## 一

『猿沢佐介の背中には、きっと一つの<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>がある。しかもそいつのまんなかに、<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>れて黒い毛が三つ、生えているのに相違ない』

いつからか、蟹江四郎は、そう思うようになっていました。思うというより、信じるといった方がいいかも知れません。思ったり信じたりするだけではなく、時には口に出して言ってみたりさえするのです。もちろん人前でではなく、こっそりとです。七五調の新体詩みたいな調子のいい文句ですから、つい口の端に出て来やすいのでした。

ひとりで部屋でお茶を飲んでいる時とか、道を歩いている時などに、だから彼はふと<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いています。ちょいと<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>のような具合なのです。

『猿沢佐介の背中には、節穴みたいな痣がある。そしてそいつのまんなかに……』

それを呟くとき、蟹江四郎の顔はいつもやや<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>み、表情もいくらか<ruby><rb>苦渋</rb><rt>くじゅう</rt></ruby>の色をたたえてくるようです。ふだんから突き出たような眼玉が、そんな時はなおのこと、ぎょろりと飛び出してくるように見えました。

しかしこの七五調仕立ての文句は、その発想において、間違っていました。それは蟹江自身もよく知っていました。本来ならば、これは次のように言うべきなのです。

『三本の黒い縮れ毛の生えた、直径一<ruby><rb>糎</rb><rt>センチ</rt></ruby>ほどの痣が、この世のどこかに存在する。誰かの背中にきっと<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りついているのだ。その誰かというのは、あの猿沢佐介に違いない』

つまり、猿沢の背中に痣があるかどうか、ということが問題ではなく、痣があるのは猿沢の背中かどうか、ということなのです。言葉にすれば似たようなものですが、意味から言えばすこし違っているでしょう。

蟹江四郎は、猿沢佐介の裸の背中を、まだ見たことがありません。いや、見たことはあるかも知れませんが、どうもその印象が<ruby><rb>憶</rb><rt>おも</rt></ruby>い出せないのです。夏ともなれば、暑いのだから、猿沢佐介だって肌を脱ぐだろう。そうだ。衣服を脱いでパンツひとつになり、庭の草花に水をやったり、体操や縄飛びなどをしているところを、たしかに見たことがある。そう思って、その印象を憶い出そうとするのですが、<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>に浮んでくるのは、猿沢の胸に濃く密生した胸毛の色とか、<ruby><rb>双腕</rb><rt>もろうで</rt></ruby>のぐりぐり筋肉の形とか、そんなものばかりで、背中のことは全然浮んでこないのです。それはそうでしょう。人間というものは、交際や交渉の関係上、お互いの前面をしか眺めないもので、背面をしみじみ眺め合い、それを記憶にとどめ合うなどとは、めったにないことです。あるとすれば、しごく特別の場合でしょう。

蟹江四郎が猿沢佐介と知合いになったのは、もうずいぶん以前です。かれこれ二年にもなるでしょうか。しかしそれは、知合いになるのが当然であって、しかも初めはなんとなく顔見知りになり、やがてある夜、あることを中心として突然近付きになったのです。この二人の男は、ごく近くに住み合っている、近隣同士の間柄なのでした。お互いの玄関まで、歩いて三分とかからない、まったく同じ<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>の、まったく同じ大きさの家に、この二人はそれぞれ居住していました。

それは戦争中、某軍需会社の社宅だったという話でした。一面の畠のまんなかに、四角に土地を<ruby><rb>地均</rb><rt>じなら</rt></ruby>しして、そこに二十軒ばかりの同じ形の家が、行儀よく並んで立っています。敗戦後しばらくしてその会社は<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れ、この社宅も売りに出されたという訳でした。だからここは今は、社宅時代とは全く異なり、<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>も違えば職業も違う、雑多な世帯や家族の群落なのです。同じ一郭に住んでいるというだけで、お互いに通い合うものもほとんどない人々が、なんとなく顔をつき合わせて暮している恰好でした。

なにしろ畠のまんなかにぽつんと孤立した部落で、肉屋に三町、風呂屋に五町という不便なところですが、そうかといってこの部落の人々は、別段お互いによりそったり、団結したりする気持はないらしい。いつまで経ってもばらばらで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にがり</span>を入れ忘れた豆腐みたいに、いっこうに固まる気配はないようです。結局それがお互いに気楽なのでしょう。そのくせ、近隣の動静に、全然無関心というわけではありません。表面では<ruby><rb>何気</rb><rt>なにげ</rt></ruby>ない表情でも、かげでは妙に気を廻したり、こまかく神経を働かせていたりするのです。たとえば、どの家では今日牛肉の上等を百目買ったとか、どこの家では昨晩夫婦<ruby><rb>喧嘩</rb><rt>げんか</rt></ruby>をやったとか、まあそんなことです。つまりこの部落の人々は、ことに女たちは、そのような毒にも薬にもならない噂話が、大好きなのでした。

そんな噂話のひとつに、猿沢佐介のことがあります。猿沢佐介という男は、戦争前、ある小さなサーカス団長をやっていた。そういう噂なのです。噂というよりは、今ではもう、伝説といった方がいいかも知れません。当人もそれを否定しませんし、それらしく振舞っている傾向さえあります。団長らしい派手なジャケツを着て、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>のようなものを持ち、畠の中を<ruby><rb>悠々</rb><rt>ゆうゆう</rt></ruby>と散歩したりするのです。部落の共同井戸端から、洗濯中の女たちがその姿を眺めて、

「ほんとに団長そっくりね」

「まったくね。あのだんだら模様のジャケツの色なんかもね」

まさかその噂を助長させる目的で、そんな恰好をしているのでもないでしょうが、それでも時々、動物を調練する具合に鞭をヒュッと振ったり、口笛をピュウと鳴らしたりするのです。まったく板についた<ruby><rb>仕種</rb><rt>しぐさ</rt></ruby>でした。

「あの人の奥さんも、ひょっとすると、サーカス娘だったかも知れないわね」

「あ、そうだ。きっとそうよ。こないだあそこの<ruby><rb>独木橋</rb><rt>まるきばし</rt></ruby>を、調子をつけてひょいひょいと渡ったわよ」

「ふん。じゃ綱渡りの要領というわけね」

噂の発生とは簡単なもので、これで猿沢夫人の前身は、すっかり綱渡り娘ということになってしまうのです。

猿沢夫妻の間には、子供が一人あります。まだ赤ん坊です。その赤ん坊に、近頃猿沢佐介は『おあずけ』を仕込んでいるという話でした。赤ん坊の眼の前にお菓子をおいて、そして猿沢がするどい声で、

「おあずけ！」

と命令する。するとその赤ん坊は、出しかけた手を直ぐ引っこめて、おとなしくかしこまるということです。それを見た人がいるというのですから、本当なのかも知れません。この話に対して、部落の人々の間では、これは赤児の基本的人権の無視であるという非難と、さすがはサーカスの元団長だという賞讃と、二つの説に分れていました。賞讃説の方は、もっぱら女の方に多いようです。猿沢佐介は<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>も一応は立派だし、口もなかなかうまいので、女群から一般に好意を持たれているようでした。その反面、男たちからは、あまりよく思われていなかったかも知れません。

