## 一

八五郎の顔の広さ、足まめに江戸中を駆け廻って、いたるところから、珍奇なニュースを仕入れて来るのでした。

江戸の新聞は落首と<ruby><rb>悪刷</rb><rt>あくず</rt></ruby>りであったように、江戸の<ruby><rb>諜報</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>機関は<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う言った早耳と井戸端会議と、そして年中どこかで開かれている、寄合い事であったのです。

「お早うございます。良い陽気になりましたね、親分」

八五郎といえども、腹がいっぱいで、でっかい紙入に、二つ三つ小粒が入っていると、こんな尋常の挨拶をすることもあります。

「たいそう機嫌が良いじゃないか、――お前の大変が飛び込まないと、――今日は大きな夕立でも来やしないかと、ツイ空模様を見る気になるよ」

「ヘッ、天下は<ruby><rb>静謐</rb><rt>せいひつ</rt></ruby>ですよ、――親分におかせられても御機嫌麗わしいようで」

「馬鹿野郎、<ruby><rb>御直参</rb><rt>ごじきさん</rt></ruby>見てえな挨拶をしやがって」

「親分の縄張り内はろくな夫婦喧嘩もねえが、<ruby><rb>三輪</rb><rt>みのわ</rt></ruby>の万七親分の縄張りには、昨日ちょいとしたことがあったそうで」

「チョイとしたこと――というと」

平次に取っては、八五郎の『大変』よりは、この『チョイとした事』の方に興味を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれるのです。

「橋場の金持の息子が、土左衛門になったんで、いっこうにつまらない話で」

「まだ桜が散ったばかりだぜ、――泳ぎには早いし、金持の息子が、身投げするのも変じゃないか」

平次はこの短い報告の中から、幾つかの<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない点を見出して居るのです。

「あっしも、変だと思ったから、昼過ぎに覗いて見ました。死んだ息子の親許の、橋場の伊豆屋ものぞいて見ましたがね――」

「待ってくれ、橋場の伊豆屋の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>が水死したというのか、そいつはお前、大した金持の子じゃないか」

その頃は江戸八百八町と言っても、人口にして百万に充たず、有名な物持や大町人や、筋の通った家柄は、御用聞の平次ならずとも大方<ruby><rb>諳</rb><rt>そら</rt></ruby>んじていたのです。

橋場というところは、いちおう江戸の場末のようですが、吉原という不夜城を控え、向島と相対して、今戸から橋場へかけて、なかなかの繁昌であったことは想像に難くありません。

その橋場の中ほど、<ruby><rb>銭座</rb><rt>ぜにざ</rt></ruby>寄りに、伊豆屋は質両替の組頭として、古い<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を掛けておりました。

「大した金持なんですってね、こちとらには付き合いはねえが」

「当り前だ。――尤も、伊豆屋の名前は聴いているが、主人は何んと言うか、伜はどんな男か、お前の言い草じゃねえが、俺も付き合いはねえ」

「主人は、<ruby><rb>因業</rb><rt>いんごう</rt></ruby>で<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げ頭で、恐ろしく達者で、釣が好きで、五十年輩の徳兵衛。伜は菊次郎と言って、芝居の色子見たいな二十一の好い男、青<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>びょうたん</rt></ruby>で、鼻声で、小唄の一つもいけて、女の子には持てるが、飯の足しになることは一つも出来ない」

「たいそう悪く言うぜ、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みでもあるのか」

「質を置きに行って断られたわけじゃないから、恩も怨みもありゃしません、――その色息子の菊次郎が、自分の家の潮入の池から笹舟のような小さな釣舟を漕ぎ出し、隅田川の真ん中で引っくり返して、舟は両国の中程の橋<ruby><rb>桁</rb><rt>げた</rt></ruby>に引っ掛けて居たが、本人は土左衛門になって、百本<ruby><rb>杭</rb><rt>ぐい</rt></ruby>で見付かった」

「それは気の毒な」

「死んで見れば気の毒見たいなもので、そのうえ菊次郎には許嫁の娘があったんですよ」

「フーム」

「伊豆屋に引取られて、あっしもちょいと逢って来ましたが、とんだ良い娘でした。近いうちに祝言させることになっていたが、息子の菊次郎はそれを嫌って、向島あたりの凄いのに通いつめ、父親の伊豆屋徳兵衛は腹を立てて、押し籠め同様にしているという噂でした」

「よくあることだな」

「向島の凄いのは、あっしも見ませんが、許嫁というのは、伊豆屋の主人が若い時世話になったとかの武家の娘で、<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>になったのを、五年も前から引取って育てたということでした」

