浜田が<ruby><rb>益子</rb><rt>ましこ</rt></ruby>にいるので、年々幾度か東京との間を往復し、栃木県には親しみが出来た。それに一時は<ruby><rb>半井</rb><rt>なからい</rt></ruby>知事がおられたので、県下を旅する機会が更にふえた。

<ruby><rb>宇都宮</rb><rt>うつのみや</rt></ruby>から益子に、また<ruby><rb>鹿沼</rb><rt>かぬま</rt></ruby>や日光に行くごとに度々私の心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた建物を見た。<ruby><rb>長屋門</rb><rt>ながやもん</rt></ruby>の美しさもその一つだが、私にはことのほかその地方の民家で用いる石屋根が美しく想えた。これだけ形が<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>で、しかも美しい屋根を他で見たことがない。<ruby><rb>茅葺</rb><rt>かやぶき</rt></ruby>には様々な美しいのがあるし、<ruby><rb>瓦葺</rb><rt>かわらぶき</rt></ruby>でも<ruby><rb>石州</rb><rt>せきしゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>窯場</rb><rt>かまば</rt></ruby>の赤屋根の如きは忘れられぬものではあるが、形の立派さではこの石屋根に比肩するものは他にあるまい。支那の強ささえ<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>される。

大体石屋根は日本で極めて珍らしく、<ruby><rb>越前</rb><rt>えちぜん</rt></ruby>や紀伊に多少あると聞いたが、それは皆普通の屋根瓦を<ruby><rb>摸</rb><rt>も</rt></ruby>した形である。ところが栃木県下のは全く石という材料から生れた形であって、それだけ必然さがあり、石の持味がよく<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>かされている。石だから重みや幅さや厚みや大きさが整い、見て甚だ立派である。

私は家を建てるなら、その石屋根を用いたいという夢さえ抱いた。栃木県を旅する毎に私は益々この特色ある屋根に心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれた。ところが求める者には与えられるのか、私が<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に<ruby><rb>駒場</rb><rt>こまば</rt></ruby>に居を決める直ぐ前に、<ruby><rb>予々</rb><rt>かねがね</rt></ruby>日光街道で眼に入っていた一軒の石屋根長屋門が売りに出た。浜田や塚田君の<ruby><rb>斡旋</rb><rt>あっせん</rt></ruby>でついにそれを<ruby><rb>購</rb><rt>あがな</rt></ruby>うこととなり、そのまま東京に移した。今住んでいるのがそれである。それは昭和九年の十月である。こんな事情で私は益々石屋根に心を向けた。

しかしこの特色ある石屋根に付て注意した人は極めて少ないと見える。未だ紹介されたのを聞かない。<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>うどの建築家に尋ねても皆知らないという。これほど特長のはっきりした日本の屋根はないはずだが、どの建築史家も語ったことがないのはむしろ不思議に思える。まして東京から遠い土地ではない。それで私たちはその道に<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>ではあるが、いつか『工藝』で紹介したい考えを強めた。それには多少でも調査が必要である。浜田と相談し宇都宮の塚田泰三郎君に依頼して、ほぼ地理的分布を調べてもらった。同氏の熱心な援助がなかったら、私たちのこの企ても延びてしまったかもしれぬ。

昭和十年十月十二、十三の両日、浜田、塚田、水谷および私の四人、それに写真師として<ruby><rb>西鳥羽</rb><rt>にしとば</rt></ruby>君が加わり、調査および撮影に時を送った。宇都宮を間に挟み東は<ruby><rb>真岡</rb><rt>もうか</rt></ruby>より西は<ruby><rb>文狭</rb><rt>ふばさみ</rt></ruby>、<ruby><rb>鹿沼</rb><rt>かぬま</rt></ruby>一帯を見て廻った。大体宇都宮を中心として十里の半径を描けば、ほぼその中に分布される。だから特殊な事情の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>で一地方に発達した様式で、遠くには及んでいない。これが今まで充分知られていない原因となったのであろう。

