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        <title type="main" xml:lang="ja">記憶</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">きおく</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>梅崎</surname><forename>春生</forename><idno type="aozora-person-id">001798</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>うめざき</surname><forename>はるお</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Umezaki</surname><forename>Haruo</forename></persName></author>
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        <bibl><title>ボロ家の春秋</title><publisher>講談社文芸文庫、講談社</publisher><date>2000（平成12）年1月10日</date><note type="input-edition">2000（平成12）年1月10日第1刷</note><note type="proof-edition">2015（平成27）年5月8日第4刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「群像」講談社、1962（昭和37）年7月</bibl>
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      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-352-511">その夜彼はかなり酔っていた。佐渡という友人が個展を開いたその初日で、お祝いのウィスキーの瓶が何本も出た。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-511-535"><rb>酩酊</rb><rt>めいてい</rt></ruby><seg source="#source-535-606">して新宿駅に着いたのは、もう十時を過ぎていた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-606-1145">つかまえたのは、専門の構内タクシーである。駅を出て客が指定したところで降ろし、またまっしぐらに駅に戻って来る式のもので、それが一番安全そうに見えたからだ。酔うと彼は必要以上に用心深くなる癖がある。戦後しばらくして、その時彼はまだ若かったが、酔ってプラットホームから落ちて怪我して以来、その癖がついた。年とともにその癖は、ますます頑固になって行く傾向がある。</seg></p>
      <p>「この人はね、酔って来ると、すぐに判るよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1210-1272">その夜も佐渡が笑いながら皆に説明した。</seg></p>
      <p>「道でも廊下でも、曲り角に来ると、壁にへばりつくようにして、直角に曲るんだよ。さっきから見ていると、もう直角になって来たようじゃないか。そろそろ帰ったらどうだい？」</p>
      <p>「へばりつくなんて、ヤモリじゃあるまいし」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1585-1722">彼は答えた。いくらか舌たるくなっているのが、自分でも判った。そしてふらふらと立ち上った。</seg></p>
      <p>「でも、そう言うんなら、先に帰らせてもらうよ。さよなら」</p>
      <p>「矢木君。君、送って行け」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1849-1908">佐渡が追い打ちをかけるように言った。</seg></p>
      <p>「見ているとあぶなっかしくて仕様がない。同じ方向なんだろ」</p>
      <p>「そうですか。送ります」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2035-2200">矢木は答えた。矢木は彼や佐渡よりは、ずっと若い。絵描きの卵だ。飲めないたちで、酔っていなかったようだ。顔色が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-2200-2224"><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby><seg source="#source-2224-2232">い。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2232-2576">外に出ると、夜風が顔につめたかった。矢木が手を貸そうとするのを断って、自分で歩いた。直角になんて歩いてたまるかという気持があって、ずんずん歩いたつもりだが、やはり時々足がもつれた。矢木は服の襟を立て、二三歩あとからついて来た。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2576-2914">新宿駅まで十分ぐらいかかり、表口で調子よくタクシーが彼の前にとまった。車の形を見て、彼は安心して、自分の体を荷物のようにどさりと座席に放り込んだ。矢木が続いて乗り込んだ。自動扉がすっと動き、がちゃりとしまった。彼は言った。</seg></p>
      <p>「Ｎ方面にやって呉れ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2949-4301">かんたんに道順を説明したが、運転手は返事をしなかった。車は動き出した。かすかな不快が彼の中で揺れ動いている。近頃の運転手は、行先を告げても、ろくに返事をしない。でも、人間はなまじ口をきき合うから、話がもつれたりするので、判っていさえすれば返事はない方がいい。経験でそう彼は思っている。その点一番いいのは、靴磨きだ。戦後の一時期、彼は食うに困って、靴磨きをやったことがある。占領兵相手の売り屋をやったが、これは言葉のやりとりがうまく行かなくて、失敗した。靴磨きはよかった。場所を確保するのに一苦労はしたが、定着してしまえば、あとは簡単だ。客が来て、靴台に足を乗せる。それを磨く。磨き終ったしるしに、厚布でチョンチョンと靴先の色をととのえる。客も承知して、靴を引っ込め、金を渡す。受取ってゼニ箱に投入する。ただそれだけだ。客も黙っているし、こちらも口をきかない。主客とも口をきかないで成立する商売は、おそらく靴磨きだけじゃあるまいか。――彼が面白くない気分になっていたのは、だからそのせいではなかった。</seg></p>
