Soranoha

新書太閤記

しんしょたいこうき

吉川 英治

雛ひなの客きゃく

備前びぜん岡山の城はいま旺さかんなる改修増築の工事にかかっている。

ここの町を中心として、吉備平きびだいらの春を占めて、六万の軍馬が待機していた。

「いったい戦争はあるのかないのか」

熟うれる菜なの花はなを見、飛ぶ蝶に眠気ねむけを誘われ、のどかな町の音響や、城普請しろぶしんの鑿のみの音など聞いていると、将士は無為むいに飽いて、ふとそんな錯覚すら抱くのだった。

三月上旬の三日。――すでにかの甲州こうしゅう方面では、信長、信忠の指揮下に、大軍甲信国境からながれこんで、ちょうどこの日、武田勝頼かつよりは運命の非を知って、その拠城新府しんぷにみずから火を放ち、簾中れんちゅうそのほか一門の女性までが、天目山てんもくざんのさいごへさして、炎々の下から離散を開始していた日である。

だが、ここの岡山は、折ふし上巳じょうしの節句せっくとて、どこのむすめも女房たちも、桃の昼に化粧けわいをきそい、家の内には、宵に燈ともす雛ひなまつりの灯や、盃事さかずきごとの調べなどして、同じ天あめの下したながら、地上はまるで別な世かのように平和であった。

「おや。お早打はやうちが」

二騎、町木戸から、ほこりを立てて、城門の方へ駈け去った馬蹄ひづめの音にも、さして事々しく、天下の急変の前駆ぜんくとは、耳そばだてる者もなかった。

――が、城門の前へ、弾丸のように駈けついた使者は、

「黄母衣きぼろの者、山口銑蔵せんぞうですッ」

「同じく、松江伝介。ただ今もどりました」

と、番の者へいう大声にも息を喘あえいで、こんどは二人同音に、

「甲州御陣へお使いして、今日帰着。通りますッ」

と、どなる。

番の将士がわらわらと出て来てふたりの側へ寄り集まった。何事かと思うと、たちまち一人の将は、

「やあ、御苦労。御大儀」

と、ふたりの肩をたたいてねぎらい、その部下たちは、馬を取って、内へ曳き入れ、また使者の袖や背の埃ほこりを払ってやるのもあるし、汗拭あせふきを与えて宥いたわるもあるし、口々に、

「お早いことで」

「遠国から一息に、大変だったでしょう」

「さあ、あれにて、湯なと召し上がれ」

と、その労を慰めた。

だが、使者は、髪なで直すと、すぐ足を早めて、

「一刻もはやく、君前におこたえをすまさねば」

と、馬をそこに捨てて、もう足は駈けていた。

秀吉はそのとき、岡山城の本丸の一室で、ことし元服したばかりの宇喜多直家なおいえの子秀家と共に、その秀家の妹たちから招かれて、雛ひなのお客になって遊んでいた。

八郎という幼名を、秀吉から名をもらって、秀家と改め、加冠かかんしたのはついこのあいだである。秀吉はこの遺子いしたちを遺のこして死んだ直家の心を思いやって、わが子のように、日常左右においていた。

その妹たちはなお幼い。もとより雛のお客のもてなしは、侍かしずく女たちがすべてするのであったが、秀吉は彼女たちが嘻々ききとして離れないほど歓よろこんで見せた。兄妹はいつのまにか自分たちのよい友達みたいに思って、秀吉の背なかへ絡からみついたり、小さい手に杯を持って、

「もう参れぬ。参れぬ」

と、酔うた振りして謝りぬく秀吉の唇へ、むりにそれを押しつけたりして、さながら狆ちんと狆のように戯ざれ合あっていた。

福島市松が次の間まで来て秀吉へ告げた。

「殿。……殿」

「なにか」

「先頃、甲州御陣までお遣わしあそばした使者たち両名。ただいま戻りました」

「お。山口銑蔵せんぞう、松江伝介のふたりが帰って来たか」

これは人知れず待ちかねていたものらしく、屹きっと、われに回かえったような容子ようすを示し、

「鷺さぎの間まへ待たせておけ」

と、すぐ起ちかけた。

秀家の妹や女童めわらべたちは、まだ戯れて止まず、その袖を持ったり、肩にからんで、

「いや。いや」

と、かぶりを振り、駄々をこね、秀吉が困った顔をすると、なお離さなかった。

「市松、市松」

「鷺の間へ参るついでに、わしがいいつける。そちは、この女童めわらべたちと遊んでいてやれ」

「……は」

「なんという顔をするのか」

「それがしは、女の子などと、遊ぶ術すべは知りませぬ」

市松ももう一かどの大人と自負している。そんな御用を承るのは武人の心外であるといわぬばかり。また、いつまでも洟はなをたらしていた頃のおつもりでは迷惑仕つかまつる――と云いたげな構えである。

秀吉はくつくつ笑って、

「遊ぶ術すべなど知らんでもよい。わしの代りにここへ坐って、雛ひなの客になっておればよいのだ。女童めわらべたちの玩具おもちゃになって神妙にしておればすむ」

「戦陣の我慢ならば、如何ようにもいたしますが、左様な忍耐は市松のよくするところでございません。余人に仰せつけねがわしゅう存じます」

「女の子はきらいか。そちは」

「はい。きらいです。どうかすると撲なぐりたくなることもあります」

ちか頃、家中でも、また宇喜多家の諸臣のあいだでも、市松は評判がよい。鳥取城や上月城こうづきじょうで、功てがらをあらわしたことも聞えている。将来ある若武者、よい骨がらである。などと多少おだて気味な声も当人の耳にはいっている。そんな加減か、めっきり成人し、顔にはぼつぼつ面皰にきびまで誇示している。時々、秀吉にも手におえないことがある。自分と秀吉とは親戚のあいだだという気持がそのうらにあることはいうまでもない。

秀吉は舌打ちして、

「たれだ。廊下にいるのは」

「虎之助にございます」

「ああ。そちがいい。虎之助これへ来い」

「はい」

「聞いていたであろう。於市めは嫌だと申す。おまえ、代りにここにおれ。雛の客になってつかわせ」

「はい」

「よいか」

「かしこまりました」

秀吉が起ったので、市松もあわてて起った。唯々いいとしてそこへ坐った虎之助を軽蔑けいべつするように、しり目をその背へくれて。

鷺さぎの間まは密室である。何か極秘の用談だけを訊くところとされている。山口銑蔵と松江伝介がそこへ入って慎んでいるとすぐ、

「帰ったか」

と、秀吉もすぐ座についた。

銑蔵はふところから一書を取り出して秀吉の前にさしおいた。元より二重三重に桐油とうゆ紙につつんである。自身、秀吉は上紙うわがみをのぞき、また封を切って、

「ああ、久しぶりに、御筆蹟を拝む」

と、まず披ひらくに先だって、額ひたいに押しいただいた。織田右府信長の直書じきしょであることはいうまでもない。

見終って、

「たしかに」

と、秀吉は、信長の書を、自身のふところに奉じ、それから使いの労を犒ねぎらった。

「大儀であった。退さがって休息いたすがいい。――が、信州甲州にあるお味方は、みな赫々かっかくと戦果をあげておるか」

「ほとんど、破竹の勢いと申してもよいほどでございます。私どもが立ち帰る頃、すでに信忠卿の軍は、諏訪口すわぐちへ入ったと聞えておりました」

「さすがは、御威光である。信長公みずから御出馬の戦いくさ。そうなくてはならん。右府様にもいよいよお元気にお見上げ申したか」

「はい。このたびの甲州入りは、時も春、峡山きょうざんの花見にひとしい。帰途は東海道に出、富士見物の御予定などと――これは侍側の方々から伺ったことですが、余裕綽々よゆうしゃくしゃくたる御陣中の様であると承りました」

「そうか。いや大儀。はやくやすめ」

任務をこれでおわった二人は、初めて疲労を姿にあらわしながら退出した。

が、秀吉はなおそこにいた。襖絵ふすまえの白鷺しらさぎを見つめている。自鷺の眼だけに黄色い彩具えのぐが塗ってあった。鷺が彼を睨んでいるようでもある。

「……やはり官兵衛かな。官兵衛をつかわすしかあるまい」

つぶやくと、小姓を呼びたてた。石田佐吉がまかり出た。佐吉もめっきり成人して、いよいよ端麗たんれいな小姓振りであった。

「お召しあそばしましたか」

「呼んだ。……二の丸に、黒田官兵衛が詰めておるはず。それと、蜂須賀彦右衛門とを、同時に呼んで来てくれい」

「どこへ御案内いたしますか」

「これにおる。これへでよろしい」

秀吉は、ふたたび、ふところの書を取り出して見ていた。それは書簡ではない。秀吉から求めた誓紙である。

いま彼は、ここに坐いながらも、六万の兵は優にうごかすことができる。しかもなおすぐそこの国境を突破して備中へ入ることをひかえていた。備中に入らずして、毛利を破砕することは当然できないことだから、そこに何らか、大きな障碍しょうがいを感じているものと思われる。

わざわざ使いを信長の許へ送って、信長の誓紙を求めたのも、実にそのためだった。彼は、その障碍を、戦わずして除こうとしていた。つまり備中国境にある敵の防禦線七城をつらねてその中核塁をなしている高松の城。それをまず衂ちぬらずに抜こうと苦心していたのであった。

「やあ。これへ」

黒田官兵衛のすがたが見えると、秀吉は気軽にすこし席を譲ゆずった。室は狭いのである。次に彦右衛門もそっと入って、官兵衛と並んですわる。

「上様の誓紙が今しがた届いた。ついては、いつも難渋なんじゅうなことのみ頼むが、高松城まで参って欲しい」

「拝見いたしてもよろしいでしょうか」

「御一見あれ」

官兵衛は、その人に対するような礼儀をもって、誓紙の内を見た。

志を翻ひるがえして、織田の軍門に降伏するならば、戦後、備中、備後の両国に多分の領地を宛あて行がわん。神明に誓って違背いはいはない。そういう意味の墨付すみつきで、すなわち信長から高松城の守将、清水長左衛門宗治むねはるへあてて示すものであった。

「拝見いたしました」

「これを携たずさえ、すぐにも出立してくれ。彦右衛門、御身も副使として、官兵衛とともに高松城まで参るように。――そして清水宗治に会うた上は、官兵衛にぬかりはあるまいが、極力説いて、味方に降伏させるよう努つとめい。このお墨付を示さば、いかに彼とて、うごかぬことはあるまい」

至極、楽観的な顔していうのである。その秀吉の意中がふたりには酌くみかねた。秀吉は心からこのお墨付一通で、敵の清水宗治の離反を実現できるものと信じているのだろうか、それとも、べつに意があるのであろうか――と。

「行け。すぐに」

秀吉はかさねて促うながす。

もとより異議をいっているところではない。黒田官兵衛も、蜂須賀彦右衛門も、

「かしこまりました」

直ちに座を立った。

起ちかける両名へ、秀吉はなおこう云い足した。

「ともあれ、城中の士気配備、よく見てまいるように。――そして供は大勢を連れぬがよい。市松、虎之助のふたりほど伴ともなったらよかろう。なるべく和なごやかに扮装いでたって」

「はい」

ふたりは去る。

秀吉もそこを出て、ふたたび奥の雛ひなの間へ帰って来た。

はて、もう誰もいないのか。

と、彼は襖ふすまの外であやしんだ。あんなにはしゃいでいた女童めわらべたちの声が少しもしない。ひそとして、無人のように感じたからであった。

市松がうしろから手をのばして彼の前の襖ふすまを開けた。

見れば、秀家もいる。また秀家の妹も、ほかの女童も侍女こしもとたちも、いることはそこにいた。

けれどひどく前とは空気がちがっていた。みな黙りこくって、雛壇の前に坐っている雛の客に眼をすえていた。秀吉の代りとして、そこにいよと命じられた小姓の加藤虎之助は、

(主命もだし難く……)

といわんばかりな顔して、迷惑を怺こらえながら、厳然と、両手を膝において坐っていた。孤軍の中に、一方の口をひとりで守っているような眼で、侍女こしもとや女童めわらべたちを睨みすえていた。

膝のまえに、菓子の高坏たかつきがおいてあるが、手もふれてない。盃に酒がついであるが、飲みほしてもない。

初めはいろいろ、からかわれたとみえて、頬に白粉おしろいをつけられたり、背に紙きれをさげられたりしているが、虎之助は、

(おかしくもないことをするものだ)

と、相手にもならずに、この構えのまま、さっきからただ忠実に君命のみを守っていたものと思われる。眼だけをうごかして、秀吉のすがたを仰ぐと、救われたように、吐息をついた。

「大儀大儀」

秀吉は笑って彼の任を解いた。そして、もうよいから、すぐ支度して、市松とともに、高松城へゆく使者に従ついてゆけと命じた。

「ありがとう存じます」

籠から放される鳥のように、出ないうちから羽搏はばたきをした。秀吉はなお懇ねんごろにこう喩さとした。

「敵の中へ使いに行くということは大事なものであるぞ。その方たちが笑われるようなこといたすと、秀吉も敵に笑われるのであるぞ。さりとて、今見たように、鯱しゃちこ張ばってのみおると、あれは小胆者ぞと敵に肚を押し測はかられるぞ。途々みちみちも、木戸の要害、兵糧の運輸、地についておる車の輪の痕あとから、城中に入ってはなおさらのこと、将士の眼まなざし、防塁の備え、草木のたたずまいに至るまで、よくよく眼をとどかせて来ねばならん。その方たちをつかわすのは勉強のために遣やるのであるぞ。よいか、心して行って参れよ」

武人ぶじん宗治むねはる

馬首を北方に向けて、城外数里の先へ出ると、満目の山野には、

「いくさだ」

と感じるものが漲みなぎっていた。

岡山から敵の高松城までは一日足らずの行程。騎馬なのでなお早めに行き着こう。黒田、蜂須賀の両使に、随行の市松、虎之助、そのほかを加えておよそ十名ばかりの一行だった。

重厚な味方の前線陣地を行き抜けて、吉備山脈きびさんみゃくの彼方かなたに赤い西陽を仰ぐころから、一行はしばしば、

「とまれッ」

「どこへ参る」

と、山蔭や林の暗がりから咎とがめをうけた。もう出会うものは、敵の人ばかりだった。ここには岡山の城下に見るような春もない、人もない。田に百姓の影すら見あたらなかった。

敵の前線から城下の柵門さくもんへ早馬の駈けてゆくのが見られた。城内のさしずを仰いだものらしい。やがて迎えに来た部将の案内に従って、使者たちは柵門に入りまた城門へかかった。

高松の城は平城ひらじろだ。大手へかかる道の左右までが田圃たんぼや野である。深田の中に一叢ひとむらの林と堤どてと石垣を構え、そこから石段を登るごとに本丸の狭間はざまや剣塀つるぎべいが頭の上へ近づいてくる。

本丸に入ると、さすがに国境七城の主城だけのものはあって、城中はかなり広く、守兵二千余人を容いれながらなお寂せきたるものがある。

いや、いまこの城内には、その二千余の兵以外に、なお三千余人の人命を収容していた。総計五千余人の大世帯となっていることは確実だった。

それはすでに籠城を決意した清水宗治むねはるが、領土下の農民と女子老幼のすべてをみな城中へ収容したためで、以もって、疾とくからこの一城に拠よって、東軍数万の怒濤をふせぎ、一戦を決せんとするの覚悟は明らかだった。

一室へ通ったのは、使者の黒田官兵衛と蜂須賀彦右衛門の二人だけである。官兵衛は例のごとく片脚不自由な身なので、杖を持たぬ室内では殊にひどく跛行びっこをひく。

茶も出た。菓子も出る。

「しばらく、御休息くださいませ。ただいますぐ主人がお目にかかりますれば」

退さがってゆく二十歳はたち足らずの小姓らしき者へ、使者の二人はしずかな眼をそそいでいる。襖際ふすまぎわの作法行態さほうぎょうたい、平常と変りはない。召使の者にこれだけの落着きがあるからにはと、城中一般の心がまえ、また守将宗治のたしなみも、まずは充分に窺うかがわれる。

やがてのこと。

「長左衛門宗治にござる。羽柴どのからお使いに見えられた由。ようこそ」

それへ来て、容態ぶりもなく、坐った人がある。

年五十がらみ。腰がひくく、粗服をまとい、左右にも物々しい家臣などは並べず、十二、三の子どもひとりを小姓としてうしろに置いているだけだった。もし帯刀とその小姓をのぞけば、この近傍の庄屋しょうやとも変りはない。それほどに覇気はきや衒気げんきのみじんも見えない人がらであった。

「これは」

と官兵衛は、却って、威容ぶらない敵将に、敢えて慇懃いんぎんな心づかいをした。

「初めてお目にかかる。それがしども両名は、羽柴家の臣、黒田官兵衛」

「また、蜂須賀彦右衛門ともうす者」

挨拶をうけるごとに、宗治は、あいそのよい眼でうなずいた。――このぶんでは、この人なら、或いは、説き落せるかも知れぬ。ふたりの使者は、ひそかに唇くちをぬらしていた。

「蜂須賀どの。あなたからひとつ主命の趣おもむきを、宗治どのへおはなし下さらぬか」

官兵衛はこう譲ゆずった。正使格の自分から口を切るのが当然とは承知しているが、相手の温雅淳朴おんがじゅんぼくなすがたを見て、自分よりは年上の、そして気の練ねれている彦右衛門が、懇ねんごろに利害を説いたほうが効果的とその場で考えたからである。

「では、それがしから申しあげますが」

彦右衛門は、辞退なく、こういうと、すこし宗治のほうへ膝をにじりすすめて、

「何事も腹蔵なく御談合を願えと、主人より申しつけられて来たままをただお伝えするに過ぎませんが、およそ益なき戦いくさは避けられるだけ避けたいと願うのが主人の本旨にござりまする。いま東西の両軍ここにまみえ、お許もとには七城の壕塁ごうるいを聯つらねて、国境のお守りに当っておられますが、すでに中国の帰趨きすうは決したものということは充分お心のうちにはお分りであろうと存ずる。数をもっていえば、東軍は優に十五万の兵力はうごかし得るのに較べて、恐らく西軍毛利方は、残余の兵力をことごとく挙げても、四万五、六千から、乃至五万といえば精いっぱいなところでしょう。しかのみならず毛利家との聯携れんけいの越後上杉、甲州武田、叡山えいざん、本願寺などの盟国もみな亡び去って、それらの与国よこくも毛利家も一つの名分として謳うたっていた旧幕府の形態も、公方くぼうという人物も、もう昨日のものとなって、その存在は地にないものではありませぬか。いったい毛利方としては、今日、何をもって、名分となし、この中国を焦土に化しても戦おうとするのか。われらには存じ寄る儀もござりませぬ。それにひきかえ、わが織田全軍のいただく右府信長公におかせられては、かたじけなくも親しく禁門の護りを命ぜられ、朝廷の御信任も弥篤いやあつく、君臣の分を明らかになし、上宸襟かみしんきんをやすめ奉り、下しも衆民にしたわれて、いましようやく長い戦乱の闇を出て世も黎明れいめいを祝ことほぎながら、一宇いちう万生のすがたに復そうとしているところです。……いや、ちと喋舌しゃべりすぎましたが、まあそういった情勢です。いつわりのないところです。かかる日に当って、申しては失礼ながら、其許そこもとのごときお人を、また無辜むこの百姓、老幼から多くの将士までを、みすみすこの城とともに田土の底へ埋め去るなど……これは何としても惜しい。この犠牲なく処置する工夫もあらばと、主人筑前には心をいため、先にも一応のおすすめはいたしたなれど、其許そこもとの容いれたもうところとならず、面目を欠いたここちも致されたらしいが、なお重ねて、もう一度、最後の御談合を遂げてみよとの仰せに、今日ふたたび両名して罷まかりこしたわけでござる。いかに主人筑前が、真実、心を尽してのおすすめかは、官兵衛どのよりさらにお聞きとりねがいたい」

次には、官兵衛がいう。

かねて携たずさえて来た秀吉の添状そえじょうに、信長の誓約書を添えて示したうえ、

「決して、利をもって説くというのではなく、士を惜しむ主人秀吉と、士を愛する右府信長公のお心とをこれに示されたものとして、篤とく御賢慮をうながしたい。すなわち、あなたのお考え一つでは、備中備後の二ヵ国を進ぜようとまでの御誓紙でござる。如何でしょう、宗治どの」

「…………」

宗治は、誓紙に一礼した。しかし手にとって開こうともせず、そのまま正使の前に返して、

「寔まことに、寔に、過分なおことばやら恩賞のお約束やら、何と申してよいか、お礼のことばもない。毛利家より日頃頂戴の禄ろくは正直七千石に足らないものを。ましてや老齢に近いこの田舎いなか侍をば。――いやありがたいことでござる。お志だけはくれぐれも忝かたじけのう存ずる。忝う存じ奉る」

うんとはいわない。

ただ腰ひくく清水宗治むねはるは、そう繰り返しているのみだった。

沈黙がつづく。

そのうちに、何か手持ぶさたを覚えてきたのは、使者側のふたりだった。

宗治としては、それ以上、何を説かれても、

「ごもっとも。ごもっともで」を温和に、辞低く、繰り返しているにすぎない。

彦右衛門の老巧も、官兵衛の才気も、この相手には用をなさないかたちであった。

が、使者としては、その壁をも抜く意気で、なお説く限りは説き、最後の努力としてもう一言、

「この方から申しあげることは、すべてを申しあげ尽してござるが、貴公として、何ぞ、特に御希望とか、条件を附したいとか、お考えがあるなれば、承って、お取次もいたそう、またお力になりたい所存でござるが、御腹蔵ないところ、お聞かせたまわるまいか」

と、いわゆる膝詰ひざづめに、宗治の本音ほんねを押してみた。

「腹蔵なくと仰せあるか」

宗治は、呟つぶやくように、そういってから、眼を、ひたと二人へ等分に向けた。

「さらば、聞いて戴きますかな。それがしが望みというは、せっかく人として生れ、人の生涯の終りにも近づきおれば、この期ごにあたって、人たるの道を踏み外はずしたくない、という一義いちぎに極まりまする。わが毛利家といえども、一天の下もと、蒼生そうせいの一藩、あなた方の御盟主たる右府様にも、禁門へたいし奉る臣情においては、優まさるとも劣るものにはございませぬ。不肖ふしょう宗治は、その毛利家に属し、碌々ろくろく為なすなき身を、多年七千石の高禄こうろくをたまわり、一族みな恩養にあずかって、今日この変にあたり、国境の守りを命ぜられたこと、ひとえに主家の御信任によるところと、この日頃、生きがいありと、朝夕たのしく暮しておるところでござる。――さるをいま、小利に眼をくれて、羽柴どののお扱いをうけ、右府様の麾下きかに参って、二ヵ国の領主に坐ろうとも、所詮しょせん所詮、近頃のような心楽しき日が送れようとは思われぬ。ましてや、信義に背そむき、主家を売り、何のかんばせあって、宗治、天下の士民に面おもてを向けられましょうか。……小さくは、それがしの家庭においても、妻にも子にも、甥おいにも姪めいにも、左様なことは、人の皮をかぶった者のすることと、日頃より教育もしておりますれば、自身で自身の家風をやぶる儀にも相成りまする。はははは、そんなわけですから、折角の御好誼ごこうぎとはぞんずるが、おはなしの儀は、なかったものと、お忘れくださるように羽柴殿へも、よしなにお伝えたまわりたい。篤くお礼は申しあげる」

「……そうですか。むむ」

肚のそこから唸うめくように頷うなずくと、官兵衛はすぐ明瞭にいった。

「もはやおすすめは仕つかまつらぬ。彦右衛門殿、立ち帰るといたそう」

「ぜひもない」

彦右衛門は、自分たちの努力の至らなかったことを嘆息した。しかしその気持はここへ臨んでからのものである。清水長左衛門宗治は決して利にはうごくまいと観みていたのは、ふたりとも前から予期していたことではあった。

「闇夜あんやは途中が危険。こよいは城内にお泊りあって、早朝にお帰りあってはいかが」

宗治はひきとめた。それも単なる世辞でなくうけとれた。実篤な人物かな。敵ながら正直にそう推服すいふくできる。

「いや、主人も返辞を待ちかねておりますれば」

と、使者たちは、松明たいまつだけを乞いうけて帰途についた。宗治は、途中、間違いを生じてはならぬと、家臣三名を添えて、前線の境まで送らせた。

備中びっちゅうに入いる

往復とも、使者の一行は、眠らずに帰って来た。

岡山へ帰るとすぐ、官兵衛、彦右衛門のふたりは、秀吉のまえにあった。

「招降の儀は、不調に終りました。さすが宗治むねはるの決意は、固うござります。これ以上、いかにお手をくだいても、談合は無用と存ぜられます」

清水宗治の云い分なども、つぶさにそのまま、秀吉に達した。

使いの返辞は、平凡がよい。そのあいだに使いの者の主観や感情の混入するなく、ありのまま、有体ありていの報告が、最上とされている。

「さもあろう」

秀吉は、意外ともせず、ひとまず眠るがいい、疲れたであろう、そち達、一睡いっすいの後、あらためて寄ろうと云った。

「では、休息して、ふたたび参りまする」

二人は、秀吉の居室を退さがる。

秀吉はなお、一隅に、これも眠たげに畏かしこまっている虎之助、市松を見て、

「両名」

「はい」

「何を見て来た」

「敵中、いろいろ、見て参りました」

市松の答えである。

虎之助は、正直に、

「どこへ眼を注そそいでも、さして敵の気配は窺うかがえません」

と、いった。

秀吉は、そのいずれも、是とも非ともいわず、

「たくさん寝て来い」

と、室から放した。

午ひるを過ぎてから、べつな部屋に、秀吉はまた官兵衛、彦右衛門、そのほか、六、七名の将をあつめて謀議ぼうぎしていた。宇喜多秀家も若年ではあるが、当然、一方の大将として、ここには参加していた。

「――敵の七城は、ここと、ここと、これであります」

秀家と官兵衛とは、専ら地理を説明していた。秀吉の眼を落している絵図面へいま傍らから解説を加えているのは官兵衛だった。

「高松の城から西北三里余に、足守あしもりと申す町があります。そうです、その辺にござります。――その足守の裏山に、宮路みやじの一城があり、これには乃美元信のみもとのぶが兵五百余をもってたて籠こもっておる筈。また、そこより少し東に、冠山かむりやまの城があり、これには林重真しげざねが守備をなし、兵数は三百五、六十と見れば間違いのないところでしょう」

「して、高松の主城には」

「平常、ここには、やはり六、七百の兵力しかなかったのですが、毛利方の末近すえちか左衛門が、約二千の兵をひきつれて来援し、城下の農民女子老幼を悉ことごとく収容しておりますので、頭数にすれば五千から六千人のあいだかと考えられます」

「そうか。そんなにおるか」

ここで、そうか――と呟つぶやいた秀吉の独ひとり語ごとのうちには、後に思い合わせると、すでにこの一瞬、彼の胸には、或る大計がもう立っていたものらしかった。

「その他は」

「高松から半里ほど東南に、加茂かもの城があり、これには、兵約千人を擁ようして、桂広繁かつらひろしげが守り固めておりまする。さらに、山陽道の道をへだてて、半里の先に、日幡景親ひはたかげちかが守るところの日幡ひはたの城、これにも兵約千人余。――また、南松島の城には、梨羽中務丞なしはなかつかさのじょうの兵八百。なお一里ほど先には、井上有景いのうえありかげが千人をもって、南庭瀬みなみにわせの城を頑強がんきょうにかため、国境の道の喉首のどくびを、後生大事と守備しております」

「……なるほど、七城連環れんかんか」

秀吉は、絵図のうえから面おもてをあげて、くたびれたように胸を伸ばした。

その日、甲州方面から、早打が入った。戦況報告である。

この月十一日、武田一門、勝頼以下、天目山てんもくざんに滅亡し了おわんぬ――ということ。また、甲府占領接収のこと。信長公を始め味方の中軍は上諏訪かみすわに進駐、近く甲府御入城の予定――などの事柄であった。

「お早いこと哉かな」

秀吉は顧みて、中国攻略の難にひきくらべ、前途はなおこれからだがと思った。

「硯すずりを」

と、求めて、とりあえず、信長へ宛てて、戦捷せんしょうの賀状を書いた。かたわら、中国の状況をしるし、また清水宗治を招降の策は断念した旨をそれに伝えた。

三月のなかば頃。姫路に待機していた秀吉直属の二万は、岡山へ入って来た。それへ宇喜多の兵一万を合わせ、総勢三万の装備は完まったくととのい、いよいよ備中へ進軍した。

「このたびの挙は、よほど慎重にお懸りとみえる」

秀吉の心を、たれもみなそう忖度そんたくした。

一里ゆくにも、偵察ていさつの結果を待ち、二里進むにも、偵察して進んだ。

甲州方面の迅速な戦果と、赫々かっかくたる大勝の報は、もう一卒まで聞いている。で、この慎重な行動を中には飽き足らなく思って、高松城や、その余の小城のごときは、この三万を以てすれば一撃の下に――などと逸はやり切る声もないではなかったが、

「なるほど」

実地の戦場にのぞみ、ふかく敵の布陣が分ってみると、いかにこんどの戦いくさが重要であり、また必勝の地を占めるまででも難しいことがよく頷うなずけた。

秀吉はまず、高松城の北方遠くにある一高地――龍王山りゅうおうざんに陣した。

ここから、真南に、高松の城を俯瞰みおろす。

すると、敵の七城の位置と、主城の高松と、唇歯しんしの関係をなしている地勢が一目にわかる。

のみならず、さらに遠く、芸州吉田の毛利の本国を中心とし、伯耆ほうき、備中びっちゅう、その余にわたる敵国のうごきを大観し、吉川元春きっかわもとはるの軍、小早川隆景たかかげの軍、毛利輝元もうりてるもとの軍などが、これへ来援してくる場合の大勢をもあらかじめ察するに便であった。

龍王山の本陣 一万五千人

平山村附近 羽柴秀勝五千人

八幡山 宇喜多衆一万人

大別して秀吉の陣はこうわかれていた。秀吉はまず主力戦に入るまえに、

「高松の右翼、宮路と冠かむりの二城。左翼の加茂、日幡ひはたの二城。こう両翼を取り除くを先とする。たれか宮路の城を一気に攻め落す自信のあるものはないか」

ことばの下に。

「それがしが」

「私が」

「てまえにお命じを」

と、諸将は争って、この緒戦の先鋒せんぽうに選ばれんことを願った。

その中に、福島市松もあった。小姓組から名乗り出たのは彼一名だった。

「市松。お汝こと、行く気か」

「おいいつけ下されば。……はい」

「自信があるのか」

「ちと心外なおたずねです」

「ははは。よかろう。たかだか四、五百たてこもっている砦とりで。小姓どもが攻め取るには手頃であろう。行って来い。福島市松にこれは命じておく」

市松は勇躍した。

人々の羨望せんぼうする眼を身に感じながら、すぐ準備のため、座を立ったのはよいが、その際、彼の持前として、ついいわずともよいことをいったので、人々は心のうちで、

(生兵法なまびょうほうと生意気、ふたつを具備した市松、下手へたを踏まねばよいが)

と、危うがった。

いわでもよいことというのは、

(不肖、一策を持っていますから、部下は多くを要しません。百名か百五十名もつれて参れば充分です)

と、得意になって、その場で秀吉へいったことである。

秀吉は、苦笑をもちながら、ただ頷うなずいた。市松が生意気づいて来たことは彼も充分知っている。また市松が、幕下の若い将校たちのあいだでは、憎まれ出していることも分っている。けれど秀吉は公平に彼の才能と押し強い気性も買っているのである。ただ時折、

(殿とおれの家とは、むかしから親類だった。だから今でも親戚関係だ)

を、ややもすると、鼻にかける気味があるので、その鼻ののびる頃にはヘシ折る必要がある。それだけが困り者と思われる以外、いまではこの男も一ひとかど秀吉麾下きかの異色であった。

年も虎之助より年上で、ことし二十三、四歳になる。功名を望むこと火よりも旺さかんといっていい。

「腰兵糧こしひょうろうはつけたか。いでたちは身軽がいいぞ。絶壁へとりついても、進退の邪さまたげられぬように。――馬。馬は無用だ、みんな徒歩かちで行く。おれも歩く」

百五十の手勢をならべ、彼は武将として、一場の訓示と、注意とを垂れた。

戦いくさはもうこの中国へ来てから充分に体験ずみである。天正六年、初手しょての中国入りに、別所家の剛の者、末石弥太郎すえいしやたろうの首をあげたときが、十八歳の初功名といわれているから、実際の場へのぞんでの強さも、当人の自慢するだけのものはあるらしい。

「出発まで休んでおれ」

準備が終ると、市松は、営中へかくれてしまった。

秀吉の前に出ている。これより行って参りますという挨拶を述べていたのだった。

「市松」

「はッ」

「敵の砦とりでへかかってからよりは、途中が危ない。途中の覚悟はよいか」

「だいじょうぶです」

「たれぞに、もう三百も兵をつけて、後詰ごづめに添えてやろうか」

「それには及びません」

「よし、行け」

市松はむっとした顔して出て行った。このむかっ腹も、秀吉を親類のおじさんと心のどこかで考えているところから起るものらしい。

宮路の砦とりでは、足守あしもりとよぶ小さい町の裏にあたる。足守の人家を横に見て、その山麓さんろくに近づいたのはもう夜だった。夜をかけて遮しゃ二無む二道もない山を登りつめる。ここはかなり高地である。

「しまった。身を沈めろ」

銃声を聞いたので、市松は、部下全体に、うごくなといった。そしてなお低声こごえで、

「この山のうえに、水之手みずのてがある。城の者が命の綱としている蓄水池ちくすいちだ。そこへ出るまでは、いくら撃たれても、斬って出るな。おれが、よしというまで、勝手に斬って出てはならんぞ」

と、かたく戒いましめた。

この砦の弱点は、確かに、市松が眼をつけたその飲料水の溜ためにあった。

彼は、そこへ奇襲して、水之手番みずのてばんの兵、二、三十名を撃ち取り、つづいて、

「水門を破壊しろ。池の堤を切りくずせ」

と、命じた。

山上から中腹の城内へ、津波つなみのように濁水が押し流れて行った。

「水之手へ敵が襲った」

と聞くと、城中の兵は、戦わないうちから士気を失ってしまった。なぜなら、そこを占領されては、一滴の飲用水も他から求め得ない地勢にあるからだった。

「あんな所へ、どうして敵が現われたろう」

城将の乃美元信のみもとのぶは、守備の誤算にうろたえた。彼としては、万全な備えをしていたつもりだったに違いない。

「水之手を奪回だっかいしろ」

当然、こう下知げちして、城兵をまとめてみたが、山城に位置していながら、奇襲の敵は、自分たちより高い所にいるのだった。それに下を防ぐことのみに専念していた構えが、逆に頭上から敵をうけたので、ほとんど、戦意は昂あがらない。

それでも、山上へ向って、すこし登りかけると、市松の手勢は、岩、樹木、石ころ、思いのままを、下へ落した。

そんなことを、六、七度もくりかえしている間に、人声がしなくなった。市松は、真っ先に、

「突っ込め」

槍を向けたまま駈け下りた。

果たして、城兵はみな逃げ去っている。守将の乃美元信のみもとのぶも見えなかった。

逃げるに際して、敵が城へ火を放って逃げたのは勿論である。山城なので風当りも強い。みるまに、大きな焔と黒煙が立ちのぼった。

「この煙は、龍王山からもよく見えるはず。もう陥おちたかと、味方はみな、この方らの神速に舌を巻いているだろうよ」

士卒とともに、腰兵糧を解いて、空腹をみたしながら、市松は愉快そうに云った。

きのうから寝ていないので、交代で一睡した。午睡からさめてみた頃、焼けるにまかせておいた砦とりでも、三分の一を焼いて、下火になっていた。

一部の兵をのこして、その晩、市松は龍王山へ引っ返した。秀吉に会って報告したのは次の日である。ずいぶん褒めてもらうつもりで市松は得々と戦況をはなした。もとより秀吉も機嫌のわるいわけはないが、さりとて市松が期待したほど賞揚しょうようもしてくれない。

「そうか。よくいたした」

それっきりである。

これきりか、といわぬばかりな顔して、市松がなお水之手奇襲の着想を誇らしげに談じていると、

「もしあの砦へ、麓ふもとからかかって参るようだったら、そちは武将の資格なしと見ていたが、でもよく気がついた。なお精励せいれいせい、やがて、一ひとかどになれるだろう」

と秀吉はいって、あとは周囲の人々と、ほかのはなしをしていた。

「退さがりますが……他には別に?」

市松が起ちかけると、

「むむ。休息して、次の命を待て」

彼のうしろ姿は、見送られもしなかった。黒田、蜂須賀、その他の帷幕いばくと、彼は何か凝議中ぎょうぎちゅうである。それはみな小声と小声に交わされているので、極く身近のもの以外には、何を相談しているのかわからなかった。

福島市松は、おもしろくない。隊を解いて、部下へも、休めを令し、自分は空あいている幕とばりへ入って、ごろりと寝ていた。

幕の蔭で、虎之助の声がする。ざわざわと、大勢して何か行動の準備中らしい。市松は、幕のすそを揚げてのぞきこんだ。

「於虎おとら。どこへ行くのだ?」

城乗しろのり一番いちばん

虎之助は具足の緒おをむすんでいた。彼もことし二十二の若者とはなっている。市松と同様に、三木城攻略、そのほかにおいて、初陣ういじんもすみ、一ひとかどの働きもしていた。

総じて、ここ五年にわたる中国陣は、秀吉の子飼こがいの小姓、或いは、家中の子弟などの、武将の雛鳥ひなどりたちにとっては、絶好なる実戦の練習場となったことは、次の時代を負って出た人材の多くが、まだこの頃には、みな年少十六、七歳から二十歳はたちだいであったところからも見のがせないことである。

とはいえ、秀吉の小姓部屋にも、いつか洟はなたらしは一人もいなくなった。一柳市助ひとつやなぎいちすけの息で一柳四郎の十五というのが最年少であった。蜂須賀彦右衛門の子家政も二十三歳。藤堂高虎が二十七。後の刑部ぎょうぶ――大谷平馬吉継よしつぐが十九歳となっている。仙石権兵衛などはすでに三十をこえて、小姓部屋の雛仲間ひななかまから巣立ち、一方の指揮官として、淡路や四国へ派遣されたりしていた。

思うに、秀吉も充分意識的に、これら子飼の少年をその才能によって、随時適所に、使ってみていることは慥たしかである。そして、

(これはものになる。これはここに使える)

などその素質を見とどけておき、かたがた、生死の大道場で、朝夕にこれらの次の中堅ちゅうけんを孜々錬成ししれんせいの真っ最中であったということもできよう。

「市松、おぬしこそ、陣中も憚はばからず、何でごろごろ怠けているのか」

問われたことには答えず、虎之助は、具足を着け終ると、こういって、幕とばりの裾をふり向いた。

その幕の隣から福島市松は、腹這はらばいのまま覗きこんで、今なお姿勢もあらためないのである。で、頭から幕をかぶって、頬杖つきながら物をいっているような恰好だった。

「おれは、いいのさ」

市松は傲慢ごうまんにいう。

虎之助に対するとき、いつもこう兄貴顔するのは、彼の持前でもあった。

「ゆるゆる休めと、殿から公然おゆるしをいただいた体だ。おとといから昨日にかけ、たった一日半夜で宮路山の城を陥し、このたび備中入りの魁さきがけに第一の功をあらわした俺だ。ただ怠けているのとはちがう」

と、いよいよ大きな鼻をして、

「ところで、貴様はどこへ行くのか。いやに武者振りばかり作っているじゃないか」

やはり気になるものとみえ、じろじろ虎之助の支度を見、また、辺りの部下たちを見まわしていた。

市松が見まわしたのもむりはない。虎之助と共に、頻りと身支度に余念ない侍たちは、みな忍しのびの者ばかりだった。

甲賀侍ざむらいの美濃部みのべ十郎。伊賀侍の柘植半之丞つげはんのじょうなどの顔も見える。

「え。おい。どこへ行くのか」

市松はとうとう起き上がって、こっちの幕とばりへ来た。

「いえないよ。行き先は」

虎之助は、意地わるく、明かさなかった。

「なぜいえぬ」

市松はくってかかる。後輩に対してこの先輩は常に敬意を強要した。

「軍の機密。あとで分る」

「あとなら聞く必要はない。機密とは、敵の間者に対することだ。おれに機密をまもる必要があるか」

「まず味方をあざむけと、孫子そんしか何かにありました」

「生意気をいうな。こら、どこへ行くんだ。於虎、いえ、いわんか」

「では、敵へもれたら、貴公が密報したとするが、よろしいか」

「よろしい」

「それほどまで、責任をとるなら告げます。おさしずのあり次第に、冠かむりの城へかかるべく待機しているところなので」

「なに、冠へ」

「いかにも」

「冠には、先日から杉原七郎左衛門の手勢千五百が、攻め向っている。七城中の堅固、なかなか杉原どのの手にもおえぬと、苦戦が報ぜられておるのだぞ」

「そのような由です」

「そこへ貴様などが、何の足たし前にまいるか」

「わかりません」

「わからずに戦場へ出るやつがあるか」

「ひたすら殿のお旨むねにあることでしょう。虎之助は、殿が行けと仰っしゃれば、地もくぐり天も翔かけてみせます」

「これだけの人数をつれてか。わずか二十名ほどしかおらんではないか」

「人数など問うところではありません」

「いちいちおれの鼻面はなづらをこするような物云いばかりするやつだ。於虎、貴様は同郷の後輩だから親切に教えてやろうと、俺は好意を示しているのだぞ」

「戦いくさだけは一命仕事、いのちを抛ほうりだして、してみること以外には、ひとのはなしや、ものの書ほんからも楽に学ぶことはできません」

「勝手にせい」

市松が、背を向けたとき、

「加藤どの。殿が、すぐ来いと、呼んでおられる」

平野権平ひらのごんぺいが来て呼びたてた。

「はいッ」

と、素直に虎之助はその姿へつづいてゆく。

市松はなおあとに立って、甲賀侍の美濃部みのべ十郎にはなしかけていた。

「冠山かむりやまは、日幡ひはたよりも宮路山より要害な城と聞く。杉原どのの手勢すら難攻にあぐねているのだ。奇襲するにせよ、よほどな決意でかからぬと不覚をとるぞ」

誰も感心した顔もしない。美濃部も柘植つげも黙笑して聞いているだけである。市松は手持不沙汰に立ち去った。

虎之助はなかなか君前から帰って来なかった。備中平びっちゅうだいらにはきょうも赤々と陽が落ちかけていた。敵の主城高松城のあたりに薄い炊煙すいえんがたちのぼっている。

「いざ。行こう」

虎之助の声がした。片鎌かたかまの槍やりを持って一同のうしろへ来ていた。この槍は、彼が十八歳のとき、鳥取城の搦手からめてで功名をたて、その折、秀吉にねだって拝領した彼のまたなき愛槍であった。

冠山の城は、地勢は嶮けん、守将は剛、出城として、充分守るに足る資格をそなえていたが、ひとつ欠陥があった。

城中の将が、和を欠いていることである。具体的にいえば、守将林重真はやししげざねの部下黒崎団右衛門と松田九郎兵衛とが、平常から私党を擁ようして、合戦となるや事ごとに、意見の一致を欠いていることだった。

秀吉はあらかじめこの弱点を偵知ていちしていたが、杉原七郎左衛門の手勢にこれを攻めさせると、さしも不和な城兵も、そのときだけは一体に結束して、猛烈に寄手に当ってくるのだった。

今暁こんぎょうも――である。

秀吉は、その杉原隊へ、

(朝駈けして、一揉ひともみに、揉みつぶせ)

と、厳命を出し、少なくも午ひる頃までには、陥落の報があるかと、期待していたものらしい。

ところが、夥おびただしい損傷をうけたのみで、依然、城は陥おちない。攻めれば攻めるほど、城兵の結束は強固を示してくる。彼の要害がものをいうので、所詮、急にこれを陥すことは不可能に近い、と使番つかいばんのつぶさな報告であった。

虎之助にたいして、秀吉からひそかに、

(忍びの者をつれて、城中へ入れ。城中に流言を放ち、あわよくば、火をつけて逃げて来い)

という命が出たのはそれからのことだった。

伊賀、甲賀の者の役目は、いつも攪乱戦こうらんせんか偵察だった。極めて小隊をもって敵の内部に入りこみ、流言蜚語りゅうげんひごを放ったり、水之手や火之手を脅おびやかしたり、あらゆる手段で敵の神経を衝き、自信を掻きみだすのである。

いわば陰性の戦いくさだ。華々しくない。勇ましくない。――それと甲賀侍や伊賀侍を部下として駆使くしするのは甚だつかいにくい。この組の者にはこの組特有な底意地のわるさと専門の智能と、そして陰性な気性をもっている者ばかりだからである。

誰も嫌がるこの乱波らっぱの役をいいつけられて、虎之助はいま、冠山かむりやまの城へ近づいた。

自分の家来はわずか六人しかつれていない。あと二十名は使いにくい忍びの者だった。ここも山城なので、虎之助が裏山へかかろうとすると、甲賀侍の美濃部十郎が、

「加藤どの」――と耳のそばへ口をよせていう。

「寄手から見て、敵の弱点と思われるほど、敵も用心しています。うっかり裏山へは登れませぬ。まず支度をしますから、すこしお待ちになるがよい」

十郎は、手下を招いて、同じように耳打ちした。

四、五名の忍びが、大手の方へ、風のように消えて行った。

しばらくすると、野良犬の吼ほえあう声がけんけんと遠い闇に聞えた。

大手の狭間はざまから二、三発、小銃の音がする。――遥かに退ひいている寄手の陣、杉原隊のあたり、墨を流したような夜気もにわかにうごくかのような気配が感じられた。

「もうよい頃合い。ぼつぼつ登りにかかるとしましょう。敵中の注意はいま悉ことごとく大手にそそがれている。どうです、いまの犬の啼き声は、人間とは思われますまい」

美濃部十郎はそんなことを語りながら先に立った。日頃でも敵の中に半分、味方の内に半分、両棲りょうせいを常としている伊賀、甲賀の者は、すこしも敵地深く入って来たというような危惧きぐを持たないもののようである。坦々たんたんたる自分の家の庭でも歩くように攀よじのぼって行く。

搦手からめてに北之門がある。

裏山の絶壁と、その門とのあいだに、細長い谷が繞めぐっていた。もちろん人工の空壕からぼりである。

虎之助と、伊賀、甲賀の者は、その底を這っていた。

「大将」

十郎はまた虎之助の耳元へ口をよせた。息子のような若い虎之助に向かって、飽くほど戦いくさの場数を踏んで来た老甲賀武士が、わざとそう呼ぶことばの中には、単なる敬称ともちがう子ども扱いに似た揶揄やゆがいくらかふくんでいた。

「あなたは、ここにおればよい。敵城の中というものは、よほど胆きもがすわって来ないと、どんな小城でも、勝手のわからないものだ。どうしたって、逆上あがってしまいますからな」

「…………」

「いくら巧みに忍びこんでも、ひとりが中でどじを踏むと、全体の者が、動きがとれなくなる。足手纒あしてまといだ。それにあなたは、今夜の大将だから、これにいて、吉左右きっそうをお待ちくだされば、それでよい。決して、あなたの御使命を為損しそんじるようなことはせぬ」

こう囁ささやくと、美濃部十郎や柘植つげ半之丞の輩ともがらは、仲間だけで、野鼠やそのように、壕ほりの底を走り去った。そして北之門から百間ほど先に、やや塀の低いところを見つけて、そこから城内へ忍びこむつもりらしく、一ひとかたまりになって、前後を窺うかがっていた。

すると、虎之助は、家来の者の肩車に乗って、壕の上へ這い上がった。つづいて二、三名が、彼と共に上がって来る。

壕の上で、また人間の踏み台を作った。ひとりが這う。ひとりがその背中へ乗る。その肩の上に虎之助が立つ。

手が、塀の上にとどくと、虎之助は身を弾はずませて、家来の肩から離れた。すぐひとりが下から片鎌かたかまの槍をその手へ渡す。

虎之助は、槍を左の小脇に持ちかえた。そして城内を望みながら、

「冠山かむりやまの城へ、一番に乗り入る者。羽柴筑前守の小姓、加藤虎之助清正ッ」

と、大音にどなった。

姿はとたんに城内に跳びこんでいる。不意をくったのは搦手からめての城兵だったことはいうまでもないが、むしろより以上あわてたのは彼方の塀の下に寄って、草のそよぎにも神経をつかっていた伊賀、甲賀の仲間だった。

「あッ。無茶なッ」

「ばッ、ばかなまねを」

罵ののしってみたが、追いつかない。いかに敵の虚を衝くにせよ、総体で二十六、七人の小勢で、むらがる敵の中へ入ってどうする気だ。命知らずにもほどがあると、呆れかえるよりは腹が立ってしまったのである。

とはいえ、虎之助ひとりを見殺しにして、逃げ帰ることもできない。美濃部十郎は、舌打鳴らしながら、

「飛びこめ。こうなったら、存分暴あばれて帰るしかない」

手下にいって、無二無三、塀へ取りついた。人の性根というものは、こういうとき、遺憾なく出るものである。十郎はその手下へ、飛びこめ、と命令しながら、また終りに、帰ることをいっている。

同じ侍でも、伊賀、甲賀の者には、行ったきり、死んだきり、という信条はないことになっている。いかなる辱はじをしのんでも艱苦かんくしても、生きて還って来ることが、使命の完まっとうになる役儀だからである。

「美濃部十郎ッ。二番乗り」

彼が、忌々いまいましげに、大声で呼ばわったとき、それを奪うように、彼方の塀の上でも、

「城乗り二番! 加藤虎之助家来。飯田覚兵衛ッ」

と同時に名乗って、城中へ躍りこんだ者があった。

この搦手からめてには、城方の一将、松田九郎兵衛の手勢が守っていた。

あわてふためいて、

「北之門だ。いや水門だ」

と、右往左往する混乱ぶりが闇のなかにもよくわかる。

虎之助は、その片鎌かたかまの槍をしごいて、敵兵二、三名を引っかけた。

うしろから、続いて来るものがある。頻りに、敵を斬って自分のあとについてくる。

振り向いているいとまはないが、虎之助は心のうちで、

(覚兵衛だな)

と、知っていた。

飯田覚兵衛という家来は、彼が十七のときに召し抱えたものである。その頃、長浜の城で木村大膳だいぜんの手に属し、主人秀吉から初めて三百七十石の禄をもらったとき、虎之助はそのうち百石を割さいて、山城八幡村から一名の浪人をよんで抱えた。それが飯田覚兵衛だった。

(まだ幾人もの郎党をお持ちにならなければならないのに、三百七十石のうち、てまえ一人がその三分の一も戴いてしまっては)

と、覚兵衛はひどく迷惑がったが、虎之助は、

(いや、その十倍も百倍も与えなければ、おまえほどの男前おとこまえの者に、主人顔はできない。小身のうちは、それだけでゆるしておけ)

と、ほとんど長上に対するような礼をもって抱えていた。

(この人のためには)

と、覚兵衛が誓っていたことは無言のうちにもあらわれていた。以後、いついかなる戦場でも、覚兵衛の影が、虎之助の影から離れていたことはない。

その覚兵衛の眼から見ても、前にある虎之助の働きぶりには、何の不安もなかった。覚兵衛はもちろん虎之助よりずっと年上だし、戦争の場数も多く踏み、浪人してもよい主人をと心がけて容易に仕えなかったほどであるが、彼は実にいまの主人には心から惚れこんでいた。

(――このお若い主人の豪胆は天質のものだ。単に大豪の質があるのみか慈悲もおふかい)

ひとたび仕えれば自分の生命いのちも自分の生命ではない。覚兵衛が心のちかいには、この大豪にして慈悲ある青年の将来を天寿にいたるまで生かしてみたい念願がある。そのためにはいつでも主人の生命いのちに代って自分の生命を打ち捨てる覚悟でいた。そこにこの主従はむすばれていた。

「あッ。おのれッ」

覚兵衛は、本能的に、ひとりの敵へとびかかった。おそろしく敏捷びんしょう精悍せいかんな敵が、虎之助のうしろへまわって、長巻ながまきを振りかぶり、あわや斬り下ろそうとしていたのを見つけたからであった。

地ひびきがした。

血漿けっしょうのけむる中に、主従は顔見あわせ、にこと笑った。

覚兵衛は注意した。

「そこらはもう砦とりでの本丸に近いようです。ちと深入りしすぎはしませんか」

虎之助はかぶりを振って、

「一気に、わざと、城の真っただ中まで駈けて来たのだ。覚兵衛、呶鳴どなれ、呶鳴ってあるけ」

「喚わめけとは」

「搦手からめての守りは、城将の松田九郎兵衛とみえた。その九郎兵衛と日頃から不和な黒崎団右衛門が、城内から裏切りを起したように、云い触れて駈けまわれ」

「承知しました」

ふたりはまた、乱脈に駈け惑まどう城兵のなかを、縦横に斬って通りながら、こもごもに声を放った。

「裏切者、裏切者ッ」

「団右衛門の組が火を放つけて歩いておるぞ。黒崎団右衛門の手の者に油断するなッ」

平常の内訌ないこうは、こういう時、収拾のつかない混乱となって現われた。

城兵は城兵を疑い、共に防ぐ味方でありながら、味方同志が恐れ合って、敵をよそに同志討ちを演じ、果ては、城をすてて、思い思いな口から逃散ちょうさんし出した。

この頃、大手方面でも、

「すわ、搦手からめての辺りから、奇襲して城内へ入った味方の一手があるとみゆるぞ。突っこめ、正面から」

と、先頃から攻めあぐねていた杉原七郎左衛門の手勢も、無二無三、城壁へとりついた。

ここの一番乗りは、杉原の郎党山下九蔵という者だった。

しかしそのときすでに城兵の大半は潰走かいそうし、前日までの頑強性は失われた後のことなので、正確なる城乗り一番の軍功は依然搦手からめてからはいった虎之助の上にあることはいうまでもない。

こうして、この夜、冠山かむりやまの城も陥ち、城将の林重真しげざねも、城と運命を共にした。

虎之助は、あとの始末を、杉原七郎左衛門の手に委まかせて、龍王山へもどるとすぐ、秀吉のまえに出て、

「おいいつけの度を超えて、つい独断、立ち働きいたしました。万一仕損じたみぎりは、生きて帰らないつもりでしたが、思いどおり城が陥ちたので立ち帰りました。御命令に違背いはいの罪、どうぞお叱り置きねがいまする」

と、いった。

秀吉は、否と、頭こうべを振り、

「違背ではない。万一、敵の搦手に接近して、敵に間隙かんげきがあれば、そう致すであろうとぞんじたゆえ、特に、思慮勇気ふたつあるそちをさし向けたのだ。よしよし。……このたびは二人ともよくいたしたぞ」

と、賞ほめた。

だが、二人ともとは、もう一名誰のことをさしたのか、虎之助が顔を上げて見まわすと、秀吉のかたわらに、福島市松が見えた。それまでやや仏頂面ぶっちょうづらしていた市松が、急に顔を赧あからめて、はっと指先を下へつき、喜色を姿にかがやかしている。

「褒美は他日みなとともにつかわすであろう。当座のしるしまでに」

市松にも、虎之助にも、同様な感状が下りた。虎之助が感状をうけたのは中国陣に臨んで以来、これで二度目であった。

宮路、冠山の二城を失って、七城連環の敵の外輪は、その防禦陣に歯の抜けたような揺ゆるぎを呈し出した。一歯を失えば両歯がゆらぐ。秀吉は努めて味方の兵を消耗せずに、次々の歯を抜いてゆこうとするもののようであった。

それからまもなく、また加茂の城が、ほとんど手ぬらさずに、羽柴軍の手に帰した。これは、守将の生石中務なまいしなかつかさを東軍に内応させ、無血占領の効を収めたものだった。

高松の城についで頑強と思われたのは、日幡ひはたの城である。ここには城兵が千余人もたてこもり、中国の豪将日幡景親かげちかがおり、また軍監ぐんかんとしては、毛利家の一族上原元祐うえはらもとすけがこれを扶たすけていた。

これをいかに陥おとすかの問題である。三万の味方全部を配置して、敵の諸城をして完まったく反撃に出るの余地もなからしめながら、龍王山の中軍、秀吉のいるところには、なお一万五千の大兵をそなえ、余裕を充分に示威じいしながらも、彼は敢えてその大兵をみだりに用いて功を急ごうとはしない。

「何か、あれは。……陣外に賑やかな音曲が聞えるではないか」

営中の幕とばりをあけて、秀吉はぶらりと出て来た。耳に喧かしましいばかり笛や鉦かねや太鼓の音がする。戦陣ながら晩春の真昼、彼も作戦に倦うんだか、にこにこしながらその音曲につられて顔を見せたのであった。

市いち

小姓の脇坂甚内わきざかじんないや片桐助作かたぎりすけさくや石田佐吉いしださきちなど。また侍たちも各〻の幕囲いから飛び出して来て、秀吉のそぞろ歩きに従った。

「あれは、旅芸人の群れが、ふもとの市いちに、小屋を掛けて、人寄せをしている音曲でございましょう」

蜂須賀彦右衛門の子、小六家政がそう答えた。

小六という名は、蜂須賀代々の名で、父のものであったが、いまは青年家政が譲ゆずりうけてそう称となえている。

「ほう。この麓に、いつのまに市などができたか」

見にゆくつもりか、秀吉は龍王山の坂道をのぞいていた。何の予告もなく、彼が陣外へ逍遥しょうようして来るのを見て、哨戒しょうかいの兵たちは、眼をみはっていた。

「実に、早うござります。商人あきゅうどというものは」

生駒甚助いこまじんすけが、傍かたわらから答えた。これは近侍中での老武士で、世態を観みる眼をそなえている。

「ここへ御本陣がさだめられたと知ると、翌あくる日はもう近村の男女が、働きを求めに来たり、残飯を乞いに来たり、野菜、菓子、針や糸の類まで売りに参ります。さらに御滞陣が十日にわたると、ぼつぼつ露店ほしみせを並べ出し、洗濯女や一杯売りの酒瓶屋さかがめやも集つどい、やがて半月ともなれば、こんどは遠郷近国からも、あらゆる商人あきゅうどどもが寄って来て、忽ち、市を開き、市を目あてに、旅の芸人までが寄って来るというわけで、はやここの麓ふもとには、小さな町ほども人々が賑わって生業なりわいをいたしおるのでございまする」

生駒甚助の説明は親切であった。

「そうか。そうか」

秀吉は満足らしい。

家に客が多いのを喜ぶのと同じような気もちで、自分の本陣のまわりに、そうした庶民が集まって来るのは彼として嬉しいらしい。

「……なるほど」

と、その実景を、彼はほどなく麓に近い高所から眼に見ていた。

軍の行動をさまたげない範囲に一劃いっかくを区ぎって、市を許可してあるらしい。そこに見られる掛小屋だの露店ほしみせの数は社寺の賽日さいにちを思わせるほど雑鬧ざっとうしている。もちろんここを中心とする三万の将士を顧客こきゃくとして始まったものであろうが、その人間を目標にまた人間が集まって複数的な繁昌を呈しているのであった。

「……なんと、盛んなものではございませんか」

と、甚助は、秀吉の下にひざまずきながら、彼の面おもてを仰いで、

「諸国に戦いくさは多く、戦のあるところ、かならず本陣も置かれますが、こういう景観けいかんが見られるのは、まったくわが殿の陣せられるところにのみ見られる現象でございまする。……殿御自身におかれても、このような光景は、いかなる戦陣の場所でも、御覧になったことはござりますまい」

「……む、む。ないな」

「決して、諂おもねるわけではございませんが、たしかに、殿の御人徳によるものかと存ぜられます。それとこの中国において、わが羽柴軍が、ふかく民心を得た証拠とも申されましょう」

「…………」

足もとの声をそら耳にして、秀吉の眼はただ下の市の賑にぎわいに見とれている。ひそかに彼は、主君信長に従って赴いた北陸や伊勢の陣を思いくらべていた。

ひとたび、信長の征馬行くところは、秋霜しゅうそうの軍令と、罰殺ばっさつの徹底に、草木も枯れる概がある。ために、信長その人について、深い理解をもち得ない敵国の民衆は、織田軍と聞けば、涙も仮借かしゃくもないものと一途いちずに怖れおののいて、その幕営をめぐって市が立つどころか、求めても、人は逃げてしまうし、捜さがしても、物資は地下に蔵かくされてしまう。

秀吉は多年、それを見て、それに倣ならうことを避けていた。また彼の性格からも、信長のようにはできなかった。

まもなく秀吉のすがたは市のなかを歩いていた。もちろん微行して。

旅芸人の一群が、鄙ひなびた曲楽にあわせ、刀玉取かたなたまとりという曲芸を演じている。ここには戦場の陰影も恐怖もなく、無数な顔がただ嘻々ききとしてそれを見ている。

秀吉は見物人の喝采かっさいしている旅芸人の手元よりは、べつな方へ眼を逸そらしていた。その視線をうけているのをまだ気づかずに、これも頻りに芸人の刀玉取に見恍みとれながらにこにこしていた若い旅支度の商人風な男がある。

男は、見物人の輪の向う側に腰かけていた。側には大きな荷物をおいて、片肱かたひじを凭もたせ、ひどく屈託のない若々しさを顔にたたえて、ときどき、大口あいて笑ったり、自分の鼻を抓つまんでみたりしている。

「オ。弥九郎がおる」

秀吉はつぶやいて、

「小六」

と、そばに佇たたずんでいる蜂須賀家政へそっといいつけた。

「向う側の木の根に腰かけて、けらけら笑うておる色黒い痩せがたの若者。そちは覚えないか」

「見たようにもぞんじますが」

「泉州の弥九郎じゃ。後から本陣へ召しつれて来い」

云いのこすと、秀吉は他の者に守られて、先へ山へ帰った。

小六家政も、あとから程なく登って来た。弥九郎という若い商人をうしろに連れて。

「来たか」

秀吉は営中の楯たてを敷きならべた上に毛皮を展のべさせて坐っていた。茶道衆に命じて一ぷく求めていたためである。信長から拝領した名碗めいわんをこんな所へも持って来て無造作に用いている。――それを茶道衆の手へもどして、

「ここへでいい。すぐ」

と、家政へいう。

家政は、念を押して、

「ここへ召し連れますか」

と、たずね、秀吉のうなずきを見て、すぐ弥九郎を呼び入れた。

「はいはい。恐れ入ります。……お座所は、こちらでいらっしゃいますか」

幕とばりの外から弥九郎の声がする。堺さかいことばの軽快な語尾と商人あきゅうどらしい気ばたらきが、みじかい辞ことばの中にも鮮明に働いている。

「お久しゅうございました」

はるか下に手をつかえたときは、さすがに能あたう限り身を低め、額ひたいも地につかぬばかり平伏した。

秀吉は、見て。――近習の輩ともがらへいった。

「しばらくそち達は、退さがっておれ」

ここを起つのは何か不安なように、弥九郎の姿へ警戒の眼をそそいでゆく侍臣もあった。けれど間もなくこの幕のうちは、秀吉とこの若い一商人とふたりきりになっていた。

「寄れ。もそっと」

「おそれ入ります」

「弥九郎」

「はい」

「この辺へ何しに来ていたか」

「商用で参りました」

「薬は売れるか」

「宇喜多様にも、黒田様にも、諸所の御陣中で、大量にお買上げをいただいておりますゆえ、このたびは店の者どもも総出でこちらに出向いておりまする」

「来たらなぜ筑前の所へも、稀たまには顔を見せぬか」

「御陣務のおさまたげと存じまして。――けれど、御家臣衆のそれぞれの御陣所へは、欠かさずに御用を伺いながら廻っておりますので」

「そうか」

と、間をおいてから、秀吉はまたいった。

「では、毛利方のあちこちの城へも、商用に歩くであろうな。日幡ひはたの城などへも、折々は商いに参るかの」

弥九郎の眸ひとみは、ちょっと慌てたような光をうごかした。

けれど、この若者には、ひどく豪胆ごうたんな一面があるらしい。

いったい堺そだちの商業人は、荒胆あらぎもの戦国武将たちをも、そう眼中には措おかないくらいな独自の豪毅ごうきを持っている。よくいえば海外との交流に自然、養われている大気濶達かったつな風であり、悪くいえば財力を背景とし、経済的に訓練されたするどい智能が、どんな場合にも肚の底に人を喰った観察をなすほどな余裕をもっていることだった。

まだ三十にも届かないこの小伜こせがれの弥九郎にすら、秀吉は、それを見る。

(これも堺人的さかいじんてきな才物)

と、その一言半句、ひとみの働きまでを、彼はながめ入った。

弥九郎は、小鬢こびんのあたりへ、手をやって、しきりと自分の襟えりを撫なでた。

「どうも、恐れ入りました。お察しのとおり、商人でございますから、御註文をうければ、おことわりはいたしませぬ。日幡ひはたの城へも、冠山かむりやまの城へも、先頃は御用品を届けに参りました。――けれど近頃は伺いません。何分、御軍勢がとりまいておられますゆえ、易々やすやす、往来はゆるされませんので、はい」

明快に答えてから、急に、

「そうそう。このたびは、宮路の城も冠山の城も、早速お手に入れられ、御戦果のほど、まことにおめでとう存じあげまする。中国の百姓町人はみな今日では、一日もはやく御平定の日をみて、御仁政の下に安心して働けるように、と心から祈っております。世辞せじではございませぬ。このことは、市いちに集まってくるあの賑いを御覧ごろうじましても、おわかりでございましょうが」

と、云い足した。

秀吉は疑わない。弥九郎のことばを、その顔いろは、すらすら受け容れている。――が、次に彼の云い出したことは、弥九郎もちょっと予想していなかった問題だった。

「そちに訊いたら詳くわしくわかろう。日幡の城には、中国の豪勇日幡景親かげちかが主将として坐り、その軍監ぐんかんとして、毛利元就もとなりの妾腹しょうふくのむすめ聟むこ、上原元祐もとすけが彼を扶たすけているかたちだが、一方は毛利の外戚がいせき、一方は剛骨ごうこつな勇将、こうふたりが一城にあって、折合はうまくついているかの。城兵などの評判はどうじゃ。そこらの内輪うちわを、ちと聞きたいのだが……もしそちに、日幡への義理合ぎりあいがあっては正直を語れまい。語れぬものならむりに訊こうともいわんが……どうじゃな弥九郎」

「あちらへの義理合などは、決してございません。薬種をお納めいたしたのも、数回はございますが、日幡家の老職、竹井惣左衛門そうざえもん様と、てまえどもの養家の先代が少々の縁故がございましたためで、てまえ自身も日幡景親様へは、直接お目にかかったこともない程度でございますから」

弥九郎はなお、この話題こそ、相手の人が自分をここへ招いた重点と覚さとったので、ことばの不足を云い加えて、

「――むしろ、てまえどもといたしましては、御当家こそ、ずいぶん前々からの大切なお出入り先と心得ておりまする。殿にはもうお忘れかもしれませんが、いちばん初めにお目にかかりましたのは、もう十三、四年も前、たしか信長様が、初めて堺へ兵をお入れ遊ばした年で――わたくしもまだ堺の生家小西屋におり、年も十二、三歳の頃でございました」

「そうそう。そちはなかなかきびきびした小僧であった」

「殿が、小西屋の店へお立ち寄りくださいまして、店頭で遊んでいた私の頭つむりを撫で。――この小蛙こかわずは人怯ひとおじせぬ面つらがまえしておるわ。どうだ、侍にならんか。――そう仰っしゃって下すったことを、ただ今でもよく覚えておりまする」

思い出を語られると、秀吉もつりこまれて、懐かしそうに笑った。

「そうか、あの時、そんなことを申したかなあ」

「子ども心に沁しみたことは、妙にいつまでも、忘れないもので」

弥九郎は、ぽつんと、ことばを切って、黙った。

横道へ逸それた話を、後へ戻して、秀吉から質問をうけたことについて、答を胸の中で纒まとめているらしい。

やがてまた口を開いた。

「日幡の城の内情について、聞き及んでいる要点のみ申しあげます。ただし多くは人の風評、真偽は御賢慮をもってお判じ下さい」

「む、む」

「ひと口に申せば、日幡城の内輪は、うまく一致していないそうです。主将たる景親殿と、軍監の元祐もとすけ殿と、いつも命令二途より出て、たがいに固執し、論議するといったような場合が多く、老職の竹井惣左衛門様も、ほとほと、困ったものと、てまえ如き者にまで、嘆息を見せられたことがありました」

「上原元祐の妻も、日幡の城内に住んでおると聞いておるが」

「あの奥方は、さすがに毛利元就もとなり様の血をうけ、御妾腹から出たお方ではありますが、賢夫人であると、評判のよいお人です」

「良人の元祐の人物は」

「これは、とるに足らないお人ではないかと思われます。自分の妻が元就公のむすめだということを鼻にかけて、何事につけても、格式ばかりやかましくいう。これも両将不和の一因とか聞き及んでおりますが」