何がこの石屋根の発達を促したのか。それは全く<ruby><rb>大谷</rb><rt>おおや</rt></ruby>から大谷石を出したのに<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>る。大谷は宇都宮からわずか一里余りの所であって、特にこの十数年、そこから盛にいわゆる「大谷石」が東京に運び出された。今ではほとんど塀や土台にこの石を用いない個所は少ない位で、東京のどこへ行っても逢える。石が柔かで仕事が早いので重宝がられる。それに石としては値が最も安い。だがこれほど材料として広く知れ渡っている大谷石が、産地でどう用いられているかは余り注意する人がなかった。しかし大谷附近に行ってみると、蔵はほとんどこの大谷石の建物であって、かつ同じ石で屋根を<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いたものが甚だ多い。ある家になると<ruby><rb>庫</rb><rt>くら</rt></ruby>はもとより長屋門、<ruby><rb>母家</rb><rt>おもや</rt></ruby>、<ruby><rb>納屋</rb><rt>なや</rt></ruby>、物置等一切をこの石屋根で葺いたのがあって見て堂々たる姿である。その様式は他に類がないから甚だ目立つ。それのみでなくおそらく日本が産んだ屋根として最上の形を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つものであろう。比較的石工品に乏しい日本のものとして特に重く考えていいように思う。

ここでこういうことを注意する必要がある。この<ruby><rb>石瓦</rb><rt>いしがわら</rt></ruby>は大谷石という材料があって生れたのである。他の国にも色々の石があるが、大谷地方だけに、この様式の石瓦が発達しまたその地方だけに<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>ったことを注意したい。適材があって始めて発達を遂げる工藝上の一般法則にここでも逢う。石の性質において仕事がしやすいこと、雨風や火に堪えること、土地のものであること等、石瓦として条件に<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>う。もっとも大谷石といっても、特に屋根に適する性質のものを中から選ぶのはいうまでもない。大谷石にも色々ある。

さて、このような特色ある石屋根がいつ頃から発達したものか。塚田さんに色々調査を<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>ったが、結局文献らしい文献に乏しく、せいぜい三百年位まで<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>るに過ぎぬという。一番盛に作られたのは幕末から明治の始めにかけてかと思えるが、何しろそれ以前のことははっきりしない。現存するものでもそう古いものは見つからない。

しかしその道の人は誰も知っているように大谷には今日大谷石で出来た<ruby><rb>弘仁</rb><rt>こうにん</rt></ruby>時代の仏像がある。今は国宝である。して見ると大谷石の存在は随分古くから知られていたのである。その地方ではかつては寺の屋根にこの大谷石が好んで用いられた。今でも宇都宮や真岡には多少残っている。それやこれやを合せて想像すると、この石屋根は最初寺院建築に用いられたと見るのが至当のようである。それに石屋根の全体の形を見ると、普通の日本式のとは違い、どこか支那または朝鮮の<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いがする。もし<ruby><rb>寺造</rb><rt>てらづくり</rt></ruby>に用いられたのが最初だとすると、この類似も必然になる。ただどれだけ歴史を溯らせ得るか、今のところ確証がない。それで今日文献がない以上何も<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と断定は出来ぬが、起原は相当古いとも想像される。それで石屋根は最初が寺造で、それが土蔵に用いられ、つづいて長屋門に適用され、ついには母屋の屋根、納屋、仕事場、時としては<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>にまで下って来たと見ていい。

今でもこの石屋根を作った<ruby><rb>石工</rb><rt>いしく</rt></ruby>が残っているが、この頃は他の瓦類に比して高価なので<ruby><rb>新</rb><rt>あらた</rt></ruby>に試みる者が絶えた。しかし三十年位前までは続けられた。

大谷石の耐火性はよく知られているが、多くの人は石屋根を地震のためにあやぶむようである。しかし今まで幾度か逢った大地震でこの石屋根位安泰なものはないという。重量がある上に<ruby><rb>互</rb><rt>たがい</rt></ruby>に強く組み合っていて、しばしばそれを一種の<ruby><rb>漆喰</rb><rt>しっくい</rt></ruby>のようなものでとめてあるのでちょっと手で動かそうとしても動きはしない。石瓦の大きさは屋根の形で違ってくるが、その重さは一個がほぼ十貫目内外である。それで支えの柱も太いので全体が非常に頑丈になる。ちょっと見ると風化にも弱いようであるが、事実はそうでない。質の適したものを選べば寿命は長い。それに暑さにも、寒さにも影響されることが少ないので、夏によくまた冬によい。ただこの好材料も極めて地方的で、余り遠くに運ぶと費用がかさんで使いにくい。さなきだに瓦に比すれば高価である。それ故地理的に有利な場所でなくば流布されにくい性質がある。いわんや土地においてすらこの頃はほとんど作らない。それ故点々としてその地方に散在する現在の建物は、もう貴重なものに属するであろう。日本から生れた特別な様式のために、もっと注意する要があろう。

