君なくてあしかりけりと思ふにも

いとゞ<ruby><rb>難波</rb><rt>なにわ</rt></ruby>のうらはすみうき

まだおかもとに住んでいたじぶんのあるとしの九月のことであった。あまり天気のいい日だったので、ゆうこく、といっても三時すこし過ぎたころからふとおもいたってそこらを歩いて来たくなった。遠はしりをするには時間がおそいし近いところはたいがい知ってしまったしどこぞ二、三時間で行ってこられる<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>な散策地でわれもひともちょっと考えつかないようなわすれられた場所はないものかとしあんしたすえにいつからかいちど<ruby><rb>水無瀬</rb><rt>みなせ</rt></ruby>の宮へ行ってみようと思いながらついおりがなくてすごしていたことにこころづいた。その水無瀬の宮というのは『<ruby><rb>増</rb><rt>ます</rt></ruby>かがみ』の「おどろのした」に、「<ruby><rb>鳥羽殿</rb><rt>とばどの</rt></ruby><ruby><rb>白河殿</rb><rt>しらかわどの</rt></ruby>なども<ruby><rb>修理</rb><rt>すり</rt></ruby>せさせ<ruby><rb>給</rb><rt>たま</rt></ruby>ひて常にわたりすませ給へど<ruby><rb>猶</rb><rt>なお</rt></ruby>又水無瀬といふ所にえもいはずおもしろき院づくりしてしば〱通ひおはしましつゝ春秋の花もみぢにつけても御心ゆくかぎり世をひゞかしてあそびをのみぞしたまふ。所がらもはる〲と川にのぞめる眺望いとおもしろくなむ。<ruby><rb>元久</rb><rt>げんきゅう</rt></ruby>の頃詩に歌をあはせられしにもとりわきてこそは

見わたせば山もとかすむみなせ川

ゆふべは秋となにおもひけむ

かやぶきの廊<ruby><rb>渡殿</rb><rt>わたどの</rt></ruby>などはる〲と<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>にをかしうせさせ給へり。御前の山より滝おとされたる石のたゞずまひ<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>ふかきみ山木に枝さしかはしたる庭の小松もげに〱<ruby><rb>千世</rb><rt>ちよ</rt></ruby>をこめたるかすみのほらなり。<ruby><rb>前栽</rb><rt>せんざい</rt></ruby>つくろはせ給へる頃人々あまた召して<ruby><rb>御遊</rb><rt>ぎょゆう</rt></ruby>などありける後<ruby><rb>定家</rb><rt>ていか</rt></ruby>の<ruby><rb>中納言</rb><rt>ちゅうなごん</rt></ruby>いまだ<ruby><rb>下﨟</rb><rt>げろう</rt></ruby>なりける時に奉られける

ありへけむもとの<ruby><rb>千年</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>にふりもせで

わがきみちぎるみねのわかまつ

君が代にせきいるゝ庭をゆく水の

いはこすかずは千世も見えけり

かくて院のうへはともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひて琴笛の音につけ花もみぢのをり〱にふれてよろづの遊びわざをのみ尽しつゝ御心ゆくさまにて過させ給ふ」という記事の出ている後鳥羽院の離宮があった旧蹟のことなのである。むかしわたしは始めて『増鏡』を読んだときからこの水無瀬のみやのことがいつもあたまの中にあった。見わたせばやまもとかすむ水無瀬川ゆふべは秋となにおもひけむ、わたしは院のこの御歌がすきであった。あの「霧に<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ入るあまのつり舟」という<ruby><rb>明石</rb><rt>あかし</rt></ruby>の<ruby><rb>浦</rb><rt>うら</rt></ruby>の御歌や「われこそは<ruby><rb>新島守</rb><rt>にいしまもり</rt></ruby>よ」という<ruby><rb>隠岐</rb><rt>おき</rt></ruby>のしまの御歌などいんのおよみになったものにはどれもこれもこころをひかれて記憶にとどまっているのが多いがわけてこの御うたを読むと、みなせがわの川上をみわたしたけしきのさまがあわれにもまたあたたかみのあるなつかしいもののようにうかんでくる。それでいて関西の地理に通じないころは何処か京都の郊外であるらしくかんがえながらはっきりところをつきとめようという気もなかったのであるがその御殿の遺跡は<ruby><rb>山城</rb><rt>やましろ</rt></ruby>と<ruby><rb>摂津</rb><rt>せっつ</rt></ruby>のくにざかいにちかい山崎の駅から十何丁かの<ruby><rb>淀川</rb><rt>よどがわ</rt></ruby>のへりにあって今もそのあとに後鳥羽院を祭った神社が建っていることを知ったのはごく最近なのである。で、そのみなせのみやをとぶらうのがこの時刻から出かけるのにはいちばん<ruby><rb>手頃</rb><rt>てごろ</rt></ruby>であった。やまざきまでなら汽車で行ってもすぐだけれども阪急で行って<ruby><rb>新京阪</rb><rt>しんけいはん</rt></ruby>にのりかえればなお訳はない。それにちょうどその日は十五夜にあたっていたのでかえりに淀川べりの月を見るのも一興である。そうおもいつくとおんなこどもをさそうような場所がらでもないからひとりでゆくさきも告げずに出かけた。

山崎は山城の国<ruby><rb>乙訓</rb><rt>おとくに</rt></ruby>郡にあって水無瀬の<ruby><rb>宮趾</rb><rt>みやあと</rt></ruby>は摂津の国三島郡にある。されば大阪の方からゆくと新京阪の大山崎でおりて逆に引きかえしてそのおみやのあとへつくまでのあいだにくにざかいをこすことになる。わたしはやまざきというところは省線の駅の附近をなにかのおりにぶらついたことがあるだけでこのさいごくかいどうを西へあるいてみるのは始めてなのである。すこしゆくとみちがふたつにわかれて右手へ曲ってゆく方のかどに古ぼけた石の道標が立っている。それは<ruby><rb>芥川</rb><rt>あくたがわ</rt></ruby>から池田を経て<ruby><rb>伊丹</rb><rt>いたみ</rt></ruby>の方へ出るみちであった。<ruby><rb>荒木村重</rb><rt>あらきむらしげ</rt></ruby>や池田<ruby><rb>勝入斎</rb><rt>しょうにゅうさい</rt></ruby>や、あの『<ruby><rb>信長記</rb><rt>しんちょうき</rt></ruby>』にある戦争の記事をおもえばそういうせんごくの武将どもが活躍したのは、その、いたみ、あくたがわ、やまざきをつなぐ線に沿うた地方であっていにしえはおそらくそちらの方が本道であり、この淀川のきしをぬってすすむかいどうは<ruby><rb>舟行</rb><rt>しゅうこう</rt></ruby>には便利だったであろうが<ruby><rb>蘆荻</rb><rt>ろてき</rt></ruby>のおいしげる入り江や沼地が多くってくがじの旅にはふむきであったかも知れない。そういえば江口の渡しのあとなどもいま来るときに乗ってきた電車の沿線にあるのだときいている。げんざいではその江口も<ruby><rb>大大阪</rb><rt>だいおおさか</rt></ruby>の市内にはいり山崎も去年の京都市の拡張以来大都会の一部にへんにゅうされたけれども、しかし京と大阪の間は気候風土の関係が阪神間のようなわけには行かないらしく田園都市や文化住宅地がそうにわかにはひらけそうにもおもえないからまだしばらくは草ぶかい<ruby><rb>在所</rb><rt>ざいしょ</rt></ruby>のおもむきをうしなうことがないであろう。忠臣蔵にはこの近くのかいどうに<ruby><rb>猪</rb><rt>いのしし</rt></ruby>や<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎが出たりするように書いてあるからむかしはもっとすさまじい所だったのであろうがいまでもみちの両側にならんでいる<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>ぶき屋根の<ruby><rb>家居</rb><rt>いえい</rt></ruby>のありさまは阪急沿線の西洋化した町や村を<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れた眼にはひどく時代がかっているようにみえる。「なき事によりてかく罪せられたまふをからくおぼしなげきて、やがて山崎にて出家せしめ給ひて」と、『<ruby><rb>大鏡</rb><rt>おおかがみ</rt></ruby>』では北野の天神が<ruby><rb>配流</rb><rt>はいる</rt></ruby>のみちすがら<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>で仏門に<ruby><rb>帰依</rb><rt>きえ</rt></ruby>せられて「きみがすむやどの<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>をゆく〱と」というあの歌をよまれたことになっている。さようにこの土地はずいぶん古い駅路なのである。たぶん平安のみやこが出来たのとおなじころに設けられた<ruby><rb>宿場</rb><rt>しゅくば</rt></ruby>かもしれない。わたしはそんなことをかんがえながら旧幕の世の空気がくらい<ruby><rb>庇</rb><rt>ひさし</rt></ruby>のかげにただよっているような<ruby><rb>家作</rb><rt>やづく</rt></ruby>りを一軒々々のぞいてあるいた。

<ruby><rb>宮居</rb><rt>みやい</rt></ruby>のあとはみなせ川であろうとおもわれる川にかかっている橋をこえてそれからまたすこし行ったあたりの街道からひだりへ折れたところにあった。<ruby><rb>承久</rb><rt>じょうきゅう</rt></ruby>の乱にひとしくふしあわせな運命におあいなされた<ruby><rb>後鳥羽</rb><rt>ごとば</rt></ruby>、<ruby><rb>土御門</rb><rt>つちみかど</rt></ruby>、順徳の三帝を祭神として、いまはそこに<ruby><rb>官幣中社</rb><rt>かんぺいちゅうしゃ</rt></ruby>が建っているのだが、やしろのたてものや<ruby><rb>境内</rb><rt>けいだい</rt></ruby>の<ruby><rb>風致</rb><rt>ふうち</rt></ruby>などはりっぱな神社仏閣に富むこの地方としてはべつにとりたててしるすほどでもない。ただまえに挙げた『<ruby><rb>増</rb><rt>ます</rt></ruby>かがみ』のものがたりをあたまにおいてかまくらの初期ごろにここで当年の<ruby><rb>大宮人</rb><rt>おおみやびと</rt></ruby>たちが四季おりおりの遊宴をもよおしたあとかとおもうと一木一石にもそぞろにこころがうごかされる。わたしは路傍にこしかけて一ぷくすってからひろくもあらぬ境内をなんということもなく往ったり来たりした。そこはかいどうからほんの<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か引っ込んでいるだけだけれども<ruby><rb>籬</rb><rt>まがき</rt></ruby>にとりどりの秋草を咲かせた百姓家が点々と散らばっている奥の、閑静な、人の眼につかない、こぢんまりした袋のような地面なのである。でも後鳥羽院の御殿というのはこれだけの狭い面積のなかにあったのではなく、ここからずっとさっき通って来た水無瀬川のきしまでつづいていたのであろう。そして水のほとりの<ruby><rb>楼</rb><rt>たかどの</rt></ruby>のうえからかまたはお庭をそぞろあるきなさりながらか川上の方を御覧になって「やまもとかすむみなせ川」の感興をおもらしになったのであろう。「夏の頃水無瀬殿の<ruby><rb>釣殿</rb><rt>つりどの</rt></ruby>にいでさせ給ひて、ひ水めして<ruby><rb>水飯</rb><rt>すいはん</rt></ruby>やうのものなど若き<ruby><rb>上達部</rb><rt>かんだちめ</rt></ruby><ruby><rb>殿上人</rb><rt>てんじょうびと</rt></ruby>どもにたまはさせておほみきまゐるついでにもあはれいにしへの紫式部こそはいみじくありけれ、かの源氏物語にも近き川のあゆ西山より<ruby><rb>奉</rb><rt>たてまつ</rt></ruby>れるいしぶしやうのもの御前に調じてとかけるなむすぐれてめでたきぞとよ、<ruby><rb>只今</rb><rt>ただいま</rt></ruby>さやうの料理つかまつりてむやなどのたまふを<ruby><rb>秦</rb><rt>はた</rt></ruby>のなにがしとかいふ<ruby><rb>御随身</rb><rt>みずいじん</rt></ruby>高欄のもとちかく候ひけるがうけたまはりて池の<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>なるさゝを少ししきて白きよねを水に洗ひて奉れり。ひろはゞ消えなむとにや、これもけしかるわざかなとて御衣ぬぎてかづけさせたまふ。<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>かはらけたび〱きこしめす」とあるのを思いあわせれば、その釣殿の池の水がやがて川の方に連絡していたのではないかと想像される。それに、ここから南の方にあたって恐らくこの神社のうしろ数丁ぐらいのところには淀川がながれているはずではないか。そのながれはいま見えないけれどもむこうぎしの<ruby><rb>男山八幡</rb><rt>おとこやまはちまん</rt></ruby>のこんもりした峰があいだに大河をさしはさんでいるようでもなくつい<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の上へ落ちかかるように迫っている。わたしは眼をあげてその<ruby><rb>石清水</rb><rt>いわしみず</rt></ruby>の山かげを仰ぎ、それとさしむかいに神社の北の方にそびえている天王山のいただきをのぞんだ。かいどうを歩いているときは気が付かなかったが此処へ来てから四方をながめると、わたしは今南北の山が<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>のように空をかぎっている谷あいの<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>の底のような地点に立っている。なるほど、王朝の或る時代に山崎に関所が設けられていたことも西から京へ攻め入るのにこのあたりが要害の地であったこともこういう山河の形勢を見るとおのずから<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>されるのである。ひがしの方の京都を中心とする山城の平野と西の方の大阪を中心とする<ruby><rb>摂河泉</rb><rt>せっかせん</rt></ruby>の平野とがここで狭苦しくちぢめられていてそのあいだをひとすじの大河がながれてゆく。されば京と大阪とは淀川でつながっているけれども気候風土はここを境界にしてはっきりと変る。大阪の人の話をきくと京都に雨が降っていても山崎から西は晴れていることがあり冬など汽車が山崎を過ぎると急に温度の下ることが分るという。そういえばところどころに<ruby><rb>竹藪</rb><rt>たけやぶ</rt></ruby>の多い村落のけしき、農家の家のたてかた、樹木の<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>、土の色など、<ruby><rb>嵯峨</rb><rt>さが</rt></ruby>あたりの郊外と<ruby><rb>似通</rb><rt>にかよ</rt></ruby>っていてまだここまでは京都の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>が延びて来ているという感じがする。

