Soranoha

悪魔の顔

あくまのかお

野村 胡堂

物騒な話題

「そんな気味の悪いお話はお止よしなさいませ、それより東京座のレヴィユーが大変面白いそうじゃ御座いませんか」

と話題の転換に骨を折って居るのは、主人石井馨之助けいのすけ氏の夫人濤子なみこ、若くて美しくて、客が好きで物惜みをしないというので、苟いやしくも此邸このやしきに出入する程の人達から、素晴らしい人気のある夫人でした。

が、その美しい夫人の魅力を以てしても、其晩そのばんの話題ばかりは、何どうすることも出来なかったのです。贅沢ぜいたくな接待煙草たばこの煙が濛々と立ちのぼる中に、不思議な邪よこしまな陶酔にひたって、男客達は「犯罪」の話に夢中になって居たのです。

「マア、そう言うなよ」

主人の馨之助は、丸々と肥った手を振って美しい夫人を婦人客の方へ追いやり乍ながら、

「物を盗まれるのは油断があるからで、盗む方ばかり責められないと同じ筆法で、私は殺される人間もあまり賢こくないと思いますよ、つまり殺される方に油断があるから、ツイ殺し手の方も誘惑されると言ったわけでしょう、そんなもんじゃありませんかネ、ハッハッハハ」

見事に禿げ上った前額を撫で上げ乍ら、ビール樽のような腹を揺り上げて、カラカラと笑いました。

「イヤそんな事はありません、御主人のお説が本当なら、殺される人間は皆馬鹿で、刺客せきかくの手に斃たおれた有名な政治家も、痴情関係で殺される市井しせいの遊蕩児もあまり変らんことになります」

と言うのは、此邸へ毎日のように出入して居る、芦名兵三郎ひょうざぶろうという若い紳士です。旧家の若主人で、広い屋敷と、恐ろしい貧乏と、それに不相応なつまらない格式とを荷厄介にして居る青年の一人ですが、五分もすかさぬ行届いた身だしなみと、磨き抜いたような滑らかな顔に、どっか女のような陰柔な感じがあります。夫人の濤子とはわけても懇意で、表立っては「奥さん、奥さん」と言って居りますが、蔭へ廻ると「濤子さん――」と言ったような無礼な口を利くそうで、雇人達にまで変な眼で見られて居ります。

「私は石井さんのお説に賛成し度たい、犯罪は滅多に偶発するもので無いから、慎重にして周密なる注意によって、大部分は未然に防ぎ得るものです」

医学博士の酒井洪造は、楔形の顎髭を捻り乍ら、さすがに学者らしい事を言います。

「お前は何どうだ、何んか面白い説は無いか」

「…………」

主人の馨之助に声を掛けられて、ハッと息を呑んだのは、田でん庄平という青年紳士です。

主人の甥に当るそうで、子供の時から此邸で育ちましたが、身体からだが弱い上に学者肌で、人前で口を利くのさえ痛々しいようです。先刻さっきから立て続けに恐ろしい話を聴かされて、蒼白い上品な顔をすっかり硬こわばらせて居る位ですから、人殺しに対する意見などがあるわけもありません。

「僕に、そんな事はわかりません」

「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、君は動物学のことしか解らない人間だっけ」

馨之助は、甥の困り抜いたような顔を見て、如何いかにも面白そうに笑いこけます。

一座はほんの七八人、外に隣室に退いて、この物騒な話題から遠ざかって居る婦人客を加えて、皆んなで十人もあったでしょうか。石井夫妻の客好きがさせる恒例の晩餐会は、自慢のコックに存分の腕を揮わせた後、別室で軽い西洋酒を啜すすり乍ら、何時いつも乍らの不遠慮な話が弾んで居たのです。

「御主人は相変らずウイスキーばかりですか」

「糖尿病には日本酒と葡萄ぶどう酒が悪いそうで、主治医の酒井博士よりも家内の方がやかましくて飲ませませんよ、ハッハッハハハ」

つまらないところで惚気のろけられて、相手の小西という中老人は少しタジタジとなりましたが、陣を立て直して、

「それはどうも御馳走様で――」

「いやもう、私がうっかり菓子でもつまもうものなら、大変な騒ぎで」

「ハッハッハハハ、これは益々たまらん」

笑の大爆発に、例の陰惨な「人殺しの話」も吹飛ばされてしまいそうです。

「大層お賑やかですこと、何んか、私わたしの悪口を仰おっしゃったでしょう」

と境の扉ドアを開けて、孔雀くじゃくのように立ったのは、濤子夫人の美しい姿です。

「聞えましたか」

「ウ、ファッファッファッ」

小西老人は独りで悦に入って居ります。

「それはそうと、先刻さっきの話の切りを付けましょう、千種ちぐささんは何どうじゃな――」

先刻さっきから隅の安楽椅子いすに凭もたれて、黙って一座の「殺人論」を聴き入って居る名記者、千種ちぐさ十次郎の方へ鉾先が向けられました。

「私わたしにはわかりません、毎日毎日血腥ちなまぐさい事件を扱って居ると、返かえって頭脳あたまが混乱してしまって、其その間から公式も哲学も見出す気にはならないのです」