「ウム、なるほど」

あらかじめ偵知していたことと、弥九郎のはなしとは、よく一致していたらしい。

秀吉は、ひとみを大きくして、もういちど深く顎あごをひいた。

「弥九郎」

「は」

「もっと、前へ寄れ。これからの談合じゃ」

「はい」

怯おくせず、弥九郎は、前へすり寄った。ほとんど、膝もふれあう程まで。

「何事でございますか」

「どうだ、侍にならんか。――これは十数年前にも、小西屋の店さきで、そちの頭を撫でながらいったという、わしの言葉手形を、ここで実行することになるわけだが」

「……左様ですな」

うんと、すぐにはいわないのである。弥九郎は熟慮してから答えた。

「――成ってもよろしゅうございますが」

「が――と濁にごるのは、成ってもよし成りたくもなし、というわけか」

「忌憚きたんなく申しあげます。御承知のとおりてまえは、堺の薬種問屋、小西屋寿徳じゅとくの次男と生れ、のちに岡山御城下の同業の家へ養子として参り、たえず堺と中国を往来し、諸家へ、薬をお納めしておりますが、これはなかなか悪い身分ではございません」

「……ふム」

へんなことをいう臆面おくめんのない男だと、秀吉は、感心しているような、またすこし、鼻白はなじろんだような面持おももちで、まじまじと、弥九郎の唇くちもとを見まもった。

弥九郎は、当然なことを、当然いっているような態度である。

「人様には、腰を低め、身には粗服、足にはわらじで、こう忙せわしくしておりましても、これで心はなかなか楽しいのでございます。申してはちと憚はばかりありますが、中国御陣のお蔭で、外傷の薬、そのほかの薬種は、おもしろいほど売れますし、将来は海外とも交易し、あちらの薬種香料なども買い入れ、ずいぶん商人として大きく働ける時代でございますからな。――ここで商あきないの道を捨て、侍衆の端について、槍の持ちようから習い覚え、戦場の中をまごまごして見ましょうとも、どうも大した自信は持てそうもありません。これは考えものでございますな。子どもの時なら一も二もなく仰せに従ったでしょうが、唯今では急に御返辞はいたしかねます」

大きくても小さくても、町人は町人として、社会的にはっきり階級づけられている今日である。さむらいに取り立ててやるといえば、随喜ずいきして、仰せにしたがうというのが人情であり常識であった。

ところが、小西屋弥九郎は、そうでない。

この逢いがたい時代に逢って、将来大いに、武家には成す理想が多いというなら、同様に、商売としても千載一遇の時、何もさむらいに転じなくとも、自分は自分の職をもって、この時代に充分、希望も生きがいも持ち得ている者。――せっかくながら簡単には御返辞いたしかねるというのであった。

「むむ。そうか」

秀吉は一応唇くちをつぐんだ。

これが堺人士の特徴というものだろう。本来ならば、利害をこえて、不つつかな身にありがたいお言葉、犬馬の労をとり申さんとか、お眼鑑めがねにこたえ奉らんとか、打算を捨てて答えるのが普通なのに、将来の利害をあきらかに云い立てて、

(よく考えたうえで)

という返答は、近頃、武門の間では聞き馴れないことであった。

けれど秀吉は、それを不愉快らしくは少しも聞かなかった。むしろこういうはっきりした男も大いによろしい。いったん義によって然諾ぜんだくしながら後になって利害損得にぐちぐちいうよりは遥かにましである。それにこういう特徴も大いに用いどころがあるし、使うには使いよいことなども考えられた。いや多分にそういう男だということは、知っての上の交渉であるから、さして不快とする理由もなかったのである。

「弥九郎。商人あきゅうどというものは、目さきが大事ということをよく申すが、目さきとは、目の前という意味ではあるまいな。見越し、先行きということではないか」

「仰っしゃるとおりでございます」

「すると、そちの見越しは、ちと目の前に滞とどこおりすぎておる。なぜ、先行きの大利を考えん。商売として立っても男児の仕事は大いにあろうが、十間間口を五十間に広げ、三戸前みとまえの土蔵を百棟の土蔵に増してみたところで知れたものではないか。一国一城の主となるのとは大へん趣おもむきがちがう。働きがいがちがう。男と生れた生涯の幅もちがうが、どうだな」

「もとよりその辺はよく分っておりますが」

「当座の禄ろくも、喰えぬほどな微禄は与えぬ。古参並に扱ってやろう。戦場の往来が不得手ならば、筑前のうしろに控えて、帳面算盤そろばんを持っておるもよろしい。軍のうちには汝のような才能も必要なのだ。いや、とかく麾下きかのさむらいどもは、陣頭へ出て、華々はなばなと生死の中をくぐりたがってのみいてこまる。糧米や軍需の数字を按あんじ、帷幕いばくの蔭に経営の苦心をするなどはさむらいの潔いさぎよしとする仕事でないようにみな嫌っていかん。というて、それに不適な才能をむりに持って来ても、これは当人の天性をつかいころすことになるからな。そこでそちのような人間も、大いに重用され得る理由が生じてくる」

「殿。……御返辞申しあげまする。てまえのような者でも、お用いいただければ、お役に立ちそうに思われて来ました。御奉公することにいたしましょう。何とぞ弥九郎の生涯を、不足なく使いきったと後に思し召すように、充分お召しつかい下さいまし」

「承知したか」

「何のかのと、自分の申し分ばかり云いたてて恐れ入りました」

「左様なこと詫わびるに及ばん。随身のうえは、早速にも、そちに命じることがある。いわば奉公始め。弥九郎。まず一働ひとはたらきしてみせい」

元祐もとすけの妻つま

小西屋弥九郎こにしややくろうは、暇いとまを乞うていちど岡山へ帰った。けれどまたすぐ帰陣して、その日から秀吉に仕える身となった。

小西弥九郎行長ゆきながとみずから称となえ、ここに一ひとかどの侍になったが、弥九郎は、髪も姿も、前の町人作りのまま、秀吉の命をうけて、間もなくどこかへ立ち去った。

数日の後、彼は、日幡城の中にある竹井惣左衛門そうざえもんの邸へ、客として訪れていた。

密談半夜に及んで、そっと城中から帰った。

惣左衛門は、軍目付いくさめつけ上原元祐もとすけの家老である。弥九郎が去ると、ひそかに元祐の前に出て、

「昵懇じっこんの小西弥九郎ともうす者がぜひお取次ぎを得たいとて、夜前、この一書をたずさえて手前を訪ねてまいりました。一応、殿のお目にだけは入れておくと答えて帰しましたが」

云いながら、ふところから秀吉の書簡を出して、元祐のまえに供えた。

元祐は精読した。

主人が、それを見て、どんな気色けしきを顔に示すだろうか。それを、惣左衛門は、うわ目づかいに、窺うかがっていた。

まんざらでない顔色である。秀吉の手紙はもちろん招降の書簡で、内応して、城をわたすなら、信長に取り次いで、戦後充分な恩賞をもって酬むくおう。備中一国は貴下に呈してもよい。そう認したためてある。

「惣左そうざ」

「はい」

「そちはどう思う」

「てまえは、ただ殿と、生死をともにいたすもの。殿の御意ぎょいのままに従いまする」

惣左衛門のことばは、すでに元祐もとすけの中にうごいている心をすすめているのと同じであった。

が、さすがに、元祐も迷っていた。容易に決意はつかなかった。

惣左衛門が重ねていう。

「何分、ここの城主、日幡どのが、あのように頑迷では、いかに防いでも、落城の日の遠からぬことだけは確かです。それにひきかえ、敵の秀吉はこの中国においても、日増しに衆望を昂たかめているようで……」

と、主人の眉をまた見つめていたが、元祐もむしろそれに同意らしく窺うかがわれたので、次のことばにはもう忌憚きたんなく自分の意思を述べた。

「ひとたび落城を見てからでは万事休すです。御最期か、生捕いけどりの憂き目を見るかの二つを出ません。お意こころあるなればいまのうちで」

「むむ。……惣左。そちもそう考えるか」

「思慮の乏しい日幡景親かげちかどのと共に惨敗を喫するよりは、むしろ……と」

「料紙と硯すずりをかせ」

元祐は、筆をとって秀吉へ返簡を書いた。

内応のこと承知と。

「惣左。ではこれを」

「はッ」

「覚さとられるな。景親かげちかに」

「何のぬかりが」

惣左はふところへ入れた。

小西弥九郎が、一商人として、種々の薬品を納入に来たのは次の日だった。城内では、欠乏を告げていた品なので、彼の労を多とし平常に倍する値を払った。

代価は、惣左衛門の手から払われた。金子きんすのうちに上原元祐の返書もつつみ込まれてあった。

「ありがとう存じます」

弥九郎は、公然、日幡城から出て行った。その足ですぐ彼が龍王山の陣地へ急いで行ったことは、不覚にも、日幡景親の手勢は気づかなかった。

滅亡に終るものは、たいがいな場合、外敵よりも内敵にその素因がある。内部に禍わざわいの根のない限りは、外敵も乗ずることはできないからである。

日幡の城はすでに病やまいを内に持っていたものだった。小西弥九郎を躍らせた秀吉の策は、単にその患部へ外から熱を加えたにすぎない。果然、内訌ないこうの疾患は遂に膿うみを出した。

城将日幡景親と、軍監の上原元祐もとすけのあつれき、味方同志の暗闘や中傷、それをめぐって策動する下部層の士気のみだれなど――城下に秀吉の大軍を迎え、背後に毛利家の興亡をにないながら、この中の人心は、人心の真美も純熱もあらわすことができないで、いたずらに人心の弱点――私慾、私憤、私闘といったような醜いものばかりを助成するような形態の下にあった。

捨てておいても、当然、瓦解がかいするものだったにちがいない。――けれど弥九郎の往来は、急転直下きゅうてんちょっか、その日を早めた。

あれから間もない一夜。

「――即死された」

「たれだ、下手人は」

「城中に容易ならぬ裏切者がひそんでおるぞ。油断すな、面々」

声から声へ、騒然たることばが伝えられ、夜の明けるまで鎮しずまることを知らなかった。

城将の日幡景親が、北曲輪きたぐるわの防備を巡視中、何者かに、鉄砲で狙撃そげきされたのである。

敵の弾たまにではない。明確に、味方の弾だ。鼎かなえのわくような混乱と物議が果てしなく夜を徹し、そのあげくは、

「日頃、景親どのと不和な上原元祐もとすけのさしがねにちがいない」

「元祐の家老、竹井惣左衛門があやしい。先頃から薬売りの小西屋弥九郎と幾度か密会し、彼をもって、寄手の羽柴勢となにか聯絡れんらくをとったような形跡けいせきもみえる」

「元祐の邸やしきへ行け。ともあれ、押しかけて、彼らの本心をたたいてみれば顔色でも知れる」

景親の郎党たちは、集結して、上原の住居へ殺到した。

夜来の騒動を、同じ城内にいながら、軍監たる上原元祐が知らないはずはない。にもかかわらず、元祐はゆうべから誰にも顔を見せていない。

「元祐を出せ」

「元祐に会おう」

日幡の郎党は、門を囲んで、怒号し合った。

「出ぬからには、やましい覚えがあるのであろう。われら長年の主人をうしない、しかも城下に大軍の敵を持ち、やり方もない鬱憤うっぷんをもってこれへ参ったもの。押し入って元祐の首を挙げるがいいか」

邸内にも、上原の郎党がひしめいている。何事か凝議ぎょうぎしている動揺が感じられる。するとやがて、家来に門をひらかせて、静かに立ちあらわれた女性がある。

「しずまりなさい。城外の寄手に覚さとられたら何としますか」

上原元祐の妻である。手に薙刀なぎなたをかかえていた。

元祐の妻としては、反感をいだいている日幡の郎党も、この婦人が、毛利元就もとなりの血をうけた妾腹の子であることは知っている。その点において、この女性の一声は、彼らの怒りを一時にせよ宥なだめるに効があった。

「夜来の変には、女であるわたくしとて、共々、胸をいためているところです。もし良人や、わが家の家中に、そのような異端いたんを味方のうちに招いたものがあるなれば、あなた方のお手はかりませぬ。……今も今とて、そのことを、取りただしているところでした。しばし、調べのつくあいだ、静かに始末をお待ちください」

いうと、元祐の妻は、ふたたび門の扉とを閉めさせて、邸の内へかくれてしまった。

「立ち帰ったか」

元祐もとすけは、室内へもどって来た妻にたずねた。

彼の妻は、涙の中から、良人の顔を蔑さげすむごとく、恨むごとく、じっと見てから、

「いいえ」

と、だけ答えた。

そして、しとやかに、

「惣左衛門をこれへお召し下さいませ」

と、願った。

元祐の近侍は、すぐ家老の竹井惣左衛門をつれて来た。そして、惣左のすがたが縁に見えると、

「入るに及びません」

と、夫人みずから室の外へ出て行った。

とたんに、するどく、

「不忠者!」

と、夫人の叱る声がそこに聞えた。元祐は愕おどろいて座を立って室外へ顔を出した。見れば、夫人は隣室から携たずさえて出た薙刀なぎなたの一颯いっさつの下に、竹井惣左衛門を手討ちにしていたのである。

「あッ。そ、そなたは、何で惣左を……。何で?」

蒼白な面おもての裡うちに、元祐は、抑おさえ難い怒りを燃やしていう。

「お席へおもどり遊ばせ」

立ち騒ぐ近侍をしりぞけて、彼の妻は、一室を閉めきった。夫婦ただ二人となった。

手をつかえると、妻は、おろおろと泣きわなないた。しかし、もう泣くまいとするもののように、彼の妻は、やがて涙を拭ぬぐって、良人おっとへ迫った。

「御一緒に、相果てましょう」

「……な、なに」

元祐は、つめよる妻の膝から膝を退さげた。

彼の妻は、ふたりの間に、懐剣を置いた。そして真心を声涙にこめて説いた。

「いかに日頃から御意見の相違があるとは申せ、竹井惣左衛門に命じ、日幡どのを暗討やみうちさせるとは何事でござりますか。――しかもその前に、敵の秀吉に気脈を通じ、利に惑まどわされて、味方を売る諜しめし合わせを遊ばしての上とは……」

「た、たれが一体、そのようなことを云い触らしたか」

「あなた様の妻です。あなた様のお心が分らいでどうしましょう。はや門外には、景親どのの郎党がお首を所望に来ておりまする。妻がお側におりながらやみやみお首級しるしを人の辱はずかしめに任せるわけにはまいりませぬ。わたくしもお供いたしまする。潔いさぎよく、罪を詫びて、お腹をお召しあそばしませ」

「腹を切れと。――奥方おく。そちは気でもちごうたか」

「元就もとなりのむすめです。亡父ちちの遺訓には、利を求めて名を捨てよとはございません。あなた様とて、毛利家に忠義のゆえをもって、わたくしを娶合めあわされ、さらにまたこの度は、輝元様の目鑑めがねをもって、軍目付いくさめつけにこの城へさし向けられたお立場ではありませぬか。……いかなる天魔がわが良人をこうも浅ましい者にはなしたかと、人の心の頼りなさが情けなく思われまする。……あれ、あの声、門の外にひしめくお味方の罵ののしる声をお聞き遊ばせ。生きれば生きるほどお身の辱はじです。毛利家の名を汚しまする。さ。お急ぎ遊ばしますように」

血相をこめて、迫ると、元祐はなお死を惜しんで、ふいに逃げかけた。

「御卑怯なッ」

夫人は、良人へ抱きついた。鮮血が走った。

それから程経て、彼女の美しい死骸は、城廓じょうかくの東の丘に発見された。良人元祐の首を前に置き、一枝の花を供えて、そのまえで見事に自害していたのである。

俯伏うつぶした黒髪は、西の方、毛利の本国芸州げいしゅうの方へ向いていた。

さみだれ雲ぐも

一城一城、連環れんかんの小城は、かくて箇々に潰滅かいめつされた。

のこるは一つ、高松城の主力のみが、ここにぽつねんと孤立のすがたになった。

もとよりこうした頽勢たいせいは、高松城の清水宗治むねはるから、毛利家へ向って頻々ひんぴんと、

「事態いよいよ急。一刻もはやく御援軍を」

と、飛書、早馬、相継ぐ急使をもって、訴えられたこともちろんであるが、いかんせん、事情は急速に毛利の軍勢をして、ここへ反転進出してくるのをゆるさなかった。

なぜならば、小早川隆景たかかげは、筑前の立花や豊後の大友宗麟おおともそうりんなどと交戦中であった。吉川元春もとはるは、鳥取城を中心とする敵勢力の山陰展開にたいしその処置に忙殺されていた。また、主将毛利輝元にしても、こう両翼の一致と、対秀吉軍の大方針が決せぬうちは、その本国吉田山の城をめったに揺るぎ出ることも当然ならない。

輝元を中心に、その両川りょうせんの意見が一致し、毛利家はじまって以来の、大戦端を予測しながら、全軍四万が方向を転じて、この備中の境へ出てくるまでには、どうしてもなお半月以上の日数はかかる。

「極力いそぐ。かならず大軍をもって援軍に赴く。ただ問題はそれまでの防ぎだ。頑張りだ。高松の一城だに頑としておれば、敵は芸州へ一歩も入ることはできぬ。――清水宗治以下の一心一致をくれぐれ頼みまいらすぞ」

輝元の側近は、輝元のことばとして、度々の使者にこう答えた。激励した。またその一線の任と籠城ろうじょうの意義がいかに大きく重いかを説いて、声援鞭撻せいえんべんたつ、怠りもなかった。

元春や隆景からも、宗治へあてて、同じような激励と、そして急援の準備にかかっている消息は幾度か聯絡されていたはずである。けれど、やがてその通信は、中断され、杜絶とぜつした。

四月二十七日からである。

「今は」

と、秀吉は、周到な用意のもとに、すべての邪魔をのぞいて、いよいよ残る一城高松の包囲を行動しはじめた。

龍王山の本陣一万五千はなおうごかない。

平山の高地へ、羽柴秀勝が五千をひきいて進出し、八幡山には、宇喜多秀家の一万が戦気を昂たかめていた。

宇喜多勢の背後には、秀吉の譜代ふだいと見られる諸将が陣していた。盤上の駒組こまぐみは一応まずととのったかたちである。宇喜多のうしろへ譜代を配したのは、なおまだ宇喜多の配下にふた心を抱く者が絶無とはかぎらない――万一に備えてであることはいうまでもない。

包囲形勢をとったその日から、寄手と城兵のあいだには、もう先鋒で一部隊の衝突があった。

「――今朝、池の下口での合戦では、宇喜多どのの家士の中、戦死傷あわせて五百余名とかぞえられ、城兵の損害は約百に足らず。うち八十余名は悉ことごとく討死。のこる数名のみ生捕いけどりましたが、それらもみな全身に深傷ふかでを持ち、はや五体もきかぬまま捕われた者どもでありました」

前線を視察して、例の輿こしに乗ってもどって来た黒田官兵衛が、龍王山の秀吉の前に来て、序戦の第一日からすさまじい激戦であった模様をつまびらかに話していた。

秀吉はうなずきながら、

「道理、道理。こんどは、血を見ずに陥おとしいれるわけにはまいらぬ。……しかし、宇喜多勢も、よく戦うとみえる」

と、いった。――宇喜多の先陣は、その心底と戦闘力を彼の目から試されているものだった。

すぐ五月に入った。

梅雨つゆの空は、むし暑く掻かき曇ったり、そうかと思うと、ただならぬ照りつけかたをする。

序戦に、大損害をうけた宇喜多勢は、あれから五日間、夜ごと夜ごと和井元口わいもとぐちの附近に、こっそり塹壕ざんごうを掘っていた。

二日の朝。この辺に攻め口取って、城へ挑いどんだ。

清水宗治むねはるの麾下きかは、宇喜田の兵が、城戸や石垣近くへ寄りたかって来るのを見ると、

「うじ虫めが」

と、口ぎたなく罵ののしった。

ひとたびは、毛利家に属し、転じては秀吉の先鋒となって、かつての味方へ攻めて来るものに対し、必然な憤怒をおぼえるのだった。

腕を扼やくし、歯がみをして、しばし見ていたが、機を計って、城門をひらくと、

「うじ虫を追っ払え」

「いや一匹も生かして帰すな」

怒濤を作って、討って出た。

この怒濤のなかには、戦いを凄惨せいさんにする太い感情が波打っている。猛烈な槍の走り、唸うなってゆく太刀のきらめき。それが、思う敵とぶつかるやいな、すぐ惨烈な血けむりとなって、いたるところに、

「来たかッ」

「うぬ」

一騎一騎、一兵一兵。組む、刺し交ちがえる、或いは、首をあげる、その首を奪うなど、到底、ほかの戦場では見られぬほどな猛闘が演じられだした。

「退ひけッ。退けッ」

土けむりの中で、宇喜多の部将のしゃがれ声が聞えると、彼方此方かなたこなたの散兵も、わっと鬨ときを合わせて退ひいて行った。

城兵は、眦まなじりをあげたまま、

「突っこめ」

「あの旗印の見える所まで」

と、宇喜多の中軍をも、この図にのって、踏みつぶすばかりな意気で追い捲まくして行った。

――と。先の平地に、一線の塹壕ざんごうが見えた。しまったと、先頭に立っていた城方の部将は足をすくめたが、のめるばかり追いかけてゆく兵には大地も見えなかった。しかし塹壕の一線近くまで近づくやいな、そこの蔭からいちどに起った銃声と硝煙しょうえんが、たちまち城兵の姿をばたばたと野に倒した。

「誘いだ。敵の誘いにのるな。身を伏せろッ。身をッ――」

そしてはまた、

「撃たせて、弾たまの間合まあいを見、その隙に、飛びこめ」

と、励ましあい、幾人かの犠牲は覚悟の前として、わざと起って、弾雨を浴び、敵の銃手が、次の弾ごめをする瞬間を計っては塹壕へ近づき、ついには坑あなの中へ飛び込んで、ここに血みどろな土中戦が行われた。

……雨となった。その夜から。

龍王山の陣々は、旗も幕とばりも濡れびたっている。秀吉は陣小屋にかくれて、鬱陶うっとうしい五月雨雲さみだれぐもを廂ひさしの外にみながら、だいぶ晴々しくない顔をしていた。

「虎之助――」

と、うしろを顧みて、

「雨の音か、人の跫音あしおとか。木戸の方が騒ざわめいておる。見て来い、何事か」

「はい」

虎之助はすぐここへ帰って来て主人に答えた。

「ただ今、黒田どのが、戦場からお帰りになられたのです。途中、輿こしを担う者が、この雨のため、坂道で足を辷すべらし、そのため官兵衛様には、輿の上からしたたかに振り落され、蓑みのをかぶせられて、御家来がたの背に負われて今おもどりのところでした。皆して、それをお詫びしますと、黒田どのには、おかしげに笑いこけて、腰が痛いぞ、とお手でさすりながら、お小屋の内へ這はってお入りなされました」

あの、脚の不自由な身をして、この雨中にも、前線へ出ていたのか。今さらのことではないが、秀吉も、官兵衛の倦うまない精力には、ほとほと感心していた。

「程なくお見えになりましょう」

虎之助は、委細の返辞を終ると、次へ退さがって、炉ろの中へ、太い薪まきを入れていた。

ぼつぼつ蚊が出はじめてきた。雨のふる日は、わけてうるさい。蒸し暑いうえに暑くはあるが、炉の中の薪は蚊いぶしになる。

「けむいのう。うう。けむたいぞ」

呟つぶやきながら、そこらにいる小姓組の若者たちの中を、跛行びっこの人が、案内もなく秀吉の室へ通って行った。

官兵衛である。もう彼方かなたの室では、その官兵衛と秀吉との談笑が、梅雨じめりをふきとばしている。どちらも負けずに声が大きいのだった。

「何を笑うているのだろ」

小姓組の面々も、炉ろばたで湯をのみながら、くつろいでいた。――申しては勿体ないが、御主君のあの笑い声を聞くと、うちのおやじが御機嫌だと、共々愉快になってしまう。――そうここの若い者は、常に主君の部屋に対して敏感に喜憂をともにしているのだった。

「きっと、あのことでしょうよ」

石田佐吉が、腰をさするまねすると、福島市松が、

「それ、それ」

といって、膝をたたいた。

「なんだ」

「何かあったのか」

片桐助作やその他が、眼をまろくして聞きたがる。この五月雨さみだれに、陣中至って無聊ぶりょうなところだ。若い者は話題に渇かわいている。

「於虎おとらから聞いたのだが」

と、市松は例の横柄おうへいな顎あごをもって、虎之助をさしながら、今しがた、黒田官兵衛が、帰陣の途中、輿こしを担になう者が、坂道に足をすべらせ、そのために官兵衛が輿から落ちたというはなしを、かなり誇張を加えて、一同に語った。

「それは、愉快」

といったのは、加藤孫六。それからまた、

「見たかったな。黒田どのが転げたところを」

と、奥へ聞えそうな声して笑ったのは、平野権平であった。

お気のどくな――とはたれもいわなかった。

いわないはずである。この若者輩ばらにたいしては、相当、つね日頃から官兵衛は、苦言や鞭撻べんたつを加えている。ときどき、仲間へ入って来て、

(どうだ)

というような親しみも見せてくるのだが、もっぱら敬遠して、親しまないことにしている。というわけは、酔いでもすると、痛烈に、若い連中を頭からこなしつけるからである。

(いまに見ていろ)

悪意や宿意では決してない。いい意味をもって、ここの若い連中は、ひそかに他日を期している。いつかいちどは、黒田官兵衛をして、舌を巻かせ、

(先輩とて、あまりに、今の若い者などと、大口はきくまじきものなり)

という戒いましめを、事実をもって、目に見せてくれねばならんと、誓っているのだった。

「お小姓衆」

坊主あたまが一つ、けむたそうに煙の中に畏かしこまった。茶道衆のひとりである。市松がふりむいて、

「おい。なんじゃ」

と、無頼漢ぶらいかんのような口のききかたをした。

「殿のおことばです」

そう聞くと、若者たちは、みな具足の着込みであったが、一斉に坐り直して、もう戯ざれ口ぐちもひそめてしまった。

「――黒田様とおはなし中、しばらく小姓溜こしょうだまりの方へ、退さがっておるようにとの仰せです。何か大事なおはなしがおありらしく……」

「むずかしかろうか」

と、秀吉。

「むずかしいと思います」

官兵衛はいう。

沈黙がつづくと、ふたりのあいだには、粗雑な陣中の仮普請かりぶしんのため、廂ひさしからあふれ落ちる五月雨の音のみが蕭条しょうじょうと耳につく。

「要は、日数の問題でしょう。二回の総攻撃を試みて、およその短期力攻の至難なことは知れました。さらば、長陣を覚悟し、悠々ゆうゆう、包囲するとしますか、それにも必然、大きな危険が予測される。――毛利方四万という本国勢の急援が間に合って、高松城と聯絡れんらくをとり、呼応してお味方へ攻勢を展開してくるおそれのあることです」

「む、む。……それゆえに筑前もちとこの入梅には滅入めいっておる。官兵衛、何ぞ名策はないか」

「きのうも今日も、前線をめぐり歩き、敵城の位置、四囲の地勢をつらつら見ますに、ここで乾坤一擲けんこんいってきという大策は、ただ一つしかありません」

「高松の陥ちるか否かは、敵にとっても、味方にとっても、ただ一城を争うだけの問題ではない。ここが落ちれば、芸州吉田山の毛利の府は、はやわが掌中のものにひとしく、ここで蹉跌さてついたせば、五年にわたる中国攻略の業わざも一敗地に崩くずれを来きたすであろう。――大策こそよけれだ。官兵衛、お汝ことの考えは何か。次の間まの輩やからも遠ざけてあれば、忌憚きたんなくいって欲しい」

「おそれながら、殿にも、腹中の一案はおもちでしょう」

「ないこともない」

「さきにお伺いいたしましょう」

「お汝ことも書け」

傍らの硯すずりをよせて、自分も筆をとり、官兵衛にも料紙を与えた。

秀吉の書いたのを取って、官兵衛が見た。「水」と一字書いてある。官兵衛が書いたのを取って秀吉が見た。それには二字「水攻みずぜめ」としてあった。

「はははは」

「あははは」

笑いながら、ふたりは、丸めた紙くずを、袂たもとへ入れて、

「官兵衛。人の智というものは、やはり人の智以上には出ぬものだの」

「左様仰せられますが、高松の城は、平野と耕田の底地に位置し、四囲には手頃な山々をひかえ、加うるに、足守川あしもりがわをはじめとし、大小七つの河川かせんが八方へ奔馳ほんちしています。これをあつめて平地の一ヵ所に注げば、あの城を、湖水の底となすことも、さして至難ではありません。けだし、活眼の士でなければ思いも及ばぬ大規模な作戦であります。殿が早くもそれへお心づきあったことは敬服にたえませんが、なおかつ、何ゆえ、その実行を御躊躇ごちゅうちょあそばしておられますか」

「されば、古来、火攻めをもって攻城に成功したためしは幾多もあるが、水攻めをもって功をとげた例はほとんどない」

「三国時代、後漢の戦記には見たように思いますが。そうそう、わが朝でも、天智天皇の三年、九州水城みずきの城において、唐軍の来寇らいこうにたいし、堤を築き水をみなぎらせ、これを切って氾濫はんらんせしめ、一挙に唐軍を押し流そうと作戦したとか――何かの記に見たことがありました」

「いやいや、それも実行までに及ばず、唐軍が退いたらしい。これを行えば、実に、秀吉がまったく前古に類たぐいなき戦法をとるわけになる。で実は――ちと入念を要するゆえ、地理数字にくわしい奉行人ぶぎょうにんどもに命じて、それに要する土木の人員、日数、費用などをあらまし調べさせておるところじゃ。官兵衛、お汝ことの胸算用むなざんようでは、いったい幾日をもって、どれほどな人員をもって成し得ると考えておるか。ひとつ成算せいさんを聞かしてもらいたいが」

秀吉が求めているのは、単なる案でなく、具体的な数字と、誤りのない設計の確証であった。

「ごもっともです。それらの腹案については、てまえの家臣の中にも、いささか才覚ある者がおりまして、精くわしく工事の計数を立ておりますれば、その者をこれへお召しくださるなら、直々じきじき、明瞭なお答えができ得るかとぞんじます。――この官兵衛より御献策申しあげたものの、つまりはその男の算数と設計とに基づいてのことでございますから」

官兵衛の言に、

「その家臣とは?」

秀吉がかさねて問う。

「吉田六郎太夫と申す者です」

「いま、在陣か」

「おりまする」

「では、すぐ呼べ」

そう命じてから、秀吉は、

「実は、わしの手許てもとにも一名、そういう工事の差配さはいや土地の事情に通じている男をひとり留めおいてある。同時にこれへよんで、吉田六郎太夫と合議させてはどうだろう」

「けっこうです。して、そのお人は?」

「家中ではないが、備中玉島の郷士ごうしで千原せんばら九右衛門という。いま陣中ではもっぱらこの附近の絵図面などを製つくらせておるが」

「それは、至極よい人物。ぜひこれへお召し寄せを」

「――おいッ。誰か来い」

秀吉は手をたたいた。

みな遠く退しりぞけて、近侍も小姓もいないので、手の音は容易にとどかない。雨音もそれを邪さまたげている。秀吉は自分で起って、次の間ままで歩み、戦場で出すような大声して、

「おういッ。たれかおらぬかッ」

と、陣小屋のうちへどなった。

あわただしく跫音あしおとが近づく。愕おどろいたとみえ、それも四方からだった。秀吉は何か、二、三人にいいつけてから、厠かわやへはいった。雨はいよいよ降りつのる。

吉田六郎太夫が来る。また、千原九右衛門もまかり出る。

「こちらでおひかえを」

小姓は、べつな広い部屋へ、ふたりを案内した。洞然どうぜんとして、そこは暗い。かなりたってから、燭台がところどころに配られた。

秀吉と官兵衛とは、なおさっきからの部屋で密談をつづけていた。――ほどなく、陣外からこの雨中を、蜂須賀彦右衛門が上がってくる。

さらに、浅野弥兵衛、木下備中守、生駒いこま甚助、堀久太郎。また山内猪右衛門一豊やまのうちいえもんかずとよなどもよばれて同じ広間のほうへ通る。

ほどなく秀吉と官兵衛とは、相伴あいともなって、この席へあらわれた。ここへ臨むまでに、二人の間には、すでに基本の方針は一致していたこと勿論である。要するに、これから開かれようとする軍議は、その原案を基礎として千原、吉田両人の持つ実際的な知識に諮問しもんし、同時に、人員の配備と、軍全体の戦闘も、すべてそれへ一転集中させるためのものであることはいうまでもない。

「雨中、大儀だった」

と、まず参集の諸将へいって、秀吉からそのことについて口をきり出したとき、遠い陣地にある羽柴秀勝、同小一郎秀長などの一族から宇喜多秀家、杉原家次いえつぐにいたるまでも、帷幕いばくの諸将はあらまし顔をそろえた。

仙石権兵衛、森勘八、一柳市助、山下九蔵、堀尾茂助、蜂須賀家政、黒田吉兵衛(松寿丸改名)といったような中堅の士は、ゆるされて次の細長い部屋にいならんでいた。

軍議は夜に入った。

いつのまにか雨はやんだらしいが、やんだ後のむしあつさはよけいであった。燭台の灯は山霧にぼやけ、蝋燭ろうそくはいくたびか継ぎ足された。そのあいだ秀吉も官兵衛も一碗の白湯さゆすら求めなかったので、茶道衆だけは用もなかった。

土と人

「水攻みずぜめ」を決行するとなると、龍王山りゅうおうざんの本陣では、すべてに便が悪い。また遠すぎる。

石井山は高松城の東に見える高地で、距離も程よく、ほとんど、敵城と直面するの位置にある。

準備として、秀吉はまず、そこへ本陣を移した。五月七日のことである。

翌八日。

「縄取始なわとりはじめをする。九右衛門も来い。六郎太夫もつづけ」

と、秀吉は幕僚ばくりょう、六、七騎をつれて山を降り、はるか高松城の西――その城を右手めてにのぞみながら、足守川あしもりがわの門前とよぶ地点まで遠乗りした。一汗ぬぐって、

「九右衛門」

と、よび、

「石井山の山鼻から、この門前までの距離は」

「一里足らず。くわしく申し上げれば、二十八町余にござります」

「そちの図面をかせ」

千原九右衛門の手からそれを取って、築堤ちくていの工事と、四方の地勢とを見くらべる。

ここに佇たって観みると。

西は、吉備きびから足守川の上流の山地へ、北は龍王山から岡山境の山々まで。そして、東は石井山、蛙かわずヶ鼻はなの山端やまはずれにわたって――実に南の一方をのぞくほかは、ふところ深い天然の湾形をなしている。

その平野の湾のまん中にぽつねんと高松の城は、平城式ひらじろしき構築を示している。

秀吉の眼には、その平地の畑も田圃たんぼも馬場も人家も、すでに悉ことごとく水面に見えていた。かかる眼で観みるとき三方の山岸は、曲線の多い磯や岬みさきとながめられるし、高松城はまさに人工的な一孤島ということができる。

「うむ。よかろう」

図面を九右衛門に返し、実地に対しても、自信をふかめると、秀吉は、ふたたび馬にのって、

「帰るぞ」

と、幕僚たちの上に呼ばわってから、工事奉行、吉田六郎太夫、千原九右衛門のふたりへ云った。

「ここの山際やまぎわから、彼方かなた、石井山の蛙かわずヶ鼻はなの下まで、筑前が馬を走らすゆえ、その馬蹄のあとを、築堤の縄とりとせい。よろしいか」

「しばらくお待ちを」

ふたりは、附近の民家へ、人夫をはしらせ、何ごとか早急にいいつけ終ってから、秀吉に再度答えた。

「よろしゅうございまする」

「よいか。さらば、こう引け」

と秀吉は、まっすぐに東へ馬を向けて駈けだした。

門前――福崎ふくさき――原古才はらこざい――その辺までは竿さおを置いたように直線を描き、原古才から蛙ヶ鼻までは幾ぶん弓なりに内ぶところを拡げてゆく。

九右衛門と六郎太夫は、騎馬の幕僚たちと、秀吉とのあいだを馬で追いながら、時々、何か白い粉を落して行った。麦の粉か小米こごめの粉であろう。白い線が地にのこる。

振り向くと、その後を辿たどってもう幾人かの人夫が、築堤線に杭くいを打っていた。

秀吉は、蛙ヶ鼻へ立って、

「これでよかろう」

左右へいった。

いま引いて来た一線を堤と見、これに七川の水を入れると、ちょうど半開きになった蓮はすの葉形の巨大なる湖ができあがる。――人々は初めて地形の認識をよび起され、この備前、備中の境あたりも、遠い太古のむかしには、やはり海だったのではなかろうかなどと急に考え出した。

戦闘は開始された。血の戦いではない。土とのたたかいである。

築堤の長さは。

二十八町二十間という距離。

また、堤どての幅は。

上で六間。下の地面部はその倍の十二間という厚さ。

問題は、高さである。この高さは水攻めとする対象の高松城と比例せねばならない。実に、水攻めの成功を確信し得る素因そいんは、なによりもその高松城が平城ひらじろ式なる上に、石垣もわずか二間しかないところにあった。

で、築堤の厚みも、その高さ四間という基本から割り出したのである。――四間の高さいっぱいに水をみなぎらせれば、城の石垣を浸ひたして、なお二間の水嵩みずかさを、城廓のうちへ氾濫はんらんせしめることができるという計算になる。

が、土木というものは、いつの場合でも、予定日数より早かったという例は稀である。

ここに、黒田官兵衛も、もっとも頭を悩ました問題は、工事にしたがう人力であった。

もちろんその大部分は、土着の農民に求めなければならないが、近郷の部落には、いまやその人口はすこぶる稀薄だった。

なぜならば、敵の守将清水宗治むねはるは、籠城と同時に、農民の家族五百余を、城内へ収容していたし、また領外へ分散したものも少なくない。

(御領主さまと、生死をともにするならば)

と、城内にたて籠こもった農民は、日頃から宗治をしたっている善良淳朴じゅんぼくな民であり、部落にのこっている者の多くは、素質のわるい怠け者か、あわよくば戦場稼かせぎを考えている不純分子が多かったのである。

もちろん宇喜多家の協力もあるので、岡山方面からも人力は徴発して来た。数千人をこえる頭数は、まず忽ちにして集まったといってよい。しかし官兵衛の悩みは、その頭数をそろえる事務ではなく、この人力の結集から最高度な能率をあげさせることにある。

「どうだ、工事の捗はかどりは」

巡視のたびに、吉田六郎太夫をよんで訊く。

六郎太夫もそれについては、

「どうも、御予定の日どりまでには、難しくぞんぜられます」

と、沈痛に答えるしかなかった。

この計数家の企画的にはすぐれた頭脳も、数千の人員の――しかも度し難いあぶれ者まで交まじっている雑人ぞうにんたちの心理から――誠意と汗をひき出す方法は割り出すことができなかった。

で、築堤二十八町余のあいだ、五十間おきに小屋をたて、総数三十二ヵ所の監視所から常備の将士が督励とくれいにあたっていたが、単なる督励そのものでは、蟻ありのごとく土を担にない鋤鍬すきくわをふるっている数千の者に、何の拍車も加え得なかった。

しかも、秀吉が掲げている期日は、極めて無理な短期間であった。そして、

「是が非でも」

と、その期間内の竣工しゅんこうを部下に求めてやまないのである。

「毛利の援軍四万は、吉川、小早川、輝元の本軍と、三部隊にわかれ、刻々、国境に近づきつつあります。すでにその先鋒せんぽうの一部は、某なにがしの村落まで来たという情報もありまする」

朝に夕に、飯を噛むまも、そういう飛報を耳にしている秀吉である。またその心中をよく知っている官兵衛である。昼夜兼行の労働につかれはてて、もう昼中はのろのろとしか、うごかない数千の人夫を見ると、官兵衛の胸は、この頃の梅雨雲つゆぐものようにいらいらせずにいられなかった。

予定としては、大体、全工事を半月以内に完成したい。いや絶対に、その期間内に、築堤を終らなければ、毛利の来援とともに、この計画はまったく無意味に帰してしまうのみか、味方の統率上には、大なる破綻はたんを来すおそれすらある。

二日。三日。すでに五日。

「いかん。どうかせねばならん。こんな遅々たる捗はかどりようでは、半月はおろか、五十日、百日をかさねても、全長二十八町二十間という堤はできまい」

官兵衛は坐視していられなくなった。奉行の吉田六郎太夫も、千原九右衛門も、ほとんど、不眠不休のすがたで、工事監督や人夫の鞭撻べんたつにあたってはいるが、いかにせん使役する人夫は、不満不服のかたまりといってもよい占領地下の敵国民である。また、ふてぶてしいあぶれ者の交まじりである。比較的おとなしい人夫までを、何かにつけて、煽動せんどうし、怠業たいぎょうの仲間にひき入れ、故意に予定を支障させて、表には出し得ない卑屈な反抗を、当事者の狼狽と、秀吉軍の敗北という結果に見て、故意に満足しようとしている始末のわるい人間群であった。

「怠なまけるやつは、何者だ」

官兵衛は、ついに、自身、杖をついて、工事場に立った。

ようやく、幾町かの一部出来かけた堤の新しい土の山に立って、その怖ろしげな眼を、数千の人夫のうえに、熒々けいけいとくばった。

そして、少しでも、怠けているものを見出すと、ちんばに似気ない迅はやさをもって、いきなりその人夫のそばへ駈け寄って行き、

「働けッ。なぜ怠けるッ」

杖をふるって、打ちすえた。

人夫たちは、ふるえあがって、

「ちんばの鬼武者が見ているぞ」

と、働き出した。けれど、その眼のとどく所においてのみである。

苛烈な厳げんをもって彼らの汗を強要すれば、彼らにはまた特有な彼らの怠ける戦法は幾らでもある。さすがの官兵衛も、手を焼いた。数千の人夫の、しかも広い工事場の範囲にわたって、そうそう眼も鞭むちもとどきかねるからであった。いかに数百人の目付をそれへつけて叱咤しったさせてみても、決して、能率は上がって来ないことを知った。

「所詮しょせん、予定のうちに、終ることは、不可能です。――万全を期すために、工事なかばに、毛利の援軍は、これへ着くものと、あらかじめ作戦上に、お覚悟を願っておきたいものでございます。……いや雑人ぞうにんどもをよく使うことは、用兵以上、むずかしいもので」

秀吉の前に出て、官兵衛はついに、こう訴えた。そして心からその至難を痛嘆した。

秀吉はだまって指折りかぞえていた。秀吉の心中にもただならぬ焦躁はある。たとえば、やがて空をおおう夕立雲が、すぐ山向うに見えているように、毛利の大軍の近づきは、刻々予報されていた。

「官兵衛、そう落胆するにはあたらぬ。まだまだ、七日の余裕はある。何とかできようが」

「日は予定のなかばをこえているのに、工事はまだ三分の一も進みませぬ。何条なんじょう、あとわずかな日数で総工事が成りましょう」

「いや、できる」

秀吉は、決して、官兵衛の言を肯定しない。およそ官兵衛の献言にたいして、彼がこうつよく否定したことは初めてといっていい。

「かならずできる。ただし三千の人夫が、三千の力だけしか出さないでいてはできない。ひとりが三人前、五人前の労力を出せば、三千の人夫は、万余の力になる。それを督する侍どもとても同じように、一人が十人分の気力をふるい出せば、何事か成らぬという理由があろう。――官兵衛。こういたせ、秀吉も一応工事場へ臨むであろうから」

何事か、秀吉はささやいた。

翌日の朝頃である。

突然、黄母衣きぼろの使番が、工事場をかけめぐって、全員に、工事の中止を命じ、

「一同、あの小旗の見える下へ集合しておれ」

という命が下った。

「なんだろう?」

人夫頭は、寄々よりより、首をひねりながら、ともあれ小旗の立っている堤どての下へ集まった。

ゆうべから徹夜で土をかついでいた人夫も、いま交代して、堤の土盛りにかかり出していた人夫も、すべてその組々の親方に従って、一ヵ所に蝟集いしゅうした。

土の色とも人の色ともわからない数千人の頭数が、

「おい、なんだね」

「なにがあるんだ?」

と、半ば不安に駆られていながら、しかも虚勢を失わず、彼らの通有性である戯ざれ言ごとや揶揄やゆを露骨な態度に示したまま、黒々と人波をゆるがしていた。

そのうち急にひそとなった。小旗のわきにすえてあった床几しょうぎへ秀吉の姿が倚よったからである。小姓、旗本などが左右にわかれて厳おごそかに控える。人夫達から日頃、憎悪の的になっているちんばの鬼武者黒田官兵衛は、すこし離れた所に、竹の杖をついて立っている。

やがて、その官兵衛が、堤どての上から数千人のうえへ、大声で告げた。

「筑前守様の御上意で、きょうはお前たちの所存しょぞんを訊いてやれとのお言葉だ。かねて汝らも知るがごとく、築堤の日限ははや半ばをすぎておる。然るに、工事は遅々ちちとして進まない。その原因は、一にお前がたが業に対して、死力をふるい出していないからだと、筑前守様は仰せられる。――そこでだ。一体お前がたの間には、どういう不満があるのか、何が不足なのか、どうしてくれと望むのか、それを忌憚きたんなく、きょうは訊いてつかわすためにこれへ集合を命じた次第である」

「…………」

官兵衛はしばらくここで舌を休めながら、数千の頭をながめていた。所々の頭と頭が、何かささやき合っている。明らかに全体も動揺している。眼と眼を見あわして。

「組々の親方どもは、人夫達の気もちを充分に弁わきまえておるであろう。このときを逸いっしては、汝らの願い事を、殿のお耳へじかに聞いて戴く折はないぞ。――どの組からでもよい、五、六名これへ出て来て、一同の代表として、不足不満、希望を申せ。筋目の正しいことなれば聞きとどけてつかわすであろう」

すると、大勢の人夫の中から、見るからに不逞ふていな面つらがまえをした半裸体の大男が、ここで仲間へ顔を売ろうという気か、のしのし堤どての上へあがって行った。

それを見ると、また三、四人の土工頭が、

「いおうじゃねえか。ああ仰っしゃるんだ。なにも、びくつくこたあねえ」

と、強しいてあたりへ豪語を払いながら、これまた、堤の上に立った。

「これだけか。代表は」

「へい」

と、各〻、床几しょうぎ間近なので、膝をついて、土下座しかけると、官兵衛は、

「坐るに及ばん」

と、制して、

「きょうは篤とくと、その方どもの不満を訊いてやるとの殿の思し召だ。せっかく土工一同のかわりに立って御前にまかり出ながら、いいたいこともいえないではこちらも困る。要するに、この工事が、期日までに成るも成らぬも、一にその方たちの働き如何にかかっておること。遠慮なく、日頃、その方たちの胸にかくしておる鬱憤うっぷんなり不平なりを、ここであきらかに申したてて欲しいのだ。――まず、一番さきにこれへ出た右側の男から申してみい。さあさあ、遠慮なくいうてくれ」

と、官兵衛もきょうはくだけた調子ではなしかけた。

ここでこの工事に従った人夫たちが、どの程度の給与をうけていたかを一瞥いちべつしておくのもむだではあるまい。

「武将感状記ぶしょうかんじょうき」の記載によると、総工費の支用は、

銭ぜに六十三万五千四十貫文かんもん

米六万三千五百余石

を要したと書いている。

が、この巨額な米や金が、秀吉の陣中に用意してあるわけではない。征旅せいりょ五年にわたる中国陣では、多くの敵産も獲えているが、より以上莫大な数字にのぼる軍費を遣つかっている。そうそう無限に安土からそれを仰ぐのも秀吉の本意でない。

また、この総費用をまかなう米と金の一部ぐらいは、宇喜多家の城庫にもあることはある。だが、それは万一の備えとして、涸渇こかつさせたくなかった。また今、宇喜多家からそれを取り上げることは、山陽方面の経済上からみても人心の影響から考えても、決して善策でない。

では、ない金、ない米を、秀吉はどう捻出ねんしゅつしたろうか――である。

あきらかな資料はないが、およそこういう局面にゆきあたるのは軍政上ままある慣いだ。秀吉はまずこの地方の米を帳付ちょうつけ(軍票)で買い上げたにちがいない。

後払い制度の軍札以外には、占領地の山とか田とかをお墨付すみつきとして、功労があるとか、献納物をしたとかいう、所の庄屋や豪農などへ下附したであろうことも疑いない。

また、それらの者を差配さはいとして、土着民の協力をうながしつつ、まず極力、陣中に物資を収めていた。

しかし、この政策は、多少強権をもってするので、なるべくは現在の占領地内では無理をせぬことに命じてある。実施の目標とされた地方は、やがて毛利の援軍が来て布陣するであろうと思われる国境の街道に面した村々、また長良山ながらやま、岩崎、日差山ひざしやまなどのあいだに散在するたくさんな部落だった。

大軍の敵の到来に先だって、まず敵の食糧を味方へ引き上げておくという、作戦上の意義も多分にふくまれているのである。

「物」は「金」だ。秀吉はこんどの工事にあたって、人足の賃銀を、一日割の日傭ひよう(日給)にせず、請負うけおい制度にして、その募集とともにこういう高札を立てて約束した。

土俵一俵運ぶごとに

銭百文、米一升与う

これは優に、当時の労銀としては、農民の一日以上の収入にあたる。土工の手間賃としても破格なものだった。汗を惜しまず体力の精かぎり働けば、一日のうちに平常の半月分の稼ぎをすることも易々いいたるものだ。うわさを聞いて、

「ひと稼かせぎ」

と、たちまちこの仕事場へ人力が蝟集いしゅうしてきた理由の第一はその効果だといってよい。

けれど、収入の歩ぶが好ければ歩がよいで、彼らは決して、無限には働かない。むしろ小さな慾の足りるところで汗を惜しんで、あとは懶惰らんだを楽しみたがる。こうまでして自分たちを優遇する雇用者にたいし、その恩を謝すよりも、その逼迫ひっぱくしている急場の足もとをつけこみ、故意に怠なまけてはそれを揶揄やゆし、鞭むちで強しいられれば俄然不平を鳴らすというふうであった。

――人情、ぜひもないところ。

と、秀吉はかなり寛大にこの状態をみていた。腹からのあぶれ者もいるが、ほとんどは占領下の民である。きのうまで、領主と仰いでいたものから俄かに離れて、まったく人情風習も馴なじまない他国の陣営に雇われてきているのである。むしろ不憫ふびんともいうべき者、

「むりもない」

と、秀吉はその無智を哀れみこそすれ、決して、怒ってはいない。

しかしこのままでは、当然、全作戦の意図は、行わるべくもないので、遂に黒田官兵衛に旨をふくめて、きょうの事とはなったのである。

「名代みょうだいども。人夫一同に代ってこれへ出たからは、云い怯おじいたしておっては、折角、何の意味もなすまい。望むことなり、日頃の不満なり、何なりと申したててはどうか」

二度まで、官兵衛にこう促うながされると、不平分子の代表として、そこの堤に立った五名の土工頭がしらのうちのひとりが、云い出した。

「では、仰せに甘えて、申しますが、どうか御立腹下さらないで。……ひとつ、その……よろしくお聞き届けをねがいたいんで」

「よし、よし。何だ」

「土俵一俵はこべば米一升、銭百文くださるってんで、実あ、てまえども、何千人てえ貧乏人は、よろこんでお雇やとわれ申したわけでございますが、なんのこった、その約束がちがうじゃねえか……ッてなところがその、下司根性げすこんじょうと申しやすか、こちとらを始め、ここにいるみんなが皆の不服なんで」

「これこれ。かりそめにも、羽柴筑前守さまの名をもって、高札した約定に、御違背ないはずだ。その方たちは、一箇一俵運ぶたびに、お焼印のある竹串たけぐしをもらい、それを夕刻お勘定場で、約束どおりいただいておらんのか」

「そりゃ旦那、戴いちゃあおりますが、一日十俵二十俵運んでも、お勘定場のお払いは、現米げんまい一升に銭百文きり。あとはみんな後払いの、軍札ぐんさつと米券べいけんでござんしょ」

「そうだ」

「そいつがどうも困るんで。……へい。稼かせいだものは稼いだだけ、米でも金でもようございますから、現げんの物ものでいただかなくちゃ、こちとら、日稼ぎの貧乏人は、女房子を食わしちゃゆかれませんので」

「米一升に、銭百文あれば、その方たちの暮しでは、ふだんの収入みいりよりもはるかによいはずではないか」

「ごじょうだんを仰っしゃっちゃいけません。牛や馬じゃあるめえし、年がら年中、こんなに働いていたひにゃ、体が了おえてしまいまさ。――それを合点の上で、羽柴様のおいいつけに従い、日頃の何倍も夜昼なく働いているんでございますから、この後には、酒も飲みたし、うまい物も食いたいし、借金も返そう、女房に夏着の一枚もと、慾と道づれなればこそ、無理な仕事もやれるんでさ。それを、日頃の相場とたいして変りねえ駄賃で追ッ払われちゃ、精も根も続きッこはございません」

「はてさて、わからぬやつ。わが羽柴軍は、その方たち領民へ臨むに仁政を旨むねとし、不愍ふびんをもってこそおるが、まだかつて、苛政かせいを布しかれたためしはない。いったい、汝らのぶつぶつ申すところは、どこにあるのか」

「へへへへへ」

五名の土工たちは、みなあざ笑った。不逞ふていな面つらがまえを揃えて、こんどは口々に、

「旦那。文句は云いませんから、働いただけを払っておくんなさい。軍札だの、米券だのと、紙屑をいただいたって、腹はふくれやしません。第一この戦いくさに、羽柴様が負けたひには、その紙屑を持って、いったい何処の誰から金を引き換えてもらうんですか」

「心配いたすな。その儀なら」

「おっと、待っておくんなさい。――戦いくさにはきっと勝つからとおっしゃるんでござんしょう――とんでもねえこった。御大将や旦那がたは、命を賭けたばくちでござんしょうが、そんなばくちに、半口乗るこたあ、こちとらあ、真っぴらおことわり申しますぜ。……なあオイ、みんなッ、そうじゃねえか」

堤どての上から手を振って、数千の人夫に合意を求めると、たちまちわあっとそれに応じて、見える限りの人間の頭と手とが波のように騒ぎだし、

「やれ! やれ! しっかりッ」

と、名代たちを応援した。

「それだけか。不平は」

官兵衛のことばに、五名は、

「へい。まず一番に、それからかたをつけていただきたいもんで」

と、衆を恃たのんで、怖れ気もなく云いたてた。

「成らんッ!」

官兵衛は、初めて、ほんとの声をふりしぼった。竹の杖を投げるやいな、陣刀を抜いて一人を真二つに斬り、逃げるのを追って、また一人斬った。同時に、うしろにいた吉田六郎太夫も、千原九右衛門も太刀を払って、抜打ちに、他の三名を鮮血の中に打ち果していた。

黒田官兵衛、千原九右衛門、吉田六郎太夫、こう三人が手分けして、電瞬でんしゅんに、五名を斬ったわけになる。

その迅はやさと、意外とに打たれて、数千の人夫は、墓場の草のようにひそとしてしまった。

それまでの横着そうな面つらがまえも、不平の声も、反抗的な眼つきも、一瞬に拭ふき消されて、ただ土色の無数な顔が、胆きもを失ったようにむらがっているに過ぎなかった。

五ツの死骸を地上におきながら、官兵衛、九右衛門、六郎太夫は、なお雫しずくする血がたなを手にさげたまま、それらの無数な頭の上を無気味な眼でながめていた。

「――改めて、一同へいうが」

と、やがて官兵衛はありったけな声を張って告げた。

「おまえたちの名代、五名の者は、いまこれへ呼んで、その云い分なるものを聞いてつかわした。そしてかくのごとく明瞭な返辞を与えたわけである。――が、まだほかに申し分もあろう。これへ出て云いたいものを抱いておる輩やからもあるに相違ない。――次には、誰だ。われこそ、一同を代表して、何かいおうと思うものは、いまのうちに出て来るがいい」

「…………」

「出ろ。出て来ないか」

「…………」

「もはや、云い分はないのか。あらば、誰でも、これへ出て申せ」

「…………」

官兵衛は、またしばらく口をつぐんで、彼らの反省するいとまを与えていた。無数の顔のうちには明らかに恐怖のいろを悔くいにかえている者もみえた。そこで官兵衛は、はじめて、血がたなの糊のりをぬぐって、陣刀の鞘さやにおさめ、その威容を正しながら、かつ顔いろをやわらげてこう人夫一同へ諭さとした。

「五名の者につづいて、誰もあとから出て来ないのを見れば、おそらくおまえ方の本心は、この五人とは違うものと思われる。そう解釈して、これからは、こちらの云い分をいってつかわすが……どうだ、異存はないか」

数千の顔は、救われたように、声をそろえて、それに答えた。――毛頭異存などはございません。元々わしらは何も知りません。また、不平や不満をいった覚えもありません。ただ、そこへ上がって御成敗をうけた頭株の連中に嗾そそのかされて怠なまけただけに違いございません。――どうかわしらはどんなにでも御命令に服して働きますからごかんべん下さいまし。

数千の者が口々にいうので、がやがやと大きい声、小さい声が波打つばかりで、どの顔がどんなことをいってるか分らないが、ともかく全体の者の気もちだけは聞きとれた。

「よしよし。……しずまれ」

官兵衛は、手を振って、制しながら、

「そうだろう。さもあるはずとわしも思う。難しいことは説かぬが、要するにお前がたは、はやくよい御政道の下に、安民楽土という境遇を得、妻子とともに、楽しく働いてゆければゆきたいのだろう。――それを、目前の小さい骨惜しみや利慾にとらわれていたら、お前たち自体で、おまえたちの望む日の来るのを邪魔しているようなものになるぞ。また、これだけは固く信じるがいい。わが織田右府様より御派遣の羽柴軍は、絶対に、毛利にやぶるるものではないということをだ。毛利こそはいかに大国でも、はや凋落ちょうらくの運命にある国。これは毛利が弱いわけではなく、時の大勢というもの。またわが織田軍は、朝廷に仕えて、よく禁門の御心みこころを体し、もっともよく、いまの諸国を統一し、治めるものとの、御信頼もあつい武門であるがためでもある。どうだ、わかったか」

「わかりました」

「では、働くかッ」

「働きます。どんなにでも、働きまする」

「よしッ……」

と、つよくうなずくと官兵衛は、秀吉の床几しょうぎの方をふりむいて、

「人夫一同、あのように申しておりますれば、何とぞこのたびだけは、御寛大をもちまして」

と、大勢になり代って詫びを述べた。

秀吉は床几を立って来た。ひざまずいた官兵衛や奉行たちへ何か命じている。と、忽ちそこへ勘定方の武士に率ひきいられた足軽たちが重そうに銭叺ぜにかますをかついで来た。一荷や二荷ではない。何十という叺かますの山、いや銭の山がまたたくうちに積まれた。

なお茫然と、恐怖や悔いにつつまれている人たちへ向って、官兵衛がふたたび云った。

「ふかくとがめるな、汝らは元来不愍ふびんなものである。仲間のうちの二、三の悪者に嗾そそのかされ、心にもなく不平を鳴らしたにすぎぬ者。――そう筑前守様にはおおせられて、他意なく働くからには、酒代さかても充分とらせて励ませとの御沙汰だ。ありがたくお礼をのべて、酒代をいただき、すぐ仕事にかかれ」

足軽に命じて、そこにある限りの叺かますを、悉ことごとく破らせると、銭の山は雪崩なだれをなして堤上をうずめた。

「いくらでも掴つかめるだけ掴んで行け。ただし一人一掴みずつだぞ」

云い渡したが、なお狐疑こぎして、たれひとり出て来ようとはしない。眼と眼を見あわせ、仲間と仲間とささやき合い、依然、銭の山は置かれてあった。

「はやい者勝ちであるぞ。なくなった後に不服を申すな。一人一つかみずつ下されるものゆえ、掌ての大きい者は大きく生れたが得とくというもの。小さい掌の者は落着いて取りこぼさぬように戴くがよい。あわてて損するな。そして、少しも早く仕事に就け」

もう人夫たちは疑わなかった。彼の笑顔えがおと冗談のなかに真実を知ったからである。前のほうにいた人夫たちの一群が銭の山へ駈け寄った。余りにある銭に竦すくんだようにちょっとためらったが、ひとりが先んじて一掴ひとつかみ取って退さがると、同時に、わあっと凱歌がいかのような歓声があがった。

たちまち、銭か人か土のかたまりか分らないような混雑が起った。しかしただひとりも誤魔化そうとする者はなかった。日頃の狡ずるい心も不平も、このときはどこかへ投げやった人間のみになっていた。そして一つかみの酒代を持つと、さながら生れ変った人間のようになって、各〻脱兎だっとのごとく自分自分の仕事の持場へ駈け出していた。

力づよい鍬くわや鋤すきを入れるひびきが満地に起りだした。

「それッ」

とばかり土を担かつぐにも、もっこへ棒を入れるにも、土俵を肩へ担になうにも、気あいがはいる、精神がふるい興おこる。

彼らにも、出してみれば、その精神があったのである。ここからしぼり出る汗は、その者の心をいよいよ愉快にさせ爽快そうかいにさせる。そして彼ら自体のうちから、

「くそッ、二十八町ぐらいな堤築どてつきが、あと四日や五日もあるに出来ねえでどうするものか。みんなあ、大洪水のときを思い出してやろうぜ」

「そうだ。出水でみずの時の防ぎをやる気ならこんなものは何でもねえ」

「やろうぜ。根かぎり」

「やろうとも。へたばるものか」

その日の半日だけでも、工事は、その前の五日分にも勝まさるほど目ざましく捗はかどり出した。

仲間と仲間も、もうむだ口一つきく者はない。たまたま、生爪なまづめでも剥はがしたのが、まごついてでもいると、

「泣きッ面つらするな、男らしくもねえ」

と、彼ら自身が立派に励ましあい、また仲間の自治を保っていた。奉行の鞭むちも、官兵衛の杖も、いまは無用のものでしかない。

かがりは夜を焦こがし、土けむりは昼を晦くらくして、二十八町二十間けんの大堤おおどての工事もいまは余すところわずかとなった。そしてこの陸の築港も完成に近づきつつある一面、なお、高松城附近の七ヵ所の河川かせんでは、べつにここにも劣らない難事業がすすめられていた。

それは。

河川の水路を変えて、そのすべてを、やがて大堤おおどてのうちへ注そそぎ入れる傍系工事だった。

この方面にも、武士、足軽、人夫などあわせると、二万に近い人員がうごかされている。

わけても、難事業と見られるのは、足守川あしもりがわの堰止せきどめ工事と、鳴谷川なるやがわの引き込み工事とであった。

「いかにせん、このところ山岳地方の大雨に、日々水嵩みずかさを増し、これを堰止せきとめようにも、工事の術すべもありません」

足守川の受持奉行から秀吉へしばしば苦境を訴えて来た。秀吉はこれを官兵衛に諮はかったが、官兵衛にも、名案はない。なぜならばその前日、家臣の吉田六郎太夫とそこを視察して、至難を知っていたからである。

「何分にも、その烈しさは、およそ二、三十人して動かし得るほどな大石を無数に落しても、忽ち押し流されてしまうほどな激流ですからな」

官兵衛すらそう嘆じるのみだったが、秀吉は、

「ともかく現場を見て」

と、足守あしもりへ急いで行った。

しかし実地に立って、すさまじい奔濤ほんとうを見ては、なおさら自己の小智に圧倒を感じるばかりだった。

六郎太夫が来て云った。

「上流の森林を伐きって、葉の茂ったままの大木を矢つぎ早に押し流してみたら、或いは堰止せきとまるかも知れませぬ」

献策を用いて、約半日、数千の人夫を森林に入れ、夥おびただしい材木を葉付のまま川へ投じてみたが、その枝と枝と交錯して、水の淀よどむに役立つかと見えるのも一瞬で、何の効こうもないことがわかった。

「さらば、ちと大仰おおぎょうではございますが、かようになされては如何」

と、六郎太夫が第二に立てた案は、数千人の足軽人夫をもって、大船三十艘を下流から曳きあげ、これへ大岩巨石を積んで、ほどよき地点へ沈めるという計画である。

「よかろう」

ものものしい光景はその日のうちに現出した。しかしこれも、それらのおおぶねを水に逆らって上流へ曳いて来ることは到底不可能で、ついに陸上に板を敷き、その上に油を流して、えいや、えいや、地上を曳船ひきふねして来て、すなわち予定どおりこれを足守川の堰口せきぐちへ石とともに沈めることができた。

この策は成功した。

ときすでに、一里にわたる大築堤だいちくていも、一方にできあがっていたので、ここに堰せかれた激流は、水けむりの方向を変えて、とうとうと、高松城をめぐるひろい田野や民家のある平地へ目がけて、奔馳ほんちして行った。

同じ頃、他の七川の水も、ひとしく注ぎこまれた。ただ鳴谷川の引き込みだけがなおその難工事のため、間に合わなかったに過ぎない。

五月七日から工を起して、実に十四日目。わずか半月足らずで完成を見たのである。――よもやと思っていたにちがいあるまい。吉川、小早川などの毛利がたの援軍四万が、すぐそこの国境の山々まで着いたのは、すでに高松城のまわりが、いちめんな泥湖どろうみとなった翌五月二十一日のことだった。

その二十一日の朝、秀吉は、石井山の本陣に立って、諸将とともに、

「あな、目ざまし」

と、一夜のうちに変貌した泥湖どろうみを見ていた。

壮観といおうか、惨憺さんたんといおうか、夜来の雨を加えて、濁り漲みなぎった水は、高松城ひとつを、その湖心にぽつんと残しているほかは、その石垣も、濶葉樹かつようじゅの森も、刎橋はねばしも、屋敷町の屋根も、部落も、田も畑も、道も、水底にかくして、なお刻々、水嵩みずかさを増していた。

「足守はどの辺?」

秀吉の問いに、官兵衛が、はるか西に煙っている一叢ひとむらの松林を指さして、

「御覧ごろうじませ、あの辺りの堤が、百五十間ほど切ってあります。足守の本流を堰せかれた水は、彼処かしこからあふれこんでおりまする」

「――すると、あの北にある小高い山が、虎之助清正のおる陣所だな」

「そうです」

「敵の左翼、長良山ながらやまとは、最も近い。――於虎おとらも腕をうずかせておろう」

秀吉は眼を、そのまま、遠い山々の線に沿って、西から南へとうつしていた。

国境、真南の空に、日差山ひざしやまが見える。

きょうの夜明けとともに、この山には小早川隆景たかかげの旌旗せいきが無数に見出された。おそらく夜のうちに着いて陣営を布しいたものであろう。ここの兵力だけでも二万は下るまいと察しられる。

すこし離れた天神山にも、先鋒の一部隊が出ているらしい。その日差、天神の山あいを、山陽街道が通っている。

また、毛利輝元の本軍は、福山の半腹に先鋒をおき、そこから西へかけ猿掛城さるかけじょうあたりを中心に、後詰うしろまきをそなえていた。その兵力は約一万余。

さらに。吉川元春の一万騎がある。

これは岩崎山、寺山、長良山などに散開して全軍の羽翼をなし、もっとも敏捷びんしょうに軽変のふくみを持って備えていた。

「隆景も、元春も、あれへ着いて、今暁この泥湖どろうみに対し、どんな感を抱いたやらと、敵ながら思いやられます。さだめし、足ずりして、無念がっておりましょう」

官兵衛がそういって、秀吉の顔を見たとき、秀吉はうしろを振り向いていた。

鳴谷川の工事場から、そこの水奉行みずぶぎょうたりし者の子息と家来とが、使いとしてここに見え、平伏したまま泣いていた。

「どうした?」

秀吉が訊くと、その一名が、

「今暁、鳴谷川の現場において、お奉行には、申し訳がないと、このとおりお詫びの一通を書き遺し、見事にお腹を召して果てました」

と、いう。

そこの引き込み工事は、二百六十六間の山を切り拓ひらくという難工事だったため、あと五十余間をのこして、遂に、今暁までに間に合わなかったのである。工事督励の任にあたった水奉行は、その責任感から自害したものであった。