わたしはやしろの境内を出るとかいどうの裏側を<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>づたいにふたたびみなせ川の川のほとりへ引き返して堤の上にあがってみた。川上の方の山のすがた、水のながめは、七百年の月日のあいだに幾分かちがって来たであろうがそれでも院の御うたを拝してひそかに胸にえがいていたものといま眼前にみる風光とはおおよそ似たり寄ったりであった。わたしはだいたいこういう景のところであろうとつねから考えていたのである。それは<ruby><rb>峨々</rb><rt>がが</rt></ruby>たる<ruby><rb>峭壁</rb><rt>しょうへき</rt></ruby>があったり岩を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>む<ruby><rb>奔湍</rb><rt>ほんたん</rt></ruby>があったりするいわゆる奇勝とか絶景とかの称にあたいする山水ではない。なだらかな丘と、おだやかな流れと、それらのものを一層やんわりぼやけさせている夕もやと、つまり、いかにも<ruby><rb>大和絵</rb><rt>やまとえ</rt></ruby>にありそうな温雅で平和な眺望なのである。なべて自然の風物というものは見る人のこころごころであるからこんな所は<ruby><rb>一顧</rb><rt>いっこ</rt></ruby>のねうちもないように感ずる者もあるであろう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないこういう凡山凡水に対する方がかえって甘い空想に誘われていつまでもそこに立ちつくしていたいような気持にさせられる。こういうけしきは眼をおどろかしたり魂を奪ったりしない代りに人なつッこいほほえみをうかべて旅人を迎え入れようとする。ちょっと見ただけではなんでもないが長く立ち止まっているとあたたかい慈母のふところに抱かれたようなやさしい情愛にほだされる。<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にうらさびしいゆうぐれは遠くから手まねきしているようなあの川上の<ruby><rb>薄靄</rb><rt>うすもや</rt></ruby>の中へ吸い込まれてゆきたくなる。それにつけてもゆふべは秋と何思ひけむと後鳥羽院が仰っしゃったようにもしこのゆうぐれが春であってあのおっとりとした山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>にくれないの<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>がたなびき、川の両岸、峰や谷のところどころに桜の花が咲いていたらどんなにかまたあたたかみが加わるであろう。思うに院のおながめになったのはそういうけしきであったに違いない。だがほんとうの優美というものはたしなみの深い都会人でなければ理解できないものであるから平凡のうちにおもむきのある<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>の風致もむかしの大宮人の<ruby><rb>雅懐</rb><rt>がかい</rt></ruby>がなければ詰まらないというのが当然であるかも知れない。わたしはおいおい<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>の濃くなりつつある堤のうえにたたずんだままやがて川下の方へ眼を移した。そして院が<ruby><rb>上達部</rb><rt>かんだちめ</rt></ruby>や<ruby><rb>殿上人</rb><rt>てんじょうびと</rt></ruby>と御一緒に<ruby><rb>水飯</rb><rt>すいはん</rt></ruby>を召しあがったという釣殿はどのへんにあったのだろうと右の方の岸を見わたすとそのあたりはいちめんに<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>とした森が<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>いしげりそれがずうっと神社のうしろの方までつづいているのでその森のある広い面積のぜんたいが離宮の<ruby><rb>遺趾</rb><rt>いし</rt></ruby>であることが明かに指摘できるのであった。のみならずここからは<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>の大川も見えていて水無瀬川の末がそれに合流しているのが分る。たちまちわたしには離宮の占めていた<ruby><rb>形勝</rb><rt>けいしょう</rt></ruby>の地位がはっきりして来た。院の御殿は南に淀川、東に水無瀬川の水をひかえ、この二つの川の交わる一角に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って何万坪という<ruby><rb>宏荘</rb><rt>こうそう</rt></ruby>な庭園を擁していたにちがいない。いかさまこれならば<ruby><rb>伏見</rb><rt>ふしみ</rt></ruby>から船でお<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>りになってそのまま釣殿の<ruby><rb>勾欄</rb><rt>こうらん</rt></ruby>の下へ<ruby><rb>纜</rb><rt>ともづな</rt></ruby>をおつなぎになることも出来、都との往復も自由であるから、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひてという『増鏡』の本文と符号している。わたしは幼年のころ、橋場、今戸、小松島、<ruby><rb>言問</rb><rt>こととい</rt></ruby>など、<ruby><rb>隅田川</rb><rt>すみだがわ</rt></ruby>の両岸に<ruby><rb>数寄</rb><rt>すき</rt></ruby>をこらした富豪の別荘が水にのぞんで建っていたことを<ruby><rb>図</rb><rt>はか</rt></ruby>らずもおもいうかべた。おそれ多いたとえのようではあるが此処の御殿にいらしってときどき風流なうたげを催され、「あはれいにしへの紫式部こそはいみじくありけれ、只今さやうの料理つかまつりてむや」と仰せられたり、「ひろはゞ消えなむとにや、これもけしかるわざかな」と<ruby><rb>随身</rb><rt>ずいじん</rt></ruby>の男に<ruby><rb>祝儀</rb><rt>しゅうぎ</rt></ruby>をおつかわしになったりした院の御様子はどこか江戸の<ruby><rb>通人</rb><rt>つうじん</rt></ruby>に似たようなふしもあるではないか。それにまた情趣に乏しい隅田川などとはちがってあしたにゆうべに男山の<ruby><rb>翠巒</rb><rt>すいらん</rt></ruby>が影をひたしそのあいだを<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>りの船がゆきかう<ruby><rb>大淀</rb><rt>おおよど</rt></ruby>の風物はどんなにか院のみごころをなぐさめ御ざしきの興を添えたであろう。後年幕府追討のはかりごとにやぶれさせ給い<ruby><rb>隠岐</rb><rt>おき</rt></ruby>のしまに十九年のうきとしつきをお送りなされて波のおと風のひびきにありし日のえいがをしのんでいらしった時代にももっともしげく御胸の中を<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>したものはこの附近の山容水色とここの御殿でおすごしになった花やかな<ruby><rb>御遊</rb><rt>ぎょゆう</rt></ruby>のかずかずではなかったであろうか。などと追懐にふけっているとわたしの空想はそれからそれへと当時のありさまを幻にえがいて、<ruby><rb>管絃</rb><rt>かんげん</rt></ruby>の余韻、泉水のせせらぎ、果ては<ruby><rb>月卿雲客</rb><rt>げっけいうんかく</rt></ruby>のほがらかな歓語のこえまでが耳の底にきこえてくるのであった。そしていつのまにかあたりに<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>が迫っているのにこころづいて時計を取り出してみたときはもう六時になっていた。ひるまのうちは歩くとじっとり汗ばむほどの暖かさであったが日が落ちるとさすがに秋のゆうぐれらしい<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>寒い風が身にしみる。わたしは<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに空腹をおぼえ、月の出を待つあいだに<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かで<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>をしたためておく必要があることを思って<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>なく堤の上を街道の方へ引き返した。

もとより気の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた料理屋などのある町でないのは分っていたから一時のしのぎに体をぬくめさえすればいいのでとある<ruby><rb>饂飩屋</rb><rt>うどんや</rt></ruby>の灯を見つけて酒を二合ばかり飲み<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>うどんを二杯たべて出がけにもう一本<ruby><rb>正宗</rb><rt>まさむね</rt></ruby>の<ruby><rb>罎</rb><rt>びん</rt></ruby>を<ruby><rb>熱燗</rb><rt>あつかん</rt></ruby>につけさせたのを手に<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げながら饂飩屋の亭主がおしえてくれた渡し場へ出る道というのを<ruby><rb>川原</rb><rt>かわら</rt></ruby>の方へ下って行った。亭主はわたしが月を見るために淀川へ舟を出したいものだがというと、いやそれならば<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>きこの町のはずれから向う岸の橋本へわたす<ruby><rb>渡船</rb><rt>とせん</rt></ruby>がござります、渡船とは申しましても川幅が広うござりましてまん中に大きな<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>がござりますので、こちらの岸から先ずその洲へわたし、そこからまた別の船に乗り移って向う岸へおわたりになるのですからそのあいだに川のけしきを御覧になってはとそうおしえてくれたのである。橋本には<ruby><rb>遊廓</rb><rt>ゆうかく</rt></ruby>がござりまして渡し船はちょうどその遊廓のある<ruby><rb>岸辺</rb><rt>きしべ</rt></ruby>に着きますので、夜おそく十時十一時頃までも往来しておりますからお気に召したらいくたびでも行きかよいなされてゆっくりお眺めになることも出来ますとなおもいいそえてくれた親切を時に取ってうれしくおもいながらわたしはみちみちひいやりした夜風にほろよいの<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を吹かせつつあるいた。渡船場までの<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>は聞いたよりは遠い感じがしたけれども、<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついてみると、なるほど川のむこうに洲がある。その洲の川下の方の端はつい眼の前で終っているのが分るのであるが、川上の方は<ruby><rb>渺茫</rb><rt>びょうぼう</rt></ruby>としたうすあかりの果てに没して何処までもつづいているように見える。ひょっとするとこの洲は<ruby><rb>大江</rb><rt>たいこう</rt></ruby>の中に孤立している島ではなくてここで<ruby><rb>桂川</rb><rt>かつらがわ</rt></ruby>が淀の本流に合している剣先なのではないか。なんにしても木津、宇治、加茂、桂の諸川がこのあたりで一つになり、山城、<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>、<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>、伊賀、丹波等、五カ国の水がここに集まっているのである。むかしの『<ruby><rb>澱川</rb><rt>よどがわ</rt></ruby>両岸一覧』という絵本に、これより少し上流に狐の渡しという渡船場があったことを記して<ruby><rb>渡</rb><rt>わたり</rt></ruby>の長サ百十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>と書いているからここはそれよりもっと川幅がひろいかも知れない。そして今いう洲は川のまん中にあるのではなくずっとこちら岸に近いところにある。河原の砂利に腰をおろして待っているとはるかな向うぎしに灯のちらちらしている橋本の町から船がその洲へ<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>ぎ寄せる、と、客は船を乗り捨てて、洲を横ぎって、こちら側の船の着いている<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>まで歩いて来る。思えば久しく渡しぶねというものに乗ったことはなかったが子供の時分におぼえのある<ruby><rb>山谷</rb><rt>さんや</rt></ruby>、竹屋、<ruby><rb>二子</rb><rt>ふたこ</rt></ruby>、<ruby><rb>矢口</rb><rt>やぐち</rt></ruby>などの渡しにくらべてもここのは洲を<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んでいるだけに一層優長なおもむきがあっていまどき京と大阪のあいだにこんな古風な交通機関の残っていたことが意外でもあり、とんだ拾いものをしたような気がするのであった。