「成程なるほどそう言ったものでしょうな、併しかし……」

石井馨之助が、尚も殺人論へ話を持って行こうとすると、客間の扉ドアが音もなく外から開いて、

「お父様、お時間で御座います」

ソッと貴族的な感じのする美しい顔。娘の美保子と言って十八歳、先妻の子で継母の濤子とは十二三しか違いませんが、濤子が咲き誇る牡丹のように美しいのに対して、これはまた、露草のように淋しく、たよりなく、そして可憐な娘でした。

「もうそんな時間かい、相変らず酒井博士は頑固で、私にどんな事があっても十時には寝なければいかんと言うのです。あとは家内がお相手しますから、どうぞいつものように御ゆるりと願います、御免下さい」

それでも残り惜しそうに、娘の美保子に伴われて寝室に退きます。

こんな事には馴れて居るものと見えて、一座の人達は別に不思議に思う様子もありません。年取った主人の存在は、若い者勝ちなこの座には何どうでもよかったのでしょう。

唯ただ、娘の後姿を追う田庄平の眼が、不思議な情熱に燃えて居るのを、千種十次郎は見落しませんでした。内気な動物学者の眼にも、あの可憐な娘の姿が、決して無意味には映って居なかったようです。

亜砒酸中毒

石井邸の晩餐会のプログラムは、それから後で本筋に入るのでした。男客と女客との隔ては撤回されて、遊戯と談話が、年齢も時間も超越して、夜と共に取り交されるのでした。

女盛りの豊満な美しさに溢るる石井夫人は、一座の女主人あるじとして本当に打って付けでした。話題が豊富で、大胆で、少し悪魔的でウイットがあって、それで滅法界美しいのですから、雑談と舞踏を中心とする一座の女王には、こんな適任者は滅多にありません。一座の空気が次第に濃厚になると、一番調子づくのは芦名兵三郎で、この男の柄がらは、不思議なほど浮滑うわすべりな空気にピタリとはまります。その間に田庄平だけはヒドく迷惑そうで、脅かされた野兎のように、隅っこの方に小さくなって、爪を噛み乍ら歓楽の渦を眺めて居ります。

十一時頃にはもう、すっかり調子づいて、ワッワッという騒ぎ――、何どんな大事件が起っても、この恐ろしい歓喜を拒はばめそうもありません。

「タ、大変、お、奥様!」

不意に、廊下の外へ恐ろしい悲鳴が響きます。歓楽の渦はピタリと停って、皆んなの表情は一瞬――恐怖に硬こわばります。

「奥様ッ、旦那様が、タ、大変で御座います」

扉ドアを押し開いて飛び込んだのは、主人付の女中、

「何どうしたの、旦那様が何どうかなすったのかえ?」

濤子夫人が一番に廊下に出ると、続いて酒井博士が飛び出しました。

やがて、その後を追おうとする男女の来客の雪崩なだれは、階子はしご段の下で、酒井博士に喰い止められてしまったのです。

「御主人が急病だそうです、暫しばらく私わたしに任せて下さい」

男女の来客は、スゴスゴと元の客間に引返しました。夫人と主治医の博士が引受けた上は、来客達は押してもというわけには行きません。

それから三十分もすると、客の半分は帰ってしまいました。千種十次郎も何遍か立ちかけましたが、妙に新聞記者の第六感が働いて、此儘このまま立ち去る気になれません。何んかしら、此邸の中には事件の匂いがして来たのです。

やがて、年齢としの割には好奇心の満々として居るらしい小西老人が、滑るように客間を出て、十分ばかりすると又滑るように帰って来ました。

「聞きましたよ」

安楽椅子の中へ、深々と埋まって居る千種十次郎の耳の傍へ来て、物々しい塩辛声を潜めます。

「…………」

「御主人は自殺されたらしい」

「エッ?」

これは千種ばかりではありません。其処そこに居る全部の人達の耳に入ったものと見えて、一種物々しい感歎の叫びが漏れます。

「酒井博士は、亜砒酸中毒だと言うそうですが、そうすると、他殺の疑いもある――」

「エ、エ?」

千種十次郎は弾き上げられたように起ち上りました。もう殺傷事件の外交をするような若い記者ではありませんが、眼と鼻の間で起った事件というと、昔取った杵柄きねづかで、さすがに猛烈な職業意識が働きかけます。

十次郎が二階へ行った時は、まだ係官は来て居りません。驚きのうちにも、職業的冷静さを取り戻した酒井博士は、これも案外確しっかりして居る濤子夫人を励まし乍ら、最善を尽して看護して居ります。

