## はしがき

そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました。

「二十面相」というのは、毎日毎日、新聞記事をにぎわしている、ふしぎな<ruby><rb>盗賊</rb><rt>とうぞく</rt></ruby>のあだ名です。その賊は二十のまったくちがった顔を持っているといわれていました。つまり、<ruby><rb>変装</rb><rt>へんそう</rt></ruby>がとびきりじょうずなのです。

どんなに明るい場所で、どんなに近よってながめても、少しも変装とはわからない、まるでちがった人に見えるのだそうです。老人にも若者にも、<ruby><rb>富豪</rb><rt>ふごう</rt></ruby>にも<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>にも、学者にも<ruby><rb>無頼漢</rb><rt>ぶらいかん</rt></ruby>にも、いや、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことができるといいます。

では、その賊のほんとうの年はいくつで、どんな顔をしているのかというと、それは、だれひとり見たことがありません。二十種もの顔を持っているけれど、そのうちの、どれがほんとうの顔なのだか、だれも知らない。いや、賊自身でも、ほんとうの顔をわすれてしまっているのかもしれません。それほど、たえずちがった顔、ちがった姿で、人の前にあらわれるのです。

そういう変装の天才みたいな賊だものですから、警察でもこまってしまいました。いったい、どの顔を目あてに捜索したらいいのか、まるで見当がつかないからです。

ただ、せめてものしあわせは、この盗賊は、宝石だとか、美術品だとか、美しくてめずらしくて、ひじょうに高価な品物をぬすむばかりで、現金にはあまり興味を持たないようですし、それに、人を傷つけたり殺したりする、ざんこくなふるまいは、一度もしたことがありません。血がきらいなのです。

しかし、いくら血がきらいだからといって、悪いことをするやつのことですから、自分の身があぶないとなれば、それをのがれるためには、何をするかわかったものではありません。東京中の人が「二十面相」のうわさばかりしているというのも、じつは、こわくてしかたがないからです。

ことに、日本にいくつという貴重な品物を持っている富豪などは、ふるえあがってこわがっていました。今までのようすで見ますと、いくら警察へたのんでも、ふせぎようのない、おそろしい賊なのですから。

この「二十面相」には、一つのみょうなくせがありました。何かこれという貴重な品物をねらいますと、かならず前もって、いついく日にはそれをちょうだいに参上するという、予告状を送ることです。賊ながらも、不公平なたたかいはしたくないと心がけているのかもしれません。それともまた、いくら用心しても、ちゃんと取ってみせるぞ、おれの腕まえは、こんなものだと、ほこりたいのかもしれません。いずれにしても、<ruby><rb>大胆不敵</rb><rt>だいたんふてき</rt></ruby>、<ruby><rb>傍若無人</rb><rt>ぼうじゃくぶじん</rt></ruby>の<ruby><rb>怪盗</rb><rt>かいとう</rt></ruby>といわねばなりません。

このお話は、そういう<ruby><rb>出没自在</rb><rt>しゅつぼつじざい</rt></ruby>、<ruby><rb>神変</rb><rt>しんぺん</rt></ruby>ふかしぎの怪賊と、日本一の<ruby><rb>名探偵</rb><rt>めいたんてい</rt></ruby><ruby><rb>明智小五郎</rb><rt>あけちこごろう</rt></ruby>との、力と力、知恵と知恵、火花をちらす、一<ruby><rb>騎</rb><rt>き</rt></ruby>うちの<ruby><rb>大闘争</rb><rt>だいとうそう</rt></ruby>の物語です。

大探偵明智小五郎には、<ruby><rb>小林芳雄</rb><rt>こばやしよしお</rt></ruby>という少年助手があります。このかわいらしい小探偵の、リスのようにびんしょうな活動も、なかなかの見ものでありましょう。

さて、前おきはこのくらいにして、いよいよ物語にうつることにします。

## 鉄のわな

<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>の、とあるやしき町に、百メートル四方もあるような大邸宅があります。

四メートルぐらいもありそうな、高い高いコンクリート<ruby><rb>塀</rb><rt>べい</rt></ruby>が、ズーッと、目もはるかにつづいています。いかめしい鉄のとびらの門をはいると、大きなソテツが、ドッカリと<ruby><rb>植</rb><rt>う</rt></ruby>わっていて、そのしげった葉の向こうに、りっぱな玄関が見えています。

いく<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>ともしれぬ、広い日本建てと、黄色い化粧<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">れんが</span>をはりつめた、二階建ての大きな洋館とが、かぎの手にならんでいて、その裏には、公園のように、広くて美しいお庭があるのです。

これは、実業界の<ruby><rb>大立者</rb><rt>おおだてもの</rt></ruby>、<ruby><rb>羽柴壮太郎</rb><rt>はしばそうたろう</rt></ruby>氏の邸宅です。

羽柴家には、今、ひじょうな喜びと、ひじょうな恐怖とが、織りまざるようにして、おそいかかっていました。

喜びというのは、今から十年以前に家出をした、長男の<ruby><rb>壮一</rb><rt>そういち</rt></ruby>君が、南洋ボルネオ島から、おとうさんにおわびをするために、日本へ帰ってくることでした。

壮一君は<ruby><rb>生来</rb><rt>せいらい</rt></ruby>の冒険児で、中学校を卒業すると、学友とふたりで、南洋の新天地に渡航し、何か壮快な事業をおこしたいと願ったのですが、父の壮太郎氏は、がんとしてそれをゆるさなかったので、とうとう、むだんで家をとびだし、小さな<ruby><rb>帆船</rb><rt>はんせん</rt></ruby>に便乗して、南洋にわたったのでした。

それから十年間、壮一君からはまったくなんのたよりもなく、ゆくえさえわからなかったのですが、つい三ヵ月ほどまえ、とつぜん、ボルネオ島のサンダカンから手紙をよこして、やっと一人まえの男になったから、おとうさまにおわびに帰りたい、といってきたのです。

壮一君は現在では、サンダカン付近に大きなゴム植林をいとなんでいて、手紙には、そのゴム林の写真と、壮一君の最近の写真とが、同封してありました。もう三十歳です。<ruby><rb>鼻下</rb><rt>びか</rt></ruby>にきどったひげをはやして、りっぱな大人になっていました。

おとうさまも、おかあさまも、妹の<ruby><rb>早苗</rb><rt>さなえ</rt></ruby>さんも、まだ小学生の弟の<ruby><rb>壮二</rb><rt>そうじ</rt></ruby>君も、大喜びでした。<ruby><rb>下関</rb><rt>しものせき</rt></ruby>で船をおりて、飛行機で帰ってくるというので、その日が待ちどおしくてしかたがありません。

さて、いっぽう羽柴家をおそった、ひじょうな恐怖といいますのは、ほかならぬ「二十面相」のおそろしい予告状です。予告状の文面は、

「余がいかなる人物であるかは、<ruby><rb>貴下</rb><rt>きか</rt></ruby>も新聞紙上にてご承知であろう。

貴下は、かつてロマノフ<ruby><rb>王家</rb><rt>おうけ</rt></ruby>の<ruby><rb>宝冠</rb><rt>ほうかん</rt></ruby>をかざりし<ruby><rb>大</rb><rt>だい</rt></ruby>ダイヤモンド六個を、貴家の家宝として、<ruby><rb>珍蔵</rb><rt>ちんぞう</rt></ruby>せられると<ruby><rb>確聞</rb><rt>かくぶん</rt></ruby>する。

余はこのたび、右六個のダイヤモンドを、貴下より無償にてゆずりうける決心をした。近日中にちょうだいに参上するつもりである。

正確な日時はおってご通知する。

ずいぶんご用心なさるがよかろう。」

というので、おわりに「二十面相」と署名してありました。

そのダイヤモンドというのは、ロシアの<ruby><rb>帝政没落</rb><rt>ていせいぼつらく</rt></ruby>ののち、ある<ruby><rb>白系</rb><rt>はっけい</rt></ruby>ロシア人が、旧ロマノフ家の宝冠を手に入れて、かざりの宝石だけをとりはずし、それを、中国商人に売りわたしたのが、まわりまわって、日本の羽柴氏に買いとられたもので、<ruby><rb>価</rb><rt>あたい</rt></ruby>にして二百万円という、貴重な<ruby><rb>宝物</rb><rt>ほうもつ</rt></ruby>でした。

その六個の宝石は、げんに、壮太郎氏の書斎の金庫の中におさまっているのですが、怪盗はそのありかまで、ちゃんと知りぬいているような文面です。

その予告状をうけとると、主人の壮太郎氏は、さすがに顔色もかえませんでしたが、夫人をはじめ、お嬢さんも、召使いなどまでが、ふるえあがってしまいました。

ことに羽柴家の支配人<ruby><rb>近藤</rb><rt>こんどう</rt></ruby>老人は、主家の一大事とばかりに、さわぎたてて、警察へ<ruby><rb>出頭</rb><rt>しゅっとう</rt></ruby>して、保護をねがうやら、あたらしく、猛犬を買いいれるやら、あらゆる手段をめぐらして、賊の<ruby><rb>襲来</rb><rt>しゅうらい</rt></ruby>にそなえました。

羽柴家の近所は、おまわりさんの一家が住んでおりましたが、近藤支配人は、そのおまわりさんにたのんで、非番の友だちを交代に呼んでもらい、いつも邸内には、二―三人のおまわりさんが、がんばっていてくれるようにはからいました。

そのうえ壮太郎氏の秘書が三人おります。おまわりさんと、秘書と、猛犬と、このげんじゅうな防備の中へ、いくら「二十面相」の怪賊にもせよ、しのびこむなんて、思いもよらぬことでしょう。

それにしても、待たれるのは、長男壮一君の帰宅でした。<ruby><rb>徒手空拳</rb><rt>としゅくうけん</rt></ruby>、南洋の島へおしわたって、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>の成功をおさめたほどの快男児ですから、この人さえ帰ってくれたら、家内のものは、どんなに心じょうぶだかしれません。

さて、その壮一君が、<ruby><rb>羽田</rb><rt>はねだ</rt></ruby>空港へつくという日の早朝のことです。

あかあかと秋の朝日がさしている、羽柴家の<ruby><rb>土蔵</rb><rt>どぞう</rt></ruby>の中から、ひとりの少年が、姿をあらわしました。小学生の壮二君です。

まだ朝食の用意もできない早朝ですから、邸内はひっそりと静まりかえっていました。早起きのスズメだけが、いせいよく、庭木の枝や、土蔵の屋根でさえずっています。

その早朝、壮二君がタオルのねまき姿で、しかも両手には、何かおそろしげな、鉄製の器械のようなものをだいて、土蔵の石段を庭へおりてきたのです。いったい、どうしたというのでしょう。おどろいたのはスズメばかりではありません。

壮二君はゆうべ、おそろしい夢をみました。「二十面相」の賊が、どこからか洋館の二階の書斎へしのびいり、宝物をうばいさった夢です。

賊は、おとうさまの居間にかけてあるお能の面のように、ぶきみに青ざめた、無表情な顔をしていました。そいつが、宝物をぬすむと、いきなり二階の窓をひらいて、まっくらな庭へとびおりたのです。

「ワッ。」といって目がさめると、それはさいわいにも夢でした。しかし、なんだか夢と同じことがおこりそうな気がしてしかたがありません。

「二十面相のやつは、きっと、あの窓から、とびおりるにちがいない。そして、庭をよこぎって逃げるにちがいない。」

壮二君は、そんなふうに信じこんでしまいました。

「あの窓の下には花壇がある。花壇がふみあらされるだろうなあ。」

そこまで空想したとき、壮二君の頭に、ヒョイと奇妙な考えがうかびました。

「ウン、そうだ。こいつは名案だ。あの花壇の中へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけておいてやろう。もし、ぼくの思っているとおりのことがおこるとしたら、賊は、あの花壇をよこぎるにちがいない。そこに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけておけば、賊のやつ、うまくかかるかもしれないぞ。」

壮二君が思いついた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>というのは、去年でしたか、おとうさまのお友だちで、山林を経営している人が、鉄のわなを作らせたいといって、アメリカ製の見本を持ってきたことがあって、それがそのまま土蔵にしまってあるのを、よくおぼえていたからです。

壮二君は、その思いつきにむちゅうになってしまいました。広い庭の中に、一つぐらいわなをしかけておいたところで、はたして賊がそれにかかるかどうか、うたがわしい話ですが、そんなことを考えるよゆうはありません。ただもう、<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけてみたくなったのです。そこで、いつにない早起きをして、ソッと土蔵にしのびこんで、大きな鉄の道具を、エッチラオッチラ持ちだしたというわけなのです。

壮二君は、いつか一度経験した、ネズミとりをかけたときの、なんだかワクワクするような、ゆかいな気持を思いだしました。しかし、こんどは、相手がネズミではなくて人間なのです。しかも「二十面相」という<ruby><rb>希代</rb><rt>きだい</rt></ruby>の怪賊なのです。ワクワクする気持は、ネズミのばあいの、十倍も二十倍も大きいものでした。

鉄<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>を花壇のまんなかまで運ぶと、大きな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のこぎりめ</span>のついた二つのわくを、力いっぱいグッとひらいて、うまくすえつけたうえ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>と見えないように、そのへんの枯れ草を集めて、おおいかくしました。

もし賊がこの中へ足をふみいれたら、ネズミとりと同じぐあいに、たちまちパチンと両方の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のこぎりめ</span>があわさって、まるでまっ黒な、でっかい猛獣の歯のように、賊の足くびに、くいいってしまうのです。家の人が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>にかかってはたいへんですが、花壇のまんなかですから、賊でもなければ、めったにそんなところへふみこむ者はありません。

「これでよしと。でも、うまくいくかしら。まんいち、賊がこいつに足くびをはさまれて、動けなくなったら、さぞゆかいだろうなあ。どうかうまくいってくれますように。」

壮二君は、神さまにおいのりするようなかっこうをして、それから、ニヤニヤ笑いながら、家の中へはいっていきました。じつに子どもらしい思いつきでした。しかし少年の直感というものは、けっしてばかにできません。壮二君のしかけた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>が、のちにいたって、どんな重大な役目をはたすことになるか、読者諸君は、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>のことを、よく<ruby><rb>記憶</rb><rt>きおく</rt></ruby>しておいていただきたいのです。

## 人か魔か

その午後には、羽柴一家総動員をして、<ruby><rb>帰朝</rb><rt>きちょう</rt></ruby>の壮一君を、羽田空港に出むかえました。

飛行機からおりたった壮一君は、予期にたがわず、じつにさっそうたる姿でした。こげ茶色の薄がいとうを小わきにして、同じ色のダブル・ボタンの背広を、キチンと着こなし、折り目のただしいズボンが、スーッと長く見えて、映画の中の西洋人みたいな感じがしました。

同じこげ茶色のソフト<ruby><rb>帽</rb><rt>ぼう</rt></ruby>の下に、帽子の色とあまりちがわない、日にやけた<ruby><rb>赤銅色</rb><rt>しゃくどういろ</rt></ruby>の、でも美しい顔が、にこにこ笑っていました。濃い一<ruby><rb>文字</rb><rt>もんじ</rt></ruby>のまゆ、よく光る大きな目、笑うたびに見える、よくそろったまっ白な歯、それから、上くちびるの細くかりこんだ口ひげが、なんともいえぬなつかしさでした。写真とそっくりです。いや、写真よりいちだんとりっぱでした。

みんなと握手をかわすと、壮一君は、おとうさま、おかあさまにはさまれて、自動車にのりました。壮二君は、おねえさまや近藤老人といっしょに、あとの自動車でしたが、車が走るあいだも、うしろの窓からすいて見えるおにいさまの姿を、ジッと見つめていますと、なんだか、うれしさがこみあげてくるようでした。

帰宅して、一同が、壮一君をとりかこんで、何かと話しているうちに、もう夕方でした。食堂には、おかあさまの心づくしの晩さんが用意されました。

新しいテーブル・クロスでおおった、大きな食卓の上には、美しい秋の盛り花がかざられ、めいめいの席には、銀のナイフやフォークが、キラキラと光っていました。きょうは、いつもとちがって、チャンと正式に折りたたんだナプキンが出ていました。

食事中は、むろん壮一君が談話の中心でした。めずらしい南洋の話がつぎからつぎと語られました。そのあいだには、家出以前の、少年時代の思い出話も、さかんにとびだしました。

「壮二君、きみはその時分、まだあんよができるようになったばかりでね、ぼくの勉強部屋へ侵入して、机の上をひっかきまわしたりしたものだよ。いつかはインキつぼをひっくりかえして、その手で顔をなすったもんだから、黒んぼうみたいになってね、大さわぎをしたことがあるよ。ねえ、おかあさま。」

おかあさまは、そんなことがあったかしらと、よく思いだせませんでしたけれど、ただうれしさに、目に涙をうかべて、にこにことうなずいていらっしゃいました。

ところがです、読者諸君、こうした一家の喜びは、あるおそろしいできごとのために、じつにとつぜん、まるでバイオリンの糸が切れでもしたように、プッツリとたちきられてしまいました。

なんという心なしの悪魔でしょう。親子兄弟十年ぶりの再会、一生に一度というめでたい席上へ、そのしあわせをのろうかのように、あいつのぶきみな姿が、もうろうと立ちあらわれたのでありました。

思い出話のさいちゅうへ、秘書が一通の電報を持ってはいってきました。いくら話にむちゅうになっていても、電報とあっては、ひらいて見ないわけにはいきません。

壮太郎氏は、少し顔をしかめて、その電報を読みましたが、すると、どうしたことか、にわかにムッツリとだまりこんでしまったのです。

「おとうさま、何かご心配なことでも。」

壮一君が、目ばやくそれを見つけてたずねました。

「ウン、こまったものがとびこんできた。おまえたちに心配させたくないが、こういうものが来るようでは、今夜は、よほど用心しないといけない。」

そういって、お見せになった電報には、

「コンヤショウ一二ジ　オヤクソクノモノウケトリニイク　二〇」

とありました。二〇というのは、「二十面相」の略語にちがいありません。「ショウ一二ジ」は、<ruby><rb>正</rb><rt>しょう</rt></ruby>十二時で、午前<ruby><rb>零時</rb><rt>れいじ</rt></ruby>かっきりに、ぬすみだすぞという、確信にみちた文意です。

「この二〇というのは、もしや、二十面相の賊のことではありませんか。」

壮一君がハッとしたように、おとうさまを見つめていいました。

「そうだよ。おまえよく知っているね。」

「下関上陸以来、たびたびそのうわさを聞きました。飛行機の中で新聞も読みました。とうとう、うちをねらったのですね。しかし、あいつは何をほしがっているのです。」

「わしは、おまえがいなくなってから、旧ロシア皇帝の宝冠をかざっていたダイヤモンドを、手に入れたのだよ。賊はそれをぬすんでみせるというのだ。」

そうして、壮太郎氏は、「二十面相」の賊について、またその予告状について、くわしく話して聞かせました。

「しかし、今夜はおまえがいてくれるので、心じょうぶだ。ひとつ、おまえとふたりで、宝石の前で、寝ずの番でもするかな。」

「ええ、それがよろしいでしょう。ぼくは腕力にかけては自信があります。帰宅そうそうお役にたてばうれしいと思います。」

たちまち、邸内にげんじゅうな警戒がしかれました。青くなった近藤支配人のさしずで、午後八時というのに、もう表門をはじめ、あらゆる出入り口がピッタリとしめられ、内がわから<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>がおろされました。

「今夜だけは、どんなお客さまでも、おことわりするのだぞ。」

老人が召使いたちに<ruby><rb>厳命</rb><rt>げんめい</rt></ruby>しました。

夜を<ruby><rb>徹</rb><rt>てっ</rt></ruby>して、三人の非番警官と、三人の秘書と、自動車運転手とが、手わけをして、各出入り口をかため、あるいは邸内を巡視する手はずでした。

羽柴夫人と早苗さんと壮二君とは、早くから寝室にひきこもるようにいいつけられました。

大ぜいの使用人たちは、一つの部屋にあつまって、おびえたようにボソボソとささやきあっています。

壮太郎氏と壮一君は、洋館の二階の書斎に<ruby><rb>籠城</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>することになりました。書斎のテーブルには、サンドイッチとぶどう酒を用意させて、<ruby><rb>徹夜</rb><rt>てつや</rt></ruby>のかくごです。

書斎のドアや窓にはみな、外がわからあかぬように、かぎや掛け金がかけられました。ほんとうにアリのはいいるすきまもないわけです。

さて、書斎に腰をおろすと、壮太郎氏が苦笑しながらいいました。

「少し用心が大げさすぎたかもしれないね。」

「いや、あいつにかかっては、どんな用心だって、大げさすぎることはありますまい。ぼくはさっきから、新聞のとじこみで、『二十面相』の事件を、すっかり研究してみましたが、読めば読むほど、おそろしいやつです。」

壮一君は真剣な顔で、さも不安らしく答えました。

「では、おまえは、これほどげんじゅうな防備をしても、まだ、賊がやってくるかもしれないというのかね。」

「ええ、おくびょうのようですけれど、なんだかそんな気がするのです。」

「だが、いったいどこから？　……賊が宝石を手に入れるためには、まず、高い塀を乗りこえなければならない。それから、大ぜいの人の目をかすめて、たとえここまで来たとしても、ドアを打ちやぶらなくてはならない。そして、わたしたちふたりとたたかわなければならない。しかも、それでおしまいじゃないのだ。宝石は、ダイヤルの文字のくみあわせを知らなくては、ひらくことのできない金庫の中にはいっているのだよ。いくら二十面相が魔法使いだって、この四重五重の<ruby><rb>関門</rb><rt>かんもん</rt></ruby>を、どうしてくぐりぬけられるものか。ハハハ……。」

壮太郎氏は大きな声で笑うのでした。でも、その笑い声には、何かしら<ruby><rb>空虚</rb><rt>くうきょ</rt></ruby>な、からいばりみたいなひびきがまじっていました。

「しかし、おとうさん、新聞記事で見ますと、あいつはいく度も、まったく不可能としか考えられないようなことを、やすやすとなしとげているじゃありませんか。金庫に入れてあるから、大じょうぶだと安心していると、その金庫の背中に、ポッカリと大穴があいて、中の品物は、何もかもなくなっているという実例もあります。それからまた、五人のくっきょうな男が、見はりをしていても、いつのまにか、ねむり薬を飲まされて、かんじんのときには、みんなグッスリ寝こんでいたという例もあります。

あいつは、その時とばあいによって、どんな手段でも考えだす知恵を持っているのです。」

「おいおい壮一、おまえ、なんだか、賊を<ruby><rb>賛美</rb><rt>さんび</rt></ruby>してるような口調だね。」

壮太郎氏は、あきれたように、わが子の顔をながめました。

「いいえ、賛美じゃありません。でも、あいつは研究すればするほど、おそろしいやつです。あいつの武器は腕力ではありません。知恵です。知恵の使い方によっては、ほとんど、この世にできないことはないですからね。」

父と子が、そんな議論をしているあいだに、夜はじょじょにふけていき、少し風がたってきたとみえて、サーッと吹きすぎる黒い風に、窓のガラスがコトコトと音をたてました。

「いや、おまえがあんまり賊を買いかぶっているもんだから、どうやらわしも、少し心配になってきたぞ。ひとつ宝石をたしかめておこう。金庫の裏に穴でもあいていては、たいへんだからね。」

壮太郎氏は笑いながら立ちあがって、部屋のすみの小型金庫に近づき、ダイヤルをまわし、とびらをひらいて、小さな赤銅製の小箱をとりだしました。そして、さもだいじそうに小箱をかかえて、もとのイスにもどると、それを壮一君とのあいだの丸テーブルの上におきました。

「ぼくは、はじめて拝見するわけですね。」

壮一君が、問題の宝石に好奇心を感じたらしく、目を光らせて言います。

「ウン、おまえには、はじめてだったね。さあ、これが、かつてロシア皇帝の頭にかがやいたことのあるダイヤだよ。」

小箱のふたがひらかれますと、目もくらむような虹の色がひらめきました。<ruby><rb>大豆</rb><rt>だいず</rt></ruby>ほどもある、じつにみごとなダイヤモンドが六個、黒ビロードの台座の上に、かがやいていたのです。

壮一君が、じゅうぶん観賞するのを待って、小箱のふたがとじられました。

「この箱は、ここへおくことにしよう。金庫なんかよりは、おまえとわしと、四つの目でにらんでいるほうが、たしかだからね。」

「ええ、そのほうがいいでしょう。」

ふたりはもう、話すこともなくなって、小箱をのせたテーブルを中に、じっと、顔を見あわせていました。

ときどき、思いだしたように、風が窓のガラス戸を、コトコトいわせて吹きすぎます。どこか遠くのほうから、はげしく鳴きたてる犬の声が聞こえてきます。

「何時だね。」

「十一時四十三分です。あと、十七分……。」

壮一君が腕時計を見て答えると、それっきり、ふたりはまた、だまりこんでしまいました。見ると、さすが<ruby><rb>豪胆</rb><rt>ごうたん</rt></ruby>な壮太郎氏の顔も、いくらか青ざめて、ひたいにはうっすら汗がにじみだしています。壮一君も、ひざの上に、にぎりこぶしをかためて、歯をくいしばるようにしています。

ふたりの<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>づかいや、腕時計の秒をきざむ音までが聞こえるほど、部屋のなかはしずまりかえっていました。

「もう何分だね。」

「あと十分です。」

するとそのとき、何か小さな白いものが、じゅうたんの上をコトコト走っていくのが、ふたりの目のすみにうつりました。おやっ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつかネズミ</span>かしら。

壮太郎氏は思わずギョッとして、うしろの机の下をのぞきました。白いものは、どうやら机の下へかくれたらしく見えたからです。

「なあんだ、ピンポンの玉じゃないか。だが、こんなものが、どうしてころがってきたんだろう。」

机の下からそれを拾いとって、ふしぎそうにながめました。

「おかしいですね。壮二君が、そのへんの棚の上におきわすれておいたのが、何かのはずみで落ちたのじゃありませんか。」

「そうかもしれない……。だが時間は？」

壮太郎氏の時間をたずねる回数が、だんだんひんぱんになってくるのです。

「あと四分です。」

ふたりは目と目を見あわせました。秒をきざむ音がこわいようでした。

三分、二分、一分、ジリジリと、その時がせまってきます。二十面相はもう塀を乗りこえたかもしれません。今ごろは廊下を歩いているかもしれません……。いや、もうドアの外に来て、じっと耳をすましているかもしれません。

ああ、今にも、今にも、おそろしい音をたてて、ドアが<ruby><rb>破壊</rb><rt>はかい</rt></ruby>されるのではないでしょうか。

「おとうさん、どうかなすったのですか。」

「いや、いや、なんでもない。わしは二十面相なんかに負けやしない。」

そうはいうものの、壮太郎氏は、もうまっさおになって、両手でひたいをおさえているのです。

三十秒、二十秒、十秒と、ふたりの心臓の<ruby><rb>鼓動</rb><rt>こどう</rt></ruby>をあわせて、息づまるようなおそろしい<ruby><rb>秒時</rb><rt>びょうじ</rt></ruby>が、すぎさっていきました。

「おい、時間は？」

壮太郎氏の、うめくような声がたずねます。

「十二時一分すぎです。」

「なに、一分すぎた？　……アハハハ……、どうだ壮一、二十面相の予告状も、あてにならんじゃないか。宝石はここにちゃんとあるぞ。なんの異状もないぞ。」

壮太郎氏は、勝ちほこった気持で、大声に笑いました。しかし壮一君はニッコリともしません。

「ぼくは信じられません。宝石には、はたして異状がないでしょうか。二十面相は<ruby><rb>違約</rb><rt>いやく</rt></ruby>なんかする男でしょうか。」

「なにをいっているんだ。宝石は目の前にあるじゃないか。」

「でも、それは箱です。」

「すると、おまえは、箱だけがあって、中身のダイヤモンドがどうかしたとでもいうのか。」

「たしかめてみたいのです。たしかめるまでは安心できません。」

壮太郎氏は思わずたちあがって、赤銅の小箱を、両手でおさえつけました。壮一君も立ちあがりました。ふたりの目が、ほとんど一分のあいだ、何か異様ににらみあったまま動きませんでした。

「じゃ、あけてみよう。そんなばかなことがあるはずはない。」

パチンと小箱のふたがひらかれたのです。

と、同時に壮太郎氏の口から、

「アッ。」というさけび声が、ほとばしりました。

ないのです。黒ビロードの台座の上は、まったくからっぽなのです。<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>深い二百万円のダイヤモンドは、まるで蒸発でもしたように消えうせていたのでした。

## 魔法使い

しばらくのあいだ、ふたりともだまりこくって、青ざめた顔を、見あわせるばかりでしたが、やっと壮太郎氏は、さもいまいましそうに、

「ふしぎだ。」

と、つぶやきました。

「ふしぎですね。」

壮一君も、おうむがえしに同じことをつぶやきました。しかし、みょうなことに、壮一君は、いっこうおどろいたり、心配したりしているようすがありません。くちびるのすみに、なんだかうす笑いのかげさえ見えます。

「戸じまりに異状はないし、それに、だれかがはいってくれば、このわしの目にうつらぬはずはない。まさか、賊は幽霊のように、ドアのかぎ穴から出はいりしたわけではなかろうからね。」

「そうですとも、いくら二十面相でも、幽霊に化けることはできますまい。」

「すると、この部屋にいて、ダイヤモンドに手をふれることができたものは、わしとおまえのほかにはないのだ。」

壮太郎氏は、何かうたがわしげな表情で、じっとわが子の顔を見つめました。

「そうです。あなたかぼくのほかにはありません。」

壮一君のうす笑いがだんだんはっきりして、にこにこと笑いはじめたのです。

「おい、壮一、おまえ何を笑っているのだ。何がおかしいのだ。」

壮太郎氏はハッとしたように、顔色をかえてどなりました。

「ぼくは賊の手なみに感心しているのですよ。彼はやっぱりえらいですなあ。ちゃんと約束を守ったじゃありませんか。<ruby><rb>十重二十重</rb><rt>とえはたえ</rt></ruby>の警戒を、もののみごとに突破したじゃありませんか。」

「こら、よさんか。おまえはまた賊をほめあげている。つまり、賊に出しぬかれたわしの顔がおかしいとでもいうのか。」

「そうですよ。あなたがそうして、うろたえているようすが、じつにゆかいなんですよ。」

ああ、これが子たるものの父にたいすることばでしょうか。壮太郎氏はおこるよりも、あっけにとられてしまいました。そして、今、目の前にニヤニヤ笑っている青年が、自分のむすこではなく、何かしら、えたいのしれない人間に見えてきました。

「壮一、そこを動くんじゃないぞ。」

壮太郎氏は、こわい顔をしてむすこをにらみつけながら、呼びりんをおすために、部屋の一方の壁に近づこうとしました。

「羽柴さん、あなたこそ動いてはいけませんね。」

おどろいたことには、子が父を羽柴さんと呼びました。そして、ポケットから小型のピストルをとりだすと、その手をひくくわきにあてて、じっとおとうさんにねらいをさだめたではありませんか。顔はやっぱりニヤニヤと笑っているのです。

壮太郎氏は、ピストルを見ると、立ちすくんだまま、動けなくなりました。

「人を呼んではいけません。声をおたてになれば、ぼくは、かまわず引き金をひきますよ。」

「きさまはいったい何者だ。もしや……。」

「ハハハ……、やっとおわかりになったようですね。ご安心なさい。ぼくは、あなたのむすこの壮一君じゃありません。お<ruby><rb>察</rb><rt>さっ</rt></ruby>しのとおり、あなた方が二十面相と呼んでいる盗賊です。」

壮太郎氏はお化けでも見るように、相手の顔を見つめました。どうしても、とけないなぞがあったからです。では、あのボルネオ島からの手紙は、だれが書いたのだ。あの写真はだれの写真なのだ。

「ハハハ……、二十面相は童話の中の魔法使いです。だれにでもできないことを、実行してみせるのです。羽柴さん、ダイヤモンドをちょうだいしたお礼に、種明しをしましょうか。」

怪青年は身の危険を知らぬように、落ちつきはらって説明しました。

「ぼくは、壮一君のゆくえ不明になっていることをさぐりだしました。同君の家出以前の写真も手に入れました。そして、十年のあいだに、壮一君がどんな顔にかわるかということを想像して、まあ、こんな顔をつくりあげたのです。」

彼はそういって、自分のほおをピタピタとたたいてみせました。

「ですから、あの写真は、ほかでもない、このぼくの写真なのです。手紙もぼくが書きました。そして、ボルネオ島にいるぼくの友だちに、あの手紙と写真を送って、そこからあなたあてに郵送させたわけですよ。お気のどくですが、壮一君はいまだにゆくえ不明なのです。ボルネオ島なんかにいやしないのです。あれはすっかり、はじめからおしまいまで、この二十面相のしくんだお芝居ですよ。」

羽柴一家の人々は、おとうさまもおかあさまも、なつかしい長男が帰ったという喜びに、とりのぼせて、そこにこんなおそろしいカラクリがあろうとは、まったく思いもおよばなかったのでした。

「ぼくは<ruby><rb>忍術使</rb><rt>にんじゅつつか</rt></ruby>いです。」

二十面相は、さも、とくいらしくつづけました。

「わかりますか。ホラ、さっきのピンポンの玉です。あれが忍術の種なんです。あれはぼくがポケットからじゅうたんの上にほうりだしたのですよ。あなたは、少しのあいだ玉に気をとられていました。机の下をのぞきこんだりしました。そのすきに宝石箱の中から、ダイヤモンドをとりだすのは、なんのぞうさもないことでした。ハハハ……、では、さようなら。」

賊はピストルをかまえながら、あとずさりをしていって、左手で、かぎ穴にはめたままになっていたかぎをまわし、サッとドアをひらくと、廊下へとびだしました。

廊下には、庭にめんして窓があります。賊はその掛け金をはずして、ガラス戸をひらき、ヒラリと窓わくにまたがったかと思うと、

「これ、壮二君のおもちゃにあげてください。ぼくは<ruby><rb>人殺</rb><rt>ひとごろ</rt></ruby>しなんてしませんよ。」

といいながら、ピストルを部屋の中へ投げこんで、そのまま姿を消してしまいました。二階から庭へととびおりたのです。

壮太郎氏は、またしても出しぬかれました。

ピストルはおもちゃだったのです。さいぜんから、おもちゃのピストルにおびえて、人を呼ぶこともできなかったのです。

しかし、読者諸君はご記憶でしょう。賊のとびおりた窓というのは、少年壮二君が、夢にみたあの窓です。その下には、壮二君がしかけておいた鉄の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>が、のこぎりのような口をひらいて、えものをまちかまえているはずです。夢は<ruby><rb>正夢</rb><rt>まさゆめ</rt></ruby>でした。すると、もしかしたら、あのわなも何かの役にたつのではありますまいか。

ああ、もしかしたら！

## 池の中

賊がピストルを投げだして、外へとびおりたのを見ると、壮太郎氏はすぐさま、窓のところへかけつけ、暗い庭を見おろしました。

暗いといっても、庭には、ところどころに、公園の<ruby><rb>常夜燈</rb><rt>じょうやとう</rt></ruby>のような、電燈がついているので、人の姿が見えぬほどではありません。