秀吉は、その息子という者の姿を見つめていた。手足はもちろん髪も顔も泥に汚れている。やさしく、側へ招きよせて、

「おまえは、腹を切るなよ。父の菩提ぼだいは、戦場で弔とむらえ。よいか」

と、その汗くさい背をかるくたたいた。

奉行の息子は、手ばなしで哭なきだした。また、雨が来る。ひくく降りた密雲からもう白い雨の縞しまが泥湖どろうみへそそぎはじめていた。

五月二十二日の夜。すなわち毛利の援軍が国境まで着いた翌晩のことである。

小雨ふる闇の泥湖どろうみを、怪魚のようによく泳いで、堤どての一部へ這いあがったふたりの男がある。

ぐわらぐわらと鳴子や鈴が烈しく鳴った。水際みずぎわや堤どてのうえには、ほとんど茨いばらのように篠しのや柴しばを結いかけ、それへ縦横に縄が渡してあったからである。

そして、長堤一里の間、五十間おきには、番小屋があり、赤々とかがりを焚たいていたので、たちまち番兵が駈けつけ、格闘かくとうのすえ、一名は捕えられ、一名はついに逃げてしまった。

「城中の兵か、毛利の使いか、ともあれ、御吟味あるべき者です」

番所の将は、捕えた男を、石井山の本陣へ送った。

秀吉は陣屋の灯火ともしびをよせて書面をかいていた。

使番の佐柿弥右衛門さかきやえもんは旅装をととのえて、下に控えている。秀吉の書面ができたらすぐそれを携たずさえて早打に立つべく命じられているものらしい。

「いかがなさいます」

山内一豊やまのうちかずとよが、縁先から秀吉へ尋ねた。召し捕った敵の男を、その廂ひさしの下にひきすえているのである。

秀吉は、うむ、うむ、とうなずきながら、とうとう書状の終りまで書いてしまった。そして封までしてから、

「どれ、どれ。どんな男か」

と、縁先へ出て来た。

佐柿や山内が、左右へ燭しょくをもち出した。そして、雨の落ちる廂ひさしの下に、傲然ごうぜんと、両腕を縛いましめられている敵兵をながめて、

「これは城兵ではないな。毛利の陣中から高松の城へ使いを命じられたものであろう。何も持っていないか」

と、一豊にたずねた。

一豊は、下調べに当って、男の懐中から見出したという一片の書状を秀吉のまえにさし出した。あの泥湖どろうみを泳ぐあいだも水に浸ひたらぬように、それは小さい尹部徳利いんべとくりに詰めてかたく栓せんをほどこし、さらに油紙で入念にくるんで肌へつけていたということも云い添えた。

「……ふム。これは城主の宗治むねはるから、隆景たかかげと元春へ宛てた返書らしい。灯あかりを、もそっと手もとへ」

秀吉は披ひらいて黙読していた。

その返書の文面から察しると、毛利の援軍が、見るかぎりな泥湖どろうみに当面して、いかに失望落胆したかがよく窺うかがわれる。

折角これまで、大軍をもって急援に駈けつけて来たが、四方満々の水に囲まれた高松の城へは如何とも救いの手をのばす策がない。――如しかず、一時羽柴軍へ降伏して城中数千の生命をたすけ、然る後、時期を見て本国へ帰って来い。

察するにまずこんな意味の密書を、隆景と元春の名で城中へ届けたものにちがいない。

それに対して、いま秀吉が手に入れた宗治の返書は、こう答えているのであった。

われら城中の者を、不愍ふびんと思し召され、まことに御仁慈のこもった御命ではありますが、この一城は、今や全中国の要かなめ、高松の落ちることは、即そく、毛利家の失墜を意味します。せっかくながらわれら元就もとなり公以来恩顧おんこのともがらは、敵に凱歌がいかを売って一日たりと生きのびんなどという者は、匹夫の端に至るまで思いもしておりません。みなこの城と共に死なんの覚悟で籠城を固めておるのです。どうかわれらにお懸念けねんなく、そちらのお味方御一統にも、どうかここ興亡のさかいに千載の悔いをおのこしあらぬように、万全のお備えを祈っております。

孤城のうちの宗治は、こういう返辞の下に、却って援軍の味方を、励ましているのであった。

捕われた毛利の臣は、秀吉の訊問にたいして、思いのほか率直に答えた。――すでに宗治の返書を敵に読まれている以上、頑かたくなに隠しだてしたところで無益と覚さとっているものらしい。

「逃げ去ったもう一名の使者は誰か」

という質問にも、その男は、

「吉川家の臣、転うたた小四郎」

と、明白に答え、

「汝は」

と、訊かれて、

「同じく、山澄六蔵やますみろくぞう」

と告げ、少しも悪びれない。

秀吉もまた、そう執しつこく根掘り葉掘りはしなかった。士を辱はずかしめずという程度である。大局から観みて無用なことは無用に附し、むしろ彼の気もちはべつな方へはたらいていた。

「一豊かずとよ」

「はい」

「いいだろう。もうよい。この武士は縄を解いて、陣外へ放してやれ」

「え。放しますか」

「泥湖どろうみを泳ぎ渡って、寒げにみゆる。粥かゆなど喰べさせて、途中、また捕まらぬよう、持宝院じほういん下まで、送ってやれ」

「かしこまりました」

山内一豊は、縁を下りて、彼の縄を解いてやった。当然、死を覚悟していたにちがいない山澄六蔵は、却って、急に度を失っていた。一豊にうながされて、秀吉のほうへ黙礼し、早々に起ちかけると、秀吉はまたよびかえして、

「そちの主人、吉川元春どのには、近ごろも健在かな。このたびはまた、馬之山うまのやま以来の対陣と相成った。筑前がよろしく申しおったと伝えてくれよ」

と、いった。

六蔵は坐り直していた。秀吉の恩に感じて、心から頭かしらを垂れた。

「申し伝えまする」

「それと、毛利どのの帷幕いばくには、参謀を承うけたまわって、恵瓊えけいという軍僧が出入りしておらるるであろう。安国寺の恵瓊えけいというて」

「はい。おられまする」

「久しゅう会わぬ。あの御房ごぼうへも、会うた節には、よろしくたのむ」

雨の中を、戸外の人影が立ち去ると、秀吉はすぐ佐柿さかき弥右衛門を室内に顧かえりみて、

「いまの書状は持ったか」

「確しかとおあずかり申しました」

「大事な機密もしたためてあるし、かたがた、右府様(信長)へ直々じきじきお目にかけるもの。途中の変に心してまいれよ」

「ぬかりはございませぬ」

「いま捕われて来た吉川家の臣にせよ、そちに劣らぬ覚悟をもって使いに立ったにちがいない。しかも捕われてかくの如く、清水宗治と吉川元春との意志は手にとるごとく筑前に読みとられてしもうた。くれぐれも、要意のうえに要意をしてゆけよ」

「はいッ……」

「では、大儀だが、すぐ立て」

「おいとまをいただきまする」

佐柿弥右衛門もやがて退さがった。

秀吉はひとり燭しょくに対していた。こよい弥右衛門に託して安土へ急がせた書簡は、急遽きゅうきょ、信長自身の来援をこの地に仰ぐためのものだった。

孤城高松の運命は、もう網あみの中の魚に似ている。

それを救うべく、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の総将から全軍も、挙げてこれへ会同かいどうしている。

時なる哉かな。中国の覇業はぎょうは今、この一挙に完成しよう。秀吉は、この壮観を、信長にも見せたいと希ねがった。また、この重大なる勝敗のわかれを、決定的に確保するためにも、信長の出馬を仰ぐことが万全と信じたのであった。

饗宴きょうえん

――一転、眼を移して、安土あづちの府のきょうこの頃を眺めるならば。

ここの城市の景観と、中国の戦陣とは、一脈の繋つながりもない別天地かと、疑われるほどな相違がある。

香りの高い新鮮な文化。

それに相応ふさわしく華麗豪放な往来人の姿。燦爛さんらんたる大天守の金碧こんぺきを繍ぬいつづる青葉若葉、――ここでは中国に見られたあの泥土の闘いも人の汗も、遠いものにしか考えられない。

五月十五日から、十六、十七、十八、十九日の頃といえば、まさに高松城を孤立化するために、あの大築堤だいちくていを前提とする水攻めの計が実行にうつされて、秀吉以下、黒田官兵衛その他不眠不休に、その工を督とくしていたあいだである。

その時分を、この安土では、さながら盆と正月を、一度に迎えたような賑にぎわいで、全城全市、盛装していた。

何事ぞといえば。

この安土城に信長が一箇の大賓たいひんを迎えるためであった。

それほどな大賓とは、一体誰か。

もとよりかくれもない人ではあるが、今日信長からこれほどな礼遇をうける人として、あらためてその人を想念にのぼすときは、世のなかも革あらたまって来たが、人も進み時代の先駆もみな、ようやく大人おとなになって来たものだという感がなきを得ない。

すなわち、五月十五日、府に着いて、安土の城へはいったその大賓たいひんとは、徳川家康、ことし四十一になる人だった。

表面の称となえは、

「十三年ぶりに上方見物を」

というにあったが、信長が甲州凱旋がいせんの道を東海道に選んで、多分に彼の好遇と歓待かんたいに甘えて帰った後、わずかまだ一ヵ月を出ないうちのことであるから、信長としては、その返礼の意味をふくめ、家康としては、さらにその効を大にすべく、また、ようやく革新統業かくしんとうぎょうの第二段階に入ったこの際に、将来の大策について怠るべきときでないとして、彼としては実にめずらしく、大がかりな行装ぎょうそうと列伍をしたがえて、公式に訪れたものであった。

宿所は城下の大宝院。

接待の奉行は惟任日向守光秀これとうひゅうがのかみみつひで。

信長の息そく信忠も、中国へ加勢にゆく支度中だったが、信長は、

「何を措おいても珍客には」

と、彼をも督して、その振舞のために手つだわせ、京都、堺の商賈しょうこに命じては、あらゆる佳肴鮮味かこうせんみの粋をあつめた。そして、十五日から十七日まで、三日にわたる大饗宴を予定した。それについて、

(いったい、信長公ほどなお方が、どうして、八ツも年下な、しかもその国がらとて、貧しい弱小からやっと近年勢威を示し出した徳川殿などへ、これ程までな御歓待をなさるのか。何か弱いしりでもおありなのか)

坊間ぼうかん、多少こんな取沙汰がないでもなかった。

或る者は、いう。

(あたりまえなことを、異いなように云いなさんな。織田徳川の同盟は、そもそも二十余年の誼よしみではないか。この譎詐権謀けっさけんぼうだらけな乱世の下に、二十余年来も、おたがいに猜疑さいぎせず、違約せず、争わず、信義の交わりをつづけて来ただけでも、こんなうれしいことはないじゃないか。何の理窟や理由が要いろう。それだけでも信長公としては、心から歓よろこびあう値打があるというものだ)

(いやいや、それもあるが、甲州御凱旋の時の、お礼心であろう)

(何の何の、そんな小さい意味ではない。信長公は将来いよいよ中国から九州、九州から海外へまでも、御雄飛なさろうというお気もちがある。それには、関東以北を、徳川殿の手にゆだねて、後顧こうこの憂いなく、西へも南へも進出できる構えをまず立てねばならぬ。そうした御談合などもぽつぽつ運んでいるにちがいないよ)

等、等、等。庶民たちの臆測おくそくにも、時によって、ばかにならない含蓄がんちくがある。

実をいえば、家康の参向さんこうは、信長にとって、折から、出先の客、というものであった。

これより前に、秀吉との打合わせもあって、彼は近日、自身中国へ出馬し、中国もまた甲州のごとく、一挙に席巻せっけんし、一気に統治の実をあげてしまおうと、息そく信忠もつれてゆく予定で安土へ呼び、今や出陣の準備に忙しい最中であったのである。

――にもかかわらず。

ひとたび安土の大賓たいひんとして家康を待つや、それらの大事も抛なげうって、心から客を迎え、また全家中の臣もことごとく、その接待のために用いて、

「最善をつくせよ。お客をして寸毫すんごうの不興もあらしむるな」

と、ほとんど軍令と異らない意気をもっていいつけた。

宿舎の結構、調度の善美、朝暮の佳酒かしゅ珍膳など、もちろんのことだが、信長が家康にうけてもらいたいものは、やはり市井人の長屋交際とか、田舎人いなかじんの炉辺の馳走とも違わない、その「物」よりは「心」であったこというまでもない。

信長にこの「こころ」があったればこそ、二十余年の同盟がこの乱世に完まっとうされて来たともいえよう。また家康のほうからいわせれば、恃たのむ味方としては、ずいぶん気骨の折れる相手だが、時によってのわがままも、得手勝手えてかっても、皮を剥むいた信長の真底には、利害一いってんばりのみでない、真実と呼び得るもの。――それがあるのを知っているので、稀まれには、三斗の酢すを呑まされるようなことがあっても、まずまずと、飽くまでこの人を立て、この人に従ついてゆこうという気もちを持ち続けたものであろう。

そうして、この両者の、同盟二十余年間のうち、いずれが得とくをし、いずれが損をなしたかを、極めて第三者的にながめるならば、それは両方の得であったといい得る。

もし、青年立志のとき、早くから、信長が家康を盟友めいゆうとしていなかったら、今日、安土の府の厳存げんそんを見ることなど、思いもよらないし、またもし、家康が信長の援助を得ていなかったら、その生い立ちから栄養不良の児みたいであったあの弱小三河の国が、よく以後の四隣の圧迫に耐え得てきたかどうか。たとえば、長篠ながしのの一戦を考えてみただけでも、猛虎のまえの一片の餌えでしかなかったのではないかと思われる。

心交と利害。こう二つの結びあいを離れて、さらにふたりの性格を箇々にながめてみると、なおその友誼ゆうぎを完まっとうし合った底に、津々しんしんたる両者の人間の味が噛みしめられる。

一言にしてそれをいえば。

信長には、用心ぶかい家康などには、到底、空想もなし得ない経綸けいりんの雄志ゆうしと、壮大極まる計画があった。理想に伴ともなう実行力があった。

これを反対に、信長から家康を観みるに、自分の持たない特徴を多分に持っていることを認めていたにちがいない。辛抱づよい、困苦に耐える、奢おごらない、誇らない。また織田家の宿将とのあいだにも、かりそめに摩擦まさつを起さない。分を知って野望をあらわさず、よく内に蓄えて、同盟国に危うさを気労きづかわせない。そして同じ敵対国にたいしては、常に重きをなしているから無言の防塁ぼうるいはつねに織田の後方を確乎かっことして扶翼ふよくしている。

いわば理想的な友国であり、個人としては頼もしい知己だった。二十余年間にあったあらゆる辛苦と危機を顧みるとき、信長は家康を、

(わが糟糠そうこうの妻)

とも思ったに相違ない。安土第一の殊勲者とも心では称たたえていたろう。その人に報むくうきょうの饗宴であり礼遇である。彼としてはなお足らないほどな気はしても、過ぎるとは思わなかったにちがいない。

――けれど、主人側の余りな緊張が、時によって、却って客をはらはらさせるような場合は、世上一般の饗宴にもまま例のあることである。

その日、客の家康は、安土山上の総見寺の舞楽殿で、猿楽能さるがくのうを見物した。桟敷さじきには、近衛このえ殿もおられたし、主人役の信長のほか、穴山梅雪、長雲、友閑、夕菴せきあん、長安などの年寄衆、小姓衆、そのほか徳川家の家臣もいながれて陪観ばいかんしていた。

梅若太夫うめわかだゆうが、大織冠たいしょっかん、田歌でんかの二番を舞った。出来栄えよく、主客はやんやと褒ほめ囃はやした。

で、梅若太夫へかさねて、

「お能を御覧に入れよ」

と、命が下った。

ところが、どうしたのか、能のほうは、不出来であった。謡うたいのことばを忘れて、二、三度もつかえたりした。

やや興をそがれたが、そのあとをすぐ幸若こうわか八郎九郎太夫が、和田のさかもりを舞って、鮮やかに舞い納めたので、主賓の家康始め、一同みな興じ入って、梅若太夫の些細ささいな落度などは、たれも心にとめていなかった。

殊に家康は、主あるじのこの馳走に、心からの歓びを示すことに怠りなく、自分の家臣を楽屋へ使いに立てて、

「いずれも結構に拝見した。わけて幸若の舞は、もう一さし見たいほどである」

と讃辞を言伝ことづけさせ、梅若、幸若のふたりへ、金子きんす百両、帷子かたびら五十を祝儀はなとして贈りとどけた。

しかし楽屋では、同時に、それどころでない騒ぎが起っていた。――というのは、梅若の能の失態しったいにたいして、信長から、

「大切な尊客の前において、不用意なる能をお目にかけなどしたは、醜みぐるしき曲事くせごとたるばかりでなく、芸者げいしゃとして、平常の心がけの不つつかによる。芸道の鍛錬たんれんも、武家の兵法も、変りあるべきでない。見せしめのため、梅若太夫の首を刎はねい」

という叱責しっせきが、家臣菅屋すがや九右衛門、長谷川竹はせかわたけの両人から厳おごそかにここへ沙汰され、楽屋中の者は、色を失って、打ち顫ふるえながら詫び入っていたところなのである。

家康のとりなしで、後にようやく、信長も怒りを解いて、

「ゆるしおく」

とはいったが、そのため、一時はみなどうなるかと、きょうの宴楽えんらくも仇あだに思われたほどだった。

しかし、他人ひとが衝撃をうけたほどは、信長自身は、その不快をいつまでも持っているわけでもなかった。その証拠には梅若の過怠かたいをゆるすと、

「褒美を惜しんでの叱言こごとにはあらず――」

といって、森蘭丸を楽屋へやり、幸若同様に梅若へも、金子拾枚の祝儀はなを与えている。

また、こういう歓待の行き過ぎもひとえに信長が客へたいしての、誠意のあふれにほかならないと思われる例には、その翌日、高雲寺御殿での馳走には、右大臣信長自身が、家康のまえに、饗膳きょうぜんを据えた一事を見てもわかることである。

――が、家康は、かくまで自分をなぐさめてくれる信長以下、接待役の丹羽にわ長秀、堀久太郎、菅屋九右衛門などの真心に無上な感謝を抱きながらも、時折、ふと物足らないものを覚えて、ついそれを座談のうちに信長へ質ただしてしまった。

「御馳走役として、初めから私へ附けおかれた日向殿ひゅうがどの(光秀)にはいかが致されたか。きょうも見えず、きのうの御能拝見にも見うけず、おとといも姿を見なかったようにぞんずるが……?」

家康の問いに、信長は、

「ああ、光秀のことをお訊ねであるか。彼は、都合によって、十五日の夜、坂本へ帰城いたした。……そうそう、にわかのこととて、御宿所へ、挨拶に参じるいとまもなく、安土を退去いたしたものとみゆる」

至極すずやかなのだ。そう答える信長の眉にも容子ようすにも、ほとんど、何らの特殊的な感情といったようなものはあらわれていない。

実のところ家康はすこし心配もしていたのである。巷間こうかん、噂まちまちで、変な揣摩臆測しまおくそくも行われているからだった。しかし今、信長のあっさりした返辞やこだわりのない姿を見ては、巷ちまたの取沙汰はすべて無用な思い煩わずらいに過ぎないものと否定された。また、そうあるべき筈とも彼の常識で考えられた。

ところがその夜、家康が自身の宿所大宝院へ帰ってから、酒井左衛門尉さえもんのじょう、石川伯耆ほうきなどの家老たちが、家中の人々が聞き知ったところを蒐あつめてのはなしによると、惟任日向守これとうひゅうがのかみ光秀の帰国については、そう軽々とは聞き流せない複雑性があるようにまた考え直されて来たのである。

まず、衆説を取りまとめた真相というのは、大体、次のような事柄が、光秀の急なる帰国の原因となったことは確かだった。

それは。――家康の着いた十五日のこと。信長は予告なしに饗応奉行きょうおうぶぎょうの台所屋敷へ臨検りんけんした。このところ安土は照入梅てりにゅうばいのような蒸暑さであったせいか、乾物かんぶつや生魚の臭においがぷんぷんと鼻へ襲った。のみならず堺さかいや京から大量に集荷した食糧が、解きかけてあったり積んであったり、ひどく散らかっていた。内容がどんな珍味佳肴ちんみかこうであろうと用捨ようしゃなく蠅はえは群れたかってくる。信長の顔にも肩にもそれはたかる。

「くさい。くさい」

突然、門内へ姿を見せたときから彼の呟つぶやきは不機嫌を吐き出していた。つづいてずかずか調膳の大部屋へ入って来て、また一語を誰へともなくぶつけた。

「何事だ、この埃ほこりは。この不始末は。かような物ぐさい所で賓客ひんきゃくの膳をしつらえるつもりか。ましてやこの時節、腐敗した物などお客にすすめられようか。取り捨ていッ、取り捨ていッ、腐った魚などは……」

不意ではあるし、思いがけない人のすさまじい叱言こごとに、饗膳方の小役人たちが、顛倒狼狽てんとうろうばいの状は、気のどくなほどであった。

材料の蒐集やら調度食器の配合などに頭を使って、このところ幾日かはほとんど寝る間もなく家中や組の者を督とくしてきょうもここに懸命に努めていた光秀は、信長の声に、初めは耳を疑っていたが、家臣から、

「お成りです」

と聞くや、びっくりして君前に出で、低頭平伏して、ここに満ちている異臭も決して魚類が古いためではないことなど説明し出した。

「云い訳はよせ」

と信長は抑えて、

「一切、取り捨ててしまえ。こよいの御馳走は他の物をもってする」

と、耳もかさずに、帰ってしまった。そのあと、光秀がまだ茫然と腰が抜けたように坐っているところへ、使者が来て、

其方そのほう儀ぎ、中国表へ、先陣として出勢すべきの旨、仰せ出さる、則すなわち、即刻御暇被下おいとまくださるもの也

という状一通が手渡された。

珍膳美肴びこうを山と集めて、こよい大賓の盛燭せいしょくに照らさるべく、すでにあらかた調えられていた馳走の数々から木具魚台きぐさかなだいまでが、その晩、明智家の家臣達の手によって裏門から運び出され、まるで芥あくたか犬猫の死骸でも棄てるように、どぼんどぼん、安土の濠ほりへ投げ棄てられていた。みな無言で、みな悲涙をためて、ただ黒い濠水ほりみずの面おもてへ、こみあげる感情をたたきこんでいた。

心闇しんあん

夜となると、ここの邸内の古い大池には、蛙かわずの声が喧やかましい。

沈湎ちんめんとただ独り、燭しょくにうつむいて、物思わしく在る人に、

(何を考えこむか)

と、蛙の声は、問うて揶揄やゆするごとく、また同情してともに嘆くが如く、或いは、その愚痴ぐちを嗤わらうようにも、聞きようによって、どのようにも聞える。

「たれも入るな」

とでも命じてあるのだろうか、この広い座敷に、燭一つ、光秀一人、ほかに小姓の影すらみえない。

ひそやかに、側を通るのは、仄暗ほのぐらい微風だった。まだ初夏、湿度はあるが、夜風はすずしい。

「…………」

つねにも増して、この夜、この人の顔いろは、すぐれていなかった。甚だしく蒼白い。

燭のゆらぐたび、鬢びんの毛けも立つようにうごいている。それが惨さんとして、そそけ立つかに見えるほど、憂悶ゆうもんの陰がその姿に濃い。

「――ああ」

嘆息たんそくは彼の癖であった。何事にまれ胸中を打ち割って他に語るとか、憂いを磊落らいらくに霧散むさんしてしまうとかいうことのできない彼は、それを独り――ああという一語によってせめてもの自慰じいとしていた。

しかし同じ嘆息にしても、ああ――と満腔まんこうから鬱うつを天へ吐きすてるのもあるし、われとわが身へ、ああと歎いて、世の憂いをいよいよ身一つに蒐あつめてしまうものとがある。光秀のは、後者の場合に陥おちいりやすかった。

「…………」

ふと彼は、信長が名づけたところのその「きんか頭」を重そうに上げていた。前庭の闇を正視した。樹林のあいだに遠く見える幾つもの灯――それを見つめていた。

思うらく。安土の城中はいま饗宴第一夜の歓語談笑に華やいでいる頃であろう。主賓の徳川殿以下、浜松の家臣と、安土衆の面々とが、綺羅星きらぼしといながれている様も思いやらるる。饗応奉行きょうおうぶぎょうには、自分のほかに、二、三名も任命されていることゆえ、こよいの宴に事欠くことはなかったにちがいない。――多少、料理や膳具に模様がえはあったとしても。

「このまま御命令どおり、安土を立つべきか。また、もう一度、お城へ伺候して、御挨拶をのべた後立ち去るべきがほんとか」

光秀はさっきからそんな些事さじに迷っていたのだった。事務に過あやまちないことにも思案のかかるほど彼の明晰めいせきなあたまもこよいは少し労つかれていた。

些末さまつな事務が、重大な問題に考えられ、その判断を追えば追うほど、いずれにしたらよいのか分らなくなった。――それは彼が彼の性格をもって、信長の気心をつきとめようと焦あせっているところに起因しているのである。

ああと、思わず出る嘆息のなかには、その困難に逢着ほうちゃくしている苦しさが多分にあった。君臣という絶対なものを措おいて、彼をして正直にいわせるならば、

(あんな気心の知れない人が世の中にあるだろうか。いったい、どうしたらあの人の気にかなうのか。実に難しい。無類に気難しい人だ)

と、信長を評したいにちがいない。いや、もっともっと深刻に信長の心理を剔抉てっけつし、皮肉な解剖かいぼうを加えていうかもしれない。人間の心理を察し、人生を批判することなどにかけて、普通人以上な眼と判断力をそなえている光秀のことなのである。強しいてその眼を掩おおい、その思考をみずから晦くらくすることはできない。

ただひとつ、その人が、主君であることによってのみ、彼は、自己の批判を慎み怖れていることができた。

「妻木つまき、妻木」――光秀は呼んで、にわかに左右の襖ふすまをながめた。

「伝五でもよい。伝五はいないか」

けれどやがて、襖をあけて手をつかえた者は、藤田伝五でもなし、妻木主計つまきかずえでもなかった。側臣のひとり四方田政孝しほうでんまさたかなのである。

「両名とも、無駄になった御饗応の物のあと始末やら、お引き払いの俄か支度に忙殺され、ほとんど席にすがたを見る間もありません。何ぞ御用なれば、政孝に仰せつけ下さいましょう」

「そうか。……いやその方でもよい。お城まで供して来い」

「お城へ。お城へお上がりになられますか」

「やはり退去の前に、いちど信長公に御挨拶して去るのが穏当おんとうであろう。支度せい」

その決意のまた鈍にぶらぬうちにと、強しいて自分を駆り立てるように、光秀はすぐ身づくろいに起ち上がった。

政孝は、うろたえ顔に、

「夕刻、或いはそのために、御登城もあろうかと、御意を伺いましたところ、急の御命、登城しているいとまもない。右大臣家へも徳川殿へも御挨拶せずに立ち退のくとの仰せに、実は、お供方にもその由を伝え、御小人おこびともすべて跡かたづけの方にかかっております。……しばし、しばらくのあいだ、お待ちねがいとうぞんじまする」

「いやいや、供人など、多くは要らぬ。そちひとりでも足る。馬を曳け」

光秀は、玄関へ出た。

そこまで通って来るあいだの部屋にも家来のすがたはなかった。ただあわただしく、二、三の小姓が従ついて来たのみである。

しかし一歩外へ出ると、そこらの木蔭やら厩うまやの蔭などに、三々五々とかたまり合って、何事か額ひたいをあつめている家中の者の影が黒々見えた。いうまでもなく、きょう突然、饗応役を免ぜられて、即日、中国出立をいいつけられたことにたいしては、光秀以上、明智の全家中は、

「理不尽りふじんである」

と、いい。

「あまりに酷ひどいお沙汰だ」

と、哭なき。

「故意に、われらの主人をお辱はずかしめなさるものとしか考えられない」

など、寄々よりよりに恨み合い、悲涙をたたえ合い、甲府以来、信長へ対して頓とみにつのらせていた忿懣ふんまんやら反感に油をそそいで、いまやそれは、危険な発火作用を帯びるやも知れないまでに醞醸うんじょうしていた。

すでに甲府出征中、下諏訪しもすわの陣所で、主人の光秀が、衆人のなかで耐えがたい辱はずかしめに遭あったということは、家中全般、隠れもなく知ることであった。どういうわけで右大臣家には近年事ごとにかくも主人光秀をいびり給うのかと、彼らは、親を視みるごとく、光秀の苦悩を見て、

「きょうこの頃のおからだの勝すぐれぬのも、無口におなり遊ばしたのも、すべてそのため――」

と、平常一日でも、胸を傷いためないで来た日はなかったほどなのである。

きょうの衝動は、いままでのどんな場合よりも、最も大きい。なぜならば、徳川殿という曠はれの大賓をむかえ、浜松の家中にも、京の貴紳きしんにも、織田家の宿将たちにも、のこらず知れ渡ることだからである。ここで恥辱をこうむることは、天下に恥をさらすにひとしい。恥を思うとき、彼らは、武門の中に生きてゆくに耐えなかった。

「お馬を――」

あわただしく、四方田政孝が、光秀の方へ、駒を曳き出してゆく姿にすら、彼らはまだ気もつかずにいた。それほど家中の者すべてが何へも手がつかない心地で、ただ彼方此方あなたこなたに立評議たちひょうぎをつづけていた。

光秀が門を出ようとすると、そこの門前で駒を降りていた人がある。信長の使者、青山与三あおやまよぞうであった。

「やあ、日向ひゅうがどの、お立退たちのきか」

「いやいや、ま一度お城へ罷まかり出て、右府様にも徳川殿へも、御挨拶をして去らんかと考えまして」

「さるお気労きづかいもあろうやと、わざわざそれがしへ、御口上をもってお使いに命ぜられましたから、火急の中を、強しいて御登城には及び申さぬ」

「なに、かさねてのお使いとな」

にわかにまた、邸やしきの内へもどった。そして席を正し、慎んで、上意を聞いた。

信長の旨として、青山与三は告げた。

「今日お振舞役を免ぜられ、お暇いとまを下さるる趣おもむきは、さきにお達し致した通りであるが、中国御発向ごはっこうの先陣として、其許そこもとの赴かるる方向について、再び、次のようにお沙汰がありました。よく聞きおかれたい」

「……はッ」

「明智一勢には、軍旅を取りいそぎ、日ならぬうち、但馬たじまより因幡いなばへ入り候え。敵毛利輝元の分国、伯州はくしゅう、雲州うんしゅうへも、構えなく乱入に及ばれい。油断あるな、猶予ゆうよあるな。早々、丹波へ帰国、陣用意をととのえ、高松城包囲中の羽柴秀吉にたいし、山陰道より側面牽制けんせいのふくみあって然るべし。――信長自身もやがて間もなく後詰ごづめに西下あらん。おくるるな、軍略の機を万が一にも外はずすな。……以上のとおりなおことばでありました」

光秀は、拝伏したまま、

「かしこまりました」

と、答えた。

それがわれながら余りに小声で卑屈らしく感じたのか、光秀は胸をあげて、与三の面おもてを正視しながら、

「君前へは何とぞ宜よしなに」

と、語音を昂あげて云った。

青山与三は、その眼をすぐ逸そらしてしまった。光秀の細かい神経は、それほど自分の面おもてに、視みるに耐えない陰があるのかと、反射的に傷いたみを抱いたが、

「では、御機嫌よく」

与三は起って、すぐ立ち帰った。

それを見送りに出る。玄関から立ちもどる。そのあいだの光秀には、人まばらな邸内を吹き抜ける夜風に浮いて、何となく踵かかとが畳についていない。

「……つい数年前までは、お暇いとまを賜わって帰る夜までも、立たち際ぎわにはまいちど顔を見せよ。茶なといたさん、朝立ちなれば朝まだきにも城へ来いと、諄くどいばかり仰せを重ねられた信長公が……なんとてはかく光秀がお嫌いになられたのか。青山与三をおつかわしあったのも、光秀の顔を見るのがお嫌いやなので、こちらからの登城を避けるお心から出たものではなかろうか」

考えまい、思うまい。そう努めれば努めるほど、何たる愚痴、心は綿々めんめんと、声なき独り言を、腐水ふすいの泡つぶのようにつぶやいて熄やまない。

「――誰が観みん、この花も、はや無用」

彼は、床の間の、大きな瓶かめへ手をかけた。見事に挿いけてあった花も、彼の腕にみだれ、瓶の口からこぼれる水は、縁側まで滴々と音をさせて運ばれて行った。

「はや行くぞッ。立つぞここを。支度はよいかッ」

そこから大声で家中の者へ呼ばわりながら、光秀は、その壺つぼを、両手で斜めに、肩のあたりまでさしあげた。そして庭さきの平たい沓くつぬぎ石を目がけて、力まかせに叩きつけた。

陶土とうどの破片、水のしぶき、それが快然かいぜんたる一爆音を発して、光秀の面おもてから胸へ刎はね返った。光秀は、濡れた顔を、夜空へあげて、呵々かかと笑った。独りで笑っていた。

夜は深い。じっとり霧がこめて、いとど蒸暑むしあつい夜だった。

家中は残らず旅装をととのえ終った。荷梱にごりは馬の背に、弓道具は扈従こじゅうの手や肩に、そして先発から供の末まで、門外に出て、すでに隊伍を立てていた。

雨雲の低い空を望んで、頻りに馬が嘶いななき合う。供頭は、駈け歩きながら、

「雨具は用意したか」

と、注意をくばり、ふたたび門内を覗のぞいて、

「こよいは、星明りだにない。それに降り出せば、悪路となろう。松明たいまつはすこしよけいに用意されたがよいぞ」

と、誰やらへ呶鳴どなっていた。

職責上、供頭の声だけが、やや張りを帯びているだけで、鉛のように重くるしいものが、家中全体をおおっていた。箇々に見ても、さむらい達の面おもては、こよいの空のように暗澹あんたんとしていた。険をふくんだ眸ひとみ、涙をたたえた眸、悲痛な光を潜めた眸、悶々としてものいわぬ眸。

――たれの目もかれの目も、決して、平静ではない。

そのうちに、光秀の声がした。大玄関前の駒寄こまよせを離れて、一塊ひとかたまりの騎馬の影が此方こなたへ流れて来る。

「なんの坂本までは、見えているほど近い距離。一雨ひとあめあるとも、一鞭ひとむちの間に着いてしまう。――懸念すな。懸念すな」

案外明るい主人の声を聞いて供の面々は、却って意外な気がした。

この日の夕方。すこし微熱があるとかで、典医てんいから薬を上げたということを聞いていた側臣たちが、もし夜半の雨にでも逢あわれては、と案じて云ったことばに対して、光秀があたりの者へ答えながら、また、門内門外に佇たたずんでいる家中たちへも、わざと聞えるように云った声であった。

光秀のすがたを見ると、供の者は、松明たいまつの火へ松明の先を蒐あつめて一つの火から無数に増やした。そして続々、焔ほのおを曳いて先頭から歩き出した。

半里も進むと、果たして、白い雨のすじが闇を截きって来た。盛んに赤い煤煙ばいえんを噴く松明の焔へも、

……ぷつ、ぷつ、ぷつ

と、ひと粒ひと粒、雨が音をたててはじけた。

「安土のお城に、まだ人々は寝いねもせず、夜を更ふかしているとみゆる」

光秀は、雨を見なかった。駒を立てて、湖岸のあとを振り向くと、そこには墨のような宇宙にもなお巍然ぎぜんたる大天守があった。雨の夜はよけいに光るという屋上の黄金の鯱しゃちは、この闇夜に何を睨んでいるのかと思われる。

そして舎殿楼閣しゃでんろうかくの沢山な火は、湖に映じて寒いほど戦おののいていた。

「殿、殿。降りだして来ました。お風邪かぜをひどくするといけません」

主人の馬わきへ、馬をすり寄せて、側臣のひとり藤田伝五は、光秀の背へ雨具を着せかけた。

鳰におの宿やど

まだ五月雨さみだれぞらの定まりきれないせいか、今朝も琵琶湖びわこは模糊もことして、降りみ降らずみの霧と小波さざなみに、視界のものはただ真っ白だった。

が、道は思いのほか泥濘ぬかっている。馬の睫毛まつげまで濡れ雫しずくであった。全軍の将士は黙りこくったまま、夜来の雨とこの道を冒おかして、蕭条しょうじょうといま坂本までたどりついた。右は湖水の三津みつの浜はま、左は叡山延暦寺えいざんえんりゃくじへの登り坂。人々の着ている蓑みのは、吹きおろす風、返す風に、みな針鼠はりねずみのように戦そよぎ立った。

「おお、あれまで、左馬介さまのすけ様がお迎えに出ておられまする」

四方田しほうでん政孝は、主人の日向守ひゅうがのかみ光秀にささやいた。湖畔の城、坂本城が、もう一行のまん前に見えたときである。

光秀は早くから気がついていたようにかろく頷うなずいた。

――安土からこの坂本まで、振り向けばまだうしろに見えそうな近くであるにかかわらず、彼は千里も歩いて来たかの如く疲れきった面おもてをしていた。そして従兄弟いとこの明智左馬介さまのすけ光春が住むこの城の前に立つと、

(やれやれ、着いたか……)

と、まるで虎口をのがれて来たかのような思いを抱いた。

しかし扈従こじゅうの面々は、光秀のそうした胸のうちよりは、光秀が時折に咳声しわぶく容子ようすを見て、より以上な心配を寄せ、

「お風邪かぜのおからだで、この雨気のなかを夜徹よどおしのお歩行かち。お疲れもひと方ではござりますまい。城内へお入りあそばしたら一刻もはやく身を温めてお寝やすみなされますように」

と、口々に云い合った。

「そうしよう。そうしよう」

まことに彼は素直な主人であった。家来たちの忠言をよく肯きき、またよく一同の心配を分ってくれる。こうした主従の情には蜜みつのごときものがあった。

馬の口取は、藤田伝五。大手の松原前にかかると手綱たづなをとめ、介添かいぞえして鞍わきへ立つ。そして光秀が降りると、馬を部下にあずけ、自分は主人に添って、濠橋ほりばしへ歩いてゆく。

そこに光春の家臣が堵列とれつしていた。ひとりの老臣は、傘をひらいて、恭うやうやしくさし出した。それを四方田政孝がうけ取って主人の上に翳さしかける。藤田伝五は、光秀の蓑みのを持つ。

光秀は濠橋のうえを歩んで行った。濠の水は湖水とつづいている。欄おばしまの下をのぞくと、水は青く、橋杭はしぐいの根をめぐって、白い水鳥が、花を撒まいたように游んでいた。このあたりの汀なぎさにたくさんいる鳰におであった。

「今暁からお待ち申しておりました」

城門へ出て迎えていた従兄弟いとこの左馬介光春は、そこに数多あまた並んでいた諸士をうしろに数歩出て、まず礼を行い、そこから先導して大玄関へ入った。

家中の老臣から諸士など、次に続々と奥へかくれてゆく。光秀について来た側臣の重なる人々も、そこで泥土どろの手足を洗い、濡れ蓑みのを積んで、十幾名かは、本丸のほうへ通されて行った。

そのほかの多くの家来は、まだ濠の外にとどまって、馬を洗い、小荷駄こにだをととのえ、これからの宿営や配備に混雑しているとみえる。馬のいななきや喧騒けんそうする人声が遠くに聞えていた。

その頃もう光秀は一室で衣服を着かえていた。従兄弟いとこの住居すまいは、さながらわが家のような居ごこちだった。どの部屋からも湖が見える。松原が見える、或いは叡山えいざんが望まれる。ここの本丸は絶好な景勝の地にあった。

けれど誰がいまこの自然を愛するだろうか。叡山えいざんは過ぐる元亀二年の信長の一令によって大焼打にあったまま、今なお山上の七堂どう伽藍がらんも中堂も山王二十一社も当年の灰燼かいじんを積んで、復興の目鼻もついていないという。

従って、麓ふもとの町屋すら、つい近年にいたって、ぼつぼつ建ち始めた程度である。森蘭丸の父森三左衛門が悲壮な討死をとげた宇佐山の城址しろあともこの近くであったし、浅井朝倉などの大軍と織田勢が取り合って死屍しかばねを積んだ比叡の辻の戦場も遠くない。

思いを過去のそういう跡にめぐらせば、山水の美は、却って鬼哭きこくを心に聴かしめる。

いま光秀は、ここに坐して、五月雨さみだれの雨滴うてきの中に、冷々ひえびえと、そうした感傷の思い出を心に聴き、また従兄弟の光春は、彼の目に触れない遠い小間こまで、炉の火加減をのぞき、釜師かまし与次郎が作るところの名釜めいふのあたたかな沸たぎりを聞き、ひたすら茶境に浸ひたろうとしている。

一つの城に、異なる二つの心が住んだ。光秀と光春とは、まだ光春が弥平次やへいじといっていた幼い頃からほとんどひとつ家に育ち、それからの久しい困窮こんきゅうも、戦場の艱苦も、家庭の中の楽しみも、共にして来た上の従兄弟でもあったから、長じて後、疎遠そえんになりがちな兄弟などよりも、はるかに骨肉的な情愛をもち合っている仲だったが、生れながらの性格だけは一つのものに縒よりあうことはできない。今朝なども、こう二人は、ひとつ軒に住むとすぐ、かくの如くすぐその心のとおり違った姿をもってしばらく隔てていたのだった。

「どれ。……もうお召しかえもすんだ頃であろう」

やがて光春は、独り語ごちして、釜のまえを起った。

そして濡れ縁をわたり、橋廊下をこえ、従兄弟の室として宛あてがった幾部屋のうちのひとつへ、静かに入って行った。

隔てた部屋には、光秀の側臣たちの居住まう気配が聞えるが、そこにいたのは光秀ただひとりであった。

正坐してじっと湖を見ていた。

「いかがでしょう。およろしければ、あちらの茶室で、ともあれ、一ぷくさしあげたいとぞんじますが」

光春が、そのために、これへ迎えに来た意を告げると、光秀は夢からさめたような面持おももちを向けて、

「茶か」

と、つぶやいた。光春はいささか得意そうに、

「ちか頃、京の与次郎へたのんでおいた一作がようやく出来て参りました。蘆屋あしやのような典雅てんがな地紋などありませぬが、よい具足を見るようなあらあらとした味のもの。釜の新しきは悪しといいますが、さすがに与次郎、湯味ゆあじも天妙てんみょうの古きものにも劣りませぬ。殿がお越しのせつはぜひそれでと心がけていた際、今暁、突然安土から御帰国とのお報らせに、さっそく炉に火を入れてお待ちしていたようなわけで」

「いや、せっかくだが、茶も欲しくない」

「では、お風呂のあとにでも」

「風呂もやめておこう。ともあれ、左馬、一睡いっすいさせてくれ、慾はない」

つねづね聞き及んでいることも多々ある。光秀の心事を解するに全く晦くらい左馬介光春でもなかった。

殊にこんどの唐突な帰国については、彼も解げせぬものを抱いていた。信長公が安土の城に大賓として迎えた家康の饗応に、その数日のあいだの接待役として惟任これとう日向守光秀が任ぜられたことは、世間にかくれなく沙汰されたところである。

にもかかわらず、その饗宴の第一日を前にして、突然、光秀の役目を解かれたのはどういうわけか。当の賓客たる家康はなお安土にいるのに、接待役を交代させられて、急遽きゅうきょ、本国へ引き揚げて来た光秀には、いったい如何なる身辺の変が起ったのか。

左馬介も、這般しゃはんの消息はまだふかく聞いていないが、今暁、ここの城門をたたく者があって、云々しかじかの由を、寝耳に聞かせられたときから、彼としては、

(さてはまた何事か、信長公の感情にふれたな)

と察して、光秀の顔をここに見るまでは、ひそかに胸を傷いためていたものであった。

案のじょう今朝城門に迎えたときから、光秀のけしきはすぐれて見えなかった。しかしこの人のこういう深刻な陰を眉目びもくに見るのは、左馬介としてさほどな驚異ではなかった。なぜなら広い世の中にも、自分ほど光秀の性情をよく知っているものはないはずと、彼は信じて疑わないだけの過去を持っていたからである。

十六、初めて加冠かかんして、十兵衛光秀と彼が名乗った頃、左馬介光春はまだ九歳ぐらいで、名も弥平次とよばれ、元服の席のもようを珍しげに、母のそばから眺めていたものであった。

その加冠の儀式も、十兵衛光秀という名を選んで与えた者も、実に、左馬介の父三宅光安みやけみつやすであった。光秀の実の親たちは土岐とき一族の名流であったが、早くから両親も亡なく、両親の住んでいた明智城も亡ほろび果てていた。そして叔父にあたる左馬介の父三宅光安の手許で養育されたのである。

ふたりは七歳ななつちがいだった。幼少から一つ家で、机をならべて書を読み、燈火を共にして箸をとった。従兄弟いとことはいえ、情においては、兄弟よりも深いものがあった。三十余年後の今とても。

義は主従であるが、情愛としては、兄とも慕っている。おそらく光秀としても左馬介を家臣とみるよりは弟と思う情のほうが濃いであろう。故に、他人には示さない顔いろも、彼にはわがままに現わしもする。それは寧むしろ左馬介光春にはうれしいことであった。

「――いや、ごむりもありません。安土から夜を徹とおしての馬上では。……おたがいに、五十を境にしてくると、若いときのようには体も持てませぬな。では、ともあれ御寝所へお入りあってゆるりとお休み遊ばすがよろしいでしょう。用意は申しつけてありますから」

強しいもせず、逆らいもせず、左馬介は彼の意のままにうながした。

「そうする」

と、光秀は口少なく、そこを起って、まだ朝の間の気はいが漂う蚊帳かやのうちへ身を入れた。

わくら葉ば

光秀が眠りについた後、やがて左馬介が退さがって来ることを予期して、その姿を待ちうけたように、一室の杉戸の端近く座をしめていた天野源右衛門、藤田伝五、四方田政孝の三名が、

「あ。もし……」

と、呼びとめて、ひとしく手をつかえ、

「恐れ入りますが、しばしそれがしどもへ、お顔を拝借ねがわれますまいか。折り入っての儀で」

と、常にない容子ようすでいった。

むしろそれは、左馬介のほうでこそ、待っていたことのごとく、

「おそろいで、茶室のほうへ渡られぬか。殿にはお寝やすみになられたので、釜の火がむだになるかと思うていたところだった。如何いかがであるな」

「お茶室なれば、人を遠ざける要もなく、至極結構でございますが」

「では、ご案内しよう」

「というても、われら武骨者ぞろい、茶は弁わきまえもいたしませぬし、また今日は、そうしたお心入れをいただく程、心にゆとりも持ちませぬが」

「さもおざろう。各〻の胸底もいささか左馬介とてお察しはしておる。さればこそ、語るには、茶室がよいのではあるまいか。お気づかいなく――」

左馬介は導いてゆく。

人々は後についた。そして狭い壁と障子明りの中に坐り合った。

釜の湯はよく練れてさっきよりはその沸たぎりも和なごやかに聞かれる。左馬介の武勇は幾多の戦場でたれも目に見ているが、炉の前の人とは何か別人のような気がされるのであった。どこといってその武勇が姿の上にはあらわれていないからである。

「では、茶は参らせぬことにする。源右げんえどの、政孝まさたかどの。折り入って、おはなしとは」

こう促うながされて、三名はややかたくなった顔を見合わせていたが、その中でも最も剛直ごうちょくな感情家らしい藤田伝五が、

「左馬介様。……無念です。おはなし申すにも、無、無念が、先に立って」

左の手を膝がしらから下へ辷すべらせると、われにもなく右の肱ひじを曲げて涙の目をかくした。

と、共に、ほかの二人も眼をしばたたいた。伝五のように泣きはしなかったが、瞼まぶたはかくしようもなく赤らんだ。

「何事があったのか」

左馬介は却って冷静を示した。火を見るべく予期していたのが、水を見たように三名ははっとわれに回かえった。自分たちの瞼を見ながらこういう顔いろを先ず示すようでは、この人に共感を求めることも期待を持つのもむだに近い気がして来た。そしてこう行き過ぎた感情を顧かえりみては、もう語ろうとする内容も自然内輪うちわにならざるを得なかった。

「思いもよらぬ急な御帰国に、何か右府様(信長)のごきげんでも損そこねしやと、実はこの左馬介も案じていた。いったい如何なるわけで、饗応のお役を不意に免ぜられたのか。忌憚きたんなくはなしてくれい」

頻しきりと、左馬介はそういうが、なお三名の胸を焦こがしている烈火とは、到底、差のあるものであった。

三名はこもごもに訴えた。

まず、藤田伝五が、

「わが御主君たるゆえに、非には目をふさぎ、理には事を曲げて、強しいて忿怒ふんぬの言を弄ろうし、信長公を故なく恨うらむ仔細では断じてございませぬ。――まったくこのたびの御罷免ごひめんばかりは、いかなる御事情によるものか、何の落度を理由と召されたものか、右大臣家のお心のほど、われらずれには解するにも苦しみまする。奇怪至極きっかいしごくともうすしかありません」

嗄かすれ途切れることばの渇かわきを救って、四方田政孝しほうでんまさたかが次を述べた。

「――が、一応はそれがしどもも、胸をなでて、御政治向きの都合かとも考えてもみましたが、どう見まわしても、左様な点は思い合わせられず、では軍の作戦上かといえば、それらの大策は疾とくより信長公の御胸中に確しかとあるべきはずで、徳川殿の御饗応にあたり、その日に迫って、ひとたび接待役に任ぜられた者の役目を剥はぎ、余人にそれを振り代えるなどという内輪の不統一を、何でわざわざお客殿に示す必要がありましょう」

天野源右衛門も口をそろえて、

「――御両所のいわれた通り、そう観じて参りますと、もはやわれらには、ただひとつの理由にあらざる理由しか考えられませぬ。すなわち年来わが御主君にたいして事ごとに邪視あそばしておられる信長公の執拗しゅうねきお憎しみが……ついに、ついに、かくばかり露骨となられ、事ここにいたらしめたものであると。――われら、明智家の輩ともがらは、いまはそう観念のほかなき心地に追い詰められておりまする」

ここで三名は口をつぐんだ。

これ以上、云いたいことは、山ほどあった。

たとえば、甲州打入りの際、諏訪すわの陣所で、主人光秀に飲めない酒をむりに強しいて、酒興のうえとはいえ、廻廊の板敷へ面おもてを捻ねじ伏せて、

「きんか頭。きんか頭、飲め」

と衆人稠座ちゅうざのなかで御折檻ごせっかんのあったことや、安土の城内でもしばしば同様な辱はずかしめを加えられて来た例や、或いは、日頃といえ、光秀といえば目のかたきに嘲蔑ちょうべつし憎悪されている実証が他家の侍たちの中にすら語り草になっている空気だの、思い出せば限きりもない。

けれど、今日以前のことは、改めて告げるまでもなく、主人の光秀とはほとんど一心同体といってもさしつかえない一族中での一族、左馬介光春が知っていないはずはないので、政孝も源右衛門も敢あえてよけいな言は吐かなかったのである。

ところで、その左馬介光春は、始終を聞き終るとともに、少しも変る色なき面おもてのまま、静かにひとつ頷うなずいて、

「では、殿の御帰国は、なんら、これという理由もなき御罷免ごひめんのためであったか。……いや、それを聞いて大きに安心した。右大臣家の御気色による首尾不首尾は他家たりともありがちのこと。まずよかった、よかった」

と、むしろ慶賀けいがするような口吻こうふんをもって答えた。

三名はさっと眉色びしょくを変えた。わけて伝五は唇のあたりの筋をひっ吊るように顫ふるわせて、つとその膝へつめ寄った。

「まず、よかったとは。――心得ぬ仰せ。左馬介様。それは、一体、いかなる意味を御意あそばすか」

「繰り返すまでもあるまい。わが殿の落度に非ずして、信長公の御気色悪しきためならば、また御機嫌のよい折に、御不興を取りもどすこともできよう」

「そ、それでは……」

と、伝五は、いよいよ早口となって、

「あなた様には、わが殿をもって、ひたすら信長公の御機嫌を取りむすぶお伽とぎ芸人げいにんの輩やからと同視しておいでられますか。明智日向守様ともある武門を、それでよいとお考え遊ばすのか。何ら、御無念とも、恥辱ちじょくとも、またかくて自滅の淵ふちへ追いやらるるとも、お感じになりませぬか」

「伝五。そちのこめかみの青筋は、ちと太り過ぎておるぞ。気を落着けい」

「昨夜も一昨夜も、一睡もしておりませぬ。あなた様のごとく、冷然とはあり得ない。非道、嘲笑、恥辱、忍耐、あらゆる無念の沸たぎり立つ油釜あぶらがまの中に煮られておる明智主従です」

「……だからいうのだ。まず胸をなでて、二夜三夜は熟睡してみたがよい」

「ば、ばかな仰せを」

かりそめにも主君の従兄弟いとこたるお方ぞと戒いましめながらも、藤田伝五はついに喰ってかかった。

「ひとたび泥塗られた武門の恥は拭ぬぐい難がたしというのに、わが殿も家中も、あの安土のじゃじゃ馬殿のために、何遍、それを怺こらえて来たことか。きょうも衆人環視の中でかくありしと、涙を抑えて語らるる殿光秀さまを取り囲み、主従なだめ合うては、泣き明かした夜も幾夜かござる。――ましてこの度は、ただ単に、饗応役をお奪とり上げになられたのみならず、すぐそのあとの命令では、――本国へ立ち帰って出陣の準備をなせ、中国にある秀吉を側面から援けるふくみをもって、毛利の分国たる山陰諸国へさっそくに攻めかかれ。と、まるでわれら明智の一勢を、猪鹿しししかを追う勢子せこか猟犬いぬのように見ての陣沙汰じんざた。どうしてこの気持のまま戦場へ赴かれるものぞ。これこそあのじゃじゃ馬殿の恐るべき例の策智はかりごとだ」

「つつしめ。じゃじゃ馬殿とは、誰をさして?」

「わが殿を見れば人前でも、きんか頭きんか頭と常に呼ばわるあの信長公のことです。そのじゃじゃ馬時代から左右に輔佐ほさして、今日の安土の大を成さしめた織田家の功臣林佐渡どのといい、佐久間父子おやこといい、ようやくその地位封禄ほうろくに酬われる日にいたれば、たちまち些少の罪をとらえて死に処し、或いは追放さるるなど――あのじゃじゃ馬殿の奥の手は、いつも追い落しときまっておるのだ」

「だまれ。右大臣家にたいして、恐れ多い雑言ぞうごん。そち達と同席はできない。立て、立て」

ついに左馬介も怒って、こう叱りつけたとき、人が来たのか、病葉わくらばが散るのか、かすかな気配けはいが庭に聞えた。

叡山復興えいざんふっこう

敵性人は絶対にいないはずの廓内かくないでも、防諜上には、日夜細心な警戒を怠っていない。これだけは例外なく、どこの城も同じといえる。

茶室といえ露地やそこらの附近には、庭見にわみの侍がかならず佇たたずんでいた。――今、にじり口の外まで来て、沓くつぬぎの前に額ぬかずいた庭番はそれであろう。一通の書面を内なる主人へ手渡して後も、やや久しいあいだ蟇ひきのように身うごきもせずそこにひかえていた。

やがて光春の声が、ようやく内から聞えた。

「返書をとあるゆえ、認したためてつかわすが、すぐとは参らぬ。使いの僧は、待たせておけ」

閉めてあるままのにじり口へ向って庭番は、

「かしこまりました」

と、ていねいに礼をして、草履ぞうりの音も偸ぬすむように、露地の木の間を戻って行った。

その後は――

光春も、三名も、またしばらく、溶け合わない気もちのまま、じっと、黙りあっていた。

時折、どこやらで、ぽと、ぽと――と大地を撞木しゅもくで叩くような音がした。その軽い響きだけがわずかにここの沈黙を救っていた。

梅の実みがしきりに落ちるのであった。また梅雨雲つゆぐもがすこし断きれたか、障子の腰へつよい陽ざしが不意に映さした。

「どれ。おいとまして、退さがろうではないか。……何やら御用の生じた御様子でもあれば」

友を促うながして、この機しおにと、四方田しほうでん政孝が、退さがりかけると、光春は、いま三人の目の前でつつみ隠す風もなく繰りひろげて読んでいた手紙を巻き返しながら、

「まだ、よかろうに」

ほほ笑みながらいったが、

「いや、おいとま仕つかまつります」

「まことに、お邪さまたげいたしました」

源右衛門も伝五も、袖をつらねて、次へ辷すべった。そしてあとの襖ふすまを閉めきると、やがて橋廊下の方に、薄氷うすごおりでも踏みやぶってゆくような冷たい跫音あしおとを消して行った。

光春も、程経ほどへてから、やがてそこを出て来た。そして廊下を歩みながら侍部屋へ声をかけた。

小姓までが慌あわてて彼のあとに従ってその居室へ入った。光春はすぐ料紙りょうしと硯すずりを求め、もう書くべき文言は頭のうちに出来ていたものの如く、苦もなく筆を走らせた。

「返書じゃ。これを横川よかわの和尚おしょうの使いに持たせて帰せ」

と、侍臣のひとりに渡すと、もうその用件には何の顧念こねんないように、ほかの家臣を顧みて、

「光秀様には、あれからずっと、御熟睡しておらるるようか?」

と、たずねた。そして、

「御寝所はいとお静かのように窺うかがわれまする」

と聞くと、初めて、

「そうか」

と、眉をひらいて、自分もともに心の安まったような顔をした。

十九、二十日、二十一日と、それからの数日を、光秀はなすこともなく、坂本城に過していた。

すでに中国出陣の命をうけている身である。なお多少の余日はあるにしても、一刻もはやく居城の丹波亀山たんばかめやまへ帰って、家中に動員を令し、万端の準備をいそぐべきではあるまいか。

「その途中にこうして、幾日も無為むいにおいで遊ばしては、いよいよ安土あづちへの聞えもよろしくあるまいに」

光春は直言したかった。

しかし光秀の心気を思うと、それも云い出し得ないのである。藤田伝五や四方田政孝などが痛言した――この気持のままでは戦場へ赴ゆけない――という悶々もんもんたるものは、光秀の胸にも勿論あるにちがいない。

――とすれば、静かに、ここに滞留している幾日かの小閑こそ、光秀にとっては、何よりも先にしている出陣の用意かもしれないと思いやられもする。そうだ、そうあるはずと、光春はあくまでも、光秀のつよい理性と日頃の聡明を信じていた。

――今日も。

いかにお過しかと、彼がそっと光秀の居室をうかがってみると、光秀は毛氈もうせんのうえに筆洗や墨池ぼくちをならべ、一巻の絵手本をひろげて、他念なく画えの稽古をしていた。

「ほ。これは」

光春は側へ坐った。そして光秀にこの余裕があることを、心からよろこんで、共にこの境地を楽しもうとした。

「や、左馬介か。見てはいけない。まだ人前で描ける画えではない」

光秀は筆を置いてしまった。

そして五十以上の人とは見えないような羞恥はにかみを示して、困ったように、あたりの描き反古ほごまでかくしてしまった。

「ははは。これはお邪さまたげになりましたか。手本にお用いの画巻は、誰の筆ですな。狩野山楽かのうさんらくにでもお命じになったもので?」

「いや、海北友松かいほうゆうしょう」

「友松ですか。あの仁じんはちか頃どうしておりましょう。とんとこの辺でも消息を聞きませぬが」

「先頃、甲州陣の折、ふと宿所へ訪ねてみえたが、あくる朝、夜もあけぬ間に、また飄然ひょうぜんと立ち去ってしもうた。これはそのとき彼が画いたものだ」

「変り者ですな」

「いや、ひと口に、変り者というては当るまい。志節しせつ一貫、竹のごとく心の直すぐな男だ。武士は捨てても武士らしい人物と思う」

「斎藤龍興たつおきの旧臣と聞いておりますが、その旧主にたいして、今なお節を曲げない点を、お賞ほめあそばすのでございますか」

「安土の御普請ごふしんにあたって、右大臣家からお招きがあっても、彼のみはおことわりして、名利にも権勢にも屈しなかった。何ぞ、亡主の仇あだの障壁しょうへきを画えがかんや――という気概きがいを抱いておるものとみゆる」

そのとき光春の家臣が、何か用ありげに、うしろへ来て坐ったので、二人とも口をつぐんだ。

光春は振り向いて、何か――と取次の者にたずねた。手に一通の書簡と、奉書の嘆願書らしいものを重ねて、当惑顔に、そこへ控えた侍は、

「また御城門まで、横川よかわの和尚の弟子が参りまして、強たって、もう一応、この書面を御城主へ取り次いで欲しいと申し、何と刎はねつけても、命をかけて来たお使いですからといって、立ち帰りません。いかが致したらよろしいものでございましょうか」

と、光春の顔いろを惧おそれながらいった。

「なに。また来たのか」

かろく舌打ちをして、

「先頃も横川の和尚へは、光春みずから返書を与えて、嘆願の趣おもむきは、到底、相かなわぬ儀なれば、無用にいたせと、篤とくと答えてつかわしたのに、その後も、二度三度と、執しつこく書面を持たせて城門まで参るそうな。聞きわけのない法師ではある。――構えて、取り上げるな。何といおうが、突っ返して、追っ払うがよい」

と、いった。

取次の侍は、

「はい。はい」

とのみで、自分が叱られたように、倉皇そうこうと、書面も願書も、そのまま手に持って退さがって行った。

すると、光秀はすぐその後で、こう訊いた。

「横川の和尚とは、叡山の亮信阿闍梨りょうしんあじゃりのことではないか」

「さようでございます」

「すぐる歳とし、元亀二年の秋、叡山えいざん焼打の折には、この光秀も一手の先鋒せんぽうを命ぜられ、山上の根本中堂、山王二十一社、そのほかの霊社仏塔、悉ことごとくを焔ほのおとなし、刃向う僧兵のみか、稚子ちご上人しょうにん、凡下ぼんげ高僧、老幼男女のさべつなく、これを斬って、火に投じ、ふたたびこの深山みやまには、人はおろか、草木の芽も出まじと思わるるほど、掃滅殺戮そうめつさつりくのかぎりを為なし尽したが……もういつしかそこには、また生き残りの法師たちが帰って来て、生きる道を求めておるとみゆるの」

「さればです。人伝ひとづてに聞きますと、山上は依然、荒涼として廃墟のままだそうですが、その後、横川の和尚亮信りょうしんや、宝幢院ほうとういんの詮舜せんしゅんや、止観院しかんいんの全宗ぜんそうや、また正覚院しょうかくいんの豪盛ごうせいとか、日吉ひえの禰宜行丸ねぎぎょうがんなどの硯学せきがくたちが、諸方に散亡さんぼうしていた山徒をよびあつめ、あらゆる手段てだてを尽して、山門復興の運動をしておるようでございます」

「信長公のおられるうちは、まずその実現はむずかしかろうな」

「――と、彼らも知って、多くの力を、堂上の諸卿に向け、主上より綸旨りんじをもって信長に諭さとし給わらんものと、だいぶ烈しい運動を試みたらしゅうございますが、それも勅許になる見込みなく、近頃ではもっぱらただ民力にありとなして、諸国を勧進かんじんし、諸家の門をたたき、山王七社の仮殿の建立をなしつつあるとか聞き及んでおりまする」

「では。……先日から再三、お許もとに使いをよこしておる横川よかわの和尚おしょうの用向きも、何かそれについての嘆願じゃの」

「いえ」

光春は急に眸をあらためて、光秀の面おもてをしずかに見つめた。

「実は、お耳に入れるまでもない儀と、この左馬介さまのすけが独断で刎はねつけておりましたが――そうお訊ねをうけましては、つつみ立てしておるも如何いかが。あらためて申しあげてしまいます。まこと横川の和尚から再三の申入れは、あなた様が当城に御逗留中と知って、ぜひ光秀様に、いちどお目通りさせて欲しいと、この光春を介して、切なる願いを申し入れて来たわけでござりました」

「亮信阿闍梨りょうしんあじゃりが、折り入って、この日向守に会いたいといっておるのか」

「それと、もう一通の嘆願書には、山門復興の勧進に、惟任これとう日向守様の尊名をも、御拝借ねがいたいということでございました。……が、その二つとも、もちろんお肯きき入れはかなわぬにきまっておる儀であると申して、私から固く断っておいた次第でございます」

「それ程、相成らぬ儀と、断っても断っても、なお再三再四、城門へ来て、命をかけてもと使いの僧までが申しおるとは……。不愍ふびんな心根ではある」

「…………」

「左馬介」

「はい」

「勧進の連名に、光秀が名をかしては、安土の君にたいして、畏れあるが、阿闍梨あじゃりに会うてつかわすぐらいは、べつに憚はばかることもあるまいが」

「いや、御無用になされませ。山門焼打に一手の大将をお勤めになったあなた様が、何の必要あって今日、生き残りの法師とお会い遊ばす要がありましょう」

「その節は、敵であったが、いまの叡山は、まったく無力化して、安土に対しても降伏恭順きょうじゅんを誓うておる良民ではないか」

「かたちの上では確かにそうです。しかし伝教でんぎょう以来の宝塔仏舎ぶっしゃを灰燼かいじんとされ、万を数える師弟骨肉を殺戮さつりくされた衆徒や有縁うえんの者どもが、何で、まだ生々しい当年のうらみを、心から忘れておりましょうか」

「さればこそだ……」

光秀は、ほっと大きな息を天井へ吐いて、

「当年、わしもまた、信長公の御命やむなく、その狂炎きょうえんの一ツとなって、山徒の悪僧のみか、無辜むこの老幼僧俗まで無数に刺し殺した。……今日、それを思うと、この胸は、さながら当年の燃ゆる山の如く呵責かしゃくされる」

「つねに仰っしゃる大乗的だいじょうてきなお考えに似げないおことば。叡山えいざんばかりのことではありますまい。興る者、亡ぶ者、春去れば秋の来るように繰りかえしている地上の相すがたです。一殺多生、一山を焼いても、五山百峰の法のりを明らかに照らしめれば、わたくしたち武人の殺さつは、決して敢あえなく無辜むこの命や文化を亡ぼすものでは、決してないはずと存じまする」

「いかにも、その通りだ。それしきの道理を弁わきまえぬ身でもないが、一個の情として、今日の叡山にたいして、わしは一滴の涙を禁じ得ないここちがするのだ。……左馬介。公おおやけの惟任日向守これとうひゅうがのかみとしては憚はばかりあろうが、ひとりの凡人が、御山の址あとを弔とむらう意味でなら何のさしつかえもあるまい。わしは明日、微行しのびでそっと山へ行きたい。そして横川の和尚に一片の布施ふせをして戻りたいと思うが……どうであろう?」

昼ひるほととぎす

その夜、光春は、眠りについてからも、独り思い煩わずらった。

(何であのように、叡山えいざんの者に御執心を持たるるか)

と、光秀の心事を疑い、また明日は微行しのびで山へ登りたいという光秀のいぶかしい思い立ちに対して、

(飽くまでお止めすべきか。それとも、御意ぎょいにまかせておいたがよいか)

と、夜もすがら、とつこうつ、思案していたものであった。

(山門再興のことなどには、今のお身として、一切触れないに限るし、横川の和尚とお会いあるなどは、なおさらよろしくないことだ)

とは、彼の胸だけには、はっきり考えを決めていたが、なぜか光秀は、光春が独断で、亮信阿闍梨りょうしんあじゃりの使いを拒んでいたことにも、山徒の嘆願書を突っ返したことについても、余りよろこばない顔いろであったのみか、根本的に光春の処置とは喰いあわない考え方を抱いているらしく思われた。

(今の叡山を対象に、いったい何事を胸に夢みておらるるのか?)

