## 一

「あ、八五郎親分じゃありませんか」

江の島へ行った帰り、遅くもないのに、<ruby><rb>土蔵相模</rb><rt>どぞうさがみ</rt></ruby>で一と晩遊んだ町内の若い者が五六人、スッカラカンになって、<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>の大木戸を越すと、いきなり声を掛けたものがあります。

「誰だい、俺を呼んだのは」

振り返ると、海から昇った朝陽を浴びて、バタバタと駆けてきた女が一人、一行の前に廻って、大手を拡げるではありませんか。

「<ruby><rb>巴屋</rb><rt>ともえや</rt></ruby>のお六よ、忘れたじゃ済まないでしょう。家は、大変な騒ぎ」

女は遅立ちの旅人が、眼を<ruby><rb>聳</rb><rt>そばだ</rt></ruby>てるのも構わず、八五郎の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を取ってグイグイと引くのです。

「待ってくれ、無暗に引っ張ると、袖口がほころびる。家へ帰ると、叔母さんに叱られる」

「冗談じゃない。紅白粉で、<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を着た叔母さんがあってたまるものか。此方には人殺しがあって二三人縛られかけているんだから、来て下さいよ、親分。何んのために十手なんかブラさげて、江の島詣りをするんだい」

女はまくし立てて、八五郎を引摺るのです。高輪車町の巴屋というのは、江戸の土産物も売り、店では一杯飲ませて、中食も<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めさせますが、横へ廻ると立派な<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>屋で、土地も家作も持ち、車町から金杉へかけての、物持として有名な家でした。

一昨日江戸を発つとき、巴屋へ押し上がって、旅の前祝いの大騒ぎをやらかし、二人の女中、お六とお梅というのを、散々からかったことは、八五郎も忘れる筈はなく、相手のお六も、品川から朝立ちで、江戸へ戻ってきた賑やかな旅人の中から、八五郎の長んがい<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を見付けたのも無理のないことでした。

「人殺しは<ruby><rb>穏</rb><rt>おだや</rt></ruby>かじゃねえ。誰がどうしたんだ」

「旦那が殺されたんですよ。金杉の竹松親分が乗り込んで来て、ギョロギョロ<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>め廻しているから、気味が悪くて皆んな<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え上がっていますよ。八五郎親分なら、地蔵様でも縛って行って下さるわねえ」

三日前の晩の、羽目を外した騒ぎを知っているので、お六はすっかり八五郎を甘く見ている様子です。尤も、神田を発ったのは遅かったにしても、<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>があるとか何んとか、仲間の者に誘われて、高輪で宿を取ってしまい、『おいとこそうだ』に『炭坑節』『トンコ節』から『東京ブギ』の<ruby><rb>類</rb><rt>たぐ</rt></ruby>いまで踊ったり唄ったり、あらゆる<ruby><rb>酔態</rb><rt>すいたい</rt></ruby>を見せた一行の、オンド取りの八五郎が、お六に甘く見られたのも無理のないことでした。

このお六というのは、渡り者の大年増で、<ruby><rb>中低</rb><rt>なかびく</rt></ruby>で<ruby><rb>盤台面</rb><rt>ばんだいづら</rt></ruby>の、非凡の愛嬌者で、高輪の往来――<ruby><rb>遅発</rb><rt>おそだち</rt></ruby>の旅人の、好奇の眼を見張る中から、八五郎をしょっ引いて、巴屋の店に飛び込むほどの勇気と腕力を持っていたのです。

入って見ると、巴屋は表戸をおろしたまま、中の騒ぎは大変でした。主人<ruby><rb>山三郎</rb><rt>さんざぶろう</rt></ruby>は、裏庭の<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>下に、石の地蔵様を抱いたまま転げ落ちて、そのうえ、<ruby><rb>刺身庖丁</rb><rt>さしみぼうちょう</rt></ruby>で首筋を深々と刺され、さらに、<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の前掛で顔を包んで、<ruby><rb>真田紐</rb><rt>さなだひも</rt></ruby>でその上を、耳から眼、鼻へかけて縛ってあるのです。

「おや、向柳原の八五郎<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>じゃねえか」

暗い中から光った眼は、金杉の竹松という、四十年配の顔の良い御用聞でした。

「金杉の親分ですかえ。江の島の帰り、騒ぎがあると聴いて覗きました。見せて頂くと、神田へ帰って、銭形の親分に、飛んだ良い土産話になります」

八五郎も近頃は、こんな世辞が言えるようになったのです。

「そうか、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>も底もねえような殺しで、大方下手人の見当もついたようだ。<ruby><rb>貝細工</rb><rt>かいざいく</rt></ruby>よりは、気のきいた土産になるかも知れないよ。見るが宜い」