賊はとびおりたひょうしに、一度たおれたようすですが、すぐムクムクとおきあがって、ひじょうな勢いでかけだしました。ところが、案のじょう、彼は例の花壇へとびこんだのです。そして、二―三歩花壇の中を走ったかと思うと、たちまち、ガチャンというはげしい金属の音がして、賊の黒い影は、もんどり打ってたおれました。

「だれかいないか。賊だ。賊だ。庭へまわれ。」

壮太郎氏が大声にどなりました。

もし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>がなかったら、すばやい賊は、とっくに逃げさっていたことでしょう。壮二君の子どもらしい思いつきが、ぐうぜん<ruby><rb>功</rb><rt>こう</rt></ruby>を<ruby><rb>奏</rb><rt>そう</rt></ruby>したのです。賊が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をはずそうともがいているあいだに、四ほうから人々がかけつけました。背広服のおまわりさんたち、秘書たち、それから運転手、総勢七人です。

壮太郎氏もいそいで階段をおり、近藤老人とともに、階下の窓から、電燈を庭に向けて、捕り物の手だすけをしました。

ただみょうに思われたのは、せっかく買いいれた猛犬のジョンが、このさわぎに姿をあらわさないことでした。もし、ジョンが加勢してくれたら、まんいちにも、賊をとりにがすようなことはなかったでしょうに。

二十面相が、やっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をはずして、起きあがったときには、手に手に懐中電燈を持った追っ手の人たちが、もう十メートルの間近にせまっていました。それもいっぽうからではなくて、右からも、左からも、正面からもです。

賊は黒い風のように走りました。いや、<ruby><rb>弾丸</rb><rt>だんがん</rt></ruby>のようにといったほうがいいかもしれません。追っ手の<ruby><rb>円陣</rb><rt>えんじん</rt></ruby>のいっぽうを突破して、庭の奥へと走りこみました。

庭は公園のように広いのです。<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>があり、池があり、森のような<ruby><rb>木立</rb><rt>こだ</rt></ruby>ちがあります。暗さは暗し、七人の追っ手でも、けっして、じゅうぶんとはいえません。ああ、こんなとき、ジョンさえいてくれたら……。

しかし、追っ手は必死でした。ことに三人のおまわりさんは、捕り物にかけては、腕におぼえの人々です。賊が築山の上のしげみの中へかけあがったと見ると、平地を走って、築山の向こうがわへ先まわりをしました。あとからの追っ手と、はさみうちにしようというわけです。

こうしておけば、賊は塀の外へ逃げだすわけにはいきません。それに、庭をとりまいたコンクリート塀は、高さ四メートルもあって、はしごでも持ちださないかぎり、乗りこえるすべはないのです。

「アッ、ここだっ、賊はここにいるぞ。」

秘書のひとりが、築山の上のしげみのなかでさけびました。

懐中電燈の丸い光が、四ほうからそこへ集中されます。しげみは昼のように明るくなりました。その光の中を、賊は背中をまるくして、築山の右手の森のような木立ちへと、まりのようにかけおります。

「逃がすなっ、山をおりたぞ。」

そして、大木の木立ちのなかを、懐中電燈がチロチロと、美しく走るのです。

庭がひじょうに広く、樹木や岩石が多いのと、賊の逃走がたくみなために、相手の背中を目の前に見ながら、どうしてもとらえることができません。

そうしているうちに、電話の急報によって、近くの警察署から、数名の警官がかけつけ、ただちに塀の外をかためました。賊はいよいよ袋のネズミです。

邸内では、それからまたしばらくのあいだ、おそろしい鬼ごっこがつづきましたが、そのうちに、追っ手たちは、ふと賊の姿を見うしなってしまいました。

賊はすぐ前を走っていたのです。大きな木の幹をぬうようにして、チラチラと見えたりかくれたりしていたのです。それがとつぜん、消えうせてしまったのです。木立ちを一本一本、枝の上まで照らして見ましたけれど、どこにも賊の姿はないのです。

塀外には警官の見はりがあります。建物のほうは、洋館はもちろん、日本座敷も雨戸がひらかれ、家中の電燈があかあかと庭を照らしているうえに、壮太郎氏、近藤老人、壮二君をはじめ、お手伝いさんたちまでが、縁がわに出て庭の捕り物をながめているのですから、そちらへ逃げるわけにもいきません。

賊は庭園のどこかに、身をひそめているにちがいないのです。それでいて、七人のものが、いくらさがしても、その姿を発見することができないのです。二十面相はまたしても、忍術を使ったのではないでしょうか。

けっきょく、夜の明けるのを待って、さがしなおすほかはないと一<ruby><rb>決</rb><rt>けつ</rt></ruby>しました。表門と裏門と塀外の見はりさえげんじゅうにしておけば、賊は袋のネズミですから、朝まで待ってもだいじょうぶだというのです。

そこで、追っ手の人々は、邸外の警官隊を助けるために、庭をひきあげたのですが、ただひとり、<ruby><rb>松野</rb><rt>まつの</rt></ruby>という自動車の運転手だけが、まだ庭の奥にのこっていました。

森のような木立ちにかこまれて、大きな池があります。松野運転手は人々におくれて、その池の岸を歩いていたとき、ふとみょうなものに気づいたのです。

懐中電燈に照らしだされた池の水ぎわには、落ち葉がいっぱいういていましたが、その落ち葉のあいだから、一本の竹ぎれが、少しばかり首を出して、ユラユラと動いているのです。風のせいではありません。波もないのに、竹ぎれだけが、みょうに動揺しているのです。

松野の頭に、あるひじょうにとっぴな考えが浮かびました。みんなを呼びかえそうかしらと思ったほどです。しかし、それほどの確信はありません。あんまり信じがたいことなのです。

彼は電燈を照らしたまま、池の岸にしゃがみました。そして、おそろしいうたがいをはらすために、みょうなことをはじめたのです。

ポケットをさぐって、鼻紙をとりだすと、それを細くさいて、ソッと池の中の竹ぎれの上に持っていきました。

すると、ふしぎなことがおこったのです。うすい紙きれが、竹の筒の先で、ふわふわと上下に動きはじめたではありませんか。紙がそんなふうに動くからには、竹の筒から、空気が出たりはいったりしているにちがいありません。

まさかそんなことがと、松野は、自分の想像を信じる気になれないのです。でも、このたしかなしょうこをどうしましょう。命のない竹ぎれが、呼吸をするはずはないではありませんか。

冬ならば、ちょっと考えられないことです。しかしそれは、まえにも申しましたとおり、秋の十月、それほど寒い気候ではありません。ことに二十面相の怪物は、みずから魔術師と称しているほど、とっぴな冒険がすきなのです。

松野はそのとき、みんなを呼べばよかったのです。でも、彼は手がらをひとりじめにしたかったのでしょう。他人の力を借りないで、そのうたがいをはらしてみようと思いました。

彼は電燈を地面におくと、いきなり両手をのばして、竹ぎれをつかみ、ぐいぐいと引きあげました。

竹ぎれは三十センチほどの長さでした。たぶん壮二君が庭で遊んでいて、そのへんにすてておいたものでしょう。引っぱると、竹はなんなくズルズルとのびてきました。しかし、竹ばかりではなかったのです。竹の先には池のどろでまっ黒になった人間の手が、しがみついていたではありませんか。いや、手ばかりではありません。手のつぎには、びしょぬれになった、<ruby><rb>海坊主</rb><rt>うみぼうず</rt></ruby>のような人の姿が、ニューッとあらわれたではありませんか。

## 樹上の怪人

それから、池の岸で、どんなことがおこったかは、しばらく読者諸君のご想像にまかせます。

五―六分ののちには、以前の松野運転手が、なにごともなかったように、同じ池の岸に立っておりました。少し息づかいがはげしいようです。そのほかにはかわったところも見えません。

彼は、いそいで<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>のほうへ歩きはじめました。どうしたのでしょう。少しびっこをひいています。でも、びっこをひきながら、ぐんぐん庭をよこぎって、表門までやってきました。

表門には、ふたりの秘書が、<ruby><rb>木刀</rb><rt>ぼくとう</rt></ruby>のようなものを持って、ものものしく見はり番をつとめています。

松野はその前まで行くと、何か苦しそうにひたいに手をあてて、

「ぼくは<ruby><rb>寒気</rb><rt>さむけ</rt></ruby>がしてしようがない。熱があるようだ。少し休ませてもらうよ。」

と、力のない声でいうのです。

「ああ、松野君か、いいとも、休みたまえ。ここはぼくたちがひきうけるから。」

秘書のひとりが元気よく答えました。

松野運転手は、あいさつをして、玄関わきのガレージの中へ姿を消しました。そのガレージの裏がわに、彼の部屋があるのです。

それから朝までは、べつだんのこともなくすぎさりました。表門も裏門も、だれも通過したものはありません。

塀外の見はりをしていたおまわりさんたちも、賊らしい人かげには出あいませんでした。

七時には、警視庁から大ぜいの係官が来て、邸内の取りしらべをはじめました。そして、取りしらべがすむまで、家の者はいっさい外出を禁じられたのですが、学生だけはしかたがありません。<ruby><rb>門脇</rb><rt>かどわき</rt></ruby>中学校三年生の早苗さんと、<ruby><rb>高千穂</rb><rt>たかちほ</rt></ruby>小学校五年生の壮二君とは、時間が来ると、いつものように、自動車でやしきを出ました。

運転手はまだ元気のないようすで、あまり口かずもきかず、うなだれてばかりいましたが、でも、学校がおくれてはいけないというので、おして運転席についたのです。

警視庁の<ruby><rb>中村</rb><rt>なかむら</rt></ruby>捜査係長は、まず主人の壮太郎氏と、犯罪現場の書斎で面会して、事件のてんまつをくわしく聞きとったうえ、ひととおり邸内の人々を取りしらべてから、庭園の捜索にとりかかりました。

「ゆうべ私たちがかけつけましてから、ただ今まで、やしきを出たものはひとりもありません。塀を乗りこしたものもありません。この点は、じゅうぶん信用していただいていいと思います。」

<ruby><rb>所轄</rb><rt>しょかつ</rt></ruby>警察署の主任刑事が、中村係長に断言しました。

「すると、賊はまだ邸内に<ruby><rb>潜伏</rb><rt>せんぷく</rt></ruby>しているというのですね。」

「そうです。そうとしか考えられません。しかし、けさ夜明けから、また捜索をはじめさせているのですが、今までのところ、なんの発見もありません。ただ、犬の死がいのほかには……。」

「エ、犬の死がいだって？」

「ここの家では、賊にそなえるために、ジョンという犬を飼っていたのですが、それがゆうべのうちに毒死していました。しらべてみますと、ここのむすこさんに化けた二十面相のやつが、きのうの夕方、庭に出てその犬に何かたべさせていたということがわかりました。じつに<ruby><rb>用意周到</rb><rt>よういしゅうとう</rt></ruby>なやり方です。もしここの坊ちゃんが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけておかなかったら、やつは、やすやすと逃げさっていたにちがいありません。」

「では、もう一度庭をさがしてみましょう。ずいぶん広い庭だから、どこに、どんなかくれ場所があるかもしれない。」

ふたりがそんな立ち話をしているところへ、庭の築山の向こうから、とんきょうなさけび声が聞こえてきました。

「ちょっと来てください。発見しました。賊を発見しました。」

そのさけび声とともに、庭のあちこちから、あわただしい靴音がおこりました。警官たちが現場へかけつけるのです。中村係長と主任刑事も、声を目あてに走りだしました。

行ってみますと、声のぬしは羽柴氏の秘書のひとりでした。彼は森のような木立ちの中の、一本の大きなシイの木の下に立って、しきりと上のほうを指さしているのです。

「あれです。あすこにいるのは、たしかに賊です。洋服に見おぼえがあります。」

シイの木は、根もとから三メートルほどのところで、二またにわかれているのですが、そのまたになったところに、しげった枝にかくれて、ひとりの人間が、みょうなかっこうをしてよこたわっていました。

こんなにさわいでも、にげだそうともせぬところをみると、賊は息絶えているのでしょうか。

それとも、気をうしなっているのでしょうか。まさか、木の上で、居眠りをしているのではありますまい。

「だれか、あいつを引きおろしてくれたまえ。」

係長の命令に、さっそくはしごが運ばれて、それにのぼるもの、下から受けとめるもの、三―四人の力で、賊は地上におろされました。

「おや、しばられているじゃないか。」

いかにも、細い絹ひものようなもので、ぐるぐる巻きにしばられています。そのうえ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さるぐつわ</span>です。

大きなハンカチを口の中へおしこんで、別のハンカチでかたく、くくってあります。それから、みょうなことに、洋服が雨にでもあったように、グッショリぬれているのです。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さるぐつわ</span>をとってやると、男はやっと元気づいたように、

「ちくしょうめ、ちくしょうめ。」

と、うなりました。

「アッ、きみは松野君じゃないか。」

秘書がびっくりしてさけびました。

それは二十面相ではなかったのです。二十面相の服を着ていましたけれど、顔はまったくちがうのです。おかかえ運転手の松野にちがいありません。

でも、運転手といえば、さいぜん、早苗さんと壮二君を学校へ送るために、出かけたばかりではありませんか。その松野が、どうしてここにいるのでしょう。

「きみは、いったいどうしたんだ。」

係長がたずねますと、松野は、

「ちくしょうめ、やられたんです。あいつにやられたんです。」

と、くやしそうにさけぶのでした。

## 壮二君のゆくえ

松野の語ったところによりますと、けっきょく、賊は、つぎのようなとっぴな手段によって、まんまと追っ手の目をくらまし、大ぜいの見ている中をやすやすと逃げさったことがわかりました。

人々に追いまわされている間に、賊は庭の池にとびこんで、水の中にもぐってしまったのです。でも、ただもぐっていたのでは呼吸ができませんが、ちょうどそのへんに壮二君がおもちゃにして、すてておいた、節のない竹ぎれが落ちていたものですから、それを持って池の中へはいり、竹の筒を口にあて、いっぽうのはしを水面に出し、しずかに呼吸をして、追っ手の立ちさるのを待っていたのでした。

ところが、人々のあとに残って、ひとりでそのへんを見まわしていた松野運転手が、その竹ぎれを発見し、賊のたくらみを感づいたのです。思いきって竹ぎれをひっぱってみますと、はたして、池の中からどろまみれの人間があらわれてきました。

そこで、やみの中の格闘がはじまったのですが、気のどくな松野は救いをもとめるひまもなく、たちまち、賊のために組みふせられ、賊がちゃんとポケットに用意していた絹ひもでしばりあげられ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さるぐつわ</span>をされてしまったのです。そして、服をとりかえられたうえ、高い木のまたへかつぎあげられたというしだいでした。

そうわかってみますと、壮二君たちを学校へ送っていった運転手は、いよいよにせ者ときまりました。たいせつなお嬢さん坊ちゃんが、人もあろうに、二十面相自身の運転する自動車で、どこかへ行ってしまったのです。人々のおどろき、おとうさまおかあさまのご心配は、くどくど、説明するまでもありません。

まず早苗さんの行く先、門脇中学校へ電話がかけられました。すると、意外にも早苗さんはぶじに学校へついていることがわかりました。では、賊はべつに誘かいするつもりではなかったのだなと、大安心をして、つぎには壮二君の学校へ電話をしてたずねますと、もう授業がはじまっているのに、壮二君の姿は見えないという返事です。それを聞くと、おとうさまおかあさまの顔色がかわってしまいました。

賊は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけたのが、壮二君であることを知ったのかもしれません。そして、足にうけた傷のふくしゅうをするために、壮二君だけを誘かいしたのかもしれません。

さあ、大さわぎになりました。中村捜査係長は、ただちにこのことを警視庁に報告し、東京全都に非常線をはって、羽柴家の自動車をさがしだす手配をとりました。さいわい自動車の型や番号はわかっているのですから、手がかりはじゅうぶんあるわけです。

壮太郎氏は、ほとんど三十分ごとに、学校と警視庁とへ電話をかけて、その後のようすをたずねさせていましたが、一時間、二時間、三時間、時はようしゃなくたっていくのに、壮二君の消息は、いつまでもわかりませんでした。

ところが、その日のお昼すぎになって、ひとりのうすよごれた背広に<ruby><rb>鳥打</rb><rt>とりう</rt></ruby>ち<ruby><rb>帽</rb><rt>ぼう</rt></ruby>の青年が、羽柴家の玄関にあらわれて、みょうなことをいいだしました。

「あたしは、おたくの運転手さんにたのまれたんですがね。運転手さんが、なんだか途中できゅうに私用ができたとかで、たのまれて自動車を運んできたのですよ。車は門の中へ入れておきましたから、しらべて受けとってほしいんですがね。」

秘書が、そのことを奥へ報告する。それっというので、主人の壮太郎氏や支配人の近藤老人が、玄関へかけだして、車をしらべてみますと、たしかに羽柴家の自動車にちがいありません。しかし、中にはだれもいないのです。壮二君はやっぱり誘かいされてしまったのです。

「おや、こんなみょうな封筒が落ちていますよ。」

近藤老人が、自動車のクッションの上から、一通の封書を拾いあげました。その表には「羽柴壮太郎殿必親展」と大きく書いてあるばかり、裏を見ても、差出人の名はありません。

「なんだろう。」

と、壮太郎氏が封をひらいて、庭に立ったまま読んでみますと、そこには左のようなおそろしいことばが書きつらねてあったのです。

昨夜はダイヤ六個たしかにちょうだいしました。持ちかえって、見れば見るほどみごとな宝石、家宝としてたいせつに保存します。

しかし、お礼はお礼として、少しおうらみがあるのです。何者かが庭に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけておいて、ぼくの足に全治十日間の傷をおわせたことです。ぼくは損害を<ruby><rb>賠償</rb><rt>ばいしょう</rt></ruby>してもらう権利があります。そのためにご子息壮二君を<ruby><rb>人質</rb><rt>ひとじち</rt></ruby>としてつれてかえりました。

壮二君は今、<ruby><rb>拙宅</rb><rt>せったく</rt></ruby>のつめたい地下室にとじこめられて、暗やみの中でシクシク泣いております。壮二君こそ、あののろわしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけた本人です。これくらいのむくいは当然ではありますまいか。

ところで、損害の賠償ですが、それには、ぼくはご所蔵の<ruby><rb>観世音</rb><rt>かんぜおん</rt></ruby>像を要求します。

ぼくは昨日、はからずも貴家の美術室を拝見する光栄を得たのですが、そのりっぱさにおどろきいりました。中でもあの観世音像は、鎌倉期の彫刻、<ruby><rb>安阿弥</rb><rt>あんあみ</rt></ruby>の作と説明書きがありましたが、いかにも国宝にしたいほどのもの、美術ずきのぼくは、ほしくてほしくてたまりませんでした。そのとき、どうあっても、この仏像だけはちょうだいしなければならないと、かたく決心したのです。

ついては、今夜正十時、ぼくの部下のもの三名が、貴家に参上しますから、だまって美術室に通していただきたいのです。彼らは観世音像だけを荷づくりして、トラックにつんで運びさる<ruby><rb>予定</rb><rt>よてい</rt></ruby>になっております。人質の壮二君は、仏像とひきかえに貴家へもどるようにはからいます。約束は二十面相の名にかけてまちがいありません。

このことを警察に知らせてはなりません。また部下のトラックのあとをつけさせてはいけません。もしそういうことがあれば、壮二君は永久に帰らないものとおぼしめしください。この申し出はかならずご承諾を得るものと信じますが、念のためご承諾のせつは、今夜だけ十時まで正門をあけはなっておいてください。それを目じるしに<ruby><rb>参上</rb><rt>さんじょう</rt></ruby>することにいたします。

二十面相より

羽柴壮太郎殿

なんという虫のよい要求でしょう。壮太郎氏はじめ、こぶしをにぎってくやしがりましたが、壮二君というかけがえのない人質をとられては、どうすることもできません。ざんねんながら、このむちゃな申し出に応ずるほかに手立てはないように思われます。

なお、賊にたのまれて自動車を運転してきた青年をとらえて、じゅうぶん<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>しましたけれど、彼はただ、いくらかお礼をもらってたのまれただけで、賊のことは何も知りませんでした。

## 少年探偵

青年運転手を帰すと、ただちに、主人の壮太郎氏夫妻、近藤老人、それに、学校の用務員さんに送られて、車をとばして帰ってきた早苗さんもくわわって、奥まった部屋に、善後処置の相談がひらかれました。もうぐずぐずしてはいられないのです。十時といえば、八―九時間しかありません。

「ほかのものならばかまわない。ダイヤなぞお金さえ出せば手にはいるのだからね。しかし、あの観世音像だけは、わしは、どうも手ばなしたくないのだ。ああいう国宝級の名作を、賊の手などにわたしては、日本の美術界のためにすまない。あの彫刻は、この家の美術室におさめてあるけど、けっしてわしの私有物ではないと思っているくらいだからね。」

壮太郎氏は、さすがにわが子のことばかり考えてはいませんでした。しかし、羽柴夫人は、そうはいきません。かわいそうな壮二君のことでいっぱいなのです。

「でも、仏像をわたすまいとすれば、あの子が、どんなめにあうかわからないじゃございませんか。いくらたいせつな美術品でも、人間の命にはかえられないとぞんじます。どうか警察などへおっしゃらないで、賊の申し出に応じてやってくださいませ。」

おかあさまのまぶたの裏には、どこともしれぬまっくらな地下室に、ひとりぼっちで泣きじゃくっている壮二君の姿が、まざまざとうかんでいました。今晩の十時さえ待ちどおしいのです。たったいまでも、仏像とひきかえに、早く壮二君をとりもどしてほしいのです。

「ウン、壮二をとりもどすのはむろんのことだが、しかし、ダイヤを取られたうえに、あのかけがえのない美術品まで、おめおめ賊にわたすのかと思うと、ざんねんでたまらないのだ。近藤君、何か方法はないものだろうか。」

「そうでございますね。警察に知らせたら、たちまち事があらだってしまいましょうから、賊の手紙のことは今晩十時までは、外へもれないようにしておかねばなりません。しかし、私立探偵ならば……。」

老人が、ふと一案を持ちだしました。

「ウン、私立探偵というものがあるね。しかし、個人の探偵などにこの大事件がこなせるかしらん。」

「聞くところによりますと、なんでも東京にひとり、えらい探偵がいると申すことでございますが。」

老人が首をかしげているのを見て、早苗さんが、とつぜん口をはさみました。

「おとうさま、それは明智小五郎探偵よ。あの人ならば、警察でさじを投げた事件を、いくつも解決したっていうほどの名探偵ですわ。」

「そうそう、その明智小五郎という人物でした。じつにえらい男だそうで、二十面相とはかっこうの取り組みでございましょうて。」

「ウン、その名はわしも聞いたことがある。では、その探偵をそっと呼んで、ひとつ相談してみることにしようか。専門家には、われわれに想像のおよばない名案があるかもしれん。」

そして、けっきょく、明智小五郎にこの事件を依頼することに話がきまったのでした。

さっそく、近藤老人が、電話帳をしらべて、明智探偵の宅に電話をかけました。すると、電話口から、子どもらしい声で、こんな返事が聞こえてきました。

「先生はいま、ある重大な事件のために、外国へ出張中ですから、いつお帰りともわかりません。しかし、先生の代理をつとめている小林という助手がおりますから、その人でよければ、すぐおうかがいいたします。」

「ああ、そうですか。だが、ひじょうな難事件ですからねえ。助手の方ではどうも……。」

近藤支配人がちゅうちょしていますと、先方からは、おっかぶせるように、元気のよい声がひびいてきました。

「助手といっても、先生におとらぬ腕ききなんです。じゅうぶんご信頼なすっていいと思います。ともかく、一度おうかがいしてみることにいたしましょう。」

「そうですか。では、すぐにひとつご<ruby><rb>足労</rb><rt>そくろう</rt></ruby>くださるようにお伝えください。ただ、おことわりしておきますが、事件をご依頼したことが、相手方に知れてはたいへんなのです。人の生命に関することなのです。じゅうぶんご注意のうえ、だれにもさとられぬよう、こっそりとおたずねください。」

「それは、おっしゃるまでもなく、よくこころえております。」

そういう<ruby><rb>問答</rb><rt>もんどう</rt></ruby>があって、いよいよ小林という名探偵がやってくることになりました。

電話が切れて、十分もたったかと思われたころ、ひとりのかわいらしい少年が、羽柴家の玄関に立って、案内をこいました。秘書が取りつぎに出ますと、その少年は、

「ぼくは壮二君のお友だちです。」

と自己紹介をしました。

「壮二さんはいらっしゃいませんが。」

と答えると、少年は、さもあらんという顔つきで、

「おおかた、そんなことだろうと思いました。では、おとうさんにちょっと会わせてください。ぼくのおとうさんからことづけがあるんです。ぼく、小林っていうもんです。」

と、すまして会見を申しこみました。

秘書からその話を聞くと、壮太郎氏は、小林という名に心あたりがあるものですから、ともかく、応接室に通させました。

壮太郎氏がはいっていきますと、りんごのようにつやつやしたほおの、目の大きい、十二―三歳の少年が立っていました。

「羽柴さんですか、はじめまして。ぼく、明智探偵事務所の小林っていうもんです。お電話をくださいましたので、おうかがいしました。」

少年は目をくりくりさせて、はっきりした口調でいいました。

「ああ、小林さんのお使いですか。ちとこみいった事件なのでね。ご本人に来てもらいたいのだが……。」

壮太郎氏がいいかけるのを、少年は手をあげてとめるようにしながら答えました。

「いえ、ぼくがその小林芳雄です。ほかに助手はいないのです。」

「ホホウ、きみがご本人ですか。」

壮太郎氏はびっくりしました。と同時に、なんだか、みょうにゆかいな気持になってきました。こんなちっぽけな子どもが、名探偵だなんて、ほんとうかしら。だが、顔つきやことばづかいは、なかなかたのもしそうだわい。ひとつ、この子どもに相談をかけてみるかな。

「さっき、電話口で腕ききの名探偵といったのは、きみ自身のことだったのですか。」

「ええ、そうです。ぼくは先生から、るす中の事件をすっかりまかされているのです。」

少年は<ruby><rb>自信</rb><rt>じしん</rt></ruby>たっぷりです。

「今、きみは、壮二の友だちだっていったそうですね。どうして壮二の名を知っていました。」

「それくらいのことがわからないでは、探偵の仕事はできません。実業雑誌にあなたのご家族のことが出ていたのを、切りぬき帳でしらべてきたのです。電話で、人の一命にかかわるというお話があったので、早苗さんか、壮二君か、どちらかがゆくえ不明にでもなったのではないかと想像してきました。どうやら、その想像があたったようですね。それから、この事件には、例の二十面相の賊が、関係しているのではありませんか。」

小林少年は、じつにこきみよく口をききます。

なるほど、この子どもは、ほんとうに名探偵かもしれないぞと、壮太郎氏はすっかり感心してしまいました。

そこで、近藤老人を応接室に呼んで、ふたりで事件のてんまつを、この少年にくわしく語り聞かせることにしたのです。

少年は、急所急所で、短い質問をはさみながら、熱心に聞いていましたが、話がすむと、その観音像を見たいと申し出ました。そして、壮太郎氏の案内で、美術室を見て、もとの応接室に帰ったのですが、しばらくのあいだ、ものもいわないで、目をつむって、何か考えごとにふけっているようすでした。

やがて、少年は、パッチリ目をひらくと、ひとひざ乗りだすようにして、意気ごんで言いました。

「ぼくはひとつうまい手段を考えついたのです。相手が魔法使いなら、こっちも魔法使いになるのです。ひじょうに危険な手段です。でも、危険をおかさないで、手がらをたてることはできませんからね。ぼくはまえに、もっとあぶないことさえやった経験があります。」

「ホウ、それはたのもしい。だがいったいどういう手段ですね。」

「それはね。」

小林少年は、いきなり壮太郎氏に近づいて、耳もとに何かささやきました。

「え、きみがですか。」

壮太郎氏は、あまりのとっぴな申し出に、目をまるくしないではいられませんでした。

「そうです。ちょっと考えると、むずかしそうですが、ぼくたちには、この方法は試験ずみなんです。先年、フランスの怪盗アルセーヌ＝ルパンのやつを、先生がこの手で、ひどいめにあわせてやったことがあるんです。」

「壮二の身に危険がおよぶようなことはありませんか。」

「それは大じょうぶです。相手が小さな泥棒ですと、かえって危険ですが、二十面相ともあろうものが、約束をたがえたりはしないでしょう。壮二君は仏像とひきかえにお返しするというのですから、危険がおこるまえにちゃんとここへもどっていらっしゃるにちがいありません。もしそうでなかったら、そのときには、またそのときの方法があります。大じょうぶですよ。ぼくは子どもだけれど、けっしてむちゃなことは考えません。」

「明智さんの不在中に、きみにそういう危険なことをさせて、まんいちのことがあってはこまるが。」

「ハハハ……、あなたはぼくたちの生活をごぞんじないのですよ。探偵なんて警察官と同じことで、犯罪捜査のためにたおれたら本望なんです。しかし、こんなことはなんでもありませんよ。危険というほどの仕事じゃありません。あなたは見て見ぬふりをしてくださればいいんです。ぼくは、たとえおゆるしがなくても、もうあとへは引きませんよ。かってに計画を実行するばかりです。」

羽柴氏も近藤老人も、この少年の元気を、もてあましぎみでした。

そして、長いあいだの協議の結果、とうとう小林少年の考えを実行することに話がきまりました。

## 仏像の奇跡

さて、お話はとんで、その夜のできごとにうつります。

午後十時、約束をたがえず、二十面相の部下の三人のあらくれ男が、あけはなったままの、羽柴家の門をくぐりました。

<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすびと</rt></ruby>たちは、玄関に立っている秘書などをしりめに、

「お約束の品物をいただきにまいりましたよ。」

と、すてぜりふを残しながら、間どりを教えられてきたとみえて、まよいもせず、ぐんぐん奥のほうへふみこんでいきました。

美術室の入り口では、壮太郎氏と近藤老人とが待ちうけていて、賊のひとりに声をかけました。

「約束はまちがいないんだろうね。子どもはつれてきたんだろうね。」

すると、賊はぶあいそうに答えました。

「ご心配にゃおよびませんよ。子どもさんは、もうちゃんと、門のそばまでつれてきてありまさあ。だがね、さがしたってむだですぜ。あっしたちが荷物を運びだすまでは、いくらさがしてもわからねえように工夫がしてあるんです。でなきゃあ、こちとらがあぶないからね。」

いいすてて、三人はドカドカ美術室へはいっていきました。

その部屋は土蔵のような造りになっていて、うす暗い電燈の下に、まるで博物館のようなガラス棚が、グルッとまわりをとりまいているのです。

よしありげな<ruby><rb>刀剣</rb><rt>とうけん</rt></ruby>、<ruby><rb>甲冑</rb><rt>かっちゅう</rt></ruby>、置き物、手箱の類、びょうぶ、掛け軸などが、ところせましとならんでいるいっぽうのすみに、高さ一メートル半ほどの、長方形のガラス箱が立っていて、その中に、問題の観世音像が安置してあるのです。

れんげの台座の上に、ほんとうの人間の半分ほどの大きさの、うす黒い観音様がすわっておいでになります。もとは<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>まばゆいお姿だったのでしょうけれど、今はただ一面にうす黒く、着ていらっしゃるひだの多い<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>も、ところどころすりやぶれています。でも、さすがは<ruby><rb>名匠</rb><rt>めいしょう</rt></ruby>の作、その<ruby><rb>円満柔和</rb><rt>えんまんにゅうわ</rt></ruby>なお顔だちは今にも笑いだすかと思われるばかり、いかなる悪人も、このお姿を拝しては、<ruby><rb>合掌</rb><rt>がっしょう</rt></ruby>しないではいられぬほどにみえます。

三人の泥棒は、さすがに気がひけるのか、仏像の柔和なお姿を、よくも見ないで、すぐさま仕事にかかりました。

「ぐずぐずしちゃいられねえ。大いそぎだぜ。」

ひとりが持ってきたうすぎたない布のようなものをひろげますと、もうひとりの男が、そのはしを持って、仏像のガラス箱の外を、ぐるぐると巻いていきます。たちまち、それとわからぬ布包みができあがってしまいました。

「ほら、いいか。横にしたらこわれるぜ。よいしょ、よいしょ。」

傍若無人のかけ声までして、三人のやつはその荷物を、表へ運びだします。

壮太郎氏と近藤老人は、それがトラックの上につみこまれるまで、三人のそばにつききって、見はっていました。仏像だけ持ちさられて、壮二君がもどってこないでは、なんにもならないからです。

やがて、トラックのエンジンが、そうぞうしくなりはじめ、車は今にも出発しそうになりました。

「おい、壮二さんはどこにいるのだ。壮二さんをもどさないうちは、この車を出発させないぞ。もし、むりに出発すれば、すぐ警察に知らせるぞ。」

近藤老人は、もう、一生けんめいでした。

「心配するなってえことよ。ほら、うしろを向いてごらん。坊ちゃんは、もうちゃんと玄関においでなさらあ。」

ふりむくと、なるほど、玄関の電燈の前に、大きいのと小さいのと、二つの黒い人かげが見えます。

壮太郎氏と老人とが、それに気をとられているうちに、

「あばよ……。」

トラックは、門前をはなれて、みるみる小さくなっていきました。

ふたりは、いそいで玄関の人かげのそばへひきかえしました。

「おや、こいつらは、さっきから門のところにいた親子の乞食じゃないか。さては、いっぱい食わされたかな。」

いかにもそれは親子と見えるふたりの乞食でした。両人とも、ぼろぼろのうすよごれた着物を着て、にしめたような手ぬぐいでほおかむりをしています。

「おまえたちはなんだ。こんなところへはいってきてはこまるじゃないか。」

近藤老人がしかりつけますと、親の乞食がみょうな声で笑いだしました。

「エヘヘヘヘヘ、お約束でございますよ。」

わけのわからぬことをいったかと思うと、彼はやにわに走りだしました。まるで風のように、暗やみの中を、門の外へとびさってしまいました。

「おとうさま、ぼくですよ。」

こんどは子どもの乞食が、へんなことをいいだすではありませんか。そして、いきなり、ほおかむりをとり、ぼろぼろの着物をぬぎすてたのを見ると、その下からあらわれたのは、見おぼえのある学生服、白い顔。子ども乞食こそ、ほかならぬ壮二君でした。

「どうしたのだ、こんなきたないなりをして。」

羽柴氏が、なつかしい壮二君の手をにぎりながらたずねました。

「何かわけがあるのでしょう。二十面相のやつが、こんな着物を着せたんです。でも、今まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さるぐつわ</span>をはめられていて、ものがいえなかったのです。」

ああ、では今の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">親</span>乞食こそ、二十面相その人だったのです。彼は乞食に変装をして、それとなく、仏像が運びだされたのを見きわめたうえ、約束どおり壮二君をかえして、逃げさったのにちがいありません。それにしても、乞食とは、なんという思いきった変装でしょう。乞食ならば、人の門前にうろついていても、さしてあやしまれないという、二十面相らしい思いつきです。

