## 流行歌手の死

夜中の十二時――電気時計の針は音もなく<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日の最初の時を指すと、社会部長の<ruby><rb>千種</rb><rt>ちぐさ</rt></ruby>十次郎は、最後の原稿を<ruby><rb>一</rb><rt>ひ</rt></ruby>と<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めにして、ポンと統一部の助手の机に<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>りました。

「さア、これでお<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いだ」

千種はガードの熱い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おでん</span>と、中野のアパートの温いベッドと――<ruby><rb>何方</rb><rt>どっち</rt></ruby>にしようかと考えて居りました。まる十二時間の労働で、心も<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>もボロ切れのように疲れ果てて、<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>上は、地球そのものを爆弾にして、口火を点ずるような大事件がもちあがっても、「畜生ッ一行も書いてやるもんか」と言った<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>な<ruby><rb>気持</rb><rt>こころもち</rt></ruby>になるのでした。

「千種さん電話ですよ」

給仕の声と電話の<ruby><rb>鈴</rb><rt>ベル</rt></ruby>の音が、千種十次郎の横着な夢想を破りました。

「<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>だ――」

「早坂さんの声ですよ、――部長さんが居ないかっ――て」

「勇<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、又銀座で飲んでいるんだろう、――帰ったことにして置け」

「駄目ですよ、向うへ千種さんの声が聞えるんですもの」

給仕は送話器を掌で塞いで、<ruby><rb>酸</rb><rt>すっ</rt></ruby>ぱい顔をして見せました。

「仕様が無いなア、――又軍用金の徴発だろう」

千種十次郎は卓上電話のコードを<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>って――こいつは用度掛から厳重に禁止されていることですが、――<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上に足を載せたまま、受話器を取上げました。

「――大将――、大変な事が――」

外交記者中の<ruby><rb>辣腕</rb><rt>らつわん</rt></ruby>、早坂勇の声が、切れ切れに聴えます。

「何を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あわて</span>るんだ、勇、新聞記者に大変な事なんかあるものか、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も往来で借金取りに逢えば別だが」

「そんな馬鹿な事じゃ無い、長島若菜が殺されたんだ」

「何？　あの流行歌手の若菜が！」

千種十次郎は噛んで居たピースを、糊壺の中へ捻じ込むと<ruby><rb>卓</rb><rt>テーブル</rt></ruby>の上の足を床におろして、一生懸命卓上電話に<ruby><rb>噛</rb><rt>かじ</rt></ruby>り付きました。ニュースを呪っていた、ツイ今しがたの心持などは綺麗に忘れて、火のような新聞記者意識が、疲労も倦怠も焼き尽すように燃え上ったのでした。

「自分の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>で、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>で撃たれて死んで居るんだ、――犯罪はたった一時間前に行われたばかり」

「君は今<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>に居るんだ」

「若菜の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>だ、――フラリと警視庁へ行くと、捜査課の連中が、コソコソ繰り出す様子だからタクシーで後を<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けると、代官山の若菜の家じゃないか、表は警官が張番をして通さないから、女中を口説いて風呂場から入れて貰ったんだ、――グランド・ピアノの前に<ruby><rb>支那絨毯</rb><rt>しなじゅうたん</rt></ruby>を血に染めて、仰向に倒れた若菜を見た時は、俺もギョッとしたよ、女が<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>いから、そりゃ凄いぜ」

「馬鹿だなア、――死骸なんかを眺めて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>して居たんじゃあるまいな、――他社の連中は<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うして居る」

「玄関で揉み合って居るよ、幸い中へ潜り込んだのは俺一人だ」

「よしッ、その電話から離れるな、順序を立てて話せ、市内版を下すのを待って居るから」

千種十次郎は統一部の方を振り返って、締切延期を手で合図し<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、ザラ紙の原稿紙を引寄せて、鉛筆を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めました。

「長島若菜は二度目の外遊を企てて、今晩その別れのお茶の会を自分の家で開いたんだ、七時頃から客が集まって、散々騒いだ挙句、十時半頃には大概帰ってしまって、残ったのは、有名なアミで伴奏弾きの藤井薫と、その夫人の<ruby><rb>鳥子</rb><rt>とりこ</rt></ruby>――知っての通りこれは女ガイド上りの社交婦人で、若菜に劣らぬ美人だ、年は二十五六、それから、近頃急テンポで若菜と親しくなった、音楽ファンの岡崎敬之助」

「フム――待ってくれ勇、その三人と若菜の写真を用意させるから――調査部と整理部の連中が帰り支度をしている様子だ――オイ、給仕、誰も居ないか、仕様が無いなア、十二時が過ぎると、気を揃えて消えて無くなる――オイ、調査部へ行って、長島若菜と藤井薫とその夫人の鳥子と、岡崎敬之助の写真を持って来てくれ、――長島若菜のは<ruby><rb>沢山</rb><rt>たくさん</rt></ruby>あるだろうがなるべく笑ってるのが<ruby><rb>良</rb><rt>い</rt></ruby>いな、それから製版部へ電話をかけて、大急ぎの仕事があるから、二三人残るようにそう言ってくれ、――さア、勇、<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いぞ、原稿の後を続けろ」

千種は時間も疲れも超越して、三面六<ruby><rb>臂</rb><rt>ぴ</rt></ruby>振りを発揮しました。

「岡崎は隣室で、カクテルを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて居た<ruby><rb>相</rb><rt>そう</rt></ruby>だ、藤井は若菜とピアノの前に掛けて、ジャズか何んかを連弾して居た相だ、――連弾ピアノの音と、若菜の歌が聴えて居たって言うからこれは嘘じゃ無い」