「お、千種君か、とうとう君の方の種になったが、この際だから大眼に見てやってくれ給え」

酒井博士はチラと顧みて、名記者の面おもてに筆止めの禁呪まじないを投げかけます。

「書く書かないは別問題で、事件があると何どうも矢張やはり知らん顔は出来ない」

「そうだろうね、隠しても仕様があるまいから、御主人の命に万一の事が無い限りは新聞へは書かぬという条件で、君の職業意識が満足するまで見て行くさ」

「――で、御主人はどうなされたのです、自殺なんて事は考えられないが」

「其処そこだよ、こんな模範的な楽天家が、自殺などを企てよう筈は無い、それに、ツイ一時間前まで、あの通り元気だったのだから」

「で――?」

「僕は他殺では無いかと思う――、手当を加え乍ら此辺を見ると、半分開けた小卓サイドテーブルの抽斗ひきだしに、チョコレートの箱がある――そのチョコレートがどうも臭いんだ」

「…………」

「夫人に聞くと、一向知らなかったと言われる、糖尿病患者は、ヒドく甘い物を欲しがるから、これは多分、夫人にも隠して、時々そっと摘つまんで居たものであろうと思う、今晩も寝室へ入ると直すぐそれを二つ三つやったらしいが、その中に亜砒酸が入って居たからたまらない――」

「誰が、何どうして入れたんです」

「それは私にもわからない、今夫人の承諾を得て電話を掛けたから、やがて係官が来て調べてくれるだろう。私は唯御主人の症状が亜砒酸中毒で、抽斗ひきだしの中のチョコレートは三つだけ無くなって居るが、調べて見ると上側のチョコレートの銀紙は全部包み直したもので、その一つ一つへ多量の亜砒酸が入って居ることだけを発見したに過ぎない。亜砒酸と何どうして解ったと言うのか、それはわけは無い、検出の設備の無い時は、疑わしい物を炭火に投ほうり込んだだけでも宜いい、亜砒酸が入って居ると蒜にらの匂いがする――」

「で、容態は?」

「非常に悪い、亜砒酸は大抵吐いてしまったが、心臓が弱いから――多分――」

酒井博士はソッと千種の耳に囁いて眉をひそめました。

嫌疑は美保子に

顔馴染なじみの酒井博士は、相手を無闇に書き度がる新聞記者でないと知って、これだけの事を説明してくれました。

寝台を隠すように引いたカーテンの裏には、半死半生の主人石井馨之助が横たわって、派手な夫人の濤子と、淋しい娘の美保子と、すっかり面喰ってしまった甥の庄平とが、一生懸命看護に骨を折って居る様子が手に取るように判ります。

折から玄関の方に自動車の音、やがて多数の足音が、ドヤドヤと敷台にかかった様子です。

「警官が来たらしい、千種君は遠慮した方が宜いいだろう」

「…………」

千種十次郎は、黙って引下るより外はありませんでした。入れ違いに所轄署から来た、警察医と警官の一行、これも黙々として寝室へ入って行きます。

「どうでした千種さん、矢張り他殺でしょう」

と顔を出す小西老人、その背後から、芦名兵三郎の青い顔が神経質に覗いて居ります。

「……らしい」

「で、下手人は?」

小西老人は年配柄、こんな古風な言葉を使いますが、四方あたりの空気が緊張して居るので、それも別に可笑おかしくありません。

「そんな事は判らない」

「…………」

再び恐ろしい沈黙が一座を支配しました。斯こうなると反かえって後ろめたいような気がして、今更帰ることも脱けることも出来ません。

それから又三十分ばかり経ちました。

「到頭いけなかったそうだ」

「エ?」

「あの通り肥って居たから、心臓麻痺を起して亡くなったそうだ――」

主人の死んだ噂が、何処どこからともなく客間へ伝わります。千種十次郎は廊下を通る老執事を捉まえて訊くと、

「ハイ、お気の毒なことで御座います」

頑固そうな老執事は、言葉少なに眼をしばたくばかりです。

石井馨之助氏が毒死したと聞いては、酒井博士の口止めがあったところで、新聞記者が黙って居るわけに行きません。千種は早速玄関へ行って、新聞社へ電話をかけ、宿直の者に此この大特種を報告した上、応援を二人ばかり至急頼みます。

「オーライ、兄貴しっかりしろ、今俺が飛んで行くぞッ」

足の勇こと、早坂勇のハチ切れそうな声がどんなに千種を心強くさせたことでしょう。

客間へ引っ返して来ると、踏み止った客は一ひと塊かたまりになって囁いて居ります。

「お嬢さんが怪しいそうだ」

と言うのは、消息通らしい芦名兵三郎の声です。

「チョコレートは、今日の午前にお嬢さんが竹屋から買って来て上げたのだそうだ」

話は次第に具体的になります。最後に、

「お嬢さんは身体からだが弱いので、酒井博士から亜砒酸の丸薬を貰って呑んで居るそうだ」

この恐ろしい話を背に聞かせて、千種十次郎は廊下に出て居りました。あの月見草のように淋しく美しい美保子が、どんな事情があったにしろ、父親を殺す気になろうとは思えません。

