## その一

先生、わたし今日はすっかり聞いてもらうつもりで伺いましたのんですけど、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>お仕事中のとこかまいませんですやろか？　それはそれは詳しいに申し上げますと実に長いのんで、ほんまにわたし、せめてもう少し自由に筆動きましたら、自分でこの事何から何まで書き留めて、小説のような風にまとめて、先生に見てもらおうか<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>たりしましたのんですが、……実はこないだ中ひょっと書き出して見ましたのんですが、何しろ事件があんまり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんがらがってて</span>、どういう風に<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>から筆着けてええやら、とてもわたしなんぞには見当つけしません。そんでやっぱり先生にでも聞いてもらうより仕様ない思いましてお邪魔に出ましたのんですけど、でも先生わたしのために大事な時間<ruby><rb>滅茶々々</rb><rt>めちゃめちゃ</rt></ruby>にしられておしまいになって、えらい御迷惑でございますやろなあ。ほんまに<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しございますか？　わたし先生にはもう毎度々々おやさしいにしていただきますもんですから、つい御親切に甘える気イになって、<ruby><rb>御厄介</rb><rt>ごやっかい</rt></ruby>にばっかりなりまして、どないに感謝してもしきれへんくらいや思てます。そいであのう、いつかも大へん御心配かけましたあの人のこと、あれからお話せんならんのんですが、あれはあの<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に申し上げました通り、あないにいうて下さいましたのんで、自分でもしみじみ考えまして、あんなり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぷっつり</span>絶交してしまいました。その当座は未練とでもいいますのんか、何かにつけて思い出されますもんですから、家にいてましてもまるでヒステリーのようになってましたけど、そのうちにだんだんあの人がええことない男やったいうこと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっきり</span>分って来まして、……主人も私が前は始終そわそわして音楽会や何かいうては出歩いてばっかりいましたのんに、先生の<ruby><rb>御宅</rb><rt>おたく</rt></ruby>い寄せてもらうようになりましてから、すっかり様子変りまして、絵エ書いたり、ピアノの<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>したりして、一日家に落ち着いてますもんですから、「この頃はお前も女らしなったなあ」なんぞいいまして、<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>ながら先生の御好意よろこんでました。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もわたし、あの人の事については何も主人にいいませなんだ。「夫に過去のあやまち隠しとくのんよろしゅうないから、――<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に肉体上の関係なかったのんなら告白しやすい訳やから、すべてを打ち明けておしまいなさい」と先生はいうて下さいましたけど、……けどどうも、……それはまあ、主人にしましてもあるいはうすうす気イついてたかも分れしませんのですが、私の口からは何やいいにくうもありましたし、この後間違いないように自分さい注意してたらええのや思いまして、何事も胸に収めてたのんです。ですから主人は私が先生からどんなお話伺うて来ましたやら、それは知りませんでしたけど、いろいろ<ruby><rb>為</rb><rt>た</rt></ruby>めになること<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せてもろたに違いない<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>て、そういう心がけになったのんはええ傾向やいうてましてん。

そんな訳で、そいから<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいに家い<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ってましたもんですから、この様子やったらまあ安心や思いましたもんか、そうそう<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>も遊んではいられんからいうて、大阪の<ruby><rb>今橋</rb><rt>いまばし</rt></ruby>ビルディングに事務所借って弁護士開業しましたのんが、あれが昨年の二月頃でしたかしらん。――はあ、そうです。大学の方は独法やりましたのんで、弁護士にならいつでもなれたのんです。始めは何でもプロフェッサアになりたいようにいうてまして、ちょうど私のあの事件ありました時分には、引きつづいて大学院の研究室の方い<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>てましたのんですが、弁護士やる気イになりましたのんは別にこれちゅう理由あったのんではあれしません。そういつまでも私の実家の方に世話にばっかりなってましては義理も悪いし、私に対しても頭<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>らんと思うたのんですやろ。いったい主人は大学時代に秀才やいう評判で、たいへんにええ成績で卒業しましたもんですから、そういう人間ならばいうのんで、嫁に来たとはいうもんの、<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>を取るのも同様にして結婚したのんです。そいでもう私の親たちは主人を信用してまして、いくらか財産も分けてくれまして、まあまああせるには及ばんから、学者になりたかったら学者になるで、ゆっくり勉強するがええ。洋行もしたければ夫婦で二、三年<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby>い<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>てくるがええなどいうてくれまして、――最初は主人も大そう喜んで、そんなつもりもあったらしいのんですけど、――私があんまり<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>やのんで、実家の方<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>に着て威張るのんやいう風に取って、それが<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>ったのかも分れしません。しかし性質が学者<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>に出来てまして、いつまでたっても書生流の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶっきらぼう</span>抜けしませんし、あいそは<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>ですし、それはそれは人づきあい悪い方ですから、弁護士なんぞになりましたところで一向仕事やかいあれしませんね。それでも毎日事務所いだけはきちんきちん出てましたが、そうなりましたら、私の方は一日家にぼんやりしてまして、しょうないものですから、自然また、いろいろと、一旦忘れてたことが胸に浮かんで来るのんです。前には暇ありますと歌作ったりしましたが、歌はかいって思い出の種になりますので、もうこの頃はせえしませんやろう？　そんで私、こうやってては<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろく</span>な事考えへんさかい、これは何とかせんといかん、何ぞ気イ<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れるようなことはと思いまして、――先生は御存知でしょうか、――あのう、<ruby><rb>天王寺</rb><rt>てんのうじ</rt></ruby>の方に女子技芸<ruby><rb>学校</rb><rt>がっこ</rt></ruby>いうのんありますねん。私立の<ruby><rb>詰</rb><rt>つ</rt></ruby>まらん学校ですねんけど、絵エと、音楽と、裁縫と、<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>と、そいからまだ外にも何や、まあそんな風に科ア分れてまして、入学の資格なぞむずかしいことも何にものうて、大人でも子供でも自由に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>れます。わたし前にも日本画<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>してまして、下手ですけど、その方になら<ruby><rb>幾</rb><rt>いく</rt></ruby>らか趣味持ってますもんですから、それい毎日、朝は主人と一緒に出かけるようにしまして、ともかくもまあ、通うことにしましてんわ。尤も毎日とはいいましても、そんな学校ですから、休みたい時は勝手に休んだりしましたけど、――

主人は絵エや文学やには<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てん</span>と趣味ない方やのんですが、私が学校い行きますことは賛成してくれまして、それは結構や、ええ思いつきやさかい精出して行くがええいうて、自分から勧めたくらいやのんでした。毎朝出かけますのんにも、私が行きますのんは九時のこともあり、十時のこともあり、自分の都合でいろいろになることありましたけど、主人の方も事務所<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>やのんですさかい、何時になろうと<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>待っててくれまして、阪神電車で梅田まで一緒に行き、そいから二人<ruby><rb>円</rb><rt>えん</rt></ruby>タクに乗って<ruby><rb>堺筋</rb><rt>さかいすじ</rt></ruby>の電車通りの今橋の角で主人おろしまして私はずっとその車で天王寺い行きます。主人はそういう風にして一緒に出かけますこと楽しみにしてたらしいのんで、「またもう<ruby><rb>一遍</rb><rt>いっぺん</rt></ruby>学生時代に<ruby><rb>復</rb><rt>かい</rt></ruby>ったような気イするなあ」などいいますから、「夫婦づれで自動車で通う学生あったらおかしいやないか」いいましたら、あはあは笑うたりなんぞして<ruby><rb>上機嫌</rb><rt>じょうきげん</rt></ruby>でした。午後に帰ります時分にもなるべく<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>てくれるようにいいますのんで、電話で打ち合わせしといて、事務所い寄ったり、<ruby><rb>難波</rb><rt>なんば</rt></ruby>や阪神で待ち合わしたりして、一緒に松竹座なぞい行ったりしました。そういうような<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>で主人との間は大変<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>ように行ってましたのんですが、あれは四月の半ば頃でしたか、わたし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほん</span>の詰まらん事で学校の校長さんと<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>してしまいました。それはあのう、妙なことですが、学校でモデル<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>て、それにいろいろの服装さしたりポーズ取らしたりしまして、――日本画の方は裸体のデッサンはやりませんですけど、――それ写生する時間ありますねん。ところがちょうどその時分に<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>てたのんが、Ｙ子さんちゅう十九になる娘さんで、大阪では有名な美人のモデルやそうで、それに<ruby><rb>楊柳観音</rb><rt>ようりゅうかんのん</rt></ruby>の姿さしまして、――まあ、いくらかそんな風すると裸体に近うなりますのんで、多少裸体の研究も出来るいう訳やったのんです。私それを外の生徒たちと一緒に写生してますと、或る日校長先生が教室い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来られて、「<ruby><rb>柿内</rb><rt>かきうち</rt></ruby>さん、あんたの絵エはちょっともモデルに似ておらんようですな、あんたは誰ぞ、外にモデルあるのんではありませんか」いわれて、何やこう、意味ありげに笑われますねん。それが校長先生ばっかりでのうて外の生徒たちも、先生が笑われるあとからクスクス忍び笑いするのんです。わたし思わず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>としまして顔<ruby><rb>赧</rb><rt>あこ</rt></ruby>うなりましてんけど、どういう訳で赧うなったのんかその時は自分で分れしませなんだ。今になって考えますと確かにあの時赧うになったような気イしますねんけど、あるいはそうでなかったかも分れしません。しかし「外にモデルがある」いわれましたら、そういわれるまでは自分では意識してえしませなんだのんに、何やしらん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と胸いこたえるもんありましてん。でも、そんなら誰モデルにしたかちゅうことは、はっきりしてたのんではあれしません。ただ何やしらん頭の中にＹ子さん以外の或る人の印象<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>みついてて、Ｙ子さんを眼の前に見ながら、知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らずその印象の方モデルに<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>てた、――使うつもりものうて、自然と筆がその人の姿写してた、いうだけやのんです。

もう先生にはお分りになっておられますやろが、その、わたしが無意識のうちにモデルにしてた人いうのんが、――どうせ新聞にも出ましたのんですから、いうてしまいますが、――<ruby><rb>徳光光子</rb><rt>とくみつみつこ</rt></ruby>さんやのんです。（作者註、柿内未亡人はその異常なる経験の後にも割に<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>がなく、服装も態度も一年前と同様に派手できらびやかに、未亡人というよりは令嬢の如くに見える典型的な関西式の若奥様である。彼女は決して美女ではないが、「徳光光子」の名をいう時、その顔は不思議に照り輝やいた。）けど私は、まだその時分には光子さんとお友達になってた訳ではあれしません。光子さんが洋画の方<ruby><rb>習</rb><rt>なろ</rt></ruby>ておられて、教室も<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>てましたよって、ものいう機会もなかったはずです。ですから光子さんの方では私の顔知りなされしませなんだか、知ってなさっても別に気イに留めておられなんだのんですやろ。私の方にしましてもそれほど光子さんに注意してたとは思われしませんのですが、でも何とのう好きそうな人やいう風に考えてたに違いないのんです。それもしかし、ものいうたことないくらいですよって、性質やとか気だてやとか、そんなこと分れしませんでしてんけど、――まあ、何とのう、ただ全体の感じやのんですなあ、そういえば私が案外早うから光子さんに気イつけてました証拠には、もうその時分に誰から聞いたいうでもなしに、光子さんの名前やお所を、――<ruby><rb>船場</rb><rt>せんば</rt></ruby>の方にお店のある<ruby><rb>羅紗</rb><rt>ラシャ</rt></ruby>問屋のお嬢様で、住まいは阪急の<ruby><rb>蘆屋川</rb><rt>あしやがわ</rt></ruby>にあるのやいうようなことまでちゃんと知ってましてん。そいでわたし、校長さんにそんなこといわれましたのんで、あとでいろいろ考えてみたのんですが、なるほどその絵エ光子さんに似てますけど、故意に似さしたいうのんではなし、また故意に似さしたにしたところが、ぜんたいモデルにＹ子さん使ういうのんはＹ子さんの顔写すのん目的とはちがいますねんやろ？　ただＹ子さんに観音さんみたいな姿さして、その体つきや、<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくえ</rt></ruby>の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>の<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>研究して、なおその上観音さんの感じ出せたらええ訳ですやろ。Ｙ子さんはモデル女の中では美人かも分れしませんけど、光子さんの方がもっと美人で、その絵エの感じに<ruby><rb>合</rb><rt>お</rt></ruby>うてるとしましたら、光子さんモデルにしても<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>いないではあれしませんか。――私そない思たのんですねん。

## その二

ところがそいから二、三日たちますと、またモデルの時間に校長先生が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来られて、私の絵エの前い立ち止まってにやにや笑われますねん。そして「柿内さん」いいなさって、「柿内さん、どうもこの絵エ変ですなあ。ますますモデルに似んようになって来ますね。いったいあんたは誰モデルにしておられるのんですか」と、冷やかすような眼つきで私の顔じいッと<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>つめなさるのんです。「おや、そうですかしらん。モデルに似てえしませんか」と、私<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわりましたもんですから、わざとにそないいうてやりましてん。そやかて校長先生は絵エの先生ではないのんですやろ？――はあ、日本画の方の受持ち<ruby><rb>筒井春江</rb><rt>つついしゅんこう</rt></ruby>先生やのんで、<ruby><rb>常時</rb><rt>じょうじ</rt></ruby>お越しになる訳やのうて、ときどきやって来られて、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>が悪いやとか<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>をこないせえやとかいわれますのんで、常は生徒たちが勝手にモデル見て<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>いてますねん。校長先生いうのんは、随意科の方に英語ありまして、それ<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せてなさるのんやそうですけど、学士でも何でもあれしませんし、何処の学校出られたのんか、学歴やかいも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろくろく</span>ないらしい人やのんです。それは後になってから分りましてんけど、教育家いうよりは学校商売<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>な人やのんで、つまり一種の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やり</span>手やのんですねんなあ。そういう校長さんですから絵エのことなんぞ分るはずあれしませんし、余計な<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>入れる必要はないのんです。それにまた、学科の方はたいがい専門の先生たちに任しきりにして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>に教室見廻ることやかいあれしませんのんに、その時間に限ってわざわざやって来られて、わたしの絵エ何や<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>んやといいなさるのんですねん。「へえ、そうですかなあ、あんたはこの絵エこのモデルに似てるつもりなんですか」と、皮肉な口調でいわれましたもんですさかい、こっちも<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けてやりまして、「はい、わたし絵エは<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>ですから、似てえへんかも分れしませんけど、でも自分では一所懸命モデルの通りに写しましたつもりです」いいますと、「いや、あんたは下手ではありません。なかなか上手に<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>けてます。しかしこの顔は、どうも誰ぞ外の人に似てるように思われますね」と、またそないいいなさるのんです。「ああ、顔のことですか、顔はわたし、自分の理想にかなうように画いてみたのんです」いいますと、「ではあんたの理想いうのは誰のことですか」と、えらいひつこいですねん。そいからわたし、「これは理想やのんですから、別に誰ちゅう実在の人間<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>いた訳ではあれしません。観音さんの顔にふさわしいようになるだけ清らかな感じ持たしたのんですが、そいではいきませんですやろか。顔までモデルに似ささんと悪いのんですやろか」いいましてん。すると、「あんたはたいそうむずかしい<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>いいなさる。しかし理想通りのもんが思いのままに画けるようやったら、此の学校い絵エ習いに来るには及ばん。理想通りに画かれないからこそモデルについて写生するのんではありませんか。自分勝手の絵エ画くくらいならモデル使う必要あれしません。ましてこの観音さんがモデル以外の或る実在の人間に似てるとしたら、あんたの理想いうもんも<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ<ruby><rb>不真面目</rb><rt>ふまじめ</rt></ruby>に思えますね」いわれるのんで、「わたしちょっとも不真面目とちがいます。仮にこの顔誰ぞに似てても、その人の顔観音さんの感じ出すのに適してましたら、それ写しても芸術的に<ruby><rb>疚</rb><rt>やま</rt></ruby>しいことない思います」いいますと、「いや、それがいかんのんです。まだあんたは一人前の芸術家ではありません。あんたがその人の顔清らかであると感じられても、万人がそう感じるかどうか、それが問題です。そういうことからとかく誤解が起るのんです」いう訳ですねん。「へえ誤解て、どんな誤解起りますかしらん？　ぜんたい似てる似てるいうて、誰に似てるのんですか、どうぞいうて下さい」いうてやりましたら、ちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どぎまぎ</span>して、「あんたは強情な人ですねえ」いわれて、そんなり校長先生は黙ってしまいはりました。わたしその時は校長さんやり込めてやったのんで、<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>に勝ったような気イして、えらい痛快でしてんわ。けど大勢の生徒たちの前で議論したもんですよって、えらい評判になってしもて、間ものう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>ひろまるようになりましてん。つまりわたしが光子さんに対して同性愛<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げてる、光子さんと私とが怪しいいいますねん。――それが前にもいいましたように、まだその時分は光子さんと物いうたこともなかったほどでしたさかい、<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>も出鱈目、ひどい<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>やのんです。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もわたしは、うすうすみんなが<ruby><rb>蔭口</rb><rt>かげぐち</rt></ruby>いうていることぐらい感づいてましたもんの、それがそないに騒がれてようとは夢にも知りませなんだ。<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>せ身イに覚えないことやのんですから、何いわれても平気なもんで、まあ、世間の人いうたらたいがいええ加減なことをいい触らすもんや。附き合うてもいえへん人同士怪しいやなんて、なんぼ作りごとにしたかてようまあそんな譃ばっかりいえたもんや<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>て、あんまり馬鹿々々しいて腹も立てしませなんだ。ただ心配になりましたのんは、わたしはそいでかめしませんけど、光子さんの方はどう思てなさるやら、さぞかしえらい係り合いになって迷惑してはるに違いない思いましたら、そいからはこう、学校の<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>復</rb><rt>かい</rt></ruby>りなぞに<ruby><rb>出遭</rb><rt>であ</rt></ruby>うことありましても、何や気イさして、前みたいに顔しげしげと見守ること出来しませなんだ。そうかいうて、思い切りようこっちから話しかけて、あやまるいうようなことも、――それがかいって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なことになりますし、なおさら迷惑しなさるかも分れしませんのんで、そないする訳にもいけしません。そんでわたし光子さんに<ruby><rb>出遇</rb><rt>であ</rt></ruby>いますと、出来るだけあやまる心持外に現わすようにして、<ruby><rb>小</rb><rt>ちい</rt></ruby>そうになって、下向いて、こそこそ逃げるように<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>通り抜けましたが、そないしながらも、<ruby><rb>先様</rb><rt>さきさん</rt></ruby><ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>ってはれへんやろか、どんな眼つきしてはるか、やっぱり気がかりやもんですから、<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れちがう拍子に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッと顔色うかごうたりしました。ところが光子さんの様子前とちょっとも変ったようなとこのうて、別にこっちを不愉快に思てなさる風にも見えしません。あ、そうそう、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に写真持って来ましたよって、これ見て下さいませ。これは<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いの着物出来ましたとき二人で記念に<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>りましたのんで、新聞にも出たことある問題の写真やのんです。これでもお分りになるように、こうして並んでましたら、わたしが引き立て役勤めてる形で、光子さんは船場あたりの娘さんの中でもちょっと飛びきりの器量やのんです。（作者註、写真を見ると、お揃いの着物というのは<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>好みのケバケバしい色彩のものらしい。柿内未亡人は<ruby><rb>束髪</rb><rt>そくはつ</rt></ruby>、光子は<ruby><rb>島田</rb><rt>しまだ</rt></ruby>に結っているが、大阪風の町娘の姿のうちにも、その眼が非常に情熱的で、<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>おいに富んでいる。一と口にいえば、恋愛の天才家といったような<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちた、魅力のある眼つきである。たしかに<ruby><rb>美貌</rb><rt>びぼう</rt></ruby>の持主には違いなく、自分は引き立て役だという未亡人の言は必ずしも<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>ではないが、この点が果して楊柳観音の尊容に適するかどうかは疑問である。）先生はこんな顔だちどないお考えになりますか？　日本髪よう似合うてますやろ？――はあ、お<ruby><rb>母様</rb><rt>かあさん</rt></ruby>日本髪好きやとかいうことで、ときどき<ruby><rb>結</rb><rt>い</rt></ruby>やはりまして、学校いもその頭で来やはりましてん。――何せそんな学校ですから、制服なんぞあれしませんし、日本髪の着流しでも何でもかめしませんのんですから、わたしなんか<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby><ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>たことあれしませなんだ。光子さんも、たまに洋服着なさることありましてんけど、和服の時はいつでも着流しでしてん。この写真では髪のせえで私より三つぐらい若うに見えてますけど、ほんまは一つ<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>下の二十三、――生きておられたら今年二十四ですねん。しかし光子さんの方が一、二寸せえ高いでしたし、それに<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な人いうもんは、自分では器量鼻にかけへんつもりでも、やっぱり何とのう自信のある様子態度に現われるもんですやろか、それともこっちに引け目ありますとそない見えますのんですやろか、その後親しいになりましてからでも、歳からいうとわたしの方が姉さんでありながら、いつでも妹みたいな気イしてましてん。

で、その時分、――といいますのんは、話前に戻りまして、まだお互いにものもいわんといてました時分、前にいいましたような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>立ちましたことは光子さんの耳いも<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってえへんはずあれしませんのんに、光子さんの様子はちょっとも前と変れしませんねん。わたしの方では<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うから綺麗な人や思て、噂立ちません時分には、光子さんが通りなさると、それとのう<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>い寄って行ったりしましてんけど、光子さんの方では<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てん</span>と私やかい眼中にないような<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>で、すうッと通ってしまいはりますが、その通られた跡の空気までが綺麗なような気イするのんです。もしも光子さんが例の噂聞いてなさるとしたら、なんぼ何でも私いうもんに注意しなされへん訳あれしませんやろ。イヤな<ruby><rb>奴</rb><rt>や</rt></ruby>っちゃ思われるか、気の毒や思いなさるか、何とか<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>に見えそうなもんですのんに、さっぱりそういう風しなされへんもんですから、私の方も段々ずうずうしいになりまして、また傍い寄って顔のぞき込むようになりましてん。すると或る日、お<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>の休みに休憩所でばったり<ruby><rb>出遭</rb><rt>であ</rt></ruby>うと、いつでもすうッと澄まして通り過ぎてしまいなさるのんに、どういう訳や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にッこり</span>しなさって、眼エで笑いなさるのんです。そいで私思わずお<ruby><rb>時儀</rb><rt>じぎ</rt></ruby>してしまいましたら、直ぐ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つかつか</span>と寄って来られて、「わたし、あんたにこないだから大変失礼してました。どうぞ悪うに思わんといて<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>」いいなさいますねん。「まあ何いいなさるのんです。わたしこそ<ruby><rb>詫</rb><rt>あやま</rt></ruby>らないかなんだのんですが」いいますと、「あんた詫りなさることあれしませんわ。あんたは何も知りなされへんのんです。わたしたち<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れよとしてる者いますから、気イつけなさいや」いいなさいますねん。「へえ、――それは誰ですか」と<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねますと、「校長先生ですわ」といわれて、「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>では詳しい話<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>しませんさかい<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>ぞ<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>い行て、お昼御飯一緒に附き合うてもらわれしませんか？　そしたらいろいろ、ゆっくり聞いてもらいますが」いいなさるもんですから、「何処いでも一緒にいきますわ」と、二人で天王寺公園の近所にあるレストランい行きました。そいから光子さん洋食たべながら話して下さったのんですが、わたしたちの事について悪い噂いい触らしたのんは実は校長さんやいいなさいますねん。なるほどそういわれて見ると、用もないのんに教室い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来て、みんなの前でわざと私に恥<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>かすような事するいうのんが、だいぶんおかしい。悪意あってしたもんとしか思われへん。けどいったい何のために校長さんがそんな噂触れ廻るのんかといいますと、目的は光子さんにあるのんやそうで、何でも<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>でも光子さんの品行について悪い評判立ちさいしたらええのんやいうのんです。それがまたどういう訳やいいますと、その時分光子さんに結婚の話持ち上ってまして、先はＭいう大阪でも有名なお金持の家の<ruby><rb>坊々</rb><rt>ぼんぼん</rt></ruby>で、光子さん自身は気イ進んでおられなかったそうやのんですが、お宅ではたいそうその縁談望んでおられたし、先方でも光子さん欲しがっておられた。ところが或る市会議員のお嬢さんで、やっぱりそのＭさんへ縁談持ちかけてる人あって、光子さんの方と競争の形になってた。――光子さんは競争のつもりやのうても、市会議員の方では大敵が現われた思いましてんやろ。何しろＭさんの坊々は光子さんの器量にあこがれてラブレター<ruby><rb>寄越</rb><rt>よこ</rt></ruby>したくらいやのんですから、それは大敵に違いあれしません。そいでその市会議員の方では八方い運動して、成ろうことなら光子さんにケチ附けよというのんで、もう今までにも随分いろいろと、光子さん外に男あるらしいとか、あることないこといい触らしてましたんやそうですが、まだそいだけでは飽き足らんと、とうど学校の方い手エ廻して、校長さん買収したのんですなあ。あ、そうそう、そいからその前に、――話がほんまに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんがらがって</span>ますけど、――その前にその校長さんが、校舎の修繕するからいうのんで、光子さんのお父様に、お金千円一時融通してもらえまいかいうて来たことありますねんと。光子さんのお宅ではお金はたんとありまっさかい、千円ぐらい何でもなかったのんですやろけど、おおびらに寄附金<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>るのんなら聞えてるが、一時融通してくれというのんおかしい、それにあんだけの校舎が千円のお金で修繕<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>るはずもないし、分らん話やいうようなことで、お父様は<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>られたのんやそうですねん。光子さんの話やと、そんなこというてはお金のありそうな生徒の家頼み歩くのん校長さんの<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>やそうで、借ったお金は一ぺんでも返したことあれしませんねんと。それも校舎の修繕に使うのんなら格別、校舎いうのん豚小屋みたいに<ruby><rb>汚</rb><rt>きたの</rt></ruby>うて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼろぼろ</span>になったなり、荒れ放題にしたあるのんです。――はあ？　いいえ、そのお金は自分の生活費に<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>てはりますねん。校長さんいいましても高等<ruby><rb>幇間</rb><rt>ほうかん</rt></ruby>みたいな人で、おまけに奥さんがやっぱりそこの学校の<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>の先生してなさって、夫婦でお金持の生徒に取り入っては、日曜のたんびに遠足会やとか、そんなことばっかりしてはりますさかい、なかなか暮らし派手ですねん。そいでお金貸したげたら、たいそう御機嫌ええのんやそうですけど、断ったら、陰い廻ってその生徒のことえらい悪ういやはりますねんと。つまり光子さんにはそういう<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>みあるとこいさして、市会議員に頼まれたもんですから、どんな<ruby><rb>悪辣</rb><rt>あくらつ</rt></ruby>なことかてしかねへんのです。「ですからあんたわたし陥れるために利用しられなさったんやわ」と光子さんはいわれますねん。「まあ、そんな深い訳あったのんですか、そんな事とはちょっとも知りませなんだが、それにしてもあんたと私とは今日までお附き合いもしてませなんだのんに、あんまり<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>が過ぎるではあれしませんか。<ruby><rb>捏造</rb><rt>ねつぞう</rt></ruby>する人も捏造する人なら、みんながそれ<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>に受けるいうのん不思議でなれしません」いいますと、「あんたはそれやから<ruby><rb>呑気</rb><rt>のんき</rt></ruby>や」いいなさって、「噂立ったもんやさかい、二人はわざと学校ではものいえへんのやと、みんなそないいうてますし、それどころか、こないだの日曜に二人<ruby><rb>大軌</rb><rt>だいき</rt></ruby>電車に乗って奈良い行くとこ見たいう人さいあるのんですね」いいなさるのんです。わたし<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてしもて、「まあ、誰がそんなこといいますねんやろ」いいますと、「なんでも校長さんの<ruby><rb>奥様</rb><rt>おくさん</rt></ruby>から出たらしいのんです。それはそれはあんたが考えてなさるより十倍も二十倍も陰険やのんですから、気イ附けなさいや」いう訳ですねん。

## その三

そんで光子さんは、ほんまにあんたに気の毒でなれしません、すみませんすみませんと何遍もいいなさいますから、わたしの方がかいって気の毒になりまして、「いいえ、いいえ、あんた悪いことあれしません。憎いのんは校長先生です。教育家ともあろうもんが、何ちゅう卑劣な、……けど、わたしでしたらどんなこといわれようとちょっとも<ruby><rb>構</rb><rt>か</rt></ruby>めしませんけど、あんたこそお嫁入り前の身イで、そんな悪辣な人たちの<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>にかからんように気イ附けなさいや」と、こっちからあれこれと慰めたげましたら、「きょうはあんたにすっくりお話すること出来て、ほんまにええことしました。こいでようよう胸<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すッ</span>としました」いわれて、「あのう、こうして二人で話やかいしてたら、またなんやかんやいわれますから、こんだけにしときまひょなあ」と笑いなさるのんです。「折角友だちになったのんに<ruby><rb>名残</rb><rt>なご</rt></ruby>り惜しいですなあ」と、わたし何や、ほんまにそんな気イしまして<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もじもじ</span>してました。すると光子さんは「あんたさいよろしかったら友だちになりたいのんですが、今度内い遊びに来なされしませんか。わたしハタからどないいわれても<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いことあれしませんわ」いいなさるのんです。「はあ、わたしかって恐いことあれしませんわ、あんまりうるさいこというのんなら、あんな学校やかい<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めてしまいます」いいますと、「なあ、柿内さん、わたし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いっそ</span>のこと、知って仲ようしてみんなが冷やかすのん見てやりたいわ。あんたどない思いなさる？」「はあ、それがよろしいわ、そして校長さんどんな顔しなさるか見てやりたいですわ」と、わたしもすぐその気イになってしまいました。「そしたら、あのう、面白いことありますねん」と光子さん手エたたいて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんちゃ</span>のように<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがりなさって、「ほんまに今度の日曜に、二人で奈良い行きなされしませんか。」「ええ、行きまひょ、行きまひょ、それ分ったらえらい評判になりますで。」――そんなことで三十分か一時間ほどの間に、お互にもうすっくり打ち解けてしまいましてん。

きょうはもう学校い帰るのんも馬鹿々々しいし、何なら松竹いでも行きませんかと、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>からとものういい出しまして、その日は夕方まで一緒に遊んで、光子さんは「ちょっと店い寄って行きます」と<ruby><rb>心斎橋筋</rb><rt>しんさいばしすじ</rt></ruby>散歩しながら帰られて、わたしは日本橋からタクシーに乗って今橋の事務所い行きました。そんでいつでもみたいに主人<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>て阪神電車で帰りましたのんですが、その時主人が、「お前今日えらいそわそわしてるなあ、何ぞうれしい事でもあったのんか」いわれましたのんで、「やっぱりいつもと様子<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>てるのかしらん、光子さんと友達になったことそないに自分幸福にさしたのんかしらん」と、ひとりで思いました。「そんでもわたし、今日ほんまにええ人と友達になったんやもん。――」「何んちゅう人や。」「何んちゅう人やて、そら綺麗な人やもん。――あんた、あのう、船場の徳光いう<ruby><rb>羅紗</rb><rt>ラシャ</rt></ruby>問屋あること知らん？　そこのお嬢さんやねんけど。」「何処で友達になったんや？」「同じ学校の人やわ、――それが、あのう、わたしとその人と、こないだから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>立ってなあ、――」わたし別に<ruby><rb>疚</rb><rt>やま</rt></ruby>しいことやかいないもんですさかい、面白半分に校長先生と<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>したことから、一から十まで話してしまいますと、「ずいぶんひどい学校やなあ。けどお前がそないに美人やいうのんなら、僕も一遍会うてみたいもんやがなあ」と、冗談にそないいうてました。「いまにきっと内いも遊びに来なさるやろ。わたしこの次の日曜日に、一緒に奈良い行くいうて約束したんやけど、行ったらいかん？」「そら行ってもかめへん。」主人はそないいいまして「校長さん怒るぜエ」いうて<ruby><rb>笑</rb><rt>わろ</rt></ruby>てましてん。

明くる日学校に行きますと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きんの</span>一緒に御飯食べたことや映画見に行ったこともういつの間にやら知れ渡ってて「柿内さん、あんた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きんの</span><ruby><rb>道頓堀</rb><rt>どうとんぼり</rt></ruby>歩いてなさったなあ」「お楽しみやなあ」「あれ一体誰やったなあ」なんて、女の人いうたら、も、ほんまにうるさいのんです。そしたら光子さんはまたそれ面白がりなさって、知って<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>い寄って来られて、これ見よがしにしなさるのんです。そういうようなあんばいで、そいから二、三日するうちに、えらい仲<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>うなってしまいました。校長さんはかいって<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れてしまわれたのんか、ただ恐い眼エして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでおられるだけで、もう何ともいいなされしません。光子さんは「なあ、柿内さん、あの観音さんの絵エもっと私に似るように<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>いて<ruby><rb>御覧</rb><rt>ごらん</rt></ruby>。そしたらどないにいやはるかしらん」いいなさるのんで、前よりももっと似るように直しましてんけど、校長さんはそんなり教室いも来なされしません。わたしたちはええ気イになって「痛快やなあ」いうてましてん。

そないなって来ると、無理に奈良い行く必要もないようになりましたが、ちょうど四月の終りのことで、えらいええお天気の日曜でしたさかい、電話かけて相談して、<ruby><rb>上六</rb><rt>うえろく</rt></ruby>の終点で待ち合いして、お<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>すぎから若草山の方ぶらぶら歩き廻りました。光子さんは<ruby><rb>歳</rb><rt>とし</rt></ruby>のわりにたいそう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おませ</span>なとこもありますし、また子供のような無邪気なとこもあって、山の<ruby><rb>頂辺</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>い上りましたら、<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby>五つも六つも買うて、「ちょっと見てて御覧」と、それを上から<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>こばしたりしました。すると蜜柑は頂辺から下までころころと転こんで、その拍子にぽんと一つ往来飛び越えて、向い側の家の中い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るのんで、面白がっていつまででもそないしてなさるのんです。「光子さん、そんな事してたら<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>りがないよって<ruby><rb>蕨</rb><rt>わらび</rt></ruby>でも採りに行きまひょ。わたしこの山に蕨や<ruby><rb>土筆</rb><rt>つくし</rt></ruby>のたんと<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えてるとこよう知ってるわ」いうて、そいから日の暮れまでかかって、蕨やら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜんまい</span>やら、土筆やら、たあんと採りました。――はあ、その場所ですか、あれはあのう、若草山の山が三つ重なってる、その一番前の山と、その次の山との間のへっこんだ所、――あそこら<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>いったいに、ずっともう一杯に生えてまして、あの山のんは、毎年春に山焼きしますのんで特別<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おいしい</span>のんです。――そんなことでもう空大分<ruby><rb>暗</rb><rt>くろ</rt></ruby>なった時分、二人ともまた前の山の方い戻って来まして、あんまりくたぶれましたよって、山の中途へんい腰おろして休みながら、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くぼんやりしてます時でした。「柿内さん」と、急に光子さんが何やこうすこし改まった様子で、「わたしどうしてもあんたにお礼いわんならんことあるねんけど」いわれるのんです。「何やのん？」と<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねますと、「わたしあんたのお蔭でなあ、あんなイヤな人のとこい嫁入りやかいせえでもええようになりそうやねんわ。」――そういうて、何や知りませんけどニヤニヤ<ruby><rb>笑</rb><rt>わろ</rt></ruby>てなさるのんです。「まあ、また何でそんな事になったん？」「ほんまに噂いうもん早いもんで、もうちゃあんと、あなたと私のこと<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>い知れてしもてるねん。」

## その四

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆんべ</span>なあ、内でその話が出てなあ」と、光子さんは言葉をつがれて、「お母さんがわたしを呼びやはって、お前、学校でこんな<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>あるそうやけど、それほんまでっか、いやはるねん。へえ、そらそんな噂あることはありまっけども、いったいお母さん、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>で聞きやはりましてん？　そらまあ何処でもよろしおまっしゃないか。それよかそらほんまの事でっか？　へえ、ほんまです、そやけど何が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>でんねん？　友達と仲好うしてるぐらいで。――そういうたらお母さんちょっとまごつきはってなあ、そらお前、仲好うしてるだけやったら何ともないけど、何やそれがイヤらしいこッちゃいうやおまへんか。イヤらしい事てどんな事でんねん？　どんな事やかお母さんは知りめえんけどな、別に悪いことやなかったらそんな噂立つはずおまへんやないか。ああ、そら何でや知ってまんねん、そのお友達いうのがなあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の顔が好きやいやはってモデルにしやはりましてん、そんな事からみんなが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>らを排斥し出しはりましてんやろ。そらもう学校いうたらうるそうてなあ、ちょっとでも顔<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>かったら何や<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>やと憎まれるよって。――そらまあ、そんな事もありまっしゃろけど、と、わたしが説明したげたらお母さんもだんだん分って来やはって、そんな事ならかめへんけども、そないいうてもその何とかはんいう人とばっかり仲好うせん方がよろしおまっしゃないか。お前もこれからが大事な体やよって、しょうむない事あんまりいわれん方がよろしおまっせいうて、まあそんなりで済んでしもてんけど、きっとあの市会議員なあ、<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>らへんの連中がそんな噂聞き<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>してＭの方いしゃべったのんが、それがまたお母さんの耳に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってしもてんわ。そやよって、大抵縁談もあかんようになるやろ思てんねん。」「そら、あんたはそんでええやろけど、お母さんがきっとわたしを<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>がってはるわ。今に見てて御覧、わたしと交際したらいかんいわれへんかしらん？　もし誤解しられたらイヤやけどなあ」と、わたしそれが気がかりで、そういいますと、「そんなことあんた、心配せんかてかめへんわ。そらほんまいうたら、校長さんが慾張りの人で、お金貸してもらえなんだら悪口いう癖のあることや、市会議員の人に買収しられてることやらを、みんなお母さんにいうてしまおか知らん思たけど、そんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な学校なら止めてしまいなはれいわれそうやよって、いわんと置いといてんわ。そしたらあんたと会われへんようになるよって。」「あんたもなかなか<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>い置けんなあ。」「ふふん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>かってスコイよってなあ」と、光子さんは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くつくつ</span>笑われて、「<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>が悪い人やったらこっちかって利用してやらんと損やわ。」「けど、あんたの方が破談になって、市会議員の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いと</span>はんもよろこんではるやろなあ。」「そしたらあんたは両方から感謝しられるべきやわ」なんかと、お互にあれやこれやいい合いまして、山の上で一時間以上もしゃべってました。わたし今まででも若草山い上ったこと何遍でもありますけど、そんなに日イ暮れてしまうまで山の上にいたことあれしませなんだのんで、あそこから<ruby><rb>夕靄</rb><rt>ゆうもや</rt></ruby>の景色見わたすのんは、ほんまにその時が初めでした。ついさっきまでまだその辺に人がチラホラしてましたのんに、もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てっぺん</span>から<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だあれ</span>も人の影ありません。その日は割にえらい人出でしたから、あのなだらかな、若草の生えた山の中ほどには、弁当のたべ残しや、蜜柑の皮や、<ruby><rb>正宗</rb><rt>まさむね</rt></ruby>の<ruby><rb>罎</rb><rt>びん</rt></ruby>が一杯散らかって、空はまだうす<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>いのに、足の下には奈良の町の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>イ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちらちら</span>して、遠くの方の、ちょうどわたしらの<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ア向うのあたりには、<ruby><rb>生駒山</rb><rt>いこまやま</rt></ruby>のケーブル・カアのイルミネーションが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずう</span>っと<ruby><rb>珠数</rb><rt>じゅず</rt></ruby>のようにつながって、紫色した靄のあいだから、ところどころ絶えては続いてまたたいてます。そのまたたいてる光見ると、わたし、何やしらん息詰まるように感じたのんですが、「まあ、知らん間に晩になってしもて、<ruby><rb>淋</rb><rt>さび</rt></ruby>しいわなあ」と、光子さんがいわれました。「一人やったらほんまに<ruby><rb>恐</rb><rt>こお</rt></ruby>うていられへんわなあ」いいますと、「好きな人と二人だけやったらこんな淋しい所の方がええわ」と、そないいうて光子さんはためいきついておられました。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>あんたと一緒やったらいつまででも<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>でこないしてたいわ。」――わたしはその言葉口いは出さんと、<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>のなかにうずくまって足投げ出してなさる光子さんの横顔<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めてましたが、暗いのんでどんな表情してなさるのんか分りませなんだ。ただ光子さんの白い<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>の向うに、大仏殿の金の<ruby><rb>鯱鉾</rb><rt>しゃちほこ</rt></ruby>が空のうすあかりに底光りしてました。「おそうなったよって帰りまひょ」いうて、そいから山降りて、大軌まで歩いて行きましたらかれこれ七時になってしまいました。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>減ったけど、あんたどうする？」「きょうは早う帰らんといかんねんわ奈良い行くとも何ともいわんと出て来たよって」と、光子さんは時間気イにしておられましたが、「そないいうたかて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>もうペコペコやわ。おそなりついでやよってええやないか」いうて、無理に引っ張って洋食屋い這入りました。「あんたとこの<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>さん、おそなっても別に何ともいやはれへんか？」と御飯たべながらそんな話が出ました。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>のあの人、そんなこと何とも干渉しやはれへん。それに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、あんたと仲好うなったことちゃあんと話したあるわ。」「そしたらどないいやはった？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>があんまりあんたのことばっかりいうよって、あの人いうたら、そんな綺麗な人やったら一ぺん会うてみたいなあ、いっそ遊びに<ruby><rb>来</rb><rt>け</rt></ruby>えへんもんやろかいうてはった。」「あんたの旦那さんいうたら<ruby><rb>優</rb><rt>やさ</rt></ruby>しい人？」「そらもうあの人と来たら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>がどんな勝手<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>な事してもなんともいやはれへんわ。けど、あんまり優しいよって、時によったら張合いないのんで、――」わたし、まだその時までは自分のことは一つも光子さんにいうてなかったのんで、夫と結婚するようになった訳や、それから、あのう、いつやらの恋愛問題や、それについて先生にいろいろ心配して<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>いたことまで、その時すっくりいうてしまいました。光子さんはわたしが、先生知ってるいいましたら、「まあ、そうお？　あんた知ってんのん？」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びっくり</span>しなさって、自分も先生の小説とても好きやよって、一遍連れて行ってくれなされしませんかいうてなさったのんですが、いッつも今度こそ今度こそといいながら、とうとうそのままになってしもうたのんです。「ふうん、そしてあんた、もうその人と交際してへんのん？」と、光子さんは一所懸命にあの事聞きたがりなさって、今はもう交際してえしませんといいますと、「なんでやのん？　そんな、あんたのいうように清い恋やったら交際してもええやないか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>やったら、恋愛と結婚とは別々のように思うけどなあ」なんかいうて、「あんたの旦那さん、その事ちょっとも知りはれへんのん？」「ふん、そらうすうす感じてたかも知れんけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>なんにもその事についていうたことないし、とやかく問題になったようなことなかったわ。」「えらい信用あるねんなあ。」「それよりか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>のこといっそ子供のように思うてるねんわ。そやよって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>気に入らんねんけど」と、わたしそういいました。

その晩家い帰ってみたら十時近くでしたのんで、「えらいおそかったなあ」と、夫はいつにのう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な顔して、何やこう淋しそうにしてたのんが、ちょっと気の毒な気イしました。別に悪いことした訳でも何でもないのんに、夫が長いこと待ちくたぶれて、たった今御飯すましたらしい様子見ると、妙に気がとがめました。そういうと前、恋人と会うてた時分にはよう十時過ぎに帰って来たことありましたけど、この頃になってこないにおそうなったことあれしませなんだ。そいで夫もちょっと気イ廻したのんかも分れしませんが、わたし自身も、何かしらんちょうどあの時と同じような気イしました。

## その五

そうそう、そいからその時分にあのいつぞやの観音さんの絵エ<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>上りましたので、それ夫にみせたことありました。「ふうん、光子さんいうたらこんな人か。お前にしたらこの絵エうもう出来すぎてるなあ」と、夫は晩御飯のときにそれ<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>の上い広げて、一と<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>たべては見、一と箸たべては見いして、「これやったら、さも絵エにかいたようやけど、ほんまにこの通りかいな」と、あやしみながら念押しました。「そらこの絵エ問題になったくらいやもん、よう似てるわ。ほんとの光子さんはこの<ruby><rb>神々</rb><rt>こうごう</rt></ruby>しさの上にちょっと肉感的なとこあるねんけど、日本画にしたらその感じが出えへんねん。」――その絵エわたし、大分骨折りましたのんで自分でもよう<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>けてると思いました。夫はしきりに傑作やいいましたが、とにかくわたしが絵エいうもん習い始めてから、これほど一所懸命に、興味<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>って画いたことはあれしませなんだ。「いっそこの絵エ<ruby><rb>表具</rb><rt>ひょうぐ</rt></ruby>してもろたらどうやねん。それでそれが出来上ってから、光子さんに見に来てもろたらええやないか」と、夫がいいますのんで、わたしもその気イになりまして、そんなら京都の表具屋いやって立派に仕立てさせよと思いながら、ついそのままに放ったあった、或る日イのことでした。「実はこうこういうつもりやねんけど」と、光子さんにその話したら「表具屋いやるぐらいやったら、もう一ぺん画き直して<ruby><rb>見</rb><rt>め</rt></ruby>えへん？――あれはあれでよう出来てるけど、――顔はよう似てるけど、――体の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つき</span>がちょっとだけ違うよってなあ」いわれるんのです。「違うて、どういう風に？」「どういう風にいうたかって、口でいうたぐらいやったら分れへんわ」と、そないいわれたのんが、ただ自分の感じ正直に述べられたのんで、「わたしの体はもっともっと綺麗です」いうような自慢の意味はなかったのんですけど、でも何とのう不満足に思うてなさる様子でしたので、「そんなら一ぺんあんたの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はだか</span>の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこ</rt></ruby>見せて欲しいなあ」いいますと、「そら、見せたげてもかめへんわ」と、すぐに承知しなさいました。

