて下さい。

昨日は、わしが姦夫姦婦を、Y温泉の別荘へ誘い出して、思う存分苦しめ怖がらせたことをお話しした。姦婦の瑠璃子は、わしが用意して置いた瓶詰の赤ん坊を見て、わが罪業の恐ろしさに耐えかね、気を失ってしまった程であった。

併し、あれなどは、わしの復讐計画のホンの前芸に過ぎないのじゃ。姦婦が気絶した位のことで癒いえる恨みではない。皆さん、わしが彼等の為にどんな目に逢ったか思い出して下さい。わしは溺れ切っていた愛妻にそむかれたのじゃ。イヤ、川村の為に彼女を盗まれたのじゃ。その上、彼等はわしを殺したのじゃ。幸い、蘇生はしたものの、その時は已すでに、彼等の為に出るに出られぬ墓穴にとじこめられていた。わしは生き埋にされたのじゃ。五日の間というもの、わしがその暗闇の洞窟の中で、どの様な苦しみを甞なめたか。わしの白髪を見て下さい。三十歳の若い身空で、この真白な白髪頭、わしはその地底の五日間に、三十年の苦しみを嘗め尽したのじゃ。そして、墓穴を抜け出した時には、心身共に六十歳の老人と化していたのじゃ。古往今来、これ程の苦しみを嘗めた人間があったじゃろうか。

復讐は、受けた苦痛とカッキリ同じものを、相手に返上することだ。姦婦瑠璃子を気絶させた位では、わしの受けた苦しみの百分の一にも足らぬではないか。ウフフフ、……皆さんそうじゃろうが。つまりわしは、これからまだ、今までの百倍の苦痛を、姦夫と姦婦に味わわせてやらなければならないのだ。わしの仕事はこれからなのだ。

さて、大牟田瑠璃子の気絶騒ぎは、幸いその場に住田医学士が居合わせたので、介抱よろしきを得て、別段のこともなく終ったが、それ以来というもの、姦夫姦婦の心の隅に恐ろしい不安が、つき纏って離れなかった。

だが、怖がらせるのが目的でしたこととは云え、怖がらせ切にしてしまって、警戒心など起されては、これからの計画を行う上に都合が悪い。わしは今度は、逆に彼等の恐怖心を柔げる為に骨折らねばならなかった。つまり昔の裁判官が拷問を行う場合、存分痛い目を見せて、犯人が苦しみ疲れた頃を見はからい、一先ず責め道具を引込め、水を飲ませたり、粥かゆを啜らせたりして、いたわってやるのと同じ理窟で、次に与える苦痛を、一層効果的にする手段に過ぎないのだ。お多福の面で引寄せて置いて、ガラリと鬼の面に変るという奴だ。

そこで、翌日わしは瑠璃子を訪ねて、叮嚀に詫言をした。

「昨日は実に申訳のない失策でした。余り不思議な代物を発見した珍らしさに、年甲斐もなくつい調子にのって、芝居がかりになってしまって、ひどい目に逢わせましたね。ただお話丈だけにして、赤ん坊の死骸なんかお目にかけなければよかったのです。全く申訳ありません」

瑠璃子は、まだ幾分青ざめて、不安らしく目をキョトキョトさせていたが、わしの詫言わびごとを聞くと、

「イイエ、わたくしこそ、皆様をお騒がせして、本当にお恥かしいですわ。赤ん坊の死骸を見て目を廻すなんて、殿方にはさぞおかしかったでございましょうね。気が弱いものですから」

と弁解がましく答えた。この様子では、別にわしの所業を疑ってもいないらしい。

わしがあの別荘を買入れたのも、赤ん坊の死骸を瓶詰にして保存して置いたのも、偶然にしては少し変に違いないのだが、瑠璃子はわしを南米帰りの里見重之と信じ切っているので、まさかわしが彼等の秘密を知り、故意にあんなお芝居をやったとは気がつかぬのだ。イヤ、そんなことよりも、彼女にしては、昨日の少し大袈裟過ぎた驚き方を、何と弁解したものかと、心を砕いているので、わしを疑う余裕などはないのだろう。

「で、あの子供の死骸はどうなさいまして? やっぱりあのまま保存なさいますの?」

瑠璃子は不安らしく尋ねた。若もしあんなものが、其筋の耳に入って、表沙汰にでもなったら、姦夫姦婦にとって、容易ならぬ一大事だ。

「イヤ、わしはすっかり懲こりてしまいましてね。あれは元の土の中へ埋ることにしましたよ。そして、その上に、あの可哀相な赤ん坊の墓を建ててやろうと思っているのです」

わしが答えると、彼女は嬰児を埋ると聞いて、ホッと安堵したらしかったが、墓を建てるというので、又もや心配顔だ。

「マア、お墓でございますって?」

「エエ、お墓ですよ。併しかし、普通の墓ではありません。ありふれた石塔なんかじゃありません。煉瓦れんが造りでね、小さい蔵を建てるのです」

「マア、蔵を? あんな不便な所へ」

「わしは、支那で手に入れた、黄金の秘仏を所持して居りますが、トランクの中へ詰込んで置くのは如何いかにも勿体ないので、どこか安置する場所はないかと考えていたのです。そこへ今度のことがあったので、丁度幸いです。あの赤ん坊の冥福を祈ってやる意味で、お墓の代りに、煉瓦のお堂を建て、そこへ秘仏を納めようと思い立った訳です」

「金むくの仏像でございますの?」

瑠璃子め、黄金仏と聞いて、目を輝かした。どこまでいやしい女であろう。

「そうですよ。妙なことから手に入れたのですが、わしの積りでは、日本の宝を一つふやしたのだと思っています。目方は六百匁程で、金地金きんじがねとしては大したこともありませんが、非常に古い美術品として、計り知られぬ値打があるのです。マア謂わばわしの貴重な財産です。それを保存して置く建物だから蔵と云ったので、一方例の赤ん坊の霊を慰める意味では墓であり、仏像安置の場所としてはお堂とも云える訳ですね」

ところで皆さん、黄金の仏像なんて、まるで嘘っ八なのだ。わしは散歩の折、場末の古道具屋で、つまらない今出来の阿弥陀像を買った。そいつに金鍍金めっきをして、今云うお堂の中へ安置する積りなのだ。

なぜそんな嘘を云うのか。これには深い仔細があるのだ。わしの本当の目的は、赤ん坊の埋てあった所へ、一種奇妙な煉瓦造りの小部屋を建てることであった。その建物に、皆さんもきっとびっくりする様な、前代未聞のからくり仕掛を拵えたのじゃ。無論わしの大復讐の手段としてね。それがどんな奇妙な恐ろしい仕掛けであったかは、やがて分る時が来るじゃろう。

「マア、そんな尊い仏様でございますの? そのお堂とやらが出来上りましたら、是非一度あたしにも拝ませて頂き度うございますわ」

何知らぬ瑠璃子め、真に受けて、そんな宝物の持主であるわしに対して、一層の好意を感じたらしい顔付だ。

「勿論ですよ。あんたには、是非見て頂き度たいと思っているのです。お堂の建築は、わしが工夫をこらした、一種風変りな建て方ですから、きっとびっくりなさるじゃろう。あんたのびっくりなさる顔が、今から目に見える様で、わしは楽しみですよ」

事実、どんなにか、わしはそれを楽しんでいたであろう。瑠璃子が如何にびっくりすることか。珍らしさにか。恐ろしさにか。ウフフフ、……恐ろしさに驚くとすれば、それがどれ程の恐ろしさであることか。

幸福の絶頂

わし達がそんな話をしている所へ、いきなりドアを開いて、姦夫川村義雄が這入って来た。これが夫婦でもない他人の訪問のし方であろうか。流石に川村も極きまりが悪かったと見えて、

「ヤ、これは失礼しました。つい玄関に誰もいなかったものですから」

と弁解がましく云った。

わしという邪魔者がいるとは心附かず、いつもの様に姦婦との媾曳あいびきを楽しむつもりで、何気なく這入って来たものであろう。

「川村さん、いらっしゃいまし。今ね、里見さんがすばらしい仏像のお話をなすっていらっした所でございますわ」

瑠璃子がとりなし顔に云う。そこで、わしは、

「イヤ、それはね、こういう訳ですよ」

と、さっき瑠璃子に話した通りを繰返し、

「そのお堂が出来上ったらあなたには真先に見て頂き度いと思います」

と意味ありげに結んだ。

「是非拝見したいものです。真先にとは実に光栄の至りです。で、それはいつ頃御竣工しゅんこうの予定ですか」

姦夫め、そのお堂が出来たら、どの様な恐ろしい目に会うかも知らないで、光栄の至りだなどと喜んでいる。

「今から約一ヶ月の後には、すっかり内部の装飾も完成する筈です」

アア、内部の装飾! それがどの様な地獄の装飾であったか。

「アア、それは丁度好都合でした。実は僕、暫く大阪へ行くことになりましたので、帰る時分には、そのお堂が出来上っている訳ですね。楽しみにして居ります」

「マア、大阪へ? 何か急なご用でも出来ましたの?」

わしよりも、瑠璃子がびっくりして聞き返した。川村の大阪行きは、姦婦の彼女にも初耳であったと見える。

「エエ、つい今し方大阪の伯父から電報を受取ったのです。長く病わずらっていたのですが、もう愈々駄目らしいから、暫く介抱に来てくれというのです。妻子はなく、近い身寄りと云えば僕一人なので、呼寄せたくなったのでしょう」

川村は何ぜか、ソワソワと嬉し相にしている。真実の伯父の死期が近づいたのが、一向悲しくはないと見える。

それから、三人で暫く話をしている内に、川村が妙にモジモジして、どうやらわしを邪魔に思っている様子が見えたので、さては姦夫姦婦の間に何か秘密の話でもあるのだろうと察し、体よく挨拶して、二人をそこに残したまま暇いとまを告げた。イヤ、告げたと見せかけて、ソッと庭に廻り、窓の外から内側の話声を立聞きした。

別邸のことだから、広くもない庭だけれど、植込みが茂っているので、そこへ身を隠して立聞きをするにはお誂向あつらえむきであった。

「サア、約束をしてくれ給え。僕が大阪から帰ったら、正式に結婚すると」

川村の圧おさえつける様な、力のこもった声が聞えて来た。

瑠璃子は何ぜか黙っている。

「僕の伯父は老年のことだから、今度は死ぬに極きまっている。すると、さしずめ遺産相続者はこの僕なんだ。僕は余り伯父に好かれていなかったけれど、外ほかに身寄りとてもないものだから、あの頑固親爺も、我を折って、僕を呼び寄せる気になったのだ。遺産は少く見積っても十万円は欠けないだろう。アア、僕は今日の来るのをどれ程か待ちこがれていたことだろう。ね、分ったかい。君は大牟田家のあてがい扶持なんかつき返して、僕の女房になって、どこへでも好き勝手な所へ行けるのだ。サア、約束してくれ給え、僕の妻になると」

ガラス窓をソッと覗いて見ると、川村の奴、上気して、瑠璃子の上にのしかかる様にしている。

瑠璃子はと見ると、案外冷静だ。ツンとすまして眉一つ動かしはせぬ。姦婦めどんな返事をするかと、固唾かたずを呑んで待っていると、やっと口を開いた。

「そんなことをしては、世間に顔向けが出来やしないわ。それに、あたし、あんたのお嫁さんになる気なんて少しもないのよ。あんたは恋人。可愛い色男。ね、それで沢山じゃなくって。なにも今更結婚なんかしなくっても」

川村の情熱に水を注ぐ冷い答えだ。

「色男なんて、僕は役不足だ。僕は男だよ。君が独占したいんだ。天下はれて僕のものにしたいのだ。それには結婚という形式をとる外はないじゃないか。いつまでも人目を忍ぶ関係を続けて行くのはいやになったのだ。……サア、約束してくれ給え。それとも、君は僕と同棲するのがいやなのか」

「そうじゃないわ。そうじゃないけれど、あたし達は何もそんな形式にこだわらないだって、ちゃんとこうして愛し合っていればいいじゃありませんか。あんたにも似合わない、人目を忍ぶ逢う瀬こそ、恋は面白いのよ」

と、姦婦はふてぶてしいことを云って、ニッコリ笑って見せた。顔と一緒に身体もくずれて、彼女の白い手が、男の洋服の膝を這った。浅黒い手と白い手とが握り合わされた。

「マア、そんなに慌てて極める事はありやしないわ。伯父さんを大切に看病しておあげなさい。そして、出来る丈け早く帰っていらっしゃい。あたし、待ちこがれているわ。そして、それから。ね、何もかも、あんたが帰ってからよ。あたし、この可愛い義ちゃんと、そんなに永く分れていられるかしら」

アア、何たることだ。これが子爵未亡人の云い草であろうか。娼婦だ。この女は生れながらの娼婦であったのだ。

わしはこの隙見すきみによって、川村の奴が、どれ程深く瑠璃子に溺れているかを知ることが出来た。彼は姦婦の柔かい指先の一触によって、たちまち水母くらげの様になってしまった。

「それならいいけれど、じゃ結婚の話は帰ってから極めることにしよう。その時はキット承知させて見せるよ。ね、まさかいやとは云わないだろうね」

川村めさっきの意気込はどこへやら、よしよしとばかり譲歩してしまった。

「エエ、いいわ。その事はあんたが帰ってからゆっくり相談しましょうね。それよりも、そんなことよりも、ね、暫くお別れじゃありませんの。ね、ね」

瑠璃子の目が細くなって、赤い唇が美しく半開になって、何とも形容の出来ない愛らしい表情に変った。そして、その顔がソロソロと上を向き、なめらかな喉の曲線をあらわにして、忍びやかに、川村の唇の下へと迫って行った。