「それから」

「ピアノの<ruby><rb>最高音</rb><rt>フォルテシモ</rt></ruby>と、柱時計の十一時を打つ音と、消音装置をした<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の音と一緒だった相だよ、若菜と並んでピアノを弾いて居た藤井が、若菜が撃たれたのも知らずに、三四小節先まで一人で弾いて行って、若菜が後ろへ引っくり返ったんで気が付いた相だ」

「フム、それから――」

千種十次郎の鉛筆は、恐ろしいスピードで動きます。早坂勇の電話が、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ文章になるのは、長い間の熟練で、こればかりは、どんな名文家も真似の出来ない芸当です。

「起して見ると<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>が、左背中の<ruby><rb>肩甲骨</rb><rt>けんこうこつ</rt></ruby>の下から、心臓の真ん中を射貫いて居た、――<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>へ隣室の岡崎も、廊下に居た鳥子も、女中や弟子達も駆け付けたんだ」

「兇器は？」

「ピアノから一間ばかり後ろ、入口の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>と死骸の間に落ちて居た。支那絨毯の上へ――」

「フム」

「幸い岡崎敬之助はアマチュアだが探偵小説も書くので、死骸にも<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>にも手を触れさせず、直ぐ所轄署へ電話をかけた」

「医者は呼ばなかったのか」

「それから医者を呼んだが、心臓を射貫かれて居るから、助かりっこは無い」

「電話は警察が先で、医者が後だね、確かに」

千種十次郎はフトこの矛盾に気が付いたのです。

「間違いは無い――」

「取調べの模様は？」

「大きな声じゃ言えないよ、帰って書こう」

「いや、帰っちゃいけない、夜明けまで頑張れ」

「電話を警官へ明け渡さなきゃならない、――じゃ頼むぜ、頑張るだけ頑張って見るから、それから若菜の先の主人――音響学者の長島長太郎博士へ人をやったら、何んか変った話が取れるかも知れない――今鳥子が調べられて居るよ」

早坂勇の声は途切れ途切れで、恐ろしく面喰って居りました、多分後ろから警官に電話の明け渡しをせき立てられて居るのでしょう。

「勇、おい、早坂ッ、切っちゃいけない、おい、勇！」

が、どんなに騒いでも電話はそれっ切り、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>から逆に掛けても、お話中が続くばかりです。

「畜生ッ、――もう三分話せば、朝刊の早版へ三段以上は書けたのに」

千種十次郎がガチャリと受話器を<ruby><rb>投</rb><rt>ほう</rt></ruby>ると、まだ銀座あたりを泳ぎ廻って居た<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>局長の<ruby><rb>織戸</rb><rt>おりど</rt></ruby>友吉が、市内版最後の大組を見る為にフラリと編輯局を覗きました。

「あ、織戸さん、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby><ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いところだ、長島若菜が殺されましたよ」

「えッ、あの<ruby><rb>甘美</rb><rt>スイート</rt></ruby>な流行歌を唄う、悩ましいレコード歌手かい」

「早坂が電話で送っただけは書けたが、これじゃ朝刊が淋しい、警視庁へもう一人、所轄署へ一人、それから代官山の現場へ写真班と記者を二人ずつやって下さい、楽壇方面――大御所の天野さんと、レコード会社の文芸部主任と、<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby>辺は電話で間に合せるようにしましょう」

「有難う、それで大体<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かろう、ところで長島若菜には長島博士という夫があった筈だが――」

「二年も前に別れたんでしょう、あの甘酸ぱい女が学者の女房で納まって居るものですか」

「いや、別居はして居るが、離縁にはなっていない筈だ、誰かやり<ruby><rb>度</rb><rt>た</rt></ruby>いが、――人手はもう一杯か、千種君」

「勇もそれを気にしていましたよ、――僕が行って来ましょう」

「君が？」

千種はもう社会部長の地位も忘れて、外套と帽子を取って居りました。はやり切った猟犬のような心理です。

## 巨大な音響殺人機

理学博士長島長太郎は、別居している妻の若菜とは、全く異った世界に住むような人種でした。若菜が世にも悩ましく美しく――これは化粧効果を形容した言葉で、若菜の顔の生理的評価ではありません――やるせなき様子に対して、長太郎博士は、言いようも無く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むくつけ</span>き、<ruby><rb>今様浅黄裏</rb><rt>いまようあさぎうら</rt></ruby>の紳士だったのです。

同棲五年の後二人は、あまりにも、違い過ぎた人生観と、生活様式の調和を見出し兼ねて、二年ばかり前から、公然と別居しました。その提議は若菜の方から出たには相違ありませんが、新聞に現われたところでは、お互の学問と芸術を<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>かす為に、合意の別居を試み、二年か三年の後、離婚か同棲か、永久に別れるか、覆水を盆に返すか、<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>かに決定するという約束だったのです。

長太郎博士は二丁ばかり離れた小高い丘の上の研究室に籠って、それっ切り顔を見せませんでした。たった一人の婆やを使って、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から、世界を驚かすような大発明を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げて出る<ruby><rb>迄</rb><rt>まで</rt></ruby>、人に顔を見せないだろうと言われて居たのです。いや少くとも、長島長太郎自身は、絶大な自信を持ってそう言って居たのでした。

長島博士の<ruby><rb>隠遁</rb><rt>いんとん</rt></ruby>的な生活に比べて、若菜の生活は、益々派手に浮ついて行きました、レコード会社から入る年額数十万円という金は、女一人の生活を<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な奔放な、常軌も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>も踏み破らせるに充分だったのです。

伴奏のピアノを弾いている藤井薫は、有名な鳥子夫人があるにも拘らず、若菜のアミであり、仕事の上の――芸術上のとは言えませんが、<ruby><rb>兎</rb><rt>と</rt></ruby>に<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>――協同者であり、ちょいと良い男であり、そしてかなり不道徳な印象を与える男でもありました。岡崎敬之助はその友達で、少し三枚目畠の男ですが、案外したたかな魂の持主で、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にやら若菜を面白がらせる術を体得し、藤井薫の地位を少しずつ侵略して居たのです。