そんな話があったのんやっぱり学校からの帰り道か何処ぞやったんですやろ。「そんならあんた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とこ</span>い行て見せたげるわ」いわれて、たしかその明くる日の午後、学校<ruby><rb>早退</rb><rt>はやび</rt></ruby>きして二人でわたしの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>い来ました。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はだか</span>になったりなんかしたら、あんた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とこ</span>の人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びっくり</span>しやはるやろなあ」と、みちみち光子さんはいうておられましたが、きまりわるがるより、なんぞ面白い遊びでもするように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんちゃ</span>な眼エしておかしがっておられるのんでした。「家にええ部屋あるわ。そこやったら誰にも見られへん、西洋間になってるよって」と、わたしはそないいうて二階の寝室い連れて行きました、「まあ、感じのええ部屋やなあ、とてもハイカラなダブルベッドあるなあ」と、光子さんはそのベッドに腰かけて、お<ruby><rb>臀</rb><rt>しり</rt></ruby>にはずみつけてスプリング<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐいぐい</span><ruby><rb>撓</rb><rt>たゆ</rt></ruby>ましたりしながら、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くおもての海のけしき見ておられました。――宅は海岸の波打ち<ruby><rb>際</rb><rt>ぎわ</rt></ruby>にありますのんで、二階はたいへんに見晴らしええのんです。東の方と、南の方と、両方がガラス窓になってまして、それはとても<ruby><rb>明</rb><rt>あこ</rt></ruby>うて、朝やらおそうまでは寝てられしません。お天気のええ日イは松原の向うに、海越えて遠く紀州あたりの山や、<ruby><rb>金剛山</rb><rt>こんごうさん</rt></ruby>などが見えます。はあ？――はあ、海水浴も出来るのんです。あそこら<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>の海はちょっと行きますと、じきに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どかん</span>と深うになってますので、あぶないのんですけど、<ruby><rb>香櫨園</rb><rt>こうろえん</rt></ruby>だけは海水浴場<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>まして、夏はほんまに<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかやのんです。ちょうどその時分は五月のなかば頃でしたから、「早う夏になったらええのんになあ、毎日でも泳ぎに来るのに」と、部屋の中見廻しながら、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>も結婚したら、こんな寝室持ちたいわ」などというたりしました。「あんたやったら、これどころやあるかいな。もっともっとええとこい行けるやないか。」「そやけど、結婚してしもたらどんな寝室に住んでも、綺麗な<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の中に入れられた鳥のようなもんと違うかしらん？」「そら、そんな気イすることもあるけど、――」「あんた、此処は夫婦の秘密室やないかいな。わたしこんな部屋い引っ張って来て、旦那さんに<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られへん？」「秘密室かってかめへんやないか。あんただけは特別やもん。」「そないいうても、夫婦の寝室は神聖なもんやいうさかいに、……」「そしたら処女の裸体かって神聖なもんやよって、ここで見せてもらうのが一番ええわ。今のうちやったら光線の<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>もちょうどええよって、はよ見せてほしいわ。」私はそういうて<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>きたてました。「海の方から誰ぞ見てはれへんやろか。」「あほらしい、あんな沖の方にいる船から何が見えるもんかいな。」「そやけど、ここはガラス窓やよってなあ。――そこのカーテン締めてほしいわ。」五月いうても眼エ痛うになるほどキラキラするお天気でしたから窓はところどころ開け放してありましたが、それすっかり締め切ってしもうたのんで、部屋のなかは汗がたらたら流れるぐらいの暑さでした。光子さんは観音さんのポーズするのに、なんぞ<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくえ</rt></ruby>の代りになるような白い布がほしいいうのんで、ベッドのシーツ<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がしました。そして洋服<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>の蔭い<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>て、帯ほどいて、髪ばらばらにして、きれいに<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>いて、はだかの上いそのシーツをちょうど観音さんのように頭からゆるやかにまといました。「ちょっと見てごらん、こないしてみたら、あんたの絵エと大分違うやろ。」そういうて光子さんは、箪笥の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>に附いている姿見の前い立って、自分で自分の美しさに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼう</span>っとしておられるのんでした。「まあ、あんた、綺麗な体しててんなあ。」――わたしはなんや、こんな見事な宝持ちながら今までそれ何で隠してなさったのんかと、<ruby><rb>批難</rb><rt>ひなん</rt></ruby>するような気持でいいました。わたしの絵エは顔こそ似せてありますけど、体はＹ子というモデル女うつしたのんですから、似ていないのはあたりまえです。それに日本画の方のモデル女は体よりも顔のきれいなのんが多いのんで、そのＹ子という人も、体はそんなに立派ではのうて、<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>なんかも荒れてまして、黒く濁ったような感じでしたから、それ<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れた眼エには、ほんまに雪と墨ほどの違いのように思われました。「あんた、こんな綺麗な体やのんに、なんで今まで隠してたん？」と、わたしはとうとう口に出して恨みごというてしまいました。そして「あんまりやわ、あんまりやわ」いうてるうちに、どういう訳や涙が一杯たまって来まして、うしろから光子さんに抱きついて、涙の顔を白衣の肩の上に載せて、二人して姿見のなかを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んでいました。「まあ、あんた、どうかしてるなあ」と光子さんは鏡に映ってる涙見ながら<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れたようにいわれるのんです。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、あんまり綺麗なもん見たりしたら、感激して涙が出て来るねん。」私はそういうたなり、とめどのう涙流れるのん<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>こうともせんと、いつまでもじっと抱きついてました。

## その六

「さあ、もう分ったやろ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>着物きるわなあ」いわれるのんを、「イヤや、イヤや、もっと見せてほしいイッ」と、わたしは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">甘えた</span>みたいに首振って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せがみ</span>ました。「あほらしいもない、いつまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はだか</span>になってたかてしょうがないやないか。」「しょうがあるとも。あんた、まだ、ほんとのはだかになってえへんやないか。この白い物取ってしもたら、――」そういうていきなり肩にかかってるシーツ<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みますと、「放してほし！　放してほし！」と、一所懸命に<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>がされまいとしなさるのんで、シーツがびりびり破れました。わたしは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かあ</span>ッと逆上してしもて、くやし涙一杯浮かべて、「そんならいらん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>あんたそんな水臭い人や思てえへなんだのに、もうええわ。もうきょう限り友達でもなんでもないわ」と破れたシーツを口で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずたずた</span>に引き裂きました。「まあ、あんた、気イでも違うたんか。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>あんたみたいに薄情な人知らんわ。あんた、こないだ、もうお互に一切隠しごとせんいうて約束したやないか。あんたの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>つき！」――その時はよっぽどどうかしてたと見えまして、自分で覚えないのんですけど、まっさおになってぶるぶる<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>いながら光子さんを<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつけた顔つきが、ほんまに気でも狂うたように思えましたそうです。そういうと光子さんもやっぱり黙ってわたしの顔じーッと<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>つめたまま、ふるてなさったようでしたが、ついさっきまでの気高い楊柳観音のポーズ<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れて、<ruby><rb>羞</rb><rt>はず</rt></ruby>かしそうに両方の肩おさえて、一方の足の先を一方の上に重ねて、<ruby><rb>片膝</rb><rt>かたひざ</rt></ruby>を「く」の字なりにすぼめながら立ってなさるのんが、哀れにも美しゅう思えました。わたしはちょっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いたいた</span>しい気イしましてんけど、シーツの破れ目から<ruby><rb>堆</rb><rt>うずたか</rt></ruby>く盛り上った肩の肉が白い肌をのぞかせてるのを見ますと、いっそ残酷に引きちぎってやりとうなって、夢中で飛びついて荒々しゅうシーツ剥がしました。わたしも真剣なら、光子さんも気イ<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>まれたと見えまして、こっちのするままになりながら、もう何事もいわれませなんだ。ただ両方が憎々しいくらいな激しい眼つき片時も<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らさんと相手の顔いそそいでました。わたしはとうど思い通りにしてやったいう勝利のほほえみを、――冷ややかな、意地の悪いほほえみを口もとに浮かべて、体に巻きついてるものを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だんだん</span>に解いて行きましたが、次第に神聖な処女の彫像が現われて来ますと、勝利の感じがいつのまにやら驚歎の声に変って行きました。「ああ憎たらしい、こんな綺麗な体してて、――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>あんた殺してやりたい。」わたしはそういうて光子さんのふるてる<ruby><rb>手頸</rb><rt>てくび</rt></ruby>しっかり握りしめたまま、一方の手エで顔引き寄せて、<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>持って行きました。すると突然光子さんの方からも、「殺して、殺して、――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>あんたに殺されたい、――」と、物狂おしい声聞えて、それが熱い息と一緒に私の顔いかかりました。見ると光子さんの<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>にも涙流れてるのんです。二人は腕と腕とを互の背中で組み合うて、どっちの涙やら分らん涙飲み込みました。

その日はわたし、別にどうという考はありませんでしたけど、光子さん連れて来ること夫に黙ってましたのんで、夫の方では学校の帰りにわたしが事務所い寄る思うて、ゆうがたまで待ってましたそうですが、いつまでたっても来ませんのんで、家い電話かけて来ました。「そんなんやったら、ちょっと知らしてくれたらええのに。えらい待ちぼけ<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>うたもんや。」「ついうっかりしてて<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>まなんだけど、急に話がまとまってしもてん。」「そんで、光子さんまだいやはんのか。」「いやはるけど、もう<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>き帰りはるやろ。」「まあもうちょっと留めといたげエな、僕こいから直ぐ帰るわ。」「そしたら大急ぎで頼むわ。」――わたしは口ではそういいましたけど、心のうちでは夫が戻って来ますのん何や面白う思いませなんだ。さっきの寝室の事あってから、わたしの胸には幸福の感じが満ち満ちてまして、今日は何という楽しい日イやろと、足が地に着かんように浮き浮きして、<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なことにも直ぐに心臓<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どき</span>ッと<ruby><rb>早鐘</rb><rt>はやがね</rt></ruby>打つようになってましたのんに、夫に帰って来られてはその<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>の幸福へヒビが入るように感じたのんです。わたしはただもう光子さんと二人きりで、いつまでも話してたかったのんです。いえ、話なんかせえでも<ruby><rb>構</rb><rt>か</rt></ruby>めしません、黙って光子さんの顔さい見てられたら、――自分がその人のそばにいるいうことだけで、限りない幸福が胸一杯になるのんです。「なあ光子さん、今電話がかかってなあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の人帰って来るそうやねんけど、あんたどないする？」「えー、どうしょう――」と、光子さんは<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて着物着ながら、――もう夕方の五時時分でしたが、その時まで二、三時間もシーツ一つでいなさったのんです。――「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>会わんと帰ったら悪いかしらん？」「あんたに会いたいいうてたけど、……今じっき帰って来るよって待ってたらどう？」わたしはそういうて引き留めはしましたもんの、その実夫が戻らん先に早う出て行ってくれはったらええ思いました。そうというのんが、今日の一日を完全に幸福な一日として終らしたい、折角のうつくしい日の思い出を、第三者のために不純にさしてしまいたくないと願うたのんです。そんな気持があったもんですから、夫が帰って来ました時には、自然とその不満の色顔い出まして、妙にふさぎ込んでしまいました。光子さんも、わたしがそういう風でしたし、初対面でもありますし、それにいくらか気イとがめてもいなさったのんでしょう、あんまり物数いわれませんのんで、三人ながら<ruby><rb>手持無沙汰</rb><rt>てもちぶたさ</rt></ruby>で、めいめい何や別な事考えてる、というたようなあんばいでした。そうなるとわたしは、いよいよ邪魔しられたのんが腹立たしいて、夫憎うさい感じました。「二人で何して遊んでてん？」と、夫は光子さんの手前、ぼつぼつそんなこと話しかけました。「今日は寝室アトリエに<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>てしもてん」と、わたしはわざとあっさりいうて<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けました、「――観音さんの絵エ画きなおそ<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>て、光子さんにモデルになってもろてん。」「ロクな絵エもよう画かんくせに、モデルこそええ迷惑やなあ。」「そやけど、モデルの名誉回復のために画きなおしてくれいわれてんもん。」「お<ruby><rb>前</rb><rt>まい</rt></ruby>らなんぼ画いたかってモデル<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わやくちゃ</span>にするだけや。モデルの方がずっと綺麗やないか。」夫婦がそんなことをいい合うてるあいだ、光子さんは<ruby><rb>羞</rb><rt>はず</rt></ruby>かしそうに下向いて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くつくつ</span>笑うてなさるだけで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てん</span>と話はずまずに、間ものう帰ってしまわれました。

## その七

ここにその時分やりとりしました手紙持って来ましたから、お読みになって下さいませ。まだこの外にもたんとたんとありますけど、とてもみんなは持って来られしませなんだのんで、これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほん</span>の一部分、その中の面白そうなのん<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>って来ましたのんです。こっちの方のが古いのんで大体順番になってますから、どうぞこれから見て下さいませ。光子さんからわたしの方い来ましたのんは<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>ッつ残らず大事にしもて置いたのですが、わたしの方から光子さんい上げたのんが中に交ってますのんは、それはあのう、あとで話しますけど、少し事情ありまして、あの方の家から取り戻しましたのんです。（作者註、柿内未亡人がほんの一部分だといったところのそれらの<ruby><rb>文穀</rb><rt>ふみがら</rt></ruby>は、約八寸立方ほどの<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>の<ruby><rb>帛紗</rb><rt>ふくさ</rt></ruby>包みにハチ切れるくらいになっていて、帛紗の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>が<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて四つに結ばれていた。その小さい堅い結び目を解くのに彼女の指頭は<ruby><rb>紅</rb><rt>くれない</rt></ruby>を<ruby><rb>潮</rb><rt>ちょう</rt></ruby>し、そこを<ruby><rb>抓</rb><rt>つね</rt></ruby>っているように見えた。やがて中から取り出された手紙の数々は、まるで千代紙のあらゆる種類がこぼれ出たかのようであった。なぜならそれらは<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くなまめかしい極彩色の模様のある、木版刷りの封筒に入れられているのである。封筒の型は四つ折りにした婦人用のレターペーパーがやっと<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るほどに小さく、その表面に四度刷りもしくは五度刷りの<ruby><rb>竹久夢二</rb><rt>たけひさゆめじ</rt></ruby>風の美人画、月見草、すずらん、チューリップなどの模様が置かれてある。作者はこれを見て少からず驚かされた。けだしこういうケバケバしい封筒の趣味は決して東京の女にはない。たといそれが恋文であっても、東京の女はもっとさっぱりしたのを使う。彼女たちにこんなのを見せたら、なんてイヤ味ッたらしいんだろうと、一言の下に<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>されること<ruby><rb>請</rb><rt>う</rt></ruby>け合いである。男も彼の恋人からこういう封筒の文を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったら、彼が東京人である限り、一朝にしてあいそを尽かしてしまうであろう。とにかくその毒々しいあくどい趣味は、さすがに大阪の女である。そうしてそれが相愛し合う女同士の間に<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>されたものであるのを思う時、<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>あくどさが感ぜられる。ここにその手紙のうちからこの物語の真相を知るのに参考になるものだけを引用するが、ついでにそれらの模様についても、一つ一つ紹介するであろう。思うにそれらの意匠の方が時としては手紙の内容よりも、二人の恋の背景として一層の価値があるからである。――）

（五月六日、柿内夫人園子より光子へ。封筒の寸法は<ruby><rb>縦</rb><rt>たて</rt></ruby>四寸、横二寸三分、<ruby><rb>鴇</rb><rt>とき</rt></ruby>色地に桜ン坊とハート型の模様がある。桜ン坊はすべてで五<ruby><rb>顆</rb><rt>か</rt></ruby>、黒い茎に<ruby><rb>真紅</rb><rt>まっか</rt></ruby>な実が附いているもの。ハート型は十箇で、二箇ずつ重なっている。上の方のは薄紫、下の方のは金色、封筒の天地にも金色のギザギザで輪郭が取ってある。レターペーパーは一面に<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>くうすい緑で<ruby><rb>蔦</rb><rt>つた</rt></ruby>の葉が刷ってある上に銀の点線で<ruby><rb>罫</rb><rt>けい</rt></ruby>が引いてある。夫人の<ruby><rb>筆蹟</rb><rt>ひっせき</rt></ruby>はペン字であるが、字の略しかたにゴマカシがないのを見れば相当に習字の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>を積んだものに違いなく、女学校では能筆の方だったであろう。<ruby><rb>小野鵞堂</rb><rt>おのがどう</rt></ruby>の書風を更に骨無しにしたような、よくいえば流麗、わるくいえば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬらりくらり</span>した字体で、それがまた不思議なくらい封筒の絵とぴったり合っている。）

しと〱〱〱……今夜は<ruby><rb>五月雨</rb><rt>さみだれ</rt></ruby>が降っている。あたしは今窓の外の<ruby><rb>桐</rb><rt>きり</rt></ruby>の花にふりそそぐ雨の音をききながら、あの、あなたが編んで下さった<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>いシェードの<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れているスタンドの蔭でじっと机にむかっています。なんだかうっとうしい晩だけれど、<ruby><rb>軒端</rb><rt>のきば</rt></ruby>を伝う雨の<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>に静かに耳を傾けていると、思いなしかそれがやさしい<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きのように聞えて来る。しと〱〱〱……何をささやいているのか知らん？　しと〱〱……ああそうだ、光子光子光子、……恋しい人の名を呼んでいるのだ。徳光徳光、……光子光子、……徳、徳、徳、……光、光、光、……あたしはいつの間にかペンを取って、左の手の指の先へ「徳光」という字や「光子」という字を数限りもなく書いていた、親指から小指まで順々に。

<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>して<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>、こんなつまらないことを書いて。

毎日顔が見られるのに手紙なんか書くのはおかしい？　でも学校だと傍へ寄るのがきまりが悪くて妙に気がひけるのだもの。そういえばこんなにならないうちはわざとお互に寄り添うてみんなに見せびらかしたのに、<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>が事実になってしもてからかいって人目を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るようになるなんて、やっぱりあたし気が弱いのかしらん？　ああ、どうかして強くなりたい、もっと、もっと、……神をも、仏をも、親をも、夫をも、恐れないほど強く強く、……

明日の午後はお茶の稽古？　そしたら三時にあたしの家に来られない？　あした学校でイエスかノーを知らして頂戴、この間のように合図してね。きっと、きっと、きっと来て！　今もテーブルの<ruby><rb>瑠璃</rb><rt>るり</rt></ruby>の花瓶の中で<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びかけた白い<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>が、あたしと一緒にあえかなためいきを<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしながらあなたの来るのを待っているの。失望させると可愛い芍薬の花が泣きます。洋服<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>の姿見もあなたの姿を映したいといっています。ではきっと！

明日のお昼の遊び時間にあたしはいつもの運動場のプラタナスの下に立っています。合図を忘れてはいけません。

園

光様

（五月十一日、光子より園子へ。封筒縦四寸五分。横二寸三分。オールドローズの地色の中央に幅一寸四分ほどの広さに<ruby><rb>碁盤目</rb><rt>ごばんめ</rt></ruby>が通っていて、その中に四つ葉のクローバーを散らし、下の方に<ruby><rb>骨牌</rb><rt>カルタ</rt></ruby>が二枚、ハートの一とスペードの六が重なっている。碁盤目とクローバーは銀色、ハートは赤、スペードは黒、レターペーパーは濃い<ruby><rb>鳶色</rb><rt>とびいろ</rt></ruby>の無地で、その右下の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の所から斜めに白絵の具のペン字で文句が書いてある。筆蹟は園子より<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>く、落ち着きのない走り書きのように見えるが、この方が字体が大きく、イヤ味がなくて生き生きとした奔放な感を与える。）

姉ちゃん

光は今日一日機嫌が悪かったの。床の間の花をむしったり罪もない梅（専ら光子に<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いている<ruby><rb>小間使</rb><rt>こまづかい</rt></ruby>の名）を叱り飛ばしたり、――光はきっと日曜になると機嫌が悪いの。なぜって一日姉ちゃんに会えないのだもの。なぜハズさんがいると来てはいけないの？　でも電話ぐらいならと思って、さっきかけたらハズさんと一緒に<ruby><rb>鳴尾</rb><rt>なるお</rt></ruby>へ<ruby><rb>苺狩</rb><rt>いちごがり</rt></ruby>に行ってお留守！　まあお楽しみ！

ひどい、ひどい！

あんまりやわ、あんまりやわ！

光は一人で泣いています。

ああ、ああ、ああ

くやしいからもうなんにもいわない、

Ta Sœur Clair

Ma Chère Sœur Mlle\. Jardin

（上文中の<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Ta Sœur”</span>は<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>語で<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Your Sister”</span>ということ、<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Clair”</span>は光の義から転じて「光子」を意味するのであろう。<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Ma Chère Sœur”</span>は<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“My Dear Sister”</span><span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Mlle\. Jardin”</span>は<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Miss Garden”</span>にて「園子嬢」の意。「マダム・ジャルダン」といわないで「マドモワゼル・ジャルダン」としたについては<ruby><rb>宛名</rb><rt>あてな</rt></ruby>の末に下の如く追記してある。――）

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>姉ちゃんを「マダム」とはいわない。

「奥様」――まあ嫌な！　思ても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞっ</span>とする！

でもこんなことハズさんに知れたら大変ね、

Be careful\!

姉ちゃんはなんで手紙に「園子」とサインするの？　なんで「姉より」としてくれないの？

（五月十八日、園子より光子へ。封筒縦四寸横二寸四分。図は横に<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>いてある。<ruby><rb>緋色</rb><rt>ひいろ</rt></ruby>の地に<ruby><rb>鹿</rb><rt>か</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>りのような銀の点線が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っていて、下に大きな桜の花弁の端が三枚見え、その上に後姿の<ruby><rb>舞妓</rb><rt>まいこ</rt></ruby>が半身を出している。緋、紫、黒、銀、青の五度刷りの最も色彩の濃厚なもの。従ってその表面へ文字を書いても読みにくいので、宛名は裏面に記してある。レターペーパーは丈七寸幅四寸五分ほどの大きさの中に八寸ぐらいの<ruby><rb>白百合</rb><rt>しらゆり</rt></ruby>の茎のたわめられたのが左へ寄せて描いてあり、その<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りがうす桃色にぼかしてある。故に<ruby><rb>罫</rb><rt>けい</rt></ruby>の引いてある部分は<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに紙面の三分の一の面積しかない。それへ四号活字より小さい文字で細く細く書き続けてある。）

とうとう来た、一度は来るとかねがね覚悟していた事が、……とうとう破裂してしもうた。ゆうべは随分猛烈だった。光ちゃんが見たらどんなにびっくりするかしらん。あたしら夫婦――あ、堪忍して頂戴、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたしら</span>だなんて。――ハズもあたしも久しぶりであんな大喧嘩をした。久しぶりどころかこんなことは結婚以来始めてだった。この前問題があった時でもゆうべのように激しいいい合いをしたことはなかった。あのおとなしい優しい人があんなに腹を立てるなんて！　けど無理もないかも知れない、なぜってあたし今考えるとほんとに悪いことをいったのだもの。どうしてあたしハズに向うとああ強情になれるのかしらん？　それにゆんべは特別に強硬だったの、どういう訳だか。……あたし今度は自分でちっとも済まない事をしたという気が起らないの、でもハズだって随分乱暴なことをいった、不良少女、ヴァンパイア、文学中毒、――ありとあらゆる汚名をあびせて、それでも足りないで光ちゃんのことまでも「寝室の<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにゅうしゃ</rt></ruby>」だの「家庭の破壊者」だのと、――あたし自分のことだけなら堪忍するけど、光ちゃんのことをいわれたのでもう我慢ならなかった。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>が不良少女なら何でそんな者を妻にしなさった。あんたは男らしいもない、あたしの家から学費を出してもらいとうて好きでもない者と結婚しなさったんか。あたしの<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>は初めから分ってるやないか。あんたは<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>や、<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>なしや」と、思いきりくさしてやった。そしたらいきなり灰皿を取って振り上げたのでえらい目に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>わすか思たら、それを壁へ<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけたなり、手荒なこともようせんとまっさおになって黙ってしもた。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の体に<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>でもさして御覧、覚悟があるよって」そういうてもやっぱり黙っていた。それきり今日までハズは一ぺんも口をきかない……。

――その手紙にあるいい合いのことについてはもっと先生に聞いて<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>きたい事があるのんです。前にもお話しましたかどうか、わたしと夫とはどうも性質が合いませんし、それに<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か生理的にも違うてると見えまして、結婚してからほんとに楽しい夫婦生活を味おうたことはありませなんだ。夫にいわすとそれはお前が<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>なからだ。何も性質が合わんことはない、合わさんようにするよってだ。<ruby><rb>己</rb><rt>おれ</rt></ruby>の方は合わすように努めてるのんに、お前がそういう心がけにならんのがいかん。世間の夫婦てそない理想通りに<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>てるのんあれへんで。ハタから見たら円満のようでも、内情知ったら不平のない<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>あるもんか。己らかて人が見たら<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいように見えるかも知れへんし、一般の標準から思たら実際幸福の方かも知れん。お前は世間知らずの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いと</span>はんやよって、自分で自分の幸福が分らんと何や<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>や<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>いうのんや。お前みたいな人間はどない申分のない夫持ってもこれなら満足やいう時あれへんで。と、いつもそないいうのんですけど、私は夫の世の中悟りすましたような、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めたような物のいい方が気に入りませんよって、あんたはちっとも<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>なんかしたことないように見える、あんたという人は人間らしい<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>あれへん、と、そういうて攻撃するのんです。夫の方では私の性質に合わすように努めてるのんですやろけど、それがほんまに気持が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴちっ</span>と合うのんでのうて、こっちを子供扱いにして、ええ加減にあやしてるように思われますのんで、そういう態度が<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に触って仕方あれしません。あんた大学では秀才やったそうやさかい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>みたいなもん定めし幼稚に見えるやろけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>から見たら化石みたいな人やわ、というてやった事もあります。いったいこの人の胸にはパッションいうものがあるのかしらん？　この人でも泣いたり<ruby><rb>怒</rb><rt>おこ</rt></ruby>ったり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びっくり</span>したりする事あるのかしらん？　私は冷静な夫の性格にやるせない淋しさ感じたばかりやのうて、いつの間にやら一種の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わるさ</span>じみた好奇心抱いてましたのんで、それがこの前のことや光子さんのことや、いろいろの事件<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起す元になったのんです。

## その八

でも前の事件の時分は結婚して間もないことで、まだ処女時代の純真さ持ってましたから、今よりは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぶ</span>で、気イ小そうて、夫に済まんいう心持強いでしたけど、その手紙にもありますように今度はさっぱりそんな気持になりませなんだ。わたしかって、ほんまいうたら夫の知らん間にたんと苦労しましたのんで、だんだん<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れて、ずるうなってたのんですが、夫にはそれ分らんと、いまだに子供や子供や思てます。わたし最初それが<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいてなりませんでしたが、口惜しがるとなお馬鹿にしられるので、ようし、<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>が子供や思てるのんなら、何処までもそう思わして、油断さしてやれ、と、次第にそんな気イになりました。うわべはいかにも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんちゃ</span>装うて、都合の悪い時は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だだ</span>こねたり甘えたりして、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中では、ふん、人を子供や思てええ気イになってる、あんたこそお人好しの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんぼん</span>やないか。あんたみたいな人<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>すぐらいじッきやわ、と、<ruby><rb>嘲弄</rb><rt>ちょうろう</rt></ruby>するようになって、しまいにはそれが面白うて何ぞいうとすぐ泣いたり<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>ったりして、自分ながら末恐ろしいなるほど芝居するのんが<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>になってしもて、……先生なんかこんなことよう分っておられますやろけど、ほんまに人間の心理いうもん境遇によってえらいえらい変りようするもんですなあ。前でしたら時に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>っては<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と思て、ああ、こんな事するのんやなかったと、後悔する気イになりましたのんに、今では反抗的に、なんじゃ意気地のない、これぐらいのこと<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>がってどないすると、自分で自分の<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびょう</rt></ruby>あざわらうようになるなんて、……それに、夫に内証で外の男愛したら悪いやろけど、女が女恋いするねんよってかめへん。同性の間でなんぼ親しなったかて夫がそれとやかくいう権利あれへんと、いつもそんな理窟つけて自分の心<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>いてました。その実わたしの光子さんを思う程度は、前の人思うたのより十倍も二十倍も、……百倍も二百倍も熱烈やったのんですけど、……

わたしがそない大胆になったもう一つの理由は、夫は学生時代からそれはもうお話にならんキチン屋のガリガリ屋で、それを父から見込まれましたくらいやのんですから、ほんまに常識一点張りの、ちょっとでも変ったことや普通のことと<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>てることは分らん人やのんで、わたしと光子さんとの間柄なんぞも、なかなか感づかんやろう、やっぱりただの仲好しや思てるやろうと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たか</span>くくってましたのんです。初めは夫もそんなことあるやろうとは夢にも想像してませんでしたが、そのうちにだんだん、なんや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>やなあ思うようになりましたのんですやろ。そらそのはずで、前には学校の帰りがけに事務所い寄って夫誘いましたのんに、近頃ではひとりで先い帰ってしまう。そんで三日に一遍ぐらいはきっと光子さんやって来なさって、二人で長いこと閉じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ってる。モデルに使うねんいうてるけど、何してんのか、何日たっても絵エ出来上らんし、おかしい思うのんあたりまえやのんです。「なあ、光ちゃん、この頃あの人ぼんやり気イつき出して来たよって、用心せんとあかんねん。今日は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>があんた<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>い行くわなあ」いうて、わたしの方から光子さんの家い出かけることもありましたけれど、……はあ、学校でイヤな<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>あったのんは市会議員の中傷やいうこと分りましたのんで、光子さんのお母さんはちょっとも私疑ごうてなされしませなんだ。わたしも信用落したらいかん思て、<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねるたんびにお母さんの<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>取ってましたのんで、「柿内の奥さん奥さん」いうて、「ええ友達が出来てよろしおますなあ」いうてなさった。それくらいですよって、毎日ほど遊びに行ても電話かけても<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>いあれしませなんだけど、……お母さんの外にその手紙にある梅いうお<ruby><rb>附</rb><rt>つき</rt></ruby>の<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>もいますし、いろいろハタ眼があるもんですよって、わたしの家のような訳には行きません。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>とこやっぱりあかんなあ。折角お母ちゃんが姉ちゃん信用してはんのに、<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>なことしてしもたら厄介やさかい」いうて、「そうそう、宝塚の新温泉どうやろ？」と、光子さんがいい出しなさって、二人で<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>い行て家族風呂い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>りながら、「姉ちゃんずるいわ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>の裸ばっかり見せてくれ見せてくれいうて、自分のんちっとも見せん癖に。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>ずるいことないねんけど、あんたがあんまり白いよって恥かしいねん。あんた、こんな黒い体見ても愛想尽かさんといてなあ」いうたりしましたが、わたしほんとに、自分の<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>初めて光子さんに見せた時は、一緒に並ぶのんイヤな気イしました。光子さんは色が飛び切り白いだけでのうて、体の釣合いよう取れてて、姿が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すら</span>ッとしてなさるのんで、それに比べたら、何や急に自分の体<ruby><rb>無細工</rb><rt>ぶさいく</rt></ruby>に思われて来て、……「姉ちゃんかって綺麗やないかいな、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>とちっとも変れへんもん」いわれますと、しまいにはそれを<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>に受けて何とも思わんようになりましたけど、……初めはわたし身がちぢむように感じました。

それであのう、その前の日曜に夫と二人で<ruby><rb>苺狩</rb><rt>いちごがり</rt></ruby>に行たことが光子さんの手紙にありますでしょう。その日は実はまた宝塚い行きたいなあ思てたとこい、「どうや、今日は天気ええよって<ruby><rb>鳴尾</rb><rt>なるお</rt></ruby>い行てめえへんか」いわれましたのんで、あいさには夫の機嫌取っといてやれ思いまして、イヤやなあ思いながら出かけたのんですけど、魂は光子さんのところ飛んで行てしもて、ちょっとも興乗りませなんだ。恋いしさが<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>れば募るほど、なんやかやと話しかける夫がうるそうて、腹立たしいて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろくさま</span>返事もせんと一日ふさぎ込んでましたよって、その時からもう夫の方は一ぺん<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らしてやらんならんと考えたらしいのんです。けど例に依ってなんや浮かん顔してるだけで、喜怒哀楽をなかなか面へ表わさん人やもんですから、わたしの方ではまさかそない怒らしたとは気イつけしませなんだ。そして夕方帰って来ると、留守に電話かかったいうのんで<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいて口惜しいて、夫や家の者たちにぷんぷん当り散らしました。そしたら明くる朝光子さんから恨みの手紙来ましたよって、すぐ電話で打ち合わして、阪急の梅田で落ち合うて、学校い行かんと、そのまま宝塚い行てしもて、それから一週間ほどずうッと一日も欠かさんと宝塚い行てたのんです。そうそう、さっきのあの写真、それはちょうどその頃に<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いの着物出来ましたのんで、二人で記念に<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>ったのんですが、……そして、苺狩に行た日から五、六日たってからやったか知らん、或る日二階でいつものように話してると、三時過ぎ頃に<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>が<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby><ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け上って来て、「旦那さん帰って来やはりましたでエ！」いいますのんで、「えー、なんでやろこんな時分に！」と、えらいまごついてしもて、「光ちゃん、<ruby><rb>早</rb><rt>は</rt></ruby>よしいでわ！」いいながら、二人とも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な顔して下い降りて行たことありましてん。夫はその間に洋服をセルの<ruby><rb>単衣物</rb><rt>ひとえもの</rt></ruby>に着かえてしもてまして、わたしたち見た瞬間ちょっとイヤな顔しましたが、すぐ平気になって、「今日は僕なんにも仕事なかったのんで事務所<ruby><rb>早退</rb><rt>はやび</rt></ruby>きして来てん、お前らも学校<ruby><rb>怠</rb><rt>なま</rt></ruby>けててんなあ」いうて、「お茶でも入れて何ぞうまいお菓子ンでも出さんかいな、お客さんもあるし、……」と、それなり三人で無駄話しながら何事ものう済みましたけど、その時うっかり光子さんが私のこと「姉ちゃん」いうてしもたのんで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>としました。「あんた、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>のこと『姉ちゃん』いわんと『園ちゃん』いうてくれた方がええなあ、つい口癖になってしもて誰の前でも出るよって」と、わたし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょっちゅう</span>いうてましたのんですけど、そういうといつも光子さん気イ悪うして、「イヤや、イヤや、そんな水臭いことあるもんか、姉ちゃんは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に『姉ちゃん』いわれるのん<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>か？」いいなさって、「頼むさかい『姉ちゃん』いわして！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、人のいる時きっときっと気イつけるよって！」いうてなさったのんですが、とうどそこで出てしもたのんです。そんで光子さんが帰ってしまいなさってから、夫も私も奥歯に物<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>まったような<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>でした。そいからその明くる日の夕方、晩御飯たべたあとで、「僕、どうもこの頃のお前の<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby><ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちんねんけど、何ぞ訳あるのん違うか」いうて、ふと思いついたように<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねますのんで、「腑に落ちんてどういう工合に？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、自分で一向気イつかんけど」いうてやりますと、「お前、あの光子いう<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>とえらい仲ええようやけど、一体あの児どない思てんねん？」いうのんです。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、光子さん大好きやわ、そやよって仲好うしてんねんわ。」「好きは分ってる、どういう意味で好きやねん？」「好きいうことは感情やもん、理由やかいあれへんわ。」――わたし、弱み見せたらいかん思て、故意に挑戦的に出てやりましたのんで、「そうお前みたいに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽんぽん</span>いわんと、もっと落ち着いて分るように話したらええやないか」いうて、「好きにもいろいろの意味があるし、――学校でそんな<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>あったりしたんやさかい――誤解受けたらためにならん思うよって<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねてんねん」いいます。「万が一そんなこと世間い聞えてみいな、あの児よりお前が責任あんでエ。お前の方が<ruby><rb>歳上</rb><rt>としうえ</rt></ruby>やし、夫のある身イやし、……そしたらあの児の親たちに対しても申訳立たんやないか。お前だけやない、僕かって黙って見てたいわれたら、後日になってどないにもいいようない。」わたしは夫のいうこと一々胸にこたえましたけど、そんでも強情張って、「もう分ってる、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、そんな、友達のことまで何や彼や干渉されるのん<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>いやわ。あんたはあんたで好きな友達持ったらええし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>で勝手にさしといて欲しいわ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>かって自分の責任ぐらい知ってまッせ」いうてやりました。「ふん、そら、普通の意味の友達やったら僕は決して干渉せえへん。そやけど、毎日のように学校休んだり、夫の眼エをかすめたり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こそ</span>ッと人の<ruby><rb>居</rb><rt>い</rt></ruby>ん<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>い<ruby><rb>閉</rb><rt>と</rt></ruby>じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ったりするようなんは、健全な交際とは認められん。」「へえ、あんた、おかしいこというねんなあ。そんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な想像するなんて、あんたこそ下等やないか。」「もしほんとに僕の方が下等やったら、なんぼでも<ruby><rb>詫</rb><rt>あやま</rt></ruby>る。僕はなるべく僕の想像<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>らんように祈ってる。けど、お前は僕を下等やいう前に自分の良心に訴えてみる必要ないのんか。自分にちょっとも<ruby><rb>疚</rb><rt>やま</rt></ruby>しいとこないいえるのんか。」「なんでまた今日そんな事いい出したん？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>は光子さんの顔好きやさかい、それ<ruby><rb>元</rb><rt>もと</rt></ruby>で友達になったいうことは、あんたかって知ってるやないか。あんた自分で、そんな綺麗な人やったら会わしてくれいうたやないか。誰かって綺麗な人好きになるのん当り前やし、女同士の間やったら美術品愛するのんと同じやんのに、それ不健全いうたら、あんたの方がもっともっと不健全やわ。」「そやかって、美術品愛するのんやったら何も二人だけで閉じ籠らんと、僕のいる前でもええはずやが、……いつでも僕が帰って来ると、お前ら妙にモジモジしてるのんどういう訳や？　それに第一、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょうだい</span>でもないのんに『姉ちゃん』やの『妹』やのいうのんから、気に入らん。」「あほらしい！　あんた女学生間のことちょっとも知らんねんなあ。誰でもみんな仲のええもの同士やったら、『姉ちゃん』や『妹』やいうのん珍しいことあれへんわ。そんなこと不思議がんのん、あんたぐらいなもんやわ」その晩は夫もなかなか負けてませなんだ。いつもやったら私が少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だだ</span><ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ねたら、「しょうのない<ruby><rb>奴</rb><rt>や</rt></ruby>ッちゃなあ」いうて、ええ加減にあきらめてしまいますのんに、イヤに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねちねち</span>追窮して「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>ついてもあかん、僕ちゃあんと<ruby><rb>清</rb><rt>きよ</rt></ruby>に聞いてるねん」いうて、絵エ書くためでないのん分ってる、一体何してるのんか、はっきり説明してみいいいます。「そんなこと説明の限りやない。絵エ画くいうても本職の絵かきがモデル<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>て製作すんのんと違うねんもん、どうせ遊び半分やよって、そない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きっちり</span>と<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>くさってばっかりもいられへん。」「そんなら二階使わんかって、下の部屋でしたらええやないか。」「使ても悪いことあれへんやんか。――あんた、一ぺん絵かきのアトリエい行て絵エ<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>くとこ見て御覧、本職の人かって製作するのんにそない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むずかしい</span>顔ばっかりして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せッせ</span>としてるもんあれへんわ。――休み休み気分の動くのん待つようにして画かんと、ええもん<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>へんよってなあ。」「お前そんなえらそうな口きいて、いつぞ一ぺん絵エ出来上るつもりかいな。」「出来る出来んは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>問題にしてえへん。光子さんいうたら顔ばっかりやのうて、そらもう体じゅう<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>い着きたいように綺麗やさかい、観音様のポーズしてもろてそれ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じい</span>ッと眺めてると、絵エ画かんかって何時間でも見飽きせえへん。」「あの児はそないして、何時間でもお前に肌見られてて平気やのんか？」「そらそやわ。女が女に見せるねんもん<ruby><rb>羞</rb><rt>はず</rt></ruby>かしいことあれへんし、誰かて自分の肌<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>められて悪い気イせえへんやんかいな。」「なんぼ女同士やかて<ruby><rb>昼日中</rb><rt>ひるひなか</rt></ruby>若い女が裸になったりして、お前らまるで気違い<ruby><rb>沙汰</rb><rt>ざた</rt></ruby>やな。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>あんたのようにコンヴェンションに<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われてえへんよってなあ。――あんた、映画女優の裸体見てつくづく綺麗やなあと感じたことあれへんか？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>やったらそんな時ええ景色見るのんと同じように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっとり</span>として何ちゅうことなしに幸福な、生きがいある感じして来て、しまいには涙出て来んねん。『美』の感覚のない人に説明したかて分れへんやろけど。」「そんなことが『美』の感覚と何の関係あるもんか、そら変態性慾や。」「あんたこそ頭古いねん。」「馬鹿いいな！　お前は年中しょうむない恋愛小説ばっかり読んでるよって、文学中毒起してんねん。」「うるさいなあ、ほんまに」いうて、私が取り合わんと横向いてしまうと、「一体あの光子いう児も真面目なお嬢さんとは受け取られへん。少し常識のあるもんやったら、人の家庭へ<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>して平和破壊するようなことする訳あれへん。あらきっと性質ええことない児やで。あんなもんと附き合うてたらお前も今に迷惑するでエ。」――自分のことよか好きな人のこといわれた方がどないに口惜しいか知れんもんで、この光子さんの悪口が出ると思わず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むか</span>ッとしました。「何やのん、あんた！　あんた何の権利あって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>が大好きやいう人のこととやかくいうのん？　光子さんほど姿と性質の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴち</span>ッと合った人、世界じゅう捜したかってまたとあれへん。あんな心の清い人、人間やあれへん、観音様と同じこッちゃ。悪口いうたら<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>のうて<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>あたるわ！」「それ見い！　そんなこというのんが正気の沙汰やあれへん！　気違いのいい草や。」「あんたこそ人間の化石や。」「お前いつの間にや立派な不良少女になってしもてんなあ。」「どうせ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>不良やよってなあ。――そんなこと昔から分ってんのんに何でそんなもんと結婚しなはってん？　あんた、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>のお父さんに洋行費出してもらいとうて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span><ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いなはったん？　きっとそうだッしゃろ！」なんぼ人のええ夫でもこんだけいうたら見る見る額に青筋立てて、「なんやと、もう一ぺんいうてみい！」と、珍しいことに大声で怒鳴りました。「ふん、何べんでもいうたげるわ！　あんたは男らしいもない、お金が欲しいて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>と結婚してんやろ！　<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>もん」途端に夫が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むく</span>ッとすわり直した思たら、なんやシューッと白い物飛んで、カチッと後の壁い当りました。夢中で首ちぢめたのんで私は何ともありませなんだが、灰皿取って投げ付けたのんです。夫が仮にも私に対して手エ挙げるなんぞいうことは今まで一ぺんもなかったのんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かっ</span>と興奮してしもて、「あんた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>がそないにまで憎いのんか！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の体にカスリ傷でもさしたらお父さんにいうたげるさかい、それ承知やったら<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>くなと殺すなと勝手にしなさい！　さあ殺して欲し！　殺していうたら！」夫は「馬鹿！」いうたなり、半狂乱に泣きわめいてる私の姿<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて眺めてるだけでした。

夫も私もそんなり口ききませんで、明くる日一日<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み合いつづけて、晩に寝室い這入ります時もやっぱり黙ったままでしたが、夜中ごろに夫が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くるり</span>と向き直って、肩い手エかけて、私の体を自分の方へ向け変えようとしますのんで、しられる通りにしながら眠った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふり</span>してますと、「ゆうべは僕もちょっといい過ぎた。そやけどそれもお前を愛してる結果やいうことはお前も分ってるやろ。僕は態度が無愛想やよって冷淡なように見えるけど、心は冷淡と違うつもりや。僕に悪いとこあったら出来るだけ改めるようにするさかい、お前も僕の意志尊重してんか。僕は決して外の事には干渉せん、ただあの光子いう児とは今後交際せんといてくれ。<ruby><rb>何卒</rb><rt>どうか</rt></ruby>それだけ約束してくれ。」「イヤや」と私は、眼エつぶったまま強う首振りました。「それがイヤやったら交際するだけは仕方ないよって、あの児をこの部屋い入れたり、二人だけで何処やかし行かんようにしてくれ。そんでこいからは家出るにも帰るにも僕と一緒にするようにしてくれ。」「イヤや」と私はまた首振りました。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、自分のすること束縛されるのイヤやねん、絶対自由にしてほしいわ。」そういうて私は夫の方い背中向けてしまいました。