川村の奴、それを見ると、最早耐え得ないという様子で、いきなり両手を相手の背中に廻し、異様なうめき声と共に、瑠璃子の身体をわしの眼界から隠してしまった。

わしは再びそれを見たのだ。嘗ての日、墓穴を抜け出して来た夜、本邸の洋室のガラス窓の外に忍んで見たものを、再び見たのだ。姦夫姦婦の情痴の限りを目撃したのだ。

わしは決して売女ばいたの如き瑠璃子に愛着を感じていた訳ではない。彼女こそ憎みても憎み足らぬ仇敵なのだ。だが、アア、あの愛らしい笑顔! あの笑顔がわしのはらわたを抉えぐるのだ。

わしは全身総毛立ち、毛穴という毛穴から、血の様な油汗の流れ出すのを感じた。

姦婦め! 売女め! このわしは、嘗ての大牟田敏清は、白髪の復讐鬼と変り果てた今でさえ、貴様のその笑顔を見ると、総身の血が湧き返るのだ。それ程も、わしは貴様の様な人非人に溺れ切っていたのだ。それ故にこそ――貴様の笑顔が耐え難く愛らしければこそ、貴様達両人に対するわしの恨みは燃えるのだ。三千世界を焼尽す焔となって燃えるのだ。

畜生めら、今に見ろ、地獄の底から這い出して来た白髪の鬼の執念の恐ろしさを、思い知る程見せてやるぞ。ウフフフ、……その時こそ、貴様達、どんな顔をして、悶え苦しむことだろう。アア、わしは、それを待ちこがれているのだ。だが、もう長い事ではないぞ。貴様達のむごたらしい最後も、もう遠い事ではないぞ。

わしは姦夫姦婦の痴戯を見るに耐えず、油汗でニチャニチャする拳を握りしめ、それを空に打ちふり打ちふり、大牟田家の別邸を走り出し、激情の余り、どこをどう歩いたかも知らず、長い時間を費して、我宿に帰りついた。

帰って、一人部屋にとじこもり、気を静めていると、やがて、ボーイが来客を知らせた。川村義雄だ。彼奴あいつめ大阪行きの暇乞いにでも来たのだろう。

ここへ案内せよと命じると、川村め這入って来るなり、案の定、姦婦との接吻のしめりも乾かぬ唇で、男には赤すぎる唇で、ペロペロと暇乞いの挨拶を述べた。

「それは定めし御心配じゃろう。どうか充分看病して上げて下さい」

わしが挨拶を返すと、川村は伯父の病気など少しも気掛りではないらしくニコニコしながら、

「イヤ、伯父も年が年ですから、残念ながら今度はいけますまい。それは残念ですが、実を云うと、伯父は仲々財産家なのです。そして、この僕の外には身寄りもないのです。つまり、今度大阪へ行くのは、その伯父の虎の子の財産を譲り受けに行く様なものですよ。つまり、素寒貧すかんぴんだった僕が、一人前の男になれるという訳です。日頃殆ど無心も聞いてくれなかった頑固親爺ですが、やっぱり伯父さんというものは有難いですね」

揃いも揃った人非人。瑠璃子が瑠璃子なら、川村も川村だ。親身の伯父に対してよくもこんな口が利けたものだ。わしはいきなり彼の横面をはり倒してやり度い程に思ったが、イヤ待て待て、今にこいつの断末魔の苦悶を見て嘲笑あざわらってやる時が来るのだと、じっと心をおし静めた。

「それには、実はもう一つ嬉しいことがあるのです」

川村は益々相好をくずして、さも幸福そうに話しつづける。

「里見さん、あなたは僕等の関係を大方察していらっしゃる様だし、それに、あなたを僕は兄さんの様に思っているので、こんなことも打ちあけるのですが、実は、あなたのご存知の婦人が、僕の申込を、承知してくれたのです。最初は外聞がどうのこうのと云ってましたが、とうとう僕の熱情にほだされて、外聞を捨てて僕と結婚することを承諾したのです」

ナニ、承諾するものか、わしは立聞きをしてチャンと知っている。それは川村が大阪から帰ってからゆっくり相談しようと話が極まったことを知っている。川村の奴、ゆっくり相談するというのは承諾したも同然だと、独合点をしているのだ。瑠璃子がハッキリと承知する筈はない。承知の出来ない訳があるのだ。

だが、わしは何食わぬ顔で、

「ホホウ、それはお目出度い。婦人というのは、云わずと知れた瑠璃子さんのことだ。ね、そうだろう。財産は転がり込む、婚約は成立する、君も飛んだ果報者だね」

と、おだて上げると、川村めもう有頂天になって、

「そうですよ。僕自身でさえ、こんな果報が待っていようとは夢にも思わなかった位です。死んだ大牟田が、瑠璃子さんを探し出した時の喜び様というものは、それは大変でしたが、今こそ、僕は彼の気持が分りますよ。日本一の美人を誰はばからず独占する嬉しさというものが、ハッキリ分りますよ。だが、それも今迄の様な貧乏絵描きではどうすることも出来なかったのです。全く伯父のお蔭です。伯父の財産のお蔭です」

悪人も痴情の為にはこんなになるものか。子供の様に喜んでいる。だが、この無邪気な美しい青年が、二度も人殺しの大罪を犯したのかと思うと、ゾッとしないではいられぬ。恋の前にはあの恐ろしい旧悪も気がかりにはならぬのか。イヤイヤ、こいつは人殺しなど旧悪とも思わぬ、稀代の大悪人だ。生れついた殺人鬼だ。この美しい肉体の中に、まるで常人と違った毒血が流れているのだ。人間ではないのだ。一匹の美しいけだものなのだ。人殺しを罪とも思わぬけだものなのだ。

彼は今、瑠璃子と結婚した時の大牟田の気持が分ると云った。如何にもそうだろう。けだものとて、痴情に変りはない筈だ。

皆さん、姦夫は今有頂天になって喜んでいる。幸福の絶頂に微笑んでいる。これがわしの思う壺なのだ。彼奴を真から思い知らせてやる為には、一度幸福の絶頂に押し上げて置いて、それから奈落の底へつき落してやるのでなくては効果がないではないか。奈落の深さ恐ろしさが引立たぬではないか。

奇怪なる恋愛

「併し、僕は実は気掛りなことがあるのですよ」

川村は少し心配顔になって云った。

「ホウ、幸福のかたまりの様な君にも、やっぱり気掛りなことがあると見えますね」

わしは態々わざわざ意外らしく聞き返した。実は川村の気掛りな事柄は百も承知なのだ。

「外ほかでもありません。瑠璃子のことです。御存知の通り、あの人は交際好きで、男の友達も少くありませんし、それに、ひどく気まぐれなたちですから、長く留守にする間に、どんな事が起るまいものでもありません。あの美しさですからねエ」

川村め意気地なく嘆息した。

「ハハハ、……君も自信のないことを云い出すではないか。ナニ大丈夫だよ。僕の見る所では瑠璃子さんは真から君を愛している。間違いなぞ起る筈はないよ」

「エエ、僕もそれは信じているのだけれど、やっぱり気掛りで仕様がないのです。ところで、僕、里見さんにお願いがあるのですが、聞いて下さいますか」

「親友の君の頼みだ、どんな事でも聞きますよ」

わしは親友という言葉に力を入れて答えた。

「僕の留守の間ま、瑠璃子を保護して頂きたいのです。あの人を男友達どもの魔の手から保護してほしいのです。あなたなれば、大牟田家の縁者ではあり、御年配といい、全く信頼出来ると思います。どうか、僕の一生のお頼みを聞いて下さい」

川村もさるものだ。こうしてわしに頼んで置けば、社交界の狼連を防ぎ得るばかりでなく、わし自身が瑠璃子に思いをかける自由をも奪うことが出来るのだ。川村にしては、いくら老人だとて、瑠璃子の美しさでは油断がならぬと思ったことだろう。それに、瑠璃子が又、いやしい拝金宗と来ているのだ。

「よろしい、君はわしの親友であるばかりでなく、懐かしい大牟田敏清の唯一の友であった。わしは敏清の為にも一肌脱ぎますよ。彼の妻であった瑠璃子と、彼の無二の親友であった君とが一緒になるというのも何かの因縁だろう。地下の敏清も定めし喜んでいることでしょう。わしはね、川村君、君が敏清に尽したと全く同じ親切を君に尽す積りですよ。全く同じ親切をね」

わしはこの最後の言葉に又力を入れて云った。川村が尽したのと全く同じ親切というのは、とりもなおさず、妻を盗むことだ。地底に生き埋にすることだ。これが川村の友に尽した親切であったのだ。

わしの異様な言葉を聞くと、流石に川村奴め変な顔をしたが、まさかこのわしが当の大牟田敏清と悟る筈もなく、わしの快い承諾を感謝し、なおもくどくどと瑠璃子のことを頼んだ。

そこで、川村は心を残して大阪に出発し、一月ばかりというもの、手紙の外には彼の消息を断った訳であるが、彼の留守中わしの復讐計画は、一人ぼっちになった姦婦瑠璃子に対して、着々と進められて行った。

わしは毎日の様に彼女を訪ねた。瑠璃子の方でも、わしのホテルを訪ねて来た。外見では親子程も年の違うこの二人の男女は、段々親しみを増して行った。

ある日のこと、わしのホテルの私室のソファに並んで、瑠璃子と話していた時、わしは何気なく川村のことを云い出した。

「川村君から、伯父さんの寿命も、もう長くはないと云って来ましたよ。あの人も一躍お金持になる訳ですね」

すると、瑠璃子は眉をしかめて、

「マア、いやでございますわねえ、そんな不人情なことを」

と如何にも人情家らしいことを云う。

「併し、それがあなたとの婚資こんしになるのではありませんか。川村君も大変喜んでいましたよ」

「マア」

瑠璃子はさも意外だと云わぬばかりに、あきれて見せて、

「婚資でございますって? 川村さんがそんなこと申しましたの? いやですわ、あたし」

と、キッパリ否定する。

「エッ、それじゃ、あなたは同意なすった訳ではないのですか」

わしは大げさに驚いて見せたものだ。

「あの方は、なくなった主人が、兄弟の様に親しくしていた方でございましょう。あたしも本当に兄さんの様に思って、おつき合いしているばかりで、余り親しくなり過ぎて、そんな事考えるのもおかしい程ですわ。結婚なんて思いも寄らないことでございます」

「そうでしたか。あなたがそういうお気持なら、わしは安心しましたよ」

そういって、わしはちょっと好色な目つきをして見せた。

「エ、安心なさいましたとは?」

瑠璃子は、ちゃんとわしの心を察しながら、そしらぬ振りで聞き返す。

「ハハハ……イヤ、そう真面目に尋ねられては困りますが、……わしはね、あんたが再婚すると聞いて、実はひどく失望していたのです」

白髪白髯の老人が女を口説くのは、仲々むずかしいものだ。いくらかは老年のはにかみという様なものを見せなければ、お芝居が本当らしくない。わしはそこで、妙な空咳をして、無暗むやみと髭をこすって見せたものじゃよ。

それに、考えて見ると、わしの立場は実に何とも云えぬ異様なものであった。わしは正しくわしの女房に違いない女を、まるでみそか男か何ぞの様に口説いているのだ。わしはふと、恐ろしい夢でも見ている様な気持にならないではいられなかった。すると姦婦は、これも仲々のしれ者だ。まるで小娘の様に、パッと顔を赤らめて、消えも入り度い風情を見せ、

「マア、ご冗談を。あたし、あなたは女嫌いでいらっしゃると伺ってましたのに」

と、甘い鼻声で、云いにく相に云った。

「女嫌い? 成程わしは女嫌いです。この年まで妻というものを娶めとらなかった男です。併し、瑠璃さん、それはわしが異性に対して余りに贅沢であったからかも知れません。詰つまりわしの心に思っている様な女に、今まで一度も出会ったことがなかったのです。ところが、今度日本へ帰って、あなたという人を見てから、わしの気持は全く変ってしまった。わしは死んだ大牟田敏清をさえ羨んだ。まして、現にあんたの周囲に群がる若い紳士達を見ると、笑わないで下さい、わしは本当に嫉妬に耐えないのです。わしは何ぜあんたと同じ年頃に生れ合わさなんだかと、それが恨みです」

わしのお芝居は段々熱を帯びて行った。真から、この愛らしい女をかき口説いている様な、妙な気持になって行った。その相手が、今わしの前にさも初々しく恥らっている美女が、嘗てはわしの妻であったことが、わしの気持を一層変てこな気違いめいたものにした。

瑠璃子は、目のふちを真赤にして(娼婦というものは、心にもなく顔赤らめる術を心得ているものだ)じっとうつむいていたが、わしの言葉が熱して来るに従って、彼女は何か総毛立つ様に身を震わせ、感激の面おもてを上げて、わしを見上げた。

アア、彼女は泣いているのだ。彼女のまぶたには、水晶の様な涙の玉がつらなり、唇は感激にふるえ、何事をか云わんとして、言葉も出でぬ有様だ。実に至芸である。嘗ては彼女の夫であったわしも、瑠璃子がこれ程の名優であろうとは、少しも知らなんだ。

