Soranoha

二癈人

にはいじん

江戸川 乱歩

二人は湯から上って、一局囲んだ後を煙草たばこにして、渋い煎茶せんちゃを啜すすりながら、何時いつもの様にボツリボツリと世間話を取交していた。穏かな冬の日光が障子しょうじ一杯に拡ひろがって、八畳の座敷をほかほかと暖めていた。大きな桐の火鉢ひばちには銀瓶ぎんびんが眠気を誘う様な音を立てて沸たぎっていた。夢の様にのどかな冬の温泉場の午後であった。

無意味な世間話が何時いつの間にか懐旧談に入って行った。客の斎藤さいとう氏は青島役の実戦談を語り始めていた。部屋のあるじの井原いはら氏は火鉢に軽く手を翳かざしながら、黙ってその血腥ちなまぐさい話に聞入っていた。幽かすかに鶯うぐいすの遠音とおねが、話の合あいの手ての様に聞えて来たりした。昔を語るにふさわしい周囲の情景だった。

斎藤氏の見るも無慚むざんに傷きずついた顔面はそうした武勇談の話し手として至極似つかわしかった。彼は砲弾の破片に打たれて出来たという、その右半面の引釣ひきつりを指しながら、当時の有様を手に取る様に物語るのだった。その外にも、身体中に数ヶ所の刀傷があり、それが冬になると痛むので、こうして湯治とうじに来るのだといって、肌を脱いでその古傷を見せたりした。

「これで、私も若い時分には、それ相当の野心を持っていたんですがね。こういう姿になっちゃお仕舞しまいですよ」

斎藤氏はこう云いって永い実戦談の結末をつけた。

井原氏は、話の余韻よいんでも味あじわう様に暫しばらく黙っていた。

「この男は戦争のお蔭で一生台無しにして了った。お互に癈人なんだ。がこの男はまだしも名誉という気安めがある。併しかし俺には……」

井原は又しても心の古傷に触れてヒヤリとした。そして肉体の古傷に悩んでいる斎藤氏などはまだまだ仕合せだと思った。

「今度は一つ私の懺悔ざんげ話を聞いて戴きましょうか。勇ましい戦争の御話の後で、少し陰気過ぎるかも知れませんが」

お茶を入換えて一服すると、井原氏は如何いかにも意気込んだ様にこんな事を云った。

「是非ぜひ伺い度たいもんですね」

斎藤氏は即座に答えた。そして何事かを待構える様にチラと井原氏の方を見たが、直すぐ、さりげなく眼を伏せた。

井原氏はその瞬間、オヤと思った。井原氏は今チラと彼の方を見た斎藤氏の表情に、どこか見覚えがある様な気がしたのだった。彼は斎藤氏と初対面の時から――といっても十日計ばかり以前のことだが――何かしら、二人の間に前世の約束とでも云った風の引懸りがある様な気がしていた。そして、日が経ふるにつれて、段々その感じが深くなって行った。でなければ、宿も違い、身分も違う二人が、僅か数日の間にこんなに親しくなる筈がないと井原氏は思った。

「どうも不思議だ。この男の顔は確かどこかで見たことがある」併しどう考えて見ても少しも思い出せなかった。「ひょっとしたら、この男と俺とは、ずっとずっと昔の、例えば、物心のつかぬ子供の時分の遊び友達ででもあったのではあるまいか」そんな風に思えば、そうとも考えられるのだった。

「いや、さぞかし面白いお話が伺えることでしょう。そういえば、今日は何だか昔を思い出す様な日和ひよりではありませんか」

斎藤氏は促す様に云った。

井原氏は恥しい自分の身の上を、これまで人に話したことはなかった。寧むしろ出来る丈だけ隠して置こうとしていた。自分でも忘れようと努めていた。それが、今日はどうしたはずみか、ふと話して見度みたくなった。