金杉の竹松はすっかり良い心持になった様子で、<ruby><rb>金壺眼</rb><rt>かなつぼまなこ</rt></ruby>を細めます。

主人山三郎の死体は、裏の一と間に納め、<ruby><rb>香華</rb><rt>こうげ</rt></ruby>だけは供えましたが、まだ仏前の用意も、入棺の手順もつかず、大勢の家族と奉公人と、町役人と近所の衆が、ザワザワ騒ぐだけ。

「幸いと申しましょうか、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は一人も客がなく、――尤もここは江戸の内と申しても、海道の入口ですから、泊りのお客は滅多にございません。奉公人たちも早寝をして、今朝はいつも早起きの<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>が、雨戸を開けて庭を覗くと、――主人が崖下の裏庭に転げていたんだそうで。前掛で顔を被って、崖の中腹に<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりゅう</rt></ruby>してあった、地蔵様を抱いて、――」

番頭の勘三郎は金杉の竹松に代って、八五郎に説明してくれました。三十五六のこれはなかなかの好い男で、道楽強そうですが、ハキハキした口調から察すると、なかなかの働き者でもありそうです。

## 二

八五郎が、明神下の平次のところへ、この報告を持って来たのは、その日の夕方でした。

「石地蔵と心中は、神武以来でしょう。五十男の巴屋山三郎が、何んの物好きで――」

「待ってくれよ、八。山三郎は女房持ちだと言ったな」

平次は問いを挟みました。

「お滝という五十前後だが、こいつは良い<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>ですよ。山三郎は入<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>ですが、内儀の若い時は、上り下りの客が、巴屋で休んで、お滝さんの顔を見なきゃ、気が済まなかったと言われたくらいで、尤も、その娘のお絹は十八で、こいつは、母親に立ちまさったきりょうですよ。これも娘一人の跡取りだが、まだ婿もきまっていないそうで、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>のためには、その方が良いかも知れませんね。お蔭で巴屋は繁昌するばかり」

「話はそれっきりか」

「これが序開きで、本筋はこれからですよ、親分」

「巴屋山三郎は、人手にかかって殺されたに違いあるまいが、下手人は挙ったのか」

平次は先を急ぎました。八五郎の話術に付き合っていると、夜が明けそうです。

「大きな口をきいているが、金杉の竹松親分じゃ<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>があきませんね。何しろ、娘が綺麗で金があって、家の中だけでも、達者な男が三人もいるし、下女のお六やお梅だって、女には違げえねえが、<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>じゃありませんね。すると、差向き怪しいのが五人」

「その五人の様子を、<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく話して見るが宜い。神田で<ruby><rb>八卦</rb><rt>け</rt></ruby>を置いて、高輪の<ruby><rb>犯人</rb><rt>ほし</rt></ruby>を言い当てるのも、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>ているだろう」

平次はお勝手へ合図をして、一本晩酌をつけさせると、<ruby><rb>最合</rb><rt>もあ</rt></ruby>い煙草の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を八五郎に渡して、面白そうに耳を傾けました。

<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>の宿屋で、亭主が石地蔵と心中をしたなどという種は、八五郎に言われるまでもなく、江戸始まって以来の珍捕物になりそうです。

「今朝、主人の死骸を見付けたのは、下男の<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>ですが、その時はもう、主人は冷たくなって、喉笛の血も固まりかけていたそうですから、こいつは、殺してすぐ騒ぎ立てたわけじゃありません」

「<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>のお滝さんとかが、主人が夜半に脱け出したのを知らなかったのか」

平次の問いは要領よく事件の核心に触れて行きます。

「内儀のお滝は、好い女で五十そこそこで、家付き娘で、身体が弱い。<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>が<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶると、<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>に亭主が寝ていても機嫌が悪いから、時々そっと<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ行って寝るんだそうです。内儀は二階で」

そう言った夫婦生活は、平次の常識では考えも及ばず、貧乏人には出来ないことですが、家が広くて、暇があって、ヒステリックで、お綺麗だと、内儀のそんな我儘も時には許されるのでしょう。

「昨夜もそれをやったのか」

「尤も昨夜は、主人の方から言い出して、――用心が悪いから――とか何んとか、わけありそうに<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ休んだそうです。<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に誰かと逢う約束でもあったか、そこまでは内儀もわからなかったそうです」

「その内儀は、夜半に誰か外へ出た者のあることに気が付かなかったのか」

「雨戸が開いたような気がする――と言っていましたが、それも夢心地だったようで、それから暫らくして、ドシンと物の落ちる音がしたようだが、気にも留めなかったそうで」

「ところで、怪しいのが五人もあると言ったが、誰と誰だ」

「第一は番頭の勘三郎、三十五になる独り者で、内儀の遠縁とかまた<ruby><rb>従兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>に当ると言いますから、主人の山三郎に<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みがないとは言えません。好い男で、若い頃は道楽がひどく、親類の余され者だったそうですが、姉のように世話になって来た、巴屋の内儀に引取られて、今では神妙に帳場に坐っております」