前に挙げた淀川両岸の絵本に出ている橋本の図を見ると月が男山のうしろの空にかかっていてをとこやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟という<ruby><rb>景樹</rb><rt>かげき</rt></ruby>の歌と、新月やいつをむかしの男山という<ruby><rb>其角</rb><rt>きかく</rt></ruby>の句とが添えてある。わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背中にして<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>とした木々の<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>みがびろうどのようなつやを含み、まだ何処やらに夕ばえの色が残っている<ruby><rb>中空</rb><rt>なかぞら</rt></ruby>に暗く濃く黒ずみわたっていた。わたしは、さあこちらの船へ乗って下さいと洲のもう一方の岸で船頭が招いているのを、いや、いずれあとで乗せてもらうがしばらく此処で川風に吹かれて行きたいからとそういい捨てると露にしめった雑草の中を<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふ</rt></ruby>みしだきながらひとりでその洲の剣先の方へ歩いて行って<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えている<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>のあたりにうずくまった。まことに此処は中流に船を浮かべたのも同じで月下によこたわる両岸のながめをほしいままにすることが出来るのである。わたしは月を左にし川下の方を向いているのであったが川はいつのまにか<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>おいのあるあおい光りに包まれて、さっき、ゆうがたのあかりの下で見たよりもひろびろとしている。<ruby><rb>洞庭湖</rb><rt>どうていこ</rt></ruby>の<ruby><rb>杜詩</rb><rt>とし</rt></ruby>や<ruby><rb>琵琶行</rb><rt>びわこう</rt></ruby>の文句や<ruby><rb>赤壁</rb><rt>せきへき</rt></ruby>の<ruby><rb>賦</rb><rt>ふ</rt></ruby>の一節など、長いこと想い出すおりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから<ruby><rb>朗々</rb><rt>ろうろう</rt></ruby>たるひびきを<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>にのぼって来る。そういえば「あらはれわたるよどの川舟」と景樹が<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいるようにむかしはこういう晩にも三十<ruby><rb>石船</rb><rt>こくぶね</rt></ruby>をはじめとして沢山の船がここを上下していたのであろうが今はあの<ruby><rb>渡船</rb><rt>とせん</rt></ruby>がたまに五、六人の客を運んでいる外にはまったく船らしいものの影もみえない。わたしは提げてきた正宗の<ruby><rb>罎</rb><rt>びん</rt></ruby>を口につけて<ruby><rb>喇叭</rb><rt>らっぱ</rt></ruby>飲みしながら<ruby><rb>潯陽江頭</rb><rt>じんようこうとう</rt></ruby><ruby><rb>夜送客</rb><rt>よるきゃくをおくる</rt></ruby>、<ruby><rb>楓葉荻花秋瑟々</rb><rt>ふうようてきかあきしつしつ</rt></ruby>と酔いの発するままにこえを挙げて吟じた。そして吟じながらふとかんがえたことというのはこの<ruby><rb>蘆荻</rb><rt>ろてき</rt></ruby>の<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>いしげるあたりにもかつては<ruby><rb>白楽天</rb><rt>はくらくてん</rt></ruby>の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。江口や神崎がこの川下のちかいところにあったとすればさだめしちいさな<ruby><rb>葦分</rb><rt>あしわ</rt></ruby>け<ruby><rb>舟</rb><rt>ぶね</rt></ruby>をあやつりながらここらあたりを<ruby><rb>徘徊</rb><rt>はいかい</rt></ruby>した遊女も少くなかったであろう。王朝の頃<ruby><rb>大江匡衡</rb><rt>おおえのまさひら</rt></ruby>は『<ruby><rb>見遊女序</rb><rt>ゆうじょをみるのじょ</rt></ruby>』を書いてこの川筋の<ruby><rb>繁昌</rb><rt>はんじょう</rt></ruby>をしるし<ruby><rb>婬風</rb><rt>いんぷう</rt></ruby>をなげいているなかに、河陽ハ<ruby><rb>則</rb><rt>すなわ</rt></ruby>チ山、河、摂、三州ノ間ニ介シ、天下ノ<ruby><rb>要津</rb><rt>ようしん</rt></ruby>ナリ、西ヨリ、東ヨリ、南ヨリ、北ヨリ、往反ノ者<ruby><rb>此</rb><rt>こ</rt></ruby>ノ路ニ<ruby><rb>率</rb><rt>したが</rt></ruby>ヒ<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>ラザルハナシ矣、<ruby><rb>其</rb><rt>そ</rt></ruby>ノ俗天下ニ女色ヲ<ruby><rb>衒</rb><rt>てら</rt></ruby>ヒ売ル者、老少提結シ、<ruby><rb>邑里</rb><rt>ゆうり</rt></ruby>相望ミ、舟ヲ門前に<ruby><rb>維</rb><rt>つな</rt></ruby>ギ、客ヲ河中ニ<ruby><rb>遅</rb><rt>ま</rt></ruby>チ、<ruby><rb>少</rb><rt>わか</rt></ruby>キ者ハ脂粉<ruby><rb>謌咲</rb><rt>かしょう</rt></ruby>シテ以テ人心ヲ<ruby><rb>蕩</rb><rt>まど</rt></ruby>ハシ、老イタル者ハ<ruby><rb>簦</rb><rt>からかさ</rt></ruby>ヲ<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>ヒ<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>ヲ擁シテ以テ<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>レガ任トナスといひ、<ruby><rb>於戯</rb><rt>ああ</rt></ruby>、<ruby><rb>翠帳紅閨</rb><rt>すいちょうこうけい</rt></ruby>、万事ノ礼法異ナリトイヘドモ、舟中浪上、一生ノ<ruby><rb>観会</rb><rt>かんかい</rt></ruby>ハ<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>レ同ジ、余此ノ路ヲ<ruby><rb>歴</rb><rt>へ</rt></ruby>テ此ノ事ヲ見ル<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>ニ<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>ダ<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>テ<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>ガタメニ長大息セザルナシ矣といっている。また<ruby><rb>匡衡</rb><rt>まさひら</rt></ruby>から数世の孫にあたる大江<ruby><rb>匡房</rb><rt>まさふさ</rt></ruby>も『遊女記』というものを書いてこの沿岸のなまめかしくもにぎやかな風俗を述べ、江河南北、<ruby><rb>邑々処々</rb><rt>ゆうゆうしょしょ</rt></ruby>、分流シテ河内ノ国ニ向フ、<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>ヲ江口ト<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>フ、<ruby><rb>蓋</rb><rt>けだ</rt></ruby>シ典薬寮味原樹、<ruby><rb>掃部</rb><rt>かもん</rt></ruby>寮大庭ガ<ruby><rb>庄</rb><rt>しょう</rt></ruby>ナリ、摂津ノ国ニ<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>レバ神崎<ruby><rb>蟹島</rb><rt>かにしま</rt></ruby>等ノ地アリ、此門連戸、人家絶ユルコトナク、<ruby><rb>倡女</rb><rt>しょうじょ</rt></ruby>群ヲ成シテ<ruby><rb>扁舟</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>ニ<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>サシ、舶ヲ<ruby><rb>看撿</rb><rt>かんけん</rt></ruby>シテ以テ<ruby><rb>枕席</rb><rt>ちんせき</rt></ruby>ヲ<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>ム、声ハ渓雲ヲ過ギ、韻ハ水風ニ<ruby><rb>飄</rb><rt>ただよ</rt></ruby>ヒ、<ruby><rb>経廻</rb><rt>けいかい</rt></ruby>ノ人、家ヲ忘レザルハナシといい、<ruby><rb>釣翁</rb><rt>ちょうおう</rt></ruby>商客、<ruby><rb>舳艫</rb><rt>じくろ</rt></ruby>相連ナリテ<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>ンド水ナキガ如シ、蓋シ天下第一ノ楽地ナリともいっている。わたしはいまおぼろげな記憶の底をさぐってそれらの文章のところどころをきれぎれにおもいうかべながら<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えわたる月のひかりの下を音もなくながれてゆく淋しい水の面をみつめた。人には誰にでも懐古の情があるであろう。が、よわい五十に近くなるとただでも秋のうらがなしさが若いころには想像もしなかった不思議な力で迫ってきて<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の葉の風にそよぐのを見てさえ身にしみじみとこたえるものがあるのをどうにも振りおとしきれないのに、ましてこういう晩にこういう場所にうずくまっていると人間のいとなみのあとかたもなく消えてしまう<ruby><rb>果敢</rb><rt>はか</rt></ruby>なさをあわれみ過ぎ去った花やかな世をあこがれる<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>がつのるのである。『遊女記』の中には、観音、<ruby><rb>如意</rb><rt>にょい</rt></ruby>、香爐、<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>などという名高い遊女のいたことが記してあり、そのほかにも小観音、薬師、<ruby><rb>熊野</rb><rt>くまの</rt></ruby>、<ruby><rb>鳴渡</rb><rt>なると</rt></ruby>などという名が伝わっているがそれらの水の上の女どもの多くは何処へ行ってしまったのであろうか。かのおんなどもがその芸名に仏くさい名前をつけていたのは<ruby><rb>婬</rb><rt>いん</rt></ruby>をひさぐことを一種の<ruby><rb>菩薩行</rb><rt>ぼさつぎょう</rt></ruby>のように信じたからであるというが、おのれを<ruby><rb>生身</rb><rt>しょうじん</rt></ruby>の<ruby><rb>普賢</rb><rt>ふげん</rt></ruby>になぞらえまたあるときは<ruby><rb>貴</rb><rt>とうと</rt></ruby>い<ruby><rb>上人</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>にさえ礼拝されたという女どものすがたをふたたびこの流れのうえにしばしうたかたの結ばれるが如く浮かべることは出来ないであろうか。「江口<ruby><rb>桂本</rb><rt>かつらもと</rt></ruby>などいふ遊女がすみか見めぐれば家は南北の岸にさしはさみて心は旅人の思ふさまにさもはかなきわざにてさてもむなしく此の世をさりて来世はいかならん、これも前世の遊女にてあるべき<ruby><rb>宿業</rb><rt>しゅくごう</rt></ruby>の<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>りけるやらん、露の身のしばしの程をわたらんとて仏の大いにいましめ給へるわざをするかな、我が身一つの罪はせめていかゞせん、多くの人をさへ引き損ぜんこといとゞうたてかるべきには侍らずや、しかあれどもかの遊女の中に多く<ruby><rb>往生</rb><rt>おうじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げ<ruby><rb>浦人</rb><rt>うらびと</rt></ruby>の物の命を断つものゝ中にあって<ruby><rb>終</rb><rt>つい</rt></ruby>にいみじき侍りし」と<ruby><rb>西行</rb><rt>さいぎょう</rt></ruby>がいっているようにその女どもは今は<ruby><rb>弥陀</rb><rt>みだ</rt></ruby>の国に生れていつの世にも変らぬものは人間のあさましさであることを<ruby><rb>憫笑</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>しているのであろうか。

