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        <title type="main" xml:lang="ja">妖人ゴング</title>
        <title type="reading" xml:lang="ja-Hira">ようじんゴング</title>
        <author><persName xml:lang="ja"><surname>江戸川</surname><forename>乱歩</forename><idno type="aozora-person-id">001779</idno></persName><persName xml:lang="ja-Hira"><surname>えどがわ</surname><forename>らんぽ</forename></persName><persName xml:lang="ja-Latn"><surname>Edogawa</surname><forename>Ranpo</forename></persName></author>
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        <bibl><title>黄金豹／妖人ゴング</title><publisher>江戸川乱歩推理文庫、講談社</publisher><date>1988（昭和63）年4月8日</date><note type="input-edition">1988（昭和63）年4月8日第1刷</note><note type="proof-edition">1988（昭和63）年4月8日第1刷</note></bibl>
        <bibl type="first-publication">「少年」光文社、1957（昭和32）年1月号～12月号</bibl>
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      <refsDecl xml:id="source-spans"><p>A note of type source-span has an xml:id of the form source-START-END, giving the extent in UTF-8 bytes of the decoded primary text identified in sourceDesc. <ptr target="https://w3id.org/soranoha/ns/tei"/></p></refsDecl>
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      <div>
        <head n="2" source="#source-520-580"><seg source="#source-520-535">おねえさま</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-584-772">空には一点の雲もなく、さんさんとかがやく太陽に照らされて、ひろい原っぱからは、ゆらゆらと、かげろうがたちのぼっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-772-1296">その原っぱのまんなかに、十二―三人の小学校五―六年生から、中学一―二年ぐらいの少年たちが集まっていました。その中にたったひとり、女の子がまじっていたのです。女の子といっても、もう高等学校を出た美しいおじょうさんです。えびちゃ色のワンピースを着て、にこにこ笑っています。少年たちの先生にしては、まだ若すぎますし、お友だちにしては、大きすぎるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1296-1365">そのおじょうさんのそばに、少年探偵団の団長の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-1365-1389"><rb>小林</rb><rt>こばやし</rt></ruby><seg source="#source-1389-1490">君が立っていました。そして、みんなに、なにかしゃべっているのです。</seg></p>
        <p>「きょう、団員諸君に、ここへ集まってもらったのは、ぼくのおねえさまを、しょうかいするためだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-1636-1920">そこにいる少年たちは、みんな少年探偵団の団員だったのです。少年たちはぐるっと輪になって、美しいおじょうさんと、小林団長をとりかこみ、好奇心に目をかがやかせながら、団長の話を聞いています。</seg></p>
        <p>「おねえさまといっても、ほんとうのおねえさまじゃないよ。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-2004-2025"><rb>明智</rb><rt>あけち</rt></ruby>先生の新しいお弟子なんだよ。つまり、えーと、少女助手だよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2117-2224">そういって、小林君は、ちょっと、顔を赤くして頭をかくまねをしました。</seg></p>
        <p>「ぼくは先生の少年助手だろう。だから、マユミさんは少女助手といってもいいだろう？　<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-2347-2371"><rb>花崎</rb><rt>はなざき</rt></ruby>マユミさんって、いうんだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2418-2555">すると美しいおじょうさんがニッコリ笑って、みんなに、ちょっと頭をさげてあいさつしました。</seg></p>
        <p>「マユミさんは明智先生のめいなんだよ。先生のおくさんのねえさんの子どもなんだよ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-2686-2739">マユミさんは、それをひきとって、</seg></p>
        <p>「なんだか、いいにくそうね。わたしが説明するわ。明智先生は、わたしのおじさまなのよ。ですから、わたし、小さいときから探偵がすきだったのです。それで、こんど高等学校を卒業したので、大学へはいるのをやめて、先生の助手にしていただいたの。おとうさまやおかあさまも賛成してくださったわ。そういうわけで、わたし、小林君のおねえさまみたいになったの。みなさんもよろしくね。」</p>
        <p>「じゃあ、ぼくたちにも、おねえさまだねえ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-3352-3421">とんきょうな声で、そんなことをさけんだのは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-3421-3457"><rb>野呂一平</rb><rt>のろいっぺい</rt></ruby><seg source="#source-3457-3960">君でした。野呂君は小学校六年生ですが、からだの大きさは四年生ぐらいで力も弱く、探偵団でいちばんの、おくびょうものでした。あだ名はノロちゃんといいますが、けっしてノロマではなく、なかなかすばしっこいのです。小林団長をひじょうに尊敬しているので、むりにたのんで団員にしてもらったのです。あいきょうものですから、みんなにもすかれていました。</seg></p>
        <p>「ええ、そうよ。みなさんのおねえさまになってもいいわ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">マユミさんが、そう答えたので、少年たちのあいだに「ワーッ。」という、よろこびの声がおこりました。</p>
        <p>「わたしは、探偵のすきなことでは、あなたがたに負けないつもりよ。わたしのおとうさまは花崎<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4327-4351"><rb>俊夫</rb><rt>としお</rt></ruby><seg source="#source-4351-4495">という検事なの。ですから、わたし、いろいろおとうさまからおそわっているし、おとうさまのお友だちの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-4495-4525"><rb>法医学</rb><rt>ほういがく</rt></ruby>の先生とも仲よしで、法医学のことも、すこしぐらい知っているわ。大きくなったら、女探偵になるつもりよ。おとうさまは、なまいきだとおっしゃるけれど、わたし、そう決心しているの。ですから、みなさん、仲よくしましょうね。そして、わたしも、少年探偵団の客員ぐらいにしていただきたいわ。」</p>
        <p>「客員じゃなくって、ぼくらの女王さまだよ。女王さま、ばんざあい！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ノロちゃんが、また、とんきょうな声をたてました。少年たちも、それにひかれて、「女王さま、ばんざい。」と声をそろえましたが、けっきょくはマユミさんを、少年探偵団の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5285-5306"><rb>顧問</rb><rt>こもん</rt></ruby><seg source="#source-5306-5530">にしようと話がきまりました。つまり、おねえさま顧問というわけです。こんな美しいおねえさまと顧問とが、いっぺんにできたので、少年たちは元気百倍でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5530-5795">さんさんとふりそそぐ太陽の光の下で、マユミおねえさまの、ひきあわせがすみました。なんという、たのしい日だったでしょう。みんな、その日のことは、一生わすれられないほどでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-5795-5855"><seg source="#source-5795-5810">巨人のかげ</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-5859-5946">それから四―五日たった、ある晩のことです。少年探偵団員の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-5946-5988"><rb>井上一郎</rb><rt>いのうえいちろう</rt></ruby><seg source="#source-5988-6107">君とノロちゃんとが、井上君のおとうさんにつれられて、銀座通りを歩いていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6107-6466">井上君とノロちゃんとは、たいへん仲よしでした。井上君は団員のなかでも、いちばん大きく力も強いのですが、ノロちゃんは、はんたいに、いちばんこがらで力も弱く、おくびょうものです。そのふたりが、どうしてこんなに仲がいいのか、ふしぎなほどです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6466-6945">井上君のおとうさんは、若いころに、ボクシングの選手をやったことがあり、いまでも、ボクシングの会の役員をしているので、ボクサーがよく家へ遊びにくるのです。井上一郎君は、そういう人たちに、ときどき、ボクシングを教えてもらうので、少年ににあわない腕っぷしの強い子でした。学校でも、井上君にかなうものは、ひとりもありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-6945-7203">そういうわけでノロちゃんは、しょっちゅう井上君の家へ遊びにいくのです。きょうも、井上君のおとうさんにつれられて、いっしょに映画を見せてもらった帰りに、銀座でお茶をのんで、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-7203-7227"><rb>新橋</rb><rt>しんばし</rt></ruby><seg source="#source-7227-7274">駅のほうへ歩いていたのでした。</seg></p>
        <p>「あらっ、ピカッと光ったね、いなずまかしら？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7345-7527">ノロちゃんが、びっくりしたように、いいました。ノロちゃんは、かみなりがきらいなので、いなずまにも、すぐ気がつくのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7527-7697">しかし、いなずまにしてはなんだかへんな光りかたでした。空を見あげると、星が出ています。かみなりの音もしません。</seg></p>
        <p>「いなずまじゃないよ。なんだろう？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7753-7830">井上君も、ふしぎそうにあたりを見まわしています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-7830-7991">すると、また、まっ白なひじょうに強い光が、銀座通りをかすめて、恐ろしいはやさで、サーッと通りすぎました。</seg></p>
        <p>「ああ、わかった。サーチライトだよ。デパートの屋上で、照らしているんだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8107-8370">井上君のおとうさんが、ノロちゃんを安心させるようにいいました。デパートは、もう、しまっていましたけれど、屋上からサーチライトを照らすことは、べつに、めずらしくもありません。</seg></p>
        <p>「あっ、また、光った。なんだか、いたずらしているみたいですねえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8471-8542">井上君がいいますと、おとうさんもうなずいて、</seg></p>
        <p>「そういえば、へんだねえ。サーチライトなら、空を照らすのが、ほんとうだからね。」</p>
        <p><seg source="#source-8664-8696">と、ふしん顔でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-8696-8936">そのサーチライトは、下にむけて、銀座通りを照らしているのです。光が新橋のほうに、ポツッと出たかとおもうと、銀座の電車通りを、矢のようにサーッと走って、たちまち</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-8936-8963"><rb>京橋</rb><rt>きょうばし</rt></ruby><seg source="#source-8963-9208">のほうへ通りすぎてしまいます。その光が通るときには、銀座の商店でも、電車でも、自動車でも、歩いている人たちでも、瞬間、ピカッと、まっ白に浮きあがって見えるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9208-9516">それから、しばらくすると、またサーチライトが光りましたが、こんどは、京橋のほうから、サーッとやってきて、井上君たちが歩いている、まむこうの大きな建物を、まっ白に照らしたまま、動かなくなってしまいました。</seg></p>
        <p>「おや、へんだなあ。あの銀行ばかり、じっと照らしているよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9608-9632">ノロちゃんが、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-9632-9650"><rb>気味</rb><rt>きみ</rt></ruby><seg source="#source-9650-9685">わるそうにいいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-9685-9862">いかにもへんです。銀行は窓も入口も、すっかりよろい戸がおろされて、三階だての前面が、まるで映画のスクリーンのように、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-9862-9886"><rb>白々</rb><rt>しろじろ</rt></ruby><seg source="#source-9886-10020">と照らしだされていました。サーチライトは、そこへむけられたまま、すこしも動かないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10020-10124">こちらの三人は、おもわず立ちどまって、そのほうをながめていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10124-10330">すると、まっ白に光った銀行の壁に、上のほうから、黒い雲のようなかげが、スーッとおりてきたではありませんか。まっ黒なでこぼこのかげです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10330-10554">まん中に、出っぱったところがあります。その下に、深い谷のようにくびれたところがあります。そのくびれたところが、開いたり閉じたり、動いているのです。</seg></p>
        <p>「あっ、人の顔だ。ねっ、井上君、あれ人間の顔だよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10634-10732">ノロちゃんが井上君の肩に手をかけて、ささやくようにいいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-10732-11236">まっ白に光った三階だてのコンクリートの壁に、実物の千倍もあるような人間の横顔が、うつっていたのです。だれかが、サーチライトのすぐ前に、顔をだしているのです。それがくっきりと、むこうの壁にうつったのです。生きた人間の証拠には、口を動かしているではありませんか。谷間のような深いくびれは、巨人の口だったのです。その上の出っぱったところは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-11236-11251"><rb>鼻</rb><rt>はな</rt></ruby><seg source="#source-11251-11436">です。鼻の上に目のくぼみがあり、その上に、太いまゆがあります。そして、頭は、ぼうぼうとのびた、かみの毛におおわれています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11436-11834">ちょうどそのとき、銀行の前は、ふしぎに人どおりがとだえていましたが、そこへ、左のほうから、ひとりの女の人が歩いてきたのです。その人はサーチライトの光を、まぶしそうにしていましたが、まだ巨人のかげには気がつきません。あまり大きすぎて、近くではわからないのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-11834-12082">洋服を着た若い女の人でした。たぶんおじょうさんです。そのおじょうさんが、サーチライトの光の中にはいったとおもうと、どこからともなく、みょうな音が聞こえてきました。</seg></p>
        <p>「ウワン……ウワン……ウワン……。」</p>
        <p><seg source="#source-12138-12304">という、教会のかねの音のようなかんじでした。それがよいんをひいて、銀座の夜空いっぱいに、ひびきわたるのです。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-12304-12370"><seg source="#source-12304-12322">悪魔の笑い声</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12374-12988">おじょうさんは、その音にびっくりしたように、空を見あげました。どうも、空からふってくるような音だったからです。それから、見あげた顔を、ひょいと、銀行の壁にむけました。そして、おじょうさんは、壁のかげを見たのです。そのとき、巨人のかげは、口を大きくひらき、するどい歯をむきだして、おじょうさんの頭の上から、いまにも、かみつきそうにしていました。実物の千倍の顔が、おじょうさんの真上に、のしかかっていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-12988-13134">すると、空からふってくる、あのぶきみな音が、にわかに大きく、耳もやぶれんばかりにひびきました。</seg></p>
        <p>「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13220-13390">おじょうさんは、はっとして、かけだそうとしましたが、なにかにつまずいて、巨人の顔の下に、バッタリたおれました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13390-13563">巨人の顔は、グーッと、さがってきました。そして、かわいそうなおじょうさんに、ガッと、かみついたではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13563-13685">そして、また、顔を上にあげて、大きな口が、カラカラ笑っているように動きました。</seg></p>
        <p>「ウワン……ウワン……ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-13741-14286">ああ、悪魔が笑っているのです。あざけり笑っているのです。教会のかねのような音は、悪魔の笑い声だったのです。それが銀座の夜空いっぱいに、なりひびいているのです。どうしたのでしょう？　おじょうさんは、たおれたまま起きあがりません。どこか、けがでもしたのでしょうか。それとも悪魔にくい殺されてしまったのでしょうか。でも、まさか、かげが人をくい殺すことはありますまい。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14286-14549">こちらでは、おくびょうもののノロちゃんが、井上君のおとうさんにしがみついて、顔をかくしていました。顔をかくしても、音だけは聞こえます。恐ろしい悪魔の笑い声が聞こえてきます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-14549-14747">井上一郎君は、勇気のある少年ですから、じっと、むこうのできごとを見つめていましたが、なにを思ったのか、いそいで、おとうさんの洋服の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-14747-14762"><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby><seg source="#source-14762-14791">をひっぱりました。</seg></p>
        <p>「おとうさん、あのたおれた人、ぼく見おぼえがあります。つまずいて、たおれそうになったとき、わかったのです。マユミさんです。おねえさまです。」</p>
        <p>「えっ、おねえさまってだれのことだね。」</p>
        <p>「ほら、このあいだ話したでしょう。明智先生の助手のマユミさんです。ぼくらの少年探偵団の顧問になってくれた、おねえさまです。」</p>
        <p>「ああ、そうだったのか。それじゃ、あそこへいってみよう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15342-15611">おとうさんは、そういって、ノロちゃんの手をひっぱって、歩道から電車通りを、よこぎろうとしましたが、むこうの壁を見て、おもわず立ちどまりました。壁のかげが、かわっていたからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15611-15745">巨人の顔は消えて、そのあとに、巨大なクモの足のようなものが、もがもがと動いていました。</seg></p>
        <p>「あっ、悪魔の手だっ！　おねえさまを、つかもうとしている。おとうさん、はやくいきましょう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15885-15900">一郎君が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-15900-15915"><rb>叫</rb><rt>さけ</rt></ruby><seg source="#source-15915-15932">びました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-15932-15980">銀行の壁いっぱいに、五本の指の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-15980-15995"><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby><seg source="#source-15995-16366">の長くのびた手が、たおれているマユミさんの上から、つかみかかっているのです。実物の千倍の手が、つかみかかっているのです。そして、あのぶきみな悪魔の笑い声は、まだつづいていました。空から、ふってくるように、ウワン、ウワンと、なりひびいているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16366-16665">三人が、むこうがわに、たどりついたときには、もうそのへんは、黒山の人だかりでした。そして、いつのまにか、銀行の壁はまっ暗になっていました。悪魔のかげも、サーチライトの光も消えてしまっていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16665-16841">井上君たちは、人をおしわけて、たおれているマユミさんに近づき、井上君のおとうさんが、そのからだをだき起こしました。</seg></p>
        <p>「しっかりしてください。どこか、けがをしたんですか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-16924-17091">すると、マユミさんが目をあけて、夢からさめたようにあたりを見まわしましたが、井上君とノロちゃんに気がつくと、</seg></p>
        <p>「あらっ、少年探偵団のかたね。」</p>
        <p><seg source="#source-17141-17185">とうれしそうにいうのでした。</seg></p>
        <p>「けがはないのですか？」</p>
        <p>「ええ、べつに、けがはしていません。でも、わたし、夢を見たのでしょうか。恐ろしいものが、あの壁に……。」</p>
        <p>「夢ではありません。ぼくたちも見たんです。大きな顔のかげでしょう。もう消えてしまいましたよ。」</p>
        <p>「ええ、あれを見たひょうしに、つまずいてたおれたのですが、そのまま、なにかにおさえつけられているような気がして、起きられなかったのです。恐ろしい夢に、うなされているような気持でした。わたし、いくじがないのねえ。はずかしいわ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17865-17966">そういって、マユミさんは、ニッコリ笑いながら立ちあがるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-17966-18158">そこへ、おまわりさんがかけつけてきましたので、井上君のおとうさんが、さっきからのふしぎなできごとを話し、マユミさんが名探偵明智</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-18158-18188"><rb>小五郎</rb><rt>こごろう</rt></ruby><seg source="#source-18188-18253">の新しい助手だということも、つたえました。</seg></p>
        <p>「デパートの屋上から、サーチライトを照らして、あんないたずらをやったのに、ちがいありません。けしからんやつです。デパートを<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-18436-18460"><rb>捜索</rb><rt>そうさく</rt></ruby>して、そいつを、ひっとらえてください。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-18522-18554">警官はうなずいて、</seg></p>
        <p>「よろしい。すぐに本署に連絡して捜索をはじめます。あなたがたは、この人をうちへ送ってあげてください。」</p>
        <p><seg source="#source-18709-19122">といいますので、三人はマユミさんといっしょに自動車に乗って、明智探偵事務所におくりとどけました。そして、明智探偵と小林少年に、こんやのできごとを話しますと、いつもにこにこしている明智探偵が、なぜか、ひどく心配そうな顔になって、井上君のおとうさんに、こんなことをいうのでした。</seg></p>
        <p>「これは、ただのいたずらではないかもしれません。銀座のまん中で、そんなことをやってのけるやつは、ただものではありません。ぼくは、これが、なにか大事件のはじまりになるのではないかと心配しているのです。警察がいくらデパートを捜索してもむだでしょう。これほどのことをするやつが、むざむざつかまるはずはありません。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19586-19711">この明智探偵の心配は、そのとおりになりました。警察の捜索は失敗におわったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-19711-19741">警官隊はデパートの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-19741-19771"><rb>宿直</rb><rt>しゅくちょく</rt></ruby><seg source="#source-19771-20339">員に案内させて、屋上はもとより、各階のすみずみまでさがしまわりましたが、あやしいやつを発見することはできなかったのです。そのデパートには屋上にサーチライトがすえつけてありました。そのサーチライトが、つかわれたことは明らかです。しかし、それが何者のしわざであるかは、すこしもわからないのでした。そして、名探偵がさっしたとおり、これは、世にも恐ろしい怪事件のはじまりだったのです。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-20339-20399"><seg source="#source-20339-20354">大空の怪物</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20403-20585">銀座のできごとがあってから、三日目の真夜中に、まるで恐ろしい夢にうなされているような、とほうもないことがおこりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20585-20693">もう夜の十二時をすぎていました。どんよりとくもった、星のない夜でした。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-20693-20714"><rb>渋谷</rb><rt>しぶや</rt></ruby><seg source="#source-20714-20926">駅の近くの盛り場も、電灯が消えて、すっかり暗くなっていましたが、それでも帰りのおそい人たちが、戸をしめた商店の前を、おおぜい歩いていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-20926-21168">十二時十分ごろでした。歩いていた人たちが、おもわず立ちどまるような、みょうな音が、どこからともなく聞こえてきました。それは、ニコライ堂のかねのような音でした。</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21230-21484">みょうに、心のそこにこたえる、ぶきみなひびきです。それが、なんだか、空の方から聞こえてくるように思われるので、みんなは立ちどまって、まっ暗な空を、じっと見あげました。</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21570-21746">その音は、だんだん大きくなって、しまいには空いっぱいにひろがり、こまくもやぶれるほどの恐ろしいひびきになりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-21746-22144">あれとそっくりです。三日前の銀座の空からふってきた、あのぶきみなわめき声と、そっくりです。しかし、渋谷の大通りを歩いている人たちは、銀座の音を聞いていないので、まだわけがわかりません。ただ、気味わるさにふるえあがって、キョロキョロとあたりを見まわすばかりでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22144-22569">そのうちに、みんなが見あげている空に、びっくりするほど大きな白いものが、ボヤーッとあらわれてきました。白い雲でしょうか？　いや、こんなやみ夜に、雲が白く見えるはずはありません。百メートル四方もあるような、えたいのしれない白いものです。それが、もやもやと異様にうごめいているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22569-22904">暗い大通りを歩いていた人たちは、ひとりのこらず立ちどまって、まるで人形にでもなったように、身うごきもしないで、空を見あげていました。ときたまとおる自動車まで、車をとめて、運転手も乗客も窓をあけて、空を見あげているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-22904-22952">交番の前では、おまわりさんが、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-22952-22964"><rb>火</rb><rt>ひ</rt></ruby><seg source="#source-22964-22967">の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-22967-22988"><rb>見台</rb><rt>みだい</rt></ruby><seg source="#source-22988-23119">では、消防署のおじさんが、やっぱり、人形のように動かなくなって、空を見つめていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23119-23223">もやもやと、うごめいているものが、だんだん、はっきりしてきました。</seg></p>
        <p>「あっ、悪魔の顔だ！　悪魔が笑っているのだ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23294-23389">大通りに立っていたひとりの男が、とんきょうな声をたてました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23389-23820">それをきくと、そばに立っていた人たちは、ゾーッと、身の毛がよだつような気がしました。いかにもそれは人間の、いや、悪魔の顔だったからです。百メートル四方もあるような、とほうもなく巨大な悪魔の顔が、みんなの頭の上から、おさえつけるように、空いっぱいにひろがって、にやにや笑っていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-23820-24446">まっ暗な空に、その悪魔の巨大な顔だけが、ぼーっと白く浮きでているのです。なんて大きな目でしょう。ちょっとしたビルディングほどもある、でっかい目がギョロギョロと光って、ときどき、パチッ、パチッと、またたきをしています。鼻はそれよりも、もっと大きく、口も、おなじように大きいのです。はばが三十メートルもあるような大きな口が、にやにやと笑っているぶきみさは、それを見なかった人には、とても、想像できるものではありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">深夜の大通りに、「ワーッ。」というような、なんともいえない声が、わきおこりました。あまりの恐ろしさに、人びとがみんなそろって、叫び声とも、うめき声ともわからないような、ふしぎな声をたてたからです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24745-24807">その声を、うちけすように、またしても、</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-24893-25139">そして、空いっぱいの悪魔の顔が、グワッと、その巨大な口をひらきました。ひとつひとつが、一メートルもあるような白い歯があらわれ、その両はしに、するどくとがった巨大な</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-25139-25154"><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby><seg source="#source-25154-25241">が、ニュッとつきだしています。上下の歯のおくには、どす黒い</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-25241-25256"><rb>舌</rb><rt>した</rt></ruby><seg source="#source-25256-25306">が、うねうねと動いているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">人びとのあいだから、また「ワーッ。」という、ぶきみなひめいがおこりました。そして、みんな、両手で耳をふさぎ、目をとじて、その場にうずくまってしまいました。あまりに恐ろしくて、見ていられなかったからです。聞いていられなかったからです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-25659-26006">まるで、おいのりでもするように、地面にうずくまったまま、じっとしていました。だれも、逃げだすものはありません。逃げたって、空の悪魔はどこまでも、ついてくるからです。ちょうどお月さまが、いくら走っても、どこまでもついてくるように。</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26104-26244">やがて、恐ろしい空の声が、みるみる小さくなり、かすかになって、スーッと、消えていきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26244-26405">それでも、人びとは、まだ空を見あげる勇気がありません。まるで、死んでしまったように身動きもしないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-26405-26530">しばらくしてから、ひとりの男が、おずおずと目をひらいて、そっと空を見あげました。</seg></p>
