Soranoha

つゆじも

つゆじも

斎藤 茂吉

大正七年大正八年

大正七年漫吟

斎藤茂吉送別歌会

大正六年十二月二十五日東京青山茂吉宅に於て

わが住める家のいらかの白霜しろじもを見ずて行かむ日近づきにけり

長崎著任後折にふれたる

うつり来しいへの畳のにほひさへ心がなしく起臥おきふしにけり

据風呂すゑふろを買ひに行きつつこよひまた買はず帰り来て寂しく眠る

東京にのこし来しをさなごの茂太しげたもおほきくなりにつらむか

かりずみのねむりは浅くさめしかば外面とのもの道に雨あめ降ふりをるかな

聖福寺しやうふくじの鐘の音ちかしかさなれる家の甍いらかを越えつつ聞こゆ

ゆふぐれて浦上村うらかみむらをわが来ればかはず鳴くなり谷に満ちつつ

電灯にむれとべる羽蟻はありおのづから羽はねをおとして畳たたみをありく

うなじたれて道いそぎつつこよひごろ蛍を買ひにゆかむとおもへり

灰いろの海鳥うみどりむれし田中たなかには朝日のひかりすがしくさせり

とほく来てひとり寂さびしむに長崎の山のたかむらに日はあたり居り

陸奥みちのくに友は死につつまたたきのひまもとどまらぬ日の光かなや

われつひに和のどに生きざらむとおもへども何なににこのごろ友つぎつぎに死す

おもかげに立ちくる友を悲しめりせまき湯あみどに目をつむりつつ

かりずみの家に起きふしをりふしの妻のほしいままをわれは寂しむ

うつしみはつひに悲しとおもへども迫せまり来くひとのいのちの悲しさ

むし暑き家のとのもに降る雨のひびきの鋭するどさわれやつかれし

長崎の石だたみ道いつしかも日のいろ強く夏さりにけり

仮住かりずみの家の二階にひとりゐるわがまぢかくに蚊は飛びそめぬ

わが家の石垣いしがきに生ふる虎耳草ゆきのしたその葉かげより蚊は出でにけり

すぢ向ひの家に大工だいくの夜為事よしごとの長崎訛きくはさびしも

長崎歌会

大正七年十一月十一日於斎藤茂吉宅 題「夜」

はやり風かぜをおそれいましめてしぐれ来し浅夜あさよの床に一人寝にけり

大正八年雑詠

奉迎摂政宮殿下歌 長崎日日新聞所載

豊栄とよさかといや新らしくなり成れる国見くにみをせすといでましたまふ

かけまくもあやにかしこし年古ふれる長崎のうみに御艦みふねはてたまふ

百千代ももちよと祝ほぎてとどろく大砲おほづつに応こたへとよもす春の群山むらやま

み民等の祝ぎて呼ぶこゑとりよろふ港みなとの天あめにとほらざらめや

(長崎日日新聞、十首中存四首)

友に与ふ

港をよろふ山の若葉わかばに光さしあはれ静かなるこのゆく春や

長崎は石だたみ道ヴェネチアの古ふりし小路こうぢのごととこそ聞け

おのづからきこゆる音の清すがしさよ春の山よりながれくる水

はりつめて事に従はむと思へどもあはれこのごろは痛々いたいたしかり

よわよわと幽かなりともはからひの濁にごりあらすなわれの世過よすぎに

(長崎日日新聞)

八月三十日

長崎同人小集を土橋青村宅に開く

こほろぎの鳴けるひと夜の歌がたり乱みだれたる心しましなごみぬ

長崎に来てよりあはれなる歌なきをわれにな問ひそ寂しきものを

九月二日 日ごろ独りゐを寂しむ

白たへのさるすべりの花散りをりて仏ほとけの寺てらの日の光はや

中町の天主堂てんしゆだうの鐘ちかく聞き二たびの夏過ぎむとすらし

九月十日 晧台寺

ヘンドリク・ドウフの妻は長崎の婦をみなにてすなはち道富丈吉だうふぢやうきち生うみき

九月十日 天主堂

浦上天主堂うらかみてんしゆだう無元罪むげんざいサンタマリアの殿堂でんだうあるひは単純に御堂みだうとぞいふ

外国よりわたり来れる霊父れいふらも「昼夜勤労ちうやきんらう」ここにみまかりぬ

九月十二日

独逸潜航艇を観る。縣廰小使云、「潜航艇は唐人たうじんの靴のごとある」。夕べ新地の四海楼を訪ふ

長崎の港の岸に浮かばしめしドイツ潜航艇せんかうていにわれ出入いでいりつ

四海楼に陳玉ちんぎよくといふをとめ居りよくよく今日も見つつかへり来く

九月二十五日 古賀、武藤二氏とともに猶太殿堂ジナゴークを訪ふ。猶太新年なり

猶太紀元ユダヤきげん五千六百八〇年その新年しんねんのけふに会あへりき

満州よりここに来れる若者わかものは叫びて泣くも卓たくにすがりて

長崎の商人しやうにんとしてゐる Lessnerレスナー も Cohnコーン も耀かがやく法服ほふふくを著きつ

十月二十五日

平戸行。平戸丸や旅館。小国李花に会ふ。崎方町阿蘭陀塀、阿蘭井戸、亀甲城址、亀岡神社等

阿蘭陀おらんだの商人あきびとたちは自らの生業なりはひのためにこれを遺のこしき

あはれなる物語ものがたりさへありけむを人は過ぎつつよすがだになし

われは見つ肥前ひぜん平戸ひらとの年ふりし神楽かぐらの舞まひを海わたり来て

十月 東京大相撲来る。釈迦嶽九州山長興山秀の山出羽嶽等に会ふ

巡業に来ゐる出羽嶽ではがたけわが家にチャンポン食ひぬ不足ふそくもいはず

十月三十日 夜古賀十二郎氏の「長崎美術史」の講演を聞く

南蛮絵の渡来も花粉くわふんの飛びてくる趣おもむきなしていつしかにあり

十月三十日

光源寺にて曉烏敏師の説教を聴き、のち鳴滝シイボルト遺跡を訪ふ

この址あとにいろいろの樹あり竹林ちくりんに冬の蠅の飛ぶ音のする

十一月六日

司馬江漢画を観る、「天明戊申冬日於崎陽梧真寺謹写司馬峻」

江漢かうかんが此処に来りて心こめし色をし見なむ雲中観音図うんちゆうくわんのんづ

十二月二十八日 渡邊與茂平と聖福寺を訪ふ

隠元いんげんの八十一歳の筆ふでといふ老いし聖ひじりの面おもしおもほゆ

十二月三十日

十一月なかば妻、茂太を伴ひて東京より来る。今夕二人と共に大浦長崎ホテルを訪ふ

四歳よんさいの茂太しげたをつれて大浦おおうらの洋食くひに今宵こよひは来たり

はやり風はげしくなりし長崎の夜寒よさむをわが子外とに行かしめず

寒き雨まれまれに降りはやりかぜ衰おとろへぬ長崎の年暮れむとす

大正九年

一月六日

東京より弟西洋来る。妻・茂太等と共に大浦なる長崎ホテルにて晩餐を共にせりしが、予夜半より発熱、臥床をつづく

はやりかぜ一年ひととせおそれ過ぎ来しが吾は臥こやりて現うつつともなし

二月某日 臥床。私立孤児院は我家の向隣なり

朝な朝な正信偈しやうしんげよむ稚児をさなごら親おやあらなくにこゑ楽しかり

わが病やうやく癒えて心こころに染しむ朝の経よむ稚等をさならのこゑ

対岸たいがんの造船所ざうせんじよより聞こえくる鉄てつの響ひびきは遠とほあらしのごとし

鉄てつを打つ音遠暴風とほあらしのごとくにてこよひまた聞く夜のふくるまで

三月一日 連日勤務す

東京より来きにしをさなご夕ゆふごとに吾われをむかへてこゑを挙あぐるも

五月四日 大光寺にて三浦達雄一周忌歌会を催す

長崎のしづかなるみ寺に我ぞ来し蟇ひきが鳴けるかな外そとの池いけにて

外とのもにて魚うをが跳ねたり時のまの魚うを跳ねし音寂しかりけれ

藤浪の花は長しと君はいふ夜よるの色いろいよよ深くなりつつ

君死にしよりまる一年ひととせになるといふ五月ごぐわつはじめに君死にしかも

このみ寺は山ゆゑ夜よるのしづかなる林はやしの中なかに鷺啼きにけり

山のみ寺のゆふぐれ見ればはつはつに水銀みづがねいろの港見えつも

ここのみ寺より目ましたに見ゆる唐寺たうでらの門もんの甍いらかも暮れゆかむとす

五月二十四日

大槻如電翁を迎へ瓊林館にて食を共にす。会者古賀十二郎、武藤長蔵、永山時英、奥田啓市の諸氏及び予

シイボルトを中心ちゆうしんとせるのみならずなほ洋学やうがくの源みなもととほし

五月二十五日 ひとり西坂をゆく

西坂にしざかを伴天連ばてれん不浄ふじやうの地ちといひて言継いひつぎにけり悲しくもあるか

短冊二種

おもほえず長崎に来て豊ゆたけき君がこころに親したしみにけり(永山図書館長に)

長崎のいにし古ふるごと明あきらむる君ぞたふときあはれたふとき(古賀十二郎翁に)

「慶長十年にはじめて南蛮より種をつたへて長崎桜馬場にこれをうゆる」(近代世事談、金糸烟、烟草)