こんな社会の消息なら、誰よりもよく<ruby><rb>諳</rb><rt>そら</rt></ruby>んじて居る千種十次郎は、いろんな事情を考え乍ら、乗ったタクシーの尻を引っ<ruby><rb>叩</rb><rt>ぱた</rt></ruby>くような心持で、代官山の長島博士の門口へ着きました。

木立の蔭、研究室と<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しきあたりには、赤々と<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いて何やら人の気配もします。

もう一時を過ぎたでしょう。

千種十次郎は、妙な期待に軽い興奮を覚え乍ら、二度、三度、<ruby><rb>呼鈴</rb><rt>よびりん</rt></ruby>を押しました。

玄関の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>は<ruby><rb>明</rb><rt>あ</rt></ruby>かずに、

「どなた？」

変なところから声を掛けた者があります。振り返ると、お勝手の窓が開いて、六十恰好の婆さんが、臆病そうな顔を出して居るではありませんか。

「関東新報の者ですがネ、先生に<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>お目にかかり度いと、思いますが――」

千種は延び上りました。

「もう一時過ぎですが――明日の事にして下さいませんか、先生もお休みになったかも知れません」

「いや、まだ起きてますよ、あの通り<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、――何んか変な音がして居るじゃありませんか、大変な事が起ったんですから、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>でも逢い度いと申上げて下さい」

「――――」

婆やさんは渋りました。門灯の光で、千種の<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>には怪しいところは無いと見た様子ですが。<ruby><rb>何分</rb><rt>なにぶん</rt></ruby>にも遅過ぎます。

「警察の方が見えましたか」

「いえ」

婆やさんは胡麻塩の頭を振り乍らも、そう言われると、事件の重大性に脅えた様子です。

「何んだ、婆や、――客が来たのか、少し遅いな、何？　新聞記者？　なら逢ってやろう」

長島博士は婆やに指図して玄関の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けさせました。

「先生、遅くなってすみませんが、少し重大な事が起ったんです」

千種は名刺を出しましたが、長島博士はそれをチラリと見ただけ、受取ろうともしません。学者らしい無頓着さです。

「<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ入りたまえ」

導かれたのは、裏の方に突出した研究室、広さは三間四方位あるでしょう。真ん中に明るい<ruby><rb>飾電灯</rb><rt>シャンデリヤ</rt></ruby>が下って、その上幾つかのスタンドまで<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>け、部屋の中の物の影も作らせないほど明るく、得体も知れない巨大な器械が、その部屋の面積の大部分を占めて、頑張って居ります。

「――――」

千種十次郎も、何んとなく恐怖とも、不安とも付かぬものを感じました。部屋の中の空気がラジオの真空管の中のように、一種の微光を帯びて震動し、馴れない千種の、不安と焦躁をかき立てるのです。

茶卓を挟んで腰をおろした、主人の長島博士も変って居ります。この薄寒い真夜中に、白いメリヤスらしいシャツ一枚、<ruby><rb>山羊</rb><rt>やぎ</rt></ruby>髭の生えたミイラのような黒い顔と、こればかりは底の知れない、深い眼を<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ向けて、催眠術使のように、ジッと千種十次郎の顔を見るのです。

「この器械は？　先生」

あまりの変った情景に押されるともなく、千種十次郎はツイこんな無駄口を訊くのでした。

「音響学の方から割出した、大変な器械だよ」

「何をするんです」

「君、テレミンというのを知ってるだろう、日本へも来たことがある。電気――二つの高周波振動電流を重ねて、思うままの音を出させる楽器だ、この原理を応用した電気振動にする楽器は、過去十年間に世界で二三十種発明されたよ、テレミン、ディナフォン、マルトウノ、ラジオフォネット、オンディオム、――皆同じようなものだ」

「あの、先生」

千種はこの講義を止めようとしましたが、学者らしい熱心と、気違い染みた調子で説いて行く、長島博士の雄弁の腰を折りようがありません。痩せて黒ずんだ博士の顔には、少し病的に見える興奮が燃えて、時間も相手も構わず<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>り続けます。

「僕の発明したのは、この機械自体が一つの大管弦楽団の代りになるのだ、ほんの簡単な操作で、ベートーヴェンの大シンフォニーでも、バッハの大ミサでも何んでも聴かれるのだよ、陪音の操作が微妙だから、――人間と同じように歌わせることだけは<ruby><rb>六</rb><rt>む</rt></ruby>つかしいが、器楽が自由自在に演奏出来るのだから、追々と歌や言葉だって出来ない筈はない、人間の歌や言葉を器械的に作れないと思うのは旧時代の迷信さ、現に蓄音機のレコードの溝や、トーキーのフィルムは立派に歌や言葉の器械的な記録を果しているではないか」

「――――」

「メカニズムが音楽界を支配する時代は<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>来る、実演よりよく演奏する機械や、人間よりよく歌う機械は、明日にも発明されるのだ、この機械なども、その一つの例さ、――気の毒乍ら、歌い手――わけても低俗な聴衆を狙う流行歌手などは、近いうちに飯の食い上げさ、そんな連中の職業は、この俺が――長島長太郎が皆んな奪って見せる、ハッハッ、ハッハッ」

<ruby><rb>洞</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろな笑いが、巨大な機械の外に何んにもない研究室の四壁に<ruby><rb>木精</rb><rt>こだま</rt></ruby>して、千種十次郎をゾッとさせました。博士は自分を裏切った流行歌手若菜に対する<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>を報いる為に、こんな飛んでもない機械の発明に没頭したのでしょう。