        <p>「あっ、消えてしまった。みなさん、もう悪魔の顔はなくなりましたよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">それを聞くと、みんな目をあいて空を見ました。空はまっ暗で、もう、なんにも見えません。みんなの口から、安心したような「はーっ。」という、ためいきの声がおこりました。そして、人びとは正気をとりもどし、あの空のおばけが、もう一度あらわれないうちにと、それぞれの家庭へいそぐのでした。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27053-27487">読者諸君、いったい、これはどうしたことなのでしょう。その夜、渋谷の大通りを歩いていた人びとが、みんなそろって、夢を見たのでしょうか。それとも魔法にかかったのでしょうか。百メートルもあるような大きな顔が、空の雲の中にあらわれるなんて、そんなばかなことが、おこるはずがないではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-27487-27759">しかし、夢でも、魔法にかかったのでもありません。あの空のおばけは、渋谷のぜんたいの人が、見ていたのです。夜中に目をさまして、窓から空をのぞいた人は、みんな、あれを見ていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">このふしぎなできごとのわけは、やがてわかるときがきます。「ウワン、ウワン。」という声の出どころも、わかってくるのです。しかし、それは、もうすこしあとのお話です。それまでに、みなさんも、ひとつ、そのわけを考えてみてください。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28097-28286">このふしぎなできごとは、あくる日の新聞に、でかでかと書きたてられました。写真はとらなかったとみえて、出ておりませんが、画家が</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-28286-28310"><rb>写生</rb><rt>しゃせい</rt></ruby><seg source="#source-28310-28519">した天空の悪魔の顔が、大きくのっておりました。それが、全国の新聞にのったものですから、この怪事件は、日本じゅうのうわさの種になったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28519-28777">新聞は、三日前の夜の銀座のできごとと、関係があると書いていましたが、だれしも、そう感じました。巨大な黒いかげや、空いっぱいの白い顔の事件には、なにかしら、えたいのしれない</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-28777-28801"><rb>悪念</rb><rt>あくねん</rt></ruby><seg source="#source-28801-28848">がこもっているのを感じました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-28848-29156">しかし、その悪念がどんなものだかは、まったくわかりません。明智探偵がいったように、なにか恐ろしい事件のぜんちょうだろうと、想像するばかりで、それが、どんな恐ろしい事件なのか、だれにもわからないのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29156-29337">それからまた五日ほどたったとき、こんどは、まっ昼間、またしても、えたいのしれない気味のわるいできごとがおこりました。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-29337-29397"><seg source="#source-29337-29352">水中の悪魔</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29401-29491">明智探偵の少女助手マユミさんのおとうさんの花崎俊夫さんは、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-29491-29518"><rb>世田谷</rb><rt>せたがや</rt></ruby><seg source="#source-29518-29716">区に大きな邸宅をもっている、りっぱな検事さんでした。花崎さんにはマユミさんのほかに、もうひとり、男の子がありました。マユミさんの弟で</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-29716-29743"><rb>俊一</rb><rt>しゅんいち</rt></ruby><seg source="#source-29743-29922">君というのです。小学校の六年生ですが、ねえさんとちがって、探偵なんかきらいで、学校の勉強がすきな、おとなしい子でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-29922-30138">それは日曜日の午後のことです。俊一君は勉強につかれて、広い庭の中をさんぽしていました。花崎検事のうちの庭は三千平方メートルもあって、森のような</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-30138-30156"><rb>木立</rb><rt>こだ</rt></ruby><seg source="#source-30156-30305">ちがあり、そのまん中に、小さな池まであるのです。俊一君は、いま、その池のふちを歩いているのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">約五十平方メートルほどの小さな池です。水が青くよどんで、池の底は見えません。そんなに深くはないけれど、どろ深い池でした。おとうさんは、俊一君たちの小さいときには、この池のそばへ行ってはいけないと、きびしくいいつけていました。ひじょうにどろ深いのではまったら、どろの中へ沈んでしまうからです。よくいう「底なし沼」なのです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">俊一君は、三年生ぐらいまでは、この池がこわくてしようがありませんでした。俊一君のうちのじいやが、「あの池には<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-30955-30970"><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>がすんでいる。」といっておどかしたからです。ひとりで池のそばへいくと、目も鼻もない、のっぺらぼうの海ぼうずみたいなやつが、青くよどんだ水の中から、ヌーッと出てくるような気がしたのです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31248-31640">しかし、俊一君は、一年ぐらいまえから、そんなことを、こわがらないようになっていました。俊一君は学校のよくできる、かしこい少年でしたから、もうおばけがいるなんて、ばかばかしいことを考えなくなったのです。それで、へいきで、池のまわりを歩けるようになっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31640-31915">その日は、どんよりとくもった、いんきな天気でした。まだ三時ごろなのに、そのへんは夕方のようにうす暗いのです。大きな木が、森のように茂っているので、光がよくささないからでもあります。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-31915-32133">俊一君は池のそばに立って、ぼんやりと、青くよどんだ水の上を見ていました。風がないので、水は一枚の大きな青ガラスのように、じっとしているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32133-32405">そうしているうちに、なんだかへんな気持になってきました。なぜだかわかりませんが、世界じゅうで、じぶんが、たったひとりぼっちになってしまったような、さびしいさびしい気がしたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32405-32485">すると、そのとき、池の水が、ゆらゆらとゆれました。</seg></p>
        <p>「コイがはねたのかしら。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32526-32690">俊一君は、そう思って水のうごいた場所を見つめました。この池には大きなコイが、なんびきもすんでいたからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32690-32941">じっと見ていると、なんだか大きなものが、水の底から浮きあがってくるように感じられました。コイではありません。もっとずっと大きなものです。池いっぱいの大きなものです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-32941-33147">俊一君は、くらくらっとめまいがしました。あんまり、へんだったからです。まるで池の底が、ぐーっと、もちあがってくるように見えたからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33147-33350">水が青くにごっているので、よくは見えません。でも、その大きなものが、スーッと浮きあがってくるにつれて、だんだんはっきりしてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33350-33724">俊一君は、いまわしい悪魔を見ているのではないかと、うたがいました。それは、じつに、とほうもないものでした。ゆらぐ水の中をすかして見るので、たしかにそうだとはいいきれませんが、それはべらぼうに大きな、ほとんど池いっぱいの人間の顔のように見えました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33724-33999">俊一君は、もう動けなくなってしまいました。からだが石のようにかたくなり、足がしびれてしまって、どうすることもできないのです。心臓のドキドキする音が、じぶんの耳に、聞こえるほどです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-33999-34283">見まいとしても、目がそのほうに、くぎづけになって、見ないわけにはいきません。それは、やっぱり、人間の顔、いや、悪魔の顔でした。池いっぱいの巨大な悪魔の顔が、水面に浮きあがってきたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34283-34400">そいつは、水の中で、一メートルもある大きな目を、ギョロギョロさせていました。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-34400-34418"><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby><seg source="#source-34418-34421">一</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-34421-34442"><rb>畳</rb><rt>じょう</rt></ruby><seg source="#source-34442-34591">もある巨大な口の、まっかなくちびるのあいだから、牙のような二本の歯が、ニューッとのぞいていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34591-34914">顔だけでも、こんなに大きいのですから、こいつの胴体はどんなにでっかいか、思っただけでも気がへんになりそうです。その胴体が、池のどろの中に深くしずんでいて、頭だけが顔を上にむけて、浮きあがってきたのかもしれません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-34914-35366">いくら、こわさに身がすくんだからといって、このまま、ぐずぐずしていたら、どんなことが起こるかわかりません。巨人の顔が水の中から出たら、どうでしょう。俊一君のからだの百倍もあるような、恐ろしくでっかい顔です。そいつが池の上いっぱいに、ヌーッと出て、ぱっくり口をひらいたら、俊一君なんか、ひとのみです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">俊一君は、逃げるなら、いまだと思い、下っ腹に力を入れて、「なにくそっ！」と、がんばりました。すると、いままで動かなかったからだが、動きだしたではありませんか。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35608-35635">それからは、もう</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-35635-35671"><rb>無我夢中</rb><rt>むがむちゅう</rt></ruby><seg source="#source-35671-35784">でした。死にものぐるいで走ったのです。まるで、ころがるように走ったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35784-35879">俊一君が走りだすといっしょに、恐ろしい音が聞こえてきました。</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-35965-36231">俊一君は知りませんでしたが、読者諸君にはおなじみの、あのニコライ堂のかねのような音でした。巨人はもう池の上に顔を出したのでしょう。でなければ、水の中では笑うことができません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36231-36542">そのとき、俊一君のおとうさんの花崎検事は、洋室の書斎で本を読んでいましたが、検事の耳にも、あのぶきみな音が聞こえてきたのです。花崎さんは、びっくりして、いすから立ちあがると、窓をひらいて外をながめました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36542-36787">すると、庭のほうから、まっさおになった俊一君が、かけてくるのが見えました。なにか恐ろしいものに、追っかけられてでもいるように、死にものぐるいで走ってくるのです。</seg></p>
        <p>「おい、俊一、どうしたんだ。なにかあったのか！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-36861-37100">声をかけますと、俊一君は、おとうさんの顔を見て、助けをもとめるように、いっそう足をはやめて、窓の下にかけつけ、両手をひろげて、窓わくにとびつこうとしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37100-37432">そのようすが、だれかに追っかけられて、入口からまわっていては、まにあわないというように見えましたので、花崎検事も、いそいで両手をのばして、俊一君をひっぱりあげ、窓から書斎の中にいれて、ピシャリと、ガラス戸をしめました。</seg></p>
        <p>「おまえの顔色は、まるで、死人のようだぞ。いったい、なにがあったんだ？　けんかでもしたのか？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37575-37748">花崎さんは、そういって、俊一君をいすにかけさせ、テーブルの上にあったフラスコの水を、コップについで飲ませました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37748-37963">それで、やっと、俊一君は、声を出すことができるようになりました。そして、ことばもきれぎれに、池の中からあらわれた怪物のことを、しらせました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-37963-38013">すると、花崎さんは笑いだして、</seg></p>
        <p>「ハハハ……、おまえ、気でもちがったのか。そんなばかなことが、あってたまるものか。よしっ、おとうさんが、いって見てやる。」</p>
        <p><seg source="#source-38198-38315">と、俊一君がひきとめるのを、ふりはらって、書斎の外へ出ていきました。日本座敷の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-38315-38330"><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby><seg source="#source-38330-38410">がわから、庭へおりて、池のそばへ、かけつけたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38410-38697">俊一君は、おとうさんが、あの巨人にであって、食いころされるのではないかと、気が気ではありません。といって、おとうさんのあとを追って、庭へかけだす勇気もなく、ただ、やきもきするばかりでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-38697-38906">ところが、しばらくすると、花崎さんは、のんきそうににこにこしながら、庭のむこうから、帰ってきたではありませんか。そして、書斎にはいると、</seg></p>
        <p>「俊一、おまえは、まぼろしを見たんだよ。池の中には、なんにもいやあしない。おとうさんは、長い棒きれで、池をかきまわしてみたが、なんの手ごたえもなかったよ。あの小さな池に、そんな巨人がかくれていられるわけがない。おまえは、あんまり勉強しすぎて、頭がどうかしたのではないかね。」</p>
        <p><seg source="#source-39319-39363">と、心配そうにいうのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-39363-40070">それを聞くと俊一君は、またびっくりしてしまいました。あんなでっかいやつが、とっさのまに逃げられるはずはないし、そうかといって、もう一度池の中へ沈んでしまったというのもへんです。だいいち、あいつは魚類ではないのに、池の水の中で、どうして息をしていたのでしょう。そこまで考えると、俊一君は、やっぱり、じぶんの頭がどうかしたのかしらと、思わないではいられませんでした。あれが、目をさましていて夢をみる、まぼろしというものだろうかと、なんだかじぶんがこわくなってくるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40070-40563">しかし、俊一君は、まぼろしを見たのではありません。あの巨大な顔は、ほんとうに、池の底から浮きあがってきたのです。それでは、花崎さんが、かけつけたとき、その巨人が、池の中にも、池の外にも、いなかったのは、どうしたわけでしょう。そんな大きなやつが、昼間の町の中を、のこのこ逃げだしたら、すぐに大さわぎになるはずではありませんか。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-40563-40617"><seg source="#source-40563-40575">電話の声</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40621-40729">俊一君のおうちの池の事件があってから、また三日ほどたったある日のこと、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-40729-40756"><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby><seg source="#source-40756-40884">アパートの二階にある明智探偵事務所の客間で、ひとりの客が明智探偵と話をしていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-40884-41126">黒いビロードのだぶだぶの上着をきて、大きな赤いネクタイをむすび、かみの毛をながくのばした、画家か詩人のような、三十五―六の男です。大きなめがねをかけています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-41126-41141">この人は</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-41141-41183"><rb>人見良吉</rb><rt>ひとみりょうきち</rt></ruby><seg source="#source-41183-41593">という、あまり有名でない小説家ですが、お金持ちとみえて、一月ほどまえに、このアパートへ越してきて、明智探偵と同じ二階の小さな部屋に、ひとりぼっちで住んでいるのです。人見さんは、探偵小説家ではありませんが、探偵めいたことがすきで、よく明智探偵のところへ、話しにくるのでした。</seg></p>
        <p>「じつにおどろくべき怪物が、あらわれましたね。あなたの助手のマユミさんがおそわれたところをみると、どうやら、あなたに挑戦しているらしいではありませんか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-41826-41939">人見さんが、ひたいにたれかかる長いかみを、指でかきあげながらいうのです。</seg></p>
        <p>「そうかもしれません。とほうもないことを考えだすやつも、あるものですね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-42052-42099">明智が、にこやかに答えます。</seg></p>
        <p>「それにしても、空に巨人の顔があらわれたり、池の中から、巨人の顔が、浮きあがったりしたのは、いったい、どういうしかけでしょうね。あなたは、あれも、人間のしわざとお考えですか。」</p>
        <p>「むろん、そうですよ。ぼくには、手品の種もおおかたは、わかっています。」</p>
        <p>「え、おわかりですって？　ほう、そいつは、すばらしい。ひとつ、ぼくに聞かせてもらいたいものですね。」</p>
        <p>「いや、それは、もうすこし待ってください。いつか、あなたに、くわしくお話しするときがあるでしょうから。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-42785-42964">そんな話をしているところへ、助手のマユミさんが、コーヒーを持ってはいってきて、ふたりのまん中のテーブルにおきました。</seg></p>
        <p>「あ、マユミさん。もうすっかり元気におなりですね。しかし、このあいだの晩は、おどろいたでしょう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-43113-43244">人見さんが、声をかけますと、マユミさんは、はずかしそうに、ニッコリ笑って答えました。</seg></p>
        <p>「ええ、ふいに、あんな恐ろしいかげが、あらわれたものですから……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-43348-43878">そのとき、となりの書斎のデスクの上においてある電話のベルが鳴りだしたので、明智はそこへはいっていって、受話器を耳にあてました。すると、ウワン、ウワン、ウワン、ウワンと、みょうな音が聞こえます。耳なりかと思いましたが、そうでなくて、むこうの電話口で、そんな音がしているのです。二十秒ほどで、その音がやむと、こんどは、へんなしわがれ声が聞こえてきました。</seg></p>
        <p>「きみは明智先生かね。」</p>
        <p>「そうです。あなたはどなたですか。」</p>
        <p>「いまの音を聞かなかったかね。あの音で、さっしがつかないかね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-44070-44309">おばけのような、気味のわるい声です。明智探偵は、さてはと、感づきましたが、わざと、だまっていますと、せんぽうは、いよいよ、気味のわるいことをいいだすのです。</seg></p>
        <p>「きみの助手のマユミを用心したまえ。いいかね。いまから三日ののち、今月の十五日に、マユミは消えてなくなるのだ。きみがいくら名探偵でも、それをふせぐことはできない。……十五日を用心したまえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-44596-44766">そういったかと思うと、またしても、ウワン、ウワン、ウワンという、いやな音が、受話器の中から、ひびいてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-44766-44966">明智探偵は、そのまま受話器をかけて、にこにこ笑いながら、客間にもどってきました。人見さんは、その顔を、いぶかしげに見つめています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-44966-45073">マユミさんが、部屋を出ていくのを待って、明智探偵が口をひらきました。</seg></p>
        <p>「人見さん、あなたのおっしゃるとおりでしたよ。やつは、挑戦してきました。」</p>
        <p>「えっ、あの怪物がですか。」</p>
        <p>「そうです。今月の十五日に、マユミを消してみせるというのです。」</p>
        <p>「えっ、消してみせる？」</p>
        <p>「つまり、誘拐するというのでしょうね。予告の犯罪というやつですよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-45470-45553">そういいながら、明智はへいきで、にこにこしています。</seg></p>
        <p>「そうすると、あの巨人は、やっぱり、ふつうの人間だったのですね。しかし、だいじょうぶですか。あいては魔法つかいみたいな怪物ですからね。」</p>
        <p>「あいてが魔法つかいなら、こっちも魔法を使うばかりですよ。まあ、見ていてください。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-45887-45931">明智は、自信たっぷりです。</seg></p>
        <p>「でも、犯罪を予告してくるほど<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-45976-46000"><rb>大胆</rb><rt>だいたん</rt></ruby>なやつですから、油断はなりませんよ。あいつには、どんなてがあるか、わからないじゃありませんか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-46146-46229">小説家の人見さんは、いかにも心配らしく、いうのです。</seg></p>
        <p>「そういう怪物とたたかうのが、ぼくの役目ですよ。けっして、ひけはとりませんから、ご安心ください。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-46378-46502">明智探偵は、人見さんを、ぐっとにらみつけながら、きっぱりと、いいきるのでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-46502-46556"><seg source="#source-46502-46514">黒い怪物</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-46560-46725">その夕方のことです。マユミさんは、おとうさんの花崎検事のおうちに、用事があって出かけた帰り道、電車をおりて、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-46725-46749"><rb>千代田</rb><rt>ちよだ</rt></ruby><seg source="#source-46749-46838">区のさびしい町を、麹町アパートのほうへ、歩いていきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-46838-46978">明るいうちに帰るつもりだったのが、ついおそくなって、もう、あたりは、うす暗くなっています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-46978-47068">かたがわは長いコンクリートべい。かたがわは、草のはえた広い</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-47068-47089"><rb>空地</rb><rt>あきち</rt></ruby><seg source="#source-47089-47619">です。明智探偵は、さっきの怪物の電話のことを、マユミさんには話さないでおきましたから、そのことは知らないのですが、このあいだの銀座の事件や、弟の俊一君が見た池の中の怪物のこともありますので、いくらしっかりもののマユミさんでも、こんなさびしい町を通るのは、やっぱり、うす気味がわるいのです。自動車に乗ればよかったと後悔しながら、いそぎ足に歩いていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-47619-47762">ふと気がつくと、むこうの電柱のかげに、黒い大きなふろしき包みのようなものが、おいてあります。</seg></p>
        <p>「どこかの店員が、おきわすれていったのかしら？」</p>
        <p><seg source="#source-47836-48027">と思いましたが、ふろしき包みにしては、なんだか、へんなかっこうです。まるで、まっ黒なでこぼこの、大きな岩のように見えるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-48027-48335">マユミさんは、ふと恐ろしくなって、立ちどまりました。そして、じっとにらんでいますと、むこうの黒いものも、こちらを、にらんでいるような気がします。目はないけれども、なんだかにらんでいるような感じなのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-48335-48460">マユミさんは、ギョッとしました。黒いものが、かすかに動いたように思ったからです。</seg></p>
        <p>「やっぱりそうだわ。あれは、怪物がばけてるんだわ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-48540-48818">そう思うと、にわかに、胸がどきどきしてきました。そして、もと来たほうへ、ひきかえそうとしましたが、うしろをむけば、黒いやつが、いきなり、とびかかってきそうで、逃げることもできません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-48818-48991">マユミさんは、ヘビにみいられたカエルのように、じっと立ちすくんで、その黒いものを見つめているほかはないのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-48991-49110">やっぱりそうです。黒いものは、動いているのです。もぞもぞと動いているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-49110-49280">やがて、黒いものが、ヌーッと上のほうにのびました。そして、ふわ、ふわと、こちらへ近づいてくるではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-49280-49423">マユミさんは、からだが、しびれたようになって、声をたてることも、どうすることも、できません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-49423-49587">それは人間の形をしていました。人間が黒い大きなきれを、頭からかぶって、電柱のかげにうずくまっていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-49587-49832">そいつは、まっ黒な幽霊のように、ふわふわと、こちらへやってきます。そして、三メートルほどに近づいたとき、かぶっていた黒いきれを、パッとひらいて、顔を見せました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-49832-50080">ああ、その顔！　マユミさんは、まだ見ていなかったけれど、渋谷の空にあらわれた巨大な顔、俊一君が見た池の中の巨人、あれとそっくりの恐ろしい顔が、そこにあったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-50080-50268">夕やみの中で、はっきりは見えませんが、顔ぜんたいが、ぼんやりと白っぽくて、大きな目が、ぎょろりと、こちらをにらんでいます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-50268-50429">そいつが、グワッと、口をひらきました。耳までさけた大きな口、白い二本の牙が、ニューッととびだしています。</seg></p>
        <p>「マユミ、おまえの運命を聞かせてやろう。今月の十五日、おまえは、この世から消えてしまうのだ。ある部屋の中から、<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-50594-50612"><rb>煙</rb><rt>けむり</rt></ruby>のように消えうせてしまうのだ。わかったか。いくら用心しても、だめだ、明智にたのんでも、だめだ。かわいそうだが、これが、おまえの運命なのだ。よくかくごをしておくがいい。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-50866-51213">いいおわると、どこからともなく、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワンと、あのいやな音が聞こえてきました。銀座や渋谷のときのような、大きな音ではありません。もっと、ずっと小さな、やっと二十メートル四方に聞こえるぐらいの音でした。</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-51275-51900">怪物は黒いきれを、頭からかぶって、サーッと、原っぱの中へ、遠ざかっていきます。それとともに、あの音も、だんだん、かすかになり、ついにまったく、聞こえなくなってしまいました。マユミさんは、しばらくのあいだ、魔法にしばられたように、足を動かすこともできないで、ぶるぶるふるえながら立っていましたが、やっと、魔法がとけたのか、からだが動くようになったので、そのまま、いちもくさんに、明智事務所に向かってかけだしました。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-51900-51954"><seg source="#source-51900-51912">クモの糸</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-51958-52053">そして、いよいよ、その日がきたのです。きょうは、十五日です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-52053-52212">マユミさんはアパートの二階の、じぶんの寝室に、とじこもっていました。明智探偵が借りている部屋は、浴室や、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-52212-52239"><rb>炊事場</rb><rt>すいじば</rt></ruby><seg source="#source-52239-52595">をべつにして、五間もあるのですが、そのいちばん奥まったところに、マユミさんの寝室がありました。もとは小林少年の寝室だったのを、小林君は明智先生の寝室に寝ることにして、新しく助手になったマユミさんに、じぶんの寝室を、ゆずりわたしたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-52595-53074">マユミさんの寝室へいくのには、どうしても書斎を通らなければならないのです。そして、その書斎には明智探偵が、一日外出しないで、がんばっていました。隣の部屋には、小林君がいます。そのうえ、マユミさんは、寝室のドアに中からかぎをかけているのです。これだけ厳重にしておけば、いくら怪物でも、どうすることもできないはずでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53074-53346">二階のマユミさんの寝室の窓は、アパートの横がわにひらいていて、その下は地面まで十五メートルもありました。アパートの横ががけになっていて、建物は高い石がきの上にたっていたからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53346-53516">ですから、窓のほうは、すこしも心配することがありません。そんなところを、よじのぼってこられるはずはないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53516-53785">マユミさんは、朝から、その寝室にとじこもり、昼の食事は、小林君にはこんでもらって、部屋の中ですませましたが、午後になると、そうしてじっとしているのが、たいくつになってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53785-53886">いままで、本を読んでいましたが、それにも、あきてしまったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-53886-54035">午後三時ごろでした。窓の外の、がけの下から、パーンと、なにか爆発したような音が聞こえてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-54035-54340">マユミさんは、びっくりして、窓のほうをふりむきましたが、すると、そのガラス窓の外を、赤、青、むらさき、黄色などの、うつくしい玉が、いくつも、いくつも、つぎつぎと、空のほうへのぼっていくのが見えました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-54340-54430">空は、どんよりと曇っていましたが、その白っぽい雲の中へ、五</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-54430-54448"><rb>色</rb><rt>しき</rt></ruby><seg source="#source-54448-54516">の玉が、スーイ、スーイとのぼっていくのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-54516-54911">マユミさんは、あまりのうつくしさに、まぼろしでも見ているのではないかと、びっくりしましたが、よく考えてみると、それは色とりどりのゴム風船のようでした。がけの下で、風船屋がそそうをして、つないであった糸がきれて、ぜんぶの風船が、空へ飛びあがったのかもしれません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-54911-55195">しかし、こんながけの下へ、風船屋がくるなんて、ありそうもないことです。マユミさんは、ふしぎでしかたがないので、おもわず立って、窓のそばへいき、ガラスの戸をひらいて、下をのぞいてみました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-55195-55401">そのときです。じつに、恐ろしいことがおこりました。窓のほうから、一ぴきの巨大なクモが、黒い糸をつたって、スーッと、さがってきたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-55401-55569">ほんとうのクモではありません。クモのような人間です。ピッタリと身についた黒いシャツとズボン下をはき、顔には黒い</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-55569-55593"><rb>覆面</rb><rt>ふくめん</rt></ruby><seg source="#source-55593-55692">をした、クモそっくりの人間です。そいつが、じょうぶな絹糸でつくった</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-55692-55707"><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby><seg source="#source-55707-55793">ばしごをつたって、真上の三階の窓から、おりてきたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-55793-56147">あっというまにクモは、えものにとびつきました。えものというのはマユミさんです。うっかり窓をひらいて、外をのぞいたのが運のつきでした。それを待ちかまえていた巨大なクモは、パッとマユミさんにとびついて、クモの毒ではなくて、麻酔薬をしませた</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-56147-56171"><rb>白布</rb><rt>しろぬの</rt></ruby><seg source="#source-56171-56374">を、彼女の口におしつけ、ぐったりとなるのを待って、そのからだを横だきにすると、窓をしめておいて、かた手で縄ばしごをのぼりはじめました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-56374-56724">空中のはなれわざです。マユミさんをかかえて、縄ばしごをのぼるなんて、よほどの力がなくてはできないことです。下を見れば、ゾッとするほどの高さです。絹糸をよりあわせた縄ばしごは、人間ふたりの重みで、いまにも切れそうにのびきっています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-56724-56783">それが切れたら、いのちはありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-56783-57043">やっとのことで、三階の窓にのぼりつきました。そして、まずマユミさんを、窓の中にいれ、じぶんもはいって、縄ばしごをたくりあげ、ピッタリと窓をしめて、カーテンをおろしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-57043-57294">あとは、なにごともなかったかのように、しずまりかえっています。二階の窓も三階の窓もしまっているので、マユミさんが、窓から引きあげられたことは、だれにもわかりません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-57294-57458">怪物の予告は、そのままに実行されたのです。マユミさんは、寝室の中から、煙のように消えうせてしまったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-57458-57607">三階のその部屋は、このアパートで、たった一つのあき部屋でした。怪物は、それを利用したのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-57607-58122">かれは気をうしなっているマユミさんの手足を、厳重にひもでしばってから、黒い覆面をはずして、ニヤリと笑いました。やっぱりあいつです。ボヤッとした白っぽい顔、大きな目、牙のはえた大きな口、人間ににているけれども、人間ではありません。深い地の底からはいだしてきた悪魔の顔です。渋谷の空や、花崎さんの庭の池にあらわれた、あのいまわしい巨人の顔です。</seg></p>
