私たちはこれから九州の南端を発して北へと上り、四国を<ruby><rb>一瞥</rb><rt>いちべつ</rt></ruby>し、山陽山陰を廻り、中部の諸国を経て、北国に進み、転々と現在の<ruby><rb>民窯</rb><rt>みんよう</rt></ruby>を訪ねようとするのである。もとより訪ね得ないもの、知り得ないものなど多々あるに違いない。しかし現状を知り得たもの総じて四十数カ所に及ぶ。一カ所に多くは数個のまたは十数個の<ruby><rb>窯</rb><rt>かま</rt></ruby>を有つから窯数からすれば概算少なくとも二百には達するであろう。私たちはこのために長い旅をつづけた。

この本を<ruby><rb>編纂</rb><rt>へんさん</rt></ruby>するに当って、四十数カ所の全部について記事を集めることが出来なかったのは残念である。しかしその大部分と、主要なほとんど凡てを網羅し得たから、これでほぼ現在の日本民窯を代表させ得ると信じる。その多くは在来の陶器史に記載なきものであるから、将来の研究者には役立つであろう。私たちは今後も埋もれた窯を続いて紹介したい考えである。

以下諸篇は十二人の筆になるので、文体や、叙述の風や、観点や、精粗は一様ではない。ただ一冊に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>める関係上なるべく簡単に各窯の歴史、品目、特色等を略述するに止めた。

## 琉球壺屋

琉球の窯場を<ruby><rb>壺屋</rb><rt>つぼや</rt></ruby>と呼ぶ。古くは色々の個所に窯場があった。中で湧田とか知花とか、名がよく聞える。しかし<ruby><rb>天和</rb><rt>てんな</rt></ruby>の頃一カ所に集められ、今の壺屋を形造った。<ruby><rb>那覇</rb><rt>なは</rt></ruby>郊外の村であったが、今は町となり市の一部に編入された。<ruby><rb>瓦焼</rb><rt>かわらやき</rt></ruby>は別だが、沖縄では今も壺屋町だけが焼物を作る窯場として現存している。壺屋という呼び方は、丁度本土で「皿山」と呼ぶのと同じである。

日本国中、伝統的な民窯として挙げ得るものが沢山あるが、しかし昔からの手法がよく続き、作る物に未だ格があり、しかも背後の暮しぶりや村の状態まで、昔とそう変りがない点で、おそらく壺屋の如き例は<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>であろう。その意味で日本国中の窯場の中で、最も興味ありまた最も大切にされていい生産地の一つといわねばならない。遠隔の地であるため、その存在やその価値を今まで<ruby><rb>省</rb><rt>かえりみ</rt></ruby>る人が少かったが、当然重要視されていい窯場である。土地の人といえども、他の窯場に対してどんな位置にあるかを熟知しないため、余り熱意を有たず、当事者も改良をのみ志して、在来の伝統を軽んずる傾向があるが、逆にこういう窯場をこそ、特色ある地方の産業として尊敬し保護しその固有性を発展せしめねばならない。