そこに光春は多分な不安と疑惑を抱いた。明らかにこれは反信長行為と誹そしられる好材料になろう。しかも中国陣への発向を前にして何の必要もない道くさでもある。

(止とめよう。なんと仰せられても、お止めしよう)

そうきめて、彼は瞼まぶたをとじた。面おもてを冒おかして諫止かんしするからには、多少、光秀から気まずい激語をうけようとも、いかに立腹されようとも、断乎だんことして、その袂たもとを抑えきろう。――そう決心して眠りに入ったのであった。

ところが。

翌あくる朝は常より早目に起きたにもかかわらず、彼がうがい手洗ちょうずをつかっていると、もうどかどかと早暁そうぎょうの大廊下から玄関へと、人の跫音あしおとがながれてゆく気配であった。光春は侍をよびたてて、早口にたずねた。

「いま、誰が出て行ったのか」

「日向守様でいらっしゃいます」

「なに、光秀様が」

「はい。山支度の軽いお身装みなりで、天野源右衛門どのただひとりをお供に召され、日吉ひえの下までは馬で飛ばさんと、お語らい遊ばしながら、いまお玄関で草鞋わらじを召していらせられます」

「さては、夜の明けぬ間に、はやお支度であったか」

彼は、どんな朝でも、欠いたことのない神前の朝拝と、仏間の称名しょうみょうとを、この朝に限って、怠ってしまった。

倉皇そうこう、室にもどるやいな、衣服大小を身に正して、大玄関まで駈けて行った。

――が、すでに光秀主従は、そこを立ち出てしまったあとで、見送りに出た数名の側臣たちが、朝の顔をそろえて、

「梅雨つゆもここらで霽あがりであろう」

と、大廂おおびさしからすぐ仰げる四明しめいヶ嶽だけの白雲を仰ぎ合っているところであった。

城外の松原はまだ明けきれぬ朝霧に湖うみの底そこでも行くようであった。

人をのせた二頭の馬が、その中を軽い脚さばきで駈けぬけてゆく。鵜うか、烏か、二騎をかすめて大きく翼を搏うった。

「源右。日和ひよりはたしかだの」

「このぶんならば、山もかならず晴れておりましょう」

「久しぶり気も清々すがすがしい」

「御気分をお麗うるわしゅうするだけでも、きょうの山詣やまもうでは、無意味ではございません」

「なによりは、横川の和尚に会うてつかわしたい。それだけだ、光秀の用向きは」

「こちらからわざわざ山上へお越しあっては、さぞかし恐懼きょうくいたしましょう」

「坂本城へ招いては、やはり人目がうるさい。山上人なき所で、極く密ひそかに、会うのが望みじゃ。源右衛門、そちがよいように計らえよ」

「人目は山よりも麓ふもとにありましょう。惟任これとう日向守様がお登りになったなどと、里人のうわさにかかっては面白くありません。日吉あたりまでは、ひたすらそのお頭巾ずきんを眉深まぶかにしておいで遊ばしませ」

「かようにか」

と、光秀は、顔から頭に巻いている布きれを一そう深くつつみなおして、ほんの眉と唇元くちもとだけを見せて振り向いた。

「身装みなりはお粗末、鞍もただの武者用に過ぎない物。これなれば誰が仰いでも、惟任光秀様とは思いも寄りますまい」

「源右、そちも怠るな。余り慇懃いんぎんに侍かしずきおると、それだけでも怪しまれようぞ」

「ははは。いかにも、そこまでは気がつきませんでした。これからは無造作にいたしまする。無礼をお咎とがめ下さいますな」

つい両三年ほど前からやっと仮屋普請ぶしんの軒並みが建ち始めて、やや旧観の坂本宿を復活して来たばかりの街道を駈けぬけて、延暦寺道えんりゃくじみちの登りに向いかけた頃、ようやくうしろの湖水に、朝の陽ひが耀かがやきはじめた。

「途中、乗りすてたお馬は、いかが致しておきましょう」

「日吉神社のあたりには、仮御社かりみやしろも建ちかけておるという。その辺りには、農家もあろう。さなくば、日吉における工匠たくみにでも預けて参ればよろしかろう」

「や……。たれか後ろの方で呼ぶ声がいたしはしませぬか」

「追うて来た者があるとすれば、それはかならず左馬介さまのすけ光春であろう。光春はきのうわしの微行しのびを止めたい顔しておった」

「温順誠実、稀に見るお人でござります。武人には優し過ぎる程な」

「……お、見よ源右。やはり左馬介じゃ。麓のほうからただ一人して駒を追いあげて参る」

「あの御容子ごようすでは、なお強たってでも、殿をお止め申すつもりかも知れませんが、はや、これまでお出ましあった上は……」

「もとより彼が何と申そうと、引っ返す心はない……。いや、恐らく彼はもう止めまい。止めるくらいなら城門でわしの轡くつわをつかもう。あれ見い、左馬介も山支度をして参った。光秀とともに、きょう半日を山巡やまめぐりなとせんものと、思い直して追いかけて来たにちがいない」

光春の心を覚さとるもの光秀ほどな者はなく、また光秀の心を知るもの光春ほどな者は世にない。

――果たして、その左馬介光春は、もうここへ来る前に、強しいて光秀に逆らうよりは、共に一日を山で送って、彼に大過なきように側にいて努めるに如しかず――と、思い直して来たものだった。

で、駒を近づけて来たときから、極めて明るい面おもてを見せて、

「お早い、お早い。何というお早いことです。今朝ばかりは、左馬介も不意をうけて、尠すくなからずあわてました。……こう早暁にお登りとは思いませんでしたので」

「いやいや、左馬介。お許もとを供に連れ参ろうとは、光秀も思うていなかったのじゃ。そのように追って来るほどならば、前夜に約しておいたものを」

「それがしが不覚でした。たとえお微行しのびにせよ、従者の十騎くらいは具され、茶や弁当の用意なども持たせて、悠々ゆうゆうお出ましのものとのみ独り合点しておりましたために」

「は、は、は。つねの遊山なれば、そうありたいが、きょうの山詣やまもうでは、飽くまで往年の業火ごうかのあとを弔い、無数の白骨に一片の回向えこうをもせばやと思う菩提ぼだいの心にほかならない。――酒壺珍味しゅこちんみをさげて登ってはすむまいが」

主人の光秀がそういう横顔を、天野源右衛門はつよい眸ひとみで見つめていた。左馬介はそのことばを少しも疑わない様子で、

「きのうは何かとお気にさわるような儀を申し上げたかもしれませんが、それがしは生来の小心者とて、この際、ただただ安土への聞えの悪あしからぬようにと希ねがう余りに申し上げたまでに過ぎません。かく御軽装にて、ふと菩提ぼだいのお心が、山へお運びを促うながしたものとあれば、たとえ信長公のお耳へ入ろうと、よも深いお咎とがめはございますまい。実はこの光春も、つい坂本の近くに在城いたしながら、まだいちどもその後の山上を見ておりませぬ。きょうはお供をいたしながら、諸所一見できるのも、時あっての倖しあわせとぞんじまして、後をお慕いして来ました。源右どの、さあお先へお立ちなさい」

と、駒をうながした。

そして光春は、光秀と馬首をならべて、彼の心を飽かしめないように、道々に見える草の花を説いたり、新樹のみどりの鮮やかさを語ったり、数々の鳥の音を聞きわけて鳥の習性を話してみたり、あたかも楽しまない病人の機嫌をとる婦人のように、細やかな心づかいを傾けていた。

「そうか。……むむ。……いかにもな」

光秀もその真情にたいしては、膠にべない顔はできなかったが、左馬介の語ることのほとんどが自然の風物であり人事以外のことだった。光秀の心にはどうしても染まって来ないものばかりだった。光秀とても決して自然の美や雅懐がかいを解さないものではなかったが、いかにせん彼の心はなお寝ても起きても絵筆を持ってみても、人と人との葛藤かっとうの中にあった。修羅相剋しゅらそうこくの人間社会にあった。瞋恚怨念しんいおんねんの炎の裡うちにあった。昼時鳥ひるほととぎすの啼きぬくこの山道にかかっても、彼のこめかみは、安土退去以来の血が太くつきあげたまま、いまなお決して鎮しずまってはいないのであった。

薬狩くすりがり

ひとたび、本能寺の濠ほりに、狂兵の矢石しせきが飛び、叛逆はんぎゃくの猛炎が、一夜の空を焦こがしてから後には――世人はあげて今さらのように、事前の光秀のこころを――その変心の時と動機を、いろいろに揣摩臆測しまおくそくしあった。

或る者は、

(彼の逆心はもう長年のものだ)

と云い、また或る者は、

(いや、安土を退去して、亀山城に帰国してからだ)

と、例証れいしょうをひいて説き、またもっと穿うがった者は、

(亀山に帰国してからの一夜、愛宕あたごの社に参籠さんろうして、神鬮みくじを引いたそのときに、むらむらとわいた出来心だ。その証拠にはその夜から彼の態度というものが変っている。当夜、連歌師れんがしの紹巴じょうはなどを交まじえて百韻ひゃくいんを催した席でも、

時はいま天あめが下知る五月さつきかな

と大胆に胸中のものを吐いているし、またその晩は同室に寝た紹巴にたびたび起されているほど夜どおし魘うなされていたということを見ても、彼の大それた逆心がこの日から胸に醸かもされたものだということができる)

とも縷々詳説るるしょうせつしている。

どれもこれも、その解釈するところを聞けば、なるほどと頷うなずける説ばかりである。では、それらのうちのどれか一説が真に光秀の本心とその変化を云いあてたものかといえば、これまた一概にそうだと決定し得ない理由も他ほかにないことはない。

およそ深秘しんぴなものは人のこころのうごきである。あの聡明と年配の分別をもちながら、敢えて晩節の生涯を逆賊の名に堕し去るの盲挙もうきょをなさしめたその原因が何であったか? ――という謎と同様に、彼の変心が、いつの日いかなる時にということは、おそらく彼の胸にとり憑ついた魔もの以外にそれを知ることは困難だといってよかろう。

けれど、今日までの史家が、史証だけを頼って推定した以上幾つかの時機において、彼が逆心を抱いたとなすのは、なお軽率をまぬがれない。

なぜならば光秀の心境にとっては最も重視されなければならない安土退去の五月十七日の夜から、坂本滞留中の五月二十六日までの十日間というものは、従来、全く史家にも閑却かんきゃくされているからである。

光秀の叛逆はんぎゃくがまったくの暴挙で、長年にわたる計画の下もとに行われたものでないことは、前夜の事情と、作戦の踏襲とうしゅうによってこれだけは明確に断言してよい。

――とすれば、彼の胸に、魔が憑ついたのは、まさに安土退去の後だ。そのときの衝動こそ、彼の一代の修養も理性も微塵みじんとなって去喪きょそうしていたものにちがいない。――帰国途上の坂本の城に逗留とうりゅう十日という空間は――かくして光秀の心理にとっては、朝に夕に、一刻一刻に魔となっては人に回かえり、菩提ぼだいとなりまた羅刹らせつとなり、正邪ふた道の岐路に、右せんか左せんかと夜も日も懊悩おうのうしつづけていたものに間違いはないであろう。

いま、彼はその一日を、叡山えいざんへ登って行った。もちろんこの間といえ、彼の心は、寸時も一道に安まってはいなかった。行けども行けども、迷いの岐路を見くらべていた。

かつてこの山の盛時を思うと、何という寂寥せきりょうさであろう。権現川ごんげんがわにそい、東塔坂とうとうざかをのぼって行くあいだも、ほとんど、人らしいものには行き会わなかった。

変らないのは、鳥の音ばかりである。ここは古くから百鳥ももどりの仙境といわれているほどなので、慈悲心鳥じひしんちょうの声もする、仏法僧ぶっぽうそうも稀れに聴かれる。耳をすませば瑠璃鳥るりちょう、深山頬白みやまほおじろ、くろつぐみ、駒どり、ひよどり、また昼時鳥ひるほととぎすまでが、谺こだまするばかり啼なき交かわしているのだった。

「ひとりの僧も見えぬ」

文殊堂もんじゅどうの址あとに立ったとき、光秀は憮然ぶぜんとしてつぶやいた。今さらのように、信長の威と、その武力による駆逐くちくの徹底に、愕おどろいたかのような顔いろであった。

「左馬介」

「おつかれでございましょうに」

「なんの。……どうしたものだ。この山上にも、さらに人影はないではないか。中堂のほうへ参ってみよう」

なぜか少なからず失望した様子である。彼としては、いかに信長の表面的な制圧せいあつがあっても、山徒の潜勢力は、もっと目にも見える復興を山上に現わしているものと思っていたらしいのである。

だが、やがて中堂の焼け跡、また大講堂や山王院や浄土院のあたりを経巡へめぐってみても、そこにはかつての堆うずたかい焦土がそのままあるだけであった。ただ学寮附近に、山小屋にひとしい幾棟かが建っていて、香煙のにおいもするので、天野源右衛門をして内を窺うかがわせてみたが、四、五の山僧が炉の粥鍋かゆなべをかこんでいるだけで、

「たずねてみましても、横川よかわの亮信阿闍梨りょうしんあじゃりは、これにおらぬ由でございます」

と、いうことであった。

「横川の和尚が不在なれば、たれか以前の碩学せきがくとか長老とかはおらんのか」

ふたたび、光秀はそういって、問わせてみたが、源右衛門の伝えて来た返辞には、

「さるお方は、ひとりも山にはおらないそうでございます。山上へまかるにも、いちいち京都詰づめのお奉行か、安土のおゆるしを得ねば許されず、また山上の常住は、限られた平僧と堂衆のほかは、今なおお認めなき掟おきてとやらで」

それを光秀は聞きながして、

「いや、掟は掟であるが、宗門の熱意というものは、水をかけたら消える火のようなものでは決してない。思うに、われらをやはり安土の武士と見、かたく秘しておるのであろう。横川の和尚はじめ生き残りの長老たちは、いまなお山上のどこかに住んで、平常は人目を避けておるものにちがいない。……決して左様な心配のあるものではないとよく諭さとして、もういちど訊ねて来い」

「はい」

源右衛門が行きかけると、左馬介はそれを止めて、

「わしが参ろう。源右のいかつい問いかたでは、山僧どもが、よう物を申すまい。――光春が参ってねんごろに問うてみまする」

ことばの半分は、光秀へ向って告げ、光秀のうなずきを見ると、彼は小屋のほうへ歩き出した。

ところが、その光春のもどりを待っているあいだに、光秀は、会おうともせぬ人物に、はからずもここで会ってしまった。

鶯茶うぐいすちゃの投げ頭巾ずきんに、同じ色の道服を着、白脚絆しろきゃはんのわらじを穿はいている。

年は七十をこえているが、唇くちは少年の如く紅あかく、眉は白雪、さながら鶴に道服を着せたような老人であった。

ふたりの下僕しもべと、ひとりの童子をつれ、四人づれで今、四明しめいヶ嶽だけの谷道から上って来たのであるが、ふと光秀のすがたを見かけると、

「おう、日向ひゅうがどのではないか」

と、一目してその人とすぐ知ったらしく、供の者をうしろへおいて、無造作に側へ来て話しかけた。

「お久しいことでおざった。やれやれ、これはまた、思いがけぬ所で、思わぬお方にお会いするものではある。安土においでて、寸暇すんかもなくお勤めと伺っていましたが、きょうはまた、どうしたお序ついでで、かかる無人の山中へわたらせられたか」

老齢に似もやらず、非常によく透る音声おんじょうの持主である。そして白い眉もその唇くちもとも、屈托くったくなくたえず微笑をたたえている。

それにひきかえて光秀は少なからず狼狽ろうばいの容子ようすであった。この明るい老人の眉には、眩まぶしいような眼をさまよわせて、その答えも平常の彼とも思えないほど紊みだれていた。

「や。どなたかと存じたら……曲直瀬まなせ殿か。なんの光秀とて、徒然つれづれの日もおざる。数日来、坂本の城に滞在中とて、山でも少し渉わたりあるいたら、梅雨つゆじめりの鬱気うっきも少し散じようかと思うて」

「稀に、大岳たいがくを踏んで、自然に接し、気を洗うのは、何よりの心養、またおからだの薬です。……お見うけするところ、ひと頃よりは、心身ともおつかれの体ていに見うけられる。病やまいのため、お暇いとまを乞うて、御帰国の途中でもあらせらるるか」

針のように眼を細めていう。なぜかこの眼の前には欺あざむけないものを感じさせられる。曲直瀬道三まなせどうさん、名は正盛まさもり、字あざなは一渓いっけい。当代かくれのない名医であった。

足利義輝よしてるがまだ室町将軍として健在であった頃から、すでに医として、道三の名は洛内らくないに高く、その寵遇もうすくなかった。管領かんりょうの細川も松永弾正だんじょうも三好修理しゅりも、みな彼の手にかかっていたものだし、わけて禁中の御信任もあつく、余暇を施薬院せやくいんの業に尽し、また後輩のために学舎を設け、高齢七十余歳というになお少しも倦うむところがない。

ここ久しく会わなかったが、光秀はこの大医と、安土の城内でいくたびか同席したことがある。そのうち二度ほどは茶席であった。信長は、茶の相手にもよく彼を招いたが、病気といえばすぐ、

(道三を呼べ)

と、いうのが寝つくよりも先で、常に左右にいる典医てんいよりも、彼への信頼のほうがはるかに篤あついようであった。

けれど道三は由来、権者に召し抱えられるのは好まない質たちだし、住居は京都にあるので、そのたびごとに安土まで通うのは、いくら丈夫といってもなかなか有難迷惑のようであった。

光春は小屋まで行かずに戻って来た。急に天野源右衛門が呼び返しに来たからである。

源右衛門は小声で、

「どうも、まずいお人に出会うてしまいました」

と、歩みながら囁ささやいたが、光春はやがて曲直瀬道三まなせどうさんのすがたを見て近づくと、むしろ僥倖ぎょうこうのように、

「これはおめずらしい。一渓いっけい老ではありませんか。いつも壮者をしのぐばかりなお元気。きょうは京都からお登りでしたか。何か、御遊山のお連れとでも?」

などと日頃の親しみを示して、光秀との話の仲へ立ち交じった。

はなし好きな道三は、この山上に思わぬ知己を拾って、いとど愉快そうに、

「春から夏の四、五月。秋の末の九、十月頃には、毎年こうして、山登りを欠かしたことがない。この峰谷谷には、本草のなかでも貴重な薬種が勿体ないほどたくさんあるのでな」

と、遠くにひかえている供の一人をさし招いて、携たずさえている籠の内から、

「これは、山うずら。これは、あけぼの草。これは、錦にしきごろも。これは、菊ごけ。これは、なるこ百合ゆり……」

と、採取した百合科ゆりかや龍胆科りんどうかや蘭科らんか植物などの薬草を種々くさぐさそこへ取り出して、その医効を説明したり、また本草の由来を聞かせたりして、

「信長公は何事にも、新しいもの好きでいらっしゃるし、わけて海外文明には、鋭感なお方なので、安土の南蛮学校にいる紅毛人の医師に命ぜられて、伊吹山いぶきやまのふもとに、薬園をもうけられ、西洋薬草を七、八十種も植えおかれておらるるが、何もそうまでせんでも、この叡山えいざんだけでもまだわれらの眼に見出されぬ深秘しんぴの薬種がどれほどあるかわからない。かつてこの山の聖ひじりが、眼にふれた千種ちぐさの薬を百首の歌に詠よみ入れた『天台採薬歌てんだいさいやっか』という冊子さっしが中堂に所蔵されていたと聞いたことがあるので、ぜひ一覧したいものと思うていたが、そのうちにあの元亀二年の兵燹へいせんで、かくの如くみな焦土しょうどとなってしもうた。……かえすがえすもその『天台採薬歌』を見ずにしまったことだけは、今もって残り惜しい気がしてならぬ」

と、語り来って語り飽きない道三であったが、ただ終始沈黙がちであるばかりか、はなしの間にも、どこかに空虚うつろの窺うかがえる光秀の容子ようすにだけは、彼も時折気にかかってならないらしく、その横顔へ、しばしば医家らしい眼をそそいでいる。

で、話題はまた、いつか光秀の健康に及んで来て、

「光春殿から伺えば、日向ひゅうが殿には、近日、中国へ御出陣とのこと。よほどお体を大事にお保ちあるように。人間五十をこえると、いかにお丈夫でも、自然の生理は否いなみ難がたく、いろいろな変革が体に起る大機でもありますからな……」

と、ことば以上、憂いをふくめて、くれぐれも注意した。

「そうでしょうか」

光秀は、強しいて一笑に附しながら、道三の注意へ他人事ひとごとのように答えた。

「先頃、かろい風邪かぜ気味ではありましたが、生来強健のほうでべつにこれという病やまいも覚えませんが」

「いや、そうもいえない」

道三は、自家の医学と体験の権威をもって、それを否定した。

「病やまいを病と自覚している病人はつねに意を用いているからまだよいが、あなたのように無病を過信していると、まま大きな過ちに陥おちいる。充分お気をつけなさい」

「では、どこが光秀の宿痾しゅくあであろうか」

「お顔の色を見、お声を聞いただけでも、尋常な御容態でないことはすぐわかる。どこといえる宿痾しゅくあならまだしも、おそらく五臓すべてにお労つかれが来ているのではあるまいか」

「労れがあろうと仰せなれば、それは自身でも頷うなずけます。年来の転戦、君側の勤め。いやもう、無理に無理を押して来た体ですからな」

「日向殿の如き知識の人へ、こういうのは釈迦しゃかに説法せっぽうであろうが、よくよく御養生あるがよろしい。肝かん、心しん、脾ひ、肺はい、腎じんの五臓は、五志、五気、五声にあらわれて、色にも出いで、ことばにも隠せぬものでおざる。たとえば、肝を病めば、涙多く、心をやぶれば、恟々きょうきょうとしてものに恐れ、脾ひをわずらえば、事ごとに怒りを生じやすく、肺の虚きょするときは憂悶ゆうもんを抱いて、これを解げす力を失う。また腎じん弱まれば、よく歓び、即座にまた悲しむ。……」

じっと、道三は、光秀の顔色を見つめた。病人でないことを自信して光秀は、その言を聞こうとは思わなかった。強しいて微笑に紛まぎらわせていようとすると、不快になり不安になり、理由なき焦躁しょうそうに駆られてくる。で、努めて答えずに、この老人とはやく別れる機会を見つけたいような面持おももちであった。

しかし曲直瀬道三は、自身がいおうとすることを、決して途中で云いい濁にごすようなことはなかった。そうした光秀のひとみや気色を覚さとりながらも、なお話をつづけて、切言した。

「あなたにお会いしたときから気にかかったのは、あなたの皮膚の相色そうしきであった。何を憂い、何を恐れておらるるか。――しかもお眼は怒脈どみゃくをひそめ、匹夫ひっぷのごとき怒りと、婦人のような涙とを、一眼のうちにたたえておられる。――夜、手足の爪まで凍こごえるような冷えをお覚えなさらぬか。しかも耳は鳴り、唾液だえきは渇かわき、口中に棘いばらを咬かむようなお心地はあらせられぬか」

「まま眠りかねる夜もありましたが、昨夜はよく寝やすみました。何くれとなくお心づけ、辱かたじけのうござった。出陣の後も、何か薬餌やくじを摂とりましょう」

と、光秀はこれを機しおに、左馬介や源右衛門を顧みて、参ろうかと道を促うながしながら、また、

「そのうちに改めて使いをつかわしますゆえ、何ぞ、持薬をお授けください。いや、途上まことに失礼いたした」

と、のがれるように先へ別れて行った。

白河越しらかわごえ

この日、明智の家中進士しんし作左衛門は、一小隊の従者をつれて、遅おくれ走ばせに、安土あづちから坂本城へ引き揚げて来た。

主人光秀の退去が、事遽にわかであったため、あとに残って、残務の整理や邸の始末をすまして来たものである。

待ちもうけていたように、彼が旅装を解くやいな、一室に彼を囲んで、妻木主計つまきかずえ、藤田伝五、並河掃部なみかわかもん、四方田政孝しほうでんまさたか、三宅藤兵衛、村上和泉守などの人々が、

「あとの情勢はどうか」

「御退去のあと、安土では、どんな噂が交わされておるか」

などと膝つめよせて訊ねた。

作左衛門は切歯せっしして云った。

「過ぐる十七日の御退去以来、きょう二十五日まで、わずか八日の間だったが、明智家の禄ろくを喰はむ身にとっては、針の莚むしろに三年もすわっているような辛抱だった。――あのあと俄にわかにがらんとした饗応きょうおう屋敷の門外を通ってゆく安土の小身どもや町の者までが声高に――これが日向ひゅうが殿の空屋敷か、道理で腐った魚のにおいがする、こう不首尾とけちが続いては、もうきんか頭の光もここらで萎しぼむであろうなどと憚はばからぬ雑言ぞうごんが、耳をふさいでも、朝夕に聞えて来るしのう……」

「それほど御不評か」

「安土の膝下ひざもとに生きておる輩やからじゃ、たれひとり信長公の処置を、無理とも悪いともいう者はない。一に殿への誹謗ひぼうばかりだ」

「上層の面々には多少ものの分った人もあろう。そういう方面のうわさはどうか」

「いや、以後の数日は、ただもう大賓の徳川殿をもてなすことで、安土城内は持ちきっている。その徳川殿にも、急に饗応きょうおうの奉行がかわったので、不審に思われたか、信長公にむかい――明智どのの姿が見えぬがどう召されたか――と訊ねられたそうじゃ。すると信長公は、事もなげに、あれは国許くにもとへ帰したと、眼のうちにも入れてないような御返辞であったという」

「…………」

聞く者はみな唇くちを噛んだ。進士作左衛門はなお語をつづけて、安土の重臣間には、主人光秀の失意をむしろ快となす空気が多分にあること。また信長自身の胸にも、ふたたび昔日せきじつの寵遇はわが主人にないばかりか、明智家の領地までを、他の僻地へきちへ移封いほうさせるお心がないとも断じきれないものがある。

これも噂には止まるが、火のない所に煙は立たない。安土の奏者そうしゃ森蘭丸が、往年この坂本で戦死した森三左衛門の次男であるところから、ひそかに現在の美濃の領からこの坂本へ領地がえになりたい希望を抱いているし、すでに信長公からその黙約をうけているという沙汰すらある。

で、このたびの山陰道への出軍令は、主人光秀に、その地方を攻め取らせて、現地の山陰にそのまま明智家を封じ、後あらためて坂本附近の――地理的にも安土のすぐ側にある――この要地は蘭丸へ下されるものではないかと観察している者も決して尠なくない。

「その証拠には」

と作左衛門は、この十九日に信長から明智家に伝達された軍令状を例にひいて、さらに眦まなじりを裂いた。

進士しんし作左衛門が云い出すまでもなく、この十九日附け発令で、安土から明智家に手交しゅこうされた軍令状というものは、光秀のみならず全家中をして、憤怒ふんぬせしめたものだった。

いまその全文を見るならば、

この度、備中の国へ、後詰ごづめのため、近日、彼国かのくにに出馬あるべきに依り、先手の各〻、我に先だって戦場にいたり、羽柴筑前守の指図を相待つ可べき者也。

池田惣三郎殿 同紀伊守殿 同三右衛門殿 堀久太郎殿 惟任日向守これとうひゅうがのかみ殿 細川刑部大輔ぎょうぶたゆう殿 中川瀬兵衛殿 高山右近殿 安部仁右衛門殿 塩川伯耆守ほうきのかみ殿

天正十年五月十九日

信長判はん

とある。

かりそめにも軍令状に過ちのあるはずはない。また祐筆ゆうひつなどの私情によって左右されるわけも絶対にない。信長公のさしずであり、故意なること明白であると、明智家の将士は、この廻状に接したとき、悲憤、怒涙をしぼって、

(御当家は当然、池田や堀などの上位であって、羽柴、柴田と同格に扱わるるのが、従来の慣ならいであった。――だのに、それらの諸将の下に、主君のお名を記し、あまつさえ秀吉の指揮をうけよというに至っては、武門に加えられる侮辱ぶじょくの最大なるものだ。饗応役褫奪ちだつの恥を、軍令状の中にまで及ぼし、明智家の不面目を戦陣にまで曝さらさるる苛酷かこくなお仕打というしかない)

と、恨み合ったものである。

進士作左衛門は、このことが、やはり安土一般の人士にも、相当注意されているらしいと、自己の観察をつけ加えて、

「必定ひつじょう、領土がえが行われて、この坂本四郡は、やがて蘭丸へ下される思し召しであろうなどという風説の出所でどころも、軍令状の表に示された格下げの御意志を、みなが敏感に読みとって、沙汰し廻るものと考えられる。……何しても、心外千万なことだ。無念というも云い足りぬ」

語り終っても彼はなお幾たびも、膝にかためている拳こぶしを眼へやっては、暗然と、鳥肌のようになった面おもてをそむけていた。

折ふし黄昏たそがれていたので、各〻の居ずまいと壁を繞めぐって夕闇がふかくたちこめ、その後は、たれひとり口をきく者もなく、ただ頬をつたう涙ばかりが白く見えたが、このとき大廊たいろうにあたって侍たちの跫音あしおとが聞えたので、さては、殿のお帰りと、人々はあらそって出迎えに出てしまった。

ひとり進士作左衛門だけは、召しのあるまで、旅装も解かずにひかえていた。終日、山を歩いて戻った光秀は、風呂に入り、夜食をとってから、作左衛門を招いた。

席には、左馬介さまのすけしかいなかった。作左衛門はこのとき初めて、まだ家中には誰にも洩らしていない報告を一つつけ加えた。

それは、信長が、いよいよ月の末二十九日に、安土を発向、京都に一泊して、直ちに西下するという日取の決定や準備の聞き込みであった。

きょうはすでに二十五日。

この二十九日には、信長が安土を立つと聞いては、光秀もさすがに、ここ七日間の逗留とうりゅうを顧みて、心をせかれずにはいられなかった。

「して、安土御本城のお留守居衆などの顔ぶれも決まったようか」

作左衛門はそれに答えて、

「お留守には津田源十郎どの、加藤兵庫どの、蒲生がもう右兵衛大輔たゆうどの、野々村又右衛門どの、丸毛兵庫守まるもひょうごのかみどのなど、御本丸守り、二の丸詰の方々まで、数十将におさしずあらせられたように承りました」

聞き入る光秀の耳はその眸とともに、彼の聡明と観察の叡智えいちを象徴しょうちょうしていた。作左の一語一語にうなずきを与えながら、

「また、御発向のお供には」

と、たずねた。

「誰々と、いちいち審つまびらかには聞き及びませんが、左右の御近臣数名と、お小姓衆三、四十人ほどお召し連れとのみ伺いましたが」

「なに、ただ四、五十名の軽装で御上洛とか」

信長の発向としては余りに軽々しい。むしろ疑うべきだと、思い惑まどったものか、光秀のひとみはそのせつなに、燭を横に見ながら、熒けいとして妖あやしくかがやいた。

光春は一語も吐かずにひかえていたが、光秀がそれきり沈黙をつづけているので、進士作左衛門に向って――

「退さがって、旅装を解き、夜食なとすましたがよかろう」

と、ねぎらった。

あとは光春と光秀のふたりとなった。自己の分身も同様なこの骨肉にたいして、光秀は何やら心を割って語りたいような素振そぶりでもあったが、とかく光春のことばは光秀にそれを吐かしめないのみか、切に、一刻もはやく中国へ出陣して、これ以上信長公の忌諱ききに触れることのないようにと、一にも信長、二にも信長と、ただ服従と奉公一念をすすめる以外にないのであった。

この正道一義な従兄弟いとこの性格は光秀としても四十年来、たのみがいある男よと、力にもし、愛して来た性情である。いまとてもそうした光春なればこそ、

(わが一族中の随一の者)

と信頼しているのだった。

だから、彼のそうした態度に対しては、いかに内心自分のいまの気もちにそぐわぬものであっても、光秀はそれに怒ることも圧伏を加えることもできなかった。沈々と黙し合うことややしばしの後、光秀は唐突に、

「そうだ、こよいのうちにも、先発を出して、亀山の家中の者どもに、はや陣用意を触れさせておこう。左馬介、計はかろうておくりゃれ」

と、云い出した。

光春はよろこんで立った。

その夜たちまち並河掃部なみかわかもん、村上和泉守、妻木主計かずえ、藤田伝五などの将は、一部隊をひきいて、亀山城へいそいで行った。

四更しこうの頃、むくと、光秀は刎はね起きて、臥床ふしどのうえに坐っていた。

夢でも見たのか。

或いは、なにかまた、否と思い直してしまったものか。しばらくすると、ふたたび衾ふすまを被かずいで、枕に顔を埋め、努めて眠ろうとしているもののようであった。

霧か、雨か。

湖の波騒なみさいか、四明颪しめいおろしか。

夜もすがら大殿の廂ひさしを繞めぐる嵐気らんきが絶えない。枕頭の燭は、風もないのに、ものの気に揺れ、光秀の閉じている瞼まぶたのうえにゆらゆら明滅を投げかける。

光秀は寝返りを打った。みじか夜のこの頃とはいえ、彼にはなかなか明けるに遅い夜々であった。――がようやく、そのまま寝息に入ったかに思われたが、ふとまた夜具を掻かい退のけて、がばと半身を起し、

「於香おこう。於香はいるか」

と小姓部屋へ呼びたてた。

遠くのふすまが辷すべる。宿直とのいの山田香之進が音もなく入って来て平伏した。光秀は一言、

「又兵衛にすぐ来いと申せ」

いいつけるとそのまま、独り沈吟ちんぎんしていた。

さむらい部屋の者は、みな眠ってはいたが、同僚の一隊は宵のうちにもう亀山へ立ったし、主人光秀もつづいていつ出発を触れ出すやも知れないしする気持から、家臣はみな常ならぬ緊張を抱いて、各〻、旅装を枕許まくらもとへおいて横になっていた。

「お召しでございますか」

四方田しほうでん又兵衛はすぐ見えた。これは屈強な若者であり、四方田政孝の甥おいでもあるので、光秀が眼をかけていた侍である。――もっと近くへ寄れと、眼まなざしでよびよせてから、光秀は声をひそめて何事かいいつけていた。

はからずも光秀から直接に機密な命をうけた若者は、異様な感激を満面に示して、

「行って参ります」

と、主君の信頼に、身をもってこたえた。

その若さを、頼もしくも、気遣きづかいにも思うように、

「夜の明けぬまに早く行け。明智の士というと、人目が多いぞ。不つつかをすな、ぬかるな」

――又兵衛の退がった後も、なお夜の白らむには間があった。光秀がほんとに眠りついたのは、それからであったらしい。

いつになく彼は日の三竿さんかんにいたるまで寝所から出て来なかった。亀山への出発はおそらく今日と察して、それも早朝に触れ出されるであろうと待機していた家臣たちには、主君のこの常ならぬ朝寝坊がひどく意外なようであった。

「きのうは終日ひねもす、山をあるき、昨夜は近来になく熟睡した。そのせいか、きょうは寔まことに気分がよい。風邪かぜも本格的に癒なおったとみえる」

午ひるごろ、光秀のうるわしい声が広間に聞えていた。家臣たちの間にはそれを自分たちの健康のように歓びあう容子ようすが漂ただよっていた。そして間もなく側臣からこういう令が伝えられて来た。

――こよい酉とりの下刻、当所を御出立、白河越え、洛北らくほくを経へ、亀山へ御帰国被遊あそばさる。御用意とどこおりなきように。

亀山へ供して行く将士の同勢は三千に余った。夕べ迫ると、光秀も旅装をととのえて、本丸の広間に臨み、この日にかぎって、光春の家族たちと一緒に晩の食事をした。

「お門かど立ちの祝ことほぎにと、奥方や老人どもが、いささか、丹精たんせいこらした膳部です。何もございませぬが、彼らの心根を召し上がっていただければ、どんなに歓ぶかわかりませぬ」

と、左馬介さまのすけ光春からいわれたので、光秀も、その心を酌くんで、

「中国へ出陣すれば、またいつの日帰るとも知れぬ。では久しぶりに御内方おうちかたと共にいただこうか」

と望んだところから、出立を間際にして、急にこういう団欒だんらんになったのであった。

光春の夫人は、妻木主計かずえのむすめである。光秀の家庭は子沢山で有名なものだが、光春と夫人の妻木氏のあいだには、八歳になる乙寿丸おとじゅまるしかない。

老人としては、叔父の長閑斎光廉ちょうかんさいみつかどがいる。洒落しゃらくな老人で、ことし六十七になるが、病やまいも知らず、冗談ばかりいって、いまも乙寿丸をそばに置いてからかっていた。

この気さくな老人のみは、始終、にこにこしていて、明智一族の今ぶつかっている暗礁あんしょうも知らず、春の海をゆく船に老いの余生を託しきって、しかも安心しぬいているような姿なのである。

「賑やかで、もうわが家へ帰ったようなここちがする。老人、この杯を、光忠にやってくれ」

光秀は、二、三献こんすごしたそれを、手近な光廉入道にわたすと、光廉はそれを、傍らにいる甥おいの明智次右衛門光忠にわたした。

光忠は八上の城主で、きょうここへ会したばかりである。三人従兄弟いとこのうちではいちばん年下であった。

「ありがたく戴きました」

光秀の前へ進んで、光忠は杯を返した。光春の夫人が銚子ちょうしを持って注ついだ。そのとき、光秀の手がびくりと震えた。太鼓たいこの音に愕おどろくような光秀でもないのに、表の方で鳴った太鼓とともに何か顔いろまですこしうごいたように見えた。

「はや酉とりの刻でおざれば、御人数の衆へ寄場よりばへ集まれと、供頭が触れておる太鼓でござりましょうで」

ふと眼をこちらへ向けていた光廉入道がそういうと、光秀はそれまでの機嫌を一ぺんに沈めて、

「知っておる」

と苦にがそうに終りの杯をのみほした。

半刻はんときの後には、彼はすでに馬上だった。星青き夜空の下、三千の人馬と、炬火たいまつの数が、うねうねと湖畔の城を出いで、松原を縫ぬい、日吉坂を登って、四明しめいヶ嶽だけの山裾やますそへかくれてゆく。

左馬介光春は、城頭から見送っていた。彼は坂本の家中だけで一戦隊を編成し、後から亀山へ赴おもむいて本軍と合する予定になっている。

この夜は二十六日、明ければ二十七日という間を、光秀以下の人馬は、眠らずに歩いていた。そして四明ヶ嶽の南から寝しずまった京都の町を西方の盆地に見出したのが、ちょうどその両日の境にわたる真夜中の頃だった。

白河越えは、これから瓜生山うりゅうざんの尾根へ降って、一乗寺の南へ出る道。――ここまでは登りづめであったのが、あとは一路降くだって行くばかりとなる。

「やすめ」

次右衛門光忠は、光秀の旨をつたえて人馬に令した。

光秀も馬を降り、床几しょうぎを取りよせて、しばらくこの嶺みねのいただきに休息した。昼ならばここから一眸いちぼうになし得る京洛けいらくの町々も、特徴のある堂塔どうとうや大きな河をのぞいては、ただ全市の輪郭が闇の底おぼろに望まれるだけだった。

「四方田又兵衛はまだ追いついて来ておらぬか」

側にいる四方田政孝にたずねたのである。が、その甥おいの行く先は、政孝こそ、光秀へ問いたいことであった。

「昨夜から見えませぬが、殿より何かお使いを命ぜられたのではございませんか」

「そうだ」

「どこへ参りましたので」

「やがて分ろう。――もし戻って見えたら、歩行中でもかまわぬから、すぐわしの馬側うまわきへよこしてくれ」

「畏かしこまりました」

政孝はふかく訊ねなかった。何事にも御腹蔵のない主君が口に出したくないことなら触れないのが道であると考えたからである。

口をつぐむと、光秀のひとみはまた、墨のような京洛の屋根を、飽かずに眺めていた。夜霧の流れが濃くなり淡うすくなるせいか、それとも夜眼の馴れてくるためだろうか、次第にそこの建物なども判別されて来る。わけて二条城の白壁はほかの何物よりも明らかだった。

当然、光秀の凝視は、その白い一点にとらわれた。そこには、信長の子、三位中将信忠がいる。また数日前に安土を辞して上洛した徳川家康も泊って、大勢の案内衆や接待役に囲繞いにょうされながら歓待の幾夜かを過ごしたであろうなどということも――思うまいとしてもすぐ想像にのぼって来る。

「徳川どのにも、はや京を立たれたろうな」

呟つぶやくような主人の問いに、政孝が答えて、

「いまは大坂に御滞在かと存ぜられます。そのような御予定と承っておりましたが」

「……む。む」

それきりであった。このことばには、後もなく、前もない。

「さ、行こう。馬を――」

光秀は不意に起つ。諸将はあわてた。

この不意打から受ける部下の狼狽は、光秀一箇の心が、箇のまま発作的に行動するため起る波紋であった。そのまえに政孝へ云っていた首尾のないことばと同じもので、この数日間の光秀には、時々、一家中という大勢から遊離ゆうりして、一藩の主脳でも一列の主体者でもない、孤みなしごのごとき一箇の人間として挙止きょしするような姿がまま見られた。

しかし彼に続く将士は、

「降くだりは早いぞ」

「馬を躓つまずかすな」

と、夜道の難にも怯ひるまず、主君をかこみ、友を戒いましめ合い、洛外へ向ってひたすら道を捗はかどっていた。

人馬三千の列が、下加茂しもかもの河原まで来て立たち淀よどんだとき、人々は期せずして、うしろを振り向いた。光秀も振り顧かえった。

眼のまえの加茂川に映はえ耀かがやいた紅波こうはを見て、後ろなる三十六峰の背から朝陽あさひが昇ったのを知ったからである。

「朝のおしたくは河原で遊ばしますか、西陣へ行っておしたためなされますか」

兵糧方の部将が、光忠の側へ来て、朝食のことをたずねていた。光忠は光秀の内意を訊くため少し駒を寄せかけたが、そのとき四方田政孝と光秀が駒をならべて、いま通って来た白河の方を凝視ぎょうししている容子ようすだったため、しばらく此方にさしひかえていた。

「政孝。あれは又兵衛ではないか」

「そのようでございますな」

光秀と政孝のひとみは、彼方かなたから急いで来る一騎を待っているものらしく、朝霧を衝ついて、その影が近づいて来ると、

「おお、やはり又兵衛であった」

と、光秀は心待ちにしていた彼をそのままそこに待ちながら、左右の将に向って、

「さきへ渡れ。わしは一足あとから河をこえる」

と、云った。

前隊の列はもう一部分加茂の浅瀬をひろって、対岸へ渡っていた。諸将は光秀のそばを去ると、つづいて清冽せいれつの中へ白い水泡すいほうのすじを作って、続々、徒渉して行った。

それを機しおに、光忠がたずねた。

「お弁当はどこでおつかい遊ばしますか。西陣なれば便宜べんぎもございますが」

光秀は一言に、

「みな空腹であろうが、町中は好ましくない。北野まで参ろう」

もうそのとき、これへ近づいた四方田又兵衛が、十間ほど彼方に駒を降りて、河原の杭くいに手綱を巻いていた。

「光忠も、政孝も、わしにかまいなく、先に越えて、河向うで待っていよ。すぐ参る」

最後の二人までを、そういって遠ざけた後、光秀は初めて、又兵衛の方に向い、顔をもってさしまねいた。

「寄れ。もっと近う寄れ」

「……はいっ」

「どうであった。安土のもようは」

「さきに承りました進士作左衛門どのの御報告に間違いはないようでございます」

「再度、そちを遣つかわしたのは、二十九日御上洛の儀、またお供の勢せいなど確かなところを見極めにやったのだ。――ないようでござります、などという曖昧あいまいなことでは何の効かいもない。確実か、否か、はっきり復命せい」

「二十九日、安土御発向のこと、これは確かです。お供方には、主なる大将方の御名も聞えず、ただ御近衆お小姓たち四、五十名としか触れ出されておりません」

「して、御在京中の御宿所は」

「本能寺ほんのうじの由にござりまする」

「なに。本能寺」

「はい」

「二条城ではないのか」

「たしかに、本能寺とのこと、いずれでも沙汰されておりました」

また叱られないようにと気をつけて、又兵衛は、特にはっきりと答えた。

愛宕参籠あたごさんろう

巨大な山門を中心として、附近に多くの末院がそれぞれ土塀をかまえ門を持っている。眼のとどく限り掃はいたような土肌つちはだをしているここの松原全体がひとつの禅苑ぜんえんをなして、梢こずえからこぼれる陽ひも幽かすかな鳥の声も、その静寂を助けている。

馬をここにつないで、光秀以下明智家の将士は、朝と午ひるとを兼ねた弁当をつかった。加茂河原かもがわらあたりで朝食をとるべきなのに、北野まで我慢して来たので、時刻がそういう半端はんぱになってしまったのである。

将士はみな一日分の腰兵糧を携帯していた。生味噌と梅干と玄米くろごめの飯という簡単なものであったが、夜来の空腹は、これに舌鼓したつづみを打って睦むつみ合うに充分なほど、人々の慾を謙虚けんきょにしていた。

「――これは惟任日向守これとうひゅうがのかみ様の御人数ではいらせられませぬか」

妙心寺の塔頭大嶺院たっちゅうだいりょういんの僧が三、四人してこれへ茶を運んで来た。そして、

「おさしつかえなくば、何の用意もございませぬが、寺中の一院を、御休息所にお宛あて下さいますように」

と、つけ加え、

「いずれ住持が、間もなく、御挨拶をかねて、御案内に罷まかり出いでまする」

と、携たずさえて来た湯茶を侍臣にあずけて帰りかけた。

光秀は、小荷駄こにだの者が、簡単に張りめぐらした幕の陰に床几しょうぎをすえて、いま食事もすまし、祐筆ゆうひつの者に、何か一通の手紙を口述して書かせていたが、

「妙心寺の僧よな。ちょうどよい使い。呼びもどせ」

と、小姓にいいつけ、僧たちが遥かにひざまずくと、祐筆の手になったその書面を託して、

「連歌師れんがしの里村紹巴さとむらじょうはの宅まで、この一通を大急ぎで届けおいてくれぬか」

と、いった。

そしてすぐ床几をたたませて、馬の側へ立ち寄り、

「いとまなき途中であれば、寺中の和上わじょうたちにもお目にかからず罷まかりこえる。よろしく申し伝えてくれい」

と、すぐ出発を令して立ち去ってしまった。

昼中は暑かった。仁和寺にんなじから嵯峨さがへとかかる平坦へいたんな道は、殊に乾いて、真夏のような草いきれが埃ほこりと共に馬の足もとから燃えてくる。光秀は黙々として、終始、渇かつも訴えなければ左右とも語らなかった。

が、彼は彼自身と、間断なく問いつ問われつしていたのである。天地間の何者も窺うかがい得ないほどな大事を、彼は彼と対立して、胸の中に論争の激流を渦うずまかせていた。そしてそのことの可能性やら、世人の輿論よろんやら、または一朝不成功に帰した場合までの結果を、彼らしい用心ぶかさをもって綿密めんみつに考えつめていたものだった。

払えども払えどもたかって来る馬蠅うまばえのように、それはもう心の内から追いきれない彼の白日夢はくじつむとなっていた。かかる悪夢が、いつの間に彼の毛穴から忍び入って満身の邪気となったものか、彼の聡明そうめいももう反省する力をすでに欠いていた。

光秀は、五十五年の生涯のうちで今ほど、自己の聡明を、ふかく恃たのみ、またかたく信じたときはなかった。

客観的には、彼の知性というものが、いまほど危ない亀裂きれつを呈した例ためしはあるまいと思われるのに、彼自身には、その正反対が信じられていた。

(――自分の思慮には水の漏もるほどな錯誤さくごもない。誰がいま光秀のこの腹中を知ろう)

ひとり綿密に練っていたその腹中の企図きとも、坂本にいたあいだはまだ、実行にうつすべきか、実行すべきでないか、迷いは半々であったが、今暁、下加茂の河原で、四方田又兵衛から二度目の確報を聞くとともに、光秀はぞくと身の毛をよだてて、

(――今だ)

と、心のうちに決して、

(天、光秀にこの時を与え給うものである)

という、自我の妄信もうしんを強く抱いた。

信長が扈従こじゅうわずか四、五十名の軽装で、本能寺に泊るという――またとないその絶好な機会こそ、彼の心を囚とらえた魔のささやきといってさしつかえない。いかなる大胆な人間も謀たくみ得ないほどなことを、今は小心そのものの光秀が、咄嗟とっさに実行しよう――と思い極めるに至ったのは、彼の積極性ではなく、むしろ彼以外のものだった。

人は各自の意志によって生きもし動きもしていると思っているが、その人以上の何ものかの力が人をうごかしているという儼然げんぜんたる宇宙の理は、人間はどうしても否いなみきれない。いまの光秀とてもそれくらいなことは考える。そして彼はこの機会と自分の腹中のものに、天の味方を信じながら、半面絶えず、天を怖れ、下加茂から嵯峨さがまで来る半日の道にも、それのみ心にかかりだしていた。自分の一挙一動に天の眼まなこがそそがれているような恐怖に近い心理だった。

「六右衛門。六右衛門」

清涼寺せいりょうじを過ぎ、北嵯峨の松尾神社の前まで来たとき、彼は近衆きんじゅのうちの東あずま六右衛門をよび出して、

「そちはこれから愛宕あたごの山上へ参って、威徳院の行祐ぎょうゆうどのに伝えよ。明日、光秀参拝のうえ、同夜は光秀と日ごろ親しき輩ともがら四、五名集つどうて、歌夜籠うたよごもり仕つかまつりとう存ずると。――俄かに房を騒がせぬためじゃ。そちは明夜まで山上に留まっておるがよかろう」

さきには、京都の紹巴じょうはに招き状を送り、いまは愛宕の参籠さんろうを先触れさせていた。彼は、天の味方を信じながら、天の眼まなこをあざむくことに、自己の聡明を駆使くししていた。

列は、桂川かつらがわを渡り、松尾の間道をこえ、その夕方、陽ひもとっぷり暮れたころ、亀山の本城へ着いた。

城主の帰国を知った亀山の町民は、夜空も染まるほど篝火かがりびに祝いの心を見せていた。事実ここの領民は旧国主の波多野氏はたのし時代よりも、いまの善政に悦服えっぷくし、光秀の徳になついていた。

おまえ見たかや

おしろの庭は

いつも桔梗ききょうの

花が咲く

こんな民土の謡うたが興おこったのも、正に明智領になってからである。こよいも濠ほりをこえ、狭間はざまをこえて、城下の謡うたが本丸まで聞えていた。

「長々の留守居、ご苦労であった。光秀もまずかくの通り健在、歓んでおくりゃれ」

彼は城中に入るとすぐ、大広間を用いて、斎藤内蔵助くらのすけ以下、多くの留守居衆に謁えつを与え、各〻から挨拶をうけて後、初めて奥曲輪おくぐるわに入った。

何十万石という住居はあっても、賑にぎやかな家族はいても、戦国の武将はひとり光秀のみでなく、誰もひとしく、家庭に帰って楽しむような日は、一年のうちに指折るほどしかなかった。少し長陣の合戦には、二年も三年も帰らなかった。

故にひとたび、父なる人が稀〻たまたまのすがたを、そこに見せた夜の奥曲輪というものは、たいへんな賑わいであった。夫人も和子わこも老いたる叔父叔母の輩ともがらまで嬉々ききとして、侍女こしもとたちの顔から燈火ともしびの色まで華はなやぎ立ち、その陽気なことは到底、節句や正月の比ではない。

わけて光秀は子福者こぶくしゃで、女子は七女まで、男子は十二男まで持っている。もちろんそれらの子たちの三分の二はもう他家へ嫁とついだり養子となっているが、まだまだ小さいのも幾人かいたし、叔母の子やら、誰れやらの孫というのも養っているので、夫人の煕子てるこは、いつも笑って、

(いったい私は、幾歳いくつになったら子どもたちのお世話から離れることができるのでしょう)

と、述懐じゅっかいしている程だった。

戦死した一族の子も引き取っているし、また光秀の子ではあっても、自分の腹をいためていない子もその中にはいたのである。けれどこのひとは細川藤孝が常に褒ほめてやまない賢夫人であって、齢よわい五十になってもそうした乳ちのみ児や腕白に取り巻かれている境遇を心から甘受かんじゅして、むしろ生涯の満足としているような姿だった。

かつて、まだ光秀が、江湖を浪々して、病中の薬代にも、旅籠料はたごりょうにも窮していたとき、彼女がみどりの黒髪を切って金に換え、その急場を切りぬけて、良人おっとの素志そしを励ましたことなどは――彼女自身はおくびにも語ったことはないが、三ばんめの娘伽羅沙がらしゃの良人おっと細川忠興ただおきの父――細川藤孝は酔うとよくこのはなしを持ち出して、光秀の苦笑を求めたものだった。

坂本以来、いや安土以来、彼は初めてなぐさめられた。彼のその夜の眠りは円まどかであった。あくる日となっても、なお嬉々ききたる子たちや、貞節な妻の笑顔は、どれほど彼の棘々とげとげしい心をなだめていたかしれない。

「やはりわが家はよいな」

沁々しみじみと、いまの幸福を顧みてもみる光秀であった。

けれど、一夜を過して、そのために、彼の心の奥のものが、何かの変化を来たしていたろうかといえば、それは少しも変っていなかった。むしろ、より以上胸中の秘事に、べつな野望を加えて、その実行を勇気づけていたかとも思われる。

浪人時代から連れそうて来た糟糠そうこうの妻が、いまの境遇に満足しきって、子ども相手に他念ない姿を見ては、

(まだまだこんな程度でおまえの良人おっとは終るものではない。いまに将軍家の御台所みだいどころとも仰がれる身にしてやるぞ)

と思い、また一族の老幼をながめても、

(やがてみなそれぞれ、天下人のお身内と、諸人から敬うやまわれる身になる者たちぞ。こんな田舎いなかびた館やかたからあの安土にも優まさる所へ住まわせたら、これ以上、どんなに狂喜することだろう)

と空想したりして、自己の画策にふと恍惚こうこつとなる寸間もあった。

この日、彼は午過ひるすぎからわずかな従者を具して、城外へ出た。身装みなりも軽装だし、常に左右におく重臣すら連れていない。けれど特に触れなくても、城門の将士にいたるまで、

「こよいは愛宕あたごへ御参籠ごさんろうあるそうな」

と、その目的を弁わきまえていた。

――中国出陣の前に、一夜を愛宕山に詣もうで、武運長久を祈り、かたがた、日頃の友を招いて、参籠の一夕を、連歌なといたして、大いに心養して参ろうと思う。

とは、きのう亀山へ来る途々みちみちからすでに、光秀の口からたびたび洩らされていたことばであった。

従って、このことは、

二十七日、亀山御着

二十八日、愛宕御参詣ごさんけい

二十九日、御帰城

というふうに、主人の予定行動として、家中一般へは、あらためて触れるまでもない儀と知れ渡っていたのである。

戦勝祈願の参詣といい、都から風雅の友を招いての連歌の催しといい、光秀の風懐ふうかいと余裕を疑うものは誰とてない。日頃の光秀の人がらに照らしてみても、この際、

(お心ばえとして、さもありそうなこと)

としていた。

従者二十人ほどに、側臣五、六騎。鷹野たかのに行くよりも身軽だった。保津川を渡り、丹波口から水尾みずのおへ上ってゆく。道は嵯峨さが村の本道から登るよりもはるかに嶮けわしい。

前日、東六右衛門をもって威徳院いとくいんまで知らせてあるので、水尾村には、山上の僧や神官たちが出迎えに出て待っていた。光秀は、その人々へ、乗りすてた駒をあずけると、すぐ僧の行祐ぎょうゆうにたずねた。

「紹巴じょうはは来ておるか。……なに、もう疾とくに登って待っておるとか。いや、それは満足。そして都の歌詠うたよみたちも、幾名か連れて来ておろうな」

鬮くじ

歌道や茶の友には、礼儀のほかに、階級を超こえた心と心の親しいものがある。行祐ぎょうゆうはすこし仰山ぎょうさんな手真似てまねで答えた。

「いや、紹巴じょうはどのも、慌あわてられたにちがいございません。何しろお誘いのお文ふみを手にしたのが、きのうの夕方に近い頃だそうで、しかも場所がこんな不便な所です。誰を誘うてみても余りに急なので埒らちはあかず、やむなく御子息の心前しんぜんどのに、お弟子の兼如けんにょと御姻戚ごいんせきの里村昌叱しょうしつどのを加え、お三名だけを連れて来られましたが――前後の時日を伺ってみれば、なるほどずいぶん御無理なお誘いのようで」

「ははは、そうか、そんなにこぼしておったか」

そんなことも、歌よむ仲間には、興の一つらしく、光秀は他念もない容子ようすでおかしがりながら、

「無理とは知ったが、いつも駕籠かごの迎え、馬の送りで、いと重々しゅう扱っておるから、稀まれには風流の交まじわりらしく、苦労して集まるのも、一だんと好かろうかと存じて、場所も此処、時も不意に、誘うたのじゃ。……しかしさすがは里村紹巴じょうは、仮病けびょうを装よそおうてのがれもせず、嵯峨口からでも五十余町もある山を、あたふたと登って参ったところは、似而非風流えせふうりゅうではない。わが友とするに足る漢おとこだ」

行祐ぎょうゆう、宥源ゆうげんの二僧を先に、東あずま六右衛門やその他の従者をしりえに、光秀もまた高い石段を上っていた。そして少し平地を歩むかと思うとまた次の高い石段があった。

上るに従って、杉や檜ひのきの青い闇が深まってゆくのと、夏の日の空が桔梗色ききょういろにたそがれてくるのと重なって、忽ち夜に近い心地がしてきた。そして一歩一歩、山上の冷気は、麓ふもととは甚だしい差のあることを肌に思わせてくるのでもあった。

「つい、失念しておりましたが、紹巴どのからお詫わびおきして賜われと、お言伝ことづてを聞いていました。途中までお迎えに伺うべきですが、きょうの御登山は、おそらく御祈願事第一と存じますゆえ、山廟さんびょうへのお詣まいりがおすみ遊ばした頃、ごあいさつに伺いますからと――」

威徳院の客殿に入ってから、行祐がこう伝えると、光秀は黙ってうなずいて見せた。そして一杯の白湯さゆを飲み終るとすぐ、

「何よりはさきに氏神に祈願し、愛宕権現あたごごんげんに参詣いたしたい。まだ夕方の仄明ほのあかるい間に」

と、案内を求めた。

道は掃き清めてある。禰宜ねぎは先に立って、拝殿の階きざはしを踏み、神みあかしを燈ともした。

光秀は、額ぬかずいた。やや久しいあいだ祈念をこらしていた。

榊さかきの風が、三度、颯さつ、颯、颯と彼の頭上を払った。神官はまた彼の前に神酒みきの土器かわらけを置いた。

光秀は、その後で、

「当社は、火神ひのかみを祭ると、伺っておるが、左様であるか」

「仰せのとおりにございます」

「火神ひのかみには、火のもの断ちをして祈れば、霊験れいけん疑いなしと聞くが如何であろう?」

「はい、はい。――仰せの通り古来からよくそのように申し伝えられておりますが」

と神官は、光秀の質問には、明答を避けながら、その問いを、却かえって光秀へ向けて云った。

「火避ひよけ火断ひだちをすれば、火神の霊験で必ず願望が成るとは、里人の信仰ですが、そのような伝説は、いったい何から由来したものでございましょうか」

巧たくみに話題を転じて、神官のはなしは、いつのまにか神社の縁起に及んでゆく。

当社には、貞観じょうがん四年頃の旧記もあるということから、またここは松尾の雷神いかずちがみの神別所で遠いむかしは、丹波山城の国境もふくめて、この地方一帯を「阿多古あたこ」と称となえ、阿多古の神山と仰がれていたが、いつの世の頃からか、朝日ヶ嶽、大鷲おおわしヶ峰、高尾山、鎌倉山、龍上たつかみなどの峰々に仏舎宝塔が建って以来は、五台の仏地としての方がより世上へ聞えが高くなり、修験道の優婆塞うばそくたちが天狗てんぐを修める道場ともなるに至って、いまではかくの如く神仏併祭のお山となっておりまする――などということから、また、

「――御承知でもございましょうが、盛衰記に――柿本かきのもとの紀僧正きのそうじょうは日本第一の天狗と成って愛宕山あたごやまの太郎坊と申さるる也――と見えますのは、当山の太郎坊の縁起とされております。もっと古くは、大宝年中、役えんの小角おづのが、嵯峨さが山の奥に住みたもうとあるは、この御山なりと、申す説などもございまして、修験者しゅげんじゃたちにいわせると、いまでもなお当山には天狗が棲んでおると、真まことしやかに奇蹟を説といて、少しも疑いを容いれませぬ」

耳をかしているのかいないのか、その長いはなしの間を、光秀は拝殿の奥にゆらぐ神みあかしを見つめていた。そして黙然と起つともう階きざはしを降くだっていた。すでに宵闇よいやみがふかい。彼はその足で愛宕権現に賽さいし、僧たちを白雲寺の前に残して、今度はただひとり、彼方の将軍地蔵の御堂へ詣まいった。そして、そこでは番僧から神鬮みくじをうけていた。

神鬮みくじは、凶きょうと出た。

彼はまた求めた。

二度めの神鬮も凶であった。

しばらくは石のように凝然ぎょうぜんとしている光秀であったが、次には僧に乞うて、自分の手に神鬮筥みくじばこを受け、額ひたいに捧げて瞑目めいもくした。そして自己の祈念を自己の手で振った。

大吉

と、鬮くじにあらわれた。

光秀は去った。御堂を離れて待っている人々のほうへ歩いて来た。人々は彼が神鬮みくじをひいている様子を、あだかも彼の気まぐれか興味のように遠くから眺めていた。なぜならば光秀の理念的な性格と、その知識人をもって誇りとする彼が何事を判別するにせよ、それを神鬮に託すようなことはあり得ないと決めていたからである。太郎坊の客院であろう、若葉のあいだに、一際ひときわ白々と燭しょくが見られた。紹巴じょうはやほかの輩ともがらには、歌会硯うたすずりに墨などすりつつ、佳吟かぎんを想うのほか、はや他事もない宵らしい。

みじか夜

やがて西之坊の広間で、光秀を主とする饗膳きょうぜんの宵が過された。ここでは紹巴じょうはやその連れもひとつになり、また山房の住持たちも席に交まじわった。

放談哄笑こうしょう、一しきりは、杯よくめぐり、談はなしもよくはずんで、連歌などは、どうでもよいような興じ方であったが、

「夏の夜は短うおざる。余あまり更ふけては、百韻ひゃくいんの成らぬまに、夜が明けてしまいましょう」

と、ここの院主行祐ぎょうゆうが、頃をはかって湯潰ゆづけを出し、ともあれ彼方へと、用意の雅席へ、人々をうながして起った。

べつの部屋には、歌莚うたむしろができていた。各〻の褥しとねの前に、懐紙も、筥硯はこすずりも、さあ名吟をたくさんお詠よみなさい、とすすめぬばかりに備えられている。

紹巴や昌叱しょうしつはこの道の達人である。わけて里村紹巴は、宗祇そうぎ、宗長以来の聞えを当代に持っている者で、信長にも愛せられ、秀吉とも親しく、茶道では堺の宗易とは昵懇じっこんだし、顔のひろいことにおいては、無類の社交人でもある。

「さあ、殿、ひとつ御発句ほっくを……」

光秀へすすめていう。

しかし光秀はまだ懐紙に手もふれていないし、その肱ひじは、脇息きょうそくに託し、その面おもては、若葉時特有なそよぎを持つ庭面にわもの闇へ向けていた。

「御執筆はどなたかの?」

紹巴は、歌の席に、場馴ばなれている。なにくれとなく心をくばり、また席の空気を、息づまるような佗わびしさにさせまいとする。

座敷の隅に、小机を抱えていた明智家の士、東あずま六右衛門が、

「不束ふつつかですが、主君のお申しつけ、もだし難く、私が認したためまする」

と、紹巴へ答えた。

紹巴は、如才じょさいない調子で、

「御謙遜でしょう、あなたのお筆ならば、勿体ない程のものです。これなどは――」

と、子息の心前しんぜんをさして、

「歌の真似詠まねよみは小賢こざかしゅうとも、書とあっては、不勉強なので、ひと前には出せないような文字しか書けません」

父の悪口を、心前は笑いにまぎらして、

「それは御無理です。東どののお父上は、明智家随一の能書家のうしょかと伺っております。その御子息ですからね」

「すると、おまえの悪筆も、父親のせいか」

「似ないでは、子として、不孝とぞんじまして」

「やりおる」

と紹巴は苦笑して、光秀のほうへ、身をのばしながら、

「――殿。こういう不所存者ふしょぞんものでございますよ。ちと、お叱り下さい」

と、告げ口した。

「…………」

光秀は、こちらを向いて、にたりと笑ったが、親子の戯れを、よく聞いていたのか否か、あいまいな顔いろであった。

こよいの彼はどことなく変っていた。けれど平常が寡黙かもくで生真面目きまじめなほうだから、だれもそれを怪しまなかった。

「御苦吟の体ていでございまするな」

「発句か」

「さればで」

「いや、できた」

と、光秀は筆を取った。

まず、ひとりが起句きくを詠むと、次の者が脇句わきくをつける。また受けて前句まえくを出すと、他の者が下の句を附けてゆく。

こうして百韻ひゃくいんなり五十韻まで歌い連ねてゆくのだった。文台の執筆者は巻に記して、後で披講ひこうする。

当夜の連歌会では、光秀の発句に始まって百韻に及び、終りの揚句あげくも光秀の附句つけくで結ばれたが、後まで伝えられた聯詠れんえいはわずか十吟にも足らない。

ときはいま天あめが下知したしる五月さつきかな

と、光秀が発句はっくすると、

水上みなかみまさる庭の夏山

と、威徳院の行祐がつけ、次に紹巴が、

花落つる流れの末を堰せきとめて

と、詠よみ、以下、

風は霞かすみをふき送る風宥源ゆうげん

春もなほ鐘の響や冴さえぬらむ昌叱しょうしつ

片敷かたしく袖はありあけの霜心前

うら枯れになりぬる草の枕まくらして兼如けんにょ

聞きくに馴なれたる野べの松虫行澄

などとあって終りに心前の、

色も香も酔ゑひをすすむる花の下

なる詠えいに対して、光秀が苦吟の末、

国々はなほ長閑のどかなる時

と附けて百韻を結んだといわれている。

参籠さんろうの歌会であるから、詠巻えいかんは愛宕権現に納められたはずで、本来この巻は世に伝わりそうなものであるが、本能寺変の後、秀吉から吟味をうけた紹巴が、これを愛宕から取り出して、

(このように夜もすがら百韻に興じ明かしたに相違ございません。日向ひゅうがどのの歌でも、後になって見ればこそ、この時、逆意の兆きざしすでにありと、察しることもできましょうが、虚心風吟きょしんふうぎんの席、誰があんな大事を予知することができましょう。たとえば明智家の家中すら大部分は本能寺の朝まで、日向どのの胸の中は知らなかったではございませんか)

と、縷々るる、弁証べんしょうして、巻は秀吉の手もとへ差し出したままとなったので、以後の伝来は不明になったものという。

すべて、当夜のことは、秘中の秘とされたものか、謎が多い。

紹巴じょうはが秀吉に差し出した巻には、光秀の発句、

「――天が下知る」を「天が下なる」と書き直してあったというが、これもどうであろうか。

また、光秀が、苦吟のうちに、粽ちまきの皮を剥むかずに口へ入れたとか、或いは、紹巴へ向って、

(本能寺の堀は、浅きか深きか)

と訊ねたところ、紹巴が、

(あら勿体もったいなし)

と答えたとか、いかにも真まことしやかではあるが、これらも乱後の噂にすぎまい。一日にして天下の相貌そうぼうを一変させた大乱であったから、あとの噂は真偽も紛々ふんぷんと一しきり巷雀ちまたすずめを賑わしたにちがいない。同時に紹巴は、彼こそ未然に光秀の計画を知っていた唯一人だ――という嫌疑を一時濃厚にかけられたであろうことも想像するに難かたくない。

さて、会の後。

もちろんその晩は、みな威徳院の房に泊まったのであるが、部屋数も少ないので、紹巴は光秀の寝室のすぐ隣に眠った。

夏の夜ではあり、心やすい歌の友というので、境のふすまも払ってある。紹巴は枕につく前に、

「山上やまのうえは蚊もいませんから、今夜は快く眠れましょう。どうも都は蚊が多くて……」

などと問わず語りをしていた。

寺僧が燭しょくを消して退さがると、光秀はすぐ寝入っていたように思われた。紹巴のつぶやきにも何の返辞も返さずに――。

枕に顔をあてがうと、戸外おもての山風は樹々を揺すり、屋の棟むねを吠えめぐって、さながら天狗の喊ときの声こえかと怪しまれてくる。光秀は火神ひのかみの拝殿で聞いた神官の話がふと思い出されて、漆黒しっこくの宇宙に跳梁ちょうりょうする天狗の姿を脳裡のうりに描いていた。

天狗が火を咥くわえて飛ぶ。

大天狗、小天狗、無数の天狗がみな火となって、黒風に翔かけまわり、その火が落ちて、火神の御社が、忽ちまた団々たる炬火きょかとなる。

――眠りたいものだ。眠ろう。

光秀は思う。彼は夢見ているわけではない。にもかかわらず脳膜のうまくはそんな幻想を描いてやまないのである。

寝返りを打つ。

そして、今日はと考える。明ければ二十九日と意識する。夢は天狗と化し、うつつは安土の城を考える。二十九日、二十九日、信長は安土を立ってこの日京都に向う。

うつつと夢のさかいがなくなってゆく。寝入るともなく醒さめているともない彼だった。そしてその浅い半睡半醒はんすいはんせいのうちに、彼と天狗のけじめもなくなっていた。

天狗は雲を踏んで天下を見まわした。一朝の大事を挙げたとき天下はいかなる動きをなすかを俯瞰ふかんしておく用心のためである。そして天狗の観みるところ、悉ことごとくみな自己に有利であった。

まず中国の秀吉は吉川きっかわ、小早川こばやかわの大軍と、いまや四つに組んだかたちで、高松の城に釘づけとなっている。もし款かんを毛利家に通じ、彼に利をもってすれば、あわれ遠征宿年にわたる羽柴秀吉以下の軍は、中国の地を墳墓ふんぼとして、ふたたび都を顧かえりみることはできまい。