「そんな馬鹿な事が――」

と打消す下から、物々しい噂が、誰が伝えるともなく、次第に具体的に、後から後から客間へ伝わります。

折柄、飛ぶように階段を降りる人影、サッと十次郎の前に立ったのを見ると、蒼白い顔を少し亢奮させて、ワクワク顫ふるえて居る美保子。

「千種さん、どうしましょう、私わたしは怖い、怖い」

何んと言う事でしょう。蝋ろうのような頬を恐怖に痙攣ひきつらせて、眼ばかり異様に輝やく娘は、精も根も尽き果てたように、千種十次郎の胸にすがり付きます。

「美保子さんどうしたんです、エ、エ?」

「私は恐い、何んにもわからないんです」

父親の不意の死や、自分に降りかかる恐ろしい疑いなどに顛倒てんとうして、娘は物を言うことも出来ません。

「サア、落付いて、もう少し詳しく話して御覧なさい」

十次郎は娘の華奢きゃしゃな肩に手を掛けて、その脅おびえ切った眼を凝じっと見入りました。かなり以前から知って居るこの内気な淋しい、けれども限りなく純潔な感じのする娘が、どう間違ったところで父親を殺す筈もありません。美保子は次第に十次郎の眼の中から自分に対する信頼を読むと、

「お父様は死んでしまいました。だけど、私は何んにも知らないんです。千種さん、怖い」

二階の寝室の扉ドアを開けて、誰やら階段を降りて来る様子です。

「サア、早く、聴きましょう、落付いてその次を話して下さい」

「どんな事があっても、私を信じて下さい、千種さん、疑いはみんな私へかかるようになって居るんです」

「で――?」

「万一の事があったら、姉へ知らせて下さい、――あッ誰か来る、――姉は竹屋――マネキン――」

美保子の言葉は此処ここで尽きました。追いすがるように階段を降りて来た警官の一人は、娘の肩へ手を掛けて、

「サッ、もう一度来て下さい、聞く事がある」

冷たい、鉄のような言葉の下に、美保子の身体からだはヘタヘタと廊下の絨毯じゅうたんの上へ、崩れた花片はなびらのように座り込んでしまいました。

「その人に罪は無い、そんな恐ろしい事が、そんな恐ろしい事――が、美保ちゃんに出来るわけは無い」

警官と美保子の間へ、必死の身を躍らせて入ったのは、美保子には遠い従兄いとこに当る田庄平です。蒼白い顔をすっかり亢奮さして、日頃の臆病にも似ず、一生懸命がさせる力一杯に警官の胸を押し隔てます。

「コラ、何をする」

一喝と共に警官の逞ましい腕が横に動くと、田庄平の身体からだはボロっ切れのようにケシ飛んで、廊下に並べた棚に何処どこか打った様子、暫らくは起き上る気力もありません。

深讐の母娘おやこ

実業家石井馨之助の怪死は、関東新報の大特種で、翌あくる日の帝都を驚ろかしました。令嬢美保子が、其その場からすぐ拘引された事は、千種十次郎の好意で新聞には書きませんでしたが、身内から重大なる嫌疑者が挙げられたという暗示的な記事が、反かえって世の好奇心に投じて、大袈裟おおげさな噂が、野火のように四方へ広がって行きました。

ボツボツ弔問の客が見え始めた九時半前後、一台の自動車が玄関前に停ると、その中から恐ろしい派手作りな若い女が一人降りました。丁度ちょうど自分の家へでも帰った人のように、何んの躊躇もなく、トントンと敷台の上へ登るのを見ると、

「あ、お嬢様」

偶然取次に出た老執事は、飛上るほどに驚いて、凝然ぎょうぜんと玄関に立ちすくみます。

「爺やかい、――お父様が亡くなったって本当かえ」

「本当にも何も、お嬢様、その上お妹様が下手人だなんて、そんな間違った話があるものじゃ御座いません」

「え、え? 美保ちゃんがかえ?」

「左様で御座いますよ、お嬢様」

事態容易ならずと見た若い女が、其儘そのまま奥へ飛込もうとする前へ、

「何誰どなたです」

ピタリと立ちはだかったのは、今日からは未亡人になった夫人の濤子、亢奮と不眠に少し逆上のぼせては居りますが、此邸を背負しょって立とうとする強烈な意志が動くせいか、深い歎きのうちにも、何んとなく屹きっとしたところがあります。

「奥様、大きいお嬢様の関子様でいらっしゃいます」

「…………」

老執事の取なし顔な言葉を俟まつまでもなく、濤子夫人にこの相手の名がわからない筈はありません。自分の前に立って居るのは、三年前自分が此邸に入り込んで来た時、どうしても自分を母親と呼ぶのがいやだと言って、当もなく飛出してしまった剛情な継子ままこの顔です。

内気で淋しい妹の美保子に比べると、姉の関子は美しさも情の剛こわさも大変な違いでした。元より親類へ寄り付くことも出来ず、飛出したところでその日から困るに決って居ると、父親の馨之助が高をくくって居たのを裏切って、関子はその日から放縦な無法な生活へと陥おち込んで行ったのでした。

そんな事で関子は、何時いつの間にやら勘当同様になり、若い美しい妻に溺れた父親の生活からは、次第に遠ざかってしまいました。妹の美保子は、父と継母へ、いろいろ取なしましたが、姉にその意志が無い以上は、いくら気を揉んでも呼び寄せる方法さえ付かなかったのです。