ささやけき薬草くすりぐさの一つとおもへども烟草たばこのみしよりすでに幾いくとせ

武藤長蔵教授より大阪天主公教会の公教会月報を借覧しぬ

大音寺だいおんじの樟くすの太樹ふときを見てかへり公教会報こうけうくわいはうの歌を写すも

五月三十日 雷が丘、雨声楼(秋帆別邸)辰巳にて夕餐会等を催す

萱草くわんざうの花さくころとなりし庭なつかしみつつ吾等つどひぬ

六月一日

ひとり西坂を行く。石塔「南無妙法蓮華経安永五丙申歳四月廿八日」石標「天下之死刑場ノ馬込千人埋タル法塔様誰方モ参リ被下度」「長崎市東中町中島ノイ建」

長崎の麦むぎの秋あきなるくもり日にわれひとりこそこころ安やすけれ

六月二日 西浦上伊木力いきりきに到る

畠より烟がしろく立てる見ゆ麦刈る秋となりにけるかも

六月二十五日

六月はじめ小喀血あり、はかばかしからねば今日県立病院に入院す。西二病棟七号室なり。菅沼教授来診

病やまひある人いくたりかこの室へやを出入いでいりにけむ壁は厚しも

ゆふされば蚊のむらがりて鳴くこゑす病むしはぶきの声も聞こゆる

闇深きに蟋蟀こほろぎ鳴けり聞き居れど病人やみびと吾は心しづかにあらな

六月二十七日

血いづ。腎結核にて入院中の大久保仁男来りて予の病を問ふ

わが心あらしの和なぎたらむがごとし寝所ふしどに居りて水飲みにけり

くらやみに向ひてわれは目を開きぬ限かぎりもあらぬものの寂しづけさ

若き友ひとり傍かたはらに来つつ居りこの友もつひに病やまひを持てり

七月二日 県立病院を退院す。三日より自宅に臥床して治療を専らにす

あらくさの繁しげれる見ればいけるがに地息ぢいきのぼりて青き香ぞする

午ひるすぎごろわが病室の入口に鶉うづらの卵売りに来りぬ

ゆふぐれの泰山木たいざんぼくの白花しろはなはわれのなげきをおほふがごとし

七月二十二日 高谷寛日々来りてクロームカルシウムの注射せり

わが家の狭き中庭なかにはを照らしつつかげり行く光を愛かなしみにけり

ひと坪つぼほどの中庭なかにはのせまきにもいのち闘たたかふ昆虫こんちゆうが居り

年わかき内科医君きみは日ごと来てわが静脈じやうみやくに薬くすり入れゆく

長崎に来りて四年よとせの夏ふけむ白さるすべり咲くは未いまだか

七月二十四日 島木赤彦はるばる来りて予の病を問ふ

長崎の暑き日に君は来りたり涙しながるわがまなこより

よしゑやしつひの命いのちと過ぎむとも友のこころを空むなしからしむな

温泉嶽療養

大正九年七月二十六日、島木赤彦、土橋青村二君と共に温泉嶽にのぼり、よろづ屋にやどる。予の病を治せむがためなり。二十七日赤彦かへる。二十八日青村かへる。

この道は山峡やまがひふかく入りゆけど吾われはここにて歩あゆみとどめつ

この道に立ちてぞおもふ赤彦ははや山越やまごしになりにつらむか

赤彦はいづく行くらむただひとりこの山道やまみちをおりて行きしが

草むらのかなしき花よわれ病みし生いのちやしなふ山の草むら

みちのくに稚いとけなくしてかなしみし釣鐘草つりがねさうの花を摘みたり

うつせみの命いのちを愛をしみ地ち響ひびきて湯いづる山にわれは来にけり

温泉うんぜんにのぼり来きたりて吾は居り常つねなきかなや雲光くもひかりさへ

温泉うんぜんのむらを離れてほのぐらき谿たにの中なかにて水みづの音とぞする

谿ふかくくだる道見ゆあまつ日の照ることもなき谿にかあらむ

千々和灘ちぢわなだにむかひて低く幾いくつ谷だに息いきづくごとし山のうねりは

高々たかだかと山のうへより目守まもるとき天草あまくさの灘なだ雲とぢにけり

七月二十八日

きぞの朝あさ友の行きたるこの道に日は当り居り見つつ恋こほしむ

家いでて来にしたひらに青膚あをはだの温泉嶽うんぜんだけの道見ゆるかな

小鳥ことりらのいかに睦むつみてありぬべき夏青山なつあをやまに我はちかづく

山の根の木立こだちくろくして静しづけきを家いで来つつ恋こふることあり

羊歯しだのしげり吾をめぐりてありしかば寒蝉ひぐらしひとつ近くに鳴きつ

たまたまは咳しはぶきの音きこえつつ山の深きに木きこる人あり

臥処ふしどにて身を寂さびしみしわれに見ゆ山の背並せなみのうねりてゆくが

あそぶごと雲のうごける夕まぐれ近やま暗くらく遠とほやま明あかし

夏の日の牧まきの高原たかはらしづまりて温泉うんぜんの山やま暮れゆくを見たり

遠風とほかぜのいまだ聞こゆる高原たかはらに夕さりくれば馬むれにけり

水光みづひかりななめにぞなる高原に群れたる馬ぞ走ることなき

七月二十九日 広河原道其他、前田徳八郎、高谷寛のぼり来

松かぜの音は遠くに近くにも聞こえくるころ吾は行くなり

合歓ねむの花はなひくく匂ひてありたるを手折たをらむとする心利こころどもなし

あまつ日は既にのぼりて向山むかやまに晩蝉ひぐらし鳴けどここには鳴かず

行きずりの道のべにして茱萸ぐみの実みははつかに紅あかし紅あけ極きはまらなむ

赤土あかつちの道より黒土くろつちの坂となり往くも反かへるも心にぞ留とむ

七月三十日

湯いづる山の月の光は隈なくて枕べにおきししろがねの時計とけいを照らす

長崎に二年ふたとせ居りて聞かざりし暁あかつきがたの蝉のもろごゑ

まくらべに時計とけいと手帳てちやう置きたるにいまだ射さしくるあけがたの月

起きいでて畳のうへに立ちにけりはるかに月は傾かたむきにつつ

山の上にひとときに鳴くあかときの寒蝉ひぐらし聞けば蟋蟀こほろぎに似たり

あかつきのさ霧に濡れてかすかなる虫捕むしとりぐさの咲けるこのやま

寂しさに堪ふる寝所ふしどに明暮れし吾にせまりて青き山々

七月三十日、三十一日 別所奥、林中

温泉うんぜんの別所べつしよの奥は遠く来こし西洋人にしのくにびともまじりて住めり

木こもれ日はしめれる土つちの一ところ微かすかなる虫の遊ばむとする

谿水たにみづのながるる音も巌いはかげになりて聞きこえぬこのひと時を

牛ふたつ林のなかに来り居りきのふも此処ここに来きたりてゐしか

あまつ日はからくれなゐに山に落つその麓なる海は見えぬに

露西亜ろしあよりのがれ来れる童子わらべらもはざまの滝に水あみにけり

八月一日 一切経滝等

幾重いくへなる山のはざまに滝のあり切支丹宗きりしたんしゆうの歴史を持ちて

深き峡かひ南みなみひらきておち激たぎつ滝のゆくへを吾はおもひき

この山に湧きいだしたる幾泉いくいづみあひ寄り峡かひの底ひに落激おちたぎつ

安息やすらひをおもひて心みだれざりふもとの山に紅あかき日ひかたむく

落つる日の夕かがやきはこの山の平たひらに居りてしばしだに見む

八月二日

あかつきはいまだ暗きにこの山にむらがりて鳴く蜩ひぐらしのこゑ

たぎり湧く湯のとどろきを聞きながらこの石原いしはらに一日ひとひすぐしぬ

温泉うんぜんが嶽たけに十日とをかこもれど我が咽のどのすがすがしからぬを一人ひとりさびしむ

水みづ激たぎちけむ因縁よすがも知らずあしびきの山の奥より石原の見ゆ

ひぐらしは山の奥がに鳴き居りて近くは鳴かず日ひ照てる近山ちかやま

かなかなの山ごもり鳴くは蟋蟀のあはれに似たりひとり聞くとき

八月三日 谿

けふもまた山泉やまいづみなる砂のべに居をるかな病める咽のどを愛をしみて

谿のうへの樹を吹く風は強くしてわが居る石のほとりしづけし

雨はれし後の谿水たにみづいたいたしきのふも今日けふも赭あかく色づき走る

この山に鴉すくなしゆふぐれて小鴉こがらす一つ地つちにおりたつ

山かげの楢ならの木原きはらの下枝しづえにも山蚕やまこが居りて鳥知らざらむ

大き石むらがれる谿の水のべに心しづかになりにけるかも

八月三日 広河原道

わがあゆむ山の細道ほそぢに片よりに薊あざみしげれば小林をばやしなすも

山なみの此処にあひ迫せまる深谿ふかだにを見おろすときに心落ちゐず

しばしして吾が立向たちむかふ温泉うんぜんの妙見めうけんが嶽たけの雲のかがやき

長崎をふりさけむとするベンチには露西亜文字ろしあもじなど人名ひとなきざめり

多良嶽たらだけとあひむかふとき温泉うんぜんの秋立つ山にころもひるがへる

吾が憩いこふひとついただきに漆うるしの木きいまだ小さく人かへりみず

めぐりつつ岨そはをし来れば島山しまやまと天草あまくさの海うみひらけたり見ゆ

なぎさには白浪しらなみの寄るところ見えこの高きより見らくしよしも

ものなべて秋にしむかふ広河原ひろがはらの水のほとりに馬居り走らず

山かげに今日も聞ければ晩蝉ひぐらしは秋蟋蟀あきこほろぎの寂しさに似つ

やまかがし草に入りゆくに足とどむ額ひたひの汗あせを拭ふきつつ吾は

八月四日 谿、温泉神社(四面宮おしめんさま、国魂くにたま神社)裏の石原に沈黙せり

石原に来り黙もだせばわが生いのち石のうへ過ぎし雲のかげにひとし

小さなる螇蚸ばつたのたぐひ跳はねゆきぬ水みづ涸かれをりて白き石はら

曼珠沙華まんじゆしやげ咲くべくなりて石原へおり来こむ道のほとりに咲きぬ

けふ一日ひとひ雲のうごきのありありて石原いしはらのうへに眩暈めまひをおぼゆ

音たてて硫黄いわうふきいづるところより近き木立こだちに山蚕やまこゐるなり

八月五日 広河原地、絹笠山

この山を吾あゆむとき長崎の真昼まひるの砲はうを聞きつつあはれ

絹笠きぬがさの峰みねちかくして長崎の真昼を告ぐる砲はうの音ときこゆ

ふか山のみづうみに来てぬばたまの黒き牛等うしらは水飲みにけり

山はらを貫つらぬきめぐる道ありて馬駈かけゆくがをりをりに見ゆ

山谿が幾重いくへの山の中なかごもり南みなみの流ながれここゆ出でむか

八月六日 晩景、谿

見おろして吾わが居ゐる谿の石のべに没日いりひの光ひかりさすところあり

理由ゆゑよしもなきわが歩み谿底たにそこは既にくらきに水の音すも

わたつみに日は入りぬらむとおもほゆる夕映ゆふばえとほしこころにぞ染しむ

くらくなりし山を流るる深谿ふかだにの水みづの音ときけば絶えざるかなや

谿底を流るるみづは今いまゆ後のちくらきを流れ音おとのかなしさ