猿沢佐介は、もう四十位になるでしょうか。しかしいつも派手な身なりをしているので、若々しく見えます。手足の皮膚もつやつやしていて、まるで青年みたいです。しかし顔だけは、つやつやと言うより、てらてらと赤く光っているのです。ことに鼻の頭などは、すっかりトマト色になっていました。これは言うまでもなく、酒焼けというやつです。猿沢佐介はおそらく部落きっての飲み手でした。毎晩酒の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>を、切らしたことがないという噂でした。家でも飲むし、もちろん外でも飲む。駅近くの飲み屋や<ruby><rb>屋台</rb><rt>やたい</rt></ruby>で、とぐろを巻いている猿沢の姿を、蟹江はしばしば見かけることがありました。

蟹江四郎が猿沢佐介と口を利き合うようになったのも、駅近くのある飲み屋ででした。その飲み屋の名は『すみれ』というのです。その優雅な名前にも似ず、それは<ruby><rb>軒</rb><rt>のき</rt></ruby>も傾いたような、ぼろぼろのきたない居酒屋でした。

蟹江も酒は大好きでした。しかし安月給の身なので、毎日毎晩飲むというわけには行かない。五日に一度とか、一週間に一度とか、せいぜいその程度にしか飲めません。どんなに彼は毎晩飲みたかったことでしょう。しかしそれは出来ないことでした。歯を食いしばるようにして『すみれ』の前を通り過ぎ、暗い畠中道を黙々と家に戻ってくる。駅から彼の家まで、五六町ほどもあるのです。この道のりが、別の事情もあって、<ruby><rb>素面</rb><rt>しらふ</rt></ruby>のときには、仲々つらいのでした。

それは、蟹江が猿沢と知合いになった頃、つまり今から二年ほど前のことです。

その時分、そのような貧しい蟹江にとって、猿沢の存在がどう感じられていたか。もちろん近所同士ではあるし、目に立つような恰好をしているから、蟹江は猿沢の顔や名をよく知っていました。どんな職業に従事しているのか知らないが、いつも派手な身なりをして、そこらをぶらぶら散歩したり、しかも毎晩『すみれ』なんかで酒を飲んでいるようだ。得体の知れない、へんな男だな。その程度の感じだったとも言えましょう。しかし、あるいはその頃すでに、彼は猿沢に対して、もっと深い感じを持っていたのかも知れません。つまり、それは言い換えれば、漠然たるわだかまりといったようなものです。

俺が飲むや飲まずの生活をしているのに、あいつは派手に毎晩飲んでいる。わだかまりの感じのひとつは、そういうことでもありました。すなわち、猿沢という男に対する、ぼんやりした隣人的嫉妬。そういう風に表現してもいいでしょう。この世に<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>している人は他にたくさんいるのに、隣人の猿沢にだけそんな感じを持つなんて、すこし<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しな話ですが、もともと人間とはそういうものなのでしょう。大きな敵が前面に控えているのに、仲間同士で分裂していがみ合っている、そういう例はよく耳にするところです。人間の感覚というのは、身近なものに対してのみ、反応するものなのかも知れません。しかし無論蟹江のこの感じは、その頃はまだ<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>としていて、自分でもはっきりととらえがたい程度だったわけです。

猿沢と初めて口を利いたのは、ある寒い冬の夜のことでした。その夜蟹江は『すみれ』の一隅に腰をおろして、ひとりちびちびと<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>のコップを傾けていたのです。その蟹江の卓の向う側に、毛皮のジャンパーを着込んだ猿沢佐介が、やはり静かに徳利をかたむけていました。この二人はこの店で、それまで度々顔は合わせているのですが、まだ口をきき合ったことは一度もないのでした。

店の奥の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>には、色の白い若い女がひとりひっそりと腰かけていました。これはこの店の給仕女で、久美子という女です。給仕女といっても、酒をあたためたり<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を運んだりする、ただそれだけの役目でした。

猿沢が飲んでいるのは、一級酒の<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>でした。しかも肴を三四品並べたりして、なかなか豪勢な恰好です。これに反して蟹江の方の肴はたった一皿で、それも一番安い<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>の煮付けなのでした。表側はすっかり食べ終って、丁度いま裏にひっくりかえしてみたところです。

猿沢はしずかに<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を唇に持ってゆきながら、さっきからちらちら眼を動かして、久美子の様子をぬすみ見たり、蟹江のコップの方を眺めたりしていましたが、ふとその皿に眼をおとして、突然独り言のようなことを言いました。

「裏白の魚なんて、おかしなもんだねえ」

蟹江の酔った耳は、ふいとその呟きを聞きとがめました。それにいい加減酔いが廻って、話し相手が欲しくもなっていたので、彼はうっかりと顔をあげて問い返しました。

「なんだって。裏白の魚だって？」

「そうさ」と猿沢は、初めて蟹江の存在に気付いたような顔をよそおって、しごく<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>にうなずきました。「それは鰈だろう。表が黒で裏が白。魚のくせに裏表があるなんて、奇怪な感じのものだねえ」

「そりゃ仕方がないさ。生れつきだもの」と蟹江は頬をふくらませて、鰈のために弁護しました。「僕なんかはこの魚が大好きだよ。味も良いし、やわらかだし、栄養も豊富だしさ」

「栄養たっぷりかも知れないが、顔が歪んでひねくれてるねえ」猿沢はライターを取出して、カチッと火をつけました。「うちでは、その魚は、もっぱら猫が食べる」

その時奥の椅子で久美子が、かすかに笑ったような声を立てたものですから、蟹江は急に面白くないような気分になって、箸を置こうとしました。すると<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の煙の向うから、猿沢はにやにやと笑って、あやまるように<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>をふりました。

「いや、失礼、失礼。べつに君の肴に、ケチをつけるつもりじゃなかったんだ」

「僕だって、ケチをつけられたとは、思っていないよ、猿沢君」

ついうっかり相手の名を言ってしまって、蟹江は照れかくしにコップをぐいとあおりました。猿沢は笑いを浮べたまま、その動作をじっと見守っていましたが、やがて蟹江がコップを卓へ置くと、こんどは視線をそこに移して、コップの中で揺れる透明な焼酎の色を、もの珍らしそうに眺め始めました。その眼付や真赤になった鼻の色からしても、猿沢はもう相当に酔っているらしいのでした。

「ねえ」やがて猿沢は視線をそこに定めたまま、相談でももちかけるように、低い調子で口を開きました。「もしもだね、メチルで<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>になったと仮定する。もちろん仮定だよ。その時君は、アンマになろうと思うかね。それとも琴を勉強して、その方面の師匠になろうと思うかね？」

その時の猿沢の顔がへんにまじめな表情だったので、蟹江はふと返答にまごつきました。

「仮定の問題には、ちょっとお答え出来ないけれど――」なんだか圧迫されるような気分になりながら彼はどもりました。「な、なぜそんなことを聞くんだね？」

「いや、今ふっと思いついたのさ」と猿沢は視線をゆっくりともどしながら、妙な笑い方をしました。「二つのものから一つを選ぶということは、これはなかなか大変なことだからね。つまり、芸術家か、生活人か、という問題だ」

「じゃ君なら、どちらを選ぶ？」

俺のコップを眺めながらそんなことを思い付くなんて、まるでこの焼酎がメチルみたいじゃないかと、やっとその時そう気がついて、蟹江はすこし<ruby><rb>中</rb><rt>ちゅう</rt></ruby>っ<ruby><rb>腹</rb><rt>ぱら</rt></ruby>な調子で反問しました。

「僕かい？　僕はね――」

猿沢はそこでふいに言葉を切り、自分の徳利をちょっと振ってみて、ずるそうににやりと笑いました。なにか魂胆ありげな表情なのです。そして奥へ顔をむけ、いやらしい猫撫で声を出して、久美子に呼びかけました。