「あたし、こんな嬉しいことはありません。叶わぬこととは思いながら、あたし、それを夢見ていたんです。あなたの力強い腕に抱かれることを夢見ていたんです」

瑠璃子は名文句を吐きながら、熱い手を伸ばしてわしの手をとった。そして、いつか川村に対してした通りに、涙にぬれ輝く顔を仰向け、半開の赤い唇を震わせながら、わしの顔の真下に迫って来た。

わしは流石に狼狽しないではいられなかった。この仇敵と唇を交わさねばならぬとは、余りにも苦々しい事だ。わしは躊躇した。だが、次の瞬間には、接吻は何も愛情の印ばかりとは限らぬ、相手を侮辱し、弄んでやる積りなら少しも構わぬではないかと思い返した。

わしは嘗ての愛妻の――今は憎みても足らぬ仇敵の、唇を吸った。その不思議にも複雑な味わいは今も忘れる事が出来ない。

わしは相手の燃える様な、異様に躍動する唇を感じながら、この妖艶類なき女を、果して憎んでいるのか、それとも、実は溺愛しているのか、我と我心を疑わねばならなかった。

唇の感触から、嘗ての甘かりし日の思出が、まざまざとわしの心に浮上った。いつかも話した、わしと瑠璃子との、みだらな湯殿のたわむれなどが絵の様に思い出された。

だが、ウトウトと夢見心地になって行くわしの心を、パッと打ち醒さますものがあった。わしの復讐心が、きわどい所で、美女の誘惑に打勝うちかったのだ。

わしはグッと心を引きしめ、同時に顔や仕草は一層柔げながら、静かに唇を離して、最後の言葉を吐いた。

「わしはあんたに結婚を申込むことが出来るだろうか」

瑠璃子は何も云わなんだ。何も云わず、ただ深く深く肯いて見せると共に、握り合っていた指先に、思いのたけを通わせて、砕けよとばかり握りしめたのである。

十三人

大阪の川村義雄から、愈々伯父が死亡したこと、遺産はとどこおりなく相続を了したことを通知して来たのは、それから間もなくであった。

わしは早速喜びの返書を認めた。そして、先ず川村を有頂天にさせる様な嬉しがらせの文句を連ねたあとへ、こんなことをつけ加えた。

ついては貴兄御帰着の当夜、心ばかりの歓迎宴を催し度く、已に当市社交界の立物T氏K氏その他十数名の賛成を得居り候そうらえば、必ず御列席下され度たく、御帰着の時間には小生停車場に出迎え、その場より宴会場へ御伴い申す手筈に候そうろう

という意味は、川村が帰って、まだ瑠璃子に逢わぬ内に、その宴会場へ連れて行く必要があったのだ。

わしが瑠璃子と婚約を取交わしたことは、川村には無論少しも知らせなかった。これは瑠璃子も同意なのだ。彼女にしては、あれ程恋い慕っている川村を袖にして、わしの妻になるというのは、流石に寝ざめが悪い気がして、このことはある時期が来るまで川村には絶対に秘密にして置いてくれとの頼みであった。

川村からは折返し返事があって「私如きものの為に、S市一流の名士方が歓迎宴を張って下さるとは、実に実に光栄の至り、御指図の通り停車場よりすぐ様会場へかけつけます」と云って来た。喜び勇んでいる様子が目に見える様だ。

さて、愈々川村の帰って来る日とはなった。午後六時、わしは、来会者達をホテルの食堂に待たせて置いて、自動車で停車場へ出迎えに行った。

川村は、贅沢な新調の洋服を着込んで、一際ひときわ男ぶりを上げて帰って来た。わしの姿を見ると、飛びつく様にして、

「里見さん、実に感謝の外ありません。僕もお引立てによって、どうやら一人前の男になれる様です。それから、瑠璃子さんのことを有難う。こんなことを申しては済みませんが、歓迎会さえなければ、僕は大牟田の別荘へ飛んで行き度い程に思っているのです。それにしても、万事に行届いたあなたが、どうして今夜の会に瑠璃子さんも加えて置いて下さらなかったのです」

と怨えんじた。

「ハハハ……おいしいご馳走はあとからということもありますよ。瑠璃子さんは益々元気で益々美しいです。安心なさい。今夜の会は男ばかりだし、君達が愈々結婚を発表するまでは、余り見せびらかさぬ方がいいと思って、態わざと呼ばなかったのです。あの人は停車場へも迎えに来たい様子だったけれど、それもわしが止めた位です。マア会の方はなるべく早く切上げることにするから、兎も角一緒に来てくれ給え」

わしは言葉巧に云いつくろって、彼を自動車に乗せ、宴会場へ連れ帰った。

ホテルの大食堂には、純白のテーブル掛けに覆われた大食卓に市内屈指の紳士紳商がズラリと顔を並べて待ち受けていた。

川村は一人一人に頭を下げながら、嬉しさに笑みくずれて主賓の席についた。

さて、食事の皿が次々と運ばれ、人々の手にナイフとフォークがキラキラときらめき始めたが、大いにお目出度い歓迎の酒宴でありながら、妙に席が白けて、一同言葉少なであった。

「里見君、僕は黙っている積りだったが、どうも聞かずにはいられなくなった。君、この宴会の人数はどうしたものだい。まさか、こんな不吉な数の招待状を発した訳ではなかろうね」

隣席のS市商業会議所会頭のT氏が、ソッとわしに囁いた。

「人数とは?」

わしは態と腑ふに落ぬ体で聞返した。

「ホラ見給え、我々は丁度十三人じゃないか。十三という数が、不吉だ位は君も心得ているだろう」

かつぎ屋のT氏は非常な不機嫌である。

「ア、それはつい気がつかなかった。成程十三だね。実は十五人に招待状を出したのだけれど、二人不参者があったので」

わしはさもさも困ったらしく答えた。

囁き声の積りであったのが、そんな低い声さえ隅々まで聞取れる程、一座が静まり返っていたので、この不吉極まる会話は、忽ち一同の知る所となり、口には出さぬけれど、お互に顔見合せて、一抹の不安が食卓に漂った。

だが、間もなく食事は滞りなく終り、果物が運ばれ始めたので、わしは一座の不安をかき消すべく、快活に立上って、一場の歓迎の辞を述べた。

わしはただもう滅多無性に川村をほめ上げ、彼の幸運を祝し、かくの如く富裕にして趣味豊なる青年紳士を、我が社交界に迎え得たことは、衷心ちゅうしんより愉快に耐えぬ所である。という様なことを、美辞麗句をつらねて述べ立て、更にこんなことまでつけ加えた。

「ほのかに聞く所によりますと、川村君は近く婚約者を定められ、我々に披露される日も遠くはないとの事であります。仕合せは決して一人ぼっちではやって来ません。川村君は今や二重三重と重なる幸運にめぐまれ、人生歓喜の極にあられることと存じます。しかも、その婚約の婦人は淑徳しゅくとくのほまれ高く、秀麗並びなき美人と承うけたまわるのであります」

わしの言葉が終るや否や、人々は一斉に拍手を送り、T氏の音頭で、川村の幸福を祝する乾杯が行われた。

それをきっかけに一座が俄に賑かになった。川村は四方から冗談まじりの祝辞をあびせられて、笑みくずれていた。

これが姦婦川村の「姦婦川村の」はママ幸福の絶頂であった。運命の分水嶺ぶんすいれいであった。

さて、頂上を極めたあとは下り坂に極っている。しかも、その下り坂は急転直下、千仭せんじんの奈落へと続いていたのだ。

わしは再びスックと自席に立上った。

「皆さん、この機会に、ちょっとご披露申上げたいことがあります。外でもありません。実は私自身の身の上に関するご報告であります。川村君の幸運には及びもつきませんが、私もいささかの喜びを皆さんにお知らせすることが出来ますのを、欣快きんかいに存ずるものであります」

それを聞くと、一座の騒ぎはピッタリ静まって、人々は好奇の目をみはって、わしを眺めた。

「謹聴、謹聴」の声が各所に起った。

「突然の御報告で、皆さんは定めしびっくりなさることでございましょう。イヤ、そればかりか、あのひからびた老人がと、御失笑を買うに相違ありません……思切って申上げましょう。実はこの年まで独身を通した私が、近く妻を娶めとることになったのでございます。枯木に花咲く幸運にめぐまれたのでございます」

ここまで云うと、余りに意外な報告に、一座はしいんと静まり返ったが、次の瞬間百雷の拍手が湧き起った。

「お目出度う」「お目出度う」の雨。

「あなたの新妻となる果報者は誰です。早くその名をおっしゃい」と質問の矢。

わしは思わせぶりに、二つ三つ咳ばらいをして、さて、わしの正面にいる川村義雄の顔をじっと見つめながら、愈々婚約者の名前を披露する順序となった。

白髪の花婿

白髪の老人が婚礼をするというのだ。人々は驚きの目を見はった。次には耳も聾ろうせんばかりの拍手、そして、

「一体全体どこの婦人だ、その仕合せな婚約者は。サア、早くそれを発表し給え」

八方から好奇の叫び声が起った。無理はない。女嫌いで通っていたわしが、突然、思いもよらぬ披露を始めたのだ。

わしはその婦人の名を云う前に、正面に着席している川村の顔をじっと見つめた。川村は面喰った様に目をパチパチやりながら、気のせいか、少し青ざめた様に見えた。

「わたくしの婚約者は処女ではございません。併しかし、如何いかなる処女よりも清く、如何なる処女よりも気高く、如何なる処女よりも美しい人です。と申せば、皆様には已すでに御想像がつくでありましょう。S市広しと雖いえども、わたくしの婚約者を外にして、その様な婦人は一人も存在しないのであります」

わしは一世一代の惚気のろけ演説をやった。流石社交界のつわもの共も、一言を発する者もなく、あっけにとられて八方からわしの顔を見つめていた。

「左様です。皆様が御想像なされた通り、それは子爵大牟田敏清の若き未亡人瑠璃子でございます。わたくしは、この町に帰りまして以来、瑠璃子と清き交りを続けて居りましたが、交るに従って、いつしか彼女の純情が女嫌いのわたくしを飜然改宗せしめるに至ったのであります。わたくし共は、大牟田家の諒解を得まして、今月二十一日、結婚式を挙げることに定め、目下嬉しい準備を急いでいる次第であります。……」

まだ結びの言葉を言い切らぬのに、忽たちまち起る拍手の嵐、祝辞のつぶて。「里見老人万歳」の声さえ聞え、四方八方から、喜びの握手を求める手首が、ニョキニョキとわしの身辺に迫って来た。

だが、わしはそれらの人々に見向きもせず、ただ姦夫川村義雄の顔を凝視していた。少からぬ興味を以て、彼の表情を見つめていた。

川村の顔色は、最初驚きと恐れの為に、真青になったが、次には燃え上る憤怒に火の様に赤くなり、果ては限りなき苦悶の為に、恐ろしい紫色にふくれ上った。

彼の両眼は、異様な光を放って、食い入る様にわしの顔を睨みつけていた。わしはと云うと、彼の物々しい表情とはあべこべに、さも朗かな微笑を浮べてまじまじと彼を見返していた。

一しきり騒ぎ立てた人々も、何となくただならぬ気配を感じたのか、ふと黙り込んで、我々両人の奇妙な睨み合いを注視した。

川村は唇をピクピクと痙攣させた。何か云おうとするけれど、激情の余り、声さえ思う様には出ないのだ。併し、やっと彼は云った。

「里見さん、今のお話は、まさか冗談ではありますまいね」

「冗談?」わしは小気味よくカラカラと笑った。「ハハハハハハハ、何をおっしゃる。冗談にこんなことが云えると思いますか」

「では……」

川村は口惜しそうに、ブルブルと身を震わせた。

「では?」

わしは、やっぱりニコニコしながら、大様に聞返した。

川村はそれには答えず唇を噛みしめて、いきなり立上った。立上って何かキョロキョロあたりを見廻していたかと思うと、前に置いてあったワイン・グラスを掴むなり、突然、気違いの様に、わしに向って投げつけた。

わしがヒョイと首を曲げたので、グラスはうしろの壁にあたって、ピシッと、微塵に砕け散った。

「ウヌ、このかたり奴めッ」

彼は野獣の様に唸ったかと思うと、飛出した目でわしを睨にらみつけながら、いきなりテーブルの上に躍り上って、わしの胸へ掴みかかって来た。

「何をなさる。気でも違ったのですか」

両隣の二紳士が川村の足を持ってやっとのことテーブルの上から引きおろした。一座総立ちになって、この乱心者を睨みつけた。

川村は八方から叱責の凝視を受けて、流石さすがに恥しく思ったのか、再び、乱暴を働くことはなかったが、心は刻一刻憤怒に燃え、紫色の顔でわしを睨みつけたまま、石の様に動かなかった。

「ハハハハハハハハ、イヤ、皆さん、飛んだお騒がせをして実に申訳もありません」

わしは、少しも取乱さず、朗かに笑いながら云った。

「川村君は何か感違いをなすっている様です。でなければ今晩の歓迎会の主催者であるわたくしに対して、こんな乱暴をなさる筈はない。川村君、どうしたのです。君のやり方は好意を仇で報いるというものですよ。それとも何か、僕に不満でもあるのですか。それなれば、のち程ゆっくり聞こうじゃありませんか。何もこの席であばれる事はありません」