壺屋の仕事は今二つに別れる。瓦は別として、「あらやち」（荒焼）と呼ぶ<ruby><rb>南蛮焼</rb><rt>なんばんやき</rt></ruby>と、「じょうやち」（上焼）と呼ぶ陶器とである。南蛮の方は<ruby><rb>無釉</rb><rt>むゆう</rt></ruby>のもので、主に<ruby><rb>泡盛壺</rb><rt>あわもりつぼ</rt></ruby>や<ruby><rb>水甕</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>を作る。大体形の大きいものが多く、窯も従って大きい。窯数は今八基あって仕事が盛である。今も「あんびん」（<ruby><rb>水注</rb><rt>みずつぎ</rt></ruby>）の如き小品を作るが、昔はもっと色々作った。この南蛮に対して上物を焼く窯が別に四基ある。上焼というのは有釉のもので、沖縄人が日常の生活に用いる数々の雑器を指すのである。多く白絵掛けをし上に絵を描く。品目はなかなか多く、名称も方言のものが多い。あんらあ<ruby><rb>甕</rb><rt>がみ</rt></ruby>（油甕）、あんびん（水甕）、ちゅうかあ（酒<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>）、からから（酒注）、わんぶう（鉢）、まかい（<ruby><rb>碗</rb><rt>わん</rt></ruby>）、その他、壺、皿、<ruby><rb>徳利</rb><rt>とっくり</rt></ruby>、<ruby><rb>花活</rb><rt>はないけ</rt></ruby>、<ruby><rb>香炉</rb><rt>こうろ</rt></ruby>、<ruby><rb>湯呑</rb><rt>ゆのみ</rt></ruby>、等色々の小品が出来る。別にじいしい<ruby><rb>甕</rb><rt>がみ</rt></ruby>（<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>甕）と呼ぶ<ruby><rb>骨壺</rb><rt>こつつぼ</rt></ruby>を作る。これには無釉のもの<ruby><rb>釉掛</rb><rt>くすりが</rt></ruby>けしたもの両方ある。多く<ruby><rb>線彫</rb><rt>せんぼり</rt></ruby>や彫刻を施し、形の堂々たるものである。

大体琉球の焼物には三つの系統があって、それが互に交錯している。第一は明らかに南方支那系のもので、南蛮を始め、大まかに描いた<ruby><rb>染附</rb><rt>そめつけ</rt></ruby>の如きは明らかにその流れを示している。<ruby><rb>呂宋</rb><rt>ルソン</rt></ruby>と呼ばれるもの、<ruby><rb>宋胡録</rb><rt>そんころく</rt></ruby>として知られるものも、琉球にその影響を見せる。ごく古い<ruby><rb>鉄釉</rb><rt>てつぐすり</rt></ruby>のものも支那系のものが多いであろう。第二は朝鮮系のものである。これは文献上にもしばしば出てくる。例の慶長の頃、朝鮮の陶工が沖縄に移住して製陶の法を伝えた。しかし<ruby><rb>浦添</rb><rt>うらそえ</rt></ruby>の<ruby><rb>城址</rb><rt>じょうし</rt></ruby>から見出される瓦等にも<ruby><rb>高麗</rb><rt>こうらい</rt></ruby>の工匠が作ったということが記してあるから、朝鮮との交渉は遥かに古く<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>るのであろう。今の琉球の赤瓦の屋根は、朝鮮風な所が著しく見える。<ruby><rb>象嵌</rb><rt>ぞうがん</rt></ruby>の<ruby><rb>或</rb><rt>ある</rt></ruby>ものにはちょっと高麗時代のものと見分けのつかないものさえある。第三に九州系統のもの、特に<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>の窯の影響が少くない。ある場合は薩摩に注文したものもあり、また本土のものを将来した場合もあって、その間の関係は濃い。しかしこの孤島の陶工は決して模倣に終らず、よく<ruby><rb>咀嚼</rb><rt>そしゃく</rt></ruby>して独自の風に凡てを変えた。このことは特筆されていいであろう。小さなこの島は工藝の凡ての部門で大きな足跡を<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>した。