わたつみの方を思ひて居たりしが暮れたる途みちに佇たたずみにけり

闇空やみぞらに羽は鳴ならして虫飛びゆけり峠たうげにつかれて我あゆむとき

夕映ゆふばえの赤きを見れば凡おほよそのものとしもなし山のうへにて

八月七日 谿谷

谷底たにぞこにくだり来にけり独ひとり言ごとも今はいはなくに眼まなこをつむる

昼ひるちかきころほひならむと四五歩しごほゆき山谿やまたにみづに眼まなこをあらふ

みづ越えてなほし行くときうづたかき落葉のにほひその落葉はや

谷底たにぞこの石間いしまくぐりてゆく水に魚うを住すみをりて見ゆるかなしさ

この谿をおほへる樹々きぎのしげり葉を照らす光よともしむわれは

青々と樹々きぎの葉てらす天つ日はいま谷底の石をてらさず

かすかなる水のながれとおもへども夕さりくればその音おとさびし

石苔いしごけにわが出いだしたる唾つばのべに来りて去らぬ羽虫はむしあはれむ

この狭間はざまを強き水激たぎち流れけむ石むらがりて横よこたふ見れば

苔こけあをく羊歯しだのしげれる石群いしむらを山ゆく水は常つね濡ぬらしけり

石のひまくぐり流るる谷の水ききつつ吾は一日ひとひここにゐる

みなかみにのぼりてゆけば水の道落葉おちばが下したに隠かくろひにけり

石のまゆ常湧とこわきにして音たつるいづみの水をあはれ一人ひとり見つ

おのづから水ながれたる沢さは越こえて青山あをやま見ゆるところまで来こし

しづかなる一日ひとひを経へむと山水やまみづのながるる谿に吾は来にけり

山みづのながるる音の親したしさにわれは来りて言ことさへいはず

山道をゆけばなつかし真夏まなつさへ冷つめたき谷の道はなつかし

傾きつつ太木ふときしげれるきりぎしのその下したのべの水光みづひかり見む

みづ流ながるる谷底いでて木漏日こもれびの寂しき道を帰り来るなり

八月八日 林中、谿、山

けふもまたしづかに経へむと夏山なつやまの青あをきがなかに入りつつぞ居をる

しらじらと巌間いはまを伝つたふかすかなる水をあはれと思ひ居をるかも

山みづの源みなもとどころの土つち踏ふめる馬の蹄ひづめのあとも好よきかも

石の上吹きくる風はつめたくて石のうへにて眠りもよほす

くだり来し谷際たにあひにして一時ひとときを白しろくちひさき太陽たいやうを見し

八月九日 観音堂

吾が憩いこふ観音堂に楽書らくがきあり Wixon, Nicol, Spark 等らの名よ

八月十日 谿、林

谷底を日は照らしたり谷そこにふかき落葉の朽ちし色はや

谷かげに今日も来にけり山みづのおのづからなる音をときこえつつ

魚の子はかすかなるものかものおそれしつつ泉いづみの水みづなかにゐる

妙見めうけんへ雨乞にのぼり来し人らこの谿のみづ口づけ飲めり

八月十一日

午前三時、高谷寛、大橋松平、前田徳八郎等普賢嶽にのぼりぬ。おのれ宿にのこりて、朝食ののち林中を歩く

向山むかやまのむら立つ杉生すぎふときをりに鴉の連つれの飛びゆくところ

おのづから夏ふけぬらし温泉うんぜんの山の蚕かふこも繭まゆごもりして

八月十二日

久保(猪之吉)博士予を診察したまふ。また夫人より菓子を贈らる

ジュネーヴのアスカナシイの業績げふせきを語りたまひて和のどに日は暮る

この山に君は来りて昆虫こんちゆうの卵あつむと聞くが親したしさ

わが病やまひ診みたまひしかど朗ほがらにていませばか吾の心は和なぎぬ

温平ゆのひらの温泉をんせんの話もしたまひて君がねもごろ吾は忘れず

万屋よろづやに吾を訪ひまし物語ものがたるよりえ夫人ふじんは長塚節ながつかたかしのこと

長崎

八月十四日、温泉嶽を発ちて長崎に帰りぬ。病いまだ癒えず。十六日抜歯、日毎に歯科医にかよふ。十九日諏訪公園逍遥。温泉嶽にのぼりし日より煙草のむことを罷めき

長崎に帰り来りてむしばめるわが歯を除とりぬ命いのちを愛をしみ

暑かりし日を寝処ふしどより起き来しが向ひの山は蒼あをく暮れむとす

公園の石いしの階かいより長崎の街まちを見にけりさるすべりのはな

温泉うんぜんより吾はかへりて暑き日を歯科医に通ふ心しづかに

八月二十五日 福済寺

のぼり来し福済禅寺ふくさいぜんじの石だたみそよげる小草をぐさとおのれ一人ひとりと

石のひまに生おひてかすかなる草のありわれ病みをれば心かなしゑ

長崎の午ひるの大砲たいはう中町なかまちの天主堂てんしゆだうの鐘ここの禅寺ぜんじの鐘

福済寺ふくさいじにわれ居り見ればくれなゐに街の処々ところどころに百日紅さるすべりのはな

八月二十六日 仰臥

ものなべて過すぎゆかむもの現身うつしみはしづかに生いきてありなむ吾われよ

みづからの此身このみよあはれしひたぐることなく終つひの日ひにも許ゆるさな

しづかなる吾の臥処ふしどにうす青き草かげろふは飛びて来にけり

八月二十七日 仰臥 二十八日 仰臥、長崎精霊ながし

精霊しやうりやうをながす日来り港には人みちをれどわれは臥ふし居をり

八月二十九日 北海道なる次兄より長女富子の写真をおくりこしければ

たらちねの母の乳房ちぶさにすがりゐる富子とみこをみれば心は和なぎぬ

山たかく河大おほいなる国原に生あれしをさなごことほぐわれは

とほくゐて汝ながうつしゑを見るときは心をどらむほども嬉しゑ

唐津浜

八月三十日

午前八時十五分長崎発、午後一時三十五分久保田発、午後三時十五分唐津著、木村屋旅館投宿。高谷寛共に行きぬ

五日あまり物をいはなく鉛筆をもちて書きつつ旅行くわれは

肥前なる唐津の浜にやどりして唖おしのごとくに明暮あけくれむとす

八月三十一日 木村屋旅館滞在

海のべの唐津からつのやどりしばしばも噛みあつる飯いひの砂すなのかなしさ

潮うしほ鳴なり夜もすがら聞きて目ざむれば果敢はかなきがごとしわが明日あすさへや

城址しろあとにのぼり来りて蹲しやがむとき石垣にてる月のかげの明あかるさ

九月一日 為刑死霊菩提、享保二丁酉歳九月十七日

砂浜すなはまに古りて刑死けいしの墓のありいかなる深き罪となりにし

満島みちしまにわたりて遊ぶ人等ひとらゆく月に照らされ吾等われらもい往ゆく

九月三日 終日沙浜沈黙

日もすがら砂原すなはらに来て黙もだせりき海風うみかぜつよく我身わがみに吹くも

九月四日 沙浜

飯いひの中にまじれる砂すなを気きにしつつ海辺うみべの宿やどに明暮あけくれにけり

はるかなる独ひとり旅路たびぢの果てにして壱岐いきの夜寒よさむに曾良そらは死にけり

命いのちはてしひとり旅こそ哀あはれなれ元禄げんろくの代よの曾良そらの旅路は

朝鮮に近く果てたる曾良の身の悲しきかなや独りしおもへば

朝あさのなぎさに眼まなこつむりてやはらかき天あまつ光ひかりに照らされにけり

この病やまひ癒いえしめたまへ朝日子あさひこの光よ赤く照らす光よ

唐津の浜に居りつつ城跡しろあとの年ふりし樹きを幾たびか見む

砂浜すなはまにしづまり居れば海を吹く風ひむがしになりにけるかも

孤独こどくなるもののごとくに目のまへの日に照らされし砂すなに蠅はへ居り

日の入りし雲をうつせる西の海はあかがねいろにかがやきにけり

九月五日 高谷寛と満島にわたる

松浦河まつらがは月あかくして人の世のかなしみさへも隠かくさふべしや

九月六日 男ひとり芸妓ふたり

隣となり間まに男をとこ女をみなの語らふをあな嫉ねたましと言ひてはならず

九月八日 沙浜

いつくしく虹にじたちにけりあはれあはれ戯たはむれのごとくおもほゆるかも

日を継ぎてわれの病やまひをおもへれば浜のまさごも生しやうなからめや

わがまへの砂をほりつつ蜘蛛くもはこぶ蜂のおこなひ見らくしかなし

わたつみを吹きしく風はいたいたしいづべの山にふたたび入らむ

九月十日 高谷寛と来しかたあひ語りて

わが友はわが枕べにすわり居り訣わかれむとして涙なみだをおとす

九月十一日

午前九時五十六分唐津発、十二時半佐賀駅にて高谷寛と訣ををしむ。軌道、人力車に乗り、ゆふぐれ小城郡古湯温泉に著きぬ

ねもごろに吾われの病やまひを看護みとりしてここの海べに幾夜か寝つる

わがためにここまで附きて離れざる君をおもへば涙しながる

わたつみの海を離れて山がはの源みなもとのぼりわれ行かむとす

古湯温泉

九月十一日 佐賀県小城郡南山村古湯温泉扇屋に投宿、十月三日に至る

うつせみの病やまひやしなふ寂さびしさは川上川かはかみがはのみなもとどころ

ほとほとにぬるき温泉いでゆを浴あむるまも君が情なさけを忘れておもへや

遠雲の遠きまにまに近雲の近きまにまにかりがねはあひ呼びわたれ羽おとさへ聞ゆるまでに

川きよき佐賀のあがたの川のべに吾はこもりて人に知らゆな

蟷螂かまきりが蜂を食くひをるいたましさはじめて見たり佐賀さがの山べに

日の光浴あみて川べの石に居り赤蜻蛉あかあきつ等ははやも飛びつつ

われひとりうらぶれ来れば山川やまがはの水の激たぎちも心にぞ沁む

この川の向ひの岸に白々と咲きそめたるは何の花ぞも

浅山あさやまをわれはわたりて谷水たにみづの砂ながるるを今ぞ見てゐる

杉の樹に紅きあぶらの滲しみづるををさなごの時のごとく愛かなしむ

曼珠沙華まんじゆしやげむらがり咲けりこの花の咲くべくなりて未いまだし籠こもる

山がはの石のほとりに身を寄せて日の光浴む病癒えむか

山がはの水の香にほひのする時にしみじみとして秋風ふきぬ

黄櫨はぜもみぢこの山本やまもとにさやかにて慌あわただしくも秋は深まむ

いつしかに生うまれてゐたる蝗いなご等はわが行くときに逃ぐる音たつ

風ひきて一日ひとひ臥したりわが部屋のなげしわたらふ蛇くちなはひとつ

この家に急に病みたる一人ひとりありわれは手当てあてす夜半過ぎしころ

旅とほき佐賀の山べの村祭むらまつり相撲のきほひ吾は来て見つ(二十一日松森神社)

秋さりし山といへども蒸暑く雲のほびこり低くなり来も(二十三日雷雨)

東京に子規忌歌会のある日ぞとおもひて吾は川辺かはのべ往くも(二十六日)