だが、川村はやっぱり石の様に突立ったまま、それに答えようともしなかった。異様な沈黙の中に、再び奇妙な睨み合いとなった。が、暫くすると、彼は突然クルッとうしろ向きになって、椅子をガタガタ云わせながら、恐ろしい勢でドアの方へ歩いて行った。一言の挨拶もせず、歓迎宴の席を立去ろうとするのだ。

「川村君、用事があったら、Y温泉の別宅へ来てくれ給え、僕は今夜はあすこへ泊ることになっている」

わしは立去る川村の背中へ、声をかけた。

川村は、確にそれを聞取ったが、振向こうともせず、唖の様にだんまりで、ドアの外へ消えてしまった。

川村が立去ったあとの一座が白け切ったことは申すまでもない。歓迎会の賓客が消えてしまったのでは、この会食は全く意味を失うのだ。わしは何気なく、その場をつくろって、匆々そうそうお開きにすることにした。来会者達は、大方は様子を察していたが、何事も口にせず、陰気な挨拶を交して、夫々それぞれ家路についた。

陥穽

その夜十時頃、わしはY温泉の例の小別荘に、すっかり準備をととのえて、姦夫川村がやって来るのを、今や遅しと待ち構えていた。

川村の奴、あれからすぐ瑠璃子の住いへ駈けつけたに極きまっている。彼に取っては余りにも意外な瑠璃子の変心を責める為にだ。

併しかし瑠璃子はいない。彼女はわしの意見に従い、川村を避ける為に、今朝早く旅に出た。女中一人を供につれて、二三日の小旅行に出掛けたのだ。

川村は留守居のものから、それを聞くだろう。そして、やっぱり瑠璃子とわしとの婚約が嘘でなかったことを悟るに違いない。なぜといって、瑠璃子は川村が今日帰郷するという通知を受取っている筈だ。それを知りながら、行先も分らぬ旅に出かけたとすれば、これが心変りでなくて何であろう。川村の奴、ここで又第二の鉄槌てっついで脳天を打ちくだかれるのだ。恋を盗まれた男のみじめさを、嘗て大牟田敏清が味ったと同じくやしさを、まざまざと味うのだ。

わしは川村の恋の深さを知っている。彼は宴会の席でさえ、わしに掴みかかった程だ。わしの裏切り、瑠璃子の変心を知って、何でそのまま済ますものか。姦夫姦婦(彼にして見れば、わし達は正に姦夫姦婦であった)を八つ裂きにしないでは、心が癒えぬであろう。だが、瑠璃子の行衛は分らぬ。さしずめ姦夫であるわしの所へ飛んで来るに違いはない。ピストルを持ってか、短刀を持ってか。いずれにもせ、彼奴きゃつはわしをこのままで置く筈はない。

ちゃんとそこまで見通して、わしは彼奴の飛込んで来るのを待っていた。手負い猪じしに最後のとどめを刺す深い陥穽おとしあなを用意して。その陥穽の底にはドキドキする剣を何本も植えつけて。

皆さん、今こそわしは、憎みても余りある姦夫川村義雄を、思う存分やッつける時が来たのだ。わしの心臓は嬉しさに躍った。白髪の復讐鬼は、血に餓えて、喉を鳴らしていたのだ。

で、川村の奴、わしの罠の中へ飛込んで来たかとおっしゃるのか。来ましたとも。哀れな獲物は、心の痛手によろよろと足元も定まらず、やって来ましたよ。

「川村さんでございます」

取次に出たわしの番頭の志村が復命した。

「よし、わしは先に庭のお堂へ行っているから、お前は云いつけて置いた通り、川村を案内するのだ。いいか、しっかり頼んだぞ」

云い捨ててわしは、そのお堂へと走って行った。

皆さんは御記憶じゃろう。いつかわしが姦夫姦婦に、黄金の秘仏を納める煉瓦造りの倉庫を建築中だと話して聞かせたことを。今お堂と云ったのは、即すなわちその奇妙な倉庫のことなのだ。わしはそこへたどりつくと、建物の片隅に設けられた、狭い機械室の中へ身を潜めた。

お堂の中に機械室があるのかって? 御不審は尤もっともじゃ。併しまあ話の続きを聞いて下さい。今に何もかも分るのだから。

さて、これからあとは、その異様なお堂の中へ案内されて来る川村の気持になってお話した方がよく分る。で、暫くの間あいだわし自身は蔭の人物となって姦夫川村義雄がお話の主人公だ。

川村がこの別荘へ何をしに来たか。わしの想像に違たがわず、彼はポケットに古風な九寸五分を忍ばせて、わしの反省を促した上、若し聞入れぬ時は、その場を去らずわしを殺害する決心であった。彼は瑠璃子を失った悲しさに、殆ど気が違っていたのだ。

日頃美男であった彼も、邪念の為にすっかり相好そうごうが変り、まるでこの世の人とも思われぬ有様で、ポケットの短刀を砕けよとばかり握りしめ、ガクガク震えながら待っていると、取次の志村が引返して来て、

「どうかこちらへ」

と物柔かに案内した。

川村は無言のままそのあとに従う。二部屋三部屋通り過ぎて、奥座敷の縁側。志村はそこの靴脱ぎ石に庭下駄を揃えて、

「あちらでございます」

と真暗な庭を指さす。そこには、闇の中にほの白く、二階程の高さのある、四角な赤煉瓦の建物が、ニョッキリとそびえていた。

「あちらとは?」

川村は妙な顔をして聞返す。

「主人は近頃出来上りましたお堂の中にお待ち申して居ります。何かあなた様にお見せするものがあります相で」

アア分った。いつか黄金仏の話をしていたが、ではあれがそのお堂なのだな。と、川村は考えたに違いない。彼は場所がどこであろうと、兎とに角かくわしをつかまえて、恨みをはらしたい一心だから、別に疑うこともなく、志村のあとに従って、庭に降りた。

扉を開いて建物の中に這入って見ると、中央に一坪程の、やっぱり赤煉瓦でかためた内陣があって、そのまわりを一間幅の薄暗い廊下が囲んでいる。つまり大きな桝ますの中へ、小さな桝を入れこにした様な構造なのだ。

わしが隠れていた機械室というのは、丁度その内陣の裏側に当る廊下の一部の、ごく狭い箇所にあるのだが、無論川村は気が附かぬ。

内陣の正面には、赤煉瓦の壁に鼠色に塗った鉄の扉がついている。志村はそれを開いて、

「主人はこの中でございます」

と川村を招じ入れた。

「オイ、君、誰もいないじゃないか。里見さん、里見さんはどこにいるのだ」

川村がびっくりして叫び出した時には、已に入口の扉は外からピシャリと閉められ、カチカチと鍵をかける音さえ聞えた。彼はまんまと、一坪程の煉瓦の壁の中へとじこめられてしまったのだ。

併し、川村にして見れば、彼の方にこそ恨みはあれ、里見重之と信じ切っているわしの為に、彼がこんな目に合わされる道理はない訳だから、まだ何の事とも分らず、

「オイ、どうしたんだ。早く里見さんを呼んでくれ給え」

と怒鳴るばかりだ。

さて、川村の目に映った内陣の有様はと云うと、これは又意外にも、一向お堂らしくはなかった。

内側は全部コンクリートで祭壇も何もなく、ただその真中に、黒い漆塗りの小さな箱がチョコンと置いてあるばかり、壁も天井も一面の平たいらな鼠色で、彫刻もなければ、模様も色彩もなく、まるで空っぽの物置きの中へ這入った様な、殺風景極まる感じであった。

低い天井の真中から、五燭程のはだか電燈がぶら下って、それが風もないのに、ブラブラと動いている。動く度たびに、床から壁に這い上っている川村自身の影が、不気味に揺れるのだ。

そればかりではない。電線がどこかで切れてでもいるのか、そのフラフラ電燈は、時々お化けの様に、パッと消えては又輝く。どうも、ただ事ではない。

川村は変な気持になって、外へ出ようとして扉を押し試みたが、さっきのはやっぱり鍵をかけた音であったと見え、びくとも動かぬ。

「オイ、ここをあけろ。俺をこんな所へ押しこめて、どうしようというのだ」

怒鳴りながら、拳で叩くと、扉はガーン、ガーンと鐘つりがねの様な音を立てる。厚い鉄板で出来ているのだ。貴重な黄金仏を納める金庫だから、鉄の扉に不思議はないが、併し人間の川村まで、仏像と同じ様にその金庫の中へ閉じ込められる道理がないではないか。

あっけにとられて佇んでいると、又してもお化け電燈がパッと消えて、コンクリートの箱の中は、あやめも分かぬ闇となった。しかも今度は消えたまま、急に明るくなる様子もない。

川村はもう怒鳴る元気も失せて、底知れぬ気味悪さに圧おさえつけられた様に、黙りこくっていた。

すると、目の前の闇の中に、何かモヤモヤと蠢くものがある。闇の錯覚であろうか。イヤイヤ錯覚ではない。そのものは、徐々に、恐ろしい形を現わして来た。アレだ。例のものだ。

さし渡し三尺程もある二つの目が、闇の中にポッカリと浮上って、じっとこちらを見つめているのだ。しかもそれが、忘れようにも忘れ得ない、大牟田敏清の恨みに燃える両眼に相違ないのだ。

秘仏の正体

耳をすますと、どこからか、幽かすかに幽かに、異様な物音が聞えて来る。厚いコンクリートの壁の中で、巨人の目におびえた川村が、哀れなけだものの様に、狂い廻っている音だ。

わしは実物幻燈器械の、強い電燈の前で、もう一度両眼をカッと見開いて置いて、壁のスイッチを押した。つまり、川村の頭の上に下っている電燈を点じたのだ。同時に、三尺に拡大されたわしの目の幻影が消え去ったのは云うまでもない。

わしは黒眼鏡をかけると、廊下を一廻りして、内陣の正面に行って、そこの鉄扉に設けてある、小さな覗き穴の蓋をソッと開いて、内部の様子を窺った。

ハハハハハハハハ、わしの獲物は――川村義雄という一匹の鼠は、鼠とりの網の中で死物しにもの狂いにあばれ廻っていた。もう巨人の目は消えてしまったのに、彼奴きゃつ無我夢中で、隠しもった短刀を抜き放って、めくら滅法に振り廻している。

「オイ、川村君、何をしているんだね」

わしはそこで初めて、覗き穴から声をかけた。一度では耳に入らなかったが、二三度繰返すと、川村はギョッとした様に、狂態をやめて、こちらを振返った。

「わしだよ。里見だよ」

わしは覗き穴から顔を見せて云った。

「アッ、貴様ッ」

川村は、それと悟ると、見る見る満面に朱を注いで、パッと覗き穴に飛びついて来た。わしの目の前でギラギラ稲妻がきらめいた。

顔をよけるのがやっとだった。狭い覗き穴から、短刀を持った川村の右手が、肩のつけ根まで、槍の様に突き出していた。

だが、仕損じて引込めようとする彼奴の腕を、わしは素早くひっ掴んだ。掴んで置いて、力まかせに短刀をもぎ取ってしまった。

「ハハハハハハハ、川村君、よっぽど腹が立ったと見えるね。君はわしを殺しに来たのか」

云いながら、腕を離すと、彼ははずみを喰って、ヨロヨロと向うの壁に倒れかかったが、よろめきながらも、黙ってはいない。

「そうさ。殺しに来たのだ。うぬよくも俺を裏切ったな。サア、この戸を開ろ。かたり奴め。泥棒奴」

いつも女の様な口を利いている川村が、これ程に云うのは、よくよく取乱しているのだ。

「ハハハハハハハハ、川村君、マア落つき給え。君の方ではわしを殺しに来たのかも知れないが、わしの方では、ただいつかの約束を果したまでだよ。忘れたかね、ホラ、わしが大切にしている金むくの仏像をお目にかけるという約束さ。君、見てくれ給え、その仏像は君のすぐ前に安置してあるのだよ。その黒い箱の中だ。開て見給え。どんなに珍らしい仏様が入っているか」

わしが云うと、川村は、

「これが人に物を見せる礼儀か。仏像なんかどうだっていい。今我々にはもっと重大な問題があるんだ。兎も角、ここを開給え。サア開ぬか」

と怒鳴り返す。

「開たら、君はわしに掴みかかって来るだろう。マアもう少し、そこで気を落つけ給え。それに、仏像なんかどうだっていいことはない。君はそれを見なければならぬ。見る義務がある。犯した罪はつぐなわなければならないからだ」

このわしの異様な言葉に、川村はふと妙な顔をした。彼の激情はやや静まり、言葉のあやを判断する能力を取返していた。彼は黙ったまま黒い箱へ近づいて、観音開きになったその蓋に手をかけた。手を掛けて躊躇した。何か恐ろしいものを予感した如く、それを開き兼ね、グズグズしていた。

「サア、開き給え、今更何を躊躇するのだ。その中のものは君を待ちこがれているのだ」

わしの声に励まされて、彼は遂に蓋を開いた。

「アッ」という叫び声、見る見る青ざめる顔、恐怖に戦おののく唇、箱の中の一物を見ると、川村は思わずタジタジとあとじさりをした。

「見給え、罪の子の哀れな姿を。我が子を我が手にかけて、くびり殺した父親は誰だ。川村君、今こそ鬼の様な父親が罰せられる時が来た。覚悟し給え。くびり殺された子の恨みだ。女房を盗まれた夫の恨みだ」