「それから」

「死骸を見付けた下男の<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>は、これは二十五六の、勝負事と喧嘩が好きで、用心棒には持って来いの<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>っ玉の太い男。こんな野郎も、何をするかわかりません。そのうえ、十八になったばかりの娘のお絹にぞっこんで、まるで夢中で見ちゃいられないとお六が言いますよ」

「そのお六というのは」

「高輪の<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>の女中だから、宿場の飯盛じゃありません。尤も顔に似気なく良い声で、唄が上手だから、上り下りの旅馴れた客にはよく知られています。もう一人の女はお梅と言って二十歳くらい、これはちょっと様子は良いが、酌をするよりほかに能はありません。ところで、もう一人」

八五郎は膝を進めるのです。

## 三

「あとの、もう一人が臭いようだな」

八五郎の話の先を潜って、平次は言い当てるのです。

「その通りで、金杉の竹松親分も、こいつが一番怪しいと言いましたが、一つも証拠がないので、縛ることが出来ません」

「誰だい、それは？」

「主人の<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>――と言っても義理の甥なんだそうで、<ruby><rb>掛</rb><rt>かか</rt></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rt>うど</rt></ruby>の与茂吉、二十二三の良い若い者ですが、少しばかり学があって、筆跡が良いから帳面を預っているが、これが何んと、江戸一番の腰抜けで、類のないほどの臆病者で」

「フーム、面白いな」

「面白かありません。あんなのは男の<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>で」

「臆病にもいろいろあるだろうが」

「与茂吉と来ては、底抜けの臆病ですよ。町内の若い者が集まって、夏の晩などは<ruby><rb>胆試</rb><rt>きもだめ</rt></ruby>しをやりますがね。与茂吉は何んと言われても、それに入ったことなし、からかって人の悪いのが、与茂吉の顔を見ると、怪談を始める――湯屋の二階や髪結床でも、あわてて逃げて帰る。<ruby><rb>月代</rb><rt>きかやを</rt></ruby>を半分剃り残しても驚くような与茂吉じゃない」

「なるほど念入りだな」

「逃げようのないところで怪談が始まると、冷汗を掻いて真っ蒼になり、ガタガタ<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>え出すというから大変でしょう」

「フーム」

「二階に寝ると<ruby><rb>雷鳴</rb><rt>かみなり</rt></ruby>が怖いし、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>に寝ると地震が怖く、入口が近いと泥棒が怖いと言うので、巴屋でも中二階の<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>部屋の片隅に、鼠のように息を殺して寝ている」

「それほどの臆病なら、主人を殺す胆っ玉もないだろう。竹松親分は、妙なところへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">め</span>をつけたものじゃないか」

平次はいちおう横槍を入れました。

「ところが、馬鹿が利巧そうな口をきき、利巧な奴は馬鹿見たいに振舞うように、――それ、大賢愚に近し――とか言うそうですね。あっし見たいに間抜けな面をしている者は、<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>が利巧だったり」

「自分を引合いに出すから世話はない。ヌケヌケとした野郎だ」

「善人がる奴は悪党で、悪党がる奴は、お人好しでなきゃ、薄馬鹿ときまっているでしょう」

「たいそう<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>ったことを言やがる」

「竹松親分も言いましたよ。三年前品川の問屋場に泥棒が入って、役人を一人殺して千五百両の御用金を盗んだのは、そこで働いている、一番臆病な、ガタガタ慶吉の仕業だったとね。ガタガタ慶吉というのは、ちょいと<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かしてもガタガタ顫えるからの<ruby><rb>異名</rb><rt>いみょう</rt></ruby>だったと言いますぜ」

「なるほど、そんな事もあったようだな」

「竹松親分に言わせると、主人の死骸の顔に、前掛を被せたのは、下手人は臆病者で、死骸を見るのが怖かったに違いない――と言うんです」

「なるほど、面白い考えだな」

「主人山三郎の石地蔵を抱いて死んでいたという死に顔は、まったく物凄いものでしたよ。下手人は、人を殺したものの、その死に顔に<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まれるような気がして、有り合せの前掛を被せたに違いありません」

「その前掛の持主は？」

「下女のお六のだから大笑いで、夕方井戸端へ忘れて行ったものです。自分の前掛で、そんな事をする馬鹿はないから、お蔭でお六は下手人の疑いから取り<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けられたようなもので、――ずいぶん嫌なことをする悪党じゃありませんか」

「そうも言えるな」

平次は黙って考え込みました。考えたところで、現場を見ない平次には、その考えを発展させる途もありません。

「まア、少しも召し上がらないじゃありませんか。八五郎さん」

お静はお勝手から覗いて、お銚子の具合を見ながら話の腰を折りました。話が面白かったので、銚子は一向にあきませんが、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>はすっかり暗くなって、お静は諦めたように、コトコトと<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の支度をしております。

## 四

その夜<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>（八時）過ぎ、明神下の平次の家を叩いた女が二人ありました。

「八五郎親分はいらっしゃるでしょうか。<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>から参りましたが」