余事ながら、もしこの石屋根を茶室に用ゆるとしたら素晴らしいものが出来よう。折を得て試みたいと思っている。今度出来る駒場の民藝館も別館として、もう一つせめて石屋根の門でも建てたいと皆で話しあっている。何してもこんなに立派な形を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>った屋根は他の地方にない。

大体大谷石は建築材料として極めて面白い性質がある。今は気の毒にも石塀や土台にだけ流用されて余り建築に適応されていないが、この石はもっと活かされて然るべきと思う。石屋根は別として、建物をこれで積むか、またはタイルの如く、<ruby><rb>石張</rb><rt>いしばり</rt></ruby>に用いて<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>によい。質が堅くないだけに、石に<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>される冷たさがない。丁度石と木との間のような性質がある。堅くないだけに親しみやすい。色も概してよくまた<ruby><rb>温</rb><rt>あたたか</rt></ruby>い。もっとも大谷石にも大体三通りの区別があり、従って色調も<ruby><rb>異</rb><rt>ちが</rt></ruby>う。やや黄ばんだ緑色を呈したものは味がいい。今建てつつある民藝館は大谷石を沢山使ってある。甚だ成功したと思う。

大谷石を活用すべき土地は何といっても東京である。運搬するのに大谷から数時間でよい。私はこの石の利用で新しい様式の建築が生れて然るべきと思う。逆境にあるこの石のために大に弁護をしたい。多少似た石、例えば石州の<ruby><rb>来待石</rb><rt>きまちいし</rt></ruby>の如きものも他にあろうが、この種の石では大谷が建築用として一番であろう。それに採掘量がまだ無限といってもいい位である。値が安く、よくいわゆる「みそ」の多い駄石を聯想するので、大谷石を馬鹿にする習慣があるが、しかし安いだけに建築材としてもっと活用したい気がする。まだまだ創作の余地が沢山あろう。

有り難いことには大谷石は柔かくきめが荒い石であるから、細かい彫刻等には適しない。だから装飾の過剰になる憂いがない。この石は単純な形を求める。これが建築の美しさには救いである。大谷石は形において線において複雑なものを嫌う。この性質こそ美の側から大に活用したいではないか。<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>美は単純と最も厚く結合しやすい。

先日河井や浜田と朝鮮を旅して、石工に優れたその国民の仕事の跡をつくづく眺めた。これも朝鮮が石に恵まれているからである。その民族は石をどうこなすかを熟知している。そうしてどんな石をどんな物に用いるかをよく知っている。この分野では日本は石の国というより木の国であるため、作物が少ない。だが前述のように大谷石の如きは木に近い石であって、日本の味を出すのに<ruby><rb>適</rb><rt>かな</rt></ruby>った材料である。その柔かさや温かさを活かして用いれば、多くの将来があろう。何も上等な石というわけではないが、私は大谷石に日本的なものを見出さないわけにゆかぬ。この石には何か特別な親しさを感じる。

<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>にいう。

もし宇都宮か、日光にでも行かれるついでがあったら、大谷を訪われることをお勧めする。そこには見るものが二つある。一つは有名な大谷観音で、これは<ruby><rb>石崖</rb><rt>いしがけ</rt></ruby>に彫りつけた大きな仏像で、出来がなかなか立派である。前述の如く弘仁期の作。石はもとより大谷石。軟質であるがよく風雨に堪え今日に及んだ。