壮二君はぶじに帰りました。聞けば、先方では、地下室にとじこめられてはいたけれど、べつに<ruby><rb>虐待</rb><rt>ぎゃくたい</rt></ruby>されるようなこともなく、食事もじゅうぶんあてがわれていたということです。

これで羽柴家の大きな心配はとりのぞかれました。おとうさまおかあさまの喜びがどんなであったかは、読者諸君のご想像におまかせします。

さていっぽう、乞食に化けた二十面相は、風のように羽柴家の門をとびだし、<ruby><rb>小暗</rb><rt>こぐら</rt></ruby>い横町にかくれて、すばやく乞食の着物をぬぎすてますと、その下には茶色の<ruby><rb>十徳姿</rb><rt>じっとくすがた</rt></ruby>のおじいさんの変装が用意してありました。頭はしらが、顔もしわだらけの、どう見ても六十をこしたご<ruby><rb>隠居</rb><rt>いんきょ</rt></ruby>さまです。

彼は姿をととのえると、かくし持っていた竹の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>をつき、背中をまるめて、よちよちと、歩きだしました。たとえ羽柴氏が約束を無視して、追っ手をさしむけたとしても、これでは見やぶられる気づかいはありません。じつに心にくいばかりの用意周到なやりくちです。

老人は大通りに出ると、一台のタクシーを呼びとめて、乗りこみましたが、二十分もでたらめの方向に走らせておいて、べつの車に乗りかえ、こんどは、ほんとうの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>へいそがせました。

車のとまったところは、<ruby><rb>戸山ヶ原</rb><rt>とやまがはら</rt></ruby>の入り口でした。老人はそこで車をおりて、まっくらな原っぱをよぼよぼと歩いていきます。さては、賊の<ruby><rb>巣</rb><rt>そう</rt></ruby>くつは戸山ヶ原にあったのです。

原っぱのいっぽうのはずれ、こんもりとした杉林の中に、ポッツリと、一軒の古い洋館が建っています。荒れはてて住みてもないような建物です。老人は、その洋館の戸口を、トントントンと三つたたいて、少し間をおいて、トントンと二つたたきました。

すると、これが仲間のあいずとみえて、中からドアがひらかれ、さいぜん仏像をぬすみだした手下のひとりが、ニュッと顔を出しました。

老人はだまったまま先に立って、ぐんぐん奥のほうへはいっていきます。廊下のつきあたりに、むかしは、さぞりっぱであったろうと思われる、広い部屋があって、その部屋のまんなかに、布をまきつけたままの仏像のガラス箱が、電燈もない、はだかろうそくの赤茶けた光に、照らしだされています。

「よしよし。おまえたちうまくやってくれた。これはほうびだ。どっかへ行って遊んでくるがいい。」

三人の者に数枚の千円札をあたえて、その部屋を立ちさらせると、老人は、ガラス箱の布をゆっくりとりさって、そこにあったはだかろうそくを片手に、仏像の正面に立ち、ひらき戸になっているガラスのとびらをひらきました。

「観音さま、二十面相の腕まえは、どんなもんですね。きのうは二百万円のダイヤモンド、きょうは国宝級の美術品です。このちょうしだと、ぼくの計画している大美術館も、まもなく完成しようというものですよ。ハハハ……、観音さま。あなたはじつによくできていますぜ。まるで生きているようだ。」

ところが、読者諸君、そのときでした。二十面相のひとりごとが、終わるか終わらぬかに、彼のことばどおりに、じつにおそろしい奇跡がおこったのです。

木造の観音さまの右手が、グーッと前にのびてきたではありませんか。しかも、その指には、おきまりのハスの茎ではなくて一<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>のピストルが、ピッタリと賊の胸にねらいをさだめて、にぎられていたではありませんか。

仏像がひとりで動くはずはありません。

では、この観音さまには、人造人間のような機械じかけがほどこされていたのでしょうか。しかし鎌倉時代の彫像に、そんなしかけがあるわけはないのです。すると、いったいこの奇跡はどうしておこったのでしょう。

だが、ピストルをつきつけられた二十面相は、そんなことを考えているひまもありませんでした。彼は「アッ。」とさけんで、たじたじとあとじさりをしながら、手むかいしないといわぬばかりに、思わず両手を肩のところまであげてしまいました。

## おとしあな

さすがの怪盗も、これには<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶしました。相手が人間ならばいくらピストルを向けられてもおどろくような賊ではありませんが、古い古い鎌倉時代の観音さまが、いきなり動きだしたのですから、びっくりしないではいられません。

びっくりしたというよりも、ゾーッと心の底からおそろしさがこみあげてきたのです。こわい夢をみているような、あるいはお化けにでも出くわしたような、なんともえたいのしれぬ恐怖です。

大胆不敵の二十面相が、かわいそうに、まっさおになって、たじたじとあとじさりをして、ごめんなさいというように、ろうそくを床において、両手を高くあげてしまいました。

すると、またしても、じつにおそろしいことがおこったのです。観音さまが、れんげの台座からおりて、床の上に、ヌッと立ちあがったではありませんか。そして、じっとピストルのねらいをさだめながら、一歩、二歩、三歩、賊のほうへ近づいてくるのです。

「き、きさま、いったい、な、何者だっ。」

二十面相は、追いつめられた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けもの</span>のような、うめき声をたてました。

「わしか、わしは羽柴家のダイヤモンドをとりかえしに来たのだ。たった今、あれをわたせば、一命を助けてやる。」

おどろいたことには、仏像がものをいったのです。おもおもしい声で命令したのです。

「ハハア、きさま、羽柴家のまわしものだな。仏像に変装して、おれの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>をつきとめに来たんだな。」

相手が人間らしいことがわかると、賊は少し元気づいてきました。でも、えたいのしれぬ恐怖が、まったくなくなったわけではありません。というのは、人間が変装したのにしては、仏像があまり小さすぎたからです。立ちあがったところを見ると、十二―三の子どもの背たけしかありません。その<ruby><rb>一寸法師</rb><rt>いっすんぼうし</rt></ruby>みたいなやつが、落ちつきはらって、老人のようなおもおもしい声でものをいっているのですから、じつになんとも形容のできないきみ悪さです。

「で、ダイヤモンドをわたさぬといったら？」

賊はおそるおそる、相手の気をひいてみるように、たずねました。

「おまえの命がなくなるばかりさ。このピストルはね、いつもおまえが使うような、おもちゃじゃないんだぜ。」

観音さまは、このご隠居然とした白髪の老人が、そのじつ二十面相の変装姿であることを、ちゃんと知りぬいているようすでした。たぶん、さいぜんの手下の者との会話をもれ聞いて、それと、察したのでしょう。

「おもちゃでないというしょうこを、見せてあげようか。」

そういったかと思うと、観音さまの右手がヒョイと動きました。

と同時に、ハッととびあがるようなおそろしい物音。部屋のいっぽうの窓ガラスがガラガラとくだけ落ちました。ピストルからは、実弾がとびだしたのです。

一寸法師の観音さまは、めちゃめちゃにとびちるガラスの破片を、チラと見やったまま、すばやくピストルのねらいをもとにもどし、インド人みたいなまっ黒な顔で、うすきみ悪くニヤニヤと笑いました。

見ると賊の胸につきつけられたピストルの筒口からは、まだうす青い煙がたちのぼっています。

二十面相は、この黒い顔をした小さな怪人物の肝ったまが、おそろしくなってしまいました。

こんなめちゃくちゃならんぼう者は、何をしだすかしれたものではない。ほんとうにピストルでうちころす気かもしれぬ。たといその<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>はうまくのがれたとしても、このうえあんな大きな物音をたてられては、付近の住民にあやしまれて、どんなことになるかもしれぬ。

「しかたがない。ダイヤモンドはかえしてやろう。」

賊はあきらめたようにいいすてて、部屋のすみの大きな机の前へ行き、机の足をくりぬいたかくし引きだしから、六個の宝石をとりだすと、てのひらにのせて、カチャカチャいわせながらもどってきました。

ダイヤモンドは、賊の手の中でおどるたびごとに、床のろうそくの光をうけて、ギラギラと虹のようにかがやいています。

「さあ、これだ。よくしらべて受けとりたまえ。」

一寸法師の観音さまは、左手をのばして、それを受けとると、老人のようなしわがれ声で、笑いました。

「ハハハ……、感心、感心、さすがの二十面相も、やっぱり命はおしいとみえるね。」

「ウム、ざんねんながら、かぶとをぬいだよ。」

賊は、くやしそうにくちびるをかみながら、

「ところで、いったいきみは何者だね。この二十面相をこんなめにあわせるやつがあろうとは、おれも意外だったよ。<ruby><rb>後学</rb><rt>こうがく</rt></ruby>のために名まえを教えてくれないか。」

「ハハハ……、おほめにあずかって、光栄のいたりだね。名まえかい。それはきみが牢屋へはいってからのおたのしみに残しておこう。おまわりさんが教えてくれることだろうよ。」

観音さまは、勝ちほこったようにいいながら、やっぱり、ピストルをかまえたまま、部屋の出口のほうへ、ジリジリとあとじさりをはじめました。

賊の巣くつはつきとめたし、ダイヤモンドはとりもどしたし、あとはぶじにこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あばらや</span>を出て、付近の警察へかけこみさえすればよいのです。

この観音さまに変装した人物が何者であるかは、読者諸君、とっくにご承知でしょう。小林少年は怪盗二十面相を向こうにまわして、みごとな勝利をおさめたのです。そのうれしさは、どれほどでしたろう。どんなおとなもおよばぬ大手がらです。

ところが、彼が今、二―三歩で<ruby><rb>部屋</rb><rt>へや</rt></ruby>を出ようとしていたとき、とつぜん、異様な笑い声がひびきわたりました。見ると、老人姿の二十面相が、おかしくてたまらぬというように、大口あいて笑っているのです。

ああ、読者諸君、まだ安心はできません。名にしおう怪盗のことです。負けたとみせて、そのじつ、どんな最後の切り札を残していないともかぎりません。

「おやっ、きさま、何がおかしいんだ。」

観音さまに化けた少年は、ギョッとしたように立ちどまって、ゆだんなく身がまえました。

「いや、しっけい、しっけい、きみがおとなのことばなんか使って、あんまりこまっちゃくれているもんだから、つい吹きだしてしまったんだよ。」

賊はやっと笑いやんで、答えるのでした。

「というのはね。おれはとうとう、きみの正体を見やぶってしまったからさ。この二十面相の裏をかいて、これほどの<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>のできるやつは、そうたんとはないからね。じつをいうと、おれはまっ先に明智小五郎を思いだした。

だが、そんなちっぽけな明智小五郎なんてありゃしないね。きみは子どもだ。明智流のやり方を<ruby><rb>会得</rb><rt>えとく</rt></ruby>した子どもといえば、ほかにはない。明智の少年助手の小林芳雄とかいったっけな。ハハハ……、どうだ、あたったろう。」

観音像に変装した小林少年は、賊の明察に、内心ギョッとしないではいられませんでした。しかし、よく考えてみれば、目的をはたしてしまった今、相手に名まえをさとられたところで、少しもおどろくことはないのです。

「名まえなんかどうだっていいが、お察しのとおりぼくは子どもにちがいないよ。だが、二十面相ともあろうものが、ぼくみたいな子どもにやっつけられたとあっては、少し<ruby><rb>名折</rb><rt>なお</rt></ruby>れだねえ。ハハハ……。」

小林少年は負けないで応しゅうしました。

「坊や、かわいいねえ……。きさま、それで、この二十面相に勝ったつもりでいるのか。」

「負けおしみは、よしたまえ。せっかくぬすみだした仏像は生きて動きだすし、ダイヤモンドはとりかえされるし、それでもまだ負けないっていうのかい。」

「そうだよ。おれはけっして負けないよ。」

「で、どうしようっていうんだ！」

「こうしようというのさ！」

その声と同時に、小林少年は足の下の<ruby><rb>床板</rb><rt>ゆかいた</rt></ruby>が、とつぜん消えてしまったように感じました。

ハッとからだが宙にういたかと思うと、そのつぎのしゅんかんには、目の前に火花が散って、からだのどこかが、おそろしい力でたたきつけられたような、はげしい痛みを感じたのです。

ああ、なんという不覚でしょう。ちょうどそのとき、彼が立っていた部分の床板が、おとしあなのしかけになっていて、賊の指がソッと壁のかくしボタンをおすと同時に、とめ金がはずれ、そこにまっくらな四角い地獄の口があいたのでした。

痛みにたえかねて、身動きもできず、暗やみの底にうつぶしている小林少年の耳に、はるか上のほうから、二十面相のこきみよげな<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>ちょうしょう</rt></ruby>がひびいてきました。

「ハハハ……、おい坊や、さぞ痛かっただろう。気のどくだねえ。まあ、そこでゆっくり考えてみるがいい。きみの敵がどれほどの力を持っているかということをね。ハハハ……、この二十面相をやっつけるのには、きみはちっと年が若すぎたよ。ハハハ……。」

## 七つ道具

小林少年はほとんど二十分ほどのあいだ、地底の暗やみの中で、ついらくしたままの姿勢で、じっとしていました。ひどく腰を打ったものですから、痛さに身動きする気にもなれなかったのです。

そのまに、天井では、二十面相がさんざんあざけりのことばをなげかけておいて、おとしあなのふたをピッシャリしめてしまいました。もう助かる見こみはありません。永久のとりこです。もし賊がこのまま食事をあたえてくれないとしたら、だれひとり知るものもない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あばらや</span>の地下室でうえ死にしてしまわねばなりません。

年はもいかぬ少年の身で、このおそろしい境遇をどうたえしのぶことができましょう。たいていの少年ならば、さびしさとおそろしさに、絶望のあまりシクシクと泣きだしたことでありましょう。

しかし、小林少年は泣きもしなければ、絶望もしませんでした。彼はけなげにも、まだ、二十面相に負けたとは思っていなかったのです。

やっと腰の痛みがうすらぐと、少年がまず最初にしたことは、変装のやぶれ<ruby><rb>衣</rb><rt>ごろも</rt></ruby>の下にかくして、肩からさげていた小さなズックのカバンに、ソッとさわってみることでした。

「ピッポちゃん、きみは、ぶじだったかい。」

みょうなことをいいながら、上からなでるようにしますと、カバンの中で何か小さなものが、ゴソゴソと動きました。

「ああ、ピッポちゃんは、どこも打たなかったんだね。おまえさえいてくれれば、ぼく、ちっともさびしくないよ。」

ピッポちゃんが、べつじょうなく生きていることをたしかめると、小林少年は、やみの中にすわって、その小カバンを肩からはずし、中から万年筆型の懐中電燈をとりだして、その光で、床に散らばっていた六つのダイヤモンドと、ピストルを<ruby><rb>拾</rb><rt>ひろ</rt></ruby>いあつめ、それをカバンにおさめるついでに、その中のいろいろな品物を<ruby><rb>紛失</rb><rt>ふんしつ</rt></ruby>していないかどうかを、念入りに点検するのでした。

そこには、少年探偵の七つ道具が、ちゃんとそろっていました。むかし、<ruby><rb>武蔵坊弁慶</rb><rt>むさしぼうべんけい</rt></ruby>という<ruby><rb>豪傑</rb><rt>ごうけつ</rt></ruby>は、あらゆる<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>の道具を、すっかり背中にせおって歩いたのだそうですが、それを、「弁慶の七つ道具」といって、今に語りつたえられています。小林少年の「探偵七つ道具」は、そんな大きな武器ではなく、ひとまとめにして両手ににぎれるほどの小さなものばかりでしたが、その役にたつことは、けっして弁慶の七つ道具にもおとりはしなかったのです。

まず万年筆型懐中電燈。夜間の捜査事業には燈火が何よりもたいせつです。また、この懐中電燈は、ときに信号の役目をはたすこともできます。

それから、小型の万能ナイフ。これにはのこぎり、はさみ、きりなど、さまざまの刃物類が折りたたみになってついております。

それから、じょうぶな絹ひもで作ったなわばしご、これはたためば、てのひらにはいるほど小さくなってしまうのです。そのほか、やっぱり万年筆型の望遠鏡、時計、磁石、小型の手帳と鉛筆、さいぜん賊をおびやかした小型ピストルなどがおもなものでした。

いや、そのほかに、もう一つピッポちゃんのことをわすれてはなりません。懐中電燈に照らしだされたのを見ますと、それは一羽のハトでした。かわいいハトが身をちぢめて、カバンのべつの<ruby><rb>区画</rb><rt>くかく</rt></ruby>に、おとなしくじっとしていました。

「ピッポちゃん。きゅうくつだけれど、もう少しがまんするんだよ。こわいおじさんに見つかるとたいへんだからね。」

小林少年はそんなことをいって、頭をなでてやりますと、ハトのピッポちゃんは、そのことばがわかりでもしたように、クークーと鳴いて返事をしました。

ピッポちゃんは、少年探偵のマスコットでした。彼はこのマスコットといっしょにいさえすれば、どんな<ruby><rb>危難</rb><rt>きなん</rt></ruby>にあっても大じょうぶだという、信仰のようなものを持っていたのです。

そればかりではありません。このハトはマスコットとしてのほかに、まだ重大な役目を持っていました。探偵の仕事には、通信機関が何よりもたいせつです。そのためには、警察にはラジオをそなえた自動車がありますけれど、ざんねんながら私立探偵にはそういうものがないのです。

もし洋服の下へかくせるような小型ラジオ発信器があればいちばんいいのですが、そんなものは手にはいらないものですから、小林少年は伝書バトという、おもしろい手段を考えついたのでした。

いかにも子どもらしい思いつきでした。でも、子どものむじゃきな思いつきが、ときには、おとなをびっくりさせるような、効果をあらわすことがあるのです。

「ぼくのカバンの中に、ぼくのラジオも持っているし、それからぼくの飛行機も持っているんだ。」

小林少年は、さもとくいそうに、そんなひとりごとをいっていることがありました。なるほど、伝書バトはラジオでもあり、飛行機でもあるわけです。

さて、七つ道具の点検を終わりますと、彼は満足そうにカバンを衣の中にかくし、つぎには懐中電燈で、地下室のもようをしらべはじめました。

地下室は十畳敷きほどの広さで、四ほうコンクリートの壁につつまれた、以前は物置きにでも使われていたらしい部屋でした。どこかに階段があるはずだと思って、さがしてみますと、大きな木のはしごが、部屋のいっぽうの天井につりあげてあることがわかりました。出入り口をふさいだだけではたりないで、階段までとりあげてしまうとは、じつに用心ぶかいやり方といわねばなりません。このちょうしでは、地下室から逃げだすことなど思いもおよばないのです。

部屋のすみに一<ruby><rb>脚</rb><rt>きゃく</rt></ruby>のこわれかかった長イスがおかれ、その上に一枚の古毛布がまるめてあるほかには、道具らしいものは何一品ありません。まるで牢獄のような感じです。

小林少年は、その長イスを見て、思いあたるところがありました。

「羽柴壮二君は、きっとこの地下室に監禁されていたんだ。そして、この長イスの上でねむったにちがいない。」

そう思うと、何かなつかしい感じがして、彼は長イスに近づき、クッションをおしてみたり、毛布をひろげてみたりするのでした。

「じゃ、ぼくもこのベッドでひとねむりするかな。」

大胆不敵の少年探偵は、そんなひとりごとをいって、長イスの上に、ゴロリと横になりました。

<ruby><rb>万事</rb><rt>ばんじ</rt></ruby>は夜が明けてからのことです。それまでにじゅうぶん鋭気をやしなっておかねばなりません。なるほど、理くつはそのとおりですが、このおそろしい境遇にあって、のんきにひとねむりするなんて、ふつうの少年には、とてもまねのできないことでした。

「ピッポちゃん、さあ、ねむろうよ。そして、おもしろい夢でもみようよ。」

小林少年は、ピッポちゃんのはいっているカバンを、だいじそうにだいて、やみの中に目をふさぎました。そしてまもなく、長イスの寝台の上から、すやすやと、さも安らかな少年の寝息が聞こえてくるのでした。

## 伝書バト

小林少年はふと目をさますと、部屋のようすが、いつもの探偵事務所の寝室とちがっているので、びっくりしましたが、たちまちゆうべのできごとを思いだしました。

「ああ、地下室に監禁されていたんだっけ。でも、地下室にしちゃあ、へんに明るいなあ。」

殺風景なコンクリートの壁や床が、ほんのりと、うす明るく見えています。地下室に日がさすはずはないのだがと、なおも見まわしていますと、ゆうべは少しも気づきませんでしたが、いっぽうの<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>に近く、明りとりの小さな窓がひらいていることがわかりました。

その窓は三十センチ四ほうほどの、ごく小さいもので、そのうえ太い鉄ごうしがはめてあります。地下室の床からは、三メートル近くもある高いところですけれど、外から見れば、地面とすれすれの場所にあるのでしょう。

「はてな、あの窓から、うまく逃げだせないかしら。」

小林君はいそいで長イスから起きあがり、窓の下に行って、明るい空を見あげました。窓にはガラスがはめてあるのですが、それがわれてしまって、大声にさけべば、外を通る人に聞こえそうにも思われるのです。

そこで、今まで寝ていた長イスを、窓の下へおしていって、それを踏み台に、のびあがってみましたが、それでもまだ窓へとどきません。子どもの力で重い長イスをたてにすることはできないし、ほかに踏み台にする道具とても見あたりません。

では、小林君は、せっかく窓を発見しながら、そこから外をのぞくことも、できなかったのでしょうか。いやいや、読者諸君、ご心配にはおよびません。こういうときの用意に、なわばしごというものがあるのです。少年探偵の七つ道具は、さっそく使い道ができたわけです。

彼はカバンから絹ひものなわばしごをとりだし、それをのばして、カウ・ボーイの投げなわみたいにはずみをつけ、いっぽうのはしについているかぎを、窓の鉄ごうしめがけて投げあげました。

三度、四度失敗したあとで、ガチッと、手ごたえがありました。かぎはうまく一本の鉄棒にかかったのです。

なわばしごといっても、これはごくかんたんなもので、五メートルほどもある、長いじょうぶな一本の絹ひもに、二十センチごとに大きなむずび玉がこしらえてあって、そのむすび玉に足の指をかけて、よじのぼるしかけなのです。

小林君は腕力ではおとなにおよびませんけれど、そういう器械体操めいたことになると、だれにも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひけ</span>はとりませんでした。彼は、なんなくなわばしごをのぼって、窓の鉄ごうしにつかまることができました。

ところが、そうしてしらべてみますと、失望したことには、鉄ごうしは深くコンクリートにぬりこめてあって、万能ナイフぐらいでは、とてもとりはずせないことがわかりました。

では、窓から大声に救いをもとめてみたらどうでしょう。いや、それもほとんど見こみがないのです。窓の外は荒れはてた庭になっていて草や木がしげり、そのずっと向こうにいけがきがあって、いけがきの外は道路もない広っぱです。その広っぱへ、子どもでも遊びに来るのを待って、救いをもとめれば、もとめられるのですが、そこまで声がとどくかどうかも、うたがわしいほどです。

それに、そんな大きなさけび声をたてたのでは、広っぱの人に聞こえるよりも先に、二十面相に聞かれてしまいます。いけない、いけない、そんな危険なことができるものですか。

小林少年は、すっかり失望してしまいました。でも失望のなかにも、一つだけ大きな収穫がありました。といいますのは、今の今まで、この建物がいったいどこにあるのか、少しも見当がつかなかったのですが、窓をのぞいたおかげで、その位置がハッキリとわかったことです。

読者諸君は、ただ窓をのぞいただけで、位置がわかるなんてへんだとおっしゃるかもしれません。でも、それがわかったのです。小林君はたいへん幸運だったのです。

窓の外、広っぱのはるかむこうに、東京にたった一ヵ所しかない、きわだって特徴のある建物が見えたのです。東京の読者諸君は、戸山ヶ原にある、<ruby><rb>大人国</rb><rt>たいじんこく</rt></ruby>のかまぼこをいくつもならべたような、コンクリートの大きな建物をごぞんじでしょう。じつにおあつらえむきの目じるしではありませんか。

少年探偵は、その建物と賊の家との関係を、よく頭に入れて、なわばしごをおりました。そして、いそいで例のカバンをひらくと、手帳と鉛筆と磁石とをとりだし、方角をたしかめながら、地図を書いてみました。すると、この建物が、戸山ヶ原の北がわ、西よりの一<ruby><rb>隅</rb><rt>ぐう</rt></ruby>にあるということが、ハッキリとわかったのでした。ここでまた、七つ道具の中の磁石が役にたちました。

ついでに時計を見ますと、朝の六時を、少しすぎたばかりです。上の部屋がひっそりしているようすでは、二十面相はまだ熟睡しているのかもしれません。

「ああ、ざんねんだなあ。せっかく二十面相の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>をつきとめたのに、その場所がちゃんとわかっているのに、賊を<ruby><rb>捕縛</rb><rt>ほばく</rt></ruby>することができないなんて。」

小林君は小さいこぶしをにぎりしめて、くやしがりました。

「ぼくのからだが、童話の<ruby><rb>仙女</rb><rt>フェアリー</rt></ruby>みたいに小さくなって、羽がはえて、あの窓からとびだせたらなあ。そうすれば、さっそく警視庁へ知らせて、おまわりさんを案内して、二十面相をつかまえてしまうんだがなあ。」

彼は、そんな夢のようなことを考えて、ため息をついていましたが、ところが、そのみょうな空想がきっかけになって、ふと、すばらしい名案がうかんできたのです。

「なあんだ、ぼくは、ばかだなあ。そんなことわけなくできるじゃないか。ぼくにはピッポちゃんという飛行機があるじゃないか。」

それを考えると、うれしさに、顔が赤くなって、胸がドキドキおどりだすのです。

小林君は興奮にふるえる手で、手帳に、賊の巣くつの位置と、自分が地下室に監禁されていることをしるし、その紙をちぎって、こまかくたたみました。

それから、カバンの中の伝書バトのピッポちゃんを出して、その足にむすびつけてある通信筒の中へ、今の手帳の紙をつめこみ、しっかりとふたをしめました。

「さあ、ピッポちゃん、とうとうきみが手がらをたてるときがきたよ。しっかりするんだぜ。道草なんか食うんじゃないよ。いいかい。そら、あの窓からとびだして、早く奥さんのところへ行くんだ。」

ピッポちゃんは、小林少年の手の<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>にとまって、かわいい目をキョロキョロさせて、じっと聞いていましたが、ご主人の命令がわかったものとみえて、やがて勇ましく羽ばたきして、地下室の中を二―三度行ったり来たりすると、ツーッと窓の外へとびだしてしまいました。

「ああ、よかった。十分もすれば、ピッポちゃんは、明智先生のおばさんのところへとんでいくだろう。おばさんはぼくの手紙を読んで、さぞびっくりなさるだろうなあ。でも、すぐに警視庁へ電話をかけてくださるにちがいない。それから警官がここへかけつけるまで、三十分かな？　四十分かな？　なんにしても、今から一時間のうちには、賊がつかまるんだ。そしてぼくは、この穴ぐらから出ることができるんだ。」

小林少年は、ピッポちゃんの消えていった空をながめながら、むちゅうになって、そんなことを考えていました。あまりむちゅうになっていたものですから、いつのまにか、天井のおとし穴のふたがあいたことを、少しも気づきませんでした。

「小林君、そんなところで、何をしているんだね。」

聞きおぼえのある二十面相の声が、まるで雷のように少年の耳をうちました。

ギョッとしてそこを見あげますと、天井にポッカリあいた四角な穴から、ゆうべのままの、しらが頭の賊の顔が、さかさまになって、のぞいていたではありませんか。

アッ、それじゃ、ピッポちゃんのとんでいくのを、見られたんじゃないかしら。

小林君は、思わず顔色をかえて賊の顔を見つめました。

## 奇妙な取りひき

「少年探偵さん、どうだったね、ゆうべの寝ごこちは。ハハハ……、おや、窓になんだか黒いひもがぶらさがっているじゃないか。ははあ、用意のなわばしごというやつだね。感心、感心、きみは、じつに考えぶかい子どもだねえ。だが、その窓の鉄棒は、きみの力じゃはずせまい。そんなところに立って、いつまで窓をにらんでいたって逃げだせっこはないんだよ。気のどくだね。」

賊は、にくにくしくあざけるのでした。

「やあ、おはよう。ぼくは逃げだそうなんて思ってやしないよ。居ごこちがいいんだもの。この部屋は気にいったよ。ぼくはゆっくり滞在するつもりだよ。」

小林少年も負けてはいませんでした。今、窓から伝書バトをとばしたのを、賊に感づかれたのではないかと、胸をドキドキさせていたのですが、二十面相の口ぶりでは、そんなようすも見えませんので、すっかり安心してしまいました。

ピッポちゃんさえ、ぶじに探偵事務所へついてくれたら、もうしめたものです。二十面相が、どんなに<ruby><rb>毒口</rb><rt>どくぐち</rt></ruby>をたたいたって、なんともありません。最後の勝利はこっちのものだとわかっているからです。

「居ごこちがいいんだって？　ハハハ……、ますます感心だねえ。さすがは明智の片腕といわれるほどあって、いい度胸だ。だが、小林君、少し心配なことがありゃしないかい。え、きみは、もうおなかがすいている時分だろう。うえ死にしてもいいというのかい。」

何をいっているんだ。今にピッポちゃんの報告で、警察からたくさんのおまわりさんが、かけつけてくるのも知らないで。小林君は何もいわないで、心の中であざわらっていました。

「ハハハ……、少ししょげたようだね。いいことを教えてやろうか。きみは代価をはらうんだよ。そうすれば、おいしい朝ご飯をたべさせてあげるよ。いやいや、お金じゃない。食事の代価というのはね、きみの持っているピストルだよ。そのピストルを、おとなしくこっちへひきわたせば、コックにいいつけて、さっそく朝ご飯を運ばせるんだがねえ。」

賊は大きなことはいうものの、やっぱりピストルをきみ悪がっているのでした。それを食事の代価としてとりあげるとは、うまいことを思いついたものです。

小林少年は、やがて救いだされることを信じていましたから、それまで食事をがまんするのは、なんでもないのですが、あまり平気な顔をしていて、相手にうたがいをおこさせてはまずいと考えました。それに、どうせピストルなどに、もう用事はないのです。

「ざんねんだけれど、きみの申し出に応じよう。ほんとうは、おなかがペコペコなんだ。」

わざと、くやしそうに答えました。

賊は、それをお芝居とは心づかず、計略が図にあたったとばかり、とくいになって、

「ウフフフ……、さすがの少年探偵も、ひもじさにはかなわないとみえるね。よしよし、今すぐに食事をおろしてやるからね。」

といいながら、おとし穴をしめて姿を消しましたが、やがて、何かコックに命じているらしい声が、天井から、かすかに聞こえてきました。

あんがい食事の用意がてまどって、ふたたび二十面相が、おとし穴をひらいて顔を出したのは、それから二十分もたったころでした。

「さあ、あたたかいご飯を持ってきてあげたよ。が、まず代価のほうを、さきにちょうだいすることにしよう。さあ、このかごにピストルを入れるんだ。」

綱のついた小さなかごが、スルスルとおりてきました。小林少年が、いわれるままに、ピストルをその中へ入れますと、かごは、手ばやく天井へたぐりあげられ、それから、もう一度おりてきたときには、その中に<ruby><rb>湯気</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>のたっているおにぎりが三つと、ハムと、なま卵と、お茶のびんとが、ならべてありました。とりこの身分にしては、なかなかのごちそうです。

「さあ、ゆっくりたべてくれたまえ。きみのほうで代価さえはらってくれたら、いくらでもごちそうしてあげるよ。お昼のご飯には、こんどはダイヤモンドだぜ。せっかく手に入れたのを、気のどくだけれど、一粒ずつちょうだいすることにするよ。いくらざんねんだといって、ひもじさにはかえられないからね。つまり、そのダイヤモンドを、すっかり、返してもらうというわけなんだよ。一粒ずつ、一粒ずつ、ハハハ……、ホテルの主人も、なかなかたのしみなものだねえ。」

二十面相は、この奇妙な取りひきが、ゆかいでたまらないようすでした。しかし、そんな気のながいことをいっていて、ほんとうにダイヤモンドがとりかえせるのでしょうか。

そのまえに、彼自身がとりこになってしまうようなことはないでしょうか。

## 小林少年の勝利

二十面相は、おとし戸のところにしゃがんだまま、今、とりあげたばかりのピストルを、手のひらの上でピョイピョイとはずませながら、とくいの絶頂でした。そして、なおも小林少年をからかってたのしもうと、何かいいかけたときでした。

バタバタと二階からかけおりる音がして、コックの恐怖にひきつった顔があらわれました。

「たいへんです……。自動車が三台、おまわりがうじゃうじゃ乗っているんです……。二階の窓から見ていると、門の外でとまりました……。早く逃げなくっちゃ。」

ああ、はたしてピッポちゃんは使命をはたしたのでした。そして、小林君の考えていたよりも早く、もう警官隊が到着したのでした。地下室で、このさわぎを聞きつけた少年探偵は、うれしさにとびたつばかりです。

この不意うちには、さすがの二十面相も<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>しないではいられません。

「なに？」

と、うめいて、スックと立ちあがると、おとし戸をしめることもわすれて、いきなり表の入り口へかけだしました。

でも、もうそのときはおそかったのです。入り口の戸を、外からはげしくたたく音が聞こえてきました。戸のそばに<ruby><rb>設</rb><rt>もう</rt></ruby>けてあるのぞき穴に目をあててみますと、外は制服警官の人がきでした。

「ちくしょうっ。」

二十面相は、怒りに身をふるわせながら、こんどは裏口に向かって走りました。しかし、中途までも行かぬうちに、その裏口のドアにも、はげしくたたく音が聞こえてきたではありませんか。賊の巣くつは、今や警官隊によって、まったく包囲されてしまったのです。

「かしら、もうだめです。逃げ道はありません。」

コックが絶望のさけびをあげました。

「しかたがない、二階だ。」

二十面相は、二階の屋根裏部屋へかくれようというのです。

「とてもだめです。すぐ見つかってしまいます。」

コックは泣きだしそうな声でわめきました。賊はそれにかまわず、いきなり男の手をとって、ひきずるようにして、屋根裏部屋への階段をかけあがりました。

ふたりの姿が階段に消えるとほどなく、表口のドアがはげしい音をたてて、たおれたかとおもうと、数名の警官が屋内になだれこんできました。それとほとんど同時に、裏口の戸もあいて、そこからも数名の制服警官。

指揮官は、警視庁の鬼とうたわれた中村捜査係長その人です。係長は、表と裏の要所要所に見はりの警官を立たせておいて、残る全員をさしずして、部屋という部屋をかたっぱしから捜索させました。