        <p>「ウフフフ……、これでまず、第一の目的をはたしたぞ。明智のやろう、ざまをみろ。名探偵ともあろうものが、マユミをまもることができなかったじゃないか。ウフフフ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-58367-58585">怪物はそんなひとりごとをいって、部屋にある戸棚をひらき、そこにかくしてあった大きなトランクを、ひっぱりだしました。外国旅行用の大トランクです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-58585-58983">トランクのふたをひらくと、手足をしばったマユミさんをだきあげて、そっとトランクの中にいれ、またふたをしてかぎをかけ、それを戸棚の中にいれて戸をしめると、怪物は、そのまま部屋を出ていってしまいました。トランクは、夜になるのを待って、どこかへ運びだすつもりでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-58983-59237">ああ、明智探偵は怪物のために、まんまと、だしぬかれたのでしょうか？　ほんとうに怪物が勝って名探偵が負けたのでしょうか？　いや、まだ、どちらともきめることはできません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-59237-59335">それから三十分もたったころ、じつにふしぎなことがおこりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-59335-59835">怪物は三階のあき部屋をたちさったまま、どこへ姿をかくしたのか、夜になるまで、帰ってきませんでしたが、そのるすのまに、なんだか、わけのわからないことがおこったのです。あのあき部屋のドアがスーッとひらき、中からマユミさんが出てきたではありませんか。そして、幽霊のように、足音をたてないで階段をおり、明智探偵の部屋へはいっていきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-59835-59885">だれかが、助けたのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-59885-59965">それにしては、助けた人の姿が見えないのがへんです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-59965-60063">ひとりで、ぬけだしたのでしょうか。それも考えられないことです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60063-60233">あんなに厳重に手足をしばられたうえ、トランクにはかぎがかかっていたのです。どうしてぬけだすことができましょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60233-60339">明智探偵の部屋へはいってきたのは、マユミさんの幽霊なのでしょうか？</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-60339-60417"><seg source="#source-60339-60363">大トランクの出発</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60421-60532">さて、その夜の九時ごろのことです。同じアパートの二階に住んでいる小説家の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-60532-60574"><rb>人見良吉</rb><rt>ひとみりょうきち</rt></ruby><seg source="#source-60574-60630">が、明智の応接間へはいってきました。</seg></p>
        <p>「明智先生、ぼく、これから、ちょっと旅行してきます。京都まで夜汽車です。二―三日で帰ります。小説の種さがしですよ。……おや、明智先生、あなた、顔色がよくないようですが、どうかなさったのですか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-60923-61084">人見さんが心配そうにたずねました。明智探偵はつくえの前にこしかけたまま、がっかりしたような声で答えます。</seg></p>
        <p>「あなただから、うちあけますがね。じつは、やられたのです。マユミが消えてしまったのです。」</p>
        <p>「えっ、マユミさんが？　いつ？　どこで？」</p>
        <p><seg source="#source-61286-61289">「</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-61289-61313"><rb>密閉</rb><rt>みっぺい</rt></ruby>された寝室の中から、消えうせてしまったのです。ドアには中からかぎがかけてありました。窓は地面から十五メートルもあるので、窓から出はいりすることはできません。そのうえ、ぼくは、一日寝室のドアの見えるところにいたのです。つまり完全な密室です。マユミは、その密室から、煙のように消えうせたのです。」</p>
        <p>「すると、あの怪物は、ちゃんと、約束をまもったわけですね。」</p>
        <p>「残念ながら、そのとおりです。」</p>
        <p>「で、てがかりは？」</p>
        <p>「なにもありません。しかたがないので、警察の手をかりることにしました。警察はけさから東京付近に、非常線をはって、あの怪人物をさがしています。しかし、おそらく急には、つかまらないでしょう。あいては魔法つかいのようなやつですからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-62274-62501">いつもにこにこしている明智が、青い顔をして、しおれかえっています。名探偵が、こんなにがっかりしたようすを見せたのは、あとにも先にも例のないことです。</seg></p>
        <p>「そりゃ、ご心配ですね。それにしても、明智先生、あなたは、あの怪物を、みくびりすぎましたよ。ちゃんと電話で、予告しているんですからね。すくなくとも、きょうは、昼も夜も、マユミさんのそばに、つききりにしているほうが、よかったですね。ぼくが旅行をしなければ、なにかお手つだいをしたいのですが、残念です。……小林君はどうしました。このさい、先生と小林君とで、うんと活動していただかなければなりませんからね。」</p>
        <p>「小林も、すっかり、しょげていますよ。……小林君、ちょっと、ここへきたまえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-63225-63339">その声におうじて、むこうのドアがひらき、小林少年がはいってきました。いつも</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-63339-63363"><rb>快活</rb><rt>かいかつ</rt></ruby><seg source="#source-63363-63467">な小林君が、きょうは、うなだれた顔をあげることもできないようすです。</seg></p>
        <p>「小林君、しっかりしたまえ。きみが明智先生を、はげましてくれなくちゃ、こまるじゃないか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">人見さんに、そういわれても、小林君は、まだうなだれたまま、かすかに、「ええ。」と答えるばかりでした。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-63759-63890">そこへ、廊下のほうのドアをノックして、アパートの玄関番のじいさんが、顔をだしました。</seg></p>
        <p>「人見さん、お呼びになった運転手がきました。お荷物はどこですか。」</p>
        <p>「ああ、そうか、いまいくよ。……明智先生、どうか元気をだして、がんばってください。ではいってきます。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-64146-64331">人見さんは、かるくおじぎをして、廊下のほうへ出ていきます。明智探偵と小林少年は、ドアのところまで、それを見おくりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-64331-64642">ふたりが、ひらいたままのドアの中に立って、見ていますと、人見さんの部屋から、人見さんと自動車の運転手が、大きなトランクを、ふたりがかりで、エッチラ、オッチラと、はこびだしてきました。重そうなトランクです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-64642-64974">二―三日の旅行に、そんな重いトランクがいりようなのでしょうか。明智探偵も、小林少年も、それを、うたがわねばならぬはずでした。ところが、ふしぎなことに、ふたりとも、ぼんやりした顔で、だまって、それを見おくっているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-64974-65303">人見さんと運転手は、トランクをはこんで、エレベーターの中へはいりました。そして、そのエレベーターがおりていってしまうと、明智探偵と小林少年は、ドアをしめて、部屋にもどり、立ったまま向かいあって、顔を見あわせたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-65303-65593">ふしぎなことがおこりました。ふたりの顔から、あの心配そうなかげが、スーッと消えていって、にこやかな顔になったのです。そして、ふたりは、おかしくてたまらないように、笑いだしたではありませんか。</seg></p>
        <p>「ウフフフ……きみの変装はよくできたね。さっきのように、うなだれていれば、だれだって、小林君だと思うよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-65754-65867">明智探偵がいいますと、小林少年とそっくりのあいてが、女の声で答えました。</seg></p>
        <p>「わたし、顔をあげちゃいけないと思って、ずいぶん、がまんしましたわ。でも、うまく、あの人を、だませましたわね。」</p>
        <p>「あの先生、トランクの中に、きみのかわりに小林君がはいっているとも知らず、とくいになって運んでいったね。いまにびっくりしても、おっつかないようなことがおこるよ。」</p>
        <p>「でも、先生、小林さん、だいじょうぶでしょうか。わたし、なんだか心配ですわ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-66401-66499">小林少年に変装したマユミさんが、まじめな顔になっていいました。</seg></p>
        <p>「小林君は、いままでに、こういう冒険は、いくどもやっている。いざとなると、ぼくでもかなわないほど、頭のはたらく少年だからね。だいじょうぶ、怪物のすみかをたしかめて逃げだしてくるよ。……人見は怪物から電話がかかってきたとき、ぼくの目の前にいたのだから、かれは怪物の手下にすぎないのかもしれぬ。だから、うっかり、あいつをつかまえると、かんじんの怪物を逃がしてしまう心配がある。それできみがトランクにいれられたのをさいわいに、小林君に身がわりをつとめさせたのだよ。こうして、怪物のすみかを、さぐってしまえば、あとは警察の力で、ひとりのこらず、とらえることができるからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-67350-67676">明智探偵は、さいしょから人見という小説家を、うたがっていました。それで、小林少年に、そっと見はりをさせておくと、マユミさんが、トランクにいれられたことがわかりましたので、小林少年を身がわりにする計画をたてたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-67676-67865">小林君は、夕がた女の服をきて、マユミさんとそっくりの姿に、変装して三階のあき部屋にしのびこみ、針金をまげた道具で、トランクの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-67865-67883"><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby><seg source="#source-67883-67999">をひらき、もう麻酔のさめていたマユミさんを助けだして、縄をといてやりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-67999-68361">そして、かわりに、じぶんがトランクの中へはいり、マユミさんに、外から、さっきの道具で、錠をおろさせたのです。トランクには、いきがつまらないように、ほうぼうに、小さな穴があけてあるので、いくら長くはいっていても、命にべつじょうはありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-68361-68555">その夕がた、トランクにいれられたはずのマユミさんが、三階の部屋を出て、明智探偵の部屋にもどったのは、そういうわけだったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-68555-68914">しかし、トランクづめになった小林君は、これから、どうなるでしょう？　いくら冒険になれているといっても、あいてが、あの恐ろしい妖人ゴングです。もしや、いままでに、一度も出あったことのないような恐ろしいめに、あわされるのではないでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">新聞は、この怪物に、「妖人ゴング」という名をつけていました。ゴングというのはドラのことです。あのウワン、ウワン、ウワンという声が、まるでドラを、ゴン、ゴンとたたくように聞こえるので、だれいうとなく、妖人ゴングという、怪物にふさわしい名がついたのでした。</p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-69299-69347"><seg source="#source-69299-69308">水の底</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-69351-69671">にせ小説家の人見良吉と、大トランクをのせた自動車は、アパートを出発して、東へ、東へと走りました。人見がなにもさしずをしないのに、運転手は、かってに車を進めていきます。この運転手も、怪物の手下にちがいありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-69671-69698">十五分も走ると、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-69698-69731"><rb>勝鬨橋</rb><rt>かちどきばし</rt></ruby><seg source="#source-69731-69743">の近くの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-69743-69773"><rb>隅田川</rb><rt>すみだがわ</rt></ruby><seg source="#source-69773-69976">の岸につきました。その岸に、こわれかかった倉庫のような建物があります。人見と運転手は、大トランクを運んで、その建物の中にはいりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-69976-70293">人見が、どこかのスイッチをおすと、てんじょうからさがっているはだか電灯が、パッとつきました。建物の中には、こわれたつくえやいすなどがころがっていて、いっぽうのすみには、わらやむしろが、うず高くつんであります。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-70293-70388">ふたりは、大トランクを、そのわらとむしろの中へかくしました。</seg></p>
        <p>「仕事は、真夜中だ。トランクの中のむすめさんは、さぞ腹がへっているだろうが、がまんをしてもらおう。いずれ、向こうへついたら、どっさり、ごちそうをたべさせてやるのだからね。じゃ、こんどは、れいのところへ、やってくれ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-70714-70911">人見はそういって、運転手をうながして、外に出ると、倉庫のドアにかぎをかけ、そのまま自動車に乗って、どこともしれず立ちさりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-70911-71130">さて、その夜の一時ごろ、人見は倉庫へ帰ってきました。倉庫のうらは、すぐ隅田川ですが、そのまっ暗な岸に、一そうの小船がついていました。人見は小船の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-71130-71154"><rb>船頭</rb><rt>せんどう</rt></ruby><seg source="#source-71154-71276">に手つだわせて、大トランクを船につみ、じぶんも、船頭といっしょに乗りこみました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-71276-71291">船頭は、</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-71291-71321"><seg source="#source-71291-71294">ろ</seg></hi><seg source="#source-71321-71668">をこいで、東京港のほうへ船を進めます。モーターもない旧式な船です。船の上には、トランクのほかに、みょうなものが積んであります。それは潜水服でした。しんちゅうでできた、大ダコの頭のような潜水カブトが、やみの中に、にぶく光っています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-71668-71766">人見は、船が岸をはなれるのを待って、へんなことをはじめました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-71766-72356">まず、ポケットから、たくさんのネジクギを出して、大トランクの息ぬきの穴へ、それを、ひとつ、ひとつねじこみ、すっかり、息がかよわないようにしてしまいました。トランクの中には、小林君がしのんでいるのです。こんなに、息をとめられたら、死んでしまうではありませんか。しかし、十分や二十分はだいじょうぶです。トランクの中の酸素が、すっかりなくなってしまうまでには、そのくらいの、よゆうがあるはずです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-72356-72640">穴をつめてしまうと、こんどは、船の中に用意してあった長い針金を、トランクのまわりに、グルグル巻きつけました。その針金のさきには、大きななまりのおもりが、いくつも、くくりつけてあるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-72640-72915">それから、人見は、背広の上から、潜水服を身につけました。しんちゅうの大ダコのような、ぶきみな頭、全身をつつむ、だぶだぶのゴム製の服、その足にも、大きななまりのおもりがついています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-72915-73011">船が勝鬨橋から東京港にむかって三百メートルも進んだころ、船頭は</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-73011-73041"><seg source="#source-73011-73014">ろ</seg></hi><seg source="#source-73041-73208">をこぐのをやめて、船をとめました。あたりはまっ暗です。ずっと向こうに、東京湾汽船発着所のあかりが見えています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-73208-73465">船の中では、潜水服を着た人見と、船頭とが、針金を巻いて、おもりをつけたトランクを、やっこらさと、ふなばたに持ちあげ、そのまま、ドブーンと、水の中へ落としてしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-73465-73695">ああ、小林少年は、川にほうりこまれたのです。もう助かるみこみはありません。小林君はマユミさんの身がわりになって、とうとう、殺されてしまうのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-73695-73923">トランクをほうりこむと、つぎに潜水服の人見が、手に小さい水中灯をさげて、ふなばたを乗りこえ、水の中へはいりました。ふつうの潜水服とちがって、空気を送る</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-73923-73938"><rb>管</rb><rt>くだ</rt></ruby><seg source="#source-73938-74171">も、水の底から引きあげてもらう綱もついておりません。そのかわりに、潜水服の背中のところに、酸素のボンベがとりつけてあります。ちっそくする心配はないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-74171-74440">足から腰、腰から腹、腹から胸と、まっ黒な水の中へ沈んでいき、やがて、大ダコの頭も、見えなくなってしまいました。あとには、水面にぶくぶくと、白いあわが浮きあがってくるばかりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-74440-74714">のぞいてみると、水面の下のほうが、ボーッと明るくなっています。人見がさげている水中灯の光です。しかし、その光も、だんだん底のほうに沈んでいって、ついに見えなくなってしまいました。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-74714-74780"><seg source="#source-74714-74732">トランクの中</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-74784-74912">トランクの中に、とじこめられていた小林少年は、いったい、どんな気持だったでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-74912-75109">自動車につまれて十五分ほど走り、どこかの建物の中へおろされたかと思うと、あたりはシーンと静かになり、だれもいなくなったようです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-75109-75165">それから夜中までの、長かったこと！</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-75165-75440">夜光の腕時計をはめていたので、ときどき、それを見るのですが、時間のすすむのが、じつにおそいのです。九時半ごろから、真夜中までの三時間あまりが、まるで、一ヵ月のように感じられました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-75440-75790">だんだんおなかがへってくる、のどがかわいてくる、その苦しさというものはありません。それに、夕がたから、からだをまげたまま、トランクづめになっているので、手も足もしびれてしまって、どこか背中のほうが、ズキン、ズキンと、いたむのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-75790-76035">なんど、トランクをやぶって逃げだそうと思ったかしれません。ピストルも持っているし、ナイフもあるのです。トランクをやぶるのは、さしてむずかしいことではありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-76035-76325">しかし、小林君は、歯をくいしばって、がまんしました。せっかく敵のすみかをさぐるために、トランクにはいったのですから、いま逃げだしては、なんにもなりません。あくまで、がんばるほかはないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-76325-76684">ときどき、うとうとと眠りました。けっして、こころよい眠りではありません。あまりのいたさ、あまりのひもじさに、頭がしびれるようになって、おぼえがなくなったのです。眠るというよりは、気をうしなったのです。いくどとなく、気をうしなったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-76684-76930">しかし、やっとのことで、真夜中になりました。そして、どこかへ、はこびだされました。ゆらゆらと、いつまでもゆれています。船に乗せられたらしいのです。ギイ、ギイという</seg><hi rend="bouten 傍点 right" source="#source-76930-76960"><seg source="#source-76930-76933">ろ</seg></hi><seg source="#source-76960-77010">の音が、かすかに聞こえてきます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-77010-77276">そのうちに、トランクのあちこちに、コチコチと、金属のふれあう、かすかな音がしました。それは、息ぬきの穴に、ネジクギをさす音だったのですが、小林君には、そこまではわかりません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-77276-77566">しばらくすると、なんだか息ぐるしくなってきました。いままで、トランクの中でも、かすかなすきま風のようなものを感じていたのに、それがぱったりなくなり、外の物音も、まったく聞こえなくなりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-77566-78168">そのうちに、船のゆれかたと違うゆれかたを感じました。ふなばたに持ちあげられたときです。そして、らんぼうに投げだされるような気がしたと思うと、エレベーターでおりるときのような、スーッと沈んでいく感じが、しばらくつづきました。そして、からだのほうぼうが、チクチクと、針でさすように、つめたくなってきました。いくらネジクギでとめても、どこかに、かすかなすきまがあるので、そこから水がしみこんできたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-78168-78407">小林君が、それを水だとさとるまでには、何十秒かかかりましたが、ハッとそれに気がつくと、さては、水の中へ沈められたのかと、気もとおくなるほど、おどろきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-78407-78925">しかし、びっくりしたときには、もう沈むのがとまっていて、しばらくすると、横にズルズルとひっぱっていかれるような感じが、すこしつづき、それから、こんどは上の方へ持ちあげられ、人の手で運ばれるような気持がして、やがて、どこかへおかれたらしく、ぱったり動かなくなってしまいました。もう水の中ではなさそうです。小林君は、やっと、いくらか安心しました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-78925-79059">カチカチと、音がします。トランクのかぎあなへ、かぎをいれて、まわしているらしいのです。</seg></p>
        <p>「さては、ここで、ふたをひらくんだな。」</p>
        <p><seg source="#source-79121-79216">と思うと、こんどはまたべつの心配で、胸がドキドキしてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-79216-79473">パッと、トランクのふたがひらかれました。おいしい空気が、サーッと吹きこんできました。電灯がついているらしく、目をふさいでいても、まぶしいほど、まぶたが明るくなりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-79473-79739">目をあいて、あたりを見まわしたい。きゅうくつなトランクから飛びだして、おもうぞんぶん手足をのばし、深く息をすいたい。しかし、小林君は、ここが、がまんのしどころだと思いました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-79739-79933">それで、トランクの中に、じっと、身をちぢめたまま、そっと、かすかに、まぶたをひらいて、まつげのあいだから、外をぬすみ見ました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-79933-80333">ひとりの人間が、トランクの上にかがみこんで、マユミさんに変装した小林君を、じっと見ているのです。あいつです。大きな白っぽい、うつろの目、長い牙のはえた恐ろしい口、その顔が、五十センチの近さで、映画の大うつしのように、小林君の目の前にせまっていたではありませんか。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-80333-80393"><seg source="#source-80333-80348">ふしぎな家</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-80397-80615">小林君は、マユミさんにばけているのを、見やぶられてはたいへんですから、わざと目をほそくして、ぶるぶるふるえているような、ようすをしていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-80615-80893">さいわい、部屋がうす暗いので妖人ゴングは、まだにせものとは気がつきません。いや、たとえ、部屋が明るくても、明智探偵におそわった小林君の変装術は、なかなか見やぶれるものではないのです。</seg></p>
        <p>「ウフフフ……、マユミ！　こわいか。だが、安心するがいい。べつに、おまえをとって食おうというわけではない。ただ、しばらくのあいだ、おれのうちに閉じこめておくのだよ。ベッドもあるし、ごはんも三度三度、ちゃんと、たべさせてやる。おまえは、その閉じこめられた部屋から、一歩も、外へ出られないというだけのことだよ。さあ立つんだ。そして、あっちの部屋へいくのだ。……おいきみ、手をかしてやりな。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-81474-81644">すると、ゴングのうしろにいた、ひとりの部下が、ツカツカと、トランクのそばによって、小林君をひき起こすのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-81644-81931">小林君は、あくまで女らしいようすで、立ちあがる力もないように見せかけながら、トランクを出て、床の上にうずくまりました。そして、あたりを見まわしますと、そこは、じつにきみょうな部屋なのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-81931-82323">四方とも壁ばかりで、窓というものが、ひとつもありません。まるで大きなコンクリートの箱のような部屋です。むこうにドアがひらいていますから、外に、廊下があるのでしょうが、そこは、まっ暗で、なにも見えません。部屋の中にも、小さな電灯がひとつ、ついているばかりです。</seg></p>
        <p>「それじゃ、このむすめを、れいの部屋へ閉じこめておきな。……マユミ、そのうちに、ゆっくり、話しにいくからな。あばよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-82502-82609">ゴングは、そういって、さようならというように、手をふってみせました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-82609-82953">すると、部下のあらくれ男は、小林君の手をひっぱって、ドアの外にでました。暗い廊下をひとつまがると、そこのドアをひらいて、小林君を中へつきたおしておいて、パタンとドアをしめ、外からかぎをかけると、そのまま立ちさってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-82953-83534">その部屋には、電灯がついていないので、まっ暗です。小林君は、万年筆型の懐中電灯を持っていましたが、それをつけるのは危険だと思ったので、手さぐりで壁をつたって、グルッと、部屋をひとまわりしてみました。ここにも、窓というものが、ひとつもありません。この家に住んでいる悪人たちは、太陽の光がこわいので、わざと、窓をつくらなかったのでしょうか。それとも、なにかほかに、わけがあるのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-83534-83899">部屋のすみにベッドがおいてあることが、手さぐりでわかりましたので、小林君は、ともかく、その上に寝ころんで、からだを休めました。長い時間トランクの中で、きゅうくつな思いをしていたので、そうしてながながと、寝そべっていると、じつにいい気持です。</seg></p>
        <p>「やつらが、ぼくをマユミさんだと思いこんでいるうちに、この家のようすをさぐって、逃げださなければならない。それには、どんな計略をめぐらせばいいのだろう？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-84132-84560">小林君は目をつむって、いろいろと考えていましたが、いままでのつかれが出たのか、しらぬまに眠ってしまいました。悪人に閉じこめられ、これからどんなめにあうかしれないのに、グウグウ寝てしまうとは、なんというだいたんさでしょう。さすがは少年名探偵です。こんなことには、なれきっているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-84560-84853">どのくらい眠ったのか、ふと目をさますと、あたりは、やっぱりまっ暗でした。まだ夜が明けないのかしらと思いましたが、よく考えてみると、この部屋には窓がないのですから、昼間でも、まっ暗なのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-84853-85077">小林君は、夜光の腕時計を見ました。八時です。ゆうべ川へほうりこまれたのは、夜中の一時すぎでしたから、八時といえば、あくる日の朝にちがいありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-85077-85313">八時なら悪人たちももう起きているでしょう。いつ、この部屋へやってくるかもしれません。小林君は、ベッドの上に、身をおこして、いざというときの用意をしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-85313-85597">しばらくすると入口のドアのほうで、カタンという音がして、パッと、電灯がつきました。やみになれた目には、ひじょうに明るく、まぶしいほどでしたが、じつは十ワットぐらいのうす暗い電灯なのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-85597-85938">小林君は、その電灯の光で、ドアを見ました。すると、ドアに小さな四角いのぞき穴があって、そのむこうから、何者かの目が、じっと、こちらを見つめていました。さっき、カタンと音がしたのは、その、のぞき穴のふたをひらく音だったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-85938-86276">小林君は、それを見ると、さも、こわそうな顔になって、いきなり、ベッドの上にうつぶしてしまいました。むろん、ほんとうに、こわいと思ったのではありません。マユミさんにばけているのですから、こわがって見せなければならないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-86276-86488">すると、カチカチとかぎをまわす音がして、スーッとドアがひらき、ゆうべの部下の男がはいってきました。パンと牛乳をのせたおぼんを持っています。</seg></p>
        <p>「マユミさん、なにもそんなに、こわがることはないよ。親分とちがって、おれは親切ものだからな。エヘヘヘヘ……。さあ、これをたべな。それから、トイレは、むこうのすみにあるよ。部屋から出すわけにいかないから、まあ、あれでがまんするんだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-86841-87176">見ると、むこうのすみに、西洋便所のような白いせとものがおいてありました。そのそばの台の上に、大きな水さしと、コップと、洗面器もあります。ゆうべは、まっ暗で気がつかなかったけれど、ちゃんと、そこまで用意がしてあったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-87176-87418">そうして、昼の食事、夜の食事と、なにごともなく一日がたって、二日目の夜がきました。妖人ゴングは、一度も、姿をあらわしません。どこかへ出かけているのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-87418-87645">小林君は、一日じゅう、じっとがまんをしていましたが、今夜こそは、このふしぎな家を探検する決心でした。夜のふけるのを待って、部屋をぬけだすつもりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-87645-88040">腕時計が十一時になったころ、小林君はスカートの中にはいている半ズボンのポケットから、まがった針金をとりだしました。そして、ドアのそばへいって、その針金をかぎ穴にさしこんで、なにかゴチゴチやっていましたが、しばらくするとカチンと錠がはずれて、ドアがひらきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-88040-88500">ある大どろぼうは、針金一本あれば、どんな錠前でもひらいてみせると、いったそうですが、探偵のほうでも、ときには、錠前をやぶる必要があるので、明智探偵は、そのやりかたを、小林君におしえておきました。ですから、小林君は、いつでも、ポケットに、その道具の針金を用意していました。いま、それが、役にたったのです。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-88500-88554"><seg source="#source-88500-88512">巨人の顔</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-88558-88698">外の廊下はまっ暗です。悪人たちは、みんな寝てしまったのか、なんの物音も、聞こえてきません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-88698-89057">小林君は、しばらく、耳をすまして、じっとしていましたが、もうだいじょうぶと思ったのか、半ズボンのポケットから、万年筆型の懐中電灯をとりだして、それで足もとを照らしながら、音をたてないように、廊下を歩いていきました。廊下は白っぽい壁です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-89057-89323">じきに、まがり角があって、それから、廊下が左右にわかれていました。右のほうは、ゆうべ、トランクからだされた部屋のあるほうです。小林君は、そちらへいかないで、左にまがりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-89323-89368">すこしいくと、大きな白っぽい</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-89368-89386"><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby><seg source="#source-89386-89580">につきあたりました。その扉には錠がかかっていて、そこからさきへはいけません。小林君はしかたがないので、あとにもどろうとしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-89580-89750">そのときです。二メートル四方もある、その大扉から、とつぜん、とほうもないものが浮きだしてきたではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-89750-89989">巨人の顔です。ギラギラ光った巨大な目が、こちらをグッとにらみつけています。一メートルもある大きな口が、グワッとひらいて、白い牙があらわれました。そして……、</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90051-90149">あのゴングの声です。ドラを鳴らすような、ものすごいひびきです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">小林君は、いきなり逃げだしました。ところが、廊下を走っていくと、また、目の前に、あの顔が、ボーッとあらわれてきたではありませんか。そして、巨大な口を、みにくくゆがめて、「ウワン、ウワン、ウワン……。」と笑うのです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90475-90624">窓のない家には、ばけものがすんでいたのです。しかも、巨大な顔ばかりで、からだのないばけものです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90624-90905">小林君は、無我夢中でじぶんの部屋に逃げもどり、ピッタリとドアをしめて、中から、とってをおさえていました。さすがの小林君も、このとほうもないばけものには、すっかりおびえてしまったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-90905-91078">まもなく、廊下に足音が聞こえてきました。だれか、やってくるのです。ドアのとってが、外からグーッとまわされました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-91078-91263">小林君は、いっしょうけんめいに、とってをにぎっていましたが、外の力のほうが強くて、とうとう、パッと、ドアがひらきました。</seg></p>