## その九

一旦破裂してしもたからにはもう<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いことあれへん。どないなったかて構うもんかと、反動的に一層光子さんが恋しなって、明くる日早速学校い飛んで行きますと、なんでやその日イ姿<ruby><rb>見</rb><rt>め</rt></ruby>えしません。電話かけると今日は京都の親類い行きなさったいわれましたのんで、なおのこと会いとう思うにつけても昨夜の<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>のこと胸一杯に込み上げて来て、夢中で手紙書いてしもたんですが、出してしもてから、あんなこと書いて光子さんどない思うかしらん？　姉ちゃんのハズさんに済まんさかい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>遠慮しようなあいい出しなされへんか思て、急にまた気がかりになりました。ところがその明くる日、運動場のプラタナスの蔭に待ってますと、人目も構わんと「姉ちゃん」いいながら<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けて来なさって、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span><ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>あの手紙読んでなあ、姉ちゃんの顔見るまでは心配で心配で、……」と、両手で肩にぶら下るようにしなさって、下からじっと私を見上げて、涙をためてなさるのんです。「ああ、光ちゃん、あんたかって<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しやろなあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の人にあんなこといわれて……」いうてるうちに私も涙をぼろぼろこぼして、「あんた気イわるしてんのん違う？　そやったら堪忍なあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>あんなこと書かんといたらよかってんけど」いいますと、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>そんなこと、いうてんのん違う。自分のことやったらどないいわれてもかめへんけど、姉ちゃんはハズさんにそないいわれたらきっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>がイヤになれへん！　なあ姉ちゃん、きっと、きっと、イヤになれへんか？」「あほらしいもない、そんなんやったら昨日もあんな手紙書いたり電話かけたりするかいな。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、もうこうなったらどんな事あったかてあんたと別れるもんか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>いうたらあんな人ぐらい<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>り出してやるわ。」「姉ちゃん今はそういうてるけど、今にだんだんイヤになって来て、やっぱりハズさんの方愛するのん違うかしらん？　夫婦いうたらみんな<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>でもそういうもんやいうよって、……」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>あんな人と夫婦やあれへん。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>はマドモワゼルやもん。光ちゃんさい承知やったら、もしもの時は二人で何処いでも逃げて行くわ。」「まあ、姉ちゃん！　それほんまかいな？　きっと、きっと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>違う？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>やないとも！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃあん</span>と覚悟してるわ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かって覚悟してるわ。姉ちゃん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>が死ぬいうたら一緒に死んでくれるなあ？」「死ぬわ、死ぬわ、光ちゃんかって死んでくれるなあ？」――そんな工合で二人の間はその<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>があったためになおのこと深刻になりましたけど、夫は<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>投げたんかそんなり何もいいませなんだのんで、こっちはいよいよ図に乗って大胆になるばかりでした。「もう、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の人あきらめてしもてるわ、ちょっとも遠慮みたいなんすることあれへん。」――私がそういうもんですよって、光子さんもだんだん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずうずう</span>しなりなさって、二階にいる時夫が帰って来ましても「姉ちゃん<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ行ったらイヤや」いうて、自分はもちろん私さえ階下いおろそうとしなされしません。どやすると晩の十時十一時頃までも遊んでなさって、「姉ちゃん家い電話かけてほし」いうて、私からお<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>あさんを電話口い呼び出して「今夜は家で晩御飯をたべなさって何時頃に帰りはりますよって」と、その時分にお梅いう<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>に自動車で迎いに来てもらいます。御飯も二階で二人だけでたべたこともありましたけど、夫がひとり<ruby><rb>手持無沙汰</rb><rt>てもちぶたさ</rt></ruby>にしてますのんで、「どやのん、あんたもお<ruby><rb>相伴</rb><rt>しょうばん</rt></ruby>しやはれへんか」いいますと、「ふん、してもええ」いうて三人でたべること多いでしたが、もうそんな時に光子さんは平気で「姉ちゃん姉ちゃん」いいます。私と話しとうなると、<ruby><rb>夜</rb><rt>よる</rt></ruby><ruby><rb>夜中</rb><rt>よなか</rt></ruby>でも電話<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">りんりん</span>かかって来ます。「何んやのん、今時分？　あんたまだ起きてんのん？」「姉ちゃんもう寝たん？――」「そやかって二時過ぎやないかいな。――<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>たいわア、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、――ええ気持ちで寝てたとこを――」「えらい済んまへんなあ、折角仲好うしてはったとこを、――」「あんた、そんなこといいにわざわざ電話かけたん？」「そらハズさんのある人はええやろけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>はひとりぼっちやよって、淋しいて淋しいて何時になったかって寝られへんわ。」「しょうむない人やなあ。――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だだ</span><ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ねんと<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>寝なはれ、あした遊んだげるさかいなあ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、あしたの朝起きがけに直ぐ姉ちゃんとこい行くさかい、ハズさんが遅うまで寝てはったら、<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>起して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さっさ</span>と追い出してしもてエな。」「ふん、よッしャ、よッしャ、――」「きっとやなあ？」「ふん、ふん、分ってる、分ってる」いうて、そんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たわい</span>ないこと電話口で二、三十分もしゃべってます。手紙なども内証で<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り取りしてたのんだんだん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おおびら</span>になって、光子さんから来ましたのん読みさしのまま机の上などい放り出しときます。――<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も夫は人の手紙を<ruby><rb>偸</rb><rt>ぬす</rt></ruby>み読みするような人間と違いますよって、それは安心してましたけど、そいでも前には読んでしもたら急いで<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだ</rt></ruby>しい入れて<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>かけといたんですのんに。

そないにして、夫の方もいずれまた一と<ruby><rb>波瀾</rb><rt>はらん</rt></ruby>持ち上ること分ってましたが、さしあたり前より都合ようなったくらいですよって、私はますますのぼせてしもて、情熱の奴隷となってしもたのんですが、その最中に、私に取ってまるきり寝耳に水の事が、――もうもうほんまに、夢にも思いがけなんだ事起ったのんです。それいうのんがちょうど六月の三日のことでした。おひる頃に光子さんが来なさって、夕方五時ぐらいまで遊んで帰りなさったあと、夫と二人で晩御飯たべてしもたのん八時で、それから一時間ほどたって、九時ちょっと過ぎた時分に、女子衆が、「大阪から<ruby><rb>奥様</rb><rt>おくさん</rt></ruby>に電話かかってます」いうのんで、「大阪の誰やねん？」いいますと、「誰ともいやはれへんけど、大急ぎで電話口までいうてはります」いうのんです。「もしもしどなた<ruby><rb>様</rb><rt>さん</rt></ruby>ですか」いいますと、「姉ちゃん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>や」いうのんが、光子さんより外にそんないいようする人はないのんですけど、それが電話が遠いのんか、小声でいうてるのんか、聴き取れんぐらいかすかやのんで、何や誰ぞにわるさでもしられてるような気イして、「あんた誰ですねん？　はっきり名前いうて<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>、何番い電話かけなさったん？」と念押しますと、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>やわ、姉ちゃん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span><ruby><rb>西宮</rb><rt>にしのみや</rt></ruby>の一二三四番へかけてんねんわ」と家の電話番号をいう声が、聞いてるとやっぱり<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れものう光子さんで、「……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>なあ、今大阪の南の方にいるねんけど、えらい目に<ruby><rb>遭</rb><rt>お</rt></ruby>うてしもて、……着物盗まれてしもてん。」「<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>やて、着物を？……あんた何してたん？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>お風呂い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>っててん。……<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>なあ、<ruby><rb>南地</rb><rt>なんち</rt></ruby>の料理屋で、内にお風呂あるよって。……」「ふうん、なんでまたそんなとこい行てたん？」「そらいろいろ訳あるねんけど、……こないだから<ruby><rb>是非</rb><rt>ぜひ</rt></ruby>姉ちゃんに聞いてもらわんならん思ててんけど、……ま、その話あとでゆっくりいうよって、……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>今えらいえらい難儀してるよって、……どうぞ助ける思て、あのさっき着てた<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いの着物なあ、あれ大急ぎで届けて欲しいねん。」「そんならあんた、あれからずうッと大阪い廻ってたんか？」「ふん、そやねん。」「あんたそこに誰といるのん？」「そら姉ちゃんの知らん人やねん……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>どないしてもあの着物なかったら今晩家い帰られへんよって、どうぞどうぞ一生のお願いやさかい、あれ届けてもらわれへんかしらん？」――光子さんは泣き声出してなさるのんですが、私は私であんまり意外やったんで、胸が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わくわく</span>して、<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>までガタガタふるえが来ました。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>まで届けたらええのんかいいますと、南の<ruby><rb>太左衛門橋筋</rb><rt>たざえもんばしすじ</rt></ruby>の、<ruby><rb>笠屋町</rb><rt>かさやまち</rt></ruby>の<ruby><rb>井筒</rb><rt>いづつ</rt></ruby>いう家やいいますねんけど、そんな料理屋聞いたことありません。そして着物の外に帯も、帯留も、帯上げも、幸いみんな揃いのものがあったんで、それ持って来てくれいうのんは分るのですが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なんは腰帯や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼて</span>や、<ruby><rb>伊達巻</rb><rt>だてまき</rt></ruby>や、<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>までも盗まれたいうのんで、「そんなら<ruby><rb>半襟</rb><rt>はんえり</rt></ruby>は？」いいましたら、「<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>は助かってん」いうのんです。誰ぞたしかな人に持たして、今から一時間以内、おそても十時までにいいますけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うか</span>ッとした者頼む訳に行きませんし、どないしても私が自分で自動車飛ばすより仕様があれしません。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>が行ってもかめへんか」いいますと、誰ぞさっきからもう一人電話口に附き添うてるあんばいで、それがときどき光子さんに「こないせエ、あないせエ」と<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>してるらしいて、「いっそこないなってしもたら姉ちゃんが来てくれたかってええし、……そうと違うかったら、お梅が今頃梅田の駅で待ってるはずやよって、あれに渡してくれたかってええけど、お梅は所知らんよって頼むのんやったらよう場所を<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せてほし。そんでこっちの名は鈴木いうて<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねて来てほし。」――そこでまた何ぞこそこそ相談するらしいて、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くたってから、「あのなあ、姉ちゃん、……」と、えらいいいにくそうにして、「……あのう、えらい済まんけどなあ、も一人着物ないようにして困ってる人あるねんけど、もしどないぞなるねんやったら、あんたのハズさんの着物、洋服でも日本服でもかめへんよってなあ、……」いうて、「それからあのう、えらいえらい勝手ばっかりいうて申訳ないねんけど、……おあし二十円か三十円持って来てくれたらなおのこと有難いねんけどなあ」いうのんです。「おあしの方はどないぞなるけど、まあとにかく待ってなはれ」いうて電話切ってしもてから、直ぐに自動車いいつけて、夫には「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>ちょっと大阪まで行て来ま。光子さんが急用やいやはるさかい」とたったそれだけいうて、二階い上って大急ぎで<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の中から<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いの着物や何やかんやと、夫が<ruby><rb>余所行</rb><rt>よそゆ</rt></ruby>きの時着る絹セルの<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>と羽織と<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>りの三尺とを出して、風呂敷に包んで、それ女子衆に持たして先い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そッ</span>と玄関まで出さしましたが、「なんやいな今時分からそんな包持って？」と、さすがに夫は気になったらしゅう、自動車い乗ろとする時に奥から出て来ていうのんでした。多分私の様子が<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててもいましたし、顔色も変ってたですやろし、不断着のまま髪も直さんと出て行ことするのんが、よっぽど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>やったのんに違いないのんで、「なんや<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>にもさっぱり様子分れへんねんけど、今夜急にこの揃いの着物なあ、――」と、私は知って風呂敷の結び目から着物の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>出して見せて、「――これどないしても着んならんことが出来たんで、大阪の店まで届けてほしいうてやんねえ。何ぞ<ruby><rb>素人</rb><rt>しろと</rt></ruby>芝居でも始まったんかも分れへんけど、うち自動車待たしといて直ぐ帰って来るわ」いうて、もう時刻もおそなってしもてまして、九時二十五分ごろでしたよって、最初は真っ直ぐ南の井筒いう家い行こ思て出たのんですが、それよりもまあ梅田い<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>てお梅どん<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まいて見よ、お梅どんに聞いたら何ぞこの訳分るかも知れへん思て、梅田の駅い行て見ますと、まん中の入り口のところに立って待ちどしそうにキョロキョロしてますよって、車の中から手招きして、「お梅どん」いうと、「やッ、奥様だしたんかいな」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びっくり</span>して照れくさそうにウロウロしてますのんを、「あんた光ちゃん待ってんねんやろ。今えらい事件起って、光ちゃんから大急ぎで迎いに来てくれいう電話あってん、あんたも<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>乗んなさい」いうて、「えー、ほんまだっかいな」と何や<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちんらしゅう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>してるのんを無理に乗せて走らしながら、車の中で手短かにさっきの電話の話して「なあ、いったい誰やのん、その一緒に行てる男いうのんは？　お梅どん知れへんのかいな？」――初めのうちは困ったような顔して、言葉に詰まってましたけど、「あんた知らんいうはずないやろ？　こんなこと今日だけと違うやろ？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>どんなことあってもあんたに迷惑かかるようなことせえへんよって、いうてくれたらお礼は何ぼでもするよって、――」と、眼の前い十円札出して、紙に包んで、「いえ、いえ、いつもいつも<ruby><rb>貰</rb><rt>もろ</rt></ruby>てばっかりしてまんのんに」と辞退するのんを、「そんなこというてる間に時間立ってしまうやんかいな」と帯の間い押し込んでやりますと、「わたし、奥様と一緒にそんなとこい迎いに行てもよろしおまんねんやろか。あとで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんに<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られしまへんやろか」いうのんです。「何でやのん？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>が行けへんかったらお梅どんに来てくれいうてやねんぐらいやもん。」「ほんまにそんな電話かかりましたんだっしゃろか？　わたし何やこう心配で、……」それいうのんが、何ぞ私の計略に乗せられへんか思てるらしいのんで、「そんなことあるもんかいな、電話<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>らなんだら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>知ってるはずないやんか。」「そらそうでおますけど、わたし今までにちょっとも奥様気イついてやおまへなんだのんが、なんでだっしゃろ思て、空恐ろしいて仕方おまへんでしたのんで、……」「ふうん、そしたらいつからこんな事あったん？」「いつからいいまして、もう<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>から……四月頃からでおましたやろか、それは私にもはっきり分れしめエなんだが、……」「誰やのん、相手の人は？」「それもよう分れしめへんねん。いッつもおあしくれはりまして、これで活動でも見て、何時頃梅田い来て待っててやいやはりますよって、何処い行きはりまんのんやさっぱり分らんと、こらきっと何処ぞで奥様と会うてはりまんねんやろ思てましてん。家いおそう帰りましても今日は今まで柿内さんとこで遊んでたようにいえいやはりまんのんで。……」

## その十

「そんなこと今までに何べんくらいあった？」「何べんいいましても、とても勘定しきれしめエん。今日はお茶のお<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>や、今日は柿内さんとこやいやはりまして出かけはりまんのんで、そのつもりでお供して行きますと、あのなあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>ちょっと用事あんねんいやはりまして、えらいそわそわしやはりまして、ひとりで何処ぞい行てしまやはりますねん。」「それほんまに違いないなあ？」「何で私が<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>いいまッしゃろ。――奥様ちょっとも気イおつきやあれしめエなんだんでっか？　何ぞ今までに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>やなあお思いになりやしたことあれしめエんでしたか？」「そらもう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>は<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>やよって、そない<ruby><rb>散々</rb><rt>さんざん</rt></ruby>利用しられて、道具に使われて、踏みつけにしられながら、今の今まで<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>から先も気イついたことあれへなんだ。それにしてもまあ何んちゅうことやろ。――」「ほんまに、わたいとこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃん恐ろしい人だすよってなあ。……私いつかて奥様の顔見るたんびにえらい済まんような気イして、お気の毒でお気の毒で、――」と、心から同情したようにいうてくれますのんで、そんなお梅どんみたいなもん相手にしたかってしょうむないのんですけど、あんまり<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいてお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中引っくりがえるようになってましたよって、何でも<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>んでも思うたことをいう気イになって、「なあ、お梅どん、あんたかって察してくれるやろ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>そんなこと夢にも知らんと、こないだから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の人と喧嘩してまで光ちゃんのために尽してるねん。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>かってこないにまで<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ってえへなんだら、なんぼ<ruby><rb>脳味噌</rb><rt>のうみそ</rt></ruby>足らんいうたかって気イついてたに違いないわ。まあそれもええけど、今夜みたいな電話かけて来るなんて、いったい何ちゅう気イやろ？　人馬鹿にするのんもほどがあるし。」「ほんまに何ちゅう気イでいやはりまんねんやろなあ？　よっぽど困りはりましたん違いまッしゃろか？」「なんぼ困ったいうたかって、好きな男と料理屋い行てるやのお風呂い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったやのと、そんなこといえた義理かいな、あんたまあ考えてみて欲し！」「それもそうでおまッけど、着物盗まれてしまいはったんでは、裸で帰りはることも出来しめへんしなあ。……」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>やったら裸で帰る。あんな恥知らずな電話かけるぐらいやったら、裸で帰る。」「こんな時に<ruby><rb>泥坊</rb><rt>どろぼう</rt></ruby>に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>うなんぞ、悪いこと出来まへんもんだんなあ。」「やっぱり<ruby><rb>罰</rb><rt>ば</rt></ruby>ッちゃ。それもお金だけと<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>て、二人とも素ッ裸にしられてしもて、腰帯から足袋までもないようになるなんぞ、……」「そうでおま、そうでおま、罰でおまッせ。」「ああ、ああ、こんな事に<ruby><rb>使</rb><rt>つか</rt></ruby>お思て揃いの着物こしらえたん違うのんに、……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>何処まで馬鹿にしられてるねんやろか。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんはまた、今日あの着物着て行きはったいうのんはほんまに運が<ruby><rb>強</rb><rt>つよ</rt></ruby>おまんなあ。奥様迎いに行ったげへん、どうなと勝手にせえおいやして構わんとお置きやしたら、どないなりましたやろか？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>かってよっぽどそないしたげよ思てんけど、最初はさっぱり何のこッちゃ様子分れへんし、電話口で泣き声出して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はあはあ</span>いうてやよって、ただもう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びッくり</span>してしもてん。それになんぼ憎たらし思てもやっぱり心から憎む気イになれへんさかい、裸でふるてやる姿眼エの前にチラついて、<ruby><rb>可哀</rb><rt>かわい</rt></ruby>そうで可哀そうでいても立ってもいられへんようになって、……そらお梅どん、ハタから見たら<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしやろけど、そんなもんやし。」「そらなあ、そうでおまッしゃろとも。……」「それにどうやろ、自分のもんばっかりか男のもんまで持って来いいうたり、電話口で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こそこそ</span>相談し合うたり、まるで人に見せつけるような<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>シして、どんな顔してそんなこといえるのんやろか。人の前では『姉ちゃん姉ちゃん』いうて、『<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>姉ちゃんより外に自分の肌見せたことない』いうてたくせに、二人裸にされてる<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこ</rt></ruby>見てやりたいわ。」もうその時は無我夢中でいろんなことをしゃべってましたよって、何処を走ってたのんか分れしませなんだが、堺筋から清水町辺を西い曲ったらしいて、向うに心斎橋筋の<ruby><rb>大丸</rb><rt>だいまる</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がちらちらしてたのん覚えてますけど、そこを大丸の前まで行かんと、太左衛門橋筋南い曲った思うとこで、「ここ笠屋町ですが何処い着けます」と運転手がいいますよって、「何処ぞこの辺に井筒いう料理屋あれへんかしらん？」いうて捜しましたけど分れしません。その辺の人にきいてみますと、「そら料理屋違いまッしゃろ、宿屋でっせ」いうのんで、「何処です」いいますと、「じっきこの先の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>の奥だ。」――それがあのう、<ruby><rb>宗右衛門町</rb><rt>そううえもんちょう</rt></ruby>や心斎橋筋のつい裏通りですのんに、わりに人通りのない暗い横丁なんでして、芸者の<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>やの、小料理屋やの、宿屋やのが多いのんですが、そういう家がみんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しもたや</span>のように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひっそり</span>とした間口の狭い地味な構えなんです。そんで<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せられた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>の入り口い行てみますと、「御旅館井筒」と<ruby><rb>小</rb><rt>ちい</rt></ruby>そうに書いた<ruby><rb>軒燈</rb><rt>けんとう</rt></ruby>が出てますのんで、「お梅どん、あんた<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>で待ってでわ」いうて私だけ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行て、旅館いうても何や<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>なややこしい家らしいのんが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>の突きあたりにあるのんで、<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>あけて<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もじもじ</span>してましたけど、台所の方で誰や一所懸命に電話かけてるらしいて、なんぼ呼んでも出て<ruby><rb>来</rb><rt>け</rt></ruby>えしません。「今晩は」「今晩は」と大きな声でいうてるうちにやっとのことで<ruby><rb>仲居</rb><rt>なかい</rt></ruby>さんが出て来まして、顔見るなりこっちがなんにもいわん先にちゃんと心得てる様子で、「どうぞお上り」いうて狭い<ruby><rb>段梯子</rb><rt>だんばしご</rt></ruby>を二階い連れて行きまして、「迎いのお方はんがお越しになりました」いいながら座敷の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby><ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けるのんです。這入ってみますと三畳ぐらいな次の間やのんで、二十七、八の色の白い男の人がたった一人<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まってすわってまして、「失礼ですが、光子さんの友達の奥さんですか」いいますよって、「そうです」いいますと、急に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃちこ</span>張って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぺた</span>ッと畳い頭<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>りつけて、「今夜の事は何と申し上げたらよいか、お<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びのしようもないのんです。いずれこの事につきましては光子さんから申訳せんなりませんのんですが、何とも合わす顔ないいうておられますし、それに着物ありませんのんで、まことに申しかねますけどもとにかく着換え貸してもろて、その上でお目にかかりますよっていうのんです。その男いうのんが、いかにも光子さんの好きそうな輪郭の整うた女のような綺麗な人で、<ruby><rb>眉毛</rb><rt>まゆげ</rt></ruby>のうすいのんと眼の細いのんが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こす</span>そうな感じ与えますけど、私かって見た瞬間に「美男子やなあ」思たぐらいな顔だちで、この人も着物ないはずやのんに<ruby><rb>縞銘仙</rb><rt>しまめいせん</rt></ruby>の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着てキチンとしてましたのんは、あとで聞きましたのんですが宿の<ruby><rb>男衆</rb><rt>おとこしゅ</rt></ruby>の着物を<ruby><rb>一時</rb><rt>いっとき</rt></ruby>借ってましたんやそうです。「着換えは此処い持って来ました」いうて風呂敷包渡しますと、「大きに済みませんことです」と押し<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>くようにして受け取って、部屋の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方の境の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>あけて奥の座敷い包押し込むと、急いでまたそこ締めてしもたのんで、ちらッと<ruby><rb>枕屏風</rb><rt>まくらびょうぶ</rt></ruby>が見えただけでしたけど。……

その晩のことそんなふうに一々<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいにいいましたらえらい長うになりますのんですが、私はその場合届けるもんは届けてしもたし、それに男がいるのんやったら会うてもしょうがない思て、お金三十円紙に包んで、「先イ帰りますよってこれ光子さんに上げて下さい」いうたのんですが、「まあ<ruby><rb>何卒</rb><rt>どうぞ</rt></ruby>そないおいいにならんで待ってて下さい、今に出て来られますから」いうて、無理にその男が引き留めるのんです。そうして改まって私の前いすわり直しながら、「実はこの事は、ほんまは光子さんから申さんならんのんですが、僕は僕の立ち場として説明せんならん思いますのんで、<ruby><rb>一往</rb><rt>いちおう</rt></ruby>聞いて下さいませんか」いうて、――つまり光子さんは自分でやといいにくいもんですよって、着物着換えてる間にその男が代って話するように、段取りがきまってたらしいのんです。そんでその男、――ああ、そうそう、男はその時「財布を取られてしもたのんで名刺ありませんけれど、僕は<ruby><rb>船場</rb><rt>せんば</rt></ruby>の徳光さんの店の近所におります<ruby><rb>綿貫栄次郎</rb><rt>わたぬきえいじろう</rt></ruby>いうもんです」いいました。――その綿貫いう男の話聞いてみましたら、その人と光子さんとは、まだ光子さんが船場の方に住んでなさる時分、去年の暮頃から愛し合うようになって結婚の約束までしたいうのんです。ところが今年の春になってＭの方との縁談が持ち上って来て、とても二人は結婚出来そうにもないようになったのんですが、それが同性愛の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>のためにええ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんばい</span>に破談になった。――まあそういう意味のこというて、しかし決して自分たちは奥様を利用したんと違う、初めは利用したような形になったけど、光子さんはだんだん奥様の情熱に動かされて、自分を愛するよりももっと熱列に奥様愛するようになったよって、自分の方がどれぐらい<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>感じたか分れへん、利用しられたとしたら自分の方がしられてるぐらいやいうのんです。そんで自分はお目にかかるのんは始めてですが、奥様のことは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょっちゅう</span>光子さんから聞いてた。同じ恋愛でも同性の愛と異性の愛とはまるきり性質違うよって、奥様との仲は許してもらわんと、自分との仲も続けて行く訳にいかんように光子さんいいますのんで、自分も近頃は<ruby><rb>諒解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>してた。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>の姉ちゃんかって夫あるねんもん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もあんたと結婚することはするけど、夫婦の愛は夫婦の愛、同性の愛は同性の愛やよって、姉ちゃんのことは一生よう思い切らんさかいそのつもりでいてて頂戴。それがイヤやったら結婚せえへん」と、いつでも光子さんはそないいうてるいいまして、「そら光子さんの奥様に対する気持いうたら、全く真剣でしてなあ」いうたりして、大馬鹿にしてる思いましてんけど、その男のいいよういうたら実際上手で、五分の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>もないようなんです。そんで男は自分と光子さんとの関係をいつまでも私に隠しとくのんはええことない思て、自分も諒解してるねんよって私にも諒解してもらうよう光子さんに話してたのんですが、光子さんかって<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>その方がええこと分ってながら、今更私の顔見ると切り出しにくうなって「折があったら折があったら」思てるうちに、とうとう今夜のようなこと出来てしもた。そうしてさっきの電話では盗難に<ruby><rb>遇</rb><rt>お</rt></ruby>うたようにいうたけど、実はただの盗難ではない。着物を取ったんは泥坊と違うて<ruby><rb>博奕打</rb><rt>ばくちうち</rt></ruby>やいうのんです、それがだんだん聞いてみますと、ほんまに悪いことは<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>へんもんで、その晩その宿屋の別の座敷で博奕してるもんあって不意に手エが廻ったんやそうですが、刑事がどやどや踏み込んで来たのんで、二人はびっくりして夢中で部屋<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>び出して、光子さんは<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>のまま、男は<ruby><rb>寝間着</rb><rt>ねまき</rt></ruby>のまま、屋根から隣りの家い逃げて<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほ</rt></ruby>しの床の下いもぐり込んでた。博奕打ってた連中も<ruby><rb>我先</rb><rt>われさき</rt></ruby>にバラバラ逃げ出して、大抵上手に逃げてしもたところが、その中に逃げおくれた夫婦者あって、廊下をうろうろしてるうちに光子さんの部屋が開いてたのんで、そこい逃げ込んでみたら、ちょうど二人が抜け出たあとやった。それでこれはしめた思て、今度はその夫婦もんが密会者みたいに装うてた。というのんは、同じ刑事でも博奕打検挙するのんと密会者検挙するのんとは係りが<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>てるんやそうで、その人たちはそれを心得てたらしいのんです。けど刑事かってそれぐらいなこと分ってますよって、その夫婦もん怪しいと<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで<ruby><rb>勾引</rb><rt>こういん</rt></ruby>したんやそうですが、その時枕もとの乱れ<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>に入れてあった光子さんと<ruby><rb>綿貫</rb><rt>わたぬき</rt></ruby>の着物着て、そのまま警察い連れて行かれた。なんでかいうと、夫婦は宿屋の<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>を借って博奕打ってたところいそういう騒ぎになったのんで、自分らの着物は向うの部屋にありますねんけど、何処までも密会者で通そうとするのんで、枕もとにあるのん着て行かんならんかった。そんで光子さんたちはやっとのことで<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れたもんの、戻って来たら、着物がない、財布や<ruby><rb>手提</rb><rt>てさ</rt></ruby>げぐらい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッと置いといてくれたらええのんにそれもない、宿屋の主人まで挙げられてしもてて誰に相談しようもないし、帰るにも帰られへんし、それにもう一つ心配なんは、光子さんの<ruby><rb>手提</rb><rt>てさ</rt></ruby>げの中には阪急の定期券が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってましたし、男の方も名刺入れてあったんで、警察から家の方い電話かかったらえらいこッちやいうのんで、どうにもこうにも思案に暮れて私呼び出しましたんです。で、どうせ<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで来てくれはる親切あるねんやったら、奥様かって光子さんのため思てくれはるねんやろよって、御迷惑でもこれから<ruby><rb>蘆屋</rb><rt>あしや</rt></ruby>まで光子さん送って行ったげて、今夜一緒に映画でも見てたようにいうて、万一警察から電話がかかっても、そこを何ぞうまいこというといてくれなされへんかいうのんです。

## その十一

「なあ奥様、今夜のことさぞかしお腹立ちですやろけど、どうぞどうぞお願いします。」そういうて男はまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぺた</span>ッと畳い頭<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>りつけて、「僕の一身はどないなっても構いません、どうぞ光子さんを無事に送ったげて下さい。御恩は一生忘れません」いうてしまいには手エ合わして拝むんです。わたしいうたらそらもうほんまにお人好しですよって、そないしられてしもたら何ぼあんまりや思ても「イヤや」いう訳に行けしません。そいでも<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさが一杯でしたよって、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くの<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>男がペコペコお辞儀するのん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じい</span>ッと黙って<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>みつめてましたけど、とうど<ruby><rb>根負</rb><rt>こんま</rt></ruby>けしてしもて、たッた一と言「よろしいです」いうてしまいました。すると男は「ああ」とさもさも感激の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ったような芝居じみた声出して、もう一ぺん頭<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>りつけて、「ああ、承知して下さいますか、ほんまに有がとございます、これで僕も安心です」いうて、それから人の顔色<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うように、「そしたら唯今ここい光子さん呼びますけど、それについても一つお願いして置きたいのんは、今夜のとこはいろいろのことでえらい興奮してはりますのんで、どうぞなんにもいわんといて欲しいんですが、どうですか、それ<ruby><rb>誓</rb><rt>ちこ</rt></ruby>てくれはりますか？」いうのんです。仕方ないのでそれもよろしいですいいますと、直ぐに「光子さん」と呼んで、「もう分ってくれはりましたよって出て来なさい」と<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>越しに声かけました。その襖の向うでは<ruby><rb>最前</rb><rt>さいぜん</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こそこそ</span>着物着換えてるらしい物音がしてましたのに、もうその時分にはしーんと静まり返ってしもてて、こっちの話に一所懸命耳を澄ましてるようでしたが、声かかってから二、三分もたった頃にやっと襖が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごそ</span>ッいうて、そこが少しずつ、一寸二寸ぐらいずつ開いて、眼エの<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>り<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>つ<ruby><rb>紅</rb><rt>か</rt></ruby>いけに泣き<ruby><rb>脹</rb><rt>は</rt></ruby>らした光子さんが出て来ました。

その時どんな顔してなさるか見てやりたい思たんですが、ちらッと視線<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかると<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて、男の蔭に寄り添うように音もささんとすわってしまいなさったんで、脹れ上った<ruby><rb>眼瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>と、長い<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>と、高く通った鼻筋と、<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みしめてなさる<ruby><rb>下唇</rb><rt>したくちびる</rt></ruby>とが見えるだけで、両手をこういう風にこう、――八つ口のところい突っ込んで、体をねじらして、前の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はだけ</span>たのも直さんと身イ投げ出したようにしてなさるんです。そんで私は光子さんのそうしてなさる姿眺めてるうちに、ああこの着物が揃いの着物やってんなあ思うにつけても、それを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えた時分のことや、その着物着て一緒に写真<ruby><rb>撮</rb><rt>と</rt></ruby>ったりした事が考え出されて、またジリジリ腹立って来て、ええ、こんなもん、拵えんといたらよかった、いっそ飛び着いて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずたずた</span>に引き裂いてやろか知らんと、――ほんまに男がいエへんかったら、それぐらいなことしたかも分れしませんねん。男はその様子感づいたらしいて、二人がなんにもいわん先に「さあさあ」と追い立てるようにして、自分も着物着換えるやら、私からお金を受け取って宿屋の方では「いりまへん」いうのん無理に<ruby><rb>勘定</rb><rt>かんじょう</rt></ruby>済ますやら、「あ、そういうと奥様、まことに恐れ入りますけど、今のうちに奥様のお宅と光子さんのお宅とい電話かけといて下さいますと、なお都合よろしいですがなあ」いうたりして、ちょっとも<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>与えんようにするのんでした。私は私で家の方が心配でしたよって、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>今<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>ッきに光子さん送ったげて帰るけどなあ、光子さんとこから別に何ともいうて来やはれへんかったか？」と<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>呼び出して聞いて見ますと、「はあ、さっき電話がおましたんで、どない申し上げてええのんか分れしまへなんだよって、何時頃とも申し上げんと、ただお二人さんで大阪い行っておいでですいうときました」いうんです。「そんで旦那はんもう寝やはったか？」「いいえ、まだ起きてはりまッせ。」「今すぐ帰りますさかいいうといてんか」いうて、光子さんの家の方へは「今夜松竹い行きましたんですけど、あんまりお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>減ってしもたんで、出てからちょっと鶴屋食堂い行きましてん。えらいおそなりましたよってこれから光子さん送って行きます」いいますと、お<ruby><rb>母様</rb><rt>かあさん</rt></ruby>が出て来なさって「まあ、そうでおまッか、あんまり帰りがおそいのでたった今お宅様い電話したとこでしてんわ」いいなさる様子が、警察からなんにもいうて来てエへんこと確かでした。そんでそんならええ<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>や、一刻も<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>自動車で帰ろいうことになったんですが、男は三十円のうち半分ばっかり残ったんをみんなそこの男衆や女子衆にやってしもて、どんな事あっても決して迷惑のかからんようにして欲しい、その筋からこれこれいう取り調べがあったらこれこれいうようにいえいうたりして、そないな時にもそらもうびっくりするほど細かい所い気イ廻るのんです。それからようよう、――私はそこい着きましたんが十時ちょっと過ぎた時分で、一時間ばっかり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>してしまいましたよって、出たんは十一時過ぎでしたやろう。その時やっとお梅どん待たしたあッたん思い出して、「お梅どんお梅どん」いうて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>を往ったり来たりしてるのんを車い乗せたのはよろしいが、「僕も<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで送りましょう」いいながら、男も平気でその車い乗り込んで附いて来るのんです。光子さんと私とが奥の方い並んで、お梅どんと綿貫とがスペアシートい腰かけて、四人が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むう</span>ッと向い合うたなり一と言も口をきかんと、車はどんどん走って行きました。<ruby><rb>武庫</rb><rt>むこ</rt></ruby>の大橋いかかったときに男が始めて、「どないします？　やっぱり電車で帰ったようにせんと<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>わるい思いますが、……」と、ふっと考えついたようにいい出して、「なあ、光子さん、何処で自動車返したらええか知らん？」いうのんでした。それが光子さんの家いうのんは蘆屋川の停留所から川の西をもっと山の方い行って、あそこに<ruby><rb>汐見桜</rb><rt>しおみざくら</rt></ruby>いう名高い桜ある<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>その近所なんでして、電車筋からほんの五、六丁ですねんけど、途中に淋しい松原などあるのんで、よう<ruby><rb>追</rb><rt>お</rt></ruby>い<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎやの<ruby><rb>強姦</rb><rt>ごうかん</rt></ruby>やのがあったりしてえらい物騒ですよって、いッつも晩おそう帰るときにはお梅どんが附いてるときでも停留所の前から<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>に乗って行きますさかい、あそこまで自動車着けたらええいうたり、いや、そらいかん、俥屋が顔知ってるよって何処ぞもっと手前の方で降りた方がええいうたり、そんなことからお梅どんもぼつぼつものいい出しましたけど、それでも光子さんだけはやっぱり一と言もいいなさらんと、ときどきさし向いに腰かけてる綿貫の方をジーッと見つめては、何やひそひそ眼エで物言うて<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>してなさるようなんです。すると男が「ふん、そんなら国道の<ruby><rb>業平橋</rb><rt>なりひらばし</rt></ruby>のとこで降りたらよろしいがな」と、同じように光子さんの顔見返しながらそういい出したいうのんは、私にはよう分ってるのんですが、あの橋の<ruby><rb>所</rb><rt>ところ</rt></ruby>から阪急の線まで出る路がまたえらい淋しいて、片ッぽ側が大きな松のたあんと<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えてる土手ですよって、あんな<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>女三人で歩けるはずあれしません。そんで綿貫はちょっとでも長いこと光子さんと一緒にいてたいのんで、自動車降りてからあの路を送って来たいのです。それにしても「船場の徳光さんの近所におります」いうてたのんにそんな橋の名アやあの辺の路知ってるいうのんは、もう今までに何遍も二人で此処ら<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>散歩したことがあるからなんです。私よっぽど「誰に見られても男の人が附いて来るのんが一番わるい、三人だけやったらどないでも<ruby><rb>言訳</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>立つよって、あんたええ加減に帰んなさい。私に預けるいうときながら、あんた帰ってくれはれへんねんやったら私帰ります」いうてやろか知らん思たんですが、お梅どんの方は「それがよろしおまんなあ」「そうしまよなあ」と何でも彼でも綿貫のいうことに調子合わして、「そんならお気の毒ですけど、阪急のとこまで送って<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>けまッしゃろか」と、知って男の思う<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>まって行くのんです。考えてみるとお梅どんかってやっぱり光子さんや綿貫と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐる</span>になってたん違いないのんで、やがて橋のとこで車降りて土手の下の真っ暗な路いかかりましたら、「なあ奥様、こんな<ruby><rb>闇夜</rb><rt>やみよ</rt></ruby>に男の人いててくれはれしまへなんだら、<ruby><rb>恐</rb><rt>こお</rt></ruby>うて歩かれしまへんなあ」と、用もないのんに私<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえて、こないだこの路で<ruby><rb>何処其処</rb><rt>どこそこ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんがこんな目エに<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>いはったいうような話休みなしにしかけて、なるだけあとの二人より離れて歩くようにするのんです。二人は五、六間うしろの方からまだ何や知らん相談しながら来るらしいて、「ふん」とか「はあ」とかいう光子さんの声がかすかに聞えてるのんでした。

停留所の前で男が帰ってしまいますと、また三人は黙り込んで、あそこから<ruby><rb>俥</rb><rt>くるま</rt></ruby>で光子さんの家まで行きました。「まあ、まあ、ほんまに、何でこないにおそおましてん」いいながらお母様が出て来なさって、「いつもいつもお邪魔に上りまして御厄介になりますばっかりで」と、えらい私に気の毒がっていろいろお礼いいなさるのんですが、こっちは私も光子さんも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な顔してますのんで、長いことしゃべってたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼろ</span>出る思て、自動車呼びましょういうてくれはりますのんを「いいえ、俥待たしてあります」と逃げるように出て来まして、また阪急で<ruby><rb>夙川</rb><rt>しゅくがわ</rt></ruby>まで後戻りして、あそこからタクシーで<ruby><rb>香櫨園</rb><rt>こうろえん</rt></ruby>まで帰って来ましたら、ちょうど十二時になってました。「お帰りやす」いうて玄関い出て来た女子衆に「旦那はんどないした？　もう寝やはったか？」いいますと、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>さっきンまで起きていやはりましたけど、もうちょっと前お休みになりはりました」いいますのんで、まあよかった、なんにも知らんと寝ててくれたらええ思いながら、出来るだけ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッとドーア<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けて、忍び足で寝室い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってみますと、寝台の傍のテーブルに<ruby><rb>白葡萄酒</rb><rt>しろぶどうしゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>壜</rb><rt>びん</rt></ruby>置いたあって、夫は頭から<ruby><rb>布団</rb><rt>ふとん</rt></ruby><ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ってすやすや寝てるらしいのんです。お酒には極く弱い方で、寝しなにそんなもん飲むいうことなんぞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>にあれしませんのんに、きっと心配の余り寝られへんのんで飲んでんやな思て、静かな寝息乱さんように恐る恐る横になりましたけど、なかなか寝られるどころやありません。考えれば考えるほど、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しさと腹立たしさとが何遍でも<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>き上って来て、胸の中が<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きむしられるようになります。ええ、もうほんまに、どないして<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>してやろか、どんな事あってもきっとこの<ruby><rb>讐</rb><rt>かたき</rt></ruby>取ってやる、と、思うと同時に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かッ</span>となって、夢中でテーブルい手エ伸ばしてグラスに半分ほど残ってた葡萄酒ぐうッと一と息に飲み<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>しました。何しろその晩はさっきからの騒ぎでえらい疲れてましたところいさして、私かって不断ちょっとも飲んだことあれしませなんだよって、見てる間に酔い廻って来て、――それもええ心持に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽう</span>ッとなるのんと<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>て、頭が破れるように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんがん</span>して、胸のあたりがむかついて来て、体じゅうの血イ一遍に髪の毛の方い上って来るような気イするのんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はあはあ</span>苦しい息吐きながら、「ようもようもみんなで大馬鹿にして、今にどうするか見てたらええ」と、口い出していわんばっかりに<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>にそのこと考えつめてますと、激しい<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>が、<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>の口から酒がこぼれるような音立てて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どきんどきん</span>鳴ってますのんが自分にもちゃんと分るのんですが、気イついてみますといつの間にやら夫の胸も同じように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どきんどきん</span>いう音立てて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はあはあ</span>熱い息吐いて、互の呼吸と動悸とが一緒に時を刻みながらだんだん強うなって行って、二人の心臓が一時に破裂せエへんか知らんと思われた途端に、いきなり私は夫の腕で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎゅう</span>ッと抱きしめられました。次の瞬間に夫の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はあはあ</span>いう息が一層近よって、燃えるような唇が耳たぶに触れて、「お前、よう帰って来てくれたなあ」――と、そないいわれた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はずみ</span>に、どうした加減か急に涙がこみ上げて来て、「くやしいッー」と、身イふるわして泣きながら、今度はこっちからしがみ着いて、「くやしいッ、くやしいッ、くやしいッ」と、夫の体<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きむしるように<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>さ<ruby><rb>振</rb><rt>ぶ</rt></ruby>りました。「何や、何でそない口惜しい？」夫は出来るだけ優しいに、「え？　何が口惜しいのかいうてみい、泣いてたら分れへんがな、え？　どないしてん？」いうて手のひらで涙<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてくれて、なだめたり、すかしたりしてくれますので、なお悲しゅうなって、あーあ、やっぱり夫は有難い、自分は<ruby><rb>罰中</rb><rt>ばちあた</rt></ruby>ったんや、もうもうあんな人のこと思い切って、一生この人の愛に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>ろう、――と、<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>に後悔の念<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>今夜のことみんないうてしまうさかい、きっと堪忍しとくなはれなあ」と、とうど夫に今までのことすっかり話してしまいました。

## その十二

私はすっかり心入れかえた気イになって、明くる朝は夫より二時間も<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>起きて、台所い出て行って朝御飯の用意したり、夫の洋服ちゃんとしといたり、いつもほったらかしたまま女子衆まかせにしときますのんを、自分が先い立って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せっせ</span>と働きました。「お前、今日は学校い行けへんのか」と、夫は出かける時間になって鏡の前でネクタイを締めながらいいましたけど、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、もう学校は<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めよ<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>てんねん」いうて、うしろから<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>着せたげて、そのままそこに、脱ぎ<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>てた着物たとみながらすわってました。「なんでやねん、学校止めんでもええやないか？」「あんな学校行ったかってしょうむない。……会いともない人と顔合わすのんイヤやしなあ。……」「ふん、そうか、そんなんやったら止めてもええなあ」と、夫は感謝の<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>った眼つきでそういうたもんの、またなんや知らん物足らんような、気の毒そうな<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこ</rt></ruby>で、「そやけど、なんにもあんな学校に限ったことあれへん、絵エ習いたかったら研究所いでも行ったらどやねん？　僕かって毎朝一緒に出かけた方がええしなあ」いうてくれますねん。そんでも「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>もうどっこも出とないわ、何処行たかてどうせロクなこと覚えへんねよって」いうて、自分ではその日から<ruby><rb>一廉</rb><rt>ひとかど</rt></ruby>のハウスワイフになったつもりで、一日家の中で一所懸命仕事しました。夫の腹の中いいましたら、あないに<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>やった私がまるで生れ変ったみたいに態度改めましたのんが、どない<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいか分れしません。いうてまた、二人で仲好う大阪い<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>てた<ruby><rb>先度</rb><rt>せんど</rt></ruby>ごろの生活を取り返してみたいような気イもしますねん。そら私かってちょっとでも余計夫の傍に引っ着いてたい、離れたらその間に邪念妄想が起る、夫の顔さい見てたらあの人のこと忘れられるやろ思いますよって、一緒に着いて行きたいですけど、いや、そやない、もしひょっとして<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>であの人と会うたりしたら？……もうそんなことあったかて物いエへん気イやけど、そんでもばったり顔見合わしたらうちどうするやろ？　青なって、ぶるぶる<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>て、一と足も出んようになって、<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>で倒れてしまうかも分れへん思いましたら、外い出るのが<ruby><rb>恐</rb><rt>こお</rt></ruby>うて、大阪どころやあれしません、つい電車路ぐらいまで行きましたかて、そやない人の影見ても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>と襲われたみたいに、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて家い飛んで逃げて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どきどき</span>する胸おさえながら、いかん、いかん、ちょっとでも出たらいかん、ここ<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは死んだ気イになって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すッ</span>込んでよ、水仕事でも<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>でも何でも構わんと精一杯働いてよと、自分で自分にいうて聞かすのんです。あの<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだ</rt></ruby>しにしもてある手紙なんぞ焼いてしまお、それより一番さき観音さんの絵エの方どないぞしてしまおと、それも私には毎日ぐらい気イになって、今日こそ焼こ、今日こそ焼こと、箪笥の傍まで行きますけど、手エ取ってみたら中が見となるやろなあ思たら、やっぱり恐うてよう開けませんねん。一日じゅうそないして暮らして、ゆうがた夫帰って来ますと、「ほんまによかった」とほっと重荷イおろします。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>このごろ朝から晩まであんたのことばっかり思い詰めてて、ほかの事なんにも考エへんようにしてんねよって、あんたかってきっとそうしててくれるわなあ」と、私はぎゅッと<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>のまわりに抱きついて、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の心にちょっとの<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>も出来んように、いッつも、いッつも、可愛がりつづけに可愛がってくれなイヤやわ」と、今では夫の愛情だけがたった一つの頼りでした。「もっと可愛がって、もっと可愛がって……」と、私のいうのんはそればっかりでした。或る晩なんぞは、「まだ愛しかたが足らん」いうて、気違いみたいに興奮しましたのんで、「お前は極端から極端やなあ」と、夫はなだめるようにいうて、私のあんまりな<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せかたに今度はかいって<ruby><rb>面喰</rb><rt>めんくろ</rt></ruby>てるぐらいでした。