「フーム」

「少し武家風かも知れないが、それはそれは良い娘でした。あの娘を嫌ったりして、罰の当った話じゃありませんか」

「若い男と女が、いっしょに育ったりすると、反って兄妹見たいな心持になってしまって、夫婦の情は湧かないものらしいな」

「いっこうつまらねえ話でしょう。伊豆屋の若旦那が土左衛門になったと聴いて、橋場まで行って見ましたが、三輪の親分が<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>め廻しているから、諦めて返りましたよ。いちおう両国へ廻って、死骸も見ましたが、両国の水除けか橋桁でやられたようで、首のあたりにひどい<ruby><rb>打撲</rb><rt>うちみ</rt></ruby>のあとがありましたが、たったそれだけでたいしたことはありませんよ」

八五郎の報告はたったそれだけ、何んの変哲もなく話を結びました。

## 二

「あの、お客様ですが」

平次の女房のお静は、障子を開けて、そっと取次ぐのです。

「どなただ？」

「あの、お名前は<ruby><rb>仰</rb><rt>おっ</rt></ruby>しゃいませんが、若いお嬢さんで」

「どれ、あっしが行って見ましょう」

若いお嬢さんと聴くと、八五郎は早くも立ち上がって、お静を掻いのけるように。入口へ顔を出すのです。

「あわてた野郎だ」

苦笑いする平次の前へ、八五郎はニヤニヤしながら戻って来ました。

「来ましたよ、親分、とうとう」

「何が来たんだ、少し<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の紐を締めろ」

「伊豆屋の若旦那の許嫁ですよ。お夏さんとか言った、そりゃ良い娘で」

「それがどうした？」

「橋場から、<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>で来たんですって。伊豆屋の息子が死んだのが、どうしても怪しいことばかりだから、銭形の親分に調べて頂きたいんですって」

「<ruby><rb>三輪</rb><rt>みのわ</rt></ruby>の万七親分は？」

「水死に何んの疑いもないからと、帰ってしまったそうで、――お嬢さんは路地にいますよ。呼んで来ましょうか」

「ともかく逢って見よう」

平次が引受けると、八五郎はさっそく格子戸をガタピシさせながら路地に飛び出し、

「さアさア此方へ、ズイと入って下さい。遠慮することはない」

などと<ruby><rb>如才</rb><rt>じょさい</rt></ruby>もありません。

八五郎に追っ立てられるように、平次の家へ入って来たのは、噂の通りの良い娘で、十九というには若々しく、<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>も誇張もないので、少し淋し過ぎますが、眼鼻立ちの端麗な、いかにも武家風な感じのする美人でした。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>はありふれた町娘で、少しの<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしさもあるわけはないのですが、折り屈みがキチンとして、少し浅黒くさえある、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>っ気のない顔立ち、それもまた不思議な魅力です。

「どうなすった、お嬢さん。伊豆屋さんに何か変ったことでも」

平次は誘いの水を向けるように声を掛けました。

「いえ、何んにも変ったことはございませんが、私の<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないことを、親分さんにお訊ねしたいと思いまして、<ruby><rb>父様</rb><rt>とうさま</rt></ruby>にも内証で、出入りの若い衆に頼んで、送って貰いました」

ピタリと膝に手をおいて、静かに仰ぐ浅黒い顔は、刻みがはっきりして、唇の線の美しさも、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の長い眼も非凡ですが、およそ十九の娘とは思われぬ、<ruby><rb>確</rb><rt>しっか</rt></ruby>りしたものを持っているのです。

「どんなことが変だと思いました。お嬢さん」

平次は八五郎のモヤモヤするのを縁側に追い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて娘と二人相対しました。

「伊豆屋の総領、菊次郎さんが水死したことは、御存じでしょうね」

「それは今しがた八五郎から聞きました」

「その水死した菊次郎さんは、隅田川に夜中に舟を出して溺れた様子ですが、菊次郎さんは、よく舟が漕げなかったのです」

「？」

「そのうえ、両国の水除けに引掛った死骸の首に、紫色になった大きな<ruby><rb>打撲</rb><rt>うちみ</rt></ruby>がありましたが、それは首の急所で、打ってはならないところです。そのうえ、橋場で舟から落ちて、両国まで流れるうち、泳ぎを知らない菊次郎さんは、生きている筈もなく、両国へ行ったときは、息が絶えている筈でございます」

「で」

「死骸になった菊次郎さんが、水除けに引っ掛ったとき、首筋を<ruby><rb>撲</rb><rt>う</rt></ruby>ったくらいのことで、黒血が溜る筈もございません。打たれて黒くなるのは、生きている人に限ったことと成っておりますが――」

さすがは武家の娘で、この十九の娘の、眼の届くには驚きました。首筋と言うのは多分、頸部の<ruby><rb>大動脈</rb><rt>だいどうみゃく</rt></ruby>でしょう。

「それだけで？」

「まだございます、――菊次郎様は、五百両の大金を持出したことは判っておりますが、舟にも、橋場近い川底にも、両国近くにも、菊次郎様の<ruby><rb>懐中</rb><rt>かいちゅう</rt></ruby>にもなかったそうでございます」