やうやくに秋のふかまむ山やまの峡かひ朝の雷いかづち鳴りとどろけり

けふの昼雷らい鳴りし雲そきゆきて秋の夜の月のぼらむとする

けふもまた山に入り来て樹きの下もとに銀杏ぎんなんひろふ遊ぶがごとく

病みながら秋のはざまに起臥おきふしてけふも噛みたる飯いひの石いしあはれ

此処に来て蛇へびのあまたを見たりけり常つね日ひごろ蛇をおそれてゐしが

親しかる心になりて此里このさとのまだ金かねつかぬ栗の実を買ふ

烟草たばこやめてより日を経たりしがけふの暁あけがた烟草のむ夢ゆめ視みつ

みづからの生いのち愛をしまむ日を経つつ川上かはかみがはに月照りにけり

秋づきて寂しづけき山の細川ほそかはにまさご流れてやむときなしも

みづ清き川上かはかみがはに住む魚うをのエダを食をしたり昼のかれひに

胡桃くるみの実みまだやはらかき頃ころにしてわれの病やまひは癒いえゆくらむか

川のべに蜂むらがるを恐れつつ幾たび此処をとほり行きけむ

秋水あきみづをわきて悲しとおもはねど深き狭間はざまに見るべかりけり

向山むかやまに朝ひかり差しそめしかば谷もあらはになりにけるかも

早稲わせの香かはみぎりひだりにほのかにて小城をぎのこほりの道をわれゆく

ゆくりなく見つつわがゐる青栗あをぐりは近き電灯に照らされゐたり

曼珠沙華咲きつづきたる川のべをわれ去りなむか病癒いえつつ

小野五平をのごへい翁九十一歳にて身まかりぬ気根きこんつめつつ長命ながいきしたり

旅ゆきつつ勝負しようぶをしたるつよき逸話いつわこの翁おきなにはめづらしからず

山口好を悼む 十月十七日大牟田浄心院追悼歌会のために送る

君死せりとふしらせを我は山深く狭間はざまに居りて聞けるさびしさ

ありし日を思ひいでなむ世の相すがたの悲しき歌を君はうたひし

きびしかりし労働らうどうの歌うたいくつかが人の心にかがやかむかも

長崎

十月三日 朝古湯をたち午後長崎にかへる。万物に無沙汰の感ふかし

長崎にかへり来りて友を見つ遠とほのめづらの心かなしも

校長にも会ひに行きたりおのづから低きこゑにて病やまひを語かたる

われ病みて旅に起臥おきふしありしかば諏訪すはの祭まつりにけふ逢ひにける

心しづめて部屋にし居れば衢ちまたより神の祭りの笛ふえの音ねきこゆ

わが部屋に書ふみを重ねて旅行きしが書ふみを持てれば手の痕あとつくも

十月九日 中村三郎氏と共に諏訪神社うへの丘にのぼる。諏訪祭第二日

長崎の港見おろすこの岡に君も病めれば息いきづきのぼる

六枚板

十月十一日

西彼杵郡西浦上木場こば郷六枚板ろくまへいたの金湯にいたる。浴泉静養せむためなり

浦上うらかみの奥に来にけりはざまより流れ来る川をあはれに思おもひて

クルスある墓を見ながら通とほり来こし浦上道うらかみみちを何時かかへりみむ

日もすがら朽葉くちばの香かする湯をあみて心しづめむ自みづからのため

僂麻質斯リユーマチス病みをる媼おうな等にあひ交まじり日ねもす多く言ふこともなし

朝な朝な同じ頃あひに稲田道いなたみち児らは走りて学校へ行く

道のべに赤楝蛇やまかがし多きをおどろきつつ西浦上にしうらかみをもとほりて来くも

山のべにひそむがごとき切支丹きりしたんの貧まづしき村もわれは見たりき

かかる墓もあはれなりけり「ドミニカ柿本スギ之墓行年九歳」

「ドナメ松下ヒサ墓行年九十二歳」信者しんじやにて世を終をへしものなり

信徒しんとのため宝盒抄略はうかふせうりやくといふ書物御堂みだうの中にぽつりとありぬ

小さなる御堂みだうにのぼり散在する信者しんじやの家を見つつしゐたり

この宿やどに島原しまばらゆ来し少女をとめ居りわがために夕べ洋灯ランプを運ぶ

油煙たつランプともして山家集さんかしふを吾は読み居り物音ものおとたえつ

この家の主人あるじわざわざ長崎に買ひたる刺身さしみを吾に食はしむ

ここ越えてゆかば長崎の西山にしやまにいづるらむとて暫しばらく歩ありく

ひらけたる谷にむかひて長崎の港のかたをおもひつつ居り

小浜

十月十五日、六枚板発。少女予の荷を負ふ。午前十時四十分長与発、午後一時小浜著、柳川屋旅館に投ず。学生立石源治静養に来居るに会ふ

朝なさな船の太笛ふとぶえ聞きしより山峡やまかひのこともわきて思はず

土手どてかげに二人来りて光ひかり浴あむ一人はわれの教ふる学生がくせい

覇王樹さぼてんのくれなゐの花海のべの光をうけて気きを発はつし居り

砂浜に外人ぐわいじんひとりところがりて戯れ遊ぶ日本にほんのをみな

塩しほはゆき温泉いでゆを浴みてこよひ寝ねむ病やまひ癒いえむとおもふたまゆら

鴎等かもめらはためらひもなく今ぞ飛ぶ嫉ねたくしおもふ現身うつしみわれは

日本舟にほんぶねにひるがへりゐる旗見つつその伝承でんしやうをかたみに語る

長崎の茂木もぎの港みなとにかよふ船ふとぶとと汽笛きてきを吹きいだしたり

入りつ日の紅あかき光ひかりのゆらぐとき磯鵯いそひよどりのこゑもこそ聞きけ

日だまりにけふも来りぬ行末ゆくすゑのことをおもはば悲しからむぞ

ここに来て落日いりひを見るを常つねとせり海の落日いりひも忘れざるべし

小浜をばまなる森芳泰来もりよしやすきわがための心づくしを永ながくおもはむ

温泉うんぜんの山のふもとの塩しほの湯ゆのたゆることなく吾は讃たたへむ

嬉野

十月二十日 小浜発、零時二十二分彼杵著、夕べ嬉野著

旅にして彼杵神社そのきじんじやの境内けいだいに遊楽相撲いうらくすまふ見ればたのしも

祐徳院稲荷いうとくゐんいなりにも吾等まうでたり遠く旅たび来こしことを語かたりて

嬉野の旅のやどりに中林梧竹なかばやしごちく翁おきなの手ふるひし書しよよ

この山を越えて進みし大隊だいたいが演習やめて一夜ひとよ湯浴みす

透きとほるいで湯の中にこもごもの思ひまつはり限かぎりもなしも

この村の小さき社やしろの森に来て黙もだすことあれど心足らはず

わが病やまひやうやく癒えぬとおもふまで嬉野うれしのの山秋ふけむとす

長崎

十月二十六日。午前八時四十分嬉野発、十時四十三分彼杵発、十二時半長崎著

十月二十八日 病院学校に勤務す

病院のわが部屋に来て水道すゐだうのあかく出で来るを寂さびしみゐたり

十一月一日

武藤長蔵教授より大浦天主堂に聖体降福式あることを知らせありしかど、身をいたはりてまゐらず

けふ一日ひとひ腹をいためて臥ふしをれば聖きよきまとゐに行きがてなくに

十一月五日

長尾寛済十月八日東京にて没す行年四十、東京巣鴨真性寺に葬る。寛濟は予より長ずること一歳なりき

長崎に心しづめて居るときに永遠とはの悲かなしみ聞かむと思ひきや

浅草の三筋町みすぢまちなるおもひでもうたかたの如ごとや過ぎゆく光かげの如ごとや

十一月十四日 土屋文明氏と共に春徳寺を訪ふ

黄檗わうばくの傑すぐれし僧のおもかげをきのふも偲びけふもおもほゆ

赤く塗りし大き木きの魚うをかかりゐる僧等の飯はんのときに打つべく

扁額へんがくに海不揚波かいふやうはの四つの文字もじおごそかにしも年ふりにける

シイボルト鳴滝校舎址

年々ににほふうつつの秋草につゆじも降ふりてさびにけるかも

石垣のほとりに居れば過ぎし世のことも偲ばゆよみがへるはや

もろ人が此処に競きほひて学まなびつるその時おもほゆ井戸ゐどをし見れば

芭蕉葉もやうやく破やれて秋ふけぬと思ふばかりに物ひそかなり

洋学の東漸とうぜんここに定さだまりて青年せいねんの徒とはなべて競きほひき

柿落葉かきおちば色うつくしく散りしきぬ出島人でじまびと等も来て愛でけむか

鳴滝の激たぎちの音を聞きつつぞ西洋せいやうの学がくに日々ひび目ざめけむ

興福寺、深崇寺、書画帖

深崇寺に栗崎道喜の墓を訪ふ顕耀院道喜正元居士

祭も過ぎて照らす日の光しづかなる長崎の山いろづきにけり

十一月二十一日 土屋氏長崎を発つ。夜辰巳に会合あり

くれぐれの家に石蕗つはぶきの黄の花はわれとひととを招ぐに似たり

十一月二十二日 平福百穂画伯と浦上村をゆく

浦上うらかみの女をんなつらなり荷を運ぶそのかけごゑは此処まで聞こゆ

白く光るクロスの立てる丘のうへ人ゆくときに大きく見えつ

浦上うらかみの女をんな等の生活異ことなりて西方のくにの歎なげきもぞする

長崎の人等もなべてクロス山と名づけていまに見つつ経たりき

斜なる畠はたの上にてはたらける浦上人うらかみびと等のその鍬くはひかる

牛の背に畠つものをば負はしめぬ浦上人うらかみびとは世の唄うたはず

黄櫨はぜもみぢこきくれなゐにならむとすクロス山より吹く夕風ゆふべかぜ

十一月二十三日 百穂画伯と長崎図書館を訪ひ南蛮史料を看る

モリソン文庫明恵上人みやうゑしやうにんの歌集をば少しく読みて吾われものおもふ

十一月二十四日 百穂画伯と街上を行く

西比列亜シベリアよりおくりこされし俘虜ふりよあまた町にむらがるきのふも今日も

大浦の道のほとりにルーヴルの紙幣を売ると俘虜は佇む

チエッコへ帰らむとする捕虜ほりよひとり山の石かげに自殺をしたり

寺町の墓のほとりにもかたまりてチエッコの俘虜は時を費す

親したしかる友をむかへて身みの上うへのことも語りぬ夜のふくるまで(平福氏)

長崎より

このとし秋より冬にかけ折にふれて作りたる歌、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞に公にせり

真日あかく港の西に落ちゆきて今しみじみと夕映ゆふばえにけり

港より太笛ふとぶえ鳴れるひまさへや我が足もとに蟋蟀こほろぎのこゑ

みち足らはざる心をもちて入日さす切支丹坂きりしたんざかをくだり来にけり

塩しほおひてひむがしの山こゆる牛まだ幾ほども行かざるを見し

山かげの大根の畑に日もすがら光あたるを見るはさびしも

港をよろふ山の棚畑たなはたに人居りて今しがた昼飯ひるいひを食ひたるらしき

雨はれし港はつひに水銀みづがねのしづかなるいろに夕ぐれにけり

友二人ふたりもつひに帰りぬはりつめし心ゆるみて水を飲むなり(土屋氏・平福氏)

支那街しなまちのきたなき家に我の食ふ黒き皮卵ぴんたんもかりそめならず

夏の初めより病に罹り居りしかど癒いえて白霜しらじもの降りたるを見つ

君が業務なりはひは忙いそがしからむ然れども張りつむる心を守まもり居らむか

長崎の港を見れば我がこころ和なごみしづまるをあやしと思ふな

セミョノフの砲艦はうかんひとつ泊はてゐるを背向そがひにしつつ我は急いそげり

病いえてここに来りぬ目のもとの落葉のしづかさを独ゆかむか

長崎にも霜ふりにけりありふれしもののあはれと我は思はず

さむき雨長崎の山にも降りそそぐ冬の最中もなかとなるにやあらむ

ものぐるひの被害妄想ひがいまうさうの心さへ悲しきかなや冬になりつつ

ウンガルンの俘虜ふりよむらがりて長崎の街を歩くに赤く入日いりひす

あはれとも君は見ざらむ寺まちの高き石垣いしがきにさむき雨かな

みちのくの仙台せんだいよりおくりくれしてふ納豆なつとうを食む心しづけさ

山上さんじやうの白き十字架クルスの見えそむる浦上道うらかみみちは霜どけにけり

豆もやしと氷豆腐を買ひ来つつ汁しるつくらむと心いそげり

長崎の港の岸をあゆみゐるピナテールこそあはれなりしか

うらがなしき夕ゆふべなれどもピナテールが寝所ふしどおもひて心なごまむ

十二月五日

午前武藤長蔵教授、三上知治画伯と共に大浦天主堂を訪ひ、午後ピナテール(Pignatel)翁を訪ふ

寝所ふしどには括枕くくりまくらのかたはらに朱しゆの筥枕はこまくら置きつつあはれ

冬の雨ふるけふをしも Pignatelピナテル が家をたづねて身にし染しむもの

年老いてただひとりなるピナテール寂しづかなるごとくなほも起臥おきふす

歳晩

このやまひ癒いやしたまへと山川やまかはをゆきゆきし歳としの暮となりぬる

長崎を去る日やうやく近づけば小さなる論文に心をこめつ

クリスマスの長崎の御堂みだうに入ることも二たびをせむ吾ならなくに

暮れの年妻ともに身をいたはりて筑紫のくにの旅ゆかむとす

歌会

土屋文明氏歓迎歌会 十一月十七日於茂吉宅、課題「坂」

ひむがしの峠を越ゆる牛ひとつ歩みしづかなるをわれは見にけり(西山所見)