「先生、それより、大変な事が――」

「そうだ、大変な事がある、この機械で君、人が殺せるのだよ、人が――」

「えッ」

「驚くだろう、――殺人光線の発見は、今世界の科学者達の目ざしている一番大きなゴールだ、が、人を殺す光線が、そんなに簡単に発見されるわけは無い、僕はその前に、殺人音響を発見したのだ」

「――――」

「尤も、それはまだ試して見たわけでは無いが、人間の耳では聴くことの出来ない、或る振動数の音響を、特定の方向に送るのだ、――六つかしいと言うのか、君は。エーテルの振動によって伝わる光線さえ、反射鏡を利用して、特定の場所へ送れるのに、空気の振動で伝わる音響を、或程度まで特定の場所へ送れないと言う理窟はあるまい」

「――――」

「一九〇九年にバーソンズはオウゼトフォンというものを作った。これは圧搾空気と、金属弁を利用した音響学的な装置で、或特定の楽器の音を、選択協和して、音色を美しく、音響を絶大にするのだ。これを電磁気的に扱って、遥か遠方から送られた、人間の可聴範囲を遥かに越えた音響を、絶大猛烈にして作用させるのだ、その人が心臓が弱ければ心臓麻痺を起す、神経が弱ければ気違いになる」

「そんな事が出来るでしょうか」

「出来る、確かに出来る、昨夜も今晩も、私は宵から夜中までこの音響を送る試験をしたが、――」

博士は顔を挙げて、一方だけ<ruby><rb>開</rb><rt>あか</rt></ruby>った窓の<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>、真っ黒な夜の空を眺めやりました。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>には、二丁程距てて、この<ruby><rb>篤学</rb><rt>とくがく</rt></ruby>の博士を捨てた、流行歌手若菜が、乱倫極まる生活を営んで居る筈だったのです。

「先生、――奥さん――若菜さんが殺されましたよ」

「何？」

「私はそれをお知らせに来たのです」

千種十次郎は到頭言う<ruby><rb>可</rb><rt>べ</rt></ruby>きことを言って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>いました。

「本当か、それは？　<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>頃だ」

長島博士はいきなり立上ると、窓枠に手を掛けて、遥か、若菜の家の方を見据えて居ります。

「今から二時間ほど前、丁度十一時だった相です」

「あの時だ、俺はこの機械の試験を十時から始めた、十一時は丁度性能を一パイに働かせた時だ、それから少しずつ弱くした」

「先生」

「見るが<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>い、俺に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>いた女は、到頭殺されてしまった、――職業を奪われる前に、命を奪われてしまった、――」

長島博士は千種十次郎の肩へ手を掛けて、<ruby><rb>大</rb><rt>おおい</rt></ruby>に笑おうとした様子でした。が、その笑いは喉にコビリ付いて、泣くような、<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>ぶような、異様な声に変って行くのです。

巨大な機械は、相変らず、小さいが強大な唸りを続けて居ります。

## 博士の自首

「勇、御苦労だったな、編輯局長は大喜びだぞ、社長から電話でうんと褒めて来た相だよ、他の新聞は二三十行しか書けなかったのを、うちの新聞は半<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>以上書いたからなア」

「その代りヒドイ目に逢ったぜ、ろくに寝ないのは我慢するとして、あの家を出て来ると、他社の連中の包囲攻撃だ、袋叩にされなかったのは見付ものさ」

千種十次郎と早坂勇は、<ruby><rb>翌</rb><rt>あく</rt></ruby>る日の午前九時には、もう関東新報の編輯局で顔を合せて居たのでした。

「まあ、愚痴を言うな、特別賞与ものだよ、今度と言う今度は、洋服屋へ三年越の月賦が払えるだろう」

「特賞を月賦に廻す奴があるものか、月賦は三年遅れても月賦さ」

「呆れた野郎だ、ところで、材料は？」

「お願いだから今日の夕刊は俺に一<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>書かしてくれ」

「大きく出やがったな」

「もう一つ特賞を貰って、家を建てる」

「馬鹿だなア」

「アパートから追い立てを食ってるんだ」

「ところで、鳥子が自白したのか」

千種十次郎は<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く話を<ruby><rb>線路</rb><rt>レール</rt></ruby>へ戻しました。

「知らぬ存ぜぬ――さ、廊下に立って居たには相違ないが、それは夫と若菜が連弾して居るのが気になったからで、殺す積りは毛頭無かったと言うんだ」

「<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>は誰のだ」

「若菜の持物だ、近頃収入が多いので、街の紳士やギャング達に悩まされ、大骨折で許可願が通って、この秋買ったんだ相だ。尤も夏鎌倉で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さらわ</span>れてうんと絞られた事があるんで其筋でも携帯を許可したらしい、人気歌手も楽じゃないね」

「<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>に置いてあったんだ」

「部屋の隅の三角戸棚の上さ、象牙細工の豪華な箱に入って居たんだ相だ、その場所は女中も、藤井も、岡崎も知って居る」

「入口から手を伸して、その<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>が取れるかい」

「取れない事はあるまいが、少し六づかしいな」

「藤井が気が付いた時、入口の<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>は開いて居たのか、閉って居たのか」

「それは解らない、何しろ面喰って居たらしいから」

「指紋は？」

「<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>には不明瞭な若菜の指紋があるだけで、手袋をはめるか、<ruby><rb>半巾</rb><rt>はんけち</rt></ruby>で握って引金を引けば、指紋は残る筈は無い、藤井と若菜と一緒にピアノを弾いて居たから、そんな細工をする隙もあるまいが、鳥子もインテリで探偵小説位は読むから、そんな事には気が廻るだろう」