      <p>「この自動扉なんだな」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4336-4431">窓外に動く街筋を眺めながら、彼はぼんやりと矢木に話しかけた。</seg></p>
      <p>「おれはどうもこの自動扉というやつが、好きでないんだ」</p>
      <p>「何故です？」</p>
      <p>「自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、何だか変だ。うっとうしくて、かなわない」</p>
      <p>「そうですかね。僕は便利だと思うけれども――」</p>
      <p>「便利？　そりゃ便利だよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-4849-4911">彼は忙しく頭を働かせ、別の例を捜した。</seg></p>
      <p>「しかし、たとえば、留置場か、棺桶の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4965-4980"><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby><seg source="#source-4980-5061">のような気がする。いや、待てよ。留置場や棺桶は、自分で</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5061-5079"><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>るものではないが」</p>
      <p>「そうですよ。あれは這入るものじゃなく、他人から入れられるもんです」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5212-5256">矢木は落着いた声で言った。</seg></p>
      <p>「あなたはデパートのエレベーターに乗っても、うっとうしいですか？」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5357-5630">エレベーターと自動車とでは違う。その理由を見つけようとして考えかけたが、途中で面倒くさくてやめた。調子を合わせろとは言わないが、そっけなく落着いているのが気に食わない。話をするのが</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5630-5654"><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby><seg source="#source-5654-5831">になったので、彼は座席に深く背をもたせ、窓の外ばかりを見ていた。街並が急に明るくなって、八百屋だの薬屋だのが群れている</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5831-5855"><rb>一郭</rb><rt>いっかく</rt></ruby><seg source="#source-5855-5890">に出た。矢木が言った。</seg></p>
      <p>「とめて下さい。僕はここで降ります」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5946-6167">車がとまり、間髪を入れず自動扉がギイと開いた。矢木がここらに住んでいることは、いつか同車したことがあって、彼も知っている。別に意外ではなかった。</seg></p>
      <p>「降りるのかね」</p>
      <p>「ええ。では」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6216-6415">また車が動き出した時、彼は頭を後方の窓ガラスにねじ向けた。矢木はこちらを見ずに、歩道を横切り、明るい果物屋の中に入って行く。……</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6415-6801">こういう言い争いを、いつか確かにしたことがある。何年前のことか、場所はどこだったか、思い出せない。思い出せないけれども、同じ条件で、同じ調子で、同じような人物を相手に、言い争った。気分もその時と同一だった。その意識が彼の語調を弱くさせていた。彼は言った。</seg></p>
      <p>「どうしても這入れないと言うんだね」</p>
      <p>「うん。這入れないね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6892-6913">運転手は前を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-6913-6931"><rb>見据</rb><rt>みす</rt></ruby><seg source="#source-6931-7005">えたまま言った。料金表示器は三百円をさしていた。</seg></p>
      <p>「こんな狭い道はムリですよ」</p>
      <p>「しかしだね、ちょっと狭そうに見えるけれど、昼間にはトラック、大型は入りにくいが、とにかくトラックや乗用車が、すいすいと入ったり出たりしてるんだぜ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7273-8097">矢木を降してから十五分ほど走り、車は彼の家の近くまで来た。道路に囲まれた三角地帯がある。どんな具合に区切っているのか知らないが、四軒の家がそこに建っている。車が停ったのは、その一軒の前で、彼の家はそれから反対側に折れたところにあるのだ。この一軒はまだ起きていて、窓から燈が漏れている。鉄線で編んだ塀には、バラがからんでいて、白や赤の花をいくつもつけているのが見える。この家は以前は歯科医が住んでいたが、はやらなかったらしく一年くらいで引越し、今はアメリカ人が住んでいる。民間のバイヤーらしい。昼間には日本人のメイドが派手な下着を乾していたりする。</seg></p>