そんな事から、美しくて健康で、そして勝気な、少しばかり放浪性のある関子は、世間並の眼から見れば、危険とも何んとも言いようのない生活へ陥ちて行きました。最初は女記者、それから女優、近頃ではデパートで、万人に生き身をさらすマネキンガールまでやって居るという噂でした。

黄色い洋装と不思議な化粧はこのマネキンガールの様子を、埃及エジプトの昔語りの女王のように妖艶なものに見せました。

「何んと言う卑しい風でしょう、そんな恥かしい様子をして入ってはいけません」

「…………」

「亡くなったお父様の恥になります」

「…………」

「マネキンなどを娘に持っては居ません、お帰りなさいッ」

「…………」

「帰んなさい」

継母の烈しい言葉の前に、関子は凝じっと立ちすくみました。その顔は白粉おしろいの色が変るほど真っ蒼になって、美しい口許がピリッピリッと痙攣ひきつります。

「お父様にたった一目お逢いすることも出来ないのですか」

「帰んなさい」

関子の眼からは、大粒の涙がポロポロとこぼれました。が、其儘継母へ背を向けて、物をも言わずにプイと外へ飛出します。

濤子はそれを見ると、張りつめた気が弛ゆるんだものか、ヨロヨロと後ろへ下って、玄関の壁へ片手を掛けました。美しい瞳は怒りに燃えて夏の陽のように乾いて居ります。

「勇、あの娘の後をつけるんだ」

「合点」

物蔭から此様子を見て居た千種十次郎は、応援に来て居た足の勇を顧みて斯う言います。

マネキン登場

三日目に、美保子は釈放されました。最初は疑いが濃厚で、関東新報以外の新聞は、筆を揃えて真犯人扱いにしましたが、千種十次郎は、不安がる編輯へんしゅう長を説き伏せて、最後まで美保子を疑うような記事は掲げずにしまいました。

事件の中へ、名探偵の花房はなぶさ一郎が飛込んで来ると、美保子にかかる疑いなぞは、薄紙を剥がすように消えてしまったのです。チョコレートは美保子が買ってやったものに相違ありませんし、美保子は亜砒酸入の丸薬を強壮剤に用いて居ることも事実ですが、その丸薬の亜砒酸の含有量は非常に少ない上、酒井博士が二百粒やった内、まだほんの十粒位しか無くなって居ないのに、父親を殺したチョコレートの中には、かなり多量の亜砒酸が入って居たことがわかったのです。

この簡単な算術は、美保子の汚名を完全に救いました。三日目に帰って来ると、さすがに継母の濤子も喜んでくれましたが、一番喜んだのは従兄いとこの田庄平で、美保子の無事な顔を見ると、ソワソワして殆ほとんど仕事も何も手に着かない程でした。

犯人は美保子でないとすると、事件は迷宮に入ってしまいます。花房一郎は多量の亜砒酸の入って来た経路を調べて居るようでしたが、それも容易にはわかりません。

葬儀万端済んでしまって、石井家も漸ようやく落付いた頃、暫らく遠ざかって居た芦名兵三郎は、又足繁く未亡人の濤子を訪ねるようになりましたが、これと言って疑わしい点もありません。

「芦名という男は、園芸に趣味を持って居るそうだネ」

花房一郎は不意にこんな事を十次郎に訊きます。

「そうだって言うよ、あの男は今でこそ貧乏して居るが、先代の時代は大変な景気で、屋敷だけでも何万坪とかあるそうだ、――尤もっとも幾重にも抵当に入って居るって話だが――その庭園を利用して、なかなか大袈裟に園芸をやって居るんだそうで、本人もヒドク自慢らしいよ」

「亜砒酸や青酸やニコチンなどは、園芸家が害虫駆除に使うだろう」

「エ?」

花房一郎の恐ろしい頭の働きは、芦名兵三郎の上に一抹の疑いを掛けて居るのでしょうか。

「ナニ、一寸ちょっと人から聞いただけの話なんだ、半年ばかり前に、芦名という男は多量の亜砒酸を買い入れた事がある。それは生薬きぐすり屋をしらべて解った事なんだが、――唯それだけの話だよ、黙って居てくれ」

新聞記者と刑事と、材料の交換はよくあることですが、名探偵の花房一郎と名記者の千種十次郎の交際は、そんな浅墓なものでなく、利害を離れた友情になって居るので、お互に信頼し合う結果が、ツイ斯うした打明け話にもなるのでした。

併し花房一郎は何時迄いつまで経っても芦名兵三郎を縛りそうもありません。そればかりでなく、二三日経つと何も彼かも忘れてしまったように、芦名と談笑して居ることさえありました。花房一郎ともあろう者が、軽薄者の芦名と親しくして居るのを見て、千種十次郎はどんなに眉をひそめたかわかりません。

その内に、又一つの新しい事件が起りました。それは、濤子に辱しめられて、亡き父に最後の暇乞をすることも出来なかった関子は、法律上は依然として石井馨之助の長女で、廃嫡も何んにもされて居なかったのを幸い、継母の濤子を相手取って、遺産引渡しの訴訟を、何んかの形式で提起しようとして居ることがわかったのです。