箱の中には、腐り溶けて、半骸骨となった、無残な嬰児の死体があった。手を縮め、足をかがめ、口を大きく開いて、泣き入っている哀れな形のまま、罪の子は骨となっていたのだ。

皆さんは、それが標本用の誰の子とも分らぬ例の瓶詰め嬰児のなれの果てであることを知っている。だが、川村は少しもそれを知らなかった。嘗ての日、瑠璃子を気絶させた、正真正銘の罪の子であると思い込んでいた。

彼が驚き恐れたのは、併し、骨になった嬰児そのものではなかった。それが川村自身の子である事、彼が手にかけて殺したことを、このわしに感づかれている点であった。

彼はギョッとした様に、覗き穴のわしの顔を見つめたが、いきなり、物狂わしく叫び出した。

「違う、違う。そんなことがあるものか。何を証拠に俺の子だというのだ。俺は知らん。俺は知らん」

「知らぬとは云わさぬ。これは君が大牟田の目を盗んで、この別荘の奥座敷で、瑠璃子に生み落させた、あの不義の子だ。君はその手で、ホラその手だ。その手を使って、生れたばかりの赤ん坊をくびり殺したんじゃないか。くびり殺して、この庭へ埋めたんじゃないか。君はそれを忘れてしまったというのか」

わしは復讐の快感にウズウズしながら、一語は一語と相手の急所へ迫って行った。

「違う。俺は知らん。俺は知らん。……」

川村は青ざめて骸骨の様にこけた頬に、物凄い微笑を浮べながら、同じ言葉を繰返して、みじめな反抗を示したが、その声が段々衰えて行って、遂には、ただモグモグと唇丈けが動いていた。微笑の影はあと方もなく消えてしまった。何かしら深く深く考え込んでいるのだ。

やがて、彼の表情が突然恐ろしい変化を示した。青ざめた頬にサッと血の気が上った。落くぼんだ目が熱病の様にギラギラと輝いた。

「貴様は誰だ。そこに覗いている奴は一体誰だ」

彼の叫び声には、何かしらゾッとする様な調子があった。

「誰でもない。わしだよ。君が殺そうとして訪ねて来た里見重之だよ」

わしが答えると、川村は何か疑わしげに、

「アア、そうだ。貴様だ。貴様に違いない。だが、貴様は俺をなぜこんな目に合わせるのだ。何の恨みがあるのだ」

と聞返した。

「妻を盗まれた恨みがあるのだ」

「アア、貴様はさい前も、何かそんなことを云っていたね。だが、盗もうにも、君には妻なんてない筈じゃないか」

「妻を盗まれた上に、わしは君に殺された恨みがあるのだ」

「何だって? 何だって?」

「殺された上に、出るに出られぬ地底の墓穴に埋められた恨みがあるのだ。何ぜといって、わしはその地獄の暗闇で甦ったからだ」

「ウー、待て。貴様何を寝言を云っているのだ。それは何のことだ。アア、夢を見ているんだ。俺はうなされているんだ。止せ。分った。もういい」

彼は両手で髪の毛を掴みながら、悪夢から醒めようともがいた。だが、夢ではないものが醒める道理はない。

「待ってくれ。やっぱり貴様そこにいるのか。顔を見せてくれ。サア、貴様の顔を見せてくれ。俺は気が違い相だ」

「わしの顔が見たければ、ここへ来るがいい。この覗き穴からよく見給え」

わしの声につれて、川村はフラフラと覗穴に近づいて来た。そこから、目を出して、わしの顔を見つめた。二人の顔は五寸と隔たぬ近さで向い合った。川村は長い間、わしの顔を凝視していたが、やがて失望した様に叫んだ。

「違う。やっぱり俺は見覚がない。貴様がどうして、俺をこんな目に合わせるのか、少しも分らん」

「待ち給え。川村君。僕の声は、よもや忘れはしないだろうね」

突然、わしは里見重之の作り声をやめて、昔の大牟田敏清の若々しい声で云った。

五寸の近さの川村の顔に、ゾーッと鳥肌の立つのが見えた。彼の目は一瞬間、全く生気を失い、口は白痴の様にだらしなく開いた。

「オイ、川村君。仮令声は忘れたとしても、僕のこの目を、よもや忘れはしまい。昔は無二の親友であった男の目を」

わしは一語一語圧えつける様に云いながら、大きな黒眼鏡をはずした。そのあとには、これ丈けは昔ながらの、大牟田敏清の眼が光っているのだ。

これを見た川村の両眼は、眼窩がんかを飛び出すかと疑われた。もじゃもじゃになった髪の毛が、一本一本逆立ったかと怪しまれた。

何とも形容の出来ない、絞め殺される様な悲鳴が耳をつんざいたかと思うと、川村の顔が覗き穴から消えた。彼はその場へ坐り込んでしまった。最早立っている気力もなかったのだ。

死刑室

永い沈黙が続いた。

川村は恐怖の余り、薄暗い狭いコンクリートの壁の中に、気を失った様にくずおれていた。覗いて見ると、彼の顔はしなびた様になり、身体全体が子供みたいに小さく、哀れに見えた。

だが、わしの根深い恨みは、この位のことではれるものではない。わしの復讐はまだまだ終ってはいないのだ。

わしは川村が失神しているのではないことを確め、覗き穴から、彼に話しかけた。墓穴の中で甦って以来の、悲しみ、恨み、苦しみ、悶えの数々を、残りなく語って聞かせた。

川村は無論聞いていたに違いない。併し彼は何の反応をも示さなかった。彼にはもう、わしの奇怪な物語に驚く余力がなかったのだ。どんな刺戟も、最早刺戟ではなかったのだ。

「わしは全く別人となって、仇敵瑠璃子と再び結婚する所まで漕ぎつけた。あと十日余りで、わしはあれの花婿となるのだ。川村君、この結婚を君はどう思うね。ただ、わしが君を絶望のどん底へつき落す手段に過ぎなかったとでも考えるのかね。若しそうだとすれば、君は余りにお人好しというものだ。わしはね、あの売女に復讐する為に結婚するのだぜ。わしと同じ地獄を味わせた上、あいつを殺す為に結婚するのだぜ。アア、それがどんなに恐ろしい婚礼だか、君に想像出来るかね」

わしは長物語を終って、じっと川村の様子を眺めた。彼は元のままの恰好で、肩で息をしながら、蚊の様な声で、

「卑怯者、卑怯者」

とつぶやいていた。

「さて、瑠璃子の処分は、のちのお楽しみとして、今は君の番だ。わしが墓穴の五日間に味ったと同じ分量の苦痛と恐怖を、どんな味がするものか、君に甞なめさせてやるのだ。サア立ち給え。そして、云うことがあるなら、云って見給え」

それを聞くと、川村はまるで命令でもされた様に、スックと立上った。そして、もじゃもじゃの頭を振りながら、自暴自棄の物凄い笑いを、ケラケラと笑った。

「で、君はその窓から、ピストルでも向けるのかね。それとも、そこを閉め切って、俺を窒息させようて寸法かい。それとも、このままうっちゃって置いて、餓え死させるか。フフフフフフフ、だが、気の毒だけれど、俺はちっとも驚きやしないよ。すっかり覚悟を極めてしまったよ。お上の手で首吊り台にのぼされるよりか、君に殺された方がいくらましだか知れやしない。あの世では、又いとしい瑠璃子と一緒になれるんだからね」

「へらず口はよし給え。それとも君は恐ろしさに逆上してしまったのか。わしの復讐はそんな生やさしいもんじゃないんだ。君、少しも騒がないで死ぬ勇気があるかね。本当に大丈夫かね」

「大丈夫さ」

だが、それは人間の声ではなかった。罠にかかった哀れな小動物の悲鳴としか聞えなかった。

わしは川村の虚勢を憎々しく思ったので、直にトントンと扉を叩いて、機械場へ合図をした。そこには忠実な志村が待構えていたのだ。

忽ち、ビューンというモーターの響、ゴロゴロきしむ歯車の音、コンクリートのお堂の中に、何かしら恐ろしい事が起り始めた。

川村の耳にも、その物音が微かすかに聞えたに相違ない。彼は不安らしく、キョロキョロとあたりを見廻した。

「ウフフフフフフフフ、怖いかね。だが、川村君、わしが真暗な棺の中で目を覚した時には、もっともっと不安だったよ」

皆さん、わしの残忍な行為を責めないで下さい。当時のわしは、復讐の外ほか何ものもなかったのじゃ。復讐丈けがわしの生命であったのじゃ。

「あの音は何だ。教えてくれ、俺は一体どうなるのだ。何が起っているのだ」

川村は堪らなくなって、メスの音を聞いた外科の患者の様に、オドオドと尋ねた。

「フフフフフ、怖いのか」

「ウウン、怖いものか。だが、知り度いのだ。俺の運命が知り度いのだ」

「教えてやる。だが、後悔するな」

川村は言葉もなく、ブルッと身震いした。

「上だ。上を見るのだ。フフフフフフ、何をグズグズしている。見る勇気がないのか」

彼はいじけた子供の様に上目使いをして、ソッと天井を眺めた。だが、平な鼠色の天井板には、何の変った所も見えぬ。

「そんな見方では駄目だ。もっとじっと見ているのだ」

川村は云われるままに、再び天井を見上げた。長い間見つめていた。併し、血迷った彼の目には何も映らぬ。ただ一面の鼠色だ。天井には、真中から一本の電線が垂れて、その先には、はだか電球がぶら下っているばかりだ。

「フフフフフフ、何を見ているのだ。天井に穴でもあいていると思うのか。そんな小さなものじゃない。余り大き過ぎて、君は気がつかぬのだ。天井そのものを見給え。あれが一枚の板だとでも思っているのかね。どうしてどうして、あれは一間も厚味のある、コンクリートの塊りなんだよ。つまり、その部屋全体が一つのシリンダアなのさ。分ったかい。ホラ、さい前君の頭の上にあった電球が、もう君の目の辺まで下って来たじゃないか。なぜ電球が下るのか、君分るかね。云うまでもなく、天井そのものが、同じ速度で床の方へ下っているのだよ」

川村は凡すべてを悟った。何噸トンというコンクリートの塊りが、彼を圧おしつぶす為に、ジリジリと下降しつつあることが分った。天井と壁との間には少しの隙間もない。天井も床も滑かな平面である。虫けら一匹のがれる隙もないのだ。

皆さん、これは悪魔でなくては考えも及ばぬ智慧であった。復讐の魔神がわしに教えてくれたカラクリであった。部屋そのものを殺人兇器として用いた例があるだろうか。

川村は本当に気が違ったのかも知れない。目は天井に向けたまま、二十日鼠の様に、狭い部屋の中をシリンダアの中を、駈け廻った。

無駄なことは分り切っているのに、拳をふるって、四方の壁を叩き廻った。遂に手の皮がすりむけて、タラタラと血を流すまで。

「助けてくれ。助けてくれ。助けてくれエエ……」

身の毛もよだつ悲鳴が、四壁に反響して、異様な騒音となって、漏れて来た。

「ワハハハハハハハハ」

わしは小気味よさに、悪鬼の様に笑いこけた。

西洋の復讐譚には、罠にかかった犠牲者の哀れにもみじめな有様を見て、アッサリ復讐を思い切ってしまう例がよくあるけれど、わしはそんな弱虫ではなかった。川村のこの苦しみも、わしが受けた大苦悶に比べては、寧むしろ少きに失する程なのだ。「目には目を、歯には歯を」これがわしの動かし難き信念であった。

「川村君、聞き給え、わしの考えが分るかね。この奇妙なカラクリを作った意味が分るかね。君は、コンクリートの下敷きになって、一枚の煎餅と変るのだ。そして、君の喉笛には、同じ様に煎餅になった赤ん坊の骸骨が、執念深くからみつくのだ。その恐ろしい親子煎餅せんべいをね、あいつに、その赤ん坊を産んだ女に、見せてやるのだ。あいつはどんな顔をして驚くだろう。わしはその顔を見るのが今から楽しみだよ。ハハハハハハハ」

わしは自身気でも違った様に、云いたいことをわめき散らした。

川村の苦悶は長かった。天井が床に密着するまでには、たっぷり一時間はかかるのだ。その間あいだ彼は、虫の這う様に遅々として下って来る天井を支えながら、徐々に腰をかがめ、次には坐り、次には蹲うずくまり、遂に横臥おうがして、目を圧する大磐石だいばんじゃくに、とじこめられ、骨をしめぎにかけられるまで、何等の施すべき手段もなく、泣きわめきながら、空しく待っていなければならなかった。アア斯くの如き大苦痛を味った人間が、嘗てあったであろうか。