平福百穂氏歓迎歌会 十一月二十四日於長崎県立図書館、課題「港」

くもり日の港をいでてゆく船はかなしきかなやけむりあげつつ

大正十年

九州の旅

大正九年十二月三十日長崎発、熊本泊、翌三十一日熊本見物を終り、同夜人吉林温泉泊。

大正十年一月一日、林温泉より鹿児島に至る。一泊

秀頼が五歳のときに書きし文字いまに残りてわれも崇たふとむ

熊本のあがたより遠く見はるかす温泉うんぜんが嶽たけは凡ただならぬやま

光よりそともになれる温泉うんぜんの山腹にして雲ぞひそめる

球磨川くまがはの岸に群れゐて遊べるはここの狭間はざまに生うまれし子等ぞ

みぎはには冬草ふゆくさいまだ青くして朝の球磨川ゆ霧たちのぼる

青々と水綿ゆらぐ川のべにわれはおりたつ冬といへども

一月いちぐわつの冬の真中もなかにくろぐろと蝌蚪おたまじやくしはかたまるあはれ

白髪岳しらがだけ市房いちふさ山もふりさけて薩摩ざかひを汽車は行くなり

大畑おこだ駅よりループ線となり矢嶽やたけ越す隧道トンネルの中にてくだりとなりぬ

桜島は黒びかりしてそばだちぬ溶巌ようがんながれしあとはおそろし

鹿児島の名所を人力車にて見てめぐり疲れてをりぬ妻と吾とは

わが友はここに居れどもあわただし使を君にやることもなし

城山にのぼり来りて劇しかりし戦のあとつぶさに聞きて去る

開聞かいもんのさやかに見ゆるこの朝け桜島のうへに雲かかりたる

大隅おほすみは山の秀ほつ国ぐに冬がれし山のいただき朝日さすなり

霧島は朝をすがしみおほどかに白雲かかるうごくがごとし

霧島はただに厳いつくしここにして南風みんなみかぜに晴れゆきしとき

一月二、三日 夜宮崎神田橋旅館、三日宮崎神宮参拝

宮崎の神の社にまゐり来てわれうなねつく妻もろともに

冬の雨いさごに降りてひろ前にあゆめるわれの靴の音すも

ねたましくそのこゑを聞く旅商人たびあきびとは行く先々さきざきに契ちぎりをむすぶ

一月三日

午後三時青島あをしまにつき、広瀬旅館投宿、第五高等学校教師ポーター(五十四歳)滞在しゐる

打寄する浪は寂しく南みなみなる樹々きぎぞ生ひたるかげふかきまで

暖き洋うみのながれのありてこそかかる繁りとなりにけらしも

旅館りよくわんにはポーターといふ洋人やうじんもやどりて日本にほんの酒をのむ見ゆ

青島あをしまの木立こだちを見ればかなしかる南みなみの洋うみのしげりおもほゆ

南より流れわたれる種子たねひとつわが遠とほき代よのことしぬばしむ

かすかなる光ひかり海よりのぼりくる日向ひうがのあかつきの国のいろはや

青島あをしまに一夜ひとよやどりてひむがしのくれなゐ見たりわが遠とほき代よや

ひむがしは赤く染まりてわが覚むる日向の国のあかつきのいろ

わたつみの海につづける茜空あかねぞら二時ふたときにしてくもりに入りぬ

一月四日 帰途につく

霧島はおごそかにして高原たかばるの木原きはらを遠をちに雲ぞうごける

灰いろのくすしき色も日あたりてこの高山たかやまは見れども飽かず

あたらしき年のはじめを旅たび来こしが高千穂の峰に添ふごとかりき

青井岳あをゐだけの駅出でてより猪ゐのししの床の話を聴きつつ居たり

一月五日

久留米、「寛政五癸丑年六月二十七日、生国上州新田郡細谷村、高山彦九郎正之墓」。上野旅館にてアララギ歌会。梅林寺を訪ふ

久留米くるめなる遍照院へんぜうゐんにわれまうづ「松陰以白居士しよういんいはくこじ」のおくつき

神つ代のこと恋こほしみてしらぬひ筑紫つくしのくにに果てし君はも

夜もすがら歌を語りて飽かなくに朝鶏あさどりが鳴く茜あかねさすらし

九州の十一人じふいちにんの友よりてわれと歌はげむ夜の明くるまで

梅林寺ばいりんじに紫海禅林の扁額あり谷たにを持ちたるこの仏林ぶつりんよ

三生軒さんじやうけん居室こしつより見おろす谷まには僧一人来て松葉を掃くも

筑後川日田ひたよりくだる白き帆も見ゆるおもむきの話をぞ聞く

一月六日 太宰府、観世音寺、都府楼址、武雄温泉

観世音寺くわんぜおんじ都府楼とふろうのあともわれ見たり雑談ざつだんをしてもとほりながら

長崎

一月三十一日

奥田氏送別会を栄家に開く。会者図書館談話会員、主賓のほか、永見徳太郎、増田廉吉、谷田定男、林源吉、大庭耀、水谷安嗣諸氏

くさぐさの事を思ひて尽きざるにこよひ吾等は互かたみに酔ゑひつ

南みんなみの国はゆたけし朝あけて君を照らさむ天あまつ日ひのいろ

二月三日

奥田啓市氏鹿児島県立図書館長として出発す。予さはりありて見おくり得ざりしことを悔ゆ

このゆふべ悔くいおもへども君とほく今し去りゆく悔くいてかへらず

二月十日 述懐

長崎の港をよろふむら山に来向きむかふ春の光さしたり

ものぐるひはかなしきかなと思ふときそのものぐるひにも吾は訣わかれむ

長崎に来りて既にまる三年みとせ友のいくたり忘れがたかり

きびしかりしはやり風にて見近みぢかくの三みたりはつひに過すぎにけらずや

そがひなる山を越えゆく矢上やがみにも思おもひのこりてわれ発たむとす

三月十四日

雪大に降、諸家に暇乞にまはる。夜茂吉送別歌会を長崎図書館に開く

長崎をわれ去りなむとあかつきの暗くらきにさめて心さびしむ

長崎をわれ去りゆきて船笛ふなぶえの長きこだまを人聞くらむか

白雪のみだれ降りつつ日は暮れて港の音も聞こえ来るかな

三月十五日 医学専門学校職員食堂のために一首をしたたむ

行春ゆくはるの港より鳴る船笛ふなぶえの長きこだまをおもひ出でなむ

長崎を去り東上

三月十六日。午後十一時長崎を出発す。先輩知友多く見送らる。予長崎に居ること足掛五年、満三年三月なり。前田毅、江藤義成二君同車し、途上門司義夫君に会ふ

三月十七日

午前五時博多著、栄屋旅館。大学生青木義作、金子慎吾二君来る。榊、久保二教授を訪問し、耳鼻科教室精神病学教室を参観す。夜久保博士夫妻と晩餐を共にす

もろびとに訣わかれをつげて立ちしかど夜半よは過ぎて心耐へがてなくに

春さむしとおもはぬ部屋に長崎の御堂みだうの話長塚節たかしの話

あたたかき御心みこころこもるこの室へやにあまたの猫も飼はれて遊ぶ

三月十八日

午前九時四十二分博多発、十一時四十二分小倉著、市中を見物し、ついで延命寺に行き公園を逍遥、奇兵隊墓、名物おやき餅

春いまだ寒き小倉こくらをわれは行く鴎外先生おもひ出いだして

公園の赤土あかつちのいろ奇兵隊きへいたい戦死せんしの墓はか延命寺の春は海潮音かいてうおん

三月十八日

午後一時小倉発、午後四時四十二分別府著、別府には大正八年夏一たび来りき。街見物、保養院長鳥潟博士訪問、博士は大学同窓也。大分共進会を見る

あたたかき海辺の街は春菊しゆんぎくを既に売りありく霞は遠し

鳥の音も海にしば鳴く港町みなとまち湯いづる町を二たび過ぎつ

三月二十日。午後二時別府より紅丸にて出航、高浜上陸、汽車にて道後著、入湯一泊。二十一日。松山見物(人力車)、三津港より上船、多度津上陸、琴平行一泊、神社参拝

年ふりし道後だうごのいでゆわが浴あめばまさごの中ゆ湧きくるらしも

大洋おほうみをわれ渡らむにこの神を斎いはひてゆかな妻もろともに

三月廿二日。琴平より高松、見物(人力車)、栗林りつりん公園、屋島。高松午後四時発、岡山午後七時著、一泊。二十三日。第六高等学校に山宮・志田二教授を訪ひ、医学専門学校に荒木(蒼太郎)教授を訪ふ。市内(人力車)城、後楽園

この園に鶴たづはしづかに遊べればかたはらに灰色はいいろの鶴たづの子こひとつ

時もおかずここに攻せめけむ古への戦のあと波なみかがやきぬ

元義もとよしがきほひて歌をよみたりし岡山五番町をかやまごばんちやうけふよぎりたり

三月二十三日

岡山を発してゆふぐれ神戸著、中村憲吉君出迎ふ。みつわにて神戸牛肉を食ふ。香櫨園畔の中村氏方に泊。長女良子さん(五歳)次女厚惠さん(三歳)

ひさびさに君とあひ見てわが病癒えつることをうれしみかはす

何といふ平安やすらぎなるか朝あしたよりわがまへに友のをさなご二たり

三月廿四日。大阪。大学法医学教室(中田篤郎氏)、精神病学教室(小関光尚氏)、浪速花屋碑、心斎橋通、道頓堀(文楽人形芝居)、よる森園天涙、花田大五郎、加納曉氏等も加はり晩餐。中村氏宅泊。

三月廿五日より廿七日。中村君の案内にて奈良を見る。法隆寺佐伯管長にも会ふ。雨降る。ついで大和に行き万葉の歌に関する古跡をめぐる。ゆふ京都著。藤岡旅館に入る。

三月廿八日。宇治、鳳凰堂、平等院、宇治川花屋敷、佐久間象山遭難地、加茂川、本能寺、御所、烏丸通、堀川、嵐山電車、仁和寺の山、塔、如意輪観音、大竹林、隠窟、臨済宗大本山天龍寺、保津川、桂川、金閣寺(鹿苑院)、大極殿(平安神宮)。藤岡旅館