      <p>「そりゃ昼間は這入れるでしょう。でも、こう暗くちゃね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8180-8231">なるほどその道は暗い。ずらずらと</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-8231-8255"><rb>生籬</rb><rt>いけがき</rt></ruby><seg source="#source-8255-8968">のたぐいが続いていて、光はどこにも見えない。そう狭い道ではないが、近くに請負師の家があって、道の入口に古材がたくさん積み重ねてある。反対側の垣から大きな柿の木が、道におおいかぶさるように枝を伸ばしている。昼間なら見通しがきくが、夜だと実際よりもずっと狭く感じられるのだ。それに悪いことには、道の入口に細い下水路があり、コンクリートの四角な渡し板が六枚かかっている。道いっぱいの幅にかければいいのに、両端の方は省略して、中央の部分、つまり道幅の半分しかかかっていないのである。</seg></p>
      <p>「暗いとか明るいとかは、問題じゃないだろう」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9036-9083">彼は気持を押えながら言った。</seg></p>
      <p>「今まで乗ったタクシーは、皆這入ったよ」</p>
      <p>「他のタクシーのことは知らないが、おれはイヤだね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9222-9569">前を向いたまま、運転手の言葉は少しぞんざいになった。彼はまだこの運転手の顔を見ていない。乗り込む時、見そびれた。見えるのは帽子と首筋と肩だけである。帽子はあみだ冠りにしている。首筋は赤黒く、粒々が出ている。齢の頃はよく判らない。</seg></p>
      <p>「這入れって、一体どのくらい這入るんだね」</p>
      <p>「直ぐだよ、おれの家は。三十メートルほど入って、左側の家だ」</p>
      <p>「三十メートルなら、歩いたらどうですか。何時までもごたくを並べてないで」</p>
      <p>「歩け？　君はおれに、歩けと命令するのか？」</p>
      <p>「命令はしてない。勧めているだけです」</p>
      <p>「しかし、それは――」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9998-10183">そこまで言いかけた時、自動扉がひとりでにギイとあいた。それはまるで催促するような音であった。音は決定的に彼の耳に響いた。</seg></p>
      <p>『落着け。落着くんだ』</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10218-10385">彼はそう念じながら、ポケットから銭入れを取り出した。ふるえる指で百円玉を三つつまみ出して、肩越しに手渡した。</seg></p>
      <p>「ついでに聞くがね、この車の番号は何番だい？」</p>
      <p>「車のうしろについてるよ。それを見りゃいいだろ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10530-10604">運転手は金を収めながら、つっけんどんに答えた。</seg></p>
      <p>「そうか」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10621-11160">彼は体をずらして車から降り、背後に廻って番号札を見た。自動扉がしまった。Ｑ二〇三九。それを二三度口の中で言ってみて、片側道を自分の家の方向に歩き出した。三十メートルを歩いている間、つまずかないように用心しながら、彼はその番号のことばかり考えていた。つまずいたり、他のことを考えたりすると、番号を忘れてしまうおそれがあったからだ。Ｑ二〇三九……Ｑ二〇三九……</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11160-11313">家に入り、鍵をかけ、画室に入る。画用紙にその番号を書きつける。やっと安心して、椅子に浅く腰をかける。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-11313-11328"><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby><seg source="#source-11328-11625">を膝の上に立て、頬杖をつく。五分間、その姿勢のまま、じっと動かなかった。やがて顔を頬杖から外し、手を伸ばして電話帳を取った。膝の上でぺらぺらめくって、自動車会社の番号を捜した。やがて捜し当てた。彼は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-11625-11643"><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby><seg source="#source-11643-11654">いた。</seg></p>
      <p>「せですむことを！」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11686-11880">彼は立ち上り、部屋の隅の電話のダイヤルを廻した。廻す途中で少しためらったが、押し切るようにして最後まで廻した。相手が出て来た。</seg></p>
      <p>「もしもし。お宅にＱ二〇三九という車がありますね」</p>