「さあ、どういう風に御話したらいいか……私は××町で一寸ちょっと古い商家の総領に生れたのですが、親に甘やかされたのが原因でしょう、小さい時から病身で、学校などもその為に一二年遅れた程ですが、その他には、これという不都合もなく、小学から中学、それから東京の××大学と、人様よりは遅れながらも、先ずまず順当に育って行ったのでした。東京へ出てから身体の方も割合順調に行きますし、そこへ学科が専門になるにつれて興味を生じて来、ぽつぽつ親しい友達も出来て来るという訳で、不自由な下宿生活も却かえって楽しく、まあ何の屈託もない学生生活を送っていたのでした。今から考えますと、ほんとうにあの頃が私の一生中での花でしたよ。ところが、東京へ出て一年経つか経たない頃でした。私はふとある恐ろしい事柄に気附く様になったのです」

此処ここまで話すと、井原氏は何故なぜか幽かに身震いした。斎藤氏は吸いさしの巻煙草を火鉢に突差して熱心に聞き始めた。

「ある朝のことでした。私がこれから登校しようと、身支度をしていますと、同じ下宿にいる友達が私の部屋へ入って来ました。そして私が着物を着換えたりするのを待ち合せながら『昨夜ゆうべは大変な気焔きえんだったね』と冷かす様に云うではありませんか。併し私には一向その意味が分らないのです。『気焔って、昨夜僕が気焔を吐いたとでも云うのかい』私がけげん顔に聞返しますと、友達は矢庭やにわに腹を抱えて笑い出し『君は今朝はまだ顔を洗わないんだろう』などとからかうのです。でよく聞訊ききただして見ますと、その前の晩の夜更けに、友達の寝ている部屋へ私が入って行って、友達を叩き起して矢庭に議論を始めたのだ相です、何でも、プラトーとアリストテレスとの婦人観の比較論か何かを滔々とうとうと弁じ立てた相そうですが、自分が云い度い丈け云って了うと、友達の意見なんか聞きもしないで、サッサと引上げて了ったというのです。どうも狐にでもつままれた様な話なんです。『君こそ夢でも見たんだろう。僕は昨夜は早くから床に入って今し方までぐっすり寝込んでいたんだもの、そんなことのあり相な道理がない』といいますと、友達は『所が夢でない証拠には、君が帰ってから僕が寝つかれないで永い間読書していた位だし、何より確なのは、見給えこの葉書を、その時書いたんだ。夢で葉書を書く奴もないからね』とむきになって主張するのです。

そんな風に押問答をしながら、結局あやふやで、その日学校へ行ったことですが、教室へ入って講師の来るのを待っている間に、友達が考え深そうな眼をして『君はこれ迄までに寝とぼける習慣がありやしないか』と尋ねるのです。私はそれを聞くと、何だか恐ろしいものにぶつかった様に、思わずハッとしました。……私にはそういう習慣があったのです。私は小さい時分から寝言をよく云った相ですが、誰かがその寝言にからかいでもすると、私は寝ていてハッキリと問答した相です。而しかも朝になっては少しもそれを記憶していないのです。珍らしいというので、近所の評判になっていた程なんです。でも、それは小学校時代の出来事で大きくなってからは忘れた様に直っていたのですが、今友達に尋ねられると、どうやら、この幼時の病癖と昨夜の出来事とに脈絡があり相な気がするのです。で、その事を話しますと、『では、それが再発したんだぜ。つまり一種の夢遊病なんだね』友達は気の毒相にこんなことをいうのです。

さあ、私は心配になって来ました。私は夢遊病がどんなものか、ハッキリしたことは無論知りませんでしたが、夢中遊行、離魂りこん病、夢中の犯罪などという熟語が気味悪く浮んで来るのです。第一若い私には寝とぼけたという様なことが恥しくてならなかったのです。若しこんな事が度々起る様だったらどうしようと、私はもう気が気ではありません。その事あって二三日してから、私は勇気を鼓こして知合の医者の所へ出掛けて相談して見ました。ところが医者の云いますのには、『どうも夢中遊行症らしいが、併しかし一度位の発作でそんなに心配しなくともよい、そうして神経を使うのが却かえって病気を昂進こうしんさせる元だ。なるべく気をしずめて、呑気のんきに、規則正しい生活をして、身体を丈夫にし給え。そうすれば、自然そんな病気も直って了う』という至極楽天的な話なんです。で、私も諦あきらめて帰ったのですが、不幸にして私という人間は、生れつき非常な神経病みでして、一度そんなことがあると、もうそれが心配で心配で、勉強なども手につかぬという有様でした。