ひとりそんなふうにかんがえつづけていたわたしはあたまの中に一つ二つ<ruby><rb>腰折</rb><rt>こしおれ</rt></ruby>がまとまりかけたのでわすれないうちにと思ってふところから手帳を出して月あかりをたよりに鉛筆をはしらせて行った。わたしは、まだいくらか残っていた酒に未練をおぼえて一と口飲んでは書き一と口飲んでは書きしたが最後の<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>をしぼってしまうと罎を<ruby><rb>川面</rb><rt>かわも</rt></ruby>へほうり投げた。と、そのとき近くの<ruby><rb>葦</rb><rt>あし</rt></ruby>の葉がざわざわとゆれるけはいがしたのでそのおとの方を振り向くと、そこに、やはり葦のあいだに、ちょうどわたしの影法師のようにうずくまっている男があった。こちらはおどろかされたので、一瞬間、すこし<ruby><rb>無躾</rb><rt>ぶしつけ</rt></ruby>なくらいにまじまじと<ruby><rb>風態</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>を見すえるとその男はべつにたじろぐ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>もなくよい月でござりますなとさわやかなこえで<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>して、いや、御風流なことでござります、じつはわたくしも先刻から此処におりましたなれども御清境のおさまたげをしてはと存じてさしひかえておりましたがただいま琵琶行をおうたいなされましたのを拝聴しまして自分もなにかひとくさり<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>ってみたくなりました、御迷惑でござりましょうがしばらくお耳を汚させてくださいませぬかという。見も知らぬ人がこういう風に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ馴れしく話しかけるのは東京ではめったにないことだけれどもちかごろ関西人のこころやすだてをあやしまぬばかりかおのれもいつか土地の風俗に化せられてしまっているのでそれは御ていねいなことです、ぜひ聞かせていただきましょうと如才なくいうとその男はきゅうに立ってまたざわざわとあしの葉を押し分けてわたしの傍へ来てすわりながら、失礼でござりますがひとついかがでござりますと<ruby><rb>自然木</rb><rt>じねんぼく</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いつけてある<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をほどいて何かを取り出した。みれば左の手に<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>ひょうたん</rt></ruby>を持ち右の手にちいさな塗り物の<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を持ってわたしに突きつけているのである。さきほど罎をお捨てになったようでござりましたがこちらにはまだこれだけござりますといいながらひょうたんを振ってみせて、さ、へたな<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>いをきいていただく代りにこれを受けて下さりませ、せっかくの酔いがおさめになっては興がなくなります、ここは川風がつめとうござりますからちと召し上りすごしても気づかいはござりますまいと<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしにその盃を受けさせて、とく、とく、とく、と、ここちよい音をさせてつぐのである。これはかたじけない、ではえんりょなく<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きますといって、わたしはその一杯をきよく<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>した。なんという酒かわからないけれども罎詰めの正宗を飲んだあとでは程よく<ruby><rb>木香</rb><rt>きが</rt></ruby>の廻っているまったりした冷酒の味が<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに口の中をすがすがしくさせてくれるのであったが、さあ、もう<ruby><rb>一献</rb><rt>いっこん</rt></ruby>おすごしなされませ、さあもう一献と矢つぎばやに三杯までかさねさせてその三杯目の酒をわたしが飲んでいるあいだにやおら「<ruby><rb>小督</rb><rt>こごう</rt></ruby>」をうたい出した。すこし酔いすぎているせいかいきぎれがしてくるしそうにきこえる。それに美声というほどでもなく音量も乏しいのであるが、さびをふくんだ、熟練を積んだこえではある。とにかく謡いぶりが落ちついているところをみると相当に年数をかけているのではあろう。しかしそんなことよりも見も知らぬ人のまえでこんな<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に気やすくうたい出してうたうと<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐにその<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>っているものの世界へ<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れを没入させてしまい何の雑念にも<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わされないといった風な<ruby><rb>飄逸</rb><rt>ひょういつ</rt></ruby>な心境がきいているうちに自然とこちらへのりうつるので、わざは上達しないでもこういう心境をやしなうことが出来るものならば遊芸をならうということも<ruby><rb>徒爾</rb><rt>とじ</rt></ruby>ではないように思われてくる。いや、結構でございました、おかげさまでいい保養をしましたというとせわしそうに息をはずませて先ず<ruby><rb>乾</rb><rt>かわ</rt></ruby>いた口をうるおしてからまた盃をわたしにさしてさあいま一つおかさねという。まぶかに<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っている<ruby><rb>鳥打</rb><rt>とりうち</rt></ruby>帽子のひさしが顔の上へ蔭をつくっているので月あかりでは<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>にたしかめにくいけれどもとしはわたしと同年輩ぐらいであろう、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた、小柄な体に和服の<ruby><rb>着流</rb><rt>きなが</rt></ruby>しで<ruby><rb>通行</rb><rt>みちゆき</rt></ruby>のように仕立てたコートを着ている。失礼ながら大阪からおいでになりましたかと言葉のふしぶしに京よりは西のなまりがあるのでたずねると、さようでござります、大阪の南の方にささやかな店を持ちまして<ruby><rb>骨董</rb><rt>こっとう</rt></ruby>をあきなっておりますという。散策のおかえりがけででもありますかというと、いえ、いえ、今夜の月をみるつもりで夕刻から出て来たのでござりますが例年ならば京阪電車で出かけますところをことしは廻りみちをして、新京阪へ乗りまして、このわたしをわたりましたのが仕合わせでござりましたと腰のあいだから<ruby><rb>煙草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>入れの筒を抜き取って<ruby><rb>煙管</rb><rt>キセル</rt></ruby>にきざみをつめながらいうのである。と仰っしゃるとまいねん<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>ぞ場所をさだめて月見にいらっしゃるのですか。さようでござります、と、そういってからたばこに火をつけるあいだ黙っていてまいねんわたくしは<ruby><rb>巨椋</rb><rt>おぐら</rt></ruby>の池へ月見にまいるのでござりますがこよいはからずもこのところを通りましてこの川中の月をみることが出来ましたのは何よりでござります、それと申しますのもあなたさまが此処にやすんでいらっしゃるのをお見かけいたしましたばかりになるほどこれは<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>な場所だと気がつきましたようなわけでひとえにあなたさまのおかげでござります、まことに大淀の水を左右にひかえてあしのあいだから眺める月はまたかくべつでござりますなと吸いがらを根つけの上におとしてあたらしくつめた煙草へその火を移しながら、なんぞ、よい句がお出来になりましたらば拝聴させて下さりませという。いやいや、おはずかしい出来ばえでなかなかおきかせするようなものではないのですとあわてて手帳をふところにしまい込むと、ま、そう仰っしゃらずにといいながらも<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いては争わず、もうそのことは忘れたように、<ruby><rb>江月</rb><rt>こうげつ</rt></ruby>照ラシ<ruby><rb>松風</rb><rt>しょうふう</rt></ruby>吹ク、<ruby><rb>永夜</rb><rt>えいや</rt></ruby><ruby><rb>清宵</rb><rt>せいしょう</rt></ruby>何ノ<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>ゾと<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>たる調子で吟じた。時に、と、こんどはわたしが尋ねた、あなたは大阪のお方であればこのへんの地理や歴史にお<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいことと存じます、とすると、お伺いしたいのはいまわたしどもがこうしているこの洲のあたりにもむかしは江口の君のような遊女どもが舟を浮かべていたのではないでしょうか、この月に対してわたしの眼前にほうふつと現れてくるものは何よりもその女どものまぼろしなのです、わたしはさっきからそのまぼろしを追うこころを歌にしようとしていたのですけれどうまいぐあいに<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まらないので困っていたのです。されば、誰しも人のおもうところは似たようなものでござりますなとその男は感に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えたようにいって、いまわたくしもそれと同じようなことをかんがえておりました。わたくしもまたこの月を見まして過ぎ去った世のまぼろしをえがいていたのでござりますとしみじみとそういうのである。お見受け申すところあなたも御年輩のようですがとわたしはその男の顔をのぞきこみながらいった、おたがいにこれは年のせいですな、わたしなぞ、ことしは去年より、去年はおととしより、一年々々と、秋のさびしさというか、あじきなさというか、まあ一とくちにいえばどこからともなくおとずれてくるまったく理由のない季節の悲しみというようなものを感じることが強くなります、風のおとにぞおどろかれぬるといいすだれうごかし秋のかぜ吹くという、ああいう古歌のほんとうの味がわかってくるのはわれわれのとしになってからです、さればといってかなしいから秋はいやかというのにあながちそうでもありませぬ、若い時分には一年じゅうで春がいちばん好きでしたけれどもいまのわたしには春よりも秋のくるのが待たれます、人間はとしをとるにつれて、一種のあきらめ、自然の理法にしたがって滅んでゆくのをたのしむといった風な心境がひらけてきて、しずかな、平均のとれた生活を欲するようになるのですね、ですから花やかなけしきを眺めるよりも<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しい風物に接する方が慰められ現実の逸楽をむさぼるかわりに過去の逸楽の思い出にふけるのがちょうど相応するようになるのではありますまいか、つまり、往時をしたう心持は若い人には現在と何のかんけいもない空想にすぎませんけれども老人にとってはそれ以外に現在を生きてゆくみちがないわけです。いかにも、いかにも、仰っしゃるとおりでござりますとそのおとこはしきりにうなずいて、普通のお方でもお年をめすとそうなるのがあたりまえでござりましょうがわけてわたくしはまだおさない時分十五夜の晩に毎年父につれられて月下の路を二里も三里もあるかせられたおぼえがあるものでござりますからいまだに十五夜になりますとそのころのことがおもい出されるのでござります、そういえば父も今あなたさまが仰っしゃったようなことを申してお前にはこの秋の夜のかなしいことがわかるまいがいずれは分るときがくるぞとよくそんなふうに申したものでござりますという。はて、それはどういうわけなのです、あなたのお父上は十五夜の月がそんなにもお好きだったのですか、そうしてまたおさないあなたをつれて二里も三里ものみちをあるかれたというのは。さあ、はじめてつれて行かれましたときは七つか八つでござりましたからなにもわかりませなんだけれどもわたくしの父は<ruby><rb>路次</rb><rt>ろうじ</rt></ruby>のおくの小さな家に住んでおりまして母は二、三年まえに死去いたし親子二人ぎりでくらしておりましたのでわたくしをおいて出あるくことが出来なんだのでもござりましょう、なんでもわたくしは、坊よ、月見につれて行ってやろうといわれて明るいうちから家を出ましてまだ電車のない時分でござりましたから八軒屋から蒸汽船に乗ってこの川すじをさかのぼったことをおぼえております、そして<ruby><rb>伏見</rb><rt>ふしみ</rt></ruby>で船を上ったのでござりましたがはじめはそこが伏見の町だということも知りませなんだ、ただ父が堤のうえを何処までもあるいていきますのでだまってついてまいりましたらひろびろとした池のあるところへ出ました、いまかんがえるとそのとき歩かせられた堤というのは<ruby><rb>巨椋堤</rb><rt>おぐらづつみ</rt></ruby>なのでござりまして池は巨椋の池だったのでござります、それゆえあのみちのりは片道一里半か二里はござりましたでしょう。ですが、と、わたしは口をはさんでいった、なんのためにあんなところをあるいたのです、池水に月のうつるのをながめてあてもなしにぶらついたというわけなのですか。さればでござります、ときどき父はつつみのうえに立ちどまってじっと池のおもてをみつめて、坊よ、よいけしきであろうと申しますので子供ごころにもなるほどよいけしきだなあと思ってかんしんしながらついて参りますと、とある<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>の別荘のような<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>のまえを通りましたら琴や三味線や<ruby><rb>胡弓</rb><rt>こきゅう</rt></ruby>のおとが奥ぶかい木々のあいだから<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れてまいるのでござりました、父は門のところにたたずんでしばらく耳をすましておりましてやがて何を思いつきましたのかそのやしきの広い構えについて<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>のまわりをぐるぐる廻っていきますので、またわたくしもついていきますとだんだん琴や三味線のねいろがはっきりときこえてまいりほのかな人声などもいたしまして奥庭の方へ近づいていることが分るのでござりました、そして、もうその<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>は<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>が<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>になっておりましたので父は生垣のすこしまばらになっている<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から中をのぞいてどういうわけか身うごきもせずにそのままそこをはなれないものでござりますからわたくしも葉と葉のあいだへ顔をあててのぞいてみましたら<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>や<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>のあるたいそうな庭に泉水がたたえてありまして、その水の上へむかしの<ruby><rb>泉殿</rb><rt>いずみどの</rt></ruby>のようなふうに床を高くつくって<ruby><rb>欄杆</rb><rt>らんかん</rt></ruby>をめぐらした座敷がつき出ておりまして五、六人の男女が<ruby><rb>宴</rb><rt>うたげ</rt></ruby>をひらいておりました、欄杆の端にちかくいろいろとおもりものをした台が据えてありましてお<ruby><rb>神酒</rb><rt>みき</rt></ruby>や<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>がそなえてありすすきや<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>などが生けてありますのでお月見の宴会をしているらしいのでござりましたが、琴をひいているのは上座の方にいる女の人で三味線は<ruby><rb>島田</rb><rt>しまだ</rt></ruby>に結った<ruby><rb>腰元</rb><rt>こしもと</rt></ruby>風の女中がひいておりました、それから<ruby><rb>撿挍</rb><rt>けんぎょう</rt></ruby>か遊芸の師匠らしい男がいてそれが胡弓をひいております、わたくしどもの<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いておりますところからはその人たちの様子はしかとわかりかねましたけれどもちょうどこちらから正面のところに金<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>がかこってありましてやはり島田に結った若い女中がそのまえに立って舞い扇をひらひらさせながら舞っておりますのが顔だちまでは見えませぬけれどもしぐさはよく見えるのでござります、座敷の中にはまだその時分は電燈が来ていなかったものかそれとも<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>をそえるためにわざとそうしてありましたものか<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がともっていて、その穂が始終ちらちらしてみがきこんだ柱や<ruby><rb>欄杆</rb><rt>らんかん</rt></ruby>や金屏風にうつっております。泉水のおもてには月があかるく照っていまして<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>に一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>の舟がつないでありましたのは多分その泉水は<ruby><rb>巨椋</rb><rt>おぐら</rt></ruby>の池の水をみちびいたものなのでここからすぐに池の方へ舟で出られるようになっているのでござりましょう、で、ほどなく舞いが終りますと腰元どもがお<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を持って廻ったりしておりましたが、こちらから見たぐあいでは腰元どもの立ちいふるまいのうやうやしい様子からどうもその琴をひいた女が主人らしゅうござりましてほかの人たちはそのお相手をしているようなのでござりました。なにしろ今から四十何年の昔のことでござりましてそのころは京や大阪の旧家などでは<ruby><rb>上女中</rb><rt>かみじょちゅう</rt></ruby>には<ruby><rb>御守殿</rb><rt>ごしゅでん</rt></ruby>風の姿をさせ礼儀作法は申すまでもござりませぬが物好きな主人になりますと遊芸などをならわせたものでござりますから、このやしきもいずれそういう物持の別荘なのであの琴をひいた女はこの家の<ruby><rb>御寮人</rb><rt>ごりょうにん</rt></ruby>でござりましょう、しかしその人は座敷のいちばん奥の方にすわっておりまして<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>とすすきや萩のいけてあるかげのところに<ruby><rb>㒵</rb><rt>かお</rt></ruby>がかくれておりますのでわたくしどもの方からはその人柄が見えにくいのでござりました、父はどうかしてもっとよく見ようとしているらしく生垣に沿うてうろうろしながら場所をあっちこっち取りかえたりしましたけれどもどうしても生け花が邪魔になるような位置にあるのでござります、が、髪のかっこう、化粧の濃さ、着物の色あいなどから判じてまだそれほどの年の人とは思われないのでござりまして、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にその声のかんじが若うござりました、だいぶん隔たっておりましたから何を話しているのやら意味はきき取れませなんだがその人のこえばかりがきわだってよく<ruby><rb>徹</rb><rt>とお</rt></ruby>りまして、「そうかいなあ」とか「そうでっしゃろなあ」とか大阪言葉でいっている語尾だけが庭の方へこだましてまいりますので、はんなりとした、余情に富んだ、それでいてりんりんとひびきわたるようなこえでござりました、そしていくらか酔っているとみえましてあいまあいまにころころと笑いますのが花やかなうちに品があって無邪気にきこえます、「お父さん、あの人たちはお月見をして遊んでいるんですね」とそういってみますと「うん、そうらしいね」といって父はあいかわらずその垣根のところへ顔をつけております、「だけど、ここは誰の家なんでしょう、お父さんは知っているのですか」とわたくしはまたかさねてそういってみましたけれど今度は「ふむ」と申しましたきりすっかりそちらへ気を取られて熱心にのぞいているのでござります、それがいまから考えましてもよほど長い時間だったのでござりましてわたくしどもがそうしておりまするあいだに女中が<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>ろうそく</rt></ruby>のしんを<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>りに二度も三度も立っていきましたし、まだそのあとで舞いがもう一番ござりましたし、女あるじの人がひとりでうつくしいこえをはりあげて琴をひきながら<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>をうたうのをききました、それからやがて宴会がすんでその人たちが座敷を引きあげてしまうまで見ておりましてかえりみちにはまたとぼとぼと堤の上をあるかせられたのでござります、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もこういう風に申しますとそんなおさない時分のことを非常にくわしくおぼえているようでござりますがじつは先刻も申し上げましたようなしだいでそのとしだけのことではないのでござります、そのあくる年もそのあくる年も十五夜の晩にはきっとあの堤をあるかせられてあの池のほとりの<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の門前で立ちどまりますと琴や三味せんがきこえてまいります、すると父とわたくしとは塀を廻って生垣の方から庭をのぞくのでござります、座敷のありさまも毎年たいがい同じようでござりましていつもあの女あるじらしい人が芸人や腰元をあつめて月見の宴を催しながら興じているのでござりました、でござりますから最初のとしに見ましたこととその次々のとしに見ましたこととがややこしくなっておりますけれどもいつのとしでもだいたい<ruby><rb>只今</rb><rt>ただいま</rt></ruby>お話したようなふうだったのでござります。なるほど、と、わたしはいつかその男のものがたる追憶の世界へひき入れられながらいうのであった、それでいったいその邸というのは何だったのです、毎年お父上がそこへ出かけて行かれたのには何か理由があったのでしょうね。その理由でござりますかとその男はやや<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>してからいった、それをお話し申しましてもよろしゅうござりますけれども見ず知らずのあなたさまをこんなところにいつまでもお引きとめしておきまして御迷惑ではござりますまいか。でもそこまで伺ってあとを伺わないのでは心のこりです、そんな御遠慮にはおよびませぬというとありがとうござりますそれならお言葉にあまえまして聞いていただきますがといってさっきの<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>ひょうたん</rt></ruby>を取り出して心のこりと申せばここにまだこれだけござります、先ずそのまえにこれをかたづけてしまいましょうと盃をわたしに受けさせてまたあの、とく、とく、という音をさせるのである。