壺屋の仕事で著しいことは、一つの窯場でありながら驚くほど多様な種目や手法を有っていることである。前述のように三つの系統がここで<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がったせいもあろうが、その変化の多い点で、他のどんな窯場にも見ない趣きを呈する。壺屋には磁器がないのであるから、凡ては陶器である。白釉、黒釉、<ruby><rb>柿釉</rb><rt>かきぐすり</rt></ruby>、<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>釉、青釉、緑釉、<ruby><rb>海鼠</rb><rt>なまこ</rt></ruby>釉、<ruby><rb>辰砂</rb><rt>しんしゃ</rt></ruby>釉、<ruby><rb>青磁</rb><rt>せいじ</rt></ruby>釉等これが流し釉であったり三彩であったりする。このほか窓釉、<ruby><rb>絞描</rb><rt>しぼりがき</rt></ruby>、染附、象嵌等がある。だが中で特筆されていいのは線彫で模様を描きこれに飴釉や<ruby><rb>呉州</rb><rt>ごす</rt></ruby>を差したもので、ほとんど他の窯場に見ない手法である。更に注意されていいのは赤絵で、赤、緑、黄、青、またこれに花紺青を添えたの等あって多彩である。もとより呉州に赤絵差しのものも作った。<ruby><rb>味</rb><rt>あじわ</rt></ruby>い<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に<ruby><rb>宋窯</rb><rt>そうよう</rt></ruby>に近いものがあり、有名な犬山等より一段といい。大体<ruby><rb>釉薬</rb><rt>うわぐすり</rt></ruby>に特色があり、<ruby><rb>珊瑚礁</rb><rt>さんごしょう</rt></ruby>と<ruby><rb>籾殻</rb><rt>もみがら</rt></ruby>とを焼いて作り、独特の<ruby><rb>柔味</rb><rt>やわらかみ</rt></ruby>を見せる。この釉薬こそは壺屋の大きな財産といえよう。

昔の作に比べるなら現在のものは、どうしても見劣りがするが、しかし本土の他の窯の現状に比べると、壺屋にはまだまだ生命が残るのを感じないわけにゆかぬ。大体どこの窯場でも絵附をする力がほとんど絶えているが、壺屋ばかりはまだ<ruby><rb>活々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>した絵を描く。「まかい」と呼ぶ飯茶碗類等には昔に負けないものをしばしば見かける。それに南蛮等でもそうであるが、形に素晴らしいものが今なお残り、伝統の強さを明らかに知ることが出来る。特に凡ての作の背景でありまた基礎である暮しぶりや、信心や、また村の様子そのものが、如何にまだ純粋であるかを気附かないわけにゆかぬ。そういう根底が弱くなった本土の窯場に比べ、如何に恵まれた事情にあるかを知らねばならない。

しかしこのような事情は、今日まで他府県の人々にはよく知られず、また土地の人々さえもその価値を充分認識していない。そのため壺屋出来の在来のものは、<ruby><rb>下賤</rb><rt>げせん</rt></ruby>な人たちの用いる雑器に過ぎないとされ、島の人たちは好んで本土の焼物を輸入する。そうして一日も早く壺屋の現状を打破し、本土風なものをこしらえる方針を立てる。しかしほとんどどんな輸入の品よりも沖縄自身の焼物の方が優れているのだという自覚は遠からず起るであろう。また起らねばならぬ。地方の民窯として最も大切にされていい窯場の一つたることは疑う余地がない。

<ruby><rb>因</rb><rt>ちなみ</rt></ruby>にいう、近時「古典焼」と称する琉球の焼物が関西にも東京にも進出している。多くは花瓶で、模様は人物とか鳥とか花とか船とか象とか<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>とか、色々のものを一パイに浮彫し、これに様々な色を差してある。琉球の焼物というとこの種のものをよく聯想する人があるが、これはこの十年来の新作で、ほとんど琉球固有の特色のないものである。技術はなかなか発達しているが、装飾に過ぎて見るべきものほとんどない。伝統的な琉球正系の焼物とは甚しく距離の遠いものであることをここに注意しておきたい。