どうかこれ切り再発しなければいいがと、その当座毎日ビクビクものでしたが、仕合せと一月計りというものは何事もなく過ぎて了いました。ヤレヤレ助かったと思っていますと、どうでしょう、それも束つかの間まの糠悦ぬかよろこびで、間もなく今度は以前よりもひどい発作が起り、なんと、私は夢中で他人の品物を盗んで了ったのです。

朝眼を覚して見ますと、私の枕下まくらもとに見知らぬ懐中時計が置いてあるではありませんか、妙だなと思っている内に、同じ下宿にいた、ある会社員の男が『時計がない、時計がない』という騒ぎなんでしょう。私は、『さては』と悟ったのですが、何とも極きまりが悪くて謝りに行くにも行けないという始末です。とうとう以前の友達を頼んで、私が夢遊病者だということを証明して貰って時計を返し、やっと其場そのばは納ったのですが、さあそれからというものは『井原は夢遊病者だ』という噂がパッと拡って了って、学校の教室での話題にさえ上るという有様でした。

私はどうかして、この恥しい病を治し度いと、その方面の書物を買込んで読んで見たり、色々の健康法をやって見たり、勿論数人も医者を換えて見て貰うという訳で、出来る丈手を尽したのですが、どうして直るどころか、段々悪くなって行く計りです。月に一度、ひどい時には二度位宛ずつ、かならず例の発作がおこり、少しずつ夢中遊行の範囲が、広くなって行くという始末です。そして、その度毎に他人の品物を持ってくるか、自分の持物を持って行った先へ落して来るのです。それさえなければ他人に知られずに済むこともあったのでしょうが、悪いことには、大抵何か証拠品が残るのです。それとも若もしかしたら、そうでない場合にも度々発作を起していても、証拠品がない為に知らずに了ったのかも知れません。何にしても我ながら薄気味の悪い話でした。ある時などは真夜中に下宿屋から抜出して、近所のお寺の墓地をうろついていたことなどもありました。拍子の悪いことには、丁度その時、墓地の外の往来を、同じ下宿屋にいるある勤人が宴会の帰りかなんかで通り合せて、低い生垣越しに私の姿を認め、あすこには幽霊が出るなどと云いふらしたものですから、実はそれが私だったと判ると、さあ大変な評判なんです。

そんな風で私はいい物笑いなんです。成程、他人から見れば曾我廼家以上の喜劇でありましょうが、当時の私の身にとっては、それがどんなにつらく、どんなに気味の悪いことだったか、その気持は、とても当人でなけりゃ分りっこありませんよ。初めの間は、今夜も失策をしやしないか、今夜も寝とぼけやしないかと、それが非常に恐ろしかったのですが、段々、単に睡るというそのことが恐ろしくなって来ました。いや睡る睡らないに拘らず、夜になると寝床に入らなければならぬということが脅迫観念になって来ました。そうなると、馬鹿げた話ですが、自分のでなくても、夜具というものを見るのが、云うに云われぬいやな心持なんです。普通の人達には一日中で最も安らかな休息時間が、私に最も苦しい時なのです。何という不幸な身の上だったのでしょう。

それに、私にはこの発作が起り始めた時から、一つ恐ろしい心配があったのです。というのはいつまでもこのような喜劇が続いて、人の物笑いになっている丈けで済めばいいが、若しこれが何時の日か取りかえしのつかぬ悲劇を生むことになりはしないか、という点でした。私は先にも申上げました様に、夢遊病に関する書物は出来る丈け手を尽して蒐集しゅうしゅうし、それを幾度も幾度も読み返していた位ですから、夢遊病者の犯罪の実例なども沢山知っていました。そして、その中には数々の身震いする様な血腥い事件が含まれていたのです。気の弱い私がどんなにそれを心配したか、蒲団を見てさえ気持が悪くなるというのも決して無理ではなかったのです。軈やがて私もこうしてはいられないと気がつきました。一層学業を抛なげうって国許に帰ろうと決心したのです。で、ある日、それは最初の発作が起ってからもう半年余りもたった頃でしたが、長い手紙を書いて親達のところへ相談して遣りました。そして、その返事を待っている間に、どうでしょう、私の恐れに恐れていた出来事が、とうとう実現して了ったのです。私の一生涯をめちゃめちゃにして了うような、とり返しのつかぬ悲劇が持上ったのです」