「フーム」

「それだけの大金を持っていらっしゃれば、船は沈んでも、御自分は溺れても、お金の始末はしたことと存じますが」

「その金は、どうした金で」

「昼のうちに、奥蔵から出して、翌日は朝のうちに、人様に払うお金だったそうでございます」

「若旦那が持出したのは？」

「さア、そこまではわかり兼ねますが」

お夏はそれだけは言い兼ねた様子です。おそらく若旦那の菊次郎が、向島とやらにいる女に<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>ぐために持出したものかもわかりません。

「で、お嬢さんのお望みは、私に何をさせようと仰しゃるので」

「菊次郎さんは人手にかかって、<ruby><rb>害</rb><rt>あや</rt></ruby>められたものに違いもございません。その下手人を親分の手で挙げていただき、私は菊次郎様の無念が晴らしとうございます」

お夏は<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と言いきるのです。が、その顔には少しの苦渋も、嘆きらしいものも見られなかったのです。

「お心当りは、下手人の？」

「私は何んにも存じません」

これ以上は、無理に訊いても、お夏の口を開ける見込みはなかったでしょう。平次はしばらく考えておりましたが、

「参りましょう。三輪の親分には悪いが、どうも放っておけないような気がする」

「有難うございます、親分。それで私の気も済みます」

お夏は、首を垂れて、始めてホロリとするのです。この娘は何を考え、何を目論んでいるのか、平次にも見当はつきません。たった十九の娘が、こんなに利巧な筈はなく、こんなに思いきった行動をとれそうもなく、それよりも、こんなに非人情な筈はないように思えるのです。

## 三

お夏の<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を先に帰してやって、平次と八五郎は、その後から続きました。橋場に着いたのは、やがて昼近いころ、彼岸も過ぎ、桜も散り、<ruby><rb>仏誕会</rb><rt>ぶったんえ</rt></ruby>が近くなって、江戸の町もすっかり初夏です。

「ね、親分、良い娘でしょう。<ruby><rb>銘仙</rb><rt>めいせん</rt></ruby>に黒い帯、拵えは地味だが、人間はそれよりもまだ地味で、ちょいと冗談も言えないが、あんな娘は反って、情が深いんですってね。化粧をした、ジャラジャラした娘と違って、何んとなくこう神々しいじゃありませんか。――伊豆屋の若旦那が、食いつけなかったのも無理はありませんね」

「無駄を言うな、それ、もう伊豆屋だ。大した構えだな、お前が先に入って、御主人に逢いたいと言って見ろ、――お夏さんに逢ったなどと言ちゃならねえ、宜いか」

「ヘエ」

八五郎は心得て店から飛び込みましたが、しばらくすると恐ろしく<ruby><rb>酸</rb><rt>す</rt></ruby>っぱい顔をして戻って来ました。

「こいつは親分も見当はずれでしたよ。お嬢さんがもう四半刻も前に戻って、旦那の徳兵衛に打ちあけ、御主人が自分で出迎えましたよ」

「そんなことか」

これは平次も少し予想外だったようです。<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をくぐると、手代が二三人、帳場格子から立って来た五十男――それは言うまでもなく主人の徳兵衛で、

「これはこれは銭形の親分さん、娘が飛んだ御無理を申上げたそうで、申訳もございません。いやもうこの節の若い者と来ては」

と、<ruby><rb>揉手</rb><rt>もみで</rt></ruby>をするのです。筋肉質の確りした中老人で、柔弱だったという伜の菊次郎に此べて、これはまた、武家あがりと言った<ruby><rb>恰幅</rb><rt>かっぷく</rt></ruby>です。

「飛んだことでしたね、お嬢さんが仰っしゃるのもいちおう尤もで。ともかく、いちおう調べたうえ、諦めて頂くものなら諦めて頂くようにしなきゃなりません」

「尤もなことで、ではまア、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ」

主人の徳兵衛は平次と八五郎を引いて、土蔵の前の、人目に遠い小座敷に案内しました。娘のお夏は冷たいほど素気ない挨拶をしたっきり、お茶を運んで来て、あとは顔を見せないのは、八五郎をがっかりさせます。

「何より先に、あのお夏さんというお嬢さんのことを伺いたいのですが」

「飛んだ出過ぎたことをしたそうで、ああいった気性者も親譲りでございます。あの娘の父親と申すのは、立派な御家人でした。良いお役まで付いたのを、私の粗相を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ってくれたばかりに役目を<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじ</rt></ruby>り、五年ほど前浪々の身で亡くなりました。その遺言で娘のお夏を引取り、私は娘のようにして育てました」

「若旦那の菊次郎さんとは？」

「親同士の許嫁で、本人もその気でいるようですが、伜の菊次郎は、お夏の気性を嫌って、祝言をする気にもならず、しだいに<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>に身を持ち崩して、飛んだことをいたしてしまいました」

