Soranoha

四谷怪談異説

よつやかいだんいせつ

岡本 綺堂

四谷怪談といえば何人もおなじみであるが、扨さてその実録は伝わっていない。四谷左門町に住んでいた田宮伊右衛門という侍がその妻のお岩を虐待して死に至らしめ、その亡魂が祟りをなして田宮の家は遂にほろびたというのが、先ず普通一般に信じられている伝説である。しかもそんなたぐいの話は支那に沢山あるから、お岩のことも矢はり支那から輸入されたものではないかと思われるが、現に江戸時代には左門町にお岩稲荷があり、今日でも越前堀に田宮稲荷が現存している以上、まったく根拠のないことでもないらしい。

それに就いて、こういう異説がまた伝えられている。お岩稲荷はお岩その人を祀ったのではなくして、お岩が尊崇していた神を祀ったのであると云うのである。即ち田宮なにがしと云う貧困の武士があって、何分にも世帯を持ちつづけることが出来ないので、妻のお岩と相談の上で一先ず夫婦別れをして、夫はある屋敷に住み込み、妻もある武家に奉公することになった。お岩は貞女で、再び世帯を持つときの用意として年々の給料を貯蓄しているばかりか、その奉公している屋敷内の稲荷の社に日参して、一日も早く夫婦が一つに寄合うことが出来るようにと祈願していた。それが主人の耳にもきこえたので、主人も大いに同情して、かれの為に色々の世話を焼いて結局お岩夫婦は元のごとくに同棲することになった。

主人のなさけも勿論であるが、これも日ごろ信ずる稲荷大明神の霊験であるというので、お岩は自分の屋敷内にも彼かの稲荷を勧請して朝夕に参拝した。それを聞き伝えて、自分たちにも拝ませてくれと云う者がだんだんに殖えて来た。お岩はそれを拒まずに誰にもこころよく参拝を許した。その稲荷には定まった名が無かったので、誰が云い出したともなしにお岩稲荷と一般に呼ばれるようになった。こういうわけで、お岩稲荷の縁起は、徹頭徹尾おめでたいことであるにも拘らず、講釈師や狂言作者がそれを敷衍して勝手な怪談に作り出し、世間が又それに雷同したのである。お岩が鬼になったから鬼横町であるなどというのも妄誕不稽で、鬼横町などという地名は番町にもあるから証拠にはならない。

この説もかなり有力であったらしく、現にわたしの父などもそれを主張していた。ほかに四、五人の老人からも同じような説を聴いた。してみると、お岩稲荷について、下町派即ち町人派の唱えるところは一種の怪談で、山の手派即ち武家派の唱えるところは、一種の美談であるらしい。尤もその事件が武家に関することであるから、武家派は自家弁護のために都合のいい美談をこしらえ出したのかも知れない。怪談か美談か、兎ともかくも一説として掲げて置く。勿論、南北翁の傑作に対して異論を挾さしはさむなどと云うわけでは決して無い。

底本 / Source edition

底本:「綺堂随筆 江戸の思い出」河出文庫、河出書房新社
2002(平成14)年10月20日初版発行
底本の親本:「綺堂劇団」青蛙房
1956(昭和31)年2月
初出:「演劇画報」
1925(大正14)年5月
入力:江村秀之
校正:川山隆
2014年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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岡本 綺堂「四谷怪談異説」(新字新仮名)、底本『綺堂随筆 江戸の思い出』河出文庫、河出書房新社、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 056512_000082, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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