「あっ、ここだ。ここが地下室だ。」

ひとりの警官が例のおとし戸の上でどなりました。たちまちかけよる人々、そこにしゃがんで、うす暗い地下室をのぞいていたひとりが、小林少年の姿をみとめて、

「いる、いる。きみが小林君か。」

と呼びかけますと、待ちかまえていた少年は、

「そうです。早くはしごをおろしてください。」

と叫ぶのでした。

いっぽう、階下の部屋部屋は、くまなく捜索されましたが、賊の姿はどこにも見えません。

「小林君、二十面相はどこへ行ったか、きみは知らないか。」

やっと地下室からはいあがった、異様な衣姿の少年をとらえて、中村係長があわただしくたずねました。

「つい今しがたまで、このおとし戸のところにいたんです。外へ逃げたはずはありません。二階じゃありませんか。」

小林少年のことばが終わるか終わらぬかに、その二階からただならぬさけび声がひびいてきました。

「早く来てくれ、賊だ、賊をつかまえたぞ！」

それっというので、人々はなだれをうって、廊下の奥の階段へ殺到しました。ドカドカというはげしい靴音、階段をあがると、そこは屋根裏部屋で、小さな窓がたった一つ、まるで夕方のようにうす暗いのです。

「ここだ、ここだ。早く加勢してくれ。」

そのうす暗い中で、ひとりの警官が、白髪<ruby><rb>白髯</rb><rt>はくぜん</rt></ruby>の老人を組みしいて、どなっています。老人はなかなか手ごわいらしく、ともすればはねかえしそうで、組みしいているのがやっとのようすです。

先にたった二―三人が、たちまち老人に組みついていきました。それを追って、四人、五人、六人、ことごとくの警官が折りかさなって、賊の上におそいかかりました。

もうこうなっては、いかな凶賊も抵抗のしようがありません。みるみるうちに<ruby><rb>高手小手</rb><rt>たかてこて</rt></ruby>にいましめられてしまいました。

白髪の老人が、グッタリとして、部屋のすみにうずくまったとき、中村係長が小林少年をつれてあがってきました。首実検のためです。

「二十面相は、こいつにちがいないだろうね。」

係長がたずねますと、少年はそくざにうなずいて、

「そうです。こいつです。二十面相がこんな老人に変装しているのです。」

と答えました。

「きみたち、そいつを自動車へ乗せてくれたまえ。ぬかりのないように。」

係長が命じますと、警官たちは四ほうから老人をひったてて、階段をおりていきました。

「小林君、大手がらだったねえ。外国から明智さんが帰ったら、さぞびっくりすることだろう。相手が二十面相という大物だからねえ。あすになったら、きみの名は日本中にひびきわたるんだぜ。」

中村係長は少年名探偵の手をとって、感謝にたえぬもののように、にぎりしめるのでした。

かくして、たたかいは、小林少年の勝利に終わりました。仏像は、最初からわたさなくてすんだのですし、ダイヤモンドは六個とも、ちゃんとカバンの中におさまっています。勝利も勝利、まったく申しぶんのない勝利でした。賊は、あれほどの苦心にもかかわらず、<ruby><rb>一物</rb><rt>いちもつ</rt></ruby>をも<ruby><rb>得</rb><rt>う</rt></ruby>ることができなかったばかりか、せっかく監禁した小林少年は救いだされ、彼自身は、とうとう、とらわれの身となってしまったのですから。

「ぼく、なんだかうそみたいな気がします。二十面相に勝ったなんて。」

小林君は、興奮に青ざめた顔で、何か信じがたいことのようにいうのでした。

しかし、ここに一つ、賊が逮捕されたうれしさのあまり、少年探偵がすっかり忘れていたことがらがあります。それは二十面相のやとっていたコックのゆくえです。彼は、いったいどこへ雲がくれしてしまったのでしょう。あれほどの家さがしに、まったく姿を見せなかったというのは、じつに、ふしぎではありませんか。

逃げるひまがあったとは思われません。もしコックに逃げるよゆうがあれば、二十面相も逃げているはずです。では、彼はまだ屋内のどこかに身をひそめているのでしょうか。それはまったく不可能なことです。大ぜいの警官隊のげんじゅうな捜索に、そんな手ぬかりがあったとは考えられないからです。

読者諸君、ひとつ本をおいて、考えてみてください。このコックの異様なゆくえ不明には、そもそもどんな意味がかくされているのかを。

## おそろしき挑戦状

戸山ヶ原の<ruby><rb>廃屋</rb><rt>はいおく</rt></ruby>の捕り物があってから二時間ほどのち、警視庁の陰気な調べ室で、怪盗二十面相の取り調べがおこなわれました。なんの飾りもない、うす暗い部屋に机が一脚、そこに中村捜査係長と老人に変装したままの怪盗と、ふたりきりのさし向かいです。

賊はうしろ手にいましめられたまま、傍若無人に立ちはだかっています。さいぜんから、おしのようにだまりこくって、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も、ものをいわないのです。

「ひとつ、きみの<ruby><rb>素顔</rb><rt>すがお</rt></ruby>を見せてもらおうか。」

係長は、賊のそばへよると、いきなり白髪のかつらに手をかけて、スッポリと引きぬきました。すると、その下から黒々とした頭があらわれました。つぎには、顔いっぱいの、しらがのつけひげを、むしりとりました。そして、いよいよ賊の素顔がむきだしになったのです。

「おやおや、きみは、あんがいぶおとこだねえ。」

係長がそういって、みょうな顔をしたのももっともでした。賊は、せまいひたい、クシャクシャと不ぞろいな短いまゆ、その下にギョロッと光っているどんぐりまなこ、ひしゃげた鼻、しまりのない厚ぼったいくちびる、まったく<ruby><rb>利口</rb><rt>りこう</rt></ruby>そうなところの感じられない、<ruby><rb>野蛮人</rb><rt>やばんじん</rt></ruby>のような、異様な<ruby><rb>相好</rb><rt>そうこう</rt></ruby>でした。

先にもいうとおり、この賊はいくつとなくちがった顔を持っていて、ときに応じて老人にも、青年にも、女にさえも化けるという怪物ですから、世間一般にはもちろん、警察の係官たちにも、そのほんとうの容ぼうは少しもわかっていなかったのです。

それにしても、これはまあ、なんてみにくい顔をしているのだろう。もしかしたら、この野蛮人みたいな顔が、やっぱり変装なのかもしれない。

中村係長は、なんともたとえられないぶきみなものを感じました。係長は、じっと賊の顔をにらみつけて、思わず、声を大きくしないではいられませんでした。

「おい、これがおまえのほんとうの顔なのか。」

じつにへんてこな質問です。しかし、そういうばかばかしい質問をしないではいられぬ気持でした。

すると怪盗は、どこまでもおしだまったまま、しまりのないくちびるを、いっそうしまりなくして、ニヤニヤと笑いだしたのです。

それを見ると、中村係長は、なぜかゾッとしました。目の前に、何か想像もおよばない奇怪なことがおこりはじめているような気がしたのです。

係長は、その恐怖をかくすように、いっそう相手に近づくと、いきなり両手をあげて、賊の顔をいじりはじめました。まゆ毛をひっぱってみたり、鼻をおさえてみたり、ほおをつねってみたり、あめざいくでもおもちゃにしているようです。

ところが、そうしていくらしらべてみても、賊は変装しているようすはありません。かつてあの美青年の羽柴壮一君になりすました賊が、そのじつ、こんな化け物みたいなみにくい顔をしていたとは、じつに意外というほかはありません。

「エヘヘヘ……、くすぐってえや、よしてくんな、くすぐってえや。」

賊がやっと声をたてました。しかし、なんというだらしのないことばでしょう。彼は口のきき方までいつわって、あくまで警察をばかにしようというのでしょうか。それとも、もしかしたら……。

係長はギョッとして、もう一度賊をにらみつけました。頭の中に、ある、とほうもない考えがひらめいたのです。ああ、そんなことがありうるでしょうか。あまりにばかばかしい空想です。まったく不可能なことです。でも、係長は、それをたしかめてみないではいられませんでした。

「きみはだれだ。きみは、いったいぜんたい何者なんだ。」

またしても、へんてこな質問です。

すると、賊はその声に応じて、まちかまえていたように答えました。

「あたしは、<ruby><rb>木下虎吉</rb><rt>きのしたとらきち</rt></ruby>っていうもんです。職業はコックです。」

「だまれ！　そんなばかみたいな口をきいて、ごまかそうとしたって、だめだぞ。ほんとうのことをいえ。二十面相といえば世間に聞こえた大盗賊じゃないか。ひきょうなまねをするなっ。」

どなりつけられて、ひるむかと思いのほか、いったいどうしたというのでしょう。賊は、いきなりゲラゲラと笑いだしたではありませんか。

「ヘエー、二十面相ですって、このあたしがですかい。ハハハ……、とんだことになるものですね。二十面相がこんなきたねえ男だと思っているんですかい。警部さんも目がないねえ。いいかげんにわかりそうなもんじゃありませんか。」

中村係長は、それを聞くと、ハッと顔色をかえないでいられませんでした。

「だまれッ、でたらめもいいかげんにしろ。そんなばかなことがあるものか。きさまが二十面相だということは、小林少年がちゃんと証明しているじゃないか。」

「ワハハハ……、それがまちがっているんだから、お笑いぐさでさあ。あたしはね、べつになんにも悪いことをしたおぼえはねえ、ただのコックですよ。二十面相だかなんだか知らないが、十日ばかりまえ、あの家へやとわれたコックの虎吉ってもんですよ。なんなら、コックの親方のほうをしらべてくださりゃ、すぐわかることです。」

「その、なんでもないコックが、どうしてこんな老人の変装をしているんだ。」

「それがね、いきなりおさえつけられて、着物を着かえさせられ、かつらをかぶせられてしまったんでさあ。あたしも、じつは、よくわけがわからないんだが、おまわりさんが、ふみこんできなすったときに、主人が、あたしの手をとって、屋根裏部屋へかけあがったのですよ。

あの部屋にはかくし戸棚があってね、そこにいろんな変装の衣装が入れてあるんです。主人はその中から、おまわりさんの洋服や、帽子などをとりだして、手早く身につけると、今まで着ていたおじいさんの着物を、あたしに着せて、いきなり、『賊をつかまえた。』とどなりながら、身動きもできないようにおさえつけてしまったんです。今から考えてみると、つまり警部さんの部下のおまわりさんが、二十面相を見つけだして、いきなりとびかかったという、お芝居をやってみせたわけですね。屋根裏部屋はうす暗いですからね。あのさわぎのさいちゅう、顔なんかわかりっこありませんや。あたしは、どうすることもできなかったんですよ。なにしろ、主人ときたら、えらいちからですからねえ。」

中村係長は、青ざめてこわばった顔で、無言のまま、はげしく卓上のベルをおしました。そして、警部が顔を出すと、けさ戸山ヶ原の廃屋を包囲した警官のうち、表口、裏口の見はり番をつとめた四人の警官に、すぐ来るようにと伝えさせたのです。

やがて、はいってきた四人の警官を、係長は、こわい顔でにらみつけました。

「こいつを逮捕していたとき、あの家から出ていったものはなかったかね。そいつは警官の服装をしていたかもしれないのだ。だれか見かけなかったかね。」

その問いに応じて、ひとりの警官が答えました。

「警官ならばひとり出ていきましたよ。賊がつかまったから早く二階へ行けと、どなっておいて、ぼくらがあわてて階段のほうへかけだすのと反対に、その男は外へ走っていきました。」

「なぜ、それを今までだまっているんだ。だいいち、きみはその男の顔を見なかったのかね。いくら警官の制服を着ていたからって、顔を見れば、にせ者かどうかすぐわかるはずじゃないか。」

係長のひたいには、静脈がおそろしくふくれあがっています。

「それが、顔を見るひまがなかったんです。風のように走ってきて、風のようにとびだしていったものですから。しかし、ぼくはちょっとふしんに思ったので、きみはどこへ行くんだ、と声をかけました。するとその男は、電話だよ、係長のいいつけで電話をかけに行くんだよ、とさけびながら、走っていってしまいました。

電話ならば、これまで例がないこともないので、ぼくはそれ以上うたがいませんでした。それに、賊が、つかまってしまったのですから、かけだしていった警官のことなんかわすれてしまって、ついご報告しなかったのですよ。」

聞いてみれば、むりのない話でした。むりがないだけに、賊の計画が、じつに機敏に、しかも用意周到におこなわれたことを、おどろかないではいられませんでした。

もう、うたがうところはありません。ここに立っている野蛮人みたいな、みにくい顔の男は、怪盗でもなんでもなかったのです。つまらないひとりのコックにすぎなかったのです。そのつまらないコックをつかまえるために十数名の警官が、あの大さわぎを演じたのかと思うと、係長も四人の警官も、あまりのことに、ただ、ぼうぜんと顔を見あわせるほかはありませんでした。

「それから、警部さん、主人があなたにおわたししてくれといって、こんなものを書いていったんですが。」

コックの虎吉が、十徳の胸をひらいて、もみくちゃになった一枚の紙きれを取りだし、係長の前にさしだしました。

中村係長は、ひったくるようにそれを受けとると、しわをのばして、すばやく読みくだしましたが、読みながら、係長の顔は、<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>のあまり、紫色にかわったかと見えました。

そこには、つぎのようなばかにしきった<ruby><rb>文言</rb><rt>もんごん</rt></ruby>が書きつけてあったのです。

小林君によろしく伝えてくれたまえ。あれはじつにえらい子どもだ。ぼくはかわいくてしかたがないほどに思っている。だが、いくらかわいい小林君のためだって、ぼくの一身を犠牲にすることはできない。勝利によっているあの子どもには気のどくだが、少々実世間の教訓をあたえてやったわけだ。子どものやせ腕でこの二十面相に敵対することは、もうあきらめたがよいと伝えてくれたまえ。これにこりないと、とんだことになるぞと、伝えてくれたまえ。ついでながら、警官諸公に、少しばかりぼくの計画をもらしておく。羽柴氏は少し気のどくになった。もうこれ以上なやますことはしない。じつをいうと、ぼくはあんな貧弱な美術室に、いつまでも<ruby><rb>執着</rb><rt>しゅうちゃく</rt></ruby>しているわけにはいかないのだ。ぼくはいそがしい。じつは今、もっと大きなものに手をそめかけているのだ。それがどのような大事業であるかは、近日、諸君の耳にもたっすることだろう。では、そのうちまたゆっくりお目にかかろう。

二十面相より

中村<ruby><rb>善四郎</rb><rt>ぜんしろう</rt></ruby>君

読者諸君、かくして二十面相と小林少年のたたかいは、ざんねんながら、けっきょく、怪盗の勝利に終わりました。しかも二十面相は、羽柴家の宝庫を貧弱とあざけり、大事業に手をそめているといばっています。彼の大事業とはいったい、何を意味するのでしょうか。こんどこそ、もう小林少年などの手におえないかもしれません。待たれるのは、明智小五郎の帰国です。それもあまり遠いことではありますまい。

ああ、名探偵明智小五郎と怪人二十面相の対立、知恵と知恵との一騎うち、その日が待ちどおしいではありませんか。

## 美術城

<ruby><rb>伊豆</rb><rt>いず</rt></ruby>半島の<ruby><rb>修善寺</rb><rt>しゅぜんじ</rt></ruby>温泉から四キロほど南、<ruby><rb>下田</rb><rt>しもだ</rt></ruby>街道にそった山の中に、<ruby><rb>谷口村</rb><rt>たにぐちむら</rt></ruby>というごくさびしい村があります。その村はずれの森の中に、みょうなお城のようないかめしいやしきが建っているのです。

まわりには高い土塀をきずき、土塀の上には、ずっと先のするどくとがった鉄棒を、まるで針の山みたいに植えつけ、土塀の内がわには、四メートル幅ほどのみぞが、ぐるっととりまいていて、青々とした水が流れています。深さも背がたたぬほど深いのです。これはみな人をよせつけぬための用心です。たとい針の山の土塀を乗りこえても、その中に、とてもとびこすことのできないお堀が、堀りめぐらしてあるというわけです。

そして、そのまんなかには、<ruby><rb>天守閣</rb><rt>てんしゅかく</rt></ruby>こそありませんが、全体に厚い白壁造りの、窓の小さい、まるで土蔵をいくつもよせあつめたような、大きな建物が建っています。

その付近の人たちは、この建物を「<ruby><rb>日下部</rb><rt>くさかべ</rt></ruby>のお城」と呼んでいますが、むろんほんとうのお城ではありません。こんな小さな村にお城などあるはずはないのです。

では、このばかばかしく<ruby><rb>用心堅固</rb><rt>ようじんけんご</rt></ruby>な建物は、いったい何者の住まいでしょう。警察のなかった戦国時代ならば知らぬこと、今の世に、どんなお金持だって、これほど用心ぶかい邸宅に住んでいるものはありますまい。

「あすこには、いったいどういう人が住んでいるのですか。」

旅のものなどがたずねますと、村人はきまったように、こんなふうに答えます。

「あれですかい。ありゃ、<ruby><rb>日下部</rb><rt>くさかべ</rt></ruby>の気ちがい旦那のお城だよ。宝物をぬすまれるのがこわいといってね、村ともつきあいをしねえかわり者ですよ。」

日下部家は、先祖代々、この地方の大地主だったのですが、今の<ruby><rb>左門</rb><rt>さもん</rt></ruby>氏の代になって、広大な<ruby><rb>地所</rb><rt>じしょ</rt></ruby>もすっかり人手にわたってしまって、残るのはお城のような邸宅と、その中に所蔵されているおびただしい<ruby><rb>古名画</rb><rt>こめいが</rt></ruby>ばかりになってしまいました。

左門老人は気ちがいのような美術収集家だったのです。美術といってもおもに古代の名画で、<ruby><rb>雪舟</rb><rt>せっしゅう</rt></ruby>とか<ruby><rb>探幽</rb><rt>たんゆう</rt></ruby>とか、小学校の本にさえ名の出ている、古来の大名人の作は、ほとんどもれなく集まっているといってもいいほどでした。何百<ruby><rb>幅</rb><rt>ぷく</rt></ruby>という絵の大部分が、国宝にもなるべき傑作ばかり、価格にしたら数十億円にもなろうといううわさでした。

これで、日下部家のやしきが、お城のように用心堅固にできているわけがおわかりでしょう。左門老人は、それらの名画を命よりもだいじがっていたのです。もしや泥棒にぬすまれはしないかと、そればかりが、寝てもさめてもわすれられない心配でした。

堀を掘っても、塀の上に針を植えつけても、まだ安心ができません。しまいには、訪問者の顔を見れば、絵をぬすみに来たのではないかとうたがいだして、正直な村の人たちとも、<ruby><rb>交際</rb><rt>こうさい</rt></ruby>をしないようになってしまいました。

そして、左門老人は、年中お城の中にとじこもって、集めた名画をながめながら、ほとんど外出もしないのです。美術にねっちゅうするあまり、お嫁さんももらわず、したがって子どももなく、ただ名画の番人に生まれてきたような生活が、ずっとつづいて、いつしか六十の坂をこしてしまったのでした。

つまり、老人は美術のお城の、奇妙な城主というわけでした。

きょうも老人は、白壁の土蔵のような建物の、奥まった一室で、古今の名画にとりかこまれて、じっと夢みるようにすわっていました。

戸外にはあたたかい日光がうらうらとかがやいているのですが、用心のために鉄ごうしをはめた小さい窓ばかりの室内は、まるで牢獄のようにつめたくて、うす暗いのです。

「旦那さま、あけておくんなせえ。お手紙がまいりました。」

部屋の外に年とった下男の声がしました。広いやしきに召使いといっては、このじいやとその女房のふたりきりなのです。

「手紙？　めずらしいな。ここへ持ってきなさい。」

老人が返事をしますと、重い板戸がガラガラとあいて、主人と同じようにしわくちゃのじいやが、一通の手紙を手にしてはいってきました。

左門老人は、それを受けとって裏を見ましたが、みょうなことに差出人の名まえがありません。

「だれからだろう。見なれぬ手紙だが……。」

あて名はたしかに日下部左門様となっているので、ともかく封を切って、読みくだしてみました。

「おや、旦那さま、どうしただね。何か心配なことが書いてありますだかね。」

じいやが思わず、とんきょうなさけび声をたてました。それほど、左門老人のようすがかわったのです。ひげのないしわくちゃの顔が、しなびたように色をうしなって、歯のぬけたくちびるがブルブルふるえ、老眼鏡の中で、小さな目が不安らしく光っているのです。

「いや、な、なんでもない。おまえにはわからんことだ。あっちへ行っていなさい。」

ふるえ声でしかりつけるようにいって、じいやを追いかえしましたが、なんでもないどころか、老人は気をうしなってたおれなかったのが、ふしぎなくらいです。

その手紙には、じつに、つぎのようなおそろしいことばが、したためてあったのですから。

紹介者もなく、とつぜんの申し入れをおゆるしください。しかし、紹介者などなくても、<ruby><rb>小生</rb><rt>しょうせい</rt></ruby>が何者であるかは、新聞紙上でよくご承知のことと思います。

<ruby><rb>用件</rb><rt>ようけん</rt></ruby>をかんたんに申しますと、小生は貴家ご秘蔵の古画を、一幅も残さずちょうだいする決心をしたのです。きたる十一月十五日夜、かならず参上いたします。

とつぜん推参して、ご老体をおどろかしてはお気のどくと存じ、あらかじめご通知します。

二十面相

日下部左門殿

ああ、怪盗二十面相は、とうとう、この伊豆の山中の美術収集狂に、目をつけたのでした。彼が警官に変装して、戸山ヶ原のかくれがを逃亡してから、ほとんど一ヵ月になります。そのあいだ、怪盗がどこで何をしていたか、だれも知るものはありません。おそらく新しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>をつくり、手下の者たちを集めて、第二、第三のおそろしい陰謀をたくらんでいたのでしょう。そして、まず<ruby><rb>白羽</rb><rt>しらは</rt></ruby>の矢をたてられたのが、意外な山奥の、日下部家の美術城でした。

「十一月十五日の夜といえば、今夜だ。ああ、わしはどうすればよいのじゃ。二十面相にねらわれたからには、もう、わしの宝物はなくなったも同然だ。あいつは、警視庁の力でも、どうすることもできなかったおそろしい盗賊じゃないか。こんな片いなかの警察の手におえるものではない。

ああ、わしはもう破滅だ。この宝物をとられてしまうくらいなら、いっそ死んだほうがましじゃ。」

左門老人は、いきなり立ちあがって、じっとしていられぬように、部屋の中をグルグル歩きはじめました。

「ああ、運のつきじゃ。もうのがれるすべはない。」

いつのまにか、老人の青ざめたしわくちゃな顔が、涙にぬれていました。

「おや、あれはなんだったかな……ああ、わしは思いだしたぞ。わしは思いだしたぞ。どうして、今まで、そこへ気がつかなかったのだろう。

……神さまは、まだこのわしをお見すてなさらないのじゃ。あの人さえいてくれたら、わしは助かるかもしれないぞ。」

何を思いついたのか、老人の顔には、にわかに<ruby><rb>生気</rb><rt>せいき</rt></ruby>がみなぎってきました。

「おい、<ruby><rb>作蔵</rb><rt>さくぞう</rt></ruby>、作蔵はいないか。」

老人は部屋の外へ出て、パンパンと手をたたきながら、しきりと、じいやを呼びたてました。

ただならぬ主人の声に、じいやがかけつけてきますと、

「早く、『<ruby><rb>伊豆日報</rb><rt>いずにっぽう</rt></ruby>』を持ってきてくれ。たしかおとといの新聞だったと思うが、なんでもいいから三―四日ぶんまとめて持ってきてくれ。早くだ、早くだぞ。」

と、おそろしいけんまくで命じました。作蔵が、あわてふためいて、その『伊豆日報』という地方新聞のたばを持ってきますと、老人は取る手ももどかしく、一枚一枚と社会面を見ていきましたが、やっぱりおとといの十三日の消息欄に、つぎのような記事が出ていました。

明智小五郎氏来修

民間探偵の第一人者明智小五郎氏は、ながらく、外国に出張中であったが、このほど使命をはたして帰京、旅のつかれを休めるために、本日修繕寺温泉<ruby><rb>富士屋</rb><rt>ふじや</rt></ruby>旅館に投宿、四―五日滞在の予定である。

「これだ。これだ。二十面相に敵対できる人物は、この明智探偵のほかにはない。羽柴家の盗難事件では、助手の小林とかいう子どもでさえ、あれほどのはたらきをしたんだ。その先生明智探偵ならば、きっとわしの破滅を救ってくれるにちがいはないて。どんなことがあっても、この名探偵をひっぱってこなくてはならん。」

老人は、そんなひとりごとをつぶやきながら、作蔵じいやの女房を呼んで着物をきかえますと、宝物部屋のがんじょうな板戸をピッタリしめ、外からかぎをかけ、ふたりの召使いに、その前で見はり番をしているように、かたくいいつけて、ソソクサとやしきを出かけました。

いうまでもなく、行く先は、近くの修繕寺温泉富士屋旅館です。そこへ行って、明智探偵に面会し、宝物の保護をたのもうというわけです。

ああ、待ちに待った名探偵明智小五郎が、とうとう帰ってきたのです。しかも、時も時、所も所、まるで申しあわせでもしたように、ちょうど、二十面相がおそおうという、日下部氏の美術城のすぐ近くに、<ruby><rb>入湯</rb><rt>にゅうとう</rt></ruby>に来ていようとは、左門老人にとっては、じつに、ねがってもないしあわせといわねばなりません。

## 名探偵明智小五郎

ネズミ色のトンビに身をつつんだ、小がらの左門老人が、長い坂道をチョコチョコと走らんばかりにして、富士屋旅館についたのは、もう午後一時ごろでした。

「明智小五郎先生は？」

とたずねますと、裏の谷川へ<ruby><rb>魚釣</rb><rt>うおつ</rt></ruby>りに出かけられましたとの答え。そこで、女中を案内にたのんで、またテクテクと、谷川へおりていかなければなりませんでした。

クマザサなどのしげった、あぶない道を通って、深い谷間におりると、美しい水がせせらぎの音をたてて流れていました。

流れのところどころに、飛び石のように、大きな岩が頭を出しています。そのいちばん大きな平らな岩の上に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どてら</span>姿のひとりの男が、背をまるくして、たれた釣りざおの先をじっと見つめています。

「あの方が、明智先生でございます。」

女中が先にたって、岩の上をピョイピョイととびながら、その男のそばへ近づいていきました。

「先生、あの、このお方が、先生にお目にかかりたいといって、わざわざ<ruby><rb>遠方</rb><rt>えんぽう</rt></ruby>からおいでなさいましたのですが。」

その声に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どてら</span>姿の男は、うるさそうにこちらをふりむいて、

「大きな声をしちゃいけない。さかなが逃げてしまうじゃないか。」

としかりつけました。

モジャモジャにみだれた頭髪、するどい目、どちらかといえば青白い引きしまった顔、高い鼻、ひげはなくて、キッと力のこもったくちびる、写真で見おぼえのある明智名探偵にちがいありません。

「あたしはこういうものですが。」

左門老人は名刺をさしだしながら、

「先生におりいっておねがいがあっておたずねしたのですが。」

と、<ruby><rb>小腰</rb><rt>こごし</rt></ruby>をかがめました。

すると明智探偵は、名刺を受けとることは受けとりましたが、よく見もしないで、さもめんどうくさそうに、

「ああ、そうですか。で、どんなご用ですか。」

といいながら、また釣りざおの先へ気をとられています。

老人は女中に先へ帰るようにいいつけて、そのうしろ姿を見おくってから、

「先生、じつはきょう、こんな手紙を受けとったのです。」

と、ふところから例の、二十面相の予告状をとりだして、釣りざおばかり見ている探偵の顔の前へ、つきだしました。

「ああ、また逃げられてしまった……。こまりますねえ、そんなに釣りのじゃまをなすっちゃ。手紙ですって？　いったいその手紙が、ぼくにどんな関係があるとおっしゃるのです。」

明智はあくまでぶあいそうです。

「先生は二十面相と呼ばれている賊をごぞんじないのですかな。」

左門老人は、少々むかっ腹をたてて、するどくいいはなちました。

「ホウ、二十面相ですか。二十面相が手紙をよこしたとおっしゃるのですか。」

名探偵はいっこうおどろくようすもなく、あいかわらず釣りざおの先を見つめているのです。

そこで、老人はしかたなく、怪盗の予告状を、自分で読みあげ、日下部家の「お城」にどのような宝物が秘蔵されているかを、くわしく物語りました。

「ああ、あなたが、あの奇妙なお城のご主人でしたか。」

明智はやっと興味をひかれたらしく、老人のほうへ向きなおりました。

「はい、そうです。あの古名画類は、わしの命にもかえがたい宝物です。明智先生、どうかこの老人を助けてください。おねがいです。」

「で、ぼくにどうしろとおっしゃるのですか。」

「すぐに、わたしの宅までおこしねがいたいのです。そして、わしの宝物を守っていただきたいのです。」

「警察へおとどけになりましたか。ぼくなんかにお話になるよりも、まず、警察の保護をねがうのが順序だと思いますが。」

「いや、それがですて、こう申しちゃなんだが、わしは警察よりも先生をたよりにしておるのです。二十面相を向こうにまわして、ひけをとらぬ探偵さんは、先生のほかにないということを、わしは信じておるのです。

それに、ここには小さい警察分署しかありませんから、腕ききの刑事を呼ぶにしたって、時間がかかるのです。なにしろ二十面相は、今夜わしのところをおそうというのですからね。ゆっくりはしておられません。

ちょうどその日に、先生がこの温泉に来ておられるなんて、まったく神さまのおひきあわせと申すものです。先生、老人が一<ruby><rb>生</rb><rt>しょう</rt></ruby>のおねがいです。どうかわしを助けてください。」

左門老人は、手をあわさんばかりにして、かきくどくのです。

「それほどにおっしゃるなら、ともかくおひきうけしましょう。二十面相はぼくにとっても敵です。早くあらわれてくれるのを、待ちかねていたほどです。

では、ごいっしょにまいりましょうか、そのまえに、いちおうは警察とも打ちあわせをしておかなければなりません。宿へ帰ってぼくから電話をかけましょう。そして、まんいちの用意に、二―三人刑事の応援をたのむことにしましょう。あなたは一足先へお帰りください。ぼくは刑事といっしょに、すぐかけつけます。」

明智の口調は、にわかに熱をおびてきました。もう釣りざおなんか見向きもしないのです。

「ありがとう、ありがとう。これでわしも百万の味方をえた思いです。」

老人は胸をなでおろしながら、くりかえしくりかえし、お礼をいうのでした。

## 不安の一夜

日下部左門老人が、修善寺でやとった自動車をとばして、谷口村の「お城」へ帰ってから、三十分ほどして、明智小五郎の一行が到着しました。

一行は、ピッタリと身にあう黒の洋服に着かえた明智探偵のほかに、背広服のくっきょうな紳士が三人、みな警察分署づめの刑事で、それぞれ肩書きつきの名刺を出して、左門老人とあいさつをかわしました。

老人はすぐさま、四人を奥まった名画の部屋へ案内して、壁にかけならべた掛け軸や、箱におさめて<ruby><rb>棚</rb><rt>たな</rt></ruby>につみかさねてある、おびただしい国宝的傑作をしめし、いちいちその<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>を説明するのでした。

「こりゃあどうも、じつにおどろくべきご収集ですねえ。ぼくも古画は大すきで、ひまがあると、博物館や寺院の宝物などを見てまわるのですが、歴史的な傑作が、こんなに一室に集まっているのを、見たことがありませんよ。

美術ずきの二十面相が目をつけたのは、むりもありませんね。ぼくでもよだれがたれるようですよ。」

明智探偵は、感嘆にたえぬもののように、一つ一つの名画について、<ruby><rb>賛辞</rb><rt>さんじ</rt></ruby>をならべるのでしたが、その批評のことばが、その道の専門家もおよばぬほどくわしいのには、さすがの左門老人もびっくりしてしまいました。そして、名探偵への尊敬の念が、ひとしお深くなるのでした。

さて、少し早めに、一同夕食をすませると、いよいよ名画守護の部署につくことになりました。

明智は、テキパキした口調で、三人の刑事にさしずをして、ひとりは名画室の中へ、ひとりは表門、ひとりは裏口に、それぞれ徹夜をして、見はり番をつとめ、あやしいものの姿をみとめたら、ただちに呼び子を吹きならすというあいずまできめたのです。

刑事たちが、めいめいの部署につくと、明智探偵は名画室のがんじょうな板戸を、外からピッシャリしめて、老人にかぎをかけさせてしまいました。

「ぼくは、この戸の前に、一晩中がんばっていることにしましょう。」

名探偵はそういって、板戸の前の畳廊下に、ドッカリすわりました。

「先生、大じょうぶでしょうな。先生にこんなことを申しては、失礼かもしれませんが、相手はなにしろ、<ruby><rb>魔法使</rb><rt>まほうつか</rt></ruby>いみたいなやつだそうですからね。わしは、なんだかまだ、不安心なような気がするのですが。」

老人は明智の顔色を見ながら、いいにくそうにたずねるのです。

「ハハハ……、ご心配なさることはありません。ぼくはさっき、じゅうぶんしらべたのですが、部屋の窓には厳重な鉄ごうしがはめてあるし、壁は厚さが三十センチもあって、ちっとやそっとでやぶれるものではないし、部屋のまんなかには刑事君が、目を見はっているんだし、そのうえ、たった一つの出入り口には、ぼく自身ががんばっているんですからね。これ以上、用心のしようはないくらいですよ。

あなたは安心して、おやすみなすったほうがいいでしょう。ここにおいでになっても、同じことですからね。」

明智がすすめても、老人はなかなか承知しません。

「いや、わしもここで徹夜することにしましょう。寝床へはいったって、ねむられるものではありませんからね。」

そういって、探偵のかたわらへすわりこんでしまいました。

「なるほど、では、そうなさるほうがいいでしょう。ぼくも話し相手ができて<ruby><rb>好都合</rb><rt>こうつごう</rt></ruby>です。絵画論でもたたかわしましょうかね。」

さすがに<ruby><rb>百戦錬磨</rb><rt>ひゃくせんれんま</rt></ruby>の名探偵、にくらしいほど落ちつきはらっています。

それから、ふたりはらくな姿勢になって、ポツポツ古名画の話をはじめたものですが、しゃべるのは明智ばかりで、老人はソワソワと落ちつきがなく、ろくろく受け答えもできないありさまです。

左門老人には、一年もたったかと思われるほど、長い長い時間のあとで、やっと、十二時がうちました。真夜中です。

明智はときどき、板戸ごしに、室内の刑事に声をかけていましたが、そのつど、中からハッキリした口調で、異状はないという返事が聞こえてきました。

「アーア、ぼくは少しねむくなってきた。」

明智はあくびをして、

「二十面相のやつ、今夜はやってこないかもしれませんよ。こんなげんじゅうな警戒の中へとびこんでくるばかでもないでしょうからね……。ご老人、いかがです。ねむけざましに一本。外国ではこんなぜいたくなやつを、スパスパやっているんですよ。」

と、<ruby><rb>たばこ入れ</rb><rt>シガレット・ケース</rt></ruby>をパチンとひらいて、自分も一本つまんで、老人の前にさしだすのでした。