        <p>「きさま、女ににあわない、だいたんなやつだなっ。……ひょっとすると……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-91376-91495">とびこんできて、やにわに、どなりつけたのは、あのいやらしい怪物ゴングでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-91495-91830">かれは何を思ったのか、ツカツカと、小林君のそばによると、ランランと光る目で、じっと、その顔をにらみつけていましたが、ヒョイと手をのばしたかと思うと、小林君の頭の毛をつかんで、いきなり、かつらを、めくりとってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-91830-91961">すると、マユミさんにばけた女のかつらの下から、小林君の少年の頭が、あらわれたのです。</seg></p>
        <p>「きさま、にせものだなっ。やっぱり思ったとおりだ。男の子が女に変装していたんだ。きさま、なにものだっ？　あっ、わかったぞ。小林だな、明智の弟子のチンピラ探偵だなっ。ちくしょう！　おれを、まんまといっぱいくわせやがった。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-92293-92493">ゴングは、いまいましそうに、どなりつけたあとで、あごに手をあてて、ちょっと考えていましたが、なにか決心したらしく、ぶきみに笑って、</seg></p>
        <p>「ようし、このお礼には、いいことがある。おれは人を殺すのがきらいだから、殺しはしないが、きさまを、おもしろいものの中へいれてやる。運がわるければ、そのまま死んでしまうのだ。だが、そんなことは、おれの知ったことじゃない。おれが手をかけて殺すのじゃないのだからな。ウフフフ……、こいつは、うまいおもいつきだぞ。ウフフフ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-92978-93139">ゴングが笑うと、どこからともなく、あのぶきみな音が、ウワン、ウワン、ウワン……と、聞こえてくるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-93139-93386">ああ、ゴングのおもいつきとは、いったいどんなことなのでしょう。殺すのではないけれども、運がわるければ、死ぬかもしれないとは、なんという恐ろしいたくらみでしょう。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-93386-93452"><seg source="#source-93386-93404">俊一君の危難</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-93456-93723">お話は、すこしもとにもどって、そのおなじ日の夕方のことでした。マユミさんの弟の、小学校六年生の花崎俊一君は、学校に野球の試合があって、帰りがおそくなり、午後五時すぎに、友だちの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-93723-93756"><rb>野上明</rb><rt>のがみあきら</rt></ruby><seg source="#source-93756-93869">君といっしょに、おうちへいそいでいました。世田谷区のさびしいやしき町です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-93869-94282">妖人ゴングの巨大な顔が、俊一君のうちの池の中にあらわれたほどですから、俊一君も、ねえさんのマユミさんと同じように、妖人のために、ねらわれているのかもしれません。明智探偵は、それを心配して、俊一君のおとうさんの花崎検事と相談して、俊一君を、ひとりで歩かせないことにしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-94282-94629">いま、いっしょに歩いている野上君は、おなじ六年生ですが、学校でも、いちばんからだが大きく、いちばん力の強い少年で、また、少年探偵団の一員なのでした。それで、この野上少年にたのんで、俊一君の護衛をつとめてもらっているわけなのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-94629-95012">そればかりではありません。明智探偵はもっと用心ぶかかったのです。ごらんなさい。ふたりの少年が歩いていくうしろから、まるでふたりを尾行でもするように、みなりのきたない子どもたちが、ひとり、ふたり、三人、四人、五人、遠くはなれてついてくるではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95012-95443">それは、小林少年がつくったチンピラ別働隊の子どもたちです。上野公園で悪いことばかりしている浮浪少年を集めて、すこしでもよいことをさせようと、少年探偵団の別働隊をつくったのです。はじめは二十人以上いたのが、いまでは五人になっています。世のなかがよくなって、浮浪少年がへってきたからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95443-95652">この五人のチンピラ別働隊が、やっぱり、俊一君の護衛をつとめているのです。すばしっこい連中ですから、いざとなったら、なかなか役にたちます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-95652-95904">そのとき、人どおりのない広い道のうしろのほうから、砂けむりをあげて、一台の自動車が近づいてきました。そして俊一君のそばまでくると、ぐっと速力をおとし、俊一君とならんで</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-95904-95928"><rb>徐行</rb><rt>じょこう</rt></ruby><seg source="#source-95928-96155">していましたが、とつぜん、パッと、自動車のドアがひらき、中から太い手がニューッとでて、あっというまに、俊一君を、車の中へ、ひきずりこんでしまいました。</seg></p>
        <p>「あっ、なにをするんだっ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-96199-96402">いっしょに歩いていた野上君が叫びましたが、もう、あとのまつりでした。自動車はパタンとドアをしめて、グングン、むこうへ走っていきます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-96402-96605">野上少年は、いきなりかけだして、自動車のあとを追いました。それといっしょに、うしろからついてきた五人のチンピラ隊も、かけだしました。</seg></p>
        <p>「花崎くーん！　花崎くーん！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-96652-96891">みんなは、口ぐちにわめきながら走りました。青い自動車を追っかける六人の少年、しかもそのうちの五人は、きたならしい浮浪少年です。じつに、へんてこな光景でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-96891-97076">しかし、いくらいっしょうけんめいに走っても、人間が自動車に追いつけるものではありません。だんだんはなれていくばかりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-97076-97294">やがて、あまりにぎやかではないが、自動車のよく通る大通りにでました。そして、しあわせなことには、むこうから、からのタクシーが走ってきたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">野上少年が、「オーイ。」と呼びとめると、タクシーはとまりました。</p>
        <p>「ぼく、少年探偵団のものです。あの青い自動車を追っかけてください。あいてに気づかれないように。……ぼくの友だちが、さらわれたのです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-97598-97765">野上君がたのみますと、そのタクシーの運転手は、すぐに承知してくれました。まだ二十代の快活な青年運転手でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-97765-97992">野上君が、ドアをひらいて乗りこむあとから、五人のチンピラも、われさきにと車の中へおしこんできました。三人の座席に、六人がかさなりあって乗ったのです。</seg></p>
        <p>「ワー、みんな乗るのかい。きみたちは学生じゃないね。それでみんな少年探偵団なのかい？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-98123-98185">運転手が、びっくりして、たずねました。</seg></p>
        <p>「うん、そうだよ。おれたちは、チンピラ別働隊っていうんだ。明智先生と、小林さんの弟子だよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-98325-98423">運転手はそれを聞くと、べつにもんくもいわずに車を走らせました。</seg></p>
        <p>「あいてに気づかれないようにって、むずかしいな。よっぽど、あいだをへだてなくちゃね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-98554-98757">青年運転手は、この冒険が気にいったらしく、おもしろそうに、そんなことをいいながら、それでも、たくみに自動車の尾行をつづけるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-98757-98972">だんだん、道がさびしくなり、両がわに、畑や森が見えてきました。もう世田谷区のはずれです。それに、日がくれて、あたりがうす暗くなってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-98972-99020">むこうに大きな建物が見えます。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-99020-99044"><rb>日東</rb><rt>にっとう</rt></ruby><seg source="#source-99044-99079">映画会社の撮影所です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-99079-99210">青い自動車は、その撮影所の裏がわのいけがきの外でピッタリとまりました。それを見ると、</seg></p>
        <p>「とめて！　これからさきへいくと、あいてに気づかれる。ぼくたち、ここでおります。待っててくださいね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-99365-99415">野上君が運転手にたのみました。</seg></p>
        <p>「うん、いいとも、きみたちが、どんな活躍をするか、ここから見ているよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-99525-99587">青年運転手は、たのしそうに答えました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-99587-99748">少年たちは、車をおりると、はなればなれになって、ものかげをつたいながら、青い自動車に近づいていきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-99748-99933">青い自動車のドアはひらいていました。そして、そこから、力の強そうな、ふたりの男が、俊一君をつるようにして、外に出ました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-99933-100102">ああ、ごらんなさい。俊一君は、手足をぐるぐる巻きにしばられ、さるぐつわまで、はめられているではありませんか。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-100102-100156"><seg source="#source-100102-100114">少年人形</seg></head>
        <p>「あそこまで、いってみようか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-100210-100290">チンピラのひとりが、そっと野上君に、ささやきます。</seg></p>
        <p>「もうすこし、待つんだ。ひょっとして、みつかったら、たいへんだからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-100400-100648">野上少年は、チンピラの肩をおさえ、とめました。あたりは、だんだん暗くなってきます。夕方と夜とのさかいめです。もう二十分もすれば、すっかり日がくれてしまうでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-100648-100722">じっとがまんをして、十分ほども待っていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-100722-100889">すると、ふたりの悪者が、さっきの建物の角から姿をあらわし、なにか小声で話しながら、こちらへやってくるのです。</seg></p>
        <p>「おい、みんな、どっかへ、かくれるんだ。そして、あのふたりが、自動車に乗って行ってしまうまで、待つんだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-101050-101130">野上君が、小さい声で、チンピラたちに命令しました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-101130-101474">すると、いけがきからのぞいていたチンピラたちは、パッと、地面にうずくまり、はうようにして、むこうの木のしげみの中へ、姿をかくしてしまいました。なんというすばやさでしょう！　チンピラたちは、こんなことには、なれきっているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-101474-101585">野上少年も、そのあとにつづいて、木のしげみに、もぐりこみました。そして、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-101585-101597"><rb>木</rb><rt>き</rt></ruby><seg source="#source-101597-101755">の葉のすきまから、じっと、のぞいていますと、ふたりの悪者は、いけがきのやぶれめから、外に、出てきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-101755-102048">ふたりのほかに、俊一少年の姿は、どこにも見えません。いったい、どうしたのでしょう？　手足をしばられ、さるぐつわをはめられた俊一君は、撮影所の建物のどこかに、とじこめられてしまったのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102048-102251">野上少年は、いっこくもはやく、俊一君を助けださなければならないと思いました。悪者のあとを追うよりも、俊一君の命のほうがたいせつです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102251-102562">やがて、悪者たちは、そこにおいてあった自動車に乗って、どこともしれず、たちさってしまいました。少年たちの自動車は、ずっと遠くのほうに待っていたので、悪者は、それと気がつかないで、すれちがって行ったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102562-102729">もうだいじょうぶと思ったとき、野上君は、五人のチンピラに合図をして、みんなが、木のしげみからはいだしました。</seg></p>
        <p>「これから、撮影所の中を探すんだ。俊一君は、きっと、どこかにとじこめられている。ほうっておいたら、死んでしまうかもしれない。いっしょうけんめいに探すんだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-102968-103177">野上君がいいますと、チンピラたちは、コックリ、コックリと、うなずいてみせて、すぐに、いけがきのやぶれめから、中にとびこんでいくのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-103177-103345">建物の角をまがると、そこに広いあき地があって、撮影につかう大道具や小道具が、あちこちにおいてあります。はりこの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-103345-103366"><rb>鳥居</rb><rt>とりい</rt></ruby><seg source="#source-103366-103378">だとか、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-103378-103411"><rb>石灯籠</rb><rt>いしどうろう</rt></ruby><seg source="#source-103411-103423">だとか、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-103423-103447"><rb>石膏</rb><rt>せっこう</rt></ruby><seg source="#source-103447-103587">でつくった銅像のようなもの、そのほか、いろいろのものが、雨ざらしになって、おいてあるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-103587-103683">そのなかに、白い石膏のライオンがうずくまっていました。日本橋の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-103683-103707"><rb>三越</rb><rt>みつこし</rt></ruby><seg source="#source-103707-104132">の玄関においてある、青銅のライオンと、よくにた形です。あれほど大きくありませんが、ほんもののライオンよりは、すこし大きいくらいです。それが、やはり、石膏の四角な台の上にうずくまっているのです。全身まっ白のライオンです。チンピラのひとりは、ライオンのそばによって、その足をなでながら、</seg></p>
        <p>「こんなの一ぴきほしいなあ！」</p>
        <p><seg source="#source-104179-104325">と、つぶやきました。すると、みんなが、そのそばによって、ライオンの恐ろしい顔を見あげるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-104325-104516">それから少年たちは、撮影所の中の建物から、建物へと、まわり歩きましたが、どの建物も、みんなかぎがかかっていて、はいれません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-104516-104728">ただ一つ、大きなスタジオだけは、夜になっても、まだ撮影をつづけていて、入口がすこしひらいていたので、野上君は、その中へはいっていきました。</seg></p>
        <p>「おい、おい、きみはどこの子だい？　むやみにはいってきちゃいけないよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-104838-104951">入口のうす暗いすみっこに、番人がこしかけていて、野上君をひきとめました。</seg></p>
        <p>「悪者が、この撮影所の中に、ぼくの友だちをかくしたのです。花崎俊一というのです。手足をしばって、さるぐつわをはめて、自動車でここへつれてきて、裏のいけがきのやぶれめから、しのびこんだのです。」</p>
        <p>「ほんとかい？　きみ。そんなことをいってごまかして、撮影を見にはいるんじゃないのかい？」</p>
        <p>「そうじゃありません。ほんとうです。ふたりのおとなが、ぼくぐらいの子どもをつれて、この中へはいりませんでしたか？」</p>
        <p>「そんなもの、はいらないよ。きょうは、子どもは、ひとりもはいらなかった。どっか、ほかを探してごらん。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-105703-105819">番人は、野上君のいうことを信じないらしく、いっこう、とりあってくれません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-105819-106202">野上君はしかたがないので、ほかを探すことにしました。入口のあいているのは、あとは事務所の建物ばかりです。そこへ、はいってみましたが、もう夜なので、だれもおりません。宿直の人がのこっているにちがいないと、ほうぼう探しても、ふしぎに人の姿が見えないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-106202-106606">でも、まさか、悪者が俊一君を、事務所の中へつれこんだはずはないので、また、外へ出て、裏のほうへ歩いていきますと、むこうのうす暗いなかから、なんだか小さなやつが、ピョン、ピョンと、とぶように走ってくるではありませんか。近づくのを見ると、それはチンピラ隊のひとりでした。</seg></p>
        <p>「あっ、野上さん、きてごらん。むこうに、へんなものがあるよ。」</p>
        <p>「へんなものって？」</p>
        <p>「いろんなものが、ごちゃごちゃおいてある。ひょっとしたら、俊一さんは、あそこに、いれられたのかもしれないよ。」</p>
        <p>「よしっ、いってみよう。」</p>
        <p>「野上さん、懐中電灯、持ってるの？」</p>
        <p>「うん、ちゃんと、ここに持ってるよ。探偵七つ道具の一つだからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-107098-107184">野上少年は、そういって、ポケットをたたいてみせました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-107184-107429">チンピラに案内されて行ってみますと、それは撮影に使う小道具が、いっぱいならべてある道具部屋でした。どうしたわけか、そこの戸には、かぎがかかっていなかったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-107429-107503">ふたりは、懐中電灯をつけて、中にはいりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-107503-107635">長っぽそい部屋の両がわに、ずっと棚があって、いろいろなものが、ならんでいます。むかしの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-107635-107659"><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby><seg source="#source-107659-107671">だとか、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-107671-107701"><rb>煙草盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby><seg source="#source-107701-108012">だとか、いろいろな形の掛け時計、置き時計、むかしのやぐら時計、花びんや置きもの、本棚もあれば、洋酒のびんをならべる飾り棚もあります。それから三面鏡や、むかしのまるい鏡と、鏡台、まるで古道具屋の店のようです。</seg></p>
        <p>「あっ、あすこにいる！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-108050-108157">チンピラが、とんきょうな声をたてて、野上君に、しがみついてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-108157-108351">ギョッとして、そのほうへ、懐中電灯をむけますと、そこに、俊一君らしい小学生服の子どもが、壁によりかかっているではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">野上君は、「あっ。」といって、かけよりました。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-108425-108769">近よって、懐中電灯で、その子どもの顔を照らしました。ちがいます。俊一君ではありません。それじゃ、いったい、どこの子なのでしょう。いや、どこの子でもありません。それは人間ではなかったのです。学生服をきた人形にすぎなかったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-108769-108960">よく見ると、少年人形のそばに、おとなの男や女の人形が、三つも四つも壁にもたせかけてありました。みんな撮影に使う人形なのです。</seg></p>
        <p>「なあんだ。人形かあ。おれ、てっきり俊一さんだと思っちゃったよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-109061-109138">チンピラが、がっかりしたように、つぶやきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-109138-109260">そのときです。道具部屋の入口から、もうひとりのチンピラが、かけこんできました。</seg></p>
        <p>「野上さん、こんなとこにいたのか。ずいぶん探したよ。……みつかったよ。みつかったよ。俊一さんのかくれているとこがさ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-109439-109509">そのチンピラは、息せききっていうのでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-109509-109575"><seg source="#source-109509-109527">白いライオン</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-109579-109809">チンピラについていってみますと、さいしょはいってきたときに通った、あき地のまん中にある白いライオンのまわりに、三人のチンピラ隊員が、集まっていました。</seg></p>
        <p>「ここだよ。このライオンの中に、だれかいるらしいんだよ。ほら、聞いてごらん。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-109928-110197">チンピラのことばに、耳をすましますと、石膏のライオンの中から、コツコツと、みょうな音が聞こえてきます。だれかがくつで、ライオンのからだの内がわを、けりつづけているような音です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-110197-110382">野上君は懐中電灯をつけて、四角い石膏の台と、ライオンのからだとのすきまをしらべながら、グルッと、ひとまわりしてみました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-110382-110507">すると、すこし、すきまの広いところがありましたので、そこに口をつけるようにして、</seg></p>
        <p>「だれだ？　この中にいるのはだれだ？　俊一君じゃないのか？」</p>
        <p><seg source="#source-110599-110628">と呼びかけました。</seg></p>
        <p>「ううん……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-110654-110896">中から、かすかに人間のうめき声がもれてきます。俊一君は、さるぐつわをはめられていました。ですから、ものがいえないのでしょう。ただ、うなるほかはないのでしょう。</seg></p>
        <p>「よしっ、みんなで力をあわせて、このライオンのからだのこちらがわを、持ちあげてみよう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-111030-111257">チンピラ隊員が、ぜんぶ野上君のそばに集まってきました。そして、台とライオンとのすきまに、手をかけて、一、二、三のかけ声で、力まかせに持ちあげました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-111257-111448">すると、うすい石膏とみえて、どうにか持ちあがるのです。ライオンのからだが横にかたむいて、二十センチほどのすきまができました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-111448-111684">そのすきまから、懐中電灯を照らしてみますと、中にひとりの少年がころがっていました。さるぐつわをはめられ、手足をしばられています。たしかに、花崎俊一君です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-111684-111950">チンピラのひとりが、どこからか、てごろな棒ぎれを持ってきて、持ちあげたすきまの、つっかい棒にしました。しかし、それでは、まだせまくて、俊一君を、外へひきだすことができません。</seg></p>
        <p>「もうすこし、長い棒がいいよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-112000-112146">だれかがいいますと、またべつのチンピラが長い棒を拾ってきました。じつに、すばしっこいものです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-112146-112406">みんなが力をあわせて、うんとこしょと、高く持ちあげておいて、その長い棒をささえにしました。そして、そのすきまから、やっとのことで、俊一君をひっぱりだすことができたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-112406-112445">みんなで、俊一君の手足の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-112445-112460"><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby><seg source="#source-112460-112513">をとき、さるぐつわをはずしました。</seg></p>
        <p>「俊一君、ぼくだよ。野上だよ。ここにいるのは、少年探偵団のチンピラ別働隊の子どもたちだ。だいじょうぶかい？　けがはしなかったかい？」</p>
        <p>「うん、だいじょうぶだよ。きみたちみんなで、助けてくれたんだね。ありがとう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-112832-112933">縄をとかれた俊一君は、起きあがって、みんなにお礼をいうのでした。</seg></p>
        <p>「あっ、いいことがある。ちょっと、そのつっかい棒をとらないで、待っててくれよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-113055-113231">チンピラのひとりが、そういったかと思うと、野上君の懐中電灯をひったくるようにして、どこかへ、かけだしていきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-113231-113449">野上君は、俊一少年に、悪者の自動車を追跡したこと、チンピラ隊のひとりが白いライオンに気づいて、みんなで助けだしたことなどを話してきかせました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-113449-113745">やがてさっきのチンピラが、なにか大きなものを、こわきにかかえて帰ってきました。野上君が懐中電灯をうけとって、照らしてみますと、それは学生服をきた少年でした。あの小道具部屋にあった少年人形でした。</seg></p>
        <p>「こんなもの持ってきて、どうするつもりだい。」</p>
        <p>「わからないのかい？　頭がわるいなあ。俊一さんのかわりに、この人形を、ライオンの中にいれておくのさ。やっぱり、手足をしばって、さるぐつわをはめておくほうがいいや。そうすれば、こんど、悪者がのぞきにきたとき、ほんとの俊一さんだと思って安心するよ。でも、よくみると、人形なので、おったまげるというわけさ。ウフフフフ……、なんと、うまいかんがえじゃないか。ねえ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-114355-114597">このチンピラのとんちに、みんな、ウフ、ウフ、笑いだしてしまいました。そして、人形の手足をしばり、さるぐつわをはめて、ライオンのからだの中に、おしこむのでした。</seg></p>
        <p>「ほらね、そっくりだろう。さるぐつわで口がかくれてるから、ちょっと、人形とは気がつかないよ。悪者が、おったまげる顔を見てやりてえな。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-114800-115129">それから、つっかい棒をはずして、ライオンをもとのとおりにすると、みんなは、俊一君をかこむようにして、撮影所の外にでました。もうあたりはまっ暗です。そのまっ暗な中からヌーッと、かげぼうしのようなものが、あらわれました。</seg></p>
        <p>「みんな、うまくやったね。子どもを、とりもどしたのかい？」</p>
        <p>「だれだっ？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-115241-115330">野上君が、俊一君を、うしろにかばって、どなりつけました。</seg></p>
        <p>「おれだよ。おまえたちを自動車に乗せてやった運転手だよ。」</p>
        <p>「ああ、そうか、だれかと思って、びっくりした。俊一君は、石膏のライオンの中にいれられていたんだよ。それを、ぼくたちが助けだしたのさ。」</p>
        <p>「そりゃ、よかったな。さあ、もう一度、おれの自動車に乗りな。どこへでも送ってやるよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-115753-116048">こうして、花崎俊一君は、ぶじに家にもどることができたのです。しかし、それで、この事件がおしまいになるはずはありません。俊一少年のゆくてには、まだまだ、恐ろしいできごとが待ちかまえているのです。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-116048-116120"><seg source="#source-116048-116069">赤いトンガリ帽</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-116124-116315">そのあくる朝六時ごろのことです。隅田川と東京港のさかいめのあたり、造船工場などのある川岸に、ふしぎなことがおこっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-116315-116596">川岸の道路には、人が落ちないように、コンクリートの低いてすりのようなものが、ずっとつづき、ところどころ、それがきれて、船から荷物をあげるための広い坂道が、水面の近くまでくだっています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-116596-116823">まだはやいので、川岸には人どおりもなく、工場でも仕事をはじめておりません。そのさびしい川岸の道を、ふたりの労働者が、なにか話しながら歩いてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-116823-117015">ひとりは五十ぐらいの、ひょろひょろと、背の高いおとなしそうな男、もうひとりは、背が低くて、まるまると太ったおどけた顔の男です。</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-117015-117030"><rb>長</rb><rt>なが</rt></ruby><seg source="#source-117030-117039">さんと</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-117039-117054"><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby><seg source="#source-117054-117263">さんです。丸さんの顔は、ゴムまりのようにまんまるで、目もまんまるですし、鼻までひらべったくて、丸いのです。くちびるのあつい、大きな口です。</seg></p>
        <p>「おや、へんなものが、流れているぜ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-117322-117432">丸さんが立ちどまって、川岸のそばの水面を見ながら、小首をかしげました。</seg></p>