「お久美ちゃん。お銚子をどうぞもう一本」

「はい」

返事をして調理場に入ってゆく久美子の後姿を、猿沢の眼がじっと追っていました。なんだか妙に粘っこい眼付だと、蟹江はすこし厭な気持になりました。厭な気持になる理由が少しはあったのです。そして思わず、ぐふんと鼻を鳴らしました。すると猿沢は急に顔をこちらにむけ、まるで怒ったみたいな表情になり、押しつけるような低声でささやきました。

「君はお久美が好きなんだろ。え、蟹江君」

ちゃんとこちらの名前も知っているのです。蟹江の肩はぴくりと動き、見る見る顔がまっかになりました。それはまったく図星だったからです。すると猿沢はにやりと顔をくずし、押っかぶせるように、わけの判らないことを言いました。

「それじゃ彼女も、二者択一というわけだ」

「それでさっきのメチルのことは――」

蟹江はすっかりどぎまぎして、こんなとんちんかんなことを言いました。そこへ久美子が徳利を持って出てきたものですから、猿沢もにわかに態度をつくろって、それに調子を合わせるような言葉つきになりました。

「僕はアンマだね。まあそういうことだ。ところで君は芸術派なんだろう？」

猿沢の盃にお酌する久美子の小麦色の横顔が、急にまぶしいような気がして、蟹江は黙って眼をぱちぱちさせました。すると猿沢は戸の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>るような声を立てて、意味もなく笑い出しました。その笑い声が、蟹江のかんにさわったのは、勿論のことです。その蟹江の前に、猿沢は右手をにゅっとつき出して、握手を求めるような恰好をしました。

「さあ。これを御縁に、君と友達になることにしよう。いいだろうね、蟹江君」

## 二

その夜のことを考えると、蟹江はどうもうまくはかられたような、そんな気がしてならないのでした。ちゃんと会話のだんどりをつけ、こちらを充分混乱させ、そしてずばりと図星をさして来た。その<ruby><rb>老獪</rb><rt>ろうかい</rt></ruby>なやり口を思うと、蟹江はまったく<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しい気分になってきます。しかしこれは忌々しがってばかりもいられないことでした。

『あいつも久美子に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れているらしい』

そのことを思うと、蟹江はいても立っても居られないような気持に、駆り立てられてくるのです。それはまだ、当の久美子にも打ちあけてないのですが、蟹江の胸中に、半年前からはぐくまれていた恋なのでした。それを今更、横合いからうまうまと奪い取られては、全くたまった話ではありません。

『早いとこどうにかしなければならない』

と蟹江は本気で思う。どうにかしなければ、と言うのは、機会をとらえて久美子に結婚を申し込み、夫婦になってしまうということでした。つまり蟹江はその頃、独身だったのです。

三十六歳にもなって独身だというのも、少々わけがありました。実は蟹江にもかつては妻があったのですが、兵隊で五年も外地に引っぱられ、やっとのことで復員してくると、妻は見知らぬ男と一緒に生活していたのです。復員姿のその蟹江にむかって、彼女は平然と言いました。

「なんだ、生きてたの。死んだとばかり思ってたのに。でも、もう遅いわ。ぜんぜん遅刻だわ」

ぜんぜん遅刻だわとは何事だと、蟹江はたいそう腹を立てましたが、もう仕方がありません。そこでこの薄情な先妻を断念して、余儀なく独り身となったのです。独身生活も初めこそさばさばして、楽しいようなところもあったのですが、その<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>にだんだん<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しくなり、少々やり切れなくなってきたところへ、こんどは『すみれ』の久美子が現われたというわけなのでした。

蟹江の勤め先は、ある私立図書館です。彼はそこの貸出係りでした。古ぼけて小さな図書館ですから、入館者の数もすくない。したがって貸出係りも、しごく閑散な仕事でした。貸出台の向うに坐って、一時間のうち一度か二度立って書庫に入るだけで、あとはただじっとして居ればいいのです。蟹江はこの職場が気に入っていました。<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>な時間がたくさんあって、しかも本が存分読めるからです。ただひとつの欠点は、月給が多くないということですが、仕事がらくなんだから、これは仕方がない話でしょう。書庫の万巻の蔵書がタダで読めることで、充分におぎないがつく。そう思って彼は<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めていたのですが、『すみれ』に久美子が現われて以来、単純に諦めてばかりはおれなくなった<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>です。久美子の顔を見るには、それ相当の飲み<ruby><rb>代</rb><rt>しろ</rt></ruby>が必要だという訳でした。

久美子は暖国の生れらしく、色のあさぐろい眼のぱっちりした女でした。顔立ちは面長で、多肉果実の種みたいにすべすべした肌をしています。しかも割に無口で、おとなしそうな感じなのでした。蟹江が久美子に好意を感じたのも、別れた先妻があまりおしゃべりでガラガラ女でしたから、反射的にそんな久美子に心が動いたのかも知れません。

『あんな女を女房にしたら、具合よくゆくかも知れないな』

二三度『すみれ』に通ううち、もはや蟹江はそう思うようになっていました。平穏なる家庭的平和。蟹江がぼんやりと望んでいるのは、それなのでした。久美子に求婚し、家庭へ迎え入れる。それをさまたげる事情は何もないのに、半年も蟹江がためらっていたというのも、実は彼は自分の容姿その他に自信がなかったからでした。自分は背も低いし、その癖いかり肩だし、眼はぎょろりと飛び出ているし、あまり取り柄のない男ぶりだということは、彼もちゃんと自覚していました。だからその点において、『すみれ』における猿沢の存在は、彼の胸をおびやかすに充分なのでした。

『しかしあいつには女房がいるではないか。全くけしからん』

相手の男に女房がいても、女心は動くものだろうか。小説なんかで見ると、動いたりすることも<ruby><rb>間々</rb><rt>まま</rt></ruby>あるらしい、などと思うと、蟹江はじっと辛抱できないような気持になってきます。あいつは俺より背が高いし、身なりも派手だし、金離れもいいと来ている。しかも口もうまいらしい。しかし、そんなことに、あの聡明そうな久美子が動かされるだろうか。不安なような気もするし、また大丈夫のような気もする。でも久美子はやはり、女房持ちの男よりも、独身男に共感と関心を持つんじゃないかしら。

蟹江がそう考えるのは、こんなことがあったからでした。メチル問答の夜から二十日ほど前、彼が『すみれ』でひとり飲んでいると、久美子が何を思ったのか彼の傍につかつかと近づいてきました。そして、しずかな声でこう言ったのです。

「あら、ボタンがとれかかってるわ」

電車でもみくちゃにされて、<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>れかかった外套のボタンを、久美子が眼ざとく見つけたらしいのでした。

「あたしが縫いつけてあげるわ」

そして針と糸でつくろってくれる間、蟹江は身体があたたかくなるような気分で、久美子の指の動きを眺めていました。心がうきうきして焼酎がいつもの倍ほども<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>く感ぜられたくらいです。