「何んだ、お六じゃないか。たいそう改まってどうしたんだ。――まア入れ、ちょうど宜いところだ。お前に教えて貰った唄の文句だがね――」

取次ぎに出た八五郎は、少し酔ってはいましたが、この愛嬌者の唄の上手なお六が、昨夜のつづきの、流行唄の節廻しでも教えに来たような錯覚に溺れて、他愛他愛、猫じゃらしの振事になっておりました。

「それどころではありませんよ、親分」

「何んだえ、果し眼になると、お前でも飛んだ好い女だ」

「金杉の竹松親分が、とうとう与茂吉さんを<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>ったんです。大の男が泣きながら引かれて行くのを、誰も<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ってやらないばかりでなく、笑って見ているじゃありませんか。私は口惜しいから、<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>に喰ってかかると、お嬢さんがすっかり喜んで、家中は、薄情者揃いだけれど、お前一人が頼もしい、そこを見込んで一生のお願いがある。浅草向柳原とやらの、八五郎親分のところへ連れて行ってくれ、あの人より外に、与茂さんを助ける人はないと、――あれ、あの通り、<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の中でも手を合せているじゃありませんか」

覗くと、路地の中、灯りの届くか届かないかというところに据えた町駕籠の垂れをあげて、豊かな頬と、黒い髪と、そう言えばそうも見える、丸い<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の下に合せた、か細い白い手が匂うのです。

「ヘッヘッ、それほどでもねえが」

拝まれて八五郎は少し照れた様子です。

「向柳原でさんざん尋ねると、叔母さんという方から、明神下の平次親分のところへ行っていると聞いて来ました。聴けば、八五郎親分はお使い姫見たいなもので、捕物の御本尊は銭形の親分なんですってね。――何が幸せになるかわからないものねえ、私も八五郎親分では、さいしょから頼りないと思ったけれど」

お六の舌はよく動きます。

「俺という人間はお使い姫か、――まア、それには違いないけれど」

「八、何をむくれているんだ。路地で話もなるめえ、此方へ通すんだ」

平次はたまり兼ねて声を掛けました。

「さアさアズイと通ってくれ。御本尊は逢おうと仰しゃる」

二人の女は、平次の狭い家に通りました。お静はそれを迎えて、薄い座布団を出したり、七輪の下を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>いだり、いそいそととりなしておりますが、話の<ruby><rb>継穂</rb><rt>つぎほ</rt></ruby>を失って、二人の客は暫らくは黙って潮時を待っております。

「さて、その話の続きを聴かしてくれ。与茂吉とやらが、どうしたんだ」

挨拶抜きに、平次は話を引出しました。お六というのは、<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れっ枯らしと純情と、<ruby><rb>侠気</rb><rt>おとこぎ</rt></ruby>と<ruby><rb>自堕落</rb><rt>じだらく</rt></ruby>を兼ね備えたような、この社会によくある型の女、不きりょうではあるが、八五郎が強調したほど<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>くはありません。

その後ろに、寄り添うように、小さく身を<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>めたのは、これは非凡な娘でした。吹けば飛ぶような、恐ろしく<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>な身体と、情熱的な表情的な大きな眼が、その多い髪と、小さい唇とともに、恐ろしく印象的です。

「与茂吉さんを縛るなんて、金杉の竹松親分も、モノがわからないにも程があります。暗くなると、一人で町の湯へも行けないような男、正直で、弱気で、操り芝居を見ていてさえ、殺しの場は見ていられないような男が、自分の叔父さんを、殺すでしょうかね、親分」

お六は調子づくと、少し<ruby><rb>嵩</rb><rt>かさ</rt></ruby>にかかる癖があります。

「その与茂吉が、御主人を<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>むわけでもあったのか」

「それはもう、――金杉の竹松親分も、それを言うんです」

「？」

「お嬢さんは、<ruby><rb>巴屋</rb><rt>ともえや</rt></ruby>の一人娘でしょう。そのお婿さんにする筈で、三年前に引取った与茂吉さんを、ようやく年頃になると、あんまり気が弱過ぎて、娘の婿にはたよりないと言い出し、いつまで経っても一緒にしてくれないばかりでなく、近頃は与茂吉さんを追い出そうとしているんですもの、与茂吉さんだって、そりゃ面白くないこともあるでしょうよ」

「――――」

「でも、あの人は、どんなに腹を立てても人なんか殺せるわけはありません。崖の下から、<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みみず</rt></ruby>が這い出してさえ、高輪中に響くほどの騒ぎをおっ始める人ですから」

「外に、主人を怨んでいる者はないのか」

「そりゃ人間ですもの、どこで怨みを買うか、わかりゃしません。ことに奉公人なんてものは、主人が良くして下されば良くして下さるにつけても、何んとか不足がましいことを言うもので」