いま大坂にあるらしい徳川家康は無二の世渡り上手、すでに信長亡なしと見たら、彼の向背こうはいもただわが誘いの如何によろう。一いったんの憤いきどおりはなすであろうと思われる細川藤孝も、わが娘の舅しゅうとたり、年久しき刎頸ふんけいの友ともでもある。嫌とはいうまい、協力しよう。

肉がうずく、血が鳴る。久しく忘れていた青年の血が、ふたたび甦よみがえって来たかのように耳までが熱い。――天狗は寝返った。枕の音とともに、うーむとわれ知らず呻うめいた。

「……殿」

となりの部屋から紹巴が身をもたげて声をかけた。

「殿……。どうか遊ばしましたか」

光秀はかすかにそれを知っていたが、わざと返辞をしなかった。

紹巴はすぐ元の寝息に回かえっている。みじか夜はすぐ明け放れた。起きるやいな、光秀は人々と別れて、まだ朝霧もふかいうちに下山した。

無用むようの用よう

左馬介さまのすけ光春が亀山へ来て、合したのは三十日であった。彼の坂本勢だけでも少なくないところへ、所在の明智衆が近郡からそれぞれ分に応じた人数と家の子を伴ともなって集合しているため、城下は兵と馬に埋められ、辻々には輜重しちょうの車馬が輻輳ふくそうして道も通れぬほどである。急に真夏を思わせて陽ひはかんかんと照りつけ、行儀のわるい荷駄にだ人夫が物売り店にたかって盛んに喰ったり喚わめいたりしているかと思えば、兵糧ひょうろうを載せた牛車を挟はさんで足軽同士の口喧嘩だ。それを見物している女子供の輪と足もとの馬糞牛糞に蠅も唸うなりをあげて巡めぐっている。

光春は馬上から見て通った。

景観けいかんすでに常ならぬものがあった。一歩、城門に入ればなおさらである。

「つづいて、お体はおよろしゅうございますか」

まずは光秀に会った。

「このとおりだ」

光秀は莞爾かんじとして見せた。坂本頃よりは、ずっとにこやかである。血色もよい。

「御発足ごはっそくのお日取は」

「少しのばして、月の初め出陣ときめた。物事始まるの日、朔日ついたちこそよからめと存じて」

「六月一日ですか。して、安土の方へは」

「その旨、沙汰さた申した。が、右大臣家には、すでに御入洛ごじゅらくであろう」

「二十九日の夕、つつがなく京都にお入りの由です。信忠公には妙覚寺に、右大臣家には本能寺を御宿所として」

「そうとな……」

低く、語尾も消して、光秀はそのまま黙る。

光春はすぐ起たって、

「奥曲輪おくぐるわの女房方も和子わこたちにも久しぶりでお目にかかって来ましょう」

「まず、旅装でも解いて、身を休めたがよい」

ねぎらいながら、光秀は立ち去る従兄弟いとこの背を、飽くなく見送っていた。そのあとでは、吐きも嚥のみもできないような胸の閊つかえを満面にみなぎらしていた。

次の間のまた次の一室では、髪の毛の白さでもすぐその人とわかる斎藤内蔵助利三さいとうくらのすけとしみつが、諸将と膝を寄せ合って、軍役帳ぐんえきちょうや書類をくりひろげ、何か凝議ぎょうぎしていたが、やがて彼一名、光秀の前に来てたずねた。

「……仰せの、小荷駄大荷駄ともすべて、前日の三十日に、山陰へ向けて、先に出発させますか?」

「荷駄? ……むむ、あのことか。いや先発させるのは、皆までには及ぶまい。一部でいい」

そこへ、ひょこりと、実にひょこりとした姿で――光春とともに今日着いたばかりの叔父長閑斎ちょうかんさいがここを覗のぞいて、

「おや、おりませんな。坂本の殿には、どこへ行かれたか。はて何処に?」

と、きょろきょろ見まわした。いつもながら腹の立つほど陽気で楽天顔をしている老人だった。

出陣の間際まぎわであろうと、主君や家中にどんな心配があろうと、いつも変らないおひゃらくな老人よ――と観みられて、本丸の諸将からは、一箇の無用人視むようじんしされている明智長閑斎も、ひとたび向きをかえて、ひょこひょこ奥曲輪の局つぼねへ顔をあらわすと、ここでは絶対的な人気で、女房たちから沢山な和子とそのお相手の童わらべまで寄ってたかって、

「オオ、おひゃらく様がお越しなされた」

「おひゃらく様。いつお見え」

と、起たっても、坐っても彼のまわりから嬉々ききたる声と茶目が離れないのであった。

「おひゃらく様。今夜はお泊り?」

「おひゃらく様。御飯はまだ?」

「おひゃらく様。お茶を召せ」

「おひゃらく様。抱いてえ」

「お歌を謡うたって聞かせてえ」

「踊って見せていの」

膝にのる。じゃれる。からみつく。そのうちに耳の穴をのぞいて、

「おひゃらく様のお耳には、お耳の中から毛が生えている」

「一ぽん、二ほん」

「三ぼん、四ほん……」

節をつけて歌いながら、女童めわらべたちが耳の毛を抜いていると、男の子は、背中へ跨またがって、

「お馬になれ。お馬になってヒンと嘶なけ」

と、白髪頭しらがあたまを圧し伏せる。

「ひん、ひん、ひん」

長閑斎は甘んじて這い歩くのである。そしてくしゃみをした途端に、背中の子が落馬した。侍女こしもとも傅人もりも、腹をかかえて笑いこける。

奥の一間で何かしめやかに話しこんでいた光秀の夫人と左馬介光春も、此方を振り向いて、誘い込まれるように笑っていた。

夜に入っても、この笑いさざめきは止まない。光秀のいる本丸とここでは、さながら氷雪にとざされた冬の野と、春の国ほどな相違があった。

「叔父上には、お年もお年、戦陣へお出向きあるよりは、ここにござあって、和子や女子たちの、後顧こうこの者をお傅もり下されたほうがありがたい。大殿にも私からそう申しあげておきましょう」

奥曲輪から退さがる折、光春がいうと、長閑斎は、

「わしに果せるお役目はまずそれくらいかも知れんな。何しろこのとおり皆が離さんしのう」

と、顧みて苦笑しながら、局中つぼねじゅうの者を集めて、夜は夜で、得意の「むかし噺ばなし」をせがまれ、盛衰記の一節を、おもしろおかしく物語っていた。

出陣までの余す日はあと一日しかない。その夜のうちにも総評議があるかと予期していたが、本丸は寂じゃくとしているので、彼は二の丸へ入って寝た。

次の日は、月の晦日みそか。光春は終日、心待ちに控えていたが、依然そのことの沙汰はない。夜に入るも何ら本丸の空気にうごきはなく、家臣をやって様子を訊かせると、光秀はすでに寝所へ入って眠ったという。

「……はて?」

光春はあやしんだ。しかし彼も眠るほかなかった。

翠紗すいしゃの内うち

――だいぶ眠ったという気もちがする。従って夜はすでに丑満うしみつの頃おいであろう。左馬介光春はふと眼をさました。

ひそひそ、人声がする。

眼がさめたのはそのためだった。ふた間ほど隔てた宿直部屋とのいべやあたりである。

やがて人跫ひとあしが近づいて来る。そして静かにふすまが開いた。彼からものをいわぬうちに光春のほうで、

「なにか」

といったので、眠っているとのみ思っていた宿直とのいの侍はすこし戸惑とまどいしたらしい。

あわてて、ぺたと手をつかえて告げた。

「大殿光秀さまが、御本丸でお待ちうけの由でございます。折り入って御対談あそばしたいとの御意に、時ならぬお迎えが参られました」

「お、そうか」

何のためらいもなく、光春はすぐ寝床を出た。顔を洗い、うがいをすませ、髪には笄こうがいを与えた。そして衣服を改めながら、

「いま、何刻なんどきか」

と、たずねた。

「子ねの上刻じょうこくでございます」

「三更さんこうか」

室を出る。廊は暗い。その墨のような廊の杉戸口に踞うずくまっている髪の白い人影を見て、光春はさらにこの時ならぬ迎えの容易ならぬことを察した。迎えの者は光秀の側近くいる常の小侍でもなかった。老臣の斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつである。

「御老体か」

「……おお、これは」

「深更に大儀だな」

利三は紙燭ししょくを持って先に立つ。幾巡いくめぐりする廻廊の長い間行き合う人もない。

本丸もまた寝しずまっていた。しかし奥の限られた一劃いっかくだけには、ただならぬ気が充ちていた。二、三の部屋にも人の起きているらしい様子があった。

「お座所は」

「夜のお間までございます」

利三は、寝所の畳たたみ廊下の口で、紙燭を消した。そして光春へ促うながすような眼をしながらそこの重い戸を開けた。

光春が入ると、すぐ後は閉められた。寝室までになお三つの部屋があった。そのいちばん奥にだけ仄青ほのあおい燭の光が洩れている。光秀はそこにいた。近習きんじゅも小姓も見えない。ただ独り白絽しろろの小袖を着、太刀、脇息きょうそくを寄せて坐っていた。

燭の影がことさら青く見えたわけは、光秀のまわりに翠紗すいしゃの蚊㡡かやが広く繞めぐっていたからであった。その翠紗の蚊㡡は、眠るときは四方とも垂れるようになっているものだが、今は前の一面だけを開いて、蚊㡡竹かやだけの上へ幕のように掛けてある。

「左馬介さまのすけ。ずっと寄ってくれ」

「はい」

と、にじり寄って、

「――何御用ですか」

「折り入っての談合だが。……お汝こと。この光秀に、命をくれぬか」

答えない。左馬介光春は、ものいう口を忘れたかのように、いつまでも、答えない。

彼のそのひとみと。

光秀の異様な耀かがやきをおびたひとみと。

一穂いっすいの燭を横にして、凝視を相交あいかわしていることも、依然であった。

「…………」

「…………」

命をくれぬか――という光秀のことばは簡にして明である。坂本以来、夢寐むびの間も、光春が心ひそかに惧おそれていたものは、実に、光秀がいつか自己に敗れて、この言をなすのではあるまいかという予感であった。

こよい、ついに光秀は、自分に向って、それを口に出した。光春としては必ずしも唐突なる驚きには打たれない。しかし何といっても満身をめぐる血しおが氷のように凝結する感じに蔽おおわれたことは否めない。

――怖ろしいお人ではある。

今さらのようにその人を見るのだった。幼少十二、三歳ぐらいから衣食住も共にし、長じては戦陣の生死も共にして来た仲なのに、今日、あらためて知るというのも甚だ迂濶うかつのようであるが、明智日向守光秀なる人間のうちに、かかることを思い立つ素質があろうとは、やはり彼にはどうしても信じられないことだったのである。

「……光春。いやか」

沈痛極まるかすれ声が、やがてまた光春の耳を訪とうた。光春は、なお答えなかった。

「…………」

光秀もまた沈黙しつづけた。

その顔の何という蒼白さであろう。これは、翠紗すいしゃの蚊㡡かやのせいでもない。燭のゆらぐ加減でもない。光秀の心のうちにあるものの色であり影であろう。

もし光春が、いやです! と云い断きるならば、光秀はあらかじめ思い極めていることを即座に行わなければなるまい。ふかく思慮するまでもなく、光春もそれを直感している。知りぬいている。

蚊㡡かや越しではあるが、九尺の大床の脇わきには、武者隠しの小襖こぶすまがある。その金砂子きんすなごは、内に秘かくしてある刺客せっかくの呼吸と殺気とに気味悪く燦々きらきらしているではないか。

また、右側の大襖のとなりもかたという物音ひとつ聞えないが、さっき自分をこれへ導いて来た斎藤利三が唾つばをのんで聞き耳たてている気がする。その内蔵助くらのすけ利三のほかにも、素槍すやりをかかえ刃やいばを握りしめた幾名かの者が同じように身を硬こわめていることは慥たしかである。――光春の感覚はあきらかにそれを見抜いている。

こういう中へ、かりにも自分という者を引き入れて、そしてただ一言いのちをくれぬかという光秀のつきつめている心の底を窺うかがうと、光春には、その無情も、その陰険いんけんな仕打も、恨む気にはなれなかった。

――愍あわれが先に立ってである。

こうも思い詰つめてしまわれたものか。あの聡明そうめいな人が。あの理性に富んだ人が。いったい自分が幼少から見ていた明智十兵衛という者はいずこに失うせてしまったものかと、いまはその人間の形骸けいがいのみを見つめているような心地しか持てないのであった。

「光春。――返辞は?」

われともない容子ようすで、光秀はにじり寄って来た。光春は、彼のその息づかいに、重病人の熱のようなものを感じた。

「わたくしに、一命をくれぬかとは、そも如何なるわけですか。左馬介には解げしかねますが」

初めて彼はこう答えた。

それは決して、光秀が欲している、言下の然諾ぜんだくを、巧く交わそうとしたのでもないし、また、彼の胸底を見ぬいていながら、わざと空とぼけたわけでもない。

彼にはまだ、未練があった。どうかしてこの人を、そんな暴挙ぼうきょと不徳の思い立ちから引き戻したいと希ねがう――最後の望みを捨てきれなかったのである。

が、光秀のまなじりは、彼のそのことばによって、なおさらこめかみの青い筋と結ばるばかりになった。

「……お汝こと。それをわしに問うのか」

声も常ならずかすれがちに、

「安土退去このかた、光秀の胸に怏々おうおうとして霽はれやらぬものあることを、お汝こととしたことが、察してはいなかったのか。――左馬介さまのすけ」

「ほぼお察しはしていました」

「然らば何で……。何も、多言は要しまい。いやか、応かでよろしい。まずその返辞からさきに聞かせい」

「殿」

「…………」

「殿――」

「…………」

「あなた様こそ、何でお口を結ばれておられますか。かりそめにも、ここの御一言は、明智一族の浮沈にはとどまりますまい。事天下にかかわりましょう。あなた様とて、はっきりお答えください。殿!」

「なにか」

「どう遊ばしました。あなた様ともあるお方が……」

はらはらと落涙して、光春は畳へ手を落しかけたが、やにわに光秀の膝のそばまですり寄って、

「わたくしは今宵ほど人間というものが解らなくなったことはございませぬ。おたがいにまだ幼少と若年の頃、父の家に、机をならべて、何を読み、何を学んで参りましたか。この国の先賢せんけんの遺書に主君を弑しいしてもよしなどという辞句じくが、一字でもあったでしょうか」

「光春。しずかにいえ」

「何洩なにもれましょう。武者隠しの内も、襖ふすまのとなりも、あなた様のお声を待つ刺客せっかくの刃あるのみです。――殿、御聡明なるわが殿。わたくしは、一日たりと、あなた様の叡智えいちをお疑いしたことはありません。けれど、坂本以来のあなた様は、まるで別人のようにお変りあそばしていた……。それほど自己にお弱いあなた様でもないはずですのに」

「もう遅い。光春、諫言かんげんなれば止やめにいたせ」

「申します」

「むだだ」

「たとえむだでも、申しあげずにはおられません。……残念です。口惜しゅうございまする」

よよと、光春はひれ伏した両手の上に泣きふるえた。

そのとき、武者隠しの襖ふすまが、がたと鳴った。

事難ことむずかしいと見て、内に潜ひそんでいる刺客せっかくが、腕をうずかせたためかもしれない。だが、光秀の口からはなお何の合図もない。光秀は、自分の前に泣き伏した光春を見まいとするもののように、凝然ぎょうぜん、面おもてをそむけていた。

「書は人いちばい読み、理性は誰よりも明るく、お年も人の分別ふんべつざかりを越えて、何事にまれ、お弁わきまえのないことはないあなた様だけに……愚鈍な光春は、いいたいにも、いう言葉に困ります。けれど私ごとき者でさえ、忠孝の二字だけは読んで、心に咬かんで、血に入れておりまする。たとえ万巻の書が胸中におありであろうと、これを見失われては、何もなりますまい」

「…………」

「殿。聞いていて下さいますか。――名族土岐源氏めいぞくときげんじのながれを汲んだおたがいの血しおは、ひとつものだと信じて申し上げるのです。ひとたび家門の名をけがしては、あまた御先祖がたの霊にたいし、生める親たちにたいしても、大不孝ではございませぬか。しかしあなた様はいま、何人の子の親御様でいらせられますか」

「…………」

「嫁とつがれている御息女や、他家の御養子となられている御子息たちも、またあと幾人もの幼い者まで――いや子々孫々にいたるまでが、あなた様のお心ひとつで、いかに世の果てまでも、辱はじある思いをして行かなければならないかを……」

「数えれば限きりはない。左馬介、この光秀の思い立ちは、あらゆるものを超えている。何事も万々承知だ。しかもなお光秀は決して思い歇やもうとはせぬ。堪忍に堪忍をかさね、考えに考えぬいたあげくである。よせ。むだな諫言かんげんはよせ。お汝ことのいうぐらいな思慮は、夜ごと夜ごと、光秀たりと、繰り返しては、思いに思うた。……ああ、ただ一言こと、顧みて五十五年の道を見れば、この身が、武門にだに生れなければ、かくも悩むまい。またかかることも思い立つまい」

「さ。その武門なればこそです。たとえいかほど御堪忍なり難いことあろうと、かりそめにも、主君に対し奉っては」

「信長たりと、足利義昭あしかがよしあきを追っている。また叡山えいざんの焼打、幾多の悪業あくごうは人も知るところだ。見よ彼の宿老、林佐渡、佐久間右衛門父子おやこ、荒木村重。ひとの末路とのみは思えぬ」

「あわれ、殿。丹波六十万石を下され、惟任これとうの姓をも賜わって、一門なに不足なく、かくある御恩をも思いたまえば」

この語は、それまで、井の水のようであった光秀を、いちどに奔河ほんがの形相ぎょうそうにさせた。

「これしきの恩禄おんろくが何だ。光秀に才なくばこれもあるまい。しかも、その働きを、用い尽せば、彼の目には、安土に飼える狆ちんか、無用の贅物ぜいぶつとしか見えなくなって参るのだ。わしを秀吉ずれの下におき、山陰へ討ち入れとの令は、すでにやがて来る明智家の運命を予報しておるものでなくて何ぞ。――身、武門にそだち、男として土岐源氏ときげんじの血をうけながら、やわか、信長ずれの駆使に身を屈かがめ、生涯を終ろうや。光春、お汝ことには読めぬか、信長の腹ぐろさが」

「…………」

憮然ぶぜんと口をとじた後、光春はたずねた。

「その御意志は、御左右の中の誰と誰に、お打ち明けになりましたか」

「――されば、お汝ことを除いては光忠、光秋のほかに……」

と、光秀はここでほっと息をついで、

「腹心の者、妻木主計つまきかずえ、藤田伝五、四方田政孝、並河掃部なみかわかもん……村上和泉守、奥田左衛門、三宅藤兵衛、今峰頼母いまみねたのも……。そのほか、溝尾庄兵衛みぞおしょうべえ、進士しんし作左衛門、斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつ……などにも語っておる」

「その十三名だけでございますか」

「天野源右衛門の名は挙げたかの、まだか。……源右衛門にも告げたと思う。若輩であるが、特殊な使いを命じたため、四方田又兵衛も、光秀の心底を、或る程度、覚さとっておるものと思われる」

「――ああ」

左馬介光春は、聞き終るとともに、天井を仰いで長嘆した。そして、

「今さら何をか申しましょうや。御自身以外へ、さまでお洩らし遊ばしている以上は」

光秀の膝がつと光春の膝へ迫った。いきなり詰め寄ったのである。すぐ左の手は光春の襟元をつかみ、

「否いやか」

右手めては小剣の柄つかをにぎって、恐ろしい力で締めた。

「応おうか」

「…………」

押されるたび、光春の首は、骨のないように、仰向あおむいたまま、左右にうごいた。その面上から飛びちる珠たまは涙だった。

「この期ごになって、否も応もあるものではございません。……殿がまだ、余人にこれをお洩らしあそばさぬ前なら知らぬこと」

「では、承知してくれるか。……わしと共に、起たってくれるか」

「あなた様と光春とは、ふたりであって一人も同じです。あなた様なくも生きていようとする光春ではございません。主従の名においても、血縁の上からも、同根同生、ここまでの生涯も共に参りましたからには、この先の運命も元より共にする覚悟ではございまするが。……ああ、それにしても」

「案ずるな光春。乾坤一擲けんこんいってき伸のるか反そるかだが、かく一同に語ろうて、この日向ひゅうがが起つからには、勝算は胸にあることだ。事成ればそなたにも、坂本の小城一つを持たせてはおかぬ。尠なくも、われに次ぐ栄爵えいしゃくと数ヵ国の太守たいしゅはお汝ことにも約されておる」

「ええ。そ、そんな、問題ではありませんっ」

つかまれている襟元の手を振りほどいて、光春はいきなり光秀の体を畳へ突きとばした。

「わ、わたくしは、……わたくしは、哭なきたい。……殿、哭なかせて下さい」

「何を悲しむ。ばかめ」

「ああ。……ばか!」

「ばかっ」

「ば、ばかっ」

「ばかだっ。そちは」

「ばかだ! あなたは」

ふたりは罵ののしりあいながら、しかも互いに男の力でひしと相擁あいようして哭ないていた。そのまま慟哭どうこくしていた。

武者隠しの内でも、となりの襖ふすまの蔭でも、ひとしく啜すすり哭なく声が揺れていた。

老坂おいのさか

気象きしょうも夏、気温も夏、夏はすっかり本格になった。

わけて六月朔日ついたちは近年にない暑さだった。朝から雲一つなく照りつづけ、午過ひるすぎてからは北の空の一方は雲の峰に蔽おおわれたが、なお暮れるまで夕陽ゆうひの熱と光は丹波の山河を焦やいていた。

亀山の町はこの日を期して、がらんとしてしまった。あれほどいた兵馬輜重しちょうが、いちどに城下外へ出て行ったためである。

その鑓鉄砲やりてっぽうの列や、銃丸火薬そのほかの軍用品を積んだ輸送部隊が、汗の顔に焦やけつくような黒鉄くろがねのかぶとをいただき、旗さし物を負い、武者わらんじを踏みしめて、きょう本国の地を立つと見るや、町の者、郷土の老幼たちは、沿道に群れ立って、

「あれ。角屋敷かどやしきの次郎丸様もゆく。御池前おいけまえの旦那さまも、馬に召されて行かっしゃる」

「村越様もあの御老年で」

「笈川おいかわ様の若さまも」

と、日頃出入りの屋敷屋敷の恩人や知己をさがして、声かぎりその武運を祈り、勲功いさおを励まし、あわれ百姓町人でなくば、その列について、自分たちも尾ついて行きたいような感情をあらわして、歓送の手を打ち振っていた。

が――誰が予測し得たろうか。このときまだ送る者も送られる将士も、この出陣が、中国進攻の門出ではなく、本能寺ほんのうじを衝つく一歩のものであったことを。

光秀と、帷幕いばくの十三、四将のほかは、まだたれひとり知る者はなかったのである。

城外の東に平らかな田野がある。遠いむかしは大枝山おおえやまから生野いくのを経て裏日本へ出る駅路うまやじのあった跡だという。篠村八幡しぬむらはちまんの森を中心として、この辺りを能篠畑のしぬばたけとも、篠野しぬのの里さととも称よんでいる。

北に保津川ほづがわの一水を隔てて、愛宕山あたごやまや龍ヶ嶽の諸峰をのぞみ、南は明神ヶ嶽、東は大枝山というふうに、山裾から山裾にかこまれている一盆地だ。――亀山を離れた軍馬のながれ、旌旗せいきの列は、前後して、続々とこの一地点に集まったのである。

まさに、申さるの刻(午後四時)。

血のような西陽にしびと草いきれの中で、いんいんと、高く低く、貝の音が次々に答え合って、鳴りぬいていた。

それまでは屯々たむろたむろに、ただ蝟集いしゅうしていたに過ぎない全兵員が、忽ち草を蹴って立ち、列伍を正し、おおよそ三段にわかれて、旌旗粛然せいきしゅくぜんと勢揃いの態ていをととのえた。

能篠畑のしぬばたけの地表は、兵と旗と馬で埋うめられた。一瞬、馬のいななき以外、天地は声をひそめた。四山の濃い青葉や浅いみどりは、匂うばかり戦そよいで、人間の肺の中まで染まるかのような青い夕風が無数の面おもてを吹いた。

ふたたび貝が鳴った。彼方かなたの森の中からである。程なくそこの篠村八幡の境内から光秀以下、騎馬の幕僚ばくりょうたちが、西陽にしびを斜めに、燦々さんさんとして騎歩しずかに、各部隊を閲えっしながら順次こなたへ近づいて来るのが見られた。

彼の閲兵えっぺいのすむ間、将士は鉄くろがねの列そのものだった。そして各〻、馬上の光秀を、目の前に仰いだ兵は、卒伍の端まで、

(よい大将を持った。よい主人の下もとについた)

ことを今さらのように誇りとも感じ、幸福にも思った。

光秀は白地銀襴ぎんらんの陣羽織に黒革くろかわの具足を纒まとっていた。縅おどしの糸は総萌黄そうもえぎであった。太刀も佳よく、良い鞍をすえていた。常の彼よりはこの日の彼は非常に若々しく見られた。もっともこれは彼のみのことではない。ひとたび身に甲冑かっちゅうを着ければ、武将に年齢はないからである。十六、七歳の初陣の武者と伍しても、老いは見せじ、老いても劣らじ、と心を粧よそおうのが武門の人々だった。

わけて今日の彼には、この全軍勢の誰よりも必死なものが胸ひそかに誓われていた。故に、一兵一兵を視みてゆく眼ざしにも、悽愴せいそうの気に近い光があったにちがいない。総帥そうすいたる人のその気魂きこんは当然また全軍の兵気に映うつらずにいない。――およそ明智軍として、今日まで馳駆ちくした大小二十六、七度の戦場のいずこへ臨んだときよりも、この日の勢揃いには、すでに毛穴のそそけ立つような緊張があった。無言のうちに誰もみなただならぬ行くての戦場を予感していたといってもさしつかえない。平時の凡身とちがい、生還を期さない出陣に際しては、どんな卒伍の者であろうと、これくらいな霊感はみな抱く。――そしてその無数なる霊感は霧のごとく蕭殺しょうさつたるものをみなぎらし、各部隊の上にはためく水色桔梗みずいろききょうの九本旗にも、雲を搏うつようなすがたがあった。

光秀は馬をとどめて、傍らの斎藤利三にたずねていた。

「総人数は何程になったか」

「一万七百。小荷駄、大荷駄の者を加えれば、一万三千に達しましょう」

うなずいて、間まを措おいて。――やがて次に、

「物頭ものがしらどもをこれへ」

と、いった。

槍隊、鉄砲隊、長柄ながえ隊など、およそ部将格以上の者が、それぞれの隊首を離れて、一令の下に、光秀の馬前に集まった。

光秀は駒を退さげた。代って、一族の明智光忠が、四方田しほうでん政孝や妻木主計かずえの宿将を左右に引いて前へすすみ、

「これは京都の森於蘭殿おらんどのから昨夜到来した書状であるが、心得のため、物頭ども一同へ達しおく」

と、馬上で奉書をひらき、

「――右府様御諚ゴジョウニハ、中国ヘノ陣用意出来候エバ、家中ノ士馬、旌旗セイキノ有様、御覧成サレ度キ御旨オムネニ候間、早々、人数召連レラレ罷マカリ上ノボリ候エ。……と、かようにある」

と、読み聞かせた後、

「依って、道は篠野しぬのから大枝山おおえやま、老坂おいのさかへ出る。武者立ちは、酉とりの上刻(午後五時)。はや、間もないによって、兵糧をつかい、馬にも飼い、また休息もとって、ぬかりなく時刻に備えおくように」

と、重ねて云い渡した。

一万三千の人数が兵糧をつかう一しきりの野面のづらの景は、壮観でもあり、和なごやかでもあった。

そのあいだに、使番つかいばんが、

「比田帯刀ひだたてわきどのお召しです」

「堀与次郎どの、御本陣で召されます」

「村越三十郎どの。お召し」

さっき馬前に呼ばれた部将中の主なる人々が再度、光秀のいる八幡の森の中へ呼ばれて行った。

ここは薄暮の日蔭と、ひぐらしの声に、涼気は水のようだった。

いましがた拝殿の方で、柏手かしわでの音が聞えた。光秀以下、幕僚たちも揃って、神前へ願文がんもんを籠こめたものらしい。

――思いあわせると。

この篠村しぬむら八幡へは、かつて元弘の頃、足利高氏あしかがたかうじも、願文を籠こめたことがある。高氏はこの駅路うまやじに来て旗を立て、勅命にこたえ奉るなりと声明して、一挙京都に入り、六波羅ろくはらを陥おとした。高氏の部下が矢を納めたという矢塚やつかも遠くない。

敵こそ違え、測はかるに光秀の胸には、こここそは足利氏が室町十数代の基をなした発足の地という由縁ゆかりをかならず想起していたであろう。こういう古蹟こせきなので、従来、室町幕府は代々ここの社やしろには特別な崇敬と保護を寄せていた。光秀がその由来に無知なわけもない。

昭々たる神のみ前に、光秀は自己なるものを、いかに辱はじなく持とうとしたろうか。

腹心の家臣が、眦まなじりを裂き、いかに哭ないてこの挙をすすめたとしても、彼と信長との間の私憤私恨だけでは、なお顧みて安んじきれないものがあろう。

いつ自分も、荒木村重や佐久間父子おやこのような末路に終るかもしれないという危惧きぐ不安が――窮鼠きゅうその如く、生きんがために、一転この先手を打たせるに至ったものだ――という自己弁護も、彼の良心を頷うなずかせるまでの理由にはなるまい。

ここからわずか五里。目と鼻のさきに当の怨敵おんてきは、いとも軽装で逗留している。またなき機会だ、絶好な天運だとする――出来心にも似た野望と自身で意識しては、なおさら神のみ前に祈願はこめられまい。

が、彼の頭脳は、以上のすべてを別として、ほかに自分を正当づける理由を索さがすのに、さして困難はしなかった。

それは二十余年来の信長の悪い半面だけを罪状として数えることである。わけて信長の極端な文化破壊と旧制度の変革をもって、もっとも大罪として世に問うことだった。

文化人光秀の知性のすみには、多年信長の部将として働いて来ながらも、なお旧文化や旧制度への愛惜あいせきが整理しきれず澱よどんでいた。そしてその跛行的はこうてき精神を天下一般のもののように誤認し、狭い知性の池に溺れている知性に過ぎないものとはみずから覚さとり得なかった。

再度、何事の召しであろうと、怪訝いぶかり顔に、各隊の部将たちは、呼び込まれた幕囲いの中に、膝つめ合せてひかえていた。

光秀の床几しょうぎに、まだ光秀のすがたは見えない。いま神前に御祈願中であるから、やがて程なく、これへ渡られるであろうと小姓組の者がいう。

そのうちに、幕を払って、

「やあ」と会釈し、また、

「おう」と、眼顔で挨拶しながら、近側の重臣たちが次々とこれへ入って来た。並河掃部かもん。進士作左衛門、妻木主計かずえなどである。最後に光秀は、老臣斎藤利三としみつ、一族の光春、光忠、光秋などと一緒にすがたをあらわし、中央の床几に倚よった。

「これだけか、物頭ものがしら一同は」

「左様です」

と、溝尾みぞお庄兵衛の答え。

三宅藤兵衛と今峰頼母たのもは、そのとき奥田左衛門尉さえもんのじょうを振り向いて、何か目じらせした。そして三名ともついと幕の外へ立ってゆく。はてなと怪しむまに、囲いの外は一隊の兵が取り巻いてしまったらしい。光秀の面おもてにもその用意が読まれたし、宿将たちの眼からも明らかにこの中へ無言の警戒が注がれだした。

やがて光秀が口をきって、

「家中は一体、わけてわが手足と恃たのむ旗本どもに、かかる備えをして、談合に及ぶは、水くさしと思うであろうが、天下の大事、われらの浮沈、今に期す大事を打ち明けるためぞ、悪しく思うな」

と、冒頭して、重々しく意中を打ち明けはじめたのである。

身を硬こわめて、その唇くちもとを仰いでいた部将たちは、いつか自己をも見失っていた。

「この身、まだわずか三千石より一躍二十五万石を拝領、以後、近江おうみ丹波にわたるこの位置、公私何くれとなき重恩、右大臣家のこの光秀に施されたる御恩は決して忘れるものではないが」

と、彼はまずそれからいって、次に、明智家が報じた数々の功を称たたえ、一転して、信州上かみノ諏訪すわで折檻せっかんをうけたこと、以後たびたび不興にふれ、高家こうけ大名たちの前では、忍び得うべからざる辱はじを蒙こうむって来たこと。かつは先頃、家康の馳走役を剥はがれ、世上一般のわらい草に供され、あまつさえ、中国出陣の上は秀吉の下風につけといわぬばかりな軍令をうけるに至っては、武門として、今は堪忍なり難い切迫というのほかはないということ。

さらに、それから、信長のために多年功労をささげては自滅し去った人々の先例をあげ、彼の無残苛烈かれつな性格の一面を抉えぐり、また叡山えいざん焼打のこと、義昭追放の件、そのほか彼の覇道的はどうてきな猛進をもって、信長こそ道義の敵、文化の破壊者、制度と伝統を紊みだす国の賊子ぞくしであるとなして、その末に、

「この程、光秀は一切を思い断たって、こういう述懐の一首を詠じた。そちたちはいかに聴くか。――心知らぬ人は何とも云はばいへ、身をも惜しまじ名をも惜しまじ」

自分の歌を微吟びぎんしてゆくうちに光秀は、われとわが身をあわれむような心地になって、はらはらと落涙した。宿老旗本、囲いの中の者すべて、みな嗚咽おえつし、或いはすすり泣いた。中には鎧の袖を咬かんで俯うっ伏す者さえあった。

中に、哭なかない者が一人いた。老将斎藤利三である。

さっきから耳かたむけて聞いていたが、光秀の言に、彼はまだ不備を見出していた。――全軍の中堅たる部将一同に、ここで天地神明にかけての誓いをなさしめるべくは、さっきからの光秀の言は、余りに述懐的だし、理論にわたり過ぎているし、また反対に、感傷に紊みだれている。

で、内蔵助利三としみつは、一同の悲涙と無念とを、血の誓約へ、一つに結びつけるため、突として、こう提言した。

「いかに各〻。われら風情をも、恃たのむべき輩やからと思おぼし給えばこそ、かほどの大事をも、お胸を割って、打ち明け下されたものと存ずる。君恥かしめらるれば臣死す。やわか殿おひとりのみに苦患くかんをおさせ申そうや。人は知らず内蔵助利三ごときは、あとも短き老い骨、一夜たりとも、己が主君を、天下様と仰ぎ、ひいてはお怨み積る右府信長公の滅落をこの目に見たら、もう死んでも思いのこりはない。――何と、そこらの若い方々にはどうじゃ」

すぐ左馬介光春が唱となえた。

「ことわざにも、天知る地知る我知る人知る、と申すたとえもあるに、悉ことごとく殿の股肱ここうとはいえかく大勢の中において、いったんお口にお出し遊ばされた似上は、何で今のおことばをふたたび世に包めましょうや。――さもあらば何の評議や要いり申さん。ただ驀まっしぐらの道ひとつ。斎藤どのならずとも、死に遅れはせぬ。のう各〻」

異口同音に、物頭たちは、おうっと答えた。おうっと一声にいう以外、ことばを知らないような感情の閃光せんこうが、面々の眸ひとみに見えた、ひッ吊れた唇くちに見えた、膨ふくらんだ鼻腔びこうに見えた、また呼吸に見えた、打ち顫ふるえる手脚に見えた。

「よしっ」

光秀が床几しょうぎを立つと、人々もその感動に乗って身をゆるがした。重臣たちは、出陣の吉例として口々に、

「目出度き御思おんおぼし召めしを立たせられ、事成就じょうじゅは必定ひつじょうにござりまする。室町家累代むろまちけるいだい御信心浅からぬ当八幡宮におかれても、御願ぎょがんをおききいれあらんこと、疑いもありませぬ」

と、賀を述べた。

四方田しほうでん政孝は、

「はや、酉とりの刻」

と、空を仰いで、発足はっそくの心支度を人々へうながしながら、

「これよりは、野路山路、およそ京まで五里、おそくもほのぼの明けには、本能寺をひた巻きになし得る。――その本能寺を五刻いつつ前(午前八時)にお片づけあって、二条の御所をも、一手をもってお討ち果しあれば、諸事、朝飯前に一決しましょう」

と光秀や光春へ向っても、確信にみちた口吻くちぶりで話していた。もとよりこれはここに始まった献策けんさくでも評議でもない。中堅の部将たちへ、すでに天下の事はわが掌てにありと、血ぶるいを励ますためである。

酉とりの下刻。山かげの道はすでに暗い。

鉄甲の人馬、一万三千余は、流れをなして黒々と王子村をすぎ、やがて老坂おいのさかへかかった。その夜の星の夥おびただしさ。都も同じ下だった。

本能寺ほんのうじ界隈かいわい

本能寺の空濠からぼりには、西陽にしびが赤く落ちていた。六月朔日ついたちは、一日じゅう京都もひどく照りついて、かなり深い濠の底まで、ところどころ泥の乾かわきを見せていた。

東西の築土ついじ一町余。

南北の築土二町。

濠はそれに併行へいこうして、幅は二間をこえ、通例のもの以上築土も高い。いわゆる町の城廓のそれとなき様式をこの本山日蓮宗八品ぽん派はの寺域もまた踏襲とうしゅうしていた。

で、往来からは、わずかに中心の伽藍がらんと、十数坊の大屋根が仰がれるだけで、外部からは窺うかがうこともできなかったが、ただ寺域の一隅にある有名な「さいかちの木」だけはどんな遠方からもよく見えた。その喬木きょうぼくを指して、

本能寺の森

ともいい、また、

さいかちの藪やぶ

とも称よんで、東寺の塔ほど、よい目じるしになっていた。

その高い梢こずえが夕日に染まるたび、きまってたくさんな鴉からすが一しきり噪さわぎぬくのだった。﨟ろうたけた人々がいかに潔癖けっぺきに雅みやびやかを守っても、夜の野良犬と夕方の鴉と朝の牛の糞ふんだけは除かれなかった。

もっともそれが今の京都をあらわしている文化の横顔といえるかも知れない。本能寺そのものも、外観はできているようだが、内部にはまだ多くの空地を残していた。天文年間の焼亡以前にはあったという二十坊舎の輪奐りんかんの美を完成するにはなお多大な普請ふしんを要するし、現に建築中の部分もあった。

また、外の本能寺界隈を見まわしてもそうである。惣門そうもん前通りから四条の方へ寄った往来は、所司代の第宅ていたくもあり、武家の小路もあり、町も整って、都らしくなるが、北側の錦小路にしきこうじあたりは、今なお整理されない貧民窟ひんみんくつが、室町むろまちの世頃をそのまま、島のように残っていて、そこの狭い往来などは、いまもってむかしの呼名の「尿小路いばりこうじ」で通っている。

宇治拾遺うじしゅういにいう

清徳トイウ聖ヒジリアリケリ、多食ノ人ナリ、四条ノ北ナル小路ニ、シ散ラシケレバ、下司ゲスナドモ穢キタナガリ、尿イバリ小路トツケタリケルヲ――

四条の南に綾小路あやこうじがあるゆえ、それと対比して以後は錦小路と呼ぶべしと、官から申しつけが出たことなどもあったらしい。だが、その面影は今も失われず、「さいかちの木」の鴉とこことは朝晩にがやがやと物音たかい生活力を昂あげていた。

「ばてれんが来たよ」

「ばてれんが行くよ」

「きれいな鳥籠持って、南蛮寺なんばんじの坊ぼんさんが通るよ」

ひん曲った板屋廂いたやびさしの下や、荒壁と荒壁の路地のあいだから、この界隈かいわいの子達が、あせもだの腫物できものだの、鼻くそ光りの顔をもって、羽の強い虫みたいにいま飛び出して来た。

三人のばてれんは、声をきくと微笑をもって、友人達を待つように歩を緩ゆるめた。

南蛮寺はここから遠くない四条坊門にあった。この界隈の貧民窟には、朝あしたに本能寺の勤行ごんぎょうが聞え、夕べには南蛮寺の鐘が鳴りひびいた。

本能寺の門は厳いかめしく、本能寺の僧衆はみな怖い顔して歩いているが、南蛮寺のばてれん達は、この汚い裏町を歩くときも、愛嬌あいきょうを撒まいて行くのを忘れない。

腫物おできの子を見れば、その頭つむりを撫でて療法を教え、病人のある家をのぞけば度々見舞って施ほどこして去る。夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、南蛮寺のばてれんが通りかかればその夫婦喧嘩にまで立ち入って、懇ねんごろに裁さばいてやる。

裁かれた夫婦者にはべつにありがたくも何ともないが、物見高い近所合壁がっぺきやまわりの見物は実に感心する。ばてれんは親切だ。ものがよく分る。ほんとに世の中のために働いている。できないことだ。やっぱり神の使徒つかいというだけのものはある――などと。

日頃にも彼らは単純に感心しているのである。ばてれんの社会救済事業は洛中洛外の野や橋の下にいる貧民や病人にまで及んでいて、その寺内には施療所だの養老院に似た組織まで設けているからだった。おまけにそこのばてれんはみな子供好きである。必然、子供の親はばてれんをみな神のようにいう。

ところが、このばてれんも、ふと往来で本能寺の僧と行き会いなどすると、なかなか子供に撒まいているような愛嬌は示さない。一敵国と見ている国の人間と出会ったように、じろと、碧眼へきがんを、投げたのみで通ってゆく。

だから尿小路いばりこうじの狭い路を遠まわりしても、なるべく本能寺の門前は通らないようにしている彼らだったが、昨日今日だけは、その本能寺のうちへ、身を屈かがめて日参しなければならなかった。さきおとといの二十九日の夜から、そこは右大臣信長の宿営となり、彼らにとっても、この日本で一番怖い人間が、つい目と鼻のさきに逗留とうりゅうしているからである。

今も。

名知らぬ南方の小禽ことりを黄金こがねの鳥籠に入れたものと、ばてれん達が本国から連れて来た料理人に製つくらせた南蛮菓子を器うつわに容いれた物とを捧げて、三名のばてれんは、これから信長の台下までそれを献上に行く途中であるらしかった。

「ばてれんさん。ばてれんさん」

「その鳥、なんていう名?」

「その筥はこん中、何?」

「菓子ならおくれよ」

「おくれよ。ばてれん」

尿いばり小路の子供たちは、忽ち道を阻はばめて、寄りたかったが、三名のばてれんは、うるさい顔もせず、片語かたことの日本語でにこにこ諭さとしながら歩いていた。

「これ、右大臣様へ上げる。勿体ない。みんなに上げるお菓子、南蛮寺へお母さんと来たとき上げる。いま、ありません」

それでも、なお、後に尾ついたり先へ廻ったり、ぞろぞろ取り巻いて来るうちに、その中のひとりの子が、本能寺の角かどの空濠からぼりの中へ、ぽしゃんと蛙かわずのような音をさせて落ち込んでしまった。

水はないので溺れる気づかいはないようだが、濠の底は沼に似た泥である。今そこに落ちた子は泥鰌どじょうのように踠もがいたため、あれよと上で騒いでいる間に、すぐ一命の危険となった。

大人でも落ちたがさいごやすやすと上がれない石垣だ。広大な、本能寺の地域を平均何尺か地盛りしたほどの土を浚さらった溝渠こうきょである。また万一の備えにも、この濠は、重要な意味をもつので、深ければ深いほどよいわけでもある。水の漲みなぎっている雨の夜など、よく凡下ぼんげの酔っぱらいなどが落ちこんで、中には溺死した暢気者のんきものすらある濠であった。

「たいへんだよ」

「おうちの腕白わんぱくが本能寺の濠へ落ちたとさ」

逸いちはやく、誰か知らせたとみえる。尿小路の近所合壁は、鼎かなえのわくような騒ぎで、親たちは跣足はだしで飛び出す。隣の夫婦や裏の老人も出て来る、娘も走る、犬も尾ついてゆく。文字どおりたいへんなことだった。

だが、その人達が、濠ほりばたまで来て見たときは、すでにその子は救われていた。掘りたての蓮根れんこんみたいに上げられて、わんわん泣きぬいていた。

それと二人のばてれんも、手や衣服を泥だらけにしていた。もう一名のばてれんは、咄嗟とっさに濠の中へ飛びこんだとみえて、これは後からようやく這い上がって来たが、ほとんど手も顔も分らない姿になっていた。

「わアい。ばてれんさんが鯰なまずになったい。赤いお髯ひげも泥ンこだい」

子供たちはそれを見て、囃はやしたり手を叩いたり、よろこび廻ったが、救われた子の親たちは、決して信徒でもないだろうに、

「神さま」

と、鯰なまずたちの足もとへ額ぬかずき、掌てを合わせたままありがた涙にくれていた。

そのほか黒山のようになった人だかりからも、口々にばてれんの徳を称たたえる声が揚った。自分たちの純朴じゅんぼくをもって、単純にみな随喜した。

「よいでしたね。この子には、天主様デウスさまのお守りがありました」

ばてれん達は折角これまで来たのにという悔いも惜しみも見せず、無駄になった献上の品々を抱えて、そのまま、後へ引っ返して行くのであった。彼らの碧あおい眼には、一箇の信長も、一箇の町の子も目的の対象としては、同じものに過ぎなかった。それがまた、この界隈かいわいの長屋から長屋へ話のたねになって、なお後々、どれほど大きな感激の波動になって行くかをも彼らはよく知っていた。

「――宗湛そうたん。見たろうが」

「いや、感心しました」

「怖いの。あの宗門は」

「怖い。ほんとに考えさせられますな」

顔見あわせて、こう嘆声を交わし合う声が聞えた。――その後の、ほかに人なき濠ばたにである。

ひとりは三十前後、ひとりはずっと年配をこえた老人だ。親子と見れば見えないこともない。堺さかい町人の大物とも少し趣は異るが、どこか大まかな幅と教養の奥行きがその人柄に感じられる。とはいえ勿論ふたりとも、ただ見ればただの町人ではあった。

ひとたび信長が泊まると、寺も単なる寺ではなくなってしまう。二十九日の夜以来、本能寺の惣門そうもんは、車駕輻輳しゃがふくそうして、出入りの諸人の雑鬧ざっとうは驚くべきものであった。

まさに、今この人の一謁いちえつを得ることは、天下の大事でもあるようなふうだった。そして信長の一顧いっこの言、或いは一笑にでも触れて退さがれば、献物の珍器宝什ほうじゅうや美酒佳肴かこうの百倍千倍にも値いするものを獲たような歓びを抱いてみな帰り去るのである。いわゆる御威光というものだろうか、人界に稀な人として自然に寄る徳望というものだろうか。いずれにせよ、不思議なばかり奕々えきえきたる人気の彩霞さいかが、本能寺の惣門から甍いらかにまで棚曳たなびいているのは事実である。夜霧へ映はえ射さすそこからの天明そらあかりは、尿小路いばりこうじの裏町からも仰がれるほどだった。

またこの両三日中の訪問者には、京都の名だたる貴紳きしんを網羅もうらしているといってよい。菊亭晴季きくていはるすえを始め、徳大寺、飛鳥井あすかい、鷹司たかつかさの諸卿。また九条、一条、二条の諸家も訪れ、きょう朔日ついたちの午ひる頃には近衛前久このえさきひさ夫妻がおそろいで見えた。これはだいぶ長時間いて戻ったが、その間にも聖護院の門跡もんぜき、諸山の僧、都下の富豪や諸職の名ある人々など、個人または公人として出入の絶え間もなかった。

「叔父さん。すこし此方こちらでひかえましょう。誰かまた御門へ入られるようですから」

「春長軒どのじゃろ。供の衆がそう見える」

ふたりは足を止めた。

さっき濠ばたの角では、大勢の見物の中に交じって佇たたずみ、尿小路の子やばてれん達が去ると、またぶらぶら濠のふちに沿って、惣門そうもんの方へあるいて来た彼かの二人の町人であった。

惣門の前には、今所司代の村井長門守ながとのかみ(春長軒)が供の者をひかえて佇んでいた。ちょうど内から出て来た貴人の輿こしに遠慮しているふうだった。間もなく輿こし、駕籠かごの行列につづいて、武者ぶりよい男が、二、三頭の鹿毛かげや葦毛あしげの駒を曳いて出て行った。武者たちは長門守の顔を見ると馬の口輪を片手に、辞儀して通った。

長門守の姿はその混雑が終ってから惣門の内へかくれた。また、それを見届けてから、二人の町人も、遠くからそろそろそこへ向って行った。

もちろん惣門の固めは厳重を極めている。出入する人々のすがたには見られない戦時下の眼光が鎗や長柄とともに光っているのだ。衛士えじすべて甲冑かっちゅうを帯し、怪しと見ればすぐ大喝だいかつして糺ただす。

「待てっ。どこへ行く」

二人の町人もこれを浴びた。

年上の老人が慇懃いんぎんに、

「博多はかたの宗室でござりまする」

まず、頭を下げると、次の若い町人もそれに倣ならって、

「博多の宗湛そうたんにござりまする」

と、いった。

番士たちには、それだけでは分らない顔つきがあったが、奥の衛士小屋えじごやの前で番頭ばんがしらの侍が、どうぞ、どうぞ、と笑顔で通行を促うながしていた。

夜よばなし

表御堂おもてみどうが建築の中心となっているが、人の中心は信長の座所にあった。本堂内陣ないじん横の橋廊下をこえ、さらに大廊下に従って、墨絵すみえの間ま、金碧こんぺきの間ま、何の間と、幾つも数えて行かなければ、彼の声は洩れ聞えて来ない。

その信長の声のする所、外にはせんかんと庭園の泉流せんりゅうがせせらぎ、向う側の幾坊の棟むねからは、折々、明るい女性たちの嬌笑きょうしょうが風に送られて来た。それはまた訪客たちの耳にもふと和なごやかな気きやすさを与え、峻烈しゅんれつをもって鳴る主あるじの一面に、べつな親しみを抱かせた。

「――そうか。……するとあすの朝はもはや住吉の浦から立つわけだな。老練な五郎左の佐たすけおることだ。諸事、安心いたしておると五郎左にも伝えおけ、信孝にもいえ。やがて中国で対面するであろう。信長も近日には下る」

信長のことばに、額ひたいを畳につけたまま、見上げも得ずにいる侍は、お座之間の次に姿を置いていた。いまし方がたこれへ、信長の三男信孝と丹羽にわ長秀の書をもたらして来た大坂表からの使いである。

その神戸かんべ信孝、丹羽五郎左衛門、津田信澄などの一軍は信長に先だって、諸般の軍備をととのえ、明朝兵船で住吉からまず阿波あわへ渡ることになっている。――その報告やら、また数日前に、大坂を去って堺へ入った旅行中の徳川家康の様子をも併あわせて告げて来たものだった。

「では、お暇いとまをいただきます」

使者は信長へ、また信長と対座していた織田家の嫡子ちゃくし信忠へ向っても、はるかに礼をして、それから少し膝の向きをかえ、なお一段低い所にいる所司代の村井長門守へも、同様に辞儀をしてからようやく退出して行く。

信長は、急に、気づいたように、暮色を見まわして、

「暮れたぞ。西窓のすだれを捲け」

と、小姓にいい、

「お汝ことの宿所も暑いか」

と、信忠にきいた。

信忠は父よりすこし先に入洛じゅらくして、二条城のそばの妙覚寺を宿舎としていた。父が入洛の夕も、きのうも今日もここへ詰めて、いささか疲れぎみでもある。で、きょうはもう暇を告げる考えでいたが、それを犒ねぎらう心か、信長が、

「こよいは内々で静かに茶でも喫のもう。きのう一昨日の両日は夜まで客だった。余りに閑ひまなきは精神こころの貧困を来す。遊んでゆけ、おもしろい人間にひきあわせてやる」

と引き止めるまま、否いなみもならず侍じしていた。

けれど、子としてのわがままをもしいわして貰えるなら、信忠はこうも云いたかったであろう。――それがしは生年しょうねん二十六歳、父の如くにはまだ茶も解しきれません。わけてこの戦国に閑かんを偸ぬすんで悠々風雅のみこれ事としている茶人なるものを忌いむこと甚だしいのです。折角おひきあわせて戴いても、茶人ではありがたくもありません。正直、一刻もはやく、弟信孝にもおくれぬよう、中国の戦陣に立ちたい武者心が逸はやり立つのみであります――と。

長門守も、きょうは所司代としてではなく、春長軒という、一箇の知人として、信長に招かれたらしいが、やはりどこか君臣という固さと職掌しょくしょうの範囲から解かれず、座談もどこかぎごちない。

このぎごちなさが、信長の嫌いの一つである。兵馬倥偬へいばこうそうの日常、政務の繁劇はんげきと、門客の出入りと、睡眠不足と、あらゆる公人的な規矩きくから寸分でも解かれて、ほっと一息つく間に、こういう光秀的な慇懃いんぎんに対していると遣やりきれない気がしてくるらしい。

すると、ふと、秀吉が思い出されてくる。

あれは屈託がない。と、慕わしくさえなって来るのだった。

「長門」

「はっ」

「子息はどうした。見えぬのか」

「伴つれ参りましたが、不束者ふつつかもの、わざと控えさせておきました」

「つまらぬ遠慮をする」

信長はつぶやいた。今夜は息子も連れて来いといったのは、気軽に語るためだ。君臣の接見ではない。

が、呼べともいわず、

「はて、博多の客衆は、どうしたかの」

信忠と長門をそこへ置いたまま彼は立って奥へ入りかけた。

小姓部屋で坊丸の声がしていた。何か兄の蘭丸に叱言こごとをいわれているらしかった。蘭丸兄弟は三名とも小姓組にいる。これはよく兄弟喧嘩の因もととなるらしい。すでに森三左衛門可成よしなりの子もみな成人したと今さら思い出されて来る。近頃それについて誰いうとなく、明智領の坂本四郡を父の遺領なるために蘭丸が欲しがっている、という風聞などがちらちら聞える。もってのほかなことだと、信長は今も思う。――しかしそういう世上の誤解をとくためにも、彼自身のためにも、いつまでも若衆めいた小姓姿をさせておいて近側に置くのはいけないことでもあると反省してみたりする。

「庭面にわもをおひろい遊ばしますか」

ふと、縁に佇たたずんでいたので、すぐその蘭丸が小姓部屋から走り出て、沓脱石くつぬぎいしに穿物はきものをそろえた。こういう気転と、使うに物柔らかなことが、つい側へおく人間には程よいので、いつか十数年も使い馴れたが、見遣みやりながら、

「いや、庭へ出るのではない。措おけ、措け」

と、控えさせて、

「暑かったのう、今日は」

「まことに照りつけました」

「厩うまやの馬はみな元気か」

「馬も少々弱り気味です」

「そうだろう。蜀しょくの劉備りゅうびではないが、信長の髀肉ひにくもすこし肥こえたからの」

と、ふと中国の空でも遠く思いやるか、夕星ゆうずつ仰いで深い眼を澄ましていた。

蘭丸は何ということもなく、信長のその横顔をじっといつまでも仰ぎ見ていた。信忠もうしろに来て佇たたずんでいたが、その人のあるも忘れて眺めていた。あたかも今生こんじょうの名残のように。

もし彼の霊能れいのうがその霊に自覚を持っていたならば、その時のふしぎな心理と、何ものか肌にそそけ立つような感じを、特にもっと意識してみたであろう。後に時刻をかがなえば、まさにその頃、明智光秀の軍は篠村しぬむら八幡を出て、老坂おいのさかの麓ふもとあたりへ来ていた時分であった。

大台所から吐かれる夕煙が寺内にたち籠こめ始めた。一切の煮焚にたきから炊かしぎや風呂も薪たきぎである。宵にかかる前の一刻はここばかりでなく洛中洛外が炊煙すいえんをたなびかせているのだった。これを東山あたりから眺めると壮観なものがある。

信長は風呂所で水を浴びていた。ここのも屋形造やかたづくりの蒸風呂で、汗を流して出たあとで水をかぶる。流し場は十坪もある広さで、高い切窓の竹格子に夕顔の蔓つるが白い花を一つ見せていた。

小姓達はいわゆるお湯殿ゆどの部屋二間にひかえている。衣服から髪までさばさばそこであらためて彼は橋廊下を戻って来た。と、その下から犬のように跳び出して、宵闇の庭面にわもに土下座した小者がある。その顔は闇より黒く、歯ばかり白く見えたので、

「誰だ」

思わず足をすくめた。

笑いながら後ろで小姓が答えた。

「くろんぼの御小人おこびとでございまする」

「あの黒冠者くろかじゃか。時々、黒には脅おどかされるの」

信長も苦笑した。

半年ほど前、新しく日本へ来たばてれんの一行は南から連れて来た黒人の奴隷どれいを安土あづちへ献上した。人間の献上物とは珍しい。もし自分が黒人国の王であるなら、たとえどんな貧家の子たりと、外国への音物いんもつに領土の人間は用いないであろうにと、彼はそのとき左右の者に語ったが、若い黒人は、なかなか愛嬌者に見えたので、御小人おこびとの中に預け、外出の時など、例の南蛮笠にモール織の羽織を着、馬のあとには、この黒人を供に連れ歩いたりなどしていた。

蘭丸が来て告げた。

「博多の宗室どのと宗湛そうたんどののお二人が、いつなとお越し賜わるようにと、お茶室の方にひかえられておりまする」

「もう見えていたのか」

「まだ明るいうちから見えられて、お茶室から露路の掃除、縁の雑巾ぞうきんがけまで、すべて人手を借らずお二人でなされ、宗室どのは水を打ち花を活いけ、宗湛どのは自身台所へ出られて、さし上げるお膳部のおさしずをなさるなど、傍目はためにも並ならぬお心入れのようでした」

「なぜ告げなかったか」

「いや、御両所のおことばには、席は御宿所でもお招きは我らでいたすこと、われらの亭主役なれば、構えて時刻までは、お取次なくとの仰せに、わざと申し控えておりました」

「なんぞまた、趣向しゅこうしているとみゆるな。信忠にも伝えたか。長門にも」

「これからお誘いに参りますので」

蘭丸が去ると、信長は一室に入って、すぐまたその足を一坊の茶室へ向けた。

特に数寄屋すきやめいた建物はない。席は書院であり、屏風びょうぶをめぐらして小間囲こまがこいを作ってある。

客は信長、信忠、村井春長軒父子、燭はすずやかに、囲いのうちは、人もなきかの如くひそやかであった。

けれどやがて茶事もすんで、広間へ座を移すと、客なく亭主なく、話は果てなく弾はずみ、夜の更ふけるのも忘れているかのようであった。

ここでは、茶の「寸法」も「清寂せいじゃく」も措おいて、客亭主、わけ隔てないくつろぎだけに、話も自然多岐たきにわたった。

信長はまた健啖けんたんだった。茶室でも一通り満腹したろうに、広間へ移ってからも、彼の前に供えられる木皿きざらや高坏たかつきはみな空からになってゆく。わけて紅玉べにだまを溶かしたような葡萄酒ぶどうしゅを愛飲あいいんし、時々、菓子器に盛ってある南蛮菓子を取っては食べ、かつ語るのであった。

「いちど宗室を案内とし、宗湛を供に連れて、ぜひ南を廻ってみたいものだ。宗室はさだめし幾度か巡ったことがあるのだろう」

「いや、この年にいたるまで、まだついぞ」

「ないのか」

「思いつつ行かれませぬ」

「宗湛は、若いし、健康に見ゆる。そちは行ったか」

「私もまだでございます」

「ふたりとも、まだ南を知らんのか」

「はい。持船の水夫かこ、店の者たちは、絶えず往来しておりますが」

「さりとは商売冥利みょうりのわるい。……信長などは望んでもまだ日本を離れてよい日を得ないゆえ、ぜひもないが、お汝ことらは、船も持ち、出店も持ち、便びんも常にありながら、なぜ参らぬか」

「天下の御事とは、忙しさがちがいますが、やはり何とはなく、家事にさえぎられ、つい一年二年とは、国を離れかねまする。……いずれ右府様にも、宇内うだいのことが、ひとまず御決着の日には、ぜひ宗湛とてまえとが、御案内に立ちまして、御一巡あそばしませ」

「ぜひ参ろう。宿願の一つとしておこう。――が宗室、その日までお汝ことは生きているか」

小姓に葡萄酒を酌つがせながら、信長が、老人の彼をからかうと、宗室も負けてはいないで、

「いやそれよりも、どうかてまえの生きているうちに、あなた様の御統業ごとうぎょうを、一日もお早く、宇内うだいに確しかとお示しください。そのほうが余り遅れますと、てまえもそうそうお待ちしきれないかも知れません」

といった。

信長は微笑をもって、

――「間もないことだ」

というような面おもてをして見せた。宗室から逆襲をうけたかたちであるが、こういう歯はに衣きぬを着きせないことばは、たまたま、信長をしてたいへん愉快にさせるものだった。

このほか、座談のうちには、信長の宿将たりともいえないような思い切った直言や、諷諫ふうかんを、宗室という男は、平気でいって退のけるのである。連れの宗湛もまだ若いくせになかなか辛辣しんらつなことをいう。

側にいた子息の信忠も、所司代の村井春長軒父子おやこも、それには時々はらはらして、

(あんなことを申し上げてよいものか)

と、虎威こいを窺うかがう程だった。

同時に、いったい、博多の町人というこの宗室、宗湛のふたりは、なにをもってかくまで信長の信寵しんちょうをうけているのだろうかを、注意せずにいられなかった。

単に茶人なるゆえをもって、茶友としてそれを信長がゆるしているものとは考えられない。

南みなみ

もちろん信長は詳くわしいに違いないが、たまたま、安土あづちで見かけたり、人のうわさや茶室づきあいの程度の者では、こう二人の町人が、いったい何の理由で、諸侯以上にも信長の寵ちょうと信用を得ているのか、その素姓すじょうと本質の理解に苦しむのは当然である。

――こよいは、おもしろい者に会わせてやる。

と、かねていわれていた信忠にしてさえ、時折には、面白くも何ともない顔つきが見える。

ただ信長と彼らのあいだに、ひとたび南のはなしが弾はずむと、これは信忠にも興があった。事々に耳新しく、彼の若い夢やら大志を駆りたてた。

ふかい理解のあるなしにかかわらず、南は今や知識ある者の関心の一つだった。眼ざめた天正の文化は、その本質の日本性に、急潮な海外からの文物に刺戟しげきされていた。鉄砲渡来以後の目ざましい社会面の変り方はそれによるものである。ぽるとがる、いすぱにや、などから相次いで渡って来た夥おびただしいばてれん達がその媒介者であった。

南の知識も、当初はもっぱら、そのばてれん達によって伝えられて来たものが多いが、ここに今宵いる島井宗室の如きは、必ずしも、それから示唆しさを得て今の家業を創はじめたものではない。

同行の神谷宗湛そうたんの父の紹策しょうさくなどは、もう天文初年頃から朝鮮へも渡っているし、中国にも行き、厦門アモイ、柬蒲寨カンボジヤなどとも交易していた。

それ以前の家の業はいわゆる鉱山師やましで、石見いわみ銀山の採掘さいくつをもっぱらにしていたものだが、同じ富を掘るものなら海外の無限な天地に求めるべきだと、貿易へ転業したのである。

「海の彼方だ。物は南にある」

と、頻りに彼を示唆したものは、後に西方から来たばてれんではなく、その地理上、当然、九州博多の一端を巣としていたわが和寇わこうの輩ともがらだった。

で、宗湛はその父の遺業をうけて、今では呂宋ルソン、暹羅シャム、柬蒲寨カンボジヤの数ヵ所に、支店まで設けていた。南支の櫨はじの実を移入して、製蝋せいろうの法を開き、内地の夜の燈火をより明るくしたのも彼であり、海外の冶金術やきんじゅつを入れて改良を加え、いわゆる南蛮鉄の製錬せいれんを齎もたらしたのも彼だといわれている。が、人もしその功を称たたえれば、

「そんな小さいことではまだお賞ほめにあずかる程なものではありませんよ」

と、むしろ辱はじ入るように辞を低めるのが常だった。

島井宗室も、同じ海外貿易を業とする町人で、宗湛の家とは親戚にあたっている。九州の諸大名でこの家の金を借りていない者はない。港には十数艘そうの大船と数百の小船を持ち、家には常にたくさんな武士と水夫かことも商人ともつかない男を養っている。彼らは疾とくに八幡大菩薩はちまんだいぼさつの船旗を下ろしていたが、海洋を見ること平野を視みるごとき胆たんと、小事に顧みることなく爛々らんらんの眼をたえず海潮の彼方に向けて、男児の業はそこにありとしている気質とは、今もまだ決して変っていない。

とにかく、ここでは一茶人にすぎないが、島井宗室も神谷宗湛も九州の家にはそういう事業をもっている人々だった。

総じて、ひとり武門の出にかぎらず、天正という今の世代を観みるに、町人の部門にも、実に、人物は在る。

武門に信長、秀吉、家康があれば、町の部門にも、町人の信長、町人の秀吉、町人の家康がいる。

それも九州博多ばかりでなく、堺さかいにはいわゆる堺商人の称もあるほど、天王寺屋宗及そうきゅう、千宗易、松井友閑など、当代の武将に伍しても、人物達識決して見劣りしない傑物は、何人となく数えられる。

地勢上、博多町人は、進取の気宇きうと、呑海どんかいの豪気に秀ひいで、堺町人は経営の才と、文化性に富み、またこれを政治に結ぶことを忘れない特性をもっていた。

貿易家とも呼べようし、政商ともいえるであろうそれらの町人に対して、信長は表面茶遊をもって接しているが、戦国下の経済から文化政策、対外国の諸問題、たとえば対ばてれん策、或いは、将来の海外雄飛にわたる抱負ほうふまでを、何くれとなく諮問しもんしていた。

信長の海外知識は、ほとんど、これらの人々から、茶をのむ間に、学び取ったものといっても、過言でないほどである。

いまも信長が、はなしに我を覚えなくなると、南蛮菓子へ手を出して、幾つでも食べる様子を見て、島井宗室が、

「それには、砂糖という物を用いてありますから、お寝やすみの前に、たくさんはおよしなさい」

と、注意すると、信長は、

「砂糖はどくか」

と、訊たずね返した。

宗室はそれに答えて、

「どくにはなっても、薬にはなりますまいな。いったい蛮土ばんどの物は濃厚のうこうで、日本の物は淡味たんみです。菓子でも、干柿ほしがきや糯もちの甘味で、十分舌に足りていたものが、砂糖に馴れると、もうそれでは堪能たんのうしなくなります」

「九州にはもうだいぶ砂糖が渡って来ておるか」

「あまり輸入いれません。じゃがたら砂糖一斤に、黄金一片の引き換えでは、余りにこちらの割があいませんから。――そのうちに砂糖黍さとうきびを舶載はくさいして、暖地に移植してみたらと考えていますが、莨たばこと同様これも国内に拡まっていいものか悪いものか、考えさせられます」

「そちらしくもない」

信長は一笑した。

「狭く考えるな。善いも悪いも、一括いっかつされて、舶載されて来るのが、文化の特質だ。低きへ水のつくように。ここ当分は、とうとうと西洋南洋からいろいろ雑多に入って来るだろう。いまやそれの東漸とうぜんは止まらない勢いにある」

「御気性として、その広大なおこころは分りますが、それに委まかせておいてもよろしいものでしょうか。……と致せば、てまえどもの商売はたいへんやりよいわけですが」

「よいとも、新しい物はどしどし輸入いれるがいい」

「ははあ」

「そのかわり、噛んで吐き出せよ」

「吐き出せとは」

「よく噛んで、よい質は胃に摂とり入れ、滓かすは吐き出してしまうことだ。それを四民が心得ておりさえすれば、何を舶載しようと仔細はない」

「いけません、いけません」

宗室は手を振った。頭から反対なのである。信長の言に対して、しかも国政の方針へ、彼は、ずばずば私見を述べるのであった。

「天下人のお大気たいきとしては、まさにそうあるべきでしょうが、近頃、心痛に堪えないものを見ておりますゆえ、にわかに御同意はできません」

「何を見てか?」

「異教の蔓延まんえんです」

「ばてれんの問題か。宗室、お汝ことも寺にたのまれたの」

「ちと、お蔑さげすみが過ぎましょう。大徳寺なども、こちらのほうがよいお客様ですよ。真実、国を憂いてのことでございます」

宗室は真面目に、国政上の進言を呈した。――きょう連れの宗湛そうたんと本能寺へ来る折、空濠からぼりに落ちた子どもを見かけた事実を例にあげた。それに対する三名のばてれんの行動が、いかに殉教的じゅんきょうてきで、庶民を感動させなければ措おかないものだったかを、まず話して、