川村は犬殺しの檻の中へ投げ込まれた野犬の様に、ギャンギャンと狂わしく泣き叫んだ。

「アア、俺はなぜ早く死ねないのだ。殺してくれ。さっきの短刀を返してくれ。ピストルでうち殺してくれ。首をしめてくれ。殺してくれエエ……」

ありとあらゆる歎願と呪咀じゅそが、絶えては続き、絶えては続き覗き穴を漏れて来た。

コンクリートの天井が、半分程下降した頃、機械係りの志村がヨロヨロと現われた。見ると、彼は死人の様に青ざめて、顔中に油汗を流している。

「旦那様、私はもう迚とても勤まりません。お慈悲です。どうかお暇を下さい」

彼はハッハッと息を切らしながら、解雇を申出もうしいでた。

「恐ろしいのか」

わしは冷然として聞返した。

「ハイ、恐ろしいのです。あいつよりも私の方が死んでしまいたい位です」

「無理はない。君にまでこの上の苦痛を与えるには及ばぬ。よく勤めてくれた。では今日限り暇を上げる。これはお礼のしるしだ」

わしは予めお堂の中へ持込んで置いた、折鞄を志村に渡した。十万円の紙幣が入っているのだ。

×    ×    ×    ×

志村が立去ってから十分程経過した。一度スイッチを入れた機械は、彼がいなくても、休みなく動いている。

わしは例の覗き穴の前に立って、奇妙なものを眺めていた。

それは穴の中からニュッと突出した一本の腕であった。

人間の生きんとする執念は恐ろしい。川村はその三寸角程の小さな覗き穴から、外界へ逃げ出そうとしたのだ。最早可能不可能は問題でなかった。水死人が藁わらを掴む様に、彼はその小穴に縋りついた。

彼は最初、そこから首を出そうとしてもがいた。だが、覗き穴から見えている彼の顔面は、少しずつ少しずつ、下の方へ隠れて行った。コンクリートの天井が、もう覗き穴の平面まで来ていて、彼の頭をグングン圧し下げたのだ。

首はもう駄目だ。併し、まだ少しばかり隙間がある。そこから川村は右腕を差出した。腕丈けでも逃げ出そうとする、恐ろしい執念だ。

腕はだんだんしめつけられて行った。

五本の指が空中に舞踏を踊った。腕そのものが一つの生物の様に、のたうち廻った。

そして、断末魔だ。

五本の指がギュッと握られたかと思うと、二三度痙攣して、ダラリと開いた。同時に真直に延びていた腕が、汽車のシグナルの様に力なく斜めに下った。

奇妙な約束

わしは姦夫川村義雄を巨大なシリンダアの中で、彼の不義の子と共に、煎餅の様に押しつぶしてしまった。復讐事業の目的の一半は見事に達せられたのだ。併し、まだ姦婦瑠璃子が残っている。あの美しい売女めを思う存分の目に合わせてやるのが、わしの復讐の最大眼目であった。墓穴から甦って来た白髪鬼の最後の望みであった。

妙な例えだけれど、子供がご馳走をたべる時、一番おいし相なものをあと廻しにして、拙いものから箸はしをつけて行く様に、わしは左程でもない川村義雄を先ず最初にやッつけた。そして肝腎の瑠璃子をあとの楽しみに残して置いたのだ。大事にとって置いたのだ。

ところで、今こそ、あの最上の珍味に箸をつける時が来た。あの美しい人鬼を心行くまでぶちのめす時が来た。わしはもう何とも云えぬ異様な期待の為に心臓が破れ相であった。ともすれば、飛んでもない流行歌などを大声にわめき相になって、ハッと口を押える事も屡々であった。

あんた方は、復讐鬼の舌なめずりを不快に思いますか。わしを憎みますか。イヤ、お隠しなさるな。あんた方の顔は妙に歪んでいるじゃありませんか。あんた方の目は、何かいまわしい獣物でも見る様にわしを睨みつけているじゃありませんか。尤もです。わしは当時復讐の一念にこり固まった一匹の獣物でしかなかった。併しね、あんた方には、そういう獣物の気持は迚とても想像出来ますまいよ。わしは最早人間ではなかった。怒りも喜びも悲しみも、人間世界のものではなかったのじゃ。

やがて、待ちに待ったわしと瑠璃子との結婚式の日が来た。

本来ならば、老人と後家との婚礼のこと故、なるべく目立たぬ様、質素に取行うべきであったが、わしは復讐劇の最後の舞台を、思い切り華やかに効果的にする為、世間の思惑など考えず、飛び切り派出な披露宴を催した。

S市は白髪の老翁里見重之と美人後家大牟田瑠璃子の不思議な婚礼の噂で湧立っていた。新聞はわし達の写真を大きく掲げて、この劇的な結婚を囃はやし立てた。瑠璃子の謂わば不謹慎な行動について、大牟田家から苦情が出たりして、騒ぎは一層大袈裟になった。だが、どの様な故障も、わしの底知れぬ金力の前には、何の力もなかった。

婚礼の前日、わしは瑠璃子の住いを訪ねて、恋人としての最後の対面をした。奥まった日本座敷に、わし達は二人切りであった。

瑠璃子は生娘きむすめの様にソワソワして、どこか不安らしくさえ見えたが、その代り美しさは飛び切りであった。

アア、この愛らしい女が、間もなくわしの前で断末魔のうめき声を立てるのか。この可愛い笑顔が苦悶の為に捻れ歪むのかと思うと、わしは躊躇を感じるどころか、その光景を想像した丈だけでも、快さに喉が鳴る程であった。一人の犠牲者を屠って血に狂ったわたしの心は、最早全くけだものになり切ってしまっていたのだ。

わし達は婚礼の式場の事や、明日からの楽しい生活について、色々と語り合ったが、瑠璃子はふとこんなことを云い出した。

「こうしてお話するのも今日限りですわね。あすからは……」

里見夫人として、無尽蔵の財産を自由にする身の上になるのだとは云わなかった。

「それについてね、あたし、何だか気掛りなことがありますの」

「気掛りなこと? アア分った、お前は川村君のことを考えているんだね。あんなにお前を愛していた」

「エエ、それもよ。妙ですわね。あたし旅から帰って一度も川村さんにお目にかかりませんのよ。どうなすったのでしょう」

「お前の留守中に、あの男の歓迎会を開いたことは知っているね。それっ切りわしも逢わないのだよ。伯父さんの遺産相続で成金になったものだから、浮々と、方々遊び廻ってでもいるのだろう」

「そうでしょうか。本当を云うと、あたし昨日きのう、通りがかりに一寸ちょっと川村さんのお宅へ伺って見ましたのよ。しますとね、妙じゃありませんか、傭人も何もいなくなって、空家みたいに戸が締切ってあって、お隣で尋ねても、お引越しをなすったのかも知れませんなんて返事なんでしょう。何だか気掛りですわ」

「お前の仕打ちを恨んで、自殺でもしたんじゃないかと、心配しているんだね。安心おし、川村の居所は、実はわしがよく知っているよ。婚礼が済んだら、きっとあの男に逢わせて上げるよ」

「マア、ご存知ですの。どこにいらっしゃいますの。遠方ですの?」

「ウン、遠方と云えば遠方だけれど、ナニ逢おうと思えば訳はないのだよ。……だが、お前が気掛りだというのは、もっと別のことらしいね。云ってごらん。一体何をそんなに心配しているの?」

わしは、川村のことをこれ以上話していては危険だと思ったので、それとなく話題を変えた。瑠璃子もそれに乗って、彼女が一番気にしていることを思い出した。

「それは、あの、あたし、見せて頂き度いものがありますの」

「ホウ、見たいものだって? アア分った。いつか話した黄金の仏像かい」

「イイエ」

「じゃ、わしの持っている沢山の宝石が見たいのかい」

「イイエ」

瑠璃子は何故か云いにく相に、わしにばかり喋らせて、かぶりを振っている。

「ハテナ、その外ほかにお前が見たいものなんて、一寸想像が出来ないね。云ってごらん。何も遠慮することなんかありゃしない」

「あのう……」

「ウンなに?」

「あなたのお顔が見たいのよ」

瑠璃子は思い切った様に云った。

「エ、わしの顔? なにを云っているんだ。わしの顔はこうしてちゃんと見ているじゃないか」

「でも、……」

「でも?」

「あなたはいつも、そんな大きな色眼鏡をかけていらっしゃるのですもの」

「アア、そうか、お前はわしの目が見たいと云うのだね」

「エエ、一度その眼鏡をはずして、あなたのお目をよく見たいのよ。何だか変ですわ。妻が夫の目を見たことがないなんて」

瑠璃子は遠慮勝ちに尋ねた。彼女は何かしら不安を感じている様子だ。

「ハハハ……、この眼鏡かね。これは滅多なことでは脱はずさないのだよ。例えば婚礼とか臨終とか、そんな風な一生涯の大事の場合の外はね。わしは熱帯地方の烈しい日光の為に目を痛めて以来、医者からお日さまを見ることをかたく禁じられているのだよ」

わしは眼鏡の奥で目を細くして答えたものだ。

「それじゃ、今おはずしなさってもいいじゃありませんか。今日はその婚礼の前日なんですもの」

「マア、お待ち。なにもそんなにせくことはないよ。いよいよ婚礼の儀式が済んだら、きっとこれをはずして見せて上げる。あすの晩、ね、あすの晩こそ、お前の見たがっているものを、何もかも見せて上げるよ。わしの目も、わしの莫大な財産や宝石類も、それから、お前の逢いたがっている川村君の居所も、すっかり見せて上げるよ。マア、それまで待ってお出で。あすの晩こそ、わし達にとっては、実にすばらしい夜なのだよ」

そう云われると、瑠璃子は強いてわしの目を見ようと主張はしなかった。そして、嬉しさと一抹の不安との混り合った表情で、あどけなく、ニッコリ笑って見せた。振いつき度たい様な愛らしい笑顔で笑って見せた。この不思議な約束に、どの様な恐ろしい意味が含まれているかも知らないで。

卒倒

さて、婚礼の当日とはなった。

わしは永年の外国住いで、日本のお宗旨しゅうしには縁がなくなっているという理由でS市唯一の耶蘇ヤソ会堂を式場と定め、万事西洋流の儀式を行うことにした。老人と未亡人との風変りな婚礼には、その方がふさわしく思われたからだ。

細長い、天井の高い、薄暗い会堂の中は、美々しく着飾ったS市社交界の紳士淑女で一杯であった。この結婚には当の大牟田家の人達が反対を唱えていた位だから、親族の参列者は殆どなかったが、その代りにわしの金力に頭の上らぬ実業家連が、親族以上の熱心さで集って来た。

純白の洋式礼装をした瑠璃子は神々しい程美しく見えた。

彼女は商業会議所会頭夫妻に伴われ、二人の可愛らしい少年に裳もすそをとらせて、しずしずと祭壇の前に現われたが、丁度午後の日光が、高い窓のステインド・グラスを通して、薄絹の冠りものを、赤に緑に染めなし、瑠璃子の身辺に五色の虹が立つかと疑われた。

花婿であるわしはと云うと、西洋流に胸の白い礼装はしていたが、白髪白髯はくはつはくぜんに黒眼鏡めがねという異様な姿だ。不気味な老人と白百合の様に気高い花嫁の対照が、参列者達に一種奇異の感を与えたに相違ない。

何かしら不吉な前兆の様なものが、式場全体に漂っていた。花嫁が美し過ぎたからか。花婿の白髪白髯のせいであったか。会堂の陰気な高い丸天井の為であったか。それとも、ステインド・グラスの五色の影の為せる業であったか。イヤ、それらよりも、もっと不思議なことがあったのだ。

そこには、故大牟田敏清の幽霊がいた。花婿は嘗かつて大牟田子爵が愛用していたのと寸分違わぬ燕尾服を着用し、手袋からステッキに至るまで、そっくりそのままのものを用い、その上、身振り、歩き癖、肩の振り方まで、昔の大牟田子爵をむき出しにしていた。

つまりわしは、長い間矯ため隠していたわし自身の癖を、すっかりさらけ出して、白髪白髯の黒眼鏡の外は、全く昔の大牟田になり切って婚礼の式場に現われたのだ。

併しかし人々は、この白髪の老いたる花婿が、死せる大牟田敏清の再来であろうなどと、思い及ぶ筈もなく、ただ、わしの身のこなしに現われた奇妙な変化に、一種名状し難い不安を感じたに過ぎなかった。見渡すと、人々の顔は皆一様に青ざめて、不吉な予感に戦おののくが如く押し黙っていた。

わしは介添役の実業家T氏夫妻を従えて、故大牟田敏清の歩き方で、しずしずと祭壇の上の花嫁に近づいて行った。

瑠璃子はふと顔を上げて、わしの姿を一目見ると、ギョッとした様に目を見はった。見る見る顔の色がうせて行った。彼女はなき夫の幽霊をまざまざと見たのだ。だが、彼女とても、わしが大牟田子爵その人であろうと悟る由はなく、うしろ暗い身の気の迷いに違いないと、心を取直したのであろう。やがて、わしと向き合って、老牧師の前に立並ぶ頃には、顔色も元に戻っていた。

式は簡潔に、しかし、厳粛に進行して行った。頭のてっぺんが丸く禿げ上った、イギリス人の老牧師は、壮重な口調で聖書の一節を読み上げた。

儀式の順序に従って、わしは用意の指環を花嫁の指にはめてやり、誓いの言葉を述べた。

すると、突然、実に変てこな事が起った。美しい花嫁の唇から、絞め殺される様なうめき声が漏れたかと思うと、彼女の身体は棒の様に倒れて行った。わしが飛びついて、抱きとめるのが一秒おくれたら、この盛装の花嫁御は、神様の祭壇の前に、不様にひっくり返っていたに違いない。

何が瑠璃子を卒倒する程も驚かせたのか。外ほかでもない。今彼女の指にはめてやった指環と、誓いの言葉を述べたわしの声とであった。

彼女は嘗つて故大牟田敏清の手ずから、結婚の指環をはめて貰ったことがある。それは敏清の死後宝石箱の中へしまい込んでいたのだが、その時の指環と、彫刻から石の形まで寸分違わぬ指環を、今第二の夫であるわしがはめてくれたのだ。