## 陸前の堤

<ruby><rb>堤</rb><rt>つつみ</rt></ruby>は昔は郊外にあった陶郷と思えるが、今は仙台市の一部に加えられた。<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>藩は大きく昔は他にも窯場を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>っていたが、山の目焼、<ruby><rb>切込</rb><rt>きりこみ</rt></ruby>焼、<ruby><rb>畑山</rb><rt>はたやま</rt></ruby>焼、<ruby><rb>末家</rb><rt>ばっけ</rt></ruby>焼等いう名のみ残って<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>く絶えた。中で今もなお煙の上るのは堤町の窯だけである。町はずれの小川を渡ると坂路にかかるがそこからが陶郷である。歴史は古く二百余年のものと思える。藩の御用窯も務めたが、藩が<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れると共に過去の歴史に流されて、今残るのは雑器の窯のみである。最近は多く土管の窯になり下ったが、それでも伝来の民器を窯<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>に幾室かはつめる。窯は今八個ある。各々七つ八つの室を有つから大きな登り窯である。それに素焼窯が八つある。八軒で仕事をしていることが分る。あぶり五日、<ruby><rb>焚上</rb><rt>たきあ</rt></ruby>げ一昼夜というから仕事は決して小さくない。雑器の中で主なものは<ruby><rb>水甕</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>、<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>、<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>、<ruby><rb>煮上皿</rb><rt>にあげざら</rt></ruby>、<ruby><rb>片口</rb><rt>かたくち</rt></ruby>、<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>等である。釉は鉄であるが形いずれも強く、その力は他の窯では容易に見られない。町に売る繊細ないわゆる「<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>」とは比較にならない。しかしどこでもそうだが仙台の人たちは<ruby><rb>膝許</rb><rt>ひざもと</rt></ruby>のこういう品を別に大事にはしない。段々需要が減って行くのも致し方ない。しかし見直す人が出れば惜しがるであろう。しっかりした感じでは出色の窯だといっていい。<ruby><rb>鉄釉</rb><rt>てつぐすり</rt></ruby>に<ruby><rb>海鼠</rb><rt>なまこ</rt></ruby>の色が流れ出たものは多彩で特に<ruby><rb>見堪</rb><rt>みごた</rt></ruby>えがする。昔は陸前のみならず陸中の南部にもこの水甕は行き渡った。この窯は当然保護されていいように思う。これだけの材料と手法と伝統と職人とがいれば、まだ色々な新しい仕事が出来る。

今いった黒釉のほかに、<ruby><rb>赤楽風</rb><rt>あからくふう</rt></ruby>の<ruby><rb>柄附</rb><rt>えつき</rt></ruby>の<ruby><rb>焙烙</rb><rt>ほうろく</rt></ruby>を作る。また漢時代のものを想わせるような<ruby><rb>厨子</rb><rt>ずし</rt></ruby>も作る。共に形がいい。特に強さや確かさのあるのは釜戸（くど）と呼ぶ<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>や<ruby><rb>五徳</rb><rt>ごとく</rt></ruby>の類である。

因にいう、この頃この窯で雅物を焼き始めた。更生のつもりかは知らぬが、少しも地方色なくみすぼらしい出来である。在来の雑器の前には顔色がない。この窯の更生は雑器の上に築かれるのが至当である。

## 羽前の成島

この窯の名は広く知られていない。また広く知られるにしては、質素なものばかり焼く。しかし出来栄えからすると窯の少い北国では大事にされていいと思う。手法、様式に別に変化はなく<ruby><rb>黒釉</rb><rt>くろぐすり</rt></ruby>一式である。火の具合で海鼠釉に変ると景色が出る。形<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>で骨っぽい。都会では<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>てない特権である。窯はわずか一個よりないが、年に五、六回は焼くというから、相当地方的需要があることが分る。長型丸型の水甕、片口、<ruby><rb>飯鉢</rb><rt>めしばち</rt></ruby>、平鉢、<ruby><rb>土</rb><rt>ど</rt></ruby>だらい、<ruby><rb>切立</rb><rt>きったて</rt></ruby>等いう名は地方窯に<ruby><rb>相応</rb><rt>ふさ</rt></ruby>わしい。