      <p>「はあ。ちょっと待って下さい」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12004-12277">受話器を置く音がした。彼は体を凝らして立っていた。子供の頃、彼の家には烈しい気性の祖母がいた。何か悪いこと、余計なこと、いたずらに類することをすると、たいへんな勢いで怒り、火箸や長</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-12277-12301"><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby><seg source="#source-12301-12310">で彼を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-12310-12340"><rb>打擲</rb><rt>ちょうちゃく</rt></ruby><seg source="#source-12340-12346">し、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-12346-12370"><rb>折檻</rb><rt>せっかん</rt></ruby><seg source="#source-12370-12381">した。</seg></p>
      <p>「せですむことを！」</p>
      <p>「せですむことをして」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12448-13089">しないですむことをする、という意味である。その言葉は彼の体に深くしみ入って、時々舌にのぼって来る。たかが曲れとか曲らないということではないか。歩かされたとしても、三十メートルに過ぎないじゃないか。それをこんなに電話して文句を言えば、当の運転手も成績が下るだろうし、こちらも巻き込まれることで面倒がかかるかも知れぬ。誰も得をしない。つまりこんなのが、せですむことじゃないだろうか。そう考えたとたん、電話の向うに相手が出て来た。</seg></p>
      <p>「はい。確かにそれは、うちの車です」</p>
      <p>「そうですか。その車が二十分ぐらい前、こんなことをした」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13231-13353">彼はさっきの事件を順序立てて、順序立てたつもりで説明した。向うは事務的な声で、</seg></p>
      <p>「はい」</p>
      <p>「はい」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13381-13566">と返事をした。くわしく話す予定であったが、説明は一分足らずで済んだ。詳述しようにも、それほどの材料がない。最後に言った。</seg></p>
      <p>「途中で降ろすなんて、乗車拒否より悪質だと僕は思うんですがね」</p>
      <p>「判りました。当人は明朝十一時に戻って来る筈ですから、事情をよく聞きまして――」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13783-13861">彼は電話を切った。折角の酔いがうまく発散せず、深く</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-13861-13876"><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby><seg source="#source-13876-14093">んでいるのが判る。じっと濃厚に澱んで動かない。もう一杯飲めば、そいつを引っぱり出せるかも知れないのだが、見渡しても酒は一滴もここにはない。――</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14093-14530">翌日正午頃、彼は眼が覚めた。口の中が粘り、酔いがまだ残っていた。その癖よく眠れなかった。ことに窓が明るくなってからは、物音がたくさん入って来て、起きているのか眠っているのか分明しない状態で、うつらうつらと横になっていた。眼をあけるのに抵抗があったし、あけてもしばらく物が二重に歪んでいる。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14530-14889">水を飲むために体を起すと、番号を記した画用紙が、まず眼に入った。分厚い番号簿も、昨夜頁を開いたままで机上に乗っている。彼はむずと受話器をつかんだ。今の不快な状態の責任が、皆この番号簿のせいだという気がしたのだ。昨日と違った声が出て来た。</seg></p>
      <p>「話は当直から聞きました。なにぶん当人は今朝七時に帰社して、もう家に戻ってしまいましたので――」</p>
      <p>「七時？　昨夜の電話じゃ、十一時頃という話だったのに」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15118-15376">声はくどくどと弁解を重ねた。自分はこの社の常務として、こんなことのないように、事ある毎に従業員に注意している。それなのにどうしてそんな不親切なことをしたのか、まことに申し</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-15376-15391"><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby><seg source="#source-15391-15576">がない。しかるべき処置を取るとおっしゃるが、それだけは勘弁して呉れ。明日当人が出て来れば、よく申し聞かせて置くから。云々。</seg></p>
      <p>「申し聞かせるのは、お宅の勝手ですがね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15638-15661">彼は言った。</seg></p>