この女は、なかなかの哲学を心得ております。この二十五六の大年増、<ruby><rb>中低</rb><rt>なかびく</rt></ruby>の<ruby><rb>盤台面</rb><rt>ばんだいづら</rt></ruby>で、いささか肥り<ruby><rb>肉</rb><rt>じし</rt></ruby>で、非凡の不きりょうですが、座持がよく唄がうまいほかに、何んとなく一種不思議な魅力を感じさせる女です。

話がうまいのは、明けっ放しで、<ruby><rb>機智</rb><rt>ウイット</rt></ruby>のあるせいらしく、それにブチこわしなあけすけの程度にも、妙に程の良いところがあって、相手の好寄心と好意とを、手いっぱいに引出す力を持っていそうです。

なるほどこんな女の酌で、高輪の宿に一と晩を明かしたら、江戸のトバ口で蔭膳を三日据えられるという、川柳の馬鹿もある程のことです。膝っ小僧が半分ハミ出すような、大肉塊のお六が、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>うした女だったことが、平次にも面白い発見の一つでした。

「差当り家の中で、誰と誰が主人を怨んでいたんだ」

「お嬢さんの前では言い<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>いけれど、番頭の勘三郎さんだって、ずいぶん怨んでおりました。――遠縁でも何んでも、お内儀さんの親類に当るものを、少しばかりの費い込みでガミガミ言ったり、少々の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほまち</span>を、ほじくり出すようにとがめ立てしたり」

「なるほどありそうな事だな。下男の<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>にはどんな事があったんだ？」

「お嬢さんに付け文をしたのを見付かったんだから、――あの時は大変な騒ぎでしたよ。二十八にもなる大の男が金釘流を貼り出されて、半日油を絞られたんだから、気の弱い者だったら死んでしまいます」

「フーム」

これはなるほど念が入り過ぎます。

「でも、そんなことで、主人を殺して<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>柱を背負わされるのは、ずいぶん無算当なことじゃありませんか。甲子松は利巧な人間じゃないけれど、根が良い男だし、番頭の勘三郎さんだって、五両や三両くすねて、それを叱られたからって、主人を殺すほどの無分別ではない筈です」

「すると、お前は、家の中には下手人はいないと言うのだな」

「主人に地蔵様を抱かせたり、<ruby><rb>刺身庖丁</rb><rt>さしみぼうちょう</rt></ruby>で首を刺したり、そんな悪い人間が、私たちといっしょに暮しているとは思われません」

「その刺身庖丁は、巴屋のものか」

「お勝手は近かったんですもの、そこから持出したにきまっています」

「灯りはついていたのか」

「昨夜はお月様がよかったでしょう」

「でも、お勝手の庖丁を捜すのは、外から入った曲者ではむずかしいよ」

「でも案内を知ってる者なら、出来ないことはありません」

お六の答弁は、ハキハキとして何んの渋滞もありません。

「あとは、お梅という女がいる筈だが」

「ありゃ、お話になりません。ちょいと良いきりょうで、お客受けは良いけれど、気がきかなくてぼんやりで、右向けと言えば、三日も右を向いていそうな人ですもの、でも、ちょいと気の知れないところはあるが――」

ヌケヌケと朋輩の悪口を言うのも、お梅を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>う気の親切かも知れません。

## 五

平次と八五郎は、その夜のうちに、<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>に向いました。留守は隣の女房に頼んで、近いところから<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を二梃、女二人の乗物を中に挟んで宙を飛びました。

巴屋はお通夜で、まだ客が残っておりました。事件の<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>が、どうやらむずかしそうなので、平次はいつもの流儀で、<ruby><rb>湮滅</rb><rt>いんめつ</rt></ruby>させられる前に証拠をかき集め、それを有機的に組立てて、夜の明けぬうちに<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>をあけようとしたのです。

巴屋では、娘のお絹と、下女のお六が見えなくなって一応はあわてましたが、内儀のお滝が事情を心得ているらしいので、静かにその帰りを待っている姿でした。乗物は場所柄だけに、高輪の立場から出したもの、別に案ずるほどのことはなかったわけです。

店口の賑やかなのを嫌って、平次は裏からそっと入りました。お六は心得て小座敷に通し、二階に引っ込んだばかりの内儀のお滝を呼んで来てくれました。

「ま、まア、銭形の親分さんを」

お滝はイソイソと降りて来て、平次の労を<ruby><rb>犒</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>らいます。夜更けのことではあるが、客あしらいになれて、なかなかの応対です。

「飛んだことでしたね。お嬢さんに泣かれて神田からやって来ましたが」

「有難うございます。飛んだ我儘を申しあげて、――ところが、宜い<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に、与茂吉は、許されて戻りました。娘のことで、主人を怨んでいるというほかには、疑いようはなく、――帰されると直ぐ、お通夜の皆様のお相手をしております」