さてそのひょうたんの酒をきれいに<ruby><rb>湑</rb><rt>した</rt></ruby>んでしまってからその男は語りつぐのであった。父がそれをわたくしに話してくれましたのはまいとし十五夜の晩にその堤をあるきながら子供にこんなことをいってきかせても分るまいけれどもいまにお前も成人するときがくるのだからよく<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>のいったことをおぼえていてそのときになっておもい出してみてくれ、己もお前を子供だと思わずに<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>にきいてもらうつもりではなしをするとそういってそれをいうときはいつもたいへん<ruby><rb>真顔</rb><rt>まがお</rt></ruby>になって、どうかすると自分とおなじ年ごろの<ruby><rb>朋輩</rb><rt>ほうばい</rt></ruby>を相手にしているようなもののいいかたをするのでござりました。そんな場合父はあの別荘の女あるじのことを「あのお方」といったり「お<ruby><rb>遊様</rb><rt>ゆうさま</rt></ruby>」といったりしてお遊さまのことをわすれずにいておくれよ、己がこうして毎年おまえをつれてくるのはあのお方の様子をお前におぼえておいてもらいたいからだと涙ぐんだこえでいうのでござりました。わたくしはまだ父のいうことがじゅうぶんには<ruby><rb>会得</rb><rt>えとく</rt></ruby>できませなんだがそれでも子供は好奇心が強うござりますし父の熱心にうごかされて一生懸命に<ruby><rb>聴</rb><rt>き</rt></ruby>こう聴こうといたしましたのでこうなんとなく気分がつたわってまいりましておぼろげにわかったようなかんじがしたのでござります。で、そのお遊さまという人はもと大阪の<ruby><rb>小曾部</rb><rt>こそべ</rt></ruby>という家のむすめでござりましてそれが<ruby><rb>粥川</rb><rt>かゆかわ</rt></ruby>という家へ器量のぞみで<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>われて行きましたのが十七のとしだったそうにござります。ところが四、五年しましてから御亭主に死に別れまして二十二、三のとしにはもう<ruby><rb>若後家</rb><rt>わかごけ</rt></ruby>になっていたのでござります。もちろん今の時節ならばそんなとしから後家をたてとおす必要もござりませぬし世間もだまって捨てておくはずはござりませぬけれどもそのころは明治初年のことで旧幕時代の習慣が残っておりましたし、実家の方にも嫁入り先の粥川の方にもやかましい老人がいたということでござりますし、ことに亡くなった御亭主とのあいだに男の子が一人ありましたそうにござりますからなかなか再縁というようなことは許されなんだものとみえます。それにお遊さんは望まれて行ったくらいでござりますから<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうとめ</rt></ruby>にも御亭主にもたいへん大事にされまして実家にいましたときよりもずっと我がままにのんびりとくらしておりましたので後家になりましてからもときおり大勢の女中をつれて<ruby><rb>物見遊山</rb><rt>ものみゆさん</rt></ruby>に出かけていくという風でそういう<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>は自由に出来たのだそうにござりますからはたから見ればまことに気楽な境涯なのでござりまして、当人もその日その日の花やかな生活に<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れてかくべつ不平も感じなかったのでござりましょう。わたくしの父がはじめてお遊さんを見ましたときはお遊さんという人はそういう身の上の後家さんだったのでござります。そのとき父が二十八歳でわたくしなどの生れます前、独身時代でござりましてお遊さんが二十三だったと申します。なんでも夏の初めのことで父は妹の夫婦、わたくしの<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby><ruby><rb>叔母</rb><rt>おば</rt></ruby>にあたります人と<ruby><rb>道頓堀</rb><rt>どうとんぼり</rt></ruby>の芝居に行っておりましたらお遊さんがちょうど父のまうしろの<ruby><rb>桟敷</rb><rt>さじき</rt></ruby>に来ておりました。お遊さんは十六、七ぐらいのお嬢さんと二人づれで外に<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>か女中<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>といったような老女が一人と若い女中が二人つき添っておりましてその三人がお遊さんのうしろから代る代る<ruby><rb>扇子</rb><rt>せんす</rt></ruby>であおいでおりました。父は叔母がお遊さんに<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をしましたのであれはというと粥川の後家さんだという話で、つれのお嬢さんはお遊さんの実の妹、小曾部の娘だったのでござります。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>はその日、最初にひとめ見たときから好もしい人だと思ったと父はよくそう申しましたがいったいその時分は男でも女でも婚期が早うござりましたのに父が総領でありながら二十八にもなって独身でおりましたのはえりこのみがはげしゅうござりまして降るようにあった縁談をみんなことわってしまったからなのでござりました。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も父もお茶屋遊びはいたしましたそうにござりましてその方面に<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>みの女がないことはござりませなんだけれどもさて女房にするとなるとそういう女ではいやなのでござりました。と申しますのは父には大名趣味と申しますか御殿風と申しますかまあそういったふうな好みがござりまして、いきな女よりも品のよい<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>型の人、<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を着せて、<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>のかげにでもすわらせて、『源氏』でも読ませておいたらば似つかわしいだろうというような人がすきなのでござりましたから芸者では気に入るはずがないのでござります。それにしましても父がどういうところからそんなふうな趣味になりましたものか町人にそぐわないようでござりますけれども、大阪も<ruby><rb>船場</rb><rt>せんば</rt></ruby>あたりの家になりますと奉公人の礼儀作法がめんどうでござりましていろいろ格式をおもんじるふうがござりましたので小さな大名などよりも貴族的なところがあったくらいでござりますから大方父もそういう家庭にそだったせいでござりましょう。とにかく父はお遊さんを見ましたときひごろ自分のおもっていたような人柄の人だとかんじたのでござります。なぜそうかんじましたものか分りませぬがすぐまうしろにいたのだそうにござりますから女中どもにものをいうときの口のききかた、そのほかの態度やものごしなどがいかにも大家の<ruby><rb>御寮人</rb><rt>ごりょうにん</rt></ruby>らしくおうようだったのかも知れませぬ。お遊さんという人は、写真を見ますとゆたかな<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>をしておりまして、童顔という方の<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>いかおだちでござりますが、父にいわせますと目鼻だちだけならこのくらいの美人は少くないけれども、おゆうさまの顔には何かこうぼうっと<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>っているようなものがある、<ruby><rb>㒵</rb><rt>かお</rt></ruby>の造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない、じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>って来るようでその人の身のまわりにだけ<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>がたなびいているようにおもえる、むかしのものの本に「<ruby><rb>蘭</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけた」という言葉があるのはつまりこういう顔のことだ、おゆうさまのねうちはそこにあるのだというのでござりましてなるほどそう思ってみればそう見えるのでござります。大体そういう童顔の人は所帯やつれさえしなければわりあいに若々しさを失わないものでござりますがお遊さんは十六、七の時から四十六、七になりますまで少しも輪郭に変りがなくていつみても娘々したういういしいかおをしていた人だと叔母なども始終そう申しておりました。でござりますから父はその、お遊さんのぼうっとした、いわゆる「<ruby><rb>蘭</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけた」ところに一と眼でこころをひかれたのでござりまして父の趣味をあたまにおいてお遊さんの写真を見ますとなるほどこれなら父が<ruby><rb>好</rb><rt>す</rt></ruby>いたであろうということが分ってまいるのでござります。つまり一と口に申しますなら、古い<ruby><rb>泉蔵</rb><rt>いずくら</rt></ruby>人形の顔をながめておりますときに浮かんでまいりますような、晴れやかでありながら古典のにおいのするかんじ、おくぶかい雲上の女房だとかお<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>だとかいうものをおもい出させるあれなのでござります。あの<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いが<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かお遊さんの<ruby><rb>㒵</rb><rt>かお</rt></ruby>のなかに立ち迷っているのでござります。わたくしの叔母、いま申しました父の妹は、このお遊さんの幼な友達でござりまして娘時代には同じ琴の師匠のところへかよっていたものでござりますから、おいたちのことだの家庭のことだの<ruby><rb>輿入</rb><rt>こしい</rt></ruby>れのときのことだのいろいろと事情を知っておりましたのでそのとき父に話したのでござりますが、お遊さんにはきょうだいが大勢ありまして芝居へ連れてきておりました妹のほかにまだ姉さんも妹もありましたけれども中でもお遊さんがいちばん両親に可愛がられていてどんなわがままでもお遊さんなら許されるという風でとくべつあつかいにされていたそうにござります。それはお遊さんがきょうだいじゅうでの美人でござりましたからそれもあったかも知れませぬけれども、ほかのきょうだいたちもお遊さんだけは別物のようにかんがえておりまして誰もそうするのがあたりまえだと思っているというようなふうであったと申します。おばの言葉を借りますなら「お遊さんという人は徳な人だった」と申しますので自分の方からそうしてほしいというわけでもなくまた威張ったり他人をおしのけたりするのでもござりませぬが、まわりの者がかえっていたわるようにしましてその人にだけはいささかの苦労もさせまいとして、お姫さまのように大切にかしずいてそうっとしておく。自分たちが身代りになってもその人には浮世の波風をあてまいとする。おゆうさんは、親でも、きょうだいでも、友だちでも、自分のそばへ来る者をみんなそういう風にさせてしまう人柄だったのでござります。叔母なども娘のころにお遊さんのところへあそびにまいりますとお遊さんは小曾部の家のたからものといったあんばいで身のまわりのどんなこまかい用事にでも自分が手をくだしたことはなくほかの姉さんや妹たちが腰元のように世話をやくことなどがござりましたけれどもそれがすこしも不自然でなくそういうようにされているお遊さんがたいへんあどけなくみえたそうにござります。父はおばからそんな話をききまして一層お遊さんがすきになりましたがそののちはついぞよいおりもなくてすごしますうちあるときお遊さんが琴のおさらいに出るという<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>を叔母がききつたえてまいりましてお遊さんをみたければわたしが一緒に行ってあげるからと父を誘ったのでござりました。そのおさらいの日にお遊さんは髪をおすべらかしにして<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を着て<ruby><rb>香</rb><rt>こう</rt></ruby>をたいて「<ruby><rb>熊野</rb><rt>ゆや</rt></ruby>」を<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>きました。さようでござります、いまでも許しものを弾きますときには特にそういう儀式張ったことをする習慣があるのでござりましてずいぶんそのためには<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>な費用をかけるものなので金のあるお<ruby><rb>弟子</rb><rt>でし</rt></ruby>には師匠がそれをやらせたがるのでござりますが、お遊さんもたいくつしのぎに琴のけいこをしておりまして師匠からすすめられたのでござりましょう。ところでお遊さんのこえのよいことは前にも申しましたようにわたくし自身も聞いたことがござりましてよく存じておりますのでその人柄を知ってそのこえをおもうと今更のように<ruby><rb>奥床</rb><rt>おくゆか</rt></ruby>しさをおぼえるのでござりますが父はそのときにはじめてお遊さんの<ruby><rb>琴唄</rb><rt>ことうた</rt></ruby>をきいて非常にかんどうしたのでござります。そのうえおもいもかけず裲襠すがたのお遊さんを見たのでござりますからかねがねゆめにあこがれていたまぼろしが事実になったのでござりましてさだめし父は自分の眼をうたがったほどにおどろきもしよろこびもしたでござりましょう。なんでも叔母がその琴唄のすんだあとで楽屋へ会いにいきましたらまだ裲襠を着たままできょうのおさらいは琴はどうでもよいのだけれどもいっぺんどうしてもこういう姿がしてみたかったのだといってなかなか裲襠をぬぎたがらないでこれから写真をうつすのだなどといっていたそうにござります。父はまたその話をききましてお遊さんの趣味がたまたま自分と一致していることを知ったのでござりました。そういうわけで父は自分の妻にすべき人はお遊さんをおいて外にはないとおもったのでござりまして自分が長いあいだ胸にえがきつつ待っていた人はお遊さんであったことをかんじたのでござりましてその望みをそれとなく叔母に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしてみたのでござりましたが叔母は先方の事情がよく分っていたものでござりますから父のこころもちに同情はしてくれましたけれどもとうていそんなことはだめだからというのでござりました。叔母の申しますのには子供でもなければなんとか話の持っていきようもあるけれどもお遊さんにはこれから養育していかなければならない<ruby><rb>頑是</rb><rt>がんぜ</rt></ruby>ない子供がある。それも大事な<ruby><rb>世忰</rb><rt>よせがれ</rt></ruby>であってみればその<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>をすてて粥川の家を出られそうなわけがない、のみならず姑さんもあれば、実家の方でも母親は亡くなっていましたが父親はまだ達者でいる、そういう老人たちがお遊さんをああいう風に気随にさせておくのは若後家という境遇をきのどくにおもってできるだけさびしさをわすれるようにさせようという<ruby><rb>慈</rb><rt>いつく</rt></ruby>しみから出ているので、その代りには一生<ruby><rb>操</rb><rt>みさお</rt></ruby>を立て通しておくれよという意味がこもっているのだしお遊さんもそれは承知であれだけ<ruby><rb>栄耀栄華</rb><rt>えいようえいが</rt></ruby>をしても不品行なうわさはきいたこともないので、当人も二度と縁づくりょうけんはないにきまっているというのでござります。父はそれでもあきらめかねてそういうわけなら嫁にもらおうといわないから叔母が仲に立ってときどき会えるように<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>らってくれ、自分はせめて<ruby><rb>㒵</rb><rt>かお</rt></ruby>を見るだけでもまんぞくするというのでござりました。叔母はちちがそんなにまで申しますのをそれもきかないとはいいかねたのでござりますがしかしお遊さんと親しくしておりましたのはお互に娘時分のことでもうそのころは疎遠になっておりましたのでござりますから、ちょっとそれもむずかしい<ruby><rb>註文</rb><rt>ちゅうもん</rt></ruby>なのでござりました。でまあおばもいろいろ考えまして、ではいっそお遊さんの妹をもらったらどうです、どうせ外の人をもらう気がないのだったら妹でがまんおしなさい、お遊さんはのぞみがないけれども妹でよかったら随分はなしになるだろうからと、そういい出したのでござります。その妹といいますのはお遊さんが芝居へつれてきておりました「おしず」という娘のことなのでござりましてそのうえの妹はもうよそへかたづいておりましてお静さんがちょうど年頃になっておりました。父は芝居のときに見ておりますから顔をおぼえていたわけでござりまして叔母にそういわれましたときによほどかんがえたらしいのでござります。と申しますのはおしずさんも美人でないことはない、お遊さんとは顔だちが違っていたのでござりますけれどもやはりきょうだいでござりますから何処かにお遊さんをしのばせるようなところはある、しかし何よりも不満なのはお遊さんの<ruby><rb>㒵</rb><rt>かお</rt></ruby>にあるあの「<ruby><rb>蘭</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけた感じ」がない、お遊さんよりずっと位が劣って見える、おしずさんだけを見ていればそうでもござりませぬけれどもお遊さんとならべましたらお姫さまと腰元ほどのちがいがある、それゆえもしおしずさんがお遊さんの妹でなかったら問題にならなんだかも知れませぬがお遊さんの妹であるゆえにお遊さんとおなじ血がその体の中にかよっておりますゆえに父はおしずさんも好きだったのでござります。が、さればといっておしずさんでがまんするというところまでは容易にけっしんがつかないのでござりました。それはそういうつもりで<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったのでは第一おしずさんにすまなくもある、それにまた父はお遊さんに対してどこまでも純なあこがれを持ちつづけたい、一生お遊さんというものをひそかに心の妻としておきたいというような意地がござりまして妹にもせよ外の人を女房にしましては、その、自分の心持がおさまらないのでござります。けれどもまたかんがえてみますと妹を嫁にもらいましたらこれからたびたびお遊さんに会うこともでき言葉をかわすこともできるのでござりますがそうでなかったらこののち一生涯のあいだ偶然にめぐまれるよりほかにはめったに顔を見ることもできないわけでござりましてそれを思いますときゅうにたまらなく<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しくなるのでござりました。父はそんなふうに迷いぬきまして結局おしずさんと見合いをするまでに運んだのでござりましたが、正直のところまだその時分までほんとうにおしずさんを<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>うという意志はなかったのでござりましてそれよりもじつは見合いにかこつけて一遍でも余計おゆうさんに会いたかったのでござります。父のこのおもわくは<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>くあたりましてお遊さんは見合いとか打ち合わせとかのたびごとに出て参りました。小曾部の家には母親がおりませなんだし、そこへ持ってきてお遊さんがひまな体でござりましたからおしずさんは月のうち半分ぐらいは粥川の方へとまりに行っているというようなぐあいでどっちの家の娘だか分らないようにしておりましたので自然お遊さんの出る幕が多かったのでござりますがそれが父にはねがってもない仕合わせだったのでござります。父はもともと目的がそこにあったのでござりますからなるべく話を引っぱっておくようにしまして二度も三度も見合いをして半年ばかりぐずぐずにしておきましたのでそんなことからお遊さんも叔母のところへ足しげく来るようになりました。そのあいだには父とも話をするようなことがござりましてだんだん父というものがわかってまいったのでござります。するとある日のことお遊さんは父にむかって、あなたはお静がおきらいですかと尋ねるのでござりました。父がきらいではありませんといいましたらそれならどうぞ貰ってやって下さいましといってしきりに妹との縁組みをすすめるのでござりましたが叔母に向ってはもっとはっきりと自分はきょうだいじゅうであの<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>といちばん仲<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くしているからどうかあの児を<ruby><rb>芹橋</rb><rt>せりはし</rt></ruby>さんのような人と添わしてやりたい、ああいう人を弟に持ったら自分も<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいということを申したそうにござります。父の決心がきまりましたのはまったくこのお遊さんの言葉がありましたためでござりましてそれから間もなくおしずの<ruby><rb>輿入</rb><rt>こしい</rt></ruby>れがござりました。さようでござります、でござりますからおしずは<ruby><rb>私</rb><rt>わたくし</rt></ruby>の母、お遊さんは伯母になるわけでござりますけれどもそれがそう簡単ではないのでござります。父はお遊さんの言葉をどういう意味に取りましたのか分りませぬがおしずは婚礼の晩にわたしは姉さんのこころを察してここへお嫁に来たのです、だからあなたに身をまかせては姉さんにすまない、わたしは一生涯うわべだけの妻で結構ですから姉さんを仕合わせにして上げて下さいとそういって泣くのでござりました。