      <p>「僕んとこの道は狭くない。大型車だって、ゆっくり這入れる。そのことを徹底させといて下さい。それだけです」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15819-15876">彼は急いで電話を切った。おれはおれの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-15876-15897"><rb>面子</rb><rt>メンツ</rt></ruby><seg source="#source-15897-16170">を立てるためでなく、道をけなされたことを怒っているみたいだ。しかし電話をかけたことで、彼はやや気分が晴れた。彼は井戸端に出て、大コップで水をがぶがぶ飲み、庭の隅の塵芥穴で全部吐いた。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-16170-16188"><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby><seg source="#source-16188-16442">を突き上げて出て来るのは、水ばかりであった。飲む時と同じ冷たさで、それはほとばしり出る。二三度繰り返して、胃を空にして、彼は自分の部屋に戻った。そしてまた夕方まで寝た。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16442-16910">常務と運転手が彼の家を訪ねて来たのは、その翌日の午後である。見知らぬ男が二人、玄関に立っている。いぶかしげに彼が眺めると、年かさの方が名刺を出した。××タクシー常務の肩書きで、それと知れた。わざわざやって来たのに、玄関で応対するのも変なので、画室に案内した。玄関には新しい靴とつぶれたような靴が、二足残された。</seg></p>
      <p>「電話をかけただけなのに、どうしておれの家が判ったんだろう？」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17005-17217">茶をいれながら、彼はふと思った。次の瞬間、それが愚かな疑いであることに、直ぐ思い当った。二人とも茶には手をつけなかった。常務が口を切った。</seg></p>
      <p>「この度うちのがたいへん失礼な態度を取りましたそうで――」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17306-17722">彼は話を聞きながら、運転手の顔をちらりちらりと見ていた。一昨夜はもっと若い、横柄な感じだったのに、今そこに腰をかけているのは、ジャンパー姿の三十前後の実直そうな、むしろ愚鈍な印象の男である。細い眼がねむそうにたるんでいる。焦点距離がないみたいで、どこを見ているのか判らない。</seg></p>
      <p>『換え玉を連れて来たんじゃないか。こんな男じゃなかった』</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17808-17834">と彼は考えた。</seg></p>
      <p>『本人を連れて来たら、またいざこざが起きるもんだから――』</p>
      <p>「そういうわけでございますから、何とぞお許しのほどを」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18006-18134">肥った常務はごそごそと箱を取り出した。包装紙の具合から見ると、菓子折か何からしい。</seg></p>
      <p>「いや。それは――」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18166-18198">彼は大声を出した。</seg></p>
      <p>「そんなものが欲しくて、電話をかけたんじゃないんだ。あんたたちは何か誤解をしている。僕はただうちの道が――」</p>
      <p>「判っております。判っております」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18415-18474">常務は立ち上って、運転手を小突いた。</seg></p>
      <p>「おい。君もあやまれ。早く」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18518-18683">運転手がじっとしているものだから、常務は運転手の後頭部に手を当て、ぐっと前に押した。それで運転手は頭を下げた</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-18683-18707"><rb>格好</rb><rt>かっこう</rt></ruby><seg source="#source-18707-18724">になった。</seg></p>
      <p>「さあ。帰ろう」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18750-18866">頭から手を離し、常務は言った。運転手は頭を元に戻して、無表情に立ち上った。</seg></p>
      <p>「いや。平に、御見送りのほどは、平に」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18925-19102">尻ごみをするように、常務は後しざりして、部屋を出た。運転手もそれに続いた。彼は二人を追って、玄関まで出た。二人は身を</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-19102-19117"><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby><seg source="#source-19117-19350">めて靴を穿いている。背後から見る運転手のその首筋は浅黒く、見たことがあるような、またないような形であった。彼はしばらく確める眼付きでそれを見おろしていた。</seg></p>
      <p>「やはりあの時の運転手かな。皮膚に毛穴のようなものが、たくさんある」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19454-20173">画室に戻って来て、彼は考えた。常務はいろいろしゃべったが、運転手は口ひとつきかなかったことに、彼は今気付いていた。声さえ聞けば、その抑揚や調子などで、当人か換え玉か判る筈であった。でも、換え玉であったとしても、それが何だろう。当人を連れて来て釈明せよと、こちらは請求した覚えは絶対にない。向うが勝手にやって来ただけの話である。常務もこれがその当人であるとは、明言しなかった。すべてがあいまいなまま収まっている。菓子折ひとつだけが歴然とした形で残っている。彼は口に出して言った。</seg></p>
      <p>「こんなもの、誰が食ってやるものか」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20229-20440">新聞紙を四五枚ぐしゃぐしゃに丸め、菓子折を持って庭に出た。塵芥場に投げこんで、火をつけた。新聞紙は白い焔を立てて、ぼうぼうと燃え始めた。</seg></p>
      <p>「運転手の顔ねえ。どの運転手の顔だったかしら」</p>