他の一つはほとんど誰も知らずに帰るが、是非見ることをお勧めしたい。それは大谷石の発掘場である。深いのになると三百尺というが、そのうす暗い深みから何本となく巨大な角柱が立ち<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている様は<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>であり、壮観である。何か原始時代の巨大な建物の内部に入る想いがある。感じがすごくこわいが、非常な力が迫る。真に見ものである。土地の人に尋ねれば、どの<ruby><rb>窟</rb><rt>くつ</rt></ruby>が大きいかを知ることが出来る。

大谷には宇都宮から<ruby><rb>乗合</rb><rt>のりあい</rt></ruby>が出る。二十分とはかからぬであろう。

## 附　大谷石の事

## 産地

大谷石はその名が示す如く、<ruby><rb>野州</rb><rt>やしゅう</rt></ruby><ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>郡城山村大谷から出る石の名である。何も大谷ばかりからではないが、この名を得たのは、おそらく有名な観音が大谷にあって、それが大谷石で刻まれているからであろう。だから大谷から採掘した石が一番古い歴史を有つので、古くから大谷石の名で聞こえたものと思える。そうして採掘個所としては大谷が一番便利な所にあるのでなおその名によって一般から知らるるに至ったのであろう。しかし実際には大谷から出る石は、どちらかというと荒く、いわゆる「みそ」が多いという。「みそ」というのは石の間に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさま</rt></ruby>った有機物の腐れた<ruby><rb>黒褐色</rb><rt>こくかっしょく</rt></ruby>のごく柔らかい部分をいう。これはすぐ手でもほじくれる位だから、風雨にさらせば、まもなくそこだけ穴になってしまう。だから「みそ」が多いのは良質でない。<ruby><rb>但</rb><rt>ただ</rt></ruby>し「みそ」の多い位のものは石質がかえって堅いという。だから土台等には好材料だといわれる。

大谷石で一番良質のものは大谷に近い<ruby><rb>立岩</rb><rt>たていわ</rt></ruby>から出る。そこも同じく河内郡城山村である。この立岩も相当歴史が古いであろう。大谷石を用いた立派な家がなかなか沢山ある。大谷石で「みそ」の少ないのはかえってこの立岩の石だという。質は大体からいって、さしたる差違はない。石屋根に用いるのはこの立岩のを選ぶ。

この他、大谷石の産地としては同じく河内郡国本村の<ruby><rb>新里</rb><rt>にしさと</rt></ruby>がある。普通これを<ruby><rb>上大谷石</rb><rt>かみおおやいし</rt></ruby>と呼んでいる。石質は大谷や立岩のものよりやや固く、値が少し高い。石の色がやや赤味なのを特色とする。

更に上等なのは河内郡国本村寺沢から出る。ほとんど「みそ」がなく、色も青くかつ石質が一番堅い。土地がやや不便な所であるせいもあるが、値は大谷から出るのより倍も高い。この寺沢石は見て綺麗であるが、それだけに一番女性的である。欠点は吸水性があるので寒さに弱く、<ruby><rb>沍</rb><rt>い</rt></ruby>てやすい。それ故石屋根には使えない。

寺沢の近くにまた<ruby><rb>徳次郎</rb><rt>とくじら</rt></ruby>石が出る。河内郡富屋村である。これは質が最も柔らかで、よく<ruby><rb>石厨子</rb><rt>いしずし</rt></ruby>をこれで作る。建築用材としては適当でない。採掘量は少ない。

また寺沢石に似ているもので板橋石がある。<ruby><rb>上都賀</rb><rt>かみつが</rt></ruby>郡落合村板橋から出る。質は大谷より堅い。この石は今はほとんど採掘していないという。

別に河内郡の例の<ruby><rb>百穴</rb><rt>ひゃっけつ</rt></ruby>近くの長岡から出るのがある。綺麗だが柔かで、これも水を吸いやすく<ruby><rb>沍</rb><rt>い</rt></ruby>てるので寒さに弱い。

その他大谷近在はほとんど至る所にこの種の石を産し、その埋没量は未だ非常に多い。何といっても大東京と遠くない所にあるのがこの種の石のもつ大きな特権である。将来用途はますます加わるであろう。