ちちはおしずのおもいがけない言葉をききましてゆめのようなここちがしたのでござります。と申しますのは自分こそお遊さんをひそかにしたっておりましたけれどもお遊さんにそのいちねんがとどいていようとは思ってもおりませなんだし、まして自分がお遊さんから<ruby><rb>慕</rb><rt>した</rt></ruby>われていようなどとは考えたこともなかったからでござります。それにしてもそなたはどうして姉さんのむねのうちを知っていなさる、そういうのには何かしょうこがあっての上でなければならぬが姉さんがそういうことを<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしたことがあるとでもいうのかと泣いているのを問いつめましたら、そのようなことを口へ出していうはずもなし聞くはずもありませぬけれども<ruby><rb>私</rb><rt>わたし</rt></ruby>にはよくわかっておりますと申すのでござりました。おしずが、わたくしの母が、まだ世馴れないむすめの身としてそれをかんづいておりましたというのは不思議のようでござりますがのちに知れたところを申しますと初め小曾部の人たちはこのえんだんは年がちがいすぎるからと申してことわることにきめておりましてお遊さんも皆がそういう意見ならばといっていたのでござりましたが、それから或る日おしずがあそびに行きましたらわたしはこんなよい縁はないと思っているけれども自分がもらう<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>でもないのにみんながああいっているものをぜひにという訳にもいかない、いやでさえなかったら静さんの口から行かしてほしいということをいい出してみたらどうかしらん、そうしたらわたしもあいだをとりなして巧くまとめてみせるけれどもとそういいますので自分にはさだまったかんがえもござりませなんだのでそれほど姉さんが気に入っているのだったら悪いはずはありますまい、わたしは姉さんがよいということならその通りにしますといいますとそういってくれるのはうれしいといって、十一、二の年ちがいなら世間には例のあることだし、それに何よりもあの人はわたしと話が合うような気がする、きょうだいたちがお嫁にいくとだんだん他人になってしまうのでしずさんだけは誰にも取られたくないのだけれどもあの人ならば取られたという気がしないできょうだいが一人ふえたようなこころもちになれるであろう、こういうと自分の都合であの人を押しつけるようだけれどもわたしによい人なら静さんにもよいにちがいないから姉に孝行をするとおもってここはいうことをきいておくれ、わたしのきらいな人のところへ行かれたのでは遊び相手がないようになってこれからさき淋しくてしようがないからというのでござりました。まえにも申しましたようにつねづねみんなからいとしがられて<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>を我が儘とかんじないように育った人でござりますから仲よくしている妹にあまえただけのことだったのでござりましょうがそのときおしずはお遊さんのそぶりのなかに何かしらいつもの甘えかたとちがったものがあるのを<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>てとりました。身勝手なことや無理をいうほど余計様子が可愛くみえるのでござりましたが大方そのときはあどけない中にも一種の熱がこもっていたのでござりましょうか。お遊さんじしんはそんなつもりではなかったとしてもお静にそれがわかったのではござりますまいか。うちきな女というものは黙っていながら気がまわるものでござりますがお静がやはりそうだったのでござりましてきっとそのほかにも思いあたるふしぶしがあったのでござりましょう。そういえばお遊さんはちちと懇意になりましてからきゅうに顔のいろつやなどもいきいきとしてまいりお静を相手に父のうわさをしますのをこのうえもないたのしみにしている風があったと申します。父はおしずにそれはそなたの思いすごしというものだからと、とどろく胸のうちをさとられまいとして心外な態度をよそおいながらえんあって夫婦になったうえは不足なところもあろうけれども何もやくそくごとだと思ってくれぬか、そなたの姉様孝行はけっこうなことにちがいないが自分のひとりがてんから筋道の通らぬ義理をたててわたしにつれないしうちをしては姉さんの本意にもそむくことになろう、よもや姉さんはそんなことを望んでいなさるはずがないからそれをきいたらきっとめいわくしなさるだろうといいますとしかしあんさんがわたしをおもらいなされたのは私のあねときょうだいになりたかったからでござりましょう、姉はあんさんの妹さんからそんなはなしをきいておりましたので私もしょうちしておりました、あんさんはずいぶん今日までよいえんだんがありながらどれもお気にめさなんだとやらではござりませぬか、そんなにむずかしいお方がわたしのようなふつつかなものを貰ってくださいましたのはあの姉があるゆえでござりましょうといいますので父はこたえることばがなくさしうつむいてしまいましたら、そのいつわりのないお胸の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>をひとこと姉につたえましたらどんなによろこぶかとおもいますけれどもそうしてしまってはかえってお互にえんりょが出るでござりましょうから今はなにも申しませぬがわたしにだけはどうかお隠しなされますな、それこそお恨みにぞんじますといいますので、なるほど、そなたにそれほどの思いやりがあって来てくれたのだとは知らなんだ、そのこころづくしは一生わすれますまいと父もなみだをながしながらそれにしてもわたしはあの人をきょうだいとばかりおもうようにしているのだし、そなたがなんとしてくれたところでそう思うよりどうもなりようはないのだからなまじ義理だてをしてくれるとあの人もわたしもそれだけ苦しまなければならない、そなたとしては面白くないこともあろうが、わたしというものがよくよく嫌いでないのだったらこれも姉さんへの孝行だとおもってそんな水くさいことをいわずに夫婦になってくれまいか、そしてあの人はわたしたち二人の姉さんとして敬っていくようにしようではないかといいますとなんのあんさんを嫌っているの面白くないのとそんな<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないことがござりましょう、わたしはむかしから姉さんしだいでござりますから姉さんに気に入っているあんさんなら私かて好きでござります、けれども姉さんの思っている人を<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>にしてはすまない訳でござりますから本来ならば<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へまいるのではござりませなんだが、そうかといって私がまいりませなんだら世間のてまえかえって仲が<ruby><rb>堰</rb><rt>せ</rt></ruby>かれるようになるとおもってわたしこそあんさんの妹にしてもらうつもりで嫁入りしましたといいますので、そんならそなたは姉さんのために一生を<ruby><rb>埋</rb><rt>うも</rt></ruby>れ<ruby><rb>木</rb><rt>ぎ</rt></ruby>にしてしまいなさるのか、妹にそんなことをさせてよろこぶような姉さんでもあるまいに折角きよいこころの人をけがすようなものではないかといいましたら、そういう風にお取りなされてはこまります、わたしも姉さんのきよい心を心としたいのでござります、姉さんが亡くなった兄さんに操をたてていくのなら私だって姉さんのために操をたててみせましょう、わたしばかりが一生を埋れ木にするのではござりませぬ、姉さんにしてもおなじことではござりませぬか、あんさんは御存じないかも知れませぬがあの姉さんは気だても器量もとりわけ人にかわいがられる生れつきで一家じゅうが大名の児を預かってでもいるようにみんな気をそろえてあの人ばかりをかばうようにしておりましたのにその姉さんがあんさんというものがありながらままならぬ<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>にしばられていると分ってみれば私がそれを横取りしては<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>があたるでござりましょう、姉さんにきこえたらさだめし飛んでもないことといわれましょうからあんさんだけがふくんでいてくださりませ、人に知ってもらえようともらえまいとわたしは自分の気のすむようにいたします、姉さんのようにしょうとく福運のそなわった人がどうにもならない世の中なら私などはもののかずでもござりませぬからせめてすこしでも姉さんをしあわせにして上げたいと最初からその覚悟をしてここへ貰われてまいりました、それゆえあんさんもその気になって人の見ているところでは夫婦のようにふるまっても内実は操をまもってくださりませ、そのしんぼうが勤まらぬようなら私のおもっている半分もねえさんをおもっていないのですとそういうものでござりますからこのおんながあの人のためにこうまで身を捨ててかかっているものを男の<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>が負けてなるものかと父もいちずに思いつめまして、いや、ありがとう、よくいってくれた、あの人が後家をとおすなら私もやもめをとおしたいのが実はほんしんだったのだ、ただそなたまでも尼も同様にさせてしまってはきのどくと思うばかりにさっきのようにいったのだけれどもその神のようなこころを聞いては礼をのべることばもない、そなたがそれほどの決心ならわたしとてなんのいぞんがあろう、無慈悲のようだが正直のところはその方がわたしも<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいのだ、あたりまえならそう願いますといえた義理ではないけれども何もいわずにせっかくの親切にすがらせてもらいましょうとお静の手をとっておしいただいてとうとうその晩はまんじりともせずに語りあかしたのでござりました。