斎藤氏は身動きもしないで謹聴していた。併し彼の眼は、物語の興味に引つけられているという以上に何事かを語っている様に見えた。正月の書入れ時もとくに過ぎた温泉場は、湯治客も少く、ひっそりとして物音一つしなかった。小鳥の啼声ももう聞えては来なかった。実世間というものから遠く切離された世界に、二人の癈人は異常な緊張を以て相対していた。

「それは丁度今から二十年前、明治××年の秋のことです。随分古い御話ですがね。ある朝眼を覚しますと、何となく家の中がざわついていることに気附きました。傷持つ足の私は又何か失策をやったのではないかと、直ぐいやな気持に襲われるのでしたが、暫く寝ながら様子を考えている中に、どうも唯事でないという気がし出しました。何とも云えぬ恐ろしい予感が、ゾーッと背中を這上って来るのです。私はおずおずしながら部屋の中をずっと見廻しました。すると、何となく様子が変なのです。部屋の中に、昨夜私が寝た時とはどことなく変った所がある様な気がするのです。で、起上ってよく検べて見ますと、案の定、変なものが眼に入りました。部屋の入口の所に見覚えのない小さな風呂敷包が置いてあるではありませんか。それを見た私は、何ということでしょう、矢庭にそれを掴んで押入の中へ投込んで了ったのです。そして、押入の戸を締めると盗人の様にあたりを見廻して、ほっと溜息をつくのでした。丁度その時音もなく障子を開けて一人の友達が首を出しました。そして小さな声で『君、大変だよ』と如何にも事ありげに囁くのです。私は今の挙動を悟られやしなかったかと気が気でなく返事もしないで居ますと、『老人が殺されているんだ。晩夜ゆうべ泥坊が入ったんだよ。まあ一寸来て見給え。そう云って友達は行って了いました。私はそれを聞くと、喉が塞がった様になって、暫くは身動きも出来ませんでしたが、やっと気を取直して様子を見に部屋を出て行きました。そして私は何を見、何を聞いたのでしょう。……その時の何ともいえぬ変な心持というものは、二十年後の唯今でも、昨日のことの様にまざまざと思出されます。殊にあの老人の物凄い死顔は、寝ても覚めても、この眼の前にちらついて離れる時がありません」

井原氏は恐れに耐えぬ様に、あたりを見廻した。

「で、その出来事をかい摘んで申上げますと、その夜丁度、息子夫婦が泊りがけで親戚へ行っていたので、下宿の老主人は唯一人玄関脇の部屋に寝ていたのですが、いつも朝起きの主人が其日に限っていつまでも寝ているので、女中の一人が不審に思ってその部屋を覗いて見ますと、老人は寝床の中に仰臥ぎょうがしたまま、巻いて寝ていたフランネルの襟巻で絞殺されて冷たくなっていたのです。取調の結果、犯人は老人を殺して置いて、老人の巾着きんちゃくから鍵を取出し、箪笥たんすの抽斗ひきだしをあけ、その中の手提金庫から多額の債券や株券を盗み出したことが分りました。何分その下宿屋は、夜更けに帰って来る客の為に、いつだって入口の戸に鍵をかけたことがないのですから、賊の忍入るにはお誂向あつらえむきなんですが、その代りによくしたもので、殺された老主人が馬鹿に眼敏めざとい男なので、滅多なこともなかろうと、皆安心していた訳なんです。現場げんじょうには別段これという手掛りも発見されなかったらしいのですが、唯一つ、老主人の枕下に一枚の汚れたハンカチが落ちていて、それを其筋の役人が持って行ったという噂なんです。

暫くすると、私は自分の部屋の押入の前に立って、それを開けようか開けまいかと、手を出したり引込めたり、うろたえていました。押入の中には、そら、例の風呂敷包があるのです。それを検べて見て、若し殺された老人の財産が入っていたら……まあその時の私の心持を御察し下さい。ほんとうに命懸いのちがけの土壇場です。私は長い間、そうして寿命の縮む思おもいをしながらも、どうしても押入が開けられないで立ちつくしていましたが、遂に意を決して風呂敷包を検べて見たのです。その途端とたん私はグラグラと眩暈めまいがして、暫くは気を失った様になって了いました。……あったのです。その風呂敷包の中に、債券と株券がちゃんと入っていたのです……。現場に落ちていたハンカチも私のものだった事が後になって分りました。