「角度は、――<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>の弾の来た方向は？」

「三角戸棚の方だ、その点で鳥子は救われる、廊下から<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けて撃ったのなら、<ruby><rb>弾丸</rb><rt>たま</rt></ruby>はもう少し右の方へ行く筈だが、ぐっと左から――つまり連弾して居た藤井薫の方から斜に射込まれている」

「藤井薫の方からだね」

「藤井は疑の外に居るよ、連弾し乍ら相手を撃つのは六づかしいし、それに、手袋や<ruby><rb>手巾</rb><rt>はんけち</rt></ruby>などを用意し乍ら、ピアノは弾けない」

「――――」

「もう一つ、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>と時計とピアノ<ruby><rb>最強音</rb><rt>フォルテシモ</rt></ruby>と一緒に鳴ってから、興に乗って藤井は三四小節弾き進んで居る」

二人の話は途切れました、夕刊の記事を、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>う効果的に作ろうかと考えて居たのです。

「ところで、面白いことがあるんだ、勇」

今度は千種の番です。

「何んだ」

「長島博士は今朝自首して出たよ」

「ヘエー」

「若菜を殺したのは、この長島長太郎に相違ない――と」

「気が違ったのか」

「若菜は<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>で撃たれて<ruby><rb>殺</rb><rt>し</rt></ruby>んだと言うのに、長島博士は、音波で殺したと言い張るのだ」

「オンパ？」

「音の波だぞ、――博士は音響学上の大発見をして、音楽家の職業を皆んな奪うと言う大変な機械を<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えて居るんだよ、その機械が又同時に、殺人音波を遠距離に送れるというのだ、若菜の住んでいる家は、元々博士の持家で、あの部屋の窓には、共鳴装置を施こしてあり、三角戸棚の<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>が発射されたとすれば、それは、博士の研究室から送られた一種の音響が<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の特別な装置で拡大強化され、神経の弱い若菜が、発作的に気が<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>れて<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>自殺をしたに相違ないと云うのだ、<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたろう」

「それは正気の沙汰かい」

「警視庁で精神鑑定をしたが、少し学者らしい<ruby><rb>依怙地</rb><rt>えこじ</rt></ruby>なところはあるが、大した異状はないと言うことだ」

「で、留置でもしたのかい」

「飛んでもない、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>十時から一時まで、研究室を一歩も出ない博士に、若菜を殺せる筈は無いじゃないか、アリバイは婆やと鳴り続ける機械が証明したよ、博士は若菜を怨んで居たに相違ないが、そんな事で容疑者にするわけには行くまい」

「だが、新聞種には面白いな」

「その新聞に出したものか<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うか考えて居るよ、長い間若菜を憎み通していたから、発作的に気が変になって、身に覚の無い事を名乗って出たんじゃあるまいか、そうだとしたら、気の毒だね」

「博士は本当に<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>研究室を出なかったのかい」

「それは間違いの無いことだ、音響殺人が不可能なよりも、博士が研究室を<ruby><rb>脱出</rb><rt>ぬけだ</rt></ruby>す方が不可能だ」

研究室内の明るさ、窓の高さ、絶えず操作を要する機械――等のことを考えると、あの部屋を脱出すことは、どう考えてもあり得ないことです。

「夕刊が済んだら、もう一度行って見よう」

「そうしようか」

二人は長大な原稿に取りかかりました。

## 岡崎と鳥子の言い分

代官山の若菜の家には、遠い親類や、楽壇の知友達が入れ代わり立ち代り来ましたが、日頃良い付き合をしていなかったのと、「変死」ということが頭に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こびり</span>付いて居るので、<ruby><rb>皆</rb><rt>み</rt></ruby>んな言い合せたように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さっさ</span>と引揚げ、結局、掛り合いになった藤井薫と、岡崎敬之助と、レコード会社の二三人が、何から何まで世話をしなければなりませんでした。

千種十次郎と早坂勇は、大勢の新聞記者達と一緒に、手伝うような、邪魔をするような、不得要領な動き方をして、鵜の目鷹の目で「種」をあさって居りました。

「早坂さん、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>お耳を」

<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>からの籠城ですっかり、<ruby><rb>顔馴染</rb><rt>かおなじみ</rt></ruby>になった岡崎敬之助は早坂勇の肩をそっと叩きます。

一緒に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、二階の小部屋――置き忘れたような長四畳へ行くと、

「そんな事は警察の方には言えませんがね、私はね、あの<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>は、ピアノを弾き乍らでも撃てると思うが、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うでしょう。ピアニストは、右手と左手に、全く異ったことをさせることも出来るでしょう」

「――――」

岡崎敬之助の言葉の意味は明かでした。早坂勇は思わず、顔を挙げて非難するともなくその反らした眼を追います。

「連弾を左手だけに預けて、右手に<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て用意した<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>に包んだままで取出し、自分の右に並んだ人の斜後ろから撃つのは容易じゃありませんか、丁度時計が十一時打つ時でもピアノの<ruby><rb>最高音</rb><rt>フォルテシモ</rt></ruby>と一緒にでも自由に撃てる――」

「そんなに近くから発射すれば、死骸に焼痕が残りますよ」

「三尺位は離せると思うが」

「それでも着物位は焦げるでしょう、あの通り肌の隠れるだけの薄い洋装だったし」

早坂勇は反感を抗議と一緒にさらけ出しました。

「が、<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>で<ruby><rb>寛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>く銃口を包んで撃てば、それは緩和出来ると思う、その<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>さえ隠す時間があれば――」

「焼け焦のある<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンケチ</rt></ruby>などは、持って居なかったでしょう、――あの通り直ぐ警官が来て、部屋も<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>も<ruby><rb>検</rb><rt>しら</rt></ruby>べたが――」