      <p>「そら。佐渡君の会でさ、いっしょにタクシーを拾っただろう」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20600-20821">一ヵ月ほど経って、上野の喫茶店で、彼は偶然に矢木に出会った。紅茶を飲みながら、その話を持ち出した。矢木は視線を宙に浮かせて、しばらく考えていた。</seg></p>
      <p>「ああ。あの時のね。あなたが白髪のことで、佐渡さんにからんだ夜の――」</p>
      <p>「白髪？」</p>
      <p>「ええ。佐渡さんに白髪が近頃ふえたのは、老い込んだ証拠だって、ずいぶんからんだじゃないですか。だから作品もダメになったって」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21133-21363">彼は首をかしげた。佐渡は彼と同年で、近頃妙に白髪がふえたのも事実である。しかしそれについて佐渡にからむなんて、彼には記憶もないし、想像もつかなかった。</seg></p>
      <p>「そんなことを、僕がやる筈がないよ。白髪と作品と関係づけるなんて、そんな理不尽な」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21488-21538">彼は記憶をさぐりさぐり言った。</seg></p>
      <p>「あいつが僕の酔い方を批評したんで、面白くなくなって、会場を出たんだ。君もいっしょだったね」</p>
      <p>「ええ。外には小雨が降っていた」</p>
      <p>「雨が？」</p>
      <p>「ええ。寒かったんで、僕は服の襟を立てて歩きましたよ。それでもずいぶん濡れた」</p>
      <p>「おれは全然濡れなかったよ。おかしな話があるもんだなあ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21950-22000">彼は冷えかけた紅茶をすすった。</seg></p>
      <p>「何かこんぐらかってるな。駅で構内タクシーをつかまえた。番号はＱ二〇三九だ」</p>
      <p>「よく番号まで覚えていますねえ」</p>
      <p>「うん。これにはわけがあるんだ。君は途中で降りた。そして角の果物屋に入って行った」</p>
      <p>「果物屋？」</p>
      <p>「そうだよ。不二果物店と看板が出ていた。君はまっすぐそこに這入って行った。僕は自動車の後窓からそれを見ていたんだ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22484-22567">今度は矢木が気味悪そうに、そっとカップを卓に置いた。</seg></p>
      <p>「ほんとですか。しかし、そんな筈はない」</p>
      <p>「なぜ？」</p>
      <p>「なぜって僕はあの果物屋と、半年前ぐらいだったかな、バナナのことで喧嘩をしたんですよ。大きい房の代金を払ったのに、うちであけて見たら小さい房が入っていた。そこであのおやじと大喧嘩をして、それ以来あそこでは買い物をしないことにしているんです」</p>
      <p>「でも、僕は見たんだよ。この眼で」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23061-23147">二人はしばらく黙り込んでいた。やがて矢木が頭を上げた。</seg></p>
      <p>「あなたがその眼で見たとして、それからあなたはどうなったんです」</p>
      <p>「うちの近くまで来て、運転手が僕に降りろと言うんだ。そこで僕は降りた。しかし雨は降っていなかったぜ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23397-23406">その</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23406-23430"><rb>経緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby><seg source="#source-23430-23511">を彼はぽつりぽつり、確めるように説明した。矢木は適当に</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-23511-23535"><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby><seg source="#source-23535-23612">を打ちながら聞いていた。話し終ると矢木は質問した。</seg></p>
      <p>「で、結局その菓子折に、何が入ってたんですか？」</p>
      <p>「判らない。新聞紙や外箱だけが燃え尽きて、あとどろどろなのが残った。へんに甘ったるい匂いがしてね、嘔きたくなるような気持がしたし、ウジが湧きそうだったから、スコップで穴を掘って埋めてしまった。しかしそんなものを持って来るぐらいなら、どうしてあの時道に這入って呉れなかったんだろう？」</p>
      <p>「自動車強盗と間違えたんじゃないですか」</p>
      <p>「強盗？　このおれが？　まさか」</p>
      <p>「しかし、運転手には、気をつけた方がいいですよ。ノイローゼだのテンカンなどが、自覚しないまま営業してるという話ですからねえ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24411-24470">矢木は真顔になって話の方向を変えた。</seg></p>
      <p>「もっとも乗る方だって、気が確かかどうか、誰にも判っていない」</p>
      <p>「そうだよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24585-24629">少し経って彼はうなずいた。</seg></p>
      <p>「おれたちだって、少しずつこんぐらかってるよ。君が覚えていることと、おれが覚えていることは、どこか食い違っている。それでよく安心して生きて行けるもんだな」</p>
      <p>「僕がですか？」</p>
      <p>「いや。君だけじゃなく、誰もがだ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24941-24970">彼はごまかした。</seg></p>