「ありがとう。君は裁縫もうまいんだね」

ほほほ、と久美子は笑いました。そして親しそうな調子で言いました。

「あなた、独身なの？」

「ああ、そうだよ」

「不便でしょうね、ひとりだと」

そこで二人は独身ということについて、少しばかり会話を交しました。店の中はこの二人きりで、他には誰もいなかったのです。そのせいで無口な久美子も、彼に話しかける気持になったらしいのです。言葉を交しているうちに、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>とそこへがたがたと表の扉があいて、お客が一人入ってきたものですから、会話はそこで途切れて、久美子はそそくさと奥に引っこんでしまいました。蟹江はひどく残念な気持がしました。入ってきた客というのは、猿沢佐介だったのです。

『あの時、俺と久美子が親しげに話してるのを見て、猿沢は俺に<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>をつける気になったんだな』

しかし猿沢が久美子に興味を持っていようとは、彼は別に思ってもいなかったものですから、あのメチル問答の夜のことは、蟹江には相当のショックでした。

その夜以来、蟹江は二日か三日に一度くらいの割で、無理して『すみれ』に立ち寄るのですが、その度に必ず猿沢がでんと腰をおろしていて、<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>の刺身か何かで盃を傾けているのです。そして彼の姿を見ると、

「やあ、蟹江君」

などと機嫌のいい、聞きようによっては勝ち誇ったような声で、あいさつをします。だから蟹江も自然と彼の傍にかける羽目となり、飲みながら世間話をするような恰好になってしまいます。しかし久美子のことについてはあの夜以来、一度も猿沢は口には出さないのでした。ただ態度でもって、蟹江を圧迫しようとする気配があるようでした。つまり蟹江の目の前で、久美子にむかって、わざとらしい親しげな口をきいてみたり、蟹江が<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>の煮付けだけで我慢しているのに、刺身だの酢の物だのをどしどし注文したり、まあ大体そんなことです。一種の神経戦術みたいなやり方でした。

こういう具合ないきさつで、日が経つにつれ、蟹江がいらいらしたり不安になったりしてきたのも、その巧妙な戦術に引っかかったのかも知れません。

昼間、貸出台に坐っていても、久美子と猿沢のことを考えると、彼は急に胸がどきどきしたり、背筋がつめたくなってきたりするのです。あの小麦色の久美子の肉体を、すでに猿沢のやつがものにしたかも知れないぞ、などと思うと、わっと叫び出したくなってくる程なのです。だからなるべくそんなことを考えまいとして、貸出台にしがみついて、面白そうな小説本などを読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>ってまぎらわそうとする。するとその小説が、近頃評判の新作家の姦通小説であったりして、とたんに久美子のことを思い出して、むしゃくしゃした気分になってしまう。

久美子にたいする控え目な慕情が、猿沢の出現以来、しゃにむにといった具合の<ruby><rb>熾烈</rb><rt>しれつ</rt></ruby>な情熱に変化したのは、蟹江にとっても意外なほどでした。つまり競争意識というやつなのでしょう。奪い去られるかも知れないという<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>が、一挙に蟹江の情熱をかき立てたに違いありません。今久美子を失えば、自分の人生はもう終りだ。まったくそんな感じなのでした。それにつけても、何はともあれ先ず猿沢に手を引かせること、それが蟹江にとっては第一の問題でした。

『よし』そんなある日蟹江ははっきりと心に決めました。『ひとつ談判して、あいつにすっかり手を引かせてやる』

猿沢が素直に手を引くかどうか。それはいささか疑問でしたが、蟹江はいろいろ考えて、ひとつの切札のようなものを発見していました。それはあの、以前綱渡り娘だったなどと噂されている、猿沢夫人のことでした。

猿沢夫人は痩せぎすの、<ruby><rb>敏捷</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>そうな身体つきの女性です。顔は美しいけれどもやや険があって、それは<ruby><rb>牝豹</rb><rt>めひょう</rt></ruby>か何かを<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>させました。蟹江はかねてから、この夫人は意地っぱりで嫉妬深い女ではないか、と見当をつけていました。きっと猿沢もこの夫人には頭が上らないに違いない。ねらいどころはそこだ。蟹江が考えついたのはそれです。これを効果的に利用して、猿沢の浮気心を粉砕しなければならぬ。

この蟹江のねらいは、見事に成功したらしいのです。というのは、それから二三日後の夜のことでした。

勤めの帰りに『すみれ』に立ち寄って見ると、やはりその夜も猿沢が横柄な恰好で、しきりに酒を飲んでいました。あの夜以来、猿沢はここに毎晩入りびたっているらしい<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>なのです。もうすっかり酔っぱらっている様子で、顔をてらてらと赤くさせ、久美子をからかったりしているところでした。全くいい気なものだと、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しげに唇を噛み、蟹江はその傍にそっと腰をおろしました。

それから一時間ばかり、蟹江は猿沢といっしょに酒を飲みました。胸に<ruby><rb>一物</rb><rt>いちもつ</rt></ruby>あるので、蟹江はいつもよりコップの数を控え目にしました。<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>はもちろん<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>の煮付けです。この頃では、黙っていても、久美子はこれを運んでくるのでした。

蟹江が猿沢にれいの談判を切り出したのは、その帰途、『すみれ』から二町ほど来た畠中道でした。彼はいきなりこう言ったのです。

「僕は久美子さんが好きなんだ。だから君は手を引いて貰いたい。だいいち僕の方が早いんだぞ」

十三夜の月明の畠中道を、猿沢はふらふらと歩いていましたが、いきなりそう切り出されて、さすがにぎくりとしたように振り返りました。しかし声だけは元気に言いかえしました。

「どちらが早いか、どうして判るんだ」

「こちらは半年前からだぞ。それに僕は真剣なのだ。君のは浮気に過ぎんじゃないか」

「なんだな」と猿沢はぐいと肩をそびやかすようにしました。「君は僕の自由を束縛するつもりだな」

「束縛するつもりではない」そして蟹江は効果をはかるように、一語々々をはっきりと発音しました。「とにかく、僕は、このことを、君の奥さんとも、相談しようと、思うんだ」

猿沢は黙って棒のように立っていました。しめた、と蟹江は思いました。すぐ返事が出来ないのは、相当にこたえたからに違いない。そうにらんだからです。しかし猿沢は、やがて気をとり直したように、大声で笑い出しました。気のせいか、それはなんだか虚勢をはったような響きでした。

「よろしい。君の真剣さは判った」と猿沢は笑いのあいまに言いました。「それほど言うなら、僕は手を引こう。しかしそれには、交換条件がある」

「どんな条件だ？」

「君たちが結婚するとき、僕を<ruby><rb>仲人</rb><rt>なこうど</rt></ruby>に立てること。それがひとつだ」

「ふん。まだあるのか？」

「そうさ。僕の『すみれ』の<ruby><rb>借金</rb><rt>かり</rt></ruby>を、君が全部払ってくれるということ。まあそれだけだな」

こんどは蟹江が黙りこんで、月明りのなかに<ruby><rb>棒杭</rb><rt>ぼうぐい</rt></ruby>のように突っ立ちました。しばらく二人の男の影は、つめたく乾いた畠土の上に、くろぐろと静止していました。長い方が猿沢の影で、短い方が蟹江の影です。やがてその短い方の影から、手の形の影がにゅっと突き出ました。

「よろしい。承知した」

蟹江がためらっていたのは、その条件を呑んで、しかも久美子に求婚を断られたら、背負わされた借金額だけまるまる損になる、その計算を考えていたからでした。すると猿沢も手をにゅっと出して、二人の掌はひたと握り合わされました。猿沢は念を押すように言いました。