「――――」

「それは宜い具合でしたが、あとで金杉の竹松親分に聴くと、お六の言ったことが本当だったとわかったそうで」

「お六の言ったこと？」

「与茂吉が縛られて行くとき、――お六が竹松親分を追っかけて、――与茂さんは、昨夜私と逢って一と晩過したから、主人を殺す<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>などがあるわけはない――今までそれを言わなかったのは、お互の内証事だし、与茂さんはあのとおり臆病で、きまりを悪がって言えなかったに違いない――と斯う言ったんだそうで」

「なるほど、それは確かな証拠だ」

「あとで、お梅に訊いて見ると、お梅も昨夜お六さんはひと晩自分の部屋にいなかったと言ったそうで」

「――――」

「その代り、金杉の親分は、番頭の勘三郎を縛ってしまいました。勘三郎の荷物を調べると、この間から主人が盗まれたと言っていた五十両の小判が、泥のついたまま、ボロ<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>に包んで、<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>の底に隠してあったんです」

「それは？」

こうなると、途中から顔を出した平次は、口のききようもありません。

ともかくも、灯りの用意をさせて、現場を見ることにしました。<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>を兼業しているだけに、お勝手も広々として、そこには多勢の人が立ち働いておりますが、そこから障子を一枚開けると、裏は車町の崖になっており、二間ほど高いところに、ささやかな地蔵堂が建ててあり、屋根だけ<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いた、怪しい崖の上に、三体の石地蔵様が<ruby><rb>坐</rb><rt>ましま</rt></ruby>し、その一番大きい中の一体が、崖の下に転がり落ちて、巴屋の主人の山三郎の身体を、ギュウと押し潰すような格好になっていたというのです。

地蔵様は巴屋の地内に建立されたものですが、崖上は幾つかのお寺と御家人屋敷で、信心の方は、上から崖道を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っても、お詣りが出来るようになっております。

この崖の上から、何かの<ruby><rb>機</rb><rt>はず</rt></ruby>みで、地蔵様を抱いて落ちたとしたら、なるほど無事では済まなかったでしょう。下に落ちている地蔵様はざっと五六十貫、一人や二人の力では動かせそうもありません。

地蔵様の台座の下は、<ruby><rb>土竜</rb><rt>もぐら</rt></ruby>の穴のように深々と掘れてあり、この中を捜った<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みで、台座のゆるんだ地蔵様が、下に転がり落ちたと思えないことはありません。

現場を一と通り調べた平次は、お勝手口のあたりを丁寧に見て廻り、今朝<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>が開けたという雨戸を指摘させました。甲子松というのは、二十八とかで、<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい感じのする良い若い者で、客の立て込んだ時は、板前の仕事も引受けるという調法ものです。

「今朝、一番先に開けたのは、この雨戸です。すると、<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>が一と眼で、崖の下に御主人が倒れているのまで、よく見えました」

ボソボソとした感じです。

「主人は前掛を被っていたそうだが、外に変ったことはなかったのか」

「前掛を取ると、口の中に生じめりの<ruby><rb>干物</rb><rt>ほしもの</rt></ruby>が一パイ詰めてありました」

「それは？」

「前の日お六どんが洗って、井戸端の<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>の中に絞ったまま<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り込んであった、肌着類でした。お六どんは、ヒドく怖がって、すぐ洗い直しましたが」

「それから、刺身庖丁は」

「いつもお勝手に置いてある道具で、私もよく使いますが、切味の良い庖丁です。――その庖丁で<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を切られて、庖丁はそのまま、死体の側に捨ててありました」

「では、仏様を」

平次は井戸端をそれくらいにして、家の中へ入って、いちおう通夜の衆を<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>かせると、<ruby><rb>入棺</rb><rt>にゅうかん</rt></ruby>してある仏様を調べました。

巴屋山三郎は、五十五六の、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>の<ruby><rb>光沢</rb><rt>つや</rt></ruby>の良い、立派な中老人でした。少し<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>ぎっておりますが、喉の傷は右へ深く左に浅く前から抱き付くように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">えぐ</span>ったものらしく、血は拭き清めて、<ruby><rb>経帷子</rb><rt>きょうかたびら</rt></ruby>の下には、石地蔵を抱いたせいか斑々たる皮下出血です。

## 六

「銭形の親分さん、ちょいと」

平次は呼び止められて、暗い廊下に立ち止りました。

「何んだ、お六じゃないか」

「安く扱わないで下さいな。私は良いことを知ってるんだから」

「良いこと？　何だいそれは？」

「まア、大きい声。――此方へ来て下さいな。誰にも聴かせたくないことなんだから」

お六は平次の手を引っ張って、小さい部屋に押込みました。<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>も兼ねている巴屋には、思いも寄らぬ小部屋があります。

「何んだい、聴こうじゃないか」

「番頭の勘三郎さんのことですよ。あの人は、江戸一番のいけ好かない人だけれど、主人殺しの下手人にされちゃ可哀そうよ、――ずいぶん悪いことをする人だけれど。<ruby><rb>磔刑柱</rb><rt>はりつけばしら</rt></ruby>を背負うほどの悪党じゃない」