もしもその時分に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょっこり</span>あの人が<ruby><rb>訪</rb><rt>たず</rt></ruby>ねて来たら、<ruby><rb>否</rb><rt>いや</rt></ruby>でも応でも物いわんならんようなハメになるよって、それが何より気がかりやったんですけど、なんぼ厚かましいいうてもさすがよう寄り附かんかして、ええあんばいにあんなり何もいうて<ruby><rb>来</rb><rt>け</rt></ruby>えしません。私は心のうちに神様や仏様祈って、結局運命がそんな<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>になったのんを有難いことや思いました。ほんまに、あの晩のような出来事でもなかったら、なかなかこない綺麗さっぱりと切れるいう訳に行けしませんのに、これも神様の<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめし</rt></ruby>やろ、口惜しいことも悲しいことも済んでしもたことはみんな夢とあきらめよと、ようよう幾分か落ち着いて来ましたのんは、あれから半月も立った六月の下旬ごろのことで、――去年の夏は<ruby><rb>空入梅</rb><rt>からつゆ</rt></ruby>でしたよって、毎日々々日照りがつづいて、家の前の海岸に泳ぎに来る人がちょいちょい見えました。夫はいつも暇ですのんに、その時分珍しい頼まれた事件あって、もうちょっとしたら手エ抜けるさかい、そしたら何処ぞ避暑になと行こいうたりしてましたが、或る日私が台所で桜ん坊のジェリー<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてる時でした、「大阪のＳＫ病院から<ruby><rb>奥様</rb><rt>おくさん</rt></ruby>に電話だす」いいますのんで、虫が知らしたのんか、何やけったいに思いながら、「誰ぞ入院してんねやろ、も一ぺん聴いてみなはれ」いいますと、「いえ違います、病院が直接奥様に話したいいうたはります、男の人の声みたいだす」いうことで、「ふん、おかしいなあ」いうて電話口い出る時から、何でか知らん胸騒ぎして受話器を持つ手エ妙に<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>てるのんです。<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby>では「あんたは奥様ですか」と二へんも三べんも念押してから<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに低い声になって、「突然<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ失礼ですが、あんたさんは英語の避妊法の本を中川さんの奥様にお貸しになったことありますか」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なこと<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねます。「はあ、その本は私たしかに或る人に貸しましたけど、中川さんの奥様いう方はよう知りません。多分私から借った人が<ruby><rb>又貸</rb><rt>またがし</rt></ruby>したんやろ思います。」そないいうと直ぐ、「はあ、はあ」と<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>ではうなずいて、「奥様がお貸しになったのは徳光光子さんでしょうな？」いうのんです。私実はもう<ruby><rb>最前</rb><rt>さいぜん</rt></ruby>から予期してたもんの、その名アいわれた瞬間に何や電気みたいなものが体じゅうビリビリ伝わるような気イしました。はあ、その本といいますのんは、一と月ほど前光子さんに貸しましたのんで、光子さんのお友達の中川さんの奥様いう人が子供生むのんイヤやイヤやいうてはるいうような話から、「姉ちゃんはきっと<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>い方法を実行してんねんやろなあ」いいますよって、「ほんまいうたら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>ええ本持ってんねん。<ruby><rb>亜米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>で出版しやはった本で、それ見たらそらもう何ぼ通りでも書いたあるわ」いうて、その時貸したげたまま忘れてしもてたんだした。ところが病院ではその本のことから或る重大な結果起ってえらい迷惑してる。電話ではそれ以上申し上げること出来んが、そのことについて中に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>まった徳光さんのお嬢様もいろいろと心配してはりまして、どうしても一ぺん奥様にお目にかかって秘密に相談せんならん思て、こないだから何遍でも手紙差し上げたそうですが、奥様の方から何とも返事してくれはらんいうて難儀してはる。そんでこの場合、是非とも徳光さんに会うてみて下さい。病院の者が<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>かに伺うては<ruby><rb>面白</rb><rt>おもしろ</rt></ruby>ない事情がある。病院は表面そ知らん<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>にして徳光さんと会うてくれはるのが一番よろしい。万一会うて下さらんと、病院はこの事件について奥様の方いどんな迷惑がかかっても一切責任負うこと出来んいうのんです。私はそれも光子さんや綿貫の仕組んだ計略で、なんぞまた人<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>すのんやないかと半信半疑でしたけど、何せその時分は<ruby><rb>堕胎</rb><rt>だたい</rt></ruby>事件がやかましいて、何々博士が<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえられた、何々病院がやられたと、ようそんな記事が新聞に出ましてん。そんで前にもいうたようにその本の中には薬剤に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>る方法やら、器具に依る方法やら、法律に触れるようなことまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たあん</span>と書いたあるのんでして、中川の奥様いう人は何ぞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へま</span>なことしてえらい間違い引き起して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しろと</span>の手エで収まり付かんようなったんで病院い<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぎ込まれたん違うやろかと、想像されるのんです。それに私は、光子さんから手紙が来てもきっと私に見せたらいかん、みんな焼いてしもてくれいうて、<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>にいいつけてありましたもんでッさかい、そんな事件が起ってようとは今日までちょっとも知りませなんだ。病院の方ではえらい<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いてて、どうしても今日じゅうに会うてもらわないかんいいます。電話で夫に相談しましたら、「そういうこッちゃったら会わんいう訳に行かんやろ」と、夫もいいます。それでとうとう承知した旨答えますと、これから直ぐに伺うように病院から光子さんの方い知らすいうことになったのんです。

## その十三

ところがその電話のありましたのんが二時頃のことで、それから三十分もした時分にもう光子さんが来やはりましてん。私はまた、なんぼ病院が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いてたかて、いッつも出る時には一時間も二時間も<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>しやはるよって、どないしても来るのは夕方か晩ぐらいになるやろ、まさかこないに早いとは思いもよりませなんだのんに、門のベルがジイジイ鳴って、上り口の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">コンクリ</span>の上踏む<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>の音が、……玄関から奥の間まですっかり開け切ってありましたよって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>ッと表から吹き込んで来る風と一緒に、なつかしい<ruby><rb>香</rb><rt>におい</rt></ruby>が廊下<ruby><rb>伝</rb><rt>つと</rt></ruby>て来ますねん。あいにく夫はまだ帰って来てませんし、立ち上ったまま何処ぞ逃げ道でも捜すみたいに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うろうろ</span>してますと、取次に出た女子衆がバタバタ走って来て、「<ruby><rb>奥様</rb><rt>おくさん</rt></ruby>！　奥様！」いうたなり顔の色変えてるのんで、「分ってる、分ってる、光子さんやろ」いいながら自分で玄関い出て行ことして、「あの、ちょっと、ちょっと、……」と誰を呼ぶのか分らんこといいながら、「あの、……ちょっと待っとくなはれいうて、下の八畳い通しといて」といい附けといて、二階い上って寝室のベッドの上で<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く動悸のしずまるのん待ってから、やっと起き上って、顔色隠すために<ruby><rb>頬紅</rb><rt>ほおべに</rt></ruby>少し濃いめにつけて、白葡萄酒一杯飲んで、思い切って降りて行きましてん。

わたしは仕切りの<ruby><rb>簾</rb><rt>すだれ</rt></ruby>の向うに派手な模様がチラチラして、ハンカチで汗をおさえながらすわってはるらしい姿見ると、もうまた胸が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どきんどきん</span>いうて来ましたが、光子さんの方でも簾越しにこっち見てなさって、<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って行くのん待ち構えたように、「今日は」いうてニコニコ笑いなさるのんです。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、姉ちゃんにあんまり御無沙汰してしもて、悪いとは思ててんけど、あれからあとにいろいろな事あったりして、……それに姉ちゃんあの晩の事どない思てはるねんやろ、きっと腹立ててはれへんやろか思たら、つい<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>が<ruby><rb>高</rb><rt>たこ</rt></ruby>なってしもて、……」と、遠慮しいしいこっちの顔色うかごうてはそないいいなさるのんが、やっぱり<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ馴れしい昔の口調で、「なあ、姉ちゃん、あんた今でも怒ってなはんの？」と、私の眼エの中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込みなさるのんです。私は無理に「徳光さん」と改まって呼びかけて、「今日はそんなお話するつもりでお目にかかったんと違います」いうてやりましてん。「そうかて姉ちゃんがあの時のこと堪忍したげるいうてくれへなんだら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かて話<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>へんもん。」「いいえ、いいえ、私は中川の奥さんのことについてＳＫ病院から頼まれましたさかい、そのことだけ聞くように夫の許し得たあるのんです。そやよってに<ruby><rb>何卒</rb><rt>どうぞ</rt></ruby>その外の話はせんといて頂戴。それからあのう、<ruby><rb>先度</rb><rt>せんど</rt></ruby>のことはみんな自分が<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>だしてんよって、誰恨んだり怒ったりすることあれしませんけど、あんたも今更わたしのこと『姉ちゃん』やなんていわんといて頂戴。そうでないと、私ここにいられへんようになりますさかい。……」、そないにいうと今度はさすがに<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れ返って、うつむいたまま<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>のように<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じくったハンカチを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐるぐる</span>指に巻きつけながら、思わせぶりに涙ぐむような風して見せて、そんなり物をいいなされしませんねん。「あんたかって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>にそんな<ruby><rb>話</rb><rt>はなし</rt></ruby>しに来たんと違いますやろ？　さあ、用件の方聞かして頂戴。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、姉ちゃんにそないいわれたら、……」と、やっぱり光子さんは「姉ちゃん」いう言葉使て、「……いいたいことも胸につかえてしもてちょっとも出エへんねんけど、ほんまいうたら、さっきのあの電話のことなあ？……あれほんまは、中川の奥様と違いまんねん。」「ふーン、そんなら誰のことですねん？」――その時光子さんは眼エと眼エの間に<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を寄せて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くす</span>ッと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な笑いようをしたと思たら、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>のことやわ」いうのんです。「そしたら、病院に入院してるいうのんは、あんたの事だっか？」――まあ、この人は、……何処まで厚かましいねんやろ！　自分が綿貫の<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>宿してどうにも始末に困ったのんで、またしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>を利用しに来るとは！　さんざん人に<ruby><rb>苦水</rb><rt>にがみず</rt></ruby>飲ましときながらまだ足らんのか。――私は体じゅうが<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>て来るのん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と押し<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>めて出来るだけ<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けて聞いてやりました。「ふん、そやねんわ」と、光子さんは<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いといてから、「入院さしてほしいいうてるねんけど、入院さす訳に行かんいわれてんわ」と、なんや<ruby><rb>褄目</rb><rt>つまめ</rt></ruby>の合わんこというて、それからぼつぼつ話し出すのん聞いてみますと、あの私から借った英語の本見て幾通りもの方法やってみたところが<ruby><rb>孰</rb><rt>ど</rt></ruby>れも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span>行かんらしいので、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>してたら人目につくようになって来るし、気が気でのうて、綿貫の知ってる人に<ruby><rb>道修町</rb><rt>どしょうまち</rt></ruby>の薬屋の<ruby><rb>番頭</rb><rt>ばんと</rt></ruby>さんあるのん幸い、その本に書いたある処方に従うて、薬をもろて飲んだんやそうです。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も番頭さんには事情を明かしたんやのうて、ただ必要な薬品だけもろて、それをええ加減に調合したのんで、間違うてたんかどうか、よんべ<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かにお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby><ruby><rb>痛</rb><rt>いと</rt></ruby>なり出して、お医者さん呼んでる間にえらい出血した。そんでお医者さんに訳話して、どうぞ家の者に内証でどないぞして欲しいいうてお梅どんと二人で頼みますと、出入りのお医者さんでんねけど、「難儀ですなあ」いうてためいきつくばっかりで、「これはどうも私には困ります。きっと手術して出さんといかんでしょうが、何処ぞ専門の病院で心やすい所があったらそこい行って相談して御覧。私は応急の手あてだけしときます」いうて<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>よう逃げてしもたのんで、ＳＫ病院やったら院長さん知ってるからどないなとしてくれはるやろ思て、<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>になってから出かけて行って診察してもろたら、そこでも同じこというてなかなか聴いてくれはれへん。なんでもそこの院長さんいうのんは今の病院建てる時に徳光さんのお父さんからお金出してもらやはったんやそうで、光子さんとお梅どんとで手エ合わすようにして頼むと、「弱りましたなあ、弱りましたなあ」いうて、「前やったらこんなぐらいのことは何処の医者でも引き受けたのんですが、御承知の通りこの頃は世間がやかましいのんで<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>なことすると私一人やない、お宅の不名誉になるような事起らんとも限らんのんで、そうなったらお<ruby><rb>父様</rb><rt>とうさん</rt></ruby>に対して申訳ありません。それにしても何で今まで放っといたんです、こないならんうちやったら、――せめて一と月も前やったらどないなとしたげたのに」いうのんですけど、そないしてるあいだも時々お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby><ruby><rb>痛</rb><rt>いと</rt></ruby>なって出血するのんで、ここで何ぞの事でもあったら病院に<ruby><rb>嫌疑</rb><rt>けんぎ</rt></ruby>がかかりますし、そうかて苦しんでるもんを黙って見てるいう訳に行かんし、「いったい誰に<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せてもろてどんな薬飲んだんかいうて下さい。それ聞いたかて出来るだけ秘密にはしときますけど、万一問題になった場合にその人が証人にさいなってくれたら手術したげる」いうもんですさかい、私から本借ってこうこうしたいうこと話して、私がいッつもその本の方法実行して目的達してるもんですから、自分も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span>行くやろと思たいうようなことしゃべってしもた。そしたら院長さん<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く考えてて、こないな事はお医者さんやのうても、経験のある<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しろと</span>の方がかいって手軽うに<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>ようやれる、西洋の女やらはこないこないして、人の手エ借らんと自分で始末してしまうのんが常識みたいになってるさかい、私が熟練してるのんなら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いっそ</span>私にしてもろたらええのやけどいうたりして、とにかく事件がむずかしなっても私が責任負うてくれたら手術したげる、それがイヤやったら本貸したのんが災難やと思てどないぞしてくれたらどやろ。お医者さんと<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>て私やったら知れる心配も少いし、知れたとこで大した問題になれへんやろ。――そないいわれたんやと、まあ光子さんはいうのんです。「なあ姉ちゃん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>姉ちゃんにそんなことしてもらおとは思てエへんけど、こんなりにしといたら時々痛み出してたまらんし、恐い病気になったりすることもあるいわれたのんで、姉ちゃんが責任負ういうてくれたら手術してもらえるのんやけど、……」「責任負ういうたかって、どないしたらええのん？」と聞いてみましたら、病院い行て、院長さんの前で誰ぞ第三者に立ち会うてもろて約束するか、そうでないのんなら後日のためにちょっと一と筆書いて欲しいいうのんですが、そんなこと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっかり</span>出来しませんし、それに光子さんのいうことが何処までほんまか、よんべ出血したいう病人が別に<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れたふうものうて出歩いてるのんもおかしいし、さっきの電話は病院で医局の人にかけてもろたいうのんですけど、そんな人が中川の奥様の名ア<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>るはずもなし、何ぞまた訳でもあるような気イして<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>なこといわれへん思てるうちに、「ああ<ruby><rb>痛</rb><rt>いた</rt></ruby>、……また<ruby><rb>痛</rb><rt>いと</rt></ruby>なって来た」いうてお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>さすり出しなさったのんです。

## その十四

「どないしなはってん？」いうてるうちに見る見る顔が青なって来て、「姉ちゃん、姉ちゃん、<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>便所い連れてエな」いいなさるのんで、どないな事になるのやらこっちも<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて、畳の上<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>い廻るようにしてはるのん抱き起すと、はあはあいいながら肩に<ruby><rb>凭</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかって歩きやはるのんがやっとですねん。私は便所の外に立って、「どうだんねん、どうだんねん」いうてましたが、<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>りごえが段々しんどそうになって、「うーん、くるしいッ、姉ちゃん！　姉ちゃん！」いいますよって、夢中で中い<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け込んで、「しッかりしなはれ！　しッかりしなはれ！」と、肩<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でたげて、「なんぞ<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>り<ruby><rb>物</rb><rt>もん</rt></ruby>でもしたんかいな」いうと、黙って首振って、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、もう死ぬ、死ぬ、……助けてほしい」と、ほんまに消えてしまいそうな虫の息で、「姉ちゃあん、……」と一と声大きく呼びながら、両手で私の<ruby><rb>手頸</rb><rt>てくび</rt></ruby>にしがみ着きますねん。「こんなぐらいな事で何で死んだりするかいな、光ちゃん、光ちゃん」いうて力つけたげても、もう眼エ見えんように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どろん</span>となった<ruby><rb>瞳</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>上げて、「姉ちゃん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>堪忍してくれるわなあ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>こないして姉ちゃんの<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>で死ぬのんやったら本望やけど、……」と、そないにいうのんがちょっとぐらい狂言としたかって、握ってる手エ次第に<ruby><rb>冷</rb><rt>つ</rt></ruby>めとなって来るような気イしますし、そうかて「お医者はん呼んだげよか」いうても「姉ちゃんに迷惑かかるよって呼んだらいかん、死ぬのんやったらこんなり死なして」いいますし、……<ruby><rb>孰方道</rb><rt>どっちみち</rt></ruby>そんなりにしとかれしませんので、<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>に手ッ<ruby><rb>伝</rb><rt>と</rt></ruby>てもろて二階の寝室に運びましてん。なんせ、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の場合ですよって布団敷いてる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>アもあれしませんし、寝室い入れるのんはどや知らん思たんですけど、下はみんな<ruby><rb>見透</rb><rt>みとお</rt></ruby>される夏座敷ですし、しよことなしにそないしたのんですが、ようよう寝台い<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>さしてしもてから、直きに夫とお梅どんとこい電話かけに行ことしますと、「姉ちゃん<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>も行ったらいかん」いうて、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎゅ</span>ッと握ったままちょっとの間も放しなされしません。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそないしてるうちに幾分か落ち着いて来たらしゅう、もうさっきのように苦しがらんようになりはったのんで、まあこの分ならお医者はん呼ばいでもよかった思うと、その時だけはほんまにほっとして助かったような気イしましてん。

そんな工合で私は傍離れること出来しませんよって、「お便所<ruby><rb>汚</rb><rt>よご</rt></ruby>れてるさかい直ぐ<ruby><rb>掃除</rb><rt>そうじ</rt></ruby>しといて」いうて女子衆下いやってしもてから、何ぞ薬でも思いましてんけど、「いらん、いらん」と、イヤイヤしなさって、「姉ちゃん帯ゆるめてエな」いいなさるのんで、帯ほどいたげたり、血イの附いた<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>脱がしたげたり、アルコールと脱脂綿持って来て手エや足<ruby><rb>拭</rb><rt>ふ</rt></ruby>いたげたりしましたのんですが、そのうちにまた発作起って、「くるしいッ、くるしいッ、水、水、……」いいながらシーツや<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>手あたり次第に<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きむしって、体を<ruby><rb>蝦</rb><rt>えび</rt></ruby>のように曲げて<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えなさるのんです。私はコップに水<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>んで来て、えらい<ruby><rb>暴</rb><rt>あば</rt></ruby>れてて飲まされしませんのんを無理におさえつけながら口移しに飲ましたげると、おいしそうに<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐいぐい</span>いわしながら、飲んでしまうとまた、「くるしい、くるしい」いうて、「姉ちゃん、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>やよってに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>の背中の上い載って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎゅ</span>ッと押してエな」いうたり、何処を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでほしい、<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてほしいいうのんで、いわれる通り揉んだりさすったりするのんですけど、ちょっと直ったか思うとまた直ぐ「痛い、痛い」いうて、なかなか治まりそうもあれしません。そんで暫くでも楽になったあいだには、「ああ、ああ、こんな苦しい目エに遇うのんもみんな姉ちゃんの<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>やなあ。……これで死んだら姉ちゃんかってもう堪忍してくれるか知らん」と、独りごとのようにいうてさめざめ涙流すのんです。そいからまたしても<ruby><rb>痛</rb><rt>いと</rt></ruby>なり出して、今度は前よりもっと苦しそうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のた</span>打ち廻って、何や血の<ruby><rb>塊</rb><rt>かたまり</rt></ruby>みたいなもんが出たらしいいうたりするのんですが、何遍も何遍も「出た、出た」いうたんびに調べてみたかて、ちょっともそないな<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>エあれしません。「神経でそんな気イするねんわ、なんにも出てへんやないかいな。」「出てくれへなんだら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もう死ぬわ。姉ちゃんは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>が死んだらええ思てんねんやろなあ。」「なんでそんなこというのん？」「そうかて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>にこんな地獄みたいな苦しみさしとかんと、<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>楽にしてくれたらええのに、――姉ちゃんやったらお医者はんよりよう知ってるくせに、……」そないいい出したいうのんは、いつや私が「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほん</span>ちょっとした器具さいあったら何でもない」いうたことあったよってですけど、もう私にはさっきの「出る出る」いう騒ぎの時分から、今日のことがみんな狂言やいうことが分ってましたのんで、……ほんまいうたら、実はその前からだんだん気イ付いて来てながら、知って<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>されてたのんで、光子さんかて私が欺されてる振りしてるのん見抜いてながら、何処までも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずうずう</span>しゅう芝居してはりましてん。そんで、そいから先はお互が自分で自分<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>き合うて、……もうそんなこと、先生はよう分ってはりますやろけど、結局私は、見す見す光子さんの仕掛けた<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>い自分を落し込んでしまいましてん。……はあ、その赤いのんは何を<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>たのんか聞かんとしまいましたんで、今でもときどき不思議に思いますのんですが、何ぞ芝居に使う<ruby><rb>血糊</rb><rt>ちのり</rt></ruby>のようなもん隠しといたのんと違いますやろか。……「姉ちゃん、そんならもうこないだのことちょっとも怒ってへんわなあ、きっと堪忍してくれるわなあ？」「今度こそ欺したら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>あんたを殺してやるわ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かてさっきみたいな薄情なことしられたんやったら、生かしとけへん。」――ほん一時間ぐらいのあいだにすっくり元の<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ馴れしさに戻ってしまいましたのんですが、そうなると私は、急に夫の帰って来るのが<ruby><rb>恐</rb><rt>こお</rt></ruby>うなって来ましてん。一旦ああいう訳になったのんが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>が戻ってみましたら、その恋しさは前より増して、もうちょっとの間も離れとないのんに、さしあたり、これから先、どないしたら毎日会えるねんやろか。「ああ、ああ、どないしょう。光ちゃん明日も来てくれるわなあ？」「此処の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>い来てもええの？」「ええか、わるいか、もうそんなこと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に分らん。」「そんなら一緒に大阪い行けへん？　明日姉ちゃんのええ頃に電話かけるわ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>の方からも電話かけるわ。」そないいうてる間に<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>ッきに夕方になってしもたのんで、「今日はもう帰るわなあ、ハズさんが戻って来やはるさかい、……」と、身支度しょうとしなさるのんを、「もうちょっと、もうちょっと」いうて何遍も引き留めましてんけど、「まあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんちゃ</span>ッ<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>やなあ、そんな分らんこというたらいかん、明日きっと知らしたげるさかい<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいして待ってなはれや」と、今では<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>に私の方がたしなめられて、五時頃に帰って行きゃはりましてん。

夫はその時分大概帰りが六時頃でしたけど、その日イはいくらか心配して<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>帰るか知らん思てましたのんに、やっぱりこないだじゅうからの事件が引き続いてると見えて、そいから一時間ぐらい立ってもまだ帰ってけえしません。私はそのあいだに部屋片附けたり、寝台<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に直したりして、床の上に<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ってた光子さんの足袋<ruby><rb>拾</rb><rt>ひろ</rt></ruby>て、――帰りしなに光子さんは私の足袋<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて行きなさったのんです。――その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby><ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>つめながら、まだ何や知らん夢みてるみたいにぼんやりしてましてん。夫にどないいい訳しょう。この部屋<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>たこといおか知らん。いわんとこか知らん。どないいうといたらこれから先会うのんに都合ええか知らん。……と、そんなこと考えてたら、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに「帰りはりましたで」と下から知らしますのんで、足袋<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだ</rt></ruby>しいしもて降りて行きますと、「どうしたんや、さっきの電話のことは？」と、出会いがしらにすぐそないいうのんです。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>ほんまに難儀したわ。あんた何でもっと<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>帰って来てくれへなんだん？」「僕かてそう思てたんやけど、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と用が片附かなんだのんで、……一体どないしたいうのんや？」「何でも彼でも直き病院まで来てくれいうねんけど、そんなことしてええか悪いか分れへんし、とにかく明日まで待っとくなはれいうたんやけど、……」「そんで光子さん<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>にやはったんか。」「明日是非一緒に行ってくれいうて帰りはりましてん。」「お前があんな本貸すよって悪いのやないかいな。」「誰にも見せへんいやはったよってに貸したげたんやけど、ほんまに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、えらい事してしもたわ。まあ何にしても明日見舞いに行てこう、中川の奥様から<ruby><rb>満更</rb><rt>まんざら</rt></ruby>知らん仲と違うし、……」私はそないいうて、何は<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>っといても早速明日の口実を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えましてん。

## その十五

その晩わたしは夜の明けるのん待ちどしいて、八時に夫が出かけてしもたら、飛び着くように電話口い走って行きましてん。「姉ちゃん、えらい早いなあ、もう起きたん？」と、受話器通して聞えて来るのんが、昨日も聞いた声ですねんけど、眼エの前で聞くのんとは<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>たなつかしさに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わくわく</span>しながら、「光ちゃんまだ寝てなはったんか？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>今電話で起されてんわ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もういつでも出られるわ、あんたも直き出てくれへんか？」「そんなんやったら<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えするよって、九時半に梅田の阪急い来てくれへんか？」「九時半に、きっとやなあ？」「きっとやとも」「今日は光ちゃん一日暇やねんわなあ？　帰り<ruby><rb>遅</rb><rt>おそ</rt></ruby>なってもかめへんやろ？」「かめへんとも。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もそのつもりで行くさかい」いうて、ちょっきり約束の時間に行ってましたら、なかなか来なされしませんのんで、またいつもみたいに<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>してなさるのんか思たり、<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>されたのん違うか思たり、自動電話かけてみよとして、その間に行んでしまいなさったら難儀や思て<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>めてしもたり、ひとりでジリジリしてますと、やっと十時過ぎに、「姉ちゃん大分待ったん？」いうて、改札口から息せき切って走って来なさいましてん。「何処行こ？」「光ちゃん何処ぞええとこ知らん？――静かな、誰もいエへんようなとこで一日ゆっくりしてたいわ。」「そんなら奈良い行こやないか」いわれたのんで、ああ、そやそや、二人が始めて仲<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>う遊びに行ったのんも奈良やった、あの思い出多い若草山のゆうがたの景色、……何で今まであの記念の土地忘れててんやろ。「ほんまにええとこ思いついたなあ、また若草山い登ろなあ」いうて、ほんまにその時のうれしさいうたら、……感激した時の私の癖でもう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃんと</span>涙ぐみながら、「<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>行こ、早行こ」と<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き立てて、大タクの案内人に手エ取られてタクシーい乗るまでは、足が土に着けしませんねん。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>ゆんべから何処にしょう思ていろいろ考えて、奈良が一番ええ思てんわ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かてゆんべ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんじり</span>ともせえへんねけど、いったい何考えててんやろ。」「あれからハズさん直き帰って来やはったん？」「一時間ぐらいしてからやってん。」「どないいうてはったん？」「もうそんなこと聞かんといてエな、今日は一日家のこと忘れてたいわ。」――奈良い着いたら直きに<ruby><rb>大軌</rb><rt>だいき</rt></ruby>の終点から<ruby><rb>乗合</rb><rt>のりあい</rt></ruby>に乗って、若草山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>まで行って、何しろこの前の時と<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>て薄曇った暑い日でしてんけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びっしょり</span>汗<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きながら<ruby><rb>頂辺</rb><rt>てっぺん</rt></ruby>まで登って行って、そいから山の上にある茶店で休んでるうちに、前の時<ruby><rb>蜜柑</rb><rt>みかん</rt></ruby><ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>こばしたりしたのん思い出して、ちょうど夏蜜柑売ってるのん買うて、二人でころころ転こばしましたら、下にいる<ruby><rb>鹿</rb><rt>しか</rt></ruby>がビックリして逃げますねん。「光ちゃん、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>減ってエへんか。」「減ってるけど、もうちょっと<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にいてたいわ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かていつまでも山の上にいてたい、なんぞお菓子ンでもたべて辛抱しとこう」いうて、昼御飯の代りに<ruby><rb>煮抜</rb><rt>にぬ</rt></ruby>きたべながら、大仏殿の屋根から<ruby><rb>生駒山</rb><rt>いこまやま</rt></ruby>の方見てますと、「この前<ruby><rb>蕨</rb><rt>わらび</rt></ruby>や<ruby><rb>土筆</rb><rt>つくし</rt></ruby>たんと採ったわなあ、姉ちゃん」いうて、「もう<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の山い行ってもなんにも<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えてエへんやろか。」「そら、今頃<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>たかてなんにもあれへん。」「そんでもこないだ行たとこい行てみたいわ」いいなさって、あれから後の山いつづく谷の方い下りて行きましたら、春でもあの辺はあんまり人の行かんとこですよって、夏はなおさら淋しいて、木や草ばっかり<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby><ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>ってて、なかなかそんなとこ、一人やったら来られへんような<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>い気イするのんですけど、二人は結局誰も見てる者ないのんええことにして、草の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼうぼう</span>伸びてる蔭に、それこそほんまに、大空の雲よりほかに知ってる者のない隠れ場所見つけて、「光ちゃん、……」「姉ちゃん、……」「もうもう一生仲好うしょうなあ。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>姉ちゃんと此処で死にたい。」――と、お互にそないいうたなり、それから後は声も立てんと、どのくらいそこにいたのんやら、時間も、世の中も、何も彼も忘れて、私の世界にはただ永久にいとしい光子さんいう人があるばっかり。……そのうちに空がすっかり曇って、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>こいものがポタリと顔に落ちましたので、「雨降って来たな。」「憎い雨やなあ。」「<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れたらしょうがない。本降りにならん間にはよ下りよ」いうて、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて山下りてしまいましたら、ほんのバラバラ落ちただけでもうちゃんと止んでしもてますねんがな。「こんなぐらいやったらもっといてたらよかったなあ。」「ほんまに、何ちゅう意地悪い雨やろ」いいましてんけど、下りてみたら俄かに二人共お腹減って来ましたのんで、「ちょうどお茶の時間やさかい、ホテルいでも<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>てサンドウィッチたべよか」いいますと、光子さんが「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>ええとこ知ってる」いいなさって、大軌の直ぐ傍にある新温泉い行って、――<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>は私初めてですねんけど、宝塚と同じような家族温泉や何やあって、光子さんはちょいちょい行きなさると見えて、<ruby><rb>仲居</rb><rt>なかい</rt></ruby>さんの名アやら、中の勝手やら、よう知ってなさるのんです。そんでその日一日遊んで、大阪に戻って来ましたのんは八時頃でしてんけど、そいでもまだ別れるのんがイヤでイヤで、何処まででも引っ着いて行きとうて、一緒に阪急で<ruby><rb>蘆屋川</rb><rt>あしやがわ</rt></ruby>まで送って行きながら、「ああ、また奈良い行きたいなあ。光ちゃん、明日出られへん？」「明日はもっと近いとこにせえへんか、久しぶりで宝塚はどやろ？」「そんならきっとやで」いうて別れて、帰って来ましたら十時近うになってるのんです。「あんまり遅いので、さっき病院い電話かけたとこや」いわれて、私ははっとしながら<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に巧いこと考えついて、「電話かけても分れへなんだやろ」いいますと、「ふん、中川いう人入院してへんいうのんで、何ぞ訳あって隠してるのんか思たのやけど。……」「それがなあ、行てみたら中川の奥さんやあれへん、光子さん自身のことやねんわ。そないいうと昨日来やはった時も何や様子<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な思ててんけど、自分のことやいうたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>が会えへんやろ思て、中川さんの名前借ったいうねんわ。」「そんならあの児が病院い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってんのんか？」「病院なんか這入ってはれへん。こっちはそんな事とは知らんと、一緒に見舞いに行くつもりで誘いに行ったら、『まあちょっと上っとくなはれ』いうよって、上ったことは上ったけど、いつまでたっても出かけよとしやはれへんのんで、『はよ行こうな』いうたら、『実はあんたに頼むことあるねん』いい出して、『きんのもその話しょう思て行ったんやけど、……』いうて、――『どうもこの頃体の工合が普通ではない、妊娠したのんかも分れへんよって、そんな事にならんうちに、何ぞ<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>貸してくれへんか、あの本読んでみたけど、なんや英語で分れへんし、やり<ruby><rb>損</rb><rt>そこの</rt></ruby>うたら恐い思うし』いうねん。」「ふうん、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた児やなあ、そんだけの事に昨日みたいな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>つくやなんて、失敬やないか。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>もさんざん心配さされて、人馬鹿にしてる思てんけど、『何とも外に工夫つけへんのんで、あんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>ついてしもたんやさかい、どうぞ<ruby><rb>悪</rb><rt>わる</rt></ruby>思わんといて』いうて、お梅どんも出て来て<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まるよって、……」「それにしたかて外に何とか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>のつきようもあるやないか、あんまりやり方がエゲツない。」「ふん、ふん、そらそうに違いないねけど、昨日の電話も男の声やったし、きっとあの綿貫いう人なあ、あの人が蔭で<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>したのんにきまってるわ。なんぼなんでも光子さんだけやったら、あんなややこしい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>つくはずあれへん。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>も腹立って腹立って、『そんな頼み聴く耳持ってエしません、これで失礼します』いうて帰ろとしたら、『まあそないいわんと、どうぞ助けて<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>』いうて右と左から<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>おさえて、『こんな事から秘密親たちに知れでもしたら、どうぞして綿貫と一緒になりたい思てるのんがみんなあかんようになってしまう。そしたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>生きてられへん』いうて光子さんは泣きやはるし、『どうぞどうぞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんの命助ける思て、どないぞ心配したげとくなはれ』いうてお梅どんは手エ合わして拝むし、そないしてもろたらどないしてええか分れへんようになってしもて、もうもう<ruby><rb>往生</rb><rt>おうじょう</rt></ruby>したわ。」「そんでどうした？」「そんでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>めったなこと<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せられへんよって、『私なんにもそんな方法知れしません。あの本貸したげただけでも悪い事した思てますのんに、そんな恐い事なんで出来ますかいな。誰ぞ知ってるお医者はん頼んだらよろしいがな』いうてんけど、そないしてる間に<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに光子さん苦しみ出しやはって、えらい騒ぎになってん。……」そんな風に、しゃべってるうちに<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>から傍からいろいろな作り事考え出して、昨日の出来事をええ工合に織り<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜて、――光子さんはあの本の処方で昨夜の間に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>っと薬飲んだらしい、それがちょうどその時<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いて来てだんだん痛みようが<ruby><rb>強</rb><rt>つよ</rt></ruby>なって、――と、そこは昨日見た通り詳しいに話して、そないなって来ると自分にも責任あるよって帰るに帰られへん、そんでとうとう今まで傍についたげてたんやと、うまいこといい抜けしましたのんです。

## その十六

「今日もちょっと見舞いに行ってくるわ、放っといても気がかりやし、乗りかけた船やよってしょうがない。……」いうて、そいから五、六日のあいだというもの毎日のように何処ぞで会うてましてんけど、「何処ぞ人に見つけられへんとこで、毎日二、三時間ぐらい会えるとこあったらええのになあ」思てますと、「そんなんやったら大阪の市中の方がええし、……静かなとこよりかいって町中のゴタゴタしたとこの方が人目に附けへんし」いいなさって、「……いつや姉ちゃんに着物持って来てもろた家なあ？　<ruby><rb>彼処</rb><rt>あっこ</rt></ruby>やったら気分もよう分ってるし、安心やねんけど、……彼処にせえへんか？」いやはりますねん。あの笠屋町の宿屋いうたら、私に取ったら忘れられへん<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい口惜しい思い出あるとこですのんに、まるでこっちの感情も何も踏み付けにした話ですねんけど、そないにいわれても「ふん、そやなあ、なんや<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まり悪いけど、行てもええなあ」いうて、腹立てることも出来んと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おめおめ</span>引っ着いて行ったぐらい、すっかり足元見られてしもてましたのんです。それに極まり悪いいうても初めの日イだけで、<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れてみましたら<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>やかいも心得てて、帰りがおそなった時やらは、家の方い電話かけて<ruby><rb>褄目</rb><rt>つまめ</rt></ruby>合うようにしてくれますし、……そんな訳で、しまいには別々に出かけて行って<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>から電話で呼び出したり、何ぞ急用出来た時にはお梅どんから知らしてもろたり、……ま、それもよろしいのんですけど、光子さんの家ではお梅どんだけやのうて、お母さんも、外の女子衆も、みんながそこの家の電話番号知ってるらしいて、ときどき私や光子さんにかかって来ることありますのんで、何ぞ家の方ええように<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>したあるに違いない思てたのんですが、或る日一人で先<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>て待ってたあいだに、「へえ、そうだす、……へえ、いいえ、あのう、さっきから待っておりますけど、まだ来やはれしまへん。……へえ、へえ、そないいうときます。……いいえ、どうしまして、……私の方こそいつも奥様出やはりましてえらいお世話になりまして、……」と、電話口でそない仲居さんがいうてるのんが何や知らん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>ですのんで、「今の電話、徳光さんとこから違いますか？」いいましたら、「そうだす」いうてクスクス<ruby><rb>笑</rb><rt>わろ</rt></ruby>てるのんです。「あんた今、『いつも奥様が出やはりまして』いうてはりましたなあ？　一体あれ誰のつもりでいうてなはったん？」いうとまたクスクス笑て、「奥様知りゃはれしまへんのんか、奥様とこの女子衆のつもりでいうてますねん」いうやありませんか。そいからよう聞いてみましたら、そこの家が私ンとこの大阪の事務所やいうことにしたあるのんやそうですねん。「仲居さんがこれこれいうてたけど、ほんまかいな？」いうて、光子さんに<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねましたら、「ふん、そやねん」と、平気な顔して、「姉ちゃんとこの事務所、今橋と南と二つあるいうて、此処の番号<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せたあるねん。姉ちゃんかって何ぞ家の方いそないいうといたらどやのん？　<ruby><rb>船場</rb><rt>せんば</rt></ruby>の店の出店やいうてもええし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>の家でいかなんだら、ええ加減な名アいうといたらえやないかいな」いいなさるのんです。

そないして、だんだん私は抜き差しならん深みい<ruby><rb>陥</rb><rt>は</rt></ruby>まって行きましてんけど、「こいではいかん」思たところで、もうそうなったらどないすることも出来しません。私は自分が光子さんに利用しられてることも、「姉ちゃん姉ちゃん」いわれながらその実馬鹿にしられてることも、感づいてましてん。――はあ、そら、いつや光子さんがいうてなさったのんに、「異性の人に崇拝しられるより同性の人に崇拝しられる時が、自分は一番誇り感じる。何でやいうたら、男の人が女の姿見て綺麗思うのん当り前や、女で女を迷わすこと出来る思うと、自分がそないまで綺麗のんかいなあいう気イして、<ruby><rb>嬉</rb><rt>うれ</rt></ruby>してたまらん」いうのんで、たしかにそういう虚栄心から、夫に対する私の愛を自分の方い奪いなさることに興味持ってなさったのんでしょうが、それにしたかって、光子さん自身の心は<ruby><rb>綿貫</rb><rt>わたぬき</rt></ruby>の方へ吸い取られてたことは、よう分ってましてん。けどもう私は、どんな事あっても二度と別れるいうこと<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>へん気持になってましたよって、分ってながら分らん風して、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中ではなんぼ<ruby><rb>焼餅</rb><rt>やきもち</rt></ruby>焼いてたかて、「綿貫」の「わ」の字も口い出さんと、そ知らん顔してましたのんで、そんな工合に弱点見抜かれてしもたら、姉ちゃんいうても私の方が妹みたいに機嫌取るようになってしもて、或る日いつもの家で会うてますと、「姉ちゃん、あんた一ぺん綿貫に会うてくれる気イないか」いいなさるのんです。「――あの人、姉ちゃんどう思てるか知らんけど、いつやあんなりになってしもてて、何や気持が済まんよって、是非姉ちゃんに会わしてほしいいうてんねん。ちょっとも悪い人違うし、会うたらきっと姉ちゃんかて気に入る思うねんけど、……」「ほんまに、そやなあ、あんなりいうのんも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なし、<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>がそないいやはんねやったら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>も会うときたいなあ。光ちゃんの好きな人やったら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かってきっと好きになれる。」「ふん、そらきっとそや。そしたら今日でも会うてくれるか？」「いつでもかめへんけど、あの人何処にいてんの？」「さっきから<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>の家い来てんねん。」――私も多分そんなこッちゃろ思てましたのんですが、「そんなら此処い呼ぼなあ」いいなさって、「あの人に来てもろて頂戴」いうと、直きに綿貫が<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来ましてん。「やあお姉さんですか……」と、この前の時は「奥さん」いうたのに「お姉さん」いう言葉<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>て、私を見たら恐縮したみたいにズボンの<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>そろえて<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まって、「あの時はまことにえらい失礼しまして、……」いうて、――なんせいつやらは夜おそうもありましたし、それにあんな訳で人の着物借り着してましたし、その日イは明るい<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ア<ruby><rb>昼間</rb><rt>ぴるま</rt></ruby>のことですのんで、紺の<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>に白セルのパンツ<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いてるのんが、<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>た人のような印象受けたんですけど、歳は二十七、八ぐらいで、この前の時の感じよりもっと顔の色白うて、やっぱり「美男子やなあ」とは思いましたけど、正直のところいうたら、表情が乏しいて、絵エに<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>いたように綺麗なばっかりで、ちょっとも近代的なことあれしません。「この人<ruby><rb>岡田時彦</rb><rt>おかだときひこ</rt></ruby>に似てるやろ？」と、そない光子さんはいいなさるのんですが、時彦よりもっとずっと女性的で、眼エが細うて<ruby><rb>眼瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>が<ruby><rb>脹</rb><rt>は</rt></ruby>れてて、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の間を神経質らしゅうピクピクさす癖あって、なんや知らん陰険らしいのんです。「栄ちゃん、何もそない<ruby><rb>堅</rb><rt>かと</rt></ruby>ならんかてええし、姉ちゃんちょっとも気イにかけてはれへんさかい――」いうて、光子さんは一所懸命<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>り<ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>しなさるのんですけど、私は私で、どうも虫の好かん<ruby><rb>奴</rb><rt>や</rt></ruby>ッちゃ思たらどないしても打ち解けられしませんし、綿貫の方もそれ感づいたのんか、無愛想な顔ニッコリともささんと、いつまでたっても膝<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>そうともせえしませんのに、光子さんだけは何や独りで面白そうに笑いなさって、「どないしたん？　栄ちゃん。あんた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な人やなあ」いいながら、むずかしい顔してる綿貫の方を意味ありそうに<ruby><rb>上眼</rb><rt>うわめ</rt></ruby>で<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んで、「そんな顔してたら姉ちゃんに悪いやないか」いうて、指の先で<ruby><rb>頬</rb><rt>ほ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span>突ついたりして、「あのなあ姉ちゃん、ほんまいうたら、この人焼餅焼いてんねんし、――」いやはりますねん。「<ruby><rb>譃</rb><rt>うそ</rt></ruby>です、譃です、そんな事あれしません、そら誤解や。」「譃やあれへん、そんならさっきの事いおか？」「さっきどういうた？」「僕は男に生れたのんが<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい、姉ちゃんみたいな女に生れたらよかったいうたやないか。」「そらいうた、――そやけどそら焼餅やあれへん。」そないいい合いしてるのんが、私にお世辞使うためにちゃんと二人で相談しといていうてるのんか分れしませんし、相手になるだけ<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>くさい思て黙ってますと、「まあ、まあ、姉ちゃんの前でそないに僕に恥<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>かさんでもえやないか。」「そんならもっと機嫌ようしたらどやねん？」いうて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずるずるべったり</span>に焼餅<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>げんか</rt></ruby>止めてしもて、そいから帰りしなに三人で鶴屋食堂い行ったり、松竹見たりしましたけど、そいでも三人とも心からシックリとはしませなんだ。