「飛んだ事というのは」

「向島にお銀の茶屋というのがございます。<ruby><rb>水神</rb><rt>すいじん</rt></ruby>の森の中で、花時は大した繁昌ですが、そのお銀と申す、<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>わしい女に溺れ、家を外にいたしますので、この春から一と間に押し込め、<ruby><rb>窮命</rb><rt>きゅうめい</rt></ruby>をさせておりました。私の許しがなければ、一と足も外へは出られないように、座敷牢と申しては<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>ですが、一と間に押し籠め、厳重な見張りをつけたのでございます」

「――――」

「だが、若い男と女は、どんな工夫をしても思いのたけを言い交します。伜も、どうして鍵を持出したか、座敷牢を抜け出し、表も裏も見張りが厳重で出られないので、庭の池から、水門をくぐって隅田川へ出た様子です。庭の池は潮入で、水門一つで隅田川に通じます。池には小さい釣舟がありましたので、それを漕いで出たようで、まったく<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ果てたことでございます。そのうえ、前の日の夕方に用意した、五百両の小判を、風呂敷包にして持出したようで、小判と風呂敷がないので、あとでそれを知りましたが――」

主人徳兵衛の話はかなり長いものでしたが、<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>の主人らしく、伜の放埒と不心得を苦々しがりながらも、涙を含んだ調子は争うべくもありません。

「お店の様子では、お<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>いはまだのようで」

「検屍に手間取って、伜を引取ったのは<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>でした。それから入棺をしたり、お通夜をしたり、親類たちを集めたり、今日はようやくお葬いを出すことになりました」

「それでは、仏様を拝まして下さい」

「どうぞ」

主人の徳兵衛に案内されて、平次と八五郎は奥の部屋に入って見ました。親類の人達や近所の衆で、家の中はなかなか混雑しております。

仏様の前はいちおう整えられて、線香が部屋一パイに<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>ぶっております。

平次はいちおう拝んだ上で、早桶を開けさせました。水死人並みの不気味に<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れた死骸と思いきや、中の死骸は細々と痩せて、左の首筋に<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>のように開いたのは、お夏の指摘した凄まじい皮下出血です。

死骸には傷の痕はなく、物馴れた平次の眼には、これは溺れたものではなく、首の大動脈を激しく<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>たれて、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に死んだことは争う余地もありません。

## 四

伊豆屋の店の者をいちおうは調べました。が、これはまったくの無駄骨折りでした。伜の菊次郎の<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>が始まってから、主人の取締りは恐ろしくやかましく、夜分の外出などは思いも寄らず、そのうえ菊次郎は独りぎめの<ruby><rb>通人肌</rb><rt>つうじんはだ</rt></ruby>で、店の者などとは交渉もなく、菊次郎に怨みを持つ者などは想像も出来ないことです。

それに質両替という商売は、多勢の奉公人を必要とするわけではなく、暗くなってから外へ出たのは、下男の元吉たった一人、これは宵のうちに帰って、菊次郎が外へ出たのは、それから大分経ってから、おそらく橋場の渡し舟が停ってずっと後、たぶん真夜中近い刻限だったでしょう。

「引き潮が<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）時分、水が浅いと、水門から舟が出ませんから、伜が出たのは、真夜中過ぎになります」

主人の徳兵衛はそう言うのです。こうして下男元吉の疑いは、綺麗に<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>い去られたわけです。

その元吉というのは、喰えそうもない三十男で、伜菊次郎とは一番よく馬が合いそうでしたが、時間の喰い違いが大きいので、まったく問題になりません。

「さて、雲をつかむようなことになったぜ、八」

平次が少し持て余すと、

「まだありますよ、親分、この家の二番目息子、徳三郎に当って見ちゃどうです、兄の菊次郎と違って、堅い一方の評判の良い男ですが、――<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>まだ店にいたようですが――」

八五郎は平次を誘って店へ引返しました。暗い廊下を曲って、<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>の前へ出ると、

「――――」

八五郎はソッと平次の袖を引くのです。

「――――」

平次も妙にギョッとした心持で立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みました。若い男と女が、納戸の後ろで、何やら<ruby><rb>密々</rb><rt>ひそひそ</rt></ruby>と語り合っているではありませんか。しかも、二人とも、涙を流しているのです。

「あ、親分さん」

立ち竦んだのは、女の方――菊次郎の許嫁のお夏でした。男の方は軽く一礼して、身をかわすように、隣の部屋にヒラリと避けてしまいます。それはお夏よりは一つ二つ上の二十歳そこそことも見られる、色の浅黒い、確りした男で。何んとなく手答えのある、確とした感じを与えます。

「お嬢さん――何んか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>がありそうですね、差支がなかったら、話して下さい」

「ハイ」

お夏は少したじろぎましたが、悪びれた色もなく平次に従って、納戸の隣の長四畳に入りました。八五郎は心得て、その入口を見張ったことは言うまでもありません。

「ここなら大丈夫でしょう。さア、聴きましょう、お嬢さん」

許嫁の菊次郎の死骸が、まだ<ruby><rb>葬</rb><rt>ほうむ</rt></ruby>りもせずに隣の部屋にあるのに、弟の徳三郎と、泣いたり笑ったりしているのは、確りものらしいお夏の熊度としては、いかにも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないものがあるのです。