## 石質

鉄を含有するので、焼物の<ruby><rb>釉薬</rb><rt>うわぐすり</rt></ruby>にすれば黒や柿に使える。質は荒いが火に強いので名がある。それ故よくこれで<ruby><rb>石竈</rb><rt>いしがま</rt></ruby>を造る。焼かれる故古くなると堅くなるという。今は大谷石を特等、一等、二等と分ける。「みそ」の<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>や質の粗密でそれが決まる。二等品は大ものに当て、一等品は主として小ものに使う。色の方からまた「白め」「青め」「<ruby><rb>虎杢</rb><rt>とらもく</rt></ruby>」等と分ける。「白め」というのは山の上層六尺位までのもので、量は多く出ない。その特色は色が白いのと、後になっても変色がほとんどないのと、「みそ」が少ないことだという。「青め」は最も多く中層以下から採掘される。色に青味があるのでその名がある。「みそ」の多い部分は、やはり層をなして走る。「虎杢」は今はほとんど出ないが、立岩からかつて掘られた。<ruby><rb>虎紋</rb><rt>とらもん</rt></ruby>の杢があるのでその名がある。東京に一番多く運び出されるのは「青め」である。石は切り立ての時は水分多く従って色が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えている。石の質によってあるいはこれに<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>を生じて赤みを<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>し、あるいは黄味や白味に変化する。しかし買手はみずみずしい青みが好きなので、切り立ての石を売るように努めるという。長く置けば<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れてきて色の冴えがなくなる。細工するには切り立ての方が仕事がしやすい。水分が減ると堅くなってしまう。

大体大谷石の特色は、石目が荒く<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>いが、それだけに仕事が早い。柔かいからかえってむずかしいともいえるが、時間をとらないからそれだけに有利である。

## 仕事

<ruby><rb>石切</rb><rt>いしきり</rt></ruby>の仕事は今は自由労働である。好きなだけ働く。つまり採掘の本数で賃銀を受ける。標準は「<ruby><rb>五十</rb><rt>ごとう</rt></ruby>」といって幅一尺、厚み五寸、長さ三尺である。これに準じ「<ruby><rb>四十</rb><rt>よんとう</rt></ruby>」とか「<ruby><rb>六十</rb><rt>ろくとう</rt></ruby>」とかいう。十は十寸即ち一尺の意。この「五十」は十八貫の重さがある。一日働いて最も上手な人は十五本位掘るが、多くは十二、三本の由である。

さて、山で切る時の石の値は何銭であるかというと<ruby><rb>凡</rb><rt>およ</rt></ruby>そ次の通りである。（現在）

「五十」一本　　　　　　　　九銭┐

電燈その他　　　　　　　二銭五厘│

山から<ruby><rb>荒針</rb><rt>あらはり</rt></ruby>駅まで　　　　　　二銭├計二十銭

荒針から宇都宮駅まで　　　　四銭│

諸雑費　　　　　　　　　二銭五厘┘

売値（宇都宮渡し）　　　二十五銭

右は「五十」を標準とする大谷石の値段である。「<ruby><rb>尺角</rb><rt>しゃっかく</rt></ruby>」即ち「五十」の倍の大きさのものは「五十」の倍額ではなく、割は安くなる。現在職工は凡そ千人働いているといわれる。

右の如くであるから、山で石を掘る労働者の収入は一日凡そ一円余り。但し親方に<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>をはねられるから一円に満たない。問屋の<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けは「五十」一本で凡そ五銭故、その利は比較出来ず大きい。石は<ruby><rb>野天掘</rb><rt>のてんぼり</rt></ruby>もあるが、大概は中に掘って行く。一番深いのは三百尺に達し、奥は二町位のが深い方といわれる。この大きな採掘坑はなかなかの見ものである。

<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>にいう。好景気の時は、山で職人<ruby><rb>払</rb><rt>ばらい</rt></ruby>が一本十七銭まで上った由、丁度今の倍額である。それはいうまでもなく大正七、八年の頃である。一番不景気だったのは今から二十五年ほど前で、一本に対し四銭まで下った由である。昭和に入ってからはほとんど変動なく、前述の如く九銭を保っている。

石としておそらく大谷石ほど廉価なものは他にないであろう。だから年々東京に入る量は<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>である。

（以上大谷から来た石屋に尋ねて得たる知識。）