「そうでしょうかね。今夜は来ないでしょうかね。」

左門老人は、さしだされたエジプトたばこを取りながら、まだ不安らしくいうのです。

「いや、ご安心なさい。あいつは、けっしてばかじゃありません。ぼくが、ここにがんばっていると知ったら、まさかノコノコやってくるはずはありませんよ。」

それからしばらくことばがとだえて、ふたりはてんでの考えごとをしながら、おいしそうにたばこをすっていましたが、それがすっかり灰になったころ、明智はまたあくびをして、

「ぼくは少しねむりますよ。あなたもおやすみなさい。なあに、大じょうぶです。武士は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くつわ</span>の音に目をさますっていいますが、ぼくは職業がら、どんなしのび足の音にも目をさますのです。心までねむりはしないのですよ。」

そんなことをいったかと思うと、板戸の前に長々と横になって、目をふさいでいました。そして、まもなく、スヤスヤとおだやかな寝息が聞こえはじめたのです。

あまりなれきった探偵のしぐさに、老人は気が気ではありません。ねむるどころか、ますます耳をそばだてて、どんなかすかな物音も聞きもらすまいと、いっしょうけんめいでした。

何かみょうな音が聞こえてくるような気がします。耳鳴りかしら、それとも近くの森のこずえにあたる風の音かしら。

そして、耳をすましていますと、しんしんと夜のふけていくのが、ハッキリわかるようです。

頭の中がだんだんからっぽになって、目の前がもやのようにかすんでいきます。

ハッと気がつくと、そのうす白いもやの中に、目ばかり光らした<ruby><rb>黒装束</rb><rt>くろしょうぞく</rt></ruby>の男が、もうろうと立ちはだかっているではありませんか。

「アッ、明智先生、賊です、賊です。」

思わず大声をあげて、寝ている明智の肩をゆさぶりました。

「なんです。そうぞうしいじゃありませんか。どこに賊がいるんです。夢でもごらんになったのでしょう。」

探偵は身動きもせず、しかりつけるようにいうのでした。

なるほど、今のは夢か、それとも<ruby><rb>幻</rb><rt>まぼろし</rt></ruby>だったのかもしれません。いくら見まわしても、黒装束の男など、どこにもいやしないのです。

老人は少しきまりが悪くなって、無言のままもとの姿勢にもどり、また耳をすましましたが、するとさっきと同じように、頭の中がスーッとからっぽになって、目の前にもやがむらがりはじめるのです。

そのもやが少しずつ<ruby><rb>濃</rb><rt>こ</rt></ruby>くなって、やがて、<ruby><rb>黒雲</rb><rt>くろくも</rt></ruby>のようにまっくらになってしまうと、からだが深い深い地の底へでも落ちこんでいくような気持がして、老人は、いつしかウトウトとねむってしまいました。

どのくらいねむったのか、そのあいだじゅう、まるで地獄へでも落ちたような、おそろしい夢ばかりみつづけながら、ふと目をさましますと、びっくりしたことには、あたりがすっかり明るくなっているのです。

「ああ、わしはねむったんだな。しかし、あんなに気をはりつめていたのに、どうして寝たりなんぞしたんだろう。」

左門老人はわれながら、ふしぎでしかたがありませんでした。

見ると、明智探偵はゆうべのままの姿で、まだスヤスヤとねむっています。

「ああ、助かった。それじゃ二十面相は、明智探偵におそれをなして、とうとうやってこなかったとみえる。ありがたい、ありがたい。」

老人はホッと胸をなでおろして、しずかに探偵をゆりおこしました。

「先生、起きてください。もう夜が明けましたよ。」

明智はすぐ目をさまして、

「ああ、よくねむってしまった……。ハハハ……、ごらんなさい。なにごともなかったじゃありませんか。」

といいながら、大きなのびをするのでした。

「見はり番の刑事さんも、さぞねむいでしょう。もう大じょうぶですから、ご飯でもさしあげて、ゆっくりやすんでいただこうじゃありませんか。」

「そうですね。では、この戸をあけてください。」

老人は、いわれるままに、懐中からかぎをとりだして、<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>まりをはずし、ガラガラと板戸をひらきました。

ところが、戸をひらいて、部屋の中を一目見たかと思うと、老人の口から「ギャーッ。」という、まるでしめころされるような、さけび声がほとばしったのです。

「どうしたんです。どうしたんです。」

明智もおどろいて立ちあがり、部屋の中をのぞきました。

「あ、あれ、あれ……。」

老人は口をきく力もなく、みょうな<ruby><rb>片言</rb><rt>かたこと</rt></ruby>をいいながら、ふるえる手で、室内を指さしています。

見ると、ああ、老人のおどろきもけっしてむりではなかったのです。部屋の中の古名画は、壁にかけてあったのも、箱におさめて棚につんであったのも、一つのこらず、まるでかき消すようになくなっているではありませんか。

番人の刑事は、畳の上に打ちのめされたようにたおれて、なんというざまでしょう。グウグウ高いびきをかいているのです。

「せ、先生、ぬ、ぬ、ぬすまれました。ああ、わしは、わしは……。」

左門老人は、一しゅんかんに十年も年をとったような、すさまじい顔になって、明智の胸ぐらをとらんばかりです。

## 悪魔の知恵

ああ、またしてもありえないことがおこったのです。二十面相というやつは、人間ではなくて、えたいのしれないお化けです。まったく不可能なことを、こんなにやすやすとやってのけるのですからね。

明智はツカツカと部屋の中へはいっていって、いびきをかいている刑事の腰のあたりを、いきなりけとばしました。賊のためにだしぬかれて、もうすっかり腹をたてているようすでした。

「おい、おい、起きたまえ。ぼくはきみに、ここでおやすみくださいってたのんだんじゃないんだぜ。見たまえ、すっかりぬすまれてしまったじゃないか。」

刑事は、やっとからだを起こしましたが、まだ夢うつつのありさまです。

「ウ、ウ、何をぬすまれたんですって？　ああ、すっかりねむってしまった……。おや、ここはどこだろう。」

寝ぼけた顔で、キョロキョロ部屋の中を見まわすしまつです。

「しっかりしたまえ。ああ、わかった。きみは<ruby><rb>麻酔剤</rb><rt>ますいざい</rt></ruby>でやられたんじゃないか。思いだしてみたまえ、ゆうべどんなことがあったか。」

明智は刑事の肩をつかんで、らんぼうにゆさぶるのでした。

「こうっと、おや、ああ、あんた明智さんですね。ああ、ここは日下部の美術城だった。しまった。ぼくはやられたんですよ。そうです、麻酔剤です。ゆうべ真夜中に、黒い影のようなものが、ぼくのうしろへしのびよったのです。そして、そして、何かやわらかいいやなにおいのするもので、ぼくの鼻と口をふさいでしまったのです。それっきり、それっきり、ぼくは何もわからなくなってしまったんです。」

刑事はやっと目のさめたようすで、さも申しわけなさそうに、からっぽの絵画室を見まわすのでした。

「やっぱりそうだった。じゃあ、表門と裏門を守っていた刑事諸君も、同じ目にあっているかもしれない。」

明智はひとりごとをいいながら、部屋をかけだしていきましたが、しばらくすると、台所のほうで大声に呼ぶのが聞こえてきました。

「日下部さん。ちょっと来てください。」

なにごとかと、老人と刑事とが、声のするほうへ行ってみますと、明智は下男部屋の入り口に立ってその中を指さしています。

「表門にも裏門にも、刑事君たちの影も見えません。そればかりじゃない。ごらんなさい、かわいそうに、このしまつです。」

見ると、下男部屋のすみっこに、作蔵じいやとそのおかみさんとが、<ruby><rb>高手小手</rb><rt>たかてこて</rt></ruby>にしばられ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さるぐつわ</span>までかまされて、ころがっているではありませんか。むろん賊のしわざです。じゃまだてをしないように、ふたりの召使いをしばりつけておいたのです。

「ああ、なんということじゃ。明智さん、これはなんということです。」

日下部老人は、もう<ruby><rb>半狂乱</rb><rt>はんきょうらん</rt></ruby>のていで、明智につめよりました。命よりもたいせつに思っていた宝物が夢のように一夜のうちに消えうせてしまったのですから、むりもないことです。

「いや、なんとも申しあげようもありません。二十面相がこれほどの腕まえとは知りませんでした。相手をみくびっていたのが失策でした。」

「失策？　明智さん、あんたは失策ですむじゃろうが、このわしは、いったいどうすればよいのです。……名探偵、名探偵と評判ばかりで、なんだこのざまは……。」

老人はまっさおになって、血走った目で明智をにらみつけて、今にも、とびかからんばかりのけんまくです。

明智はさも恐縮したように、さしうつむいていましたが、やがて、ヒョイとあげた顔を見ますと、これはどうしたというのでしょう。名探偵は笑っているではありませんか。その笑いが顔いちめんにひろがっていって、しまいにはもうおかしくておかしくてたまらぬというように、大きな声をたてて、笑いだしたではありませんか。

日下部老人は、あっけにとられてしまいました。明智は賊にだしぬかれたくやしさに、気でもちがったのでしょうか。

「明智さん、あんた何がおかしいのじゃ。これ、何がおかしいのじゃというに。」

「ワハハハ……、おかしいですよ。名探偵明智小五郎、ざまはないですね。まるで<ruby><rb>赤子</rb><rt>あかご</rt></ruby>の手をねじるように、やすやすとやられてしまったじゃありませんか。二十面相というやつはえらいですねえ。ぼくはあいつを尊敬しますよ。」

明智のようすは、いよいよへんです。

「これ、これ、明智さん、どうしたんじゃ、賊をほめたてているばあいではない。チェッ、これはまあなんというざまだ。ああ、それに、作蔵たちを、このままにしておいてはかわいそうじゃ。刑事さん、ぼんやりしてないで、早くなわをといてやってください。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さるぐつわ</span>もはずして。そうすれば作蔵の口から賊の手がかりもつくというもんじゃないか。」

明智が、いっこうたよりにならぬものですから、あべこべに、日下部老人が探偵みたいにさしずをするしまつです。

「さあ、ご老人の命令だ。なわをといてやりたまえ。」

明智が刑事にみょうな目くばせをしました。

すると、今までぼんやりしていた刑事が、にわかにシャンと立ちなおって、ポケットから一たばの<ruby><rb>捕縄</rb><rt>ほじょう</rt></ruby>をとりだしたかと思うと、いきなり日下部老人のうしろにまわって、パっとなわをかけ、グルグルとしばりはじめました。

「これ、何をする。ああ、どいつもこいつも、気ちがいばかりじゃ。わしをしばってどうするのだ。わしをしばるのではない。そこにころがっている、ふたりのなわをとくのじゃ。これ、わしではないというに。」

しかし、刑事はいっこう手をゆるめようとはしません。無言のまま、とうとう老人を高手小手にしばりあげてしまいました。

「これ、気ちがいめ。これ、何をする。あ、痛い痛い。痛いというに。明智さん、あんた何を笑っているのじゃ。とめてくださらんか。この男は気がちがったらしい。早く、なわをとくようにいってください。これ、明智さんというに。」

老人は、何がなんだかわけがわからなくなってしまいました。みんなそろって気ちがいになったのでしょうか。でなければ、事件の依頼者をしばりあげるなんて法はありません。またそれを見て、探偵がニヤニヤ笑っているなんてばかなことはありません。

「ご老人、だれをお呼びになっているのです。明智とかおっしゃったようですが。」

明智自身が、こんなことをいいだしたのです。

「何をじょうだんをいっているのじゃ。明智さん、あんた、まさか自分の名をわすれたのではあるまい。」

「このぼくがですか。このぼくが明智小五郎だとおっしゃるのですか。」

明智はすまして、いよいよへんなことをいうのです。

「きまっておるじゃないか。何をばかなことを……。」

「ハハハ……、ご老人、あなたこそ、どうかなすったんじゃありませんか。ここには明智なんて人間はいやしませんぜ。」

老人はそれを聞くと、ポカンと口をあけて、キツネにでもつままれたような顔をしました。

あまりのことにきゅうには口もきけないのです。

「ご老人、あなたは以前に明智小五郎とお会いになったことがあるのですか。」

「会ったことはない。じゃが、写真を見てよく知っておりますわい。」

「写真？　写真ではちと心ぼそいですねえ。その写真にぼくが似ているとでもおっしゃるのですか。」

「…………」

「ご老人、あなたは、二十面相がどんな人物かということを、おわすれになっていたのですね。二十面相、ほら、あいつは変装の名人だったじゃありませんか。」

「そ、それじゃ、き、きさまは……。」

老人はやっと、事のしだいがのみこめてきました。そしてがくぜんとして色をうしなったのでした。

「ハハハ……、おわかりになりましたかね。」

「いや、いや、そんなばかなことがあるはずはない。わしは新聞を見たのじゃ。『伊豆日報』にちゃんと『明智探偵来修』と書いてあった。それから、<ruby><rb>富士屋</rb><rt>ふじや</rt></ruby>の女中がこの人だと教えてくれた。どこにもまちがいはないはずじゃ。」

「ところが大まちがいがあったのですよ。なぜって、明智小五郎は、まだ、外国から帰りゃしないのですからね。」

「新聞がうそを書くはずはない。」

「ところが、うそを書いたのですよ。社会部のひとりの記者が、こちらの計略にかかってね、編集長にうその原稿をわたしたってわけですよ。」

「フン、それじゃ刑事はどうしたんじゃ。まさか警察がにせの明智探偵にごまかされるはずはあるまい。」

老人は、目の前に立ちはだかっている男を、あのおそろしい二十面相だとは、信じたくなかったのです。むりにも明智小五郎にしておきたかったのです。

「ハハハ……、ご老人、まだそんなことを考えているのですか。血のめぐりが悪いじゃありませんか。刑事ですって？　あ、この男ですか、それから表門裏門の番をしたふたりですか、ハハハ……、なにね、ぼくの子分がちょいと刑事のまねをしただけですよ。」

老人は、もう信じまいとしても信じないわけにはいきませんでした。明智小五郎とばかり思いこんでいた男が、名探偵どころか、大盗賊だったのです。おそれにおそれていた怪盗二十面相、その人だったのです。

ああ、なんというとびきりの思いつきでしょう、探偵が、すなわち、盗賊だったなんて。日下部老人は、人もあろうに二十面相に宝物の番人をたのんだわけでした。

「ご老人、ゆうべのエジプトたばこの味はいかがでした。ハハハ……、思いだしましたか。あの中にちょっとした薬がしかけてあったのですよ。ふたりの刑事が部屋へはいって、荷物を運びだし、自動車へつみこむあいだ、ご老人に<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>ねむりしてほしかったものですからね。あの部屋へどうしてはいったかとおっしゃるのですか。ハハハ……、わけはありませんよ。あなたのふところから、ちょっとかぎを<ruby><rb>拝借</rb><rt>はいしゃく</rt></ruby>すればよかったのですからね。」

二十面相は、まるで世間話でもしているように、おだやかなことばを使いました。しかし、老人にしてみれば、いやにていねいすぎるそのことばづかいが、いっそう腹だたしかったにちがいありません。

「では、ぼくたちは<ruby><rb>急</rb><rt>いそ</rt></ruby>ぎますから、これで失礼します。美術品はじゅうぶん注意して、たいせつに保管するつもりですから、どうかご安心ください。では、さようなら。」

二十面相は、ていねいに一礼して、刑事に化けた部下をしたがえ、ゆうぜんと、その場をたちさりました。

かわいそうな老人は、何かわけのわからぬことをわめきながら、賊のあとを追おうとしましたが、からだじゅうをぐるぐる巻きにしたなわのはしが、そこの柱にしばりつけてあるので、ヨロヨロと立ちあがってはみたものの、すぐバッタリとたおれてしまいました。そして、たおれたまま、くやしさと悲しさに、歯ぎしりをかみ、涙さえ流して、身もだえするのでありました。

## 巨人と怪人

美術城の事件があってから半月ほどたった、ある日の午後、東京駅のプラットホームの人ごみの中に、ひとりのかわいらしい少年の姿が見えました。ほかならぬ小林芳雄君です。読者諸君にはおなじみの明智探偵の少年助手です。

小林君は、ジャンパー姿で、よく似合う鳥打ち帽をかぶって、ピカピカ光る靴をコツコツいわせながら、プラットホームを行ったり来たりしています。手には、一枚の新聞紙を棒のようにまるめてにぎっています。読者諸君、じつはこの新聞には二十面相に関する、あるおどろくべき記事がのっているのですが、しかし、それについては、もう少しあとでお話しましょう。

小林少年が東京駅にやってきたのは、先生の明智小五郎を出むかえるためでした。名探偵は、こんどこそ、ほんとうに外国から帰ってくるのです。

明智は<ruby><rb>某国</rb><rt>ぼうこく</rt></ruby>からの招きに応じ、ある重大な事件に関係し、みごとに成功をおさめて帰ってくるのですから、いわば<ruby><rb>凱旋将軍</rb><rt>がいせんしょうぐん</rt></ruby>です。<ruby><rb>本来</rb><rt>ほんらい</rt></ruby>ならば、外務省とか民間団体から、大ぜいの出むかえがあるはずですが、明智はそういうぎょうぎょうしいことが大きらいでしたし、探偵という職業上、できるだけ人目につかぬ心がけをしなければなりませんので、<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>の方面にはわざと通知をしないで、ただ自宅だけに東京駅着の時間をしらせておいたのでした。それも、いつも明智夫人は出むかえをえんりょして、小林少年が出かけるならわしになっていました。

小林君は、しきりと腕時計をながめています。もう五分たつと、待ちかねた明智先生の汽車が到着するのです。ほとんど、<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>ぶりでお会いするのです。なつかしさに、なんだか胸がワクワクするようでした。

ふと気がつくと、ひとりのりっぱな紳士が、にこにこ笑顔をつくりながら、小林少年に、近づいてきました。

ネズミ色のあたたかそうなオーバー・コート、<ruby><rb>籐</rb><rt>とう</rt></ruby>のステッキ、<ruby><rb>半白</rb><rt>はんぱく</rt></ruby>の頭髪、半白の口ひげ、デップリ太った顔に、べっこうぶちのめがねが光っています。先方では、にこにこ笑いかけていますけれど、小林君はまったく見知らぬ人でした。

「もしやきみは、明智さんのところの<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>じゃありませんか。」

紳士は、太いやさしい声でたずねました。

「ええ、そうですが……。」

けげん顔の少年の顔を見て、紳士はうなずきながら、

「わたしは、外務省の<ruby><rb>辻野</rb><rt>つじの</rt></ruby>という者だが、この列車で明智さんが帰られることがわかったものだから、非公式にお出むかえにきたのですよ。少し内密の用件もあるのでね。」

と説明しました。

「ああ、そうですか。ぼく、先生の助手の小林っていうんです。」

帽子をとって、おじぎをしますと、辻野氏はいっそうにこやかな顔になって、

「ああ、きみの名は聞いていますよ。じつは、いつか新聞に出た写真で、きみの顔を見おぼえていたものだから、こうして声をかけたのですよ。二十面相との<ruby><rb>一騎</rb><rt>いっき</rt></ruby>うちはみごとでしたねえ。きみの人気はたいしたものですよ。わたしのうちの子どもたちも大の小林ファンです。ハハハ……。」

と、しきりにほめたてるのです。

小林君は少しはずかしくなって、パッと顔を赤くしないではいられませんでした。

「二十面相といえば、修善寺では明智さんの名まえをかたったりして、ずいぶん思いきったまねをするね。それに、けさの新聞では、いよいよ国立博物館をおそうのだっていうじゃないか。じつに警察をばかにしきった、あきれた態度だ。けっしてうっちゃってはおけませんよ。あいつをたたきつぶすためだけでも、明智さんが帰ってこられるのを、ぼくは待ちかねていたんだ。」

「ええ、ぼくもそうなんです。ぼく、いっしょうけんめいやってみましたけれど、とても、ぼくの力にはおよばないのです。先生にかたき<ruby><rb>討</rb><rt>う</rt></ruby>ちをしてほしいと思って、待ちかねていたんです。」

「きみが持っている新聞は、けさの？」

「ええ、そうです。博物館をおそうっていう予告状ののっている新聞です。」

小林君はそういいながら、その記事ののっている個所をひろげて見せました。社会面の半分ほどが二十面相の記事でうずまっているのです。その意味をかいつまんでしるしますと、きのう二十面相から国立博物館長にあてて速達便がとどいたのですが、それには、博物館所蔵の美術品を一点ものこらず、ちょうだいするという、じつにおどろくべき宣告文がしたためてあったのです。例によって十二月十日というぬすみだしの日づけまで、ちゃんと明記してあるではありませんか。十二月十日といえば、あますところ、もう九日間しかないのです。

怪人二十面相のおそるべき野心は、頂上にたっしたように思われます。あろうことか、あるまいことか、国家を相手にしてたたかおうというのです。今までおそったのはみな個人の財宝で、にくむべきしわざにはちがいありませんが、世に例のないことではありません。しかし、博物館をおそうというのは、国家の所有物をぬすむことになるのです。むかしから、こんなだいそれた泥棒を、もくろんだものが、ひとりだってあったでしょうか。<ruby><rb>大胆</rb><rt>だいたん</rt></ruby>とも無謀ともいいようのないおそろしい盗賊です。

しかし考えてみますと、そんなむちゃなことが、いったいできることでしょうか。博物館といえば、何十人というお役人がつめているのです。守衛もいます。おまわりさんもいます。そのうえ、こんな予告をしたんでは、どれだけ警戒がげんじゅうになるかもしれません。博物館ぜんたいをおまわりさんの人がきでとりかこんでしまうようなことも、おこらないとはいえません。

ああ、二十面相は気でもくるったのではありますまいか。それとも、あいつには、このまるで不可能としか考えられないことをやってのける自信があるのでしょうか。人間の知恵では想像もできないような、悪魔のはかりごとがあるとでもいうのでしょうか。

さて、二十面相のことはこのくらいにとどめ、わたしたちは明智名探偵をむかえなければなりません。

「ああ、列車が来たようだ。」

辻野氏が注意するまでもなく、小林少年はプラットホームのはしへとんでいきました。

出むかえの人がきの前列に立って左のほうをながめますと、明智探偵をのせた急行列車は、<ruby><rb>刻一刻</rb><rt>こくいっこく</rt></ruby>、その形を大きくしながら、近づいてきます。

サーッと空気が震動して、黒い鋼鉄の箱が目の前をかすめました。チロチロとすぎていく客車の窓の顔、ブレーキのきしりとともに、やがて列車が停止しますと、一等車の昇降口に、なつかしいなつかしい明智先生の姿が見えました。黒い背広に、黒いがいとう、黒いソフト帽という、黒ずくめの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いでたち</span>で、早くも小林少年に気づいて、にこにこしながら手まねきをしているのです。

「先生、お帰りなさい。」

小林君はうれしさに、もうむがむちゅうになって、先生のそばへかけよりました。

明智探偵は赤帽にいくつかのトランクをわたすと、プラットホームへおりたち、小林君のほうへよってきました。

「小林君、いろいろ苦労をしたそうだね。新聞ですっかり知っているよ。でも、ぶじでよかった。」

ああ、<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>ぶりで聞く先生の声です。小林君は<ruby><rb>上気</rb><rt>じょうき</rt></ruby>した顔で名探偵をじっと見ながら、いっそう、そのそばへよりそいました。そして、どちらからともなく手がのびて、<ruby><rb>師弟</rb><rt>してい</rt></ruby>のかたい握手がかわされたのでした。

そのとき、外務省の辻野氏が、明智のほうへ歩みよって、肩書きつきの名刺をさしだしながら、声をかけました。

「明智さんですか、かけちがってお目にかかっていませんが、わたしはこういうものです。じつは、この列車でお帰りのことを、ある筋から耳にしたものですから、きゅうに内密でお話したいことがあって、出むいてきたのです。」

明智は名刺を受けとると、なぜか考えごとでもするように、しばらくそれをながめていましたが、やがて、ふと気をかえたように、快活に答えました。

「ああ、辻野さん、そうですか。お名まえはよくぞんじています。じつは、ぼくも一度帰宅して、着がえをしてから、すぐに、外務省のほうへまいるつもりだったのですが、わざわざ、お出むかえを受けて恐縮でした。」

「おつかれのところをなんですが、もしおさしつかえなければ、ここの鉄道ホテルで、お茶を飲みながらお話したいのですが、けっしておてまはとらせません。」

「鉄道ホテルですか。ホウ、鉄道ホテルでね。」

明智は辻野氏の顔をじっと見つめながら、何か感心したようにつぶやきましたが、

「ええ、ぼくはちっともさしつかえありません。では、おともしましょう。」

それから、少しはなれたところに待っていた小林少年に近づいて、何か小声にささやいてから、

「小林君、ちょっとこの方とホテルへよることにしたからね、きみは荷物をタクシーにのせて、<ruby><rb>一足</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>先に帰ってくれたまえ。」

と命じるのでした。

「ええ、では、ぼく、先へまいります。」

小林君は赤帽のあとを追って、かけだしていくのを見おくりますと、名探偵と辻野氏とは、肩をならべ、さもしたしげに話しあいながら、地下道をぬけて、東京駅の二階にある鉄道ホテルへのぼっていきました。

あらかじめ<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>じてあったものとみえ、ホテルの最上等の一室に、客を迎える用意ができていて、かっぷくのよいボーイ長が、うやうやしくひかえています。

ふたりがりっぱな<ruby><rb>織</rb><rt>お</rt></ruby>り<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>でおおわれた丸テーブルをはさんで、安楽イスに腰をおろしますと、待ちかまえていたように、べつのボーイが<ruby><rb>茶菓</rb><rt>さか</rt></ruby>を運んできました。

「きみ、少し密談があるから、席をはずしてくれたまえ。ベルをおすまで、だれもはいってこないように。」

辻野氏が命じますと、ボーイ長は一礼して立ちさりました。しめきった部屋の中に、ふたりきりのさし向かいです。

「明智さん、ぼくは、どんなにかきみに会いたかったでしょう。一日<ruby><rb>千秋</rb><rt>せんしゅう</rt></ruby>の思いで待ちかねていたのですよ。」

辻野氏は、いかにもなつかしげに、ほほえみながら、しかし目だけはするどく相手を見つめて、こんなふうに話しはじめました。

明智は、安楽イスのクッションにふかぶかと身をしずめ、辻野氏におとらぬ、にこやかな顔で答えました。

「ぼくこそ、きみに会いたくてしかたがなかったのです。汽車の中で、ちょうどこんなことを考えていたところでしたよ。ひょっとしたら、きみが駅へ迎えに来ていてくれるんじゃないかとね。」

「さすがですねえ。すると、きみは、ぼくのほんとうの名まえもごぞんじでしょうねえ。」

辻野氏のなにげないことばには、おそろしい力がこもっていました。興奮のために、イスのひじ掛けにのせた左手の先が、かすかにふるえていました。

「少なくとも、外務省の辻野氏でないことは、あの、まことしやかな名刺を見たときから、わかっていましたよ。本名といわれると、ぼくも少しこまるのですが、新聞なんかでは、きみのことを怪人二十面相と呼んでいるようですね。」

明智は平然として、このおどろくべきことばを語りました。ああ、読者諸君、これがいったい、ほんとうのことでしょうか。盗賊が探偵を出むかえるなんて。探偵のほうでも、とっくに、それと知りながら、賊のさそいにのり、賊のお茶をよばれるなんて、そんなばかばかしいことがおこりうるものでしょうか。

「明智君、きみは、ぼくが想像していたとおりの方でしたよ。最初ぼくを見たときから気づいていて、気づいていながらぼくの招待に応じるなんて、シャーロック＝ホームズにだってできない<ruby><rb>芸当</rb><rt>げいとう</rt></ruby>です。ぼくはじつにゆかいですよ。なんて生きがいのある人生でしょう。ああ、この興奮の<ruby><rb>一時</rb><rt>ひととき</rt></ruby>のために、ぼくは生きていてよかったと思うくらいですよ。」

辻野氏に化けた二十面相は、まるで明智探偵を<ruby><rb>崇拝</rb><rt>すうはい</rt></ruby>しているかのようにいうのでした。しかし、ゆだんはできません。彼は国中を敵にまわしている大盗賊です。ほとんど死にものぐるいの冒険をくわだてているのです。そこには、それだけの用意がなくてはなりません。ごらんなさい。辻野氏の右手は、洋服のポケットに入れられたまま、一度もそこから出ないではありませんか。いったいポケットの中で何をにぎっているのでしょう。

「ハハハ……、きみは少し興奮しすぎているようですね。ぼくには、こんなことは、いっこうにめずらしくもありませんよ。だが、二十面相君、きみには少しお気のどくですね。ぼくが帰ってきたので、せっかくのきみの大計画もむだになってしまったのだから。ぼくが帰ってきたからには、博物館の美術品には<ruby><rb>一指</rb><rt>いっし</rt></ruby>もそめさせませんよ。また、伊豆の日下部家の宝物も、きみの所有品にはしておきませんよ。いいですか、これだけははっきり約束しておきます。」

そんなふうにいうものの、明智もなかなか楽しそうでした。深くすいこんだ、たばこの煙を、フーッと相手の<ruby><rb>面前</rb><rt>めんぜん</rt></ruby>に吹きつけて、にこにこ笑っています。

「それじゃ、ぼくも約束しましょう。」

二十面相も負けてはいませんでした。

「博物館の所蔵品は、予告の日には、かならずうばいとってお目にかけます。それから、日下部家の宝物……、ハハハ……、あれが返せるものですか。なぜって、明智君、あの事件では、きみも共犯者だったじゃありませんか。」

「共犯者？　ああ、なるほどねえ。きみはなかなかしゃれがうまいねえ。ハハハ……。」

たがいに、相手をほろぼさないではやまぬ、はげしい敵意にもえたふたり、大盗賊と名探偵は、まるで、したしい友だちのように談笑しております。しかし、ふたりとも、心の中は、<ruby><rb>寸分</rb><rt>すんぶん</rt></ruby>のゆだんもなくはりきっているのです。

これほどの大胆のしわざをする賊のことですから、その裏面には、どんな用意ができているかわかりません。おそろしいのは賊のポケットのピストルだけではないのです。

さいぜんの<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>くせありげなボーイ長も、賊の<ruby><rb>手下</rb><rt>てした</rt></ruby>でないとはかぎりません。そのほかにも、このホテルの中には、どれほど賊の手下がまぎれこんでいるか、知れたものではないのです。

今のふたりの立ち場は剣道の<ruby><rb>達人</rb><rt>たつじん</rt></ruby>と達人とが、<ruby><rb>白刃</rb><rt>はくじん</rt></ruby>をかまえてにらみあっているのと、少しもかわりはありません。気力と気力のたたかいです。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">う</span>の毛ほどのゆだんが、たちどころに勝負を決してしまうのです。

ふたりは、ますますあいきょうよく話しつづけています。顔はにこやかに笑みくずれています。しかし、二十面相のひたいには、この寒いのに、汗の玉がういていました。ふたりとも、その目だけは、まるで火のように、らんらんともえかがやいていました。

## トランクとエレベーター

名探偵は、プラットホームで賊をとらえようと思えば、なんのわけもなかったのです。どうして、この好機会を見のがしてしまったのでしょう。読者諸君は、くやしく思っているかもしれませんね。

しかし、これは名探偵の自信がどれほど強いかを語るものです。賊を見くびっていればこそ、こういう放れわざができるのです。探偵は博物館の宝物には、賊の一指をもそめさせない自信がありました。例の美術城の宝物も、そのほかのかぞえきれぬ盗難品も、すっかり取りかえす信念がありました。

それには、今、賊をとらえてしまっては、かえって不利なのです。二十面相には、多くの手下があります。もし<ruby><rb>首領</rb><rt>しゅりょう</rt></ruby>がとらえられたならば、その部下のものが、ぬすみためた宝物を、どんなふうに処分してしまうか、知れたものではないからです。逮捕は、そのたいせつな宝物のかくし場所をたしかめてからでもおそくはありません。

そこで、せっかく出むかえてくれた賊を、失望させるよりは、いっそ、そのさそいに乗ったと見せかけ、二十面相の知恵の程度をためしてみるのも、<ruby><rb>一興</rb><rt>いっきょう</rt></ruby>であろうと考えたのでした。

「明智君、今のぼくの立ち場というものを、ひとつ想像してみたまえ。きみは、ぼくをとらえようと思えば、いつだってできるのですぜ。ほら、そこのベルをおせばいいのだ。そしてボーイにおまわりさんを呼んでこいと命じさえすればいいのだ。ハハハ……、なんてすばらしい冒険だ。この気持、きみにわかりますか。命がけですよ。ぼくは今、何十メートルとも知れぬ<ruby><rb>絶壁</rb><rt>ぜっぺき</rt></ruby>の、とっぱなに立っているのですよ。」

二十面相はあくまで<ruby><rb>不敵</rb><rt>ふてき</rt></ruby>です。そういいながら、目を細くして探偵の顔を見つめ、さもおかしそうに大声に笑いだすのでした。

「ハハハ……。」

明智小五郎も、負けない大笑いをしました。

「きみ、なにもそうビクビクすることはありゃしない。きみの正体を知りながら、ノコノコここまでやってきたぼくだもの、今、きみをとらえる気なんか少しもないのだよ。ぼくはただ、有名な二十面相君と、ちょっと話をしてみたかっただけさ。なあに、きみをとらえることなんか、急ぐことはありゃしない。博物館の<ruby><rb>襲撃</rb><rt>しゅうげき</rt></ruby>まで、まだ九日間もあるじゃないか。まあ、ゆっくり、きみのむだ骨折りを拝見するつもりだよ。」

「ああ、さすがは名探偵だねえ。太っぱらだねえ。ぼくは、きみにほれこんでしまったよ……。ところでと、きみのほうでぼくをとらえないとすれば、どうやら、ぼくのほうで、きみをとりこにすることになりそうだねえ。」

二十面相はだんだん、声の調子をすごくしながら、ニヤニヤとうすきみ悪く笑うのでした。

「明智君、こわくはないかね。それともきみは、ぼくが無意味にきみをここへつれこんだとでも思っているのかい。ぼくのほうに、なんの用意もないと思っているのかね。ぼくがだまって、きみをこの部屋から外へ出すとでも、かんちがいしているのじゃないのかね。」

「さあ、どうだかねえ。きみがいくら出さないといっても、ぼくはむろんここを出ていくよ。これから外務省へ行かなければならない。いそがしいからだだからね。」

明智はいいながら、ゆっくり立ちあがって、ドアとは反対のほうへ歩いていきました。そして、なにか景色でもながめるように、のんきらしく、ガラスごしに窓の外を見やって、かるくあくびをしながら、ハンカチをとりだして、顔をぬぐっております。

そのとき、いつのまにベルをおしたのか、さいぜんのがんじょうなボーイ長と、同じくくっきょうなもうひとりのボーイとが、ドアをあけてツカツカとはいってきました。そして、テーブルの前で、<ruby><rb>直立不動</rb><rt>ちょくりつふどう</rt></ruby>の姿勢をとりました。