「御尤もですが、これには深い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>があります」

「――――」

お夏は端麗な顔を挙げました。まだ頬が上気して、<ruby><rb>睫</rb><rt>まつげ</rt></ruby>が濡れております。

「私と徳三郎さんは、五年前から幼な<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>でございました。私がこの家に引取られる前からでございます。この家に引取られて兄の菊次郎さんよりは、弟の徳三郎さんと、私は親しくしておりました。菊次郎さんは遊び好きで、私などを相手にしてもくれません」

「――――」

「私と許嫁の披露があってからも、菊次郎さんの遊びが止まなかったので、私もつい白い歯も見せず、親しい気持になれなかったので、だんだん<ruby><rb>他所他所</rb><rt>よそよそ</rt></ruby>しくなるばかり、それからの菊次郎さんの放埒は本当に目に余りました」

「？」

平次は黙ってその後を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>します。

「でも、菊次郎さんが亡くなって、その手文庫を調べますと、お気の毒なことに、私のことが、いろいろ書いてございました。菊次郎さんは、決して私を嫌ったわけでもなく、私が他所他所しくするので、ついたまり兼ねて放埒に身を持ち崩し、向島のお銀さんとやらに通い出したようで」

「――――」

「私はそれを知って、本当に菊次郎さんにすまないと思いました。今さら気がついても、後の祭りですが、せめては菊次郎さんを殺した下手人を挙げ、それから身を退きたいと存じ、明神下の親分さんのところへ参りました」

「――――」

「ところが、徳三郎さんは」

平次にもその消息はよくわかるような気がするのです。お夏に対して冷淡だったと思い込んだ兄の菊次郎が死んだ上は、お夏という獲物はもう、自分のものと思い込んだのでしょう。

「で、お嬢さんは、大方見当がついていることと思うが、菊次郎さんが釣舟で庭の池から出るのは、この間の晩に限ったことではなかった筈だと思うが――」

「三月過ぎになると、時々そんなことはあったようでございます」

「それを知ってるのは？」

「私と、弟の徳三郎さんくらいのもの。あとは奉公人たちは遠くにいるので、一人も知ったものはない筈でございます」

「菊次郎さんは舟は漕げなかったと聞きましたが――」

「私も、それが不思議でなりません」

「この家で舟の漕げるのは？」

「父は自慢でございますが、あとは元吉くらいのものでしょうか」

お夏の答えははっきりしております。

## 五

「親分、これからどこへ行くんで」

伊豆屋の店を出ると、八五郎は平次の後を追います。

「向島へ行って見ようよ。菊次郎はそっと夜中にぬけ出して、ときどきそのお銀とやらに逢っていたようだ」

「そいつはたまらねえね、――そのお銀とやらは、大変な女だそうで」

八五郎はまた、<ruby><rb>揉手</rb><rt>もみで</rt></ruby>をして喜んでおります。有名な美人に逢って見るのを、役得と心得ている八五郎です。

橋場の渡しを越えて、水神の森にかかると、お銀の茶屋はすぐでした。花時が過ぎて葉桜が毛虫だらけになると、暫らくは暇で仕様のないように見えますが。

だが、この葉桜の季節が、お銀の本当の稼ぎでした。お銀の魅力にあこがれた若い男たちは、灯に寄る夏の<ruby><rb>蛾</rb><rt>が</rt></ruby>のように、水神のお銀の茶屋に<ruby><rb>覗</rb><rt>うかが</rt></ruby>い寄るのです。

その一人が、伊豆屋の菊次郎であったことは言うまでもなく、これがまた、第一等の<ruby><rb>施主</rb><rt>せしゅ</rt></ruby>でもありました。<ruby><rb>葭簾</rb><rt>よしず</rt></ruby>張りの茶店に、いろいろの小旗をなびかせておりますが、奥は普通の家になって、そこにお銀と、茶汲女のお松という十八九の娘がいっしょに住んでいるのです。

「ご免よ」

「あ、銭形の親分さん」

平次が葭簾の中に顔を突っ込むと、お銀は少しあわてて飛んで出ました。二十一、二、<ruby><rb>年増</rb><rt>としま</rt></ruby>と言って宜い女ですが、何んとなく、蒼く引締って、濃い陰影のある女ですが、感情が激発すると、パッと咲いたように華やかになる不思議な顔の持主です。

すべてが細々として、頼りないようですが、どこかに<ruby><rb>強靭</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>なところがあり、考えようではスポーツ型とも言えるでしょう。花時は五六人の雇人をおくのですが、葉桜になるとお松とたった二人、淋しいような暮しです。そのまたお松というのは、不きりょうで無口で、ちょいと扱い<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>い女、こんなのがお銀の持っているらしい、暗い秘密の保持には必要なのかもわかりません。