結局、私はその日の中に自首して出ました。そして色々の役人に幾度となく取調べを受けた上、思出してもゾッとする未決監みけつかんへ入れられたのです。私は何だか白昼悪夢にうなされている気持でした。夢遊病者の犯罪というものが余り類例がないことなので、専門医の鑑定だとか、下宿人達の証言だとか色々手数のかかる取調べがありましたが、私が相当の家の息子で金の為に殺人を犯す道理がない事も分って居ましたし、私が夢遊病者だということは友人などの証言で明白なことですし、それに、国の父親が上京して三人も弁護士を頼んで骨折って呉れたり、最初夢遊病を発見した友達――それは木村という男でしたが――その男が学友を代表して熱心に運動して呉れたり、其他色々私にとって有利な事情が揃っていた為でもありましょう。長い未決監生活の後、遂に無罪の判決が下されました。さて無罪になったものの、人殺しという事実は、ちゃんと残っているのです。何という変てこな立場でしょう。私はもう無罪の判決を嬉しいと感じる気力もない程疲れ切っていました。

私は放免されるとすぐ様、父親同行で郷里に帰りました。が、家の敷居を跨ぐと、それまででも半病人だった私は、ほんとうの病人になって了って、半年計り寝た切りで暮すという始末でした。……こんなことで私はとうとう一生を棒にふって了ったのです。父親の跡は弟にやらせて、それから後二十年の長い月日を、こうして若隠居といった境遇で暮しているのですが、もう此頃では煩悶はんもんもしなくなりましたよ。ハハハ……」

井原氏は力ない笑声で長い身の上話を結んだ。そして、

「下らないお話で、さぞ御退屈でしたろう。さあ、熱いのを一つ入れましょう」

と云いながら茶道具を引寄せるのだった。

「そうですか。一寸拝見した所は結構な御身分の様でも、伺って見ればあなたもやっぱり不幸な方なんですね」斎藤氏は意味ありげな溜息を吐きながら「ですが、その夢遊病の方は、すっかりお直りなすったのですか」

「妙なことには、人殺し騒ぎの後、忘れた様に一度も起らないのです。恐らく、その時余りひどい刺戟しげきを受けた為だろうと医者は云っています」

「そのあなたのお友達だった方……木村さんとかおっしゃいましたね。……その方が最初あなたの発作を見たのですね。それから時計の事件と、それから、墓地の幽霊の事件と、……その外の場合はどんな風だったのでしょうか。御記憶だったら御話下さいませんか」

斎藤氏は、突然少しどもりながら、こんなことを云い出した。彼の一つしかない眼が異様に光っていた。

「そうですね。皆似たり寄ったりの出来事で、殺人事件をのけては、まあ墓地を彷徨さまよった時のが一番変っていたでしょう。あとは大抵同宿者の部屋へ侵入したという様なことでした」

「で、いつも品物を持って来るとか、落して来るとかいうことから発見された訳ですね」

「そうです。でも、そうでない場合も度々あったかも知れません。ひょっとしたら、墓場どころではなく、もっともっと遠い所へ彷徨い出していたこともあったかも知れません」

「最初木村というお友達と議論をなすった時と、墓場で勤人の人に見られた時と、その外に誰かに見られたという様なことはないのですか」

「いや、まだ沢山あった様です。夜半に下宿屋の廊下を歩廻っている跫音を聞いた人もあれば、他人の部屋へ侵入する所を見たという人などもあった様です。併しあなたはどうしてそんなことを御尋ねになるのです。何だか私が調べられている様ではありませんか」