      <p>「もっとも疑い始めると、これは切りがないもんでねえ。忘れたり、記憶からしめ出されたり、思い違えたまま安心したり、その方がずっと生きいいんだろう。古井戸をのぞいたって、仕様がないやね。やくたいもない<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-25264-25279"><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>が生えているだけで――」</p>
      <p>「それ、皮肉ですか？」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25352-25413">矢木は眼をきらきらさせて、反問した。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25413-25829">夏のある暑い日の午後、彼はその運転手に再会した。もちろん彼はそれと知らなかったし、向うもこちらに気付いていなかった。彼は目白付近でタクシーを呼びとめて乗り込んだ。自宅の方に行く道順を説明しながら、ハンカチで額や腕の汗を拭いた。車は動き出した。動き出してすぐ、運転手が言った。</seg></p>
      <p>「旦那。あっしを覚えてるかね？」</p>
      <p>「え？」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25893-26015">汗を拭きやめて、彼は運転手の後頭部を見た。首筋にも汗はふつふつとあふれていた。</seg></p>
      <p>「覚えているだろうね。今の道順で、あっしは思い出したんだ。あれは五月の初め頃だったかな」</p>
      <p>「ああ、あの時の――」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26184-26288">後頭部からバックミラーに視線を転じた時、彼は卒然として思い起した。</seg></p>
      <p>「僕を途中で降ろした運転手さんだね」</p>
      <p>「降ろしただけじゃないよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26385-26429">運転手の口調は険を帯びた。</seg></p>
      <p>「おれはあやまりに行かされたんだぜ。一日の稼ぎを棒に振ってさ」</p>
      <p>「そうだったね。常務とかいう肥ったおっさんと」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26595-26684">じとじととした背中を座席から引き離しながら、彼は答えた。</seg></p>
      <p>「しかし、僕はあやまりに来いとは言わなかった筈だよ。そちらが勝手に来ただけだ」</p>
      <p>「あんな電話をかけて来りゃ、常務だって放っては置けないさ」</p>
      <p>「常務は、元気かね？」</p>
      <p>「あれ、死んだよ」</p>
      <p>「交通事故か？」</p>
      <p>「いや。病気でだ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27011-27175">ちょっとの間、会話が跡絶えた。交差点の赤信号で車は停った。タオルで首をごしごし拭いながら、運転手が言った。</seg></p>
      <p>「あの手土産も、あっしが自腹を切ったんだよ。うまかっただろう」</p>
      <p>「そうかね」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27290-27334">彼は別のことを考えていた。</seg></p>
      <p>「あの晩、僕たちを新宿で乗せた晩さ、あの時、雨が降ってたかね？」</p>
      <p>「雨？　何を言ってんですかい」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27479-27517">運転手はせせら笑った。</seg></p>
      <p>「雨のことなんか話してないよ。菓子折のことだ。ウルサ型らしいから、一番上等のを買えって、常務が言うもんで――」</p>
      <p>「へえ。そんな上等の菓子だったのか。中身は何だっけ」</p>
      <p>「カステラだよ。食べたくせに、もう忘れたのかい？」</p>
      <p>「食べなかったよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27870-27965">彼は正直に言った。ウソをつくと、また混乱するおそれがあった。</seg></p>
      <p>「食べなかった？　人にやったんですか？」</p>
      <p>「いや。燃してしまった」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28065-28154">白い焔と甘たるい匂いが、彼にまざまざとよみがえって来た。</seg></p>
      <p>「なるほどね。カステラを燃すと、あんな匂いがするのか」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28237-28338">運転手は返事をしなかった。背中がすこしふくれ上ったように見えた。</seg></p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28338-28613">窓から見る街には、風がなかった。街路樹も電線も、どんよりと動かなかった。早く家に戻って水を浴びたい。彼はへばりつく下着を皮膚から剥がしていた。押えつけるような声で、運転手が言った。</seg></p>
      <p>「旦那。まだ賭けごとはやってるのかね？」</p>
      <p>「賭けごとって、何だい？」</p>
      <p>「そら。車の中で、連れの若い男としきりに話し合ってたじゃないか。競馬や花札のことをさ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28847-28903">信号が青に変って、車は動き出した。</seg></p>
      <p>「連れの男って、途中で降りた奴か？」</p>