## その十七

そう、そう、そんで私、<ruby><rb>最前</rb><rt>さいぜん</rt></ruby>いうのん忘れましてんけど、家の方いは光子さんのお父さんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てかけ</span>はんのとこやいうて、笠屋町の電話番号<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せときましてん、それいうたら、ほんまにおかしなことですねんけど、光子さんは「船場の支店やいうたらどやのん？」いいなさるのんですが、そんなとこい行てなさるいうのん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なし、いっそ病院い入院しなさったいうたらとも思たのんですが、病院やったらいつまでも退院せえへんいう訳に行かんし、それに夫が事務所の帰りにでも迎いに来たら<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>き分るし、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にしょうなあ思て難儀してますと、「こないしたらどうだす」いうて、お梅どんが考えつきましてん。尤もそれには光子さん妊娠しやはったいうことにせんと<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>わるいのんで、お薬飲んでも巧いこと行かんし、お医者はんも手術してくれへん、そのうちにだんだんお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>大きなって来るよってとうとうお母ちゃんに打ち明けてしもた、そいでお父さんの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てかけ</span>はんの家い子供生れるまで引き取られてる。その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てかけ</span>はんの家いうのんは笠屋町の井筒いう宿屋で、電話番号は何番でと、ちゃんとほんまの名前教せといたら、電話帳見たかてその通りやし、迎いに来られても<ruby><rb>褄目</rb><rt>つまめ</rt></ruby>合うし、「そしたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>、姉ちゃんとこい遊びに行く時<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>い綿でも詰めて、お腹大きして行かんならんわなあ」いうて大笑いになりましてんけど、それやったら一番分る気づかいないいうのんでそないしましてん。「そうか、光子さん腹<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽて</span>になったんか」いうて、夫はすっかり真アに受けて、さすがに気の毒そうな顔しますのんで、「そいでもあんた、そんな悪いこと<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>ッ<ruby><rb>伝</rb><rt>と</rt></ruby>たらいかんいうたやろ。そやよって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>どない頼まれても教せたげへんなんでん。そいで子供出来るまでは一と足も外い出たらいかん、じっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっ</span>込んでなはれいわれて、押し込めみたいにされてるのんで、退屈で退屈でしょうがないさかい、毎日でも遊びに来とくなはれいやはるねんけど、どないしょう知らん？――<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>かてきっと恨まれてるか分れへんで、放っといたら寝ざめ悪いしなあ。」「それもそやけど、また係り合いになったら難儀するぜ。」「ふん、ふん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>もそない思うねんけど、今度ちゅう今度はいろいろ苦労したせいか大分人間変って来てはんねん。それにそないなったら、もうどないしても綿貫と一緒になるより外ないいうて、わりに落ち着いてはるし、家の方でも結局そないさすようになるらしいねんけど、何せ今のとこ誰一人<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねたげる人もないのんで、『頼りにするのん姉ちゃんだけや』いわれると、なんぼ<ruby><rb>自業自得</rb><rt>じごうじとく</rt></ruby>や思ても可哀そうになって来るねん。『なあ姉ちゃん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やや</span><ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>出来たら、まさか姉ちゃんかて誤解されるはずないやろ？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>そのうちに綿貫と一緒に姉ちゃんの旦那さんとこい<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まりに行くさかい、これからほんまの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょうだい</span>みたいに附き合うてくれへん？』――こないだもそないいうてたし、――」夫はそれでもまだ心から納得せえへん様子でしたが、「なるだけ気イ附けた方がええで」いいながらそんなり大目に見てしまいましたのんで、そいから後は「奥様いやはりますか」いうて笠屋町から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おおびら</span>に呼び出しかかって来る。こっちからも遠慮のうかけられる。晩御飯ごろまで遊んでると、「ええ加減に帰ってけえへんか」いうて夫からかかって来ることもある、――いう工合で、ほんまにお梅どん巧いこと考えてくれた<ruby><rb>思</rb><rt>おも</rt></ruby>てましてん。

そいからさっきの綿貫のことは、そんな調子で、折角引き合わしてもろても何やお互に探り合いしててちょっとも気イ許せしませんのんで、その日イ一ぺん会うたなり、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>からも「<ruby><rb>会</rb><rt>あ</rt></ruby>お」いい出したことあれしませんし、光子さんも二人を仲好うさすことはあきらめてしもたらしいのんですが、なんでも三人で松竹い<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>た、――あれから半月ぐらい後でしたやろか、ゆうがた、五時半ごろまで遊んでましたら、「姉ちゃん先<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>んでくれへん？　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もうちょっと用あるよって」と、追い立てるようにしなさるのんで、<ruby><rb>常時</rb><rt>じょうじ</rt></ruby>のことですよって腹も立てんと、「そんなら先<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>ぬわ」いうてその宿屋の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>出ましたら、小声で「お姉さん」と後から呼ぶもんあるのんで、振り向いて見たら綿貫ですねん。「お姉さん、今お帰りがけですか」いいますよって、「へえ、そうです、光ちゃん待ってはるさかい<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>行ったげなはれ」と、わざと皮肉にいいながら、私はタクシー<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえるつもりであの通りを宗右衛門町の方い歩いて行きますと、「ちょっと、……ちょっと、……」いうて引っ附いて来て、「僕、実はお姉さんに聞いてもらいたいことあるのんですが、<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>いなかったら、一時間ぐらいこの辺散歩してくれませんか。」いうのんです。「そら、どんなお話か聞かしてもろてもよろしですが、さっきからあんた待ってなさるで。」「ナニ、それやったら何処ぞから電話かけときます」いうて、二人で<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>の「梅園」い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぜんざい</span>たべながら電話借って、そいから太左衛門橋筋を北の方い歩き歩き話しましてん。「僕今電話で、急な用事が出来たのんでここ一時間ほどおそなるかも知れへんいうて置いたのんですが、お姉さんとお目に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>ったこと内証にしといてもらえまへんやろか？　それ約束してくれはらんと、お話すること出来んのですけど。」「私は人にしゃべるないわれたらどんなことあってもしゃべれしません。けど自分だけ正直に約束守ってると、ときどき人に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>められて馬鹿な目に遭うことあるのんで、……」そないいうてやりましたら、「ああ、お姉さんは、なんでもかんでも光ちゃんのした事僕の<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>し<ruby><rb>金</rb><rt>がね</rt></ruby>や、僕が<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>ってるのんやとお思いですやろ？　そら、そう思われてもしょうがない訳あるいうことはよう分ってます」いうて、下向いて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ためいき</span>ついて、「お話したいいうのんも実はそのことなんですが、いったいお姉さんは、僕とお姉さんと<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>が余計愛されてる思います。お姉さんとしたら何や僕らに馬鹿にしられてる、利用しられてるとお思いですやろけど、僕かてやっぱりそんな気イしてるのんです。僕はほんまに<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>感じてるのんです。そら光ちゃんにいわしたら、姉ちゃんいてた方が家の方<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>すのに都合ええさかい、あの人道具に使うてるのんやいいますけど、もう今になって人を道具に使う必要ありますやろか？　そんなもんあったらかいって邪魔になれしませんやろか？　ほんまに僕を愛してるのんなら、そないしてる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>アに結婚してくれたらええやありませんか。」――私はちょっとも油断せんと聞いてましたけど、態度がえらい真剣らしいて、いうことも一と通り<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>ものように思われますねん。「そいでも結婚<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>へんいうのんは、何ぞ光ちゃんの家の方に反対あるのん違いますやろか？　いつも私には、自分は<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>結婚したいいうてはりますで。」「そら、口ではそないいうてます。家で反対するいうこともほんまには違いないのんです。けどそれにしたかて自分が<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>にその気イになったら、何とかして親たち説き伏せる方法ないことないやろ思います。まして今では<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ただ</span>の体と違うのんに何処い行くこと出来ますか知らん？」――はあ、そないいいますのんで、そしたらやっぱり光子さんはほんまに妊娠してはるのんやろか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なこというなあ思いながら聞いてますと、「――内の娘は百万円以上の資産家の所でないとやられん、一文なしの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すか</span>ン<ruby><rb>貧</rb><rt>ぴん</rt></ruby>の男みたいなんにやる訳に行かん、子供生れたら何処いなとやってしまうというて、お父さん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんかん</span>になって怒ってるいうのんですが、そんな無茶な話ありますやろか。第一子供が可哀そうで、人道問題やありませんか。お姉さんどう思われます？」いいますさかい、「それより私、光ちゃんに子供出来たいうこと初耳ですけど、なんぞそんな<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>エでもあったんですか」いいますと、「へえ？　初耳？――」いうて、疑がい深そうに私の顔モジモジと<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>の<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>くほど<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>つめてますねん。「へえ、初耳です、そんなこと光ちゃん私にいうたことあれしません。」「そうかて、――そしたらいつやお姉さんのとこい避妊の方法聞きに行ったことあれしませんか？」「そらありましたけど、妊娠したなんていうのん根エも葉アもないウソばっかりで、私に近寄るためにそんな口実こしらえて来たのんと違いますやろか。尤も私の家の方いは、光子さん妊娠してはる、そいでちょいちょい見舞いに行くのんやいうたあるのんですけど。」すると綿貫は、「ふうん、そうですか」いうたなり、いつの間にやら血走った眼エして、<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>の色まで変えてるのんです。

## その十八

「なあ、お姉さん、何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう？　<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>にお姉さんにまでウソつかいでもよろしいやありませんか？　ほんまにお姉さん知りやはれしませんのんか？」いうて、何や疑うてる様子で、何遍でも念押すのんですけど、ほんまのとこ私は聞いたことあれしません。綿貫の話ではもうちゃんと<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>ぐらいになってて、お医者はんにも見てもろたいうのんですが、それやったら、いつや出血騒ぎの時にもそやったはずですねんけど、三月やそこらでは<ruby><rb>素人</rb><rt>しろと</rt></ruby>に分れしませんし、それにその後で「自分は子供出来るはずない」いうことを、たしかに光子さん自身の口から聞いてますし、あの時のことは芝居打ってたに違いない思てましたのんに、綿貫のいう通りやとしたら、やっぱり私に気がねしてはったんのんか知らん？「何で子供出来るはずないいいましたか、あの本の通りを実行してるいうのんですか、そやなかったらそんな体質やいうんですか」と、綿貫は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せえだい</span>聞くのんですが、そら私かて、光子さんの前では出来るだけ綿貫のことに<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>らんようにしてましたよって、そない<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しゅう問うたことあれしませんし、……そやけど、こないだも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てんご</span>に「姉ちゃんの家い行く時はお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>に綿でも詰めて行かんならん」いうてはったぐらいやし、妊娠してはるとは思えしませなんだいいますと、光子さんは真面目で結婚しょういう気イないのんや、そいでもしも子供出来たいうこと分ったらどないしても一緒にさされる、それがイヤやよって隠されるだけ隠してる、「僕はそうに違いない思います」いいますねん。綿貫の考では、光子さんちゅう人は異性の愛より同性のの方が好きで、綿貫より私の方がずっと愛されてて、そのために結婚したがれへん。――子供出来たり、結婚したりしたら、私が逃げてしまうかも分れへん思て、一日延ばしに延ばしといて、そのうちにお腹の児ええようにするとか、綿貫にイヤ気おこさすとか、どないぞしよう思てる。――私は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひがん</span>でるせえか、どないしても自分の方がそない愛されてる思えしませんのに、「いや、そうです、たしかにそうです、お姉さんは仕合わせです」いうて、「ああ、ああ、それに引きかえて僕は何ちゅう不幸な運命の下に生れたのんでしょう」と、芝居のセリフみたいに節つけていいながら、泣きそうな顔するのんです。それが、始めて会うた時から女みたいな男やと思てましてんけど、そないいうて話してみますと、表情や物のいいようまで女の腐ったんみたいに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねちねち</span>してて、何やうるさいほど<ruby><rb>執拗</rb><rt>ひつこ</rt></ruby>うて、横眼でジロジロ邪推深そうに人の顔色うかごうたりして、なるほどこれやったら、光子さんかてそない好きと違うんかなあいう気イしますねん。そいからいつや笠屋町で着物取られた時にしたかて、綿貫は私呼ぶのんに反対やった。もうあないになってんやったら度胸きめて、仲居さんの着物借って帰ったらええ、そんで「こないこないの訳で深う約束した男あります」いうたら、出来たことしょうがないよってかいって<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>結婚出来る、出来なんだら<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け落ちする覚悟きめたら、ちょっとも<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いことあれへんのに、あんな時に何も知らんお姉さん呼ぶやなんて、そんな厚かましいこと出来るもんか、第一呼んだかて来てくれへんにきまってるいうてんけど、光子さんは「着物なかったら今晩家い<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>なれへん」いうてどないしても聴きはれへなんだ。「それやったら、いっその事こいから何処ぞい逃げよやないか」いうても、「そんな事したら後のために悪いさかい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>が巧アいこというて姉ちゃん呼んで見せる。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>がいうたら、あの人『イヤや』いうこといわれへん。ちょっとぐらい怒られたかてどないなと<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>してやる」いうて、自分で電話かけに行きやはった。「そんでもあの時、誰ぞもう一人電話口に立っててコソコソ相談してたみたいでしたがなあ」いいましたら、「そら僕かて心配やさかい、傍に附いてたんです」いいますねん。

そんなこといろいろ<ruby><rb>話</rb><rt>はな</rt></ruby>しもって知らん間に<ruby><rb>三休橋</rb><rt>さんきゅうばし</rt></ruby>渡って、<ruby><rb>本町筋</rb><rt>ほんまちすじ</rt></ruby>まで来てしまいましてんけど、私も綿貫も「もうちょっと話しまひょなあ」いうて、電車道越えて<ruby><rb>北浜</rb><rt>きたはま</rt></ruby>の方い行きましてん。何せ私は今まで光子さんちゅう人を通してばっかり想像してて、何かにつけてただもう男が悪いのんや思てましたが、さっきからの様子見てましたら、そないウソつきみたいとも違いますし、女性的なとこや疑がい深いとこあるのんも、生れつきにも<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>るとしたかて、光子さんの態度がそないさしてしもたのんかも分れへんし、……私にしたかて今まで大分<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>されたお蔭で<ruby><rb>僻</rb><rt>ひが</rt></ruby>んでるとこあるねんし、……それ考えたら無理もないとこもあるのんで、まあちょっとぐらい<ruby><rb>邪推</rb><rt>じゃすい</rt></ruby>交ってるとしたかて、とにかく本気で私に同情求めてるみたいに思われますねん。尤も自分より私の方が愛されてるいうのんは、どないしても私には信じられしませんのんで、「そら違いますやろ、そら綿貫さん、あんまり気イ廻し過ぎますで」いうて慰めたげたのんですが、「いやいや、僕かてそない思いたいのんですけど、絶対にそんなことあれしません。お姉さんはまだほんまの光ちゃんの性質知りゃはれしませんのんです」いうて、――光子さんは私に対しては綿貫を愛してるみたいに見せかけ、綿貫に対しては私を愛してるみたいに見せかけてる、そんなことするのん好きな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>なんや。けど<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>やいうたら、私の方余計愛してるのんで、そやなかったらあんなり絶交したみたいになってたのんに、わざわざ病院の名前<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>ったりして会いに行く訳ないやないか。「いったいあの時、光ちゃんはお姉さんとこい行てどんな工合にいうたのんですか、どんな事から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>戻ったのんですか、僕は後から聞いたのんで委しいことは知らんのんですが」いいますよって、あの出血騒ぎの一件みんな話して聞かしますと、「ふうん、ふうん」いうて一と言一と言ビックリしながら、「そんな騒動したいうこと、僕は夢にも知りません。そら、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>大きかったのんはほんまです。しかし僕は子供出来るのんやったら出来た方がええいう意見で、薬飲んだり不自然な手段取ったりしたらいかんいうてたのんに、自分勝手にお姉さんのとこい相談しに行ったいうのんで、後で怒ったぐらいですねん。そやけど、僕に内証で薬飲んだことあったにしたかて、そない苦しんだり出血したりしたいうことウソに違いあれしません。いったい、その血イみたいなもん何ですやろ」いうて、そないまでして仲<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>うなりたいいうのんは、私愛してるのんでないと出来んことやいうのんです。なるほどそれもそうですけど、そんなら何で綿貫と会うてはるねんやろ？　ほんまに私好きやったら、もうとうに綿貫放ってしまうのん当り前やないか？　それがおかしいいいましたら、光子さんいうたら自分がどない「好きやなあ」思てもその弱点見せんようにして、<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>が自分を<ruby><rb>慕</rb><rt>しと</rt></ruby>うて来るように仕向けたがる。自分は絶世の美人やよって、いつも高う止まってて、誰ぞに崇拝ささんと淋しい。自分の方からいい寄ったりしたら値打ち下る思い込んでる。そやさかい私に<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>起さして、自分が優越な地位にいるために綿貫いうもん利用してるのんや。「それに一つは、別れるやなんていい出したら僕が何するか分れへん思て、恐がってるのんです。今更そんなこといえる関係やあれしませんのんに、もしもそないなったら、僕は名誉と生命を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けてあらゆる<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>してやります」いうて、<ruby><rb>蛇</rb><rt>へび</rt></ruby>みたいな眼エで人の顔ジロジロ<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>むのんです。

## その十九

「どうです、お姉さん、まだちょっとおよろしいですか？」「ええ、ええ、私やったらかめしません。」「そしたらまたもとの方い戻りまひょか」いうて北浜の通りから南の方い今歩いて来た道帰りながら、「結局僕とお姉さんとは<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>同士にさされてるのんですが、僕が負けるのんにきまってます」いいますよって、「私はそない思えしません。光ちゃんと私とはなんぼ熱烈に愛し合うてたかて自然に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いてるさかい、もし<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>ぞが捨てられるいうことになったら私の方が捨てられます。光ちゃんの家の方にしたかて、あんたには同情しやはりますやろけど、私に同情してくれる人誰もあれしません」いいますと、「けどお姉さんのは、その不自然という点に強味あると思います。何でやいうたら、異性の相手<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>そ思たら僕以外にもなんぼでもあるけど、同性の相手やったらお姉さんの代りになる人外にちょっとあれしません。そやさかい僕はいつでも捨てられるけどお姉さんは捨てること出来ません」いうて、――あ、そうそう、そればっかりやあれへん、同性の愛やったらどんな男と結婚したかて、続けて行かれる。夫が何人変ったかてちょっとも影響せえへん、そしたらお姉さんと光ちゃんの愛は夫婦の愛よりも永久不変やいうて、「ああ、ああ、僕は何ちゅう不仕合わせな男でしょう」と、またしても例のセリフ繰り返すのんです。そいから<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く考えてて、「なあ、お姉さん」いうて、「僕、お姉さんに正直なとこ聞かしてもらいたいのんですが、光ちゃんが僕を夫に持つのんと、外の男持つのんと、孰方の方をお姉さんは望まれますか」いいますよって、そら私かてどうせ光子さん結婚しやはるのんやったら、前から事情知っててくれる綿貫と一緒になりやはる方が都合ええのんにきまってますさかい、そないいいますと、「そしたら僕とお姉さんとは敵同士になる理由あれしませんやないか」いうて、もうこれからは同盟しょう、そして焼餅みたいなん焼くのん止めて、お互に助け合うて馬鹿な目エに<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>わされんようにしょう。――なんせ今までは二人離れてたために光子さんの思うままに利用しられた。そやさかいこれからは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょいちょい</span>そうッと会うようにして連絡取って行こやないか。尤もそないするのんには二人が完全に<ruby><rb>諒解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>し合うて、互の立ち場認めんといかん。光子さんのいいぐさ<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>シするのんやないけど、同性の愛と異性の愛とはまるきり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>が違う思たらなんにも嫉妬することあれへん。ぜんたいあんな綺麗な人たった一人で愛そいうのんが間違うてる。五人も十人も崇拝する人あったかて当り前やのんに、二人で占領するいうのん<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない。それも男やったら自分一人や、女やったら私だけやいう工合に考えたら、世の中に自分らほど幸福なもんあれへんやないか。二人ともそない思て、その幸福いつまででも自分らだけが握ってて外の人に取られんようにしたらええのんやいうて、「どないです、お姉さん」いいますよって、「あんたさいその気イなら、私かて約束守ります」いいましてん。「僕、お姉さん味方になってくれなんだら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぱっ</span>と世間に知れ渡るようにして、自分もあかんようになる代り、お姉さんかてあかんようにしたげよ思てたのんですけど、それ聞いてほんまに安心しました。光ちゃんのお姉さんやったら僕に取ってもお姉さんです。僕女<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょうだい</span>一人もないのんで、お姉さん親身の姉や思て大事にしますさかい、お姉さんもどうぞほんまの弟や思て、何でも思い余ることあったら遠慮のう打ち明けて下さいませんか。僕ちゅう人間は、敵になったらどんな恐いことでもする代り、味方になったら命投げ出してもお姉さんのために尽します。お姉さんのお蔭で光ちゃん嫁に持つこと出来たら、夫婦のことやかい<ruby><rb>後廻</rb><rt>あとまわ</rt></ruby>しにしてもお姉さんのため<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>ります。」「きっと、きっと、そないしてくれはる？」「きっとですとも、僕かて男です。一生お姉さんの御恩忘れるようなことせえしません。」――そんでとうとう、また「梅園」の前まで歩いて来てしもたのんで、そしたら今度、いつでも必要なこと出来たら「梅園」で待ち合いしまひょいうて、堅い握手して別れましてん。

私は一人で帰って来る<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>何や知らん胸が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わくわく</span>するぐらい嬉しいて、光子さんはそない私を愛しててくれる？　私の方が綿貫よりずっと愛されてる？　まあ、そんなこと、夢やないのんか？――つい昨日までは二人のために<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>にしられてる思い込んでたのんに、急に形成変ってしもて、まるきり<ruby><rb>狐</rb><rt>きつね</rt></ruby>につままれたみたいな気イしましてんけど、そいでも綿貫のいうたこといろいろ考えてみましたら、好きと<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>たらあんな騒動するはずないいうのんもほんまやし、そやなかったらちゃんとした人ありながら私と会ういう訳ないし、――それに、今になってから初めごろのことだんだん思い出してみますと、あの観音様のモデルのことでやかましい<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>立った時分、光子さんかて私がどんな気持でいたか大方<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶ</rt></ruby>りでも察しついてたですやろし、道ですれちごた時やかいに「この人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>に気イあるねんなあ」思て、今に誘惑してやろと待ち設けてなさったのんかも分れしませんねん。そないいうたら二人が始めて物いうたのんも、いい出したのんは私ですけど、いつでも済ましてなさるのんにニッコリ笑いなさったのんで、つい釣り込まれて口きいたのんやし、裸体の姿見た時にしたかて、見せてくれいうたのんは私ですけど、そないいわすように持ちかけなさったのんやし、――ぜんたい私、なんぼ光子さん崇拝するいうたかて、どんなことから今みたいな仲になってしもたのんか、それにはいろいろ夫に対して不満あったとこい、学校であんな<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>立てられたのんが反動的に作用したこともありますやろが、私にそんな可能性あること見抜いて、知らん間アに暗示かけてなさったのんかも分れしませんし、それ考えたらあのＭ家との縁談の事にしたかて口実みたいに思われますし、――なんせ自分の仕掛けた<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>い私おとしいれながら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うわべ</span>はいつでも私の方から手エ出した形にさされてたいう気イしますねん。そら綿貫のいうたことかて一から十まで信用<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>しませんし、あの着物取られた晩でもたしかに綿貫が<ruby><rb>指図</rb><rt>さしず</rt></ruby>したのんと違うかしらん。ＳＫ病院から電話かかった時にしたかて、あの男の声綿貫でのうたら外にそんな事頼まれる人あるかしらんいう工合に、疑がい出したら<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちんこともあるのんですけど、――第一子供生れるいうこと、なんで私に隠してなさるのんか、あんな心配さしときながら、そんな水臭いことするやなんて、やっぱり私の方が<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>られてること知れたある、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょッ</span>としたらあないに秘密打ち明けて私と光子さんとの仲い水さそいう気やないのんか？　そうか今のうちは邪魔されんように味方につけといて、結婚したら<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>ってしまうつもりやないのんか？――そない思たら、だんだん疑がいも濃うなって来るのんですけど、そいから四、五日たった或る日、また<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>の外で待ち受けてて「ちょっと、ちょっと、……」いうて、「僕今日お姉さんに相談したいことあるのんですが、『梅園』まで来てくれませんか」いいますよって、一緒に附いて行きましたら、二階の座敷い上って行って、「ただ口でばっかりきょうだいの約束するいうても、お姉さんかてなかなか僕を信じるいう訳に行きますまいし、僕かてやっぱり何や心配ですさかい、お互に疑念残らんように誓約書<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>そうやありませんか。実はそのつもりでこんなもん書いて来たのんですけど」いいながら、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から二通の証文みたいなもん取り出すのんです。……あ、そう、そう、ちょっとこれ見て下さいませ、これがその時の誓約書ですねん。（作者註。彼女が示した誓約書の内容は話の順序として<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に紹介する必要があるばかりでなく、この文案を作製した綿貫なる男の性格を想像せしむるに足るから、<ruby><rb>煩</rb><rt>はん</rt></ruby>を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わず原文のままを左に掲載するであろう。――）

誓約書

現住所　　兵庫県西宮市香櫨園××弁護士法学士　柿内孝太郎妻

柿内園子

明治卅七年五月八日生

現住所　大阪市東区淡路町五丁目××番地会社員　綿貫長三郎次男

綿貫栄次郎

明治卅四年十月廿一日生

右柿内園子ト綿貫栄次郎トハソノ各々ガ徳光光子ニ対シテ有スル緊密ナル利害関係ヲ考慮シ昭和某年七月十八日以降左ノ条件ノ下ニ骨肉ト変リナキ兄弟ノ交リヲ<ruby><rb>諦</rb><rt>てい</rt></ruby>スベキコトヲ誓約シタリ

一、柿内園子ヲ<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>テ姉トシ、綿貫栄次郎ヲ以テ弟トス、栄次郎ハ年長ナレドモ園子ノ妹ノ夫タルベキ者ナレバナリ

二、姉ハ弟ガ徳光光子ノ恋人タルノ地位ヲ確認シ弟ハ姉ト徳光光子トノ姉妹愛ヲ確認シタリ

三、姉ト弟トハ徳光光子ノ愛情ガ第三者ニ移ルコトナキヨウ常ニ結束シテ<ruby><rb>防禦</rb><rt>ぼうぎょ</rt></ruby>シ、姉ハ弟ト光子トヲ正式ニ結婚セシムルタメニ努力シ、弟ハタトイ結婚後トイエドモ姉ト光子トノ既ニ確立セラレタル関係ニ対シ何ラ異議ヲ申シ立ツルコトナシ

四、モシ両人ノイズレカガ光子ニ捨テラレタル場合ハ他ノ一人モソレト進退ヲ共ニスベシ、即チ弟ガ捨テラレタル時ハ姉ハ光子ト交リヲ絶チ、姉ガ捨テラレタル時ハ弟ハ光子トノ婚約ヲ破棄シ、結婚後ニオイテハ離別スベシ

五、両人ハ他ノ一方ノ承諾ヲ経ズシテ無断ニ光子ト逃亡シ、所在ヲ<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>マシ、モシクハ情死スル等ノ行為ヲナサズ

六、両人ガコノ誓約ヲナセルコトハ光子ノ反感ヲ挑発スルコトアルベキヲ以テ発表ノ必要ニ迫ラルルマデハ絶対ニ秘密ヲ厳守スベシ、モシ両人ノイズレカガ光子ニ対シ、アルイハ他ノ<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>カニ対シ発表セント欲スル時ハ<ruby><rb>予</rb><rt>あらかじ</rt></ruby>メ他ノ一方ト協議スベキ義務アルモノトス

七、モシ両人ノ一方ガコノ誓約ニ違背スル時ハ他ノ一方ヨリアラユル迫害ヲ受クルコトアルベキヲ覚悟スベシ

八、コノ誓約ハイズレカガ任意ニ徳光光子トノ関係ヲ放棄セザル限リ有効トス

以上

昭和某年七月拾八日

姉　柿内園子　印

弟　綿貫栄次郎　印

（これだけの文句が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんぜより</span>で<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じた二枚の改良半紙へ、<ruby><rb>頗</rb><rt>すこぶ</rt></ruby>る丹念な毛筆の細字で、せせこましい字配りで、一点一画の消しもなく書かれているのである。二枚の半紙の四分の一以上も余白が残っているのを見ると、こんなに細かく書く必要はないのであるが、けだし平素からこういうコセコセした字を書く癖があるのであろう。書体は毛筆を使い<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない現時の青年の筆蹟としては決して<ruby><rb>拙</rb><rt>まず</rt></ruby>くないけれども、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに商店の番頭の字のような品の悪い達者さがある。最後の二人の署名だけは、梅園の二階で万年筆で記したものだが、これも柿内未亡人の署名の方が不釣合いに字体が大きい。そして何より無気味なのは、署名の下に小さな花弁を押したようにひろがっている<ruby><rb>茶褐色</rb><rt>ちゃかっしょく</rt></ruby>の<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>であって、同じものが半紙の綴じ目の割り印を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>すべき所にも二つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぽたぽた</span>とにじんでいる。それが何であるかは未亡人自らが語るであろう。――）「どうです、お姉さん、この条件でよろしいですか？　よろしかったら<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>い名ア書いて判おしてくれませんか？　それとも何ぞ足らんとこあるお思いになったら、遠慮のういうてみて下さい」いいますよって、「これだけちゃんときめたあったら結構ですけど、そいでも子供生れた場合に、あんたも光ちゃんも家庭が大事やいう気イになりませんやろか。なんとか<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>のとこもうちょっと考えて欲しい」いいましたら、「それは第三に規定したある通り、『弟ハタトイ結婚後トイエドモ姉ト光子トノ既ニ確立セラレタル関係ニ対シ何ラ異議ヲ申シ立ツルコトナシ』やさかい、家庭のためにお姉さん犠牲にするようなこと絶対にあれしませんけど、子供生れるいうことそない心配やったら、どうでもお姉さんの気イ済むように此処い書き加えときますが、どないしたらええのんです？」いいますのんで、「今光ちゃんのお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>にある子は結婚するのんに必要やさかい、それはしょうがないとして、結婚してからは子供生まんようにして頂戴」いいましてん。そしたら<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く考えてて、「よろしいです、そないしましょう」いうて、「どんな<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に書いときましょか、こないこないの場合もありますし、こないこないの場合もありますし」と、いろいろ私の気イつかなんだことまで考えてくれて、――その、二枚目の紙の裏のとこいペンで書いたあるのん見て下さいませ、それがその時の書き入れですねん。（作者註。前掲の誓約書の最終の紙面に、「追加条項」として下の文句が附記されている。――「弟ハ徳光光子ト結婚後ニオイテハ常ニ光子ヲ妊娠セシメザルヨウニ注意ス、モシ<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>カニテモ妊娠ノ疑イアル時ハソノ処置ニ関シ姉ノ指揮ヲ受クルモノトス、」――この文句を記したあとでまた思いついたものらしく、更に次の二箇条が規定してある。――「結婚前ノ妊娠トイエドモ、ソノ妊娠中ニ結婚シ、結婚後ナオ避妊ガ可能ナル時ハ<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>シ得ル限リノ手段ヲ取ルベシ、」「弟ハ妻ガ協力シテコノ追加条項ヲ忠実ニ履行スル保証ヲ得ルニアラザレバ、光子ト結婚スルコトヲ得ズ、」――そうして此処にも<ruby><rb>茶褐色</rb><rt>ちゃかっしょく</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>が点々と<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>されているのである。）――それ書いてしまうと、「こいだけ<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めといたら安心です、これ読んでみたらお姉さんの方が僕よりよっぽど有利なくらいです、これで僕の誠意のあるとこお分りになったでしょ」いうて、「さあ、サインして下さい」いいますねん。そんで私、「サインするのはしてもええけど、判持ってエしません」いいましたら「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょうだい</span>の約束するのんに普通の判では役に立てしません、お気の毒ですけど、ちょっとばかり痛いのん辛抱してくれませんか」いうて、ニヤニヤ笑いながら<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の中から何か出すのんです。

## その二十

「どうぞ此処のとこ出して下さい、痛いいうても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほん</span>ちょっとの間です」いうてるうちにもうシッカリ手エ握ってて、指の先か思てましたら、肩の方まで<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>まくり上げて、二の腕の上と下とをハンカチで<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>ろとするのんで、「判おすのんにそんなことせえでもええやあれしませんか」いいましたら、「判おすだけと違います。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょうだい</span>の約束するんです」いうで、自分も同じように腕まくって、私の腕と一緒にそろえて、「よろしですか、お姉さん、声出したらいけませんで。……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あれ</span>いう間に済んでしまいますよって、眼エつぶってなさい」いいますねん。「イヤや」いうたらどんな目に遇うか分れしませんし、逃げよ思ても<ruby><rb>手頸</rb><rt>てくび</rt></ruby>握られてますし、光る物見たら気が<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>してしもて、眼エつぶってる間に、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>でもどないぞしられるのんやないかと生きてる<ruby><rb>心地</rb><rt>ここち</rt></ruby>せえしませなんだけど、殺されたら殺された時思てあきらめてますと、<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>の上のとこスルスルと鋭利な感覚がした思たら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞう</span>ッとして脳貧血起しそうになりましたが、「しっかりしなさい、しっかりしなさい」いうて、自分の腕出して、「さあ、お姉さんから先イ飲んで下さい」いうのんです。そいから、「此処と、此処と、此処い判おすのんです」いいながら自分で私の指つかんでペタペタおしてしまいましてん。

私は綿貫いう男がつくづく恐い気イしましたので、正直に約束守るつもりで、その誓約書は大事に<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだ</rt></ruby>しい<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>かけてしもといて、光子さんには済まん思いながら素振りにも悟られんようにしてましてんけど、そいでも隠し事してると何処ぞオドオドした様子出るのんか、明くる日不思議そうに私の顔見てなさって、「姉ちゃん何で、ここのとこ傷したのん？」いいなさるのんです。「ああ、これどないして出来たのんか、ゆんべあんまり<ruby><rb>蚊</rb><rt>か</rt></ruby>アに<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>われて、夢中で<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きむしッたのんか知らん」いいますと、「おかしいなあ、栄ちゃんもちょうどそれと同じもん出来てるねんわ」と、そないいわれたら、ああ、悪い事出来んもんやなあ思うて急に私の顔色変って来ましたのんで、「姉ちゃん何ぞ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に隠してるのんと違う？　それどないして出来たのんか、ほんまのこというて頂戴」いいなさって、「隠したかて大概分ってる、姉ちゃんは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に内証で何ぞ栄ちゃんと約束したことあるねんなあ？」――そら、光子さんいうたらそういうことには早う気イ廻るのんで、そない<ruby><rb>図星</rb><rt>ずぼし</rt></ruby>刺されたらもう<ruby><rb>惚</rb><rt>とぼ</rt></ruby>けること<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>しませんけど、そいでも真っ青になりながら黙ってますと、「きっとそうに違いないやろ？　なんでそれいうてくれへん」いうて、――だんだん聞いてみましたら、きのう綿貫はあれから帰りに、腕の傷コッソリ光子さんに見られてしもてて、その時から何ぞ訳あるのんやなあと思てた、そないに二人同じ日に同じとこへ傷出来るはずあれへんいいなさって、「姉ちゃんは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>と栄ちゃんと<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>が大事や」とか、「隠す以上は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に知れたらいかんことあるねんやろ」とか、しまいには私と綿貫との間にイヤなことでもあったように「それ聞かんうちはどないしても帰せへん」いいなさるのんですが、そんな時にも光子さんは一杯涙ためたなり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と落ち着いてなさって、恨めしそうに<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んでなさるだけですねんけど、その眼エえらい<ruby><rb>妖艶</rb><rt>ようえん</rt></ruby>で、何ともいえんなまめかしい<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>あって、「なあ姉ちゃん」いいながら甘えるようにその眼エ使われたら、なかなか魅力に逆らういうこと出来しません。それにそこまで感づかれたらいずれ一と騒ぎ持ち上ること<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まってますし、隠すだけ疑がわれること分ってますねんけど、綿貫に相談せんうちはウッカリいう訳に行きませんので、「どうぞ明日まで待って頂戴」いいますと、明日いわれることが何で今日いわれへん、人に相談していうぐらいやったら聞かいでもええ、自分にだけ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッと<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せてくれたら迷惑かかるようなことせえへんいうて、どないしても聴きなされしませんさかい、「光ちゃんそないいうけど、あんたかって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に隠してることあるやろ」いうてやりますと、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>が何隠してる？　何でも正直にいうたげるよって、そない思うことあったら聞いて頂戴」いいなさいますねん。「ふうん、きっと隠してることないなあ？」「きっとあれへん。そら隠すつもりやのうて、いわなんだことあるかも知れんけど。」「あんた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に、何んぞ体のことについて隠してることあるやろ？――」「何いうてるのん、姉ちゃん？」「あのなあ、いつやあんた家い来て苦しがったわなあ、あの時ほんまにお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中に子供あったん？」「ああ、あの時のこと」いうて、さすがに極まり悪そうに<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>い顔しなさって、「そらあの時は姉ちゃんに会いとうてわざとあんな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>してん。……」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>そんなこと聞いてるのんやあれへん。あの時はほんまに子供出来てたのんかどうか、それ知りたいねん。」「そら、出来てえへんなんだ。」「そんなら今でも出来てえへんの？」「そんなこと極まってるやないか、なんでまたそれ疑ごうてるのん？」「なんでいうことないねんけど、疑がうだけの訳あるねん。」「ああ、姉ちゃん」と、その時光子さんは「もう分ってる」いう顔しなさって、「姉ちゃんきっと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>妊娠してるいうこと栄ちゃんにいわれたのんやろなあ？　あの人きっとそんなこというねん、ほんまいうたら子供生ます能力もないくせに、――」と、そないいいなさるか思たら、一所懸命歯ア喰いしばって、眼エに一杯たまってた涙が急にポトポト<ruby><rb>頬</rb><rt>ほ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span><ruby><rb>伝</rb><rt>つと</rt></ruby>てるのんです。

私はビックリして、「何やて、光ちゃん？」いいながら自分の耳疑ごうてますと、そのあいだにもうさめざめ泣いてなさって、実は今まで、自分のことについては何一つ隠してえへんけど、綿貫には人にいわれん秘密あって、それ知られたら自分も恥かしいし、あの人も気の毒な思ていわんといた。けど姉ちゃんに蔭でいろいろな中傷したりするのんやったら、もうあんな人、可哀そうなことも何もあれへん、自分が今みたいになってしもたのんも元はいうたらあの人や、自分の不仕合わせはみんなあの人の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>やいうて、またえらい泣きなさって、そいから綿貫ちゅうもん知った時のことから始めて<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいに話しなさって、なんでも二年前の夏、<ruby><rb>浜寺</rb><rt>はまでら</rt></ruby>の別荘い<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>てた時分、お互に物いうようになって、或る晩散歩に誘い出されて、海岸に置いたある漁船の蔭に連れて行かれた。そいで夏過ぎてからも、大阪の家が近いとこにあったさかい常時<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>ぞから呼び出しては<ruby><rb>逢</rb><rt>お</rt></ruby>うてたら、或る時女学校時代のお友達から綿貫のことについて妙な<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>あるのん聞いた。そのお友達いうのんは、いつや二人が宝塚歩いてるとこ見たことあるのんで、そののち朝日会館の映画の<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の時やったかに、光子さんが一人で屋上庭園に出てなさったら、「徳光さん」いうて後から肩たたいて、「こないだあんた綿貫さんと歩いてたなあ」いうのんで、「あんた綿貫さん知ってるのん？」いうたら、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>直接には知らんけど、あの人えらいシャンやいわれて、みんなが騒ぐのんやてなあ、あんたみたいに綺麗かったら一緒に歩いててもちょうどええけど」いうて意味ありげに<ruby><rb>笑</rb><rt>わろ</rt></ruby>てるさかい、そないに深い関係やない、あの時ちょっと歩いただけやといい訳しなさったら、「そない弁解せんかて、あの人やったら誰も疑がうはずあれへん、あんたあの人の<ruby><rb>仇名</rb><rt>あだな</rt></ruby>知ってる？」いいますよって、「知らん」いいなさると、『百％安全なるステッキ・ボーイ』いうねんし」いうてクスクス笑てるのんやそうです。それが光子さんには何の事やらさっぱり分れしませんので、根エ掘り葉ア掘り聞いてみましたら、綿貫いう人は無能力者で、中性の人間やいう噂ある、しかもそれにはちゃんとした証人あるのんやいいますねん。

## その二十一

なんでもそれ分ったいうのんは、その光子さんのお友達の知ってる人が綿貫と相愛の仲になってて、人頼んで結婚申し込んだところが、何や向うの親たちがええ加減なこというてちょっともハッキリせえへんのんで、本人同士は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に結婚望んでるさかい是非承知して下さいいうたら、栄次郎は実は訳あって一生嫁持たさんつもりですいうのんで、だんだん調べたら、子供の時分にお<ruby><rb>多福風</rb><rt>たふくかぜ</rt></ruby>にかかったのんが元で<ruby><rb>睾丸炎</rb><rt>こうがんえん</rt></ruby>になった、――私、そんなことよう知りませんけど、お医者はんに聞きましたら、お多福風から睾丸炎になるいうことかてあるもんやそうですなあ？　尤もそないいうてるだけで、ほんまは<ruby><rb>極道</rb><rt>ごくどう</rt></ruby>したのんかも分れしませんけど、とにかくそいからその娘さんえらい綿貫憎んでて、――そら考えたら可哀そうでもありますねんけど、そんなんやったら人に交際求めたりイヤらしい手紙くれたりせなんだらええのんに、「あんたは理想の妻や」とか何とか巧いこというてたばっかりやない、散歩いうたらきっと暗いとこい連れて行ったりしたのんは、今から思たら自分がそんな体やさかいそないな事で満足してたのんで、つまりいうたら恋愛の仮面<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って人<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちゃ</rt></ruby>にしてたのんや。けど綿貫はそういう時に、「僕は結婚せん先に肉体的の関係結ぶいうのん罪悪や思います」いうのんで、しッかりした人や思て感心してたのんがなお腹立つ。そいでその娘さん「どうぞ秘密にしてやって下さい」いわれてましてんけど、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しまぎれにいろいろな人にしゃべったところが、外にもそんな目エに<ruby><rb>遇</rb><rt>お</rt></ruby>うた人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たあん</span>とあるいうこと分って来て、それが綿貫は、自分がええ男で異性に好かれるいうことよう知ってますさかい、何処いでも女の集りそうなとこいず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うずうしい</span>に出て行くのんで、誰でも一ぺんは引っかかりますねん。そやけどプラトニック・ラヴやいうてどない熱烈に愛されても純潔守ってるのんで、大概のものは人格者やいうてなお崇拝して、何処まででも釣られて行って、<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>どいとこまで引っ張られてから<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まってぽんと捨てられてしまう。「ふーん、あんたかってそうやったのん？」「ふん、ふん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>もそやってん」と、そないいう人方々から出て来て、誰に聞いてみても同じように、或る程度以上になったら妙にコソコソ逃げてしもて、そないいうたらその様子が何や知らん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>やった、ほんまのプラトニック・ラヴやったら<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>するのんかて矛盾してるのんに、あれやったらなにも純潔なことあれへん。みんな欺されてたあいだはそれに気イつきませなんだけど、分ってしもたら、誰も彼もそないいい出して、その人らの捨てられたいうのんが型に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>まったように、結婚申し込んだら、何や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すう</span>ッと消えるように逃げられてしもた」いいますねん。そいで中には同情する人もありましてんけど、本人はそない<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>に自分の秘密知られてる思わんと、そいから後も次から次い処女<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでて、知らん人は今でも<ruby><rb>常時</rb><rt>じょうじ</rt></ruby>引っかけられてますのんで、「またステッキさん、あんな人<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえてるし、……」「あのステッキ・ボーイやったら誰も<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいことないなあ」いうて、知ってるもんはええ笑い草にしてる。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>こないだ、徳光さんきっとまだ知らんのやなあ思て、いつぞいうたげよ思ててんし。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>や思うのんやったら誰それさんにかて誰それさんにかて聞いて御覧。」「へーえ、そんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な人！　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>まだ接吻しられたことないねんけど、そしたらもう直きしられるやろか」と、光子さんはわざと<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けて、その場アそいで済ましてしもてから、「今日友達にこないこないいわれてんけど、ほんまやろか？」いうて、家い行んでからお梅どんに話しますと、「ほんまか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>か<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃん知りゃはれしまへんのか？」いうて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>にお梅どんから<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねられた。――そらお梅どんにしたら、もしもそんなことあったらそれ光子さん知らんといた訳ない思うのんでしょうけど、光子さんは異性に接触するいうこと始めての経験ですし、「子供生れたらいきませんから」いうてるのんで、別に不審にもせんといた、そやさかい友達にそないいわれてもほんまか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>か自分には分らんいうのんで、お梅どんも始めてビックリして、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんとあのお方はんとやったらあんまり<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>い過ぎてお<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>さんみたいやさかい、水さそ思てそんな悪口いうのん違いますやろか。誰ぞに調べてもらう訳に行きまへんか」いうて、そいから内証で秘密探偵に調べさしたら、性的に欠陥あるのんはやっぱり事実に違いないいうて来たのんですねんて。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もお多福風の結果かどうか分りませんねんけど、とにかく子供の時分からそうやったらしいて、それがどないして探偵に知れたいうたら、光子さんとそないなる前<ruby><rb>南地</rb><rt>なんち</rt></ruby>で隠れ遊びしてたいうこと突き止めて、その方面調べてみたら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くろと</span>の女でも一ぺん綿貫に引っかかったら大概なもん夢中になる、なんぼ男前ええとしたかてあんまりおかしい、何ぞ秘伝でもあるのんやないかいうて、一時はえらい評判になって、関係あった女たちに聞いてみても、誰も絶対に秘密しゃべらん、そいで噂ひろがって行って、いろいろな方法で<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>するもん出来て来て、分ったとこでは、初めごろ綿貫は自分に欠陥あるいうこと隠して遊んでましてんけど、そのうちに或る女が秘密<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけたいうのんは、その女もやっぱり同性愛の習慣あったのんで、一人前の男やのうても女に愛されるいうこと綿貫に<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せ込んだらしい。そいから綿貫のこと「<ruby><rb>男女</rb><rt>おとこおんな</rt></ruby>」やとか「<ruby><rb>女男</rb><rt>おんなおとこ</rt></ruby>」やとかいうようになったのんやそうですが、そないいわれる時分にはぷッつり遊び止めてしもて、何処のお茶屋いも姿見せんようになった。――私、その探偵の報告書あとで見せてもらいましたら、ずいぶん細かいとこまでも行き届いて調べられてて、そんなこと委しいに書いてありましてん。