場所は<ruby><rb>米沢</rb><rt>よねざわ</rt></ruby>市に近い。詳しくは<ruby><rb>南置賜</rb><rt>みなみおきたま</rt></ruby>郡<ruby><rb>広幡</rb><rt>ひろはた</rt></ruby>村にある。どの系統の窯か歴史は<ruby><rb>審</rb><rt>つまびら</rt></ruby>かでないが、作風からすると本郷の窯と兄弟である。作るものや名称に似通った点が多い。地理的にも遠くはないからこの想像は無理ではない。窯が小さいせいか、出来るものは<ruby><rb>在</rb><rt>ざい</rt></ruby>に流れ込んで遠くには売られない。米沢の町には出るが、山形まではほとんど届かない。一般からその存在が知られていないのも無理はない。しかし忘れられては気の毒である。民窯に見られるいい特色がこの窯に来ても逢える。

## 羽前の平清水

<ruby><rb>羽前</rb><rt>うぜん</rt></ruby>の窯といえば、誰にも<ruby><rb>平清水</rb><rt>ひらしみず</rt></ruby>の事が念頭に浮ぶ。山形市を知る人はまた近くのこの窯を忘れない。この国では大きな窯場の一つである。詳しくは羽前国南村山郡滝山村字平清水である。山形市より遠くない。窯は<ruby><rb>千歳</rb><rt>ちとせ</rt></ruby>山の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>に散在する。歴史はそう古くは<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>らないが、<ruby><rb>化政</rb><rt>かせい</rt></ruby>の頃は既に盛である。今は磁器陶器を焼くが、土地では一方を石焼、一方を<ruby><rb>土焼</rb><rt>どやき</rt></ruby>と呼ぶ。石焼の方は、<ruby><rb>肥前</rb><rt>ひぜん</rt></ruby>の影響多く、後者は<ruby><rb>相馬</rb><rt>そうま</rt></ruby><ruby><rb>笠間</rb><rt>かさま</rt></ruby>の系統だという。この土焼の方は主として雑器であるから格が一段と下るものと<ruby><rb>見做</rb><rt>みな</rt></ruby>されている。しかしいずれの土地でもそうであるが、平清水で今も生命のあるものはこれらの土焼の雑器だけである。上等に扱われているものは都風で地方色なく全く生気がない。

現在登り窯九個、<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>窯三個、<ruby><rb>上絵</rb><rt>うわえ</rt></ruby>窯三個、別に人形を焼く小窯二個、昔に比べては衰えたといわれるが今なお仕事は相当盛である。特に近頃インキ瓶の需要があって活気を呈した。しかし地方窯として重要なのはここで焼く様々な雑器、壺、片口、甕、皿、徳利、鉢、便器、等々。白絵掛けの無地が得意のようであるが、このほかに<ruby><rb>飴釉</rb><rt>あめぐすり</rt></ruby>や黒釉も沢山使う。この頃はマンガンを入れたので質が落ちた。それに無地にクロームで緑を流し等するが色が俗である。これに反し土地の材料で出来たものは色よく皆<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>て難い味がある。この窯では雑器になかなかうまく山水や花模様を描く。北国で見られる絵つけの便器は皆平清水で出来る。しかしもとの<ruby><rb>呉州</rb><rt>ごす</rt></ruby>を棄てて洋風のコバルトに変え、けばけばしい色になったのは残念である。それに絵がやや荒れて昔ほどの落ちつきを欠くのは時代のせいで致し方もない。しかし<ruby><rb>下手</rb><rt>げて</rt></ruby>な絵をうまく描く窯は少くなったのであるから、呉州にでも改めて描けば必ず見直せる品が出来よう。惜しい気がする。品物は山形市のみならず県外にもなかなか出てゆく。