「借金の方は、大丈夫払って呉れるだろうな」

「払ってやる。その代りあそこには、もう足踏みするなよ」

こうして話合いは成立したのです。つめたい夜気のなかで、瞬間蟹江は英雄的な感激をさえ覚えました。この男もなかなかいい奴だ。友達になってやってもいいな。そんなことを本気でちらと考えたりした程です。頭上の暗雲が吹き払われたような、久しぶりに晴れ晴れとした心持でした。

さて、その翌晩のことです。『すみれ』に立ち寄ってコップを傾けながら、さりげなく、猿沢の借金額を訊ねてみると、なんと一万二千円もたまっているというのです。せいぜい千円か二千円と予想していた蟹江は、すっかり動転して、箸ではさんだ<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>の煮付けを、とたんに土間におっことしてしまいました。

「一万二千円だって？」

「ええ、そうよ。この頃毎晩なんですもの」と久美子はいぶかしげに答えました。「何故そんなことを気にするの。他人のことじゃないの」

「それが、まったく、ひとごとじゃないんだ」

と蟹江は眼をぎょろぎょろさせて、唇をかるく噛みました。その唇の端にふき出た唾の泡を見ながら、久美子は再びやさしく訊ねました。

「なぜひとごとじゃないの。あなたが払うとでも言うの？」

「実はそうなんだ」

「どういうわけなの、それは」

蟹江は困惑した風にうつむいて、黙り込んでしまいました。しんとした沈黙がきて、夜風が軒をわたる音だけが、さらさらさらと鳴っています。うつむいた蟹江の視線は、うすぐらい土間におちていました。そこには先刻取落した鰈が、ぐしゃっと潰れたようなみじめな顔付で、蟹江をしずかに見上げているのでした。

腹の中が急に熱くなるような気がして、蟹江はぐいと顔を上げました。そして背後から駆り立てられるみたいに、勢いこんで顔を充血させ、ぺらぺらとしゃべり始めました。

その夜遅く、蟹江四郎は日記帳に、次の如く書き込みました。

『夜すみれにおもむき、久美子に予が<ruby><rb>衷情</rb><rt>ちゅうじょう</rt></ruby>を打ち明く。久美女それを<ruby><rb>諒</rb><rt>りょう</rt></ruby>とせり。帰来、いささか虚脱を感ず。幸福とはかくの如きものか』

実際なんだかがっかりしたような気分でした。なんでそんな気分になるのか、自分でもはっきりしないのでした。それから彼は、しきりに考え考えしながら、更につづけて書き入れました。

『思うにこの世は仮の世なり。約束の上においてのみ成立するものなり。すなわち人生は演技なり。それには舞台装置も少々必要とするなり』

なんだか妙にむずかしくなって、何を書いているのか我ながら判らなくなってきたものですから、彼は舌打ちをして、日記帳をばたりと閉じました。そしてうっとうしい顔付になって、大きく背伸びをしました。実はこの日記文の古風なスタイルは、某文豪の日記の文体の<ruby><rb>模倣</rb><rt>もほう</rt></ruby>なのでした。彼はそれを<ruby><rb>頃日</rb><rt>けいじつ</rt></ruby>貸出台で読み<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>り、すっかり影響を受けてしまったという訳です。しかしどうもこういう文体では、現代的な憂愁を表現するのは、ちょっと至難なことのようですな。

それから日が経って、すこしずつ暖かくなってきました。

あれ以来、猿沢佐介は感心にも約束を守って、『すみれ』ののれんをくぐらない様子でした。それと同時に蟹江四郎の姿も、ひと頃ほどしげしげとは出入りしなくなったのです。それは猿沢の借金を支払うために、勤め先で金を借りたものですから、月々の給料からそれをさし引かれ、飲み代が<ruby><rb>捻出</rb><rt>ねんしゅつ</rt></ruby>できなくなったからでした。

やっと春になって、二人はめでたく結婚式をあげました。結婚といっても、<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>一個と共に久美子の身柄が、『すみれ』から蟹江の家に移動しただけの話です。しごくお手軽なものでした。結婚式も蟹江家でおこない、近所の人を小人数招き、約束通り猿沢が仲人に立ちました。猿沢佐介は『高砂や』はど忘れしたというので、その代りに『鞍馬天狗』をうたいました。『花咲かば告げむと言ひし山里の』というあのくだりです。なかなか音吐朗々たる声で、なみいる者は皆すっかり感服したらしい様子でした。

こうして蟹江と久美子の生活が始まったわけです。しかしその生活も、一年半ほどつづいただけで、突然ぴたりと終りを告げました。と言うのは、久美子が秋口の風邪をこじらせて、とうとう肺炎をおこし、はかなくも死んでしまったからです。

この非運に際して、もちろんのこと蟹江は嘆き悲しみました。涙がはてしなく流出して<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾くので、彼は水を飲んでは泣き、水を飲んでは泣き、一日中とめどもなく虫のように泣いていました。久美子が死んだことも無論悲しいが、安穏な家庭的平和がすっかり自分から去ってしまった、そのことが彼の胸をきりきりとかきむしってくるのでした。蟹江という男は、その真底においては、このように自己中心的な感じ方をする男なのです。彼はその風貌において貧しいのに、どこかしたたかな感じがするのも、おそらくその為なのでしょう。

『おれも良き夫であったが――』と悲しみの底で彼はしみじみ<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きました。『久美子もおれの良き<ruby><rb>伴侶</rb><rt>はんりょ</rt></ruby>だった』

悲哀がいつか疲労にかわり、その味気ない疲労にもやがて慣れ、そして一箇月ほど過ぎました。

ある日曜の昼間、久美子の遺品を整理していると、行李の中から、一冊の帳面が出てきました。表紙を見ると、『かりそめ日記・蟹江久美子』と書いてあります。久美子の日記帳らしいのでした。その字を見ると、蟹江はとつぜん涙が出そうになってきて、あわてて天井を向いたり、外の景色を眺めたりしました。そして二三分して、やっとその頁をめくり始めました。

ある頁までくると、いろいろ動いていた蟹江の表情が急に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>ったように固まり、視線も同じところを何度も往復するようでした。やがて疑惑と困惑のいろが、彼の顔面にぼんやりとただよい始めました。

## 三

『私はＳを愛している』

とその頁には書いてあるのでした。

『Ｓは私の不幸をなぐさめて呉れる。そのなぐさめによって、やっと私は生きている』

蟹江は胸に不吉な鼓動をかんじながら、先に読み進みました。

すると次の頁の中頃に、日付がかわって、

『七月十五日。本日は晴天なり。

昼間よその黒猫が来て、台所から<ruby><rb>鰈</rb><rt>かれい</rt></ruby>を盗って逃げる。あの猫に盗られるのも、これでもう三度目だ』

そして一行あけて、

『あたしはＳの背中が好きだ。Ｓの背中は広くてがっしりしている。

その背中のまんなかあたりに、小さな茶色の<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>がある。直径は一センチメートル位かしら。そこに<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>れた毛が三本生えている。抱くと私の指がそれに触れる。その感触。

痣には表情がある。悲しい表情。うれしい表情』

また一行あけて、こんどは詩みたいな形式で、

『痣は背中のまんなかだ。

痣は背中の<ruby><rb>定紋</rb><rt>じょうもん</rt></ruby>だ。

あたしの愛の表章だ』

胸がわくわく鳴り、背筋がじんじんしびれてきたものですから、蟹江は思わず視線を宙に浮かせました。眼がぎょろりと不安げに光って、それはまったく沈鬱な表情でした。それからなにか<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>えたように部屋中をぐるりと見廻しました。