井原氏は無邪気に笑って見せたが、その実少し薄気味悪く思わないではいられなかった。

「いや御免下さい。決してそういう訳ではないのですが、あなたの様なお人柄な方が仮令夢中だったといえ、そんな恐ろしいことをなさろうとは、私にはどうも考えられないものですから。それに一つ、私にはどうも不審な点があるのです。どうか怒らないで聞いて下さい。こうして不具者になって世間をよそに暮していますと、つい何事にも疑深くなるのですね。……ですが、あなたにはこういう点をお考えなすった事がありますか知ら。夢遊病者というものは、その兆候ちょうこうが本人にも絶対に分らない。夜中に歩廻ったり、お喋りをしたりしても、朝になればすっかり忘れている。つまり他人に教えられて初めて『俺は夢遊病者なのかなあ』と思う位のことでしょう。医者に云わせると、色々肉体上の徴候もある様ですが、それとても実に漠ばくとしたもので、発作が伴って初めて決せられる程度のものだというではありませんか。私は自分が疑深いせいですか、あなたはよく無雑作むぞうさに自分の病気をお信じなすったと思いますよ」

井原氏は、何かえたいの知れぬ不安を感じ始めていた。それは、斎藤氏の話から来たというよりは、寧ろ対手の見るも恐ろしい容貌から、その容貌の裏にひそむ何者かから来た不安であった。併し彼は強しいてそれを圧おさえつけながら答えた。

「なる程、私とても最初の発作の時にはそんな風に疑っても見ました。そして、これが間違であって呉れればいいと祈った程でした。でも、あんなにも長い間、絶間なく発作が起っては、もうそんな気安めも云っていられなくなるではありませんか」

「ところが、あなたは一つの大切な事柄に気附かないでいらっしゃる様に思われるのです。というのは、あなたの発作を目撃した人が少い。いや煎じつめればたった一人だったという点です」

井原氏は、相手がとんでもないことを空想しているらしいのに気附いた。それは実に、普通人の考えも及ばぬ様な恐ろしいことだった。

「一人ですって、いや決してそんなことはありません。先程も御話した様に、私が他人の部屋へ入る後姿を見たり廊下の跫音を聞いたりした人はいくらもあるのです。それから墓場の場合などは、名前は忘れましたがある会社員が確に目撃して、私にそれを話した位です。そうでなくても、発作の起る度にきっと、他人の品物が私の部屋にあるか、私の持物がとんでもない遠方に落ちているかしたのですから、疑う余地がないじゃありませんか。品物が独ひとりで位置を換る筈もありませんからね」

「いや、そういう風に発作の度毎たびごとに証拠品が残っていたという点が、却て怪しいのです。考えて御覧なさい、それらの品物は、必ずしもあなた自身の手を煩わさなくても、誰か外の人がそっと位置を換て置くことも出来るのですからね。それから、目撃者が沢山あった様におっしゃいますが、墓場の場合にしても、その他の後姿を見たとか何とかいうのは、皆曖昧あいまいな所があります。あなたでない他の人を見ても、夢遊病者という先入主の為に、少し夜更けに怪しい人影でも見れば、すぐあなたにして了ったのかも知れません。そういう際に間違った噂を立てたからとて、少しも非難される憂うれいはありませんし、その上、一つでも新しい事実を報告するのを手柄の様に思うのが人情ですからね。さあ、こういう風に考えて見ますと、あなたの発作を目撃したという数人の人々も、沢山の証拠の品物も、皆ある一人の男の手品から生れたのだと云えないこともないではありませんか。それは如何にも上手な手品には相違ありません。でも、いくら上手でも手品は手品ですからね」

井原氏はあっけに取られた様に、ぼんやりして、相手の顔を眺めていた。彼は余りのことに考えを纏まとめる力をなくした人の様に見えた。

「で、私の考えを申しますと、これはその木村というお友達の深い考えから編出あみだされた手品かも知れないと思うのです。何かの理由からその下宿屋の老主人を無きものにし度い、そっと殺して了い度い。併し、仮令如何程いかほど巧妙な方法で殺しても、殺人が行われた以上、どうしても下手人が出なければ納りっこはありませんから、誰か別の人を自分の身代りに下手人にする、而かもその人には出来る限り迷惑の掛らぬ様な方法で……若し、若しですよ、その木村という人がこんな立場にあったと仮定しますならば、あなたという信じ易い、気の弱い人を夢遊病者に仕立てて一狂言書くということは、実に申分のない考えではないでしょうか。