        <p>「うん、へんだね。こんなところに、ブイが、流れてくるなんて。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-117527-117586">長さんも、ふしぎそうな顔をしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-117586-117631">それは、赤くぬった大きな鉄の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-117631-117646"><rb>筒</rb><rt>つつ</rt></ruby><seg source="#source-117646-117775">のようなもので、水面から上にでている部分は、上の方がじょうご形にせまくなっているので、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-117775-117802"><rb>道化師</rb><rt>どうけし</rt></ruby><seg source="#source-117802-117999">のまっかなトンガリ帽を、うんと大きくしたような形なのです。中はからっぽで、空気がはいっていて、その力で、ぶかぶか浮いているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-117999-118205">このブイは船の航路のめじるしになるように、沖のほうに浮かべてあるのですが、そのくさりがきれて、隅田川の入口まで流れてきたのでしょうか。</seg></p>
        <p>「へんだね。べつに、あらしがあったわけでもないのに、こんなところに、ブイがあるなんて。」</p>
        <p>「うん、それもそうだがね。もっと、おかしいことがあるよ。このブイは、いやに動くね。まるで生きているようだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-118503-118610">丸さんが、目をまんまるにして、ふしぎでたまらないという顔をしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-118610-118966">まるほど、そういえば、巨大な赤いトンガリ帽は、波もないのに、異様にぐらぐらゆれています。トンガリ帽が、右にかたむいたかと思うと、すぐにまた、左にかたむき、それを、いつまでも、くりかえしているのです。道化師が、首をふっているみたいです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-118966-119070">このふしぎなブイは、どうしてこんなところに、浮いていたのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-119070-119311">なぜ、首ふり人形のように、ゆれていたのでしょう。それには、じつに恐ろしいわけがあったのです。それが、どんなわけだったか、みなさんひとつ、考えてみてください。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-119311-119377"><seg source="#source-119311-119329">鉄のかんおけ</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-119381-119536">窓のないふしぎな部屋で、ゴングのために、変装を見やぶられた小林少年は、あれからどうなったのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-119536-119883">そのとき、ゴングは、小林少年の腕をまくると、どこからか注射針をとりだして、チクリとさしこみ、てばやく、なにかの薬を注射しました。すると、小林君は、くらくらとめまいがして、あたりがまっ暗になり、なにもわからなくなってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-119883-120194">それから、どれほど時間がたったのでしょうか。小林君は、ガクンと、恐ろしい力で、頭をなぐられたような気がして、目をさましました。しかし、あたりはまっ暗で、いま、どこにいるのか、さっぱりけんとうがつきません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-120194-120394">ゆらゆらとゆれています。めまいのせいかと思いましたが、そうではなくて、部屋ぜんたいが大地震のように、たえまなく、ゆれているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-120394-120960">心臓が、ドキドキしてきました。なんだか、おさえつけられるような、息ぐるしさです。あたりをさぐろうとしましたが、手をのばしきらないうちに、かたい、つめたい壁にさわりました。それじゃあ、部屋のすみにいるのかしらと、べつの方角へ手をのばすと、そこにも、かたい壁があります。あわてて、四方八方をさぐってみましたが、どこもみんな、かたい壁です。コンクリートではありません。鉄の壁です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-120960-121250">なんだか、大きな水道の鉄管の中へ、とじこめられているような気がしました。しかし、その鉄管は横になっているのではなくて、たてに立っているのです。そして、ゆらゆらと地震のようにゆれているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-121250-121558">小林君は、床にさわってみました。床も、つめたい壁です。手をのばして、頭の上をさぐってみました。てんじょうも鉄の板です。つまり、鉄でできたかんおけのようなものの中に、とじこめられていることがわかりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-121558-121953">でも、この鉄のかんおけは、どうして、こんなにゆれているのでしょう。地の底に、うずめられたのではありません。まさか、空中をただよっているのでもないでしょう。すると？　ああ、わかりました。水の上をただよっているのです。このゆれかたは、船のゆれるのと、そっくりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-121953-122294">小林君は、トランクにいれられて、隅田川になげこまれたことを思いだしました。あの窓の、一つもないみょうな部屋は、きっと、隅田川の底にあったのです。妖人ゴングのすみかは、川の底にあったのです。なんという、うまいかくれがでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-122294-122548">そこから、この鉄のかんおけにいれて、ほうりだされたのにちがいありません。鉄のかんおけの中には空気がはいっていますから、水の上に浮きあがって、川を流れているのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ゴングは、「きさまが生きるか死ぬかは、運にまかせるのだ。」といいました。そうです。運がわるければ、死んでしまうのです。だれかがこの鉄のかんおけをみつけて、助けてくれなければ、小林君は死んでしまうのです。うえ死にするまえに、空気の中の酸素がなくなって、死んでしまうのです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-122958-123188">小林君は、そこまで考えると、あわてて、鉄のかんおけの内がわを、さぐりまわりました。どこかにふたがあって、ひらくようになっているだろうと思ったからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-123188-123403">しかし、どこにも、ひらくようなところはありません。みんな鉄のびょうで、しっかり、とめてあって、小林君の力では、どうすることもできないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-123403-123639">そのうちに、だんだん、息ぐるしくなってきました。胸がドキドキして、耳がジーンとなりだし頭がいたくなってきました。空気の中の酸素が、すくなくなったからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-123639-123693">一度息をするたびに、酸素がへって、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-123693-123717"><rb>炭酸</rb><rt>たんさん</rt></ruby><seg source="#source-123717-124124">ガスがふえてくるのです。それを思うと小林君は、気が気ではありません。いまに、鉄のかんおけの中は、炭酸ガスばかりになって、死んでしまうのです。ああ、どうすればいいのでしょう。助けをもとめようにも、あつい鉄の板でかこまれているのですから、声が、外までとどくはずはないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-124124-124357">からだじゅうに、つめたい汗がにじみだしてきました。心臓はいよいよドキドキとおどりだし、息がくるしくなってきました。酸素が、すこししか残っていないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-124357-124530">もう、だまっているわけにはいきません。声が、外まで聞こえないとわかっていても、助けをもとめないではいられません。</seg></p>
        <p>「助けてくれえええ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-124571-124780">小林君は、せいいっぱいの声で叫びました。声だけではたりないので、手と足を、めちゃくちゃに動かして、鉄の板をけったり、たたいたりしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 8em" rend="first-line-indent(8)"><seg source="#source-124780-124836">×　　　　×　　　　×</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-124836-125084">そのとき、隅田川と東京港のさかいめの造船工場のある川岸で、ふたりの労働者が、岸の近くに流れついた赤いブイを、ふしぎそうに見つめていました。朝の六時ごろのことです。</seg></p>
        <p>「へんだなあ、ブイがこんなところへ流れてくるなんて。きっと、おきのほうにつないであったのが、くさりがきれて、流れてきたんだね。」</p>
        <p>「だが、あのブイは、波もないのに、いやに動くじゃないか。大きな魚が、下からひっぱっているのかもしれないぜ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-125442-125981">ふたりの労働者は、気味わるそうに顔を見あわせました。赤くぬったブイは、魚つりのうきを何千倍にもしたようなものです。ですから、このブイをひっぱっている魚も、クジラのように大きなやつかもしれません。まさか、隅田川へクジラがはいってくるはずはないのですが、それにしても、こんな大きな鉄のブイを動かしているのは、どんな魚だろうと、うす気味わるくなってくるのでした。</seg></p>
        <p>「おやっ、へんな音が聞こえるぜ。どっかで、コンコンと、なにかたたいているような音が。」</p>
        <p>「そうだな。まだ工場は仕事をはじめていないのに、いったい、なにをたたいているんだろう？」</p>
        <p>「おい、この音は、あのブイの中から聞こえてくるようだぜ。見たまえ、ブイがヒョコヒョコ動くのと、あの音と、調子があっているじゃないか。」</p>
        <p>「いやだぜ、ブイの中に、なにか動物でもはいっているのかな。」</p>
        <p>「ばかをいっちゃいけない。ブイの中に動物なんか、はいれるわけがないじゃないか。」</p>
        <p>「おやっ！　ますますへんだぞ。かすかに人間の声が聞こえてくる。遠くのほうで、子どもが泣いているような声だ。」</p>
        <p>「いまごろ、このへんに、子どもなんか、いやしない。やっぱりブイの中かな？」</p>
        <p>「だが、ブイの中に、人間がはいっているなんて、聞いたこともないね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-127044-127195">話しているうちに、ブイは、ヒョコヒョコとゆれながら、岸とすれすれのところまでただよってきました。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-127195-127249"><seg source="#source-127195-127207">生か死か</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-127253-127408">ブイの中では、小林少年が、声をかぎりに叫んでいました。鉄のかんおけと思ったのは鉄のブイだったのです。</seg></p>
        <p>「助けてくれええ……、息がつまりそうだ。はやく、ここから出してくれええ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-127527-127802">もう声がでません。目がくらんで、気をうしないそうになってきました。大きな声をだし、手足を動かしたので、いっそう、息ぐるしくなったのです。心臓は、おそろしいはやさで、おどっています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-127802-128239">たらたらと、口の中へ汗が流れこみました。なんだか、ぬるぬるした汗です。いや、へんなにおいがします。血のにおいです。手でふいてみると、べっとりと、ねばっこいものがつきました。汗がこんなに流れるはずはありません。鼻血が出たのです。いつまでもとまりません。気味のわるいほど流れだしてくるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-128239-128382">耳の中で、セミでも鳴いているようなやかましい音がして、頭のしんが、ジーンとしびれてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 8em" rend="first-line-indent(8)"><seg source="#source-128382-128438">×　　　　×　　　　×</seg></p>
        <p>「おい、やっぱりそうだぜ。あのブイの中から、みょうな音が聞こえてくる。荷あげ場までおりて、ようすを見ようじゃないか。」</p>
        <p>「うん、それじゃ、そばへいって、よくしらべてみよう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-128700-128882">ふたりの労働者は、坂になった荷あげ場の水ぎわへ、おりていきました。ブイは、ちょうど、その水ぎわに流れついていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-128882-129040">岸から手をのばせば、ブイにとどくので、労働者のひとりが、ブイの外がわを、コンコンと、たたいてみました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-129040-129153">すると、中から、おなじように、たたきかえす音が聞こえたではありませんか？</seg></p>
        <p>「おうい、ブイの中に、人間がはいっているのかあ？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-129230-129292">もうひとりが、大きな声でどなりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-129292-129447">すると、ブイの中から、なにか、子どもの泣いているような、かすかな声が聞こえてくるような気がしました。</seg></p>
        <p>「やっぱりそうらしい。鉄板でかこまれているので、よく聞こえないが、たしかに人間がはいっている。どうすればいいだろう？」</p>
        <p>「道具がなくちゃあ、どうにもできない、工場までいって、だれか、よんでこようか。」</p>
        <p>「うん、それがいいな。じゃあ、おまえ、いってくれるか。」</p>
        <p>「よし、ひとっぱしり、いってくる。ここに待っててくれよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-129923-130036">ひとりが、そういって、うしろに見える工場のほうに、かけだしていきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 8em" rend="first-line-indent(8)"><seg source="#source-130036-130092">×　　　　×　　　　×</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-130092-130202">ブイの中では、小林君は、もう息もたえだえに、ぐったりとなっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-130202-130327">外からコンコンと、たたいているようです。こちらもコンコンと、たたきかえしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-130327-130458">かすかに、人の声がしたようです。とうとうだれかが、ブイをみつけてくれたのでしょうか。</seg></p>
        <p>「助けてくれえええ……、ブイをこわして、出してくれえええ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-130556-130621">さいごの力をふりしぼって、どなりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-130621-130725">すると、また、鼻から、おびただしい血が、たらたらと流れだすのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-130725-131015">もうだめだと思いました。このがんじょうなブイが、急にこわせるものではありません。それまで生きていられそうもないのです。もう、頭が、ボーッとかすんで、なにがなんだか、わからなくなってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-131015-131263">恐ろしい夢を見ているような気持です。妖人ゴングの、牙をむきだした恐ろしい顔が、やみの中から、グーッと近づいてきて、目の前いっぱいにひろがり、ゲラゲラと笑うのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-131263-131400">そうかとおもうと、なつかしい明智先生が、にこにこしながら、助けにきてくれる姿が見えます。</seg></p>
        <p>「先生！」と叫んで、とびつこうとすると、明智探偵の姿は、スーッと、むこうへ、とおざかっていくのです。</p>
        <p style="text-indent: 8em" rend="first-line-indent(8)"><seg source="#source-131552-131608">×　　　　×　　　　×</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-131608-131733">そのとき、川岸へ、さっきの労働者が、もうひとりの男をつれて、かけつけてきました。</seg></p>
        <p>「この人が、ブイのひらきかたを知っているというんだ。」</p>
        <p>「そうか、それはよかった。すぐにあけてみてください。どうも、中に人間がはいっているらしいんです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-131965-132348">男は、まるく巻いた縄を持っていました。そのはしを輪にしてブイに巻きつけると、ふたりの労働者に、岸の方へ、力いっぱい、ひっぱっているようにたのんで、じぶんは、大きなスパナを手にして、ブイのそばによると、鉄板をしめつけてあるびょうを、はずしにかかりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-132348-132524">そして、一つびょうがとれたかとおもうと、つぎのびょうです。二分、三分、五分……時間は、みるみるすぎさっていきます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-132524-132658">ああ、小林君は、どうしているのでしょう。もう、息がたえてしまったのではないでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-132658-132789">やっと、八つのびょうがとれました。あとはハンマーで、ブイのふたをはずせばよいのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-132789-132902">ガーン、ガーンと恐ろしい音がしました。ブイのふたに、すきまができました。</seg></p>
        <p>「しっかり、縄をひっぱっているんだよ。いいかい。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-132979-133173">男はそういっておいて、両手をふたのすきまにかけると、力まかせに、むこうへはねのけました。そして、ブイの中をのぞいたかと思うと、</seg></p>
        <p>「あっ、人間だっ。男か女かわからない、へんなやつが、ぐったりしている。死んでいるのかもしれない。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-133322-133507">そう叫んで小林君のからだを、ブイの中から、荷あげ場にひきだしました。ふたりの労働者も縄をはなして、そこへ近よってきます。</seg></p>
        <p>「あっ、顔が血だらけだ。殺されたんだろうか。」</p>
        <p>「こりゃおかしいぞ。女の服をきているが、頭は男のようだ。それに、これは、まだ子どもらしいぜ。むごたらしいことをしたもんだな。」</p>
        <p>「いや、まて、まだ死んじゃいない。<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-133820-133838"><rb>脈</rb><rt>みゃく</rt></ruby>がある。この血も、どうやら鼻血らしいぜ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-133903-134055">ブイのふたをひらいた男が、小林君の上にしゃがみこんで、持っていたタオルで、顔の血をふきとりました。</seg></p>
        <p>「ただ、気をうしなっているばかりだ。こうすれば、いまに、息をふきかえすよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-134171-134374">男はこんなことになれているとみえて、小林君の両手をつかむと、一、二、一、二、と、あげたり、さげたりして、人工呼吸をほどこすのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-134374-134538">そのあいだに、労働者のひとりが近くの交番へ、このことをしらせましたので、まもなく警官がかけつけてきました。</seg></p>
        <p>「あっ、目をひらいたぞ。しっかりしろ。もうだいじょうぶだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-134630-134692">人工呼吸をやっていた男が、叫びました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-134692-134853">小林君は、荷あげ場のコンクリートの上に、あおむけに寝かされたまま、ぼんやりと、あたりを見まわしています。</seg></p>
        <p>「おい、気がついたか。きみは、いったい、どこのだれだ。どうして、ブイの中にはいっていたのだ。だれかに、とじこめられたのか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-135041-135130">警官が、小林君の顔の上にしゃがんで、大声でどなりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-135130-135309">小林君は、しばらくは口をもぐもぐやるばかりで、ものをいう力もないようにみえましたが、やっと、かすかな声をだしました。</seg></p>
        <p>「ぼく、明智探偵の助手の小林です。」</p>
        <p>「えっ、明智探偵の？　それじゃあ、きみは、あの小林少年か？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-135457-135588">警官はびっくりしたように、聞きかえしました。小林少年のことは、よく知っていたのです。</seg></p>
        <p>「それじゃあ、だれかにブイの中へ、とじこめられたんだね。あいてはだれだ？」</p>
        <p>「妖人ゴングです。」</p>
        <p>「えっ、妖人ゴングだって？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-135777-136004">警官の顔色が、さっとかわりました。そして、おもわず立ちあがると、怪物がそのへんに、かくれてでもいるように、キョロキョロと、あたりを見まわすのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-136004-136198">もうそのころは、七時にちかくなっていましたので、川岸の人どおりが多くなり、荷あげ場は、みるみる黒山の人だかりになってきました。</seg></p>
        <p>「くわしいことは、あとで話します。ぼくを明智探偵事務所へ送ってください。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-136311-136388">小林君は起きあがりながら、警官にたのむのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-136388-136603">警官は交番に帰って、本署にこのことをしらせ、明智探偵にも連絡したうえ、小林君をタクシーにのせて、麹町アパートの探偵事務所へ送りとどけました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-136603-136764">事務所についたころには、小林君はすっかり元気をとりもどしていました。そして、出むかえた明智探偵をみると、</seg></p>
        <p>「先生っ！」と叫んで、いきなりとびついていって、その胸にだきつくのでした。</p>
        <p>「よかった、よかった。きみがぶじに帰ったのは、なによりうれしいよ。とんだめにあったそうだね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-137020-137124">明智探偵はそういって、しずかに小林少年の背中を、なでてやりました。</seg></p>
        <p>「ぼく、もう死ぬかと思いました。先生におめにかかれないかと思いました。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-137234-137335">小林君は、なつかしそうに明智探偵の顔を見あげて、涙ぐむのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-137335-137679">こうして、小林少年は、あやうい命を助かりました。花崎マユミさんは、小林君が身がわりをつとめたのですからぶじですし、弟の俊一君も、野上少年とチンピラ隊によって助けだされ、妖人ゴングのたくらみは、すべてむだにおわってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-137679-137992">しかし、こんなことで、あきらめるような怪物ではありません。やがて第二の攻撃が、はじまるのです。妖人ゴングとは、そもそも何者でしょう？　かれは、いったい、なんのために、マユミさんや俊一君をねらうのでしょう？</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-137992-138052"><seg source="#source-137992-138007">水底の秘密</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-138056-138493">小林少年が、ブイの中からすくいだされ、妖人ゴングのすみかは、隅田川の水底にあるらしいと、報告しましたので、ただちに、水上警察が、そのへんいったいの水中捜索をはじめました。潜水夫をやとって、川の底をくまなく探しましたが、ふしぎなことに、妖人のすみからしいものは、なにも見あたらないのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-138493-138771">あの事件から三日目の夜、名探偵明智小五郎は、妖人にねらわれているマユミさんと、俊一君のおとうさんの花崎検事のうちをたずねて、応接間で花崎さんと、今後のことについて、相談していました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-138771-138995">そこへ、あやしい電話がかかってきたのです。花崎さんは、テーブルの上においてあった電話の受話器を耳にあてたかとおもうと、さっと、顔色がかわりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">受話器からは「ウワン、ウワン、ウワン……。」という、あの、気味のわるい音が聞こえてきたからです。</p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-139206-139349">その音は、だんだん大きくなって、耳のこまくが、やぶれるほどの恐ろしい音になりました。そして、</seg></p>
        <p>「ワハハハハ……。」</p>
        <p><seg source="#source-139381-139470">と、いきなり、人間の笑い声が聞こえてきたではありませんか。</seg></p>
        <p>「あいつです。ゴングが電話をかけてきたのです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-139544-139636">花崎さんは、そこにいた明智探偵に、そっと、ささやきました。</seg></p>
        <p>「じゃあ、それをわたしに、おかしなさい。わたしが応待します。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-139731-139841">明智は、花崎さんの手から受話器をうけとって、あいてにどなりつけました。</seg></p>
        <p>「きみは、だれだっ？」</p>
        <p>「ワハハハハ……、そういうきみは、だれだね。花崎検事かね？」</p>
        <p>「ぼくは、明智小五郎だっ！」</p>
        <p>「あっ、明智が、そこにいたのか。いや、ちょうどいい。それでは、きみと話そう。……おれがだれだか、むろん、わかっているだろうね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-140206-140331">あいては、人をばかにしたような、ふてぶてしい調子で、ゆっくり話しかけてきました。</seg></p>
        <p>「ぼくに、話があるというのか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-140381-140440">明智探偵も、おちつきはらっています。</seg></p>
        <p>「きみのほうこそ、ぼくに聞きたいことがあるというんじゃないかね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-140541-140600">あいても、自信まんまんの、調子です。</seg></p>
        <p>「べつに聞きたいこともないね。ぼくは、なにもかも知っている。」</p>
        <p>「フフン、日本一の名探偵だからね。……それじゃ、こっちから聞いてやろう。きみたちは、隅田川の底を捜索したが、おれのすみかが見つからなかった。しかし、おれは、ちゃんと、隅田川の水の底に住んでいたんだよ。ウフフフ……。このなぞが、わかるかね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-141057-141401">ああ、やっぱり、水の底にすみかがあったのでしょうか。それが、あれほど、捜索しても、わからなかったのは、なぜでしょう？　さすがの明智探偵にも、このなぞは、まだ、とけていないのです。しかし、わからないと、答えるわけにはいきません。</seg></p>
        <p>「むろん、ぼくには、わかっているよ。」</p>
        <p>「ワハハハハハ……、自信のない声だな。やせがまんはよして、どうか教えてくださいといいたまえ。おれは、その種あかしをするために、電話をかけているんだからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-141696-141863">怪人は、なにもかも見とおしているのです。明智が、まだ、その秘密を知らないことを、ちゃんと見ぬいているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-141863-142189">こうなったら、明智のほうでも負けてはいられません。とっさに、そのなぞを、といてみせるほかはないのです。五秒間にこのむずかしいなぞを、とかなければなりません。いくら名探偵でも、そんなはなれわざが、できるのでしょうか？</seg></p>
        <p>「ぼくは、きみの秘密を知っているよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-142248-142298">明智は、おちついて答えました。</seg></p>
        <p>「ウフフフ……、あくまで、やせがまんをはる気だな。よろしい。それなら、おれが水の底のどこに住んでいたか、いってみたまえ。潜水夫をいれて、あれほどさがしても見つからなかったじゃないか。」</p>
        <p>「それは、あのときには、きみは、隅田川の底に住んでいた。しかし、いまは、もう、同じところに住んでいないからさ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-142746-142898">明智は、一時のがれのむだごとをいいながら、全身の気力を頭に集めて、このなぞをとこうとしていました。</seg></p>
        <p>「フフン、それは、むろんのことだ。おれはいま、陸上にいるよ。だが、水の底に住んでいたとすれば、そのあとがあるはずじゃないか。水の底の家が、そうやすやすと、こわせるものじゃないからね。」</p>
        <p>「こわさなかった。しかし、もとの場所にはないのだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-143256-143486">明智は、苦しまぎれにそういいましたが、そのとき、パッと、ある考えが浮かびました。秘密がわかったのです。わかってみれば、じつに、なんでもないことでした。</seg></p>
        <p>「ウフフフ……やせがまんはよして、かぶとをぬぎたまえ。おれが教えてやろうといっているんだからね。」</p>
        <p>「ぼくには、ちゃんと、わかっている。」</p>
        <p>「フン、そうか。じゃあ、いってみたまえ。さあ、はやく、いつまでも、電話をかけているわけには、いかないからね。」</p>
        <p><seg source="#source-143861-143864">「</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-143864-143897"><rb>潜航艇</rb><rt>せんこうてい</rt></ruby>だよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-143911-143970">明智が、ずばりと、いってのけました。</seg></p>
        <p>「え？　なんだって？」</p>
        <p>「きみのすみかは、潜航艇だったというのさ。」</p>
        <p>「へえ？　潜航艇が、隅田川にはいれるかね。」</p>
        <p>「どんなあさいところでもこられる、小型潜水艇だよ。ずっと前に、ある犯罪者が小型潜航艇で、隅田川をあらしまわったことがある。ちゃんと、前例があるのだ。ハハハ……どうだね。あたったらしいね。」</p>
        <p>「あたった。ウフフフ……、さすがは、明智先生だね。まさに、そのとおりだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-144541-144686">怪人も、とうとう、かぶとをぬぎました。しかし、かれの用件は、そのことだけではなかったのです。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-144686-144758"><seg source="#source-144686-144707">ゴングとは何者</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-144762-144821">怪人は、また、しゃべりはじめました。</seg></p>
        <p>「明智君、おれは<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-144845-144872"><rb>執念</rb><rt>しゅうねん</rt></ruby>ぶかいぞ。戦いは、これからだ。おれはマユミと俊一を、かならず、とりこにしてみせる。一度は、きみのおせっかいで失敗したが、そんなことで、ひきさがるおれじゃない。花崎検事に、そういっておいてくれ。一週間、そうだ、きょうから一週間のうちに、マユミと俊一をつれだしてみせる。そして、二度と、顔を見ることができないようにしてやる。妖人ゴングの名誉にかけて、これを宣言する。わかったか。明智君、いつか、きみにあうときもあるだろう。用心するがいい。おれは、こうと思ったことは、きっと、やりとげる男だ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-145606-145674">この恐ろしいことばがおわると、またしても、</seg></p>
        <p>「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」</p>
        <p><seg source="#source-145736-145924">と、あのいやらしい音が、ひびいてきました。そして、その音が、だんだん小さくなって消えてしまうと、ぷっつりと電話がきれました。</seg></p>
        <p>「どうせ、遠くの公衆電話からかけたのでしょう。電話局でしらべて、警察にしらせてみても、とても、まにあいません。こうなれば、あいてがせめてくるのを、待つほかはありません。ところで……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-146202-146333">明智探偵は、もとのいすにもどって、テーブルごしに、じっと花崎さんの顔を見つめました。</seg></p>
        <p>「こいつは、魔法つかいの妖人みたいに見せかけていますが、むろん、われわれとおなじ人間です。おそらく、あなたに、深いうらみをもっているやつです。マユミさんや、俊一君をいじめるのも、あなたに、気がちがうほど心配させるためです。なにか、そういう、うらみをうける、お心あたりはありませんか。」</p>
        <p>「わたしは、いちじは、鬼検事というあだなをつけられていたほどで、悪いやつには、ようしゃなく、びしびしやるほうでしたから、犯罪者には、ずいぶん、うらまれているわけです。しかし、それはみんなむこうが悪いからで、こんな復讐をうけるおぼえはないのですが……。」</p>
        <p>「でも、犯罪者というやつは、じぶんの悪いのは棚にあげておいて、検事さんを、うらむことがよくあるものです。なにか、重い罪をおかしたもので、このごろ、刑務所を出たものとか、または、脱獄したものとか、そういう、お心あたりはありませんか。」</p>
        <p>「それなら、たいして多くはありません。まあこんな連中ですね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-147586-147729">花崎さんは、テーブルのうえにあったメモの紙に、五―六人の名を書いて、明智に出してみせました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-147729-147839">明智は、その人名を、じっと見ていましたが、ある名まえを、指でおさえて、</seg></p>
        <p>「これです！」</p>