そいで隠れ遊びしてる間に、「自分かて何も悲観することない」いう自信ついて、今度は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しろと</span>の女捜してるとこい光子さんが網に引っかかりなさった。――これは想像ですねんけど、きっとそうに違いないやろいうのんで、そんな人間の玩具になった思たら、もうもう生きていられん気イして、ほんまにその時光子さんは死んでしまおか思いなさったそうですが、死ぬのんやったら恨みいうてから死んでやろいう覚悟しなさって、正式に結婚してくれへんか、あんたさいよかったらこっちはちゃんと親の許し得たあるねんし、と、そないいうたら何ちゅうか思ていいなさると、「僕かて望むとこですけど今は都合悪い」とか、「もう一、二年たってから」とか、何の彼のいうて<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>すのんで、「あんたほんまは、何年たっても結婚出来へんのんやろ」いうてやりなさった。そしたら急に顔の色かえて「何でです？」いうよって、「何でや知らんこないこないの<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>ありますねんけど」いいなさって、こうなったら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>もあんた捨てる訳に行かんよって、一緒に死んで頂戴いいなさったら、そいでもまだ「そんな噂<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>や」いうてましてんけど、探偵の報告書出して見せなさったのんで、その時いうたらなんともいえん顔つきして、「悪かったです、堪忍して下さい」いうて、「一緒に死にます」いいましてんと。けどなかなか死ぬ訳に行けしませんし、さんざん恨みいうてしもたらまた可哀そうになって来て、つい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>に会うてなさった。それいうのんが、光子さんかて心の底ではやっぱり綿貫のこと忘れること出来んと、一日も長う一緒にいてたいいう気イあったのんですやろが、綿貫の方でもそれ見て取って、自分は今まで、自分の体の秘密知れたら、どない愛してくれてる人でもきっと自分を捨てるやろ思て隠してた、自分に欠陥あるいうこと承知して愛してくれるのんやったら、自分かて何で隠すもんか、自分はこんな体になったのん不仕合わせやとは思うけど、そない重大な欠点やとは思てえへん、それで男子の資格ないいうたら、男子いうもんのほんまの価値何処にあるのんや、男子ちゅうたら外に現われた<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこ</rt></ruby>ばっかりできめるのんか、そんなんやったら男子でのうてもちょっともかめへん、<ruby><rb>深草</rb><rt>ふかくさ</rt></ruby>の<ruby><rb>元政上人</rb><rt>げんせいしょうにん</rt></ruby>は男子の男子たる<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>あったら邪魔になるのんで、<ruby><rb>灸</rb><rt>やいと</rt></ruby>すえたいうやないか、男子の中で一番えらい精神的な仕事した人は、お<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>さんでもキリストでも中性に近かった人やないか、そやさかい自分みたいなんは理想的人間や、そないいうたらギリシャの彫刻かて男性でも女性でもない中性の美現わしてあるのんやし、観音さんや<ruby><rb>勢至菩薩</rb><rt>せいしぼさつ</rt></ruby>の姿かてそうやし、それ考えても人間の中で一番気高いのん中性やいうこと分ってる、自分はただ愛する人に逃げられるのん心配して隠してたんや、ほんまいうたら、恋愛にしたかて子供生んだりするのん動物の愛で、精神的恋愛楽しむ人にはそないなことやかい問題やあれへん。……

## その二十二

……はあ、そらもう綿貫ちゅうたら、そんな<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に議論し出したらなんぼでも都合のええ<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>ならべて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つべこべつべこべ</span>果てしないのんです。そいでいいますのんに、光子さん死にやはるのんやったら、自分かて一緒に死ぬのん<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>せえへんねんけど、自分は死ぬだけの理由見つかれへん、ここで死んだら、ふん、あの男、不具者やいうこと悲観して死によったいわれるのん<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい。自分はこれぐらいのことで死ぬような<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>なしやあれへん、なんぼでも生きてて、立派な仕事して、普通の人間よりずっと偉大な超人やいうこと見せてやりたい、光子さんかて死ぬぐらいな決心するのんやったら、自分と結婚してくれたらええやないか、今もいう通り、自分みたいなもん夫にするのん恥や思うのん間違うてるし、一層高尚な精神的結婚やいうように考えたら、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそないいうたとこで世間の奴らは理窟分らんと、いろいろな妨害するやろさかい、自分がこんな人間やいうこと無理にこっちから広告して歩かいでもええ、一人や二人噂するもんあったにしたかて、誰もちゃんとした証拠握ってるもんないねんよって、もしもそんなこと<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねるもんあったら、完全に一人前の男やいうてて欲しい、――それが考えたらほんまに矛盾してますのんで、「ちょっとも悲観することない、超人や」いうぐらいやったら、何にもそないに秘密にせんかて大手振って歩いたらええのんに、何は<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いても邪魔<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>らんうちに無事に結婚してしまお、それが第一の目的やさかいその目的果たすためには世間<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>すいうこともやむをえん、自分らは誰にも<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>け取らんいうことお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中でさい承知してたら差し支いないいいますねん。けど、世間はどうでも親たちまでそない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span>欺す訳に行けへんいいなさったら、自分の親は承知で嫁に来てくれる人あったら、どんなに結構や思うか分れへん、反対するのんは光子さんの方の親たちだけやよって、事情打ち明けても許してくれへんこと<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まってるのんなら、やっぱり隠しとかんといかん、光子さんさいその気イになったら隠しとかれへんいうことあれへん。「そんなことして分った時どないするのん？」「分ったら分った時のことやあれしませんか、そないなったら堂々と正義の立ち場説いて聴かして、絶対に外の人とは結婚せんいうて、それでも許してくれなんだら、その時こそ二人で姿隠しても一緒に死んでもええことあれしませんか。」それが本人は、自分の秘密仰山の人に知られてて、<ruby><rb>仇名</rb><rt>あだな</rt></ruby>まで附けられてるいう風に思えしませんのんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くろと</span>の女別としたら感づいてるもん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちょびッと</span>よりないやろ思てますさかい、巧いこと隠し通せる思てるらしいのんですが、そない都合よう親欺して結婚するいうこと、実際にはなかなか出来しません。綿貫の方には親いうてもお母さんと、<ruby><rb>後見</rb><rt>こうけん</rt></ruby>してる<ruby><rb>叔父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんとがあるだけやさかい、一ぺん光子さんが会うてくれて、「こないこないの訳ですよって、いずれ家から表向きに申し込んで来たら黙って承知して下さい」いうたら、お母さんはよう分ってくれる、叔父さんかて、わざわざ人の欠点あばいて折角の縁談ワヤにするようなことせえへんいうのんですけど、光子さんの考えでは、結婚申し込む先に身元調べるに違いないよって、どないしたかて知れる、そんなことして平地に<ruby><rb>波瀾</rb><rt>はらん</rt></ruby>起すより当分内証で会うてる方ええやないか、ぜんたい綿貫の方には別に結婚せんならん理由ないのんで、そんな体で無理な相談やいうこと自分かて分ってますねんけど、光子さんの方がそないいつまででも一人でいられるはずないさかい、こんなりでいたらもう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>逃げられへんやろか、それが心配で仕方あれしませんねん。それに口でいうのんとお腹の中とはまるきり反対で、出来るもんなら一人前の男と同じに奥様持って暮らして行きたい、世間欺すばっかりやのうて、自分の心まで欺して、ちょっとも外の男と<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>たとこないように思てたいいう気イあるばっかりか、光子さんみたいな人一倍綺麗な奥様持って、世間の奴らアッといわしてやりたいいう虚栄心まであるのんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せえだい</span><ruby><rb>焦</rb><rt>あせ</rt></ruby>ってて「そんな一時<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>れいうて、ええ縁談あったら行くつもりやろ」いうようなイヤ味いいますねん。そいで光子さんは、どない親にいわれてもきっと<ruby><rb>余所</rb><rt>よそ</rt></ruby>い嫁に行けへん、今のとこ差し迫った縁談あるのんでもなし、そのうち自分も二十五になったら自由結婚出来るようになるし、きっとええ折あるやろさかいまあまあもうちょっと辛抱してて、……そやなかったら死ぬより外に道ないいうて、ようよう納得さしましてんと。

光子さんのその頃の気持、「ほんまのとこ自分にも分らん」いうてなさるのんですが、初めのうちはそないいうて<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めといて、どないぞして切れてしまいたい思てなさったのんは確かですねん。会うたあとではいつでも後悔しなさって、ああ、ああ、自分は仰山の女の中でも人に<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましがられる器量持ってながら、あんな男に見込まれるやなんて何ちゅう<ruby><rb>情</rb><rt>なさけ</rt></ruby>ない身の上やろ、もうもう止めてしまいたい思いなさるのんですけど、そら不思議と、また二、三日も立つうちに自分の方から跡追い廻すようになってしまう。そうかいうて、それほど綿貫恋しいのんかいうたら、精神的にはええ思うとこ一つもない、顔見るのんさいムカムカするような気イして、<ruby><rb>卑</rb><rt>いや</rt></ruby>しい<ruby><rb>奴</rb><rt>や</rt></ruby>ッちゃ、見下げ果てた奴ッちゃ、いう風に、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中では常時激しいに<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>してる。そいで毎日のように会うてることは会うてるけど、二人の気持シックリすること<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>にのうて、いつでも<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>ばっかりしてて、その喧嘩いうのんが、自分の秘密人にしゃべったやろとか、いつまで待たす気イやとか、例のキマリ文句で、愚にもつかんようなこと取り上げては疑がい深い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にちゃにちゃ</span>した口調でいいますのんで、……光子さんかて、そない<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>がること用もないのんに人に話したら綿貫だけの恥やあれしませんし、そんなくらいなこといわれいでも分ってましてんけど、そうかてお梅どんだけにはいわんちゅう訳に行かんのでいいなさったのんを、「何で女子衆みたいなもんにしゃべった」いうて、その時ばっかりはえらい喧嘩になって、光子さんもちょっとも負けてんと、「あんたは偽善者や、いうこととすることとまるきり違てる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>つきや。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>らのしてる事にほんまの恋愛らしいとここんだけもあれへん。」と、思い切りいうてやりなさったら、とうとう文句に詰まってしもて、血相変えて「殺す」いいますのんで、「殺すのんやったら殺したらええ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>はとうから死ぬ覚悟きめてる」いいなさって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と眼エつぶったなり、動こともしなされしませなんだ。そしたら綿貫の方が気イ<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>まれてしもて、「悪かったよって堪忍して下さい」いいますのんで、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>あんたみたいな恥知らず違うよって、こんなこと世間に知れたら、あんたより<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>の方がどない難儀するか分れへん、もうもういつでもそんないい係りいわんといて頂戴」いいなさって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎゅうぎゅう</span>いう目に遇わしなさった。そいから綿貫だんだん頭上らんようになりましてんけど、それだけかいって陰険になって、蔭では一層疑がい<ruby><rb>深</rb><rt>ぶこ</rt></ruby>なりましてん。

ところがちょうどそないなってる時にＭ家との縁談持ち上った。――その時分光子さんがあの技芸学校い行ってなさったいうのんは、綿貫と会う機会作るためやったのんですが、私との間に同性愛やいう噂立ったのんは実は誰の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>でもない、光子さん自身がそないいい触らしなさって、<ruby><rb>匿名</rb><rt>とくめい</rt></ruby>のハガキ投書しなさったのんですねんて。何でそんなことしなさったいうたら、縁談のこと聞いてからいうもん綿貫の焼餅が激しいて、そんなことあったら<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>では置かん、今までの関係<ruby><rb>一切合財</rb><rt>いっさいがっさい</rt></ruby>新聞い<ruby><rb>素</rb><rt>す</rt></ruby>ツ<ruby><rb>葉</rb><rt>ぱ</rt></ruby>抜いてやるいうて脅迫しますし、それでのうても競争の形になってる市会議員の家の方で手エ廻して、光子さんのアラ捜しして、こっちの縁談滅茶々々にしょうとかかってるのんで、自分はもちろんＭ家い行こいう気イないさかい競争に負けるのんかめへんけど、そんなことから綿貫との秘密探り出されて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぱっ</span>と知れ渡るようになったら、それが何より恐い。そいでつまるとこ、ほんまのこと知れんように、わざと同性愛の噂立てた。まあいうてみたら、私ちゅうもん利用して世間の眼エくらましなさった。光子さんとしたら、「ステッキ」やとか、「男女」やとかいわれてるもんと噂立つより、同性愛やいわれる方が辛抱出来る、人に<ruby><rb>後指</rb><rt>うしろゆび</rt></ruby>さされたり物笑いの種にならんと済む思いなさいましてん。そんな工合で初めはただ、私が光子さんモデルにして絵エ書いてるいうこと聞きなさったり、道で<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>れ<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>た時の<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>や何かから、ふっと思いつきなさっただけですねんけど、私の方があんまり真剣で熱烈でしたさかい、だんだん利用する心持からほんまの愛情に変って行きなさった。そら私かて全然純真なとこばっかりやあれしませんけど、そいでも綿貫とは比べ物にならんほど精神的な気持ありましたよって、知らん間にそれに<ruby><rb>絆</rb><rt>ほだ</rt></ruby>されなさって、――それと一つには、綿貫みたいな誰にも相手にしられんような人間の慰め物にしられるのんと、同性の人から観音様の絵にまで<ruby><rb>画</rb><rt>か</rt></ruby>かれて崇拝しられるのんとはえらい違いですよって、私というもん出来てから持ち前の優越な感じ、――自尊心戻って来て、始めて世の中が<ruby><rb>明</rb><rt>あこ</rt></ruby>なったような気イしたいいなさいますねん。そいで綿貫にはこないこないの噂あるのん幸いにこないな人道具に<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>てる、そないした方が家<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>けるのんにも工合ええさかいいうてなさったのんですが、それをそんなり<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>に受けるような綿貫と違いますよって、うわべは「そうですか、そらその方がええでしょう」いいながら心の中では<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby><ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎすましてて、何ぞ事さいあったら私との仲<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いてやろ思てたのんに違いないいうのんは、あの笠屋町で着物盗まれた事件にしたかて、今考えたらどうも怪しい、あの時別の座敷で<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>打ってるもんあったとか、刑事乗り込んで来たとかいうのんはみんな根エも葉アもないことで、<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>の家の人に頼んで不意に光子さんビックリさして、逃げてる間に着物すっくり隠すように初めから段取り<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めといた。――それが、あの日の昼、私のとこい来なさる前に<ruby><rb>三越</rb><rt>みつこし</rt></ruby>い買い物に行きなさったら偶然綿貫に会いなさったのんで、こいから柿内の姉さんとこ行て帰りにずっと笠屋町い廻るさかい待ってて欲しいうて別れなさった。そいで綿貫は揃いの着物着てなさったこと知ってましたよって、こりゃええ機会や、あの着物ないようにしてやったらどうしても私のとこい電話かけるようになる、そしたら私かて<ruby><rb>愛憎</rb><rt>あいそ</rt></ruby>尽かすやろいうように考えて待ってる間にあの家のもん買収してこないこないせえいうといた。――綿貫やったらそのくらいのこと<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らまんとも限らんし、企らむだけの時間もあった。そやなかったら何ぼ何でも人の着物着て警察い連れて行かれるいうことあんまりおかしいし、光子さんとこいも綿貫とこいも、そんなり警察からなんにもいうて来なんだいう訳あることない。けどその時はまさか計略にかかったとは思いなされしませんさかい、どないしてええのんか<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>してしもてると、「こないなったら、柿内さんとこい電話かけて揃いの着物取り寄せるよりしょうがないでしょ」と、綿貫の方からいい出した。――綿貫の話とはそこえらい<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>てて、光子さんはもう取られたのんが揃いの着物やったいうことさい忘れてたくらい<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>ててなさって、なかなかそんなこと考え出せるどころやなかった。綿貫にそないいわれてからも「姉ちゃんに頼める義理やない」いいなさいましてんけど、「それ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>やったら僕と一緒に逃げてくれますか、それとも電話かけますか」いわれて、絶体絶命の場合になって、こんな男の道連れになるのん死ぬよりイヤや思いなさったら、<ruby><rb>後先</rb><rt>あとさき</rt></ruby>の<ruby><rb>分別</rb><rt>ふんべつ</rt></ruby>もないよになって夢中で電話口い走って行った。そいでもあの時、近所のカフェエい来てもらうとか、綿貫先帰してしまうとか、あんなとこ私に見せんかて何とかもうちょっとええ工夫あったやろのんに、うろたえてたらそんなこと思いつけしませんし、そこが綿貫の<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>いどこですよって「<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>しなさい、早しなさい」いうて<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>きたてますし、そのうちに私に来られてしもて「合わす顔ない」いいなさったら「僕ええようにいいますさかい隠れてなさい」いうて、いかにも自分は光子さんの恋人やいう顔つきして、いろいろなこと私にカマかけて聞いてしもた。「ふん、そやねんし。ほんまいうたら、あの人あの時まで姉ちゃんとのことそないよう知ってエへんなんでん」いいなさいますねん。

## その二十三

「へーえ、そしたらあの時カマかけられてたのん？『そら光子さんの奥様に対する気持いうたら、全く真剣でしてなあ』いうて冷やかしたりして、人馬鹿にしてる思ててんけど。」「ふん、ふん、わざとそんなこというて、なるだけ姉ちゃんに腹立たそとしててんし。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span><ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の蔭で聞いてて、まあ何ちゅううそつきやろ思てんけど、あんな時に弁解したかてなかなか信用してもらわれへんしなあ。……」そいで光子さんは、計略にかかったいうことに気イつきなさったら、<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>ま忌ましいてならんとこい、それからちゅうもんもう邪魔なもんないようになったのんでなおのことひつこうに附き<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>て、何ぞいうたら「あんたこそ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>つきや、巧いこというて僕<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>してたやないか」いうて、私とのこといつまででも根エに持って、「きっとあんなことぐらいで絶交するはずあれへん、今でも何処ぞで会うてんとは限らん」いうて、自分で会わさんようにしといたくせに、何処までも疑がわんといられん性質やのんか、それともわざと<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けてそんな嫌がらしいうのんか、「あんたも男らしいもない、済んでしもた事そない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くどくど</span>いわいでもええ」いいなさっても、「いやいや、済んでしもたことやない、きっとあの人に僕の秘密知らしたあるやろ」いうて、ほんまのとこはそれ一番<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>がってて、私に知れたら復讐的にどんな妨害するか分れへんいいますのんで、「邪推もええ加減にして欲しい。あんたちゅうもんあることさい隠してたのんに、なんでそんなことしゃべる<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>あるやろ。あんた姉ちゃんに会うたんやったら大概様子で分ったやろのんに。」「いや、その様子に怪しいとこあった」いうて、自分がカマかけたりしますさかい人の態度まで疑ごうて、――それが、ただの嫌がらしと<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>て、綿貫にしたら疑がう訳あるいうのんは、自分かて光子さんと私との仲感づいてたように、私にしたかて綿貫と光子さんとの仲知らんといたいうはずがない、知って今まで焼餅も焼かんといたのんは、「あの男は不具な人間や」いうこと聞かされて安心してたのんやろ、そやなかったらまさか黙ってる訳あれへん、そない思て、それがお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>にありますのんで、私を笠屋町の宿屋に呼んだいうのんも、自分は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょっちゅう</span>こんなとこで光子さんと会うてるぐらいで、性的欠陥のある男やないいうこと見せつけるつもりもあったのんです。光子さんかて、「どうぞ姉ちゃんと別れて下さい」と正面から手エついて頼まれなさったら、「イヤ」とはいえん義理ですのんに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span>ペテンにかけられた上にそないエゲツのう疑がわれたら、意地でも<ruby><rb>謀</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>の裏かいてやりとうなりなさるし、あんな心にもないことして<ruby><rb>仲悪</rb><rt>なかわる</rt></ruby>なった思いなさったら、なおのこと未練残って、どないぞして仲直りしたい、せめて一ト眼だけでも会いたい思いなさいましてんけど、<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねて行ってもたやすうは会うてもらえんやろし、会えたところでどないいうていい訳しょう、今更何いうたにしても気持直してもらえへんやろと、いろいろ考えなさった末あの本のこと思い出しなさって、……あれはほんまに光子さんには用のない本で、やっぱり中川の奥様に貸しなさったのんやそうですが、あの時のことは、ふっとそれからヒント得なさったのんで、ＳＫ病院の名前<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>ってこない電話かけよ、こんな時にはこないしょういう<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に、何日もかかって一所懸命考え抜きなさった。もちろん誰にも相談せんと、自分ひとりであんだけの段取り工夫しなさって、ただ電話かけるのんに女の声やったらいかん思て、お梅どんに<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>話して出入りの洗い張り屋の男頼んだ。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かてあの時姉ちゃんを取り戻そいう一心で有るだけの<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>絞ってんし。今考えたらあんなえらい騒動して、眼エ<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り上げて見せるやなんて、役者でもないのんにようあんなことしたなあ」いいなさって、そら、あの時のことは確かに私を計略にかけた。<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>したいわれても仕方ないけど、それも自分がどんな気持でしたかいうこと直きに分ってもらえるやろ、そしたら私かて可哀そうなとこそ思えきっと憎いとは思えへんやろと、そない考えてたいいなさいますねん。

ところが私と仲直りしたいうことそれから間ものう綿貫に知れた。光子さんかてもともと綿貫のたくらんだこと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>に引っくり<ruby><rb>覆</rb><rt>かえ</rt></ruby>して見せつけてやろいう気イあるのんで、別に隠そともしなされへんばっかりか、知れたらどんな顔するやろ思て待ち構えてなさったとこですさかい、「あんたこの頃、またあの人と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>戻ったんやろ、<ruby><rb>空惚</rb><rt>そらとぼ</rt></ruby>けててもちゃんと分ってる。」「ふん、そんな事ちょっとも惚けてエへん」と、落ち着き<ruby><rb>払</rb><rt>はろ</rt></ruby>てなさって「会わんといたかてどうせ疑がわれるぐらいなら、会うた方が<ruby><rb>優</rb><rt>ま</rt></ruby>しや思てん。」「何で僕に内証でそんなことした？」「内証やあれへん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>どない邪推しられたかて、せエへんことはせエへんいうけど、したことはしたいうし。」「そうかて今日まで黙ってたやないか。」「そらいうまでもない思たさかい黙ってた、何も一々自分のしたこと報告せんならん思てエへんもん。」「こんな大事なこと報告せんちゅう法あるもんか。」「そやさかい、したことはしたいうてるやないか。」「ただ『した』だけでは分らん、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>から仲直りしたのんかちゃんとはっきりいうて見なさい。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>の方から<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねて行って、悪かったいうて堪忍してもろてん。」「何やて！　なんで<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まりに行くことある？」「何でいうて、こんなとこいあんな時間に呼び出しといて、着物借ったりお金借ったりして、放っとくいう法あるかいな。そんな義理の悪いこと、あんたは出来ても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>はようせん。」「借った物はあの明くる日、僕が郵便で返してやった。あんな<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>らわしい女にそれ以上礼いう必要あるもんか。」「ふーん、そしたらあの時姉ちゃんの前で何ちゅうた、『僕の一身はどないなっても、この場アさい無事に済んだら御恩は一生忘れしません』いうて、その汚らわしい人に頭下げて、手エ合わして拝んだやないか。そやのんに今頃ようそんなこといえるなあ。第一借ったもん郵便で返すやなんて、もし旦那さんの手エにでも渡ったらどない迷惑しなさるか、汚れてたかていエへんかて世話になったもんは世話になったもんやのんに、何ちゅう恩知らずやろ。あんたそんなこというたら、あの晩のことかて<ruby><rb>手妻</rb><rt>てづま</rt></ruby>の<ruby><rb>種</rb><rt>たね</rt></ruby>見えるような気イするし。…」そないいうてやりなさったら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょ</span>ッとした顔して、「手妻の種て何のこっちゃ」いいますのんで、「何のこっちゃ知らんけど、何もあれから絶交したともいエへんのんに、あんた独りで絶交したもんと<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めてるいうのん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>やないか。そない自分の思う<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>まる思たら<ruby><rb>間違</rb><rt>まちご</rt></ruby>てるし。」「何や一体、あんたのいうてること僕には分らん。」「あのなあ、あの時の着物あんなり警察から戻って来エへんのん何でやろ？」「今そんなこと問題にしてエへん。」そないいいながら、チクリと痛いとこ刺されたのんで、「何をいうのんか今日はあんた興奮してるで。まあまあ、その話ゆっくり聞こ」いうて、照れ隠しにニヤニヤ笑て<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>してしもた。けどそんなりで放っとくような<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あっさり</span>した男違いますよって、二、三日したら直きまた持ち出して、今度は<ruby><rb>下手</rb><rt>したて</rt></ruby>に出て光子さんの機嫌取りながら、「あの奥様よっぽど怒ってたはずやのんにどんなこというて丸めたのんか、後学のために聞かして欲しい」とか、「そんな優しい顔しててあんたはえらい<ruby><rb>手管</rb><rt>てくだ</rt></ruby>上手や」とか、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くろと</span>も及ばん<ruby><rb>凄腕</rb><rt>すごうで</rt></ruby>や」とか、いろいろなこというておだてたり皮肉いうたりしますのんで、ええ加減なとこで妥協しといた方がええ思いなさって、実はこないこないの計略で仲直りしたいうこと話してやりなさった。「あんたそんな狂言書いて人欺すこといつの間アに覚えてん？」「そらあんたに<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せてもうてん。」「<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>いいなさい、僕にもちょいちょいその手エ使てるねんやろ。」「ほらまた邪推始まった。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>こんな人の悪いことしたん今度だけやわ。」「そないまでしてあの奥様と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょうだい</span>になりたいいうのん、僕には分れへん。」「けどあんたかてこないだ姉ちゃんに『僕はちょっともかめしません、これから三人仲好うしましょ』いうてんやないか。」「そらあの時あの人怒らしてしもたら難儀やさかい、あないいうといてん。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>いうてるわ。あんた姉ちゃんにカマかけたんやないか。あの晩の細工ちゃんと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に分ってるし。」「そんなこと僕一向知らん。」「あんたよう聞いて頂戴や、一寸の虫にも五分の魂いうことあるよって、蔭い廻って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な事しられた思たら、誰かってそんなりにしとけへんさかいになあ。」「僕が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な事したやなんて、何ぞ証拠でもあるかいな。あんたこそ邪推してるやないか。」「邪推なら邪推にしといたらええ。けどあんたかってそないいうのんやったら、ちゃんと、約束した通り姉ちゃんと附き合うたらええやないか。あんたは疑ごうてるか知らんけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かてあんたのイヤがるようなこと決して姉ちゃんにいエへんし。……」そこで光子さんは即座に気転<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かしなさって、私のとこいあんなこというて来たのんも一つは綿貫のイヤがってること何処までも隠して、一人前の人間やいうこと私に信じさすためやった、自分はそないまでして綿貫の名誉守ってるねんさかい、綿貫さいもうちょっと寛大な気持になったら、この先三人が仲好うして行かれへんいうはずないやないか――と、一方では綿貫の痛いとこおさえてて、<ruby><rb>賺</rb><rt>す</rt></ruby>かしたり<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>したりしなさって、「あんたと<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>で会うてる以上は、姉ちゃんにも来てもらう」いいなさって、私との交際には絶対に<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>入れんといてほしい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>いうのやったら綿貫捨てても私捨てへんいう覚悟見せなさったのんで、とうどう泣き寝入りになってしまいましてん。

## その二十四

「……なあ、姉ちゃん、なんぼ親しい<ruby><rb>間柄</rb><rt>あいだがら</rt></ruby>かてこんなこというたら自分の恥やし、<ruby><rb>愛憎</rb><rt>あいそ</rt></ruby>つかされるかも分れへん思てじっと<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼ</rt></ruby>しててんけど、もうもう今日は何も彼もいうてしもてんし。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>ぐらい不仕合せなもん世の中にあるやろか。」――そないいいながら私の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上い打つ伏しなさって、涙でそこが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びしょびしょ</span>に<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れるぐらい激しいに泣きなさるのんで、あんまりのことに何ちゅうて慰めたげたらええのんやら、――なんせ私の知ってる今日までの光子さんいうたら、花やかで、勝ち気で、いつもプライドに<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちた眼エ<ruby><rb>耀</rb><rt>かが</rt></ruby>やかしてなさって、そんな<ruby><rb>辛</rb><rt>つら</rt></ruby>い思いしてなさったとはちょっとも見えしませんのに、その高慢な、女王みたいにエラそにしてなさった人が、プライドも何にも放ってしもて泣き崩れてなさる様子だけでも、ほんまに思いの外ですねん。光子さんにいわしたら、自分は強情張りやよってどない苦しいことあっても人に<ruby><rb>見透</rb><rt>みす</rt></ruby>かされんように努めて来てんけど、そいでも姉ちゃんいうもんなかったらもっと陰気になってたやろのんに、姉ちゃんのお蔭で暗い運命に打ち<ruby><rb>克</rb><rt>か</rt></ruby>つだけの勇気出た、いつでも姉ちゃんの顔さい見てたら気が晴れ晴れして一切のこと忘れてたけど、今日ちゅう今日はどういう訳か悲しい思い込み上げて来て、意地にも辛抱出来んようになって、長いあいだ<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えてた涙の<ruby><rb>堰</rb><rt>せき</rt></ruby>が一ぺんに切れた。「なあ、姉ちゃん、どうぞどうぞ、……頼りにするのん姉ちゃんばっかりやさかい、こんな話聞いても<ruby><rb>愛憎</rb><rt>あいそ</rt></ruby>尽かさんといてエな。」「なんで愛憎尽かすもんか。いいにくいことよういうてくれたなあ。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かてそない頼りにされたらどない嬉しいか分れへん。」そしたら光子さん気イ<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>みなさったのんか、一層止めどものう泣きなさって、自分の一生は綿貫のお蔭で滅茶々々にしられた。もう行末に何の望みも光明もない、生涯<ruby><rb>埋</rb><rt>うも</rt></ruby>れ<ruby><rb>木</rb><rt>ぎ</rt></ruby>で暮らすばっかりやいいなさって、自分は死んでもあんな男と結婚せエへん、どうぞ助ける思てあの男と手エ切れるようにしてくれへんか、何ぞええ工夫あったら<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せて頂戴いいなさるのんで、「こないなったら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かて正直なこというけど。ほんまいうたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>栄ちゃんと兄弟の約束してしもて、こないこないの<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>まで<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>してんし」と、昨日の出来事みんな話したげたら、大方そんなことやろ思てた、綿貫の奴、何処まで行っても知られてエへんかいうこと疑ごうてて、わざとそないなこというて姉ちゃん<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>してみといてから、自分捨てられたら姉ちゃんも一緒に抱き込んでやろいう気イや。……そないいうとなるほど、「光ちゃんに子供出来たいうこと初耳です」いうたとき、「へえ？　初耳？」いうて血走った眼エして、「何で子供出来るはずないいいましたか、そんな体質やいうのんですか」と唇の色まで変えてたのんが、あの時にも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な人やなあいう感じしましたし、それに思い当るのんは、話の中途で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ためいき</span>ついては、「ああ、ああ、僕は何ちゅう不幸な運命の下に生れたのんでしょう」と、二へんも三べんも芝居のセリフみたいな節つけて繰り返したあの言葉、――あの時はなんや、人の同情求めるためにわざとあんなセンチメンタルな声出してる思いましてんけど、それがやっぱり、なんぼ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずうずう</span>しい男にしたかてお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中では自分の不仕合わせ嘆いてるのんで、人にいわれん淋しい気持が自然と外に現われたのんかも分れしません。けど「何でそないに妊娠したいうこと隠すのんでしょう？　お姉さんにまでウソつかないでもええやありませんか」とか、「子供生れたら何処いなとやってしまういうて、光ちゃんのお父さん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんかん</span>になって怒ってる」とか、巧いこというて探り入れて、――それもええけど、「これ読んでみたらお姉さんの方が僕より得してる、僕の誠意のあることこれでも分りましたやろ」いうやなんて、もともと起る気づかいないのんやったら、どんな条件かて書けるやあれしませんか。そんなありもせんこと種に<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>て、こっちの信用つないだりして、どないな気イやろ？　どんな場合にあの約束役に立たすつもりやねんやろ？　そらきっと「姉ハ弟ト光子ト正式ニ結婚セシムルタメニ努力シ」いうのんと、「弟ガ捨テラレタル時ハ姉ハ光子ト交リヲ絶チ」いうのんと、「両人ハ他ノ一方ノ承諾ヲ経ズシテ無断ニ光子ト逃亡シ、所在ヲ<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>マシ、モシクハ情死スル等ノ行為ヲナサズ」いうのんとが、――殊にこの一番しまいの条件が<ruby><rb>眼目</rb><rt>がんもく</rt></ruby>やのんで、その外のことは<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>らしいに見せかけるための附け足りやと、光子さんはいいなさいますけど、そいだけのことにわざわざこんな<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もらしい形式取り交して、あんな大騒ぎせいでもよさそうなもんですのんに、そんな法律くさい文句並べるのんがあの男の癖なんやそうで、そないいうたら、この頃光子さんの綿貫に対する態度だんだん焼け<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>になって来なさって、どないなとなれいうような<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>見せなさるもんですさかい、綿貫の方も近いうちに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ただ</span>では済まんような事起るいう予覚感じてて、蔭い廻って何ぞ悪さするような様子見えてた。そいでこないだ三人で松竹座い行った時にしたかって、「あんたそない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひがんでん</span>と一ぺん姉ちゃんに会うて御覧、そしたら姉ちゃんどんな人やか、あんたの秘密知ってるかどうか、大概話しぶりでも分るやろ」いうて連れ出しなさって、そないしといたら、内証で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なこといわれたりする危険ないやろ思いなさったのんですけど、あんな<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に妙に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こじ</span>れて口も利かなんだのんですと。「そしたらあない空々しいしてて、蔭で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッと手エ握ろいうことあの時から考えてたのんか知らんで」「そらどや知らんけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>があの人<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>ったらかして姉ちゃんと逃げるのんやないかいうで、<ruby><rb>常時</rb><rt>じょうじ</rt></ruby>心配しててんし。」「きっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>を道具に使て結婚さいしてしもたら、もうあんたみたいなもん用ないいうて放り出すつもりやってんなあ。」「結婚々々いうてるけど、それかて自分で自分欺くためやのんで、ほんまに結婚出来るとは思てエへんねん。あんまり無理なこというたら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>生きてエへんこと分ってるし、姉ちゃんちゅうもんある方が外の男に取られる気づかいない思て、今のまま出来るだけ続けていてたいねんし。」……そいで光子さんは、今日も綿貫が待ってるねんけど、今日ばっかりはどないしても会うのんイヤやいいなさって、何ぞ工合よう<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>なしてほしいいいなさるのんですが、今急にそんなこというても怪しまれるばっかりやし、後がかいって悪いさかい、そないいわんと今日のとこは何もこんな話せなんだことにしときなさい、そのうちに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>がきっときっと手エ切れるようにしたげる、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>死んでも光ちゃんの命助けんと置かん、まさかの時はあの男殺してやるいうて、私も一緒に泣きながら力づけたげて別れましてん。

それが、……そう、そう、その誓約書の日附け見たら分るのんですが、……そうです、そうです、これが七月十八日ですよって、光子さんとそんな話しましたのんが多分明くる日の十九日のことで、ちょうどその時分夫の方は忙しかった事件やっと片附いたのんで、何処ぞい避暑に行こやないか、ことしは軽井沢いでも行ってみよかいいましてんけど、私はなかなかそれどこやあれしませんさかい、光子さん毎日々々淋しがってて、こんな体で自分何処いも出られへんのんに、あんたほんまに<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいなあいうてなさるし、行くのんならもうちょっと涼しいになってから箱根いでも連れて行って欲しいいうて、夫が何や物足らん顔してるのんにも<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>せんと、そいから半月ほどいうもんはいッつもいッつも夫の出かけるのん待ちかねて笠屋町い飛んで行きましてん。何しろ私にしましたら、あれからこっち光子さんが別人みたいにしおらしいに見えて、今までは美しい悪魔みたいに思われてたのんが、今度は急に<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>に<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>われてる<ruby><rb>鳩</rb><rt>はと</rt></ruby>みたいに思われて来て<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>いとしさ増したとこい、会うたんびに心配そうな様子してなさって前のような花やかな<ruby><rb>笑顔</rb><rt>えがお</rt></ruby>見せなさること一日もないのんで、まさかとは思てても短気なことでもしなさったらえらいこッちゃ思たら、気が気やあれしません。そいで私、「光ちゃん、あんた栄ちゃんの前ではせめてもうちょっと浮き浮きしてなさいや、そやなかったらまた感づかれてどんなこといい出すか分れへん」いうて、「きっと、きっと、世間に顔向けならんように<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>きつけてやるさかい、死ぬほどつらいことあってもちょっとの間辛抱してなさい」いいましてんけど、さてどないしたら綿貫叩きつけること出来るか、人欺したり<ruby><rb>陥</rb><rt>おとしい</rt></ruby>れたりする計略は<ruby><rb>向</rb><rt>むこ</rt></ruby>の方が上手ですさかい、なかなかええ考出て<ruby><rb>来</rb><rt>け</rt></ruby>えしませなんだ。私はそないいうてるうちにも、また綿貫が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>の外で待ったりしてたらどないいい抜けしたらええのんやら、あんな誓約書の条件守らんかてちょっとも<ruby><rb>疚</rb><rt>やま</rt></ruby>しいことあれしませんけど、そいでも約束破ってるのんがやっぱり何や済まんような気イしてて、いつも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろうじ</span>出て来るとき、またあの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞっと</span>するような声が後ろから「お姉さん」いエへんかとビクビクしてたのんですが、ええ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんばい</span>にあんなりになってますのんで、あんな男のこッちゃさかい、誓約書さい交してしもたら兄弟も<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>もあったもんやない思てるねんやろ、結局その方がこっちも助かる思てましてん。そうこうしてるうちに光子さんは毎日々々「姉ちゃんどないぞしてくれへんか、もう一日も辛抱出来へん」いいなさいますし、自分は最後の手段として、わざと綿貫誘い出して<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>落</rb><rt>おち</rt></ruby>しようか思てる、その時は何処い逃げるいうこと前に私に<ruby><rb>教</rb><rt>お</rt></ruby>せとくさかい、新聞に出されたりしてえらいことになった時分に、もうええ頃や思たら<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえに来てほし、そないしたらなんぼ綿貫かて二度と寄り附くこと出来んやさかい、自分の名誉も<ruby><rb>傷</rb><rt>きずつ</rt></ruby>けること覚悟の上でやってみせる、「こっちで相談してることうすうす<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけたらしいよって、やるのんなら早い方がええ」いいなさるのんで、嗅ぎつけたらあの誓約書<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>に取って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に何とかいうて来るやろ、まあ、まあ、そんな非常手段最後まで取っときなさい」いうて、――ほんまにあの時分、よっぽど思案に余ってしもて、先生のとこい<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>貸してもらいに上ろか思たぐらいですねんけど、そんな厚かましいことようせえしませんし、お梅どんに聞いてみてもええ考ないいいますし、いっそのこと夫の力借ろかしらん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>ついてたこと或る程度までは白状して、ただ綿貫の迫害免れるような法律的の手段ないもんか知らん、話しように<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら夫かて光子さんに同情寄せんこともないやろと、困った<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>そんなことまで考えましてん。ところがその夫が、或る日突然、ちょうど私が行ってる時に電話も何もかけんといて笠屋町の宿屋い<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねて来たやありませんか。それが事務所の帰りしな、四時半ごろのことで、二階で光子さんと話してましたら、「奥さん奥さん」いうて<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて<ruby><rb>仲居</rb><rt>なかい</rt></ruby>さんが<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け上って来て、「今奥さんの旦那さんがお見えになって、お二人さんに会いたいいうたはります。どないしまひょ」いいますのんで、「何でやって来たんやろ」と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょ</span>ッとしながら顔見合わしましてんけど、「とにかく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>会うて来るわ、光ちゃんそこに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すッ</span>込んでや」いうて、玄関い降りて行きましてん。

## その二十五

「やあ、えろう分りにくいとこやなあ」と、夫は<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>のとこに立ってて、実は今さっき、伊勢の<ruby><rb>四日市</rb><rt>よっかいち</rt></ruby>い帰る人あって<ruby><rb>湊町</rb><rt>みなとまち</rt></ruby>の駅まで送って行って、戻りしなに心斎橋筋散歩してたら、光子さんのいなさるとこ確かこの辺やったなあ、きっとお前も来てるやろ思たのんで、急に<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねる気イになった。別に用事あるのんと違うけど、いつもお前がお邪魔に上って<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>になるのんに、近所まで来て顔出しせんのも悪いような気イするし、それに光子さんどないしてなさるか、お見舞いかたがた是非お目にかかって御礼いいたい、差支いなかったら何処ぞで晩の御飯<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>したい思うねんけど、ちょっとも外い出なさること<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>へんのんやろかと、何気ない風していうのんですが、どうもそれだけやないみたいな気イして、「この頃は大分目立つようになってなさるよって誰にも会わんようにしてなさるし、なかなか外い出るどこやあれへん」いいましてんけど、「そやったらまあ、会うだけでも会うて行きたい」いいますのんで、それでもいかんいう訳に行けしませんさかい、「どないいいなさるか聞いて来るわ」いうて、「光ちゃん、こないこないいうねんけどどないしょう。」「どないしょう、ほんまに。姉ちゃんどないいうたん？」「大分目立つようになってるよって誰にも会いなされへん云うてんけど、是非ちょっとでもいうてるねん。」「何ぞ訳でもあるねんやろか。」「さあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>もそない思うねんし。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>いっそ会うわ、そんなんやったら。……今お春どんと相談したら、帯上げお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の上へ締めてその上から着物着なさったらええやろいうよって、そないするわ。ほんまに<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>い綿詰めるようになってしもたなあ」いいなさって、そのお春どんいう仲居さんに帯上げ借って、「お客さん<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の部屋い通して待っててもろて」いうて、その間に私が手ッ<ruby><rb>伝</rb><rt>と</rt></ruby>うて身ごしらいしてましたら、またお春どん上って来て、「そない申しましたけど、一分か二分でええさかい玄関でお目に。<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>るいやはって、上りゃはれしません」いいますのんで、そやったら<ruby><rb>早</rb><rt>はよ</rt></ruby>せんならんいうて大慌てに慌てて二人がかりで着せましたもんの、冬やったらどないなと<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>せるのんですが、<ruby><rb>肌襦袢</rb><rt>はだじゅばん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>明石</rb><rt>あかし</rt></ruby>の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>もん着てなさるだけやのんで、どないしても妊娠のように見えしません。「姉ちゃん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>のこと何カ月やいうといたん？」「何カ月いうたか忘れてしもたけど、人眼につくいうたぐらいやし、六カ月か七カ月になってんと工合悪いなあ。」「これぐらいやったら六カ月に見えるやろか。」「もっと全体が円うに<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れてなんだらいかんし。」そんなこというて三人ともクスクス笑い出しながら、「なんぞもうちょっと持って来まひょ」と、またお春どんがタオルやら何やら持って来ましたのんで、「あんたも一ぺん下い行って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃん誰ぞに見られたらいかんいいなさって、めったに玄関いも出て来なされしませんさかい、とにかくお上り下さいいうて、なるべく暗いあんまり見えんような部屋い入れといて<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>」いうて、かれこれ三十分も待たしといてから、やっとどうにか六カ月のお<ruby><rb>腹拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて行きましてん。「そんなりでかめへんいうたんやけど、<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>がけでは失礼やいいなさって、着物着かえてなさったのんで、……」と、そないいいながら夫の様子<ruby><rb>窺</rb><rt>うかご</rt></ruby>うてますと、<ruby><rb>折</rb><rt>お</rt></ruby>れ<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>傍に置いて、キチンと洋服の<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>がしら<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>えてすわって、「かいって御迷惑か思いましたけど、あんなり<ruby><rb>御無沙汰</rb><rt>ごぶさた</rt></ruby>してますし、一ぺんお見舞いに上らんならん思てたとこいちょうどこの前通りかかりましたさかい」いうて、気のせえか光子さんのお腹の辺ジロジロ見てるみたいですねん。光子さんは「いいえ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>こそいッつも姉ちゃんに<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>ばっかりいいまして」――と、自分のために避暑に行くのん止めてしまいなさったのん気の毒やとか、姉ちゃんのお蔭で淋しい思い慰めてもろて、大層有難い思てるとか、あんまり口数<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>きなさらんと<ruby><rb>殊勝</rb><rt>しゅしょう</rt></ruby>らしい聞えるように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span>いいなさって、<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>で帯の上のとこ隠すようにしてなさるのんですが、お春どんが気イ利かしてくれたと見えて、昼間でも電気<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>さんならんような薄暗い部屋の一番<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の方にすわってなさって、なんせ風通しの悪い上にお腹にいろいろなもん詰めてなさるよって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずくずく</span>に汗かいて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はあはあ</span>息してなさる<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこ</rt></ruby>いうたら、いかにも本物らしいて、「巧いこと芝居してなさるなあ」思いましてん。