「ここわずか十年ともいわぬうちに、大村、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても、先祖からの仏壇を捨てて、耶蘇教やそきょうに帰依きえする者がどれほどあるか底知れませぬ。右府様にはただ今、何を日本へ舶載しようと、噛んで吐き出せばよいと仰っしゃいましたが、宗門の儀だけは、さようにも参りますまい。噛めば噛むほど、魂までが、異教の風に化して、磔はりつけになろうと、首を打たれようと、異教を改めることは致しませぬでな」

信長は黙ってしまった。これは問題が深刻で一言にいうには大き過ぎるという顔いろである。

彼は、叡山えいざんを焼き、根来ねごろを攻め、日本在来の教団に対しては、かつての平相国へいしょうこくすらなし得ない暴をもって慴伏しょうふくさせて来た。弾圧などという、手ぬるいものではない。業火を降くだし、剣殺をもって臨み、為に一応の処理はついたかに見えるが、今なおその怨みは決して信長在る地上からは消ゆべくもあるまいことを誰よりも彼自身が知っていた。

その半面、宣教師らには、南蛮寺の建立をゆるし、布教を公認し、折々の饗宴にも招いたり、これを高野や根来ねごろの僧から見れば、彼はいったい、いずれを異国人として見ているのかと、大呼したいくらいなものがあったにちがいない。

燈情風心とうじょうふうしん

信長は説明を忌いむ。何につけ説明しきってしまうことが嫌いである。云いかえれば、人と人との直感を尊ぶ、というよりも、楽しむといった方が適切かもしれない。

「宗湛そうたん――」

と、こんどは向きをかえて、新たな相手へ、

「どうだな、お汝ことの考えは。お汝は若い、老宗室とはおのずから違うものがあるだろう」

宗湛は慎重な面かおをして、しばらく燭を見ていたが、はっきり答えた。

「やはり右府様の仰せられたように、異教のことも、噛んで吐き出す、で宜よろしいのではないかと思われます。いや唯今、そう、ふと覚さとりました」

「それよ。それ」

信長はわが意を得たもののごとく、転じてその眼を宗室へ、

「案じるな、大きく掴つかめ。いにしえ、道真公みちざねこうが、和魂漢才わこんかんさいと唱となえて、時人の弊風へいふうと、遣唐使けんとうしの制を戒いましめたことがあるが、唐風の移入も、西欧の舶載はくさいも、春なれば春風の訪れ、秋なれば秋風の湿しめり、この国の梅や桜の色は変らぬ。むしろ池水に雨が注そそげば池を新たにする。――本能寺の濠ほりを以て海洋を測はかるから間違ってくる。そうじゃないか、宗室」

「いや、分りました。まこと、濠は濠で」

「海の外は、海の外よ」

「老ゆれば、いつか島井宗室も、濠の蛙かわずとなりましたかな」

「どうして、そちは鯨くじらだ」

「いや、とんと、眼幅がんぷくの狭い鯨ではありました」

濠ということばから思い出されたか、気がつくと、伽藍がらんの天井高く、夜気やきは更ふけて、遠くに、濠の蛙の声がする。

「誰たぞ、白湯さゆを持て」

うしろに居眠っている小姓へいいつけて、信長はなお夜に飽かない顔をしていた。もう食べもせず飲みもせず、夜噺よばなしの興があるだけだった。

「お父上」

信忠は、膝を辷すべらしかけて、

「夜もだいぶ更けました。わたくしは、お暇いとまをいたします」

「まだよい。まだよい」

いつになく信長はとめた。

「二条ではないか。更けたとてすぐそこだ。春長軒はすぐ門前。博多の客殿は、まさか博多へ帰りもなるまい」

「いえ、てまえだけは」

と、島井宗室も帰る体ていを示して、

「明朝、会う約束の者がございますゆえ」

「では、泊るのは宗湛ひとりであるか」

「わたくしは、宿直とのいを仕つかまつります。茶室のあと片づけも仕残しておりますから」

「宗湛の泊るのは、信長のためではあるまい。大事な道具を携たずさえて来ておるため、道具の宿直とのいに残るのであろう」

「御賢察ごけんさつにたがいませぬ」

「正直に云いおるわ」

一笑してから、ふと後ろの床を振り向いて、壁間の一幅いっぷくを飽かず見つめ出した。

「……さすがに、この牧谿もっけいはよいの。近頃の眼福。信忠もよう観みておけ。これがかねて噂にも聞く牧谿の遠浦帰帆之図えんぽきはんのず。なんと宗湛そうたんは、憎い名幅を所持なす男ではないか。――が、この男、かほどな名画を持って、持ち負けせぬ男かどうかの?」

突然、宗湛、大口あいて笑い出した。これでこの男の面目は躍如やくじょと見えた。眼に信長もない笑い方である。

「宗湛、何を笑う」

すると宗湛は傍人を顧みて、

「ごらんなさい。右府様がまた例の神算鬼謀しんさんきぼうをもって、わたくしが所持の牧谿もっけいの一幅を、召し上げようとなされていられる。……この男が、遠浦帰帆えんぽきはんなど持って、持ち負けせぬかな? などというお言葉は、そろそろ乱波らっぱを放って、敵国を攪乱こうらんしにかかっているものです。――叔父御あなたの御秘蔵の楢柴ならしばの茶入れもお気をつけなさいよ」

と、なお笑い止まない。

これは中あたっていた。さっきから信長の眼はそれを明らかに渇望かつぼうしている。けれど、島井家の楢柴の茶入れも、神谷家に伝来する牧谿の遠浦帰帆も、ともに博多の名物として有名なものだけに、信長も無碍むげに云い出しかねていたのである。

が、いま、持主の宗湛のほうからこれを表面化してくれたのは、さほどお望みならば進上してもよい――と約束してくれたも同様だと信長は考えた。なぜならば、こう傍若無人に人を笑っておいて、そのあげくその人の欲する物は与えないという情理はあり得ないからである。

で、信長も、

「はははは、いや宗湛も隅にはおけない。信長の年頃ともならば、やがては遠浦帰帆を持っても然るべき茶人となり得よう。それまでは安土へ預け置くことじゃな」

と、戯れの裡うちに、真意を吐いた。

「これは、いずれに置くのが正しいか、数日後、堺さかいの宗易どの、宗及どのなどともお会いしますから、よく一同で熟議しておきましょう。まったくは、筆者の牧谿その人に糺ただすのが、いちばんですが」

信長の機嫌はいよいよ麗うるわしい。それからも侍臣が燭しょくを剪きること数度だったが、白湯さゆのみ飲みながらなお時の移るも知らない。

夏の夜とて、伽藍がらんの蔀しとみも扉もみな開け放してある。

そのためか、燈火の火色はたえず揺らぎ、夜霧の暈かさがぼっとかかって、牧谿画えがく遠浦帰帆の紙中の墨にまで滲にじみあうような湿度であった。

もし誰か、燈火占とうかうらないをなすものがいて、この夜の灯に対していたら、すでに何かの凶兆きょうちょうが、夜霧の暈かさや丁子ちょうじの明暗にも、卜うらなわれていたかも知れない。

表の寺門を叩く音がした。程経て近習から、中国の戦場からお飛脚がいま到着と披露してくる。

それを機しおに、信忠が立ち、宗室も辞した。

「……帰るか」

信長もついに一緒に起って、橋廊下のこなたまで共に歩いた。

「御寝ぎょしなされませ」

信忠はもういちど、橋廊下から父の影を振り向いた。

村井春長軒父子おやこは、その側に、紙燭ししょくを持って佇たたずんだ。もとより何の予感があったわけではないが、父子が今生の永別を一瞬惜しみあうために、その紙燭はしばし夜風に燃えているようだった。

本能寺十余坊の堂舎伽藍どうしゃがらんは、墨のように寝沈んで、夜は子ねの下刻げこく(午前一時)を過ぎていた。

九本旗くほんばた

老坂おいのさか。――ここから先は山城国やましろのくにになる。

丹波口たんばぐちから登りつめて、右すれば、山崎天神馬場から摂津せっつ街道、一路備中の国へつづく。

左に降りれば、沓掛くつかけ、桂川かつらがわをこえて、道はそのまま京へ入る。

光秀はここに立った。まさに頂いただきである。あたかもこの日までの彼の人生の如くここまで登りつめた。

道はふた筋ある。

なおまだ、彼の前にはそのいずれでも選べば選び得る二つが、最後のものとして岐わかれ目を示していた。

だが、一眸いちぼうに入る夜色は、もう何らの反省を彼に強しいるものでもなかった。むしろ宇宙は、この一箇の人間に宿命づけたものをもって、明日からの大きな世の一転革いちてんかくを約しているもののように、静かな星のまたたきを見せていた。

「…………」

休めの令は下っていないが、光秀の駒が止まったため、また彼のすがたが星空を衝ついてじっと鞍上あんじょうに坐ったまま、しばらく動きもせぬために、それを仰いで、前後にきらめく諸将の甲冑かっちゅうも、あとに続く夥おびただしい鉄甲の影、旗の影、馬匹の影も、黒々と立たち淀よどんで、そのあいだに汗を拭い、草鞋わらじの緒おを見、馬の口輪を持ちかえなどしていた。

「そこらに、清水が湧いているな。ちょろちょろ水音がするが」

一万三千という大部隊では、列の末の方は、まだ頂上に遠い坂道の途中に歩を止めていた。組々の部将は当然近くにいるが、中軍の幕将や光秀のすがたは伸び上がっても遥かで見えない。――命令もなし、何のために行軍が停頓ていとんしているのか、もちろん足軽組あたりには分らなかった。

「あった。……水がある」

ひとりが、道に沿っている崖の肌を探さぐって、ようやく暗がりの岩蔭に小さいせせらぎを見つけると、われもわれもと、そこへ寄って、竹の水筒へ清水を満たした。

「これで天神馬場までは助かる」

「兵糧は山崎か。いや夜が短いから、海印寺かいいんじあたりで暁あけるだろうな」

「日中は馬も疲れるから、なるべく夜のうち朝のうちに、道を捗はかどるお考えではないかな」

「そうありたいものだ。中国までは」

足軽たちはもとよりそれ以上の士分でも、物頭格ものがしらかくの部将以外、まだ何も知らなかった。

戦場はまだ遠い――としていたのである。組頭くみがしらの耳に入らぬ程度の囁ささやきや笑い声はそのゆとりを現わしている。中で一名、腹痛を訴えている兵があった。出陣早々もう病苦を訴えるのは何事だと同僚たちが咎とがめつつも励ますと、

「いや俺は、ふた月も前から腸を病み通しで、いまだに本復していないのだ。だがなあ、この御陣に洩れてはと、歯を食いしばって出て来たのさ。――老親としよりにも女房子にも、稀たまには、帰って功名ばなしの一つも聞かせ、一合のお扶持ふちでも御加増に逢って、歓ばせてやりたいからな」

列は前へ揺るぎ出した。粛々しゅくしゅく、行軍の足なみに回かえる。その頃から素槍すやりを引っさげた部将が、一倍大股な足どりで、絶えず隊側を監視しつつ進んだ。

左へ左へ。しかも黙々と。

軍馬は老坂おいのさかの分水嶺ぶんすいれいを東へさして降くだり始めた。西、中国への道へ折れたものは一兵もない。

(……はてな)

怪しみは眼から眼へ光った。だが怪訝いぶかる者もまた続いた。彼ら末輩は、ただ翻ひるがえる旗を仰いだ。

――この旗の赴おもむく道に間違いはないのだ! と。

戛かつ、戛、戛、石ころを蹴る馬のひづめに坂路はんろの急は度を加えてくる。たまたま、谷へ落ちてゆく石の響きはひどく大きい。

すでに一万余の隊列は、どうどうと、何物にも阻はばめられない滝津瀬たきつせの水にも似ていた。加速度に脚は早くなってくる。堰せくも止まらず、阻はばめるも堰せかれず、遂に、赴ゆくところまで赴くものとなった。

汗か露か。具足の肌着はすぐ濡れる。焔々えんえん、馬も人も、その喘あえぎに燃えてゆく。大枝おおえの山間を繞めぐりまた降って、淙々そうそうと聞く渓流のすぐ向うに、松尾山の山腹が壁のように迫って見えたときである。

「やすめ」

「腰兵糧を解け」

「馬にも草を飼え」

「火は焚たくな」

令から令が伝えられて来た。

ここはまだ山腹の沓掛くつかけの部落である。僅か十数戸の山樵やまがつや炭焼の小屋があるにすぎない。にもかかわらず、中軍の警戒は甚だきびしく、麓ふもとの方にも、過ぎて来た道の方にも忽ち哨戒隊しょうかいたいが配置された。

「どこへ行くっ」

「水を取りに渓たにへ降ります」

「隊伍を離れてはならぬ。他の者の竹筒から貰え」

崖道がけみちでこんな声もする。

士卒は腰兵糧を解いて黙々それに向い始めたが、口に噛む間の私語ささやきがだいぶ聞える。この山中で時ならぬ腹拵はらごしらえは何のためだろうと怪しみ合うのであった。すでに夕方篠村しぬむら八幡を立つ折に一食は解といてある。

なぜ山崎なり橋本なりで、夜も明けた頃、人里で馬を繋いではいけないのか。

彼らにはその疑いが解げせないと共に、どこまでも今なお中国へ向うのだという気持そのままでいたのだった。――なぜならば中国道には、老坂おいのさかの分れに限らず、この沓掛くつかけからも、右折すれば、大原野を経て山崎、高槻たかつきへ出ることはできるからであった。

だが、ふたたびここを立つと全軍の歩みはわき目もせず真っ直ぐに塚原へ降り、川島村へ出で、すでにして眼の前には、全軍おおかたの将士にとっては、真に思いもかけなかった桂川かつらがわのながれを四更しこうの空の下に見ていた。

「あ、桂川だ」

「桂川?」

俄然がぜん、士卒は譟さわぎ始めた。こう来ればこう出る当然な歩みをして来ながら、われにもあらぬ眼をみはって、一颯いっさつ、冷風に吹かれるや否、惣勢そうぜい足なみを竦すくみ止めた。

「しずまれっ」

「立たち譟さわぐな。濫みだりに私語するな」

馬上の物頭ものがしら幾名かが、動揺の見えた全軍に大呼しつつ駈け繞めぐる。

水明りに、また川風に、水色桔梗ききょうの九本旗は長竿ながさおを弓となすばかり、はためき鳴った。

「源右衛門、源右衛門」

騎馬の一将が高々と手を挙げて呼びぬいている。一隊の部将として右翼の端のほうにいた天野源右衛門は、お召しと感じたので、馬を隊伍の中へおいて此方こなたへ駈けて来た。

光秀は河原に立っていた。

炯々けいけいたる幕将たちの眼もとは源右衛門へ注そそがれた。霜鬢そうびん白き斎藤内蔵助くらのすけの面おもて、ほとんど仮面かとも見えるほど悲壮な気稟きひんをおびている左馬介光春さまのすけみつはるの顔。諏訪飛騨守すわひだのかみ、御牧みまき三左衛門、荒木山城守、四方田但馬守しほうでんたじまのかみ、村上和泉守いずみのかみ、三宅みやけ式部、そのほか幹部たちの夥おびただしい甲冑かっちゅうの影が幾重にも光秀を囲んで、鉄桶てっとうのごときものを作っていた。

いうまでもなく、ここの幹部だけには、やがて二刻ふたときとは経たないうちに、天下に何事が突発するか分っている。天下の何人たりと知るよしもない地異人乱ちいじんらんを、未然に知っているということのいかに空怖そらおそろしきものであるかを、さすがにここにいる面々とて、その眉目びもくなり五体なり、また、ことばの五声に包みおおせている者はない。

「寄れ。源右」

光秀自身からであった。近々とさしまねいて、

「はや夜明けも程なかろうず。そちは一隊をひきいて先へ川を渡れ。西七条から堀川へ出よ。仔細は、味方の内より駈け抜けて、万一、本能寺へ事を告ぐる者などもあれば、直ちに、これを斬って捨てる事一つ。また未明のうちとて、早立ちの旅人やら京に通う物売りなどは疾とく往来しているやも知れぬ。これに要意あるべき事一つ。――以上だ。すぐ先を駈けい」

「承知仕りました」

「あ、待て――」

と呼びとめて、また、

「同じ要意のために、疾とく、保津ほづの宿より山中の間道を経て、北嵯峨きたさがへ降り、地蔵院より西陣の道を備えつつゆく味方がある。忠秋、藤田伝五、並河掃部なみかわかもんたちの一隊だ。霧を隔てて同志打ちすな。桔梗旗ききょうのはた一本、竿さお横ざまに携たずさえて行け」

と、かさねて云った。

命令は緻密ちみつである。声は切れるように鋭い。いまや高度に働いている光秀の頭脳と、裂さけん一歩の前まで緊張している満身の血管がそれによっても分るほどであった。

天野源右衛門の手勢数百が、ざぶざぶと、桂川を徒渉としょうしてゆくのを見て、明け空近い旗風の下の一万余人は、いよいよ不安を募つのらせた。

光秀は馬上へ回かえった。

以下、続々駒の背へ移る。

わずかな遑いとまでも、すぐ駒を降りて、甲冑の重さを背から除いてやるのが、馬に対する武将の思おもい遣やりでもあり、また戦場を前にしての細心な備えでもあった。

「心得を触れおく。――聞き洩らして不覚すな」

光秀の側から物頭の一名が口へ掌てを囲んで、二度三度、大声を繰り返していた。

「馬の沓くつを切り棄てろっ」

触れの声の第一番から高く聞え渡った。

「よいかっ。馬の沓は切り棄てにいたせよ。――徒歩立かちだちの面々はすぐ新しきわらじをは穿はけ。山道で弛ゆるんだ緒おをそのままに穿いているなよ。緒はゆるく確しかと結べ。水に浸つかって足を食われぬ程に」

大音声だいおんじょうではあるが、物頭は噛んで含めるように、繰り返し繰り返し、その声もつぶれきるほど風の中で告げるのだった。

「――鉄砲組の者どもは、火縄切り、尺五寸に切り揃えろ。その口々に火をわたし、火さき五本ずつ逆さかさに提げて、かりそめにも、手ぬかりあるな。兵糧殻がら、身まわりの物、些細なりと、四肢のうごきに荷となるものは、何なりと後を思わず、川のうちへ投げ捨てろ。ただ得物得物のほか持つな」

触れは終った。

愕然がくぜんたる気色けしきが、全軍の上に、川波より明らかにうごいた。同時に騒然たるものが湧いた。声ともつかない、行動ともつかない。右を見、左を見、しかも私語は禁じられているので、ただその顔と顔との、何とも名状し難い、声なき声であった。

だが、どこを見廻しても、命令後、一瞬の間まも措おかず、忽ち行動は起されていた。それも迅速じんそく極まるもので、日頃の訓練にも勝まさるこの一斉な外面だけを眺めては士卒個々の心のなかに、前にいったような、遅疑ちぎ、不安、驚愕きょうがくなどが譟さわいでいるとは一見思われない程ですらある。

馬の沓くつ、火縄、わらじの緒、身拵みごしらえの構えまで、一瞬の動作が、大きな一体のすがたで忽ち終ると斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつは、老人とはいえ、百戦に鍛えた武者声をはりあげて、次の如き云い渡しを、文書から読み伝えるように云い渡した。

「――歓よろこばれよ面々。今日よりして、わが殿、惟任これとう日向守様には、あやまりなく天下様にお成り遊ばさるるにてあるぞ。ゆめ疑うな。足軽、草履取の末とても、勇みよろこび候え」

声はその位置から遠い足軽草履取の端にまでよく届いた。死せる如くみな呼吸いきをとめていた。――が、この一呼吸の後にあらわれたものは、歓びでもなく、喊呼かんこでもなく、哭なくが如き蒼白な戦慄せんりつと無言の硬直であった。

内蔵助は、眼を閉じてなお一倍、われをも励ますかのように叱咤に似たことばで告げた。

「今日を措おいてあるまじき日はまさに明けようとするぞ。手柄あれ各〻。侍分さむらいぶんにはわけても恃たのみ参らすぞよ。よし斃たおるるも、兄弟きょうだい子こある者には、跡職あとしきの儀は申すに及ばず、兄弟子なき者どもとて筋目筋目の縁を尋ね出し、後々の跡目恩賞は決して相違あるものではない。尤もっとも働きの高下にはよるが」

終りに至って、内蔵助の語気は著しく昂あがらなかった。これはもとより光秀の命による布告で、彼としては何となく、自身の心にそぐわぬものがあったのではあるまいか。

「いざ、渡れ」

天はまだ暗い。

桂川の流れは、一時、徒渉としょうの陣馬の堰せきにせかれて、対岸まで幾条となく白々と逆捲さかまいた。

振り返れば、もう桂川の中には、余あましている人数もない。

濡れ草鞋わらじを踏み叩いて、全軍は身ぶるいした。身は濡らしても、火縄を濡らした兵はなかった。

膝ぶしまで浸つけた清冽せいれつは氷よりも冷たいものだった。そのあいだにも将士は思い思いの考えを抱いたに違いない。――徒渉にかかる前に物頭と老臣から云い渡された戦闘に入ることばについて。

(さては、徳川殿を討つのだ)

こう判断していた兵がまだ大部分であったろう。漠ばくとして、

(いま討つべき者としたら、徳川家康を措おいては、手近にはいない)

と、思いつつまた一方で、

(それにしては、今日よりわが殿が、天下様に成られるとはどういう意味か)

を頻りに考えた。

そこまで思い及びながら、まだなお念頭に、信長の名は敵として思い出されて来ないほど、彼ら明智一家の将士は道義人倫に一筋な者どもだった。迂遠うえんといえばいえるが、その道義に固められて来た頑固な一筋気は、物頭格より組頭、組頭よりは小頭、小頭よりは足軽草履取といったような末の者ほどそうであった。これを無智単純と見、或いは慾に釣つられての附随ふずいとし切るのは、この場合、余りにも傷いたましい数すうである。

「おお、明けてきた」

「はや夜明けだ」

ちょうど如意にょいヶ嶽たけと東山のあいだあたりに当るだろう。一朶いちだの雲の縁ふちがキラと真っ赤に映はえた。

ひとみを凝こらすと、京都の町も、暁闇ぎょうあんの底に、見えないことはない。だが、老坂や三草みくさの丹波堺ざかいをふりむくと、まだ鮮明な星が数えられた。

「や、死骸だ」

「……ここにも」

「おっ、彼処かしこにも」

道はすでに京都の西七条の入口に近い。東寺の塔の下までも、所々の藁屋根わらやねや森を除く以外、右も畑、左も青田、いちめん露をおびた耕地であった。

その道傍みちばたの松の根方や、往来の真ん中や、いたる所に死骸が倒れていた。みなこの近くの農民らしい。茄子なすの花の中へ、眠っているような顔を伏せて、笊ざるを抱いたまま一太刀に斬り殺されていた若い娘もある。

血しおは今こぼされたばかりに見える。朝露よりも新しい。思うに本軍の前を先駈けして行った天野源右衛門の手勢が、早起きする農民たちの姿を田や畑に見かけて、大事のためには代えられじと、その無辜むこを愍あわれみながらも、逃げるを追って刺し殺し去ったものにちがいない。

地に鮮血を見、空に鮮紅な雲を仰いだとき、光秀は、手の鞭むちをやにわに挙げて、

「本能寺へいそげ。本能寺を覆おおい包め。――光秀の敵は、四条本能寺と、二条妙覚寺みょうかくじの内に在あるぞ。行けッ、行けっ。踏みおくるる者は斬るぞ」

鐙あぶみの革も断ち切れんばかり鞍腰くらこし上げて絶叫した。

それを戦機として、水色桔梗ききょうの九本旗は、三旗ずつ三部隊にわかれ、七条口を突破して、中町の木戸木戸を踏みやぶり、いちどに洛内らくないへ混み入った。

鼓譟こそう

時をあわせて、五条の木戸、四条三条筋の木戸木戸へも、明智軍は駈け分れて殺到した。

まだ霧こそ深いが、東山のうえは紅々あかあかと黎明れいめいに染められている頃なので、往来人のために、常のごとく木戸の潜くぐりは開かれていた。

その潜くぐりからどうと、馬も人も、槍も鉄砲も、押し合って混み入ろうとした。旗竿はたざおは寝かして通った。この混雑をながめた部将は、

「押すな、慌あわてるな。後の隊はしばらく潜りの外に待て」

と、一応、むりに抑えて、大扉おおどのかんぬきを抜き、八文字に開け放してから、

「それ、通れ」

と、大声で励ました。

本能寺の濠ほりに迫るまでは、枚ばいを銜ふくんで、喊声かんせいを発すな、旗竿も伏せてゆけ、馬も嘶いななかすな――と軍令されていたが、ひとたび木戸を突破して、町なかへ駈け入るや否、明智の部下はすでに、半ば狂乱の状態をあらわしていた。

前の方で、わあっと、吾れもなきかのような声があがると、駈けつづく中ほどでも、わあっと叫び、後の方でも、わあっと呼応した。

その喊声かんせいのつむじは、何とも名状しがたい卒伍そつごの感情をふくんでいた。怒るが如く、猛たけるが如き中に、悲痛哭なくが如き絶叫も交じっていた。

町々はまだしずかな朝霧につつまれて眠っていたし、ここにはなお侵おかすべからざる聖域のあることは、卒伍の端といえど深くわきまえている。

よし、いかなる匹夫下郎ひっぷげろうにせよ、都といえばすぐ、大君のおわします都、華はなの都、文化の都――と、あらゆる意味においての平和と伝統への尊敬がその観念のなかに泛うかび出ずにはいられない。

――行け、本能寺へ。

反そむき得えない主命に従い、また武門同士の後ろ見できぬ気持に押し押されて、彼ら卒伍の者たちは、いまや自分自分の踏み込み難い観念の一線からまず眼をつぶって踏み越える気もちであった。――わあっという声の中に血をもっているような声のあらしは、そのせつなに、彼の脳膜のうまくを半狂態にして捲まき揚ったものである。

「なんじゃ?」

「何事かよ?」

愕おどろいて、彼方此方かなたこなたの家で、戸の音も聞えたが、外を見ると、みな首をひそめ、もとのように急いで戸をたててしまった。

こうして七条、四条、三条の各方面から本能寺へひた寄せに押し縮ちぢめて来た幾部隊かのなかで、もっともはやく本能寺へ接近したのは、明智左馬介さまのすけ光春、斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつなどの率ひきいる一軍で、わけて利三のすがたは、その中でもかなり先方に見られて、

「霧の小路はうす暗い。抜け駈けせんと、町辻を踏みたがえるな。――本能寺の森は、さいかちの木が目印めじるしぞ。その大竹藪おおたけやぶを、雲のすきに目あてとせよ。あれだ。あれこそ、本能寺のさいかちの木」

と、この朝をもって老いの武者声の一期いちごと誓っているもののように、馬上、天をつくばかり指揮の手を振っていた。

べつに明智光忠の率いる第二軍と称するものの行動がある。これは三条筋へあふれて、煙のごとく辻々をよぎり、二条妙覚寺へさして包囲形を作りながら取り詰めた。いうまでもなくそこに宿泊している信長の長子信忠を、本能寺方面と、ときを同じゅうして、討ち果すためである。

ここと本能寺との距離はいくらもない。すでにその頃、暁闇ぎょうあんをへだてて、本能寺方面の空には何とも形容し難い物音が揚りはじめていた。いんいんと吹き鳴らす陣貝の音や鉦鼓しょうこのとどろきも聞えた。それは、天を震い地を揺るがすといっても、決して誇張ではないほど、この世の相すがたをただならぬものにした。およそこの朝、洛内の全市民は、寝耳に水をあびて刎はね起きたか、家の者に絶叫されて、飛び起きなかった者もあるまい。

禁裡の諸門をめぐる公家くげたちの、常にはひっそりしている第宅ていたくの地域ですら、忽ちさまざまな物音や人声が騒然と起った。それらのものと鼓譟こそうする軍馬のひびきで、一瞬、京都の空はぐわうと鳴るような思いがあった。

けれど、市民の狼狽ろうばいはせつなの寸間だけで、堂上やしきも一般民家も事態を知った直後には、却って、寝しずまっていた前よりも、ひっそりとしてしまった。もちろん人っ子ひとり往来をあるく影もない。

外はまだなお、ようやく咫尺しせきに人顔の見わけがつく程度であったから、妙覚寺へ向った第二軍は、べつの小路から迂回した味方の影を敵と疑ったり、また部将が、

「号令のあるまでは撃つな」

と、かたく戒いましめても、辻の曲り角へ来ると、気の逆上あがっている卒は、忽ちパチパチと霧の中を銃を盲射もうしゃし始めていた。

硝煙しょうえんを嗅かぐと、なおさら彼らの気はそぞろに猛たけり紊みだれた。この状態は、何度戦場を踏んだ卒でも、捨身になりきれるまでの間には、どうしても一度は通る気持だった。

「おっ、彼方あっちで貝や鉦かねが聞える。――始まったぞ、本能寺の方は」

「やっているな」

「やっているっ」

彼らは自分の足が地についているかいないかも覚えなかった。駈けつつもまだこんな声が誰の口からともなく衝ついて出るほど前面に何の抵抗も現われていないのに、満身の毛穴はそそけ立ち、その鳥肌になった顔や手に冷たい霧があたって知覚もないようなここちであった。なにか、声を発しないではいられないような気もちに揺ゆりあげられた。

為に、妙覚寺の築土ついじを見ないうちに、ここでも、わっと喊声かんせいをあげてしまった。突如として、部隊のさきの方でも、わあっと答え、また金鼓乱鉦きんこらんしょうを急拍子に鳴らし始めた。

光秀は第三軍にいた。

彼のいるところ即そく本営といってよい。その本陣は堀川に駐とどまっていた。一族の十郎左衛門忠秋、御牧みまき三左衛門、荒木山城守、諏訪飛騨守すわひだのかみ、奥田宮内おくだくないなどに取り巻かれ、床几しょうぎはそこにおいてあったが、一刻ときもその床几に倚よっていなかった。そして全身を耳にして、雲の声、霧のさけびを望みながら、たえず二条方面の空を見ていた。

刻々、朝雲の紅あかさは漲みなぎっていたが、まだ火もあがらない、煙も見えない。

一杓いっしゃくの水みず

信長は、ふと眼ざめた。

何に刺戟されたというわけではない。熟睡のあと、いつもの朝のごとく、極めて自然に、醒さめかけたのである。

早起きは彼の習性であった。どんなに遅く寝ても、未明に眼をさますことは、若年からの生活が自然に躾しつけてくれたものだった。それともうひとつ彼には彼特有な習性があった。

眼がさめたとたん――まだ眼がさめたともはっきり意識せず、もちろん枕から顔もあげないうちのことである。だからそれは、夢から現うつつへ転じる電瞬のような秒間であるが、その短いあいだに、彼の頭の中では、実に、さまざまな想念が、あたかも電光いなずまのごとき速度で往来するのであった。

多くは、幼時から今日までの、あらゆる体験と、現在の生活にたいする反省をなしている場合が多いが、将来の理想とか、明日あしたの備えとか、或いはその日に成し果たそうとすることなども、その夢うつつの間に、考えるともなく考えるのである。

習性というよりは先天的なものかもしれない。幼少すでに彼は稀代きたいな空想児だった。だが生おい育つに従って、荊棘けいきょくの現実は、空想の子を空想の中にのみ夢みさせておかなかった。現実は艱難かんなんまた艱難を与えて、彼に荊棘を切り拓ひらく快味を教えた。

試ためされては剋かち、剋かっては試されつつある成長の期間に、遂には、与えられる艱難を征服するだけに止まらず、求めて艱難へ突入し、艱難をうしろに振り向くときの愉快な人生を、人生の最大なよろこびとなすことを覚えた。さらに、それから得た自信に固められた信念は、いつか世人の常識をはるか超えた上に住むような心態しんていになっていた。安土あづち以後にいたっては、およそ、彼の限界には、いやまだ構想中の思界においても、不可能というものはなかった。なぜならば、彼の今日までの業は、ことごとくみな世人の常識外に出て、不可能を可能として来たことばかりといってもよいほどの道だったからである。

――今朝も。

眼はさめても、なお意識まではさめきれず、血管のなかにはまだ夜来の酒気もそのまま香かおっているかのような夢中と現身うつしみの境に、彼の脳裡のうりには、南方の島々や高麗こうらいの沿海や、ゆくてに大明国だいみんこくをさしている大船列や、その船楼に立つ自分のすがただの、宗及や宗室のすがたまでも描かれていた。いやもうひとりそこにはぜひ秀吉もいなければならないなどと思ったりした。生涯のうちいつかはと実現を期していた日も遠くない心地がしていた。

彼の意中ではすでに、中国九州の統一のごときは、終生の事とするに足らないとしていたのである。

「……明けたな」

つぶやいて、寝所を出た。

廊へ出る所の重い杉戸は、工匠たくみの精巧せいこうな工夫で、引くと自然に、キリキリッと閾しきいが啼なくようになっている。遠い小姓部屋の者も、それを聞けば、すぐにがばと眼をさますのであった。

油で拭き磨いたような太柱や板縁を、紙燭ししょくの光がてらてらと揺れうごいて来る。お目ざめ――と覚さとって、厨くりやのわきのお手水ちょうずの間まへ足を急がせて来る小姓の森坊丸ぼうまる、魚住勝七、祖父江孫丸そふえまごまるなどであった。

その途中、寝殿の北廊下のほうで、カタンと切窓の蔀しとみを上げる音が聞えた。小姓たちは、

「殿?」

と、思ったのか、足をとめて、覗のぞくように、そこの袋廊下を振り向いた。けれど奥に見えた人影は、涼やかな大模様の帷子かたびらに、住吉の松と吉野の桜を染めわけたうちかけを掛けて、その背までみどりの黒髪をうしろへ辷すべらせている女性であった。

蔀しとみをあげたそこの窓に、桔梗ききょう色の暁空あけぞらが切り抜いたように望まれた。そして吹き入る風にその人の黒髪が揺れ、小姓たちの佇たたずんでいるところまで、伽羅きゃらの香においが送られて来た。

「あ、あちらに」

小姓たちは駈け出した。厨くりやの方に水音を聞いたからである。

庫裡くりの寺僧も起き出ていないので、当然、天窓たかまども大戸もまだ開け放されてはいない。それにおそろしく広い厨くりやの土間や板の間には、まだ昨夜の闇と蚊うなりもそのまま残されているので、夏の朝の何ともいえない温蒸うんじょうがむっと顔の脂あぶらを撫でるのであった。

信長はその甚だ爽さわやかでない一刻ひとときが人いちばい嫌いである。彼が寝所を出たと思うと、いつも小姓たちが駈け寄るのも間にあわないほど、朝のうがい手水ちょうずは迅速だった。いまも仮の便殿に入ると、筧かけひの注いでいる大甕おおがめのかたわらへ寄って、自身小桶をつかんで塗ぬりの盥たらいにそれを汲み入れ、まるで鶺鴒せきれいのようにあたりを水だらけにしながら、せっかちに顔を洗いぬいていた。

「あ、お袖が濡れまする」

「お水をおかえいたしましょう」

小姓たちは恐懼きょうくして、ひとりは慌あわてて信長のうしろからその白綾しろあやのたもとを持ち、またひとりは水を汲みあらため、さらに一名は手ぬぐいを捧げてその足もとにひざまずく。

ときを同じゅうして、侍部屋の人々も、宿直とのいの間を立ち、御殿の妻戸を開けているかのような気配だったが、折ふしはるか表御堂おもてみどうの方にあって、ただならぬ物音がしたと思うと、遠くからこの奥殿へ向って、だ、だ、だ、だっと烈しい跫音あしおとがとどろいて来た。

信長は、鬢びんの毛のしずくもそのままきっと振り向いた。そして、

「見て来いっ。坊丸」

と、性急に命じてから、その後で、手にしている布で面おもてをつよく拭きこすっていた。

「表御堂おもてみどうの御番衆が、争いでも起したのでございましょう」

そのときもう彼の後ろへ来て侍列じれつしていた山田弥太郎、今川孫二郎、薄田すすきだ与五郎などは、問われるともなくこう答えたが、信長は否いなともいわず頷うなずきもしなかった。そしてその眼は一瞬、深淵しんえんの水にも似て、外へ求める光よりも、彼自身の内に澄んで、自身の記憶の中のものを探し求めるかのように耀かがやいていた。

それは実に束つかの間であった。

表御堂ばかりでなく、ここの客殿も、棟から棟へつづく十幾坊の堂舎も、たとえば地殻から揺りあげて来た地震ないの力にでも委まかされているかのように、何とも名状しがたい物音と凄愴せいそうの気にくるまれて来たのであった。

「……?」

こういうとき、いかなる人間の思力も、他に紊みだされずにはいられない。信長の面色も血を退ひいていた。近衆小姓の面々もさっと色を失っていた。

それも呼吸の数にすれば、わずか七息か十息の間に過ぎない佇立ちょりつであったろう。忽ちすぐ近くの大廊下を非常な迅さで駈け過ぎようとした人影があった。烈しい声でつづけさまに、

「殿っ、殿っ」

と、その血まなこは、あらぬ方へ求める人を捜さがしていた。

小姓たちは、一斉に、

「森どの、森どの。殿は、こちらですぞ」

と、声を合わせて、居どころを示し、信長自身もまた、

「於蘭おらん、於蘭、どこへ参る」

と、呼ばわった。

「おうっ、そこにおいで遊ばしましたか」

森蘭丸なのである。のめるようにひざまずいた彼の姿を見ただけで、信長はすでに五体の皮膚から感じていたこの異様なるものの気はいが、決して表御堂のさむらい達の争いや厩者うまやものの喧嘩などという生やさしいことではないことをなおさら強く覚さとった。

「於蘭、何事が起ったのだ。そも、何を騒動しておるのか」

早口にこう問うと、蘭丸もまた、より早口に、

「――明智の者が推参すいさんいたしたのです。まぎれもなき桔梗旗ききょうのはたを振り譟さわいで」

「なにっ、明智?」

愕然がくぜんと出た一語には、まったく予測も夢想もしていなかった驚き方が、余すところなく現われていた。しかし、それによって起る肉体の異様なる衝動も感情の憤激ふんげきもことごとく彼の唇くちもとにきっと結び止められたまま表面の彼なるものは常の信長とそう変らない程に平静を保ちながら、やがて次の一語をその唇から唸うめくように洩らした。

「明智か。……是非もない」

身をひるがえすと、信長は居間の内へ駈け入った。蘭丸もその後を慕したいかけたが、五、六歩立ち戻って、うろうろする小姓の面々へ、

「各〻は、はや出合え。坊丸には今、縁まわりの大戸妻戸など、めったに開け放つなと、云い触れさせた。諸所の戸口に立ちふさがり、殿の身近に、敵を寄らすな」

と、叱咤しったした。

そのことばも終らぬうちに、雨の土砂でも横ざまに打ぶっつけて来るように、厨くりやの戸や近くの窓などへ、ばしゃばしゃッと矢や弾丸たまがそそがれて来た。板戸を深く射抜いた矢は、そのするどい鏃やじりの光をすでに何本も植えて、屋内の者へ戦いを宣していた。

推参すいさん

六角の南、錦小路にしきこうじの北、洞院とういんの西、油小路の東、本能寺の四面両門はもう明智勢の甲冑かっちゅうと、先途せんどを争う寄せ声で埋まっていた。

が、濠ほりを前にしているので、一見難なく見えるそこの築土ついじへも、たやすくは取り付かれなかった。槍、旗竿はたざお、鉄砲、長柄ながえなどの林が犇ひしめき動いているに過ぎなかった。

「なんの」

「われこそ」

と、無碍むげに逸はやって、その中から築土の根がたへ跳んだ者も、跳び損ねた者も、例外なく濠の中へ落ち込んでしまった。具足の重みもあるため、そこへ落ちたがさいご、腰の辺まで異臭を持つおはぐろのような泥土の沼に埋められ、あがいても叫んでも、戦友すら顧かえりみてくれないのである。

錦小路側がわの一部隊は、すぐ附近の貧民窟ひんみんくつの民家をぶちこわしにかかっていた。潰つぶされた家の下から嬰あかン坊ぼうを抱いた女や老人や子どもらが、貝殻の中から逃げるやどかりみたいに逃げ散った。またたく間に、明智勢は柱を運んで濠へ渡し、戸板や屋根をもって濠を埋めた。

どっと、われがちに築土へたかる。鉄砲組は銃をそろえて、その上から内部の伽藍がらんへ向って、第一弾を撃ちこんだ。

そのときまだ本能寺の境内も、諸坊の建物も張合いのないほどひっそりしていた。表御堂おもてみどうの扉ともすべて閉まっていて、この内に目ざす敵が在るや否やを疑わしめるほどだった。

この朝の火の手と煙は、本能寺の外の尿小路いばりこうじから先に揚ったのである。ぶちこわされた家屋の下にあった火気が忽ちいぶり出して苦もなく次々の板屋建てを焼いていった。そのためにこの一劃いっかくの貧しい住民はおたがいに踏み殺し合うような騒ぎを捲き起して、泣き喚わめきながら一物も持たずに河原や町の中へあふれ出した。

これを正反対の惣門そうもんの方から望むと、あだかもその煙は、すでに裏門を突破した味方が、庫裡くりへ火を放つけ始めたかのように思われた。で、正門の前へ雲集した第一軍の主力は、

「裏門の味方におくるるな」

と、猛たけり合あい、刎橋はねばしの此方でただ時を移しているかのごとく揉もみ揺れている将校の一団にたいして、

「踏みつぶせ」

「押し通れ。何をしている」

と、うしろの卒伍から呶鳴る声すら沸わいていた。

これはそこに立った三宅式部みやけしきぶや村上和泉守などが、門内の番士へ向い、

「これは中国へ下る明智の軍勢に候うが、右大臣家の尊覧そんらんを仰ぐため、勢揃いして罷まかり越え候。御開門を乞こう」

と、奇略を試みて、惣門の扉とを敵に開かせようとしていたために、却って手間取っているものだった。

けれどもとよりこれほどな空気を門衛の将士が不審に思わぬわけもないし、また信長の意も伺わず一存で開門する理由もない。

「待て」

と、一言聞えたのみで、それきり門内の声のないのは、急を表御堂へ告げて、咄嗟とっさの防禦に狂奔きょうほんしているものに違いなかった。

これしきの濠ほりを越えるのに計はかりごとを用いるなど、もどかしと見て犇ひしめいていた後ろの将士は、そことはべつに、どうと前列を押して、

「かかれ、かかれ。何を猶予ゆうよ」

「築土ついじへ取りつけ」

と遮二無二、槍の一番口を取ろうと競きそい合って、怯ひるむ者は、押おし除のけ押し倒した。

為に、前列の一部はいやおうなく、濠の中へ突き落された。わっと濠の底でも上でも喊声かんせいを沸たぎらせる。ほとんど故意に、そこをまたうしろの組が押す。また落ちる。また押し雪崩なだれる。――みるまに空濠の一ヵ所は泥土にまみれた人草で埋まった。

「御免」

と、一人の若い母衣武者ほろむしゃが、その人間のかたまりを踏みつけて築土の根がたへ跳びついてゆく。

それに倣ならって、また一人が、

「踏まれていろ、踏まれていろ」

と、呶鳴りながら、槍の石突いしづきを突きながら、踏み渡って、早くも築土のうえへしがみついた。

濠の中の人草は、刎はね出そうとする泥鰌どじょうのように揉もみ合ったが、その背を、肩を、頭の上を、次々に味方の者の武者草鞋わらじが踏みこえてゆくので、惨たる犠牲になっている。

しかしその隠れたる勲功者のために、はやくも本能寺の墻壁しょうへきの上には、明智の三羽鴉さんばがらすと呼ばるる古川九兵衛、箕浦大内蔵みのうらおおくら、安田作兵衛の輩ともがらが、

「一番っ」

と、誇って呼ばわる声がとどろき、またそれらの者といずれが先か後かも疑わるる程、むらがり攀よじた武者たちのうちには四方田又兵衛、堀与次郎、川上久左衛門、比田帯刀ひだたてわきなどの勇姿も見えた。

当然、築土ついじの内側には、すでに門側の衛門小屋や厩うまやの辺りから駈けつけた織田のさむらい達が、得物えものを選ばず押っ取って、奔河ほんがの決潰けっかいをふせぎに当ったが、まさに切れた堤つつみを手で支えんとする業わざにも似ていた。

それらの刀槍をまるで無視して、ひらりひらり跳び降りて来た明智の先手は、接戦たちまち幾つかの死骸を踏みこえ、敵の血しおに彩いろどった姿をもって、

「右大臣家御一方おんひとかたこそ、ただわれらの目ざすところ」

と、なすもののように、表御堂や客殿をさして驀まっしぐらに駈け進んだ。

表御堂の広縁や客殿の高欄こうらんのあたりからは、それへ向って、叫ぶ風そのままな矢唸やうなりが吹いて来る。距離は弓に有利な矢ごろであったが、矢の多くは武者に中あたらず、土を掘り、地を辷すべり、或いは遠く築土に刎はね返った。

その中に、寝衣ねまき一つで、或いは半裸体で、しかも得物えものも持たず、やらじと甲冑の敵に組みついている猛者もさも見えた。これらの番士は非番の暇を得て、夏の夜の暑さに心からくつろいで寝ていた者どもであったが、その出遅れを恥じてか、ほとんど、体当りの勇気だけで、明智の武者をいささかなりと食い止めんものと、死力を発していた。

しかし防ぐべくもあらぬ鉄甲の怒濤どとうはすでに、伽藍がらんの大廂おおびさしの下までひたひた迫せまり襲よっている。

いちど室内へ駈けもどった信長は、白綾の小袖の上に、大口おおぐちの袴はかまを穿うがち、奥歯を咬かむほどな力で、その紐ひもを結んでいた。

「弓を。弓をっ」

そのあいだに、二度三度、こう求めて、誰やらがひざまずいて、眼の前に捧げる弓を、引っ奪たくるように掴つかむや否、

「女どもは落ちよ。女は遁のがれてゆくも苦しゅうない。足手まといになるな」

と、云い捨てて妻戸の外へおどり出た。

彼方此方あなたこなた、踏みやぶる戸障子の物音をも衝つきぬいて、女たちの泣きさけぶ声、呼び交かう悲鳴が、一層、ここの揺れる甍いらかの下を凄愴せいそうなものにしていた。部屋部屋を逃げまどい、廊を奔はしり欄おばしまを越えなどする彼女らの狂わしい裳もすそや袂たもとは、その暗澹あんたんを切って飛ぶ白い火、紅くれないの火、紫の火にも見える。

そしてそこらの蔀しとみにも柱にも欄にも、矢や弾丸たまの来ない所はない。すでに信長が広縁の一角まで出て射戦しているので、その姿に集注してくるものが奥へ外それて来るらしかった。

「匹夫ひっぷが」

と、一矢いっしを放ち、

「推参すいさんな」

と、眦まなじりを切っては一矢を射る。――その信長の戦いを見ては、怖ろしさに、自分を見失っている女たちですら、ここを落ちて行くにも行けない気がして、声かぎりに哭なくのであった。

――人間五十年、化転ケテンノウチヲ較クラブレバ、夢幻ユメマボロシノ如クナリ。とは、彼が好きな小唄舞の一節であり、若年に持った彼の生命観でもある。彼は決して、今朝の寝ざめを、天変地異とは思っていない。人間同士のなかにはあり得る出来事であり、それが今や、自分の前に来ているという観念でしかない。

とはいえ、彼は、はやくもその観念の眼をふさいで、

(もうだめだ。最期だ)

とはしなかった。むしろここで死んでなろうかという猛気に燃ゆる戦いぶりであった。生涯の大業としている胸中の理想はまだ半ばも遂げていないのである。この中道に敗れんか、余りにも無念だ。この一朝いっちょうに死なんか、余りにも残念なのだ。つがえては切って放つ一弦いちげん一弦の弓鳴りはその憤りを発するに似ている。しかもその弦っるもほつれ、弓も折れようとしていた。

「矢を。矢がない。矢を持て」

彼は、うしろへ叫びつつ、そこらの廻廊に落ちている敵の外それ矢まで拾って射た。そのとき練紅梅ねりこうばいの鉢巻して、大模様の片袖をかいがいしく脱ぎ絡からげたひとりの女性が一抱ひとかかえの矢を運んで来てその一本を彼の手に捧げた。信長は見て、

「阿能おのうか。もうよい。落ちろ落ちろ」

と、烈しく顎あごで追いやった。けれど阿能局おのうのつぼねは、信長の右手へ次々に矢を渡して、叱られても去らなかった。

腕よりは、気稟きひんである。弓勢ゆんぜいというよりは気魄きはくである。信長が射る矢は、

(匹夫の冥加みょうがとなせ。天下取てんかとりの矢の根を賜わるぞ)

と、いうが如き豪壮ごうそうな矢唸やうなりがあった。しかも阿能局の運んで来た矢数も忽ち射尽してしまったほど、矢つぎ早であった。

寺内の庭上、そこかしこ、彼の矢に中あたって、斃たおるる敵が見えた。けれど矢風を冒おかして、

「右大臣家と見奉る。いまはのがれ難きところ。いさぎよく御首級みしるしをさずけ給え」

と呼ばわり呼ばわり、そこの欄おばしまの直下へ或いは橋廊下へ攀よじのぼって彼の側面から、必死と迫って来る甲冑の敵は、ちょうど此寺ここのさいかちの木に朝晩群れる鴉からすのようであった。

もちろん、信長を中心に、そのうしろ、その横の廻廊では、

「寄せじ」

とする近衆小姓の刃やいばが、必死の火を降らしていた。

森蘭、森力、森坊の兄弟三人もそこにいた。魚住勝七、小河おがわ愛平、金森義入ぎにゅう、狩野かの又九郎、武田喜太郎、柏原かしわばら兄弟、今川孫二郎なども終始主君のそばから離れずに斬りふせいでいた。

すでに討死をとげて、廊壁を血にそめている屍かばねには、飯河いいかわ宮松がある、伊藤彦作がある、久々利くくり亀之助がある。中には、敵と組んだまま、重なり合って、相討ちをとげている者も見える。

一方、表御堂番衆の組は、本堂を戦場として、敵を御殿に近づけまいと、さっきから猛烈な血戦を起していたが、御殿へ通じる橋廊下の口を敵勢に取られそうなので、総勢といっても、わずか二十名たらず、一手になって奥へ駈け集まって来た。

そのために、橋廊下へ踏みのぼった明智の武者は、挟撃きょうげきに遭あって、突き立てられ、斬り落され、その下に屍かばねを積んだ。

なおまだそこに無事だった信長の姿を見るなり、表御堂の面々は、われを忘れて叫んだ。

「いまのうちに。おうっ、今の間にこそ。一刻もはやく、ここをお立たち退のきあらせられませ」

「ばかなっ」

信長は、弓を捨てた。弓も折れ矢も尽きていたのである。

「退ひける所かは、退ける所でもない。長柄ながえをかせ」

彼は、そう叱咤すると、臣下の得物を引っ奪たくって、獅子のように廻廊を走った。彼方の欄おばしまに手をかけて、登ろうとした敵の一武者を見、その真っ向へ一撃を下したのである。

明智方の川上久左衛門は、槙まきの木の蔭から半弓を引きしぼっていた。矢は信長の臂ひじに刺さった。信長はよろめいて、うしろの蔀しとみに背を支えられた。

が、これしきの傷手いたでに、信長はまだ屈するものではない。かつて彼が四十三歳の天正四年、大坂若江わかえの合戦のときなどは身すでに大納言右大将という高位であったにかかわらず、足軽の中に交まじって駈けまわり、足にも鉄砲をうけ、身にも太刀傷をうけつつ、わずか三千の兵で、一万五千の大敵を衝つきくずした例もある彼である。死は怖れないが、いたずらに死を急ぐ彼ではない。また、貴人の名分にとらわれて、敵の雑兵と戦うに怯きょうなる右大臣家でも決してない。

寂火じゃっか

そのとき、ちょうどその頃といえる。西の築土ついじの外でも、小戦闘が起っていた。

本能寺附近にあった所司代邸の内から打って出た春長軒村井長門守父子おやことその家来小者の一勢が、明智軍の包囲を外から衝ついて、正門の内へ駈け入ろうと試みたものであった。

前の夜、春長軒父子は、信忠などとともにおそくまで信長の前に語らい、官邸に帰って眠ったのはかれこれ三更さんこうに近かった。

そのための熟睡も、今朝の不覚ふかくをなした原因といえよう。彼の職分としても、尠なくとも明智勢が洛内へ足を踏み入れると同時にこの変を知るべきであった。また知るや否、すぐ前の本能寺へ寸前にでも急を告げていなければならない。

何もかも油断だった。だが油断は実に信長ひとりだけでなく、市中に宿泊し、或いは在邸していた者すべてにあったといってよい。

「何事か外が騒がしいようで」

と、初めに起されたときも、春長軒はまだ、かかる大事とは覚さとらず、

「喧嘩でもあるか。見て来い」

と、配下にいった。それから悠々ゆうゆう起床にかかる間、土塀門の屋根上で、小者が、

「錦小路あたりに煙が立ちのぼっております」

というのを聞いても、

「また、尿小路いばりこうじの失火か」

と、舌打ちして呟つぶやいた程だった。

それほど世は泰平たいへいと錯誤さくごしていたのである。ゆうべも今朝も、実に変らぬ戦国下の一日であり、その中の都でもあることを、ふと忘失していたのである。

「なに。明智勢が?」

と、仰天ぎょうてんしたのは、それから一瞬ともいわない直後であって、

「すわ」

と、ほとんど着のみ着のままで、一度は邸外へ躍り出たのであった。

ただ見るほどの暗い朝霧の中いちめんに、濛々もうもうと立ちけぶっている物の具きびしい騎馬剣槍けんそうを見るや、長門守はまた急いで邸内に引っ返し、よろい櫃びつを覆くつがえして、具足を着こみ、打物とって、

「つづけ」

と、子息二人、その余の者、ひっくるめて、三、四十人を手兵とし、信長の側へ駈けつけようとしたものであった。

とはいえもちろん、本能寺を中心として、八方の大路小路おおじこうじは、明智の諸部隊が手分けして、瞬時に交通を遮断していた。衝突は西の築土ついじの角あたりから始まって、猛烈な白兵戦を展じ、哨戒しょうかいの一小隊を衝きくずして、惣門のやや近くまで迫ったが、ひとたび明智方の中堅ちゅうけんがそれを顧みて、

「小癪こしゃくな」

と、槍を揃えて来るや、ほとんど、歯も立たないほど突き立てられ、長門守父子おやこも傷を負うし、小勢の味方は半数に打ち減らされてしまったので、

「この上は、妙覚寺へ参って、信忠卿と一手にならん」

と、道をかえて奔はしり出した。

振り向いて、本能寺の大屋根を仰ぐと、そのとき初めて、雷雲のような真っ黒な煙が、噴きのぼっていた。

坊中へ火を放った者は、寄手の明智か、信長の家臣か、また信長自身か、今は到底、それらの行動をつぶさに見分け得るようなここの状況ではない。

煙は、表御堂からも、殿中の一室からも、大台所からもほとんど同じ頃に噴き出した。

大台所では、小姓の高橋虎松と、二、三の者が、鬼もあざむくような奮戦をしていた。

ここでは納所なっしょの僧が、疾とく起きていたらしく、僧の影はひとりも見えないが、二斗炊だきの大釜をかけた竈かまどの下には、薪まきが焚たきつけてあった。

虎松は、大土間の戸口に立ち、混み入る明智の者を、のっけに二人まで突き刺し、槍を奪われて、多数に立ち向われるや、板敷へ上がって、厨房ちゅうぼうの器具を手あたり次第投げつけて防いだ。

針阿弥しんあみという茶道の者、平尾久助という年少の小姓も、切きっ先さきをそろえて、彼とともに力戦した。武装もせぬ弱冠じゃっかんの敵が、わずか三、四名に過ぎないのだと見縊みくびりながらも、多くの甲冑かっちゅう武者は、容易にそこの板縁まで踏みのぼることができないでいた。

「何を手間取っているか」

部将らしい一武者は、ここを覗のぞくと、竈かまどの下の火の薪まきをつかみ出して、いきなり高橋虎松や針阿弥などの面おもてを狙って投げつけた。また、納戸なんどの内へも投げ入れ、天井へも抛ほうりあげた。

「奥へ」

「奥にこそ」

信長が目標である。途端に、どどどっと押し上がり駈け入り、武者草鞋わらじは薪まきの火を踏み散らして屋内へ分れた。その後はもうここかしこ蔦紅葉つたもみじのように柱やふすまを這う火であった。ふたたび動くことなき虎松や針阿弥しんあみの姿にも火がついていた。

厩うまやの方面は騒々しい。十頭ほどの馬が床を蹴り羽目板はめいたを打って狂いぬいている。うち二頭ほどはついに横木を外はずして外へ暴れ出した。これは狂奔して、明智勢の中へ飛びこんで行ったが、あとの馬は、火を見ていよいよいななき猛たけっているのみだった。

厩方のさむらい矢代やしろ勝介、伴ばん太郎左衛門兄弟、村田吉五などはそこを去って、信長の姿の見えた御殿の階下に立ち、ここを最後の奉公場所としてみな討死の枕をならべた。

逃げようとすれば逃げられないこともなかった厩中間うまやちゅうげんの端にいたるまで、それらの組頭くみがしらについて二十四人悉ことごとく戦って死んだ。虎若、小虎若、弥六、彦一、岩、藤とう九、小駒若ここまわかなどという御小人おこびとたちである。日頃は名もなき輩ともがらといわれていたのが、血を以てする奉公の一日には、禄ろくの隔へだてにも官位の高さにも劣らぬことを無言で示した。

健気けなげにもゆかしい男は、町中の宿所にいた湯浅甚助ゆあさじんすけと小倉松寿しょうじゅの二小姓である。変を知るやふたりとも、本能寺の中へ駈けつけて来た。おそらくは明智勢の混雑のなかを無二無三紛まぎれこんで入ったものであろう。すでに煙にくるまれている信長の居間近くまで飛びこんで来るや否や、

「甚助まいりましたっ」

「松寿っ、駈けつけました」

叫びつつ、求めつつ、出会う敵と、斬りむすんでいた。

明智方の進士作左衛門は、湯浅甚助を突き伏せた。

血に染んだ大槍をひっさげて、二間三間踏みこえてゆくと、味方の箕浦大内蔵みのうらおおくらの影を煙の中に見た。

「大内蔵か」

「おうっ」

「お手柄は?」

「まだ、まだ」

たがいに信長の姿を求めているのである。いや競きそっているといったほうがいい。すぐ相別れて煙の下を潜くぐってゆく。

火はすでに屋根裏へも廻っているらしく、ぐわうと伽藍がらんの中は鳴っている。甲冑かっちゅうに触さわれば皮革や金具が手に熱く覚えるほどだった。――が、それにしても見わたすところ、瞬時にして、人影が見えなくなった。ありと見れば屍かばねであり、いると思えば、明智の同衆である。その明智の人数も、棟木むなぎに火がついたというので、あわてて外へ溢あふれ出たものが多い。

事実、なお中に踏み止まって、彼方此方かなたこなたと駆けている者は、時には煙に咽むせ、時には火塵かじんをかぶっていた。燃え切れた金襴きんらんやら板切れに火のついたものが、襖ふすまも扉も踏み外はずされた広間のうちを霏々ひひと吹きみだれ、さながら焼け野のように明るくしていた。

奥の小間や控えの辺りは、それに反して濛々もうもうと晦くらい。濃い煙で、中廊下も袋廊下も見さだめ得ないほどだった。

森蘭丸は、いま閉たて籠こめた一間の杉戸を、その背で守るが如く抑えて、凝然ぎょうぜんと突っ立っていた。

血ぬられた槍を手に、右を見、左を見、跫音あしおとと感じれば、すぐ槍を向けた。

「……お声はまだか」

室内の気けはいにも、彼は全身を耳にしていた。たった今、そこへ駈け入った白きものの影こそ、右府信長にちがいない。

寺中一円に火を見、また側近の者があらまし討死を遂げて行く最後の一瞬まで、彼は戦いきった。敵の雑兵ぞうひょうをも相手にして雑兵の如き奮戦すら敢えてした。「名もなき者に首を取られんことの口惜し――」などという生やさしい名聞などは彼の顧慮こりょするところでない。――死のうは一定いちじょうだ。いのちを惜しむのではない。いのちの持つ大業を惜しむのだ。

二条妙覚寺は近い。所司代邸はすぐそこだ。市中に在宿の侍たちもある。万が一にもあれ、外からの聯絡があれば、血路をひらき得ないこともないと彼は思う。そういう閃ひらめきと、いや謀叛人むほんにんはあのきんか頭である。明智ほどな者が、かかることを仕出来しでかすからには、水も漏らさぬ用意の上であろう。所詮は覚悟のときか。――とする二つのものも、彼の脳裡のうりには闘っていたであろう。

枕をならべて討死した扈従こじゅうの面々の骸むくろをあわれと見やりながら、ついにそれらの者の死を生かし得ない刻々に取り巻かれて、信長もついに、

「今は」

と、戦うを休やめ、蘭丸を外において、そこの一室へ退いたのであった。

「――内で、信長の声が聞えたら、信長が自害をとげたものと思え。空骸むくろにはすぐ襖ふすまを積み火を加えよ。それまで敵をここへ踏み入らすな」

蘭丸へ向って、信長はこう告げてある。

杉戸の口は固い。四方の障壁にはまだ恙つつがない金碧きんぺきの絵画が眺められる。どこからともなく薄煙は流れ入るが、火焔が伝わって来るには微かすかな遑いとまがありそうである。

――死に就くのだ。あわてるには及ばない。

誰か自分へいっているような心地がする。そこへ入るやいな、彼は四囲の熱気よりも喉のどの渇かつを焦やけるように思った。そして崩るる如く、座敷の中央に坐りかけたが、思い直してすぐ一段高い長四畳ほどの床の間へ坐した。下は平常、臣下の坐るところと限られていたからである。

一杯の水を喉のどへ下ろしたという仮想かそうを持って、彼は慥しかと精神を丹田たんでんに落着けるべく努めた。そのために膝を正し、姿をととのえ、平常ここにあって衆に君臨するときのままな自分を保とうとした。

あらい呼吸が鎮まるにはやや遑いとまがあったが、心は、

――これで死ぬのか。

と自分でさえ疑われるほど平静であった。呵々かかと、一笑を発したいようなものすら覚える。

――おれも抜かった。

と思い、光秀のきんか頭を想像してみても、いまは何の憤いきどおりも出ない。あれも人間だから怒ればこれくらいなことはやるだろうと思った。それにつけても自分の油断は嘲わらうべき一代の失策だったし、彼の怒りも愚かなる暴挙ぼうきょに過ぎないことを愍あわれんだ。あわれ光秀、汝もまた、幾日をおいて、予のあとを追わんとするや、と問うてみたい。

左の手に鎧通よろいどおしの鞘さやを持った。右手めてでそれを抜いた。

――急ぐことはない。

なお自分で自分に云い聞かせる。火はまだこの部屋に燃えついていない。

瞑目めいもくした。

すると、物心ついた少年時代から今日までのことが、それを千里の駒に乗って見て来るように頭に映うつった。

それは非常に長い時間を要するかのようであるが、事実は一瞬の呼吸のうちに過ぎない。死なんとする刹那、人の生理は、異常な機能を働かせて自己の通って来た全生涯に、平常の追想に似た訣別けつべつをなすものらしい。

「悔いはない」

信長は大声で云った。

そして眼をひらくと、四壁の金泥きんでいと絵画は赤々と燦かがやいていた。格天井ごうてんじょうの牡丹ぼたんの図も炎であった。

一声、悔いはないと、外にまで聞えたので、蘭丸はすぐ駈け入って来た。白綾しろあやの小袖は鮮血を抱いてすでに俯っ伏している。蘭丸は武者隠しの小襖こぶすまを引いて柩ひつぎへ納める如く信長の屍かばねを抱え入れ、ふたたび静かにそこを閉めて、床の間から退さがった。そして彼もすぐ屠腹とふくすべく短刀をにぎったが、なおその室がまったく焔と化しきるまでは、らんらんたる眼をくばって信長の屍しかばねを守っていた。

遠浦帰帆えんぽきはん

ひとりの卑怯者ひきょうものもいなかった。ひとりの死汚しにぎたない者も出なかった。悉ことごとくみな信長に殉じゅんじた。外泊していた者まで駈けつけて来て、主君の側に忠誠の枕をならべた。

昨夢一燼灰さくむいちじんのはい

枕頭鳥不啼ちんとうとりなかず

さいかちの木の藪やぶへ逃げこんで辛からくも難をまぬかれた寺僧のひとりは、茫然ぼうぜん、口のなかで呟つぶやいた。

男女を合わせて、侍童から厩中間うまやちゅうげんの端まで加えれば、信長の扈従こじゅう百余名はいたはずであるが、本能寺全伽藍ぜんがらん、ただ見るぐわうぐわう燃える一炬いっきょとなったときは、一箇の人影も、一声の絶叫ぜっきょうもなかった。火は水の如く寂じゃくたるものだった。

百霊の痛恨つうこんは思いやられる。悲惨はいうもおろかである。さはいえまた、極きわまりなく美しい生命の業火ごうかよとも仰がれた。

ただしその炎へ身を挺ていしなかった人々もないことはない。それらはもちろん武門以外の者に限られていた。本能寺常住の老僧や庫裡くりの僧たちは逸早く禍わざわいをまぬかれた。明智勢の方でも寺僧を殺戮さつりくする意志はないので、僧形そうぎょうの者と見れば、むしろ積極的に脱出を援たすけたのである。

あわれなのは女達だった。火とともに信長から「落ちよ、逃げよ、女どもに仔細しさいはない」と追われるように急せかれても、彼女たちにはここを遁のがれ出る道があろうとは思えなかった。寺僧の群れと一緒に明智軍の中を駈け抜けても、武者輩ばらは婦女子になど目もくれなかったであろうが、怖ろしくて近づきも得ず、ただ火の下を逃げ惑まどったのはぜひもない。

これは、後に分ったことであるが、それでも彼女たちの大部分は、一命を取りとめ得ていた。

火が鎮まって後、池の中からぞろぞろ這い上がって来たのである。被衣かずきやうちかけなどを濡らして頭からかぶったまま、蓮はすの如く池の中に浸ひたって、焼け落ちる伽藍がらんと信長の終焉しゅうえんを目のあたりに見つつ、

(この世のことか)

と、茫然、火の粉の下に半ば自失していたものである。

やがて一纒ひとまとめにされて、明智勢の手で拉らっし去られた女たちの中には、阿能局おのうのつぼねなる女性はいなかった。ほとんど奥仕えの侍女や雑婢ぞうひたちに過ぎない。それゆえに、阿能局なる女性が信長の側にいたかいないかすら疑問視された。当時のうわさはそれを悼いたみ合っても、名は伝説に付されて証あかすべきものも後にない。

滑稽なる道化者が、この中で独りその愕おどろきを慎みなく踊って見せたのは皮肉である。それは信長の愛僕であった例の黒奴くろんぼの黒助であった。彼は弥助やすけという日本名までもらっていたが、日本の武将と武将の変乱に殉じる理由は毛頭もうとうないし、当人には何が何だか分らない出来事にちがいない。何処どこをどう逃げたか、横ッ飛びに駈けて、近くの南蛮寺へ飛びこんで行った。

折ふし師父カーリオンも、そのほかのばてれんも、その朝の鐘や祈祷もわすれ果てて、みな二階の露台に立ち並び、本能寺の火事を見物していたところだった。すぐ門前の往来を駈ける騎馬武者や避難する貧民の群れなども、南蛮風な柵の外に影絵のように眺められた。

例外な存在者としては、ほかにもう一名あった。婦女子でもない、外国人でもない、堂々たる男子である。

昨夜、本能寺に泊った客、博多はかたの神谷宗湛かみやそうたんだった。

宗湛が眠りに就いたのは、信長よりもおそかったはずである。席の後始末、道具の片づけなどをすまし、臥床ふしどに入って間もないことだったにちがいない。

何はともあれ、彼の身辺へも矢弾やだまが飛んで来たろうし、事態の重大も直感したろう。だが、この胆太きもふとい海外貿易家の若い博多町人は、

(ほう、これは大浪おおなみだ。凡ただの暴風しけではないぞ)

と、呟つぶやくかのような眼をして、衣服を着、帯をしめた後も、寝床とこをたたんで、しばらくは一室の中に坐っていた。

そのうちに、明智衆の謀叛むほんと聞え、とたんに火の手を見たので、

(これはいけない)

と、思ったらしく、自分の泊っていた南坊から長い廊橋を駈け出した。

武者にもぶつかった。信長の小姓ともすれちがった。あやうく矢風にも掠かすられた。

二度ほど、物につまずいて、勢いよくころんだ。べとりと掌を血の中へ辷すべらせた。気づいてみると、よろい武者と小姓衆のひとりが打ち重なっている。

死者のすがたが眼に映うつると、宗湛はみずから辱はじた。

自分は武門でない。ここで斬り死にする任はない。恩顧おんこのある信長に対して義をもって殉じるよりも、なお価値の高い使命が、町人にはべつにある。だからここを遁のがれ出ることは不義でも恥でもないが、戸惑いうろえたて「うろえたて」はママ逃げたといわれては尠なくも博多町人の不名誉である。何のため日頃、茶道などに心入れしているかともいわれては、茶人の名折れともふと思った。

そこまで、駈けて来たのは、ゆうべ深更まで信長と語り合っていた茶席の広間へ行こうとしたのであるが、そのときまでは、ただそこに置いてある自分の道具のひとつが惜しかった心理に過ぎなかった。けれどこう意識してから後は、正しくべつな理由をもって、彼はそこの座敷へ入っていた。

近くの廻廊では、戦っているし、ふた間ほど先の部屋まで火は移っていた。それをよそにして彼は床の間の前へ立った。信長の乞いに委せて遠く博多から携たずさえて来て鑑賞に供えた家伝来の幅ふく、牧谿もっけいの遠浦帰帆之図えんぽきはんのずは、たちこめる煙の中にも、名画の気品をすこしも譟さわがしてはいなかった。

これを失うことは自己の一財を失うというような小さなものではなく、ふたたび生るるなき名画と国の宝を失うものである。宗湛は慥しかとそう意志しながら静かに壁間の懸物かけものを外はずして巻き、箱にまで納めて、それを小脇に持った。

人心地もないかの如く、先を争って遁のがれ出て行く寺僧の群れも見たが、彼にはどことなく何も危険はないという信念があった。――で、悠々ゆうゆうと、明智衆の剣槍を掻きわけて、惣門の外へ通ってしまったのであったが、彼の確信に過あやまりなく、何の危難にも遭あわず、ひとりの武者にも咎とがめられなかった。

宗湛はその足ですぐ三条の茶屋四郎次郎の家へ行った。

「おはよう。御主人はもうお目ざめですか」

四郎次郎の家族たちはみな家の外へ出て、本能寺のほうに立ち昇る黒煙を眺めていたので、まずこう問うと、

「おや、宗湛さまですか。どうぞお上がり下さいまし」

主あるじの弟夫婦があわてて奥へ告げにゆく。

この辺に住む者はまだ詳くわしいことを知らないらしい。つい目と鼻のさきながら、ただの火事かのように見物していた。近くの小橋だの河原に具足をつけた明智方の哨兵しょうへいが立っていたが、それも本能寺にある信長の警備の兵と考えて不審に思う者もないらしい。

「いえいえ。今朝はちと急ぎますから、お庭口から通させて戴きます」

宗湛は庭から入った。ここの主あるじの茶屋四郎次郎もいわば自分たちと同業の海外貿易家のなかまである。茶屋の本店は堺さかいにあり、堺の納屋衆なやしゅうの一人であるが、多くは京都に住んで、加茂かもの清流に臨む閑雅な寮で、余生を楽しんでいる閑人かのように表面は見えるが、実は政治の中心地にあって、武門や堂上に接するためのここは支店ともいえる住居なのであった。

庭へ通ると、その四郎次郎は縁先で草鞋わらじを穿はきかけていた。ふと、宗湛の姿を見ると、いきなり大声で先から云った。

「や。驚いたじゃろ、宗湛どの」

「いや、驚きましたよ。えらい所へ泊りあわせて」

「まったく、えらいことになったの。天下はどうなるか、ちょっと先が知れなくなった」

「もうご存じでしたか」

「いま知ったのじゃ。里村紹巴さとむらじょうはから使いをよこしてくれたので」

と、紹巴の文を出して見せた。

「して、御主人には、これからどちらへ?」

「泉州まで行きます」

「御本宅へ」

「いや、ちと……」

と、四郎次郎は云い濁にごしながら、よほど先を急ぐとみえてもう立ちかけた。

宗湛は携えていた遠浦帰帆之図えんぽきはんのずの箱をそこへさし置いて、

「ご迷惑でございましょうが、これをしばしお宅へ預かっておいて下さいませぬか。実は私もこれから中国まで急に下りたいと思いますので」

「ほ、中国へ」

四郎次郎はあいての顔を見た。

にこと、うなずいて、

「ええ、私は中国へ急ぎます。あなたは泉州まで。――そこまで御一緒に出かけましょうか」

家の者に草鞋わらじを乞うて、宗湛もすぐそこで旅装をととのえた。

徳川家康は、その後、京都大坂を経て、いまは泉州附近に滞留中と聞えている。茶屋四郎次郎は平常から家康を将来の人と見て接近し、常に何くれとなくその恩顧おんこもうけていた。

中国にはいま誰がいる?