「逢ったことはない筈だが、俺を平次と知っているのか」

「あら、銭形の親分を知らない者はありゃしません。江戸中の人で」

「<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>な」

平次はちょっと舌打ちをしたい心持でした。一方から言えば、江戸中の悪い人間は、皆んな平次を知っているとも取れるのです。

「用事はもうわかるだろうが、伊豆屋の若旦那のことだ」

「溺れたんですってね。私も長いこと<ruby><rb>御贔屓</rb><rt>ごひいき</rt></ruby>を受けましたが、お葬いにも<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>えない有様で」

お銀はちょっと<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れて見せるので、なかなかの風情です。

「いや、若旦那は殺されたのだよ」

「まア」

「お前のところへ、チョイチョイ来るそうじゃないか」

「いえ、近ごろは親旦那がやかましくて、座敷牢とかに入れられているそうで、この春からはお目にかかりません」

「座敷牢に入ってると、どうして知った」

「それはもう、世間の噂で」

店の者にも口留めして、世間には知らせなかった筈――と思いながら、平次はそこまでは素破抜きませんでした。

「若旦那は、夜中に釣舟で来ることはなかったのか」

「そんなことはありません。嘘だと思ったら、いっしょに此処に泊っているお松に訊いて下さい。若旦那はもう、二た月もここへいらっしゃらないんですもの」

お銀は妙に<ruby><rb>怨</rb><rt>えん</rt></ruby>ずる色があります。

店の中は思いのほか貧しそうで、若旦那が滅多に来ないというのも嘘ではないかも知れません。

「すまねえが、ちょいと、家の中を見せて貰いたいが」

「え、え、どうぞ、金の<ruby><rb>茶釜</rb><rt>ちゃがま</rt></ruby>も錦の小袖もありゃしません。私は家捜しされるのを、指をくわえて見ているのも変ですから、ちょいと遊びに出て来ます」

お銀はそう言って、粋な着流しのまま、気取ったポーズで外へ出てしまいました。

平次と八五郎は、その留守で、手いっぱいに家中を捜し廻りましたが、なかなかに<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃれ</rt></ruby>た着物と、少しばかりの小遣のほかに、大した貯えもなく、これはまったく平次の当て違いでした。

「ちょっとちょっと、お前はいつ頃からここに居るんだ」

平次はお松に訊ねました。

「去年の春からおりますよ」

「たいそう繁昌するようだな」

「それ程でもありませんが」

「伊豆屋の若旦那はチョイチョイ来たようだな」

「去年の秋から、今年の春へかけてよく来ましたよ。三月になってからは、押し籠められたそうで、一度も顔を見せません」

「本当に一度も来ないのか」

「それは確かですよ。来ると、私が追い出されて、その代り小粒一つずつ貰いましたから、忘れるわけはありません」

「なるほどそれは忘れっこはない、――ところでお銀は外へ出ないのか」

「滅多に出ませんよ」

「伊豆屋の店の者は誰か来ないのか」

「下男の元吉さんは、チョイチョイやって来ますよ」

「弟の徳三郎さんは？」

「噂は聴いてるけれど、顔を見たこともありません」

「<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>の晩、お銀は外へ出なかったのか」

「ちょいと出たようです。頭痛持ちで<ruby><rb>疳性</rb><rt>かんしょう</rt></ruby>だから、夜風に吹かれるのが好きで、チョイチョイ出かけます、――本当に頭痛持ちなんですね。頭へ油をつけるのが嫌いで、三日に一度、五日に一度は洗い髪にしております。あんなに毛を洗っちゃ悪かろうと思うけれど、本人に言わせると、女の頭の臭いほど嫌なものはないんですって」

「――――」

そんな話のうちに、<ruby><rb>家捜</rb><rt>やさが</rt></ruby>しは大方済みました。一服やっていると、

「あら、もう済みましたの、――千両箱でも見付かりまして」

お銀は葉桜の下を笑いながら戻って来ました。深い表情ですが、いかにも邪念のない姿です。

「飛んだ邪魔したよ、それじゃお銀」

「あれ、もうお帰りですか、せめて商売物のお茶でも上げるのに」

平次はそれを<ruby><rb>背</rb><rt>そびら</rt></ruby>に聴いて、一歩外に出ると、後に残った八五郎が、

「お銀、いやさ、お銀さん、邪魔したね。これをご縁に、ちょいちょい来るぜ」

立ち戻ってお世辞を言います。

「ま、飛んだご縁ね」

「ところで、その近づきの印に、<ruby><rb>気障</rb><rt>ぎざ</rt></ruby>なようだが、手を握らせてくれ」

「あらまア、そんな事なら、――お安い御用ね、頬っぺたを<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めさしてくれとでも仰しゃることかと」

お銀が素直に手を出すと、八五郎はその手をムズと握りました。

「ま、痛い、大変な力ね」

「済まねえ済まねえ、ツイ力が入ったんだ。美い女は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とく</span>だぜ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とく</span>だか災難だか」