いそがしき君はひねもすわがために古山川ふるやまかはをみちびきやまず

あはれあはれ恋ふる心に沁しみとほり山川やまかはぞ見し君がなさけに

三月二十九日

午前十時四十分京都を発ち、米原駅下車、番場蓮華寺に㝫応和尚にあひまつる。石川隆道、樋口宗太郎二氏に会ふ

ぬばたまの夜よるさりくれば湯豆腐ゆどうふをかたみに食へとのたまひにけり

夜よもすがら底びえしつつありたるが暁あかつき庭にはに薄氷うすらひが見ゆ

この寺に㝫応和尚りゆうおうをしやうよろこびて焦こがしたる湯葉ゆばをわれに食はしむ

三月三十日。米原発急行にて上京す。車中、榊、和田、小野寺の三教授にあふ。教授等は学会出席のために上京するなり。

四月一日。日本神経学会に出席し、呉秀三先生の大学教授莅職二十五年祝賀会(上野精養軒)に出席しぬ

賀歌

芳渓呉秀三先生大学教授莅職二十五年賀歌竝正抒心緒謌(仏足石歌体)二十五章

長崎の港をよろふ山並やまなみに来むかふ春の光さしたりあまつ光ひかりは

長崎にわれ明暮あけくれてとりがなくあづまの国の君をしぬびつしぬびけるかな

み冬つき来むかふ春にこころこそゆらぎてやまね導みちびきたまふ情なさけしぬびて

しらぬひ筑紫つくしのはてにわれ居れどをしへの親おやを讃たたへざらめや仰あふがざらめや

薬師くすりしはさはにをれどもあれの師しはおほかたに似ず現うつし世よのため今いまの世よのため

さちはひに充みち満みちにつつあれの師しの君が力ちからはいや新あらたしもきみがいのちは

ものぐるひは哀かなしきかなとおもふときさびしきこころ君にこそ寄れ救すくひたまはな

しきしまのやまとにしてはわが君や師のきみなれや Pinelピネル Conollyコノリ は外とつくににして

霊枢れいすうに狂きやうといふともわがどちは狂きやうとな云ひそと宣のらしけるらし病むひとのため

二十年はたとせにあまる五いつとせになるといふみ祝ほぎのにはに差せる光や瑞うづのみひかり

ものぐるひをまもりたまひて年を経し君がみ髭ひげはつひに白しもその清すがしさや

しろがねの髭ひげさへひかり新幸にひさちもいよよ重かさねむ君がいのちやおのづからなる

ものぐるひは悲しきものぞ護まもらせる君こそたふとあはれ尊たふときけふの尊たふとさや

うからやから弥々いよよさかゆる君ゆゑに新幸にひさちはひもかぎり知らえず祝いははざらめや

長崎に来てより三とせは過ぎにけりいざ帰りなむあづまの春へ君がみもとへ

なまけつつ十年ととせを経たりおこたりて十歳ととせ過ぎけむことをしおもふ君を祝ほぎつつ

中学ちゆうがくの四級生しきふせいにてありけむか精神啓微せいしんけいびをわれは買ひにき小川をがはまちにて

もろもろのくるへる人のあはれなるすがたを見つつ君をおもはむ敬うやまひまつり

わがもてるものは貧まづしとおもへども狂人きやうじん守もりてこの世は経へなむありのまにまに

をしへを受けしもろもろの人あつまりて教への親を囲むけふかも言寿ことほぎにつつ

うつしみの狂くるへるひとの哀かなしさをかへりみもせぬ世の人醒さめよもろびと覚さめよ

君がこころひろく寛ゆたけくたまかづら絶ゆることなく幸さちはへてあらむ若わかえつつあらむ

おなじ世にうまれあひたる嬉うれしさや教へのおやにこの敬うやまひをささげまつらむ

むらぎものこころ傾けことほぎの吉言よごとまうさむ酒祝さかほぎもせよ豊酒とよき清酒きよきに

あまつ日の光るがごとく月読つくよみの照らすがごとく常幸福とこさいはひにいます君かも

帰京

大正六年十二月長崎に赴任してより満三年三月余、足掛五年になりて大正十年三月帰京しぬ

東京に帰りきたりて人ごろしの新聞記事しんぶんきじこそかなしかりけれ

閨中けいちゆうの秘語ひごを心平たひらかに聞くごとし町の夜なかに蛙かはづ鳴きたり

長崎よりかへりてみれば銀座十字つむじに牛は通らずなりにけるかも

さみだれの日けならべ降れば市いちに住む我が腎じんははや衰へにけり

流行の心理は模倣もはう憑依ひよういの概念がいねんを以て律りつすべからず夏の都会とくわいに

ゆたかなる春日はるびかがよふ狂院きやうゐんに葦原金次郎あしはらきんじらうつひに老いたり

さみだれはしぶきて降れり殺人さつじんの心きざさむ人をぞおもふ

わが心いまだ落ちゐぬにくれなゐの胡頽子ぐみを商あきなふ夏さりにけり

われ銀座ぎんざをもとほり居りてブルドック連れし女をんなにとほりすがへり

長崎の昼しづかなる唐寺たうでらやおもひいづれば白しろきさるすべりのはな

朝はやき日比谷ひびやの園そのに腫むくみたる足をぞ撫さする労働はたらきびとひとり

馬に乗りて行く人のあり日がへりに玉川あたり迄行くにやあらむ

浅草の八木節やぎぶしさへや悲しくて都に百日ももかあけくれにけり

ものぐるひを看護かんごして面おもはればれとしてゐる女をんなと相見つるかも

長崎にて暮らししひまに虫ばみし金槐集をあはれみにけり

さ庭べにトマトを植ゑて幽かすかなる花咲きたるをよろこぶ吾は

けふもまた何か気がかりになる事あり虫ばみし書ふみいぢり居れども

このごろ又外国人ぐわいこくじんを殺しし盗人どろばうあり我心わがこころあやしきを君はとがむな

畳のしたにナフタリンなどふり撒まきて蚤おそれゐる吾をしぬばね

雑吟

東京アララギ歌会

心いらだたしく風吹きし日は過ぎてかへるで赤く萌えいでにけり

墓前

亀戸の普門院なる御墓みはかべに水青き溝いまだのこれり

山形より

月読つきよみの山はなつかし斑はだら雪照れる春日に解けがてなくに

五月九日

ふきいづる木々きぎの芽いまだ調ととのはぬみちのく山に水のみにけり

谿ふかくしろきは吾妻あづま山やまなみの雪解ゆきげのみづのたぎつなるらし

みちのくは春まだ寒し遠とほじろくはざまをいづる川のさびしさ

ふるさと

かなしきいろの紅くれなゐや春ふけて白頭翁おきなぐささける野のべを来にけり

われひとりと思おもふ心に居りにけりをさなき蚕かふこすでにねむりつ

五月十二日

結城哀草果を率て林間の野を行く

山がひに日に照らされし田の水やものの命いのちの幽かすかなりけり

みちのくのわが故里ふるさとに帰り来て白頭翁おきなぐさを掘る春の山べに

山陰やまかげのしづかなる野に二人ふたりゐて細く萌えたる蕨をぞ摘つむ

みちのくの春の光はすがしくてこの山かげにみづの音おとする

山かげを吾等来こしかば浅水あさみづに蛭ひるのおよぐこそ寂さびしかりけれ

木立こだちよりかこまれてゐる春の小野をの昆虫こんちゆう跳はぬるだにこの平安やすらぎよ

六月十六日 女等の飼へる蚕

かりそめとおもふは寂さびし飼かひし蚕こは黄きいろき繭にこもりはてたり

七月六日

胃腸病院に神保孝太郎博士を訪ひ、ついで入澤達吉博士の診察を受く

われひとり物おもふ室へやにきこえくる鈍にぶくおもおもしき衢ちまたのおとは

けふ一日ひとひたえまなく汗が流れしと記しるしおかむわが病やまひのことも

山水人間虫魚

一夜

甲斐かひがねを汽車は走れり時のまにしらじらと川原かはらの見えし寂さびしさ

しづかなる川原かはらをもちてながれたる狭間はざまの川かはをたまゆらに見し

山がひにをりをりしろく激たぎちつつ寂さびしき川がながれけるかな

ふく風はすでにつめたし八やつヶ嶽たけのとほき裾野すそのに汽車かかりけり

天づたふ日のかたむける信濃路しなのぢや山の高原たかはらに小鴉こがらす啼けり

高原たかはらに足をとどめてまもらむか飛騨ひだのさかひの雲ひそむ山

澄みはてていろふかき空に相寄あひよれる富士見高原ふじみたかはらゆふぐれにけり

あかときはいまだ暗きに目ざめゐる吾にひびきて啼く鳥のこゑ

蚊帳かやつりてひとりねむりしあかときの冷つめたきみづは歯に沁みにけり

みすずかる信濃高原たかはらの朝めざめ口くちそそぐ水に落葉しづめり

林間

山ふかき林のなかのしづけさに鳥に追はれて落つる蝉あり

桔梗きちかうのむらさきの色ふかくして富士見が原に吾は来にけり

松かぜのおともこそすれ松かぜは遠くかすかになりにけるかも

谷ぞこはひえびえとして木下こしたやみわが口笛くちぶえのこだまするなり

あまつ日は松の木原きはらのひまもりてつひに寂さびしき蘚苔こけを照せり

灯下(一)

ともし火のもとにさびしくわれ居りて腫むくみたる足のばしけるかな

ひとを愛かなしとおもふ心のきはまりて吾に言ことつげし友をぞおもふ

諏訪すはのみづうみの泥どろふかく住みしとふ蜆しじみを食くひぬ友がなさけに

みすずかる信濃の国に足たゆく灯ともしびのもとに糠ぬかを煮にけり

高はらのしづかに暮るるよひごとにともしびに来て縋すがる虫あり

灯下(二)