『どうも俺には理解できないようだ』と彼は口の中でもそもそ呟きました。『Ｓ。Ｓとは何だろう？』

突然耐えがたくなってきたものですから、蟹江は大あわてで日記を閉じ、それを行李の中にもどしました。そして行李を押入れの中に入れてしまうと、また部屋のまんなかに戻ってきて、肩をそびやかして大あぐらをかきました。そうしても何だか不安で、追い立てられるような気持はやみませんでした。

『結婚。結婚とは何だろう。何だったのだろう？』

彼は苦しそうにうめきました。四五日前、図書館で読んだ哲人の書物のなかに、結婚とは人間のグレガリアスハビット（群居性）の一形式に過ぎない、とあったのを、ふと思い出したのです。それから突然立ち上って、部屋の隅の机の引出しから何かを取出し、またそこにへたへたと坐りこみました。それは蟹江自身の日記帳でした。

「たしか七月十五日だったな」

そう呟きながら、彼は自分の日記帳をぺらぺらと忙しくめくりました。七月十五日のところをあけると、彼はじっとそこに眼を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えました。そこにはこう書いてありました。

『七月十五日。晴。暑き日なり。

帰途、電車の中にて、臼井君と一緒になる。あいたずさえて駅を降り、畠中道を家路に急ぐとき、一陣の風来たりて、臼井君のカンカン帽を吹き飛ばす。臼井君大いに<ruby><rb>周章狼狽</rb><rt>しゅうしょうろうばい</rt></ruby>してそれを追う。

予すなわち抱腹絶倒せり』

俺が何も知らずに抱腹絶倒などしていた同じ日に、久美子はＳの背中の痣をまさぐったりしたのだな。悲痛な色をうかべて、蟹江はそう思わざるを得ませんでした。するとあのおとなしそうな、あさぐろい久美子の顔が、今までとは違った印象として、胸に浮び上ってきました。その顔は彼の想像のなかで、にこやかにわらっているのでした。悲嘆と<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>と哀憐の念が、嵐のように彼の心をみたしました。哀憐の念というのは、久美子に対してと言うより、おもに裏切られた自分自身に対してです。

それ以来彼は、ぼんやりしている時とか、印刷物の中にＳという活字を見た時などに、ふとそのことを思い出して、そっと唇を噛むのでした。誰かに相談したり、打ち明けたりする訳にも行かないのです。それは自分の愚かさを相手に知らせるだけだからです。とにかく自分だけで、Ｓの正体を<ruby><rb>糺明</rb><rt>きゅうめい</rt></ruby>しなければならぬ。Ｓとは何か？　それにしきりに考え耽っていて、つい電車を乗り越すことさえありました。Ｓとは何か？

こうして、猿沢佐介の存在が、ふたたびひとつのわだかまりとして、彼の胸に登場して来たわけでした。

何時からＳという字が、猿沢佐介の影像とむすびついたのか、蟹江にもよく判らないのです。ふと気がついてみると、彼は心のなかで、猿沢佐介をＳという字に代置して、ぼんやりと考えているのでした。あるいはそれは夢の中でむすびついて、それがそのまま起きている意識に、引きつがれたのかも知れません。いつかの夜、そんな夢を見たような気がする。そう思って、いろいろ記憶を探ってみるのですが、どうも憶い出せない。はっきりしないのでした。

『しかしそれが結びついた以上――』と彼は考えたりするのです。『俺はいつの瞬間か意識の奥底で、猿沢佐介をはっきりと想定したに違いない』

想定した根拠は判然しないとしても、考えてみると、いろいろ疑わしい怪しいような<ruby><rb>節</rb><rt>ふし</rt></ruby>もある。第一猿沢佐介という名前は、その発音の響きからしても、Ｓのかたまりみたいな名前だ。まったくＳ的な名前ではないか、と蟹江は思います。それに重大なのは、猿沢佐介がかつて久美子に惚れていた、ということでした。あの縮れた毛の三本生えた、厭らしい温泉マークみたいな<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>は、あの猿沢佐介の背中に貼りついているのではないか？

仲人をして貰った関係上、蟹江夫妻は猿沢夫妻とかなり親しくなり、お互いの家にも訪問し合うようになっていたのでした。土曜日の夜などは、必ず、猿沢家を訪問して、<ruby><rb>麻雀</rb><rt>マージャン</rt></ruby>の卓を囲むのが例になっていた程です。少額の金を賭けてやるのですが、蟹江は下手なので、いつも負けてしまう。ところが久美子はなかなか上手で、上手というより運が良くて、いつもトップか二位を占める。だから蟹江家としては、損することより、得することの方が多かったくらいです。

猿沢夫妻は、ことに猿沢佐介は、久美子にたいして大層親切でした。久美子がトップになると、猿沢は愉快そうに笑ったり、お見事お見事とほめたりするのです。ところが、蟹江がまぐれ当りして一位になっても、猿沢は決してほめたり笑ったりしない。ふん、といった顔をするだけなのです。

仲人になって貰って以来、親しくつき合うようになっても、今思うと、猿沢佐介はどうも蟹江に対して、妙な隔てがあるようでした。つまり、わだかまりみたいなものが、猿沢にはあったようです。その頃は、蟹江は、それをあまり気にかけていませんでした。照れくさがっているのだろう、と思っていたのです。まさか俺を嫉妬したり、憎悪したりするわけはないだろう。ちゃんと借金も払ってやったのだからな。しかも一万二千円も！

ところがその猿沢佐介が、久美子が死んで以来というものは、彼に妙に親切めいた言葉をかけたり、慣れ慣れしく動作したりするようになったのでした。あの久美子が死んだ日も、猿沢は彼の家にやってきて、泣いている彼の背中をたたきながら、

「ああ、泣くがいい。泣くがいい。泣いて悲しみをすっかり流してしまえばいいんだよ」

などと、猫撫で声でなぐさめて呉れたのです。その言葉に<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>されて、彼はなおのことしくしくと泣きむせんだのですが、今思うと、どうもあの言葉の調子は、勝ち誇ったものが打ちひしがれたものに対する、ある優越感がこもっていたような気がする。しかもその優越感の底に、ある意地悪さがかくされていたようだ。

『どうもこいつは怪しいぞ！』

勤め先の貸出台に坐っていても、そんなことを考えてばかりいるものですから、さっぱりと読書の能率もあがりません。そして口の中で、もぞもぞと呟いていたりするのです。

『猿沢佐介の背中には、きっとひとつの痣がある。しかも縮れた毛が三本……』

自分が信じていた幸福が、全部<ruby><rb>虚妄</rb><rt>きょもう</rt></ruby>になったのに、猿沢佐介の方はいっこう不幸にもならず、楽しそうに暮している。それが漠然と憎らしく、また<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>ましいのでした。つまり対人感情から言えば、『すみれ』で知り合った頃の状態に、蟹江はすっかり戻ったわけです。一方猿沢の彼に対する態度も、結婚中とは異って、妙に慣れ慣れしく横柄になってきたようでした。すなわち知り合った頃のそれと、ほとんど同じ態度です。鷹揚に見せかけて鼻であしらったり、老獪な<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>して彼を困らせたりする。それが蟹江のかんにさわるし、また漠然たる疑惑をうえつけたりするのでした。これはあるいは老いたる独身者の、意味もないヒステリー状態とでも言いますか。しかし久美子の日記の中の『Ｓ』の字は、今や<ruby><rb>万鈞</rb><rt>ばんきん</rt></ruby>の重みをもって、彼の全生活を押えつけているのでした。