こんな事がわかると、世の中は面白がって尾鰭おひれを付けます。それに、立役者の関子が、竹屋デパートで、マネキンをやって居ると判ったからたまりません。この記事が写真入りで新聞に出ると、竹屋デパートは、物好きな客で押すな押すなと言う騒ぎ、五階の「御婚礼道具一式の陳列場」に、西洋風の花嫁の装いで白の羅物うすものを着て立って居る、神々しいばかり美しい関子の前は、毎日毎日見物の黒山を築く騒ぎです。

さすがの関子も驚いて、マネキンを止し度たいと言い出しましたが、此人気に有頂天になった竹屋デパートの支配人は、契約の期限を楯にどうしても聴いてくれません、その代り給料は望み次第と大きく出ます。

第二の犠牲者

「あの女が関子と言うんだとよ」

「成程大変なシャンだ」

「殺された石井馨之助の娘だぜ」

「フーム」

「オイオイ前の方は帽子を取ってくれ」

「後ろは拝めねえぜ」

こんな騒ぎが、マネキンの出る時間に幾度も幾度も繰り返します。

恐ろしく贅沢な婚礼道具を一面に飾り立てた中に、白い羅物うすものに包まれた関子は、午前一時間、午後一時間、人形のように立つのですが、あまりの凄まじい人気で、群集が雪崩なだれ込む心配があるので、前へ夥おびただしい婚礼の調度を置き、後ろへ一段高く台を作って、境の白い幕に背をピタリと付けるように立って居るのでした。

洋風の高雅な化粧で、全く純白に装われた関子の花嫁姿は、世にも美しく臈ろうたけたものでした。細面乍ら豊満な肉付きで、夢見る眼を俯向け、真紅の貝殻を合せたような唇に、少しばかりの微笑を匂わせて、真珠色の肌を僅わずかに羅物うすものに隠した風情ふぜいは、全く石井馨之助の、毒殺事件と関係が無くとも、満都の人を悩殺し尽さなければ已やまなかったでしょう。

「こいつは全く素敵だ」

「何どうしたんだ」

「アッ」

ざわめく大群集を前にして、何どうした事か花嫁姿の関子は、ヨロけるように前へ一足踏み出しました。

「ウーム」

と一と声、美しい顔は苦悶に歪んで、サッと藍のように真っ蒼になると、そのまま白百合のように崩折れて、後へはサッと咲いたような血潮、見る見る羅物うすものを染め、幔幕まんまくを染め、床をひたして、その中に倒れたマネキンの肉体は、最後の苦悶に轟うごめきます。

夥しい群集は、暫らく水を打ったように静まり返りました。あまりの物凄い情景シーンに直面して、物言うことも、身動きをすることも忘れてしまったのです。やがて、二三秒の後、恐ろしい大動乱と大叫喚が、ハチ切れそうになった場内の群集を、沸々ふつふつと煮えくり返させました。

「ワーッ」

「ワーッ」

という重く鈍い大合唱が、恐ろしい金切声の悲鳴を交えて、暫らく続きます。

刑事が来る、医者が来る、群集を追い出して、手負ておいのマネキンを介抱したのが、十分も経ってからの事でした。傷は幔幕越しに、真後から心臓を一と突に刺したもので、全く助かりようはありません。係官が来て調べを始めたのは、それから又一時間ばかり後の事でした。

婚礼道具陳列場の後ろは、幔幕を張って臨時の通路にして居たので、誰が通ったかわかりません。それにマネキンの顔を見せる時間は、群集は皆んな前へ廻って、幕の後は空っぽになってしまいますから、どんな人間がやったか、誰も見て居た者が無かったのです。兎とに角かく、羅物うすもの一枚の花嫁姿と言っても、幕を隔てて背後うしろから心臓部を一と突にやったのですから、腕は余程冴えて居なければなりません。

刺した得物は、外国出来の鋭利な短刀で、鑑定家に言わせると、コルシカあたりで出来たものだろうと言うことです。

「石井家の関係者だ」

遺産引渡の訴訟が噂に上った頃だったので、世間では直ぐそう言いました。世間で気が付く位ですから、当局も専らその方針で、いろいろ調査の歩を進めて行きましたが、サテわかりません。

石井馨之助を毒殺したのと、同じ人間の手だろうという点は、だれでも一致しましたが、土台石井馨之助を殺した手がわからないのですから手の付けようが無かったのです。

網の目

――あの短刀は、芦名兵三郎のものだ――

――未亡人の濤子は、芦名を使って関子を刺させたのだ――

斯う言った投書が、全く違った手跡で、二通も三通も警察へ舞い込みました。それを見るまでもなく、先年南フランスからイタリーあたりへ長い旅をした事もある芦名兵三郎は、其日の内に警察へ呼出されて、峻烈な訊問を受けました。