「おい、おい、明智君、きみは、ぼくの力をまだ知らないようだね。ここは鉄道ホテルだからと思って安心しているのじゃないかね。ところがね、きみ、たとえばこのとおりだ。」

二十面相はそういっておいて、ふたりの大男のボーイのほうをふりむきました。

「きみたち、明智先生にごあいさつ申しあげるんだ。」

すると、ふたりの男は、たちまち二ひきの野獣のようなものすごい<ruby><rb>相好</rb><rt>そうごう</rt></ruby>になって、いきなり明智を目がけてつき進んできます。

「待ちたまえ、ぼくをどうしようというのだ。」

明智は窓を背にして、キッと身がまえました。

「わからないかね。ほら、きみの足もとをごらん。ぼくの荷物にしては少し大きすぎるトランクがおいてあるじゃないか。中はからっぽだぜ。つまりきみの<ruby><rb>棺桶</rb><rt>かんおけ</rt></ruby>なのさ。このふたりのボーイ君が、きみをいま、そのトランクの中へ<ruby><rb>埋葬</rb><rt>まいそう</rt></ruby>しようってわけさ。ハハハ……。

さすがの名探偵も、ちっとはおどろいたかね。ぼくの部下のものが、ホテルのボーイにはいりこんでいようとは少し意外だったねえ。

いや、きみ、声をたてたってむだだよ。両どなりとも、ぼくの借りきりの部屋なんだ。それから念のためにいっておくがね、ここにいるぼくの部下はふたりきりじゃない。じゃまのはいらないように、廊下にもちゃんと身はり番がついているんだぜ。」

ああ、なんという不覚でしょう。名探偵は、まんまと敵のわなにおちいったのです。それと知りながら、このんで火の中へとびこんだようなものです。これほど用意がととのっていては、もうのがれるすべはありません。

血のきらいな二十面相のことですから、まさか命をうばうようなことはしないでしょうけれど、なんといっても、賊にとっては警察よりもじゃまになる明智小五郎です。トランクの中へとじこめて、どこか人知れぬ場所へ運びさり、博物館の襲撃を終わるまで、とりこにしておこうという考えにちがいありません。

ふたりの大男は<ruby><rb>問答無益</rb><rt>もんどうむえき</rt></ruby>とばかり、明智の身辺にせまってきましたが、今にもとびかかろうとして、ちょっとためらっております。名探偵の身にそなわる威力にうたれたのです。

でも、力ではふたりにひとり、いや、三人にひとりなのですから、明智小五郎がいかに強くても、かないっこはありません。ああ、かれは帰朝そうそう、はやくもこの大盗賊のとりことなり、探偵にとって最大の<ruby><rb>恥辱</rb><rt>ちじょく</rt></ruby>を受けなければならない運命なのでしょうか。ああ、ほんとうにそうなのでしょうか。

しかし、ごらんなさい、われらの名探偵は、この<ruby><rb>危急</rb><rt>ききゅう</rt></ruby>にさいしても、やっぱりあのほがらかな笑顔をつづけているではありませんか。そして、その笑顔が、おかしくてたまらないというように、だんだんくずれてくるではありませんか。

「ハハハ……。」

笑いとばされて、ふたりのボーイは、キツネにでもつままれたように口をポカンとあいて、立ちすくんでしまいました。

「明智君、からいばりはよしたまえ。何がおかしいんだ。それともきみは、おそろしさに気でもちがったのか。」

二十面相は相手の真意をはかりかねて、ただ<ruby><rb>毒口</rb><rt>どくぐち</rt></ruby>をたたくほかはありませんでした。

「いや、しっけい、しっけい、つい、きみたちの大まじめなお芝居がおもしろかったものだからね。だが、ちょっときみ、ここへ来てごらん。そして、窓の外をのぞいてごらん。みょうなものが見えるんだから。」

「何が見えるもんか。そちらはプラットホームの屋根ばかりじゃないか。へんなことをいって<ruby><rb>一寸</rb><rt>いっすん</rt></ruby>のがれをしようなんて、明智小五郎も、もうろくしたもんだねえ。」

でも、賊は、なんとなく気がかりで、窓のほうへ近よらないではいられませんでした。

「ハハハ……、もちろん屋根ばかりさ。だが、その屋根の向こうにみょうなものがいるんだ。ほらね、こちらのほうだよ。」

明智は指さしながら、

「屋根と屋根とのあいだから、ちょっと見えているプラットホームに、黒いものがうずくまっているだろう。子どものようだね。小さな望遠鏡で、しきりと、この窓をながめているじゃないか。あの子ども、なんだか見たような顔だねえ。」

読者諸君は、それがだれだか、もうとっくにお察しのことと思います。そうです。お察しのとおり明智探偵の名助手小林少年です。小林君は例の七つ道具の一つ、万年筆型の望遠鏡で、ホテルの窓をのぞきながら、何かのあいずを待ちかまえているようすです。

「あ、小林の小僧だな。じゃ、あいつは家へ帰らなかったのか。」

「そうだよ。ぼくがどの部屋へはいるか、ホテルの玄関で問いあわせて、その部屋の窓を、注意して見はっているようにいいつけているのだよ。」

しかし、それが何を意味するのか、賊にはまだのみこめませんでした。

「それで、どうしようっていうんだ。」

二十面相は、だんだん不安になりながら、おそろしいけんまくで、明智につめよりました。

「これをごらん。ぼくの手をごらん。きみたちがぼくをどうかすれば、このハンカチが、ヒラヒラと窓の外へ落ちていくのだよ。」

見ると、明智の右の手首が、少しひらかれた窓の下部から、外へ出ていて、その指先にまっ白なハンカチがつままれています。

「これが、あいずなのさ。すると、あの子どもは駅の事務室にかけこむんだ。それから電話のベルが鳴る。そして警官隊がかけつけて、ホテルの出入り口をかためるまで、そうだね、五分もあればじゅうぶんだとは思わないかね。ぼくは五分や十分、きみたち三人を相手に抵抗する力はあるつもりだよ。ハハハ……、どうだい、この指をパッとひらこうかね、そうすれば、二十面相逮捕のすばらしい大場面が、見物できようというものだが。」

賊は、窓の外につきだされた明智のハンカチと、プラットホームの小林少年の姿とを、見くらべながら、くやしそうにしばらく考えていましたが、けっきょく、不利をさとったのか、やや顔色をやわらげていうのでした。

「で、もしぼくのほうで手をひいて、きみをぶじに帰すばあいには、そのハンカチは落とさないですますつもりだろうね。つまり、きみの自由とぼくの自由との、交換というわけだからね。」

「むろんだよ。さっきからいうとおり、ぼくのほうには今君をとらえる考えは少しもないのだ。もしとらえるつもりなら、何もこんなまわりくどいハンカチのあいずなんかいりゃしない。小林君に、すぐ警察へうったえさせるよ。そうすれば、いまごろはきみは警察のおりの中にいたはずだぜ。ハハハ……。」

「だが、きみもふしぎな男じゃないか。そうまでして、このおれを逃がしたいのか。」

「ウン、今やすやすととらえるのは、少しおしいような気がするのさ。いずれ、きみをとらえるときには、大ぜいの部下も、ぬすみためた美術品の数々も、すっかり<ruby><rb>一網</rb><rt>いちもう</rt></ruby>に手に入れてしまうつもりだよ。少し欲ばりすぎているだろうかねえ。ハハハ……。」

二十面相は長いあいだ、さもくやしそうに、くちびるをかんでだまりこんでいましたが、やがて、ふと気をかえたように、にわかに笑いだしました。

「さすがは明智小五郎だ。そうなくてはならないよ……。マア気を悪くしないでくれたまえ。今のは、ちょっときみの気をひいてみたまでさ。けっして本気じゃないよ。では、きょうは、これでお別れとして、きみを玄関までお送りしよう。」

でも、探偵は、そんなあまい口に乗って、すぐ、ゆだんしてしまうほど、お人よしではありませんでした。

「お別れするのはいいがね。このボーイ諸君が少々目ざわりだねえ。まず、このふたりと、それから<ruby><rb>廊下</rb><rt>ろうか</rt></ruby>にいるお仲間を、台所のほうへ追いやってもらいたいものだねえ。」

賊は、べつにさからいもせず、すぐボーイたちに、たちさるように命じ、入り口のドアを大きくひらいて、廊下が見通せるようにしました。

「これでいいかね。ほら、あいつらが階段をおりていく足音が聞こえるだろう。」

明智はやっと窓ぎわをはなれ、ハンカチをポケットにおさめました。まさか鉄道ホテルぜんたいが賊のために占領されているはずはありませんから、廊下へ出てしまえば、もう大じょうぶです。少しはなれた部屋には、客もいるようすですし、そのへんの廊下には、賊の部下でない、ほんとうのボーイも歩いているのですから。

ふたりは、まるで、親しい友だちのように、肩をならべて、エレベーターの前まで歩いていきました。エレベーターの入り口はあいたままで、二十歳ぐらいの制服のエレベーター・ボーイが、人待ち顔にたたずんでいます。

明智はなにげなく、一足先にその中へはいりましたが、

「あ、ぼくはステッキ忘れた。きみは先へおりてください。」

二十面相のそういう声がしたかと思うと、いきなり鉄のとびらがガラガラとしまって、エレベーターは下降しはじめました。

「へんだな。」

明智は早くもそれとさとりました。しかし、べつにあわてるようすもなく、じっとエレベーター・ボーイの手もとを見つめています。

すると案のじょう、エレベーターが二階と一階との中間の、四ほうを壁でとりかこまれた個所までくだると、とつぜんパッタリ運転がとまってしまいました。

「どうしたんだ。」

「すみません。機械に故障ができたようです。少しお待ちください。じきなおりましょうから。」

ボーイは、申しわけなさそうにいいながら、しきりに、運転機のハンドルのへんをいじくりまわしています。

「なにをしているんだ。のきたまえ。」

明智はするどくいうと、ボーイの首すじをつかんで、グーッとうしろに引きました。それがあまりひどい力だったものですから、ボーイは思わずエレベーターのすみにしりもちをついてしまいました。

「ごまかしたってだめだよ。ぼくがエレベーターの運転ぐらい知らないと思っているのか。」

しかりつけておいて、ハンドルをカチッとまわしますと、なんということでしょう。エレベーターは苦もなく下降をはじめたではありませんか。

階下につくと、明智はやはりハンドルをにぎったまま、まだしりもちをついているボーイの顔を、グッとするどくにらみつけました。その<ruby><rb>眼光</rb><rt>がんこう</rt></ruby>のおそろしさ。年若いボーイはふるえあがって、思わず右のポケットの上を、なにかたいせつなものでもはいっているようにおさえるのでした。

<ruby><rb>機敏</rb><rt>きびん</rt></ruby>な探偵は、その表情と手の動きを見のがしませんでした。いきなりとびついていって、おさえているポケットに手を入れ、一枚の紙幣を取りだしてしまいました。千円札です。エレベーター・ボーイは、二十面相の部下のために、千円札で買収されていたのでした。

賊はそうして、五分か十分のあいだ、探偵をエレベーターの中にとじこめておいて、そのひまに階段のほうからコッソリ逃げさろうとしたのです。いくら<ruby><rb>大胆不敵</rb><rt>だいたんふてき</rt></ruby>の二十面相でも、もう正体がわかってしまった今、探偵と肩をならべて、ホテルの人たちや<ruby><rb>泊</rb><rt>と</rt></ruby>まり客のむらがっている玄関を、通りぬける勇気はなかったのです。明智はけっしてとらえないといっていますけれど、賊の身にしては、それをことばどおり信用するわけにはいきませんからね。

名探偵はエレベーターをとびだすと、廊下を<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>とびに、玄関へかけだしました。すると、ちょうどまにあって、二十面相の辻野氏が表の石段を、ゆうぜんとおりていくところでした。

「や、しっけい、しっけい、ちょっとエレベーターに故障があったものですからね、ついおくれてしまいましたよ。」

明智は、やっぱりにこにこ笑いながら、うしろから辻野氏の肩をポンとたたきました。

ハッとふりむいて、明智の姿をみとめた、辻野氏の顔といったらありませんでした。<ruby><rb>賊</rb><rt>ぞく</rt></ruby>はエレベーターの計略が、てっきり成功するものと信じきっていたのですから。顔色をかえるほどおどろいたのも、けっしてむりではありません。

「ハハハ……、どうかなすったのですか、辻野さん、少しお顔色がよくないようですね。ああ、それから、これをね、あのエレベーター・ボーイから、あなたにわたしてくれってたのまれてきました。ボーイがいってましたよ、相手が悪くてエレベーターの動かし方を知っていたので、どうもご命令どおりに長くとめておくわけにはいきませんでした。あしからずってね。ハハハ……。」

明智はさもゆかいそうに、大笑いをしながら、例の千円札を、二十面相の面前で二―三度ヒラヒラさせてから、それを相手の手ににぎらせますと、

「ではさようなら。いずれ近いうちに。」

といったかと思うと、クルッと向きをかえて、なんのみれんもなく、あとをも見ずに立ちさってしまいました。

辻野氏は千円札をにぎったまま、あっけにとられて、名探偵のうしろ姿を見おくっていましたが、

「チェッ。」

と、いまいましそうに舌うちすると、そこに待たせてあった自動車を呼ぶのでした。

このようにして名探偵と大盗賊の初対面の<ruby><rb>小手</rb><rt>こて</rt></ruby>しらべは、みごとに探偵の勝利に帰しました。賊にしてみれば、いつでもとらえようと思えばとらえられるのを、そのまま見のがしてもらったわけですから、二十面相の名にかけて、これほどの恥辱はないわけです。

「このしかえしは、きっとしてやるぞ。」

彼は明智のうしろ姿に、にぎりこぶしをふるって、思わずのろいのことばをつぶやかないではいられませんでした。

## 二十面相の逮捕

「あ、明智さん、今、あなたをおたずねするところでした。あいつは、どこにいますか。」

明智探偵は、鉄道ホテルから五十メートルも歩いたか歩かぬかに、とつぜん呼びとめられて、立ちどまらなければなりませんでした。

「ああ、<ruby><rb>今西</rb><rt>いまにし</rt></ruby>君。」

それは警視庁捜査課勤務の今西刑事でした。

「ごあいさつはあとにして、辻野と自称する男はどうしました。まさか逃がしておしまいになったのじゃありますまいね。」

「きみは、どうしてそれを知っているんです。」

「小林君がプラットホームでへんなことをしているのを見つけたのです。あの子どもは、じつに<ruby><rb>強情</rb><rt>ごうじょう</rt></ruby>ですねえ。いくらたずねてもなかなか言わないのです。しかし、手をかえ品をかえて、とうとう白状させてしまいましたよ。あなたが外務省の辻野という男といっしょに、鉄道ホテルへはいられたこと、その辻野がどうやら二十面相の変装らしいことなどをね。さっそく外務省へ電話をかけてみましたが、辻野さんはちゃんと省にいるんです。そいつはにせものにちがいありません。そこで、あなたに応援するために、かけつけてきたというわけですよ。」

「それはご苦労さま、だが、あの男はもう帰ってしまいましたよ。」

「エッ、帰ってしまった？　それじゃ、そいつは二十面相ではなかったのですか？」

「二十面相でした。なかなかおもしろい男ですねえ。」

「明智さん、明智さん、あなた何をじょうだん言っているんです。二十面相とわかっていながら、警察へ知らせもしないで、逃がしてやったとおっしゃるのですか。」

今西刑事はあまりのことに、明智探偵の正気をうたがいたくなるほどでした。

「ぼくに少し考えがあるのです。」

明智は、すまして答えます。

「考えがあるといって、そういうことを、一個人のあなたが、かってにきめてくださってはこまりますね。いずれにしても賊とわかっていながら、逃がすという手はありません。ぼくは職務としてやつを追跡しないわけにはいきません。やつはどちらへ行きました。自動車でしょうね。」

刑事は、民間探偵のひとりぎめの処置を、しきりと<ruby><rb>憤慨</rb><rt>ふんがい</rt></ruby>しています。

「きみが追跡するというなら、それはご自由ですが、おそらくむだでしょうよ。」

「あなたのおさしずは受けません。ホテルへ行って自動車番号をしらべて、手配をします。」

「ああ、車の番号なら、ホテルへ行かなくても、ぼくが知ってますよ。一三八八七番です。」

「え、あなたは車の番号まで知っているんですか。そして、あとを追おうともなさらないのですか。」

刑事はふたたびあっけにとられてしまいましたが、一刻をあらそうこのさい、無益な問答をつづけているわけにはいきません。番号を手帳に書きとめると、すぐ前にある交番へ、とぶように走っていきました。

警察電話によって、このことが都内の各警察署へ、交番へと、またたく間につたえられました。

「一三八八七番をとらえよ。その車に二十面相が外務省の辻野氏に化けて乗っているのだ。」

この命令が、東京全都のおまわりさんの心を、どれほどおどらせたことでしょう。われこそはその自動車をつかまえて、凶賊逮捕の名誉をになわんものと、交番という交番の警官が、目をさらのようにし、手ぐすね引いて待ちかまえたことは申すまでもありません。

怪盗がホテルを出発してから、二十分もしたころ、幸運にも一三八八七番の自動車を発見したのは、<ruby><rb>新宿区</rb><rt>しんじゅくく</rt></ruby><ruby><rb>戸塚町</rb><rt>とつかまち</rt></ruby>の交番に勤務している一警官でありました。

それはまだ若くて、勇気に富んだおまわりさんでしたが、交番の前を、規定以上の速力で、矢のように走りぬけた一台の自動車を、ヒョイと見ると、その番号が一三八八七番だったのです。

若いおまわりさんは、ハッとして、思わず武者ぶるいをしました。そして、そのあとから走ってくる<ruby><rb>空車</rb><rt>くうしゃ</rt></ruby>を、呼びとめるなり、とびのって、

「あの車だッ、あの車に有名な二十面相が乗っているんだ。走ってくれ。スピードはいくら出してもかまわん、エンジンが破裂するまで走ってくれッ。」

とさけぶのでした。

しあわせと、その自動車の運転手がまた、心きいた若者でした。車は新しく、エンジンに申しぶんはありません。走る、走る、まるで<ruby><rb>鉄砲玉</rb><rt>てっぽうだま</rt></ruby>みたいに走りだしたのです。

悪魔のように<ruby><rb>疾走</rb><rt>しっそう</rt></ruby>する二台の自動車は、道行く人の目を見はらせないではおきませんでした。

見れば、うしろの車には、ひとりのおまわりさんが、および腰になって、<ruby><rb>一心不乱</rb><rt>いっしんふらん</rt></ruby>に前方を見つめ、何か大声にわめいているではありませんか。

「<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>り<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>だ、捕り物だ！」

<ruby><rb>弥次馬</rb><rt>やじうま</rt></ruby>がさけびながら、車といっしょにかけだします。それにつれて犬がほえる。歩いていた群衆がみな立ちどまってしまうというさわぎです。

しかし、自動車は、それらの光景をあとに見すてて、通り魔のように、ただ、先へ先へととんでいきます。

いく台の自動車を追いぬいたことでしょう。いくたび自動車にぶつかりそうになって、あやうくよけたことでしょう。

細い道ではスピードが出せないものですから、賊の車は<ruby><rb>大環状線</rb><rt>だいかんじょうせん</rt></ruby>に出て、<ruby><rb>王子</rb><rt>おうじ</rt></ruby>の方角に向かって疾走しはじめました。賊はむろん追跡を気づいてます。しかし、どうすることもできないのです。<ruby><rb>白昼</rb><rt>はくちゅう</rt></ruby>の都内では、車をとびおりて身をかくすなんて芸当は、できっこありません。

<ruby><rb>池袋</rb><rt>いけぶくろ</rt></ruby>をすぎたころ、前の車からパーンというはげしい音響が聞こえました。アア、賊はとうとうがまんしきれなくなって、例のポケットのピストルを取りだしたのでしょうか。

いや、いや、そうではなかったのです。西洋のギャング映画ではありません。にぎやかな町のなかで、ピストルなどうってみたところで、今さらのがれられるものではないのです。

ピストルではなくて、車輪のパンクした音でした。賊の運がつきたのです。

それでも、しばらくのあいだは、むりに車を走らせていましたが、いつしか速度がにぶり、ついにおまわりさんの自動車に追いぬかれてしまいました。逃げる行く手にあたって、自動車を横にされては、もうどうすることもできません。

車は二台ともとまりました。たちまちそのまわりに黒山の人だかり。やがて付近のおまわりさんもかけつけてきます。

ああ、読者諸君、辻野氏は、とうとうつかまってしまいました。

「二十面相だ、二十面相だ！」

だれいうとなく、群衆のあいだにそんな声がおこりました。

賊は、付近からかけつけた、ふたりのおまわりさんと、戸塚の交番の若いおまわりさんと、三人にまわりをとりまかれ、しかりつけられて、もう抵抗する力もなくうなだれています。

「二十面相がつかまった！」

「なんて、ふてぶてしいつらをしているんだろう。」

「でも、あのおまわりさん、えらいわねえ。」

「おまわりさん、ばんざーい。」

群衆の中にまきおこる歓声の中を、警官と賊とは、追跡してきた車に同乗して、警視庁へと急ぎます。<ruby><rb>管轄</rb><rt>かんかつ</rt></ruby>の警察署に留置するには、あまりに<ruby><rb>大物</rb><rt>おおもの</rt></ruby>だからです。

警視庁に到着して、ことのしだいが判明しますと、庁内にはドッと歓声がわきあがりました。手をやいていた<ruby><rb>希代</rb><rt>きだい</rt></ruby>の凶賊が、なんと思いがけなくつかまったことでしょう。これというのも、今西刑事の機敏な処置と、戸塚署の若い警官の奮戦のおかげだというので、ふたりは胴あげされんばかりの人気です。

この報告を聞いて、だれよりも喜んだのは、中村捜査係長でした。係長は羽柴家の事件のさい、賊のためにまんまと出しぬかれたうらみを、わすれることができなかったからです。

さっそく調べ室で、げんじゅうな取りしらべがはじめられました。相手は、変装の名人のことですから、だれも顔を見知ったものがありません。何よりも先に、人ちがいでないかどうかをたしかめるために、証人を呼びださなければなりませんでした。

明智小五郎の自宅に電話がかけられました。しかし、ちょうどそのとき、名探偵は外務省に出むいて、るす中でしたので、かわりに小林少年が出頭することになりました。

やがてほどもなく、いかめしい調べ室に、りんごのようなほおの、かわいらしい小林少年があらわれました。そして、賊の姿を一目見るやいなや、これこそ、外務省の辻野氏と<ruby><rb>偽名</rb><rt>ぎめい</rt></ruby>した、あの人物にちがいないと証言しました。

## 「わしがほんものじゃ」

「この人でした。この人にちがいありません。」

小林君は、キッパリと答えました。

「ハハハ……、どうだね、きみ、子どもの<ruby><rb>眼力</rb><rt>がんりき</rt></ruby>にかかっちゃかなわんだろう。きみが、なんといいのがれようとしたって、もうだめだ。きみは二十面相にちがいないのだ。」

中村係長は、うらみかさなる怪盗を、とうとうとらえたかと思うと、うれしくてしかたがありませんでした。勝ちほこったように、こういって、真正面から賊をにらみつけました。

「ところが、ちがうんですよ。こいつあ、こまったことになったな。わしは、あいつが有名な二十面相だなんて、少しも知らなかったのですよ。」

紳士に化けた賊は、あくまでそらとぼけるつもりらしく、へんなことをいいだすのです。

「なんだって？　きみのいうことは、ちっともわけがわからないじゃないか。」

「わしもわけがわからんのです。すると、あいつがわしに化けてわしを替え玉に使ったんだな。」

「おいおい、いいかげんにしたまえ。いくらそらとぼけたって、もうその手には乗らんよ。」

「いやいや、そうじゃないんです。まあ、落ちついて、わしの説明を聞いてください。わしは、こういうものです。けっして、二十面相なんかじゃありません。」

紳士はそういいながら、今さら思いだしたように、ポケットから名刺入れを出して、一枚の名刺をさしだしました。それには『<ruby><rb>松下庄兵衛</rb><rt>まつしたしょうべえ</rt></ruby>』とあって、<ruby><rb>杉並区</rb><rt>すぎなみく</rt></ruby>のあるアパートの住所も、印刷してあるのです。

「わしは、このとおり松下というもので、少し商売に失敗しまして、今はまあ失業者という身のうえ、アパート住まいのひとり者ですがね。きのうのことでした。<ruby><rb>日比谷</rb><rt>ひびや</rt></ruby>公園をブラブラしていて、ひとりの会社員ふうの男と知りあいになったのです。その男が、みょうな金もうけがあるといって、教えてくれたのですよ。

つまり、きょう一日、自動車に乗って、その男のいうままに、東京中を乗りまわしてくれれば、自動車代はただのうえに、五千円の手あてを出すというのです。うまい話じゃありませんか。わしはこんな身なりはしていますけれど、失業者なんですからね、五千円の手あてがほしかったですよ。

その男は、これには少し事情があるのだといって、何かクドクドと話しかけましたが、わしはそれをおしとどめて、事情なんか聞かなくてもいいからといって、さっそく承知してしまったのです。

そこで、きょうは朝から自動車でほうぼう乗りまわしましてな。おひるは鉄道ホテルで食事をしろという、ありがたいいいつけなんです。たらふくごちそうになって、ここでしばらく待っていてくれというものだから、ホテルの前に自動車をとめて、その中にこしかけて待っていたのですが、三十分もしたかとおもうころ、ひとりの男が鉄道ホテルから出てきて、わしの車をあけて、中へはいってくるのです。わしは、その男を一目見て、びっくりしました。気がちがったのじゃないかと思ったくらいです。なぜといって、そのわしの車へはいってきた男は、顔から、背広から、がいとうからステッキまで、このわしと一<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>一<ruby><rb>厘</rb><rt>りん</rt></ruby>もちがわないほど、そっくりそのままだったからです。まるでわしが鏡にうつっているような、へんてこな気持でした。

あっけにとられて見ていますとね、ますますみょうじゃありませんか。その男は、わしの車へはいってきたかと思うと、こんどは反対がわのドアをあけて、外へ出ていってしまったのです。

つまり、そのわしとそっくりの紳士は、自動車の客席を、通りすぎただけなんです。そのとき、その男は、わしの前を通りすぎながら、みょうなことをいいました。

『さあ、すぐに出発してください。どこでもかまいません。全速力で走るのですよ。』

こんなことをいいのこして、そのまま、ごぞんじでしょう、あの鉄道ホテルの前にある、地下室の理髪店の入り口へ、スッと姿をかくしてしまいました。わしの自動車は、ちょうどその地下室の入り口の前にとまっていたのですよ。

なんだかへんだなとは思いましたが、とにかく先方のいうままになるという約束ですから、わしはすぐ運転手に、フル・スピードで走るようにいいつけました。

それから、どこをどう走ったか、よくもおぼえませんが、<ruby><rb>早稲田</rb><rt>わせだ</rt></ruby>大学のうしろのへんで、あとから追っかけてくる自動車があることに気づきました。なにがなんだかわからないけれど、わしは、みょうにおそろしくなりましてな。運転手に走れ走れとどなったのですよ。

それからあとは、ご承知のとおりです。お話をうかがってみると、わしはたった五千円の礼金に目がくれて、まんまと二十面相のやつの替え玉に使われたというわけですね。

いやいや、替え玉じゃない。わしのほうがほんもので、あいつこそわしの替え玉です。まるで、写真にでもうつしたように、わしの顔や服装を、そっくりまねやがったんです。

それがしょうこに、ほら、ごらんなさい。このとおりじゃ。わしは<ruby><rb>正真正銘</rb><rt>しょうしんしょうめい</rt></ruby>の松下庄兵衛です。わしがほんもので、あいつのほうがにせ者です。おわかりになりましたかな。」

松下氏はそういって、ニューッと顔を前につきだし、自分の頭の毛を、力まかせに引っぱってみせたり、ほおをつねってみせたりするのでした。

ああ、なんということでしょう。中村係長は、またしても、賊のためにまんまといっぱいかつがれたのです。警視庁をあげての、凶賊逮捕の喜びも、ぬか喜びに終わってしまいました。

のちに、松下氏のアパートの主人を呼びだして、しらべてみますと、松下氏は少しもあやしい人物でないことがたしかめられたのです。

それにしても、二十面相の用心ぶかさはどうでしょう。東京駅で明智探偵をおそうためには、これだけの用意がしてあったのです。部下を空港ホテルのボーイに住みこませ、エレベーター係を味方にしていたうえに、この松下という替え玉紳士までやといいれて、逃走の準備をととのえていたのです。

替え玉といっても、二十面相にかぎっては、自分によく似た人をさがしまわる必要は、少しもないのでした。なにしろ、おそろしい変装の名人のことです。手あたりしだいにやといいれた人物に、こちらで<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>けてしまうのですから、わけはありません。相手はだれでもかまわない。<ruby><rb>口車</rb><rt>くちぐるま</rt></ruby>に乗りそうなお人よしをさがしさえすればよかったのです。

そういえば、この松下という失業紳士は、いかにものんき者の好人物にちがいありませんでした。

## 二十面相の新弟子

明智小五郎の住宅は、<ruby><rb>港区</rb><rt>みなとく</rt></ruby><ruby><rb>竜土町</rb><rt>りゅうどちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>閑静</rb><rt>かんせい</rt></ruby>なやしき町にありました。名探偵は、まだ若くて美しい<ruby><rb>文代</rb><rt>ふみよ</rt></ruby>夫人と、助手の小林少年と、お手伝いさんひとりの、質素な暮らしをしているのでした。

明智探偵が、外務省からある友人の宅へたちよって帰宅したのは、もう夕方でしたが、ちょうどそこへ警視庁へ呼ばれていた小林君も帰ってきて、洋館の二階にある明智の書斎へはいって、二十面相の替え玉事件を報告しました。

「たぶん、そんなことだろうと思っていた。しかし、中村君には気のどくだったね。」

名探偵は、にが笑いをうかべていうのでした。

「先生、ぼく少しわからないことがあるんですが。」

小林少年は、いつも、ふにおちないことは、できるだけ早く、勇敢にたずねる習慣でした。

「先生が二十面相をわざと逃がしておやりになったわけは、ぼくにもわかるのですけれど、なぜあのとき、ぼくに尾行させてくださらなかったのです。博物館の盗難をふせぐのにも、あいつの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>が知れなくては、こまるんじゃないかと思いますが。」

明智探偵は小林少年の非難を、うれしそうににこにこして聞いていましたが、立ちあがって、窓のところへ行くと、小林少年を手まねきしました。

「それはね。二十面相のほうで、ぼくに知らせてくれるんだよ。

なぜだかわかるかい。さっきホテルで、ぼくはあいつを、じゅうぶんはずかしめてやった。あれだけの凶賊を、探偵がとらえようともしないで逃がしてやるのが、どんなひどい<ruby><rb>侮辱</rb><rt>ぶじょく</rt></ruby>だか、きみには想像もできないくらいだよ。

二十面相は、あのことだけでも、ぼくをころしてしまいたいほどにくんでいる。そのうえ、ぼくがいては、これから思うように仕事もできないのだから、どうかしてぼくをいうじゃま者を、なくしようと考えるにちがいない。

ごらん、窓の外を。ホラ、あすこに紙芝居屋がいるだろう。こんなさびしいところで、紙芝居が荷をおろしたって、商売になるはずはないのに、あいつはもうさっきから、あすこに立ちどまって、この窓を、見ぬようなふりをしながら、いっしょうけんめいに見ているのだよ。」

いわれて、小林君が、明智邸の門前の細い道路を見ますと、いかにも、ひとりの紙芝居屋が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うさんくさい</span>ようすで立っているのです。

「じゃ、あいつ二十面相の部下ですね。先生のようすをさぐりに来ているんですね。」

「そうだよ。それごらん。べつに苦労をしてさがしまわらなくても、先方からちゃんと近づいてくるだろう。あいつについていけば、しぜんと、二十面相の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>もわかるわけじゃないか。」

「じゃ、ぼく、姿をかえて尾行してみましょうか。」

小林君は気が早いのです。

「いや、そんなことしなくてもいいんだ。ぼくに少し考えがあるからね。相手は、なんといってもおそろしく頭のするどいやつだから、うかつなまねはできない。

ところでねえ、小林君、あすあたり、ぼくの身辺に、少しかわったことが、おこるかもしれないよ。だが、けっしておどろくんじゃないぜ。ぼくは、けっして二十面相なんかに、出しぬかれやしないからね。たとえぼくの身があぶないようなことがあっても、それも一つの策略なのだから、けっして心配するんじゃないよ。いいかい。」

そんなふうに、しんみりといわれますと、小林少年は、するなといわれても、心配しないわけにはいきませんでした。

「先生、何かあぶないことでしたら、ぼくにやらせてください。先生に、もしものことがあってはたいへんですから。」

「ありがとう。」

明智探偵は、あたたかい手を少年の肩にあてていうのでした。

「だが、きみにはできない仕事なんだよ。まあ、ぼくを信じていたまえ。きみも知っているだろう。ぼくが一度だって失敗したことがあったかい……。心配するんじゃないよ。心配するんじゃないよ。」

さて、その翌日の夕方のことでした。

明智探偵の門前、ちょうど、きのう紙芝居が立っていたへんに、きょうはひとりの乞食がすわりこんで、ほんの時たま通りかかる人に、何か口の中でモグモグいいながら、おじぎをしております。

にしめたようなきたない手ぬぐいでほおかむりをして、ほうぼうにつぎのあたった、ぼろぼろにやぶれた着物を着て、一枚のござの上にすわって、寒そうにブルブル身ぶるいしているありさまは、いかにもあわれに見えます。

ところが、ふしぎなことに、往来に人通りがとだえますと、この乞食のようすが<ruby><rb>一変</rb><rt>いっぺん</rt></ruby>するのでした。今まで低くたれていた首を、ムクムクともたげて、顔いちめんの<ruby><rb>無精</rb><rt>ぶしょう</rt></ruby>ひげの中から、するどい目を光らせて、目の前の明智探偵の家を、ジロジロとながめまわすのです。

明智探偵は、その日午前中は、どこかへ出かけていましたが、三時間ほどで帰宅すると、往来からそんな乞食が見はっているのを、知ってか知らずにか、表に面した二階の書斎で、机に向かって、しきりに何か書きものをしています。その位置が窓のすぐ近くなものですから、乞食のところから、明智の一<ruby><rb>挙</rb><rt>きょ</rt></ruby>一<ruby><rb>動</rb><rt>どう</rt></ruby>が、手にとるように見えるのです。

それから夕方までの数時間、乞食はこんきよく地面にすわりつづけていました。明智探偵のほうも、こんきよく窓から見える机に向かいつづけていました。

午後はずっと、ひとりの訪問客もありませんでしたが、夕方になって、ひとりの異様な人物が、明智邸の低い石門の中へはいっていきました。

その男は、のびほうだいにのばした髪の毛、顔中をうすぐろくうずめている無精ひげ、きたない背広服を、メリヤスのシャツの上にじかに着て、しまめもわからぬ鳥打ち帽子をかぶっています。<ruby><rb>浮浪人</rb><rt>ふろうにん</rt></ruby>といいますか、ルンペンといいますか、見るからにうすきみの悪いやつでしたが、そいつが門をはいってしばらくしますと、とつぜんおそろしいどなり声が、門内からもれてきました。