「兎に角、近頃若菜が僕と親しくなるので、ひどく神経を立てて居た者のあることを記憶して下さい、――僕は若菜の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を討ち度いという外に何んの<ruby><rb>巧</rb><rt>たくら</rt></ruby>みも無いんだから」

「――――」

早坂勇は爪を噛みました、警官へは言わずに、新聞記者の自分に言う真意が判らなかったのです。

丁度その時、疑が晴れて帰された鳥子も、夫の藤井薫と一緒に世間体だけの手伝いに来て居りましたが、顔見知りの千種十次郎に逢うと、

「ちょいと、相談に乗って下さいな、千種さん」

「何んだい、鳥子さん」

千種は誘わるるまま、裏庭に立って居りました。生垣と建物の蔭で、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>では誰にも聴かれ相にはありません。

「千種さん、私は本当に口惜しいワ――こんな疑まで受けて」

鳥子はポロポロ涙を流して居りました。二十五六の豊満な肢体から、憤怒と魅力が一ぺんに放散するような女で、狭い物の隅に押し付けられた千種は、何んか息苦しいような圧迫を感じます。

「私は若菜を怨んで居たには違いないけれど、あんな下等な女を殺して、私の首へ縄の付くような馬鹿なことはしない」

「――――」

若菜が下等か、鳥子が上等か、それは千種にも判りませんが、兎に角、負けず劣らずコケティシュで、国際婦人と歌い手の違いはあっても、一種の美しさと、人気とには、さしたる違いの無い二人だったのです。

「警察の方へ言ったけれど、信用して下さらない、――若菜を殺したのは、確かに岡崎さんですよ」

「そんな事が――」

「千種さん、あんたもそう思うでしょう。でも隣の部屋でカクテルを<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>えて居たと言う岡崎さんが、あの騒で駆け付けた時何んにも持って居なかったじゃありませんか、隣の部屋にだって、カクテルどころか、お酒の壜はあっても、栓も抜いていなかった筈です」

「でも、隣の部屋からでは、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を撃てようは無い。傷口とはまるで反対の方角だ」

と千種十次郎。

「だから甘い――と言うじゃありませんか、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>は三角棚の傍の、窓から撃ったんですよ、あの三角棚と窓はスレスレじゃありませんか」

「すると犯人は外から手を出して――」

「え、その通りよ、千種さんはさすがに頭が良いワ、窓の外から手を入れて象牙の箱の<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を取出し、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から狙って撃ったに違いありません」

「それを鳥子は見たと言うのかえ」

「見たも同様に」

鳥子は少し<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しどろもどろ</span>になりましたが、頭の中で証拠を組み立てようとする必死の眼が焼き付くように、千種に迫ります。

「それも面白い考ようだが出来ない事が二つある」

「――――」

「一つは岡崎さんが隣の部屋から窓の外へ廻るには、鳥子さんの立っている廊下か、女中達の居るお勝手を通らなければならない」

「窓からだって飛降りられるでしょう」

「窓から飛降りて庭をグルリと廻って人を殺して元の窓から帰ったんでは、あの騒に駆け付けるのが遅くなる筈だ――ところが、皆んな一緒に駆け付けた――と女中達も、鳥子さん自身も証言している」

「――――」

「それから、窓は相当に高いから、背の低い岡崎さんでは、三角棚の上から<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を取ることも、狙いを定めることも、六つかしい」

「踏台をしたら？」

「洋館で外はあんなに綺麗に取片付けられている。あの辺には踏み台になるものは一つも無い」

千種はほんの一時間ばかりの間に、鳥子の疑を突き崩すだけの材料を集めて居たのです。

「まア、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>は岡崎さんを弁護なさる積り？」

「そんな事は無い」

「<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいワ、<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>の隙間から、窓のところに、白いものがチラリと見えたんですもの」

それが多分、鳥子の本音だったでしょう。

「本当かそれは」

千種十次郎は急に熱心になりました。

「本当ですとも、私は眼が良いのが自慢なんです」

夫と若菜の連弾を覗いた鳥子、それ位のことを本当に見たのかも知れません。

「よし、それでは考え直そう、踏台さえ見付かれば<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>のものだ、石でも、木でも」

「――――」

「窓は本当に開いて居たんだろうな」

と千種十次郎。

「若菜さんは熱がりで、ピアノや歌の稽古の時は、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも窓を開けますよ」

千種十次郎の顔は次第に真剣になります、<ruby><rb>早刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>早坂勇から聴いた、岡崎の言うのが本当か、それとも鳥子の方が本当か、もう一度スタートを踏み直して考える必要があります。

## スタートの踏直し

「勇、やり直しだ、少し手伝ってくれ」

暮れかかる夕陽を惜むように、千種十次郎は、新聞記者の控室から、早坂勇を誘い出しました。

「それは<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>いが、――藤井薫が引かれて行ったぜ」

早坂勇はキョトンとして居ります。

「本当かい、それは」

「岡崎敬之助が告発したのさ、――俺に言った通りの事を言えば、警官は一応調べなければなるまい」

「仕様の無い奴だな」

「世間では若菜の愛が藤井から岡崎へ移りかけて居たように言うが、どうも、それは岡崎のデマらしいよ、藤井はあの通りの美男で、その上伴奏<ruby><rb>弾</rb><rt>ひき</rt></ruby>という武器を持って居るのに、岡崎と来た日にゃ、どう見ても三枚目だ、その上金の無いパトロンだ」