      <p>「そうだよ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28979-29134">またしてもこんぐらかって来たな、と彼は考えながら、窓側に体をうつした。風が彼の顔を荒々しくこすった。</seg></p>
      <p>「僕は賭けごとの話をしないよ。する筈がない」</p>
      <p>「いや。していたよ」</p>
      <p>「でも、僕は競馬も花札もやったことはないんだぜ。やったことがないのに、話は出来ない」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29362-29541">ではあの晩、矢木と何の話をしたのか、もう彼には思い出せなかった。話したという記憶はあるが、その内容は消え失せている。</seg></p>
      <p>「すると勝負ごとは、何もやらないと言うんだね」</p>
      <p>「そうは言わない。将棋なら少し指す」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29668-29844">また交差点で停った。運転手はタオルを出して、掌だのハンドルなどをごしごしと拭いた。タオルは汚れて、くろずんでいた。</seg></p>
      <p>「暑いね。旦那」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29870-29926">いらいらした声で、運転手が言った。</seg></p>
      <p>「いっしょに氷水を飲まないか。行きつけの店が、この先にあるんだ」</p>
      <p>「そうだな」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-30044-30292">いらいらした運転手に気をつけろと、誰からか言われたのを、彼は思い出した。早く家に帰りたいけれど、ここは我慢してつき合った方が安全かも知れない。彼は気弱く妥協した。</seg></p>
      <p>「では、そうするか」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-30324-30680">車はそれから五百メートルほど走り、歩道にタイヤをすり寄せて停った。彼は車を出た。氷水屋の赤い旗はだらりと垂れ、のれんを分けてくぐる時、粒々のガラス玉が腕の毛をチクチク引き抜いて痛かった。氷をあつかう店のくせに、店内は街よりも暑かった。</seg></p>
      <p>「氷イチゴ二つ」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-30706-30879">そして運転手は店の隅に行き、古ぼけた将棋盤を持って来て、彼に向い合った。細いねむそうな眼が、彼の真正面にあった。</seg></p>
      <p>「旦那。一丁指そうじゃないか」</p>
      <p>「なに。将棋を、ここでか？」</p>
      <p>「そうですよ。あんたは指すと言ったじゃないか」</p>
      <p>「指すとは言ったよ。しかし君とは――」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31100-31237">言いかけて、彼は口をつぐんだ。のっぴきならないものが、背中に迫っているような感じがした。</seg></p>
      <p>「何か賭けるのか？」</p>
      <p>「うん」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31283-31402">細い眼がすこし大きくなった。眼球に赤い血管がチクチクと走っているのが見える。</seg></p>
      <p>「負けた方が、相手に最敬礼をする。それでどうだね。旦那」</p>
      <p>「よし。指そう」</p>
      <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31514-31730">常務の白いぶよぶよした掌が、運転手の後頭部をぐっと押す。頭は圧力にあらがいながら、結局のめってしまう。ふん。あれか。そう思ったとたん彼は全身の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-31730-31751"><rb>弛緩</rb><rt>しかん</rt></ruby><seg source="#source-31751-31892">の底から、妙な闘志が湧き上って来るのを感じて、運転手よりも先に、駒をぱちぱちと並べ始めていた。</seg></p>
    </body>
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        <note type="source-attribution" source="#source-31900-32200"><seg type="source-line">底本：「ボロ家の春秋」講談社文芸文庫、講談社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">2000（平成12）年1月10日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">底本の親本：「梅崎春生全集　第6巻」新潮社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1967（昭和42）年5月10日発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「群像」講談社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1962（昭和37）年7月</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-32200-32538"><seg type="source-line">入力：kompass</seg><lb/><seg type="source-line">校正：酒井裕二</seg><lb/><seg type="source-line">2016年3月4日作成</seg><lb/><seg type="source-line">2016年8月11日修正</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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