窓外まどのとは月のひかりに照されぬともし火を消しいざひとり寝む

しづかなる山の高原とおもへども電流に触れてひとは死にけり

月の光いまだてらさず白雲しらくもは谷べにふかく沈みたるらし

潮浴しほあみに安房あはの海べに行きたりしわがをさなごは眠りけむかも

夕飯ゆふいひをはやくしまひてこのよひは妻をおもへり何か知らねど

諏訪すはのうみの田螺たにしを食へばみちのくに稚をさなかりし日おもほゆるかも

よひとおもふにはや更けそめし山家やまがなるこのともしびに死ぬる虫あり

うつしみは現身うつしみゆゑに嘆なげかむに山がはのおともあはれなるかも

文身ほりものだらけの屍かばね隅田川に浮きしとふ記事きじも身に沁む山の夜ふけに

やまふかきその谷川たにがはに住むといふやまめ岩魚いはなを人はとり食はむ

八ヶ嶽の裾野のなびきはるかにて鴉かくろふ白樺の森

高原

蓼科たてしなはかなしき山とおもひつつ松原まつはらなかに入りて来にけり

いまだ鳴きがてぬこほろぎ土のへにいでて遊べり黒きこほろぎ

秋づくといまだいはぬに生あれいでて我が足もとに逃ぐるこほろぎ

秋らしき夜空よぞらとおもふ目のまへを光はなちて行く蛍あり

谷川たにがはのほとりに見ゆるふる道はたえだえにして山に入るなり

月夜

高原たかはらの月のひかりは隈くまなくて落葉がくれの水のおとすも

ながらふる月のひかりに照らされしわが足もとの秋ぐさのはな

月あかし谷ぞこふかくこもり鳴る釜無川かまなしがはのおとのさびしさ

秋の夜のくまなき月に似たれどもこほろぎ鳴かぬ茅生ちふのつゆ原

飛騨ひだの空に夕ゆふべの光のこれるはあけぼのの如くしづかなるいろ

飛騨ひだの空そらにあまつ日おちて夕映ゆふばえのしづかなるいろを月てらすなり

空すみて照りとほりたる月の夜に底ごもり鳴る山がはのおと

わがいのちをくやしまむとは思はねど月の光は身にしみにけり

あららぎの実

あららぎのくれなゐの実みを食はむときはちちはは恋こひし信濃路しなのぢにして

ゆふぐれの日に照らされし早稲わせの香かをなつかしみつつくだる山路やまみち

八千ぐさは朝よひに咲きそめにけり桔梗の花われもかうのはな

やまめの子あはれみにつつゆふぐれて釜無川をわたりけるかな

山のべににほひし葛くずの房花ふさはなは藤なみよりもあはれなりけり

くたびれて吾の息いきづく釜無かまなしの谷のくらがりに啼くほととぎす

釜無

夕まぐれ南谿みなみだによりにごりくる谿たにがはの香かをなつかしみつも

小吟随時

左千夫先生九回忌 七月十日於亀戸普門院

逝きましてはや九年ここのとせになるといふ御寺みてらの池に蓮咲かんとす

諏訪アララギ会 八月二十二日於上諏訪地蔵寺

八千ぐさの朝あさな夕ゆふなに咲きにほふ富士見が原に吾は来にけり

諏訪アララギ会 九月三日於温泉寺

日の御子みこむかふる足る日と信濃なる富士見の里にわれはめざめぬ

斎藤茂吉渡欧送別歌会 十月九日日限地蔵

わが心かたじけなさに充ちにけり雨さむきけふをあへる友はや

洋行漫吟

大正十年十月二十六日東京駅発、二十七日熱田丸横浜出帆、諸先輩諸友の見送を忝うせり。二十八日神戸着、上陸諸友に会ふ。京都に遊び藤岡旅館泊、中村憲吉君宅一泊。六甲苦楽園六甲ホテル一泊。十一月一日神戸出帆

十一月二日 門司著、上陸、巌流島、下関万歳楼、山陽ホテルに泊る

しづかにいにしへ人をしたふ心もて冬の港を渡りけるかな(巌流島三首)

わが心いたく悲しみこの島に命いのちおとしし人をしぞおもふ

はるかなる旅路たびぢのひまのひと時をここの小島をじまにおりたちにけり

十一月三日。午前十二時門司出帆、藤井公平、奈良秀治、山口八九子三氏見送る。玄海浪高く、四十八分時計をおくれしむ。大方の船客船に酔ふ。

十一月五日上海 福民病院長頓宮博士を訪ふ

海うみの面おもしづかになれる朝あけて四十八分しじふはちふんの時ときおくれしむ

あかあかと濁にごれる海と黯湛かぐろくも澄みたる海と境さかひをぞする

戎克じやんくの帆ほ赭あかき色してたかだかとゆく揚子江やうすかうの川口かはぐちわたる

上海しやんはいのもろもろの様相さま人の世のなりのままなるものとこそ思へ

「日本首相原敬被刺」と報じたる上海新聞しやんはいしんぶんの切抜きりぬきしまふ (六日)

十一月香港

清麗とも謂いふべき小都市せうとしにつらなりし山のかなたの支那国しなこくの見ゆ

たちまちに山上さんじやうにのぼり見おろせる市街しがい冬がれのさまにはあらず

no smoking に不准食煙ぶじゆんしよくえんと注せりき「食煙しよくえん」の文字善しと思はずや

茶館ちやくわんには「清潤甜茶せいじゆんてんちや」の扁へんがありにほへる処女をとめ近づき来きたる

海岸かいがんはさびしき椰子やしの林より潮うしほのおとの合あふがに聞こゆ

十一月十五日新嘉坡

空ひくく南十字星みなみじふじせいを見るまでに吾等をりけるわたつみのうへ

日本国にほんこくの森に似しかなと近づくに椰子やしくろぐろとつづきて居たり

腰まきを腰に巻きつつとほるもの男女をとこをみなとまだ雅をさなきと

汗じめるわが帳面ちやうめんの片隅かたすみにブルンボアンとしるしとどむる

ジョホールの宮殿きゆうでんのまへに佇みしわれ等同胞はらから十人とたりあまりは

椰子やししげる中に群れゐし水牛すゐぎうがうごくとき人をおそれしめつつ

岬みさきなるタンジョンカトン訪ひしかばスラヤの落葉蟋蟀こほろぎのこゑ

太陽たいやうをマタハリといひて礼拝らいはいすまた「感天大帝かんてんたいてい」の文字もじ

牛車うしぐるまゆるく行きつつ南なる国のみどりに日は落ちむとす

「にほんじんはかの入口いりくち」の標しるしあり遊子樹いうしじゆといふ樹さへ悲しも

火葬場にマングローヴ樹じゆ植ゑたりき其処の灰を手にすくひても見つ

二葉亭四迷も此処に火葬せらる

日本人墓地にほんじんぼちの中にてはるかなる旅をし行かむこころ和なぎ居り

赤き道椰子やしの林に入りにけり新嘉坡シンガポールのこほろぎのこゑ

はるばると船わたり来てかなしきはジャランプサルの夜よるのとよめき

十一月十八日マラッカ

マラッカの山本やまもとに霞たなびけりあたたかき国の霞かなしも

平たひらなる陸くがにかたまり青きをば柳やなぎの木きかとおもひつつ居る

東印度会社とういんどくわいしやのしるし今遺のこり過去くわこのにほひを放ちてきたる

戦死者の記念塔きねんたふのまへにセナ樹じゆうゑ往くも還るも見む人のため

日本人にほんじんの歯科医にあひぬささやかに紙障子かみしやうじなどたてて居たりき

今しがた牛闘たたかひてその一つ角つの折れたるが途みちのうへに立つ

ふさふさにバナナ成り居るをまのあたり見てゐる吾等馴れむとすらし

マラッカの街上がいじやうにしてわれも見つ富とめる女をみなの面おもの愛はしきを

聖せい Francisフランシス Xavierザビエー の墓時ときふりて此処ここにしづまる雪降らぬくに

マラッカをはなれ来りて入つ日の雲のながきににほふ紅あけのいろ

額ひたひより汗いでながら支那人墓地しなじんぼち馬来人墓地まれいじんぼちめぐりて来たり

十一月十九日ペナン

ややにしてペナンは近しそのはての空に白き雨ふるが見えつつ

その角つのを色うつくしく塗れる牛幾つも通るペナンに来れば

蛇おほく住める寺あり額がくの文字「恩沾無涯おんてんむがい」は国くに境さかひせず

ペナン川に添ひて遡さかのぼるところには水田すゐでんありて日本にほんしのばゆ

支那街しなまちはここにも伸びておのづから富みたるものも代よをしかさねつ

夜に入りて大雨おほあめとなり乗りこめるデッキ航者かうしや(deckpassenger)の床さへ濡れぬ

十一月二十四日セイロン・コロンボ

水の中に水牛すゐぎうの群れゐるさまはなよなよとせるものにしあらず

おほどかに水張りて光てりかへし田植たうゑは今にはじまるらむか

この村に鍛冶かぢが鋼鉄かうてつを鍛へ居り鎚つちのひびきも日本にほんに似たり

Kandyキヤンデイ にゆく途中にて土民どみん等が象に命令するこゑ聞きつ

高々と聳えてゐたる山ひとつマハベリガンガと云ふにやあらむ

ことわりはおのづからにて錫蘭せいろんのサカブタの山に滝かかりけり

コロンボのちまたの上に童子どうし等が独楽こまをまはせり遊び楽しも

ここにしも植物園のもろ木々が油ぎりたる葉を誇らむか

仏牙寺ぶつがじにまうできたりて菩提樹ぼだいじゆの種子しゆし日本にも渡れるをおもふ

おほきなる白き獣けだものちひさなる獣けだものを食ふところを彫りぬ

椰子の葉をかざしつつ来る男子をのこらの黄なるころもは皆仏子ぶつしにて

つづき居る椰子やしの木立こだちのひまもりて入日いりひの雲のくれなゐ見えつ

冬さむき国いでて遠くわたりけりセイロンの島に蛍を見れば

十一月二十六日印度洋

余光よくわうさへなくなりゆきし渡津海わたつみにミニコイ嶋の灯台の見ゆ

あらはれし二つの虹にじのにほへるにひとつはおぼろひとつ清さやけく

印度いんどの洋うみけふもわたりて食卓しよくたくに薯蕷汁とろろの飯いひを人々たのしむ

わたつみの空そらはとほけどかたまれる雲くもの中なかより雷らい鳴りきこゆ

虹ふたつ空そらにたちけるそのひとつ直すぐ眼めのまへにあるにあらずや

十二月一日アデン湾、三日紅海

アデン湾にのぞむ山々展ひらくれど青きいろ見ゆる山一つなし

佐渡丸さどまるととほり過がへり海わたる汽笛きてきかたみに高きひととき

朝あけて遠く目に入る鋭とき山やまをアフリカなりといふ声ぞする

空のはてながき余光よくわうをたもちつつ今日けふよりは日がアフリカに落つ

夜よる八時バベルマンデブの海峡かいけふを過ぎにけるかも星かがやきて

ペリム島たう亜刺比亜アラビアの国に近くしてその灯台の見えはじめたり

アフリカに日の入るときに前山さきやまは黒くなりつつ雲の中の日

あかつきは海のおもてに棚たなびける黄色くわうしよくの靄もやあな美うつくしも

紅海こうかいに入りたる船はのぼる陽ひを右にふりさけ見れども飽かず

甚だしく紅あかかりし雲あせゆきて黙示もくしのごとき三つ星の見ゆ

紅海こうかいの船の上より見えてゐるカソリン山ざんは寂さびしかりけり

海風うみかぜは北より吹きてはや寒しシナイの山に陽ひは照りながら

十二月七日エヂプト

Suez より Genefé, Fayed, Nefisha, Esmailia, Abou-hammad, Zagazig, Benha 等の駅を経て Cairo 著。ピラミッド、スフィンクス等よりカイロ市街を観、Port Said に至る。同行神尾、薬師寺、庄司三氏のみ