「シッ、本人が来る」

「桑原桑原」

二人は警戒の警官に挨拶して、犯行のあった部屋へ入れて貰いました。何んにも手を触れさえしなければ、という、厳重な条件付で許されたことは言う迄もありません。

「俺は<ruby><rb>矢張</rb><rt>やは</rt></ruby>り<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>が臭いと思う。この窓へ踏台でもして――いや縄<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>の方が便利だ、兎に角、そんなものを掛けて上半身を出せば、三角戸棚から<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>も取れるし、狙い撃つことも簡単だ。その<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を外して<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の間に廊下へ飛込めば、鳥子の後ろからこの部屋へ入ることも不可能ではない、<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>が鳴ってからピアノは三四小節弾かれたというし、藤井が若菜を抱き起す隙も計算される」

「すると」

千種十次郎の疑は真っ直ぐに岡崎敬之助へ向うのを、早坂勇も呑込みました。

「ね、千種さん」

後ろから覗いたのは鳥子でした。夫の藤井薫が<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>引かれて行ったのを見ると、矢も楯もたまらなかったでしょう。

「鳥子さん、うまく行けば藤井さんを救えるかも知れない、――オペラ・グラスがあったら見付けて来て下さい」

「え」

鳥子は出て行きましたが、やがて、若菜の愛用だったらしい、象牙に金の柄の付いた、豪勢なオペラグラスを持って来ました。

「<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>窓が、長島博士の研究室から見えるか<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うかだ、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し博士がその時刻に窓から首でも出して居れば――これはまア、万一の<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>だが犯人の頭位は見えた筈だ、――行って見ようか、勇」

「<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>へ？」

「長島博士の研究室へだ、――夫人が死んでも、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ来ようともしない博士の胸には、癒すことの出来ない大きな怒りと悲しみがある、行って慰めて上げても<ruby><rb>宜</rb><rt>い</rt></ruby>い」

千種十次郎と早坂勇は、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から一二丁先、小高い丘の上にある博士の研究室に向いました。

小春日の妙に温かい日です。

## ピアノの鏡板に映った顔

「御研究中で、<ruby><rb>御誰</rb><rt>どなた</rt></ruby>にもお目に掛りませんが」

婆やの言うのを押し返して、

「奥さんを殺した犯人が捕まりました、それを申上げに参ったんだと伝えて下さい」

千種のこの駈引は見事に成功して、間もなく二人は、前の晩の研究室に通されました。

まだ昼で明るい電灯はありませんが、不気味に振動する巨大な機械の傍に、小卓を前にして、何やら考えている博士の顔は深沈として居ります。

「又来たのか」

四十五六というところが精々でしょうか、<ruby><rb>鏤骨</rb><rt>るこつ</rt></ruby>の労苦と研究に痛められて、五十より若くは見えません。静かに<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>う挙げた顔には、言いようも無く淋しい悲しみが冬の水に映った雪雲のように淀んでいるのでした。

「先生、藤井薫が縛られて行きました」

「そうか」

何んと言う気の無い声でしょう。

「<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>のお宅へはいらっしゃいませんか、先生」

「行き度くない、――私は研究者だ、あんな事に<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わされ度くない」

「奥さんの告別式にも」

「――――」

二年前に自分を捨てて、男から男へと、放縦な生活を続けて行った若菜、死んだというだけで、踏み付けられた夫の胸から、<ruby><rb>忿怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>も怨恨も消え去って<ruby><rb>了</rb><rt>しま</rt></ruby>うものでしょうか。博士は黙って眉を垂れました。

「<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>から、あのお宅の窓はよく見えますね」

千種は話頭を転じました。

「困ったことによく見えたよ」

「<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>眺めさして下さい」

「――――」

千種はオペラ・グラスを眼に当てて、窓から熱心に向うを見やります。

「あの晩、十一時頃、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>からお顔を出したら、何んか見えた筈ですね」

「――――」

「此研究室には入口がたった一つですね」

「そうだよ」

「玄関の鍵は」

「婆やが持っている」

「すると、夜外へ出るには、此窓から飛降りるより外に道はありませんね」

「窓は高いよ――、それに私は運動家じゃない」

博士はフト釣られるように斯んな事を言って、我にもあらずカラカラと笑いました。<ruby><rb>洞</rb><rt>うつ</rt></ruby>ろな、淋しい声です。

「でも、この窓枠には、縄<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>の<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を掛けた跡がありますよ博士」

「――――」

「八寸ばかりの距離で、二つの爪の跡これは、間違いもなく縄<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>の跡だ、――向うの家の三角戸棚の側の窓にも、あれと同じ跡があった」

「えッ」

驚いたのは博士ばかりではありません、早坂勇さえも愕然として、窓枠の方へ飛付いたほどです。

「それはどう言う意味だ、千種君とか言ったね、君は？」

「何んでもありません。窓枠の傷跡は、ナイフでも付けられます。人を陥れるには、この上もない手段ではありませんか」

「――――」

「縄<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>さえ見付からなければ、これは証拠になりません、でも」

「――――」

「クリーム色のペンキの付いた手袋が見付かっても、立派な証拠になりますね」

「それは何んの意味だ」

博士は<ruby><rb>吃</rb><rt>きっ</rt></ruby>となりました。

「それに、この機械は<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から見て居ると、何んの調節もしなくとも、自動的にいろいろ音を変えますね――婆やさんが機械の音が規則的に変るのを知らないなら、博士が<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に付いて操作して居ると思い込んだのも無理もありません――誰も知らない機械だけに、立派なアリバイを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えてくれますね」

「――――」

「<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>をうんと明るくして居るのも、逆に効果をあげますね、こんな明るい部屋の窓から、人間が忍び出ようとは誰も思わない、カーテンを一枚下しさえすれば、其窓でどんな事でも出来るんですから――」

「君は、私が若菜を殺したと言う積りか」

博士は立上って居りました。カッと大きい眼を見開くと<ruby><rb>引釣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>った凄い顔になります。