『とにかく一度こいつの背中を見ねばならぬ』

ある土曜日、猿沢の家で酒の馳走になりながら、彼は強くそう思いました。久美子の死後も、それまでの慣習上、彼は毎土曜猿沢家を訪問し、夕飯や酒を御馳走になっていたのでした。

『それも早急にだ。来年の夏まで待つというわけには行かない』

食卓のそばでは猿沢夫人が、子供を寝巻に着換えさせていました。もうそろそろ夜は寒いので、それはネル地の寝巻です。猿沢好みの派手な柄でした。その時ちらと子供の背中が見えたのです。すべすべと柔かそうな、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみ</span>ひとつない小さな背中です。それから直ぐ猿沢佐介の背中を<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>して、蟹江はそう考えたのでした。

「背中が出たよ。早く着せなさい、風邪を引いてしまう」

と猿沢が盃をふくみながら、夫人に注意をしました。猿沢が『背中』という言葉を発音した時、蟹江はかすかな身慄いをかんじました。

少し経って、蟹江はわざとらしくせきばらいをして、掌を肩にあてぐりぐり<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>みながら言いました。

「どうも近頃、肩が<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>ってねえ」

「揉んで呉れる人がいなくなって、気の毒だね」

と猿沢はかるく受けました。猿沢の顔は、鼻を中心として、もう相当あかくなっていました。そろそろ酔っている証拠です。

「背中ってやつは、どうも厭だよ。ほんとに意味がない」

と蟹江は遠過しに背中に話題を持ってゆきました。

「なぜだい？」

「なぜというとだね――」蟹江はちょっと考えて「背中ってものは、人間の身体のなかで、一番広い面積を占めているだろう。人間の表面積の四分の一はあるだろうね」

「そう言えばそうだね。地球におけるシベリヤみたいだね」

「それだのに、だ」と蟹江はすこし勢い込みました。「背中というものは、ほとんど人間の役に立たない。僕たちが背中を使用するのは、椅子によりかかる時と、寝る時位なものだ。それも、椅子なんかに腰かけないで、坐れば済むことだし、寝る時も、横向きに寝れば、背中は使わずに済む。そいじゃ背中というのは、何のためにあるんだ？」

「しかしだね」と猿沢は年長者らしい落着きを見せて言いました。「背中がないと、人間は困りはしないかな。胃や肝臓や<ruby><rb>肋骨</rb><rt>ろっこつ</rt></ruby>が、うしろから丸見えになったりして」

「ほんとに意味ないよ、背中というやつは」と蟹江は横眼を使って、猿沢の様子をじろりと<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>いました。「たとえばさ、腹にはお<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>というものがあって、しめくくりがあるだろう。ところが背中はのっぺらぼうで、中心が全然ない」

猿沢夫人が傍でくすくすと笑いました。そこで蟹江は追い討ちをかけるように、言葉をつぎました。

「もっとも人によっては、あるかも知れないね。たとえばホクロみたいな――」

「そりゃあるかも知れないね」と猿沢は退屈そうに小さく<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしました。「それはそうと、君は近頃すこし痩せたようだね。やはり自炊では、充分栄養がとれないのかな」

もう一息というところで、話題がそっちに行ってしまったものですから、背中のことはお流れになってしまいました。蟹江はすこし残念でした。あの猿沢夫人のくすくす笑いはどうも意味ありげだったな。ひょっとすると、亭主の<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>を思い浮べたんじゃないかな、などと思ったりしたのです。

この夜あたりをさかいとして、蟹江の生きている情熱は、はっきりとひとつの形の目標にそそがれるようになったようです。つまり、猿沢の背中に痣があるかないか、その一点なのでした。人間の生活の情熱というものは、あちこちに分散する傾向よりも、ひとつの核にまとまりたがる傾向が、強いのではないでしょうか。たとえば真珠貝の体液が、なにか異物をとらえて、真珠玉を形づくりたがるような具合です。しかもその異物は、<ruby><rb>砂利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>であろうとガラスのかけらであろうと、とにかく形があるものでありさえすれば何でもいいのです。どんなばかばかしいことにも、人間が情熱をそそぎ得るのは、一体にそういうからくりではないでしょうか。Ｓの痣は、蟹江にとって、まさしくそういうものなのでした。亡妻への追慕、虚妄化された幸福、今の味気ない日常、世俗的な幸福への漠然たる嫉妬、それらの混然たる総量が、幻の痣を核としてぎっしりと<ruby><rb>凝集</rb><rt>ぎょうしゅう</rt></ruby>してしまったというわけでした。この痣のことさえ解決すれば、同時にすべてのことが解決する。まあ言ってみれば、そんな気分なのです。まったくそれは一種の宗教的情緒みたいなものですな。

『とにかく一度、猿沢の背中を見ねばならぬ』

しだいに冬が近づくし、そうすればだんだん厚着になるし、裸の背中をのぞき見る機会は、ますますなくなってくるのです。その点において、蟹江は一種のあせりを感じていました。あるいは彼は、自分でも意識しないところにおいて、そのあせりを楽しんでいたのではないでしょうか。知ってしまえばそれまでで、すべては終ってしまうのです。だからこそ蟹江の胸には、猿沢の背中を見たくないような気持も、うすぐろい<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>のようにぼんやりとうごいているのでした。しかしそれはやはり、見なければならないものなのでした。出来るだけ機会をつくるべく努力しなくてはならないのです。情熱が指し示す通りに。

平穏に、無事に、日々が過ぎて行きました。

ある土曜日の夜九時頃、猿沢家の居間の長火鉢をはさんで、猿沢夫妻がこんな会話を交しておりました。

「蟹江さんも、奥さんがなくなってから、すこし変ね。なんだか気味が悪いわ」

「そうだね。元からちょいと変な男だったが、この頃はとくに妙だね」

「あんまりガッカリしたので、頭の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねじ</span>が狂ったんじゃないかしら。時々突拍子もないことを言い出したりしてさ」

「あのぎろぎろした眼付が、第一おかしいね。しばらく相手にしないがいいかも知れないな」

「だって向うからやって来るんですもの」

「だからサービスを悪くするんだな。あの男はすこし甘えているよ。世の中はそんな甘くないことを教えた方がいいと思うね」

そこへ玄関ががらがらとあいて、ごめん下さいと言う声と共に、当の蟹江四郎が入ってきました。それはすこしばかり浮き浮きしたような声でした。そのままのこのこと居間にあがってきました。すこし酔っているようです。

「あら、いらっしゃい」

と猿沢夫人は愛想いい口調で答えました。猿沢はちょっと<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>しただけで、だまって<ruby><rb>爪楊枝</rb><rt>つまようじ</rt></ruby>をしきりに使っていました。これは主に、食事がもう終ったということを蟹江に示すためです。

「寒いね」と蟹江はにこにこしながら長火鉢に手をかざしました。「しずかな淋しい晩だねえ」

「そうだね。久美子さんでもいれば」と猿沢は爪楊枝を襟につきさして答えました。「麻雀でもやるところだが」

「三人ではねえ」と夫人は残念そうに口をそえました。「麻雀もできないし」

「ほんとに残念だ」と蟹江が<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打ちました。「じゃ五目並べでもやろうか」