「やい、明智、よもやおれの顔を見わすれやしめえ。おらあお礼をいいに来たんだ。さあ、その戸をあけてくれ。おらあうちの中へはいって、おめえにもおかみさんにも、ゆっくりお礼が申してえんだッ。なんだと、おれに用はねえ？　そっちで用がなくっても、こっちにゃ、ウントコサ用があるんだ。さあ、そこをどけ。おらあ、きさまのうちへはいるんだ。」

どうやら明智自身が、洋館のポーチへ出て、応対しているらしいのですが、明智の声は、聞こえません。ただ浮浪人の声だけが、門の外までひびきわたっています。

それを聞くと、往来にすわっていた乞食が、ムクムクとおきあがり、ソッとあたりを見まわしてから、石門のところへしのびよって、<ruby><rb>電柱</rb><rt>でんちゅう</rt></ruby>のかげから中のようすをうかがいはじめました。

見ると、正面のポーチの上に明智小五郎がつっ立ち、そのポーチの石段へ片足かけた浮浪人が、明智の顔の前でにぎりこぶしをふりまわしながら、しきりとわめきたてています。

明智は少しもとりみださず、しずかに浮浪人を見ていましたが、ますますつのる暴言に、もうがまんができなくなったのか、

「ばかッ。用がないといったらないのだ。出ていきたまえ。」

と、どなったかと思うと、いきなり浮浪人をつきとばしました。

つきとばされた男は、ヨロヨロとよろめきましたが、グッとふみこたえて、もう死にものぐるいで、「ウヌ！」とうめきざま、明智めがけて組みついていきます。

しかし、格闘となってはいくら浮浪人がらんぼうでも、<ruby><rb>柔道</rb><rt>じゅうどう</rt></ruby>三段の明智探偵にかなうはずはありません。たちまち、腕をねじあげられ、ヤッとばかりに、ポーチの下の敷石の上に、投げつけられてしまいました。男は、投げつけられたまま、しばらく、痛さに身動きもできないようすでしたが、やがて、ようやく起きあがったときには、ポーチのドアはかたくとざされ、明智の姿は、もうそこには見えませんでした。

浮浪人はポーチへあがっていって、ドアをガチャガチャいわせていましたが、中から締まりがしてあるらしく、おせども引けども、動くものではありません。

「ちくしょうめ、おぼえていやがれ。」

男は、とうとうあきらめたものか、口の中でのろいのことばをブツブツつぶやきながら、門の外へ出てきました。

さいぜんからのようすを、すっかり見とどけた乞食は、浮浪人をやりすごしておいて、そのあとからそっとつけていきましたが、明智邸を少しはなれたところで、いきなり、

「おい、おまえさん。」

と、男に呼びかけました。

「エッ。」

びっくりしてふりむくと、そこに立っているのは、きたならしい乞食です。

「なんだい、おこもさんか。おらあ、ほどこしをするような金持じゃあねえよ。」

浮浪人はいいすてて、立ちさろうとします。

「いや、そんなことじゃない。少しきみにききたいことがあるんだ。」

「なんだって？」

乞食の口のきき方がへんなので、男はいぶかしげに、その顔をのぞきこみました。

「おれはこう見えても、ほんものの乞食じゃないんだ。じつは、きみだから話すがね。おれは二十面相の手下のものなんだ。けさっから、明智の野郎の見はりをしていたんだよ。だが、きみも明智には、よっぽどうらみがあるらしいようすだね。」

ああ、やっぱり、乞食は二十面相の部下のひとりだったのです。

「うらみがあるどころか、おらあ、あいつのために刑務所へぶちこまれたんだ。どうかして、このうらみを返してやりたいと思っているんだ。」

浮浪人は、またしても、にぎりこぶしをふりまわして、憤慨するのでした。

「名まえはなんていうんだ。」

「<ruby><rb>赤井寅三</rb><rt>あかいとらぞう</rt></ruby>ってもんだ。」

「どこの身うちだ。」

「親分なんてねえ。一本立ちよ。」

「フン、そうか。」

乞食はしばらく考えておりましたが、やがて、何を思ったか、こんなふうに切りだしました。

「二十面相という親分の名まえを知っているか。」

「そりゃあ聞いているさ。すげえ腕まえだってね。」

「すごいどころか、まるで魔法使いだよ。こんどなんか、博物館の国宝を、すっかりぬすみだそうという勢いだからね……。ところで、二十面相の親分にとっちゃ、この明智小五郎って野郎は、敵も同然なんだ。明智にうらみのあるきみとは、おなじ立ち場なんだ。きみ、二十面相の親分の手下になる気はないか。そうすりゃあ、うんとうらみが返せようというもんだぜ。」

赤井寅三は、それを聞くと、乞食の顔を、まじまじとながめていましたが、やがて、ハタと手を打って、

「よし、おらあそれにきめた。兄貴、その二十面相の親分に、ひとつひきあわせてくんねえか。」

と、<ruby><rb>弟子入</rb><rt>でしい</rt></ruby>りを<ruby><rb>所望</rb><rt>しょもう</rt></ruby>するのでした。

「ウン、ひきあわせるとも。明智にそんなうらみのあるきみなら、親分はきっと喜ぶぜ。だがな、その前に、親分へのみやげに、ひとつ手がらをたてちゃどうだ。それも、明智の野郎をひっさらう仕事なんだぜ。」

乞食姿の二十面相の部下は、あたりを見まわしながら、声をひくめていうのでした。

## 名探偵の危急

「ええ、なんだって、あの野郎をひっさらうんだって、そいつあおもしれえ。ねがってもないことだ。手つだわせてくんねえ。ぜひ手つだわせてくんねえ。で、それはいったい、いつのことなんだ。」

赤井寅三は、もうむちゅうになってたずねるのです。

「今夜だよ。」

「え、え、今夜だって。そいつあすてきだ。だが、どうしてひっさらおうというんだね。」

「それがね、やっぱり二十面相の親分だ、うまい手だてを工夫したんだよ。というのはね、子分のなかに、すてきもねえ美しい女があるんだ。その女を、どっかの若い奥さんにしたてて、明智の野郎の喜びそうな、こみいった事件をこしらえて探偵をたのみに行かせんだ。

そして、すぐに家をしらべてくれといって、あいつを自動車に乗せてつれだすんだ。その女といっしょにだよ。むろん自動車の運転手も仲間のひとりなんだ。

むずかしい事件の大すきなあいつのこった。それに、相手がかよわい女なんだから、ゆだんをして、この計画には、ひっかかるにきまっているよ。

で、おれたちの仕事はというと、ついこの先の<ruby><rb>青山墓地</rb><rt>あおやまぼち</rt></ruby>へ先まわりをして、明智を乗せた自動車がやってくるのを待っているんだよ。あすこを通らなければならないような道順にしてあるんだ。

おれたちの待っている前へ来ると、自動車がピッタリとまる。するとおれときみとが、両がわからドアをあけて、車の中へとびこみ、明智のやつを身動きのできないようにして、麻酔剤をかがせるというだんどりなんだ。麻酔剤もちゃんとここに用意している。

それから、ピストルが二丁あるんだ。もうひとり仲間が来ることになっているもんだから。

しかし、かまやしないよ。そいつは明智にうらみがあるわけでもなんでもないんだから、きみに手がらをさせてやるよ。

さあ、これがピストルだ。」

乞食に化けた男は、そういって、やぶれた着物のふところから、一丁のピストルをとりだし、赤井にわたしました。

「こんなもの、おらあうったことがねえよ。どうすりゃいいんだい。」

「なあに、<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>ははいってやしない。引き金に指をあててうつようなかっこうをすりゃいいんだ。二十面相の親分はね、人殺しが大きらいなんだ。このピストルはただおどかしだよ。」

弾丸がはいっていないと聞いて、赤井は不満らしい顔をしましたが、ともかくもポケットにおさめ、

「じゃ、すぐに青山墓地へ出かけようじゃねえか。」

と、うながすのでした。

「いや、まだ少し早すぎる。七時半という約束だよ。それより少しおくれるかも知れない。まだ二時間もある。どっかで飯を食って、ゆっくり出かけよう。」

乞食はいいながら、小わきにかかえていた、きたならしいふろしき包みをほどくと、中から一枚の<ruby><rb>釣</rb><rt>つ</rt></ruby>り<ruby><rb>鐘</rb><rt>がね</rt></ruby>マントを出して、それをやぶれた着物の上から、はおりました。

ふたりが、もよりの安食堂で食事をすませ、青山墓地へたどりついたときには、トップリ日が暮れて、まばらな街燈のほかは<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>のやみ、お化けでも出そうなさびしさでした。

約束の場所というのは、墓地の中でももっともさびしいわき道で、<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>のうちでもめったに自動車の通らぬ、やみの中です。

ふたりはそのやみの土手に腰をおろして、じっと時のくるのを待っていました。

「おそいね。第一、こうしていると寒くってたまらねえ。」

「いや、もうじきだよ。さっき墓地の入り口のところの店屋の時計を見たら七時二十分だった。あれからもう十分以上、たしかにたっているから、今にやってくるぜ。」

ときどきポツリポツリと話しあいながら、また十分ほど待つうちに、とうとう向こうから自動車のヘッド・ライトが見えはじめました。

「おい、来たよ。来たよ、あれがそうにちがいない。しっかりやるんだぜ。」

案のじょう、その車はふたりの待っている前まで来ると、ギギーとブレーキの音をたててとまったのです。

「ソレッ。」

というと、ふたりは、やにわに、やみの中からとびだしました。

「きみは、あっちへまわれ。」

「よしきた。」

二つの黒い影は、たちまち客席の両がわのドアへかけよりました。そして、いきなりガチャンとドアをひらくと客席の人物へ、両方からニューッと、ピストルの筒口をつきつけました。

と同時に、客席にいた洋装の夫人も、いつのまにかピストルをかまえています。それから、運転手までが、うしろ向きになって、その手にはこれもピストルが光っているではありませんか。つまり四丁のピストルが、筒先をそろえて、客席にいる、たったひとりの人物に、ねらいをさだめたのです。

そのねらわれた人物というのは、ああ、やっぱり明智探偵でした。探偵は、二十面相の予想にたがわず、まんまと計略にかかってしまったのでしょうか。

「身動きすると、ぶっぱなすぞ。」

だれかがおそろしいけんまくで、どなりつけました。

しかし、明智は、観念したものか、しずかに、クッションにもたれたまま、さからうようすはありません。あまりおとなしくしているので、賊のほうがぶきみに思うほどです。

「やっつけろ！」

低いけれど力強い声がひびいたかと思うと、乞食に化けた男と、赤井寅三の両人がおそろしい勢いで、車の中にふみこんできました。そして、赤井が明智の上半身をだきしめるようにしておさえていると、もうひとりは、ふところから取りだした、ひとかたまりの<ruby><rb>白布</rb><rt>しろぬの</rt></ruby>のようなものを、手早く探偵の口におしつけて、しばらくのあいだ力をゆるめませんでした。

それから、やや五分もして、男が手をはなしたときには、さすがの名探偵も、薬物の力にはかないません。まるで死人のように、グッタリと気をうしなってしまいました。

「ホホホ、もろいもんだわね。」

同乗していた洋装婦人が、美しい声で笑いました。

「おい、なわだ。早くなわを出してくれ。」

乞食に化けた男は、運転手から、ひとたばのなわを受けとると、赤井に手つだわせて、明智探偵の手足を、たとえ<ruby><rb>蘇生</rb><rt>そせい</rt></ruby>しても、身動きもできないように、しばりあげてしまいました。

「さあ、よしと。こうなっちゃ、名探偵もたわいがないね。これでやっとおれたちも、なんの気がねもなく仕事ができるというもんだ。おい、親分が待っているだろう。急ごうぜ。」

ぐるぐる巻きの明智のからだを、自動車の床にころがして、乞食と赤井とが、客席におさまると、車はいきなり走りだしました。行く先はいわずと知れた二十面相の巣くつです。

## 怪盗の巣くつ

賊の手下の美しい婦人と、乞食と、赤井寅三と、気をうしなった明智小五郎とを乗せた自動車は、さびしい町さびしい町とえらびながら、走りに走って、やがて、<ruby><rb>代々木</rb><rt>よよぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>明治神宮</rb><rt>めいじじんぐう</rt></ruby>を通りすぎ、暗い雑木林の中にポツンと建っている、一軒の住宅の門前にとまりました。

それは七間か八間ぐらいの中流住宅で、門の柱には<ruby><rb>北川十郎</rb><rt>きたがわじゅうろう</rt></ruby>という表札がかかっています。もう家中が寝てしまったのか、窓から明りもささず、さもつつましやかな家庭らしく見えるのです。

運転手（むろんこれも賊の部下なのです）がまっ先に車をおりて、門の呼びりんをおしますと、ほどもなくカタンという音がして、門のとびらにつくってある小さなのぞき窓があき、そこに二つの大きな目玉があらわれました。門燈のあかりで、それが、ものすごく光って見えます。

「ああ、きみか、どうだ、しゅびよくいったか。」

目玉のぬしが、ささやくような小声でたずねました。

「ウン、うまくいった。早くあけてくれ。」

運転手が答えますと、はじめて門のとびらがギイーとひらきました。

見ると、門の内がわには、黒い洋服を着た賊の部下が、ゆだんなく身がまえをして、立ちはだかっているのです。

乞食と赤井寅三とが、グッタリとなった明智探偵のからだをかかえ、美しい婦人がそれを助けるようにして、門内に消えると、とびらはまたもとのようにピッタリとしめられました。

ひとりのこった運転手は、からになった自動車にとびのりました。そして、車は、矢のように走りだし、たちまち見えなくなってしまいました。どこか別のところに賊の車庫があるのでしょう。

門内では、明智をかかえた三人の部下が、玄関のこうし戸の前に立ちますと、いきなり軒の電燈が、パッと点火されました。目もくらむような明るい電燈です。

この家へはじめての赤井寅三は、あまりの明るさに、ギョッとしましたが、彼をびっくりさせたのは、そればかりではありませんでした。

電燈がついたかと思うと、こんどは、どこからともなく、大きな人の声が聞こえてきました。だれもいないのに、声だけがお化けみたいに、空中からひびいてきたのです。

「ひとり人数がふえたようだな。そいつはいったい、だれだ。」

どうも人間の声とは思われないような、へんてこなひびきです。

<ruby><rb>新米</rb><rt>しんまい</rt></ruby>の赤井はうすきみ悪そうに、キョロキョロあたりを見まわしています。

すると、乞食に化けた部下が、ツカツカと玄関の柱のそばへ近づいて、その柱のある部分に口をつけるようにして、

「新しい味方です。明智に深いうらみを持っている男です。じゅうぶん信用していいのです。」

と、ひとりごとをしゃべりました。まるで電話でもかけているようです。

「そうか、それなら、はいってもよろしい。」

またへんな声がひびくと、まるで自動装置のように、こうし戸が音もなくひらきました。

「ハハハ……、おどろいたかい。今のは奥にいる首領と話をしたんだよ。人目につかないように、この柱のかげに<ruby><rb>拡声器</rb><rt>かくせいき</rt></ruby>とマイクロホンがとりつけてあるんだ。首領は用心ぶかい人だからね。」

乞食に化けた部下が教えてくれました。

「だけど、おれがここにいるってことが、どうして知れたんだろう。」

赤井は、まだふしんがはれません。

「ウン、それも今にわかるよ。」

相手はとりあわないで、明智をかかえて、グングン家の中へはいって行きます。しぜん赤井もあとにしたがわぬわけにはいきません。

玄関の間には、またひとりのくっきょうな男が、かたをいからして立ちはだかっていましたが、一同を見ると、にこにこしてうなずいてみせました。

ふすまをひらいて、廊下へ出て、いちばん奥まった部屋へたどりつきましたが、みょうなことに、そこはガランとした十畳の空部屋で、首領の姿はどこにも見えません。

乞食が何か、あごをしゃくってさしずをしますと、美しい女の部下が、ツカツカと床の間に近より、床柱の裏に手をかけて、何かしました。

すると、どうでしょう。ガタンと、おもおもしい音がしたかと思うと、座敷のまんなかの畳が一枚、スーッと下へ落ちていって、あとに長方形のまっくらな穴があいたではありませんか。

「さあ、ここのはしご段をおりるんだ。」

いわれて、穴の中をのぞきますと、いかにもりっぱな木の階段がついています。

ああ、なんという用心ぶかさでしょう。表門の関所、玄関の関所、その二つを通りこしても、この畳の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんどう</span>返しを知らぬ者には、首領がどこにいるのやら、まったく見当もつかないわけです。

「なにをぼんやりしているんだ。早くおりるんだよ。」

明智のからだを三人がかりでかかえながら、一同が階段をおりきると、頭の上で、ギーッと音がして畳の穴はもとのとおりふたをされてしまいました。じつにゆきとどいた機械じかけではありませんか。

地下室におりても、まだそこが首領の部屋ではありません。うす暗い電燈の光をたよりに、コンクリートの廊下を少し行くと、がんじょうな鉄の扉が行く手をさえぎっているのです。

乞食に化けた男が、その扉を、妙なちょうしでトントントン、トントンとたたきました。すると、重い鉄の扉が内部から開かれて、パッと目を<ruby><rb>射</rb><rt>い</rt></ruby>る電燈の光、まばゆいばかりに飾りつけられたりっぱな洋室、その正面の大きな安楽イスにこしかけて、にこにこ笑っている三十歳ほどの洋服紳士が、二十面相その人でありました。これが、<ruby><rb>素顔</rb><rt>すがお</rt></ruby>かどうかはわかりませんけれど、頭の毛をきれいにちぢれさせた、ひげのない好男子です。

「よくやった。よくやった。きみたちのはたらきはわすれないよ。」

首領は、大敵明智小五郎をとりこにしたことが、もう、うれしくてたまらないようすです。むりもありません。明智さえ、こうしてとじこめておけば、日本中におそろしい相手はひとりもいなくなるわけですからね。

かわいそうな明智探偵は、ぐるぐる巻きにしばられたまま、そこの床の上にころがされました。赤井寅三は、ころがしただけではたりないとみえて、気をうしなっている明智の頭を、足で二度も三度もけとばしさえしました。

「ああ、きみは、よくよくそいつにうらみがあるんだね。それでこそぼくの味方だ。だが、もうよしたまえ。敵はいたわるものだ、それに、この男は日本にたったひとりしかいない名探偵なんだからね。そんなに乱暴にしないで、なわをといて、そちらの長イスにねかしてやりたまえ。」

さすがに首領二十面相は、とりこをあつかう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すべ</span>を知っていました。

そこで、部下たちは、命じられたとおり、なわをといて、明智探偵をイスに寝かせましたが、まだ薬がさめぬのか、探偵はグッタリしたまま、正体もありません。

乞食に化けた男は、明智探偵誘かいのしだいと、赤井寅三を味方にひきいれた理由を、くわしく報告しました。

「ウン、よくやった。赤井君は、なかなか役にたちそうな人物だ。それに、明智に深いうらみを持っているのが何より気にいったよ。」

二十面相は、名探偵をとりこにしたうれしさに、何もかも上きげんです。

そこで赤井はあらためて、弟子入りのおごそかな誓いをたてさせられましたが、それがすむと、この浮浪人はさいぜんから、ふしぎでたまらなかったことを、さっそくたずねたものです。

「このうちのしかけにはおどろきましたぜ。これなら警察なんかこわくないはずですねえ。だが、どうもまだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふ</span>におちねえことがある。さっき玄関へきたばっかりの時に、どうして、おかしらにあっしの姿が見えたんですかい。」

「ハハハ……、それかい。それはね。ほら、ここをのぞいてみたまえ。」

首領は天井の一<ruby><rb>隅</rb><rt>ぐう</rt></ruby>からさがっているストーブのえんとつみたいな物を指さしました。

のぞいてみよといわれるものですから、赤井はそこへ行って、えんとつの下のはしがかぎの手に曲がっている筒口へ、目をあててみました。

すると、これはどうでしょう。その筒の中に、この家の玄関から門にかけての景色が、かわいらしく縮小されて写っているではありませんか。さいぜんの門番の男が、忠実に門の内がわに立っているのもハッキリ見えます。

「<ruby><rb>潜水艦</rb><rt>せんすいかん</rt></ruby>に使う<ruby><rb>潜望鏡</rb><rt>せんぼうきょう</rt></ruby>と同じしかけなんだよ。あれよりも、もっと複雑に折れまがっているけれどね。」

どうりで、あんなに光のつよい電燈が必要だったのです。

「だが、きみが今まで見たのは、この家の機械じかけの半分にもたりないのだよ。その中には、ぼくのほかはだれも知らないしかけもある。なにしろ、これがぼくのほんとうの<ruby><rb>根城</rb><rt>ねじろ</rt></ruby>だからね。ここのほかにも、いくつかのかくれががあるけれど、それらは、敵をあざむくほんの仮住まいにすぎないのさ。」

すると、いつか小林少年が苦しめられた戸山ヶ原の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あばらや</span>も、そのかりの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>の一軒だったのでしょうか。

「いずれきみにも見せるがね、この奥にぼくの美術室があるんだよ。」

二十面相は、あいかわらず上きげんで、しゃべりすぎるほどしゃべるのです。見れば彼の安楽イスのうしろに、大銀行の金庫のような、複雑な機械じかけの大きな鉄のとびらが、げんじゅうにしめきってあります。

「この奥にいくつも部屋があるんだよ。ハハハ……、おどろいているね。この地下室は、地面に建っている家よりもずっと広いのさ。そして、その部屋部屋に、ぼくの<ruby><rb>生涯</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>の<ruby><rb>戦利品</rb><rt>せんりひん</rt></ruby>が、ちゃんと分類して陳列してあるってわけだよ。そのうち見せてあげるよ。

まだ何も陳列していない、からっぽの部屋もある。そこへはね、ごく近日どっさり国宝がはいることになっているんだ。きみも新聞で読んでいるだろう。例の国立博物館のたくさんの宝物さ。ハハハ……。」

もう明智という大敵をのぞいてしまったのだから、それらの美術品は手に入れたも同然だとばかり、二十面相はさも<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>よげに、カラカラとうち笑うのでした。

## 少年探偵団

翌朝になっても明智探偵が帰宅しないものですから、るす宅は大さわぎになりました。

探偵が同伴して出かけた、事件依頼者の婦人の住所がひかえてありましたので、そこをしらべますと、そんな婦人なんか住んでいないことがわかりました。さては二十面相のしわざであったかと、人々は、はじめてそこへ気がついたのです。

各新聞の夕刊は、「名探偵明智小五郎氏誘かいさる」という大見出しで、明智の写真をおおきく入れて、この<ruby><rb>椿事</rb><rt>ちんじ</rt></ruby>をデカデカと書きたて、ラジオもこれをくわしく報道しました。

「ああ、たのみに思うわれらの名探偵は、賊のとりこになった。博物館があぶない。」

一千万の都民は、わがことのようにくやしがり、そこでもここでも、人さえ集まれば、もう、この事件のうわさばかり、全都の空が、なんともいえない陰うつな、不安の黒雲におおわれたように、感じないではいられませんでした。

しかし、名探偵の誘かいを、世界中でいちばんざんねんに思ったのは、探偵の少年助手小林芳雄君でした。

一晩待ちあかして朝になっても、また、一日むなしく待って、夜がきても、先生はお帰りになりません。警察では二十面相に誘かいされたのだといいますし、新聞やラジオまでそのとおりに報道するものですから、先生の身のうえが心配なばかりでなく、名探偵の名誉のために、くやしくって、くやしくって、たまらないのです。

そのうえ、小林君は自分の心配のほかに、先生の奥さんをなぐさめなければなりませんでした。さすが明智探偵の夫人ほどあって、涙を見せるようなことはなさいませんでしたが、不安にたえぬ青ざめた顔に、わざと笑顔をつくっていらっしゃるようすを見ますと、お気のどくで、じっとしていられないのです。

「奥さん大じょうぶですよ。先生が賊のとりこなんかになるもんですか。きっと先生には、ぼくたちの知らない、何か深い<ruby><rb>計略</rb><rt>けいりゃく</rt></ruby>があるのですよ。それでこんなにお帰りがおくれるんですよ。」

小林君は、そんなふうにいって、しきりと明智夫人をなぐさめましたが、しかし、べつに自信があるわけではなく、しゃべっているうちに、自分のほうでも不安がこみあげてきて、ことばもとぎれがちになるのでした。

名探偵助手の小林君も、こんどばかりは、手も足も出ないのです。二十面相の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>を知る手がかりはまったくありません。

おとといは、賊の部下が紙芝居屋に化けて、ようすをさぐりに来ていたが、もしやきょうもあやしい人物が、そのへんをうろうろしていないかしら。そうすれば、賊の住み家をさぐる手だてもあるんだがと、<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の望みに、たびたび二階へあがって表通りを見まわしても、それらしい者の影さえしません。賊のほうでは、誘かいの目的をはたしてしまったのですから、もうそういうことをする必要がないのでしょう。

そんなふうにして、不安の第二夜も明けて、三日めの朝のことでした。

その日はちょうど日曜日だったのですが、明智夫人と小林少年が、さびしい朝食を終わったところへ、玄関へ鉄砲玉のようにとびこんできた少年がありました。

「ごめんください。小林君いますか。ぼく羽柴です。」

すきとおった子どもの叫び声に、おどろいて出てみますと、おお、そこには、ひさしぶりの羽柴壮二少年が、かわいらしい顔をまっかに上気させて、息をきらして立っていました。よっぽど大急ぎで走ってきたものとみえます。

読者諸君はよもやおわすれではありますまい。この少年こそ、いつか自宅の庭園に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わな</span>をしかけて、二十面相を手ひどい目にあわせた、あの大実業家羽柴壮太郎氏のむすこさんです。

「オヤ、壮二君ですか。よく来ましたね。サア、おあがりなさい。」

小林君は自分より二つばかり年下の壮二君を、弟かなんぞのようにいたわって、応接室へみちびきました。

「で、なんかきゅうな用事でもあるんですか。」

たずねますと、壮二少年は、おとなのような口調で、こんなことをいうのでした。

「明智先生、たいへんでしたね。まだゆくえがわからないのでしょう。それについてね、ぼく少し相談があるんです。

あのね、いつかの事件のときから、ぼく、きみを崇拝しちゃったんです。そしてね、ぼくもきみのようになりたいと思ったんです。それから、きみのはたらきのことを、学校でみんなに話したら、ぼくと同じ考えのものが十人も集まっちゃったんです。

それで、みんなで、少年探偵団っていう会をつくっているんです。むろん学校の勉強やなんかのじゃまにならないようにですよ。ぼくのおとうさんも、学校さえなまけなければ、まあいいって許してくだすったんです。

きょうは日曜でしょう。だもんだから、ぼくみんなを連れて、きみんちへおみまいに来たんです。そしてね、みんなはね、きみのさしずを受けて、ぼくたち少年探偵団の力で、明智先生のゆくえをさがそうじゃないかって言ってるんです。」

ひと息にそれだけ言ってしまうと、壮二君はかわいい目で、小林少年をにらみつけるようにして、返事を待つのでした。

「ありがとう。」

小林君は、なんだか涙が出そうになるのを、やっとがまんして、ギュッと壮二君の手をにぎりました。

「きみたちのことを明智先生がお聞きになったら、どんなにお喜びになるかもしれないですよ。ええ、きみたちの探偵団でぼくをたすけてください。みんなで何か手がかりをさがしだしましょう。

けれどね、きみたちはぼくとちがうんだから、危険なことはやらせませんよ。もしものことがあると、みんなのおとうさんやおかあさんに申しわけないですからね。

しかし、ぼくが今考えているのは、ちっとも危険のない探偵方法です。きみ、『聞きこみ』っての知ってますか。いろんな人の話をきいてまわって、どんな小さなことでものがさないで、うまく手がかりをつかむ探偵方法なんです。

なまじっか、おとななんかより、子どものほうがすばしっこいし、相手がゆだんするから、きっとうまくいくと思いますよ。

それにはね、おとといの晩、先生を連れだした女の人相や服装、それから自動車の行った方角もわかっているんだから、その方角に向かって、ぼくらが今の聞きこみをやればいいんですよ。

店の小僧さんでもいいし、ご用聞きでもいいし、郵便配達さんだとか、そのへんに遊んでいる子どもなんかつかまえて、あきずに聞いてまわるんですよ。

ここでは方角がわかっていても、先になるほど道がわかれていて、見当をつけるのがたいへんだけれど、人数が多いから大じょうぶだ。道がわかれるたびに、ひとりずつ、そのほうへ行けばいいんです。

そうして、きょう一日聞きこみをやれば、ひょっとしたら、何か手がかりがつかめるかもしれないですよ。」

「ええ、そうしましょう。そんなことわけないや。じゃ、探偵団のみんなを門の中へ呼んでもいいですか。」

「ええ、どうぞ、ぼくもいっしょに外へ出ましょう。」

そして、ふたりは、明智夫人のゆるしをえたうえ、ポーチのところへ出たのですが、壮二君はいきなり門の外へかけだして行ったかと思うと、まもなく、十人の探偵団員を引きつれて、門内へひきかえしてきました。

見ると、小学校上級生ぐらいの、健康で快活な少年たちでした。

小林君は、壮二君の紹介で、ポーチの上から、みんなにあいさつしました。そして、明智探偵捜査の手段について、こまごまとさしずをあたえました。

むろん一同大賛成です。

「小林団長ばんざーい。」

もうすっかり、団長に祭りあげてしまって、うれしさのあまり、そんなことをさけぶ少年さえありました。

「じゃ、これから出発しましょう。」

そして、一同は少年団のように、足なみそろえて、明智邸の門外へ消えていくのでした。

## 午後四時

少年探偵団のけなげな捜索は、日曜、月曜、火曜、水曜と、学校の余暇を利用して、忍耐強くつづけられましたが、いつまでたっても、これという手がかりはつかめませんでした。

しかし、東京中の何千人というおとなのおまわりさんにさえ、どうすることもできないほどの難事件です。手がかりがえられなかったといって、けっして、少年捜索隊の無能のせいではありません。それに、これらの<ruby><rb>勇</rb><rt>いさ</rt></ruby>ましい少年たちは、<ruby><rb>後日</rb><rt>ごじつ</rt></ruby>、またどのような手がらをたてないものでもないのです。

明智探偵ゆくえ不明のまま、おそろしい十二月十日は、一日一日とせまってきました。警視庁の人たちは、もういてもたってもいられない気持です。なにしろ盗難を予告された品物が、国家の宝物というのですから、捜査課長や、ちょくせつ二十面相の事件に関係している中村係長などは、心配のためにやせほそる思いでした。

ところが、問題の日の二日前、十二月八日には、またまた世間のさわぎを大きくするようなできごとがおこったのです。というのは、その日の東京毎日新聞の社会面に、二十面相からの投書が、れいれいしく掲載されたことでした。

東京毎日新聞は、べつに賊の機関新聞というわけではありませんが、このさわぎの中心になっている二十面相その人からの投書とあっては、問題にしないわけにはいきません。ただちに、編集会議までひらいて、けっきょく、その全文をのせることにしたのです。

それは長い文章でしたが、意味をかいつまんでしるしますと、

「わたしはかねて、博物館襲撃の日を十二月十日と予告しておいたが、もっと正確に約束するほうが、いっそう男らしいと感じたので、ここに東京都民諸君の前に、その時間を通告する。

それは『十二月十日午後四時』である。

博物館長も警視総監も、できるかぎりの警戒をしていただきたい。警戒がげんじゅうであればあるほど、わたしの冒険はそのかがやきをますであろう。」

ああ、なんたることでしょう。日づけを予告するだけでも、おどろくべき大胆さですのに、そのうえ時間まではっきりと公表してしまったのです。そして、博物館長や警視総監に失礼せんばんな注意まであたえているのです。

これを読んだ都民のおどろきは申すまでもありません。今までは、そんなばかばかしいことがと、あざわらっていた人々も、もう笑えなくなりました。

当時の博物館長は、史学界の大先輩、<ruby><rb>北小路</rb><rt>きたこうじ</rt></ruby>文学博士でしたが、そのえらい老学者さえも、賊の予告を本気にしないではいられなくなって、わざわざ警視庁に出向き、警戒方法について、警視総監といろいろ打ちあわせをしました。

いや、そればかりではありません。二十面相のことは、国務大臣方の閣議の話題にさえ、のぼりました。中でも総理大臣や法務大臣などは、心配のあまり、警視総監を別室にまねいて、激励のことばをあたえたほどです。

そして、全都民の不安のうちに、むなしく日がたって、とうとう十二月十日となりました。

国立博物館では、その日は早朝から、館長の北小路老博士をはじめとして、三人の係長、十人の書記、十六人の守衛や小使いが、ひとり残らず出勤して、それぞれ警戒の部署につきました。

むろん当日は、表門をとじて、観覧禁止です。

警視庁からは、中村捜査係長のひきいる<ruby><rb>選</rb><rt>え</rt></ruby>りすぐった警官隊五十人が出張して、博物館の表門、裏門、塀のまわり、館内の要所要所にがんばって、アリのはいいるすきまもない大警戒陣です。

午後三時半、あますところわずかに三十分、警戒陣はものものしく<ruby><rb>殺気</rb><rt>さっき</rt></ruby>だってきました。

そこへ警視庁の大型自動車が到着して、警視総監が、刑事部長をしたがえてあらわれました。総監は、心配のあまり、もうじっとしていられなくなったのです。総監自身の目で、博物館を見守っていなければ、がまんができなくなったのです。

総監たちは一同の警戒ぶりを視察したうえ、館長室に通って北小路博士に面会しました。

「わざわざ、あなたがお出かけくださるとは思いませんでした。恐縮です。」

老博士があいさつしますと、総監は、少しきまりわるそうに笑ってみせました。

「いや、おはずかしいことですが、じっとしていられませんでね。たかが一盗賊のために、これほどのさわぎをしなければならないとは、じつに恥辱です。わしは警視庁にはいって以来、こんなひどい恥辱を受けたことははじめてです。」

「アハハ……。」老博士は力なく笑って、「わたしも同様です。あの<ruby><rb>青二才</rb><rt>あおにさい</rt></ruby>の盗賊のために、一週間というもの、不眠症にかかっておるのですからな。」

「しかし、もうあますところ二十分ほどですよ。え、北小路さん、まさか二十分のあいだに、このげんじゅうな警戒をやぶって、たくさんの美術品をぬすみだすなんて、いくら魔法使いでも、少しむずかしい芸当じゃありますまいか。」