大きなる砂漠のうへに軍隊ぐんたいのテントならびて飛行機飛べり

丘陵きうりようのうへに白雲の棚びけるところもありぬすずしくなりて

砂原すなはらのうへに白々しろじろと穂ほにづるはしろがね薄すすきといふにし似たり

列れつなしてゆく駱駝らくだ等のおこなひをエヂプトに来て見らくし好しも

Bitterlakeビタレーキ といふ湖水みづうみが見ゆ小鴉こがらすのむれ飛びをるは何するらむか

土つちの家いへ部落をなして女をんななど折々をりをりいでて此方こなた見にけり

英吉利えぎりすの兵営なるかかたはらに軍馬ぐんばの調練てうれんせるところあり

モハメッドの僧侶ひとりが路上ろじやうにてただに太陽たいやうの礼拝れいはいをする

たかり来る蠅あやしまむ暇いとまなく小さき町に汽車を乗換ふ

白き鷺畑はたけのなかに降おりて居り玉蜀黍たうきびの列れつながくつづく見ゆ

しづかなる午後の砂漠さばくにたち見えし三角さんかくの塔たふあはれ色なし

ピラミッドの内部ないぶに入りて外光ぐわいくわうをのぞきて見たりかはるがはるに

スフィンクスは大おほきかりけり古ふるき民たみこれを造つくりて心なごみきや

はるばると砂に照りくる陽ひに焼けてニルの大河おほかはけふぞわたれる

はるかなる国にしありき埃及エヂプトのニルの河べに立てるけふかも

ニル河はおほどかにして濁りたり大いなる河いつか忘れむ

朝床に聞こえつつゐる馬うまの鈴すずわれの心をよみがへらしむ

黒々としたるモッカを飲みにけり明日よりは寒き海をわたらむ

十二月九日地中海

この夕べ鯛たひの刺身さしみとナイル河がの鰻うなぎ食はしむ日本にほんの船ふねは

シシリーのイトナの山はあまつ日にかがよふまでに雪ふりにけり

伊太利亜イタリアの Reggioレツジヨ の町を見つつ過ぐしらじらとせる川原かはらもありて

Messinaメツシナ の海峡かいけふわたり冬枯のさびたる山が目にし入いり来くも

孤独こどくなるストロンボリーのいただきに煙けむりたつ見ゆ親したしくもあるか

Barkバルク といふ三檣船みはしらせんも見えそめてコルシカ島たうに近づきゆかむ

十二月十四日マルセーユ

朝さむきマルセーユにて白き霜錻力ブリキのうへに見えつつあはれ

山のうへのみ寺に来り見さくるや勝鬨かちどきあぐる時にし似たり

十二月十五日巴里

十二月十五日午後十時十分巴里ガル・ド・リオン著。オテル・アンテルナショナール投宿。銀行、大使館、市街、トロカデロ、エツフエル塔、エトワール、ルウヴル、パンテオン、アンヴァリード、リユクサンブール、クルニエ博物館、オペラ、地下鉄道(メトロ)等。十八日まで滞在す

霧くらく罩こめて晴れざる巴里パリーにて豊ゆたかなるものを日々ひびに求めき

ルウヴルの中にはひりて魂たましひもいたきばかりに去りあへぬかも

英雄えいゆうはその光ひかりをも永久とはにして放たむものぞ疑ふなゆめ

Ici repose un soldat français mort pour la patrie 1914-1918われもぬかづく

十二月二十日伯林

十二月十九日、午前八時十分、ガル・ド・ノールを出発して伯林に向ふ。小池・神尾二君と予と同車なり。十二月二十日伯林アンハルターバンホーフ著。石原房雄君出迎ふ。Hotel Alemannia 投宿。

○爾来前田茂三郎君はじめ多くの同胞に会ふ。○十二月二十七日、ハンブルグに行き老川茂信氏に会ふ。帰途の汽車中にて信用状の盗難に遭ひ困難したるが、信用状大使館に届き、謝礼三五〇〇麻克にて結末を告ぐ。

○三十一日、ユニオン・バレエにて除夜を過ごし、十二時に大正十一年の新年を祝ふ。○四日より連日美術館を見る。○八日、神尾君ウユルツブルヒに立つ。○十三日、墺太利、維也納に向ふ。

大きなる都会とくわいのなかにたどりつきわれ平凡へいぼんに盗難たうなんにあふ

美術館ムゼウムに入りて佇む時にのみおのれ一人ひとりの心こころとなりつ

おどおどと伯林ベルリンの中なかに居りし日の安やすらぎて維也納ウインナに旅立たむとす

「つゆじも」後記

○

歌集「つゆじも」は制作年代よりいへば、自分の第三歌集に当り、歌集「あらたま」に次ぐものである。そして、大正六年十二月、自分が長崎医学専門学校教授になつて赴任した時から、大正十年三月長崎を去るまでのあひだに、折に触れて作つた歌、それから、東京に帰つて来て、その年の十月すゑ、欧羅巴留学の途に上るまでのあひだに作つた歌(その中には信濃富士見で静養した時の歌をも含んでゐる)、それから、船に乗つてマルセーユまで行き、汽車で巴里を経て伯林に著き、暫時其処に滞在し、大正十一年一月十三日、維也納に向つた時までの歌をひろひ集めたことになつて居る。

○

自分の長崎時代の歌、即ち大体大正七年八年九年の歌は、アララギ、大阪毎日新聞、大阪朝日新聞、長崎日日新聞、雑誌紅毛船、雑誌アコウ等にたまたま載つたもの以外は、未定稿のものをも交へて手帳に控へ、一部は歌稿として整理してあつたものが、大正十三年の火難に際して焼失してしまつた。そこでもはや奈何とも為ることが出来ないから、既に発表したもののみにとどめて編輯しようとおもひ、大正十五年ごろその一部を印刷にまで附したのであつた。然るに計らずも、欧羅巴から持帰つた荷物の中に、長崎時代の小帳面四冊あることを発見したが、その中には大正九年病のため静養してゐた頃の歌がいろいろ書いてあつた。即ち、自分が大正十年の夏ごろ解放といふ雑誌に発表した「温泉嶽」と題した十数首の歌は、皆この小帳面の中にあることを発見したのである。さうして見ると、是等の小帳面は自分が洋行するとき、荷物の中にほかの物と一しよに入れたのであつた。帳面には、長崎から鹿児島宮崎の方に旅したときの未定稿のもの、それから長崎を去つて上京するまでの途中の歌をも若干首書き記してある。是等は皆粗末な歌であるが、自分としては記念したいものであつた。ただ大正七年八年ごろの小帳面が失せたからその年に作つた歌が無い。大正七年夏には、二三の同僚と共に宇佐から耶馬渓、それから山越をして日田に出て、日田から舟で筑後川をくだり、鮎の大きいのを食ひ、その耶馬渓から日田への途上、夜の山越をしたとき、紅い山火事を見たりして、その時の歌もあつたのに、それ等は焼失せたのであつた。また大正八年には同僚知人と共に熊本に遊びそれから阿蘇山にのぼり、別府へ抜ける旅をし、阿蘇の中腹で撮つた写真も遺つて居るし、その時の歌も若干首あつた筈だが、それ等は焼けたから奈何ともすることが出来ない。

○

焼失せた其等の歌のごときは、所詮粗末なものであるから、大観すれば決して惜しむには足らぬけれども、焼失して見れば、つまらぬものにも愛惜をおぼゆるは人の常情であらうから、この歌集には随分つまらぬ歌まで収録せられたのである。また洋行の歌であるが、洋行は自分のはじめての経験であり、慌しい作のうちから、辛うじてこれだけ整理したのであつた。海上の赤い雲の歌などが幾首も出て来るが、これも初航海の経験者として免れがたいことであつた。

○

私が帰朝して、火事のために、雑誌書籍を焼失してしまつたとき、同情深き諸友は、私のために、所蔵の新聞雑誌の切抜を贈られたのであつた。その諸友は、渡辺庫輔(与茂平)、村田利明、鵜木保、鹿児島寿蔵、竹内治三郎、森路匇平(高谷寛)、赤星信一、村田敏夫、山根浩、加納美代、佐藤峰人、遠藤勝、畠山元三郎、結城健三、三田澪人、志村沿之助、我謝秀昌の諸氏で、この集を編むことの出来たのも、皆此諸氏のたまものである。特に、私ごとき者の書いたものを、斯く丁寧に保存して置かれたといふことに対し、私は涙の出るほどふかく感動したのであつた。この感動と感謝とは、既に十数年を経過した今日といへども毫も変るところがない。

○

集の名「つゆじも」といふのは、この一巻の内容が主として長崎晩期の心にかよふと思ひ、かく命名したのであつた。併し、万葉に、露霜乃消去之如久ツユジモノケヌルガゴトク。露霜之過麻之爾家礼ツユジモノスギマシニケレなどの如く、無常悲哀を暗指するやうだから、歌集の名としてはどうかしらんと云つて呉れた友もゐたが、『露霜乃ツユシモノ、消安我身ケヤスキワガミ、雖老オイヌトモ、又若反マタヲチカヘリ、君乎思将待キミヲシマタム』(万葉巻十二)といふ歌もあるから、大体この名にしておかうと答へたのであつた。また私のこの集を予告したのと前後して、某氏の遺稿に、「つゆじも」といふのが出でて、かたがた自分もどうしようかとおもつたのであるが、やはり最初の心にこだはつてこの名を存することとしたのである。

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この歌集は昭和十五年の夏に編輯した。自分の歌集は「寒雲」以来新しい方から逆に発行しようと企てたから、本集の発行はいつになるか明瞭ではないが、兎も角、ほかの歌集を整理したついでに整理して置くのである。(以上昭和十五年八月記)

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昭和十八年夏、横浜の佐伯藤之助氏が、私が大正七年八月七日長崎で書いた左の短冊を示された。

長崎に来てより百日ももか過ぎゆきてあはれと思ふからたちの花

○

ついで昭和十八年十二月六日、長崎の森路匇平氏が左のごとくに通信せられた。

大正十年一月二十三日、長崎市酒屋町松楽にて斎藤先生送別小宴を催す。会するもの、斎藤茂吉、広田寒山の両先生、大久保日吐男(仁男)、前田毅、大塚九二生並に高谷寛(森路匇平)、斎藤先生に左の即吟あり

うつしみは悲しけれどもおのづから行かなかたみにおもひいでつつ

この家に酒に乱れゑひて人は居りとも我等の心にさやらぬしづけさ

をみな等のさやぎのひまに聞ゆるはあられ降りつつあはれなる音

女等のさやぎのひまに聞ゆるは霰のたまるさ夜の音かな

寺まちの南のやまの黒々とつひに更けつつあられ降る音

○

昭和二十年九月、山形県金瓶在住中、熱海磯八荘なる永見徳太郎(夏汀)氏より来書、米軍の用ゐた原子爆弾の惨害を報ずると共に、大正九年予がのこした次の三首を報じた。

長崎の永見夏汀が愛で持ちし鰐わにの卵をわれは忘れず

南京なんきんの羹あつものを我に食はしめし夏汀が嬬つまは美しきかな

しづかなる夏汀が家のこの部屋に我しばしば来こし百穂ひやくすゐも来こし

○

大正七年は自分の三十七歳の年に当るから、本集の歌は殆どすべて三十七歳から四十歳に至るあひだに作つたものといふことになる。また、本集の歌数は、本文中に六百九十七首、後記中に九首あるから、合算すれば七百六首といふことになる。(以上昭和二十年九月記)

○

本歌集の発行は岩波茂雄、布川角左衛門、佐藤佐太郎、中山武雄、榎本順行諸氏の厚き御世話になりました。私は三月から病気になり今なほ臥床中でありますが、その間岩波茂雄氏の急逝にあひ、悲歎限りありません。(昭和二十一年五月廿九日、大石田にて、斎藤茂吉記。)

底本 / Source edition

底本:「歌集 つゆじも」短歌新聞社文庫、短歌新聞社
2004(平成16)年7月6日初版発行
2007(平成19)年9月10日再版発行
底本の親本:「歌集 つゆじも」岩波書店
1946(昭和21)年8月30日
※「寛済」と「寛濟」、「ピナテル」と「ピナテール」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「齋藤茂吉全集 第一卷」岩波書店の表記にそって、あらためました。
※片仮名の拗音、促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。
入力:光森裕樹
校正:のぶい
2018年2月8日作成
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/056884_001059/

斎藤 茂吉「つゆじも」(新字旧仮名)、底本『歌集 つゆじも』短歌新聞社文庫、短歌新聞社、2004年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 056884_001059, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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