彼女はわしの姿に大牟田子爵の幽霊を見て云い知れぬ不安に襲われていた。その幽霊が嘗て子爵がしたのと全く同じ仕方で、全く同じ彫刻の指環を、彼女の指にはめたのだ。これがギョッとせずにいられようか。

その上わしの声だ。長い間作りに作っていた里見重之の音調をやめて、持って生れた大牟田敏清の声を聞かせてやったのだ。

瑠璃子の意識下に押しつぶされて、小さくなっていた亡夫の怨霊おんりょうが、忽ち巨大なお化けとなって、彼女の心一杯にふくれ上った。過去の罪業が、海坊主の様な恐ろしい姿で、彼女を脅かした。そして流石の妖婦瑠璃子も、このはれの場所で、不覚にも気を失う羽目とはなったのだ。

実に奇妙な光景であった。

白髪白髯の花婿が、気絶した白鳥の様な花嫁を抱きかかえて、祭壇の前に立ちはだかっていたのだ。高い窓のステインド・グラスから鈍い五色の光が瀕死の白鳥の上に、奇怪なスポット・ライトを投げていた。わしのうしろには、狼狽した老牧師の顔があった。その又うしろには沢山の蝋燭が、薄暗い祭壇を背景にして、血の様な色で燃えていた。

それからの騒ぎは、管々くだくだしく申上げる迄もない。気絶した瑠璃子は、介添えの人々によって、会堂からわしの新居へと運ばれた。つい申し忘れたが、結婚の話が極きまった頃、わしはさる外国人の邸宅を譲受けた。それに充分手入れをした上、数日前、ホテルを引払って、そこへ移り住んでいたのだ。

瑠璃子は、わしの新居のベッドの中で目を覚した。駈けつけた医者の手当を受けるまでもなく正気に返った。

「瑠璃子さん、しっかりしなくてはいけない。わし達の結婚式は無事に済んだのだよ。ただ、お前が一寸眩暈めまいを起した丈だけだ。何でもないのだよ。どうだね気分は。今夜の披露宴に出られそうかね」

わしは病人の枕元に立って、里見重之の声でやさしく云った。

「お騒がせしてすみません、あたしどうしたのでしょう」

「婚礼の儀式がお前を昂奮させたのだよ。なにも気にすることはありゃしないよ」

「そうですわね。やっぱりあなたでしたわね。あたし、さっき、あなたが何だか、まるで別の人の様に見えましたのよ。声までも。そして、アア、この指環」

瑠璃子はふと思い出して、オズオズと彼女の指を眺めた。だが、そこにはもうさっきの指環はなかった。全く別の結婚指環がキラキラと光っていた。気絶している間に、わしがはめ換えて置いたのだ。

「アア、では、やっぱり、あたし幻を見たんだわ」

瑠璃子はホッと安堵した様に呟いた。

「どうしたの? 指環がどうかしたの?」

わしが何気なく尋ねると、彼女は真から嬉し相な笑顔になって、甘えた声で答えた。

「いいえ、何でもないのよ。もういいのよ。この指環本当に立派ですこと」

穴蔵へ

かくして、わしの復讐前奏曲は、見事に成功した。瑠璃子はまだ少しも真相を悟らず、しかも、気絶する程の恐怖を味ったのだ。彼女の気絶はこれが二度目であった。二度もそんな目に逢いながら、わしの正体を看破出来ぬとは、彼女程の妖婦としては、余りにも迂闊な様ように思われるかも知らぬが、一度墓穴に埋葬された男が、白髪の老人となって生き長らえているという、この事実の奇怪さが、人間の想像力を越えていたのだ。決して瑠璃子の迂闊ではなかった。

さて、その夜の披露宴も、S市始まって以来の華かさで、滞りなく終った。わしと瑠璃子とは、ヘトヘトに疲れて、ホテルの広間から、わしの新居へと帰りついた、芳醇ほうじゅんな酒の香、かしましいお祝いの言葉、蜘蛛の巣の様にからみつく五色のテープ、耳を聾する音楽の響、それらのものが、いつまでも頭にこびりついて離れなかった。何かこう紫の雲に包まれて、春の空を漂ってでもいる様な気持であった。イヤ、少くとも瑠璃子丈だけはそんな気持であったに違いない。

帰宅して、婚礼の衣裳のままグッタリとソファに凭れて、お茶を飲んでいると、鳩時計がホウホウと十二時を報じた。

「お前眠くはない?」

「何だか妙ですわ。ちっとも眠くありませんのよ」

瑠璃子は上気して艶々つやつやした頬をニッコリさせて答えた。

「じゃ、これから出掛けよう。今夜お前に見せるものがあったのだね」

「エ、どこへですの。何を見ますの」

「オヤ、もう忘れたのかえ。ホラ、婚礼がすんだらきっと見せて上げると約束したじゃないか。わしの財産、わしの宝石」

「マア、そうでしたわね。あたし見とうございますわ。どこですの。どこにしまってありますの」

彼女はその財宝故にこの老人と結婚したのだもの。早く見たいのも無理ではない。

「秘密の倉庫があるのだよ。少し淋しい場所だけれど、お前これから出掛ける勇気があるかね」

「エエ、あなたと一緒なら、どこへでも」

「よしよしそれじゃすぐ出掛けよう。実はその倉庫は昼間だと人目にかかる心配があるのだよ。わしは夜でなければ出入りしないことにしているのだよ」

そして、わし達は、まるで駈落者の様に、手に手をとって、邸やしきの裏口から忍び出した。

「遠いのですか」

瑠璃子は暗い町を、わしのうしろから急ぎながら尋ねた。

「ナニ訳はないよ。五六丁歩けばいいのだ」

「でも、そちらにはもう町はないじゃありませんか。どこへ行きますの」

わしの新居はS市の町はずれにあったので、少し歩くと、淋しい野原であった。その向うには、満天の星の下に小高い丘が見えている。

「黙ってついておいで、何も怖いことはありやしないよ」

「あなた、そこに何を持っていらっしゃいますの」

「蝋燭と鍵だよ」

「マア、蝋燭ですって、そんなものが要りますの」

「ウン、わしの倉庫には電燈がないのだよ」

云いながら、わしは瑠璃子の手をしっかり握って、グングン歩いて行った。野中の細道を、星明りにすかしながら、行手の丘へと急いだ。

「あたし怖いわ。明日にしましょうよ。ね、あすにしましょうよ」

瑠璃子がおびえて尻ごみをするのを、わしは無言のまま引ずる様にして丘の坂道を昇って行った。彼女はまさか悲鳴を上げる訳にも行かず、仕方なくわしについて来た。

「サア来たよ。ここがわしの宝物蔵だ」

立止まった目の前に、黒い鉄の扉があった。丘の中腹に穿うがった穴蔵の入口だ。

「マア、あなた、ここはお墓じゃありませんか。大牟田家の墓穴じゃありませんか」

瑠璃子はやっとそれに気づいて頓狂な声を立てながら、わしの手を振り放そうともがいた。

「そうだよ。大牟田家のお墓だよ。なんとうまい金庫じゃないか。わしの財産がこんな所に隠してあろうとは、どんな泥棒だって気がつくまいよ。ちっとも怖いことはありやしない。穴蔵の中は綺麗なものだ。わしはしょっちゅう出入りしているので、まるで自分の家へ帰った様な気持だよ」

事実そこはわしの家に相違なかった。白髪の鬼と化してこの世に再生したわしの産屋うぶやに相違なかった。

瑠璃子はわしに片手をとられたまま小さくなってワナワナと震えていた。彼女の手先が俄に冷くなったのが感じられた。でも、悲鳴を上げる様なことはしなかった。強いて逃げ出す気力もなかった。そんなことをすれば、わしの顔が恐ろしい鬼となって、彼女に噛みつくかも知れないことを恐れたのだ。わしは暗闇の中で鍵穴を探して、さびた鉄の扉を開いた。キイイ……と死人のうめき声と共に、ポッカリ黒い口が開くと、その奥から、ゾッとする冷気が襲って来た。あの世の風が吹いて来た。

その洞穴へ進み入ろうとした時には、流石に瑠璃子は懸命に踏止ろうとしたけれど、わしは情容赦もなく、か弱い彼女を、地底の墓穴へと引ずり込んでしまった。引ずり込んで、中から入口の鉄扉をピシャリ閉めてしまった。

数秒間、わし達は盲目になった様な真暗闇に、無言のまま佇んでいた。死の静寂の中に、瑠璃子の烈しい息遣い丈けが聞えていた。

「瑠璃さん、怖いかね」

わしが囁き声で尋ねると、わしの妻は存外しっかりした調子で答えた。

「エエ、少しばかり。でも、こうしてあなたが手を握ってて下さるから、あたし心丈夫ですわ。それに、私達の宝物を見るんですもの」

「わしのすばらしい宝石を早く見せて上げ度たいよ。お前どんなにびっくりするだろう」

「エエ、早く見たいわ。こんな淋しい恐ろしい場所に、宝物が隠してあるなんて、まるで何かの物語りみたいですわね」

「お待ち。今蝋燭をつけるから」

わしは燐寸マッチをすって、用意の蝋燭に点火し、墓穴の中に置いてあった、例の古風な西洋燭台にそれを立てた。

三つの棺桶

「サア、わしの宝石箱は少々風変りだよ。これだ。この中をごらん」

蝋燭の赤茶けた光りに揺れて、暗闇の洞窟の床に、三つの大寝棺が並んでいた。無論墓穴の奥は深くて、十幾つの棺桶が安置してあるのだけれど、それは闇に隠れて見えず、ただ三つの寝棺丈けが、殊更そこへ引出し並べた様に、燭台の下にかたまっているのであった。

わしは、その棺の一つの蓋を持上げて、瑠璃子をさし招いた。瑠璃子は怖々薄暗い棺の中を覗き込んだ。

その棺というのは外でもない、例の海賊朱凌谿の贓品ぞうひん箱だ。わしがそれまでに持出したのは、主として紙幣や金貨であったから、宝石類はそっくりそのまま残っている。しかもわしは予め布袋を破って、無数の珠玉を、河原の砂の様に、棺の上面へ並べて置いたので、薄暗い蝋燭の光とは云え、棺の中は、まるで天井の星を一ところに集めたかと疑われる美しさであった。そこを覗き込んだ瑠璃子が、「マア……」と息を呑んで、一刹那化石した様に動かなくなったのも決して無理ではなかった。

「見ていないで、触ってごらん。ガラス玉やなんかでないのだよ。一粒一粒が一身代に相当する程の名玉ばかりなのだよ」

わしに云われて、瑠璃子はやっと正気に返った様に、オズオズと手を伸ばして、宝石を掴み上げた。掴み上げてはサラサラとこぼし、掴み上げてはサラサラとこぼした。その度毎たびごとに、彼女のしなやかな白い指のまわりに、五色の虹が立つのであった。

「マア、この宝石が、みんなあなたのもの?」

流石さすがの妖婦も、目がくらんで、放心して、子供みたいな口の利き方をした。

「ウン、わしのものだよ。そして、今日からは、わしの妻であるお前のものだよ。これがみんなお前の好き勝手に出来るのだよ」

「マア、嬉しい!」

瑠璃子は他愛なく相好そうごうをくずし、子供の様に躍り上って喜んだ。嬉しさに手を叩かんばかりであった。

アア、宝石の魅力の恐ろしさよ。瑠璃子程の妖婦を、まるで十歳の少女の様に、真底から喜ばせ、有頂天にしてしまったではないか。闇夜の怖さも、墓場の物凄さも、キラキラ光る鉱物の魅力に比べては、物の数ではなかった。

瑠璃子の頬は昂奮の為に桜色であった。目は貪慾に燃え輝いた。そして、あの笑顔! わしは瑠璃子のこんなに愛らしい笑顔を、まだ一度も見たことはなかった。

「夢見たいだわ。お伽噺とぎばなしみたいだわ。あたし女王様にでもなった様だわ」

彼女は世迷言よまいごとを呟きながら、飽かず宝石を弄んでいたが、やがて、ふと気がついた様に、残り二つの棺桶に目を注いだ。

「あなた、こちらの箱にも、やっぱり宝物が入っていますの?」

「ウン、又別の宝物が入っているのだ。お前その燭台を持ってこちらへ来てごらん。わしが蓋をあけて見せて上げるから」

瑠璃子は云われた通りにして、第二の棺の開かれるのを待った。

「ソラ、のぞいてごらん」

わしは重い蓋を持上げて、やさしく云った。

瑠璃子は、蝋燭をさしつける様にして、棺の中を覗き込んだ。覗き込んだかと思うと、はね返される様に飛びのいた。燭台が手を離れて地上にころがった。

「何だか変なもの。あれ何ですの」

彼女は今にもワッと泣き出し相な震え声で尋ねた。

「もう一度よく見てごらん。お前にとっては宝石よりも大切な宝物だよ」

わしは転がった燭台を拾い上げ、それで棺の中を照らしながら云った。

瑠璃子は遠くから、及び腰になって、その変なものを覗き込んだ。

「マア、死骸! 気味が悪い。早く蓋をして下さい。若もしやそれは……」

「お前の先の旦那様ではないよ。ごらん、顔なんか生前のままだ。お前の旦那様の大牟田子爵の死骸なら、こんなに新しくはない筈だよ」

瑠璃子は、段々真剣な顔になって、その死骸をじっと見つめていたが、彼女の相好は見る見る変って行った。そして、震える唇が大きく開いたかと思うと、何とも云えぬ物凄い叫び声が洞窟にこだました。彼女は両手を目に当てて、遠くの隅へ走って行った。あとからお化けが追駈けてでも来る様に。