        <p><seg source="#source-147862-147933">と、低いけれども力のこもった声で、いいました。</seg></p>
        <p>「えっ？　そいつが、あのゴングですって？」</p>
        <p>「そうです。こいつでなければ、妖人ゴングにばけることはできません。こいつならば、じつに恐ろしいあいてです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-148162-148452">明智はそういって、じっと、花崎さんの顔を見つめました。花崎さんも、青ざめた顔になって明智を見つめました。そうして、ふたりは、たっぷり一分間、身うごきもせず、異様なにらみあいをつづけたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-148452-148562">やっとしてから、明智のひきしまっていた顔が、にこにこ顔にかわりました。</seg></p>
        <p>「いや、そんなに、ご心配になることはありません。わたしがついていれば、けっして、あいつの思うようにはさせません。しかし、よほど用心しなくてはいけません。こうなったら、非常手段をとるほかはないのです。あいてが、妖人の魔法つかいですから、こちらも魔法つかいになるのです。そんなとほうもないことをと、おっしゃるかもしれませんが、そのとほうもないことをやらないと、あいつには勝てないのです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-149140-149334">そして、明智は、なにか、ひそひそと、花崎さんの耳にささやくのでした。それをきくと、花崎さんの顔が、すこし明るくなってきました。</seg></p>
        <p>「なるほど、悪魔の知恵には、悪魔の知恵で、というわけですね。二重底の秘密というわけですね。わかりました。明智さんのお考えに、したがいましょう。いっさい、おまかせしますよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-149594-149697">そして、ふたりは、またなにか、ひそひそと、ささやきあうのでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-149697-149763"><seg source="#source-149697-149715">ふたりの老人</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-149767-149797">東京都の西のはし、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-149797-149824"><rb>西多摩</rb><rt>にしたま</rt></ruby><seg source="#source-149824-149833">郡に、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-149833-149857"><rb>平沢</rb><rt>ひらさわ</rt></ruby><seg source="#source-149857-149970">という村があります。多摩川の上流に近い山の中で、けしきのよい小さな村です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-149970-150158">その村はずれに、一軒のわらぶきの農家があります。いちばん近い家でも、百メートル以上はなれているという、さびしい一軒家です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-150158-150475">このごろ、そこへ、見なれぬ人たちが住むようになりました。しらが頭に、白いあごひげのはえた、七十にちかいようなおじいさんと、十六―七のいなかむすめと、十二歳ぐらいの男の子と、としとったばあやとの四人ぐらしです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-150475-150739">いなかむすめは、あまり美しくありませんし、男の子も、黒くよごれたきたない顔をしています。ふたりは、きょうだいのようですが、学校へもいかず、山へ遊びにいくわけでもなく、いつも、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-150739-150760"><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby><seg source="#source-150760-150864">にとじこもって、本を読んでいます。なんだか元気のない子どもたちです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-150864-151007">おじいさんも、畑仕事などしないで、たいていは家にいて、草花などのせわをして、暮らしています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-151007-151073">ある朝はやくのことでした。ちょうど、夏で、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-151073-151088"><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby><seg source="#source-151088-151178">がわの前には鉢植えのアサガオがたくさんならんでいて、赤や青や</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-151178-151199"><rb>紫</rb><rt>むらさき</rt></ruby><seg source="#source-151199-151258">の大きな花が、美しくひらいていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-151258-151416">カーキ色の仕事服をきたおじいさんは、その前にしゃがんで、アサガオの葉の虫をとっていましたが、そのとき、</seg></p>
        <p>「おはよう。せいがでますな。」</p>
        <p><seg source="#source-151463-151501">という声が聞こえました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-151501-151653">ふりかえってみると、いけがきの外から、いなかもののじいさんが、にこにこ笑いながらのぞいていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-151653-151892">よごれたゆかたを着て、しりはしょりしています。やっぱり、半分しらがになったごましお頭で、もじゃもじゃと、ぶしょうひげをはやしています。日にやけた黒い顔です。</seg></p>
        <p>「どなただね。見かけないお人じゃが……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-151957-152073">しらひげのおじいさんが答えますと、いなかじいさんは、また、にこにこ笑って、</seg></p>
        <p>「わしは、この隣村のものじゃが、アサガオが、あんまりみごとなもんで、つい、声をかけただよ。」</p>
        <p>「そうかね。おまえさんも、アサガオがすきかね。まあ、いいから、こっちへはいって見てください。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-152356-152490">そういわれたので、いなかじいさんは、しおり戸をあけて、のこのこ、中へはいってきました。</seg></p>
        <p>「まあ、ここへ、おかけなさい。いま、お茶でもいれますから。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-152582-152959">そういって、しらひげのおじいさんが、縁がわに腰をかけると、いなかじいさんも、ならんで腰かけ、アサガオのそだてかたについて、話がはずみましたが、いなかじいさんは、庭ぜんたいの草花が見たいというので、縁がわから立って、庭の奥のほうまで見まわるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-152959-153531">主人のしらひげのおじいさんも、そのあとから歩いていきましたが、ふたりのあいだが、ずっとへだたって、いなかじいさんが、家の角をむこうへまがっていくのを待って、こちらの軒下においてある木の箱のふたをひらき、その前にしゃがんで、なにかやっていましたが、やがて立ちあがると、箱の中から一羽のハトが、ばたばたと飛びだして、サーッと空に舞いあがり、そのまま、どこかへ飛びさってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-153531-153641">いなかじいさんは、それには気がつかず、むこうの角からもどってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-153641-153907">それから、ふたりのおじいさんは、しばらく肩をならべて、庭の草花を見まわっていましたが、もとの縁がわへもどろうと歩きだしたとき、あとから、しらひげのおじいさんが声をかけました。</seg></p>
        <p>「ああ、もしもし、これ、あんたのじゃありませんか。ここに落ちてましたが。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-154020-154109">それは、ラシャでつくった、ひどくでっかいかみいれでした。</seg></p>
        <p>「あ、そうです。そうです。それは、わしのさいふです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-154192-154308">いなかじいさんは、あわてて、それを受けとると、ふところへ、ねじこみました。</seg></p>
        <p>「ハハハ……、よっぽど、だいじなものがはいっているとみえますね。なかなか、重いじゃありませんか。」</p>
        <p>「いや、いや、くだらないもんです。お金だといいんだが、ハハハ……。」</p>
        <p><seg source="#source-154561-154623">と、じいさんは、ごまかしてしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-154623-154721">ふたりが、もとの縁がわに腰をかけると、しらひげのおじいさんは、</seg></p>
        <p>「では、お茶をいれますから、ちょっと、待っていてください。」</p>
        <p><seg source="#source-154813-154866">といって、奥へはいっていきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-154866-155034">いなかじいさんは、ひとりになると、あたりを、キョロキョロ見まわして、縁がわから家の中へあがり、そっと、むこうの</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-155034-155058"><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby><seg source="#source-155058-155216">の奥をのぞくのでした。その障子の奥には、まだ、かやがつってあって、きょうだいの子どもが眠っているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-155216-155419">じいさんは、障子のすきまから、そのかやのほうを、じっと見ています。気味のわるいじいさんです。ひょっとしたら、どろぼうかもしれません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-155419-155532">そのとき、とつぜん、しらひげのおじいさんが、べつの部屋から出てきました。</seg></p>
        <p>「おきのどくだが、とうとう、わなにかかったね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-155606-155671">いなかじいさんは、ぎょっとしてふりむき、</seg></p>
        <p>「え、なんだって？」</p>
        <p><seg source="#source-155703-155789">と、しらばっくれて、しかし、もう逃げごしになっています。</seg></p>
        <p>「ハハハハ……、だめだよ。逃げようたって、わしは、こうみえても、かけっこの名人だからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-155926-156036">いなかじいさんは、縁がわまではいもどって、もとのところに腰かけました。</seg></p>
        <p>「なにいってるだね。わしは、ただちょっと……。」</p>
        <p>「ハハハ……、ただちょっと、かやの中のふたりを、たしかめにいったのだろう？　じつは、もうくるか、もうくるかと、わしは、きみを待ちかまえていたのだよ。うまく、わなにかかったねえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-156379-156528">ふたりの老人は、恐ろしい顔でにらみあいました。おたがいの腹の底まで、見すかそうとしているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-156528-156767">そのとき、いなかじいさんは、すばやく、ふところに手をいれて、さっきのさいふの中から、小型のピストルをとりだし、さっと、しらひげのおじいさんにつきつけました。</seg></p>
        <p>「これはどうだね。ハハハ……、きみが拾ってくれたさいふの中には、これがいれてあったのさ。じたばたすると、ぶっぱなすぞっ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-156952-157101">しかし、しらひげのおじいさんは、すこしもさわぎません。にこにこ笑って、じっとあいてを見ています。</seg></p>
        <p>「きさま、これが、こわくないのか。命がおしくないのか。」</p>
        <p>「命はおしいよ。だが、そんなピストルは、こわくもなんともないよ。さっき、拾ったというのはうそで、きみのふところからぬきとって、たまをみんな出しておいたのだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-157429-157634">おじいさんは、そういって、カーキ色の服のポケットから、ピストルのたまを六つとりだし、てのひらにのせて、じゃらじゃらいわせるのでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-157634-157724"><seg source="#source-157634-157637">二</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-157637-157658"><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby><seg source="#source-157658-157673">のピストル</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-157728-157823">そして、老人は、にこにこ笑いながら、こんなことをいいました。</seg></p>
        <p>「わしは、きみが、いまくるか、いまくるかと、まい日、待ちかまえていたのですよ。奥のかやの中に寝ているきょうだいを、きみが、つれ出しにくることが、ちゃんと、わかっていたのでね……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-158095-158202">すると、ごましお頭のいなかじいさんが、みょうな声をたてて笑いました。</seg></p>
        <p>「それじゃ、あんたは、わしがだれだか、知っているのかね……。」</p>
        <p>「むろん、知っているよ。……きみは、ゴングという怪物だっ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-158389-158487">ふたりは、縁がわから、すっくと立ちあがって、にらみあいました。</seg></p>
        <p>「うん、そのとおり。さすがは、名探偵の明智君だ。よろしい。それで、どうしようというんだね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-158627-158719">いなかじいさんが、とつぜん、わかわかしい声にかわりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-158719-158865">しらひげの老人は、明智小五郎の変装姿だったのです。こちらも、にわかに、わかわかしい声になって、</seg></p>
        <p>「こうするのだっ！」</p>
        <p><seg source="#source-158897-158977">と叫びながら、相手にとびかかっていきました。そして、</seg></p>
        <p>「マユミさん、俊一君、そこにあるほそびきを、持ってきなさい。こいつを、しばりあげてしまうのだっ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-159126-159278">ああ、かやの中に寝ていたきょうだいは、花崎検事のむすめのマユミさんと、その弟の俊一君だったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-159278-159385">ふたりとも、いなかものに変装して、こんな山の中にかくれていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-159385-159609">明智探偵の変装したしらひげの老人の声を聞くと、ふたりとも寝まきのまま、かやの中から、とび出してきました。マユミさんは、長いほそびきを持っています。</seg></p>
        <p>「ワハハハハハ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-159644-159835">ゴングの変装したいなかじいさんが、恐ろしい笑い声をたてながら、パッと、明智の手をすりぬけて、庭のまん中に立ちはだかりました。</seg></p>
        <p>「やっぱりそうだったな。そのふたりは、マユミと俊一だな。こんなところへかくしたつもりでも、おれのほうでは、なにもかも見とおしだ。明智先生、きみも、ぞんがい知恵のない男だねえ。」</p>
        <p>「ウフフフフ……、知恵があるかないか、いまにわかるよ。きみは、たったひとりで乗りこんできた。こっちは三人だよ。三対一では、まず、きみの負けだねえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-160325-160435">明智の老人は、そういって、ゴングのじいさんに、とびかかろうとしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-160435-160677">するとゴングは、右手を内ぶところにいれて、なにか、もぞもぞやっていましたが、その手をパッと出したときには、黒い小型ピストルが、にぎられていたではありませんか。</seg></p>
        <p>「ハハハハハ……、これがおれの奥の手だよ。ピストルはかならず二挺用意しているのだ。ひとつがだめになっても、もうひとつというわけだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-160880-161092">たじたじとなった明智の顔を見て、ゴングは、とくいらしく笑いつづけていましたが、やがて、ピストルをマユミさんと俊一君のほうにふりむけました。</seg></p>
        <p>「きみたちふたりは、そのほそびきで、明智先生をしばるんだ。……明智君、縁がわに腰かけて、両手をうしろにまわしなさい。そう、そう、そうすれば、しばりやすくなる。さあ、子どもたち、明智先生のからだを、ほそびきで、ぐるぐる巻きにするんだ。はやくしろっ！　でないと、このピストルを、ぶっぱなすぞっ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-161532-161839">ああ、明智ともあろうものが、どうして、もう一つのピストルに気がつかなかったのでしょう。名探偵にしては、たいへんな手ぬかりではありませんか。いったい、マユミさんと俊一君の運命は、どうなることでしょうか。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-161839-161911"><seg source="#source-161839-161860">名探偵の奥の手</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-161915-162088">マユミさんと俊一君は、しかたがないので、縁がわに腰かけている明智の上半身を、ほそびきでぐるぐると巻きつけました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-162088-162312">ゴングは、ピストルをかまえながら、そのそばにより、ほんとうにしばってあるかどうかをたしかめ、ほそびきの結びめを、いっそうかたく締めつけるのでした。</seg></p>
        <p>「明智先生、きのどくだが、おれの勝ちだね。マユミと俊一は、おれがつれていくよ。いなかじいさんに手をひかれた、いなか者のきょうだいだ。だれもあやしむものはない。さあ、ふたりとも、こっちへきなさい。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-162608-162733">ゴングのいなかじいさんは、急にやさしい顔になって、ふたりの手をとろうとしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-162733-162810">すると、そのとき、みょうなことが起こったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-162810-163073">クックックックッ……というような、へんな音が聞こえてきました。おやっと思って耳をすますと、その音は、からだをしばられて、うつむいているしらひげの口から、もれているようです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-163073-163330">その音が、だんだん大きくなってきました。明智の老人が、首をあげました。おかしくてたまらないという顔つきです。笑いをかみころしていたのです。それが、とうとう爆発しました。</seg></p>
        <p>「ワハハハハ……、きみのほうに奥の手があれば、ぼくのほうにだって、いろいろ奥の手があるんだよ。小林君。かつらを取って、見せてやりたまえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-163539-163796">それを聞くと、いなかむすめのマユミさんが、両手を頭にあげて、女のかつらを、スッポリとぬいでみせました。女の子だとばかり思っていたのが、じつは、男の子の変装だったのです。</seg></p>
        <p>「ハハハハ……。どうだね、また、いっぱい食ったね。小林君は、このあいだ、マユミさんに変装して、きみにひどいめにあったばかりだ。おなじトリックに、二度もかかるなんて、ゴングも、もうろくしたもんだね。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-164092-164412">それから、この子ども、俊一君じゃないよ。俊一君によく似た子どもをさがしだして、ここへつれてきたのさ。ハハハハ……。どうだね、せっかく、ぼくをしばっても、マユミさんと俊一君がにせものでは、なんにもならなかったね。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">いや、そればかりじゃない。ぼくの奥の手は、まだあるんだよ。ほら、見てごらん。ぼくは、縄ぬけの名人だからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-164579-164920">しらひげの老人は、そういって、すっくと立ちあがったかとおもうと、しばられていた両手を、ヌッとつきだしてみせました。ほそびきは胴体に、ぐるぐる巻きになっていますが、両手がぬけてしまったのですから、もうなんの不自由もありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-164920-165141">勝ちほこっていたゴングのいなかじいさんは、このふいうちに、あっけにとられて、ピストルを持つ手も、だらりとたれたまま、ぼんやりつっ立っていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-165141-165273">きびんな小林少年が、それを見のがすはずはありません。女の寝まきをきた小林君のからだが、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-165273-165291"><rb>宙</rb><rt>ちゅう</rt></ruby><seg source="#source-165291-165317">におどりました。</seg></p>
        <p>「あっ、ちくしょう！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-165352-165561">いなかじいさんが、どなったときには、もうピストルは、小林君の手ににぎられていました。ふいをうって、ピストルをうばい取ってしまったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-165561-165746">小林君は、そのピストルをかまえて、ゴングにねらいをさだめました。こんどは、ゴングじいさんのほうが、両手をあげる番でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-165746-165922">しかし、ゴングもさるものです。いちじはおどろいたようですが、たちまち、気力をとりもどして、にやにや笑いだしました。</seg></p>
        <p>「ウフフフ……、で、どうしようというのだね。ピストルをうつのかね。だが、きみには、うてないのだよ。うてば、おれが死ぬんだからね。きみたちは、人ごろしなんか、できっこないよ。では、ピストルでおどかして、おれをしばろうとでも、いうのかね。ところが、それもだめだよ。おれは、しばられないからね。おれはもう、このうちに用事はないから、おいとまをするばかりだ。それじゃあ、あばよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-166482-166676">ゴングのじいさんは、相手がピストルをうつはずはないとたかをくくって、いけがきのしおり戸のほうへ、ゆうゆうと歩いていくのでした。</seg></p>
        <p>「待ちたまえ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-166702-166884">明智探偵が、自信にみちた、おもおもしい声で呼びかけました。ゴングじいさんは、思わず立ちどまって、こちらをふりむきます。</seg></p>
        <p>「きみ、あれが聞こえないかね。ほら、だんだん、近づいてくるじゃないか。ぼくのほんとうの奥の手というのは、これなんだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-167066-167119">明智は、にこにこ笑っていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-167119-167298">ゴングじいさんの顔が、まっさおになりました。いけがきのむこうから聞こえてくる音が、恐ろしい意味をもっていたからです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-167298-167654">それは、自動車の音でした。いけがきのむこうに、その黒いボディが見えたかとおもうと、キーンというブレーキの音がして、しおり戸の前に自動車がとまり、そのドアがひらいて、三人の警官が、手に手にピストルを持って、とびだしてくるのが見えました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-167654-167752">立ちすくんだゴングじいさんのうしろから、明智の声がひびきます。</seg></p>
        <p>「わかったかね。きみはもう、のがれられないのだ。無電をそなえつけるひまがなかったので、伝書バトでまにあわせたのだ。さっき、きみが裏のほうへまわっているすきに、ぼくは、伝書バトを飛ばした。近くの町の警察署でかっている伝書バトだよ。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ハトは十分間で警察へ飛んでいった。ハトの足には、ゴングがきたという手紙をいれた通信筒がつけてあった。そこで、警官の出動となったのだよ。ぼくは、いろんなことをいって、きみをひきとめ、この自動車がくるのを待っていたのさ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-168428-168514">三人の警官は、もう、しおり戸をあけてはいってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-168514-168609">ああ、妖人ゴングは、とうとう、つかまってしまうのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-168609-168817">しかし、相手は魔法つかいのような怪物です。まだ、どんな奥の手が残っていないともかぎりません。なんだか心配です。胸がドキドキしてきます。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-168817-168883"><seg source="#source-168817-168835">さいごの手段</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-168887-168985">立ちすくんでいたゴングじいさんが、パッと身をひるがえしました。</seg></p>
        <p>「おれには、さいごの奥の手があるんだっ。」</p>
        <p><seg source="#source-169050-169277">と叫びざま、明智探偵のほうへ突進してきました。小林君は、ピストルをかまえていましたけれど、うつことができません。それほどゴングは、すばやかったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-169277-169507">明智にとびかかるかと見ていると、そうではなくて、明智の横をとおりすぎて、いきなり、縁がわにとびあがり、あっと思うまに、奥の部屋にかくれてしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-169507-169701">そのとき、警官たちは、もう、縁がわの近くまできていましたが、ゴングじいさんの姿が見えないので、ピストルをうつこともできません。</seg></p>
        <p>「裏へまわってください。裏から逃げるつもりです。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-169778-170206">明智の声に、警官たちは、家の横を裏のほうへ、とんでいきましたが、もう、まにあいません。ゴングじいさんは、一直線に、家の中を突っきって、裏手にとびだすと、そのまま、いけがきを乗りこして、裏山の森の中へ逃げこんでしまいました。そのはやいこと！　まるで、つむじ風がとおりすぎるようでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-170206-170337">三人の警官が、それにつづいて、森の中へとびこんでいったことは、いうまでもありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-170337-170549">道もない森の中。頭の上は、いくえにも木の葉にとざされて、まっ暗です。イバラやつる草が、ゆくてをふさいでいて、なかなか、はやくは進めません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-170549-170803">ゴングじいさんの姿は、はるかむこうに、ちらちらと見えたりかくれたりしています。三人の警官は、ターン、ターン、ターンと、空にむかって、おどかしのピストルを発射しました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-170803-170955">しかし、そんなことで、おどろくゴングではありません。かれの姿は、ますます遠ざかっていくばかりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-170955-171035">そのとき、警官たちは、ぞっとして立ちどまりました。</seg></p>
        <p>「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-171106-171363">どこともしれず、あの恐ろしい音が聞こえてきたからです。はじめは小さく、だんだん大きく、しまいには、こまくやぶれるばかり恐ろしいひびきとなって、おそいかかってくるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-171363-171674">ふと気がつくと、むこうの木のあいだに、白いもやのようなものがたちこめていました。だれかたき火でもしているのかと思いましたが、そうでもありません。うす暗い森の下に、白いものが、ボーッとたちこめているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-171674-171841">警官たちは、思わず立ちどまって見ていますと、その白いもやの中に、ぼんやりと、へんなものがあらわれてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-171841-172003">あっ！　人の顔です。五メートル四方もあるような、でっかい人の顔です。いや人間ではありません。人間に、あんな</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-172003-172018"><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby><seg source="#source-172018-172065">がはえているはずはないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-172065-172235">ギョロリと光ったまんまるな目、大きな鼻、耳までさけた恐ろしい口、そこから、ニューッと、とびだしている大きな牙。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-172235-172312">妖人ゴングです。ゴングが正体をあらわしたのです。</seg></p>
        <p>「撃てっ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-172332-172541">警官のひとりが叫びざま、怪物の顔にむかってピストルを発射しました。あとのふたりも、それにつづいて、ターン、ターンとピストルを撃ちました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-172541-172702">しかし、白いもやの中の怪物は、びくともしません。大きな口を、キューッとまげて、あざ笑っているばかりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-172702-172869">勇敢な警官たちは、いきなり、白いもやにむかって突進していきました。怪物につかみかからんばかりのいきおいです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-172869-173228">ところが、近づくにしたがって、もやの中の怪物が、とけるように、くずれていきました。そして、警官たちが、もやの中にふみこんだときには、もう、そこには、なにもないのでした。ただ、うすい煙のようなものが、ふわふわと、ただよっているばかりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-173228-173362">そのとき、またしても、警官たちを、あざ笑うように、あのぶきみな音が、ひびいてきました。</seg></p>
        <p>「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-173433-173534">その音にまじって、もうひとつの、みょうな音が聞こえてくるのです。</seg></p>
        <p>「ブルン、ブルン、ブルン、ブルルルル……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-173602-173748">そして、サーッと嵐のような風が吹きつけてきました。そのへんの立ち木が、ざわざわとゆれています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-173748-173924">怪物が、なまぐさい風をまきおこして、天にでものぼっていくのでしょうか。警官たちは、なんだか、そんな感じがしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-173924-174313">白いもやをくぐりぬけて、なおも進んでいきますと、むこうのほうが、パッと明るくなりました。そこで森がなくなって、原っぱがひろがっているらしいのです。小山のいただきが、原っぱになっているのでしょうか、つむじ風は、その原っぱのほうから吹きつけているらしいのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-174313-174393">警官たちは、やっと、森をぬけて、原っぱに出ました。</seg></p>
        <p>「あっ！　あれをみたまえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-174437-174514">さきにたっていた警官が、空を指さして叫びました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-174514-174681">ああ、ごらんなさい。小山のいただきの原っぱの空には、一台のヘリコプターが、舞いあがっているではありませんか。</seg></p>