ふたりは不問不語とわずかたらずのうちに、次代の期待をべつの人間に賭かけていたのである。そしてそこは一緒に出たが、淀よど附近まで行くと、

「では、ここで」

「途中、気をつけたがよい。いやお互い様に」

と、西と東へ袂たもとを分った。

檄げき

この朝、明けかけた空は、ふたたび暗くなった。本能寺から立ちのぼる煙は全市の上を蔽おおい、町筋は人影ひとつ見えず、蕭殺しょうさつの気にみちていた。

凝然ぎょうぜん、うごかざる兵二千騎は、堀川の堤に集結したまま、ひとしく一天の黒煙を仰ぎ合っていた。

光秀を中心として、ここに帷幕いばくしている荒木山城守、奥田宮内くない、諏訪すわ飛騨守、御牧みまき三左などの諸将も、

「吉左右きっそうはいかに?」

と、先手さきての情勢を刻々に案じながら、まさに、かたずを呑むの思いで、伝令の騎馬を待つのであった。

すでにその使番は二度までもここへ、

――お味方は築土ついじをこえ、一斉に御堂内へ雪崩なだれ入って候。

と伝え、すぐ後からまた、

――全殿に火を放つけ、右大臣家の側衆もあらまし討ち取り、当の御方おんかたの御首みしるしを挙ぐるもやがてのうちに候わん。

とも報じてはいたが、それ以後の伝令はまだない。

で、本陣の将士は、

「十のうち九つまでは、もうわが軍のものだ。わが事成れり」

という勝色かちいろの中にどよめいていたが、帷幕いばくのうちの光秀は、祐筆ゆうひつを側へひき寄せて、次々に書状を認したためさせ、それに自身が花押かおうして、また、側臣と何か密議しているなど、多忙と緊張の極に、ほとんど、現うつつも知らぬ容子ようすであった。

それでも本能寺の空に煙を見るまでは、彼も、万一を気づかって、諸将とともに、堤の上に佇たたずんで、眸ひとみを一天に凝こらしていたのであるが、立ち昇る噴煙を彼方に見、すぐ第一の伝令を聞くやいな、

「よし」

と、ひとり大呼して陣幕とばりのうちに入り、それからは、刻々の戦況よりは、べつな方面に向って、大きく頭脳をはたらかせていたものである。

ここにおいての味方の勝ちと、信長の死とは、もう決定的なものと観みてよい。それに顧念こねんしているにはあたらない。

主将の頭脳は、より大局に対して、間髪かんはつを措おかずに、第二のそなえを天下に布しく必要がある。この勝利を決定づけ、この大機を政治づけるためにである。

遠くは相州小田原の北条家へ。

四国の長曾我部元親ちょうそかべもとちかへも、彼はすでに、この帷幕から書簡を持たせて急使を立てた。

いうまでもなく、内容は、

(――天、信長を討つ。呼応して起たれよ。ここにおいて協力あらば、後日共栄きょうえいあらん)

という檄げきである。

泉州鷺さぎノ森の本願寺一門、伊賀上野の筒井順慶つついじゅんけい、山陰の細川藤孝ほそかわふじたか、その子忠興ただおきなどの親族から、近畿きんきのこれと思う有力者には、悉ことごとく飛檄ひげきした。

特に、大軍と思う先方には、光秀自身、筆をとって書いた。いま秀吉と対峙たいじしている中国の毛利家にたいして、直接、毛利輝元へ宛てて、その檄文にもいちばい想を凝こらした。

「原平内と、雑賀弥八郎さいがやはちろうを呼べ」

持たせてやる使いの者まで、彼自身が名ざして、数ある家中のうちでも一ひとかどの士と恃たのめる男を選んだ。

原平内という士さむらいは、もと山中鹿之介しかのすけの部下で、尼子あまこ再興のため、光秀を介して信長へ働きかけ、以後久しく明智家へ寄っていたいわば客臣ともいえる筋目の者だった。

が、尼子一族も主人鹿之介も、中国の戦いに先駆せんくして、織田勢の至難な先鋒をつとめていたにかかわらず、ひとたび毛利の大軍が、その孤塁をつつむや、信長の令は、前後の懸引かけひきと利害の大小をにらみあわせて、鹿之介たちのたてこもっていた前衛基地上月こうづきの城に、秀吉の救援をとどめ、みすみすそれを敵中へ捨児すてごとしてしまった。ために、尼子氏は絶え、鹿之介も死んだ。

そのときの織田方の仕方を、ゆるすべからざる不信義、また無情なりとして、以来、原平内の信長にたいする恨みというものは骨髄こつずいに徹していたのである。

いま光秀が、その平内を帷幕いばくへ招いて、

「これは毛利殿へあてた重要な密書であるが、そちならばと見込んで申しつける。すぐ大坂へ出て、海路芸州げいしゅうへ渡り、同所の杉原盛重もりしげどのの手を介して、毛利殿へお取次を乞え。一日一刻も争うぞ。いそいで立て」

と、いいつけると、さっきから本能寺の煙を仰いで、右大臣家の末路こそ心地よし、と狂喜していたほどな原平内は、

「身の面目」

とばかり勇躍して、すぐここの陣中から大坂方面へ急いで行った。

しかしこの大事を託すに、光秀は彼一箇の使いをもって、万全なものと、安んじてはいなかった。

彼の出たあとですぐにまた、同文の書状を、雑賀弥八郎にさずけ、

「陸路、潜行して、これを毛利家へ届けよ」

と、命じた。

摂津から、備前までの間、いま陸路の交通は、秀吉の軍に扼やくされている。海路芸州へ行くよりは至難中の至難といわねばならない。

「死を賭として果しまする」

弥八郎もまたすぐ本陣を離れたが、彼は途中で姿を変えた。その変装ぶりは彼の知人と出会っても分らないほど巧妙であった。すなわち竹の杖の中に密書を秘し、盲人となって、摂津から先は夜も昼もとぼとぼ歩いて行ったのである。光秀が特に彼を選んだのは、雑賀弥八郎さいがやはちろうは、そういう潜行には打ってつけな隠密組おんみつぐみの逸材いつざいだったからである。

一方に戦い、一方に政治し、檄げきの文章や使いのことにまで、こうして緻密ちみつな頭脳をはたらかせていたので、光秀の面色は今暁、京都に入るまえの凄愴せいそうな眉から、さらにいちばいの必死と「われにもあらぬ」ものを加えて、側へ寄るのも怖いような形相ぎょうそうとなっていた。

――が、自身は努めて、平静にあろうとするもののように、語気は至ってしずかに、

「まだ左馬介光春から、次の使いはないか」

と、心ひそかに信長の首級しゅきゅうを確実に挙げたかどうか、たえず一縷いちるの気がかりとしているようであった。

二条三門記にじょうさんもんき

信長の長子信忠の、その暁の愕おどろきこそ、思いやらるるものがある。

――時刻をやや遡さかのぼって、一転、ここで彼の宿所妙覚寺みょうかくじへうつる。

朝まだほの暗い一天にただならぬ鼓つづみや喊ときの声こえを聞いて、信忠たちが刎はね起きたときは、すでにここも明智勢の囲みのうちにあったことは、本能寺と変りはない。

しかしここには、本能寺よりも多くの手勢が屯たむろしていた。約五百六、七十人の兵力はあった。忽ち明智謀叛むほんと分り、敵近し、とも聞えたので、その騒ぎは言語に絶したものだったが、それでもまたたく間に全員戦闘の部署ぶしょにつき、

(ここで防ぐか、斬って出るか?)

の信忠の命を持っていた。

いうまでもなく、明智の主力は、本能寺へそそがれている。妙覚寺の兵力は本能寺以上とは事前に知れているが、ここへ向けられたのは明智光忠の第二軍で、その兵数は、第一軍よりはるかに少ない。

(右府の御首みしるしを挙げれば、直ちに援軍を割わかち得る。それまではただ信忠を遁のがさぬことを旨となせ)

光忠が光秀からうけた作戦はこうであった。必死の兵六百余人がいのちを振りかざして、一角の突破に邁進まいしんして来れば、その約四倍はある光忠の軍といえど、水も漏らさぬ包囲はなかなか保し難い。

で、明智方でも、ここの攻撃には、本能寺のような急襲猛突をとらなかったため、信忠以下は驚愕きょうがくのうちにも、なお鎧具足よろいぐそくに身をかため、前後の策を議するいとますらあった。

議といっても、この期ごに、区々まちまちな意見の出ようはずはない。

「本能寺へ」

「何よりは、信長公の御身を」

と、そこへ合流して、ひとつに守りを固めた上の思案と、信忠以下、全軍は即時に、ここを捨てて本能寺へ急ごうとしたのである。

だが、それほどに急いだようでも、事実においては遅すぎていた。――信長や信長の扈従こじゅうの面々などは、具足をつけるいとまはおろか、太刀や槍を取る間もなく敵とまみえていたくらいだった。――いかに距離は近いにせよ、ここの人々が、具足をまとったり、隊伍を整ととのえて駈け出ようとした時では、たとえ駈けつけて行っても、時間として、信長を救うべき機はすでに逸いっしていたものといってよい。

この迅速じんそくを欠いたのは、信忠の罪ではなく、ここに却って六百余という兵数があったための遅れである。六十人の兵が狼狽ろうばいするよりは六百の兵が一度にあわてる混雑のほうが大きい。六十の小人数ならば裸でも猪突ちょとつして行ったかもしれないが、六百の軍なるために、武装をととのえ、隊伍を成し、なまじ軍隊としてうごき出したために、時遅れたのはぜひもないことだった。

かくて信忠とその将士が、今し妙覚寺を発せんとしているとき、彼方から十人たらずの人影が、乱髪らんぱつ蒼面そうめん、各〻血に濡れて駈けて来た。本能寺に入ろうとして入るを得ず、ついにここへ落ちて来た所司代しょしだいの村井春長軒父子おやことその家来であった。

すでに本能寺は、敵の鉄桶てっとうの内であり、信長の一身を、絶望のほかなきものと、春長軒父子おやこから聞いて、信忠は、

「無念」

と、唇を咬かみふるわせ、

「大不孝の子とはなったか……」

と、悲涙をたたえた。

「中将様。お気を慥しかとお持ちあそばせ。お気をたしかに」

誰かに、うしろから抱き支えられて、彼はそのとき、それを聞くとともに、よろめきかけていたことを自分の身に知った。

同時にその喪心そうしんを強く反撥はんぱつしていたのも彼自身だった。

(信長の子だ、織田信長の子ではないか。三位中将信忠ともあるものが、女々めめしく哭ないているときではない)

しかしまた、彼方の空の黒煙と火を見ると、彼の脳裡のうりも狂気せんばかり燃え熾さかった。あの煙の下、あの火の下に、なお父やある。父や亡なきかと。

あたりの土塀や梢こずえやまた路面などへ、もう敵から撃って来る小銃弾や矢が異様な物音をあげ始めている。彼を囲む諸将は、楯となって、信忠を守りながら、

「このうえは早、ぜひもありませぬ。血路を斬りひらいて安土あづちへお急ぎあるこそ、万全の策と思われます。安土へだにお入りあれば、あとの手段は如何ようともつきましょう程に」

と、口々にすすめた。

まだうしろから支えている一武将の手を、信忠は腹立たしげに振り払って云った。

「父の生死もたしかめ参らせずに、子としてここを一歩でも去れようか。――しかもかくばかり謀はかった明智が、むざと信忠を通そうはずもない。わが武門と、子の道とは、ここで戦えるかぎり戦うしかない」

さらに、きっと振りむいて、

「備そなえろ。敵は近い」

と、全将士へ向って叫んだ。

彼の気魄きはくに励まされて、一戦の決意はすぐ一致した。とはいえ、この土塀ひとえの妙覚寺では防ぐよしもない。すぐ間近には二条城がある。二条城こそ、たてこもるには屈強と信忠にすすめ、諸将は先にそこの門へ向って駈け出した。

妙覚寺と二条御所との間は、外濠の広い道一すじ隔てているだけだった。

かつては、ここに室町幕府の営があった。足利義昭あしかがよしあきを追放した後、信忠の父信長が、旧館を破毀はきして、新たに造営を加え、入洛じゅらくの折は、ここを宿所としていたこともあるが、いまは恐れ多い御方の御所となっていた。

正親町天皇おおぎまちてんのうの皇子、誠仁さねひと親王がここにおいで遊ばすのであった。――で、信忠の臣は恐懼きょうくしつつも、まず御門へ事情を訴え、おゆるしを仰いでそれへ混み入った。

この移動を邪さまたげんとするもののように、すでに外濠の道路の一角では、明智勢と殿軍しんがりのあいだに血戦が捲き起されていた。

が、折ふし続々と、市中の味方でここへ駈けつけて来る者も多く、小勢の織田方にとっては尠なからぬ気勢を添え、そのあいだ信忠も無事に二条城へ移ることができた。

本能寺が手狭てぜまのため、市中の宿舎に、わかれわかれに泊っていた麾下きかの士もかなりあったのである。

信長の馬廻り衆、小沢六郎三郎は、烏帽子屋町えぼしやまちに泊っていた。その明け方、本能寺の変を聞いて、刎はね起きるやいな、

「不覚不覚」

と、われとわが身を叱りながら、具足をまとい、表へ駈け出そうとすると、宿の亭主も家人も、

「もうあの通りな火の手で、信長公も御生害ごしょうがいあそばし、御近習衆もひとり残らずお討死と沙汰しております。妙覚寺の方も明智の軍勢がいっぱいで、辻々も通れますまい。ここで犬死なされるよりは、屋根裏へでも隠れておいでなさいませ。きっとお匿かくまい申しますから」

と、日頃の誼よしみからみな袖をとらえて引きとめた。

小沢は一礼して、

「ありがとう、御好意はありがたく思うが、そう聞けばなおさらのこと、一歩もいそいで信忠卿と一手になって御奉公の最後を尽さねばならない。長々世話になったが、みなの息災を祈るぞ」

袂たもとを払って、うしろ見もせず、往来へ駈け出して行った。

よほど日常から徳望のあった士とみえ、あれよ、六郎三郎様が死にに行くわ、と近所の者までみな表に出て、そのうしろ姿へ涙の眼を送り合っていたという。

このほか、町中の宿舎に思い思いに泊っていた面々には――野々村三十郎、菅屋すがや九右衛門、猪子いのこ兵助、福富平左衛門、毛利新助、篠川兵庫ささがわひょうごなどがあった。

猪子兵助や毛利新助などは、古参の馬廻り衆で、すでに桶狭間おけはざまの合戦頃からその勇名は聞えている士だった。とりわけ毛利新助という名は、その折、今川義元へ槍をつけた殊勲者として知らぬ者はない。

戦場に立てば、これらの人々とて、各〻一ひとかどの部将である。これらの者が、せめて本能寺の近くに泊っていたら、ああやすやすと、明智勢に事を成さしめもしなかったであろうが、いかにせん皆ちりぢりに、そしてまた距離もあった。

で、この上はと、それらのすべての者は、期せずしてこの妙覚寺へ駈けつけて来た。折から、信忠以下、二条城内へ転陣のところだったので、その妨害戦に出た明智の先鋒せんぽうと、織田方のしんがりとの烈しい序戦に、まず真っ先に、その人々の助勢が大いに功を立てた。

忽ち、その場で討死するもあり、傷てを負って敵の中へ捲き込まれてしまった者も少なくないが、かくて大部分の者は、機をはかって、驀まっしぐらに城門のほうへ退き、最後の刎はね橋ばしを上げてしまった。

妙覚寺にいた信忠の手兵約六百と、市中から駈け集まった約三百余人をあわせて、総数一千の将士はかくてその死ぬ所をこの朝に持った。

明智方では、信忠の手勢が、妙覚寺を脱して、二条城へたてこもろうとは、少しも予期していなかった。

親王の御名において、そこはまったく戦場の外ときめていたものである。

「しまった」

という困惑のいろが、一時明智軍をつつんだ。主将の明智光忠も、

「入れたか。不覚な」

と、先手の妨害の手ぬるさを責めて、敵が城門を固めぬうちにと、すぐ城の三門へ兵をわけて、これを包囲にかかった。

西門、東門、南門の三つがあった。

濠ほりは深く、幅も広い。本能寺のそれとはちがって満々と水をたたえている。どこかに自然と湧水ゆうすいがあるとみえて、蒼々あおあおと漣さざなみたてて澄んでいた。

「いるのか、敵は」

すでにかたく鉄扉てっぴを閉じている城門と、濠の距離とを眼で測はかりながら光忠はつぶやいた。そう疑われるほど、四囲の空気はしいんとしていた。

すると城内の石倉の上の櫓やぐらから一本の矢が濠をこえて来た。並河掃部なみかわかもんが拾い取ってすぐ光忠へ捧げに来た。矢文やぶみが結ゆいつけてあったからである。

三位中将信忠の名をもって、寄手にしばしの休戦を申し入れて来たものだった。

要旨は、

――当御所には、親王様若宮様がおいであそばされる。暁の御夢おんゆめをおどろかし奉ったことすら恐懼きょうくにたえないのに、このままわれらが合戦に及ぶにおいては、金枝玉葉きんしぎょくようの御身にいかなるお怪我けがや思わざる不敬あるやも測はかり難がたい。

依って、まずは双方とも、しばらく弓矢をひかえ、宮様方を他へ移し参らせたうえで存分、いさぎよく血戦いたそうではないか。寄手の意嚮いこうは如何に。

というのであった。

「もとより異存のあるべき」

と、光忠はすぐ返答に及ぼうと思ったが、並河、藤田、松田などの幕将たちの言を容いれ、

――しばらく待て。

と城中へ矢文を返しておいてから、すぐ使番を走らせて、堀川の本陣にある光秀に意見を訊きにやった。

そのとき光秀は、初めの陣地をうごいて、二条の近くまで移っていた。

本能寺は、落去したので、いまはただ、ここあるのみと、同時に令を発して、本能寺方面の人数を割さいて、すぐ二条城へ向い、光忠に協力せよとも伝えていたところだった。

信忠の申し入れを読むと、

(さすがは信長の子だ)

と、言外に感動をあらわしながら、快諾かいだくすべき旨を伝え、かつまた、

「宮家の御移徒ごいしある折には、いささかのあやまちもなきように、軍の端々はしばしにいたるまで充分に触れ伝えおけよ」

と、戒いましめた。

命をうけるや、光忠は直ちに、その旨を城中へ返答した。時、ようやく卯うの刻こくごろ(午前六時)本能寺の煙をうしろにして、その方面からの軍勢も続々これに加わり、濠の水の繞めぐるかぎり明智の兵馬を見ぬ所はないまでに包囲も成った。

やがて、休戦の不気味なしじまの一瞬を。

親王、若宮の御ふた方、女官扈従こじゅうを召しつれて、お心もそぞろに、東の御門を出でられ、畏かしこくも内裏だいりまで徒歩かちでお移りになられた。

唐橋までは、城中の将士がお守り申しあげ、濠の外から先は、明智方の将が護衛して、甲冑かっちゅうの中をお通り遊ばして行ったのである。

血まなこの将兵と剣槍のあいだを女官たちや、まだおいとけない若宮には、いかばかり恐ろしげなお気もちで通られたことか。

が、この朝、父信長を失い、また自身の命も目前に迫っている際に、信忠はよくこの処置に沈着であったものといってよい。

敵将光秀も、さすがは信長の子と感じたらしいが、死せる信長も、まだ漲みなぎりつつある余煙の天そらから「よくした」と、ながめていたかとも思われる。

織田氏族葉ぞくようの一将校――まだ生年しょうねん二十六歳に過ぎない信忠に、この沈勇の処置と、臣子の道あきらかな態度のあったことは、いったい何によるものだろうか。

日頃の教養か、ゆうべの茶道の心態が役立ったのか。それとも夙つとに中国の役に参陣して、秀吉などと共に多少生死の境を味わった戦陣生活の賜ものか。

そのどれもみな彼を教養したものの一つではあろう。けれど全部とはいえない。むしろ根本的なものは、彼の生れた家の家風と血液にある。

ひとたび旗を中原ちゅうげんに立ててからの彼の父信長という人は、いずこに戦っても、一戦果せば直ちに上洛じょうらくして禁門に戦果を奏そうし、国のよろこびあれば歓びを闕下けっかに伏奏ふくそうし、日本の武威ととのえば馬揃えをなして上覧に供し、四民に示すに禁裡の造営をもってし、その石を運ぶにはみずから石に乗って群集に石を曳かせ、麾きを振り、そして事実を見せて、大君に仕え奉ずる臣子の楽しみと歓喜とを大衆に教えもし、自身もしかと信念していた人であった。

時人じじんの一部には、いや後の或る史家なども、彼のそうした行動をさして、信長の勤皇は、人心収攬じんしんしゅうらんの一策であり、政治的に皇室の尊厳そんげんを認めて、功利的にそれに努めたものであるなどという評を下している者もあるが、これは政治経世の業を視みるに、すべてを時の司権者の策であり、理智の略でありとする利口者の見解であって、日本の臣民大衆には、君臣ひとつのながれもなく、それに因よる情念もなしとする謬見びゅうけんに過ぎない。もし信長の勤皇が、彼一箇の功利や方便のものであったら、いかに彼が御所造営のため、みずから石に乗って麾きを振っても、その巌いわおをうごかす四民の力は民衆の中から出なかったにちがいない。またその庶民が、彼とともにあのように歓び歌うわけもない。

その信長の勤皇はまた実に先代の信秀から血にうけたものであった。――いま信秀の孫信忠が、その血液の命ずるまま、臣子の道を正しく踏んで誤らなかったのは、まさに織田三代の家風であり、武門の一臣として、ただ自然にありのままに、日頃の日本心やまとごころをあらわしたものに過ぎない。

閑話休題かんわきゅうだい。――ここで少しばかり作者の駄説だせつをゆるされたい。

いったいに後の史家が、戦国期の武門の人々をさして、多くが、国家観念の欠如けつじょを云い、勤皇精神に似たものはあるが、真の勤皇はない、統一のための方便であり、政治的仕組みの上になしたもので、彼らのうちにあるのは、その封建的主従の道義のみだとなす説が強い。

毛利元就もうりもとなりも然り、上杉謙信うえすぎけんしんも然り、本願寺も然り、みな皇室に献金もし、御造営にも手つだい、綸旨りんじにも恭順きょうじゅんしている。が、それはこの時期の傾向であり、ひとり、信長の業でもなく、ただ信長はより徹底し、一貫して、それへ積極的につとめ、以もって、統一の中枢ちゅうすうとなしたものであるともいう。

こういう一時の史家の流行説は、戦国武人のために、その寃えんをここに雪そそいでおかねばならない。なるほど室町時代を通じての皇室への仕つかえの怠おこたりは言語道断なものがあるが、信長以後、黎明期れいめいきの時人は、あきらかな日本的自覚と国家観をすでに呼びもどしていたことを、自分は信じて疑わないものである。

現わされた行為をもって、政治的意識によるとか、経世の方略であるとかいって片づけてしまっては、臣子の赤誠はあとかたもなくなってしまう。彼らの尊皇は、世をあざむくの偽善であるということにもなる。

史家はなぜもっと深く行為の底を流れている本然ほんねんの血液を観みてやろうとはしないのか。伝統すでに二千年、ときには建武けんむの前後、室町末期のごとき、世風の壊敗かいはい、人心のすさびなど、嘆かわしい一頃ひところはあったにせよ、皇室への臣民の真心にはかわりはなかった。幕府の為政者にその久しい妄念もうねんがあれば、その間は、民草の家の一戸一戸のうちに、村々の神社の森の一叢ひとむら一叢に、その不朽をちかう精神は無言に守られていたのである。

御所の造営とか、何かの御仕え物の献納などでも、それが元就とか、謙信とか、信長とか、時代の代表者によってなされると、史上に記録もされ、批判的な眼で、あらぬ意思まで忖度そんたくされたりするが、世にも聞えず、記録もされぬ無名の民草の奉仕にいたっては、絶え間なく限りなく、世代を問わず続けられていたものと私は観る。

それらは皆、一升の小豆あずきか、一籠ひとかごの蔬菜そさいか、或いは一本の木材に過ぎないものであったかもしれないが、名もない田舎の郷士だの田野の民が、伝手つてを求めて、ひそかに御所へ献納を希ねがい出ている例ためしも多い。

信長の父信秀が、伊勢の神垣かみがきへ御仕みつかえしたり、禁裡きんりへの奉仕につとめたのも、要するに、こういう田野の人々と同じ心のものだった。日本の家に伝えられている家風のものを、家の主あるじとして心がけから行為へ現わしたものにほかならない。

信長もまた、そうした家から生れ、この民草の中から出た一民である。形の大小は論ずるに足らない。彼の勤皇も一民の勤皇だった。元就も然り、謙信も然りである。この国土と家の家風をうけた子が、なんで武権政争の事とそれとを混同しようか。勤皇はただそれを奉じ得た身のよろこびである。

――たった今、主人信長を弑逆しいぎゃくした光秀すら、信忠から書を以て、親王の御移徒ごいしを仰いだうえで決戦せんとの申し入れには、欣然きんぜん、応諾の旨を答えている。いかに私闘混騒、生死を賭けている中でも臣子の大道たるこの一事だけは見失っていない。

さればこそ光秀は、この日から十一日目の後、小栗栖おぐるすの山村で、土民の竹槍をうけ、死なんとするや、部下の者に、筆をとらせ、

順逆無二門じゅんぎゃくにもんなく 大道徹心源だいどうしんげんにてっす

五十五年夢ねんのゆめ 覚来帰一元さめきたればいちげんにきす

と、最後の一語を吐いたといわれているが、まさに彼にとっては、本能寺の挙は、順逆じゅんぎゃくに問われる問題ではないとしていたものであろう。

信長も一臣子、自分も一臣子。真の大義と、一臣の大道とはまったくべつにありとなして、独り天に誓っていた悲心があったにちがいない。

だが、すでに主しゅうを殺す。これは、武門と武門の道義がゆるさない。いかに情を酌くむも民衆もまたゆるさないことだ。故に、この道義と秩序を破壊したひとりの民を裁さばく者も、また民の中なる者だった。

近衛殿このえどのの屋根やね

休戦の約は解とかれた。

戦闘開始。

期せずして、一鼓いっこの下もと、城中からも、寄手からも、わっと武者声がわいた。

とき、すでに陽は高い。夏の朝だ。朝からかんと照りつけている。

城兵の一隊は、つい今し方、親王のおわたりあった唐橋の大手門から、槍をそろえて突き出して来た。

これは、そこにあった藤田伝五と並河掃部かもんの両部隊が、攻口を争って、混み合って来たため、その機先きせんを制した反撃であった。

――が、城兵も寄手も、顔を見あうと、唐橋の中ほど約三間ほどを、まったくの空虚にして、双方とも、ふいにその出足を、はたと止めてしまった。

そして、束たばねたような無数の槍の穂だけが、ぎらぎらと陽を刎はね返かえし、その燦光さんこうで武者たちの塊かたまりもけむるばかり、ただ、にらみ合っていた。

「…………」

「…………」

声なき中に異様な声がある。しかもその最前列の武者には、天地みな音もないような心地がした。いかに場数を踏んだ武者でも、この一瞬には耳に音なく、眼に何ものも見えず、胆きもはすくみ、具足で固めた脛すねまでも、わななき顫ふるえるのをどうしようもないという。

しかし、もとよりそれは短い短い一瞬のことである。たとえ顫ふるえている踵かかとでも、一寸でも退ひきはしない。じりじりと前へ出ている。勿論、彼も刻きざむように、足の先で近づいてくる。

「うわうっ」

と、ひとり誰かが、怒濤どとうの中へ飛び入るように吠えて、だっと出る――。間髪かんはつを入れず、だっと味方の四、五名も続く。

それに気押けおされて、敵の前側の列が、ぐっと凹くぼんだせつなが、血の吹きとぶ途端である。敵たりとも、凹くぼんだきりではいない。すぐ逆巻く波がしらを作って、蔽おおいかぶさるようにぶつかってくる。

橋上すでに渦巻いて、血は欄おばしまにとび、濠ほりにながれ、死屍ししを踏む者、また死屍へ重なり合うとき、明智方は彼方の濠ほりばたから、銃をそろえて城兵を狙撃そげきし出した。

「踏みこめ」

「突きすすめ」

彼を圧あっして、明智勢は城門の下までむらがり駈けた。

城方の将士は、力尽きて、その中へ追い込まれたが、つけ入る明智の兵を、せつなに断つため、どんと咄嗟とっさに鉄扉てっぴを閉めたのである。

ところが、なお城門の外にふみとどまっていた織田方の武者が四人ほどあった。その中に小沢六郎三郎もいた。うしろ見しない者どもではあるが、城門を内から閉められたので、まったく敵中に置き去られた運命とはなった。しかし彼らは寧むしろそれを強味とするかの如く、橋上を突破して、ついに敵のまっただ中へ躍り込み、行くところを血にそめた。

わけても小沢六郎三郎は、濠ばたに立って指揮に夢中になっていた明智の一将を目がけ、たしかにその敵へも一太刀与えた上、八方から寄る槍の中に、男らしい戦死をとげていた。

城中の兵は、唐橋門の下へむらがり寄る敵へ、瓦かわらを投げ、石を飛ばし、小銃弾を集中した。

局限されている攻口なので、明智の将士たちは、おびただしい屍かばねをそこに積んだ。ついには攻めあぐねて、

「立ち直れ。立ち直れっ」

一たん橋上から後退すると、織田兵はすぐ城門をひらいて、死者手負ておいを踏みこえ踏みこえ、槍をそろえて突き出て来た。

敵味方おたがいに、かつて安土に在ある日には、顔も見知りあい、友の交わりをなしていた仲の者も多い。それだけになお、この戦いは切っ先から火を降らし、槍を折り太刀をくだき、まさに、肉親に怒る肉親の格闘かくとうのごとき、凄まじいものを現出した。

明智光忠は、左の肩のあたりに、一ひとすじ矢を負った。駈けよる郎党に、矢を抜かせながらも、混戦中の味方を声もひしげるほど、励ましていると、猪いのししのように味方を掻き分けて来た一名の勇士が、

「日向ひゅうがの甥おいよな」

と、いきなり突いて来た。

深股ふかももを突かれたので、横ざまに倒れた。二番目の槍は、顔へむかって来た。その千段のあたりをつかんで、刎はね起きようとしたとき、彼の旗本が、駈けあつまって、その敵を滅茶滅茶に斬り伏せた。

自分の身から血があふれ、敵の血も頭から浴びてしまったので、光忠は全身紅くれないになってしまった。気がつくと、部下の兵は、自分の足をもち、頭をささえて、どんどん陣外へ向って駈けてゆくので、

「どこへ連れてゆくかっ。わしをどこへ運ぶかっ」

と、叫びつづけた。

従ついて来る二、三の旗本たちが、口をそろえて、

「お気をたしかにお怺こらえください。傷は浅うございます」

というと、光忠は歯がみをして、なお暴れながら、

「ば、ばかをいえっ。これしきの傷が何だ。戦場へ返せ。返せと申すにっ」

と、もがいた。

けれどもかなり重傷だったので、大地へこぼされて行く血しおとともに、その声も次第に弱まった。

光忠が退くと、光秀はすぐ本能寺を引き揚げて来た四方田政孝しほうでんまさたかをその手の大将に補充して、

「時移すな」

と、そう急攻撃を命じた。

政孝は、大手へ臨むとすぐ、

「そこらの木を伐きって、濠の中へ抛ほうりこめ」

と、士卒を督した。

六、七十本の木材が濠の中へ落された。それを筏いかだに組んでいるいとまもなく、明智の猛士たちは跳び渡って、石垣の下へゆく。そして石垣の隙に、足懸あしがかりを打ちこんでは、上へ上へと攀よじのぼった。

しかし、ここの石垣はふつうの石垣組とややその線がちがっている。二条城の普請ふしんの当初、光秀も奉行の一員として加わっていたので、彼は独特な築城技能をもって石垣の縦たての線に、弓なりの反そりをもたせて築いてあった。

そのために今、明智の士卒は途中までは登ってゆけたが、ようやく上の近くまで達すると、自分の体の重量でみな下へ落ちてしまうのだった。

光忠に傷てを負わせて、同時に斬り死にした織田家の士は猪子いのこ兵助だといわれている。村井春長軒も、唐橋門の下で討死にした。

しかし明智勢がもり返せば、また忽ち鉄門を閉めてしまうし、石垣は所詮しょせん、攀よじのぼる術すべもないし、寄手はあせるほど犠牲を増し、また攻め疲れるのみだった。

裏門の搦手からめてでも、同じような戦況がくり返されていた。かくて午ひる近くなるほど、暑さも加わり、石垣も焦こげ、甲冑も焦げ、こぼるる血しおもすぐ黒くなった。

「ここに引きよせられたまま、日を過しては一大事である」

光秀は焦躁しょうそうした。馬を曳かせて跨またがると、自身、本陣を出て、濠ばたを半巡した。たちまち城のほうから彼を狙ねらって小銃弾や矢が集まってくる。左右の者が諫いさめるまでもなく、光秀はすぐ引っ返して来て、

「城の北隣りに見ゆるあの大屋根は、たしか近衛殿このえどののお館やかたであったかと思う。三左衛門、一走り走って、御挨拶いたして来い。しばしお屋根を、拝借いたしたいと」

御牧みまき三左衛門をそれへさし向けるとすぐ、荒木山城守、奥田宮内おくだくないの二将に、

「弓組、鉄砲組をひきつれて、あの大屋根へのぼらせ、城内へ矢弾やだまを撃ちこめ」

と、命じた。

この策は、的確だった。そこへ登ると、平城ひらじろなので、充分、内部へ狙い撃ちができる。城中の兵には、たしかに致命的なものだった。

さだめし驚きもし、迷惑もしたろうと察しられるのは、屋根を借りられた近衛家である。しかもここの当主夫妻はつい昨日かおとといの昼、牛車くるまを打たせて本能寺へ信長を訪ねてもいる。信長とは長年昵懇じっこんな近衛前久このえさきひさが住んでいるのだった。

当然、城中からも、矢や鉄砲がそこへ注そそがれる。双方とも大砲を持たないだけがまだ仕合せである。由来光秀は銃器の研究にかけては、随一の知識でもあったから、坂本や亀山には、その備えもあったろうが、目標が本能寺と妙覚寺であり、こういう攻城戦をなそうとは予期しなかったせいもあろうか、ここの陣中では使用されていない。

だが、やがて城内の一角からまっ黒な煙が揚がり出した。石垣を登るのに成功したか、三門のうちどこかを突破したか、忽ち構えのうちに乱入した明智勢の影が見え出した。

「陥おちる。いや陥ちた」

光秀は鞍つぼを叩いて、こう叫びつつ西門の前まで駈け寄った。もう矢弾やだまも来ない。まさに城兵は逼塞ひっそくしたとみえる。光秀はかたわらを顧みて、

「光秋みつあきもかかれ。飛騨ひだも行け」

と、総攻撃をうながした。

西門、東門、南門、すべて今は突破され、混み入った明智勢は、いたる所で、少数の敵を大勢でつつんでは撃つ殲滅戦せんめつせんにかかった。

城内にも一ひとすじの内濠うちぼりがあったが、そこは溝渠こうきょのような幅しかない。累々るいるいと重なりあう死骸の血が、そこの水まで紅あかくした。

「信忠卿のお首こそ」

「信忠どのを」

と、ここでもそれを合言葉にしつつ、すでに構えの奥近く迫った明智の将士は、建物へ火を投げてその煙の下を突き進み、或いは、火の中から出て来る者を待ってこれを討った。

いのち

信忠は奮戦した。信長の子らしく最後の最後まで戦った。すでに守る一門を破られても、なお血けむりの下を退しりぞかなかった。

けれど、福富平左衛門、野々村三十郎、赤座七郎右衛門、篠川兵庫ささがわひょうごなど、みな彼の楯たてとなっては殪たおれて行った。

「今は」

と、彼も死所ししょを心がけた。

ふり向くと、館やかたの建物は黒けむりにつつまれている。それへ向って、彼が驀まっしぐらに駈けるのを見ると、団平八、桜木伝七、服部小藤太はっとりことうたなども、あとを慕したった。

そのほか、遠方此方おちこちにいた水野九蔵とか、山口半四郎とか、逆川さかがわ甚五郎とか、小姓衆や侍たちも、みな煙の内へかくれこんだ。

「玄以げんい、まだいたか」

信忠は、館の中まで従ついて来た前田玄以のすがたを認めると、こう叱った。烈しい声で、彼がここに留まっているのをなじった。

「なぜ逃げのびて行かぬか」

「はい」

「はいではない。そうこうするうちに、機を逸いっしように。……早く去れっ」

「はい……」

「いうことをきかぬやつだ。わしの主命だ。落ちて行ったとて、卑怯ひきょうとは誰もいうまい」

「せめて、御最期なりとも、見届けませぬうちは、なんとしても、退のきかねまする」

「まだそんなことをいっておるか。……死は必定だ。もののふの死にふたいろはない。無益に時を移すよりも、わしのいいつけたことを完まっとうせい」

「……では、これをもちまして」

前田玄以げんいは泣きながら出て行った。あとに残って死すべき人々は涙も持たないのに、生き長らえるべく出て行く者は涙にぬれて行くのだった。

彼のうけた使命は、

(そちひとりは、岐阜城へ赴おもむいて、この急変を家中に告げ、わが子の三法師さんぼうしを守って、後図こうとを善処してくれい)

という信忠の遺命にあったのである。

これほどな中でも、脱け出そうとすれば脱出できるものとみえる。前田玄以はどう落ちて行ったか、ともかく遺命を守って、後、三法師を奉じて清洲きよすへ移っている。そしてなおずっと後年には、秀吉の五奉行の一員の中に彼の名が見える。

玄以げんいを追いやると、信忠はそこに居合う旗本小姓たちの面々へ、

「さらばここで、その方たちも思いのままよい死所を得るがよい。主従は二世という、また次の世でめぐり会おう」

と、別れを告げ、鎌田新介ひとりを従えて奥殿へ駈け入った。

「御生害とみゆる」

家臣たちは、せめてその間だけでも、敵を寄せつけまじとして手分けして口々に立った。そしてその口々の防ぎを最後の奉公としてみな血に伏した。

信忠は奥へ入ると、

「新介。介錯かいしゃくをいたせ」

と、いいつけ、また、

「わしの死骸は、板縁をあげて床下へかくし、すぐ火をかけろ」

と、死後の処置まで命じ終ると、すぐ正坐して見事に割腹かっぷくした。

主命のままに、鎌田新介は、涙をふるって信忠の介錯かいしゃくをつとめて、その死骸を、板縁の下へかくした。

縁の板を、もとの通りに並べてもなお、

「敵兵に見出されはしまいか? ……」

と、危惧きぐされてならなかった。

煙はいちめんにたちこめてくるが、火はまだ容易に奥殿まで燃えて来そうもないからである。

「あれほど、御自身のなきがらを、厳に敵の目に曝さらすなと仰っしゃったものを」

彼は外へとび出した。何か燃えつきやすいものを持って来て、自分でここへ火をかけようと考えたのである。

庭づたいに、築山の裏を這って、じめじめした北の隅までゆくと、庭番の者が、日頃に枯れ枝を払って束たばねては積んでおいた柴しばの囲いがあった。新介は何気なくその柴の束把たばをくずして左右の腋わきへ抱え込もうとした。

すると、その囲いの中で、

「……あっ?」

という人間の声がした。

見ると、敵ではない。――味方も味方、御一族の織田源五郎長益おだげんごろうながますだった。

戦いをよそに、ただ一人この中に柴をかぶって潜ひそんでいたものらしいのである。この人は、信長の舎弟にあたる者だが、信長とは似ても似つかない「怖こわがり坊どの」であった。どうして武門になど生れたろうかと、不平ではなく、腑甲斐ふがいなき自分をつねに自分で嘆いているおひとでもある。しかし非常に気心がよく出来ている人間なので、信長も愛し、信忠もこの叔父は立てていたが、今暁以来、よほどびっくりしたものとみえ、軍中にも影も見せず声もしなかったので、いずれ逸早いちはやくどこかへ逃げたものとのみ皆思っていたらしかった。

「…………」

新介は、気のどくで、その人のすがたへ何も物がいえなかった。くずれた柴をもとのように積み直して、ほかの方へ向いて行った。

――あさましいお人ではある。

彼は心のうちで源五郎殿を蔑さげすんだ。一瞬は唾棄だきしてやりたいような憤いきどおりすら覚えた。……が、こんもり茂った木蔭の下の古い石井戸の口をみると、鎌田新介は無自覚に足をとめていた。

「この中に隠れていれば?」

と、彼もまた、われにもあらず命が惜しくなっていた。

――という気持が、ふと、影のように映さしたとき、彼はもう日頃の武門のたしなみも一切無意義なものにしていた。さながら臆病者のごとく、釣瓶つるべにすがって古井戸の中へ辷すべるが如く影を沈めてしまった。そこの冷気はいよいよ生の執着しゅうちゃくをつのらせ、急にわくわくと総身がふるえて来た。

半刻はんときも経ったろうか。もう剣槍のひびきもなく、館もあらまし焼け落ちたかと思われる頃、井戸のふちで明智の兵の声がした。

「や、いるぞ、一匹」

「井戸の中か」

鎌田新介は、南無三と思ったが、飛び出すこともできなかった。上の兵は覗きこんで、

「いるいる。たしかに一匹潜ひそんでいる。どうせ、獣けもののようなやつだ。なぶり殺しにしてやれ」

三、四本の槍さきが、井戸の中へ逆さに向けられた。どぼんと高い水音を深い闇の底に聞くと、明智の兵はどっと嗤わらった。「いのち」こそ、ただ捨てどころ一つで、その生涯の美も醜もきまる。末代、その人間も価値づけられる。

鎌田新介とて、一ひとかどのさむらいに間違いなかったろうに、可惜あたらその「いのち」を死に際ぎわの寸隙すんげきに惑まどわしめたため、逆臣と世間でののしる明智の部下からさえ、

(獣にひとしいやつ)

と、嗤わらい蔑さげすまれたあげく、抵抗ひとつできず、刺し殺されて、古井戸の鬼と化してしまった。

けだし人間の本性は、誰にせよ死にたいしては弱い。故に、いさぎよければ美しいものである。またそれを超こえた境地が絶大な強さともなるのであった。だからまた、武門といわず、禅門の者も、あらゆる芸能の士も、その生死無境を目がけて、弱い自己をみがきもし、修養にも幾年月の苦行を敢あえてするのであるが、これも到底、生半可なまはんかでは、いざという大事なときに、鎌田新介のような醜しゅうを演じないとはなかなか云いきれない。

(修行はできている。なんの、死を視みることは生も変りがあるものか)

などと自負している生修行なましゅぎょうこそ却って往々にして、やり直しのきかない末代までの不覚をとるものである。むしろ平生において自分の覚悟のほどを危ぶんでいるくらいな者のほうが誤りが少ない。それがむしろまったく、雑智ぞうちや生分別なまふんべつなどなく、素朴ありのままな生き方か死に方かである。

けれど、本能寺でも、二条城においても、鎌田新介などは例外な者であった。武門といっても無数なさむらいである。このひとりをもって織田家のさむらい達の名は少しも日頃を辱はずかしめてはいない。たまたま、泥土にまみれて汚く踏まれる花はあっても、満山の落花の偉観には少しも関かかわりないようにである。

同じ日、同じ刻限だが、例外でも、こういう勇壮な、そして麗うるわしい例外もある。

もと、安藤伊賀守の身内で、松野平介へいすけという一士があった。伊賀守が信長の不興を蒙こうむって、先年追放されたとき、

(平介は見どころある者なれば留めおけ)

という信長の特旨から、以後領地をもらって一ひとかどの待遇をうけていた。

本能寺変の前日、平介は近郷の知人の家に泊っていた。今暁、乱を知って、宙をとんで駈けて来たが、元より間にあうはずもない。

すぐ妙覚寺へ行ったが、ここの一隊もすでに二条へたてこもり、城内は濛煙もうえんにつつまれている様子。はや落去の後だった。

「よしこの上は、ここにおいて、最後の戦いをなし、信長公、信忠卿のおあとを慕いまいらせん」

と、妙覚寺の大門の前にただ一名で立ちはだかり、彼方かなたにどよめいている明智勢にたいして、

「やあアい」

と、まず大音で呼びかけ、

「――汝ら、まだ勝鬨かちどきをあげるは早いぞ。信長公の一兵まだここに罷まかりある。乱賊どもの首一束ひとたば持たぬうちは、泉下の御主君にお目にかかってもあの世で手持ち不沙汰。いざ来い。松野平介の一卜槍うけて末代の語りぐさとなせ」

と、頻りに敵軍をさしまねいていた。

落城の煙を仰いで、濠ばたの明智勢はもう傷口の手当をし合ったり、息休めをしていた。

松野平介の声は、たしかにそこまで聞えている。ときどき、明智の兵は、妙覚寺のほうを振り向いた。

「変なやつがいる?」

とでも思っているのか、たれも相手に立って来ない。

平介は、業ごうを煮にやし、味方が寺内に残して行った鉄砲を持ち出して来て、狙い撃ちに、明智の兵を三、四人撃った。

俄然がぜん、土けむりが、此方こなたへ向って駈けて来た。そして妙覚寺の大門を包囲したが、まさか平介ひとりとは思わないので、

「油断すな。寺内に残兵がひそんでおる」

と、ひしめきつつも、容易に近づく者もなかった。

平介は、槍を把とり直して、最前の大言をもういちど繰り返して、

「冥途めいどのみやげに手頃な首はどれだ。どれもこれも愍あわれむべき細首。逆に組し、乱の手先に働いて末始終、胴によくつながっている首はあった例ためしがないぞ。どうせ捨てるものなら潔いさぎよく松野平介の槍をくらって、せめてもの名残にしろ」

と、らんらんと睨ねめ廻まわした。

妙覚寺にはまだ敵が残っているという沙汰に、附近にいた斎藤内蔵助利三くらのすけとしみつの一部隊が、すぐ加勢に駈けつけた。

ところが、敵はただ一名で、しかもその一名の敵に、すでに幾人か討たれ、なおまだ仕止めかねているというので、内蔵助利三が、

「いかなる者か」

と、訊ねると、松野平介という者ですとの答え。

利三は驚いた。松野平介とは年来の昵懇じっこんだからである。あんな気持のよい男を死なしてはならない。にわかに、旨むねをそこへ伝えさせて、利三自身すぐそこへ馬をとばして来た。

(なる程、平介だわえ)

と、味方の囲みをわけて馬を前へ出し、まず、

「松野平介ではないか」

と、ふだんの通り呼びかけた。平介は、

「利三来たか。汝なれば、泉下せんかへ伴ともなって、信長公へごらんに入れる首としてややふさわしい。日頃の友とて、今日の悪行はゆるしがたい」

と、きびしく槍を構え直した。利三は苦笑をゆがめて、

「平介にはまだ聞き及びないか。本能寺はもとより、当二条城もはや落去。今しがた信忠卿にも御生害あった。天下はこの半日に一変いたしたのであるぞ。何を血迷うて吠ゆるか。日頃の誼よしみをもって内蔵助利三が案内申そうほどに、まず御本陣へおざれ」

「なにしに?」

「日向守様に、御挨拶をなすがよい。利三口添えするであろう」

「見損のうたか、斎藤老人。おぬしのむかしの友松野平介はそんな男ではない。一いったん流浪なすべき身を信長公に拾われ、今日ある御恩を、何で弊履へいりのごとく捨てられようか。武門とはこうしたものだ。見よ、おれのさいご」

だっと、真っ直ぐに駈け出して来た。そして利三のそばまで、達しないうちに、むらがる敵刃と渡り合って、血けむる中に壮烈な戦死をとげた。

「惜しい。実に惜しい男を」

と、利三にも光秀にも、後までしきりに惜しまれたが、その松野平介も、もし利三に誘いざなわれて、明智の陣門に降伏しても、そのいのちはやはり後十日のものでしかなかったであろう。なぜならば、明智そのものが十日の後には亡ほろんでいるからである。

洛中はよく落首が立つ。殊にこんな騒乱そうらんのあとに宣伝される。奇蹟的に助かって逃げた織田源五郎長益ながますだの、古井戸で犬死した鎌田新介などは悪しざまに謳うたい囃はやされた。

その中で、たれか妙覚寺の土塀に、こんな今様いまようめいたのを書いたのがあった。

いのちよく持て

いつくしめ

花とかおって散る日には

さっときれいで

あるように

又学舎ゆうがくしゃ

朝の一いっときは、夜のままみな戸をおろして、死の街かのように、ひっそりしていた洛内らくないの市民も、やがて午ひる近くには、いちどに往来へ出はじめて、大路小路こうじの辻々には、かならず人が群れているし、常には人通り少ない道筋まで、日頃の十倍もぞろぞろと人が流れてゆく。

光秀はさすがに民衆の心理を察して、まだ本能寺や二条城のけむりが墨の如く天を蔽おおっているうちに、全市へ向って、軍令をかかげた。

それによって、市民は事態の真相を知り、愕おどろきもしたろうが、また安心もしたらしいのである。――そして、家々みな戸をあけると、用のない者まで辻にあふれ出し、あちこちの風聞ふうぶんを耳に拾って歩くのであった。

「立たないで下さいっ。歩いて下さいっ。見ていたっておもしろいものじゃない」

「水を撒まきますぞ。退どかないと泥水がかかりますぞ」

又学舎ゆうがくしゃの門人たちは、門前にたかって覗のぞきこんだり、塀の穴をさがしている弥次馬を追うのに、大汗をかいていた。

「閉めてしまえ、閉めてしまえ。もう怪我人けがにんもこれ以上は収容できない」

玄関わきで、べつの門人がどなっている。

見わたすと、なるほど、広い邸のうちは、庭も屋内も、板敷もところ狭きまで、うめき声と、負傷者のすがたで埋まっている。

ここは白河道へ通じる松原の一角で、市民は、又学舎ゆうがくしゃとよび慣れているが、庭園の柴門には翠竹院すいちくいんの板額はんがくが見えるし、講堂には、啓廸堂けいてきどうの額がある。

あるじの曲直瀬道三まなせどうさんが、その著書「啓廸集けいてきしゅう」を脱稿だっこうしたのは天正二年のことである。翠竹院の号はその折、叡覧えいらんの光栄に浴したうえ、彼の本邦医学に寄与した功労を嘉よみしたもうて、朝廷から下賜かしあらせられたものとか、都の人々も聞いている。――で、俗称するは勿体もったいないとしてであろう、又学舎ゆうがくしゃが通り名になっていた。

「なぜ、門を閉めるか」

その本邦医学の泰斗たいと、曲直瀬道三は、今暁からまだ朝飯もたべていないはずである。上着のもろ肌を脱ぎ、下着の袖を片だすきに結んで、多くの門下生を指揮し、いまや屋の下にみちている多くの負傷者を、ひとりひとり手当していた。

「開けておくと女子供までが覗のぞきに寄って、うるさくてかないません」

門生が、外で答えると、

「往来の者が覗くぐらいは、邪魔にもならん。まだまだ落人おちゅうども通ろう。怪我人もよろ這ぼうて通ろう。門を閉じておいては、それらの衆が気づかずに過ぎてしまう。――容いれる場所がなかったら薬くすり干ほし場ばへも莚むしろをしいて、はいれる限りお容いれせい」

道三はそう告げてから、また諸所に横臥おうがしている怪我人を見まわった。金創きんそうの洗滌せんじょうやら、繃帯ほうたいやら、くすり塗布に当っている門生たちと共に、自分も負傷者の治療へかかった。

彼のきれいな白髯はくぜんは、負傷者の血しおに染み、彼の懸命な面おもてには、空腹を喞かこつ容子ようすもなく、また、天下の大乱すら知らないもののようだった。

幸いにも、又学舎ゆうがくしゃには、たくさんな門生がいた。もともとここは、道三が後進を誘掖ゆうえきすべく興おこした医の塾だからである。

それらの若い学徒を励まして、門をひらき、全舎を提供して、ここに本能寺の負傷者や二条城の合戦からよろ這い落ちて来る武者たちを収容し始めたのは、実に、戦いが始まると同時の夜明け頃からだった。

一ひとしきり、風が西へ変ったころは、この辺、風下かざしもになったので、附近のやしきでは、火の粉をおそれ、避難の準備に恟々きょうきょうとしていたものだが、曲直瀬道三は、

(燃え移って来たら、怪我人を負うて先へ移ればよい。それまでは)

と、学生たちを外に立たせて、怪我人をかかえ入れ、眼のまわるような忙しさに、この半日を、ほとんど、われなく人なく、必死の治療に過していたのだった。

初め、ここの医学生たちは、

「明智の兵など容いれるな。逆賊の家来などを手当する医学は学んでいない……」

などと昂奮にまかせて罵ののしり合っていたものだったが、師の道三から、

「ばかを申せ。わしは仁なき医学を教えた覚えはない。明智の家来とて、主に仕え、その主に命じられた以上、まことにやむを得ないことであったろう。何も知らぬ軽輩ほど、それと知ったせつなには半狂乱にもなり、死にもの狂いに戦ったことであろう。そう思えば、むしろ気のどくなのは明智方の人々、わけて可憐いじらしいのは足軽小者の心根じゃ。――汝ら、医に志しながら、もののあわれも弁わきまえぬほどなら、医者学問などは止めてしまえ」

と、一場の訓諭くんゆをうけたので、若い学徒は、たちまち師の大度に習って、織田家の士であろうと、明智兵であろうと、けじめなく収容にかかったのみか、焼け出された貧民街の怪我人や迷子まで容いれて労いたわった。

従って、白昼二ヵ所の合戦中、そこで織田明智の両勢が、互いにしのぎを削り、切っ先に火をふらして戦っていたが、ここの一宇の屋根の下では、敵味方枕をならべて、うめきの中に顔を見あい、しかもひとりの仁者の手から差別なく温かな手当をうけていたのである。

「おう、おう。これはこれは、よくこそこの火急の中になされておられる。足のふみ場もないが、さすがは道三どの、ありがたいところにお気づき下されたの」

これは負傷者ではない。日頃から親しい主あるじの友人とみえる。門内へ入って来るなり、訪れの代りにこう独りで云いながら、負傷者の莚むしろのあいだを通りぬけ、奥の講堂の縁先へ来てまた云った。

「道三どの。手伝おうか」

「やあ、紹巴じょうはどのか。まずあがれ。この際じゃ、そこからでも」

「こんな折じゃ、お邪さまたげしてはすまぬが、何せい喉のどが渇かわいた。白湯さゆ一杯たまわらぬか」

連歌師れんがしの里村紹巴さとむらじょうはは、裾の埃ほこりをたたいて上がった。彼の草履も顔じゅうの汗も、さすがに今日だけは、日頃に似ず真っ黒によごれていた。

紹巴の訪れをしおに、道三も朝から初めて一息ついた。

「ここへ円座えんざを持て」

と、門人にさしずして、書物ばかり積んである一室に対坐して、白湯を呑み合いながら、

「さて、どうなるのじゃ、この後は――」

と、お互いに、顔見あわせた。

紹巴は、二条はまださかんに焼けているが、今暁の本能寺のすさまじい焔は御覧になったかと訊ねた。

道三はかぶりを振って、

「何も見ぬ。まだ、一歩も外へすら出ぬ。そんな暇はない」

と、邸中やしきじゅうの負傷者をながめ、

「戦いくさと同時に、ここも戦いくさの場にわとなった。ただ気づかわるるは、御所のあたりじゃが」

「いや、あのあたりは、別条もございませぬ」

「とはいえ、本能寺や二条の火の粉は、禁裡きんりの御苑ぎょえんにふりそそいだであろう。恐れ多いことではある」

「恐れ多いといえば、二条御所の親王様や若宮様には、戦いの中をおひろいで禁裡へお移りあらせられた。ふと道ばたに伏し拝み、余りの勿体なさにわれを忘れて、近くの公家くげやしきの門を叩き、ありあう破やれ牛車ぐるまを曳き出してそれへおすすめ申しあげ、無我夢中で禁門のあたりまで牛を打っていそいだが……あとで思うと、いかに非常の中といえ、近々と御裳おんもすそをとり参らせなどいたして、まだいまも身の縮ちぢむ思いが失うせぬ」

「それは機転きてん。よいことをなされた」

むしろ称たたえるごとく道三が云ってくれたので、紹巴じょうはもすこし胸撫でおろした容子ようすであった。

しかし道三はその次に、この友が事変の直前に、光秀と愛宕権現あたごごんげんで一夜を過すごしていることについて、本気になってこう責めた。

「どうしてその折、日向守ひゅうがのかみが大それたことを仕でかす気ぶりでも、その動作やことばの端でもわからなかったか。聞けば日向守としては不審な連歌れんがも詠まれたとかいうではないか」

「それは無理ですよ」

紹巴もむきになって打ち消した。

「臣として主を弑逆しいぎゃくするなどということは、この紹巴じょうはのあたまには考えようとしても考えられぬ。たとえ変だと気づいても自分の道義が合点しません。自分の中にないものを未然に感づけといってもそれは無理で……それが咎とがめられる程ならわしはむしろあなたを責めたい」

「どうして」

「日向守が坂本城におる間、一日叡山えいざんのうえで会ったといわれたことがある」

「今思えば、たしかにあのときすでに日向守の容体には、ただならぬ脈搏みゃくはくがあらわれておった」

「なぜそれを黙っておられましたか」

「病人のことじゃもの。わしにいわせれば、光秀の謀叛むほんは、一夜に大熱を発した狂病じゃよ。熱を起すも病症をあらわすも、その心身に素因そいんを持っているからであるが、まあ半分は病勢が手伝ったのじゃ。さもなくてこんな日本一の莫迦ばかを日本一の理性家が仕出来しでかし得ようか」

光秀を評して――日本一の利口者が日本一の莫迦ばかをやった――という曲直瀬道三のことばに対して、紹巴も、

「いや大きに」

と、共鳴の容子ようすだったが、道三の声が憚はばかりないので、こうして同じ屋の棟の下にいる明智方の負傷者たちに聞えはしまいかと、気の立っているそれらの人々の耳を怖れるように、また気のどくがるような眼まなざしで近くの部屋部屋を見まわした。

けれど、道三はいっこうおかまいなく、

「日向守の日頃を、常識の人、知性の人とみるときは、欠けるところのない教養をそなえ、織田どのの一将としてほとんど非の打ち所もない。またよく天下の人心を察知し、信長公がこれまでやって来た統業の功罪をひそかに批判し、それを称たたえる者も多い半面には、その犠牲となった者や、うらむ者も世にはたくさんある点を冷静に算出して、その数を味方なりと考え、この時期において、公を弑逆しいぎゃくするの機をとらえた彼の頭のはたらきは、まことに賢いものだというほかはない。……しかしじゃな。ひるがえって、その野望が成るものか、成らぬものか。旗上げの名分をどう称となえる気か。彼は、その名分も理論で捏こね上げられるものと思っておるらしいが。……ばかな。たれが、そんなややこしい理論構説こうせつに耳をかそう。名分とは、民の直情に合致するものだ。大義とは、民のなかに持っている鉄則の信条じゃ。この標的まとを外はずしては、戦いくさも政治もうまく運ぶわけはない。かりそめにも、逆と呼ばれる旗を持っては、たとえ、日向守がどれほど努力しようと、もうこの先は見えすいておる」

碗わんの中にのこっている冷さめた白湯さゆをのみほして、道三はなお云った。

「――それだけでも、利口者の莫迦ばかを証するには充分だが、日向守一箇についていえば、もっともっと彼の愚は大きくなる。それは、もう彼もずいぶん功を立てたろうが、主家の恩寵おんちょうは眷族けんぞくにおよび、丹波、近江にかけて、六十万石に封ぜられ、酬むくわるるに何の不足もない。しかも自分の心ひとつで、まちがえば一瞬のまに、わが身のみか、眷族けんぞくの妻子老幼から、家中の将士の家族までを、いかなる運命に投げこむか……それを思えば、いかなる堪忍とてもできぬことはない。大家族の家長としてもじゃ。何も知らぬ末々の者や女おんな子こどものために、世に対してはつらい涙ものんで、しかも大船に乗せたここちの安心を与えておくのが、家の主あるじではないか。――そもそも主人の統業にたいし、その情熱に与くみして来ながら、おりおり批判的な眼で主人を見たりなどしていたことが怪けしからぬ。あれやこれ、いえばまあ限りもないが、要するに、日向守の逆事は、知性に疲れた智者の破綻はたんじゃ。それと、五十五の坂にかかった人間の生理的な焦躁とか、我慢のおとろえとか、脾ひ、肝かん、心しん、腎じん、肺はいの五臓の衰気も多分に手伝うていることは疑いもない。――もし彼が老いてもいよいよ健康であるか、或いは、もう十歳も若かったら、決してこんなばかをやって、天下を騒がすことはしまい」

道三の長ばなしについ聞き入っていたが、紹巴はふと、べつな方に騒がしい人声を聞いた。――と思うまに、ひとりの門生があわただしく廊下を駈けて、道三をさがしに来た。

門生はそこに師の道三を見つけると、あわただしく告げていう。

「早くも都下一帯に、残党狩りが始まりました。もちろん明智の衆が、なお全市には織田方の士が潜伏しおるものと見ての追求です。さきほどから町ごとに、各戸へわたってきびしい検察けんさつだそうですが、ただ今、ここへもやって参りました」

道三はその門生の浮き腰な容子ようすをたしなめた。

「来てもよいではないか。家探しいたすなら致すで、よくご案内いたしてあげろ」

「……でも」

「何をうろたえているか」

「ここに収容してある三分の一ほどは、織田方のさむらい衆でありますので」

「わしが手をかけた怪我人けがにんには指もささせはせぬ。よもまた、それらの傷負ておいを拉らっして行こうとは検察の明智衆もいうまい」

「ところが今、それでお玄関で争っているのです。残党狩りの衆は、たとえ瀕死の重傷者であろうと、織田のさむらいは、引っ立てて行くといって肯ききません。――拒こばむなら拒んでみよ、町にかかげてある軍令に照らして、このやしきをも焼き払うぞと、あれ、あのような声で威嚇いかくしておりまする」

「……そうか」

道三はそばにいる紹巴へ、会釈をして、

「ちょっと、中座いたすが、おゆるしを」

と、云いながら起った。

その面おもてを見あげて、紹巴は、

「ま、門生たちに、委まかせておかれてはどうか。明智の武者は気が立っておるにちがいない。お怪我けがでもしてはならぬ」

「ご心配に及ばぬ」

道三どうさんは玄関へ出て行った。

武者たちは玄関にいなかった。家人の案内にも及ばず中門から庭へ入っていた。そしてたくさんな負傷者を見まわすと、やや冷静にかえった様子で、どれが明智の家臣か、どれが織田の武士さむらいか、見分けるにちょっと困難な顔つきをしていた。

で、端のほうから、負傷者に訊問じんもんをし始めようとしていたところだった。

「残党のおしらべか。ご苦労にぞんずる」

検察の武者たちは、道三の声にふり向いた。白髯痩躯はくぜんそうく、鶴のような老医家のすがたに明智の部将も、いんぎんに礼を返した。

「当家の主あるじか」

「されば道三でおざる」

「それがしは、並河掃部なみかわかもんの手についておる山部主税やまのべちからであるが、今暁来の合戦に、味方の傷負ておいをおいたわり下されたこと、明智の殿の御名をもってお礼をいう」

「医として、為なすことを為したまでのこと。ごあいさつで痛み入る」

「しかし、お囲いの中には、織田の臣もだいぶ交じっておるらしいが、布告のとおり、織田にゆかりある者は、女子年少といえ、一応は連れてまいる。いわんや傷負ておいはまさしく合戦に立って刃向った敵。……ひとり残らず、即座に、お引き渡しあれ」

「いけない。ひとりとて、渡すことはできぬ」

道三は拒んだ。

門外にもまだいるらしいが、居あわせた十数名の武者は、彼のまわりを取り巻いていた。

「なに。渡さぬと」

まわりを囲んでいる者の具足や太刀は音をさせてひしめいた。

が、曲直瀬道三まなせどうさんは、部将の山部主税の面おもてを見ているのみで、その眸ひとみもうごかさなかった。

「渡すの、渡さないの……というのは、少しおかしかろう。ここにいる多くの傷負ておいは、たとえ織田衆であろうと、明智衆であろうと、いずれは皆、主人のためと、さむらいの名にかけて、よく戦って怪我した衆である。品物ではない。物とは違う。――ひとつひとつ尊いいのちじゃ。わしはそれを治療する医家であるから、わしの門に入れた以上は、健康にしてあげぬうちは出すことはできない」

「この戦時、しかも敵の残党を詮議せんぎしておる此方このほうにたいして、御辺ごへんのいっていることは、まるで平時の医者の言だ。いまはそんなことに耳をかしているいとまはない。織田の傷負ておいはのこらず引っ立ててまいるからご承知ねがいたい」

「そんな承知はできません」

「なぜ」

と、ついに山部主税もその顔に殺伐さつばつな気をあらわした。

道三は却って微笑をふくんで、諭さとすようにそのいきりたつ相手をなだめた。

「考えてみなさい、明智どのが乱の直後、早速に市中へかかげた軍令というのを聞いても、わが軍は決して天下をうらむ者ではなく、織田殿の年来の悪弊あくへいを討ったに過ぎず、わけても朝廷を仰ぎ奉るの念にはもとより変るところあるべき理はないと唱となえておるではないか。そしてこれからは、租税そぜいの地子銭じしせんも軽くする。大いに善政も布しく。だから市民は安心して、常のとおり家業に励めと、高札こうさつに令しておられるではないか」

「…………」

「刀折れ矢尽きて、医家の垣の内に療治をうけている兵は、もう主を失った浪人じゃ。ただの一民じゃよ。いや元々から朝廷の御民みたみであった者どもではないか。まして医家の眼から見れば、織田もない、明智もない、ひとしき御民としか見えん。御覧あれ。そこここには、明智衆の傷負ておいと、織田衆の傷負いと、枕をならべておるが、もうこの垣の内では、互いに、斬り結ぼうともしておらん。呻うめきと、痛手の顔をむしろお互いに、憐れみ合うかのごとく、黙って、顔見あわせているではないか。……彼も御民の子、これも御民の子、あらそい難い一つ血をもっている証拠じゃ。なお分らなければ、わしの書斎までござれ。むかし楠木正行くすのきまさつらが渡辺橋の合戦の折、足利あしかがの大軍を討って、暗夜の河中に溺れんとした足利の兵を救いあげて諭さとしおる一条が――あの太平記の中にある。貸して進ぜるから太平記を読んでみるとよろしい」

部将の山部は辟易へきえきした顔つきであった。この老医家が朝野に重んぜられていることも知っているし、そのいうところも大所に立っていることばなので、自分たちの単なる威嚇いかくや小理窟ではとても背が届きかねる。

で、やむなく彼は一案を出してこう促うながした。

「ご足労だが、ひとつそれがしと同道して、御本陣までお歩き下さらぬか。そして直接、日向守様へ何とでも申しあげてみられるがよい。それがまたいちばんよい方法とも考えられる」

「お供してもよいが、この通り大勢の生命いのちをかかえ、猫の手もかりたいほど忙しい折じゃ。――あなたの部下を走らせて、ありのままを、御本陣に伝え、日向どののお指図を聞かせて下さい」

道三はこういって、それにも従わないのである。

残党狩りの一組は、部将の山部主税が、やむを得ぬ容子ようすのもとに、

「然らば、後刻もう一度、沙汰に及ぶであろう。織田方の傷負ておいは、そのあいだ預けおく」

と、いうことばを機しおにして、どやどやと立ち去った。

――どうなることか?