## 羽前の新庄

羽前の北端は<ruby><rb>最上</rb><rt>もがみ</rt></ruby>郡である。郡の町は<ruby><rb>新庄</rb><rt>しんじょう</rt></ruby>である。ここは更に北の横手を指す線と、左へ折れ<ruby><rb>余目</rb><rt>あまるめ</rt></ruby>に達する線との分れ目である。冬は雪に深い。この新庄の町はずれの東山に窯が二つある。開窯してより九十八年と聞いたからそう古い窯場ではない。技を九州に学び磁器を試みたが失敗し、結局土焼で仕事を続けるに至った。今日作るものと焼き始めた頃のものと、さしたる相違はないと思える。それほど作るものは時代離れがしている。湯通し、<ruby><rb>蓋附土鍋</rb><rt>ふたつきどなべ</rt></ruby>、<ruby><rb>蓋無</rb><rt>ふたなし</rt></ruby>土鍋、<ruby><rb>捏鉢</rb><rt>こねばち</rt></ruby>、<ruby><rb>水甕</rb><rt>みずがめ</rt></ruby>いずれも特色がある。最近マンガンを使い出してずっと格が落ちたが、近在から得る鉄分のある釉を用いたものは甚だいい。それも特に<ruby><rb>海鼠</rb><rt>なまこ</rt></ruby>釉になったものは見事である。形が純朴で貧しさからくる美しさがある。地方窯の魅力にはしばしばこういう性質がある。この窯で焼く蓋なしの土鍋は非常に形がいい。いつも三重ねにして売る。いずれも底に三つ足がついている。明かに鉄鍋の<ruby><rb>痕跡</rb><rt>こんせき</rt></ruby>と思えるが、面白い事に三つの足は習慣に過ぎなく、底よりも上についているので用をなさない。だが陶工たちは知ってか知らぬか、元通りに必ず三つ足をつける。かかる気持があってのこの窯である。伝統に忠義だからこそかくも素朴な味が出るのである。時代と遠いだけにかえって見る眼には新しい。どの系統の窯か分らぬが、歴史は浅いにしても、その先がまだ遠くあるように思える。<ruby><rb>失透</rb><rt>しっとう</rt></ruby>の海鼠窯を見ると出来たものは朝鮮あたりのものと似通う。格からすると<ruby><rb>成島</rb><rt>なるしま</rt></ruby>や平清水等よりもっと地方色が強い。沢山は作られず近在に散るから、この窯の存在を知る人は土地の人以外には余りない。

## 羽後の楢岡

私たちは更に北に進み、国を羽前から羽後にかえる。この国に人知れず二つの窯が細々と煙を続けている。誰も歴史を<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびらか</rt></ruby>にはしないが、出来る品の種類やら形やら釉からすると、どうしても新庄の窯の兄弟だと思える。いずれが上なのか分らぬがその血縁を疑うことが出来ない。秋田から横手に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がる線路の中頃に<ruby><rb>神宮寺</rb><rt>じんぐうじ</rt></ruby>という小駅がある。そこから南に一里ほど入ると窯場が一つ残されている。残されているといった方が感じがある。この北国の山間に寂しく煙を立てて<ruby><rb>幾許</rb><rt>いくばく</rt></ruby>かの焼物を焼き続けているのは奇蹟である。出来たものは近くの<ruby><rb>大曲</rb><rt>おおまがり</rt></ruby>や<ruby><rb>角館</rb><rt>かくのだて</rt></ruby>に多少入るが多くは山間の部落へ散ってしまう。この窯場が歴史に綴られたことがまだないのも無理はない。

出来るものは荒っぽい。だがそれだけに中から素晴らしい味のが出てくる。形は決して<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せていない。釉がたっぷり乱暴にかかっている。外は多く<ruby><rb>柿釉</rb><rt>かきぐすり</rt></ruby>、内は海鼠釉で色がなかなか美しい。無造作な所が品物に力を与え景色を添える。もとより田舎の勝手道具ばかりであるから小品はない。<ruby><rb>飯鉢</rb><rt>めしばち</rt></ruby>、片口、<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>、壺、大鉢、<ruby><rb>擂鉢</rb><rt>すりばち</rt></ruby>等を作る。出たものを選べば窯毎に一つや二つの名器は必ず得られるであろう。