「あばよ」

八五郎は桜の土手を、平次の跡を追いました。

「どうした八」

「とんだ役得で、思いきり柔かい手を握って来ましたよ」

「タコがなかったか」

「<ruby><rb>撥</rb><rt>ばち</rt></ruby>ダコもありゃしません。ありゃ<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>より重い物を持ったことのない手ですね」

平次はそれを聞くと小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げました。何やら呑込み兼ねた姿です。

## 六

「親分、見当はついたようですね」

「いや、まだまだそう手軽には行かない。お前は、お銀の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>を知っているのか」

「あっしは知りませんが、原の郷に<ruby><rb>阿星</rb><rt>あぼし</rt></ruby>半七郎という、大変な浪人者がいます。もとはお銀の好い人で、今は向島一帯を縄張りにしている侍<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>ですが、その男に訊いたらわかるでしょう」

「それじゃ頼むから、お前はそこへ廻ってお銀の前身を訊いて来てくれ」

「親分は？」

「明神下の家で待っているよ。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もその前に、もういちど伊豆屋へ行って、下男の元吉を<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かして見るが」

「ヘエ？」

八五郎は何が何やら、わけもわからずに本所へ廻り、平次はもういちど橋場の渡しを越して、伊豆屋に引返しました。

伊豆屋は<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>いを出したばかり、菊次郎の弟の徳三郎は、お寺へ行って留守、主人は奥へ籠ったまま、平次は下男の元吉を呼んで、裏口に引張り出しました。

「元吉、もうわかったよ」

「ヘエ？」

元吉のけげんな顔は見事でした。

「お前はいくら貰った？」

「何を仰しゃるんです、親分？」

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>は五百両という小判を捜してやる、お前はその手伝いをするんだ。今日一日、どこへも出ちゃならねえよ」

「ヘエ」

何が何やらわからぬ様子の元吉を後に残して、平次は真っすぐに明神下に引揚げました。

八五郎が原の郷から帰ったのはその夕方。

「親分、何も彼もよくわかりましたよ。あのお銀という女の背中の<ruby><rb>灸</rb><rt>きゅう</rt></ruby>の痕まで」

「そんなことはどうでも宜い」

「あれは<ruby><rb>潮来</rb><rt>いたこ</rt></ruby>生れで、人魚のお銀と言われた大変な女ですよ」

「何が大変なんだ」

「泳ぎの名人で――尤も手は恐ろしく柔かいから、舟は漕げませんね」

「お前も飛んだところへ気がつく、――よしよし、それでわかった。今夜は少し面白いぞ」

「何があるんです」

「下っ引を三四人狩り集めてくれ。橋場の伊豆屋を取巻くんだ。<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）過ぎに外へ出る者をそっと出してやるんだ、その代りしっかり顔を見ておけ」

「ヘエ」

それから日が暮れるまで、平次と八五郎は退屈な時を過しました。そして、暗くなるとともに、もう一度、橋場へ引返したのです。

「ヘエ？　また橋場へ行くんで？」

「それも<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>だよ。あの辺で頑張ってると、夜釣の魚は出て来ない」

「ヘエ？」

橋場へ行くと、伊豆屋へは入らず、裏から廻って、かねて用意したらしい、一艘の<ruby><rb>艀舟</rb><rt>はしけ</rt></ruby>に潜りました。

「八、頭から、その<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を冠れ。少しは<ruby><rb>埃臭</rb><rt>ほこりくさ</rt></ruby>いが、我慢をしろ」

「変な匂いがしますね、親分」

「黙っていろ、舟を少し川の真中へ出して貰うから、物を言っちゃならねえ」

「ヘエ」

それは<ruby><rb>子刻</rb><rt>ここのつ</rt></ruby>（十二時）近い時分でした。両岸の灯も消え、吉原通いの<ruby><rb>猪牙舟</rb><rt>ちょきぶね</rt></ruby>の音も絶えて、隅田川は真っ黒に更けて行きます。

「月はないんですね」

「黙っていろ、今晩に限ってお月様は邪魔だ」

「あ、何んか、水の音が？」

「シッ」

二人は息を殺しました、どこからともなく微かに水の音が響きます。

それから暫らくのあいだ、八五郎は生れて初めての長い時間を経験しました。向島の方から一艘の小舟が、灯もなく静かに近づくのです。やがてその舟が、平次と八五郎の乗った舟に近づくと、闇をすかして此方を見ている様子でしたが、何事もないと見きわめがつくと、舟足をピタリと停めて、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>から、スルスルと真っ黒な水面に滑る者があるのです。

「もう少し傍へ寄りましょうか、親分」

平次の耳の側で、八五郎は<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったく囁きます。

「いや、動くな――川の中に<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>が一本立っていた筈だ、――その竿を見定めておいたのが良かったのだよ、暫らく待て――」

平次の声も、微風のようにそよぎます。

それからまた、やや暫らく経ちました。何やら水の音がして、相手の舟にドッシリした物が投げ込まれます。

やがて物音が大きくなって、闇の中にも何やら、飛躍的なものを感ずると、平次の手から一道の<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>がパッと射しました。泥棒<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がん</span>燈です。