夫は直きに座ア立って、「えらいお邪魔しました、どうぞまたお出かけになれるようになったら遊びに来て下さい」いうて、「もうおそいさかいお前も一緒に帰ったらええ」いいますのんで、「何ぞ訳あるに違いないよって今日はこれで帰る。明日きっと待ってて頂戴」と光子さんに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッというといて、しぶしぶ連れられて出て来ましたら、「バスに乗って行こ」いうて<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>つ<ruby><rb>橋</rb><rt>ばし</rt></ruby>の停留場い出て、そいから阪神で家い帰るまで、夫は不機嫌に黙ってしもて、何いうても<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>返事しかせえしません。家い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ると洋服も脱がんと、「ちょっと二階いおいで」いうて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どんどん</span>上って行きますのんで、こっちもあらかた覚悟きめて附いて行きますと、寝室のドーア<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぱたん</span>と締めて、「まあそこいおかけ」と差向いに<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>にかけさして、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くは物もいわんと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>と息ついて考え込んでるのんです。「あんた、今日、何で突然あんなとこい来たん？」と、重苦しい空気破るために私の方からそないいうてやりましたら、「うむ、……」いうてまた考えてて、「お前に見てもらいたいもんあるねん」いいながらポケットから事務所用の封筒に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったもん出して、テーブルの上にひろげたのん見ましたら、そんなり私は真っ青になってしまいましてん。どないして手エに這入ったのんか、「ここに署名してあるのん確かにお前に違いないか」いうて夫はあの誓約書眼エの前い突きつけるのんです。「<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>っとくが、僕はお前の心持次第では決して事を荒立たそう思てエへん。これが僕の手エに這入った径路についても聞きたいのんやったら聞かしてやる。けど第一に、事実お前が署名したもんか、それともこれはニセ物やのんか、その点ハッキリさしときたい。」……ああ、綿貫に先越された！　私の持ってる書付の方は<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>に<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>かけて隠したありましたから、これは綿貫のんに違いないのんで、こんなことするためにこの誓約書書かしたのんか！　ほんまに私は、こないだから夫に口利いてもらお思てて、光子さんのことも打ち明けた方が得なことは話してしまお思てたのんに、さっき不意討ちに笠屋町い<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねて来られて、あないなったら妊娠してなさるのん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>やいうこと今更いい出しかねて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>の上塗りしてしもてんけど、こんなことになるのんやったらあの時白状しといたらよかった！　「おい、黙ってたら分らん、返辞したらえやないか」と、夫は出来るだけ腹の虫おさえて、やさしい、静かな声出して、「黙ってるとこみたら、これお前書いたと認めてもええねんなあ？」いうて、そいからだんだん話し出すのん聞いてますと、五、六日前に今橋の事務所の方い突然綿貫が<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねて来て面会求めた。そいでどんな用事か思て応接間い通して会うてみたら、「今日お訪ンねしたのんは、実は折入ってお願いしたいことあるのんです」いうて、「多分あんたも御承知でしょうが、僕と徳光光子とは結婚の約束したあるばかりでなく、既に光子は僕の種までも宿してますのんに、こっちの奥さんが中に這入っていろいろ邪魔しなさるのんで、光子の仕打ちこの頃日増しに冷淡になって、今の<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>ではいつ結婚してくれるのんか分らんような状態にある。<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いてはあんたから奥様に意見して下さいませんか」いうよって、「僕の家内が何で邪魔するのんですか。<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいことは知りませんけど、家内はあんたがたの恋愛に同情してて、一日も早う結婚しなさるのん祈ってるように聞いてましたが」いうたところが、「あんたは奥様と光子との関係がどんなことになってるか、ほんまの事情御存知ないのんです」いうて、今でも前のようやいうことそれとなしに<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めかした。けど初対面の男の話をそのまま信用する気イもなかったし、現にその男の種宿してるもんが別に同性の人とそんな風になってるというのんも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>なし、何やこの男気イ触れてるのんと違うか知らん思てたら、「お疑がいになるのんも<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もですが、ここに確かな証拠あります」いうてこの書付出して見せた。夫はそれ読んだとき、自分の妻が<ruby><rb>未</rb><rt>いま</rt></ruby>だに自分<ruby><rb>欺</rb><rt>あざむ</rt></ruby>いてたことにも不愉快感じましたけど、それよりもなお不愉快やったのんは、妻と見ず知らずの男とが自分の知らん間に兄弟の約束してるいうことやった。第一<ruby><rb>人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の女房とこんなもん取り<ruby><rb>交</rb><rt>かわ</rt></ruby>しといて、その女房の亭主の前い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">れいれい</span>しいに見せつけながら、それに対する一言のいい訳もせんと、まるで刑事が犯罪の証拠<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んだみたいに得意そうにニヤニヤしてるこの男の気イ知れん思たら、一層<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むかむか</span>して来たとこい、「あんたは此処に署名したあるのん、あんたの奥様の手エやいうことお認めになりますやろなあ」いいますのんで、「なるほど、見たとこではたしかに家内の手エのようですが、それより先に伺いたいのんは、ここに署名してる男は何処の人です」いうてやったら、「それは僕です、僕が綿貫自身です」いうて、まだその皮肉<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>らんみたいに平気な顔してる。「この署名の下に<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>してあるもん何ですか」いうたら、それはこないこないの訳でと臆面ものうその時のこと細こうに話し出すのんで、みんなまで聞かんうちに腹立って来て、「これ読んで見ると、あんたと、光子さんと、園子との関係は委しいに規定してあるが、園子の夫である私については何の考慮も払われておらん。私ちゅうもんは全然眼中に置かれてん。あんたも<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に署名しておられる以上当然責任分たれるもんと考えるのんで、一往あんたの立場からその弁明求めたい。まして今のお話のようやと、この誓約書は園子の意志から出たんやのうて、半ば強制的に結ばれたように思われるが」いうてやった、そしたら恐縮するかと思いのほか相変らずニヤニヤ笑てて、「その書付にもある通り僕と園子さんとは徳光光子に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>って結ばれてるのんで、その関係は園子さんの夫であられるあんたの利害とは始めから衝突してます。もし園子さんがあんた眼中に置かれたら、光子とあないな間柄になることもなかったやろし、こんなもん交すまでもないし、それこそ僕の何より望むとこですけど、妻たる人が自ら進んでしなさるもんを他人の僕がどないすることも出来しません。僕にいわしたらこの書付のような関係認めることが、既に園子さんに対して非常な譲歩してるのんです」いうて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>に夫の監督の不行き届き<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>むような口ぶりで、兄弟の約束したいうのんは密通したのんと訳が違う、そやから自分は不道徳なことしたとは思てエへんいうのんです。

## その二十六

そんで夫は、そんな書付手エに触れるのんも汚らわしい思いましてんけど、何せ相手が非常識な人間のことやさかい、この男にこんなもん持たしといたら何するか分らん、これはどないぞして取ってしもた方がええ思て、「お話はよう分りました、あんたの仰っしゃる通りやとしたら、頼まれいでも夫たるもんの責任として放っとけません。けど僕としても、あんたとは今日始めてお目にかかったばっかりやし、一往家内のいうことも聞いてみんことには片手落ちになる。<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いてはこの書付<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く貸しといてもらえませんか。これ眼の前い突き付けてやったらきっと白状しますやろけれど、そうでもなかったら、なかなか強情な奴ですさかい」いいましたら、貸すとも貸さんともいわんといて、急に大事そうにそれ<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上に置いて、「しかしあんたは、もし園子さんが白状しなさったらどういう処置お取りになるのんです」いいますのんで、「どういう処置取ろと、その時の都合次第やさかい、今から明言する訳に行かん。僕はあんたに頼まれたから家内を<ruby><rb>詰問</rb><rt>きつもん</rt></ruby>するのんやない。僕はあんたの利害のために動くのんやのうて、僕自身の面目、自分の家庭の幸福のために動くのんやいうことを承知して下さい」いうたところが、何や<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>アな顔して、「僕かて何も、自分のために働いて欲しいいうのんやあれしませんが、今度の事は、あんたの利害と僕の利害とが偶然一致してる思たのんで、伺うたのんです。あんたかてそれは認めなさるやろ」いいますよって、「そんなこと僕は考える余裕もなし、また考えとうもありません。失礼ながら、僕はあんたと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐる</span>になってそんな事件の中い<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き込まれとうないのんです。僕は自分の自由意志で自分の妻を処分するだけです」いうてやった。すると「ああ、そうですか、そんなら仕方ありませんが」いうて、「ほんまいうたら、僕かてあんたには縁もゆかりもないのんですから、こんなこと頼みに来られる義理やないのんですけど、そいでも僕、もし園子さんが光子と一緒に逃げるようなことあったら、困るのんは自分ばかりやない、それ知ってながら黙ってたらあんたに対しても不親切や思て来たのんですが」いいながら、ジロジロ人の顔のぞき込んで、「そないなったら、あんたかて<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>でも<ruby><rb>応</rb><rt>おう</rt></ruby>でも事件の中い捲き込まれてしまいますで」いいますのんで、「いや、御好意は分りました。御親切に対しては感謝します」いうてやりますと、「ただ感謝するいわれただけでは困るのんです。一体あんたは、まさか園子さんに逃げられるようなヘマな事しなさらんやろ思いますが、そいでも万一逃げられた場合にはどないなさいますか、逃げたもんには未練ないいうてアキラメておしまいになりますか、それとも何処まででも追いかけて行って取り戻そいうおつもりですか、そこのとこをハッキリきめといて下さい」いいますよって、「僕は自分の行動について、その時になって見んと分らんこと今から他人に約束したり、それに<ruby><rb>掣肘</rb><rt>せいちゅう</rt></ruby>しられたりするのんイヤやのんです。まして夫婦のあいだのことはあくまで夫婦のあいだだけで解決つけます」いいましたら、「しかしあんたは、どんな事あってもよもや園子さんを離縁なさるようなことありますまいな」いうのんですて。そのいい方が変に厚かましいて、ひつこうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねちねち</span><ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>み着いて来ますのんで、自分の妻離縁しようとしまいと、余計なお世話やないか、何もあんたがそんな心配する必要ありますまいいうてやりましたら、「いや、そいでもあんたは園子さんの実家に恩義あるはずや」とか、「ちょっとやそっとの不都合があったからいうて、園子さん追い出したら義理が済まんやろ」とか、多分光子さんから聞いたのんですやろが、そんな内輪の事情までちゃんと知ってて、「あんたも立派な紳士やよって、まさかそんな不徳義なことしなされへんやろ思います」いうたりするのんで、夫もしまいには腹に据えかねて、「あんたは一体何しに来たのんや。何のためにそんな関係もないこといつまでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べちゃべちゃ</span>しゃべってるのんや、あんたに注意してもらわんかて僕は僕で紳士の道守りますけど、それがあんたの利害と一致するかどうかは保証する訳に行けしませんから、どうぞそのつもりでいて下さい」いうたら、「ふん、そうですか、そんなら折角ですがこの書付お貸しすること出来ません」いうて、膝の上い置いてあったのん丁寧に封筒い入れて、内ぼところい<ruby><rb>収</rb><rt>しま</rt></ruby>うのんやそうです。夫はそれが欲しかったことは欲しかったけど、そんな行きがかりになってしもたらもうしょうがない、かいって弱味見せたらあかん思て、「ええ、ええ、僕も<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて拝借しようとは思いませんから、御自由にお持ち帰り下さい。但し<ruby><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby>お断りしておきますが、あんたがそれを、僕の手エ経て僕の家内に示すことを拒まれる以上は、家内が事実を否定した場合に、僕としてもその書付に信を置くこと出来んかも知れない。僕は当然、初対面のあんたより家内の方を信じますから」いうてやった。そしたら独りごとのように「とかく夫が細君に甘いのが間違いの起る<ruby><rb>原</rb><rt>もと</rt></ruby>やのんですな」いうて、「なあに、この書付と同じもんが園子さんのとこいも行ってますよって、何処ぞ捜しなさったらきっと出て来ますで。尤もそんなことしなさらんかて、腕を出さして見なさったら証拠が残ってるはずです。」――と、そないな憎まれ口いうて、「お忙しいとこえらいお邪魔しました」と、わざと落ち着いて<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>して出て行きますのんで、それを廊下まで送って行って、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた奴や思いながら部屋に戻って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>としてますと、ものの五分ぐらいした時分、またコツコツとドーアをノックして、「やあ、<ruby><rb>只今</rb><rt>ただいま</rt></ruby>は失礼しましたが、ちょっと、あのうもう一遍お邪魔さしてもらいます」いうて、何と思たのんか、今度は妙にニコニコと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あいそ</span>笑いしながら、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほん</span>五分ぐらいのあいだにまるで人間変ったみたいな表情して<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>って来ましてん。それが夫にはまた気味わるうて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎょ</span>っとしながら黙って見てましたら、テーブルの前い来て、お辞儀して、「おかけなさい」ともいわんうちに今腰かけてた椅子にかけて、「さっきは僕が悪かったです。僕は今、命にかけてもと思う人を取るか取られるか、大事な瀬戸際にあるもんですから、自分のことにばっかり眼エくらんで、あんたの感情尊重する余裕失うてました。何も悪意あってあんなこというたんやありませんから、さっきのことは水に流して下さい」いいますよって、「それをわざわざいいに来なさったんですか」いいますと、「はあ、そうです、外い出てから考えてみたら、自分が悪かったいうこと分りましたのんで、何や知らん気イ済まんもんですから<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まりに来ました」いうて、「それは御丁寧なことです」いうてやっても、「はあ、……」いうたなり、まだモジモジと腰かけて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な作り笑いして、「実はあのう、こうしてこんなことをお願いに来たりお<ruby><rb>詫</rb><rt>わ</rt></ruby>びに上ったりしますのんも、よくよく苦しい立場に置かれて思案に余った結果やのんですが、どうぞ僕のこの、<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>ない、<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>る瀬ない、泣くに泣けん胸の中を推量して下さい。それさい察してもらえたらさっきの書付お貸ししてもよろしいのんです」いいますのんで、「察してくれいうて、どんな工合に察したらええのんですか」いいましたら、「正直なとこ、僕は何より、あんたが園子さんを離縁しなさるようになるのんを恐れるのんです。そないなったら園子さんヤケ起してますます邪魔するさかい、光子と僕が結婚する望みなおのことないようになってしまう。僕かてあんたがめったにそんなことしなされへん思いますけど、どない考えても心配やのんは、園子さんが光子連れ出して逃げる場合です、何遍も何遍も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くどい</span>ようですが、よっぽど監督厳重にして下さらんと、きっと近いうちに逃げるにきまってますのんで、一遍そんなことあったら、たといあんたが心のうちでは園子さん<ruby><rb>赦</rb><rt>ゆる</rt></ruby>してやろ思いなさっても、世間の手前そうも出来んようになるかも分らん。それ考えたら僕は危険がもう眼の前い迫ってる気イして、夜も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おちおち</span>寝られへんのんです。」――そないいうて、「どうぞ、どうぞ、お願いします」と、額をテーブルい<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>りつけるようにして、「そういう訳ですから、自分の都合のええことばっかりいう勝手な奴やとお思いになりますやろけど、僕の窮境察して下さって、これから後、どんな事あっても園子さん逃がさんように責任持って監督する、そいでもまさか<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り着けとく訳にも行けしませんさかい、逃げられることないとは限りませんけど、そないなっても追いかけて行ってきっと家い引き戻すいうこと約束して下さい。それさい『うん』いうて下さったらこの書付お預けします」いうて、「今更こんなこと念押さんかて、あんたは園子さん非常に愛してなさる、決して離縁しなさらんことはよう分ってるのんですが、それを一と言あんた御自身の口から聞かして欲しいのんです。あんたかて僕を哀れんで下さったら、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中でちゃんときまってるこというて下さってもええやありませんか。」――夫はそれ聞いてるうちに、つくづくこの男イヤ味な<ruby><rb>奴</rb><rt>や</rt></ruby>ッちゃ、初めからもっと素直に、人の感情害さんようにいえるもんを、わざとほじくり返すような余計なこというて、顔色見い見い態度いろいろに変えたりして、何ちゅう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な男やろう、これなら女に好かれるはずないよって、光子さんかて<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になんなさったかも知れん、よっぽど損な性質に生れついた人間や。そない思たら今度はほんまに可哀そうになって来て、「そしたらあんたも、この書付将来明るみい出すようなことせんいうて誓うてくれますか、そして僕が必要と認めるあいだ保管さしといてくれますか、それ承知なら、僕もあんたの条件容れてもよろしいです」いうたら、「この書付は、そこにも書いてある通り双方合意の上でないと人に見せられんようになってるのんですが、既に園子さんの方に背信行為あったと認めますのんで、僕があんた方困らしてやろいう気イあったら、これ種にしてどんな事でも出来んことあれしません。けど僕そんな<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>する人間でないことは、これわざわざあんたのとこい持って来てお預けするのでも分るやありませんか。なあに、相手に誠意なかったら何ぼこんなもん書かしても<ruby><rb>反古</rb><rt>ほうぐ</rt></ruby>と同じですよって、お役に立つのんならどうぞ持って行って<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>て下さい。僕の方はただ、さっきの二カ条さい約束して下されば満足やのんです」いいますさかい、そんならそれと、何で初めからいわんのんやろ思いながら、「そいでは確かにお預りします」いうて受け取ろとしますと、「ちょっと待って下さい」いうて、「<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ恐縮ですが、後日のために一と筆預かり証文書いてもらえませんやろか」いうのんやそうです。それも承知しましたいうて、「右<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>ニ御預リ致候也」と書いてやりましたら、「その後いもう一と筆書き足して下さい」いうのんで、「何を書くのんです」いうたら、「下名ハ右証書ヲ保管中左ノ条件ヲ<ruby><rb>遵守</rb><rt>じゅんしゅ</rt></ruby>スルコトヲ誓ウ、一、下名ハ下名ノ妻ガ妻タル者ノ行為ニ<ruby><rb>悖</rb><rt>もと</rt></ruby>ルコトナキヨウ責任ヲ持ッテ監督ス、二、下名ハ如何ナル場合ニオイテモ決シテ妻ヲ離縁セズ、三、下名ハ所有主ヨリ請求サレタル時ハ何時ニテモ保管中ノ証書ヲ提示シ、モシクハ返却スベキ義務アルモノトス、四、下名ガ保管中ノ証書ヲ紛失シタルトキハ、何ラカ他ニ所有主ヲ満足セシムル保証ヲ与エザル限リ、第一条及ビ第二条ニ規定シタル義務ヨリ解除セラルルコトナシ、――」それを一遍にすらすらいうのんと<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>て、一つ書いてしまうとまた考えて、「あ、もう一と筆願います」いうて、だんだんそんな<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に書き足さすのんで、何や、馬鹿々々しい、三百<ruby><rb>代言</rb><rt>だいげん</rt></ruby>みたいなこという奴や思て、面白半分に好きなようなこといわして、その通り書いてやって、「ではこの後い<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し<ruby><rb>書</rb><rt>が</rt></ruby>きを一つ入れますで。――但シ、下名ノ保管スル証書ガ虚構ノ事実ニ<ruby><rb>基</rb><rt>もとづ</rt></ruby>ケルモノナル時ハ<ruby><rb>凡</rb><rt>す</rt></ruby>ベテノ約束ヲ無効トス、――なあ、こない書いといても差支いあれしませんやろ？」いうて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>としたらしゅう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どぎまぎ</span>してる様子でしてんけど、さっさと構わんと書いてしもて渡してやったら、急にまた未練出たように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>しながら、そいでも仕方なしに書付置いて行きましてんと。夫はそこまで一と息に話して来て、「どうや、この書付お前書いたのんに違いないのんか。お前の方にもこれと同じもん行ってるのんなら出して見なさい」いいながら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と返答待ってますのんで、私は黙って立ち上って、鍵のかかってる<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだ</rt></ruby>し<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けて、そこに隠してあったもう一通の方持って来て、無言のままテーブルの上い置きましてん。

## その二十七

「ふーん、これある以上はこの書付ニセ物やないのんやなあ？」そないいわれても、やっぱり黙って<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて見せますと、夫は私がどんな気持でいるのんか見当つかんもんですさかい、疑がい深そうに眼エぱちぱちさして、「そしたらこの証書に書いたあることみんなほんまの事実やのんか」いうのんです。「そら、ほんまのこともあるねんけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>のこともあるねん。」――私はさっき夫の話聞きながら、もうこないなったら隠し立てしたかてしょうがない、いっそ綿貫の計略の裏<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いて、自分に都合ええことも悪いことも、何でも彼でも残らず<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ッちゃけて、あとは成り行きに任してやろ、ひょッとしたら案じるより生むが<ruby><rb>易</rb><rt>やす</rt></ruby>うて、どんなうまいことあるかも分れへんと、すっくり腹きめてましたのんで、先ず第一に綿貫の秘密<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっぱ</span>抜いてやって、そやさかい光子さん妊娠してはるいうのん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>やいうこと、さっき夫が会うた時はお腹にいろいろなもん詰めてなさったのんやいうこと、あの笠屋町の家にしたかて、常時<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>にいなさるのんでも何でもないこと、この証文書かされた時は綿貫に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span><ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>められて、脅迫しられたのんやいうこと、自分が<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>されてたことから夫欺してたことまで、なんでも二時間ぐらいかかって<ruby><rb>一切合財</rb><rt>いっさいがっさい</rt></ruby>話してやりましたら、「ふん、ふん」いうて、ときどき<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>め<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>つきながらしまいまで聞いてしもて、「そしたらお前の今いうたことちょっとも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>ないねんなあ？　綿貫いう男にそんな秘密あること確かやねんなあ？」いうて、「ほんまいうたら、自分の方にもちゃんと調べ届いてる」いうのんです。それが、夫が綿貫に会うたのんは四、五日前のことですのんに、そいから今日まで知らん顔して事件伏せといたいうのんは、何や綿貫いう奴の素振り怪しい、何ぞもっと深い訳あるのんやないかいう気イしたのんで、私に<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかる前に<ruby><rb>一往</rb><rt>いちおう</rt></ruby>取り調べてやろ思て秘密探偵に頼んだとこが、そんな商売大阪にかって<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>あれしませんさかい、こないだ光子さんが頼みなさったのんと同じとこい行ってしもたのんで、「その人なら大概のこと分ってます、前に調べたことあります」いうで、その場アで直きに答えてくれた。そいで綿貫が<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねて来た日の夕方には、もう一と通り種上ってしもてたのんですが、夫はあんまり意外やのんで同名異人の間違いやないか知らん思いましてんけど、探偵の方には光子さんとの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いきさつ</span>まで分ってて疑がう余地あれしませんし、……そないなって来ると、今度は光子さん妊娠してなさるいうことや、笠屋町の家のことや、私と光子さんとの関係や、なんとも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちんことだらけですよって、また改めて光子さんの方調べさした。その報告の届いたのん<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>のことで、そいでも夫はまだ半信半疑でしたさかい、自分で様子見て来てやろ思てさっき不意に笠屋町<ruby><rb>訪</rb><rt>た</rt></ruby>ンねてやったいうのんです。「そしたらあの時、お腹に物詰めてはったこと分ってたん？」私はわざと打ち解けた調子でそないいうてやりましたけど、夫はそれには答えんと、「僕はお前の今日の態度いつもより柔順で正直なこと認める。けどその正直さは過去の罪悪後悔してるためやのんかどうか、それハッキリいうて見なさい」いいますねん。「お前かて自分の過去の行いが、どんなに道に<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れてたかいわんかて分ってるやろ。僕もそんな不愉快なこと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほぜくり</span>返す気イないねんよって、こいから後、本気で罪の<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>いする決心あるかないか、それ聞かしてくれたらええ。どうせ綿貫との約束やかい<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に守る必要もないねんけど、とにかく僕はお前離縁せんいうことあの男の前で誓うた。それに考えてみたら僕自身にも手落ちあった。夫としての監督<ruby><rb>怠</rb><rt>おこた</rt></ruby>ってたいう綿貫のいいぐさにも一往<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>ないことないし、光子さんの家の方から苦情申し込まれたら、お前より先に僕手エついて<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まらんならん思てるぐらいやし、こんな事になったのんは夫婦共同の責任みたいに感じてる。第一新聞にでも出ることあったら、何としてお前の親たちに<ruby><rb>言訳</rb><rt>いいわけ</rt></ruby>しょう。それも普通の意味での恋愛やとか三角関係やとかいうのんやったら、まだ話しよも同情のしよもあるけど、この証文に書いたあるようなこと、誰が読んだかて気違いとより思エへんで。ま、そない思うのん<ruby><rb>身贔屓</rb><rt>みびいき</rt></ruby>かも分れへんが、お前のいうのん聞いてみたらもともと綿貫いう奴から起ったことで、ほんまに悪いのん<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の男一人や。お前かて光子さんかてあんな男に係り合わなんだら、まさかこんなことにもならなんだやろし、徳光さんの家かて、それ分ったらどない思やはるやろ。僕今まで光子さん悪いのんや、あの<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>不良少女やよってお前にロクでもない感化及ぼすのんや思ててんけど、親の身イになったら綿貫いう男八つ裂きにしても飽き足らん思やはるやろ。何処い出しても恥かしない器量自慢の娘持ってて、あんな奴に見込まれるやなんて、僕とこよりも一つ不仕合わせや。……」夫は私の激しやすい性質に逆ろうたらいかん思てますのんで、理性に訴えるより感情的に動かすよう努めてて、それが一種の手エやいうこと見え透いてますねんけど、親のことやかい持ち出されて、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に光子さんのこと、そないに<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>らしゅういわれましたら、自分の胸に思てることと一緒やのんで、急に悲しいになって来て、眼エに一杯涙溜め溜め聞いてますと、「なあそやないか？」と夫は涙で光ってる<ruby><rb>頬</rb><rt>ほ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span><ruby><rb>視詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めながら、「泣いてばっかりいてても分れへんさかい、よう分別して、今度こそ最後の、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>のないお前の考いうてみなさい、僕はお前がどうしても家出するいうのんなら、そら仕方ない思てる。けど、ほんまの僕の気持いうたら、憎いのんあの男だけで、お前も光子さんも可哀そうな目エに<ruby><rb>遇</rb><rt>お</rt></ruby>うたんや思てるねん。かりにお前と離別せんならんことになっても、お前が今みたいな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>つづけてたら、いつまで立ってもその『可哀そうな』いう心持残ってて、僕も長いこと苦しまんならんし、お前にしたかてまさか光子さんと結婚する訳にも行けへんやないか。僕の監督離れたかて、いつまで世間が許しとくはずないさかい、仰山の人に心配かけた上自分も恥<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いて圧制的に止めさされるか、そないならんうち自分で悟って直すようにするか、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>なとお前の心がけ次第やで。」「そんでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、……こないになったのん因果やさかい、……死んであんたに<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まります！」夫はビクリとして飛び上るような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこ</rt></ruby>しましてんけど、その時私は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わッ</span>と泣きながらテーブルに<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>してしまいましてん。……「どうせ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>、こないになったら誰にかて見放されるのん当り前やし、生きてたかて世間に顔向け出来へんさかい、……どうぞ死なして頂戴、こんな腐った人間にあんたかて未練ないやろし、……」「……誰がお前見放すいうた？　見放したもんなら意見するはずないやないか？」「そないにいうてくれはるのん有難い思いますけど、今更<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>一人ええ児になって光子さんあんなりに放ってしもたら、どんなに難儀しやはるこっちゃら、……あんたかて一番光子さん可哀そうやいやはったやないか。」「そらいうた、いうたからこそお前ら救い出そうとしてるのんや。……まあ、お聞き、お前えらい考え違いしてるで。お前みたいな意味でどんなに愛情<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げたかってちょっとも難儀<ruby><rb>救</rb><rt>すく</rt></ruby>てやることになれへんで。僕はお前のことばっかり心配してるのやあれへんで。徳光さんとこいも行て、よう訳話して一切あの男近づけんように厳重に監督して、お前との交際も遠慮してもらうように注意するのんが、僕の義務やと思てるねん。そないにしてこそ光子さんのためやないか。」「あんたみたいなことしなはったら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>より先に光子さん死にやはるし。……」「なんでや？　なんで死ぬのんや？」「なんででも死にやはるし。……今までかって死ぬ死ぬいうてはったんようようのことで止めててんもん。……そやさかい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>も一緒に死ぬわ。死んで社会に<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まるわ。」「馬鹿なこといいな！　そんなことして僕や親たちに迷惑かけて、それが何で謝罪になるねん！」

## その二十八

私は夫が何ちゅうても耳に入れんと、「いいえ、死にます、死なして<ruby><rb>頂戴</rb><rt>ちょうだい</rt></ruby>」いうてテーブルに<ruby><rb>俯伏</rb><rt>うつぶ</rt></ruby>したなり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やんちゃ</span>な<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>オみたいに泣いてましてん。もうこの場合「死ぬ」いうてやるのん一番ええ。それより外に方法ない。……私の頭の中にあるのんは、どないしたらこいから先も今までのように会うて行くこと出来るやろかと、そればっかりですのんで、正直にいうたら、夫に離縁しられるのん一番<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い。どうせ<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで知れてしもた以上、自分と光子さんとの<ruby><rb>間柄</rb><rt>あいだがら</rt></ruby>納得さして、それ承認してくれたら、自分は夫大事にする、きっと夫婦仲も円満に行く、綿貫の奴どんな妨害したところで、証拠の書付こっちに取ってしもたあるし、あんな男のいうことやったら信用するもんないやろし、たとい光子さん<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>ぞい行きやはっても、ちゃんとした家庭の奥様同士どないに仲<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>うしてたかて誰が何ちゅうもんあるやろ。前とちょっとも変ったことないばっかりか、前よりしっくりと行くのんやし、むやみに事荒立てるよりもその方が何ぼ<ruby><rb>優</rb><rt>ま</rt></ruby>しか分れへん。夫は私に無鉄砲な事しられたら、第一に心配やのんで、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>の中では私以上に離縁恐れてて、<ruby><rb>事勿</rb><rt>ことなか</rt></ruby>れ主義に傾いてることよう分ってますさかい、「そないに束縛するのんならほんまに家出してやるぞ」いうとこ見せて、そいからそろそろ注文持ち出して、――と、私はあらかた思案をきめて、二日かかっても三日かかってもきっとしまいにはいうこと聴かしてやるつもりで、なるべく反感挑発せんように、何いわれてもただ<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいに無言のうちに涙ぐみながら、堅い決心隠してるみたいに割りと落ち着いてましたのんで、それが夫にはなお気味悪うて、その晩はとうど夜の明けるまで一睡もせんと<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>に着いてて、便所いまで一緒に来るのんです。そいで明くる日は一日事務所休んでしもて、御飯も二階に運ばすようにして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>み合いしたなり、ときどき顔色うかごうては、「こないしてたら体つづけへんさかい、一と寝して頭休めてから、ゆっくり考え直して御覧」とか、「とにかく死ぬやの家出するやのいうこと、思い止まるいう約束してくれ」とかいいますねんけど、私は黙って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いやいや</span>して見せるばっかりで、心のうちでは、此処まで来たらもう大丈夫や思てましてん。ところがそのまた明くる日の朝、夫はどうしても一時間か二時間事務所い出んならん用あるのんで、留守の間は絶対に外い出エへんし、電話もかけへんいうこと誓うか、それイヤやったら大阪い連れて行くいいますよって、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>かてあんた一人で出したら心配やさかい附いて行きます」いいましたら、「何が心配やのんや」いいますのんで、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>に内証で徳光さんとこいいいつけ口でもしに行かれたら、それこそ生きてられへん」いいますと、「僕かってそんな、お前に納得させへんうちに無断で不意討ち喰わすようなこと絶対にせエへん。僕がそれ<ruby><rb>誓</rb><rt>ちこ</rt></ruby>たらお前も誓うてくれるか」いいますねん。そいで私も、「あんたさい意地の悪いことせエへんいうのんなら、留守のあいだぐらい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と待ってますさかい、安心して仕事して頂戴。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>もその間アに一と休みしますわ」いうて、夫出してやりましたのんが九時頃のことで、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く寝台に横になってましてんけど、妙に興奮してしもてて寝られるどこやあれしません。それに夫から、大阪に着いたら直ぐ電話かかって、そいから三十分置きぐらいにチョイチョイかかって来ますさかい、何や知らん気分落ち着かんと、部屋の中往ったり来たりしながらいろいろなこと考えましたら、そのうちにふっと思いついたいうのんは、毎日々々こんな工合に<ruby><rb>根競</rb><rt>こんくら</rt></ruby>べしてたら、綿貫がどないな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わるさ</span>せんとも限らんし、光子さんかて、一昨日あんなり別れてしもてどない思てるか、昨日かて一日待ってはったやろ。どうせ口先で「死ぬ、死ぬ」いうたぐらいでは<ruby><rb>威嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>し<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けへんさかい、いっそ<ruby><rb>早</rb><rt>は</rt></ruby>よ<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>明くように、それもあんまりえらい騒ぎにならんように、奈良とか京都とか、何処ぞ近いとこへ逃げたらどやろ。そいでお梅どん頼んで、わざとビックリしたみたいに夫のとこへ<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け込んでもろて、「今お宅の奥さんと家の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんと何処そこい逃げはりました。家い知れたらえらいことになりますさかい早よ<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえとくなはれ」いうて、もうちょっとで死ぬいうとこへ夫連れて来てもらう。……それやったら、今日置いたら機会あれへん。……と、そない思いましてんけど、外い出る訳に行けしませんさかい、「あのなあ、<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しい話会うてからするよって、大急ぎでちょっと家まで来てほしい」いうて電話で光子さん呼んどいて、「旦那さんにいうたらいかんで」と、<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>に口止めしといて待ってましたら、そいから二十分ぐらいして来やはりましてん。

電話かかって来るうちは夫大阪にいるちゅうこと確かやのんで、かいって安心ですねんけど、そいでも不意に帰って来たら裏口から出てもらお思て、光子さんの日傘と<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>庭の方い廻しといて、逃げる時の用心に下の座敷で会うたのんですが、光子さんは初めから心配そうな青い顔して、昨日一日見なんだ間にえらい<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れてなさって、私の話聞きなさるともう涙ぐみながら、「そしたらあれから姉ちゃんの方にもそんなことあってんなあ」いいなさって、自分もあの日イの夕方から昨日にかけてさんざん綿貫にいじめられた。綿貫のいうのんには、「あんたと姉さんとグルになって僕<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>そうとしてるさかい、僕の方もその裏<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いてこないだ今橋の事務所い行って、姉さんのことみんな柿内氏に話して来てやった。そやさかい笠屋町い様子探りに来たのんや。あないして姉さん連れて行かれてしもたら、もうなんぼ待ってたかて来るはずあれへん。」

## その二十九

そないいうて綿貫は、「僕と姉ちゃんと証文換えことしてたこと、あんたかて薄々知ってたやろが、もうあんなもん<ruby><rb>反古</rb><rt>ほうぐ</rt></ruby>になったさかい、証拠のために今橋い預けて来た。ここに預り証書ある」いうて、<ruby><rb>懐</rb><rt>ほところ</rt></ruby>から出して見せて、「そら、この通り書いたあるやろ、――下名ハ下名ノ妻ガ妻タル者ノ行為ニ<ruby><rb>悖</rb><rt>もと</rt></ruby>ルコトナキヨウ――」と一々箇条書き読んで聞かして、それも自分の都合悪い但し書きのとこ手エで隠してて、「柿内氏からこの書付取った以上は、もう姉ちゃんの方心配ないよって、あんたも僕に証文入れなさい」いいながら、また懐からその文案みたいなもん出して見せますねんと。それ読んでみると、光子さんと綿貫とは永久に一心同体やとか、死を以て綿貫に従わないかんやとか、その約束に<ruby><rb>背</rb><rt>そむ</rt></ruby>いたらこないこないしられるやとか、何ぼでも虫のええこと書いたあって、「これでよかったら此処い名ア書いて判<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>しなさい」いうのんですけど、「そんなことするのんイヤや」いうて断りなさって、「あんたみたいに何ぞいうたら証文書け証文書けいう人あれへん、そないしてはそれ種に<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>て人オドスつもりやねんやろ」いいなさったら、「あんたさい心変りせエへなんだら、恐がる道理ないやないか」いうて無理にもペン持たそとするのんで、「お金の借り貸しやあるまいし、証文で人の心<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>っとくこと出来る思てるのんやろか。何ぞ外に目的あるねんやろ。」「あんたこそ判つくのんイヤやなんて、心変りする気イやねんやろ。」「ふん、そら、なんぼ判ついたかて先のことは分れへん」いうてやんなさったら、「そない僕に<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>ついたら今に難儀することあるで。あんたが証文書かんかて、オドスつもりやったら此処に何ぼでも材料あるねん」いいながら、紙入れの中から小さい写真出して見せるのんやそうです。それがビックリしたことには、私の夫が取り上げてしもたあの誓約書の写しやのんで、こないだ今橋い持って来る前に、ちゃんと写真に映しといた、柿内氏はもうあの書付返さんつもりかも知れんけど、そんな手エに乗るような僕やあれへん、この写真と、預り証と、この二つ新聞記者にでも見せたら、売ってくれいうて飛び着いて来るやろ、僕かて必要に迫られたら何するや分らん。――そないいうて、何でも僕のいうこと聴け、聴かなんだらあんたの前途真っ暗にしてやるいいますよって、「それ見なさい、その通りあんた卑劣やないか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かて覚悟してるさかい、それだけ材料あるねんやったら、この上人イジメたりせんと、新聞にでも何にでも売んなさい」いいなさって、そんなり<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>けんか</rt></ruby>別れになった。そいであんまり弱いとこ見せたらいかんよって、今日は笠屋町いも行かんといて、どないするか様子見てやろ思てなさったら、私のとこから電話やったんで、飛び立つ思いで顔見に来たいいなさいますねん。

まさか綿貫かて、いよいよあかんいう見きわめも付かんと自分の損にもなるようなことせエへんやろけど、こないなって来たらなおのこと夫味方に入れるのん第一やいうのんで、そいから私の考えてた計略実行することになりましたのんですが、光子さんは「<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>ぞ近いとこへ逃げるのんやったら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span><ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>の浜寺の別荘がええし」いいなさって、<ruby><rb>彼処</rb><rt>あっこ</rt></ruby>は今年留守番の夫婦<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>てるだけやさかい、海水浴して来るいうてお梅どん連れて行くのんなら、四日や五日泊ってたかてちょっとも家の方心配ない。そいで私の方は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッと此処の家抜けて出て、<ruby><rb>難波</rb><rt>なんば</rt></ruby>駅で光子さん待ち合わして、三人で浜寺い着く時分には、夫は私のいんようになったのん気イ付いて、何は<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いても光子さんの家い電話かけるにきまったある。そしたら直ぐ<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>分って浜寺の方いまたかけて来る。その時お梅どん電話口い出てもろて、「今お宅の奥様と家の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんと薬飲んで<ruby><rb>昏睡</rb><rt>こんすい</rt></ruby>してはる。ちゃんと書き置きまで書いたあるのんで、覚悟の自殺にきまってます。今本宅とあんたさんとこい電話かけよとしてたところです。直きに来とくなはれ」いうたら、きっと<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて飛んで来るやろ。――このお梅どんの口上も大役ですねんけど、それより昏睡して見せるちゅうこと、なんぼ狂言にしたかてやっぱりほんまにそんなもん飲まんなりませんのんで、お医者はんが見てもこれなら生命に<ruby><rb>別</rb><rt>べ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>条</rb><rt>ちょう</rt></ruby>ない、二、三日安静にしといたらええいわれる程度にするのんには、どれぐらい飲んだもんやら分量分れしませんねん。けど常時<ruby><rb>使</rb><rt>つこ</rt></ruby>てるバイエルの薬やったら、そない<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いことあれしませんし「小ッちゃい方のタブレットやったら一ト箱飲んでも死ねへんいうし。そやさかいあれもうちょっと控え目エに飲んだら大丈夫やし。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>姉ちゃんと一緒やったら間違うて死んだかて構うことあれへん」いいなさるのんで、「ふん、そやとも、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かてかめへん」いいましてん。――そいで夫が<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け着けて来たら、「まだこの通り<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>してはりますけど、お医者はん絶対に心配ないいやはりますし、もう大分正気づいて来やはりまして、ときどき眼エ<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いたりしやはりますのんで、ほんまは本宅の方いお知らせせないきまへんねんけど、そしたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃん<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られはりますし、私かてどない<ruby><rb>御寮人</rb><rt>ごりょうにん</rt></ruby>さんに叱られまッか分れしまへんさかい、電話かけんと置きましたんだす。<ruby><rb>何卒</rb><rt>どうぞ</rt></ruby>あんたさんもそのお積りで内証にしといとくなはれ。どうせ今晩帰りやはる訳に行けしまへんよって、奥様御加減ようなりやはるまで、此処い遊びに来てなはる体裁にしてゆっくり<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>してとくなはれ」と、そこはお梅どんに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span>いわして、二日でも三日でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じい</span>ッとしたなりで、寝たふりしながら<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>いうたり、眼エ<ruby><rb>覚</rb><rt>さ</rt></ruby>まして泣いて見せたり、そのあいだにはお梅どんからも「お二人さんの命助ける思て願い聴いたげとくなはれ」いう<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>に口添えしてもろたら、なんぼ夫かてしョことなしに承知するやろ。「そしたらそれ<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>にしょう？」「<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>いうたかて、こないに監禁同様にしられてたら、今日より外に機会あれへん。」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>かて<ruby><rb>早</rb><rt>は</rt></ruby>よしてもらわな、また綿貫が何の彼のいうて来るし。」――と、そんな相談してるうちにも何遍でも電話かかって来ますのんで、これやったらなかなか逃げる<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>ないし、逃げたとこで浜寺い行かん間に分ってしまう、逃げてから<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえられるまで何ぼ少うても二、三時間の余裕なかったら都合わるい。最初私は、「夕方まで昼寝するさかい起したらあかん」いいつけて、夫にも電話で断っといて、寝室のドーア中から<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>かけて、窓から飛んで降りて逃げよ、と、そない考えましてんけど、外側が洋館の白壁になってて足がかりもあれしませんし、前の浜には<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>海水浴の人<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>てますし、そんな人目につくようなこと<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>しませんよって、また相談し直して、いっそのこと此処二、三日<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいにしてて、夫や家の者に油断さしてから、海い泳ぎに行くように見せて逃げ出してやろいうことになりましてん。そいでそないするのんには、二、三日して気イ許すようになった時分、「毎日家の中に閉じ<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ってたら病人みたいになるさかい、海い<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ることぐらい許して頂戴。海水服一つ着たなりで、何処いも行かんと前の浜にいますよって」と、夫が出かける時に断っといて、ほんまに海水服着ただけで海岸い出る。同時にお梅どん光子さんの着物持って、浜で待ってて、直きに着換えさす。着物は海水服の上からスッポリ<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>れるようなワンピースの洋服にして、帽子もなるだけ<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>の下った顔の隠れるようなのんがええ。浜には人がウヨウヨしてて、かいって気イ付けへんやろけど、洋服やったらこの頃<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>に着たことないのんで、<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>誰に見られても私やいうこと分れへんやろ。待ち合わす時刻は朝の十時から十二時までの間、――その時分やったら夫きっと大阪い行てる。日イは、雨さい降らなんだら今日から三日目、その日イいかなんだら四日目も五日目も、毎日来ててもらう。と、そんな相談してましたら、またええ<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>出て来て、光子さんの方は二日目の晩あたりに一と足先浜寺い行てる。そないすると夫から問い合わせの電話かかったとき、「光子は昨日から別荘の方い行ってます」と、本宅の方でもいうやろし、光子さんの方いかかって来ても、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>こっちい来てること姉ちゃん知りゃはれしませんさかい。来やはるはずあれしません」いうて、自身で電話口い出てやんなさったら、これは遠い所い逃げたんやない、海で死んだのんかも分れへん思て、何より先に海の方捜索するやろ。そいでええ加減たった頃に、「実は今さっき奥様お見えになりまして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うっかり</span>してる間アにえらい事になりまして、……」とお梅どんから知らしてやる、この計略で時間計算してみましたら、家の者ら気イ付くまでに一時間半か二時間はかかる。そいから大阪い知らせ行って、問い合わせの電話かけたりして、夫<ruby><rb>香櫨園</rb><rt>こうろえん</rt></ruby>い帰って来るのん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざっと</span>一時間、海捜したり近所<ruby><rb>尋</rb><rt>た</rt></ruby>ンねたりするのん一、二時間、お梅どんから知らして来て香櫨園から浜寺い<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け付けるまでが一時間二、三十分、――都合五、六時間余裕あるのんで、それやったらちゃんとその<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>アに支度出来る。ただ気の毒やのんはお梅どんで、前の日イから光子さんに附いて浜寺い行ってて、<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>から十時までにわざわざ香櫨園い出て来て、暑い盛りに一時間も二時間も海岸に待ってんならん。それも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょッ</span>としたら待ちぼけ<ruby><rb>喰</rb><rt>く</rt></ruby>わされて、二日も三日も来んなりません。けど「あの<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>やったらきっとしてくれるわ、そんなことするのん好きやねんし」いいなさって、何から何まで<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れのないように<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>きめて、お互に「巧いことやって頂戴」いうて、光子さん帰って行きなさったのん一時頃でしたけど、それと<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど入れ違いみたいに夫戻って来ましたのんで、ほんまにこれやったら今日でのうてよかった思いましてん。