「わかりません。わしには魔法使いのことはわかりません。ただ一刻も早く四時がすぎさってくれればよいと思うばかりです。」

老博士は、おこったような口調でいいました。あまりのことに、二十面相の話をするのも腹だたしいのでしょう。

室内の三人は、それきりだまりこんで、ただ壁の時計とにらめっこするばかりでした。

金モールいかめしい制服につつまれた、相撲とりのようにりっぱな体格の警視総監、中肉中背で、八字ひげの美しい刑事部長、背広姿でツルのようにやせた<ruby><rb>白髪白髯</rb><rt>はくはつはくぜん</rt></ruby>の北小路博士、その三人がそれぞれ安楽イスにこしかけて、チラチラと、時計の針をながめているようすは、ものものしいというよりは、何かしら奇妙な、場所にそぐわぬ光景でした。そうして十数分が経過したとき、沈黙にたえかねた刑事部長が、とつぜん口を切りました。

「ああ、明智君は、いったいどうしているんでしょうね。わたしは、あの男とは懇意にしていたんですが、どうもふしぎですよ。今までの経験から考えても、こんな失策をやる男ではないのですがね。」

そのことばに、総監は太ったからだをねじまげるようにして、部下の顔を見ました。

「きみたちは、明智明智と、まるであの男を崇拝でもしているようなことをいうが、ぼくは不賛成だね。いくらえらいといっても、たかが一民間探偵じゃないか。どれほどのことができるものか。ひとりの力で二十面相をとらえてみせるなどといっていたそうだが、広言がすぎるよ。こんどの失敗は、あの男にはよい薬じゃろう。」

「ですが、明智君のこれまでの功績を考えますと、いちがいにそうもいいきれないのです。今も外で中村君と話したことですが、こんなさい、あの男がいてくれたらと思いますよ。」

刑事部長のことばが終わるか終わらぬときでした。館長室のドアがしずかにひらかれて、ひとりの人物があらわれました。

「明智はここにおります。」

その人物がにこにこ笑いながら、よく通る声でいったのです。

「おお、明智君！」

刑事部長がイスからとびあがってさけびました。

それは、かっこうのよい黒の背広をピッタリと身につけ、頭の毛をモジャモジャにした、いつにかわらぬ明智小五郎その人でした。

「明智君、きみはどうして……。」

「それはあとでお話します。今は、もっとたいせつなことがあるのです。」

「むろん、美術品の盗難はふせがなくてはならんが。」

「いや、それはもうおそいのです。ごらんなさい。約束の時間は過ぎました。」

明智のことばに、館長も、総監も、刑事部長もいっせいに壁の電気時計を見あげました。いかにも、長針はもう十二時のところをすぎているのです。

「おやおや、すると二十面相は、うそをついたわけかな。館内には、べつに異状もないようだが……。」

「ああ、そうです。約束の四時はすぎたのです。あいつ、やっぱり手出しができなかったのです。」

刑事部長が<ruby><rb>凱歌</rb><rt>がいか</rt></ruby>をあげるようにさけびました。

「いや、賊は約束を守りました。この博物館は、もうからっぽも同様です。」

明智が、おもおもしい口調でいいました。

## 名探偵の狼藉

「え、え、きみは何をいっているんだ。何もぬすまれてなんかいやしないじゃないか。ぼくは、つい今しがた、この目で陳列室をずっと見まわってきたばかりなんだぜ。それに、博物館のまわりには、五十人の警官が配置してあるんだ。ぼくのところの警官たちはめくらじゃないんだからね。」

警視総監は、明智をにらみつけて、腹だたしげにどなりました。

「ところが、すっかりぬすみだされているのです。二十面相は例によって魔法を使いました。なんでしたら、ごいっしょにしらべてみようではありませんか。」

明智は、しずかに答えました。

「フーン、きみはたしかにぬすまれたというんだね。よし、それじゃ、みんなでしらべてみよう。館長、この男のいうのがほんとうかどうか、ともかく陳列室へ行ってみようじゃありませんか。」

まさか明智がうそをいっているとも思えませんので、総監も一度しらべてみる気になったのです。

「それがいいでしょう。さあ、北小路先生もごいっしょにまいりましょう。」

明智は白髪白髯の老館長にニッコリほほえみかけながら、うながしました。

そこで、四人は、つれだって館長室を出ると、廊下づたいに本館の陳列場のほうへはいっていきましたが、明智は北小路館長の老体をいたわるようにその手を取って、先頭に立つのでした。

「明智君、きみは夢でも見たんじゃないか。どこにも異状はないじゃないか。」

陳列場にはいるやいなや、刑事部長がさけびました。

いかにも部長のいうとおり、ガラス張りの陳列棚の中には、国宝の仏像がズラッとならんでいて、べつになくなった品もないようすです。

「これですか。」

明智は、その仏像の陳列棚を指さして、意味ありげに部長の顔を見かえしながら、そこに立っていた守衛に声をかけました。

「このガラス戸をひらいてくれたまえ。」

守衛は、明智小五郎を見知りませんでしたけれど、館長や警視総監といっしょだものですから、命令に応じて、すぐさま持っていたかぎで、大きなガラス戸を、ガラガラとひらきました。

すると、そのつぎのしゅんかん、じつに異様なことがおこったのです。

ああ、明智探偵は、気でもちがったのでしょうか。彼は、広い陳列棚の中へはいって行ったかと思うと、中でもいちばん大きい、木彫りの古代仏像に近づき、いきなり、そのかっこうのよい腕を、ポキンと折ってしまったではありませんか。

しかもそのすばやいこと、三人の人たちが、あっけにとられ、とめるのもわすれて、目を見はっているまに、同じ陳列棚の、どれもこれも国宝ばかりの五つの仏像を、つぎからつぎへと、たちまちのうちに、片っぱしからとりかえしのつかぬ傷ものにしてしまいました。

あるものは腕を折られ、あるものは首をひきちぎられ、あるものは指をひきちぎられて、見るもむざんなありさまです。

「明智君、なにをする。おい、いけない。よさんか。」

総監と刑事部長とが、声をそろえてどなりつけるのを聞きながして、明智はサッと陳列棚を飛びだすと、また、さいぜんのように老館長のそばへより、その手をにぎって、にこにこと笑っているのです。

「おい、明智君いったい、どうしたというんだ。らんぼうにもほどがあるじゃないか。これは博物館の中でもいちばん貴重な国宝ばかりなんだぞ。」

まっかになっておこった刑事部長は、両手をふりあげて、今にも明智につかみかからんばかりのありさまです。

「ハハハ……。これが国宝だってあなたの目はどこについているんです。よく見てください。今ぼくが折りとった仏像の傷口を、よくしらべてください。」

明智の確信にみちた口調に、刑事部長は、ハッとしたように、仏像に近づいて、その傷口をながめまわしました。

すると、どうでしょう。首をもがれ、手を折られたあとの傷口からは、外見の黒ずんだ古めかしい色あいとは似ても似つかない、まだなまなましい白い<ruby><rb>木口</rb><rt>きぐち</rt></ruby>が、のぞいていたではありませんか。奈良時代の彫刻に、こんな新しい材料が使われているはずはありません。

「すると、きみは、この仏像がにせものだというのか。」

「そうですとも、あなた方に、もう少し美術眼がありさえすれば、こんな傷口をこしらえてみるまでもなく、ひと目でにせものとわかったはずです。新しい木で模造品を作って、外から塗料をぬって古い仏像のように見せかけたのですよ。模造品専門の職人の手にかけさえすれば、わけなくできるのです。」

明智は、こともなげに説明しました。

「北小路さん、これはいったい、どうしたことでしょう。国立博物館の陳列品が、まっかなにせものだなんて……。」

警視総監が老館長をなじるようにいいました。

「あきれました。あきれたことです。」

明智に手をとられて、ぼうぜんとたたずんでいた老博士が、ろうばいしながら、てれかくしのように答えました。

そこへ、さわぎを聞きつけて、三人の館員があわただしくはいってきました。その中のひとりは、古代美術鑑定の専門家で、その方面の係長をつとめている人でしたが、こわれた仏像をひと目見ると、さすがにたちまち気づいてさけびました。

「アッ、これはみんな模造品だ。しかし、へんですね。きのうまでは、たしかにほんものがここにおいてあったのですよ。わたしはきのうの午後、この陳列棚の中へはいったのですから、まちがいありません。」

「すると、きのうまでほんものだったのが、きょうとつぜん、にせものとかわったというのだね。へんだな、いったい、これはどうしたというのだ。」

総監がキツネにつままれたような表情で、一同を見まわしました。

「まだおわかりになりませんか。つまり、この博物館の中は、すっかり、からっぽになってしまったということですよ。」

明智はこういいながら、向こうがわの別の陳列棚を指さしました。

「な、なんだって？　すると、きみは……。」

刑事部長が、思わずとんきょうな声をたてました。

さいぜんの館員は、明智のことばの意味をさとったのか、ツカツカとその棚の前に近づいて、ガラスに顔をくっつけるようにして、中にかけならべた黒ずんだ仏画を<ruby><rb>凝視</rb><rt>ぎょうし</rt></ruby>しました。そして、たちまちさけびだすのでした。

「アッ、これも、これも、あれも、館長、館長、この中の絵は、みんなにせものです。一つ残らずにせものです。」

「ほかの棚をしらべてくれたまえ。早く、早く。」

刑事部長のことばを待つまでもなく、三人の館員は、口々に何かわめきながら、気ちがいのように陳列棚から陳列棚へと、のぞきまわりました。

「にせものです。めぼしい美術品は、どれもこれも、すっかり模造品です。」

それから、彼らはころがるように、階下の陳列場へおりていきましたが、しばらくして、もとの二階へもどってきたときには、館員の人数は、十人以上にふえていました。そして、だれもかれも、もうまっかになって憤慨しているのです。

「下も同じことです。のこっているのはつまらないものばかりです。貴重品という貴重品は、すっかりにせものです……。しかし、館長、今もみんなと話したのですが、じつにふしぎというほかはありません。きのうまでは、たしかに、模造品なんて一つもなかったのです。それぞれ受持のものが、その点は自信をもって断言しています。それが、たった一日のうちに、大小百何点という美術品が、まるで魔法のように、にせものにかわってしまったのです。」

館員は、くやしさに地だんだをふむようにしてさけびました。

「明智君、われわれはまたしてもやつのために、まんまとやられたらしいね。」

総監が、沈痛なおももちで名探偵をかえりみました。

「そうです。博物館は、二十面相のために<ruby><rb>盗奪</rb><rt>とうだつ</rt></ruby>されたのです。それは、さいしょに申しあげたとおりです。」

大ぜいの中で、明智だけは、少しもとりみだしたところもなく、口もとに<ruby><rb>微笑</rb><rt>びしょう</rt></ruby>さえうかべているのでした。

そして、あまりの打撃に、立っている力もないかと見える老館長を、はげますように、しっかりその手をにぎっていました。

## 種明し

「ですが、わたしどもには、どうもわけがわからないのです。あれだけの美術品を、たった一日のあいだに、にせものとすりかえるなんて、人間わざでできることではありません。まあ、にせもののほうは、まえまえから、美術学生かなんかに化けて観覧に来て、絵図を書いていけば、模造できないことはありませんけれど、それをどうして入れかえたかが問題です。まったくわけがわかりません。」

館員は、まるでむずかしい数学の問題にでもぶっつかったようにしきりに小首をかたむけています。

「きのうの夕方までは、たしかに、みんなほんものだったのだね。」

総監がたずねますと、館員たちは、確信にみちたようすで、

「それはもう、けっしてまちがいございません。」と、口をそろえて答えるのです。

「すると、おそらくゆうべの夜中あたりに、どうかして二十面相一味のものが、ここへしのびこんだのかもしれんね。」

「いや、そんなことは、できるはずがございません。表門も裏門も塀のまわりも、大ぜいのおまわりさんが、徹夜で見はっていてくだすったのです。館内にも、ゆうべは館長さんと三人の宿直員が、ずっとつめきっていたのです。そのげんじゅうな見はりの中をくぐって、あのおびただしい美術品を、どうして持ちこんだり、運びだしたりできるものですか。まったく人間わざではできないことです。」

館員は、あくまでいいました。

「わからん、じつにふしぎだ……。しかし、二十面相のやつ、広言したほど男らしくもなかったですね。あらかじめ、にせものとおきかえておいて、さあ、このとおりぬすみましたというのじゃ、十日の午後四時なんて予告は、まったく無意味ですからね。」

刑事部長は、くやしまぎれに、そんなことでも言ってみないではいられませんでした。

「ところが、けっして無意味ではなかったのです。」

明智小五郎が、まるで二十面相を弁護でもするようにいいました。彼は老館長北小路博士と、さも仲よしのように、ずっと、さいぜんから手をにぎりあったままなのです。

「ホウ、無意味でなかったって？　それはいったい、どういうことなんだね。」

警視総監が、ふしぎそうに名探偵の顔を見て、たずねました。

「あれをごらんください。」

すると明智は窓に近づいて、博物館の裏手のあき地を指さしました。

「ぼくが十二月十日ごろまで、待たなければならなかった秘密というのは、あれなのです。」

そのあき地には、博物館創立当時からの、古い日本建ての館員宿直室が建っていたのですが、それが不用になって、数日前から、<ruby><rb>家屋</rb><rt>かおく</rt></ruby>のとりこわしをはじめ、もうほとんど、とりこわしも終わって、古材木や、屋根がわらなどが、あっちこっちにつみあげてあるのです。

「古家をとりこわしたんだね。しかし、あれと二十面相の事件と、いったい、なんの関係があるんです。」

刑事部長は、びっくりしたように明智を見ました。

「どんな関係があるか、じきわかりますよ……。どなたか、お手数ですが、中にいる中村警部に、きょう昼ごろ裏門の番をしていた警官をつれて、いそいでここへ来てくれるように、お伝えくださいませんか。」

明智のさしずに、館員のひとりが、何かわけがわからぬながら、大急ぎで階下へおりていきましたが、まもなく中村捜査係長とひとりの警官をともなって帰ってきました。

「きみが、昼ごろ裏門のところにいた方ですか。」

明智がさっそくたずねますと、警官は総監の前だものですから、ひどくあらたまって、直立不動の姿勢で、「そうです。」と答えました。

「では、きょう正午から一時ごろまでのあいだに、トラックが一台、裏門を出ていくのを見たでしょう。」

「はあ、おたずねになっているのは、あのとりこわし家屋の古材木をつんだトラックのことではありませんか。」

「そうです。」

「それならば、たしかに通りました。」

警官は、あの古材木がどうしたんです、といわぬばかりの顔つきです。

「みなさんおわかりになりましたか。これが賊の魔法の種です。うわべは古材木ばかりのように見えていて、そのじつ、あのトラックには、盗難の美術品がぜんぶつみこんであったのですよ。」

明智は一同を見まわして、おどろくべき<ruby><rb>種明</rb><rt>たねあか</rt></ruby>しをしました。

「すると、とりこわしの人夫の中に賊の<ruby><rb>手下</rb><rt>てした</rt></ruby>がまじっていたというのですか。」

中村係長は、目をパチパチさせて聞きかえしました。

「そうです。まじっていたのではなくて、人夫ぜんぶが賊の手下だったのかもしれません。二十面相は早くから<ruby><rb>万端</rb><rt>ばんたん</rt></ruby>の準備をととのえて、この絶好の機会を待っていたのです。家屋のとりこわしは、たしか十二月五日からはじまったのでしたね。その着手期日は、三月も四月もまえから、関係者にはわかっていたはずです。そうすれば、十日ごろはちょうど古材木運びだしの日にあたるじゃありませんか。予告の十二月十日という日づけは、こういうところから割りだされたのです。また午後四時というのは、ほんものの美術品がちゃんと賊の巣くつに運ばれてしまって、もうにせものがわかってもさしつかえないという時間を意味したのです。」

ああ、なんという用意周到な計画だったでしょう。二十面相の魔術には、いつのときも、一般の人の思いもおよばないしかけが、ちゃんと用意してあるのです。

「しかし明智君、たとえ、そんな方法で運びだすことはできたとしても、まだ賊が、どうして陳列室へはいったか、いつのまに、ほんものとにせものとおきかえたかというなぞは、解けませんね。」

刑事部長が明智のことばを信じかねるようにいうのです。

「おきかえは、きのうの夜ふけにやりました。」

明智は、何もかも知りぬいているような口調で語りつづけます。

「賊の部下が化けた人夫たちは、毎日ここへ仕事へ来るときに、にせものの美術品を少しずつ運びいれました。絵は細く巻いて、仏像は分解して手、足、首、胴とべつべつにむしろ包みにして、大工道具といっしょに持ちこめば、うたがわれる気づかいはありません。みな、ぬすみだされることばかり警戒しているのですから、持ちこむものに注意なんかしませんからね。そして、<ruby><rb>贋造品</rb><rt>がんぞうひん</rt></ruby>はぜんぶ、古材木の山におおいかくされて、ゆうべの夜ふけを待っていたのです。」

「だが、それをだれが陳列室へおきかえたのです。人夫たちは、みな夕方帰ってしまうじゃありませんか。たとえそのうち何人かが、こっそり構内にのこっていたとしても、どうして陳列室へはいることができます。夜はすっかり出入り口がとざされてしまうのです。館内には、館長さんや三人の宿直員が、<ruby><rb>一睡</rb><rt>いっすい</rt></ruby>もしないで見はっていました。その人たちに知れぬように、あのたくさんの品物をおきかえるなんて、まったく不可能じゃありませんか。」

館員のひとりが、じつにもっともな質問をしました。

「それにはまた、じつに大胆不敵な手段が、用意してあったのです。ゆうべの三人の宿直員というのは、けさ、それぞれ自宅へ帰ったのでしょう。ひとつその三人の自宅へ電話をかけて、主人が帰ったかどうか、たしかめてみてください。」

明智がまたしてもみょうなことをいいだしました。三人の宿直員は、だれも電話をもっていませんでしたが、それぞれ付近の商家に呼びだし電話が通じますので、館員のひとりがさっそく電話をかけてみますと、三人が三人とも、ゆうべ以来まだ自宅へ帰っていないことがわかりました。宿直員たちの家庭では、こんな事件のさいですから、きょうも、とめおかれているのだろうと、安心していたというのです。

「三人が博物館を出てからもう八―九時間もたつのに、そろいもそろって、まだ帰宅していないというのは、少しおかしいじゃありませんか。ゆうべ徹夜をした、つかれたからだで、まさか遊びまわっているわけではありますまい。なぜ三人が帰らなかったのか、この意味がおわかりですか。」

明智は、また一同の顔をグルッと見まわしておいて、ことばをつづけました。

「ほかでもありません。三人は、二十面相一味のために誘かいされたのです。」

「え、誘かいされた？　それはいつのことです。」

館員がさけびました。

「きのうの夕方、三人がそれぞれ夜勤をつとめるために、自宅を出たところをです。」

「え、え、きのうの夕方ですって？　じゃあ、ゆうべここにいた三人は……。」

「二十面相の部下でした。ほんとうの宿直員は賊の巣くつへおしこめておいて、そのかわりに賊の部下が博物館の宿直をつとめたのです。なんてわけのない話でしょう。賊が見はり番をつとめたんですから、にせものの美術品のおきかえなんて、じつに<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もないことだったのです。

みなさん、これが二十面相のやり口ですよ。人間わざではできそうもないことを、ちょっとした頭のはたらきで、やすやすとやってのけるのです。」

明智探偵は、二十面相の頭のよさをほめあげるようにいって、ずっと手をつないでいた館長北小路老博士の手首を痛いほど、ギュッとにぎりしめました。

「ウーン、あれが賊の手下だったのか。うかつじゃった。わしがうかつじゃった。」

老博士は白髯をふるわせて、さもくやしそうにうめきました。両眼がつりあがって、顔がまっさおになって、見るも恐ろしい<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>の<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>です。しかし、老博士は、三人のにせ者をどうして見やぶることができなかったのでしょう。二十面相なら知らぬこと、手下の三人が、館長にもわからないほどじょうずに変装していたなんて、考えられないことです。北小路博士ともあろう人が、そんなにやすやすとだまされるなんて、少しおかしくはないでしょうか。

## 怪盗捕縛

「だが、明智君。」

警視総監は、説明が終わるのを待ちかまえていたように、明智探偵にたずねました。

「きみはまるで、きみ自身が二十面相ででもあるように、美術品盗奪の順序をくわしく説明されたが、それはみんな、きみの想像なのかね。それとも、何かたしかなこんきょでもあるのかね。」

「もちろん、想像ではありません。ぼくはこの耳で、二十面相の部下から、いっさいの秘密を聞き知ったのです。今、聞いてきたばかりなのです。」

「え、え、なんだって？　きみは二十面相の部下に会ったのか。いったい、どこで？　どうして？」

さすがの警視総監も、この不意うちには、どぎもをぬかれてしまいました。

「二十面相の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>で会いました。総監閣下、あなたは、ぼくが二十面相のために誘かいされたことをごぞんじでしょう。ぼくの家庭でも世間でもそう考え、新聞もそう書いておりました。しかし、あれは、じつを申しますと、ぼくの計略にすぎなかったのです。ぼくは誘かいなんかされませんでした。かえって賊の味方になって、ある人物の誘かいを手つだってやったほどです。

昨年のことですが、ぼくはある日ひとりのふしぎな弟子入り志願者の訪問を受けました。ぼくはその男を見て、ひじょうにおどろきました。目の前に大きな鏡が立ったのではないかと<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しんだほどです。なぜかと申しますと、その弟子入り志願者は、背かっこうから、顔つきから、頭の毛のちぢれかたまで、このぼくと寸分ちがわないくらいよく似ていたからです。つまり、その男はぼくの影武者として、何かの場合のぼくの替え玉として、やとってほしいというのです。

ぼくは、だれにも知らせず、その男をやといいれて、あるところへ住まわせておきましたが、それがこんど役にたったのです。

ぼくはあの日外出して、その男の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>へ行き、すっかり服装をとりかえて、ぼくになりすましたその男を、先にぼくの事務所へ帰らせ、しばらくしてから、ぼく自身は浮浪人赤井寅三というものに化けて、明智事務所をたずね、ポーチのところで、自分の替え玉とちょっと格闘をして見せたのです。

賊の部下がそのようすを見て、すっかりぼくを信用しました。そして、それほど明智にうらみがあるなら、二十面相の部下になれとすすめてくれたのです。そういうわけで、ぼくは、ぼくの替え玉を誘かいするお手つだいをしたうえ、とうとう賊の巣くつにはいることができました。

しかし、二十面相のやつは、なかなかゆだんがなくて、仲間入りをしたその日から、ぼくを家の中の仕事ばかりに使い、一歩も外へ出してくれませんでした。むろん、博物館の美術品をぬすみだす手段など、ぼくには少しもうちあけてくれなかったのです。

そして、とうとう、きょうになってしまいました。ぼくはある決心をして、午後になるのを待ちかまえていました。すると、午後二時ごろ、賊の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>の地下室の入り口があいて、人夫の服装をしたたくさんの部下のものが、手に手に貴重な美術品をかかえて、ドカドカとおりてきました。むろん博物館の盗難品です。

ぼくは地下室にるす番をしているあいだに、酒、さかなの用意をしておきました。そして帰ってきた部下と、ぼくといっしょに残っていた部下と、ぜんぶのものに祝杯をすすめました。そこで部下たちは、大事業の成功したうれしさに、むちゅうになって<ruby><rb>酒</rb><rt>さか</rt></ruby>もりをはじめたのですが、やがて、三十分ほどもしますと、ひとりたおれ、ふたりたおれ、ついにはのこらず、気をうしなってたおれてしまいました。

なぜかとおっしゃるのですか。わかっているではありませんか。ぼくは賊の薬品室から麻酔剤をとりだして、あらかじめその酒の中へまぜておいたのです。

それから、ぼくはひとりそこをぬけだして、付近の警察署へかけつけ、事情を話して、二十面相の部下の逮捕と、地下室にかくしてあるぜんぶの盗難品の保管をおねがいしました。

お喜びください。盗難品は完全にとりもどすことができました。国立博物館の美術品も、あの気のどくな日下部老人の美術城の宝物も、そのほか、二十面相が今までにぬすみためた、すべての品物は、すっかりもとの所有者の手に返ります。」

明智の長い説明を、人々は酔ったように聞きほれていました。ああ、名探偵はその名にそむきませんでした。彼は人々の前に広言したとおり、たったひとりの力で、賊の巣くつをつきとめ、すべての盗難品をとりかえし、あまたの悪人をとらえたのです。

「明智君、よくやった。よくやった。わしはこれまで、少しきみを見あやまっていたようだ。わしからあつくお礼を申します。」

警視総監は、いきなり名探偵のそばへよって、その左手をにぎりました。

なぜ左手をにぎったのでしょう。それは明智の右手がふさがっていたからです。その右手は、いまだに老博物館長の手と、しっかりにぎりあわされていたからです。みょうですね。明智はどうしてそんなに老博士の手ばかりにぎっているのでしょう。

「で、二十面相のやつも、その麻酔薬を飲んだのかね。きみはさいぜんから部下のことばかりいって、一度も二十面相の名を出さなかったが、まさか首領をとりにがしたのではあるまいね。」

中村捜査係長が、ふとそれに気づいて、心配らしくたずねました。

「いや、二十面相は地下室へは、帰ってこなかったよ。しかし、ぼくは、あいつもちゃんととらえている。」

明智はにこにこと、例の人をひきつける笑い顔で答えました。

「どこにいるんだ。いったいどこでとらえたんだ。」

中村警部が、<ruby><rb>性急</rb><rt>せいきゅう</rt></ruby>にたずねました。ほかの人たちも、総監をはじめ、じっと名探偵の顔を見つめて、返事を待ちかまえています。

「ここでつかまえたのさ。」

明智は落ちつきはらって答えました。

「ここで？　じゃあ、今はどこにいるんだ。」

「ここにいるよ。」

ああ、明智は何をいおうとしているのでしょう。

「ぼくは二十面相のことをいっているんだぜ。」

警部が、けげん顔で聞きかえしました。

「ぼくも二十面相のことをいっているのさ。」

明智が、おうむがえしに答えました。

「なぞみたいないい方はよしたまえ。ここには、われわれが知っている人ばかりじゃないか。それともきみは、この部屋の中に、二十面相がかくれているとでもいうのかね。」

「まあ、そうだよ。ひとつ、そのしょうこをお目にかけようか……。どなたか、たびたびごめんどうですが、下の応接間に四人のお客さまが待たせてあるんですが、その人たちをここへ呼んでくださいませんか。」

明智は、またまた意外なことをいいだすのです。

館員のひとりが、急いで下へおりていきました。そして、待つほどもなく、階段に大ぜいの足音がして、四人のお客さまという人々が、一同の前に立ちあらわれました。

それを見ますと、一座の人たちは、あまりのおどろきに、「アッ。」とさけび声をたてないではいられませんでした。

まず四人の先頭に立つ白髪白髯の老紳士をごらんなさい。それは、まぎれもない北小路文学博士だったではありませんか。

つづく三人は、いずれも博物館員で、きのうの夕方からゆくえ不明になっていた人びとです。

「この<ruby><rb>方々</rb><rt>かたがた</rt></ruby>は、ぼくが二十面相の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かくれが</span>から救いだしてきたのですよ。」

明智が説明しました。

しかし、これはまあ、どうしたというのでしょう。博物館長の北小路博士がふたりになったではありませんか。

ひとりは今、階下からあがってきた北小路博士、もうひとりは、さいぜんからズッと明智に手をとられていた北小路博士。

服装から<ruby><rb>顔形</rb><rt>かおかたち</rt></ruby>まで寸分ちがわない、ふたりの老博士が、顔と顔を見あわせて、にらみあいました。

「みなさん、二十面相が、どんなに変装の名人かということが、おわかりになりましたか。」

明智探偵はさけぶやいなや、いままで親切らしくにぎっていた老人の手を、いきなりうしろにねじあげて、床の上に組みふせたかと思うと、白髪のかつらと、白いつけひげとを、なんなくむしりとってしまいました。その下からあらわれたのは、黒々とした髪の毛と、若々しいなめらかな顔でした。いうまでもなく、これこそ正真正銘の二十面相その人でありました。

「ハハハ……、二十面相君、ご苦労さまだったねえ。さいぜんからきみはずいぶん苦しかっただろう。目の前できみの秘密が、みるみるばくろしていくのを、じっとがまんして、何くわぬ顔できいていなければならなかったのだからね。逃げようにも、この大ぜいの前では逃げだすわけにもいかない。いや、それよりも、ぼくの手が、<ruby><rb>手錠</rb><rt>てじょう</rt></ruby>のかわりに、きみの手首をにぎりつづけていたんだからね。手首がしびれやしなかったかい。まあ、かんべんしたまえ、ぼくは少しきみをいじめすぎたかもしれないね。」

明智は、無言のままうなだれている二十面相を、さもあわれむように見おろしながら、皮肉ななぐさめのことばをかけました。

それにしても、館長に化けた二十面相は、なぜもっと早く逃げださなかったのでしょう。ゆうべのうちに、目的ははたしてしまったのですから、三人の替え玉の館員といっしょに、サッサと引きあげてしまえば、こんなはずかしい目に会わなくてもすんだのでしょうに。

しかし、読者諸君、そこが二十面相なのです。逃げだしもしないで、ずうずうしく居のこっていたところが、いかにも二十面相らしいやり口なのです。彼は、警察の人たちがにせ物の美術品にびっくりするところが見物したかったのです。

もし、明智があらわれるようなことがおこらなかったら、館長自身がちょうど午後四時に盗難に気づいたふうをよそおって、みんなをアッといわせるもくろみだったにちがいありません。いかにも二十面相らしい冒険ではありませんか。でも、その冒険がすぎて、ついに、とりかえしのつかない失策をえんじてしまったのでした。

さて明智探偵は、キッと警視総監のほうに向きなおって、

「閣下、では怪盗二十面相をおひきわたしいたします。」

と、しかつめらしくいって、一礼しました。

一同あまりに意外な場面に、ただもうあっけにとられて、名探偵のすばらしい手がらをほめたたえることもわすれて、身動きもせず立ちすくんでいましたが、やがて、ハッと気をとりなおした中村捜査係長は、ツカツカと二十面相のそばへ進みより、用意の捕縄をとりだしたかとみますと、みごとな手ぎわで、たちまち賊をうしろ手にいましめてしまいました。

「明智君、ありがとう。きみのおかげで、ぼくはうらみかさなる二十面相に、こんどこそ、ほんとうになわをかけることができた。こんなうれしいことはないよ。」

中村係長の目には、感謝の涙が光っていました。

「それでは、ぼくはこいつを連れていって、表にいる警官諸君を喜ばせてやりましょう……。さあ、二十面相、立つんだ。」

係長はうなだれた怪盗をひきたてて、一同に会釈しますと、かたわらにたたずんでいた、さいぜんの警官とともに、いそいそと階段をおりていくのでした。

博物館の表門には、十数名の警官がむらがっていました。今しも建物の正面入り口から、二十面相のなわじりをとった係長があらわれたのを見ますと、先をあらそって、そのそばへかけよりました。

「諸君、喜んでくれたまえ。明智君の<ruby><rb>尽力</rb><rt>じんりょく</rt></ruby>で、とうとうこいつをつかまえたぞ。これが二十面相の首領だ。」

係長がほこらしげに報告しますと、警官たちのあいだに、ドッと、ときの声があがりました。

二十面相はみじめでした。さすがの怪盗もいよいよ運のつきと観念したのか、いつものずうずうしい笑顔を見せる力もなく、さも神妙にうなだれたまま、顔をあげる元気さえありません。

それから、一同、賊をまんなかに行列をつくって、表門を出ました。門の外は公園の森のような木立ちです。その木立ちの向こうに、二台の警察自動車が見えます。

「おい、だれかあの車を一台、ここへ呼んでくれたまえ。」

係長の命令に、ひとりの警官が、警棒をにぎってかけだしました。一同の視線がそのあとを追って、はるかの自動車にそそがれます。

警官たちは賊の神妙なようすに安心しきっていたのです。中村係長も、つい自動車のほうへ気をとられていました。

いっせつな、ふしぎに人々の目が賊をはなれたのです。賊にとっては絶好の機会でした。

二十面相は、歯を食いしばって、満身の力をこめて、中村係長のにぎっていたなわじりを、パッとふりはなしました。

「ウム、待てッ。」

係長がさけんで立ちなおったときには、賊はもう十メートルほど向こうを、矢のように走っていました。うしろ手にしばられたままの奇妙な姿が、今にもころがりそうなかっこうで森の中へとんでいきます。

森の入り口に、散歩の帰りらしい十人ほどの、小学生たちが、立ちどまって、このようすをながめていました。

二十面相は走りながら、じゃまっけな小僧どもがいるわいと思いましたが、森へ逃げこむには、そこを通らぬわけにはいきません。

なあに、たかのしれた子どもたち、おれのおそろしい顔を見たら、おそれをなして逃げだすにきまっている。もし逃げなかったら、<ruby><rb>蹴</rb><rt>け</rt></ruby>ちらして通るまでだ。

賊はとっさに思案して、かまわず小学生のむれに向かって突進しました。

ところが、二十面相のおもわくはガラリとはずれて、小学生たちは、逃げだすどころか、ワッとさけんで、賊のほうへとびかかってきたではありませんか。

読者諸君は、もうおわかりでしょう。この小学生たちは、小林芳雄君を団長にいただく、あの少年探偵団でありました。少年たちはもう長いあいだ、博物館のまわりを歩きまわって、何かのときの手助けをしようと、手ぐすねひいて待ちかまえていたのでした。

まず先頭の小林少年が二十面相を目がけて、鉄砲玉のようにとびついていきました。つづいて羽柴壮二少年、つぎはだれ、つぎはだれと、みるみる、賊の上に折りかさなって、両手の不自由な相手を、たちまちそこへころがしてしまいました。

さすがの二十面相も、いよいよ運のつきでした。

「ああ、ありがとう、きみたちは勇敢だねえ。」

かけつけてきた中村係長が少年たちにお礼をいって、部下の警官と力をあわせ、こんどこそとり逃がさぬように、賊をひったてて、ちょうどそこへやってきた警察自動車のほうへつれていきました。

そのとき、門内から、黒い背広のひとりの紳士があらわれました。さわぎを知って、かけだしてきた明智探偵です。小林少年は目早く、先生のぶじな姿を見つけますと、<ruby><rb>驚喜</rb><rt>きょうき</rt></ruby>のさけび声をたてて、そのそばへかけよりました。

「おお、小林君。」

明智探偵も、思わず少年の名を呼んで、両手をひろげ、かけだしてきた小林君を、その中にだきしめました。美しい、ほこらしい光景でした。この、うらやましいほど親密な先生と弟子とは、力をあわせて、ついに怪盗逮捕の目的をたっしたのです。そして、おたがいのぶじを喜び、苦労をねぎらいあっているのです。

立ちならぶ警官たちも、この美しい光景にうたれて、にこやかに、しかし、しんみりした気持で、ふたりのようすをながめていました。少年探偵団の十人の小学生は、もうがまんができませんでした。だれが<ruby><rb>音頭</rb><rt>おんど</rt></ruby>をとるともなく、<ruby><rb>期</rb><rt>き</rt></ruby>せずしてみんなの両手が、高く空にあがりました。そして一同、かわいらしい声をそろえて、くりかえしくりかえしさけぶのでした。

「明智先生、ばんざーい。」

「小林団長、ばんざーい。」