「この短刀はお前のか」

「そうです、私のに相違ありません」

「どうして解る、同じような短刀はいくらもあるだろうと思うが――」

「これはコルシカの名物屋で買ったんですから、世間には同じ短刀は沢山たくさんあるわけですが、柄つかの象牙に、私の名前の頭文字イニシァルを彫ったのはこれしかありません」

血染の短刀を前にして、芦名兵三郎は平気でこんな事を言って居ります。

「では、何どうしてあんな場所にあったんだ」

「それはわかりません、私は此短刀を一ヶ月も前に盗まれたんです」

「それは本当か、誰かその事を証明する者があるか」

「残念乍ら、ありません、つまらないものですから届出もせず、人にも言わなかったのです」

此調子では、芦名兵三郎に対する疑いは深まるばかりですが、本人もそれを意識し乍ら、何どうする事も出来ないと言った様子です。

「あの日、石井関子が殺された時刻――丁度午後二時と三時の間だ――お前は何処どこに居た」

「銀座を散歩して居ました」

「誰かに逢わなかったか」

「逢ったような記憶はありません」

何んと言うたより無さでしょう、これでは不在証明アリバイも持って居ないことになります。

芦名兵三郎は其まま、留置されてしまいました。

一方花房一郎は、関子の刺された現場を一応調べてから、直ぐ石井家へ引返して、暫らく自由に調べて見度いから、当分泊り込むかも知れないと言い出しました。未亡人の濤子は、それを拒む理由もないので、

「どうぞ御自由に」

と承諾しました。が、何んか腑に落ちないところがある様子で、あまり口もききません。美保子は、花房一郎に恩があるので、何くれとなく世話を焼き、美保子の機嫌ばかり心配して居るような田庄平も、それにつき合って、何くれと花房一郎に好意を示しました。

それから二三日たった或日の午後、千種十次郎が石井家へ訪ねて行くと、花房一郎は切しきりに家の外廓を廻って、土台や、窓口、塀などを調べて居ります。

「あの人は、悪者は外から入って来て、チョコレートへ毒を入れたと思って居るようですよ」

美しい濤子夫人は、かなり激しい敵意を持った口調で、斯う言い乍ら、塀の穴などを探して居る、花房一郎の間延びのした姿を窓から指しました。

「あの男は非常に良い頭を持って居ますから、今にキット犯人を探し出すでしょう」

「ですから、あんなトボケた様子をするのが憎らしいんです。私わたしが怪しいなら何故なぜ私が怪しいとはっきり言わないのでしょう、そして男らしく私の室へやなり身体からだなりを調べたら宜いいじゃありませんか」

夫人の美しい眉は、ピリリと神経的にひそみます。花房一郎が自分を疑って居ると思うことが、この美しい未亡人に取っては、たまらない不愉快な事だったのでしょう。

十分ばかり後、千種は夫人の素晴らしい魅力と癇癖かんぺきから遁のがれて、家の外へ飛出しました。

「オイオイ、大分夫人の御機嫌が悪いよ」

千種は庭を横切って、花房探偵の方へ近寄って行きました。かなり宏壮な庭園で、此辺へ来ると、何処どこからも人に見られる気遣いはありません。

「放っとけ放っとけ、今にわかる」

「犯人の目星は付いたのか」

「イヤ、一向」

花房一郎は、ケロリと長閑のどかな顔をあげて、秋の空を仰ぎ乍ら続けます。

「併し芦名兵三郎でない事だけは確かだよ」

「エ? 本当かえそれは」

「本当とも。芦名が犯人なら、いくら何んでも自分を陥れる為にあんなに沢山たくさん証拠を揃えないよ。亜砒酸なんて馬鹿な毒薬を使ったり、自分の短刀で人を刺して、それを現場へ残して来たり、簡単な現場不在証明アリバイも作らなかったり」