でござりますから父とおしずとはけんか一つしたことのない<ruby><rb>睦</rb><rt>むつま</rt></ruby>じい夫婦のように人目にはみえておりましたが実はふうふのまじわりをしなかったのでござりまして二人がそんなやくそくまでしてぎりを立てていてくれるとはお遊さんも知らなんだのでござります。お遊さんは二人の仲のよい様子をみてやっぱりわたしのいう通りにしてよかったと親きょうだいにも自慢してあるいてもうそれからは毎日のように両方からいったりきたりしまして芝居へいくにも<ruby><rb>遊山</rb><rt>ゆさん</rt></ruby>にいくにもかならず芹橋の夫婦がいっしょでござりました。三人はよくさそい合って一と晩どまりか二たばんどまりの旅に出たそうにござりますがそういうおりにはお遊さんと夫婦とが一つざしきに<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>をならべてねむりましたのでそれがだんだんくせになりまして旅でないときでもお遊さんが夫婦を引きとめましたり夫婦の方へ引きとめられたりするようなことがござりました。ちちがのちのちまでなつかしそうに話しましたのにはお遊さんはいつも寝るときにしずさん足をあたためておくれといってお静を自分の寝床の中へひき入れるのでござりまして、それはお遊さんが足が冷えてねむられないのにおしずはとくべつに体がぬくうござりましたのでお遊さんのあしをあたためるのはお静の役ときまっていたのでござりましたがお嫁に行ってしまわれてからは静さんの代りに女中にやらせているけれどもどうも静さんのようにはいかない、むかしから<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>がついているせいか<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>や湯たんぽばかりではたよりないといいますとそんなえんりょをしてくれないでもようござります、むかしのようにしてあげるつもりで泊まりに来ましたといってお静はいそいそとお遊さんの中へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行ってお遊さんが寝ついてしまうかもうよいというまで添い寝をするのでござります。そのほかお遊さんのお姫さまらしい話はいろいろきいておりますが身のまわりのせわをする女中が三、四人はついておりまして<ruby><rb>手水</rb><rt>ちょうず</rt></ruby>をつかうにも一人が<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>で水をかけると一人が<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐ</rt></ruby>いを持って待っている、お遊さんは水にぬれた両方の手をそのままさし出しさえすれば手ぬぐいを持っている方の女がきれいに<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてあげるという風で<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>一つはくのにも<ruby><rb>風呂場</rb><rt>ふろば</rt></ruby>でからだを洗うのにもほとんど自分の手というものは使わないのでござりました。さあ、それが、その頃のこととしましても町人の生れとしてぜいたくすぎるようでござりますが粥川へ嫁入りしますときにもこのむすめはこういうぐあいに育てたのだから今となってその習慣をあらためさせるわけにはいかない、それほど<ruby><rb>御執心</rb><rt>ごしゅうしん</rt></ruby>ならばこれまで通りにさせてやって下さいますかと父親が念をおしましたくらいで御亭主や子供がありましても娘時代のおおどかな気風はいっこうかわりはなかったそうにござります。だからお遊さんのところへいくとまるでお<ruby><rb>局</rb><rt>つぼね</rt></ruby>さまのお部屋へでも行ったような気がしたものだと父はよくそう申しました。ぜんたい父がそういう趣味でござりましたからなおそうかんじたのでござりましょうがお遊さんの部屋の中にある調度類というものは、みな御殿風か<ruby><rb>有職模様</rb><rt>ゆうそくもよう</rt></ruby>の品ばかりで手拭いかけからおまるのようなものにまで<ruby><rb>蝋塗</rb><rt>ろうぬ</rt></ruby>りに<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>がしてあったと申します。そして次の間との<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>ざかいに<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>がわりの<ruby><rb>衣桁</rb><rt>いこう</rt></ruby>がたててありましてそれへ日によっていろいろな<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>がかけてある、お遊さんはその奥の方に上段の間こそありませぬけれども<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>にもたれてすわっている、ひまなときには<ruby><rb>伏籠</rb><rt>ふせご</rt></ruby>をおいて着物に<ruby><rb>伽羅</rb><rt>きゃら</rt></ruby>をたきしめたり腰元たちと香を聴いたり<ruby><rb>投扇興</rb><rt>とうせんきょう</rt></ruby>をしたり<ruby><rb>碁盤</rb><rt>ごばん</rt></ruby>をかこんだりしている、お遊さんのはあそびの中にも風流がなければあきませぬので、碁は<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>ではなかったのでござりますが秋くさの時代蒔絵のある盤が気に入っておりましてそれをやくにたてたいばかりに五もくならべなぞをしている、三度の食事には<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>道具のような<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>にむかってぬりものの<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>で御飯をたべる、のどがかわけば小間使いが<ruby><rb>天目台</rb><rt>てんもくだい</rt></ruby>をすりあしでささげてまいりたばこがほしければ一ぷく一ぷくそばから長い<ruby><rb>煙管</rb><rt>キセル</rt></ruby>につめて火をつけて出す、夜は<ruby><rb>光琳</rb><rt>こうりん</rt></ruby>風の<ruby><rb>枕屏風</rb><rt>まくらびょうぶ</rt></ruby>のかげでねむり寒いときは朝めをさますと座敷のなかへ<ruby><rb>油団</rb><rt>ゆとん</rt></ruby>をしいてゆみずを幾度にもはこばせて<ruby><rb>半挿</rb><rt>はんぞう</rt></ruby>や<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>で顔をあらう。ばんじがそういう風でござりますから何処へいくにもたいそうになりまして旅へ出ましたら女中がかならず一人はついてまいりましてあとはお静がなにやかやと世話をいたし父までが手つだいをして荷物をもつ役、着物をきせる役、あんまをする役とめいめいが一と役うけもってふじゆうなめをさせないようにいたしました。さようでござります、子供はその時分おいおい<ruby><rb>乳</rb><rt>ち</rt></ruby>ばなれておりましたしばあやもついておりましたのでめったにつれてあるくことなどはござりませなんだ。しかしあるとき吉野へ花見にまいりましたせつに晩にやどやへつきましてからお遊さんが乳が張ってきたといっておしずに乳をすわせたことがござりました。そのとき父が見ておりまして上手にすうといって笑いましたらわたしは姉さんの乳をすうのは<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れています。姉さんは<ruby><rb>一</rb><rt>はじめ</rt></ruby>さんを生んだときから子供にはばあやの乳があるので静さん吸っておくれといっておりおり私に乳をすわせていましたと申しますのでどんなあじがするといいましたら<ruby><rb>嬰子</rb><rt>ややこ</rt></ruby>のときのことはおぼえていないけれどもいま飲んでみるとふしぎな甘いあじがします、あんさんも飲んでごらんといってちちくびからしたたりおちているのを<ruby><rb>茶碗</rb><rt>ちゃわん</rt></ruby>で受けてさし出しますから父はちょっとなめてみてなるほどあまいねといって何げないていに取りつくろっていましたけれどもお静がなんの意味もなく飲ませたものとばかりには思われませなんだので<ruby><rb>自</rb><rt>おの</rt></ruby>ずと<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>があからんでまいりまして、その場にいづらくなりまして口の中が変だ変だといいながら廊下へ立っていきましたらお遊さんはおもしろそうにころころわらうのでござりました。で、そんなことがござりましてからおしずは父が当惑したりうろたえたりするのを興がるようになりましたものかわざといろいろないたずらをいたしました。ひるまはとかく人目が多うござりまして三人ぎりになるような場合は始終はござりませなんだがたまにそういうことがござりますとふと席をはずして二人をながいあいださしむかいにしておきまして父がむずむずし出した時分にひょっこりもどってまいります。ならぶときにはいつでも父をとなりへすわらせます。そうかとおもうとかるた遊びや勝負ごとの時などはなるべく父がお遊さんの正面の敵になるようにいたします。お遊さんが帯をしめてほしいといえば男のちからでなければといって父にやらせあたらしい足袋をはかせるときはこはぜがかたいからといって父の手をかりそのつど父がはずかしがったりこまったりするのをながめているのでござりました。それは見たところ無邪気ないたずらでござりまして皮肉やいじわるでないことはよくわかっておりましたけれどもひょっとするとおしずにしましたならばこういう風にでもしたら二人のあいだのえんりょが取れるようになろう、そうするうちにはもののはずみでお互の胸のおもいがかよい心と心とが触れあうおりもあるであろうという親切がこもっていたのかも知れませぬので何かおしずは二人のあいだにそういうはずみが起りますのを、ふたりがひょんな間違いでもしでかしますのを祈っているようにもみえたのでござります。

が、ふたりはそののちなにごともなく過していたのでござりましたが或る日おしずとお遊さんとのあいだに出来事があったらしいのでござります。父はそれを知らずにいましてお遊さんにあいましたら父を見るなり顔をそむけてなみだをかくしましたのでめったにないことでござりますから何かあったのかとおしずにききましたら姉さんはもう知っていますというのでござりました。それにしましても話さなければならないような羽目になってわたしがしゃべってしまいましたというだけでどんないきがかりからそうなったのやら委しいいきさつを申しませぬので父にもおしずのしたことは<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬところがあったのでござります。たぶんおしずはもう打ちあけてもよい時機が来た、夫婦が夫婦でないことがわかったら姉も一往はふこころえをさとすであろうがいまとなってはとうわくしながらも妹たちのなさけにほだされてしまうであろうと<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>てとりまして何かのおりにかおいろをうかがいながら話をそこへ持って行ったのではござりますまいか。そういう風におしずはとかく<ruby><rb>粋</rb><rt>すい</rt></ruby>をきかせて先ばしりをするくせがあるのでござりまして元来が苦労性なのでござりましょうか若い時分から取りもちの上手な<ruby><rb>老妓</rb><rt>ろうぎ</rt></ruby>のようなところがあったのでござりますが考えてみればお遊さんに身も心もささげるために生れて来たような女でござりましてわたしは姉さんの世話をやかせてもらうのがこの世の中でいちばんたのしい、どうしてそういう気になるのだか姉さんの<ruby><rb>㒵</rb><rt>かお</rt></ruby>を見ると自分のことなどはわすれてしまうというのでござりました。何にいたせおせっかいといえばいえなくもござりませぬがそれがみんな<ruby><rb>欲得</rb><rt>よくとく</rt></ruby>をすてた姉おもいから出ていることがわかってみればお遊さんも父もありがたなみだにくれるよりほかはござりませなんだ。お遊さんは初めはひじょうにびっくりしまして私はそんな罪をつくっていたとは知らなんだ、静さんたちにそんなにされては<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>がおそろしいといって身もだえして、でもそれならば取りかえしのつくことだからどうかこれからはほんとうの夫婦になるようにといいましたけれども何もこのことは姉さんに頼まれたわけではない、<ruby><rb>慎之助</rb><rt>しんのすけ</rt></ruby>にしてもわたしにしても自分たちが好きでしていることだからこののちどうなるとも姉さんは気にかけないで下さい、ついこんなことをいいましたのが悪うござりました、何も聞かなんだ前とおもって下さったらようござりますといって取り合いませなんだのでそれからしばらくお遊さんは夫婦といきかよいすることをひかえる様子がみえましたのでござりますが、三人の仲のよいことは親類じゅうに知れわたっておりましたから<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>のたつようなことはできませぬのでそうこうするうちにまた両方から近づいてしまいましてけっきょくお静のはからったことが<ruby><rb>味善</rb><rt>あんじょ</rt></ruby>う行ったのでござりました。さようでござります、それはたしかに、お遊さんの心のおくへ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってみましたら自分で自分にゆいまわしていた<ruby><rb>埓</rb><rt>らち</rt></ruby>が<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れてしまったような気持のゆるみができまして妹の<ruby><rb>心中</rb><rt>しんじゅう</rt></ruby>だてを憎もうとしても憎めなんだのでござりましょう。それからのちのお遊さんはやはり持ちまえのおうような性質をあらわしてなにごとも妹夫婦のしてくれるようにされている、夫婦のはからいに打ちまかしてこころづくしを知ってか知らずかそのままに受け入れるようなぐあいになっていきました。父がおゆうさんのことをお遊さまと呼ぶようになりましたのはその頃からでござりましてはじめはお静とのあいだでお遊さんのうわさをしますときにもうあんさんはあの人のことを姉さんというのはおよしなさいと申しますのでさまをつけて呼びますのがいちばん人柄にはまっているように思われてそう呼んだのでござりましたがいつかそれが口ぐせになりましておゆうさんの前で出てしまいましたらその呼びかたが気に入って二人のときはそう呼ぶのがよいというのでござりました。そしていいますのにはみんながわたしをたいせつにしてくれるのはありがたいが私はそれをあたりまえにおもうように育てられてきていることを承知でいてもらいたい、いつでも人がたいそうらしく扱ってくれたら機嫌がよいというのでござります。お遊さんのいかにも子供らしい<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>がままの例を申しましょうならあるとき父にもうよいというまで息をこらえていてほしいといって手を父の鼻のあなの前にかざすのでござりました。ちちはいっしょけんめいにがまんをしておりましたけれどもようこらえなくなりまして少しいきを<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしましたらまだよいといわなんだのにとえらくむずかり出しましてそんならといって指でくちびるをとじ合わせたり、ちいさな<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い<ruby><rb>塩瀬</rb><rt>しおぜ</rt></ruby>の<ruby><rb>袱紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>を二つにたたんで両端を持ってぴったり口にふたをするのでござりましたがそういう時はいつもの童顔が幼稚園の子供の顔のようにみえて<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>を越した人のようにはおもえなんだと申します。またあるときはそう顔を見んとおいてほしい、両手をついて首をたれたままかしこまっていてほしいといいましたり、笑わんといてごらんといってあごの下や横腹をこそばゆがらせたり痛いということを口にしてはならぬといってここかしこを<ruby><rb>抓</rb><rt>つめ</rt></ruby>りましたりそんないたずらをしますのがいたって好きなのでござりましてわたしはねむってもあんさんはねむったらあかん、ねむくなったらじっとわたしの寝顔をながめてしんぼうしているがよいといいながら自分はすやすやとまどろんでしまいますので父もうつらうつらし出してついゆめごこちにさそい込まれておりましたらいつのまにやらめをさまして耳のあなへいきを吹き入れたりかんぜよりをこしらえて顔じゅうをこそぐったりしてむりにおこしてしまうのでござりました。父はお遊さんという人は生れつき芝居気がそなわっていた、自分でそうと気がつかないでこころに思うことやしぐさにあらわれることが<ruby><rb>自</rb><rt>おの</rt></ruby>ずと芝居がかっていてそれがわざとらしくもいやみにもならずにお遊さんの人柄に花やかさをそえ潤おいをつけていた、おしずとおゆうさんとの違いは何よりもおしずにそういう芝居気のないところにあったと申しますのでござりまして<ruby><rb>裲襠</rb><rt>うちかけ</rt></ruby>を着て琴をひいたり<ruby><rb>小袖幕</rb><rt>こそでまく</rt></ruby>のかげにすわって腰元に酌をさせながら塗りさかずきで酒をのむような芸当はお遊さんでなかったら板につかないのでござりました。