「瑠璃子! お前の情人と、お前がそのおなかから産み落した赤ん坊の死骸だ。分ったか」

わしは、突然大牟田敏清の声になって、重々しく云い放った。

その棺の中には、川村義雄の死骸が、腐りただれた不義の嬰児を抱いて横わっていた。わしが予めY温泉の別邸から運んで置いたのだ。

瑠璃子は、わしの声を聞くと、機械仕掛けの様にクルッと振返った。彼女はもう怖がってはいなかった。忽ち夜叉やしゃの形相となって、わしに食ってかかった。

「あなたは誰です。こんなものを見せて、あたしをどうしようというのです」

「わしが誰だって? ハハハ……、お前はこの声を聞き覚えがないと見えるね。わしが誰だかということはね。サアごらん、この第三の棺桶を見れば分るのだよ。ホラ、蓋がこわれているだろう。そして中は空っぽじゃないか。この棺は一体誰を葬ったんだろうね。その死人は棺の中で生返ったかも知れないぜ。そして、もがきにもがいて棺を破り、この墓穴を抜け出したかも知れないぜ」

瑠璃子は空うつろな目でわしの顔を見つめたまま立ちすくんでしまった。彼女にもやっと事の仔細が分り始めたのだ。

「覚えているかね。わしは昨日お前に三つの約束をした。第一はわしの財宝を見せること、第二は川村義雄に逢わせること。そして第三はホラ、この黒眼鏡をはずすことだったね」

わしは眼鏡をかなぐり捨て、大牟田敏清の眼をむき出しにして、ハッタと姦婦を睨にらみつけた。

アアわしは、その時瑠璃子の顔に浮んだ様な、身の毛もよだつ恐怖の表情を見たことがなかった。おどしつけているわし自身さえ、余りの物凄さに、ゾッと冷水をあびせられた感じであった。

そして、彼女は声も立てず、そのままシナシナと、まるで白百合がしぼむ様に、地上にくずれてしまった。

瑠璃子は三たび気を失ったのだ。

恐ろしき子守唄

わしは花嫁姿の気絶者を、宝石の棺の上に横たえ、彼女の胸を静かにさすりながら、正気に返るのを待った。このまま死なせてしまっては、わしの目的を果たすことが出来ないからだ。

十分程、辛抱強く待っていると、彼女はやっと目を開あいた。そしてわしのむき出しの目を見たけれど、最早や叫ぶ力も、逃げ出す気力もない様に見えた。

そこで、わしは、たっぷり一時間もかかって、彼女の無情を責め、悪事の数々を算かぞえ上げ、わしの蘇生の顛末を述べ、洞窟にとじこめられた五日間の、例えがたき苦悶を訴え、遂に復讐の鬼となって、姦夫姦婦に接近した次第を、詳細につげ知らせた。殊に川村義雄圧殺の一条は、出来る丈け残酷に、彼女を震い戦おののかせる様に語り聞かせた。

話半から瑠璃子は、サメザメと泣き出していた。青ざめた美しい頬をとめどもなく涙が伝い落ちた。

わしの話が終っても、彼女は長い間泣き続けていたが、やがて、指先で涙をはらって、棺の上に起き直り、泣きぬれた顔で、こんなことを云い始めた。

「恐ろしいお話ですわ。あたし、どうしてお詫びしていいか分りませんのよ。でも、あなたは誤解をしていらっしゃいますわ。それは川村さんとあれしたことは嘘だとは申しませんけれど、何ぼ何でも、あなたを殺すなんて、どうしてそんな恐ろしいことが出来ましょう。若し企らんだ事とすれば、それは川村さん一人で企らんだのです。あたしはちっとも知らなかったのです」

「だが、あとになって、お前はわしの変死を喜んでいた。わしはお前達が喜び合っている言葉を、この耳で聞いたのだ」

「でも、それは魔がさしたのですわ。川村さんにたぶらかされていたんですわ。だんだん日がたつに従って、あたし、旦那様のことを思い出されて仕様がなかったのです。考えて見ますと、あたし本当の心は、あくまで旦那様をお慕い申していたのですわ。それが証拠に、仮令姿形は変っていても、やっぱりあなたと結婚する様なことになったではございませんか。川村さんを振り捨てて、あなたの胸へ飛込んで行ったではございませんか。あたしは若い身空で、どうしてあなたの様な白髪のお爺さんを愛する心になったのでしょう。恐ろしい因縁ですわ。あたしのもう一つの心が、あなたの正体をちゃんと見抜いていたからです。昔の旦那様であればこそ、年とったあなたに引きつけられたのです。

ねえ、あなた、あたしは何て仕合せものでしょう。おなくなりなすったとばかり信じていた旦那様と、こうしてめぐり逢えた上に、知らぬ間に、その方と結婚していたなんて、あたし達は一度で足らなくて、二度も婚礼をしましたのね。こんな嬉しいことはありませんわ。

ねえ、あなた、昔の瑠璃子を思出して下さいまし。あたしまだあの時と同じ優しい心を持っています。美しい肌を持っています。アア、あなたはよくあたしをお風呂に入れて下さいましたわね。そして、あたしの身体をおもちゃにしてお遊びなさいましたわね。

ねえ、旦那様、あたしはもうあなたの奴隷です。どんなことでも致します。どうかあたしを許して下さいまし、そして、昔の様に可愛がって下さいまし。お願いです。お願いです」

泣きぬれて、それ故一層美しく見える顔に、なまめかしい嬌笑を浮べながら、彼女はかき口説いた。

イヤ、彼女は言葉でかき口説いたばかりではない。遂には彼女の美しい肉体を以て口説き始めた。

そこは人里離れた洞窟の中であった。わし達はたった二人のさし向いであった。彼女はしようと思えばどんな真似でも出来たのだ。

アア、何という恥知らずの振舞であろう。瑠璃子にしては、命の瀬戸際に恥も外聞も構ってはいられなかったのだ。彼女は純白の婚礼衣裳をかなぐり捨てて、わしの前に、彼女の美しい肌を見せびらかした。

闇の中に大きな大きな桃色の花が開いたのだ。そして、それがクネクネとあらゆる痴態を示して、蠢うごめき始めたのだ。

わしはタラタラと冷汗を流し、歯を食いしばって、この美しき誘惑に抵抗した。

「駄目だよ。お前がいくらそんな真似をして見せても、わしはもう人間の暖かい心を持っていないのだから。わしは人間ではないのだ。地獄の底から這出して来た一匹の白髪の鬼なのだ。そんな人間界のまどわしに乗るものではないよ。わしは復讐にこり固まっているのだ。お前が如何に弁解しようとも、わしの知っている事実を曲げることは出来ない。わしの計画は一分ぶだって変更する訳には行かないのだ」

わしは顔の筋一つ動かさず云い放った。

「では、あたしをどうしようとおっしゃいますの」

「わしが受けたのと同じ苦痛を与えるのだ。目には目を、歯には歯を。これがわしの動かし難い決心なのだ」

「では……」

「外ほかでもない。お前をここへ生埋にしてやるのだ。その棺の中にはお前の何よりも好きな宝石が満ち充ちている。巨万の財産が転がっている。お前はその宝物を持ちながら、二度と浮世の風に当ることが出来ないのだ。いつぞやわしが味わったのと、全く同じ苦痛を味わせてやるのだ。

それから、もう一つの棺の中には、お前の恋人がいる。お前の可愛い赤ちゃんがいる。お前はちっとも淋しくはない筈だ。親子三人睦じく、同じ墓穴の土となるのだ」

「アア、悪人奴め! お前こそ人殺しだ。情を知らぬ人鬼だ」

突然、瑠璃子の口から恐ろしい言葉がほとばしった。

「サア、そこをのけ。あたしは出るんだ。お前を殺してでもここを出るのだ。畜生め、悪人め」

彼女は叫びながら、いきなりわしに武者振むしゃぶりついて来た。鋭い爪がわしの肉に食い入った。

か弱い女にどうしてあんな力が出たのかと、今でも信じられない程だ。彼女はわしに組みついて、わしをねじ伏せてしまった。ねじ伏せて置いて、いきなり入口に向って駈け出そうとした。

わしは彼女の足首を掴むのがやっとだった。

それから、組んずほぐれつの、醜い格闘が始まった。燕尾服を着た白髪の老紳士と、殆ど裸体になった美人とのとり組みだ。瑠璃子は、獣物けだものの様な叫び声を発しながら、歯をむき出し、爪を立てて、死にもの狂いに武者振りついて来た。

黒と白との二つ巴が、地底の洞窟を、物の怪の様に転がり廻った。

併し、如何にたけり狂えばとて、彼女は到底わしの敵ではなかった。遂にヘトヘトになって、白い肉の塊りの様に動かなくなってしまった。

死んだのではないかと、覗いて見ると、彼女は確に生きていた。息も絶え絶えに生きていた。

「では、これがお別れだ。お前は永久にこの墓穴にとじこめられたのだ。わしの苦しみがどんなであったか、ゆっくり味わって見るがいい」

わしは云い捨てて、洞窟を走り出で、外から鉄の扉をしめ、鍵をかけた。かつて私が抜け出した、あの一番奥の棺桶の底からの抜け道は、石でふさいでしまってある。瑠璃子は絶対に逃げ出す見込みはないのだ。

わしの復讐事業は全く終りをつげたのだ。あとは、どこか遠くの土地へ高飛びしてしまえばよいのだ。余生を送る費用は、充分用意がしてあるのだから。

空を仰ぐと、降る様な星だ。黒い微風が、ソヨソヨと熱した頬をかすめて行く。

わしは立去ろうとして躊躇ちゅうちょした。瑠璃子はどうしているかしら。

ふと気がつくと、どこからともなく、やさしい子守唄の声が聞えて来た。わしは何かしらゾッとして、聞耳を立てた。どうやらその声は洞窟の中から響いて来るらしい。

変だ。生埋にされた瑠璃子が、呑気らしく唄など歌う筈はないがと、気になるままに、鍵を取出してもう一度錠前をはずし、ソッと一寸ばかり扉を開いて、覗いて見ると、そこには実に異様な光景があった。

殆ど真まっぱだかの瑠璃子が、腐りただれた赤ん坊の死骸を抱いて、くずれる様な笑顔でその赤ん坊をあやしながら、腰を振り振り、右に左に歩いていたではないか。

彼女は右手一杯に宝石を掴んで、それを、或は彼女自身の乱れた髪の毛の上に、或は赤ん坊の胸の上に、サラサラサラサラ、子供の砂遊びの様に、こぼしていたではないか。

「坊や、うッついでちょ。うッついでちょ。母あちゃまはね、女王様になったのよ。こんなに宝石があるのよ。ホラうッついでちょ」

訳の分らぬことを云って聞かせながら、又しても子守唄を歌い続けるのだ。うっとりとする程美しい声で、あの柔かい節廻しを歌い続けるのだ。

わしは、茫然として、長い長い間、その異様にも美しい光景に見とれていた。

×    ×    ×    ×    ×

これでわしの恐ろしい身の上話はおしまいです。

それから、どうしてわしが捉えられ、獄に投ぜられたかは皆さんの方がよく知ってお出でじゃ。

わしは悪に報ゆるに悪を以てした。その報復を楽しみさえした。瑠璃子と川村の悪は完全に報いられた。だが、今度はわし自身の悪が残っている。これに報いがなくて済む筈のものではない。それを警察の方々がやって下すった。わしは高飛びの途中、まんまとつかまってしまった。以来十何年、わしはこうして獄舎の生活を続けているのじゃ。

そして、今ではわしの処業についてこんな風に考えています。

わしは復讐を楽しみすぎた。わしこそ悪人であった。瑠璃子も川村も、あれ程の恐ろしい報いを受けることはなかったのだ。考えて見ると、彼等には実に可哀相なことであった。又、わし自身にとっても、無駄な努力をしたものだと。

十何年の獄中生活が、わしをこんな内気な男にしてしまったのですよ。皆さん。

底本 / Source edition

底本:「江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面」光文社文庫、光文社
2003(平成15)年9月20日初版1刷発行
2013(平成25)年11月15日3刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十一巻」平凡社
1932(昭和7)年4月
初出:「冨士」大日本雄弁会講談社
1931(昭和6)年4月~1932(昭和7)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ガラス壜」と「ガラス瓶」、「甞め」と「嘗め」、「嘗つて」と「嘗て」、「復讐」と「復讎」、「這入る」と「は入る」、「突っ立った」と「突立った」、「義っちゃん」と「義ちゃん」、「一人ぼっち」と「一人ぽっち」、「ありゃしない」と「ありやしない」の混在は、底本通りです。
※「白髪」に対するルビの「はくはつ」と「しらが」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「亂歩傑作選集 第三卷」平凡社、1935(昭和10)年3月6日発行の表記にそって、あらためました。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しましたが、「巖窟王」「上海」」のルビは註釈よりファイル作成時に追加しました。
入力:門田裕志
校正:nami
2021年9月27日作成
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リリース / Release
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TEI
/works/057244_001779/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/057244_001779/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/057244_001779/

江戸川 乱歩「白髪鬼」(新字新仮名)、底本『江戸川乱歩全集 第7巻 黄金仮面』光文社文庫、光文社、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057244_001779, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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