「…………」

「だから、今朝僕が証明して釈放してやったよ」

「で、これから何どうする積りなんだ」

「網を作って居るところだよ、大きい大きい網だ。僕が斯うして歩いたところが、呪文の網になるんだよ、分らないかね。ハッハッハハハ」

「…………」

全く何を言い出すかわかりません。千種は呆気あっけにとられて、花房の顔を眺めていました。

「君にだけソッと言って置くが――、今晩何んとかうまく話をつけて、爺やの室へやへ泊めて貰い給え、面白い芝居が見られるよ」

「犯人が捕つかまるのか」

「まアね、但ただし人に言ってはいかんよ、誰にも言ってはいけない、夫人にも、美保子さんにも、庄平君にも」

「…………」

千種十次郎の胸は期待に高鳴ります。

「わかったか、一度左様ならをして外へ出るんだ、そして、ホラ、此穴からそっと入るんだ」

花房一郎は足の先でソッと生垣の穴を指します。

「君は?」

「僕も一度帰る、花房一郎が此家に居ては、魚は網にかからない」

花房一郎は斯う言い捨てて、後ろも振り向かずに歩み去りました。

生垣の穴を一体幾つ探す気でしょう。

悪魔の姿

その晩、二時頃、奥から恐ろしい物音が聞えました。爺やの室へやで片唾かたずを呑んで居た千種は、真っ直ぐに廊下へ飛出して、二つずつ階段を飛上ると、

「此処ここだ此処ここだ千種君」

花房一郎の声が、思いもよらぬ美保子の室へやから聞えます。扉ドアを押して、懐中電灯の光りと一緒に飛込むと、花房一郎は何やら床の上へ押え付けて、

「サア、これが犯人だ、悪魔の顔を見給え」

と懐中電灯の光の中へ、組み伏せた殺人鬼の顔をさらしました。

「アッ、田――」

花房の膝の下に敷かれて、醜怪な怒と失望に燃えて居るのは、あの、臆病で内気で病身な、田庄平の顔に相違ありませんが、日頃の憂鬱な優し気な表情などは何処どこにもありません。本当に、それは花房一郎が言う通り悪魔の顔です。

「とうとう網にかかったよ、恐ろしい魚だ」

未亡人も、爺やも、美保子も、事情を察して飛んで来たものと見えて、廊下に固まって、顫ふるえ乍ら、部屋の中を覗いて居ります。

「もう大丈夫」

庄平を縛り上げて、埃を払った花房一郎は、電灯を点つけて、廊下の人達をさし招き乍ら、

「此奴こいつは本当の悪魔ですよ、そのくせ恐ろしく頭が良いから、私も、もう少しでやられるところだった。皆さん、これを御覧なさい」

自分が今まで横になって居たらしい、美保子の寝台に近付いて、枕を除どけて白い敷布を剥ぐと、丁度首の当るあたりに、長々と葡萄ぶどう鼠の絹紐が引かれてあります。

花房一郎が近付いて、紐の一端を取って引いて見ると、反対の方の端は、寝台の向う側の鉄の棒に、しっかりと結んである様子です。

「私は今日の午後フトした事から此仕掛けを見付けたので、急にお嬢さんに寝室を明け渡して貰って、身代りに私が寝て居たのです。すると思った通り、二時を聞いて間もなく、此奴がソッとやって来て、真っ暗な中で敷布の下から紐の端を探り出し、私の首を越して、向う側へ一度くぐらせて引こうとしたのです。そんな事だろうと思って居たので、私はすぐ首を引いて、此奴を床に叩き付けました、本当に危いところでしたよ――、これがお嬢さんだったら、一とたまりもなかったでしょう。御覧の通り紐は細くて丈夫で六尺もあるし、一端を向う側の棒に結んで置けば、相手に目を覚させずに細工が出来ます、実際、臆病で、非情な悪人の、考え出しそうな、うまい方法ではありませんか」

「…………」

花房一郎の説明を聴いて、あまりの恐ろしさに、美保子はヨロヨロと継母の腕に倒れかけました。

「お嬢さん、もう大丈夫です、あれで何も彼も解決したのです。ところで奥さん、この紐は誰のでしょう――」

「アッ、それは私のです」

美しい未亡人も、美保子を抱いたまま其場へヘタヘタと倒れそうになります。

今度は、千種十次郎が飛んで行って支えてやらなければなりませんでした。

「そうでしょう、――お解りですか奥さん、もう少しで貴女あなたは、継子殺の嫌疑を受けるところでした。私もいろいろ悪人の型を見ましたが、この田庄平のように念入で冷血なのは始めてです。本当に天才的な悪人で、頭の良いところを見ると一種の変質者でしょう」

濤子未亡人と美保子の感謝を後に、二人は夜明けの街を丸の内へと引揚げました。

途々みちみち花房一郎は、千種十次郎の為に、斯う説明してくれます。

「亜砒酸の出所? 何んでも無いよ、田の道楽は動物学で、時々動物の剥製を作るから、亜砒酸は研究所へフンダンに用意してあるんだ。私はそれよりも、美保子さんに疑のかかるように仕組んだ手際てぎわや、石井氏の糖尿病を利用した恐ろしい悪智慧に驚いたよ。美保子さんに気があるような素振りをしたのは、みんなあの悪党の芝居さ。あんな男に本当の愛などがあるわけは無い。それから、芦名氏に害虫駆除にいいからと亜砒酸を買わせたのも、短刀を盗んで関子さんを刺したのも矢張り田庄平さ、解剖学の知識の無いものが、幕を隔てて背後うしろからあんなに器用に人間の心臓を刺せるものではない、――兎に角、石井氏を殺した後、二人の娘を殺して、その嫌疑を芦名氏と未亡人の方へ向けるように仕組んだんだ。殺人の動機? それは言うまでもなく石井氏の大きい財産さ。皆んな死んでしまえば、甥の田庄平が法定相続人だ。――お蔭で未亡人も反省して美保子さんを大事にしてくれるだろう」

二人の乗った車はもう丸の内に着いて居りました。

底本 / Source edition

底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社
2007(平成19)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「悪魔の顔」愛翠書房
1949(昭和24)年1月
初出:「文芸倶楽部」
1930(昭和5)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/056701_001670/

野村 胡堂「悪魔の顔」(新字新仮名)、底本『野村胡堂探偵小説全集』作品社、2007年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 056701_001670, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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