「飛んでもない、――ただ、これだけの事は言い切れると思います。奥さんとピアノを連弾して居る藤井は、ピアノの前面の黒漆塗の鏡板に映る、犯人の顔を見たのです。――窓から<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を撃って引っ込むところを見たのです。――でも、その藤井は、顔の持主には、相済まぬ事をして居たので、警官にも誰にも言い兼ねて居ました。が、念の為、私へだけ、そっと漏したのです」

「――――」

恐ろしい沈黙、それを載せて、大気をゆるがすように巨大な機械は唸ります。

「自分が万一疑いをかけられて、言い解く道が無くなれば、背に腹は代えられぬから、ピアノの鏡板に映った顔、あの<ruby><rb>拳銃</rb><rt>ピストル</rt></ruby>を撃った顔は誰であったか、警官の前で言わなければなるまいと――」

「――――」

「その藤井が重大な容疑者として縛られて行きました。今頃はもう、真犯人の名を打ち明けて居るかも知れません」

「もうよい、解った、――俺はこれから警察へ行って、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>此窓から見た事を皆んな話そう、この窓へ鈎跡のような傷をつけたのが誰か、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>十一時頃、あの向うの家に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じ登ったのは誰か、――俺は精巧な望遠鏡で、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でもあの窓を見張って居た――」

「博士」

「着換して来る、<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく待ってくれ」

博士は静かに、本当に静かに研究室の外へ出て行きました。

「さア、解らない、犯人は誰だ、博士か、岡崎か、それとも――」

早坂勇の言うのを叩き消すように、

「あッ、博士は婆やを外へ出した。危ないッ」

「何をするのだ」

「外へ出るんだ」

千種は早坂勇の手を引いて、窓から転がるように外へ飛降りました。

同時に、

ジーンと全身に響く怪音、振り返ると研究室は、カーッと白光に充たされて、床も羽目も、<ruby><rb>卓子</rb><rt>テーブル</rt></ruby>も、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>も、いや、あの怪奇な機械さえも、<ruby><rb>木片</rb><rt>こっぱ</rt></ruby>細工のようにメラメラと燃えて居るではありませんか。

「あッ」

千種十次郎と早坂勇は、五六間<ruby><rb>飛退</rb><rt>とびの</rt></ruby>きました。炎の中には忿怒の<ruby><rb>塑像</rb><rt>そぞう</rt></ruby>のような博士が、全身焼け<ruby><rb>爛</rb><rt>ただ</rt></ruby>れ乍ら、カッと<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>を睨んで居るのです。

## 新聞記者の悲哀

千種十次郎はそれっきり三日社を休んでしまいました。

「<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うした、見舞に行こうかと思って居たが――」

その肩を叩いた早坂勇、この外交記者と社会部長の仲は、腕の人と頭の人との違いはありますが、随分長い間の相棒だったのです。

「俺はもう新聞記者がいやになったよ」

「何を発心したんだ」

「研究室の一件さ」

「俺には解らない事ばかりだ、其筋でも、若菜殺しを博士と覚った様子で、藤井薫を釈放した相だが――」

「博士に違いあるまい、――俺は最初からそんな気がしたよ。音波の殺人なんて、飛んでもない事を言って<ruby><rb>烟</rb><rt>けむ</rt></ruby>に巻いたのは一種のカモフラージュさ、自首したところなどは、実に頭が良い、誰でも、博士は少し気が変になったと思うよ、アリバイはうんと用意したし、あんなに物が運ぶと、ツイ犯人の自信が強烈になる」

千種十次郎は説き進みます。

「でもあんなに沢山博士に不利な証拠があったじゃないか」

と早坂勇、

「皆んな嘘だよ、――若菜の殺された家の窓枠は古くて木が荒れて居るから、縄<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>の<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>の跡などは見えなかったのさ、でも、踏台を使っては始末が悪いから縄<ruby><rb>梯子</rb><rt>ばしご</rt></ruby>に相違ないと思って、博士の研究室の窓へ行って見ると、<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>にはちゃんと跡があるじゃないか、博士の研究室の窓枠は新しくペンキも塗り立てだ」

「――――」

「驚いたろう」

「驚くよ、でもピアノの鏡板に映った顔は？」

「それも嘘だ、<ruby><rb>竪型</rb><rt>アプライト</rt></ruby>ピアノなら後ろの窓の首が鏡板に映って弾いている者に見えるが、<ruby><rb>横台</rb><rt>グランド</rt></ruby>ピアノでは映らないよ、それに譜面台にはジャズの譜がうんと載って居たろう」

「ひどい事を言ったものだね、君は」

早坂勇も呆れ返りました。

「だから俺は新聞記者を止そうと言ったのさ、博士が犯人だという事が判ると、何んでも<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>んでも白状させて、新聞の特種にのせ度かったんだ、――博士は生きて居る気は無かったかも知れないが、死期を早めたのは確かに俺のせいだよ、それに殺人音波は嘘だが、あの大管弦楽団の代用する機械は素晴らしいものだったに相違ない、それを灰にしてしまったのは惜しいことだ」

「――――」

「今から考えて見ると、博士よりも悪いのは、若菜と、若菜をめぐる不良共さ」

「――――」

千種十次郎の打ち<ruby><rb>萎</rb><rt>しお</rt></ruby>れた顔を見ると、早坂勇もツイ考え込んでしまいました。

「お互にもう<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>辺で足を洗おうか、勇」

「――――」

そんな事を話して居る最中、重役室では千種十次郎と早坂勇をどう褒めたものか評議して居りました。

「千種さん、早坂さん、重役室までお出下さい」

給仕が呼んで居ります。

「辞表は後で出すとして、口頭で<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くぜ」

「<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>いとも」

二人は顔を見合せて淋しくうなずきました。