と、ひそかに案じていたらしい織田方の負傷者たちは、やがて彼が縁を通って奥へ入ってゆく姿を、仰臥ぎょうがしたままの眸で拝むように見送っていた。

「どうなすった?」

紹巴は案じていたので、彼の顔を見るとすぐ訊ねた。道三はべつだん、どうという容子ようすもなく、

「帰ったよ」

と、いった。

けれど、それから間もなく紹巴が辞しかけると、彼はにわかに、

「お頼みがあるが」

と、声をひそめた。

「何ですか」

「実は、さきほど明智衆が調べに来たとき、わしにも胸のうちに弱味があった。というのは、この家のうちに負傷者でもない落人おちゅうどがひとり匿かくまってある。彼らが出直して来たときは見出されるかも知れぬ。すまぬが、一時お宅へお供申し上げて、適当な頃、どこかへお隠しして下さらぬか」

「誰ですか、その落人とは」

「承知してくれるなら打ち明けるが」

「もとよりこの紹巴とて信長公の御恩顧にあずかって参った者。またあなたという友を裏切るわけもない」

道三は耳をつけて囁ささやいた。

「……信長公の御舎弟、あの源五郎どのだよ」

「…………」

紹巴は目をまるくしたが、だまって頷うなずいた。そして帰る折には、台所門からひとりの男を連れて出て行った。男は医者仲間の恰好かっこうを作っていたが、織田源五郎長益ながますなることは、見る者が見れば分ったであろう。

たそがれ迫る頃おい、さきの残党狩りの部将山部主税ちからは、果たして、ふたたび門を叩いた。

けれどこんどは、駕籠かごをしたがえて、いんぎんなる迎えであった。最前の卒爾そつじをふかく詫びて、おことばのままを主人光秀に伝えたところ、却って、医家の仁はさもあるべきだと、非常な御感銘であったとも告げ――

「その儀は、構いなしとの仰せでしたが、今日の合戦に御一族の光忠様にも、二条の東門で深傷ふかでを負われておりますし……かたがた、日向守様にも甚だしいおつかれにあらるる由で、まことに御足労ながら、妙心寺の営内まで、御来診ごらいしん下さるまいかとのおことばです。……お乗物もそなえて参りました。恐れ入るが、お越しねがいとう存ずる」

と、鄭重ていちょうなる頼みだった。

道三は承知した。――その晩、六月二日夜の陰々たる洛中を剣槍に守られて通ったものは、実に一般の市民としては彼ひとりあるのみだった。

波なみ波なみ波なみ

二日のその朝。

まだ事変の最中さなかに、博多はかたの宗湛そうたんとともに、京都を立ち、その宗湛と、淀よどの船つき場でわかれて、堺さかいへ急いでいた茶屋四郎次郎は、焦いりつける田舎いなか道の炎天を枚方ひらかたから二里ほども来ると、彼方から埃立ほこりたてて来る一隊の兵馬を見かけた。

「もう、この辺にも本能寺のことが知れ渡ったか。それにしても早い駈けつけよう。……明智の与党か。織田の衆か」

――いずれ変を知った近郷のさむらいが、家の子を伴ともなって、戦場へいそぐものと独りぎめして、四郎次郎は身を畦あぜの横へ避けていた。

すると、通りかけたその隊の中から、思いがけなくも、大将らしい者が、彼へことばをかけた。

「四郎次郎ではないか。どこへまいる」

ひょいと、畦あぜから仰ぐと、それは彼がこれから今日の大変を今日のうちにも告げ知らせたいと、こうして急ぎつつある意中の人、徳川殿の身内でも、錚々そうそうたる直臣じきしんのひとりだった。

「おう、本多ほんだ様でいらっしゃいましたか。あなた様こそどちらへ」

「京都までまかり上る」

「では、本能寺へ」

「いかにも」

「どうしてそのように迅はやくお知りになりましたか」

「知ったかと?」

「今暁こんぎょうの変を」

「はて。……四郎次郎、はなしが遠い。もっと寄れ」

本多忠勝ただかつはさしまねいた。

はなしの辻褄つじつまがあわないので、さてはまだ知らないなと思ったので、四郎次郎はすぐ彼の鞍くらわきへ寄った。そして声をひそめて、

「信長公にお会い遊ばすおつもりで行かれますか」

と、訊ねてみた。

「そうだ」

忠勝はじっと四郎次郎の顔を見ながら、その眼の中のものを何とは知らず、ただこれは何事かあったなという予感を持って読みとった。

四郎次郎は一いっそう声をひそめて一言に告げた。

「右大臣家には、もはやこの世のお方ではありませぬ。今からでは御空骸おんなきがらだけにお会いすることもかないますまい」

「……?」

忠勝はいつも持っている自慢の槍を抱えたまま馬上に胸を伸ばした。そして青田の果て遠く枚方ひらかたの堤から京都方面を凝視ぎょうししていた。

夏の雲が、ふわと遊んでいる。ここからは二条の煙もわからなかった。

「みなの者、木蔭へ寄って、しばし休め」

すこし先に、藪やぶがあった。忠勝も駒を降りた。そして木蔭の床几しょうぎに、四郎次郎とただふたりきりになると、彼は、

「おぬし、かりそめならぬことをいうが、よも間違いや戯たわむれではあるまいな」

と、念を入れた。

「何でかりにも、そのようなことを」

四郎次郎こそ、ここまで来るには、命がけだったのである。冗談どころの沙汰ではない。

「本能寺はもちろん、今頃はもう二条のお構えも陥おちておりましょう。――この辺りは初夏の空と青田の何知らぬ静けさですが――洛内は夜が明けても夜のままで、降る火の粉と馬蹄の音のほか、人影ひとつ見ることはできません。もとより洛外への道々はきびしく断たれ、ずいぶん怖い思いもいたしました」

彼は真相をつぶさに語った。

忠勝は何よりも、

「謀叛人むほんにんは」

と訊ね、明智と聞くと、初めて得心の色を示した。――それならあり得ないことではないという容子ようすで。

しかしその予感も、こう突然、表面の事実にあらわれたとなると、忠勝も驚愕きょうがくした。さしあたって、いま京都への途中にある自己の進退にも迷った。

「ではお許もとは、乱と同時に、急いで来たのだな」

「一刻も早くお館やかたのお耳に入れたいとぞんじまして。……右大臣家亡なき以上、さしずめ天下は乱脈の相を呈しましょう。それに処するお館の御思慮は重大ですからな」

「よくぞ。よくぞ」

と、忠勝は惜しみなく賞ほめて、同時に自分もここから引っ返すことに肚はらをきめた。

彼の主人家康の、ここ数日間の動静はどうかと見ると――月の末(五月二十八日まで)は京都見物に過し、二十九日には堺さかいへ向い、晦日みそかには、堺奉行所の公式の饗応きょうおうに招かれたり、また松井友閑まついゆうかんの案内で、遊覧などに送っている。

明けて六月一日も堺泊どまり。

その朝は、今井宗及いまいそうきゅうの宅で、朝茶の招きがあり、種々の名器など見て、午ひるすぎの半日は諸所の寺院など見てまわった。

その晩、家康は、

(右府様にも、そろそろ御上洛ある頃。安土以来のお礼を申しあげねばなるまい。――先発として忠勝には一足先へ立て)

と命じ、その本多忠勝が、出発のあいさつをうけてから、客舎に就寝したのであった。

忠勝が堺を出たのは、まだ真っ暗な早暁そうぎょうであったから――以後の主君の動静はわからない。が、恐らくは今日もまだ、堺に御逗留ごとうりゅうではないかと想像されていた。

四郎次郎とともに、彼は堺へ引っ返したが、家康はもう堺にいなかった。

土地ところの人々は、

「午ひるすこし前、急に、右大臣家とお会い遊ばす急用が起ったと触れ出されて、お昼食その他の御予定も一切抛なげうたれ、慌あわただしゅう京都へお立ちになった」

という。

けれど、この頃には、もう誰からともなく、本能寺の変は聞えていたので、堺には騒然たる人心の動揺が見られた。

「――はて、それならば、途中でお目にかかっているわけだが?」

忠勝は首をかしげた。直臣の忠勝にすら行く先が解とけなかったのであるから、今日知った異変の報とともに、堺の人々が、家康の行方不明をも語り合わせて、一いっそうその騒ぎに臆測おくそくを加えていたのは無理もないことであった。

堺附近の人心に徴ちょうしても、本能寺変の一事が、いかに天下を震駭しんがいさせたかは、想像以上なものがある。

こういう場合の民心の動揺は、得えてして行き過ぎに奔はしりたがる。

或る者は、

「今からまた、世の中は前のような大乱になるだろう」

と云い、またある者は、

「室町末頃の群雄割拠ぐんゆうかっきょがふたたび実現する」

と称し、なおその間に、

「もう、どこそこでは、合戦が始まっている」

などと果てしない噂も生じ、いずれにせよ、畿内きないはもちろん、中国方面でも、関東でも北越でも、地上に戦いの行われない所はなくなるであろう。そしてなお容易には、このまま明智光秀が一夜に取って替かわったものを、ゆるすことではあるまいというのが、一般の観測でもあり、また恟々きょうきょうと、明日を怖れる所以ゆえんでもあった。

そしてその騒然たる不安と浮説は、三日は二日よりも強く、四日は三日よりも濃く、日のたつに従って、全国的なものとなった。――つまり、報道される地域が拡まってゆく相すがたと、それを知ることによって次々に起って来る地方の新しき事件とが、相搏あいうち、相称あいとなえ、一波万波のしぶきをいよいよ人心に駆りたてるからである。

で、事変後の数日、その余波のもっとも高そうな人と地理と情勢とを、いまその禍乱からんを離れて、天下の全面を高所から大観してみると、帰するところ、どこもかしこも、愕おどろきの余りに、

――如何にこの大変動に処すべきか。

は、誰もまだ混沌こんとんとして、明らかに帰趨きすうを見とおしている者は、ほとんどないような有様としかいえない。

まず、信長麾下きかの宿将たちの立場を見るに、第一に指を屈すべきは柴田勝家しばたかついえであるが、折から彼は、越中に出征中で、本能寺の事あった翌日六月三日でさえ、まだ京都の凶変を知らずに、上杉方の魚津城うおづじょうを懸命に攻めたてていた。

木曾、信州を経て、事変の真相が裏日本いったいへ聞えて来るまでには、尠なくも、三、四日を要していたろう。

勝家は、この驚愕に打たれるとすぐ魚津を退ひいて、

「ひとまず北きたノ庄しょうへ」

と、自国の本城へ帰ったし、彼とともに、戦列に加わっていた佐々成政さっさなりまさも前田利家まえだとしいえも、各〻、急潮の退ひくごとく引きあげた。

利家は能登のとの七尾ななおへ、成政は越中の富山へ。そして勝家は北ノ庄にひとまず旗を収めたが、かかるあいだの各人の天下観も、自己の処する方針も、箇々同じものでなかったろうことは想像に難くない。

その際、利家から勝家へ、

「即刻、上洛して、明智と一戦なすべきでしょう」

と、勧告の使者があったとも伝えられ、或いは反対に、勝家から前田勢に、

「すぐ、京へ入らん。御辺も続け」

と、出兵を促うながしたが利家は対上杉軍との懸引かけひきを理由に、それをことわったという説も行われている。

いずれにせよ、裏日本の事態は、柴田勝家にとって、迅速な行動をゆるさないものではあったが、余りに憂いて、諸所へ兵を配し後顧こうこに備えてから、ようやくにして彼が江州ごうしゅうへ越えて来た頃には――時すでにおそしで、天下の変貌はまったく勝家の予想とは相反するものを旬日のまに招来していたのであった。

柴田勝家はしばらく措おいて。

東国にある滝川一益たきがわかずますはどうこの大転機をうけ取ろうか。

彼の立場も、地理的には非常にまずい所にあった。

上州厩橋じょうしゅううまやばしといっては、たとえ光秀討伐を志しても、ちょっとには駈けつけられない。

本能寺の急変を告げて来た書状を彼が見たのも、月の九日ごろだったという。この飛脚もちと遅い。かほどな天下の大事である。早馬に早馬を継いで、昼夜駈けさせれば、もっと日数は短縮されるはずである。

――が、その使いを派した安土の留守居衆からして、すでに混乱狼狽ろうばいしていたので、日頃の駅伝えきでん組織も完全な用を果していなかった。それと、どうせ知れることながら、一日でも多く秘密を保とうとしていたせいもある。

「きのうきょう。頻りに信長公が死なれたという噂があるが、実否如何であるか」

小田原の北条家から彼へこう訊ねて来たのが、十一日のことだったとあるほどゆえ、以ていかに関東方面の報道は遅鈍ちどんなものだったかがわかる。

要するに、駅伝よりも、それら武将間の早打よりも、民衆の耳から耳への沙汰がいちばん迅速だったのである。

一益かずますの場合は、その動きのつかなかったことも、恕じょさなければならなかった点は多い。

上州は新領地だった。そしてまた彼が赴任ふにんしたのも日が浅い。殊に、小田原の北条というものは到底ふだんでも安心していられる存在ではない。

だから彼は、変を聞いても、動かなかった。いや動き得なかった。――にもかかわらず北条は、月の中旬には、

「事を成すは今にある」

となして、上州高崎の境へたいして侵略を開始していた。

同時につい先頃、織田軍によって、武田そのものをも跡かたもなく攻め潰つぶした甲州方面でも、物情騒然ぶつじょうそうぜん、蜂の巣をついたような妄動もうどうがあらわれ出した。固守、攻略、合流、分離の争乱が随所に起った。

それらの新領地におかれていた蘭丸の兄の森長可ながよしも、河尻秀隆かわじりひでたかも、毛利秀頼もうりひでよりも、いずれはみなこの大地震にも似た地表の変動にその位置を失い、戦歿、流亡、惨たる末路にただよった。

要するに、この三月、信長が取ったばかりの旧武田の新領は、全部、一夜にしてふたたび、その所有者を変えたといってよい。

機を見て小利をむさぼるに敏なこの行動者は何処の何者ともいえないほど無数である。が、大なるもの北越の上杉、小田原の北条、そしてその慾望の触角は、柴田勝家の境へも、徳川家康の界さかいへも、ほとんど見さかいなき相すがたで侵攻を開始し、まさに、天下再乱の恐慌きょうこうを思う民衆の予想は中あたっているかとも思われるばかりであった。

「しかし、たとえどうあろうと、信長公にもっとも近い血族のうちから、なぜただ一人の毅然きぜんたる者も立たないのか。名分ある旗をかかげないのか」

とは、民衆の中にある斉ひとしき焦躁しょうそうであった。その気もちは、信長の第二子北畠信雄きたばたけのぶおと、三男神戸信孝かんべのぶたかの在あるにたいして、当然抱かずにいられない一般の同情でもあったのである。

安土本城の留守居衆は、この際において、どう処したろうか。

地理的に見ても、京都とは、目と鼻のさきである。おそらく同日の夕刻には、すべてのことは、安土へ分っていたにちがいない。

蒲生賢秀がもうかたひでの所へは、早くも同夜ひそかに光秀から手を廻して、招降しょうこうの書が届けられていたともいう。

「ばかな」

と、彼が顧かえりみなかったことはいうまでもない。彼は、信長の夫人生駒いこま氏以下、主君の眷族けんぞくを奉じて、翌三日には、郷里蒲生の東郡あずまごおりにある日野城へ退ひき移った。

そしてその子氏郷うじさととともに、居城日野に堅守けんしゅのそなえを急ぎ、一方伊勢の松ヶ崎城にある信長の第二子北畠信雄へ、

(御遺族にたいして、光秀の来襲あるは必定ひつじょう、急遽、援軍をこれへ派し給え)

と、早打した。

そのときすでに、北畠信雄は、軍勢を催していた。――が、これはそのためではなく、やはり中国出兵の用意だったのである。

変を知るや、ここにも驚愕と顛動てんどうと方針の狼狽が起った。とりあえず、信雄は、蒲生家の一女子を人質にとって援軍を派した。

かつまた、自分も、

「父右府うふのうらみ、いかで晴らさずにおこうや」

と、悲壮なる決意の下に、江州土山まで進んでみたが、背後の領内伊勢にも、途上の伊賀地方にも、表裏二態をとって、応変おうへんの凶兆ただならないものがある。

信雄は、右顧左眄うこさべんして、

「もし、光秀と結ぶ者が、ふいに江州一円に蜂起ほうきしては? また伊勢の後ろに起っては?」

と、もっぱらその鎮圧と、形勢を見まわす方に、せっかくの意志を奪われて、むなしくこの進撃の時機を逸し去った。そして、彼方此方かなたこなたの小乱に打ち向い、一死一番、大義と大道へましぐらに赴おもむくことをなさずにしまったのである。

これを見ても分るように、絶対に光秀を忌避きひして、光秀を逆賊となす者のある一面には、暗に、彼の聯絡れんらくにたいして黙契もっけいをもってこたえ、情勢の進展とにらみ合わせて、明智側に拠よって立とうとする諸豪族も決して少なくはなかった。

とりわけ、大坂城にあった織田信澄おだのぶずみは、光秀の女婿じょせいでもあるし、その父の織田信行は、かつて信長の成敗せいばいをうけている。一族とはいえ、父を信長に殺されているその子の信澄である。――彼こそはかならず味方に応ずるであろう。――光秀は当然、彼が大坂表から呼応するであろうことを期していた。

六月二日の本能寺変の当日。

折も折、その信澄は、信長の第三子神戸かんべ信孝や、丹羽にわ長秀などと共に、阿波、中国への出軍の装よそおい成って、今しも住吉の浦から兵船に乗ろうとしているところだった。

「京都に大変が勃発ぼっぱつした」

そう聞えるや、全軍、なすことを知らず、早くも逃散ちょうさんする兵さえ続出した。丹羽長秀は、信孝と謀はかって、ひとまず大坂城へもどり、五日の夜、ふいに信澄を襲って、これを千貫櫓せんがんやぐらで刺し殺してしまった。――打ち洩らされた信澄の部下の少数は京都へ奔はしって、直ちに明智軍に投じた。

家康いえやすの場合ばあい

結局、一信長の死は。

――為に、天下みな、驚愕顛動きょうがくてんどうして、一夜に変る世態世路を、踏み迷い、踏みうろたえぬ者もなし。

という実状というほかはない。

平常は一方の知識たり、歴乎れっきたる武将であっても、かかる場合は、ほとんど、例外はなかった。

むしろ、枢要すうような位置にあるものほど、また、生なまなかの知識ある者ほど、

(どうなるか? どうせんか?)

に迷いと狼狽は甚だしかったといってよい。――あの徳川家康においてすらなおかつそうであったところを見ても。

急に、堺を引き払って、何処いずこへともなく立ち去った家康の一行をさがし廻った茶屋四郎次郎と本多忠勝はようやく、

(河内の飯盛いいもり辺を、それらしい御同勢が東の方へいそいで行かれた)

という噂を路傍でひろい、その晩、尊延寺そんえんじに泊っているのをつきとめて、急いで行ってみたが、ここにもすでにいない。

寺僧のはなしによると、

「よほどお急ぎとみえ、ここでは御休息をなされたきりで、夜道をとおして、草内くさちの方面へまた立たれました」

とある。

追いついたのは翌日の三日で、信楽しがらきの里のいぶせき山寺に、家康はつかれて昼寝していた。

寺のまわりには、老臣の酒井忠次さかいただつぐ、石川数正いしかわかずまさ、井伊直政いいなおまさなどが、物々しく、警戒していた。平和な旅行中の出来事だったので、重臣はみな扈従こじゅうしていたが、兵はいくらも連れていない。故に、上下のわかちなく非常の装いをして、榊原康政さかきばらやすまさなども、素槍すやりをかかえて、自身、方丈ほうじょうの外に立っていた。

「京都より、逐一ちくいち、御報告のため、茶屋四郎次郎が、お慕いして参りました。なお、本多殿も、四郎次郎と途中で行き会い、唯今、これへ帰られましてございまする」

康政が、小姓をとおして、家康の耳へ入れた。

――忠勝が戻ったらすぐ起せ。

と云いおいて家康は、昼寝の手枕にほんのわずかな間を横になっていたのである。

「なに、四郎次郎が来たか」

これはよほど欣うれしかったらしい声だった。

なにぶんにも、詳しいことは少しもまだ分っていない。彼はなによりもそれを知りたかったのである。

起き出て、あわただしく顔を洗い、もとの方丈ほうじょうへもどってみると、二人はもう通されて平伏していた。

「右大臣家の御生害はまぎれなきことか。兵乱はなお京都だけに止まっておるか。途中の人心のもようはどうか」

それらの質問にたいして、茶屋四郎次郎は、知る限りのことを、つぶさに伝えた。といっても、昨日の午ひる頃までの情勢しか彼にも分らないので、その範囲にとどまるものであったが、昨日以来、ひたすら本国岡崎さして、道のみ急いでいた家康にとっては、それだけでも、大体の全貌を知る上に、よほど明瞭な判断を持つことができた。

次の間まで住持が来ていた。

人々はそれを知ると口をつぐんだ。家康はふり向いて、

「調ととのうたか」

と訊ねた。

住持は答えて、

「御案内申しあげまする」

と促うながした。

家康は住持について起ちながら、みなも来い、と云った。何か先にいいつけておいたことがあるらしい。康政も忠勝も四郎次郎も従って行った。そこはこの田舎寺いなかでらの小さい本堂であった。

「外におる忠次や直政もこれへ呼べ」

家康のことばに、寺の附近を警備していた酒井忠次や井伊直政なども席に列した。仰ぐと、この藪寺やぶでらのいぶせき厨子ずしに昼の燈明が白々ゆらいで見える。そして壇の正面に右大臣織田信長の俗名を誌しるした紙位牌いはいが置かれてあった。

(さては仮に御弔おんとむらいをなされる思し召か)

家臣たちは家康の心を察し、また世の変転を観じながら、ひそと坐っていた。

住持が型のような礼拝を行ったあとで、家康は香炉の前へすすんで久しいあいだ合掌した。ながるる涙も頬に乾いてしまうであろう程な長い瞑目めいもくであった。

酒井忠次や石川数正、以下井伊、榊原さかきばら、本多などの人々も順々それにならった。そしてまたしばらく対坐のまま黙然と無量の感を抱きあっていた。

住持はしずかに去ってゆく。廻廊の下にいる警固の武士の槍のさきが見えるだけで、茶屋四郎次郎ひとりを除くほかは、主従水入らずの徳川家だけの者になった。

「……まだ、ほんとのような心地がせぬ。四郎次郎の口から慥しかと実状を聞いても」

家康はつぶやいた。声のうちにも嘆息も聞える。しかし彼のひとみは何らの懐疑かいぎもたたえてはいない。この大きな事実を誰よりも正確に見つめている眼である。そして少し若禿わかはげを呈している大きなおでこが、どういう考えをいま抱蔵ほうぞうしているか、余人をして容易に窺うかがわしめないような緊しまりきった顔をしていた。

「……夢のように存ぜられます」

「なんとも。……右大臣家のお心を察すれば察する程、刹那の御無念。……どうあったかと思われまして」

人々もみな嘆声した。喞かこちあえば限りもなく思い出がわく。安土でその人の舞を拝見したり、哄笑を聞いたのも、つい十日ほど前のことである。

だが、家康は、人々の余りな詠嘆えいたんは好まない容子ようすであった。家臣としても実はそんな余裕はなかった。果たしてこれから無事に三河まで帰り着けるか否かすら、みな疑問の中だった。途中の安全は扈従こじゅうの誰にも確信はないのである。――にも関かかわらず、危険を冒おかしても、浜松まで帰ろう。後図こうとの何をなすにしても、ひとまず本国へ立ち帰った上で――と、急に堺を去ったものの、地方の情勢は都会以上険悪であったし、山野には早くも土寇どこうの出没もあるらしい。その中を軽装にしてしかも小勢な一行が、この際、主人の一命を守って三河まで押し通ろうということは、ほとんど天助を祈るしかない冒険だったのである。

――いわば信長の奇禍きかは、惹ひいて直ちに、家康のこの災難ともなって来たわけであるが、彼やまさに、四十になったばかりの男ざかりである。うろたえはしていない。眼前の困憊こんぱいなどは、次の、大きな意欲の膨ふくらみにうち消されて、むしろ歓びですらあった。

縷々るると、香炉からのぼる香煙をながめては、

(右府の死を一期いちごとして、世の中はこれで大きくひとつまわった)

と考える。なによりも彼はそれを思う。

現実をはなれて家康の思考はない。これは幼少からのものだ。今とて、そうである。表面の彼と、肚はらの彼とは、見たとおりのものではない。

昨夜来、信長の死が信ぜられた時から、これを家臣たちが眺めていると、しばしば、人の無常を嘆じ、多年の盟国めいこくたり親友たる信長の非業ひごうな死をかなしんで、その傷心のあまりには、ふと、腹でも切って、故人に、殉じゅんじそうな気ぶりすら見られたのである。

だが、きょうの家康は、やや逞たくましくなっていた。家臣たちはそれを見て、

(お気を取り直されたものとみえる)

と、ひそかに慶けいし合っている容子ようすだが、家康のほんとの肚のなかは、宿老たちよりは遥かに老熟ろうじゅくしているのである。そんな燈心のようなかぼそい神経をとおして、この生涯に一度あるかないかという世の大転機を観みている者ではなかった。

(右府亡なきあとは、たれがその統業を継ぐか、天下人たる者か)

もう一ひとすじ眉毛を置いてもおかしくないほど広い額ひたいの中では、もうこれが考えられていた。彼は彼の胸中問にたいして、

(気のどくだが光秀ではない)

と、あきらかに断定をつけ、そして、当然のように、独りこう答えていた。

(自分を措おいて、ほかに誰があるものか)

織田、徳川というものは、年来の盟国である。盟国の仇あだとして旗幟きしをかかげるとせんか、その名分は諸侯へ檄げきを飛ばすに足る。さらにそれへ、信長の遺子ひとりを守り加えるならば、以て外は光秀を圧し、内は旧織田軍を包括ほうかつして、自然、次代の中心勢力を持つにいたるであろう。――たとえ、織田の遺臣中に二、三の野望家があらわれることを予期しておいても、さして思慮実力とも両全といえる程な人物は見あたらない。丹羽、柴田、滝川、羽柴――まずどれもこれも急には活動できまい。できたとしてもさしておそれるに足るほどな者はいない。

家康はそう観みていた。諸事、肚の底にそれを深く据えておいてのことばであり行動であるのだった。しかし扈従こじゅうの面々には、やはり眼前の問題――この危地をどうして無難に三河まで切り抜けて通ろうか――のほうが、もちろん重大に苦慮されていた。それがまた、普通人の普通でもある場合だった。

「道を見に参った物見のものが帰りました、あちらへ控えさせておきましょうか」

小姓のひとりが、家康のそばへ来てたずねた。家康は、頷うなずいてみせた。待たせておきますか、と小姓はもう一度念を押した。家康はかさねて頷うなずいた。

そのとき石川数正が、ふと言葉をさし挟はさんだ。

「物見の者の報告を、さきに聞きとり遊ばしてはいかがですか。如何なる変が待ちうけておるやも測られませぬゆえ」

すると家康は笑った。

「いや、いまの取次の容子ようすでは、そんな憂いはない。もし異変を知って帰って来た物見なれば、必定ひつじょう、その血相は取次に移り、取次の語気は、またその凡ただならぬものをこれへ移して来たであろう。いまの小姓の気けぶりでは、問わずとも、さしたる異常のないことを無言にも語っておる」

数正は赤面した。同じ気持であった他の宿老は、救うように、話題をほかへ紛まぎらした。

「いったい、光秀ほどの者が逆意を仕果して、それが天下に容いれられるものと思っておるのであろうか」

家康は黙って、聴く立場を取った。家臣の評も概して一般と異ならないものだった。何よりは光秀が君臣の道義を破壊した点をみな非難した。

「殿のお考えは」

終りに榊原康政が問うた。ほかの家臣も、主人の光秀観を知りたい態ていであった。

「一言にいえば、光秀はあの賢才けんさいを抱きながら、いつのまにか、たった一つの美徳を心に失っていた」

家康はそう前提して、

「謙虚けんきょを失っておる」

と、いった。

康政が、かさねて、

「けれど、日向守ひゅうがのかみには平常もずいぶん慇懃いんぎんな方で、人いちばい謙虚に見うけられましたが」

と得心のゆかない顔を示すと、家康はなお否定して、次のような感想を加えた。

「それは彼が努つとめてきた教養の結果で、本質ではなかったのだろう。知性の人にはままある姿だ。……が、ついに彼はその一面を持ち切れなくなった。知って放擲ほうてきしたか、思い上がりが磨滅まめつさせたか、とまれ謙虚を失ったのは、一代あれほど蓄たくわえて来た知識をすべて鼠ねずみに喰わせてしまったようなものだ。謙虚だにあればたとえ事情心情如何にあろうと、あの暴挙には決して出られぬ。――およそわれらが謙虚を打ち捨ててよい時は敵陣へ駈け入る時だけだ」

家臣はみな傾聴けいちょうしていた。そこで康政がふたたび、

「暴とはいえ、光秀の乾坤一擲けんこんいってきは、ひとまず図に中あたったかたちですが、このまま、うまく後の画策かくさくがすすむでしょうか」

聞くと、家康は、まるで問題にしていないように笑って云った。

「すでに、おのれに敗やぶれている者が、何で外に勝てるものか。いわんや、世を統すべて、まとめ上げることなどができるわけはあるまい」

この席はこれで起たった。そしてもとの方丈ほうじょうへ移ると、家康はすぐ待たせてある物見の男を、縁さきへ招いて、あちこちの情勢を聞きとった。

諸方に物見を放って、昨日から家康が耳に蒐あつめた情報は少なくない。けれど肝腎かんじんな京都、安土方面のうごきは、皆目かいもく知れない。交通が遮断しゃだんされているためと、彼は観察を下していた。

それらの詳細も知りたいはもちろんであったが、さし当っては、帰国までの通路にあたる地方の領主の志向と、土匪どひの出没や一揆いっきの有無などが重大だった。その形勢によって、帰国の道を選ばないと、みずから求めて網に入る魚となる惧おそれが多分にあるからである。

「宇治方面は、まださして騒がしい動きも見えませぬ。あれから信楽しがらきへ出られ、伊賀へとかかれば、おそらくまだ明智勢の手は廻っておるまいかと察しられます」

午ひるまえに聞いた物見の言も、いま戻って来た物見の報告も大体に同じであった。家康は、それに対して、

「郡山こおりやまの筒井順慶つついじゅんけいは、なお奈良に留とどまっておるか、奈良を出た様子か」

と、糺ただした。物見は、

「なお奈良に滞在したままでおりますが、家臣の井戸良弘いどよしひろどのは、筒井家を代表して、光秀と会うために、京都へ入ったとか、行くとかいう噂がありました」

と答えた。

「そうか。よろしい」

その程度で、物見の男は退けた。そして家康はまた、左右の重臣たちと額ひたいをよせて、ひそかに協議し始めた。もとよりこれからの道すじをどう取るかのことだったのであろう。

この草内くさちに留まって一休みしたのは、夜来の疲れもあったが、かたがた、筒井順慶つついじゅんけいの向背が気懸きがかりだったことにもよる。筒井家と明智家とは姻戚の関係がある。光秀の一子十次郎は筒井順慶の養子となっていた。当然、こんどの挙には、事前から両家のあいだに黙契もっけいがあったのではないかと考え得られる理由があった。家康はそれを恐れたのである。

しかもその筒井順慶は、これまた中国出陣の命をうけていて、居城郡山こおりやまを発し、装備された軍団を擁ようして奈良まで来ているのだ。時をまたず、いつでもすぐその意志を行動に移す備えができている。それだけに、小勢にしてしかも武装もない家康主従としては、甚だ不気味な存在にちがいなかった。

「奈良に滞陣したまま、きょうもまだ動かず、わずかに槙島まきしまの井戸良弘を京都へ行かせているようでは、事前に明智方と諜しめし合わせがあったものとは思えぬ。……なお数日の形勢を見、光秀の勢いが日に増して加わらば光秀につき、不利と見たら鉾ほこを収めてべつに策を求めようとしているのが順慶の肚はらではないかの、わしはそう観みるが」

家康の見とおしに宿老たちもみな服した。その見極めさえつけば、宇治を通って、伊賀越えの間道をいそぎ、伊勢へ出て、海路、三河へ渡るのが、困難な道ではあるが、もっとも安全のように考えられる。

「こういう時に迷うていたら限きりもあるまい。寧ろ、時が大事だ。一時も早いがよい。それと決めよう」

物事について非常によく考える人でもあるが、また時には、驚くべき放胆ほうたんと不敵を示す家康であった。そう一決を下すと、彼はすぐ云った。

「腹がすいた。寺僧に湯漬を命じておけ。そのまに支度して黄昏たそがれとともにこの寺を立とう」

一行わずか五十人足らずの主従であった。そのうち騎馬の者は六、七名。小姓侍をあわせて三十名とはいない。あとは乗換馬を曳ひいたり、荷を持ったりしている足軽小者である。

もし土寇どこうの群れにでも襲われれば、たちどころに包囲され、全滅するほかはなかった。乱を見れば忽ち蜂起ほうきして、好餌こうじを漁あさりまわる土匪どひの徒や野武士の集団は、故信長の遺業がここまでになっていても、まだまだ決して根絶されてはいない。天文てんもん、永禄えいろくの世頃から見れば、ずいぶん減へって来てはいるが、なお少し山間僻地さんかんへきちに入れば、さながら百鬼夜行のごときものと随所に出会うのが常であった。

――果たして。

家康の一行が、信楽しがらきから伊賀へと向って来たときあとから追いついて来た家士の一名が、その戒いましめともなる生々しい一事件を告げた。

「同じ泉州に居られた穴山梅雪どのは、御一行がお立ち遊ばした一刻あとから堺さかいを立たれ、甲州へお帰りあるべく、山城の草内くさちまで同じ道を御通過なされたらしく思われますが、途上の者の語るのを聞くと、草内附近で大勢の野武士に襲撃され、敢えなく打ち殺されたということでござります。……いよいよ大乱の余波は山野の隅々まで揺れ寄せて来たようです。――先々、御油断はなりません」

折も折、穴山梅雪の非業の死は一行の者の胆をすくなからず寒からしめた。山城国やましろのくにあたりですらすでにそんな凶相きょうそうがあらわれ出した以上、これからかかる伊賀山中の柘植つげ地方や加太越かぶとごえあたりの間道はその危ないこと、思いやらるるものがある。

「心配すな。かかる時はいたずらに、心を労つかうも及ばぬことだ、ただ天に順じ、一路まどわず急ぐに如しくはない」

家康はつかれも知らぬ容子ようすである。元来が健康な体質でもあるが、より以上、頑健を誇っている家臣の者がすでに喘あえぎ出していた。堺以来、昼夜もわかたず急いでいたし、眠るまも、お互いに見張りし合って、草に臥し、石に枕して、わずかに休む程度に過ぎなかった。

しかし、ここにただ一つの力を得たのは、先年故あって徳川家を去り、以後牢人ろうにんしていた本多正信が、郎党十名ほど連れて、家康を伊賀山麓さんろくに迎え、そこから、先導せんどうに立って、道案内に努めてくれた一事である。

扈従こじゅうの人々は、口々に、

「まこと、地獄で仏」

と、云い合ったが、家康はかくべつなよろこびも示さず、

「正信であったか。大儀」

といったのみであった。

ようやく伊勢に入り、船で三河の大浜へ渡りこえた。

人々は初めて蘇生そせいの思いをした。

時は六月の五日。堺からわずか中三日で帰国したのである。

まったく身をもってこの大難中をのがれて来たといってよい主君を迎えて、徳川家の家中はみな泣かんばかり狂喜した。

雲団々くもだんだん

六月朔日ついたち以降、二日も三日も、京都及び近畿地方はほとんど晴天で、照りつける暑さだったが、中国地方の気象きしょうは、概して晴曇せいどん半ばしていた。

五月末は、大雨がつづいた。六月に入ってのここ両三日も、山岳地方は依然荒れ気味で、西南の風がつよく、南から北へ移行する乱雲に照ったり曇ったりの空をなお持ち続けていた。

(ごろごろと、ひと雷鳴かみなりやって来れば、梅雨もここらで霽あがる頃だが)

とは、この長雨と黴かびに飽々あきあきした一般の喞かこち言ごとであったが、備中高松の一城を、長囲攻略中の羽柴軍にいわせれば、

(もっと降れ。いつぞやのような豪雨が、二夜も三夜も降り流せ)

と、なお八大龍王の暴威を祈りたい程だった。

雨こそはいま、この戦場を決定づけていた。秀吉の作戦は、その設計どおり、全面積約百八十八町歩にわたる渺茫びょうぼうの泥湖でいこを作りあげていた。

孤城、高松の城は、その大湖沼だいこしょうのなかに、ぽつねんと水漬みずついている。はるかその附近に、禿頭病とくとうびょう者の髪の毛の如く見えるものは、森であり並木であり、ところどころの木々だった。

城下の民家もわずかに屋根だけを水面にとどめていた。低地の農家などはすでにその屋根すら現わしていない。分解された無数の木材は濁流のままうごき出して、この大湖沼の周囲を浮游ふゆうしていた。

流木の迅はやさを見てもわかるとおり、一夜にして出現したこの人工の泥湖は、いまなお刻々水嵩みずかさを増している。足守川あしもりがわと長良川ながらがわの二川せんを合したものが、どうどうと注ぎ込まれているのである。一見、黄濁おうだくのさざなみはただ満々と静止しているかに見えるが、水際みずぎわの渚なぎさを少し見ていると、見ている間にも一寸二寸と、周囲の岸が侵おかされてゆくのもわかる程だった。

「きょうは暢気者のんきものがおるぞ。――あれを見ろ。そち達と似合いの暢気者が」

秀吉は馬の背から、うしろにいる小姓たちの一組へ云った。

――どこに?

と、問いたげな顔をして、小姓たちは皆、馬上の主人が指す方を見た。

なるほど、泥湖の流木のうえに、たくさんな鷺さぎが止まって遊んでいた。

石田佐吉、大谷平馬、一柳市助の弟など、まだ十三、四歳から十六、七歳の小粒組は、首をすくめて、くすくすと笑った。

「わしたちは、鷺かしら?」

すると、中で年上の、森勘八郎がいった。

「戦いの中でも、よく遊んでばかりおるゆえ、殿さまがああ仰っしゃったのだ」

小粒組は、負けていない。

「じゃあ、勘八どのは、なんだろう」

「鴉々からすからす。鴉の勘八どのだ」

そんな、子どもらの戯れをうしろ耳にしながら、秀吉はのたりのたり馬を打たせて帰って行く。

いつものように、傘、馬印うまじるし、以下五十騎ほど連れて陣廻りをして来たもどりである。

それは、六月三日の夕方。

彼はまだ何も知ろうはずはない。

秀吉は日々の陣廻りを欠かさなかった。ほとんど日課としていた。

五十騎、或いは百騎を従え、ときには子ども(小姓)も連れ、長柄ながえの大傘を翳かざさせ、燦々さんさんと、馬印うまじるしを立てて練り歩く彼の「御通過」を仰ぐと、味方の兵は、

――うちのおやじが通る。

そう思った。見かけない日は何となく物足らなかった。

秀吉もまた、右顧左眄うこさべん。

――やっているな。

汗や泥にまみれている兵、食うにたえない程な物を美味うまそうに喰べている兵、常にどこか笑いをもって退屈を知らない兵。そうした若々しい生命のかたまりを眺めない日はものさびしい。

かがなえば、この中国へ一司令官として軍務について以来、五年にわたる長い戦陣生活であった。上月城こうづきじょう、三木城みきじょう、その他、各地の転戦苦闘は言語に絶えるものがあった。戦いの困苦や危険のほか、主将としての精神的苦境にも幾たびとなく遭あった。

あの気むずかしい信長へ遠くから仕つかえて、つねに三軍のうちにその主君在あるかのごとく慎み、信長をして、満足させ、安心させておくだけでも、容易なる気苦労ではない。

いわんや、信長の周囲、味方の諸将のうちにすら、彼の出頭を、余り快こころよしとしない、幾多の人間的内争もあるにおいてはである。

しかし、秀吉は、

――ありがたい。

と、この五年間のあらゆる艱難かんなんにたいして、朝、太陽を拝むときの、あの心のままで、感謝していた。

こんな試煉しれんは、求めて得られるものではない。そも、いかなる思し召があって、天はかかる百難また百難をこの身に与えて下されつつあるのかを、ひとり考えることもあった。

ひいてはなお。

生れつき余り丈夫でもない肉体なのに、この矮短わいたんな一小躯しょうくをもっても、それに剋かって来られただけの意志を作っておいてくれた幼少時の貧苦と、世路の逆境にも、沁々しみじみありがたさを思う日もあった。

そして彼は今や、この世へ「人」として生れ出た意義の無限大を覚えるとともに、生きている日々が、楽しくてならない「時」と「年頃」に到っていた。

だから彼が放つ声は、

――やあ。やってるな。

という何でもないことばでも、将士の心をして愉快にさせた。辛くても、喰わないでも、彼とともに暮す日を最大のよろこびに思わせた。

そのくせ、彼の顔は決してにこにこものではない。石井山の本陣にあっても、なかなか十日に一ぺんの湯浴ゆあみもできず、皮膚は五年越しの戦場焦やけにくすぶり、赤っぽい髯ひげはとかくもじゃもじゃたまりがちであった。

いま敵の高松城へは水攻めの計をまったく施し終って、信長の西下を待つのみとなっているものの、長良川の一水をへだてた日差山ひざしやまその他には、毛利の吉川きっかわ、小早川こばやかわ軍の三万余が近々と孤城の援たすけに来ているのである。――それらの山地にある対峙中の敵陣からは、秀吉が陣廻りに歩いている傘や馬印も、陽ひの晴れ間には、よく見えるはずであった。

彼の列はやがて石井山の麓ふもとへ来ていた。龍王山りゅうおうざんから移って後、本陣はこの上の持宝院じほういんに置かれてあった。

「お帰りあそばされませ」

一ノ木戸に迎える者、山内猪右衛門一豊やまのうちいえもんかずとよであった。同様、二ノ木戸にある者、浅野弥兵衛長政あさのやへえながまさ。

若葉の夕闇に、ここかしこ、陣屋の炊煙すいえんが上がっていた。どんな幽邃ゆうすいな寺院も、ひとたび軍馬の営となると、そこは忽ち旺盛おうせいな日常生活の厨房ちゅうぼうや馬糞ばふんのぬかるみになった。

「おいよ。馬を取れ」

山門の前で秀吉は降りた。藤堂与右衛門高虎とうどうよえもんたかとら、ことし二十七である。走り寄って、

「いただきます」

と、手綱をうけて、厩うまやの方へ曳いてゆく。

秀吉はなお、雑士ぞうしたちのあいだをぶらぶら歩いて、

「おいよ」

と、また声をかけた。

四、五人の兵が炊事用の薪まきを伐きっていたのである。そのなかに桜の木もあった。秀吉はそれをさしていうのだった。

「なるべく、雑木を捜さがして伐きれよ。桜は伐るな。花見する日の百姓がさびしかろうて――」

それから門側の一柳市助の陣屋をちょっと覗のぞいて、炊事番が何か煮ている大釜のにおいを嗅かぐと、

「うまそうだな」

と、左右の部将とともに笑い、この頃はまずいという物は知らなくなったなどと語りながら出て行ったが、ふと、右側の陣幕とばりのすそに屈かがまっているいとも小さい幼な武者を見かけて、

「この童わっぱは、たれの子か」

と、訊ねた。

一柳市助が、恐縮顔に答えた。

「私のいちばん末の弟です」

「ほ。……幾歳いくつになる」

「十三に相成ります」

「名は」

「名は四郎右衛門と申します」

「かわいそうに、爺じじいみたいな名じゃないか」

「このたび、中国へお供仰せつけられ、家を出る折は、もっと小そうございましたが、連れて行けとせがんで、どうしても肯ききません。足手まといと存じましたが、許してやるについて、いずれ叔父の名跡みょうせきを継ぐ者でございますゆえ、四郎右衛門と名のらせましたもので」

「そうか。足手まといなどと申すな。戦陣に加えてさえおけば、武者だましいは自然と備わる。小さいほどいいわさ。幼少のうちほどいい。……これ童わっぱ、於四郎おしろうというか」

秀吉は、歩み寄った。四郎右衛門はその前に、はやちょこねんと地に坐って礼儀していた。が、その膝に、兵士の陣笠をかかえて、何か大事そうにしていた。

「何だ、それは? ……何を拾っていたのじゃ」

「はい。桜ンぼを拾っておりました」

「なるほど。だいぶ赤く実なっておるな」

――秀吉は暮れかかったあたりの梢こずえを仰ぎ、いきなり四郎右衛門の膝にある陣笠の中へ手を伸ばして、

「甘うまいか。……ウム、これは甘い」

ふた粒三粒、それを口に噛みながら、本堂のほうへ立ち去った。

本堂は桐紋きりもんの幕に囲まれていた。それも、廻廊も、階さぎはしも、梅雨湿じめりで水気を含んでいないものはない。

秀吉の歩んでゆく所、甲冑かっちゅうの人影が、次々出迎えた。営中はすでに仄暗ほのぐらく、随所、短檠たんけいの灯やかがりが点ともっている。彼は、客殿とみゆる一室にようやく坐った。

「おつかれも嵩かさみましょう」

しとねを並べて、一客が坐していた。堀久太郎秀政ほりきゅうたろうひでまさである。

信長の下向げこうに先だって、中国に着く予定の日取やら、陣営の準備、ほか万端を、秀吉と打合わせておくため、一足さきに、これへ来ているものだった。

「いや、戦陣生活もよく身についた。近頃はとんと、不自由とか、疲れとかを覚えない」

秀吉はそう笑って、

「稀たまに、安土あづちへ上がると、御主君までおいたわり下さるが、ふいに厚い衾ふすまなどに寝ると、却って寝苦しゅうて、よう眠れぬ。……具足のまま、手枕かって、戦いのひまに、ごろりとやる一睡いっすいの味は、戦場ならでは貪むさぼれぬ無上のものでな」

――その語につづいて、

「食事はなされたか」

「まだでございますが」

「では、いっしょに戴こう」

と、小姓を顧み、

「支度をいそがせい」

――と命じながら、

「彦右衛門は、いかがいたした?」

と、たずねた。小西弥九郎が、それに答え、

「蜂須賀どのは、此寺ここの一僧をつれて、どこぞへお出かけになりました。多分――」

と云いかけるのを打ち消して、秀吉はまた、

「茂助も見えんか」

と、つぶやき、夜食のお相伴しょうばんの者を求めるように見まわした。

「その堀尾どのには、実はてまえから御足労をねがって、近村の庄屋寄合いへ、お出向きを願ったので」

と、弥九郎が云い足すと、

「何しに」

と、秀吉は理由を質ただした。

弥九郎は自分の役儀上、この近村から軍糧の徴発ちょうはつに当っていたが、とかく庄屋や百姓たちのあいだに、不正や非協力的言動が絶えないので、堀尾茂助に行ってもらって、庄屋どもを大いに叱ってもらうつもりで――と、実状を説明した。

「そう百姓たちを狡ずるいものと、頭から見るな――」

秀吉は却って弥九郎を叱った。

「本来、純なものだ。小利は知っても大利を覚さとらないほど素朴なものだ。また、不正不正というが、これもぜひもないことよ。およそ、戦いの世には、人の神性も飽くまで高く顕あらわれるが、人の弱点や小悪の性さがも、それと同じ程度に、平時よりも容易に横行しやすい。――その神性はいよいよ昂たかまるように、その悪質はこれを出ぬようにするのが、まつりごとと申すものぞ。叱るばかりが能ではない。百姓のよいところもふかく観みていたせよ」

「はい」

「久太郎どの。あちらで飯を食おうか」

秀吉は、秀政とともに、方丈ほうじょうへ入った。――ちょうどその頃である。岡山道の飯倉の木戸で、早馬を降りた一人の使いが、番の武者たちに囲まれていたのは。

この往還おうかん、岡山から秀吉の石井山へも通じるし、日幡ひばたを越えて、小早川隆景の陣営、日差山ひざしやまへ行くこともできる道である。

当然、ここの木戸は、いわゆる抑おさえ口ぐちとして、守備厳重だった。

「――長谷川宗仁はせがわそうにん様からの使いですッ。怪しい者ではない。京都を二日の昼立って、いま着いたのだ。決して、うろんな者ではない」

きびしく、そこの武者たちに、左右から腕を組まれて、暗い道を行くあいだも、飛脚の男は、のべつ、囈言うわごとみたいに、さけび続けていた。

彼の脚もとと、疲れきっているその体とを親切に左右から扶たすけながら歩いている武者たちは、

「何をいうか」

と、笑って、

「たれも、怪しんで、馬から引き下ろしたわけじゃない。早馬から降りたとたんに、腰が抜けて歩けぬ様子だから、介添かえぞえして、連れて行ってやるのではないか」

「だが、この道は?」

と、飛脚は、なお肩越しに、うしろを見たり、前の闇に、足をすくめて、

「いったい、どこへ行くのでござる。どこの道で」

「知れたこと。石井山の御本陣へまいるのであろうが」

「では、あなた方は、まちがいなく、羽柴殿の麾下きかですか。毛利方の者ではありませんな」

「先にこっちで訊いたことを、今度は自分から訊いていやがる。はははは。この飛脚、よほどどうかしておるぞ。逆上あがッておる」

送りの武者たちが、顧かえりみ合うと、飛脚の男は、ぐたと、坐りかけてしまった。

「おいッ。どうした」

ひとりが松明たいまつを近づけて、彼の顔の前でいぶした。

「あッ。いけない。――気を失っている」

武者たちはあわてて、附近の小川から泥水を掬すくって来てその唇くちへ飲ませたり、飛脚の背を打ったりした。

「おいッ。しっかりしろ。――いま気を失っちゃいかんぞ。本陣はまだだぞ」

飛脚の顔はまッ青である。うなずきうなずき歩き出した。

飲まず食わず、きのうから早馬に鞭むち打って来たものらしい。そう思うと、初めはよい程に、おもちゃに扱っていた武者たちにも、

(――ただ事ではない)

と、思われ出した。

すぐこのことは、山麓にある山内猪右衛門やまのうちいえもんの隊から浅野弥兵衛に伝達され、中途から弥兵衛の部下が、半病人の飛脚を受け取って、やがて本堂の下まで伴ともなった。

営中の夜もすでに、更ふけて、所々のかがり火のほか、墨の如き夜色である。――番に立った浅野の家来の足もとに、飛脚の男は、ふたたび失神しっしんしたように地上に平たくなっている。

桜の実みか、毛虫か、時々そこらに、ぽとりと、何か落ちる音がしていた。

憤涙ふんるい

夜は亥いの刻(午後十時)頃であった。

まだ秀吉は起きていた。

食事後。折ふし何処からか立ち帰って来た蜂須賀彦右衛門はちすかひこえもんを見ると、彼と堀秀政だけを伴って、陣中の居室としている書院へ移っていた。

そこでの鼎坐ていざはだいぶ長かった。小姓たちまでみな退けて、極く内輪うちわの密談らしく思われた。ひとり許されていた連歌師の幽古ゆうこのみが、頃をはかって、陰で茶筅ちゃせんの音をたてていた。

そのとき、たたたたと小走りな足刻あしきざみが遠くから聞えた。かたく人払いを命じられているので、杉戸口すぎとぐちまで来ると、当然、その跫音あしおとは小姓溜こしょうだまりの咎とがめに会って、遮さえぎられているふうである。

一方はひどく急せきこんで来た様子だし、一方は血気けっき生意気ざかりの年少者ばかりなので、何かことばの弾はずみから喧嘩でも始まったような声もしてくる。

「幽古……何だ?」

秀吉のいる所からこう問われて、幽古は耳をすましたが、

「何か、わかりませぬ。小姓衆と御番衆らしく思われますが」

「見てこい」

「はい」

炉辺の物をそのまま、幽古はすぐ起って行った。

見ると、表御番の士さむらいと思いのほか、浅野長政あさのながまさ自身なのである。

だが、小姓溜だまりの年少者たちは、たとえ長政殿だろうが、誰だろうが、お人払いの中は、断じて取次はできない。それを、取次がぬなら押し通るぞ、などと威嚇いかくするのは怪けしからぬ。通るものなら通ってごらんなさい、小姓たりとも、ここに控えているのは、伊達だてや飾り物ではありませんぞと、負けずに息まいているのだった。

「まあ、まあ。お静かに」

幽古は、まずきかん坊の小姓たちから宥なだめておいて、

「浅野様。何事でございますか」

と、たずねた。

弥兵衛は手につかんでいる状筥じょうばこを示して、京都からたった今着いた早馬の使いの容子ようす、ただ事ならず思われるので、何かお人払い中と聞くが、すぐこの由を、殿のお耳へ入れてもらいたいと云った。

「お待ちくださいまし」

幽古は奥へかけこんで行ったが、すぐ引っ返して来て、

「どうぞ」

と、導いた。

弥兵衛は流し目に、横の部屋を見ながら通った。その中の小姓たちは急に黙って、皆、そっぽを向いたまま知らん顔していた。

「弥兵衛か」

短檠たんけいを遠ざけて、秀吉はこなたへ膝を向け直した。

「はい。おはなし中とは承りましたが」

「何の、早馬ともあれば。――して、たれからの状だ」

「長谷川宗仁そうにんからの由でございますが、ともあれ、御披見ごひけんを」

長政はそれを差し出した。姫路革ひめじがわの状筥じょうばこの朱漆しゅうるしに短檠の灯がてらと照った。

「はて。宗仁から早馬とは、何事であろう?」

秀吉は、状筥を取り上げながら、堀秀政の顔を見てつぶやいた。

秀政も、同様に、

「解げせませぬな」

と、小首を傾かしげるのであった。

長谷川宗仁といえば、信長の茶道衆さどうしゅうである。日頃からさして親しくもしていないし、わけて茶道の者が突然この陣中へ早馬を打って書状をよこすというのはおかしい。

しかもまた、弥兵衛長政がいうところによれば、その飛脚は、昨二日の正午しょううまの刻こくに京都表を立って、いま三日夜の亥いの刻こくにここへついた者だというのである。

京都からこの地まで七十里余の道を、ざっと一日半夜はんやで来たことになる。飛脚としても、これは容易な迅はやさではない。おそらく途中飲まず食わず、夜も駈けとおして来たものにちがいない。

「彦右衛門。燭ひを、もすこし横へ寄せてくれい」

秀吉はやや身を屈かがめた。

宗仁の書面は彼の指に解ほぐれた。極めて短文であり、また非常な走り書である。――が、一読卒然そつぜんとして、秀吉の頸えりもとの毛は、燈火にそそけ立っていた。

「…………」

「…………」

各〻控え目に膝を退さげて坐っていたが、秀吉の頸うなじから耳のあたりまで、さっと色が変ったので、久太郎秀政も、弥兵衛長政も、彦右衛門正勝も、思わず身を前へのばして、

「……殿。……殿ッ。いかがなされましたか」

こう三人の者に左右から訊かれたとたんに、秀吉ははっとわれをよびかえしていた。一読してせつなに眼もかすみ、心気も昏くらくなっていたのであった。

そしてふたたび、書中の文言もんごんを疑うように、眼まなこをそれへ努つとめてみたが、疑うべくもない文字の上へ、はや滂沱ぼうだと涙がさきにこぼれていた。

「――これは。何としてのおん涙ですか」

「常にもない御容子ごようす」

「宗仁の書中。何事かおかなしみのことでも告げてまいりましたか」

この際、三名が、ひとしく察し取ったことは、長浜ながはまにのこしている秀吉の老母の身であった。

陣中、稀まれにでも、国元のはなしが出るときは、かならず老母のことをいう秀吉であった。秀吉が母を語るときは、小姓部屋の子どもらともかわらない思慕をあらわしていうすがたを誰もみな眼に見ている。

――さてはと、すぐそのひとの危篤きとくか死去に聯想したのであったが、やがて涙をぬぐって、秀吉が襟えりを正した容子ようすを仰ぐと、悲痛な色のうちにも甚だしい厳粛な気と怒りをふくんでいる。その烈しい憤怒ふんぬ、きびしい涙は、母子の悲情に打たれたものでは到底ない。

「……秀吉。ことばをもっていま告げる力もない。久太郎どのにも、正勝も、長政も、これへ寄って見られい」

なお彼は、面おもてをそむけて、しばしば肱ひじを曲げては哭ないた。

三名とも霹靂へきれきに打たれたような面おもてである。――久太郎秀政も、彦右衛門正勝も、弥兵衛長政も、茫然、自失しないばかりに。

信長の死。信忠の戦死。

いまのいままで、考えられもしなかったことが、儼げんとして事実を示し、早打状は、目に見るごとく、昨二日朝の本能寺の実状を急報している。

――あり得ることか。世の中とはかくも不測ふそくなものなのか。一瞬いっときは驚く心すら痺しびれて、涙も出なければ、声も出ない。

わけて秀政は、ここへ来る直前に、信長とは、親しく会いもし、何かと直接に、指命もうけて来たのであるから、ほとんど、信じられないように、幾度も幾度もその飛脚文を見まもっていた。

その秀政も涙にくれ、彦右衛門も落涙して、ここの一燈は、涙に掻き消えるかと思われるばかり暗澹あんたんな夜色に沈みきってしまおうとした。

――と。秀吉はむずむずとからだをうごかし出した。坐り直したのである。そしてすこし力りきむような顔して大きく唇をむすんだかと思うと、ふいに、

「おういッ。誰か来いッ」

と、遠い小姓部屋へ呶鳴った。

天井をつきぬくようなその声には、日ごろ胆太きもぶとい蜂須賀彦右衛門も堀秀政もとび上がるほどびっくりした。第一、その秀吉も共々涙のそこに沈んで、身も世もなく泣きぬれていた態ていだったので、よけいに胆をつぶされたのもむりではなかった。

「はあいッ」

返辞と共に、小姓部屋から元気のいい跫音が飛んで来る様子である。その跫音と、秀吉の声のために、秀政も、正勝も、とたんに悲嘆をふき飛ばされてしまった。

「――お召しですか」

「参ったのは誰だ」

「石田佐吉でございます」

答えながらなりの小さい佐吉は、次の間のふすまの陰からもっと進んで、畳のまん中まで出て隣室の一燈へ向って手をつかえ直した。

「佐吉か。よかろう、おまえでもよかろう」

「はい」

「官兵衛孝高かんべえよしたかの陣屋まで一と走り行って来い。官兵衛にちと、話があるから、寝る前に、顔を見せい、と申せばよい」

「それだけでよろしゅうございますか」

「それだけでよい。――黒田の陣屋だぞよ。暗夜だから間違えるなよ」

「はい」

「待て待て。皆は、何しておるか」

「退屈しております。戦いがないのは辛つらいものと皆で話しておりました」

「幽古ゆうこは、次におるか」

「おりまする」

「小姓部屋へ菓子など与えて、おでこ押しでも腕相撲でも取れと申してやれ。こよいはちと夜更よふかしせねばならぬゆえ、あれ達の居眠りふさぎに」

「かしこまりました」

「佐吉。行け」

「行ってまいります」

秀吉こそ、ゆるされるなら声をあげて泣きたい今であろう。

信長にまみえたのは、年まだ十八歳のときからだ。その手で頭も撫でられ、この手で草履ぞうりもつかんで仕えた人である。

いまやその主君は亡ない。

信長と彼とのあいだは、他人ひとの思うような単なる主従観念では決してない。血もひとつ、信念もひとつ、死生もひとつと期していたのである。はからずもその主はさきだち、われのみなお生命ある身かと、それをあらためて秀吉は意識するほどだった。

(――君はわれを知る。われを知り給うものまた君を措おいて世にあらじ。本能寺に御最期の火裡かり一瞬、君の御心中に、われを呼び給い、われに遺託いたくありしこと必せり。われ秀吉、微身たりとも、君が怨念おんねんと遺託に、なんで応こたえ奉らずにあるべきや)

彼はひとりこの夜誓った。いたずらなる嘆きをいわなかった。それをいうならば、痛涙に身をただよわし、慟哭どうこくに血を吐いても、なお足らない。思うはただ死せる信長が、死の直前に、何を自分に遺命されたか――ということのみである。

あきらかに、彼は主君の無念を知ることができた。日頃の主君に徴しても、いかにここまでの統業を半途なかばにして世を去ることの残念であったかをも、惻々そくそく胸に酌くむことが出来た。

――それを思うとき秀吉はたとえ寸分たりと嘆いてなどいられなかった。後図こうとをいかにすべきやなど考えているいとまもなかった。身は中国にあるが、勃然ぼつぜん、心はすでに敵明智光秀へ向き直っていた。

そして。

眼前の敵、高松城をいかに処理するか。毛利の大軍三万余をどう捌さばくか。なおまたその大敵と四つに組んでいるかたちにあるこの陣地から、どうして一刻も早く上方かみがたへの転進を策すか。かつ、光秀を打ち破るかなどの――考えれば、山また山の如く横たわっている幾多の難問題に対しても、秀吉は今、もそもそと坐り直したときに、

(深く考えるにも及ばぬ。天機は寸秒すんびょうの間にもうごく。何よりはすぐ行動だ。着々、実行あるのみ。一難一難、身をもって当りつつ、その都度、ずばずば考えを決してゆけばよい)

と、肚をすえてしまったもののようである。俗にいう――ここ千番一番のかねあい――とする生涯の大覚悟は眉にも見え唇にもうかがわれた。

「そうだ。――飛脚の男はどこへ置いたか」

石田佐吉が去るや否、ほとんど、いとまを措おかず、秀吉は、浅野弥兵衛に訊いていた。弥兵衛が、

「士さむらいどもに命じ、御本堂の下に、控えさせておきました」

と答えると、秀吉は蜂須賀彦右衛門に眼くばせして、

「御辺ごへん、その男を台所へ伴とものうて、飯なと食わせ、一室へ監禁して、誰にも会わせぬように始末しておけ」

といいつけた。

彦右衛門が心得顔に、起つのを見て、弥兵衛が、その儀なれば自分が参りましょうか、というと、秀吉は顔を振って、

「いや、弥兵衛にはべつに申しつけることもあれば、しばし待て」

と、云った。

「弥兵衛には、これよりすぐに、麾下きかの士の目きき足きき選えりすぐって、京都表から毛利領へ通ずる往来という往来、間道という間道に、水も漏もらさぬような手配をなせ。要路は遮断しゃだんいたすもよい。怪しの者と見たら引ッ捕えろ。さなき者と見ても、一応は厳しく持物や素姓すじょうを検あらためろ。――この儀は、大事中の大事であるぞ。いそげ。念を入れて」

秀吉は半眼のまま、一息にこういいつけ終った。

浅野弥兵衛はすぐ出て行った。あとには、堀秀政と、歌人の幽古だけが残った。

「幽古。何刻なんどきだな? いまは」

「亥いの下刻(午後十一時)とも相成りましょうか」

「きょうは、三日だったな」

「左様でございまする」

「あすは四日か」

ひとり呟つぶやいて、

「四日。五日」

ふたたび睫毛まつげを半眼にふさいで、何か数うるごとく膝のうえで指をうごかしていた。

「久太郎」

「はッ」

つい先刻までは、久太郎殿といい、秀政殿と敬称していたが、このときから秀吉は無意識か意識してか、呼び捨てにしていた。

秀政もそれに対して、何の感情をさし挿はさむ余裕もなかった。むしろこうして見ている間にも、その人間が一変してゆくかのように思われる秀吉の威圧にたいしては、みずからも手をつかえて答えざるを得ないような感じすら受けていた。

「――秀政とて、こうしてはおられませぬ。何がな、お指図くだされたい」

「いや、もうしばし、ここにいて欲しい」

と、秀吉は彼の焦躁しょうそうをなだめてから、

「やがて、官兵衛孝高よしたかも見ゆるであろう。――そのいとまに、飛脚の処置、どういたしたかちと心こころがかり、彦右衛門が参っておるが、念のため見て来てくれぬか」

「承知しました」

秀政は起ってすぐ寺の大台所へ行ってみた。

飛脚の男は、厨くりやのすぐそばの小部屋で、がつがつと湯漬飯を掻かっ込んでいた。

きのうの午ひる頃から、飲まず食わずだったこの男は、腹いっぱい食べ終ると、

「ああ」

と、独り胃を伸ばしていた。

すんだのを見て、

「飛脚。こちらへ来い」

彦右衛門が手招きして、庫裡くりの一室へ連れて行った。塗籠ぬりごめの経蔵きょうぞうである。ゆっくり寝やすむがよいと宥いたわって、男を中へ導くと、彦右衛門は外から錠じょうを卸おろしてしまった。

久太郎秀政は、そのときそっと側へ来て、彦右衛門の耳へささやいた。

「万一、お味方の中たりと、京都の変が漏れてはと、あちらでお案じの態ていだ。いっそいまの飛脚は……」

と、殺意を目にあらわすと、なぜか彦右衛門はかぶりを振った。そして、そこから、数歩を移してから、

「あのままでも、おそらく死ぬ。食っては堪たまらない。他愛なく死ぬものですよ」

と、云い足して、経蔵の方を片手で拝んだ。

底本 / Source edition

底本:「新書太閤記(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年7月11日第1刷発行
2010(平成22)年8月2日第20刷発行
初出:太閤記「読売新聞」
1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日
続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙
1949(昭和24)年
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「太閤記」「続太閤記」です。
入力:門田裕志
校正:トレンドイースト
2015年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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書誌 / Bibliography
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吉川 英治「新書太閤記──07 第七分冊」(新字新仮名)、底本『新書太閤記(七)』吉川英治歴史時代文庫、講談社、1990年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 056758_001562, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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