とにかく二人のあいだがらがそういうふうになりましたのは申すまでもなくおしずのきもいりがあったればこそでござりましてそれには粥川の家よりも芹橋の家の方がひとめがすくのうござりましたのでお遊さんのほうから夫婦のところへ出てくることが多かったのでござります。おしずはさまざまにちえをはたらかせまして女中をつれて旅に出るのは無駄なついえではありませぬかわたしがいたら不自由なおもいはさせませぬからとお伊勢さまだの<ruby><rb>琴平</rb><rt>ことひら</rt></ruby>さまだのへ三人ぎりで出られるようにもいたしました。そして自分はじみづくりにして女中らしくこしらえたりしまして次の間にねどこをとらせるのでござります。もっともそのときの都合で三人のかんけいをとりかえまして言葉づかいなどもきをつけるのでござりましたが宿屋の首尾はおゆうさんと父が夫婦になりましたらいちばんよいのでござりますけれどもお遊さんがおんなあるじのようなかたちになりがちでござりましたので父は<ruby><rb>家令</rb><rt>かれい</rt></ruby>か<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>かというふうにみせかけましたり御ひいきの芸人になりすましたりいたしまして旅へ出ましたらお遊さんは二人から<ruby><rb>御寮</rb><rt>ごりょ</rt></ruby>んはんと呼ばれるのでござりました。そういうこともお遊さんにはたのしいあそびの一つなのでござりまして多くはたしなみませぬけれども夕御飯のときにすこしお酒がはいりましたらなかなかだいたんになりましてゆったりとしたおちつきを見せながらときどきころころと派手なわらいごえをたてるのでござります。しかし、わたくし、ここでおゆうさんのためにも父のためにもべんめいいたしておかなければなりませぬのはそこまですすんできていながらどちらも最後のものまではゆるさなんだのでござりました。それもまあ、もうそうなったらそういうことがあってものうても同じことだと申せましょうしないにいたしましたところがなんのいいわけになりはいたしませぬけれどもわたくしは父の申しますことを信じたいのでござります。父がおしずに申しましたのにはいまさらになってそなたにすむもすまないもないようなものだがたといまくらを並べてねても守るところだけは守っているということを<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>は<ruby><rb>神</rb><rt>かみ</rt></ruby><ruby><rb>仏</rb><rt>ほとけ</rt></ruby>にかけてちかう、それがそなたの本意ではないかも知れないがお遊さまもおれもそこまでそなたを<ruby><rb>蹈</rb><rt>ふ</rt></ruby>みつけにしては<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby>のほどがおそろしいからまあ自分たちの気休めのためだというのでござりまして、いかさまそれもそうだったでござりましょうがまたまんいちにも子供ができたらばというしんぱいなぞが手つだっていたかと思われるのでござります。けれども貞操というものはひろくもせまくも取りようでござりますからそれならといってお遊さんがけがされておらなんだとは申せないかもしれませぬ。それについておもい出しますのは父は<ruby><rb>伽羅</rb><rt>きゃら</rt></ruby>の香とお遊さんが自筆で書いた箱がきのある<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>のはこにお遊さんの冬の<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>ひとそろえを入れてたいせつに持っておりましてあるときわたくしにその箱のなかのしなじなを見せてくれたことがござりました。そのおり小そでのしたにたたんで入れてありました<ruby><rb>友禅</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>の長じゅばんをとり出しましてわたくしの前にさし出しながらこれはお遊さまが<ruby><rb>肌身</rb><rt>はだみ</rt></ruby>につけていたものだがこのちりめんの重いことをごらんといいますので持ってみましたらなるほど<ruby><rb>今出来</rb><rt>いまでき</rt></ruby>の品とはちがいその頃のちりめんでござりますからしぼが高く糸が太うござりまして鎖のようにどっしりと<ruby><rb>目方</rb><rt>めかた</rt></ruby>がかかるのでござります。どうだ重いかと申しますからほんとうにおもいちりめんだといいましたら我が意をえたようにうなずきましてちりめんというものはしなしなしているばかりでなくこういうふうにしぼが高くもりあがっているところがねうちなのだ、このざんぐりしたしぼの上からおんなのからだに触れるときに肌のやわらかさがかえってかんじられるのだ、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の方も肌のやわらかい人に着てもらうほどしぼが粒だってきれいに見えるしさわり加減がここちよくなる、お遊さんという人は手足がきゃしゃにうまれついていたがこの重いちりめんを着るとひとしおきゃしゃなことがわかったといいまして今度は自分がそのじゅばんを両手で持ちあげてみて、あああのからだがよくこの目方に堪えられたものだといいながらあだかもその人を抱きかかえてでもいるように<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>をすりよせるのでござりました。

するとあなたがお父上にそのじゅばんを見せておもらいになった時はもうよほど成人しておられたのでしょうねとそのおとこのものがたりにそれまでだまって耳を傾けていたわたしがたずねた、そうでなければ少年のあたまでそういうことを理解されるのはむずかしかろうとおもいますが。いいえ、まだその時分ようよう十ぐらいだったのでござりまして父はわたくしを子供とみとめずにはなしたのでござります、さればそのときはもちろん理解いたしませなんだが言葉どおりに記憶いたしておりましてふんべつがつきますにしたがってだんだんとその意味を解いてまいったのでござります。なるほど、ではうかがいますけれどもお遊さんとお父上とのかんけいが仰っしゃるとおりであったとするとあなたは誰の子なのです。<ruby><rb>御尤</rb><rt>ごもっと</rt></ruby>もなおたずねでござります、それを申し上げませぬことにはこのはなしの<ruby><rb>鳧</rb><rt>けり</rt></ruby>がつきませぬからごめいわくでも今しばらくおききをねがいとうござりますが父がお遊さんとそういうふうなふしぎな恋をつづけておりましたのはわりにみじかいとしつきのことでござりましてお遊さんの二十四、五さいからほんの三、四年のあいだだったのでござります。そしてたしかお遊さんが二十七のとしに亡くなった夫のわすれがたみの<ruby><rb>一</rb><rt>はじめ</rt></ruby>という<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>が<ruby><rb>痲疹</rb><rt>はしか</rt></ruby>から肺炎になりまして病死いたしましたのでこの子供の死にましたことがお遊さんの身のうえにも引いては父のいっしょうにもひびいてまいったのでござります。それはそのまえからお遊さんが妹夫婦とあまりいききをしすぎるということが小曾部の方はなんともいうものはござりませなんだが粥川家の方でしゅうとめや親類のあいだにぽつぽつうわさのたねになっておりましてお静さんの気が知れないというようなことを申す者が出てまいりました。じっさいまたおしずがそこをどんなに巧くこしらえましたにいたしましても長い月日のうちにはしぜんうたがいの眼があつまってまいりますはずで<ruby><rb>芹橋</rb><rt>せりはし</rt></ruby>の嫁は貞女が過ぎる、姉孝行にもほどがあるというかげぐちがやかましくなってまいりますにつけても三人のほんとうの胸のうちをさっしておりました叔母だけがひとりしんぱいしておったのでござります。しかし粥川家の方でもさいしょは<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をとりあげもいたしませなんだが<ruby><rb>一</rb><rt>はじめ</rt></ruby>が亡くなりましたときに母親の注意が足らなんだという批難がおこってまいりましたのはそれはもうなんといわれましてもお遊さんのおちどなのでござりまして子供をいつくしむこころがうすらいでいたわけでもござりますまいけれども日頃からばあやまかせにするくせがついておりましたので看病のあいまに半日ほどの暇をぬすんでぬけて出ましたらそのあいだにきゅうに様子がかわりまして肺炎になったのだそうにござります。で、子供というものがあればこそたいせつな人でござりますが子供が死んでしまいましたらちかごろよくない評判もあるしまだうばざくらというにさえ若すぎるとしだし<ruby><rb>旁〻</rb><rt>かたがた</rt></ruby>これはややこしいことがおこらぬうちに里へかえってもらった方がというような話になりまして引き取るとか引き取らぬとかいろいろとまたこみ入ったかけ合いがござりましたすえに誰にもきずがつかぬようにえんまんに離籍の件がまとまったのでござりました。そういうわけでお遊さんは実家へもどってまいりましたが小曾部のいえは当時兄さんがそうぞくいたしておりましたのであれほど親たちが可愛がっていた人のことでござりますし粥川家の仕打ちがあんまりだからというつらあての気味もござりましてそりゃくにはあつかいませなんだけれどもそこは親たちがおりましたときのようにはまいりませぬから何かにつけてえんりょがあったことでござりましょう。それに、小曾部のいえがきゅうくつでしたらわたしのうちへきていらっしゃいとお静がすすめましたけれどもそういうことをいいふらすものがあるあいだは慎しんだ方がよいからとそれは兄がとめました。おしずの説では兄は事によるとほんとうのことを知っていたのではないかと申すのでござりましてあるいはそうらしくもおもわれますのはそれから一年ほどたちまして再縁をすすめたのでござりました。相手は宮津という伏見の造り酒屋の主人でだいぶんとしうえでござりましたが粥川の家に出入りをいたしておりましたのでお遊さんという人の派手なきだてをむかしから知っておりまして、こんどつれあいに死なれましたについてぜひにというのでござりました。なんでもお遊さんが来てくれたら伏見の<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>などへはおいておかない、<ruby><rb>巨椋</rb><rt>おぐら</rt></ruby>の池に別荘があるのを建て増してお遊さんの気に入るような<ruby><rb>数寄屋普請</rb><rt>すきやぶしん</rt></ruby>をして住まわせる、それはそれはていちょうにして粥川にいたときよりももっと大名式に暮らせるようにしてあげるとけっこうずくめの話でござりましたので兄はのりきになりましてやっぱりそなたには福運がついてまわっている、そういうところへよめに行ってとかくの取りさたをする奴らをみかえしてやったらよいではないかとときつけるのでござりました。そればかりでなく父やおしずをよびまして世間のうわさを打ちけすためにもここは二人から上手に持ちかけてとくしんさせてもらいたいとのっぴきならぬようにいうのでござります。ちちがこのときにもしどこまでも恋をつらぬくけっしんでござりましたら心中いたしますよりほかはござりませなんだ。まったくのところそういうけっしんをいたしましたことも一度や二度ではなかったそうにござりますがそれが実行できずにしまいましたのはおしずというものがありましたからでござります。つまり、父の腹のなかを申しましたらおしずをおいてまいりますのは義理がわるうござりますしそうかといって三人で死にますのはいやだったのでござります。おしずもそれを何よりもおそれていたらしゅうござりましてきっと一緒につれて行ってくださりませ、いまになって<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けものにされたらなんぼうくやしいかわかりませぬといってあとにも先にもおしずがやきもちがましいことを申しましたのはこのときだけだそうにござります。なおもう一つそれにもまして父のけっしんをにぶらせたのはお遊さんをいたわる気もちでござりました。お遊さんのような人はいつまでもういういしくあどけなく大勢の腰元たちを<ruby><rb>侍</rb><rt>はべ</rt></ruby>らせてえいようえいがをしてくらすのがいちばん似つかわしくもありまたそれができる人でもあるのにそういう人を死なせてしまうのはいたいたしいというかんがえ、これがなによりもつよくはたらいたのだと申します。父はそのきもちを打ちあけましてあなたはわたしの道づれにするにはもったいない人だ、普通のおんななら恋に死ぬのがあたりまえかもしれないがあなたという人にはありあまる福があり徳がある、その福や徳をすてたらあなたのねうちはないようになります、だからあなたはその巨椋の池の御殿とやらへ行ってきらびやかな<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>や<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>のおくふかいあたりに住んでください、あなたがそうしてくらしていらっしゃるとおもえばわたしはいっしょに死ぬよりもたのしいのです、こういったからとてよもやあなたは私がこころがわりしたの死ぬのがこわくなったからだのというようなふうには取らないでしょう、そんなせせこましいりょうけんが薬にしたくもない人だから私も安心していえるのです、あなたは私のような者を笑ってすててしまうほど<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にうまれついた人ですとそういったのでござりました。そうしたらお遊さんは父のことばをだまってきいておりましてぽたりと一としずくの涙をおとしましたけれどもすぐ晴れやかな顔をあげてそれもそうだとおもいますからあんさんのいう通りにしましょうといいましたきりべつに悪びれた様子もなければわざとらしい<ruby><rb>言訳</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>などもいたしませなんだ。父はそのときほどお遊さんが大きく<ruby><rb>品</rb><rt>ひん</rt></ruby>よくみえたことはなかったと申すのでござります。

そんなしだいでお遊さんはまもなく伏見へさいえんいたしましたが宮津の主人と申しますのはなかなかよくあそぶ男だったそうにござりましてもともと物好きでもらった嫁でござりましたからじきに飽きてしまいましてのちにはめったにお遊さんの別荘へよりつかなんだと申すことでござります。しかしそれでもあの女は<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の置き物のようにしてかざっておくにかぎるといいまして金にあかしたくらしをさせておきましたのでお遊さんは相変らず『<ruby><rb>田舎源氏</rb><rt>いなかげんじ</rt></ruby>』の絵にあるような世界のなかにいたわけでござりますが大阪の小曾部の家とわたくしの父の家とはその時分からだんだんびろくいたしまして前にも申しましたように母が亡くなります前後にはわたくしどもはろうじのおくの長屋にすむようなおちぶれかたをしておりました。さようさよう、その母と申しますのはおしずのことでござりましてわたくしはおしずの生んだ子なのでござります。父はお遊さんとそんなふうにして別れましてからながいあいだの苦労をおもいまたその人の妹だというところにいいしれぬあわれをもよおしましておしずとちぎりをむすびましたのでござります。と、そういってそのおとこはしゃべりくたびれたように言葉をとぎって腰のあいだから煙草入れを出したので、いやおもしろいはなしをきかせていただいてありがとうぞんじます、それであなたが少年のころお父上につれられて<ruby><rb>巨椋</rb><rt>おぐら</rt></ruby>の池の別荘のまえをさまよってあるかれたわけは<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>がゆきました、ですがあなたはそののちも毎年あそこへ月見に行かれると仰っしゃったようでしたね、げんに今夜も行く途中だといわれたようにおぼえていますがというと、さようでござります、今夜もこれから出かけるところでござります、いまでも十五夜の晩にその別荘のうらの方へまいりまして生垣のあいだからのぞいてみますとお遊さんが琴をひいて腰元に舞いをまわせているのでござりますというのである。わたしはおかしなことをいうとおもってでももうお遊さんは八十ぢかいとしよりではないでしょうかとたずねたのであるがただそよそよと風が草の葉をわたるばかりで<ruby><rb>汀</rb><rt>みぎわ</rt></ruby>にいちめんに<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えていたあしも見えずそのおとこの影もいつのまにか月のひかりに溶け入るようにきえてしまった。