こういう仮定を先ず立てて見て、それが理論上成たつかどうかを調べて見ましょう。さて、その木村という人はある機会を見て、あなたにありもしない作話をして聞かせます。と、都合のいい事にはあなたが少年時代に寝とぼける癖があったことが一つの助けとなって、その試みが案外効果を収めたとします。そこで木村氏は、他の下宿人の部屋から時計その他のものを盗み出して、あなたの寝ている部屋の中へ入れて置くとか、気附かれぬ様にあなたの持物を盗み出して他の場所へ落して置くとか、自分自身があなたの様に装って墓場や下宿の廊下などを歩廻るとか、種々様々の機智を弄ろうして益々あなたの迷信を深めようとします。又一方、あなたの周囲の人達にそれを信じさせる為に色々の宣伝をやります。こうして、あなたが夢遊病だということが本人にも周囲にも完全に信じられる様になった上で、最も都合のいい時を見計らって、木村氏自身が敵と狙う老人を殺害するのです。そして、その財産をそっとあなたの部屋に入れて置き、前以て盗んで置いたあなたの所持品を現場へ遺して置くと、こういう風に想像することが、あなたは理論的だとは思いませんか。一点の不合理も見出せないではありませんか。そしてその結果はあなたの自首ということになります。成程それはあなたにとって随分苦しいことには相違ありませんが、刑罰という点では無罪とは行かずとも比較的軽く済むのは分り切ったことです。よし多少の刑罰を受けた所で、あなたにして見れば病気のさせた罪ですから、真実の犯罪程心苦しくはない筈です。少くも木村氏はそう信じていたことでしょう。別段あなたに対して敵意があった訳ではなかったのですからね。ですが若し彼があなたの今の様な告白を聞いたなら、さぞかし後悔したことでしょう。

いやとんだ失礼なことを申上げまして、どうか気を悪くしないで下さい。これというのも、あなたの懺悔話ざんげばなしを伺って余り御気の毒に思ったものですから、つい我を忘れて変な理窟を考え出して了ったのです。ですが、あなたのお心を二十年来悩まして来た事柄も、こういう風に考えればすっかり気安くなるではありませんか。如何にも私の申上げたことは当推量あてずいりょうかも知れません。でも、仮令当推量にしろ、そう考える方が理窟にも適かない、あなたのお心も安まるとすれば、結構ではありますまいか。

木村という人が何故老人を殺さねばならなかったか。それは私が木村氏自身でない以上どうも分り様がありませんが、そこにはきっと云うに云われぬ深い訳があった事でしょう。例えば、そうですね、敵討といった様な……」

真青になった井原氏の顔色に気附くと、斎藤氏はふと話をやめて、何事かを虞おそれる様にうなだれた。

二人はそうしたまま長い間対座していた。冬の日は暮るるに早く、障子の日影も薄れて、部屋の中にはうそ寒い空気が漂い出していた。

やがて、斎藤氏は恐る恐る挨拶をすると、逃げる様に帰って行った。井原氏はそれを見送ろうともしなかった。彼は元の場所に坐ったまま、込み上げて来る忿怒ふんぬをじっと圧えつけていた。思掛けぬ発見に思慮を失うまいとして全力を尽していた。

併し時が経つにつれて、彼のすさまじい顔色が段々元に復して行った。そして、遂に苦い苦い笑が彼の口辺に漂うのだった。

「顔かたちこそまるで変っているが、あいつは、あいつは……だが仮令あの男が木村自身だったとしても、俺は何を証拠に復讐しようというのだ。俺という愚かものは、手も足も出ないで、あの男の手前勝手な憐憫れんびんを有難く頂戴するばかりじゃないか」

井原氏は、つくづく自分の愚かさが分った様な気がした。と、同時に、世にもすばらしい木村の機智を、悪にくむというよりは寧ろ讃美しないではいられなかった。

底本 / Source edition

底本:「江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者」光文社文庫、光文社
2004(平成16)年7月20日初版1刷発行
2012(平成24)年8月15日7刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第二巻」平凡社
1931(昭和6)年10月
初出:「新青年」博文館
1924(大正13)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:門田裕志
校正:江村秀之
2017年9月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/057191_001779/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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江戸川 乱歩「二癈人」(新字新仮名)、底本『江戸川乱歩全集 第1巻 屋根裏の散歩者』光文社文庫、光文社、2004年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 057191_001779, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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