雪に深い所とて冬は休み、年に五、六回<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>けば仕事に忙しい方である。年の<ruby><rb>半</rb><rt>なかば</rt></ruby>は農事で暮れる。今は六室も有つ窯一個だが、昔は三窯だったというから、相当近在を潤おしたものと思える。歴史は詳でないが凡そ百年ほどだと土地ではいう。詳しくは仙北郡<ruby><rb>南楢岡</rb><rt>みなみならおか</rt></ruby>村である。それ故近在では「楢岡もの」で通る。格からいうと北国の窯ではこの窯のものが一番力強く朝鮮の会寧や明川に負けない立派なものが出来る。

## 羽後の栗沢

楢岡より更に北に上る事数里、同じ仙北郡豊岡村字栗沢に世に<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>れた<ruby><rb>一窯</rb><rt>ひとかま</rt></ruby>がある。二里ほど隔たる角館町に多少荷を運ぶが、しばしば運ぶ程の荷さえもなく近村に消費される。半農半陶で、それも一家族で支えている窯だから品数が少い。それも不景気では年に二度か三度の窯がせいぜいである。これも世に残された小さな窯場の一つである。角館でも訪ねずば品物を見る折もなく窯の名を知る人もない。歴史を問うと近村白岩の窯から転じたものだという。白岩の焼物は遠く廃れたのでその<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>は詳でないが、ともかくこのような窯が残るのは羽後にとっては幸である。作るものは品種も形態も手法も釉薬も楢岡ものとほとんど同一で、慣れないとちょっと見分けにくい。この二つの窯に繋がりのあることは否めない。よく比べると栗沢ものはやや薄手で釉が綺麗である。それだけに一方では力に乏しい。甕の如きも海鼠釉は主に縁に掛けてあるだけで、内も外も大概は柿釉である。楢岡に比して生産が遥か少く今のままでは永続きはむずかしい。だが珍重すべきこういう窯を保護する道はないものか。角館の人たちでも冷遇している。店という店<ruby><rb>他処</rb><rt>よそ</rt></ruby>から来た「<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>」ばかりで、土地の人は地のものを愛さない。当然とも想えるが、時代が過ぎれば取り返しのつかぬ感じを<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めるであろう。そうならないように何とか更生の道を講じたい。北国には窯数が数えるよりないのであるから。

## 陸奥の弘前

私たちは本州の北端についに達した。歴史を振り返れば、<ruby><rb>僻陬</rb><rt>へきすう</rt></ruby>のこの国にもかつてあった窯の名を二、三は数え得るであろう。十数年前までは<ruby><rb>弘前在</rb><rt>ひろさきざい</rt></ruby>に<ruby><rb>悪戸</rb><rt>あくど</rt></ruby>窯があった。色は寒いが、並釉に白の「いっちん」で見事な絵を描いた。この窯が絶えたのは何とも惜しいが、これが最後で窯の煙は津軽から消えたのである。だが幸なことに市内に新しく窯を築いて志を立て起き上った陶工がある。京都の河井の所で長らく勉強している高橋一智君である。土地の産業に深い関心を有つ木村研究所の後援で仕事が始められた。この窯が順調に<ruby><rb>進捗</rb><rt>しんちょく</rt></ruby>すれば<ruby><rb>陸奥</rb><rt>むつ</rt></ruby>の窯藝史に輝かしい一章が加わるであろう。私は同君の<ruby><rb>為人</rb><rt>ひととなり</rt></ruby>をよく知っている。何を目指して努力の数年を送ってきたかを知っている。個人で仕事を民藝の立場に返せる人はめったにない。同君の焼物はそれに適し同君の意志はそれを貫くだろう。先日北海道で試作した幾多のものは充分に未来を保証してくれる。生れ<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>ずるこの窯の前途を私は心から祝福する。仕事場の棚に<ruby><rb>釉掛</rb><rt>くすりかけ</rt></ruby>を終った鉢や皿や茶碗が数多く並べられているのを見た。この頁を書き終らんとする頃、初窯の煙が雪空に黒々と立ち登っていることであろう。（この稿を書いてから数年たった。<ruby><rb>爾来</rb><rt>じらい</rt></ruby>健実な生長を示してくれているのを何より祝福したい）。