        <p>「あっ、ゴングは、あれに乗って逃げだしたんだ。あいつは、ヘリコプターを、ちゃんと、ここに待たせておいたんだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-174848-175246">まだ、そんなに高くあがっていないので、すきとおったプラスチックばりの操縦席が、よく見えます。そこには、ゴングの部下らしいひとりの操縦者と、いなかじいさんにばけたゴングとが乗っていて、いなかじいさんは下を見おろして、にやにや笑っているのが、まざまざと見えるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-175246-175476">警官たちは、こぶしをふるって、空にどなりつけましたが、なんのかいもありません。つづけざまにピストルをぶっぱなしましたが、ヘリコプターにはあたりません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-175476-175697">ヘリコプターは、上へ上へとのぼって、東京のほうにむかって遠ざかっていきます。豆つぶのように小さくなり、それも、やがて見えなくなってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-175697-176028">妖人ゴングは、明智探偵のために裏をかかれて、なにもすることもできず逃げさったのです。しかし、さすがの名探偵も、ゴングをとらえることはできませんでした。まさか、ヘリコプターまで用意しているとは気がつかなかったからです。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-176028-176082"><seg source="#source-176028-176040">地底の声</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-176086-176235">お話かわって、こちらは東京世田谷区の花崎さんの家です。ここでも、みょうなことが起こっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-176235-176681">西多摩郡の山の中にかくれていたのは、にせものだったのですから、ほんもののマユミさんと俊一君は、花崎さんの家の、どこかに身をひそめていたのかというと、そうでもありません。ふたりは、花崎さんの家からも、姿を消してしまったのです。明智探偵の計略で、ほんもののほうも、どこかへ、かくしてしまったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-176681-177079">おとうさんの花崎検事とおかあさんだけは、明智と相談のうえ、ふたりの子どもをかくしたのですから、ほんとうのことを知っていましたが、やとい人などは、なにも知りません。マユミさんと俊一君が、どこかへいってしまったので、ゴングにさらわれたのではないかと、おおさわぎです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-177079-177354">おとうさんやおかあさんも、うわべは心配そうにして、ほうぼうへ電話をかけてたずねたり、警視庁の中村警部にもしらせましたので、警部は数名の刑事をつれて、花崎さんの家をしらべにきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-177354-177648">この中村警部は明智探偵の親友ですから、ちゃんと、ほんとうのことを知っていました。でも、世間には、ふたりがゆくえ不明になったと、見せかけておかなければ、ゴングをだますことができませんので、わざと、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-177648-177660"><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby><seg source="#source-177660-177725">さがしをしたりして、さわいで見せたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-177725-178045">それから毎日、ひとりの刑事が花崎さんの家につめきって、なにかの見はりをすることになりました。刑事といっても、ふつうのセビロを着ているのですから、花崎さんの事務員としか見えません。だれもあやしむものはないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-178045-178395">しかし、その刑事さんは、いったい、なにを見はっていたのでしょう。花崎さんの家の西洋館のはしにある、俊一君の勉強部屋に、刑事さんはいつも腰かけて、窓の外を見ていました。ゴングが庭へしのびこんでくるのを、待ちかまえているのでしょうか？</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-178395-178466">そのうちに、みょうなことが起こってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-178466-178636">ある夕がたのこと、ひとりのお手伝いさんが顔色をかえて、マユミさんたちのおかあさんの部屋へ、かけこんできました。</seg></p>
        <p>「おくさま、なんだかへんですわ。いま、お庭を歩いていましたら、どこかから歌をうたっている声が、かすかに聞こえてきたのです。それが、俊一さんが、いつもおうたいになる歌で、声も俊一さんと、そっくりなのです。わたくし、おやっと思って、庭の木のあいだを探してみましたが、だれもいません。それでいて、歌の声は、いつまでも、かすかにつづいているのです。おくさま、その声は、なんだか地の底から、ひびいてくるように思われました。わたくし、恐ろしくなりました。俊一さんは、もしかしたら、庭の地の底にいらっしゃるのではないでしょうか。その歌は、さびしい悲しそうな声でしたわ。」</p>
        <p><seg source="#source-179472-179573">と、さもこわそうに、うしろをふりかえりながら、うったえるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-179573-179731">おかあさんは、それを聞いても、べつに心配らしいようすもなく、笑いながら、お手伝いさんをたしなめました。</seg></p>
        <p>「それは気のせいですよ。そんなばかなことがあるものですか。きっとへいの外で、どこかの子どもが、うたっていたのよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-179904-180149">お手伝いさんは、おくさまが取りあってくださらないので、そのまま、ひきさがりましたが、このふしぎなできごとは、けっして、お手伝いさんの気のせいではなかったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-180149-180307">俊一君は、ほんとうに、地の底で、悲しい歌をうたっていたのです。いったい俊一君はどこにいたのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-180307-180408">ところが、その晩のこと、もっともっと恐ろしいことが起こりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-180408-180581">花崎さんの家の上のまっ暗な空を、一台のヘリコプターが、通りすぎました。ブーンというプロペラの音が聞こえたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-180581-180757">しかし、飛行機やヘリコプターが、家の上をとおるのは、いつものことですから、だれも、あやしむものはありませんでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-180757-180906">すると、それからまもなく、花崎さんのお庭の空いっぱいに、あの恐ろしい怪物の顔があらわれたのです。</seg></p>
        <p>「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」</p>
        <p><seg source="#source-180977-181171">という、ぶきみな音が、教会の鐘のようにひびきわたったので、花崎さんをはじめ家の人は、みんな、窓や縁がわに出て、空を見あげました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-181171-181410">すると、あの恐ろしい顔が、らんらんと目を光らせ、牙をむきだして、やみの空いっぱいに、花崎さんの庭を見おろして、ウワン、ウワンと、笑っていたではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-181410-181621">あいては雲の上の怪物です。どうすることもできません。みんなは、一つの部屋に逃げこんで、耳をおさえて、うずくまっているほかはないのでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-181621-181681"><seg source="#source-181621-181636">防空壕の中</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-181685-181846">そのあくる日のことです。花崎さんの家の俊一君の勉強部屋に、見なれぬ刑事が、見はりばんをつとめていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-181846-182043">刑事は、かわりあってやってくるので、毎日同じではありませんが、今日の刑事は、いままで、一度もきたことのない人でした。その刑事は、</seg></p>
        <p>「わたしは、二―三日まえに刑事をつとめるようになった、しんまいです。」</p>
        <p><seg source="#source-182150-182254">と、あいさつして、にやにや笑いました。なんだか、へんな刑事さんです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-182254-182574">その刑事は、お昼から夜まで、ずっと見はりをつづけていましたが、夜の九時ごろ、うちの人が、みんな寝室へひきとり、あたりが、しーんとしずかになるのを待って、刑事は俊一君の洋室の窓をあけ、そこから庭へとびおりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-182574-182724">まっ暗な庭に立って、しばらく、そのへんを見まわしていましたが、だれもいないことがわかると、広い庭の</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-182724-182742"><rb>木立</rb><rt>こだ</rt></ruby><seg source="#source-182742-182861">ちの中へはいっていきます。いったい、この刑事は、なにをするつもりなのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-182861-183070">木立ちの中に、土手のように小だかくなったところがあります。刑事はそのそばによって、土手の横にある四角な鉄のとびらを、パッとひらきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-183070-183276">それは、むかし、戦争のときにつくった防空壕の入口だったのです。戦争のときは、空襲があると、家じゅうのものが、そこへ逃げこんだものです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-183276-183488">花崎さんの庭にある防空壕は、ぜんぶコンクリートでつくり、鉄のとびらをあけ、階段をおりて、コンクリートの地下室にはいるようになっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-183488-183736">がんじょうなコンクリートづくりなので、こわすのがたいへんですし、物置部屋につかうこともできますので、花崎さんは、防空壕をこわさないで、そのままにしておいたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-183736-183879">刑事は、まっ暗な階段をおり、そこにもう一枚しまっている鉄のドアを、こつこつと、たたきました。</seg></p>
        <p>「だれ？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-183896-183952">中から、子どもの声が聞こえました。</seg></p>
        <p>「わたしだよ。おとうさんだよ。ちょっと、ここをあけなさい。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-184044-184175">刑事が、花崎さんとそっくりな声でいいました。このあやしい刑事は、ものまねの名人です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-184175-184258">カチカチと、かぎの音がして、鉄のドアがひらきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-184258-184521">あっ、こんなところに！　……その地下室の中には、ゆくえ不明になったマユミさんと俊一君が、かくれていたのです。てんじょうからさがった小さな電灯が、ふたりの顔を照らしています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-184521-184829">ふたりはゴングをだますために、どこかへいってしまったと見せかけて、じつは、こんな地下室の中で、不自由な思いをしていました。食事は、だれも見ていないときに、おかあさんが、そっと運んでいてくださったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-184829-185170">ふたりは、おとうさんと思いこんで、ドアをひらいたのですが、そこに見しらぬ男が立っていたので、ハッとしてドアをしめようとしました。しかし、もう、おそかった！　刑事は、ドアをおしひらいて、地下室の中へ、ヌーッとはいってきました。</seg></p>
        <p>「きみたち、マユミさんと、俊一君だね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-185232-185294">刑事が、にやにや笑いながらいうのです。</seg></p>
        <p>「そうだよ。きみはだれなの？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-185341-185388">俊一君が、ききかえしました。</seg></p>
        <p>「わたしは、警視庁の刑事だよ。きみたちを迎えにきたのだ。もう、外へ出てもだいじょうぶだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-185528-185653">それを聞くと俊一君は、しばらく考えていましたが、ハッとなにかに気づいたようすで、</seg></p>
        <p>「じゃあ、なぜ、おとうさんだなんて、うそをいったの？」</p>
        <p>「いや、あれは、ちょっといたずらをしたんだ。なんでもないよ。さあ、いこう。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-185852-186001">刑事はそういって、ふたりの手をとろうとしましたが、ふたりは、さっと身をひいて、それをさけました。</seg></p>
        <p>「いやだよ。じゃあ、なぜ、おとうさんやおかあさんが、じぶんでこないんだい？　ぼくたちは、ちゃんと約束したんだ。この地下室へは、おとうさんと、おかあさんと、明智先生のほかは、だれもはいってこないはずなんだよ。もし、そのほかの人がはいってきたら、敵だと思えといわれているんだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-186414-186545">俊一君が、そこまでいいますと、ねえさんのマユミさんがひきとって、あとをつづけました。</seg></p>
        <p>「そうよ。それに、けさ、おかあさまに聞いたわ。ゆうべ、家の空に、ゴングの顔があらわれたんですって、あれは、ゴングがやってくる前ぶれよ。」</p>
        <p>「そうだ。きみは、そのゴングか、ゴングの手下だろう。え、そうだろう。ぼくたちを、つれだしにきたんだろう？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-186912-187028">俊一君も、叫ぶようにいうのです。すると、刑事が、いやな笑い声をたてました。</seg></p>
        <p>「ウフフフフフフ……、おまえたちは、なかなかりこうだな。そう気がつけばしかたがない。おれはゴングだよ。ウフフフ……、手下じゃない。おれが、あの恐ろしいゴングなのだ。おれは変装の名人だから、なににだってばけられる。きょうはほんものの刑事を、あるところへ閉じこめておいて、その身がわりになって、ここへやってきたのだ。さあ、ふたりともおれといっしょに、くるんだっ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-187570-187740">マユミさんと俊一君は、顔を見あわせて、くすりと笑いました。なぜでしょう。妖人ゴングが、こわくないのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-187740-187814">俊一君が、いたずらっぽい顔をして、いいました。</seg></p>
        <p>「ところがね、ゴング君、おあいにくさまだよ。おれは俊一君じゃないのさ。ここにいるのは、マユミさんじゃないのさ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-187984-188097">少年は、にわかに、ことばづかいが悪くなって、へんなことをいいだしました。</seg></p>
        <p>「おれは、チンピラ隊の<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-188130-188154"><rb>安公</rb><rt>やすこう</rt></ruby>というんだよ。そいから、このねえさんは、やっぱり、おいらのなかまで、ひでちゃんっていうんだ。さすがのゴングおじさんも、すっかり、だまされたねえ。ワーイだ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-188390-188701">いったかと思うと、ひでちゃんと安公は、ゴングがつかまえようとする手の下をくぐって、すばやく逃げだしました。そして、あっと思うまに入口の外へとびだして、ピシャンとドアをしめ、外からかぎをかけてしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-188701-188940">さすがの妖人ゴングも、チンピラ隊の安公に、してやられたのです。にせものだときいて、びっくりしたので、つい、つかまえる手のほうが、おるすになったからでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-188940-189229">チンピラ隊の少年たちは、みんなリスのように、すばしっこいのですが、なかでも安公は身がかるいので有名でした。大敵ゴングを、むこうにまわして、まんまと、うまくやってのけたのは、えらいものです。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-189229-189301"><seg source="#source-189229-189250">五ひきのネズミ</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-189305-189589">刑事にばけた妖人ゴングは、鉄のドアをおしたり、ひいたりしてみましたが、恐ろしくがんじょうにできているので、どうすることもできません。からだごと、ぶっつかってみても、びくともしないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-189589-189864">針金が一本あれば、錠をひらくぐらい、ゴングには、わけもないのですが、あいにく、そんな針金は、どこにもありません。ゴングはがっかりして、地下室のすみにおいてあるベッドに腰かけました。</seg></p>
        <p>「明智は、恐ろしいやつだ。まさか、ここまで、裏の裏があるとは知らなかった。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-189980-190357">西多摩の山の中まで出かけていくと、それが、にせもの。そして、こんどは、家にかくれているだろうと、やっとのことで防空壕を探しあてると、またしてもにせものだったのです。明智探偵の奥底のしれない計略には、さすがのゴングも、すっかり、あきれてしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-190357-190500">ベッドに腰かけて考えこんでいますと、目のすみで、なにかしら、チラッと、動いたものがあります。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">だれもいない地下室に、動くものがあるはずはありません。「へんだな。」と思って、よく見ますと、すぐ前のコンクリートの壁の下に、さしわたし十センチほどの、いびつな穴があいています。穴の中はまっ暗です。どうも、さっき動いたのは、この穴のへんでした。穴の中に、なにか生きものがいるのでしょうか。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-190934-191170">大きなヘビでも住んでいるのではないかと思うと、いくらゴングでも、いい気持はしないとみえて、かれは、みょうな顔をして、じっと、その穴をにらみつけていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-191170-191376">すると、まっ暗な穴の中から、チラッとのぞいたやつがあります。小さい目がキラキラ光って、口がとんがり、ひげがピンと五―六本はえています。</seg></p>
        <p>「なあんだ、ネズミじゃないか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-191426-191692">ゴングは、思わずつぶやきました。ネズミは用心ぶかく、しばらく考えていましたが、ゴングがしずかにしていますので、だいじょうぶと思ったのか、チロチロと、穴からはいだしてきました。</seg></p>
        <p>「ネズミがくるからには、この穴は、外へ通じているんだな。それなら、この穴を大きくして、土を掘っていけば、逃げだせるかもしれないぞ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-191892-192176">ゴングは、そんなことを考えました。たしかにこの穴は、あるところへ通じていたのです。しかし、それがどんなところだったか？　もしゴングが、そこへ気づいたら、どんなにギョッとしたことでしょう！</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-192176-192418">さっきのネズミは、地下室のすみをつたって、スーッと、むこうへ走っていきましたが、すると、また穴の中から、小さな顔をだしたやつがあります。二ひきめのネズミです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-192418-192693">その第二のネズミが穴を出て、そのへんをうろうろしているあいだに、また、穴の中から、第三のネズミがはいだし、つづいて、第四、第五と、あわせて五ひきのネズミが出てきたではありませんか。</seg></p>
        <p>「へんだなあ。どうして、こんなにネズミが出てくるんだろう？　ここには、たべものなんか、ありゃしないのに。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-192854-193081">ゴングは、なんだか気味がわるくなってきました。ネズミたちが、地下室に閉じこめられたじぶんを、からかいにきたのかと思うと、しゃくにさわってくるのです。</seg></p>
        <p>「こんちくしょうめ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-193116-193256">ゴングはいきなり立ちあがり、足ぶみをして、ネズミを、もとの穴の中へおいかえそうとしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-193256-193414">ところが、ネズミたちは、地下室をぐるぐる逃げまわるばかりで、どうしても穴の中へは、はいろうとしません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-193414-193671">なぜでしょう？　これには、なにかわけがあるのでしょうか。ひょっとしたら、穴の奥に恐ろしい動物がいるので、ネズミたちはそれがこわくて、穴へもどれないのではないでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-193671-193820">そのとき、またしても、なんだか、へんなことが起こりました。穴の中から、水が流れだしてきたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-193820-193936">それを見ると、ゴングは、あることに気づいて、まっさおになってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-193936-194154">穴の奥には、たしかに恐ろしいやつがいたのです。それは水だったのです。ネズミどもは流れる水におわれて、この部屋へ逃げてきたのにちがいありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-194154-194289">そのうちに、水の勢いがはげしくなってきました。ドーッと流れだしてきたかと思うと、つぎには</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-194289-194313"><rb>噴水</rb><rt>ふんすい</rt></ruby><seg source="#source-194313-194372">のように、恐ろしい力でふき出すのです。</seg></p>
        <p>「ああ、わかったぞ。この穴はあの池の底へ通じているんだな。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-194464-194754">ゴングは、花崎さんの庭に、池のあることを思いだしました。このお話のさいしょのほうで、池の中から巨大なゴングの顔があらわれたことがあります。あの池です。あの池の水が、この穴へ流れてくるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-194754-194942">ゴングが地下室へ閉じこめられたとき、だれかが、池の底にしかけてあるふたをはずして、水が流れるようにしたにちがいありません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-194942-195133">流れだす水は、みるみる地下室の床いっぱいになり、立っているゴングの足くびをかくし、その水面が、じりじりとあがってくるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-195133-195267">ネズミどもは、五ひきともベッドの上にかけあがりました。ゴングも、ベッドにのぼりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-195267-195386">水面は、ぐんぐんと高くなり、もうベッドの上までのぼってきたではありませんか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-195386-195574">ゴングは、ジャブジャブと水の中を歩いて、鉄のドアに近づき、もう一度、おしたり、ひいたりしてみましたが、やっぱり、だめです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-195574-195656">水面はもう、ゴングの腰のへんまでのぼってきました。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-195656-195722"><seg source="#source-195656-195674">水中のゴング</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-195726-196286">水はゴングの腰までになり、腹、胸、肩と、みるみる深くなってくるのです。大きな池の水ですから、このせまい防空壕が、てんじょうまでいっぱいになっても、まだあまるほどです。いつまでたっても、水がとまるようすはありません。ぐんぐん水面が高くなっていくばかりです。そのへんを、死にものぐるいで、泳ぎまわっていた五ひきのネズミが、つぎつぎと、ゴングのからだへ、のぼりついてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-196286-196588">ネズミたちにとっては、ゴングのからだは、広い海の中につきだしている岩のようなもので、そこへよじのぼるほかに助かるみちはないのですから、ゴングがいくらはらいのけても、執念ぶかくのぼりついてくるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-196588-196869">そのうちに、水はゴングの首をひたし、あごにとどき、口をかくすほどになってきました。もう立っていることができません。しかたがないので、ゴングは、つめたい水の中で立ちおよぎをはじめました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-196869-197150">ネズミどもは、ゴングの顔へのぼりついてきました。ゴングは変装しているのですから、かみの毛はカツラなのです。ネズミたちは、そのカツラのモジャモジャのかみの毛にしがみついて、はなれません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-197150-197494">手ではらいのけようとすると、死にものぐるいのネズミは、ゴングの指にかみつくのです。指ばかりではありません。耳たぶや、鼻の頭を、あのするどい歯でかみつくのです。ゴングの顔は、ほうぼうから血が流れて、恐ろしいありさまになりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ゴングは、「ちくしょう！　うるさいネズミめ！」とつぶやきながら、ぐっと、水の中へもぐりました。頭を水の中に沈めてじっとしていますと、ネズミどもは息ができないので、ゴングの頭をはなれて、水面に浮きあがり、そのへんを泳ぎまわるのです。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-197844-198251">しかし、ゴングのほうでも、いつまでも、もぐっているわけにはいきません。息がくるしくなって、ひょいと頭をあげると、ネズミどもは、待ってましたとばかり、またしても、ゴングの顔や、頭へ、泳ぎついてきます。そして、耳や、鼻や、くちびるを、ひっかいたり、かみついたりするのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-198251-198505">ゴングは、なんども水にもぐって、ネズミをはらいのけましたが、いくらやっても同じことなので、もう、あきらめてしまいました。五ひきのネズミを頭にのせたまま、泳いでいます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-198505-198819">ふと気がつくと、防空壕のてんじょうからさがっているはだか電球が、水面とすれすれになっていました。もうてんじょうと水面のあいだは、六十センチほどしかありません。いつのまにか、それほど水かさがましていたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-198819-199178">しばらくすると、そのへんが、みょうな色にかわりました。電球が、水につかってしまったからです。てんじょうが、スーッとうす暗くなり、電球は水の中で光っています。電球のまわりの水が明るくなって、水面が波だつたびに、キラキラと美しく光るのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-199178-199333">しかし、それも、ごくわずかのあいだで、やがてパッと電灯が消え、あたりは真のやみになってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-199333-199617">死んだようなやみの中、つめたい水の中、なんの音もなく、動くものといっては、立ちおよぎをするために、しずかに水をかいている、じぶんの手足と、顔や頭にすがりついているネズミのからだだけです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-199617-199703">さすがの妖人ゴングも、ゾーッと、こわくなってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-199703-199909">十分もすれば、水は防空壕のてんじょうにつくでしょう。そうすれば、もう息ができなくなるのです。水の中でもがきながら、死んでしまうのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-199909-200265">いや、そんなことよりも、なんにも見えないこの暗さ。頭の上で、からだをくっつけあって、うごめいている五ひきのネズミ。手足を動かさなければ沈んでしまう、つめたい水。そういう、いまの身のうえが、なんともいえないほど恐ろしくなってきたのです。</seg></p>
        <p>「助けてくれええ……。おれは、息がつまりそうだああ……。だれか、きてくれええ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-200393-200467">死にものぐるいの声を、ふりしぼって叫びました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-200467-200682">ゴングはもう魔法つかいではないのです。こうなっては、どんな魔法も、つかえないのです。ただ、まっ暗な中で、水におぼれて死ぬのを待つばかりです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-200682-200875">いくら悪人だといっても、あんまりかわいそうではありませんか。明智探偵は、こうして、ゴングを殺してしまうつもりなのでしょうか。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-200875-200935"><seg source="#source-200875-200890">地上と地下</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-200939-201148">そのとき、花崎さんの広い庭に、何十人という黒い人影がむらがっていました。ことに防空壕の土手のまわりに、おおぜいの人が集まっているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-201148-201276">懐中電灯が、あちこちで照らされ、夜の庭に、その光が、星のようにきらめいていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-201276-201422">庭の池のまわりにも、四―五人の黒い人影がありました。みんな小さなからだです。子どものようです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-201422-201499">懐中電灯の光が、スーッと池の水面を照らしました。</seg></p>
        <p>「あっ、池の水が、あんなに、へっちゃったよ。もう防空壕が、いっぱいになったかもしれないよ。」</p>
        <p>「うん、はやく助けてやらないと、あいつ死んじゃうかもしれないね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-201740-201778">それは少年の声でした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-201778-201873">みると、池の水は、もう、いつもの半分ほどにへっているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-201873-202118">懐中電灯が動いて、ひとりの少年の顔を照らしました。あっ、井上一郎君です。少年探偵団の井上君です。すると、ここにいる少年たちは、みんな少年探偵団員なのでしょうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-202118-202204">防空壕のまわりにも、小さい黒い影がむらがっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-202204-202398">防空壕の土手には、両方のはしに、出入り口の鉄のとびらが閉まっています。その両方の出入り口の前に、小さい影が集まっているのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-202398-202478">いっぽうの出入り口の前で、こんな声が聞こえました。</seg></p>
        <p>「小林さん、だいじょうぶなの？　あいつ魔法つかいだから、とっくに、防空壕の中からぬけだしてしまったんじゃないかしら？」</p>
        <p>「だいじょうぶだよ。あいつは、魔法つかいじゃない。ただの人間だよ。悪知恵をはたらかせて、魔法をつかうように見せかけているだけだよ。いくらゴングだって、この厳重な防空壕から逃げだせるもんか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-202944-203162">懐中電灯の光が動いて、チラッとふたりの顔を照らしました。ひとりは探偵団長の小林少年、もうひとりは、ちゃめで、おくびょうもののノロちゃんでした。</seg></p>
        <p>「そんなら、防空壕の中は、いまごろ水でいっぱいになっているだろうから、あいつ、死んじゃったかもしれないね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-203326-203385">ノロちゃんが、心配そうにいいました。</seg></p>
        <p>「だいじょうぶだよ。明智先生は、人を殺したりなんかしはしないよ。ごらん！　あれを。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-203513-203584">小林少年は、防空壕の土手の上を指さしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-203584-203913">小山のようになった土手の上に、三人のおとなの影が見えています。ひとりは、そこに立って、懐中電灯を照らしながら、なにかさしずをしています。あとのふたりは、一本ずつシャベルを持って、しきりと、土手の上の土を掘っています。</seg></p>
        <p>「ああ、あそこへ穴を掘って、ゴングを助けだすんだね。」</p>
        <p>「助けだすんじゃない。つかまえるのだよ。とうとう、ゴングも、明智先生の計略にかかってしまったねえ。これでもう花崎君たちは安心だよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-204196-204414">防空壕のまわりには、少年たちのほかに、数人の制服警官の姿も見えました。妖人ゴングを逮捕するために、手ぐすねひいて、待ちかまえているのでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 8em" rend="first-line-indent(8)"><seg source="#source-204414-204470">×　　　　×　　　　×</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-204470-204616">防空壕の水の中では、魔法の力をうしなったあわれなゴングが、きちがいのように、わめいていました。</seg></p>
        <p>「助けてくれええ……、だれか、きてくれええ……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-204693-204938">しかし、壕の中は水ばかりで、空気はてんじょうにおしつけられているものですから、つまったようなへんな声になってしまいます。むろん、外まで聞こえるはずはないのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-204938-205168">ゴングは叫びつかれて、とうとう、だまりこんでしまいました。水のつめたさで、からだがしびれてしまって、手足をもがきながら水に浮いているのが、やっとです。</seg></p>
        <p>「ちくしょうめ！　明智のやろう、おれをこんなひどいめに、あわせやがって……。だが、おれはまだ、あきらめないぞ。なんとかして、ここをぬけだし、こんどこそ、きさまを、とっちめてやるぞっ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-205446-205547">ゴングは、口の中で、そんなことを、ぶつぶつ、つぶやいていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-205547-205765">すると、そのとき、どこかから、ブルルルルル……という、へんてこな音が聞こえてきました。なんだか、オートバイのエンジンをかけているような音です。</seg></p>
        <p>「いや、ちがう。オートバイが、こんなところへくるはずがない。ひょっとしたら、水がどっかへ流れだしているんじゃないかな。小さな穴から流れだす音じゃないかな。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-206001-206114">ゴングは、手をのばして、てんじょうにさわりながら、じっと考えていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-206114-206314">しかし、てんじょうと水面のあいだは、遠くなるどころか、じりじりと、近づいていることがわかりました。水がひいているのではないのです。</seg></p>