「あッ」

八五郎は思わず声をあげました。泥棒<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がん</span>燈の丸い光の中に浮んだのは、何んと、<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>の腰巻一つになって、裸体になった女の立ち姿、それは全身水に光って人魚さながらの美女、蒼白い顔、肩に流るる黒髪、――それは<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せんえん</rt></ruby>にも、<ruby><rb>昇華</rb><rt>しょうか</rt></ruby>し去りそうな美しい姿です。

その美しくも無気味な<ruby><rb>情景</rb><rt>シーン</rt></ruby>も一瞬にして消え、女は身を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して、夜の水の中に、ザブンと跳び込んだのです。

が、その泥棒<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がん</span>燈の光を合図に、舟は八方から集まりました。

舟の中に残ったのは男一人、それは飛び込んだ八五郎に取って押えられました。水に跳び込んだ女の姿は、十数艘の船を動員し、八方から、<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>をかかげて捜しましたが、ついに朝までも見付からず、朝の光の中に、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい船はそのまま引揚げる外はなかったのです。

船の中の男は、伊豆屋の下男元吉、船の中には、風呂敷に包んだ、五百両の小判が転がっておりました。そして人魚のような女は――言うまでもなく水神の森の茶店の女、お銀の姿だったことは言うまでもありません。

×　　　　　　　　　　×

それより半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>も前、水を潜って逃れたお銀は、そのまま捨ておき難いものがあったか、――いや、舟の中に着物を脱いだために、裸体で逃げるわけに行かなかったか、とにもかくにも水神の森の中の、茶店の裏口に立っていたのです。

「お松さん、開けておくれ、――私だよ」

晩春の水の冷たさに、お銀もさすがに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えておりました。焔に腰を包んだような、物凄い裸体、流れた毛を持ち扱い兼ねた姿で、そっと雨戸に拳を当てるのです。

内ではコトコトと音がして、お銀の前にガラリと戸が開きました。

「あッ」

それは思いもよらぬ銭形平次の姿だったのです。

「ここへ来るだろうと思ったよ。サア、着物を着るうちだけは待ってやろう」

平次はそう言って、逃げる思案もつかず、ぼんやり立っているお銀の手に、一とかさねの<ruby><rb>平常着</rb><rt>ふだんぎ</rt></ruby>を投げてやるのです。

「ありがとう、礼を言ったものか知ら、銭形の親分」

お銀はそう言って濡れたままの身体に<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を引っかけ、<ruby><rb>蒼澄</rb><rt>あおず</rt></ruby>んだ顔に、ニッコリ淋しい微笑を浮べるのです。

お銀も元吉も<ruby><rb>処刑</rb><rt>おしおき</rt></ruby>になり、伊豆屋の二番目息子の徳三郎は、それっきり行方不明になりました。菊次郎の許嫁のお夏も、自分から身を退こうとしましたが、養い親の主人徳兵衛に望まれて、伊豆屋に留まり、その後を立てることになりました。

八五郎が絵解きをせがむと、平次は、

「わからないところは一つもないだろう。お銀は菊次郎を嫌って、五百両の金だけほしかったのさ。菊次郎が座敷牢に入ると、裏から小舟を出して、すぐ庭の裏の川で、向島から泳いで来るお銀と逢引していたのだよ。五百両持出させた晩、<ruby><rb>竹竿</rb><rt>たけざお</rt></ruby>で菊次郎を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>り殺したが、五百両という小判を持ち運ぶ工夫はない、お銀は舟は漕げないから、川に沈めて竿を立てて<ruby><rb>目印</rb><rt>めじるし</rt></ruby>にして置いたのだ。さてあの翌る日は、俺が川を捜すと触れて廻ったので、前の晩元吉に舟を出させて、目印の場所から五百両の小判を取出したのだよ。<ruby><rb>潮来</rb><rt>いたこ</rt></ruby>で育ったお銀は、<ruby><rb>海女</rb><rt>あま</rt></ruby>のように川を潜る」

「ところで徳三郎はどうなりましょう」

「兄を殺したも同様さ、悪い奴だ。元吉を使って、菊次郎が五百両持って出るのを、お銀に知らせたのだろう、――可哀想なのはお夏さ。良い娘だが、少し我が強くて菊次郎といっしょになる気がしなかったのだろう、――でも自分が好きになれないばかりに、菊次郎があんなことになった、罪亡ぼしのために明神下まで飛んで来たに違いない」

「でも、あの女は大した女でしたね。人魚と言うのは、あんなものでしょう」

「何をつまらねえ、――あれは竹竿で男を撲り殺す女だ。化物だよ」

「それに<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べると、お夏は――愛嬌はないが、良い娘でしたね」

どこまで行っても、八五郎の女人<ruby><rb>礼讃</rb><rt>らいさん</rt></ruby>は果てしもありません。