「やりたいけれど」と猿沢。「碁盤がないんでねえ」

「あっ、そうか。じゃ君は将棋は指せるだろう」

「そりゃ指せるさ。そう言えば、君とはまだ指したことがないな。ひとつ指してみたいもんだねえ。でもねえ――」

「駒も盤も実はないんですのよ」と夫人が引きとりました。「買っとけばよかったですね」

「駒は僕が持ってきたよ」

蟹江はにこにこしながら、ポケットから紙箱を取出しました。見ると、それは<ruby><rb>玩具屋</rb><rt>おもちゃや</rt></ruby>などで売っている、あのお粗末な将棋の駒でした。そしてもう卓の上にがさがさと紙の盤をひろげてしまったのです。

猿沢夫妻はちょっと顔を見合わせました。しかし蟹江がぱちぱちと駒を並べ始めたものですから、猿沢もやおら体を動かして、蟹江に向き合いました。

「さて、いくら賭けるかな」

決心をつけたと見えて、猿沢がそう言いました。いどむような声でした。

「そうさねえ。金を賭けるのも、もう<ruby><rb>倦</rb><rt>あ</rt></ruby>きたねえ」と蟹江は並べ終ってじろりと猿沢の顔を見ました。「今夜はなにか変ったものでも賭けようか」

「変ったものって、何だね？」

「たとえばだね」蟹江はちょっと考え込むふりをしながら、やがてぽつんと言いました。「負けた方が裸になって見せる、なんていうのはどうだろうね」

「裸？」猿沢はにやりと笑いました。とたんに蟹江の裸の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>でも想像したのでしょう。「そりゃ面白そうだね。それで踊るのかい？」

「いや、寒いから踊らなくてもいいだろう。そこらを一廻りするだけにしよう」

「お止しなさいよ。ばかばかしい」と猿沢夫人がきんきんした声でさえぎりました。「あんた方の裸を見たってぜんぜん面白くないわ。それよか、やはり一局二百円ということにしなさいよ」

「うん。それにしよう」

蟹江が口を開く前に、猿沢がそう言ってしまったものですから、蟹江は口をもごもごさせて、不承々々黙ってしまいました。顔がぽっとあかくなって、なんだかとたんに面白くなくなったような表情です。

それでも先ず蟹江が<ruby><rb>角道</rb><rt>かくみち</rt></ruby>をあけ、猿沢が飛車先の<ruby><rb>歩</rb><rt>ふ</rt></ruby>を突いて、戦いが始まりました。両方とも黙々と口をつぐみ、しきりに駒を動かしています。駒組が変化してゆくにつれ、しだいに両者の闘志もたかまってゆくらしいのでした。ことに蟹江は肩をそびやかし、見るからに力闘という恰好になってきました。

猿沢夫人は編棒をとり出して来て、傍で編み物を始めていました。部屋の中はしんとして、駒を動かす音だけが、時々さらさらとひびくだけです。ふとその音が途絶えたので、夫人が顔を上げて見ると、猿沢佐介は困惑と口惜しさを押しかくした老獪な微笑をたたえ、じっと盤面をにらんだり、蟹江の手許に置かれた持駒をにらんだりしていました。どうも形勢が悪いらしい風でした。

やがて猿沢は、蟹江の持駒にじろりと<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>をあたえながら、初めて低い声で言いました。

「蟹江君。君のその<ruby><rb>桂馬</rb><rt>けいま</rt></ruby>を、三十円で売って呉れないか」

蟹江はびっくりしたように顔を上げました。それから盤面を見渡して、何かしきりに計算している様子でしたが、しばらくして思い切ったように答えました。

「よかろう。その代り、現金だよ」

そこで猿沢は十円札を三枚ぱっと出して、桂馬を買い取り、それをパチッと盤面に打ちました。

それから少し経って、猿沢はまた現金を出して、蟹江の銀と歩を買いました。それからまたまた、<ruby><rb>香車</rb><rt>きょうしゃ</rt></ruby>を二十円で買ったりしました。蟹江は現金がどしどし入るものですから、にこにこして持駒を手渡ししました。

それから三十分ほど経ちました。編み物をしていた夫人がまた顔を上げると、こんどは蟹江が深刻な顔をして考えふけっていて、見ると猿沢の手許には、十枚余りの持駒がうずたかく積まれているのでした。猿沢は得意げに天井を向いて、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の煙の輪をふうっとはき出したりしているのです。

「猿沢君」やがて蟹江はいくらか口惜しげな調子で言いました。「桂馬をひとつ、ゆずって呉れないか」

「ああ、いいだろう。五十円だよ」

「五十円？」と蟹江は眼をぎょろりとさせました。「そりゃすごく高いな」

「うちじゃそんな値段なんだよ」

と猿沢は平気な声で言いました。蟹江はすこしためらっていましたが、しぶしぶ五十円出して、桂馬を受取りました。

それからも形勢はあまり良くならないと見えて、蟹江はしきりに身もだえして、その度に香車を買ったり歩を買ったりしました。それにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らず、猿沢の持駒はますます多くなる<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>で、彼はそれを整理して一列に並べ、歩などは三個一山に積み重ねたりしていました。これは、歩は一山三十円だというわけでした。

それから盤面がどしどし変化し、二十分後には、駒をいくつも買った甲斐もなく、蟹江の王様はほとんど裸になってしまいました。蟹江は唇を噛んだり、低くうなってみたり、すっかり頭が充血して、あたりもはっきり判らないような風でした。盤面をぎろりと睨みつけたまま、うめくような声で訊ねました。

「<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>はいくらだね？」

蟹江の王様は王手がかかっていて、なにか強力な合駒が必要なのです。猿沢はちょっと考えて、そして落着いた声で答えました。

「金は、すこし高いよ。百十五円ぐらいかな」

「そりゃあ高いなあ。ちょっと高すぎるよ」

「でもそんな相場なんだよ」

「それじゃ訊ねるけれど、角なんかは？」

「角は百四十円で、飛車は、そうだねえ、百六十五円だ。王様は、これは持駒じゃないが、もし売るとすれば、二百五十円ぐらいに負けとこう」

「なに。二百五十円？」

そう言いながら、蟹江は猿沢の王様を、にくにくしそうに見詰めました。見詰めているうちに、その王将の駒が、ふと猿沢の顔に見えてきたのです。その王将をつまみ上げ、その背中をしらべてみたい、そんな衝動がちらと蟹江の胸を走って、ふっと手が出そうになったのです。その時猿沢の落着いた声がもどってきました。

「そう。二百五十円だね。なにしろ王様だからね」

よっぽど二百五十円を出して、敵の王様を買い取ってやろうかと蟹江は思ったのですが、なにしろ勝負の賭け金が二百円ですから、その損得を考えて、やっと踏みとどまったのです。

傍で猿沢夫人が、大きなあくびをしながら、うんざりしたような声を出しました。

「まだ勝負がつかないの。ずいぶん長い勝負ねえ。あたしお先にやすませていただこうかしら」

――蟹江と猿沢の土曜日の会合は、近頃は大体こんなものです。こんな調子ですから、蟹江が猿沢の背中を見るのは、ちょっと<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>のことになるか判りません。

でも、もう蟹江は、猿沢の背中は見ない方が、いいのではないでしょうか。猿沢の背中に<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>があっても、蟹江は不幸になるし、ないとすれば、なおのこと不幸になるに違いありません。考えたり空想したりするだけで、実際には見ない方がいいようなものが、この世の中にはたしかにあるのです。『Ｓの背中』も、もはやそのひとつでしょう。そう私は思います。