        <p>「ブルルルルルル……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-206352-206573">その、みょうな音につれて、てんじょうにさわっている手がブルブルふるえてきました。つまり、コンクリートのてんじょうそのものが、ふるえているのです。</seg></p>
        <p>「ブルルルル……ブルルルル。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-206620-206742">その音は、ますます強くなり、てんじょうは、いよいよ、はげしくふるえてきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-206742-206984">地震ではありません。しかし、なにか恐ろしい異変が起こる前ぶれではないでしょうか。さすがのゴングも、なんともえたいのしれぬこわさに、ふるえあがってしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-206984-207193">あっ、たいへんです。コンクリートのてんじょうが、メリメリと音をたてて、ひびわれてきたではありませんか。それが、手さぐりで、わかるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-207193-207417">やっぱり、地震かもしれません。てんじょうがこわれ、その上の土手の土といっしょに落ちこんできて、ゴングは生きうめになってしまうのではないでしょうか。</seg></p>
        <p>「ブルルルル……、ブルルルルル……。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-207476-207811">音はすこしもやみません。そのうちに、上から、なにか、バラバラと落ちてきました。砂のようなもの、小石のようなもの、なかには、大きな石のかたまりのようなものが、頭の上にふりそそいで、水面に、ボチャン、ボチャンと落ちるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-207811-208172">ゴングは、いよいよ、この世のおわりがきたのかと思いました。もう、どうすることもできません。水の中へもぐってみても、助かるみこみはありません。ゴングはかくごをきめて、頭の上にふりそそぐ、砂や小石を、じっとがまんしているほかはないのでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-208172-208232"><seg source="#source-208172-208187">穴の上から</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-208236-208433">防空壕の上の土手では、シャベルで掘れるだけ掘ると、あついコンクリートが、あらわれてきました。防空壕のてんじょうにあたる部分です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-208433-208517">もうシャベルでは掘れませんから、用意してあった電気さく</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-208517-208538"><rb>岩機</rb><rt>がんき</rt></ruby><seg source="#source-208538-208885">を庭の電灯線につないで、土手の上にはこび、コンクリートをこわしはじめました。よく、道路工事などで、労働者が長ぼそい機械を地面に立て、上から両手でおさえつけて、ダダダダダ……と、コンクリートをこわしているでしょう。あの機械なのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-208885-209064">ゴングが地震だと思ったのは、このさく岩機のひびきでした。頭の上から落ちてきたのは、コンクリートのかけらだったのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-209064-209252">見ているまに、さしわたし五十センチほどの穴があきました。待ちかまえていた明智探偵は、懐中電灯で、その穴の中を照らしました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-209252-209485">穴の下は水でいっぱいです。その水の中から、あわれなゴングの首が浮きあがっていました。頭には、まだネズミがとまっています。そして顔じゅう血だらけなのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-209485-209622">明智に呼ばれて、土手の下から、ひとりの警官がかけあがってきました。警視庁の中村警部です。</seg></p>
        <p>「ゴングは、だいじょうぶか？」</p>
        <p>「だいじょうぶ。もう水はとめさせたから、これいじょう、ふえることはないよ。それにしても、ゴングの顔は血だらけになっている。どうしたんだろう。」</p>
        <p>「コンクリートのかけらが、ぶっつかったのかな？」</p>
        <p>「いや、わかった。そうじゃないよ。見たまえ。あいつの頭には、ネズミがウジャウジャかたまっている、ネズミにかじられたんだよ。かわいそうなことをしたな。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-210185-210259">明智探偵はそういって、にが笑いをするのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-210259-210543">水の中のゴングは、しばらくは、なにがなんだかわからないように、ぼんやりと、穴の上を見あげていましたが、やがて、ことのしだいが、のみこめたらしく、ぐっとこちらをにらみつけて、どなりました。</seg></p>
        <p>「おい、そこにいるのは明智だな。そして、もうひとりは、中村警部か？」</p>
        <p>「そうだよ。ひどいめにあわせてすまなかったね。だが、きみをとらえるのには、こんな手を考えだすほかはなかったのだよ。きみは、魔法つかいだからね。それにしても、きみの魔法はどうしたんだ。こんなときには、役にたたないとみえるね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-210985-211128">明智が穴をのぞきこみながらいいますと、下から、また、にくにくしげな、どなり声が聞こえました。</seg></p>
        <p>「きさまなんかに、おれの魔法がわかってたまるもんか。いまに、どんなことが起こるか、見ているがいい。こんどこそ、もう、きさまを生かしちゃおかないぞっ！」</p>
        <p>「ハハハ……、からいばりは、よしたまえ。きみは、ぜったい人ごろしはしないはずだったじゃないか。それに、きみはもう、魔法なんかつかえはしないよ。あれは魔法でも、なんでもないんだからね。」</p>
        <p>「フフン、で、きさま、おれの魔法の秘密を知っているというのか。」</p>
        <p>「すっかり知っているよ。だから、いくらきみがおどかしたって、ちっともこわくないのさ。」</p>
        <p>「それじゃ、いってみろ。」</p>
        <p>「なにも、いまいうことはないじゃないか。きみは、そのつめたい水の中に、まだがまんしているつもりか？」</p>
        <p>「おれに、縄がかけたいのだろう。おれのほうでは、ちっともいそぐことはないよ。ここで聞いてやろう。さあ、いってみろ！」</p>
        <p>「ごうじょうなやつだな。それじゃ、水の中で泳ぎながら、聞いていたまえ。きみの魔法といっても、たいていは、これまでに種がわれている。わからなかったのは、ゴングの顔が、空にあらわれる秘密と、ここの池の底から、大きなゴングの顔が浮きあがってきた秘密と、それから、れいのウワン、ウワンという音と、この三つぐらいのものだね。」</p>
        <p>「うん、その秘密がわかるか。」</p>
        <p>「子どもだましだよ。ウワン、ウワンという音は、テープレコーダーと、拡声器があれば、だれにだってだせるよ。拡声器の大きなやつをつかえば、何百メートルもむこうまで、ひびくからね。」</p>
        <p>「ふふん、きさまの考えは、まあ、そんなところだろう。だが、あとの二つの秘密は、むずかしいぜ。きさまに、とけるかね？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-213196-213321">水の中から、首だけをだした血まみれのゴングの顔が、にくにくしく、あざ笑いました。</seg></p>
        <p>「なんでもないよ。二つとも、やっぱり、子どもだましさ。きみのやることは、いつでも子どもだましだよ。ただ、ちょっと、人の思いつかないような、きばつな子どもだましなので、世間がだまされるのだ。きみのくせを知ってしまえば、その秘密をとくのは、ぞうさもないことだよ。」</p>
        <p>「で、とけたか？」</p>
        <p>「むろん、とけたさ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-213777-214021">ひとりは、穴の上にしゃがんで、懐中電灯を照らしながら、ひとりは血まみれの顔で、つめたい水の中に立ちおよぎをしながら、このふしぎな問答は、なおもつづくのでした。</seg></p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-214021-214087"><seg source="#source-214021-214039">ゴングの秘密</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-214091-214189">そのとき防空壕の土手のそばに、みょうなことが起こっていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-214189-214353">そこには少年探偵団とチンピラ隊の子どもたちが、十人ばかり集まって、なにかひそひそとささやきあっていました。</seg></p>
        <p>「ね、この考え、いいだろう。おれ、マネキン人形屋のゴミ箱から、これをひろってきたんだよ。子どものマネキン人形だよ。こいつに俊一さんの服を着せるんだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-214583-214963">チンピラ隊の安公という少年が、とくいになって、みんなに話しているのです。安公はじぶんと同じくらいの大きさの、マネキン人形をわきに立たせて、両手でたおれないように、かかえていました。かたほうの耳がかけ、手足もきずだらけになって、もうつかえない人形です。</seg></p>
        <p>「きみは、ずいぶん、へんなことを考えるんだねえ。そんなこと、うまくいくと思うかい？」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-215091-215168">少年探偵団のひとりが、からかうようにいいました。</seg></p>
        <p>「うまくいかないかもしれないよ。だって、もともとじゃないか。まあ、ためしに、やってみるんだよ。だれか俊一さんの洋服かりてきてくれよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-215371-215439">チンピラの安公は、あくまでいいはるのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-215439-215537">みんなは、小林団長の意見をきいてみました。すると、小林少年は、</seg></p>
        <p>「やってみたらいいよ。安公の考えはおもしろいよ。ゴングのやつ、だれも助けにきてくれないんだから、ひょっとしたら、その手にのるかもしれない。ぼく、俊一君の洋服かりてきてやるよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-215803-215997">小林少年は、そういって、まっ暗な庭のなかをかけだしていきましたが、しばらくすると、俊一君の着がえの服を持って、帰ってきました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-215997-216383">それから、みんなして、きずだらけの人形に俊一君の服を着せ、人形をしゃがませ、地面にみじかい木の棒を立て、たおれないようにしました。頭には学生帽を深くかぶせましたから、ちょっと見たのでは、俊一君とそっくりです。人形の顔も、なんだか俊一君ににているようです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-216383-216451">小林少年は懐中電灯で、それをしらべながら、</seg></p>
        <p>「うまくできたね。ぼくだって、ちょっと見たら俊一君だと思うよ。」</p>
        <p><seg source="#source-216549-216599">と、安公の知恵をほめるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-216599-216691">やみのなかに、花崎俊一君のカカシがしゃがんでいるわけです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-216691-216885">それにしても、このカカシは、いったい、どんな役目をするのでしょうか。チンピラの安公は、じつにへんなことを、思いついたものです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-216885-217019">カカシができあがると、少年たちはそのまわりに立って、時のくるのを待ちかまえるのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-217019-217162">そのあいだにも、防空壕の水の中と、てんじょうの穴の上との、きみょうな問答がつづいていました。</seg></p>
        <p>「で、きさま、おれの魔法の種がわかるというのか。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-217239-217310">水の中のゴングが、あざけるように叫びました。</seg></p>
        <p>「空いっぱいにゴングの顔があらわれたのは、ガラスにかいた絵を映写したんだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-217429-217488">明智探偵が、こともなげに答えました。</seg></p>
        <p>「子どもだましだよ。しかし、大じかけな子どもだましだ。まずヘリコプターを飛ばせて、白い煙を空いっぱいに、まきちらかすのだ。その煙がスクリーンになる。それに向けて、どこかの屋上にすえつけた、サーチライトのような強い光の映写機で、ガラスにかいたゴングの顔をうつすのだ。空にあらわれるゴングの顔が、なんだかもやもやして、はっきりしなかったのはそのためだよ。ゴングが笑っているように見えたのも、スクリーンの白い煙が動くので、そんなふうに感じられたのだ。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-218156-218302">どうだ、そのとおりだろう。返事をしないところをみると、ぼくのいったことが、あたっているのだね。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">だが、そんなことをするのには、たいへん費用がかかる。ゴングは、なぜそんなバカなまねをしたのか。それは花崎さんをおどかすためだよ。いや、世間ぜんたいをおどかすためだよ。そして、このぼくに挑戦したのだ。え、そうだろう。きみはそういう大げさなことがすきだからねえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-218697-218903">ああ、空にあらわれた怪物は、ガラスの絵を映写したのにすぎなかったのです。それにしても、なんというきばつなことを考えついたものでしょう。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-218903-219077">水の中のゴングは、だまっていました。懐中電灯の光をあててみると、目をつむっています。明智にすっかりいいあてられて、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-219077-219101"><rb>一言</rb><rt>いちごん</rt></ruby><seg source="#source-219101-219184">もないというようすです。明智はなおも話しつづけました。</seg></p>
        <p>「池の中から、巨人の顔が浮きあがった秘密も、同じような子どもだましだ。大きなゴムびきのぬのか、ビニールに巨大なゴングの顔をかいた。目はガラスかプラスチックの目玉をいれ、鼻は高くふくらませ、口は大きくくぼませ、やっぱりプラスチックかなにかで、二本の牙をはやした。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-219576-219938">その大きなゴムぬのかビニールの下には、空気のもれない袋を、いくつもくっつけておき、長いゴム管で、庭の茂みのかげから、あっさく空気を送ったのだ。すると袋がふくらんで、巨大な顔ぜんたいが、スーッと池の底から浮きあがってくるというしかけなのだ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-219938-220060">どうだ、これもあたっているだろう。いかにも、きみの思いつきそうな手品だからね。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">俊一君が、あの巨大な顔を見て逃げだすと、木の茂みにかくれて、あっさく空気を送っていたきみは、すぐに、そこからとびだして、池の中の顔をひきあげ、袋の空気をぬいて、小さくおりたたみ、それを持って、姿をくらましてしまった。たぶん、そのときには助手がいたのだろう。でなくては、あっさく空気のしかけまで、ひとりで運びだすことは、むずかしいからね。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-220572-220775">これで妖人ゴングの魔法の種は、すっかりとけてしまいました。さすがに名探偵です。明智はずっと早くから、なにもかも見ぬいていたのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-220775-221008">水の中のゴングは、それでもまだ、だまりこんでいました。水の上に首だけが、じっと浮かんでいますが、生きているのか死んでいるのかわからないほど、しずかです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-221008-221058">明智は、なおも話しつづけます。</seg></p>
        <p>「おい、ばかに考えこんでしまったね。ぼくのいったことが、みんなあたっていたので、すっかり、しょげてしまったんだね。ハハハハ……、ところが、きみにはまだ、もっとでっかい恐ろしい秘密があるのだ。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-221345-221608">きみはなぜ、マユミさんと俊一君を、執念ぶかくねらったか。それはおとうさんの花崎検事を苦しめるためだ。きみは花崎検事にひどいめにあったことがある。その復讐をしようとしたのだ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-221608-221928">花崎さんは、すこしも悪い人ではない。しかし検事としては、罪人をきびしくせめるのがつとめだ。だから、花崎さんにうらみを持つものは、罪人のほかにない。きみは花崎さんのかかりで、重い刑をうけたことがあるにちがいない。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-221928-222245">ぼくは花崎さんに、そういう罪人の心あたりはないかときいてみた。すると花崎さんは、じぶんをひどくうらんでいるかもしれないという五―六人の名まえを、紙に書いて見せてくださった。その中に、きみの名まえがあったのだ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-222245-222604">ぼくは、さいしょから、その男ではないかとうたがっていた。ただ花崎さんに復讐するだけなら、あんな大げさな魔法を使うひつようはない。その男は、世間をあっといわせたかったのだ。ぼくの前に姿をあらわして、これ見よがしに、戦いをいどんできたのだ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-222604-222948">マユミさんがぼくの助手になったのが、こんどのきみの復讐の、きっかけになったのかもしれない。マユミさんをひどいめにあわせれば、花崎さんを苦しめるだけでなく、ぼくをおこらせることができる。きみは、いっぺんに二つの復讐ができるのだ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-222948-223214">またきみは、小林君や少年探偵団にもうらみがある。だから小林君を、あんな恐ろしいめにあわせたのだ。そして、少年探偵団をおびきよせ、からかったり、いじめたりするつもりだったのだ。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-223214-223390">きみ、ゴング君。花崎さんばかりでなく、ぼくや小林君に、そういううらみを持っている男が、世間にふたりとあるだろうか。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">ここまでいえば、もうわかっただろう。ぼくは、きみの正体を見やぶったのだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-223506-223715">明智探偵は、水の中に首を浮かべているゴングの顔に、まっこうから懐中電灯の光をあてて、底力のある重々しい声で、さいごの宣告をあたえました。</seg></p>
        <p>「きみは怪人二十面相だっ！　べつの名は怪人四十面相だっ！」</p>
      </div>
      <div>
        <head n="2" source="#source-223806-223890"><seg source="#source-223806-223833">少年探偵団ばんざい</seg></head>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-223894-224241">ああ、妖人ゴングが、あの怪人二十面相だったとは、その場にいあわせた中村警部も、あっとおどろいたほどですから、だれひとり、そこまで気づいているものはありません。それをすっかり見ぬいた明智は、さすがに名探偵といわなければなりません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-224241-224477">明智は中村警部に、二十面相を水の中から、ひきあげることをたのみました。警部は、防空壕の土手の下にいた警官たちを呼びあげて、犯人を逮捕するように命じました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-224477-224671">そのとき、警官たちにまじって、小さな人影が防空壕の上にかけあがり、明智探偵のそばによって、なにかささやきました。小林少年です。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-224671-224751">明智は小林君の話を聞くと、ニッコリ笑ってうなずき、</seg></p>
        <p>「それはいい思いつきだ。きっと、そういうことがおこるよ。」</p>
        <p><seg source="#source-224840-224884">と、ささやきかえすのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-224884-225153">二十面相は防空壕の穴の外にひき出され、手錠をはめられ、三人の警官にとりかこまれて、グッタリとうずくまっていましたが、やがて顔をあげると、明智にむかって、なにかいいはじめました。</seg></p>
        <p>「明智君、ざんねんだが、おれの負けだよ。まんまと、きみのしかけのわなにはまってしまった。きみの計画に、これほど裏の裏があろうとは、さすがのおれも気がつかなかった。こんどもまた、きみにやられたが、このしかえしはきっとするから、そう思っているがいい。</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">だが、明智君。たった一つ聞きたいことがある。マユミと俊一はどこにかくしたのだ。山の中にかくしたのも、にせものだった。この防空壕へかくしたのも、にせものだった。いったい、ほんもののふたりはどこにいるのだ。おれは手錠をはめられている。まわりには、おまわりがウジャウジャいる。もう逃げられっこないよ。秘密をうちあけても、だいじょうぶだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-226030-226173">明智探偵はにこにこ笑って、それを聞いていましたが、相手のことばがおわると、すぐに答えました。</seg></p>
        <p>「ふたりは、ここにいるよ。マユミさん、俊一君、もういいから、ここへいらっしゃい。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-226298-226573">その声におうじて、まっ暗なむこうの茂みから、三つの人影がかけ出してきました。明智が懐中電灯をそのほうにむけますと、それは小林少年と、マユミさんと、俊一君であることが、わかりました。</seg></p>
        <p>「ああ、ここにいたのか。だが、いく日も庭にかくれていたわけじゃなかろう。いままで、いったい、どこにかくれていたのだ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-226752-226814">二十面相が、くやしそうにどなりました。</seg></p>
        <p>「そんなに聞きたければ、おしえてやろう。ふたりは、ぼくのアパートに、かくまっておいたのだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-226957-227022">明智がいいますと、二十面相は首をふって、</seg></p>
        <p>「うそをいうな。おれはきみのアパートを、いくどもしらべたが、あすこにはだれもいなかった。」</p>
        <p>「ところが、いたのさ。ぼくのアパートには、いろいろのしかけがある。だれにもわからないかくれ場所も、ちゃんと作ってあるのだ。いくらきみが探しても、あのかくれ場所はわかるはずはないのだよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-227440-227751">明智探偵事務所は、麹町アパートにありましたが、アパートといっても、一室や二室かりているのではなく、六つぐらいも部屋があるのですから、こっそり工事をすれば、そういう秘密のかくれ場所を作ることもできたのです。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-227751-227999">二十面相はそれを聞くと、まただまってしまいました。マユミさんと俊一君は、その問答のあいだに土手をおりて、そこにむらがっている少年たちのうしろに、姿をかくしました。</seg></p>
        <p>「おい、二十面相、立つんだ。警視庁の特別室が、きみを待っている。さあ、案内してやるから、きたまえ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-228151-228408">中村警部がどなりました。二十面相は三人の警官にひったてられて、防空壕の土手をおりるのでした。中村警部と残りの警官は、懐中電灯を照らして、厳重にその前後を見はっています。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-228408-228551">ところが、二十面相が土手をおりきったときに、なんだか、わけのわからないことが、起こりました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-228551-228766">あっというまに、三人の警官がつきとばされ、二十面相が走りだしていたのです。見ると手錠はいつのまにかはずされて、地面にほうりだされていました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-228766-228897">そしてやみの中から、二十面相の爆発するような笑い声が、ひびいてきたではありませんか。</seg></p>
        <p>「ワハハハハ……、おれは魔法つかいだ。手錠をはずすなんて、朝めしまえだよ。マユミはどこにいる。俊一はどこにいる。いまこそ、きみたちを、ひっとらえてくれるぞっ！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-229139-229300">二十面相はそう叫びながら、まっ暗な庭の中を、あちこちとかけまわり、マユミさんと俊一君を探しもとめました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">少年探偵団とチンピラ隊の少年たちは、「ワーッ、ワーッ。」と叫んで、ひとかたまりになって逃げまわっています。マユミさんと俊一君は、その中にまぎれこんでいるのか、どこにも姿が見えません。まるで、暗やみの中の鬼ごっこみたいです。逃げる少年たちの一団、それを追いかける二十面相、そのまた二十面相を追いかける警官たち。なにしろまっ暗な中ですから、懐中電灯が三つや四つあったって、なにがなんだかわけがわかりません。</p>
        <p>「やい、マユミ、俊一、どこにいるんだ。いまに思いしらせてくれるぞっ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-230015-230077">二十面相が、恐ろしい声でどなりました。</seg></p>
        <p>「ワーッ、ワーッ……。」少年たちは、ひとかたまりになって逃げていきます。そのとき、ひとりの少年が逃げおくれて、地面にうずくまっているのが見えました。</p>
        <p>「あっ、俊一だな！」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-230333-230531">二十面相はそう叫んで、その少年にとびかかっていきました。そしてたちまち、少年をこわきにかかえると、くるっと追手のほうをふりむいて、</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-230531-230552"><rb>仁王</rb><rt>におう</rt></ruby><seg source="#source-230552-230581">だちになりました。</seg></p>
        <p>「さあ、人じちができたっ。おれに手だしをしてみろ、こいつをしめ殺してしまうぞ。さあ、どうだ。明智はいるか。おれの底力がわかったか。ワハハハ……、いいか、この俊一の命がおしかったら、みんな向こうに行けっ！　おれがここをでていくのを追いかけるな。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-230949-231176">二十面相は、気ちがいのようにわめくのでした。すると、暗やみの中から、ひとりの小さい人影が近づいて、懐中電灯の光を、パッと二十面相のほうに向けました。</seg></p>
        <p>「おい、二十面相。この光で、よく見たまえ。きみがだいているのは、人間にしては軽すぎやしないかい？　それは俊一君じゃないよ。俊一君によくにた人形だよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-231403-231975">二十面相はそれを聞いたとき、ギョッとしたように、こわきにかかえているものを見つめました。たしかに、人間にしては軽すぎたのです。防空壕の水ぜめでつかれはてた二十面相は、心がどうてんして、そこへ気がつかなかったのです。花崎さんの庭に、マネキン人形のわながしかけてあるなんて、だれが想像するでしょう。まして、血まよった二十面相、それを生きた少年と思いこんだのは、むりもないことでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-231975-232340">俊一君だとばかり思っていた人じちが、人形だとわかると、二十面相は、ハッとして立ちすくんでしまいました。そこにすきができたのです。そのすきをのがさず、五人の警官が四方からとびついていって、二十面相をつきたおし、地面におさえつけてしまいました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-232340-232726">手錠はだめだとわかっているので、こんどは五人が持っていた縄をつなぎあわせて、二十面相の手といわず、足といわず、ぐるぐる巻きにしばりあげてしまいました。そして、みんなで二十面相のからだを持ちあげて、おもてに待っている三台のパトロールカーの一つへ運びました。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-232726-233115">その自動車には、中村警部とふたりの警官が乗り込み、二十面相をおさえつけたまま、警視庁へといそぐのでした。のこる二台の自動車にも、それぞれ警官たちが乗りこんで、二十面相の車の前とうしろから護衛して走るのです。いかなる二十面相も、もうどうすることもできません。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-233115-233492">花崎さんの庭では、少年探偵団とチンピラ隊の少年たちが、明智探偵と小林団長をかこんでいました。そこへ家のほうから、主人の花崎さん夫妻が近づいてきました。少年たちにまもられていたマユミさんと俊一君が、おとうさんとおかあさんのそばへ、とびついていきます。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-233492-233605">花崎さんは、ふたりを両手でだきしめながら、お礼のことばをのべるのでした。</seg></p>
        <p>「明智さん、小林君、それから少年探偵団のみなさん、ほんとうにありがとう。わたしは、こんなうれしいことはありません。」</p>
        <p>「こんやの<ruby type="furigana" rend="right" source="#source-233796-233829"><rb>殊勲者</rb><rt>しゅくんしゃ</rt></ruby>は、このチンピラ隊の安公ですよ。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-233882-234121">明智探偵が安公の手をとって、花崎さんの前におしやりました。すると花崎さんは、モジャモジャと、きたない毛ののびた安公の頭をなでながら、またお礼をいうのでした。</seg></p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)"><seg source="#source-234121-234319">それから花崎さんは、マユミさんと俊一君の手をひきながら、家のほうへ、みんなを案内しましたが、日本座敷の縁がわに近づいたとき、中から</seg><ruby type="furigana" rend="right" source="#source-234319-234343"><rb>書生</rb><rt>しょせい</rt></ruby><seg source="#source-234343-234384">さんがとび出してきました。</seg></p>
        <p>「いま、警視庁の中村さんから電話がありました。二十面相は、ぶじ警視庁の地下室へ閉じこめましたから、ご安心くださいって。」</p>
        <p style="text-indent: 1em" rend="first-line-indent(1)">それを聞くと、少年たちのあいだから「ワーッ」という歓声があがりました。そして、みんなはおどりあがるようにして叫ぶのでした。</p>
        <p>「少年探偵団ばんざあい……。」</p>
        <p>「チンピラ別働隊ばんざあい……。」</p>
      </div>
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        <note type="source-attribution" source="#source-234860-235078"><seg type="source-line">底本：「黄金豹／妖人ゴング」江戸川乱歩推理文庫、講談社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1988（昭和63）年4月8日第1刷発行</seg><lb/><seg type="source-line">初出：「少年」光文社</seg><lb/><seg type="source-line" style="padding-inline-start: 3em">1957（昭和32）年1月号～12月号</seg></note>
        <note type="transcriber-note" source="#source-235078-235394"><seg type="source-line">入力：sogo</seg><lb/><seg type="source-line">校正：大久保ゆう</seg><lb/><seg type="source-line">2017年12月10日作成</seg><lb/><seg type="source-line">青空文庫作成ファイル：</seg><lb/><seg type="source-line">このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫（http://www.aozora.gr.jp/）で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。</seg></note>
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        <note type="source-span" xml:id="source-99933-100102" n="474"/>
      </div>
      <note type="parser-completion" n="true">The n attribute is true when no parser diagnostic of error severity was raised for this source. What the converter could not interpret is recorded in the interpretation-problem and parser-diagnostic notes.</note>
      <note type="source-decoding">windows-31j</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-0">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
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  "line": 349,
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      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-0">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-1">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 73041,
  "end_line": 354,
  "line": 354,
  "start": 73014
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-1">bouten_target_ambiguous</note>
      <note type="source-span" xml:id="parser-source-2">{
  "coordinate_system": "decoded_utf8",
  "end": 76960,
  "end_line": 371,
  "line": 371,
  "start": 76933
}</note>
      <note type="parser-diagnostic" subtype="warning" n="bouten-target-ambiguous" source="#parser-source-2">bouten_target_ambiguous</note>
    </back>
  </text>
</TEI>