「？」

「五十両の小判を持っていて、それに<ruby><rb>生湿</rb><rt>なまじめ</rt></ruby>りの土が付いていたから、金杉の竹松親分に縛られたのも無理はない。あの人は道楽がひどいから、五両と<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まった金を持っている筈はないけれど、あの五十両だけは、別よ」

「？」

「今朝私が、この眼で見たんですもの。明るくなってから、皆んな御主人の死骸を家の中に運び入れて大騒動をしていると、番頭さんは、崖の上へ登って、地蔵様の台座の下の穴へ手を入れて、何やら捜しておりましたが、間もなく<ruby><rb>瓶</rb><rt>かめ</rt></ruby>に入れた小判を見付け出し、瓶を叩き割って、泥の中に落ちた小判を、かき集めた様子でした」

「お前はそれを何処で見ていたんだ」

「二階の窓から、皆んな見てしまいました。間違いありませんよ、親分」

「主人を殺して、あとで金を取出したかも知れないじゃないか。それだけのことで、勘三郎は主人殺しの下手人でないとは言いきれないよ」

「でも、御主人が殺されたのは、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>でしょう。主人を殺したのが番頭さんなら、夜が明けて、あたりが明るくなるまで、五十両の大金をほうって置く筈はありません」

お六の話は妙に自信に充ちております。

「――――」

「金を盗る気で御主人を殺したものが、あの台石の下の穴に気がつかずに居るでしょうか」

「待ってくれ、お前は妙に理屈強いところがある」

「でも、何んにも知らないものが、出来心で穴の中から五十両見付け、それを隠したばかりにお<ruby><rb>処刑</rb><rt>しおき</rt></ruby>になっちゃ可哀想じゃありませんか」

「それじゃ訊くが、この<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>で、左利きは誰だ」

平次は新しい問いを持出して、さり気なくお六の返事を待ちます。――それは緊張した一瞬ですが、お六の答えは案外にも無造作です。

「下男の<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>よ。あの人は板前もやるので、右刃の庖丁では使い難いと言って、出刃庖丁まで、わざわざ左刃のを作らせているくらいですもの」

「それだッ」

平次は小膝を叩きました。

「何がそれなんです？」

「主人を殺した下手人は、間違いもなく左利きの人間だよ」

「？」

「主人は何かの都合で――たぶん、あの五十両の小判のことで地蔵様の台座の下を捜したことだろう。ところが、地蔵様の据りが悪いので、地蔵様を抱いたまま崖の下に転がり落ちた。たぶん気を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>ってウメキ声を出したことだろう。曲者は洗濯物でその口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎ、側にあった前掛で口を縛った上、お勝手に駆け込んで刺身庖丁を持出し、左<ruby><rb>逆</rb><rt>さかさ</rt></ruby>に持って、後ろから手を廻し、一気に主人を殺して、ウメキ声をとめさせた」

「――――」

「主人の傷は、右に深く左に浅い。下手人は左利きの証拠だ――この家の左利きは甲子松だとすると」

平次は次の活動の気持になった様子です。下手人は臆病な与茂吉でなく、番頭の勘三郎でないとすると、左利きの甲子松でなければなりません。

「待って下さい親分。甲子松は少し馬鹿だけれど、親切な良い男です。あの人が主人なんか殺せる筈はない。――江戸には何百人も何千人も左利きがあります。現に、この家だけでも、この私も左利きなんですもの」

「何んということだ」

さすがの平次も二の句が継げませんでした。この女には、まったく叶わないと言った心持です。

「でも、隠せることじゃないんですもの、家中の者は皆んな知ってますから」

お六はそう言って<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだ</rt></ruby>かまりもなく笑うのです。

「もう宜い、もういちど振り出しから<ruby><rb>賽</rb><rt>さい</rt></ruby>を振って見よう」

「それが宜いでしょう。でも、私もう一つだけ教えて上げたいことがあります」

「何んだいそれは？」

「あの地蔵様へは、裏のお寺の境内から、誰でも楽に来られるということ」

お六はそう言って思わせ振りに愛嬌の良い顔を、ちょいとかしげるのです、恐ろしく不きりょうな癖に、この女には、何んとも言えぬ魅力があります。

「そうか、俺も一つ、面白い事を知ってるよ」

「？」

「地蔵様の台座の下に、大きな穴があって、その中に小判が隠してあったと――お前は言ったが、地蔵様の台座の下には、二つの穴があったのだよ、前と後ろに。前の穴は空っぽだったが、後ろの穴には瀬戸物の<ruby><rb>破片</rb><rt>かけら</rt></ruby>が一パイ詰っていたよ。勘三郎が小判を捜し出したのは、たぶん後ろの方の穴に違いあるまい。人殺しの謎は、この辺から解けて行きそうだよ」

「そうでしょうか」

平次の自信あり気な言葉を、お六は軽く聴き流しました。

## 七

まもなく、番頭の勘三郎も、番屋から帰されました。金杉の竹松親分も、後から後からと出て来る反証に、一人一人縛った縄を解かされ、すっかり腐ってしまった――と、これは町役人たちの噂です。