## その三十

はあ、……逃げたのんはそいからやっぱり三日目のことで、<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>の都合も時間の工合もすっくり予定の計画通り行きましたのんで、私は十時ちょっと過ぎに海水服着て海岸い出て、お梅どん見ると眼エで合図しいしい黙って浜七、八丁走って、そこで<ruby><rb>更紗</rb><rt>サラサ</rt></ruby>模様のヴォイルの服頭から<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、お金の十円<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってる<ruby><rb>手提</rb><rt>てさ</rt></ruby>げ受け取って、パラソルで顔隠しながら、お梅どんとは別々に急ぎ足で国道い出ましたら、運よくタクシー来ましたのんで、それに乗って一と息に<ruby><rb>難波</rb><rt>なんば</rt></ruby>まで行きましてん。そいですさかい十一時半前にはもう別荘い着いてしもてて、お梅どんの方が三十分も<ruby><rb>後</rb><rt>おく</rt></ruby>れてやって来て、「えらい<ruby><rb>早</rb><rt>よ</rt></ruby>よおましたなあ。ほんまにこない巧い工合に行たことあれしません。さあ、さあ、今の間アにしやはらんと、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>してはったら電話かかって来まっせ」いうて、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>から大分離れた庭の中に建ってる「何とか<ruby><rb>庵</rb><rt>あん</rt></ruby>」たらいう<ruby><rb>葛屋葺</rb><rt>くずやぶ</rt></ruby>きの家の方い二人追い立てるようにして、そこい<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったらもうちゃんと<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に薬やら水やら用意してあるのんで、私は洋服<ruby><rb>浴衣</rb><rt>ゆかた</rt></ruby>に着換えて差向いにすわってみましたもんの、これがこの世の見納めやないか、ほんまに死ぬのんやないやろか、「もし間違うて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>死んだら光ちゃん死んでくれるなあ？」「姉ちゃんかてそうやわなあ？」と、互に抱き合うて涙流すばっかりでしてん。その時光子さんは両親に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てたのんと、私の夫に宛てたのんと、二通の書き置き出して見せなさって、「これ読んでみて頂戴」いいなさるのんで、私も書いといたのん出して互に読み比べてみましてんけど、それかてほんまの書き置きのつもりで、<ruby><rb>殊</rb><rt>こと</rt></ruby>に私の夫に宛てたある光子さんの手紙には、「あんたの大事な奥様一緒に連れて行くのん何とも申訳ありません。これも運命や思てあきらめて下さい」と、夫が読んだら恨みも忘れて心動かすに違いないように書いたありましたさかい、それ眼エの前い置いて見る自分らまでが本気にさせられて、もうどないしても死んで行くもんとしか思われしません。そないして一時間ぐらいたってしまいましたら、パタパタと<ruby><rb>庭下駄</rb><rt>にわげた</rt></ruby>の音してお梅どん<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け込んで来て、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃん。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃん！　今やっと今橋から電話だす。まだだしたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とう</span>ちゃんちょっと出とくなはれ」いうのんで、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて飛んで行きなさって、その電話済んでしまうと、「これで何も彼も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あんじょう</span>行った。さあ、もう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐずぐず</span>してられへん」いうて、そいからもう一度別れ惜しんで、互にぶるぶる<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>てる手エ振り合いながら薬飲みましてん。

完全に意識失うてたのんは半日ぐらいの間らしいて、その晩の八時頃にはときどき眼エ<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いてあたりキョロキョロ見廻したりし出したいうこと、あとで聞きましたのんですが、私自身ではその後二、三日ちゅうもん一つもハッキリした記憶ないのんで、……何やこう、頭<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えつけられるような、胸苦しい、ムカムカ吐き気するような感覚が、枕もとに据わってる夫の姿と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごちゃごちゃ</span>に幻影みたいに眼エに映ってて、つまりその間が数限りもない夢の連続になってますねん。私と、夫と、光子さんと、お梅どんと、四人が何処ぞい旅に出かけて、宿屋の一と間に<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby><ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>って寝てて、それが六畳ぐらいの狭い座敷で、同じ蚊帳の中に、私と光子さん中に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んで両端に夫とお梅どん寝てる。……そんな光景が夢の場面の一つのように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>頭に残ってますねんけど、部屋の様子から考えたら、ほんまの事が夢に交り込んだのんに違いないのんで、これもあとで聞きましたのんに、夜<ruby><rb>遅</rb><rt>おそ</rt></ruby>うになってから私の<ruby><rb>布団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>隣りの部屋い引っ張って行きましたら、光子さん眼エ覚ましなさって、「姉ちゃん、姉ちゃん」と<ruby><rb>譫言</rb><rt>うわごと</rt></ruby>みたいにいいっづけて、「姉ちゃんいてへん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>の姉ちゃん返して！　返して！」いうてポロポロ涙こぼしなさるのんで、しョことなしにまた同じとこに寝さしたんやそうですさかい、それが夢では宿屋の座敷になってるのんですが、まだその外にもいろいろ不思議な夢あるのんで、これも宿屋みたいな<ruby><rb>所</rb><rt>とこ</rt></ruby>に私が昼寝してましたら、傍に綿貫と、光子さん小声で<ruby><rb>内証話</rb><rt>ないしょばなし</rt></ruby>してて、「姉ちゃんほんまに寝てはるねんやろか。」「眼エ覚ましたらいかん。」いうて、ヒソヒソしゃべってるのんが<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>れ<ruby><rb>切</rb><rt>ぎ</rt></ruby>れに聞えますのんを、私は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うとうと</span>しながら聞いてて、此処は一体何処やねんやろ！　きっといつもの笠屋町の家に違いない、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby><ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>い背中向けて寝てるのんで、二人の様子見えへんけど、見えんかてもう分ってる。自分はやっぱり<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>されたんや、自分にだけ薬飲まして、こないな目エに<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>わしといて、その間アに光子さん綿貫呼びやはったんや、エエ、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい、口惜しい、今<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>び起きて二人の面皮<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いでやろ！　と、そない思うのんですけど、起き上ろとしても体の自由利けしません。声出してやろ思て一所懸命になればなるほど、舌<ruby><rb>硬張</rb><rt>こわば</rt></ruby>って動けしませんし、眼エあくことすら<ruby><rb>出来</rb><rt>でけ</rt></ruby>しませんので、エエ、腹立つ、どないしてやろ思てる間アにまたいつやら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うとうと</span>してしもて、……そいでも話声まだ長いこと聞えてて、その男の方の声が、おかしいことに綿貫でのうて夫の声に変ってしもてて、……こないなとこになんで夫いるねんやろ？　夫あないに光子さんと親しいのんか知らん！「姉ちゃん怒りやはりますやろか？」「なあに、園子かてその方が本望ですやろ」「そしたら三人仲好うして行きまひょなあ」と、――そんな<ruby><rb>工合</rb><rt>ぐあい</rt></ruby>にポツリポツリ耳に<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったのんが、今考えてもよう分れしませんねんけど、二人の間でほんまに話してたもんやのか、それとも夢の中ながら想像で事実補うてたのんか、……それがあのう、……こいだけやったらみんな自分の心の迷いで根エも葉アもない幻見たんや、そんな事実あろうはずないと打ち消してしまいますねんけど、その外にもまだ忘れることの出来ん場面覚えてますし、……それも初めは<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>らしい夢や思てましたのんが、薬さめて意識ハッキリして来るにつれて、外の夢だんだん消えてしまいますのんに、その場面だけかいって頭い焼き付いてて、疑がう余地ないようになって来ましてん。いったい薬の分量は同じように飲んだのんですけど、私の方が長いあいだ<ruby><rb>昏睡</rb><rt>こんすい</rt></ruby>してたいうのんは、光子さんは十一時ごろに朝昼兼帯の御飯たべはってお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>大きかったのんに、私は朝御飯も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ろくさま</span>たべんと飛び出してえらい活動しましたさかい、胃袋<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>ッぽになってて薬完全に吸収されたのんやそうで、私の方はまだ夢うつつの境迷うてた時分、光子さんは飲んだもんみんな吐いてしまやはったお蔭で、よっぽど前から意識<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>してなさったらしいのです。そいでも後になってからの話に、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>知らん間アに、傍にいる人を姉ちゃんと間違うたのんや」と、そない自分でいやはりますのんで、それやったら罪は夫の方にあることになるのんですが、夫の自白聞きましたら、二日目の昼過ぎお梅どん<ruby><rb>母家</rb><rt>おもや</rt></ruby>の方い行ってて、夫は私の寝顔見ながら<ruby><rb>団扇</rb><rt>うちわ</rt></ruby>で<ruby><rb>蝿</rb><rt>はい</rt></ruby>追うてた、そしたら光子さんが<ruby><rb>寝惚</rb><rt>ねぼ</rt></ruby>けたように「姉ちゃん」いいながら私の方い寄って<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>うとしなさるのんで、眼エ覚まさしたらいかん思て、間い這入って光子さんの体抱き上げるようにして引き離して、枕<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>しなさったのんを直したげたり、掛け布団掛けたげたり、……そんな風にして、寝てはるとばっかり思い込んで油断してましたさかい、知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らず、気イ付いた時にはもうどないしても逃げること出来んようにしられてた、何せ夫ちゅうたらそないな事にかけたら経験のない、子供みたいな人ですよって、私は夫の話の方がほんまに違いない思いますねん。

## その三十一

まあ、そんなこと、どっちが先や<ruby><rb>詮議立</rb><rt>せんぎだ</rt></ruby>てしたとこで無駄ですねんけど、一ぺん間違いあってからは、私に済まん思いながら同じ<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ち繰り返してたらしいのんで、それ考えたら全然夫に責任ないともいわれしませんのんですが、私としたらその点に同情出来るいうのんは、前にもたびたびいいました通り、夫と私とは<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>合エへんのんで、私がいつも愛の相手外に求めてたように、夫にしたかて無意識のうちにそれ求めてたのんに違いあれしません。おまけに外の男みたいに芸者遊びするやとかお酒飲むやとかして、物足らなさ<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>たすちゅうこと知らん人だけに、なおのこと誘惑に陥りやすい状態にあったのんで、一旦そないなってしもたら、<ruby><rb>堰</rb><rt>せき</rt></ruby>切った水みたいに、盲目的な情熱が意志や理性の力踏みにじくって燃え上って来て、光子さんより夫の方が十倍も二十倍も夢中になってしもたのんです。そんな訳で、夫の心持の変化は大概<ruby><rb>諒解</rb><rt>りょうかい</rt></ruby>出来ますねんけど、いったい光子さんどういうつもりでいなさったのんか、そらまあ、ほんまに半分は<ruby><rb>寝惚</rb><rt>ねぼ</rt></ruby>けてなさって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほん</span>その時の出来心やったのんか、それとも或るハッキリした目的持ってなさったのんか、――つまり綿貫<ruby><rb>放</rb><rt>ほ</rt></ruby>る代りに夫とそういう風になって、私との間に<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>起さして、思うままに<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>ってやろ、――どうせ自分の崇拝者一人でも仰山寄せ着けときたい性分ですさかい、またしてもその悪い癖出しなさったのんか、そやなかったら「気イついてみたら済まんことした思てんけど、そいでもこないなった方が味方につけるのんに都合がええのんで」いうてなさったように、夫引き入れる手段やったのんか、なんせえらい複雑で裏には裏ある人の気持なかなか分れしませんけど、多分そんないろいろの動機に時の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はずみ</span>も加わったのんやろ思いますねん。ま、二人が自白しましたのんはずっと後のことですさかい、初めはそんな深いとこまで考えんと、寝ながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>「裏切られた」いう感じ持ってて、お梅どん<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>いやって来て「<ruby><rb>奥様</rb><rt>おくさん</rt></ruby>、もう安心だっせ、あんた所の旦那様何も彼も聴いてくれはりました」いうてくれた時も、嬉しいのん半分と<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいのん半分で、そない喜びもせえしませなんだのんで、二人も私に感付かれたこと薄々悟ってたらしいのんです。そいでお医者はんに「もう起きられても大丈夫です」いわれたのん三日目エの晩で、浜寺引き揚げたのんは四日目エの朝でしてんけど、その時も光子さん「姉ちゃん、もう心配せんでもええし。<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいこと明日あんたとこい行って相談しょうなあ」と、口ではそないいいながら、気イ<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めると見えて妙に態度<ruby><rb>余所々々</rb><rt>よそよそ</rt></ruby>しいて、夫の方も何や知らん光子さんと打ち合わせしたあるらしゅう、私連れて香櫨園い帰って来ますと、「用事<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>ってるさかいこいからちょっと事務所い行て来る」いうて直きに出て行って、晩の八時過ぎに戻って来てからも、「晩の御飯済まして来た」いうたなり、私に話しかけられるのん<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>がるようにしてますねん。私は夫が人<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>して平気でいられる人間でないことよう知ってますさかい、今に何とかいい出すやろ、困らされるだけ困らしてやれ思て、無理に知らん顔して、時間になったら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さッさ</span>と先い寝てしまいましたら、夫は<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>落ち着かん<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>で、十二時になっても寝付かれんらしい寝返り打って、ときどき薄眼エ<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>きながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そう</span>ッとこっち見守って寝息うかごうてるのんが、真っ暗い中でも分るのんです。そないして<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くたちましたら、「おい」いうて私の手エ取って、「どうや、気分ええのんか？　もうちょっとも頭痛いことないか？　まだ起きてるねんやったら、僕話したいことあるねん」いうて、「お前、……知ってるねんやろ？……どうぞ堪忍してくれ、運命や思て<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えてくれ。」「ああ、そんなら夢やなかってんなあ。……」「堪忍してくれ、なあ、堪忍すると一と言いうてくれ。」そないいわれても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しくしくしくしく</span>泣いてばっかりいる私を、いたわるように肩さすってくれながら、「僕かてあれ夢と思いたい。……悪夢や思て忘れてしまいたい。……けど、僕、忘れること出来んようになってしもた。僕は始めて恋するもんの心を知った。お前があないに夢中になったのん無理ないいうこと今分った。お前は僕のことパッションないないいうたけど、僕にかてパッションあったんや。なあ、僕もお前許す代り、お前かて僕許してくれるやろ？」「あんた、そないなこというて<ruby><rb>復讐</rb><rt>ふくしゅう</rt></ruby>する気イやねんなあ。今にあの人とグルになって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>独り<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼっち</span>にさそ思て、……」「馬鹿なこといいな？　僕そんな卑劣な男やない？　今になったらお前の気持かて分ったさかい、何で悲しい思いさすもんか！」自分は今日も事務所の帰りに光子さんと会うて相談して来た。私さい承知してくれたら、あとは自分が一切引き受けて、綿貫の方もちょっとも心配ないように片附けてやる。光子さんも明日は<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>い来なさるやろけど、私に会うのん<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まり悪がってなさって、「あんたから姉ちゃんに<ruby><rb>詫</rb><rt>あや</rt></ruby>まっといて頂戴」いわれて来た。と、そないにいうて、自分は綿貫みたいな不信用な男やないよって、綿貫に許したこと自分にも許してくれたらええやろいうのんですが、そら、なるほど、夫の方は人欺すようなことせんとしても、気がかりやのんは光子さんですねん。夫にいわしたら「自分は綿貫と違うよって大丈夫や」いいますねんけど、私の身イになったらその「違う」いうこと心配の種やのんで、なんせ光子さんは始めてほんまの男性ちゅうもん知んなさった、そんだけ今までより真剣になんなさるかも分れへんし、そのために私捨てなさっても、「不自然の愛より自然の愛貴い」いう立派な口実ありますし、良心の<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>も少いですやろし、……もし光子さんにそんな<ruby><rb>理窟</rb><rt>りくつ</rt></ruby>いわれたら、夫にしたかって間違うてることしなさいいう訳に行けしませんし、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょ</span>ッとしたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あッちゃこッちゃ</span>説き伏せられて、しまいには「光子さんと結婚さして欲し」いい出さんとも限れしません。「僕とお前とは誤まって夫婦になったのんや。性の合わんもんこないしてたらお互の不幸やさかい、別れた方がええ思う。」――と、いつぞそないいわれる日イ来るのやないやろか？　そしたら常時恋愛の自由口にしてながら「イヤや」いうこと出来しませんし、世間の人かて私みたいなもん離縁しられるのん当り前や思うやろ、今からそんな行末のこと考えて、取り越し苦労したとこでしョうないようなもんの、どうも私にはきっとそないなる運命みたいな気イするのんですが、そうかいうて、今の場合、夫の頼み聴かなんだら自分も明日から光子さんの顔見られんようになるのんで、「あんた信用せえへんのやないけど、何や知らん悲しい予覚して、――」いうて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しくしくしくしく</span>いつまででも泣いてますと、「そんな馬鹿なことあるもんか。そらみんなお前の妄想や。誰ぞ一人でも不幸になったら三人で死のやないか」いうて、夫も泣き出して、とうとう二人で夜が明けるまで泣き通してしまいましてん。

## その三十二

さてその明くる日から夫は光子さんの家の方の諒解運動と、綿貫の方の解決とにえらい奔走し始めたのんです。先ず第一に徳光さんとこい<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>て、お母さんに面会求めて、僕はお宅のお嬢さんの親友である園子の夫として、お嬢さんから頼まれたことある。実はお嬢さんは悪い男に付け<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>われてなさって、……と、そんな工合に切り出して、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もその男はこないこないの人間やのんで、お嬢さんの貞操は汚されてエへん、ただその男ちゅうのんが卑劣な奴で、お嬢さんがその男の種宿してなさるやとか、お嬢さんと僕の妻とが同性愛やとか、跡形もないこといい触らして、強制的に証文に判つかしたりしましたさかい、今にお宅の方いも脅迫がましいこというて来るかも分れしませんが、絶対にそんなことお取り上げになったらいきません。お嬢さんの身の潔白は誰よりも僕が知ってます。取り分け僕の妻との交際がそんな醜いもんでないことは、夫たる僕が証明します。<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いては僕も友人の立場として、御依頼のうても何とかせんならん思てた際ですから、どうぞこの問題僕に一任してもらえませんか。お嬢さんの安全僕お引き受けしますよって、たといその男何いうて来ても「今橋の事務所い行け。」いわれて、直接お会いにならんように。――と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めった</span>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>ついたことない人が、恋のためにはそないなことまでするのんですやろか、巧いこというてお母さん<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>めてしもて、そいから綿貫のとこい出かけて、結局この方はお金で<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby><ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>いたいうて、例の新聞い売るいうてた証文の写真と、<ruby><rb>種板</rb><rt>たねいた</rt></ruby>と、夫から渡したあった預かり証と、証拠になるもん全部取り返して来ましてん。それが二日か三日のあいだにバタバタと片附いてしもたのんで、なんぼ夫が一所懸命になったにしても、あの綿貫がそないやすやす手エ引いたいうのんが、私も光子さんも何や<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちんような気イして、写真の種板おこしたにしたかて複写したあるかも分れへんし、何<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らんでるかも知れん、「なんぼお金やんなさった」いいましたら、「千円いうのん五百円にさした」いうて、「なあに<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>かてカラクリの種<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こッきり</span>僕に握られてしもてて、もうこれ以上オドシ利かん思たのんで金にする気イになったのんや」と、夫は安心し切ってるのんです。そいでその時は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すっくり</span>私らの計画通りに行った形で、たった一人<ruby><rb>貧乏鬮</rb><rt>びんぼうくじ</rt></ruby><ruby><rb>抽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたのんお梅どんで、「そんなことになってたのんに、お前附いてながら主人に知らさんいう法あるもんか」いわれて、<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>出されてしもて、えらアい私ら恨んでて、――そら、まあ、あないに骨折らしときながら、<ruby><rb>其方</rb><rt>そっち</rt></ruby>の方い飛ばしり行くのん考えなんだのんは何といわれても手落ちですさかい、出て行く時にいろいろなもん買うてやったりして機嫌取りましてんけど、このお梅どんから後で意趣返しされるやなんて、夢にも思い寄りませなんでん。

夫は光子さんの家の方い、「もう御安心です」いうてやりましたのんで、お父さんわざわざ事務所にお礼に来なさるやら、お母さんも私のとこい来なさって、「どうぞどうぞ、あの通りの<ruby><rb>我</rb><rt>わ</rt></ruby>が<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>もんですさかい、ほんまの妹や思て面倒見てやっとくなはれ。家ではあの児がお宅さんいさい上ってたら安心してます。何処い行きたいいいましても、あんたさんと一緒でないと出せしません」いいなさるやら、えらい信用しられてしもて、お梅どんの代りにお咲どんいう<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅ</rt></ruby>つれて、毎日<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おおびら</span>に遊びに来やはって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>には泊ったりしなさっても、お母さん何ともいやはれしません。けどそないにして外部の関係万事都合よう行くようになりましたら、今度は内部の関係が、綿貫の時よりも一層お互に疑がい深うさされて行って、日一日と地獄の苦しみ重ねるようになったのんです。それにはいろいろ理由あるのんで、前は笠屋町いう便利なとこありましたのんに、今ではそんなとこあれしませんし、あっても一人だけ放っといて二人が外い出ることならんいいますし、そしたら結局家にいるよりしョうないのんですが、そないすると私か夫か<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>ぞが邪魔にしられるようになったり、そうでないまでも自分の方から気ィ利かさんならんようになったり、そこいさして光子さんが、いつでも出しなに「こいから香櫨園い行きます」いうて、今橋の方い知らしゃはるよって、夫は直き<ruby><rb>帰</rb><rt>かい</rt></ruby>って来る。それもお互に隠し立てせん約束やのんで、知らすのん仕方あれしませんけど、そんならそいで、もうちょっと早う朝のうちからでも来てくれはったらええのんに、大概二時か三時頃に来やはるさかい、二人ぎりでいる時間いうたら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほん</span>の何ぼもあれしません。夫にしたかて光子さんから電話かかったら用事放っといても飛んで帰って来るのんで、「そないせんかってよろしやないか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>ちょっとも話してる間アもあれへん」いいますと、「もっと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆっくり</span>してよ思てんけど、事務所の方暇やさかい帰って来た」とか、「離れて想像してる方が気が<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>める。一つ家にいてたら安心やよって、邪魔やねんやったら<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>い<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>ててもええ」とか、「お前は二人ぎりでいてる時間あるのんに、僕にはちょっともないいうこと察してくれんと困る」とか、だんだん問い詰めると、「ほんまは光ちゃん『電話かけたのんに何で<ruby><rb>早</rb><rt>は</rt></ruby>よ帰って来えへんねん！　姉ちゃんの方がよっぽど実意ある』いうて怒りやはるねん」いいますねん。いったい光子さんの焼餅ちゅうのんが、何処までが本気で何処までが<ruby><rb>手管</rb><rt>てくだ</rt></ruby>か分れしませんねんけど、それがまたいかにも気違いじみてて、たとえば私の夫のこと「あんた」いうたらもう眼エに涙<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>めはって、「今では夫婦でもないのんに、あの人のこと『あんた』いうたらいかん」いいなさって、人のいる前ではともかくも、内輪では何ぞ外に呼びようあるやろ、「孝太郎さん」とか、「孝ちゃん」とか、いうて欲し、夫にしたかて私のこと「園子」やの「お前」やのいわんと、「園子さん」いうか、「姉さん」いうかせないかん、それぐらいはまだええとして、睡眠剤と葡萄酒持って来なさって、「二人ともこれ飲んで寝なさい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>あんたらの寝ついたん見てから<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>ぬ」いうて聴きなされしません。初めは冗談か思てましたら、なかなかそやないのんで、「特別によう利く薬調合してもろて来た」いいなさって、粉薬の包二つ出して、夫と私の前い置いて、「二人とも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に対して忠実誓うねんやったら、その証拠にこれ飲みなさい」いいなさるやあれしませんか。けどこの薬に毒でも<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ってて、自分だけ永久に眠らされるのんやないか知らん？――と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はっ</span>とそんな気イ起りましたら、「飲め飲め」いいなさるほどなおのこと疑わしいになって来て、じーっと光子さんの顔<ruby><rb>視詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めてますと、夫もやっぱり同じ恐怖に襲われたらしゅう、白い粉薬手エの上に載せたまま、私の手エにある薬の色と見比べるみたいにして、光子さんの顔と私の顔とジロジロうかごうてるのんです。すると光子さんは「なんで飲めへんのん？　なんで飲めへんのん？」いうてヤキモキしなさって、「ああ分ってる、あんたら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>欺しててんなあ」と、身イふるわして泣きなさいますし、もうしョうない、殺される覚悟で飲んでやろ思て、薬の包口イ持って行きましたら、私の様子黙って眺めてた夫が「園子！」いうていきなり手エ<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、「まあ、待ってくれ！　こないなったら<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>がどうなるか運<ruby><rb>試</rb><rt>だめ</rt></ruby>しや。その薬換えことして飲もやないか」いいますのんで、「ふん、そうしょう、そんで二人とも一、二の三で一緒に飲も」と、とうどそないして飲みましてん。

## その三十三

この光子さんの計略図にあたって、夫と私とはどんなにお互に疑がい合い、<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>し合うたことですやろ。毎晩々々薬飲まされるたんびに、寝さされるのん自分だけやないか、夫は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うそ</span>の薬飲んで寝た<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>してるのん違うやろかと、そない思たら、飲んだ風して放ってしまおとしますねんけど、光子さんいうたらそんな<ruby><rb>胡麻化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>しささんように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じッ</span>と手もと<ruby><rb>視詰</rb><rt>みつ</rt></ruby>めてて、まだそんだけでも心配やのんか、しまいには「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>飲ましたげるわなあ」と、寝台と寝台の間に立ちなさって、恨み合いせんように、同時に両方の手エに薬持ちなさって、二人<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむ</rt></ruby>けに<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>さしといて、あーんと口開かして、薬入れてしまいなさると、今度はあの、病人の水飲ます<ruby><rb>嘴</rb><rt>くち</rt></ruby>の長アいガラスの<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れもんありますやろ？　あれ二つ両手に持って、そろそろと、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>が先にもならんように、同じくらいに傾けて行ってお湯飲ましなさるのんですが、「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たあん</span>と飲んだ方が利き目ある」いいなさって、あの容れもんに二遍も三遍も入れ替えては注ぎ込みなさいますねん。こっちは一所懸命に、ちょっとでも余計起きててやろ、寝たふりして見ててやろ思いますねんけど、寝返り打ったり横向きになったりしたらいかん、ちゃんと顔見えるように仰向きになってて欲しいいうて、両方の寝台のあいだに腰かけて、<ruby><rb>脇眼</rb><rt>わきめ</rt></ruby>も振らんと二人の寝顔見守りながら、寝息うかごうたり、<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>ばたきさしてみたり、心臓に手エあててみたり、いろいろなことして試しなさって、ほんまに寝入ってしまうまでは<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>離れなされしません。そないにせんかて何で今更夫婦の語らいしますやろ。夫も私も今では放っとかれたかて手エ触れる気イも起れへんくらいで、これほど安全な男女いうたらあれしませんのんに、「そいでも何でも一つ部屋に寝るのんやったら薬飲ます。」いいなさって、だんだん利かんようになると、分量や調合取り換えなさるのんで、その強烈な薬の感じ覚めたあとまでも残ってて、朝床の中で眼エ<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた時の気持の悪さいうたら、頭の後の方<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れてて、手足抜けるようにひだるうて、胸がムカムカして、起き上る元気もあれしません。夫も同じように病人臭い青オい顔して、まだ薬の味残ってるみたいに口の中<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にちゃにちゃ</span>さしながら、「こないしてたら、今にほんまに中毒起して死ぬかも分れへん」いうて<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>め<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>つきます。私はそんな様子見ると、さては夫もほんまに飲まされたのんか思て、かいって安心しますねんけど、疑がい出したらそれがまた狂言みたいな気イしますのんで、「なあ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>ら何で毎晩薬飲まされんならんねんやろ？」いうてやりますと、「何でやろなあ？」と、夫は夫で、やっぱり疑がい深そうに人の顔ジロジロ見ますねん。「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>ら二人寝さしといたかて心配ないこと知れたあるやないか。何ぞ外に目的あるねんし。」「どんな目的やお前には分ってるのんか？」「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>分れへん、あんたには分ってんねんやろ？」「僕には分らん、お前こそ知ってるのやないか。」「そないお互に疑ごうてたら切りないけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>どないしても、自分だけ寝さされてるような気イするねんし。」「そら僕かて同じことや。」「それかて浜寺のこともあるやないか。」「あれがあるさかい、今度は僕の番やないかいう気イするねん。」「あんた光ちゃんの帰る時まで起きてたことないのんか？　どうぞほんまのこというて欲し。」「僕はない、お前はどうや！」「あんな強い薬飲まされたら、起きてとうても起きてられへん。」「ふーん、そんなんやったら、お前もたしかに薬飲むねんなあ？」「当り前やし、この青い顔見て御覧。」「僕の顔も見て御覧。」そんな話してる間に、朝の八時頃になるときっと電話かかって来て、「さあ、もう起きないかんし」いわれて、夫は<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>たい眼エ<ruby><rb>擦</rb><rt>こす</rt></ruby>り擦り起されてしもて、しョことなしに事務所い出て行くか、よっぽど睡とうて<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>らん時でも、「八時過ぎたらあんたは寝室にいてることならん」いわれてますのんで、下の部屋い来て縁側の<ruby><rb>籐椅子</rb><rt>とういす</rt></ruby>か何ぞで寝んなりません。そないな工合で、私は何時まででも寝てられましてんけど、夫の方は一層疲れかた<ruby><rb>非道</rb><rt>ひど</rt></ruby>うて、事務所い行たかて頭役に立てしませんさかい、自分は休みたいのんですが、あんまり休むと「姉ちゃんの傍にばっかりいてたがる」いわれますよって、大概の日イは用事あってものうても「昼寝しに行て来る」いうて出かけますねん。

私はその時分から「光ちゃん<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うち</span>のこと何にもいわんと、あんたのことばっかり、ああしたらいかんこうしたらいかんいうやないか。あんたの方が愛しられてる証拠やし」いうてたのんですが、夫にいわしたら、愛してるもんこないに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いじめる</span>はずない、僕を疲れさして、情慾も何も起らんように<ruby><rb>麻痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>さしといて、二人で好きな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>しょういう計略やないかいいます。そいでおかしいのんは晩御飯の時やかい、お互に睡眠剤で胃イ悪うしてて、食慾ちょっともあれしませんのんに、お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby><ruby><rb>空</rb><rt>す</rt></ruby>いてたら早う薬<ruby><rb>循</rb><rt>まわ</rt></ruby>りますさかい、なるだけ余計<ruby><rb>喰</rb><rt>た</rt></ruby>べとことして、<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>も相手の御飯の数勘定して競争で詰め込みますのんで、「そない喰べたら薬<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けへんよって、二人とも二<ruby><rb>饌</rb><rt>ぜん</rt></ruby>以上喰べることならん」いいなさって、しまいには光子さんお膳の傍に眼エ光らして、監督してなさるようになったんのんです。何せあの頃の生理状態いいましたら、今考えでも無事でいられたのん不思議なぐらいで、胃イ衰弱してるとこい毎日飲まされる薬の分量多いのんで、一時に吸収出来へんせえか、お昼になっても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しょッちゅう</span>意識ぼんやりしてて、生きてるのんか死んでるのんか分らんみたいに、顔色ますます青うなる。体は<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せて来る。それより困るのんは感覚鈍うなって来る。ところが光子さんの方は、そないに二人苦しめて御飯の制限までしときながら、自分いうたら何ぼでもおいしいもん喰べて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つやつや</span>しい血色してなさる。つまり私たちは光子さん一人が太陽みたいに輝いて見えて、どんなに頭疲れてる時でも光子さんの顔さい見たら生き返ったようになりますのんで、ただそれ一つ楽しみに命つないでいる。光子さんもまた、「なんぼ神経麻痺してたかて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>に<ruby><rb>逢</rb><rt>お</rt></ruby>うたらハッキリするやろ？　そやなかったら熱情足らんねんし」いいなさって、興奮の程度で<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>パッション強いか分る、そやさかい睡眠剤飲ますこと<ruby><rb>尚更</rb><rt>なおさら</rt></ruby>止められへんいいなさいますねん。まあいうてみたら、普通のパッション<ruby><rb>捧</rb><rt>ささ</rt></ruby>げられても面白ない、薬の力で情慾鎮静さされてしもてても燃えるような愛感じるのでなかったら満足出来へん。――結局二人<ruby><rb>藻抜</rb><rt>もぬ</rt></ruby>けの<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>みたいにさして、この世の中に何の望みも興味も持たんと、ただ光子さんいう太陽の光だけで生きてるように、それ以外に何の幸福も求めんようにさしたいいうことになるのんで、薬飲むのん<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>がったりしたら泣いて怒んなさるのんです。そら、まあ、自分がどのくらい崇拝しられてるか試してみてそれ愉快がるような心理、前から光子さんにあったことはありましたもんの、そない極端に、ヒステリーみたいなこといい出しなさったのんは、何ぞ別に理由あるのんに違いないのんで、多分綿貫の感化やないか思いますねん。というのんは、最初の経験から健全な相手では物足らんようにさされてなさって、誰<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえても綿貫と同じようにさしたかったのんやないか？　そやなかったら何であない残酷に人の感覚<ruby><rb>麻痺</rb><rt>まひ</rt></ruby>さす必要ありましてんやろ？　よう昔の話に、<ruby><rb>死霊</rb><rt>しにりょう</rt></ruby>や<ruby><rb>生霊</rb><rt>いきりょう</rt></ruby>乗り移るということ聞いてますけど、何や光子さんの様子いうたら、綿貫の<ruby><rb>怨念</rb><rt>おんねん</rt></ruby><ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>ってるみたいに日増しに<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んで来なさって、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞう</span>ッと身の毛のよだつようなことありますのんで、そない思たら光子さんばっかりやあれしません、あの健全な、非常識なとこ<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>もなかった夫までが、いつや知らん間に魂入れ替ったように、女みたいなイヤ味いうたり邪推したりして、青オイ顔に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にたにた</span>笑い浮べながら光子さんの御機嫌取ったりしますのんで、そんな時の物のいい方や表情のしかたや、陰険らしい卑屈な態度<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じっ</span>と見てましたら、<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>から眼つきまで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とん</span>と綿貫生き写しになってるやあれしませんか。ほんまに人間の顔いうもん心の持ちようでその通りに変って来るもんやとつくづく思いましてんけど、それにしたかて怨霊の祟りいうようなこと、先生どない思やはりますやろ？　取るに足らん迷信や思やはりますやろか？　なんせ綿貫はあない執念深い男ですやさかい、蔭で私ら<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>てて、何ぞ恐い<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>でもして、夫に生霊取り<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>いてたかも分れしません。それで私「あんた段々綿貫みたいになって来るわなあ」いうてやりますと、「自分でもそない思てる」いうて、「光ちゃん僕を第二の綿貫にするつもりやねん」いいますのんで、もうその時分の夫いうたら<ruby><rb>凡</rb><rt>す</rt></ruby>べての運命に従順になってしもてて、自分が第二の綿貫にさされること拒まんばっかりか、かいってそれ幸福に感じてるらしいて、薬飲むのんも、しまいには進んで飲まされること願うようになって来ましてん。光子さんにしましたら、どうせ三人こないになったら無事に収まるはずあれしませんさかい、もうどないでもなれいう気イで、焼け<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>半分になってなさって、事に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>ったら夫と私だんだん薬で衰弱さして殺してしまお、……と、心の底ではそんな<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>み持ってなさったのんやないか。……そない思たのん私だけやのうて、「僕かてそれ覚悟してる」と、夫もいうてましたぐらいで、ほんまいうたら、もう直き二人幽霊のように細うなって死んでしまうのん待ってなさって、その時限り自分は巧いこと手エ<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、すっくり<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>な人間になって、ええ<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>さん捜そ思てなさるのんやろ、「僕もお前もこないに青い顔してるのんに、光ちゃん一人丈夫そうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぴんぴん</span>してる様子見たら、どうやらそうに違いない気イする」いいますねん。そんで夫も私も、衰弱の余り楽しいことも嬉しいことも感じんようになってしもたら、もうその時がこの世の終りやと観念してて、今日死ぬか明日死ぬか思いながら生きてましてん。

ああ……ほんまに私、その予想の通りになってあの時一緒に殺されたらどない幸福でしたやろ。それがこないな思いかけぬ結果になってしもたのんは、あの新聞に記事出たのん第一の原因ですのんで、なんでもあれ九月の二十日頃でしたやろか、或る朝夫が「ちょっと起きてくれ」いいますよって、何や思たら、「誰やこんなもん送って来た奴ある」いうて、いつも見たことない新聞の三面のとこ広げてて、そこ<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみましたらあの綿貫に書かされた書付大きな写真にして載せたあって、仰山なこと書き立ててある見出しの上に、赤インキで二重円の印附けたあるやあれしませんか。それも一日だけやない、記者の<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>に材料<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たん</span>と集まってるさかい、連日にわたってこの醜悪なる有閑階級の罪状を摘発すべしという予告したありますのんで、「それ見なさい、やっぱり綿貫に欺されてたんや」いいましたもんの、もうその時は案外度胸すわってしもてて、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいとも<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>ま忌ましいとも思わんと、「いよいよ最後の時来た」いう感じ、真っ先に来ましてん。「ふん、馬鹿な奴ッちゃ、今更こないなこと書かして何になる」いうて、夫も血の気エ<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せた<ruby><rb>頬</rb><rt>ほ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span>に冷やかな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほほ</span>笑み浮べてるだけで、「<ruby><rb>構</rb><rt>か</rt></ruby>めへん、構めへん、放っといたらええ」いいましてんけど、そいでもその新聞いうたら信用のない小新聞ですさかい、まさか世間が真に受けるはずないやろいうのん頼みにして、何は<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いても光子さんとこい電話で知らして、「これこれの新聞<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>いも送って来たよって、光ちゃんとこいも来てへんか」いうたげましたら、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて捜して見なさって、「来てた、来てた、ええ<ruby><rb>塩梅</rb><rt>あんばい</rt></ruby>にまだ誰アれも見えへなんでん」いいなさって、その新聞<ruby><rb>懐</rb><rt>ほところ</rt></ruby>に入れて、「どないしたらええやろ」いいながら<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け込んで来なさいましてん。

最初私らは、綿貫の売り込んだ材料やったら自分に都合悪いこと書けへんやろし、私と光子さんとの事なら今に始まった<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>やないし、大した問題にはならんかも知れへん、まあ、まあ、そない慌てるにも及ばんやろ思てましたのんで、二、三日目エに光子さんの家い知れた時にも、「また例の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わるさ</span>やってるのんです、偽筆の署名まで<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて写真に出すやなんてあんまり<ruby><rb>悪辣</rb><rt>あくらつ</rt></ruby>ですさかい、訴えてやってもよろしいんですが」と、夫の口でええようにいいくるめさして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほっ</span>と一と安心してたところが、記事はそいから何日たってもしまいにならんと、一層深刻に真相に触れて来て、綿貫に不利な事実かて遠慮なしに<ruby><rb>発</rb><rt>あば</rt></ruby>き出したばっかりか、笠屋町の宿のこと、奈良い遊びに行ったこと、光子さんお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>に物詰めて夫に会いなさったこと、……それが、綿貫の知ってるはずないことまでも分ってるらしいて、この調子やったら、浜寺のことから狂言自殺のこと、夫<ruby><rb>渦中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>い巻き込んだこと、何から何まで素ッ葉抜きそうな勢いやのんです。それにおかしいのんは、光子さんも私もお互に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り取りした手紙大事にしもといて、誰にかて見せたことあれしませんのんに、私の方から上げた中の一通が、――えらい猛烈な、動きの取れん文句並べたある一通が、――いつの間にやらちゃんと<ruby><rb>窃</rb><rt>ぬす</rt></ruby>まれてて、れいれいしいに写真に出されましたのんで、取ったとしたらお梅どんより外にないさかい、さては綿貫とグルになってるないうこと始めて気い付いたのんですが、そないいうたら、光子さんとこ暇出されてからも二、三べん私とこい遊びに来て、用もないのんにウロウロしてたことあって、何や様子<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>な、するだけの事はしてやったのんにまだお金でも欲しいのんかいな思いましてんけど、そないにしてやるにも及ばん思て<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つい</span>放ったらかして置きましたら、何でも新聞に記事載り出す二、三日前にやって来て、妙なこというて光子さん冷かしたりして行んでしもたなり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぷッつり</span>姿見せしません。「何ちゅう恩知らずやろ、家にいた時かて奉公人みたいなことあれへん、まるきり<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きょうだい</span>みたいにさしといたのんに、……」「あんまり我が儘さし過ぎてんやわなあ。」「飼い犬に手エ<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>まれるとはこの<ruby><rb>事</rb><rt>こ</rt></ruby>ッちゃし。姉ちゃんにかてあない色々してもろといて何不足やねんやろ。」「そしたらやっぱり綿貫に買収しられたんやろか。」――まあ想像しますのんに、新聞社では最初綿貫の材料に基づいて調べ出してみたら、それからそれいと隠れた事実分って来たとこい、折ようお梅どんちゅうもん見つけて<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まえたのんか。そやなかったら綿貫の奴初めからお梅どんと連絡取って、破れかぶれに自分の秘密までサラケ出して売り込んだのんか。<ruby><rb>孰方</rb><rt>どっち</rt></ruby>にしたかてこないなったらもう一刻も猶予出来へん、グズグズしてたら光子さん一歩も外い出られんようになるよって早う兼ねての約束通り覚悟きめよいいましたもんの、そいでもどうしょうこうしょういうて毎日相談してましたら、そのうちにとうど浜寺のこと出始めましてん。

そいから先の出来事は<ruby><rb>孰</rb><rt>ど</rt></ruby>の新聞にもあない<ruby><rb>委</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいに出ましたぐらいで、先生かてよう御承知ですやろし、もうもうそないに<ruby><rb>管々</rb><rt>くだくだ</rt></ruby>しいに過ぎ去った日のことお聞かせせんかて、……何や私も、あんまり長いことしゃべったせえか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けったい</span>に興奮して、<ruby><rb>辻褄</rb><rt>つじつま</rt></ruby>の合わんこと話したような気イしますねんけど、……ただ新聞に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れてることいいましたら、あの時第一に「死の」いい出しなさって最後の<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>きめなさったのんは光子さんでしてん。たしかお梅どんに手紙盗まれたこと分った日イに、「こないなもん家い置いといたら危険や」いうて、証拠になるような<ruby><rb>文殻</rb><rt>ふみがら</rt></ruby>全部私とこい持って来なさいましたのんで、「焼いてしまおか」いいましたら、「いや、いや、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>らいつ何どき不意に死なんならんか分れへんさかい、書き置きの代りにこの記録<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>しとこ。どうぞ姉ちゃんのと一緒に大事に預かっといて頂戴」いいなさって、私らにも身イの<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りのもん整理しとくようにいいつけたりして、そいから二、三日目エの、十月二十八日の午後一時頃「いよいよ家の様子おかしい、今日帰ったら出られんようになりそうな」いうて来なさって、逃げて掴まえられたりしたらあかんさかい、いっそいつもの部屋で死のいいなさいましてん。それで枕もとの壁にあの観音様の画像飾って、三人寄ってお<ruby><rb>線香</rb><rt>せんこ</rt></ruby>上げて、「この観音様の<ruby><rb>手引</rb><rt>てびき</rt></ruby>やったら、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>死んだかて幸福や」と、私がそないいいましたら、「僕ら死んだら、この観音様『光子観音』いう名アつけて、みんなして拝んでくれたら浮かばれるやろ」と夫もいうて、<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の世い行ったらもう焼餅<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>げんか</rt></ruby>せんと仲<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>う<ruby><rb>脇仏</rb><rt>わきぼとけ</rt></ruby>のように本尊の両側にひッついてまひょと、光子さん真ん中に入れて枕並べながら薬飲みましてん。……はあ？　そら、そうですねん、何でその時、私だけ一人残されるいうこと思いましたやろ、明くる日眼エ覚ました時にも、直きに二人の跡追おう思いましてんけど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひょ</span>ッとしたら、生き残ったん偶然やないかも分れへん、死ぬまで二人に欺されてたのんやないやろかいう気イしましたら、あの手紙の<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>預けなさったことにしたかて疑がわしいになって来て、折角死んでも<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の世で邪魔にしられるのんやないかと、ああ、……先生、（柿内未亡人は突然はらはらと涙を流した。）……その疑がいさいなかったら、……今日まで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おめおめ</span>生きてる私やあれしませんねんけど、……そうかて死んでしもた人恨んだとこで仕方あれしませんし、今でも光子さんのこと考えたら「憎い」「<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しい」思うより恋しいて恋しいて、……ああ、どうぞ、どうぞ、こない泣いたりしまして堪忍して下さい。……