勘三郎が戻ってくると、平次はそれを一と間に呼んで、何やら<ruby><rb>沁々</rb><rt>しみじみ</rt></ruby>話しておりましたが、やがてもういちど裏へ出て、崖の上から下、井戸端のあたりを、提灯をつけて念入りに調べ始めました。

夜はしだいに更けて行きます。お通夜の人たちも大半は帰って、仏様の前にはほんの少しばかり残るだけ、通夜の小僧が、ときどき眠そうにお経をあげております。

「お六、ちょいと来てくれないか」

平次はその中で何彼と立ち働いている。下女のお六を呼び出しました。

「何んでしょう親分。皆んなの疑いを私が解いてやったのに、まだ何んかわからない事があるんですか」

後ろから面白そうについて来るお六。

「まア、あれを見ろ」

暗い廊下に立って、平次は<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>の隙間を指さしました。中からは噛み殺したような激しい<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>の声が聴えます。

「？」

「まだわからないのかお六。――お前は、昨夜、臆病与茂吉と逢引していたと言って、あの男を助けた。そいつは結構な<ruby><rb>功徳</rb><rt>くどく</rt></ruby>だが、見るが宜い、――それを聴いて、あの生一本の娘――お嬢さんのお絹さんは、死のうとして、危うく母親にとめられたのだ」

「――――」

「与茂吉は助かったが、十八になったばかりの、あの娘を殺しちゃ、お前は気がすむまい。――ここで、みんな正直のことを言ってしまってはどうだ」

平次は暗い廊下に立ったまま、お六の円い肩を叩くのです。

「どう言えば宜いんでしょう、銭形の親分」

「ありのままで宜い。――お前は<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に自分の命を助けたさに、与茂吉とひと晩いっしょにいたと嘘をついて、与茂吉の命を助けた」

「――――」

「俺は、<ruby><rb>内儀</rb><rt>おかみ</rt></ruby>と勘三郎から、皆んな聴いたよ。――賢こい中年女は、何んにも知らないような顔をしているが、実は何から何まで知っているものだ。――主人の<ruby><rb>山</rb><rt>さん</rt></ruby>三郎さんは、物の迷いで、お前という女に手を出した。あんなに立派な内儀はあるが、内儀は綺麗過ぎ、賢こ過ぎ、それに身体も丈夫でなく、山三郎の気に入ってばかりはいなかった。浮気者の主人はお前という大変者に手を出して、長いあいだに、五十両という大金を絞られた」

「――――」

「その金を茶壺に入れて、裏の崖の上の地蔵様の台座の下に隠して二人相談の上、いつかは取出そうとしていたが、――番頭の勘三郎はそれを嗅ぎつけて、台座の前の土中から掘出し、台座の後ろに埋めさせた」

「――――」

「昨夜、主人とお前は地蔵様の台座の下から、茶壺の小判を掘出しに行ったが、そこには小判はなかった。主人とお前は喧嘩になった。どっちも相手が隠したと思い込んだのだ。主人はその喧嘩に<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みがついて、石地蔵様を抱いて崖の下に転がり落ちた」

「――――」

「夢中でわめくので、お前は洗濯物で口を塞ぎ、自分の前掛でその上から蓋をした――がまだ声を立てるので、お勝手にあった、刺身庖丁で、主人の喉を切ってしまった」

「――――」

「あの人は怒鳴りつづけた――そして助かりそうもなかった――殺してくれ、頼むから殺してくれと言った」

「――――」

「お前は主人を殺してしまった。その下手人の疑いが臆病な与茂吉に行くと、お前はそれが可哀そうになった。――ちょうど店の前を八五郎が通ったので、お前に小唄を教わった間抜けな男が御用聞だったことを思い出して、それを呼び込んだ、――その八五郎の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>に、俺がいることに気がつかなかったのだろう」

「親分、私は、私は」

「お前は自分のしたことが恐ろしかった。お嬢さんにせがまれて明神下へ来たり、勘三郎や<ruby><rb>甲子松</rb><rt>きねまつ</rt></ruby>が疑われると、あわててそれも助けてやった」

「私は、私は」

お六は<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い顔を<ruby><rb>引歪</rb><rt>ひきゆが</rt></ruby>めて、声を殺して泣くのです。

「主殺しは<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>だ――が、お前は磔刑柱の似合いそうな顔じゃない。――俺は一と晩考えよう。お前という人殺し女をどう始末したものか、逃げたり隠れたりするんじゃないぞ。おい、――明日は」

平次はそう言って通夜の人数の中に立ち<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>ってしまいました。

その夜のうちに、あの唄のうまいお六は逃げ出してしまいました。<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>の巴屋は名物を失いましたが、臆病者の与茂吉が、綺麗なお絹の婿になって、また新しい名物にされたことは言うまでもありません。